カント「純粋理性批判」

(第二版)

超越性に関する基礎理論(超越的原理論)


第一部門


超越的な感性論


§1


 人がものを知るやり方は判断や推理などいろいろあるが、直接的にものを知るときには直観を使う。ものを考えるときは人はいつも直観に頼るものだ。しかし、直観するためにはその前にその対象を手に入れなければいけない。しかし、神様でもない限り、人が対象を手に入れるには、対象のほうが人の心を触発しないといけない。

 この対象の触発に応じて、そのイメージを受け取る能力を感性という。つまり、感性によって人は対象を手に入れるのである。ということは、感性のおかげで人は物を直観できるということになる。

 いっぽう、手に入れた対象について考えるのは知性の仕事である。知性が理解するのである。しかし、物を考えるということは、直接にしろ、あるいは何かの目印を介して間接的にしろ、結局は直観、そして人間の場合は感性のお世話になるしかない。ほかの手段では対象は手に入らないからである。

 そして、その対象が外から感性を触発した結果が感覚である。直観のうちでこの感覚を通して対象とつながっているものを、経験による直観という。この経験による直観の対象で、まだわけの分からないものを現象という。

 しかし、現象を分析してみると、その中には感覚だけでは説明できない要素も含まれている。だから、現象のうちで感覚とつながりがあるものを、わたしは現象の素材と呼び、この乱雑ににあらわれる現象に整理をつけるものを現象の形式と呼ぶことにする。

 様々に受け取った感覚に何らかの形式を与えて整理をつけるものは、感覚自身ではあり得ない。だから、現象の素材は経験によってしか与えられないのに対して、現象の形式は心の中にその全部が先天的に用意されていないといけない。だから、現象の形式は感覚とは区別して考えることができる。

 わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係のないものを(超越的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による直観の純粋な形式が、さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な直観と呼ばれることもある。

 例えば、物体の概念から、それについて知性が考えること、物質とか、引力とか、分割可能とか、そういうものを取り除いてみよう。次に、感覚で捕らえられるようなこと、中身が詰まっているとか、表面が硬いとか、何かの色をしているとか、そういうものを取り除いてみよう。こういった経験によって直観的に知ることのできる要素を取り去っても、なおも残るものがある。それは、物体の持っている大きさと形である。これが純粋な直観なのである。この純粋な直観が働くには、感覚の対象が外部に現実に存在する必要はない。純粋な直観は感性の形式として心の中に先天的に存在するものである。

 わたしはこのような経験と関係のない先天的な感性がもっている原理(Prinzipien)について研究する学問を「超越的な感性論」と呼ぶことにする。(原注)

原注 ドイツ人はaestheticという言葉を「審美学」という意味で使う唯一の国民である(訳注 当時はそうだった)。この用法はバウムガルテンが始めたものだが、うまく行っていない・・・以下省略(訳注 以下、カントは美学を、経験によって得たものを原則(Prinzipien)として扱う愚かな試みとして批判している。カントが「感性論」という意味で使ったのは、「感覚、感性」という意味のギリシャ語aisthesisで、語源的には正しい用法)

 この「超越的な感性論」は「超越性に関する基礎理論」の前半部を構成する。後半部では、純粋な認識が持っている原則(Prinzipien)を扱うことになる。それをわたしは「超越的な論理学」と呼んでいる。

 「超越的な感性論」では、まず感性から知性による理解の要素を取り除いていって、経験による直観だけを残し、つぎにこの経験による直観から感覚として外から受け入れたものを取り除いて、純粋な直観つまり上で言った現象の形式だけを取り出すだろう。これだけが、感性が先天的に持っているものである。以下の研究によって、感性による直観つまり純粋な現象の形式は、経験によらない認識の原理(Prinzipien)としては、二つしかないことが明らかにされる。それは、空間と時間である。では、今から空間と時間の考察に入ることにしよう。


超越的な感性論

第一節

空間について

§2

空間の概念を形而上学的に考える


 人の心には外向きと内向きの二つの感覚があって、我々は外向きの感覚によって対象を外側の空間の中に把握する。対象の形や大きさ、対象の相互の関係は空間の中で決定されるのである。

 それに対して、内向きの感覚は、心が自分自身の存在と内面の状態を直観するものである。この感覚は確かに魂それ自体を一個の対象として直観できないが、この感覚は一種の形式であって、これによって人は内面の状態を直観することができる。その結果、心の内側で決定されることはすべて時間との関係で把握される。

 我々は時間を自分の外側にあるものとして直観することはできない。同様に、空間を我々の内側にあるものとして直観することはできない。

 では、空間と時間とは一体なんだろう。それは現実に存在するものだろうか。それとも、単に物が存在するための条件、つまり物と物との関係を意味するだけのもので、物それ自体が直観されることはないが、物それ自体に属しているものだろうか。

 それとも、空間と時間は単なる直観の形式にすぎないのだろうか。つまり、それらは我々の心の主観的な特性にすぎず、我々の心がなくなればそれらによっては何も決定できなくなるようなものだろうか。

 このような問いに答えるために、まず最初に、空間の概念についてよく考えてみよう(expositio)。よく考えると言っても、空間概念をはっきりさせておこうというだけで、網羅的に説明しようというわけではない。また、「形而上学的に」と言うのは、空間概念を経験によらずに与えられた概念としてに考えていくという意味である。

(1) 空間とは、経験によって外部から得た概念ではない。なぜなら、空間というものがまずないことには、感覚でとらえたものを自分の外にある何かのもの、つまり、自分がいる場所とはちがう場所にある何かのものと関連づけたり、この感じたものがバラバラであるとかいっしょにあるとか、別々の場所の別々のものとしてとらえることができないからである。

 したがって、空間というものは、経験を通じて外部の現象同士の関係から借りてくることはできない。それどころか、この外部の経験は空間というものが先にあって始めて可能になるのである。

(2) 空間とは、経験によらないものであって、外部の物を直観するためには欠かせないものである。我々は空間が存在しない状態を想像することはできない。ただ、空間の中に物が何もない状態を考えることはできる。そうすると、空間とは、様々な現象に依存したものではなく、様々な現象が存在するための条件ということになる。つまり、空間とは経験によらないものであって、外部の現象にとって無くてはならないものなのである。

(3) 空間とは、物と物との関係を理解して手に入れるいわゆる一般的な概念ではない。空間とは純粋な直観である。なぜなら、第一に、我々はただ一つの空間しか思い浮かべることができないし、複数の空間について言及するときも、それは一つの空間の部分について言っているだけだからである。

 第二に、この部分的な空間も、全てを包み込む一つの空間に先立って存在するものではなく、また、部分的な空間が寄り集まって全体の空間ができているのでもない。その逆に、部分的な空間は全体の空間の中にあるものと考えられる。

 空間とは、本質的に一個のものなのである。その中にある複数の空間も、複数の空間についての一般的な概念も、全体の空間をいわば柵で区切っただけのものなのである。ということは、空間に関するあらゆる概念は、経験によらない一つの先天的な直観に基づいているということになる。

 したがって、あらゆる幾何の定理、例えば、三角形の二辺の和は他の一辺より長いという幾何の定理は、直線とか三角とかいう一般的な概念から導き出すことはできない。それは、経験によらない直観によって導き出すしかなく、その結果に疑いをはさむ余地は全くないのである。

(4) 空間は無限の大きさがあると考えられる。ところで、一般に概念というものを考えてみると、それは無限に存在する多様なものの共通の特徴としてそれらに含まれているとともに、その無限のものを自分自身の含んでいる。しかし、自分自身の中に無限のものを含んでいるような概念を考えることは出来ない。ところが、空間とはまさにそのようなものだと考えられる。空間をどれほど小さく分割していっても、分割されたものは必ずその内側に存在するからである。したがって、空間はもともと概念ではなく、経験によらない直観だということになる。

§3

空間概念を超越的な観点から考える


 超越的な観点からというのは、ある概念を経験によらない総合的な認識を可能にするような一つの原理(Prinzip)として明らかにしていくという意味である。そのために、(1)そのような総合的な認識が、与えられた概念(空間概念)から実際に生まれてくることが示され、次に(2)その概念が適切な仕方で解明されたときだけ、そのような認識が可能であることが示されるだろう。

 幾何学は空間の性質を総合的にしかも経験によらずに説明する学問である。そのような認識の仕方が可能となるためには、空間はどのようにして把握されるべきだろうか。それはまさしく直観によらなければならない。なぜなら、単なる概念からは、その概念を越えるような定理を引き出すことはできないからである。ところが、まさに幾何学は、ある概念からそれを越える定理を引き出す学問なのである(序論V)。

 しかし、この直観は経験によらずに、我々が対象と出会う前にすでに我々の中に存在しなければならない。つまり、それは経験によって得たものではない純粋な直観でなければならない。なぜなら、幾何学の定理、例えば「空間には三つの次元しかない」というような定理は、どれもみな例外のない必然的なものだからである。そのような定理は決して経験から得た判断ではあり得ないし、経験から導き出すことのできないものである(序論II)。

 このように、我々の心の中には、外にある対象よりも先に外向きの直観があって、そのような対象を経験によらずに理解しているわけだが、では、そのような外向きの直観は我々の心にどのように存在するのだろうか。

 外向きの直観とは、対象に触発されて、対象を直接的に把握する(=直観する)主観的な形式として、つまり単なる外向きの感覚の形式として、我々の主観の中に存在するものであり、明らかにそれ以外ではあり得ない。

 そして、このように説明する以外に、幾何学という経験によらない総合的な学問がどうして生まれたかを理解することは不可能である。ほかの説明方法は、いずれもこのことをうまく説明できない。それらはこの方法と似てはいても、この点でこの方法とははっきり区別することができる。


これまで分かったことから導かれる結論


(a) 空間とは物それ自体の特性を表すものでもないし、物それ自体の互いの関係を表すものでもない。つまり、物それ自体がもっている特性、たとえ我々が直観の主観的な条件を放棄しても、なお消えることのない物それ自体の特性を、空間は表すことがない。なぜなら、主観的な条件を取り去ってしまえば、その物も我々の前から消えてしまい、そうなれば、その物の特性は、それが絶対的であろうと相対的であろうと、経験によらずに直観することはできないからである。

(b) 空間とは外向きの感覚がもつ現象の形式以外の何ものでもない。つまり、空間とは感性の主観的な条件であって、それがあって始めて外向きの直観が可能になる。

 ところで、主観が対象に触発される能力は対象を直観する前に必ず存在しなければならないから、あらゆる現象の形式(空間)は現象が実際に知覚される前に先天的に心の中に存在する可能性があるのは容易に理解できる。また、この形式があらゆる対象を把握するときに使われる純粋な直観であって、あらゆる経験に先立って対象の関係を明らかにする原理(Prinzipien)を含んでいる可能性があるのも容易に理解できる。

 したがって、空間とか大きさのある存在とかを云々するのは、ひとえに人間の観点からできることである。我々がもし、外向きの直観を可能とする主観的な条件を手放し、対象に触発される能力を失ってしまうと、その途端に空間は我々にとってまったく無意味なものになってしまう。

 空間の中に物の存在を認識できるのは、それらが現象として現れれるとき、すなわち、感性の対象となるときだけである。対象から触発される能力つまり我々が感性と呼んでいるものの不変の形式(=空間)は、自分の外側にある対象を直観するときに、対象の関係を把握するには無くてはならない条件である。そして、この対象が取り去られたときに、この形式は純粋な直観であるということになる。これを我々は空間と呼んでいる。

 ただし、この感性の特殊な条件つまり空間は、現象の存在の条件と見なせるだけで、物それ自体の存在の条件と見なすことは出来ない。だから、空間は我々の外側に現象として現れるあらゆる物を含んでいると言えるけれども、物それ自体としてのあらゆる物は、それらが誰の主観の直観(例えば神の直観)によって捉えられたとしても、またそもそも直観によって捉えられても捉えられなくても、それらを空間が含んでいるとは言えないのである。

 なぜなら、我々全員にあてはまる主観的条件、我々の直観を制約する条件が、我々以外の思索する存在(例えば神)にもあてはまるかどうかは、我々には分からないからである。

 だから、我々が何らかの判断をする場合、その判断を形成する主語述語の主語にあたる概念にこの制約を付け加えなければならない。そうしてはじめて、その判断は普遍的に有効なものとなるのである。

 例えば「全ての物は空間の中に共存する」という命題について言えば、それらの物が我々の感性による直観の対象となる時という制約のもとで、はじめて有効なものとなる。

 だから、それらの物の概念にこの条件を付け足して「全ての物は、外側の現象として、空間の中に共存する」と言えば、この命題は何の制限もなく普遍的に有効である。

 これまでのところから、我々の外側に対象として現れることのできるものについては、空間には実在性(客観的な有効性)があるが、我々の持つ感性の性質を無視して理性によって物それ自体を考えるときには、空間は観念的なものであることが明らかになったと思う。

 だから、空間の実在性は我々の外的な経験に完全に依存していると言える。逆に言えば、空間は、超越的な観点から見れば観念的なものである。つまり、あらゆる経験が可能となるための条件を捨てて、空間を物それ自体の基礎をなすものと見なすと、その途端に空間は無くなってしまうのである。

 しかしながら、空間以外に、主観的で我々の外的経験に依存していて、同時に客観的で経験に依存しないと言えるようなものは存在しない。なぜなら、空間における直観によって経験によらない総合的な認識は引き出せるが、他の主観的なものからは同様のことは出来ないからである。(§3)。

 したがって、厳密に言うと、他の主観的な外的体験は五感の主観的な特性に依存しているという点では空間と同じだが、空間以外のものは決して観念的ではありえない。つまり、我々は五感すなわち視覚、聴覚、触覚を通して色や音や温度を主観的にとらえることはできるが、これらは単なる感覚であって直観ではないから、それだけでは対象を経験によらずに認識することはできない。

 このようなことを言うのは、いま言った空間が観念的なものだということを、色や味などのまったく不適当な例で説明しようとする人がなくなるようにするためである。なぜなら、こうしたものは決してその物の特性ではなく、我々の側の主観が様々な形をとって現れたものにすぎず、人によって異なるものだからである。ところが、そのようなもので空間の観念性を説明しようとする人たちは、例えば、バラの花のように、本当は単なる現象に過ぎないものを経験に基づく理解に基づいて物それ自体であると見なすのである。しかし、例えばバラの色は人によって違って見えるものである。

 一方、空間における現象を超越的な観点から理解すれば、以下のような重要な警告が得られる。つまり、空間の中で直観した物は何であれ決して物それ自体ではないということ、空間は物それ自体に属する形式ではないということ、物それ自体は決して我々には知ることはできないということ、我々が自分の外側にある対象と考えているものは、我々の感性がとらえた現象に過ぎないこと、そして、その感性の形式こそが空間であるということである。

 そして、現象に対応する実体である「物それ自体」を我々は現象を通じて知ることはないし、知ることはできない。いやそもそも、我々は経験の世界では「物それ自体」が何であるかを問うこともないのである。


超越的な感性論

第二節

時間について

§4

時間の概念を形而上学的に考える


(1) 時間は、経験から引き出される概念ではない。なぜなら、物が同時に起こるとか続いて起こるとかいうことを理解するためには、その前に時間の概念が経験に先立って我々の心の中になければならないからである。時間というものがまずあると考えてはじめて、我々はいくつかのものが同時に現れたとか、時間を変えて現れたとか言うことができる。

(2) 時間は必然的なものであって、あらゆる直観の基礎となるものである。我々は現象抜きに時間だけを考えることはできても、どのような現象も時間抜きに考えることはできない。したがって、時間は経験に先立って我々の心に備わっているものである。

 どのような現象も時間の中でのみ実在性を持つことができる。現象は消えて無くなることはあるが、時間が消えて無くなることはない。現象が現れるためには時間は無くてはならないものである。

(3) このように時間が経験に先立つ必然的なものであることに基づいて、時間に関する公理も自明の原理(Grundsätze)も成り立っている。例えば、時間には一つの次元しかないという原理がそうである。つまり、別々の時間は同時にではなく相前後して存在している(それに対して、別々の空間は時間的に相前後してではなく同時に存在している) というこの原理(Grundsätze)は、決して経験から引き出すことはできない。

 なぜなら、経験は厳密な普遍性も例外のない確実さも与えることがないからである。普通の経験からはことの真否を知ることはできても、ことの必然を知ることはできない。だから、時間に関するこのような原理(Grundsätze)は我々にとってはいわば規則(Regeln)のようなもので、この規則のもとで我々は様々な経験をすることができる。だから、我々は何かを経験する前にこの規則を学ぶのであって、経験を通じてこの規則を学ぶのではない。

(4) 時間とは人が理解して手に入れる一般的概念ではなく、感性による直観の純粋な形式である。様々な時間はたった一つの時間の部分でしかない。そして、たった一つの対象を通じて得ることのできるものは概念ではなく直観である。

 また「別々の時間は同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念から引き出すことはできない。これは総合的な命題であって、概念だけから生まれるものではない。それは時間の直観によって直接手に入れるものである。

(5) 時間が無限であるということは、言い換えれば、我々にとって意味のある長さの時間は、根底に存在する一つの時間を区切ることによってのみ可能になるということである。したがって、元々の時間は区切られていないものでなければならない。

 しかし、ある対象の個々の部分はその全体を区切ることによってしかとらえることができないということは、その対象の全体像は概念によって表されることはなく(なぜなら概念は部分を表すだけだから)直接的な直観に基づかねばならない。

§5

時間概念を超越的な観点から考える


 紙面の都合で、時間を形而上学的に考えた上記の(3)に、もともと超越的観点に属することをすでに書いておいたので、そちらを参照されたい。

 ここでは、変化の概念と(位置の変化から生まれる)運動の概念も時間というものがあってはじめて可能であることを付け加えることができる。そして、もしこの時間というものが先天的な直観(この場合は内向き)でない場合には、どのような概念によっても変化の可能性を理解することは不可能である。

 なぜなら、変化するということは、例えば、同じものがある場所に存在していて次に同じ場所にはもう存在していないということで、同じ対象について矛盾する正反対の記述を組み合わせることだからである。同じものに対して、二つの矛盾する正反対の記述が相前後して現れるということは時間の中でだけ可能である。

 こうして、広い意味での力学──これは我々にとって大きな収穫である──が教える経験によらない多くの総合的な認識は、我々の時間概念によってはじめて可能となるのである。

§6

これまで分かったことから導かれる結論


(a) 時間は単独に存在するものではないし、物の客観的な性質として物に属しているものでもない。したがって、物に対する直観から主観的条件を取り除くなら、時間は消えてしまう。

 もし時間が単独で存在するものなら、時間は現実に対象物がなくても現実に存在するものになってしまう。また、もし時間が物に属している性質であり順序であるなら、対象となるものの条件として対象より先行するものではあり得ず、総合的な命題を通じて経験によらずに時間を認識したり直観したりすることはできなくなる。

 その反対に、時間が総合的命題を通じて経験によらずに直観できるのは、時間が主観的な条件にほかならず、我々のあらゆる直観がこの条件のもとで可能となる場合である。なぜなら、その場合、この内向きの直観の形式(時間)は対象が存在する前に経験によらずに存在すると思われるからである。

(b) 時間とは内向きの感覚の形式である。つまり、時間とは自分自身と自分の内面に対する直観の形式である。というのは、時間は外側の現象の性質とはなり得ないからである。つまり、時間は物の形とか位置とかには関係がない。むしろ、時間は我々が心の内側でとらえた物同士の関係を決めるのである。

 この内向きの直観は形がないために、我々はこの欠点を補うために時間を線にたとえようとする。つまり、時間の経過を永遠に続く一本の線と考えるのである。そして、その線の上に様々な物が一列に並ぶ。したがって時間は一次元だということになる。我々は時間のあらゆる特徴を直線の特徴から類推して考える。ただ一つその例外は、直線の各部分は同時に存在するのに対して、時間の各部分は同時ではなく相前後していることである。

 時間が直線との類似でとらえられるということは、時間の各部分の関係は外向きの直観(つまり空間)を使って表現されるということである。ここからも、時間とはそれ自身が直観であることが分かる。

(c) 時間は全ての現象の形式であり、あらゆる現象の先天的な条件である。空間は全ての外向きの直観の純粋な形式であって、外側の現象だけの先天的な条件である。

 それに対して、我々が受け取るイメージは、それが外側のものを対象にしようと内側のものを対象にしようと、それ自体としてはそれらは我々の心の中を明らかにするものだから、我々の心の中の状態と結び付いている。しかし、この心の中の状態は内向きの直観の形式という条件の下にある。ということはつまり、それは時間と結び付いている。したがって、時間はあらゆる現象の先天的な条件だということになる。だから、時間は心の中に現れるあらゆる現象の直接の条件であるとともに、外側に現れる現象の間接的な条件だと言える。

 もしもわたしが、「外側の全ての現象は空間の中にあり、空間との関係にしたがって経験によらずに把握できる」と、経験によらずに言うことができるのなら、わたしはこれまで明らかになった内向きの感覚の本質から、「全ての現象、すなわち感覚の全ての対象は時間の中にあり、必然的に時間との関係の中にある」と完全に普遍的に言うことができる。

 ものを思い描く我々の能力の中の外向きの直観は、内向きに自己を直観するやり方を使って行われるが、もしこのやり方を捨てて、対象をそれ自体としてとらえるなら、時間は無くなってしまうだろう。

 時間は現象に関してだけ客観的な有効性を持つ。なぜなら、現象とはすでに我々が感覚の対象としてとらえているものだからである。だから、もし我々が我々に特有の認識形態である直観という感性の要素を放棄して、物それ自体について語り始めるやいなや、時間はもはや客観的なものではなくなってしまう。

 したがって、時間とは我々(人間の側)の直観の主観的な条件であって(だから直観は常に感性によって機能する、つまり対象に触発されたときだけ機能する)、主観の外側で単独に存在するものではない。

 時間はこのように主観的なものであるが、それにもかかわらず、全ての現象に関する限り、つまり我々が経験する対象に関する限り、時間は必然的に客観的なものである。

 我々は全てのものが時間の中に存在すると言うことはできない。なぜなら、このように物それ自体について理解しようとするとき、我々は物に対するあらゆる直観を放棄しているからである。ところが、直観こそは時間が対象と関わりを持つための本質的な条件なのである。

 だからもし、物についての理解にこの条件を付け加えて、全てのものは現象として(すなわち感性による直観の対象として)時間の中に存在すると言うならば、この基本命題はまさしく客観的な有効性および経験によらない普遍性を持っている。

 したがって、我々が言おうとしていることは、時間は経験の世界で実在性を持つということである。つまり、時間は我々の感覚に与えられる全ての対象に関して客観的な有効性を持っているのである。そして我々の直観はつねに感性によるものであるから、時間という条件に合わないような対象は決して経験することはできない。

  逆に、時間は決して絶対的な実在性を持ってはいないと我々は主張する。もしそんな実在性があるなら、時間は、我々の感性による直観の形式とは無関係に、絶対的に物の存在条件や性質になってしまうだろう。

 このような特性は物それ自体に属するものであって、我々の感覚によっては決してとらえることはできない。そして、これこそが超越的な観点から見た時間の観念性である。つまり、我々が感性による直観という主観的な条件を放棄すれば、時間は無に帰するのである。

 そして、時間は直接(我々の直観とは無関係に)対象の実質や属性となることはできない。しかしながら、時間のこの観念性と空間の観念性を、感覚からの類推によって説明する過ちを犯してはならない。そういうことをする人たちは、感覚によってとらえられる現象には対象についての実在性があると当然のことのように考えているからである。

 しかし、時間の場合には、そのような対象についての実在性は存在しない。もしあるとすれば、それは対象が単なる現象と見なされる場合だけであり、結局その実在性は経験的なものでしかないということになる。この点については、読者は前節(空間について)の最後に(バラについて)述べたことを参照されたい。

§7

解説


 時間は経験の世界では実在性を持つが、絶対的な実在性や超越的な観点から見た実在性は持たないとするわたしの説に対して、学者たちからいっせいに反論が上がっていると聞いた。だから、このような考え方に不慣れな一般の読者が同様の反論を抱くことは充分考えられる。この反論とは、次のようなものである。

 変化というものは現実的なものである。たとえ我々の外側の現象とその変化を否定しても、我々自身が変化することからこれは明白である。ところで変化は時間の中でのみ起こることができる。したがって、時間もまた現実的なものである。

 この反論に答えるのは難しいことではない。この議論自体は何も間違ってはいない。確かに時間は現実的なものである。つまり、時間は内向きの直観の現実的な形式である。確かに、わたしは現実に時間を思い描くことが出来るし、自分が時間のなかで規定された存在であることを理解している。ということは、時間は内面的な経験に関して主観的な実在性をもっているということである。だから、時間は対象として現実的なものではなく、わたし自身という対象を把握する方法として、現実的なのである。

 もし感性のこの前提条件なしにわたしが自分自身を直観したり、他の存在がわたしを直観したりできるなら、いま我々が自分自身の変化と考えている特徴を見ても、決してそこに時間やそれにともなう変化が認識されることはないだろう。

 このように、時間に対して認められるのは、経験の世界における実在性だけなのである。しかも、時間は我々のあらゆる経験の条件でしかない。しかし、これまで述べたように、時間には絶対的な実在性はない。時間とは我々の内向きの直観の形式以外の何ものでもないのである(原注)。

 だから、もし時間から感性という特殊な条件を取り去るなら、時間の概念もまた消え去るのである。時間は対象そのものの中にあるものではなく、それを直観する我々の主観の中にあるものにすぎないのである。

原注 「わたしは時間の中に存在し続けていると思う」と言うことはできる。しかし、それは、わたしが自分自身を時間の連続の中にあるものとして、つまり、自分自身を内向きの感覚の形式に合致するものとして意識しているということに過ぎないのである。したがって、時間とはそれ自体で存在する何かではないし、物の中にある客観的な性質でもない。

 ところで、中でも空間の観念性に対する明確な反論さえ出せない人たちからこのような反論がいっせいにわき上がったのは、次のような理由からである。

 彼らも、空間の絶対的な実在性を明確に証明できるとは思っていない。なぜなら、彼らの頭には観念論があって、内向きの感覚がとらえる対象(自分自身と自分の状態)の実在性は我々の意識によって明白だが、外側の対象の実在性は厳密には証明できないと考えているからである。彼らは、内側の対象は明確に現実的だと思っていても、外側の対象は幻に過ぎないかもしれないと思っているのである。

 ところが、人間がとらえる空間も時間もその実在性は否定されないにも関わらず、空間と時間が単なる現象でしかない、とは彼らには思いもよらないことだった。しかも、この現象については常に二つの面があって、一方では、対象が直接観察される(=直観)が(ここではそれをどのようにして直観するかは問わない。そのために、それがどんなものであるかは不明である)、他方では、この対象に対する直観の形式が問題となる。この直観の形式は、この対象の現れに現実的かつ必然的に合致するものではあるが、対象自身の中にではなく、現象をとらえる人間の主観の中に求められなければならない。

 以上のようなわけで、空間と時間は、経験によらずに様々な総合的認識を引き出す、認識の二つの源なのである。純粋数学、特に空間に関する知識は、この輝かしい実例である。空間と時間の二つは両者あわせて、感性によるあらゆる直観の純粋な形式であり、経験によらない総合的な定理を可能にするものである。

 しかし、この経験によらない認識の源泉つまり空間と時間は、単に我々の感性が働くための条件に過ぎないものであり、まさにこの事実によって制限されている。なぜなら、空間と時間は、現象として観察されない対象には適用できず、物をそれ自体として示すことができないからである。空間と時間が有効なのはこの範囲だけである。もし我々がこの範囲を逸脱したりすれば、もはや時間も空間も客観的に利用することは出来なくなるだろう。

 しかしながら、空間と時間の実在性をこのようなものであるからといっても、それによって経験に基づく認識の正確さはいささかも損なわれることはない。経験に基づく認識の正確さに対する確信は、この二つの形式が物それ自体に関わるものであろうと、それらの物に対する我々の直観に必然的に関わるものあろうと揺らぐことはないのである。

 一方、空間と時間に絶対的な実在性があると主張する人たちは、それらを独立したものと見るか、物に属するものと見るかの違いはあるが、我々の一般的な経験の原則(Prinzipien)と矛盾せざるを得ない。

 なぜなら、もし第一の立場(これは主に自然を数学的に研究する人たちの意見である)に従うなら、空間と時間という二つの永遠で果てしなく、しかも独立していながら、現実には何もないのに、現実に存在するあらゆるものを内に含むためだけに存在する、そんな不合理なものがあると認めなければならなくなる。

 もし第二の立場(自然を形而上的に研究する一部の人たちの意見である)に立って、空間と時間とは現象相互の関係(空間の場合は並存であり、時間の場合は継起である)であって、経験から引き出され、それ自体としては混乱したものであると考えるならば、彼らは、先天的な数学上の定理が現実のもの(例えば空間)に実際にあてはまることを否定しなければならなくなる。あるいは少なくとも、それらの定理が例外なく正確なものだということを否定せざるを得ないだろう。

 なぜなら、このような正確さは決して経験から後天的に得られるものではないからである。実際、このような見方によれば、空間と時間という先天的な概念は、想像の産物でしかない。しかし、想像といっても現実にはその材料は経験に求めるしかない。しかも、経験から引き出された現象の相互関係から想像力が作り出すものは、この関係の一般的な要素を含みはするが、想像力は元々この関係が持っている経験という制約を離れては存在できないものである。

 第一の立場に立つ学者たちは、次の点で有利な立場にある。彼らの理論では現象の領域で数学の定理が生まれる可能性があるからである。しかし、彼らがこの領域を越えて認識の幅を広げようとするときには、この空間と時間が制約となって彼らの前に立ちはだかる。

 この点では、第二の立場が有利である。この立場に立てば、対象を現象としてではなく単に知性によって判断しようとするので、空間も時間も障害とはならないのである。しかし、彼らには真の直観、客観的に有効性を持つ先天的直観という手段がないから、経験によらない数学的認識の可能性を説明できないし、経験から得た命題を数学の知識と厳密に一致させることもできない。

 空間と時間というこの二つの根本的な感性の形式がもつ真の特徴について我々がうち立てた理論に従えば、このような困難に直面する心配はない。

 最後に言っておくべきことは、この「超越的な感性論」が扱う要素は、空間と時間の二つだけで、それ以外にはないということである。このことは、感性に属する他の概念、例えば空間と時間の両方を合わせた運動の概念さえも、経験の世界に属するものであることから明らかである。

 というのは、運動という以上は、何か動くものが知覚されねばならない。空間それ自体は動くものではないからである。つまり、動くものとは経験を通じて空間の中に見出されるもの、つまり経験的なものでなければならない。

 これと同じ意味で、「超越的な感性論」では変化の概念は先天的要素の中には含まれない。時間それ自体は変化するものではない。時間の中にあるものが変化するのである。したがって、変化の概念が生まれるためには、まず存在するものが知覚され、次にそれが相前後して明確化される様子が知覚されなければならない。つまり、それは経験されなければなければならないのである。

§8

超越的な感性論について全体的な注


I まず最初に読者の誤解を防ぐために、できるだけ分かりやすく感性による認識についての我々の考えを説明しようと思う。

 我々が言おうとしたことは、我々の全ての直観は現象に対するものだと言うことである。我々が直観するものは物それ自体としては我々が直観する対象と同じではない。我々が直観するものの相互関係も、それ自体としては、我々の前に現象として現れているのと同じではないのである。

 したがって、もし我々の主観がなくなったら、いや単に我々の感覚から主観的な性格がなくなっただけでも、空間と時間の中の対象の性格も対象の相互関係も、いや空間と時間それ自体も、すべて消えてなくなるのである。それらは現象としては単独で存在することはできない。それらは我々の中だけに存在することができる。

 対象は、物それ自体としては、つまり我々の感性が対象に触発される能力を抜きにしては、我々には全く分からないものなのである。我々に分かるのは、我々に固有の認識方法だけである。この認識方法は、人間なら全員が持っているものであるが、他の全ての存在が持っているとは限らない。

 我々に関係があるのはこの認識方法だけである。空間と時間はこの認識方法の純粋な形式であって、感覚はその素材なのである。

 我々は、先天的につまり実際のあらゆる知覚より前に、前者(形式)だけは認識できる。そのためを我々はこれを純粋直観と呼ぶ。一方、後者(素材)は我々の認識の内で後天的認識あるいは経験による直観と呼ばれるものをもたらすものである。

 前者は、我々が受け取る感覚がどんなものかに関わらず、例外なく我々の感性に依存する。一方、後者は非常に様々なものであり得る。

 たとえ我々の持つこの直観を最高に明晰なものに高めたとしても、我々はそれによって対象それ自体の特性に近づくことはできない。というのは、我々はせいぜい我々に固有の直観の方法、つまり感性をよく知ることができるだけである。しかも、この感性が空間と時間という我々の主観に根本的に依存している条件の下にあることに変わりはない。

 我々に与えられるのは現象だけであり、対象が物それ自体として何であるかは、現象に対する最も洗練された認識能力をもってしても、我々は決してそれを知ることはできないのである。

 したがって、「我々の感性がとらえるのは対象となる物の混乱したイメージにすぎないが、そこには物それ自体に属しているものだけが含まれており、我々にははっきりと見分けることのできない目印や中途半端なイメージで覆われている」という考え方は、感性と現象の概念を歪曲するものである。そのような考え方は、感性と現象に関するこれまでの研究を無に帰してしまうだろう。

 そもそも、イメージが明瞭であるか明瞭でないかは単に論理的なことでしかなく、その内容とは関係がない。例えば、「正義」に対する常識的な概念の中には、緻密な思索によってこの概念から引き出されるものはすでに全て含まれている。ただ、日常的な用法にはこの概念に含まれる様々なイメージははっきりと意識されてはいない。

 しかし、だからといって「正義」についての常識的な概念には、感性がとらえた単なる現象しか含まれていないと言うことはできない。なぜなら、「正義」は決して現象とはなりえないからである。それは頭の中にある一つの概念であって、人の行動の道徳的な特徴を表している。しかも、この特徴は行動の外見的な現象ではなく行動それ自体に属している。

 一方、例えば、直観がとらえる「物体」のイメージは、物それ自体に属するようなものは何も含んでいない。それは何かのものの現象であり、同時にそれは、我々がその何かによって触発されるされ方を表わしている。そして、この我々の認識能力の中の感受性の部分を我々は感性と呼んでいるのである。たとえその現象が我々にとって完璧に明瞭なものであったとしても、そのようにして得た知識は物それ自体の知識とは全く違うものであることに変わりはない。

 ライプニッツとヴォルフの哲学は、感性と知性の違いは単なる論理的なものとして扱っている。そのために、我々がもっている認識の特性と起源に対する研究に全く間違った方向付けをしてしまった。

 しかし、感性と知性の違いが超越的なものであることは明白である。それは認識が明瞭であるか明瞭でないかという単なる形式的な違いではない。それは、感性と知性の両者の起源と内容の違いである。したがって、感性は物それ自体の本質を混乱した状態で認識するどころか、全く認識することができないのである。

 もし我々の主観的な特性を放棄すれば、我々はイメージとしてとらえた対象にも、感性による直観がその対象に与えた特性にも、もはやまったく出会うことはできなくなる。なぜなら、我々のこの主観的な特性こそが、現象としての対象の形式を決定するからである。

 そのほかにも、我々はよく現象に区別を設けて、直観の中に元々含まれていて全ての人間に同じように現れる現象(例えば形)と、たまたま直観にとらえられはするが感性一般に当てはまるものではなく、単に特定の見方や様々な感覚に特有の構造にとってだけ有効な現象(例えば色)は異なるものであると言ったりする。そして、前者のタイプの認識は物それ自体を表わす認識であるのに対して、後者は単なる現象であると言ったりする。

 しかしながら、この区別は単に経験的な観点から見た区別であるに過ぎない。我々がもし(一般によく見られるように)この経験的な区別の段階にとどまって、経験を通じて直観したものを(それにふさわしく)単なる現象(そこからは物それ自体に属するものは何も見いだされない)としてもう一度扱おうとしないかぎり、我々は現象を超越的な観点から区別することは永遠にできないだろう。

 そうなると、我々は感覚の世界ではどれほど深く対象を調べても、現象しか相手にすることがないにも関わらず、物それ自体を認識できると思ってしまうだろう。

 例えば、「日和雨(ひよりあめ)」のときに見られる虹を現象と呼び、それに対して雨を物それ自体と呼ぶことになるのである。雨を物それ自体と理解するのは、形而下の経験の世界で理解するかぎり、間違いではない。ただし、その場合、物それ自体とは、誰が経験しても、我々の感覚とどんな関係にあろうと、それ以外のものとして直観することはできないという意味でしかない。

 しかし、雨は誰の感覚にとっても雨だから雨であるということを越えて、この経験の世界のものが物それ自体(雨粒は現象という経験の世界の対象であるから、雨粒は物それ自体ではない)をとらえたものであるかどうか問い始めるなら、その時、我々はそのとらえたものとその対象との関係を超越的な観点から問うことになる。

 そうなれば、雨粒は単なる現象であるばかりか、その丸い形もそれが通過する空間もそれ自体として存在するものではなく、それらは、我々がもつ感性による直観の基礎あるいは変容でしかない。しかし、超越的観点から見る場合には、対象は不明のままである。

 「超越的な感性論」について次に重要な要件は、この理論が単にもっともらしい仮説として二三の好評を博すだけではなく、疑いのない確実性を備えたものであり、オルガノン(万能の道具)の役割を果たす理論に要求されるレベルに達しているということである。

 そこでこの理論の確実性を充分に納得してもらうために、一つの例を選んでみよう。それによって、この理論の有効性は明白となり、§3で述べたことがもっと分かり易いものとなるだろう。

 そこで、空間と時間はそれ自体として客観的なものであって、様々な物がそれ自体として存在するための条件であると仮定してみよう。まず、この両者に関して経験によらずに例外のない必然性をもつ総合的命題がたくさん存在することは明らかである。特に空間についてはそうであろう。したがって、ここでは空間を例にとって考察を進めよう。

 幾何学の様々な定理は経験によらない総合的命題であって例外のない必然性を備えているから、そこでわたしは諸君に問いたい。「諸君はそのような命題をどのようにして手に入れるのか、つまり、そのような完全な必然性を備え、例外なく有効な真理に到達するには、我々の知性は何を拠り所にしているのか」と。それは概念かさもなければ直観以外にはないだろう。

 ところで概念も直観も経験によらないものか経験によるものかの二種類である。しかし、後者、つまり経験による概念にしろそのもとになる経験による直観にしろ、そのような概念も直観も経験によらない総合的な定理を生み出すことはできない。それらが生み出せるのは単なる経験による総合的命題だけである。それは経験に基づくものであるために、どの幾何学の定理も持っているような必然性も絶対的な普遍性も備えていない。

 したがって、そのような認識に到達するのは、経験によらない概念か直観のいずれかによることになるが、そのどちらをとるべきかは明らかである。なぜなら、概念だけから得られるのは分析的命題であって総合的命題ではないからである。

 例えば「二本の直線は空間を囲むことはできず、それだけでは図形を描くことはできない」という命題を取り上げてみたまえ。そして、直線という概念と数字の二という概念からこの命題を導けるかどうかやってみればよい。また、例えば「三本の直線があるときはじめて図形を描くことが可能となる」という命題を、同様にしてそこに含まれる概念だけから導けるかどうかやってみればよい。そのような努力は全て無駄であろう。

 そして、そのためには直観に頼るしかないことが分かるだろう。それは幾何学がいつもしていることなのである。したがって、諸君は直観によって対象を手に入れるということになる。ではそれはどのような直観であろうか。経験によらない純粋な直観であろうか、それとも、経験による直観であろうか。もし後者であるとすれば、普遍的な有効性を持つ定理も、例外のない必然性を持つ定理も、決してそこから生まれることはないだろう。なぜなら、経験によってはそのようなものは決して生まれないからである。

 したがって、諸君は経験によらずに直観によって対象を手に入れなければならない。そして、直観に基づいて総合的な命題を引き出さなければならないのである。

 ではもし、この経験によらずに直観する能力が諸君の中になく、また、形式の面から見ればこの主観的条件が、同時にこの(外向きの)直観の対象が存在するためには欠かせない普遍的で先天的な条件ではなく、さらに、この対象(三角形)が諸君の主観とは別個にそれ自体で存在するものだとすれば、諸君の側で三角形を形作るために必然的な主観的条件が、三角形本体にとっても必然的に当てはまると、どうして諸君は言えるだろうか。

 というのは、経験によらずに直観する能力がなければ、諸君がすでに持っている三本の線という概念に、図形という新しい概念を付け加えることは出来ないからである。ところが、この新しい概念は対象(三角形)の中に必然的に(経験によらない直観によって)見出さねばならないものなのである。なぜなら、その対象(三角形)は諸君の認識以前に(経験する前に)与えられているものであって、諸君の認識によって与えられるものではないからである。

 さらに、空間(時間も同様である)は諸君の直観の単なる形式であり、諸君が経験によらずに外側のものを対象として把握するための唯一の条件であって、この主観的な条件を欠いては外側のものは無に帰してしまう。だから、もし空間がそういうものでないとするなら、諸君は外側のものについて経験によらない総合的認識を得ることは全くできないだろう。

 したがって、空間と時間とは、我々の内外のあらゆる経験の必然的な条件であり、我々の全ての直観の主観的な条件でしかない。そして、これらの条件のもとでは、全ての対象は現象でしかなく、諸君の主観とは別個に与えられる物ではない。これらのことは単に可能なことやありそうなことではなく疑いもなく確かなことなのである。

 またそれゆえに、現象の形式については経験によらずに多くのことを言えるけれども、この現象の下にあるかもしれない「物それ自体」については何も言うことができないのである。

II 内向きと外向きの両方の感覚の観念性、つまり感覚の対象は単なる現象でしかないという意味で観念的なものであるというこの理論の正しさに確証が欲しければ、次のことに注目すればよい。すなわち、我々の知識の中で直観に属するもの──喜びや苦しみなどの感情や意志などはそもそも知識ではないからここには含まない──は単なる関係しか含んでいないということである。それは、直観のなかの様々な位置(広がり)であり、位置の間の変化(運動)であり、その変化を規定する様々な法則(動力)である。

 その位置に現に存在するものは直観できないし、位置の変化以外に物そのものに起こっていることも直観ではとらえられない。つまり、物それ自体は単なる関係からは知ることはできない。つまり、外向きの感覚は関係以外のものは何も教えないから、この感覚は対象と主観との関係をとらえることができるだけで、対象それ自体の内側までとらえることはできないと考えるべきである。

 これは内向きの直観についても同様にあてはまる。それは、もともと内向きの感覚の材料を作っているのは外向きの感覚がとらえたものであり、それで我々は自分の心を満たしているからだけではない。我々はこの外向きの感覚がとらえたものを時間の中に置き、このとらえたものを経験の中で意識するのに時間を前提とし、このとらえたものを心に抱く方法の形式的条件として時間を基礎としている。そして、まさにその時間の中身は、相前後して存在する関係と、同時に存在する関係と、相前後しながら同時に存在する(永遠に存在する)関係だけなのである。

 さて、我々が何かを考えるという行為の前に何かをとらえることができるのは直観である。その直観がもし関係しか含んでいないとすれば、それは直観の形式だということになる。

 この形式は心の内側に何も置かれない限りは何も含んでいない。ということは、この形式は、心が内側に何かをとらえる自らの行為によって自分自身が触発されるされ方に他ならない。つまり、直観の形式とは心が自分自身によって触発されるされ方であり、形式の面から見れば内向きの感覚である。

 これまでのところでは、感覚によって把握されるものは、すべてが常に単なる現象である。そして、我々が内向きの感覚の存在を認める以上は、内向きの感覚の対象である主観もまた、単なる現象としてこの感覚によって把握されることになる。

 これは、仮に我々の直観が(感覚を介さない)主観による自発的な行為であって知的なものであるとすれば、我々の主観が自分自身について判断するものとは大違いであろう。

 この理論で一番難しいところは、主観はいかにして内向きに自分自身を直観するかということである。しかし、これはどの理論でも簡単ではない。

 自己意識(統覚)は「わたし」という単なるイメージである。そして、様々なものがこの自己意識によって自発的に(感覚を介さないで)主観の中に与えられるのなら、内向きの直観は知的な(知性の働きによる)ものということになるだろう。

 しかし、人間の場合、自己意識が生まれるには、主観の中にあらかじめ与えられている多様なものが心の中で知覚される必要がある。そして、この多様なものが自発的でなく心の中に与えられる方法こそ、知的直観と区別して、感性と呼ばれなければならない。

 もし自己意識の能力とは心の中にあるものを把握することなら、心の中にあるものがこの能力を触発しなければならない。自己意識の能力はそうすることによってのみ自分自身を直観できるだろう。

 しかし、この直観の形式は心の中にあらかじめ存在するものであって、それが、心の中で多様なものが共存する仕方を、時間のイメージによって(相前後や同時にあると)決定するのである。というのは、心は自分自身を自発的に直接把握するのではなく、心が内側から触発されるのに応じて自分自身を直観するからである。したがって、それは、心のありようを表わしているのではなく、心が自分自身にどう見えるかを表わしているのである。

III 我々が空間と時間の中で直観するという場合、それが外側の対象に対する直観であろうと、我々の心による自分自身の直観であろうと、我々は対象が我々の感覚を触発する仕方で、すなわち、それらが現象として現れる仕方で、把握するのである。しかし、だからといって、これらの対象が単なる幻想にすぎないという意味ではない。

 というのは、人は常に、現象の中に対象もそれに属する特性も現実に存在していると考えるからである。しかし、与えられた対象と我々の主観との間の関係では、対象の特性は我々の主観によって直観されるその仕方に依存しているため、現象として我々に現れたものと、物それ自体としての対象とは、はっきり区別しなければならない。

 わたしは空間と時間が物体の存在の条件であり、わたしの魂の存在の条件となっていると考えており、空間と時間の性質は対象それ自体ではなく、わたしの直観の仕方に依存していると考えている。しかし、わたしがこう言ったからといって、物体は単にわたしの外側に存在するように見えるだけであるとか、わたしの魂はわたしの自意識の中に存在するように思えるだけだと言っているわけではない。

 現象と見なすべきものからわたしがもし単なる幻想を作り出しているのなら、それはわたしが間違っていることになるだろう(原注)。しかし、我々の感性による直観は全て観念的なものであるという我々の理論からはそんなことは起こらない。しかし、もし我々が感性による直観の形式には対象についての実在性があるなどと言い出したら、その時こそ全てが単なる幻想に転じるのを我々は防ぐことができないだろう。

 というのは、もし空間と時間は物それ自体の特性であるに違いないと考え、それ自体にも実体がなく、実体のあるものの中に現実に属するわけでもないこの二つの無限のものが存在しなければならないだけでなく、これらは全てのものが存在するための条件でもあり、さらには、存在するものを全て取り除いてもそのあとに存在し続けなければならない、という不合理なことを我々が考えているとするなら、物体を単なる幻想におとしめたあの善良なバークレーを我々は非難できないだろう。

 いやそれどころか、その場合には、我々の存在は、時間という不合理なものが独自に持っている実在性に依存していることになり、時間と共に幻想と化してしまうだろう。しかし、そんな馬鹿げたこと言いだした者は未だかつて誰もいないのである。

原注 現象は、例えばバラは赤いとか、バラは匂うとかいう風に、我々の感覚との関係にしたがって、述語として対象に直接当てはめることができる。しかし、幻想の場合は述語として対象に当てはめることは決して出来ない。なぜなら、我々の感覚との関係だけで対象に属するもの、あるいは一般的に我々の主観との関係だけで対象に属するものを、幻想は対象それ自体がもっているとみなすからである。例えば、土星に付いているとかつて思われていた二つの取っ手(訳者:実際は輪である)がそうである。

 現象とは、対象と密接に結び付いているが、対象それ自体の中ではなく、常に我々の主観との関係の中に見いだすべきものである。したがって、空間と時間のなかでとらえたことを、そのままの形で感覚の対象に当てはめてもそれは間違いではない。

 それに対して、もしわたしが、対象と主観とのある種の関係を忘れて、自分の判断をその関係の中に限定することをやめて、物それ自体としてのバラが赤いと言ったり、土星に取っ手があると言ったり、物それ自体としての外部の物体に大きさがあると言ったりしたなら、その途端に幻想が生み出されているのである。

IV 自然神学においては我々は、我々の直観によっては決してとらえることができないばかりか、感覚による直観によっては神自身にとってもとらえることができないような対象(神)を考えている。そして、我々は神自身が持っているあらゆる直観から注意深く空間と時間の条件を取り去っている。知性には常に限界がある以上、神が持っている認識能力は全て直観でなければならないからである。

 しかしながら、もし我々があらかじめ、空間と時間は物それ自体の形式であり、様々なものが存在するための条件であって、そこに含まれるものを取り除いても無くならないようなものと考えているとしたら、我々は神の直観から空間と時間の条件を取り除くようなことをしてどうして正しいと言えるだろうか。なぜなら、もし空間と時間が全ての存在の条件なら、この二つは神が存在するための条件でもあるはずだからである。

 ということは、もし空間と時間をあらゆるものの客観的な形式としないとすれば、空間と時間を我々の内向きと外向きの直観が持っている主観的な形式と考えるしかないということである。

 そして、この直観は本来の直観つまり対象の存在をもたらすような直観ではなく(そのような直観は、我々の知る限りでは、原存在(神)しか持っていない)、対象の存在に依存したものであり、イメージを受け取る主観の能力が対象に触発されてはじめて可能となるものである。したがって、この直観は感性による直観と呼ばれるのである。

 空間と時間の中におけるこの直観の仕方は、人間の感性だけが持っているものであるとは限らない。思考力のある生き物ならどれでもきっと人間と同じ能力を持っているに違いない。しかし、これが実際にそうであるかどうかを我々は断定することができない。

 しかし、感性のこの直観の仕方は、たとえ人間以外にも当てはまるものだとしても、だからといって感性による直観でなくなるわけではない。なぜなら、この直観は他に起源を持つ(intuitusderivativus)ものであって、決して本来の直観(intuitusoriginarius)ではない、つまり、この直観は知的な直観ではないからである。

 そのような知的直観を持っているのは、上に述べた理由から、原存在(神)だけだと思われる。それに対して、与えられた対象との関係のなかで直観によって自分の存在を明らかにし、自分の直観だけでなく自分の存在さえも他のものに依存しているような者が、知的直観を持っているとは思えないのである。ただし、この説明の(§8)は我々の『感性論』の解説であって、証明と取るべきではない。

超越的な感性論の結論


 ここにおいて、我々は「経験によらない総合的な判断ははどのようにして可能か」という、超越的な哲学の普遍的問題を解くために必要な要素を一つ手に入れた。それは、空間と時間という経験によらない純粋な直観である。

 経験によらない判断において、我々が与えられた概念の外へ行くときには、その概念の中には見つけることはできないものに、空間と時間の中で出会うのである。それは与えられた概念に対応する直観の中に経験によらずに見つけることができ、しかもこの概念と総合的に結びつけることができる。

 しかし、この経験によらない総合的判断は、このように直観に基づいているために、感覚の対象を越えて行くことはできず、経験可能な対象に対してのみ有効である。

 誤字脱字および意味不明の個所に気づいた方は是非教えて下さい。

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