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カント「純粋理性批判」

(第二版)

超越性に関する基礎理論(超越的原理論[Elementarlehre])

第二部門 超越的な論理学

序 超越的な論理学の構想

I 一般的な論理学について


 我々の認識は心の中の二つの源泉から生まれる。その一つめは、イメージ(表象)を受け取る、つまり印象を受け取る能力(直観)であり、二つめは、このイメージによって対象を認識する能力である(概念のもつ自発性)。第一の能力によって、我々に対象が与えられ、第二の能力によって、このイメージ(それは要するに心の中身を明らかにすることでしかない)との関わりの中で対象が考えられるのである。

 だから、直観と概念が我々のあらゆる認識の基本要素なのである。概念だけがあっても、何らかの仕方でそれに対応する直観が無ければ認識は生まれないし、直観だけがあって概念が無くても、認識は生まれない。

 直観にも概念にも純粋なものと経験的なものとがある。経験的であるとは、その中に感覚(これは実際に対象が存在していなければ生まれない)が含まれている場合である。純粋であるとは、イメージの中に感覚が含まれていない場合である。

 感覚は認識のための感性による素材(質料)と呼ぶことができる。したがって、純粋な直観には、何かが直観される形式だけが含まれているのである。また、純粋な概念には、普遍的な対象に対する思考の形式だけが含まれているのである。これを我々は、経験的な直観と経験的な概念は後天的にのみ可能であるが、純粋な直観と純粋な概念は先天的にのみ可能であるという。

 我々の心の感受性つまり心が触発されてイメージを受け取る能力を感性と呼ぶなら、それに対して、イメージを自らもたらす能力つまり自発的な認識能力こそが知性である。

 我々の本性からして、直観は感性によるものでしかありえない。ということは、直観には我々が対象によって触発される仕方だけが含まれているのである。それに対して、感性による直観の対象について考える能力が知性なのである。

 これらの特性は互いにどちらがどちらよりすぐれているということはない。感性なしには対象は与えられないし、知性なしに対象について考えることはできない。中身のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。

 だから、概念は感性によるものでなくてはならない。つまり、直観による対象を概念に付け加えねばならないし、直観を知性的にしなくてはならない。つまり、直観を概念に従わせねばならないのである。

 この二つの能力はその役割を交換することはできない。知性は何も直観できないし、感性は何も考えることはできない。この二つが一つに結び付くことによってはじめて認識が生まれるのである。しかし、だからといってこの二つの役割を混同してはならない。この両者を注意深く分離し区別することには、大きな理由がある。そのために、我々は、普遍的な感性の法則の研究つまり「感性論」と知性の法則の研究つまり「論理学」を別々に扱うのである。

 次に、論理学も二つに分けて考えることができる。知性の普遍的な用法についての論理学と、知性の特殊な用法についての論理学である。前者つまり一般的な論理学には知性を使う上で欠くことのできない知性の必然的な法則が含まれている。それは対象の違いに関わることなく、知性の使用を扱うものである。

 知性の特殊な用法についての論理学には、特定の対象について正しく物を考えるための法則が含まれている。普遍的な用法についての論理学が「基本的な論理学」と呼ぶことができるのに対して、特殊な用法についての論理学は哲学のような特定の学問のためのオルガノン(道具)と呼ぶことができる(=アリストテレスの論理学に関する一連の著作は哲学のための道具すなわちオルガノンと呼ばれている)。

 このオルガノンとしての論理学は大抵の場合、学校で特定の学問の入門用に教えられるが、この論理学は人間の理性の働きからすれば最後に来るものであって、その学問が出来上がって、あとは最後の修正を経て完成を待つのみという段階になってやっと理性が手に入れるものなのである。なぜなら、人はある対象についてかなり高度な知識を手に入れた後でなければ、それについての学問を生み出す法則を提示することなどできないからである。

 次に、一般的な論理学は純粋な論理学と応用論理学に分かれる。前者においては、知性が働くときに従う経験的な条件は全て無視される。その経験的な条件とは、感覚の影響であり、想像の働きであり、記憶の法則であり、習慣の力であり、個人的な好みであり、さらには先入観の原因となるものであり、その他ある種の認識が生まれたり紛れ込んだりする原因となるものである。なぜなら、経験的な条件は知性がある種の使われ方をする場合にのみ知性と関わるものであり、そのような場合を知るには経験が必要だからである。

 したがって、一般的で純粋な論理学は、先天的な原理(Prinzipien)だけを取り扱うもので、知性と理性の規範(使用原理)となるものである。しかし、素材が経験的であるか超越的であるかには関係なく、知性と理性の使用の形式だけを扱うものである。

 一般的な論理学が応用論理学と呼ばれるのは、主観的で経験的な条件のもとにある知性の使用の法則、心理学が教えるような法則を対象とする場合である。したがって、応用論理学には経験的な原理(Prinzipien)が含まれている。しかし、応用論理学は、対象の違いに関わらずに知性の使用方法を扱う限りにおいてはなお一般的な論理学である。

 したがって、応用論理学は、普遍的な知性の規範(使用原理)でもなく、特定の学問のためのオルガノン(道具)でもない。それは、日常的な知性を純化したものでしかない。

 したがって、一般的な論理学のうちで、純粋理性の学問(=つまりこの本)の一部となるべき部分は、応用論理学が扱う部分(それはやはり一般的な論理学であるけれども)から完全に区別されなければならない。そして、純粋理性の学問の一部となるべき部分だけが本来の意味での科学である。それはいかにもそっけなく味気ないものではあるが、知性の原理論(Elementarlehre)の正当な記述とはそういうものである。

 この一般的かつ純粋な論理学の記述に際して論理学者は次の二つの法則を忘れてはならない。

一、この論理学は一般的な論理学としては、、知性による認識の全ての内容と認識の対象の違いを無視して、思考の単なる形式だけを扱わねばならない。

二、この論理学は純粋な論理学としては、経験的な原理(Prinzipien)を含んではならない。したがって、知性の規範(使用原理)とは何の関係もない心理学からは(しばしば誤解されているのとは逆に)何も取り入れてはならない。知性の原理論は証明された理論であって、全てが先天的に確実でなければならない。

 私が応用論理学と呼ぶものについて言うと、応用論理学とは(純粋な論理学の与える規則の訓練という一般的な意味とは違って)知性が実際に使われる際の必然的な法則のことである。つまり、それは主観の偶然的な条件のもとにある知性の姿である。そして、この条件は知性の実際の使用を妨げたり助けたりするもので、全て経験だけによって与えられる。したがって、応用論理学は、注意力と注意力の障害と注意力の結果、さらに誤謬の原因、懐疑と疑念と確信の状態、等々を扱うものである。

 この学問と一般的で純粋な論理学との関係は、自由意志の道徳的な必然的法則を扱う純粋な倫理学と、この法則が人間にとっては免れ得ない情緒、好き嫌い、情熱などに影響を受けることを扱う道徳の教えとの関係と同じである。

 このような道徳の教えは、上記の応用論理学と同様に、経験的で心理学的な原理(Prinzipien)しか必要としないために、決して証明された真の科学とはなれないのである。

 
II 超越的な論理学について


 一般的な論理学は、すでに見たように、認識の全ての中身、つまり対象と認識とのあらゆる関係を無視して、認識の相互関係(結び付き、結合)の中にある論理的な形式を考察する。つまりそれは普遍的な思考の形式だけを扱うのである。

 しかしながら、直観には(「超越的な感性論」で明らかなように)純粋な直観と経験的な直観があるので、対象に対する思考にも純粋な思考と経験的な思考の区別があるはずである。そして、その場合には、認識の中身を必ずしも全て無視しないような(経験的な思考についての)論理学が存在することになるだろう。というのは、対象に対する純粋な思考の法則だけを含むような論理学ならば、経験的な内容を持つ認識を全て排除してしまうからである。

 一方、経験的な思考についての論理学は対象に対する認識の起源をも扱うことになるだろう。もっとも、この起源を対象に帰することはありえない。それに対して、一般的な論理学は認識の起源を扱うことはない。

 一般的な論理学は、様々なイメージを、それが先天的に与えられたか経験的に与えられたかに関わらずに、様々な法則にしたがって考察する。知性はものを考えるときに、それらの法則に従って、相互関係の中で様々なイメージを使用するのである。つまり、一般的な論理学は、それらのイメージの起源に関わらず、それらのイメージに与えられている知性の形式だけを扱うのである。

 ここで一つ注意しておきたいことがある。それは今後の全ての議論に関係することなのでよく覚えておいてもらいたい。それは、「超越的」と呼ぶべき知識とは、単なる先天的な知識のことではなくて、何らかのイメージ(直観か概念)が完全に先天的に使われていること、あるいは可能であることを知る方法についての知識、つまり、経験によらない認識の可能性あるいは使用についての知識のことである。 

 したがって、空間は超越的なものではないし、空間の幾何学的な先天的特徴もそうではない。これらのものが経験的な起源を持たないことの認識と、それにもかかわらず、これらのものが経験の対象と先天的に結び付くことのできる可能性こそが、超越的と呼べるのである。

 同様にして、普遍的な対象について空間を適用することは超越的でありうるが、その適用が感覚の対象に限定されているなら、それは経験的となる。だから、超越的であるか経験的であるかの違いは、認識そのものの評価に基づくものであって、認識とその対象のつながり方に基づくわけではない。

 そこで、おそらくは対象と先天的に結び付くことのできる概念、純粋な直観でも感性による直観でもなく、純粋な思考を扱う概念、経験的な起源も感覚的な起源も持たない概念がありうるという期待のもとに、我々は、対象を完全に先天的に考える純粋な知性と純粋な理性による認識の学問をあらかじめ構想することにする。

 このような認識の起源と範囲および客観的な有効性を規定する学問は「超越的な論理学」と呼ぶべきだろう。なぜなら、それは、知性と理性の法則が対象と先天的に関わる場合だけを扱う学問だからである。したがって、この学問は、理性による経験的な認識も純粋な認識も区別なく扱う「一般的な論理学」とは異なるものであいる。


III 一般的な論理学を分析論と弁証法に分けることについて


 昔から論理学者を困らせ、彼らを哀れな詭弁に陥らせるか、自分たちの無知を、つまりは論理学全体の無意味さを認めさせる有名な質問がある。それは「真理とは何か」という質問である。「真理」を文字通り説明すると、それは認識とその対象の一致ということになるが、それは当たり前すぎて無意味である。ここで問題なのは、どの認識もが真理であると認められる普遍的で確実な基準は何かということである。

 どんな質問をするのが賢明かを知っていることは、すでに賢明さの大きな証拠であり、必要なことである。というのは、質問がすでに馬鹿げたもので、無意味な答えしか返ってこないようなものなら、そんな質問をした人間にとっての恥であるばかりでなく、これを聞いた迂闊な人間から馬鹿げた答えを誘発するという困ったことになって、一人が乳を搾り、もう一人がざるで受けるという古人の諺のような笑うべき光景を呈することになるからである。

 もし真理が認識とその対象との一致であるなら、この対象は別の対象と区別されるということである。なぜなら、もしある認識がそれと結び付けられた対象と一致しなければ、たとえその認識が別の対象に当てはまる内容を含んでいても、真理ではないからである。一方、真理の普遍的な基準というものがあるなら、それは対象を区別することなく、あらゆる認識に当てはまらねばならないことになる。

 しかし、このような普遍的な基準を当てはめるということは、認識の内容(認識と対象とのつながり)を無視することであり、しかも真理はまさにその内容に関わるから、認識の内容が真理であるかどうかを一つの基準によって問うことは不可能で不合理なことは明らかである。したがって、真理の充分にして普遍的な基準を提示することが不可能なのは明らかである。

 上記において、我々はある認識の内容をその質料と名付けた。すると、その認識が真理であることを質料の面から明らかにする普遍的な基準を求めることは不可能だということになる。なぜなら、それ自体矛盾しているからである。

 しかしながら、認識を形式の面から(認識の内容を度外視して)見た場合、論理学は、知性の普遍的・必然的な法則を示すものであるから、まさにこの法則によって真理の基準を示すものでなければならないことは明らかである。というのは、この法則に反するものは真理ではないからである。なぜなら、その場合、知性は自らが持っている思考の普遍的法則に反することになり、自分自身に矛盾するからである。

 しかし、この基準は真理の形式つまり一般的な思考の形式にしか当てはまらないものであって、その限りでは正当なものだが、充分なものではない。というのは、ある認識が論理的な形式に完全に合致しており、自分自身と矛盾していなくても、対象とは矛盾している可能性は残るからである。

 したがって、真理の単なる論理的な基準、つまりある認識が知性と理性の普遍的・形式的法則に合致していることは、真理の必要条件であって、消極的な条件でしかない。しかし、論理学の出来ることはそこまでである。そして、論理学は、形式ではなく内容についての誤りを明らかに出来るようなどんな試金石を持つこともないのである。

 一般的な論理学は、知性と理性の形式的な営みを基本的な要素に分解して、それを我々の認識に含まれるあらゆる論理的な判断の原理(Prinzipien)として提示する。したがって、論理学のこの面は分析論と呼ぶことが出来る。それは少なくとも真理の消極的な試金石である。なぜなら、ある認識が対象に関して実際に真理を含んでいるかどうかを明らかにする目的で認識の内容を調べる前に、何よりもまず、全ての認識をこの原理(Regeln)に照らして形式の面から調べて評価しなければならないからである。

 しかしながら、認識の形式だけがどれほど論理学の法則に合致していたとしても、それだけでは、認識の内容が(対象に関して)真理を含んでいるかどうかを明らかにするには不充分である。

 だから、誰も論理学だけで対象に関する判断を下して何かを主張するような大胆なことは出来ないのである。そのためには、対象についての信頼できる情報をあらかじめ論理学以外から集めておく必要がある。そうして集めた情報を使って、まとまりのある全体の中でそれらを論理学の法則に従って結合するのである。しかし、さらによいことは、それらの情報をひたすら論理学の法則だけで吟味することである。

 しかしながら、たとえ認識の中身を知らなくてもあらゆる認識に知性の形式を与えることのできる技術は、それがいかに表面的なものであっても、それを持っていることは魅力的なことである。そのために、論理的な判断の原理(Kanon)でしかない一般的な論理学が、まるでオルガノン(特定の内容に対して使われる道具)のように、対象についての主張を実際に産み出し、結果として嘘をつくことに使われ、ひいては、悪用されることになるのである。このようにオルガノンとして誤用された一般的な論理学のことを我々は弁証法と呼んでいる。

 この弁証法(ディアレクティケー、弁論術)という名前をもつ学問あるいは技術は、昔から人によって様々な意味をもっていたが、実際の使われ方から見て、昔からそれは仮象を扱う論理学(特にアリストテレスにとって)であったことに間違いはない。

 それは自分の無知、あるいは意図的な嘘に真実の外見を与えるソフィストの技術である。ソフィストは一般的な論理学が教える厳密な方法を真似て、中身のない欺瞞を言いつくろうためにトピック(仮説からの推理、トピカ)を利用したのである。

 一般的な論理学がオルガノン(道具)として見られたとき、それは常に見せかけの論理学、つまり弁証法となるということを、今や間違いのない有用な忠告として、我々はここに明記することができる。なぜなら、一般的な論理学が我々に教えることが出来るのは、決して認識の内容に関することではなく、その認識が知性の法則と合致するための形式的条件だけだからである。しかし、この条件は対象の内容とは何の関係もないのである。

 だから、知識を増やして広げるためと称して、一般的な論理学を道具(オルガノン)として使うことを勧めることは、何でも好きなことをもっともらしく主張したり好きなように反論したりして駄弁を弄する結果にならざるをえないのである。

 このような教えは哲学の品位にとってふさわしいものではないから、弁証法という名前は「弁証法的な幻想」に対する警告として、一般的な論理学の名前の中に含められてきたのである。我々はここでもまた弁証法がそのようなものとして理解されることを望みたい。


IV超越的な論理学を超越的な分析論と超越的な弁証法に分けることについて


 上記の「超越的な感性論」で我々は感性だけに注目したが、それと同じように、「超越的な論理学」において我々は知性だけに注目する。つまりここでは、我々の認識能力のうちで特に知性にしか起源を持たない思考の部分だけを扱うのである。

 この純粋な認識能力を使うためには、この能力を使う対象が直観によって与えられていることが必要条件である。なぜなら、直観がなければ、我々のあらゆる認識は対象を欠くことになり、空虚なものとなるからである。

 したがって、「超越的な論理学」のうちで、純粋な知性認識の基本的要素(カテゴリー)に分解して、対象について考えるために欠くことのできない諸々の原理(Prinzipien)として提示する部分が「超越的な分析論」である。

 同時にこれは真理の論理学である。というのは、ある認識が論理学のこの部分に矛盾するということは、あらゆる内容を失うということ、つまり、対象とのつながりを失うことであり、真理ではなくなることだからである。

 しかし、この純粋な知性概念は、経験だけが与えることの出来る材料(対象)に対してのみ適用出来るものであるが、この純粋な知性の認識能力とその原理(Grundsätze)を単独で、しかも経験の領域を超えて使うことは、非常に魅力的なことである。

 そのために、知性は空虚な詭弁によって、純粋な知性が持っている単なる形式的な原理(Prinzipien)に中身があるかのように適用して、我々には決して与えれることなどありえないような対象について無差別に判断を下しかねないのである。

 純粋な知性の原理は本来は、単に知性の経験的な使用における論理的な判断の原理(Kanon)でしかないものなので、それを普遍的・無制限に使える道具(オルガノン)として地位を与えて、純粋な知性だけで一般的な対象について総合的に判断したり主張したり結論を下したりするなら、それは誤りである。

 そして、純粋な知性のこのような使用こそが弁証法的なのである。超越的な論理学の二つめの部分は、この弁証法的な仮象に対する批判でなければならず、「超越的な弁証法」と呼ばれる。

 しかし、この部分はけっして、このような仮象を独断的に生み出す技術(この技術は残念ながら様々なインチキ形而上学の間で流行している)を説明するのではなく、知性と理性が超自然的に使われることを批判することを目的としている。

 つまり、それは根拠もなく自信に満ちた知性と理性の偽りの仮面を剥ぎ取り、これらが超越的な原理(Grundsätze)だけで達成できると思っている認識の拡大と発見の要求を取り下げて、純粋知性のもつ論理的な判断力だけで満足するとともに、詭弁による嘘に対抗できるようにすることである。 


超越的な論理学

第一部 超越的な分析論


 「超越的な分析論」では、我々の先天的な認識のすべてが純粋な知性の認識の基本要素(カテゴリー)に分解される。ここでは、次のことが重要である。
一、ここで扱う概念は純粋な概念であって、経験的な概念ではないこと。
二、それらは直観や感性に属するものではなく、思考や知性に属するものであること。
三、それらは基本的な概念であって、そこから導き出されたものや、そこから合成したものとは区別されること。
四、それらの一覧表は完全であって、純粋な理性の全ての領域をカバーしていること。

 ところで、いきあたりばったりに集めたものを検討して行くだけでは、このような学問的な完全さは望むべくもない。そのような完全さを達成するには、先天的な知性による認識の全体像を形作り、この全体像を構成する概念を明確に分類し、次にこれらの概念を一つの体系にまとめることが必要である。

 純粋な知性はあらゆる経験的なものと感覚的なものからはっきり区別されなければならない。それはそれ自体不変で充足しており、外部のいかなる付加物によっても増加することのない一個のまとまりのあるまとまりである。

 したがって、純粋な知性による認識(カテゴリー)を全部集めたら、一つの体系が出来上がることだろう。そして、この体系は一つの理念のもとに包括され明確化されていなければならない。この体系が完全であり明確であるということは、ここに組み込まれているあらゆる認識要素が正しく偽りのないことの証拠である。

 この「超越的な論理学」は全体として二つの部分から成り立っている。その第一部では純粋な知性概念が分析され(概念の分析論)、第二部は純粋な知性の原理(Grundsätze)が分析される(原理の分析論)。


超越的な分析論

第一編 概念の分析論


 わたしのいう「概念の分析論」とは概念の一般的な分析のことではない。つまり、哲学の研究のなかで提示された概念を内容にしたがって分析して明らかにするというよくある手続きをさすのではない。

 それは、知性の能力を分析するという、これまでほとんど行なわれたことがないことである。つまり、先天的な概念をそれが生まれる場所である知性の中に探し求めて、知性の純粋な用法を分析することによって、先天的な概念の可能性を研究することである。

 というのは、これこそは超越的哲学の本来の仕事だからであり、一般的な哲学が概念を論理学的に扱うのは、そのあとのことだからである。したがって、我々は人間の知性の中の純粋な概念をその最初の萌芽と生成の段階にまでさかのぼって観察することになる。純粋な概念は、萌芽の状態で準備されており、経験という機会に発展していき、まさにこの人間の知性を通じて、自分のなかにある経験的な制約から解放されて、純粋なものになるのである。
 
 
概念の分析論

第一主題
全ての純粋な知性の概念を発見するための一つの法則について


 我々が認識能力を働かせるとき、様々な概念が様々な機会に姿を現わしてくる。これらの概念こそは認識能力の存在を我々に知らしめるものであり、これらを鋭い洞察力をもちいて時間をかけて観察していくなら、ある程度は完全な形にまとめることが出来るだろう。

 しかし、このようないわば機械的なやり方では、この探求をいつ終えてよいのか、誰も確信をもって決めることはできない。また、概念を偶然にまかせて見つけ出していくやり方では、見つけた概念が何らかのまとまりのある体系の一部分であることは決してわからないだろう。せいぜいのところ、類似性にしたがって組み合わせたり、内容の複雑さに従って単純なものから複雑なものへと並べる程度のことしかできない。それでは、たとえ組織的なもの産み出すことはできても、決して体系的なものを産み出すことはできない。

 概念を探求するにあたって、超越的な哲学は一つの法則に基づいて行えるという利点があり、実際またそうしなければならない。なぜなら、それらの概念は、絶対的な統一体である知性から純粋で混じりけない状態で生まれてくるものであり、その結果、それらは一つの概念あるいは一つの理念のもとに互いにつながっているからである。

 逆に言えば、純粋な知性の個々の概念がそのようにしてつながっているということは、それらの各々に位置づけをしたり、必要な概念が全部揃ったことを見極めるための一つの法則が与えられているということである。もしもそのような法則がなければ、この探索をどこで終えてよいかを気紛れと偶然によって決めざるをえないだろう。


全ての純粋な知性の概念を発見する超越論的な法則 第一章

普遍的な知性の論理的使用について


 これまでのところでは、知性とは感性によらずに認識する能力であると、もっぱら消極的に説明されてきた。一方、我々は感覚に頼らずに直観を得ることはできない。したがって、知性は決して直観の能力ではない。しかし、直観を使うのでないなら、概念を使う以外にはものを知る方法はない。すると、すくなくとも人間の知性がもたらす認識は概念による認識だということになる。つまり、知性による認識は直観的ではなく概念的なのである。

 すべての直観は感覚的なものであって触発に基づいているとすれば、概念は活動に基づいているといえる。わたしが言う「活動」とは、様々な概念をそれらに共通する一つの概念のもとにまとめる統一行動のことである。つまり、感性による直観が印象という受動的なものに基づいているのに対して、概念はものを考えるという自発的な行為に基づいているのである。

 ところで、このような概念を知性が利用する唯一の場面は、それを使って判断をするときである。人間の抱くイメージのうちで直観だけが対象と直接つながりを持つから、概念はけっして対象と直接つながることはなく、対象についての何らかのイメージ(直観かすでに概念となったものか)につながっていることになる。

 したがって、判断とは対象を間接的に認識することである。つまり、判断とは、対象のイメージのイメージなのである。どの判断の中にも、多くのものに当てはまる一つの概念がある。その多くのものの間に、対象と直接つながっている一つの与えれたイメージが含まれているのである。

 したがって、たとえば「全ての物体は分割できるものである」という判断の中には、「分割できるもの」という概念があるが、それは物体以外の様々な概念にも当てはまる。そして、この判断の中では、その中の特に「物体」という概念に、この「分割できるもの」という概念が当てはまるのである。一方、この「物体」という概念もまた我々の前に現われるいくつかの現象に当てはまる。したがって、これらの対象(全ての物体)は、「分割できるもの」という概念によって間接的に表わされているのである。

 したがって、あらゆる判断は我々がもつイメージを統一する活動だということになる。つまり、対象を認識する際には、一つの直接的なイメージのかわりに、そのイメージとそれ以外の様々なイメージを自らのもとに含むような、より高い次元の一つのイメージが使われるのである。そして、そのことを通じて多くの可能な認識が一つの認識に集約されるのである。

 ところで、あらゆる知性の行動は結局は判断することだと言えるだろう。すると、一般的に知性とは判断する能力だと言うことができる。というのは、すでに述べたように、知性とは対象について考える能力であり、対象について考えるとは様々な概念を使って対象を認識することであるが、この様々な概念は、可能な判断における述語となって、まだ明確ではない一つの対象のイメージとつながるからである。
 
 同様にして、たとえば「物体」という概念は、たとえば金属のように、この概念によって知ることができるものを意味している。この「物体」という概念が概念であるのは、この概念のもとに他の多くのイメージが含まれているからである。そして、この「物体」という概念は、それらの多くのイメージを通じて、様々な対象につながることが出来るのである。こうして、この「物体」という概念は、ある可能な判断、例えば「あらゆる金属は物体である」というような判断の述語となるのである。

 したがって、知性の様々な活動の全体像を見つけたければ、判断のなかの統一する活動を完全に列挙すればよいことになる。これが完全に出来ることは次の章を見れば分かる。


全ての純粋な知性の概念を発見する法則 第二章
 
§9
判断における知性の論理的活動について


 もし我々がある一般的な判断の中身を全部取り去って、そこに残った知性の形式(理解の方法)だけに注目するなら、その判断に含まれる思考の活動は四つの題名のもとに分類できることが分かる。そして、それぞれの分類には三つの要素が含まれる。それらは次のような表で表わすことができる。

I
判断の適用範囲について
普遍的な判断(全ての甲は乙である)
個別的な判断(一部の甲は乙である)
単一的な判断(この甲は乙である)
          
II                                  III
判断の性質について                       判断の相互関係について
肯定的な判断(甲は乙である)                無条件的な判断(甲は乙である)
否定的な判断(甲は乙でない)                仮定的な判断(甲なら乙である)
無限のものに当てはまる判断(甲は非乙である)     選択的な判断(甲は乙であるか丙である)

IV
判断の様態について
不確かな判断(甲は乙でありうる)
断定的な判断(甲は乙である)
必然的な判断(甲は必然的に乙である)


 いくつかの点で、これらの分類は伝統的な論理学のやり方とは異なっているように見えるが、それらは本質的な問題ではない。そこで、無用な誤解を避けるために、ここでそれらについて説明しておくことも意味のないことではないだろう。
 
1.三段論法(理性推理)で判断を扱う場合には「単一的な判断」を「普遍的な判断」と区別しなくてもよいと、論理学者が言うのは正しい。というのは、「単一的な判断」は広がりがなく、たった一つのものにしか当てはまらないため、その判断の述語が、主語の概念に含まれるあるものには当てはまるがあるものには当てはまらない、ということはないからである。つまり、「単一的な判断」では述語の概念は例外なく主語の概念に当てはまる。それは主語の概念が多くのものに当てはまる普遍的な概念で、その全ての場合にこの述語が当てはまるのと違いがない。

 しかしながら、もし我々が「単一的な判断」と「普遍的な判断」を単なる認識と見て、両者の適用範囲を比べてみるとき、前者の適用範囲と後者のそれとは一対無限の違いがある。だから、「単一的な判断」と「普遍的な判断」は本質的に異なるものである。
 
 つまり、「単一的な判断(judiciumsingulare)」を単にその内面的な有効性によってだけでなく、それを認識として見なして、別の認識とその適用範囲を比べるなら、「単一的な判断」は「普遍的な判断(judiciacommunia)」とはまったく異なるものであり、(判断の相互関係だけに注目する論理学の場合と違って)思考の要素をもれなく含む表の中では、固有の位置をもつべきなのである。

2. 同様にして、超越的な論理学においては、「無限のものに当てはまる判断」は「肯定的な判断」と区別されねばならない。一般的な論理学で「無限のものに当てはまる判断」は「肯定的な判断」のうちに含まれ、特に区別されることはないが、それはもっともなことである。

 というのは、一般的な論理学は述語の内容をすべて(「非乙」のようにそれ自体が否定を含んでいるものであっても)無視して、述語が主語と対立させられたものなのか(その場合は否定判断となる)、主語に付与されたものなのか(その場合は肯定判断となる)だけに注目する。

 ところが、超越的な論理学は、論理的な肯定表現に含まれる判断の意味や内容を、述語の中の否定的内容によって観察して、その肯定的判断が人間の認識全体にどんな利益をもたらすかまで考えるのである。

 もし私が「霊魂は死すべきものではない」と言えば、それは否定的な判断によって少なくとも一つの誤謬を防ぐことになる。一方、「霊魂は不死である」と言えば、それは論理的な形式から言えば肯定判断であり、不死である「無限のもの」の中に霊魂を置くことになる。

 あらゆる可能な存在の中では、死すべきものが一つの部分を占めており、不死なものがもう一つの部分を占めているから、「霊魂は不死である」という私の文章は、霊魂は、死すべきものを全て取り除いた残りの「無限のもの」の一つであると言っていることに他ならない。 

 しかし、こう言ったところで、あらゆる可能なものの無限に広がる領域が、死すべきものが取り除かれた残りの領域に霊魂が置かれることによって、制限されただけである。そして、死すべきものが取り除かれた残りの領域自体は、なおも無限の大きさを持っており、そこからさらに多くの部分を取り除くことは可能である。しかも、それによって、この霊魂という概念は少しも成長することはないし、肯定することによって明確化されたわけでもない。

 したがって、論理学的な領域に関して「無限のものに当てはまる判断」は、一般的な認識の内容に関しては単に制限する役割しかしていない。そして、その意味で「無限のものに当てはまる判断」は判断の全ての要素を並べた超越的な一覧表から省くべきではない。なぜなら、この要素によって行なわれる知性の活動は、知性の純粋な先天的認識において、おそらく重要な役割をはたすことができるからである。

3. 判断の中で思考が表わす関係(結び付き、結合)は次の三つしかない。a)主語と述語の相互関係、b)原因と結果の相互関係、c)選択肢に分かれた認識と全選択肢の各々との相互関係。

 一番目の判断ではたった二つの概念の関係が、二番目の判断では、二つの判断の関係が、三つ目の判断では二つ以上の判断の相互関係が検討の対象となる。

 「もし完全な正義が存在するなら、真の悪人は罰せれるだろう」という「仮定的な判断」には、「完全な正義が存在する」と「真の悪人は罰せられる」という二つの命題の関係が含まれている。この二つがそれ自体真理であるかどうかはここでは分からないままである。この判断で考えられていることは、因果関係だけなのである。

 三つ目の「選択的な判断」には二つ以上の命題の相互関係が含まれている。しかし、その関係は因果関係ではなくて、一つの命題の領域が他の命題の領域を排除するという意味で、論理的な対立関係であり、それらの命題を全部合わせるとその認識の全領域となるという意味では、共同体の関係である。

 したがって、「選択的な判断」には、一つの認識に相当する部分的領域の相互の関係が含まれている。つまり、それぞれの部分的領域は他の部分的領域と補い合って、選択肢に分かれた認識の全体像を形作っているのである。

 たとえば「世界は行当りばったりの偶然から存在するか、内的必然性によって存在するか、外的な理由によって存在する」に含まれる各々の命題は、世界の存在に関する可能な認識に相当する部分的領域を構成しており、全部合わせることによって全領域をカバーする。

 世界の存在についての認識を、この三つの領域の一つから排除するということは、その認識を他の二つの領域のうちの一つに置くということである。逆に、その認識をこれらのうちの一つの領域に置くということは、他の二つの領域から排除するということである。

 したがって、「選択的な判断」の中には、様々な認識によるある種の共同体があると言える。この共同体の中では、様々な認識が相互に排除しあうのだが、そうすることによって、全体で真の認識を明確化するのである。なぜなら、様々な認識を全部合わせたときに、唯一の与えれた認識の全内容を構成するからである。

 このことは、これから述べることのためにもここで言及しておく必要があると思われることである。

4.「判断の様態」とは判断の内容に影響を与えるのではなく(判断の内容に関わるのは「判断の適用範囲」「判断の性質」「判断の相互関係」だけである)、思考との関係のなかで連結詞(Copula)の意味だけに影響を与えるという特徴をもつ知性の特殊な活動である。

 「不確かな判断」とは、肯定であれ否定であれ単にそうである可能性(任意性)があると思われるような判断のことである。「断定的な判断」とは、それが本当(真実)であると思われる判断のことである。「必然的な判断」とはそれが必ずそうなると思われる判断のことである。(原注)
 
原注 だから、思考は、「不確かな判断」では知性の活動であり、「断定的な判断」では判断力の活動であり、「必然的な判断」では理性の活動であるとみなすことができる。これについては、後に説明する。

 例えば、二つの判断の関係(前提と結果)が一つの「仮定的な判断」を形作る場合、あるいは、二つの判断の相互関係が一つの「選択的な判断」を形作る(選択肢となっている)場合、その二つの判断は両方とも「不確かな判断」である。

 先の例で言えばその中の「完全な正義が存在する」というのは、「断定的」に言われたのではなく、単にそのように想定することが出来るという任意な判断でしかなく、もう一つの判断との因果関係だけが断定的に言われているのである。だから、この判断はまったく間違っているかもしれないが、「不確かな判断」として、真理を認識するための条件となりうるのである。

 同様に、上記の選択的な判断の中の「世界は行当りばったりの偶然から存在する」もまた「不確かな」意味合いしか持たない。つまり、だれでもこの命題をしばらくの間仮定として扱うことができる。しかし、だからこそこの命題は、(選択可能な全ての道のなかから、間違った道の存在を確認するものとして)真理を含む命題を発見するのに利用できる。

 したがって、「不確かな判断」は(客観的な可能性ではなく)単に論理的な可能性を示すに過ぎず、この判断を選択するのも知性の中で仮定するのも自由なのである。

 一方、「断定的な判断」は論理的な現実性を、つまり真理を扱うものである。たとえば、仮定による理性推理(=三段論法「もし神が完全であるなら神は存在する。しかるに神は完全である。ゆえに神は存在する」)において、前件(神は完全である)は、大前提の中では「不確かな判断」であり、小前提の中では「断定的な判断」である。

 そして、「断定的な判断」はその判断が知性の法則にしたがって知性と結び付いていることを示している。

 「必然的な判断」は、「断定的な判断」がこの知性の法則によって明確化されたものであり、それゆえに先天的な正しさを主張していると考えることが出来る。この様にして「必然的な判断」は論理的な必然性を表わしているのである。

 いまやこうして全ての判断は次第に知性とのつながりを深めていく。つまり、最初は「不確かな判断」だったものが、真実として断定的に受け入れられ、最後には知性と不可分なまでに結合するのである。これは、つまり、必然的で明白な判断であると主張していることになる。

 その結果、我々は、これらの知性の三つの活動が示す「判断の様態」を、一般的な思考の三つの要素と見なすことができる。


全ての純粋な知性の概念を発見する法則 第三章

§10
純粋な知性の概念あるいはカテゴリー(基本概念)について


 一般的な論理学は、すでに何度も言ったように、認識の内容を全て無視する。それは、どこかからイメージが与えられるのを待っていて、それからやっとそのイメージを概念に変えるのである。そして、この過程は分析的に行なわれる。

 それに対して、超越的な論理学は、感性の多様なものをいつも先天的に手元に持っている。この多様なものは、純粋な知性概念に対して素材を提供するために、「先天的な感性論」(§8)で先天的な論理学に対して与えられたものである。この素材がなければ、純粋な知性概念は全く中身のないものとなり、完全に空虚なものとなってしまう。

 空間と時間には、純粋な先天的直観が与える多様なものが含まれている。しかし、空間と時間は我々の心の感受性の条件でもある。この空間と時間という条件なしに心は対象のイメージを受け取ることは出来ないし、対象の概念は対象のイメージによって常に触発されなければならない。

 しかしながら、この多様なものが何らかのやり方で検討され受け入れられ結合されて、そこから一つの認識が生まれるのは、思考の自発性があってはじめて可能なことである。わたしはこの行動を「総合」と呼ぶ。

 わたしの言う「総合」とはごく一般的な意味であって、様々なイメージを相互に結び合わせて、それらの多様なものを一つの認識の中に把握する行動のことである。この多様なものが経験によってではなく(空間と時間の中の多様なもののように)先天的に与えられたものである場合、この総合は「純粋な総合」となる。

 我々がイメージが分析するには、まずその前にイメージが与えられなければならないが、与えられたイメージの内容を分析しても概念が生まれてくるわけではない。

 多様なもの(経験によって与えられたか先天的に与えられたかには関わらず)の総合によって、はじめて認識(内容を伴った概念)が生まれるのであって、この認識が当初は大まかで混乱したものであるので、分析が必要なのである。それに対して、総合だけが、認識のための要素を集めて一つの内容に統一するのである。したがって、もし我々の認識の第一番目の起源を問うならば、我々はまっ先に「総合」に注目すべきなのである。

 一般に総合とは、あとで述べるように、単なる想像力の結果である。想像力とは、心の中にあって、行当りばったりではあっても無くてはならない活動である。この活動なしに我々は全く認識を手に入れることができないが、その活動を我々が意識することはめったにない。

 しかしながら、概念に基づいてこの総合をもたらすのは、知性の活動である。この活動によってはじめて知性は本来の意味での認識をもたらすのである。

 そして、一般的に言って、「純粋な総合」が純粋な知性概念(カテゴリー)をもたらすのである。しかし、わたしが「純粋な総合」と言う場合は、それは総合的な統一に先天的に基づいた総合である。

 我々が計算する場合も、いくつかの概念に基づいて総合を行っている(特に、大きな数字の場合に顕著である)。というのは、それは常に統一(つまり十進法)に基づいて行なわれるからである。

 したがって、純粋な知性概念の場合にも、多様なものの総合による統一が無ければならない。

 様々なイメージを一つの概念のもとに置くことは分析的に行われる(これは一般的な論理学の仕事である)。しかし、様々な概念に基づいてイメージをもたらすのではなく、様々な概念に基づいてイメージの純粋な総合をもたらすことを教えるのは、超越的論理学の仕事である。

 あらゆる先天的な対象の認識のために、最初に与えられねばならないものは、純粋な直観による多様なものである。二番目は、この多様なものを想像力によって総合することである。しかし、この段階ではまだ認識はもたらされない。

 三番目に必要なものは、この純粋な総合に統一を与える様々な概念、必然的で総合的な統一のみを本質とする様々な概念であり、これらの概念が、与えられた対象に対する認識をもたらしてくれる。そして、これらの概念は知性に属している。

 判断の中の様々なイメージに統一を与える知性のこの活動は、直観の中の様々なイメージの単なる総合に統一を与える活動でもある。これらの活動をするのが、一般的に言って、純粋な知性概念ということになる。

 分析的な統一によって様々な概念の中に判断の論理的な形式をもたらすのと同じ知性は、まさにそれと同じ行動を通じて、普遍的な直観の多様なものを総合的に統一することによって、知性のもつイメージ(概念)に超越的な中身を与えるのである。

 そのために、これらの行動をするものは純粋な知性概念と呼ばれ、経験によらずに対象と関わるのである。これは一般的な論理学にはできないことである。

 そして、このようにして、普遍的な直観の対象に先天的に関わる純粋な知性概念は、上記の表の中にある全ての可能な判断の論理的な活動の数と同じだけ生まれてくるのである。というのは、知性の活動は前述の活動で全てが尽きており、知性の能力はそれらの活動によって完全に計測することができるからである。

 われわれはこの純粋な知性の概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名付けることにする。なぜなら、われわれの目的は元来アリストテレスの目的と同じものだからである。もっとも、彼の作ったカテゴリーは、われわれのものとは全く違っているが。
 
カテゴリー表
I 量の概念
単一
多数
総数

II 質の概念                         III 関係の概念
          現実                            従属と自立(実体と付随)
          否定                            因果と依存(原因と結果)
             制限                            共同(能動と受動の相互作用)

IV 様態の概念
可能性と不可能性
存在と非存在
必然と偶然


 これが全ての総合の基本的な純粋概念の一覧である。これらの概念は知性が先天的に持っているものである。そして、このような純粋な概念をもっている知性だけが純粋な知性なのである。というのは、知性はこれらの概念だけによって直観のなかの多様なものを介して何かを理解できるからである。つまり、知性はただこれらの概念によって直観の対象について考えることが出来るのである。

 これらの分類は、判断する能力(思考する能力と同じである)という共通の原理(Prinzip)から体系的に生まれたものである。このような分類は、いきあたりばったりの運任せに純粋概念を探索しても生まれるものではない。そんなやり方では、全部集まったかどうか決して確信が持てない。なぜなら、それは帰納法だけで分類することだからである。それに、このやり方では、純粋な知性にどうしてこの概念は属するがあの概念は属さないのかが決して分からないのである。

 このような基本概念の探索は、まさにアリストテレスのような才知の優れた人間にふさわしいことであった。しかしながら、彼は何の原理(Prinzipium)もなしに思いつくままに集めていき、まず10個見つけて、それをカテゴリー(範疇[はんちゅう])と名付けたのである。のちに彼はもう五つ見つけたと思って、それを第二範疇と名付けて、最初のものに付け加えた。

 それでも彼の表は完全ではなかった。その上、その中には純粋な感性の要素がいくつか(時、所、位置、先、同時)と、運動のように知性の基本概念には決して属さない経験的な概念も含まれている。さらに、派生的な概念(能動、受動)もこの基本概念の中に数えられている。一方、基本概念のいくつかがまったく欠落しているのである。

 派生概念についてさらに言うなら、それは純粋な知性の持つ真の基礎的概念であるカテゴリーから同じく純粋な派生概念が生まれるものであり、超越的な哲学の完全な体系においては決して無視されてはならないものである。しかし、それらについては批判的な試みに過ぎないこの本の中では一言言及するだけで充分である。

 この純粋な知性の派生概念には(Pradikamenteつまりカテゴリーと対比して)純粋知性の属性(Pradikabilien)と呼ぶことにする。基本的で本質的な概念があるなら、派生的で従属的な概念をそれに付け加えるのはたやすいことであり、そうすれば純粋概念の完全な系統図を描くことが出来る。

 しかし、ここで重要なのは完全な体系をつくることではなく、体系の原理(Prinzipien)_を見つけることであるから、派生概念を付け加えるのは別の機会にしたいと思う。ただし、これは存在論の教科書を用意すればある程度は達成することができる。そして例えば、因果関係のカテゴリーには力と行為と感情の属性を、共同のカテゴリーには現存と対立の属性を、様態のカテゴリーには発生と消滅と変化の属性を従属させることが出来る。

 カテゴリーのそれぞれを、純粋な感性の要素と組み合わせたり、他のカテゴリーと組み合わせることによって、大量の派生概念が生まれるが、それをいちいちとりあげて、全てが揃うまで列挙するのは、必要な仕事でありまた楽しい作業でもあるが、ここでは省略してよいだろう。

 また、このカテゴリーのそれぞれについての定義は、あれば望ましいとは思うが、この論文ではあえて省略することにする。これらの概念の分析は、後に方法論を扱う際にそれとの関わりのなかで必要な程度に行なうことにする。

 また、純粋な理性の体系の中ではこれらの概念の定義は必要だという意見はもっともであるが、今の段階で定義をしてみせても、多くの疑問や反論を呼び起こすばかりで、この研究の主な目的を見失わせる恐れがある。また、それらは別の論文で扱えばよいことで、それによって本質的な目的を損なうことはないだろう。

 もっとも、必要な説明を全て備えた純粋概念の完全な一覧表を作ることは、可能であるばかりか容易であるのは、私がカテゴリーについて言ったわずかなことから明らかである。というのは、カテゴリーの分類はすでに終わっており、残りは分類の中身を満たすだけだからである。

 このような体系的な議論では、それぞれの概念が属する分類を間違えるほうが困難であるし、どの分類が空いているかは簡単に分かるはずである。


§11


 このカテゴリー表は、おそらくあらゆる理性による認識を科学的に形作るときに大きな影響力を持つことだろう。というのは、この表は、理論哲学の分野で、先天的な概念に基づいて一つの学問(序論VIIの「超越的哲学」)の全体像を作り上げて、それを数学のように明確な原理(Prinzipien)にしたがって区分するのに非常に役立つだけでなく、むしろ不可欠なものだからである。

 なぜなら、上記の表には知性の基本的な概念が全て完全に含まれているだけでなく、人間の知性の中のそれらの概念が一つの体系の形をして含まれており、企図されるべき思弁的学問がどのような要素を含みそれらがどのように配列されるべきであるかを決めるときに大いに参考になるからである。このことは他のところ(原注)で私が実証したとおりである。

原注 Metaphysische Anfangsgrunde derNaturwissenschaft(自然科学の形而上的な基礎)

 この表について言えるいくつかの細かいことをここで述べておきたい。

 第一に、知性がもつ概念を四つに分類したこの表は、二つのグループに分けることが出来る。一つ目は直観(純粋な直観と経験的直観の両方)の対象に向けられたものであり、二つ目はこの対象の存在(対象の相互関係か、対象と知性との関係)に向けられたものである。

 この一つ目のグループを数学的カテゴリーのグループ、二つ目のグループを動的カテゴリーのグループと名付けよう。二つ目のグループでは概念が対になっているのに対して、一つ目のグループではそうなっていない。この違いの原因は知性の本質にあるはずである。

 この表について言えることの第二は、それぞれの分類にはどれも同じく三つのカテゴリーが含まれていることである。これは概念によって先天的に分類する場合には必ず二つに分かれることを考えれば、興味深い事実である。

 その他に、どの分類でも三つ目のカテゴリーは一つ目のカテゴリーと二つ目のカテゴリーを組み合わせて出来ているということも注目に値する。たとえば、総数(全体)とは多数のものを一つのものと見ることに他ならない。また、制限とは現実と否定とを結び付けたものに他ならない。さらに、共同とは、ある実体と別の実体の間の相互の因果関係のことである。そして最後に、必然性とは可能性によって与えられた実存のことに他ならない。

 しかし、だからといって、三つ目のカテゴリーが純粋な知性の単なる派生概念であって、基本概念ではないと考えてはならない。というのは、第三の概念を産み出すために第一と第二を結び付けることは、知性の特別な活動を必要とするからであり、その活動は第一の概念と第二の概念を産み出すための活動とは別物だからである。

 したがって、例えば、ある数の概念(総数のカテゴリーに属する)は、単一の概念と多数の概念からだけで生まれてくるわけではない(たとえば無限は単一と多数では説明できない)。あるいはまた、原因の概念と実体の概念を結び付けても、必ずしもそこから影響の概念が生まれて、ある実体が別の実体の何かの原因となれることが理解できるとは限らない。だから、影響の概念が生まれるためには、特別な知性の活動が必要なことは明らかである。これはほかの場合でも同様である。

 上記の表について言える第三のことは、唯一、三つ目の分類の「共同」のカテゴリーだけは、知性の論理的活動の一覧表の中の対応する「選択的な判断」と一致している度合いが、他の場合よりも少ないように見えることである。

 「共同」のカテゴリーが「選択的判断」と一致していることを確かめるには、次のことに注目すればよい。つまり、あらゆる選択的判断においては、その判断に含まれるすべての選択肢を全部合わせた領域が一つの全体であり、選択的判断とはこの全体が部分(従属的概念)に分かれたものと見なされるということである。

 そしてある判断が他の判断に含まれることはないから、それらは互いに並列関係になることはあっても従属関係にはなることはない。その結果、それらは序列の場合のように一方向に影響を与えることはなく、集合体の場合のように相互に影響し合う(選択肢の一つが選ばれた場合には、他の選択肢は排除される)と考えられる。

 様々な物が集まって出来る一つの全体についても、同様の結びつきを考えることが出来る。というのは、「結果」としてのある物が、その存在の「原因」としての別の物に従属するのではなく、両者は並列関係にあって、相互にそして同時に、それぞれが原因として他の物に影響を与えるのである。(例えば、物体の各部分は相互に引きあっており、反発しあっている)

 この結びつきは、単なる原因と結果(根拠と結論)の関係に見られる結びつきとは全く異なっている。後者の場合には、結果の方が反対に原因に対して影響を与えることはないから、結果が原因と一緒になって一つの全体を形づくることはない(例えば、世界の創造者が世界と一緒になって全体を形作ることはない)。

 知性は、部分的な概念を一つに合わせた領域を思い描くときには、ある物が分割可能であると考えるのと同じ振舞いをする。そして、前者の場合に、部分的な概念のそれぞれが互いに排除しあいながらも一つの領域に結ばれているように、後者の場合も、分割された部分のそれぞれが他の部分から独立して存在しているが、しかもなお一つの全体の中で結ばれているのである。


§12


 古代の超越的哲学には、純粋な知性概念が関わるもう一つのテーマがあって、それは上記のカテゴリーには含まれていないにもかかわらず、古代では対象に対する先天的な概念として通用していた。今もそうなら、カテゴリーの数が増えなければならないが、そういうことはありえない。

 その概念は、スコラ哲学者たちの間では非常に有名な命題に含まれている。その命題とは「実在するものは一であり真であり善である」である。

 この原理(Prinzip)は演繹のために使っても同語反復に終わるだけで大した成果は得られず、最近ではこの原理は単に儀礼的に形而上学の中に留められているだけである。

 しかしながら、どれほど中身がないと見えても、これほど長い間忘れられずに来た考え方ならば、その起源を探求するに値する。そして、この考え方は何らかの知性の法則に基づいており、その法則が、よくあるように、誤って超越的であると解釈されてきたのだと推測できるのである。

 物に対するこれらの述語(一、真、善)は超越的だと誤解されているが、これらは単に一般的な対象のあらゆる認識に対する論理的な必要条件であり基準であるに他ならない。

 つまり、これらの述語は、対象の認識を「量のカテゴリー」すなわち単一、多数、総数に基づいて行なっているのである。ただし、このカテゴリーは本来内容に関するものであり、対象それ自体の可能性に属すると見なされるべきなのに、これらの述語では、全ての認識のための論理的な必要条件に属すると見なされて、実際には形式的な意味で使われていたのである。

 しかも、その上、これらの述語では、これらの思考の基準が不用意に物それ自体の属性にされてしまったのである。

 これらの述語が論理的な必要条件だというのは、まず第一に、対象の認識にはどれにも概念の単一性がある。つまり、対象の認識にはたった一つの概念があるということである。この単一性はまさに認識の多様なものを集約して一つにするということだから、質的な単一性と呼ぶことができる。たとえば、劇や演説やストーリーの単一性(統一)がそうである。

 第二に、対象の認識には結論の真実性がある。与えられた一つの概念から正しい結論が多く導かれるほど、その概念の客観的な真実性を示す証拠が多くなる。これは証拠の質的な多数性と呼ぶことが出来るだろう。つまり、ある概念が多くの結論の共通の根拠であることの証拠が(証拠がその概念の中に量的に多くあると考えるのではなく)質的に多いということである。

 最後に、三つ目として、対象の認識には完全性がある。それは逆にこの多数の証拠がことごとくこのたった一つの概念に通じており、どの概念でもないこの概念に完全に一致するということである。これを我々は、質的な完全性(全体性)と呼ぶことができる。

 以上から次のことが明らかである。つまり、一般的な認識の可能性に関するこれらの論理的な基準(一、真、善)は、量のカテゴリーの三つの要素を、認識についての質的原理(Prinzip)に変えたものだということである。

 量のカテゴリーでは量を産み出す場合の統一はつねに同質なものの統一と見なされるべきだが、これらの論理的な基準(一、真、善)では異質な認識の要素を一つの意識の中で結合しようとして、そのような変更が行なわれたのである。

 このように見れば、ある概念の可能性(概念の対象の可能性ではない)についての基準はその概念の定義だということになる。つまり、概念の単一性(統一)と、その概念から直接導かれるあらゆる結論の真実性と、その概念から導かれる様々な結論の完全性は、その概念全体を産み出すために必要なものなのである。

 あるいは、ある仮説が成立するための基準についても同様のことが言える。その基準とは、まず最初に、仮説に想定されていることの根拠が理解可能だということである。それは言い換えると、この仮説の統一(補助的な仮説がない)である。

 二番目に、その仮説から導かれる様々な結論の真実性(様々な結論が相互に一致することと、結論と実際の経験とが一致すること)である。そして、最後に、想定されていることの根拠がこれらの結論にとって全てであること。つまり、もはや仮説に想定されている根拠の他には何も参照する必要のない完全性、経験によらずに総合的に考えたことを経験によって再現すれば、総合的に考えたことと一致する完全性があることである。

 したがって、カテゴリーの超越的な表は、けっして不完全なものではなく、それを単一性と真実性と完全性によって補う必要はないのである。それどころか、これらの概念は、それらと対象との関係を完全に度外視して、単に認識がそれ自身と一致するための一般的な論理的法則として扱えばよいのである。


超越的な分析論 第二主題 純粋な知性概念の演繹(正当性の証明)
第一章

§13
超越的な演繹を行なう方針(Prinzipien)について


 法学者が権限や不法行為について論じるときは、その法律行為を権利の問題と事実の問題を分離して、両方の証明を要求するが、前者、つまり法律上の権利を明らかにする部分を演繹(法典から正当性を証明すること)と呼ぶ。

 我々は経験に基づく多くの概念を何の異議も唱えずに使って、その概念の正当性を証明もせず、勝手な意味を与えて何の不自由も感じない。なぜなら、それらの意味が客観的に実在することを証明するための経験はいつでも手に入るからである。

 しかしながら、幸福や運命のように、普段はよく考えずに使われているが、本当はどういう意味かと時々問わずにいられない厄介な概念も存在する。実際、それらの概念の正しさを証明するのは非常に困難なことである。なぜなら、理性の中を探しても経験の中を探しても、その概念を使うことが正しいという明確な根拠を見つけることは出来ないからである。

 ところで、人間の認識という複雑なタペストリーを産み出している様々な概念の中には、(あらゆる経験から独立して)純粋で先天的な使用にのみ限定されているものがいくつか存在しており、それらの正当性は常に演繹によって証明しておく必要がある。

 なぜなら、このような概念を使用する正当性は経験によっては充分に証明できないけれど、いかなる経験にも由来しないこれらの概念がどのようにして対象とつながることが出来るのかを知っておく必要があるからである。

 先天的な概念が対象とどのようにつながっているかを明らかにすることを、わたしは先天的概念の超越的な演繹と呼び、経験的演繹と区別することにする。

 経験的演繹とは、ある概念がどのようにして経験から得られるか、あるいは経験に対する反省から得られるかを明らかにすることである。したがって、それが明らかにするのは、概念の正当性ではなく、その概念を手に入れるきっかけとなった事実である。

 我々の手にはすでに、全く異なるけれども、どちらも対象と完全に先天的につながっているという点で一致している二種類の概念がある。それは、感性の形式である空間と時間の概念と、知性概念であるカテゴリーである。

 これらについて経験的演繹を試みることは全く無駄なことである。なぜなら、それらの概念の決定的な特徴は、経験の助けをかりることなく対象とつながって、対象のイメージを得ることができることだからである。したがって、これらの概念についての演繹が必要なら、それは常に超越的なものでなければならない。

 もっとも、すべての認識についてもこれらの概念についても、それらが可能となる原理(Prinzipium)ではなく、それらが生まれるきっかけや原因なら経験の中に探し求めることが出来る。

 この場合、感覚から得た印象が最初のきっかけとなって、それに対する認識能力が全開して、経験をもたらす。この経験は全く異なる二つの要素からなっている。その一つは認識の材料(質料)で、感覚から得るものである。もう一つはそれを秩序づける形式で、純粋な直観と思考という我々の内側にある源泉から得られるものである。この形式は、感覚から材料を得てはじめて使用されて、我々に概念をもたらしてくれる。

 我々の認識能力の最初の活動をこのよう跡づけて、個々の知覚から普遍的な概念にまで昇っていくのは、疑いなく非常に有益なことである。また、我々は最初にこの道を切り開いた有名なロックに感謝すべきだろう。

 しかしながら、この方法で純粋な先天的概念の演繹を行なうことは出来ない。なぜなら、この道筋のどこにも演繹は存在しないからである。というのは、これらの概念を経験から完全に独立して使用するためには、経験から生まれたことを証明するのとは全く別の出生証明書が必要だからである。

 ロックによって試みられた以上のような心理学的推理は「事実の問題」を扱うだけで、とても演繹とは呼べないものであるから、わたしはこれを純粋な認識を手に入れる説明と呼ぶことにする。

 以上から、純粋な認識についての演繹は超越的なものだけが可能であって、経験的なものではありえないことは明らかである。そして、経験的な演繹を純粋な概念のために行なっても、それは無駄な努力でしかなく、そんなことに精を出すのは、純粋な認識の本質を全くわきまえない人だけだということになる。

 ところで、純粋な先天的認識について可能な演繹の方法はただ一つであって、それは超越的なものであることが受け入れられたとしても、それによっては、純粋な先天的認識の超越的な演繹がどうしても必要だということは明らかではない。

 我々はすでに上記で超越的な演繹によって空間と時間の概念の起源を探求して、これら概念の客観的な有効性を先天的に明らかにした。しかし、空間という基本概念の純粋で正当な由来に関して、哲学から信任状を与えられるまでもなく、幾何学は純粋な先天的認識によって確実な歩みを続けている。

 ただし、幾何学における空間概念の使用は、空間が直観の純粋な形式である外向きの感覚の世界に限られている。したがって、そこでは、全ての幾何学的な認識は先天的な直観に基づいているため直接の証拠を持っており、対象は(形式に関するかぎり)それを認識しさえすれば先天的に直観によって与えられるのである。

 それに対して、純粋な知性概念の場合、それ自身についてだけでなく、空間についても、超越的な演繹によって正当性を証明することが絶対に必要である。

 なぜなら、純粋な知性概念は、感性と直観が与える述語で対象について語るのではなく、純粋な先天的思考がもたらす述語で対象について語るものであるために、感性がもたらすあらゆる制約を受けずに、対象と普遍的につながろうとするからである。

 また、純粋な知性概念は経験に基づいていないので、対象を先天的直観によって示すことができないため、あらゆる経験に先立つ自らの総合の根拠を対象に置くことができない。したがって、我々はそれらの概念を使用することの客観的な有効性とその限度について確信を持てないのである。

 それだけでなく、純粋な知性概念は、空間概念を感性による直観の制約を超えて使用する傾向があるため、空間概念さえも疑わしいものとなってしまっている。上記において空間概念についての超越的な演繹が必要だと言ったのはそのためである。

 したがって、読者は純粋理性の世界に一歩でも足を踏み出す前に、上記のような超越的な演繹がどうしても必要であることを納得してもらわなければならない。さもなければ、読者はめくらめっぽうに行動することになり、あちこちさまよったあげくに、無知から出発しながらまた元の無知に逆戻りしてしまうだろう。

 しかしまた、読者はここで前途の困難をはっきり覚悟しなければならない。そして、問題をすっぽりと覆っている暗闇に嘆くことなく、また障害物を排除していく過程で短気を起こさないことである。というのは、この批判的研究を完成させるためには、あらゆる可能な経験の領域を超えた領域、この最も愛されてきた領域において、純粋理性の洞察力への期待を放棄しなければならないからである。

 我々はすでに上記において空間と時間の概念について、どのようにしてこれらが先天的な認識として対象と必然的につながっているかを、それほど苦労せずに明らかにした。そして対象の総合的な認識を、どんな経験にも頼ることなく可能にした。

 つまり、空間と時間という感性の純粋な形式によってはじめて、対象は我々の前に現われる(つまり経験的な直観の対象となる)ことが出来るのだから、空間と時間は純粋な直観であって、対象が現象となるための条件を先天的に含んでいる。そして、この純粋な直観のなかの総合は、客観的な有効性を持っているのであった。

 それに対して、純粋な知性概念は、対象が直観によって与えれる条件(空間と時間のような)を我々にまったく提示していない。つまり、対象は確かに我々の前に現われることは出来るが、それは必ずしも知性の活動と結び付いているとは限らないし、知性は対象が現象となるための条件を先天的に含んでいるとは限らないのである。

 このように、我々はここでは感性の世界では遭遇しなかったような困難に直面することになる。例えば、どうして思考の主観的な条件が客観的な有効性を持ち、対象の全てを認識するための条件を与えることになるのかという問題である。というのは、知性の活動がなくても現象は直観によって与えられるからである。

 例えば、原因の概念を考えてみよう。この概念はある種の総合を意味している。なぜなら、ある物Aにそれとは全く異なる物Bがある法則に従って付け加えられることだからである。様々な現象の間にこの種の結合が存在することは、先天的に明らかではない。(経験はこの証明には使えない。このような概念の客観的な有効性は先天的に解明されねばならないからである)

 したがって、そのような概念は空虚なものではないのか、あるいは、その概念は対象が現象として現われたものではないのではないかという、先天的な疑いが生ずるのである。

 感性による直観の対象が、心の中に先天的に存在する感性の形式的条件に必然的に適合していることは、もしそうでなければそれが我々の対象とならないことから明らかである。ところがさらに、知性が思考による総合的統一を行なうために必要な条件に、感性による直観の対象が必然的に適合しているという推論を受け入れるのは簡単ではない。

 なぜなら、さまざまな現象は、ひょっとすると、知性が思考による総合的統一を行なうために必要な条件にまったく適合していないかもしれないからである。そして、全てが混乱していて、例えば、現象の現われる順番の中には、原因と結果の概念に対応するような総合の法則を我々に与えてくれるようなものは存在せず、原因の概念は全く空虚で無意味で無価値なものかもしれないのである。それにも関わらず、さまざまな現象は我々の直観に対象を与えるだろう。なぜなら、直観は思考の活動を全く必要としないからである。

 もしも誰かが、この面倒な研究から逃れようと思って、「現象がそのような規則にしたがっていることの例証を、絶えず経験が与えてくれているので、原因の概念を現象の中から切り出してくれば、この概念の客観的な有効性を証明する充分な理由が手に入るはずだ」と言うなら、その人は、このような方法では原因の概念は決して生まれてこないこと、この概念が完全に先天的に知性の中に由来しているのでなければ、それは単なる幻想として放棄しなければならないことに気づかないのである。

 というのは、原因の概念とは、ある物Aは、そのあとに続いて必然的かつ全く普遍的な法則に従って、別の物Bが起こるような性質のものでなければならないという事だからである。

 確かに、様々な現象が与える多くの事例から、ある法則にしたがって何かが常に起こることを示すことは可能である。しかし、現象の事例によって、結果が必然的であることを示すことは決して出来ない。

 原因と結果の結びつきには、経験によっては表わすことのできない厳密さがあるのである。つまり、結果は原因に単に付け加わるだけでなく、結果は原因に基づいてもたらされるものであり、結果は原因の中から発生するものなのである。この法則の厳密な普遍性は、経験から導かれた法則が持つような特徴ではけっしてない。

 経験からの法則は、相対的な普遍性つまり広い範囲に当てはまるという特徴を帰納法によって獲得するだけである。にもかかわらず、もし我々が純粋な知性概念(カテゴリー)を単なる経験的産物として扱うなら、これらの概念をもはやこれまで通りに使うことはできないだろう。


§14
カテゴリーの超越的な演繹の準備


 総合的に結び付けられたイメージ(例えば原因と結果)がその対象と合致し、互いに必然的に結びつき、互いに出会うことができるのは二つの場合しかない。それは、対象がイメージをもたらす場合と、イメージが対象をもたらす場合である。前者の場合、その結びつきは経験に基づくものであり、そのイメージはけっして先天的にもたらされることはない。これは感覚に属する現象に対して当てはまる。

 それに対して後者の場合、イメージそれ自体がその対象の存在をもたらすわけではないにしても(イメージに基づいて意志の力で何かをもたらすことはここでは扱わない)、もし何かがイメージだけによって対象として認識されるなら、そのイメージは対象を先天的に明らかにしていることになる。

 しかし、ある対象を認識するためには二つの条件が必要である。その第一は直観であり、直観によって対象はただ現象として与えられる。その第二は概念であり、直観に対応する対象が概念を使って考えられるのである。しかし、上記から明らかなように、対象の直観を可能とする条件は、実際には対象に対する形式として先天的に心の根底に存在する。

 全ての現象は、感性のもつこの形式的な条件に必然的に従っている。なぜなら、現象はこの条件を通じてのみ現われるからであり、現象は経験的な直観によって与えられるからである。

 では、概念の方もまた、何かが(たとえ直観されなくとも)対象として考えられる条件として先天的にすでに存在しているのだろうか。いま問われているこの問題である。そして、もしそのとおりなら、対象についてのあらゆる経験的な認識は、この概念に必然的に従っていることになる。なぜなら、この概念がすでに存在しなければ、何も経験の対象とはなれないからである。

 ところで、感性による直観によって我々に何かが与えられるのであり、対象はこの直観によって我々に与えられ現象となるのであるが、すべての経験のなかには、この感性による直観のほかに、このような対象についての概念が含まれている。

 ということは、一般的な対象についての様々な概念が先天的条件となってはじめて、あらゆる経験的認識が可能となるということになる。そして、先天的な概念によってはじめて経験(思考の形式に従った)が可能となるというこの事実こそは、先天的な概念としてのカテゴリーの客観的有効性の根拠だということになる。

 なぜなら、一般的にカテゴリーによってのみ経験の対象について考えることが可能であるなら、カテゴリーは必然的かつ先天的に経験の対象とつながっている(=有効性)ことになるからである。

 したがって、全ての先天的概念の超越的な演繹には一つの原理(Prinzipium)があって、それに向かってこの探求のすべてが行なわれなければならないのである。それは、先天的概念は、経験(そこで出会うのが直観であろうと思考であろうと同じことである)が可能となるための先天的な条件であることを認めることである。経験が可能となるための客観的根拠を与える様々な概念は、まさにそれゆえに必然的な概念である。

 しかし、様々な概念と出会うような経験をいくら分解しても、それでは先天的概念の演繹にはならない(それは説明でしかない)。というのは、そこで出会う概念は、偶然的な概念だけだからである。

 また、可能な経験の中に認識のあらゆる対象が現われるのだから、先天的概念は、このように経験と根本的につながっていてはじめて、何らかの対象とつながっていると考えられる。

 かの有名なロックはこのような考え方をせずに、純粋な知性概念が経験の中にあると考えて、それらを経験から引き出そうとしたのである。そして大胆にも彼はそれによって、経験の領域をはるかに超えた認識を得ようとするという矛盾を犯したのである。

 デビッド・ヒュームは、経験の領域を超えた認識を得るには、これらの概念(原因と結果)が先天的な起源をもたねばならないことを知っていた。しかし、ヒュームは知性の中では結合していない概念を対象の中では必然的に結合していると知性が考えるのはどうしてなのかを明らかに出来ず、また、知性は対象と経験のなかで出会うのだが、知性はおそらく先天的概念を通じてこの経験を自ら作りだしているのであるということに思い至らなかった。そこで困った彼は先天的概念を経験から導き出したのである。

 つまり、彼は、経験の中で繰り返し結び付けて考えることから生まれた主観的な必然性(習慣)を誤って客観的必然性だと判断して、そこからこれらの概念を引き出したのである。

 しかし、ヒュームのそのあとの行動は一貫性のあるものだった。というのは、彼はこれらの概念とそこから生まれる原理(Grundsätzen)によっては経験の領域を超えることは出来ないことを明らかにしたからである。

 しかしながら、ロックとヒュームが考えた経験的な演繹は、今現に存在する先天的な科学的認識(純粋数学や一般的な自然科学)とはけっして相容れることなく、したがって事実によっても否定されている。

 この二人の有名人のうちで最初の人は、理性主義をはびこらせてしまった。というのは、理性はいったん大きな権力を手にすると、節度を漠然と勧められたくらいではもはや抑制が効かなくなるからである。

 それに対して、二番目の人は懐疑主義に陥ってしまった。というのは、彼は、一般に理性だと思われているものは単なる我々の認識能力が作り出した幻想だということを発見したと思ったからである。

 そこで今から我々が、この両極端に陥らずに、人間の理性を上手に生き延びさせることは出来ないかやってみようというわけである。つまり、理性の明確な限界を定めて、しかも理性にとっての適切な活動空間をけっして閉じてしまうことがないようにするのである。

 しかしその前に、まずカテゴリーについてもう少し説明しておこう。カテゴリーとは一般的な対象に関する様々な概念であり、直観がとらえた対象に関する判断の論理的活動は、これらの概念を使って明確化されると見なされるのである。

 例えば「無条件的な判断」という論理的活動は、主語と述語(例えば「あらゆる物体は分割できるものである」)の相互関係(結び付き)をしめすものであった。しかし、知性の単なる論理的な使用の場合は「物体」と「分割できるもの」という二つの概念のうちのどちらを主語にしてどちらを述語にするかは、不明確なままだった。なぜなら、「分割できるものは物体である」とも言えるからである。

 一方、「実体」のカテゴリーを使って、もし私が物体の概念をそのカテゴリーのもとに置くなら、物体の経験的な直観においては、物体は常に主語であり、けっして述語と見なされないことが明らかとなる。他のカテゴリーについても同様のことが言える。


純粋な知性の概念の演繹 第二章 
純粋な知性概念の超越的な演繹
§15
結合(例えば原因と結果の結合)の可能性について


 様々なイメージの多様なものは直観によって与えられる。その直観とは感性による直観であって、それは受動性以外の何ものでもない。この直観の形式は、ものを思い描く我々の能力の中に先天的に存在することができる。しかし、それは主観が触発される仕方でしかない。

 一方、多様なものの結合(conjunctio)は、感覚によって我々の中にもたらされることはありえない。だからまた、それは感性による直観の純粋な形式の中に含まれていることもありえない。それは物を思い描く能力の自発的な行為だからである。

 この自発性を、我々は感性と区別して知性と呼ばねばならない。そしてそれゆえに、あらゆる結合は知性の行為だということになる。それは、我々がこの行為を意識するかどうかには関係ないし、この行為が直観の多様なものを結合するか、それとも様々な概念を結合するかにも関係がない。

 知性のこの行為は、もっと一般的な「総合」の中に含めることが出来るだろう。ということは、多様なものが対象の中で結合していることを思い描くためには、必ずあらかじめ我々自身の側で結合しておかなければならないということである。

 また、結合は主観の自発的な行為であるから、あらゆるイメージの中で結合のイメージは対象によって与えれることはなく、ただ主観によってもたらされるものだということである。

 ここからだれでも容易に気づくことは、この知性の行為は本質的に一種類であって、すべての結合に対して同じ意味をもっていなければならないということである。

 結合と反対の行為のように見える分析という解きほぐす行為も、結合という行為が前提になっていなければならない。なぜなら、知性はあらかじめ何も結合していない場合には、何も解きほぐすことはできないからである。逆に言えば、分析されるものが物を思い描く能力に与えられるときには、それは知性によって結合されているものでなければならないのである。

 しかしながら、結合の概念は、多様性の概念と多様なものの総合の概念ほかに、多様なものの統一の概念をも伴っている。つまり、結合とは多様なものの総合的な統一の一種なのである。(原注)

原注 様々なイメージにはじめから同一律が当てはまっていて、一つのイメージを別のイメージを使って分析的に考えることができる場合については、ここでは論じない。多様性を論じる限り、一つのイメージに対する意識は別のイメージに対する意識と区別されなければならない。そして、この意識の可能な総合がいま重要なのである。

 ということは、この統一のイメージが結合から生まれることはありえないということである。むしろ、統一のイメージが多様なもののイメージと結び付くことによって、はじめて結合の概念が生まれるのである。

 この統一(単一性)は、先天的にあらゆる結合の概念に先行するものであり、上記の「単一」のカテゴリーとは別ものである(§10)。なぜなら、全てのカテゴリーは判断の論理的な活動(§9)に基づいているが、判断の論理的な活動においては、与えられた概念はすでに結合され統一されていると考えられるからである。

 つまり、カテゴリーは結合を前提としているのである。だから、我々はこの統一(質的な単一性§12)をカテゴリーよりも一段高いところに求めねばならない。つまりそれは、判断の中の様々な概念が統一される根拠となるもの、あるいは知性が論理的に使用される場合において、知性の可能性の根拠となるもの(=次の「統覚」)の中に求めなければならないのである。


§16
統覚の根源的かつ総合的な統一(単一性)について


 私が何かを思い描くときは、そのあとに「私は考える」ということを常に付け加えることが出来なければならない(意識した知覚=統覚)。さもなければ、わたしは自分では考えられないことを思い描いていることになってしまう。それでは、私は自分にとって無意味なことを思い描いているか、そもそも思い描くこと自体が不可能なことになるだろう。

 ところで、我々が物を考える前に思い描くものは直観と呼ばれる。すると、あらゆる直観のもたらす多様なものは、この多様なものに出会う主観と同じ主観の中にある「私は考える」ということに必然的につながっていることになる(経験による統覚)。

 しかしながら、この「私は考える」というイメージは、自発的な行為であって、感性に属していないと見なすことができる。したがって、私はこの「私は考える」というイメージを「経験(=感性)による統覚」と区別して「純粋な統覚」と呼ぶことにする。

 あるいはまた、わたしはこのイメージを「根源的な統覚」と呼ぶことにする。というのは、「私が考える」というイメージは自己意識の一つだからである。つまり、自己意識が「私が考える」というイメージをもたらすのである。そして、このイメージは他の全てのイメージに付け加わることができ、あらゆる自己意識において同一なものであり、他のイメージはそれに付け加わることができないものである。

 そして、この統覚(「私は考える」)の統一(単一性)が先天的な認識の可能性の根拠であることを示すために、さらに私はこの統覚の統一を自己意識の超越的な統一と呼ぶことにする。なぜなら、ある一つの直観に与えられた多様なイメージが全部ひっくるめて私のイメージとなる(同一性、認識)ためには、多様なイメージが全部ひっくるめて一つの自己意識と結び付いていなければならないからである。

 つまり、多様なイメージが(私がそれを意識していないにもかかわらず)私のイメージとなるということは、その多様なイメージが普遍的な自己意識の中に結合する条件に必然的に従わなければならないということである。さもなければ、その多様なイメージは例外なく私のイメージとはなれないのである。

 このような自己意識による根源的な結合から多くのことが導き出される。

 たとえば、直観にもたらされる多様なものに対する統覚(意識した知覚)のこのような例外のない同一性(私のイメージであることを意識すること、認識)は、様々なイメージの総合を前提としている。つまり、イメージの総合を意識することによってはじめてこの統覚の同一性が可能となる。

 なぜなら、様々なイメージに伴っている経験的な自己意識は、それ自体は総合されていないもので、主観の同一性とのつながりがないからである。主観とのつながりは個々のイメージに自己意識を伴わせること(統覚)によって生まれるのではなく、あるイメージを別のイメージに結合してその総合を意識すること(自己意識の統一)によって生まれるのである。

 したがって、私は与えられた多様なイメージを一つの自己意識の中で結合できることによってはじめて、このイメージの中に自己意識の同一性を思い描くことできるのである。

 ということは、統覚の分析的統一(単一性)は、その総合的な統一という前提があってはじめて可能だということになる。(原注)

原注 自己意識の分析的な統一はあらゆる共通化された概念そのものの中に含まれている。例えば、私が赤色を考えるときには、私はそれによって、何かにおいて(目印として)出会うことができるある状態、あるいは別のイメージと結合される可能性のある一つの状態を思い描いている。したがって、私が分析的な統一を思い描くためには、総合的な統一の可能性が前提となっていなければならない。異なった多くのイメージに共通していると考えられるイメージは、それ自身とは異なったものを持っているそれ自身以外の多くのイメージに結び付いていると考えられるイメージである。したがって、私が共通のイメージを共通の概念(conceptuscommunis)に変える「自己意識の分析的な統一」を共通のイメージに見出すことが出来るには、あらかじめ共通のイメージが他の(可能なだけでもよい)イメージとの総合的な統一の中にあると考えられねばならないのである。そして、このように統覚の総合的な統一は、知性のあらゆる使用、論理学全体、および超越的哲学を結び付けねばならない最高地点なのである。そして、これらをこの最高地点に結び付ける能力こそは知性そのものである。

 直観によって与えられたこれこれのイメージが全てをひっくるめて私に属していると考えることは、私がこのイメージを一つの自己意識の中に結合する、あるいはそうできるということである。つまり、そう考えること自体は、様々なイメージの総合を意識することではなくても、そう考えることは、イメージの総合が可能であると思っていることになる。

 つまり、私が多様なイメージを一つの自己意識の中に把握することができることによってはじめて(自己意識の統一)、それら全てをひっくるめて自分のイメージと呼ぶことができるのである(認識)。さもなければ、自分が意識している個々のイメージの数だけ様々な自己が存在することになってしまうだろう。

 したがって、先天的に与えられる多様な直観を総合的に統一することは、統覚自体の同一性の根拠であり、この同一性が先天的に私のあらゆる明確な思考の根拠となっているのである。

 一方、結合は対象の中に存在するものではないし、例えば知覚によって対象から借りてきて知性の中に最初に受け入れておくことはできない。それは知性が作り出すものでしかない。

 つまり、知性とは与えれた多様なイメージを先天的に結合して、統覚の統一の下におく能力以外の何ものでもないのである。そして、この原理(Grundsatz)こそは、人間の認識全体の最高原理なのである。

 この原理は確かにそれ自体同一律であり分析的な内容であるが、直観によって与えられた多様なイメージを総合する必要性を明らかにするものである。この総合がなければ、上記の自己意識の例外のない同一性は考えることができないのである。

 要するに、「私」というたった一つのイメージによって多様なものが与えられるのではなく、それとは別の直観によってのみ多様なものは与えられ、それが一つの自己意識の中に結合されることによって、考えるということが可能になるのである。

 もし、自己意識によってこの多様なものが知性に与えれるなら、この知性は直観する知性であることになってしまう。しかし、我々の知性は考えることができるだけであって、直観は感性の中に求めるしかない。

 私が直観によって自分に与えられた多様なイメージに対して、同一の自己を意識するのは、それらの多様なイメージを全てひっくるめて私のイメージと呼ぶからであり、その結果、それが一つのイメージとなるからである。

 しかし、それは多様なイメージの必然的な総合を私が先天的に意識するのと同じことである。そして、この総合こそは統覚の根源的・総合的な統一と呼ばれるものである。私に与えられる全てのイメージはこの統一のもとにあるが、このイメージは総合によってこの統一のもとにもたらされたものでなければならない。


§17
統覚の総合的な統一という原理(Grundsatz)はあらゆる知性使用の最高原理である


 「超越的感性論」によれば、感性に関するあらゆる直観の可能性の最高原理は、「直観のあらゆる多様なものは空間と時間という形式的条件に従う」というものだった。そしていま、知性に関する直観の可能性の最高原理は、「直観のあらゆる多様なものは統覚の根源的・総合的な統一という条件に従う」ということである。(原注)

原注 空間と時間とそれらの部分は直観である。ということは、空間と時間とそれらの部分は、それらが自分自身の中に含んでいる多様なもの(「超越的感性論」参照)を伴う個々のイメージである。ということは、それは単なる概念ではない。単なる概念なら、我々はそれを通じて、同じ自己意識が多くのイメージの中に含まれていることを見出すのであるが、空間と時間とそれらの部分は、それらを通じて多くのイメージが一つのイメージとそのイメージに対する自己意識の中に含まれていることを、すなわち多くのイメージが結合していることを見出すものである。したがって、我々は空間と時間とその部分を通じて、自己意識の統一が総合的でありまた根源的であることを見出すのである。空間と時間というイメージに関するこれらの詳細は、これらのイメージが使用されるときに重要である。(§25参照)

 直観のあらゆる多様なイメージは、我々に与えられるときには第一の原理に従うが、それらが一つの自己意識の中に結合されねばならないときには第二の原理に従う。なぜなら、この結合がなければ、多様なイメージを通じて何かを考えることも認識することもできないからである。

 というのは、この結合がなければ、与えられた様々なイメージは「私は考える」という統覚(意識した知覚)の行為に関わることがなく、統覚を通じて一つの自己意識の中に結合されることもないからである。

 知性とはおおざっぱに言えば認識する能力のことである。認識とは与えられたイメージを対象と明確に結び付けることである。一方、与えられた直観の多様なイメージは、対象の概念の中で結合される。しかし、イメージが結合されるためには、イメージの綜合の中に自己意識の統一がなければならない。

 したがって、自己意識の統一とは、様々なイメージを対象と結び付ける唯一のものであり、イメージの客観的な有効性をもたらすものであり、イメージを認識に変えるものである。したがって、知性の可能性自体もこの自己意識の統一に依存しているのである。

 したがって、統覚の根源的・総合的な統一(=自己意識の統一)という原理(Grundsatz)こそは、純粋な知性の最初の認識、それ以後の知性のあらゆる使用の出発点となる認識、感性による直観のあらゆる条件に依存しない認識なのである。

 したがって、外向きの感性による直観の単なる形式でしかない空間は、いまだ認識とはなっていないのである。それは先天的な直観の持つ多様なものを一つの可能な認識に対して与えるだけである。

 しかし、空間の中で例えば一本の線を認識するためには、私はその線を引いて、与えられた多様なものの明確な結合を総合的にもたらして、この行為の統一を同時に(一本の線という概念の中で)自己意識の統一としなければならない。そうすることによってはじめて(一個の明確な空間という)一つの対象が認識されるのである。

 したがって、自己意識の総合的な統一は、あらゆる認識の客観的条件なのである。それは私がある対象を認識するための必要条件であるだけでなく、あらゆる直観が私の対象となるための条件でもある。なぜなら、直観の多様なものは、他の方法では、つまりこのような総合なしには、一つの自己意識の中で結合することはないからである。

 統覚のもつ必然的な統一というこの原理(Satz)は、それ自体はすでに述べたように分析的であるが、それにもかかわらず、この原理が総合的な統一をあらゆる思考の条件にしている。なぜなら、この原理は、与えられた何らかの直観がもたらす私の全てのイメージが総合的な統一というこの条件に従っていると言っているのに他ならないからである。

 そして、総合的な統一という同じ条件のもとでのみ、私は直観のイメージを私のイメージとして、同一の自己に属すると見なすことができるのであり、したがって、この条件のもとでのみ、私はそれらを、「私は考える」という普遍的なイメージによって一つの統覚の中に総合的に結合されていると理解することができるのである。

 しかしながら、この原理(Grundsatz)はすべての可能な知性に当てはまる原理(Prinzip)ではない。これは、知性の純粋な統覚によって「わたしは存在する」というイメージの中に直観の多様なものが決して与えられないような知性にのみあてはまるのである。

 自己意識によって直観の多様なものが与えられるような知性、自分が思い描くことによって思い描いたその対象を存在させるような知性は、自己意識の統一のために多様なものを総合するという特別な行為(人間の知性は考えるだけで直観はできないために、これが必要である)を必要とはしないだろう。

 ところが、人間の知性にとってこの原理が第一原理(Grundsatz)であることは仕方のないことである。そのため、人間の知性は他のどんな知性をも全く理解することができない。つまり、人間の知性は、自ら直観する知性のことも理解できないし、同じ感性による直観であっても空間と時間以外の直観を基礎に持つような知性を理解できないのである。


§18
自己意識の客観的な統一とは何か


 直観に与えられた多様なものは、統覚の超越的な統一によって対象の概念の中で結合される。したがって、統覚の超越的な統一は自己意識の客観的な統一と呼ばれ、自己意識の主観的な統一と区別されなければならない。

 自己意識の主観的な統一とは内向きの感覚の特徴であって、この内向きの感覚によって直観の多様なものが上記の結合に経験的に与えられるのである。例えば、私がこの多様なものを経験的に意識するのが一度にできるか順番にできるかは状況に依存しており、経験的な条件のもとにある。だから、様々なイメージの連想を通じた自己意識の経験的な統一は、それ自体一つの現象に関係したものであり、まったく偶然に依存する。

 それに対して、時間の中の直観の純粋な形式は、与えられた多様なものを含む単なる普遍的な直観であって、自己意識の根源的な統一のもとにある。そして、それはもっぱら直観の多様なものを「私は考える」という一つのものに結び付けることのおかげであり、知性の経験的な総合の先天的な基礎である知性の純粋な総合のおかげである。

 この自己意識の根源的な統一だけが客観的に有効な統一である。統覚の経験的な統一については、ここではこれ以上扱わないが、それは現実に与えられた条件のもとで自己意識の根源的な統一から導き出されるものであるため、主観的な有効性しか持たない。

 ある特定の言葉のイメージをある人はある物に結び付けるが、別の人は別のものに結び付けるのはこの例である。経験的なものの中にある自己意識の統一は、与えられたものに対して必然的・普遍的な有効性をもたないのである。


§19 
全ての判断の論理的な形式は、
判断の中に含まれる様々な概念の統覚による客観的統一から生まれる


 わたしは論理学者たちの判断についての説明に未だかつて満足したことがない。彼らの説明では、判断とは二つの概念の相互関係(結び付き)を表わすものだということになっている。しかし、この説明は「無条件的な判断」に当てはまるだけで、「仮定的な判断」や「選択的な判断」には当てはまらないという欠点がある(この二つは概念の相互関係ではなく判断の相互関係である)。

 しかし、それについて彼らを相手にここで議論するつもりはない(もっとも、この論理学の欠点から多くの深刻な結果が生まれている)(原注)。ここではただこの「概念あるいは判断の相互関係(結び付き)」とは何に根拠を置くものなのかが明確でないことだけを指摘しておこう。

原注 三段論法の四つに格についての面倒な理論は、すべて無条件的(定言的)な三段論法だけに関するものである。そして、この理論は純粋な三段論法の前提の中に直接推理を(consequentiaeimmediatiae)を紛れ込ませることによって、第一格の推理法だけでなくそれ以外にも多くの推理法が存在するかのように見せかける技術に過ぎない。したがって、「無条件的な判断」に独占的な地位を与えて他の全ての判断をそれに従属させることに成功しなかったなら、この理論はこれほどに顕著な名声を獲得することはなかっただろう。しかし、「無条件的な判断」に特別の地位を与えることは、§9で見たように誤りである。

 しかしながら、もし私が、全ての判断の中の様々な認識の相互関係(つまり概念や判断の結びつき)をもっと正確に調べて、その相互関係が知性に根拠を置くものであり、再現的な想像力(これは主観的な有効性しかもたない)の法則に従う関係と区別するなら(§10)、判断とは与えられた様々な認識に「統覚の客観的な統一」をもたらす仕方以外の何ものでもないことがわかる。

 判断の中の「~である」という言葉は、まさにこのことを目的としており、そうして、与えられた様々なイメージ(概念や判断)の客観的な統一を主観的な統一から区別しているのである。つまり、判断それ自体は経験的なものであって、例えば「物体は重いものである」という判断のように偶然的なものであるにもかかわらず、この「~である」という言葉は、与えられた様々なイメージが「根源的な統覚とその必然的な統一」に結び付いていることを表わしているのである。

 以上からわたしが言いたいことは、与えられた様々なイメージは経験的な直観の中で必然的に互いに結び付くのではなく、「統覚の必然的な統一」によって直観の総合の中で互いに結び付くということである。

 それは、全てのイメージが認識に変わるときに客観的に明確化される原理(Prinzipien)に従っており、この原理はすべて「統覚の超越的な統一」の原理(Grundsatz)から導きだされるものである。

 そうすることによってはじめて、この結び付き(相互関係)から一つの判断が生まれるのである。この結びつきとは、客観的に有効なものであって、上記の様々なイメージの関係、連想の法則のような単に主観的な有効性しかない関係とは明確に異なるものである。

 連想の法則に従うなら、私は単に「わたしがある物体を持ち上げるとき、重さの圧力を感じる」と言えるが、「物体は重いものである」とは言えない。そして後者は、この二つのイメージ(物体と重いもの)が対象の中で、主観の状態の違いに関係なく、結び付いているということであり、単に知覚の中でだけ(その知覚が繰り返される限りにおいて)共存しているということではない。

§20
全ての感性による直観はカテゴリーという条件に従っている。
この条件のもとでのみ、直観の多様なものは自己意識の中で結び付くことができるからである


 感性の直観によって与えられた多様なものは、必ず統覚の根源的・総合的な統一のもとになければならない。なぜなら、この統覚の統一によってはじめて直観の統一が可能となるからである(§17)。しかしながら、与えられた多様なイメージ(直観でも概念でもありうる)を統覚のもとに置くという知性の行為は、判断の論理的な活動である(§19)。したがって、全ての多様なものは経験的な直観によって与えられるとき、判断の論理的な活動によって明確化される。そして、この判断の論理的な活動によって、この多様なものは自己意識の中にもたらされるのである。

 しかし、与えられた直観の多様なものがこの判断の論理的な活動によって明確化されるときのこの判断の活動こそカテゴリーそのものである(§13)。したがって、与えられた直観の多様なものは必然的にカテゴリーのもとにあることになる。


§21
注解


 「私の直観」と呼べる直観のなかに含まれる多様なものは知性の総合によって「自己意識の必然的な統一」に結び付いていることはすでに述べた。そしてそれはカテゴリーを通じて行なわれる(原注)。

原注 その根拠は、対象をもたらす直観の統一(上記)である。この統一は、直観に対して与えられる多様なものの綜合を自らのうちに含んでおり、それはまた、この多様なものを統覚の統一と結び付けるものである。
 
 したがって、カテゴリーが示していることは、直観によって与えられる多様なものに対する経験的な自己意識は、先天的に純粋な自己意識のもとに存在しなければならないということである。それは、経験的な直観が、先天的に感性による純粋な直観のもとに存在しなければならないのと同じである。

 したがって、上記§20の原理(Satz)の中に、純粋な知性概念に対する一つの演繹の出発点があるのである。というのは、カテゴリーとは感性から独立して単に知性の中だけに生まれるものであり、純粋な知性概念の演繹においては、経験的な直観の多様なものが与えられる方法を無視して、知性がカテゴリーによって直観に付け加える統一だけに注目しなければならないからである。

 以降において(§26)、経験的な直観の統一とは、与えられた普遍的な直観の多様なものに、カテゴリーが上記§20の原理に従って与える統一に他ならないことが、感性による経験的な直観が与えられる方法によって示される。

 そして、我々の感性の全ての対象に対するカテゴリーの先天的な有効性が明らかにされることによって、演繹の目的ははじめて完全に達成されるのである。

 しかしながら、この証明において私は一つのことを省略することはできない。それは、知性の総合の前に必ず直観の多様なものが、知性とは独立して与えられねばならないということである。もっとも、それがどのようにして起こるかはここで明らかにされることはない。

 この点を省略できないのは、わたしがもし自ら直観できるような知性(例えば、与えられた対象を思い描くのではなく、思い描くことによって対象を生み出す神の知性)を考えているのなら、このような認識に対してカテゴリーは何の意味も持たないからである。

 カテゴリーとは知性のための規則でしかなく、知性の能力とは考えることでしかない。しかし、考えるとは、知性に対して自分以外のところで直観によって与えられる多様なものの綜合に、統覚の統一をもたらす行為にほかならない。

 したがって、知性とは、自分だけでは何も認識することができず、対象によって与えられる認識の素材、つまり直観を結合して秩序づけるだけなのである。

 しかしながら、統覚の統一が先天的にもたらす我々の知性の特殊性の根拠をカテゴリーによって、つまりその種類と数によって、示すことはできない。それは、どうして我々がこの判断には上記の活動があってそれ以外の活動がないのかとか、どうして時間と空間が我々の可能な直観の唯一の形式であるかを説明できないのと同じである。


§22
カテゴリーは経験の対象以外のものの認識に使われることはない


 ある対象について考えることと、ある対象を認識することは同じことではない。認識するためには二つのものが必要である。一つ目は、対象について考えるための概念(カテゴリー)であり、二つ目は、対象を与える直観である。

 というのは、もし概念にそれに対応する直観が与えられなかったら、その概念による思考は、形だけで対象を全く欠いた思考ということになり、そんな思考によってはどんなものをも認識できない。なぜなら、その場合には、私の知る限りでは、私の思考を適用できるものは何もないからである。

 一方、我々に可能な直観はすべて感性によるものである(感性論)。したがって、一般にある対象についての思考が純粋な知性概念によって認識となるためには、この概念が感性の対象と結び付いていなければならない。

 感性による直観とは、純粋な直観(空間と時間)であるか、あるいは、経験的な直観であるかのいずれかである。後者は、空間と時間の中に現実にあるものを直接感覚を通じて思い描かれたものについての直観である。

 純粋な直観による定義によって、我々は(数学の中の)対象に関する先天的な認識を得ることができるが、それは現象の認識であって、形式的なものにすぎない。この形式に従って直観されるものが存在するかどうかは、まだ分からないのである。

 したがって、純粋な感性による直観の形式に従っているだけでその対象は存在するという前提に立たないかぎり、あらゆる数学的な概念はそれだけでは認識ではない。

 一方、対象が空間と時間の中に与えれるためには、それは知覚(感覚を伴うイメージ)とならなければならない。つまり、それは経験的なイメージを通してしか与えられないのである。

 したがって、純粋な知性概念は、数学のように先天的な直観に対して適用される場合でも、先天的直観が、あるいは、それを介した知性の概念が、経験的な直観に適用できなければ、認識をもたらすことはない。

 つまり、カテゴリーが先天的直観を介することによって対象の認識をもたらすのは、カテゴリーが経験的な直観に適用できる場合だけである。ということは、カテゴリーは経験的な認識が可能となるためだけに使うことができるということである。そしてこの認識を経験と呼ぶのである。

 つまり、カテゴリーは、可能な経験の対象と見なすことができるものの認識以外に使うことができないのである。


§23


 上記§22の原理(Satz)は非常に重要である。なぜなら、この原理は純粋な知性概念が適用できる対象には制限があることを明らかにしているからである。それは、「超越的な感性論」が我々のもつ感性による直観の純粋な形式を適用する限度を定めたのと同様である。

 空間と時間は、対象が我々に与えれるための条件としては、感性の対象つまり経験に対してしか適用できない。この境界を超えたところでは空間と時間は何も表わしてはいない。なぜなら、それらは感性の中だけに存在するものであって、その外側ではいかなる現実性も持たないからである。

 純粋な知性概念はこの制約から自由であり、普遍的な直観の対象に適応することができる。それは、その直観が感性の直観であって知性の直観でない限り、我々の直観に似ていようが似ていまいが同じである。

 しかし、この概念を我々の感性による直観を超えて広く適用できるとしても、それは我々には何の利益ももたらさない。なぜなら、この場合、対象についての概念としては、それらは中身がなく、我々はそれらを使って対象の可能性を判断することができない。だから、それらは客観的な現実性を欠いた単なる思考の形式でしかない。

 なぜなら、その場合には、純粋な知性概念だけに含まれる統覚の総合的な統一を適用できるような直観が、我々の手元には全くないからである。そして、統覚の統一が直観に適用されることによってはじめて、純粋な知性概念は対象を明らかにすることができるのである。逆に言えば、我々の感性による直観、経験的な直観だけが、知性の純粋概念に意味と内容を与えることができるのである。

 いま感性によらない直観の対象が与えられると仮定しよう。その場合には、その対象が感性による直観に属すようなものを持っていないという条件に合致する述語ならどんな述語によっても、我々はこの対象を思い描くことができる。

 すなわち、我々は「それは大きさがない、つまり空間の中にない」とか「その持続は時間ではない」とか「それはどんな変化(=時間によってもたらされる結果)もしない」と言える。

 しかしながら、私はこれらが対象の直観が何でないかを言うだけで、その中に何があるかを言っていないので、これはけっして本来の認識ではない。なぜなら、この場合、私は、自分の純粋な知性の概念によっては、対象の可能性を全く思い描くことができないからである。というのは、私は対象に対応する直観を何も与えられることがなく、この対象には我々の直観は有効ではないと言えるだけだからである。

 しかし、ここで最も重要なことは、このようなものに対してはカテゴリーを一つも適用できないということである。例えば、実体のカテゴリー、つまり主語としては存在できるが単なる述語としては決して存在できないものについての概念は適用できない。

 つまり、そのような概念については、経験による直観によってその概念を適用する機会が与えられない限り、わたしにはこの概念つまり思考のルールに対応するようなものが存在するかどうかは全く分からないのである。しかし、これについては次節でさらに扱うことにする。


§24
普遍的な感覚の対象に対するカテゴリーの適用について


 純粋な知性概念は知性だけによって普遍的な直観の対象と結び付く。その直観は感性による直観である限り、人間の直観であろうとなかろうと構わない。しかし、そのために純粋な知性概念は単なる思考の形式でしかなく、それだけではどんな対象も明確に認識することはできない。

 純粋な知性概念による多様なものの総合あるいは結合だけが、統覚の統一と結び付くことができた。そして、その結果、この総合は知性に基づく先天的な認識の可能性の根拠となったのである。したがって、この総合は超越的であるだけでなく、純粋に知的だということになる。

 しかしながら、感性による直観は物を思い描く能力(感性)の受動性に基づいており、感性による直観の形式が先天的に我々人間の根底に存在しているために、自発性としての知性は、与えられたイメージの多様なものを使って、内向きの感覚を統覚の総合的な統一に合わせて明確化することができる。

 したがって、我々の感性による先天的な直観の多様なものが統覚によって総合的に統一されていることが、我々(人間)の直観の対象にとっての必要条件であると、知性は考えることができる。というのは、その結果、単なる思考の形式であるカテゴリーは、客観的な現実性を獲得するからである。

 つまり、そうすることでカテゴリーは、直観によって与えられる対象に適用することができるのである。ただし、この対象は単なる現象でしかない。我々は現象についてしか先天的に直観できないからである。

 この感性による直観の多様なものの総合は、先天的に可能であり必ず先天的である。これを我々は「イメージによる総合(synthesisspeciosa)」と呼ぶことができる。それに対して、普遍的な直観の多様なものに対してカテゴリーだけによって考えられる総合は、「知性による結合(synthesisintellectualis)」と呼ぶことができる。

 両方とも超越的結合である。なぜなら、それらは先天的に行なわれるだけでなく、他の先天的認識の可能性の根拠ともなるからである。

 しかしながら、「イメージによる総合」は、統合の根源的・総合的な統一、つまりカテゴリーの中に存在すると考えられる超越的な統一だけに関わる場合には、単なる「知性による結合」と区別して、「想像力による超越的な総合」と呼ばれねばならない。

 想像力とは、対象が目の前になくても直観によって対象を思い描く能力である。ところで、我々の全ての直観は感性によるものだから、想像力は感性に属している。なぜなら、想像力は、感性の主観的条件のもとではじめて知性の概念に対して、それに対応する直観を与えることができるからである。

 しかし、想像力による総合とは、主体性が行使された結果であり、感性のように単に他によって明確化されるだけではなく、他を明確化することであり、ひいては感性をその形式に従って統覚の統一に合わせて明確化することであるから、想像力は感性を先天的に明確化する能力であるということができる。また、想像力による直観の総合は、カテゴリーに適合しているから、想像力による超越的な総合でなければならない。

 この総合は、知性の感性に対する働きかけであり、我々にとって可能な直観の対象に知性を最初に適用することである。それは同時に以後の知性の適用の根拠となる。

 この総合はイメージによる総合であり、想像力を欠いた知性だけによる総合とは異なるものである。想像力が自発性である場合、これをしばしば私は「創造的な想像力」と呼んで、「再現的な想像力」と区別している。

 再現的な想像力の総合は経験的な法則つまり連想の法則に従っているため、再現的な想像力は先天的な認識の可能性を明らかにするにはまったく役に立たない。だから、この想像力は超越的な哲学ではなく心理学に属する。

   *       *
   *

 内向きの感覚の形式(§6)について説明したときに誰もが気付いたはずの矛盾について、ここで説明しておくべきだろう。
 
 内向きの感覚は、我々の姿を我々のあり方に従って描くのではなく、我々の現われ方に従って、自己意識に対して描く。なぜなら、我々が自分自身を直観するやり方は、我々が内的に触発される仕方に依存しているからである。しかし、これは矛盾しているように見える。なぜなら、我々は自分自身に向かって受動的に関係していることになるからである。

 おかげで、心理学の体系の中では、内向きの感覚を統覚の能力(この二つを我々は慎重に区別している)と同じものと見なす間違った習慣が出来ている。

 内向きの感覚を明確化するのは知性であり、知性の根源的な能力は、直観の多様なものを結合して、統覚(知性の可能性はこれに基づいている)のもとに置くことである。

 一方、我々人間の中にある知性は決して直観の能力ではなく、たとえ感性による直観が与えられても、それを自分自身の中に受け入れて、ほぼ自分自身のものとなった直観の多様なものを結合するというわけにはいかない。

 したがって、知性による総合とは、知性だけをとりだして観察するなら、総合という行為の統一に他ならない。知性はこの統一を感性の助けなしに意識することができる。一方、知性はこの統一によって、感性の直観の形式に従って知性に与えられる多様なものに関して、感性を内的に明確化することができる。

 したがって、知性は、まさにこの総合という行為を受動的な主観に対して行なうのであり、それが想像力による超越的な総合と呼ばれるのである。ところで、知性は受動的な主観の能力でもある。したがって、この行為について我々は「内向きの感覚が受動的な主観によって触発された」と言っても矛盾はしないのである。

 したがって、統覚とその総合的な統一は、内向きの感覚とは決して同じではない。統覚とその総合的な統一は、あらゆる結合の源泉として、普遍的な直観の多様なものに関わるのであり、また、カテゴリーの名のもとに、あらゆる感性による直観に先だって普遍的な対象に関わるのである。

 それに対して、内向きの感覚は直観の形式でしかなく、直観の中の多様なものを結合することはない。したがって、内向きの感覚には明確な直観は何も含まれていない。直観の明確化は、想像力の超越的な行為(内向きの感覚に対する知性の総合的な影響)による多様なものの明確化を意識することによってはじめて出来ることである。この超越的な行為こそ、私が「イメージによる総合」と呼んだものである。

 これは我々が自分自身のなかに常に認めることである。我々は一本の線を考えるにも円を考えるにも、頭の中で線を引かずにそうすることはできない。空間の三次元を思い描くにも、一つの点から三本の直線を直角に引かずにそうはできない。

 また、時間を思い描くためには、一本の直線を引いて(これは時間を形によって外部に思い描くことである)、多様なものの綜合という行為、内向きの感覚を相前後して明確化するその行為だけに注目して、この明確化が内向きの感覚の中で相前後して起こる様子に注目しなければならない。

 したがって、運動は(対象の明確化としてではなく)(原注)主観の行為としては空間における多様なものの綜合であるが、空間を無視して、内向きの感覚をその形式に合わせて明確化する行為だけに注目するとき、はじめて運動は相前後することの概念をもたらすのである。

原注 空間の中の対象の運動は純粋な科学、つまり幾何学には含まれていない。なぜなら、何かが運動するということは先天的に認識できることではなく、経験によってはじめて認識できることだからである。しかしながら、運動は、空間を描写する行為としてみるとき、外向きの直観が与える多様なものを創造的な想像力によって相前後して総合していく純粋な行為である。したがって、それは幾何学に含まれるだけでなく超越的哲学にさえも含まれる。

 したがって、知性は、内向きの感覚の中に多様なものの結合を見いだすのではなくて、内向きの感覚を触発してこの結合をもたらすのである。

 しかしながら、どうして(私は少なくとももう一つ別の直観方法の可能性を思い描くことができるから)思考する私と自分自身を直観する私とは異なるものでありうるのか、しかもどうして前者と後者は同じ主観として同一でありうるのかという問題がある。

 つまり、直観によって私が私に与えられるとき、知性であり思考する主体としての私が、思考される対象としての私自身を、単に他の現象と同じく、私が知性の前に存在するようにではなく、私が自分に対して現象として現われるように認識すると、私はどうして言えるのだろうかという問題がある。

 これらの問題は、どうして私は自分自身にとっての対象であり、私の直観と内向きの知覚の対象でありうるのかという問題と同じぐらいに困難な問題である。

 しかしながら、これらは現実にこうでしかないのである。そのことは、空間を外向きの感覚に対する現象の単なる純粋な形式と認めるかぎり、外向きの直観の対象ではない時間を思い描くためには、一本の線を引いて具体的な形にするしかないことから、明らかである。

 というのは、そのような説明の仕方以外では、時間の次元が一つであることを我々は知ることができないからである。同様にして、我々はいくら内向きの知覚を使おうとも、時間の長さや点を決めるためには、外側のものに現われる変化の助けを借りなければならない。

 したがって、内向きの感覚の明確化を系統立てて行なうには、時間の中の現象として、外向きの感覚の明確化を空間の中の現象として系統立てて行なうのと同じようにしなければならない。

 つまり、もし我々が、外向きの感覚によって対象を認識するには、我々が外部から触発されなければならないことを認めるなら、我々が内向きの感覚によって自分を直観するためには、内部から自分自身によって触発されねばならないということを認めねばならない。

 ということは、内向きの直観に関する限り、我々は自分自身の主観を単なる現象として認識するのであって、けっしてそれ自体のあり方に従って認識するのではないのである。(原注)

原注 内向きの感覚が我々自身によって触発されるということが非常に難しいという人がいるが、どうしてなのか私には分からない。そのような触発の例としては、何かに注目するという行為を見ればよい。何かに注目するとき、知性は自分が考えている結合に合わせて内向きの感覚に対して内向きの直観をするようにしむけるのである。そして、この内向きの直観は、知性が総合する多様なものをもたらすのである。このようにして我々の心が触発されていることは、誰でも自分の中に見出すことが出来るだろう。


§25


 それに対して、普遍的なイメージの多様なものの超越的な総合によって、つまり、統覚の総合的・根源的な統一によって、私が自分自身を意識するのは、私の自分自身に対する現われ方ではなく、私の私自身の中での存在のし方でもなく、単に私の存在である。この自己意識は思考であって直観ではない。

 ところで、自分自身を認識するためには、可能な直観の多様なものを統覚の統一のもとにもたらす思考の行為が必要だが、そのほかに、この多様なものを与えてくれる明確な直観が必要である。したがって、私自身の存在は確かに現象ではない(もちろん仮象ではない)けれども、私の存在の明確化(原注)は、ただ内向きの感覚の形式、つまり、多様なもの(これを私は結合するのだが)が内向きの直観に与えられる独特な方法に従って行なわれなければならない。

原注 「私は考える」ということは、私の存在を明確化する行為を意味している。私の存在は「私は考える」ということによって既に与えられている。しかし、私が自分の存在を明確化する方法、つまり、私の存在に属している多様なものを自分の中に置く方法は、それによっては与えられていない。そのためには自己直観が必要なのである。自己直観は感性による直観であり、明確化されるべきものに対する感受性の一部であるため、時間という先天的に与えたれた形式をその根本に備えている。明確化する行為の前に、時間が私の中に明確化されるべきものを与えるように、明確化する能力(その能力の自発性を私は意識するだけである)を私の中に与えるような別の自己直観を、私は持っていない。したがって、私は私の存在を自発的な存在として明確化することは出来ない。私が出来ることは、私の思考すなわち明確化する能力の自発性を思い描くだけであり、私の存在は依然として感性に基づくものであり、現象としての存在であることは明らかである。しかし、この自発性ゆえにこそ、私は自分自身を知性と呼ぶことが出来るのである。

 したがって、私が自分を認識する場合、それはありのままの自分ではなく、自分自身に対して現象として現われる自分を認識するのである。したがって、自分自身の意識はけっして自分自身の認識とはならないのである。統覚による多様なものの結合を通じて普遍的な対象に対する思考をもたらすカテゴリーを使っても、それは不可能なことである。

 自分自身とは別の対象を認識するためには、私はその対象に対する(カテゴリーによる)思考のほかに直観を必要とし、それによってその一般的な概念を明確化したが、それと同じように、自分自身の認識のためにも、自分自身の意識つまり自分自身に対する思考のほかに、自分自身の中の多様なものの直観を必要とし、それによって私はこの思考を明確化し、そのとき私は、知性として存在することができるのである。

 知性とは自らの結合能力だけを意識する存在であるが、自分が結合すべき多様なものについては、知性は自ら内向きの感覚と名付けた条件に制約されるので、本来の知性概念(カテゴリー)には含まれない時間の関係に従ってやっと多様なものの結合を明確化できる。

 したがって、知性は自分自身を、知性が直観(この直観は知的ではなく知性によって与えられることもない)によって自分自身に現われるようにしか認識できないのであって、もし直観が知的であるなら知性が自分自身を認識するであろうようには認識できないのである。


§26
純粋な知性概念を一般的に経験が使用できることの超越的な証明(演繹)


 カテゴリーの起源は、形而上的な演繹においては、思考の一般的な論理的な活動と完全に符合することによって先天的に説明された。一方、超越的な演繹においては、カテゴリーの可能性が普遍的な直観の対象に対する先天的な認識として説明された(§20、§21)。

 そして今、カテゴリーを使えば、我々の感覚に現われるあらゆる対象を、対象を直観する形式ではなく、対象を結合する法則に従って、先天的に認識する可能性が、したがって、いわば自然に対して法則を与えて自然の存在をもたらす可能性が説明されるべきである。

 というのは、カテゴリーのこうした能力がなければ、どうして我々の感覚に現われるあらゆるものが、知性だけから先天的に生まれる法則に従っているのかを説明できないからである。
 
 まず最初に私が指摘したいのは次のことである。つまり、私がここでいう「把握(Apprehension)の総合」とは、多様なものを経験的な直観の中に結合することであり、この「把握の総合」によって知覚が可能となる。ということは(現象としての)直観を経験的に意識することが可能となるということである。

 我々は空間と時間のイメージから外向きと内向きの先天的な直観の形式を得ている。現象の多様なものの「把握の総合」は、この形式に従わねばならない。なぜなら、この総合はこの形式に従ってはじめて起こりうるからである。

 しかし、空間と時間は、単に感性による直観の形式としてではなく、それ自身(多様なものを含む)直観として先天的に思い描かれることによって、直観の中の多様なものが統一によって明確化されるのである(「超越的な感性論」を見よ)(原注)。

原注 空間は(幾何学で必要とされているように)対象として見た場合、単なる直観の形式以外のものも含んでいる。すなわち、空間で、直観のイメージの中で、感性の形式に従って与えられた多様なものが統一されているのである。その結果、感性の形式が単に多様なものをもたらすとすれば、形式的な直観がイメージの統一をもたらすのである。私はこの統一があらゆる概念に先立って存在するものであるあることを示すために、「感性論」の中でこの統一を感性の一部として説明した。ただし、この統一は総合を前提とするものである。またこの総合は感性に属さないが、この総合によってはじめて空間と時間のあらゆる概念が可能となるのである。というのは、(知性が感性を明確化する以上は)この統一によって空間や時間が直観としてはじめて与えられるから、先天的な直観の統一が時間と空間の中に含まれているのであって、知性概念には含まれないのである。(§24)


 したがって、我々の外側であれ内側であれ、多様なものの綜合の統一、つまり、空間や時間において明確に思い描かれる全てのものが従わねばならない結合は、あらゆる「把握の総合」の条件として、これらの(直観の中ではなく)直観と共に先天的に与えられているのである。

 しかし、この総合の統一とは、与えられた普遍的な直観の多様なものの結合が、我々人間の感性による直観だけに適用されたときに、カテゴリーに従って根源的な自己意識の中で統一されることにほかならない。

 したがって、総合によって知覚は可能となるが、全ての総合はカテゴリーに従うのである。そして、経験とは知覚の結合による認識であるから、カテゴリーは経験の可能性の条件であり、その結果、経験のあらゆる対象に対して有効である。

*    *
*

 例えば私がある家に対する経験的な直観を直観の多様なものの把握によって知覚に変えるとき、私の根底には感性による外向きの普遍的な直観と空間との必然的な統一が存在するのである。そして私は、空間の中の多様なものの総合的統一に従って、家の形を描くのである。

 しかしながら、たとえ私が空間の形式を無視しても、この総合的統一は知性の中に居場所を占めているのである。そして、この統一こそが普遍的な直観の中の同種なものを綜合するカテゴリー、つまり、量のカテゴリーなのである。上記の「把握の統一」つまり知覚は、この量のカテゴリーに完全に従わなければならない。(原注)

原注 これによって次のことが証明されている。つまり「把握の統一」は経験的なものであるのに対して、「統覚の統一」は知的なものであり先天的にカテゴリーに含まれている。そして、前者は後者に必ず従わなければならない。前者の場合に想像力という名前で直観の中の多様なものの結合をもたらし、後者の場合に知性という名前で直観の中の多様なものの結合をもたらすのは、同じ自発性である。

 別の例でいうと、私が水が凍るのを知覚するときには、私は二つの状態(液体と固体)を時間の関係の中で対立して存在する状態として把握している。しかし、この時間の関係が直観の中に(時間的な順序に関して)明確に与えられるなくても、私は内向きの直観であるこの現象の根拠としている時間の中で、多様なものの総合的統一を必ず思い描けるのである。

 しかし、この総合的統一は、私が自分の内向きの直観の不変の形式である時間を無視するときに、普遍的な直観の多様なものを結合するための先天的条件であって、それは原因のカテゴリーである。私はこのカテゴリーを私の感性に適用することによって、時間の中で全ての出来事をその関係に従って明らかにするのである。

 したがって、そのような出来事における把握、ひいてはその出来事それ自身が、可能な知覚に従って、原因と結果の関係の概念のもとにあるのである。他の場合も同様である。

                                                *     *
*

 カテゴリーとは、現象に対して、ひいてはあらゆる現象の総体(natura materialiterspectata)としての自然に対して、先天的な原理(Gesetz)を与える概念である。今や、カテゴリーは自然から導き出されたものでもなく、自分の手本として自然に従うものでもなく(さもなければ、カテゴリーは経験に由来することになってしまう)、自然がカテゴリーに従わねばならないということをどう理解すべきかという問題が発生する。つまり、カテゴリーは自然から取り出されたものではないのに、どうして自然の多様なものの結合を先天的に明らかにできるのかという問題である。以下に、この問題の答えがある。

 自然の現象のなかにある法則が知性とその先天的形式に、すなわち一般的に多様なものを結合する能力と合致することは、現象自体が感性による先天的な直観の形式に合致することと同様に、何ら奇異なことではない。なぜなら、法則は現象の中にあるのではなく、主観に知性が備わっているかぎりにおいて、現象を与えられている主観に対する関係において存在するが、それは現象がそれ自体で存在するのではなく、主観に感覚が備わっているかぎりにおいて、主観に対する関係において存在するのと同様だからである。

 物それ自体について言うなら、それを認識する知性とは別に、それ自身の法則があって、物それ自体はそれに必然的に従っているかもしれない。しかし、現象は物のイメージでしかなく、現象による限りその物は物それ自体のあり方に従って認識されることはない。現象は単なるイメージでしかないので、現象は結合する能力が与える結合の法則以外の法則に従うことはないのである。

 ところで、感性の直観が与える多様なものを結合するものは、想像力である。しかし、想像力はその知的な総合の統一については知性に依存し、把握の多様性については感性に依存している。ところで、あらゆる可能な知覚は「把握の総合」に依存するが、「把握の総合」つまり経験による総合は、超越的な総合つまりカテゴリーに依存するから、あらゆる可能な知覚、ひいては経験的な自己意識に到達することのできるあらゆるもの、つまりあらゆる自然現象は、その結合についてはカテゴリーに従うことになる。

 したがって、自然は(単なる一般的な自然として見た場合)その必然的な合法則性の根拠として(natura formaliterspectataとして)カテゴリーに依存しているのである。

 しかし、カテゴリーだけによって純粋な知性が現象に先天的な法則(Gesetze)を与えるという能力が及ぶ範囲はそこまでである。つまり、それは空間と時間の中の一般的な自然現象の合法則性の根拠となっている原理(Gesetz)だけに関わっているのである。

 経験的に明確化された現象についての個別の原理(Gesetz)はすべてカテゴリーに従うものではあっても、それらの原理の全てをカテゴリーから引き出すことはできない。個別の原理を見分けるためには、経験にたよる必要がある。しかし、一般的な経験とその経験の対象として認識されうるものについて教えてくれるのは、上記の先天的な原理(Gesetz)だけなのである。


§27
知性概念の証明(演繹)から結論


 我々はカテゴリーを介さずにはいかなる対象についても考えることはできない。我々はカテゴリーの概念に対応する直観を介さずには、考えた対象を認識することはできない。あらゆる我々の直観は感性によるものだから、直観を介して得た認識は、その対象が与えられるかぎりにおいて、経験的な認識である。しかし、経験的な認識は経験である。したがって、可能な経験の対象についての認識以外には、どんな先天的な認識も不可能である(原注)。

原注 読者がこの文章に見られる嘆かわしい不幸な結論に対して性急に気を悪くしないために、私は読者に次のことを思い出してもらいたいと思う。つまり、思考の中ではカテゴリーは感性による直観の条件によって制約を受けることはなく、むしろ無制限の活動領域を持っている。ただ我々が考えていることを認識するためには、つまり、対象を明確化するためには、どうしても直観が必要となってくるのである。もちろん対象に対する思考は、直観が無くても、主観による理性使用に対して、誤りのない有益な結果をもたらすことが出来るということはある。しかし、主観による理性使用は、つねに対象の明確化つまり認識に向かうのではなく、主観の明確化と主観の意志の明確化にも向かうものである。したがって、主観による理性使用についてはここではまだ扱わない。

 このような認識は経験の対象に限られてはいるが、だからといって、すべての認識が経験から引き出されたものであるわけではなく、純粋な直観と純粋な知性概念は、我々の中に先天的に見出される認識である。

 ところで、経験の対象の概念と経験との必然的な一致が考えられる場合は二つしかない。それは、経験が対象の概念を作る場合と、対象の概念が経験を可能とする場合である。

 第一の場合はカテゴリー(知性の純粋概念)には(純粋な感性による直観についても)当てはまらない。なぜなら、カテゴリーは先天的な概念であり、経験には依存しないからである(カテゴリーの起源が経験的であるという主張は、生物学でいえば一種のgeneratioaequivoca自然発生説であろう)。

 したがって、カテゴリーについて残っているのは二つ目の場合だけである(いわば純粋理性を模倣する体系)。つまり、知性の側のカテゴリーがあらゆる一般的な経験の可能性の根拠となっているのである。

 しかし、カテゴリーがどのようにして経験を可能にするか、カテゴリーは自分自身が現象に適用されることによって、経験を可能にするどのような原理(Grundsätze)をもたらすかは、判断力の超越的な使用についての章で詳しく論じることにする。

 しかし、今挙げた二つの場合だけでなく、その中間の道があると言う人がいるかもしれない。つまり、「カテゴリーは我々の認識にとって、先天的に自ら考え出された第一原理(Prinzipien)ではなく、経験から取り出されたものでもない。それはむしろ物を考えるために我々の存在とともに備わっている主観的な天分であって、我々の創造主はそれを使うことが経験の法則と自然の原理(Gesetzen)に正確に則るように作っている」と主張する人がいるかもしれない(それは、純粋理性があらかじめ備わっているシステムである)。

 しかし、(そのような仮定によって、あらかじめ天分が備わっていると前提するなら、来るべき将来のどんな判断についても際限なくこの前提で説明できてしまうという反論だけでなく)そのような中間の道をとった場合には、カテゴリーの概念にとって本質的に無くてはならない必然性というものが欠落してしまうという決定的な反論があげられる。

 というのは、例えば、原因の概念は、ある前提とされる条件の下での結果の必然性を主張するが、もしこの概念が任意に我々の中に備わっている主観的な必然性に基づいて、経験的なイメージを原因結果の関係の原理(Regel)によって結び付けるものなら、原因の概念はインチキ臭いものとなってしまうからである。

 その場合、私は「結果と原因は対象の中で(必然的に)結び付いている」と言うことはできなくなる。その代わりに、私はこれらの概念がそのように結び付いていると考えるように生まれついているということになるだろう。

 そして、これはまさに懐疑論者の主張なのである。というのは、もしそのとおりなら、我々の主張するような客観的な有効性にもとづく判断は全部見せかけだけということになってしまうからである。そして、このような主観的な必然性(それは感じずにはいられないものである。例「私が球場に観戦に行ったから巨人は負けた」)を認める人(虚辞のnicht)ならいくらでも捜すことができるだろう。少なくとも、本人の主観のあり方だけに基づく事柄については、誰も異議を差し挟むことは出来ないのである。


この演繹のまとめ


 この演繹は、純粋な知性概念を経験の可能性の原理(Prinzipien)であると説明するものである(それと共にあらゆる理論的な先天的認識が説明された)。一方、この経験の可能性の原理は、空間と時間の中の一般的な現象を明確化するものであると説明され、最後に、この空間と時間の中の一般的な現象を明確化するものは、感性の根源的な形式である空間と時間についての知性の形式であることが、統覚の根源的・総合的な統一の原理(Prinzip)によって明らかにされた。

*    *
*

 これまで私が段落を§(セクション)に分割するのが必要だと考えてきたのは、基本的な概念を扱うためであった。これからは、この基本概念の用法を明らかにするために、§分けなしに連続的な関連性の中で話を進めていきたいと思う。 


 誤字脱字および意味不明の個所に気づいた方は是非教えて下さい。

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