『トラキスの娘たち ― ヘラクレスの死』





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登場人物

デイアネイラ ヘラクレスの妻
乳母
ヒュロス ヘラクレスとデイアネイラの息子
トラキスの娘たち コーラス役として登場する
土地の老人
リカス ヘラクレスの家来
ヘラクレス ギリシアの勇者
老人 ヘラクレスの家来


場所  トラキス(テルモピュレーの西、デルフィの北)のヘラクレスの屋敷の前

プロロゴス

デイアネイラ 昔から言われているように、人の人生の幸不幸は死んでみないとわからないけれど、わたしの人生はもう死ぬ前からつらくて不幸なものであると知っているわ。5

 そもそもわたしはプレウロンの町の父オイネウスの屋敷にいた頃に、アイトリアの女の中では結婚のために誰より恐ろしい思いをしたのよ。

 求婚者がなんと川だったの。アケロオスよ。三度姿を変えながらわたしを妻に欲しいと父に迫ったのよ。ある時は牛の姿をして、ある時はきらきらととぐろを巻く蛇、ある時は人間の胴に牛の頭をした姿でやってきたの。髭だらけの頬からは泉の水が滴っていた。14

 こんな求婚者を迎えた不幸せなわたしは、こんな男と結婚するくらいだったら死んだ方がましだと何度も思ったわ。

 でも、しばらくすると、嬉しいことに、有名なヘラクレスさま、ゼウスとアルクメネの息子君が来られたの。あの人は化け物と戦ってわたしを救ってくれました。どんな苦闘が行われたかわたしは知らない。その光景を前にして恐れずに座っていられる人なら知っているでしょう。わたしは美しさが苦しみをもたらすのではないかと恐れて座っていたのよ。25

 この闘いに神様は良い結果をもたらしてくれました。しかしこれは良くなかったのよ。ヘラクレスさまの妻に選ばれてからというもの、わたしはあの方のことが心配でいつも不安の絶えたことがなく、毎夜あの方のことを心配して過ごすことになってしまった。30

 わたしたちにも子供はできたけど、あの人は遠隔地に田んぼを持つ農家が、種まきと刈取りの時だけ見に来るようなもの。まさにそのような暮らしぶりで、あの人は帰宅してはまた他人(=エウリュステウス)の奴隷になるために家から出かけていったのよ。35

 でも、いまあの方の苦行が終わった時こそ、わたしの心配が最も大きくなっているの。というのも、あの方がイピトス(=エウリュトスの子)を殺してからというもの、わたしは家を追い立てられてここトラキスで異国の人(=トラキス王ケユクス)のもとに身を寄せているわ。あの方はいったいどこへ行ってしまったのやら。わたしをひどく心配させたまま、出ていったきりなのよ。42

 でも、わたしは知っている。きっとあの方は何か難儀なことになっているんだわ。というのも、あの方は長いこと知らせ一つ寄こさないままでもう十五か月になるからよ。そして、これは恐ろしいことになっているということなの。そんな書き付けをあの人はわたしに残していったからよ。これを受け取ったことが禍いにならないことをわたしはいつも神に祈っているの。48

乳母 デイアネイラ奥さま、わたしがお見受けするところ、あなたは今までヘラクレスさまが出征されると、いつも涙を流して泣いてばかりでおられます。いまわたしが奴隷の身で奥さまにご意見するのが正しいことなら、あなたがなすべきことをわたしからお示しせねばなりません。53

 奥さまはこれほどの子沢山なのですから、ぜひとも旦那さまを探しにお子さまをどなたかお遣わしになされませ。それにはとりわけヒュロスさまがよろしいかと存じます。きっとあの方もお父さまの安否を心配しておられると思います。ほれ、ちょうどその方が今お屋敷の方に走ってまいられます。わたしの言うことがお気に召しましたら、わたしの言うようにあの方をお遣わしくださいませ。60

デイアネイラ せがれや、高貴な生まれでない者の口から、いま良いことを聞きました。この女は奴隷ですが、彼女の言うことは決して奴隷の言いそうなことではないのよ。64

ヒュロス お母さま、何ですか、教えてください。わたしに教えていけないことではないでしょう。

デイアネイラ 父上がこんなに長い間出かけたままになっているのに、あなたがその居所を知らないのは恥ずかしいことだと言うのよ。66

ヒュロス いいえ知っています。人から聞いたことですが。

デイアネイラ それでは、せがれよ、あの人はどこにおられると言うの?

ヒュロス あの方は去年いっぱいはリュディアの女(オンパレー)の奴隷をしていたということです。70

デイアネイラ やれやれ、またそんな目にあっておられるのなら、その先は聞かなくとも分かるわ。

ヒュロス でも、それは終わったと聞いていますが。

デイアネイラ では、いまどこにおられると言うの?もしや、亡くなられたのでは。

ヒュロス エウボイアにあるエウリュトス王が支配する国を攻めようとなされているとのことです。75

デイアネイラ では、せがれよ、あなたは知っているの、主人がわたしに残した神託はこの危機についてのことなのよ。

ヒュロス お母さま、それはどんな神託ですか。わたしは存じません。

デイアネイラ それは、この時に人生の最後を迎えるか、さもなければ、この試練を終えた後に幸福な暮らしが待っているというものなのよ。あの方はいまその瀬戸際に立っておられる。せがれよ、あの方の救援に行って下さらないかしら。あの方の命にわたしたちみんなの命はかかっているのだから。85

ヒュロス 行きますとも、お母さま。もしその神託のことを知っていたなら、とっくの昔にお助けに行っていたところでしたから。これまで父上はいつも幸運に恵まれておられましたから、あまり心配したり恐れたりすべきではありませんでした。しかし、いまその話を聞いたからには、何物をも差し置いて神託の真実を確かめねばなりません。91

デイアネイラ せがれよ、いまこそお行きなさい。遅れ馳せとはいえ、あの人の無事の知らせが聞けるなら、やり甲斐のあることだわ。


 パロドス ―トラキスの娘たち入場

トラキスの娘たち(歌う) 太陽よ、夜が星の輝きを奪われるとき汝を生み出し、また夜が輝ける汝を眠りにつかせる。太陽よ、調べておくれ。ああ、耀かしい光に燃える汝よ、アルクメネの子はどこにいるの?黒海のはざ間にいるのか、二つの大陸に寄りかかるのか。ああ、遠目が効く汝よ、教えてほしい。102

かつては皆に求婚されたデイアネイラは、いつも願いを胸に秘めて、哀れな鳥のごとく、その思いを眠らせることなく、まぶたを涙で濡らし、夫のことを忘れる日はなく、旅路を気遣いながら、夫のいないふしどで、不幸な運命を恐れながら、不安に身を細らせていると聞く。111


大海原が、ある時は北風に、ある時は南風によって、あまたの波が起こされて、行ったり来たりするのを見るように、苦難に満ちたクレタの海のような人生は、テーバイ生まれのこの人ヘラクレスを育み成長させる。しかし、どの神の思し召しだろうか、いつも破滅を免れ、冥界暮らしを免れている。121

奥さまの嘆きはもっともながら、別の考え方もある。あなたは希望をなくすべきではない。すべてを見そなわすクロノスの子ゼウスは死すべき者たちに苦しみ多き人生を与えたまうも、苦しみと喜びは、北斗七星のめぐりのごとく、なべての人に代わる代わるに訪れるもの。131


星光る夜も長く留まらず、死神も福の神も留まらず、一瞬にして去るが、喜びと悲しみはまたやってくる。だから、ご主人さまも常に希望を持たれよ。これまでに神ゼウスが自分の子供のことをお見捨てになったことはないのだから。140


 第一エペイソディオン

デイアネイラ(トラキスの娘に) おまえたちはわたしの難儀を耳にしてやってきたのね。わたしのような悩みはおまえたちにはまだ経験がないことだし、わざわざ経験して知ることもないのよ。143

 若い頃は自分の世界で悩みもなく育つもの。日の神さまのもたらす暑さにも雨風にも悩まされることはない。しかし、そんな苦労のない暮らしが続くのも結婚するまでのこと。娘ではなく妻と呼ばれるようになれば、夫のこと子供のことが心配で悶々とした夜を過ごすようになるのよ。150

 その時に自分の身を省みて、今のわたしの悩みのもとがわかるわ。わたしはこれまでも色々と悲しいことがあったけれど、今から話すことには、これまでになかったことなのよ。154

 主人ヘラクレスが最後にこの家を出て行ったとき、神託が書かれた古い書きつけを一枚残して行ったの。あの方はこれまで数多くの難行に出掛けて行かれたけれど、こんな話はおくびにも出さず、死地におもむくどころか『大丈夫だ。一仕事してくる』と言って出て行ったものよ。160

 ところが、今回は、もうこれが最後とばかりに、財産のうち妻としての取り分を定めて、子供たちに対する祖先の土地の配分を命じられると、その時期を指定して、こう言われたのよ。「十五か月を過ぎてわしが帰らなければ、その時自分は死ぬことになるか、さもなければ、それを超えて後は幸福な人生を送ることになる。168

 「それが神の定めた運命であり、ヘラクレスの難行が終わるということだ。これはドドナの古い樫の木が二羽の鳩を通じて語ったことだ」とおっしゃったの。この神託が実現されるのはまさに今この時ということになのよ。おかげでわたしは夜もぐっすり眠れず、誰よりも誇れる夫を失うのではないかと心配で、はっと目を覚ますほどよ。177

トラキスの娘 縁起でもないことをおっしゃらないでください。頭に花輪をつけた人が知らせに来るのが見えますよ。

土地の老人 デイアネイラ奥さま、わたしは誰よりも先にあなたの悩みを解消する知らせを持って参りました。アルクメネのご子息は戦いに勝利をおさめてご無事でございます。神々に捧げるための戦利品を持ってこの国に向かっておられます。

デイアネイラ えっ、ご老人、今何とおっしゃったの?

土地の老人 あなたさまの人もうらやむご主人が勝利の獲物を携えて間もなくお帰りになると申しております。186

デイアネイラ それは誰から聞いた話なの?この町の方から、それともよその国の方から。

土地の老人 牛の放牧場でリカスという伝令が大勢の人に話しているのを聞きつけて、奥さまにいち早くお知らせしてご褒美を頂こうと急いでやってまいりました。191

デイアネイラ(ヘラクレスについて聞く) それなのに、どうして本人が来ていないの?ご無事だというなら。

土地の老人(リカスについて答える) 奥さま、それはなかなか容易には参りません。途中のマリスの町の人々に取り囲まれておりまして、皆が皆質問攻めにしているのでございます。ですからなかなか前へ進めないのでございます。皆が事情を知りたがりまして、気の済むまでなかなか彼を離さないのです。それで、不本意ながら彼は知らせを聞きたがる人たちの所にいるのですが、早晩彼の姿は奥さまの目に入ってくるでしょう。199

デイアネイラ ねえ、オイタの山の草深い牧場の神よ、あなたはやっとわたしに喜びを与えて下さった。さあ、屋敷の中の女たちも外にいる女たちも一緒に歌いなさい。この知らせの思いがけない夜明けの光明をともに祝うのよ。

 ヒュポルケマ

トラキスの娘たち(歌う) 花婿の帰りを迎える家は歓びの叫びを上げるがよい。家の中は勝利の喜びに満ちている。なかでも男たちは美しい箙(えびら)を持つ守り神アポロンさまに、こぞって声を上げるがよい。娘たちも共に歌うがよい、感謝の歌パイアンを。妹神、オルテュギアのアルテミスを呼ぶがよい。鹿射ちの女神、両手に松明を持つ神とその側に集うニンフたちを呼ぶがよい。215

 わたしは立ち上がる。そして、わたしはこの笛を取らずにはいられない。ああ、わが心の支配者よ。見よ、木蔦の葉にわたしの心は掻き立てられ、エウホイ、今こそバッカスの踊りの輪へ走る。ああ、癒やしの神よ。見よ、見よ、いとしい奥方よ、あの人たちがもう目の前にはっきり見える。224

デイアネイラ みんな、わたしにも見えるわ。あの行列が来るのを注意深いわたしが見逃したりはしない。やっとのことでいらしたのね。わたしは伝令のあなたを歓迎するわ。嬉しい知らせをお持ちなのよね。228

リカス そのとおりです、奥さま。我々は勝利の凱旋をしましたので、みなさんから祝福の歓迎を受けております。成功した者はかならずよい持てなしを受けるものですから。231

デイアネイラ ねえ、あなたは誰よりも大切な方なのよ。何はさておきわたしの知りたいことを教えてよ。ヘラクレスさまはご無事でお帰りなの?

リカス わたしがあの方とお別れした時にはご無事なのはもちろんのこと、それはそれはご健勝でつつがなくておられました。235

デイアネイラ どこでお別れしたの、異国の地、それともこの国の中なの、教えて。

リカス エウボイアのケーナイオンという岬です。そこであの方はゼウスの神に祭壇を作ってお祭りをしておられます。

デイアネイラ 大願成就のお礼なの?それとも何かの神託のことなの?

リカス 大願成就のお礼です。奥さまがご覧のこの女たちの国を、あの方が攻め滅ぼしたということでございます。241

デイアネイラ まあ、この人たちはどなた。どこの家の人たちなの?わたしの思い違いでなければ、気の毒な人たちだわ。

リカス あの方はエウリュトス王の国を滅ぼして、この女たちを自分と神々のために選んで連れ帰ったのです。245

デイアネイラ するとあの方が思った以上に長い間家を留守にしていたのは、その国を攻めるためだったというの?

リカス そうではありません。御本人の言葉では、あの方は大半の時間をリディアで囚われの身になっておられたのです。自由を失った買われた身として。奥さま、わたしの話に憤慨してはなりません。これはみなあきらかにゼウスの神の仕業なのですから。251

 あの方が自らおっしゃるには、リディアのオンパレーに買われて一年(ひととせ)を過ごされたのです。こんな恥辱を受けて深く傷ついたあの方は、いつかこの災いをもたらした男(=イピトス殺しの原因となったエウリュトス)を妻子もろとも奴隷にしてやると自分自身に向かって誓われたのです。257

 そしてあの方は自分の言葉を無にすることなく、オンパレーのもとで罪を償った後に、軍隊を手に入れて、エウリュトス王の国(=オイカリア)へ向かわれたのです。エウリュトスこそはご自分の不幸の元凶であると思われたからです。261

 というのは、ヘラクレス殿が彼の家に客としてやってきたとき、エウリュトス王は昔なじみでしたが、ヘラクレスさまを悪意をもって口汚くさんざんののしったことがあったからです。「おまえは百発百中の弓を持っているが、弓争いではうちの息子たちには勝てまい。おまえは自由人(=エウリュステウス)の奴隷になって破滅するがいい」と言ったのです。さらに宴会の席でヘラクレスさまが泥酔されると、エウリュトス王は彼を家から放り出してしまったのです。あの方はそんな仕打ちを腹に据えかねておられました。269

 それで、のちにエウリュトスの子のイピトスがヘラクレスさまの故郷のティリンスの丘に野生の馬の足跡をつけてやってきたときに、考え事をしながら歩いてる彼をヘラクレスさまは高い岩棚からまっさかさまに突き落とされたのです。273

 しかし、万物の父、オリンポスにいます王ゼウスさまはこの所行のためにご立腹されて、ヘラクレスさまを(=オンパレーに)奴隷として売り飛ばしたのです。イピトスの場合だけは殺し方が卑怯だったので、ゼウスさまはお許にならなかったのです。もし正々堂々とした仕返しだったなら、正当な殺人としてゼウスさまもお許しになったことでしょう。神々は尊大な行為はお気に召さないからです。280

 いっぽう、口が悪く傲慢なエウリュトスたちも全員が黄泉の国の住人となりました。また彼らの国も隷属下に置かれました。奥さまがご覧のこの女たちも幸福な暮らしから惨めな暮らしに転落して、あなたの所にやってきたのです。今回のことはあなたの旦那さまがお命じになったことであって、それをわたしは忠実に実行したにすぎません。あの方は今回の征服に対するお礼の神聖なお祭りを父ゼウスにおこなってから、確かに、こちらに来られるということです。吉報を長々とお伝えしてまいりましたが、これが一番の吉報でございましょう。290

トラキスの娘 奥さま、あなたさまに喜ばしいことが起きたのはもはや明白ですね。この人たちが到着してよい知らせをお聞きになったのですから。

デイアネイラ 夫の無事な知らせを聞いてわたしが喜ぶのがどうして不当なことなの?この知らせに喜びでこたえるのは至極当然のことなのよ。でも、勝ち誇るあの人がいつか倒れる日が来はしないかと気遣うのが、わきまえのある人間のすることなのね。297

 というのも、ねえ、わたしはこの娘たちが異国の地にやってきて、家もなく父もなくさまよっている不幸な姿を見て、ひどく憐れでならないのよ。この娘たちもかつてはおそらく自由な身の上の人から生まれたんだわ、それがいまでは奴隷暮らしを強いられているのだから。302

 勝利の神ゼウスよ、わが子らがあなたからこな目に遭いませんように。もしこうなるとしても、わたしが死んだ後にしてください。この娘たちを見ていて、わたしはこんな心配にとらわれたわ。306

 まあ、お気の毒な方、まだお若い方のようですが、あなたはどなたなの?お子さんはいるですか、それともお独り身ですの?見たところ、いい家のお生まれのようですが、こんな経験は初めてのご様子。309

 リカスさん、この異国の方の親御さんはどなたなの?この人のお父さまどなたで、お母さまはどなたです。話してよ。だって、この人たちの中でこの人が見ていて一番お可哀想だからよ。この人だけが思慮分別をお持ちのようなのでよけいお可哀想だわ。313

リカス わたしが知るわけがございません。どうしてわたしにお尋ねになるのですか。おそらく彼の地(オイカリア)のそれほど卑しくはない家のお子さんでしょう。315

デイアネイラ 王家の娘さんじゃないの?エウリュトス王のお子さんじゃないのかしら。

リカス 存じません。そんなに詳しくは聞きませんでしたので。

デイアネイラ 連れの者の誰かからこの娘の名前も聞いていないの?

リカス いいえ。わたしは言われたことを黙ってやっただけですから。

デイアネイラ ほんとうに、気の毒な方、ねえ、ご自分でおっしゃってください。あなたがどなたか分からないのがわたしには残念でならないのですよ。321

リカス もしこの娘がしゃべったら、これまでの態度とは違うことになります。なにせ、ひとこともしゃべらずに来たのですから。かわいそうに、風の強い祖国を後にしてからは、悲しみに打ちひしがれてずっと泣き通しなのです。運命自体も過酷ですが、同情すべき点もあるのです。328

デイアネイラ 仕方がない。この娘はそっとしておくことにするわ。中に入って好きなようにすればいいのよ。今の苦しみにわたしが別の苦しみを加えることはない。もう十分苦しんでいるんだから。ねえみんな、もうわたしたちも中に入りましょう。おまえは好きなところへさっさと行くがいい。わたしも家の用事があるから。334

土地の老人 その前にそこにしばらくお留まりください。この者たちが行ってしまったら、あなたがお迎えになった女が誰なのか、お耳に入れとうございます。それから、奥さまがまだお聞きでない大切なことを、わたしからお知らせしとうございます。このことについてはわたしが全てを知っているのでございます。338

デイアネイラ それはどういうことなの?どうしてわたしを引き止めるの?

土地の老人 立ち止まってお聞きください。前のわたしの話が聴き甲斐があったように、今度の話も聞き甲斐があると存じます。341

デイアネイラ さっきの人たちをもう一度ここに呼び戻すの?それともわたしとこの者たちだけでお伺いしますか。

土地の老人 あなたとこの人たちに言うのは差し支えありません。あの人たちは行かせてください。

デイアネイラ あの人たちは行ってしまったから、話しなさい。345

土地の老人 あの男はさっきの話では全然本当のことを言っておりません。あの男の今の話が本当なら、前にわたしが聞いた話は真っ赤な嘘だったということになります。

デイアネイラ あなたは何を言っている。言いたことを残らずはっきり言いなさい。これまでの話では何が何だかわからないわ。350

土地の老人 ヘラクレスさまはあの娘のためにエウリュトスを殺して、オイカリアの国を攻略したと、あの男が話しているところをわたしは聞いたのでございます。大勢の証人もいます。この戦争のそもそもの起こりは、神々の中で恋の神があの方をそそのかしたからなのです。リディアで起きたことも、オンパレーのもとでの苦役のことも、イピトスを突き落として殺したことも原因ではありません。ところがあの男はさっきはこの恋のことを省いて別の話をしたのです。358

 あの方はあの娘を妾にもらいたいと言って叶わなかったものですから、ささいな言い掛かりをつけて、あの娘の国を攻めて、[―そこではこのエウリュトスが王座を占めていたということです。あの方は王である彼女の父を殺して ―]あの国を滅ぼしたのです。ご覧のように、あの方が帰路にこの屋敷へあの女を送ってよこしたのは考えのないことではなく、奴隷にするためでもありません。奥さま、そんな考えは捨てて下さい。愛欲に駆られている人がそんなことをするのはありえないのです。368

 奥さま、これでわたしがあの男から聞いたことは全てお話ししたと思います。このことはトラキスの多くの人達も広場でわたしと一緒に同じように聞いたことですから、確かめてみてください。この話がお気に召さないとしたら、それはわたしの本意ではありませんが、とにかくわたしは真実をお話ししました。374

デイアネイラ まあ、なんということなの?いったいわたしは何をしているの?何という災難を知らない間にわたしは家の中に引き入れてしまったのかしら。なんて、みじめなの。あの女性はあんなに見目うるわしいのに、連れてきた人が断言したように、本当に名もない家に生まれた人なの?379

土地の老人 あの娘はエウリュトス王の娘で、かの地ではイオレーと呼ばれていました。あの男は彼女の生まれのことはまったく言いませんでした。さだめし何も彼女に尋ねなかったからでしょう。382

トラキスの娘 忌々しいことですね。どんな悪事を働くにしても、こっそり背信行為をするなんて。384

デイアネイラ ねえみんな、わたしはどうすればいいの?今の話を聞いてびっくりしているわ。386

トラキスの娘 あの男の所に行って聞いてごらんになることです。無理にでも聞き出すつもりがおありなら、きっと彼も本当のことを言うでしょう。

デイアネイラ 行ってみましょう。あなた方の言う通りです。

土地の老人 わたしはここで待っていましょうか。それとも、わたしはどうすべきでしょうか。390

デイアネイラ 待っていなさい。おや、あの男は呼ばれもしないうちに家から出てきたわ。

リカス 奥さま、ヘラクレスさまに何かお言付けがありますか。おっしゃってください。ご覧のようにわたしは出かけますから。

デイアネイラ やっと着いたのに、もう出かけるの?わたしにもっと話すことがおるはずなのに。396

リカス 何をお尋ねになりたいのです。何なりとお答えします。

デイアネイラ じゃあ、本当のことを言うと誓える。

リカス ゼウスにかけて誓います。わたしが存じていることにかけては。

デイアネイラ あなたが連れてきたあの女は誰なの?400

リカス エウボイアの女です。どこの家の娘であるか存じませんが。

土地の老人 おい、こっちを見ろ。おまえはどなたに話しているつもりだ。

リカス おまえは何のためにわたしにそんなことを聞くんだ。

土地の老人 もしおまえがばかでないなら、たのむ、わしが聞いていることに答えてくれ。404

リカス わたしが話しているのは、デイアネイラ奥さまだ。オイネウスさまのお娘御でおられ、ヘラクレスさまの奥さまであり、わたしの目が確かなら、わたしのご主人さまだ。407

土地の老人 わしがおまえから聞きたかったのは、まさにそのことだ。この方はおまえのご主人さまであると言うのだな。

リカス その通りだ。

土地の老人 ではどうだ。おまえがこの方に不忠を働いたことが分かったら、どんな罰を受けると思っているのだ。411

リカス どうしてわたしが不忠を働いたと言うのだ。何でそんな分かりにくい言い方をするのだ。

ΑΓ. Οὐδέν· σὺ μέντοι κάρτα τοῦτο δρῶν κυρεῖς.
土地の老人 わしは分かりにくい事は言っていない。分かりにくい事を言っているのはおまえの方だ。

リカス わたしはもう行くぞ。おまえの話を聞いたわたしがばかだった。

土地の老人 行ってはならん。答えろ、わしの質問は簡単なことだ。415

リカス うるさいやつだな。言いたいことがあれば言え。

土地の老人 おまえがこの家に連れて来たあの捕虜の女のことだ。知っているな。

リカス 当然だ。なぜそんな事を聞くんだ。

土地の老人 おまえがさっき知らぬ振りをしたあの女はイオレという女で、エウリュトスの娘だと言ってはいなかったか。420

リカス わたしがそんな事を誰に言った。わたしからそんな事を聞いたと言っているのはどこのどいつだ。

土地の老人 この町の大勢の人たちだ。トラキスの広場に群れなす人たちがこのことをおまえから聞いている。

リカス そうだ、言った。そんな噂を聞いたとな。しかし、噂を言うのと、確かめて言うのとは別物だ。426

土地の老人 何が噂だ。この人はヘラクレスさまの妻となる人だと確かに言ったではないか。

リカス 妻となる人だと? 親愛なる奥方さま、一体全体こやつは何者なんですか。430

土地の老人 あの女への恋心のために国が一つ滅んだと、わしはおまえの口から聞いたぞ。あの国を滅ぼしたのはリュディアの女のせいではなくあの女への恋心だとな。

リカス 奥方さま、この男に下がるように言ってください。頭のおかしい人間と馬鹿話をするのはまともな人間のする事ではございません。435

デイアネイラ オイタの険しい山あいに稲妻を投げるゼウスにかけて、リカスよ、お願いだから、本当のことを言ってちょうだい。

 わたしはあなたが何を言っても怒ったりはしないわ。それに、わたしも男心が移ろいやすいことを知らないわけではないのよ。440

 愛欲の神に拳闘士のように戦いを挑むなんて、賢い人間のすることではないわ。

 愛欲の神は、神々さえも思いのままに支配するのよ。わたしもそうよ。わたしのような女がもう一人いても当然のことよ。444

 だから、もし夫がこの病にかかったことに腹を立てたりしたら、わたしがどうかしているのよ。あの女にしても同じこと。わたしをひどい目に合わせて恥をかかせたと言って怒ることはないわ。448

 そんなことはあり得ないのよ。でも、もしあなたが主人からそう教わって嘘をついているのなら、それはあなたが良くない教えを受けたことになるわ。もしあなたが自分で自分に言い聞かせてそうしているなら、たとえ善人と言われたいと思っても、あなたは悪人と見られるのよ。452

 ですから、さあ、本当のことを洗いざらい言いなさい。自由な身分の人間が嘘つきだと言われることは致命的な不名誉になるのよ。

 このままばれないことはないわ。あなたが話をした大勢の人たちがわたしに話をしてくれることになるんだから。456

 あなたがわたしのことを心配しているとすれば、それは間違いだわ。わたしは知らない方が苦しいの。知ることがどうして恐いことかしら。ヘラクレスさまはお一人で他に何人もの女を妻にしてきたじゃないの。460

 その女たちがわたしからけなされたことは一度もないのよ。あの女も同じこと。あの女が恋に身を焦がしているとしても同じだわ。わたしはあの女を一目見てその美しさが人生を狂わせたことを取りわけ哀れに思っているの。好き好んで自分の祖国を滅ぼしたわけではないでしょうに。それはそれとして、言っておくけど、あなたはほかの人は騙しても、わたしを騙してはいけないのよ。469

トラキスの娘 この方の言う通りになさいませ。いいことをおっしゃっていますから。奥様もあとであなたに悪いようにはしないでしょうし、わたしからもお恩に着ますわ。471

リカス 親愛なる奥方さま、あなたさまが人としての分を弁えておられ、思いやりのある方だとわかりましたので、全てをありのままにお話ししましょう。474

 実はこの男の言う通りなのでございます。あの女への恋心の虜になられたヘラクレスさまは、あの女を手に入れるために彼女の祖国である不幸なオイカリアを責め滅ぼされたのでございます。478

 それから、これはあの方のために申しておきますが、あの方はこのことを隠せとはおっしゃいませんでしたし、ご自分でもこのことを否定されませんでした。奥方さま、これはわたしが勝手にしたことでございます。あなたさまのお気持ちを傷つけることを恐れて、あのようなことをお話ししてしまったのでございます。もしもこれが過ちと言われるのなら、わたしの過ちだったのでしょう。483

 今こうして全てをお聞きになってしまったからには、ご主人さまのためにもあなたさまのためも、あの女を可愛がってやってくださいませ。そしてあなたがあの女についておっしゃった事を守ってやってくださいませ。487

 ヘラクレスさまはどんなことでもその手に勝利をかちとるお方ですが、あの女に対する恋心にはすっかり負けてしまわれたのでございます。489

デイアネイラ 大丈夫、言った通りにするわ。わたしも神に逆らうようなことをして、自分の傷口を大きくするようなことはしたくないから。さあ中に入りましょう。あなたには言付けがあるのよ。それから、頂いた贈り物にはそれにふさわしい贈り物を差し上げないといけないわ。それをヘラクレスさまにお届けしてね。あなたもこんなに大勢の行列を作ってやって来たのに手ぶらで帰るとわけにはいかないものね。496


 第一スタシモン

トラキスの娘たち(歌う) 恋の神は強力にて無敵なり、神々のことはおくとして、クロノスの子ゼウスの心を盗みしことも、夜のハデスと地を揺さぶるポセイドンの恋のことも。502

この花嫁との契りを求めてどんな強者(つわもの)が現れしか。殴り合い埃まみれのこの戦いに現われしは誰ぞ。506


かたや四足で大きな角をもつ牛に姿を変えし怪力の川、名をアケロオス、オエニアダイという地からの流れなり。こなたバッカスの国テーバイよりきたりしゼウスの子ヘラクレス。両者ともに婚儀を求めて土俵に上がる。両者の間には、ひとり恋の神が審判役として立ち合えり。516


その時こぶしと矢筒と牛の角がこもごも打ち合う音したり。両者は足を胴に絡み合わせ、破壊的なる頭突きを繰り出し、うめき声は両者から出る。522

可憐なる美少女は自分の夫が決まるのを待ちながら、離れた丘に座りたり。われは母のごとく語るなり。二人に求婚されし美しい新妻は哀れな姿で結果を待てり。子牛が母牛から引き離されるよう、たちまち彼女は寂しく母国(アイトリア)を去りにけり。530

 第二エペイソディオン

デイアネイラ 使いの人は今屋敷の中で女たちに別れを告げているところだから、その間にわたしはこっそりあなたたちのところへ出てきたの。わたしの苦肉の策を聞いてもらい、わたしの不幸を一緒に泣いてもらおうと思ったからよ。535

 船乗りが荷物を積み込むように、生娘と思ってわたしが引き入れたのはあの人の女なのよ。これがわたしの心を乱す重荷となったの。538

 今では二人して一つのシーツの下で抱かれる相手としてあの人を待っているという体たらくよ。立派な人と言われ、頼れる人とばかり思っていたあのヘラクレスさまは、長年の家の守りの報酬にこんなものを送ってよこしたんだわ。542

 でも、あの人は病膏肓、腹を立ててもしょうがないの。それはそれとしても、一人の男を分け合いながら、あの女と一緒に暮すなんて、どこの女にできるというのよ。546

 あちらは若さがますます花咲き誇り、片やこちらはしぼむばかり、人は花あるものを摘もうと目を向けるが、しぼむものからは背を向ける。ヘラクレスさまがわたしの夫と呼ばれながら若い女の愛人にならないか心配なのよ。551

 でもそもそも今言ったように、気持ちを荒げることはたしなみのある女のすることではない。どうやってわたしがこの悲しみを和らげる手立てを手に入れたか、これから話すことにするわ。554

 わたしのところに昔ケンタウロスからもらった贈り物があって銅の壺に隠して持っているのよ。まだ若かった頃に毛むくじゃらのネッソスが死に際にくれたものよ。流れの深いエウエノス川で、彼はオールの船も帆船も使わず腕一つで川渡しの仕事をしていたの。561

 わたしがヘラクレスさまと一緒に初めて妻として父に送り出された時、ネッソスはわたしを肩に乗せて運んでくれたのよ。でもその時川の真ん中でネッソスは汚らわしい手でわたしを触ったのよ。わたしは大声で叫んだわ。するとヘラクレスさまは振り返って矢を射かけられたの。それがネッソスの胸を射抜いたのよ。死の前に彼はわたしにこう話しかけたの。「老いたるオイネウスの娘御よ、あなたがわたしの最後に渡した人となりましたから、渡し守であるわたしからあなたにプレゼントがあります。ぜひわたしの言うとおりにしてください。571

 「わたしの傷口から血糊を取ってください。そこにはレルナの怪物ヒュドラの黒い毒が混じっています。その毒を使えばヘラクレスのハートは魔法にかかって、あのひとは終生あなたのほかに女には目もくれなくなるでしょう」とね。577

 そうよ、わたしはそれを覚い出したのよ。というのも、ネッソスの死後わたしはそれを屋敷の中に丁寧にしまっておいたからよ。わたしは、ネッソスに生前に教わったとおりに、このローブをそれに浸しました。これはその教えどおりにしたものなの。581

 わたしははしたないやり方は知りたくもないし教えてもらおうとも思わない。はしたないことをする女はわたしは嫌いよ。

 それでもわたしはヘラクレスに媚薬でまじないをかけることであの娘に勝てるかもしれないと思ってこれをやってみたの。あなた達がこれを愚かなことだと思わないといいのだけれど。もしそう思うならやめておくわ。587

トラキスの娘 うまくいくと自信がおありなら、無分別なことではないと思いますわ。

デイアネイラ 試してみたわけではないので自信はないけど、希望はあるわ。591

トラキスの娘 では、確かめるためにはやってみるしかないですね。希望だけあってやってみないのでは、わかりませんから。

デイアネイラ 今に分かるわ。もうあの人が戸口に見える。すぐに出てくるわ。このことはあなた達だけの秘密にしておいてね。恥ずかしいことをしても、秘密にすれば恥にはならないもの。597

リカス オイネウスの娘御のデイアネイラさま、お言付けは何でしょうか。ご教示ください。もうずいぶん遅れてしまいましたので。599

デイアネイラ リカスさん、あなたが中で異国の女たちと話している間に、わたしはまさにその用意をしていたのよ。わたしの手製のこのローブをあの人への贈り物として持って行って欲しいの。603

 これを差し上げる時に次のように申しあげるのよ。この衣はあの人のほかは誰も着てはならないし、日の光のもとにも祭壇の炎のもとにも神域にも出してはいけない。ただ、牛を生贄にするお祭りの日に、人前に出るときにそれを着て神々にお見せしてくださいねと。609

 これは以前にわたしが誓ったことなのよ。もしあの人が無事に故郷に帰還する姿をこの目で見たり聞いたりできるものなら、わたしはあの人にしかるべく新たなローブを着せて新たな姿で犠牲の式典に臨ませますとね。614

 この箱に封印をしておいたから、あの人はこの印鑑の印を見ればわたしからだとすぐに分かるわ。615

 さあお出かけてちょうだい、使いの者は出過ぎたことをしてはいけないという定めは第一に守るのよ。そうすればあなたへのお礼は、あの人のお礼とわたしのお礼が加わって二倍になるわ。619

リカス わたしは伝令の仕事をしっかりやりますので、わたしがあなたさまの御用をしくじることはございません。この箱はこのままあの方にお渡しして、奥様が贈り物をする理由(わけ)もちゃんとお伝えさせていただきます。623

デイアネイラ ではもう出発してちょうだい。あなたもこの屋敷の様子はよく分かったと思うわ。625

リカス こちらがうまくいってることは存じておりますので、お伝えしておきましょう。

デイアネイラ わたしがあの女性を歓迎してどれほど丁重にお迎えしたかを、あなたはその目で見てよく知っているわね。

リカス はい。喜びに胸打たれますほどに。629

デイアネイラ(リカスには聞こえないように) おまえはほかには何も伝えてはいけないのよ。わたしが心配しているのは、わたしがあの人に恋い焦がれていると、早まっておまえが言ってしまわないかということなのよ。そのうち、あの人がわたしを恋い焦がれていることが分かるのだから。632

 第二スタシモン

トラキスの娘たち(歌う) 海と山に挟まれた出湯(いでゆ)の地テルモピュライ、オイタの山がそびえ、マリス湾に面して、金の矢を持つアルテミスの聖なる岸辺、ビュライの会議で名だたる地、その近隣に住まう人々よ、639


汝らのもとに、美しき笛の音が再び沸き起ころう。それは悲しみとは無縁の響きをともなう神々しい調べ。643


なぜとて、ゼウスとアルクメネの子が、並びなき武勇によりて勝ち取りし戦利品を携えて、家路に急いでいるゆえ。645


あの人は一年(ひととせ)の長きにわたり、この国を留守にして、海の向こうに行ったきり。我らは何も知らずにただ待つばかり。不幸な彼女はあの人の妻としてずっと泣き通して、みじめな心を抱えて消え入るばかり。でも、狂える戦(いくさ)の神があの人を苦行の日々からやっと解放した。654


来たれよ、来たれ。あの人が祭司となりて祭りを行う岬を去りて、この国にたどりつくまで、あの人を乗せた櫂多き船をとめるな。あの人が怪物の予言どおりに媚薬のために恋い焦がれて来るのだから。662

 第三エペイソディオン

デイアネイラ ねえみんな、わたしのさっきとった行動はゆき過ぎではなかったかと心配になってきたのよ。

トラキスの娘 オイネウスの娘御のデイアネイラさま、それはどういうことでしょうか。665

デイアネイラ よく分からないけど、良かれと思ってやったことが大きな間違いだったのではないかと気が気でならないのよ。

トラキスの娘 まさか、ヘラクレスさまへのあなたの贈り物のことではないでしょうね。

デイアネイラ 実はそのまさかなの。あなた達にも慣れないことには闇雲に手を出すのは勧めないわ。670

トラキスの娘 教えてください。何を恐れておいでなのですか。それとも人には言えないことなのですか。

デイアネイラ こんなことがあったのよ。話しをしても皆さんには信じてもらえないかもしれないわ。

 あの人に着せるローブにさっき塗るのに使った白いウールの毛の房が消えてしまったのよ。家の中の誰かが使ったというわけでもなく、ひとりでに無くなってしまったのよ。敷石の上から砕け散ってしまったの。どうしてこんなことになってしまったのか、皆さんにもよくわかるように、もっと詳しく話すわ。679

 わたしはあのケンタウロスが腹に矢を受けて苦みながら教えくれたことを一つもなおざりにはしなかった。あの教えを金科玉条のように守ったわ。[わたしは命じられたとおりに、次のようにしたの。]684

 この媚薬を出して使う時までは、火や光線の熱から遠ざけて家の奥にしまっておくことという教えをね。688

 実際わたしはそのとおりにしたわ。それで、実行に移す時が来ると、部屋の中で羊毛を使ってこっそりとローブに塗ったの。それには家畜の羊の毛を引き抜いて使ったのよ。そして日の当たらないところでローブを折りたたんで、贈り物として箱に入れたのはみんなが見た通りよ。

 それから外に戻ったわたしはいわく言い難い現象を目にしたのよ。それは人知の及ばないことなのよ。わたしは[薬を塗るのに使った]ウールの房を[炎の真ん中へ]日の光の中に投げ出しておいたの。すると、それが熱を受けるとともに、元の形を失って粉々になって、まるで木を切った時に見られるノコ屑のように地面を漂っていたのよ。700

 あれが溶けた様子はこのようだったけど、次にそれがあった地面からぶつぶつと泡が立ち始めたのよ。それはまるでぶどうの木から紫色のしっとりとしたブドウの果汁が垂れたようだった。704

 もうどう考えていいやらわたしにはわからないわ。わたしは大変なことをしてしまったようなの。わたしのために死んだあの獣(けだもの)が、どうして何のために自分が死にそうなときにわたしに親切にしてくれたりするかしら。708

 そんなことはありえない。きっと自分を撃った男を殺そうとしてわたしをたぶらかしたのよ。こんなことが分かっても、もう手遅れだわ。もう取り返しがつかないんだもの。わたしの思い違いでなければ、悲しいことに、ほかならぬこのわたしがあの方を死に追いやってしまうのよ。714

 だって、あの人が放った矢は神ケイロンさえも傷つけた矢で、どんな獣(けだもの)でも触れるだけでたちまち死んでしまうからよ。あの男の傷口の血から取ったドス黒い毒ならば、きっとあの方も殺してしまうに違いないわ。わたしの考えが当たっていればだけど。718

 でも、もしあの方が倒れるようなことになれば、いっしょにわたしも死ぬ決意はできています。誇り高い生き方を何より尊ぶ女には、不名誉な評判と共に生きているのは耐られないことだから。722

トラキスの娘 災いを恐れるのは当然ですが、結果を先取りして決めてしまうべきではありません。724

デイアネイラ そもそもの考えが間違っているのだから、結果はもう見えているし、まして希望など持てるわけがないのよ。726

トラキスの娘 でもあなたの場合は悪意でしたことではないのですから、あなたへの怒りも軽くなるはずです。

デイアネイラ あなたがそんなことが言えるのはまだ苦しみにあったことがないからよ。自分の不幸をそんなふうには言えないわ。730

トラキスの娘 もしご子息に聞かれたくないなら、これ以上はもうおしゃべりにならない方がいい。父上を探しに出かけておられたご子息がもう帰っておられます。


  ヒュロス入場

ヒュロス ほんとうに、お母さま、あなたなんか死んでしまえばいい、いや、ぼくの母でなくなればいい。さもなければ、心を入れ替えて真っ当な人間に生まれ変わってほしい。この三つのうちのどれかであってくれたら。737

デイアネイラ どうしてわたしにそんな憎まれ口をきくのよ。

ヒュロス あなたはご自分の夫でありぼくの父である人を今日殺してしまわれたのですよ。740

デイアネイラ せがれや、何ということを言い出すのよ。

ヒュロス これは決して口先だけのことではありませんよ。もう取り返しのつかないことが起きてしまったのです。

デイアネイラ 何を言うの?わたしがそんなひどいことをしたと、誰から聞いて言っているの?745

ヒュロス 人から聞いて言っているのではありません。この目ではっきりと、父上のあの恐ろしい惨劇を見てきたのです。

デイアネイラ あの人に会ったの?どこで会ったのよ。

ヒュロス あなたに知ってもらうためには、とにかく初めから全てを話さねばなりますまい。あの方は高名なエウリュトスの国を滅ぼして多くの戦利品を伴っての帰路、エウボイアの波に洗われるケナエウム岬に到着しました。そこで父ゼウスのために聖なる森を画して祭壇を設けました。そこで初めてわたしは願い叶って父と喜びの対面をしたのです。755

 父上は多くの犠牲のけものをほふる式典の準備をしておられましたが、そこへこの家の使者であるリカスがあなたからの贈り物を携えて到着したのです。それは死のローブだったのです。それをあの方はあなたの指図どおりに身にまとい、無疵の十二頭の牡牛を戦利品の初穂としてほふりました。そして全部で百頭ものさまざまな家畜を生贄にしたのです。762

 気の毒なあの方も初めのうちは見事なローブを気に入られて機嫌よく祈りを捧げておられましたが、松脂をぬった薪と神聖な生贄から真っ赤な炎が燃え上がると、体から汗が出てきて、ローブが大工の下着のように脇腹から全身にぴったりくっついてしまいました。すると骨を引き裂くような痛みがあの人を襲ったのです。それはまさにマムシの毒が体に回った時のようでした。771

 その時でした、あの方が大声で不幸なリカスを呼びつけてこう言ったのは、「おまえはどんな魂胆でこんなローブをよこしたんだ」。これはあなたの仕業でリカスには何の罪もありませんでしたが、何も知らない気の毒な彼は「これは奥さまからの贈り物で、わたしはお届けしただけでございます」と言ったのです。776

 それを聞いたあの方は、肺に激痛の発作が襲うと、リカスの足首をつかんで、海から顔を出してる岩礁に叩きつけたのです。すると彼の頭がくだけて髪の毛から白い髄液が流れ出て血とともに飛び散ったのです。782

 この狂気の惨劇を目の当たりにした人々は誰もが恐怖の叫び声を上げて嘆き悲しみましたが、誰一人あの人に近づくものはありませんでした。あの方は痛みのために絶叫して悲鳴を上げながら地面を上へ下へとのたうち回り、その声は四方の岩山に響き渡り、対岸のロクリスの山だけでなくエウボイア島の多くの岬にまで届きました。789

 そして、叫び疲れたあの方は、不幸な奥さまとの不幸な結婚と、自分に破滅をもたらしたオイネウスとの姻戚関係を嘆いて、おかわいそうに、地面を転がりながら大声を上げて泣きだされたのです。そして、まわりを取り巻く煙の中から引きつった目を上げて、泣いているわたしを大勢の中から見つけると、わたしを呼び寄せて、じっと見つめながらこうおっしゃったのです。796

 「おい、せがれよ、こっちへ来てくれ。苦しむわたしから逃げないでくれ。死にゆくわたしとともに死なねばならぬとしても、逃げてはならん。わたしを持ち上げて人目のつかない所まで運んでくれ。もしわたしを哀れだと思うなら、とにかくわたしを急いでこの地から運び出してくれ。わたしをここで死なせないでくれ」802

 父上はこのように命じました。そこでわたしは発作で苦しむ父の体を船に乗せて、こちら側の岸までやっとのことで運んだのです。ですからまもなく、あなたもあの人がまだご存命か亡くなったばかりの姿を目にすることでしょう。806

 お母さま、以上があなたがわたしの父上に対して企んで実行した罪の全貌なのです。その報いとして正義の神と復讐の女神が必ずやあなたに罰を下すでしょう。もし許されるものなら、わたしはあなたを呪います。それもわたしには許されるでしょう。あなたがこの呪いを正当化したのですから。なぜなら、あなたはこの世で最も優れた人、誰もが二度と出会えないような人を殺してしまったのですから。812

トラキスの娘 奥さま、どうして黙って行ってしまわれるのですか。黙っていれば今の非難を受け入れることになってしまいますよ。

ヒュロス 黙って行かせてあげなさい。あの人はわたしの目の前からさっさと消え去ってくれたほうがいいのです。母の名にもとることをしたあの人を、どうしてもったいぶって母上と呼ぶ必要があるでしょうか。それでは、あの人が父上に与えた別れの挨拶を、あの人も受け取るがいい。さようなら、ごきげんよう。820

 第三スタシモン

トラキスの娘たち(歌う) 見よ、娘たちよ、いかにして、むかし下された、かの神託の言の葉が突如にして我らの身の上に迫りしか。神託はかく言えり。十二回目の年が終わる時、ゼウスの御子に課せられた、長く続いた苦行は終わらんと。そしてそは必ずや実現す。なぜとて、死せる者はもはや苦悩に満てる隷属から逃れるゆえに。830


もし避けられぬ罠にかかりてかの人がケンタウロスの黒き血に肺腑をえぐられ、光る蛇と死神が生み出せし毒に取り憑かれ、恐ろしき怪物ヒュドラにしがみつかれては、明日の光を見るべきや。そのうえ黒髪ネッソスの殺しの策略の焼け付く痛みに体中を刺し貫かれては。841


哀れなる彼女は、新たなる婚姻から自らの家に大いなる災いの迫れるを見てとりしが、そがかかる事にならんとは思いもよらず。彼女は人の意見に従いしも自らの行いのため破滅的なる事態を招きたり。彼女はさぞかし痛ましく泣けることならん。さぞかし滂沱の涙に暮れることならん。我らに迫れる運命は、謀(はかりごと)がもたらせし破滅を明らかにせん。850

我らの目からも涙の雨が。ああ、この病はあの方の体中に行き渡り、かつて敵が誉ある人に加えしどの苦しみよりも哀れを誘う。ああ、前線で戦う黒色の槍よ、汝こそはオイカリアの高い城市を瞬く間に攻略し、新たなる妻をもたらす。その行いのかげに愛の神の力ありしは言わずとも明らかなり。861

 第四エペイソディオン

乳母 ああ。

トラキスの娘 わたしの思い違いでなければ、お屋敷の中からいま何か人の泣き声が聞こえるようですが、何事でしょう。中から紛れもない悲しみの叫び声が聞こえて来ます。この家に何か不吉なことが起きたのです。ご覧ください、取り乱した姿で目に涙を溜めた婆やが何かを伝えに出てきます。

乳母 娘さま方、なんと、ヘラクレスさまにお送りした贈り物が大きな不幸の始まりだったとは。

トラキスの娘 婆やよ、なんと不吉なことをおまえは言うのです。

乳母 デイアネイラさまは人生の歩みを止めて最後の旅へ立たれたのです。875

トラキスの娘 まさか、死出の旅へ行かれたと言うのではないのでしょうね。

乳母 全てはいま申したとおりです。

 コンモス

トラキスの娘(歌う) おかわいそうに、亡くなられたの?

乳母 最初に申したとおり。

トラキスの娘(歌う) ああ、いたましい。どのようにして亡くなられたと言うの?

乳母(歌う) なんとも残酷ななさりよう。

トラキスの娘(歌う) 教えてよ。どのようにして亡くなられたの?880

乳母(歌う) 諸刃の剣によってお亡くなりに。

トラキスの娘(歌う) 剣の刃先によって亡くなるとは、あの方はどんな悩み、どんな苦しみに襲われていたのか。どのようにしてご主人の死に加えて、ご自分の死をお一人で企まれて、恐ろしい刃(やいば)の一撃でことを成し遂げられたのか。あなたは愚かにもあの方の凶行をただ見ていたの?

乳母 見ていましたとも、それもすぐ近くで。

トラキスの娘(歌う) 誰の手によって亡くなったのか。さあ、教えてよ。890

乳母 自らの手で我と我が身を。

トラキスの娘(歌う) 何を言うのです。

乳母(歌う) 本当よ。

トラキスの娘(歌う) このお屋敷に恐るべき復讐の神を生み出したのは婚礼を経ぬあの新妻よ。895

乳母 まさにそのとおり。あなたも近くにいて奥さまがなさったことを目撃したなら、奥さまへの哀れみの気持ちはさらに強まったことでしょう。

トラキスの娘 そんなことを大胆にも女の身で成し遂げたというのですか。

乳母 しかも恐ろしい方法で。今からお話しますからわたしの証人になってください。奥さまは一人で屋敷の中に戻って来られると、ご子息がお父上を迎えに戻る前に、庭でベッドを用意されているのをご覧になりました。すると、人目につかないところに身を隠されたのです。そして、まず祭壇に跪いて、「おまえたちともお別れなのね」と大きな声でお泣きになったのです。そして、おかわいそうに、以前に使っていた家具に手当たり次第に触れては泣かれるのでした。906

 そして屋敷の中をあちらへこちらへと彷徨われました。そして、自分の親しい召使いの姿を見つけては、相手を見つめて泣かれたのです、自分自身の運命[と子をなくすこれからの身の上]を思い起こして。911

 そうして泣きやまれますと、突然ヘラクレスさまの寝室に飛び込んで行かれました。わたしは密かに身を隠してじっと見ていたのです。奥さまはヘラクレスさまのベッドにシーツを広げておられました。916

 それが終わると奥さまはベッドの上に飛び上がって真ん中に座ると、堰を切ったように熱い涙を流しながらこうおっしゃいました。「わたしの新床よ、わたしの花嫁の部屋よ、さようなら、今日を限りに永遠のお別れよ、おまえは二度とわたしを妻としてこのベッドに迎えることはないのね」。922

 奥さまはこれだけ言うと素早い手つきで、胸に金のブローチが付いたローブを解いて、左の脇腹あたりの肌をさらされたのです。わたしはご子息にお母さまがこんな事をされているとお知らせするために、できる限り急いで走りました。しかし、わたしが行って戻ってきた時には、奥さまは諸刃の剣を脇腹から心の臓へ突き刺してしまわれていたのです。931

 ご子息はこの有り様を目にして、大声をあげて泣かれました。気の毒なことに、あの方は怒りに任せてお父上のことで奥さまに罪を着せたことに気付いておられたからです。あの贈り物は奥さまの本意ではなくネッソスに唆(そそのか)されてしたことだと、家の者から教えられたのですが手遅れでした。935

 ここに至って不幸なご子息は悲しみの限りを尽くして号泣され、奥さまの顔に口づけの雨を降らして、ご遺体の脇に取りすがりながら、母上を悪しざまになじった愚かさを大きな声で何度も嘆かれたのです。そして、一度に父と母を二人とも失くして一人で生きていくことを悲しんで泣かれたのです。942

 この屋敷で起こったことは以上です。まったく、来年の事どころか明日以降の事を言うのも、愚かしいことなのですね。今日という日をうまく切り抜けない限り、明日という日はやって来ないのですから。946

 第四スタシモン

トラキスの娘たち(歌う) どちらの不幸を先に泣こうか、どちらの不幸をもっと泣こうか、みじめなわれは決められぬ。


こちらの不幸はいま家の中で見た。あちらの不幸は今か今かと待つばかり。今の不幸と未来の不幸に違いなし。952


この家に向かって突風よ巻き起これ。われをこの地から吹き飛ばせ。巨漢ヘラクレスを目にしただけで、たちまち恐れ死にせぬように。不治の病に苦悶する人の、名状しがたき姿がこの屋敷へ向かうと聞くがゆえ。962


彼の人のためわれ小夜啼鳥のごと甲高き哀悼の声を上げたり。その人は遠からず、いよいよ間近なり。遠くより来たれる異国の人らの一団は早ここに。運ばるる人はいまいずこならん。愛する者の死を悼むごと、声なく重き足取りにて進みゆく。ああ、運ばれいく彼の人もまた声もなし。みまかりしや、あるいは眠れりや、知りがたし。970

エクソドス

ヒュロス(音楽に合わせて語る) ああ、不幸な父よ。わが情けなき身の上はいかならん。何とせん。ああ嘆かわし。

老人(音楽に合わせて語る) せがれ殿よ、お静かに。獰猛な苦痛を目覚めさせるな。父上は凶暴だ。横になれるもまだ息がある。口を慎まれよ。977

ヒュロス(音楽に合わせて語る) お主は何を言う。なお息ありと。

老人(音楽に合わせて語る) せがれ殿、眠りの虜になられたこの人を起こすではない。獰猛なる恐ろしき病を呼び起こさぬことだ。980

ヒュロス(音楽に合わせて語る) わが身の上に大いなる悲しみのしかかりて、気が狂わんか。

ヘラクレス(音楽に合わせて語る) ああ、ゼウス、わしはいずこに向かうか。止めどなき痛みのため疲れ果て眠りたるこのわしのまわりにいるこの者どもはいずこの国人か。うう、うう、苦しい。忌まわしいい病がまた襲ってきた。うう。987

老人(音楽に合わせて語る) わしの言ったとおりではないか。口を謹みこの人を眠りから覚まさぬ方が得策だと。991

ヒュロス(音楽に合わせて語る) このむごたらしい有り様を見てどうして我慢していられるでしょう。

ヘラクレス(音楽に合わせて語る) ああ、ケーナイオンに立つ祭壇よ、おまえに出くわさねばよかった。あれほどの生贄を捧げたのに、不幸なわしにこんな返礼を差し出すとは。ああ、ゼウス、わしをなんとひどい目に会わせたたもうた。こんな癒やし難いひどい狂気に陥らせしとは。999

 ゼウスのほかにこの災いをしずめられる魔法使いは、医者はいるのか。そんな者が間近にいれば奇跡だろう。1004

 コンモス

ヘラクレス(歌う) いたたた、不幸なわしをこのまま寝かせておいてくれ。(老人に)何をする。わしに触るな。わしをどうするつもりだ。わしを殺す気か、わしを殺す気か。1008

(歌う) 眠りかけていた痛みがおまえのせいでぶり返したぞ。締め付けてくる。いたたたた、また来た。貴様らはどこの者らだ。ああ、ギリシア人か、おまえらはどいつもこいつも恩知らずばかり。みじめなわしは海の上でも森の中でもギリシヤ人のためさんざん悪者どもを退治して、いま身を滅ぼすのだ。そのわしがこんなに苦しんでいるのに、焼き殺すなり突き殺すなりしてこの苦しみからわしを救ってくれる者は一人もいないのか。いたたた、誰かみじめなわしの首を切り落とすために来てくれないのか。うう、うう。1016

老人(歌う) ああ、この人のせがれ殿。この仕事はわしには手に余る。手伝ってくれ。この人を救うにはわたしよりあなたの方が適任だ。1020

ヒュロス(歌う) 手は貸すとも。わたしがやろうと他の人がやろうとこの痛みはなくせない。これはゼウスの決めた定めだから。

ヘラクレス(歌う) いたたた、ああ、せがれよ、どこだ、どこにいる、ここに来てわしを起こせ。いたたた、くそ、また来た。ひどい痛みが来た。どうにもならない恐ろしい病魔がわしを痛めつける。1030

(歌う) ああ、わが守護神アテナよ、またひどい痛みが来た。ああ、せがれよ、父を哀れんで、剣を抜いて、わしの鎖骨の下を打て。されどおまえに咎はない。この痛みから解放せよ。わしをこんな苦しい目にあわせたおまえの忌々しい母親にわしは怒り心頭だ。わしの目の前で、あの女はわしを破滅させたのと同じ目にあえばいい。おお、いとおしい黄泉の神よ。1040


(歌う) いたたた。おお、ゼウスの兄弟ハデスよ、不幸なわしをすみやかに殺してくれ、そしてわしを永遠に眠らせてくれ。

トラキスの娘 みなさん、ご主人さまのこの苦しみようは耳にするだけでもこの身が震えます。これほど偉大な方がこんな苦しみにさいなまれるとは。1045

ヘラクレス まったく、どれほど多くの語るにおぞましく危険な苦行に、わしはこの腕と背中でこらえてきたことだろう。しかし、ゼウスの妻(=ヘラ)も、卑劣なエウリュステウスも、オイネウスの悪知恵に長けた娘(=デイアネイラ)が復讐のローブをわしの肩にかぶせてわしを破滅に追い込んだほどに大きな苦行を課しはしなかった。1052

 こいつはわしの体に貼りついて、わしの体の肉を端から食いちぎる。胸に食らいついたこいつは肺を締めつけて息を吸い尽くす。そのうえ、わしの生き血もすべて飲み尽くしてしまった。かくして、わしの体はことごとく、この恐ろしい縛(いまし)めに締め付けられて腐っていくのだ。1057

 この一撃をわしの体に加えたのは、戦場の敵の槍でもなければ、大地から生まれたギガンテス(ジャイアンツ)の軍勢でも、野獣どもでもない。また、ギリシアの国でもなければ、わしによって悪人どもが一掃された蛮族の国でもない。武器も持たない一人の女のか弱い手にかかってわしは滅びていくのだ。1063

 ああ、息子よ、おまえはいまこそわしの本当の息子と呼べるようになってくれ。おまえは自分の母親をわしより大切に思うことがあってはならん。その手で母親を家で捕らえて、わしの手に引き渡すのだ。そうして、おまえは母親が罰を受けて苦しむ姿を見て、それよりもわしの苦しむ姿を悲しむかどうか、わしははっきり知りたいのだ。1069

 息子よ、どうか頼む、わしを哀れんでくれ。小娘のように泣き叫ぶわしはもう万人に目には哀れみの対象なのだ。弱音を吐くこともなく常にあらゆる苦難に耐えてきたから、わしはこれまで誰にもこんな姿を見られることはなかった。ところが情けないことに、そのわしが今や女の策略のせいで女に成り果てたのだ。さあ、こっちに来てくれ。そして、どんな悲運に遭えばこんなざまになるのかを、父のそばに来てしっかりとお前の目に焼き付けるのだ。このざまを覆いを取って見せてやるぞ。1078

 さあ、みなのもの、見てくれ、みじめなわしの体を、不幸なわしの姿を、なんと哀れなことになってしまったかを。ああ、わしはみじめだ。1081

 ここにまたひどい発作が来た。体を突き抜けるぞ。激しい病がわしを拷問にかけるようだ。

(歌う)ああ、地獄の神よ、わしを受け入れてくれ、ああ、ゼウスの稲妻よ、わしを打ちのめしてくれ。1086

 神々の父ゼウスよ、雷をわしの上に落としてくれ、雷神の矢を投げつけてくれ。また焼けるような痛みがぶり返して体を貫いていく。ああ、手が、手が、ああ、肩が、胸が、大切な腕が! おまえたちは、かつてネメアに住み着いて羊飼いを悩ましたライオンを、あの恐るべき野蛮な怪物を力ずくで退治したのだ。また、レルナのヒュドラを。また、乱暴で無法で怪力で人と交われない半人半馬のケンタウロスの一団を。また、エリュマントス山の大猪を。また、恐ろしき蛇女エキドナの仔で、黄泉の国に住んで三つの頭をもつ無敵の犬ケルベロスを。また、最果ての地で黄金のりんごを見張る竜を退治たのだ。その他にもわしは数多くの苦渋を味わったが、だれ一人わしの手から勝利を奪うことはできなかったのだ。1102

 それがいま思いもよらぬ敵の手にかかってずたずたに引き裂かれてみじめな敗北を喫したのだ。かつて高貴な母の子と呼ばれ、天界の支配者ゼウスの子と呼ばれたわしがこのありさまだ。1106

 ただこれだけはよく覚えておけ。わしがたとえ亡き者になって一歩も動けなくても、それでも、こんなことをした女は必ず懲らしめてやる。とにかくあの女を連れてこい。わしは生きているときも死んでからも悪者を懲らしめる人間であることを思い知って、万人に知らせるとよいのだ。1111

トラキスの娘 ああ、不幸なギリシアよ、もしこの人をおまえが失ったなら、おまえは大きな悲しみに包まれることだろう。

ヒュロス お父上、わたしに返答するきっかけを与えてくださったので、苦しいでしょうが、黙ってわたしの話を聞いてください。お父さまには是非とも聞いていただかねばならないことがあるのです。ここは機嫌を損ねて怒ったりしないで、耳を貸してほしいのです。というのは、お父さまのその意趣晴らしの願いも激しいお怒りも無意味なものであることに気付いて頂きたいからです。1119

ヘラクレス 言いたいことがあればさっさと言え。わしは苦しいのだ。おまえはさっきから持って回った言い方をしていて、全くわけがわからない。1121

ヒュロス 母が今どうなっているか、どうして心ならずも過ちを犯したのか、聞いて頂きたいのです。

ヘラクレス ばかばかしい。それではおまえは自分の父親を死なせた母親のことをわしに聞かせようというのか。1125

ヒュロス 黙っているべきではないことなのです。

ヘラクレス そうだ。さっきあの女のした悪事は黙っているべきではないからな。

ヒュロス あなたも今日の出来事は黙っているべきではないとは言うはずです。

ヘラクレス では、言うがいい。母親の肩をもつようなことではないだろうな。

ヒュロス では言いましょう。母は今しがた亡くなりました。1130

ヘラクレス 誰にやられた。それは不思議なご託宣だ。おまえはまた幸先の悪いことを言うではないか。

ヒュロス 我とわが身を、ほかならぬご自分の手によって。

ヘラクレス よくもそんなことを。わしの手にかかって死ぬべきものを。

ヒュロス 怒ることはないのです。先を聞いて下さい。

ヘラクレス おかしなことを言いだしたな。言え、どういう意味なんだ。1135

ヒュロス 要するに、母は良かれと思って過ちを犯したのです。

ヘラクレス 馬鹿め。おまえの父を殺してそれが良い事か。

ヒュロス いや、母は中にいる愛人を見て、あなたに媚薬を使おうと思って過ちを犯したのです。

ヘラクレス なに、このトラキスの誰に媚薬など作れようか。1140

ヒュロス 母はむかしケンタウロスのネッソスに騙されて、媚薬を使えばあなたの心を取り戻せると思ったのです。

ヘラクレス ああ、わしの運もこれまでだ。これで最期だ。もうだめだ。この世の光も見納めだ。とうとう自分の運命が分かったぞ。行け、せがれよ、おまえの父はこれが最期なのだから。1146

 おまえの兄弟たち全員と、ふしあわせな母アルクメネさまを、ゼウスのあの不幸なお妃さまを呼んで来てくれ。わしのいまわの際(きわ)の言葉を聞かせるために、わしが聞いた神託の意味を。1150

ヒュロス あなたの母上はここにはおられません。海沿いのティリンスに居を定めておられます。あなたの子供たちの多くは彼女に面倒を見てもらっています。残りの子供たちがテーバイに住んでいることはご存知でしょう。父上、我々ここにいる者たちであなたの指図どおりに最後までお仕えします。1156

ヘラクレス では何をすべきかおまえが聞け。今こそおまえがわしの子と呼ばれるにふさわしい者であることが明らかになる時だ。

 父ゼウスの古い神託では、わしを殺すのは決して生ある者ではなく、死んであの世に住んでいる者であるということだった。1161

 それがあの怪物ケンタウロスだったのだ。ゼウスの神託どおりに、生きたわたしを死んだ者が殺したのだ。

 ここにわしは新しい神託を明らかにする。それはこの古い神託に符合するだけでなく、古い神託と同じことを言うものだった。それは山に住み地に伏して眠るセルロイ人の森にわしが入ったときに、ゼウスの言葉を話す樫の木からわしが聞いて書きとめたものだ。それはいまこの時にわしは自分に課せられた苦行から解き放たれると言うものだった。それをわしは幸福になることだと思ったが、他ならぬわしが死ぬことだったのだ。死んだ人間はもう苦労することはないからだ。1173

 これらの神託が成就されることが明白になったからには、せがれよ、今度はおまえにこのわしの味方になってもらわねばならんのだ。ぐずぐずしてわしを怒らせないでくれ。自分から進んでわしを助けるのだ。子が父に従うのが最上の掟であることはおまえもわかっているだろう。1178

ヒュロス 父上、話がこんなことになって気後れしますが、とにかく父上のおっしゃることに従います。 1180

ヘラクレス まずお前の右手をわしの手に置くのだ。

ヒュロス この誓いは何の目的で要求されるのですか。

ヘラクレス 早く置け、わしの言うとおりにするんだ。

ヒュロス はい置きました。何でもおっしゃるとおりにします。

ヘラクレス わたしの父であるゼウスにかけて誓うのだ。1185

ヒュロス 何をすると誓うのですか。それも言ってください。

ヘラクレス わしの言う通りにすると誓うのだ。

ヒュロス はい誓います。ゼウスにかけて。

ヘラクレス 誓いを破ったらひどい目にあってもいいと誓え。

ヒュロス おっしゃるとおりにしますから大丈夫です。とにかく誓いますとも。1190

ヘラクレス では、おまえは最高の神ゼウスの山、オイタの頂きを知っているか。

ヒュロス 知っています。生贄をするために何度も登ったことがあります。

ヘラクレス そこへわしの体をおまえの手で引き上げるのだ。必要なら仲間と一緒にやってもいい。そして、樫の木の枝を沢山切り落として、野生の雄のオリーブも沢山切り倒してきて、わしの体をその上に置いて、燃え盛る松明で火を点けるのだ。わしはけっして悲しみの涙を見たくはないので、もしお前がわしの子なら、悲しんだり涙を流したりしないでやるのだ。もし言うとおりにしないなら、わしはあの世でおまえのことを永久に呪ってやるからな。1202

ヒュロス ああ嘆かわしい、父上、何ということをおっしゃるのですか。わたしを何という目に遭わせるのですか。

ヘラクレス やらねばならないことなのだ。やらないなら、もうおまえとは親でも子でもない。1205

ヒュロス ああ、またも嘆かわしいことを。父上、何とまた無茶なことを命じられるのですか。あなたを殺せと言われるのですか。

ヘラクレス そうではない。わしのこの苦しみを癒やしてくれる方法はこれしかないのだ。

ヒュロス 父上のお体に火をつけたら苦しみを癒すどころではありますまい。1210

ヘラクレス それは憚られると言うなら、そのほかのことだけやればいい。

ヒュロス お体を運ぶことはいといませんが。

ヘラクレス 命じたとおりに薪を積み上げることもやってくれるか。

ヒュロス 自分の手を汚すこと以外のことなら自分の仕事は抜かりなく行います。1215

ヘラクレス それで十分だ。大切なことはこれだけだが、ほかにちょっと頼みたいことがある。

ヒュロス たとえ大変なことでもやらせて頂きます。

ヘラクレス エウリュトスの娘を知っているか。

ヒュロス きっとイオレのことですね。1220

ヘラクレス そのとおりだ。せがれよ、わしの頼みとは次のことだ。わしが死んだら、あの女をおまえの妻に迎えるのだ。もしわしを敬う気があるなら、父がおまえに課したさっきの誓いを忘れずに、わしの言ったとおりにするのだぞ。1224

わしは自分と添い寝をしたあの女をおまえ以外の男に取られたくはない。せがれよ、おまえがあの女と結婚するのだ。わしの言う通りにするんだぞ。大切なことでわしの言う通りにしても、こんな些細なことで逆らったりしたら、それまでのおまえの献身も台無しだ。1229

ヒュロス ああ嘆かわしい。病人に怒っても仕方がないが、これほど正気をなくした人を見るのは耐え難いことだ。1231

ヘラクレス その口ぶりではわしの言うとおりにする気がないようだな。

ヒュロス お言葉ですが、母が死んだのもさらには父上がこんなことになったのも、もとを正せばあのイオレという女一人のせいなのですよ。そんな女と結婚する男がどこにいますか。そんなことをする男は悪霊に取り憑かれて頭がどうかしているのです。父上、わたしはあの憎むべき敵(かたき)と一緒になるぐらいなら死んだほうがましですよ。1238

ヘラクレス この男はわしの遺言(ゆいごん)を守らない気でいるらしい。だが、わしの命(めい)に背いたお前には神の呪いが待っているぞ。1240

ヒュロス ああ嘆かわしい。このご様子ではいよいよ気でも狂われたか。

ヘラクレス 眠っている狂気が目覚めたとすればそれをおまえのせいだ。

ヒュロス これは弱った。何と多くの難題を背負い込んだのだろう。

ヘラクレス それはおまえが父の命令に従おうとしないからだ。

ヒュロス しかし、父上、親不孝になることを学べとおっしゃるのですか。1245

ヘラクレス わしの気持ちを喜ばせることは親不孝ではない。

ヒュロス これをあなたはわたしに義務として命ぜられるのですか。

ヘラクレス そのとおりだ。これについては神々が証人だ。

ヒュロス それではやりましょう。これはあなたのなさることだと神々に示すことで受け入れます。父上、あなたの言うとおりにしたわたしが非難されることはないでしょうから。1251

ヘラクレス これでめでたしめでたしだ。あとは、せがれよ、急いでわしの願いを叶えてくれ。また、痛みの発作が襲ってこないうちに、わしの体を薪の上に運んでくれ。

 さあ、急いで持ち上げてくれ。これが苦しみからの休息となる。わしの最期の時なのだ。1256

ヒュロス はい、父上、あなたが固くお命じになったからには、何があってもあなたの願いは成就されますとも。

ヘラクレス(音楽に合わせて語る) さあ、わが不屈の精神よ、この狂気を目覚めさせるまえに、口に石と鋼(はがね)の轡(くつわ)をはめて、声が漏れないようにして、このつらい仕事を喜びとしてやり終えよ。1263

ヒュロス(音楽に合わせて語る) 従者たち、この人をもちあげよ。かような仕儀に至りし我を哀れと思い、かような仕打ちする神ゼウスの冷酷さを思い知るがいい。神ゼウスは我らの父神と呼ばれながらも、この世の不幸をただ眺めるのみ。1269

 この人の未来は誰も知らず、今のありさまは我らには哀れであり神ゼウスには恥である。だが、災難に遭ったこの人には、誰よりも辛いことにちがいない。1274

 乙女よ、おまえも家に居ないで出てこい。おまえは先程恐ろしい死を見、さらに繰り返される前代未聞の苦悩を見たが、このどれ一つとしてゼウスの仕業でないものはない(終わり)。1278


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