タキトス『アグリコラ』(1-23)


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対訳版

第一章

 昔は偉人の生涯を伝記の形であとの世代に残すということがよく行われたものです。近頃は同時代の歴史を書こうとする人はいなくなりましたが、伝記を書くという習慣が無くなったわけではありません。すぐれた人間に対して嫉妬の眼差しを向けてその立派さを認めようとしない悪い風潮が都市の大小を問わずいたるところに広まっていますが、真の偉人がそれらを乗り越えていく限り、伝記を書く習慣はけっして無くなりはしないでしょう。

 昔は記録に値する功績をたてることに対する障害が今ほど大きくなかったということもあって、偉人の伝記を書くことは一流の作家にとって非常に魅力的な仕事でした。そこには何の下心も党派心もなく、歴史家はただ自分の義務を果たしているという充実感だけで満足したものでした。いやそれどころか、昔は自叙伝を書く人が沢山いて、しかもそれはうぬぼれ屋のすることではなく、自分の人生に対する自信の表れであると考えられていたのです。ルティリウス(BC150年頃~?)とスカウルス(BC162年頃~89年頃)が自伝を書いたとき、作り話だと言って非難されたりすることなどありませんでした。偉人をもっともよく輩出した時代は、人の功績をもっとも高くほめたたえる時代でもあったというわけです。ところが最近このわたしが故人の伝記を書こうとしたところ、許可がいると言われてしまったのです。悪口でも書くのならきっとその必要はなかったことでしょう。人の功績を敵視するようなすさんだ時代になっていたのです。

第二章

 実際、わたしはルスティクス・アルレヌス(?~AD93年)がトラセア・パエトゥス(?~AD66年)を、またヘレンニウス・セネキオ(?~AD93年?)がヘルウィディウス・プリスクス(?~AD74年)をそれぞれ自分の本の中でほめたために死刑になったという記事を読んだことがあります。しかも迫害は書き手に対してだけではなく本そのものにまで及びました。命令を受けた死刑執行官たちによって、あのたぐいまれな人たちの記録が公共広場で焼却処分にされたというのです。

 さしずめ彼らはこの炎によってローマの民衆の言論を封じ、元老院の権限を奪い、人々の良心を消し去った積もりなのでしょう。おまけにローマの良識ともいうべき哲学者たちがことごとく追放されてしまったのです(AD93年)。こうしてかつての良きローマはどこにも見当たらなくなってしまいました。

 まったくローマ人があれほどまで卑屈になったことはありませんでした。昔のローマが自由の頂点を極めたとすれば、私たちはいわば最低の奴隷状態を経験したといえるでしょう。なにしろ当時の秘密警察はわたしたちに言葉のやりとりすら許さなかったのです。もし私たちに沈黙だけでなく忘却も強いることができたなら、彼らは私たちから言葉を奪っただけでなく過去の記憶さえも奪い取ったことでしょう。

第三章

 そして今ようやくローマに活気が戻ってきたところです。ネルバ帝(在位96年~98年)はこの幸福な時代の始まりにあたって、これまで相いれなかった君主制と元老院の権限とを両立させ、トラヤヌス帝(在位98年~117年)の世になって国運は日に日に隆盛の度を増しています。天下太平はわたしたちの願いであり祈りですが、それが単なる願いでなく確信に近いものとなるとともに人々の活力を生み出しているのです。

 ところが人間の性(さが)は弱いもので、病気にかかるのは簡単ですが治るにはそれよりはるかに長い時間がかかります。また、わたしたちの体は成長するのは遅くても、衰弱するのはあっと言う間です。それと同じように、人間の精神活動も押さえつけるは簡単ですがそれを元に戻すのは大変なことなのです。なぜなら、人間は何もしないでいるとその方が楽になってきて、最初は嫌っていた無為に日を送ることが次第に心地よくなってくるのです。なにしろ十五年といえば人の一生のうちでも決して短い期間とは言えません。その間に多くの人が様々な運命によって命を失い、行動力のある人たちはことごとく残忍な皇帝のために倒されました。数少ない生き残りであるわたしたちも人生の真ん中の十五年間を奪われて真の自分を失ってしまっています。十五年と言えば、働き盛りの男たちが老いを迎え、老人が人生の終点に達するほどの長さです。しかも、その間を私たちは黙り通して過ごさなければならなかったのです。

 とはいえ、この過去の隷属の時代と現在の幸福な時代の記録を、わたしのつたない文章によってではありますが、是非とも残しておきたいものです。しかし、ここでは岳父アグリコラに対するわたしの愛情に免じて、岳父にささげたこの小著を読者におくることをお許し願います。

第四章

 グナエウス・ユリウス・アグリコラは由緒ある植民都市フォーラムユリイで生まれました(40年)。彼の二人の祖父はともに騎士階級の名誉とされる帝国の行政長官の職を経験していました。父のユリウス・グラエキヌスは元老の地位にまで上りつめましたが、文学と哲学に対する才能でも知られた人でした。しかし彼はこの才能がもとで皇帝カリギュラの不興を買うことになったのです。皇帝は彼にマルクス・シレーノスの告発を命じ、これを断ったために処刑されたのです。アグリコラの母はユリア・プロケッラといい貞女の鏡といわれた女性です。アグリコラはこの母の愛情を一身に浴びてすくすくと育ち、少年時代から青年時代を通じて教養科目の手ほどきを十二分に受けました。彼が悪友たちの誘惑から逃れることができたのは、むろんその高潔な性格によるものですが、やはり子供の頃からすでにマルセイユというギリシャ文化の優美さとローマ属州の素朴さがみごとに融合した都市に移り住んで学業に専念できたことが大きかったと思われます。彼がよく話していたことですが、はじめの頃は若気のいたりから、ローマのしかも元老院に入るような人間にとってはふさわしくないほど哲学にのめり込んでいたのですが、さいわい母親の薫陶よろしきを得てこの熱意も行きすぎを免れたということです。哲学全盛の世の中で彼のような才気あふれる有能な青年が、その華やかな名声に自分を見失うほどにあこがれたとしても無理はありません。やがて年をとり分別が身につくにつれて、その哲学熱も下火になりましたが、最も修得しがたい中庸の教えだけは終生忘れることがありませんでした。

第五章

 アグリコラはブリタニア地方で最初の軍隊勤務につきました(60年)。そこで彼はスエトニウス・パウリヌス(58-61年)という有能な将軍の目にとまって、司令部付きの見習い士官に抜てきされました。軍隊に入ると途端に乱れた生活を始める多くの若者たちと違って、彼は自分の特別な地位や実地経験のなさをいいことにして放埒に遊びほうけたり、仕事を休んで怠惰な日々を過ごしたりすることがなかったのです。むしろブリタニアについて調べたり、軍人たちと親交を深めたり、先輩たちの意見を聞いたりするなど、彼は常に最も優秀な人たちと行動をともにしたのです。また、見栄を張ったり出しゃばったまねをすることもなく、恐怖心からしりごみするようなこともなく、つねに誠実で真面目に仕事に従事しました。

 当時のブリタニアはかつてないほどひどい混乱状態にあって、ローマの支配は大いに揺らいでいました。入植していた退役軍人たちは惨殺され、植民市が焼き払われましたが、ローマの援軍は行く手をはばまれていたのです。そして一時は防戦一方でしたが、やがて攻勢に転じました。この戦闘の指揮をとったのはアグリコラではなかったし、属州を回復した手柄も属州の最高権力も総督だったパウリヌスのものでしたが、この戦いを通じてアグリコラ青年は多くの知識と経験を身につけ、そのうえ大いに士気を鼓舞されたのでした。彼の心の中では軍の栄光に対する野心がむらむらとわき起こりました。それは優れた人物に対しては悪意の眼差しが向けられ、好評を博することが悪評を得るのと同じくらい危険な時代にあっては、決して望ましい感情とは言えないものでした。

第六章

 ブリタニアから帰ったアグリコラはローマで官吏の職につくと、ドミティア・デキディアナという名門出の娘と結婚しました。この結婚は野心あふれる青年に箔をつけ、強い後ろ盾をもたらしました。二人は互いに愛し合い、相手を思いやる心を忘れず、きわめて円満な結婚生活をおくりました。もっとも、結婚が失敗するといつも妻のせいにされることを考えれば、この場合は彼の妻の良妻ぶりをほめるべきでしょう。

 彼の財務官としての任地は抽選で小アジアに決まり、サルウィウス・ティティアヌス総督に仕えることになりました。小アジアといえば資源が豊富で私腹を肥やすにはうってつけの領地でした。またサルウィウス総督は底なしの強欲家で、自分の不正に目をつぶることと引き替えならどんな便宜でも供与するような男でした。しかし、アグリコラはこのいずれの誘惑にも負けることはなかったのです。

 小アジアにいる間にアグリコラに女の子が生まれました。この子は社会的にも精神的にもアグリコラにとって大きな支えとなりました。なぜならその後間もなくして彼は長男を亡くしたからです。

 財務官の任期を終えてから護民官に任命されるまでの一年間も、また護民官としての一年間(66年)も、彼はひたすらおとなしく目立たないようにして過ごしました。ネロが皇帝でいる間(54~68年)はそれが一番賢明であることを彼は知っていたのです。法務官の任期(68年)もまた、裁判担当でなかったおかげで何事もなく過ぎました。見せ物の開催などこの官職につきものの馬鹿げた行事は、質素でもなく派手でもなく無難な線でとりしきりました。そのため、彼は金を浪費せずに大衆の人気を博したのです。次にアグリコラは新皇帝ガルバ(68~69年)から、神殿の奉納物の紛失状況を調査するよう命じられました。そして、熱心な調査の結果、先帝ネロが盗んだものを除いてすべての盗品が元の場所に戻りました。

第七章

 翌年(69年)はアグリコラにとってもその家族にとっても悲しみの一年でした。各地を荒し回っていたオットー(32~69年)の艦隊がリグリアのインティミリウス周辺を略奪したとき、アグリコラの母親が屋敷のなかで殺害され、屋敷から金品が強奪されて家の財産の大半が持ち去られたのです。それは全く金目当ての殺人でした。アグリコラは母の埋葬の儀式のために旅立ちましたが、その彼のもとにエジプトにいるウェスパシアヌス(在位69~79年)が皇帝の位に名乗りを上げたという知らせが届いたのです。アグリコラはさっそくウェスパシアヌスに対する忠誠を表明しました。

 ウェスパシアヌスがローマに入るまでのあいだ、新皇帝に代わって都の秩序を維持したのはシリア総督のムキアヌスでした。ローマには息子のドミティアヌスもいましたが、彼はまだ若く父ウェスパシアヌスの皇帝就任によって自由放任のお墨付きを得ただけでした。ムキアヌスはアグリコラを新兵募集の仕事に派遣し、これにアグリコラがまじめに取り組んでいると、今度は彼をブリタニアの第20軍団の司令官に任命しました(70年)。この軍団は新皇帝に対してなかなか忠誠を表明しようとしませんでした。前任の司令官はウェスパシアヌスに反旗を翻しているとも言われていました。実のところ、この軍団は歴代の総督さえ扱いに窮して危険視していたほどだったのです。だから法務官クラスの司令官がこの軍団を押さえ込むことができなかったのは無理もなかったのです。したがって司令官に問題があったのかそれとも軍団に問題があったのかは明らかではありませんが、とにかくアグリコラは、単なる後任の司令官としてではなく、反乱者を訴追するという任務も負わされて赴任したのです。しかし彼は兵士たちに対してまれにみる寛大な処置をとったため、まるで彼が軍団の規律を回復したのではなく、すでに軍団の規律は回復していたかのような印象を与えたのです。

第八章

 当時のブリタニア総督はウェティウス・ボラーヌスでした。この属州の反抗的な性格を考えると彼のやり方は手ぬるいものでしたが、アグリコラは高まる野心を胸の奥深くにしまい込んで、ひたすら出すぎた行動を控えることにつとめました。上官に服従すべきことはすでによく知っており、上官の立場を忘れて自分の手柄を追求すべきでないことをよく心得ていたからです。

 しばらくして、ブリタニア総督にペティリウス・ケリアリスが就任する(71年)と、やっとアグリコラにも自分の能力を発揮して手柄を立てるチャンスが訪れました。最初は危険で骨が折れるだけでしたが、すぐに手柄を立てることができました。ケリアリスはアグリコラの力を試そうと少人数の兵士の指揮をさせ、それがうまくいくと兵士の数を増やしていくということを繰り返しました。しかしアグリコラは自分の手柄を自慢げに言い触らすようなまねは決してせず、うまくいったのは総督のおかげで自分はただ言われたとおりにしただけだと言いました。このように自己顕示欲を抑えて、謙譲の美徳を忘れず行動したために、彼の場合、手柄を立てても人に妬まれることはなかったのです。

第九章

 アグリコラがブリタニアの軍団司令部の仕事を終えてローマに帰ると、皇帝ウェスパシアヌスは彼をローマ貴族の一員に加えて、その後、属領アクイタニアの総督に任命しました(74年)。アクイタニア総督は統治政策上極めて重要なポストで、将来の執政官の地位を約束するものでした。

 一般的に軍人あがりの政治家は細かい配慮に欠けると言われます。それは軍人社会が何事につけておおざっぱで強権的な手段を多用するために法の執行にともなう慎重さを必要としないからですが、アグリコラは一般市民の中に入っても持ち前の思慮深さを発揮して、誰に対しても優しくしかも公平な裁きを下しました。

 また、アグリコラは公私の区別をはっきりつける人でした。巡回裁判の法廷では、時に厳格に時に慈悲深く裁きを下しましたが、いったん法衣を脱ぎすてると彼の態度からは権威のかけらさえ感じられませんでした。もともとアグリコラは、権威を笠にきて金品を要求したり冷酷非情に振る舞うなどということとは無縁の人でした。彼は親しみやすいが威厳を損なわず、厳格だが冷淡ではないという希有な特質を備えていたのです。この上彼の潔癖さや自制心の強さにまで言及するのは、これほどの人格者に対して礼を失することになるでしょう。

 どんな立派な人でも名声に対する抵抗力は弱いものですが、アグリコラは何かの策をろうしたり自分の優秀さを誇示したりして名声を得ようとするようなことは一切ありませんでした。また他の領地の総督と張り合ったり、皇帝の代官ともめごとを起こしたりすようなことも決してありませんでした。そんなことをして負ければ面目を失うし、たとえ勝っても何の得にもならないと思ったからです。

 アクイタニアの総督の職を三年を待たずに解かれたアグリコラは、執政官に就任するためにローマに呼び戻されました。その時すでにアグリコラが次のブリタニア総督になるらしいという噂が広まっていました。この話は決してアグリコラが自分から広めたものではなく、彼が適任だということから自然に発生したものです。噂はときに真実を言い当てるものです。いやむしろそれが決め手になることさえあるのです。まだ年若い私がアグリコラの娘と婚約したのは、彼が執政官に在職していたときのことで、彼女は年の割には非常にしっかりした少女でした。結婚式は執政官の任期が終わってから行われました。アグリコラが大神祇官の職に就くとともにブリタニア総督に就任したのはこのすぐあとのことでした。

第十章

 ブリタニアの位置とその住民については多くの著述家によって書かれたものがあります。わたしがここでこの話題に触れるのは自分の文才が彼らよりもすぐれていることを示すためではなく、ひとえにブリタニアがはじめてアグリコラの時代にローマによって征服されたからなのです。そのおかげで、わたしはこれまで先輩たちが文才によって補って書いていた未知の事柄について、信頼できる事実を提供することができるようになったのです。

 ブリタニアはローマ人の知る限り最大の島で、その東側はゲルマニア(現在のドイツからスカンジナビアを含む)の海岸線に平行して広がり、西側はスペインに平行して広がっています。島の南側はガリア(現在のフランス)から望むことができます。島の北側は荒涼とした海が打ちつけるばかりでその先にはもう陸地はありまません。

 ブリタニアの島の形については、それぞれ過去と現代の最大の名文家であるリヴィウスとファビウス・ルスティクスが細長い肩甲骨や斧に似ていると書いています。この形は実際にはスコットランドよりも南側には当てはまりますが、それが全体の形状のように言われていたのです。しかしその北側のスコットランドには入り組んだ海岸線をもつ広大な大地がひろがり、楔(くさび)のように細くなって海に突き出しています。この北の端をローマの艦隊がアグリコラの時代になってはじめて周回して、ブリタニアが島であることを確認したのです。

また同時にそれまで知られていなかったオークニー諸島も発見して支配下に治めました。シェトランド諸島も詳しく観察しましたが、指令がないまま冬が来たために、上陸するには至りませんでした。しかし彼らはその地域の水がオールをこぐ手には非常に重くねばりけがあって、風に対する反応も鈍いという情報をもたらしました。わたしはその理由として、この地域が風のもとである陸地や山から遠く離れており、また大量の海水が大きな固まりとなって動きにくくなっているからだと思います。

 世界の外側をめぐる海であるオケアノスの特徴や波の研究をするのはこの本の目的ではありませんし、すでに多くの本がありますから、ここでは一言だけ付け加えさせていただきましょう。

 それはオケアノスの海はどの海よりも強大な力を持っているということです。潮の流れはあらゆる方向に向かっていて、その満ち引きは海岸線でとどまることはなく、曲がりくねりながら陸地の奥深くまで流れ込み、断崖を駆け上がって山々の間まで我が物顔で侵入してくるのです。

第十一章

 未開人の場合によくあることですが、ブリタニアに最初に住み始めたのは何という民族か、またそれが土着民なのかそれとも移民なのかについてははっきりしたことが分かっていません。ただ、地域によって肉体的特徴が分かれていて、そこからある程度のことを推測することが可能です。

 スコットランドに住む民族は髪が赤毛で大柄な体格をしていることから、ゲルマニア出身であることが分かります。次に、ウエールズに住むシルレス族は髪がちぢれ毛で肌は浅黒く、また場所がスペインの対岸であることから、昔スペイン人がやってきて住みついてできた民族であることは明らかです。

 ガリアの近くに住むブリタニア人はガリア人に似ています。それは移住してきたガリア人の特徴が残っているためか、それともガリアと場所が接近していて気候もそっくりなために体つきが似てきたのかのどちらかですが、全般的に見てガリア人がすぐ近くのブリタニア島に移住してきたという説の方が有力です。彼らの宗教と儀式がガリア人のものと同じであることはすぐに分かります。また彼らの言葉はガリアの言葉と非常によく似ています。さらに、危険なことをやりたがる大胆なところと、いざ危険な事態になると逃げ出してしまう臆病なところがよく似ています。ただ、勇敢さに関してはガリア人のように平和が長く続いて気力が衰えていないだけブリタニア人の方が優っています。昔はガリア人も戦争が強かったという話ですが、彼らは戦争が終わるとともに活力を失い、ローマの支配下に入るとともに勇敢さを失ってしまいました。これはブリタニアでも同じ様にローマに支配された人々の間で見られる現象です。しかし、それ以外のブリタニア人はいぜんとしてかつてのガリア人の資質を保ち続けています。

第十二章

 ブリタニアの軍の主力は歩兵です。戦いに戦車を使う民族もありますが、その場合は上官が戦車を運転して、部下が戦闘にあたります。

かつてはブリタニア人も王の支配を受けていましたが、今ではたくさんの有力者のもとに分裂して互いに激しく争っています。強力な部族を相手にする場合は、このように内部分裂してくれているほどわたしたちにとって好都合なことはありません。実際ブリタニアでは共通の危機に対処するために複数の部族が協議するなどと言うことは極めてまれなことです。この結果それぞれ部族がばらばらに戦って、ことごとく打ち破られてしまうのです。

 ブリタニアの天候は雨が多く曇りがちで快適とは言えませんが、寒さはそれほど厳しくありません。また昼間の時間がローマと比べて途方もなく長く続きます。逆に夜は北の方では特に短く明るいままで、日暮れと夜明けの区別がほとんどつかないほどです。聞くところでは、雲が邪魔をしなければ夜の間も太陽の光を見ることができるし、また太陽は沈んでから上るのではなくただ地平線の近くを通過するだけだという話です。地上の端は大地が平坦なために沈んだ太陽の光によってできる大地によってできる影が低いのです。そのために、夜になって地上が暗くなっても空は明るいままだというわけです。

 ブリタニアの大地からは暖かい地方にしかできないオリーブや葡萄などはとれないものの、穀物はとれるし家畜も育ちます。ただ、芽が出るのは早くても、実がみのるまでにはかなり時間がかかります。どちらの場合も原因は同じで、土の中と空気中に含まれる水分が多すぎるのです。

 ブリタニアには金や銀などの鉱物資源もあり、これが勝者の獲得した報酬となっています。

 オケアノスの海でも真珠がとれますが、光沢がなく鉛色をしています。その理由はブリタニア人の真珠の採り方が悪いからだと言う人がいます。ローマ人はインド洋にもぐって岩場から真珠貝を生け捕りにしますが、ブリタニア人は浜辺に打ち上げられたものを拾うからだというのです。わたしとしては、どん欲でないローマ人がいると言われても信じませんが、光沢のない真珠があってもべつに不思議ではないと思います。

第十三章

 ブリタニア人自身について言えば、兵隊の募集や貢ぎ物の徴収などローマ当局の要求する義務に対しては無理を言わない限り速やかに応じてきます。しかし、征服されたとはいっても支配を受け入れているだけで隷属しているわけではないので、不当な要求に対しては黙っていない民族です。

 そもそも、かの誉れ高きシーザーがローマ人としてはじめて軍を率いてブリタニアに入ったときは、思い通りに戦いを進めて現地人たちを震え上がらせ、海岸地帯を制圧しましたが、シーザーはブリタニアをローマの領土にしたというよりもブリタニアにわたしたちの目を向けさせただけだったと言っていいでしょう。そのうちローマに内戦が起こり有力者たちは自分の軍勢をローマ自身に向けたのです。その後内戦が終わったのちもブリタニアのことは長い間忘れ去られたままでした。事実、かの名高いアウグストスは領地をブリタニアには広げないことを政策として採用し、次の皇帝ティベリウスはこれを先代の教えとして守り通したのです。

 次の皇帝カリグラがブリタニア侵攻を考えていたことは確かですが、持ち前の移り気で気が変わるのも早かったのです。さらに彼のゲルマニア遠征という壮大な試みも失敗に終わりました。ブリタニア侵攻という偉大な事業に実際に乗り出したのは皇帝クラウディウスでした。軍団と同盟軍が派遣され、ウェスパシアヌスが遠征に加わりました(43年)。これはやがて来るウェスパシアヌスの多くの幸運の始まりとなりました。多くの部族が征服され、王たちが捕らえられ、運をつかんだウェスパシアヌスは頭角を現したのです。

第十四章

 初代ブリタニア総督に任命されたのはアウルス・プラウティウス(43-47年)、二代目はオストリウス・スカピュラ(47-52年)でした。彼らは二人とも優秀な軍人で、ブリタニアの中のこちらに面した地域を次第に属領の形にしていくとともに、退役兵による植民市の建設を始めました。また、敵国の王もまた支配の道具にするという昔からずっと変わらず受け継がれきた伝統的手法にしたがって、征服地のいくつかをブリタニア人のコギドムノス王に与えました。コギドムノスはローマに対する忠誠を今に至るまで一度も忘れることがありませんでした。

 つぎに総督となったディディウス・ガッルス(52-58年)は先任者たちが残した領地の保全に努めました。さらに領地を拡大したという名声を我がものとせんとして、彼はごくわずかながら砦(とりで)を築いて前線を押し進めたのです。ディディウスに続いて総督になったのはウェラニウス(57年)でしたが、一年もしないうちにこの世を去りました。

 つぎの総督スエトニウス・パウリヌス(58-62年)は多くの部族を征服して砦の守りを強化するなど、最初の二年間に華々しい成果をあげました。これで自信を深めたパウリヌスは、反抗勢力の拠点である西岸のモナ島に対して攻撃を始めました。しかしこの時彼の背後で反乱の火の手が上がったのです(61年)。

第十五章

 総督が島に移り恐怖の対象が目の前から消えると、ブリタニア人たちはローマの支配に対する不満を互いに語り合い、自分たちが受けたひどい仕打ちを比べ合って、ローマ人に対する怒りを募らせたのです。

 「このまま我慢しつづけても何一ついいことはない。何をされてもたやすく我慢できる人間だと思って相手はますます法外な要求を出してくるだけだ。総督はわれわれを死ぬまでこきつかうし、皇帝の代官はわれわれの財産を好きなだけ取り上げるだろう。昔は王が一人いるだけだったが、今では王が二人いるようなものだ。しかもこの二人の支配者は仲が悪くなっても良くなっても、下にいるわれわれにとっては災難でしかない。総督は百人隊長を手先に使って、代官は自分の奴隷を使って、屋敷を荒らし女たちに乱暴する。彼らのどん欲と情欲は何一つ見逃さないのだ。戦争では強い方が弱い方に略奪行為をするものだ。ところが実際にわれわれから家と子供を奪い男を兵隊に取っていった者たちは、ほとんどが兵隊を辞めて遊んでいる連中なのだ。

 しかし、われわれも祖国のために命がけで戦うことぐらい知っている。しかも、海を渡ってきたローマの軍勢がいかに少ないかは、われわれ自身の数をよく数えてみれば明らかだ。ゲルマン民族もこうやってローマの支配から脱したのだ。しかし、彼らをローマから守るのは川だけだったのに、われわれには広大な海がある。さらに、われわれが戦うのは祖国と妻と両親のためなのに対して、ローマ人が戦うのはよこしまな欲望のためだけなのだ。だから、われわれが祖先の持っていた勇敢さを取り戻しさえすれば、かつてあのシーザーがここから引き上げて行ったようにやつらもブリタニアから撤退するに違いない。一つや二つの戦いの結果にうろたえてはいけない。最初のうちは有利な立場のローマ人に勢いがあるかもしれないが、逆境を知っているわれわれには彼らにはない粘り強さがある。その上今やブリタニアの神々もわれわれを哀れんで、ローマの将軍と軍隊を遠くの別の島に足止めにしてくださっている。それに対してわれわれの方はこうして話し合ったことで、これまで最も難しかった段階をすでにクリアしている。この先最も危険なのはこの計画を実行することではなく、実行しないうちに計画が露見してしまうことなのだ」

第十六章

 このような言葉で互いに励まし合うと、ブリタニアの全島民が武器を手に立ち上がったのです。かれらの先頭に立ったのは王家の女性ブーディッカでした。ブリタニア人が指導者を選ぶときには性別は関係ないのです。彼らはまず兵隊の少ない小さな砦をおそいました。そして砦を攻略するとつぎに一つあった植民市をおそいました。そこに支配の拠点があると思ったからです。怒りに燃える彼らは勝利を手中にすると野蛮人に特有のあらゆる残虐行為を働きました。この時領内の反乱を聞きつけた総督スエトニウスが急いで助けに戻らなかったら、ローマはブリタニアを失っていたことでしょう。しかしスエトニウスはただ一度の戦いに勝利を収めてブリタニアをローマの支配下に戻したのです。(62年)。しかしながら、その後も多くのブリタニア人は武器を捨てませんでした。彼らは反逆罪に問われると思っただけでなく、総督の報復を恐れていたのです。スエトニウスは他の点では申し分のない総督でしたが、自分に対する危害はなんであれ決して許さない人間で、降伏でもしたら高圧的になってどんな厳しい処分を下すか分からないと思われていたのです。

 そこで新しい総督としてペトロニウス・トゥルピリアヌス(62-63年)がブリタニアに送り込まれたました。彼のほうが領民の訴えによく耳を傾けるだろうし、今回の反乱をじかに経験しなかっただけに、改悛の情を示す者に対して寛大な処置をとると思われたからです。ペトロニウスは混乱の後始末をすませるとそれ以上の仕事に手を出すことなく後任のトレベリウス・マキシムス(63-69年)にブリタニアを委ねました。

 トレベリウスは前任者以上におとなしい人間で軍隊経験もなかったために、ひたすら友好的な手段で統治を行いました。やがて、原住民たちも都会の風俗の魅力を知るようになりましたが、一方ローマで発生した内乱(69年)は、彼のおとなしい政策を維持する格好の口実を与えたのです。しかし、侵略行為が習慣になっていた兵士たちが、戦争がないと規律を維持できなくなって反乱を起こしたのです(69年)。トレベリウスはブリタニアから逃げ出して軍の怒りの矛先をかわしましたが、そのために彼は面目を失い、その威厳は地に落ちました。なおも総督の地位に留まり続けましたが、それは兵士たちのお情けに過ぎませんでした。総督は軍と取り引きをして自分の命と引き替えに軍の無法を見逃すことになりました。こうしてこの反乱は血を見ることなく終結したのです。

 次に着任したベッティウス・ボラーヌス(69-71年)のときにも、本国ではまだ内乱が続いていたため、軍の士気を高めてブリタニア人を刺激するようなことは行われませんでした。こうしてなおも敵に対して何もしない状態が続き、軍隊の規律は乱れたままだったのです。ただし、ベッティウスは人格高潔な人物で、悪事に手を出して人から恨みを買うようなことはありませんでした。そのおかげで彼は威厳はなかったけれども兵士たちの人気を博すことはできました。

第十七章

 世界各地の紛争を終了させた皇帝ウェスパシアヌス(69~79年)はブリタニアの秩序も回復させました。優秀な軍人と軍隊が派遣されて、ブリタニア人の野心は急速にしぼんでいったのです。ペティリウス・ケリアリス(71-74年)はブリタニア総督に就任早々島で最も強力な勢力を占めると言われていたブリガンテス族(島の中央部)を攻撃してブリタニア人を震え上がらせました。各地で戦端が開かれ多くの血が流されました。そしてブリガンテス族の領地の大部分がペティリウスの侵略ほ受けて、一部がローマ領となりました。その時には、このペティリウスの名声と業績はほかの誰にも越えられないだろうと思われたものでした。しかし、後任の総督ユリウス・フロンティヌス(74-78年)はこの大役を立派にこなし、臣下として許される限りの出世を遂げたのです。彼は好戦的で強大なシルレス族を武力で制圧しました。それは敵の勇猛さだけでなくウエールズの険しい地形を克服して達成した快挙だったのです。

第十八章

 このようにブリタニアの戦況は一進一退を繰り返しながら進展して以上のような状態になったときにアグリコラ(78-84年)は総督に就任したのです。彼が海峡を渡ったときすでに夏が終わっていました。その年の軍事行動は終了して、兵士たちは休暇に思いを馳せブリタニアの敵たちは反乱の機会をうかがう季節になっていたのです。

 事実、彼が到着する直前にオルドウィケス族が自分の領地内(ウエールズ付近)に駐屯していたローマの騎兵部隊を全滅させるという事件が起こって、ブリタニア全体が動揺していました。戦争を望んでいた者たちはこの事件を次の総督の勇気の程度を占う試金石になると歓迎しました。

 これに対してローマ側では、夏が終わって兵力が各地に分散し、休暇を前に兵士たちの士気も低下しているなど、戦いを今すぐ始めるには不利な状況がそろっているため、動揺の激しい地域に対する警戒を強化するだけでそれ以上の手出しをしない方が得策だという意見が大勢をしめていました。ところが、アグリコラはこの事件に真正面から取り組む決意をしたのです。オルドウィケス族が平野部まで出撃してくる様子がなかったので、アグリコラは分散していた軍団の兵力とわずかな同盟軍をかき集めてウエールズの山岳地域への遠征に出発したのです。彼は危険を分かち合うことで部下たちの士気を鼓舞しようと自ら先頭に立って進軍してこの部族をほぼ全滅にしました。

 自分の評価を確立するためにも今後の戦いで敵に恐怖心を抱かせるためにも最初の戦いが肝心だと考えたアグリコラは、そのままモナ島の制圧にも乗り出しました。モナ島はすでに述べたようにスエトニウスがブリタニア本島の反乱のために呼び戻されて征服できなかった島です。

 急ごしらえの作戦のために船は用意できなかったのですが、そこはアグリコラの知恵と執念で乗り切ったのです。彼は軍の荷物を置かせると、海峡の浅瀬を知っている者、祖国で水泳に親しんでいて泳ぎながら武器と馬を運べる者を同盟軍の中から選び出して島に奇襲をかけました。海から船で攻撃してくるものとばかり思っていた島民たちはこの奇襲に動転してしまい、このような相手を敵に回してはとうてい勝ち目がないと観念しました。そして自ら和平を申し出て島を明け渡したのです。

 これでアグリコラは一躍有名になりました。赴任したばかりの総督は最初に領内を視察したり部下の接見を受けたりして時を過ごすのが通例でしたが、アグリコラは労をいとわず自ら危機に対処する道を選んだからです。

 しかしアグリコラはけっして自分の成功を鼻にかけることはなく、また「勝った」とか「侵略した」とは言はずに「被征服民を支配下に収めた」というふうな言い方をしました。また彼は戦いに勝ってもけっして月桂冠で飾った戦況報告を元老院に送るようなことはしませんでした。しかしこの奥ゆかしさのために彼は、これほどの戦果を報告しないとは何と大きな志をもった男だろうと、かえって評価を高めたのです。

第十九章

 また、アグリコラは領民の心情というものをよく知っていました。そして他の属領の例から武力で制圧しても、そのあとで領民に不正を犯せば全てが台無しになることを学んでいました。そこで彼は反乱が起こる原因を一掃することに決めました。そしてまず自分を含めた身内の綱紀を正すことから始めました。これは多くの人にとっては属領を統治することより困難なことでした。彼は政務を奴隷や解放奴隷に任せることなく、兵士や士官の採用でも縁故や情実に左右されることなく、誰であれ優秀な者を信任しました。また領内のことを全て知り尽くしていましたが、重箱の隅をつつくようなまねは決してしませんでした。また、部下のささいな過ちには目をつぶりながら、いっぽう重大な犯罪には厳罰をもって臨みました。しかし、犯罪者が改悛の情を示している場合には、罰することなく許してやることがよくありました。そして、重要な職責には汚職をするおそれのない人物をつけて、汚職犯を作らないように努めたのです。

 つぎに、穀物の挑発や税金の徴収については負担を公平にすることで重税感の緩和をはかりました。そして総督の私腹を肥やすために考え出され、領民には徴税自体よりも耐え難いものだった複雑な手続きを全て廃止しました。それまで領民は戸の閉まった穀物倉の前に座って穀物を買うふりして、穀物を納める代わりに金を払わせられていました。また、穀物の送り先をへんぴな遠い場所に指定されたために、近くに駐屯地があるのに遠方の駐屯地に納入させられたりしていたのです。こうして、誰にでも簡単にできることが一部の人間のふところを肥やすために複雑なものにされていたのです。

第二十章

 アグリコラは在職一年目(78年)からさっそくこれらの不正行為を一掃することによって、平和のありがたさの浸透に努めました。それまでは総督たちの怠慢や思い上がりのせいで、平和は領民たちにとって戦争に劣らず恐怖の対象となっていたのです。

 次の年(79年)の夏になるとアグリコラは軍隊を集めて再び遠征に出かけました。行軍中は、あちらではまじめな兵士をほめるかと思えばこちらでは落伍兵の尻をたたいて隊列に戻すという具合で、全軍に対する目配りを欠かしませんでした。また宿営地はみずから選び、入江や森の探索もみずから行いました。一方、戦いでは敵に対しては息をつく暇を与えず奇襲と略奪を繰り返して敵を悩ませますが、敵が充分恐れおののいたと見るや今度は慈悲深い態度で相手に降伏した方がどれほど得かを教えたのです。

 こうして、それまでローマに帰属していなかった多くの部族が人質を差し出してローマに帰順したのです。アグリコラはこれらの部族のまわりに要塞や砦を周到に配置しました。このおかげで、これらの部族は、ブリタニアで初めてまわりの部族から妨害工作を受けることなくローマの一部になったのです。

 

第二十一章

 この年の冬を使ってアグリコラはブリタニアの民衆の教化に取り組みました。彼は文明から隔絶された無知で好戦的な民衆が平和な生活に慣れ親しむようにと、神殿や広場それに家屋を建設するために公的援助を与えるとともに、個々の民衆に対してこのための協力を要請しました。その際、彼は熱心な者を誉め不熱心な者を叱るという風に、強制ではなく栄誉を競わせる方法をとりました。また、アグリコラは有力者たちの息子に対して教養科目の手ほどきを始めましたが、すでに教化されたガリア人の能力よりもブリタニア人の未知の能力の方を高く買うようになりました。というのは、かつてラテン語をさげすんでいたブリタニア人が雄弁術の修得に躍起になって取り組むようになったからなのです。そのほかに、ブリタニア人たちの間ではローマ人の服を着るのがスマートだということになってトーガが流行しました。こうしてブリタニア民族の精神は少しずつ退廃の道をたどりました。それはアーケードの下での思索や、風呂の使用、パーティーでの優雅な会食という形をとりました。これを無知な原住民は文明という名で呼びましたが、ローマ人はこれを統治策の一環として実施したのです。

第二十二章

 3年目の遠征でアグリコラは別の部族の征服にとりかかりました。今度はスコットランドのテイ川の河口にいたるまでの部族が侵略の対象でした。これに恐れをなした敵たちは、悪天候に悩まされつづけていたわが軍に対して何の手出しも出来ませんでした。おかげでわが軍には砦を建設する余裕さえ生まれました。

 ローマの総督たちの中で砦に適した土地を選ぶことにかけてはアグリコラの右に出る者はないと専門家は言っています。じっさい彼のつくった砦は敵の攻撃によって破られたこともなければ、味方に見捨てられたことも、敵に明け渡されたこともなかったのです。また、彼のつくった砦からは数多くの出撃が行われましたが、それは敵の長期の包囲攻撃に備えて砦に一年分の予備の食糧が蓄えられていたからです。またアグリコラのつくった砦は冬でも磐石で、外部から援軍を仰ぐ必要がないのです。ふつう敵は夏の間にローマ軍から受けた損害を冬の勝利で埋め合わせるのですが、アグリコラの砦は冬でも夏と同じように敵を撃退してしまうのです。こうして目論見がはずれた敵は絶望的な状況に追い込まれました。

 ところで、アグリコラは部下の手柄を横取りするような欲深いことは決してしませんでした。それどころか、正直なアグリコラはローマ軍にしろ同盟軍にしろ自分の部下の指揮官が手柄を立てたときはその証人になってやったのです。

 彼を評して人を叱るときに厳しすぎると言う人もいます。しかし、それは優秀な者に優しい分だけ不心得な者に対して厳しいということに過ぎません。また、彼の場合怒りが後を引くということはありません。要するに、彼が黙っていたとしてそれを憂える必要はなかったのです。彼は人に対して憎しみを抱くよりも、はっきり怒りを表す方がいいと考えるような人だったのです。

第二十三章

 4年目の夏は、それまでに急速に押し広めてきた領土の守りを固めることに精を出しました。仮にもしローマ軍の強さとローマの栄光に限界があるとすれば、それはまさにこのブリタニアにおいて見出されることでしょう。そして実際、アグリコラはクライド湾とフォース湾がそれぞれ波に大きくえぐられて出来た地峡を要塞で固めて、それより南の地域を全て領土として占領しました。そして敵対勢力をまるで別の島へ追いやるように地峡の北側に閉じこめてしまったのです。

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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