『私見・偏見』全



私見・偏見(2010年)



『素数入門』(ブルーバックス) 誤植一覧

第1刷には誤植が多くて、それもこの本の難しさにつながっているようだ。

p119 (1型の素数)の式が間違ってる。=(1型の素数)→(1型の素数を因数とする合成数) =4(ab+a+b)+1 →=4(4ab+a+b)+1
p125 ガウスの学位論文のラテン語の題名は後半がデタラメ。prim vel secondi qradus reselvi passe→ primi vel secundi gradus resolvi posse(これは2刷以降でも直っていない)
p130 2乗の式もあきらかに間違ってる。2a2=b2→2b2=a2 
p143 -9≡3(mod10)はおかしい。
p150 式の最初の行に-をつけているが、次の行からのはず。
p153 最後の式も合成数の式なのに、(13-1)!にしてるが(12ー1)!でないと論旨と合わない。
p196 T7-4はT7-5ではないのか。
p221 「kの約数は2の2つだけ」は「kの約数はこの2つだけ」の誤植だろう。
p222 積AB・ACは明らかに積CB・ACである。
p223 [Ada]→[Ad2]
p234 (mod p)→(mod q)
p235 計算例b│aの対応がずれている。5│101・・であるはず。さらに、最後のaは素数の積になっている。
p235 例 n=15なのに(mod 5)となっている。(mod 15)の間違いだろう。
p245 証明の(mod p)→(mod n) r≡0→r=0
p250 証明の「T8-4によって」は「T9-4によって」であろう。T9-6とT9-7の証明でもT9-4が使われているが、ここで初めてこれを使うことが明記されている。また、3個のord(n)はどれもordn(a)の間違い。ab-c≡0(mod p)はab-c≡1(mod p)の間違い(nの場合を使う。なおap-1≡1(mod p)よりordp(a)=p-1)。
p251 「奇素数pの原始根はφ(p)=(p-1)個ある」はおかしい。「奇素数pの原始根はφ(p-1)個ある」のはず。

p266 「{α、β}を得る。α={65,56}」はおかしい。γ={65,56}の間違い。

これらは第2刷以降の本で訂正されている。

また「合同方程式の係数はそれと合同な数に置き換えてよい」と明記していないので、無用な難解さが生じているし、p200に突然登場する「完全代表系」の説明がどうやら抜けている。「既約代表系」(たぶん=既約剰余系)も同様である。

p236の(2)に対応する(1)がないが、p237の最初の(1)に対応する(2)もない。おそらく原稿ではこの(1)はp236のものでそこの(2)に対応するものだったのだろう。

また、フェルマーテストの条件である底aがa
p249の位数がある数の合計12個の表は素数13についてのものだが、なぜここにあるのか説明がない。この表は実際に総数が個別の合計と合っている確認するためだから、Σφ(d)=p-1のあとに来るものだと思われる。

p258 チェックの 710+12k云々は意味不明。結局710にもどっている。

p263 最初の(1)はd|nではなく、n|p-1につくのが正しいと思われる。

以上から、この第1刷はゲラ刷りを著者が充分手を入れずにそのまま印刷してしまったものではないかと推測される。

なお、この本には講談社のホームページに正誤表があるが、ここで指摘した誤植はほとんど含まれていない。つまり、この他にもたくさんの間違いがあるということである。

(2010年11月12日)








『数論入門』(ブルーバックス)P29の「素数が無限にあることの別の証明」を丁寧に書く。

素数が3個しかないとする。これらをp,q、rとする。

N→∞ のとき N÷(log2N+1)3 →∞

(log2N+1)3<N のような N>0 がある。

N 以下で paqbrc のように表される正整数の数を考えると、

paqbrc≦N から
2a≦pa≦N、2b≦qb≦N、2c≦rc≦N

このlogをとると、

a≦log2N、b≦log2N、c≦log2N

これらの不等式の両辺にそれぞれ1を足してから掛けると、

(a+1)(b+1)(c+1)≦(log2N+1)3

ところで、paqbrcの因数の数は(a+1)(b+1)(c+1)である。

だから、求める正整数の個数は(log2N+1)3以下である。それは、Nよりもさらに小さい。

したがって、N未満でpaqbrcで表せない正整数が存在する。つまりp,q,r以外の素数が存在する。(2010年11月12日)







テレビのデジタル放送の二カ国語放送を録画しても二カ国語にならないで日本語しか録画されないことがある。例えば『刑事コロンボ』なら二カ国語になるが『名探偵モンク』や『ER』は日本語だけになる。

これはなぜか。それはテレビ欄にはどちらも二カ国語放送と書いてあるが、コロンボは単純な二カ国語であるのに対してモンクはマルチ音声の二カ国語だからである。そしてマルチ音声の場合は普通にVR録画(DigaのXP~LP)すると二カ国語に録画出来ないのである。

ではどうするか。ディーガならDR録画、ヴァルディアならTS録画すると二カ国語になる。

ところで、ここから先が、ディーガとヴァルディアの違うところである。ディーガではDR録画以外では全部だめなのに対してヴァルディアはTSE録画でも二カ国語で録画できるのである。TSE録画とはディーガのAVCREC方式によるハイビジョン録画に相当する。

逆に言えば、ディーガのAVCREC(HG~HE)ではマルチ音声の二カ国語放送は二カ国語で録画出来ないのである。さらにディーガではマルチ音声の二カ国語をDR録画したものはDVDに保存出来ない。保存したければブルーレイのあるデッキとディスクを買うしかないのだ。

ところが、ヴァルディアではTS録画したものだけでなくTSE録画したものもDVDに保存できる。というわけで、二カ国語放送の録画でも、ディーガよりヴァルディ(ただしSかXがつく機種。しかも最近出たブルーレイでない機種))の方が高機能だということができる。(2010年2月12日)







それにしても『新釈現代文』の中の問題を自分でやって行くと、なかなか正解しないことは驚くほどである。現代文ぐらい読めるようになっているはずなのだが、まちがってばかりいる。

しかしながら、丸谷才一が自分の文章を使った入試問題で一向に正解が出せないとどこかで書いていたから、我々ごときが解けなくてがっかりすることはないようである。逆に言えば、入試問題というのはかなりテクニカルなものなのだということでもある。

しかし、だからといって、そんなテクニカルなものばかりを身につけさせる受験勉強はむなしいとか、そんなことを小学生からやらせる塾の存在をけしからんと言うのはどうだろうか。

実は塾の勉強はそんなテクニカルなことばかりではなく、もっと高度で本質的なことを教えているのだ。それはこの『新釈現代文』や伊藤和夫の英語の授業の教えることがテクニカルなものでないのと同じである。

要するに受験勉強とはかくも高度で難解なものなのである。そして、それを経験することが子供たちの知識と思考力を決定的に高めることにつながるのである。その割に日本のノーベル賞受賞者が少ないと言ってはいけない。受験によって身につく思考力はそのスタートラインに立つ程度の力でしかないからである。(もっとも私はこの本の正解はかなり間違っていると密かに思っている)(2010年2月10日)







昔、受験勉強で使った国語の参考書『新釈現代文』が文庫になって復活したというので早速買って来て再読してみた。これは実に内容豊かな本で、単なる受験参考書の域を超えている。

現代文の受験問題を解くためには、当然、現代文を理解する必要があるが、そのためには、まず現代文を書く人たちの知的レベルに近づいておく必要がある。この本はそこから教える。

現代文の根底には現代の思想があるが、その基には近代精神がある。それは人間主義、合理主義、人格主義の三っである。筆者はこの三っの思想を順番に詳しく解説していく。

例えば、人格が「自己自身を目的とする自律的な自由の主体」であるとする人格主義の発展にカントが大きく寄与していることを、入試の出題文を通じて明らかにするのだ。

そのような予備知識と同時に必要なのが、論理的思考力である。そして、そこまでたどり着くと次に、実際にその思考力の使い方を個々の入試問題の文章を細かく分析、解読してみせることで、読者に教えて行くのだ。

これと類似のことを英語でやったのが駿台の伊藤和夫であろう。現実に文章を読むときには、こんな細かいことを意識していたら疲れてしまうが、学生時代の入試という一時期に一度徹底的にこんな厳しい思考力の訓練をしておくことは有意義なことに違いない。

(ところで、こんな本であるから筆者の文章は理屈が勝ちすぎて非常に読みづらいものになっている。例えば16ページの最後から2行目、「つまり、読者を予想して書かれた文章が、そういう性格を持ったものとして取り上げられているのです」の「そういう」が何を指すか分かりにくい。ここは「それがそういうものとして」という同語反復をさけた表現方法が使われていると見て、単に同じ文章の前半の「読者を予想して書かれた」をさすと見てよいのではないか。つまり、「読者を予想して書かれた文章が、読者を予想するという性格をもった文章として取り上げられている」として、特にその性格に注目した表現であると)(2010年2月9日)






『新釈現代文』(ちくま学芸文庫)が末尾で推薦している田宮虎彦の『絵本』を読んだ。人や社会を憎む「私」を描いていて読後感が良くない。わざわざ苦学生の道を選んでおきながら、その苦しさに喘いで人を憎むのは筋違いだろうと思ってしまうのだ。

ところが、作者の経歴を見ると、この人は貧乏人ではない。大学時代にも華麗な交友関係を築きながら、着々と作家への道を歩んでいるのだ。

とすると、この話はフィクションなのである。太宰が自分の人生を切売りして小説を書いたのとは違って、他人に取材して書いたものなのだ。『菊坂』では業界誌に勤める男が書かれているが、作者は小説を書くかたわら今の東大新聞、東京新聞、女子高教師とちゃんとした職業についている。

なるほど人の話ならば、自分の不幸を人のせいにする話も書けようというものだ。そうやって人間の不幸とはかうしたものだと描いて見せたのだろう。しかも、文章がうまい。読ませる力がある。

しかし、そのうまさが例えば『足摺岬』の書き出しでは仇(あだ)となっている。雨の描写に凝りすぎていて、これはフィクションだと最初から思ってしまうのだ。そして作り物だと思ったら、後を読む気はなくなってしまう。

そうなると、『絵本』の結末で下宿の寝たきりの少年との別れ際に「私」が絵本を買ひ与えるのも、これは梶井基次郎の『檸檬』をまねたのだろうと思ってしまうのである。結局、これは私小説を装ってはいるが私小説ではないのだ。(2010年2月7日)






ブラウン管テレビに地デジのDVDレコーダーをつないで地デジ放送を見ると、上下に黒い帯のついた横長の絵が映る。その帯をとって拡大した絵にするには、ディーガならサブメニューからサイトカットという機能を使う必要がある(ヴァルディアはこれが出来ない)。しかし、これはチャンネルを換えるたびに元にもどってしまう。

DIGAでもVARDIAでも、録画したものを再生するときは、初期設定でパンスキャンを選択しておくと、自動的に黒い帯のない大きな映像が映るが、放送中の映像にはこの機能は自動的に働かないのだ。

だから、いずれは地デジチューナーつきの横長テレビを買うしかないと思っていた。ところが、調べてみると、後付けの地デジチューナのなかに初期設定でパンスキャンを設定しておくと、自動的にサイドカットした映像を見せてくれるチューナーのあることがわかった。

地デジチューナも色々あって、ただ単に横長の絵を映すもの、上下左右に黒帯が付く場合だけそれをカットして拡大した絵を見せてくれるもの、ズームボタンなどでその都度サイドカットする必要のあるものなどがある。しかし、それでは小さいテレビは見づらいし面倒である。

それに対して、初期設定で放送映像をサイドカットしてくれるパンスキャン機能のある地デジチューナなら、今と同じ大きさの絵が映るから小さいテレビでも大丈夫、もう横長テレビに買ひ換える必要はない。

これを古いブラウン管テレビにつなぐと、これまで見ていたのと同じ映像から「アナログ」という右上の表示がないだけの絵を見ることができるのだ。地デジの映像であることを意識するのはチャンネルを切り替へる時に少し時間がかかるのと、朝の時間帯に時刻表示が左上に「分」しか映らないことだけである。私が見つけたのはユニデンとそのOEMのヤギの製品である。(2010年2月4日)








 公立図書館がベストセラー本の寄贈の募集なんてすべきでないと思う。本の寄贈を求めるのに、本の選り好みをするのは本に対して失礼である。

 ところが、ベストセラーの寄贈は募集してそれ以外の寄贈は断わるのだから、役人のご都合主義とはこんなものなのだ。

 以前は本の寄贈を募集していた当地の県立図書館も最近はしていないのは、もちろん使へない本ばかり寄贈されるからであらう。だからといって、使へる本だけの寄贈を求めるのは寄贈してくれる人にも本にも失礼だ。だから大っぴらな募集などしないのがよいでのである。

 図書館はベストセラーの貸出を求める利用者には「ベストセラーの予約に全てお応へすることは出来ません」とでも言へばよいのである。そうしないのは憲法の「最低限の生活」条項のせいだろうか。

 しかし、ベストセラーというのは、買って読む人が多いからベストセラーなのだ。それを図書館で借りて読まうとするなんて、まさに「さもしい」のである。

 そもそも生活保護費には本代も含まれているはずである。だからベストセラーぐらい自分で買って読めばいいのだし、読まなくてたいした事はない。しばらくするとすぐにすたってしまうのが流行なのだから。(2010年2月1日)


私見・偏見(2009年)


吉村忠典著『支配の天才ローマ人』にはローマ人の支配の天才ぶりなどは少しも書かれてゐない。

この本で著者が言ひたいのは、ローマの世界支配は全てがパトロネージ(パトロン関係)の延長であり、法に基づいたものではなかつたといふことである。だか らそれを現代の国際法の概念で理解しようとしても意味がないといふのである。

 しかし、そんなことより、この本を読んでゐると、ローマの支配は現代のアメリカが世界を支配して行つた過程とあまり違はないといふ印象ばかり受ける。 ローマは抵抗する者には武力を使ふが、服属する者は自由を与へて行つたのである。

 また、征服した国には親ローマ派で富裕層中心の政治体制を与へて行つた。しかし、そこでは必ず反ローマ派である貧困層がその政治体制に反発して革命を起 こさうとした。そして、その目的は必ず土地の再分配と債務の帳消しだつた。

土地の再分配と債務の帳消しを実際に行なつたのはスパルタだつた。著者にとつてはスパルタは改革を実行した民主的な国であり、民主的な政治制度をもつてゐ る国に見えたやうだ。一方、富裕層中心の法制度は民主的ではないらしい。

しかしなが、現代世界のどこを見ても、どの国も富裕層中心の政治体制であり、それでゐてその多くが民主主義なのだ。著者はかなりマルクス主義にかぶれてい ゐるのではないかと思ふ。(2009年12月29日)







ところで、担当医(=研修医)が自分の患者のその後の経過を知りたいと思ふはず、といふ私の目論見は全くの見当違ひであることが分つた。

私たちを迎へた彼は、自分の担当患者の現在の体調には全然興味を示すことなく、自分の仕事を増やした私たち対して不快感を隠すこともなく、家族のかかりつ け医の診療所に必要な薬がないことを私たちの目の前で電話で確認してから、別の開業医を紹介しただけなのだ。

家族の病気であちこちの病院の救急医にかかつてみて分かつたことは、彼らがみな研修医ばかりだといふことである。それは休日だけでなく平日もさうなのであ る。

まともな医師たちはみんな外来診療を担当したり手術をしたりして、研修医とはかけ離れた日々を送つてをり、その皺寄せが全部研修医か後期研修医といふ卒業 後5年目までの医師の卵たちに来てゐるのだ。

よく医師不足と言はれ、また一方で医師の数は足りてゐると言はれるのは、比較的楽をしてゐるベテラン医師たちと、救急や時間外診療などの過剰労働を全部受 け持たされてゐる医師の卵たちとの落差から来てゐるに違ひない。

つまり、経験の面でも労働環境の面でも半人前でしかないのに、研修医たちの仕事の量はべらぼうに多い。そんな彼らの出来る事は、自分たちの生き残りをかけ て、患者をよその病院や開業医に回すことなのである。

だから研修医たちが自分の患者に対して医者らしい態度をとる余裕など何処にもないのは当然なのである。

一つ言へる事は、病院でまともな医者に診てもらひたければ、救急車で病院には行かずに、歩けるうちに外来診療を受けることだ。 (2009年12月4日)





先日家族が病院で手術を受けて退院したが、家に帰つて診察券をもらつてゐないことに気がついた。

それに関して、担当医(彼は研修医である)の下にゐる研修医が、入院中にしきりに、やつてきて退院後はかかりつけの開業医に連絡するから、そこで診てもら つて欲しい、術後の経過がよくない場合だけ私に電話してきて欲しいと言つた、といふ家族の話を思ひ出した。

退院後はこの件で病院の外来に来るなといふことで、それなら診察券は要らないはずだからである。

しかし、医師が自分の担当した患者のその後の経過を知りたくないはずはないし、患者が担当医に頼りたいといふ気持ちを持つのは当然のことだ。

さう思つて、私は、かかりつけの開業医が病院の下請けをするのに不熱心なこともあつて、外来の予約をとつて担当医に診察を受けさせた。

予約は取れてその時間に病院に行つた。ところが、病院の電子掲示板には私の家族の診療番号が一向に掲載されない。昼の12時を過ぎても載らない。1時にな つても載らない。

昼食抜きで待つてゐるのは体に悪いし、順番は当分来さうにないので、病院の食堂で何か食べることにした。食堂にも順番を示す掲示板がある。

昼食をとつて一息ついてやつと順番が来たのは何と3時半だ。診察が終つて薬をもらつて家路についたのは4時半。午前中に行つてこれなのだ。

しかも、そんな時間まで診療してゐたのは、この担当医=研修医ただ一人だつたのである。他の医師たちはみんな12時過ぎには診療を終へてゐた。

私の家族にあの研修医があんなことを言つたのは、この担当医のこの現状を見かねた上でのことだつたのだと、その時私は気付いた。

医学の現場では研修医たちにこのやうな過酷な労働が課せられてゐるのである。

もちろん、休日も平日も救急は研修医の仕事だ。一方、他の医師たちは手術や自分の名前が出る外来診療を週二回やるなど決まつたことをするだけなのである。

どうやら医者の世界はまだ徒弟奉公が生きてゐるやうである。

このやうな状況に置かれた研修医たちにとつての唯一の興味は、いかにして自分の仕事を減らすかになつて当然である。それが研修医の外来に来るなといふ 言葉であり、さらには救急車たらひ回しの原因なのである。(2009年12月2日)







 パナソニックのDVDレコーダ、ディーガの難点は、早送りと巻戻しのスピードがうまく設定されていなくて、見たい場面を探すと きに、なかなか思ふところに行かないことだ。低速ではなかなか進まないくせに、少しスピードを上げると、遥かかなたにまで行き過ぎてしまふのだ。

 ヴァルディアはこの辺のスピード設定がものすごく繊細に出来てゐて、出したい場面を比較的簡単に出すことが出来る。また停止状態からそのまま早送りがや 巻戻しが自由に出来るのも優れてゐる点だらう。

 これはチャプターを切るときに大きな違ひとなる。ヴァルディアだとさらに画面のコマ数まで指定できるのだ。

 VR方式のビデオをVIDEO方式に変換するとき、チャプターが消えてしまふことがあるが、その時は変換したものに手でチャプター入力するしかない。し かも、後者ではチャプターを前者の2秒遅れて打つ必要がある。

 そんなとき、ヴァルディアだとVR方式の方のチャプター位置の時間をコマ数までメモしておけば、2秒足して、VIDEO方式の方にチャプターを打つなん てことが、比較的簡単に出来る。

 画面を見ながらチャプターを打つと絶対にずれるし、ディーガのチャプター編集だと前へ行つたり後ろへ行つたりで、いらいらして仕方がないが、ヴァルディ アだと簡単に近い場面まで行って、あとはコマ数まで正確に、ジャストの位置にチャプターを打てるのだ(なほ、これは現行の最新機種についての感想ではな い)。 (2009年11月18日)







叔父の入院生活はもう何年にもなる。その間に相部屋の老人たちはみんな入れ替つてしまつた。お亡くなりになつたかどうかは知らないが、酸素マスクが付いた り、心拍計がベッドの横に置かれたりすると、翌週にはもうゐなくなつてゐることが多い。

さうするとしばらく空のベッドになることがあるが、すぐに次の爺さん婆さんがやつてくる。こんどの隣のベッドは上品な婆さんでちやんと口を閉じて横になつ てゐる。上を向いてゐるが単に休んでゐるといふ雰囲気だ。

ふと目をやると婆さんと目があつたりするが無言である。一見何の不自由も無ささうに見える。それでも直接胃から食物をとつてゐるやうだから、寝たきりなの だらう。

翌週も夕方に病院に行くと、同じ婆さんがゐる。私は叔父の手首をしばつてゐる紐をほどいてミトンもとつてやつてから、婆さんに背を向けて椅子に座り、テレ ビをつけて一緒に見てゐた。

すると後ろでその婆さんが何かか細い声で言ふのが聞こえた。近くにゐた看護婦が婆さんのもとに駆けつけて、「どうしたの。何て言つたの?」と声を掛ける が、婆さんは黙つてゐる。心配した看護婦がなほも声を掛けるが何も答へようとしない。

仕方がなく看護婦は帰つてしまつた。私はまたテレビに視線を戻して見てゐた。するとしばらくして、また背中で何か言ふのが聞こえる。私は婆さんが何か困つ てゐるのではないかと思ひ振り向いてみるが、無言である。

それでまたテレビを見てゐると、また背中で何か言ひかけたので、すばやく振り向いて聞き耳を立てた。それでやつと婆さんの言葉がわかつた。婆さんはかう言 つてゐたのだ。「暗くならないうちに早くお帰りください」

どうやら私の方が婆さんに心配を掛けてゐたのだと覚つた私は、急いで叔父に「では、帰るね」と声を掛けて病室を後にしたのであつた。(2009年10月 29 日)







叔父のゐる病棟は患者が生きて家に帰ることのない病棟である。みんな上を向いて口をあけてベットに寝てゐる病棟である。

一日に何をするといふわけでもないが、もちろん病院としてはリハビリ、つまり回復訓練はする。誰かが回復して家に帰つたかどうかは知らないが、希望のため にしてゐるのは確かだらう。

ここの病人たちはみんなボケ老人たちだ。しかし、ここは精神病院ではない。少なくともさう呼ばれてはゐない。しかし、みんな礼儀は心得てゐる。私の叔父も さうだが、最近叔父の病室の来た婆さんたちもさうだ。頭もボケ、体も自由にはならないが、私が叔父の見舞ひに行くとしきりに話しかけてきてくれる。

隣の婆さんはまだ60代だが、私が行くと「にいちやん」と言つて話しかけてくる。この間などは、誰と思つたのか知らないが、早く誰それと食事をしておい で、しきりに勧めてくれる。

適当に相槌を打つてゐると、今度は向かひの婆さんが何やら話し始めた。どうも独り言のやうではあるが、誰かに話しかけてゐるやうなので相槌をうつてやる と、「うまいものを食つてもしょんべんになつて出て行くだけや」としきりに愚痴を言ふ。

看護婦が入つて来てもそんなつぶやきの相手になつてやる人はゐないが、こんなところで一人で寝かされるのも、明日は我が身だと思へばこそ、黙つても居れな いのである。(2009年9月27日)







週に二回ほど叔父のゐる病院に行く。叔父との付き合ひは元気な時にワープロが壊れたので自分の同じ機種をあげたら、お返しにニコンの一眼レフをもらつた程 度で、それ以前はろくに話もしない人だつた。

ただ、その一眼レフをくれた時に説明書をもらひ忘れたので、また叔父の家まで4キロの道を自転車でもらひに行つたら留守で、帰つてみると叔父が自転車で行 き違ひにわざわざ届けてくれてゐたといふことがあつてからの付き合ひである。

叔父はボケてはゐるが心使ひは忘れてゐなくて、隣の部屋の水屋に○○があるから食べて行きなとか、食券があるからこれで食べて帰りなと、よく言つてくれ る。

自分はどうやらボケてゐるらしいことも知つてゐて、後の事を私に頼んだりする。しかし、もう入院して何年にもなると、言ふこともなくなつてきて、「いつぺ ん家に帰つてみようかなあ」などと言ふが、何も言はずに帰つて来ることもよくある。

叔父は胃に流動食を入れる管を外してしまふので、食事時には手にミトンをはかされ両手首はベッドの枠にタオルと紐で縛られることになつてゐるが、家族が行 つたときは紐をほどいてあげられるから、なるべく行くやうにしてゐるのである。

叔父は自分がくくられてゐることを「また逮捕されてしまつてなあ」と本気とも冗談とも分からない言葉で言つてゐたが、最近は何も言はない。それでも紐をほ どいてやると一生懸命自分でミトンを外さうとする。

こちらでミトンまで外すと管を抜いてしまふので、食事が終はるまではそのままにしてゐるが、食事が終つて看護婦が管を外したら、私はミトンを外して家へ 帰るのである。(2009年9月26日)







 自民党の総裁選挙の演説をyoutubeで三人とも見たが、河野太郎が一番よかつたと思ふ。一番説得力があつた。

 あとの二人はありきたりの事しか言はなかつたし、民主党や反自民のマスコミの土俵で喋つただけだつた。いまさら脱官僚とか地方再生とか言つても、それで は民主党と同じである。

 ところが、河野太郎だけが物事を別の観点から喋つてゐた。今批判されてゐる小泉改革路線を敢へて肯定してみせるのである。そして民主党とは違ふ政治、お 金を配る政治ではなく、仕事を作る政治をやると言ふのである。

 これを彼は「小さな政府」といふ言ひ方をする。もちろん社会保障などに金はかかるが、それは地方にまかせて中央が扱ふ金は小さくするのだ。規制緩和もタ クシー業界などの小さな企業からではなく、大きな企業に対する外資の緩和などからやるべきだといふ。

 要するに、彼の演説だけが独自性があるのだ。世代交代を強調して党内に敵を作る部分は、和を尊ぶ日本人の価値観からすれば外れてゐるやうに見える。しか し、安倍首相を最初に駄目にしたのは誰より彼が指弾する青木と森だつたのだ。

 彼はこれまで民主党に一番近い政治家だと思はれてきたし、わたしもさう思つてゐたがさうではない。彼は保守である。自由主義者である。民主党とは違ふと いふ点を誰よりも彼が語つてゐるのだ。

 河野太郎を自民党の総裁にするといいのではないかと私は今思つてゐる。野党の党首として必要なのは演説の力だ。彼はそれをもつてゐる。そして演説の力を 評価することこそ、民主主義の本質であるはずなのである。(2009年9月21日)







小学生のとき水泳クラブに入つてゐたことがある。たまたま授業で泳いだら速かつたので目に止まつて誘はれたのだ。それで夏休みには何度か練習に行つた。

ところが、お盆で婆ちやんの田舎に泊まりに行くために一度練習を無断で休んだことがあつた。それで気がとがめて、あとで同じクラブの子に聞いてみた。

「俺こないだ練習休んだけど、何か言つてなかつた?」。すると返へつて来た答へは「○○君(私)のことなんか誰も何とも思つてないよ」と云ふものだつた。

へえ、そんなものかなと思つたものの、もうそのクラブの練習には行きづらくなつてそのまま辞めてしまつた。

しかし、当時は思ひもしなかつたが、今考へると、彼は意地悪を言つたのである。教師といふものは生徒が黙つて休んだら非常に気になるものだし、ほかの生徒 も気にするのが普通だからである。

もともと私は一人ッ子で人に好かれることに気を使はないし、人に嫌はれても気にならない方なので、私はその子にとつて余程癪に障る存在だつたらしい。

しかし、「人が誰も自分のことを何とも思つてゐない」といふ考へ方は、小学生では中々身に付け難いもので、だから、彼の言葉は言はれた場所と共に私の記憶 の中に鮮明に残つてゐる。

その彼は若くして病気で死んでしまつた。そのことには彼の人生に対するああした冷笑的な考へ方も影響したのではないかと、小説『白い犬とワルツを』を読ん だ今思つてゐる。

人はどんな病気にならうが、自分の死に時は自分が決めるものなのだ、とその小説の中の医師が語つてゐるからである。私も人に嫌味を言ふときには、自分の人 生観に跳ね返つてこないやうに、気を付けようと思ふ。(2009年9月15日)







加古川のアラベスクホールの新人演奏会、最後に軍艦みたいな女の人が入つてきた。「よッ真打登場」と声を掛けたくなる恰幅だ。それで歌いだしたのが、後で 調べたのだが、Dein blaues Augeである。

出だしから声量がある。しかし、これは声慣らしで、本番はMon coeur s'ouvre a ta voix。これがどんな曲かはユーツベにマリア・カラスのがある。その最後のAh! verse-moi,Ah! verse-moi l'ivresse!の盛り上がりが聞き所だ。

いやもう、その声量の豊かなこと、響きの美しいこと。聴衆の心を完全に奪つてしまつた。聞いていた私の背筋には電気が走つたほどだ。そうだよ、こんなのを 聞きたくて、演奏会に来たんだよ。

それまでの人はうまい人は完璧にうまいんだが、個性がないといふか、訴へて来ない。美人のお嬢さんが上手にどこも失敗せずにやり終へたといふ感じで、退屈 してゐたのだ。そこへ、このぽッちやりタイプの軍艦姉ちゃんがやつて来て、あの迫力でやり始めたのだから、待つてましたと聞き入つてしまつた。

パンフレットを見ると船越優とある。東京芸大を卒業仕立てで、高校は姫路の日ノ本学園。当然のことながら、一番たくさんの拍手をもらつた。帰りがけに鳴り 続く拍手にこたへて客席を振り返つて会釈してゐた。愛嬌もあるのだ。きつと売れるよ。(2009年9月13日)








塾とか家庭教師とか言つても、週に一回程度のものであるから、塾に通つたら、家庭教師をつけたら、子供の成績が上がるなどといふことはない。特に英語はさ うである。

英語は言語であるから毎日勉強しないと決して身には付かない。数学なら問題の解き方の理屈を教はつて来たら、それで勉強がはかどるやうになる事もあるだら う。しかし、英語は理屈ではだめで、どうしても慣れが必要なのだ。

といふことは、英語の教師は教室で問題の解き方を教へるのではなく、毎日勉強をやり続ける気持ちを植え付けてやらないといけないといふことになる。

ところが、それが難しいのだ。日本で暮らしてゐる限り英語は必要がない。英文など読まなくても翻訳がある。英語の勉強の面倒さを知れば知るほど、誰もがさ う思ふやうになつても不思議ではない。

また中国人のやうに自分が使つている言葉と英語の文法が似てゐて、主語述語目的語の順番が同じ国民ならまだ勉強できるだらうが、日本のやうに全然違ふ語順 の言語を使つてゐる国民にとつては、英語は学びにくい事この上ない。

この主語述語目的語の語順が分からないのに、それをさらに受動態などと言つてこの順番を引つ繰り返したりなどすれば、もうちんぷんかんなのだ。やはり普通 の日本人にとつては英語は無理なのである。(2009年9月8日)







最近では面白い話をする芸能人が多いが、千原ジュニアもそんな話の名人の一人である。先日も『明石家電視台』の中で一つ披露して喝采を浴びてゐた。

それは、タレントの陣内友則が離婚した後、今後の芸能活動について悩んで「僕、これからどうしたらいいでせう」といふ相談メールを先輩たちに送つたときの 話である。

最初に送つた紳助は「お前には才能があるから大丈夫」と暖かい励ましの言葉を連ねた長文の返事を送つてきたといふ。次に同じ内容のメールをさんまに送つた ところ、たつた一行「そんなことより、俺おもろい?」といふ返事が帰つてきたといふのだ。

もちろん陣内は紳助の返事にも励まされたが、さんまの返事には「ホンマに感動した」と言つてゐると言ふのである。そして若手芸人の間でこの一行をメールで 返信するのがはやつてゐると付け加へて、場内の爆笑を買つたのである。

ところで、この一行メールが送られたのは実際には陣内の離婚会見の前のことで、しかも会見をどうしたらいいかといふ問ひ掛けだつたと云ふことがネットを見 ると分かる。しかも、このメールの話はさんま自身がラジオ番組で話したことだつた。

つまり、千原ジュニアの話は巧みに脚色された話だつたのである。時期が違ふ二つの話をうまく組み合わせて対照させ、さんまと紳助の性格の違ひを際立たせて 面白話に仕上げたものだつたのである。

たまたまネタ元が分かるこの話のおかげで、千原ジュニアの話のうまさが単なる偶然の産物ではなく、しつかりとした作話力に裏打ちされ準備されたものだとい ふことが垣間見れたといふ次第である。(2009年8月29日)







NHKがBSで刑事コロンボの再放送をしているが『黄金のバックル』が放送されないのでTUTAYAで借りてきた。

この作品は犯人となる女性ルースの誇り高い姿に感銘を受けた作品で、ラストの場面は昔見たとき感動の涙をこらへるのに精一杯だつたが、今度見ても同じだっ た。

「私がパパを殺したなんていふのは嘘ですよ。そうでしよ。わざと嘘をついたんでしよ。はつきりと言つてやつてください」とコロンボに迫るルースの言葉は、 私一人が犠牲となつてこの家を守つてきたのだ、その平和をいま乱さうとするコロンボを許さないといふ彼女の決然たる姿勢を示すものである。

もちろん、ここにはコロンボに追ひつめられたルースが、ただでは犯行を認めず、これを嘘と認めさせることを交換条件とする気丈さが表れてゐる。それを知つ たコロンボが「おつしやる通り、嘘です。根も葉もない嘘ですよ」と引つ掛けだつたことを認めざるを得なくなる。

かうして勝利を得たルースはおもむろに立ち上がつて身だしなみを整へると、満足げにかう言ふのだ。「コロンボさん、手をとつて下さる?」。私はこの場面で グッと来ない人はどうかしてゐると思ふ。

この年になつて殿方に手を取つてもらへるのは私の方なのだ。若いころに自分の婚約者を奪つた美人の姉ではない。このせりふは、老いて男に相手にされなくな つた目の前の姉に対する勝利宣言でもあるのだ。(2009年8月26日)







よく日本語は習得が難しいと言はれるが、英語もかなり難しい言葉である。何と言つても発音が滅茶苦茶覚えにくい。

とにかく見た通り読むと必ず間違ふのである。例へばFといふ文字がある。これはエフと読むことは誰でも知つてゐる。ではOFはどう読むか。エフだからオフ だらうと思ふと間違ひなのだ。

ところが、中学校の英語の授業ではかういふことをちやんと教へない。だから、OF  COURSEを中学三年間ずつと「オフコース」と読んでゐる中学生が無数にゐるのである。ところが、イエス、オブコースといふ言ひ方は聞いて知つてゐる。

そのほかにも、英語ではAはエーだが単語の中ではエイと読んだりアーと読んだりオーと読んだり様々で単語ごとに覚えるしかない。ところが、中学校ではそれ を正確に教へない。

だから、TALKが読めない。タルクと読んだりする。しかし、トークといふ言葉は知つてゐるのだ。WALKもさうだ。

またWARをワーと読んだりする。もちろん戦争がウォーであることは「スターウォーズ」から知つているのだが文字と結びつかない。

Oにも似たやうなことがあつて、オーなのにアーと読むことが多い。例へばWORKは、ホームワークのワークだからとOはアーと読む。しかし、ウォークと読 んでしまふのだ。

今の中学生はこんな間違ひを一杯抱へたままで英語を勉強してゐるのだ。だから、教科書の英文が正しく音読できない。音読できなければ黙読は出来ない。本が 読めなければ意味も文法も身につかないのである。

小学校でいくら英会話をやらせても、こんな調子で中学の間に英語を全部忘れてしまふのが今の日本人なのである。(2009年8月20日)







8月15日はお寺の追善供養といふことで寝ぼすけの私も昼前にお寺に行つたが、駐車場は満員である。8時からやつてゐるのにこの時間が一番混雑してゐるの だといふ。これは恐らく飲酒運転の罰則強化のせいであらう。

二日酔ひでも飲酒運転になり罰金何十万円だと警察が言ひだしたものだから、みんな恐くなつて朝早くからマイカーを出すことは少なくなつた。人に見つからな ければ二日酔ひでも捕まることはないのだが、やはり面倒なことに巻き込まれたくはない。

それでもお寺に行くことまで止めてしまふことはない。今の人なら人間が死んだら何も無くなつてしまふことぐらゐ知つてゐるのだが、人間として一人前の事を 省くわけには行かない。

さういへば葬式場も一つの街に三つも四つも出来てゐるがどこも大繁盛である。この科学の時代に死体遺棄にならない程度の事をしていればいいはずだが、それ でも高い金をかけて葬式をするのである。

テレビでは夏になると決まつて幽霊話になるが、幽霊など人間の脳みそが作り出す錯覚であることは誰でも知つてゐるはずだ。それでもあの世があると思ひたい のである。その方が死んだら何も無くなつてしまふと思ふよりはましなのかもしれない。だからぼんさんの仕事は無くなりさうにない。(2009年8月16 日)







ニュースを見てゐたら戦没者追悼式典といふものがあつたと言つてゐる。その前に第64回とあるのを見て失礼ながら思はず笑つてしまつた。いつまでやるんだ らうと思つたのである。

戦没者の遺族が死に絶えたときには必要がなくなるのだらう。しかし、平和を祈る式典といふことなので、誰ももう止めようと言ひ出せさうにない。

しかし、戦没者と言つてもこれはどうやら日露戦争のことではない。日露戦争が終つたのは一九〇五年だから、その戦没者を追悼するなら第104回戦没者追悼 式典となつてゐるはずだ。

大東亜戦争と日中戦争の戦没者は本土が空襲されたりして大変だつたから記念式典をやるが、日露戦争はやる必要はないのである。負けた方はしないといけない が、勝つた方はしなくていいのである。

いやそれどころか、日露戦争のほうは靖国神社に祭られてゐるので、総理大臣も参拝しなくなつてしまつた。中国や韓国が靖国神社は戦争賛美だと言ひ出したら その通りだと言ふ日本人が大勢出てきたからである。

A級戦犯がどうのといふ話もこれはアメリカが決めたことで、だからと言つて日本人は自分の歴史を消すことは出来ない。すべてをひつくるめて戦没者なのであ る。それを差別するのはおかしなことである。(2009年8月15日)







 NHK囲碁トーナメントの放送で不覚にも梅沢由香里の勝利に感動させられた。

 相手の石田篤司9段は角刈りで取立て屋風の眼鏡をかけて、見るからに大阪のおつちやんの風貌で、まさに美女と野獣の対戦である。しかし二枚目は美女には 負け ないが三枚目は甘さが出るものだ。

 当初石田はさすがに9段の実力通りの打ち回しで、着々と有利な状況を築いていつた。しかし、やはりといふか、石田は梅沢を徹底的に不利な状況に追ひ込み はしなかつた。

 解説室の聞き手万波菜穂も今回は気持ちが入つてゐて、解説の山田規三生が終盤近くに石田の形勢有利を告げると、明らかに残念さうなため息を漏らしたの で、山田が「細かいですけど」と大差ではないとフォローを入れたほどだつた。

 それが梅沢の最後の勝負手から石田の一手の油断で形勢逆転につながつたのだから、万波と梅沢の喜び様はテレビのこちら側にも確実に伝はつてきた。

 梅沢は対局中終始左手を自分の顔の周囲に動かし続ける。手の平を左あごに当てたり、拳固を口の前にもつて行つたりと止まるときがない。その左手が逆転の 瞬間だけ、それまでになかつた動きをした。左の手の平でほぼ横向きに口を全部覆ひ隠したのである。

 梅沢は女流棋聖3連覇で男性棋士に互角以上の成績とはいふものの、9段の先生に勝つのは大金星なのだ。だから、梅沢が口を覆ふ気持ちが分かつて、私も思 はず一緒に喜んでしまつたといふわけである。(2009年8月12日)







民主党がどういふ政治集団であるかは、党首討論の開催を自分たちの都合でしかやらないことによく表れてゐる。

最初は党首討論は全野党の党首が参加して行はれてゐた。そのころは、国会開会中はほぼ毎週水曜日にちやんと開かれてゐたものだ。ところが、討論の相手方が 野党第一党の民主党の代表だけになり、さらに代表が小沢になつてからは、ほとんど開かれなくなつてしまつた。

審議拒否は昔の野党でもやつてゐた。しかし、それは法律の成立を阻止するためといふ大義名分のある行為だつた。ところが、今の民主党は自分たちが提出した 法案の審議にも平気で欠席するのだ。それを党首討論で実践したのが小沢と鳩山だ。

都合が悪いから討論をやらない、国会には出てこない。こんな政治家の集まりが民主党なのである。嫌が応でも原則を守つて、やるべきことをやるのが選良であ るはずだが、民主党の議員にはさういふ意識は全くない。そんな政党が政権交代を訟へてゐるのだ。

選挙に勝つて与党になれば自分の都合で国会を欠席することは出来なくなる。しかし、これだけ原理原則を自分たちの都合で歪めてきた連中のことだから、政権 を取れば国会の審議をパスして採決だけするやうになるのではないか。

その上、作つた法律も自分たちの都合のいいやうにしか実行しないのではないか。何かよいことを決めても都合が悪ければやらないのではないか。こんなご都合 主義の民主党が政権をとれば、何があつてもおかしくない。(2009年7月15日)







ムッソリーニの愛読書だつたと言はれる本にソレルの『暴力論』がある。読んでみようと本屋で見ると岩波文庫の本棚に並んでゐる。上下で1500円以上す る。しかし、本は買ふと読まないので図書館に行つたら棚にあつたので借りてきた。

ところが、家に帰つてきて見てみると本屋にあつたの表紙が違ふ。中身も字が小さい。ネットで調べると最近新版が出たらしいのだ。どうやら古いのを借りてき たらしい。調べると同じ図書館に新版もある。それでまた借りてきた。

旧版を返すつもりが持つて行くのを忘れたので、両方を読み比べることにした。するとどうも新版の訳はあやしいぞと思へてきた。

例へば、第二章の最後、テルモピレー(テルモピュライ)を死守したスパルタの戦士に対する注釈に「スパルタ軍は内通者により全滅し他のギリシア軍は退却し た」と頓珍漢なことが書いてある。ここは強大なペルシア軍に少人数で抵抗した勇者たちに敬意を払はうと言つてゐるところなのだ。「内通者」云々は紛らはし い。

そこで、本文を旧版で読み始めると、「改良主義者たちは、旧い諸方式を擁護するのにも最も不熱心であるというわけでもなかった」と変な日本語が出てきた。 原文(ネットにある)を見ると、les réfor­mistes ne furent pas les moins acharnés à défendre les formules anciennesとなつてゐる。これを直訳したわけだ。

ところが、新スタンダード仏和辞典を見ると ne pas le moins du monde の訳として「少しも~ない」といふ意味のことが書いてある。とすると、ここでは du monde はないが、英語の not the leastと同じく、les moinsは否定の強めとみることができる。

それで新訳はどうかといふと、「修正主義者たちは、旧来の公式をかなり熱心に擁護していたのだ」と旧訳の二重否定をさらに進めて肯定文にしてしまつてゐ る。ここは「旧来の方式を決して熱心に守つてゐるわけではなかつた」とでもすべきところである。早い話、旧訳から「不」を取ればよかつたのである。

新版は全てこのやうな調子で、旧版に比べて訳文はよくなつてゐないし、日本語のこなれ度でも注釈の的確さでも劣つてゐるやうである。またもや岩波は読めな い翻訳書を一つ世に出したらしい。といふわけで、わたしは本屋で衝動的に1500円も出さないでよかつたと胸を撫で下ろした次第である。(2009年6月 29日)







イランの大統領選挙で不正が行はれたする報道があつたが、その証拠はいまだに出てきてゐない。にも関わらず、再選挙を要求するムサヴィ候補側によつて強行 されてゐる抗議デモが正しい行動であるかのやうな報道がなされてゐる。

選挙結果は事前に行はれた世論調査(wikipedia参照。Alefnews社 http://alef.ir/ 英訳はhttp://translate.google.com/translate_t#fa|en|)の61対28をまさに裏書きするものである。と ころが、何の証拠もなしに西側メディアが流した不正疑惑報道によつてイラ ン国内は分裂状態に陥つてゐるのである。敵対国に対する欧米メディアの恐ろしさを見る思ひだ。

事態は到頭イラン政府がイギリスの外交官を追放するところにまで発展した。これが100年前なら開戦前夜である。そしてまさに当時のドイツや日本はこのや うな報道によつて西側との戦争に追ひ込まれたのである。

西側メディアは現代の日本の報道を含めて、共産中国やソビエトやベトナムや少し前の北朝鮮に対しては、このやうな敵対的な報道はしてこなかつた。全く報道 の自由のない体制の国は批判せずに、ある程度の自由のある国が少しでも抑圧的な体制をとると、このやうな報道を始めるのである。

しかし、このやうな体制が必要であるやうな発展段階の国は存在するのである。西側の価値観が全てではないのだ。フランコのスペイン、ナセルのエジプト、ペ ロンのアルゼンチンは、その段階を経て国民を食はせられる国になつたのである。イランもまたその発展段階にある国だと見るべきだらう。(2009年6月 26日)







麻生首相が日本郵政の西川社長を辞めさせなかつたのは正しい。民間会社の社長を明らかな法律違反もないのに政府がやめさせたら裁量権の乱用になつてしまふ からである。ではなぜ正しいことをしたのに、内閣支持率が下がつたか。

それは鳩山総務大臣を辞めさせたからである。西川社長を辞めさせないのなら自分が辞めると言ふのだから仕方なく辞めさせたのであらうが、それでは首相の指 導力がなさすぎる。

鳩山大臣が西川社長を国会で追及したのは正しい。初めは鳩山氏のパフォーマンスだと批判してゐた新聞各紙もかんぽの宿の売却先にオリックスを選んだ経緯に は瑕疵があるとわかつてくると、鳩山氏の追及を支持しだしたくらゐである。

しかし、だからといつて西川氏を首にするほどの証拠は出てこなかつた。だから留任させるのが正しかつたし、それは読売新聞以外もさう主張してゐた。西川氏 が辞めないのなら自分が辞めると言つた鳩山氏の理屈は無理だつたのである。

麻生首相はその無理を許すべきではなかつた。首相には大臣を罷免する権限があるのだから大臣の辞表を拒否する権限もあるはずなのだ。断固どちらも辞めさせ ないとがんばらねばならなかつた。無茶を言ふなと鳩山氏を叱らなければならなかつた。

それがリーダーシップと言ふものだらう。ところが、麻生首相にはそれがないと多くの国民に見えたのだ。だから、支持率が下がつたのは仕方がないのである。 (2009年6月25日)







鳩山大臣を辞めさせたら麻生内閣の支持率は10%近く下がるのではと思つてゐた。それはさうだらう、国会で追及されてゐた西川氏が辞めないで、国会で追及 してゐた大臣がやめたのだから、これは誰が考へてもおかしなことだからだ。

追求してゐた大臣を辞めさせるのなら、どうして首相は追及を許したのか、これでは長い時間を掛けて追求したこと自体が間違ひだつたと言ふことになつてしま ふ。

しかも、そのまへに自民党の大物政治家たちが、「西川氏を辞めさせたら大変なことになる」とか、「本気で戦ふ」などの、脅し文句が出てゐたのだ。その後の 事なのだから、麻生首相は脅しに屈して自分の大臣を切つたことになつてしまつた。

こんなことをやつてゐては国民の信頼を損ふのは当然である。国民大衆は強い政治家、戦へる政治家を求めてゐるのだ。しかも、鳩山氏はマスコミに悪口を言は れたら言ひ返へせる数少ない戦へる政治家として、国民の人気は高いのである。

確かに、昔の自民党の首相たちは、都合の悪い大臣をトカゲの尻尾切りのごとくに辞めさせて自身の延命を図つてしゐたし、政権交代の可能性がない時代はそれ でもよかつた。しかし、もうそんな時代ではないのだ。今では世論の支持を失ふといふことは、即政権を失ふといふことなのである。(2009年6月22日)








信じ難いことだがムッソリーニは初めは社会主義者だつた。父親が社会主義の運動家だつた影響で社会党に入党したのである。ヒトラーは演説がうまかつたが ムッソリーニは文章がうまく、党の機関紙の編集長になつて頭角をあらはした。(以下、ヴルピッタ著『ムッソリーニ』参照)

しかし、彼が革命による政権獲得を目指してゐたのに対して、当時のイタリアの社会党は急激な変革を望まず議会主義を標榜してゐた。また左翼の労働組合はし きりにゼネストをしたがすぐに弾圧されてしまひ、とても革命を起こせさうにはなかつた。

そこで、彼は労働者階級のためだけの階級闘争ではなくすべての階級のための闘争をすべきだと考へるやうになつた。第一次大戦後に広まつてゐた民族主義運動 も、階級闘争ではなく民族を一体として民族共同体の形成を目指すべきとする見方の根拠になつた。

社会主義は政権獲得のための暴力を肯定してゐたため、それに対抗するために彼も暴力は利用すべきだと考へた。独裁を目的とするのも社会主義と同じだつた。 かうして、彼は全階級のための革命、全階級のための独裁を目指すことにしたのである。

ムッソリーニによつて作り出されたこの新しい思想こそファシズムだつた。社会主義革命との違ひは、労働者のためだけの革命でないことだけだと言つていい。 マルクス主義でなくその代はりに民族主義が入つてくる点しか主な違ひはなかつたのだ(当時の社会主義者は平和主義をとつたが、それは一つの戦略でしかなか つた)。

しかし、ファシズムと社会主義や共産主義が共存できないことは明らかだつた。そこで共産陣営はマスコミを使つてファシズムは悪だといふ宣伝工作をしきりに 行ひ、スパイ工作を大々的にやつて、反ファシズムの世界大戦を西側諸国に起こさせて、ファシズムに勝利して現代にまで生き延びたといふわけである。 (2009年6月20日)







日本郵政の西川社長の続投すべきどうかでマスコミが世論調査をしたのはどういふことだらうか。これからは民間会社の社長の地位の去就にまで国民の世論を反 映させるべきだと言ふのだらうか。

そもそも新聞社は読売新聞を除いて全紙が、民間会社である日本郵政の社長の地位に政府が口出しすべきでないと言つてゐたはずだ。その口の根の乾かぬうちに 世論調査をやつて自分たちが介入するとは、全くやつてゐることが無茶苦茶である。

麻生首相が西川社長を続投させるべく鳩山総務大臣を解任したとき、西川社長を続投させるべきだと言つてゐた新聞が一斉に首相の決定を攻撃したのもひどかつ た。

しかも決まつてしまつた後で、世論調査をして鳩山総務大臣を辞めさせたのは不適切だとする声が過半数だと言ふのだ。

では何故辞めさせる前に緊急世論調査をしなかつたのかと言へば、それは鳩山贔屓の調査結果が先に出たら、自分たちの大好きな西川氏が辞めさせられてしまつ たからに他ならない。

朝日の社説が西川問題で揺れ続けたこともひどかつたが、この一連の報道で日本の左翼マスコミの定見のなさ、いい加減さは極まつたと言ふべきであり、こんな 新聞に金を出すことの愚かさに気づいた人も多いのではないか。(2009年6月17日)







20世紀初期のヨーロッパでは、ナショナリズム、つまり大衆を政治の主役にする運動が起こつた。それは国民主義、或は国民主義運動と呼ぶべきものだつた が、日本でこの運動が起こつたのは最近のことだらう。

戦前戦中の日本では国家のリーダーたる首相を決めてゐたのは天皇だつた。戦後の日本では男女平等の普通選挙が行はれるやうになつたけれども、首相を決めて ゐたのは実質的には国会議員たちだつた。

ところが、その唯一の例外が小泉首相だつた。彼を首相にしたのはまさに国民大衆だつた。党員投票といふ国民の声が下馬評を大きく覆して彼を自民党総裁に選 んだのだ。しかも国会議員の地元での締め付けの結果といふよりは完全に国民の人気が彼を首相にしたのである。

自民党の中で派閥の代表でもない小泉氏の権力の源は、ひとへに内閣支持率として表れる国民の人気だつた。だから彼は国民に対する語りかけを重視した。その 典型が郵政解散のときの演説であるが、記者のぶらさがり取材をその機会として積極的に活用するために、カメラの前で立ち止る形に変へたのは彼だつた。

彼は組閣人事で秘密主義を初めて採用したが、それはリーダーとしての人気(=カリスマ性)を維持するために、人に相談しないことが重要であることをよく知 つてゐたからであらう。

また彼は一旦口に出した政策はどんな反対にあつても実現しようとした。これはカリスマ性を維持するためには強い政治家、信念ある政治家に見えることが重要 だからである。また、大衆を政治に動員するためには宗教的な儀式が重要であるが、それを知つてか彼は毎年靖国神社に参拝した。

実は、こうしたやり方は全てムッソリーニが始めたことなのである。それをヒトラーが真似し、チャーチルが真似し、戦後のアメリカの大統領たちが真似をし、 そして小泉首相が真似をしたのだ。

国会議員を選ぶ選挙が、郵政選挙のときから国民による政策選択の選挙だと言はれだしたが、それがさらに今や首相を選ぶ選挙だと言はれるやうになつてきてゐ る。こんなことはかつての日本ではなかつたことである。

これは日本がやつと大衆政治の時代に入つたといふことだらう。そして、この政治状況を作り出したのは小泉氏である。その小泉氏がいまだに国民にとつて最も 首相に相応しいと思はれてゐる政治家であり続けてゐるのも故なきことではないのだ。

しかし、次の首相たちはこの状況をよく認識してゐないかのやうである。安倍首相は組閣人事などで人の意見を聞いたし、麻生首相は記者の取材を国民に対する 語りかけの場と考へてゐるとはとても見えないからである。(2009年6月11日)







和魂洋才といふ言葉があつて明治維新以降の日本の発展を言ひ表すのに使はれる。明治の日本人は、伝統的な日本の精神を生かしつつ、西洋から輸入した学問や 技術を身につけ発展させて、近代日本を築いたと。

しかし、これは悪くすると日本は西洋の文化を上手に真似て成功してきたといふ意味にとれる。ところが、日本の文化と文明はそんな借り物だけの手続きで成功 したものではなかつた。山本七平は『日本人とは何か』の中で、その例として和時計と和算を挙げてゐる。

特に和算は、江戸幕府によつて平和になつた日本で驚異的な発展を遂げた。吉田光由(みつよし)が中国の数学の教科書を手本にして日本で初めて『塵劫記(ぢ んこふき)』といふ算術と数学の本を出すと、日本中に和算ブームが起こつて、我も我もと数学を志す人が現れて、その能力を競ふやうになつた。

その名残が日本中に残つてゐる算額である。和算家は数学の難問とその解き方を書いた額を神社に奉納して、自分の能力の高さを誇示したのである。その中には 「ソディの六球連鎖の定理」をソディ本人より100年以上も前に発見したことを証明してゐる内田五観(いつみ)による寒川神社の額もあるといふ。

そのほかにも、江戸時代には西洋の数学に先立つ数々の発見が和算家によつてなされてゐたことが明らかになつてゐる。中でも世界で初めて行列式を作つた関孝 和が有名だが、関の発明もそれだけではなかつた。

このやうに日本には、和魂だけでなく極めて高度な和才の伝統があつたのである。だからこそ、明治以降の日本人はそれを応用して、西洋の高度な技術や知識を 速やかに自分のものとして、さらにそれらを発展させることが出来たのだ。この伝統が第二次大戦後の多くの日本人のノーベル賞やフィールズ賞受賞につながつ てゐることは言ふまでもない。(桜井進著『江戸の数学教科書』参照。但しこの本の第三章は東洋経済のサイトの氏のコラムと内容がほぼ重複してゐる) (2009年6月8日)








ジョージ・モッセの『大衆の国民化』はファシズムとは何かを論じた本で、ファシズム研究の大家デ・フェリーチェが推薦する政治性を脱却した信頼の置ける研 究書であるやうだ。

ファシズムとは、大衆を動員した劇場型の政治であり、国の指導者は直接国民に語り掛けることによつて支持と権力を獲得して、議会の議論によらずに自分の政 策を強力に実行する政治形態であり、決して単なる独裁政治ではないのである。

議会政治を否定すると云ふ点で現代の民主主義と大きく異なるが、議会政治が間接的民主主義であるのに対して、ファシズムは一種の直接的民主主義であり、民 主主義であることに変はりがなかつた。

現代の政治では、大衆が政治を自分の問題として考へ、その動向を左右すべく政治に参加するやうになつてゐるが、それをモッセは「大衆の国民化」と言ひ表は した。英語ではNationalizationであるが、その過程その運動こそがNationalism(ナショナリズム)なのである。

従来、日本ではナショナリズムは国家主義と誤つて訳されてきたが、それは日本の学者が戦前の日本の政治イメージを西欧の政治思想に無理やり当てはめた結果 だつたのである

当時のヨーロッパ大衆は、個人よりも国家を第一とする運動の道具となつたのではなかつた。大衆は国家の運命を左右する主体となつたのであり、国の主要な構 成要素の地位に躍り出たのである。だから、ナショナリズムは国民主義、或は国民主義運動と訳すのが正しい。 (なほ「○○主義」といふ言葉は「○○運動」「○○主義運動」と読み換へると分かりやすくなることが多い。例へば、pietismは単なる敬虔主義ではな く敬虔主義運動なのである)。

その意味で、ファシズムは代議制民主主義をさらに一歩も二歩も進めた制度だつた。ロマノ・ヴルピッタの言葉を使へば、「自由主義と民主主義が十八世紀の所 産であり、社会主義が十九世紀の所産であるとすれば、二十世紀が生んだ思想」こそファシズムだつたのである。(『ムッソリーニ』6頁)(2009年6月6 日)








世界で一番小さい国はバチカン市国だといふのは誰でも知つてゐるが、では何故そんなに小さいのかを知る人は少ないのではないか。

そのためには、イタリア史の知識が必要だが、大抵の人はイタリア統一の英雄ガリバルディとファシスト・ムッソリーニの名前くらゐは知つてゐてもそこまでで ある。実はこれはイタリア統一の問題と関係がある。

1860年頃からガリバルディたちは軍事力によるイタリア統一事業を推進してゐたが、ローマ教皇はイタリア半島のローマを中心とする広大な領土を保持して ゐた。オーストリア領になつてゐたヴェニスがイタリアに奪還されると、最後に残つたのが教皇領だつた。ところが、ローマカトリック教会はイタリア統一に反 対だつた。

しかし、それではローマをイタリアの首都には出来ないので、イタリア政府(当時はサルディニア王国)は早くから武力で教皇領を侵略して、教皇領をどんどん 奪ひ取つて行つた。そして1870年、最後に残つてゐたローマも占領してしまつたのだ。これをローマ併合といふ。それでも教皇はバチカン宮殿に立て籠もつ て最後まで抵抗した。

イタリア政府は教皇に遠慮してバチカンの中まで攻め込むことはしなかつた。その御蔭で、教皇はバチカン宮殿とその周囲だけはイタリア政府に奪はれずにすん だ。

その後、1929年に教皇とイタリア政府のムッソリーニ首相との協議によつて、イタリア国が教皇によつて承認される代はりに、教皇の住居は一つの独立国と して存在することが認められた(ラテラノ協定)。かくして世界一小さい国バチカンが誕生したのである(Wikipedia日本語版英語版参照)。 (2009年6月5日)







『ぶらり途中下車の旅』といふテレビ番組があつて昔からよく見てゐるが、この番組は決して当てのない本当の意味のぶらり旅ではない。

タレントがぶらぶら歩いてゐると、次々と珍しい事をしてゐる人に出会ふのだが、それが一日に6人以上になるのだから、もちろんあらかじめ全員の人に頼んで おいてタレントの行く先々にゐてもらつてゐるのである。

タレントの方でも、どんな人がどこでどんなことをしてゐるから声を掛けるやうにあらかじめ言はれてゐるのだ。しかも、おそらくはその目的の近くまで車で移 動して、カメラが回り始めてからおもむろにそのあたりを「ぶらり」と歩きだすに違ひない。

テレビ番組の中の世界は大抵がこのやうに作り物なのである。

昔、子供のころにNHKが私の通つてゐた小学校の生徒の通学風景を映したことがある。私はいつもとは全然違ふところに並ばされて、合図に従つて歩かされ た。当時の市役所の屋上に置かれたテレビカメラが私たちをねらつてゐたことをよく覚えてゐる。

NHKが映した通学風景は本当の通学風景ではなかつたのである。集団登校の風景には違ひなかつたが、本当の風景を映してゐては、欲しい映像が取れるまでフ イルムがいくらあつても足りない。それで子供たちに芝居をさせて、それらしい風景を映してゐたのだ。

今でもNHKはそんなことをしてゐるのだと思ふ。最近では、契約を解除されて社宅を追ひ出され、寝床にする段ボールを探す派遣社員、といふ映像がニュース で流れされたが、もちろん頼んでやつてもらつたものに違ひないのだ。(2009年6月4日)







「交差点の手前で信号は黄色で、交差点に入ったら赤だった」。横浜の3人死亡事故の加害者とされた人の供述である。

しかし、黄色信号で交差点に入つて赤信号で突つ切ることは日常的に普通よく行はれてゐることである。直進側の人は信号を一つ待つのがいやなので大抵さうし てゐる。右折側の人は直進車が赤信号で止まらないことに業を煮やしながらも、右折を始めずに待つしかないのだ。

ところが、この事故の右折車は、急いでいたのか、夜中で前方がよく見えなかつたかで、右折を始めてしまひ、直進してくる車に追突してしまつたのである。追 突された直進車は歩道にまで飛ばされて、そこで信号待ちをしてゐた人にぶつかつて人を死なせてしまつた。

これが横浜の事故の全貌だらう。この事故では歩道に人がゐなければ、追突した直進車が前方不注意を問はれ加害者とされて、直進車が赤信号で交差点に進入し たことは相殺条件にされるだけだらう。

ところが、いつもの通りにやつたのに対向の右折車に追突されて、挙句に自分の車が3人の人を死なせたので、加害者になつてしまつた。おまけに、信号待ちの 被害者が可哀想といふことで、マスコミでは極悪人扱ひである。

しかし、交通事故と云ふものはこんな物である。特に誰が悪いとは言へないのだ。誰もがいつものやうにしてゐてちよつとした事から大事故になつてしまふので ある。自衛策としては交差点で信号待ちをする時、道端に立たないやうにすることくらゐだらうか。しかしそれでも駄目なときは駄目なのである。合掌。 (2009年6月3日)







明石家さんまの番組で、京大生の女の子に国政転出を反対された東国原知事は「おつしやるとほりにさせていだだきます」と言ひながら、彼女に向つて深々とお 辞儀をしたのであつた。

それに対してさんまは「これはまだ東も言へないんでせうね。おそらくどうするのかわからへんから」とフォローしたのである。さらに、宮崎県に関しては莫大 な経済効果を出したのだからもう充分だ。東にも今後の夢があるはずだと言つてから、総理大臣になる可能性まで持ち出したのだつた。

それに対する東国原の答は、総理大臣になつてもかういふ番組に出たいんです、と云ふ賢明なものだつた。総理大臣になればSPなどに囲まれて自由がなくなる といふのだ。

宮崎県知事をしてゐる今は誰の警護も付かずに自由に行動ができるから、一人でジョギングを楽しむことも出来るし、かうしてあちこちのテレビ番組にも出演で きる。まさに今は知事ライフを満喫してゐるといふことなのだらう。

 一方、総理大臣の大変さに関して明石家さんまは、昔安倍首相とご飯を食べる約束をしてゐたが、テポドンが飛ぶかもしれないといふニュースが出て、その約 束がキャンセルになつたといふエピソードを紹介した。

 これら一連の話から、どうやら明石家さんまは、最近関西芸能人に野党系の発言をする人が多くなつてゐる中で、マスコミの反政府報道に影響されることな く、その人生観と同じく独自の政治観を持つてゐるやうに思はれたのであつた。(2009年5月31日)







明石家さんまの関西の番組「明石家電視台」に一般参加の客がゲストの芸能人にインタビューするコーナーがある。先日のゲストは東国原宮崎県知事だつたが、 京大生の女の子が彼にしたインタビューがおもしろかつた。

「少し前に東国原知事が衆議院議員に立候補するといふニュースを耳にしたんです。で(私は)個人的には(知事が)国政に参加するのは、個人的に反対なんで すけれども、これからはどうされるおつもりですか」と質問したのだ。

「反対なんです」のところで、東国原は「あらさうですか」とずつこけるは、さんまは例の嬌声を発して笑ひころげて場内爆笑。「どうするおつもりですか」で も場内爆笑。その理由が「ひとの人生、あんな若い女に決められてなあ」と云ふさんまの言葉に要約されてゐる。

まさにお節介でしかないのだ。ところが、彼女のこの意見は、当のニュースが出たときの朝日新聞などの意見と同じなのである。このエピソードから、京大レベ ルの大学生たちが如何に朝日新聞などに影響を受けてゐるか、しかもその朝日新聞らがこんな笑ふしかないことを真面目に書いてゐたといふことががよく分かる のだ。

もちろん朝日新聞らは、人気のある東国原知事や大阪の橋下知事がいま国政に転じることを何よりも恐れてゐる。彼らがもし次の選挙に自民党から出たら、自分 たちが描いてきた政権交代の夢がおぢやんになる公算が大きいから、必死になつてけちを付けてゐるのである。

ところが、番組ではそれに続いて、さんまが東に対して、東のこのパワーを国政に生かさないのはもつたいない。総理大臣になる可能性もあるよと、強い調子で 国政転出を勧めるのだ。

京大生の彼女は、さんまが決して何党を勧めてゐるのではないことは分かるはずだ。それよりも彼女には、これを機会に朝日新聞らマスコミの傲慢さと、本当に 大事なのは何なのかに気づいてくれたらいいのだが思はずにはゐられない。(2009年5月30日)







ファシズムとは何かを知るための最も正統でしかも手つ取り早い本はレンゾ・デ・フェリーチェの『ファシズムを語る』だらう。

フェリーチェはイタリアの歴史学者であるが共産党系(洋の東西を問はず彼等が学会を支配してゐる)でないといふ強みを持つてゐたために、政治的ではない ファシズムの歴史を初めて書くことができた。事の真相を明らかにするには悪い面だけを書くわけは行かなくなるが、共産党系あるひは左翼系の学者にはそれが 出来ないからである。

日本で言へば軍国主義にもよいところがあつたと言へばすぐに戦争賛美だと左から文句が来る。それと同じやうにイタリアでファシズムにもよいところがあつた と言へばファシズムを弁護するのかと批判される。しかし、それに負けずにファシズムについて本当のことを調べ上げたのがフェリーチェなのだ。

ファシズムとは第一に、平時に起こつた運動である。これはナチズムについても言へることで、戦時中にしかも政府によつて戦時体制を確立するために起こされ た運動などはファシズムではないのだ。

次にファシズムとは、民主主義と資本主義の行き詰まりから第一次大戦後に生まれた運動である。民主主義はどこの国のどの時代でもうまく行くものではない。 特に第一次大戦後は共産主義の嵐が吹き荒れた時代で、民主主義は共産主義者に簡単に乗つ取られてしまふ恐れがあつた。ファシズムにはそれを防ぐ役割があつ たのである。

さらにファシズムとは指導者のカリスマ性のもとに大衆を動員して革命を目指すものである。その意味でフランス革命にはファシズムの原型があると言へる。と ころが現在のネオファシズムは革命への志向がないから、本当のファシズムとは言へないのだ。

またファシズムとは中間層による運動であり、新しい人間を作りださうとする精神的創造的な運動である。これが政権を獲得するとそれはファシズム体制となる が、こちらは保守的で権威主義的反動的なものになつてしまふ。等々。

ところで、このフェリーチェのファシズム研究は『ムッソリーニ』といふ伝記といふ形で行なはれたのだが、この本は大部な書物でまだ邦訳がない。(2009 年5月28日)







日本人はマスクが大好きである。だから、インフルエンザ騒ぎで多くの日本人がマスクをしてゐることを批判する人がゐるとすれば、それは日本人のことをよく 知らないか、日本に住んでゐない日本人に違ひない。

わたしもマスクが好きだ。マスクをすると男前に見えるかもしれないと思ふからである。例へば、近所の歯医者の診察姿はとてもハンサムであるが、昼休みにそ の医院から出てきた男性がその歯医者だとすぐに気づかなかつたほどのマスク美男なのだ。

病院のナースもみんなマスクをしてゐて美人揃ひである。最近も図書館に行つたら受付の女性がマスクをした超美人なので、こんな人ゐたつけと思つてまじまじ 見つめてしまつた。

何と言つてもマスクをすれば、日本人にとつては大きな価値である清潔感が生まれる。だから、ちよつとしたことで日本人はマスクをする。花粉症だと言つては マスクをする。冬なら単に寒いからと言ふだけでマスクをする。だから、新型インフルエンザのこのチャンスを日本人が見逃がすはずがない。何せマスクをすれ ばインフルエンザの予防にもなるといふのだから。

この時期マスクをしないで外出してゐるのは、本当の美男美女たちでマスクをすれば損をする人たちだらう。そんなに恐い病気ではないといふから、したくなけ ればしなくてよし、したければすればいいのだ。清潔感といふ価値を知らない欧米人には好きに言はせておけばいいのである。(2009年5月26日)








T-FALの電気湯沸し器を愛用してゐたが時々スイッチを入れても通電しなくなつたので、新しいのと買ひ換へた。前のはニュービテスで今度のはジャスティ ンといふ名前だ。しかし、古いのをそのまま捨てるのももつたいないので、原因を探らうと二つを比べてみた。

すると台座の部品で違ふところが一つ見つかつた。T-FALの湯沸しは、本体が台座と分かれてゐて、台座に置いて使ふが、新しいのでは、台座の中央の黒く て丸いプラスティックの突起部品のうち、本体側の底の金属の円筒がすつぽり入る円形の隙間が、古いの比べて広いのだ。おかげでその隙間の下にある金属端子 がはつきり見える。

これまでT-FALの湯沸し器は、黒い円形部品の真ん中の穴の底の金属端子と、外周の金属端子の二つで通電してゐるものと思つてゐたのだが、もう一箇所、 円形の隙間の下にある金属端子の、合計三箇所で通電してゐるらしいのだ。

古い方のニュービテスの台座の黒い部品の隙間は狭いだけでなく、高熱で変形したのか、円形の隙間の広さが均等でない。そのために、本体の金属の筒の底辺が 台座の隙間の下まできつちり届かずに、スイッチは入るのに通電してゐなかつた可能性がある。

これを解決する方法としては、本体に水を入れて台座に置いてスイッチを入れてから、本体の底の円筒が台座の隙間の底まで届くやうに、本体を台座の上で回し てやるとよい。かちつと音がしてジリジリ鳴り出せばOKだ。

いちいち回すのが面倒な場合は、黒い部品の内側の円柱の頭を少し削つて低くしてやるか、円柱の側面を削つて隙間を広げてやるとよい。ただし、削りかすが隙 間に残ると逆効果なので掃除機で吸わせてやる必要がある。(2009年5月23日)







第二次世界大戦で西欧諸国が共産主義を大目に見た一方で、ファシズム諸国を目の敵にして滅亡させやうと全力を注いだことの間違ひは、唯一生き残つたファシ ズム国家スペインのその後の繁栄によつて半ば証明されてゐる。

当初、戦後生まれの国連は、ファシスト国家スペインの存在を許せず「スペイン排斥決議」を採択して、スペイン駐在大使を全員引き上げさせ、スペインを国際 社会から追放した。

また、フランスはスペインとの国境を一方的に閉鎖し、アメリカはスペインへの石油供給を停止するなど、世界はスペイン封じ込め政策を推し進めたのである。 それに対して、スペイン国民は圧倒的な人気を誇るフランコのもとに結集して、この国際的孤立に耐へた。

しかし、西側諸国がこのスペイン敵視の誤りに気づくのに5年もかからなかつた。

それは1950年の国連によるスペイン封鎖解除と各国駐西大使復帰に始まり、55年の国連加盟、さらに59年の米大統領アイゼンハワーのスペイン訪問とフ ランコとの首脳会談実現に至る。その後、60年代にスペインは日本についで世界第二位の奇跡的な経済発展を遂げるのである。

そもそもファシズムといふ最初のレッテル貼りが間違つてゐたのである。フランコのスペインは、戦時中に日本の大政翼賛会のやうなものはあつたが、ファラン ヘ党の一党独裁ではなかつた。むしろフランコは、国内の様々な勢力を、時代の要請に合はせて柔軟に採用して政権内に取り込んで、スペイン発展につなげたと いふのが真相である。

1931年の共和制によつてスペインに持ち込まれた民主主義は、国内を憎しみ合ふ勢力に二分して、スペイン全土を混乱に陥れてしまつた。その混乱を収拾し て平和をもたらすために国民によつて選ばれたのがフランコの独裁だつたのである。

そして、そのフランコの独裁のもとに経済発展を遂げたスペインは、フランコの死後、民主主義国家としての道を歩むことが出来るやうになつたと言へる。(こ の間についてJ・ソペーニャ著『スペイン フランコの四〇年』(講談社新書)が公平な立場で書かれてゐる。ただし教科書的で抽象的記述が多く、時代が前後したり記述が重複することが間々ある) (2009年5月19日)







今回の民主党の代表選挙は笑へる選挙だつた。小沢氏の秘書が逮捕されたのに本人が代表を辞めないことにマスコミはやきもきしてゐた。早く辞めて岡田氏に替 れば民主党のイメージアップになつて、支持率も持ち直すのにと見てゐたのだ。

ところが、小沢氏がやつと辞めたと思つたたら、何と代表とは一蓮托生だと言つて辞任したばかりの鳩山氏が選挙に立候補して当選してしまつたのである。

それも辞めた小沢氏と辞めた自分で一緒になつて強引に決めてしまつた短い選挙日程で当選したのだから、八百長すれすれの選挙で、まさに茶番としか言ひやう がない。

総選挙に向けて格別人気があるわけでもない鳩山氏がなぜ立候補したかと言へば、小沢氏に頼まれたからでしかないのは誰の目にも明らかである。小沢氏の延命 のため以外に、鳩山氏が民主党の代表になる意味はないのだ。

しかし、人の権力維持のために代表になつた鳩山氏が困るのはこれからだらう。それでもマスコミは期待はずれの鳩山氏に暖かい言葉を送つて、民主党の支持率 を上昇させた。

それほどマスコミは政権交代を望んでゐるのだらう。しかし、政権交代してはじめて日本は民主国家になれると言つた小沢氏の考へてゐることが、党でも国でも なく自分の権力維持でしかないのは、この選挙を見ても明らかである。(2009年5月18日)







ファシズムと戦ふためにスペイン人民戦線の義勇軍に参加するためにやつて来た善意の外国人たちの末路は、ファシストのスパイとしてスペインの警察に逮捕さ れることだつた。最初は前線で兵士として戦つてゐた者も、あとから国境を越えてやつて来た者も、1937年のバルセロナ事件以降は次々と逮捕された。

なぜかといふと、スペインの警察(政府ではない)はスターリンの指示を受けた共産党員に支配されてゐたからである。第二次大戦中にソ連に来る外国人がスパ イと見なされたのと同じことが、ソビエトに支配されたスペイン警察でも行はれたのだ。

オーウェルが逮捕されなかつたのは全く運のよさのお蔭だつた。逮捕された者は裁判抜きで長期間投獄され、銃殺された者もあつた。しかし、それでもオーウェ ルの社会主義に対する憧れとはファシズムに対する強い憎しみは変はることがなかつた。

この憎しみの強さは、スペイン戦争がフランコの勝利に終つた後に書かれた『スペイン戦争を振り返って』の中の強いファシズム批判に表れてゐる。例へば戦争 中の残虐行為も「赤」(左翼)より「白」(右翼)の方が「はるかに多く、はるかにひどい」と言つてはばからない。

また、彼はファシズムが世界を征服したときの恐ろしさを想像してみせて、ファシズムが悪であり自由主義が正義であると堅く信じて疑はない心の内を見せてゐ る。ここから、当時のイギリスで反ファシズム宣伝が如何に行き届いてゐたかがよく分かる。

だから、ファシズムの戦つてゐる相手が共産主義者だと分かつても、オーウェルは何よりもファシズムと戦ふことの重要性を説いた。共産諸国の支配の過酷さは フランコによるスペイン独裁の比でないことが分かつたのは、ずつと後の事だつたのである。(2009年5月15日)







『カタロニア讃歌』を書いたジョージオーウェルは、社会主義がもたらす平等な社会に対して素朴な夢を抱いてスペインに来た。そしてオーウェルが見た人民戦 線の部隊では、まさにそんな平等な社会が実現されてゐたのだ。

互ひに同志と呼び合ふが、決してそれは形だけのことではなく、本当にみんなが平等な仲間だつた。共にファシストと戦ひ、共に糞だらけの塹壕で眠り、共に蚤 だらけの服を着て、共に貧しい食べ物を分け合ふ、差別のない同志だつた。

何よりも、スペイン人の人の良さはイギリス人にはないもので、階級のない社会にぴつたりのやうに思へた。スペイン人はフランス兵たちが自分たちより優秀だ と思ふと、イギリス人なら死んでもやらないやうな心から賛辞をフランス人に送ることが出来た。

しかしながら、どこのレジスタンスでも起きたやうな血で血を洗ふ内部抗争がスペインでも起きた。同志であるはずの反ファシスト政党の間で銃撃戦が展開され るやうになつたのだ。バルセロナの街に立つ全てのビルには、武力で占拠した政党の旗が掲げられ、屋上からは狙撃兵が銃を構へた。

この争ひを伝へる新聞は嘘ばかりを書いた。オーウェルによればジャーナリストとは「嘘を書くのを職業にしている人間」のことだ。彼等はみんなどこか遠くに ゐて、人を惑はす意図をもつて不正確なことを書く。戦争報道になると9割が嘘だつた。

さうやつて、バルセロナで起きた銃撃戦はすべてオーウェルの仲間の労働者たちのせいにされ、労働者たちの抵抗は「反乱」とされ、なんとオーウェルたちは ファシストの手先にされてしまつたのだつた。(2009年5月12日)







ジョージ・オーウェルの『カタロニア戦記』はスペイン戦争の戦場のみじめな現実だけでなく、政治的な現実も明らかにしてゐる。

オーウェルがイギリスの新聞によつて教へられてゐたスペイン戦争とは、「狂気の職業軍人たちがヒトラーに金をもらって暴動をおこしたので、文明をそれから 守るために起こった」戦争だつたが、実際は違つてゐた。

オーウェルは、ファシスト・フランコを民主主義の敵だと思ひ、彼と戦ふためにスペインまで来たのに、実際にフランコが戦つてゐる相手は民主主義者ではなく 共産主義者だつた。フランコが穏健な左翼政権に対して起こした反乱に乗じて、急進的な共産主義者たちがスペイン全国を赤化し始めてゐたのだ。

ところが、当時コミンテルンは革命に反対だつた。ソ連がスペインの共産党員に命じて、あちこちの革命政府をつぶさせてゐたのである。当面はブルジョワ陣営 に参加して共にファシストを倒すべきとする当時世界中で行はれたコミンテルンの策謀に従つてゐたのだ。

 しかし、かうしたスペインの革命の真実はスペイン以外では隠され、スペインでは革命のための戦争ではなくデモクラシーのための戦ひが行はれてゐるといふ 嘘が世界中に流されたのだ。

 このやうにこの本は、ファシスト対デモクラシーの戦ひといふ第二次世界大戦の虚妄の一端を明からかにしてゐたために、すぐにはイギリスでの出版が許さ れなかつた(『動物農場』は大戦後まで出版出来なかつた)。
 
 ところで、スペインの戦地で物資が不足してゐてもイギリスからの郵便小包は戦地まで届かなかつた。ただ一つ例外として届いたのは

 「陸海軍用品部を通して送られたものだけだった。あわれなイギリス陸海軍! 義務として立派に送りとどけたものだろうが、中身がバリケードの向こうのフ ランコ軍に行くのだったら、もっとうれしかったろうに」(第六章、岩波版第五章)

 が意味不明だ。ファシストであるフランコ軍に物資が届いてイギリス軍が喜ぶはずはない。

 そこで、「陸海軍用品部」にあたる"Army and Navy Stores"をネットで調べてみると、ロンドンにある大百貨店の名前と出た。当然百貨店は資本家と見なされてゐたから、資本家の味方であるファシスト陣 営に物資が届いた方がうれしいかつたはずだと、オーウェルは皮肉を言つたのである。

したがつて、「陸海軍用品部を通して」は「アーミー&ネイビー百貨店を通して」、「あわれなイギリス陸海軍!」は「あわれなアーミー&ネイビー百貨店!」 とでも訂正すべきだらう(ちなみに、この百貨店はサマセット・モームの小説にもよく出てくる高級店である)。(2009年5月9日)







ヒトラーつながりでジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読んだが、これはおもしろい。スペインの戦場がどんなものだつたか手に取るやうに分かる。

戦場とは臭いところなのだ。なにせトイレがない。山の上の塹壕の後ろがトイレ兼ゴミ捨て場になつてゐて、そこから立ち上る匂ひがくさい事この上ない。

その上、季節が冬なので寒くて仕方がない。寄せ集めの義勇軍にはろくな装備がなかつた。700メーター離れたところから敵が撃つてくる弾は当たる心配がな かつた。だから寒さ対策が何よりの心配事なのだ。しかも、どこもかしこも糞だらけとくる。

武器として配られた銃は、40年前の錆付いたのやら、すぐに弾の詰つてしまふのやらで、使ひ物になる物は少なかつた。部隊には大砲もなかつた。だから、塹 壕でじつと寒さに耐へてゐるしかなかつた。負傷者が出てもそれは壊れた銃の暴発か同士討ちだつた。それがスペインの戦争の実態だつた。

この本を読むときには大切なのは、この戦争は1936年7月に始まつた戦争だといふことである。そして作者は1936年の12月から翌年の6月までスペイ ンにゐた。そのときの出来事を書いてゐる。

これを忘れると、第一章の最後、いよいよ前線に出発するときに同僚のウイリアムスの奥さんが見送りにきたとき、"At this time she was carrying a baby which was born just ten months after the outbreak of war and had perhaps been begotten behind a barricade."が分からなくなる。

このベイビーは、「戦争が勃発して丁度10ヶ月後(=1937年5月)に生まれる」から、この時にはまだ生まれてゐないのだ。この子はおそらくバリケード の後ろで身ごもつた子に違ひない。

carry a baby と言つても抱きかかへてゐるのではなく、「身重」と云ふ意味なのだ。しかも、この文章は女が生む bear と男が生む beget が同時に出てくる貴重な例文である。日本語訳は、ちくま・ハヤカワ・岩波の中では、一番古い橋口稔訳のちくま文庫(活字の大きな筑摩叢書版もある)が最も 誤訳 が少なく優れてゐる。 (2009年5月8日)







ヒトラーの『わが闘争』の和訳が出てゐるので、古本屋で買つてきて読んでみたが、これはひどい代物だ。訳者はドイツ語の全くの初心者だとしか思へない。そ のレベルの人が一語一語ロベルト・シンチンゲル(=三修社の独和)を引きながら、そこにある訳語をつなげて作つたものといふ印象なのである。

初心者だからドイツ史では有名なJohannes Philipp Palmを知らずに、最初の見開きの左ページ(文庫本21頁)で、ヨハネス・パルムとすべきところをヨハネ・パルムとしてゐるのは仕方がない。ゼヴェリン 氏(Carl Severingのことでゼヴェリンク氏が正しい)が当時のワイマール政府の内務大臣であることを注記してゐなくても、そんなものだらう。

しかし、ヒトラーの父親がヒトラーの生まれ故郷のブラウナウからに引越したことを「もう一度離れねばならなかった(wieder verlassen)」とした処からは、もう許容範囲を超えてゐる。ここのwiederは住んでゐない元の状態に戻るといふ意味を含ませただけで、ブラウ ナウから二度目の引越しをしたのではないのだ。

次の「オーストリア税関吏の運命は、当時よく『さすらい』だといわれていた」もひどい。ここは「当時のオーストリアの税関吏にとつて転勤は宿命だつた」と いふ意味で、別に「さすらふ」わけではないのだ。ここのheissenも「言われる」ではなく、「である」つまりbe動詞として使はれてゐるのである。

さらに、最初の見開きの最後、「故郷ヴァルトフィールテルから歩き続けた」とあるが、ここはヒトラーの父親が13歳で家出したことを書いてゐるくだりであ るから、「故郷ヴァルトフィールテルから出奔した」とでもするところである。ところが、この訳者は原文のfort-laufenを「歩き(laufen) 続けた(fort)」と訳したのである。

その後も、so...auchの構文を知らずに「そこで・・も」としたり、部分否定のnicht jederを全否定で訳したりと、初心者の犯すやうな間違ひを至る所でやつてゐる。要するに、この訳者は、た だひたすら辞書の訳語をつなげただけなのだ。

それでも一冊の本を訳し終へたら、少しはドイツ語の力が身に付くものである。ところが、これが改訳版の修正版だといふのだ。しかし、二度も三度もやつ て、こんな初歩的な間違ひだらけであるはずがない。本当に自分でやつたのかと言ひたくなる、それ程にこれはひどい翻訳である。(2009年5月7日)







『ナチ占領下のパリ』(草思社)は、「あとがき」に「ドイツ占領下のフランスについて語る場合、抵抗についてのみ論じたのでは、公正を期することはできま い。そこで筆者は、ドイツ軍占領下のフランス、特にパリの実態を、できるだけ公正に日本の読者に知ってもらおうとの意図から、本書を記したものである」と 書かれてゐる。

しかし、それを期待して読むとがつかりさせられる。この本はそんな大それたことを目指した本ではない。パリを占領したドイツ軍の悪逆非道ぶりとそれに苦し むフランス人の窮状、一部の対独協力者と抵抗者について、筆者があれこれ拾ひ読みしてきたことを適当に詰め込んだ本でしかないのだ。

その適当さは「エピローグ」の「確かだったのは、パリ市民の大部分が、少なくとも心情的には占領ドイツ軍に強い反感をいだいていたことである」といふ文章 によく表れてゐる。

何故そんなことが分かるのか。それは例へば「確かだつたのは、米軍占領下の東京都民の大部分は、少なくとも心情的には米軍に強い反感を抱いてゐたことであ る」と書くやうなものである。

しかし、そんなことを書く人はゐないだらう。それはなぜか。米軍が日本人に親切だつたからなのか。さうではあるまい。ドイツ軍も自分たちに協力的なフラン ス人には親切だつたからである。

東京を焼け野原にした米軍に日本人が大した反感を抱かなかつたとすれば、パリを無傷で占領した独軍にフランス人が大した反感を抱かなかつたとしても不思議 ではないはずだ。

では実際はどうだつたのか、それを明らかにするのが書物の役割のはずだ。ところが、この本の筆者は戦後になつてフランス人が書いた本をたよりにして、「確 かだった」と言つてゐるだけなのである。しかし、それは戦後史観を代弁してゐるに過ぎない。

この本は書かれてゐる話の内容が、前後で重複してゐることが多く、また、何のためにここでこの話を入れたのか分からないやうな処があちこちにあつて、文章 も全体的に軽くて信憑性にとぼしい。編集者は何をしてゐたのかと思はせる残念な本である。(2009年5月6日)







トーランドの『アドルフ・ヒトラー』は、フランスに勝つたあとパリ市内を三時間かけて見学して回るヒトラーの姿を伝へてゐる。オペラ座から、エッフェル 塔、ナポレオンの墓、モンマルトルの丘までを見て回るヒトラーは、まるで昔の画学生にもどつたかのやうだつた。

彼はフランスとの戦争に際して、ドイツ軍にパリを迂回してその近くでの戦闘を避けるように命じた。その理由を、パリを見学中のヒトラーは「いま眼下に横た わるこの美観を後世に残すためだ」と言つたといふ。

ヒトラーはパリに入場したドイツ兵に略奪行為を禁じ、市民に対して威張り散らしたり、金を払はずに食べ物を要求してはいけないと命じた。また、避難してゐ たフランス人がパリに帰るのを助け、婦人には礼儀正しく、愛想よく振舞はせたといふ。

さらにパリのドイツ軍はまるで休暇を楽しんでゐる団体客のやうだつたといふのだ。だから、去年の展覧会で公開されたアンドレ・ズッカの写真が伝へるナチ占 領下のパリ市民の楽しげな風景は、一面の真実だつたのである。

一方、トーランドは大部分のフランス人はナチ当局に協力してをり、レジスタンス運動に参加した人間は非常に少なかつたと伝へてゐる。また、参加した人たち も血みどろの内部抗争に忙しく、実質的な抵抗運動の体をなしてゐなかつたといふ。

かうした事実を知つた後で、例へば『パリは燃えているか』といふ本を見ると、それが如何に脚色と誇張によつて作られた物語であるかが分かるのである。

この本は前書きで、綿密な調査による事実だけに基づいて書かれたかのやうに入念に装はれてゐる。しかし、一旦本編に入ると、悪辣暴虐なドイツ軍と正義のレ ジスタンスといふパターンにどつぷり浸かつて書かれてをり、結局は娯楽物としての価値しか認められないのである。(2009年5月5日)







村瀬興雄の『アドルフ・ヒトラー』(中公新書1977年)もトーランドの本と同じく、ヒトラーに対して公平な見方を提供してゐる本である。

著者は、戦後悪意を持つて書かれたヒトラーの伝記の誤りを、最新の研究によつて匡(ただ)し、ヒトラーもまたどこにでもゐるありふれた人間であり、時代の 子の一人に過ぎなかつたこと、ユダヤ人憎悪も当時ありふれた現象だつたことを明らかにしてゐる。

また、第一次大戦以前からのドイツの政治思想の流れと、それに伴ふ様々な政党の栄枯盛衰の有り様についても、欧米の書籍をもとにして学問的に概観して、ヒ トラーとナチスをその中に位置づけてゐる。

著者によると、かういふ客観的な見方が生まれてきたのは、ファシズム復活の恐れがなくなつた1952年頃からだといふ(74頁以下)。しかし、それでも最 初は①「悪かったのはヒトラーとナチス大幹部だけで、その他の支配者はなんとか我慢の出来る指導者であったという見方」が盛んだつた。

しかし「1960年代から風向きがさらに変ってきた」。ナチスの時代を生きのびた人たちも、戦前戦中はナチスと同じ帝国主義的考へ方をして、ナチスと同じ 地盤を共有してゐたではないのかと言はれ出したのだ②。つまり、ヒトラーとナチスが相対化され始めたのである。

とは言へ、一般の日本人の頭の中では今でも①の考へ方が主流である。例へば、ヒトラーの『わが闘争』だけでなく、ヒトラーについて書かれた本は、書店では 沢山見られるのに、公立図書館ではなかなか見付けられない。ついこの間まで私がさうだつたやうに、日本では相変はらずヒトラーはゲテモノだからであらう。 (2009年5月4日)







トーランドの『アドルフ・ヒトラー』を読んでゐると、ヒトラーは悪人でチェンバレンはだめな政治家で、ルーズベルトとチャーチルは偉大な政治家だといふ考 へ方も変つてくる。

チェンバレンは徹底した平和主義者で、有名なミュンヘン会談以前にも2度もミュンヘンに飛んでヒトラーと話しあつてゐる。やむを得ずドイツに宣戦布告した 後も、宥和主義者との批判にめげずに半年以上もの間和平工作をやり続けた。

チャーチルはチェンバレンとは正反対で武力行使をためらわず、フランスが早々にドイツに降伏したときも和平の機会とは捉へず、一切の負けを認めないで、ア メリカとソ連の力を借りてドイツを降伏させるまで4年間も戦争を続けた。

ルーズベルトもまた徹底した主戦派で、ヒトラーとの話し合ひを重視するチェンバレンに対して何度も戦争を促し、自国内でも戦争を嫌がるアメリカ国民をたき つけてイギリスとドイツの戦争に参戦して行つた。

ヒトラーの目的はユダヤ人と共産ソビエトの撲滅であつた。だから、フランスを降伏させた後にイギリス攻撃をそこそこにして、ソ連の日独伊三国同盟への参加 の申し込みさへ無視して、ソ連との戦争にのめりこんで行つた。

つまり、それぞれが血の通つた人間だつたのであり、それぞれが自分の主義に殉じた人たちだつたのである。

一方、戦後60年経つてもテレビなどのマスコミに登場し続ける第二次世界大戦とヒトラーたちのイメージは、ユダヤ人とアメリカ人が中心となつて作り上げた ものでしかないのである。(2009年5月1日)







トーランドの『アドルフ・ヒトラー』を読んでゐると、なぜイギリスはチェコスロバキアを侵略したヒトラーに腹を立てて、ポーランドを侵略したヒトラーに宣 戦布告したのか不思議に思へてくる。なぜヒトラーをほつとかなかつたのかと。

所詮は他人の不幸だつたはずだ。私たちは電車の中で暴力団風の男にいぢめられてゐる人を見ても、普通は男に殴りかかつたりしない。それと同じで、他国がド イツにいぢめられてゐるからといつて、どうしてイギリスはドイツに喧嘩を挑んだのか。

ドイツがどこまで東欧諸国を自分のものにしようと、そのためにイギリス国民がドイツ空軍の空襲にさらされねばならない謂はれはなかつたはずだ。確かに「義 を見てせざるは勇なきなり」とは言ふ。しかし、それは一時的な面子の問題だらう。そのために、自分の国民を巻き添へにすることなどありえなかつたはずだ。

ヒトラーがやがてソビエトと戦ひ始めたのは歴史の知るところである。それを英仏が邪魔してゐなかつたなら、ヒトラーは独力でソ連の共産主義を終らせてゐた かもしれないのだ。しかも、病気のヒトラーは長生きしなかつた。ヒトラーが死ねばドイツのファシズムは終つてゐたのだ。

それに、イギリスがあんな大戦争までしてドイツを負かしたのに、その支配を逃れた東欧諸国は全部ソ連のものになつてしまつたではないか。そんなことなら、 ヒトラーに支配されてゐたままの方が、共産主義国にならなかつただけ、よほど世界は平和だつたはずだ。

かう考へてくると、第二次世界大戦はまつたく無駄な戦ひだつたのではないのかと思へてくる。(2009年4月27日)







ジョン・トーランドの『アドルフ・ヒトラー』は、あまり読みやすい本ではない。色んな人物の固有名詞が、肩書きなしで登場することが多いので、最初に出て きた頁からかなり離れてゐたりすると、そのたびに誰だつたか確認するために最初に戻る必要があり、最終巻についてゐる索引なしに読み進めることは難しい。

この本よりも児島襄の『第二次世界大戦:ヒトラーの戦い』の方がはるかに読みやすい。もつとも、この本は筆者が一から資料に当つて書いたと言ふよりは、ヒ トラーに関する既存の本をあれこれ利用して作られた本だと思はれる。

例へば、レーム事件でヒトラーがレームの宿泊してゐるホテルに突入する際の描写では、ホテルの女主人の驚きやうから、レームの副官の部屋の中の様子にいた る一連の出来事は、トーランドの描写とそのまま同じである。

ほかにもそんなところが沢山あるが、もちろん全部丸写ししてゐるわけではない。日本人向きに必要な説明も加へてあり、改行もたくさんあつて、多くの情報が 集約されてゐて、とても読みやすいので、児島襄のヒトラーがなかなか図書館で見つからないことは残念なことである。

児島襄の特徴は何と言つてもヒトラー批判に主眼が置かれてゐないことだらう。オーストリア併合も、元々それはオーストリア国民が願つてゐたことだとする記 述から始めてゐて、テレビの映像物によつてナチスの悪行が染み付いてゐる人には、目からうろこの思ひがするかもしれない。(2009年4月26日)







現代ではヒトラーに関してユダヤ人排斥ばかりが言はれるが、彼は共産主義撲滅にも必死に取り組んでゐた。

当時のドイツにおけるボルシェビキの脅威はすさまじいもので、ドイツの多くの州では暴力革命による共産党政権が生まれては消えしてゐた。ポーランド、オー ストリア、イタリアで独裁政権が生まれたのも、共産主義からそれぞれの国土を守るためであつた。

また、スペインではフランコが社会主義政権を相手に内戦の最中で、その戦ひを支援するために行なつたドイツ軍による空爆がピカソの絵に残されてゐる。その ころ日本も共産主義を排除するために懸命だつた。

かうして世界中で共産主義を排除する戦ひが行はれてゐたのに対して、共産主義者を多く抱へたアメリカの三期目のルーズベルト政権が第二次世界大戦に参戦し たことの結果はどういふことになつたか。

ドイツの東半分とその東側の国々で共産政権が次々と誕生し、アジアでも北朝鮮と中国の二つの共産国家が生まれ、日本でも獄中の共産主義者が息を吹き返した のである。

ファシズム運動とは共産主義との戦ひだつたにも関わらず、アメリカの参戦と勝利はその運動をつぶして、世界中に共産主義の脅威を蔓延させたのだ。

ところで、スペインは第二次大戦でフランコが中立を保つたお蔭でアメリカに敗れることがなかつたためファシズムは生き残りイベリア半島は赤化を免れた。一 方、アメリカ自身は戦後のマッカーシー上院議 員の運動によつて共産主義は根絶されてゐる。

ジョン・トーランドの『アドルフ・ヒトラー』を読むと、以上のやうな歴史の見方が可能であることが分かる。(2009年4月25日)








ジョン・トーランドの『アドルフ・ヒトラー』を読むと、なぜワイマール憲法といふ民主的な憲法の下でヒトラーが独裁的な権力を手にすることが出来たかがよ く分かる。

まづ、ワイマール憲法は、第一次世界大戦後に権力を握つてゐた社民勢力が中心になつて作つたものであつて、必ずしも国民の総意で作られたものとは言ひがた かつた。ところが彼等こそは反戦運動から革命を引き起こしてドイツに敗戦をもたらした張本人で、言はば敵に祖国を売つて権力の座を手に入れた人達だつた。

だから、戦後の外交も旧敵国側の言ひなりで、しかも敗戦後の経済的混乱から国を立て直すことができずにゐるうちに、彼等は急速に国民の支持を失なつてしま つた。それと共に、彼等が作つた憲法も国民にとつてはお荷物でしかなくなつてしまつたのだ。

一方、当時のドイツは皇帝による独裁政治を脱したばかりで、民主主義は全く根付いてをらず、暴力革命を目指す共産勢力とこれも暴力的な右翼勢力がドイツの 各地で力づくの権力争ひを繰り広げてゐて、話し合ひだけで物事を民主的に決めていかうといふ機運は少なかつた。

したがつて、議会は反対勢力が対立するだけで全く機能せず、ヒトラーがまだ登場する以前から、議会を通過した法律によつてではなく、大統領による緊急勅令 の乱発によつて重要な政策が実施されるといふ有り様だつた。

しかも、当時はポーランド、オーストリア、イタリア、ソ連とドイツを取り巻く多くの国々では独裁者が政権を握つてをり、民主主義は最善の政治形態であると は見なされてゐなかつた。

そのやうな状況の中で、ドイツ国民はもはや議会に左右されない強力な政権の誕生を待ち望んでゐた。だから、総選挙でナチスが第一党に躍進すると、独裁的権 力を要求するヒトラーを首相にせよと経済界の重鎮たちは大統領にこぞつて請願書を提出したのである。要するにドイツ国民は鉄血宰相の再来を夢見てゐたの だ。

どん底から這ひ上がつてきた苦労人のヒトラーは、その鍛へ上げた雄弁術と賢明な振る舞ひ方によつて、自分こそはそのやうな国民の夢と希望に応へられる人間 であると国民に信じ込ませることができた。その結果、彼は熱狂的な支持をもつてドイツ国民に迎へられたのである。

だから、彼がワイマール憲法を否定するやうな政策を次々と実現して行くことは、まさに多くの国民にとつては願つたり叶つたりだつたのである。(2009年 4月23日)







『シャンプー台のむこうに』といふ映画は、競技物のストーリーをベースにしてそこへ家族再結集といふ現代的なテーマを加へて非常にうまく作られた映画であ る。

村で大きな競技大会が催されることなつた。むかし不義理をして村を出て行つた男がそれを聞いて、出場するために、昔の仲間のもとに帰つてくる。しかし、村 に留まつて地味に暮らしてきたリーダーでかつての名人は、そんな競技に今更出る気はさらさらない。そもそもどの面下げて帰つて来たのだ言つて男を追ひ帰し てしまふ。

ところが、名人には一人の息子がゐて自分が大会に出ると言ひ出す。そして帰つて来た男と息子のチームが生まれる。戦は四回戦である。父親は、息子が一回戦 で敗れるまでは突き放して見てゐるが、二回戦を前にして息子に奥義の伝授を始める。また、父親は強敵の秘策を見破つてその妨害するなど、まづは脇役として 競技に関はつてくる。三回戦には帰つて来た男が腕前を発揮して1位に肉薄する。

かうした話の展開だから、おのづと最後の見所は、この父親がチームに加はつて、この大会に颯爽と登場して、最後の戦ひでかつての名人芸を披露するところで ある。もちろんチームは大逆転で勝利を手にするのだ。

この映画のストーリーは、このやうにチームで勝利を勝ち取る物語によくあるパターンを基にして作られてゐる。もちろん、非常に面白い映画に仕上つてゐる が、これと似た話はいくらでもあると思ふ。私は思ひ出せないが、映画通か漫画通の人ならすぐに言ひ当てることができるのではないか。 (2009年4月18日)








車のガソリンをセルフスタンドで入れるやうになつて給油が気楽になつたのはよいことだ。たとへ値段が安くても人に入れてもらふスタンドでは、オイルの点検 や何やかやと店員に勧められて断るのが面倒だからである。

しかし、悪いこともある。それはタイヤの空気圧を見てもらへなくなつたことだ。タイヤの空気圧を自分で管理する必要が生まれたのである。幸ひタイヤの空気 圧を計るメーター(空気圧ゲージ)は100円ショップに売つてゐる。あとは空気を入れるポンプがあればよい。

これを私は自転車の空気入れでやつてゐる。最近売られてゐる自転車の空気入れには、米式バルブ用の口金が付いてゐて、それに鳥の口ばし(洗濯バサミ)型を した口金が差し込まれてゐて、それを自転車のバルブに挟んで空気を入れるやうになつてゐるのが多い。この口ばし部分を外して、米式バルブ用の口金を自動車 に 使ふのである。

この口ばしは、米式バルブ用口金の頭にあるレバーを立ててから引つこ抜けばよい。それから、口金を車のタイヤバルブに差し込んで、頭のレバーを倒 して抜けないやうに固定してやるのだ。あとは、せつせと空気を入れて、空気圧ゲージで計つて適正な値になるやうにすればいいのである。

ゼロから空気を入れるのではないし、空気の減るタイヤは右側の後輪が主だから、自転車の空気入れでやつても、たいした労力ではない。それより重要なのは、 米式の口金の中のへその長さである。

この口金の仕組みは、空気圧ゲージの場合と同じで、このへそがタイヤのバルブの弁を開くやうになつてゐる。だから、このへそが短かすぎると弁が開かないの で、いくらポンプを押しても空気は入らない。逆にこのへそが長すぎると、タイヤのバルブに口金をはめるときにタイヤから空気がシューシュー漏れてしまふ。

バルブにはめて頭のレバーを倒したときに丁度弁が開くやうになつてゐるのがよいのだ。これはPanaracerの空気入れの口金がうまく設計されてゐるや うだ。ついでに言ふなら、空気圧ゲージ付きのものが便利である。適正な空気圧になるのを見ながら空気を入れられるからである(約2000円)。(2009 年4月13日)








京都舞鶴の女子高生殺人事件で被害者の少女が哀れなのは、お気に入りのハンドバッグを持ち、買つたばかりのサンダルを履いて、明らかによそ行きのお洒落を して出かけてゐたことだらう。

彼女はデートに出かけたのである。おそらく彼女は人生で初めて自分を必要とする男性にめぐりあつたのだ。そして夜中に秘密の呼び出しを受けて出て行つた。 男性との秘密の約束をした乙女心は、親に黙つて家を抜け出すスリルも味はつてゐたはずだ。

だから、彼女の気持ちは当初浮き浮きしたものだつたらう。男性と会ふ前に友達に電話をかけたのも、友達に対して何か自慢をするやうな気持ちがあつたのでは ないか。しかし、これから人に会ふことまでは言へなかつた。

数日前に母と一緒にサンダルを買つたのは、そもそもこの男性と会ふためだつたのかもしれない。彼女は初めて履いたサンダルで足を豆だらけにしながらも、男 との会話を楽しみながら、男に言はれるままに延々と歩きつづけた。

憎むべきこの男は、事件前にどこかで彼女と会つてゐたはずなのだ。孤独な少女は、男にやさしい言葉を掛けられて心を動かされてゐた。警察官の手にぶら下げ られた少女のサンダルの写真から、そんなことを想像して胸を締め付けられるのである。(2009年4月10日)







レジの清算で列に並んでゐるときに隣のレジが開くと、ろくなことが起こらないから、レジには並ばないやうにしてゐるが、それでも時々不幸なことが起こる。

先日も買ひ物を終へてレジの方を見ると2人ほど並んでゐたので、例によつて遠巻きにして別の商品を見てゐるうちに、後一人になつたので、レジの前のガムの 棚まで行つて、ボトルガムを手に取つて買はうかどうか見てゐた。すると、閉じてゐた隣のレジに化粧部員のお姉さんが来て「こちらへどうぞ」と言ふ。

自分が次の番だと思つてゐたので、そちらへ行きかけると、彼女は「そちらの方どうぞ」と言ふ。「俺?」と言ふと、また「そちらの方どうぞ」と言ふ。明らか に目線は私の後ろに行つてゐる。「また、断わられたよ」と思ひながら、格好悪さをごまかすために、ガム選びに戻る振りをするが、隣のレジには長身の格好の いい男性が行つて清算をしてゐる。

順番から言へば私だつたのだが、正確に言へば私は並んではゐなかつた。しかし、この長身の男性は今レジに来たばかりで、私の目線には入つてゐず、列は出来 てもゐなかつたのだ。となると、この女性部員の目当てはその長身の男性にあつたのかと疑ひたくなる。

そのうちこちらのレジでは私の番になつて、50がらみの手際のよいおばさんのお陰ですぐに清算は終つた。わたしは「俺は男前ではないものな」などと思ひな がらレジを去りかけた。するとその時レジのおばさんはまるで私の心を察したかのやうに、私に向かつて深々と頭を下げながら「どうも申し訳ございませんでし た」と言つたのである。(2009年4月9日)







商品に警報装置が付いてゐないお店の場合には、買ひ物を選ぶことにはあまり困難はないのだが、問題はしばしばレジで買ひ物を清算する時に起きる。

レジといふものは他の客が誰も並んでゐず、一人で清算する場合には、普通は何も問題は起こらない。問題は、レジに既にほかの客が並んでゐて、しかも列が長 くなつた場合に、それを見た別の店員が気を利かして隣のレジの開けた場合にしばしば起こるのである。

しかも、その起こり方は二通りある。まづ一つめは、こちらはさんざん待たされたのに、自分の後ろにあとから並んだ客が、開いた隣のレジにさつと移つて、自 分より先に清算をしてしまふ場合である。これは実に悔しい思ひをさせられる。

もう一つのケースは、自分が列の後ろの方に並んでゐる場合で、隣のレジが開くの見てラッキーとそちらに移らうとすると、あなたの前で待つてゐた人が優先で す、と言つて店員に断られる場合である。この場合は大恥である。

といふわけで、どちらにしろ不愉快な思ひをさせられるので、それを恐れる私はレジに人が並んでゐるときは列には加はらず、離れたところで商品を見ながらレ ジが空になるのを待つことにしてゐる。(2009年4月8日)







ショッピングには様々な不愉快がつきものだが、その一つは紛れもなくカメラ店や電気屋の商品についてゐる警報装置であらう。展示してあるデジカメを持ち上 げた途端にピーピーと大きな音が鳴り始めるあれである。

あの目的は盗難防止で、警報装置のタグが商品から外された場合に鳴りだすはずのものなのだが、それがどういふわけか商品を持ち上げただけで鳴りだすものだ から、びつくり仰天させられる。

そして、何か悪いことをした人間になつたやうな気分にさせられるのだ。

それでも店員がこちらに愛想良く声を掛けながらすぐにやつて来て音を消してくれたらまだしもなのだが、ほとんどの場合、店員はなかなかやつて来ず、そのう ちに無言で近づいてきて無言で警報装置をセットし直して元の職場へ帰つて行くのだ。

さうなると、こちらとしてはもうその店からはそおッと出て行くほかはない。

それでもまた、その店の前を通ると、やはりその商品に対する自分の好奇心を満たしたいのと、また鳴るかどうか試したいのとで、さつき警報装置が作動した同 じ商品を、今度はさつきとは持つ所を変へてから、もう一度ゆつくり持ち上げてみるのだ。

そして、おお今度は鳴らないぞ。ざまを見ろ。何だ。このタグに触れたのがまづかつたのか、などと思ふのである。もちろん私を泥棒扱ひして謝らなかつたそん な店でその商品を買ふ気などさらさらないのだ。(2009年4月7日)







最近ある公立図書館のホームページを見たらこんなことが書いてあつた。

「図書館からのお願い 図書館では、現在予約の殺到しているベストセラー5冊の寄 贈を歓迎しています。・・・ご不用になった上記の本をお持ちでしたら、ぜひ図書館までお持ちください。」

良かれと思つてやつてゐるのだらうが、常識のなさ丸出しである。これでは、図書館でベストセラーが読めないのは、住民の協力が足りないからだといふことに なつてしまふではないか。

ところが、全国には同じやうなことをホームページに書いてゐる公立図書館があちこちにある。ベストセラー以外でも寄贈をお願ひすると言ひながら、きれいな 本以外はお断りと公然と条件をつけてゐたりするのだ。

しかし、これは人から物を乞ひ求める態度では断じてない。こんなものを読めば「お前たちは一体何様なのか。人がわざわざ金を出して買つた本を、誰がお前た ちなんかに只でやるものか」と思はれるのが落ちだらう。

地方公務員たちの住民サービスに対する気持ちとは、こんなにも無神経なのである。(2009年4月6日)








三島由紀夫は『わが友ヒットラー』のあとがきで、アラン・ブロックの『アドルフ・ヒトラー』からこの作品の構想を得たと書いてゐる。しかし、そんな人のそ んな本は検索しても出てこない。書名だけで調べてみると、これはみすず書房から出てゐるアラン・バロックの『アドルフ・ヒトラー』のことらしい。

それで、借りてきて少し読んでみたが、この本のもとになる原書は大戦直後の1952年に出たもので、しかもイギリス人が書いたものであるためか、本人は公 平に書いたつもりらしいが、かなり偏見に満ちた本であるやうだ。

例へば「形成期」に書かれてゐる若き日のヒトラーは、自分の天職にめぐり遇ふまでは定職に就くことを拒否する生き方を選んだ、要するにフリーターだつたの だが、それが非常にだらしないことのやうに書かれてゐて、法廷で検事が犯罪者の前歴を語る口調そのままなのである。

また「むすびのことば」で、「ヒトラーの心を支配していた情念は下等なもので、憎しみ、恨み、支配欲、および、支配しきれないばあいの破壊欲といったもの であった」と結論付けてゐるが、このやうな非難の言葉は、本書の最初の方から繰り返されてゐる。

しかも、その根拠となる文献は、最初の方は大抵がヒトラー自身が書いた『わが闘争』からの引用でしかなく、それは物の見方次第なのであるから、何も証明し たことにはならないのだ。

結局、この本自体が、ヒトラーに対する恨みや憎しみと言つた下等な情念に支配されて書かれてゐるので、その感情を著者と分かち合へない人間にとつては、こ れは非常に不愉快な本にならざるを得ないと思はれる。

ところで、『わが友ヒットラー』といふ題名は、三島にとつてヒトラーが「わが友」だといふ意味ではなく、この作品の登場人物で、ヒトラーに粛清されるレー ム突撃隊長が、死ぬまでヒトラーのことを自分の親友だと信じて疑はなかつたことを表はしてゐる。(2009年4月5日)







最近、古本屋のチェーン店があちこちに出来て本好きには便利な世の中になつたが、店員が文学好きでないらしいのが欠点だらう。

これは古典作品、とくに古文の場合に困つたことになる。本の背表紙に書かれてゐる人の名前で棚に並べてしまふからである。例へば、岩波文庫の『枕草子』は 清少納言の「せ」の棚を探しても見つからない。編者の池田亀鑑の「い」の棚を探さなければならないのだ。

本を探すのに、作者の名前を覚えてゐてもだめで、編集者の名前を知つてゐなければならないのは、非常に不便である。

これは例へば岩波文庫だけを集めて並べてくれてゐるなら大きな問題ではない。ところが、なかには一般の小説と一緒くたにしてゐる店があつて、これはもうお 手上げである。

最近も、ある古本屋のチェーン店で、承久の変の後に出たと言はれる『新勅撰和歌集』の岩波文庫があつたはずなのだが、と探してみたが見つからない。編者の 名前の久曽神と樋口をメモして行つて、そのあたりを探しても見つからない。

誰かに買はれてしまつたのかとも思ふが、誰が買ふのだらうかとも思ふ。それで、ついつい文庫本の棚を端から端まで全部見て歩いてしまふ。もちろん、見つけ たからと言つても買ふとは限らない。買つても読むとは限らないからである。(2009年3月29日)







 WEBブラウザのFirefox3がどうもうまくない。

 私は昔からIEではなく、Netscapeを使つてきた。それは一つには最初のパソコンがマッキントッシュだつた事がある。マック用のインターネットエ クスプローラは重くて使へなかつたのに対して、ネットスケープは軽くて使ひやすかつたのである。

 それでパソコンをウインドーズに替へてからも、使ひ慣れたネットスケープを使つてきたし、その後も、その後継者である、Mogillaから Firefoxへと歴代のものを使つてきた。

 IEは表示される文字の大きさをフォントで設定できなかつたり、検索ウインドがポップアップ式で邪魔になることも手伝つて、ずつとこちらの系統を愛用し てきたのだ。ところが、Firefoxが弟3版になつてからどうも付いて行けなくなつてきた。

 古いノートパソコンでは第3版になつた最初から重くて使へないので、第二版に戻して使つてゐる。新しい方のノートでは、なんとか第3版を使つてゐたのだ が、ブログを閲覧してゐるときに時々ブラックアウトするのだ。パソコンの画面がまつ黒になつて勝手に再起動してしまふのである。

 ブルースクリーンが出て再起動するときはメモリが不良であることが多く、画面が白黒の縞模様になるときはCPUの熱暴走であるが、ブラックアウトは電流 の負荷が大き過ぎたときによく起こる。

 また落ちるかと思ひながらパソコンに向かふのは、とても精神衛生上好ましいことではない。それで新しい方のノートでもFirefox2に格下げすること にした。

 なほ、ほかにGoogle ChromeやSafariが候補に上がつたが、前者はファイルメニューがないのが不便であり、後者はまだまだ開発途中であり、メールをクリックしても開 けなかつたりするので、どちらも常用には使へないと判断した。(2009年3月23日)







民主党の小沢代表が企業献金の全面禁止を言ひ出した。もしいま企業献金が世間で悪いことだと思はれてゐるとしたら、それはまさに今度の小沢氏の秘書が逮捕 された西松建設の事件のせいである。ところが、小沢氏はこの機を逆手に取つてこんなことを提案するのだから、彼はまさに稀代の政治家である。

 ここで小沢氏が本気でそんなことを考へてゐるかどうかは重要ではない。しかし、自民党にそんなことが出来ないことは百も承知であり、麻生首相が馬鹿正直 に「企業献金は悪ではない」と言ふことも計算の上なのだらう。

 だから、今これを言ひだせば確実に政府自民党を悪役にすることができる。マスコミは自民党のバッシングに出るだらう。さうすれば世論をまた自分の味方に することが可能だと、さう考へたに違ひない。

 考へて見れば、自分が導入を推進した党首討論に終始消極的であつた小沢氏は、去年末にマスコミが二次補正を年内に提出しない麻生首相を批判してゐた丁度 そのときをとらへて、唯一度だけ討論に応じ、二次補正の提出を首相にせまつて見事に成功したのもさうだつた。

 小沢氏がその二次補正を成立させる気などさらさらなかつたことは、その後の国会運営から見て明らかである。つまり、小沢氏のあの討論における主張は首相 を追ひ詰めて自分に対する支持を拡大する手段でしかなかつたのである。

 小選挙区制導入による政治改革といひ、党首討論といひ、英国流の政府制度といひ、誰も反対できない理想を掲げて、世間の目から自分の権勢欲を巧みにくら まして来た小沢氏である。今度もまたこれで世論を操れると踏んだに違ひない。

 もつとも、公設秘書が逮捕された国会議員が総理大臣になるなどと云ふことは前代未聞のことである。したがつて、これは自分のためと言ふよりは、むしろ自 分のせいで国民の支持を失なつた民主党のための置き土産と考へてゐるのかもしれない。しかし、いづれにせよ全く恐ろしき天才である。(2009年3月18 日)







USBブートといつてUSBメモリからパソコンを起動させるやり方がある。最近のパソコンはフロッピーディスクがなく、それに代はる携帯用の記録メディア としてUSBメモリが使はれてゐるが、それに起動する機能も持たせやうといふのである。

しかしながら、これはどのパソコンでも出来るといふわけではないやうだ。私の持つてゐるパソコンでも出来るのはデスクトップパソコンの方で、フロッピーの ない肝心のノートパソコンではどれもできなつた。

出来るパソコンと出来ないパソコンを見分けるポイントは、買つて来たUSBメモリを装着したままでパソコンを起動すると、文書フロッピーを差したまま起動 してしまつた時と同じように、抜いてくれと言つて止まるかどう かであらう。止まるパソコンはUSBメモリを起動装置として認めてゐるのである。

そして、止まる場合には、USBメモリを起動用のソフトでフォーマットして起動システムを入れてやると、起動ディスクの代はりに使ふこと ができる。わたしの場合、Jetflash v30とmformatといふソフトとNECのデスクトップの組合はせで可能だつた。

これで起動するとms-dos画面になる。これはWindowsだけを普通に使つてゐる場合には大した利用法はない。本体のハードディスクとファイルシス テムが異なるので、ms-dosからは何も出来ないからである。しかし、別のオペレーティングシステム(例へばLinux)を併用する場合には便利なのだ らうと思ふ。(2009年3月15日)







松下のDVDレコーダーでBSデジタル放送を見る場合には、チャンネルを上下の矢印ボタンで順番に換へて行くと、12チャンネルの後、13チャンネルから 延々とデータ放送チャンネルが並んでゐる。

これは初期設定がさうなつてゐるからで、このままでは、矢印ボタンをずつと押し続けて、データチャンネルを全部通り過ぎないと、元の1チャンネルに戻つて 来れない。しかし、この設定は、非常に面倒くさいが、変へることができる。

「操作一覧」ボタンを押して、「その他の機能へ」から「放送設定」を開き、まづ「放送設置」から「チェンネル設定」→「BS」を開き、「PO」を下にたど つて行き、13から35までのチャンネルのそれぞれ「CH」の値を「―」(910の次)にする。

次に、同じ「放送設定」の中の「デジタル放送・再生」の「選択対象」を「すべて」から「設定チャンネル」に変更する。これで「操作一覧」ボタンを2度押し て「操作一覧」を消すとよい。これで、チャンネルの上向き矢印ボタンで12チャンネルから1チャンネルに、下向き矢印ボタンで1チャンネルから12チャン ネルに行けるやうになるし、番組表にもデータ放送のチャンネルは表示されなくなる。

 このことが分かつたのは、このDVDレコーダを買つて半年以上にもなる今頃である。まつたくDVDレコーダーは難しい。VHSビデオデッキが扱へなかつ た人にはとても手に負へるものではない。(2009年3月9日)







最近、この町に大阪ガスが来て町中の道路を凸凹にして回つてゐる。といつても、ガス管を道路の下に埋めて回つてゐるだが、何故今頃になつてかと思ふ。

こんな田舎の町は都市ガスなどといふ結構なものには縁がなく、テレビの大阪ガスのCMもまつたくのヨソ事として長年暮らしてきた人間としては、急にこの都 会扱ひには合点が行かない。

この町も人口が増えていよいよ都会になつたのかと言へば決してそんなことはない。この十年でこの町の人口は増えるどころか減つてゐるのだ。つまり、大阪ガ スはわが町を都会と思ひ始めたのではなく、単に顧客数を増やさうとしてゐるだけなのである。

なぜか。それは最近の家のオール電化の普及によつて都市ガスの需要が落ち込んでゐるからに違ひない。今後もオール電化は増え続けるであらうから、もつと顧 客は減る。さうなれば会社はやつて行けない。そこで大慌てであちこちの道を掘り返へし始めたのである。

田舎の人間にも都市ガスといふ言葉の響きに対する憧れはあつた。しかし、今更家のLPガスを都市ガスに換へるのは大変なことだ。しかも、考へて見れば 都市ガスは災害に弱い。LPガスに比べて火力も半分しかない。

だから、今更LPガス運搬車のドライバーの仕事を減らす道理はないのである。それでも換へたい家が一つでもあれば、大阪ガスは何の遠慮もなく、そこま での道路を掘り返す。かうして今や町中の通が凸凹通になりつつある。元の平らな通に戻すのはもちろん税金なのだ。(2009年3月6日)







最近のDVDレコーダーの最大の売りはフルハイビジョン録画だらうが、ブラウン管ユーザーとしては、どうしても2番組同時録画に注目が行く。これは、デジ タルチューナーをBSと地上波で2つづつ、アナログ地上チューナーを1つ装備して、同時に2番組録画できるといふ機能である(アナログ録画の時は2番組同 時録画できないものもある)。

しかし、2番組同時録画できても、裏録してゐる番組はテレビに映せないものがある。これは地デジテレビを持たずに地デジ放送を見たい場合には困つたことに なる。この不満を解消してくれるのが東芝のヴァルディア(W録タイプ)である。

東芝はデジタルチューナー(BSと地上)用に2つの画面(TS1とTS2)、アナログチューナー用に1つの画面(RE)を用意して、DVDレコーダを接続 したテレビのビデオ1の画面に、この3つの画面を「W録」ボタンで切り換へることによつて表示できるやうにして、裏録中の番組を見られるやうにしてゐるの だ。

その結果、ヴァルディアでは、TS1とTS2に異なるデジタル放送を映して、その上、REにさらに別のアナログ番組を映して、3つの番組を切り換へながら 見るといつたことができるのである。

ところで、このRE画面ではデジタル放送を映したり録画したりもできる。しかし、ここで注意する必要があるのは、この映像はTS1のデジタル放送をアナロ グなどに変換(圧縮)して映してゐるものでしかないといふことだ。

つまり、TS1とREではデジタル番組は同じ番組を視聴・録画することしか出来ないのである。だから、TS1でデジタル放送を録画中にRE画面に換へて も、デジタル放送のチャンネルを換へられないし、REでデジタル放送を変換録画してゐるときにも、TS1画面ではチャンネルを換へることができない。

 このやうにTS1とREとは依存関係にあるため、ヴァルディア独自の3つの画面を生かした最もシンプルで自由度の高い使ひ方は、TS1のデジタル放送は そのまま録画(TS録画)し、REではアナログ放送だけを視聴・録画することだ、といふことになる。(2009年3月5日)







NHKテレビの「日本の話芸」を録画してゐるが、それは落語を見るためである。しかし、番組では落語だけでなく講談もやつてゐる。

講談と落語はどこが違ふか。放送の中で、神田琴桜(きんおう)といふ女講談師は、落語は粗忽者が出てくるが、講談は立派な人が出てくる。そこが違ふと話し てゐた。

しかし、もう一つ大きな違ひがある。それは何より話のスピードだらう。落語と比べると講談は話し方が遅い。この神田さんも遅いが、この前の赤穂浪士を語つ てゐた神田さんも遅かつた。

話が遅いと聞いてゐてどうなるか。話が丁寧なのは丁寧だが、同時に話がくどくなつて重くなる。それを聞いてゐると、段々とこちらの元気がなくなつてくる。 気持ちが萎えてくる。顎が下へ下へとうずまつてくる。そしてまぶたが閉じてくるのだ。

講談は眠くなるのが困りものだと思ひながら、一緒に見てゐる家族の方を見ると、もうこつくりこつくりとやつてゐる。眠るのが目的ではないので、どうしたも のかと思つたが、DVDレコーダの再生スピードを上げてみることにした。

リモコンの再生ボタンを長押しした1.3倍速、これが丁度いい。話の中身は同じなのに、急に面白くなつてきた。テンポがいいと、元々の話の分かりやすさも 生きてくる。見ると家族も目を覚ましてテレビを見てゐる。

そして、話を見終へて一言、「この人は話がうまいなあ」と。まさに、これは名人芸だつた。だだし、パナソニックのDVDレコーダ、ディーガの再生機能のお かげの名人芸ではある。(2009年3月3日)








慈円と言へば百人一首の「わが立つ杣の墨染めの袖」で有名だが、『愚管抄』といふ歴史書も残してゐる。承久の乱の前年の承久二年に書かれたもので、古代か らそれまでの歴史の流れの意味を考へた本である。

摂関家の出の人で当時の政治家たちとも深く関はつてゐたために、歴史上な大事件を直接見聞きした人の言葉を伝へてゐて、読物として面白く、読みやすい現代 語訳が「日本の名著」の中に入つてゐる。

しかし、それより面白いのはこの『愚管抄』の原本が、漢字かな混じり文、しかもカタカナで書かれてゐることである。そのカタカナを写本の写真で見ると、こ の時代にすでに現代のカタカナと殆ど同じ文字が使はれてゐることが分かるのだ。

といふことは、平仮名で書かれた昔の写本を読むのに必要なあの難解な変体仮名を読む訓練なしに、現代人は『愚管抄』の写本を読めるといふことなのである。 何よりカタカナには 草書体がないのがよい。それに合はせて漢字も草書体ではないのだ。

慈円も、この本を誰でも読めるやうにと意図的にカナばかり使つて書いたと第二巻の最後に書いてゐる。ただし、せつかくカタカナで書いてあつても慈円の書い た文章が分かりにくいのは残念なことではあるが、それはまた別問題であらう。(2009年3月2日)







東芝のDVDレコーダ(ヴァルディア)が松下(パナソニック・ディーガ)よりすぐれてゐる点

1 DVDの初期化やファイナライズのときもテレビの映像が見られる。

2 CMカットが、番組の本編がモノラルか音声二重でなくてもできる(松下のは高価なブルーレイレコーダでは同じことが出来るらしい)。見ながら30秒スキッ プするのは、スキップ後にCMの最後数コマが表示されてCM明けの画面にならず、もう一回スキップしてしまふことが多くて、苛々することが多いので、CM カットは欠かせない。

3 東芝では録画番組の再生中に「30秒スキップ」で早送りできるだけでなく設定で30秒バックもできるので、30スキップで行き過ぎたときに戻れる。

4 2番組録画(W録)中でも録画中の番組の画面を両方ともテレビで見ることが出来る。松下は片方しか見られない。

5 東芝はアナログ録画や外部入力録画中でもデジタル番組の録画がW録画出来る。

6 松下ではBSデジタルのチャンネルにデータ放送のチャンネルが含まれてゐるが、東芝ではそれがないためチャンネル切り換への上下ボタンでBS12チャンネ ルから直接NHKBS1に戻れる。

7 東芝にはフォルダ機能があり、その一つにゴミ箱があつて一時保存できる。フォルダに相当するものとして、松下ではまとめ機能があるが、削除すればそれき り。

8 リモコンで放送チャンネルの番号を指定して切り換へたいとき、松下では蓋をめくつて数字ボタンを押す必要があるが、東芝ではリモコンのサイドにあるスイッ チを変へれば、再生・停止などのボタンを数字ボタンに代用できる。

9 東芝はデジタル録画してゐないときは3つの画面、録画してゐるときは少なくとも2つの画面を、W録ボタンを押すことによつて、テレビのビデオ1或はビデオ 2画面のままで切り替へて見ることができるため、テレビ画面に戻る必要が少ない。

10 東芝は分単位のチャプター打ちを自動でできる。松下は手動でいちいち時間を見ながらしないといけない。

11 東芝はデジタル放送の特徴である今放送してゐる番組についての情報を画面を見ながらボタン一つで映し出すことが出来る。松下では番組表を出してから、該当 する番組について表示する必要がある。

12 松下の番組表のGガイドは1つしか放送がなくても3つ分の幅を各放送局に割当ててゐるが、東芝は番組表では1つだけ表示することが出来る。

13 東芝は、番組表の放送局の順序を自由に変へることができて、しかも最後まで行くと最初に戻るから、松下のGガイドのやうにNHKがいつも一番前に来ること がない。

14 東芝には Video形式の録画のダビングしたときに、削除したはずのCMが一部残ることを防ぐためのプログラムが用意されてゐる。

15 番組名などの入力で松下では一字一字五十音表の文字をたどつて行く必要があるが、東芝では携帯電話の入力方式で簡単に入力できる。

16 東芝では一秒間30フレームが数字で出るため、一時停止でチャプターを打つ場所を探すときに苛々せずに済む。松下は数字が出ないためどこまで移動出 来たかわからない。

東芝のDVDレコーダが松下より劣つてゐる点

1 東芝は、色んなことが出来るのでマニュアルが複雑になつてをり、使い方を身をもつて実際に体験して慣れる必要がある。(特に編集画面の使ひ方では、モード ボタンによるタイトルとチャプター切り換へと、カーソルの存在に気付くまでは大変だ。また、プレイリスト編集では、下段にカーソルがある間は先へ進めない ので、選択を間違つたと思つても一旦そのチャプターをカーソル位置に挿入してから、クイックメニューで選択キャンセルするしかない)

2 デジタル放送をブラウン管テレビで見るときに不愉快な上下の黒帯を消すサイドカット機能が松下にはあるが東芝にはない。ただし、東芝ではアナログ放送の放 送映像と、デジタル放送を標準録画して再生した映像に対して、ズーム機能で同じことが出来る。

3 松下にはあるSDカードスロットが東芝にはないのでデジカメの写真表示ができない。

4 番組表のスクロールが松下は速いが、東芝はとろんとろんしてゐる。

5 東芝では録画した番組はいちいち指定しないとフォルダの中ではなくルートにつくられるが、松下では同じ番組は自動的に「まとめ番組」の中につくられるやう になる。松下のほうが録画ファイルをフォルダに移すのが簡単。

6 東芝はDVDディスクを入れてから操作できるまでに松下よりも長い時間がかかる。

7  ダビングなどのスピードは東芝より松下のほうが速いし、ダビングできる容量も少し大きい。

8 東芝はTS1、TS2、REといふ概念がが分かりにくいのに対して、松下は録画1、録画2と分かりやすい。

9 東芝では、デジタル放送を標準録画してゐるときは、デジタル録画を再生できないことがある。

10 ダビングするときに、録画した番組の容量(バイト数)を松下では数字で見ることが出来るので、DVDディスクの容量と比較しやすいが、東芝ではその 表示がないので時間で考へるしかない。

といふわけで、パナのDVDレコーダーで感じてゐた多くの苛立ちが、東芝では少しの代償で大幅に解消されたのであつた。(2009年3月1日)






車を運転してゐて気になるのは前の車のブレーキランプである。止まる時にブレーキを踏むのは分かるが、どうして走りながらブレーキをあんなに踏むのだらう といつも思ふ。

もちろん速度調節にブレーキを使つてゐるからであらうが、スピードを下げるのに何もブレーキを踏む必要はなく、アクセルを離せばスピードは落ちる。ところ が、前の車との車間距離が狭いと、それでは間に合はずにブレーキを踏む必要が出てくるのだ。

最近の車は電子制御といつて、アクセルから足を離すと、その間はエンジンにガソリンが行かないやうになつてゐる。だから、アクセルを踏まずに走れば走るほ どガソリンは節約でき、燃費が良くなる。

逆に、速度を下げるのにブレーキを使へば、その分だけ余計にガソリンを無駄に消費して加速してゐたことになるのだ。

ところが、車間距離を狭くしてブレーキを踏みながら走る人が何と多いことか。多くの人は、まるで霊柩車の行列のやうに、つかず離れずピッタリとくつつい て、一団となつて走るのが大好きである。

2車線以上ある道では、少しでも前と車間距離を開けてゐる車があると「何をとろとろ走つてゐる」と言はんばかりに、後ろから追ひ越して前に割り込んでくる のだ。そして、自分の前の車に追いつくと安心したやうにブレーキを踏みながら走るのである。

これでエコだCO2削減だとなどと言つてゐるのだから、一事が万事、世の中なかなかよくならないはずである。(2009年2月25日)







パソコンのメモリ増設は永遠のテーマでいつかやりたいと思つてゐた。よく行くパソコンのパーツ屋でノートパソコンのメモリ(SODIMM)が何と300円 程で売つてゐる。見ると256MBのバルクメモリだ。

先代のノートもメモリ増設をしたが、同じWindowsXPでも古いタイプで最初が128メガ、増設しても256メガしかない。それでも充分動いてゐるの だが、最近のタイプは256では足りず最初から512ついてゐるのに、時々とても遅くなる。

それで1ギガを買つて差し代へて倍にして、余つた512を古いのに差せばよからうと計算してゐた。かういふものは上位互換が普通だからだ。ところが、調べ てみると、最近のノートのメモリは200ピンで古いのは144ピンと端子の数が違ふので使へないことが分かつた。

それなら空スロットに一つ差して増やしてやるだけでよからう。そこで思ひ出したのがあの300円のメモリだ。たつたの256メガを増設してどうなると思ひ さうだが、タスクマネージャーのパフォーマンスを見ると、何もソフトを使つてゐない時でだいたい256メガ使つてゐる。

といふことは、256増設すれば丁度その分をまかなへることになり、これまでの512を全部ソフトに回せる。さうなれば、メモリが不足してハードディスク をメモ リ代はり(仮想メモリ)に使ふことが少なくなるはずだ。仮想メモリを使ひだすと、途端にパソコンは遅くなつたり止まつてしまつたりするのである。

そこで型番を調べて4300と4200が同じであることを確認して、買つて来てマニュアル通りに差してやつた。パソコンの裏蓋のネジが固かつたが、それは 電気屋で景品にもらつた精密ドライバーの#1-2が役立つた。蓋を閉めてパソコンを立ち上げて見ると予想以上の軽さである。わづか300円で大違ひなの だ。(2009年2月24日)







『偶然の旅行者』といふ映画をテレビで見て面白かつたので、原作を借りてきた。『アクシデンタル・ツーリスト』と原題そのままの翻訳が出てゐて図書館にあ つたのだが、読むとこれがまつたく映画を見ながら書いたのかと思ふほど映画そのままだつた。

原作の本の年号を見ると映画より先になつてゐるから、実際は逆で映画が原作を忠実になどつて作られたのだが、ここまで忠実な本だと、丁寧に読んでも新しい 発見は殆どないから流し読みするしかない。

この本は流し読みしたくなる理由がもう一つあつて、それはこの本が女のお喋りをそのまま原稿にして作られたやうな本だといふことだ。主人公の男性の心理描 写もたくさん出てくるのだが、それが男の言葉ではなく、女のお喋りでつづられてゐるのだ。

作者が女性だから必然さうなるのかもしれないが、男の心の中はこんなにお喋りではない。本になる程たくさんの文章が書かれるのだから多弁は当然なのだが、 この本ではそれが文章の言葉になつてゐないのだ。

だから、そこにはお喋りを聞く楽しみはあつても、文章を読む楽しみを見出すことは難しい。しかも、ぺらぺら話しかけてくる女の言葉を、男は相槌を打ちなが らもそんなに丁寧に聞いてゐないものだが、この本にもそれが当てはまると思ふ。

本のカバーの映画の写真を見ても、この本は映画を見てから読む人が多いはずだが、それでも私の前の複数の読者は熱心な読者だつたらしく、その跡が本の背表 紙の傾きに現れてゐる。だから、女性が読むのに楽しい本なのだらうと想像する。(2009年2月23日)







余つてゐるSDカードの使ひ道にはmp3オーディオプレーヤがいいらしい。そこで思ひ出したのが、ホームセンターに何年も前からぶら下がつてゐる Qriomといふ会社の製品である。

それで、評判はどうだらうと、製品の型番であるEA-S55をネットで調べたが、ただの一つも検索に引つ掛つて来ない。Qriomのホームページを見ても 掲載がないのだ。きつと、本社ではもう作つてゐない古い商品なのだらう。ホームセンターにはさういふ商品がよく売られてゐるのだ。2480円といふことな ので、試しに買つて見た。

操作方法はmusic is mineと同じ。違ひは、単4電池が使へるのと、曲の途中でレジュームすること、一時停止で放置すると3分後に電源が切れることで、少し便利である。

しかし、music is mineはWindows Media Playerの「同期」が使へるが、こちらは使へないやうだ。説明書には使へると書いてあるが、Media Playerがデバイスとして認識しない。しかし、これは出来なくても、音楽ファイルをパソコンから直接コピペすればいいのである。

ところで、この不具合に対する対策はないかとQriomのサポートにメールで問ひ合はせてみたが、これは徒労に終つた。最初の回答は、私の使ひ方が悪いの ではとする失礼なもので、次は故障なら修理するので住所を教へるやうにといふものだつた。要するに、この不具合を把握してゐないのだ。

馬鹿らしくなつて、別の人に聞いてみようと、ホームページから営業関係のお問ひ合せページから、ホームセンターで売られてゐるこの商品はどこにも記載がな いが現行製品かと聞いてみた。すると、しばらくして返事が来たが、メールの最後の署名を見ると、なんとサポートと同じ人なのだ。

つまり、この会社のネット対応は全部同じ人がやつてゐるのである。しかも、サポートで当てにならないと思つた人から、現行製品だと言はれても、信用のしや うがない。

実はこの製品が2004年から2006年のものであることは、説明書のMedia Playerのバージョンが10であることから明らかなのである。多分OEM供給の終了した製品を店に置いてもらつてゐるのだらうが、そんな営業努力もサ ポート一人で台無しである。(2009年 2月19日)







ホームセンターなどで合鍵を作つてもらふと、しばらくお待ち下さいと言はれて、かなり待たされる。店員が鍵を選んで機械にセットして作りはじめると、チリ チリチリチリといふ音が聞こえてきて、それが終ると店内のアナウンスで呼び出される。

ところが、かうやつて出来た合鍵はかなりの割り合ひで精度の低いものでしかない。鍵穴に入れて回してもすつと回らず、すこし手加減が必要だつたりすること がよくある。

ホームセンターの受付には張り紙があつて、合鍵から合鍵を作ると鍵が合はなくなるから、マスターキーを持つてくるやうにと書いてあつたりする。といふこと は、ここで作つた合鍵にはかなりの誤差が生ずると白状してゐるやうなものである。

それを見た私は、これは使ふ機械と店員の腕のせいではないかと思ひ、ホームセンターではなく、鍵の専門店で作つてみた。

そこで一番驚くのは、その早さである。家の普通の鍵の複製などは、あつといふ間に出来てしまふのだ。ホームセンターの時のやうにしばらく待たされる積りで 椅子に腰をかける間もなく、店員が機械に鍵をセットするやいなや、チャリンと音がしたと思ふと、もう「出来ました」と言はれる。

チリチリチリとは言はないのである。出来た鍵を家に持ち帰つて差し込んでみると、一発で回転して一発で開け閉めできる。誤差がないのである。そして、そん な合鍵からなら、さらに合鍵を作ることもできるのだ。

合鍵は専門店で作るに限る。安いからといつて、ホームセンターの店員に合鍵を作らせてはいけないのである。専門店でも値段は500円以下が普通だ。 (2009年2月17日)







小泉元首相が公の席で麻生首相の悪口を言つたといふので大騒ぎになつてゐる。前々日に小泉氏にわざわざ謝罪の電話を入れた麻生氏は、耳を疑つたに違ひな い。真意は理解してゐると言つたじやないかと。

しかし、私はその電話こそ今回の悪口の引き金になつたと見る。謝罪電話は相手の寛容を引き出すどころか、却つて相手の怒りを増大させることが多いからであ る。

小泉氏にしてみれば、首相が謝つてきた、これで自信を持つて首相の悪口を言へる、となつたのだらう。あの電話がなければ、あれ程の言ひたい放題にはならな かつたはずだ。

人は心で怒つてはゐても、それをどう表現したらいいか分からないものだ。変なことを言つて相手から仕返しされたらといふ思ひが働くからである。そんな時 に、相手があらかじめ電話で謝つて来れば、もうその心配もなく安心して怒りをぶちまけられる。

したがつて、この小泉氏の暴言は反射的なものであつて、政局を動かさうといふ深慮遠謀に立つたものではないと思ふ。それにしても、麻生さんはお坊ちやんで ある。敵と味方の区別もせず、話せば分かつてくれるとほいほい電話したのだから。(2009年2月14日)








デジタル放送でテレビ番組を見ると、これまでアナログ放送で見てゐた映像よりも幅が広いことが分かる。トーク番組などでは、これまで画面の両端に隠れてゐ た人や物が見えるやうになるのである。

しかし、古いブラウン管テレビで見ると、上下に黒い帯がついて、その分だけ縦の幅が縮小されるので、映つてゐる物や人がアナログの時より小さく見える。だ から、初めは両端が見えて面白いと思つてゐても、小さいと見にくいので、「サイドカット」を選んで、上下の黒帯を取つて見るやうになる。

これによつてテレビに映るのは、元々のアナログ映像と同じものである。だから、デジタルにするとサイドカットをする余計な手間が増えるだけで、メリットは あまりないと言ふことになる。

ところが、サイドカットすると元のアナログ映像とは違ふ映像になる番組がある。それはデジタル放送の映画である。アナログ放送よりデジタル放送の方が横幅 の広い映像になつてゐるといふ上記の法則が、デジタルの映画には当てはまらない。アナログで見てもデジタルで見ても画面の横幅が同じなのだ。

といふことは、デジタルの横幅の広い映画は、サイドカットすれば、まさに両端がカットされ、上下の黒帯が減つた分だけ拡大された映像で見ることが出来ると いふことである。この利点は何より字幕である。デジタル映画をサイドカットすると画面下にある字幕が滅茶苦茶大きくなるのだ(画面横の字幕は当然見えなく なるが)。

これは近眼の人間にはありがたい。特にNHKの洋画は原則字幕放送であるから、字幕を読む手間がいるが、その面倒が少しだけ軽減されるのである。デジタル 放送はコピー制限といふ視聴者にとつての大きなデメリットがあるが、このやうにメリットも僅かながら存在するらしい。(2009年2月13日)







SDメモリカードがスーパーマーケットで2ギガ1000円ほどで売つてゐるのを見かけた。一時と比べてひどく安くなつてゐる。何か使ひ道はないかと考へて みた。

SDカードをデジタルカメラに使ふのは知つてゐる。ところが、パナソニックのDVDレコーダーのマニュアルを見ると、CDからDVDレコーダーに取り込ん だ音楽をSDカードにダビングして他のプレーヤーで再生できると書いてある。

これはひよつとして便利かもしれないと思つて調べてみたが、パナのDVDレコーダーに取り込んだ音楽を再生できるプレーヤーはほぼ全滅だといふことがわか つた。パナが推進したSDカードの音楽媒体としての利用は、著作権保護がうるさくて普及することがなかつたらしい。

デジタルオーディオはアップルやソニーが採用してゐるmp3方式が主流で、SDカード方式(名前はAACだがiTuneでは使へない)は普及せず、しか も、互換性のある安価なマイクロSDの登場で、SDカード自体は大量に売れ残つて、到頭スーパーマーケットで売られることになつたといふわけである。

さらに、主流はすでにマイクロSDに移つてをり、パソコンのパーツ屋などではSDカードはもう売つてゐない。マイクロSDはアダプター付きで販売されてを り、それを使へば従来のデジカメのスロットでも使用できるし、値段2ギガ400円にまで下がつてゐるのだ。

といふわけで、スーパーでSDカードを買ふと損をするといふことなのである。

ところで、このマイクロSDを使つたmp3用デジタルオーディオプレーヤーが、姿もアップルのipodシャッフルそつくりに2000円以下販売されてゐ る。ランダム再生 などはないが、使ひ方もほとんどシャッフルと同じで、再生ボタンの長押しでON・OFFすれば曲頭レジュームも可能だ。(ON・OFスイッチはカードを抜 くときに使ふ)

志ん朝の落語のCD30枚が、mp3にすればCD4枚にして持ち歩けると、ついこの間まで喜んでゐたものだが、それがあんな小さなマイクロSD一枚に全部 入つて、手の平に収まる小さなプレーヤで、しかも安価で聞けるのである。時代はどんどん進んでゐるのだ。(2009年2月10日)







ブラウン管テレビを頑固に使つてゐてるが、一応アナログ放送終了にも備へたいと、DVDレコーダーを買つて、それでデジタル放送を見てゐる。

デジタル放送は1つのチャンネルで3つの番組を放送できる。だから、テレビのデジタル放送の番組表には同じテレビ局の名前が三つも横に並んでゐる。しか し、たいていの放送局は、その下に一つの番組が横長に書いてあるだけだ。

ところが、NHK教育とWOWOWだけは、複数番組が放送できることを少しだけ生かしてゐる。NHK教育の番組表には午後8時から局名の下に区切りがあ る。NHKのホームページはなぜかそれを「デジタル教育3」と名づけてゐるのが、そこで特に注目されるのが月曜日である。オペラをやつてゐるのだ。

もちろん、日頃私はオペラなんかは見ない。しかし、オペラがすばらしことは映画『ショーシャンクの空に』を見て知つてゐる。そこで流されたオペラは『フィ ガロの結婚』で、それを「デジタル教育3」でやつてゐたのだ。ちなみに、来週は『セビリアの理髪師』である。

ところで、私は長い間、デジタル放送の映像を縦長の絵で見てゐた。ブラウン管テレビだからそんなものだと思ひ、いやなときはDVDレコーダーのリモコンの サブメニューから画面モードの切り替えで「サイドカット」にしてゐた。

初期設定(テレビ/機器の接続)でTVアスペクトを4:3にするのは分かつてゐたが、D端子出力解像度をD1にすることを知らなかつたのだ。この両方を設 定して初めて、デジタル放送は縦長ではなく上下に黒帯の付いたブラウン管テレビとしては本来の映像になるのだ。

ただし、これでは画面が小さいので、それが気に入らなければ、やはりいちいち「サイドカット」する必要はある。

一方、録画した番組を再生して見るときには、自動的に「サイドカット」にすることができる(DR録画以外)。それは、初期設定(テレビ/機器の接続)の下 の方のテレビアスペクト(4:3)の設定で「パン&スキャン」にするのである。これは放送ではなく録画したものを見るための設定なのだ。(2009年2月 10日)








映画『ハリーとトント』は老人の生活の不幸な現実を描いた映画だ。しかし、ハリーと云ふ老人は共感の持てる人物であり、格好よくさへ思へて、映画を見終は つた後の感じがすがすがしく、世の中が楽しい物のやうに思へる不思議な映画である。

最初に次々と老人が映し出されるところから老人の映画であることがわかるが、そこへ、猫に首綱をつけて歩いてくる鬚づらの老人紳士が登場して、まづ笑はせ られる。その後もいろんな場面で笑はせてくれる。沈黙の誓を立てて何事にも筆談で応じる孫。問はれる度に違ふ年齢を答る家出少女。頻発する下ネタも、家族 揃つて見るには具合が悪いが、笑ひどころだらう。

この映画の見所は何と言つてもハリーと言ふ主人公の愛すべき人間性である。がんごでわがままで自己主張が強いが、弱者にはやさしい。もちろん、ねこにもや さしい。

アパートからの立ち退き命令には徹底的に逆らひ、椅子に座つまま家から運び出されるし、飛行場で連れの猫トントのことで揉めるとバスを選び、バスのトイレ をトントが嫌がると、バスを止めさせる。トントのバス嫌ひを知ると中古車を買ふが、自分の運転免許が切れてゐるのにもかまはず乗りまはす。

しかし、ホームレスの老人に金をねだられるとあつさりくれてやるし、初体験の相手の老女を老人ホームに尋ねたときは、相手が自分の名前を間違ひ続けても、 かまはずダンスの相手をしてやる。尋ねた息子が一文無しでも叱らずに援助してやる。

そのほかに、しよつちゆう出てきて笑はせるのは、猫とバナナとアイアンサイドの話だ。情感あふれる音楽もいいし風景描写もいい。まさに愛すべき映画であ る。それにしても、途中で出会つたあの美人の娼婦とはどうなつたのだらう。そのあとハリーがあまりお金を持つてゐなかつたから興味のある所ではある。 (2009年2月6日)







最近のDVDレコーダーにはBSアナログのチューナーが付いてゐない。だから、デジタル放送のコピー制限が嫌ひな人間がBSアナログの映画などをDVDレ コーダーに録画するには、外部入力からする必要がある。

その際、つまり、DVDレコーダーに外部入力から録画する場合も、DVDレコーダーの側で予約録画できることがわかつた。そこで、はじめは、予約画面から 外部入力を選択して開始時間と終了時間を入力して、番組名もいちいち入力してやつてゐた。

しかし、考へて見ると、BSアナログの番組はBSデジタルでもやつてゐる。BSデジタルの予約録画なら、デジタル番組表からその番組を選んでいけば簡単に 予約できる。

BSアナログを予約するときにも、それを利用すればいいのだ。BSデジタルの番組表から予約を始めて、詳細設定から時間指定予約の画面を出せば、チュー ナーをBSデジタルから外部入力に変へられるのだ。

その予約画面には、録画時間も番組名も既に入力されてゐるから、それをそのまま使ふのである。さうやつて、予約登録しておくと、時間が来るとDVDレコー ダーのチューナーが外部入力に自動的に切り変はつて、BSアナログの番組を録画してくれるのである。

もちろん、その時、外部入力につないであるBS付きのVHSデッキなりBSアナログチューナーのスイッチが入つてゐて、目当てのチャンネルになつてゐる必 要があるから、そちらも予約しておくか、付けつぱなしにしておく必要があるのは言ふまでもない。(2009年2月6日)







イオンはお客様感謝デーと称して、毎月20日30日にイオンカードの会員だけ5パーセント割引を実施してゐる。しかし、カードの持ち主でないと割引しても らへない。といふことは、イオンはカード会員以外は客だと思つてゐないことになる。

しかし、これなどは月二回のことであり、クレジットカードのキャンペーン活動として大目に見ることができる。カードを持つてゐない人は、20日と30日に イオンに行かなければいいだけのことだ。

ところが、最近、イオンはカード会員限定で特定の商品を選んで長期間値引きをするサービスを始めた。これは月二回どころか、一ヶ月ほどにわたる長期のもの である。といふことは、カードを持つてゐない人はその間その商品を買ふと損をする事になるのだ。

もしイオンカードの会員が誰でもなれるものなら、これは単なるカードに対する好き嫌ひの問題と言へる。しかし、カード会員になれるのはかなりの高収入で定 収のある人だけなのだ。つまり、簡単に言へばカード会員は金持ちなのである。

その金持ちに値引きをして、会員になれない貧乏人には値引きをしないのが、この会員限定の値引きだといふことになる。これはまさにマスコミが問題視してゐ る社会格差の助長にほかならない。

日本各地でイオンタウンは猛烈な勢ひで増殖中である。といふことは、それにともなつて、イオンが作り出す社会格差もまた増殖中だと考へてよいのではない か。(2009年2月3日)







 この間ニトリでスプーンのセットが安かつたので買つたが、台紙から外さうとしたら中々外れない。銀色のリボンで台紙に結んだあ るから、それをほどけばと思ふがさにあらずなのだ。

それで台紙の裏をよく見るとセロハンテープでとめてある。しかし、それをはがしても終らない。はがしたセロテープの糊がスプーンの裏側に残つて、ねちねち するのだ。

これは洗剤で洗つても取れない。シンナーの類を塗つてごしごしやる必要がある。安いと思つて買つたのに、よけいな労働を強いられてしまつたわけで、何やら 損をしたやうな気がしてしまつた。

セロハンテープは透明なだけに、ちよつと見には見えないから、使ひ方によつては嫌味になる。

以前、会社でラジオ付きのテープレコーダを使はうとしたら、ラジオのスイッチが入らないやうにテープで留めてあつたことがある。仕事中にラジオを聞いてゐ ると思はれたらしいのだが、あつさり口で言へば済むことを、かういふ風にやるのは陰険である。これでは信頼関係は築けない。

ニトリがセロハンテープを使ふのも客を信用してゐないからだらう。もちろん中には不心得な客もゐる。しかし、かういふ所に善良の客の気持ちを尊重しないニ トリのやり方が見えてくる。お値段以上とCMは言ふが、ニトリで買つたものでずつと後まで使つてゐる物が少ないのは、こんな事と無関係ではあるまい。 (2009年1月29日)







昔のビデオをDVDレコーダにコピーして非CPRMのDVD-Rにダビングしてゐると、間違つて買つた20枚はあつといふ間になくなつてしまふ。

だがもう同じものを買ふことはない。もつと安いデータ用のDVD-Rを買へばよいのである。ビデオ用の非CPRMのDVD-Rはデータ用のDVD-Rと同 じ物なのだ。

もともとプラケース付きがよいと思つて、間違つて買つてしまつたのだが、実際にはプラケースは邪魔になる。プラケースを使ふには、そのためのDVDラック やケースが必要だし、立てて並べると薄いものは背表紙がないのでタイトルが分からない。

ダビングしてゐて面倒なのは、どれがダビング済みなのか分からなくなることだ。その度にプラケースを全部取り出してゐては厄介この上ない。そのためには、 アルバム式が便利だと分かつた。これだと24枚が一つに収まつてしまふ。

そして、さうなると、次に買ふDVD-Rはスピンドル式の重ね売りの物といふことになる。これだと一枚20円以下である。

もう一つ気がついた事は、DVDの録画時間が「おまかせダビング」より「詳細ダビング」の方が長いことである。後者を使へば、SP画質で2時間以上ある映 画でも、少しぐらいなら分割することなく一枚のDVDにダビングできるのだ(例へば『昼下がりの情事』)。

また、ダビングは「詳細ダビング」でファイナライズしない設定にすると、ダビング中でもHDDの再生や録画ができる。他の機械で見るためのファイナライズ は、それだけ別にやれば一枚3分ほどで済むのである。(2009年1月24日)







 NHKの『新春蔵出しまるごと立川談志』を見た。見所は何と言つても最後の「居残り佐平次」であるが、これは一回見ても面白さ がわからないかもしれない。

 客席ではなくスタジオ収録なので、客の笑ひを力に出来ずにやりにくさうだし、声もかすれて往年の勢ひがない。そのために、談志は自分を励まして乗つて行 かうと、色々と自分自身に向けた相槌の言葉を挟む。そのせいで、話も分かりにくい。

 しかし、一回であきらめてはいけない。録画して何回も見てゐると、本編の話と相槌の区別が付いてくる。すると、この相槌がおもしろくなつて来るのだ。 「居残り」の話は志ん朝で聞いて知つてゐるので、違ひも分かつてくる。

 そして、談志の「居残り」は円生の「居残り」を勉強したものらしいことも分かつて来る。口調が円生に似たところがあるし、自分でも名指しで真似たりする からだ。

 そこで若い頃の談志の「居残り」を聞いてみた。レンタルには出てないので買つて聞いたが、これが行儀のよい落語で、ますます円生に似てゐる。さうする と、今度の嗄れ声の「居残り」は円生でない談志らしさのよく出た「居残り」だと思へてくる。

 声も出にくく言葉も忘れた所があつたりして、自分でももどかしいのがよく分かるが、それもまた笑ひにして見せる。それでまた、最初にもどつて見たくな る。若い頃のが絶品ならこれもまた絶品である。(2009年1月21日)






先日、近所のT字路で犬を連れた奥さんが立ちどまつてゐるのを見かけた。よく見ると奥さんは犬に「こつちへ行かうよ!」と言ひながら、犬の首綱をひつぱつ てゐる。しかし、犬は腰を地面に付けて動かうとしない。犬は反対の方へ行きたいのだ。

しばらくすると、奥さんは、自分が言つてゐたのとは反対の方角へ、つまり犬の主張通りの方角に歩き出した。奥さんと犬の意地の張り合ひは、犬が勝つたので ある。

犬を飼ふ人は犬が可愛くて飼はうとするのであらう。しかし、実際に飼つてみると、犬はその可愛い外見に関はらず、このやうに強固な意志をもつ存在であるこ とを知らされる。

犬は人が自分の言ふことを聞くまでがんばり続ける。そして、犬と人の根競べに普通の人間は勝つことが出来ない。

自分の思ふとほりになるまで泣き続ける犬。人が家の前を通ると何度叱つても必ず吠える犬。これらは犬が人間を支配してゐる例だ。

人が犬を可愛いと思つてゐたのは、犬を下に見てゐたからだらう。ところが、いざ飼つてみると人間が犬に見下される。犬はどんなに小さくても、人間と対等以 上にならうとするのである。(2009年1月13日)







デジタル録画は不便なことが多いが、その最たることは誰が何と言つても、コピー制限があることだらう。

このおかげでCPRM対応のDVD-Rにデジタル放送をいくら撮りだめしても、それをハードディスクに戻せないから、将来ブルーレイ用のレコーダを買つて も、ブルーレイディスクに移せないのである。

これがアナログ録画ならハードディスクに戻せるし、複数のDVD-Rをブルーレイ一枚にすることができる。それに対して、デジタル録画はそれを見る以外に は何の使ひ道もない。つまり、デジタル録画には将来性がないのだ。

そもそも、コピー制限は画質の高度な映像が何度もコピーされることを防ぐためであるはずだ。なのに、それを画質を下げてさらにハイビジョンではなく標準画 質にしたものまで、元がデジタルだからと云ふだけでコピーを制限するのは馬鹿げてゐるといふしかない。

といふわけで、今後は将来に残しておきたい映画などを録画するときは、DVDレコーダのアナログ録画かビデオデッキでVHSに録画するやうにするのがよい のである。

もちろん、逆に言へば、今からブルーレイレコーダとブルーレイプレーヤを購入してブルーレイディスクに残すのがベストなのだ。金のある人はデジタル放送を DVDなんかにダビングしてはいけないのである。(2009年1月12日)







撮りだめしたビデオテープの映像ををDVDレコーダに移すために復活したビデオデッキには、それ以上の使ひ道がある。

DVDレコーダを使ひ出してからテレビ番組は一旦DVDレコーダに録画してCMを飛ばしながら見ることが多くなつたが、DVDレコーダで同時に録画できる のは2番組までなので、まづは、見たい番組が3つ重なつた場合にビデオデッキが使へる。

また、DVDレコーダだとアナログ番組は同時に1つしか録画できないが、ビデオデッキを使へばアナログ番組を2つ録画できるやうになる。

実は、さうして録画したアナログ映像を大切にしたいのである。

といふのは、デジタル放送は大型液晶テレビをもつてゐる場合に高画質が実現出来てよいのかも知れないが、ブラウン管テレビの持ち主にとつては、たいしたメ リットはなく、むしろ不便なことが多いからである。

その第一は、デジタル放送をハイビジョンの高画質で録画してDVDにダビングしても、DVDプレーヤを買ひ替へないと、見られないことだらう。また、手持 ちのパソコンでもデジタル録画は見られない。(2009年1月11日)







非CPRMのDVD-Rを使ふために、撮りだめしたビデオテープの映像をDVDレコーダにコピーするには、DVDレコーダの入力をL1に切り替へて、ビデ オデッキで再生しながらDVDレコーダで録画するだけで、あとはほおつておけばよい。

ビデオテープは3倍録画の場合、一本コピーするのに6時間かかるので、6時間たつたころにビデオが止まつてゐれば、DVDレコーダの録画を停止するだけで ある。

あとは、出来たファイルを早送りで再生しながら必要なところにチャプターを打ち、編集機能を使つて、ファイルの分割や不要箇所の消去をしたり、番組名をつ けたりするのだ。

注意しなければならないのは、二か国語放送の映画をコピーするときは、初期設定で外部入力の音声をステレオではなく二重音声にしておくことだ。さうしない と、日本語と外国語が一緒に聞こえてきて見てゐられない物が出来てしまふ。

また、高速ダビングではそのままでは主音声である日本語しかコピーされないので、語学に使ひたくて両方の言語をコピーしたいときは、高速ダビング設定を 「切」にしないといけない(この場合でも、VR方式でフォーマットしてダビングすれば高速ダビングできる)。

次に、気をつけるのは、元のビデオテープが一本2時間の標準録画ならDVDレコーダの録画精度をLP以下にしても個人用としては差し支へないが、6時間の 3倍録画をコピーする場合は、SP以上にしないと出来た映像が荒くて見づらくなつてしまふことだ。

また、DVDレコーダの本来の予約録画が始まると、外部入力の録画をやめてしまふので、適当な時間帯を選んでコピーする必要がある。注意するのはこれぐら いで、あとはコピーしたものを、非CPRMのDVD-Rにダビングするだけだ。

まだ注意すべきことがあるとすれば、それは男が撮りだめしたビデオテープには背中の表題に関わらず時々変な映像が入つてゐる事ぐらゐだらう。(2009年 1月10日)







 非CPRMのDVD-Rはアナログ放送の録画にしか使へないが、今更DVDレコーダでアナログ放送を録画する気にもならない。

 レンタルビデオのDVDはアナログ録画だから、借りてきてコピーするといふ手もあるが、間違つて買つた物のために金を出すのも癪(しやく)だし、最近の DVDはコピーガードがかかつてゐてコピーできない可能性が高い。

 しかし、家にあるアナログ録画なら只(ただ)だし、コピーガードもかかつてゐない。さう考へると、家には確かにアナログ録画がある。昔撮りためたビデオ テープだ。あれを非CPRMのDVD-Rに移せばいいぢやないか。さうすりや、あの嵩高いビデオテープの山を片付けることもできる。

 さういふわけで、DVDレコーダを買つたときに片付けてしまつたVHSのビデオデッキを、またテレビ台の下に戻すことにした。そして、ビデオデッキの映 像出力のコードをテレビにつなぐ代はりに、DVDレコーダの外部入力(L1)につなぐのである。

 次に、DVDレコーダのリモコンにある入力切替で入力をL1に変へる。すると、テレビにはDVDレコーダの映像の代はりにビデオデッキの映像が映る。そ こで、ビデオデッキのビデオテープを再生すると、DVDレコーダを通してビデオの映像がテレビに出るのだ。

 その状態で、DVDレコーダの録画ボタンを押すと、ビデオテープの映像がDVDレコーダのハードディスクにコピーされる。コピーされてゐる映像は再生ナ ビで確認できる。L1で名無しの絵が確かに録画されてゐる。

 かくして、昔のビデオテープをまた見直すといふ新たな楽しみが、私の生活に加はつたのであつた。(2009年1月9日)







 DVDレコーダを買つてから使つてゐるうちに、大分ハードディスクの中身も増えてきたので、そろそろDVDディスクにダビング して整理してやらうと思ひ、DVDーRといふのを買つてきた。

それで、さあコピーだとレコーダに入れてダビングを選ぶと、「このディスクはCPRM対応でないのでデジタル放送には使用できません」といふのだ。ああ、 やつてしまつた。

いや知つてはゐたのだ。DVD-RにはCPRMとさうでないのがあるといふことを。それで間違はないやうにしないとなあ、デジタル放送の録画にはCPRM のを買はないといけないんだなあ、と思つてはゐたのだ。

何せお店ではこれがデジタル録画用ですとも何とも書かずに売つてゐることが多いのだ。それで商品の裏などをよく見て買はないといけない。さう思つてはゐた のだ。ところが、いざ買ふ段になつて、やつてしまつた。

かういふ場合は愕然とする。例へば、財布を失くしたらときみたいな気持ちだ。将棋で言へば、飛車を取られたときの気分だらうか。これから一体どうしたらい いんだと。

もちろん非CPRMのディスクでも使ひ道はある。アナログ放送の録画ならコピーできる。しかし、DVDレコーダはデジタル放送なら二番組録画ができるが、 アナログ放送それしか録画できない。しかも、その間は、デジタル放送が見られない。要するに、いまさらDVDレコーダでアナログ放送など、チンたらポンた ら録画してゐられないのだ。

しかし、このままでは20枚のDVD-Rはまるつきり損になつてしまふ。(つづく)(2009年1月8日)







今年も年末年始のテレビは、時代劇やサスペンスドラマのスペシャル物の再放送が盛んである。そのなかで、BSフジの『剣客商売スペシャル助太刀』は、原作 にないお信(のぶ)とお松といふ二人の女性を登場させて、単なるあだ討ち話をロマンチックなドラマに仕立てて好感が持てた。

剣術道場の一人娘で、父の看病のために婚期を逃してゐたお信は、雨の日に下駄の鼻緒を直してくれたのが縁で知りあつた忠兵衛といふ浪人に恋心を打ち明けら れ、道場の後継者として男を婿に迎へる。

しかし、忠兵衛には秘めた過去があつた。自分の不義を告発した上司を斬つたあげく、脱藩して、お松といふ女と逃げてゐただけでなく、斬つた男の息子に仇 (かたき)として追はれる身だつたのである。

道場主として人に知られるやうになつた忠兵衛が、血眼で敵(かたき)を探す者の目にとまるのは時間の問題だつた。そして、到頭、果たし状が道場に投げ込ま れる日がやつてくる。

それを読んだ舅は、お信のゐる場で「なぜ私たちを騙したのだ」と忠兵衛を責めたてる。それに対して忠兵衛は、かういふのだ。「わたしにとつて何より掛け買 ひのないお信(のぶ)を失ひたくなかつたからでございます」。それを聞いたお信は目を真つ赤にして、父親に忠兵衛の命を何としてでも救つてくれと懇願す る。

しかし、父親の努力もむなしく、果たし合ひの日がやつて来る。居ても立つてもゐられないお信は自分も決闘の場に向かふ。お信がやつと現場にたどり着いたの は、まさに忠兵衛が相手に討たれて倒れる瞬間だつた。

お信は忠兵衛のもとに駆け寄つて助け起こさうする。そのとき、断末魔の忠兵衛は腹の底から搾り出すやうに、自分が愛した女の名前を四度呼ぶ。「お松うう。 お松うう。~。~」。それを聞いて立ち上がるお信の呆然した姿は、哀れを誘はずにはおかない。

もちろん、よく考へたらこんな話は全部嘘であつて、道場主の娘なら門人の誰かがとうの昔に入り婿になつてゐるはずだし、そもそも江戸時代の武家なら結婚相 手は子 供のときに親が決めるものだ。これはまさに現代の親子関係、男女関係を無理やり江戸時代に持ち込んでこしらへた作り話なのである。

それでも、お信の悲しい運命はこのドラマによつて忘れ難いものとなつたのであり、誰もがその後のお信の幸福を願はずにはゐられないのである。(ちなみに、 Wikipediaによると、お信を目を真つ赤にして熱演した女優の中原果南さんは既に結婚して女児を出産されてゐるといふことです)(2009年1月5 日)


私見・偏見(2008年)




田母神論文に対する批判の中でよく使はれるフレーズに「自衛隊が築き上げてきた国民の信頼を一気に揺るがしかねない」といふのがある。しかし、それはどん な信頼のことを言つてゐるのだらうか。

たとへば、阪神大震災のときに自衛隊は政府の指示がないからと、5千人の被災者の命を見殺しにしたが、これは明らかに国民の信頼を損ふことにつながつた。 しかし、このフレーズで言ふ信頼とは、国民の命を救ふ存在といふ積極的なものではなく、かつての日本軍とは違ふ平和的な存在といふ消極的なものだらう。

さういふ信頼を求める人たちにとつては、自分の頭で考へて発言する自衛隊などといふものは、危険な存在であり信頼できないものに映つて当然である。しか し、そんな信頼を自衛隊の側が国民に対して築く努力をして来たなどといふ話は聞いたことがない。

さう思つて調べてゐると、このフレーズとよく似たものを見つけた。それは「日本が憲法九条の平和主義によつて周辺諸国に対して築いてきた信頼」なんたらと いふフレーズである。

先のフレーズはこのフレーズの使ひ回しに過ぎないと考へていいだらう。周辺国を国民に置き替ただけなのである。

そして、こんな勝手なフレーズを作つて自衛隊に対して使ふ人たちは、元々は自衛隊は憲法違反だから廃止すべきだと言つて居た人たちであるに違 ひない。彼らは自衛隊を廃止できないと分かつたので、それなら出来るだけ何もしないでゐてくれと思つてゐるのである。

そんな彼らには、命がけで国を守る自衛隊員に対する尊敬の念、いやそもそも同じ人間としての尊敬すら、欠如してゐるのだ。だからこそ、自衛隊の高官が自分 の考へを文章にして公表しただけで文民統制に反するなどと云ふ論理の飛躍が生れてくるのである。(2008年12月9日)







先に「枕草子のこの伝言ゲームは、堺本→能因本→三巻本の順で行はれたことは明らかであらう」と書いたが、それはもちろん、この三つの写本だけを比較した 場合のことであつて、現実はもうすこし複雑である。

実は枕草子の伝言ゲームは、一直線に行はれたのではなく、三本のルートに分かれて行はれた。つまり、清少納言は最初に三人の人に伝言を伝へて、そのそれぞ れが別々に彼女の言葉を伝へて行つたのである。その結果が、この三つの写本、堺本、能因本、三巻本に残つてゐるのである。

もちろん、清少納言自身が書いた本は伝はつてゐない。だから、最初に清少納言が伝へた言葉は何だつたのかを、我々は推測するしかない。もちろん、それぞれ の伝言ルートの最初に近ければ近い人(=写本)ほど、元の言葉に近いものを知つてゐる可能性が高い。

ところが、この三人とも室町時代末期かそれ以降の人でしかないので、どれもがかなりの間違ひを伝へてゐる可能性が高い。それでも何とか最初の言葉を知るに は、三人か らの情報を比べて、それぞれが持つてゐない情報を補ひ合ふしかないだらう。

ところが、この三つの伝言ルートの途中で、自分のルートの伝言だけでなく、それを別のルートの伝言と合はせた人がゐた。それが前田本と呼ばれる本である。 この伝承者は当時の能因本の伝承に堺本の伝承を付け加へて書き残したのである。

しかも、これが今、源氏物語の最古の写本と騒がれてゐるのと同じ鎌倉時代中期のものなのだ。そして、現代に伝はる堺本の伝承がこの前田本の伝承とほぼ一致 することが証明されてゐる。

実は、三巻本は藤原定家らしい人が持つてゐた本、能因本は文字通り能因法師が持つてゐた本と、それぞれ由緒正しいのだが、それらの本の情報が戦国時代にま で正しく伝はつてゐる保証はどこにもない。それに対して、堺本の情報が鎌倉時代のものであることは、この前田本によつてわかつてゐるのである。

ならば、この堺本の伝へる情報を無視してよいわけがない。それが如何に我々が慣れ親しんでゐる枕草子と異なつてゐようとである。ところが、今売られてゐる 『枕草子』はこの堺本を無視することによつて成り立つてゐるのである。

いやそれどころか、現代の枕草子はこの四人の伝承者の情報を比較補完して総合的に扱ふことなく、ほぼ三巻本と云ふ室町末期の伝承者一人の情報だけで作り上 げられたものなのである。(2008年10月31日)







学校で習ふ古文で一番難しいのは枕草子ではないかと思ふが、この難しさは実は古文そのものの難しさではない。枕草子は伝承が悪くて、清少納言が書いた文章 がそのまま現代まで伝はつてゐないといふ面が非常に大きく作用してゐる。

江戸時代より前の印刷といふ物がない時代には、本は全部手で書き写して作られた。本は買ふと云ふよりは見せてもらふものであつて、それを自分のものにした ければ、書き写すしかなかつた。

さうやつて生れる写本は当然写し間違ひが多かつた。写本の伝承とは伝言ゲームのやうなもので、次から次へと書き写されて行く間に、内容が変はつてしまふの である。その最悪の例が枕草子だと言つていい。

枕草子は、書き間違ひ、書き落とし、一行脱落などのオンパレードなのだ。そんなものから意味を読み取らなければならないのだから、難解なのは当然である。

例へば、「こころもとなきもの(=待ち遠しいもの)」の段の最初は、

「人のもとに、とみ(=急ぎ)の物縫ひにやりて、今今と苦しう居入りて、あなたをまもら(=見守る)へたる心地。子生むべき人の、そのほど過ぐるまで、さ る気色もなき。遠き所より思ふ人の文を得て、固く封じたる続飯(そくひ=糊)など開くるほど、いと心もとなし。物見(=祭りの行列見物)に遅く出でて、事 なりにけり、白きしもと(=杖)など見付けたるに、近くやり寄するほど、わびしう、下りてもいぬ(=帰る)べき心地こそすれ。(岩波文庫=三巻本)」

「人のもとに、とみの物縫ひにやりて、待つほど。物見に急ぎ出でて、今や今やと苦しう居入りつつ、あなたをまもらへたる心地。子生むべき人の、ほど過ぐる まで、さる気色のなき。遠き所より思ふ人の文を得て、固く封じたる続飯など放ち開くる、心もとなし。物見に急ぎ出でて、事なりにけり、白きしもとなど見付 けたるに、近くやり寄するほど、わびしう、下りてもいぬべき心地こそすれ。(日本古典文学全集=能因本)」

三巻本と能因本は写本の名前だが、この二つを比べても、三巻本では能因本にある最初の「物見」の話が抜け落ちて、「苦しう居入りつつ、あなたをまもらへ」 の対象が祭りの行列ではなく、帰つてくるはずの縫物の使ひになつてしまつてゐる。一方、三巻本で物見に遅れた話が、能因本では急いで出かけた話に変はつて しまつてゐる。

あとは似たやうなものだが、例へば「事なりにけり(=行列が来てしまつた)」といふ終止形で終はつてゐる文章が、途中に入つてゐるのがどういふことなの か、理解しにくい。

ところが、ここに、もう一つ別の堺本といふ写本がある。その写本では、同じ話が次のやうに伝へられてゐる。

「とみの物人のもとに縫ひにやりて、待つほどの心地。物見に急ぎ出でたるに、今や今やと久しく居入りて、そなたをまもらへたる心地。また、まだしからむと (=まだだらうと)たゆみ(=油断)て遅く出たるに、事なりにけりとて、とく(=既に)立ちにける車(=行列の牛車)どもの狭間(はざま)より赤衣着たる 者の白きしもとささげたるを見付けて、急ぎてやり寄するほど、わびしう、下りてもいぬべき心地こそす。子生むべき人の、ほど過ぐるまでさる気色のなき。遠 き所より思ふ人の文を暗きほどに持てきたる、火点(ひとも)すほど待つこそ、わりなく心もとなけれ。固く封じたる続飯など開くるも、わりなく心もとなし。 (堺本)」

これなら古文を習つたばかりの高校生でも分かるのではないか。物見の話も、早く行き過ぎた場合と、遅れて行つた場合の二つが対照的に描かれた話であること が、ここでは判然としてゐる。「事なりにけり」も誰かが言つた言葉であることがよく分かる。

そして、この三つの比べるなら、枕草子のこの伝言ゲームは、堺本→能因本→三巻本の順で行はれたことは明らかであらう。つまり、堺本は清少納言が書いた枕 草子に一番近いのではないかと、思はれるのだ。

ところが、今の日本の国文学者たちの意見は、伝言ゲームはこの正反対だつたと云ふのである。そして、書き間違ひと書き落としによつて短くなつてしまつた三 巻本の、読みづらい枕草子が、清少納言の書いたものに最も近いとして、本として流通され、教科書にされて、学校で読まされてゐるのだ。

では、この堺本の読みやすさ、言葉の多さはどうしてなのかと言へば、これは後世の人間による捏造だと言ふのである。

こんな読みやすい堺本が拒否されてゐるその最大の理由は、江戸時代の流布本によつて日本人の間にひろまつた枕草子と、堺本の枕草子とでは、冒頭からしてま つたく違ふといふことにある。

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」(流布本=枕草子春曙抄)

「春はあけぼのの空はいたく霞みたるに、やうやう白くなりゆく山の端(は)、少しづつ明かみて、紫だちたる雲の細くたなびきたるも、いとをかし」(堺本)

つまり、上で紹介した堺本の「こころもとなきもの」の分かり易さを受け入れるためには、その代償として、我々が慣れ親しんできた、「春はあけぼの。やうや う白くなりゆく」も捨てなければならないのである。

この事に対する拒否反応が、堺本に対する拒否反応の根源と言つてよい。そして、それを正当化するために万巻の論文が書かれて、堺本は流通から排除されたの である。

そして、そのおかげで古文は難しいものになつてしまつた。

しかし、現代はもはや難しいものを尊ぶ時代ではない。我々は何も無理をして、断片集を繋ぎ合はせて作られたやうな枕草子にこだわることはないのだ。分か りやすいものがあればそれを読めばよいのである。

また、この堺本には清少納言の書いた日記的な文章が伝へられてゐないが、それは、この伝言ゲームで堺本の次に清少納言に近いと見られる能因本で読めばよ いのだ。そして、そのあとで暇があれば、衒学と韜晦を好む学者たちの意見につきあつて、難しい断片集に取り組めばいいのである。(2008年10月29 日)







福島の産科医に対する無罪判決は実にけしからん判決であると言はなければならない。仕事で失敗して人を死なせた人間がその責任を問はねばならないのは、バ スの運転手が事故を起して客を死なせた場合と何も変ることはないからである。

この思ひは自分の家族を医者によつて殺された、或ひは殺されたと信じてゐる人たちにとつては共通のものである。「医者を逮捕するな」などと言へる人たち は、単に彼らが医者の被害者になつたことがないと言つてゐるにすぎないのだ。

医者は今や国民の敵なのである。医者の団体がこの無罪判決を歓迎する声明を出したといふだけも、それは明らかである。彼らは医者の過失によつて自分の家族 を奪はれた人たちの気持を全く斟酌することのなく、自分たちの主張を公表できる単なる利益団体に過ぎない。

地裁判決は被告の医療行為と死亡の因果関係を認めてゐる。それなのに無罪としたのは完全な矛盾だあり、医者を特別扱ひしろと言つてゐるに等しい。しかし、 そんな法律はこの国には存在しないのだ。したがつて、この判決は違法である。

もしこのやうなインチキが罷り通るものなら、もはや遺族は司法を当てに出来なくなり、自らの手で殺された家族の復讐をしなけれがならなくなるだらう。 (2008年8月21日)







本屋に山口仲美著『すらすら読める枕草子』といふ本が並んでゐる。本屋に行くたびに覗いてゐたが、どうやら斬新な現代語訳がついてゐるやうなので買つてし まつた。

枕草子の現代語訳と言へば、橋本治の『桃尻語訳枕草子』が有名なので比べてみたら、こちらは意外にもがちがちの直訳で逐語訳なのだ。「すごく」を「すっご く」にするとか、文末を現代女性の言葉風にするといふ作業が施してあるので、一見読みやすさうに見える。

しかし、その中に「指貫」とか「狩衣」とか「とのものつかさ」とか現代では無意味な一連の古語がそのまま使はれゐるので、それが分からない者には分からな い。そこで、詳しい註釈が付けられてゐるといつた有様である。

せめて訳語を文脈から判断して選んでくれてゐたならと思ふが、さうでもなく、学者の書いた注釈書に忠実に従つてゐる。だから、本人が言ふやうに、このまま 古文の試験の答案に書いても大丈夫なものになつてゐるのだ。しかし、それでは面白くない。

それに比べると「すらすら~」は自分の判断で選んだ現代語に訳してある。しかも、橋本のやうに同じ言葉には同じ訳語なんていふやり方はとらずに、その場そ の場に合ふことばを縦横無尽に選んでゐるので、註釈なしでまさにすらすら読めて面白い。

例へば「はづかしきもの」では、女に対して口のうまい男のことを清少納言は「はづかし」と評してゐるのだが、それを山口は「油断ならない」とし、だから 「男に対して臆病になる」と訳してゐる。橋本はそんな男に「落ち込む」と訳したが、今ひとつピンとこないのは、辞書などの「気後れする」の言ひ換へに すぎないからだらう。

実は枕草子を書いたときの清少納言は既に30台の女性であつて、キャピキャピの桃尻語を使ふわけがないのだが、山口はそれも年相応の女性が使ふやうな文体 にしてある。枕草子とはこんな本だといふことを知るのに格好の本になつてゐるのではないか。(2008年8月17日)







北京オリンピックのバドミントン準決勝では日本が韓国に惜敗したが、そのテレビ中継にゲスト出演した明石家さんまと解説で柔道家の棟田康幸(むねたやすゆ き)のやり取りが面白かつた。

さんまが負けた日本チームを評して「国際試合に勝つには日本もこれからは韓国を見習つて、不利なときには審判にしつこくクレームをつけたり、靴ひもを直し たりして、少しはずるいこともしないといけませんね」と言つたのだ。すると棟田は即座に「いえ、日本は武士道の国ですから、いつも正々堂々と戦はなければ いけません」と言ひ返したのである。

さんまはそれを受けて即座に「さうですね。それは申し訳ありませんでした」と謝り、さらに「ぼくは『かけ逃げの男』ですから。俺、さういふ男(をとこ)」 とギャグに持つて行つたのであつた。

確かにオリンピックの試合を見てゐると柔道でも勝つためには何でもやる、ずるい選手が多い。それに対して、日本人選手は常に正々堂々と立ち向かひながら も、そのずるさを躱(かは)して勝利をかちとらなければならないのだ。

今回のオリンピックでは、柔道の男子は女子とは違つて、国内の最終選考会の優勝者をそのまま出場させて失敗したが、彼らの多くが外人選手のずるさに対抗で き なかつたといふ面があるのではないか。誰もが正々堂々と戦ふ日本の大会で勝つのと、ずるさも勝負のうちである国際大会で勝つのとは違ふといふことを改めて 思ひ知ら されたオリンピックであつた。(2008年8月15日)







医者にかかるときには、まづ自分でどこが悪いかよく調べて、どんな治療をするのがよいかを見極めてからにしないといけない。さもないと医者にあてずつぽう の診断を下されて、あてずつぽうの薬を出され、あてずつぽうの治療をされることになる。

わが家の父親の場合がさうだつた。腰が痛いと近くのK外科に行つたら、レントゲンを取られて、薬を出されたが直らないのでまた行くと、ベッドに括り付けて 体を引つ張る牽引治療をやられて、帰りに歩けなくなつた。

この痛みは私の薦めで明石のN病院の麻酔科で脊椎ブロック注射を受けたら効果があつたが、今度は胸がひつかかると言ひだした。それで、同じ病院の内科を受 診したら、レントゲンと心電図とエコーを取られた挙句、医者は血圧が高いからと血圧降下剤を出したのだ。

次に腹に汗をかくと同じ医者に訴へたら、メタボリックのCT検査を受けろと言ひ出した。真夏の盛りに80を超えた年寄りに前日から絶食して検査を受けろと 云ふの だ。この医者は何を考へてゐるのかとあきれて、その内科には行かなくなつた。

後から考へるとこれは心臓が原因で色々な症状が出てゐたのだ。心臓が弱ると一歩を歩くのにも大変な労力が要るやうになる。神鋼病院(今の加古川東市民病院)に入院する前日などは階 段の上り下りだけでハーハー言つて大汗をかいてゐたことを、今更ながら思ひ出す。

最後はそれが喀血まで行くことを、私は医学書を読んで知つてゐたのだが、それを思ひ出したのは入院させた後であつた。先に思ひ出して居れば、医学書にある 通りの治療法を医者に指示して命を救ふことが出来たのだが、弱つた心臓に追ひ討ちをかける麻酔をかけられては万事休すであつた。(2008年8月10日)







甲子園に近くの加古川の高校が出るといふのでテレビをつけて試合を見たが、なぜか投手の投げ方が違ふ。兵庫県の大会の決勝で見たのは上手投げなのに横手で 投げてゐるのだ。

そのうち初回に3点も取られてしまつた。そんなはずはないが、さすがに甲子園は違ふのかと思ひチャンネルを変へて、しばらくしてまた見てみると6点も取ら れてゐる。

しかも、ピッチャーが交代してゐる。ちよつと林家木久蔵に似たその顔を見て思ひ出した。そして背番号18。この子だよ。兵庫県の決勝で見たのは。この子が 準々決勝から西兵庫の強豪校を次々とねじ伏せて、加古川北を甲子園に連れてきたのだ。

といふことは、加古川北の監督さん、初の甲子園で上がつてしまつたのか、予選でほとんど出てゐない名ばかりのエースを先発させたのだ。それなら6点取られ ても当り前。何せ相手は甲子園の常連校の聖光学院だ。

初出場校の一回戦負けはよくある。しかし、他所の県の高校ならその原因は分かりにくいところだが、地元ならこんなにはつきりしてゐる。予選の立役者抜きで は初めから試合にならないのは当然なのである。(2008年8月8日)







山本七平の『日本人とは何か』と『日本的革命の哲学』には鎌倉時代に北条氏が作つた御成敗式目のことが紹介されてゐる。

これを読むと日本の民主主義は何も戦後にアメリカがもたらしたものではなく、鎌倉時代に既にその伝統があつたことがわかる。

まづもつて相続が長男の単独相続ではなく、兄弟間の分割相続であり、娘や妻にも相続権があつた。しかも、一族を束ねる惣領は能力本位で選ばれたのだ。

武士の社会は徹底した能力社会だつたのである。だから、百姓の子が太閤にまで上り詰めることが可能だつた。しかし、その社会は猛烈な競争社会で、誰もがあ らゆる策略を使つて同僚よりも上へ行かうとした。

この競争をやめさせて社会を安定させたのが徳川時代だつたのである。それでも新井白石のやうに能力だけで実質的に幕府を一人で切り回すまで出世することが できたのは、日本が基本的に能力重視の社会だからである。。

したがつて、例へば会社に能力重視の職制や給与体系を持ち込む必要はないのである。日本人は何もしないでも能力主義なのであるから、会社は社員全員が仲良 くやつて行けることの方に気を使つて居ればよいのである。(2008年8月7日)







山本七平の『日本人とは何か』は日本の仮名文字の誕生から書き起こして、如何に日本人が独創的な民族であるかを明らかにしてゐるが、その過程でなされる韓 国人との比較が面白い。

韓国人には15世紀にハングルが出来るまで自分たちの言葉を書き表す文字がなかつた。ではどうやつて文章を書いてゐたのかといふと、全部中国語で書いてゐ たといふのだ。だから、韓国には自前の古典文学がない。

また、韓国人は中国語を自分たちのものにしただけでなく、自分たちの名前も中国式にしてしまつた。つまり、金とか朴とかいふ名前も、韓国人の元々の名前で はないといふのだ。

韓国人は言葉だけではなく中国の政治制度も几帳面に受け入れて、そのまま実行に移したらしい。だから、日本では実施されなかつた科挙や宦官も韓国では行は れたといふのだ。

それに対して、日本人は中国語の漢字を輸入しても、そのまま使ふのではなく、自前の文字である仮名文字を生み出したし、政治制度も自分たちに都合のいい所 だけを受け入れて、独自の制度を作つた。

日本人は自分たちを物真似が得意な民族だと思つてゐるが、それは間違ひなのである。むしろ韓国人よりずつと物真似が下手で、そのお陰で日本人の独自性と独 創性が育くまれてきたのである。(2008年8月5日)







 患者の人工呼吸器を外して安楽死させたとして富山の医師が送検されたさうだが、私の父の場合のやうに、延命治療はしないでくれ と言つてゐたのに、無理やり人工呼吸器を装着され、その挙句に病状を悪化させてしまつた場合はどうなるのだらう。

 さらに、今度は逆にこの状態ではもうこれ以上延命措置をしても無駄だからと、心臓マッサージを拒否されたのだが、これはどうなるのだらう。

 さらに、もう望みが無いと言つてゐたのに、患者の血圧が復活して、肺の状態も自力呼吸が可能になつてきたからと、今度はまた人工呼吸k器を外すためと称 して治療方針を転換して、その挙句に死んでしまつたのはどうなるのだらう。

 しかも、回復基調の治療をしておきながら、また容態が悪化したら、最初に決めた方針だからと心臓マッサージをしなかつたのは、どうなるのだらう。

 私の父親は、救急車で神鋼病院(今の加古川東市民病院)に運び込まれる前日まで、手押し車を押しながらも自分で歩けたのである。家の階段を一人で上り下りできたのである。食事も 家族と一緒に食卓で自分で食べてゐたのだ。

 それが入院して人工呼吸器を着けられてから、わづか10日で死んでしまつたのだから、これはおかしい。とても納得が行くわけがないのである。(2008 年7月31日)







私の父親の死に関して一番不可解なのは、肺炎が改善してきたのでこれから人工呼吸をやめる方向で治療して行くと言はれたあとの、その回復過程で急に死亡し てしまつたことである。

直りかけてゐたのが急に死んでしまつたのだから、家族のショックは大きいし、これは不審死ではないかと疑はざるを得ないのだ。

肺のレントゲン写真を3枚見せながら、これだけ白い部分が減つてきてゐるので、もう自力呼吸に戻すことを考へてももいいと言つて、その後、使用薬を変へた り、強心剤の量を減らしたりして行つたのである。

ところが、それが失敗だつた。強心剤を外して行つたら死んでしまつたのである。 人工呼吸にするために全身麻酔をしたら血圧が下がつてしまつたので、強心剤を大量に点滴してやつと心臓を動かしてゐたのだ。

そんな状況で強心剤は減らせば心臓が止まつてしまふことくらゐ分かりさうなものだ。そもそも全身麻酔から回復させるなどといふ冒険をしてゐなければ、もつ と生きてゐた可能性は大きいと言はねばならない。

しかし、神鋼病院(今の加古川東市民病院)はこの件で何の説明もなく、死亡した原因を全部死人のせいにして処理したのである。一体、こんな病院が許せるだらうか。(2008年7月 17日)







NHKはなぜか大島康徳を野球解説者として多用してゐる。アメリカの大リーグ中継だけでなく、日本のプロ野球中継にも使はれてゐて、ひつぱりだこである。

しかし、彼の解説はほとんど中身がない。アナウンサーが何か言ふと「ええさうなんですよ」とか「ええ実はね」とか物知り顔で話し出すのだが、そこにはアナ ウンサーが既に言つたこと以上の新しい情報は何もないのだ。

起こつた場面ごとの説明もするが、よく外れる。当てずつぽうで言つてゐることは明らかある。しかも、外れたことを正直に認めず、選手がインタビューで自分 の予想と反対のことを言ふと、あれは嘘を言つてゐると言ふ始末である。

このやうに話に中身はない、性格は悪いでは、見せられる視聴者にとつて不快でしかない。

恐らく彼は現役からも現場からもあまりにも遠ざかり過ぎてゐるのだ。だから、何を言つても実感がともなはないし、自分自身よく分からなくなつてゐるのだら う。だから、アナウンサーの話しかけてくる言葉を頼りにして物を言ふしかなくなつてゐるのである。

NHKのスタッフもそんなことは分りさうなものだ。それなのにNHKが大島を多用するのは巷間言はれるやうに、星野仙一の推薦のお陰としか考へられないの である。(2008年7月7日)






兵庫県の明石市で高いところと云へば天文科学館の時計台だが、その次に高いのは県立図書館ではないか。明石城の中にある図書館はまさに城の本丸と思へるほ どに中々たどり着けないのだ。

お城の表門から入つて広い公園の中を右へ左へと進んで西の方へ廻ると、そこには急勾配の長い長い坂が待つてゐる。まづはこの坂をふうふう言ひながら登つて 行かねばならない。

さうしてやつとこさレンガ色の天守閣の下に到着すると、目の前にはさらに急勾配の階段がそそり立つてゐる。その階段を登り切るとすぐ左手にさらに高大な階 段がそびえ立つてゐるのだ。この二つの階段を登るのは、長い坂道のあとだけにまさに難行苦行である。

ここに来る度に、誰がこんな高い所にこんな階段だらけの建物を設計したのだ、また安藤忠雄か、と思ふがさうではないらしい。

そして汗だらけになりながら階段を登り切つて図書館の閲覧室にたどり着くと、そこで待つてゐるのはクーラーの設定温度28度の生暖かい空間である。汗が引 くどころか、ここからさつさと立ち去ることしか思ひつかない。

もちろんこの難攻不落の天守閣にも弱点があつて搦め手から責められると弱い。裏から車で来れば楽ちんなのだ。最近1時間無料になつた広大な駐車場もある。 それでもエコロジーを大切にする私は車を使はず、堂々と正面から責め続けるのである。(2008年7月5日)







最近を貞永式目の古文書を読んでゐると漢字ばかりのはずの文章の中にひらがなが混じつてゐるのを発見した。

そのひらがなと云ふのは「お、ふ、や、ゆ」等である。もちろんこれらは漢字として書かれてゐる。つまり「於、不、也、由」等である。しかし、一見してひら がなに読める。

この古文書はくずし字で書かれたもので、「於、不、也、由」のくずし字が「お、ふ、や、ゆ」に見えるのだ。では、くずし字とは何かと云ふと、それは書き手 が好き勝手に横着をして書き崩したものではなく、立派な一つの書体である。

それは草書体と云つて、現代よく見られる几帳面な楷書体や少し崩した行書体よりも歴史が古く、西暦300年ごろに中国で隷書体から作られたものだといふ。

そして、その中に既に「ふ」も「や」も含まれてゐたのである。4世紀の中国の書家である王羲之も「ふ」「や」と書いてゐたのだ。

実は、他のひらがなも全て漢字の草書体とほとんど同じ形である。といふことは、ひらがなの原型はすでに中国の漢字の一部として古くから存在してゐたのであ り、ひらがなは日本人が漢字から独自に作り出したものではないことになる。(2008年7月3日)







文字を持たない日本人は日本語の音を中国の文字である漢字の音を使つて書き表すことから始めた。といふことは、古代の日本人は今の若者たちが「夜露死苦」 と書くやうに書くことから始めたのである。

「夜露死苦」と書く若者は正しく「宜しく」と書くことを知らないかもしれないが、自分たちの言葉を漢字で書いてゐることに違いはない。それと同じことが古 代の日本人に当てはまるのではないか。つまり、文盲であるはずの古代日本人も相当早くから自分たちの言葉を当てずつぽうの漢字で書いてゐた可能性が考へら れるのだ。

教養は上から下へと流れるとばかり考へる必要はない。文字の文化は日本では一般民衆の間から広まつて行つたことも大いに考へられる。例へば日本人の独創と 言はれるひらがな・カタカナにしても、それを作つたのは誰か分からない。

例へば上から下へ広まつたハングル文字は誰が作つたか分かつてゐる。ひらがな・カタカナも上から下へ広まつたものなら誰が作つたかぐらゐ分かりさうなもの だ。ところが、それが分からないのだから、上流階級で作られたものではないと考へてもよいのではないか。(2008年7月1日)







 私の父親が肺炎でなかつたのは、血圧低下になつてから肺炎だとして見せられたレントゲン写真が真つ白だつたのが、人工呼吸のために全身麻酔をした後に起 つた肺水腫の悪化の結果を撮影したものでしかなかつたことから明らかである。
 
 心臓の機能低下で肺に逆流した血液が肺の中に滲み出るのが、心不全の肺水腫である。もしその状態で全身麻酔をかければ、それまで口から排出されてゐた血 液は肺の中に溜まる一方になつてしまふ。その時点でレントゲンを撮れば真つ白になるのは当たり前なのだ。

 実は、最初に風間慎吾似の当直医が取つたレントゲンは真つ白ではなかつた。また、その直後に撮つたCTスキャンの画像でも肺浸潤は僅かでしかなつたの だ。だからこそ彼は肺疾患と診断できず、肝臓肥大を見て肝臓の末期ガンだと思ふと言つたのである。

 その後ICUで半時間ほどしてから、この医師はCTスキャン画像の肺の部分に僅かに点在する濃い色彩の部分を私に見せて、肺炎かも知れないと言つたので ある。

 今私にとつて不思議でならないのは、その時彼はこれまでこの患者はどんな治療を受けてきたのか私に一切質問しなかつたことである。人間は急に肺から血を 吐くやうになりはしない。これまで色んなことがあつて今現在の重い症状に至つてゐるのだ。

 だから、もし医者に治さうといふ気持があるなら、これまでの経過を根ほり葉ほり聞くはずなのである。ところが、その後に来た揉み上げの長いベテラン医も 何も聞かず、研修医も同じだつた。といふことは、これが神鋼病院(今の加古川東市民病院)のやり方なのだらうと思ふしかない。桑原桑原である。(2008年6月29日)







東芝が新しいDVDレコーダを出して、テレビCMで「フルハイビジョン6倍録画」と言つてゐるが、このうたひ文句はあまり真に受けてはいけないやうであ る。

CMに興味を持つて電気屋でカタログをもらつて来たが、「フルハイビジョン6倍録画」の説明があるページの下に、低い画質レートでTSE録画を行ふとノイ ズが目立つたり映像が乱れたりするから、高い画質レートに設定して録画した方がいいと赤字で書いてあるのだ。

つまり、6倍録画したらまともに見られるものは録画できないかも知れないと言つてゐるのである。

このレコーダはフルハイビジョン録画(TSEモード録画)の品質を自由に設定できる。その内で最も低い3.6なら266時間録画できるといふのである。し かし、最もきれいに見れる17 でなら62時間しか録画できない。この値を映像の密度のやうなものだと考へると、それに録画時間を掛けたものが録画の総データ量といふことになり、実際両 者は3.6×266=957.6、17×62=1054で、ほぼ1000になる。

一方、電気屋でもらつて来たパナソニックのDVDレコーダでは、同じ500ギガの機種のフルハイビジョン録画のHEモード(TSEモードで最低の品質に設 定した場合に相当する)では、189時間録画できると書いてある。この数字を東芝のレコーダの値に換算すると1000÷189=5.2で録画したのと同じ だと考へることができる。

しかるに、この東芝のレコーダで値を5.2にしてTSE録画した映像は殆ど見るに耐へず、9.2でやつと見る耐へるといふ情報がネットにはある。しかも、 この9.2といふ品質で逆計算したら録画時間は約109時間しかないと推定できるのだ。これでは、パナソニックのHEモード189時間に大幅に負けてゐる ではないか。

となると、この「6倍録画」につられて東芝のDVDレコーダを買つてはいけないといふことになる。

そもそも、フルハイビジョン録画といつても、放送局から送られてきた映像をそのまま録画するのではなく、圧縮して録画するのもフルハイビジョン録画だから 話がややこしい。圧縮すればそれだけ画質が悪くなるはずだし、圧縮せずに録画するために開発されたのがブルーレイだからである。

ところが、周知のごとく東芝のレコーダにはブルーレイがない。そこで、何と東芝はこの新しいDVDレコーダでは、ブルーレイディスクではなくDVDディス クに圧縮しないままの映像を録画できるやうにしてしまつたのである。それは高価なブルーレイの役割となつてゐるパナソニックの機械ではできない相談なの だ。東芝の新しいDVDレコーダは、この画期的な機能に限つて購入を考へるべきではないかと思ふ。(2008年6月27日)






万葉集の歌を書いた木簡が発見されたといふ。それは万葉集が編纂された時代よりも前のもので、万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)・・・流夜真(るやま)」 と読み取れるといふのだ。

この歌は万葉集16巻に収録された3807番の歌であることは確実らしい。ところが、現代に伝はる万葉集ではこの歌は「安積香山(あさかやま)影副所見 (かげさへみゆる)山(やま)」となつてゐる。

すると、ここから一つのことが推測できる。それは、元々は「阿佐可夜・・」と書かれていたものが万葉集を編纂する過程で「安積香山・・」と変更されたとい ふことである。

万葉集の歌はすべて漢字で書かれてはゐるが、漢字の訓読みを利用して表はされたものと、漢字の音読みを利用して日本語一音に漢字一字を充てて書き表はされ たものの二種類に大まかに分類される。

この後者がのちの平仮名に発展したものであり、しかも万葉集の後ろの方の比較的時代の新しい巻(第5、14、15、17、18、20巻)に多く見られるこ とから、訓読み表記よりも後から発達したも のであると、単純には思はれるが、実際には逆だつたといふことが今回の発見から明らかになつたのである。

すなはち、万葉集の歌は初めは全部漢字の音読みを使つた歌として収集されたものであつたが、時代が下るにつれて、より意味がとりやすい漢字の訓読みを利用 したもの(=漢文の構文も利用しているからより高級な書き方)に書き改められて行つたのであり、後ろの方の巻はその作業が手付かずに残されたのだと。

さらに、ここから、日本語の表記はまづ一字一音の万葉仮名ばかりで書く方法が発達し、それが普及して一般民衆さへもが歌を書き残すやうになつたが、その後 漢字の訓読みが発展して、それが上流階級の間に普及して行つたといふ推測も成り立つ。したがつて、この木簡の発見は日本語の発展の歴史を知る上で大発見だ と言へるのである。(2008年6月3日)








山本周五郎の『樅ノ木は残った』は伊達騒動の悪人原田甲斐を善人として描いたものであることは知つてゐた。一方で、原田甲斐は伊達安芸を大老酒井忠清邸で 斬殺し、自分も切り殺されたことも知つてゐた。

そこで、原田が安芸を善意を持つてどういふ経緯で斬殺するのか、と思つてこの小説を読んでいると、何と原田と安芸を殺したのは酒井忠清になつてしまつてゐ るのだ。そして、原田が殺したことにされたが故に伊達六十万石は守られたといふのだ。

しかし、大老が伊達の重臣たちを殺したなどといふ史実はどこにもない。そこで、作者は最後の章で僧侶のせりふを借りて言ひ訳をしてゐる。史実として伝はつ てゐ ることには、評定の場が急に酒井邸に変更されたことなど、おかしな事が沢山あるといふのだ。

 しかし、そんなことを言ふなら、酒井邸にスパイとして何年も住み込んでゐた原田の家来が屋敷の間取りも知らずに主人に危急を伝へられなかつたのはもつと おかしいと言へるはずで、事実を変へてしまふのは歴史小説としてどうだらうか。また、登場人物の名前が覚えにくく、人の名前が出てくるたびに前のページを 繰りなほす必要があるのも、長編小説としてはいただけない。

 この小説が作り出した、戦かはず抵抗もせず甘んじて悪役になり、自分が殺されることによつて伊達騒動を収拾した原田甲斐像は、恐らくこれが書かれた第二 次大戦直後の 平和思想 を反映し たものであり、性的な描写もふんだんにあつて、むしろ一種の人間賛歌と見る方がよいのかもしれない。(2008年4月4日)







 週刊朝日の今週号に「戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』は改竄されていた」といふ有田芳生氏の記事が出てゐるらしい。

 第二次大戦に学徒出陣して戦死した兵隊の遺稿を集めたものだが、これを編集した「日本戦没学生記念会」(わだつみ会)が、自分たちの主張する反戦平和運 動に都合がいいように、勝手にどんどん書き換へて本にしてゐたといふのだ。

 全くさもありなんである。私はあんなものはどうせインチキだらうと思つて、本屋で見ても一行も読まなかつたものだが、それで正しかつたのである。

共産主義者をはじめとする左翼の連中は、公正さといふものには無頓着で、目的のためには手段を選ばないから、他人のルール違反には厳しくても自分たちの ルール違反には寛容なものだ。

 最近では民主党の執行部も左翼の連中に引つ張られて、何でもありになつてきてゐる。テロ防止にも協力しないし、日銀総裁も空席でいいし、ガソリン税に関 する議長斡旋もいちゃんもんをつけて反故にする積りらしい。

 かうなれば良識をもつて真面目に約束を守らうとする人間が馬鹿に見えてくるが、それでも福田首相は前任者と違つて「山よりでつかい獅子は出ん」と思つて ゐるのか、何があつても平気らしい。(2008年3月21日)







現在国会では参議院で野党が審議拒否をしてゐるが、それは何日まで許されるか決めておく方がよい。なぜなら、何時までも審議拒否してよいとなると、野党が 過半数を占める状態では、これを政変の手段に出来るからである。

今は衆議院の三分の二を与党が占めてゐるから予算以外の法律も再議決で成立させることが出来るが、さうでなくなれば与党は予算以外には何一つ法律を成立さ せることが出来なくなる。

さうなれば政府は衆議院を解散するしかないが、それでも三分の二の議席をとることが出来なければ、同じ状態が続くことになつてしまふ。そこでまた野党は審 議拒否をして政府を解散に追い込むのだ。さうやつて野党は衆議院選挙で勝つまで審議拒否をすればよいのである。

ただし、民主党が仮にこの方法で政府を解散に追い込んで政権を取つても、参院選挙で負けた瞬間から自分たちが同じ立場に置かれることになる。それでは日本 の政治は安定しない。やはり参議院での審議拒否を使つた倒閣運動を禁止する何らかの仕組みが必要ではないか。(2008年3月6日)







 New Lavie L のテレビコマーシャルが始まつた。NECのノートパソコンだ。男前二人が出てきて「このフォルムとグラデーションが美しい」と宣(のたま)ふ。わたしも最 近ノートパソコンを新調したが、まさにこの美しいフォルムのNECだ。

 しかし、前面スロットもなければ、お財布携帯対応でもない。「メモリー2ギガでウインドーズヴィスタも快適」でもない。メモリはたつた512メガだが、 ウインドーズXPがとても快適である。

 我が家の先代のノートパソコンは液晶が暗くハードディスクも不安定になつてきたので買ひ換へたのだ。パソコンの寿命は液晶とハードディスクの寿命なので ある。

 その先代がメモリ256メガだつたが、今度はその倍の512メガ、さらにCPU(中央演算装置)の速度は二倍になつてゐる。しかも値段は半額近いのだか ら、まさに万々歳。これで満足しないはずがない。

 しかし、それもこれも先代と同じウインドーズXPを選択したからに他ならない。

 これが新製品のヴィスタなら、快適に使ふためにはテレビCM通りにメモリが2メガ必要になる。しかし、なぜに慣れ親しんだXPを捨てる必要があるだら う。ヴィスタに変へて何をしろと言ふのか。インターネットと文書作成が主なユーザーにとつてXPは既に完成型なのだ。

 メモリ512メガ、ハードディスク80ギガ、CPUのスピード1.73ギガヘルツ、CDは書き込めるがDVDは読み取りだけ、そしてウインドーズXP。 それ以上に何が必要なのか。Lavie L ではなく Lavie G。この金色の美しさよ。この色が L にも存在するのかどうかは知らない。(2008年3月3日)







ロックの『市民政府論』(岩波文庫)には既に中央公論社の「世界の名著32」に『統治論』と題した遥かに読みやすい翻訳がある。岩波文庫版にはない訳注も ついてゐてこちらの方が親切でもある。しかし、英文を読んでゐて躓きさうな箇所を覗いてみたが、うまく乗り越えていないところもあるやうだ。

例えば第21節の最後、「だからその疑問は、他人が私と戦争の状態に立ちいたったかどうか、またその場合に、私がエフタのように天に訴えてよいかどうか、 果たしてだれが裁くのか、ということを意味するものではない」と「~かどうか」「~かどうか」「誰が裁くのか」の三つの疑問文をそれぞれ「意味する」の目 的節として訳してゐる。

しかし、岩波文庫では「この問はそれで、いったい相手が私に対して戦争状態に身をおいたかどうか、そしてその場合私はヱフタがしたように天に訴えていいの かどうか、を誰が審(さば)くかという意味ではあり得ない」と二つの「~かどうか」文を「審く」の目的節とし、「意味する」の目的節は「誰が審くか」以下 の全体としてゐる。

この場合どちらが正しいかは文脈によるが、答はこの本の241節にある。 「しかしこの問題、すなわち、果たして他人が彼との戦争状態に入ったかどうか、また果たして彼が、ヱフタがしたように、最高の審判に訴えるべきかどうかに ついては、他のすべての場合と同じように、各人が自らの審判者なのである」(岩波文庫)。ここでは二つの「~かどうか」節が「審くこと」の対象になつてゐ る。ならば、21節も同じやうに読み取るべきで、岩波文庫が正しいことになる。

その他には、230節の Who can help it を「誰がそれに救いの手を差し伸べられようか」(p.337上)と、岩波文庫と同じく help を「助ける」で訳してゐるが、このhelpは「避ける」で「支配者の悪意が明らかになれば、国民も立ち上がらざるを得ない(The people cannot help it)」といふ意味にとるべきだらう。 また、239節のcunninger workmenを「狡猾な職人たち」(p.344下、岩波文庫ではp.240「ずるい職人たち」)としてゐるが、形容詞が比較級であることを無視してゐる のもおかしい。(2008年2月28日)







漁場にたむろする漁船の群れの方へ一艘(さう)の軍艦が近づいてきた時、ふつう何が起こるか。おそらく漁船たちがクモの子を散らすやうにして軍艦に道をあ けるのだらう。軍艦は漁船がゐることは知つているが別段何もせずに只まつすぐにスーと入つてくるだけである。

軍艦は右へ左へと進路を変へながら漁船たちの間を縫ふやうにして進むことなどはしない。なぜならそんなことは出来ないからである。では、漁船がもし逃げそ こなつたらどうなるか。おそらく衝突してしまふだらう。

しかし、一旦衝突事故が起つて犠牲者が出てしまへば、漁船は被害者である。被害者になればもう過失は問はれない。漁船対軍艦の戦は普段は軍艦の圧倒的勝利 だが、漁船が被害者になつた瞬間に漁船の勝ちなのである。

そして、加害者になつたのが政府の組織である防衛省となれば、あとはマスコミによるヒステリックなバッシング報道が始まると云ふ段取りでことが進むだけで ある。

しかし、それにしても情けないのは野党の民主党がこの事故を利用して政局を混乱させようとしゐることだ。人の命をもてあそぶとはまさにこのことを言ふので はないか。(2008年2月21日)







 例へば、岩波文庫の『市民政府論』の39節はわけの分からない文になつてゐるが、同じ本の翻訳である『統治二論』(岩波書店) では意味の通る文になつてゐる。

さてアダムが、他のすべての者を排除し、ただ一人で、全世界に対し私的支配権所有権を有するという前提があるが、これは決して証明はできないし、また何人 の所有権もそこからは説明されない。そういう前提は立てないでも、ただ世界はまさに人の子たちに共有として与えられたのである、という前提を立てればよ い。そうすれば、土地のそれぞれの部分について、それを個人的に使用する明瞭な権原を人々が労働によって得ることができたことを知るのである。そこでは権 利についての疑いはないし、また争いの余地もあり得なかったのである(『市民政府論』45頁)。

こうして、アダムが、他のすべての人間を排除して世界全体に対する私的な統治権と所有権とをもっていたといういかなる意味でも証明不可能で、他の人間の所 有権をもそこからは論証することのできない想定に立つのではなく、世界は人の子に共有物として与えられたという想定に立つことによって、われわれは、労働 がどのようにして世界のそれぞれの部分を私的な使用に供する人間の権原を作り出すことができ、そこでは、いかに権利をめぐる疑問や争いの余地がありえな かったかを理解することができるであろう(『統治二論』221頁)。

 『市民政府論』の文章は、前後の脈絡を見失つて方向性のない文章になつてゐることが、『統治二論』と比べるとよくわかるはずだ。『市民政府論』は買つて も読めない詐欺のやうな本だつたのである。岩波書店は出来るだけ早く『市民政府論』を絶版にして『統治二論』と入れ替へることで、
これまでの罪滅ぼしをすべきだらう。(2008年2月16日)







市川崑が亡くなつたといふことで新聞の一面は各紙追悼コラムの競演となつたが、今回は読売新聞が一番の出来ではないかと思ふ。何より「クレーンにつり下げ られた鉄球が古い建物を打ち砕く」といふ書き出しで勝負あつたの感がある。

読売の編集手帳はいつも古い本からの引用文で始まることが多く、今回は映画監督と云ふことで映画の1シーンの引用から始めただけなのだらうが、市川崑の 『東京オリンピック』を観た人間の脳裏にはあの情景がまざまざと浮かび上がつたに違ひない。

そして、この映画に関するエピソードを紹介しながら綿々と賛辞を連ね、途中でほかの映画のことも少し紹介しながら、最後はまた「鉄球」で締めくくつた。こ の秀逸さは他紙のコラムと比べるとよくわかる。

市川崑が死んだので何か書けと言はれたか、彼の映画を見直した楽屋話から始めるものあり、市川崑より谷川俊太郎の方が好きなのかと思はせるものあり、訃報 を聞いて慌てて調べたことを全部並べたのものあり、Wikipediaのパクリかと思へる一文を書いたものあり。

また市川崑と云へばあの銜(くは)へタバコだが、新聞がタバコのことを書くとどうしても批判に聞こえてしまふ。読売のコラムが「紫煙に煙る」とそれに軽く 触れたのもうまかつた。(2008年2月15日)







 藤原正彦著『国家の品格』のなかではジョン・ロックをくそみそにけなした第三章が特におもしろい。

 そこで、この批判の由来を知るために岩波文庫のロック著『市民政府論』を読み直さうとしたが、わけがわからない。そこで加藤節による新訳を借りてきた ら、『統治二論』と題名からして違ふ。

 「市民政府」はcivil govermentの訳だ。しかし、考へてみればロックの生きた17世紀に、今のやうな市民や政府などがあるはずもない。当時のcivilは宗教に対立す る意味での「世俗」のことであり、 goverment は「支配」といふ程度の意味だつたはずなのだ。

 それを『市民政府論』としたのは、ロックの時代背景より、戦後日本の進歩主義に影響されてのことだらうか。しかし、この本はむしろ神と人間との関係を新 たに規定し直しさうとする神学書の色合ひが濃い。

 つまりこの本は、本来王のものではなく神のものである人間は、神の意志を人間の意志として如何に生存を維持していくべきかといふ問題を論じた書なのだ。 人間は王の所有物ではないと云ふ意味では民主主義の書ではあるが、その中心にあるのは神の所有物としての人間の姿なのである。

 それを知つてゐるからこそ、藤原はあの章で「ロックの言う自由や平等は、王権神授説を否定するピューリタンの考えに過ぎず、・・神がかりのフィクション としか私には思えません」と書けたのだらう。(2008年2月12日)








病気腎移植で有名な愛媛の万波医師の書いた論文がアメリカの移植学会で高い評価を受けて表彰されたといふニュースが多くのテレビ局で流された。ここで注目 すべきは、このニュースをどこの新聞社も一切報道しなかつたことである。

なぜなら、どこの新聞社も日本の学会が病気腎移植を否定したのに同調して、社説で病気腎移植を徹底的に批判してしまつたからである。自分たちの判断の間違 ひを証明するやうなこんなニュースを記事にしては新聞の沽券に関はるといふわけで、全紙が知らんぷりを決め込んでしまつた。

最近の毒ギョーザ事件でも、新聞はJTや保健所の初期対応のずさんさを批判してゐるが、ギョウザで体をこわした人が出たことは新聞記者の耳にも入つて来て ゐたはずだ。ところが、一カ月の間どの新聞も記事にしなかつたのである。だから、保健所も新聞も五十歩百歩のはずなのだ。

ところが、新聞は自分たちの失敗にはほおかぶりをしてJTや保健所のことをしきりに書き立てるのである。およそ新聞とはこんなものであり、事実を知りたけ れば新聞を読んではいけないのである。(2008年2月11日)








昔はクズ屋といふものがあつて立派にリサイクルの仕事をしてゐたのに、この仕事に市町村や国が関与するやうになつてからおかしな事になつてゐる。昔のクズ 屋は不要品と交換にお金を暮れたのに、今では不要品を引き取つてもらふのに金を払はねばならないのだ。

リサイクルにはお金がかかるといふのがその理由らしいが、実はそんなことはない。その証拠に、大手の電器販売業者が有料で回収してきた電器製品を、さらに リサイクル業者に売り払つてゐることが明かになつてゐるのだ。

つまり、廃家電を金を出して買つてくれる業者が今でもあるのだ。それなのに、金を払つて引き取つてもらつた人は、引き取り相手を間違つたと云ふことにな る。やはり、クズ屋は昔と同じく不要品をお金と交換で引き取つてくれるのである。

そして、それがクズ屋の本来の姿である。不要品を金をとつて引き取るなど、クズ屋の常識に外れてゐるし、リサイクル精神にも反してゐる。家庭で不要になつ た物を引き取つて利益を出すからクズ屋なのであり、それがリサイクルなのだ。

民間がやつてゐることに役人が口出しするとろくな事はないが、これもその一つである。(2008年2月5日)








『国家の品格』が古本屋で100円になつたので買つてきて読んでみた。この本は一般人への講演を元にしたものなので、非常に分かりやすい反面、論理の運び が雑で、おまけに上から口調なので、反発を感じる人も多いに違ひない。

しかし、この本には全編に渡つて日本人としての自尊心をくすぐる内容が満載なので、その面で充分楽しめる内容になつてゐる。

 例へば、第二次大戦が「民主主義対ファシズムの戦」だつたと云ふのは嘘で、戦前から英米日独はどこも民主国家だつたが、ルーズベルトやチャーチルも戦争 中は東條に劣らぬ独裁者になつたと言はれてみると、日本だけが軍国主義ではなかつたのだと安心することができる。

また、日本人の感受性の豊かさは世界に類のないもので、そこから生まれた日本文学は世界に冠たるものだとか、この情緒性から関孝和や岡潔など一流の数学者 が生まれたといふ話も快い。

実は私がこの本を「面白いかも」と思ひ始めたのは第三章からで、西欧では禁欲的なカルヴァン主義が盛んな国ほど資本主義が発展してゐるといふ話のお 蔭で、ジョン・ロックとマックス・ウェーバーをまた読み直してみる気になつた。

その他に、筆者が語学マニアで英独仏露西葡にまで手を出したために読んでゐない名著が沢山あるといふ話では、似た人がゐるものだと親近感を持つことが出来 た。これも一つの収穫だらう。(2008年2月2日)







日本では死刑になつても中々本当に死刑になることはない。死刑の判決が出てから何年も、いや十何年もしてから刑が執行される。イラクのフセイン元大統領の やうに翌日執行ではないのだ。

しかし、死刑が確定してから何年も生きられるのでは、これはひよつとしたら普通の人間と同じではないかと思へてくる。人間は誰もがいつかは死ぬからであ る。

我々はいつか死ぬんだと思つてはゐるが、日々の暮らしの中で余程のことがない限り死ぬことを忘れてゐる。死刑囚も死刑になるまでに長い年月の暮らしがある から、その間にやはり死ぬことを忘れてゐるに違ひない。なにせ何時のことか分からないといふ意味では、普通の人と同じだからである。

いやむしろ死刑囚は死ぬまでの生活が保障されてゐて、一般人のやうに日々の生計に苦労する必要がないと云ふ点では楽ではないかとさへ思へる。

とすると、日本の死刑にはどれほどの意味があるのか、こんな死刑なら無くてもいいのではないかと思へてくる。わざわざ国が手を汚さなくも、終身刑にしてお けば、そのうち必ず死ぬからである。(2008年2月1日)







確定申告の季節といふことでネットで調べたら、去年死んだ人間の確定申告は遺族がするのださうだ。これを準確定申告といつて、死んでから4か月以内にしな いといけない。しかし、死んだ人間の源泉徴収票は請求しないと送つて来ないし、請求しても東京の社会保険業務センターから送るので約一か月かかるといふ。

ここまで調べて、準確定申告用源泉徴収票の請求はがきを貰ひに近所の社会保険事務所に行くと、ここから発送すると言ふのだ。やり方が変つたのかと思つて、 はがきではなく請求用紙をもらつて帰り、必要事項を書いて翌日また事務所に行つたら、ここからではなく東京から送る、それも一か月後にと言ふのである。

私の場合、住所が変つたので同時に届けを出したいと言ふと、「国民年金被保険者住所変更届」といふ紙をくれた。しかし、よく調べたら、まだ年金受給者でな い人の住所変更は住居地の市役所でするのだ。しかも、この用紙は配偶者用ではないか。

地方の社会保険事務所なんてこんなものである。医学の知識と同様、何事もネットで自分で調べた方が、地方の末端の人間に聞くよりも正しい情報が得られるの である。(2008年1月24日)







最近の医療崩壊の原因の一つに新臨床研修制度といふのがある。従来の制度では新米の医師は大学を卒業してもその大学に残つて研修を受けてゐたのが、新しい 制度では自分の好きな病院で研修を受けられるやうなになつたのである。

この結果、都市部の民間病院に若い医師が集中してしまつて大学病院が人手不足に陥つたと言はれてゐるが、もつと大きな問題は、大学の勉強を終へたばかりの 半人前の医者が大量に医療の現場に流れ出たことだらう。

以前のやうに出身大学に留まつて研修を受ける場合なら、大学の教官たちは医学を教へる延長として学生を一人前の医師に仕込むといふ大きな責任を担つてゐた はずだが、民間病院に行つてしまへば研修医とは言ふものの既に一人前扱ひになる。もはや生徒を親切に叱る怖い教官はゐず、そこには企業としての病院経営に 汲々としてゐる同僚の労働者がゐるばかりなのだ。

かうして新米医師たちは、すぐに民間病院に入ることで、医療技術では半人前のくせに自己保身に熱心で患者に上からものを言ふことだけは一人前の医者が大量 に出来上がつてしまふのである。これで医療がダメにならないはずがない。(2008年1月23日)








年賀はがきの「再生紙偽装」といふニュースが流されてゐるが、あの報道の仕方は間違つてゐる。製紙会社が消費者を欺したかのやうに言はれてゐるが、欺した のは日本郵便である。なぜなら、製紙会社は日本郵便の下請けに過ぎないからである。

「このはがきは古紙40%の再生紙です」と書くとすれば、それは日本郵便であつて製紙会社ではない。製紙会社は、古紙配合率40%でしかも安くて綺麗なは がき用の紙を作れといふ日本郵便の無理な注文に困り果てた揚げ句に、古紙の配合率を少なくするしかなかつただけである。

ところが、その事実が明らかになると、日本郵便はその責任の全部を下請け会社である弱い立場の製紙会社に押しつけたのである。そして、そんなことはとつく の昔に知つているはずの新聞記者が、新聞社にとつても下請け会社である製紙会社いぢめに、日本郵便とタッグを組んだといふのがこのニュースの真相である。

そもそも古紙配合率が高ければ高いほど環境負荷が高いことは、もはや常識である。むしろ古紙をあまり使はない方が石油を沢山使はずにすむから環境にはよい のだ。新聞記者はそれを知りながら、製紙会社いぢめに回つたのだから、実に悪質なニュースだと言ふべきである。(2008年1月22日)







ガソリンの暫定税率廃止に関して、社民党と共産党は単純な廃止ではなく環境税の創設とセットでなければ、民主党に協力することは出来ないと言つてゐる。一 方、国民新党は暫定税率の廃止に反対だから、野党の中で暫定税率の単純な廃止を主張してゐるのは民主党だけである。

といふことは、民主党は野党の中で孤立してゐるのだ。これは自民党にとつて大きなチャンスである。自民党は民主党のいふガソリンの暫定税率廃止案を受け入 れればよいのである。そして、増税せずに代替財源を捻出する方法を民主党に教はればいいのだ。

大連立に失敗した福田政権としては、これで民主党と念願の政策協議が実現できる。福田首相はあくまで民主党との話し合ひを目指してゐるといふ。それなら、 相手の主張を受け入れるしかないではないか。

しかも、これで国民に評判の悪い再議決をする必要もなくなるし、自分自身に対する問責決議可決の心配もなくなる。おまけに国民が望んでゐるガソリンの値下 げも出来る。これは一石二鳥どころの話ではないはずだ。(2008年1月21日)







ガソリンの暫定税率が問題になつてゐるが、政府自民党はなぜ暫定税率の廃止を率先して実施して自分の手柄にしないのか不思議である。

暫定税率がなくなればガソリンが安くなり、それだけ家計が楽になる、その分を他の商品の購入に宛てて消費を活性化してもらひたい、とPRすればよいのであ る。

ところが、政府はガソリンを安くすると自動車に乗ることを奨励することになり一層の環境悪化を招くなどと言ふのだ。しかし、ガソリンの値段が下がつたから と車ばかりに乗つてゐられる暇人はそんなに多くないのである。

暫定税率がなくなると地方の道路財源に穴が空くともいふが、道路財源は元々全部一般財源化すべきはずのもので、余つてゐたのではなかつたのか。それを余ら ないやうに無理やり帳尻合はせをしたのが来年度予算であると報道されてゐる。

だから、暫定税率の継続を止められないのは、来年度予算の中にそれが組み込み済みだからにすぎないのである。ならば、暫定税率を廃止できるやうに来年度予 算を作り直せばいいのである。

さうすれば、野党に「ガソリン国会」などと言はせる切つ掛けを与へることもなくなるし、これが景気回復の梃子になるかも知れず、内閣の支持率もひよつとし たら上がるかも知れないではないか。(2008年1月20日)







ビデオに録画しておいた映画『殯(もがり)の森』を少しだけ見たが、すぐにもうこれはグランプリだと思つた。「もがり」が何かは知らなくても、高齢者のデ イサービスを映画にしたといふだけで、やられたといふ気持で一杯になつた。

デイサービスセンターは日本の各地方自治体にあり、多くの病院の中に設けられてゐて、年寄りを集めて歌をうたはせたり折り紙を作らせたりしてゐるのは誰で も知つてゐる。

あれを見て、あそこで仕事をしてゐる若いヘルパーたちと老人たちの交流を見て、なぜ若い男女が先のない年寄りの相手をすることに、やりがひを見いだせるの か。老人たちにとつて、あれは死ぬまでの時間つぶしではないのか。そもそも人生とは何か、と思つたことのある人は多いはずだ。

それを映画といふ一つの形で表現してしまつたのだから、観る者は一瞬にして痛いところをつかれたといふ気持になつてしまふ。そして、死を待つ大 量の老人たちの存在は今や文明国の世界的現象なのだ。カンヌのフランス人たちも同じ気持になつたに違ひない。

老人が一杯ゐて、その相手をする若い女たち。その映像をただ流すだけで、見てゐてうーんとうならされる。現代人の生の一番重たい部分を見せつけられてゐ る、さういふ気持にさせられる映画なのだ。(2008年1月18日)







福岡の飲酒運転事故の判決に関しては新聞各紙が社説を出してゐるが、危険運転致死傷罪が適用されなかつたことに腹を立てて、いい加減なことを書く記者もゐ るやうだ。

容疑者が飲酒検知の前に大量の水を飲んでゐたから酒醉ひ運転ではなく酒気帯び運転になつたといふのもその一つだ。しかし、酒酔ひ運転は酒のために正常運転 できない状態かどうかで決まるのであり、呼気アルコール量の規定はないのである。

では、実際にこの容疑者は検知前に大量の水を飲んでゐたのか。ところが、「署員が飲酒検知しようとしたところ、突然ペットボトルの水を飲み始めたため、注 意してやめさせた」といふ記事があるといふ。それなら飲んでないではないか。

しかも、ペットボトルを持つてきたことを理由に証拠隠滅罪で逮捕された友人は、その後処分保留で釈放されてゐる。それなら、証拠隠滅は証明できなかつたの ではないのか。

裁判官が容疑者の事故直前の運転状況に拘つたのは、かういふ理由からだつたのだらう。しかし、新聞は情緒的反応を優先させて、読者に正確な事実を伝へよう とはしないのである。(2008年1月12日)







この前の参議院選挙で民主党が議席を増やしたことから、直近の民意は参議院にあると言ふ人がゐるがそれは間違ひである。参議院は民意を反映するための機関 ではないからである。

その時々の民意を反映する国会の機関は衆議院である。それに対して参議院はむしろその時々の民意に大きく動かされないために存在する。だからこそ、衆議院 に解散があるのに参議院には解散がないのだ。

首相が衆議院によつて選ばれるのも、国政に民意を直接反映させるためである。一方、参議院は三年ごとに半数ずつ改選される。このおかげで、衆議院が参議院 の選 挙に合はせて解散しても、国会議員が一人もゐないといふことはなく、政府は国会を召集できるのである。

したがつて、参議院議員は古代ローマの元老院議員と同じやうに国家の重鎮としての役割を担つてゐると言へる。アメリカの上院がまさにさうであり、だからア メリカの大統領は上院議員がなることが多い。

全国区の選挙があつた時代には参議院も政党員でない議員が存在して独自性を発揮したが、昭和57(1983)年に比例代表制が導入されて完全な政党選挙に なつてからは、民意を反映するなどと言はれるやうになつてしまつたのである。(2008年1月4日)







なぜ日本の国会が衆議院と参議院の二院制なのかといふと、それは明治憲法で衆議院と貴族院の二院制であつたことを引き継いでゐるからである。

衆議院は大衆の利益を代表する議員の集まりであり、貴族院は貴族の利益を代表する議員の集まりだつた。その始まりは古代ローマの元老院と民会(住民集会) であり、貴族 制度がある英国国会では今でもこの二つ議会で構成されてゐる。

そして、利害の異なるこの二つの議院が異なる議決をするのは当然であり、世界の議会の歴史とは、このどちらの院の議決が優先させれるかの争ひだつた。最初 は貴族院の議決が優先されてゐたが、次第に衆議院の議決が優先されるやうになつたのである。

日本の国会で衆議院の議決が参議院よりも優先されるのはその結果である。だから、参議院で否決された法案が衆議院の圧倒的多数で再議決されると成立するの は何ら異常なことではない。英国議会では再議決さへ必要がないのである。

現代の国会で異常なのは、むしろ衆議院と参議院の議員が似たやうな選挙制度で選ばれてゐることであらう。そのために、どちらの議院も同じ利益代表の集まり となつてをり、議院が二つ存在する意味がなくなつてゐるのだ。

その結果、『広辞苑』などで「参議院」を引いても国会審議を慎重にする機能を担ふ存在といふ適当な説明しかなく、国民も参議院をそんなものだと思つてゐる のである。(2008年1月3日)







『芸能人格付けチェック』といふテレビ番組で一番面白いのは、舌の肥えた有名芸能人が有名産地の牛肉とスパーの安物牛肉を食べ比べて、有名産地の牛肉を当 てられない場面であらう。

かういふ番組を見ると、牛肉にそもそも産地名を付けて売ること自体がすでに偽装ではないのかと思へてくる。松坂で作つた肉を松坂の名前を付けて売るだけな らよいが、それで高い値段を付けて売ることがおかしいのである。

本当にうまい肉なら産地を隠して売つても、味見をさせれば高く売れるはずである。人間の価値がさうだらう。家柄や出身大学で人の値打ちを計るのが間違ひで あることは、とつくの昔から言はれてゐることである。だから、求人の履歴書に大学名を書かせない会社もあるのだ。

ところが、世の中には相変わらず産地に拘はる人たちが多い。そんなものを当てにするのは、自分の目や舌で相手の価値を見分けれらないからだらう。だから産 地の名前に欺される人も出てくる。

しかし、The proof of the pudding is in the eating はどの場合にも当てはまる。大学名など書かせるから大学名に拘はるのであり、産地名を書かせるから産地名に欺される人が出てくるのだ。本当は中身が大切な のだらう。それなら、産地名など廃止してしまへばよいのである。(2008年1月1日)


私見・偏見(2006年_4)



 『哲学書簡』の第15でヴォルテールはニュートンの万有引力の発見を扱つてゐる。ヴォルテールの紹介は次のやうなものである。

 宇宙に浮かぶ恒星や惑星は何の力によつて回転してゐるかは、昔から哲学者たちを悩ましてゐた謎だつた。デカルトは、それは宇宙に充満してゐるエーテルと いふ物質が渦巻きを作つてゐて、それに乗つて星々は回転してをり、そのエーテルの重みが地球上に重力をもたらしてゐると考へた。

 しかし、ニュートンにはそれは真実とは思へなかつた。第一、その理論はケプラーの法則に一致しなかつた。そんなある日、ニュートンはりんごが木から落ち るのを見て、りんごの木の遥か上の月から地球に向つて物体を落としたらどうなるかと考へた。

 月の軌道の直径も、月の公転速度も分かつてゐたから、物体が月から地球に落下する場合に、最初の1分間で物体が落下する距離は幾何学を使つて計算で分か つてゐた。しかし、当時は地球の正確な大きさが分らなかつた。

 その内、仏人ピカールが地球を計測してその周長を突き止めた。そこから、月の軌道の半径は地球の半径の60倍であることが判明したのだ。それ以前に、彼 は重力の力は距離の2乗に反比例することを計算によつて突き止めてゐた。

 すると月から落ちてきた物体は地球上では60の2乗を掛けただけ大きな重力を受けてゐるはずであり、最初の1分間で落下する距離も月の上でよりも60の 2乗だけ大きくなつてゐるはずだ。そしてその距離は、実際に地球上で物体が落下する距離と一致する。

 かうして、ニュートンは、地球上で物を落下させる力は月にも働いてゐること、即ち重力こそが月をその軌道上に維持してゐること、つまり重力が引力である ことを突き止めたのである。(なほこの書簡の林達夫の訳は、peserといふ動詞の訳語を文脈を無視して全部「のしかかる」としたため、非常に分かりにく いものとなつてゐる)

 追記:一方、中央公論新社から出てゐる中川信の訳は、これを「重みをかける」と訳したので、まるで引力が押す力であるかのやうになつてゐる。どれもみな 「引かれる」といふ意味だが、直訳に拘るなら「重さをもつ」程度にしたいところだ。この人の訳 は林達夫の訳をよく参考にしてゐるやうだが、注釈まで同じ内容のものがあるのには驚かされる。とは言へ、林達夫の分かりにくい個所や間違ひが改善されてゐ る場合が多いので(例へば第8書簡の「三段論法」→「くだらない議論」。第5書簡も全体として分かりやすくなつてゐる)、大いに参考になる。(2006年 12月31日)







 いぢめ問題が今だにかまびすしいが、政治が効果的にいぢめを解決できるとは思へない。

 そんなことをするには、いぢめを見逃さないやうにする必要があるが、そのためには大人が子供たちを厳しく監視し続ける必要がある。隠れたいぢめも見つけ 出さなければいけないからである。

 児童虐待もさうだ。児童虐待をなくすためには、近所の家で子供が大人に虐められてゐないかを近隣住民が監視してゐなければいけない。

 飲酒運転撲滅運動もさうだ。飲食店に車で来た客に酒を飲ませないためには、客が何で来たかを監視してゐなければいけない。車で来た客が酒を飲みたくて 「歩いてきた」と嘘をつくかもしれないからである。

 愛国心も同じだ。教師が教室で愛国心に反することを子供たちに教へてゐないか監視する必要がある。

 かうして様々な問題を政治が解決しようとすれば、日本をどんどん相互監視社会に変へていく必要がある。それは正にジョージ・オーエルの『1984』の世 界である。自由な日本社会で果たしてそんなことが可能だらうか。(2006年12月30日)







 ヴォルテールの『哲学書簡』は、最初から読んでいくと「クェーカー派について」といふのが幾つも並んでゐて、その次も宗教の話なのでうんざりして読むの を止めてしまひがちである。

 林達夫の翻訳にも責任があつて、宗教の話題は苦手らしく何が書いてあるか分からない文章が多い。ところが、得意の哲学の話になると俄然流暢になつて来て 面白い。

 例へば、ベーコン(1561~1626)のことを「經驗論哲學の父である」と言ひ、「彼以後試みられたあらゆる物理學的實驗で、彼の書物に示されてゐな いものはほとんど一つもないのである」と言ふのだ。

 さらに、ニュートン(1642~1727)が発見したとされる引力についても、既にベーコンの本に書いてあるとなれば、一つベーコンの本を読んでみよう かと云ふ気持にもなる。この本は読書案内にもなつてゐるのだ。

 ところで、そのベーコンの『ノヴム・オルガヌム』(岩波文庫)だが、書名を見ると全訳であるかのやうだがさにあらず。この本に訳されてゐるのは第一巻だ けで引力の話が出てくる第二巻は訳されてゐない。正しくは『ノヴム・オルガヌム第一巻』なのである。(2006年12月29日)








 最近は反論をするのではなく抗議するのが流行つてゐる。ある週刊誌が煙草は体に良いといふ記事を出したら、禁煙学会といふものが抗議したといふ。学者な らなぜ反論しないのか。

 非核三原則を議論しようと言つたら非核団体が抗議した。これは被害者たちの感情に基づいた情緒的なものだ。

 一方、韓国人は日本の韓国統治が合法的だつたなどといふと妄言だと行つて抗議する。完璧に反証してみせれば、相手の議論の嘘ははつきりする。それが出来 ないので、情緒に訴へて抗議するのだらう。

 禁煙学会も情緒の団体なのだらうか。

 もともと先進国で日本の喫煙率は高い。それなのに、日本人の平均寿命は世界一である。しかも、男性の喫煙率が下がつたのに、男性の平均寿命は4位に下が つた。喫煙と健康の因果関係は弱いのである。

 抗議といふのは相手の議論の存在を抹殺しようとする姿勢である。ロシアでは都合の悪いことを言ふ人間を抹殺してしまふ。抹殺は良くない。ちやんと反論す べきである。(2006年12月28日)







 『哲学書簡』の十三番目「ロック氏について」は経験論哲学のロックのことで、霊魂とは何かについてのロックの明解な答を紹介してゐるが、その内容だけで なく、書きぶりが面白い。

 「學術と誤謬との揺籃であり、人間精神の偉大さと愚昧さをあんなにもぎりぎりまで推し進めたギリシア」と古典ギリシア崇拝を皮肉り、

 「アリストテレスになると、彼のいふことは不明瞭なので千差万別に解釋されてきたが」とアリストテレスの権威を皮肉り、

 「聖ベルナルドスは・・靈魂に関して、死後それは天へ行つても決して神は見ないが、しかし人のすがたをしたイエス・キリストと會話だけは交はす、と敎へ てゐたさうだ。この度は、人々も彼の言には信をおかなかつた。(第二回)十字軍の冒險が少しばかり彼の御託宣の信用を失墜させてゐたからである」と聖人ベ ルナルドゥスの功績を皮肉り、

 「我々のデカルトは、古代の誤謬を看破するために、しかしそれに置換えるに自分の誤謬を以てするために生れ出」とデカルト哲学を切つて捨てる。

 その後に「こんなに大勢の理窟屋たちが靈魂の物語(ロマン)を書いた後に、一人の賢人が出て來て、これは謙遜にもその歴史を書いたのである」とロックの 哲学を「謙遜」の一言で特徴づける。

 ヴォルテールを読むと物の見方が広がることは間違ひないやうである。(2006年12月27日)







 今度出た労働法制の改革案は労働組合などが大反対してゐる。

 しかしながら、そもそも労働を8時間と決める意味は何なのか。それは機械に付き合はされる単純労働、誰がやつても成果は大して変はらない労働だからこ そ、時間で区切る意味があるのだ。

 ところが、会社を一番支へてゐる営業はどうか。営業は契約を取つてくるのが仕事だが、個人差が大きい。8時間かけても一本も取れない人もゐれば、半日で 充分の人もゐる。だから、既に時間給のほかに歩合給も導入されてゐる。

 事務職のホワイトカラーなどは総じて、能力によつて仕事の能率は全く違ふ。残業しないと終はらないのは、無能の証明のやうなものだ。逆に仕事が速い人は 会社にゐて暇で仕方がない。8時間も会社にゐると怠けてゐると思はれるのだ。

 ホワイトカラーでなくてもそれは言へる。自転車を一人で組み立てる作業を考へてみれば明らかだらう。

 能力が問はれる仕事に対して時間で給料を要求するのは、何の成果を出せなくても金をくれと言つてゐるに等しい。仕事が出来ない人間に合はせた労働法制を 改めようとするのも一理あると思はれる。(2006年12月26日)







 種痘はイギリスのジェンナーが発明したことになつてゐるが、ヴォルテールの『哲学書簡』によると、イギリスではそれよりもずつと以前から行はれてゐたこ とが分かる。

 元々はコーカサス地方で行はれてゐた風習で、それがトルコに伝はり、ジョージ1世の時代にトルコのイギリス大使婦人が自分の子供に施したのがヨーロッパ 人では最初だといふのだ。

 その話が当時の皇太子妃に伝はると、彼女の奨励によつて種痘は英国中に広まり、お陰で疱瘡で死ぬイギリス人は激減したのだが、フランスではこの風習は広 まらなかつた。

 ヴォルテールの言ひたいのはここからだが、フランスでは教会や医者が種痘の採用に反対したために、大勢の有為の人材が疱瘡のために死に続けた。特に教会 の説教師たちは人の命よりも自分たちの偏見の方を重視したのである。

 今の日本でこの教会の役割をしてゐるのはマスコミである。彼らは決つた倫理綱領を持つてゐるわけでもなく自分たちの常識を振り回して、自分たちの気に入 らない何か新しいことをする人達を弾圧するのである。

 おかげで多くの有為の人材が牢獄に入れられ、多くの人の命が失はれてゐのは、アンシャンレジームのフランスと同様である。(2006年12月25日)







 本間氏の辞任では自分が選んだ人を守れない安倍首相も情けないが、『週刊ポスト』といふゴシップ雑誌の尻馬に乗っかった新聞記者たちも情けない。

 夜討ち朝駆けの新聞記者なら、本間氏がどこで誰と暮らしてゐるかぐらゐはとつくに知つてゐたはずだ。ところが、自分では問題にせずに下世話な週刊誌が取 り上げたら、一斉にさうださうだと言つたのである。

 そもそも本間氏自身には何の落ち度もない。公務員宿舎を提供したのは政府なのである。同居の女性が妻でないことが責められる訳もない。そんなことした ら、とどのつまりはさつさと離婚に応じない夫人が悪いことになつてしまふ。

 もちろん職業差別になるから女性が元ホステスだといふことを責めるわけにも行かない。しかも事はプライバシーの侵害にもなりうる。こんなことを上品な一 流紙を標榜する自分の新聞で問題にするのはふさわしくない。

 それで週刊誌が問題にするのを待つてゐたのか、週刊誌に問題にするやう勧めたのかは知らない。しかし、本間氏が「薄汚い」といふのであれば、新聞記者た ちの薄汚なさも似たやうなものなのである。(2006年12月24日)







 昔の人が子供を沢山産んだのは、貧しくて働き手が沢山いつたからである。豊かな人は子供の労働を当てにする必要がないから、子供を沢山生む必要はなかつ た。だから、貧乏人の子沢山だつたのである。

 ところが、今や年金制度のために子供世代の労働が必要になつて来た。今の制度は次の世代の労働によつて支へられてゐるからである。豊かなのに子供の労働 が必要なのである。ところが、貧乏人の子沢山は昔と同じで、豊かな人は相変はらず子供を作らない。

 非正社員の給料を増やせば子供が増えるといふ人がゐるが、そんなことはあり得ない。豊かになりたいと思ふのは誰しもだが、それで子育てをもつとしようと 誰が思ふだらうか。沢山子供を生み育てたいから共働きをしてゐる夫婦がどこにゐよう。

 結局、子供の世代の働きに依存する年金制度は、人々が貧しい間しか機能しない制度なのである。豊かな社会の中で少子化を止めて現行の年金制度を維持しよ うとする考へ方自体がおかしいのである。

 むしろ、次の世代の労働に依存しない年金制度を作るべき時が来てゐると考へるべきなのである。(2006年12月23日)







 朝日新聞が「銀行の献金 預金者よりも自民党か」といふ社説を出したら、途端に安倍首相が銀行から献金を断ると言ひ出した。実に手回しの良いことだが、 これ以上支持率を下げたくないといふ思惑が見え見えなのが情けない。

 元々政治は献金によつて支へられるべきものだ。銀行側としては業績の改善は自民党政治のお陰であり、この辺りで本来の姿に戻つて献金をと考へたとしても 不思議ではない。

 それを政党助成金といふ名の税金で賄はうとすること自体がおかしいのである。こんな制度は献金を賄賂だと言はれるのが嫌で作られたものでしかない。

 献金するなら預金者に還元しろといふが、それは屁理屈でしかない。預金の利息は日銀が決める公定歩合に連動するものであり、銀行の責任ではないからであ る。仮に献金分が利息になつたとしても、一人あたり10円にもならないはずだ。

 首相はいい決断をした積りだらうが、世論に対して右顧左眄する姿が露呈しただけである。それを追ひ打ちするやうな政府税調の会長辞任では、現政権の弱体 振りは益々際立つばかりである。(2006年12月22日)







 交通違反がばれさうになつて検問から逃げてゐる内に運転を誤つて街路樹に突つ込んだら、責任は交通検問ではなくドライバーにある。ところが、尼崎の脱線 事故の報告書は、厳しい取り締まりをしたJRが悪いといふのだ。

 運転手は自分のミスを誤魔化さうとした。それは飲酒運転がばれさうになつて逃走するドライバーと同じである。それは単なる我儘であり、パトカーに追跡さ れて当然である。

 そこで事故を起したら、パトカーが悪いのか。さうだパトカーが悪いと言つてゐるのが、今回の事故報告書である。パトカー、つまりJRのせゐにしなければ 世論が収まるまい、遺族が収まるまいといふ配慮である。

 会社人間である以上、会社のプレッシャーの下で仕事をするのは当たり前のことだ。多くの運転手はそのプレッシャーの下で事故を起さずに仕事をしてゐる。 JRに落ち度があるとすれば、そのプレッシャーに耐へられない人間を運転手に採用したことだらう。

 ところが、事故調は新型のATMを設置してゐたらとまで言つてJRの責任を問はうとしてゐる。それなら、全ての車に衝突防止装置を導入しない自動車メー カーに全ての交通事故の責任があることになつてしまふではないか。

 このやうな報告書を作つた事故調は、余程のプレッシャーにさらされてゐたのだらうと同情するばかりである。(2006年12月21日)







 日本には至るところに「倫理委員会」なるものがある。しかし、そこでいふ「倫理」が何を意味するかは定かではない。日本人の倫理にはしつかりとした法則 が有るわけではないからである。

 倫理とはもともと宗教的なもののはずだ。ところが、日本ではそれは宗教とは関係がない。それはむしろ個人的な感覚である。「生命を操作することは倫理に 反する」などといふが、それは所有に対するある種の執着を言ひ換へたものに過ぎない。

 まだ生きてゐると思ふ人から臓器をとるなんて許せない、一歩間違へたら犯罪だ。病気の腎臓を使ふなんてあり得ない、それなら取り出すべきぢゃな い・・・。

 そこにあるのは倫理観といふよりは倫理感といふべきものであり、行き着くところは、自分さへ良ければといふ戦後思想だらう。お陰で日本の移植医療は進ま ないが、それで困つてゐる人が沢山ゐても仕方がないと思はれてゐるのである。

 聖書には「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし」(『ヨハネ伝』) といふ言葉があるが、この思想は日本人とはまつたく無縁のものである。誰もこのやうに死なうとは思はない。

 命は大切だと言ふ。しかし、それは自分や身内のために大切だと言つてゐるに過ぎない。そしてそれが日本人の倫理感であり、そこで終りなのだ。この貧しい 倫理が貧しい医療につながつてゐると言つてよい。(2006年12月20日)







 弱者であるはずの者がいつの間にか強者になるのはよくあることで、それをうまく利用すれば大きな力が手に入る。それは最近明かになつた、解放同盟の人間 が役所を食ひ物にしてゐたといふ事実に見られるだけではない。

 被害者といふ弱者、被害者の遺族といふ弱者、障害者といふ弱者も次々と強者に姿を変へて、政府や地方自治体に圧力を加へて、法律さへ変へてしまふのはよ くあることだ。

 なぜかうなつてしまふのかは明らかだらう。マスコミが作り出した世論の力である。しかし、かうして手に入れた力も使ひ方を誤ると、途端にその力を失ふだ けでなく、また弱者に逆戻りしかねない。

 フランス革命で庶民の代表として台頭したロベスピエールは、王族を始めとして反対勢力の人間を次々と断頭台に送つたが、やりすぎて最後には自分自身が断 頭台に送られる身となつてしまつた。

 郵政解散の「刺客」たちもまた今や弱者の立場である。反動はいつ何時始まるか分からない。一部の人間のやりすぎで同和地区に対する世間の見方も大きく変 つたに違ひない。驕る平家は久しからずである。(2006年12月19日)







 共産党が石原都知事の息子の公費出張を問題だと言ひ出したら、左翼マスコミが飛びついた。につくき石原を都知事の座から引きづり落とすチャンスだと思つ たのだらう。

 しかし、その公費の内容を見ると一回のヨーロッパ出張にたつたの55万円である。これは飛行機代で大半が消えてしまふ金額である。格安チケットのパック 旅行ではないのだ。

 仕事の必要で急に海外出張した人間ならそれくらゐの額が要るのは知つてゐるはずだが、問題視する人たちはそれを隠してゐるのである。エコノミーならもつ と安いのは確かだが、仕事を依頼した人間にエコノミーチケットを渡すやうな失礼な会社がどこにあらう。

 息子を使つたのは公私混同だといふ話もある。しかし、高額の依頼料を払つたのならともかく、旅費だけのただ働きでは文句も言へまい。

 その息子が無名の芸術家だと言ふのも失礼な話である。海外からあんな作品しか作れない芸術家を使つたと批判されてゐるのならまだしも、そんな批判もない 以上、芸術家としての価値を云々すべきではない。

 これは国民の嫉妬心を利用した共産党の策謀だと見て良いのではないか。こんな策謀に乗るとは、まさに御里が知れるといふものである。(2006年12月 18日)







 かういふのを正に「いい子ぶる」と言ふのだらう。ドライバーにノンアルコールビールも出さないチェーン店が現はれた。ノンアルコールでもわづかにアル コールが含まれてゐるといふのだ。

 しかし、飲酒運転の検挙で酒の提供者が幇助(ほうじよ)で問題視されるのは余程の酔つぱらい運転の時だけのはずだ。それなのにここ迄すると云ふことは、 店に車で来るなと言つてゐるに等しい。

 この全国チェーン店、スカイラーク系列はこんなことでも宣伝になると思つてゐるのだらう。確かに、そんなことをする店がテレビで紹介されてゐるのを見た ことがある。その店ではドライバーにはそれと分かる小さなプラカードを首に掛けさせてゐたのだ。

 その客がほかの客の酒を飲んでゐないかどうか店員に監視させでもするのだらうか。まつたく客を馬鹿にした話である。

 大資本の全国チェーン店だからこんな綺麗事を言つてゐられるのだらうが、得意客に頼つてゐる個人商店ではある程度のリスクを負はなければやつて行けない はずだ。これもまた強者の論理といふことなのだらう。いやな世の中である。(2006年12月17日)







 神戸で今年もまたルミナリエが始まつたが、行きたいと思つたことがない。鎮魂などと言つてゐるが、要は観光客集めの催しで、大勢でわいわい言ひながら行 くものだから、私には関係がないのである。

 あれを見に行くにはまづ人混みが嫌ひでないことが必要だ。しかも、ルミナリエの会場だけではなく途中の道筋も帰りの電車の中もずつと長時間の立ちん坊を 我慢しなければならない。

 そもそも阪神大震災の犠牲者に対する鎮魂が、なぜイスラム風アラベスクの電飾なのか意味不明である。犠牲者にはイスラム教徒もゐるだらうが、大半は仏教 徒の日本人のはずである。

 初めは東京でやる積りの物だつたと言ふから、あんな飾り物になつたのだらうか。著名な芸術家が作る物ださうだが、恒例ともなればさう大きく変へる訳にも 行かないので、詰らなからうと思ふ。

 ともあれ女子供のミーハー趣味にはぴつたりだから今年も盛況だ。それなのに開催費用に苦しんでゐると云ふのも不思議な話である。何百億円の経済効果があ ると言ふのだから、全部地元の企業が出せば良ささうなものだが、神戸の企業がケチなのか、それとも鎮魂といふ名前が邪魔してゐるのだらうか。(2006年 12月16日)







 歯磨き一回で歯の汚れの65パーセントしか取れないが、歯間ブラシを併用すると85パーセントまで取れるといふ広告を見た。どつちみち一回では完全には 取れないのである。

 かうなると回数を増やすしかないわけで、歯磨き+歯間ブラシを二回やると100パーセントに近づくのではないかと思つて、夕食後と寝る前に磨くことにし てゐる。

 昔は朝起きて朝食前に一度だけ磨いてゐたが、しよつちゆう歯医者のお世話になつてゐた。食後のしかも寝る前に磨かないと意味がないことを知らなかつたの だ。

 最近は良心的な歯医者の勧めで、私もブラウンの電動歯磨きを使つてゐるが、ブラシが高価なのに寿命の3か月持たずに毛先が開いてしまふのが何故か分から なかつた。

 ところが、歯磨き本体の説明書をよく読むと、ちやんとブラシの洗ひ方が書いてある。ブラシを本体から外さずにスイッチを入れたまま水道水の下に持つてい つてそそぎ、次ぎに本体から外してお尻から中に水をそそぎ込むのだ。

 つまり、親指でごしごし洗ふのではないのである。やはり説明書は読んでおくべきものらしい。(2006年12月15日)







 安倍内閣の支持率がまた下がつた。しかし、ここで確認しておかねばならないことは、安倍首相は前任者とは違ふ政治手法をとつてゐるといふ点で一貫してゐ ることである。

 安倍氏は外交で中韓に対して友好姿勢をとつたのと同じやうに、国内でも自民党に対して友好的な政治手法を採用してゐるからである。

 ところが、復党問題や道路問題で安倍氏が党と対立する手法をとらずに党の言ひ分を大幅に汲み入れたことに対して、一部のマスコミは安倍氏が小泉氏のやう な対決姿勢をとらないことに御不満のやうである。

 しかし、安倍氏は小泉氏とは違ふのである。それをもし小泉氏と同じやうにやるべきだと言ふなら、安倍氏に対して小泉氏と同じやうに己の信念に従つて靖国 神社に参拝すべきだと言ふべきだらう。ところが、彼らの言ひ分は、中韓とは仲良くしろ、だが自民党と仲良くするなといふものである。

 だが、そんなに何もかも彼らの都合良く行くものではない。小泉氏が一貫して内外で大喧嘩をしたやうに、安倍氏は一貫して仲良くしようとしてゐるのであ る。それはそれで評価すべき事ではないか。(2006年12月14日)







 道路特定財源の一般財源化について森元首相が「納税者も、税金が高いけど道路整備のためならと納得した。ほかのものに回すのはなかなか理解が得られな い」と言つたといふが、この考へ方は国民感覚とはかなり乖離したものだ。

 一体国民が納得して払つてゐる税金などあるだらうか。ガソリン税は道路を作るために使はれてゐるから納得して払つてゐたことなど更々ない。国民はそんな ことを書いた看板があつたなと思ふ程度である。

 国民の多くは、ガソリン税の税率が本来の倍以上になつてゐることすら知らないのだ。だから、一般財源化するなら税率を下げろといふ議論も反対するために 持ち出されたとしか聞こえない。

 そもそも地球温暖化の原因の多くが車の排気ガスだと言はれてゐる時代に、ガソリン税を半分以下にして、ガソリンをもつと安く使へるやうにするなど有り得 ない話だ。

 森氏は納税者に名を借りて業界や族議員の言ひ分を代弁してゐるに過ぎないのである。(2006年12月13日)







 ヨーグルトは体によいさうで、昔はなかつた白いどろどろのヨーグルトがスーパーに沢山並んでゐてよく売れてゐる。しかし、本当にあんなものが体によいの だらうか。

 といふのは、家族がよく買つて来るので、賞味期限を切らせないやうにせつせと食べてゐるうちに、太つて来たやうな気がしたのである。そこで、容器の橫に 書いてある成分表をよく見たら、脂肪や炭水化物が沢山含まれてゐることが分かつた。

 一番小さな容器でも、脂質や炭水化物の量が牛乳200cc一瓶に含まれる脂質より多いものもある。だから、それを二個も三個も食べると牛乳を何本も飲ん だのと同じ量を採つたことになるのだ。

 それは、わざわざ低脂肪乳を買つて来て飲んでゐても、小さな容器のヨーグルトを一つ食べれば、本も子もないことになるといふことである。

 炭水化物や脂肪が肥満の原因であることは誰もが知る通りだ。そもそも乳酸菌を採りたければヤクルトなどごく小さいものを一つ飲むだけで充分である。いく ら健康ブームでも、ヨーグルトなどぱくぱく沢山食べるものではないやうである。(2006年12月11日)







 求人広告で年齢制限があるのは日本では仕方がないかもしれない。日本は年上の人に敬語を使ふ国だから、年上の人間を雇ふと気楽に使へないからである。

 年上の人間は年下の人間から命令されるのが嫌ひである。「~さん、~して下さい」と丁寧に言はれても、年上はかちんと来る。

 最近は敬語を大切にしようといふ運動さへある。となると、年上の人に仕事を指図するには、「~さん、~して頂けませんか」「~して下さいませんか」と言 はなければならない。

 これではしち面倒臭くてやつていけない。能力の低い人間ならまだよいが、能力の高い人間は特に厄介だ。彼らはプライドも高いからである。

 米国では雇用条件の中に年齢制限を入れることを法律で禁じてゐるさうだが、それは例へばテレビのニュース番組で、キャスターと現場のアナウンサーが ファーストネームで呼び合ふ御国柄だから出来るのである。

 敬語を重んじる習慣が日本で無くならないかぎり、求人に年齢制限を禁止しても事実上は無くならないのではないか。(2006年12月11日)







 内閣府の調査によると、殆んどの人が飲酒運転の厳罰化を望んでゐるといふことだが、7日一晩だけで790人もの人が飲酒運転で検挙された。

 といふことは、多くの人が飲酒運転の厳罰化を望みながら、飲酒運転をしてゐることになる。この事実は、飲酒運転をやめることが如何に困難であるかをよく 示してゐる。

 そりやさうだ。誰もが移動手段に車を使ふ時代に、郊外の飲食店を利用するからには、誰もが飲酒運転せざるを得ない状況にあるからである。

 運転するからお前だけ飲むなと誰が言へるだらう。運転するからあんたには酒を出さないと言ふ店には、二度と行くものかと思ふのが当然だらう。

 この調子では、わざわざ飲食店に出向いたところで酒も飲めないやうなら家にゐようといふことになつて、外食産業が軒並み潰れるのは時間の問題だ。

 景気が回復しても個人消費やGDPは伸び悩んでゐると云ふが、飲酒運転に対する厳しい取り締まりがそれとは無関係だと言ひ切れるのだらうか。

 全員が反対するやうな議論は、全員が賛成する議論と同じで、結局うまく行かないのである。(2006年12月10日)







 最近知事の逮捕が相継いでゐるが、検察が知事を逮捕するのは、一つには逮捕しないと自白させられないからである。

 自白させるとはセールスマンに喩(たと)へれば、自白を押し売りすることである。何であれ物を押し売りするには、相手が独りぽつちでなければ難しい。相 手が誰かと同席してゐると、押し売りはまず無理である。

 相手が一人で押し売りする側が複数であることがより望ましい。逮捕は独りぽつちにさせるだけでなく監禁してしまふのだから、どこぞのキャッチセールスの やり方とそつくりである。

 家に帰して欲しかつたら「有罪」といふ名の商品を買へといふ分けである。さうやつて契約書にサインさせてしまつたら、もうこつちの勝ちだ。検察にはクー リングオフは無いからである。

 裁判になつてやつぱり断ると言ひ出す客もゐるが、裁判官はこつちの味方だからよほどの欠陥商品でない限り、「有罪」の返品は出来ない。

 検察や警察のしてゐることが、こんなに押し売り業者とそつくりではまずいとして、欧米では逮捕された被疑者の取り調べに弁護士の同席が認められてゐるの だ。(2006年12月9日)







 安倍首相が族議員や長老議員たちに押しまくられて支持率を下げてゐるのを見かねたのだらう。到頭小泉が動き出した。「安倍首相には一切干渉しない」と明 言した上で、北朝鮮への三度目の訪問に意欲を示したのである。

 これは謂はば搦め手からの安倍政権支援であらう。干渉を否定したことも、森前首相たちの干渉しまくり状態を牽制したものと言へる。

 そのために選んだ会談相手が、かつての盟友とされる山崎氏だ。彼は小泉政権誕生以前に加藤紘一氏と共に党改革を目指した同志だ。

 首相時代に山崎氏とは靖国問題などで疎遠になつてゐたが、首相でなくなつた今その障害もなくなつてゐる。また昔のやうに改革の同志の関係に戻れる可能性 はある。北朝鮮問題はそのきつかけ作りではないか。

 これまでの経緯から二人の盟友関係が復活するかどうかは未知数だが、青木や森などの言ひ分ばかりが大手を振つてゐる現状を何とかしなければといふ思ひ が、今回の会談に結びついたと考へたい。(2006年12月8日)







 日本の企業がイスラム教徒を雇ふことは非常に難しい。イスラム教徒は一日に五回も礼拝するし、十一月になると一月間断食をするからである。

 社員全員がイスラム教徒なら問題はないかもしれない。しかし、社長やほかの社員がさうでない場合、仕事中に何度もメッカに向かつてお祈りを始めたり、断 食をして元気がなくなる社員がゐれば困るだらう。

 日本のとある会社がイスラム教徒のインドネシア人を雇ふときに、条件として礼拝や断食を禁止したのもそんな理由からだらう。ところが、それが人権侵害だ と批判されてゐる。

 これは難しい問題だ。フランス政府がイスラム教徒の学生に学校でのスカーフ着用を禁止した例もある。「郷にいれば郷に従へ」とも言ふ。日本の会社も日本 に来た外国人に対して、日本のやり方に従つて欲しいと思ふのは当然のことである。

 企業は学校や役場などと違つて厳しい様々な決まりや慣行がある。企業とは、それがいやなら辞めてくれと言へる世界である。だから、日本のやり方でやつて くれと言ふのが人権侵害になるなら、日本の企業はイスラム教徒を雇ふことを諦めるしかないのではないか。(2006年12月7日)








 委員会の採決を欠席した片山さつき・佐藤ゆかり議員に対して、自民党が「重大な反党行為で許し難い」として、さまざまな罰を科したといふ。

 小泉首相時代に造反議員たちと対決するために国会議員になつた二人が厳しい処罰を受けるその一方で、当の造反議員たちが反党行為を許されてどんどん復党 してきてゐる。これほど今の自民党の中の動きを象徴する出来事はないだらう。

 これは自民党から小泉色が払拭されたことを意味してゐる。それは小泉が青木や森の意向に反して断行した郵政解散の否定であり、さうしたトップダウン式手 法の否定である。

 自民党の青木や森ら党の重鎮たちは、これからは党のトップに立つ総裁=首相の意向によつてではなく、自分たちの意向によつて党が動いて行くことを示した のである。かつて橋本や森が首相だつた時代の自民党がさうだつたやうに。

 小泉首相の出現によつて自民党に投票するやうになつた多くの国民は、この有り様を見て自分が森首相時代にどうしてゐたかを思ひ出してゐることだらう。 (2006年12月6日)







 自動車の排ガスによる大気汚染のせゐで喘息(ぜんそく)になつたといふ訴へに対して、東京都は裁判所の和解勧告に従つて助成金を出すことにしたが、国は 拒否した。患者側はそんな国を許し難いと怒つてゐる。

 ところで、日本は民主主義国だから、国民がゐてそれとは別に国があるのではない。国とは国民のことである。そしてここで問題になつてゐるのは、国民の税 金の使ひ道のことだから、国が大気汚染と喘息の因果関係は証明されてゐないと言つて、慎重な姿勢をとつたのは当然だらう。

 その因果関係にしても、例へば、自転車の排ガスのうちでも特にディーゼル車の排ガスが大気汚染の元凶としてやり玉に上げられ、日本ではディーゼル乗用車 が消えてしまつたが、欧米ではディーゼル車は環境に良いとされて益々普及してゐる。

 そもそも何が原因でどんな結果に至るかは単純ではない。いぢめ自殺の原因がいぢめだけとは特定できないやうに、ぜんそくの原因が大気汚染だけと特定でき るのだらうか。

 いや、そもそも自分に降りかかつた不幸の原因が自分以外だけにあるとどうして言ひ張れるのか。ましてそれを国の責任だと訴へることは正しい事なのだらう か。(2006年12月5日)







 地デジが全国の84パーセントの世帯で受信できるやうになつたといふが、地デジ対応テレビの普及は伸び悩んでゐると云ふ。日本にテレビは一億台あるさう だが、買ひ換へたのはわづかに千五百万台で、十五パーセントに過ぎない。

 日本より先に地デジを導入したアメリカでもデジタルテレビの普及は進んでゐない。そこで、アメリカではアナログ放送の終了時期を二年ほど延期したとい ふ。となると、五年後に終了する予定の日本でも、延期されるのではと考へたくなる。

 ただでさへ「社会格差」などだと騒がれてゐる今日、アナログ放送終了でデジタルテレビを見られない新たな「社会格差」が生まれるやうな事態は避けるべき だといふ話が必ず出てこよう。

 さらに、資源節約の声が大きい中、まだ使へるテレビやビデオがアナログ放送終了で使へなくなることを「もつたいない」とする意見も大きくなるはずだ。

 だから、各家庭のテレビが壊れて買ひ換へることで、デジタルテレビが徐々に広まつて行くのを待たざるを得ないのではないか。離党や遠隔地では採算が取れ ないから地デジの中継局が作れないといふ事情もある。

 テレビ局を傘下にもつ各新聞社は決してそんなことは言はないが、結局アナログ放送はデジタル放送と同時にずつと放送され続けるのではないかと思はれる。 (2006年12月4日)







 病気腎移植の万波医師に対するバッシングがやうやく治まつて来たやうだ。

 週三回四時間ずつ腕に針を刺す人工透析の苦しさが理解されてきたのか。万波医師を支援する人たちの輪の広がりの大きさに戸惑つたのか。万波医師にインタ ビューしてその人柄に感銘を受けたのか。おそらくその全てが重なつた結果だらう。

 人工透析患者たちにとつては腎移植は夢の夢である。大金があれば海外で移植を受けることも可能だらうが、普通の人たちにとつて、移植治療を受けることは 日本では事実上不可能だ。

 子供が海外で移植を受けると言へば、募金が集まるかもしれない。しかし、大人はさうは行かない。大人は誰も助けてくれないのである。ところが、助けてく れる人が現れたのだ。万波医師のことを神様、仏様と呼びたくなるのも理解できる。

 まさに捨てる神あれば拾ふ神ありである。捨てる腎臓があれば、それを拾つて人を救ふことのどこが悪いのか。困つてゐる人を見殺しにしても自分の名誉を守 るだけの医者なら五万とゐる。名誉よりも患者のために嫌な仕事でも引き受けるのが医者の使命のはずだ。

 万波医師を批判したかつたら、人工透析を受けながら仕事をしてゐる新聞記者を全国から一人でも探してくるべきだ。正しいか正しくないかだけで人を責める 新聞記者は要らないのである。(2006年12月3日)








 道路特定財源の一般財源化は安倍内閣の改革の目玉だが、その額がわづか千五百億円にとどまるらしいことを読売新聞がすっぱ抜いた。道路特定財源は三兆五 千億円余あるのだから、一般財源化されるのはそのうちの五%に過ぎないことになる。

 道路特定財源の大部分を占める揮発油税は税率が本来の倍以上になつてゐるが、それをそのまま一般財源化することには業界や族議員から異論噴出である。し かも、揮発油税の一般財源化には法律の改正が要る。そこで異論も少なく法改正も不要な自動車重量税の一部を一般財源化するのだといふ。

 自民党が改革政党であり古い自民党でないことの証明は、まさに業界や族議員の主張を押しのけることにあるはずだが、安倍内閣にはそんなことはとても出来 さうにない。

 つい最近も参議院と云ふ利益団体の族議員とも言へる青木氏による造反議員復党要求に屈したばかりだ。「やわらか戦車」ではないが、生き延びるための退却 ばかりが目立つ安倍内閣である。(2006年12月2日)







 『十八史略』を読んでゐると、法律を緩やかにして民を休ませることが大切だとか、外国に対して厳しく制裁しない方が良いといふ考へ方が頻りに出てくる。

 このやうな考へ方は、欧米系の国々や最近の日本の厳罰化の流れ、就中(なかんづく)北朝鮮に対する厳しい姿勢を歓迎する世論とは一線を画するものであ る。

 北朝鮮に対する制裁に中国と韓国が反対するのは、必ずしも北朝鮮を温存することのよつて自国の利益を追求するためばかりではなく、かういふ古代から綿々 と続いてゐる儒教の伝統と無関係ではないやうに思はれる。

 もちろん、古代中国は民主国家ではないから、国民を法律でがんじがらめに締め付けようとすれば容易に出来たから、その逆を尊ぶ考へ方が生まれたとも考へ られる。

 しかしながら、何でも厳しくすれば社会が良くなるといふ最近流行に考へ方には、もつと慎重になるべきではないかと、『十八史略』を読みながら思ふのであ る。(2006年12月1日)







 ドロップハンドルのスポーツ自転車を常用してゐる人の書いたものを読むと、大抵が落車で大けがをして交通事故に遭つた腰痛持ちである。

 『自転車で痩せた人』の著者も腰痛がかなり酷いらしい。自転車と健康がテーマの本であるから、自転車で腰痛が酷くなつたとは書いてゐない。しかし、自転 車に乗つてゐるときには痛まないが、自転車から降りて歩くと痛むのは典型的な自転車乗りの腰痛である。

 四つん這ひの姿勢で自転車にずつと乗つてゐると人間は歩けなくなつてしまふのだ。無重力状態で暮らしてゐた宇宙飛行士が地球に帰つて来たとき歩けなくな るが、それと似てゐる。歩くのに必要な筋肉が退化して、直立歩行のときに背骨にかかる重力に耐へられなくなるのだ。

 最近テレビに出たツールドフランスの日本人選手も歩くのが辛いと告白してゐる。腰痛は競輪選手の持病なのである。だから、『自転車で痩せた人』の著者 も、痩せたと言ふよりは競輪選手の身体になつただけなのである。

 健康ブームに乗つてこんな題の本になつたのだらうが、ツールドフランスに使はれる50万円もする自転車を買つてしまつた人の不幸を、ただ痩せたといふ面 から強がつてみせた本だと見るべきだらう (なほ、この人が短期間で痩せた主な原因はプロテイン摂取を中心とする食事療法であると見られる)。(2006年11月30日)







 自転車に関する本を読むと、やたらとママチャリの悪口が書いてある。車体が20キロもあつて重いとか、初めからスピードが出ないやうに作られてあると か、くそみそである。

 しかし、自転車の重さがそれほど重要だらうか。自転車の重量を軽くするのは少しでも余計にスピードが出るやうにするためであるが、それは一分一秒を争ふ 競技スポーツの世界の話で、個人が街中で乗ることに大した意味はない。

 そもそもスポーツ自転車が軽いと云つても10キロ前後はあるのであり、ママチャリの半分に過ぎない。しかし、それはスタンドも前カゴも荷台も電灯も泥よ けもなくての数字である。全部付けたらスポーツ自転車とてすぐに5キロぐらゐは増えてしまふのだ。

 さらにその自転車に50キロの人が乗れば総重量は65キロで、ママチャリの70キロと大差なくなつてしまふ。

 中には軽い自転車でスピードを出さなければダイエットにならないかのやうに書く本もあるが、ダイエットシューズと云つて、わざわざ一キロ以上も重くした 靴を履いて歩く人がゐると云ふのに、軽い方がエネルギー消費量が多くなるなどあり得ない話である。

 単に速足で歩くだけでも充分な有酸素運動になるのである。ママチャリでもちよつと速めに漕いでやれば、それと同じことが出来ないはずはないのである(た だし、有酸素運動は体質改善になつても体重が減ることはない)。(2006年11月29日)







 飲酒運転防止のキャンペーンをやつても飲酒運転は無くなりさうもないが、その原因の一つに「飲んだら乗るな」といふ標語があるのではないか。

 「飲んだら乗るな」と言つても、飲んだらいつまで乗るなと云ふことが明確ではない。飲んだら永遠に乗るなといふ意味では無いだらう。それなら「酔つたら 乗るな」であるべきだ。

 「飲んだら乗るな」といふと、飲んだらすぐには乗るなといふ意味だと普通は思ふ。だから、一晩明けたら良いだらうと思つて二日酔ひで乗るドライバーがゐ るのも理解できる。

 「酔つてゐるなら乗るな」と何故言はないのか。国民は自分では酔つてゐるかどうかを判断できないから「飲んだら乗るな」にしたのだらう。これでは国民を 子供扱ひしてゐると言はざるを得ない。

 そんな子供扱ひに反発して「てやんでえ馬鹿にするな」と、わざわざ酔つてゐるのに乗る人間も出てくる。しかも、腹立ち紛れだから余計に事故を起しやす い。酔つてゐるより怒つてゐる方が危険だからである。

 このやうに、この愚かな標語のせゐで飲酒運転は無くならないのである。(2006年11月28日)







 自転車の多段変速機といふのはスポーツ自転車を除いて、すつかり下火になつてしまつた。普通に日常自転車に乗る分には、変速機があつても無くても大して 変はりがないからである。

 変速機があると坂道を登るのが楽だと云ふが、そんなことはない。軽いギアに変へたら途端にペダルを漕ぐ回数が増えて疲れてしまふのである。変速機なしで えいこらえいこらとペダルに体重をかけて漕いでゐる方が、結局足には楽である。

 変速機が如何に役に立たないかは、昔の4段変速が今の27段変速にまで増えてゐることからも分かる。ギアを変へて極端に回転数が増えたり減つたりするの は疲れるといふので、ギアの刃の数を小刻みに設定した結果、後輪のギアを9枚、前輪のギアを3枚にまで増やしたのである。

 ところが、そんなにギアが沢山あると、今度はしよつちゆうギアを変へてゐなければならなくなる。しかも、ギアを変へてゐる間はペダルに力を加へるわけに はいかない。だから、競輪のトラック競技用自転車のギアは一番重いのが一つ有るきりである。

 漕ぎ始めは多少重くても漕いでゐるうちに段々軽くなつて行き、坂道に来たら登りは重く下りは軽くなる、さういふシングルギアの自然な流れが人間の体には 一番合つてゐるのかもしれない。(2006年11月27日)







 「交通事故も含めると、年間の事件、事故は300万件を超える。だれもが被害者になる可能性があるのだ」とある新聞は言ふ。ということは、誰でも加害者 になる可能性があるといふことでもある。

 といふことは、ある事件の被害者が別の事件では加害者であつたりするわけだ。つまり、加害者の分際でぬけぬけと私は被害者であると言つてゐる輩があちこ ちにゐないとも限らない。

 それでも、あつちの事件では被害者だといつて救済を求め、こつちの事件では加害者だからと謝まつてゐるならまだいい。吾は被害者なりと言ひ立てる人はゐ ても、加害者であることを声高に言ひ立てる人は中々ゐない。だから、自分が加害者であることを隠して被害者であることを主張する人ばかりになるかもしれな い。

 被害者とは何時まで被害者なのだらう。死ぬまで永遠に被害者なのだらうか。しかし、そんなに永ければ、何時か何かの事件で加害者にならないとも限らな い。もし道義的な罪を含めたら全員が何らかの加害者になる可能性は大きいが、それでもやはり被害者なのだらうか。(2006年11月26日)







 全員が賛成するやうな意見はどこかおかしいものだが、その典型が非核三原則である。これは個人的感情としては実に分かりやすい。核兵器のやうな恐ろしい ものが国内に存在しないと思ふことは一種の安堵感をもたらせてくれるからである。

 それは自分の家にピストルがあると思ふと嫌な気がするのと同じである。拳銃所持が許されてゐるアメリカでも自宅に拳銃を持ちたくない人は多いらしい。家 族が間違つた使ひ方をする可能性があるし、暴発して家族が死に至る可能性さへある。

 ところが、これが警察だとそんなことは言つてゐられない。警察署に拳銃があるからといつて、それを気味悪がつてゐては仕事にならないからである。

 核兵器も同じではないのか。住民を守るのが警察なら、国を守るのは軍事力である。個人的な感情としてそんな危ないものは要らないと思ふのとは、次元が違 ふのである。

 だから、非核三原則に賛成だと云つても、日本を守る上で核は必要がないといふことの理由とはならないのだ。特に日本は唯一の被爆国だからなどといふ感情 論で国は守れないのである。(2006年11月25日)







 自民党の復党問題で幹事長と平沼氏が会談したり、「土下座しろ」といふ話が出たりしてゐるが、これは復党に対する世論の反発をやわらげるための芝居だと 見た方がよい。自民党はさういふことをやる党なのだ。

 そもそも復党の条件などと言つたところで、どれもこれも口先のことばかりで、そんなことなら政治家には御安い御用である。例へば、復党したら政党交付金 を党に半分寄付するなどといふ処罰が突きつけられてゐる分けではないのだ。

 あの程度の条件を平沼氏がまるで如何にも高いハードルであるかのやうに言ふのは、それを飲んだ他の議員の復党を当たり前のものに見せようとしてゐるので ある。

 来夏の参議院選挙で民主党が勝つたら、参議院の民主党は法案の審議をせずに国会が止つてしまふと青木さんたちが言ふのも、実は自分たちが審議に消極的に なつて法案が成立しなくなるぞと脅してゐるのである。

 実際、去年の郵政法案を参議院で潰したのは他でもない参議院の自民党だつた。数が拮抗してゐる参議院であるから、青木さんたちが臍を曲げたら通る法案も 通らなくなつてしまふ。だからこそ、世論を欺してでも青木さんの言ふ通りに造反議員を復党させようと必死なのである。(2006年11月24日)







 日中友好を促進するために日本はもつと漢文教育に力を入れるべきと云ふ意見は正しいが、一方、いくら漢文を勉強しても中国語の勉強の助けにならないのも 事実である。

 日本人は漢文に出てくる漢字の使ひ方を利用して日本語を書き表すことを進めてきたが、中国人はさうはしてゐないので、漢字の用法が大幅に違つてゐるから である。

 例へば「搭乗」の「搭」の字を日本人は乗せると云ふ意味で使ふが、他には「搭載」程度にしか使はない。ところが、中国語ではこの漢字を使つて、「ナンパ する」といふ意味の熟語など三十以上の熟語がある。その多くは日本語の「乗る、乗せる」の意味からは全く推定できない意味である。

 おまけに、「搭」を日本語では「とう」と読むが、中国語では「た」と読む。文法も主語述語目的語の順番は漢文と同じだが、言葉のつなぎ方がかなり違つて ゐる。さらに、今の漢文は日本の新漢字が使はれてゐるため、中国語の漢字の勉強にすらならない。

 このやうに漢文の知識は中国語の学習には殆んど役に立たないのが現状である。中国語は漢字で書いた英語かドイツ語のやうなものと思つて学ぶ方が効率的で あると思ふ。(2006年11月23日)







 エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルの250cc500円程度の商品がスーパーなどでよく売られてゐる。あれがオリーブ油だと思つてゐる日本人が多 いかと思ふが、何の香りもない単なる植物油である。

 ところが、近くのスーパーで珍しく千円近くするオリーブ油が売られてゐて、買つてみると全く違ふ。トーストにマーガリン代はりに使つてもおいしいのであ る。

 それで愛用してゐたのだが、スーパーが閉店といふことで半額セールになつてゐて、今日行つたら売り切れてゐた。本当の味を知つてゐる人間に買占められて しまつたのだらう。

 このスーパー、カルフールは変な店で、一個売りの商品を二つ買ふ方が二個パックの商品を一つ買ふより安いことがよくある。こんな商品管理のいい加減さも 閉店になつた原因の一つなのだらう。

 私の買つてゐたオリーブ油もそれと同じで、500cc入りの大瓶の方が250cc入りの小瓶二本の値段より高いのだ。半額処分でも同じなので、小瓶ばか りが一斉に買はれてしまつたといふわけである。お陰で前の高い値段でも買つてゐた人間は大迷惑である。(2006年11月22日)







 昔は電気製品を買ふと付いてきた修理センターの一覧表に各地方の修理センターの電話番号がずらりと並んでゐたものだが、今では一つか二つになつてしまつ てゐる。そこから委託業者を手配するやうになつたのである。

 ところが、その委託業者と云ふのは元修理センターにゐた人たちがリストラで無理矢理に委託業者にさせられた人たちで、しかも同じ会社に勤めてゐるのに委 託業者なのだと云ふ。

 そんな馬鹿なことがあるかと委託業者たちが集つて各地で企業に団体交渉を要求し始めたが、これに応じたら委託にした意味が無くなるので企業は当然拒否し てゐる。

 ところが、労働委員会から「これは労働組合法違反である、企業は団体交渉に応じなさい」と命令されてしまつた。それに対して当該企業のビクターは「労組 との団交に応じる考えはない」とコメントを出したと云ふ。

 これでは悪事を働いておきながら反省もしない酷い会社だと見られても仕方がない。人事担当者はうまいカラクリを見つけた積りだつたらうが、おかげで企業 イメージはがた落ちで、広告に大金を費やした意味がなくなつてしまつた。(2006年11月21日)







 強行採決が悪いことのやうに言はれてゐるが、日本の戦後の重要法案の多くは強行採決で成立してきた。
 
 与野党が対決する法案であるからこそ強行採決になる。強く反対する人たちがゐるから強行採決が成り立つのである。

 そして、強く反対する人が居ると云ふことは、それが良い面を持つて居ると云ふことの証明でもある。何かが良いと云ふことは、それでは都合の悪い人がゐる からこそ良いのである。全員にとつて良いことなど、実はないのである。

 逆に満場一致などと云ふものほど胡散臭いものはない。全員が賛成すると云ふことは、全員が反対するのと似てゐる。全員が賛成すると云ふことは、誰も反対 できないことか、反対する値打ちもないことかのいづれかである。

 また、強行採決ではない多数決は馴れ合ひの色彩が濃い。野党も本心から反対ではなかつたことを意味してゐるからである。

 与野党の馴れ合ひの合意で成立した法案などろくなものがない。何かが良いかどうかは決して合意によつて保証されることはないのである。(2006年11 月20日)







 朝日新聞は言葉の力を信じるさうだが、その新聞が応援する野党各党は言葉の力を信じてはゐないやうだ。どうせ話しても分からないと、国会でまた審議拒否 をしてゐるからである。

 中でも民主党は、教育基本法案で対案を国会に提出してゐるにもかかはらず、自分たちの法案の素晴らしさを言葉によつて国民に説明しようとはしないのであ る。

 民主党は言葉の力ではなく、何によつてこの国を動かさうとしてゐるのだらうか。沖縄知事選挙で他の野党と共闘する姿勢を見せるためだと云ふが、そんなこ とで選挙が有利になるのだらうか。

 ここはたとへ相手の方が数の力で優つてゐても、それに言葉の力で対抗して自分たちの党の持つ力を国民に見せるのが議員たちの仕事だらう。そして、言葉で 世論を味方に付ければ、与党の多数など物の数ではないはずだ。
 
 ところが、如何せん、言葉の力が信じられない彼らは、ストライキといふ実力行使に打つて出るしかないのである。そして言葉の力を信じると称する朝日も、 野党の欠席戦術を批判するつもりはないらしい。(2006年11月19日)







 子供の自殺を防ぐ方法はある。マスコミが自殺した子供を批判すればよいのである。

 ところが、マスコミは自殺した子供をまるで被害者扱ひして、いぢめた子供が悪い、いぢめを放置した学校が悪い、いや文部省が悪いと、自殺した子供が正し いかのやうに報道する。これでは、自殺をすれば仕返しが出来ると、いぢめられつ子に教へてゐるやうなものである。

 自殺をさせないために、学校で命の大切さを教へようとするのも間違ひだ。そんなに大切なものなら、是非ともお前たちで我々の命を守つてくれと、子供たち から自殺予告の手紙が文部省に来るやうになつたのは当然である。

 いま我々が子供たちに教へるべきことは命の大切さではなく、命を自分で絶つことの罪深さである。人間には自殺する権利はない、動物は自殺をしない、自殺 する人間は動物以下だ、と子供たちに教へるべきである。

 人間は神の牧場で飼はれてゐる羊に過ぎない。その羊が自分勝手に死んでしまふことは許されないのだ。命は自分のものではない。自分のものではない命を勝 手に処分することは、神の領分を侵す大罪であると。(2006年11月18日)







 核廃絶の議論はそれ自体美しいものだが、この議論の決定的な欠陥は、平和は武力による支配権の確立によつて達成されるといふ事実を見落としてゐることで ある。

 それは日本史を振り返つて見ても明らかである。信長がなぜ天下を統一できたのか。それは話合ひによつて達成されたものではない。鉄砲と云ふ新兵器をいち 早く採用した信長の強大な武力によつてである。

 その後、家康が関ヶ原の戦ひを経て、反対勢力を一掃し屈服させてしまつたからこそ、徳川三百年の平和が訪れたのである。太平洋戦争を終はらせて、極東地 域に平和をもたらしたのも、アメリカの強大な武力であり、核兵器だつた。

 確かに、核兵器は万能ではない。イスラエルは核兵器を持つてゐても、パレスチナの紛争を終はらせることが出来ない。しかし、核兵器の抑止力のお陰で、大 国間の戦争がなくなつたのは事実だらう。

 いまアメリカに対して核廃絶を主導せよと言ふ人たちがゐる。しかし、それはアメリカに世界に対する支配権を放棄しろと言つてゐるに等しく、それは同時に 今ある世界の平和秩序を覆さうとするものであり、到底受け入れられるものでない。(2006年11月17日)







 タウンミーティングでやらせが問題になつてゐる。内閣府が出席者に事前に質問を依頼して謝礼を払つてゐたといふものだ。

 しかし、そもそもタウンミーティングには誰が出席してゐるのか。タウンミーティングを開くに当つては、誰かが出席者を募集して出てもらつてゐるはずだ。 わざわざ時間を割いて出席してもらふ以上は、何らかの謝礼が出るのは当然だらう。

 また、政府側が出席者と質問内容の打合せをしたとしても、政府の方針に反対する市民団体や労働組合の人たちも、あらかじめ質問内容について申し合せをし た上で出席してゐるはずで、五十歩百歩と言へる。

 もしタウンミーティングが市民団体や組合の活動家たちによる反政府運動の場になつてしまつてゐるとしたら、それに対抗するために政府側の人間が何らかの 対策を講じたとしても何の不思議もない。

 政府側の質問者に質問内容の依頼があつたかどうか、謝礼金の支払ひがあつたかどうか調べるなら、反対意見を出した人たちにも、発言内容の申し合はせがな かつたかどうか、所属する団体から何の手当の支給もなかつたかどうか調査すべきではないか。(2006年11月16日)







 ブラウンの電動歯ブラシを電気屋で買つて暫くするとスイッチが切れなくなるといふトラブルがあつた。保証期間内だつたので買つた電気屋に持つて行つたら すぐに新品と取り替へてくれた。

 ところが、その取り替へた製品も暫くするとスイッチが切れなくなつてしまつた。これは同じ原因による故障であることは明らかだ。しかも、同じ店で買つた 商品であるから、同時期に作られた製品に共通してみられる故障、つまり欠陥であると思はれた。

 そこで、ブラウンのお客様相談室に電話すると、答は素つ気ないものだ。また買つた電気屋に持つて行けと言ふのだ。そんなことをしてもまた同じ故障をする 可能性が高いことは誰にも分かりさうなものだ。

 そこで、故障したものをそちらに送るから、その原因を調べてくれと言つてやつたら、やつと代はりの製品を本社から送つてくれることになつた。

 暫くしてブラウンから故障の原因を知らせる手紙が送られてきた。機械の中に水が入つて漏電したためにスイッチが切れなくなつたのだといふ。そして、これ はお客様が歯ブラシを強く歯に押しつけた使ひ方をしたためだと言ふのだ。

 ところで、ブラウンから代はりに送られてきた製品を、私はその後一年以上故障なく使ひ続けてゐる。もちろん、私の使ひ方が以前と同じであるのは言ふまで もない。(2006年11月15日)







 ツーキニストといつて自転車で通勤する人たちがゐるが、その提唱者の本を読むと彼らは歩道ではなくあくまで車道を通るのださうだ。一体そんなことが出来 るものかと車道を自転車で走つてみたが、車道は今や自動車専用道路と化してゐるのが実態のやうである。

 おそらく警察(兵庫県警)は自転車に車道を通つて欲しくないのだ。車道の左側に路側帯があることを示してゐた白線が鋪装のやり直しで消されてゐる所があ ちこちにあるからである。

 今も白線が引いてあるところは確かにあつて、それは路側帯のやうに見えはするが、実は自動車の車線の幅を示すためのものでしかない。その証拠に、交差点 が近づいてきて右折用の車線が設けられたりすると、路側帯であるはずのスペースは完全に無くなつてしまふからである。

 それでも無理をして車道を通らうとすると、交差点の近くでは自転車は側溝のコンクリートの上を走るしかなくなるのだ。これではとても快適なサイクリング は楽しめない。

 と云ふわけで、誰はばかることなくサイクリングを楽むには、マイカーに自転車を積んで、車の交通量が少くて広い道路か、河川敷のサイクリング専用道路ま で行つて、車から自転車を降ろして乗るしかなく、それが一番安全かつ穏当な方法だといふことになる。(2006年11月14日)







 運動会のかけつこで、手をつないでゴールインする小学校が盛に批判されたことがある。学芸会で大勢の生徒を平等に主役にして舞台に立たせる学校も批判さ れてゐる。

 しかし、学校でかうしたことが行はれるのは、個々の能力や努力によつて生徒に差を付けるべきではなく、「結果の平等」を尊ぶべきだとする考へ方の表れで あらう。この考へ方は、いま「格差問題」と名前を変へて復活してきてゐる。

 どんな調査をしたかは知らないが、それが今や企業の中で同じ時間同じ労働をしながら給料が半分しかもらへない人たちがゐると言はれるやうにまでなつてゐ る。

 確かにフルタイムパートや派遣社員と云つて、時間だけなら正社員と変はらない人たちがゐるのは確かだ。しかし、パートにはパートの役割があるのである。

 それは格差、格差と騒いでゐる新聞社や放送局が毎年開催してゐる高校野球を見れば明らかであらう。同じ時間だけ練習しても予選で負けてしまふ高校がある から、甲子園も値打ちがあるのだ。

 それをもし「結果の平等」を尊重すべきだといふなら、甲子園はいくつあつても足りなくなる。学力も仕事も同じことであり、敗ける人がゐるから勝つ人も生 まれるのであり、全員が勝者になれる社会など無いのである。(2006年11月13日)







 日本の核武装に反対する考へ方にはどんなものがあるかを知りたければ、11日付の朝日新聞の社説を読めばよい。ここに全部要約されてゐるからである。

 そして、これを読めば、北朝鮮の核武装に対抗するために日本は核武装すべきではない、といふ主張の根拠がいかに脆弱であるかがよく分かる。

曰く「NPT体制を破壊することになり、日本は世界から批判され、経済制裁を受ける」
曰く「米国に日米安保条約への不信の表明と受け止められる」
曰く「日本の狭い国土では核で核を抑止するには限界がある」
曰く「ウランが輸入できなくなり、電力の多くを原子力に頼っている日本はエネルギー危機に直面する」
曰く「6者協議を生かして、できるだけ早く北朝鮮に核を放棄させるべきだ」
曰く「中国や韓国から疑いの目を向けられ、北朝鮮を取り巻く国々の結束が揺らぐ」
曰く「日本が核武装すればNPT体制が崩壊し、他の国々も核を持とうとする」
曰く「日本は被爆体験を持つから核武装すべきではない」

 どれ一つをとつても現実的なものでないことは、誰でも分かるはずだ。例へば、日本に対して経済制裁すれば世界の経済が麻痺してしまふし、そもそも北朝鮮 の国土は日本より狭いのである。(2006年11月12日)







 電子投票にすればこれまでよりも正確になつてさぞ良からうと導入してみたら、投票結果を集計するコンピュータに侵入されてデータが改竄(かいざん)され てしまつたと云ふ話がある。

 インターネットバンキングにしたらさぞ便利だらうと利用したら、これもまたコンピュータに侵入されて、パスワードを盜まれて貯金を降ろされてしまつたと 云ふ話もある。

 良いこと便利なことをしようとすると、必ずそれを悪用する悪い人が出てくるのだ。

 とは云へ、国も同じことで、せつかく便利だとして作られつたダイナマイトを戦争に使ひ、核エネルギーを原子爆弾に流用したのは、法を執行する役割を担つ た人たちなのだ。

 となると、何か新しいものを作つてしかも悪用されないようにするのは不可能だといふことになる。悪い人を法律で、悪い国を条約で処罰しても悪用する人も 国もなくならないからである。

 だから、結局、何かが便利になつた分だけ不都合なことも増えてゐて、差し引きしたらゼロなのだらう。それでも何か良いもの便利なものを作り出さうとする のをやめないのが人間なのだらう。(2006年11月11日)







 昔エイトマンといふマンガがあつたが、ロボットであるエイトマンはいいところになるといつもエネルギーが切れさうになつてはらはらさせられたものだ。ア ンパンマンも似たやうなところがある。

 しかし、考へてみると人間だつてすぐにエネルギーが切れる。アニメのロボットなら日に一度ぐらゐだが、人間は一日中、しよつちゆうエネルギーが切れる。 人間は日に三度も食べるのだから、これがロボットだつたら日に三度もエネルギーの供給が必要なロボットだといふことになる。

 しかも、人間は食事をして3時間もすれば腹がへつてきて、何か口に入れないと頭が回らないやうな気がしてくるのだ。だから、しよつちゆう何か口に入れて むしやむしやとしてゐなければいけない。

 おまけに、煙草を吸ふ人なら、車に乗つても自転車に乗つても煙草を吸ふ。歩いてゐても煙草を吸ふ。

 もしこんなロボットが売られてゐても、これほど何度もエネルギーの供給が必要で、いつも何かを口に入れたがるロボットを買ふ人はゐないのではないか。こ れだけを見ても、人間が如何に不完全な存在であるかが分かるのではないか。(2006年11月10日)







 「手を挙げて横断歩道を渡りませう」といふ交通標語は何も子供だけのものではない。子供が手を挙げるのは、背が低い自分たちの存在をドライバーに教へる ためのものだが、大人もまた自分の存在を教へる方法として手で合図をすることが役に立つ。

 実はドライバーは手で合図をされると譲る習性を持つてゐる。車を運転してゐて車線変更をしたい時に、単にウインカーを点滅させるだけではなかなか譲つて くれないが、手で合図をすれば大抵は譲つてもらへる。不思議なことだが、これは事実である。

 渋滞してゐる二車線の道路で、どこかのお店に入らうとして左の車線に移らうとしても中々出来ないものだ。そんな時、もし助手席に人が乗つてゐるなら、窓 を開けて手のひらを出して合図してもらふとよい。必ず空けてくれるものだ。

 それほど、ドライバーは手のひらによる合図を重視してゐる。だから、横断歩道を渡る時には、歩行者も自転車もドライバーの顔を見ながら積極的に手で合図 をするとよい。必ず待つてくれるはずである。(2006年11月9日)







 いぢめる側にはいぢめる理由があつて、少しは可哀想だと思つても、いぢめることを間違つた事だと思つてはゐない。いや、むしろそこには正義感さへ存在す る。

 それは私的は制裁であつて、法の執行なのである。自分たちの掟に反する行動を許すわけにはいかないのだ。不法行為を批判するのは当然のことだからであ る。だから、いぢめが無くなることはないのである。

 もし、子供たちのいぢめが減ることがあるとすれば、それは大人がその手本を示すしかない。人が法律を破り、人が非常識な行動をしたとしても、寛容な姿勢 を取ることである。それしかない。

 誰もが善いことだけをして生きてゐるわけではないのだ。善いことをしようとして不正を犯すことは誰にもあることなのだ。しかも、その不正が表に現はれな い限り、誰もが知らん顔をしてゐるのだ。

 受験戦争に苦む生徒を救ふことも、人工透析に苦む患者を救ふことも、善いことなのである。何故そんな人たちのあらをほじくつて非常識だと責めたてるの か。大人がこんなことに血道を上げてゐる限り、子供は子供で自分たちの常識に従つて、別の子供のあらをほじくつて責め続けることだらう。(2006年11 月8日)







 関東の武田軍は信長の種子島といふ新兵器によつて敗れた。いまその新兵器を手に入れた秀吉軍が関東の北条を攻めんと間近に迫つたとき、北条は戦ふかいな かで延々と議論を続けた。

 関東はかつてこの新兵器によつ壊滅的な打撃を受けた悲惨な体験を持つ被害国である。だから、我々は種子島を「持たず作らず持ち込ませず」と決めたのだ。 今でもこの新兵器によつて負傷した兵士たちの傷は癒えてゐない。彼らの感情を考へれば、とてもこの原則を変へることは出来ない。

 それに対して、一人の重臣が、いやここは敵の新兵器に対抗して我軍もこの新兵器を持つかどうか議論すべきではないか、と言ひ出した。ところが、そんな 議論をすれば却つて秀吉からあらぬ疑念を招くだけである、今は議論することも禁止すべきだ、と言ふ多くの重臣たちの声によつて、この意見はかき消されてし まつたの だつた。

 秀吉軍の攻撃が今にも始まらうとしてゐるのに、北条軍は新兵器をめぐつて延々とこんな空論を戦はせてゐた。これを世に小田原評定と謂ふ、といふのは嘘で ある。しかし、敵に対抗できる兵力を持たなかつた北条氏が秀吉の軍に敗れて関東を失つたのは歴史上の事実である。(2006年11月7日)







 変速機付きでスポーツタイプの自転車を買はうとして自転車屋に行くと、むかし買つたやうな4段や5段変速の自転車はもうなくて、前輪3段後輪7段変速な どといふ高級品ばかりになつてしまつてゐる。

 後輪だけの変速でも6、7段が当たり前で、それもママチャリか通学用の自転車ばかりである。たまに後輪だけが変速のスポーツ車があつたりすると、数年前 の売れ残り品だつたりする。

 もつとも、スポーツタイプの橫棒タイプのハンドルは、ママチャリのハンドルのやうに曲がつてゐないために、ハンドルの色んな所を持ち替へて運転姿勢を変 へることが出来ないので、背中を痛めることがあつて、私は敬遠してゐる。

 また、最近のスポーツ車はタイヤが細くてスピードが出るらしいが、道路の溝の金の格子(3×8cm)の幅より細かつたりするから、溝が横切つてゐる裏道 などは通れないし、タイヤに泥よけが附いてないので好い天気でも水たまりは通れないのだ。

 しかも、タイヤの空気バルブが違つてゐて普通の空気入れが使へなかつたりする、等々。最近のスポーツ車に乗るには数多くの難関をクリアしなければならな いやうだ。やはり私は当分変速なしのママチャリで行くしかないやうである。(2006年11月6日)







 近頃は27インチや28インチの自転車が出回つてゐて、背の高い人がよく乗つてゐるが、ペダルを漕いでゐるときに足がほとんど伸びきるやうにサドルを高 くする正しい乗り方をしたら、座つた状態で足が地面に殆ど着かなくなるはずだ。

 自転車に乗つてゐて座つたまま足が地面に付くかどうかは、実は背の高さや足の長さとは関係がない。それは、乗り手の足のサイズを別にするなら、その自転 車の前後の車輪の中心線から、ペダルのクランク棒の回転軸(B.B)がどれほど下に設定されてゐるか次第となる。

 これはハンガー下がりとかBBdropと呼ぶさうだが、この値が一般の自転車ではかなり小さい。といふことは、ペダルの最下点が高くなるので、サドルを 上げた正規の姿勢では地面に足が届きにくゝなるのである。

 ところが、スポーツ自転車にはこの値がかなり大きくとつてあつて、中には7センチ以上も下に設定されてゐるものがある(だからチェーンがかなり前下がり になつてゐる)。これなら正規の乗車姿勢をとつても、誰でも足先を確実に地面に着けることが出来るのであり、万一の場合に安全なのである。

 逆に言へば、27インチ以上の一般の自転車はママチヤリをただ大きくしただけのもので、正しい乗り方をすることを想定して作られたものではないといふこ とになる。ただし、足のサイズが28センチ以上もあれば、また話は別であるが。(2006年11月5日)







 痩せる目的で運動をする人がゐるが、それは受験目的に勉強をするのと同じで、邪道である。運動によつて痩せることはない。消費したエネルギーより少いエ ネルギーを補給するしかないのだ。

 いくら運動をしても食べたいだけ食べれば、体重が減ることはない。いや、それどころか、運動によつて食欲が増えれば太ることもある。運動とダイエットが 無関係なのは、お相撲さんを見れば一目瞭然ではないか。

 それなのに、何かをして痩せたといふ類の本が次から次へと出る。自転車も同じで、本の著者の真似をして高価なスポーツ用の自転車を買つて毎日乗つてゐて も、それだけで痩せたりはしないのだ。

 そもそも、スポーツサイクルはママチャリよりも少ない力で速く走れる自転車である。だから、同じ時間或ひは同じ距離を走るなら、スポーツサイクルの方が 楽なのである。楽なのに痩せるなどといふ話は、益々嘘である。

 ジョギングやウォーキングや水泳も同じで、運動はそれ自体を楽しむべきものである。自転車に乗るなら、どこかへ行くためか、自転車を楽むために乗るべき で、余計な目的を付けると怪我をするだけである。(2006年11月4日)







 来年の参議院選挙は天下分け目の決戦などと言はれてゐるが、自民党はこの戦ひに勝つには、組織票を固めるだけで充分であり、浮動層の支持を勝ち取る必要 はないと見てゐるやうだ。それは郵政民営化に反対した造反議員の復党運動に現はれてゐる。

 民主党はそれだけ見くびられてゐるのであるが、それも仕方がない。今や民主党の支持率は下がる一方であり、党首の小沢氏をはじめとして菅直人・鳩山由起 夫といつた現在の民主党の先頭に立つてゐる人たちの発言には全く精彩がない。

 彼らは安倍首相の「美しい国」をただ批判するばかりで、それに対抗する明確な国家像を国民に提示することが出来ないでゐるのだ。「美しい国」に対する批 判も「格差問題」などさんざん小泉時代に使はれて手垢にまみれたものばかりで、新鮮味を欠いてゐる。

 自民党の造反議員の復党は、小泉氏がぶつこわした古い自民党を復活させる試みに他ならないとも言へるのだが、このまま民主党の体たらくが続くやうならな ら、来年の夏に安倍首相が大義名分のない衆参同日選挙に打つて出る必要は無さゝうである。(2006年11月3日)







 何事にも本来の目的と云ふものがあつて、それを外すのは間違ひだし、うまく行かないものだ。学校の勉強も同じである。受験目的のためだけにする勉強は身 に付かないし、それでは成績も上がらない。

 受験科目だけを勉強すれば、受験勉強がはかどると勘違ひした高校の先生が沢山ゐるやうだが、さうは問屋が卸さないのである。全体としての教養のレベルを 上げずに、少い科目の知識だけを詰め込んでも身に付かないからである。

 これはスポーツでも囲碁・将棋でも芸術でも同じことで、狭い範囲の知識しかない者は、何々馬鹿になつてしまふだけである。受験科目しか勉強しない生徒た ちは、受験馬鹿になつてしまふのだらう。

 しかし、出来る奴はみんなその受験馬鹿にならないやうに注意してゐる。彼らは学校が決めた履修科目の範囲とは関係なく、自分で広い範囲の読書をしてゐる ものだ。だから仮に履修漏れのための補習があるとしても、これで読書の復習になる程度に考へてゐるはずである。(2006年11月2日)







 煙草は身体に悪くて運動は身体によいと言はれてゐるが、それは一つの流行ではないか。有名人の寿命を見たら分かるが、ヘビースモーカーの多くは長生きな のに、プロスポーツ選手の多くは短命なのだ。

 20年前には煙草が肺炎などの原因になることの証拠はないと言はれてゐた。それがいつの間にか煙草は無条件で身体に悪いものだと言はれるやうになつてゐ る。それに対して、運動は無条件で体によいかのやうに言はれてゐる。

 しかしながら、例へば一日中休まず激しい運動をやり続けたら人間は死んでしまふ。一方、煙草は、チェーンスモーカーと云つて休まず吸い続ける人がゐる が、それで死んだ人はゐない。運動の危険性は煙草の比ではないのだ。

 最近、街中を散歩してゐる人がやたらと増えた。健康のためになると思つてゐるのである。しかし、運動と健康とは直接関係はないのだ。運動は直接的には身 体に害を与へることであり、煙草と同じなのだ。

 しかし、身体には回復力がある。そして、受けた害に対抗する力を身に付けることができる。それでもスポーツ選手は早死にするのだ。運動は体に悪いのであ る。(2006年11月1日)







 江戸時代に生きた郷土の偉人の墓を見つけようとして、あちこちの墓場を捜し歩いたことがあるが、これが中々見つからない。庄屋の墓だからさど立派な墓だ らうと思つて捜してもだめなやうである。

 墓石といふものは江戸時代には小さいものだつたのだ。現代どこの墓場にも見られるやうな、橫幅が30センチほどで高さが2メーター近くあるやうな立派な 墓は、江戸時代にはお殿様の墓ぐらゐしかなかつた。

 東京には赤穂浪士の墓があるが、写真を見ると現代の墓のやうな大きな物ではない。それも正四角柱ではなく、平べつたい形をしてゐる。

 偉人の墓だから苔むしてとても古くて大きな墓だらうと思つて、これかあれかと後ろに回つて、そこに彫られた年号の文字をよく読むと、必ず明治か大正と書 いてある。

 どうやら、明治時代に四民平等になつてから、百姓の中の金持ちたちが昔は殿様が建てたやうな正四角柱の立派な墓を建てるやうになつたらしいのだ。そし て、今ではそんな立派な墓をどこの家もが建てるやうになり、どこの墓地もそんな墓で満員なのである。(2006年10月31日)







 自動車の使ふのに、目的地まで早く行けることを主眼とするか、座つて楽に行けることを主眼とするかの二つあると思ふが、私は後者の方である。

 渋滞を嫌ふ人がゐるが、渋滞では車は止つてゐるのだから、事故を起す心配がない。だから、渋滞の間は周りの安全を気にせずに、車の中で好きなことができ る。

 例へば、語学のCDを聞きながら走つてゐるときは、渋滞や信号待ちは耳から聞いた音をテキストで確認する時間である。そして、早く次の赤信号にかからな いかと思ひながら、また走るのである。

 車は何と言つても座つたまま移動できるのだから、これほど楽なことはない。そこで、私は目的地に着いたら駐車場ではできるだけ入口から遠くの場所にとめ ることにしてゐる。そして、入口までの距離をてくてくと歩いて、運転でなまつた足を動かすのである。

 世間の人は私とは反対に、駐車場の入口のすぐ近くに車を止めようとする。おかげで入口から離れてゐる場所は、よく空いてゐてとても駐車しやすいのであ る。(2006年10月30日)







 NHKの「スポーツ大陸」で扱つてゐた1978(昭和53)年のパリーグのプレーオフは今だに語りぐさになつてゐる。

 当時は前期・後期制で、前期優勝した南海と後期優勝した阪急による優勝決定戦が行なはれたのだが、後期には阪急に一度も勝てなかつた南海が、プレーオフ では阪急に勝つてしまつたのだから、大きな驚きだつた。

 番組では、その勝因として、この年に野村監督が始めた投手のクイックモーションによつて阪急福本の盗塁を阻止できたことが大きくクローズアップされてゐ た。

 しかし、1970年以前に私が中学で野球をしてゐたとき、下手投げの投手だつた私はすでにクイックモーションを監督から教へられてゐる。左足を上げず に、すり足でホーム方向に足を踏み出す投球フォームの練習を当時したことを、私は今でもよく覚えてゐる。

 下手投げの投手は投球フォームが大きくて盗塁されやすいといふことで、クイックモーションを教はつたのだつた。恐らくこの投げ方は、1970年に追放に なった中日の小川健太郎投手あたりが始めたのではないか。

 だから、野村監督の功績は、それを上手投げの投手にもやらせたところにあるのだと思ふ。(2006年10月29日)







 私は学校の教師から嫌がらせをされたことはあるが、いぢめられたことはないと思つてゐる。クラブを辞めたら、クラブの担当教師がやたら嫌がらせをしてき たことはあるが、そんなものかと思つただけである。

 担任の教師が出欠確認の時に、特定の生徒の名前を呼ばなくても、それはいぢめではなく嫌がらせである。馬鹿な教師がゐるものだと思へばいいのである。

 嫌がらせは無視するに限る。嫌がらせをする人は、こちらがどう働きかけても解決できないから、止むのを待つしかない。学校ならたつた3年間のことだ。ど うしても止めて欲しければ、然るべき筋に話をするだけである。

 それに対して、自分をいぢめる人がゐたら、その人は自分をひいきにする人に変はる可能性があると思ふとよい。いぢめは好き嫌ひが原因だから逆転すること が結構ある。だから、自分をいぢめる人は、自分のことをよく知らないのだと考へるればよいのである。

 実際、自分を嫌つてゐた人間が、ある事をきつかけに、向かうから仲良くしてきたことはよくある。もちろん、やられたらやり返すことも大切だ。それで自分 に対して一目置いて来ることもあるからである。(2006年10月28日)







 流行とは自分でどうしたらいいか分らない人間が従ふ規律である。人間は何がよいかを知つて行動するのではなく、何がよいと言はれてゐるかに従つてしばし ば行動するものだからである。

 例へば囲碁やうな知的なゲームでも流行があつて、「最近はこの打ち方がはやつてますね」と解説者が言つたりする。

 プロ棋士なら自分の論理と判断に従つて打ち進むものと思はれるが、必ずしもさうではなく、布石の段階などは特に流行に支配されるらしいのである。

 裁判の判決について、流れにそつた判決だとか、流れに反する判決だとか言ふ評論家がゐるのも同じことで、法律の世界でも、何がよくて何が悪いかを判断す る規準はしばしば流行である。

 日本人ほどこの流行や流れを重視する国民はないらしい。それは、日本人がどこかの外国に住むと、この国には流行と云ふものがないのかと思へてしまふほど である。

 例へば、欧米では現役で走つてゐるディーゼルの乗用車が環境破壊の元凶とされて日本で廃止されてしまつたのはその典型であらう。(2006年10月27 日)







 サイクリングロードと名の付いた道が近所にもあるが、海沿ひの堤防の道に名前を付けただけに近いものだ。

 大抵はコンクリート打ちの堤防そのままである。アスファルトに舗装してある所があつても、ほぼ5メートルごとに亀裂が走つてゐて、とても走りにくい。

 そこをママチャリで走ると、亀裂を越えるたびに、自転車のチェーンがチェーンカバーに当つて、がちやがちやと賑やかな事この上ない。

 こんな道より、国道沿ひの歩道の方がよほど整備が行き届いてゐる。もちろん、歩道の切れ目に来るたびに、こちらもがちやがちやと五月蠅いのは同じだが、 その数を合計するなら、歩道の方が少いくらゐだ。

 それでもサイクリングロードはここしかないので、サイクリング車にヘルメットを被つて、懸命にペダルを漕いでゐる人に出合ふ。さすがにサイクリング車だ とがちやがちやと言ふことはないないのだらう。

 しかし、サイクリングを運動にするには、よほどクッションの良い自転車を購入する必要がある。安物の自転車では、段差に来るたびに腰を浮かし、ハンドル の手の握りをゆるめて衝撃をやわらげる必要があるからである。(2006年10月26日)







 『十八史略』を読んでから、那珂通世の『支那通史』を読むと、この本には十八史略と同じ文章がたくさん含まれてゐることに気がつく。

 曾先之が『十八史略』を司馬光の『資治通鑑』を見ながら作つたとすれば、那珂博士の『支那通史』は『十八史略』を見ながら作つたと言へるのではないか。 文字を変へてある個所もあるが、省略による十八史略の文章の分り難さは、そのまま受け継がれてゐるからである。

 『支那通史』は名著として名高いが、いざ手に入れて読んでみると、難しい漢字ばかりですぐ投げ出してしまふのが普通だらう。しかし、この本の中に『十八 史略』と同じ文章が大量に含まれてゐることを知つたなら、誰もがもう一度手に取る気になるのではないか。『十八史略』なら注釈も現代語訳も沢山あるから だ。
 
 『十八史略』の丸写しは上巻37頁「舜は」に始まる。さすがに韓信の股潜りは省かれてゐるが、鹿を示して馬と言ひくるめた趙高の逸話も含まれてゐる。

 もちろん全部が丸写しと云ふのではなく、『支那通史』は『十八史略』を発展させたものと云ふべきだらう。しかしながら、『支那通史』が「宋」で終つてゐ るのは『十八史略』と同じであり、必ずしも序文の謂ふ「元史」の杜撰さのせゐだけで無さゝうである。(2006年10月25日)







 日本の道路は強い者勝ちで作られてゐる。一番強いのは電車だ。さすがの自動車も線路に電車が走つて来たら有無を言はせず止まらされてしまふ。電車は自動 車のために止つてくれないのだ。
 
 次に強いのは自動車で、一番弱いのが歩行者や自転車である。それは道路沿ひの歩道が車道に出会ふたびに途切れてゐることからも分かる。

 そのため、歩道は自転車にとつては段差ばかりで走りにくい道になつてゐる。もし歩行者優先なら、歩道はずつと同じ高さで続いてゐるはずなのである。

 そして、もしさうなつてゐたなら、段差を越えなければならないのは自動車の方になり、自動車は歩道の手前で確実に徐行せざるを得なくなり、一時停止も形 だけではなくなり、出会ひ頭の事故も減るはずだ。

 自動車のドライバーは車の中で座つて楽をしてゐる。現状はその楽をしてゐるドライバーから少しでも苦情が出ないやうにしてあるのだ。

 だから、車道はすぐにぴかぴかのまつさらに舗装し直されるのに、その脇を走る歩道のアスファルトは凸凹でくすんだままなのである。歩行者優先とは正に名 ばかりなのである。(2006年10月24日)







 ドナルド・キーンが読売新聞に毎週土曜日に連載してゐる『私と20世紀のクロニクル』は、自分の事を書いてあるところはつまらないが、日本の一流作家と の交遊を書いたところは断然面白い。

 石川淳がドナルド・キーンの書いたものを本人を前にして、次から次へと間違ひを指摘したといふ話は、学生時代に「週刊朝日」のキーンの連載を感心して立 ち読みした私には驚きだつた。上には上がゐるものである。

 三島由起夫は、常に礼儀正しく約束の時間に遅れることは決してなく、自分の家族を大切にする男だつた。

 川端康成は三島とは正反対の性格で、ホステスが川端に宛てた手紙を直接渡してくれとキーンに頼んだといふのだから、川端が女性関係にルーズだつたことが 推測される。川端は時間にもルーズで平気で人を待たせた。

 その川端が1968年にノーベル文学賞をもらつたのは、三島の当て馬としてだつたことが暴露してあるのにも驚いた。三島を左翼の過激派だと勘違ひした選 考委員が代はりに川端に賞を贈つたといふのだ。

 しかもそれをキーンは三島に話してしまつた。その瞬間、賞とは無縁の自分の運命を悟つた三島は、1970年11月25日の自決に対する決意を固めたに違 ひない。その年の夏を伊豆下田で三島と過ごしたキーンは、当時を回想して「三島は、三か月後に自分が死ぬことを知っていたのだ」と書いてゐるのである。 (2006年10月23日)







 日本のテレビドラマはあまり見ないが、深夜にやつてゐる海外ドラマはよく見る。古くは『キャグニー&レイシー』や『LAロー』などを欠かさず見たが、最 近では『セックス&シティー』が面白かつた。

 ただ、このドラマは明らかに「どたばた喜劇」に近いコメディーなのだが、日本の吹替へ版はどうも恋愛ドラマのやうに作られてゐた。例へば、最終回の原題 は「パリのアメリカンガール」で題名からしてふざけてゐるのだが、日本版では「しあわせ探しの末に」である。

 また第5節の第5話では、子持ちのミランダがやつと見つけたボーイフレンドとセックスを楽んでゐる最中に、隣の部屋で赤ん坊が泣き出したシーンで、ミラ ンダが「かあさん、いま行くからね。かあさん、いま行くからね」と叫ぶのだが、この訳ではコメディーにならない。

 久し振りの絶頂に達しようしてゐるミランダが、英語では Mammy's coming, Mammy's coming.と叫んでゐるのだ。単に赤ん坊をあやす言葉ではないのである。だから「ママ、いま行くところよ。ママ、いま行くところよ」とでも訳 してくれたら笑へたのではないか。

 このドラマは、題名通りにセックスシーン満載でペニスやヴァギナやフェラチオなどの言葉が普通に使はれてゐるのが面白いのだが、それは古代ギリシアのア リストファネスが作り出したコメディーの伝統があればこそである。日本版の制作者はそれを無視したのか、ニューヨーク女の自由奔放な日常を描いたドラマに してしまつたのだ。(2006年10月22日)







 『十八史略』をテキスト化してゐるうちに、この編者である曾先之は十八の歴史書ではなく『資治通鑑』を種本にしてこの本を作つたことが分つてきた。

 といふのは、『十八史略』をテキストをネットで捜すために、この本のそれぞれの話の中の固有名詞を二三まとめて検索にかけると、そつくりそのままの文字 が並んでゐる文章が『資治通鑑』の中に見つかることがよくあるからである。

 それと同時に、曾先之の巧みな編纂の仕方も分つてきた。彼は『資治通鑑』の本文を省略して写しながら『十八史略』を作つて行つたのだが、それは生半可の 省略ではなく、気持ちよいほど大きくばつさりと省いて行くのだ。

 登場人物は主な人だけを残し、人名も下の一字だけにしていく、「漢王」とあれば「王」だけにする等々、文脈から分るものは全部省略していく。さらに細々 した内容は自分で要約してしまふ。かうして、話の大筋が分る漢字だけを見事に残していくのである。

 しかも、それだけではなく、例へば、項羽の最期のくだりには虞美人を歌ふ詩を他から持つてきて飾りとしてゐる。蓋し曾先之は梗概作りの名手に違ひない。 (2006年10月21日)







 北朝鮮の核実験で、憲法九条の信者たちが一番心配してゐるのは、日本の国の安全ではなく、憲法九条がなし崩しにされて日本が「平和国家」でなくなつてし まふことである。

 国の安全よりも憲法の方が大事といふのだから、まさに九条信者の面目躍如である。国破れて山河ありどころか、国破れて憲法残るが彼らの願ひだと考へるし かない。

 憲法九条を世界遺産にしようと言ふ人たちがゐる。将来どこかよその国の支配下になつた日本列島へ観光旅行に来た人たちに、憲法九条を見物してもらはうと 云ふのだらうか。

 しかし考へてみれば、日本に憲法九条があるといふことは、日本がまだこの憲法を作つたよその国の支配下にあることを証明してゐるやうなものだ。

 その九条を世界に誇つたところで、それを見て有難がる人がゐるとすれば、それは他国の支配下にあることを有難がる人たちに違ひない。(2006年10月 20日)







 最近の翻訳家は自分の力に余程自信があるのか、自分の感性に従つてやることに意味があると考へてゐるのか、過去に出てゐる同じ物の翻訳を参考にせずに好 き勝手に訳してゐるものが多い。

 『星の王子さま』の数多く出た新訳も、既に存在する内藤濯(あろう)の苦心の翻訳を顧みることなく自由に訳されたものが多いやうだ。それは最初の方を見 るだけで分る。なぜ、内藤は aventures を「冒険」と訳さずに「どんなことがおこるのだろう」と疑問文にしたのか。「冒険」では文脈に適合しないからではないのか。

 ところが、それを単に「冒険」と訳してゐるものが如何に多いことか。その中には内藤の東大仏文の後輩である野崎歓までが含まれてゐるのだ。

 原作が一見やさしいからかう云ふ事もあるのかと云ふと、さうでもない。古代ギリシア語の翻訳でも、昔の翻訳書の名前は挙げるが読んでゐないと平気で書く ものがある。

 昔のやうに過去の学者の間違ひまで懇切丁寧に受け継ぐのも問題だが、過去の伝統をまつたく顧みずに、自分だけで勝手にやつたもののレベルが低いのは当然 のことである。(2006年10月19日)







 昔は家の前にワゴン車が止つてゐたら、どこかの営業マンが来たのかと思ひ、バンが止つてゐたら水道屋が来たのかと思つたものだ。私の場合は今でもカロー ラフィルダーは営業車にしか見えない。

 最近ではワゴンもバンも銀飾を付けたり流線型にしたり厚化粧をされて、さも高級車のやうに偽装されてゐるが、いくらコマーシャルで美しさを強調されて も、勤め人が外回りで乗る車にしか見えないのだ。

 車の美しい形はスポーツカーであり、荷物を積むためのトランクを上にふくらませた図体のでかいまがいものの車ではない。

 ところが、日本ではバンもワゴンもふくらみ続けて、最新のオデッセイやアルファードのやうに丸々と太つた車を乗り回すのが、かつこよいことだと思はれる に到つた。

 タイのカレン族の女たちの間では身に着ける首輪の数が多いほど美しいと思はれている。そして他人よりも一本でも多くの首輪を着けることがかつこよい事と なつた。その結果が、今の首長族だらう。

 昔は日本でも、ちよんまげやお歯黒がかつこいいと思はれてゐた。いつの時代でもどこの国でも、美的感覚は特異な方向へ偏つて行くものであるやうだ。 (2006年10月18日)







 自転車に乗る時、一段高い歩道がある道では必ず歩道を走るやうにしてゐる。車道を通ると云ふことは、後ろから来る自動車のドライバーに自分の安全を委ね てしまふことになるからである。

 自動車の運転手が何かの拍子に脇見運転になることは、自分が自動車を運転してゐるのでよく知つてゐる。もし後ろから来るドライバーに見落とされて追突さ れたら一発でアウトなのだ。

 しかし、歩道があるのに車道を走る勇敢な自転車乗りがたくさん見受けられる。歩道は狭いし、小さな交差点があるたびに段差があつて鬱陶しいからだらう。

 また、サイクリング車で歩道をちまちま走つてゐては、サイクリング車に乗る意味がないのは確かである。

 自転車専用道路があれば安全にサイクリング車の能力を味はふことが出来るのだが、そんな道はその辺にはどこにもない。それに似たやうな道はあるが、犬の 散歩のおばさんが通せんぼしてゐて、とてもスピードを出すどころではない。

 だから、サイクリング車のライダーは自分の命を後続のドライバーに委ねて、車道を走るしかないのだ。そして、歩道ばかりを走る私にはサイクリング車は猫 に小判といふわけである。(2006年10月17日)







 NHKのサイクリングの番組で、自転車の止まり方を教へてゐた。それはサドルに腰を着けたままで左足を地面について止まるので はなく、サドルの前に腰をずらしてはづし、自転車を両足に挟んだ格好で、右足をペダルに置いたまま左足で地面につくやり方である。乗るときも、この状態か ら右足で ペダルを踏み込んで走り始めて、立ち漕ぎで腰を上げてからサドルに乗る。

 また、自転車のサドルの高さは自転車をこいでゐる時に足が殆ど伸びきるやうにするとよい事は知つてゐたが、サドルは高さだけではなく前後も調節するとよ いことも知つた。私の場合、サドルを後ろの方にした方が漕ぎよいやうである。

 しかし、番組で使はれてゐるサイクリング用の自転車でサドルを高くすると、さぞ乗り降りが大変だらうと思ふ。何せママチャリと違つて、自転車の前後をつ な ぐポール(トップチューブといふ)が地面と平行についてゐるので、これに乗るためにはまづ足を大きく上げてサドルの上を通過させてトップチューブを跨がな ければいけない。

 昔は普通の自転車でもこのトップチューブがまつすぐな自転車がたくさんあつたが、今ではサイクリング用の高価な自転車以外は皆無だ。自動車が女性向きに AT車ばかりになつたのと同じで、自転車も全部女性仕様となつたのである。特にママチャリは日本独特の物らしい。

 私の場合はサイクリング車を買ふほどのこともないから、ママチャリのサドルをサイクリング車並の位置にして、サイクリング車のやうに乗り下りして勝手に 楽しんでゐる。(2006年10月16日)







 『十八史略』といふ中国の歴史書を読んでみたが、中身があまりにも簡素である。これを読むには内容を詳しく解説できる先生が必要で、自分一人で読んでも 中々理解できない、これは一種の教科書であるらしい。

 それで陣舜臣の『小説十八史略』を読んでみた。ところが、これが『十八史略』の記述とは全然違ふのだ。例へば、原典では秦の孝文王は三日で死に、荘襄王 は四年で死んでゐるが(巻二冒頭)、小説では孝文王は一年、荘襄王は三年で死んでゐる。

 つまり、『小説十八史略』は原典を下敷きにしてゐないのである。これでは先生代りに使へない。

 それではと、最近明治書院から出た新書版を見ると「昭襄王のとき、孝文王柱が太子となった。その昭襄王に妾腹の子で楚という者があった」(巻二冒頭「解 釈」。『十八史略國字解』と同)とある。ところが、その後ろの「背景」には「楚は太子の弟(!)安国君の子であり」と書いてある。

 楚はいつたい誰の子なのかまるで分らない。『十八史略』を読むのはなかなか難しいやうである。(2006年10月15日)







 日銀の福井総裁が国会の答弁の中で、商品に値段があるやうにお金にも値段がある、それが金利だと言つてゐた。その意味を私なりに解釈すると次の様になる だらうか。

 品物は物々交換してゐるかぎり、等価交換であるから、その品物に値段はない。商売として稼ぎを得るためには品物の原価よりも高い価値で交換する必要があ る。そのとき初めて品物が商品となつて値段が発生するのである。

 それと同じ様に、お金も等価交換してゐては、つまり貸した金と同じ額だけ返してもらつてゐては、稼ぎは生まれず商売は成り立たない。お金の交換で商売す るには、利息つまり金利をつける必要がある。だから、お金にとつての金利とは、商品にとつての値段と同じ意味を持つのである。

 このやうに交換のみによつて利益を生み出さうとするのが商業であるから、昔からヨーロッパでも中国でも農業が尊ばれ、商業は強い批判の対象になり、商人 はさげすまれてきた。

 農業などの産業は物を生み出すのに対して、商業は具体的な物を何も生み出さないで利益を得ようとするからである。江戸時代の身分は士農工商に分けられ、 商人が最後に置かれたことには意味があつたのである。(2006年10月14日)







 世の中には二種類の人間がゐる。悪口を言ふ人間と、言はない人間である。これほど明確な区別はない。悪口を言ふ人は誰かに会ふたびにその場にゐない人の 悪口を言ふ。言はない人は絶対に言はないものだ。

 都留重人といふ人は悪口を言ふ人だつたらしい。大戦後、ハーバード・ノーマンと一緒になつて、アメリカ軍に近衛文麿の悪口を言つた。その後、今度は赤狩 りの嵐吹きすさぶアメリカでハーバード・ノーマンの悪口を言つた。近衛もノーマンもその後自殺してゐるのは人も知る通りだ。

 ところが、人の悪口を言ふ人の方がどういふわけか世渡り上手で友達が多い。都留重人もさうだつたのか、彼は日本では大学者と見なされてゐて、私などは都 留文科大学は都留重人の大学だと思つてゐたほどだ。

 ところがその後、彼が友人を売るやうなことをした人だと知つた時には、暗然たる思ひに捕らはれた。東京裁判で都留の義兄である木戸幸一の命を救ふために 嘘まで書いたノーマンは、都留が自分を救つてくれるどころか、共産党員である事を示唆する証言をしたことを知つてショックを受け、その一週間後に自殺した のである。

 その都留重人が今年の二月に93才で亡くなつた。それは日本で共産主義者が大物でゐられた戦後といふ特殊な時代の終りを告げてゐるのかもしれない。 (2006年10月13日)







 最近また煙草を吸つてやらうと思つて自動販売機の前に行くと、いや実に多種多様な煙草が販売されてゐる。マイルドセブンもセブ ンスターもピースもハイライトもそれぞれに何種類も売られてゐて驚いた。さらに驚いたのは、外国煙草より値段の高い日本の煙草が沢山あることだ。今やマイ ルドセブンは高級品なのである。

 最近は軽いものが流行だが、やはり煙草の王様はピースである。フィルター付でもニコチン1.9mg、普通の煙草の倍である。私などはこれを吸ふとすぐに 頭がくらくらしてくるから、一本吸ひ切ることができない。

 もともとはニコチンでふわっとしたいから煙草を吸ふのであるから、ピースが一番安上がりのはずだが、ニコチンの少ない煙草がよく売れるらしく、色んな香 り付きのおしやれな軽い煙草がたくさん出てゐる。メンソールだけでなく、ヴァニラやシトラス、さらにアップルやココナッツの香りのものまである。

 また、昔懐かしいエコーやしんせい、そして飯島秘書官が御愛飲といふ伝説のゴールデンバットが100円台でまだ売つてゐる。煙草飲みは、実によりどりみ どりで楽しめるのだ。

 しかし、日本ではむかし男の三道楽と謂はれた飲む打つ買ふはおろか煙草もおいそれと自由に吸へない不寛容な社会に成つてしまつた。だから、私が煙草を吸 ふの自分の部屋の中だけである。(2006年10月12日)







 大阪市交通局が乗務前の市バスの運転手の飲酒検査をしたら、一年足らずの間に乗務員の一割の約100人から規準以上のアルコール値が検出されたといふ。 今度は二日酔ひを咎めようと云ふのである。

 もはやプライベートも何もないのだ。昨日の夜の酒の飲み方が悪いと言つて人を罰する時代は、すぐそこである。二日酔ひなら仕事はするな、二日酔ひなら車 で通勤するなといふのである。

 それなら早朝に飲酒検問をすればいいのだ。二日酔ひのドライバーがわんさと捕まつて大量の前科者が生まれることは間違ひない。ところが、午前中に飲酒運 転で死亡事故が起きたなどと云ふ話はあまり聞かない。

 飲酒運転のからむ交通事故は主に見通しの悪い夜に起きる。昼間はアルコールが入つてゐてもよく見えるのだ。ましては二日酔いなどは頭が痛いだけではない か。

 飲酒運転は事故を起しやすいから問題のはずなのだが、起した事故の方ではなく安全な飲酒運転までも責めるのは正に本末転倒である。

 最近は自転車の飲酒運転まで捕まるやうになつて来た。いつたいこの飲酒運転バッシングは何時まで続くことやら。(2006年10月11日)







 昔々に買つた松下のカセットテープレコーダの再生ボタンが押した状態で止まらなくなつてしまつたので、修理に出す金を惜しんで裏蓋を開けて、戻し用の強 力なバネを一本外して使へるやうにしたが、一つ一つの部品の作りがしつかりしてゐるのに驚いた。

 携帯用のCDプレーヤを最初に出したのは確かソニーだつた。真似したデンキの松下が早々に似たやうなCDプレーヤを出したが、ソニーの製品と比べて、何 と頑丈な作りのものにしてきたかと感心したことをよく覚えてゐる。

 ウオークマンについても同じで、カセットを入れるところを見ると、仕組みはまつたく同じなのに、ソニーの部品がちゃちでやわなのに比べて、松下のそれは 一つ一つが堅牢なのだ。

 ソニーの充電池が火を吹いたといふニュースが世界を駆け巡つてゐるが、ソニーの製品は元々やわなものが多くてよく故障する。それも保証期間が終はるの待 つてゐたかのやうに故障するので、ソニースイッチと謂はれるほどだ。

 ソニーは新しいものを安く出すので、ついつい買つてしまふが、充電池の世界的なリコールを機に、もつと製品の頑丈さ壊れにくさにも力を入れて欲しいと思 ふ。(2006年10月10日)







 『十八史略』は中国の何千巻もある歴史書の中身を取つて来て纏めただけの本である。こんな独創性の無い本は中国で尊ばれることはない。中国はオリジナリ ティーを尊ぶ国なのである。

 中国で日本製品のコピーがよく出回るが、それはオリジナリティーに対する尊敬の表れである。こんな凄いものは自分では作れないから、それをそつくりコ ピーするのである。そしてそれを自分で作つたと偽りさへもするのだ。

 日本人はさうはしない。オリジナリティーの有るものを見つけたら、単にコピーしたりせずに、それをよく研究してもつとよいものに改善しようとする。そこ から独創性を発揮したりもする。

 だから『十八史略』は中国のオリジナリティー溢れる厖大な歴史書を研究する格好のとつかかりになるとして、日本人は『十八史略』を珍重した。

 独創性を愛する中国もかつては沢山の独創物をもたらした。この国はまだ再び独創性を発揮することができずにゐる。独裁国家は昔もずつとさうだつたから、 政治体制のせゐとも言へない。

 日本は科学の分野の独創によつて複数のノーベル賞受賞者を出したが、それらは欧米の学者の創始した学問の延長線上に乗つかつたものである。中国人は自ら それをすることが許せないのかもしれない。(2006年10月9日)







 国会での安倍首相に対する野党の質問は、安倍氏の書いた『美しい国へ』といふ本の題名をネタにするなど、首相をいぢめるやうなものばかりで、選挙を前に した野党の愚かさには驚くほかない。

 なぜこの時期にそんなことをするのか。小学生がいぢめで自殺した最近の事件では、市長と教育長が並んで両親に手をついて謝る事態になつてゐる。いぢめは してはならない事だといふ認識が国民の間に広まつてゐるのである。

 さらに言へば、どんなドラマでもいぢめ役は脇役なのだと云ふことを野党は忘れてゐる。ところが、選挙で勝つのは常に主役の座を勝ち取つた方なのである。

 それなのに、わざわざ自分から脇役を買つて出て、それを一生懸命演じてゐるのが野党なのだ。かうなればドラマの観客の同情と共感は、主役である安倍総理 の方に集まりばかりである。

 特に野党の民主党は選挙の結果次第では政権を担はうといふ立場にある。その民主党が首相いぢめに狂奔してゐる。自ら墓穴を掘るとは正にこのことを言ふの ではないだらうか。(2006年10月8日)







 安倍首相の歴史に対する姿勢は、当時の人々の視点に立つて過去を考えると言うことであるが、朝日新聞はそれを批判して、現代の視点から過去を考えること も大切だと昨日の社説に書いてゐる。

 ところが、その論拠として出してきた第二次大戦時のチャーチルの演説は、将来の人たちから見ても誇れるやうな行動をとらうと、英国国民に対して呼びかけ るものである。

 このチャーチルの言葉を教訓として、政治家は現代の自分の行動を後世が評価することに対して緊張感をもつべきだといふのはよい。しかし、だから現代の人 間は過去の政治家の行動を自分たちの視点から評価してもよいとはならないはずだ。

 そもそも、このチャーチルの言葉は、敗勢濃厚な英国国民を励ますために言つたものであつて、歴史的事実に対する認識の仕方を述べたものではない。

 むしろ、この言葉から導かれる本来の教訓は、政治家は現在とるべき行動に対しても過去に取られた行動に対しても、今だけだけに囚はれることなく、広い視 点をもつて、常に謙虚で居なければならないと云ふことではないか。(2006年10月7日)







 首脳会談、首脳会談とうるさいことだが、首脳会談がどれだけの効果をもたらすと云ふのだらう。会談が効果があるのは、話して理解し合へる相手の場合だけ だからである。

 何を話しても、自分の言ひ分だけを言つてこちらの言ひ分を認める気のない相手と話合つたところで、何かが解決されるはずもない。

 まして、中国のやうな独裁国家で、誰も彼もが同じことを言ひ続ける国の人間と会談したところで、下つ端の言ふことと同じことを聞かされるだけである。

 むかしは中国にも周恩来のやうな物わかりの良さを見せようとする政治家がゐたが、今の中国にそんな人物は見あたらない。国民のことを本当に考へる政治家 はみんな失脚してしまつてゐるのである。

 そんな国との首脳会談がしばらく途絶えてゐることをもつて大問題であるかのやうに言ひ立てるのは、相手の国の言ふとほりにしろと云つてゐるの同じで、国 益を無視して、政府の足を引つ張つる行為でしかないのである。(2006年10月6日)







 靖国神社に参拝することは、国のために命を捧げた兵士の霊に敬意を表することであるから、公的も私的もない。ところが、公的な参拝だと憲法違反になると 騒ぐ人たちが現れたので、私的な参拝だと言ふことにした。

 それでもなにやかやと外国がいちやもんを附けてくる。そのいちやもんに多くのマスコミが賛同する。そりやさうだ。いくら私的参拝だと云つても、参拝する ことをマスコミに発表して、テレビに映されながら参拝したら、私的参拝であつても、公的なものになつてしまふ。

 考へてみれば自分の親の墓参りに行くのに、マスコミに発表してから行く人はゐないだらう。どこにも公表しないでやつてこそ私的なのである。

 だから、安倍さんが誰にも言はずにこの四月に靖国参拝をしたのは、まさに私的参拝を実行したのである。それについて後からも言及しないからこそ、私的で あることを維持できるのである。

 それを今度は「秘密にして、こそこそと参拝した」と批判する人たちがゐる。しかし、私的なことは秘密にしておくからこそ私的なのである。

 しかしながら、今後もこの方式をとることで遺族会に「総理に参拝して頂けた」と言つてもらへるか否かは未知数だ。それは安倍氏の人徳と信頼感の如何にか かつてくるのではないか。(2006年10月5日)







 今マスコミをにぎわせてゐる「歴史認識」の中身は日本による朝鮮半島の支配と支那事変を侵略と認めて謝罪すると云ふことであつて、本来の意味での歴史に 対する認識ではない。

 そもそもここで使はれてゐる「歴史」といふ用語は、時代の限られた日本の特定の行為をさしてゐるのであり、中国の江沢民政権が考へ出したものだ。

 だから、「歴史」といふ言葉をその意味で使ふこと自体、特定の政治的な見方・政治的な主張に肩入れすることであり、客観的な論議を不可能にしてしまつて ゐる。

 そして、この用語に従つて「歴史認識をはつきりしろ」といふことは、中国と韓国の言ふ通りにしろといふ事でしか無いのである。だから、日本の首相がそん なことは出来ないし、すべきでもないのは当然のことだと言へる。

 安倍首相の本来の意味での歴史に対する姿勢は明確である。それは当時の人々の視点に立つて過去を考へると言ふことだ。これを批判するとしても、それは現 代の視点から過去を考へるべきだと云ふものであつても、他所の国の視点から過去を見るべきだとはならないはずである。(2006年10月4日)







 飲酒運転をしたといふだけで人を逮捕するのは人権侵害ではないかと思ふ。事故を起したと謂ふならともかく誰にも迷惑をかけてゐないからだ。

 これは共産主義にかぶれてゐるといふだけで人を逮捕した昔に似てゐる。共産党に入つたり共産主義運動をして革命を起さうとしてゐるのならともかく、共産 主義にかぶれても誰にも迷惑にならないはずなのにである。

 道路交通法の違反は点数制を取つてゐる。ところが、飲酒運転になると赤キップで莫大な罰金を払はされるだけでなく、犯罪歴が附いてしまふ。つまり前科者 になるのである。最近の飲酒運転の検挙はすさまじいが、それは同時に膨大な数の前科者を製造してしまつたことになる。

 誰もがやつてゐる飲酒と、誰もがやつてゐる車の運転の間隔が少しみじかかつたといふだけなのにである。この調子で行くと、国民全員が前科者になつてしま ふ日が来るのではないかと言ひたくなる。

 そもそも飲酒が人に与へる影響は個人差が非常に大きい。だから、飲酒運転で事故を起した場合だけを厳罰にすればよいのである。個人差を無視して飲酒運転 を等し並に罰する社会は、自己責任社会とは程遠いものである。(2006年10月3日)







 マスコミは小泉政権で日本社会には「格差」が出来たなどと言ふが、総裁選が安倍・福田の対決になると延々と言ひ続けたマスコミの言ふことであるから信じ るに足りない。

 小泉政権による景気回復を言はずに、勝ち組負け組ができたなどといふのは言ひがかりであらう。もちろん、景気回復以前の誰もが不況で苦しんでゐた昔に戻 れば、「格差」の無い社会に戻れるのは確かである。

 地方都市の商店街はシャッター通りと呼ばれ、今や閉店した店の数珠繋ぎだが、それは小泉首相が就任する以前からのことである。そして小泉政権の間に商店 街の降りたシャッターが再び開くことは殆んどなかつた。景気の回復は別のところから始まつたからだ。

 むかし商店街をぞろぞろと歩いてゐた大勢の人波は、いま郊外で乱立するスーパーを中心とする複合商業施設に移つてしまつた。この人混みの理由は大型店舗 の魅力のせゐだ。

 そこで、小さな個人商店は大型店舗の中に入つて小判鮫として生きようとした。しかし、現実に人が入つてゐる店は小さくてもどこかのチェーン店ばかりであ る。個人商店は大型店舗にない魅力を自ら開発して行くしかないといふことだらう。(2006年10月2日)







 このまえ100円ショップのダイソーに行つたところ、大きなスコップが売つてゐた。これも100円かと思つて値札をよく見ると税別800円となつてゐ る。他にも見ていくと200円以上の商品が沢山並んでゐることに気がついた。

 元々100円ショップは100円では買へないやうな商品が100円で買へるので客が集まつた。客寄せのためにスーパーマーケットのなかに100円コー ナーが出来たりするほどである。

 ところが、その本家のダイソーが100円ショップでなくなつてしまつたのだ。しかし、単なる雑貨屋になつてしまつたのかと云ふと、さうでもない。200 円以上の商品でもかなりの割安感が保たれてゐるからである。

 私は最近近所の100円ショップで12ミリのラチェットスパナが売られてゐるのを見つけた。ところが、その上の13ミリがない。そこで、ダイソーに行つ てみたら13ミリのが315円で売られたゐた。

 スパナとはメガネ形のねじ回しであるが、ラチェット式になると、回すたびにボルトから外してまたはめ直して回すといふ手間が省ける。カチカチ言はせなが ら左を戻してはまた右へボルトを締めることが出来るすぐれものである。

 それが普通の工具屋だと700円ほどするのだから、やはりダイソーは安い。お蔭でその日も満員であつた。(2006年10月1日)


私見・偏見(2006年_3)





 工藤美代子による『われ巣鴨に出頭せずー近衛文麿と天皇』ではじめて近衛文麿の伝記を読んだが、近衛がまるで小説かドラマのやうな人生を送つてゐたことがわかる。

 近衛は藤原鎌足の血を引く名家の跡継ぎとして生まれる。しかし、母親は直後に死んでしまひ、後添へに来た母の妹を実母と信じて成長する。ところが、何時の頃か、母親は生みの母ではないといふ噂を耳にする。

 十三歳で父を失ひ早くも一家の当主となるが、その父の墓参に行つたとき、伯母の墓だと思つてゐた墓が実は生母の墓であることを知る。裏側に彫つてある命日が自分の誕生日の七日後であることを知つて愕然とするのだ。それまで明るかつた少年は、物思ひにふけるやうになる。

 成績優秀な近衛は一高に進むが、藤村の『破戒』やトルストイの『復活』を読んで、自分が特権階級にゐることに疑問を抱くやうになり、二十歳になつて天皇から従五位の杯を受けるために宮中に参内するのを拒否したりしてゐる。

 京都帝大に在学中に結婚した女性は、一高時代の通学途中に電車の中で見初めた学習院の女学生で、悩んだあげくに同じ学習院に通ふ妹に調べさせて、家族の 反対を押し切つて結婚にこぎ着けてゐる。この子爵家の十七歳の令嬢との結婚式は京都で衣冠束帯・十二単をまとつて行はれた。

 ところが、生母の温もりを追ひ続ける近衛は祇園で一人の芸者菊に出会ふ。近衛が菊を散歩に連れて行つた先は河原町の丸善だつた。菊は近衛が何者か知らなかつた・・・。

 このやうに近衛の生涯には、テレビドラマに出来るやうな出来事がふんだんにある。しかし、今だに戦争を引きずる日本人は、まだ近衛の生涯をテレビドラマに出来るほどには、近衛を一人の人間として受け入れることが出来ずにゐる。(2006年9月30日)







 昔から「馬には乗つてみよ」といふが、自転車も同じで自転車によつては乗り味がまつたく違ふ。

 特に感じるのは空走距離の違ひである。漕ぎ始めは少し重いが、少し漕ぐだけで後は漕がなくてもずつと進める自転車がある。空走距離が長いのである。それに対して、漕ぎ始めは軽いが漕ぎ続けないとすぐに止つてしまふ自転車がある。

 この種の自転車は近場の買物用にはいいのだらうが、すこし遠出をするとひどく疲れる。値段の安い自転車がさうなのかどうかは分からない。さういふ仕様な のかと思ふ。このタイプの自転車に使へば随分運動になることは確かで、どこにも行けないエアロバイクを家でせつせと漕ぐよりよほど有意義だらう。

 だから、自転車を買ふときは、店屋で並んでゐるのを見るだけではだめで、すこし乗つてみる必要がある。少なくとも、スタンドを建てた状態で後輪を動かして何回空回りするか数へてみるとよいのではないか。

 遠乗り用には10回以上空回りしてなかなか止まらないのがよいと思ふ。(2006年9月29日)







 電球型の丸い形をした蛍光灯が売られてゐる。メーカーは蛍光灯に換へると節電になると宣伝してゐるが、値段が高いので今ひとつ説得力がない。電気代が節約出来ても、それで値段の高い分を回収出来るかどうか分からないからである。

 白熱灯の電球に比べた場合に蛍光灯のはつきりした長所は、電球よりも寿命が長いことである。わたしはそこに目を付けて購入してみた。どこに使ふかと云ふと、廊下や階段の天井の電球の代はりをさせるのである。

 廊下や階段の電球は毎日点けたり消したりしてよく使ふので、一年ぐらゐで寿命が来てしまふ。新品に交換するにも、天井の電球は手が届かないので、脚立や 椅子の上に登つて、上向きになりながら交換しないといけない。廊下ならまだしも階段の踊り場で椅子の上に登つて交換するのは、少々おつかない。

 そこで電球型の蛍光灯にしてみたのである。最近は電球とほぼ同じ形状のスリムなものまで出てゐるので、ダウンライトのレフ球の代はりにもなる。

 蛍光灯は点けたり消したりしない方がいいので、夜になれば点けつぱなしにしてゐるから、電気代の節約になつてゐるかは知らないが、これで3年は交換しないですむかと期待してゐる。(2006年9月28日)







 NHKの週刊子供ニュースはいつも大人のニュースを扱つてゐるが、そんなことをしても子供は分からないと思ふ。

 最近も格差問題を扱つてゐたが、何が子供に分かるといふのか。NHKは子供ニュースを利用して政府の批判をするのが目的だとしか思へないのだ。

 私が新聞の社説の意味が理解できるようになつたのは、やつと大学に入つてからである。なぜなら、新聞の記事を理解するには、高校卒業程度以上の知識が必要だからである。

 ところが、NHKの子供ニュースに出てゐる子供たちはまだ小学生ではないか。そんな、中学程度の国語も社会も勉強してゐない子供たちに新聞の社説が扱ふやうな問題を教へても、基礎知識がないのだから、分かるはずがない。

 確かに子供たちは大人たちに説明されて分かつたやうな顔をする。しかし、それは単に大人たちに調子を合せてゐるだけである。子供には子供の興味に合つたニュースを与へるのが子供のためであり、子供ニュースの役割でもあると思ふ。(2006年9月27日)







 工藤美代子は『われ巣鴨に出頭せず』(2006年刊)のなかで、「ノーマンがソ連共産党もしくはKGBのスパイであったという確度はかなり高いものだと今日では言われている」と書いてゐる。

 工藤は以前に『悲劇の外交官』(1991年刊)と題するノーマンの伝記を書いてゐるが、そこでは、確かにノーマンは一時期共産党員であつたが、断じてソ連のスパイではなかつたと強く印象附けるやうに書いてゐるのだ。

 工藤のノーマン観はいつたいどこでどう変つてしまつたのだらう。少なくともノーマンの伝記の中では、工藤はノーマンの弱さを指摘はしても、その人格と仕 事ぶりに対しては高い評価を与へてゐるやうに見える。ところが、近衛の伝記の中ではそれが180度転換してしまつてゐるのだ。

 ノーマンが近衛に戦争責任をおつ被せるためにひどい「覚書」を書いてGHQに提出したことも、既にノーマンの伝記の中で言及されてゐる。つまり、工藤はほぼ同じ資料を元にして正反対のことを書いてゐるのだ。

 その原因として考へられることは、工藤が新たに手に入れた資料で近衛の人格の高潔さを知つたこともあらうが、左翼系の評論家の嫌ふ『マオ』を有力な資料として挙げてゐるところから見ると、この15年間に工藤の中で大きな転換があつたことも考へられる。

 まさか、ノーマンの伝記は岩波書店から出すからああなつたと云ふ訳ではあるまい。(2006年9月26日)







 自民党の新総裁になつた安倍さんの最大の目標は、来年の参議院選挙に勝つことださうである。しかし、安倍さんは衆議院議員なのに、どうして参議院の選挙のことに熱心にならなければいけないのだらうか。

 参議院選挙は参議院の人たちだけでやればよいはずである。ところが、参議院議員がなぜか衆議院議員である首相の人気に頼つて選挙をする。人気に頼るだけならまだしも、参議院選挙に負けた責任を取つて、首相をやめた衆議院議員もゐる。

 そもそも参議院議員でも首相になれるのである。だからこそ、参議院でも首相指名選挙があるのだらう。ところが、参議院には首相になれる力と人気のある人は誰もゐないらしい。

 青木さんは参議院のドンださうで、参議院の人事を一人で握つてゐるらしい。ならば、どうして青木さんが一人で責任をもつて参議院選挙をやらないのか。

 参議院議員の閣僚ポストを安倍さんにおねだりした青木さんが、その選挙で衆議院議員の安倍さんの人気に頼らうとしてゐるのだから、参議院にとつては余りに情けない話である。(2006年9月25日)







 NHKの連続テレビ小説を見なくなつて久しい。どれもこれも似たやうなストーリーで、同じような情緒と同じような雰囲気の作品だから見る必要を感じなくなつたのである。

 次の連続テレビ小説は田辺聖子の自伝を元にしたものださうで、予告編がしきりに流れてゐるが、それを見るとやはり同じやうなストーリーである。つまり、女性の主人公が自分の夢の実現に向つて、幾多の困難を乗り越えながら、明るく素直にたくましく生きていく物語である。

 毎回毎回同じ人が作るのではないかと思ふくらゐにストーリーが似てゐて、それをまた日本人は飽きもせず毎回毎回見てゐるのだから驚きだ。

 こんなドラマが毎日流れるお蔭で、日本では家庭の主婦より働く女の方が偉いかのやうな幻想が定着してしまひ、結婚せず子供を産まない女がどんどん増えてしまつた。

 そして誰もが自分の夢の実現にこだはつて、自分の夢につながらない職業を嫌がり、フリーターやニートが増えてしまつたのではないかと思ふ。

 一度くらゐは仕事ではなく女としての喜びに目覚める女の話を見たいものだ。さうしたらまた見るかも知れない。(2006年9月24日)







 『われ巣鴨に出頭せず』といふ近衛文麿の新しい伝記が出たが、自分の会社から出した日経新聞に書評が出たのは当然として、それ以外では産経新聞と地方紙の書評欄で扱はれただけで、他紙の書評家たちからは黙殺されてゐる。

 日経新聞で書評を担当した保阪正康もいやいや書いたらしく、とてもこの本を読みたくなる様な書評ではなかつた。作者の工藤美代子が使つた資料の価値を疑ふだけでなく、肝心の都留重人とハーバード・ノーマンによる陰謀説にも触れずじまいなのだ。

 秦郁彦に言はせたらこの本も修正主義者による謀略史観なのだらう。ユン・チヤンの『マオ』と同じく、東京裁判史観を奉ずる書評担当者たちにとつては困つた本なのかもしれない。

 近衛文麿と云へば、むかし大学浪人のときに東京の下宿で岩波新書の『昭和史』に描かれたこの男の優柔不断さに舌打ちしながら読んだことをよく覚へてゐる。今から思へばこの本自体が変な本だつたのだが、その当時は事実が書いてあると思つてゐた。

 その近衛が実はそんな人間ではなかつたことを描いてみせるといふのだから、岩波新書の行き過ぎを訂正する意味からも、是非とも読んでおきたい本だらう。(2006年9月23日)







 私は髭剃りはジレットを愛用してゐるが、私の機種の替え刃を買いに行つたらどこにも売つてゐなかつた。ジレット・センサー・スリーといふものだ。ジレットのホームページにはまだ製品情報が残つているから、生産してゐるはずなのだが。

 それにしても、髭剃り業界ではジレットとシックの競争が熾烈だ。今の競争は殆んど髭剃りの刃の数の増やし合ひと言つてよい。

 最初はどちらもカミソリの刃の数は二枚重ねだつた。それをジレットが三枚重ねにした。するとシックは一気に四枚重ねにしてきた。すると今度はジレットが五枚重ねの製品を売り出したのだ。

 いつたいカミソリの刃の数は何枚まで増えるのだらうかと思ひたくなる。

 わたしは最近三枚刃にしたばかりだが、二枚刃よりやはり三枚刃の方が切れ味がよい。一枚目で剃り残した髭を二枚目が剃り、それでも残つたのを三枚目が剃り落としてくれるのだらう。前ほど一生懸命剃らなくてもよくなつたやうな気がする。

 それが五枚刃になつたらさぞ切れ味がよいのだらうが、五枚刃を使ふにはホルダーごと新しく買ひ換へなければ行けない。千円程度の出費だが、メーカーの開発に一々付合はされるのも嫌なので、替え刃を探しに行つたといふ分けだ。

 ところで、なぜジレットを愛用してゐるかと云ふと、昔シックを使つてゐてよく唇の端を切つたことがあるからである。シックが一時期「キレテナーイ」と安全性を宣伝し始めたのは、それと関係があると思つてゐる。

 (なほ、ジレット・センサー・スリーの替え刃は一個200円するが、ジレット・センサー・スリーの使ひ捨て版が一本100円以下で売られてゐること、そ のホルダーが軽すぎると思へば、刃だけを取り外して手持ちのホルダーに装着可能であることが分かつた)(2006年9月22日)







 タイで軍事クーデターが起きたが、やつたことは日本の二二六事件と同じである。政府の腐敗に憤つた軍が政治を正すために立ち上がつたのである。二二六事件は軍による極悪事件のやうに言はれてゐるが、当時の日本と今のタイとは似たやうなものだつたのである。

 タイの軍首脳はこれは民主的なクーデターだなどと言つてゐるさうだが、軍隊によつて首相の首がすげ替へられる国は民主国家ではない。

 第二次大戦後に植民地から独立して生まれた国がたくさんあるが、民主主義が根付いてゐる国は少ない。タイのやうに戦前から独立してゐた国ですら、すぐに軍隊が出てきて暴力を行使する。

 そんな野蛮なことはイギリスならクロムウェルの一七世紀に、フランスならナポレオンの一九世紀に終つたことで、日本でも終戦で終つてゐる。ところがまだ同じことをやつてゐる国があちこちにあるのだ。

 古代ギリシャと違つて、現代では民主主義とはある程度以上の経済発展の後でこそ初めて可能になるものであつて、その段階に至らない国を無理やり民主化しようとしても無理なのだと思ふ。(2006年9月21日)







 飲酒運転の取り締まりもいよいよ魔女狩りの様相を呈してきた。今度は一月以上も前のことがほじくり出されたのである。それも、缶ビール一本飲んで4時間以上あけて運転したのに飲酒運転だと批判されるのである。全くこの飲酒運転をめぐる気狂ひ沙汰はいつまで続くのか。

 そのうち、半年前の飲酒運転、一年前の飲酒運転、いや一生についての取調べが始まるかもしれない。つまり、生涯一度でも飲酒運転した覚えのある人間は免許剥奪になるのだ。

 もちろん正直に申し出なかつた者は偽証罪で逮捕である。さうなれば日本は全く飲酒運転のない良い国になるだらう。しかし、同時に日本の流通が完全にストップすることも確実である。

 かつて治安維持法といふ法律があつた。初めは共産主義運動を取り締まる法律だつた。ところが、取り締まりの範囲がどんどん拡大して、最後には自由主義、いや反軍的な考へを持つだけでも逮捕されるやうになつた。
 
 もちろん、それを主導したのもマスコミだつた。日本のマスコミの全体主義的傾向は、戦前も戦後もまつたく変はらないやうである。(2006年9月20日)







 NHK教育の10minボックスといふ番組で不思議な光景を見た。

 台車に乗つてゐる人を別の人が後ろから押して進んでゐる。そして台車に乗つてゐる人がボールを真上に放り上げる。すると、ボールは台車に乗つてゐる人の手の上にちやんと戻つて来るのである。

 普通に考へると、ボールを放り上げた時点から落ちてくる時点の間に台車は前に進んでゐるのであるから、ボールは放り上げた場所からまつすぐ下に落ちて、台車を押してゐる人の上か、さらにその後ろに落ちさうなものである。

 ところが、さうならないのだ。これはボールには人が上に放り上げた力だけでなく、台車が前へ進む力も加つてゐると考へれば、理解できるのかもしれない。 台車が動いてゐる以上は、台車に乗つてゐる人だけでなく台車に乗つてゐるボールにも、台車が前方に動く力が作用してゐるのだ。

 だから、例へば飛行機で海外に行くときに、西回りで行かうが東回りで行かうが、同じ距離で同じ速度なら、風の影響がない限り、同じ時間で行けるはずなの である。地球が東から西へ自転してゐるから、東へ行く方が速く行けると云ふことはないのである。(2006年9月19日)







 モラル(道徳)の意味が最近は変つてしまつてゐるやうだ。命を大切にするとか、子供を大切にすることなどは本来モラルや道徳とは何の関係もないが、そんなものがモラル扱ひを受けてゐる。

 モラルとは実は人間の自然の感情に基づくものではない。むしろその反対であるけれども、しなければならないことするのがモラルなのである。

 子供を大切にするのは自然の感情に基づくことであり、当たり前のことである。しかし、老人を大切にすることは自然の感情に基づくものではない。老人は汚いし、しばしば邪魔になる。しかし、それでも老人を大切にするのがモラルなのである。

 命も同じである。高い価値を実現するために命を粗末にすることがモラルなのである。

 昔は電車の中で老人に席を譲ることがモラルだつた。本当はやりたくないけれども善い事だからである。ところが、今では電車の中で携帯電話を使はないことがモラルになつてしまつた。しかし、それは「したいけれども悪いことだから我慢する」ことでしかない。

 最近のマスコミによる「モラル」といふ言葉の使ひ方を見ると、この国ではモラルそのものが失はれてしまつたと言つて良いのではないか。(2006年9月18日)







 福岡の交通事故は「子供三人が犠牲となつた」をその前に附けるのが慣行となつてゐる。それほど子供の死を重大視するのである。それほど子供の命が大切なのである。

 ところが、そんなに大切にされてゐる子供たちが小学校で暴れるのである。女教師を「くそばばあ」と呼んで蹴りつけるのである。

 昔は子供の死をこれほど大げさに扱はなかつた。エスカレータの手すりと床や天井の間に挟まれて、多くの子供が死んだが、エスカレータ会社がバッシングされたことはなかつた。むしろ親の管理責任が問はれたものだ。

 そして、そのころの子供たちは小学校で暴れたりしなかつた。黙つておとなしく先生の授業を聞いたものだ。

 子供たちはよく知つてゐるのである。自分たちが大人たちから、下へも置かぬ扱ひをされてゐることを。大人たちの掛け買ひのないの宝となつてゐることを。だから、子供たちは増長して、大人を舐めるやうになつてしまつたのである。

 大人たちは邪魔な年寄りを老人ホームに押し込んで、子供ばかりを大切にしてゐる。さうやつて子供たちを駄目にしてしまつたのである。道徳から云へば、子供よりも年寄りをこそ大事にすべきはずなのだが。(2006年9月17日)







 多くの日本人にとつて憲法はお経のやうなものらしい。お経は宗教の教典だから、人間が勝手にその中身を変へてはならない。だから、日本人は憲法を一度も変へたことがない。

 憲法はお経だから、その文字を大きく書いた本を作つて売り出して、それを普及しようとする人たちが出てくる。中にはそれを有り難く声に出して読むだけではなく、紙に書き写さうといふ人たちもゐるらしい。そしてそれを写経ならぬ写憲だと誇らしげに言ふのである。

 日本人は憲法が何か有難ひものだとは思つてゐるが、実は何であるか分かつてゐないといふことを、これほど明瞭に示した例はあるまい。

 実は憲法とは自分自身に対する約束でしかない。それは自分には出来ないと分かればすぐに変へなければいけない物であり、自己保存のために、いざとなれば無視してもいい物なのである。

 最近、日本でもこの憲法を変へるべきだといふ考へ方が大勢を占めるやうになつてきた。一方で、この変更を妨害しようと必死になつてゐる狂信者たちもゐる。

 しかし、人間でも同じだが、出来もしない約束に縛られてゐると終ひにはノイローゼになる。そのノイローゼが明治憲法では太平洋戦争だつた。憲法をお経扱ひして変へないでゐると、むしろ破局を迎へると考へるべきなのである。(2006年9月16日)







 渡部昇一の「文科の時代」といふ論文は、30年前に書かれたものだが、まさにこれからの日本に相応しい内容である。

 理科が生産のための科学だとすれば、文科は非生産の科学である。音楽を見よ、それは感動をもたらすけれども、音は空間の中に跡形もなく消えてしまふ。ところが、理科の延長にある工業生産はかならず大量のゴミを出す。

 娯楽について見ても、レジャーのために自動車を走らせれば娯楽施設は潤ふけれども車は排気ガスを出すし、レジャー施設は大量のゴミを出す。それに対して家で碁・将棋・三味線などをして遊んでゐる限り、あとに何の利益も生産物も遺さないけれども、ゴミを出す心配もない。

 物質的な生産性の高さは必ずゴミといふ副産物を出さずには居られないのに対して、文学は非生産的であるが環境汚染をもたらすこともないのだ。

 少子化で人口減少の時代に入つた日本においては、資本主義の永遠に続く拡大生産の時代は終つた。そんな現代の日本にとつて手本にすべき時代が、遣唐使を止めた平安時代であり鎖国をした江戸時代、つまり「文科の時代」なのである。(2006年9月15日)








 多くの地方自治体の市長が飲酒運転で検挙された職員を免職にするとなどと言ひ出したが、パフォーマンスが過ぎると思ふ。世間の風潮に流されて処分規定を変へても、有効性が担保されるとは思へない。

 実際、飲酒運転の検挙だけで懲戒免職にされた学校の教師が「裁量権の乱用」と不服申し立てをしてゐるし、同様の不服申し立てで免職が取り消された例が過去にあるといふ。

 そのやうな判例があるとなれば、飲酒運転の検挙だけで免職にすると言つても、実際には出来ないことになる。 

 そんなことを言ふ市長自身はどうかと云へば、運転手付きの車だから飲酒運転をする心配はない。市長がこれまでの人生で一度も飲酒運転をしたことがないと誓約書を出すぐらゐでないと、部下は付いて来ないのではないか。

 その意味で兵庫県が飲酒運転で死亡事故を起こした場合だけを免職にしたのは合理的だといへる。人をおどして何かをやめさせようとするなどは恐怖政治であり、罪刑法定主義の民主国家に相応しいとは言へないのである。(2006年9月14日)







 福山の高専殺人事件の容疑者は未成年だつたが、読売新聞はこの少年を写真付きで実名報道した。

 ところが、少年法第61条には「少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本 人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」とはつきり書いてある。

 この新聞は少年がもう死んだからいいだらうと勝手に判断して法律を破つたのである。しかし、法律には「生存中」の但し書きはない。

 だから、図書館がこの違法行為の共犯になるわけには行かないと、この新聞の閲覧を制限したのは正しい。

 新聞社は他人の違法行為に対しては常に厳しい態度で臨むが、自分の違法行為は何らかの理屈を付ければ許されると考へてゐるのである。そして自分の法律破りの正しさを新聞紙面を使つて宣伝するのである。

 この新聞は自分のことを法に優先する存在だと考へてゐる可能性がある。図書館は今後こんな新聞は置かないことにすればよいのである。さうすれば閲覧を制限して知る権利を侵したなどと、いちやもんを付けられる心配はなくなるだらう。(2006年9月13日)







 サラ金の上限金利を引き下げたら、多重債務問題が解決するかのやうに言はれてゐるが嘘だらう。借金する奴はどうならうが、返すあてのない金を借りようとするからである。

 そもそもなぜ金利が高いのか。それは無担保で貸すためである。金利を下げてしまつたら担保のない人間は金が借りられなくなつてしまふ。

 さうなつたら担保のない人は何処で借りるのか。ヤミ金に走るしかなくなるではないか。そのヤミ金には金利の上限はないのである。

 サラ金の借金ならまだ民事再生や自己破産などの合法的な手段で逃げる方法があるが、ヤミ金から逃げるにはそれこそ自殺して生命保険で返すしかなくなつてしまふ。金利の上限を下げたら借金苦による自殺が減るなんてとんでもないことだ。

 弁護士たちは、低所得者向けの低金利融資を政府が実施すればいいなどといふ。しかし、返済能力のない人間が作るであらう借金の焦げ付きを税金でまかなふことを国民が許すわけがない。

 多重債務者の問題は極めて個人的な問題である。子供の時から「返す当てのない金を借りてはいけない」と厳しく教育する以外に、この問題を解決する方法はないのではないか。(2006年9月12日)







 夏目漱石が今でも人気があるのは、一つには『坊つちやん』の主人公は漱石自身のことだと思はれてゐるからではないか。

 しかし、例へば坊つちやんが赤シヤツと野だいこに誘はれて釣りに行つた時に、赤シヤツと野だが風景を眺めながら

「あの松を見給へ・・・ターナーの画にありさうだね」
「あの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ」
「あの島をターナー島と名づけ様ぢやありませんか」

などとキザなことを言ふが、実際にターナーの絵を愛好してこのやうな事を言つてゐたのは漱石自身であつて、「ターナーとは何の事だか知らない」坊つちやんのやうな野暮天ではなかつた。

 また、バツタ事件を起こした生徒の処分を決める会議で、坊つちやんは自分の意見をろくに言ふことが出来ないが、実際の漱石は弁が立つた。

 そして、会議の最後に赤シヤツが坊つちやんをたしなめて「文学書を読むとか、又は新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくつてはいけない」と言ふが、漱石こそはまさにその高尚な精神的娯楽にいそしんでゐた男だつた。

 つまり、漱石は坊つちやんのやうな男ではなく、赤シヤツの様な男だつたのであつて、むしろ文学士赤シヤツこそ漱石自身の姿だと思ふべきなのである。(2006年9月11日)







 日本は酒飲み社会である。日が沈んだら下戸以外は全員が酒を飲む。いや下戸も無理矢理飲まされる。だから、夜中に車を運転してゐる人は、事故を起こさうが起こすまいがほぼ全員が飲酒運転である。

 いや酔つてゐるのはドライバーだけではない。夜は歩行者も自転車に乗つてゐる人も酔つてゐる。酔つてゐる者同士が夜中に出くはせば、必然的にぶつかつて事故にならざるをえない。

 飲酒運転をなくすために、飲酒運転をした公務員は全員懲戒免職にしろなどと乱暴なことを云ふ人がゐる。そんなことをしたら公務員は一人もゐなくなつてしまふと思ふが、実際さうするといふ自治体もある。

 しかし、職員を首にしたら代はりが必要だらう。代はりが簡単に見つかるのなら、公務員は誰でも出来る仕事だといふことになる。もしさうなら、むしろ人員削減で首にした方がいい。

 小さな会社が社員を飲酒運転で首にしてゐたら、代はりがゐなくて潰れてしまふ。まつたく公務員は気楽な稼業であるらしい。(2006年9月10日)







 M&Aで企業買収するにしても、ライブドアがやると新聞は犯罪扱ひしたが、これを王子製紙がやると美挙扱ひにした。

 この違ひはどこから来たのか。それはおそらく王子製紙が新聞社への新聞紙の供給先であつて、新聞社のお仲間であることと大きな関係があるのに違ひない。一方、ライブドアが買収しようとしたニッポン放送は新聞社のお仲間である。

 新聞は、M&Aの被害者が仲間だと加害者を蛇蝎の如くに言ひ、加害者が仲間だと企業経営の新しい姿だと誉める。つまり、新聞社の意見には自社の利害が大きく関係してゐるのである。

 一方、読売新聞のスポーツ欄でいつも鋭い意見を書いてゐる鹿取氏は、早実の斎藤投手をべた褒めするコラムを書いた。

 苫小牧の田中投手には対しては「もつと直球を磨け」とアドバイスを書いたのに、斎藤投手については何の欠点もないかの如くに誉めちぎつたのである。

 これもまた、斎藤投手に絶対に嫌はれたくない読売グループの意向を存分に反映したものだと言へるだらう。お家の事情は本来自由であるはずのコラムの内容にさへ影響を及ぼすらしいのである。(2006年9月9日)







 敬語といふのは日本では是非とも身に着けておきたい常識である。ところが、私の知る多くの医者は自分より年上の患者に対して敬語を使はない。

 今や医者も手術で失敗して患者を死なせたら逮捕される時代である。医者と云へども特別に偉い人間とは思はれてゐない。むしろ国民が高い保険料で養つてゐるサービス業の一つとさへ言つても良いくらゐである。

 だから、医者も年上の人に敬語を使ふ程度の常識は弁へてゐるべきであらう。医者は日頃から看護婦たちにかしづかれてゐるので勘違ひしがちなのかもしれないが、これからは社会的常識のない医者に大事な体を委せたくないといふ声が出てきてもおかしくない。

 敬語に関して驚いたのは、東京の予備校の教師が生徒に対して敬語を使ふのを聞いた時である。芸能界ではトップに上り詰めた明石屋さんまが自分より一つでも年上の芸人に対して敬語を使ふのを忘れない。

 やはり中央で出世する人間には敬語は必須条件といふことだらうか。もしさうなら、技術はあつても地方でくすぶつてゐる人間には敬語の苦手な人が多いといふことであり、同病相憐むといふことになる。(2006年9月8日)







 ドイツの作家ギュンター・グラスが自分はナチスだつたと告白したことは、第二次大戦の責任をナチスに押しつけて被害者面をしてゐるドイツ人には大打撃である。

 ドイツ人は自国民をナチスかさうでないかで分類してきた。しかし、そんな分類が当てにならないことをギュンター・グラスの告白が証明したからである。つまり、戦前世代のドイツ人なら誰でもナチスであつたかもしれないのだ。

 ドイツ人がナチスに戦争責任を押しつけたのに対して、日本人はA級戦犯に戦争責任を押しつけることをせずに、一億総懺悔した。

 ところが、最近読売新聞が戦争責任を検証すると称して、第二次大戦の全責任を軍部に押しつけて、国民は被害者だつたかのやうな記事を連載した。過去の戦争について自国民を加害者と被害者に分類したは、まさにドイツ人のやり方と同じである。

 しかも、それは靖国神社にA級戦犯分祠を求める読売自身の主張を後押しするものであり、A級戦犯と一般国民を分離する中国政府の目論見を支持するものである。

 初めから結論ありきのそんな検証が「検証」の名に値しないのは明らかだらう。(2006年9月7日)






 公立の小学校の給食代を払はない家庭があつて問題になつてゐるらしい。生活保護家庭でもなく金があるのに払はないのはけしからんといふのである。

 しかし、義務教育は無料なのだから、給食費も無料のはずだといふ理屈にも一理ある。なぜなら、給食は教育の一環であつて、みんなと同じものを一緒に食べることに意味があると云はれてゐるからである。

 それなら給食も義務教育の範囲内だから無料であつていい。

 アメリカの小学校のやうにカフェテリアで各々が好きな物を食べるのなら、それぞれが喜んで自分の金を出すだらうが、同じ物を強制的に食べさせられるのなら、自分の金を出したくないと言ひ出す人がゐても不思議ではない。

 そもそも同じ物を一緒に食べることに意味があるなどといふ考へ方が古いのである。

 結局、給食代を先払いにして、払はない家の子供には弁当を持つて来させればよいのである。払はなくても食べさせておきながら「払はないなら法的処置をとる」などと言ふのは本末転倒であらう。(2006年9月6日)







 『偽書の精神史』といふ本があるが、偽書の話といふより未来記の話である。

 未来記とは未来を予言する書のことで、その作者が聖徳太子だつたり聖武天皇だつたりしてゐて偽書なのである。

 その未来記の最後には呪詛の言葉があつて、もし道に反するやからが現はれて私の願ひに背いたらな、そいつは地獄に落ちて永久に浮かび上がれないし、天下は大混乱に陥るだらうと予言する。

 これはもちろん仏法の退廃を恐れる人たちがでつち上げた言葉なのだが、最近も似たやうな言葉をしきりに言ひ触らしてゐる人たちがゐる。

 それは「憲法を変へると戦争になる」と言ふ人たちのことである。

 明治憲法を発布した天皇が神だつたのと同じやうに、彼らにとつて戦後の憲法を作つたマッカーサーは戦後の日本を作つた神なのであらう。

 その神の言葉を人間が勝手にいじくるほど罰当たりなことはない。現代日本にとつての憲法は、中世日本の仏教なのだ。だから、改憲を恐れる彼らは、しきりに現代の未来記を書くのである。(2006年9月5日)







 総合病院に行くといつも満員である。「まあこれだけ沢山の人が来るものだ。彼らは本当に医者が好きに違ひない」と感心してしまふ。

 私は歯医者以外は医者には殆ど行かない。薬は信用してゐるが医者は信用してゐないからである。

 先づ、開業医はみんな藪医者だから行つても仕方がない。総合病院の医者には優秀なのがゐるが、治すのは結局自分自身だし、治らないものは治らない。

 もちろん、大病をしたら別だらうが、総合病院の待合室に座つてゐる人たちを見ると、どこも痛さうにしてゐないし、何より長時間おとなしくじつと待つてゐられるほど元気な人たちである。

 きつと彼らは何かあるとすぐに医者に行く人たちなのだらう。わたしは少しぐらいの不具合では医者に行かずに、かぜ薬を飲むかステロイド軟膏を塗るかして1週間ほど辛抱してゐる。すると大抵は治つてしまふのだ。

 歯医者以外では目医者にはたまに行く。治るのは日にち薬であるのは同じであるが、失明しては困るので異常のない事だけを確かめに行くのである。(2006年9月4日)







 飲酒運転で大きな事故があると決まつて新聞の投書欄に掲載されるのが、飲酒運転防止装置の付いた車の開発を望む声である。しかし、そんな装置の付いた車を一体誰が買ふといふのだらう。

 自分は酒飲みだから飲酒運転するかもしれないと思ふ人が買ふかと言へば、むろん買はないだらう。なぜなら、そんな装置のついた自動車を買つたら少しの二日酔ひでも車が使へなくなつて不便で仕方がないからである。

 レンタカー会社が買ふかといふと、酔つぱらいに車を貸さなければいいだけのことだから買はない。バス会社はどうかといへば、そんな車を買つて職員の管理に手を抜くつもりかと逆に叱られるだらう。

 「飲んだら乗るな」とは云ふものの、そもそも日本は飲んでも乗らなければならない社会なのである。だから、警官も乗る、公務員も乗る、新聞記者も乗るのだ。

 本当に飲酒運転がいけないのなら、アルコール検知器を売り出してみればよい。そんな装置を買ふ人は酒飲みで、どれだけ酒を飲んだら違反にならないかを知るために買ふ人ばかりに違ひない。結局、飲んでも乗るのである。(2006年9月3日)







 「乞食は三日やつたらやめられない」といふが、これは一度自由の味を知つた人はそれを捨てられないといふ意味である。

 私が一番最初に自由の味を知つたのは、大学受験の浪人時代だ。それも二浪で自宅浪人してゐたときの自由は忘れ難い。

 学力は充分にあるが失敗して落ちたのは明らかだつたから、最初の半年は受験勉強をしないことにした。その代はりにフランス語の初歩など大学で勉強したい科目の新書本を読んだり旅行をしたりして過ごした。

 後の半年は、一浪の予備校通ひの時に受けた模擬試験の模範解答を整理したり、駿台の模擬試験を寝不足など色んな条件のもとに受けながら過ごした。

 まつたく自分の計画だけで生活する味をあの時覚えてしまつた。かうなると束縛の多い普通の生活には戻れない。

 これはフリーターも同じではないか。だから、フリーターは正社員にならうとはしないのだらうし、企業もフリーターを正社員に雇はうとは思はないのだらう。

 だから、会社員になりたかつたら現役入学現役卒でいくのがよいのである。(2006年9月2日)







 松本清張の『昭和史発掘』の「北、西田と青年将校運動」には、北一輝が三井財閥の池田成彬から金を受け取つてをり、その金額が尋常なものではなかつたことが書かれてゐる。

 当時の金で年に二万から三万円、今の一千万から一千五百万円にもなると云ふのだ。

 それは三井が青年将校の決起から会社を守るために青年将校の動向を北から聞くための情報料だつたが、その金で北は妻子のほかに女中を三人抱へて豪邸に住み、運転手付きの自動車に乗るといふ豪勢な暮らしをしてゐた。

 北一輝は右翼の生活の仕方の見本のやうな人だつたことになるが、最近のグローリー工業のニュースでは、右翼に支払つた顧問料が16年間に一億七千万円だつたといふから、北一輝のときの相場は今でも生きてゐることになる。

 かうして北一輝は財閥のためにスパイをやりながら、他方でその著書によつて青年将校たちに重臣や財閥に対する憎悪を掻き立ててゐたのである。

 こんな男が二・二六事件の首謀者であるはずがないが、その北を首謀者として抹殺しなければならなかつたところに、当時の軍部の窮状が現はれてゐるといふわけである。(2006年9月1日)







 早実の斎藤投手に対するマスコミのスター扱ひは理解できないわけではない。彼こそは低迷するプロ野球人気を回復させる救世主となるかもしれないからだ。

 しかも、彼を一番欲しいのは巨人だらう。巨人戦のテレビの視聴率は今や惨憺たるもので、同系列の日本テレビでさへ中継延長を断念したぐらゐだ。

 そこへもし斎藤投手が巨人に入つたら、そして巨人の先発のマウンドを踏むことになつたら、甲子園の決勝再試合の視聴率をそのまま日本テレビの巨人戦の視聴率に出来るのである。全く夢のやうな話ではないか。

 過去に巨人は早実の荒木をドラフトの抽選でヤクルトにとられた苦い経験がある。今度は他所にとられないやうにと、読売グループは斎藤投手に今から唾を付けて置かうと必死である。ヤンキースの松井に会はせたのはその一環だらう。

 そしてどうにかして斎藤投手に「巨人が好き」と言はせたらこつちのものだ。さうなれば斎藤君の希望通りにしろといふ世論が湧いて、ドラフト前に勝負を決めることができる可能性が大きい。

 斎藤君をめぐるこの先の読売グループの振舞ひが注目されるところである。(2006年8月31日)







 漱石の『坊つちやん』で際立つてゐるのは主人公の孤独さだらう。精神的な支柱は下女の清だけなのだ。何か事ある毎に「清」が出てくる。心の中の対話の相手は「清」ばかりである。

 坊つちやんには友達は一人もゐない。この話の中で「山嵐」とは友達関係になるが、なつた途端に話は終つてしまひ、別々の故郷に帰つてしまふ。話の最後では唯一の心の友だつた清にも死なれてしまふ。

 それに対する狸と赤シヤツには味方が沢山ゐて社会的な力があるやうに見えるが、実は何かと策を弄することによつてその力を作つてゐるだけであることがやがて明らかになる。その策を弄する有り様を露骨に描いて見せたのが、この作品の中のマドンナをめぐるストーリーである。

 それに対して純粋で世間知らずの坊つちやんは腹を立てるのだが、その坊つちやんとてもそれに対抗するためにはやはり策を弄さずにはゐられない。

 孤独であつて策を弄さずにはゐられない存在としての人間、これを描くことが漱石の小説の大きな目的の一つだつたのではあるまいか。(2006年8月30日)







 甲子園に出るために、甲子園で勝つために何でもやるのが高校野球である。野球留学、飛ぶバットと高校野球は次々と新手の手段の見つけたきた。その最新の手段が酸素カプセルだつたのである。

 日焼けマシンほどの大きさで高圧高濃度の酸素が詰つた器具の中に身を横たへてゐると怪我の回復が早い。その器具のお蔭で早実の佑ちやんは甲子園の七連投に耐へられたのだつた。

 去年は駒大苫小牧が優勝した後で不祥事がばれて優勝にケチが付いたが、今年も決勝再試合の一点差は酸素カプセルの差だつたと分かつたわけで、甲子園で勝つ奴は何かインチキをやつてゐると思つた方が良ささうだ。

 その上なんと早実は酸素マシンを業者から只で借りてゐるといふのだ。これはそれだけの金を業者からもらつてゐるのと同じである。

 かうして高校野球の指導者たちは勝つために何でもやる。それを生徒の方もよく見てゐて、自分たちも何でもやつていいのだと思ひ始める。その結果が、有名 校で度重なつて起こる不祥事なのである。これが教育の名のもとに行なはれている高校野球なのだ。(2006年8月29日)







 ぶつかつた車とぶつかられた車がゐたら、ぶつかつた方の原因だけでなくぶつかられた方にも原因があるはずだ。ところが、新聞はぶつかつた方の原因ばかりを報道する。

 交通事故はお互ひ様なのである。たとへ今日ぶつかつた方に飲酒運転の落ち度があるとしても、ぶつかられた方も酒飲みならば生涯の内に飲酒運転の経験が無いわけではあるまい。

 ぶつかつた方が制限速度を大幅にオーバーしてゐたとしても、ぶつかられた方もまたこれまで決して制限速度を超えて運転したことはないなどとは言へまい。

 今日ぶつかる方になり今日ぶつかられる方になつたことは偶々のことであつてお互いに運が悪かつたのである。どちらかの側で何の落ち度もなかつたなどと言へることなどあり得ないのである。

 だから、多くの交通事故は被害者が軽傷の場合、加害者は民事賠償の責めは受けるが、免許停止になるどころか何の刑事罰も受けないのが通常であり、それでよいのである。

 私はこれが重傷や死亡の場合でも同様であつてよいと思ふ。事故はお互ひが意図せずお互ひの偶然の積み重ねによつて起こることであり、運命に刑事罰を科しても無意味だからである。(2006年8月28日)







 ヨーロッパと違つて日本でオートマチック車がどんどん普及したのは、日本人が裕福でガソリンの値段も安いことが大きな原因らしい。

 実はアメリカでも日本ほどオートマチック車は全盛ではなく、大抵の車種にマニュアル車が用意されてゐることは、アメリカのトヨタなどのホームページを見ればすぐに分かる。

 それを見ても分かるが、オートマチック車の方がマニュアル車よりも高価である。ガソリンもオートマチック車の方が沢山使ふ。だから、本来オートマチック車は贅沢品であり金持ちの買物だつた。

 さらに、ヨーロッパのガソリンの値段は日本よりリッターで50円以上も高い。だからヨーロッパでは日本で消えてしまつたディーゼル車がまだ売られてゐ る。ディーゼル車はドンドン言つて振動がうるさいが、ディーゼル車に入れる軽油はガソリンよりリッターで50円ほど安いのだ。

 とすると日本はオートマチック車を誰もが買へるほどに豊かな社会になつたといふことだらう。その上日本では誰でも高価なバンやワゴン車が買へるのだ。そ んな日本と違つて欧米はまだまだ階級社会で、ガソリン車やオートマチック車を買へない貧しい社会層があるといふことなのだらう。(2006年8月27日)







 自分の子供の野球の試合を見て感動するなら分かるが、他人の子供の試合を見て感動するなどは全く私の理解の範疇外である。もちろん、高校野球のことだ。

 たかが子供どうしの試合である。どつちかが勝つてどつちかが負ける。当たり前のことだ。トーナメント制なら最後に優勝するチームも出てくるだらう。だからどうだといふのだ。それをとらまへて偉業だの何だのと言ふのは、頭がおかしいのである。

 もちろん、それぞれの国で外国から見たら頭がおかしいのではと言へるやうなスポーツはある。古代ローマでは剣闘士の殺し合ひを見て皇帝と民衆が一緒にな つて感動してゐたといふが、今から見れば全くおかしな事だ。それと同じくらいに高校野球の大騒ぎは外から見ればおかしな事なのである。

 仮にも世界で一番になつたところでたかが子供のすることである。大人には到底かなひつこない。甲子園で優勝したからと言つても、人類の歴史の中では何も達成してゐないのである。

 それをマスコミはWBCでの日本の優勝と同程度かそれ以上に扱つてゐるが、まさに子供をスポイルする亡国の業と言ふしかない。(2006年8月26日)







 大学を出たらすぐに就職して同じ会社に辛抱してゐる奴が正社員で、さういふ奴はすぐに結婚もする。それに対して、大学を出ても就職せずにやりたいことをしてゐる人間は、束縛されるのがいやなので結婚もしない。

 だから、同じ世代では正社員の男性の方が非正社員より結婚してゐる割合が多いのは当然であり、それは収入の多寡による結果ではなく、価値観、人生観の違ひといふべきだらう。

 ところが、大学を出てすぐに新聞社に入つて辞めずに辛抱してやつと論説委員になつた爺さんたちは、若者たちの世代で非正社員の結婚率が低いことについ て、「将来の見通しが立たないのに、結婚や子どもを持つことなど、とても考えられないのは当然だろう」などと社説の中で御託を並べるのである。

 この人たちが自分のフリーターの息子に対して「お前、将来の見通しもなしにフリーターなんかしてたら、結婚もできんし子供も持てんぞ」と説教して、自分 の価値観を押しつけて煙たがられるのは自由だが、そんなものを社説と云ふ名前で世間に公表すべきではないだらう。(2006年8月25日)







 道路の制限速度以下でのスピードで走る車は滅多にないし、またそんなことをすれば回りのドライバーに迷惑でもあるが、これは鉄道でも同じことらしい。

 福知山の脱線事故を契機にあちこちの線路のカーブの手前にATSを設置して、制限速度を超えてカーブに進入してくる列車を自動的に停止させるやうにしたら、それに引つ掛かつて緊急停止する列車が続発したといふのだ。

 それでJRはどうしたかといふと、少しぐらい制限速度をオーバーしても緊急停止させないやうに設定し直したのである。実際にはそれでも脱線しないし、むしろ緊急停止の方が乗客にとつては危険だからである。

 福知山の脱線事故では、当初JRは制限速度を超えてカーブに入つても余程のことがないと脱線しないと発表して批判されたが、事実は事実なのである。

 報道は制限速度を超えたために脱線事故が起きたとして、事故の責任をもつぱら運転手に押しつけようとしてゐるが、事故の原因究明が遺族感情に対する配慮によつて歪められる事があつてはならないのは言ふまでもない。(2006年8月24日)







 佐藤栄作といふ愛媛大学の教授によると、『坊つちやん』の原稿には松山出身の髙浜虚子の手が入つてゐて、中でも「なもし」の数を40ばかり増やしたのは虚子だといふことらしい。(読売新聞「新・日本語の現場」69~72)

 そして「なもし」は最上級の敬語だといふことである。

 とすると、漱石は松山で聞いた「なもし」をよく覚えてゐて小説の中で使つたが、虚子はもつと使へと漱石に教へたことになる。虚子が「なもし」を特に増やしたのは二軒目の下宿屋の奥さんの台詞だといふ。

 一方、漱石が「なもし」を敬語などとは思つてもみなかつたのは、例のバツタ事件の件りで「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバツタも同じもんだ。第一先生を 捕(つら)まへて『なもし』た何だ。菜飯(なめし)は田楽の時より外に食ふもんぢやない」と坊つちやんに言はせてゐることから分かる。

 佐藤氏には「『坊っちやん』原稿の「なもし」―『坊っちやん』論の前に」(「国文学」46-1) といふ論文があるらしいが、未見である。(2006年8月23日)







 江戸時代には女が外で働くといふことは、多くの場合そのままセックスと結びついてゐた。飯盛り女、湯女、御殿女中などは、みんなセックス付きの仕事だつた。売春は遊廓だけのことではなかつたのである。

 女が外でセックス抜きで働けるやうになつたのは産業革命のお陰である。だから、『女工哀史』は工場労働のごく一面的な描写でしかない。女が自分の努力と才覚だけで金儲けが出来るやうになつたのであるから、「哀史」ではなかつた女たちも沢山ゐたはずだ。

 これは逆にいへば、世の中が段々男本意ではなくなつて来たといふことでもある。男が飲屋や料理屋で奇麗なウエイトレスを見れば、別室で相手をして欲しく なるのは江戸時代も今も同じだらう。それが江戸時代ではOKだつたのだから、男にとつては良い時代だつたといふことになる。

 江戸時代にお城に仕へる御女中がお殿さまの御手付きになるのはむしろ名誉なことだつたが、今では会社の社長が秘書に手を出せばセクハラで訴へられるリスクを覚悟しなければならない。

 だから、女にとつて世の中は確実に良くなつて来てゐると考へてよいのである。(2006年8月22日)







 吉田兼好は「家の作りやうは、夏をむねとすべし」(第55段)と書いた。ではどんな家かと云へば、昔の家を見ればよい。

 昔の家の代表格はお寺である。お寺は軒の廂が深くて縁側がある。これによつて夏の日差しが中に差し込まない家になる。今でも少し古い家の一階には縁側の廊下があつて、その外に硝子戸と雨戸があつたりする。

 ところが、最近のプレハブ住宅には軒の廂もなければ縁側の廊下もなく、さらに雨戸もない家が多い。これでは夏暑い家になつてしまふ。外断熱工法で断熱材を外壁に張り巡らしても、窓から夏の日差しが直接入つて来ては元も子もない。

 次に夏涼しい家にするためには緑の庭が要る。家の前がコンクリートだと夏の熱気が地面に蓄へられてしまふ。地面の熱と夏の日差しによつて戸外の空気が暖められて、それが熱気となつて家に入つて来る。それでは益々暑い家になつてしまふのだ。

 住まいの実用性から見れば、縁側も庭も贅沢品のやうに見えるが、実はさうではなく住みやすい家にとつては必需品なのである。(2006年8月21日)







 子供に金を掛けたかどうかで学校の成績が違つて来るかのやうな迷信が広まつてゐる。

 しかしながら、もし掛けた金の高で子供の成績が決まるのなら、同じ塾に通つてゐる生徒はみんな同じ成績になるはずである。なぜなら、塾の月謝はどの生徒も同じだからである。

 しかし、塾に通つてゐる子の中にも、出来る子と出来ない子が出てくる。なぜなら、塾へ行くか行かないかで成績が違つて来るのではなく、自分で勉強にかける時間の長さで成績は違つて来るからである。

 確かに、塾へ行けば勉強にかける時間は自動的に増える。しかし、塾へ行かなければ勉強しない子は、自分では勉強しない。それは勉強に興味がないからである。

 子供が勉強に興味を持つかどうかは、親が勉強に興味があるかどうかにかかつて来る。といつても、それは子供の勉強に対する興味ではなくて、自分の知識や教養としての勉強であつて、端的に云へば親の文化の高さのことである。

 逆に言へば、親がパチンコにしか興味がなければ、いくら金をかけて子供を塾にやつても子供はなかなか勉強に興味を持つやうにはならないし、成績も上がつてこないのではないか。(2006年8月20日)







 五・一五事件や二・二六事件事件を起こした青年将校たちが願つてゐた「昭和維新」を実際に断行したのが、アメリカ軍だつたのは昭和史の最大の皮肉だらう。

 まづ何より彼らが願つた富の不公平の解消は、農地改革と財閥の解散、華族の廃止、貴族院の廃止などによつてたちまちの内に実現した。

 そして彼らの決起の主眼だつた重臣ブロックの排除もGHQのお蔭で実現して、日本の政治はもはや天皇を取り巻く少数の重臣たちによつて左右されることはなくなつた。

 最後に、天皇は象徴天皇として遂に「国民の天皇」となつたのである。しかしながら、それは同時に国体(=天皇を全ての価値観の中心とする国家体制)の消失を意味した。

 戦前のあらゆる不合理、行き詰まりはまさにこの国体(=天皇の意を体すると称してそれぞれが勝手なことをする国家体制)に結びついてゐたのであり、この不合理の解消のためには天皇が神秘的な絶対君主でなくなることが必要だつたのである。

 そして、現代では天皇が総理大臣の意に従ふことはあつても、総理大臣は天皇の意に従はなくてくてもよい世の中になつたのである。(2006年8月19日)







 日本人が謝罪といふ一見表面的な行為にこだはるのは、そこに表面的でない意味があるからに違ひない。それは恐らく日本が敬語必須のタテ社会である事と関係がある。謝罪と云ふ行為はこのタテ社会のヒエラルキーを逆転させる行為なのだ。

 日本人のドミニカ移民の代表が首相から直接の謝罪を受けて感激して、僅かな見舞金だけで訴訟を取り下げたが、これは首相といふ日本のトップの人間がへり下つてきたからである。

 下の者が上の者に謝るのは、自分が相手より下であることを確認する行為であるのに対して、上の者が下の者に謝るのは自分の立場を相手より下げることを意味する。だから首相の謝罪には途轍もない価値があるのだ。

 これが人間が対等な個人と個人の関係にある社会では、謝罪はそれほど大きな意味を持たない。謝まつたあとの方が重視される。

 日本流の謝罪とは犬で云へばお腹を見せる行為だらう。それは降参と服従の仕草である。個人がヒエラルキーのどこかに組み入れられてゐる社会は、犬の社会と似てゐるのかもしれない。(2006年8月18日)







 松本清張の『昭和史発掘』によれば、二・二六事件の直接の引き金を引いたのは、東京の第一師団に対して昭和11年3月に満洲への転属する命令が出たことだつたといふことである。これはまさに教科書が教へない歴史だらう。

 反乱を計画してゐた青年将校たちは第一師団に属してゐた。その彼らがもし満州に行つてしまへばもう生きて日本に帰つて来れないかも知れない。さうなれば もはや決起は不可能になる。かう思ひ詰めた青年将校たちは、11年の3月迄に決起するしかないと決断したのだ。そこで決つた決行日が2月26日だつたので ある。

 青年将校たちは日頃から今やるか今やるかと切羽詰まつた思ひに捕らはれてはゐたが、いざ決行となると必ず時期尚早論が出てきてまとまらなかつた。そこへ届いたこの転属命令の情報は誰にも異論を挟ませない決定打となつてしまつた。

 この転属命令は、軍の上層部が第一師団の青年将校たちの決起を怖れて、いつそのこと師団ごと満洲にやつてしまへといふ考へから来たものではないか、そして歴史の皮肉は、この命令が逆に決起を現実の物にしてしまつたと、松本清張は推測してゐる。(2006年8月17日)







 先日、ある役所で女性職員に書類のコピーを頼んだときのこと。彼女は快く引き受けてコピー機のあるブースに行くために通路に出てきた。

 その時私は念のために書類の内容を確認しようとして「ちよつと見せて」と女性の手元の書類を覗き込まうと近づいた。すると、彼女は「キャッ」と小さな声を発して私から飛び退いたのである。

 私はとても驚いた。そして、なぜ彼女に痴漢扱ひされなければならないのかと当惑した。私は彼女にそんなスケベ親父に見えたのだらうか。

 しかし、ここでもし勝手な推測が許されるならば、これは彼女の私に対する嫌悪感から生まれた行動ではなく、彼女の体に染みついた一種の条件反射だつたのだ。

 彼女は役所に就職してから、何らかの口実をつけて彼女に近づいてきた上役の男性職員にお尻などを触られた経験が何度もあるに違ひない。そこから身に付けた彼女なりの防衛反応だつたのだと。

 世間のセクハラに対する目は厳しくなつてゐるが、その役所ではセクハラを訴へる有効な制度がないために、女性職員は彼女のやうに自己防衛するしかないのが実態なのだ、と痴漢の冤罪を受けた私にはさう思ふことにした。(2006年8月16日)







 読売新聞の「読書委員が選ぶ『夏の一冊』」で編集委員の布施裕之がユン・チアン著『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を挙げてゐるが、その紹介文が面白い。

 この本が読売新聞の書評の選に漏れた際の内幕をばらしてゐるからである。つまり、この本には日中戦争についてのこれまでの日本の学界の常識を無視した記 述が沢山あるので、書評の先生方の評判が悪いらしいのだ。だから、先生方の御機嫌を損ねてはとボツになつたといふわけである。

 布施裕之はこの本を今回敢て『夏の一冊』に選んでおいて、わざわざ「張作霖爆殺がソ連情報機関の仕業だったとするくだり。・・・かなり怪しい」と、特にこの事件の解釈の件りの評判が悪かつたことを暴露してゐるのだ。

 そりやさうだ。張作霖爆殺が日本軍の仕業でないとなれば、昭和史は全部書き直さなければならなくなる。さうなれば日中戦争は日本の侵略戦争でなくなつてしまふかもしれない。そんなことになれば、過去の日本を批判してきた先生方はおまんまの食ひ上げである。

 だから、布施裕之は「やや筆の走ったノンフィクションとして読むなら、これほど面白い本はない」と先生方にさらに遠慮してみせる。そんなことはさらさら思つてもゐないくせに。(2006年8月15日)







 例へば人が海や川で溺れ死んだら、それは本人のミスとして処理される。しかし、プールで溺れ死んだらプールの管理者の責任になる。

 子供が鉄道に迷ひ込んで列車に轢かれて死んだら、それは親の管理ミスとして処理される。しかし、子供が回転ドアに挟まれて死んだら、回転ドアの管理者の責任になる。

 鉄道会社は子供が迷ひ込まないやうに管理すべきだとならないのは何故なのか、海水浴場の管理人は人が溺れ死なないやうに注意すべきだとならないのは何故なのかは知らない。

 しかしながら、人がどこで溺れ死なうとそれは本人のミスに起因し、子供がどこで死なうとそれは親の管理ミスに起因することは確かであらう。それはプールであらうと鉄道であらうと回転ドアであらうとどんな施設であらうと同じことである。

 その本人のミスや親のミスから出発して起つた事故の責任を全部管理者である他人に転嫁して、本人や親のミスを一切問はないことが習慣化してゐるやうだが、ひよつとして自分の命は自分で守るしかないことまで忘れられてしまつたのだらうか。(2006年8月14日)







 第二次大戦について「軍部が平和な日本を戦争の惨禍に引きずり込んだ」といふ言ひ方がされるが。当時は今考へられるやうな「平和な日本」などは無かつたことが松本清張の『昭和史発掘』を読めば分かる。

 明治の初めに伊藤博文たちが作つた天皇制資本主義国家である日本は、大正から昭和に移る頃には極端な富の偏在を生み出してしまつてゐた。

 農地はどこの町でも明治期の間にごく数人の大地主たちの手に握られてしまひ、農民は殆ど全員が小作人になつてゐた。

 企業も三井三菱などの数少ない財閥のコンツェルンが全ての富を独占してをり、労働者は満洲の安い労働力との競争と当時の不況とのために低賃金を強ひられてゐた。

 政治は天皇の周りの重臣たちの不動の勢力が権力を独占してゐたために総選挙によつては何も変はらず、「君側の奸」に対する憎しみが充満してゐた。

 つまり、当時の行詰つた日本社会は平和どころか上層部に対する敵意がみなぎつてゐたのだ。それを一身に体現したのが軍部の青年将校たちだつた。彼らは我 々が何とかせねばといふ思ひに満ちてゐたのだ。それが五一五事件、二・二六事件となつて現はれたのである。(2006年8月13日)







 日銀の福井総裁がマスコミのバッシングといふ弾圧から生き残つたのは、要するに違法行為がなく、最後に警察や検察が動き出すと云ふ構図にならなかつたためだらう。

 現代の日本で荒れ狂つてゐるバッシングの原型は、実は戦前の天皇機関説問題での美濃部達吉に対するバッシングの中に見られるものであり、それは松本清張の『昭和史発掘』を読むとよく分かる。

 「天皇陛下を『機関』とは何事か」といふ無知なそして単純な右翼の野次から始つた美濃部バッシングは、美濃部の理路整然たる弁明によつて逆に激化し、最 後に検察が動きだしたことで頂点に達するのだ。それまで頑固として学説の撤回を拒否し公職からの辞退を拒んできた美濃部は、検察に起訴状を突きつけられて 到頭屈服させられたのである。

 あの男はけしからんといふ大合唱の嵐を背にした検察が美濃部の著書のあら探しを始めて、遂に不敬罪に該当する一節を発見して美濃部を追ひ詰めるに到る過程は、堀江や村上たちに対する一連のマスコミによる弾圧の過程とそつくりなのだ。

 もちろん美濃部を弾圧した軍はもうゐないが、その代はりにマスコミが似たやうなことをやつてゐるのである。(2006年8月12日)







 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は野球についての名言だが、これは金儲けについても当てはまる。

 貧乏になる理由ははつきりしてゐる。借金、これである。借金をする理由もはつきりしてゐる。ギャンブルをするか働かないかのどちらかである。だから、少しも不思議ではない。

 それに対して金持ちになる理由は、その人の才覚であり運である。その才覚を真似ようとしても真似られるものではない。運もまた同様である。だから、不思議なのである。

 ところが、最近働いても働いても貧乏な人たちがゐる。正社員と同じ様に働いてゐるパートの人たちである。これをフルタイムパートと呼ぶらしい。

 しかし「パート」と「フルタイム」は矛盾した言葉である。パートの給料で正社員と同じだけ働かされるのであるから、これはおかしなことである。不思議な ことである。恐らくは何かの法に違反してゐるに違ひない。ところが、平然と求人広告にフルタイムパート募集と書く業者がゐる。

 それ位にパートのフルタイム労働が当たり前になつてゐる。かういふ不思議は改めなければならない。(2006年8月11日)







 最近「大阪地裁の裁判官が懲役1年2月の実刑を言い渡しながら、判決書の主文に同1年6月と誤記した」といふニュースがあつたが、これを読むと新聞は被害者であれば誰でもいいのかと思ひたくなる内容である。

 ここでの被害者とは恐喝未遂で有罪が確定した男のことである。恐喝事件で加害者だつたはずの男が、この裁判所の誤記事件では一人前の被害者として扱はれて「判決誤記のまま確定」と大見出しを附けて夕刊社会面のトップ記事にしてもらつてゐるのだ。

そして「謝罪は一切ない。人を裁く裁判所がそういう態度でいいのか」と怒つてゐることまで書いてもらつてゐる。しかし、この男は正規の刑期で出所してをり、事実上何の不利益も蒙つてゐないのである。

 むしろこのニュースを読めば、刑事事件を起こして実刑になつたやうな男にそんな偉さうなことをいふ資格があるのかと思ふの普通だらう。それどころか、こ の男に恐喝されかけた被害者が現実にゐるわけで、その人から見れば、「誤記通りにもつと刑務所に入つてゐたら良かつたのに」と思つてゐるかも知れないの だ。

 まつたく新聞記者が被害者を持ちあげることが如何に常軌を逸してゐるかがよく分かるニュースである。(2006年8月10日)







 高校野球を見てゐて感動すると云ふ人がいるが、私の場合はどうしてあんなに愚かなのかと、見てゐてイライラすることばかりだ。なぜ考へて野球をしないのか、なぜあんなに精神力がないのかと。

 特に試合に負けておいおいと泣く選手たちにはいつもながらあきれてしまふ。あれでは小学生の腕白相撲と同じではないか。

 中学・高校と野球をしてきて、男なら負けて泣くなと教へられなかつたのか。その程度の感情のコントロールが出来ない者が、どうして甲子園まで来れたのか。単に運が良かつただけではないのか。

 情緒を抑へて理性的に行動すること、これこそが精神力である。ところが、甲子園に来る高校生は小学生と同じやうな子供でしかない。まつたく唖然とさせられる。

 18歳から大人扱ひをして選挙権をやれと言ふ人がゐるが、各地方の代表として出てきた高校3年生にもなる男たちがこのていたらくでは、とても大人扱ひなど出来ないではないか。

 「男が泣いてよいのは人生で一度だけだ」と君たちは聞いたことがないのか。この愚かな甘ちやんたちよ。(2006年8月9日)







 読売新聞が世論調査の結果から日韓関係が悪化したと書いてゐるが、では日本での韓国ドラマの高い視聴率をどう説明するのか。

 NHKが放送してゐる『チャングムの誓い』が、先週の土曜日に多くの地方で花火大会と重なつたにかかはらず19%近い高い視聴率を記録した。多くの日本人が韓国嫌ひならばとても考へられない数字である。

 あれは女が見るものだから関係ないとは口が裂けても言へまい。むしろこの結果は世論調査といふものが世の実態を反映せず、聞き方次第でいろんな数字が出るといふことを証明してゐることを認めるべきだらう。

 この世論調査では、日本の首相の靖国参拝の是非を日本人だけでなく韓国人にも聞くといふ愚かなことをしてゐる。

 これは読売新聞が首相の靖国参拝に反対してゐるからだが、その結果は皮肉なことに日本人の60%が「参拝しても構わない」と答へ、小泉首相支持層ではそ れが70%にまで昇つてしまつた。ついこの間のどこかの新聞が世論調査で参拝反対が過半数を越えたと騒いでゐたのは何だつたのか。

 まつたく世論調査とはいい加減なものである。(2006年8月8日)







 夏目漱石の『坊つちやん』には松山といふ地名は一度も出てこない。ただ四国辺といふだけである。かうした例はたくさんあつて、後の人間が漱石の意図に反して『坊つちやん』を松山の話にしてしまつただけである。

 この小説には温泉の話もあるが、それは「住田の温泉」であつて道後温泉ではない。松山の人間はこれを道後温泉と読み替へて宣伝してゐる。確かに建物は附 合するが、この温泉の話の主眼は、主人公が湯舟で泳いで次の回に行くと「湯の中で泳ぐべからず」と札を下げた田舎者の偏狭さである。

 その偏狭さは、最初の宿屋で見せつけられた客の扱ひ方から始つてをり、人が何を食べたかまでいちいち見てゐて話題にするいやらしさなどに表はされてゐる。しかし、これらが実際にあつた事実の記述と信じる必要はないのだ。

 有名な「ぞなもし」が松山の方言であるといふのも、根拠が『坊つちやん』だつたりして判然としない。言葉の後に「ぞな」をつける方言は全国にあるらしいから、それに「もし」を附けた漱石の創作である可能性もある。

 この小説で確かなことは、『今昔物語』によく見られる、不思議な土地に迷ひ込んだ人間がその土地で不思議な体験をして最後に抜け出してくる説話をモデルにしてゐることである。

 もちろんこれを松山の話に読み替へるのは自由だが、それは同時に松山が坊つちやんの云ふ「不浄の地」であることを認めることにもなると知るべきだらう。(2006年8月7日)







 アメリカでガソリンの値段が1ガロン3ドルになつたといふニュースが出た。1ガロンとは約4リッター足らずであるから、アメリカでは1リッター90円ほどといふことになる。

 日本ではそのガソリンが1リッター140円以上になつた。といつても、ではあしたから自動車をやめて電車に乗りませうといふ訳にはいかない。テレビでインタビューされてそんなことを言つてみても、現実にそんなことが出来るわけがない。

 もともと車を使ふこと自体が贅沢なのだが、この贅沢はもはや譲れない贅沢になつてゐる。持ち家がなくても県営住宅に済んでゐても、一人一台車を持つ時代である。もはや車は手足と同じなのである。

 そもそも1リッターで10円上がつた所で、50リッター入れて高々500円の違ひでしかない。この500円が惜しくて、車を使ふのをやめられる人は、初めから車など買はずに自転車で済ませられる人であらう。

 本当にガソリン代の値上がりが腹立たしいなら、とつくの昔にアイドリングストップが広まつてゐるはずである。ところが、現実の日本は炎天下の店先でクー ラーを切りたくないために誰も乗つてゐない車のエンジンがあちこちでぶるぶる鳴つてゐる国なのである。(2006年8月6日)







 昨日の読売新聞に夏目漱石が松山中学に赴任したのは明治28年4月と書いてある。戦前は学校は9月始まりだつたはずだがと思つて調べてみると、大学・高校は9月始まりだが、中学は明治19年から4月始まりに変更されてゐる。だから間違ひではないわけだ。

 年譜を見ると、漱石が明治26年7月に大学の英文科を卒業してから、28年4月に松山に行くまでに一年半の間がある。

 ところが、漱石の『坊つちやん』を読むと、主人公は卒業して8日目に校長に呼ばれて四国行きを言はれてゐるから、実際とは違つてゐることになる。

 そして小説の主人公が四国に行くのは4月の春ではなく、明らかに真夏である。

 赴任した季節を夏とは書いてゐないが、下女の清に「來年の夏休みに歸る」と「來年」を附けて言つてゐる、港に着いた時に赤褌だけで丸裸の船頭を見て「此 熱さでは着物はきられまい」と書き、宿屋の最初の部屋が「熱くつて居られやしない」と言ひ、中学の教頭が「此暑いのにフランネルの襯衣(しやつ)を着て居 る」と驚いてゐることなどから真夏だと推定できる。

 漱石は英語の教師だつたのに坊つちやんを数学の教師にしてゐることなど実際とは色々変へてあるのは知つてゐたが、季節まで違ふところを見ると『坊つちやん』は実際の出来事を思ひ出しながら書いたものでは全然ないことが分かる。(2006年8月5日)







 スポーツの試合には興行といふ重要な一面がある。試合は開催者が莫大な金を注ぎ込んで全部をお膳立てして行なはれるものである。だから、開催者側の選手がどうしても有利になる。ホームとアウェーが違ふのは、何も地元のチームに対する応援が多いからだけではない。

 これは国際試合ではもつと顕著になる。オリンピックやワールドカップで開催国がにはかに強くなるのは、地元の利だけではないのだ。

 ボクシングの試合ではむしろそれが常識である。外国の選手が敵地の試合で勝つてチャンピオンになるためには、相手をKOで倒すしかない。判定になつてしまつた段階でもう勝ちはないのだ。

 亀田興毅の勝利はだから当然のことで何も疑ふ必要はない。この判定を批判する日本人は余程のお人好しか、嫉妬深いかのどちらかであらう。

 私たちは亀田興毅が最後まで立ちつづけて、父親とTBSに恥をかかせなかつた事を多いに誉めてやるべきであり、相手選手は亀田を「子供」呼ばはりするならその「子供」を倒せなかつた自分を大いに恥ぢるべきであらう。(2006年8月4日)







 ドストエフスキー『罪と罰』の江川卓氏の翻訳は、簡単な所は実にこなれた日本語になつてゐて分かりやすいが、すこし訳しにくい所になると、原文の直訳になつてゐるといふのが実態のやうである。

 第二部「ぼくは最初、この場所のいっさいの偏見を根こそぎにするつもりで、いたるところに電流を放とうと思ったんだ」(岩波文庫の上250頁)「良心を 晴らすために、やつにも電流を通じてやろうかと思ったんだ」(同253頁)とあるが、「電流」とは具体的に何を意味するのか不明である。

 その直前の「こってり砂糖を利かせたからね」(249頁)は「誘惑する」と意味なのだらうが、日本語としてこなれてゐない。

 「そして、やつらに唾をかけてやるんだ!」(259頁)も米川正男の「そうすれば、あいつらなんかくそ喰らえだ!」の方が自然である。

 「署の事務官のザメートフ君、アレクサンドル・グリゴーリエヴィチとも近づきなったよ」(249頁)も米川氏の「ザミョートフ氏―ほら、あのアレクサン ドル・グリゴーリッチ、つまり、ここの警察の事務官とも、・・・知り合いになった」の方が誰が誰であるかが遥かに分かりやすい。

 『罪と罰』に関する限り、江川氏の功績は庄司薫的な文体(それは元々は『ライ麦畑でつかまえて』の訳者野崎孝の文体である)を採用することによつて、この作品を日本人に近づき易いものにした点に限定して評価すべきではないかと思ふ。(2006年8月3日)







 松本清張の『昭和史発掘』の「京都大学の墓碑銘」は所謂「滝川事件」を扱つたものであるが、この事件の実態が文部省と京大法学部の大喧嘩であり、「学問の自由を守る」といふ名目とはかけ離れた意地の張り合ひでしかなかつたことがよく分かる。

 滝川の問題はもともと右翼の学者がけしかけたことだつたが、文部省も最初は大ごとになるとは思はずに様子見してゐたものが、国会で取り上げられて問題がどんどん大きくなつてしまひ、京大総長が東京で文部省の役人と協議せざるを得なくなつた。

 総長の曖昧な態度に発したマスコミの滝川辞任報道によつて、京大法学部は態度を硬化、文部省は滝川辞任で事が治められたと思つてゐたので引つ込みがつかなくなる。

 そして到頭文部省は滝川の休職を発令、それ対抗して京大法学部全員が辞表を書く事態となり、につちもさつちも行かなくなつてしまつた。

 もちろん全員が辞表を書ゐたのは「京大法学部が無くなつて良いのか」といふ脅しだつたが、本気で辞める気のない者がかなりゐることがその内に分かつてきた。そこで、文部省が強硬派の教授だけを首にしたら残りの教授は辞表を引つ込めてしまつた。

 かくしてハツタリが破れた京大法学部は存続してしまひ、この喧嘩は文部省の勝ちに終つた。しかしながら、滝川は戦後ちやつかりと京大教授に復職して総長 にまでなつてゐる。結局この事件は滝川の軽率さに多くの人間が振り回されただけのことだつたのである。(2006年8月2日)







 お見合ひを40回もして全敗だつたといふ男性がテレビに出てゐたが、40回もお見合ひをした気持ちは分からなくもない。結婚も出来ないのに何でまじめにあくせく働く必要があるのかと思ふからである。

 しかし、お見合ひなどは一回すれば充分である。お見合ひに出てくる女は顔は違つてゐても、中身はみな同じで同じ対応をしてくるからである。

 昔ならお見合ひをしたら、嫌ひでない限り結婚したものだが、今では好きでないと、つまり自分のタイプでないと結婚しない。そして女の好きなタイプといふのは人によつてあまり違ひがないのである。だから何回見合ひをしても駄目なものは駄目である。

 ただ唯一希望があるとすれば、それは旦那を顔で選んで失敗した経験を持つバツイチ子持ちの女ではないか。母子家庭の経済状況は日本ではひどいものだからである。

 だが、それでも駄目なら、仕事は適当にやつて一人で気儘に暮らすのが一番だ。結婚したつて実はろくなことはないのだから。(2006年8月1日)







 松本清張の『昭和史発掘』の中の「桜会の野望」と「五一五事件」を読むと、昭和初期の行詰つた世の中を何とかしようとする改革運動が、民間でも軍部でも強烈な力を持つて胎動してゐたことがよくわかる。

 満洲事変にしろ血盟団事件にしろ五一五事件にしろ、全部がこの国内変革を求めるマグマのやうな巨大な力に突き動かされて発生したものであつて、何をどうしてゐたらこれらの事件が避けられたといふことは全く想像しがたい程の必然性があつたことがよく描かれてゐる。

 特にこの本で注目すべきは、血盟団事件が直接の五一五事件と繋がつてゐたことを明らかにしてゐることである。先づ井上の仲間が民間側として決起した後 に、将校たちが軍隊側として五一五事件を起こしたのである。この二つは一連の運動であり、井上日召の改革思想が軍にも多くの共鳴者をもつてゐたからこそ、 五一五事件が起つたのである。

 実際、井上の作つた暗殺者名簿はそのまま五一五事件に受け継がれてをり、例へば五一五事件で殺された犬養はすでに井上の殺害目標に挙げられてゐた。

 これらの策動は、腐敗した政党政治を排して軍による独占政権を樹立する以外に、最早日本を救ふ道はないといふ切羽詰まつた思ひの現れであり、それは国民 の間に広く共感を得てゐた。五一五事件の被告たちに対する減刑嘆願書35万通はまさにその表れだつた。(2006年7月31日)








 歌舞伎が男だけなのと宝塚が女だけなのとは意味が違ふ。歌舞伎はもともと男女でやつてゐたのに、江戸時代に幕府によつて女の役者が禁止されたから男だけでやることになつたのである。

 ところが、現代でも歌舞伎は男だけでやつてゐる。それは歌舞伎が現代の創造物ではないからである。それはクラシック音楽が昔々に作られた作品を演奏してゐるのと似てゐる。

 女の役者はもう禁止されてゐないのだから女を舞台に戻しても良ささうなものだが、戻すに戻せないのである。女は舞台でどう演じたらよいか分からないのである。それが伝はつてゐないのである。

 歌舞伎は内容から言へば男だけで演じなければならないものではない。しかし、歌舞伎の演目は女ぬきの芸能として完成したものである。そしてそれが古典と して伝はつてきた。古典であるから、昔の人がやつた通りに演じなければいけない。その昔やつた記録に女がゐないのである。

 だから、歌舞伎に女は無用なのである。男女共同でなくても、歌舞伎で充分やつていけるのである。(2006年7月30日)







 マスコミは報道しないやうだが、プロ野球のセリーグはオールスター直後の阪神×中日戦で阪神が三連敗して事実上中日の優勝が決定してしまつたので、翌日からは延々と消化試合になる。

 パリーグと違つて、セリーグは毎年早ばやと優勝チームが決まつてしまふ。これは試合数が少ないから逆転が不可能なこともあるが、プレーオフ制をとつてゐないこともその原因だ。

 アメリカの大リーグなら、シーズンを一位で終つても優勝チームにはならず、プレーオフがあるために最後の最後まで興味が残るが、日本のプロ野球のセリーグはすぐに興味が失せてしまふのである。

 ところが、プロ野球のお偉方はこの上さらにファンの興味を損なふことを考へてゐるやうだ。

 交流戦が面白いのだから1リーグ制にしたらどうだとか、プレーオフ制の方が興味が続くのだからプレーオフの勝者を優勝チームにしようとか、ファンが面白がるやうなことを、彼らは一切考へないのである。

 逆に、優勝チームをプレーオフの勝者ではなくシーズン一位のチームにしてみたり、プロ野球でいま唯一面白い交流戦を減らさうとしてゐるのである。プロ野球は益々つまらなくなりさうである。(2006年7月29日)







 日本は格差社会といふより階級社会になつてきてゐると思ふ。それは正社員階級とパート・アルバイト階級に別れた社会である。

 パート・アルバイトと云へば昔は一家の中に正社員として働く人間がゐる傍らで、子供や妻が働く形態のことであつた。だから、パート・アルバイトは週二回ほど一日三・四時間働くことを意味してゐた

 ところが、今ではパート・アルバイトは複数の企業にわたつて毎日八時間以上働くこと意味するやうになつてきてゐる。しかも、一家の中に正社員として働く者が一人もゐないために、パート・アルバイトの給料で家族を維持するために土日も休まず働かねばならないのだ。

 寮に入つて夜昼交代で働いてゐるのに、パート・アルバイトであることも珍しくない。労働時間は正社員と同じかそれ以上でありながら、パート・アルバイトは正社員より遥かに少い給料しかもらへないのだ。

 かうして今や日本には新たなカースト制が生まれつつある。最近海外旅行に行く人が増えたと云ふが、それは正社員階級の話であつて、彼らの優雅な生活をパート・アルバイト階級の苛酷な労働が支へてゐるのである。(2006年7月28日)








 大きくなつたらお花屋さんになるのが女の子の夢だつたりするが、花屋といふ商売は実際には可愛らしい商売ではない。花と云ふものは非常に高価な商品であり、しかも祝儀不祝儀には欠かせない必需品とあつては、うまくすれば億単位の金儲けにもなる。

 翻訳もまた億単位の金儲けになることを、今回のハリーポッターの翻訳者の税金逃れのニュースで知つた。

 翻訳は何かの資格があつてするものではないが稼げる人は稼げるのである。逆に、医者になつても弁護士になつても貧乏をして犯罪に手を出す人もゐる。

 金儲けは資格ではなく才覚の問題なのだ。

 それにしても、ハリーポッターの翻訳者は何を思つて日本で税金を払ふことを嫌つたのだらうか。

 ハリーポッターの本を買つたのは日本の子供たちだ。その子供たちがなけなしの小遣ひを貯めて買つてくれたのだと思へば、先づもつてその子供たちが使ふ施設や図書館の費用に使つてくれと寄付する位の心遣ひが在つてもよささうなものだ。

 ところが、この女翻訳者はニュースの通りだと、寄付するどころか、ちやんと税金も払はずに儲けを独り占めにしてスイスに逃げてしまつたことになる。もし 子供たちがこれを知つたらどう思ふだらう。是非ともNHKの子供ニュースで取り上げて欲しいものである。(2006年7月27日)







 世論調査で首相の靖国参拝に対する反対意見が過半数になつたといつて社説で早速靖国参拝中止を求めた新聞社も、滋賀県の知事選挙で新駅反対の民意が出たといつてJRに新駅建設中止を求めたりはしないやうだ。

 新駅問題では地元の直接の利害が絡んでくるからだらうか、新聞は何が正しいかを言ふことをやめてしまつて、「新知事お手並み拝見」と完全な傍観者を決め込んでゐる。

 しかし、公共工事による税金の無駄遣ひをやめようといふ流れは、長野の脱ダムから始り、全国に着実に広まりつつある。

 その表れの一つが今回の滋賀県知事選挙であり、私の近くでは兵庫県稲美町や播磨町での町長選挙である。

 この二つの町では借金をしてまで強引に公共工事を進めようとしてゐた現職町長が相継いで落選した。こんな小さな町の住民たちももう箱物行政にはうんざりしてゐるのだ。

 住民たちは最早土建屋に金を回すことに熱心な人ではなく、もつと身近な生活を大事にしてくれる人を求めてゐるのだ。この問題で新聞がいつまでも無責任なことを言つてゐると、いづれは世間から見放されてしまふだらう。(2006年7月26日)







 私は日本は格差社会であるとは思はないが、謝罪社会であるのは確かだらう。とにかく謝つておけといふこの考へ方はあらゆる場面に出てくる。

 それでうまく行くときもあるがさうでない場合もある。例へば、これが刑事事件に出てくるときに冤罪事件が生まれる。

 被疑者がやつてもゐないことに対してとにかく被害者に謝罪してしまふのが冤罪である。名張の毒入り葡萄酒事件で容疑者とされた男性が謝罪してゐる場面をテレビで見たが、あの人は何もしてゐなかつたのだから驚きである。

 それでも他の場面ではとにかく謝罪しておけばうまく行くのが日本社会である。しかし、それが外国でも通用すると思つて、日本政府は第二次大戦のことをアジアの国々に謝罪して廻つたが、これはうまく行かなかつた。

 外国では謝つてもそれで済みはしない。謝るんならあれをしろこれをしろと次々に言つて来る。言ふ通りにしないのなら謝つたのは嘘だつたのかとなる。首相の靖国参拝にケチを付けてくるのもその一つだ。

 謝罪社会といふ日本の特性をよく知つて上手く立ち回つたのが、石油ファンヒーターで死者を出したのに大して叩かれなかつた松下電器だつたわけである。(2006年7月25日)







 大相撲の千秋楽で雅山と白鵬が勝てばそれぞれ大関・横綱に昇進すると報道されてゐたので、それを信じてテレビを見た。ところが、二人とも勝つたのにどちらも昇進は見送られたと発表されたのだ。

 白鵬の横綱昇進見送りの理由は朝青龍に独走を許したからだと理事長が言つたさうだが、そんなことは前日の段階で分かつてゐたことだ。それならなぜファンに気を持たせるやうなことを言つたのか。

 前日の報道では確かに白鵬が千秋楽に勝てば横綱になれるやうなことを言つてゐた。あれは嘘だつたのか。

 これでは単に最終日を盛り上げるために編み出した相撲協会の策略だつたのではないかと疑ひたくもなる。重要な一番となると思はれたからこそテレビの視聴率も上がつたはずだ。それが違つてゐたのだからファンは騙されたやうなものである。

 今や高齢者の間でさへも、大相撲は外人ばかりで面白くないといふ意見が広がつてゐる。外人ばかりが優勝するのだから、表彰式で「君が代」を唱ふのはやめたらどうかといふお年寄りファンは多いのだ。

 その上に今回のファンを騙すやうな協会のやり方である。協会は力士に礼儀作法を教へる前に自分たちの言葉遣ひを学んだ方がいいのではないか。(2006年7月24日)







 プロ野球のオールスターゲームに登板した阪神の藤川は、先づ打者に向つて帽子を取つて挨拶をしてから、全部直球で行きますよと ボールの握りを打者に示してから投球を始めた。そして二人を三振にしとめると、その後でまた打者に向かつて帽子を取つて深々とお辞儀をしたのである。

 ところが、新聞が書くとかうなる。「投球練習を終えた阪神・藤川はボールを握った右手を、迎える西武・カブレラに向けて突き出した。打ってみろ――と言わんばかりのふてぶてしいポーズ」。お辞儀ばかりをしてゐた男のどこがふてぶてしいのか。

 元官房長官の福田康夫氏は総裁選の話題になるといつも「迷惑だ」と言つてきた。確かに「出ない」とは言はなかつたが、出るわけがないのに出る出ないを言ふのは意味がないから何も言はなかつたのである。

 それなのに「出ないならはつきりさう言ひなさい」と誰かに言はれて「出ない」と言はざるを得なくなつた。

 そして「僕は出馬するといふことを言ひましたか。言ひました?」と念を押したのである。これは出るわけがないから何も言はなかつた自分が何で不出馬表明しなきやならんのだといふ憤りの表れにほかならない。

 ところが、新聞が書くと「不出馬表明した福田氏の言葉は端々に悔しさがにじんだ」となる。新聞記者とはとかくとんちんかんなことを書くものらしい。(2006年7月23日)







 日本人は法律を杓子定規に守れば全てがうまく行くと思ひがちで、警察はせつせと人を逮捕する。駐車違反の取締りも同じで、民間の調査員を雇つてどんどん検挙すれば世の中良くなると思つてゐるのだ。

 しかし、車は止まるために動かすのである。止まると云ふ目的を禁止したら車を使ふ意味が無くなつてしまふ。

 なぜ駐車禁止を取り締まることより、駐車禁止の場所を減らすことを考へないのか。道路は通るところであるだけでなく止まるところでもある。それを止るな、車から降りるなとは何事であるか。

 アメリカやヨーロッパの道路の両側は車がびつしりと駐車してゐる。あれは全部駐車違反なのか。

 道路といふものは、もともとは近所の住人が無償で自分の土地を出し合つて作つたのが始まりである。それをまるで警察の持ち物のやうに規制して、走るだけのために使はせようとする。

 道路は国民のものである。それをどう使ふかを警察が勝手に決めた通りにしろといふのは民主的ではない。ましてそんな警察に雇はれて駐車違反を検挙して廻る民間人は、国民に対する裏切り者ではないのか。(2006年7月22日)







 日本のことを「謝罪社会」と名付けてよいのではないかと私は思ふ。「何でもいいからとにかく謝つておけ」とはよく言はれる言葉だが、日本ではこれが一面の真実を衝いてゐるのだ。

 その典型が、日本のプロ野球でデッドボールを与へた投手が打者に対して帽子を取る仕草だ。アメリカの大リーグの投手は知らん顔だから、これは日本だけの風習なのだらう。

 企業の不祥事にしても、記者会見で謝罪したかどうかが大きなニュースになる。こんな国は他にはないと思ふのだが、新聞記者たちはこの謝罪の有る無しに狂奔する。

 しかし、謝罪などと云ふものは外見的なものであつて、心の中ではアッカンベーをしてゐても分からないのである。ところが、日本人は外見を即ち内心の現れだと認定するのだ。

 事件の被害者にしてみても「形だけの謝罪なんて要らない。欲しいのは金だ」といふのが本心の筈なのだが、何かと上辺の言葉にこだはる。

 企業バッシングで謝罪ニュースを見るたびに、まつたく日本はフランスに劣らぬ変な国だと思ふのである。(2006年7月21日)







 岩波文庫の新しい『罪と罰』を江川卓氏の訳で読み始めたが、上巻の212頁でストップしてゐる。第二部第一章、警察署での役人たちの会話に、

 「でも犯人を見かけたものはだれもなかったんですかね?」
 「見かけるはずがあるもんですか。あの家は、ノアの箱船同然なんですから」

といふのがある。この「ノアの箱船同然」といふのがよく分からないのだ。これには江川氏によるこんな注釈が附いてゐる(411頁)。

 「ノアの箱船 ノアの箱船に多数の動物がいたことから」

 動物が多数ゐた事と、目撃者がゐるはずがない事とどう関係があるのかと、考へ込んでしまつた。ここの住民は動物のやうにろくに人間の言葉もしやべれないといふ意味なのか。

 ところが、この岩波文庫(1999年)よりずつと前に出ている江川氏の『謎とき「罪と罰」』(1986年)といふ本に、ノアの箱船とはロシア語の慣用句で普通は「雑多な人間がごたごたと住まっている大アパート、あるいは雑居ビルを指す」(129頁)と書いてあるのだ。

 これなら分かる。このアパートの住民は互ひの出来事に関心がなく好き勝手に暮らしてゐるから、誰に何が起こらうと気にもかけない人たちなのである。これなら、目撃者がゐない事とつながつてくる。

 したがつて、江川氏は岩波文庫の注釈を次のやうに書き換へるべきだつた。

 「ノアの箱船 雑多な人間がごたごたと住まっている大アパートの比喩」と。(2006年7月20日)







 自動車業界ではミニバンブームださうだが、日本は少子化で子供が居なくなつてゐる。いつたい大きな車に誰を乗せようとして人々はミニバンを買ふのだらうか。

 日本の家族の子供は一人か多くて二人だ。核家族化で年寄がゐないのだから7人乗りのミニバンの三列目のシートに乗る人はゐないのが実状ではないのか。

 7人も乗らないのに7人乗りを買ふのは、奥さんの買物に便利だといふことが大きいのかも知れない。奥さんが大きなミニバンに一人で乗つてゐるのをよく見かけるからだ。しかし、それでは省エネ時代にガソリンの無駄遣ひといふものだらう。

 いや唯一ミニバンが流行つてゐない施設の駐車場がある。それはゴルフ練習場の駐車場である。そこに停まつてゐるのは昔ながらのセダンが主流である。

 何と言つてもミニバンの荷台はゴルフバッグを積むのに適してゐない。セダンのトランクと違つて、ゴルフバッグが外から見えるのでガラスを割つて盜まれる心配があるからだ。

 つまり、セダンに乗つてゐる男たちは、不景気の時代にもゴルフを続けてゐるやうな人たちであり、家での発言権の強い人たちだと云ふことになるのかもしれない。(2006年7月19日)







 小泉首相は運がいいとよく言はれるが、運の良さはリーダーが持つべき重要な資質の一つであり、それは誉められこそすれ批判すべき事ではない。

 運の悪い人間が一国のリーダーになれば、その人間の運の悪さは本人の不幸だけでなく、それがそのまま国民の不幸につながるからである。

 日露戦争で連合艦隊の司令長官に東郷平八郎を選ばれたとき、その大きな理由の一つに東郷は運がいい男だと云ふのがあつたのは有名な話である。誰をリーダーに選ぶべきかを考へるときに、その人の運の良さは昔から重要なファクターの一つだつたのである。

 折しも日本の景気回復が本格的になつたといふ。これを小泉首相の政策が成功したからではなく、単に彼が運が良かつただけだといふ声があるが、もしさうだとしてもそれで充分ではないか。

 どんな立派な政策を実行しても運が悪くて不景気な首相よりは、どんな政策によつてにしろ景気を恢復させる強運をもつ首相の方が余程よい首相であるのことに間違ひはないからである。(2006年7月18日)







 事故によつて死んだ人の遺族が誰かに刑事責任を取らせることによつて心が癒されることがあるかのやうなマスコミの報道姿勢は疑問である。

 争ひの結果で人が死んだ場合に報復を求めることは人情に適つてゐる。だから、『忠臣蔵』はいつまでも人気がある。しかし、事故の場合にわざわざ責任者を探し出して罰を加へようとするのは、憎しみを作り出すだけで慰めをもたらしはしない。

 争ひには人と人の繋がりがある。それに対して事故には元々の人間関係がない。元々無いところに人間関係を作り出して謝らせようとするのが遺族報道の中心である。それは運が悪かつたと諦めようとしてゐる人間に憎しみの対象を与へようとする行為である。

 ところが、憎しみからは何も生まれないのだ。いや、もしかしたら相手次第では金が取れるかも知れない。しかし、いくら金をもらはうが誰が罰されようが、憎しみに終りはないのである。

 むしろ憎しみは人を醜くする。加害者の極刑を求める人間に同情する人はゐても尊敬する人はゐないのではないのか。(2006年7月17日)







 さぞトヨタはほつとしてゐる事だらう。今度は自分の番かと思つたら、翌日にはバッシングの対象はパロマに移つてゐたからである。

 湯沸かし器の一酸化炭素中毒で人が死んだニュースは何度も見た。不正改造が原因だつたことが今頃明らかになつたとしても、当時よく調べもせず記事を書いてゐた記者たちも威張れまい。

 パロマは日本の企業にしては珍しく記者会見で謝罪しなかつたといふ。もちろん自分の側に落ち度がないなら謝罪しないのが正しいことで、謝罪しないのがおかしいかのやうに書く新聞の方がおかしいのである。

 そもそもどんな製品でも使用中に起きた事故の責任を何でもメーカーに負はせようとする事がおかしいのである。製造、設置、保守点検、使用のそれぞれで責任者は違ふはずだ。ところが、メーカーなら金を持つてゐるだらうとマスコミは何でもメーカーにせゐにしたがる。

 それもこれも被害者やその遺族の側に偏した報道姿勢の結果だが、かういふ偏つた報道に正しさや正確さを期待することが土台無理なのは明らかである。(2006年7月16日)







 自動車のリコール件数がこの二年ほど異常な数にのぼつてゐる。昭和時代には届け出件数が年間一桁も珍しくなかつたのに、平成になつて二桁が普通になり平成16年には331件とほぼ毎日リコールの届けが出されるといふ滅茶苦茶な事になつてゐる。

 これは昭和から平成になるに従つて日本の自動車メーカーがいい加減な車を沢山販売するやうになつたなのかと言へば決してさうではなく、警察が自動車業界に口出しするやうになつたからである。つまり、リコールしておかないと逮捕される恐れがあるやうになつたからである。

 その結果、例へばトヨタは国内での年間販売台数より多い約180万台もの台数を毎年リコールしなければならない事態になつてゐる。

 それなの熊本県警が10年も前のことをほじくり出してきて、リコールを一件怠つたとトヨタの部長ら三人を送検したのである。これではトヨタも一体どれだけリコールしたらいいのかと云ひたくもなるだらう。

 そして、リコールするかどうかの判断を警察に教へられる必要はないとトヨタがお怒りなのも当然だ。

 最近では医学の世界に口出しして医師を逮捕したりと、警察の傲慢な姿勢が色んな方面で目立つやうになつてゐるが、自動車業界もその被害者になつてゐるといふわけである。(2006年7月15日)







 ジダンはサッカー馬鹿だつた。頭突き行為の弁明にテレビ出演したジダンは、「暴力よりも耐へ難い言葉の侮辱を受けたのだから後悔してゐない、むしろ罰を受けるべきは挑発した方だ」と言つたのである。

 そんな理屈がまかり通るものなら刑法はまるつきり改正しなければならなくなる。

 元々サッカーは人間のくせに手を使はずに足を使ふスポーツであり、とてもお上品なスポーツとは言へない。その上にサッカーグランドでは「やーいやーい、お前の母ちゃん出べそ」に類する子供じみたいじめの言葉が飛び交つてゐるのだ。

 ジダンはそれに挑発されて暴力に及び、おまけにテレビに出て「こんな事を言はれたの」と大人たちに言ひつける大きな子供である。

 ところが、大半のフランス国民がこの男を「さうかさうか可哀想に」と宥める始末である。かつてシドニーオリンピックの柔道で篠原に裏返しにされたフランス人が金メダルをとつたことに何の疑問も懐かなかつた変な国だけはある。

 文化大国フランスと言つてもそれは昔の階級差別の産物であつて、革命以降のフランスがもたらしたものはストライキと暴動と、そして自分の暴力を正当化す るサッカー選手くらゐの物でしかない。今のフランスはとても尊敬に値する国とは言へないのである。(2006年7月14日)







 北朝鮮によるミサイル発射はアメリカの独立記念日に当つたため、アメリカ向けの示威行為であると言はれてゐるが、私は韓国がその日に実施した日本の領海内での海洋調査に対する援護射撃ではないかと思つてゐる。

 北朝鮮は、韓国の調査活動が日本と一触即発の事態に発展する可能性があると見て、韓国と一体化して日本に対抗する好機であると見たのだと思ふのである。

 ところが、韓国政府は当初それに気付かずに北朝鮮を非難する声明を出してしまつた。そのため、北朝鮮は韓国を脅す常套手段である「火の海」発言を出すに至つたのである。

 その後の南北閣僚級会談で、北の代表が「『軍優先の政治』は南側の安全を図るものだ。南側の広範囲の大衆が先軍の恩を受けている」などと主張したことからも、援護射撃といふ見方があながち的外れではないと思はれる。

 もつとも韓国の大統領府は北の意図を先刻御承知だつたらしく、北のミサイル発射に対する日本の騒動を「騒ぎすぎ」と言つたりして、北朝鮮に歩調を合はせようとしてゐる。

 もしこの援護射撃といふ見方が正しければ、次に北朝鮮がミサイルを発射するのは日本側が日本海の海洋調査を実施して日韓の緊張が高まるときになると思はれるが、さてどうなるだらう。(2006年7月13日)







 新聞は社説でニートやフリーターに正社員になることを勧めるが、その理由に正社員になると結婚が出来るといふのがあつて笑はせてくれる。

 あれを書いた人間は結婚してゐるらしいが、その人が結婚できたのは自分の魅力のせゐではなく正社員だからだと思つてゐるらしいからである。

 しかし、正社員であるから結婚できるのなら、退職したら離婚されても仕方がないことになつてしまふ。実際、夫の定年退職と同時に離婚する妻が増えてゐると云ふではないか。

 すると正社員であることによる結婚とは要するに女の側から見た金目当の結婚を肯定することになる。そんな結婚を得た男は幸福を得たと言へるのだらうか。

 そもそも結婚とは気持ちでする物のはずだが、正社員でること、つまり安定した収入が結婚の重要な条件であるとするのは、新聞記者が最近批判してゐる拝金主義ではないのか。

 きつと統計では正社員の方が結婚してゐる確率が高いのだらう。しかし、それがどんな結婚であるかは統計には現はれないのである。(2006年7月12日)







 殺人と云ふのはやつた事のない人間にとつては謎である。なぜ人を殺してしまふのか、なぜそこまでやるのか理解できない。いや恐らく人を殺してしまつた人にとつても謎なのではないか。警察は色んな理由付けをするが、殺人は殺人犯にとつてもやはり謎なのではないか。

 人間の行動には理性だけでは計り知れないものがある。犯罪は損得勘定からすれば明らかに損なのに罪を犯してしまふ。そこには何か本能的なものが潜んでゐるに違ひない。

 人が自分自身に言葉で命令することによつて行動することはどれほどあるだらうか。行動とは流れの中でいつの間にかしてゐるものではないか。スポーツでは、むしろその領域に達しなければ大成しないと言はれる。

 だから理性だけでは駄目なのだ。理性は欲望や感情などの本能に支へられたときに力のある行動に結びつく。ところが、人が本能の力を知つて利用することはなかなか出来ない。

 人間は理性と本能の狭間で暮らしてゐるのだ。その微妙なバランスが崩れるときに人は犯罪者になるのではないか。(2006年7月11日)







 また日本はアムネスティに叱られた。死刑制度を廃止しないばかりか、死刑の日にちを明らかにしないことで死刑囚に謂れ無き恐怖を与へてゐると。

 アムネスティは死刑を国家による殺人であると明確に規定して、日本はそれを実行してゐる数少ない先進国であると指摘する。そして世論の支持を死刑の正当化の根拠とするのは間違ひだと、日本を痛烈に批判してゐる。

 日本では戦争を国家による殺人だとして批判する声は大きいが、もう一つの国家による殺人である死刑を批判する声は少ない。

 それどころか、厳罰化は凶悪犯罪を減らすための正しい流れだといふ意見が広まつてをり、今回のアムネスティによる批判は大きなニュースにもならなかつたのである。

 しかしながら、厳罰化は世界の流れではない。世界の「125カ国が法律上または事実上死刑を廃止しており、アジアではフィリピンが6月に廃止を決めた。韓国でも廃止の動きがある」といふのだ。

 死刑とは被害者の遺族が国家の手を借りて行ふ殺人である。国家の手を借りた殺人を奨励することで、国家の手を借りない殺人を減らすことなど出来る分けがないのは明らかではないか。(2006年7月10日)







 ワールドカップが始まるまではあんなに強かつた日本チームがワールドカップが始まつた途端に弱くなつてしまつた。実に不思議なことである。

 一つの同じチームなのであるからワールドカップが始まる前と始まつた後で日本チームの持つてゐる実力は同じはずである。とすると、それは強いものが弱くなつたのではない。

 日本はなぜ一勝も出来なかつたのか。それは持つてゐる実力を発揮できなかつたからである。そして、その原因は私は時差の問題が大きいのではないかと思ふ。

 日頃ヨーロッパでサッカーをしてゐる日本人選手たちは、日本に帰つて来て代表に選ばれ、またヨーロッパに帰つて行くといふ二度の時差の変化を克服する必要があつた。

 思ひ出して欲しい。日韓大会でヨーロッパのチームが日本や韓国で相継いで敗れ去つたことを。ところが、今度の大会ではヨーロッパのチームが強い。これには時差もなく自分たちの住み慣れた環境で試合が出来たことが大きいのではないか。

 そして、かう考へれば日本人選手、そしてブラジルの選手たちの不振も理解できるのではあるまいか。(2006年7月9日)







 7月7日の読売新聞の編集手帳は分かりにくい。極刑を望む被害者の親の気持と、命を惜しむ「惜命」の気持がどう関係があるのだらうか。

 「広島市の小学1年生あいりちゃんを殺害した被告に先日、地裁で無期懲役が言い渡された。『あいりちゃん、ごめん、負けたよ』。極刑を求めていた父親が心臓から絞り出すように語った言葉が耳に残っている」

 これは暴力による復讐を求める人の言葉である。心を鬼にして、自分の子の命の代償を求める人の姿である。裁判の勝ち負けに人生を懸ける人の姿である。けつして命を惜しむ人の言葉ではない。

 もし本当に命を惜しむ人なら自分の子の命だけでなく、人の子の命も惜しむはずである。そしてヤギ被告にも親がゐる。

 極刑を望む人は、命を惜しむ人ではない。「あんな奴は死ねばいい」「あんな奴は殺してしまへ」といふ考へ方が社会にはびこつてゐる。だからこそ残虐な事件が頻発するのである。
 
 人は赦さねばならない。人を赦してこそ「惜命」といふ言葉が輝きを持つてくるのではないのか。(2006年7月8日)







 北朝鮮がミサイルの発射実験をしたらマスコミはまるで戦争が始まつたやうな大騒ぎだ。一方、王監督が手術を受けると言ふとまるでもう亡くなつかのやうな騒ぎ方である。

 しかしながら、本当は何がどうなつてゐるのかは報道からは全く分らない。ミサイルは実験なら実弾は装填されてゐないはずだからどこに落ちようと被害はないはずだし、王監督も胃癌でないのなら腫瘍を取り除くだけの話であらう。

 では、一体、北朝鮮のミサイルには実弾が装填されてゐたのかどうか、王監督は胃癌なのかどうか。一番知りたいことを報道は教へてくれないのである。それでゐながら大騒ぎをしてゐるのだ。

 かういふ場合は、実弾が装填されてゐたのではないか、王監督は胃癌なのではないかと、一緒になつて心配しろと云ふことなのだらうか。

 そもそも自民党の総裁選に出馬すると仄めかしもしない、いやむしろ迷惑がつてゐる人を総裁候補に含めて世論調査することからして分からない。マスコミの言ふこと為ることには全くついて行けない今日この頃である。(2006年7月7日)







 NHKの番組で姫路のモノレールの車両が地下で埃まみれになつて放置されてゐるといふことを知つた。実にもつたいないことをするものだ。今から見れば立派な文化遺産だからである。

 アメリカのやうな歴史の浅い国では自分たちが歴史を作つて行くといふ意識が強い。だから、イチローが最多安打記録を作つたバットが即刻野球殿堂博物館に収納されただけでなく、用が済んで使はれなくなつたものは文化遺産としてすぐに博物館などに入れて展示物にする。

 一方、姫路のモノレールは莫大な赤字がかさんだ末の廃止といふことで、誰の目にも届かない所に仕舞ひ込まれてしまつた。

 人間のすることには失敗も成功もある。なのに日本人は失敗は隠してしまふか、逆に広島ドームのやうに自虐的に人目にさらすかのどちらかになる。しかし、たとへ結果は失敗でも良いところもあつた筈なのだ。ところが、それを全否定するから展示できなくなる。

 姫路のモノレールも車両のデザインや日本で二番目のモノレールだつた事など、誇れる点はいくらもある。失敗にも「よいところもあつた」と思ふところから自分たちのありのままの歴史を築けるのではないか。(2006年7月6日)







 滋賀県の知事選挙で新幹線の新駅建設を進めてゐた現職知事が落選した。借金してまで新駅を作る必要はないといふのが県民の判断だ。

 新幹線には名古屋と京都の間に現在米原駅と岐阜羽島駅がある。さらに三つ目の駅を滋賀県南部に作らうと云ふのが今回の計画だつた。

 栗東近辺の人たちは東京へ行くとき在来線で一旦京都へ戻らねばならないが、新駅が出来ると名古屋から東京直行になる「ひかり」に乗ることが出来て、京都へ戻る必要がなくなるのだ。

 実際に出来ればこの方が便利なことは確かで、新駅が出来ても京都に戻ると言つてゐる人は、神戸空港が出来ても使はないと言つてゐた神戸の人たちと同じであらう。

 問題は建設費だ。地方自治体の多くは今だにどんどん借金をしてもよいといふ考へ方だ。しかし、兵庫県播磨町でも同じ考へ方の現職町長が落選した。

 国が小泉改革で公共工事を止めて歳出削減してゐるときに、箱物行政で借金を増やし続けて公共工事を優先する地方政治は、今や全国的に拒否されつつあるのではないか。(2006年7月5日)








 最近、アイドリングストップと云ふのを実行してゐる。これは車が信号で止まるたびにエンジンを切ることで、テレビで宣伝してゐるので後続車に遠慮せずやれるやうになつた。

 ただしこれには面倒なことが色々ある。まづ車のエンジンを切るとラジオ以外の電源が切れて、例へばエアコンが効かなくなるので、夏はすぐにキーを半分だけ戻して電源だけは入れてやる必要がある。

 また、マニュアル車ではエンジンを掛けるときにクラッチを踏んでゐる必要がある。これはギアをローに入れる動作と連動してゐるので無駄ではない。一方、 AT車の場合にはギアをPかNに入れないとエンジンが掛からない。これは停車時にギアをNにしてハンドブレーキを引く癖を付ければ面倒ではなくなるかもし れない。

 もう一つ困るのは、信号が青になつたときにキーを回してもウインウインと云ふだけでエンジンが掛からないときがあることだ。車が新しいうちはすぐに掛かるが、バッテリーが古くなつて来ると、この事態が発生する可能性が大きくなる。

 自分の前の車が「一旦停止」を真面目に実行すると苛つくドライバーが多い中で、アイドリングストップを広めることはなかなか難しいことかもしれない。(2006年7月4日)







 法律で男女平等だからといつてそれを実生活に持ち出すと角が立つのと同じやうに、子供の扶養義務は法律で二十歳までだからといつて息子に自立を強要すると親が殺されることにもなる。

 子供を持つには、その子供が食つて行けるやうにしてやる覚悟が必要だ。大人になつた時に働いて金儲けができるやうにしてやることが何より大切だが、それに失敗したら大きくなつた子供の衣食住の面倒を見てやるしかない。

 実はこの考へ方は日本では既に一般的な考へ方になつてゐると思はれる。だからこそ、親許に住むニートやフリーターが増加してゐるのであらう。もちろん親の方も、子供がずつと同居してゐてくれたら、面倒を見る楽しみもあり、張り合ひもある。何より寂しくない。

 逆に、この道に外れた家族の中で家庭内暴力や親子間の殺し合ひが起きたりしてゐるのではないか。子供の扶養控除を未成年に限るなどといふ法案が検討されてゐるさうだが、そんなことをすれば平和な家庭に波風を立てるだけである。(2006年7月3日)







 道路で右折で止つてゐる車の後ろに、右折するわけでもない車が何台も連なつて止つてゐるのはよくある光景である。

 もちろん、これは道が狭ければ仕方がない。しかし、道が広かつたり二車線ある場合には、前の車が右折のウインカーを出して止りかけたら、右折しない後続の車は左のウインカーを出して前の車をよけて通ればよいのである。

 ところが、それが出来ない人が沢山ゐるらしいのだ。

 前の右折車をやり過ごすには、あらかじめある程度の車間距離をとつてゐる必要がある。ところが、車間距離を取つてゐないので前の車が右ウインカーを出して止つたら、一緒に止るしかない。

 また二車線あつて左の車線によけるためには、あらかじめバツクミラーや左のサイドミラーで左車線の状況をよく知つてゐて、左車線の車の流れに乗れなければいけない。ところが、それも出来ない人が多いらしいのだ。

 そもそも右折がろくに出来ない運転手が沢山ゐる。対向車線の車の流れが完全に無くならないと右折出来ず、自分の後ろに延々と車を従へて止つてゐる車をよく見かける。

 近年交通事故が増えても死者数が減つたのは恐らくかういふ下手なドライバーが増えたからだらうと思ふ。なにしろ車は止つてゐる限り死亡事故を起すことはないからである。(2006年7月2日)







 「庶民にゼロ金利を押しつけておいて、銀行の元締が株で稼いでゐる」とは日銀の福井総裁を批判するキャッチフレーズだが、これほど庶民を馬鹿にした言葉はない。

 庶民だつて株取引ぐらゐ出来る。それで稼いでゐる人も沢山ゐるのだ。庶民がゼロ金利なのに福井さんだけ高金利で稼いでゐるなら大いに問題だらう。しかし、福井さんの預金も庶民と同じ低金利の筈である。

 比べるべきものを比べずに庶民感情とはこのレベルだと、預金金利と株の利益を同列に扱ふのは、庶民はこんな違ひも分からないと思つてゐるからだらう。

 一方、株取引きにしても、利益を上げたのは福井さんではなく村上ファンドである。ならば、問題は検察の云ふ「インサイダー取引」で村上ファンドの得た利益が、福井さんの利益に流入してゐるかどうかだらう。

 しかしながら、もし仮にさうだつたとしても、さらに福井さんが村上ファンドの「インサイダー取引」を知つてゐた場合だけ福井さんに罪があると言へる筈だ。庶民もこれ位のことは知つてゐるのである。(2006年7月1日)



私見・偏見(2006年_2)





 ゲートボールといふものが一時流行つたが今では全く下火になつたやうだ。

 そもそもあれをスポーツと呼べるかどうか疑はしい。ゲートボールのプレーヤはスティックを力いつぱい振り回すことがまづない。体を力いつぱい動かすことがないのである。

 そこがゴルフと一番違ふところであり、他のスポーツと違ふところである。これに一番近い動きをするのはビリヤードだらうか。

 屋外で立つてするといふことで体力は使ふが、散歩に毛が生えたやうなものである。だからこそ老人向きのスポーツとされたのだが、これでは健康増進には役立たない。

 が、それ以上にルールが精神衛生上よくない。下手な者は除け者になつてしまふのである。まづ第一ゲートを通過できない者は、最後まで何もさせてもらへない。

 次に、やつと通過させても、相手にボールを当てられて外に追ひ出されてしまふのである。お前は参加するなと言はれるのだ。これでは面白くない。いや不愉快でさへある。

 かうしてゲートボールは心身両面であまり益のないスポーツであるとされて、人気を失つたのである。(2006年6月30日)







 これまで電話代と新聞代が一つの家で毎月払ふ情報料だつたが、最近はそこにインターネット接続料と携帯電話料金が加はつた。

 電話代つまり固定電話の料金は携帯電話料金と目的が重複してゐるが、固定電話を止めるわけには行かない。光通信にしない限り固定電話はインターネット接続に必要だからである。

 新聞代もインターネット接続料と目的が重複してゐる。新聞はそもそもインターネットで読めるからである。最近はスーパーなどの広告チラシもインターネットで見ることができるので、チラシのために新聞をとる必要もなくなつた。

 むしろ新聞をとると後始末が大変で、新聞紙とチラシを廃品回収に出す手間がいる。新聞社によつては古新聞をトイレットペーパーに交換してくれてゐたが今はそれもない。

 新聞社の入社試験を受ける人が新聞をとつてゐないと試験で不利になることは確かだらう。しかし、それ以外の人にとつては、新聞はとつてゐなくて特段不利になることは無くなつたのではないか。

 新聞代もインターネット接続料も同じく4000円ほどだ。どちらかを削る必要が生れた時にどちらを削るかは明らかだらう。(2006年6月29日)







 日本の報道はバッシング報道に偏つてゐるために、国民にとつては情報としての価値が少いやうに思へる。

 インドネシアで鳥インフルエンザが人から人へ感染したが、日本では大きなニュースにならない。インドネシア当局をバッシングできないからだらう。

 エレベータで人が挟まれた死亡事故はアメリカで以前に発生してゐたが、日本人が被害者でもないアメリカの会社を謝らせることも出来ないから大して報道されなかつた。

 外国に起きたことは日本にも起る可能性がある。それを早い段階でしつかり報道して行政に対応させることも可能だつた筈だ。ところが、目的がバッシングであつて、国民の生命財産を守ることではないので、報道は熱心にならないのである。

 一方で、東横インが違法に改造してゐたとか、日銀総裁がいくら儲けたかなど、国民にはたいして役に立たないが、バッシングには大いに役立つ報道は頻りに流れるのだ。

 理性に基づいたものではなく国民感情や遺族感情に悪乗りした報道が、情報としての価値の大きな報道なるわけがない。そもそも中世でもあるまいし、ヒューマニズムを重んじるべきジャーナリストが死刑判決を歓迎してどうするのか。(2006年6月28日)








 開幕から飛ばしてゐた巨人が6月になつて怪我人続出で連敗地獄に陥つて失速した。これは星野阪神の一年目とそつくりである。

 負け癖の附いたチームの監督に請はれて就任した星野も原も、開幕ダッシュに成功して4月は勝ちまくつた。星野阪神15勝8敗。原巨人17勝6敗。ところ が、6月になると星野阪神は4勝13敗、原巨人は6勝15敗(6月25日現在)。(阪神のデータは「虎の穴郵便局」を参照した)

 星野も原も開幕時には申し分のない戦力をもらつてゐた。そこで親会社とファンの期待に応へるべく選手をフル回転させた。その結果、4月前半にはなんとにどちらも2つしか負けず、とても野球とは思へない勝率を残した。

 しかし、それが落し穴だつた。野球とは本来勝つたり負けたりするスポーツなのだ。多く勝つても6割程度、普通は5割を少し超せば御の字とすべきスポーツである。

 それを8割も9割も勝つたこと自体をかしかつたのである。無理をしてゐたのである。その無理が選手の怪我として表面化してきたのだ。一年目の星野阪神は怪我人続出だつたが、原監督は先人の失敗に学ばなかつた。

 競馬でも最初から鞭を入れすぎると失速するものだ。ところが、相手が人間だと知らぬ間にさうして仕舞ふ。それが破綻を招くことは人間の集まりであるチーム、そして家族とて同じなのである。(2006年6月27日)







 首相の靖国参拝についての訴訟に対する最高裁の判決がでた。その結果は門前払ひ。この訴へは裁判するに値せずといふものだつた。

 最高裁は「こんなことで裁判を起すな」「裁判を政治に利用するな。馬鹿者ども」と云つたのである。

 そもそも人の行動が気に食はないと感じただけでは、傷つけられたことにはならないのである。それ以上に、この訴訟は裁判官を政治的に利用しようとする意図が丸見えなのだ。そんなものに裁判官がいちいち附合はされてはたまらない。

 多くの新聞は「最高裁、憲法判断せず」と書き、最高裁が判断を逃げてゐるやうに書いてゐるが、少なくともこの判決によつて、首相の靖国参拝を違憲だと裁判所に言はせることは出来ないことがはつきりした。

 これと同じ内容の訴訟をいま地裁や高裁で争つてゐる人たちは訴訟を取りやめるのが賢明だらう。最高裁は一つしかないのだからもう結論は出たのである。

 そして、首相の靖国参拝を裁判によつて止めさせることが出来ないことが分かつた以上、反対派は別の方法を考へる可きだらう。(2006年6月26日)







 耐震偽装事件は問題の建築士の単独犯だつたことで終つたさうだが、捜査の過程で「耐震偽装」事件でさへなかつたことが明かになつたのはお笑ひだつた。

 悪の親玉のやうに言はれたコンサル会社の社長が偽装を指図したのではないが、建設会社に鉄筋の数を減らすやうに求められたことは確かだと思つてゐた。ところが、これも嘘だつたのだ。

 あの建築士は鉄筋の数を減らしても安全な構造計算をする能力がなかつたどころではなく、そもそも高層建築物の構造計算が出来なかつたのである。

 だから、彼は耐震強度の計算をごまかしたのではなかつた。彼にそんな高度な芸当が出来るはずはなく、彼はただ単に計算がうまく行かないので適当に書いてしまつただけだつた。その結果として耐震強度のない設計になつてしまつたのである。

 結局、この事件は建築士が構造計算を偽装した事件ではなく、建築士が構造計算をできなかつた事件だつたのである。それを社会がチェック出来なかつたために、強度不足のマンションがあちこちに建つてしまつたといふわけである。(2006年6月25日)







 手品が流行してゐるが、テレビ番組の手品を見てテレビタレントたちが過剰に驚くのを見ると違和感を感ぜざるを得ない。

 手品は仕掛けのあるもので、本当に物が消えたりするのではない。手品はさう見える様にしてゐるだけのことなのである。だから、その手際のよさを誉めることはあつても、現象それ自体に驚く必要はないのだ。

 手品は表に見えることと事実が別物である代表的な例だが、裁判などもさうである。検察は容疑者を極悪人であるかのやうに描いてみせるが、これも仕事上さう見える様にしてゐるのであつて、事実もさうだと思つて被疑者に腹を立てる必要はない。

 光市の母子殺害事件なども同じで、事実は分からないのである。

 単にセックスをしたいといふだけで昼間から行当りばつたりに女性のゐるアパートに侵入したといふのも信じがたいことで、本当はもつと悪くて強盗目的だつたのかもしれないし、それとも最初は単にこの女性に会いたかつただけかもしれないのだ。

 だから、事件の現場からただ一人生き残つた男性を殺してしまへば、事実を知つてゐる者が誰もゐなくなつてしまふことだけは確実である。(2006年6月24日)







 『岩波中国語辞典』の特徴は、他の中国語辞典のやうに漢字の親字を中心とした配列ではなく、全ての語彙がアルファベット順に並んでゐることである。

 しかし、それよりさらに変つてゐるのは例文がローマ字で書いてあつて、漢字はそのあとに括弧に入れて書いてあることである。

 この二つの特徴によつて、この中国語辞典はまるでまるで英和辞典のやうに使ふことが出来る。

 中国語は漢字の読み方が日本語とは異なつてゐるので、初心者は漢字の日本語による音訓索引があると便利だと思ふ。ところが、少し進んでくると、漢字の中 国語読みのうちでも抑揚(漢字ごとに決まつてゐる四つの声調)が覚えにくいことに気がつく。その段階になると、目的の言葉を直接検索できるこの辞書の便利 さが際立つて来るのだ。

 ところが、この辞書はおいそれとそこいらの本屋に売つてゐない。

 また、収録語彙が1963年の儘(まま)であるため言葉が古く、ピーマンが「燈籠辣椒」で「青椒」でなかつたり、載つてない言葉があれこれ見つかるし、北京語中心なので発音も普通語と違ふことがある。

 しかし、中国語の発音を身に付けるのに絶好の辞書であることには間違ひがなく、この言語の学習者とつては持つてゐて損のない辞書だらう。(2006年6月23日)








 ワールドカップの新聞記事に「中沢」といふ選手がどうのかうのとしきりに書いてある。実はこれは「中澤」のことらしいのだが、新聞は「中沢」と書く。

 テレビでは既に人名の正字(所謂旧漢字)使用が一般的である。本人がさう書いてゐるのだから、さう書くべきなのであり、テレビ局がさうしてゐるのは当然のことである。

 ところが、新聞は本人の書き様を無視してわざと間違つて簡略字を使ひ続けてゐる。これなども「新聞は嘘を書く」例の一つである。

 光市の母子殺害事件でも最高裁の弁論を欠席した弁護士は任命されてたつた2週間で準備不足だつたことを、新聞は書かないのである。職務でしてゐること、 仕事でしてゐることに対して大衆の憎しみを掻き立てるやうに書くのである。事件自体の記述も検察の丸写しで大いに眉唾物である。

 新聞記者は自分で見てゐないことを書くのだから、嘘半分間違ひ半分になるのは仕方がないのである。

 その上に意図して歪めて書くのだから質(たち)が悪い。だから、そんなものを人に読み聞かせたりしてはいけないのである。嘘だらうなと思ひながら、それでも読みたい者が読めばいいのである。(2006年6月22日)







 考へてみれば、盗作とは本来無名の作家の作品を有名な作家が無断で借用することである。有名な作家の作品を借用した場合は盗作ではなくパロディーとかカバーとかアレンジとか言はれるだけである。

 したがつて、イタリア人画家のスギ氏が日本の和田氏に盗作されたと騒いだのは、自分が世界では無名であることをよく認識してゐたからだといふことになる。スギ氏はイタリヤやヨーロッパでは有名らしいが日本を含めた世界ではまだまだ無名なのだ。

 しかしながら、もしスギ氏が和田氏の説明を受け入れて、和田氏の作品を自分の絵に対するオマージュだと認める余裕があつたなら、自分の作品に対する ヨーロッパでの高い評価を日本でも広めることも出来たはずである。さうなればスギ氏は優れた画家としても日本でも有名になれたに違ひない。

 ところが、スギ氏は日本でスキャンダルを起してしまつたために、そのチャンスを逸してしまつた。その結果、彼は日本では和田氏に「盗作」された暗い絵を描く画家として有名になつてしまつたのである。(2006年6月21日)







 ワールドカップを見てゐると、やはり日本人はサッカーでは体格で不利だなとつくづく思ふ。

 サッカーは単にボールを蹴り合ふだけのスポーツではなく、敵と味方が体をぶつけ合ふ一種の格闘技であることがテレビの画面を通じてよく分かる。

 その点、野球はいい。敵と味方の位置があらかじめ決められてゐるからである。バッターがキャッチャーの居場所に入つて来るとか、バッターがピッチャーに体をぶつけて来ることなど退場覚悟でない限りありえない。

 野球では何といつても敵と味方が18メートル以上も離れて勝負するのがいい。だからバッターが身長2メートルの大男でピッチャーがチビでも何とか技術で勝負が出来る。

 ところが、サッカー、それにバスケットボールやラグビー、アメリカンフットボールなど体をくつつけ合ふ競技ではさうはいかない。技術を使ふ前に体格で勝負がついてしまふからだ。

 やはり日本人は野球がいい。それに同じ球技でも卓球やテニス、バレーボール、ゴルフなど、敵と味方の体が離れてゐて、技術で何とかなる競技が日本人には 向いてゐる。あとは一人で出来る体操だ。この点からすると、大相撲に外国人を入れたのは大間違ひであることは明らかだらう。(2006年6月20日)







 ワールドカップにトリニダード・トバコが出てゐる。なぜこんな小さな国がアメリカなどの大国と並んでワールドカップに出場できるかといふと、それはこの国の多くの選手がヨーロッパのサッカーリーグの選手だからである。

 つまりワールドカップと言つても世界中から各国の選手たちがドイツに集つて来て戦つてゐるのではなく、ヨーロッパにゐる選手たちが同じヨーロッパで国別のユニフォームに着替へて試合をしてゐるだけのことなのである。

 これは日本の代表選手の多くについても言へることだが、日本の選手と違つてアフリカや南米の選手たちは母国では一度もサッカーの試合をしたことがない選手が多いといふのだ。

 これは例へて言ふと、いま日本の大相撲ではお相撲さんの多国籍化が進んでゐるが、もしその外国人力士たちが日本で国別対抗戦を開催したとしたら、それが相撲のワールドカップとなるのである。

 大相撲の国別対抗戦でモンゴルチームが優勝しても、モンゴルは生れた国といふだけのことである。それと同じやうに、ヨーロッパで育つた選手たちがヨー ロッパで国別対抗戦をしてどこの国が勝たうが、それはその国の功績といふよりも彼らを育てたヨーロッパ・サッカーの手柄でしかないのである。(2006年 6月19日)







 いま日銀総裁の信頼性が揺らいでゐると言はれてゐるが、もつと深刻に揺らいでゐるのはマスコミの信頼性の方ではないか。

 「シンドラー社エレベーター、扉開いたまま上昇」といふニュースが実はほんのちよつと開いてゐるだけで事故の可能性のないものだつたり、その原因のプロ グラムミスが実は死亡事故とは関係がなかつたりと、シンドラー社に関するニュースには、謝罪が遅れた同社に対するマスコミの悪意ばかりが目立つてゐる。

 新聞社を代表とするマスコミが人には厳しいが自分に甘いことは、放送局が盗撮社員をプライバシー保護の名目で庇ひ立てしたことだけにとどまらない。

 村上ファンドに出資した日銀総裁に資産公開を要求するなら、なぜ新聞社がまづ自ら資産を公開しないのか。

 新聞社が独占禁止法の適用を除外してもらふほどに公共性のある存在なら、資産公開は当然の責務だらう。総保有資産、投資状況、広告収入、購読者の実数、 社員の給料などを全て公開して、国民に対する透明性を保持してこそ、厳しい報道姿勢に対する国民の信頼性も確保できるといふものだ。(2006年6月 18日)







 オーストラリア戦の日本の敗因を、ジーコ監督の采配ミスだとか選手のミスだと言つた日本人はゐたが、駒野にPKを与へなかつたエジプト人審判の誤審のせゐだと言つた日本人はゐなかつたのではないか。

 ところが、日本は誰かのミスによつて負けたのではなく、エジプト人審判によつて負けさせられたことが明かになつた。

 まつたくヒディング監督は審判の誤審によつてよく勝つ監督である。今回もヒディング率ゐるオーストラリアはエジプト人審判のサポートで日本に勝つた。と ころが、そのヒディングは日本の得点、つまりオーストラリアの失点を審判の誤審だと言ひふらし、オーストラリアの勝利を正義の実現だと言ひ張つたのだ。

 それに対して日本人は、審判を批判せず、ヒディングを批判せず、自分を責めるのである。

 ワールドカップは戦ひの場であつて教育の場ではない。だから、嘘ハツタリは当然なのだ。日本人はヒディングの爪の垢でも少し煎じて飲んだ方がいいのではないか。(2006年6月17日)







 オーストラリア戦に負けて評判の悪い日本のサッカーだが、日本のサッカーとは元々ああいふものなのである。

 つまり、どさくさ紛れに相手のゴールに押込んだ少ない得点を最後まで守り抜くのが、世界を相手にしたときの日本サッカーなのである。

 外国の選手のやうな、または国内試合で見られるやうな、ゴールネットに突き刺さる派手なシュートなんてものは期待してはいけない。

 責任の重い国際試合では、日本的な譲り合ひの精神がチームを支配してゐて、ゴールを前にするとシュートを打つのではなく、お前が打てお前が打てとパスばかりするのが日本式サッカーなのである。

 オーストラリア戦の中村のゴールにしてもシュートではなく、ゴール前に上げたパスが入つてしまつただけの、まさに日本らしいゴールだつた。だから、日本のシュート数が相手チームの三分の一だからといつて、日本が弱いわけではないのだ。

 ただ、今年のこのチームはどうやら守りに問題があるらしく、オーストラリア戦でも虎の子の一点を最後まで守りきれなかつた。ところが、ジーコ監督はもつと攻撃的な布陣ににすると言つてゐるらしい。はたしてそれで大丈夫なのだらうか。(2006年6月16日)







 JA(農協)が安いと思ひ自動車保険の申し込みに行つたが、インターネットで見積もつた掛金と同額にならない。そんなこともあるかと思つてゐたが、案の定だつた。

 今の保険にある「エコカー割引」に相当する「環境対策自動車割引」が出来ないと受付の女性がいふのだ。「それはおかしいなあ」などといふと、本に載つてゐないといふだけで、理由をはつきり言はずに、支店長に相談に行つてしまつた。

 それから優に半時間も待たしたあげく、支店長が出てきて、あなたがインターネットの入力の際に、自分で環境対策自動車に指定したのが間違ひだといふのだ。

 なぜ、素直に初めから「JAではお客様のお車は環境対策車になつてゐないんです。ごめんなさいね」と言はないのか。(三井住友海上でも東京海上でも私の車は歴とした環境対策車なのだ)

 調べると高々500円ほど割高になるだけなのに、女性はそれも言はずに席をはずしたまま、半時間以上も客をほつたらかしにする始末だ。「お待ち下さいね。今調べてをりますから」などと言つて客の機嫌をとるのが礼儀だらう。

 自動車保険をインターネットで契約できる時代に、客がわざわざ足を運んできたのだ。それをわづか500円ばかりのことで長年の客を怒らせて帰らせることがあるだらうか。

 JAのホームページには環境対策自動車が何を指すのか書いてゐない。これはJAの手落ちだらう。支店長はそれを客のせゐにして勝つた気でゐる。これは客商売ではない。お役所仕事だ。JAにも民営化が必要ではないか。(2006年6月15日)







 巨人の選手によるベース踏み忘れ事件で、事実とは何かについて考へさせられた。

 ロッテの今江三塁手は巨人の小関選手が三塁を踏まずに通過したと、審判にアピールした。すると審判はそれを認めてアウトのコールをした。といふことは、小関の三塁踏み忘れを、今江と審判の二人が見てゐたことになる。

 ところが、その晩のフジテレビの放送で小関が三塁ベースの端を踏んでゐる映像が流された。当然巨人は抗議する。しかし、判定が覆ることはないのだ。

 小関は試合後「塁を踏むのにいちいち意識なんかしてゐない」とうそぶいたが、踏んでゐないやうに見えてゐないかを意識しながら塁を踏むべきだつたのではないか。実際、二人もの人間に踏んでゐないやうに見えたからである。

 球場における「事実」はその時どう見えたかに尽きる。あとで異なる「事実」のビデオや写真が出てきても、まさに後の祭である。

 「人にどう見えるかを意識して行動すること」。これは日常詰らないトラブルに巻込まれないために一般人にも是非必要な心遣ひであらう。(2006年6月14日)







 車のドライビングポジションはシートを出来るだけ前にした方が足腰が楽なやうだ。

 シートを後ろにずらして、右足の膝を伸した状態でアクセルペダルを土踏まずで押すやり方は運転中は楽なやうな気がするが、車から降りてから足腰の疲れがひどいことに気附く。

 いろいろ調べるとマニュアル車の基準では左足でクラッチを一杯に踏みこんだ時に、踵(かかと)が浮かないやうにシート位置を決めるのが良いらしい。となると、座席はかなり前になる。

 運転中の右膝の角度も普通は45度(内側は135度)にするのが良いらしいが、90度に近い方がさらに楽らしい。

 となると、車のアクセルペダルの設置場所が気になる。膝を90度にしたときに足もとにアクセルペダルが来ないと困るのだ。流行の吊り下げ式のアクセルでは、つま先でしか踏めなくなつて仕舞ふ。

 となると、昔のやうなオルガンのペダルのやうなアクセルが体には楽だと云ふことになる。そのためか、最近ではオルガン式ペダルが新型シビックなどあちこちで復活してゐるやうである。(2006年6月13日)







 小西甚一の『基本古語辞典』の前書きにはこの辞書を作つたときの経緯(いきさつ)が書いてある。

 彼はこの辞書を作るに当つて、既存の古語辞典を調べてみた。すると、「驚いたことに、語釈・用例ともに大部分は先行辞書のまる写しというのが多い。前の辞書が誤っていると、あとは右へならえ、同じ誤りがいつまでも写し継がれていく」

 私も古本屋で沢山の古語辞典を買つてきて比べながら使つてみたが同じ感想を持つた。
 
 しかしながら、模倣は重要な知恵でもある。

 テレビの動物番組を見ると、高い処にあるバナナを取るのに、猿はいつも一匹で立ち向ふ。助け合へばすぐに取れるのに助け合はない。しかし、別の猿のやることをよく見てゐて真似をして、それに自分の工夫を加へるのだ。

 経済社会もこれに似てゐる。競争だから各社は互に助け合はないが、他社が開発した技術の模倣には余念がない。出版社の辞書づくりも同じなのである。

 ただし、せつかく上手い方法を見つけてバナナを取つた猿はいつも他の猿にバナナを横取りされるやうだが、人間社会ではそんなことがないやうに特許権や著作権があるといふわけである。(2006年6月12日)







 A級戦犯が合祀されたから天皇の靖国参拝がなくなつたといふ人たちは、天皇が名代として毎年勅使を靖国神社に送つてゐることについてはなぜか言及しない。

 しかしながら、天皇がA級戦犯の合祀を批判して参拝をやめたのなら、勅使を送るのは筋が通らない。といふことは、天皇による靖国参拝がなくなつたのは、A級戦犯の合祀が原因ではないといふことになる。

 本当の原因は、天皇による参拝が「私的参拝」か「公的参拝」かといふ議論が国会で起きた為である。本人による参拝が問題になるから名代になつたのだ。

 このことは誰でも知つてゐることである。なぜなら、麻生外務大臣が会見でこれにはつきりと言及してゐるからである。

 ところが、今だに天皇による靖国参拝を復活するためにもA級戦犯の合祀をやめるべきなどと言ふ人たちがゐる。彼等は反小泉や親中国などの政治的立場や平 和主義などといふマスコミ的な立場から、本当の原因には知らんぷりをして「A級戦犯、A級戦犯」と年寄りの繰り言のやうに言つてゐるのである。

 立場によつて、知つてゐても信じたくない事実と、知らなくても信じてゐたい事実と云ふのがこの世の中には存在するわけである。(2006年6月10日)







 むかし言論の自由が確立される以前には、政府は自分と異なる意見を言ふ人間を黙らせようとした。

 しかし、自分と異なる意見に出くはすと腹が立つて、そいつを黙らせたいと思ふ衝動は、何も政府や王様に限られたことではない。一般人の誰もが感じるることである。

 最近、自分と異なる意見の書いてあるブログに出くはすと、相手が意見を変へるかブログをやめてしまふまで、大量のコメントを書き込んで攻撃するといふことが流行つてゐるが、それも同じ衝動から来てゐる。

 これは右翼も左翼も関係なく、他人の言論を封じたいといふ人間の根つ子にある衝動が生の形で現はれたものである。ブログに対するコメントは一見、言論に言論で対抗してゐるやうに見えるが、さうではなくてあれは言論に対する暴力である。

 大量のコメントが殺到したのを見たときに感じる恐怖は、ある日突然家の前にマスコミが殺到してゐるのを見た時に感じるのと同じ恐怖であるまいか。自分に襲ひ掛らうとする目に見えない悪意の存在ほど恐ろしいものはない。

 かくて国民大衆が政府の手から勝ち取つた言論の自由は、国民大衆自らの手で失はれていくのである。(2006年6月10日)







 私が小学校の頃には文庫は岩波文庫しかなかつたが、ピンク色の帯が附いてゐることもあつて、文庫売場にはエッチな本を売つてゐると思つてゐた。

 実際に読めるやうになつて読んでみると、その通りのエッチな内容の本が多い。ピンクの帯ではないが『今昔物語』の世俗編や『宇治拾遺物語』などは日本版 の『デカメロン』で、中身はかなりのピンク色だ。恋愛やセックスの話だけではなく、そのものずばり性器の話があちこちに出てくる。

 『源氏物語』にも実は露骨な性描写があることは田辺聖子の訳によつて分かるが、『今昔物語』や『宇治拾遺』ではそれらが訳を通さなくても分かるのである。

 人間と云ふのは古今東西、何処であらうと何時であらうと考へてゐることは同じだらうと想像はできるが、千年以上も前の人間の露骨な性行動を実際に目の当たりにするとやはり驚かされる。

 学生には『徒然草』ではなく『宇治拾遺』などをもつと読ませたら、古文の勉強がはかどるのではないか。ちなみに古文では男性性器のことをマラといふが、それは本屋にある古語辞典では『岩波古語辞典』だけに載つてゐる。(2006年6月9日)







 和田氏の盗作問題で文化庁がいつたん和田氏にやつた賞を取り消すさうだが、これはやつてはいけないことである。

 賞などといふものは一旦与へる以上は何があつても後で取り消さない覚悟をした上で与へるべきである。なぜなら、賞を与へてあとで取り消せば、何もしなかつた場合以上に相手の名誉を傷つけることになるからである。

 それにしても日本人は外国人の意見に弱い。外国人は平気で嘘をつくものだが、相手の動機を疑ひもせずに外国人の言ひ分を全面的に受け入れて自国の人間をやつきになつて貶めるのが日本人の習ひである。

 しかしながら、そもそも芸術家といふものは人の作品を自分の盗作だと言つて騒いだりしないものだ。また、一流の芸術家が他国の芸術家を「画家とは知らなかつた」などと言ふだらうか。

 ところで、和田氏の絵は今なら貧乏人が買へるまで値下りしてゐる筈だから、絵の好きな人にとつては、今こそ買ひ時だらう。将来どこかの外国人が和田氏の 絵を称賛して絵の価値が上がるかもしれないし、さうでなくても絵としてはスギ氏の絵より美しいからである。(2006年6月8日)







 民主党は所謂「共謀罪」を含む法案で対案を出したが、いざその民主党案が国会で採用されて可決されさうになると、それに反対したのだ。

 こんな馬鹿げたことはない。どこの世界に自分が出した法案の成立に反対する政党があるだらうか。そんなことなら初めから提出しなければ良かつたのである。

 どうやら野党である民主党が提出する法案は、単に与党との違ひを強調して自分の党の宣伝をするためだけの法案であるらしい。

 投票権を18歳に設定した国民投票法案しかり、夫婦別姓を認める民法改正案しかりである。民主党は本当に法律になるとは思つてゐないから色々と斬新なことが提案できるのである。

 しかし、かつて消費税廃止を主張した社会党が政権につくと消費税を引き上げたやうに、民主党も実際に政権を担当すれば現実的な政策をとらざるを得ないのである。

 民主党が格好いい法案を出すのは野党の間だけだといふことを「共謀罪」の法案は明らかにしたと言へる。(2006年6月7日)







 日本は共存共栄の社会から弱肉強食の社会に変はつてしまつたと言はれるが、さうでないこと村上逮捕は物語つてゐる。

 M&Aは日本ではまだ悪なのである。だからM&Aを行ふ村上氏は悪人なのである。悪人を早く捕まへろといふ国民の声に応へて村上氏は逮捕された。逮捕理 由は怪しいものだが(M&A目的の株の売買をインサイダー取引とするのは、M&Aの否定である)、これは大した意味がない。

 彼を逮捕してこの世から追放するのが、マスコミのひいては国民の願ひだつたのであり、その願ひが実現されたのである。

 凡庸な経営者による凡庸な経営こそが、日本では求められてゐる。だから、阪急が並行して走る阪神を買収するなどと云ふ、企業の保身以外には何の意味もないことが行はれても、この国では批判されないのである。

 有能な人間が出てきて支配してしまへば、多くの負け組が生れてしまふ。それが許せないのだ。大切なことは事の良し悪しではなく、好き嫌ひなのである。嫌ひな奴の云ふことならいくら良いことでも聞かないのである。

 そして凡庸な人間が集つて談合を繰り返して共存共栄を続けるのが日本社会なのだ。談合のために一握りの管理職が逮捕されはするが、それによつて有能な人間が排除されるから、却て企業は安泰なのである。(2006年6月6日)







 新聞を独禁法の適用除外とする「特殊指定」の撤廃が今回は見送られることになつた。

 つまり新聞だけが法律違反を許され続けることになつたのだが、これに対して各新聞社は「お陰様で、特殊指定が継続することになりました。これも読者の皆様のご声援の賜物です。これからも新聞をよろしくお願いします」と書いたかといへばさにあらずだ。

 各社は軒並み「特殊指定の継続は当然だ」と高飛車な姿勢で、自分たちの法律違反を正当化して見せるのである。

 この問題に関して何よりひどいのは特殊指定の廃止を求める人々の声を新聞が一切報道しなかつたことだ。新聞は真実を報道しないことを又も明らかにしてしまつたのである。

 特殊指定が民主主義の維持につながるといふのが彼らの決り文句だが、多くの新聞が民主主義の日本政府よりも一党独裁の中国政府を大切にしてゐるのをみても、彼らが民主主義を大切にしてゐないことは明らかである。

 新聞は特殊指定存続を勝ち取つたことに鼻高々だが、現実に新聞の読む人間は確実に減つてゐる。驕る平家は久しからずなのである。(2006年6月5日)







 テレビ局がスギ氏の作品と和田氏の作品を並べて、こんなに似てゐると連日放送してゐるが、笑止である。似てゐる似てゐないといふ指摘自体が無意味なのだ。元の構図が同じなのだから、似てゐて当たり前なのである。

 和田氏のあの一連の作品は、色の附け方にオリジナリティーを求めたものだと考へられる。そして、スギ氏の色附けよりも和田氏の色附けの方が、私の目には遥かに優れてゐるやうに見える。

 元の構図の作成に関して、スギ氏と和田氏の意見が食ひ違つてゐるやうだが、日本人なら先づイタリア人が嘘を衝いてゐると考へるべきだらう。

 スギ氏は近々日本で展覧会を開くさうだが、その時に自分の作品が和田氏の作品に似てゐて盗作扱ひされるのを恐れたのではないか。そのために、和田氏の作品を盗作扱ひすることで先手を打つたとも考へられる。

 スギ氏が日本で無名であつたことも今回の盗作騒ぎの一因であらう。ゴッホのひまわりの絵を、構図をそのままに色附けを変へて発表しても誰も盗作とは言はないからである。(2006年6月4日)







 小泉首相は今国会を延長せずに教育基本法の改正を継続審議にすると強調したが、これは小泉改革を継承しない福田康夫前官房長官を次期総裁に擁立しようとする動きを牽制したものであると思はれる。

 教育基本法の改正は愛国心を法律に盛り込む保守的な法案であるが、福田康夫氏を首相にしてそれが出来ますかと小泉首相は言つてゐるのである。

 小泉改革の中には靖国参拝も入つてゐる。小泉は口では個人の信条の問題だと云つてゐるが、森前総理などが行なつた中国に遠慮した政治では、この先の日本は世界の中でやつて行けないといふ思ひがある。それを福田氏は否定してゐる。

 その他にも防衛庁の防衛省への昇格問題がある。その法制化もリベラルなイメージを売り物にする福田氏に出来ますかと言つてゐるのだ。

 保守的な法律は自分の代で片付けて、あとはリベラルな福田氏でといふのでは虫が良すぎるのではありませんかと、小泉は言つてゐるのである。(2006年6月3日)







 年金不正免除のニュースを見ると、世論はマスコミによつて勝手に作られてゐることがよく分かる。

 不正、不正といふが何が不正なのか。無年金者を生み出さないために社会保険庁の職員の皆さんよくやつてくれましたと、多くの国民は感謝してゐるのに、マスコミが一方的に不正扱ひしてゐるのである。

 マスコミは役所の「不正」を曝き立てるのが大好きである。それが多くの国民のためになつてゐやうと、法律通りでなければいかんと言ふのである。

 そんなことがあるものか。法律は便宜的な物で、人が住みやすい世の中にするためにこそ法律はある。それを破つた方が住みやすい世の中になるなら、そんな法律は破つてよいのである。

 マスコミの親玉である新聞社は、日頃批判してゐる与党の政治家に取り入つて、独占禁止法の適用除外をお願ひしたばかりだ。

 それなのに、マスコミは他人には厳しい。彼等もまた日本で流行の「自分さへよければいい」病に罹つてしまつたに違ひない。(2006年6月2日)







 私が死刑に反対なのは人命尊重もさることながら、人は殺されることによつて値打ちが上がるのに、犯罪者の値打ちを上げることはないと思ふからである。

 自殺もさうで、昔の小説家が競ふやうにして自殺したのは、自分の名前を永遠に遺したいといふ思ひがどこかにあつたからである。

 犯罪者が死刑を望んだり拘置所で自殺したりするのは、もちろんその方が楽だからである。

 大量殺人などするやうな人間にとつては、既にこの世は地獄であり、だからこそ犯罪を犯したのである。したがつて、死刑は地獄からの救済なのである。それを公費で援助するほど馬鹿げたことはない、

 死刑によつて被害者の遺族は加害者に対する復讐慾を満たすことが出来るといふが、そもそも犯罪者が犯罪を犯したのも社会に対する復讐慾を満たすためなの だから、遺族は死刑を求めることによつて加害者と同じ穴の狢(むじな)になつてしまふ。それでいいはずはあるまいと思ふのである。(2006年6月1日)







 最近の本屋は大抵は売れた本を再注文しなので、売り切れた本はその本屋では二度と買ふことが出来ないのが普通である。

 本には一冊毎に売上げカードといふ栞(しをり)のやうな紙が附いてゐて、本屋は本が売れたらそれを抜き取つて保存して再注文に使へるやうになつてゐる。ところが、最近はこの売上げカードを抜かない本屋が多い。

 売上げカードを抜かないと云ふことは一旦売れたらそれつきりで、その本はその店では再注文しないと云ふことである。だから、本屋の棚にあると思つてゐた本が無くなると、二度とその本はその本棚に戻つて来ないといふことになる。

 売上げカードを抜く本屋でも、本の再注文はしない店が殆どだ。大きな有名書店でも在庫を減らすのに精いつぱいで再注文をしない。だから、叢書などのシリーズ物で本棚に途中の番号の卷が脱けてゐても、それが埋まることは決してないのである。

 その結果、目当の本が古本屋にはあるが、本屋にはないといふことがよく起る。新刊本で少しでも珍しい本は、もう本屋で買ふ時代ではないのである。(2006年5月31日)







 ウンチを食べないのは人間だけで、他の動物はウンチを食べる。それは本能なのだ。中国の便所の下に豚が飼つてある絵を見たことがあるが、あながち嘘ではない。

 山の庵に住む坊さんがウンチをしてゐるとその前に野良犬が座つて待つてゐたが、生憎その日は腹の調子が悪くて水のやうなウンチだつたのを申し訳なく思つた坊さんは、次の日に山盛のご飯を犬に与へたといふ話が『今昔物語』(第19卷の3)にある。

 犬が坊さんのウンチを食べようと待つてゐるのを坊さんは知つてゐたのである。犬がウンチを食ふことは奇異なことではなかつた。ところがそんな知識を失つてしまつた現代の日本人は「うちのペットのワンちやんがウンチを食べて困ります」と悩むのである。

 この坊さんは、動物は人間の生まれ変りで、両親が何度も生まれ変つた姿であると固く信じてゐたので、犬や馬を自分の親のやうに敬つたが、その坊さんによると犬がウンチを食べるのは前世に犯した罪業の報ひだといふことである。(2006年5月30日)







 所得格差が学力に影響すると答へた人が75%といふ世論調査の結果を見たら、ちよつと気の利いた子供なら「僕が勉強出来ないのはお父さんの稼ぎが悪いからなのか」と納得したことだらう。

 こんな世論調査は子供に勉強を怠ける口実を与へるやうなものだが、読売新聞の人間はそのことを分かつて公表したのかどうか。

 答へる方も答へる方で、「『経済的に恵まれていて、高い水準の教育を受けさせられる家庭と、そうでない家庭との間で、子供の学力の格差が広がっている』 という指摘があります。あなたは、実際に、こうした格差が広がりつつあると思いますか、そうは思いませんか」などと聞かれて、「そりや~、それを言つては お仕舞ひですよ」と答へる心意気も思考力もない。

 これに同意すると云ふことは、自分の息子が馬鹿なことを自分の稼ぎの悪さのせゐにすることになる、と気附いても良かつたのである。

 ところが、それに気附かない頭の悪い親たちが75%もゐて、その子供たちの学力が低下してゐるといふのだから、親が馬鹿なら子も馬鹿になるといふことがよく現はれた世論調査だつたといふことになる。(2006年5月29日)







 「古本市場」といふ古本屋に行くと店内放送でホットトピック・イン・メイなどと言つてゐる。五月だからメイだ。四月はエイプリル。六月になればジューンとなる。

 この店内放送のおかげでこの古本屋の利用者は月の英語名を自然に覚えて仕舞へるわけである。

 英語ではこのやうに月の名前をワン・マンス、ツー・マンス・・とは言はずにジャニュアリー、フェブラリー・・と云ふが、日本語でも実は一月、二月・・を 昔はムツキ、キサラギ・・と言つてゐた。古典を読むときに一月と書いてあつてもイチガツとは読まずにムツキと読まないといけないのだ。

 ところが、日本ではこの呼び方を明治になつてやめて仕舞つた。英語では昔からの月の呼び方を継承して居るのに何故やめたのだらう。これもまた古い物をやめるのが進歩的だと思ひがちな日本人の勘違ひの一つだらうか。

 お陰で古典を読んでゐても一月をついついイチガツと読んで仕舞ふ。どこかの店内放送でホットトピック・イン・ミナヅキとかいふ風にやつて呉れないだらうか。もつとも古文だから「水無月にての熱き話題」とでもなるのかもしれないが。(2006年5月28日)







 自民党の福田康夫氏はアメリカから帰つて来ても相変らず、総裁選出馬が取り沙汰されることを「迷惑なことだ」と切捨てたさうだ。

 福田氏本人には総裁選に出る気がないことは前々から明らかなのだが、マスコミによると、次の自民党の総裁選挙は福田氏と安倍氏との2強の戦ひになるのだといふ。

 森前首相は福田氏を次の総裁に担ぎたいらしく、しきりに福田氏を持ちあげるが何の思惑があつての事だらうか。安倍氏が総裁として次の参議院選挙で負けて傷付くのがもつたいないなどと言ふが、では福田氏ならいいのか。

 世論調査で福田氏の支持率が上がつて来てゐることをもつて、福田氏が総裁になる可能性を云々する向きがあるが、世論調査のパーセントによつて総裁の適否を論ずるべきではないと言つてゐるのは、福田氏自身である。

 自民党の総裁は首相になる人である。単に人気があるからといふだけでなく積極的な意欲を持つてゐる人になつて貰はなければ困る。さうでなければあの大きな責任をとても担ひやうがないではないか。(2006年5月27日)







 『今昔物語』は第二十六巻がずば抜けて面白い。あり得ない話の中に平安時代から今も変らない人間のあり様が活写されてゐるからである。

 第一話では、赤子を鷲にさらはれた夫婦が十年後に旅先でその子に再会する話だが、その子が近所の子供たちにいじめられて「あんたは鷲の食べ残しぢやないの」と言はれて泣いて家に帰つて来る有り様が時代を超えて息づいてゐる。

 第二話では、旅の途中の男が道を歩いてゐて突然性慾が高じてどうにもならなく為つたので、道ばたの畠から蕪(かぶ)を抜いてきて、穴をくり抜いて中にし てほつとして復た旅を続ける話だが、その「女の事の、物に狂ふが如くに思えければ、心を靜め難くて思ひわづらひける」といふ描写は、今に変らぬ男の真実で あらう。

 第五話では自分の子供が行方不明になつたと聞かされた親の嘆き悲しむ有り様が実に真に迫つて描かれてゐる。それが「臥し丸び泣く(ふしまろびなく)」といふ短い表現で書き表はされてゐて、この作者の能力の高さを思はせる。

 この巻は一つ一つの話の印象が強烈で、他の巻のやうに次々と読み進めるのが憚られる程の力がある。この巻の作者は他とは違ふのではないかとさへ思はれるのである。(2006年5月26日)







 松山恵子が六十九歳で亡くなつたが、この二月にNHKの衛星放送で見た最後の舞台ではこの人が六十九歳とは信じられなかつた。それ程に若々しくて、全く女は化け物だと思つたものだ。

 男はかうはいかない。若い頃ハンサムの代名詞だつたロバート・レッドフォードが最近テレビに出てゐるのを見たが全く別人である。竹脇無我も同じことが言へるのではないか。

 男は化粧で顔を作つてゐないので、年を取れば容貌の衰へがそのまま出る。それに対して、女の顔は元々化粧で作られたものが多い。だから、年を取つても同じやうに作れば同じ顔ができあがる。だけら、いくら年を取つても女の顔は変はらないのである。

 もちろん、人に依つて違ふのかもしれない。だから、かう言ふことが言へるのではないか。つまり、年を取つて顔が変つて来た女優は、化粧によつて顔を作つてゐなかつた本当の美人だと。

 ところが、実際はその逆で、化粧を落せば誰だか分らない美人が横行してゐるのである。(2006年5月25日)







 最近のテレビの野球中継のアナウンサーは実況を殆どしなくなつた。画面なら見たら分るのだからと、自分の感想を言ふのが主な仕事になつてきてゐる。NHKのBSの大リーグ中継は特にのんびりしてゐる。

 昔はテレビでもラジオみたいに丁寧に描写してゐた。「ピッチャーふりかぶつて第一球を投げました。ボール」といふ風にリズムがあつて、聞いてゐて気持が良かつたものだ。

 ところが最近は「打ちました」とさへ言はなくなつた。その代はりに「あっ」とか「うっ」とか「どうでしょう」とか言ふ。球がどつちに飛んだかさへ言はない。

 見たら分るのだから五月蠅いとをいふ批判もあつての事だらうが、緊張感も何もあつたものではない。

 一時、野球中継を女性がやるといふ企劃があつたが、今は廃れてしまつたやうだ。しかし、今くらゐ何も言はない野球中継なら、女性アナウンサーがやつても充分できるのではないかと思ふ。(2006年5月24日)







 白鵬の優勝に終つた大相撲夏場所は多くの点で感動させられた。
 
 先づ何よりも、白鵬の優勝インタビューである。特に「お父さんお母さんに有り難ふと言ひたいです」と日本語で語つたのは感涙ものだつた。日本人に果たしてあんな純朴な言葉が言へるだらうか。

 また、白鵬は表彰式でモンゴル人にも拘はらず、しかも初優勝なのに日本の国歌である「君が代」をちやんと口を開いて歌つてゐた。日本の若者たちは学校で「君が代」を歌ふなと教師たちに教へられてゐるのにである。

 さらに、新入幕ながら優勝争ひに加はり、千秋楽に白鵬に敗れたばかりのエストニア出身の把瑠都(ばると)が、優勝決定戦に勝つて戻つてきた白鵬を祝福の抱擁で迎へた爽やかさにも驚かされた。日本人にこんなことが出来るだらうか。

 敗者が勝者を讃へる礼儀など日本人はとつくの昔に忘れてしまつてゐるのではないのか。

 大相撲は日本の文化の筈なのだが、この文化を体現して後世に伝へるのは外国人たちなのかと思ふと、情けなくもあり頼もしいことでもある。(2006年5月23日)








 鳥は生まれて最初に見た物を自分の親だと信じるさうだが、人間の男は生まれて初めて欲情した対象にしか一生涯欲情できないのではなからうか。下着泥棒とか盗撮とかのニュースを聞くたびにさう思ふ。

 私の場合は西洋絵画の女性の全裸像、特にアングルの『泉』だつたのではないかと思ふ。だから幸ひにも人の下着を盗まなくても満足を得ることが出来るのだ。

 日本人は西洋の裸体芸術が町中に展示されてゐるのを嫌ふ傾向があるが、この観点から考へると、西洋の裸体像は正しい性慾を男たちに植え附けるといふ重要な役割を果してゐるのではないかと思へてくる。

 芸術家の方も、昔から神話を描くと云ふ口実で女性の裸体を好んで描いてきたが、それはもてない男が欲望を満たす道具としての役割があつたからに違ひない。ミロのビーナスとアジアの仏像とではその意味が全然違つてゐたはずだ。

 しかも、芸術作品には日本の春画などと違つて人前で堂々と鑑賞することが出来るといふ利点がある。頭の中で何を考へてゐようと「芸術鑑賞」だからである。(2006年5月22日)







 なにやら最近は、塾に行けば誰でも勉強が出来るやうになるといふ迷信が広まつてゐるらしい。

 しかし、塾と云ふのは出来る子がもつと出来るやうになるために行く所だと、私などはずつと思つてゐたし、今も思つてゐる。出来ない子が塾に行つても出来るやうにはならないからである。

 駆けつこの能力と同じく勉強も子供の能力の一つでしかない。そして、駆けつこの遅い子が特別に練習しても速い子に勝てるやうにはならないのと同じく、勉強の苦手な子が特別に勉強しても勉強の出来る子に勝てるやうにはならない。

 子供にはそれぞれに得手不得手があり、その得意分野を伸してやるのが親の役割である。勉強の出来ない子を塾に遣つてはいけない。子供の不得意分野を得意分野に変へることは出来ないのである。

 学歴の差が収入の差に繋がるといふが、それは余程の高学歴で、しかも学歴を生かせる職にある人の話で、中途半端に勉強だけ出来る子供を作つても何の役にも立たないのである。(2006年5月21日)







 スーパーマーケットなどでよくCDの廉価版が売られてゐる。大体クラシック物が多かつたが、最近は歌謡曲も沢山出てゐる。

 その中に色んな歌手の物があるのだが、小川知子だけはどこにもない。伊東ゆかりや園マリはあるのにない。無いと欲しくなるのが人情で、レコード店で探すと三十曲入り三千円程のCDがあつた。

 しかし、知らない曲ばかりだ。小川知子にはヒット曲は二、三曲しかない。三十曲も要らないのだ。となると、あとはオムニバスものだ。コンピレーションともいふらしい。

 調べると「初恋のひと」と「ゆうべの秘密」が『歌う明星』といふCDの「赤」と「青」に別々に入つてゐるのがわかつた。

 丁度、TSUTAYAの更新ハガキが来てゐたのでそれを持つて、会員登録してある店に行つたらあつたので、更新料+CD一枚分(一枚分は更新時のサービス)で借りてきて、iTunesでパソコンに取込んだ。

 そしてさつそく全部聞いてみたが、いやー、懷かしい。

 「初恋のひと」もさうだが、中でも園マリの「逢いたくて逢いたくて」が秀逸だ。よくもまあこんなに甘くてせつない歌が作れたものだと感心する。子供の頃、恋とはこんなものかと思ひながら聞いたことを思ひ出した。(2006年5月20日)







 『ワイルド・スワン』で有名なユン・チアンが出した毛沢東伝『マオ』は、毛沢東がスターリン以上の恐怖政治をやつた独裁者だつたといふ真相を暴露してゐるさうだ。

 これに対して親中派の学者たちは猛反発で、何とかこの本を貶めやうと必死である。曰く「俗悪」「失敗作」「三文小説」「信憑性が問われる」「論拠がない」「いかがわしい本の引き写し」「誤りに満ちている」「フィクション」。

 しかしながら、この『マオ』の中身を裏付けるやうな本が欧米から次々と刊行されてゐると、読売新聞の『夕景時評』(布施裕之)(5.16)が伝へてゐる。

 その一つとしてまだ和訳のないギャディス米エール大教授の『ザ・コールドウォー』が挙げられてゐる。そして、朝鮮戦争やハンガリー暴動弾圧において毛沢東が果たした役割が、毛沢東の「モンスター」ぶりを実証する例として紹介されてゐる。

 また『マオ』には張作霖爆殺をスターリンの陰謀だとする説が肯定的に紹介されてゐる(上301頁註)。日中戦争拡大に果たしたソ連と中国共産党の役割は日本ではこれまで無視されてきたが、本家の中国人が言い出した意味は大きいのではないか。(2006年5月19日)







 警察がやたらと誰でも彼でも逮捕するのはおかしいと思つてゐたが、やつと文句をいふ人達が現れた。帝王切開で妊婦が死んだことを業務上過失致死だとして担当医師を逮捕したことを、産婦人科学会が批判したのである。

 手術は医師の裁量であつて、失敗して患者が死んだら逮捕されるのでは手術をする医者はゐなくなる。逆に手術をしなくて死んでも逮捕されるかもしれない。

 いつたい警察に医学の何が判るのか。医者の判断より警察の判断が上廻るのであれば、手術の相談は警察にしなければならなくなる。かういふのを警察国家といふのだ。

 今日は今日とてヒューザーの社長が逮捕されたが、彼は逃げも隠れもしないのに何故逮捕する必要があるのか。自白の強要以外の目的があるとは思へない。しかし、自白の強要は違法である。警察は違法行為を止めるべきである。

 交通の取締りも出鱈目である。パトカーに追ひかけられるのと、酒気帯びで運転するのとどちらが大きな危険であるかは明らかだ。些細な罪で人を死に追ひやる警察はもつと批判されていい。(2006年5月18日)







 大相撲には毎日最後の取組みの後に弓取り式といふものがある。このことを皇牙といふ相撲取りが久し振りに思い出させてくれた。

 昔はテレビの大相撲中継はいつも弓取り式の映像で終つてゐたが、最近ではとんと見なくなつた。テレビの映像技術の発達で、すぐにリプレー映像が出せるやうになつてからは、そちらが優先されるやうになつたからである。

 しかも、最近は特にスローモーション映像の発達で、結びの一番を凡ゆる角度から映し直してくれる。さらには力士インタビューといふ余計な物まで入つて来て、その間に弓取り式は終つて仕舞ふのである。

 ところが、いま弓取り式を担当してゐる皇牙といふお相撲さんが幕下から十両に昇進したことが話題になつて、彼の勇姿が特別にテレビに流される機会が生まれた。

 それを偶々(たまたま)見たが、弓取り式は今もちやんと行はれて居り、残つた熱心なお客さんがそれを見ながら掛声をかけてゐる昔ながらの情景が繰り広げられてゐた。

 そして大相撲とは単に勝ち負けを争ふスポーツではなく、一つの儀式なのだといふことを思ひ出させてくれた。全く映像技術の進歩も良し悪しである。(2006年5月17日)







 最近子供による人殺しが増えたのは、最近の子供が昔の子供より残酷になつたからではない。子供は元々残酷な生き物であり、その残酷さを矯正する教育が疎かになつただけの話である。

 子供といふ残酷な生き物を情ある人間にするのが教育である。ところが、最近の教育の荒廃のために、子供の残酷さが取り除かれずに、子供は残酷な生き物のままで取り残されてゐるのである。その結果、子供の人殺しが増加したのである。

 何もインターネットやコンピューターゲームによつて子供たちが新たに残酷になつたのではない。

 子供は悪い事が大好きである。だから、教はらなければ弱い者苛めをする。橋の下で暮らしてゐる人間に火をつけたりする。ホームレスを弱者として憐れむことを、子供は大人に教へられなければ分からないのである。

 子供は放つて置けば盗人になり人殺しになる。教育しなければ子供は人間にはならずに化け物になると思つてよい。子供は生まれついての天使ではないのである。(2006年5月16日)







 『今昔物語』の第三十巻は恋愛話が集められてゐるが、その第一番の話がいちばんすさまじくて、振られた女の事を忘れるために、その女のウンチを盗んでくる男の話である。

 惚れた女があまりにいい女なので、ウンチを見ればその女に対する恋も冷める筈だと思つてのことなのだが、そのウンチがまた香を薫きしめて良い匂ひがしたので余計に惚れて仕舞つたといふ結末だ。

 この話から平安時代には仮にトイレと云ふ物があつたとしても、高貴な女性はそこには行かずに美々しい漆塗りのオマルの中にして、それを下女に捨てさせたといふことが分る。また人に扱はせる以上はそのウンチの匂ひを消すために香料を使ふ心遣ひがなされたと云ふことだらう。

 『今昔物語』の編集者はこのウンチは偽物だつたと書いてゐるが、平安時代も終りに近い彼の時代にはもうそんな完璧な香料はなかつたから、そんな話にしたのではないか。

 また、フランスのヴェルサイユ宮殿にトイレが無かつたとよく言はれてゐるが、当時のフランスの貴婦人もまた美々しいオマルにして召使に捨てさせたのだらうと、この『今昔物語』の話から推測できる。

 まさに香水とはオードトワレ(eau de toilette、toilet water)だつたのである。(2006年5月15日)







 旧漢字が古い漢字であると思ふのは日本人の勝手であつて、世界では立派に現役である。

 CSテレビのスカパーに加入してゐると、休日には時々お試しで中国のテレビ番組の無料放送を見ることが出来る。それらの番組では中国語の字幕を付けたものがよくあるが、その内の半分は中国新字体、半分は旧漢字で書かれてゐる。

 だから旧漢字が過去の遺物であるといふ考へは、日本人だけが持つてゐるイメージに過ぎないのであつて、事実はさにあらずである。

 岩波書店から出てゐる芥川龍之介の全集も最新のものは、さすがに歴史的仮名遣ひはそのままだが、漢字は全部新漢字に変へられてしまつてゐる。芥川のやうに表記に拘(こだ)はつた作家が、略字体の漢字ばかりになつた自分の全集を見たらさぞ嘆くことだらう。

 しかし、旧かな旧漢字の本は現代の読者には疎まれる。正直売れないのだ。与謝野晶子の源氏物語の翻訳を古本屋で買つたら旧カナで損をしたといふ書き込みをネットで読んだことがある。正に猫に小判である。(2006年5月14日)







 インターネットと謂へばそこには無限の広い世界が広がつてゐるやうに思ふが、実際に私などが毎日見てゐるページは限られてゐて、その外へ出て行くことは少ない。

 私が毎日決つて見るのは新聞社のページくらゐのもので、その他では知りたい事を調べるために検索のページを使ふくらゐである。

 タレントのブログなどを覘(のぞ)いてみたことはあるが、たわいないことが書いてあるか自分に興味のないことが書いてあるばかりで、毎日見ようとも思はない。

 新聞などではインターネットで世の中が変つたかのやうに書かれてゐるが、たいして変つてゐないのではないか。メールは肉声の電話には勝てないし、電話で言へない話といふものが相変はらずあつて、最後は直接会つて話をするしかないやうだ。

 また、ネットの面白いページの存在を知るのも、ネットからではなくテレビや本からだつたりする。

 やはり人間のすることは何が出てこようとそれほど大きく変はるものではないのではないか。デパートの中で一番の客を集める売り場は、地下の食品売り場と 上の方の階にある書籍売場である。知識欲を最終的に満たすのはやはり昔からずつと変ることなく本といふことだらう。(2006年5月13日)







 最近、振られた側が振つ側を包丁で刺す事件が頻発してゐる。個々の事件の原因は知らないが、大体は振つた方が振られた側を邪険に扱つたのが原因だと思ふ。

 相手を振ると云ふことはとても申し訳ない行為であるといふ認識を持たない人間、特に女性が多いのではないか。好き嫌ひは権利ではない。相手が好きでなくなつたからと言つて、その相手をゴミのやうに扱ふ権利が生まれてくる訳ではないのだよ。

 それなのに相手を邪魔者扱ひし、さらに犯罪者扱ひして警察に相談するとは何事だらう。誰が悪いかと云へば、それは好きでなくなつたお前が悪いのだよ。振られた相手の側には何の罪もないんだ。

 確かに、振られた腹いせでお前に対して「殺してやる」などと過激なことを云つたかもしれない。でも、それはそれだけお前が好きだと言つてゐるに過ぎないんだらうよ。どうしてそれが分からないんだ。ましてそれを警察に相談するなんて。

 好きな人に振られた上に、警察から呼び出しを受けた相手の気持を考へてみろ。人を振つて相手を悲しませた上に相手を犯罪者扱ひし、さらに人殺しに迄し立てて仕舞つたあんたは、この世で生きていく資格がない人間だつたんだよ。(2006年5月12日)







 今年の4月の新車の販売台数のベスト3はトヨタのヴィッツ、カローラ、エスティマだと言ふ。私はかう云ふ数字は嘘だと思つて居る。

 ヴィッツのやうな不細工な車を誰が買ふと云ふのだらう。カローラのやうな何の取り柄もない車を誰が買ふと云ふのだらう。エスティマのやうな馬鹿でかい車 を誰か買ふと云ふのだらう。誰も個人の好みで買ふはずがないではないか。だから、発表は八百長に違ひない。どこかで数字合はせが行はれて居るのである。

 まづ全国の膨大な数のトヨタの社員が買つて居るのである。そしてトヨタの下請け会社の社員、トヨタの系列会社の社員が買つて居るのである。

 さらに、トヨタの会長は経団連の会長であるから、トヨタと少しでも付合ひのある会社が大量に買つて居るのに違ひない。特にカローラなどは全国の企業の営 業車になつてゐるのであらう。試乗すれば分かるが、とても百万以上の金を出して個人が好んで買ふとは思へないからである。

 それにしても日本では何時まであの霊柩車のやうな格好をしてミニバンやワゴン車が流行り続けるのだらう。少しでも美的感覚がある人ならば、ちゃんとしたセダンを買ふ筈だからである。(2006年5月11日)







 犯罪をするぞとネット上に書き込むだけで犯罪になる。本当はその気は無くてもだ。共謀罪は犯罪をすることを話合ふだけで犯罪になるが、其れと実によく似てゐる。

 しかし、ネットに書き込むだけで犯罪が成立したとする警察の見方を誰もこれまで批判してこなかつた。この国では警察の犯罪捜査を誰も批判できない。なぜなら、日本では警察が一番偉いからである。

 ところが、似たやうなことを政府が法制化しようとすると野党が批判して法案審議をボイコットまでする。いい加減なものである。野党は世論の顔色を見て行動してゐるだけであつて、何が正しいかを考へて行動してゐるわけではないことは明かである。

 犯罪計画が本心なのか、それとも単に言葉上のことなのかをどう見極めるかは難しい。しかし、内心の自由が問題なら、発言した時点で其れは最早内心の問題 ではなくなつてゐる。やる気もないことでも口に出すことによつてやる気になることはよく有ることだ。言葉にはそんな力が有るのである。

 「脣寒し」は自分自身に対する戒めであるが、悪いことをやる相談をする自由が果して必要かどうかは明かだらう。(2006年5月10日)







 大相撲の世界では外人力士が花盛りだが、彼等のインタビューにおける日本人らしさには驚かされる。

 どんな教へ方をされるのかと思ふ程、どの外人力士もちやんとした日本語を流暢にしやべる。プロ野球の外人選手にいつも通訳が付くと大違ひで、一人でいいから日本語の話せない外人力士を見たいと思ふほどである。

 それ以上に驚くのは、外人力士の謙虚な受け答へである。勝ち力士に対してアナウンサーが調子のいい質問をしても、必ず「まづ勝ち越しを狙ひます」とか「一番一番を精一杯に頑張ります」とか答へる。決して驕り昂ぶつたやうなことは言はないのだ。

 むしろ日本人力士の方に、そんなことを言つて大丈夫かなと思ふやうな、景気のいいことを言ふ力士がゐるのに、外国人力士の方は飽くまで慎重である。

 あれはさういへと親方衆に教へられてゐるのだと思つてゐたが、どの外人力士もあれほど謙虚だと、あれこそが世界共通の礼儀作法なのではないかと思へてきた。

 そして、日本人だけがどうも世界の常識から外れて行つてゐるのではないかと思へてきたのである。(2006年5月9日)







 最近のニュースに「小泉純一郎首相の靖国神社参拝などで日中間の政治関係が一層冷え込む中」と書いてあつたが、これはおかしい。

 そもそも日中の政治関係が冷え込んでゐるとふのはおかしい。日中の政治関係は冷え込んではゐない、中国によつて勝手に冷え込まされてゐるのである。

 次に、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などでといふのもおかしい。これではこの問題の原因が日本側にあることになつてしまふ。さうではないはずだ。日本の首相の靖国参拝にいちやもんをつける中国側にこそ、この問題のそもそもの原因があるのである。

 仮にも他所の国との外交関係が悪くなつた時に、その原因が自国の側にあるかのやうに書くなどといふことは、中国や韓国のマスコミではあり得ないことだ。日本のマスコミは一体誰の立場で書いてゐるのか。

 もし公平な立場で書いてゐるといふなら、少なくとも事実を書け。「小泉純一郎首相の靖国神社参拝などにいちやもんをつける中国政府のために日中間の政治関係が一層冷え込まされている中」と。(2006年5月8日)







 ソ連が崩壊してロシアの人達は自由を手に入れたが、お陰で昔のやうな楽な暮らしが出来なくなつたと不平を鳴らして、昔の社会主義の方が良かつたと言ふ人達が沢山現れた。

 それは今の日本で小泉改革のお陰で日本が格差社会になつたと批判する人達とよく似てゐる。

 昔多くの地方は政府による公共工事のばらまき行政のお陰で潤つてゐたが、小泉改革のためにばらまきが無くなつたので、その分地方は貧乏になつた。しかし、これは当然の結果である。地方は東京の人間の稼ぎで潤ふのではなく、自分の稼ぎで潤はなければならない。

 規制緩和で自由になつたら勝ち組と負け組が出来て仕舞つたと言つて、折角生まれた自由をけなす人達が居る。ところが、それは曾て規制緩和が大切だと言つてゐたのと同じ人達なのである。

 いま談合を税金の無駄使ひだと批判してゐる人達も、談合が完全に無くなつた時には、きつと仕事を貰へる勝ち組と全く仕事にありつけない負け組が生まれて仕舞つたと批判することだらう。(2006年5月7日)







 芥川龍之介の『鼻』と『芋粥』も『羅生門』と同じく『今昔物語』の話を元にして書かれたものだが、元の話の方が断然面白い。

 『今昔物語』の話は人間の本音が書かれてゐる話である。様々な建前をかなぐり捨ててやりたいことをやる人間の話である。ところが、芥川はそれを建前の話に戻してしまつてゐる。世間体や見栄など人間の枝葉末節を重んじる話にしてしまつてゐる。

 芥川の『鼻』では、顎(あご)まである長い鼻でいつも人に笑はれる高僧が、苦労惨憺して鼻を短くしたらまた笑はれたやうな気がしたので、元の長さに戻つ て安心する話だが、それは嘘だらう。長い鼻のせゐで飯もろくに一人で食へなかつたと書いてゐるではないか。その事実を捩ぢ曲げてゐる。

 『芋粥(いもがゆ)』の原作では、貧乏役人が芋粥を腹一杯食ひたいと言つたら、それが金持ちの息子の耳に入つて、家に連れて行かれて、途轍もない大釜で 山ほどの芋粥を作つて出されたところ、驚いて食欲も無くなつてしまつたが、夜とぎの女もあてがはれて楽しい一月過して帰つたといふ話だ。

 ところが芥川は豪勢な持てなしに気兼ねをする話にしてしまつてゐる。そして貧乏役人で芋粥も満足に食へない頃を懐かしむ話にしてしまつてゐる。若い頃読んでもちんぷんかんぷんだつた分けである。(2006年5月6日)








 イランがウランを濃縮するとアメリカが怒るのは、イランがアメリカの敵であるからに他ならない。イランが核ミサイルを持てば、アメリカ本土に格ミサイルを飛ばしてくるかもしれないと恐れてゐるのだ。

 それに対して、中国とロシアはこの問題でアメリカ程の熱心でないのは、両国がイランと敵対関係にないからである。

 さらに、もしイランが核兵器を持てば、イスラエルの目と鼻の先に核ミサイルが立つことになるかもしれない。しかし、イスラエルも核武装してゐるのだ。核戦争になればイランも無くなつてしまふ。

 また、イランは中国と違つて普通選挙が行はれてゐる民主国家である。アメリカはイラクを民主化すれば世界が平和になると言つてイラクに戦争を仕掛けたが、既に民主国家であるイランをどうしようと言ふのか。

 核兵器を持つかもしれないイランよりも、既に核兵器を持ちしかも民主国家でない中国の方が恐ろしい筈だ。ところが、アメリカはさうは言はない。ならば、イランの核をそんなに恐れなくてもよいのではないか。(2006年5月5日)







 芥川龍之介の『羅生門』は、門の二階で死人の髪の毛を引き抜いてゐる老婆を見つけた男が、老婆の着物を奪ひとる話である。

 『今昔物語』の原作(第29巻の18)では男は初めから盗人なのに対して、芥川の話では職を失つた男が老婆の話を聞いてゐるうちに現実の厳しさに目覚めて盗人になる話になつてゐる。

 原作の盗人と違つて、芥川の「下人」には衒ひがある、屈託がある。老婆の言訳を聞いて「では、己が引剥ぎをしようと恨むまいな」と言訳をしてから老婆の着物を奪ふのである。

 この老婆から奪ふなら正当な行為だと言つてから奪ふのである。この泥棒には建前が必要なのだ。いや、死人の髪の毛を引き抜いてゐた老婆にも「この死人は生きてゐたとき酷いことをしてゐた女だつた」などと自分の行為を正当化させてゐる。

 その相手の理屈の上に立つて、それならあんたの着物を奪つても構はない筈だと言つて老婆の着物を奪ふのである。芥川は理詰めで盗人になる男を作りだしたのである。(2006年5月4日)







 レーザーラモンHGがテレビに映ると私などはチャンネルを変へるが、子供には絶大な人気があるらしい。この人気は昔の加藤茶の「ちよつと丈よ」と言ひながら子供に見せたストリップショーの人気と同じで、極めて性的なものである。

 子供は性的なものが大好きだ。先日も古本屋で5歳ぐらいの子供が二人で本棚の文庫本を開いて見せ合つてはくすくす笑つて居るので、何を見て居るのかと覗いてみたらポルノ本で、その中のみだらな写真を見せ合つてゐるのだつた。

 女児猥褻事件などといつて小学校低学年の女子に淫らなことをしたとして逮捕される成人男性が絶えないが、子供も興味があるから随いて行くのである。

 レーザーラモンにしても加藤茶にしても大人ならその下品さといやらしさに目を背けるが、子供は大喜びする。そしてレーザーラモンの腰振りの真似をする。子供はこの腰振りの性的なものに興奮してゐるのだ。

 テレビ局は視聴率さへ取れたらよいから、レーザーラモンを見境もなくテレビ番組やCMに出すが、子供が見る時間帯のテレビ番組にレーザーラモンを出すの は、普通の本屋にポルノ本を置くのと同じであり、結果として性犯罪を増やして居ると知るべきである。(2006年5月3日)







 毎日新聞が社説を使つて、新聞の特殊指定廃止に向けた公正取引委員会の竹島委員長の意見を批判してゐるが、その意見を読むと尤(もつと)もだと思ふこと許(ばか)りである。

 「戸別配達が大変だとか、知る権利のために必要だとか、ワンパターンの話ばかり出てくる」

 「皆さん完全にマインドコントロールにかかっている。戸別配達のためには特殊指定が必要だという議論をうのみにしている」

 「独禁法は価格競争を促進するための法律なのに、特殊指定では値引きすれば独禁法違反になり、おかしい。新聞には再販制度があり特殊指定がなくなっても宅配がなくなることはない」

 それに対する毎日新聞の批判は、こんなことを言ふ公取委員長はこの50年間で初めてだとか、委員長は独禁法といふ狭い枠の中だけで判断してゐるとか、特 殊指定制度に不都合が生じたことはないとか、日本の活字文化は先人たちの知恵で築かれてきたとか、手前勝手なもの許りである。

 実際は、自分たちの既得権を温存して事実上の談合を維持したいだけだらう。それに何より新聞は既に値引販売されてゐる。(2006年5月2日)







 内閣府による「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」で「日本が戦争に巻き込まれる危険がある」との回答が45%、「ないことはない」を加えると77.6%に達したといふ。

 私はそんなことは100%、絶対にないと思つてゐる。

 こんな数字が出るのは、安保条約があるとアメリカの戦争に巻込まれるといふ左翼による馬鹿げた安保反対論の影響もあるかと思ふ。

 しかし、一番大きいのは北朝鮮情勢だらう。しかし、北朝鮮が日本と戦争になる様なこと、譬へばミサイルを日本国内に打ち込むなどと謂ふことは100%ない。北朝鮮にそんな力はないし、何よりも中国がやらせない。

 また、日本と中韓の間でも戦争などは絶対に起こらない。アメリカの同盟国である韓国が、同じくアメリカの同盟国である日本に戦争を仕掛けてくることは100%ないし、日本が外交問題の解決に武力を使へないことは日本国憲法に書いてある通りである。

 また核武装した中国は、同じく核武装した日米に戦争を仕掛けることは出来ない。それは世界の終りだからである。

 そんな当たり前のことがなぜ多くの日本人に分からないのか、不思議と言ふしかない。(2006年5月1日)







 古本屋で旧字旧仮名で書かれた文学全集を見かけるとよく購入するが、「芥川龍之介集」だけは大抵売り切れてゐる。芥川龍之介は今でも絶大な人気があるのだ。

 芥川の小説は感動的ではない。その特長はストーリーではなく、分かりやすさでもなく、その反対の文体の難解さと装飾性、つまり芸術性にある。といふことは、芥川の小説を持つてゐると何となく格好がいいやうな気がするのであらう。

 しかし、買つても読まれてゐないのではないか。言葉が難しくてよく分からないからである。

 芥川は自分の作品を人が知らない難しい漢字で飾り立てることを得意としてゐた。そして、最後に読者を煙に巻くことを狙ひとしてゐた。多少の後味の悪さ、何とはなしの居心地の悪さをを作り出すことこそ芥川の狙ひだつた。

 芥川の小説はだから行間を読む小説ではない。まさに行のその文字そのものを、その文字の衒(てら)ひを見なくてはいけないのだ。

 彼の翻訳小説である『バルタザアル』に「荅布」といふ言葉が使はれてゐるが、芥川はどこでこんな言葉を知つたのだらうと訝るばかりである(ネットでひくと『史記』に出てくるらしい)。

 ところが、この熟語を載せてゐる漢和辞典が一つだけあるのを本屋で見つけた。その名を『漢辞海』といふ。次に買ふ漢和辞典はこれかなと安易に思ふのである。(2006年4月30日)







 最近、近所の婆さんのうちに大きな箱が届いた。訊くとそれは電子レンジで、Y新聞をまた4年契約してしまつた結果だといふ。

 4年ごとに婆さんの家には電気製品が届くのである。前は掃除機だつたさうだ。別の家ではY新聞からお風呂の只券2万円分をもらつたといふ。しかし、引つ越しのために中途で止めると、恐いお兄さんがやつてきて2万円返せと言はれたさうである。

 また、Y新聞はA新聞の購読家庭に「A新聞です、購読の延長お願ひします」と言つて、契約書を出して「ここにハンコを」と言つてY新聞に契約させてしまふといふ手も使ふ。こちらが騙されたことに気付いて断ると、今度駅前で見かけたらどうなるか分からないぞ凄むのである。

 とは言ふものの、A新聞も二年間契約すると二箇月分只にするという手を使ふ。

 こんな出鱈目がまかり通つてゐるのも、新聞が特殊指定されてゐるためである。かうした事が無くなるやうに公取委には是非がんばつてほしいものだ。(2006年4月29日)







 国宝の法隆寺の門柱に「みんな大好き」と落書きをされたが、「愛国心」を拒否する人達が沢山ゐる国柄であるから、そんなこともあるだらうと思ふ。

 「みんな大好き」だと感じてそれを形に残すことは、国宝などといふ政府が勝手に決めた寺の柱よりも大切なことだと、子供達は日教組の教師達によつて教へられてきたからである。

 国旗・国歌に反対し、首相の靖国参拝に反対して中韓の肩を持つ日本人は、日本といふ国を愛するよりも「みんな大好き」が大切な人達である。

 「みんな大好き」なのだから国境なんか必要ない。そもそも国境などといふ物があることが間違つてゐる。友情こそ大切なのだ。さうだ日本海を日韓の「友情の海」にしよう。その為に、些細な領土を譲つたつていいぢやないかと彼らは言ふのである。

 一方、韓国は日本海を「友情の海」にする気など全くなく「韓国の海」とするべく、軍事力を使つて竹島を占拠してゐるのである。

 これを見ても「みんな大好き」が日本の一部の人達だけの妄想でしかないことが分かるが、それを子供達に教へてゐる教師たちを放置してゐては、益々国宝が損なはれるどころか、行く行くは日本の国土も損なひかねない。(2006年4月28日)







 代用監獄とは警察の留置所を拘置所代りに使ふことである。これが何故悪いかは日本ではあまり理解されて居ない。悪いことをした奴がどこに留置されようが同じだと思はれて居るからである。

 この制度のもとでは被疑者は警察の取り調べから一息つくことが出来ない。本来なら警察と拘置所との行き来が必要なため、取り調べは9時から5時までといふ風に時間を区切られる。被疑者は今日の取り調べはあと何時間で終はると思ふことが出来るのである。

 また、拘置所に行くことで、被疑者は別の環境に移ることが出来、自分を取り戻せることも出來るので、心にもない自白をせずに済むのだ。当然、朝飯と晩飯は拘置所で落ち着いて食べることができる。

 代用監獄ではそれらが一切なく、被疑者は警察の奴隷状態に置かれて、夜昼の別なく警察の求める自白を要求され続けることになる。これは拷問と同じである。

 被疑者は推定無罪であるから犯罪者扱ひしてはいけないのだが、日本では犯罪者扱ひをする風潮が強く、国際的に見て恥づかしい人権侵害の制度が野放しになつてゐるのである。(2006年4月27日)







 耐震偽装事件の関係者を今頃逮捕するのだと云ふ。何のための逮捕なのか。

 逮捕するのは逃亡や証拠隠滅の恐れのある場合の筈だが、あの建築士が今さらどこに逃げるといふのか。証拠隠滅をするならもうとつくに終つてゐるだらう。

 要するに警察は留置所と云ふ代用監獄に放り込んで何らかの自白をさせようと目論んでゐるのだ。しかし、代用監獄は人権侵害であり国際的に違法である。警察がかう云ふ違法行為を繰り返すのだから、国民は誰も本心から法を守らなくなるのだ。

 裁判所もおかしい。自白した被疑者を拘置所から釈放して、自白しない被疑者を拘置し続けてゐる。

 逆だらう。自白した被疑者は犯罪者だと自ら認めた悪人である。そんな者を世に放つて、証拠隠滅や口裏合はせをされて裁判で自白を翻されたらどうするのか。自白しない被疑者こそ、まつとうな人間である可能性が高い。そんな人こそ釈放して正業に就かせるべきである。

 ところが実際は逆なのである。こんな理不尽なことを法曹界がやつてゐるのだから、世の中良くならない分けである。(2006年4月26日)







 川崎市多摩区のマンションで小学生の男の子が殺された件で、被疑者の男性が今頃逮捕されたといふ。

 しかし、、この被疑者は女性を投げ落さうとしたとして既に逮捕されてゐる。その起訴が済んだ今日男の子の件で逮捕されたのである。しかしながら、この被疑者はとうの昔に男の子を突き落としたことを自白してゐるではないか。

 ところが、報道によると、昨日男の子の突き落としを認めたから再逮捕したのだといふ。嘘だらう。被疑者は警察の捜査日程に合せて犯行を認めたり認めなかつたりするのか。警察は嘘を衝いてはいけない筈だ。

 大体この被疑者はずつと拘束されてをり、どこにも逃げるわけがない。何のための再逮捕なのか。警察の手続きだけの為の逮捕ではないのか。警察の代用監獄制度を使つて、被疑者を警察にずつと留置するためだけの逮捕ではないのか。こんな逮捕は逮捕権の乱用だらう。

 男の子の件で今頃逮捕するなら、女性の件で逮捕してゐた間は女性のことだけ取り調べをしてゐたといふのか。さうではない筈だ。警察はこんな見え見えのインチキをすべきではない。(2006年4月25日)







 コーヒーといふ商品は手がかかつてゐるものほど値段が安い。

 一番値が高いのがコーヒーの豆である。次に高いのがコーヒーの粉で、一番安いのがコーヒーの粉を一杯分づつ紙の袋に入れて濾過できるやうにした物だ。

 コーヒー一杯に必要なコーヒーの量を10グラムとすると、一杯づつ紙の袋に入れたものは、安いもので一杯10円を切る。コーヒーの粉は400グラムの袋入りで 700円ほどだから、一杯当たり17.5円。それに対してコーヒーの豆は200グラムで700円はするから、一杯35円である。

 豆売りは割れてゐないものを選んだりするから高いと云ふ説もある。しかし、それでは濾過パックにしたものの方が安いことの説明が付かない。

 卵にも似たやうなことがあつて、生卵より茹で卵の方が安い。こちらは売れ残りの卵で賞味期限の終りに近いものを茹でるから安いのだと言ふ。

 コーヒーがこれと同じなら、コーヒーも手を掛けたものほど古いコーヒーを使つてゐることになる。実際、紙パック物は黒くて苦いだけで風味のないコーヒーが出来ることが多いから、これが正解かもしれない。(2006年4月24日)







 犯罪が実際に行われなくても謀議に加わるだけで処罰できる「共謀罪」が新設されると報道されてゐるが、これは嘘である。テロを未然に防止するための「共謀罪」が新設されるのである。

 テロに協力する容疑者が日本に潜伏してゐるのを共謀罪に問ふことで計画段階でも逮捕できるやうにしようといふわけで、結構なことだ。

 ところが、大抵の地方新聞では野党や日弁連(=共産党)の意見に従つて、最初のやうに書くから、地方新聞しか読まない人はとんでもない法律が作られようとしてゐると思ふに違ひない。

 中にはこれは現代版治安維持法だといふ人までゐる。しかし、治安維持法が天下の悪法だつたのは取り締まりの対象だつた共産党員か隠れ共産党員にとつての話であつて、一般の人達にとつては悪法でも何でもなかつたのである。

 それと同じことで、共謀罪はテロリストになる予定のない我々一般人にとつては、何の関係もない話である。また、犯罪の計画を相談をする事と言論の自由とは何の関係もないのは言ふまでもない。(2006年4月23日)







 松本清張の『昭和史発掘』シリーズの中で、政治を扱つたものは眉に唾して読む必要がある。

 清張の政治に対する見方には権力は悪事を為すものだといふ決め附けが根底にある。だから、「陸軍機密費問題」「石田検事の怪死」「朴烈大逆事件」と読んで行つても、真相が明かになつてゐるやうには読めないのである。

 「満洲某重大事件」も東京裁判史観にどつぷり漬かつた書き様で、関東軍による張作霖暗殺の唐突さに全く疑問を呈してゐない。

 清張が記すストーリーでは、田中義一が満州占領作戦の一切を中止した(昭和三年五月二五日)ことに対する関東軍の反発が引き金となつて、張作霖暗殺事件 (六月四日)が勃発するのだが、其の間がたつたの十日しかなく、事件の綿密さと規模の大きさから見てあり得ない短さなのである。

 そこには僅か十日の思ひ附きではなく、北京にゐる張作霖が満州へ帰還する日程さへ分かれば成功できるだけの用意周到な計画があつたと考へるべきである。

 私はこれを読んで、張作霖暗殺は関東軍将校の仕業でなかつたのではないかといふ疑ひを益々深めた次第である。(2006年4月22日)







 家電リサイクル法によつて、古いテレビが役場ではゴミとして処理されなくなり、業者に有料で引き取つて貰はねばならなく成つてから大分経つ。

 同じ商品を買ふにも少しでも安い店を捜して廻る世の中であるから、映らなくなつたテレビの処分に金を使ふ気になれなくて、家の中に仕舞ひ込んでゐる家も多いのではないかと思ふ。我が家にもそんなテレビがあつて、31型の大型なので二階から一階に降ろすこともできない。

 落語の『火焔太鼓』のおかみさんの科白ではないが、このテレビは我が家にズーッとゐて、家の人間が死に絶えてもテレビだけは居続けるのだらう。そして、誰かがこの家を壊すときにそのテレビも一緒に壊されるのだらうと思ふ。

 ところで、リサイクル法の趣旨は分解して出た部品を再利用しようといふことである。しかし、こんな古いテレビを分解しても再利用できる部品があるとも思へない。

 このあいだ田圃の道ばたに大きなテレビが抛り出されて居るのを見かけた。きつと誰も引き取り手が無くて捨てられたものに違ひない。アナログ放送の終はる五年後には、こんな光景があちこちで見られるやうになるのではないだらうか。(2006年4月21日)







 松本清張の『昭和史発掘』の「芥川龍之介の死」は筆者が初めに否定してゐるにも拘はらず面白い「芥川龍之介論」になつてゐる。

 筆者は芥川を谷崎潤一郎と比較して、谷崎が一匹狼的存在で誰の後押しを受けることもなく、一面識もない永井荷風に認められて独力で出世したのに対して、 芥川が漱石グループの支援のもと恵まれた環境の中で漱石の後押しで世に出てとんとん拍子に出世した点に注目して、そこに芥川の根本的な弱さを見てゐる。

 その為、谷崎が成功した後も自在に自分のスタイルを変へながら旺盛な創作活動を続けたのに、大家になつてグループの庇護から離れた孤独な芥川は、漱石の死後も漱石に褒められたスタイルを変へることが出来ずに行詰つてしまつたと云ふのである。

 ところが話は其処の留まらない。芥川は実はH女(秀しげ子)との肉体関係で泥沼に陥つて、心身ともに困憊しきつてゐたのであり、其れが自殺の大きな原因の一つになつたと云ふのだ。

 芥川賞作家である松本清張が芥川龍之介の恥部を容赦なく暴いて見せるこの作品は、芥川龍之介のニヒルなイメージを一変させるものである。(2006年4月20日)







 「数学を学んで何の役に立つのか」とはよく聞く言葉である。その答は色々あらうが「それは数学の発展に役立つから」といふのも一つの答であらう。

 数学の発展は数学者に委せておけばいいと云ふ人が多いかもしれない。しかしながら、一つの物が発展する為には多くの人間がそれに携はる必要があるのだ。

 例へば最近「野球の裾野」を拡げることの重要性が言はれてゐるが、それは優れたプロ野球選手が一人輩出する為には野球をする人が沢山ゐることが必要だか ら野球の普及に努めやうと云ふことである。日本に野球の長い歴史があつて、日本人の男性の誰もが子供の頃からみんな野球をやつてきたからこそ、大リーグの松井や イチローが生まれたのである。

 それと同じで、数学が発展する為には数学の広い裾野が必要なのである。国語もまた同じで、古文や漢文なんか専門家だけが読めたらよいと思はれ勝ちだが、さうではないのだ。

 好きな人が沢山ゐるから、出来る人が沢山ゐるから、優れた学者も生まれてくるのである。(2006年4月19日)







 新しく『ポケットプログレッシブ中日辞典』が出たので購入した。これはこれ迄のポケット版のよりも、日本語読みの音訓索引でも熟語の数でも充実してゐるやうだ。

 中日辞典は中国語を読む為の辞書ではあるが、明治の日本語を読むときにも役に立つ。中江兆民や中村正直やさらには森鴎外でさへも中国語の熟語をそのまま使ふことがよくあるからである。

 「切当」や「羞明」など広辞苑にも漢和辞典にもない単語が中日辞典に掲載されてゐることがよく有るのだ(但し此の二つは『大辞林』には載つてゐる)。そこで役に立つのが小学館の中日辞典なのだが、もつと手軽なのが欲しかつた。

 たまたま調べてゐた「顚仆」といふ単語が手持の中日辞典では小学館のものにしか載つてゐなかつたが、この辞書にも載つてゐるので購入した。同じ小学館といふことで親版の情報を大分取込んでゐるやうである。

 この「顚仆」を知つたのは『支那文を読む為の辞書』の中である。この辞書には漢和辞典になくて中日辞典に出てくるやうな熟語を多く扱つてゐる。『ポケットプログレッシブ中日辞典』は何よりもこの辞書を読むのに役立ちさうである。(2006年4月18日)







 私は車を運転してゐてブレーキを蹈むときにには、軽く一度蹈んでから次に強く蹈むといふ二度蹈みをするやうにしてゐる。

 ある時、前方に止つてゐる車に気附くのに遅れて、ぶつかりはしなかつたが、ハッとさせられたことがあつて、点けつぱなしのブレーキランプは気附きにくいものだと思つたことがあつた。

 人の目は変化しないものには鈍感だから、ブレーキランプを点灯させたままにせず、ブレーキを二度に蹈み分けてランプを点滅させて、後続車の運転手に直ぐに気附いて貰ふやうにするのである。

 同じ理屈で、自分の車が渋滞の最後尾で止まる時にも、ブレーキを蹈みつぱなしにはせず、バツクミラーを見ながらブレーキランプを点滅させて、こちらが止まつてゐることに気附いてもらふやうにしてゐる。

 ブレーキの二度蹈みは教習所で教へてゐることだが、実際にしてゐる人を見たことがない。ところが上岡龍太郎が『パペポテレビ』でこれをしてゐると聞いて、意を強くしたことを覚えてゐる。(2006年4月17日)







 学生時代には新聞で読むのは夕刊の文化欄くらゐだつたから、大学に入つて下宿暮らしをしてゐたときには新聞はとらなかつた。

 新聞を読みたくなつたら近くの銀行に置いてあるものを読んだ。朝日を読むことが多かつたが、スポーツ欄は名文家揃ひで、相撲や陸上競技の描写にはしばしば感動させられたものだ。

 一方で、『天声人語』にも時々目を通したが、後味の悪い独善調でいつもうんざりしたことだけを覚えてゐる。

 アイフルが営業停止になつたといふので、新聞は「チワワのCMの陰で違法取り立て」などと一斉に書き立ててゐる。しかしながら、そのCMを流して金を稼いでゐるのは新聞社の系列テレビ局であることを忘れてもらつては困る。

 しかも、部数の多い新聞ほど暴力団まがいの勧誘員を使つて強引な勧誘をやらせてゐるのは誰でも知つてゐる。新聞に人のことを偉さうに言ふ資格はないのである。

 今も昔も、自らの独善を恥ぢる謙虚さは新聞の何処にも存在しないやうだ。(2006年4月16日)







 「告」といふ漢字は、旧字体では縦の棒が二番目の横棒で止まらずに「口」に着くまで突き抜けてゐる。突抜けるとどうなるか。「告」は「牛」と「口」とから出来てゐることが分かるのである。

 とすると「告」は牛が口を開けてゐる姿に見えてくる(但し辞書では「口」はワクを意味するといふ)。

 このやうに旧字体では、新字体で突き出てゐないものが突き出てゐたり、その逆だつたりして、そこに意味のある漢字が沢山あつて面白い。

 一方、「虫」の旧字体は「蟲」であり、「糸」の旧字体は「絲」である。ところが「木」の旧字体は「森」でも「林」でもない。

 この「蟲」と「絲」を「森」と「林」から類推すると、本来の「蟲」とは無数の「虫」の集まりのことで、本来の「絲」とはある程度の「糸」の集まりのことだと思はれてれてゐたことが分る。

 さらに「虫」は「まむし(真虫)」の「むし」で蛇(へび)のことだとも云ふ。昔は「虫」と書いて蝮(まむし)の意味だつたとも云ふ。

 旧字体を知ると、今とは違ふ考へ方や物の見方を色々知ることが出来る。(2006年4月15日)







 「格差社会」の議論は作られた議論、為にする議論であり、国民の中から沸き上がつて来た議論ではない。

 我々は日常の暮らしの中で他人との格差を感じることは殆どない。自分が人と比べるのは、親類縁者であり隣り近所である。そして、親類縁者も隣り近所も自分とそんなに違つた暮らし方をしてゐる者はまづない。

 それは下町の住人にも高給住宅街の住人にも言へることである。下町の人間は高給住宅街の人間と自分を比べようとはしないし、逆もまた同じである。だから、日本の社会に格差があるなどといふ人間は、それをわざわざ比べようとする人間なのである。

 確かに、テレビのクイズ番組に大金持ちの贅沢な暮らしぶりを紹介してゐるものがある。あれなどを見ると誰もが格差の存在を感じるかもしれない。ところが、その番組を作つてゐるのはTBSで、日本が「格差社会」だと一番騒いでゐる毎日新聞の系列会社なのだ。

 どうやら「格差社会」とは、毎日系の新聞社とテレビ局が自作自演て作り上げた虚像だと言つていいのではないか。(2006年4月14日)







 トイレの後で手を洗ふときに、いつも思ふのはこれは一体どれほどの意味があるのかと云ふことである。

 汚物に触れたのなら兎も角、普通はトイレをする過程で手が汚れることは殆どない。むしろ、汚れた手で自分の下着や体を汚さないやうに、トイレに入る前に手を洗ふ方が大切な気がする程だ。

 むかしO157が流行つた頃、大をした後の手洗ひが喧(やかま)しく言はれたことがあつたが、あの時上岡龍太郎が『パペポテレビ』でそれに噛みついて、「ではトイレの後の何時手を洗へばよいのか」と、いちやもんをつけてゐたのを思ひ出す。

 手洗ひがそんなに大切なら用を済ませた直後に行ふべきで、パンツを上げたりシヤツをズボンに突つ込んだり等々をして服装を整へてから、さあ手を洗ひませうといふ普通のやり方では、O157の黴菌は手を洗ふ前に下着や服に附着してしまふではないかといふのだ。

 実際、これはO157が流行つてゐなくても同じで、トイレの後の手洗ひには気休めとして意味合ひが大きいのだと思ふ。(2006年4月13日)







 パソコンで旧漢字を使つて文章を書かうと思つても、実は現状のパソコンでは旧漢字を全部表示することは出来ない。

 新字と旧字が余り違はない漢字には両方のフォントが用意されてゐないからである。例へば、旧漢字では点が一個多いだけの「しんによう」の漢字や「暑」な どは、特別なファイルを作つて中国語や韓国語のフォントをいちいち埋込みでもしない限り、パソコンでは旧字体が使へないのだ。

 だから、「旧字こそ正字なり」と漢字に旧字だけを使つてホームページを作らうとしても簡単には出来ないのである。また、青空書店などの文学作品のファイルで旧字旧仮名となつてゐるものも全ての旧字が使はれてゐるわけではない。

 その一方で、戦後生れの人間だから旧漢字が読めなくても当り前だといふわけではない。旧漢字は漢文の教科書に出てきて居り、ちやんと学校で勉強してゐる 筈だからである(但し、最近では新字で漢文を教へるらしい!?)。それでも、日頃は用が無いので、意識して覚えてゐないことが多いかもしれない。

 取り敢ず、新旧で特に字体の違ふ要チェック漢字は下に挙げたもの位だらう。あとは前後の文脈で何とか分かるのではないか。

 壓(圧)圍(囲)鹽(塩)畫(画)嶽(岳)舊(旧)缺(欠)獻(献)蠶(蚕)實(実)寫(写)處(処)盡(尽)圖(図)竊(窃)雙(双)體(体)臺(台)擔 (担)膽(胆)癡(痴)晝(昼)廳(庁)轉(転)點(点)傳(伝)燈(灯)當(当)濱(浜)邊(辺)寶(宝)與(与)禮(礼)。(2006年4月12日)








 昨日は新聞休刊日だつた。新聞休刊日はいつも月曜日であるが、何故月曜日なのだらうか。

 月曜日に休む代表は散髪屋と図書館である。この二つは日曜日に利用者が多いから、日曜日に休まずに月曜日に休む。同じやうに、新聞は日曜版の広告が多いので日曜日は休まずに月曜日を休みにしたと云ふことがあるかもしれない。

 しかし、新聞休刊日が新聞配達人の為と云ふのは嘘だらう。それなら日曜日に休めるやうにする筈だからである。また新聞の購読者にとつても一週間の始まりである月曜日に新聞がないのは不便である。

 月曜日の新聞は日曜日に作られるから、月曜日が休みといふことは、新聞を作る人達が日曜日に休めるといふことである。つまり、新聞休刊日が月曜日であるといふことは、新聞配達人のためでも新聞購読者のためでもなく、新聞記者と新聞社の為だと考へられる。

 新聞社はしきりに宅配の重要性を主張してゐるが、それなら新聞休刊日を日曜日にした方が良いのではないか。(2006年4月11日)







 時々「この本は旧漢字だから駄目だ」とか云ふ人がゐる。さうではないだらう。旧漢字の本が駄目なのではない。旧漢字が読めないあなたが駄目なのである。

 わたしは戦後教育を受けた人間ではあるが、これまで旧漢字を旧漢字と意識して読んだことはなかつた。今改めて調べてみると、これまで読んだ本の中に旧漢字で書かれた本があるが、読んだときには、そのために読めない本だと思つたことはない。問題は中身だからである。

 岩波書店が春と秋に「リクエスト復刊」で出す文庫は、殆どが旧漢字である。だから、旧漢字嫌ひの人は見向きもしないかもしれない。一方、旧漢字が何とか読める私とて、復刊だからと云つて慌てて買ふわけではない。近くの図書館に在る本ばかりだからである。

 ところが、今回の復刊の中に『O侯爵夫人他六篇』といふクライストの短編集が入つてゐて、これはいつもの図書館に無いので取寄せた。訳者は独和辞典の木 村・相良で有名なあの相良守峯で意外にも上手く訳してゐる。内容も女性の妊娠を扱つて興味が尽きないので、旧漢字の豊かな表現力を味はふのに相応しい本で あると思ふ。(2006年4月10日)







 「格差、格差」と一部の新聞が騒いでゐるが、それなら言はう、新聞社の中にこそ最大の格差があると。それは新聞記者と新聞配達人との格差である。

 新聞記者と言へば大学出であり社会のエリートだ。それに対して新聞配達と云へばきつい仕事の代表であり、それに携はる人達は社会の底辺を構成してゐる。そしてこの格差を作つたのは小泉改革ではなく新聞社である。

 この格差は行政の問題ではなく、新聞社の問題なのである。新聞社は自分の中にあるこの格差をまづ解消してから、さらに新聞社の外に格差があるならそれを指摘して然るべきだらう。

 ところが、新聞社は新聞配達人を蔑(ないがし)ろにしてきた。新聞社は新聞配達人に対して高い地位を与へることなく、使ひ捨てにしてきたのである。

 折しも、母子家庭の母親が新聞配達中の早朝に家が火事になつて幼い子供二人が焼死ぬと云ふ傷ましい事件が赤穂で起つた。これは格差は新聞社の中にこそ存在することを象徴する事件ではあらう。(2006年4月9日)







 戦前と比べれば戦後の方が国民の国語力は飛躍的に向上してゐるといふ見方がある。丸谷才一は『桜もさよならも日本語』でこれは認めねばならない事実だと書いてゐるが、果してさうか。

 その根拠として丸谷が挙げる理由は、学校の進学率と新聞の購読数が戦前より飛躍的に上昇したことである。しかし、この二つは戦後の経済発展によつて国民の経済力が高まつた結果であると考へる方が良いのではないか。

 また、新聞を取つてゐるからと云つてそれが必ず読まれてゐると考へるのは早計と云ふものだし、上の学校に行つたから勉強がよく出来るやうになつたとは云へないのも常識だ。

 逆に戦前の新聞が国民に対してもつてゐた影響力の大きさは、新聞がよく読まれてゐたといふ何よりの証拠であらう。米騒動が鈴木商店焼討ちに発展した事と大阪朝日の扇動記事とは切離して考へられない事である。

 また、戦前の教育を受けた私の両親は小学校や青年学校しか出てゐないが、旧字旧かなの森鴎外の小説を平気で読むし、最近まで私よりも漢字を良く知つてゐた。

 丸谷氏は戦前を暗黒社会と見る進歩的知識人たちの迷妄に囚はれ過ぎてゐるのではないか。(2006年4月8日)







 インターネットは知識の宝庫で、これを使ふと知りたい情報が大抵直ぐに手に入る。ADSLなどの常時接続になると特にさうである。

 だから、インターネットを使へば、テレビのクイズ番組の『クイズミリオネア』で解答者が「ファイナルアンサー」と言つた後に、司会者が「ざんねーん」と 言ふのかそれとも「せーかい」と言ふのかが、コマーシャルの時間を待たずとも、司会者の顔と睨めつこしなくても、分かつて仕舞ふのである。

 お陰で、ちよつとしたことで疑問に思ふことがあると、すぐにインターネットで答を見附ける癖が附いてしまつた。
 
 以前なら、人に訊く、本で調べる、本屋に行く、図書館に行くなどの手数が必要で、答が見つかるまでの時間を待つための辛抱が必要だつた。それでも判らないときには諦めることも必要だつた。

 インターネットをこのまま使つてゐると、自分が堪(こら)へ性のない人間、短気な人間、辛抱のできない、すぐに答へを欲しがる人間になつてしまふのではないかと心配になつて来る。(2006年4月7日)







 貧乏な親の子供は充分な教育を受けられないから良い学校に行けずに良い会社にも入れないからまた貧乏になるといふ貧乏の循環論が流行つてゐる

 確かに、頭が悪くて貧乏な親の子供がまた頭が悪くて良い学校に行けないことはあるかもしれない。しかし、だからといつて、頭が良くて裕福な親の子供がまた頭が良くて良い学校に行くのを批判するのは嫉妬といふものだらう。

 では、金持の子供は頭の悪さを金で補つてゐるのだらうか。確かに教へ方のうまい教師はゐる。だから、金を掛けてよい教師に附けば判るやうにはなる。しかし、勉強は最後は自分ですることである。そして、自分ですることである以上、勉強は只でも出来るのである。

 金の掛らない勉強の仕方を一つ教へよう。それは教科書をノートに丸写しすることである。これは国語でも数学でも同じことだ。丁寧にノートに書き写してゐる間に、教科書に何が書いてあるかは自然に分かつて来るからである。

 ノートも買へないほど貧しければどうするか。自分の頭に丸暗記すれば良いのだ。そして、働く為にそれすら出来ない子供が沢山ゐる社会こそ格差社会といふのである。(2006年4月6日)







 森鷗外の『青年』を読んでゐると、これは発禁になつた『ヰタ・セクスアリス』の書き直しだと思へてくる。詰まりテーマが同じなのだ。

 この長篇小説の中で、主人公の純一が、劇場で知り合つた坂井夫人に本を見に来いと家に誘はれて関係をもつてからは、読者の興味は専(もつぱ)ら純一と坂井夫人の関係に引き摺(ず)られざるを得ない。

 純一は夫人の家から帰るときラシーヌを借りる。次はラシーヌを返しに行かねばならない。そこでまた関係をもつ。帰りしなに今度は箱根に来いと誘はれる。

 鴎外はその途中で性欲を廻つて哲学を論じる。人生の意味を考へる。それを登場人物の口を借りてどんどん喋らせる。メーテルリンクの『青い鳥』に対する批判やルネサンス論が来る。ショーペンハウエル論からニーチェ論までが挿入される。

 実に高級な話なのだが、読者の興味は坂井夫人にあつて飽くまで低級である。純一は箱根に行くのか行かないのか。それが結局箱根に行く。そこでまた関係するのかしないのかといふことになる。

 結局、鴎外の『青年』は女と性をどう扱ふかがテーマであり、哲学を除くとまさに自然主義小説そのものと言へるのではないか。(2006年4月5日)







 この頃はガソリンスタンドは何処もセルフだが、灯油もセルフでポリタンクに自分で入れる。先日そのセルフのスタンドで不思議な光景を見た。

 私の隣で爺さんがポリタンクに灯油を入れてゐるのだが、それが中々捗(はかど)らない。よく見ると爺さんはポリタンクの中を覗きながら入れてゐるのだ。

 私はそんなことはしない。私のポリタンクには20リッター入るから、給油スタンドのホースのノズルをポリタンクに突つ込んで、把手(とつて)を握つて給 油を始めると、スタンドのメーターをじつと見てゐる。そしてメーターの表示が20になつたら握りを緩めて給油を止めるだけである。

 ところが爺さんはメーターを見ずにずつと手元を見てゐるのだ。

 手元の灯油と見上げた先のメーターの数字は確かに繋がつてゐる筈である。しかしながら、メーターの数字はデジタル情報であり、灯油がポリタンクに入つて行くといふ実感がない。

 恐らく爺さんはそんな実感のない数字よりも自分の目を信じて必死で手元を見てゐたに違ひない。(2006年4月4日)







 民主党はこれまで何度も自民党の誰かを辞めさせようと問題を持出して来ては自分たちが辞める羽目になつてきた。

 前原氏が代表になつて与党と政策で争ふ方針を打出したのだが、これはこのやうな過去の轍を蹈まないためではなかつたやうである。前原氏も又スキャンダルといふ餌に飛び附いて、同じ失敗に陥つて仕舞つたからである。

 「人を呪はば穴二つ」とは人を呪ひ殺さうとしたら自分も死ぬから墓穴が二つ要るといふ意味ださうだが、民主党の場合はいつも自分の方の穴ばかり多い。

 そもそも野党の最大の仕事は政府与党のスキャンダルを追求することだらうか。戦前の議会でも、野党はこれこそ我使命であるとして、多くの大臣の首を取つたが、それが結局は政党政治に対する国民の信頼を損ねて軍部の擡頭(たいとう)を招いた。

 今回は偽メールで政治に対する国民の信頼を損ねたと云ふが、もしメールが偽物でなかつたら国民の信頼は高まつただらうか。これがさうはならないことは、過去の議会の歴史を顧みれば判ることだ。

 やはり野党は政策で与党と争つて貰ひたい。(2006年4月3日)







 プロ野球の阪神は確か去年優勝した筈なのに、今年の開幕試合を何故かアウェーの神宮球場でビジターゲームを戦つてゐる。いや実は阪神は前年に優勝しようが最下位だらうが毎年甲子園球場で開幕戦を開く事ができない。

 何故かと云へば、それは他でもない、四月の初めには高校野球様が甲子園球場をお使ひになつて居られるからである。

 高校野球といへば子供の野球だが、この国ではそれが特別な存在として大人の野球であるプロ野球よりも尊ばれてゐるのである。

 しかも、高校生だからと子供扱ひして監督が選手を「あの子、この子」と呼んだりしようものなら新聞に抗議の投書が来る。

 高校生であつても大人として、いやそれ以上の存在として敬はねばならないのだ。なぜなら、今やプロ野球の投手ですら出来ない三連投を当り前のやうにやつてのける犠牲的精神が今もなほ高校野球様には健在だからである。

 金儲けに汚れたプロ野球の試合などと違つて高校野球様は神聖なのである。だから、阪神の選手たちは開幕と真夏にロードを戦ふといふ不利を蒙つても、一言も文句を言ふことが出来ないのである。(2006年4月2日)







 城山三郎の『鼠』には、大正時代の米騒動で焼討ちに遇つた鈴木商店を一人で動かしてゐた金子直吉の栄枯盛衰が描かれて居る。

 当時鈴木商店は、弱者の立場に立つ大阪朝日新聞から執拗な攻撃を受けてゐた。大阪朝日は鈴木が米を買占めて米価を釣上げて居ると、事実に反する記事さへ書いて、鈴木に対する憎悪を煽り立て、鈴木商店の焼き討ちの元凶となつた。

 一方で、金子自身は清廉潔白な人物であり、金銭欲も名誉欲も全く無く、樟脳・小麦・砂糖などの商機を掴んだ買占め攻勢で小さな鈴木商店を世界に名立たる巨大商社にまで育て上げ、日本の為・世界の為に身を粉にして働いた偉人だつた。

 「大阪朝日の社会主義者ども」にも「奸商鈴木」の金子直吉にもそれぞれの正義があつた。

 しかし、大阪朝日の正義は「白虹事件」にまで発展して、発行停止寸前に追込まれる。新聞の無責任な言論と社会主義者の出現で各地に暴動が起きるやうになつた社会は、治安維持法を必要とするまでになつた。

 一方、「鈴木は何も悪いことはしてゐない」と言ひ続けた金子直吉の正義は、会社が焼討ちされても怯(ひる)むことは無かつたが、大戦景気で手を広げすぎた反動で戦後不況に堪えられずに倒産に至る。

 城山三郎の記述は正義に倒れた者に常に同情的である。しかし、誰もが正義によつて躓く事をもつと言つても良かつたのではないか。(2006年4月1日)



私見・偏見(2006年_1)




 日本ではマンガが大流行(おおはやり)だが、これは常用漢字による漢字制限と関係があるのではないか。

 千字程度しか漢字が分らない学生でも面白い本は読みたいものだ。しかし、小説は漢字が多すぎる。そこで文字が殆ど書いてないマンガに向ふのだらう。

 マンガとは文字による描写を絵で代用したものである。それは要するに絵本である。そして、絵本は本来文字の読めない子供のためものである。

 人間が他の動物と違ふのは、目で見て感じたことを言葉で表し言葉で理解するところにある。ところが、絵本は目で見て感じたことを言葉を介さずに目で見たまま理解する。しかし、これは人間でなくてもやつてゐることだ。

 今ではマンガ好きの大人が大量生産され、古本屋に並んでゐる本の約七割はマンガとなり、本当の本は三割しかなくなつて仕舞つた。日本人の国語力もまた三割に減少したと言へば言ひ過ぎだらうか。(2006年3月31日)







 『知事のセクハラ』といふ本を読んで不思議に思つたのは、触られた直後の車の中で女性がまるで待つてましたといふが如くに「セクハラされました」と紙に書いて同乗の人に渡したといふ話である。

 普通は誰もセクハラとは何であるかを知らないものだ。生まれて初めて電車で痴漢に遇つた人もそれが何なのかを判断しかねて、単に変なこと不快なことをされたと想ふ許(ばか)りであらう。それが「痴漢」といふ一つの概念に収斂して行くのは後の事である。

 ところが、この女性は自分が何をされたかをその直後に「セクハラ」といふ概念で書き表すことができた。といふことは、それが女性にとつて初めての体験ではなかつたか、それとも、「セクハラ」と称すべきものが起きる事をあらかじめ知つてゐたかのどちらかであらう。

 その他に、この本には女性が共産党系の弁護士をどうして知つたかの経過が詳しく書かれてゐない。普通は弁護士は弁護士会で紹介してもらふものだが、この二十歳の女性はそんな手続きを経ることなく、翌日に弁護士に会つてゐる。

 残念ながらこの本は事件についての私の疑問を全く解決してくれない本である。(2006年3月30日)







 日本語の力は漢字力であるとよく言はれるが、柳美里の『石に泳ぐ魚』を読みながらその事を痛感させられた。新聞に出てこない漢字つまり常用漢字以外の漢字が振仮名無しで沢山使はれてゐるのだ。

 といふより、そもそも人間がすることを文章で再現するには、とても常用漢字だけでは足りないのである。以下動詞だけでもこれだけある。

 「あ」は「喘ぐ」「蒼褪める」「呆れる」「嘲笑ふ」「後退る」「溢れる」。「い」は「訝る」「燻す」。「う」は「蹲る」「俯す」「魘される」「頷く」 「項垂れる」「唸る」。「お」は「臆する」「堕ちる」「貶める」「怯える」。「か」は「嗅ぐ」「匿ふ」「翔る」「翳る」「齧る」「掠れる」「被る」「噛 む」「躱す」。「き」は「訊く」「軋る」。「く」は「括る」「擽る」「燻らす」「刳貫く」。「け」は「蹴躓く」。「こ」は「拵へる」「擦る」「零(こぼ) す」「強張る」。「さ」は「囁く」「曝す」。「し」は「痺れる」「萎む」「嗄れる」。「す」は「縋る」「竦める」「啜る」「辷る」「窄(すぼ)む」。 「そ」は「聳やかす」「剃る」。「た」は「昂ぶる」「窘める」「立眩む」。「ち」は「鏤める」。「つ」は「摑む」「噤む」「呟く」「瞑る」「潰れる」「躓 く」。「て」は「梃子摺る」。「な」は「馴染む」「詰る」「訛る」「舐める」。「に」は「滲む」「躙る」「睨む」。「ぬ」は「拭ふ」。「ね」は「捩る」。 「は」は「這ふ」「剥がす」「撥ねる」。「ひ」は「引き攣る」「轢く」「拉(ひし)ぐ」「捻る」。「ふ」は「拭く」「潤(ふや)ける」。「ほ」は「綻び る」「穿る」「解く」「迸(ほとばし)る」。「ま」は「捲(まく)る」「纏ふ」「微睡む」。「み」は「漲る」。「む」は「剥き出す」「貪る」「毟る」。 「め」は「捲る」。「も」は「踠(もが)く」「擡げる」「凭れる」「縺れる」。「や」は「瘠せる」「窶れる」。「ゆ」は「茹でる」。「よ」は「捩る」「縒 る」。「わ」は「蟠る」「嗤ふ」。

 小説家になりたかつたら新聞を真似てはいけないと云はれるのは、文章に独創性がないからであるが、現代の日本では新聞を真似ると正しい漢字が身に附かないといふ理由も附け足してよい。(2006年3月29日)







 裁判になつた事で有名な柳美里の『石に泳ぐ魚』は、小学二年の「私」が変質者の家で悪戯(いたづら)される場面の描写と、入院して堕胎手術を受ける場面の描写で、誰もが痺(しび)れるのではないか。

 この裁判の公判記録を見ると、この小説は現実にあつた事を実に正確に写したものであることが分る。作者の記憶力とその再現力は全く驚くべきものである。

 シェークスピアは『ハムレット』の中で劇とは自然に向けた鏡であると言つた。目に見たものを絵の具で写したのが絵画なら、経験したことを文章で写したのが文芸であらう。私小説は私生活を写したものであるから、小説が事実と似てゐるのは不思議なことではない。

 変質者にしても堕胎にしても、その描写はこれまでになく詳細で生々しく、作者が自分の経験を書いたとしか思へない程のものだ。作者は文章によつて自分自身を容赦なく写し出し、それと同時に他人をも容赦なく写し出したに違ひない。

 その他人の内の一人が原告となつて名誉棄損とプライバシーの侵害で作者を訴へた。しかしながら、原告の得たものは少なかつたのではないか。原告がモデル であることは裁判によつて余計に世間に知れ渡り、顔の苛烈な描写は小説から消えても公判記録の中にしつかり残つたからである。(2006年3月28日)







 最近、大学生の国語力の低下がよく言はれるが、その元凶は当用漢字(今の常用漢字)であらう。これは単なる公式文書での漢字使用の目安でしかなかつた。ところが、このために日本人は漢字をたつた二千語しか使はなくなつてしまつた。

 その最大の原因は新聞である。いつもは国の言ふことに反対する新聞が、これで念願のルビ廃止が出来ると、当用漢字は悦んで採用した。そして、新聞には二千語の漢字で書ける文章しか載せなくなつた。新聞の真似をした日本人は同程度の漢字しか使はなくなつた。

 学生の方もたつた二千語でよいとなると、小学校で習ふ教育漢字の約千語だけ知つてゐれば半分知つてゐることになるから、碌(ろく)に漢字を勉強しなくなつた。しかし、漢字を千語しか知らない大学生の国語力が小学生並なのは当然である。

 ではどうすればいいか。難しい大学では英語の入試で学生に英単語を六千語読めることを要求してゐる。それなら国語でも漢字を六千語読めることを要求すればいいのである。

 そして、もし六千語を要求すれば、その半分しか知らない学生でも三千語知つてゐることになる。さうなれば、平均的な大学生でも今の常用漢字しか知らない大学生より遥かにましな国語力を持つやうになる筈である。(2006年3月27日)







 柳美里の評論集『仮面の国』(新潮文庫)は正に快刀乱麻を断つ勢ひで右も左もばつたばつたと斬り捨てていく、実に小気味よい本である。

 世間は彼女を在日朝鮮人だから左寄りだと勘違ひして、朝日新聞は彼女を味方と思つて可愛がり、「新しい歴史教科書をつくる会」の人達は敵だと思つて攻撃 した。ところが、この評論が進むに従つて、彼女は正論を吐く人間であることが明らかになり、鷹派で保守的と云ふレッテルを貼られるに至つた。

 彼女はやられたらやり返さずには居られぬ人である。だから、彼女が主張するこの国の仮面を当(まさ)に剥がす運動をしてゐる筈の「つくる会」の人達をも、こてんぱんにやつつける。

 しかし、自分を可愛がる朝日新聞をも彼女は容赦なく斬り附ける。それは朝日新聞こそがこの国の偽善の仮面をかぶつてゐる代表だと彼女は信じるからであ る。彼女が嗅覚鋭く指摘した同社菅沼栄一郎(ニュースステーション出演)の偽善的ヒューマニズムは、その後の愛人スキャンダルで見事に証明された。

 この連載を終へた彼女は「言論のグラウンドから離れて外野席」に戻つた。しかし、「ときには野次りたくなって立ち上がるかもしれない」と云ふ。彼女の「野次」を是非とも亦見たいものである。(2006年3月26日)







 常用漢字に定められてゐる漢字はたつた二千である。では、それでこれまで通りの日本語を書くにはどうすればよいか。そこで編み出されたのが、常用漢字以外の漢字を常用漢字で代用するやり方である。

 例へばこれまでは「煖炉」と書いてゐたが「煖」が常用漢字ではないので、「暖炉」と書くことにした。その他に「鎔鉱炉」を「溶鉱炉」、「障礙」を「障害」、「慰藉料」を「慰謝料」にと、この手の変更が無数に行はれた。これはどういふことなのか。

 それまではこんな熟語を書くと間違ひだとされて、先生に×を附けられてゐた漢字の用法が正解になつたといふことである。そして岩波書店の国語辞典などによつて、これまで正解だつた漢字には×が付けられることになつたのである。

 常用漢字とその前身の当用漢字は、そもそも国民の文化の向上のために導入された筈(はず)なのだが、こんな言葉の誤用を広めることが文化の向上に繋(つな)がる筈がないのは誰が考へても明らかだらう。

 もちろんこんな誤用も公文書だけに限られてゐたのなら大したことはなかつた。ところが全国の新聞がこれを採用したものだから、こんな誤用が日本中に広ま つてしまつた。そして、国民は小説などで「煖炉」と書いてあると間違つてゐるではないかと思ふやうになつてしまつたのである。(2006年3月25日)







 漱石の『我輩は猫である』を意識して書いた『ヰタ・セクスアリス』が発禁になつてしまつた鴎外は、いつそのこと漱石の人気に肖(あやか)らうとしたのか、小説『青年』の中に漱石を登場させてゐる。

 主人公純一が天長節の日に拊石(ふせき)といふ小説家の講演会に行くと云ふ設定の中で、鴎外は漱石にイプセンについてしやべらせてゐるのである。鴎外は 拊石の髯の描写によつて、この人物が漱石その人であることを自ら明らかにしてゐる。だから、この小説に漱石ファンが食ひ付かないはずがない。

 さらに、鴎外は自分と漱石を比較して、「純一は拊石の物などは、多少興味を持つて讀んだことがあるが、鴎村(=鴎外)の物では、アンデルセンの飜譯(ほ んやく)丈(だけ)を見て、こんな詰(つま)らない作を、よくも暇潰(ひまつぶ)しに譯(やく)したものだと思つた切(きり)、此人に對(たい)して何の 興味も持つてゐない」と書いて、読者を笑はせてゐる。

 この小説が、似たやうな設定の『三四郎』の直(す)ぐ後に出たことを考へ合はせても、鴎外は漱石によほどのライバル心を持つてゐたやうである。(2006年3月24日)







 私はパソコンの表示に見易いゴシック体を使つてゐるが、ゴシック体の漢字の旧字体はあまり美しくないので、書く時には新字体を使つてゐる。しかし、旧字体を読むのは平気である。

 旧字体では例へば「昼」が「晝」で「画」が「畫」なのが分りにくいが、この二つの漢字が、成立ちの上で「書」と同類でどれも「何かを画する」意味である ことに気付けば、あとは下の部分を入替へればいいだけである。このやうに漢字の成立ちを知れば、旧字体を覚えるのはさほど難しいことではない。

 このことに気付いたのは『漢字なりたち辞典』(ニュートンプレス)といふ子供向きの本を眺めてゐた時であるが、この本で面白いところは、教育漢字の成り 立ちを説明するのに、多くの場合「この漢字は元はこんな字で」といちいち旧字体を示してから、その成り立ちを説明してゐることである。

 つまり、学校で教へる新字体の教育漢字は本当の漢字ではないので、それでは漢字の成立ちを説明できないのである。

 と云ふことは、新字体の教育漢字はあくまで子供に漢字を教へるための方便でしかないと云ふことになる。だから、子供のうちは新字体で漢字を学ぶにしても、大人になる頃には旧字体つまり正しい字体の漢字が読めるやうにしておくのが文化国家であるはずだ。

 ところが、日本では「常用漢字」とかいつて、子供用の字を大人になつても使ふことにしてしまつてゐる。それはおかしいと気付いた人たちが旧字体の漢字で読んだり書いたりしてゐるのは、だから当然の事なのである。(2006年3月23日)







 WBC決勝のキューバ戦の勝利は、王監督が投手起用の失敗で台無しにしかけてゐた試合をイチローが救つた結果である。

 五回までに五点差を貰(もら)つて、あとは投手リレーだけが問題だつた。ところが五回から投入した渡辺は六回に二点取られて三点差になるともうあつぷあ つぷで、殆どの選手が浮き足立つてボールが手に付かなく為る。それでも七回はなんとか零点に抑えることが出来た。ところが王監督は八回にも渡辺を続投させ たのだ。

 案の定、渡辺は先頭打者のピッチャーゴロを内野安打にしてしまふ。そこでやつと左の藤田に交替。しかし、左打者からアウトを取つたあと、次の右打者に対 する右の中継ぎ投手を用意して居らず、そのまま藤田を投げさせて二点本塁打を浴びるのである。いよいよ一点差。仕方なくストッパーで右の大塚を早くも八回 から投入したのだ。

 八回はそれで済んだが、これで日本は九回も大塚で行くしかない。日本の攻撃は六回からは三者凡退の繰り返しだ。もし九回表にも点を取れなければ、相手は強力打線だから九回裏のサヨナラ負けは必定、うまく行つて同点の延長戦といふ状況に追込まれてしまつたのだ。

 それを救つたのがイチローだつた。九回表、相手のエラーで出た先頭打者をバントで送れず、次もバントでやつと一塁二塁になつたとき、三番イチローがヒッ トを打つた。敗色濃厚の中で一人落着いてゐたイチローだからこそ打てたヒットだつた。これで息を吹返した日本が後続の駄目押しで再び五点差にして逃げ切つ たのだ。

 日本人は「王監督ありがとう」ではなく「イチローありがとう」と言ふべきなのである。(2006年3月22日)







 ゾラの小説『ジェルミナール』は炭坑の労働争議を描いた小説だと紹介されることが多い。しかし、森鴎外は『ヰタ・セクスアリ ス』の中で、この小説を「性欲的写象」(それは到る処にあるが、鴎外の指摘箇所は6の2)を描く小説として紹介してゐる。実は官能小説でもあるのだ。

 最初に厳しい炭坑労働の退屈な描写が済むと、シュミーズ一枚の若い女(カトリーヌ)の描写が始り、昼と夜で違ふ夫をベッドに引き入れてゐる女(ルヴァク の女房)の話、向ひの家(ピエロン)の女房と乳繰り合つてゐる監督頭の話になる。しばらく行くと、途轍もなく胸とお尻が盛上がつてゐて、鉱山全体がお世話 になつてゐる女(ムケット)の話がくる。

 もちろんこれは貧しい炭坑夫の愉(たの)しみがセックスだけだつたからであり、ゾラが人間の営みの全てを赤裸々に描かうとした結果である。

 日本ではこの小説の硬い部分だけを小林多喜二の『蟹工船』と恐らくは漱石の『坑夫』が真似たのであり、柔らかなる部分だけを自然主義作家である田山花袋の『蒲団』が真似たといふわけだ。

 ところで、この小説の岩波文庫の翻訳は、政府が決めた常用漢字の字体と枠に従つてゐないので辞書が必要である。常用漢字以外でよく出てくる漢字は、手偏に楽しいと書く「擽(くすぐ)る」である。(2006年3月21日)







 中江兆民の『三醉人経綸問答』の中で、一番笑はせてくれるのは豪傑君の次の件(くだり)である。

 大陸を占領して日本の領土にしたら、首都を大陸に移して天皇にも移つて頂く。かうして日本が大国になつたら、もはや前の小さな日本は要らないから、ロシ アかイギリスにやつてしまへばよい。いや、もつといい考へがある。君主と兵隊は新しい国に移つてしまふのだから、前の日本は、君主と兵隊を好まない民権家 にやればよい。きつと彼らは大喜びするに違ひない。(岩波文庫172頁以下。原文はホームに掲載)
 
 中国に首都を移すといふこの考へ方は、秀吉の朝鮮出兵の方針とよく似てゐる。山本七平の『日本人と中国人』(祥伝社版173頁)によると、『箱屋文書』には、中国を取つたら天皇を北京に送り、元の日本は宇喜多秀家あたりに統治させると書いてあるさうだ。

 山本はこれをイギリスがインドを征服しても首都をインドに移さなかつたことと対比して、秀吉が日本より中国の方を上等の国だと思つてゐたからだと書いてゐる。

 つまり、この中国崇拝は秀吉から明治の政治家に受け継がれ、さらに満洲遷都を企んでゐたと言はれる戦前の軍部に受け継がれたのである。そして、この中国崇拝は、君主と兵隊を好まない現代の民権家にしつかりと受け継がれてゐる。(2006年3月20日)







 新聞記者が公務員法違反(秘密漏洩罪)の疑ひのある取材源を隠したことを、東京地裁の判事が批判したところ、新聞社は一斉に「裁判所が国民の知る権利を否定した」と騒いで居る。

 しかし、いつたい新聞は「国民の知る権利」に答へてゐると言へるだらうか。

 例へば石原知事が「中国が核を落とすなら沖縄か東京だ」と言つたときに多くの新聞がその部分をカットしたやうに、彼らは国民が本当に知りたいことではなく、国民が別段知りたくもないことや、どうでもいいことばかりを記事にする。

 また、報道が公的機関の発表に限られたら大本営発表になつてしまふといふが、事件報道ではいつも警察発表をそのまま流してお茶を濁してゐるではないか。

 「取材源の秘匿」と言へば格好が良いが、犯罪者からニュースを買つて、その犯罪者を隠せば立派な犯人隠匿である。「国民の知る権利」を出汁(だし)にして、犯罪者を庇(かば)ふことは許されないはずだ。

 それでなくても、報道が犯罪を助長し拡大してゐるといふ否定できない現実がある。この判事は新聞社に迎合しない立派な判事なのである。(2006年3月19日)







 なぜ王さんなのかと思つたものだ。WBCの日本チームの監督に選ばれたと聞いた時の感想である。国内なら王さん人気の客寄せも理解できるが、国際戦では勝たなければならない。

 ところが、王さんは監督としてはここ一番でいつも負ける人である。打者としてはここ一番でホームランを打つた人だが、まるでそのお返しをしてゐるかのやうに、監督になつてからはいいところで負ける。

 この人が初めて巨人の監督になつたときの開幕戦のことを、私は今でもよく覚えてゐる。なんとその試合の勝負所で新人の斎藤を投げさせて負けたのである。

 この人は勝つためにはどうすればよいかではなく、どの選手にチャンスを与へようかなどといふ思ひつきで動いてしまふ癖が抜けない。だから、勝負所での新人斎藤の投入だつたのであり、今回でも米国戦で打たれた藤川の韓国戦投入だつたのである。

 最近は王さんもソフトバンクの監督として他のチームに優る圧倒的な戦力をもらつて、ペナントレースでいつも優勝するやうになつた。ところが、優勝をプレーオフの短期決戦で決める制度が導入されると途端に、優位な戦力を生かせずに負けてしまふのだ。

 WBCでもここぞといふ韓国戦で二連敗。いつたい日本は韓国より弱くなつたのか。そんなことはないはずだ。韓国の選手は日本の方が強いから日本に野球をしに来てゐるのであつて、その逆ではないのである。(2006年3月18日)







 公正取引委員会が新聞の値引販売を禁じた「特殊指定」の見直しを検討してゐるのに対して、新聞社がいつせいに反発して値引販売禁止を維持しろと言つてゐる。

 しかし、新聞は既に値引販売されてゐるではないか。それとも、勧誘員がお客さんに一年先までのハンコを契約書に押させてゐるのは何のためか、新聞社は知らないとでも言ふのか。

 公取委は、新聞が既に値引販売されてゐる実態を先刻御承知の上で、規則を実態に合せてはどうですかと言つてゐるのだ。ところが、新聞社は『水戸黄門』の 悪徳商人さながらに「値引販売など決して致して居りません。そんなことをすれば私たちは倒産してしまひます」と白を切るのである。

 さらに世論調査なるものをでつちあげて「国民もそんなことは望んでは居りません」とか言ふのである。

 ところで、そもそも新聞社は莫大な広告収入で充分潤つてをり、値引どころか只で新聞を配つてもやつていけることは誰でも知つてゐる。新聞は自らの信憑性を損なふやうな見え透いた嘘をつくのは止めるべきである。(2006年3月17日)







 中江兆民の『三醉人経綸問答』について、洋学紳士と豪傑君のどちらが兆民の意見であるかがよく話題になるが、彼はどちらの意見にも与(くみ)することはなかつたのではないかと思はれる。

 なぜなら、兆民がここで描いて見せた二人の意見は酔つぱらひの意見であつて、余りにも極論・暴論で、現実にはとても実行できるものではないからである。

 まづ洋学紳士は、日本のやうな小国を攻めてくる国などある訳がないから非武装の道徳国家になるべきだといふ。万々が一に攻めて来る国があつたら、道徳と 礼儀に訴へて帰国することを求めればよい。もしそれが聞き入れられなければ撃たれて死ぬだけだと言ふのである。これでは国民の生命財産を預る為政者として 落第である。

 次に、豪傑君は、混乱の最中にある中国に攻込んでその領地の三分の一も取ることこそ、この乱世を生き抜く最善の手段だといふ。さうして日本をロシアやイギリスに負けない大国にして、大陸に首都を移して天子の居城を造営するのだと言ふのである。これもまた無茶苦茶である。

 しかし、その無茶苦茶が実に格調高い文章でつづられてゐる。まるで兆民はこの文章を書くこと自体を楽しんだのではないかと思はれる程の美文である。これこそまさに「声に出して読みたい」名文と言へるものではないか。(2006年3月16日)







 「自分さへ良ければいい」といふ考へ方の人が増えたと、道徳の低下を嘆く声が最近よく聞かれるが、それなら岩国の住民投票で反対票を投じた人たちこそ、この典型だといふべきではないか。

 彼らは自分たちの町の負担が増えさへしなければ、国の安全保障がどうなつてもいいと思つてゐることを住民投票を通じて発表したからである。

 ところが、こんな自分勝手な考へを咎める新聞は一つとしてなく、それどころか、彼らの不道徳な意見を民意だと持ちあげる新聞が幾つも現はれる始末である。

 これこそ記者たちが日頃批判してゐる大衆迎合そのものであり、我国の道徳が地に落ちたことを自ら証明してゐるに等しい。

 しかし、新聞のおべんちやらに反して、政府が国の安全保障政策を地方自治体の意見を聞いて決めることなどあり得ないし、あつてはならないのは、どんな民主国家においても変らぬ事実である。

 そして、そんなことがあり得るかのやうに書く新聞と、そんなことがあり得るかのやうに住民投票を実施した岩国市長は、共に嘘をついてゐるか、さもなければ無知だと考へるしかない。(2006年3月15日)







 アメリカと日本の野球で審判が判定を変へたために日本が負けたと聞いて、何があつたのかと日本の新聞社のニュースサイトを見て回つたが、審判の誤審だつたのかどうか一向に分らない。

 やうやくそれが誰の目にも分るミスジャッジだつたことが分かつたのは、アメリカのニュースサイトを見てからである。

 しかも、多くのサイトはこのミスジャッジに焦点を当てて記事を書いてゐる。さらに「アメリカの勝ちは審判のお蔭だ」とはつきりと書いたサイトさへあるのだ。

 ところが日本の新聞社の記事はといふと、ひよつとしたら日本の選手のミスだつたのかも知れないと思はせるものばかりだ。日本人が不当な目に会つたといふ のに、日本の新聞のこの体たらくは何だらう。一体何のための、誰のための新聞だらうか。これだから日本の新聞は駄目なのだ。

 この記事一つをとつて見ても、如何に日本の新聞記者が自分の目で見たことを書かないかが分る。そんな新聞に真実を求めても無駄なことは明かである。(2006年3月14日)







 新書『旧字力、旧仮名力』(NHK出版)は、意外に知らなかつた事がいろいろ書いてある。

 旧字体が新字体になつたと言つても、新字体はもともと俗字や略字として使はれてゐたものが殆どだといふことがその一つである。新字体と言つても、無いものを新たに作つたものではないのだ。

 例へば、『徒然草』の136段には「しほ」は何偏かと聞かれて「土偏」と答へて恥をかいた男の話があるが、この話からも「塩」(新字体)と「鹽」(旧字体)の両方が昔から使はれてゐたことが分る。

 つまり、新字体と言つても、公式の文書、活字に組んだ文書で使ふ漢字を、既に存在する簡単な字体で書くことにしただけのことなのである。といふことは、新字体を使つてゐるからといつて、日本の伝統文化から断絶してゐることにはならないのである。

 私が旧字体を使はないのは、ごちやごちやして見場が悪いからだけだが、この本を読んでからは、著者の趣旨とは逆に、漢字の成立ちは旧字体で学ぶとしても、使ふのはこのまま新字体でいいかなと思へてきた。(2006年3月14日)







 『石橋湛山評論集』(岩波文庫)を読んだ。総じて独自の視点をもつて論じてゐるのは見倣ふべきだが、あくまで新聞の論説であり、多くの場合場当り的で説得力のある論理の積上げには欠けてゐる。

 しかしながら、この人は基本的認識、即ち哲学において優れたものがある。例へばこの人はルソーの『社会契約論』を自分の頭で読んでゐて、

「古(いにしえ)から政治の形式は種々あった。しかしそのいずれの形式にせよ、論理的にいえば社会契約の結果である。即ち各個人がその形式を、その政治を 善しとして承認せる処に成り立てるのである。例えば君主専制政治の如き、その表面から見ると全く人民には権利なしといえども、事実は人民が承認せるから存 立し得る、換言すればいかなる政治の形式においても主権は国民全体にあるのである」(64頁)と政治の本質を書き、

「経済の側面において、資本家企業家は、生死を懸けて仕事をしなければなりませんでしたから、従って彼らはまた、経済に至大の関係をもつ政治に無関心なる を得ませんでした。資本主義国家の政治は、資本家によって動かされるといわれる所以です。しかしそれだからまた資本主義機構下の政治家は、厳しき責任を負 わされ真剣に政治を行わねばなりませんでした。政治家は、絶えず資本家企業家から監視せられ、もし資本主義経済の発展を阻碍する如き政治を行ったら、彼ら はたちまち政治家としての生命を失う危険があったからです」(230頁以下)と資本主義経済の強みを説き、

「国家も、宗教も、哲学も、文芸も、その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、もしこれらの或るものが、こ の目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬ」(21頁)と書けた、個人主義とは何かを知つてゐた人だつたことは特筆してよいと思ふ。(2006 年3月12日)







 口語文法と現代仮名づかひのどちらが先かといふと、それは口語文法が先である。口語は戦前からあるから、口語文法も戦前からある。それに対して、現代仮名づかひは戦後のものである。

 戦前に出た『明解國語辞典』にも文法の活用表が付いてゐて、口語と文語の二段になつてゐる。それを見ると口語のサ行変格活用動詞(「爲る」「察する」)の未然形は「せ・し」となつてゐるが、助動詞「ます」の未然形は「ませ」だけである。

 これに従へば、「~しよう」は歴史的仮名づかひでもそのままであるが「~しましよう」は「~しませう」と書くことになる。

 一方、戦後の『岩波国語辞典』の活用表では、口語のサ変動詞の未然形は同じく「せ」「し」の二種類であるが、助動詞「ます」の未然形は「ませ」と「ましょ」になつてゐる。これに従ふなら、「~しよう」「~しましよう」は歴史的仮名づかひでもそのままでいいことになる。

 しかしながら、よく見ると、この活用表は現代仮名づかひの導入によつて変更されたものとなつてゐる。なぜなら、他の助動詞、例へば「だ」の未然形は「だら」ではなく「だろ」になつてゐるからである。

 とすると、「~しましよう」は歴史的仮名づかひでは、現代仮名づかひ導入前の口語文法に従つて、やはり「~しませう」と書くべきだといふことになる。

 また、鴎外が「監視せよう」と書いた時、彼はその時代の口語文法で書いてゐたのであり、その活用表にはサ変動詞の未然形はまだ「せ」しかなかつたと想像すべきなのかもしれない。(2006年3月11日)







 歴史的仮名づかひでは「~しましよう」と書かずに「~しませう」と書くとよく言はれる。これは「~します」といふ文に婉曲な命令を意味する「う」を付けたものである。

 まづ「ます」が丁寧の助動詞があるから、「します」は「し+ます」に分解される。「う」は助動詞で動詞の未然形につく。そして、「ます」の未然形は文語文法では「ませ」(サ変)である。だから「し+ませう」となる。

 鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を読んでゐたら「監視せよう」が出てきた。「~せよう」は「せ」(サ変動詞「す」の未然形)+「よう」(「う」の変形)と分解できる。理屈は「ませう」と同じで、文語文法に従つてゐるのである。

 同じく鴎外は「感ぜさせない」と書くし「非難せられる」と書く。「さす」も「らる」も未然形に付く助動詞で、文語文法に従つて「ぜ」「せ」(サ変の未然形)を使つたのである。

 しかしながら、鴎外はここでは口語文を書いてゐるのだ。ならば口語文法に従へばよかつたのではないか。文語文法は荷風の日記のやうに文語文で書く時だけでいいはずである。

 口語文法ではサ変動詞の未然形は、後に「ぬ」と「られ」が来る時に「せ」「ぜ」となるが、他は「し」となる。だから「監視しよう」「感じさせない」と書く。「非難せられる」はこの場合は縮まつて「非難される」(「達せられる」は縮まらない)と書く。

 だから、歴史的仮名づかひだからと言つて、文語文法に従つて「しませう」とするのではなく口語文法で「しましよう」としていいのではないかと思ふ。(2006年3月10日)







 鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は子供の頃からの自分の性体験を順番に書いたもので、性に消極的な人間が性欲の対象とされること の苦痛が主に描かれてゐる。ただし、あまり面白い話ではない。それより面白いのは、初めに夏目漱石の『我輩は猫である』のことを書いたところである。

そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君(=鴎外)は非常に興味を以て 読んだ。そして技癢(=対抗心)を感じた。さうすると夏目君の『我輩は猫である』に対して、『我輩も猫である』といふやうなものが出る。『我輩は犬であ る』といふやうなものが出る。金井君はそれを見て、ついつい嫌になつてなんにも書かずにしまつた。

 鴎外と漱石が明治の人で同時代人であることは誰でも知つてゐる。しかし、このやうに鴎外が漱石の小説のことを知つて競争心を抱いてゐたとは知らなかつた。しかも、「猫」のあまりの大流行を見て、これでは勝ち目がないと諦めたといふのも面白い。

 そのうちに、セックスのことばかり書く自然主義小説が流行りだした。そんなものでいいのなら、これこそ本当の自然主義だと、自分の性体験を書いたのが 『ヰタ・セクスアリス(性欲的生活)』だつた。ところが、出した途端に発禁になつてしまつて、その意図は頓挫してしまつたのである。(2006年3月9 日)







 山本七平は『日本はなぜ敗れるのか』の「第八章 反省」で、太平洋戦争と西南戦争の類似性を指摘してゐる。

 西郷軍は勢ひだけで戦ひを始めたとか、物量で政府軍に負けたとか、最後はフィリピン戦と同じやうに敗残兵を山中にさまよはせることになつたとか、似た点が多いのにそれを反省せずに太平洋戦争で同じことを繰り返したといふのだ。

 その似た点としてもう一つ、山本はマスコミによる創作記事が沢山流されたことを挙げてゐる。

 西南戦争における例としては、当時の『郵便報知新聞』が、銅製の鳥居を途中で切つて、中に炭火を入れて真赤に焼けた所を、官軍の捕虜に無理やり抱きつかせて焼き殺したといふ、鬼畜薩摩軍の蛮行を伝へた記事がある(注の八八)。

 中国の小説『封神演義』を読んだことのある者なら、この記事がこの小説に出てくる「炮烙之刑」のバクリであることはすぐに分る。しかし、この小説のことを知らず、まして当時の新聞が戦 意高揚のためにこんな捏造記事を次々と作つてゐたことなど知らぬ人なら、これを新聞に書いてあるのだから本当の話かも知れぬと、今でも思ふ人がゐるかもしれない。

 ところが、こんな創作記事が「百人斬り競争」の記事に見られるやうに、太平洋戦争の時にも作られたのである。そして、現在でも新聞は何らかのキャンペーンのために無反省にも似たやうなことをやつてゐるといふのである。(2006年3月8日)







 NHK教育の高校講座『理科総合』をよく見るのは、もともとは体験レポートを担当してゐる可愛い可愛い目黒裕佳子さんが出てゐるからである。俳優の目黒祐樹の娘さんである彼女をテレビで見られるのはこの番組だけなのだ。

 しかし、ここに出てくる教師たちはなかなか優秀で、理科の細かな知識ではなく物の見方を教へてくれるので、中身の方もなかなか面白い。

 その面白いと思つたことの一つに、動物は植物によつて生かされてゐるといふ考へ方がある。もともと地球上に動物が生活できる環境を作つたのは植物であるが、それだけではない。ある意味で、動物は植物のために生れ、植物のために生きてゐるのだ。

 まづ植物は花を付けてその中に甘い蜜を蓄へて昆虫たちを引き寄せるやうになる。昆虫はその蜜と引き換へに植物の受粉の手助けをさせられてゐるのである。 次に植物は果実を蓄へて哺乳類(ほにゆうるい)を引き寄せるやうになる。哺乳類はその果実を食べて栄養をとるのと引き換へに、植物の種を遠くに運んで植物 の勢力拡大の手助けをさせられてゐるのである。

 つまり地球上の生物の中で主導的な役割を担つてゐるのはいつも植物だといふのである。(2006年3月7日)







 『虜人日記』には日本軍の敗因が列挙してあり、その第十五に「バアーシー海峡の損害と戦意喪失」といふのがある。

 これについて山本七平は『日本はなぜ敗れるのか』の第二章で説明してゐるが、これは要するにバシー海峡で殆どの兵器を失い、しかも軍部が兵士の命を粗末に扱つたので、兵士たちが戦ふ気をなくしたといふことである。

 具体的には『虜人日記』の最後の方の「竹光」と「日本人は命を粗末にする」といふ節(362頁以後)に言はれてゐるのがそれである。

 戦争末期に軍部はしきりに兵隊をフィリピンに送つたが、兵隊を運ぶ日本船は台湾とフィリピンの間のバシー海峡で次々と米軍の潜水艦に撃沈された。そこで何万といふ兵が死に、生残つた兵も武器を失つた。これが「バアーシー海峡の損害」である。

 それに対して軍部は、フィリピンに三割着けば成功だと豪語する体たらくだつた。軍部のこの人命軽視のひどさを知つた兵士たちは、上官の言ふ通りにしてゐたら命がいくつあつても足りないと考へるやうになつた。

 その上ろくな武器も持たされない兵士たちは、敵が攻めてきたら裏山に逃げてしまふ、敵に切りこみに行つても弁当だけ食つて帰つて来るなど、なるべく敵と戦はないやうになつてしまつた。これが「戦意喪失」である。(2006年3月6日)







 スポーツ選手がテレビカメラに向つて「応援よろしくお願ひします」と言ふのを聞くたびに、「さうではないだらう、『ご声援のほどよろしくお願ひします』だらうが」と言つてしまふ。

 「応援よろしくお願ひします」は「応援よろしく」に「お願ひします」を付けただけのものだ。全くファンを馬鹿にしたお手軽な言ひ方である。

 そもそも「応援」はファンが使ふ言葉である。「応援してるよ」と。それを選手がそのまま使つてどうする。「応援」を敬語にしないとだめだらう。それが「ご声援」なのだ。

 かつてテレビ番組でヤクルトのプロ野球選手が「応援よろしくお願ひします」と言つたのを、先輩の池山選手に「ご声援のほど~」と言ひ直させられてゐたのをよく覚えてゐるが、もうかういふ一流の選手は居なくなつてしまつたのだらう。

 そして、いつもいつも「応援よろしくお願ひします」である。日本のスポーツの堕落はこんな所にしつかり現はれてゐるのだ。トリノオリンピックがメダル一つだつたのもうなづける。世界に出たらスポーツ馬鹿では勝てないのである。(2006年3月5日)







 小松真一著『虜人日記』には太平洋戦争について私がこれまで知らなかつた事がいろいろ書かれてゐる。

 著者は戦時中アルコール燃料を作つてゐた技術者で、日本に石油が入つて来なくなつたのでその代替燃料を製造してゐた。その工場は台湾やフィリピンなどのあちこちに沢山あつて、例へばフィリピンで走つてゐた自動車の燃料はこれでまかなはれてゐた。

 また、戦争末期に日本国内では竹槍でアメリカ軍を迎へ撃つ訓練をしてゐたが、フィリピンにゐた日本兵にも殆ど武器がなかつた。そのため武器を現地で暢達するやうに言はれてフィリピンに大量に送り込まれた日本兵は竹槍で戦ふしかなかつた。これはもう戦争ではない。

 フィリピンに来た日本軍は武器どころか物資が全くなく、民衆から挑発や掠奪をどんどんやらざるを得ないといふ情けない状態だつた。おかげでフィリピン人 はどんどん反日になつてしまひ、その結果、終戦後に日本兵が捕虜として護送される車にはフィリピンの土民たちから「バカヤロー」の罵詈雑言と石がいつも投 げつけられた。

 山本七平の『日本はなぜ敗れるのか』はこの本の理論的な解説書で、このやうな事実について山本流の考察が存分に展開されてゐる。したがつて、山本の記述 はあくまで深刻で頭が痛くなるが、小松氏の記述は決してそんなことはなく、あつけらかんとして大いに笑はせてくれるものである。(2006年3月4日)







 現代社会では情報量が余りに多いために国民の理解が追ひつかないとはよく言はれる事だが、一番理解が追付いてゐないのは新聞記者ではないか。彼等は我々と違つて全ての情報を扱はねばならない。そのため、よく分らないまま勧善懲悪的な理解に陥りがちである。

 もちろん新聞記者も勧善懲悪ばかりでは格好が悪いと思ふのか、たまには違ふことも言はうとする。しかし、自分で自分の意見を作る暇がないので、他人の作つた目新しい意見にとびつくしかない。

 国家の品格とか格差社会とかバカの壁とかが、すぐに社説に出てくるのはそのためである。

 自分で物を考へるには古典を読まないといけない。彼らもそれくらゐは知つてゐるのだが、たまに古典を扱ふと間違つたりする。それで出来合ひの意見をもつてきて偉さうに人を批判して済ますのである。

 そして、それに乗せられて今度は国会議員が国会で質問したりするのだ。そのレベルの低さがマスコミのレベルの低さを反映したものとなるのは当然の帰結である。それは偽メール騒動を見ればよくわかる。(2006年3月3日)







 小松真一著『虜人日記』(ちくま学芸文庫)は戦時中に糖蜜から燃料を作るためフィリピンに行つた軍属の話だが、実に面白い本である。まるで冒険映画のやうな危機一髪を何度もくぐり抜けて、最後まで生きのびる姿は感動的でさへある。

 台湾から日本に向ふときは三隻の船のうち自分が乗つた船以外は二隻とも撃沈され、レイテ島へ向ふときも指揮官を嫌つて途中で降りた船がその先で撃沈され る。ネグロス島の空襲ではさつき出てきた防空壕に爆弾が命中する。最後には食糧切れ寸前に広い芋畑のある所に出る、等々の連続である。

 小松氏は技術者だが、脚気を防ぐビタミンB剤も作るし、硫黄を見つけると皮膚病の薬も作る、植物図鑑持参で食べられる植物を兵隊に教へるなど、八面六臂の活躍をする。

 川に蟹が沢山ゐるのを見つけると、蛭(ひる)が餌になることを発見して蟹釣りで二百匹も釣り上げて、櫛にさして焼いて食ふ。米を搗き薪を集め芋を取り、と全部自分でする。威張るしか能が無くて餓死していく兵隊たちとは大違ひなのだ。

 一方、密林を逃げる途中に、骨と皮になつて彷徨ふ日本兵と出会つたり、行倒れした日本兵の白骨死体がある場所に出たり、ゲリラかと思つて銃を構へたら大きな猿だつたりと、まさに『インディージョーンズ』さながらのシーンの連続で、映画にしたらと思ふ面白さだ。

 もちろん、敗残兵の悲惨さも能く描かれてゐるが、夜になつて米軍が打上げる照明弾を岩陰から眺めて「両国の花火でも見る積もりで寝る」と書くなど文学的な読ませ所も随所にあつて、実に楽しい読物となつてゐる。(2006年3月2日)







 ボクシングで徳山が勝つたと大きくニュースで出た。しかし、彼は在日朝鮮人である。それならこのニュースは朝鮮名で出すべきではなかつたらうか。

 なぜなら、もし彼が犯罪を犯せば、報道では朝鮮名が前面に出てくるはずだからである。一部を除いて日本の犯罪報道では通名ではなく本名が使はれる。よそ者が犯罪を犯したのだと。

 ところが、かうしてスポーツで勝つたりすると通名報道になつて、日本名が前面に出てくる。私たちの仲間が勝つたのだと。

 しかし、これではまづいだらう。好い時も悪い時もよその国の人間として扱ふか、好い時も悪い時も私たちの仲間として扱ふか、どちらかに統一するのが筋ではないか。

 そして、在日朝鮮人の犯罪で通名報道をすることを、外国人の犯罪を隠蔽するものだと批判するなら、在日朝鮮人の勝利を通名報道をすることを、外国人の名誉を損なふものだと批判しなければならないのではないか。(2006年3月1日)







 平凡社版(岩波版とほぼ同じ)と講談社版の『金瓶梅』はどれほど違ふか図書館で借りてきて比べてみた。

 例へば第二十八回の最初の場面は、前回から続いて主人公の西門慶とその妻金蓮の濡れ場である。まず平凡社版、

西門慶、片手に女の白いうなじを抱いて、ふたりで一つ杯をやりとりして、女をねんごろに慰めながら、じっと見つめれば、鬢(びん)は斜めにくずれ、胸のなかばははだけ、艶っぽい目は横目ににらんで、まるで酔いしれた楊貴妃といったありさま。

 講談社版、

西門慶は片手でその白い首を抱きよせ、一つ杯の酒を飲みながら、やさしくいたわった。じっとながめると、鬢は斜めにくずれ、胸を半ばはだけ、色っぽい目で横目に見返し、まるで酔いしれた楊貴妃のように美しく、なまめかしかった。

 ここまでは似たやうなものだが、そのあとが違う。平凡社版はいきなり

しなやかな手で、休みなくいたずらをしております。おかげで驚きますが、銀の托子をつけたなり、だらしなくのびているばかり。

 それが講談社版になると、

しなやかな手は西門慶の腰あたりへのびて、しきりに一物をいたずらしている。一物はおどろいたものの、銀の托子をつけたまま、ぐったりと、だらしなく、だらりとのびていた。

 平凡社版ではかなり省略してあることがよく分る。その後の口舌による行為に至つては、講談社版の十三行が、平凡社版ではたつたの二行に簡略化されてゐるのである。

 単に明代の中国の社会風俗を知りたいのなら、平凡社版の方でもいいかもしれないが、どちらもエッチな気分にさせられるのは同じである。しかも、「怪しからん」部分以外は実に退屈ですぐに眠くなるのが大きな難点であらう。(2006年2月28日)







 NHKはCMを流さないといふがそんなことはない。番組宣伝ならしよつちゆうやつてゐるからである。特にハイビジョン番組の紹介などは、ハイビジョンテレビを持つてゐない私にはハイビジョンテレビの宣伝にしか見えない。

 だから、私はNHKがCMを付けることを別に問題とは思はない。むしろCMを導入して受信料を安くして欲しいと思ふ。

 ただし、民放のやうなCMではなく、番組に出てくる商品のラベルを隠すやり方をやめて、番組で使つた商品のメーカーから広告料を取るやうにするのがよいと思ふ。NHKの番組に出ただけで大きな宣伝になるからである。

 また、NHKでは多くの番組で沢山の商品の紹介をやつてゐるが、その商品のメーカーからも広告料を貰ふべきだ。番組で扱はれた私企業の名前を殊更隠すこ とも多いが、それもやめたらよい。そして規定に従つて広告料を請求するのだ。視聴者は企業名や商品名を知りたいからである。

 これによつてNHKは商品名や企業名を隠すといふ無駄な努力を止められるだけでなく、収入も増えて一石二鳥であらう。(2006年2月27日)







 最近小売店で売つてゐる紅茶の粉は、色つきのお湯しか作れないものばかりになつてしまつたが、珈琲の方は豆が買へるからまだましである。

 しかし、レギュラー珈琲でも粉で売つてゐるものは要注意だ。珈琲の粉ほど劣化しやすいものはないからである。

 レギュラー珈琲が本来の風味のある珈琲が作れるのは、袋の口を開けてからわづかの期間でしかない。私の経験ではそれはたつたの二日間であつて、三日目からはもう味が変つてしまふ。真空の瓶に入れて保存すれば香りの抜けは遅くなるが、味の方はどうにもならない。

 つまり、本来、挽いた粉珈琲を買ふ場合は、それを二日で使ひ切る積もりで買はなければならないのである。喫茶店でもないかぎり、普通の家庭ではそんなことは不可能だ。

 一般に買へる珈琲の最小単位は100グラムだろうが、それでも二日で使ひ切るのは難しい。それなのに400グラムも詰め込んだ袋が売られてゐる。業務用としてならまだしも家庭用としては信じられないことだ。

 そんなことをするメーカーはおいしい珈琲を売る気など元々ないと思つてよいのではないか。(2006年2月26日)







 永井荷風の日記『断腸亭日乗』を岩波書店の『荷風全集』を読むと、生前に出た中央公論社版『荷風全集』では、日記の多くの個所がカットされて出版されてゐたことが分る。

 単に量を減らすためのカットも多いが、やはり内容が露骨なものはカットされたやうだ。露骨には二種類あつて、性的に露骨なものと、反日感情の露骨なものである。

 性的に露骨なものとは、娼婦について詳しく書いたところであり、反日感情の露骨なものは、軍人の戦争拡大だけでなく日本人全体を馬鹿にしたところである。例の「傲慢無礼なる民族」云々の文章もこれにあたる。

 元々この日記は戦時中当局への発覚を恐れて批判的言辞を方々削除してしまつてゐた。ある日それを恥じて今後削除しないで全部書くことを誓つた荷風だつたが、戦後出版する時になつて、その誓ひを自ら破つて多くを削除したのである。

 それは日記をそのまま公開すれば批判を受けて暮しにくくなると思つたこともあらうが、何より豊かな詩情と洗練された文章を目指す日記文学として推敲を重ねた結果であらう。

 ところが、没後に岩波から出た『荷風全集』では全てが公にされた。さらに荷風が削除した露骨な文章を多く集めた岩波文庫版が作られたのである。しかしそれが荷風の意とする所であるかは大いに疑はしいのではないか。(2006年2月25日)







 キットーの『ギリシア人』(ペンギン文庫)を昔読んだ時に一番印象に残つたのは、古代ギリシア文明のことではなくドイツ語のことだつた。

 キットーはギリシア語のずば抜けた明晰さを論じたあとで、「ギリシア語はこの明晰さを決して失ふことがないのに対して、英語はこの明晰さをときどき失ひがちであり、ドイツ語はこの明晰さにときどき到達する」と書いたのである。

 キットーは英国の大学の先生でこの本は英国人向けに英語で書いたものだが、英国の学者がかうもはつきりとドイツ語の悪口を書くかと驚いただけでなく、英 国のインテリにしてもドイツ語はやはり分りにくいのかと、当時ドイツ語の修得に苦労してゐた私はちよつと安心したのをよく覚えてゐる。

 ドイツ語で一番やつかいなのは「枠構造」で、分離動詞の前の部分や過去分詞など、英語なら定動詞のすぐ近くにあるものが、文章の一番最後に置かれる仕組みになつてゐる。

 このため、ある文章で主に何が言ひたいかは、英語やフランス語なら最初の方に出てくるのに対して、ドイツ語では文章の最後まで読まないと分らないのである。

 恐らくかうする事によつてドイツ語は文章の意味の全体像を大切にしてゐるのだらうが、おかげで英語やフランス語を読む時の頭の使ひ方がドイツ語では使へないのである。

 だから英国人であるキットーの意見は、英語を先に学んだ日本人である私にとつて共感するところ大なのである。(2006年2月24日)







 『金瓶梅』で鴎外のいふ「怪しからん」ところを和訳で読みたければ、平凡社でも岩波文庫でもなく講談社の『完訳 金瓶梅』を読む必要がある。

 多分『チャタレイ夫人の恋人』の完訳を最初に出したのも講談社で、新潮文庫の「完訳」(1996年)を待つまでもなく、講談社の世界文学全集25 (1976年)と講談社文庫(1978年)に入つてゐた。私はそれを知らずにペンギン文庫で読んで、男女が協力することの大切さを学んだものだ。

 一方、鴎外の『雁』に出てくる『金瓶梅』は漢文である。馬琴が日本語にしたのもあつたが、勧善懲悪物に変へてしまつてゐる。そこで当時漢文が読める学生たちは原文で読んだといふわけだ。

 今でもネットで60回までなら原文が読める。漢文と中国語の知識を動員して小学館の『中日辞典』を使へばかなり読めさうだ。しかし、日本語で読めた方が楽に決まつてゐる。

 ところが、講談社のものは絶版になつてゐる、売つてゐるはずの岩波文庫版も平凡社版も本屋に行つても見当らない、ちくま文庫版も絶版らしい。あるのは 『三国志』や『水滸伝』など勇ましいものばかりである。どうやら『金瓶梅』は最近は流行らないらしい。(2006年2月23日)







 古今亭志ん朝は『真景累ヶ淵ー豊志賀の死』といふ落語のまくらで、おもしろいことを言つてゐる。

 誰でもさうだらうが、人間は死んだら文字通り土に帰つて、何も無くなつてしまふと考へるが、その一方で、幽霊といふものがゐるのではないかといふ思ひもある。これは何故かといふと、幽霊といふのは人間のあこがれの表れだからだといふのである。

 人間は死んだら何もなくなつてしまふといふのでは、夢も何もなく、あまりにもさみしい。人間は死んでも真底は死なないんだ。魂といふものは残つてゐるんだ。かういふあこがれの気持ちから、幽霊とか怪談とかいふものがあるのだ。だから、これは人間のロマンなのであると。

 『真景累ヶ淵ー豊志賀の死』といふのは恐い話で、お岩さんのやうな顔になつた豊志賀といふ年増女に新吉が付きまとはれるところなどは、ぞつとさせられる が、かういふ風にまくらで言はれてゐると、ただ恐がるだけでなく、幽霊も悪くないなと思ひながら聞くことができる。(2006年2月22日)







 吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)といふ本がどこの古本屋にも並んでゐるのを見て、学校の教科書にでも指定されたのだらうが、民本主義の人がこんな本まで書いたのか、とずつと思つてゐた。それで古本屋が500円の只券を送つてきたので買つてしまつた。

 ところが、山本夏彦の『私の岩波物語』を読んでやつと気が付いた。吉野源三郎は単なる岩波書店の編集者で、民本主義は吉野作造ぢやないか。

 ところで、この『君たちはどう生きるか』は元々は戦時中に出た本で、丸山真男に影響を与へた本であるらしい。また、最近流行の香山リカの本にも引用されてゐる。

 ではどんな本かといふと、これは子供向けの教訓書のふりをしたマルクス主義の入門書である。遠まはしに当時の軍部に対する批判も入つてゐる。六の「雪の日の出来事」は二二六事件のもじりであるし、そこには共産党の弾圧と転向の問題も込められてゐるのだ。

 つまりこれは子供だましの本なのである。しかし、子供はだませても大人はだませなかつたから発禁処分になつた。いくらもつともらしい言葉を並べても、人をあざむかうとするのはよくない。

 この中の主人公のコペル君といふ名前は、物の見方を百八十度変へたコペルニクスから来てゐる。しかし、変へた先が共産主義だつたのは間違ひだつた。多くの学生がこの本を古本屋に売つたのは正解だらう。(2006年2月21日)







 『雁』が「わたし」の視点で書かれた小説なら、志賀直哉の『暗夜行路』は「かれ」の視点で書かれた小説である。

 つまり、この小説は主人公である謙作の視点で書かれてゐる。だから、謙作以外の人間の心理は、その人の会話として書かれるか、謙作の推測として書かれるだけである。かうして『暗夜行路』に見事な統一性と真実らしさが生み出された。
 
 ところで、作者はこの小説を終らせることに余程苦労したのか、この統一性を最終章で破つてしまつてゐる。謙作が病気で倒れたことに対するする宿所のお上たちの危惧と、最後の場面の直子の決意が、謙作の視点を離れて書かれてゐるからである。

 特にこの小説の締め括りで、病床の夫の顔をみつめながら
 
直子は「助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角(とにかく)、自分は此(この)人を離れず、何所(どこ)までも此人に随(つ)いて行くのだ」といふやうな事をしきりに思ひ続けた。

と書かれてゐるが、この文章は、彼女の会話でもないし謙作の推測でもない、純然たる直子の立場で書かれた文章である。

 作者はここで夫婦の和解を演出しようとしたのだが、直子に病床の夫に向つて「どこまでもあなたに随いて行くわ」と言はせるのもおかしいし、さりとて謙作 に直子のこんな気持を推測させるだけでは真の和解にならない。そこで窮余の策として、ここで全能の話者を登場させたのである。

 なほ、これはギリシャ悲劇では deus ex machina と言つて、芝居の最後に神が出てきて問題を解決して大団円を作り出すといふ、よく使はれた方法ではある。(2006年2月20日)







 小説を書く時の重要な問題の一つに、誰の視点で書くかといふ問題がある。

 サマセット・モームは『要約すると』(新潮文庫)の中で、若い頃に「異なつた事件や、その中で動く人物を、一人の人物の眼を通して見るという、きわめて 単純な仕掛け」を知らなかつたために失敗したと書いてゐる。そして、それは「自伝小説が何世紀も前から用いたもの」、つまり小説の中に「わたし」を登場さ せて、その視点から書くやり方である。

 そして、ヘンリー・ジェイムスがこの「わたし」の代りに「かれ」と書いて、「なんでも知っている話者という全能者から、物語中の一人という、不完全な知識しか持たぬ人物」を置くことで、「物語に統一性と真実性を与える方法」を作り出したのだと言つてゐる。

 例へば、鴎外の『雁』は「わたし」の視点で書かれた小説である。つまり、岡田の友人である「僕」を登場させて、その視点で書かれてゐるのである。

 この「僕」はまさに全能の話者であつて何でも知つてゐる。岡田のお玉に対する気持ちだけでなく、高利貸として成功した末造がお玉を妾にするときの気持も知つてゐる。さらに、お玉の話になると、お玉の気持をよく知つてゐてその気持を語るのである。

 しかし、全能の話者を置くと、結局このやうに話の中心点がくるくると変つて、いかにも作り物めいた感じが出てしまひがちである。鴎外がこの小説の最後 に、「僕」はのちにお玉と知り合ひになつてこの話を聞いた、と「僕」に苦しい言ひ訳をさせてゐるのは、このためである。(2006年2月19日)







 小谷野敦につられて志賀直哉の『暗夜行路』を読んでみると、これは女とどう付き合ふか、女との関係で自分の欲望をどう満たすかが主題の小説だと分る。

 幼馴染の愛子、吉原の登喜子、飲み屋のお加代、曲輪の女、祖父の妾お栄、一目惚れで結婚した直子。「暗夜行路」とは謙作の暗い運命をさすが、それは女との関係で生まれる闇なのだ。

 第一部では、謙作は情欲との絡みで女との関係をうまく作れないで尾道への旅に逃げる。第二部で、愛するお栄に対する淫蕩な思ひを抑へるためにお栄と結婚しようと決意する。それが断わられて、その際に自分が祖父と母の過ちから生まれた子、運命の子であることを知らされる。

 第三部では、京都で一目惚れした女と結婚する。今度はうまく行つたと思つた関係も、生まれたばかりの子供が死んで、また暗い運命に戻る。さらに第四部でこの関係は妻の不倫で暗転する。この闇から抜け出すために大山(だいせん)に旅をしたところで小説は終る。

 これは自分の放蕩(買春すること)は罪ではないが、妻の不倫を罪とみなして、それを許してやつたと言ひながらがらも、自分の気分ばかりに拘(こだは)つてゐる男の話で、現代の考へ方では、とても自分勝手な男といふことになるが、それはこの小説では問題とはならない。

 むしろ、この時代には、好きな女との心身合一を理想として求めながらも性欲だけを放蕩で満たすしかない男の現実があり、それを物足りなく思ふ主人公の悩 みがある。志賀直哉はこの性の悩みを描いたのである。また、さう思つて読めば誰でも最後まで読み通せる。(2006年2月18日)







 テレビのニュースなどを見ると、どうしてかう毎日毎日法律を破つたとして咎めらる人がゐるものだらうかと思ふ。

 これは、誰もが法を守つてまじめに生きようとしてゐるのに、どうしても法を破らなければならない状況に追ひ込まれてしまふのか、それとも、誰もが法など守らず好き勝手に生きてゐるのに、たまたまそれが運悪く人にばれてしまふのか、一体この二つのどちらなのだらう。

 もし前者が真実であるとすれば、まじめな人でも守れないやうな法を作つたことが間違ひであり、もし後者が真実であるとすれば、誰も守らうとしない法を作つたことが間違ひなのである。

 さうして間違つて作られた法を破つたとして咎められるとすれば、まつたく道理に合はないことであらう。

 ところが、世の中自分の不正は大目に見ても人の不正にはうるさい人ばかりで、法を作れ、法を作つて厳罰にしろと言ふものだから、あちこちの議会で毎日毎日新しい法が作られるといふわけだ。(2006年2月17日)







 永井荷風は、国がのるかそるかの戦ひをしてゐて国民が必死になつてゐる最中に、ひたすら日本が負けることを祈りながら、毎日娼婦相手に遊び回つてゐた。そのことが戦後、彼の日記『断腸亭日乗』の公開によつて明かになつた。

 荷風は戦時中に金製品の供出を求められた時、手元に残つてゐた煙管のたぐひを隅田川に投げ捨てたと日記に書いてゐる。これは反戦運動家でもない限り、とても感動的なこととは言へないだらう。

 こんな「非国民」に国が文化勲章をやつたのが昭和27年の文化の日で、もうその年には中央公論社からこの日記は『荷風全集』として公刊されてゐたはずだから、国はなんとも懐(ふところ)が広い。

 しかし、果してこのやうな内容の日記を公開したことは荷風にとつて得だつたのだらうか。そこ書かれてゐることは、そもそも人間として尊敬できない内容が多すぎるのだ。

 同じ日記の公開でも、『アミエルの日記』は、この人は何と偉大な人だつたのかと感動を呼んで、生前無名だつたアミエルが死後に世界的名声を得た(岩波文庫版が読めなくても英訳がネットで公開されてゐる)。

 それとは逆に、荷風の日記を読んだあとで彼の小説を楽しむには、彼の変人ぶりに対する余程の理解を必要とするのではないか。(2006年2月16日)







 最近、空気中の二酸化炭素が増えたために地球の温度が上がつたと頻(しき)りに言はれてゐるが、実はさうではないらしい。

 空気中で一番多いのは窒素と酸素で、この二つで99パーセント近くを占めてゐて、その残りが二酸化炭素とアルゴンと水蒸気などであるが、さらにその内でも、二酸化炭素の量は水蒸気の50分の1しかなく、まつたく微々たるものなのである。

 だから二酸化炭素が増えた増えたと言つても、取り立てて言ふほどの量にはなつてゐないのである。

 しかも、地球の温度上昇に関係があるのは二酸化炭素と水蒸気で、この二つが地球の温度を33度上げてゐるのだが、その内の32度までを水蒸気が上げてゐるのであつて、二酸化炭素が上げてゐる役割は非常に小さいのである。

 さらによく調べると、二酸化炭素の量の増加と地球の温度の変化には厳密な相関関係がないことが分かつてゐる。

 もともと地球の温度を決めるのは基本的には太陽の活動だから、地球の温度変化と二酸化炭素の量の変化とはあまり関係がないのである。

 これはNHK教育の高校講座『理科総合』(A-20)で、渡辺正といふ東大教授が話してゐたことである。つまり京都議定書は全くの徒労であり「地球温暖化」といふ話は全くのデマだつたのである。(2006年2月15日)







 小谷野敦につられて森鴎外の『雁』を読み返してみたが、これはかなりエロティックな小説であることが分かつた。

 主人公の一人岡田は東大の学生なのだが、古本屋で買はうとした本として登場するのが『金瓶梅』であるのは、この小説の性格を暗示してゐる。また、岡田の愛読書が香奩体(かうれんたい)の詩だとあるが、これも注を見るとエッチな内容らしい。

 話自体も、大学の小使から金貸しになつた末造がお玉を妾(めかけ)にする話が殆どを占めてゐて、末造がお玉の「白い肌」に妄想をたくましくしたり、お玉が「末造の自由になつて」ゐる間、目をつぶつて岡田を思ひ浮べるなど相当に悩ましい。

 「弐拾壱」(二十一章)にはお玉が朝寝坊の布団の中で顔を赤くしてゐる場面まである。「教育家は妄想を起させぬために青年に床に入つてから寝つかずにゐるな、目が醒めてから起きずにゐるなと戒める」に続いて書かれたお玉の「妄想」が単なる恋愛でないのは明らかであらう。

 岡田は『金瓶梅』の「怪しからん事」を読んだあとの「ぼんやり」した頭で、無縁坂を散歩してゐるときに、ヘビがお玉の鳥籠に首を突つ込んでゐる場面に出くわす。この事件でお玉が岡田に惚れるのも無意味ではない。

 鴎外の文章はあくまで硬いが、意図した中身は柔らかいのである。(2006年2月14日)







 山本七平の『日本はなぜ敗れるのか』の第一章には、二十年前の田原総一郎がベトナム帰還兵に片つ端からインタビューする記事が紹介されてゐる。

 それは「あなたはベトナム人を何人ぐらい殺しましたか」などといふ不躾(ぶしつけ)なもので、それに対して帰還兵たちは曖昧なことしか言はない。田原は彼らの本音が聞きたいのにそんな答しか得られないので、挙句に彼らは「逃げてゐる」などと言ひ始める。

 それに対して山本は、帰還兵たちは彼らなりの本音を言つてゐるのに、田原はそれを本音と認めないといつて非難する。田原はあらかじめ相手が言ふはずの本音を用意してゐて(予定稿)、それと合はない発言を本音と認めないのだと。

 実際今でも田原は「ぼくが聞きたいのはそんな事ぢやない」と言つて相手の話をさへぎるのを得意としてゐて、そのおかげで彼は本音を引き出す司会者としてマスコミの寵児となつてゐる。

 しかし、田原が相手から「言ひ逃れ」でない答を引き出したとき、それは単に「最も巧みな言ひ逃れ」を引き出したに過ぎず、それでは相手との間に対話が成立したことにはならず、逆に決定的な断絶を生み出しただけだ、と山本は言ふのである。

 ところで、この「最も巧みな言ひ逃れ」を引き出す質問は、元々は国会の野党の質問の典型であつて、田原の発明ではない。また、小泉首相になつてからはこ の「最も巧みな言ひ逃れ」をやらないために、野党やマスコミがもつと真面目に答弁しろと怒るのである。(2006年2月13日)







 私は疑問文といふのは、何かを質問するための文章だと思つてゐたが、さうばかりではないことを知つたのは高校を出てからである。

 「~していいですか」と言へば、「~したい」といふ願望の穏やかな言ひ方であり、「~してくださいますか」と言へば、「~しろ」といふ命令の穏やかな言ひ方になる。また、「~ではないですか」と言へば、「~だ」といふ主張の穏やかな言ひ方になる。

 では、さういふことをどうして知つたかといふと英作文の構文で知つたのである。もちろん、家族でも「~してくれる?」などの言い方で自分の願望を伝へることはしてゐるのだらうが、疑問文を使つてゐるといふ意識はなかつた。

 ところが、高校を出て赤の他人にこちらの願望を穏やかに伝へる必要が多くなると、疑問文を使ふのが便利だと分るやうになる。そして、さういへば英作文の参考書にあつたなと思ふのである。

 そして今度は逆に、英語を読んでゐて疑問文に出会つても、これは質問をしてゐるのではないといふことが意識できるやうになる。それぞれの疑問文が何を目的としてゐるかが分れば、特に会話文の解釈が楽になること必定である。(2006年2月12日)







 小谷野敦の『もてない男』といふ新書をふと本屋で手にとつて、まあよく色んな本を読んでゐる男だと感心して買つてしまつた。

 童貞喪失の困難について述べる第一章(第一回となつてゐる)では、二葉亭四迷『平凡』から田山花袋『田舎教師』から森鴎外『青年』から志賀直哉の『暗夜 行路』から途中でマンガをはさんで最後は『アミエルの日記』まで、私が読まうとして挫折した本がどんどん出てくる。「職業柄」とは言ひながら、よくもまあ 好き嫌いなしに何でもかんでも馬鹿正直いや勤勉に読んだものだ。

 その各々の作品で、童貞喪失の困難さを扱ふ場面が引用されるのだが、特に岩波文庫の分けがわからないアミエルの訳文を何度も引用して、その訳のひどい下手くそぶりに一言も文句を言はずに、日記の内容を理解してその感想を述べてゐるのには感心させられた。

 アミエルが四十歳になつてやつと自分の童貞に焦りを感じ始めたことに対して共感してみせる小谷野はもちろん「もてない男」である。はつきり自分はさうだとは書いてゐないとしても、すでに本の背表紙がさう言つてゐる。

 中身はああでもないかうでもないとひたすらぐだぐだ言ふだけの本なのだが、もてない男がもてないことに不安でなくなる、或ひは「俺の方がもつともてない ぞ」と自信をもつて言へるやうになれる良い本である。(なほ、この本はあくまで戯文であるから、あまり何でも真に受けてはいけない)(2006年2月11 日)







 若い内に誰でも一度は夢中になるのが女である。女のために人を殺(あや)めたり、或ひは金を盗んだりといふやうなことになる。だから女には気をつけろといふ戒めの言葉が昔からあつて、「世の中で金と女は敵(かたき)なりけり」といふのもその一つだ。

 金に目がくらむとこれはいけない、女もいけない。だから女と金を見たら、「あっ敵(かたき)だ」と思へ、その位にしてゐれば間違ひのない人生をおくれるといふ意味である。

 これと同じやうなことを言つた人にお釈迦様がゐる。お釈迦様は女性について「外面(げめん)如(によ)菩薩、内心如夜叉(やしや)」と仰つた。女は上辺は菩薩のやうだが、腹の中は鬼か蛇(じや)だと言ふのだ。

 以上は、古今亭志ん朝の『刀屋』のまくらを要約したものだが、今年もまた、この敵(かたき)のために人生を狂わされた男たちのニュースで賑はつてゐる。

 ところで、永井荷風先生はこの恐ろしい敵にしよつちゆう関はり続けたのだが、いま失敗してゐる男たちと一番違ふのは、かならず金銭を介して関つたことだ。

 今の女性に対してこの方法が有効かどうかを私は知らないが、只は一番よくないとは思ふ。(2006年2月10日)







 『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の翻訳は第一章だけでも、いくつもの難所がある。

 まづ第一に、何と言つても、出だしの段落の最後の「これと同じ漫画が(えがかれる)」(17頁5行目、岩波文庫。以下同じ)だらう。この「これと同じ」 とは何と同じなのか。それは2行目の「二番目は茶番として」の「茶番」であらう。ならば、翻訳は「まさにこの茶番が(えがかれる)」とすべきだらう。

 次は、「あのイギリス人は、正気でいたあいだじゅう、黄金製造という固定観念からのがれることができなかった」(20頁、後から2行目)。このイギリス 人は「気ちがい」で「エティオピアの鑛山」で働らかせられてゐると信じてゐるのに、「正気でいたあいだじゅう」はおかしい。

 では、原文は nicht が脱落した誤植で「狂気でいたあいだじゅう」が正しいのか。実際、さう訳してゐる英訳もある。しかし、さうではなからう。ここは「正気に返つた間も」といふ意味ではないのか。だからこそ「固定観念」であり、次の「革命をしてい る間」のフランス人と照応関係に立つことができる。マルクスにとつて、革命こそ人々が正気に返る瞬間だからである。

 三つ目は「民主主義者諸君が〔きたるべき〕一八五二年五月の第二日曜日の霊験をいわって」(23頁9行目)。この「霊験」とはどういふ意味か。注が付い てゐるのでそれを見ると、一八五二年五月の第二日曜日は「新しい大統領の選挙がおこなわれる日」とある。つまり、その日は一期限りの現大統領ルイ・ナポレ オンが失職する日であるから、民主派にとつて「霊験あらたかなゆえんである」と書いてゐる。

 しかし、それだけではないだらう。その日こそは、ルイ・ナポレオン政府 によつて国外に追放されて亡命中の「民主主義者諸君」が罪を許されて帰国出来る日なのである。そして、これがその後の「荷造」(23頁最終行)につながつ てゐる。では、そんな日はどう呼ばれるのか。原文ではGnadenwirkungen、英訳では pardons となつてゐる、Gnaden にも pardons にも「恩赦」といふ意味がある。ならば、ここは「恩赦」或ひは「恩赦の発効」とすべきだらう。

 以上は、もちろん私の意見でしかない。しかし、今後『ルイ・ボナパルトのブリュメールの十八日』の新訳が出るとしたら、取りあへずこの三カ所の訳し方を見ることだ。そして、この三つの難所をうまく乗り越えられてゐないものは避けた方がよい。(2006年2月9日)







 現代社会では情報量が余りに多いために、国民の理解が追ひつかないとよく言はれる。しかし、それは流れてくる情報の全てを相手にしようとするからであつて、取捨選択の目を光らせてゐれば重要な情報はそれほど多くはない。

 我々に与へられる情報の中で一番多いのが毀誉襃貶(要するに人の悪口)情報であらう。テレビや新聞のニュース記事、それにネットのブログで扱はれる情報のほとんどがこの種の情報である。しかし、毀誉襃貶情報は人の意見であつて事実ではないので切り捨ててよい。

 また、事実として明かになつた事と、誰かが事実だと判断した事とを区別して、後者を切り捨ててよい。これはどちらも新聞やテレビのニュースでは「~であることが分かった」と表現されるので注意がいる。

 『ドキュメント』とか『ドキュメンタリー』と自分で銘打つてゐる記事やテレビ番組も注意がいる。事実を伝へることより、世論誘導を目的としたものが多いからだ。

 かうして多くの情報のうちで人の意見でしかない部分を切り捨てると、あとに残るのは数少ない事実の情報だけである。

 ただし、私は実際にはこんな面倒なことはしないで、テレビや新聞のニュースをなるべく見ないやうにしてゐるだけである。具体的には、新聞が家に来たのを 見つけるとすぐに真ん中の折り目を裏返してテレビ欄を表にする、テレビでニュースが始まるとチャンネルを地元のU局や教育テレビにするなどである。 (2006年2月8日)







 「大ディオニュシオスは自分のもののうちで、何よりも自作の詩を高く評価した。オリュンピアの競技のときには、飛びぬけて豪華 な戦車とともに、詩人や楽人たちを送り、王者らしい金襴の天幕を張りめぐらして、自作の詩を朗誦させた。その詩が歌い出されると、歌いぶりが美しくすばら しいので、初めのうちは民衆の注意を引いた。けれどもそのうちに、詩の拙劣なのがわかると、民衆はまずこれを軽蔑し、ますますきびしく批判したが、やがて 憤怒に荒れ狂い、彼の天幕に走って打ちかかり、これをずたずたに引き裂いた」
 
 「ディオニュシオス父王は、自分のもののうちで何よりも自分の詩を高く評価していた。オリュンピア競技の季節には、豪華このうえもない戦車とともに、詩 人や楽人たちを送り、王家にふさわしい金襴の天幕をはりめぐらして、自分の詩を朗誦させた。いよいよその詩が披露されると、発声が美しくすぐれていたの で、はじめは民衆の注意をひきつけた。けれども、やがて、作品の拙劣なことがわかってくると、民衆はまずこれを軽蔑した。ひきつづき判断をいらだたせられ た民衆は、ついに怒りだし、走り寄って彼の天幕を打ち倒し、くやしまぎれにこれを引き裂いた」

 モンテーニュ『随想録』(第二巻十七章)の同じ個所の訳であるが、後者の方がメリハリがきいてゐるのは一読明らかであらう。それは「いよいよ」「はじめは」「けれども、やがて」「ついに」の配置から生まれてゐる。

 前者は文法的に間違ひはないが、例へば「飛びぬけて」が強すぎる。ここは抑へておくべきところだらう。また、前者のぼんやりした表現が後者でははつきりしたものになつてゐる。「王者らしい」が「王家にふさわしい」に、「歌いぶり」が「発声」、「批判」が「いらだち」。

 最後に後者は「くやしまぎれに」と書き、怒りの激しさを示す感情表現でしめくくつて全体の意図を明確にしてゐる。それに対して、前者の「ずたずたに」は感情表現ではないし、そもそも原文のpar dépitとも合はない。

 前者が岩波文庫の訳であり、後者が河出書房の『世界の大思想』に含まれてゐる松浪信三郎の訳である。(2006年2月7日)







 東條英樹の『大東亜戦争の真実』は、東京裁判に提出された東條の宣誓供述書である。第二次世界大戦についての見方は、現代ではアメリカ製のものが支配的であるが、この本を読むと当時の日本の指導者による見方がよく分かる。

 当時のアメリカの日本に対するやり方は、最近アメリカがイラクに対して殆どイジメに類する経済封鎖をやり、あげくに戦争を始めたやり方と殆ど同じだつた。

 当時アメリカは口では自由貿易を唱へながら、他の国民を差別し、膨大な資産を独占して、高関税の保護貿易を行ひ、ブロック経済をやつて日本つぶしに出て ゐた。最後は石油が日本に一滴も入らないやうにしてしまつたのだ。このままでは日本はつぶされてしまふといふ危機感が、日本の支配層には充満してゐた。

 確かに、この難局をアメリカと仲良くやつて乗り越えようと考へる人たちは日本にもゐた。しかし、アメリカ側にその気はまつたくなく、ルーズベルト大統領 は次々と国防予算の増額を議会に求めて、強大な軍備増強を行ふ一方で、日本との外交交渉では一切の妥協を拒否して、日本と戦争を始める気満々だつたのであ る。
 
 一方、日本の指導層には元々アメリカと戦争をするつもりは全く無く、その為の軍備も全く準備して来なかつたので、東條も勝てる見込みがないことが分かつてゐたが、「自存のためなれば、敗戦を覚悟するも開戦をやむを得ず」となつたのである。

 要するに、したくもないし早く解決したい支那事変がアメリカの軍事援助によつて泥沼化したあげくに、日本を経済封鎖し着々と臨戦態勢を築いてゐたアメリカとの戦争に追ひ込まれたといふのが、日本から見た太平洋戦争だつたのである。

 ところで、東條はこの本の題名とは違つて、あの戦争を「大東亜戦争」とは呼ばず「太平洋戦争」と呼んでゐたことがこの本を読むと分かる。(2006年2月6日)








 「余は、かくの如き傲慢無礼なる民族が武力をもつて隣国に寇(こう)することを痛歎して措(お)かざるなり。米国よ、速かに起つてこの狂暴なる民族に改俊の機会を与へしめよ」

 これは永井荷風が支那事変について日記『断腸亭日乗』の昭和十六年六月二十日に書いたとされるもので、「狂暴なる民族」とは日本人のことである。永井は戦時中に、中国などの反日勢力の言ひ分を自分の言い分としてゐたのであらうか。

 ところが、この一節は東大の学生が速達で原稿の催促をしてきた無礼を怒る記述の直後に付け加へられたもので、唐突の感が否めない。しかもこのやうな荷風 の軍国主義批判は量にすれば微々たるもので、政治的な批判よりはむしろ軍人嫌いを表明したものが多い。
 
 だからこんな文章を探しながらこの本を読んでも、期待外れに終るだけだらう。それに比べて、我々の期待に充分答へてくれるのは、荷風の懲りない女遊びの方で ある。荷風が愛した女の話が次々と出てくるのだ。それを順にたどりながら読み進むなら、『断腸亭日乗』は充分楽しい読み物となる。(2006年2月5日)








 いまの小学生の男の子は学校でウンチが出来ないのださうだ。学校のトイレでウンチをしたことが知れると、教室で捕まへられて「~くんは今ウンチをしてきました」と発表されるからだといふのである。

 ウンチは誰でもせずにはゐられない事だが、学校でウンチをすることなどあつてはならない事なのである。だから、それをしてしまつた事は、その子にとつての弱みとなる。そして、今の子供たちはその弱みを徹底的についてくるのだ。

 では、人のウンチをはやし立てる子が学校でウンチをしたことが絶対にないかと言へば、そんなことはありえない。それどろこか、どの子も一度は学校でウンチをしてゐるが、たまたまばれなかつただけなのである。

 それにも拘(かかは)らず、子供たちは今ウンチをした子を人前に引きずり出してきて、「この子はウンチをしました」と言つて、その失敗を寄つてこつて責めるのである。

 そのうちに、ほかの子が「さう言へば、この子はこの前も学校でウンチをしてゐました。ウンチの常習犯です」と言ひだし、さらには、その子が学校でウンチ をした回数を調べてきて「この子はこれまで43回も学校でウンチをしてゐます。ここだけでなく、よその学校でもウンチをしてゐます」と発表する子が出てくる。

 ウンチをした子も初めは「学校でウンチをした方が得ぢやないか」と言つたりするのだが、自分に対する非難の声が大きくなるばかりなので、最後には「学 校でウンチをしてごめんなさい。もうしません」と言はされるのである。恐ろしい世の中である。(2006年2月4日)







 麻生大臣が天皇の靖国参拝が望ましいと言つたとき、昭和五十年八月十五日の三木首相の参拝で公人私人の話が出てから、天皇が参拝できなくなつたと言つたが、それが正解だらう。

 事実このとき首相の三カ月後の十一月二十一日に天皇も参拝されたが、その前日に天皇の参拝について公私の区別が国会で問題になり、その上、野党や宗教団体から反対声明が出てゐる。

 もともと天皇は国民の論争から超絶した立場をとることをよしとされてきた。だから、例へば、プロ野球や大相撲に関する自分のひいきでさへ公言されないのを常とされる。そんな天皇が靖国参拝をそれ限りとして、以後は論争の種になる行動を避けられたのは、想像に難くない。

 靖国神社のA級戦犯合祀についても同じことが言へる。これもいつたん政治問題化してしまつた以上は、たとへ合祀を取りやめたとしても、それで天皇が参拝されれば、それはそれでまた論争になる。

 では、国立で無宗教の追悼設備を作れば、天皇陛下に参拝して頂けるかといへば、その答はやはり否であらう。天皇がもし参拝すれば、天皇は「靖国派」に反対して「無宗教の追悼施設派」に味方したことになり、また論争になるからである。

 結局、追悼行為を論争の種にしたこと自体が間違ひだつたのである。(2006年2月3日)








 一夫多妻は日本では犯罪だが、一夫多妻が常識である国の方が多い。

 なぜなら、女は誰でも子を産めるやうになるのに、男は誰でも稼げるやうにはならないからである。子を産めるやうになつた全ての女たちを、稼げるやうになつた数少ない男たちが食はせるには、当然、一夫多妻にならざるを得ない。

 だから、近代産業が発達して男が誰でも稼げるやうになつた国から、つまり先進国から一夫一婦制に変つて行つた。一夫一婦制でなければ人倫に反するといふ キリスト教の考へ方とこの現実が一致すると、この考へ方は植民地進出と共に宣教師によつて世界に広められた。近代化の証が欲しかつた日本もそれを明治以降 受け入れた。

 一方、西洋化を押し進めない国や、宗教が一夫多妻制を認め、法律が認めてゐる国々では、男が誰でも稼げるやうになつても相変はらず一夫多妻制である。

 ところで、恋愛結婚の普及した近頃の日本では、稼げる稼げないに拘はらず、死ぬまで一度も結婚できない男たちが増えてゐるさうだ。その一方で、女の方は死ぬまでに一度は誰でも結婚するさうである。

 とすると、もしこの傾向が続くなら、いづれは女の結婚相手になれる男の数が足りなくなつて、日本も一夫多妻制をとらざるを得なくなるかもしれない。

 とすると、最近逮捕された一夫多妻の男は、その先駈けといふことになる。(2006年2月2日)







 女系天皇は正統性が難点だが、女性が天皇になるだけでも、色々問題がある。その一つは、天皇になる可能性のある女性たちの夫に誰がなるかといふ問題である。

 現状では民間人が夫になるしかないが、とすると、何と言つてもそれは婿養子になるといふことである。女性が天皇家に嫁入りするのは玉の輿だらうが、男性 の婿入りではさうはいかぬ。俗に「小糠三合あれば婿には行くな」と言ふぐらいで、とても威張れたものではないからである。

 しかも、一般の婿入りでは名目上でも家長になるが、この場合はそれもなく、社会的には子種としての価値しかない存在、言はば男性版側室となつてしまふ。

 その上、民間人が皇族になれば選挙権も参政権もなくなり、居住の自由など憲法が保障する権利をすべて失ふことになる。これではとても男性版玉の輿どころではない。

 また、欧米でも皇配といつて女王の夫になる人がゐるが、民間人がなつたといふ話は聞いたことがない。結局、女性天皇を実現するためだけにでも、旧宮家を復活させるなどして皇族の範囲を広める必要があるのではないか。(2006年2月1日)







 公園に長い間只で住まはせてもらつて居ながら、そのうえ役所に住民票も要求するとは、これこそ盗人猛々しいといふ事ではないか。

 法律上、役所は住居地の住民票を請求されたら拒めないかもしれない。アザラシに住民票を出す役所があるくらいだから、それを人間に出せない道理はない。だからといつて、ホームレスが役所に住民票まで要求するのは、道理にはずれてゐる。

 別の公園のホームレスは、役所からイベントをするから空けてくれと言はれて、長い間ありがとうございましたと言つて出て行くどころか、支援団体を集めて居直るは、役所に強制代執行までさせるは、人迷惑この上ない事をしてゐながら、それを当然だと思つてゐる。

 只で人の土地に住まはせてもらつてゐる人間がこんなにずうずうしくなつたのは、多分、社会主義と共産主義のおかげだらう。昔は「居候、三杯目にはそつとだし」と言つたものだが、こんな文化はもうどこかへ行つてしまつたのである。(2006年1月31日)







 満州事変をリットン調査団の報告書が「侵略行為」と断罪したといふことが、あちこちに書かれてゐるが、リットン報告にはそんなことは書かれてゐなかつた。

 実際に書かれてゐたのは、「これは一国が国際連盟規約の提供する調停の機会を予め利用し尽くさずに一国に宣戦布告した事件ではないし、一国の国境が隣国の軍隊によつて侵された単純な事件でもない」といふことである。

 だから、日本の歴史教科書にもリットン報告が満州事変を「侵略行為」と断定したと書いてゐないのは正しいのである。

 なぜ日本軍は満州事変を起こしたか。満州は当時半独立状態で、張作霖と息子の張学良が独裁者となつて悪事の限りを尽くしてゐた。

 満州の治安は乱れに乱れ、馬賊が跳梁して住民は安心して暮らすことが出来ない。住民は塗炭の苦しみを味はつてゐるのに、張親子は豪邸に住んで王侯のやう に振舞てゐた。しかも、米国の軍事援助を得て、日本の南満州鉄道の権益を妨害するなどやりたい放題だつた。しかるに、北方からはソ連の赤化の脅威が迫つて ゐる。

 この状況を憂えた日本軍は、これではいかんと一大義挙に踏み出したといふわけである。リットン調査団はこの実態が分かつたので、日本軍を一方的に批判できなかつたのである。(2006年1月30日)







 「左翼思想犯人はブルジョア新聞紙上ではもはや何等の英雄でもなくなつて、泥棒やギャングの類(たぐ)ひとして待遇され始める」とは、昭和十年に出た『日本イデオロギー論』の中で戸坂潤がマルクス主義の退潮を嘆いた一節である。

 昨日の英雄も警察に逮捕されると途端に全人格を否定される風潮には、戦前も戦後もないのであつて、それは今回のライブドア騒動を見ても明かである。

 戸坂潤は続けて言ふ。「これは新聞が世間のその日その日の常識を反映したものであると共に、新聞が世間をさういふ風に教育してゐるといふことでもある」当時テレビはまだなかつたが、マスコミと世間の関係もまた変らないのだ。

 逮捕されただけでは有罪と決つたわけではないといふ「推定無罪」の考へ方を知らぬ者もなからうし、密室の取り調べ室での自白は容疑者の性格の強弱を知る目安にはなつても、容疑者の白黒を知る目安にはならないことも既に常識であるはずだ。

 また、ロッキードの田中角栄が最高裁では無罪だつたと言はれ、リクルートの江副が猶予刑でしかなかつたことも忘れてはゐまい。

 にも拘(かか)はらぬこのホリエ・バッシングの激しさは、Financial Times の一月十八日の社説「時代の先駆者に対する古い社会のリベンジ(Old guard's revenge)」が図星をついてゐたといふことだらう。(2006年1月29日)







 第二次世界大戦前の世界の強国が独占したゐたのが植民地なら、現代の世界の強国が独占してゐるのは核兵器だらう。そしてかつてその強国の独占に挑戦したのが日独伊なら、今その独占に挑戦してゐるのは北朝鮮とイランである。

 日独伊の挑戦は、強硬姿勢をとつた英米による経済封鎖に発展し、そのまま第二次世界大戦に突き進んだ。現代の北朝鮮とイランによる挑戦は、安保理付託による経済制裁つまり経済封鎖に発展するだらうか。

 ところが、第二次世界大戦前と現代とでは大きな違ひがある。それは北朝鮮とイランへの経済封鎖に反対する強国中国とロシアがゐることだ。

 中国とロシアの友好国である北朝鮮に経済制裁できないアメリカは、六ヶ国協議といふ場を選んだ。そのおかげで、からうじて極東の平和は維持されてゐる。

 イランはどうか。中国とロシアはイランの友好国でもある。だから、この二国は北朝鮮の場合と同様に、対話路線を主張することで自国の存在価値を高める作戦に出るだらう。

 イラク戦争後のアメリカは、口ではいくら勇ましいことを言つても、この対話路線に乗るしかないのではないか。(2006年1月28日)








 かつて教科書問題で「中国侵略」を「進出」と書き換へさせたといふ誤報事件があつたが、実際は「進出」でいいのである。

 なぜなら、イギリスによるビルマ支配もフランスによるベトナム支配もどちらも事実は侵略であるが、どの本にもビルマ進出、ベトナム進出と書いてあるからである。日本だけ中国侵略とするのはおかしいなことである。

 仮に教科書が近隣国に配慮して日本の行為だけを「侵略」とするとしても、一般の歴史書はどちらも「侵略」か「進出」にするのが客観的な記述といふことになる。

 ところが、今だに欧米諸国による世界侵略を非難せずに、日本の侵略だけを非難する論調が横行してゐる。

 また、戦時中に日本がビルマやフィリピンなどを住民の願ひ通りに独立させたことも、日本軍による軍政だつたと批判する人がゐる。しかし、日本の総理大臣が国会の演説で独立を認め、公平な条約も結び、憲法も自分たちの手で作らせてゐたのだ。

 日本軍がゐたから独立でないなら、アメリカ軍がずつとゐてアメリカ軍の作つた憲法を押しつけられたままの日本は、未だに独立してゐないことになつてしまふ。

 さらには、せつかく日本が独立させたビルマやフィリピンを英米はまたもとの植民地に戻してしまつたのである。そんな米英が善玉で日本が悪玉だつたとするやうな史観を、どうして客観的だと言へるだらうか。(2006年1月27日)







 デイモン・ラニアンの小説に『マダム・ラ・ギンプ』といふブロードウェイに住む浮浪者の女の話がある。彼女は色んな物を売つて暮らしてゐるのだが、彼女の売る新聞はどこかで拾つてきた昨日の新聞ばかりだつた。

 心優しきブロードウェイの紳士たちは、彼女から古新聞を買つてやつてゐたが、それは一度読んだニュースをまた読むためではなく、彼女に金を恵んでやりたかつたからである。

 ところで、インターネットでニュースが読めるやうになつた昨今では、我々が家に配達される新聞を開いて読むことができるのは、ほとんどが昨日のニュースであり、一度読んだニュースばかりになつてゐる。

 つまり、我々はマダム・ラ・ギンプの新聞を買つてゐるのと大差が無くなつてゐるのである。といふことは、我々が新聞を購読するといふことは、ブロードウェイの紳士たちがマダム・ラ・ギンプを哀れんで金をめぐんでやつてゐるのと、大きな違ひがないといふことになる。

 実際、現代では新聞を購読するといふことは、新聞記者や新聞配達人により良い暮らしをさせてやる程度の意味しかなくなつてゐる。新聞社が広告料だけで充 分やつて行けるだらうことは、民放のテレビ局が広告料だけでやつてゐるを見れば明らかだからである。(2006年1月26日)







 既存の制度に頼らずに実力だけで出世した者を讒言(ざんげん)によつて罪に陥(おとしい)れて失脚させる。これは日本の歴史で繰り替へされてきた誇れない一面である。

 それは道鏡や菅原道真に始つて、最近では田中角栄やリクルート社の江副(えぞへ)社長に至るが、このリストに今年ライブドアの堀江社長が加はつたのかもしれない。

 讒言とは、人の行動や金の動きに犯罪を構成する意図があると告げ口することである。その恐ろしさは、讒言人が一人ゐれば、現実に起つた偶然の事実さへも 因果関係を持ち始めて、今度はそれが犯罪を構成するやうに見えてしまふことであり、一旦さう見えてしまふとそれを反証することは非常に難しい。

 しかしながら、意図や考へなどといふ人間の頭の中だけの動きをもとにして人を罰することは、思想をもとにして人を罰することと似て、それ自体非常に危険なこ とであるばかりでなく、讒言人の「あの人はあんな事を言つてゐた」に類する証言以外に実際には証拠がないため、自白を強要したあげくの冤罪になりやすい。 また、讒言人の悪意が捜査の出発点であるため、結果として正義の実現とならない場合の多いことは歴史が証明してゐる。

 現代の日本でこの讒言・讒訴を一手に引き受けてゐるのが東京地検特捜部であらう。「昔、特高。今、特捜」と言はれる所以(ゆゑん)である。(2006年1月25日)







 自動車にハイブリッド車といふものがある。電気モーターとガソリンエンジンを併用させたもので、燃費がいいと言はれてゐる。

 自動車の燃費表示は今では10モード燃費だけだが、昔は60キロ走行といふのもあつて1リッター20キロ以上の数字が出てゐた。

 ガソリン自動車の燃費が悪いのは速度が低いときで、ずつと60キロで走れたら燃費は断然よくなる。そこで速度の低いときは電気で走るやうにして、60キロ走行の燃費をその自動車の燃費にしようとしたのがハイブリッド車である。

 ただし、電気のモーターだけで走れるのは低速走行時だけで、発進時や加速時にはガソリンエンジンの力がいる。モーターだけでは60キロまで速度は上がらないのだ。これらによつて、60キロ走行の燃費より悪くなる。

 また、発電した電気を溜めておくために電池を沢山積みこんでおく必要がある。その電池の重さを運ぶエネルギーが必要になる。これによつてもまた、燃費は悪くなる。

 さらに、その電気を発電するのはガソリンである。ガソリンエンジンが回転するときと、車が止まるときに発電するのだが、エネルギーが空から降つて来るわけではなく、やはりガソリンが元になる。だからその分だけ、燃費が悪くなる。

 ハイブリッド車はガソリン車で無駄になつてゐるエネルギーを電気に変へて使つてゐるだけであり、元のエネルギーを全てガソリンに頼つてゐることに変はり はない。ハイブリッド車にしたのに、たいして燃費がよくないといふ人がゐるのは当然なのである。(2006年1月24日)







 聖徳太子は推古天皇の皇太子だつたといふのに、なぜ天皇にならなかつたのかと思つてゐた。ところが、聖徳太子は架空の人物で実際にはゐなかつたと言はれて納得した。

 聖徳太子を作つたのは天武天皇ださうである。この頃の皇室の系図を見ると、すさまじいことになつてゐる。

 天智天皇の弟の天武が、天智の息子大友皇子を殺して天皇になつたことは壬申の乱で有名だ。その天武が死ぬと妻の持統が、天武の先妻の子大津皇子を殺し、 若死にした自分の息子の草壁皇子の代りに天皇になつた。持統は自分の孫で草壁皇子の子(十四歳)に位を譲つた後も、太上天皇になつて頑張つた。持統とは皇 統を持したといふ意味だ。

 その文武天皇が二十五歳で若死にすると、今度はその母親が元明天皇になつた。その元明は、草壁皇子と自分の間に生まれた娘である元正天皇に譲位した。文 武の子で天武のひ孫(聖武天皇)が大人になるのをじつと待つてゐたのだ。天武の宮廷が女帝を立てて必死に権力を維持してゐた様子がよく分かる。

 そして、この宮廷が政権維持のために、次期天皇をあらかじめ決めるために作つたのが皇太子の位だ。その地位に将来の聖武天皇を就け、皇太子の神聖な前例として作つたのが聖徳太子なのである。モデルは中国の梁の昭明太子だつた。

 この聖徳太子伝説を作るのと同時に天武の皇統の正当性を証明するために天武の宮廷によつて編まれたのが『日本書紀』なのである。この史書作りに聖武の后の父藤原不比等が熱心に関はつてゐた。十七条憲法も不比等が作らせたものだつた。

 「聖徳太子はいなかった」といふ人たちのストーリーは以上のごとくである。谷沢永一氏が書いたこれと同名の本では、聖徳太子がゐた証拠が学者たちによつて悉く反証されてきた様子が分かりやすく描かれてゐる。(2006年1月23日)







 アメリカ牛肉を日本が輸入する基準は生後20ヶ月以下となつてゐる。なぜ20ヶ月以下かといふと、日本で狂牛病を発症した最も若い牛が生後21ヶ月だつたからである。

 しかし、それは日本の牛の話であつて、アメリカの牛の話ではない。日本はアメリカの牛のデータから決めた基準ではなく、日本の牛のデータから決めた基準によつて、アメリカの牛の輸入を制限してゐるのである。こんな不合理なことはない。

 その上、牛肉の危険部位除去は、世界の基準では生後30ヶ月以上だ。危険部位さへ除去すれば、どの牛も安全になるからである。

 ところが、日本はアメリカに20ヶ月以下の牛でも危険部位の除去を要求してゐる。狂牛病を発症してゐないどんな子牛でも狂牛病に感染してゐる可能性があつて危険だからといふのである。

 こんな不合理で身勝手な基準で日本はアメリカ牛肉の輸入を拒んでゐるのである。日本の都合にこれ以上合はせられないと、アメリカがいつ怒り出しても不思議ではない。(2006年1月22日)







 ライブドア関係者の自殺について「誠に悲しい出来事で、冥福をお祈りする」といふ談話が出た。一瞬、ライブドアの人の言葉かと思つたが、驚いたことに東京地検の次席検事の言葉だといふ。

 「男性は事件の関係者と認識していたがこれまで事情聴取はしておらず、18日も事情聴取の予定はなかった」といふ地検の言葉をそのまま信用すれば、悪事に関与してそれを隠すための自殺だつたやうに見える。

 ところが、事実はさうではなかつた。自殺の前日の17日に彼は地検によつて自宅を家宅捜索され、午前三時まで事情聴取され、パスポートまで根こそぎ何もかも持つて行かれてしまつたのだ。

 彼は地検の捜査官によつて屈辱的な目に遭はされたのである。この自殺は「国外に出るなといふなら、沖縄ならいいのだらう」といふ恨みのこもつた、抗議の自殺だつたに違ひない。それを知つてゐたからこその次席検事の言葉だつたのである。

 これまでに警察や検察の事情聴取による屈辱からどれだけ多くの人が自殺に追ひ込まれたか。株取引の世界が何でもありなら、警察・検察の世界もまた何でもありの世界なのである。(2006年1月21日)







 自転車に傘を付ける器具がある。「さすべえ」を筆頭にして類似品がいろいろ出てゐるが、こうもり傘タイプしか装着できないのが難点ではないか。

 出掛けるときから雨が降つてゐるなら、最初からこうもり傘を装着して出掛ければよい。しかし、出掛けるときに晴れてゐる場合に普通持ち出すのは折りたたみ傘であつて、こうもり傘ではない。しかし、折りたたみ傘の柄は取り付けられないのだ。

 そこで、日頃からこうもり傘を自転車で持ち歩くために、こうもり傘ケースを付けた「さすべえ」が売り出されてゐる。しかし、いつもこうもり傘を持ち歩くのはやはり滑稽であるし、面倒である。

 それ以上に、雨が降つてゐないときに「さすべえ」の棒だけを自転車のハンドルの前に付けて走るのも滑稽ではないか。と言つて、日傘であれ雨傘であれ大きな傘をいつも自転車に付けて走るのは大変だ。

 第一、見通しが悪い。第二に、風の影響をもろに受ける。前からの風だと進みにくくなるし、それ以外だと風にあおられ、挙げ句に倒される恐れがある。

 こんなものが大阪のおばちやんの間で人気だといふ。大阪のおばちやん恐るべしである。(2006年1月20日)







 『昭和天皇独白録』といふものがあるが、私は偽書だと思ふ。

 マッカーサーに対して、戦争責任は自分にあると言つた天皇が、裏に回つてそれを否定するやうなことを側近にしやべつてゐたといふことが何よりおかしいのだ。

 『マッカーサー回想録』には会見に訪れた天皇がまづ最初に「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、全責任 を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」と言つたといふことが、感動を込めて書かれてゐる。

 『独白録』はマッカーサーの前に現はれたこの高潔な人格者たる昭和天皇を否定するものだ。

 内容は軽薄で重みがない。それより何より天皇が過去を回顧して側近に対して評論家のやうな口調でぺらぺらとしやべつたなどあり得ないと考へられる。特に、盧溝橋事件を日本側が仕掛けたことだとか、終戦を自分の手柄のやうに言つたなど、とんでもないことだ。

 自分の地位の重みといふものを昭和天皇は誰よりも熟知してをり、御前会議でも自分の意見を言つたことがない天皇である。その天皇がこんなものを命じて書かせたわけがない。東京裁判に備へて、天皇の戦争責任の追求を恐れた側近が勝手に作つた物ではないか。

 評論家の谷沢永一氏が一刀両断に偽書と断じたのを知つて、さもありなんと思つたものだ。(2006年1月19日)







 自転車用のライトで「マジ軽ライト」といふものがある。ペダルが重くならないといふ宣伝に引かれて取り付けてみたが、それなりに重い。

 普通の自転車用のライトは、点灯するとペダルがはつきり重くなる。タイヤの回転をダイナモといふ発電機に伝へて点灯する際、ダイナモがタイヤを押さえつけて回るのでペダルがかなり重くなる。

 「マジ軽ライト」はその接触がないので軽いといふ。しかし、考へてみれば、電気を生み出すエネルギーはやはり自分の足の力である。その分、ペダルが重くなるのは当然で、何もないより重くなる。

 発電機の中身はモーターと同じで、永久磁石の磁場の中でコイルを巻いた物を回転させて電気を生みだす。ブリヂストンなどのオートライトも、前輪の軸に発電機が組み込まれただけで仕組みは同じである。だから、オートライトも、何もないよりはペダルが重くなる。

 「マジ軽ライト」は、前輪のスポークの表面に平たいブーメラン形の強力な永久磁石を三枚、円状に貼り付けて、ライトの中に仕組まれたコイルのすぐ横を車 輪の回転によつて通過させて発電する。コイルをではなく磁石を回転させるといふ逆転の発想から生まれたものだ。しかし、「ペダルを踏んでも重くなることが ありません」は言ひ過ぎだらう。

 その他に、明かりの輝度が低い、すぐに点灯しない、昼間でも発電してゐる、発電の振動がハンドルに伝つて来るなどあるが、これまでのやうに点灯し忘れたり電池がなくなつたりして、無灯火でお巡りさんに注意されることはないと信じてゐる。

(後記;以上は、自転車屋に付けてもらつたままの感想である。自分で磁石とライトの間隔を金具の許容範囲で目一杯離すとペダルは大分軽くなつた。ただし、点灯が遅くなり、必死でこがないと光が弱い気がする)(2006年1月18日)







 日中戦争は侵略戦争だつたとよく言はれるが、これは嘘である。日本は日中戦争を早く終はらせたくて仕方がなかつたのである。

 そのために日本は蒋介石と交渉したり、戦かつたりしたが、どちらによつても蒋介石は戦争を終はらせることに同意しなかつた。

 もし侵略戦争だつたら、戦争を終はらせようとする必要はなく、例へば南京をとつた時点で、中国の半分は日本の領土なりと宣言して、蒋介石には重慶で中国政府を維持させてをれば良かつた。実際、多くの中国を侵略した北方民族はさうしてきた。

 ところが、ひたすら戦争を終はらせたい日本は、困りに困つた挙げ句に「爾後(=以後)国民政府を対手(=相手)とせず」などと言ひだして、その後、汪兆銘に傀儡政権を南京に作らせて、戦争終結の格好を作らうとしたのである。

 侵略戦争とは領土拡張のために行ふものだ。ところが、日本はドイツなどと違つて、日中戦争で少しも領土を拡張しなかつた。それは出来なかつたからではない。する気がなかつたのである。(2006年1月17日)







 日本はよく男社会だといふが、今ではほとんどの場面で女性上位になつてゐる。まづ家庭がさうだ。ほとんどの家庭は奥さんが財布を握り旦那を尻に敷く女性上位である。

 家事は殆どが電化されて昔に比べて楽なことこの上ない。家事の中で電化されないのは子育てだけだが、それすら大変だから亭主が手伝へと政府が女性優遇を奨励する。

 かくして女性には殆どすることがないので、自由時間がたつぷりあり、その結果、テレビ番組の観客席に昼間から座つてゐるのは殆どが女性といふ女性優位ぶりだ。

 それでも離婚をすると旦那が汗水垂らして稼いだ金の半分を内助の功とか言つて自分のものに出来る。楽して稼げるこれほどの女性上位はない。

 外へ出ても、今では男にはない女性割引や女性専用車両がある。性的被害を訴へる女性の言ひ分はほぼ証拠なしに信用してもらへ、法廷でも特別扱ひの女性優遇がある。

 男性優位の名残が残つてゐるのは、わづかに会社と甲子園の高校野球ぐらいのもので、全てを差し引きすれば、男女同権どころか、日本はとつくに女社会なのである。

 その上に、女性天皇になつて、民間から一人の男が皇室に入つて名実ともに妻の尻に敷かれることになり、かくして女性が支配する女性国家が完成するのである。(2006年1月16日)







 内閣府の世論調査によると「夫は外で働き、妻は家庭を守る」といふ考へに賛成する割合は、25年前は7割を越えてゐたが、今は約半数だといふ。

 この25年にこの考へ方を持つ人が少なくなつたことと、その間に少子化が進行したことの間に因果関係を認めるのが自然な発想だらう。

 ところが、学者の考へはその逆で、共働きを認める考へ方が広まれば、少子化は改善されるといふのである。なぜさうかといふと、欧米諸国でさうなつてゐるからなのださうだ。しかし、日本ではさうなつてゐない。何故それを認めないのか。

 欧米諸国のデータは日本には当てはまらない。それは、アングロサクソンの女性の巨大な体躯と日本女性の小さい体を比べるだけで、一目瞭然である。

 共働きをして家庭と仕事を両立させる欧米諸国の女性たちのやうな体力が日本の女性にはないのだ。日本では共働きが増えれば、少子化は益々進行する。さう考へるのが論理的といふものである。(2006年1月15日)








 人のお金を取りたければお金をじかに手にする方法を考へないといけない。人の子供を先づ盗んでそれと引き換へに金を手に入れようとするのは、実にまづいやり方だ。

 子供を盗んだ時点で自分は犯罪者だと宣言してしまつてをり、もう誰も金をくれなくなる。

 オレオレ詐偽といふのが流行つたが、あれも銀行に振り込ませるまではよいとして、その金を銀行から引き出すのが大変ではないのか。銀行の現金自動引き出 し機には目の前に防犯カメラが構へてゐて、おいそれと人の金を引き出せるやうにはなつてゐない。だから、実際に犯人の手にどれだけの金が渡つたかは疑問 だ。

 保険金詐欺も非常にまずいやり方だ。今どき正規に請求しても保険会社はなかなか金を払はない。少しでも疑はしければ、裁判になつても絶対に払はない。掛け金丸損である。

 その点、パチンコ屋の金庫を狙ふのが、賢いと言へば一番賢いかもしれない。もちろん、私は強盗を勧めてゐるわけではない。(2006年1月14日)







 男女同権とかいつて、あらゆる職種に女性が進出してくるが、そんなにいいことなのか。例へば、私はよい女医に出会つたことがない。

 初診で丁寧に症状を訴へても、何も答へずに機械的に治療の作業に入る、患部の近くの男の一物が目に入るのを嫌がる、患者が思ふやうに動かないと看護婦に命じて人を物のやうに扱はせる、前の医者のうまく行かなかつた治療法を言ふとそれを聞いて笑ふ。

 もちろん、男性の駄目医者にもたまに会ふことがあるが、女医で印象に残るよい医者に出会つたことはない。

 仕事中に個人的な感情を態度に出す女性が多く、仕事で権威を笠に着る女性にもよく会ふ。医者が有名だとその看護婦は必ず偉さうにするものだ。

 女性は「実るほど頭(かうべ)が垂れる」といふことがまずない。偉くなるほどそれが態度に出る。総じて女性は階級意識が強いのではないかと思ふ。

 だから、女性の社会的地位が上がれば上がるほど、社会は住みにくくなること確実である。(2006年1月13日)







 NHKで放送された名探偵ポアロ・シリーズ『杉の柩』の分かりにくい所を整理してみた(要注意!種明かしあり)。

 大金持ちのウェルマン夫人には隠し子がゐた。庭師ルイス・ジェラードとの間に出来たメアリである。

 ルイスは戦争ですぐに死んでしまつたが、夫人は生まれた子をルイスの妻の養子にして、手厚い金銭的保護を与へた。ただし、生まれの真相はメアリには秘められてゐた。

 死の床にあつたウェルマン夫人の心にあるのは今もルイスのことであり、彼の軍服姿の写真を大切にして、床の中で見入るのだつた。

 ところが、最近になつて、メアリの養母である庭師ルイスの妻は、ニュージーランドに住んでゐる妹のメアリ・ライリーに、養女の実の母がウェルマン夫人であることを手紙で伝へた。

 看護婦であるメアリ・ライリーは、夫人から実の子メアリ・ジェラードに遺(のこ)されるだらう巨大な財産を横取りしようと企てて、ホプキンスといふ偽名を使つて屋敷に入り込んで、夫人の看護をしてゐた。

 この状況の下で、ウェルマン夫人が死に、次いでメアリがエリノアの作つた料理を食べた直後に死んでしまふのである。

 これだけの事を確認してから見直すと、真犯人が最後の最後まで分からないやうに作られてゐる事がよく分かるだらう。(2006年1月12日)






 サッカーで一つ気に入らないところは、反則も戦術のうちであることだ。

 ボールを取りに行かずに相手を倒しに行くのは反則である。それがひどい場合には退場になるが、それは余程のことで、大抵はペナルティーキックが相手に与へられて、それでお仕舞ひである。つまり、反則してもいいのである。

 だから、サッカーでは故意に反則をするのが普通になつてゐる。そこが野球と一番違ふところで、野球ではデッドボールや守備妨害は普通には行なはれない。

 最近のサッカーはフィジカルの強いサッカーが持てはやされてゐるさうだ。しかし、フィジカルが強いサッカーは得てして反則の多いサッカーになる。ボールをとるために体をぶつけることが多くなるからだ。

 今年の全国高校サッカーでは、フィジカルの強い有名高校のエースが警告累積で決勝に出られず、技術を重視する無名の高校が勝つた。

 メキシコ五輪で銅メダルをとつた日本の試合を見ると実にきれいにボールを取つて得点してゐる。やはり日本人はフィジカルではなく技術だと思ふ。(2006年1月11日)







 週労働時間50時間以上の労働者の割合は日本が28.1パーセント、アメリカが20パーセント、それに対してフランスやドイツは5パーセント台だ。

 このデータを見てある新聞は日本の「就業時間が他の先進国に比べて長く、男女ともに子育ての余裕を持ちにくいという事情がある」と書いたが、これはこじつけではないか。

 このデータの中では確かに出生率の一番低い日本が労働時間の長さで一位である。しかし、この中で出生率の一番高いアメリカが労働時間の長さでは二位になつてゐるのはどういふことか。

 このデータから分かることは、労働時間の長さと出生率の高さは関係がないといふことではないのか。

 しかも日本で残業するほど仕事があつて夜遅くまで電気がついてゐるのは大手の超一流企業が主である。その社員の割合がこの数字に現はれてゐるとも考へられる。

 どうやら、一概に「就業時間」の長さと「子育て」を結び付けるのは正しくないやうである。(2006年1月10日)







 テレビを見てゐると「日本が行なつた戦争によつてアジアの国々に多大の被害を与へた」などと言ふのが聞こえてくる。戦争は相手がなければできないはずなのに、日本は一人で戦争をしたのだらうか。

 決してさうではない。日本は欧米諸国と戦つたのである。では、欧米諸国はアジアで何をしてゐたのか。彼らは武力によつてアジアの国々を植民地支配してゐたのである。

 日本が戦争を始める前にアジアの人たちは平和に暮らしてゐたのではない。アジアの平和はすでに欧米諸国による植民地戦争によつて壊されてゐたのである。

 欧米諸国がアジアで植民地戦争を起こさず、それぞれ自分の国だけで平和に暮らしてゐたのなら、日本との戦争は起きずに済んでゐたのである。

 だから、アジアの国々が戦争で被害を受けたとしても、その責任が日本だけにあるかのやうに言ふのは間違つてゐるのである。

 日本の放送局なら「欧米諸国が始めた植民地戦争によつてアジアの国々に多大の被害を与へた」と言つても何の差し支へもないはずである。(2006年1月9日)







 少子化問題で子供の出生率を考へるとき、日本を単純にフランスやアメリカと比べるべきではない。

 これらの国の出生率が日本より高いとしても、それは移民や外国人が全人口の何割も占めてゐるといふ要素が大きいのである。

 その何割もの人たちは、国の経済発展(これには労働条件の向上も含まれる)から置いてけぼりにされて、貧しい暮らしを強いられてゐる人たちであり、「貧乏人は子だくさん」といふ格言がなほ生きてゐる人たちである。

 それに対して、日本はほぼ単一民族によつて構成されてゐる。日本にも在日朝鮮人やアイヌ民族がゐるが、全部で60万人ほどしかなく、総人口の1パーセントにも満たない。

 日本はフランスやアメリカと違つて、国の経済発展から除け者になつた人たちはあまりなく、国民全体の生活水準が向上してきた。そのおかげで国民全体が「貧乏人は子だくさん」状態から脱してしまつたために、出生率が下がつたと考へることができる。

 フランスやアメリカの出生率が高いとしても、それは決して誇れることではないかもしれないのである。(2006年1月8日)







 今の時代は誰もが自分の家を持ち、どの家にも一台以上の車があるのが普通になつた。しかし、そんな暮らしを維持したければ、とても旦那の稼ぎだけでは足りずに、夫婦共働きにならざるを得ない。

 昔は貧しいから共働きをしたのに、今では豊かだから共働きをするのである。

 一方、例へば、明治時代の夏目漱石は今のお金で月給二百万円以上の高給取りだつたが、家は借家だつた。古典落語を聞いてゐると布団まで借り物で済ましたといふ話がある。昔はなるたけ何でも借りて済ましたらしい。

 ところが、今の家族は自給自足家族で、何でも買つて所有しないと済まない。物を買ふためには一度に沢山の金が要る。その上に、家や車を買ふのにローンを組まなければならない。

 昔は家を借りたが、今は家を買ふために金を借りる。物を借りるのと金を借りるのとでは、気持ちにかかる重圧が全く違ふ。

 これでは安心して子供は作れまい。(2006年1月7日)







 最近、日本人の間に所得格差が広がつて日本は階級社会化してきたといふ考へ方がある。しかし、扶養家族である独身者やパート、フリーター、ニートを別に扱つて、所得格差だと言つてをり、こじつけの感が強い。

 自分の家を持ち自分の車を持つてゐれば、昔で言ふなら小ブルジョアで中間層だ。戦後の日本人の九割が中流意識を持つやうになつたのは、この事実を反映してゐるのである。

 借家に住んで自分の家を持たなかつた夏目漱石はその意味では、高給取りではあつたがプロレタリアであり下層階級だつたのである。

 もともと戦後の日本人の中流意識とは、結婚して家を持つて一人前になつたといふ意識であり、それが社会に対する帰属意識なのである。だから、金銭的な所得格差がいくら広がらうと、総中流意識に変化はない。

 この意識を守るために、多くの家族が共働きをしてぎりぎりの線で頑張つてゐる。この努力が大量に破綻しない限り、日本が対立を含んだ階級社会になるはずはないのである。(2006年1月6日)







 郵便局のアルバイトが年賀状の配達が面倒くさくなつて雪のなかに埋めたといふニュースを聞いて、この前の選挙で小泉首相が「公務員じやなきやダメだつて言ひながら、郵便局は年賀状の時期にアルバイトを雇つてゐるんです」と絶叫してゐたのを思ひ出した。

 実際、郵便局が年賀状の配達に公務員でないアルバイトを使ふと、案の定、こんな事が起きる。だからやつぱり公務員でないと駄目だと国民が気付いたとしても後の祭りである。

 しかし、郵便局にとつて年末年始は稼ぎ時で猫の手も借りたいから、民営化しても年賀状は正社員ではなくアルバイトが運ぶことに変はりはないだらう。

 そのアルバイトが運ぶ年賀状は一度に重さにして何十キロにもなるといふ。つまり、一回一万通以上を運ぶ計算になる。一枚五十円の年賀状が一万通で五十万 円。郵便局はもつと日当を弾んでゐたら、アルバイトを懲戒免職にするといふ滑稽な事態を避けられたのではないか。(2006年1月5日)







 今の日本で女性が世帯主である家族は、夫を亡くした家族を除けばほとんど皆無だらう。家に男の子が生まれず養子をとる場合も、世帯主はその男性になる。

 いくら男女同権の世の中だと言つても、世帯主にまでそれを適用してゐる家族はない。ところが、それを天皇家に適用しようとしてゐるのが、今度の皇室典範改正案だ。

 天皇制も今の考へ方で女性天皇でよいといふ人がゐるが、その今の考へ方では女系はおろか女性天皇もあり得ないことになる。

 たとへ血筋はつながつてゐても、女性は家族の長にはしないのが今の考へ方だからである。

 もちろん、家の中で亭主を尻の下に敷いてゐる主婦はいくらもゐようし、養子は肩身が狭いだらうが、家の表札の一番前には男の名前を書くのが、今の考へ方である。

 さらに、男の子が生まれたら、その子を家の跡取りにするのが今の考へ方である。今度の皇室典範改正案は、どこから見ても今の考へ方とは合致してゐないのである。(2006年1月4日)







 行きつけの店で店員の対応が少しでも悪いと行かなくなつてしまつた経験は誰にでもあるだらう。さういふことが重なるとその店はつぶれてしまふ。商売人にとつて客の機嫌を損なはないことほど大切なことはない。

 日本が材料を輸入して製品を輸出する加工貿易を主にしてゐたころ、日本はまさにこの商売人の立場だつた。だから、日本の外交は土下座外交だつた。

 しかし、今の日本はもはや加工貿易ではない。むしろその逆であり、特に中国に対しては商品を買ふ客の立場にあることは明白である。だから以前のやうに中国の機嫌を損ねないことを第一とする外交姿勢をとる必要はなくなつたと言へる。

 むしろ日本は客なのだから商売人である中国に対してあれこれと注文する立場になつたのである。日本政府の中に公然と中国を批判する政治家が現はれたのは、だから当然のことなのである。

 政治とは時代の変化を忠実に反映するものだし、またさうでなければならない。外交とて同じことだ。元の土下座外交に戻れといふのは時代錯誤なのである。(2006年1月3日)







 耐震偽装問題に関するこれまでの報道からは、建設会社の東京支店長やコンサル会社の代表が悪者で、建築士は気の弱い善人のやうに見えてゐた。ところが、その後の展開から、この報道は間違ひだつたことが明らかになつてきたやうだ。

 といふのは、問題の建築士より少ない鉄筋量でも耐震強度に問題ない物件が出て来たからだ。といふことは、この建築士の能力に問題があつたらしいといふことになる。

 鉄筋量を減らせと言はれて、問題の建築士はただ単に鉄筋の数を減らすことしかできなかつたが、他の建築士は鉄筋で強度の減つた分をほかでまかなふ工夫の仕方をちやんと知つてゐたのだ。

 そして「鉄筋を減らせと言つたのは法律の範囲内だつた」といふ支店長の証言も、「我々は被害者だ」といふコンサル会社代表の発言も、まんざら嘘とは言へなくなつてきたのだ。

 かうなるとマスコミの書いた筋書きは大外れといふ訳で、こんな売れないニュースはテレビでも大きく扱はれず、新聞でも一面扱ひではなく社会面の隅つこに追ひやられてしまつたのである。(2006年1月2日)







 『星の王子さま』の新訳が出たといふことで、ネットで探してみると池澤夏樹氏の訳の最初の方が読めたが、いきなりその第一頁の「ぼくはジャングルの冒険についていろんなことを考え」といふ一文がひつかかつた。

 この文は前後と脈絡が通じてゐない。この段落は「ジャングルの冒険」について書いたものではないし、「ジャングルの冒険」は次のあの有名な帽子のやうな絵、ウワバミに飲み込まれたゾウの絵とつながらないからである。

 原文を見ると「J'ai alors beaucoup réfléchi sur les aventures de la jungle」となつてゐる。英訳はかうだ「I pondered deeply, then, over the adventures of the jungle.」。

 先づこのうちのjungleだが、作者である「ぼく」が読んだ本は「ジャングルの冒険」の本ではなく、「原始林のことを書いた『ほんとうの物語』」(池澤氏訳)だと最初にある。ならば、jungleは「原始林」のことだらう。

 次にaventureだが、これは冠詞がついて特定のものごとを指してゐるし、aventureには「冒険」のほかに「意外な出来事」といふ意味があるから、直前に作者が読んだ、ウワバミが動物を噛まずに丸飲みしてそのまま半年寝てしまふ といふ不思議な出来事を指してゐるのだらう。

 ついでに、beaucoupは「いろんなことを」ではなくここでは「じつくり」であらう。

 以上から、この一文は「ぼくは原始林のこの不思議な出来事についてじつくり考へて」となるべきだらう。jungle を「ジャングル」はいいとしても、 aventure (adventure) を「冒険」とか「探検」とか訳してゐるものは、やめておいた方がよいかもしれない。(2006年1月1日)



私見・偏見(2005年)



 耐震偽装問題でのマスコミの大騒ぎぶりに対して、一般の反応はかなり冷ややかなものである。

 例へばマンション販売会社社長の「天災地震によつて倒壊したときに調査し発覚したことにしたい」といふの発言は極悪非道のやうに報道されてゐるが、一面の真実を衝いてゐるのではないか。

 先づもつて、問題のマンションが立つてゐる場所で、危険とされる震度5強の地震が起こるのは、百年に一度あるかないかである。だから、地震が起きずに済んでしまふ可能性は非常に大きいのだ。

 しかも、その震度5強で倒れない可能性も大いにある。実際、去年の東京の震度5強の地震で、都内のマンションは一つも倒壊してゐない。

 だから、何を大騒ぎしてゐるのかといふ声が大きくなつてゐるのも当然だらう。

 そもそもひび一つ入つてゐない都心の高級マンションから、狭くて不便な都営住宅にどうして引つ越さなければならないのか。都営住宅の方がむしろ危険ではないのか。

 野党はこの問題の追求で得点をあげようとしてゐるらしいが、無駄な税金の投入を嫌ふ世論を読み違へてゐるのではないか。(2005年12月31日)







 労災補償が最近はよく認められるやうになつたが、それと同時に、仕事があることへの感謝とか、仕事をもつことの誇りとか、さういつたものが忘れられてしまつたやうに思へてならない。

 例へば、長年の労働で体に不具合が生じたからと補償を要求するのはどうだらうか。その不具合は自分が長年働いて社会に貢献してきたことへの勲章とは思へないだらうか。

 引退した職人が年老いてから病気で死んで、調べたら道具に有害物質が使はれてゐたから遺族が補償を要求するのは、本人の仕事に対する誇りを無視したことにならないだらうか。

 大企業の周囲の住人が有害物質で被害を受けたと補償を要求するのもどうだらう。大企業の近くに暮らせば、何らかの潤ひがあつたはずだ。商店なら企業の従業員が客に来たらうし、サラリーマンなら企業に勤めたか、その下請けで稼がせてもらつたのではないだらうか。

 良いことがあれば悪いこともあるわけで、良いことだけがあるなどといふことはない。ところが、良いことは忘れて悪いことだけを主張して金を要求するのが今では当然のことになつてゐる。(2005年12月30日)







 関西のテレビ番組で田嶋陽子氏は二〇〇六年の予想として「安倍晋三の失脚」と書いた。本人のその後の話でこれは予想ではなく願望だと言つたが、左翼系の人たちが心の中で考へてゐることが、生の形で現はれたと見てよい。

 実際、その安倍氏の失脚をねらつた策謀が、朝日新聞によるNHK番組改変報道だつた。朝日新聞は首相の靖国参拝を肯定する発言を繰り返す安倍氏が気に入らなかつたので、この報道をきつかけに安倍氏を黙らせようとしたのである。

 扶桑社の歴史教科書に対する彼らの反対運動も同じことである。この教科書を不採用にさせるために、彼らは脅迫やいやがらせや裁判など、言論以外のあらゆる手段をとる。この運動に中核派が関つてゐるといふ調査結果も出た。

 彼らは言論には言論によつて対決すべきだとは思はない。自分の気に入らない言論を抹殺しようとかかるのである。もちろん彼らとて表向きは自由と民主主義を標榜する。しかし、実態はそんなものではない。(2005年12月29日)







 もしNHKがスクランブル放送になつたら、受信料を払へない貧しい人はどうすればよいか。

 むかし家にテレビがないころは、人の家のテレビを見せてもらつてゐた。しかし、もうそんなことの出来る時代ではない。今の日本の社会ではテレビを見せてくれと近所の家に上がり込むことなどあり得ないのだ。

 平均的な家庭に全てのものが行き渡り、家庭が一つの自給自足の単体と化した現代では、他人に頼らず家族の中で全てのことを処理すべきだといふ価値観が定着した。

 荷物運びも家族だけで済ませるために、昔は営業用だつたライトバンが家庭用として普及するやうになつてゐる。自給自足家族の象徴であらう。

 さうなると頼りになるのは金だけである。子供の教育費も全てを自分でまかなふ前提で計算すれば莫大な費用となり、複数の子供を持つことはとてつもない贅沢と見做さざるを得ない。

 そして、もし家族に不都合な事が起きたら、その原因となつた外部に対して「補償、補償」と金をひたすら要求するのも当然の事なのである。「不幸はお互ひ様」の世界はもう過去のものとなつたのである。(2005年12月28日)







 NHKの受信料未払ひ問題で外部の人間はスクランブルにしろ、つまり払つた人しか見られないやうにしろと言ふが、NHKはさうはしたくないはずだ。

 なぜなら、受信料を払つた人しか見ない放送局になつてしまふと、無料で全員が見てゐる民放のテレビ局よりも影響力が落ちてしまふからである。

 さうなればNHKはスカパーやWowowと同レベルの放送局になつてしまふ。

 スクランブルでもニュースや緊急放送は只(ただ)で見せるといふが、そんなチャンネルは付けつぱなしにしてもらへない。NHKは最早まじめ人間以外は誰も見ないテレビ局になつてしまふのだ。

 NHKがスクランブル放送にしたくないもう一つの理由は、はつきりと料金の支払ひと引換へで見せるテレビ局になれば、その料金に相応しい番組を作らねばならなくなるからだ。果たして、朝ドラも大河ドラマも金を払つてまで見るに値するドラマかといふことになる。

 したがつて、NHKにしてみればスクランブル放送にするぐらいなら、只で見られる方がましなのだ。つまり、NHKはある意味で只見客によつて支へられて ゐるのである。これでは受信料を益々払ひたくなくなる。(2005年12月27日)







 ある株取引に関して「美しくない」と与謝野大臣が言つたが、高校駅伝で黒人選手が走るのも美しくない。

 黒人が美しくないのではない。黒人を使つて勝たうとする高校の姿勢が美しくないのである。黒人の留学生を集めて駅伝に勝たうとするのは、地方の高校が大阪の中学生を野球留学させて甲子園出場を狙ふのと何ら変はりがない。

 何故、そんなことまでして勝ちたがるか。それは私立高校の経営と大きな関係がある。少子化時代に生徒を集め続けるには、有名になる必要があるからだ。

 つまり、高校駅伝も高校野球も学校の宣伝の手段に使はれてゐるのである。なぜ、宣伝になるかといへば、それはNHKが只で全国中継してくれるからであ る。

 高校はこの宣伝に大した金をかける必要はない。必要な費用と言へば、優秀な留学生を集めてきて面倒を見るための費用くらいのものだ。放送をするためにかかる莫大な費用は、国民が受信料として払つてゐる金である。

 私立高校も私企業である。NHKはその私企業に国民から集めた受信料を使つて宣伝させてゐる。これでは受信料を益々払ひたくなくなる。(2005年12 月26日)







 今年から人口減社会へ突入したといふ。これが一九八五年に男女雇用機会均等法が成立して二十年たつた結果だとを思ふのは私だけだらうか。女性が働くやうになつて自立すれば、結婚しなくなり、子供が生まれなくなる。それが自然の道理だからである。

 ところが、政府とマスコミは、女性がもつと働けるやうになつたら、もつと子供が生まれるといふのだ。その際、女性の労働率と出生率には相関関係があるといふ説が頻りに出される。

 しかし、それはさう見える国々の統計だけを取り上げてゐるだけで、反対の統計がある国は五万とある。しかも、相関関係があるやうに見える国でも、よく調べたら出生率が高い原因はほかにあつたといふデータがどんどん出てきてゐる(特に、移民の出生率の高さや、婚外子の多さ)。

 政府とマスコミの論調を作つてゐる女たちは働く女たちであり、その働く女たちが子供を産まない言ひ訳に出してきたのが、この説ではないのか。そして、女性の労働環境が悪いから安心して子供を産めないなどといふのだ。

 これは要するに、「子供を産んで欲しかつたらもつとお給料をちやうだい」と言つてゐるやうなもので、女のこんな「おねだり」を真に受けて政策にしたこと自体が間違つてゐたのである。(2005年12月25日)







 米国産牛肉、マンション耐震偽装、少子化問題、アスペスト、子供の安全、イラク派兵、原子炉空母、どれもこれも日本人の反応はヒステリックなものばかりだ。

 このヒステリックさはきつと日本が世界の中で大国になつてきた理由の一つなのだらう。何でも完璧でないと安心できないのだ。

 しかし、設計図が偽装だとして、そのマンションは地震が来たら必ず倒れるものでもあるまい。アスベストを吸つたら必ず肺ガンになるものでもあるまい。原子炉空母は必ず事故を起こすものでもあるまい。

 少しの可能性を頭の中で連鎖させ、増殖させて、それを論理的であると思ひこんで、今にも事故が起きるかのやうに騒ぎ立てるのはノイローゼでありヒステリーである。

 例へば、偽装マンションの住民たちとて、そのマンションでの何度かの地震の経験からその建物がどの程度安全であるかぐらいは知つてゐるはずだ。建物が建つてしまつた後の問題は、現実の建物がどうかであつて図面ではない。

 だから、図面が偽装でも自分はこのまま住み続けるといふ剛者がゐても何ら不思議ではない。理論上なら震度5強で倒壊する建物は他にも日本中にいつぱいあるはずだが、まだどこにも退居勧告は出てゐないからである。(2005年12月24日)







 民主党の前原代表は中国で行なつた講演で中国の軍事的脅威を指摘したところ、「冷戦時代の発想だ」と満座の中で笑ひ者にされ、首脳との会談も拒否された。

 前原氏がこれまで小泉首相の靖国参拝に反対し、自身も靖国参拝をしてこなかつたことは何の役にもたたなかつたのだ。

 その後の記者会見で「靖国問題が解決しても、すべてがうまくいくわけでないことが明らかになつた」と捨てぜりふを吐いたが、あながち的外れではない。

 ニュースなどに見られる「首相の靖国参拝によつて中断している首脳の相互訪問」などの言ひ方が嘘だといふことが、氏の訪問で明かになつたからである。中国共産党の意向に反するあらゆる言動を慎まなければ、首脳の相互訪問は不可能なのだ。

 前原氏は「誰かに会ふために自説を曲げることがあつてはならない」とも言つてゐる。とすると、たとへ前原氏が首相になつても、首脳の相互訪問は復活しないことになる。

 といふわけで、所謂「険悪化した日中関係」が小泉首相のせゐでないことが分かつたのは何より目出度いことである。(2005年12月23日)







 最近、子供の安全を守るにはどうすればよいかといふ議論が盛んだが、国が何とかしろといふ意見が多く、結局はお上頼みの国民性が出たやうだ。

 私の意見はそれとは違つて「自分のことは自分で守れ」である。そのためには他人に対する警戒心を子供の時から身に付けることである。

 ところが、日本では童話の『赤ずきんちやん』で世界の怖さを学ばずに、『となりのトトロ』の優しさあふれる世界を現実と思つて、何の警戒心もなくぽーと道を一人で歩いてゐるやうな女の子が多いのではないか。

 さういふ警戒心のない女の子は、たまたま無事に成人しても、電車の中で痴漢をされたり、道でキャッチセールスに引つかかつたり、オレオレ詐欺に騙されたり、老いては変額保険に入らされてしまふのだらう。

 これらは全部、警戒心があれば避けられる事ばかりだ。それは、赤の他人が近づいてきたら警戒の目を向けるとか、自分は騙されてゐないことを第三者に確認するとか、大きな金を動かす決断は決して一日ではしない、などである。

 しかし、それだけ警戒してゐても女子の場合には、避けられない危険が襲つて来る可能性がある。女子はかわいいだけでは生き延びる事さへ難しい。それは決して今に始まつた事ではない。(2005年12月22日)







 読売新聞の最近の世論調査で、父方が一般人で母方だけが天皇につながる「女系」天皇を容認する人が6割に上つたといふ。しかし、果たして6割は多いのだらうか。

 憲法は第一条で、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」としてゐる。「総意」とは全員のことだが、数字的には8割から9割必要ではないか。6割とは過半数のことで「総意」にはほど遠い。

 民主主義の原則からすれば、過半数の賛成で充分だらう。しかし、天皇の地位は民主主義の原則によつて決めるべきものではない。それは平等思想とも合理主義とも関係がなく、もつぱら伝統的なものである。だからこそ、憲法は「総意」と言つたのではないのか。

 「女系」については、まだまだ理解が広まつてゐないやうで、識者の間でも「昔は女性天皇が力を持つてゐたし、天皇家には伝統的に女子が多く生まれたから、もともと女系だつた」などとトンチンカンなことをいふ人が多い。

 今後「女系」についての理解が広まれば、「女系」容認の世論はさらに「総意」から遠退くのではないか。(2005年12月21日)







 米国産牛肉の輸入再開問題では、日本人の多くが既に狂牛病に罹(かか)つてゐるのではないかと思へるほどのヒステリーぶりである。

 「政府は国民の命を危険にさらすつもりか」とか「子供たちを米国産牛肉から守れ」など、頭の中だけで米国産牛肉に対する勝手な妄想を作り上げて、勝手に怖がつてゐるのを見ると笑ふしかない。

 問題は実際に米国産牛肉に危険性があるかどうか、それがどの程度のものかと言ふことだらう。

 例へば、フランスで狂牛病が問題になつた時には、実際にフランスのレストランのメニューから牛ステーキが姿を消し、スーパーの店頭にも牛肉が大量に売れ残つた。しかし、その後牛肉の検査態勢が整備され、騒動は収まつてゐる。それでもフランスの検査態勢は、二歳以上の牛だけで日本のやうな全頭検査ではない。

 では問題のアメリカはどうかといふと、全頭どころか二歳以上の全ての牛でもない、単なる抜き取り検査なのである。なぜか。それで充分安全性が担保されると考へたからであり、それでも国民の間で何の問題にもなつてゐないのだ。

 とすると、問題は単に日本人がヒステリーなだけといふ結論に達する。しかし、そのヒステリーも反米マスコミに煽(あふ)られた人たちだけなのか、輸入が再開されたばかりの米国産牛肉を出した焼き肉店は大繁盛だといふ。(2005年12月20日)







 戦前の日本が悪かつた理由としてよく軍国主義があげられるが、本当にさうだつたのか考へてみるべきである。

 当時もし日本が軍国主義だつたのなら、それはどこの国も軍国主義だつたからにほかならない。もしさうでなかつたら、なぜ何度も軍縮条約が議論されたのか。しかも、それによつて日本の軍事力は英米各国の七割に抑へられたのだ。

 といふことは、英米は既に日本より遥かに大きな軍事力を持つてゐたのである。軍国主義だつた日本に遥かにまさる軍事力をアメリカが持つてゐたからこそ、アメリカは日本に勝てたのである。

 そんなアメリカがどうして軍国主義でなかつたと言へるだらう。実際、当時だけでなく、第二次大戦後もアメリカはソ連と軍拡競争を続けた。戦争によつて独立を勝ち得たアメリカは、建国以来言はばずつと軍国主義なのである。

 日本が軍国主義だつたから間違つてゐたといふ考へ方は、アメリカが自分の軍国主義を隠して、戦争の罪を全部日本に押しつけるために編み出したインチキな論理に過ぎないのである。(2005年12月19日)







 ドストエフスキーの『罪と罰』は岩波文庫の江川卓氏の訳が読みやすいといふ評判だ。確かに日本語がこなれてゐるが、欠点もある。

 例へば、最初の方でラスコルニコフが、妹の結婚を伝へる母親の手紙を読んだあとで、妹の結婚相手に疑念を抱く個所(第一部四の最初。89頁)

 「ルージンさんは、あのとおりの実務家で、お忙しい方ですから、ご結婚も、駅逓馬車とか、汽車のなかとかいったふうでないと、おできにならないんです」だと。

 と怒りながら、手紙の中の母の言葉に言及するが、前の方のページの母の手紙には、汽車の中で結婚するやうな変な事は書いてなかつたはずだ。結婚を急いでいると言ふ話はあつたが、そんな話は読み返しても見つからなかつた。

 では、この個所は英訳ではどうなつてゐるかと思つてネットを捜すと、

 'Pyotr Petrovitch is such a busy man that even his wedding has to be in post-haste, almost by express.'

 「駅逓馬車とか、汽車のなか」は「in post-haste, almost by express」になつてゐる。これが「大急ぎで、至急に」といふ意味の熟語であることは、どんな英和辞典にも載つてゐる。そして、それなら結婚を急いでゐるといふ意味で何の問題もない。

 江川氏はラスコルニコフが言及した内容が変であり、実際の手紙の中にないのもおかしいと考へて英訳を見れば、この間違ひを避けられたのである。(この間違ひは新潮文庫も同じ)

 競争の少ないロシア語やドイツ語の辞書は、英和辞典ほど進歩してゐず、必要な熟語が収録されてゐないことがある。有名な本を翻訳するときは、既存の和訳はもちろんだが、英訳ともう一つの外国語訳ぐらいは是非参照したいものだ。(2005年12月18日)







 ある県の 男女共同参画センターのコンテストで最優秀賞に選ばれたものがネットに公開されてゐる。

 それは二コマ漫画で、一コマ目には、男女二人が一台の自転車に二人乗りして、後ろに乗つた女性が「もっと早く走ってよ! 男でしょ!」と言ふと前の男性が「女のクセにうるさいな!」と言ふ。その絵の右側に「こうあるべき、を決めてしまっていませんか?」と書いてある。

 二コマ目の漫画は、男女が別々の自転車に乗つてこちらを向いてゐる絵があり「お互いが並んで同じ視点で物事を見てみるのも、良いものだと思いますよ」「寄りかかるのではなく、支えあっていきたいですね」とコメントが付いてゐる。
 
 ここから、かういふ考へ方を広めることが男女共同参画センターの仕事らしい事が分る。つまり、このセンターは、男女の性差に対する従来の物の見方を変へようといふ運動をしてゐるらしいのだ。

 しかし、これはある特定の考へ方、生き方を広めようとするもので、思想教育であるのは明らかである。その内容は哲学であり、それを広めようとするのは宗教であらう。こんなことを国がしてはならないのは、戦時中を持ち出すまでもないことである。(2005年12月17日)







 イランの新大統領が「ユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)は作り話だ」と言つたといふ話はある意味でおもしろい。これはアンデルセンの子供が「王様は裸だ」と言つた話を思ひ起こさせるからである。

 ホロコーストの証拠を見たことのない人にとつても、ホロコーストはあつた事になつてゐる。それは王様の服が見えない人にとつても、王様は服を着てゐる事になつてゐるのと同じく、暗黙の了解事項である。

 この暗黙の了解事項は、これに疑問を呈する言論の自由さへない程のものである。ところが、ユダヤ人でもキリスト教徒でもなく、その正反対のイスラム強硬派の大統領には、そんな了解事項は通用しない。

 だから、ホロコーストの証拠を見たことのない大統領は、王様の服が見えないアンデルセンの子供と同じように、思つたままを言へたのである。

 ただし、あれがもし作り話なら、その作り話のためにユダヤ人はナチスの残党を追ひかけ回して捕まへては、一方的な裁判にかけて死刑にしてきたことになる。

 ユダヤ人は自分たちの神話を守るために人殺しを繰り返してきたのか。イランの大統領はホロコーストが作り話である根拠を是非とも提示して欲しいと思ふ。(2005年12月16日)







 兵庫県が政府に先駈けてショッピングモールなど大規模店舗の郊外出店を規制して、出店できる地域を駅前の商業地を中心に定めるといふニュースが流れた。ところが、皮肉なことにその翌日、本竜野駅前のジャスコ龍野店が経営不振で撤退すると発表した。

 今や小売業はスーパー同士の客の取り合ひであつて、従来の商店街には集客力は殆どなくなつてゐる。しかも、郊外型の大型スーパーと駅前スーパーの戦ひは後者の負けと決まつてゐる。

 ジャスコ龍野店の客を奪つたのは、10キロも離れてゐない郊外にある同じジャスコの姫路大津店だらう。姫路大津店はまさにショッピングモールであり、魅力的な商店街がこの中に入つてゐる。

 一方、商店街が駅前にあつて栄える時代は終つてしまつた。それを元に戻さうとするのが政府が音頭取りをしてゐる中心市街地活性化計画であるが、果たしてそんなことが出来るだらうか。

 駅前は旧市街で道が狭くて車の通行には向いてゐない。しかも土地の価格が高いので、道幅を広げることも容易ではないし、そこへ大きなショッピングモールを作るのことなど不可能だ。空想的都市計画とマルクスなら揶揄するところではないか。(2005年12月15日)







 姉歯氏の証言によれば建設会社から「構造事務所はお前の所だけぢやない」と言はれたといふ。そこまで言はれれば、仕事を断わらない以上は、もはや自分から偽装を拒否することはできない。

 ただ、彼には頼みの綱が一つあつた。それは検査機関である。

 偽装したものを検査機関に出して、そこで不合格になれば、たとへ自分で拒否できなくとも、それを理由に拒否できるからである。

 ところが、その検査が合格してしまつたのだ。かうなれば姉歯氏にはもう偽装を拒否する理由は無くなつてしまつた。検査機関が合格を出した以上、法律違反はもう理由にはならない。

 この状況から一人で脱出するには英雄的行為が必要である。

 それは「捨てる神あれば拾ふ神あり」を信じて偽装を断固拒否するか、ビルが建つてしまふ前に報復を恐れず内部告発するかである。つまり、法律を守るには勇気が必要なのだ。

 しかし、金を稼ぐ事と法律を守る事にはあまり一致点がない。法律を守つてゐても誰も金をくれず、むしろその逆のことが多いのが、人間社会の厄介なところである。(2005年12月14日)







 政教分離とは政治と宗教を切り離すことだが、さう完璧にいくものではない。その一番分かりやすい例が天皇である。

 かつて天皇は神官であると同時に政治家でもあつた。しかし、今では天皇は政治をせずに宗教の役割だけを果たし、政治家は宗教をせず政治の役目だけをするやうになつた。つまり政教分離になつた。

 それなら天皇は政治に全然無関係かと言へば、そんなことはない。憲法は天皇が国会を開き内閣総理大臣と最高裁長官を任命すると定めてゐるからである。これらは形式的なことだが、厳密な政教分離ではない。

 人間が聖なるものに価値を置く限り、政教分離の完全な実施など不可能なことなのである。

 では、なぜ政教分離が必要かと言へば、それがないと宗教の自由が阻害され、思想の自由が阻害され、言論の自由が阻害されるからである。

 とは言へどんな社会でも完全な言論の自由は存在しない。言へば都合の悪いことは有るものだからである。

 結局、完全な政教分離も完全な言論の自由も不可能なのである。要するに、何にしても程度問題なのであつて、憲法に万全をもとめても無理な話である。 (2005年12月13日)







 NHKテレビは耳の不自由な人には親切だが、目の不自由な人にはあまり親切ではない。耳の不自由な人のために文字放送はたくさんあるし、特別に「手話 ニュース」といふ番組まである。

 ところが、目の不自由な人には何もない。それどころか、字幕だけ付けて聞こえてくるのは外国語だけといふ番組が沢山ある。

 その代表格が外国映画だ。民放テレビが外国映画を放送するときは、必ず吹替へが付けてあるのに、NHKテレビの場合はたいてい字幕だけである。ニュースの場合も、外国人の発言は字幕だけの場合が多い。目の不自由な人で外国語が分からない場合には、内容が全く分からないが、それでもお構ひなしである。

 目が不自由な人は盲人だけではない。近眼の人間もさうだ。

 近眼の人間はメガネをかけないと何も見えないが、それだけではない。小さな字幕はメガネをかけてもよく見えないのだ。だから、字幕を見るときはテレビの方に身を乗り出して、掛けてゐるメガネを上にずらして目を凝らさなければならない。

 それを外国映画の時にはしよつちゆうしなければならないのがNHKテレビなのである。これでは疲れる事この上ない。

 NHKは視聴者の信頼を取り戻すことに懸命らしいが、それなら外国語の音声に漏れなく吹替へを付けてもらしたい。そして目の不自由な人にも親切な放送局になつてもらいたい。(2005年12月12日)







 車を買ひ換へようと思つて、ディーラーを試乗して回つたことがある。そこで不思議に思つたのは、同乗するセールスマンがなかなか車を勧めてこないことだ。

 とにかく自分から話しかけてこない。そこで仕方なくこちらから「エンジンが静かですね」とか話を向けても、相づちを打つ位で車の特徴を話すわけでもない。

 たまに話しかけてきたと思つたら「今日はお仕事はお休みですか」などと余計なことを聞く。

 かうして、私が十何軒試乗して回つた中でたつた一人だけ違ふのがゐた。

 試乗が始まると、コースを教えながら、その合間にエンジンの静粛性、サスペンションの独自性、座席のクッションの良さ、収納の多さなどを次々に、しかもこの車に対する誇りを込めて説明していく。さらに海外の雑誌で褒められた内容の紹介、他の試乗客の褒めた感想。もちろん自分だけ喋つてゐずに、こちらの感想を聞くことも忘れない。

 そして営業所に戻つてきてキーを回してエンジンを止めると同時に、「どうです。いい車でしよう。ぜひ、うちで買つて下さい」

 そうだ、セールスマンとはかうでなきやいけない。私がこのセールスマンから買つたことは言ふまでもない。(2005年12月11日)







 マルクスの書いたものに学問的真実を求めるのはもう共産党員くらいかもしれないが、文学として読むならとても面白いものが多い。その中でよく推薦されるのが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』だらう。

 ところが、この本はとても読みにくい。ここにはフランスの一八四八年の二月革命とその後の反革命でルイ・ボナパルトが大統領になり、さらに皇帝になつてしまふ過程が描かれてゐるのだが、完全に同時代の出来事なので、読者は新聞の事件報道を読む程度の豊富な予備知識が必要となる。だから、一世紀半も後の我々には、マルクスが個々の表現で何をさしてゐるか分かりにくい場合が多い。

 さらに、この本はその直前に書いた『フランスにおける階級闘争』(大月書店刊『マルクス・エンゲルス全集』第7巻所収)の言はば書き直しであるため、当然読者は先にこちらも読んでゐなければならない。

 この先行本の最後で、マルクスは大統領の任期終了後は大変な事になることを予想してゐたが、ルイ・ボナパルトが任期途中でクーデターを起こして皇帝になつてしまふとは全く予想してゐなかつた。そこで二月革命をこのクーデターといふ観点から全面的に描き直したのが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』なのである。

 革命を期待したマルクスにとつては、ルイ・ボナパルトが皇帝になるなど、悪い冗談にしか見えなかつた。そのために、この本でマルクスは比喩と抽象とアイロニーなどあらゆる文学的テクニックを駆使して、この男を徹底的にアンチ・ヒーローとして描いてみせた。これはさういふ、歴史に対する一種の仕返しの本だと思つて読むと、少しは分かりやすくなる。なほ、翻訳は岩波書店のものより大月書店の方がいくらかましである。(2005年12月9日)







 靖国神社の展示施設である「遊就館」が戦争を美化してゐるといふ批判に対して、外務大臣の麻生氏が「戦争の美化ではない」と反論したさうだ。

 しかし、靖国神社こそは戦争を美化すべき組織であつて、もし彼らが英霊をお祭りしてゐながら、その展示館では世の自虐史観に従つて、兵士たちの批判し、断罪したとしたら、その方がよほどおかしなことになる。

 死者をお祭りする以上は、死者のしたことを肯定し尊敬し美化するのは当然のことである。したがつて、「遊就館」の展示内容が戦争美化だと批判するのはお門違ひといふしかない。

 だから、麻生大臣はあの施設が戦争を美化してゐても何の問題はないと答へれば良かつたのである。そして、靖国神社にお参りすることは、そこに祭られてゐる英霊にお参りすることであつて、それが即ち靖国神社といふ組織と意見を共有することではないと言へば良かつたのである。おそらくこれが小泉首相や麻生外相の立場であらう。

 もちろん、靖国神社と意見を共有したところで何ら悪いことではない。この国のために命を投げだした英霊に対して尊崇の念を抱くことは、当然のことだからである。(2005年12月8日)







 第二次大戦で日本が悪いことをしたかのやうに言はれてゐるが、それは当時のアジアがどんな状態だつたかに目をつぶつた考へ方である。

 当時のアジアは日本とタイを除いてまともな独立国は一つも無く、全ては欧米列強の植民地だつたのである。

 だから、日本の支配がもし悪いことなら、もつと悪いことを欧米諸国がアジア中でやつてゐたことになる。

 では、その欧米諸国が過去の植民地支配を少しでも謝罪したか。彼らは謝るどころか、独立に反対して戦争はするは、独立した国の原住民を今でも只働きさせるはでやりたい放題なのだ。

 実際、欧米の植民地支配の悪辣さは、日本が戦争をしなかつたアフリカを見ればよく分かる。日本の占領を経なかつたアフリカがどれほど貧しい状態に放置され、今も放置されつづけてゐるか。それは日本が支配して大金を注ぎ込んだ台湾や韓国とは大違ひなのである。

 そもそも戦争とは国同士の喧嘩であつて、どちらが悪いといふことはない。もし戦争犯罪が裁かれるとしたら、無差別爆撃で市民を大量に殺したアメリカ軍にこそ沢山の犯罪人がゐるはずである。

 戦争をした日本が悪いといふ考へ方はいいかげんに捨てなければならない。(2005年12月7日)







 皇室典範の改正に関する有識者会議の最終報告に対する社民・共産両党のコメントが面白い。

 共産党「天皇が男性という合理的根拠はなく、女性・女系天皇を認めることは賛成だ」
 社民党「男性しか天皇になるのを認めないのは、男女平等の観点から間違っている」

 これらはそれぞれ「合理的」と「平等」といふ言葉を使つてゐるところがミソである。この二つの概念を主張することは、天皇制とは相容れないことであつて、それは少し言葉を入れ換へてみるとよく分かる。
 
 「天皇が天皇家という合理的根拠はなく、一般人の天皇を認めることは賛成だ」
 「天皇家しか天皇になるのを認めないのは、人類平等の観点から間違っている」

 実にその通りで、天皇制に合理的根拠はないし、平等でもない。しかし、その合理的でも平等でもないところにこそ天皇制の価値があるのであつて、社民・共産にはそれがわからないのか、それとも本当は天皇制に反対なのだが、賛成のふりをしてゐながらつい本音が出てしまつたといふことだらう。(2005年12 月6日)







 もし君が高校の野球部に入つて試合をしたければ、単に野球がうまくなるだけでは駄目だ。それより大事なことは君が酒・たばこ・暴力に手を出さないことである。

 しかしそれだけでは全然駄目である。他の部員が酒・たばこ・暴力に手を出したり、部長や監督が暴力に手を出せば、自分がどれ程しつかりしてゐても駄目なのだ。なぜなら、高校野球では誰か一人のせゐで高校全体が罪を負はされて、対外試合ができなくなるからである。

 だから、高校の野球部に入つて試合がしたければ、他の部員と野球部の先生の行動に注意深く監視の目を光らせてゐなければならないのである。

 しかし、現実にこれを実行するのはなかなか難しいやうだ。なぜなら最近の新聞にも出てゐたやうに、一度に何十もの高校が一部の人間の不祥事のせゐで対外試合禁止処分受けてゐるからである。

 恐らくこのやうな高校は年間にすれば百校を超すのではあるまいか。しかし、こんなに沢山の高校が試合が出来ないのでは、何のための野球か分からなくなる。

 こんな事ならいつそのこと、これらの処分された高校だけで別に連盟を作つて、互いに試合をして全国大会を開催するやうにしたらいいと私は思ふ。題して「野球を純粋に楽しむ連盟」である。

 もちろん、この連盟でも酒・たばこ・暴力は禁止である。しかし、たとへ誰が不祥事を起こしても、罰を受けて試合に出られないのは本人だけであつて、決して人の罪をかぶらされる事はないのだ。(2005年12月5日)







 我が輩は犬である。犬であるからわんわんと吠えるのである。

 我が輩は犬である。犬であるから散歩に出るのである。気持ちよく散歩してゐると突然家の中から犬に吠えられるのである。我が輩はびくつとして吠え返さずにはゐられないのである。

 我が輩は犬である。犬であるから、相手が吠えるだけ吠えるのである。犬の世界ではたくさん吠えた方が勝ちなのである。犬であるから、やられたらやり返せの主義なのである。犬であるから、吠えられたら必ず吠え返すのである。吠え返してすつきりするのである。

 我が輩は犬である。犬であるから、人がゐても吠えるのである。人がどう思はうと吠えずにはゐられないのである。犬であるから、吠え返して、うるさい鳴き声を倍にしてやるである。

 我が輩が人間だつた頃は、犬に吠えられても黙つてゐた。しかし、今や我が輩は犬である。犬であるから、吠えられたら黙つてゐないのである。(2005年 11月26日)







 憲法九条の改正に反対する知識人たちが「九条の会」を作つたさうだ。その顔ぶれを見ると戦後の日本に一時代を画した人ばかりだ。

 映画界でも賛同する人たちが沢山ゐるらしい。吉永小百合もその一人だが、彼女などはまさに戦後の映画界の繁栄を象徴してゐる。

 憲法が変はるといふことは時代が変はるといふことである。それを古い時代に活躍してゐた人たちが押し止めようとしてゐる。この運動はさういふ事ではないか。

 ところで、そのスローガンが例へば「日本国憲法第9条を改悪し、日本を『戦争のできる国』に変えようとする策動が強まっています」では情け無い。これでは共産党だ。

 誰が憲法を「改悪」しようなどとするものか。誰が自分の国を「戦争のできる国」にしようとするものか。誰が「策動」などするものか。日本にはそんな悪意をもつてこの国を変へようとする人間は一人もゐない。

 ところが、彼らは自分の主張に相容れない人たちを悪人扱ひするのである。そして悪人の言ふ事にまじめに耳を貸す必要はないと考へて、徒党を組んで事を決しようとするのだ。

 しかしこんな共産主義者のやり方が広く大衆の支持を得られないのは、60年安保の時に実証済みではないか。共産主義では駄目なんだとどうして彼らは分からないのだらう。これでは知識人の名が泣くばかりである。(2005年11月18日)







 「フランス共和国は、征服を目的とする如何なる戦争をも行わず、また如何なる民族に対する武力も行使しない」これは戦後すぐに公布されたフランス第四共 和制憲法の前文の一部ださうだ。

 しかし、その後のフランスがベトナムやアルジェリアで戦争をして多くの民族を苦しめたのは誰でも知つてゐる。戦争をするかどうかを決めるのは憲法の文言 ではなく国民の意志なのである。

 日本にも似たような憲法がある。しかし、この憲法のおかげで日本は戦争をしてこなかつたといふのがお門違ひの議論であるのは、フランスの例からも明らか だ。日本が戦争をしなかつたのは国民が戦争を望まなかつたからである。

 一方、このフランスの憲法と日本の憲法には決定的に違ふ点がある。それは自分で作つた憲法か占領軍が作つた憲法かの違ひである。

 フランスは戦後独立を取り戻すと途端に、ドイツ軍の占領中に作られた憲法を破棄してこの第四共和制憲法を作つた。

 ところが日本は戦後独立を取り戻しても、アメリカの占領軍が作つた憲法を破棄しなかつた。内容が良ければ誰が作つた憲法でもよいと考へる人が少なからず ゐたからである。

 戦争に勝つたフランスが憲法を作り換へ、戦争に負けた日本が憲法を作り換へずにゐる。日本の戦後は日本が自分の憲法を自分で作つたときに初めて終はるの ではあるまいか。(2005年11月17日)







 麻生さんはどうやら内弁慶の人らしい。APECの閣僚会議で首相の靖国参拝に関して中韓の外相に言ひたい放題されて黙つてゐる。

 日本の記者会見で新聞記者を見下した態度で首相を声高に擁護したのと大違ひだ。

 そもそも、先の大戦で中韓両国に日本は一体どんな迷惑をかけたと言ふのか。何より日本は韓国と戦争をしてゐない。それどころか日本は朝鮮半島に大金をか けて国造りをしてやつたではないか。

 中国についても、革命のために戦争を待つてゐたのは中国共産党ではないか。日中戦争があつたからこそ、西安事件があり、蒋介石に対する中共の勝利があつ たの歴史的事実である。

 それにも関はらず恩を仇で返すこんな両国に対して、麻生さんなら言ふべき事を言つてくれるのではと期待してゐた国民も多いはずだ。

 ところが、「靖国参拝はヒトラーの墓に詣るやうなもの」とまで言はれて黙つてゐるとは、期待はずれを通り越して情け無いといふしかない。

 小泉さんもこの辺を見越して、麻生さんを外相にしたのではないか。麻生さんは早くも首相レースから脱落したやうである。(2005年11月16日)







 これからは事件や事故が起きた場合、被害者の名前を公表するかどうかの判断は警察に任せることになるさうだが、これにマスコミは反対してゐる。

 事件などが発生すると、マスコミは警察発表をもとに被害者やその周辺に取材して検証報道をするさうだが、これが匿名となると検証が不可能となり、ひいて は「国民の知る権利を奪う結果となる」といふのだ。

 「国民の知る権利」などと大きなことをいふが、要するに匿名では新聞が売れなくなると言ふことだらう。

 検証報道などと良い格好をいふなら、事件を一から自分で調べ直して、被害者の名前も自分で明らかにしたらいいではないか。

 そもそも何のために警察署に記者クラブがあるのか。事件があれば警官と一緒に現場に飛んでいつて調べたら、警察に匿名にされても平気なはずだ。

 要するにマスコミは今のまま楽をして金儲けをしたいのである。(2005年11月8日)








 最近のプロ野球の世界では、ID野球と言つて頭を使ふ野球が野村克也氏のおかげで流行をみせたが、野球といふものは結局は反射神経のスポーツだと納得さ せられたのが今年の日本シリーズだ。

 反射神経といふのは常時動かしてゐるものが一番活発である。ずつと動かせてゐた者と、ずつと休ませてゐた者と比べたら雲泥の差が出るのだ。実力が同じだ とされた阪神とロッテでこれだけの差が出たのは、公式戦をずつと続けてゐたのとさうでないのとの違ひでしかない。

 阪神が負けたのは阪神が弱かつたからではない。ロッテが勝つたのはロッテが強かつたからではない。公平な条件が整へられなかつた。それだけの事である。
 
 だから、この日本シリーズに勝つたからと言つて、ロッテの選手と監督を誉めて、阪神の選手と監督をけなすのは筋違ひといふものだ。

 責めるなら公平な条件整備を怠つたコミッショナーを責めるべきだらう。このままでは、去年と今年がさうだつたやうに、来年もパリーグで二位のチームが日 本一になつてしまふ。(2005年11月2日)







 女性天皇と女系天皇ははつきり区別して考へなければいけない。女性天皇とは愛子内親王が天皇になることであり、これは国民世論も大きな反対はないだら う。

 一方、女系天皇とはその愛子天皇の子が一般人と結婚して生まれた子が天皇になることである。つまり、一般人、民間人を父親に持つ天皇が出来てしまふこと になる。

 これは例へば、紀宮清子内親王が近々結婚される黒田さんの息子が天皇になるのと同じ事である。これには国民にも異論があるのではないか。

 そもそも女性天皇には前例があるが、女系天皇には前例がない。天皇制の正当性は全く前例に従つてゐるかどうかにかかつてゐる。

 前例に背ひてしまつては天皇制の正当性が揺らいでしまふ恐れがある。そしてもしさうなればその先に来るのは共和制である。いま我々はしつかりとそこまで 考へておかなければならないのではないか。

 ところが、有識者会議の議論はそんな所まで踏み込んで考へてゐるとはとても思へないのである。(2005年11月1日)







 『嫌韓流』といふマンガ本がある。これは韓国の悪口を言つてすつきりする本である。しかも完璧な論理を使つて相手の言ひ分をこてんぱんにやつつけてゐる から、韓国嫌ひの人間なら溜飲の下がること請(う)け合ひである。

 相手をやつつける以上、嘘は書いてゐない。よく調べたら嘘だつたと分かれば負けだからである。つまり、この本は韓国にとつて都合の悪い事実がしつかりと 書かれてゐる本なのである。

 しかし、これは言ひかへれば、不細工な女に「この女は不細工だ」と公然と言つてゐる本でもある。不細工な女が不細工だと言はれて腹が立つやうに、これを 読んだ韓国人は腹が立つだらう。だから、韓国とうまくやつて金儲けがしたいに日本人にとつては困つた本である。

 また、日本の新聞社がこの本の広告を拒否するのは、何より韓国に派遣してゐる社員の身を危険に曝したくないからであらう。不細工な女でも不細工だと言つ た相手をぶん殴るぐらいは許されるだらうからである。

 (なほ、この中では大月隆寛のコラムが少々難解だが、これまで当たり前だつた「自虐史観」に対して新たに生まれた「嫌韓」を弁証法的なアンチテーゼ(同 じコインの裏表)として肯定的に捉へ、さらにそこに留まらない発展(止揚!)を期待した文章だと思はれる。下條正男のコラムでは資料の解読の中に于山国 (うざんこく)の説明があればよかつた。また、P265の上段10行目「鬱陵島が新羅に帰属」は「于山国が新羅に帰属」と読む方が分かりやすい) (2005年10月31日)







 天皇の父親が一般人であるのと、一般人が天皇になるのとどちらがいいか。女系天皇を容認するかどうかの問ひは、要するにこの問ひに集約されるのではない か。

 天皇制を維持するには、今の天皇家の女子しかゐない跡継ぎに一般人から婿をとり、そこから生まれた子を天皇にするか、今は一般人になつてゐるが天皇家の 男子の血筋を受け継いでゐる旧宮家の人に天皇になつてもらふかの、どちらかしかない。

 女系天皇が悪いわけではない。ただ、それだと天皇家と一般人を区別するものが、今後改正されるだらう皇室典範といふ一片の法律だけになつてしまひ、血筋 としては民間人と天皇家の違ひはあまり無くなつてしまふのが難点である。

 といふのは、天皇家の血筋は天皇家だけに伝へられてゐるのではなく、天皇家から生まれた女子が早くから民間人と結婚して、天皇の血は民間に広まつてゐる からである。女子の血筋でいいのなら、遠い縁をたどつて行けば、日本人の誰もが天皇家の血筋を受けてゐないとも限らない。

 だから、天皇が女系だといふことは、民間人と五十歩百歩のレベルになつてしまふことであり、それは要するに誰が天皇でも大して変らないことになつてしま ふのである。

 しかしその一方で、今一般人である人が血筋だけの理由で急に天皇になるのも、国民としては受け入れがたいかもしれないし、旧宮家の人たちも今さら天皇に なるのも大変かも知れない。

 ただしこちらは、江戸時代に皇統断絶を恐れた新井白石が新たに創設した閑院宮家から光格天皇が即位して、辛うじて天皇家の歴史が維持されたといふ例があ る。だから、同じやうに今から宮家を作つて置いて何十年後に備へるのは無理な話ではない。

 それに比べると、女系天皇を安易に容認した今の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーには赫赫(かくかく)たる肩書きこそあるらしいが、彼らに白石 の英知は望むべくもなささうである。(2005年10月26日)







 シグマンド・ノイマンの『大衆の独裁』を読んでその慧眼に感服するのは、スターリンの独裁をヒトラーやムッソリーニの独裁と同列に扱つてゐることである。

 しかし、この翻訳書の出版社にも翻訳者たちにもそれが気に沿はなかつたのだらう。この本の帯にも巻末の解説にも、この本がナチスのファシズムを明らかにした本であることばかりが書かれて、ソ連を全体主義国家の一番手として扱つた本であることは省略されてゐるのだ。

 ノイマンはこの三つの全体主義の正体を微に入り細をうがち、非常に詳細に描いて見せてゐるが、中でもスターリンが党の活動として銀行襲撃を行なつた事に繰り返して言及してゐるのが印象深い。これほどソ連といふ全体主義国家の犯罪性を明らかにした事実はないからだらう。
 
 一方、この本ではアメリカ、イギリス、フランスなど多くの国の政治制度も歴史的にくわしく分析されてをり、なぜイギリスやフランスが全体主義国家にならずに済んだかが分るやうになつてゐる。

 また戦時中の日本はファシズムではなかつたと書いてあるのも面白い。その理由は、日本の宗教の中心は天皇であつて、独裁政党がそれに取つて代ることがなかつたからだといふのである。

 戦前の日本も戦後のアメリカも何でもファシズムにしたくせにソ連には甘かつた丸山真男とはだいぶ違ふのである。(2005年10月23日)







 阪神球団の株を上場すべきかどうかのアンケート結果が読売新聞(10月21日朝刊)に掲載されたが、その中では球界全体の発展を視野に入れた上で賛成を 表明してゐる野球評論家江本氏の意見がずば抜けて筋の通つたものである。

 かつて関西にはプロ野球の球団が四つあつたが、そのうちの三つが売りに出され、一つは福岡に一つは仙台にもつて行かれてしまつた。それは親会社の都合だけで行なはれ、ファンの意向は全く無視された。

 たまたま阪神だけは元の姿を保つてゐるが、それは単に阪神がセリーグの球団だつたからにすぎない。ファンの応援が熱心だとしても、それは巨人戦に負ふところが大きいのだ。

 その巨人戦の数が今年から交流戦の導入によつて減少した。世の中は変つて行くのである。今後、どんなことがあつて、親会社が阪神を売りに出す事態にならないとも限らない。そのとき阪神を関西に残すためにファンはどうすべきなのか。そのことが今問はれてゐるのだ。

 だからこそ、一つの親会社の独占といふ今の球団経営の形を、球団株の上場によつて変へていくべきだといふ江本氏の意見には説得力がある。

 一方、日頃から阪神優勝の経済効果を唱へて球団の勝ち負けを金儲けの話にしてきた経済学者たちが、株による金儲けだけを蛇蝎視して上場に反対してゐるのは筋が通らない。

 「株の問題だけを取り上げて『ファンをないがしろにしている』などという議論は、次元が低い」まさに江本氏の言ふとほりである。(2005年10月22 日)








 10月18日の毎日新聞の一面コラム『余録』は小泉首相の今回の靖国参拝を批判しようとしてかう書きはじめた。

「『徒然草』の第百九十二段はごく短い。『神仏にも、人のもうでぬ日、夜まいりたる、よし』、それだけである。神社仏閣への参拝は、祭礼のないふだんの日、それも夜に詣でるのがいいという。簡潔で、断固とした書きようだ。信心は他人に合わせるものでも、見せるものでもない。ひとりひとりの魂の問題だということだろう」

 全然違ふ。吉田兼好はそんなことは言つてゐない。そもそも第百九十二段は百九十一段の続きとして書かれてゐるのである。そして、夜は何を着ても見栄えがしないと人は言ふが、夜こそが衣装の美しさを際だたせるのだと、さう百九十一段は言つてゐるのである。そして百九十二段では、それに付け足して、神仏のお参りをするのも祭りのない日の、特に夜が美しいと言つているのだ。これは信心の問題などでは全くなく、美学の話なのである。

 『徒然草』を読むことは一見簡単さうで簡単ではない。誤読の可能性がいつぱい潜んでゐるのだ。最近の読売の『編集手帳』の博覧強記に比べると今の毎日の『余録』はたいしたことはないやうである。(2005年10月21日)







 民主主義と言へば多数決だが、その前に多数決で決めていいかどうかを決めることが必要である。そのときの決め方は全員一致でなければならない。多数決の方は常識だが、その前のこの全員一致の方についてはあまり知られてゐないやうだ。

 例へば、特定の住民たちの間で自治会を作るかどうかは全員の参加が必要であるから、全員一致の決議で決めなければならないのであつて、それを多数決で決めてはいけない。

 ルソーはその事を『社会契約論』の第一巻の第五章で書いてゐるが、ジョン・ロックも同じことを書いてゐるらしいことが、丸山真男の「ジョン・ロックと近代政治原理」(『戦中と戦後の間』所収)を読むと分かる。

 「いわゆる原始契約(pactum unionis)は当然それに加入する全個人の相互契約の総和として成立するが、その原始契約には、今後の国家意思の決定は一切多数決に従うということが 条件となっている」がそれである。

 また「政治学入門」(同上)では「『多数が支配し少数が服従するというのは自然に反する』(民約論第一部第四条)というルソーの言葉は永遠の真実であり、デモクラシーを多数支配と呼ぶことは、一つの擬制(フィクション)にほかなりません」と書いてゐるが、これも同じことを言つてゐるのである。

 ただし、この引用文はそのまま正確な文章ではないし、引用元も第四条ではなく第五条(第五章の第三段落)だと思はれる。(2005年10月20日)







 スポーツの世界では男女の能力に差があることは当然のことだと考へられてゐて、例へば女子百メートル走で優勝して世界一になれば、男子の記録に及ばなくても立派に表彰される。

 一方、知力を競ふ将棋の世界でも、女性の場合は女流何段といふ言ひ方をして、男女別の競技になつてゐる。囲碁の場合には段位に男女の区別はないが、女性だけ特別の入段制度があつたりする。

 といふことは、知力も体力も男女で差があることを前提として考へてよいといふことではないか。もつと言ふなら、知力も体力の一部だと考へた方がよいのではないか。

 その最たる例がノーベル賞だ。欧米人の方が、日本人を含めたアジア人に比べてノーベル賞の受賞数が段違ひに多いのは、欧米人の方がアジア人よりも体が大きいからではないのか。

 欧米人はアジア人より総体的に体が大きい、だから欧米人はアジア人より知力が上回る。それと同じ理屈で、男は女より総体的に体が大きい、だから男は女より総体的に知力が上回る。違ふだらうか。

 もちろん私は知力も体力の一部ではないかと言ひたいだけであつて、社会的な男女差別を正当化してゐるのではない。(2005年10月19日)







 あるタレントがテレビ番組の中で小泉さんの今回の靖国参拝について、「このあいだ違憲判決が出たのに、小泉さんはあんなことして逮捕されないのか」と言つてゐた。全くもつともな疑問である。

 確かに、この判決によつて小泉さんはもう靖国参拝が出来なくなつたとは誰も言はなかつた。しかし、裁判所が悪いと言つたのだからもう出来なくなつたと思ふのは当然だ。
 
 しかし、ここは反対に、小泉さんが今回の参拝で逮捕されなかつたのだから、あの違憲判決に法的拘束力のなかつたことが証明されたとも言へる。つまり、あれは個人的意見だつたのだ。

 恐らく最高裁の違憲判決なら拘束力があるのだらう。しかし、最高裁が違憲判決を出す可能性は無いのではないか。なぜなら、法的には靖国神社は伊勢神宮や他の神社と同じであり、もし首相の靖国参拝を違憲としたら伊勢神宮の参拝も違憲にしなければいけない。

 首相になつたらどこの神社にも参拝できなくなる、そんな事あるわけ無いのは明らかである。今回の大阪高裁の判決はそれを意図的に無視したのである。(2005年10月18日)







 丸山真男は「政治学に於ける国家の概念」(『戦中と戦後の間』所収)のなかで、個人的生産者を結びつける社会的規制をもたらすものとしての近代国家の登場を描いてゐる。

 ヘーゲルが言つたやうに近代市民社会は欲望の体系である。この社会における人間活動は欲望の充足を基準とする。そしてその満足は商品生産によつてもたらされる。ところが、この商品生産はマルクスが言つたやうに私有財産を使つた私事として現はれる。つまり人は個人的な欲望のもとに生産するが、これが他人の欲望を満たすためには社会における交換が必要である。そして、そのためには社会的規制が整備される必要がある。それが近代国家の役割なのだ。

 このやうに近代国家(ナショナリズム)の発展と個人主義(リベラリズム)の発展が一体として考へるべきであることは、『戦中と戦後の間』に含まれる他の論文にも繰り返し主張されてゐる。

 私は以前にイタリアの街並みの統一性に関して、これは個人主義の発展を守るための社会の一体性の表はれではないかと書いた事があるが、あながち的外れではなかつたのではないか。

 この『戦中と戦後の間』は今でも勉強になる論文が多く含まれてゐる(特に「ジョン・ロックと近代政治原理」は秀逸)が、左翼の論客としてのプロパガンダ的な文章(時事放談!)も沢山出てくるのでそこは目をつぶる必要がある。(2005年10月15日)








 丸山真男の『日本の思想』の第三、第四章は一般読者に向けて書かれてをり、簡単な図式が使はれて分かり易いが、第一、第二章はマルクス主義に詳しい専門家向けに書かれたものなので、一般人にはちんぷんかんぷんである。

 そこでこの本で紹介されてゐる戸坂潤著『日本イデオロギー論』(岩波文庫、特に和辻哲郎の倫理学に対する批判は痛快である)を読んでから再読してみたら、多少は分かつたやうな気になつた。
 
 それで私のやうな素人にも推測できることは、第三、第四章で使はれた「『である』ことと『する』こと」と「タコツボとササラ」が実は弁証法的唯物論の説明を図式化したもので、それぞれの組み合はせの中で進歩的であるとされた「する」ことと「ササラ」型が弁証法的唯物論つまりマルクス主義だといふことである。(例へば第四章の有名な「プディングの味は食べてみなければわからない」の一節はエンゲルスから来てゐる)

 そして、第一、第二章はこの弁証法的唯物論によつて、それぞれ日本の思想状況と文学状況を分析したものだといふことである。

 例へば、第二章では、政治と文学の関係は漱石の時代には「てんでばらばらに孤立」(74頁)してゐたが、マルクス主義が知られるやうになると、文学もまた「する」ことの世界に引き入れられ、マルクス主義(ここでは科学と同義である)といふササラの一部に統合されるのである。

 そして、文学を從へたマルクス主義の科学的及び政治的な全体主義とそれに続くファシズム全体主義が、当時の日本の文学界に対して振るつた猛威が詳細に描き出されるのである。

 また第一章では日本の様々な思想がタコツボ式に雑居して、相互の関係が構造化(=整序=蓄積=伝統化)されてをらず、一度は国体思想が基軸に置かれた事があつたが、それが失はれた戦後はさらに雑然とした状況にあるといふことが歴史的に正に整序されるのだ。

 なほこの二つの章は専門家向きであるだけでなく、生硬な文章が多くそれがわかりにくさを倍増させてゐる。そこで気がついた点を以下に列挙する。

 5頁3行目「それとの関係で」の「それ」は文章のあとの方に出てくる「中核あるいは座標軸に当る思想的伝統」を指す。後から3行目「超近代と前近代」は34頁に再出。
 20頁2行目「儒者は、」文で「盲点を衝いた」の主語は「儒者」ではなく本居宣長。この最初の読点は不要であらう。
 22頁5行目「イデオロギー批判が原理的なもの自体の拒否によって、感覚的な次元から抽象されない」の「抽象」は「切り離す」といふ意味(『資本論』と同じ!)。イデオロギー批判が感覚的なレベルに留まつてゐるといふこと。
 同頁8行目の「『無』理論」とは「原理や論理を拒否する理論」。
 同頁末から2行目「外在的」は18頁3行目「外から」の言ひ換へか。
 同頁末の「別の特質」とは、「その思想は西欧ではもう古い」と批判する傾向。
 28頁注末の「虚偽意識」は「イデオロギー」のことか。
 30頁中「制度における精神~」の一文は、「例へば大陸の合理論(=一つの認識論)が絶対君主による政治的集中に結びついてゐるが日本ではどうか」といふことを抽象的に表現したもの。まさに弁証法的唯物論。
 33頁2行目「あの『固有思想』」の「固有思想」は11、20頁に既出。
 39頁5行目「一大器械」は既出のやうに書かれてゐるがが見当たらない。
 42頁の末「経験世界の認識主体(悟性)による構成を志したデカルト」は「認識主体(悟性)によつて経験世界を構成することを志したデカルト」。
 44頁最初の「経験世界の主体的作為による組織化」は「主体的作為によつて経験世界を組織化すること」。
  同頁2行目「旋回」が自動詞なら「君主の役割を」は「君主の役割から」の誤植が疑はれる。しかし「旋回」は他動詞として85頁にも再出。この「旋回」は157頁や他の論文によく見られる「転回」(他動詞。『転換』の意味が込められてゐるらしい。マルクス主義者がよく使ふ言葉らしい)と同じ意味で使はれてゐるのではないか。とすると、ここは要するに「君主の役割を市民の手に移した」といふ意味になる。
 同頁末から6行目「資本の本源的蓄積」は「資本の原始的蓄積」とも言はれ、封建勢力打倒を伴ふ資本主義の初期段階のことを指すらしい。マルクス主義の用語であらう。
 53頁の末「国学的な事実の絶対化」は「事実を国学的に絶対化すること」。
 56頁末から6行目「切り難し得ない」は「切り離し得ない」の誤植であらう。
 59頁末から5行目「同時にこれを逆転させた」は「ヘーゲルでは事実がトータルに現はれたときにその認識が生まれるとしたのに対して、マルクスは認識がトータルに生まれたときに現実が完結(=資本主義の没落)するといふ風に逆転させたといふこと。
 58頁の最初の「第二に~」の文の主語は4行目の「物神崇拝の傾向」。「公式主義」は教条主義のことか。「公式」は22頁に=牽強附会として既出。15 頁、16頁、17頁にも出てゐる
 61頁4行目「自然成長性と目的意識性」の「目的意識性」は85頁に再出。92頁に対で再出。
 76頁末「二七テーゼ」「三二テーゼ」はそれぞれ1927年と1932年に出た日本共産党の綱領。一部の人間にしか知られてゐない言葉を注釈なしで使ふ のは、丸山の書いた他の文章にもよく見られることで、丸山の文章のわかりにくさの大きな原因となつてゐる。
 85頁8行目「逆のヴェクトル」の政治とは「反動政治」「ファシズムの政治」のことだらう。
 87頁4行目「見合った形で」は「対になって」「一体となって」といふ意味か。末の「『一般原則』が状況の自由な操作を制約する危険性」は「政治家が状況を自由に操作することが『一般原則』(例へばマルクス主義)によつて制約される危険性」。
 88頁5行目「操作的な」は「操作が可能な」
 91頁3行目「トハチェフスキー事件」とは1937年のスターリンによるト元帥粛清のこと。
 95頁6行目「アナルコ・サンディカリズム」は無政府主義労働組合。
 98頁8行目「アパラート」はapparat=機関。
 110頁末、「マルクス主義の割れ口」は次頁「割れ目」と同じで、「科学を規定の法則の適用と見なすこと」を指すのであらう。(2005年10月3日)








 丸山真男著『日本の思想』の第三章「思想のあり方について」も第四章と同じく読みやすい。が、ここでも一つのパターンをこしらへてそれで何でも分析してしまふといふ悪い癖を見せてゐる。

 日本の学問の世界はタコツボ型で、各分野の専門化ばかりが進んで、縄張り意識が強く、各分野同士の横のコミュニケーションがない。それに対して西欧の学問の世界はササラ型で、今は個別に分かれてゐてもその根つこにはギリシア・ルネサンス文化といふ共通の根がある。また、教会やサロンなど別々の分野の人たちが交流する場もあると。

 しかし、このタコツボの図式が丸山によつて日本の他の世界にもどんどん当てはめられていくのを見ると、本当にさうかと眉に唾をつけたくなる。

 例へば、全面講和を唱へた東大総長の南原繁を、首相の吉田茂が曲学阿世だと罵倒したことをとらえて、タコツボ文化と関係づけるのはどうだらう。東大教授と自民党の政治家の間では今だに似たやうな関係が続いてゐるし、それは保守と革新の対立の範囲で説明されるべきだらう。昭和史論争と平和論争についても同様である。

 「進歩派の論調は一、二の綜合雑誌でこそ優勢だけれども、現実の日本の歩みは大体それと逆の方向を歩んで来た」といふのは正しく、今でも日本の学者たちがタコツボに安住してゐることは確かだが、吉田の発言の方は単に東大総長の意見の社会的な影響力を恐れただけのことだらう。吉田までタコツボに入れてしまふことはない。

 この論文は最後にはタコツボを越えた「階級を横断する組織化」を唱道する革新運動のプロパガンダになつてしまつてゐるが、話を学問の専門化の問題に止めておく方が良かつたのではないか。(2005年9月28日)







 丸山真男の『日本の思想』は第四章「『である』ことと『する』こと」が一見読みやすくて、教科書にも採用されてゐる。しかし、実際に読んでみるとかなり過激なことが書いてある。

 まづ、憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」といふのは、「国民はいまや主権者となつた、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなつているといつた事態が起こるぞ」といふ警告になつてゐると言ふのだ。

 これは、ぼやぼやしてゐるとまた戦前の全体主義・軍国主義の世の中に戻つてしまふぞと言つてゐるやうに聞こえる。しかし、本当にさうだらうか。私には極論としか思へない。

 また、「自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです」といふ一文。

 これはデモやストライキの擁護ではないのか。不当だと思へばすぐ裁判に訴へろといふことではないのか。いや、左翼過激派の擁護にさへも聞こえる。

 「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなりうるのです」の「物神化」の批判とはまさにマルクスの『資本論』そのものではないか。

 このあとにも「です」で終はる様々な断定文、言い切つた文章が出てくるが、それらの多くは丸山の意見であつて、事実とは言へないものが多くあるので、注意して読む必要がある。

 丸山は「である」と「する」の対比関係で日本社会のあらゆることを分析していくのだが、読み進んで行くにしたがつて、必ずしもこの二つの範疇に分けなくてもいいのではないかと思へてきた。

 封建社会が「である」社会で民主社会「する」社会だとか、家柄が「である」価値で、世の中の役に立つことが「する」価値だと言つてみたところで、さういへばさうだと言ふほかない。

 しかし、途中で「である」と「する」だけでは間に合はなくなつて「うち」と「そと」の範疇が急遽登場してくると、「である」と「する」も間に合はせの性格が強いのではないかと思へてくる。

 さらには住居の変化で床の間が「である」原理で台所・居間が「使う」見地だと言ひ、さらにこれまでの休暇とちがつてレジャーは「する」価値だと言ふに至つては、もはや何でもありかと言ひたくなる。

 そして何でも分析できる論理は無意味な論理ではないかといふ疑問がわたしの頭に浮かんでくるのだ。

 丸山真男の『日本の思想』はどうやら日本社会に歴史を越えて連綿と受け継がれてきた思想のことを書いた本ではない。(2005年9月27日)







 戦前と戦後はまつたく別世界であるといふのは、教科書を見る限りさう見えるかもしれない。特に戦前の歴史教科書は右翼思想に染まつてゐたのに対して、戦後はそのほとんどが左翼思想に染まつてゐる。

 だから、よく勉強した現代日本のインテリの多くは教科書通りの左翼思想に傾きがちだ。小説家の多くが政治的に左翼系なのもそのためであるし、どこの社の新聞記者もよく勉強した優等生たちなのでみんな左翼思想に傾いている。

 しかし、教科書に影響されるのはそんな優等生だけであつて、大多数の劣等生は教科書には影響されないでゐる。だから、一般庶民は左翼思想とは無縁なのである。

 その証拠として、インテリたちがどれほど右翼系の自民党を批判しても、選挙で左翼政党が政権を獲得したことは戦後の最初を除いて一度もない。

 たとへ戦後の教科書から楠木正成も東郷平八郎も消えてしまつたとしても、「日本の思想」は戦争によつてもとぎれることなく面々と続いてゐると考へるのがよいのではないか。(2005年9月26日)







 読売新聞が今回の衆議院選挙の結果に関する世論調査で、「小泉首相が、政権運営や政策などの面で、数の力を背景にした強引な手法をとる不安を感じるかとの質問では、大いに感じるが15%、多少感じるが34%で、計49%が不安を指摘した」と書いた。

 しかしながら、この質問から分かることは、この質問を設定した人間がこの不安を感じたといふことだけであらう。実際、これに対する回答は、さう言はれればさうだといふ程度の気持ちだけで充分できるものだ。つまりこれは誘導尋問なのである。

 これと似た質問は、郵政法案に反対した自民党の前議員に対抗馬を立てる首相のやり方を「良いと思いますか、良くないと思いますか」といふ選挙中の世論調査である。この質問も「こんなやり方は良くない」といふ記者の思ひが先に立つた誘導尋問である。

 もちろんこれらの意見が自由な意見として自発的に多く出てきたのなら意味があるが、こんな誘導尋問で出てきた数字をもとに、これが世論だと言はれてはたまらない。ところが、どこの新聞社の世論調査にもこれに類する質問が非常に多いのだ。

 しかし、こんな質問は世論調査ではなく世論捏造とでも呼ぶべきものである。そして、新聞社はこんなことばかりしてゐるから今回の選挙で小泉大勝をもたらした本当の世論が全く読めなかつたのである。(2005年9月20日)







 新聞記者の文章といふのは好い加減な物だが、今回の選挙報道でもその好い加減さがよく出てゐた。

 例へば、「劇場型」とか「刺客」とか耳慣れない表現を明確な定義もなしにどんどん使ふ。その文章だけを初めて読んだ場合には何のことか分からないが、それでも平気で使ふ。

 この好い加減さは「です・ます」調に換へてみると際立つてくる。読売新聞の夕刊には子供向けの欄に普通の記事を殆ど「です・ます」調に換へただけの文章が載つてゐるが、それを読むと記者の文章の適当さがよく分かる。

 例へば、「今回の選挙は、”小泉劇場”とも言はれ、注目を集めました」。これがもし「です・ます」調でなければ、すつと読み飛ばしてしまふところだが、「です・ます」調となると、「言はれ」が引つ掛かる。そこには「です・ます」調が要求する丁寧さがない。だから、誰が言つたんだと聞きたくなる。

 逆に言へば、そんなことは適当でいいんだといふ書き手の気持ちが見えてくる。新聞記者とは無責任なものだといふことがよく分かる。子供たちは、子供向けの欄に書いてあるからといつて、決してこんな文章を真似してはいけない。新聞とは悪文の寄せ集めなのだ。(2005年9月17日)







 民主主義は少数意見の尊重だとよく言はれるが、小泉政治の特徴は少数意見を尊重しない政治だと言へるかもしれない。

 確かに民主主義にとつて少数意見は大切だが、日本ではそれが根回しによる全員一致主義にすり替へられてしまふことが多い。そして、かういふ日本的な少数意見の尊重を排除したのが小泉政治であらう。

 これは本人の性格から来るところが大きいと思はれる。玉虫色の曖昧決着を目指す従来の根回し方式は姑息に見えるのだらう。その結果として出てきたのが、彼一流の常に賛成か反対かの二者択一を迫るやり方なのである。ここには日本的な少数意見の尊重はない。その意味では独裁的かもしれない。

 しかし、本当に改革をやりたければこのやり方しかないのではないか。根回しによつて全員一致になる頃には改革は骨抜きになつてしまふ。道路公団の民営化がさうだつた。そこで郵政民営化について小泉首相は「法案の修正はありません」と言ひ続けた。それでもかなり骨抜きになつた。しかもそれでも国会は反対だと言つたのだ。

 そこで、首相は今度は国民に向つて二者択一の問ひかけをしたのである。したがつて、二者択一は単なる選挙戦術ではないし、ましてや目くらましやマジックなどでないことは明らかである。(2005年9月13日)







 国民注視の中で進行する犯罪を「劇場型犯罪」といふ。この意味では民主主義国で行なはれる選挙は常に「劇場型選挙」だといへる。だから、特に今回の選挙を指して「劇場型選挙」といふのは間違ひだらう。

 むしろ今回の選挙は「劇場」ならぬ「激情」型選挙だつたのではないか。小泉純一郎の郵政民営化にかける激情が有権者の激情に火をつけたのである。その端的な現れが、小泉首相が街頭演説で集めた人数の多さである。かつて社会党の土井党首がいつたやうに今回も「山が動いた」のだ。

 新聞には自民優勢ながらも民主にも政権交代の可能性があるかのやうに書かれてゐた。しかし、その紙面に出てゐる数字を見れば、小泉が大阪の街頭で一度に集めた数が4000人、それに対する民主党の岡田は目を疑ふばかりのたつた500人。すでにこの時点で勝負は決してゐたのである。

 しかしながら、問題はここからである。これで郵政民営化は果たせるかもしれぬ。しかし、小泉はそのあと何をするのか。そこで期待はずれに終はれば、逆の激情が待つてゐるだらう。(2005年9月11日)








 NHKの受信料不払に対する新聞社の論調はどこも冷たい。NHKの自業自得だと言はんばかりである。しかし、新聞料金の徴収に携(たづさ)はる現場の人間の苦労を知つてゐれば、そんな冷たいことは言つてゐられないはずだ。

 私にも経験があるが、月末に購読紙の代金を貰ひに各家を回つたときの冷たい反応は想像を絶するものがある。

 別にとりたくてお宅の新聞をとつてるわけぢやない、勧誘員がしつこいから仕方なくとつてゐるだけだ、いつやめてもいいんだよといふ態度で、嫌みの二つ三つも言はれるのはよくあることで、挙句にまたあとで来てくれと言はれるのが普通なのである。

 そんな集金人にとつて、待つてましたと代金を払つてくれるお客さんは神様に見えるものだ。だから現場の集金人たちから見れば、NHKの受信料不払はとても他人事には見えないはずだ。

 受信料不払とは只見のことである。それを咎めない新聞は購読料不払いの只読みを容認するやうなものである。明日は我身だと言ふ危機感が新聞社にも必要ではないか。(2005年9月9日)







 犬を散歩させてゐる人を見てゐると、立ち止まるのも歩くのも犬の自由にさせてゐる人が多い。しかし、犬はご主人様と居るときにはご主人様に指図され教へられることを最大の喜びとする動物である。

 だから、犬が一人でゐるときには犬の好きにさせたらよいが、人間が一緒にゐるときには犬の好きにさせてはいけないのだ。

 これは親が子供と一緒にゐるときにも同じことが言へる。

 親が子供と一緒にゐるときは、何をすべきか何をしてはいけないかを付きつ切りで子供に教へることに精力を費やすべきである。子供をゴルファーや野球の選手にしたい親が教育熱心である話はよく聞くが、ただ単に一人前の大人にするためだけでも、親は子供にあれこれ教へ続けなければならない。

 子供が一人でゐても成長するとしたら、それは親が教へたやうにして成長するのである。

 ところが、公園などに親が子供と一緒にゐるのに子供に勝手にさせてゐる親が多い。しかし、自由にのびのびさせるのは、何も教へず放つておくのとは違ふのである。それは一緒にゐるときに充分に教へてからの話である。(2005年9月4日)







 マスコミは今アスベストで大騒ぎをしてゐるが多分あれは間違ひである。

 日本人は一年にだいたい百万人ずつ死んでゐるが、そのうちの三十万人がガンで死ぬ。さらにそのうち肺ガンで死ぬのはだいたい六万人である。

 それに対して、いまアスベストによる肺ガンで死んだ人として発表されてゐる数字は百人単位であつて、しかも何年にもかけての数字である。

 毎年何万人もの人が肺ガンで死んでゐることに比べたら微々たる数字である。しかも、日本ではアスベスト(=石綿)は至る所に使はれてゐる。それにもかかはらずアスベストによるガンの発症例はこんなに少ないのである。

 ここから考へられるのは、アスベストによつてガンになるかもしれないが、その可能性は非常に小さいといふことである。アスベスト以外の原因による肺ガンの割合の方が遥かに、何千倍も高いのである。

 だからアスベストを撤去しろと大騒ぎするなら、例へばタバコ屋とタバコの自動販売機を撤去しろと大騒ぎすべきなのだ。

 アスベストによつてガンになる確率とタバコによつてガンになる確率のどちらが高いか私は知らない。しかし、六万人と何十人とでは推して知るべしであらう。(2005年8月29日)







 今回の駒大苫小牧に対する高野連の処分は、高校野球の実態に目をつぶつた甘い裁定であると言はなければならない。
 
 指導者の不祥事であつて子供たちに罪はないから優勝は取り消さないといふのは、話がまつたく逆である。子供の罪は許しても大人の罪は許されないのが社会の常識である。

 しかも、高校野球の主体は子供ではなく大人である。

 確かにゲームをするのは子供だが、子供はやらされてゐるだけであり、勝利の名誉は大人のものである。さうでなければ、どうして勝利インタビューを監督が受けるのか。どうして県対抗になつてゐるのか。どうして勝つために全国から選手を集めてくるのか。どうして県知事が応援に行くのか。どれもこれも高校野球が大人の面子がかかつた大人の勝負になつてゐるからに他ならない。

 高校野球にはあまりにも多くの大人の利害が関はり過ぎてゐる。新聞社の利害、放送局の利害、各県・各市町村・各高校の利害。高校野球はもはや純粋な子供のスポーツでない。子供に罪はないだけでは済まされないレベルになつてゐるのである。(2005年8月28日)







 高校野球の全国大会は戦前の制度をそのまま引き継いだもので、戦前の精神をも引き継いでゐる。それは君が代、日の丸、勝利至上主義であり、まさに軍国主義そのものである。

 そんな大会が民主主義の戦後の日本で維持できてきたのも、主催者が朝日新聞と毎日新聞といふリベラル系、つまり民主主義を推し進めると間違つて思はれてゐる新聞社だつたからだ。

 軍隊式の入場行進や、大会のために体をこわして野球が出来なくなつた多くの子供たちの不幸もしばしば批判されてきたが、朝日・毎日であるが故に大目に見られてきた。

 これがもし読売や産経などの保守系の新聞だつたなら、いはゆる知識人や弁護士会など左翼系の団体から厳しい批判を受けて、春夏の全国大会は継続を危ぶまれ、抜本的な改革をせざるをえなかつただらう。

 例へば、投手の連投禁止や投球数の制限など、既に少年野球で取り入れられてゐる規定が高校野球にも取り入れられたかもしれない。しかし、主催者が朝日・毎日であるが故にさうはなつてゐないのが現状である。

 左翼=善といふ信仰が日本にはまだあつて、このやうにさまざまな不幸を生み出してゐる。左翼は批判してゐるだけならいいが、主催者にしてはいけないのである。(2005年8月25日)







 今から二千年前のローマのコロセウムの遺跡を発掘した学者たちはここで何が行はれてゐたかについて研究して、当時のローマ人が猛獣とグラディエータ(剣闘士)に命がけの死闘をさせ、それを見せ物にして興じてゐたことを明らかにした。世界は二千年前のローマ人の残酷さに戦慄を覚えた。

 さて、いまから二千年後の日本で巨大な円形施設が発掘される。学者たちはここで何が行はれてゐたのかについて研究して、当時の日本人が、真夏の炎天下の40度以上になる土の上で、18歳以下の子供たちに棒と球を使つた点取りゲームで勝負をさせ、それを見せ物にして興じてゐたことを明らかにする。世界は二千年前の日本人の子供に対する残酷さに戦慄を覚えるのである。

 二千年前のローマ人にとつて何の不思議もないゲームが今となつては残酷さ以外の何物でもないやうに、現代の日本人にとつて何の不思議もないゲームが、二千年後の世界には子供に対する残酷さとしか見えないのである。

 この円形施設での勝利は子供のその後の人生に不幸の種しかもたらさないにもかかはらず、子供たちはここで勝利することを至上命令として教へ込まれ、早くも人生をここでの勝負に捧げたのである。そして、このことの異常さに日本人が気付くまでに二千年の時が過ぎた。(2005年8月24日)







 高校野球と暴力事件はいまやセットになつてしまつた観があるが、高校野球から暴力事件をなくす方法がないわけではない。それは勝利第一主義をやめることである。

 軍隊がその最たるものであるが、勝つことを至上命令とする組織に暴力はつきものである。勝つためには組織を引き締めなければならず、組織の統制を乱す者はボカリとやらねばならない。

 日本の高校野球は一回戦で負けるやうな弱い学校であらうと、すべてが勝利至上主義であり、決して仲良しクラブではない。だから、どんな学校のクラブにもケツバットなどの暴力歴はつきものである。

 もし高野連が本当に暴力事件を無くしたいのなら、この勝利至上主義をやめて、野球を楽しむスポーツに変へればよい。

 ただし、それをマスコミやファンが許すかどうかは別問題だ。なぜなら、さうなれば高校野球の全国大会などは全部無意味なものとなるからである。

 しかし、本来出てゐなかつたはずのチームが優勝してしまつた今年の全国大会を見ても分かるやうに、甲子園はすでに無意味なものとなつてゐる。暴力事件を無くすことと甲子園は両立しないのである。(2005年8月23日)







 郵政民営化に賛成か反対かを国民に問ひたいと、小泉首相は衆議院を解散した。選挙を通じて国民に国の政策を選んでほしいといふである。一体このやうな選挙がかつてあつたらうか。

 消費税にしろ年金にしろイラク派兵にしろ、特定の政策が選挙の争点となつたことはあつても、選挙の結果に従つて政府が政策を決めたことは一度もない。選挙によつて国民が消費税にノーを突きつけても消費税は導入されたのだ。

 確かにこれまでの選挙でも公約はあつたし、国民はそれに対する賛否を投票によつて表明してきた。しかし、多くの場合、国民は政党や政治家に対する好き嫌いで投票してきたのであり、選挙がすんだらその後の実際の政治はほとんど政府に白紙委任してきたのが実態である。

 それが今回は違ふ。国民が選挙を通じて実際の政治を決められるのである。

 ところがこの違ひを理解できない人たちが、「一つの政策の賛否にしぼつた選挙は、それ以外の政策を政府に白紙委任することになる」と言ひだした。実際はその逆であり、これまでの選挙が白紙委任の選挙だつたのである。(2005年8月21日)







 7月31日(日)の読売新聞にはこれまでの常識をくつがへす記事がもつ一つあつた。それは虫歯は自然に治らないことはないといふ記事である。人間の体には自然治癒力があるが、歯だけはそれがないと言はれてきたが、歯にも自然治癒力があるといふのだ。

 虫歯が出来たらそこを削つて金属を詰めるのが今の治療法だが、この直し方では虫歯菌は完全に死なないから、虫歯が再発して最後は歯の神経に到達する。さうなるとまた虫歯の部分を削つて金属をかぶせ、歯から神経を抜いてその跡に金属を入れるが、それでは歯の強度が足りないので外側も金属でかぶせてしまふ。

 かうして歯はどんどん削られて小さくなつていき、その代はりに外側も内側も金属だらけになる。さうなると小さくなつた歯は自分の上の大量の金属を相手の歯で噛んでゐる状態になる。これは小さなぶんちんを常に噛んでゐるのと同じである。

 その結末は、歯の破壊である。つまり金属の重量に耐へられなくなつた歯が噛んだ拍子に割れてしまふのだ。かうなれば割れた歯を抜いて義歯にするしかない。

 つまり歯を削る治療は実は治療ではなく入れ歯への道筋を突き進んでゐるだけなのだ。

 それはおかしいと思ふ日本人の歯医者が、歯を削らずに治すことを考へ出した。それは保険外の薬を使つて虫歯菌を完全に殺す方法である。その後は「歯の自己回復力でカルシウムが沈着し、元の歯に戻る」のだ。つまり歯に存在する自然治癒力を使つて直すのである。

 普通の医者は患者の自然治癒力で治すといふから、歯医者もやつと普通の医者らしくなつてきた。この治療法は3Mix-MP法といひ日本人の独創ださうである。ホームページもある。(2005年8月19日)







 7月31日(日)の読売新聞にはこれまでの常識をくつがへす記事があつた。それは戦後社会は戦前の社会と断絶したものではなく、戦前にすでに完成されてゐた市民社会の延長であるとする山崎正和の文章である。

 戦前は暗黒時代であつたかのやうに思はれたゐるが、そんなことはない。違ふのは戦前に威張つてゐた軍人が戦後は謙虚になつた程度で、それ以外の価値観は戦前から全て受け継がれたものなのである。

 戦争が終はると日本人は戦争で中断してゐたことをさつさと再開した。その代表格が高校野球である。だから戦前がどんなだつたかを知りたければ高校野球を見ればよいのである。

 それは「日の丸」と「君が代」があり、滅私奉公の精神主義がありながらも、学生たちの野球による自由な自己主張を許す空間である。投手にとつては、勝てば勝つほど肩を傷めてその後の野球人生が不利になるトーナメント方式も、そのまま受け継がれた。

 そして「戦時中」とはまさにこの高校野球が中断した5年間のことであり、継続する市民社会が中断した5年間だつたのである。(2005年8月18日)







 郵政民営化法案に反対票を投じた自民党の国会議員たちは、自分の支援団体の利益のために反対したのであつて、国の利益や党の利益のために反対したではなかつた。

 それは造反議員たちの地元の自民党県連の反応にも表れてゐる。多くの県連は造反議員を「地元への貢献が大きいから」公認したいと言つてゐるのだ。これは造反が地元の県連ぐるみの行動だつたことを再確認させるものである。

 かうした県連の反応は、地方の自民党の古い利益誘導体質を露呈させるとともに、造反議員たちの国会議員としてのこれまでの活動が支援団体の個利個略を図るものだつたことを暴露してゐる。

 しかしながら、国会議員の価値はあくまで国への貢献度で計られる。憲法にも「全国民を代表する」とあるやうに、国会議員は地方の利益を代表する人間であつてはならないのである。

 造反議員たちはそれほど地元に貢献したいのなら地方の議員か首長になればよい。そして国会には二度と出て来ないことだ。さうすれば自民党は分裂選挙を回避することができ、彼らも党と国に対してささやかな貢献ができるだらう。(2005年8月13日)







 今年もまた甲子園では真夏の炎天下に野球の試合が行なはれてゐる。炎天下での激しい運動は危険であるが、戦前からずつと続けられてゐる。

 これこそまさに日本の精神主義・根性主義の表れである。先の大戦でアメリカに勝てなかつた最大の理由の一つが、日本の行き過ぎた精神主義だつたはずだが、朝日新聞社は戦後の高校生にそれを改めさせる必要を感じなかつた。

 しかし、高校生たち自身はもつと合理的である。有力選手たちの多くは、地方大会の予選が7試合も8試合もある府県を避けて、5試合か6試合も勝てば甲子園に出られる府県に野球留学して甲子園出場を目指してゐるからである。

 真夏の炎天下の2試合は大きい。そこで消耗した体力は全国大会までの2週間足らずでは中々回復できない。全国大会で勝つためにも小さな県に野球留学する必要があるのだ。

 学生たちのこのような合理的精神の発達は、県代表といふ概念をも変へてしまつた。甲子園大会の出場選手が県外からの留学生で占められ、県出身者がほとんどゐない学校が続出し始めたのである。

 各県一代表(東京と北海道以外)にしたのは夏の大会を県対抗にして盛り上げたいとする新聞社の意図だが、学生たちは甲子園出場の機会が増えたとしか考へなかつたため、県代表すら有名無実となつてゐるのが現状である。(2005年8月12日)







 最近の調査によると収入の多い男ほど結婚してゐる割合が高いさうだ。つまり、男は収入が多くなると結婚しようと考へる。男にとつて家族をもつことは一つの贅沢となつてゐるのだ。

 だから、家族はもはや運命共同体ではない。いまや男にとつて、家族をつくるとは客を迎へるやうなことなのである。客を立派にもてなせる男だけが客を迎へる資格があるのだ。

 かう考へると、大きなワンボックスカーが最近よく売れることも理解できる。お父さんはバスのやうな大きな車を買つて運転手となり、お客さんである家族を送り迎へするのである。

 お客様は神様であるから、お父さんは家族のために死ぬまで働いて尽くさなければならない。

 しかし、何らかの理由で男に収入がなくなると家族を維持できなくなる。こうなると離婚するしかない。客に迷惑をかけられないからである。(2005年8月10日)







 小泉首相は選挙で「郵政民営化に賛成か反対か国民に問ひたい」と言つた。これを聞いて、そんなことは自分には関係ないと思つて投票する人はどれくらいゐるだらう。多くの無党派層は素直に郵政民営化の賛否で投票するのではないか。

 しかしさうなると、国民の多くは郵政民営化に賛成だから、国会でこれに反対した野党はうまくない。そこで野党が第一にやるべきことは郵政民営化に我党も本当は賛成だといふことだらう。さうして郵政民営化に賛成の人も野党に投票できる環境を作るのである。

 ところが、例へば民主党は郵政民営化に対する立場を明らかにせずに、頬かぶりをして済まさうとしてゐる。「もっと大事なことがある」などと曖昧なスローガンで票が取れると思つてゐる。

 そもそも国の代表たる首相の「郵政民営化の賛否を問ふ選挙だ」といふ言葉は重い。それを民主党が「郵政ではなく政権選択の選挙だ」といふ方向にどの程度まで変へることが出来るか。そこが注目される。(2005年8月9日)







 高校野球では「甲子園」が聖地だなどとインチキくさいことが言はれてゐるが、そのインチキぶりをさらに増大するやうな事件が起きた。

 今年の夏の大会の出場校が匿名の投書によつて取り消しになり、地方大会準優勝の高校が出場することになつたのである。この投書がその準優勝校の関係者によるものではないとどうして言へるだらうか。

 結果としては、地方大会で負けた学校が投書によつてその勝敗をくつがへしたことになる。この現実を高野連はどう説明するのか。

 越境入学の大流行で既に地方大会の勝ち負けには意味が無くなつてゐる。優秀な選手を奨学金で集める高校野球は、スター選手を金で集めるプロ野球と何も変はらない。

 それが今度は金ではなく投書で勝利を手に入れたのだ。これはもはやスポーツではない。

 しかも、今どきの高校生は酒タバコ暴力それにセックスはありふれたことだ。「甲子園」の感動はすでに虚構でしかないのである。(2005年8月6日)







 広島平和記念公園の「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」と書かれた慰霊碑は、ペンキをかけたり壊したりする人が跡を絶たない。

 といふのは、どうやらこの文章の後半には、原爆を落とされたのは戦争を起こした日本が悪いからだといふ政治的主張が含まれてゐるからである。しかし、この主張は東京裁判史観であつて、誰もがすんなり受け入れられるものではない。

 一方で、首相の靖国参拝は第二次大戦を肯定するものと見なされ、それが気に入らないとして裁判を起こす人が跡を絶たない。

 しかしながら、靖国参拝に右翼の政治的主張があり、慰霊碑に左翼の政治的主張があるとしても、それが気にくはないから強制的にやめさせようとするのは間違ひである。

 靖国の御魂も広島の原爆死没者の霊も、それぞれ慰霊したい者が慰霊すればよい。慰霊を強制することも妨害することも無用だ。さもなければどちらの魂もとうてい安らかには眠つてゐられないだらう。(2005年8月1日)






  おしやべりであることを咎めたプルタークのエッセイの中に、皇帝アウグストスが、追放されてゐる孫のポストゥムスを呼び戻せないかと思つてゐることを知つた側近がそのことを妻に話したところ、妻が皇帝の妻リヴィアに話したため、アウグストスの目論見が御破算になつてしまひ、側近は自殺に追込まれたといふ話がある。

 これと同じ話がタキトゥスの『年代記』(岩波文庫)の中にあるといふので読んでみると、側近が秘密を妻に漏したことは「アウグストスの耳にも入った。それからしばらくしてマキシム(側近)は死ぬ。はたして自殺だったかどうか、あやしい」(上巻18頁)となつてゐる。つまり自殺ではなく謀殺だつた可能性をほのめかしてゐるのだ。

 「へえ」と思つて原文を見ると、dubium an quaesita morte となつてゐる。この dubium は「あやしい」であり anは「かどうか」、quaesita morte は「自殺」だから、確かにこれらを足すと上記の意味になるかもしれない。

 しかしながら、dubium an は熟語で「おそらく」といふ意味だといふことは、ラテン語をしばらく勉強した者なら知つてゐるはずのことで、正しくそのやうに読むなら「おそらく自殺だった」となりタキトゥスの話はプルタークの話と矛盾しない。

 ところで、こんなところでつまずいてゐる翻訳が大きな出版社から出て長年訂正されないのが日本の翻訳界の実状である。本当のことを知りたければ出版社の翻訳はあてにせずに頑張つて原文なり英訳なりを読むしかない。(2005年7月23日)







 郵政民営化法案の参議院での可決が危ふい情勢だと聞かされても、それを講演会であつけらかんと公表してしまふ小泉首相に悲壮感はまつたく感じられない。それは今度の郵政国会はどうころんでも自分に負けはないと考へてゐるからではないか。

 もちろん参議院で可決すれば言ふことはないが、否決されても解散といふ手があり、もう一度郵政民営化を国民に訴へて戦ふことが出来るからであらう。

 さらに仮に選挙に負けて野党に政権が移つたとしても、それはそれで「自民党をぶつつぶす」といふ自分の公約を小泉は実現したことになる。

 そしてこの解散のために先の内閣改造があつたのだ。幹事長は自分の側近だし、内閣にも解散の署名を拒否するやうな反対派の大物はいない。だから、かつて解散したくても出来なかつた首相たちの二の舞を演じる心配はないのである。

 誰かの怒りを恐れて反対派も含めた本格政権にしてゐたら、かうは行かなかつたらう。自分にはフリーハンドがあるいふ確信、これが首相のあの余裕につながつてゐるに違ひない。(2005年7月22日)







 郵政で解散総選挙になれば自民党は分裂選挙になるから政権は民主党に行くと言はれてゐる。しかし、そんなにうまく行くだらうか。

 民主党は郵政民営化は当面必要ではないといつて民営化に反対してゐるが、要は小泉政権をつぶせさうだから反対してゐるに過ぎない。

 しかし、郵政公社の総裁ですら「民営化は必要だ。しかも急いでする必要がある」と言つてゐる。それに反対して小泉首相を解散に追込み、国民に投票の労力を課す罪は小さくない。そんな政党に国民の多くが喜んで投票するだらうか。

 さらに、もし解散すれば「郵政解散」なのだから、民主党は郵便局をどうするか言はなければならない。

 これまで通り民営化は必要ないといふなら、民営化賛成の全マスコミを敵に回して改革反対政党のレッテルを貼られる恐れがある。いややつぱり民営化は必要だといへば、今度は労働組合を敵に回すことになる。

 いずれにしろこの選挙で民主党が勝つ見込みが大きいとは言へまい。(2005年7月16日)







 最近のマニュアル車は誤作動を防ぐためにクラッチを踏んだ状態でキーを回さないとエンジンがかからない仕組み(クラッチスタート)になつてゐるが、これが極めて不評である。

 第一に、車に乗つて最初にエンジンを回すのは走り出すためではなく、エアコンを点けたい場合の方が多い。エアコンを点けるのにクラッチを踏むのは無意味である。第二に、車を駐車するときはハンドブレーキを引いてクラッチはニュートラルにしてゐる人が多い。ニュートラルなのにクラッチを踏むのは無意味である。

 第三に、今どきマニュアル車は買ふ人は少数派でかなり車に詳しい人である。だからキーを回す時にクラッチがニュートラルであることを確かめるのは当り前である。それなのに、しろうと扱ひされてゐることが気にくはない。最後に、何より無駄な動作を強制的にやらされるのが不愉快である。実用面でも、エンストやガス欠になつたら車を動かせないといふ重大な欠点がある。

 そこで、マニュアル車を買つた人でこのシステムを解除しようとする人が沢山でてきた。ディーラーに頼めばやつてくれる場合もあるが断られる場合が多いので、自分でやつてその方法をウエブ上で公表してゐる人が沢山ゐる。

 クラッチを踏んだかどうかは、クラッチの根本の右横にあるスイッチのボタン(写真、左の黒いクラッチと右の銀色のハンドルシャフトの間の小さな黒い箱から出てゐる白い突起)をクラッチと連動して実際に押すことで確認してゐる。だから、このシステムを解除するにはそのボタンを常に押してゐる状態にすればよい。その方法は五つあるらしい。

 1.そのスイッチのボタンを押した状態でタイラップ(ビニールのバンド)でしばる(あとで外れてしまふらしい)。
 2.そのスイッチのボタンをネジ式の蓋で押込む(ボタンの根本の軸にネジが切つてある場合)。
 3.そのスイッチの箱を外して分解し、中に詰め物をして常に押した状態にする。
 4.そのスイッチ自体の電気のコネクタをはづして、それにクリップを切つたものなどを突つ込んで電気的にショートさせる(ボタンを押すと電気が流れる仕組みなので、その手前で流してしまふ)。
 5.そのスイッチから出てゐるコードの先にあるコネクタをはづして、その相手側のコネクタに電気的にショートさせたコネクタをつなぐ(4と原理は同じ。別のコネクタを用意する必要があるが、この方法が一番流行つてゐるやうだ。いづれにしてもかなりややこしいところに手を突つ込むので、手を切ることが多いらしい)。

 しかし、こんなことをすると車検が通らないのではないかとか、ずつと押した状態にしてゐると車のコンピュータが誤作動するのではないかなどと心配して、このシステムの解除を更にオン・オフできるやうにわざわざ別のスイッチまで付けてゐる人がゐる。まだまだ日本には小心翼翼たる善人が多いやうだ。

 ところで、実はこのスイッチは足の親指が届く場合がある。だから、システムを解除するほどではないが、ガス欠で動かせないことが心配な人は、日頃から足の指でこのスイッチを押す練習をしておけばよい。ただしこの場合も足の皮膚をどこかで切る恐れがあるから、靴は脱いでも靴下は履いておく方がよい。 (2005年7月15日)







 自動車メーカーのマツダは年間約80万台の車を作つてゐるが、その内の30万台つまり4割以上が一つの車種である。しかもその9割以上を輸出してゐる。この車はアクセラといふ車で日本ではめつたに見かけない車だ。

 この車は去年の10月に発売されたが、トヨタが新車と出すたびに有名芸能人を使つたテレビCMをがんがん打つて宣伝するのに対して、この車のCMはただ車が走るところにナレーションが付くだけといふ簡素なもので、しかもめつたに流れてゐない。

 これ以上売れては生産が追ひつかないので宣伝もあんまりやらないのかと言いたくなるが、実際、アクセラの納車はヨーロッパでは何ヶ月も待たされるさうだ。だから最近マツダはアクセラの生産工場を増やしてゐる。

 一方、日本でよく売れる車はミニバン車だ。日本では家族を大切にするならミニバン車を買はねばならない(おかげでお父さんたちは七人乗りの車に一人で乗つて会社に通ふはめになる)。だからマツダもハッチバックとセダン車であるアクセラではなく、ミニバン車のデミオとプレマシーのコマーシャルばかり流すのだ。

 これが日本の家族観と世界の家族観の違ひを意味するかどうかは知らないが、とにかく日本の常識は世界の非常識といふのは車の買ひ方にも当てはまるらしい。(2005年7月15日)







 カレー事件の一連の判決は、被告を犯人するには疑わしいことが沢山あるのにも拘らず、それでは「疑はしきは罰せず」になつてしまふために、それらに見て見ぬ振りをした判決である。

 そもそも一つのカレー鍋の高々100人分のカレーに投入されたヒ素の量が450人から1350人の致死量に相当するものだつたことからしておかしなことで、ヒ素の毒性を熟知してゐた真須美被告の犯行とするには疑問がある。

 もちろん彼女がカレーにヒ素が入つてゐたことを知つてゐたことは間違いはない。だからこそ彼女は、祭りの準備には参加しておきながら、祭りそのものには参加せず、家族に対してカレーを食べるなと言ひ、家族揃つてカラオケ屋に出かけたのだ。

 そこから、いまや世間では犯人は彼女の娘ではないかといふ説が広まつてゐる。

 しかし、マスコミはこの説を全く取り上げようとはしない。それは犯人が子供では死刑に出来ないからだらう。要するに、マスコミの報道姿勢とはこんなものなのである。(2005年7月2日)







 山本周五郎の小説『さぶ』は人の無償の善意といふものをしみじみと感じさせてくれる話であり、主人公のさぶはその無償の善意の象徴である。

 栄二といふどこにでもいる男の身の回りで起きるぎすぎすした出来事の話をはらはらしながら読んでゐると、そこへ忘れられていた男がひよつこりと戻つてきて、人間の中の善意の存在を思い出させてくれる。そして、読者を熱い思ひにさせてくれる。それがさぶだ。

 栄二の物語の中にさぶがふと登場するたびに、読者は本を横に置いてしばらくの間さぶのことを思はずにはゐられない。(例へば六の四の最後)

 もちろん、冤罪に苦しみ復讐心に燃える栄二が変つて行く物語は秀逸であり、けっして眠気を誘ふやうなことはない。しかし、完璧な説得力のあるものではないし(特に最後のどんでん返しとそれに対する栄二の対応)、こんな男はよくゐるし、こんな苦労話もよくあるものである。それに対して、さぶはほかのどこにもないこの作品だけの創造物である。

 どうしやうもない人間社会の中で、まだ人間も捨てたものではないと思はせてくれるさぶ。読者は栄二のストーリーを追ひながらも、そんなさぶがどうなるのかばかりが気になつて仕方がない。そして、最後にさぶが無事に戻つてきたといふ唯それだけの事実に感動して本を置くのである。(2005年6月28日)







 私は尼崎の脱線事故以来、電車の運転について知りたいと思ひ、電車に乗る時はいつも先頭車両に乗つて、運転の様子を見るやうにしてゐる。

 そのうち、運転手が非常ブレーキを使ふのはスピードを下げるためではなく、駅以外の場所で急に電車を止めるためだといふことが分かつた。

 一方、事故車両の運転手はその日の運転で何度も非常ブレーキを使つてゐるが、最初の二回を駅に止るために、最後はスピードを下げるために使つてゐるやうに見える。これは明らかにおかしな使ひ方である。

 また普通、駅に止る時には、まづブレーキレバーを八段階の三ないし五まで押込み、その後ブレーキを緩めながら止る。それに対して、非常ブレーキの場合は一気に一番奥までレバーを押込みそのまま止るのである。

 ところが、この運転手はまづ普通にブレーキを掛けて、その後さらにレバーを奥まで押込んで非常ブレーキを掛けてゐるのだ。

 これは普通にブレーキをかけても思ふやうにスピードが下がらなかつたことを意味してゐる。なぜそんなことになつたのか。その理由を私は知りたいと思ふ。(2005年6月19日)







 小説を読んでから映画を見ると、小説で読みながら作つたイメージが壊されるために映画を楽しめないことが多いが、映画を見てから小説を読むと、映画からもらつたイメージを利用できるので小説を楽しめることが多い。

 しかし、『砂の器』の場合は、映画を見てから小説を読んでもあまり楽しめない。この小説はあくまで筋を追ふための小説だからであらうか、映画でもらつたイメージを利用しながら小説独特の細かい描写を楽しむといふことがないからである。

 また、この小説では登場人物の描き方の落差が大きい。刑事の今西が詳しく描かれるのは当然として、その他は、関川重雄とその愛人の恵美子については詳しく書いてあるのに、和賀英良とその愛人のリエ子はどんな人なのかもよくわからないほどに省略されてゐる。

 その上、最初から詳しく書いてあつた関川ではなく、よく分らない和賀が犯人だつたり、超音波を使つた殺人方法といふ荒唐無稽なものが出てきたりと、小説全体の説得力が乏しくなつてしまつてゐる。

 また、新聞連載のせゐか、明かに文字数を稼ぐための段落や、全体の筋にとつてあまり重要とは思へない会合の描写があちこちにあつたりするので、ついつい飛ばし読みしてしまふ。同じ内容の重複した文章にもよく出くはす。

 「ヌーボーグループ」の描写はおそらく当時の遠藤周作らの「第三の新人」や石原慎太郎の「太陽族」を揶揄したものだらうが、松本清張のひがみのやうに見えてしまつて成功してゐない。

 また、終りの方で急に本浦千代吉と慈光園のことが出てきたり、和賀英良の大阪の戸籍の話が急に出てきたりと、終盤になつて和賀が犯人であることを示す材料がばたばたと組込まれてしまつたのは、初めは関川が犯人のつもりが、終盤になつて和賀に変へたんぢやないかと思はれるほどの慌ただしさだ。

 小説『砂の器』は多分小説としてはB級だらう。それを換骨奪胎して、関川と和賀を和賀一人にし、恵美子とリエ子を一人にし、殺人を最初の一回だけにし、今西の発見から超音波を省いて亀嵩の東北弁だけにし、三木が伊勢から東京に来る決心をした動機をさぐるために今西が映画を見ることをやめさせ、和賀の抽象音楽をクラシックに変へ、和賀とその父本浦千代吉の巡礼の旅を前面に押し出して、死んだ父親を生き伸びさせて最後の逆転(アリストテレスの言ふペリペテイア)の場面を作りだして、B級小説をギリシャ悲劇並のA級映画に作り換へたのは監督の野村芳太郎や脚本の山田洋次らの手柄であらう。(2005年6月18日)







 中央公論の『日本の名著』の読みやすい現代語訳のおかげで、『愚管抄』は気楽に通読できるものになつてゐる。『愚管抄』と言へば何やら難しい道理を論じてゐる本だといふ印象があつたが、実際に読むとかなり面白い本である。

 『愚管抄』は第一巻と第二巻は年表のやうなもので、本編は第三巻から始る。第七巻がまとめの巻で理論が勝つてゐて退屈だが、三から六は慈円(1155-1225)が聞き知つた歴史上の事件を独自の視点から詳しく書いてあるので読み応へがある。

 保元の乱から承久の乱に至る過程で摂関家による権力支配が終つてしまふのだが、これは摂関家の出である慈円にとつては、非常にショッキングな出来事で、その意味をなんとしても理解する必要があつた。

 貴族から武士に権力が移つたのは、貴族が自分で武器を取ることをやめた事が、そもそもの原因なのだが、慈円はさうは考へず、それはさういふ摂理(=道理)なのだと思ひ込まうとした。

 一方、慈円は平治の乱(1159)の時に四歳であり(ペルシャ戦争の歴史を書いたヘロドトスもサラミスの海戦のとき四歳だつた)、関係者から直接取材してゐるため、事件の有り様を実に細かいことまで書いてゐる。

 例へば、平治の乱で二条天皇が義朝方に占拠された内裏から女装して抜け出すくだりでは、その手引をした別当惟方(平治物語絵巻では天皇を乗せた牛車をのぞき込む武士たちを後から制止する公家とされる)が小男で、中小(なかのこ)別当とあだ名されたことまで書いてある。

 また『保元物語』や『平治物語』が鎌倉幕府の視点から平氏をおとしめる立場で書かれてゐるのに対して、慈円は藤原氏の一族なのでさういふことはない。

 例へば、保元・平治・平家物語では、平清盛はだめな人間であり、立派だつたのは息子の重盛であつたかのやうに描かれてゐるが、『愚管抄』では清盛が最高権力を握るに足る充分な知略と大胆さと風采を備へた人間であつたことがよくわかるやうに描かれてゐる。

 逆に、『平家物語』とは違つて、重盛の子の資盛が松殿(慈円の兄)に無礼をたしなめられたことの仕返しをしたのは重盛自身であるとしてゐる。

 その外にも、清盛は福原つまり神戸に遷都するずつと前から神戸に住んでおり、鹿ヶ谷の謀議の知らせを神戸で知つたとも書いてゐる。

 一方、この本には頼朝が鎌倉に幕府を開いたことは書いてゐない。それよりもその頃の最大の事件は源通親とその妻範子による陰謀によつて関白忠実(慈円の兄)が失脚したことだつた。

 後鳥羽天皇はこの範子の娘から生まれた子に天皇の位を譲つて上皇になつたが、それは頼朝の関係しないところで起つてゐるのだ。

 京都の貴族たちの見るところでは、権力が貴族から武士に決定的に移つたのは承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐に流されてからで、それまでは院政が続いており、都ではまだまだ院の近臣が力を揮つてゐたのである。(2005年6月17日)







 DVDプレーヤーを買つたのでとりあへずTSUTAYAで『砂の器』を借りてきた。

 むかし渋谷駅東口の映画館で見た映画なので、最初はこんなシーンがあつたかなと思ひながら見ていたが、「亀田」が「亀嵩」だとわかる場面で丹波哲朗が内外地図といふ店の階段を駆け下りるシーンで思ひ出した。

 これはお茶の水を南に降る長い坂(明大通り)の途中の実在の店(今もあるらしい)で、映画を見たときにあそこだと直感したことを今でもよく覚えてゐる。

 その次に丹波がその店で買つた地図を見るシーンは、渋谷センター街の喫茶店の二階であることも、手すりの曲がり具合の形状から鮮明に思ひ出した。

 この二つで私はこの映画に再びのめり込んで見ることになつた。むかし見た時も確かさうだつた。監督の野村芳太郎は、実在の店をそのまま使ふことの効用をよく知つてゐたのではないか。(逆に亀嵩の駅も派出所も実在のものではないといふ)

 映画の前半では丹波哲郎演じる今西刑事が殺人事件の捜査を進める様子が中心に描かれるが、それと平行して、新進気鋭の指揮者和賀英良によるクラシック演奏会の準備の進行する様子が描かれる。

 犯人が明かになり捜査が完結する頃、演奏会のための交響曲『宿命』も完成する。そしてまさに演奏会の当日が、和賀英良逮捕を発表する捜査会議の日にあたるのだ。

 会議の席で一人立つ丹波哲郎は和賀英良の逮捕理由を述べ始める。そして話は和賀英良の不幸な生立ちの説明に移る。

 癩病が理由で英良父子が故郷を捨てた事を話した丁度その時、演奏会場では和賀英良がピアノの前に座つて『宿命』の演奏を始める。

 映像は回想シーンに変はり、親子二人の巡礼が始る。喜捨を求めて旅をする悲惨な二人の姿は、少年英良が子供にいじめられるシーンを含めて、延々とこれでもかといふほどに続いていく。

 しかし、それは演奏会場のシーンと交互に映されるため、あたかも和賀英良(加藤剛)がこの演奏会の晴れ舞台でピアノを弾きながら、自らの不幸な過去を回想してゐるかのやうな印象を与へる。

 また、この巡礼のシーンから科白は聞えないが、その代りをしてゐるのがこの『宿命』といふ音楽の旋律である。この音楽に重ねられた過去の映像から、『宿命』といふ楽曲を形作つてゐるものは英良の人生そのものだと言ふことが分る。

 二人が亀嵩村に来て緒方拳扮する三木巡査と出会ふところで、音楽は突然中断してこの親切な巡査との出逢ひのドラマ(科白付き)が挿入される。

 しかし、癩病を患ふ父親が巡査の斡旋で療養所に入ることになり、親子の別れが決まると、再び映像から科白が聞えなくなり、『宿命』の旋律がそれに取つて代る。
 
 寝台に横たはり馬に引かれていく父とそれを見送る息子。しばらくしてなほ惜別の思ひを絶ちがたい少年は走り出す。手で涙を拭ひながら少年は田んぼの中を走りぬける。そして線路に入る。駅から見る人たちの目に、遥かかなたの線路の中を駅に向つて走つてくる少年の姿が映る。少年を見つけた父親もまた息子の方に向つて走り出す。そして二人はひしと抱合ふのだ。もちろんバックには『宿命』が流れ続けてゐる。

 少年が巡査の家から逃げ出すところで、また音楽は中断する。そして捜査会議の席で和賀英良の父親がまだ生きてゐるといふ事実が公表されるや、また音楽が再開する。丹波と和賀英良の父(加藤嘉)との面会のシーンで、父は息子の成長した写真を見せられて号泣する。号泣しながら「こんな人は知らない」と叫ぶのだ。

 『宿命』がバックに流れながら丹波は逮捕状を持つて、和賀が一世一代の演奏をしてゐる会場に向ふ。丹波のいる空間と和賀英良の音楽が本当に流れてゐる空間が到頭一つになる。演奏が終り和賀は拍手に包まれ、白い逮捕状を手にした警官が舞台の袖で待つ。そこで再び親子の昔の巡礼の映像が流されるが、それは演奏を終へた和賀英良の脳裏にあつたものに違ひない。かうして和賀英良の宿命が完結して映画は終る。

 この結末にわれわれが感じるのは犯罪者が捕まる因果応報の満足感でもなければ、主人公が逮捕されてしまふ残念さでもない。これは明かにアリストテレスのいふカタルシス、つまり精神の浄化であらう。

 ただし、苦学して学校を出て、成功の道をたどるやうな人間は、自分をコントロールする力があるから人殺しはしない。また、これだけの芸術作品を完成してそれを発表できる人間は人を殺す必要がない。したがつてこの話はギリシヤ悲劇『オイディプス王』と同じく嘘である。しかし、同時に『オイディプス王』と同じくらいに嘘を信じさせ、感動させる力がある。9点。(2005年6月15日)







 産経新聞に【反日デモ 私はこうみる】で野田毅氏はかう書いた。

 「日中の国交正常化の原点は、『先の大戦の責任はA級戦犯にあり、一般の国民には責任はない』という理屈で中国が戦後賠償を放棄したことだ。だから、首相の靖国参拝は中国から見ると、A級戦犯の名誉を回復し顕彰しようとするばかりか、日本が国交正常化の原点を否定しようとしているように見えるのだ。」

 「先の大戦の責任はA級戦犯にあり、一般の国民には責任はない」という理屈で中国が戦後賠償を放棄したという論理は、私には初耳なので、その根拠は何だらうと思つてネットを検索すると、次のやうな文章に出くわした。

 「ただ日本がしっかり認識しておかねばならないことがある。1972年に日中は国交正常化を実現したが、その原点は『先の大戦の責任はA級戦犯にあり、一般国民に責任はない』とする中国リーダーの基本認識に基づくものであり、この考えに立って賠償請求権も放棄したということである。A級戦犯を合祀する靖国神社への総理大臣参拝は、この国交正常化の原点を否定するものだと中国が考えるのは当然ともいえる。小泉総理の言動は独りよがりの非常識な歴史認識と言わざるを得ない。」

 野田氏の文章の日付は2005/04/17、この文章の日付は2005/05/01。内容からも明かにパクリである。最近ブログがおほはやりだが、新聞社の記事をそのまま掲載したパクリもおほはやりである。おかげで検索で同じ文章ばかりが引つ掛かつて来て困る。

 それはさうとして、先の論理は「河野太郎の国会日記(16/12/1)」に既に出てゐることがわかつた。そしてその根拠は日中共同声明だと書いてゐる。しかし、日中共同声明には中国が賠償を放棄した理由は「日中両国民の友好のため」と書かれてをり、先の論理はどこにもない。

 実は「先の大戦の責任はA級戦犯(一部の軍国主義者)にあり、一般国民に責任はない」とは、周恩来が自分たちの度量の大きさを示すために日中首脳会談で言つたことらしい。しかし、それは中国が戦後の日本と友好関係を結ぶ理由として言つたことである。

 それをいま小泉首相の靖国参拝を反対する理由とするのは中国側の都合である。また、その都合を斟酌するやう主張する日本の国会議員といふのも奇妙なものである。

 結局は、当時中国の賠償放棄を有難く受入れた田中首相が今日の日中の軋轢の種をまいた事になるやうだ。なぜなら、賠償を放棄しなかつたフィリピンやインドネシアは、首相の靖国参拝に何も言はないからである。まさに「ただほど高いものはない」のである。(2005年6月14日)








 電車の先頭車両に乗れば、運転手の運転する様子がよく分る。

 まづハンドルがない。進行方向は線路に任せて、運転手はスピードの調節さへしておけばよい。左右に二つのレバーがあつて、左レバーで電流を上げて速度を上げ、右レバーでブレーキを掛ける。

 発車後運転手は左レバーを操作して、スピードをすぐに100キロまでもつていく。その後も上げて120キロになると、電流をゼロにして惰性で走る。電車では120キロはめずらしいことではなく、108キロが暴走でないことが分る。快速電車ならスピードを最高130キロまで上げるから、最高速度125キロも別にめずらしいことではない。

 ブレーキは8段階あり、運転台の右端に赤いランプの縦の列で表示される。駅で止まる時にはいきなり5つのランプがつく。その後適度に下げていき、止ると一旦ゼロになり、また5にして電車が固定される。
 
 個々の駅のどこでブレーキを掛ければよいかを覚えておけば、停車位置で止めることはさう難しいことではなささうだ。

 ブレーキを使ふのは駅で止る時だけで、スピードの調節にブレーキを使わない運転手が多い。しよつちゆうブレーキを使ふ運転手は自動車の場合と同じで下手な運転手ではないか。
 
 非常ブレーキも体験したが、急に止るのではなく自然に止る。自動車の急ブレーキのようなショックはない。非常ブレーキの場合は、運転台のブレーキランプの一番上だけが点灯する。

 電車の先頭車両に乗つて見てゐると、電車の運転は自動車の運転よりもはるかにやさしいことが分る。事故の原因が運転手のミスであるといふ説には説得力がないことがよく分る。(2005年6月13日)








 なぜ中国と韓国で反日運動が起きるかといへば、それはこの二つの国に言論の自由が無く、日本についての正しい情報が伝はつてゐないからである。

 日本のマスコミには反中もあれば親中もあるから、いい話も悪い話も伝はる。だから、日本人は自分の好みによつてどちらかを選択できる。しかし、中韓両国のマスコミには反日しかない。マスコミは日本のよい事を伝へない。だから国民は反日しか選べない。

 それどころか、これらの国の国民が親日的な議論をすることは社会的な死をさへ意味する。だから論理的な思考をするはずの学者たちでさへも感情的になつて反日的な議論しかできない。

 このやうなマスコミしかもてないのは両国にとつて大きな不幸である。しかし、日本はそれをどうすることも出来ない。日本はただ反日に対して感情的にならず、日本が戦後一貫して良い国であつたといふ自信を失なはないことだ。中韓に迎合しても無意味である。(2005年6月10日)








 二子山親方の死にともなつて発生した兄弟の争ひの原因は、長男ではなく次男が家を継いだことに尽きる。

 日本の歴史上で最初の大きな戦争は保元の乱であらう。その原因は、鳥羽上皇が長男たる崇徳天皇より、愛妻美徳門院から生まれた子を可愛がつて、崇徳天皇を辞めさせて天皇にしたことであり、関白の藤原忠実が長男の忠通より次男の頼長を可愛がつて家長の地位を与へたことである。

 その前の壬申の乱も、そもそもは天智天皇が自分の息子ではなく自分の弟の天武天皇を皇太子にしたことに起因してゐる。

 継嗣の問題は争いの元であつて、しかるべき順序にある人間が跡継になることの重要性は、中国の『春秋』に始つて、それに倣つたと言はれる新井白石の『読史余論』でも強調されてゐる。

 天皇制の弱体化は、長男を差し措いて幼児を天皇にした藤原氏の恣意が原因であると白石は論じてゐる。

 二子山親方が兄より弟を可愛がつたかどうかは知らない。しかし、花田の家と二子山の名跡を長男に継がせて、貴乃花親方は一代年寄で我慢させておけば今の争ひは無かつたはずだ。(2005年6月10日)







 最近の日本の出生率の低下には、男性が女性に対してみだらな気持になること自体を悪とみなす考え方が影響してゐるのではないか。

 元々、男が生殖能力を持つといふことは、女性に対して劣情をもよほすことを抜きにしてはあり得ない。そして、男性はその感情の対象を一人の女性に限定できないといふ生理を有してゐる。

 ところが、その男の劣情が犯罪と見做され出したのである。盗撮を犯罪視することは、劣情を犯罪視することに他ならない。なぜなら、カメラを向けて他人を許可なく撮影すること自体は違法な行為ではないからである。

 かうして人類の生殖に必然的な感情が社会によつて否定されてしまつた以上は、日本の男性の多くが、子孫を残すための行為自体に対しても消極的となり、あげくに、セックスレスに陥ることが多くなつてゐるのではないか。

 日本社会にかつてあったおおらかさと寛容さが失われてしまつたことが、日本の少子化につながつてゐるのではないかと危惧される。(2005年6月7日)







 尼崎の脱線事故での警察の捜査は、死んだ運転手に事故の全ての責任を押しつけやうとしてゐる。まさに「死人に口なし」で、これほど警察に都合のいい被疑者もゐまい。

 警察によるとこの事故は全て運転手のミスで起つた事なのださうだ。信号無視もオーバーランもミスであり、スピード超過も運転手のせゐなら、急ブレーキも運転手のせゐだと。

 しかし、どうして電車の故障でないと言ひきれるのか。電車はめちゃめちゃに壊れてしまつたために、電車自体に異常が在つたかどうかは全く分らない。だからと言つて、全部を人為的なミスと決めつけて良い訳がない。

 運転手の遺族にとつては、運転手は事件の被害者である。それをまるで加害者のやうに扱ふとは、死者を冒涜するにも程があるといふものだ。

 脱線の原因がスピードなのか急ブレーキなのかさへは未だに明確ではない。運転手のミスといふのも単なる憶測に過ぎないのだ。それなのにJR西日本が改善計画を出したといふ。単なる憶測に基づいて一体何を改善しようといふのか。全くおかしなことである。(2005年5月28日)







 運転手が前の駅でオーバーランして、そのために生じた遅れを取戻すために速度超過したあげく、カーブで非常ブレーキを使ふといふ無謀運転のために事故は発生した。これが尼崎の脱線事故について一般に言はれてゐることである。

 しかし、このストーリーの信憑性がどうもあやしくなつてきた。この運転手はこの日三度も非常ブレーキを使つてゐたことが明かになつたからである。
 
 これは普通は、ブレーキが利かなかつたことを意味してゐる。そして、このことから、手前の駅でのオーバーランも、速度超過も、全てが説明出来るのである。

 さらに、もし運転手が生きてゐて、ブレーキが利かなかつたと証言してゐたなら、事故調査委員会のこれまでの全ての「断定」は違ふものになつてゐたはずなのだ。

 つまりいま事故原因として言はれてゐるものは、あくまでも一つの推測に過ぎないのである。そして、もしブレーキ故障が原因なら、ATSの不備も日勤教育も事故とは何の関係もない事になるのである。(2005年5月20日)







 電車の痴漢もいろいろあるが、見せる痴漢や触らせる痴漢は万国共通でも、女の体に触つてくる痴漢は日本だけである。

 なぜなら、外国の女は日本の女と違つて、触られた瞬間に何らかのリアクションを起すから、ロンドンであらうとパリであらうと、触る痴漢は行為として成立しないからである。

 といふことは、もし日本でも全ての女性が触られた瞬間にその方を向いて、「何ですか」と声に出して言ふやうになれば、触る痴漢は日本からもいなくなるのだ。

 ところが、日本の女の大多数はそれが言へない。触られた瞬間に、恐怖心で硬直してしまふのである。

 その瞬間に恐怖心に捕はれずに「何ですか」といふためには、自分が何をしてゐようと、誰かが触つて来るかもしれないと、常に身構へてゐなければならない。

 ところが日本の多くの女はそれが出来ないし、さうする気もない。電車の中でも家にゐる時と同じやうにのんきにしてゐたいのである。

 そして、そんな彼女たちに安心して外出して頂くために、日本では至る所で女性専用車両が用意される事とは相成つたのである。(2005年5月14日)







 五木寛之が五木ひろしの新曲の作詞をしたさうだ。

 NHKの『ラジオ深夜便』によると、五木ひろしは五木寛之の名前にあやかつてこの名前に変へて『横浜たそがれ』の大ヒットをものにしたといふ。

 作詞家でもある五木寛之は、これまで五木ひろしの歌の作詞をしたことがなかつたが、いま初めて二人がコンビが組んだといふのである。

 しかし、五木寛之は元々歌手五木ひろしが自分の名前を真似たことを歓迎していなかつたはずだ。

 昭和五十年、私は中野に下宿して、中野ブロードウエーに至る商店街の裏通りにある書店で、『週刊朝日』の立ち読みをするのを日課にしてゐたが、そのミミ ヅク何とかといふ見開き2ページのエッセイに、五木寛之が五木ひろしのファンから、名前が似ていて紛らはしいから名前を変へてほしいといふ手紙をもらつたことを、さも迷惑さうに書いていたのをよく覚えてゐる。

 あれから三十年近くがたつ。当時売れつ子だつた二人が手を組まず、いま過去の人となつた二人が手を組んだといふわけだ。

 最近流行つてゐる歌謡曲の歌詞が「詩」からほど遠いことを嘆く私としては期待したいところだが、仕事が減つた女優のヌード写真集のやうでもあつて複雜である。(2005年5月12日)







 「ありうること」はしばしば「あつてはならないこと」に変化する。

 むかしの例では、ユダヤ人虐殺がさうである。今では信じ難い事だが、ユダヤ人虐殺はナチスだけが行なつた事ではないし(イェドバブネ事件)、第二次大戦前までは人道に対する罪でもなかつた。

 そもそもナチスによると云はれる虐殺は戦争中は問題とはならず、アメリカ軍によるユダヤ人救出作戦もなかつた。仮に当時ユダヤ人虐殺が知られていたとしても、それは「ありうること」として見過されたにちがいない。

 それが軍事法廷などにおいて、アメリカの勝利の正当性を主張する過程で、重大な犯罪と見做されるやうになつた。その結果、昔は日常茶飯事で「ありうること」に過ぎなかったユダヤ人差別さえも、今では「あつてはならないこと」になつてゐる。

 この変化は尼崎の脱線事故についても見られる。

 脱線事故はともかく、運転手のスピード超過や懇親会などは「ありうること」だらう。それがいま被害者の立場にたつ報道によつて「あつてはならないこと」と声高に叫ばれるやうになつたのである。(2005年5月11日)







 薄田泣菫の『茶話』のなかにこんな話がある。

 アメリカのある新聞記者が、政府の役人に社説の内容が気に入らないからお前とこの新聞を止めたと言はれた。しかし翌日もその新聞は発行されてゐるので、記者が役人の所に行くと、単に新聞の購読をやめただけだと言ふのだ。そこで記者はかう言つたさうだ。「記事の内容が気に入らないから購読をやめたと言はれてもどうにもならないですよ。あなたのためだけに新聞を作つてゐる訳ではないですから」

 NHKの受信料不払運動といふものがあると聞いて、この話を思ひ出した。

 金がないから払へないのは仕方がないし、NHKは見ないから払はないといふのも一理ある。しかし、NHKの編集方針が気に入らないから払はないといふのは間違つてゐる。

 それは第一に、見てゐるくせに金を払はないのだから、無銭飲食と同じである。第二に、受信料を払はない事でNHKを自分たちの主張に従はせやうとするのは、NHKの独立を犯す事であり、言論の自由と矛盾する。

 NHKの受信料収入は高々年間七千億円で、これは東京の民法放送局の年間広告収入の二社分でしかないさうだ。それで地上波テレビ2チャンネル、衛星放送3チャンネル、ラジオ3チャンネルの番組を作つてゐるのだから、多いとは言へまい。

 もしNHKを利用してゐるなら、気に入らない所があつても受信料は払つてやる事だ。まちがつても受信料を払はない事でNHKを変へさせようとしてはいけない。なぜなら、NHKは「みなさまのNHK」であつて、あなただけのものではないからである。(2005年5月6日)







 弱い立場の側の主張は否定されやすい。尼崎の脱線事故ではこの現象が如実に現はれてゐる。

 例へば、JR西日本は事故の原因として当初置き石の可能性を主張したが、敷石が置き石であつた可能性がなくなつてゐないにも関はらず、今ではその説は否定されてしまつてゐる。

 また、事故のあつた半径300メートルのカーブで電車が脱線する速度についても、当初JR側は133キロと言つてゐたが、これも机上の空論だとして否定されてしまつてゐる。

 しかしながら、例へば、日本の高速道路では半径300メートルのカーブは最小半径のカーブであるが、車は減速せずに通り抜ける事ができる。スポーツカーなら140キロでも平気だといふ話だ。

 だから、福知山線のあのカーブが133キロまで脱線しないといふJRの主張はおそらく事実である。

 そもそも制限速度といふものは、たとへそれを越えても事故が起こらない許容範囲を前提としてゐることは常識であるし、半径300メートルのカーブは決して急カーブではない。

 こうした事実をゆがめて、運転手や会社に対する責任を追求しやすいやうな事故原因を解明したところで、将来の事故防止には何の役にも立たないことだらう。(2005年5月2日)







 イラク戦争開戦のときにアメリカのブッシユ大統領の人格を問ふ声が噴出したが、今回の中国における反日デモ暴動を容認した中国首脳部の姿勢は、彼らの人格に疑問符を付けさせるに充分ではないか。

 中国共産党が国民党との内戦に勝利できたのは、蒋介石に比べて毛沢東や周恩来が人間的に立派だつたことがその一因だと思はれてゐる。しかし今の中国を支配してゐる人たちは明かに人格者ではない。

 さらにまた、そのやうな人たちが主張する歴史問題と称する物のいかがはしさも今また明かになつたと言へやう。

 もちろん、彼らがやつてゐる事は間違つてゐるが言つてゐることは正しいと言ひ張るなら別であるが、それは常識外れといふものである。

 ところが、その常識に外れて、相も変はらず彼らの言い分どおりに首相は靖国参拝をやめるべきだと今日の社説に書いた全国紙が三つもあるのだ。その全国紙とは朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞である。(2005年4月20日)







 法律によつて平等な人権が保証されてゐるからといつて、平等な人間関係まで保証されてゐる訳ではない。それは男女同権でも同じである。

 ところが、新聞の人生相談で、旦那が妻に家事や育児を押しつけて、しかも感謝することなく威張つてゐるばかりで嫌になつたから離婚したいといふ投書に、ある弁護士が「妻を従属物扱ひするとは、男女平等の時代に信じられない。そんな男とは別れた方がよい」と答へてゐる。

 しかし男女平等と、夫婦で家事や育児を分担する事とは何の関係もない。それは二人の人間関係の問題でしかない。

 だから、いつも相手の下に立つのが嫌なら、相手に何かで勝つ算段をするしかない。それは何も喧嘩しろと言ふのではない、相手から一目置かれるやうにすればいいだけのことである。

 昼間のテレビ局の観客やレストランの客になぜ女性が多いかを考へれば、主婦といふ有利な立場を感情的なことで捨てるのが損なだけなのは容易に分ることである。(2005年4月17日)







 日本のプロ野球が面白くない原因の一つに、シーズンオフに球団間で有力選手の取合ひがないことがある。

 アメリカではそれが盛んで、新設球団でも有力選手をトレードで集めて数年でワールドチャンピオンになることができる。

 しかし、日本の新球団の楽天は、チームを強くするためにいくら金を用意しても、他球団からいい選手を集めてくることが出来ないから、いつまでたつても弱いままである。

 それは何故かといふと、日本では有力選手の移動が非常に少ないからである。フリーエージェント権を獲得した選手でさへ、他球団に移籍しないことが多い。

 日本でもトレードはあるがそれは活躍してゐない選手ばかりで、スター選手がトレードされることは殆どない。

 新人選手のドラフト制度の改革が議論されることはあるが、ドラフトでは弱いチームが劇的に強くなることはない。

 例へば楽天が数年後に日本一になれるような制度改革がされない限り、プロ野球人気の凋落傾向は止まらないのではないか。(平成17年4月17日)






 反日デモ隊の暴力行為に対して中国政府は「賛成しない」といふだけで、非難するどころか、それをもつて日本政府に歴史認識の教訓にせよと言つてゐる。

 暴力行為を制止しやうとしなかつた中国の警官隊の行動は、政府のこの見解をそのまま反映したものだつた。

 このやうな対応は日本などの先進諸国にとつては前代未聞のものだが、暴力革命を肯定する共産党の独裁国家である中国ならあり得ることなのだらう。

 中国政府は、要するに「もし小泉首相がまた靖国神社を参拝したら、中国にゐる日本人がどうなつても知らないぞ」と、日本政府を脅してゐるのである。

 中国にゐる日本人は中国政府の政治的な主張のための人質になつたのである。

 恐ろしい国である。日本人はなぜこんな国に行くのか。不思議な事である。(2005年4月13日)







 大阪市諮問会議の解任劇は、女性助役が本間教授と喧嘩になり、馬鹿にされて悔しくてならない助役が、市長に「あの人を辞めさせて」と泣きついたといふ事ではないか。

 国から人を持つて来るといふ本間氏の提案が地方自治の否定だといふ助役の言分は、この助役がいつも首相の秘書官頼みであることを考へれば、もつともな言分だとは思へない。

 市のお客である顧問と喧嘩してあちこちにその人の悪口を言ひふらし、あげくに市長に辞めさせろなどと言つてくるやうな助役なら首にするしかない筈だが、身内が可愛い市長は、三顧の礼を以て迎へたはずの本間氏の方を首にしてしまつた。

 劣等感のある女性は少しでも馬鹿にされたと思ふとヒステリックに反応するものだ。一方、男はいくら背伸びしても能力のある人に敬意を払ふことを知つてゐる。男の助役ならこの解任はなかつただらう。

 大阪市は歴代の助役が市長になつてゐる。次の市長はこの人でいいのか大阪市民は真剣に考るべきではないか。(2005年4月2日)







 シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』もアナトール・フランスの『神々は渇く』も共にフランス革命の愚劣さを描いた本である。

 ツヴァイクの本は、この女主人公の処刑で終るがそれは彼女にとつての勝利として描かれてゐる。彼女は自分の破滅を通じて自分の偉大さを証明したのである。

 ツヴァイクの描く革命は、人間の果てしない低俗化、教養の否定であり、それに合致しないものの死を意味した。民主主義の名にをおいてゞあらうと、その実体は暴力による権力闘争に過ぎなかつた。

 この本は革命といふもののいかがはしさを、あらゆる資料を駆使して白日のもとにさらけだした歴史書である。

 ところが、河出書房版の訳者はツヴァイクが革命を好ましいものとして描いてゐない点が、日本の読者の反発を買ふのではと心配した。

 当時はベルリンの壁の崩壊する前で、革命は良いものだといふ思想がまだ消えてゐない時代であり、いやしくもインテリを自認する訳者にしても、革命を否定するやうな作品の翻訳をしたことに内心忸怩たるものがあつたのかもしれない。

 だから彼はその解説の中で、この伝記はフィクションとして読むべきだと主張する。そして、この本から作者の革命に対する考え方を読み取るべきではないとまでいふ。これは革命論や革命史論ではないと念をおすのだ。

 しかし、今となつては誰にも遠慮することなく言へるだらう、この書は紛れもなく、マリー・アントアネットと同じ国に生まれた作者ツヴァイクが、フランス革命に対する否定的な考へを披瀝したものであると。

 一方、アナトール・フランスの『神々は渇く』の訳者のつけた注と解説は、革命に携はつた人たちの偉大さを語る文章に満ちてゐる。

 しかし、その注釈からは、この訳者が「エリザベトとオーストリア女」といふ文を見て、即座にこの「エリザベト」が「オーストリア女(=マリー・アントワネット)」といつしよに投獄されたエリザベト(=ルイ十六世の妹)であることが分からなかつたことが見て取れる。

 訳者は、名声赫赫たる革命の闘志たちの名前を列挙するのに熱心だが、反革命の罪で殺されたこの不幸な王女のことは知らなかつた。

 この書物は全体としてロベスピエールといふ人間の真の姿を暴く書である。たしかに「この革命家に対して非難がましいことは一言半句も述べてゐない」。しかし、そこに積み上げられた恐るべき事実を見ればそのやうな言葉が不要であることは明らかである。

 革命裁判所の判事ルノダンは、捕へられた身内の助命嘆願に来る若い娘たちを食ひ物にした。彼はそのための特別の部屋を用意してゐた。そんな有り様までも克明に描いてみせたこの本が、読者に革命を肯定する気持ち起こさせるはずがないことは明らかである。ところが、この訳者はこの本は革命を否定するものではないとあくまでも言ひはるのだ。

 実はアナトール・フランス自身、革命を否定するやうな作品を書いたことに対する釈明を求められた。フランスにあつてフランス革命を否定することは許されない暴挙と見なされたのであらう。そこで彼はかう言つたといふ、「私は革命を否定したのではない。主人公を通じて人間一般の弱さを描いただけだ」と。

 彼は共産党に入党したが、それもまた彼の人間として弱さの表れだつたのかもしれない。あくまでも作品は正直である。

 にもかかはらず、訳者は結論としてかう書いた。「『神々は渇く』はけっして反革命的な小説ではない。この小説を反動的なものとして持ち上げた者に禍いあれ!」(2005年3月29日)







 映画『半落ち』をテレビで見たが、シリアスドラマなのに笑つてしまふシーン満載だ。何せことごとくわざとらしいのだ。

 最初はまるで出演者がみんな空白の二日間を隠すために協力してゐるやうに見える。いらいらしてきて思はず「言へよ」と画面に向つて叫びたくなるのだ。

 刑事も隠すし検事も隠すし裁判長も隠す。最後には新聞記者も隠す。それぞれがその職務に従つて隠さうとするのだが、明かにこの映画の監督のために隠してゐるやうに見える。

 ところが途中から、急に真実の解明に熱心な陪席判事が出てきて、これがまたわざとらしい。「いきなりかよ」と笑つてしまふのだ。

 ドラマの本質とは「あり得べからざる出来事を何如にあり得るやうに描くか」なのだ。ところがこの映画はあり得るやうなことをあり得ないやうにばかり描いてゐる。だから深刻なシーンなのに「そんなことあるかよ」の連続になる。

 最後の裁判所のシーンは本来なら感動ものだらう。ところが寺尾聡の「知りません」で笑つてしまふのだ。それは結局、真実を隠すことの価値の大きさを、見る側に説得できないままにドラマを進めてしまつたからに違ひない。

 日本アカデミー賞作品賞受賞作品だといふが、失敗作ではないか。それにしても原田美枝子がぜんぜん原田美枝子に見えなかつたなあ。30点(平成17年3月25日)







 米国産牛肉輸入の早期再開に反対する主張の根拠に、消費者が一致して反対してゐるかのやうな論調が見られる。

 しかし、では吉野家が米牛を使つた牛丼を一日限りで復活させたときの客のあの反応は何なのか。それを見たべーカー駐日米国大使が「日本の消費者が米国産牛肉を好み、今も食べたいと思っていることを確認した」とコメントを出したが、あれは間違ひなのか。

 あの牛肉は日本の食品安全委員会が安全のお墨付きを出したものではない。それでもあの熱狂ぶりだつた。あの人たちは消費者に含まれないのか。

 食品安全委員会の手続きを踏むことは一見合理的に見える。しかし、米国産牛肉が彼らの小田原評定によつて安全になるわけではない。それどころか二十カ月未満の牛肉の安全性は、この安全委員会が何を議論しやうがすでに確認済みの事実である。

 米国産牛輸入の早期再開は、日本の消費者の強い怒りと不信に直面するどころか、むしろ歓呼の声で迎へられるのではないか。(2005年3月20日)







 「十年後にテレビはなくなる」といふ意見があながち嘘とは言へない理由の一つに,、近づいてゐる地上波デジタル放送への切替へがある。

 あと六年もすれば今のアナログ放送は終了してしまひ、いま家庭にあるテレビは、ケーブルテレビかCSデジタル放送でもつないでゐない限り、このままでは何の放送も映らなくなつてしまふのである。

 地上波デジタルのテレビ放送が映るやうにするためには、故障もしてゐないテレビを全て買ひ換へるか、地上波デジタル用のチューナーをテレビ一台ごとに一つづゝ買はなければならないのだ。

 これはテレビの愛好家にとつては重大な岐路であらう。つまり、大きな出費をしてでもこれまでどほりテレビ放送を見続けるか、それとも、あればついつい見てしまふテレビとはこの際きつぱりお別れして、何かもつと面白いことをするかを考へる絶好の機会となるに違ひないのである。

 そしてその時もし国民の間にテレビ離れが起きれば、誰かが言つたやうに「十年後にはテレビはなくなる」方向に進むことは間違ひない。(2005年3月18 日)







 「十年後にはテレビはなくなる」といふ意見にテレビ業界の人間が反発したくなるのは理解できるが、コマーシャルによつて維持されてゐる今の民放のテレビ放送は、さう長くは維持できないのではないか。

 いつたいテレビのコマーシャルをどれだけの人が見るだらう。テレビのチャンネルがリモコンで簡単に切替へられる今日、CMが始まるとチャンネルを替へてしまふ人がほとんどではないか。

 これではテレビ番組の視聴率がそのままCMの視聴率だとはとても言へまい。ビデオ録画ではCMは早送りされるので視聴率に数へないさうだが、それはビデオでなくても同じことなのだ。

 そもそも視聴者はCMにうんざりしてゐる。とくに保険と消費者金融のCMのしつこさといつたらない。あんなCMに釣られたらろくな事がないのは常識的な人間なら誰でも知つてゐることだ。

 そんなCMによつて維持されてゐるテレビがこのままいつまでも続くと考へる方がどうかしてゐるのである。(2005年3月18日)







 わたしは郵便振替の口座をもつてゐて古本屋への送金などに使つてゐるが、これは現金を直接動かさずに済む安価な送金方法でとても便利なものだ。

 今日も古本屋に送金しやうと払出票に相手の振替番号などを書いて、いつも行く特定郵便局の窓口に出した。ところが窓口の若い女性は、これは当局では受け付けられません、印鑑の登録してある郵便局に出してください、といつて突き返してきたのだ。

 いやこれは大阪の事務センターに送つてもらふだけなのだからと言つても、印鑑の照合が出来ないからといつて突き返してくる。いや印鑑の照合は大阪でするからと言つても、間違つてゐたら困るからなどといつて、頑として受け付けない。

 最後には、これは私がこれまで何度もやつてきたことなのだと言つてやつたのだが、それでも聞かない。すつたもんだの挙句に、別の男性職員が出てきてやつと受け付けたが、帰りしなに、もつと勉強してくれ、客に振替制度の説明をさせないでくれと言ひ残してきてやつた。

 それにしても長年この制度を利用してきた客に対して、自分の論理だけで議論を吹つ掛けてくるあの女職員の勇気は何だらうか。全く思ひ出すだに腹立たしい。

 郵政を民営化てしも全国の特定郵便局は残すといふ。しかし無知なくせに客と議論して追ひ返さうとするやうな人間を大量に雇ひ続けることが真の改革の名に値するかどうかよく考へて欲しいと思ふ。(2005年3月14日)







 山本七平の『日本人と中国人』の主張の一つに「日本の基準で日本を見、同時に中国の基準で中国を見るべきだ」といふのがある。

 例へば台湾にある日本の総督府の建物が今も大切に使はれてゐるのに対して、朝鮮総督府が壊されてしまつたことについて、これを日本の統治が台湾より朝鮮の方が苛酷だつたからだと思ひがちだ。

 しかし、日本の統治機構は官僚制であり、人はどんどん入れ替はるから、どちらの方でより苛酷であつたといふことは無かつたのではないか。むしろ原因は二つの地域の文化の違ひにあつたと考へるべきだらう。

 朝鮮は早くから儒教文化が深く浸透してゐる国である。そして儒教とは二主に仕へること、すなはち前の主人を忘れて次の主人に仕へることを拒否する思想である。だから、韓国人は新しい主人=日本人に徹底して反抗することを最大の美徳とした。

 それに対してもともと中国では儒教よりも道教の方が浸透してゐるうえ、端つこにある台湾には儒教はほとんど浸透していなかつた。だから台湾では韓国のやうな抵抗運動は起らなかつたのではないか。

 韓国で今だに反日が有効なスローガンになり得ることも、韓国人の考へ方の中心に今も生きている儒教を基準にして見るべきだらう。(2005年3月10日)







 堤前会長がインサイダー取引で逮捕されたが、本当にインサイダー取引だらうか。堤会長が重要な事実を隠して株を売つたとしても、それは金銭的な利益が目的ではなく、言はば企業防衛のためだつたからである。

 そしてまさにその企業防衛のために、値下がりする株を発行して買い取りを求めてゐるのがニッポン放送である。それでもお付合ひで買ふという会社がどんどん現れてゐる。これは明らかな八百長試合であらう。

 だから、もし堤氏が正直に「先代からの株の名義問題を解消するために協力してほしい」とでも言つて西武株の買い取りを求めてゐたら、値下がりの可能性はあつてもお付合ひで買ふといふ企業はいくらでもあつたのではないのか。

 さらには、虚偽名義問題が証券取引法の禁止するインサイダー情報かどうかは大いに疑はしい。なぜなら虚偽名義は違法行為なのだから本来なら公表されるべき情報ではないからである。

 西武株の問題とニッポン放送株の問題は別のニュースとして扱はれてゐるが、わたしには日本の株式市場のインチキぶりを表す一つのニュースにしか見えない。堤氏の八百長が悪いのなら日枝氏の八百長も悪いはずである。(2005年3月6日)







 ラジオといふメディアが限界に来てゐることは、インターネットによつて利用者が情報を選べることを知つてしまつた人間が日々実感することではないか。

 ラジオでは、聞き手はラジオ局が作つた構成に従つて番組を聞くしかない。ラジオ局が選んだ音楽を聞き、不愉快なニュースに付合はされ、無用な渋滞情報を聞かされ、誰かの勝手な意見を聞かされ、毎日同じこと繰り返すCMを聞かされ、さらに最近は見えない物を売るショッピングにまで付き合はされる。

 そこでわたしは、ボタンで選曲できるラジオを手に入れて、ラジオから気に入らないものが流れ出すと、すぐにチャンネルを変へてしまふやうになつた。

 最近ではそれがあまりに頻繁で面倒なので、誰かが有線放送のやうに音楽だけを流してくれるラジオ局を作つてくれないかと思つてゐたら、既にそれはインターネットラジオとして実現してゐることを発見した。これなら少なくとも嫌なニュースを聞かされる心配はない。

 それに対して、何でもあるが余計な物が多いラジオ放送は既に変るべきときに来てゐるはずだ。(2005年3月3日)







 日本人の外交政策は、今も昔も尊皇攘夷かエコノミックアニマル式かの二つしかないらしい。

 首相が靖国参拝をやめてくれたら中国は新幹線でも何でも買つてくれるのに、といふ考へ方はまさにエコノミックアニマル式の考へ方であらう。

 これは歴代の武家政権がとつて来た方針で、儲かりさへすればよいといふ考へ方だ。平清盛に始つて足利義満から徳川幕府まで、中国が日本を臣下扱ひしようがそんなことには構はず金儲けそのものを重視した。

 それに対して、経済関係の発展のために靖国参拝をやめるのは魂を売るのと同じだと批判する人たちは、かつての公家たちが中国の外交姿勢は日本を属国扱ひするものだと言つて憤慨したのに似ている。(最近のライブドア問題に関して外資規制を主張するのも一種の尊王攘夷であらう)

 ところでその武家も尊皇思想にかぶれることがあつた。それが豊臣秀吉であり戦前の軍部であらう。この両者はどちらも大陸に出兵して引つ込みが付かなくなり、国内が破綻してやつと撤兵してゐる。

 逆に言ふと、戦後のエコノミックアニマル式は昔の武家政権のやり方に戻つたといふことになる。そして山本七平の『日本人と中国人』は、それを推奨してゐるのである。(2005年2月28日)







 詳伝社刊『日本人と中国人』で秀吉の朝鮮出兵を扱つた個所の67頁「国民感情」に付いてゐる<注二-3>は

「夫に別れ妻に離れ、歎き苦しむもの天下に満つ」などとあるように、国民の間にひろがる厭戦感情をさす。

となつてゐる。

 しかし、厭戦感情は山本のいふ「物語の背後にある」ものではなく、まさにあの物語の中にあるものである。そもそもこの「国民感情」は山本七平がこの本で問ふてゐる感情、南京攻略に驚喜した「国民感情」でなくてはならない。したがつてこの注は間違つてゐると考へてよい。

 ではこの「国民感情」とは何か。それは日本が大国中国に対して持つてゐる憧れである。(ただし山本はマルクスの『資本論』に見られる形態論を使つて分析してをり、「尊皇」の別形態として「尊中」といふ言ひ方をしてゐる)

 秀吉の朝鮮出兵の目的は朝鮮ではなく明の征服だつた。そして秀吉は明を征服して天皇を北京に送らうと考へてゐたのである。つまり秀吉は日本より中国の方が上だと考へてゐたのだ。

 もちろんこの憧れの中国つまり日本人が持つてゐる中国のイメージ(内なる中国)と実際の中国(外なる中国)との間にはギャップがある。

 そして、このギャップを相手に改めさせるのが歓喜の南京攻略であり、こちらが改めるのが過去の歴史の全否定と総懺悔だつたといふわけである。(2005年2月24日)







 『日本人と中国人』を読んで何より驚くのは、日本独特のものといふイメージのある「尊皇思想」が実は中国製だといふ説であらう。

 天皇親政は後醍醐天皇以後まつたく廃れてゐたが、江戸時代に忠君としての楠木正成像が生まれた頃から思想として復活してくる。それが尊皇思想あるいは勤皇思想であつて、思想としては実は中国製だつたといふのだ。

 といふのは、後醍醐天皇に殉じた大楠公像を作りあげた人たちの中心には、中国の皇帝に殉じた人たちの列伝を扱つた『靖献遺言』といふ本があり、清朝から亡命してきた朱舜水といふ中国人儒学者がゐたからである。

 朱舜水は「日本で唯一の殉教者たる楠木正成」に中国の権威としてお墨付きを与へた人だつたし、その後の勤皇運動で有名な竹内式部が使つた本こそは『靖献遺言』だつた。

 そして、この思想にとつての象徴的出来事が湊川での水戸黄門による大楠公碑建立であり、これがその後黄門伝説といふ形をとつて一般民衆の間に広まつていくのだ。

 一方、その過程で、『靖献遺言』と朱舜水の両者がこの思想の誕生に果たした役割は忘れられてしまつたといふわけである。(2005年2月24日)







 『日本人と中国人』は既存の概念に大幅な変更を迫る本である。その内の一つに鎖国がある。鎖国といへば外国に対して国を閉ざして全く交流をもたなかつたといふイメージがある。

 しかし実際にはさうではない。それはヨーロッパに対しては宗経分離であり、中国に対しては政経分離でしかないといふのだ。

 つまりヨーロッパとは宗教的文化的な交流を排して経済的な交流だけをやり、中国とは政治的な交流はなかつたが、経済的交流や文化的な交流は盛んにやつたのである。

 特に中国との文化的な交流はめざましく、この時代には一種の中国ブームが起こり、中国関係の本のベストセラー(その代表が『靖献遺言』)がたくさん出たほどだつた。

 そしてこの中国ブームが大楠公ブームにつながり、それが現代も生きてゐる黄門伝説と尊皇思想につながつてゐると話は続く。つまり鎖国時代の中国の影響はその後の日本にとつて決定的なものだつたといふのである。(2005年2月24日)








 デジカメのおかげで、写真をとるのに写真屋に頼る必要がなくなつた。ワープロのおかげで、本を作るのに印刷屋に頼る必要がなくなつた。そして今、インターネットのおかげで、放送をするのに放送局に頼る必要がなくなつたのである。

 ライブドアの堀江氏は、マスメディアに頼ることなく、記者会見を自分でやつて自分のホームページで発表したのだ。いまやマスコミ大手によるメディアの独占は終つたのである。

 一方、ライブドアに関する経団連奥田会長の会見のニュースでは、既存メディアの限界を露呈した。

 朝日新聞が「ライブドア批判に苦言 奥田会長『時代の流れ、対策を』」と書いたの対して、他紙は「『金さえあれば』はまずい 奥田経団連会長が批判」と正反対の内容だつたのだ。

 彼らは如何にニュースを恣意的に編集しているかを、白日にさらしてしまつた。まさに新聞メディアの終わりの始まりが来ていることを自ら証明してしまつたといへる。

 国民は堀江氏の行動から当分目が離せないだらう。(2005年2月23日)







  最近出た山本七平の『日本人と中国人』の第一章に次のやうなことが書いてある。

 日本が支那事変を起こしたのは、中国の国民党政府に満州国の独立を認めさせるためだつた。そして上海事変の後、これを停戦条件とする日本の提案を蒋介石が受け入れたにも関はらず、日本軍は南京への進軍を停止することなく南京を攻略してしまつた。

 それはなぜか。原因は軍部の横暴でもなければ、政府の優柔不断でもなく、当時の日本の国民感情がさうさせたのだ。日本では国民感情が全てであつて、法律も条約もその前では無力なのである。

 この戦争でそのことを知つた周恩来は戦後の日中国交回復に際して、日本の国民感情作りを最優先にした。

 彼はニクソン大統領を日本の頭越しに訪中させることによつて、日本人の間に日中国交回復ブームを作つた。それに乗せられた日本は既存の台湾との日華平和条約を踏みにじつて日中平和条約を結んだのだと。

 感情的な世論を重視する日本人の傾向はいまも変つてゐないやうだ。それは昨今のライブドアの問題で、ルールよりも大事なものがあると声高に叫ぶ人たちにもよく表はれてゐる。

 この本は『山本七平ライブラリー13巻』(1996年文藝春秋社刊、県立図書館にある)の一部分を単行本化したものであるが、注釈を付けて読みやすくしてあり、買つて損のない本だと思ふ。(2005年2月21日)







 山本七平の『日本人と中国人』に次のやうな文章がある。

 「南京には、当時の上海在住のユダヤ人から『ゲッペルスの腹心』と恐れられたナチス党員の一商人がおり、あらゆる情報は大使館とは別の系統でナチス政府に送られ、またさまざまな指示も来て、蒋介石と密接な連絡をとって情報・宣伝に従事していたらしい。」(31頁)

 これは「南京のシンドラー」として有名になったラーベのことだらうか。

 確かにラーベはナチス党員であり商人であつた。その彼の日記は南京大虐殺の証拠のやうに言はれてゐる。しかし、その彼がナチスと蒋介石のために情報宣伝活動をしてゐたのなら、その日記の内容の真偽は疑ふべきものとならないだらうか。

 いや、やはり日記は日記てあつて、宣伝活動とは関係なく真実を伝へてゐるものと考へるべきだらうか。

 それともラーベ以外にもう一人のナチス党員が南京にゐたのだらうか。(2005年2月21日)







 『南京事件「証拠写真」を検証する』には最後にまたすごいことが書いてある。南京大虐殺を最初に世界に報じたスティールとダーディンの二人のアメリカ人記者が実は当時の中国国民党政権の協力者だつたといふのだ。

 特にかつて南京大虐殺の生き証人のやうに言はれたニューヨーク・タイムズの記者ダーディンがさうだつたとは驚いた。読んでみると分かるが、スティールと違つて、ダーディンは自ら見た中国兵に対する処刑と、伝聞による中国人被害の様子を区別して書いてゐる。

 彼の戦争経過の描写は非常に具体的であり、しつかりとした自分の言葉で書かれてゐるが、市民の虐殺のことは全部「外国人」の話であり、記事の精度が全く違ふのである。

 彼が南京陥落後の翌々日に南京を離れてゐることを考へると、その程度のことしか出来なかつたのは仕方がない。それでも彼が生き証人のやうに思はれたのは、権威ある新聞社の記者だつたからである。

 ところがその記者が蒋介石の協力者だつたとは。しかも、この記事が国民党政府の顧問であると判明したベイツの報告書を下敷きにしてゐるとも主張されてゐる。もしこれらが事実なら彼の伝聞記事の信憑性は失はれたと言はざるを得ない。(2005年2月10日)







 『南京事件「証拠写真」を検証する』によると、南京大虐殺の証拠として現在流布してゐる写真の殆んどは、昭和13年に国民党政府から頼まれたベイツやティンパーリたちが作つた反日宣伝を目的とした二冊の本に由来してゐると言ふ。

 それらの写真はよく見ると、場所が南京でないもの、南京陥落時の冬の季節に合はないもの、明らかに合成写真と分かるもの、そもそも日本兵ではないもの、などのオンパレードなのだ。

 例へば、単なるポルノ写真に「日本兵に暴行された哀れな女性」と書いて、その写真が日本兵の残虐性を証明するものとして使はれてゐたりするのである。

 しかし、それらの証拠写真のいくつかは、元々は日本の新聞記者が現地の日本兵の善良さを伝へるために撮影した写真であることが判明してゐる。

 結局、日本をおとしめる為に使へさうな写真を適当に集めてきて、適当なキャプションを付けて作られたのがこれらの本の実態らしい。しかし「戦略より宣伝を」をスローガンとした当時の中国政府にとつては、それが絶大な効果をもたらした。

 何故ならこれらの写真のために、多くの日本兵が戦犯として処刑されただけでなく、南京大虐殺の存在を何が何でも信じる人たちが今でも日本に沢山ゐるほどなのだから。(2005年2月7日)






 アップルのibookが安くなつたので購入を検討してゐたが、ACアダプターがいただけない。コンピュータ本体に接続するプラグがチャチでコードが細すぎるのだ。

 一般にACアダプターの弱点は本体に接続するプラグとコードのつなぎ目にある。日本のメーカーのものは、最近ではたいていつなぎ目の部分が蛇腹の軟らかいゴム様の覆ひによつて厚く保護されてゐるが、アップルのものにはそれがない。しかもコードが非情に細い。

 一方、ibookの電源は本体の後ろではなく横側にある。そのために、本体にコードをつないで使ふと机の上の物がコードに当たりやすい。したがつて、プラグと細いコードの接続部分が容易に断線することが考へられる。実際、そのやうなレポートをネット上で二三見かけた。

 なぜこんなアダプタなのか。それはアップルがibookやPowerbookについては充電池による使用を想定してをり、日本人がよくやる電源コードに繋いだままの使用を想定してゐないからである。

 とはいへ、もともとアップルのコンピュータを買ふといふことは、格好良さの代償としてウインドーズ用の多くのソフトが使へないことを我慢しなければならないハンデを背負ふことである。その上にハードウェアの弱点を背負ひこむのは耐えられない。

 新しいibookは先進のOSを備へ、駆動時間が六時間の充電池をもち、しかもワイヤレス接続カードも裝備してをり、ウインドーズのノートブックに比べて格段に割安であるが、こんな欠点があるので買へない代物なのである。(2005年2月7日)







 『南京事件「証拠写真」を検証する』を買つてきた。この本はその名のとほり写真に関する本であるが、その前に南京戦の概要が書いてあつてなかなか面白い。

 その中でまづ驚かされるのは西安事件を盧溝橋事件を結びつけて書いてゐることである。

 昭和二年から始まつた蒋介石による北伐に悩まされてゐた毛沢東は、その矛先をそらすために抗日戦をしきりに主張する。抗日戦と言つても、当時日本と中国は戦争状態にはない。だから共産党は日中戦争を起こす必要があつた。

 そこへ都合よく西安事件が起きて蒋介石は共産党との内戦を停止せざるを得なくなる。そして、その七か月後に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まるのだ。

 おかげで共産党は蒋介石の攻撃から逃れて、第二次大戦が終はるまでの間、力を蓄へる時間を得る。力を蓄へた共産党は後に国民党に勝つて中国の支配権を手にするのだ。

 ここから私には西安事件も盧溝橋事件も共産党の謀略ではないかと思はれてきた。そしてこの推測は専門化の間ではかなり一般的なものらしいのだ。

 さらにもしこの推測が事実なら、中国が批判する日本の侵略戦争は、当時の共産党によつて巧みに引き込まれたものに過ぎないことになる。(2005年2月6日)







 前歯の差し歯がはずれた。白い歯の並びの一カ所だけが黒く見える。非常に滑稽である。しかし、ほかの歯も黒ければ、この抜けた個所が目立つことはないはずだ。ここから、昔の人が使つてゐたお歯黒とは、この歯抜けを目立たなくさせる方法なのではないかと思へてきた。

 そもそも歯が白くてきれいなのは若いうちだけである。特に女性は子供を産んだりすると歯が抜けたり変色したりする。それをきれいに見せるには全部を黒く塗ればいいのだ。そしてそれがおしやれとして定着したのではあるまいか。

 今のやうな歯医者がない昔のことだ。お歯黒はきつと歯抜けをごまかすために始められたに違ひない。

 一方、禿頭の年寄りは、そこを黒く塗る代はりに、きれいに剃つてしまうことにした。それがちよんまげの月代(さかやき)の起源ではないか。中国人の弁髪はそれがもつと進んで頭の後ろだけを残して全部剃つてしまつたのだ。

 風習とは不思議な物だが、その起源は案外こんなごまかしから始まつたのではないか。

 ところで、最近のテレビ番組のなかの替え歌の歌詞が傑作だつたので、ここに書き写してをく。

『ビビデバビデブー』の替歌で『地味でダメです』唄 堀一親 

職がなくて金がなくてチビでハゲです
秘密の靴履いても150です
50過ぎて嫁がなくて地味でダメです
ゴリラ顔で見合いも5連敗です
借金の取り立てでちびる日々です
橋の下で寝泊まり、こんな僕の夢と言へば別にないです
(TBSテレビ『さんまのからくりTV』2005年1月23日放送より)

 この番組ではその他にも、『ペッパー警部』の替歌が『めっちゃーデブ』(1月30日放送)だったりと、語呂合はせがあまりにもよく出来てゐるので、きつと優秀な作家が素人の出演者に取材して作つたものを素人に歌はせてゐるのだと思ふ。(2005年1月31日)







 日本の若い人たちの価値観はいまや快楽主義が支配的である。その最も顕著な表れがオリンピックで金メダリをとつた北島康介選手の「チョー気持ちいい」であらう。若者たちにとつていまや人生は楽しむためにある。そしてこの快楽を教義とする宗教の最大の祭典がクリスマスなのだ。

 彼らは「楽しむために生きる」のであるから、当然楽しむために働く。これはいま日本を支配してゐる人たちの世代の価値観とは正反対である。この世代の人たちは義務として生き、義務として結婚し、義務として働いてゐる。

 ただし、若い世代も楽しむために結婚することはできない。「できちやつた結婚」が示す通り、それは楽しんだことの結果でしかない。つまり、結婚とは若い世代にとつては楽しむための人生の副産物であつて、人生の主要な目的ではない。

 結婚が人生の目的でなくなれば、それを維持するための労働も目的ではなくなり、その結果、働かない若者が増えるのも当然である。

 義務としての人生といふ価値観を育てたのは戦前の日本であつて、戦後の日本はこの価値観を捨てた。「生きたいやうに生きればよい」といふ考へ方が支配的になつた。若者たちはその価値観に従つてゐるだけである。

 しかし世界の歴史上の支配者たちは禁欲主義(Stoicism)を尊び、快楽主義を退けてきた。快楽主義を唱へたエピクロスのテキストは廃棄された。彼らは快楽主義に従へば社会が立ちゆかなくなることを知つてゐたのであらう。

 実際、人々がつらいことをしなくなれば社会は維持できなくなる。早い話、女はつらい出産と面倒な子育てを望まなくなる。男は働かなくなり、結婚しなくなる。

 しかしどの国も豊かになれば快楽主義になる。そして、そのやうな国は歴史上では後発の貧しい禁欲主義の国に滅ばされてきた。さてこの国の快楽主義の行き先はどこだらうか。(2005年1月8日)







 ゲーテは「イタリヤ人は楽しむために働いてゐる」と言つたさうだ。それに対して、仕事のない南部イタリヤの人たちは、「だから俺たちはまづ楽しんでゐるのさ」と答へたといふ。

 日本でも「楽しむために働く」といふ考へ方が広がつてをり、それと同時に、就職できずに「まづ楽しむ」ことにした若者たちも増えてきた。それが政府のいふニートであらう。

 義務で働き義務で生きてゐる世代と、楽しむために働き楽しむために生きてゐる若い世代との断絶は大きい。

 若い世代で就職してゐる人たちも、実は「楽しむために生きる」といふ価値観を器用に隠して就職してゐるにすぎない。働かない若者も初めから働く気がないのではなく、人並みに就職にチャレンジしたが、その不器用さゆえに何度も失敗してあきらめてしまつたのである。

 要するに問題のありかは世代間の価値観のギャップにあると考へられる。もしさうなら、将来「楽しむために生きる」世代が支配的になつて、就職試験で嘘をつく必要がなくなれば、働かない若者も自然になくなるだらう。(2005年1月7日)







 男女平等の労働環境が整へば日本の少子化問題は解決すると言はれてゐるが、果たしてさうだらうか。なぜなら男女平等が遅れてゐた昔の方が出生率は高かつたからである。

 問題は男と女の間ではなく、家庭と会社の間にある。日本では仕事と家庭とでは仕事の方が大切である。

 一方、出生率の高いアメリカではさうではない。かつて子供が病気になつた阪神のバース選手はシーズン中でも米国に帰つてしまつた。しかし、それはアメリカでは当然なのだ。

 アメリカの高い出生率を見習ひたければ、アメリカの家庭第一の価値観を見習ふべきだらう。

 子育ての問題も同じである。育児休暇を取る取らないの問題ではない。制度をいくら作つても価値観が変はらなければ同じである。

 家庭のことで会社に迷惑をかけられないといふ考へ方をまづやめる必要がある。これは男も女も同じである。その上で子育てのための制度が整備されるなら、きっと少子化問題は解決するはずだ。(2005年1月1日)




私見・偏見(2004年)




 紀宮の婚約発表はのびにのびてやつと三十日に行はれた。しかし、誘拐殺人犯逮捕のニュースに新聞一面トップの座を奪はれた。警察は皇室の婚約発表に遠慮することなく同じ日に逮捕したのだ。それほどに警察は殺人事件になると必死になる。

 泥棒はしばしば顔を見られたといつて人を殺すが逆効果なのだ。単なる窃盗事件では警察は殺人事件ほどに熱心な捜査をしない。だから顔を見られた程度で人を殺すことはないのである。捕まりたくなければ人を殺さない方がいいと言つてもよい。

 おれおれ詐欺は被害額が何百億円に昇つてゐるのに、逮捕された容疑者は少ない。警察は殺人事件以外の捜査にはそれほどに不熱心なのだ。

 犯罪の数は増える一方だといふ。しかし人は好きこのんで犯罪者になるわけではない。必然的な状況から犯罪者になる。つまりは誰もが犯罪者になりうるのた。だから被害者になることを恐れるより加害者になることを恐れるべきである。

 そして殺人だけは割に合はないと心得るべきである。人は殺さずとも、そのうちに必ず死ぬのだから。(2004年12月31日)







 清水寺の貫首がテレビカメラの前で今年を象徴する漢字として「災」と書いてみせたのは12月13日だつた。彼はきつと「災」はもうこれきりにしてもらひたいと願ひながらこの文字を書いたことだらう。しかし、災ひはそこで打ち切りとはならなかつた。

 来年の事を言ふと鬼が笑ふといふが、今年の事を言つてさへも鬼は笑ふのであらうか。台風地震と災難続きの日本から脱出した海外の日本人に今年最後(?)の災難が見舞つた。

 確かに、宗教が民衆に慰めを提供することをやめ観光産業と化してからすでに久しい。また、貫首の行為は単に漢字協会が選んだ字を書いただけである。しかし、その時、彼は自分が「災」といふ字を大書してみせることの意味を考へていたはずだ。

 神や仏を恐れる心をもつ僧侶ならば、この言霊のさきはふ国で、自分のこの行為が国民に慰めをもたらすどころか、災ひを増大させるかもしれぬと恐れないは ずはない。そしてその恐れがいま現実となつてしまつた。彼はきつと自分のあの行為を悔いてゐることだらう。またさうであつてもらひたい。(2004年12 月27日)






 政府の来年度予算案に対して、マスコミは相も変はらず借金が多いと批判する。しかし、そもそも借金が悪いものなら銀行は成りたたない。銀行が預金の利子を払へるのは、借金をする人がゐるからである。

 一家の家計にしてもローンは借金である。ローンで物を買ふのが悪ければ、誰もマイホームは持てない。

 新聞は安易に国の予算を家の家計になぞらへるが、むしろ企業の予算になぞらへるべきだらう。企業は資金を外部から調達するために株といふ形の借金をしなければやつていけない。

 国も同様の意味で国債を発行するのである。ではそれがどの程度の規模にとどまるべきなのか。それは財政の専門家でもよく分らないことだらう。ましてや新聞記者に何が分らう。要は批判のための批判をしてゐるだけなのだ。

 借金がリスクを伴ふことは当然である。しかし経済には借金は付きものなのだ。借金が多いといふだけの安易な批判はいい加減にもうやめにしてもらいたい。(2004年12月25日)







 学校を出ても働かずにぶらぶらしてゐる人たちが最近「ニート」と呼ばれて、社会問題になつてゐるといふ。

 しかし、これが問題だといふ前提には「誰でもがんばれば金儲けができる」といふ考へ方があると思ふ。しかし、実際にはさうではない。

 金儲けは様々な幸運の積み重ねによつて初めて可能となる。健康に恵まれ、能力に恵まれ、機会に恵まれ、人間関係に恵まれて初めて金儲けはできるのである。

 ところが今金儲けができてゐる人たちはそのことに気付かないため、ニートのことを怠け者の穀潰しだと言つたりする。

 ところでこのニートには、果たして女は含まれてゐるのかといふ疑問がある。女は働かなくても「家事手伝ひ」などの立派な肩書きがあり、彼らを食はしていくのは社会の役割の一つに数へられてゐるからである。

 しかし、それなら男についても同様にして社会が食はして行つてもよいではないか。そして、それが豊かな社会といふものではないだらうか。

 どんな人間であれ相手をありのままの姿で受け入れるべきだといふのは、個人的関係だけのことではないと私は思ふ。(2004年12月15日)







 最近、民主党が何ら問題視してゐないことについて、共産党と社民党が批判してゐる記者会見が相次いでニュースで流されたがおかしなことだ。

 国会議員は衆参合はせて720人以上ゐるが、この二つの政党の国会議員の数は合計で三十人に満たない。といふことは、単に政党を組んでゐるといふだけで、全体の五パーセントにも満たない国会議員の意見が特別扱ひされてゐることになり、実に不公平である。

 そもそも、この二つの政党の野党としての価値は、先の二度の選挙で国民によつてほぼ完全に否定されてゐる。

 いまや野党とは民主党のことであり、民主党が何も言はないことについて、共産と社民が何かを言つたとしても、それは広く国民の意見を代表するものとは言へない。

 確かに少数意見を大切にするのはよいことではあるが、それをニュースで取り上げるなら、アナウンサーが紹介するだけで十分であり、党首の会見映像を流す必要はないと思はれる。(2004年12月12日)







 中国は今回の日中首脳会談で靖国問題を持ちだしたことで、いよいよ自縄自縛に陥つてしまつたやうだ。

 元々日本国内では首相が靖国神社に参拝することは何の問題でもなかつた。ところがそれをけしからんと中国が言ひ出した。

 それに対して、当時の日本の政治家もマスコミも中国の強大な軍事力を前に、唯唯諾諾と中国の意に従ひ、首相の靖国参拝をとりやめてきた。ところが、小泉 氏が 首相になるや中国何するものぞと、敢然として靖国参拝を再開、毎年行ふやうになつたのである。

 困つたのは中国だ。これでは国内向けの面子も立たない。そこで日中首脳会談を拒否する戦術に出た。しかし、それでも小泉首相は中国の言ふとおりにならな い。原潜の領海侵犯問題もあつて、中国は今回仕方なく首脳会談に応じたのである。しかし、そこでも靖国参拝中止を要求するという暴挙に出てしまつた。

 そのあげくに又も断われたのである。これこそ中国独裁国家の政治の稚拙さとその限界を物語る一幕だと言へよう。(2004年11月23日)







 党首討論が三十回になるといふが、いつも議論はすれ違ひに終はる。それは、いつも野党は野党の立場で質問し、政府は政府の立場で答へるからである。

 野党の質問はなんとか相手を自分の論理に引き込んで、政府の矛盾を明かにしやうとするものが多い。それに対して、政府はその手にはのりませんと、はぐら かしにかかる。それを野党は議論のすり替へだといつて怒る。この繰返しである。

 しかし国会は野党のためにあるのだから、議論がかみ合はなければ野党は自分のやり方を改めるしかない。

 ではどうするか。野党には影の内閣があつて、いつでも政権をとれる備へがある。だから野党は国会では今のやうに政府の揚げ足とりに終始するのをやめて、 自分も為政者の立場にたつた議論をすればよいのである。

 さうすれば野党と政府は同じ立場に立つて議論できるやうになるから、議論がすれ違ひに終はることはなくなり、国会はもつと有益な議論の場になるはずであ る。(2004年11月12日)







 フランスといへばフランス革命なので、フランスを自由と独立を愛する国であると思ひがちである。確かに彼らは自分の自由と独立を愛しはするが、他人の自 由と独立には興味がない。

 例へば、アメリカが独立戦争を始めたときにフランスはアメリカに派兵して独立軍に味方したが、これは何もフランスがアメリカの自由と独立の精神に感動し たからではない。

 独立戦争はフランス革命より十年以上前の出来事であつて、当時フランスは絶対王政だつた。フランスは、アメリカにおけるイギリスとの植民地争いに敗れた 報復をするために独立軍に味方しただけなのである。

 その後、革命後のフランスが独立したアメリカにルイジアナを売つたのも、ナポレオンが自由なアメリカを愛したからではなく自分の戦争に金が必要だつたか らである。

 イラク問題についても同じことが言へるはずである。旧植民地を独立後も半植民地状態に置いて搾取し続け、混乱の火種を残すのがむしろフランスのやり方 で、それはハイチやコートジボアールを見れば一目瞭然である。(2004年11月9日)







 十一月七日付読売新聞『地球を読む』でアメリカのキッシンジャーはいいことを言つてゐる。

 それはイラク問題に関しては、ブッシュ大統領のやり方が好きか嫌いかに関はらず、現状ではイラクの反米武装勢力に対して武力によつて勝利する以外に、今 の世界平和を維持していく方法はないといふことである。

 キッシンジャーはイラク問題に積極的に関はらうとしない国々の姿勢を逃避主義とさへ言つて批判してゐる。

 日本でもイラクから自衛隊を撤退させれば何かいいことがあるかのやうにいふ論調が見られるが、それは大間違いであると私は思ふ。しやかりきになつて世界 平和を壊さうとしてゐる連中が一方にゐるといふのに、それに対して積極的に何らの対抗策も講せずして、世界平和に寄与する何かをなし得るとどうして言へる のか。

 イラクから自衛隊を撤退させることは、まさに世界平和に対して脅威となつてゐるイラクの反米武装勢力を勢ひづかせるだけであると私は思ふ。(2004年 11月8日)







 ラジオ番組の中に交通情報といふものがあるが、あまり役に立たないばかりか、迷惑でありさへする。

 車を運転中に渋滞情報を聞かされても、スムーズに走つてゐるときには関係ないし、逆に渋滞に巻込まれた後ではどうしやうもない。

 高速道路に入る前に渋滞してゐるかどうか知りたくてラジオをつけても、知りたいときに交通情報をやつてゐるわけではない。

 交通情報ばかりやつてゐるラジオはあるが、それは高速道路に入らないと聞けないのだ。

 もちろん、家にゐるときにラジオで交通情報を聞かされても何の意味もない。それどころか、NHKで大相撲を聞いてゐると、取組と取組とのあいだの解説者 の話にかぶせて交通情報を聞かされたりする。

 結局、ラジオの交通情報にはニュースと同じく、番組の埋草以上の価値はないのではないか。カーナビが普及した今では、もはやラジオの交通情報はいらない と思はれる。(2004年11月4日)







 最近知つたことだが、日本には最早A級戦犯と称すべき人はゐないのださうである。

 といふのは、日本では戦犯はすべて恩赦されてをり、先の戦争に関して非難されるべき人は一人もゐないからである。つまり、日本人にとつては、もはや東条 英機は戦犯ではないのである。

 確かに、中国や韓国の人たちはいまだに「A級戦犯」といふ言葉を使つて、日本の首相の靖国参拝を批判してゐるが、それは、中韓の人たちにとつて日本国内 の恩赦は関係がないからにすぎない。

 一方、日本人の中にも「A級戦犯」といふ言葉を使つて首相の靖国参拝を批判してゐる人がゐるが、それは中韓の立場に立つて、中韓の論理に従つてさうして ゐることを忘れるべきではないだらう。

 もちろん、時には他人の立場に立つて物事を考へることは大切なことである。しかし、日本人である以上、そればかりでは困る。(2004年10月30日)







 日本の消費者は商品の外見を重視するから、規格に合はない野菜や果物は出荷されずに捨てられてしまふとよく言はれる。

 しかし、事実はさうではない。日本の消費者は、曲がつた胡瓜でも傷のあるバナナでも値段が安ければ買ふのである。

 しかし、曲がつた胡瓜が安い値段で売れれば、きれいな胡瓜が高い値段で売れなくなつてしまふ。それでは生産者も商店も儲からない。だから曲がつた胡瓜は 市場に出ないのである。

 もちろん、消費者が曲がつた胡瓜をまつすぐの胡瓜と同じ値段で買ふなら、こんなことをする必要はないといへる。

 しかし、だからと言つて曲がつた胡瓜を捨てる原因の全てを消費者に押しつけるのは間違ひだらう。業者がもし利益だけでなく物を大切にする気持ちも重視す るなら、曲がつた胡瓜を捨てずに安値で売れるはずだからである。

 日本の消費者は決して規格外の野菜や果物を嫌つてはいない。ただ、安くてうまいものを望んでゐるだけである。(2004年10月24日)







 岩波文庫の『春秋左氏伝』の重版が書店に並んでゐる。

 『春秋左氏伝』と言へば、福沢諭吉が自伝のなかで「他の奴らは途中で挫折したが自分は十一回も読んだし面白いところは暗記さへしてゐる」と自慢してゐる 本である。漢文に関はる人間なら誰でも『左氏伝』を読んでゐるといへば鼻が高いらしい。

 話はオムニバス方式、つまり複数のストーリーが同時に進行していく、アメリカのテレビドラマによくあるやり方である。その年度中にあちこちの国で起つた 出来事が書かれてゐる。とはいへ、その年に起つた事だけが細切れに並んでゐるのではなく。その事件の原因になることも書かれており、一年ごとにまとまりが あつて、一番前から順番に読んで行つても、読み物として充分に楽しめる。

 岩波版が最新の訳であるが、読み下し文に近いものであり、分かりやすくはないし、躍動的でもない。また、系図があちこちに散らばつてゐるのが不便だ。単 独で読むものではなく、原文の訳本として使ふものだらう。

 系図なら筑摩書房の『世界古典文学全集13』が巻末にまとめてある。また地名の詳しい索引がある。筑摩は複数の人が訳したものであるが、その中の永田英 正の訳した部分(文公元年~成公十八年)がズバ抜けて優れてゐる。

 これを読めば、「『左伝』は決して通読しておもしろい書物ではない」といふ岩波文庫の解説が嘘であり、岩波の『プルターク英雄伝』と同様に、岩波の訳が おもしろくないのは訳者の腕不足にすぎないことがわかる。

 例へば宣王十二年の「邲(ヒツ)の戦い」の有名な「舟中の指、掬(きく)す可し」のところを読み比べると、違ひがよく分かるだらう。以下に原文の読み下 し文、岩波版、平凡社版、筑摩版と並べる。

 晋人、二子の楚の師を怒らせんことを懼(おそ)れ、軘車(とんしや)をして之を 逆(むか)へしむ。潘党(はんたう)其の塵を望み、騁(は)せて告げしめて曰く、「晋の師至る」と。楚人も亦王の晋軍に入らんことを懼れ、遂(つひ)に出 でて陣す。孫叔(そんしゆく)曰く、「之を進めよ。寧(むし)ろ我(われ)人に薄(せま)るも、人をして我に薄らしむること無かれ。詩に云ふ、『元戎(げ んじゆう)十乗、以て先づ行を啓く』とは、人に先(さき)んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り』とは、之に薄るなり。」と。遂に疾 (と)く師を進め、車馳せ、卒奔(はし)り、晋軍に乗ず。桓子、為す所を知らず。軍中に鼓して曰く、「先づ済(わた)る者に賞有らん」と。中軍下軍、舟を 争ふ。舟中の指掬(きく)す可し。

 晋の人は、〔交渉に行った魏錡と趙旃の〕二人が、楚軍を怒らせるのを恐れて、運搬車を迎えに出したところ、〔魏錡を追いかけていた〕潘党はその車塵を遠 く望んで、「晋軍がやって来た」と急報した。楚の人も、王が晋軍に取り囲まれるのを恐れて、出陣した。孫叔は、「進め。敵に肉薄せよ。敵に肉薄を許すな。 『詩』の「先頭を切る兵車は十輛、敵陣に血路をひらく。(小雅六月)」とは、敵に先制攻撃をかけよということ。また『軍志』に、「先制して敵の戦意を奪 え」とあるのは、敵に肉薄せよということだ」と、ただちに進軍を始め、兵車は疾走し、士卒は早駆けして、晋軍に襲いかかった。桓子(荀林父)は為すすべを 知らず。軍中に鼓を撃ち、「先に渡った者には褒美をやるぞ」と伝えたので、中軍・下軍の士卒は、われ先に舟に乗ろうとしたが、〔先に乗った人に〕切り落と された舟底の指の数は、両手で救うほどになった。(岩波文庫)

 晋の本陣では趙旃・魏錡の二人が楚の軍を怒らせているのではないかと、(戦うのではないと楚に示すため、兵車ではなく)工事用の車を出して、二人を迎え にやった。ところが楚の潘党は晋の軍の方から(迎えの車が)しきりに砂ぼこりを立てて来るのを見てまちがえ、本陣に告げさせた、「晋の軍が押して来たぞ」 楚の人も、王が深入りしてしまったのではないかと、ついに出陣した。令尹孫叔(敖)は命じた。「進め、ただ進め、敵に迫ろうとも、敵に迫られるな。詩に も、『先立てる十の車に、劣らじとわれこそつづけ』とあるぞ。人に後れるな。兵法にも、『人に先手を打ち、肝を奪うこと』とある。ただ敵に迫れ」この下知 に、楚の軍は急進撃。車が馳せ、兵が走り、どっと晋の軍に乗りかかった。晋の桓子(元帥)は手も足も出ぬ。ただ全軍に鼓を打って命を伝えた。「退却だ。早 く河を越えたならば賞を与える」そこで中軍と下軍は、先を争って舟に跳び込もうとする。(後から船べりに手を掛けると)指が斬り払われて見る見るうちに舟 一杯とならんばかり。(平凡社)

 一方、晋軍では魏錡と趙旃の二人が楚を怒らせることを心配し、軘車(注1)を出して迎えにやらせた。ところが潘党は晋のあたりからまきおこるもうもうた る車塵を見て、てっきり晋の襲撃と思いこみ、「敵襲!」と注進した。このとき楚でも王が晋軍の中に深入りしすぎないかと心配していた最中であり、ついに全 軍出撃と決まった。孫叔(敖)が叫んだ。「進め、進め! こちらから敵に迫っても、敵に迫られてはならぬぞ。『詩』(小雅、六月)の『大車十乗さきに立 ち、行(みち)を啓(ひら)いてすすみゆく』とは先手をとることをうたったものだ。兵法の書にも『人に先んずれば、その戦闘意欲を奪う』とあるぞ。がむ しゃらに突っこめ!」楚軍は疾風のごとく突撃した。車も兵士も一丸となって晋の軍にぶつかった。晋は完全に不意をつかれた。桓子はうろたえ、どうしてよい かわからない。やたらと太鼓をうちならして「河をわたれ! 一番にわたった者には褒美をとらせるぞ」と声をうわずらせて叫ぶ。中軍も下軍も、われ先にと舟 にのろうとするが、先にのった者は後の者が舟べりに取りつく指をつぎつぎと斬りはらう。たちまち舟は指であふれ、両手ですくわんばかりとなった。(筑摩版 永田英正訳)

 行間を訳してすばらしい日本語になつてゐる永田英正のものが筑摩版のごく一部に留まつてゐることを残念に思ふのは私だけであるまい。ただ、夏目漱石が 『文学論』や『我輩は猫である』で左氏伝中の白眉として言及してゐる「鄢陵(えんりよう)の戦」の段は成公十六年にあたり、幸ひこの中に含まれてゐる。

 それ以外の所の訳は分りやすくはあるが、訳文の出来はかなり落ちる。ところが、世の中捨てる神あれば救う神ありで、ここに安能務といふ人の書いた『春秋 戦国志』(講談社文庫)といふ本がある。これは小説であるが、『春秋左氏伝』の解説書として充分に通用する。上中下三冊もあるが、実によく書けてゐるので どんどん読めてしまふ。『春秋左氏伝』の入門書として勧めてよいと思ふ。(2004年9月24日)







 「韓国の日本植民地時代」といふ言ひ方がいまだにまかり通つてゐるが嘆かはしいことである。朝鮮半島は日本の植民地ではなく日本だつたのである。だから 当時朝鮮の人たちは日本人として扱はれた。

 その証拠の最たるものが、ベルリンオリンピックのマラソンに朝鮮の孫基禎選手が日本代表として出場して金メダルをとつたことである。なんと日本は朝鮮人 にスポーツ教育を施し、優秀だといふことでオリンピックにまで出場させてゐたのだ。

 住民を奴隷にして収奪することを目的とする植民地支配ならあり得ないことである。同じようにして日本人は朝鮮人に野球を教へ、日本の高校野球の全国大会 に朝鮮の代表高を出場させてゐる。

 ところが多くの韓国人はそれらを恩に感じるどころか「孫選手は心の中で韓国のために走つた」といひ、「日本の国歌がスタジアムにこだましたとき、彼はた だうつむいて口を真一文字に引き結んだきりだつた」などと見てきたやうな事を書くのである。

 確かに、孫選手は自伝の中で「私はそれまで、私の表彰式に日章旗が掲揚されるとは正直思つてもいなかつた」と書いてゐる。しかし、それなら胸のゼッケン に付いてゐる日の丸を彼は何だと思いながら走つたのかといふことになる。彼の自伝がどこまで真実を語つてゐるかを検証した研究はまだない。(2004年8 月22日)





 戦前は暗黒時代のやうにいはれてきたが、山本夏彦の『戦前という時代』によれば、どうもさうではないらしい。共産主義者には確かに暗黒時代だつたが、さ うでない人たちにはむしろ戦後より自由だつたのではないかと思はれる。

 何より戦前はピストルが買へた。そんな物騒なものを買ふ必要はないと言はれさうだが、「買へるけれども買はない」のと「買へないから買はない」のとは大 きく違ふ。戦後はそれだけ自由ではなくなつたのである。

 戦後の警察は国民にピストルや刀の所持を禁じて、自分で自分を守る手段を奪つてしまつた。では代はりに警察が国民を守つてくれるかといふとさうではな い。

 最近も一度に七人もの人が殺される事件があつたが、警察に相談しても何もしてくれなかつたといふ。

 戦後の国民はピストルを買ふ自由を失つたが、それで戦前よりも戦後の方が安全になつたと言へるかどうか。最近の厳罰化の傾向は逆の事実を指してゐるとし か思へない。(2004年8月14日)









 人名漢字の中から一部の漢字を排除すべきだと、いまだにかまびすしい。その主な理由は、そんな漢字の名前の子供はいじめられるからだといふものである。

 しかし、これではいじめは、いじめられる側にも原因があると言つてゐることになる。

 だいたい、名前のせゐでいじめられるのではないかと思ふやうな小心翼翼とした子供は、却つていじめられるものである。

 逆に、他人のどんな扱ひにも毅然と対応できる子供なら、どんな名前であつてもいじめられることはないだらう。

 そもそも、自分の子供をいじめられつ子にしようとして、子供に名前をつけるやうな親など、いま現在もこれからも存在しない。

 子供を虐待する親がゐるから、そんな変な名前を付ける親もゐるはずだといふ人がゐるが、虐待された子供たちがどんな名前か調べてから言つてゐるのだらう か。

 いじめはいじめる方が悪い。いじめと人名漢字は関係がない。問題をはき違へないことである。(2004年8月4日)







建築家安藤忠雄と経団連会長奥田碩が旅行をする『イタリア式街の愛し方』といふNHKの番組を見たが、最後にこの二人は口を揃へたやうにイタリアの町並み には個人があると頻りに言つてゐた。そして彼らが見るところではその次に社会が来るらしいのだ。

 しかし、私は逆だと思ふ。イタリヤの町並みは日本と違つて屋根の色も建築様式も統一されて整然としてゐる。そこに私はまづ社会を見る。

 そしてこの社会のまとまりがあつて、その中でイタリア人はそれぞれが安心して個性を発揮してゐるのだ。逆に言ふと、日本には社会的なまとまりは皆無で、 そこにはばらばらな個人ばかりがゐる。

 ばらばらな個人の集まりでは強い者勝ちの弱肉強食がまかり通り、弱い個人が個性を発揮する場面はない。そして、社会はそれを防ぐための仕組みなのであ る。

 かうして、社会のない日本には個人がなく、社会のあるイタリアには個人があるといふことになつたのである。(2004年7月31日)







 今回増やされた人名漢字の中にけしからん漢字が含まれてゐるから削除しろと大騒ぎである。しかし、気に入らなければ使はなければいいだけのことではない のか。

 いや、世の中には馬鹿な奴がゐて、きつと「糞男」とか「淫子」とか自分の子供に付ける親が出てくるにきまつてゐる。だから、そういふ文字は削除しろと言 ふのだ。

 この考へ方には、自分は賢いからそんなことはしないが国民は馬鹿だから何をしでかすかわからないといふ国民を見下した姿勢がある。そこでお上に制限して もらはうといふ官僚依存の態度がある。

 そもそも人名漢字を役所に決めてもらふ必要がどこにあるのか。自由でいいではないか。変な名前を付けられた子供が可哀想だといふが、現状でも変な名前は 幾らでも付けられるのだ。

 昔の君主たちは、もし国民に自由など与へたら世の中とんでもないことになると考へたが、いまだにその発想から抜けられない人が大勢ゐる。残念なことであ る。(2004年7月26日)






 6年前の参議院選挙で大敗して退陣した橋本首相と、今度の参議院選挙をほぼ現状維持で生き延びた小泉首相の最大の違ひは、靖国神社の参拝をやめたか続け たかの違ひだと私は思つてゐる。

 橋本内閣も小泉内閣も改革を旗印にした内閣であることには違ひがない。しかし実際に改革を成し遂げるには多くの妥協が必要であり、マスコミから「骨抜 き」の批判を受けざるを得なかつた。

 ここまでは小泉内閣も橋本内閣も同じである。しかし、一つ違つてゐたのは、橋本首相が靖国参拝を、中国などの批判のためにやめてしまつたのに対して、小 泉首相が批判に屈せずあくまで続けてゐることである。

 靖国参拝は改革などと違つてその達成感が明確である。

 小泉内閣の支持率が4割を切つたなどと言はれてゐるが、今なほ小泉内閣を支持する人たちの多くは、小泉首相が靖国参拝を続けてゐるがゆゑの支持者である と言つてよい。

 だから小泉首相は、靖国参拝だけはやめないことだ。なぜなら、靖国参拝をしない小泉内閣は橋本内閣と同じになつてしまふからである。(2004年7月 16日)








 参議院は無用であると言はれながら、いざ選挙をしてみるとその結果に対して首相の責任を云々せずにはゐられないやうだ。しかし、元々無用な参議院なのだ から、その選挙も無用のはずである。

 参議院選挙で野党が勝つても野党に政権が移るわけではない。たとへ首相が辞任したところで、首相の座は与党の中でたらい回しにされるだけである。しか し、それでは選挙の結果が政治に反映されたとは言へないだらう。では、なぜそんな選挙をする必要があるのかと言ひたくなる。

 そもそも議院内閣制をとつてゐる国で参議院にあたる上院の直接選挙があるのは、我国以外ではイタリアぐらいのものである。そしてそのイタリアと日本で首 相がよく交代する。

 一方、上院が貴族院で選挙がないイギリスでは、政権が比較的安定してゐる。日本の政治の混乱の一因は参議院選挙にあると言つても過言ではあるまい。なら ば参議院選挙をなくすことを考へるべきではあるまいか。(2004年7月13日)







 私はこれまで選挙でほとんど棄権したことがない。しかし、私がもし棄権してゐたら選挙結果が変つてゐたといふやうなことは一度もなかつた。つまり、私が 投票したかしなかつたかは、選挙の結果には何の影響もなかつたのである。

 それでももし支持者が一票差で落選することがあつたら困ると思つて投票してきた。私は真面目な有権者である。ところが、世の中はそのやうな真面目な有権 者よりは、きまぐれで投票する人の方を重視する。

 マスコミは、どんな選挙でも必ず投票するやうな真面目人間ではなく、天気などに影響されて投票したりしなかつたりするいい加減な有権者の動向にばかり注 目するのだ。こんなけしからん事はない。

 私は三回棄権したら選挙権を失うやうにしたらいいと思ふ。さうして真面目な有権者だけが投票できるやうにするのである。さうすれば政治のことを真面目に 考へる人だけが投票できるやうになつて、もつと世の中はよくなると思ふ。(2004年7月10日)








 プロ野球がどんどん魅力を失つてゐる。まつたく痛々しいほどだ。

 近鉄は買収先が見つからないからといつて、オリックスと合併話を始めた。ところが、近鉄を買ふといふ会社があつた。

 それなら合併をやめるかといへば、無視して合併するといふ。まつたく筋の通らない話だ。

 近鉄を買いたいのはインターネット関係の会社ださうだが、さすがに社長が若くて、かつこいい。

 一方、それを断るといふ近鉄の社長と、「俺の知らない人は入れてやらない」と子供じみたことを言ふ読売の社長は、どちらも年寄りで、かつこわるい爺さん たちだ。

 プロ野球とはあんな爺さんたちに支配されてゐるスポーツだつたのだ。

 会社と会社が合併するのは勝手だらう。しかし、チームは会社の私物ではない。ファンあつてのチームである。それを勝手に合併させるなど、もつてのほかで ある。

 チームを合併させるから、バッファローズとオリックスのフアンも合併しろとでも言ふのか。それでは、あまりにファンを馬鹿にしすぎてゐる。(2004年 7月1日)










 政府の「男女共同参画社会の将来像検討会」が、2020年の社会のあり方として「女性が企業の管理職の3割以上を占める」を柱としたといふ。

 「まだ言ふか」である。彼らには自分たちのこれまでの活動が日本の出生率の低下をもたらしたことがわからないのだらうか。

 管理職になるやうな女性が子供を3人以上も産むことはまづないだらう。そのやうな女性を日本でもつと増やせといふことは、日本の出生率をもつと減らせと 言ふに等しいのである。

 それとも女性がたくさんの子供を産むことは、男女共同参画社会の実現とは関係ないと言ふのだらうか。

 日本の出生率が1.29となり、このまま行くと将来人口はゼロになるといはれてゐる。社会がなくなつてしまへば、男女共同も何もあつたものではない。

 わたしは彼らに教へてやろう。君たちの目標は「女性が企業の管理職の3割以上を占める」ではなく「女性が生涯に子供を3人以上を生む」にすぺきである と。(2004年6月27日)









 日本とロシアの間で平和条約を結びたいと、外務省がロシアと交渉してゐるさうだ。

 しかし、ロシアが日本を攻撃する可能性はあつても、日本は憲法で交戦権を放棄してゐるから、日本がロシアを攻撃する可能性はない。だから、ロシアからす れば日本と平和条約を結ぶ必要は全くないのである。

 また、日本がロシアと平和条約を結ぶといふことは北方四島の返還を意味するから、日本にとつては得なことである。しかし、ロシアから見れば、それは損な ことである。

 つまり、ロシアにとつては、日本と平和条約を結ぶことは、その必要性がないだけでなく、損なことである。そのやうな条約をロシアが結ぶはずのないことは 明かである。

 日本が北方四島を武力に訴へても取り返すといふ脅しをかければ、北方四島が日本に返還される可能性はある。しかし、それは日本の憲法上不可能である。

 結局、日本が北方四島をロシアから取り返す可能性はないと考えるしかないのである。(2004年6月25日)







 「子供を三人以上、例へば五人育てることが共働き家庭に可能か」と言へば、不可能とは言へないまでも極めて困難だといふことに誰も否定すまい。

 ところが一方で「女性の就業率が高いほど出生率も高くなる」といふデータがある。例へばデンマークでは出生率の低下に歯止めがかかつたが、それについて 「女性の社会進出をより一層促進しようとしたことが、出生率上昇につながった」と言はれてゐる。

 しかしデンマークの出生率が2以下であることに変はりはなく、少子化現象が食い止められたわけではない。たとへ働く女性が子供を産みやすい環境を整えた としても、働く女性が子供を三人以上産むことには至らないのである。

 女性の労働環境の整備はそれ自体重要なことだが、それと子育て支援の問題が混同されてきたきらいもある。

 少子化を食い止めるためには、共働きではない家族が三人以上の子供を育てられる環境の充実にもつと力を注いでいくべきではないか。(2004年6月16 日)









Q:女性が仕事を持つようになったから少子化現象が起こったのでしょうか。

A:それはあたっていません。表(グラフ)○を見てください。六歳未満の子どもを持つ母親が一番働いている山形県を始めとして福井・島根・鳥取・新潟の上 位五県は、出生率も高くて、共働き率の低い神奈川・大阪・奈良・兵庫・埼玉の五県は出生率が低いのです。地方では男性の所得が低いため、共働きでないと子 どもを産み育てていけず、多くの女性が働き続けているといえます。そしてもう一人子どもを生むために働いているともいえるでしょう。

 欧米諸国でも同様で、先進諸国では女性の就業率の高い国ほど出生率も高くなっているし、男女の賃金格差が小さい国ほど出生率が高いようです。

 これは女性団体のホームページではなく、ある地方自治体のホームページに掲載されゐるものである。地方自治体といふものが国の政策に何如に唯唯諾諾とし てゐるかがよくわかる例であらう。国が男女共同参画社会を推進する言へば、その通りとこんなホームページをつくる。その結果が、出生率1.29のていたら くである。

 女が自分で働けば結婚もしなくなるし子供も産まなくなる。こんな当たり前のことを無理やり否定するために、あれやこれやと資料を持出してきても無駄だと いふことは、もはや明らかである。

 年金政策ではなく男女共同参画社会といふ名の政策が間違つてゐたのだ。年金政策をどう変へたところで、人口が減つて行くやうな社会が立ちゆかなくなるの は、これまた当たり前のことである。(2004年6月15日)










 「戦前の三菱グループを率いた岩崎小弥太は俳句をたしなんだ。こんな句がある。〈新聞の来ぬがうれしや雪の朝〉。1933年の作という(宮川隆泰『岩崎 小彌太』中公新書)。前年、犬養毅首相が暗殺された五・一五事件では三菱銀行も襲撃された。軍部・右翼を中心に財閥への批判が高まっていたころで、毎朝の 新聞を見るのも嫌だったのだろう。雪のため新聞が配達されない朝のほっとした気分を素直に詠んだ」(天声人語6月4日)

 それに対して誰かが「岩崎が新聞を読みたくなかつたのは、そのころも今の新聞みたいにくだらん記事が多かつたからさ。事件が原因じゃない。事件を餌にし て儲けている新聞に嫌気がさしたのさ」

 それに対して誰かが「まさにそのとおりで、当時の朝日新聞には『婉然と笑う妖婦さだ』とかのくだらん週刊紙並の記事が多かった。それに515事件を報じ た朝日新聞記事では、反乱軍のテロ殺人犯を『壮漢』呼ばわりしている。企業悪と政府の腐敗を糾弾しているつもりの朝日は、戦前と同じことを繰り返している だけで、進歩がない」

 またそれに対して誰かが「まー、それで天皇陛下をはじめ、時流が彼らを『反乱者』扱いするようになると『姦賊』呼ばわりになるわけで……」
 
 2chの書き込みもまんざらではない。(2004年6月14日)











 自社の製品に欠陥が見つかつた会社の幹部がそれを放置することを決定したなどといふニュースが流れてゐるが、そんなことを誰が信用するだら う。

 会社といふものは自社の製品をなるべく良いものにしようとする努力の積み重ねで成立つてをり、もし欠陥が見つかれば時期や方法は別として何らかの改善措 置を講じたことは間違ひない。だからこのニュースが嘘であることは明らかである。

 それにも拘らず三菱自動車についてこのやうなニュースが流されるといふことは、警察や新聞記者が三菱自動車に対して、かなり感情的になつてゐることは間 違ひない。

 何故なら、クラッチの欠陥が直接的原因で死亡事故が起きたのなら、同じ車種で何万件の死亡事故が起きてゐなければならないことは明らかだからである。

 実際、一般庶民はそれほど馬鹿ではなく、これら一連のニュースを三菱バッシングとして捉えるだけで、本当に三菱が悪いことをしたとは思つてゐないやうで ある。(2004年6月12日)











 女性一人が生涯に産む子供の数が1.3を切り、このままでは年金制度の維持どころか、この国自体の将来が危うくなつてきてゐる。

 その原因として様々なことが言はれてるが、一方でテレビ番組などを見ると、子だくさんの大家族も沢山あつたりする。彼らの話を聞くとその理由は授かつた 子は産むといふ当たり前のことをしてきた結果らしい。

 といふことは一方で、授かつた命を無駄にしてしまつてゐる場合が何如に多いかといふことになる。

 しかし、人工妊娠中絶は法によつて厳しく制限されてゐる。暴行などによる妊娠でない場合には、身体的か経済的に母体の健康を著しく害する恐れがある場合 に限られてゐるのだ。

 もしも法律通りなら、今の日本で妊娠中絶が許されるのはかなり限られたものとなる。ところが現実はどうだらう。

 要は法を守り、授かつた子は産まねばならないといふ当たり前の精神に立ち返ることだ。それだけで、少子化はかなり改善するのではなからうか。(2004 年6月11日)









 長崎の事件をきつかけにまた「命を大切に」といふ言葉が言はれてゐるが、それを実現するにはまづ政府が手本を示すことである。

 第一に死刑を廃止すること。さうすることによつて、この世には殺してよい命はないことを示すのである。第二に、警察が被疑者の命を大切にすることであ る。

 特に警察の捜査や追跡の途中に被疑者が事故や自殺で死亡する例が跡を絶たない。ところが被疑者を死なせた警察官は誰も責任をとつてゐない。これでは警察 が人の命を何とも思つてゐないと思はれても仕方がない。

 最近では、死亡事故の原因がリコール隠しのためだとして、自動車メーカーの元社長が過失致死罪に問はれてゐるし、言葉によつて自殺を勧めた人間が自殺幇 助罪に問はれた例がある。

 これらと同様の罪を、被疑者を死なせた警察官に負はせるべきである。

 警察の捜査による致死事件の処罰と死刑の廃止。この二つが実現して始めて、政府は国民に命の大切さを訴へる資格ができると言つていい。(2004年6月 6日)











 『レナードの朝』を見ながらわたしはデニーロの演技に何度も大笑いした。最後にウイリアムズがおばさん看護婦をデートに誘う場面でもう一度笑 つた。

 実際の精神病患者を見ても笑へない。役者の演技だからこそ笑へるのだ。特にデニーロは明らかにこの演技を楽しんでゐる。元々デニーロは医者役だつたの に、ウイリアムズの患者役をうらやましくなつて代つてもらつたといふほどだ。

 原題は『目覚め』である。重傷の精神病患者が薬によつて束の間の目覚めを得る。その束の間がレナードの人生なのだ。動けない姿も滑稽なら、動き出してか らの動作も滑稽の連続だ。ロバート・デニーロの動きの滑稽さは人生の滑稽さなのだ。

 普通の人間の普通の姿が実は滑稽なのだがそれは分かりにくい。人はいつか必ず死んでしまふのに恋をしたり夢をもつたりする。それは束の間の目覚めの中の レナードの姿そのものである。

 レナードも恋をして自由になる夢を見る。その夢は叶はずにまた元の動けない世界に帰つて行く。しかし、彼も束の間の思い出を得た。人生とは皆こんなも の、それでいいのだ。

 デニーロの動きを笑ふことは人生を笑ふことである。この映画を見て泣く人は、きつと人生を悲しいものと思つてゐる人だらう。だが人生を愉快なもの滑稽な ものと思つてゐる人なら、この映画を見て大笑ひできることだらう。(2004年6月5日)









 五月三十一日に放送された水野真紀主演の『ホステス探偵危機一髪』を見てカッターナイフによる殺人を思ひついたと、長崎の小学生殺人事件の加 害者とされる女の子が言つたと報道された。

 その後、この話はどうなつたのか。各紙のホームページに出たはずなのだが、いま検索してもそんな記事はどこにも見つからない。

 小学校六年生の幼い少女は、警察の質問に何でもはいはいと答へたのだらう。彼女はこの人の言ふ通りにすれば、きつと許してもらへると思つたのだらう。

 彼女がいま唯一の頼みの綱と思つて話をしてゐる大人が、実は自分を凶悪犯罪者に仕立てようとしてゐるとは夢にも思ふまい。

 自白を誘導し、被害者に対する謝罪で自白を認めさせ、次に計画性を認めさせる。殺人事件の容疑者尋問で刑事が使ふ典型的なやり方だ。それをいま長崎県警 の刑事は、四年生にしか見えないやうな幼い少女に対して使つてゐるのである。

 そして彼女はその刑事の言ふがままに答へたがために強制施設送りになるのである。彼女は大人社会の嘘と非情を身をもつて知ることだらう。(2004年6 月5日)










 プロ野球巨人戦の番組宣伝コマーシャルが流れてゐる。巨人戦はもはや宣伝しないと見てもらへない時代になつたのである。それでも巨人戦の視聴率が伸びな い。その理由の一つに、巨人のイメージが悪くなつてしまつてゐることがある。

 いまや巨人は正義の味方ではなく悪の集団である。監督からしてイメージが悪い。彼は現役時代ですら既に悪玉であつた。その彼が監督になつた時、今までの コーチが全員辞めてしまつたのは最悪だつた。

 ダイエーの四番バッターの小久保を只でとつたのもひどかつた。裏に何かあると思はれても仕方がない。清原のイメージも悪い。「番長」がゴールデンタイム に出てはいけないだらう。

 巨人は去年ヤクルトの四番をとつたのに、今年は小久保のほかに、近鉄の四番のローズもとつた。欲張りにもほどがあるといふものだらう。

 今年の巨人はすごい勢いでホームランを量産してゐる。視聴率が上がつても良ささうなものだ。しかし、それが飛ぶボールと狭い球場のせゐだといふことは、 ヤンキースの松井のホームランの少なさによつて視聴者は既に知つてしまつてゐる。

 かうして、巨人戦をテレビで見る理由は減る一方である。延長放送が無くなるのは時間の問題ではないだらうか。(2004年6月1日)










 年金法案の今国会成立に世論の七割が反対したとき、多くマスコミは世論の正しさを言つたが、今回の小泉訪朝に対して世論の七割近くが肯定的な評価をした とき、多くのマスコミは目前の現象に欺された世論の愚かさを言つた。

 しかし、国会で議論されてゐる年金法案の中身を知つてゐる国民がどれほどゐるだらう。それは小泉訪朝の成果よりも遥かに分かりにくいものである。

 よく知らぬ年金法案に対する世論の判断が正しく、一目瞭然たる訪朝の成果に対する世論の判断が間違つてゐるといふのは、まさにマスコミの驕りであらう。

 一般国民は何事もマスコミを通じてしか知ることが出来ない。年金も訪朝も否定的に報道された直後に世論調査が行はれた。ならば、どちらも同じやうに否定 的な結果が得られるはずだつた。ところがさうはならなかつた。

 なぜか。それは何より世論がマスコミの操り人形ではないといふことであるが、それはまたマスコミと一般国民とでは立場が違うといふことでもある。

 事件の被害者はマスコミにとつて何如に大切でも、多くの国民にとつてはさうではない。被害者の家族のことなどさらに軽いのである。(2004年5月26 日)










 テレビで神戸祭りの雨中のパレードを見ながら、今年の京都の葵祭は晴天だつたことを思ひ出した。

 そして今年の斎王代に選ばれた女性(加納麻里さん)が五月初めの「御禊(みそぎ)の儀」で「わたしは晴れ女ですので」と言つたのをテレビで見たのを思ひ出した。新聞の記 事を見ると、確かに「『晴れ女』ですので葵祭当日は晴れてほしい」と言つたと出てゐる。

 さらにその記事で、葵祭は昨年一昨年と二年続きで雨にたたられて午前中だけで中止してゐたこと。去年の雨で破損した衣装の買ひ換へに七百万円かかつたと もわかつた。今年の晴天は祭りの関係者全員の願いだつた。だから彼女のこの言葉はみんなの思ひを背負つたものだつたのである。

 新聞に報じられた祭り当日の彼女の言葉は「天気予報に一喜一憂してたので、晴れてうれしい。」だつた。さぞほつとしたことだらう。「晴れ女」に敢て言及 した彼女の勇気が報はれて、彼女の「予言」通りに祭りの空は晴れたのである。(2004年5月16日)









 北海道の病院で無呼吸状態になつてゐた九十歳の患者の人工呼吸器を外した医師が殺人容疑で逮捕された。医師は家族の求めに応じて呼吸器を外し たのだが、警察はその判断が早すぎるとして逮捕に踏み切つたといふ。
 
 最近では高齢者の延命治療を中止して人工呼吸器を外す医師は少なくない。実際この行為だけを理由に医師を逮捕した例はないといふ。だから、この場合はこ の医師がどう考へたかを問題にしてゐるのである。

 これはファイル交換ソフトWinnyの作者の逮捕理由と同じで、その行為自体ではなく、その行為に伴ふ考へを犯罪視した逮捕である。三菱自動車の前会長 の逮捕もこれに似たところがある。

 これらの動きは警察が人の頭の中の出来事の取締りに乗り出したといふことではないか。インターネットの普及で、判断やその表現と実際の行動との区別が付 きにくくなつてゐることの影響だらう。

 戦前のやうに特定の思想信条に関するものでないから分かりにくいが、これは刑法に反する考へ方やその表明に対する取締りであり、一種の思想統制と見るべ きだらう。(2004年5月14日)












 著作権はそんなに大事なものか。人を逮捕して犯罪者にしなければならないほどに価値ある権利なのか。わたしにはさうは思へない。

 例へば、浜崎あゆみは著作権のおかげでヒット曲を出してゐるのか。違う。ダウンタウンは著作権のおかげで、大儲けをしてゐるのか。断じて違う。

 創造の世界で著作権が問題となるのは、人の作品をコピーして自分の作品だと偽つて金儲けをした場合だけであるはずだ。

 一般人が人のCDをコピーして、そのCDを買はずにすませたとしても、それは著作権とは関係がない。さういうことができるプログラム作つたとしても、そ れは個人と個人の間のやりとりであつて、著作権とは何の関係もない出来事である。

 いはんやそのことを奨励するやうなプログラマー発言を、著作権の侵害と結びつけるのは、こじつけ以外の何ものでもない。いやそれ以上に、表現の自由の侵 害である。

 これは戦前の小林多喜二の逮捕に匹敵する事件である。あらゆる表現者は、このプログラマーの逮捕を戦前の警察ファッショの暗い時代の再来だと大いに怒る べきだらう。(平成16年5月12日)















 マネの『オランピア』は滑稽である。なぜなら、この女は美人ではないからだ。こんなにあごとえらの張つた不美人は、2メートル近くもあるこんな大きなカ ンバスに描く価値はない。

 この女は美人でないから、マネは女に厚化粧をさせネクタイをさせサンダルを履かせ、花束を女中に持たせた。むしろ、さうやつてマネは女の不美人であるこ とを強調してみせた。

 そしてマネは、そんな女を大きなカンバスに丁寧にそのままを描いて見せた。これは徒労である。大きな無駄である。

 しかし、マネはその徒労と無駄に価値に持たせた。人生の無駄を、無意味を、人生の滑稽をそのまま描いたのだ。つまり、マネはそれを肯定したのだ。これが ありのままの人生である。これに労力を注ぎ込む価値があると言つたのである。

 この絵を絵画の伝統の破壊などといふのはマネを過小評価してゐる。ビーナスの代はりに娼婦を描いたと言ふがそんなことはどうでもよい。彼女は実在のモデ ルである。そして本当のモデルは美人ではないが、そのままで描く価値があるのだとマネは言つたのである。

 これまでの絵は確かに理想を画き、マネは現実を画いた。しかし、マネはそこに留まつたのだらうか。マネはわざわざそんな小手先の座興のために人生を絵に 注ぎ込んだとは思へない。(2004年4月23日)











  イラクの人質事件の被害者が日本で厳しく批判されるのは、国会で野党が政府に対して「イラクに被戦闘地域はどこにある」と言つて、自衛隊のイラク派遣の違 法性をあれだけ攻撃してゐたのに、イラクの戦闘地域に民間人がのこのこ出かけて行つて事件に会つたからにほかならない。

 ところが、日本における自衛隊の存在の特殊性とそれに基づく国会での不毛な議論を理解できない海外メディアは、日本の世論の被害者に対する冷たさを理解 できないやうだ。アメリカのパウエル国務長官が被害者たちの行動を賞賛したのも同じ理由からであらう。

 しかし「危ないから行くな」と言つて政府に反対しておきながら、自分は危ないところに行つて危ない目に会つて、自分が反対してゐる政府に助けてもらつた 人たちが、とてもかつこ悪いのはどこの国でも同じだらう。

 反対するなら自分でちやんとやれよといふ自己責任論が、政府だけでなく日本中に吹き出したのは当然のことである。(2004年4月21日)















 イラクの人質事件に関して被害者を批判する声が多く、マスコミの中にも被害者の軽率を批判する豪の者もゐる。

 それにわざわざ反対して被害者を養護してみせる記者たちがつぎつぎと現れたのは、本来被害者はマスコミにとつて神様であるから、何の不思議もない。

 むしろ不思議なのは、イラクへの自衛隊派遣に反対する最大の理由が「危険だから」といふものであり、自衛隊にとつて危険な所は民間人にとつても危険な所 であるはずなのに、自衛隊に行くなといふ人たちがその危険なイラクに出かけて行つた事の方である。

 人に行くなと言ふなら、まづ自分が行かないことが良識といふものだらう。それなのに行つた人たちを、多くの人たちが同情できずに批判するのも理解でき る。

 一方、この事件の責任は政府にあると言つて、事件を政治的に利用しようとする人たちの愚かさには恐れ入つた。それは犯罪を利用することであり、犯罪者の 味方になることである。とても世論の支持は得られない。(2004年4月12日)













 憲法を文字通りに読めば自衛隊は違憲だし、首相の靖国参拝も違憲であらう。ではなぜ違憲な自衛隊が存在し、違憲な靖国参拝を首相はするのか。

 その答は簡単である。さうすることを多くの国民が望んでゐるからである。つまり、多くの国民は自衛隊が存在し首相が靖国を参拝することを望んでゐるので ある。もしそうでなければ、民主国家である今の日本でそんなことが出来るわけがない。

 元々アメリカ人が作つたこの憲法は日本人が現実に必要とすることを充分に満たしてはくれない。しかし、この憲法は改定しにくいやうに作られてゐる。だか ら、私たちは何とかやりくりして、この憲法が想定していない必要性を満たしてきたのである。それが自衛隊の創設であり、首相の靖国参拝だ。

 その間の事情を無視して「王様は裸だよ」と子供みたいに言つてしまふ裁判官が出てくるとすれば、それはさういふ裁判官しか育てられない制度が悪いのであ る。(2004年4月8日)














 日本でも憲法改正の議論が盛んになつてきたが、必ずしも憲法は書かれたものである必要はない。憲法とは国民がさうあるべきだと思つてゐることそのものだ からである。

 その日本で今新たな憲法が生まれようとしてゐる。それは「回転ドアは危険だから禁止する」といふ憲法である。

 既に日本の憲法には軍隊は危険なので持たないといふ条文がある。今度の条文はそれに次ぐ画期的なものである。

 憲法九条はすばらしいので是非とも世界に広めるべきだと言はれてきたが、それと同じやうに回転ドア禁止の憲法も是非とも世界中に広めなければならない。

 さもないとせつかく日本で回転ドアが無くなつて安全になつても、アメリカやフランスに行つた時に、また回転ドアに挟まれて日本の子供が死んでしまふかも しれないからである。

 しかし、残念ながら憲法九条と同じく回転ドア禁止条項も海外では採用されさうにない。だから日本の子供は自衛隊と同じく海外には行つてはいけないのであ る。(2004年4月3日)















 『論語』の有名な言葉に「巧言令色すくなし仁」といふのがある。岩波文庫はこれを「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、人の徳 は」と訳してゐる。

 ところが、アメリカの歴代の大統領で功績を残した人はみんなハンサムて、チビハゲデブの大統領は名前を聞いてもピンと来ない人が多いといふ新聞記事があ つた。アメリカでは「ことば上手」でなければ大統領にはなれないから、孔子の価値観とアメリカの価値観とは正反対だといふことになる。

 福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で弁論の重要性を説いてゐるから、この「巧言令色すくなし仁」にも勿論反対である。

 論語の二つめには「目上に逆らはないのが全ての基本だ」と書いてある。しかし、福沢に言はせれば、この「目上に逆らはない」は親子関係に適用するのはよ いが、それを政治に当てはめると専制になる。民主主義では政府と国民は対等でなければならないからだ。

 『論語』の有名な「一もつてこれを貫く」も福沢は『文明論之概略』の中で「時と場所に合せることの方が大事だ」と、反対してゐる。

 こんな風に福沢諭吉を読んでゐると『論語』は間違ひだらけの本に見えてくる。ところが、『論語』の教へは現代の日本人の価値観にかなり入り込 んでゐる。といふことは、日本人の価値観は間違ひだらけなのかも知れない。(2004年4月2日)














 明石の砂浜陥没事故で四人もの大人が起訴された。物事の判断のつかない子供が危険な場所でとつた行動の責任をとらされるのだから、気の毒なことである。

 明石の事故は六本木の回転ドアの事故とよく似てゐる。閉まりかけのドアにわざわざ頭をつつこみに行つた子供と、入らないように囲つてある場所へわざわざ 入つていつた子供。しかも、どちらの事故も親が近くにゐたのに起きた。

 ところがその場に居合せた親は何の責任も問はれず、その場に居なかつた大人が責任をとらされるのであるから、こんな理不尽なことはない。

 明石で死んだ子は4歳、六本木で死んだ子は6歳、どちらも何をしでかすか分からない年頃である。そんな子供の安全に対する責任は親が負ふしかない。子供 が何をしても安全な社会など作りやうがないからだ。

 こうなれば大人たちは自分が犯罪者にされないために、「お子様立入禁止」の札を至るところに貼り付けるしかないだらう。(平成16年4月2日)














 むかしラジオ番組で「我家の王様」といふのがあつた。この王様とは子供のことである。しかし、今や子供は家の中の王様どころか社会の王様になりつつあ る。

 子供が死んだと言つていくつ法律が作られたか。男女関係のもつれから娘を殺されるとストーカー防止法が作られ、酔つぱらいの運転手に衝突されて子供が死 ぬと危険運転致死傷罪が作られたが、いづれも大人が被害者なら無かつた話である。

 家で折檻される子供が可愛さうと児童虐待防止法も作られた。不登校になつた子供が教師を批判するとその教師が処分された。

 いま回転ドアで大騒ぎしてゐるのも死んだのが子供だからである。ドイツでも似たやうな事故があつたさうだが、大きなニュースになつてゐない。

 テレビや新聞には子供用のニュースがあるが、どれも新聞の社説で扱ふやうな難しい大人の問題を子供に説明するものだ。

 子供を大切にするのはよい。しかし子供を大人扱ひしたり、子供を上座に座らせるやうなことはいかがなものかと思ふ。(2004年4月1日)














 裁判に国民の常識を反映させるために一般人を裁判に参加させる裁判員制度が導入されるといふ。しかし、この常識といふものはくせ者で、建前ばかりのマス コミの主張とは食ひ違ふことが多い。

 例へば、回転ドアで子供が死んだのは親の責任だとは口が裂けても言へず頻りにビル会社の責任を追求してゐるマスコミに対して、インターネットへの一般人 の書き込みの大勢は「親が悪い」である。

 もしこの常識が裁判に反映されるならば、警察がビル会社の管理責任を問ふて告発しても裁判では無罪になる勘定だ。

 一般人はマスコミのやうに被害者にやさしくはない。加害者に対するのと同じだけ被害者にも厳しい目を向ける。バランス感覚から言へば、被害者を神様のや うに扱ふマスコミよりも、一般人の方がはるかに優れてゐると言へる。

 検察官に対する目も同様で、今よりもはるかに厳密な立証責任が求められるだらう。さうなれば今よりずつと無罪判決が増えることになる。常識を導入すると はさういふことである。(2004年3月30日)












 このところ連日、新聞の一面トップ記事は子供を挟んだ回転ドアの話である。まるで飛行機が落ちたかのやうな騒ぎやうで、子供の葬式にまでおしかけてマス コミの馬鹿満開だ。

 子供がドアに挟まれたのはドアが悪いのかと言へばそんなはずはない。運が悪かつたのである。そしてどうしても誰かの責任にしたいのなら、充分な用心深さ を子供に教へておかなかつた親の責任だらう。

 それを一生懸命ドアが悪いと言つてゐるのがマスコミである。彼らは自分の言つてゐることの滑稽さが分からないのである。

 確かに、ドアの管理責任はあるだらう。しかし、たとへ何らかの手落ちがあつたとしても、それで誰もが命を落とすかと言へばそんなことはない。

 そして人間は何かの手落ちを犯すものだ。だから、この世の中は落とし穴で一杯であり、それをくぐり抜けていくのが人生といふものだ。それに失敗すればそ れは自分が悪いか運が悪いとあきらめるしかない。人を呪はば穴二つなのである。(2004年3月29日)













  消費税がやつと内税表示になる。これまでの外税方式は自分は結局いくら払うのか計算機を手に持つてゐない限りレジに行くまでわか らないといふ不便なものだつた。

 それがこれからは自分がいくら払うかよく分かるやうになつていい。どうせなら値札にはいくら払ふかだけを書いてくれたらいい。

 一部には消費税額はいくらですと別に表示しろといふ声があるが、そんな面倒なことはする必要がない。

 もともと税金はあらゆる商品に含まれてゐる。酒にもガソリンにも消費税以外の税金が含まれてゐるのだ。それを消費税分だけ書けといふのは合理的ではな い。

 もし酒の値札にこのうち酒税はいくらと書いてあつたら、あまりに高い税金を見て酒を飲む気もなくなるといふものだ。それと同じで将来欧米並に消費税が引 き上げられたときに、消費税分が別に書いてあれば買い物が楽しくなくなる。

 税金の使ひ道は別の機会に考へればよいことである。(2004年3月28日)













 テレビのニュースがうざい。なぜ娯楽番組の合間にニュースを流すのか。ニュースを強制してゐるのかと思ふ。特にニュース速報がうざい。いかりや長助が死 んだからどうだといふのだらう。関係ないじやないか。

 私がテレビでニュースを見るのは、唯一NHKのBSニュース50だけだ。この番組は扱ふニュースの一覧表を見せてくれる。私はそれを見て、見たいニュー スがあればそれだけを選んで見るのだ。

 ところが、ラジオやテレビの大抵のニュース番組は放送局が勝手に選んだニュースを勝手にどんどん読んでいく。だから聞きたくもないニュースを無理矢理聞 かされることになる。

 その典型がラジオのFM放送だ。好きな音楽を聴いて気持ちよくなつてゐるところへ、突然北朝鮮の拉致問題のニュースなどを流して不愉快な気分にさせられ るのである。

 そもそもニュースだからといつても、誰もが知つておくべきものばかりではないし、人の不幸ごとが主で不愉快なものが多い。そんなものは個人の名前も含め ていちいち相手にしては居られない。

 テレビがデジタル化すればもつと専門チャンネル化して、ニュースを流さないチャンネルを作つてほしいと思ふ。(2004年3月24日)















 NHKには昔から「こどもニュース」といふ番組がある。ところが最近のものは「子供向け大人のニュース」になつてゐる。

 大人のニュースはあくまで大人が興味をもつて取材して作つたニュースである。それをいくら子供向けに丁寧に説明しても、子供は興味のある振りをしたり分 かつた振りをするだけだらう。

 人間には物心が付く年頃といふものがあつて、それ以前の子供は厳密には社会に暮らしてゐる人間ではない。だから社会の出来事、特に政治的なことには興味 が持てないし、いくら説明しても分かりやうがない。

 私の経験からいへば、新聞の社説を理解できるやうになつたのはやつと高校を卒業した頃からである。だから小学生に社説が扱ふやうな大人の問題を考へさせ るのは無理がある。

 それは子供たちを大人の社会の争ひごとに巻き込むことでもあり健全なことではない。それはパレスティナの子供たちの不幸を見ても分かろうといふものだ。

 「こどもニュース」は子供が取材して子供が作る子供にとつて興味のあるニュースであるべきだと思ふ。(2004年3月24日)














 テロによつて中東和平を常に破壊してきたハマスの指導者ヤシンをイスラエルが殺害したことを、欧州諸国が批判してゐる。スペインのテロが自国に広がるこ と恐れて、テロリストのご機嫌取りに転じたのだらう。

 世界がヤシン殺害をいくら批判しようと、彼がイスラエルにとつて犯罪者以外の何者でもなかつたことは、彼がこれまでずつと身を隠してきたことから明らで ある。

 ではこの殺害によつてマスコミの言ふやうに戦闘が激化するだらうか。

 まづ、これを理由にパレスティナがイスラエルに宣戦布告することはあり得ない。戦争になればパレスティナは敗戦によつて消えてなくなつてしまふ。またパ レスティナ政府がテロを奨励することもあり得ない。
 
 一方ハマスがテロを拡大すれば、それは自分たちが暗殺者集団であることを益々公然化することであり、ヤシン殺害を正当化することになつてしまふ。
 
 だからテロがこれまで以上に拡大することもありえない。むしろ精神的な支柱を失つたテロリストたちには死ぬ意味が無くなつたしまつたので、テロ攻撃は収 束に向かふのではないか。(2004年3月23日)












 恋愛関係でもない女と幸ひにもセックスができた場合には、男はしつかりと相手の女にお礼をしなければいけない。それが合意であるなら尚更のこと、ちやん と便宜を図つてやることだ。

 それをただで済まさうなどと虫のいいことを考へてゐると後でレイプかセクハラで訴へられて、遙かに高い代償を支払はされるのが落ちである。

 訴へられた男は自業自得であるが、そんな裁判を担当させられる判事こそはいい迷惑である。

 寝たら仕事をもらへると思つて寝たのに何もしてもらへなくて訴へる女は、金目当てに寝たのに払つてもらへなかつた売春婦と何の違ひもない。

 だから、担当の裁判官は売春婦の取り立て代行をやらされるのと同じで、まつたく御苦労なことである。 

 もちろん上司とすぐ寝るやうな女は仕事には使へないから、男はそんな女にはその場でなにがしかの金を握らせて帰してしまふことである。そうすれば少なく とも後で訴へられる心配はないはずだ。(2004年3月21日)













 プライバシーの侵害は何をおいても防ぐべきだといふ裁判所の決定は、知る権利などと称してやりたい放題のマスコミに歯止めをかけるものとして 歓迎できる。

 実際ニュースといふニュースはプライバシーの侵害だらけである。一体ニュースの中で個人名を公表することにどれだけの公共性があるのか大いに疑問だ。

 事件の被害者の名前をいちいち一般人が知る必要のないことは明らかだが、容疑者の名前さへも国民の全員が知る必要があるとは思へない。

 マスコミに見せしめの刑を行ふ権利があるはずもないが、どうしてマスコミは容疑者の名前を公表したがるのだらうか。

 もちろん容疑者は犯罪者ではない。いや仮令ひ裁判によつて犯罪者であることが確定したとしても、マスコミに加害者の名前を公表する権利が生まれるとは思 へない。

 それは相変はらずプライバシーの侵害である。プライバシーは基本的人権であり、基本的人権は誰が有罪になつても変はることのない権利だからである。 (2004年3月19日)














 東京地裁の週刊文春最新号に対する出版差止め命令を私は高く評価したい。

 以前に柳美里の小説『石に泳ぐ魚』がプライバシーの侵害だとして最高裁判所によつて出版差止めになつたことがある。

 この小説はモデルにした人の身の上を勝手に公表したものだが、決してその人の名前まで暴露したわけではない。それでも裁判所によつてプライバシーの侵害 が認定されたのだから、今回の週刊誌による実名記事がプライバシーの侵害となるのは明らかである。

 そもそも小説といふ芸術表現にさへ表現の自由に制限が付くのであるから、興味本位の週刊誌の記事に制限が付くのは当たり前である。

 週刊誌側には、プライバシーの侵害になるやうなことでも一旦記事にしてしまえばこちらのもの。あとで裁判になつて負けても百万円程度の金で済むといつた 安易な考へ方があるのではないか。

 今回の決定はそのやうな考へ方にきつくお灸を据ゑたものと言へる。(2004年3月18日)











 日本ではしばしば談合が問題になるが、これは公共工事の入札に限つたことではない。日本人はどんな結果が出るか運を天に任すことを嫌ふ傾向が あつて、この傾向は物事を決定するあらゆる場面に現はれる。

 裁判ではいつもさうだが、それはオリンピックの出場選手の選考のやうな場合にも顕著に現はれる。

 我々日本人は、何とかして出したい結果を話し合ひによつて出すことの方を好むのである。だから、陪審制のようにどんな判決が出るか分からない裁判方法は 嫌はれるし、一発勝負の選考会のやうに間違つて誰が勝つてしまふか分からない方法はとらないのだ。

 もちろん下した判断については色んな説明がつけられる。それは成績であつたり過去の実績であつたりするが、それはその時々の方便にすぎない。

 今回の女子マラソンの選考について言ふなら、小出監督の「高橋を選ばないではいられないはず」といふ傲慢な発言によつて、選考委員の間で高橋は出したく ない選手になつてしまつてゐただけの話である。(2004年3月17日)










 「コルレオーネさま、娘をひどい目に会はせたあの男を罰していただきたいのです」「罰するとはどういふことかね」「あの男を首にして欲しいのでございま す」「それなら娘に市長あての手紙を書かせなさい。私はそのことを記事にするから」

 「どうだね。願ひ通りになつただらう」「はい、コルレオーネさま。でも、あの男を首にすることはお願ひしましたが、校長の命まで奪はなくてもよかつたの です。おかげで娘はショックを受けてをります。それに、これではかへつて娘が学校に行きづらくなつてしまひました」

 「大丈夫だ。こんどは娘さんが学校に行くことを、記事にして流してあげよう。これであの学校には娘さんをいぢめるやうな人間は現れないから」「ありがた うございす、コルレオーネさま。おかげで、娘も何とか学校に行けるやうになりました」

 「ところでお前はこのお礼としてわたしに何をしてくれるのかね」「一生あなたのしもべとしてお役に立たせていただきます、コルレオーネさま」(2004 年3月11日)








 世の中自分に甘く他人にきびしい人が多すぎるやうだ。しかし、わたしは「人にきびしいのなら自分にもきびしくあるべきだ」とは言はない。そんなことは不 可能なので「自分に甘いのなら他人にも甘くあるべきだ」といふ。

 そしてこんな社会が実現したらさぞ住みやすい社会だらうと思ふ。

 さうなれば「高校生が少しぐらい酒を飲んでもいいぢやないか、わたしも若い頃はさうだつたから」と言へるし、「国会議員が秘書の給料をピンハネしたつて いいぢやないか、警察だつて裏金作りをしてゐるのだから」と言へるやうになる。

 「法律を作つても警察官も国会議員も守れないのだから、ほかの誰も守れないのは当たり前だ」と考へて、法律はどんどん廃止すればよい。

 それではまじめな人が馬鹿を見ると言ふかも知れないが、まじめな人はそれで満足してゐるのだからそれでいいのである。それに、誰でも多少のいんちきはし てゐるし、人に迷惑をかけてゐるものだ。だからお互ひに許し合へばいいのである。

 この社会で一番困るのは新聞ぐらいのものだらう。だから新聞記者は自分に甘く他人にきびしいのである。(2004年3月10日)










 「生き馬の目を抜く」といふがマスコミはまさにそのやうにして人の失敗に群がり、しくじりを犯した人間を犯罪者に仕立ててもつと不幸にしようとする。

 いま京都の鳥業者と元衆議院議員がマスコミといふ名のハゲタカの餌食にされてゐる。両者ともに必死に抵抗してはゐるが、無駄な抵抗である。

 マスコミが人の不幸に群がる有り様は事件や事故があつた地点の上空に集まるヘリコプターの群れに象徴されてゐる。あの光景はまさにハゲタカそのものであ る。

 ヘリは一台でも上空を飛べばものすごい騒音だが、それが事件現場の上空には四五台飛ぶのであるから、下に住む人間の被害は計り知れない。しかし、マスコ ミはそんなことにはお構ひなしの図々しさである。

 だからマスコミの取材ヘリが墜落して関係者が死亡したといふニュースが流れても同情する人は少ない。むしろ天罰だと思ふ人の方が多いのは当然である。

 人の不幸に群がるこのやうなマスコミの金儲けの仕方は総会屋や暴力団と大差ないものだが、警察の手先となることで、彼らはちやつかり正義の仮面を被つて ゐるのである。(2004年3月8日)










 新聞の記事の最後に大学教授の意見をのせたりすることでよく分かるやうに、マスコミは非常に権威主義である。

 だから政府を批判するくせに政府が決めたことにはよく従ふ。最近マスコミでは「看護婦」といはずに「看護士」といふのもその一つだ。かう言ひ替へれば男 女平等になるといふわけだ。

 しかし「看護士」といへば男を思ひ浮べるのが普通で、いくら政府が決めてマスコミが右にならつたところでこの連想を変へることはできない。

 仮名遣ひもで同じで政府に言はれると、出版社は本人が旧かなで書いた文章さへも新かなに変へてしまつたりする。岩波文庫は文語文の旧かなも新かなに変へ てしまつた。

 古文の素養もない人間が岩波文庫に手を出すとは考へにくひのだが、いつたい岩波文庫は誰を読者に想定してゐるのだらうか。「学問のすすめ」が旧かなだか ら読めない人は新かなでも読めないだらうに。(2004年3月7日)










 「謝つても済まない」とはよく言はれることだが、実際謝ることによつて状況は改善するより悪くなることのはうが多いものだ。

 最近でも京都の鳥業者が謝罪会見をした途端に告発話が出てきたし、秘書給与詐取の代議士も辞職した途端に逮捕されてしまつた。ハンセン病患者を拒否した ホテルも謝罪した途端に県知事に告発された。

 自分の方の旗色が悪いと見て謝るのはよくないのである。

 相手は自分の考へが正しいかどうか実はよく分かつてゐないことが多い。ところが謝罪を受けるとこれは自分は間違つてゐないどころか相手が間違つていたの だと確信を持つてしまう。さうなると相手はこちらを許してくれるどころか図に乗つてこちらを遣つ付けようとして来るのだ。

 物事にはいろんな見方があつて、自分のとつた行動はそのうちの一つに基づいたものである。それを別の見方から批判されたら激しく反論しなければならな い。食ふか食はれるかのどちらかなのである。「迷惑をかけました」では済まないのだ。(2004年3月7日)










 『嵐が丘』の新訳が新潮文庫と岩波文庫から相次いで出たので、本屋でちよつと覗いてみたがどちらも大した物ではなささうだ。エミリー・ブロン テの英語は 難しいので阿部知二でも誤訳だらけなのは有名だが、第一章にも注目すべきところが二カ所ある。

 ロックウッドがヒースクリフの犬に吠えかかられたときのせりふを「焼き印を押してやる」云々と訳してゐるか。ロックウッドの帰り際にヒースクリフの口調 が変つたことを「助動詞や代名詞を省いたぞんざいな話し方をやめた」といふ風に訳してゐるかだ。これらは間違ひなのだが、二つの訳はどちらもさう訳してゐ る

 これは正しくはそれぞれ「指輪の跡をつけてやる」と「助動詞や代名詞を省略した単刀直入な話し方になつた」である。

 最初のは「signetを押す」で、辞書を引けばそれが指輪に付いてゐる印章であることは誰でも分る。二つめについては、ヒースクリフはそれまで助動詞 や代名詞を省いたしやべり方などしてゐないし、「助動詞や代名詞を省略した話し方」はむしろ親しさの表れで、ヒースクリフはそれまでの慇懃無礼な調子を改 めたのである。

 実はこれらは『嵐が丘』に受け継がれてゐる誤訳の伝統の一つで、翻訳者といふものは自分の頭で考へるよりは既存の訳を見ながら翻訳するものだといふこと を如実に物語る例である。

 二つの訳は最初からこれであるから後は推して知るべしである。(2004年3月7日)










 『たそがれ清兵衛』は主人公の娘がナレーションをする。岸恵子の声だが婆さん声で、主人公の娘が昔を振り返る設定であることが最初に分る。

 家庭第一のサラリーマン侍で世間体を気にせず人付き合ひの悪い男が、女のことでトラブルに巻込まれ、剣の腕の立つことが藩に知れてしまひ、藩主から反対 派の討伐を命じられるといふストーリーだ。

 しかし、娘の回想なので、このストーリーとは関係のない話がたくさん入つてくる。娘の躾(しつけ)の話とか仕来たりの話とか主人公のものの考え方とか当 時の世相を写した場面、そして結婚の話が入つてくる。すべてが実に淡々とした感じで描かれる。

 あくまで娘の視点から描いてゐるから、命令で決闘に行くと決まつても、まづ映るのは刀を研ぐシーンである。長々としたプロポーズのシーンが決闘の直前に 来るのもそのためだ。

 描写が日常性を離れることはなく、つねに主人公に対して間接的なスタンスをとつてゐる。さすがに決闘シーンは迫力があるが、そこでも娘の父親像から逸脱 することはない。

 決闘が終はつても藩に報告に行くのではなく家に帰つてくる。そこには新妻が待つてゐるのだ。あくまでロマンチックな女の視点である。だから最後にお待ち かねの岸恵子が出てきて、話が完結するのである。7点(2004年3月5日)










 明石家さんまは御巣鷹山に落ちた日航123便に乗る予定だつた一人で、乗らずに命拾ひしたことを運が良かつたと言ひ、偶然のせゐにしてそれで終はりであ る。

 一方、乗つて命を落とした人の遺族は運が悪かつたと偶然のせゐにして終はりにせず、原因となつた責任者を探さうとする。しかし、明石家さんまは乗らずに 済むやうにしてくれた人を探さうとはしないだらう。

 オーストリアのケーブルカー事故でも、運が悪かつたといふ裁判所に対して、百人以上も死んで偶然といふことがあるかと遺族も新聞も怒つてゐる。

 事故や事件で死んでも、老衰で死ぬのと同じやうにそれが寿命だと考へる人は少ない。不幸は誰かのせゐにしたいのが人情である。しかしその人に出会つたの も運なのだ。

 身内の不幸に誰が関つてゐようが運のせゐにしておくのが人の知恵ではないか。不幸の原因を究明するのはよい。しかし、人を憎み恨むのは何とか避けやうと するのが賢明ではないか。(2004年3月5日)









 最近は本は古本屋で買ふが、古本屋にない本はインターネットで買ふ。しかし、いつも使ふ店に在庫がなかつたので、品揃へのいい都会の本屋に車で買ひに行 くことにした。しかしそれが間違ひだつた。

 電話で在庫を聞いて取り除けてもらつたまではいい。何といつても都会に車で行くには駐車場が心配だ。都会では田舎と違つてスーパーも図書館も駐車料金を とるのだ。

 それで車は手前の駅の近くの百円ショップの無料駐車場に止めて電車で行くことにする。JRのスルーカードが残つてゐるからそれを使へばよい。百円ショッ プをちよつと覗いてから駅まで歩かう。

 ひさしぶりの大きな本屋だ。いろんな本をゆつくりと見てこよう。あの本はあるだらうかこの本はどうだらうかと想像しながら家を出る。

 ところが物事は思ひ通りには行かぬものである。目当ての百円ショップの近くまで来ると、その店がない。世の中は移り変はるものである。それなら近くの スーパーの無料駐車場だ、と行つてみたら「一時間まで無料」に変つてゐる。一時間ではとても帰つてこれない。
 
 とにかく本屋の近くまで行つてみよう。さう言へば、公民館のやうなところがあつたと思つて行つてみると既に車で一杯だ。こうなれば路上駐車しかない。店 のある駅前のビルの下で、すでに路駐してゐるトラックの後ろにハザードランプをつけて止めて、急いで目当ての五階へ。

 ところが物事は予想通りには行かぬものである。エレベータの方が早いと飛び乗つたものの、五階のボタンを押しても動かない。で、四階を押すと動いた。降 りるとゲームセンターだ。受付の女の子に本屋にはどう行くのと聞く。

 すると彼女は何と「ここには本屋はありません。向こうのビルに移りました」だと。「えー」である。あわててビルを降りて車に戻る。車は無事だ。それで五 百メーターほど先のビルの前まで行く。
 
 路駐してビルに入ると五階は百円ショップと書いてある。表示を見ると本屋は別館の五階だ。別館はどこだと外へ出ると、少し先にある。また車を動かして、 路駐のトラックの後ろに止めて店に飛び込んだ。ところがエレベータがない。聞くと業務用だけだと。

 仕方がない、エスカレータだ。ところが、これが一人分の幅しかないエスカレータで前の人を追ひ越せない。じりじりしながら五階にたどり着くと即店員に声 をかけて、頼んでおいた本を買う。

 とても本屋の中を見て回るどころではない。またじりじりしながら狭いエスカレータに乗つて一階へ。通りに出ると、車があつた。サイドミラーには何もぶら 下がつていない。やれやれと思ひ乗り込む。

 いつのまにか私の車の後ろには何台もの車が止つてゐる。中から歩道を見ると、同じ本屋の袋を下げた女性が歩いてくる。見てゐると私の後ろの車に乗り込ん だ。あの女は俺より後から来たのに、慣れたものである。しかし、私はもう二度とここに車では来ないだらう。それにしても、世の中は移り変はるものである。 (2004年3月5日)










 最近私は本が買ひたくなつたらまづ古本屋に行くやうになつた。車で行ける範囲にある五六軒の古本屋を順番に回るのである。

 これだけ古本屋ができればそちらを使ふのが当然だらう。読みたい本は新刊書であるとは限らないし、本は新しさより中身の方に価値があるからである。

 とくに文庫本は古本屋の方が品揃へがよかつたりする。また昔出たままのまつさらな文学全集が並んでゐたりもする。読みたいものをそこから選んでゐる限り 普通の本屋に行く必要がない。

 私のやうに考へてゐる人は多いに違ひない。だから、新刊を売る書店はどんどんつぶれてゐる。以前よく行つてゐた書店に久し振りに行つてみるともう無くな つてゐるといふことが少なくない。

 雑貨類も同じである。百円ショップへ行けば、とても百円とは思へないものが百円で売つてゐる。だから、何か入り用ができればまづ百円ショップにいく。

 百円ショップと古本屋のおかげで世の中は随分変化してゐる。(2004年3月5日)










 オウム真理教の教祖麻原に死刑の判決が出たが、宗教の教祖が死刑になるのはこれが初めてではない。そもそもキリストがさうだつた。当時も新聞があればキ リストは極悪人として描かれたに違ひない。

 オウムは殺人事件を起こしたが、宗教団体が人を殺すのも今に始まつたことではない。キリスト教が殺した人間の数はオウムの比ではない。

 死罪になつてもキリストの信者は増え続けたが、オウムの信者も増えてゐる。オウムが単なる犯罪者集団ならさうはならないはずだ。

 憲法にある信教の自由は、日本人が血を流して自分で獲得して憲法に書き込んだものではない。だから日本人はオウムを信仰するのも自由なのかととまどつて ゐる。

 しかし、現実に生きた力を持つ宗教は部外者には気味の悪いものだ。だからその信者は犯罪者と見なされ実際に犯罪者となる。それは大本教からイエスの箱船 から白装束軍団までずつと同じことだつた。

 新聞は自分を民主主義の旗頭のやうに言つてゐるが、その不寛容さは民主主義とは対極のものだ。だから新聞はいつも宗教弾圧の急先鋒となる。(2004年 2月29日)










 いま話題になつてゐる裁判員制度で気に入らないところは、わざわざ国民を呼んで判断させておきながら、それが最終判断とはならないことだ。どうせ控訴さ れて結局は裁判官が決めるのであれば、はじめからさうすればいいのである。

 この制度の趣旨である裁判に国民の常識を反映させるといふことがそもそもをかしい。裁判官にもつと常識的な判断をさせたければ、裁判官に社会経験を積ま せるなりすればいいだけで、国民がわざわざ仕事を休んで彼らの手助けに行く必要はない。

 本来、裁判員制度や陪審制といふものは、官僚ではなく主権者である国民に最終的な決定権があることを示すものであつて、民主主義の象徴となるものであ る。だからこそ、欧米先進国の市民は自国の陪審制や裁判員制度を誇りとするのだ。

 それに対していま言はれてゐる制度は国民を裁判に利用しようとするだけで、わが国の民主主義とは何の関係もない。そんなものに協力するのはご免である。 (2004年2月29日)










 人生がつらければ自殺しても仕方がないわけではないし、社会がつらければひきこもつても仕方がないわけではない。しかし、学校がつらければ不登校になつ ても仕方がないのか。

 昔はいじめに会つても教師がいやでも子供は学校には行くものだつた。ところが、最近は子供が不登校になつたら、その原因を取り除かなければならないとい ふ風になつてきてゐる。

 しかし、学校は人が一般社会に出る予行演習の場であるといふことにかはりはない。否でも応でも学校には行くものだ。それさへできないものが社会に出られ るはずがないからである。

 教師が批判されたからといつて、不登校が正しいかのやうに考へるのは間違ひである。社会に出ればいやな奴ばかりである。だからといつて、人生やめたとは いかないのだ。

 どんが原因があらうが不登校は間違つてゐるのであり、不登校を許す親は間違つてゐる。

 この原則を崩せばそれは本人にとつての不幸であるだけでなく、ゆくゆくは社会が立ち行かなくなつてしまふだらう。(2004年2月26日)










 法は人を不幸にしないための道具ではなく、社会の秩序を維持するための道具でしかない。ところが、それが分からない世論に押されて、人を不幸にしないた めの法律がつぎつぎに作られてゐる。

 最近のストーカー防止法はその際たる例である。この法律は警察官をボディーガードのやうに扱はうとしてゐる。しかし、警察が守るのは、その人に危害が及 んだら社会秩序がこわれてしまふやうな重要人物であつて、一人ゐなくなつても社会全体に何の影響もない一市民ではない。

 いくら命が大切だと言つても、男女関係のもつれによつて恨みをかつた女性全員の命を守るには警察官の数は少なすぎる。本来、法はそのようなことのために 存在するものではないからである。

 児童虐待についても同じことが言へる。法によつて親の過剰な折檻から子供を守ることは不可能である。それがあたかも出来るかのやうに言ふ政治家は気休め を言つてゐるのだ。人が不幸になることを法によつて防ぐことは出来ない。法は万能ではないのである。(2004年2月26日)









 日本産婦人科学会が着床前診断を行つた神戸の医師を除名にするといふが、マスコミは医師免許も取り上げてほしさうにしてゐる。しかし、わたし には神戸の 医師の言ふことの方がはるかに説得力がある。

 着床前診断は危険な妊娠中絶よりはるかに安全だといふ主張は、まさにそのとほりである。中絶は母体に重大な影響を与へ、悪くすると二度と子供が産めなく なる。それに対して学会やマスコミが主張する社会の総意とは何なのか。それは妊娠中絶を罪悪視しないといふ総意ではないのか。

 実際、先進諸国で日本ほど妊娠中絶に対して寛容な国はない。アメリカ人は中絶は殺人だと大騒ぎするのに、日本人は水子地蔵を作つておしまひなのだ。いつ たい、産婦人科医が生命の誕生だけでなく中絶といふ殺人にも関つてゐることを、この学会はどう考へてゐるのか。

 中絶に対して少しでも罪悪感があるなら、誰が神戸の医師を非難することができるだらう。医者が人殺しであることに疑問を持たない社会こそが間違つてゐる のである。(2004年2月23日)










 ローマ字入力、JISかな入力、親指シフトと色々やつてきたが、どれも間違ひなく打てるやうになつたものがない。

 親指シフトならキーを打つ回数が減つて楽かと思つてやつてみたが、一つの文字を親指のシフトキーと合わせて打つのは結局二つのキーを打つことであり、 ローマ字入力とたいして変らないことが分かつてきてやめた。

 JISかな入力の魅力はやはり一つの文字を一個のキーで打てることである。

 確かに、このかな入力でも小文字を打つときはシフトキーを使ふからそのときは二度打つ勘定になる。しかし、それは小文字のかなを使はずに済むやうにプロ グラムしてしまへば解決できる。

 それには、辞書を作り変へればよいのである。その手順はシステム辞書をいつたんテキストファイルにして、エディタで小文字を大文字に一括置換してから、 「かな入力用辞書」として新たなシステム辞書を作るのである。

 ほかに「。」「、」も「る」「ね」で単語登録して変換で入力する。このやうにして「かな入力」すればほぼシフトキーからおさらば出来る。(2004年2 月22日)









 日曜日の昼にやつてゐる『NHKのど自慢』はつまらないが、実はこの予選の放送があつて、この方はおもしろいので深夜にもかかはらずついつい見てしま う。

 予選では歌の名前の順番に人が次々と舞台に出てきて、自分の選んだ歌の最初の部分を歌ふのであるが、本当の一発勝負でこれこそ真の「のど自慢」だ。本番 と違つて名前のテロップが全員出るのも好感がもてる。

 出てくる人出てくる人は見事なまでにみんな下手であり、その下手な人たちが如何にも自分をうまいと思つてゐるやうに歌ふのが可笑しくてついつい見てしま うのである。

 誰もが精一杯に歌ふのだが、その精一杯が空回りして、音程を外したり、声が裏返つたり、歌詞を忘れたりしてゐるのがおもしろいのである。

 恋の歌をそれとはまつたく似つかわしくないおじさんおばさんが顔を紅潮させて虚空を見つめながら、不自然に声を作つて歌ふのがおもしろいのである。

 緊張してマイクを逆さにもつて歌はうとして、ディレクターに直される老人が愉快なのである。

 さうして一生懸命になつてゐるところへ横から「ありがとうございます」といふ女性の声がきて突然終りになるのがおもしろいのである。

 かういふことが延々二時間半続くのだが、けつして退屈することがない。

 そんなにおもしろい人たちの間にごく普通に歌ふおもしろくない人たちが少しだけ混じつてゐる。その人たちが選ばれて出るのが日曜日の本番なのであるか ら、なるほど本番はおもしろくないはずである。(2004年2月22日)










 天理の小学三年の女児の不登校問題はマスコミの力の恐ろしさをまざまざと見せつけた。マスコミが子供の肩を持つた報道をしなければ、校長の自殺がなかつ たことは確かだからである。

 担任の教師が何を言つたにしろ、世の中が小三の子供の感情によつて左右されてよいはずがない。この問題はこの子供を転校させて決着すべきであり、子供の 言ひ分が通つた形での決着は学校といふ組織の崩壊を意味する。追ひ詰められた校長が自殺を選んだのは、その意味で当然の結末といへる。

 そもそも担任の発言を「差別発言」と決めつけた報道の仕方が間違つてゐたのである。子供が登校許否になつたことがその証拠にならないことは明らかであ る。

 かくしてマスコミは人の不幸に食らひついて、小さな問題を大きな問題に変へ、不幸な人間の数を増やしたのである。担任が交代しようがどうしようが、憂ふ べきはマスコミの力で学校に勝つてしまつたこの少女の将来である。(2004年2月22日)










 郵便局が公社化して以前のやうな横柄な局員は確かに少なくなつた。客に対して「いらつしやいませ」とか「有り難うございました」とか言ふやうにはなつ た。しかし、規則を杓子定規に押し当てるやり方は相変はらずである。

 例えば最近郵便局でも本人確認をするようになつた。しかし、特定郵便局の古株職員なら多くの客と顔なじみになつてゐて、どの客がどこの誰であるかは顔を 見れば分かるはずだ。それにも関はらず、そんな常連客に対して、本人確認の書類を持つて来いと何度も足を運ばせるやうなことをする。

 特定郵便局といへば地域に密着したサービスが売り物のはずである。それなのに、客へのサービスより何より規則が大切だという役人じみた態度が捨てられな いのだ。

 勤務の長い職員ほど地域との豊かな人脈を持つてゐるはずだ。しかし、それを宝として生かせない給料が高いだけの職員は、民営化を控えたこれからは生き残 つていけないと覚悟すべきだらう。(2004年2月16日)










 かつて中世には異端審問官といふ者がゐて、キリスト教の正当な教義に反する者たちを情け容赦なく断罪したものだが、いま日本でその役割を担つてゐるのは 新聞記者である。

 彼らは法律や権威に反した人間は誰であらうと徹底的に批判する。一国の大統領や首相を批判するのと同じ舌鋒をもつて、彼らはバスや新幹線の名もなき運転 手さへも攻撃する。最近は一人の医者が学会という法王庁の教義に反した異端者として糾弾の嵐にさらされた。

 何の権力もなく反論する力もないごく普通の一般人が一度ばかりのルール違反のために全国の新聞社によつて袋叩きにされることの恐ろしさは想像に余りあ る。まさに中世の魔女裁判もかくやである。

 しかも、この異端審問官は大抵は匿名であり、新聞社という大きな要塞に守られて、人間の姿を失つた怪物となつてゐる。不寛容の権化と化した彼らがもし中 世にゐたなら、全員一致でガリレオを牢屋に送り込んだことは疑ひがない。(2004年2月8日)










 今日、古本屋にある翻訳書を探しに行つたら一軒目に下巻が100円で売つてゐるの見つけて早速購入した。上巻を探しに次の店に行くと、こちらも値段を見 ると100円となつてゐる。

 上下200円とは大儲けだと思つて、余裕が出来たのでほくほく顔でほかにも二冊(それぞれ95円)棚から探してレジに行つた。一人待つてから、その三冊 を女の子に渡すと、レジを打つて「462円です」と言ひながら本を袋に入れてテープを貼つた。

 ナニ! 「そんなにする?」と100円の値札が見落とされたのかと思つて言ふと、女は袋のテープをはがして中から私が100円だと思つた本をサッととり 出してきて、値札の所を見せて「これはよその店の値札です」だと。

 さうか。「さつきの店で上巻を100円で買つた奴がその本をこの店に売つたんだ」と、独りごちながら私は引き下がるしかない。後ろには客が並んでゐるの だ。

 しかし考へれば考へるほど不愉快だ。100円で買へたものを250円で買はされたのだ。250円だと分かつてゐればほかの二冊は買はなかつたのに。 100円の本は100円で売れよ。この店の本は何でよその店より高いんだ。買取り値段がよそよりいいのか(実はここは一番安いらしい)。

 それに、なぜ値札が付いたままなんだ。あれではまるで100円だと思はせて騙して買はせてゐるやうなもんぢやないか。確かに値札をよく見るとよその店の 名前が書いてある。しかし、そんなことは客の知つたことではない。それにもし店の名前が無かつたらどうするんだ。

 そもそも女はレジを打つときにその値札を見たから、その本をすぐにとり出せたのだ。つまり、気づいてゐたのである。それなら、レジを打つ前にどうして客 にそれを伝へないのか。それをあとから「あなたの見間違いだ」と、大勢の前で客に恥をかかせることはないはずだ。

 おかげで私は損をした気分で家路につくことになつてしまつた。あれでも気の利いた店員なら、そして美人の店員ならきつとあんな事にはならなかつたらう。 それにしても、よその古本屋の値札ぐらいちやんと外してから売れよ。古本市場!(2004年2月4日)










 イラクでテロがあつたと毎日のやうに報道されてゐる。しかし、イラクは日本より広いから、どこかでテロがあつたとしてもイラク全体が危険地帯 になるわけではない。

 日本の自衛隊が行くところはイラクの南の端で、日本で言へば九州の宮崎あたりに相当するだらうか。それに対してバグダッドは東京だらう。テロがよく起き る北部のモスルは、東北の仙台あたりになるだらうか。

 そして、もし日本の仙台や東京でテロがあつたとしてもそれで宮崎も危険だとは誰も言はないだらう。ところが、テレビの報道から受ける印象は逆である。

 最近、イラクの中央銀行が外国の銀行の参入を認めたといふニュースが流れたが、イラクで中央銀行が機能してゐるとは驚いた。また、テレビに映つたバグ ダッドはまるでイスタンブールのやうに賑はつてゐた。

 「自衛隊が戦地に」といふ文句をよく耳にするが、いつたいどこが戦地なのか。勝手なイメージが独り歩きしてゐるとしか思へない。(2004年2月2日)










 狂牛病と鳥インフルエンザによつて、海外の肉が日本に入つてこなくなつて外食産業は困つてゐるといふ。

 しかし、そんなことより今回の騒ぎで焼鳥屋や牛丼屋の肉は実は輸入肉だつたと分かつたことの方が重大だ。我々は焼鳥屋に行つてこれはタイのニワトリの肉 だなどとは夢にも思はず食べてきたからである。

 もちろん、ニュースなどで外国から色んな肉が入つてゐると聞いたことはあるが、いま自分の口に入つてゐる肉がさうだとは誰も言はなかつた。

 主婦がスーパーで肉を買ふときには、国産でしかもどこの県の肉であるかを厳しくチェックしてから買ふ。もし外国産の肉を国産と偽つていようものなら犯罪 扱ひである。

 それなのに、外食産業は我々の口に入るものに輸入肉を使つていたのだ。そしてそれを今回さも当然のごとくにおほやけにしたのだ。これほど消費者を馬鹿に した話はない。

 我々は外食産業に同情してゐる場合ではない。大いに怒るべきなのだ。(2004年2月1日)










 アメリカから牛肉を輸入出来ないために、牛丼のチェーン店が牛丼をやめるといふので大騒ぎだ。しかし、牛丼を食ひたければそば屋にでも行けば いい。牛丼は牛丼チェーン店の独占物ではないのだ。

 ならば、なぜ牛丼チェーン店は牛丼をやめるのか。それは、彼らはうまい牛丼を売りたいのではなくて、安い牛丼を売りたいからである。客のためにうまい牛 丼を売りたければ、国産の牛肉を使つて値上げしてでも売るだらう。そして、そんなにうまいものならそれでも売れるはずである。

 ところがそれができない。それは彼らがこれまで牛丼を金儲けのためだけに売つてゐた証拠である。そんな牛丼が無くなるからといつて、それを惜しんで食ひ に行く奴がゐるといふ。

 彼らは、事態を牛丼チェーン店の言い分そのままに報道した一部マスコミに踊らされてゐるのである。もう一度言ふ、牛丼はチェーン店の独占物ではない。そ れどころか、あれよりうまい牛丼はどこにでもある。(2004年2月1日)










 今日イラクへの自衛隊派遣に関する国会承認が特別委員会で可決されたが、それを多くのマスコミが「与党の強行採決」と伝へた。テレビ局の中で はNHKを 除いた民放が軒並み「強行採決」と報じ、新聞の中にも「強行採決」と書いたものがある。

 しかし、「強行採決」といふ言葉は野党の立場からみた言ひ方であり、野党の意見の表明でしかない。与党に言はせれば、自分たちは「強行」などしてゐな い。野党が採決を妨害したのだと言ふだらう。

 もともと多くのマスコミは野党的であることを常としてきたが、それは真実をゆがめて報道する結果につながりかねない。

 英国ではBBCがイラクの大量破壊兵器について英国政府による情報操作があつたと報道したが、その嘘が明らかになつて会長と社長が辞任したばかりであ る。反政府報道に行きすぎがあつたのだ。

 日本の多くのマスコミはこの事件を他山の石として、事実と意見の区別をしつかり付けるやうにすべきだらう。(2004年1月31日)












 最近、古今和歌集や万葉集を読んでゐるが、それらと比べると失礼ながら新聞の和歌の投稿はどれも下手の横好きにしか見えない。

 今年の歌会始にしても一般の部は何万といふ中から選ばれたものにしては、それほど感動させられるものはあまり無かつた。だから、新聞の和歌は一週間の間 に来たものから増しなものを選んで仕方なく掲載してゐるものだらうと想像する。

 もちろん勅撰集と比べるのはフェアではない。しかし、新聞の和歌は日常の何気ない感情の起伏を捉へて藤原定家の「みわたせば はなももみじもなかりけり」を焼き直して作つたやうなものばかりになつてゐる。

 どうして、古今や万葉の歌に見られるやうな言葉遊びや生き生きとした感情の発露が忘れられてしまつたのだらう。

 どうして、今年の歌会始の皇后陛下の歌のやうな楽しい、しかも感動させられる歌が一般から生まれてこないのだらう。

和歌の欄は新聞の中で唯一歴史的かなづかひが使はれてゐる紙面である。

 しかし、歴史的かなづかひを捨てて過去の日本と断絶した日本人には和歌を作るのはそれだけ難しくなつてゐるといふことなのだらうか。(2004年1月 29日)










 「157キロの琴光喜を朝青龍が仰向けに持ち上げた瞬間、国技館に戦りつが走った」。今日の毎日新聞のスポーツ面である。

 この「戦りつ」といふ言葉は「戦慄」のことだらう。しかし、「慄」が常用漢字でないためにかういふ書き方をしたのである。

 ところで、この「戦りつ」の意味が分かるためには「戦慄」といふ熟語を知つてゐなければならない。逆に、この熟語を知らない者には、いくら「戦りつ」と かな混じりで書かれてもその意味は理解できないのだ。つまり、こんな書き方をしても読者には何の役にもたつてゐない。では、いつたい何のためにこんなこと をするのか。

 それはひとへに昔の文部省が決めた常用漢字表を守るためである。これがいかにくだらないものであるかを知つてゐても守るのである。かな交じりの熟語がい かにをかしいと思つていても守るのである。

 いつも政府の改革の遅れを批判する新聞がこの無意味な慣行をうち破れずにゐる。実に笑ふべきことである。(2004年1月21日)










 荒れる成人式が今年も問題になつてゐる。もちろん暴れる若者に非があるのは当然だ。しかし、さういふ人間を育てたのはどこの誰なのかを私は問 ひたいと思 ふ。成人式の会場にて来てゐる若者は、どこでもないまさにその町その市その県で教育を受けた若者たちだからである。

 といふことは、成人式で暴れる人間が出るとすれば、それはその町・市・県の教育が失敗だつたといふことではないのかといふことになる。少なくとも、その 地域でどういふ教育が行はれていたかが、成人式の場において白日の下にさらされると言つていいだらう。

 だから、成人式が荒れたとすれば、その責任は第一には暴れた若者本人にあるが、その次にはその地域の小中高の教師たちにあり、ひいてはその上司たる首長 にあると言へる。

 ところが、その首長の中に暴れた若者を警察に告訴すると言つているものがゐるといふ。

 成人式といふのは単に子供が大人になつたことを祝ふための式ではない。それはその地域の子供の教育の仕上げの式であるはずだ。告訴するといふ市長ははた してそんな心構へもつて式に臨んだかどうか。(2004年1月20日)











 交際をうまく終へられないからといつて警察に頼る女性がゐるが、そんなことをしてはいけない。

 交際を断わるだけですでに相手の人格を否定してゐる。その上に警察沙汰にして相手を犯罪者扱ひすることは、相手の社会的な存在までも否定することになつ てしまう。

 しかも自分が恋する相手の自分に対する評価は絶対だ。そこにはどんな逃げ道もない。つまり、それは男に死刑を宣告するに等しいのである。自分の全存在を 否定された男に残された唯一の道は、その原因となつた女性を殺して自分も死ぬ以外にない。

 犯罪はたいていの場合必然的であるが、これほど必然的なものはないのである。この犯罪は本人の意思ではもはや避けやうがない。

 ストーカー防止法は米国の禁酒法と似てゐる。この法律のせゐでかへつて被害者になる女性は増えるばかりだ。

 しかし、女性にはまだ自分の身を守る方法がある。それはこの法律を利用せず、第三者に頼らず、相手の気持が冷めるのを辛抱強く待つことである。 (2004年1月18日)











 芥川賞の発表があったが、インターネットの掲示板では受賞者に対するやっかみがすさまじい。ほかにこれ程一般から妬まれるものがあるとすれば、タレント の結婚ぐらいだろうか。

 この原因は、この賞に対するマスコミの必要以上の注目のほかに、芥川賞の対象が私小説で、これなら誰でも書けるという思いが一般にあるからだろう。誰も 自分の手に届かないものを妬まないからである。

 しかし、これは別の見方をすれば、誰でも小説の一つぐらいは書けると思えるくらいに一般人の国語力が向上したということである。これは現代仮名遣いと当 用漢字を採用した戦後の国語改革の成果の一つにちがいない。

 昔は一般人はそもそも字が書けなかったから、小説を書くなど思いもよらなかった。私の祖父の世代でさえも読み書きのできない人はざらにいた。とくに女性 はひどかったものだ。

 それが十代で一人前の女流作家が生まれる時代になったのである。戦後教育もあながち捨てたものではない。(2004年1月16日)









 小泉首相は自衛隊のイラク派遣について二分する世論を、幕末の開国と攘夷の対立にたとえながら自分の決断の正しさを訴えた。

 首相の立場は幕末でいえば井伊直弼であろうか。当時日本の開国を決断して外国と通商条約を結んだ井伊直弼は、それに対して執拗に反対する人たちを片っ端 から殺してしまった。安政の大獄である。

 それに比べたら今はいい時代になったもので、自衛隊のイラク派遣にいくら反対したところで殺される心配はない。自由にものが言えるということはありがた いことである。

 しかし最近、自衛隊の師団長が隊員の雪祭りに対する協力は義務ではないと言い、防衛庁の長官が武器輸出三原則の見直しを言うと、黙れと言う人たちがでて きた。

 自由にものが言えることを、自分にとって耳障りのよい意見だけに限定したがる人たちがいるのである。いつの時代でも権力を手にした者は自分の考えに反対 する者の口を塞ぎたい誘惑には勝てないのだろうか。(2004年1月16日)









 一月九日の産経抄は「ありがたくも日本の皇室はご一家なごやかな家庭を営まれ、世界とわが国の平安を祈って下さっている。静淑なる皇室こそ理 想の姿である」と書いた。

 しかし、静養中の雅子妃がその同じ日に「結婚以来、慣れない環境の中での大きなプレッシャーのもとで、心身の疲労が蓄積され」たために病気になったと思 うという談話を発表した。

 これは「なごやかな家庭」を営んでいる人の言葉ではない。表向きは静淑でも彼女の身体は異常を訴えていることを自ら認めた言葉である。

 結婚して十年も経つのにいまだに「慣れない環境」とか「大きなプレッシャーのもとで」という言葉が出てくること自体おかしなことだ。いまだに嫁ぎ先に慣 れないでいるのは幸福な結婚とは言えない。

 彼女には本音を語る相手がいないのではないか。今の女性は結婚しても実家と常に行き来するのが普通だ。少なくとも、雅子妃ももっと自由に里帰りできるよ うにすべきではないか。(2004年1月10日)










 静養している皇太子妃が現在の心境を発表したが、非常に心配な内容である。

 帯状疱疹で入院したことについて、「結婚以来、慣れない環境の中での大きなプレッシャーのもとで、心身の疲労が蓄積されていたことの結果」だと思うと書 き、その上に子供の養育の負担が重なって体調がすぐれないというのだ。

 これは「この結婚は失敗だった、子育てもうまくいっていない」と言っているように受け取られかねない内容である。嫁ぎ先の不満を言っているようにさえ聞 こえる。

 雅子妃が尋常でない状況に置かれていることは、自分の子供を宮の名前で呼んでいることからも充分に察せられる。

 しかし、病気は病気だろう。それをわざわざ結婚や子育てに関係させる必要はないはずだ。自分で選んだ道であるならなおさらである。

 ところが、あの気丈な女性がこんな弱音を吐いている。これはよほどの事があると考えるべきである。これはSOSのサインではないのか。もう限界だと言っ ているのではないのか。国民は彼女の言葉をもっと真剣に受け止めるべきだろう。そして、もし無理ならもう戻ってきていいよと彼女に言ってあげるべきではな いだろうか。(2004年1月10日)










 モンタネッリの『ルネサンスの歴史』(中公文庫)は読んで面白い歴史書である。基本は個人の伝記であるが、その中で歴史の大きな流れが読みと れるように なっている。

 伝記にはその人物の外見と性格的特徴が詳しく書いてある。それもかなりはっきりとちびはちびはげははげと書いてある。

 例えば、ミケランジェロは「友人を作らず、酒場や遊郭に通わず、女には目もくれず、汚れた服を着、髪はくしけずらず、めったに身体も洗わず、着のみ着の まま、長靴もはいたままで寝た」という具合であり、イグナチウス・ロヨラは「体格が貧弱だったせいもあって、肉欲にはあまり苦しまずに済んだ。彼は小柄で 痩せており、若禿で、黒く鋭い目を焼く熱で身を細らせているように見えた」となる。

 また、歴史上の重要な出来事も具体的に分かりやすく書かれているので世界史の動きが理解しやすい。

 例えば、宗教改革は教会の腐敗に対する批判から始まったが、その出発点がイギリスやドイツの王たちの教皇庁に対する寄付の出し惜しみであり、その本質は ルネサンス=異教文化の否定であったことを、筆者は鋭く描いてみせる。

 しかし、宗教改革の最大の成果は彼に言わせれば、個人の良心に目覚めたカルビニストだった。カルバン派の人たちは教育によって文字を学び聖書を自分で読 み、聖書の中に自分で指針を見つけようとした。彼らは各人が自分の行為の責任を直接神に負っていたのだ。

 さらに、ここから宗教的平等感と個人の責任に支えられた真の民主主義が生まれた。この泉から発しない民主主義はすべて模造品に過ぎず、最後までまがい物 の限界を脱することはできないとまでいう。

 だから、筆者にとって一番残念なことは宗教改革がイタリアで起こらなかったことだ。おかげでこの国には「個人の権利義務の意識がなく、それゆえ独裁的な 権力をふるっても抵抗がなかった。反宗教改革が勝ち誇る中で、イタリアはすべてに従順になり、ご無理ごもっともになり、何でも長いものには巻かれるように なった」と嘆くのである。

 彼はイタリア人だけに当然イタリアを見る目はきびしいようだ。

 しかし、この本で一番面白いのは、スキャンダラスなことが遠慮なく書いてあることだ。エラスムスは司祭の隠し子であり、イグナチウス・ロヨラはびっこに なったために信仰の道に進んだのであり、エリザベス女王は女性として肉体的に不完全であり、ラファエロは房事過多で早死にしたのである。また、ほとんどの ローマ教皇が神学には無知だったとも書いている。

 この本はこういう週刊誌的興味によって読者を何とか最後まで引っ張っていく。この歴史書に難点があるとすれば、それは記述の中心が個人の伝記であるため 時代が行ったり来たりすることと、日本人には馴染みのうすい教皇たちが次々と登場することだろうか。(2004年1月10日)










 朝日新聞は首相の靖国参拝を批判する1月4日の社説では、これで日本は国際社会で孤立するだの、6か国協議に水を差すだの、日韓の経済関係を損なうだの と、現実性に乏しい屁理屈を積み重ねて、あげくに自衛隊のイラク派遣にまで関連させようとした。

 しかし、この空想たくましい社説のなかで「中国や韓国が首相の靖国参拝を非難するのは、A級戦犯がまつられているからだ」ということだけは事実である。

 では、朝日はA級戦犯をどう扱うべきだというのだろう。B級戦犯やC級戦犯は許せるがA級戦犯だけは、永久に許すべきではないというのか。

 朝日は今日の社説で靖国とは別の追悼施設を早く作れといっている。しかし、別の施設にA級戦犯を含めるかどうかは書いていない。中国と韓国が批判するよ うなことは論外なのか。

 問題の本質は日本が今後A級戦犯をどう扱うべきかに尽きている。それを回避して別に施設を作っても何の意味もないのである。(2004年1月8日)










 欧米のニュースを見ていると、事件や事故の被害者や関係者が直接登場する場合以外に、単に名前だけが公表されるということはないことがわか る。

 ところが、日本のニュースには個人の名前がどんどん出てくる。火事でも交通事故でも誰かが死んだといっては名前が出てくる。飛行機が落ちたりしたら一覧 表で出てくる。そこには何の遠慮もない。

 最近日本では個人情報保護法というものが出来たそうだが、いったいどこで保護されているのだろうか。個人の情報が最も保護されるべきなのは報道に対して である。ところが相変らず何にも保護されていない。いったいこの法律は何のために作られたのかと思うほどである。

 そもそも報道によって我々が知りたいのはどこの誰が事件に遭ったかではなく、どんな事件があったかである。それが誰であるかは知る必要がないし、知って もどうしようもない。知人の事故を知るのに報道は必要ないのだ。

 実名報道はニュースが嘘でないことを証明するのには役立っているだろう。しかし、それは報道機関の都合でしかない。そんなことのために、個人の情報が利 用されてよいはずがない。

 報道機関は、本当に個人情報を尊重すべきだと思うのなら、実名報道は当事者か遺族の承認を得てから行なうべきである。(2004年1月4日)










 新聞の世論調査を見ていると面白いことがよくある。

 毎日新聞社は2001年に小泉首相の靖国参拝について「参拝してよい」と「すべきでない」に分けて聞いたところ69%対21%と、国民の7割もの人が首 相の靖国参拝に賛成しているという結果になった。

 しかし、この聞き方では「首相が参拝したければすればいいじゃないか」と思う人も『参拝してよい』に入れた可能性がある。そこで2003年の調査ではこ の年の首相の靖国参拝について「評価する」と「評価しない」に分けて聞いた。すると47%対43%となって「ほぼ二分され」るという結果がなったのであ る。

 しかし、この年の首相の参拝は1月であって終戦記念日ではなかった。だから、この聞き方だとそのことに不満を持つ人が「評価しない」に入れた可能性があ る。

 聞きたいのは要するに首相の靖国参拝はよいか悪いかなのだが、少し聞き方が違うだけでこんなに大きく数字が違ってしまった。つまり、世論調査の結果は聞 き方次第だということである。(2004年1月3日)










 小泉首相は、日本政府が仮に対米追従であったとしても対中追従ではないことを、靖国神社に参拝することによって示したと言える。

 イラクに対する自衛隊の派遣を対米追従であると批判する人たちは、首相の靖国参拝が対中追従でないことをどうして誉めないのだろう。彼らは外国に追従す るのはよくないと言っているのではないのか。それとも追従するのがアメリカなら悪いが中国なら悪くないと言っているのだろうか。

 確かに、政府は何をするにせよ他国に追従するのはよくないだろう。しかし、アメリカに追従するのはよくないが中国に追従するのはよいとすれば、その理由 は何だろうか。

 もちろん、彼らは首相が靖国参拝をやめることは対中追従ではないと言うだろう。それはアジアの平和に貢献することだとでも言うだろう。それなら政府はそ れと同様に、イラクに自衛隊を派遣することは対米追従ではなく中東の平和に貢献することだとすでに言っているではないか。(2004年1月3日)










 今日のNHKのニュースの中に「小泉総理大臣の靖国神社参拝が両国の間の懸案である状態が続いており」という表現が出てきたが、これはおかし い。

 首相の靖国参拝が両国間の懸案であるというのは中国側の意見でしかない。NHKは中国側の意見を事実として報道するのだろうか。

 また、仮にもしこれが日中両国の共通の認識であって、日本政府や外務省も中国と同じ様に考えているとすれば、今度は政府がそれと知りながら自分で懸案事 項を作り出していることになってしまう。

 確かに、政府の一部の人間はそう思っているかもしれないが、政府の代表者である首相がそう思っていないことをくり返し述べている。にもかかわらず、この ような表現をすることは首相の部下の意見を政府の意見として報道することになり不適当である。

 いずれにせよ、NHKの内部には事実はこのとおりだと思っている人間がいることは確かで、まったく自国の政府を馬鹿にした話である。(2004年1月2 日)










 中国の国民総所得が日本を追い越そうとしていることを大げさにいう人がいる。しかし、中国の人口は十四億もあるため、中国が経済大国になるこ とはありえ ない。

 中国の国民総所得が日本と同じであっても、一人あたりの国民所得はそれを十四億で割らなければならない。だから、日本と比べたら、中国人は全体として相 変わらず貧しいままである。

 中国の面積はアメリカと同じくらいなのに人口はアメリカの五倍もある。だから、中国がいくら経済的に発展しても一部の人間だけがいい思いをするだけで国 民みんなが豊かになることはない。

 貧富の差は益々開いていき不満が社会に充満してくるため、とても民主化する余裕はない。そんなことをすれば共産党は政権の座から追われてしまうからであ る。

 しかし、自由にものを言えない国民が自由な発想を前提とする資本主義の世界で高い地位を占めることはあり得ない。中国は今後も安い労働力によって海外の 資本家のために働く、世界の労働大国の地位に留まるしかないのである。(2004年1月1日)



私見・偏見(2003年)




 先日古本屋で新潮社日本文學全集という赤い箱入りの本が並んでいるので開いてみると、そのなかに旧仮名遣いのものがある。これはおもしろいと思って一冊百円なので旧仮名遣いのものだけを全部買って帰った。

 戦前の作家はみんな旧仮名遣いで書いたが、それをそのまま読むには新刊では個人全集ぐらいしかなく、とても値が張る。古本でも今では旧仮名遣いのものはなかなかない。それが捨て値で売られているのだから喜んで買ったわけだ。

 現代仮名遣いは旧仮名遣いよりも実際の発音に近づいた表記方法ではあるが、発音どおりではない。例えば「~しよう」と書いて「~しよお」と読む。「お」で終わる文は見た目に美しくないから旧仮名遣いの「う」は残したのだろう。

 こんな風な間に合わせのものだから、それなら昔のままでいいじゃないかと旧仮名遣いを使う人たちがいるのも無理はない。しかし、旧仮名遣いで書くのは大変で、たとえば三通りの「い」(い、ゐ、ひ)の使い分けを知っていなければいけない。

 もっとも、旧仮名遣いで書くときにも漢字を多く使えば旧仮名遣いの出番はあまりないのだが、そこまで行かなくても私のように読むだけは旧仮名遣いでという人は増えているのではないか。(2003年12月31日)






 『伊勢物語』というと、在原業平(ありわらのなりひら)という色男の一代記のように言われているが、実際に読んでみると違う印象を受ける。私の印象では、これは在原業平の歌の自慢集である。

 『伊勢物語』は百二十五の話からなっているが、その多くは彼がどんな機会にどんな上手な歌を作ったかを記録したものである。それを集めて年代順に並べたのが『伊勢物語』なのである。

 色男の一代記なら女性遍歴が主題でなければならないが、女のこととは無縁の話もたくさんある。そういう話では、沢山の人がいた中で業平の歌が一番よかっ たとか、あとの人は気が引けて歌うのをやめてしまったとか、彼の歌でみんなが感動したとかいう自慢話の面がはっきり出てくる。

 昔も今も和歌を作るのは簡単なことではないのだ。たいていは五七五の字数を合わせるのに精一杯で、その上で美的価値のあるものを作るなどとても出来るこ とではない。ところが、在原業平はそれがずば抜けてうまかった。しかも、その歌は古今集の時代の歌のなかでも、凝りに凝った複雑な歌で技術的に完成された ものだった。そのことが『伊勢物語』を読むと分かるのである。

 だから、『伊勢物語』を読んでいると、全体を今の順に並べた人は別として、個々の話を書いたのは在原業平自身だとしか思えないのである。逆に、これを 『好色一代記』や『ドンファン』のようなものと思って読み始めると、話として面白いのは五つ(第4、6、62、63、65段)ほどしかないので退屈して途 中で投げ出してしまうだろう。この本はあくまでも和歌を楽しむ本なのである。(2003年12月31日)







 NHKの『映像の世紀』には、動画を使えば歴史の真実をまざまざと伝えられるという思いこみがある。

 しかし、過去の動画からは人間の滑稽さばかりが見えてくる。歴史上のどんな悲惨な出来事も、動画で見ると何をそんなに動き回っているのかと思われることのほうが多い。

 だから、NHKはやたらと深刻な音楽とナレーションを付け加えた。

 しかし、もともと生物としての人間の存在には何か特別な価値があるわけではない。人間はゴキリブリよりも深刻な生き物ではないのだ。人間の命を価値あるものと見るのは、人間の独善的な想像力のおかげでしかない。

 ところが、動画は自由な想像を許さない。動画では、人が射殺されるということはステンとこけるだけなのである。それに比べるとむしろ写真の方がインパクトが強い。写真はそこに含まれている意味を想像で補う必要がある。それがかえって写真の真実性を増大する。

 動画に写った人間の姿は滑稽であり、音楽とナレーションは脚色でしかない。それで歴史の真実が伝わると考えるなら、それは早計というものである。(2003年12月24日)






 今年はフランスについて考え直したくなることが色々あった。

 その第一は、夏の猛暑で何千人もの老人が死んだことである。なんとフランスの老人ホームにはクーラーがない。一般の家にもクーラーはあまりついてないのだ。

 その第二は、フランスではレストランに修行に来ている外国人に給料を払わないということである。

 もともとフランスで毎日のようにストと洪水があることは、テレビのニュースで知っていた。
 
 ストは人権意識が高いからだと思っていた。しかし、先進国のフランスで毎日のように洪水があるのはおかしい。また、フランスの夏は涼しいからクーラーは いらないと言う人もいるが、実際にフランス旅行をした日本人はクーラーのない生活にかなり面食らうらしい。それに、日本でなら何の役にも立たない新人にも 10万円ぐらいの給料はやるものだ。

 ここらから考えられるのは、フランス人はかなりケチなのではないかということだ。レ・ミゼラブルでコゼットを酷使したテナルディエ夫婦は決して誇張ではなく、フランス人は川の堤防にも従業員の給料にもケチっているのではないか。

 さもなければフランスは貧しい国なのである。フランス好きの人にはそれもこれも文化の違いと言いたいかもしれない。しかし、人をただ働きさせたり老人にクーラーを使わせないような国はやはり豊かな国ではない。(2003年12月23日)






 毎日新聞社が世論調査を発表したが変な内容である。

 見出しは「自衛隊イラク派遣:反対54%と過半数」となっている。この数字は、この新聞社が自衛隊のイラク派遣に反対していることを考えるとかなり少ない数字だ。賛成している新聞社の調査では、条件付きながら賛成している人が七割近くにのぼるからである。

 さらに、この記事の下の方を見ると何と内閣支持率が前回よりも6%も増えたと書いてある。この新聞の調査で多くの国民が反対していると分かった政策を実行しようとしている当の首相の支持率が増えたとはどういうことなのか。

 また、イラク派遣反対の理由のなかで「軍事以外の方法で貢献すべきだから」が最も多かったそうだが「軍事」とはどういうことだろう。自衛隊はイラクに戦争をしに行くのではない。それとも、この新聞社は自衛隊がすることは全部軍事だと思っているのだろうか。

 まったく新聞社の世論調査とはいい加減なものだと思わせる記事である。(2003年12月22日)







 「あの頃、もし日本に骨髄バンクがあり、あなたのドナー登録があったなら、きっと僕らは、46歳の夏目雅子さんに会えたにちがいない」。公共広告機構による骨髄バンク登録キャンペーンのテレビCMのせりふである。

 わたしはこのあとに続いて、いつもテレビに向かってこう言っている。

 「でも僕らは、日本に骨髄バンクがなくても、47才の浅田美代子さんに会えたし、52才の天地真理さんにも会えた。

 「僕らが、もしいま46才の夏目雅子さんに会えたとしても、それはお笑い番組で活躍する夏目雅子さんかもしれないし、ぶくぶくに太った夏目雅子さんかも知れない。

 「でも、日本に骨髄バンクがなくても、あなたのドナー登録がなくても、僕らの夏目雅子さんは、僕らの心の中で永遠に生きている。僕らの夏目雅子さんは27才の永遠に変わらない夏目雅子さんでいつづけてくれている。公共広告機構です」

 なお最近、骨髄性の白血病を骨髄移植をしなくても治せる薬がスイスのノバルティスファーマ社によって開発されたそうである。(2003年12月18日)






 昔、『現代文の書き方』(扇谷正造著 講談社現代新書 絶版)という本を読んだことがある。その中に引用された『とけちゃった』と題する文章が印象的で、それだけはよく覚えている。

 社会党の浅沼稲二郎がアメリカを日中共同の敵とする声明を北京で発表して物議をかもしたあと、次に北京に行った鈴木茂三郎も北京のペースに巻き込まれて浅沼の声明を修正することができなかった。

 それについて阪本勝は、何でも溶かしてしまうヒトデや巻き貝の話をした後で次のように書いた。

「北京という古都はあやしくも美しい町である。しばらくあすこにいると、何千年の文化のうちに育った触手がわれわれの体中にへばりつき、触手の先から分泌液が出て、溶かされてしまいそうな気分になるのはふしぎだ。
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 分泌液をたっぷりたたえてニコニコしていれば、来るもの、はいるものがみな溶けてくれる。それが五千年の高血圧にたえてきた中国のお家芸というものだ。

 鈴木のモサさんも溶けちゃった。ああ、溶けちゃった」

 最近ブッシュ大統領は中国の首相と会談後、台湾が計画している住民投票に反対する声明を出して、台湾政策変更かと物議をかもしている。北京に行かなくてもブッシュさんは溶けちゃったのだろうか。(2003年12月18日)







 マスコミのニュースが如何に間違いだらけであるかは、身近なニュースを見ればよく分かる。

 例えば、最近近くの国道の交差点で人身事故があったが、ある新聞は現場の片側二車線の道路をなぜか「現場は片側三車線の直進道路」としていたのだ。また、私の親戚の集合住宅が火事になったときも住所を間違えた記事が流れた。

 もちろん、マスコミがニュースの正確さを第一に考えているなら、たまに間違うのは仕方がない。人間は間違うものだからである。

 しかし、実際のところマスコミは正確な事実を伝えるより、いかに出来事を自分の主張に有利に利用するかばかり考えているようだ。その結果、これはニュースではなく記者の意見じゃないかと思えるような記事が世にあふれ返っている。

 意見は意見として大切なものだが、それは社説などに書くべきものであってニュースの中に含めるべきではない。いわんや自分の意見で事実を脚色するなどはもってのほかである。(2003年12月18日)








 広葉樹に代えて杉などの針葉樹が至る所で植林されたために花粉症が広まったことはよく知られている。しかし、針葉樹の植林は人間の体だけでなく海の生物にも影響を及ぼしているらしい。

 山が針葉樹ばかりになると、広葉樹の落葉による腐葉土が育たなくなり、そこに含まれる微生物や鉄分などが作られなくなり、それらが雨水とともに海へ流れなくなり、海で海草が育たなくなり、それを食べる生物が育たなくなるということだ。

 自然は至るところで結び付いている。山は山だけで海は海だけで存在するのではなく自然は全体として一つなのだ。人間もまたその自然の一部である。その自 然に人間が手を加えれば、その影響は必ず人間に返ってくる。しかも、それがどんな深刻な影響であるかを人間は予測できない。人間の知恵はたかが知れている のだ。

 だからこそ、資源を再利用するリサイクルは自然をできるだけ変えないための手段として人間にとって重要なのである。(2003年12月17日)








 私は自分の考えを四百字ぐらいの短文にまとめて自分のホームページに掲載したり、新聞に投稿したりするのが趣味なのだが、一時期全く書かなくなったことがある。2チャンネルに投稿していたからである。

 2チャンネルに投稿するのも短文にするのも出発点は同じで、それは世の中の出来事について心の中に湧いてきた非常に感情的なものである。

 短文を作るにはそれを感情的なままではなく、感情を原動力にしながらそれを論理的なものにしていく必要がある。ところが、2チャンネルの場合は、感情的 なものを殆どそのまま書き込めばよく、それで感情的な満足が得られるから、それ以上文章にする必要がなくなってしまったのである。

 しかしながら、2チャンネルは人との意見交換によって有益なこともあるが不快なことも多く、何かで書き込めなくなったのを機にやめてしまった。するとまた短文を書きたくなった。私にはこちらの方が向いているようである。(2003年12月16日)








 新聞の訃報欄に時々「葬儀は近親者だけですませた」という文がのっている。かっこいいなと思う。幸福な人生を送った人が小さな葬式を選ぶのだろうかとも思う。

 しかし、田舎では今でも大きな葬式をするのが普通だ。

 生きている間にほとんど目立たなかった普通の人々が、初めて大勢の人たちに敬われ顕彰されるのが葬式であるかのようである。国会議員から電報が贈られたりするのも死んでこそだ。おかげで田舎には葬儀屋が次々に出来て大繁盛である。

 一方、フーテンの寅さんの葬儀は近親者による密葬だった。この人のように充分すぎる程に名前が世の中に広がり、国民栄誉賞をもらう程に世の中に顕彰されてきた人は、大勢の人を集めた葬式などしないものなのだろうか。

 もちろん、その人の生き方というものもある。だから有名人でも大きな葬式をする人もいる。しかし、もし私の葬式をしてくれる人がいるなら、たとえ無名でも小さな葬式をしてほしいと思う。(2003年12月16日)







 戦争報道について、昔は大本営発表といって事実がそのまま報道されなかったと教えられたものだが、現代の民主主義の世の中になっても事実は何なのかを報道によって知ることは難しいようだ。

 昔の報道が戦争を推進するためにゆがめられた報道だったとすれば、今の報道は戦争に反対するためにゆがめられた報道になっているとようだからである。

 今度のイラク戦争については特にその傾向が強いようだ。例えば、最近イラクで頻発しているテロは何の犯行声明もないため誰が何の目的で行なっているかは不明である。ところが、それが反米勢力とか抵抗勢力による攻撃だと報道されている。

 フセイン元大統領の拘束についても、一部の親フセイン派の声をことさらに取り上げて、イラク国民はたいして喜んでいないかのような印象作りがされているのが見られる。

 結局、戦争になるといつの世でも国民が正しい事実を報道によって知ることは難しくなると思っておくのがいいようである。(2003年12月16日)







 毎日新聞のカメラマン長尾靖が浅沼稲二郎暗殺を写した有名な写真があるが、よく分からないところがある。

 沢木耕太郎の『テロルの決算』では、この写真は「さらに突こうと短刀を水平に構える少年の姿と眼鏡がずれ手を前に出し今にも崩れ落ちそうな浅沼の姿」(文春文庫242頁)だといっている。つまり、この写真は最初の一突きの瞬間をとらえた写真ではない。

 この写真には演壇中央の演台が写っていないので、日比谷公会堂の演壇のどこをとった写真かよく分からない。しかし、暗殺の瞬間の動画を見ると、この写真がとらえているのは演壇の左半分だということがわかる。

 動画では、演壇の右側からきた少年が演説中の浅沼を演台の左側へ突き飛ばして、勢い余って浅沼を追い越してしまって、さらにもう一突きしようと振り向い て身構えるようすが辛うじて分かる。カメラマンはこの振り向いた瞬間を写したのである。だから、この写真では浅沼と少年の位置の左右が逆転している。

 問題はこの後だ。少年は一度突き刺しただけと供述しているが、浅沼の体の左側には二つの刺し傷がある。第一撃は演台の前で少年がぶつかった瞬間であるが、第二撃はこの写真の瞬間の直後なのだろうか。どうもそうではないようなのである。

 傷が二つあることを知っている沢木は少年が第三撃を与えようと身構えたとき取り押さえられたと言い、少年は第二撃のために身構えたとき取り押さえられた と供述している。いずれにしろ身構えたのはこの写真の瞬間だけだから、この写真の後すぐに取り押さえられて、もう何もできなかったことになる。

 一方、沢木によると致命傷となったのは最初の一撃で、その瞬間をとらえた写真もあるが、それはテレビの中継映像から切り取ったものだと思われる。このような写真は初めからずっとカメラを構えていなければ撮れない写真だからである。

 ところで、毎日新聞のホームページには、長尾の写真は浅沼に致命傷を与えた二突き目の瞬間をとらえた写真であると紹介されているが、事実はそのどちらでもないようである。(2003年12月15日)







 小泉首相は「いまだにイラクで大量破壊兵器が見つからないから、イラク攻撃を支持したのは誤りだ」と野党に批判された時、「フセイン大統領が見つからないからといって、フセイン大統領が存在しなかったと言えるか」と反論した。

 これを当時詭弁だと非難した人がいるが、どうもそうとは言えなくなってきた。現にフセイン大統領はイラク戦争が終わって何カ月も経つのにいっこうに見つからない。イラクのような所では、一旦姿をくらましたものは、人も物もなかなか見つからないのである。

 実際には、大量破壊兵器はイラク戦争以前にすでにクルド人などに対して使われているから、それがイラクに存在しないとは誰も初めから思っていなかったは ずである。戦争をしたくないフランスやロシアは、それが国連の査察によって見つからないことを、単に開戦に反対する口実に使っていただけなのだ。

 したがって、元々このような野党の批判は的外れな批判なのである。(2003年12月12日)







 日米共同世論調査によると、日本人が一番信用している組織は新聞なのだそうだ。新聞だけが六割をこえて突出した信頼度である。

 だからであろうか、この調査は日米の信頼度を調べるのが主な目的だが、その結果は日本の多くの新聞の主張をよく反映したものになっている。

 日本の新聞は全国紙の読売などを除けば、地方紙を含めてそのほとんど全てが極端な反米反ブッシュを社論としている。だから、新聞の言うことを信用する日本人の多くが米国を信頼していないと答えたのは当然の結果であろう。

 日本によるイラクの復興支援について、すべきでないなどの消極的意見が日本人の過半数を占めたのも、多くの新聞の論調に引きずられた結果だろう。しかし、この人たちは日本は一体どこで石油を買えばいいと思っているのだろうか。

 これ一つをとって見ても、日本の多くの新聞は読者の高い信頼に値するような、もっと責任ある報道をすべきだということが分かる。(2003年12月12日)







 「押しの一手」といって、むかしの男は女を強引に口説くことが許されていた。しかし、いまではこの「押しの一手」は犯罪になる可能性がある。

 嫌がる相手を口説くのはストーカー規制法の対象になっているからである。それはおかしいだろうと上告した男性の主張は最高裁であっさり退けられた。この 法律は合憲だというのだ。日本の最高裁が違憲判決を出すのは自らの沽券に関わるときだけだから、予想通りの判決とは言える。

 しかし、振られた女に手紙や花束を贈ったら犯罪になる国は、世界広しといえども日本だけだろう。タレントの明石屋さんまさんも、恋愛を取り締まるような法律はおかしいとテレビ番組の中で言っていたが、そのとおりである。

 取り締まるべきは暴力行為であって、男が女を口説くことに警察が関与すべきではない。ところが、警察は桶川の殺人を防げなかったことに懲りて、女の尻を しつこく追いかける男を犯罪者にしてしまったのである。まさに「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)をふく」法律といえるだろう。(2003年12月11 日)







 民主党の菅直人氏は、かつて自民党にいた田中真紀子氏が秘書給与問題で議員辞職したとき、辞職しても何の解決にもならないといって批判した。

 その後、田中氏はこの問題で不起訴になったとはいえ、氏の政治的道義的責任まで消えたわけではない。ところが、田中氏が自民党を離党して選挙に当選して民主党の会派に入るやいなや、菅氏は田中氏を歓迎して迎え、以後この問題を不問に付してしている。

 それは田中氏が民主党の仲間入りをしたことによって、この問題も民主党の問題になったからであろう。

 その田中氏が父親の田中角栄元首相のテレビドラマ化にあいついで待ったをかけている。ロッキード事件の問題があるからだろう。

 この問題はこれまで自民党の問題だった。しかし、いまや田中氏が民主党に仲間入りしたことで、この負の遺産もまた民主党のものになったのである。このテレビドラマ化問題は、端無くもこの事を示しているのではないだろうか。(2003年12月10日)







 読売新聞の『時代の証言者 大相撲 大鵬』は毎回感動させられる。この人は何と純粋なんだと毎回思う。この人の心には何の混じりけもない。

 漁師になるつもりの少年が、わけの分からないままに相撲界に放り込まれたのに、まわりの人たちから過大な期待を受けると、それをそのまま自分の希望として、血の出るようなけいこを重ねて横綱になる夢を追いかける。

 ところが、その夢が成就した瞬間に「横綱にふさわしい成績が残せなくなったら、やめるしかない」と覚悟するのだ。まったくこの人には我欲というものがない。

 使者から伝達を受けたとき、ずしりと肩に重みがかかりました。そして、「横綱にふさわしい成績が残せず、綱の責任を果たせなかったら、やめるしかない」と思いました。

 新入幕して、実力よりも人気が先行するようになっても、けっしてそれを重荷とせず、それに見合った実力を身につけようと「自分の人気を必死になって追いかけた」という。

 新入幕で十一連勝し、ワーッと人気が沸騰した。実力より、人気が先に行ってしまった。追いかけるのは大変だった。しかし、追っかけた。『勝たなければならない』と、自分の人気を必死になって追いかけたんです。それにはけいこしかなかった。

 自らのうぬぼれ心を否定はしない。しかし「それを正してくれる人たちが、私の周りにはいました」というのだ。

 うぬぼれたら、人間はガタガタになる。そりゃ人間だから、うぬぼれそうになることもあります。師匠なり後援者なり、それを正してくれる人たちが、私の周りにはいました。

 大鵬の強さの秘密はここにあったのかと思わせる連載である。(2003年11月28日)







 総理大臣は主権の存する国民の代表であって国民そのものである。その総理大臣はどのような場であってもけっして馬鹿にされるようなことがあってはならないはずである。それは政府を構成する大臣に対しても同じことである。

 ところが、国会の論戦を見ていると野党の議員たちは総理大臣を言い負かすのに必死である。そしてそれが思うようにいかないと、勝ったと言わんばかりに嫌 味を言ったり捨てぜりふを吐いたりする。挙げ句に、この大臣は頭が悪いと言い出す始末だ。しかし、これが国民が選んだ政府に対する正しい態度だろうか。

 彼らは国民に対して「あなたたちの選んだ政府はこんなに無能ですよ」と言いたいのだろうが、それは「こんな政府を選んだあなたたちはこんなに馬鹿ですよ」と言っているのと同じだということに気づかないのだろうか。

 民主主義とは国民の選択を尊重することである。それが出来ないものが民主主義を標榜するなどもってのほかだ。(2003年11月26日)







 イラクに派遣された自衛隊が戦闘に巻き込まれたりテロで犠牲者を出したりすれば小泉政権は吹き飛ばされるという、まことしやかな噂が流れている。

 しかし、これは自衛隊をイラクに派遣すれば東京でテロを起こすというテロリストの脅しと何の違いもない。いやむしろ、この噂の方がイラク派遣を阻止するには効果的な脅しとなっているようだ。

 確かに、先の衆議院選挙で与党が自衛隊のイラク派遣という公約を掲げて勝った時と比べて、イラクの状況は悪化しているかもしれない。しかし、既に派遣された国々の兵隊がその後イラクから撤退したという話は聞いたことがない。

 もしこのまま政府が弱気になってイラクに自衛隊を派遣しないなら、それは自衛隊の安全のためではなく、政権の安全のためにそうすることは明らかである。

 そしてそうなれば、今度は国益を守ることを第一にすべきはずの政府に対して非難の矛先が向けられることを覚悟しなければならない。(2003年11月25日)







 ブッシュ大統領の英国訪問の最中に、トルコの英国領事館に対するテロ攻撃があった。
 
 これはテロを無くすためにイラク戦争を起こした英米両国に対する明らかな挑戦である。しかし、それだけではなく、イラク戦争に反対していた諸国も、もはや頻発するテロをアメリカのせいにして傍観していられない事態になったことを、このテロは意味している。

 今や世界が一致団結してテロとの戦いに取り組まねばならない段階になったのである。

 そんな中で日本は何が出来るだろうか。テロとの戦いは戦争であるから、日本は何もできないのだろうか。もしそうなら日本は憲法九条のおかげで世界平和に何も貢献できないことになる。そればかりか、日本は世界の動きから取り残されて孤立してしまうことになりかねない。

 これだけを見ても、憲法九条の存在が日本の国際的地位をいかに危うくしているかは明らかである。日本にとって憲法改正はすでに急務の情勢なのである。(2003年11月21日)







 イラクにおけるイタリア人に対するテロを理由に政府は自衛隊のイラクへの年内派遣を躊躇しているそうだ。

 しかし、もし本当に日本が自衛隊のイラク派遣を延期したりするなら、それはイラクの不安定さだけでなく、アメリカのイラク戦争の失敗を、アメリカの最大の同盟国たる日本が世界に対して認めることになってしまう。小泉政権はそのことに気づいているのだろうか。

 また、今回のテロで十七人を失ったイタリヤがすぐに五十人の増派を決定して、テロに屈しない姿勢を世界に示したのに対して、日本はそれとは正反対の姿勢 を世界にさらけ出すことになる。これでは、日本はいざとなると当てにならない国だという評価を世界に広めるようなものである。

 政府は自衛隊員の安全が第一だというが、実は小泉内閣の安全が第一なのではないのか。我が国が国際社会で名誉ある地位を占めることを政府が本当に望んでいるなら、自衛隊の年内派遣を変更すべきではない。(2003年11月16日)







 今回の衆議院選挙は政権選択の選挙だとか言われたが、実際はそうなっていないようである。小選挙区で自民党の候補の名前を書いた人の多くが、比例区では民主党と書いたと思われるからである。私の身近にもそういう人がいる。

 選挙では色んな人から投票を頼まれるので、その全部にいい顔をするために、与野党の両方に投票する人が多いようである。しかし、それでは政権を選んだことにはならない。

 もちろん本人の心の中では小選挙区で政権を選び、比例区はつき合いで野党に投票するのだろうが、このやり方のせいで民主党は大躍進を遂げたかもしれないのだ。

 実際、国民の多くが単に自民党にあまり勝たせないために民主党に投票したという読売新聞の調査結果もある。

 しかし、それではいつまでたってもわが国は欧米先進国並に政権交代が可能な国とはならない。良いものは良い悪いものは悪いと自分で決めて、小選挙区と比例区は同じ党に投票すべきである。(2003年11月13日)







 東電OL殺人事件に対する地裁判決と高裁判決は、同じ証拠から正反対の結論が導かれている点ばかりが注目されている。

 しかし、判決文をつぶさに読んでみると、両者はその説得力の点で雲泥の差があることが分かる。中でも被害者が顧客管理のためにつけていた手帳の評価においてそれは著しい。

 地裁判決は手帳の記載内容の正確さを、その都度書いたものではなく一日あるいはそれ以上をまとめて書いたものであるから、という一般的な理由だけで否定している。

 それに対して、高裁判決は実際の顧客を法廷に呼んで手帳の内容を細かい点まで検証して、その記載内容の高度な正確さを立証している。その説得力は殆ど圧倒的でさえある。

 そして、被告が最後に被害者と会ったのは事件より以前の日だという証言と、この手帳のその日の記述内容が大きく食い違っていることは、被告の証言の信憑性を疑わせるに充分なのだ。

(被告が最後に被害者と会ったのが「2月25日から3月2日までのいずれかの日」であるという証言は、被害者の手帳の”2月28日<?外人0.2万>”と符合するように見えるが、高裁は彼女が初回の身元不明の客にしか?を付けないことを証明して、この証言の信憑性を否定するのである)

 この確定判決を覆すのは容易なことではないだろう。(2003年11月6日)







 東電OL殺人事件の最高裁判決を期にこの事件について読んでみた。
 
 その中で、犠牲者である女性が一流大出で一流会社の社員であるにもかかわらず渋谷の円山町あたりで売春していたことについて様々なことが言われており、特に心理学的な観点から、早く亡くした父親に対する空虚感を根拠にした自虐的な解釈を多く見かけた。

 しかし、それは間違っていると思う。なぜなら、人間はそのようなマイナス思考で生きていくことはできないし、そのような気持ちで5年以上の長期にわたって同じ生活を続けることは不可能だからである。

 結果だけから見ると、まるで彼女の行為はいつか殺される日が来ることを知りながら続けた一種の苦行であって自殺行為であったかのように見えるが、彼女には金儲けという明確な目的があった。

 そして、サラリーマンでしかも女子社員が稼げる金額が知れていることを良く知っていた彼女は、自分の十人並み以上の美貌を武器にした売春という方法を選んだのである。

 さらに彼女は売り上げを全部自分の利益にするために人に雇われない道をとり、綿密な記録 (この正確さが有罪の決め手になった) をつけて顧客管理も自分自身でやった。

 そうして稼いだ金が7千万円だというから、事業としては失敗ではないだろうし、この成績に彼女はプライドを持っていたに違いない。

 また、一日に四人というノルマを自分に課していたことも、仕事として見れば当然のことである。それは彼女にとっては、例えば英単語を日に十個暗記するのと何ら異なることではなかったのである。

 しかし、こうして脇目もふらずに自分の立てた目標に向かって、人目もはばからずに一心不乱にまい進する姿は、他人の目には異様に映ったかも知れない。しかし、だからといって、彼女が異様な人間であったとわけではないのだ。

 そんな彼女のことを、適齢期を逸して結婚できなかった不幸な女が自虐に走ったと見るのは間違いであり失礼である。彼女は彼女の打ち立てた方法にしたがって、極めて積極的な人生を前向きに歩んでいたのである。

 彼女の人生に同情した多くの女性が、事件現場のアパートや彼女が客待ちをしていた道玄坂地蔵 (円山町6-1
) に花を手向けているそうだが、もしそれが彼女を自分の人生を選択できない多くの無力な悲しい女と同列に置くことであるなら、彼女には甚だ迷惑なことだろう。(2003年11月1日)







 テレビで阪神優勝を星野監督一人の手柄であるかのような番組がしきりに流されているが、間違っていると思う。

 そもそもチームの大規模なリストラを断行したのは球団の編成であって、星野監督ではない。

 プロ野球の監督とは現場を任されるだけであって、組織の編成を任されてはいない。球団が星野氏の名前を利用していい選手を集めたことはあるかも知れないが、よく言われるように監督はしょせん雇われマダムに過ぎない。

 それはトレードされた坪井、伊達がトレード先の日本ハムで活躍していることに対する星野監督自身の「編成は『どこをみていたんや』」という批判的な言葉から明らかで、トレードを指示したのは星野監督ではないのである。

 阪神の優勝は球団の補強がうまくいって、他球団との戦力差が大きく開いた結果に他ならない。それは会社の勝利なのである。

 それを星野氏個人の手柄にして、カルロス・ゴーン氏に譬えるのは大きな間違いである。ゴーン氏と違って、星野氏には組織の編成権はないのだ。

 プロ野球は監督だけ変えてもだめなことは、これまでの多くの例から明らかで、それは阪神優勝によっても変わることのない事実である。

 この教訓をあたかも否定するような番組をしきりに放送することは、日本のプロ野球の発展のために何の益ももたらさないばかりか、二三年でだめなら監督の首だけすげ替える悪しき慣行を助長するだけだろう。(2003年9月20日)








 国土交通省がノンストップ自動料金収受システム(ETC)の利用促進のために、あの手この手の普及策を講じているそうだが、当初の目的である料金所での渋滞解消はいっこうに進んでいない。
 
 先日、私が高速道路を利用したときも、料金所の手前一キロから大渋滞に巻き込まれた。料金所に近づくと、なるほど立派なETC専用車線が一つ作られている。しかし、私の見る限りそこを通る車は一台もなかった。

 それどころか、これほど大量の車が殺到しているのに、ETC専用ゲートのために一般車両が使えるゲートが一つ減ったおかげで、渋滞がよけいにひどくなっているのが現状だ。

 高速道路を利用することなどめったにない私などと違って、高速道路を頻繁に使う運送会社は率先してETCを採用しているかといえばどうもそうではないらしい。料金所の前に列をなしているのは運送会社のトラックばかりだったからである。

 交通渋滞で一番損害を蒙るのは時間を競う運送業者のはずである。その運送業者に普及していないとは、国土交通省はETC普及のためにいったい何をしているのだろうか。(2003年9月8日)







 テレビで法律番組が増えているが、あれほどくだらない番組はない。お笑いタレントによって楽しめる番組にはなっているが、彼らがいなければ単に屁理屈をこねる番組でしかない。

 そもそも慰謝料を取れるか取れないかなどどうでもいいではないか。そんなことのために「訴えてやる」などといって裁判を起こすこと自体馬鹿げている。

 自分の不幸の責任を他人に求めたところで何が得られるというのか。たとえいくらかの金を得られたとしても、一度失ったものは決して返ってこないのだ。

 人間が生きていく上で一番大切なのは「次へ行こう」という前向きの精神である。裁判などして何年も過去にこだわり続けるのは無益なことである。そんなことをして喜ぶのは法律家だけだ。
 
 法律を利用するのはよい。法律によって新しい事業を起こすのはよい。しかし、人を訴えて法律を自分の不幸を償うための手段にしてはならない。それは不幸を長引かせるだけである。(2003年9月7日)







 今年の夏の高校野球について、雨で日程が伸びたことや野球留学の多さを批判する声があるようだ。これらの問題を解決するよい方法がある。それは夏の大会の出場校数を昔に戻すのである。

 夏の大会の出場校数はいつの間にか一県一校以上の四九校にもなっているが、それを昔のように三〇校程度にするのである。そうすれば、雨のために強行日程を組む必要はなくなるはずだ。

 一方、野球留学する子供たちの多くは、地方大会で八回も勝たなければ甲子園に出られない大阪の子供たちが多い。彼らが四~六回勝てば甲子園に出られる県の高校から甲子園を目指そうとするのは自然なことだ。

 しかし、それが昔のように、どの地方でも公平に同じ数だけ勝ち抜かなければ甲子園に出られないとなれば、野球留学する意味はなくなるだろう。

 どの県の子にも甲子園を体験させたいという親心だろうが、高校野球もそろそろ本来の昔の姿に立ち戻ってもよい頃ではないだろうか。(2003年9月5日)








 阪神が優勝しそうだということで、その原因を監督の手腕に求めようとするる声が多い。しかし、よく考えてみれば、今年まともな戦力で戦ったのは阪神だけだったのである。

 巨人も広島も中日もヤクルトも、全部主力が抜けたり故障したりしていた。逆に、阪神だけが戦力を増やしていた。

 だから戦力的にみて阪神が優勝するのは当たり前だったのである。それを指揮官一人の手柄にするのは、状況を見ていないと言うしかない。
 
 阪神以外のチームが全部戦力ダウンするなどということは、まさに十八年に一度しかない千載一遇のチャンスだった。

 その好機に、阪神球団が監督一人変えれば全てが変わるかのような錯覚を捨てて、積極的な補強をするという努力が報われて、幸いにも優勝につながったのである。
 
 ところが、それが分からない人が沢山いるらしい。まことに嘆かわしいことである。なぜなら、これは我々の生活に直結する政治にも当てはまることだからである。(2003年9月3日)








 池田小児殺傷事件の裁判はおかしな裁判だと思う。裁判長は初めから結論を持って審理に臨んだのではないかと思われるからである。それは裁判長の遺族に対する異例の配慮にうかがわれる。その段階で死刑は彼の中で決まっていたことは明らかである。

 日本の裁判は形式的で何も明らかに出来ないとよくいわれるが、この裁判も単なる儀式に過ぎなかったのである。

 裁判で採用された精神鑑定も大いに疑問だ。遺族感情に対する配慮と世論の流れにそった鑑定としか思えない。微罪のときには精神病者だった者が重罪を犯せば正常な人間になれるのだろうか。

 裁判長が被告の最後の言葉をさえぎったのは、被告が何を言うか分からない異常な人間だと思ったからだろう。ならば精神鑑定の結果をこの裁判長自身信じていなかったことになる。

 この事件の原因は精神病者を野放しにした過去の司法にある。この判決はその責任を精神病者一人に押しつけた無責任な判決だと言える。(2003年8月29日)







 裁判なんかしてはいけない。

 どんなことにも別の見方がある。だから裁判をすると、自分が信じる正義が通用せずに腹を立てることになる。山形マット事件、草加事件しかりである。

 いくら子供を人に殺されたとしても、裁判なんかするといやな思いをさせられるだけである。被害者に対する世間の同情も、警察と検察を頼って国をバックにした瞬間に吹っ飛んでしまうものだ。

 被害者だからといってマスコミに話をしてはいけない。復讐鬼として描かれるだけである。

 これは被疑者として逮捕されたときと同じである。何も言ってはいけない。言ったことはすべて他人に利用され、必ず自分に不利になる。

 たとえ裁判に勝っても賠償金が支払われずに、さらに腹を立てることになる。たとえ支払われても、しょせんはあぶく銭であり、争いの種になるだけである。

 裁判をしてはいけない。人と争ってはいけない。これは『徒然草』で兼好法師も言っていることである。(2003年8月26日)







 憲法は第十三条は「すべて国民は、個人として尊重される」と個性の尊重をうたっている。これは例えば「世の中には酒に強い者もいれば弱いものもいる。そ れを一緒くたに扱ってはいけない」と言っているのである。ところが、警察はこの条項に反して、一緒くたに扱おうとする。

 この条項に従うなら、酒気帯び運転と見なされるべき血中アルコール濃度は、どんなに酒に強い人間でも運転に支障を来すような量でなければならないはずだ。

 ところが、日本では呼気1リットル中のアルコール濃度を0.15ミリグラム以上を酒気帯びと定めている。これは酒に弱い人間を基準にしているのだ。海外の先進諸国の多くが0.5か0.8であるのと比べても、日本の低さは異常である。

 世界の人権団体が指摘しているように、日本の警察は多くの面で日本国民の人権を侵害しているが、その中にこの酒気帯び運転の基準も含めるべきである。

 個人の独立は侵害されてはならない。誰がどこで酒を飲もうと勝手である。酒のせいで事故を起こした人間に限って罰すればよいのだ。事故を起こしていない先から、どこで何をしたかで人を罰するのはプライバシーの侵害である。

 アルコールは麻薬ではない。酒を飲んだだけで人を罰するのはやめるべきである。(2003年8月24日)







 高速バス運転手の酒気帯び運転のニュースにはおかしな点がある。

 この運転手は蛇行運転を繰り返していたと報じられている。これは典型的な居眠り運転である。ところが、ニュースでは飲酒のことが言われるばかりで、この運転手が過労で寝不足であったかについての報道が全くない。

 その後の報道でこの運転手の飲酒運転は常習だったことが明らかになっている。この事実は、むしろアルコールと交通事故の因果関係の低さを証明しているように思える。

 そもそも交通事故の原因は一元的ではない。アルコールが人に与える影響は非常に個人差があるものだ。それを一律に悪と断じるのは合理的ではない。

 このニュースを書いた記者も下戸でない限り、飲酒運転の経験があるはずだ。そして、人によってはアルコールが運転に影響がないことも大いにあり得る事を知っているはずだ。
 
 警察が飲酒運転を目の敵にするからといって、それが正しいとは限らないのである。(2003年8月19日)








 カメラは世の中の明るさを20ほどの段階に分ける。そして、そのうちの1つの段階を中心とする前後3段階、合計6段階だけを選んで写真に映し出す。その6段階の両端から外側は真っ白か真っ黒に写るだけである。

 写真は一度に全てを映すことはできない。人間の目はすべてを見ることができるが、写真は人間の目ほど物を一度に見分ける力はないのだ。

 逆光の景色を写すが難しいのは、最も明るいものと最も暗いものが一つの絵の中に共存するからである。つまり、逆光では、20ほどの段階の明るさのほとんど全てが一つの景色の中にいっしょに現われるのだ。

 だから、逆光でもし空の青い色を写したければ、手前の日陰の部分は真っ黒に写すしかない。逆に、日陰にあるものをはっきり写したければ、空は真っ白に写すしかない。
 
 しかし、見たままに写すぶんには、露出は全体の明るさの中位の明るさに合わせておけばよい。そのままでまわりの景色を暗いものは暗く明るいものは明るく写せるのである。(2003年8月10日)








 カメラはこれまで様々に自動化をしてきた。まず露出が自動化して、絞りとシャッター速度が自動で決定されるようになり、次に焦点合わせが自動化されてオートフォーカスになった。

 実は露出は中ぐらいの明るさの所(地面にある明るい緑色のもの)に合わせておけば、天気が変わったり家に入ったりしない限り変える必要はない。そのままで、明るいところは明るく、暗いところは暗く写るのである。

 ところが、露出が自動化したおかげで、出来上がった写真を見ると、明るいところが暗く写ったり、暗いところが明るく写ったりするようになってしまった。

 また、焦点合わせが自動化されたお陰で、どこに焦点が合っているのか分からなくなってしまった。

 そこで、これらの欠点を補うために新たに様々な工夫が付け加わって、カメラは益々ややこしい代物になっていった。

 しかし、デジカメの出現によって、やっとそれらの自動化の工夫が人間のコントロールしやすい物になった。液晶モニターで結果が確認出来るようになったからである。

 自動化されたカメラは、やっと誰でも使える物になったのである。(2003年8月6日)






 核廃絶の論理は被害者の論理である。この主張の中で常に描かれるのは、原爆の焦熱地獄で苦しんで死んでいった人たちと、今なお後遺症に苦しむ被爆者の姿である。

 しかし、第二次大戦を終わったのが原爆のお陰であることは否定することのできない事実である。そして、その原爆のおかげで第二次大戦後に平和が続いているのも紛れもない事実である。

 原爆がなかったら、あの被害者の苦しみは無かったかもしれないが、戦争は続いていただろう。そして、いま原爆が無くなったら、この平和を担保しているものが無くなってしまうことも事実であろう。

 したがって、核廃絶の主張は情緒に訴えることは出来ても合理的説得力はない。いま世界が恐れているのは核兵器の存在ではなく、その拡散であることは実に合理的なことなのである。

 したがって、我々が訴えるべきは核兵器の廃絶などという非合理ことではなく、北朝鮮のような国に核兵器が広がらないことなのである。(2003年8月6日)







 民主党が自由党を吸収合併して勢力を拡大した。これは次の総選挙で民主党が政権をとる可能性が大きくなったということである。

 この事実を前にして、小泉首相はかえって元気が出てきたようだ。なぜなら、次の総裁選挙で自分が再選されない場合には、次の総選挙で自民党は野党に政権を奪われる可能性が出てきたからである。

 自民党内の非主流派は一致結束しさえすれば小泉氏以外の人間を総裁にすることが出来る。しかし、それでは時計の針を逆に回して、森首相・野中幹事長の時代に戻るようなものである。

 そんなことをする自民党が、合併して大きくなった民主党にはたして勝てるだろうか。

 一方、小泉氏とて、総裁に選ばれても自分の政策が実現できないなら意味がない。彼がこの機に強気に出るのも無理のない事だ。

 それに対して、自民党非主流派には、小泉氏の改革を拒否しながら、それと同時に総選挙にも勝って政権の座に留まる秘策があるのだろうか。(2003年7月31日)








 デジタルカメラでは写真を現像に出す必要がない。ということは、これからは写真屋から自由に写真を楽しめるということである。

 これまでのカメラは妙な存在だった。普通は何かを買えば故障でもしない限り、買った店と付き合うことはない。ところが、現像しないとフイルムの絵が見れないために、カメラユーザーは写真屋との関係を続けなければならなかった。
 
 写真屋でフイルムを買ってもそれだけでは意味がない。カメラとて同様だった。他人様のお世話にならなければ使い物にならない代物だったのだ。
 
 写真はプライベートなものなのに、これまでは一度他人の目を通さなければ自分で見ることができなかった。

 デジタルカメラのおかげで、我々はやっとこんな不合理から解放されたのである。買ったものがやっと本当の意味で自分のものになった。自由自在に使えるようになったのである。

 これはカメラユーザーの解放であり、ある種の革命と言ってもよいのではないか。(2003年7月30日)







 デジカメは本当に便利だ。写真屋に現像に出して、写した結果を待つ必要がなくなったのである。印刷を写真屋を頼むことはあるが、それはすでに知っている結果を紙に固定するためだけである。

 現像を待つ楽しみが無くなったとも言えるが、写したつもりのものが写っていなくてがっかりすることも無くなったのである。

 特にフイルムカメラでは、明るいものを撮ったのに暗い写真ができてくることがよくあったが、それも写すときに修正できるから安心だ。

 要するに、これまではどんなに高級なカメラを使っても、出来上がりは神のみぞ知るという面があったが、デジカメではそんなことが無くなったのである。

 その上、デジカメなら小さなものでも望遠機能が付いているから、これまでのように大きな望遠レンズを買う必要もない。

 画質についても、Lサイズ程度ならデジカメとフィルムカメラには何の違いもない。

 フィルムカメラはこれからは自動車でいうクラシックカー的存在になるのではないか。(2003年7月30日)







 デジカメを買ってしばらく使ってみたが、すごいものができたものだ。これではカメラ業界は大変だろうと思う。

 何といっても、デジカメは撮った写真がすぐに見られることが大きい。

 これまでなら、撮った写真は写真屋の手を経てやっと見ることができたから、写した写真が下手でも写真屋の手で修正が利いた。また、それでも写りが悪いなら、それは写した人間の腕のせいにされてきた。

 しかし、デジカメでは結果がその場で分かるため、撮り直しがいくらでもきく。そのため、カメラの段階でまともな写真が撮れないとなると、それはカメラが悪いということになってしまう。

 だから、どんな安物のデジカメにも同じクラスのコンパクトカメラには付かない露出補正やスポット測光などの高級な機能がたいてい付いている。

 カメラ会社は、もはや適当な機能の写真機を売って、あとはあなたの腕次第とは言っていられなくなったのである。これは腕のない我々一般ユーザーにとっては喜ばしい変化である。(2003年7月30日)







 長崎で幼児が死んだ事件でそれに関わったとされる少年の名前がインターネットの掲示版に書き込みされている。それに対して法務局などが人権侵害であるとして削除を求めているという。

 しかし、少年の名前はすでに多くの人間が知っている。とくに少年が補導された翌日の週刊誌にはその少年に関する記事が掲載された事を見ても、マスコミや関係者ならほとんどの人間がすでに知っている事実である。

 その事実をそれ以外の人間が知ってはいけないという法がどこにあるだろう。マスコミも役人も特権階級ではない。これまでは情報はマスコミに独占されてきたために、情報操作ができただけのことである。

 そもそも誰は知ってもよいが誰は知ってはならないということを決める権利が誰にあるだろう。役人たちは自分たちにそれがあると思っているらしいが、彼らとて同じ人間であり特別高い倫理観を備えているわけではない。むしろ彼らが多くの人権侵害の原因になっているほどだ。

 そんな人間たちに我々の知る権利を制限されるのは御免だ。インターネット万歳である。(2003年7月19日)








 長崎市の幼児誘拐殺害事件で中学一年生の男子が補導された。しかし、中学一年生が犯人なら誘拐とか殺害とかいう言葉が果たして適当か考え直さねばならない。

 この事件は当初大人が犯人であるという前提で報じられた。しかし、十二才の子供ならこの事件の名称は不似合いである。

 まず何と言っても誘拐はおかしい。一緒に遊んでいたのだろう。殺害もどうだろうか。殺したことを自供したと報じられているがあやしいものである。警察は怒鳴りつけさえすれば、女子供からどんな自供でも引き出すことができる。

 だからこそ、海外先進国では警察の取り調べには弁護士が立ち会う。それがない現状では、警察発表をそのまま受け取るわけには行かない。

 今回の事件は凶悪犯罪だという世論作りがなされてきた。しかし、十二才と四才の子供の遊びのなかで起きた事故だと考える方向へ軌道修正すべきではないか。当然、少年に対する憎しみをあおる報道は慎むべきである。

 もちろん、十二才の子供の起こしたことの責任は全面的に親と社会にあることも忘れてはならないだろう。(2003年7月9日)







 大リーグの入団テストを高校生が受けていたことを、日本学生野球協会は「プロ野球の入団テストを受けることを禁じた規則に違反する」と息巻いているそうだ。

 「大リーグはプロ野球」というのがその理由だそうだが、大リーグは日本のレベルの低い職業野球と同列に扱われることには納得できないだろうし、日本の学生野球の封建的な対応こそおかしいと考えるかもしれない。

 協会は、このテストを受けた選手には「厳しい対応」が必要で、夏の全国大会に参加させないと言っているそうだ。しかし、もはや高校野球の全国大会の価値は以前ほどではなくなっている。

 特に夏の大会のトーナメント方式は、多くの投手の選手生命を奪ってきた歴史がある。大リーグに行けるなら日本の高校野球を捨ててもいいと考える学生が増えても不思議ではない。

 この時代の流れを理解できずに、あいもかわらず「処分」の二文字を振り回す協会の存在意義こそ問い直されるべきだろう。(2003年6月15日)








 女性専用車両とは電車の中で痴漢されても抵抗できない女性のために作られたものだ。ストーカー防止法は、振った男にしつこく追いかけられたくない女性のために作られた法律だ。
 
 いずれも、社会性に乏しい女性を救済するためのものだと、わたしは思う。なぜなら、前者は嫌なことをされても嫌だと言えない女性を、後者は警察の助けがなければ自分で男女関係を解消出来ない女性を、救うためのものだからである。

 考えてみれば、電車で会社勤めをすることも、自分でボーイフレンドを見つけることも、昔の女性にはまれなことだった。ところが、いまはそうするのが当たり前になっている。

 しかし、社会に出て自由に行動するということは、人に嫌なことをされる可能性を前提とすることであり、それを跳ね返す力が求められる。男は外に出れば七人の敵がいると言われるのもそのことを言ったものだろう。

 ところが、いま女性たちが外に出て自由に行動しはじめたために、色んな特別扱いが必要なってきている。しかし、これは果たして女性たちにとって名誉なことだろうか。(2003年6月1日)







 住基ネットに長野県の審議会が不参加の提言をしたという。しかし、住基ネットへの参加は法律で決まったことだ。ということは、この審議会は違法行為を知事にすすめていることになる。

 民主主義は過半数の賛成で物事を決めるが、そうして決まったことには、たとえ反対した人も従うというのが大前提だ。それを否定することは過半数による決定を否定し、ひいては民主主義自体を否定することになる。

 だからこそソクラテスはたとえ自分の考えが正しいと思っても、国民の決定に従って毒杯を飲んで死んだのである。

 ところがこの審議会の委員たちの考え方はそうではないらしい。自分が反対する法律には従わなくてもいいという意見らしいのだ。

 しかし、決まったことに反対するのと、決まったことを破るのとは同じではない。前者は自由だが後者は犯罪である。

 地方自治体も条例を作って市民に守らせようとするが、まず自分が法律を守って手本を示すべきだろう。(2003年5月30日)







 仙台の病院で起きた筋弛緩剤混入事件の裁判で、被告は一貫して無罪を主張しているが、その公判はまるで米国の裁判ドラマそのものである。
 
 例えば、被告に有利な証言をする人間が現われると、検察官はその人間に関する個人的に不利な情報をあげて、証言の信憑性を下げようとするのである。

 最近の公判では、当時留置所に被告と一緒にいた人間を呼んできて、留置所の中でこの男に対して被告が罪を告白したと証言させている。

 なぜこの人が今頃そんな証言をする気になったのかは不明だが、直接証拠のない検察側が、何が何でも被告を犯人にしたてようと躍起であることは確かである。

 検察官にとっては、無実の人間を犯罪者にするリスクよりも、自分の面子の方が大事であることがここからもよく分かる。

 報道を見る限り、この被告が警察で自白してから否認に転じた過程はえん罪事件の典型である。それでも、有罪を勝ち取れば検事にとっては手柄なのだろうか。(2003年5月29日)







 KSD汚職事件で受託収賄罪に問われた元労相村上正邦被告に対して実刑判決が言い渡された。しかし、彼は無罪を主張している。いったいどんな証拠があってこの人を大嘘つきだと断じたのかと、判決要旨を読んでみた。

 しかし、そこには金銭授受や請託についての物的証拠に対する言及は一切なく、ただ誰がどう言った彼がこう言ったという実に曖昧なことばかりが書いてあるだけなのだ。

 要するに、この判事は、猶予判決をもらうために検察側の言いなりになった贈賄側の言うことを、全面的に認めただけなのである。

 しかし、何十年も国会議員をやり大臣も務めたほどの人物の言うことを、団体の金を流用して女に注ぎ込んでいた人間の言うことだけで、全部嘘だと断じていいものだろうか。

 もしかして村上被告は無罪ではないかという視点が少しでもあるなら、こんな判決は出なかったはずだ。

 日本の裁判所はいい加減なものだと、あらためて確信した次第である。(2003年5月21日)







 日本では選挙の価値が非常に軽い。選挙で選ばれた人間が欠けたらまた選挙をすればいいという考え方だ。
 
 徳島県民はこの一年半で三回も知事選挙をやらされた。まず警察が選挙後半年ほどの円藤知事を逮捕して、県民に選挙をやり直させた。つぎは県議会が大田知事を選挙後一年ほどで辞めさせ、県民に選挙をやり直させた。

 どれも県民の意志で行なった選挙ではない。どこかの偉い人が選挙をやるから投票に来なさいというので、県民は投票に行くだけのことである。

 選挙こそは民主主義の原点のはずだ。選挙で決められた結果がこうも簡単に覆ってしまうのでは、とても民主的だとは言えない。有権者とは権力の有る人のはずだが、実際は政治家を選ぶ道具にされてしまっている。

 知事が欠ければ副知事が知事になればよいのである。そのために米国のように副知事もいっしょに選挙で選ぶのも一法だ。選挙は4年に一回で充分である。それでこその間接民主制である。(2003年5月19日)







 警察は嘘の自白を強要するということが、三浦和義氏の万引き事件でまたもや明らかになった。いったん警察につかまった以上は、身に覚えのない罪でも認めなければ釈放してくれないのである。
 
 商品の代金を支払わずにビルを出たなら万引きだろう。ところが、三浦氏は五階の書店の本を六階のCD店に持って上がって万引き犯にされてしまった。

 書店のレジが混んでいて並ぶのが面倒で持ち歩いたというのは本当だろう。誰でも経験があることだからである。

 警察は「容疑を認め反省している」と三浦氏を処分保留で釈放したというが、その直後に三浦氏は、上の階のレジでも支払えるという思い込みがあったことは、深く悔いているというコメントを発表したという。ならば、容疑を認めたのは嘘だったということになる。

 いくら真実を主張しても、警察でも裁判所でも反省がないと言われるだけだということを、三浦氏はイヤというほど知っているのである。(2003年5月8日)







 白ずくめ集団に対するマスコミのバッシングが始まっている。彼らはいま急に出てきたわけではなから、イラク戦争が終わってネタに困ったマスコミの餌食にされているのは明らかだ。

 そのマスコミにあおられて警察や役所も動き出した。法の厳格適用とか退去命令とかぶっそうな言葉が飛び交っている。

 一方で、アザラシの出現を歓迎して住民票まで出す役所があると思うと、見てくれが気味が悪いと人を人とも扱わずに出ていけというのがこの国の人権感覚である。

 白ずくめ集団の外見は表現の自由であり、道路交通法のような法律で取り締まるべきものではない。憲法にいう思想信条の自由、信仰の自由、そして居住移転の自由も充分に保証されるべきである。彼らの外見が公共の福祉に反しているとはとても思えない。

 その彼らがあのアザラシの世話をしているという。かわいさと憲法とどちらが大事か、われわれはいま彼らによって試されていると言っていい。(2003年5月5日)







 名古屋刑務所で受刑者が革手錠による暴行で死亡した事件をきっかけとして、全国の刑務所には不審な死に方をした受刑者がたくさんいるらしいことがわかってきた。
 
 一時、「加害者の人権は守られているのに、被害者の人権は守られていない」ということが盛んに言われたが、実は加害者の人権も守られていないことが明らかになったわけである。

 このような人権軽視の傾向は、和歌山市議選挙で拘置所の中から当選した議員に対する世間の見方にも表われているように思われる。その多くは議員活動ができないから税金の無駄遣いだというものである。

 しかし、国民の人権意識が高ければ「容疑者は犯罪者ではないから、当選したのに議員活動ができないのは重大な人権侵害ではないか」という声が起こってしかるべきなのである。

 拘置所にいる人間は選挙に出馬できないようにしてしまえというような乱暴な意見ではなく、有罪が確定するまでは無罪なのだから、議員に当選すれば議員活動ができるようにすべきだという意見が聞かれるような、人権重視の世の中でありたいものだ。(2003年5月5日)







 逮捕されて拘置所の中いる旅田氏が和歌山市議選挙で当選した。住民の意思は旅田氏に議員活動をして欲しいということである。ならば、裁判所は旅田氏の保釈を認めるべきである。
 
 裁判で有罪が確定したら失職するそうだが、日本の裁判は任期の4年で終わらない可能性が高い。その間中、拘置し続ければそれは住民の意志に反するだけでなく、税金の無駄遣いにもなる。

 テレビに流れるのは批判の声ばかりだが、現に彼に投票した人が六千人以上いるのである。その人たちの声を積極的に受け止めようとしないのはどういうことだろう。

 民主主義の基本は自由な選挙だ。その結果をないがしろにするような報道をする新聞や放送局は民主主義をどう考えているのか。

 彼を逮捕した警察の判断はそれなりに尊重されるべきだが、それより住民の意思の方が重視されるべきである。それでこそ有権者はわざわざ投票に行く価値があるというものである。警察が一番偉い国では困る。(2003年4月28日)







 選挙で一番迷惑なのは、拡声器を使った候補者名の連呼だ。とくに地方議員の選挙の時がうるさい。

 だいたい、拡声器で人に話しかけることほど無礼なことはない。家の中の人間に向かってそんなことをするのは、物売りか、立てこもり犯に投降を呼びかける警察ぐらいのものだ。

 ところが、人が寝ていようが何をしていようがお構いなしの連呼である。これが如何に常識はずれの行為であるかが分かっていれば、最小限の音量にするなど の配慮をしそうなものだが、そんな候補者は非常に少ない。むしろ、こんなにがんばっていますと言わんばかりの大音量の候補者が多い。

 しかし、そもそも連呼の回数や音量の大きさによって、投票する候補を決める人などいないことは、議員にも成ろうかという程の人なら分かっているはずだ。
 
 もうそろそろ、こんな馬鹿げた選挙の仕方はやめるべきだ。世の中を良くしようというなら、この騒音公害を無くすことから始めてもらいたい。(2003年4月24日)







 最近、酒気帯び運転でつかまった人が、その日は酒を飲んでいないという例が増えている。要するに、昨日の酒が残ったままで運転していたのである。
 
 日本では「酒気帯び運転」の基準が非常に厳しい。だから、午前中に酒気帯び検問をやれば、きっと違反者がどんどん見つかるにちがいない。

 しかし、酒が翌朝に完全に抜けることを気にしながら酒を飲むのは難しい。だから、いまや「飲んだら乗るな」の時代ではなく「酒飲みは乗るな」の時代になったと考えるべきである。

 確かに、酒を飲んで運転すれば事故を起こしやすいかもしれない。しかし、県別の酒の消費量と飲酒事故数の間には特別な相関関係はないというデータもある。実際、事故を最も起こしやすいのは、急いでいるときや焦っているときであって、酒が入っているときではない。

 にもかかわらず、昨日の酒の責任まで問われる時代になったのである。そのうち、交通機関や運送会社は酒を飲まない人しか運転手に雇わなくなるかもしれない。道交法は一種の禁酒法の色合いを帯びてきたと考えるべきである。(2003年4月24日)







 愛知県の誘拐殺人事件で容疑者が逮捕されたというニュースが流れた。それが何と夜中の二時である。しかも逮捕容疑は脅迫だという。調べてみると、容疑者が知人に自分の誘拐を偽装するために脅迫電話をかけさせた嫌疑による逮捕だという。
 
 これは明らかな別件逮捕である。しかも、任意同行の人間を真夜中まで取り調べをして自白が取れないから仕方なく逮捕したらしいのだ。

 こんな無法なことが許されるのか。つい最近までイラクのフセイン政権に対するアメリカの軍事攻撃には手続きに正当性がないと大騒ぎをしていたこの国であるが、この逮捕についてはそんな議論は起こりそうにもない。

 この容疑者が殺したのはフセインと違ってわづかに一人である。しかし、一万人殺せば英雄だが一人しか殺さなければ犯罪者にしかならない。
 
 加害者の人権がかくも軽んじられるのがこの国である。彼がたとえ死刑を免れたとしても、きっと刑務所で殺されしまうのだろう。(2003年4月23日)








 わたしの住む播磨町では毎年夏に花火大会があって、それが住民の楽しみの一つとなっている。だから、政府が進める市町村合併によって隣の町と合併すれば播磨町の港で行われる花火大会はなくなってさみしくなるなと思っていた。
 
 ところが、今年播磨町は花火大会をやらないという。まだ、どことも合併していないのにである。どういう理由からかは何の説明もない。とにかく、この町の住民は今年から花火大会を見たければ加古川か明石へ出かけなくてはならないらしいのだ。

 播磨町では公共工事が盛んで大きな施設が次々に建設されている。しかし、いくら施設が出来ても私などが利用する回数は限られている。それに対して、花火大会は私の家の窓からも見えて、自分が播磨町に住んでいることの唯一のあかしとなっていた。それがなくなるのである。
 
 小さな町の住民は元々何かと肩身の狭いものだが、こんなことなら近所の大きな市との合併も悪くはないな思う。(2003年4月16日)








 むかしGHQが日本の軍国主義を排除するために将棋にもクレームをつけて「取った駒を使うのは捕虜を味方として戦わせるのと同じで捕虜虐待だ」と言ったそうだ。
  
 実際には、日本の兵隊は敵の捕虜になるとすぐに敵に協力して敵と一緒に戦うことはあったが、日本軍が捕まえた外国人捕虜を利用したわけではない。だから、将棋に表れているのは日本人捕虜の心性の方だということになる。

 また、GHQがこの主張をすぐに引っ込めたのも、この事実に気がついたからではないか。当時の日本は国全体が米国の捕虜になっていたのであり、この日本という捕虜が将棋と同じように、敵である米国と協力してくれるほうが米国にとっては都合がよかったからである。

 実際、日本はその後米国の同盟国になってしまったのだから、将棋のやり方を地で行ったということになる。

 そして日本は、戦闘能力を奪う憲法を持たされて、米国の捕虜状態のままで今に至っている。そう言えないだろうか。(2003年4月13日)








 イラク戦争は終わりに近づいたが、フセインなどかつてのイラク政府首脳たちはどこへ行ったのだろう。彼らは敗戦が確実になると姿をくらましてしまった。
 
 これは第二次大戦で敗北した日本の天皇を始めとする政府首脳の態度とは大違いである。彼らは逃げも隠れもしなかった。

 近衛や東条など多くの責任者は自ら命を絶って責任をとろうとした。また広田弘毅のように東京裁判でいっさいの自己弁護をせずに極刑に服した人もいた。それと比べてイラクの首脳たちの無責任ぶりはどうだろう。

 イラクの国連大使はフセイン政権が倒れると、平気で自分は関係ないと言い、これまでフセイン政権を支えてきた責任を一切とろうとしない。

 これらは彼らが国に巣くう寄生虫でしかなく、 彼らの政府が犯罪者集団でしかなかったことの証明でなくて何だろう。
 
 米国のイラク攻撃を主権侵害だといって批判した人たちが守ろうとした主権の正体はこんなものだったのである。(2003年4月13日)








 今度のイラク戦争では報道の頼りなさをあらためて思い知らされた。各国の記者たちの多くが、現実の戦争を前にして冷静な判断力を失っていたからだ。

 例えば、三月二〇日に開戦したとき、この戦争は一月ほどの短期で終結するという予想が一般的だった。ところが、始まって五日目で米軍が少しつまずきを見せると、多くの記者が早くも作戦の失敗を言いたて、十日目ごろには長期化必至と書き始めたのだ。

 しかし、例えばサハフ情報相の記者会見の大法螺ぶりを見るだけでも、フセイン政権には米国と対抗する本当の力がないだけでなく、頑強に抵抗するような精神的強さもないことは明らかだった。

 ところが、記者たちの多くは反戦という色眼鏡で戦争を見ていたために、フセイン政権とその軍隊の本当の姿が見えなかったのだ。
 
 これらの記者たちは民主国家で最高の教育を受けてきたはずなのに、恐怖政治のお先棒を担ぐような報道をしたことを恥じるべきである。(2003年4月10日)







 イラクのバグダッドでアメリカ軍の砲弾を受けて記者が死んだ事件で、現地の記者たちが報道の自由の侵害だといって憤慨しているそうだ。

 しかし彼らのいう報道の自由とは何なのだろう。

 彼らはバグダッドに留まって報道を続けているが、それはイラク政府の監視の下に報道することを受け入れた結果である。だから、彼らにとっての報道の自由とは、フセイン大統領にとって都合のいい報道をする自由でしかない。

 実際、彼らの報道はイラク政府に好き放題に利用され続けた。サハフ情報相のウソ八百会見の垂れ流しはその際たるものだ。

 そういうインチキ報道に反発して真の報道の自由を主張した記者たちは、とっくの昔にバグダッドから追放されている。

 イラク政府の言いなりになってバグダッドに今居残っているそんな記者たちが、アメリカ軍から特別の敬意を払われなくても仕方がないのではないか。少なくとも彼らには報道の自由を云々する資格はないと思う。(2003年4月9日)







 四月一日付け毎日新聞の発信箱「反戦報道」はおもしろい。
 
 それによると、先週の「週刊現代」にジャーナリストの大谷昭宏氏が、日本国内の反戦デモの参加者の少なさを指摘して、国民が「笛吹けど踊らず」にもかかわらず、毎日新聞などがそのデモを大々的に報ずるのはおかしいと書いたそうだ。

 「ほんの少しばかり踊ってくれた市民に焦点を当てて、これぞ反戦の機運だと報道していく新聞の手法は、果たしてこのままでいいのか」

 同紙の社会面を使った連日の反戦報道に辟易していたわたしなどには、まさにわが意を得たりの言葉である。この記者自身、市民団体からもっと反戦の声を取り上げろと言われて、十分すぎるではないかと反論したことがあるそうだ。

 つまり、マスコミの人間も自分たちのやっていることの嘘に気づいていたのである。ところが、このコラムは同紙のホームページ掲載を見送られたようだ。反戦報道の扇情的傾向を正直に認めたのがよくなかったのだろうか。

 とすると、この新聞では嘘はよくて真実はだめということになるのだが。(2003年4月3日)







 今回のイラク戦争の反対の理由の多くは「どんな戦争にも反対だから」という素朴なものだ。しかし、こう言う人たちの多くはイラクやアメリカがどこにあるかも知らない。
 
 だから、そんな彼らが、自由と民主主義を手に入れるための人類の苦難の歴史を知らないのは無理もないことである。

 アメリカは戦争をせずにイギリスから独立できただろうか。ヒトラーのドイツが隣国を侵略したとき、イギリスはドイツに宣戦布告すべきでなかったのだろうか。人類は民主主義を手に入れ、民主主義を守るために、戦わねばならない時があったのである。

 日本には「外国から侵略されたらどうするか」と聞かれて、「いっさい抵抗しない」と答えた人が7・7%もあるという。彼らは北朝鮮に侵略されたら金正日の奴隷になってもいいのだろうか。

 そして、いまイラク国民は独裁者のもとに隷属状態に置かれている。戦争を止めてこれをそのままにしておけと、彼らは言うのだろうか。(2003年4月2日)







 イラクは自爆攻撃でアメリカ兵を殺害した。これをイラクの副大統領が称賛して、今後も自爆攻撃が続くと宣言したという。イラクが犯罪国家であることはこの一事をもってしても明らかである。
 
 ところがこれを報じるメディアはこのような非人道的なイラク政府の態度を批判することを忘れている。メディアはイラク政府の言うことをアメリカ政府の言うことと同じように公平に報道する。結果として、メディアはイラクに好きなように利用されているのだ。

 イラク政府の言うことは、不正な恐怖政治を維持するためのものである。それにもかかわらず、メディアはそれをそのまま報道している。

 特に、アルジャジーラはイラク寄りの報道姿勢を公然と取り、イラク政府の高官の発言を次々に世界に流して、イラクによる情報操作を助けている。しかも、それを報道の自由などと言っているのだ。

 しかし、報道の自由が恐怖政治維持のために使われてはならないことは言うまでもない。それを忘れた報道がもたらすものは、イラクの恐怖政治の勝利でしかない。(2003年3月30日)








 政体循環論というのがある。政治体制は君主制から専制、貴族制、寡頭制、民主制、衆愚制、君主制と循環するというものだ。しかし、現代ではこのような循環はない。民主制か専制つまり全体主義のどちらかである。
 
 そして、現代の民主制の政治家の最大の責務は民主制を全体主義から守ることである。
 
 民主制の政治家は世論を重視する。しかし、彼は民主制を破壊するような世論や全体主義を助けるような世論にはけっして従ってはならない。
 
 いま、全体主義のイラクと民主主義のアメリカが戦っている。民主制の政治家は如何に世論が反対しようと、民主制のアメリカを支持しなければならない。

 世論はいつも自分が楽になることを望む。世論が反戦を唱えるのは、人が殺されるのを見るのが辛いからである。しかし、全体主義を話し合いで止めさせることは出来ない。
 
 政治家がこのような世論に従えば、自分の最大の責務を放棄することになってしまうだろう。(2003年3月28日)







 人を一人殺せば犯罪者だが何万人も殺せば英雄だと言われるが、これはフセイン大統領についても当てはまる。
 
 日頃殺人犯を死刑にしろと言っている人が、何万人という人間を殺したフセイン大統領に対する戦争に反対しているのだ。反戦論者たちが死刑反対論者なら話は分かる。しかし、日本人の間では死刑賛成とイラク攻撃反対が同じくらいの割合で多い。

 これは米国の攻撃が合法的であるかどうか以前の問題だ。なぜなら、人殺しを捕えるのに合法的であるかどうかを誰も最重要な問題とはしないからである。

 死刑囚を殺すのは一人だけ殺すから賛成だが、フセインを殺すには罪のない市民を巻き込むから反対だと言うのだろうか。それなら、大勢の人間を巻き込む能 力があれば、犯罪者は罪をまぬがれることになる。つまり、何万人も殺せるような権力者になれば、反戦運動をしてもらう資格が手に入ることになる。

 これではフセインは反戦論者から免罪符を手に入れたも同然である。(2003年3月24日)








 国内の犯罪者の言い分に耳を傾ける新聞記者はいないだろう。ところが、テロリストの言い分に耳を傾ける新聞記者なら随分いる。むしろ被害者の言い分より理解ある記者もいるぐらいだ。
 
 国際社会の犯罪では、まるで被害者と加害者は対等になってしまう。法を犯した方が必ずしも悪いわけではないかのようである。 

 とくにアメリカが被害者になった同時テロの場合は、その傾向が顕著だ。なぜかビンラデンとブッシュが対等に語られる。まるで、国際社会には法の支配が及ばないかのように。

 ところが、いまアメリカのイラク攻撃が国際法違反だと批判されている。テロリストに及ばない法の支配がアメリカには及ぶかのように。

 ところで、イラクが昔から何度も国際法に違反したことは大目に見られている。

 これらの事実は、国際社会の問題に一様に適用できる原則なぞないことを意味している。国際社会はまだまだ好き嫌いと強い者勝ちの無原則な社会なのである。(2003年3月21日)







 日本政府がイラクの戦争を支持する理由は明確ではない。しかし、この戦争に反対する理由はもっと明確ではない。それは戦争は悪いことだからという情緒的レベルを超えていない。
 
 アメリカはこの戦争をする理由をイラクの解放とはっきり言明している。それに対して、この戦争に反対する側の理由は、地域が不安定化するからとか、テロ を誘発するからとか、国際法に違反しているからとか、市民の犠牲を伴うからとか、いろいろ言われているが、どれ一つとして決め手になる理由がない。

 それは反戦運動についても言える。そもそも誰のために反対するのかさえ明確ではない。イラク市民のためかと言えば、言論の自由のないイラク市民が本当に何を望んでいるかは明らかではないし、国外のイラク人の中にはこの戦争を望んでいる人たちがたくさんいる。

 要するに、この戦争に反対する側の理由は漠然としたものでしかない。そして漠然としたものは本当の力にならず、戦争を止めることは出来なかったのである。(2003年3月20日)








 わたしはNHKの語学講座が好きで、去年はテレビ・フランス語講座を、今年はテレビ・イタリア語講座を楽しんだ。

 生徒役の女優がみんな美人で、それが第一の目当てだ。去年のフランス語講座は井川遙、今年のイタリア語講座は吉岡美穂、ハングル講座はユン・ソナと黛まどかという豪華さである。

 といっても、放送時にまじめに見ていると眠気が差してくるので、ビデオに撮りだめして、夜中に一杯飲みながら女優の奮闘ぶりを見て楽しむのにちょうどいい退屈さである。

 どの外国語を選ぶかの基準は、生徒役の女優の他にテキストの分厚さがある。
 
 テレビの外国語講座はビデオにとれば、放送内容と同じ内容のテキストは必要ないので、テキストにそれ以外の付加価値があるかどうかが決め手になる。今年度のテレビ・イタリア語講座のテキストには読解の練習にちょうどいいイタリア語の文章が連載されていた。

 来年度は何語講座にしようかと、迷っているところである。(2003年3月19日)







 随分前だが、劇作家の山崎正和氏が毎日新聞に「現代のテロとは何か」という文章を寄せている。

 山崎氏は、アルカイダのテロを社会改革の過激な戦術と見る一般的な政治的解釈を否定する。このテロには自己を正当化する政治理論がない。それは感情の病理なのだ。
 
 現代のテロのはじまりは、「中国の文革から「パリの五月」へと続く、六〇年代の世界的動乱だった。民衆は政治的な背景の違いを超えて、同じ感情の爆発に 身をゆだねた。敵は政治体制それ自体であり、東西両陣営の官僚性がともに攻撃された。ベトナム戦争反対と性の自由、ビートルズと毛沢東の礼賛が直結され た・・・」

 「人類にはときに狐が憑くことがあって、強烈な感情が芽生えて、人びとを相互に扇動させることがあるらしい。集団のなかでは共感の競争が起こり、他人よ り強く共鳴してみせる過剰適合の現象が始まる。古い例としては十五世紀の怪僧サボナローラが煽り、フィレンツェの街を襲った狂気の爆発があった・・・

 「この種の社会病理現象はしばしば文明の爛熟期に、文明の避けがたい複雑さに対する反感として芽生える・・・

 「当然この反感は安直な白黒の価値基準を求め・・・」

 氏の分析には脱帽するほかない。いま世界中で起こっている反戦運動にもこの分析は驚くほどよく当てはまるのだ。それは文明が最も発達しているアメリカに 対する反感に根ざしている。憎しみはフセインではなくブッシュに向けられる。この反戦運動はアルカイダと同根なのである。(2003年3月18日)








 国連に常設の国際刑事裁判所が設立されるそうだ。人道に対する罪や、戦争犯罪の犯した人間を裁く機関である。
 
 この裁判所が本当に機能するためには、主権の壁を越えて逮捕権が行使される必要がある。例えば旧ユーゴ戦犯法廷でミロセビッチが裁かれているが、それは後任のユーゴスラビア大統領が引き渡したからにすぎないからである。

 つまり、国際刑事裁判所の考え方は、国家主権の概念を狭めるものなのである。いかに悪人でも主権は主権だという時代は終わりつつあるのだ。

 将来、国際刑事裁判所が独自の軍隊を持って、ヒトラーのような人間を逮捕するために、彼が支配する国に対して戦争を起こす時代が来るのだろうか。

 ところで、いまアメリカはイラクのフセイン大統領を独裁者と呼んで戦争を起こそうとしている。これを国家主権の侵害だと非難する人がいる。しかし、これは上記の国際社会の流れに沿ったものとも言え、一概に間違いとは言えないのである。(2003年3月15日)







 新聞をしばしば、そこにあるものを伝えずに、そこにないものを伝えようとする。例えば、大学受験資格についての最近の新聞報道がそうである。

 文部科学省は昭和23年の文部省告示を改正して、大学受験資格をインターナショナルスクールの卒業生にも与えると発表した。つまり、大学受験資格の対象を広めたのである。

 この発表の中には、朝鮮人学校のことは一言も書かれていない。ところが、ある新聞がその書かれていない朝鮮人学校のことをニュースにしたのである。そして、この新聞の作った嘘に乗せられて各地で抗議運動が起っている。

 真実は、文部科学省が、教育活動について第三者機関の認定が得られる学校の卒業生に大学受験資格を拡大するということだけである。朝鮮学校の卒業生には未来永劫に与えないなどとは一言も言っていない。ところが、この騒ぎである。

 これはまさに新聞による世論操作であり扇動である。われわれに必要なのはこういう扇動に乗せられない冷静な目である。(2003年3月8日)







 また衆議院議員が逮捕されるが、その理由が「政治資金収支報告書に収入を1億2000万円も少なく記載していた」からだという。
 
 これは政治資金規制法に違反するのだそうだ。で、それがなぜ悪いのか。どうしてそれが、国民がわざわざ投票して選んだ国会議員を逮捕する理由になるのか、今ひとつ分かりにくい。

 われわれが知りたいのは、むしろその金でこの人は何をしたかであろう。

 たとえば、日本では出来ない子供の臓器移植をアメリカでしたいのに資金が足りなくて困っている人に、この人がその金を提供したのなら立派な行為である。しかも、これは政治活動に使ったのではないから、報告書に記載しないのは当然だということになる。

 では、この議員はなぜ報告書に記載しなかったのか。それは今の時点で全く明らかではない。にもかかわらず、この人のことがいかにも悪人のように報道され議員辞職が云々されている。

 「政治と金」が問題になっていると大げさに言われているが、本当にそうなのか。問題はその金で何をするかではないのか。(2003年3月6日)






 ローマ法王が平和を呼びかけている。しかし、世界史を勉強した人なら、歴代のローマ法王がどれほど多くの戦争を引き起こし、どれほど多くの無垢の大衆を殺害してきたかを知っているはずだ。
 
 おそらくローマ法王が殺した人の数はヒトラーが殺した人の数をはるかに上回るだろう。そのローマ法王が今人命の尊重をうたい平和を訴えている。
 
 権力を持っていた間は戦争をして人を殺してきたローマ法王が、権力をもたない今平和を訴えているのである。そして、今世界を支配しているアメリカが戦争をしようとしている。

 してみると、戦争を選ぶか平和を選ぶかは、権力を持っているかいないかに係っているということになる。

 実際、言うことを聞かない相手に暴力を使うことは権力者だけに許されている。それが社会の秩序を維持するための手段であるからだ。

 したがって、もしいま世界の秩序を維持する責任がローマ法王に委ねられているなら、彼もまた武力行使をためらいはしないだろう。(2003年3月6日)







 ニュースをインターネットのサイトで読むようになってから、テレビのニュース番組は見なくなった。
 
 インターネットでは知りたいニュースを選んで読む。この習慣が付いてしまうと、テレビのニュースは押しつけがましく感じるのだ。

 テレビ局が興味を持つニュースに視聴者が興味が持つとは限らない。世の中の出来事は無数にある。その中のどの出来事に興味をもつかは人によって違うはずだ。

 ところが、テレビ局は自分勝手に選んだニュースを、まずこれを知りなさい、次にこれを知りなさいと順番に読み上げるのだ。

 そんな番組を見ていると、そんなことはどうでもいい。そんなことは昔から決まっている。そんなことはもう知っている。それはお前の意見だろう。その話題 はもういいぞ。と、いちいち突っ込みを入れたくなるのだ。それが面倒くさいので、ニュースの時間帯は教育テレビをつけている。

 インターネットの時代にはニュース番組も変わるべきだろう。(2003年3月3日)







 映画「麗しのサブリナ」を見た。後半で、サブリナがライナスにデートの断りを入れる場面が秀逸だ。彼女はライナスのいるビルの一階の電話ボックスから電話をかけるのだが、ライナスが彼女を引き留めるテクニックが巧みなのだ。
 
 「会えない理由をいって御覧、聞いてあげるから」と相手にしゃべらせておいて、その間に自分は受話器をこっそり置いてエレベーターで一階のサブリナのもとにたどり着くのである。恋を成就するにはこんなテクニックがいるのだ。
 
 次にその後の、サブリナが二人の男の間で揺れる自分の気持ちを涙ながらに告白するシーン。ヘップバーンの演技が素晴らしい。あんなに気持ちのこもった演技を見るのは久しぶりのような気がする。
 
 「パリは雨の方がいい。雨の日のパリはいい匂いがするから。だから、パリに傘はいらない」とサブリナは言う。それで、邪魔な傘は通り過ぎる男のコートの背中にかけて、二人が抱き合ってThe End。
 
 この傘といい帽子といい、小道具の使い方もしゃれている。とにかく幸せな気分にしてくれる映画だ。

 ところで、字幕がmergerをずっと「合同」と訳していたのが変だった。「合併」だろうが。(2003年3月3日)









 イラクに対して、武装解除しなければ戦争をするぞと言うアメリカ。アメリカに対して、戦争を許すような安保理の新しい決議には拒否権を行使するぞと言う フランス。ブレア首相に対して、新しい安保理決議なしで戦争に踏みきるなら離党するぞと言うイギリス労働党の議員たち。

 どれも話し合いによって相手を説得しようとしないで、脅しを使っている点では同じである。

 問題が話し合いによっては解決しないことを教えるこれほどいい例はない。哲学者ヴィットゲンシュタインは、「問題はそれが問題でなくなったときにのみ解決される」と言ったという。

 ではそのためにはどうすればよいか。「ゴルディオスの結び目」の話がその参考になる。
 
 この結び目は「これをほどいた者はアジアの征服者になる」と言われていた結び目だが、それまで誰もほどけなかった。それを知ったアレキサンダー大王はこの結び目を刀で一刀両断にしてしまったという。つまり、彼は問題を問題でなくしてしまったのだ。
 
 イラク問題に関しては、この話は参考にならないだろうか。(2003年2月28日)







 ちょっと居眠りしただけで、こんなに大きくマスコミに取り上げられた人はいないだろう。運転中に居眠りをした新幹線の運転手のことである。一流紙がこぞってこれを社説に取り上げている。ほかに書くことがなかったのだろうか。

 きっと彼らは仕事中に一度も居眠りをしたことのない立派な人たちなのだろう。

 新幹線はほとんど自動運転だそうだ。だから、もしちゃんとホームの正しい位置に止まっていたら、こんな大騒ぎにはならなかったに違いない。新幹線はもっと自動運転の精度を上げるべきではないか。だれでも、人間なら眠気はさすものだからである。
 
 もちろん、眠気が差さないようにする方法はある。自動運転をやめればいいのだ。時速270キロという高速運転中に眠くなる人はいない。しかし、そうなれば、危険性ははるかに高くなる。

 マスコミが大騒ぎをしたおかげで、この運転手は警察に呼ばれたそうだ。死んでおわびしろとでも言うのだろうか。普通の人なら神経がもたないだろう。

 全く他人に厳しく自分に甘い人間ばかりの世の中である。(2003年2月28日)







 映画「102」を見た。101匹わんちゃん大冒険の実写版「101」の続編だ。普通は続編はおもしろくないものだが、これは違う。
 
 ぶちのないダルメシアンの子犬と飛べないオームの大活躍、女性保護観察官と捨て犬ホームの男との恋、グレン・グロースにジェラール・デパルデューを加え た豪華キャスト、パリのロケ、一糸乱れぬ犬たちの名演技、グレン・グロースが罰として巨大なケーキにされる趣向などが、ダルメシアンの毛皮でコートを作る という「101」の単純なストーリーの上に加わって、「101」よりはるかに面白く、大人も楽しめる内容になっている。最後にぶちなしの子犬にぶちが出て くる落ちまでついてかなりの出来だ。7点。
 
 ところで、最初のシーンで鉄格子の扉に書かれたBehavior control unitの和訳が「行動制御課」と直訳されているのは笑った。このcontrolは矯正のことだろう。
 
 また、グレン・グロースの吹き替えに山田邦子が使われていることに不満が残った。他は皆声優の張りのあるいい声なのに、グレン・グロースだけは普通の声 なのだ。素晴らしい声優は五万といるのに、知名度に頼って素人を吹き替えに使って映画をだめにするのは、日本の映画会社の悪い癖である。(2003年2月 28日)







 桶川ストーカー殺人の民事訴訟で、一旦家族に対して涙ながらに謝罪した県警本部長が裁判では一転して責任を否定したことを不当だという声がある。
 
 しかし、裁判とは争うものだ。相手側に非があってそれを相手側が全部認めているなら裁判にはなっていないはずである。

 また、裁判で県側が被害女性の不利な情報を利用して故人を冒涜したことも批判されている。しかし、それが裁判というものだろう。

 この事件の真相はあくまで男女関係のもつれである。警察がそれに関われる程度には限度がある。別れ話を持ち出して「殺してやる」と言われた女性のために、警察がいちいち動くことは出来ない。

 そもそも、本当に命の危険を感じていている人間が、真っ昼間に一人で目立つ格好をして外出するだろうか。本人が予見しなかった殺人を警察が予見できなかったとしてもそれは落ち度とは言えない。
 
 遺族には気の毒だが、今回の裁判所の判決は妥当なものだと思う。(2003年2月27日)







 ある新聞記者が小学校3年の自分の息子に「イラクや北朝鮮は、核兵器を持ったらだめなのに、なぜ、アメリカはいいの」と質問されて困ったという。
 
 イラクの大量破壊兵器の廃棄は当然だとしても、米英などが核兵器を保有していることがなぜ許されるか、子供に説明できないというのだ。

 それなら、この息子さんには是非次のように教えてあげてほしい。

 「アメリカはいい国だから、核兵器を持っていても悪いことに使わないからいいけど、北朝鮮やイラクは悪い国だから、核兵器を持ったりしたら、どんなに悪いことに使うか分からないから、核兵器を持ってはいけなんだよ」と。

 この記者はあまりに仕事が忙しくて、こんなことも分からなくなるくらいに頭がこんがらがってしまっているのだろう。しかし、息子さんだけは、物事の善し悪しの区別がちゃんと付けられる立派な大人に育ててあげて欲しいものである。(2003年2月26日)







 内閣総理大臣は天皇に任命された人物だ。ところが、野党のたとえば民主党の党首は天皇に認められた人間ではない。だから、与野党の対立の中で、与党はいつも官軍であり、野党はどこまでも賊軍なのである。

 だから、民主党の党首が質疑で首相をやっつけても、内閣支持率は大して減りはしない。民主党自体の支持率も、高々4%が9%になっただけで、4%が25%になりはしないのである。

 これを見ても、日本ではイギリス流の議会政治はなかなか機能しないと言えるのではないか。

 昔の日本は中国の制度を真似たけれども、けっして同じものを作ろうとはしなかった。むしろ、遣唐使を廃止して国風文化を花咲かせた時代もあったぐらいだ。

 現代の日本も、イギリス流の議会政治の猿まねはやめて、日本流の政治形態を模索すべきではないか。

 二大政党制を目指すべきだとよく言われるが、それは野党が政権につく可能性があっての話だ。しかしそれは日本ではほとんどあり得ない。ならば、もっと多くの英知を結集できる日本式の方法を考えるべきではないだろうか。(2003年2月24日)









 NHKの日曜日の「のど自慢」をわたしは好きではない。わざわざ予選をして下手な人を出しているのが理解できないからだ。
 
 それだけではない。この番組は人を番号で扱う。名前は合格した人だけに聞くのだ。何故そんなことをするのか理解できない。

 この番組は飛び入り参加ではない。予選をやって、職業から年齢から家族構成から調べまくってから本番に出すのだ。それなのに本人の名前をアナウンサーは言わないし、字幕でも紹介しない。
 
 住民基本台帳では人を番号で扱うのはけしからんとさんざん文句が出ている。ならば、どうしてNHKが出演者を番号で扱っても問題ではないのか。
 
 NHKは子供版の「のど自慢」を衛星放送でやっている。こちらは名前と曲名が字幕で出る。大人と子供は違うということだろうか。
 
 こういう分かりにくさがわたしは嫌いなのである。紅白歌合戦の場合も同じである。(2003年2月23日)







 イラクは平和的な手段で武装解除できると主張するフランスだが、いっこうにその具体的な方法を実行に移そうとせず、世界で広まる平和運動をあてにした多数派工作に熱心なようだ。
 
 フランスのドゴール将軍が生きていたらこのシラク大統領のやり方をどう思うだろう。祖国を離れてレジスタンス運動を指揮していたドゴール将軍なら、イラクを離れて海外でフセイン打倒の運動を進めている人たちに対して、シラク大統領のような冷淡な態度はとらないはずだ。

 だから、ドゴール主義を標榜するシラク大統領が、なぜ今回のような態度に固執しているのかは、大いなる謎である。

 シラク大統領は世論を巧みに利用する政治家であることは有名である。献金疑惑を抱えながら、大統領選挙で右翼の台頭を引き出す演説によって再選を確実にした彼のことだ。何か狙いがあって反戦の世論を利用しているにちがいない。
 
 しかし、多数派工作だけでアメリカの攻撃を止めさせることは出来まい。彼の狙いが何であれ、その実現に目途がつくときがフランスの転換点になるのではないか。彼は変わり身の速さでも有名だからである。(2003年2月22日)








 西村知美や浅田美代子がテレビ番組でとんちんかんなことを言って人気を呼んでいる。しかし、日本にはこんな女性は珍しくない。わたしの見るところ毎日新聞の「時代の風」に文章を寄せている高木のぶ子などもその一人である。
 
 そこに書かれた内容はかなりとんちんかんなものなのだが、読者の中にはそれを真に受けて立派なことが書いてあると思う人がかなりいるようだ。

 しかし、例えば、この人はある新聞の対談でこんなことを言った人である。

 「今世紀は男と科学技術と戦争の時代だった。来世紀は女と物語の世紀であってほしい」

 そんな馬鹿なと一笑に付せばいいような発言だが、芥川賞作家の言うことだと、世間は有り難がって拝聴してしまう。

 「時代の風」でも彼女は拉致被害者を北朝鮮に返すのが正しいと書いた。これはさすがに同じ新聞の岩見隆夫に「サンデー時評」でたしなめられたが、彼女はこれに懲りずに、今度は「アメリカは変わった」(2月9日) という題で的外れなことを書いている。

 その内容は今のアメリカは「リンカーンのゲティズバーグの演説、ケネディの理想、ハリウッド映画に見る開放感と正義」のアメリカではもはやないと一方的に断定するもので、その理由が今の軍事力優先の姿勢だと言うのである。
 
 この人はきっとアメリカについて何か自分勝手な夢を抱いていたのであろう。現実のアメリカは軍事力によって生まれた国であり、常に軍事力によって世界を支配してきた国である。しかも、そのアメリカはいま戦時体制にある。
 
 さきの新聞の対談で彼女はさらにこう言ったそうだ。

 「私たちが生きているリアルな生活よりアナザーワールドに遊ぶ能力というかダブルに生きる能力が物語の力になる。今あるものだけで四苦八苦するのでな く、ダブル、トリプルの人生を送るための物語が必要になってくる。それを担うのはぎゅうぎゅうと生きてきた男でなく、女の力ではないか」
 
 現実の政治は今あるもので四苦八苦することである。作家が物語の世界で夢を見るのは自由だが、それを現実の世界に持ち込んでとんちんかんな事を書くのはやめたほうが賢明だろう。(2003年2月22日)







 トヨタ自動車がこの春の賃上げをしないそうだ。トヨタは不況どころか日本で最高の利益を上げている一番の勝ち組である。その企業が賃上げしないのだから、日本のデフレが改善する見込みは少ないと思うしかない。

 賃上げをしない理由はいろいろ言っているようだが、要するに、儲かっているトヨタが儲かっていないマツダや三菱に合わせたのである。トヨタは賃上げの代 わりにボーナスだけで辛抱するらしいが、それさえ、たくさんもらうことを申し訳なさそうに弁明したりしている(後日注: カルロス・ゴーンの日産だけは賃上げしたそうだ。さすがである)。

 不況不況というが、日本全部が不況なのではない。不況の会社と好況の会社があって、たまたま不況の会社の方が多いだけなのだ。ところが、こういうふうに好況の会社が不況の会社に合わせているかぎり、デフレの克服は遠い。

 景気の回復が個人消費にかかっていることは誰でも知っていることだ。それなら、好況の企業の社員から消費を増やしていこうとどうして思わないのか。いつまでも政府委せでは夜明けは来ない。(2003年2月21日)







 フランスのシラク大統領は、雑誌タイムとのインタビューで、

"France is not a pacifist country. We currently have more troops in the Balkans than the Americans. France is obviously not anti-American. It's a true friend of the United States and always has been. It is not France's role to support dictatorial regimes in Iraq or anywhere else. Nor do we have any differences over the goal of eliminating Saddam Hussein's weapons of mass destruction."と言った。

 それを17日に朝日新聞は、「フランスは不戦主義国家でもなければ反米でもない。イラクの大量破壊兵器の武装解除を、戦争以外の手段で達成できると考えているのだ」と要約して記事に引用した。

 すると、19日に産経新聞が、「主張」で「シラク仏大統領は「不戦主義国家でもなければ反米でもない」と述べ」
と書いている。

 これを書いた産経の論説委員は、英語の原文を見ず、朝日新聞の翻訳を流用し、さらに短縮したものと思われる。原文を「~でも~でもない」の形にしたのは明らかに朝日新聞の翻訳だからだ。

 さらに、pacifist country を朝日新聞が「平和主義の国」と訳さず、「不戦主義国家」と訳したのは、シラク大統領の発言が平和主義を否定するものにならないよう配慮したものと思われる。

 それをそのまま流用した産経の論説委員の見識が問われる。(2003年2月19日)







 フランスのシラク大統領が、アメリカのイラク攻撃に反対していることに関して、雑誌タイムズのインタビュー記事の中で奇妙なことを言っている。
 
 なんと「フランスは平和主義の国ではない」と言っているのだ。

 おそらくシラク大統領は、アメリカとの対立を緩和しようとして、フランスは軍事力による解決を主張するアメリカの言い分を全否定するものではないと、アメリカに対して一定の理解を示したものであろう。

 それにしても、シラク大統領は日本人が大切にしている平和主義をかくもあっさり否定しまったのだ。これは一体どういうことだろう。

 平和主義は絶対に正しいことで、世界中の誰もが認める普遍的な価値ではないのか。どんなことがあっても戦争をしてはいけないのではないのか。

 ところが、シラク大統領はそれを否定しているのだ。これは単に日本とフランスは違うということだけなのだろうか。それとも日本が特殊なのか。まったく世界は広いというしかない。(2003年2月18日)







 史上空前の反戦デモだそうだ。そのデモが最も盛り上がったヨーロッパは土曜日である。ということは、ヨーロッパでは週休二日制の恩恵に浴する幸福な人たちが非常にたくさんいるということだ。
 
 ローマ、ベルリン、ロンドンでは50万人以上の人出があったという。週休二日制で土曜日が本当に休みなのは公務員ぐらいしかない日本ではとうてい考えられないことだ。

 このような運動が出来るということは、もちろんこの国々で自由と民主主義が栄えている証拠であるが、それ以上にこの国々の人々が土曜日に働くなくていいほど裕福だということである。

 この反戦運動の盛り上がりを一番喜んでいるのが、イラクの自由と民主主義を圧殺して国民を貧困で苦しめているフセイン政権だというのだから、これほど分かりにくいことはない。

 今回の反戦運動の規模はベトナム戦争当時よりも大きいという。ここから唯一よく分かることは、当時より世界がそれだけ裕福になったということだけである。(2003年2月17日)







 イラク攻撃をめぐって世界は新しい方向に向かい始めた。

 いま焦点になっているのは、実はイラクを攻撃すべきかどうかではない。世界の平和を守るのは誰かが問われているのだ。
 
 ソビエトの脅威が無くなった今、フランスもドイツももはやアメリカに頼る必要がなくなった。だから、もうアメリカの言う通りにはしないと言いだした。

 それどころか、かつての脅威だったロシアや共産主義の中国と手を結ぶという手段をとってまで、アメリカをへこませようとしている。
 
 もしフランスやドイツのこの企てが成功して、イラクの周辺に集結した何十万というアメリカ軍を撤退させるのに成功したらどうなるだろう。

 イラクの武装解除は立ち消えになるだろう。が、それだけではない。世界平和を守ってきたアメリカの面子は丸つぶれになり、アメリカ人の中にかつての孤立主義が復活してくる恐れがある。

 そうなったときにフランスやロシアや中国が世界平和を守ってくれるのだろうか。それは大いに疑問である。(2003年2月15日)







 インターネットの自殺願望サイトで知り合った男女が集まって自殺したというニュースが流れた。
 
 わたしはそんなホームページがあることは知らなかった。しかし、もしわたしが自殺したければそのサイトを見つけたことだろう。知りたい人だけが情報を分け合うのがインターネットの特徴だ。

 マスコミでは自殺は悪いことになっているが、インターネットではそんな建前はないから、新聞やテレビでは絶対手に入らない情報が手に入る。

 しかも、自殺願望サイトは自殺したい人しか見ないので、一般人に害を及ぼすことはない。しかし、こういうサイトは、自殺したいと思うだけの人に実行するきっかけを与えることにはなるだろう。

 だから、もし自殺しない方がいいのなら、こんなサイトはない方がいい。では、自殺しない方がいいのか。

 世の中には「生きてるだけで丸儲け」と言える幸せな人がいる。ということは、その正反対の人もいるだろう。そういう人にそれでも生き続けろと言えるか。もし言えないなら、こんなサイトは無くしてしまえとは言えないのではないか。(2003年2月14日)








 先日の党首討論はほとんどニュースにならなかった。政府は野党議員の言うことにまともに答えないという従来の方法に、首相が立ち戻ったためである。
 
 政府の首脳が野党議員の言うことをいちいち真に受けて答えたりしていたらろくなことはない。
 
 かつて吉田首相は野党議員の言うことに腹を立てて「バカヤロー」と言ってしまい、それで衆議院を解散することになってしまったことさえある。おかげで国政は停滞し、選挙費用の無駄遣いになった。

 小泉首相は衆議院の予算委員会で、野党議員の公約違反の指摘に対して「たいしたことはない」と言って物議を醸したが、これがいい薬になったのだろう。

 一部マスコミはこれで国会の論戦が面白くなってきたとはしゃいだが、現実はその逆になってしまい、自分たちの見通しの甘さをまたもや露呈した格好である。

 政府は本来国会の答弁では言いたいことは言わないものである。それで国政が安定するのだから、それでよいのである。(2003年2月13日)







 最近の童話は残酷な場面がなくなっているという話を聞いた。
 
 たとえば、「さるかに合戦」では猿はおにぎりを奪った蟹を殺してしまうが、最近の話では蟹は怪我をしただけになっている。
 
 「かちかちやま」ではおじいさんはおばあさんを殺した狸を殺して狸汁にするが、最近では狸は謝っただけで許されてしまうそうだ。
 
 これらは子供には残酷すぎるとして改められたのだろうが、童話が残酷なのはあらかじめ子供をこの世の残酷さに馴れさせたり、命のはかなさを教えたりする目的があるはずだ。

 最近ひきこもりの子や逆に残酷な事件を起こす子が増えているが、それとこうした童話の改変とは関係があると言えないだろうか。
  
 また、岡山で幼い姉妹が山の中で命を失うという事件があったが、もし二人が自分から山の中に迷い込んだのなら、この世の怖さを教えない優しい童話やアニメに影響された結果ではないかと、わたしには思われてならないのだ。(2003年2月12日)







 『となりのトトロ』を見た。この映画の世界は子供の無防備な好奇心を全面的に受け入れる世界である。
 
 藪の中に飛び込んでも、トゲに刺さることもなければウルシにかぶれることもない。森の中で大きな怪物に出会っても、襲ってくるわけでもなければ取って食おうともしない。
 
 だから、この世界の子供は恐怖心を持っていない。迷子になった子供はトトロに頼めば猫のバスが来て助けてくれる。
 
 大人が見ても子供が見ても楽しい映画だ。しかし同時に、子供がむげにこの世界を信じて現実を生きようとすれば非常に危険だという感想を持った。

 グリム童話などは現実の世界の恐ろしさを子供に教える役割も果たしているが、『となりのトトロ』にはそれがないのだ。
 
 この世は危険がいっぱいである。無防備に走り回れば必ずどこかで怪我をする。少しのことで命を失う危険さえある。大人はこの映画を見終わった子供たちに必ずそのことを教えてやる義務があると思う。(2003年2月10日)







 「言論の府としての国会の活性化を」などとよく言われるが、日本には論争を尊ぶ伝統はない。
 
 「和をもって尊しとす」が今もって日本人の価値観の第一を占める。人がしようとすることに対してあれこれとあら探しをするのは、むしろ卑しむべき事とされてきた。したがって、いくら活発な論争が国会で行われても、テレビの視聴率が上がることはない。

 むしろ、小田原評定といって長々と議論ばかりしている事への批判の方が大きい。
 
 いまの国会のテレビ中継を見ていてわたしが思うのはそれと同じことである。「今はもう議論をしている時ではなく行動の時なのに、何をごじゃごじゃ言っているのか」である。

 国会の議論が活発であっても、それが日本にはもたらすのは混乱だけで、何もいいことがないのは歴史からも明らかである。戦前の金融恐慌のきっかけはむしろ国会の論戦だった。
 
 そして、いま不況にあえぐ中小の企業家たちが求めているのがあんな議論の応酬でないことだけは確かだろう。(2003年2月7日)







 京都市がゴルフ場予定地を業者から昔買い取った金額が高すぎるでとして適正価格との差額を当時の市長に支払うよう住民が求めた訴訟で、大阪高裁は住民の訴えを認めて約26億円を市に返すように前市長に命じた。
 
 しかし、こんな判決が正しいと言えるのなら、今後は余程の大金持ちでなければ市長になれなくなってしまう。

 どんな小さい町の町長も個人の財産よりもはるかに大きな額の予算を扱う。もし失政を犯せばその結果を個人で全部背負わなければならないなら、町長になることのリスクは大きすぎる。

 また、市の公金支出は議会の承認を経ているはずだ。間接民主制では議会の承認は市民の承認を意味する。それを後から間違っていると一部の住民が訴えてそ れが認められるなら、議会の存在意義は無くなってしまう。こんなことが続くなら、議会議員選挙の投票に行くことは無意味になる。

 この判決は日本の民主主義をつぶしかねない判決と言わねばならない。(2003年2月6日)







 コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバー。スペースシャトルの名前だ。アメリカにはあんなものが五つもあったのであ る。アメリカとは何と金持ちの国だろうとつくづく思う。そのうち二つが爆発してしてしまったが、それでもまだアメリカにはあんなものが三つもあるのだ。な んと贅沢なことか。
 
 夢のためというが、夢はいまだに夢でしかなく、人間が宇宙に脱出できる目途は全く立っていない。人間が出来る事といえば、細々と地球の周りを回ることぐらいだ。

 確かに、衛星の放出や実験など地球上にいる人間に役に立つこともやっている。しかし、スペースシャトルがやっていることの多くは宇宙飛行士のためだけのもので地球上の人間には関係がない。

 それなのに、アメリカはあんなものを最近では年に6回から8回も飛ばしているのだ。回数が増えれば事故が起きるのは当たり前だろう。金持ちの道楽に乗せられて死んだ人たちには気の毒というほかない。(2003年2月4日)








 日本では芥川賞と直木賞が文学賞として大きな位置を占めている。これはアメリカのピューリッツァー賞に匹敵する賞だと言われる。
 
 しかしながら、芥川賞作家にはあまりたいした作家は出ていない。三島由紀夫も太宰治も川端康成も芥川賞作家ではないのだ。唯一の例外は大江健三郎だけである。

 なぜこんなことになるのかというと、大物小説家は同時代の審査員を越えているため、彼らの反発を買って受賞できないからである。だから、芥川賞を受賞したということは、審査員に好かれる程度の小者の作家という烙印を押されたようなものである。

 新聞の訃報に芥川賞作家と紹介される人が、読んだことも聞いたこともない人がほとんどなのはそのためである。

 直木賞の方も同じようなことが言える。たとえば、吉川英治も山岡荘八も直木賞作家ではないのである。

 というわけで、結局どちらの賞もちょっとした有名人を作るだけで、文学的には大した意味がないのが実情である。(2003年2月4日)







 人間の知性には限界がある。スペースシャトルの事故を見て、その思いを新たにした人は多いだろう。しかし、人間社会の多くのことは人間が完全ではないおかげで成り立っている。
 
 たとえば、囲碁や将棋というゲームがある。これらは先の手を読む力を競うゲームであるが、もし人間に完全に先を読む能力があればゲームは成立しない。

 ゲームの進展には何億通りどころか、ほとんど無限に近い可能性があるが、それを全て初めから予想できればゲームをする必要はなくなってしまう。だから、これらのゲームは、人間の持っている乏しい能力を使って、ドングリの背比べをするゲームだと言える。
 
 もちろんプロとアマとは違う。しかし、全てを予見できることと比べたら、五十歩百歩である。そして、そのおかげでプロは金儲けができる。

 学問や宗教についても同じことが言える。要はこの世の事がよく分からないからこんなものがあって商売が成り立っている。宇宙飛行士も同じである。

 だから、人間は自分が不完全であることを嘆くどころか、むしろ感謝すべきなのである。(2003年2月3日)








 東京都の銀行税を高裁が違法と判断したという。しかし、民主的手続きを経て成立した条例を憲法違反でもないのに裁判所が否定してよいはずがない。
 
 この条例は議会で可決されたものである。ということは、議員を通して都民がこの条令に賛成したことを意味する。つまり、東京都民一千万人が賛成して決めたことなのだ。その決定を覆す権限を数人の裁判官が持っていてよいだろうか。

 裁判官は、議会の議決を経て都民の意志として形成された条例の当否を判断をする権限は自分たちにはないと言って棄却すべきだった。ところが、彼らは、自分には一千万人の判断を否定する権限が与えられていると思ったのである。

 最高裁判所には違憲立法審査権が与えられているが、それは民主的に国民が決めた最高法規に反したことを、国民が自ら行おうとしたときに警告を発する権限に過ぎない。

 憲法に反していない限り何が正しいかを決める権限は国民とその代表である議会にある。それをとやかく言う権利は裁判所にあってはならない。(2003年1月30日)








 電動ポットには上蓋の後ろの方に穴が開いている。沸騰のときに蒸気を逃すためである。しかし、沸騰した後は、あの穴から湯が冷めていく。だから、電気で保温しているのだ。

 最近は電動ポットでも魔法瓶式などというものが出ているが、穴はちゃんと開いている。だから、電気を切るとどうしても湯はすぐに冷めてしまう。

 湯を冷さずに保つには容器を密閉するのが一番である。しかし、密閉した容器で湯を沸かすと爆発する。つまり、電動ポットは、湯を沸かしてしかも冷さずにおくという矛盾したことを一つの装置でやろうとしているのである。だから、非常に電気を食う、効率の悪い商品なのだ。
 
 電動ポットで便利なのは、ボタンを押せば湯が出ることだ。これは従来の魔法瓶には無かった機能である。

 だから、わたしとしては、魔法瓶にボタンを押せば電動で湯が出る機能だけが付いた製品が出てくれないかと思う。湯は茶瓶を使ってガスで沸かせばよいのである。(2003年1月26日)







 国会の質疑における野党の質問は、今国会の管直人氏の質問のように、面白くても揚足取り的なものが多く、建設的であることは少ない。これでは時間の無駄である。与党の議員はそんなことはしない。ならば全部与党になれば国会はもっと意味あるものになる。
 
 その方法がないわけではない。挙国一致内閣を作るのである。そのためには内閣を構成する大臣は国会の議長と同じようみんな離党する。そして、政府を党派を離れた存在にして、どの党も参加しやすいものにするのである。
 
 これは県政レベルでは既に行われている。知事は無所属であるため、ほとんどの政党が知事の与党になっている。それと同じ事を国政でもやるのだ。
 
 県政のオール与党体制は、知事が無能な場合には県政が停滞する原因になる。しかし、有能な知事を得た県では、改革が非常にスムーズに進んでいるようだ。改革が望まれる今の時代である。国政が県政を真似るのも一方ではなかろうか。(2003年1月26日)







 かつて、政友会の犬養毅は野党にあるとき、自分は軍縮論者であるにもかかわらず、民政党内閣が軍縮条約を結んだことを統帥権の侵犯であるといって攻撃した。
 
 このように野党が自分たちが賛成していることを政府がやったと言って攻撃したり、自分たちが反対している政策を政府が実行しなかったと言って攻撃することで、戦前の政党政治は国民の信頼を失っていった。

 戦前は政府を退陣に追込んだら、次は野党に政権をまかせるという慣行があったので、これでも野党には充分利益があった。しかし、そんなことを繰返しているうちに、五一五事件が起って政党政治は終ってしまう。

 いま、民主党の管党首は自らは靖国参拝反対論者であるにもかかわらず、首相が公約どおりに八月十五日に参拝しなかったといって攻撃して得意になっている。

 しかし、戦後は選挙で勝たなければ政権がとれない。しかも、首相の靖国参拝は七割の国民の支持を得ている。民主党はこの質問でさらに政権から遠のいたと知るべきだろう。(2003年1月25日)







 「千と千尋の神隠し」を見た。

 この作品はアメリカで評判がよい。英語版の予告編(http: //www.apple.com/trailers/disney/spirited_away.html)を見たが、それだけで感動的である。何といっ ても吹替えが素晴しい。主役の女の子の声がとにかくキュートなのだ。ところが、日本語版は、逆に吹替えが駄目なために台無しになっている。

 吹替えに有名俳優や新人を使うのはよいが、しっかり訓練してから使うべきだった。特に主演の女の子の声は、英語版と違って芝居になっていない。そもそも 声が出ていないのだ。内藤剛志、沢口靖子、菅原文太などの俳優たちもへたである。プロの声優たちはうまいが、俳優でうまいのは湯婆婆の夏木マリだけであ る。

 ストーリーの面から言えば、はじめの無人の町は桃源郷のイメージだ。勝手に食べ物を食べて罰を受ける話も、人間が豚にされる話もホメロスのオデッセイ (ナウシカも同じ)と同じ。カードの人間は「不思議の国のアリス」だ。湯婆婆は西太后と黒柳徹子のイメージ。鳥獣戯画などの絵巻物の登場人物やムーミンも 入っている。映画「エイリアン」と「インディー・ジョーンズ」が入っているのも誰もが認めるところだろう。全体的には「ネバーエンディングストーリー」を 思わせる。以前の作品のイメージの焼直しもある。このようにあらゆる映画や物語やイメージをギューと詰め込んで作った映画だ。

 神が出たり何でもありなのを取除けば、要するに、ふとしたことから実社会に放り込まれて成長していく少女の話である。アメリカ版ならアカデミー賞を取ってもおかしくないだろう。日本語版は3点。(2003年1月24日)








 一部の新聞は二三日の予算委員会の質疑を論戦と見なして、民主党の管党首の勝ちと断じた。しかし、論戦とはやりあってこその論戦である。あれは質疑でしかなく勝ち負けはない。
 
 ただし、一回だけ小泉首相がやりかえした場面があった。それは首相が長崎県の諫早湾の干拓に民主党本部が反対しているのに、地元の民主党が干拓を推進する知事を支持しているという矛盾をついたときだ。これには管氏もまともに答えることができなかった。

 ではなぜ長崎県の民主党は知事を支持しているのか。それは県政で主導権をとれる与党になりたいからである。そのために干拓問題で譲歩したのである。それに対して、民主党本部は野党であるため、与党の政策に反対することで得点を稼ぐしかないのだ。

 民主党本部も実は与党になりたいはずだ。それならば自民党と政策協定を結んで与党になればいい。県政でやっていることを国政でやっていけない法は無いはずだからである。(2003年1月24日)







 まるで英米以外の主要国がみんなアメリカのイラク攻撃に一致して反対しているかのようなニュースが流れている。
 
 しかし、それが間違っているのはイタリアがイギリスを支持していることだけを見てもすぐに分る。

 イラク攻撃に反対している国々を見ても事情はそれぞれに違う。イラク攻撃の正当性やテロ対策に対する有効性などは表向きの口実ではないのか。

 むしろ、フランスはいつものようにアメリカに対する独自性を主張したがっているだけであり、ドイツは選挙時の人気取り公約に縛られて身動きがとれなく なっているだけであり、ロシアは湾岸戦争の時のイラク寄りの姿勢を変えていないだけであり、中国はアメリカに世界の主導権をとられたくないだけと見ること もできる。

 実際、これらの国はイラク問題に関して何か具体的で有効な方策を持っているわけではない。いわば、日本の野党のような立場に立っているのである。

 そんな無責任な国々の言分ばかりに耳を傾けるのはいかがなものかと思う。(2003年1月24日)







 「自由と民主主義」は、かつては欧州諸国の最高の価値観を表していた。ところが、最近ではそれに代わって「平和主義」が台頭してきている。アメリカのイラク攻撃反対運動の欧州における盛り上がりから、そう言えるだろう。
 
 「自由と民主主義」はブルジョアつまり資本家の価値観と言われてきた。それに対する「平和主義」はアリストテレスの世界でいう奴隷、今でいう労働者階級の価値観であろう。
 
 つまり、欧州では資本家の支配は終り、今や労働者の時代が来たのであり、欧州の政治家は資本家より労働者の支持を得ることを重視し始めたのである。

 しかし、これは欧州で労働者の力が強くなったということを意味しない。むしろ、大資本がアメリカに集中して、ブルジョア階級と言えるものがもはやアメリカにしか存在しなくなったということだろう。
 
 つまり、欧州の平和運動の盛り上がりは、アメリカの一国支配が経済面でも強まっていることの表れと見るべきなのである。(2003年1月23日)









 女生徒に相談に乗って欲しいと言われてたら用心したほうがいい。わたしはそれで人生を棒に振った。
 
 あの時あの子の目つきはただ事ではなかった。彼女の潤んだ目はわたしの方をまっすぐに見て何か言いたそうにしている。しかし、他の人には聞かれたくないと態度で訴えていた。だから、わたしは彼女を誰もいない別室に連れていったのである。

 ところが、部屋に入るはいなや、彼女はわたしの胸に顔を埋めてきたのだ。そして「先生、わたしの気持を分って下さい」と言ったのである。わたしは女生徒 には人気がある方だったが、こんなことは初めてだった。その瞬間、わたしはこの子はわたしに対する思いを打明けようとしているのだと確信した。

 彼女は美人で以前から気にはなっていたが、こんな形で結ばれるとは思いもよらなかった。しかし、ここは学校であり、彼女はまだ中学生だ。わたしは何とか自分を抑えて彼女を教室に返した。

 翌日の朝、彼女がわたしを警察に告訴したという知らせを聞いたときは、まさに青天の霹靂だった。逮捕されたわたしは訳も分らず、問われるままに「制服の上から彼女の胸に触れることがあったかもしれない」と言ってしまったのだ。

 そして懲戒免職。今わたしは裁判が終るのを待つだけの日々を送っている。今思うとこんなストーリーの小説をどこかで読んだような気がする。しかし、それも今では後の祭である。(2003年1月22日)








 NHKのテレビ番組『国宝探訪』で将軍足利義持が如拙に描かせた「瓢鯰図」を見た。

 漁師が瓢箪を持って川の中の鯰を捕えようとしている水墨画である。この絵を義持は、京の高僧三一人に見せて絵の意味を解かせた。僧たちが銘々自分の答を書いた一覧表も一緒に残っている。

 わたしが瓢箪からすぐに思い浮べるのは西遊記の中に出てくる全てのものを吸込む瓢箪と、豊臣秀吉の千成り瓢箪である。時代は違っても、瓢箪は霊妙な力を持つものと考えられていたに違いない。

 すると、この漁師は義持自身であり、瓢箪は将軍という権力であり、鯰はとらえどころのない国民を意味するのではあるまいか。

 権力は瓢箪のように今にもつるりと自分の手から滑り落ちてしまいそうで、保持し続けることすら容易ではない。そんな権力を使って、これまた気紛れな国民を相手に政治をせねばならぬのが権力者なのだ。

 義満の急死で突然権力の座に登らされた義持は、政治の世界の危うさを実感して、その寓意を絵に描かせたのであろう。小泉首相が喜びそうな絵である。(2003年1月22日)








 豊郷小学校建替え問題について、マスコミでは建築家ボーリズの建築物のすばらしさを強調する意見が多いようだ。なるほど、ボーリズが素晴しいものを建てたことはよく分った。
 
 しかし、ここでわたしが問いたいのは、では、今の日本にも世界にもボーリズを越える建築家は一人もいないのかということである。

 もし、そうなら、ボーリズが建てた校舎を残して、それを未来の子供たちに使わせることも良いかもしれない。しかし、そんなことはないだろう。今の世界にも立派な建築家が沢山いるはずだ。そして、きっとボーリズを越えるすばらしい校舎を建ててくれるだろう。
 
 それにも関わらず、豊郷町の人たちは、未来の子供たちに自分たちのお古を使わせ、自分たちの趣味を押しつようとしているのである。

 相撲界では貴乃花も引退した。いつまでも過去に拘っていてはいけないのだ。新しい人たちに新しい活躍の場を与えることの大切さを忘れてはなるまい。(2003年1月21日)








昔、アメリカの独立を求めて「自由か、しからずんば死を」と言った人がいる。今、イラクの国民は心の中で何と言っているだろうか。

 ある人は、「アメリカよ、フセインをやっつけて早くわたしたちに自由を下さい。そのためには、少しの血もいといません」と言っていることだろう。

 それに対して別の人は「いいえ、平和が何よりです。罪のない市民が殺されるのは困ります。フセインがこの先何年この国を支配しようと、あなたたちの知ったことではありません。ほっといて下さい」と言っているかもしれない。

 わが国で主に報道されるのは後の方である。また、世界中でイラク攻撃に反対する平和運動が大きな広がりを見せている。

 しかし、平和運動とはいったい何だろうか。それは、自由の実現よりも平和の維持を大切にすることだろうか。少なくともイラク攻撃に反対する平和運動は、独裁者フセインを利するがゆえに、わたしの目にはそう見えてしかたがない。(2003年1月21日)







 貴乃花がやっと引退した。マスコミは貴乃花を平成の大横綱と呼ぶことで一致したらしい。しかし、ここで貴乃花の真の姿を思い出しておくのも悪くない。
 
 貴乃花の出世は藤島部屋と二子山部屋の合併から始った。同部屋対決が無いため、これによって強い対戦相手の数が大幅に減少した。この利点は二子山部屋の 他の力士にも及んで、この部屋の力士が上位を占めるようになる。その結果、貴乃花の対戦相手はほとんどが弱い平幕力士ばかりとなった。
 
 それにも関わらず、大関時代の貴乃花は曙のためになかなか連続優勝できず、横綱になれなかった。この曙が二子山部屋の力士によって膝に半月板損傷という 大怪我を負わされて二場所連続休場を強いられ、力も大幅に低下してはじめて、貴乃花は連続優勝して横綱に昇進できたのである。
 
 それからは貴乃花の天下だった。優勝回数は22回まで伸びた。回数だけ見れば大横綱だが、これが二子山支配の副産物であるという側面を忘れることはできない。

 そして、この引き際の悪さである。貴乃花は内面的にも大横綱と呼ぶに値しないことを自らさらけ出した。その貴乃花が曙と同じ膝の半月板損傷によって引退に追込まれたのは大いなる皮肉である。(2003年1月20日)








 大相撲の栃東の脱臼が公傷扱いになった。
 
 わたしはこの脱臼が嘘だとは言わないが、栃東があのまま休場せずに負け越していたら来場所カド番になるところを、公傷扱いの脱臼のおかげで、栃東が来場所のカド番を逃れたことは確かである。

 もともと今場所の栃東の相撲はひどかった。内臓疾患なのだそうだ。そのせいで力が入らず、ずるずると五連敗。そのあげくのケガが公傷扱いなのだから、相撲協会も北の湖理事長も甘いと言わざるを得ない。

 今場所の体調なら、どうせまともに相撲は取れないのだから、栃東は三番も負けたところで休場してしかるべきところだった。しかし、そうすると来場所はカド番で、もし体調が間に合わなければ大関陥落である。
 
 となれば、栃東は公傷になるケガをするまで待っていたと思われても仕方がない。

 わたしは彼の脱臼が嘘だとは言わない。しかし、わたしの中の大相撲にまた一つけちが付いたことは否定できない。(2003年1月19日)









 ゼネコン汚職事件であっせん収賄罪に問われた中村喜四郎代議士に対して最高裁が上告を棄却したことで、中村被告の有罪が確定した。この判決によって選挙の結果は覆り、中村代議士は失職する。

 国民はこの裁判を知っていながら、中村氏を二度にわたって当選させてきた。つまり、国民は中村氏を無罪と認定したわけだ。その二度にわたる国民の判断を裁判官たちは間違いだと言ったことになる。

 では裁判自体はどんなものかというと、中村氏の有罪の根拠は当時の公取委委員長だった梅沢節男氏の中村代議士から働きかけを受けたという証言だけなの だ。いわば、痴漢されたという女性の証言だけで有罪にされた多くの男性の場合と同じなのである。つまり、えん罪の可能性は十分ある。

 しかも、その証言たるや回数も日時も覚えていないという曖昧なもので、国民が選んだ国会議員をやめさせるのにこんな証言だけでいいのかと思わせるようなものである。

 主権者たる国民の判断が役人達のこのようないいかげんな判断によって否定されてよいのだろうか。国民は今こそ怒るべきである。(2003年1月18日)







 加藤紘一元衆議院議員が毎日新聞を訴えていた裁判で、両者の間に和解が成立したというニュースが流れた。

 それは加藤氏が、所得税法違反で逮捕されて有罪となった佐藤三郎元秘書から一億円を受け取って、それを自宅の家賃などの支払いに当てていたという毎日新聞の記事が、嘘だったことを認めるものである。

 何と、加藤氏は元秘書から一億円を受け取っていなかったのである。

 これは大きなニュースであろう。加藤氏の元秘書が逮捕されただけではなく、その秘書から金を受け取ることで、加藤氏自身が犯罪に関わっていたと思われていた。だからこそ、加藤氏は衆議院議員を辞職する羽目に追い込まれたのである。

 それが嘘だった。ということは、加藤氏は衆議院議員を辞めることはなかったということになる。

 一つの新聞が嘘によって一人の国会議員を辞めさせた。ということは、一つの新聞によって国家の利益が損なわれたということである。「新聞を疑え」とは、よく言ったものだ。(2003年1月17日)








 韓国の次期大統領の盧武鉉氏が日本の川口外相との会談の席で、小泉首相の靖国参拝に遺憾の意を表明したと報道されている。

 確かに、NHKをはじめとする日本のマスコミ報道を見ると、靖国参拝を批判する報道が目立っている。そして、それだけをみると、まるで日本国民の多くが首相の靖国参拝に怒っているかのようにさえ見える。

 まさに、盧武鉉氏はそう判断して発言したのではないだろうか。

 しかし、事実は全く逆であり、新聞社の世論調査では国民の7割が首相の靖国参拝に賛成している。つまり、小泉首相は多くの国民の願いを実現するために参拝したのである。

 もし盧武鉉氏がこの事実を知っており、しかも日韓友好を願うなら、もっと違う発言をしたと思われる。

 また、韓国の国民の多くが小泉首相の靖国参拝に反発しているかどうかも大いに疑問である。

 盧武鉉氏は韓国の大統領となる以上、日本と韓国の両国民の心情をよく理解した上で発言することを望みたい。(2003年1月17日)







 千代富士が横綱に昇進したとき、師匠で今の北の富士さんが「辞めるときはすぱっと辞めような」と、横綱にとっての引き際の大切さをまっ先に教えたというのは有名な話だ。

 では、なぜ横綱には引き際が大切なのか。その理由が、今の横綱貴乃花の最期のあがきを見ていて分かったような気がする。

 貴乃花復活の場所といわれた去年の秋場所は、対戦力士の多くが世論に遠慮した戦い方を強いられて敗れていった。

 そして、今年の初場所だ。初日、貴乃花に軍配が上がったが勝負は微妙だった。しかし審判団は物言いをつけなかった。ところが、二日目は貴乃花が仰向けに倒されて負けになったのに、物言いがついて取り直しになってしまった。これに抗議の電話が殺到したそうだ。

 日本社会は序列社会だ。弱くても横綱の地位にある者には配慮がなされる。その結果、弱い横綱は自身に不名誉なだけでなく、競技の公正さをも左右しかねないのだ。
 
 引き際が大切な所以である。(2003年1月14日)







 米政府が方針を転換して、北朝鮮との対話姿勢を打ち出したとたんに、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)からの脱退を宣言した。
 
 これはまさに北朝鮮が対話に踏み出そうとしていることを意味するものだと思われる。北朝鮮にとって対話をするということは、心を開いて誠実に話し合うことではなく、このように威したりすかしたりすることだからである。

 北朝鮮はNPTから脱退すると言いながら、一方で核兵器を作る意志がないともいっている。要するに、核を取り引き材料にしたいだけなのだ。

 ミサイル開発再開も「火の海にする」報道も同じ文脈で解釈すべきである。本当にそうつもりなら、黙ってやるはずだからである。

 北朝鮮は現在でも米国から食料援助を受けているという。その米国に対するこのような対話姿勢は米国民にはとうてい受け入れ難いものだろう。

 しかし、米国政府は北朝鮮のこの対話へのシグナルを見誤ってはならないと思う。(2003年1月13日)







 皇居の一般参賀のニュースを見て疑問に思うのは、天皇陛下が防弾ガラスの後ろにいることである。

 防弾ガラスは陛下を凶弾から守るために、いつごろからか設けられたものだ。確かに、防弾ガラスに守られていれば陛下は安全だろう。しかし、国民と直接会ってこその参賀ではないのか。それを、ガラス越しにしてしまっては、陛下を国民から遠ざけてしまうことになる。

 天皇陛下はいやしくも国家元首である。いったい、どこの国の元首がガラス越しでしか国民と対面しないだろうか。

 ローマ法王も、移動の際には防弾ガラスの中にいるが、信徒と対面するときには決してガラス越しではない。

 そもそも国民とのガラス越しの対面など陛下ご自身の本意ではあるまい。

 警察は陛下を守るにしても、国民との出会いを担保してこそ自らの職務を果たしたことになるはずだ。それを防弾ガラスで済ませてしまうのは実に安直なやり方だと思う。

 少なくともバルコニーに窓を設けて、陛下が国民と直接会えるようにすべきではないだろうか。それをお守りしてこその警備であろう。(2003年1月11日)







 米国のイラク攻撃に反対する人たちの主な理由は、無垢な市民を巻添えする事とイラクは主権国家だという事だと思う。
 
 では、イラクという国をフセインという一人の犯罪者が国民を人質にとって立てこもっている建物だと考えたらどうだろう。

 この犯罪者を捕らえるために、この建物を攻撃して突入すべきで、その際人質の中から多数の犠牲者が出ても仕方がないと考えるべきか。それとも、人質の命が何よりも大切だから攻撃すべきではないと考えるべきか。

 また、この建物はたとえ他人の持ち物であっても、犯罪者を捕らえるために破壊するのは正しいと考えるべきか。それとも、所有権は何より優先されるから壊すべきではないと考えるべきか。

 もちろん、厳密にはフセインは犯罪者ではないし国民はフセインの人質でもない。しかし、実態は似たようなものだろう。

 その上に、もしこの男がサリンや核兵器のような大量破壊兵器を開発しているとしたら。答えは明白ではないだろうか。(2003年1月8日)







 いま、アメリカがイラクに対して、また北朝鮮がアメリカに対して、戦争だ戦争だと言っているが、戦争というものはやるぞやるぞと言ってからやるものではない。
 
 戦争をやる以上は勝たなければいけない。勝つためには突然やる必要がある。だから、常識から言えば、アメリカのイラク攻撃も北朝鮮の言う戦争も起きずに済むと考えるべきである。

 いま戦争になれば経済が悪化すると盛んに言われているが、戦争が起これば当事者以外の国の景気はよくなるのが普通だ。だから、戦争による経済悪化論は平和主義の建前が言わせていると思うがいい。

 だから、起こってもいない戦争の悲劇を仰々しく言い立てる人たちの言葉を信じてはいけない。戦争が悲劇だというなら、イラクも北朝鮮もかつての交戦国と平和条約を結んでいないという意味では、いまだに戦争状態にある。
 
 この現在の悲劇を終わらせるために何らかの仕方で決着をつける必要がある。その時が今来ていることだけは確かだろう。(2003年1月8日)







 去年の交通事故死者数が1970年に比べて半分になったそうだ。これを警察は去年の厳罰化の成果だと胸を張っている。本当にそうだろうか。
 
 実は交通事故の件数は減るどころか、どんどん増えているという。ということは、厳罰化は効果がなかったことになる。

 では、事故に遭う人が増えたのに事故で死ぬ人が減ったのはなぜだろう。

 医学が進歩して70年より命を救われる人が増えたということがまずあるに違いない。
 
 次に車のブレーキ性能がよくなったことや、シートベルトの普及も忘れてはならない。

 また、道の舗装が行届き、しかもスリップしにくくなったことも関係があるに違いない。
 
 さらに、信号の増加や、信号が全部赤になる方式の導入とも関係があるはずだ。

 狭い道路を片っ端から一方通行にしてしまったことも挙げられよう。

 つまり、死者数の半減は「車は事故を起こすもの」という前提に立って、改善を重ねてきた結果なのであって、決して厳罰化の結果ではないのである。

 もっとも、わたしは、車が多くなりすぎて道路が渋滞ばかりするようになったので、死亡事故を起こすほどスピードが出せなくなったというのが真相ではないかと秘かに思っている。(2003年1月7日)







 日本では二大政党による政権交代は起きたことがない。それなら、これからもないと考えるべきではないか。
 
 英国の制度を真似るとこらから始めたのはよいとして、それがうまく機能しなければ独自のものに変えて行くべきだろう。

 まず、国民は政党を求めているか。無党派層が多いのは良い政党がないからだと言われている。しかし、もうこの辺で、日本人は本来政党が好きではないからだと考えてみる必要がありはしないか。

 それは議院内閣制でない地方議会を見ればあきらかである。知事は無所属だし、議会にも与野党の対立はほとんど存在しない。地方議会の野党は本当の少数派でしかないのが通例だ。
 
 要は、トップにいい人間が来ていい政治をしてくれたらよいのだ。そのために、与野党の対立や二大政党による政権交代などという手続きを踏む必要が本当にあるのか。

 むしろ、日本では政党はトップの足を引っ張る存在になりがちだ。はたして優れた指導者を生むために政党が必要かどうかも疑問である。
 
 私はこの観点から首相公選制を検討すべきだと思う。(2003年1月7日)








 去年話題になった『声に出して読みたい日本語』が浪曲『次郎長三国志』の森の石松の三国船の一節を含めたのはお手柄だった。
 
 石松「飲みねえ、飲みねえ、寿司を食いねえ寿司を・・・、もっとこっちい寄んねえ、おう、江戸っ子だってね」
 船客「神田の生まれよ」
 石松「そうだってねえ、そんなに何か、次郎長にゃいい子分がいるかい」

 いまや浪曲などというものを聞く人は少なくなっているし、広沢虎三などという浪曲の名人が何代も続いて、人々に感動をもたらしたことなど、もう昔話になってしまった現代で、この文章をもう一度思い出してもらおうとするのは実に意味のあることだ。

 しかし、この話が面白いのはここではない。

 船客が、強いと言われる次郎長の子分の名前を順番に挙げていくのに、なかなか自分の名前が出て来ないことに苛立った石松が何度も何度も聞き返す内に、相手が
 
 「強いの何のと言ったって、そりゃあ、大政小政に遠州森のい・・・。大政小政に遠州森のい・・・。そうだ。肝心なのを一人忘れていたやい」
 
 と来て、そこでやっと石松の面目躍如に逆転する。
 
 この話が面白いはここなのであり、ここで感動するのだ。ただ声に出して読めばいいのではない。感動してこそ声に出して読む価値があるのである。(2003年1月2日)









 アメリカに対してうまく行かないから一つ日本を試してみようというのが、去年の日朝首脳会談だった。ところが、拉致を認めても逆効果で日本相手ではうまく行かず、やっぱりアメリカ一本で行こうと決めたというのが今の北朝鮮だろう。
 
 北朝鮮は今やアメリカ相手に必至になって原子力施設の再稼働という挑発に熱中しているところである。そんなところへ日本が拉致被害者家族の返還を呼びかても北朝鮮には日本を相手している余裕はない。

 では、なぜこんな厄介なことになったのかを考えてみるなら、第二次大戦後にロシアが北朝鮮を作ったことにさかのぼる。さらに、その後の朝鮮戦争で中国が北朝鮮を助けたために朝鮮半島は統一されずに終わった。
 
 もしこの二つの国が余計なことをしなければ、今現在北朝鮮という国はないはずなのだ。だから、今のこの厄介事の責任の多くはロシアと中国が負うべきなのである。

 北朝鮮対アメリカという対立は朝鮮戦争の対立の継続でしかなに。ならば、真の対立はロシア・中国対アメリカであるはずだ。この三国が真剣に話し合って北朝鮮という世界のお荷物を解消すべきだろう。(2003年1月1日)



私見・偏見(2002年前半)




 医者には国会議員のように暗黙の不逮捕特権があったのだが、それが今回警視庁の愚かな警察官によって破られてしまった。
 
 これからはミスで患者を死なせた医者は逮捕されることになったのである。

 医者も人間でありミスは避けられない。それで逮捕されるかもしれないということになれば、これからは、医者は引き合わない仕事だということになるだろう。

 特に人の命が関係する外科医のなり手は激減するのではないか。

 医者には莫大な収入が約束されている。それは医者に優越感を与えて、あのウンチのいっぱいつまった人間の体を扱うという汚い仕事に励むようにし向けるためだけでなく、ミスをした場合に民事訴訟で高額の賠償金を支払えるようにするためでもあるのだ。

 ところが、ミスが刑事事件として扱われ、悪くするとそのために刑務所に閉じこめられるかもしれないのなら、医者は割に合わない商売だと言うことになる。

 わたしは、医者に安心して仕事をしてもらうために、国会議員だけでなく彼らのためにも不逮捕特権を是非とも確立してやるべきだと思う。(2002年6月28日)







 帝京大学医学部の入学前の寄付金が問題になっている。しかし、この問題と医者の良し悪しとは切り離して考えるべきだ。良心的な医者は入学試験の成績とは関係がない。
 
 東京の本郷近辺に住む住民は決して東大病院にはかかりたがらないのは有名な話だ。医術は受験のときの点数とはあまり関係がないだけでなく、受験秀才はむしろ病人には敬遠されがちだ。

 受験生の親から寄付金を集める帝京大学のやり方は、私立大学が合格者を乱造してすべり止めとしての入学金を集めるやり方と似たようなものである。

 アメリカの有力な私立大学が企業からの寄付金を有力な資金源としていることは周知の事実だ。ところが、日本の企業は直接の見返りのない寄付をしたがらない。

 これは政治家の金集めの問題と同じだ。政治だけでなく、社会を維持して行くには金がかかる。ところが、そのために政府が消費税を少しでもあげようとすると国民から総すかんを食らう。このような国民の社会に対する責任感の欠如こそ問題なのである。(2002年6月27日)







 わたしの親父はぼけ防止だと称して、毎朝、新聞の一面コラムを書き写すのを習慣にしている。すると親父の言うことがそのコラムに似てくる。となると、どの新聞でもいいとは言えず、選んだのが毎日新聞だ。
 
 その毎日新聞の「余録」の筆者が奥武則氏に交代したという。そこで、「奥武則」でインターネットを検索すると記者の目「西村発言が問いかけるもの 理性で説け、非核3原則」というのが出てきた。

 そこでは非核三原則の虚構を説き、日本の非核は米国の核によって守られてきたと書いている。「唯一の被爆国」という情緒では核兵器廃絶に向けた世界の世論をリードできないとも言っている。

 奥氏に代わった最初の「余録」では鈴木宗男議員の言い分に耳を傾けている。

 いずれも、一般に多く言われていることから一歩引いて、自分の頭で考え直してみようとする姿勢がうかがえる。これこそ新聞のコラムの役割だとわたしは思う。

 うちではもうすこし毎日新聞をとり続けてみようかと思っている。(2002年6月27日)





 ミスタードーナツの肉まんの添加物混入騒ぎを大仰に扱った新聞記者たちに聞きたいものだ。その記事を書くときに、そんな添加物よりはるかに強力な毒物をつまりタバコを口にくわえていなかっただろうなと。
 
 件の肉まんの添加物は海外では認められているものである。それが入っていたからと言って人体にはさして影響がないことは世界が認めている。日本で禁止されているのは、厚生省の役人が責任をとらずに済ませたい程度のことに過ぎない。

 そんな些細な添加物が入っていたからといって、記者たちが鬼の首をとったような記事をタバコを吸いながら書いているとしたら、それはこの事実をネタにして金儲けを企んだどこかの企業と大差ないことをしていることになる。
 
 ミスタードーナツは「今後気をつけます」といえばよい。それで充分だ。ところが、これをマスコミが大仰に取り上げたために、近所のミスタードーナツが閉店してしまった。甘党の人間には迷惑この上ない。
 
 偽の正義感を振りかざしたマスコミのために、損をするのは庶民ばかりである。(2002年6月26日)






 サッカーのW杯の日韓共催は日本にとって失敗だった。この共催で日韓友好は深まるどころか、韓国人に対する反感が表面下で渦巻くようになってしまったからだ。
 
 それはまず第一に韓国はFIFAも認める審判の誤審によってスペインに勝ちながら、それを実力の勝ちだと言い張ったことだ。これで韓国人に対する違和感が生まれた。日本人なら誤審を認めるところだ。
 
 さらに、ドイツ・韓国戦を観戦するために国立競技場に集まった日本人の中にドイツを応援したものがいると韓国マスコミが批判したことも反感を買った。日本人は個人の好みを他人に制約されることを最も嫌う。
 
 その韓国マスコミが、ドイツ戦の番組でタレントの明石屋さんまがドイツのユニフォームを着ていたことを揶揄したのもいただけない。彼は日本で一番の人気者であり、彼を馬鹿にすることは日本人を馬鹿にすることである。
 
 こうした韓国人の振る舞いによって、韓国は日本とは異質な国だという印象が生まれ、韓国に対する反感が広まったことは残念なことである。(2002年6月26日)






 サッカーのW杯でブラジルが1次リーグでトルコに審判の誤審のおかげで勝った時、ブラジルのマスコミは「審判さんありがとう」と言った。ところが、韓国のマスコミは明らかな審判の誤審のおかげでスペインに勝ったのにそうは言わなかった。
 
 それどころか、インターネットで韓国の新聞を見ると、これを実力の勝利だと言い張り、韓国人よ、やればできる自信を持てと言っているのだ。そして、審判に対する不信感が世界に広まっていることは、ろくに報道もしていないのだ。
 
 「審判も人間だから間違いを犯す。しかし、その判定は尊重しなければならない」というなら、それは人間社会のルールとして理解できる。しかし、審判の判定は実力の表れだと強弁するのはどうだろうか。それはむしろ自分の実力に対する自信のなさの現れでしかない。
 
 わたしは韓国のベスト4進出を日本のテレビキャスターたちのようにうらやましいとは思わない。日本はベスト16で破れてよかった。それが分相応な幸福だからである。(2002年6月25日)






 我が師吉田兼好、『徒然草』を読んでそう言いたい気持ちになった。というのは、『徒然草』とは一般のものの見方とは別の見方が満載されている書物だということがわかったからだ。
 
 兼行は『徒然草』の中で、物事に対する一般的なものの見方、よくありがちな見方に対して、それとは逆の見方、それとはまったく違った見方をつねに提示しようとしている。
 
 兼行をあまのじゃくと一言で片づけることもできる。だが、そのあまのじゃくから生まれた文章の数々の何と豊かなことか。

 わたしは『徒然草』を後ろから読むことをすすめる。一番最後の話は、兼行が子供の頃、父親を質問責めにする利発な少年で、それを父親が他人に自慢するというほほえましい話で、読者はきっと兼行に親しみを覚えるだろう。

 『徒然草』には薄田泣菫の『茶話』の中に見られるような偉人の失敗話もたくさんある。

 現代語訳は角川文庫の今泉忠義のものがよい。原文をなぞったようなもどかしい文章ではなく、意味をそのままズバリと表現した小気味よい文章で書かれているからだ。(2002年6月22日)





 きれいごとはもういい。誰だ日韓共催なんて言いだしたのは。その人は今の事態は予想したのか。共催国の片方が早々に負けてしまったのに、もう一方がどんどん勝ち進んでいくというこの事態を。その時の、先に負けた主催国のみっともなさを予想したのか。
 
 これが日本単独の開催だったら、日本が負けて韓国が勝ち残っても日本の代わりにがんばれという雰囲気になっただろう。しかし、共催であったために日本のふがいなさだけが目立つことになってしまった。

 確かに、日本は予選を突破した。しかし、韓国と比べたら月とすっぽんだ。日本は何をしていたのか。がんばりが足りなかったのではないのか。あのフランス人監督ではだめだったのではないのか。

 日本の歴史的な勝利も、歴史的な予選突破も、もう一つの開催国の活躍のおかげで、すべてが価値を失ってしまった。
 
 これからワールドカップを開催しようという国に教える。日本のこの惨めな立場をよく見て、けっして共催になんかしないことだ。(2002年6月22日)





 人類の発展の歴史は兵器の発展の歴史だ。
 
 石器時代とは人が石で殺し合いをしていた時代だ。次の青銅器時代には、青銅の武器で殺し合うようになる。しかし、この時代に都市国家が生まれた。そして、鉄器時代になると、もっと広い地域を治める国家が生まれた。

 国家ができるということは人々が安全に暮らせる領域ができるということだ。それが鉄器の出現によって広まったのである。

 支配者が武器を独占することによって平和な領域を作ることができる。そして、その武器の殺傷能力が高くなるほど、広い地域の平和を確立することができるようになったのである。

 第二次大戦後の現代は核兵器の時代である。この核兵器を一部の責任ある国々が独占することによって、世界の平和は維持されている。そして、それが核拡散防止の精神である。

 つまり、現代では核兵器を持つことが、世界平和を維持する責任を担うということである。この点から見ると、日本の非核三原則は、世界平和の維持を他国任せにするということなのである。(2002年6月21日)





 核兵器廃絶に熱心な人たちがこの国には多く見られる。「非核平和都市宣言」をしている地方自治体もたくさんある。愚かなことだ。
 
 核兵器が生まれる前の世界は戦争ばかりしていた。第一次世界大戦が終わってから第二次世界大戦が起こるまではたった20年である。ところが第二次世界大戦後は核兵器のおかげで半世紀以上も世界平和が続いている。核兵器廃絶を言う人たちは、これを元の世界に戻したいと言っているに等しい。

 いまの世界を見渡してみるがいい。武力による紛争が起きているのは、核兵器のない地域ばかりである。パレスチナ人には核兵器どころか軍隊もないために、自爆攻撃による紛争は絶えることがない。

 逆に、これまで何度も戦ってきたインドとパキスタンが今回全面戦争に至らなかったのは、両国が核武装しているからに他ならない。

 核兵器がなくなれば、世界は平和になるどころか、かつての大混乱の時代に逆戻りしてしまうだろう。

 その意味で核兵器廃絶運動は危険でさえあるのだ。(2002年6月21日)






 わたしたちは、鈴木宗男議員逮捕によって、鈴木議員に関する数々の疑惑を、検察が明らかにしてくれることを期待してはいけない。それは亡国の行為である。
 
 国会が国政調査権によって明らかにできなかったことが、検察の手で明らかになってどうしてよいのか。もし明らかになったとしたら、それは国会の権威の失墜である。それでは、この国の国権の最高機関は検察だということになってしまう。

 国会が議員の不逮捕特権を捨てて、検察に鈴木議員を売り渡したことは、三権分立の放棄であり、この国では憲法よりも刑法のほうが上に立つとこと認めることである。これではたして一人前の国と言えるのか。

 マスコミの狂乱の末の逮捕は、疑惑の銃弾の三浦和義逮捕の場合と何ら変わりがない。にもかかわらず、国会は自身の権威をかなぐり捨てて、鈴木排除に動いた。 

 これでは、この国の国会議員には、国を国として成り立たせているのは自分たちだという自覚がないとしか言いようがない。(2002年6月19日)





 鈴木宗男議員が逮捕された。
 
 憲法には第五十条で国会議員の不逮捕特権を定めている。ところが、この条項も他の場合と同じように例外がある。「法律(国会法第三十三条)の定める場合を除いては」というのがそれだ。
 
 日本の憲法は最高法規でありながら、このように別の法律に従属している場合が多い。他の条文でも「法律の定めるところにより」というのが入っていて、いくらでも骨抜きにできる。
 
 不逮捕特権もそうで、この例外のおかげで事実上国会議員には不逮捕特権はないと言ってよい。
 
 不逮捕特権はなぜ存在するか。どんな人間でもあらを探せば逮捕する材料ぐらいはみつかるし、特定の議員を排除するために逮捕させることはそう難しくないからである。
 
 今回の鈴木議員の逮捕容疑は、他の議員についてもよく調べたら出てきそうな種類のものだ。しかも、別件逮捕である。
 
 にもかかわらず国会は「疑惑のデパート」を排除するために、自らの権威を捨てて、検察庁に鈴木議員を委ねた。
 
 国会のことは国会でやるという毅然たる態度は、日本の国会にはない。(2002年6月19日)





 今回のW杯はどうやら韓国のための大会になりそうである。なぜなら、日本が予選を突破しただけなのに対して、韓国は予選突破どころか決勝戦に進出しそうだからである。
 
 決勝トーナメントの一回戦で韓国はイタリアに勝ったが、これは何も不思議なことではない。韓国は予選でイタリアより世界ランクで上位のポルトガルに勝っているからである。
 
 しかも、決勝トーナメントに進出したチームで、世界ランクがポルトガルより上のチームはブラジル以外にない。ということは、韓国が決勝に進出しても何の不思議もないということである。
 
 そして、もしそうなれば、開会式は韓国で行われ、決勝戦は韓国が戦うということになり、まさに韓国のためにW杯だったことになる。
 
 もっとも、これによって韓国人の日本に対するコンプレックスが解消され、日本のことを放っておいてくれるようになれば、今回のW杯も日本にとって無駄ではなかったということになるかもしれない。(2002年6月18日)






 ワールドカップのテレビ中継で、サッカー用語を連発するアナウンサーがいて困る。専門用語を使うと一人前の仕事をしている気になるのかもしれないが、にわかサッカーファンには迷惑この上ない。
 
 そのサッカー用語の典型が「守備的」という言葉だ。

 日本語には「攻撃的」という言葉はあって日常的にも使われるが、「守備的」という言葉はサッカーにしか使わない。ところが、それが放送では何の説明もなしにしきりに使われる。

 この言葉は、一時「わたし的には」という風に「的」を何にでもくっつける言い方がはやっていたが、そのなごりだろうか。

 この馴染みのない「守備的」ということばに、さらに他のカタカナ用語をくっつて、「守備的ポジション」とか「守備的ミッドフィルダー」と言われては、もはや何のことやら分からなくなる。

 野球でもときどき「このへんで中押(なかお)し点がほしい」などと変な日本語が使われる。

 どうやらスポーツ放送は正しい日本語をこわしている一つの原因となっているようだ。(2002年6月16日)





 長い報告書と短い報告書があれば、短い報告書は長い報告書をもとにつくったものであり、それを完成品として提出するのは当然のことである。

 四〇頁もの報告書を提出するより、四頁の報告書を提出するほうが、わかりやすく、またそれを作る方が労力を要する。これも当然のことである。
 
 ところが、防衛庁がリスト作成問題について、先に長い報告書を出さなかったからといって、野党は国会で審議拒否をしている。こんな理不尽なことはない。一部のマスコミは野党に協力してこの理不尽を容認している。

 新聞記者なら誰でも報告を短くまとめることが、如何に大変かを習ったはずだ。
 
 だから、防衛庁長官の記者会見で、ある記者が、長い方が正直で、短い方が不正直であるかのように言っていたが、彼はそんなことはないことをはじめから知っているのである。

 日本のマスコミには、こんな悪意を持って報道する記者が含まれている。新聞は気をつけて読まなければいけない。(2002年6月15日)





 サッカーのワールドカップでこうも日本や韓国が勝つのを見ると、これは日本の国体でいつも開催県が優勝するのと同じ力が働いているのではないかと思えてきた。
 
 ちょっと番狂わせが過ぎる。日本が世界ランキングで十位も上のチームと接戦して引き分けたり勝ったりしてしまうのはちょっと普通ではない。韓国などは、 その度合いがもっと激しい。これは裏に何かあると考えるのが普通だろう(韓国の相手のポルトガルはうまい具合に二人も退場になった!)。

 そもそも韓国や日本がワールドカップの開催地になったこと自体尋常ではない。韓国と日本はそれまで、ワールドカップで一度も勝ったことのない国だ。そんな国でどうして世界大会を開くことになったのか。政治的な力と金が動いたと考えるべきだろう。

 逆に言えば、ワールドカップで勝ちたければ、金を使って開催国になることだ。そうすれば、今大会で一点もとれなかった中国も、きっといわゆる歴史的得点、歴史的勝ち点、歴史的勝利をあげることできるだろう。

 また、日本が本当が世界に伍するだけの力をつけたかどうかの判断も、次のドイツ大会までお預けにする方がよい。そのときの勝利こそ、歴史的勝利の名に値するだろう。(2002年6月14日)





 ワールドカップの切符の販売で大量に売れ残りをだしたイギリスのバイロム社が記者会見をして謝らないので、日本のマスコミは怒っているようだ。
 
 フランスはこの大会で一勝もできず、一点もとれずに敗退した。しかし、ルメール監督もまた、テレビに向かってフランス国民に謝ったりしなかった。
 
 それに対して、フィギアスケートの伊藤みどりがオリンピックで金メダルをとれなかったことを、テレビを通じて日本国民に謝ったが、あれは世界を不思議がらせたものだ。
 
 どうやら、日本のようにすぐに謝る方が異常なことなのである。

 選手というものは、たとえ国を代表しているとしても、基本的には自分のために戦うものだ。つまり、責任は誰よりも自分自身のために負っている。負けるのを見た国民は不幸だろうが、それより負けた選手自身の方がはるかに不幸である。しかも、それが精一杯やった結果なら、誰に謝る必要があるだろう。

 バイロム社もこれは精一杯やった結果なのだから誰にも謝る必要はないと言っているのである。日本の企業も少しは見習ったらどうだろう。(2002年6月12日)





 アメリカでは殺人罪には時効がない。そこで、15才のときに犯した罪で、41才の男が有罪になった。
 
 ケネディー一族の男が自伝を作る過程で、犯罪のあった当日の夜、家の前の木に登って被害者の女性(当時15才)の部屋をのぞき見をしていたと告白してしまった。そのために、事件のあった時間帯には甥の家に行っていたというアリバイは崩れてしまい、捕まって有罪の評決を受けることになってしまった。

 女はカーテンを閉めずに着替えをする、それを男がのぞき見したくなって、欲情するのは当然だ。カーテンを閉めてないのだから、男はOKだと思って女を呼び出す。ところが、予想外の拒否にあって、カッとなって女を殺してしまう。未来永劫に無くならない種類の事件だろう。
 
 殺された女も殺した男も不幸だ。男と女がいて、殺人事件があれば、たいていは男が殺す側にまわる。性欲というものがなければ、そのうちのたいていの事件は起こらないで済んでいるのだ。
 
 男の失敗は、十五の時に自首しておけば刑務所に行かずに済んだのに、それを怠ったためにいま終身刑を受けることになったことだ。

 とにもかくにも、男は女には近づかないのが安全だ。(2002年6月8日)




 核兵器は日本にはいらないという意見が主流のようだが、そんなことを言っていられるのは日本に米軍が駐留しているからである。
  
 核兵器が第二次大戦を終わらせ、日本に平和をもたらしたことを認識するなら、その核兵器を自分で持たずにどうして平和を維持できると思えるのか。核兵器を保有するということは平和の鍵を握ることなのである。

 もちろん、核兵器は破壊目的に使用することもできる。しかし、核兵器を平和維持のために使う自信がこの国の国民に芽生えてきたときに、はじめて日本は世界の平和維持に主導的な立場をとることができる。

 その反対に、もしそんなものをもったら自分は何をするか分からない、もしかして他国を侵略してしまうかもしれないと思うなら、核兵器は持つべきではない。しかし、そんな自信のない国なら、世界に平和を呼びかける資格もないと言わなければならないだろう。

 そして、それは自分の国がだめな国だと思うことでもある。(2002年6月8日)






 ドナルド・キーンといえば、日本文学についておもしろいことをいろいろと書いている人で、楽しませてもらった覚えがある。そのドナルド・キーンが英訳した『徒然草』を本屋で見つけて読んでみたが、彼の文学論ほど分かりやすいものではない。
 
 第一段の最初の文章からして、何を言っているのか分からない。

It is enough, it seems, to be born in this world for a man to have many desires.

だいたいこんな感じの文章で、要するに不定詞が二個あるのだ。

 別の棚にある原作を見ると、「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かんめれ」となっている。

 キーン氏の訳では「人間は生まれてきただけで充分なのにたくさんの欲を持つようだ」と言っているように見える。しかし、どの日本語訳を見ても、「人間というものはこの世に生まれてきた以上は、いろんな欲求に捕らわれるようだ」という意味だとしか思えない。続きを読んでみても、こちらの方が正しいような気がする。

 キーン氏の訳は先を読んでいっても、こうした不明瞭なところが多い。古文の原作で読んだ方が分かりやすいくらいだ。
 
 「有名人、学者必ずしも名翻訳家にあらず」はアメリカ人にも当てはまるのだろうか。(2002年6月8日)





 「天声人語」は民主主義の定義のような言葉である。それは要するに「民の声は神の声」ということだが、この言葉がもっとも現実的な意味を持っているのは陪審制の裁判である。
 
 陪審制の裁判では陪審員の結論を最終的な結論として採用する。陪審員が弁護側、検察側のどちらに有利な結論を出すかは、誰にも予想できない。しかし、出てきた結論は絶対なのだ。そして、陪審員が結論に至る過程は神秘のベールに包まれている。それ故に、民の声が神の声たる資格があるのだ。

 それに対して、日本のいまの裁判は裁判官という一官僚が判決を出す。そして、その理由を裁判官は事細かに論述する。したがって、日本の裁判の判決にはどんな神秘性もない。それは官僚の職業的判断にすぎない。

 いま日本では司法改革が進行中だ。しかし、そこで採用されるものは陪審制ではなく、裁判官の職業的意見に素人の意見を加味させる裁判員制度というものでしかない。
 
 そして、それが神の声をもたらすかといえば、非常に疑わしいと言わざるを得ない。(2002年6月6日)
 




 テレビタレントのピーコさんが世の中のワールドカップをめぐる馬鹿騒ぎをからかいながらも、ベルギー・日本戦について「あの審判は意地悪ねー」とお怒りだった。ということは、彼女(彼)もしっかり日本を応援していたのである。
 
 しかし、日本人にはベルギー贔屓(ひいき)に見えたこの審判も、おそらくベルギー人には日本贔屓の審判に見えたことだろう。

 誰でも、自分が応援しているチームがあると、そのチームに損な判定は不公平な判定に見えるものだ。だから、どうでもいい国同士の試合を見ていて、審判が公平でないと思うことはまずない。

 これはプロ野球でも同じで、アンチ巨人ファンには野球の審判が巨人贔屓に見える。

 阪神前監督の野村克也氏はそれを公言して「審判は巨人贔屓だ」とはっきり言ったものだが、知将で鳴る氏のことだ、これが見方によるものであることを知らぬはずはない。むしろこう公言することで選手の敵愾心をかき立てようとしたのであろう。ところが、野村氏のこの深慮遠謀は阪神の選手には通じなかったのである。(2002年6月6日)





 日本対ベルギーのサッカーの試合のニュースを見て、多くの人が日本は勝っていたと言っているのに驚いた。個々の選手の力量、特に一対一の競り合いでのボールのキープ力や当たりの強さでは明らかにベルギーの選手の方が勝っていたのにである。
 
 特に前半はベルギーが何度もゴール前まで攻め込んでいたのに対して、日本はボールをゴールの方向にけり出すのが精一杯だった。だから、前半にベルギーが零点だったのはラッキーだったのだ。

 その後、日本の得点はみんなどさくさ紛れのものばかりだったのに、ベルギーはすべてセットプレーからの得点だったことも、力の差を示している。

 また、審判が日本に不利な判定ばかりしていたという人がいたが、公平な視点を持つことのが難しさをよく出ている。彼らは、日本のゴール前でベルギーの選手が何度も倒されたのに一度もPKにならなかったことを忘れている。あの審判はファールの取り方もイエローカードの出し方も実に公平だったのである。

 ベルギーは世界のランクが二三位のチームで、日本は三二位、親善試合で勝った三〇位のポーランドとは大違いだ。引き分けで御の字と言わねばならない。(2002年6月4日)





 日本には非核三原則というものがあって、日本は未来永劫に核兵器を持たないそうである。そんなことを誰が決めたのか。日本が毎年莫大な経済援助をしている中国やインドやパキスタンは核兵器を持っている。その日本が核兵器を持ってどこが悪いのだろう。
 
 これは日本を世界で低い地位に押しとどめようとする連中の策謀ではないか。

 日本が第二次大戦でアメリカに核爆弾を落とされたことと、日本が核武装しないことをからめた議論がよく見られるが、これがよく分からない。

 例えば、飲酒運転で人身事故を起こした人が、もう酒は買わないし飲まないというなら分かる。しかし、飲酒運転の被害者が禁酒宣言をしてどうするのか。トラックを家に突っ込まれた人がトラックを持ちませんと言ってどうするのか。酒もトラックも必要なら持てばいい。だが、賢く使う自信がないならやめておけ。

 日本はいつまで核兵器をもつ自信のない、半人前の国でいつづけるのだろうか。(2002年6月4日)





 日銀の大阪支店長がプロ野球の阪神による経済効果はワールドカップによるそれよりも大きいと、わざわざこの時期に発表したという。
 
 どうやら、かれも日本の中高年の男性に多く見られるサッカー音痴なのだろう。ワールドカップで阪神戦が三日間もお休みであることに不満な中高年の男性が多いようだ。そういう人はきまって朝から晩まで阪神阪神と念仏のように唱えているおじさんたちである。
 
 しかし、日銀といえば日本の経済の中枢である。その幹部がプロ野球の特定の球団と地方経済とからめた発言をするほどプロ野球かぶれで、冷静な判断力を欠いているようでは、この国の経済は危ういと言わざるを得ない。

 プロ野球は毎年行われている。どこかの球団が必ず優勝しているのだ。しかし、優勝球団のある地方がその結果、莫大な経済効果を受けて景気がよくなったという話を聞いたことがない。

 日銀大阪支店長の発言も、プロ野球大好きおじさんの寝言と聞き流すがよい。(2002年6月4日)





 ムーディーズが日本の国際の格付けを二段階下げてポーランド並にしたというニュースに対して、日本の世論はおおむね冷淡だ。
 
 しかし、これはムーディーズの慧眼ぶりを示したものだとわたしは思う。要するにムーディーズは日本は構造改革ができないだろうと言っているわけで、それは今の国会の状況から見て当たっている。

 今の国会は、普通なら首相がいつ政権を投げ出してもおかしくな状況にある。

 なぜなら、第一に、小泉政権に対する国民の不支持率は支持率を上回った。第二に、小泉政権が今国会に提出した重要法案はどれもこれも成立しそうにない。もし、これらが成立しなければ、首相に残された道は解散か総辞職しかない。そうなれば、もはや構造改革は宙に浮いた状態になってしまうだろう。
 
 その上に福田官房長官の非核三原則を否定する発言だ。もはや国会はにっちもさっちも行かないだろう。

 われわれはムーディーズとともに日本が危機的状況にあると考えるべきではないだろうか。(2002年6月1日)




 ハナエモリが倒産した。ハナエモリは森英恵の会社だ。その森英恵のホームページを見ると、彼女はシュバリエ章、朝日賞、紫綬褒章、レジオン・ドヌール勲章、東京都文化賞、文化勲章など、数々の勲章を受賞している。とすると、これらの勲章も彼女の会社の倒産をくいとめることはできなかったということにな る。
 
 それにしても、文化勲章の受章者でその会社が倒産した人がいるだろうか。文化庁は彼女に文化勲章をやるときにはたしてこの事態を予想していただろうか。なぜなら、この倒産は、政府が文化勲章を単なる一時の流行にやったことを意味するからだ。

 どうして、この女性に文化庁は文化勲章をやったのか。たぶん、外国で勲章をもらっているからだろう。

 しかし、ちょっと考えてみれば分かるが、森英恵は一実業家にすぎない。その森英恵に文化勲章をやるのなら、どうして松下幸之助にやらなかったのか。この人ほど日本の文化の発展に貢献した人はいないからだ。

 われわれは、これを機会に文化勲章は誰にやるべきかを考え直すべきだろう。(2002年6月1日)





 プロ野球の「東京読売巨人軍」が、「東京」をやめて単なる「読売巨人軍」にするそうだ。巨人はすでに全国にファンを持っており、東京という地域名にこだわる必要はないということで、ビジター用のユニフォームの文字も「TOKYO」ではなく「YOMIURI」にしてしまうそうである。
 
 ということで「TOKYO」をよそのチームが使えることになったのだから、これを使わぬ手はない。全国区になるチャンスだからである。例えば、ユニフォームの「YAKULT」が「TOKYO」となればどれだけ引き立つことか。

 それに、地名をチーム名につけることには、チームが単なる一私企業の持ち物ではなく、公共的なものというイメージを付け加えることで、ファンを増やす契機にもなる。 

 いっぽう、読売新聞がたとえ全国紙であろうと、一私企業にすぎないことに変わりはない。東京は即日本であり、地方の人間にはあこがれの名前である。それを捨てれば、これまで持っていた輝きを失うかもしれない。

 それどころか、単なる読売巨人なら、朝日新聞や毎日新聞のファンのなかの巨人ファンは、巨人ファンであることの言い訳を一つ失うことになるのは必定だろう。(2002年5月31日)






 薄田泣菫の『茶話』を読んでいると、播州垂水という地名が出てくる。これは調べてみると摂津垂水と区別するための言い方で、今の神戸市の垂水をさしている。今の吹田市にも垂水という所があってそれを当時は摂津垂水と呼んでいたらしい。
 
 歴史地図を見ると、垂水庄(たるみのしょう)という地名が平安時代からあって東大寺領と東寺領と二つある。東大寺領の方が神戸の垂水で、播州垂水だ。

 こうしてみると、播州つまり播磨というのは、神戸の垂水から赤穂までを含む広大な地域の名称だったということになる。

 ところがわたしの住む小さな町にこの播磨という名前が付いている。元々は阿閇村(あえむら)といったのだが、町になるときに播磨町にしてしまった。

 阿閇町では格好が悪いと思ったのだろうか。しかし調べてみると、阿閇とは元明天皇の若い頃の名前で非常に由緒ある名前だという。これを捨ててしまったわけだ。

 市町村合併で新しい町の名前の付け方が話題になっている。この近くにも合併を進めている市町村がある。合併後の名前としては播磨もその候補だろうが、すでに播磨町があってややこしい。

 播磨町はどことも合併しないそうだが、それなら少なくとも播磨という名前を返上して阿閇町という本来の名前にしたほうが良くはないか。大きな名前を小さな町が独占して、よその合併の邪魔をしているようで、町民として恥ずかしい。(2002年5月31日)








 星野氏が阪神の監督就任時に「阪神が強くなければプロ野球が盛り上がらない」と言ったが、なかなかうまくやったものだ。おかげで、阪神と試合をするチームは阪神に勝ちにくくなった。阪神を負かせば、結果としてプロ野球を盛り下げてしまうことになるのだから無理はない。おかげで、阪神は快進撃を演じて首位争いをしている。
 
 星野氏は中日の監督時代にも「中日が強くないとプロ野球が盛り上がらない」と言えばよかった。そうすれば、もっと中日を優勝させることができたろうし、中日の監督を辞めることもなかっただろう。

 相手にしてみれば、プロ野球全体の繁栄を向こうにまわして戦うのだからはじめから勝ち目はない。

 阪神の選手もこの方がやりがいがある。自分自身などというちっぽけなもののためではなく、プロ野球全体のためとなれば、張り切りようも違うというものだ。

 何であろうと勝負事では錦の御旗を立てた方が勝ちなのである。(2002年5月30日)




 芥川賞作家、柳美里のモデル小説『石に泳ぐ魚』に対する判決が、単に慰謝料を払えというだけでなく、出版を差し止めたことは大いに問題である。
 
 憲法は表現の自由を保証している。それが単に「プライバシーを侵さない表現の自由」なら、それは自由ではない。従って、間違った判決と言わねばならない。

 そもそも、芸術作品はモデル無しには成立しない。古代ギリシャの『イリアス』にも、日本の『平家物語』にもモデルがある。

 この判決は極端に言えば、平家の子孫が平清盛のプライバシーを暴いた平家物語の出版差し止めを求めて訴えたら、われわれは平家物語を読めなくなるということである。

 この判決は三島由紀夫の『宴のあと』裁判の判決にならったものだが、こちらの方は出版を禁じなかったので憲法違反ではない。ところが、今度の判決はそれをさらに進めて、出版も禁じてしまった。
 
 いま思うと、モデルにされたと訴えた有田八郎はよけいなことをしたものだと思う。有田は自分を源氏に破れた平家だと思えばよかったのだ。

 もう一人のモデルとなった般若苑の女主人の方は、そう思うことができたのかもしれない。女将はあの裁判の原告になるどころか、小説化を事前に承諾さえしているからである。(2002年5月24日)





 商業捕鯨再開が否決されたと報じられている。どうして日本は商業捕鯨の再開にこだわるのだろう。鯨の肉はそんなにうまいか。世界を敵に回してまで、鯨をとって食う必要がどこにあるのか。
 
 この問題で「捕鯨は日本の文化だ」などと言う人たちがいる。だが、何かが文化だと言いだす人は、決まって人迷惑なことを正当化しようとする人たちである。

 アメリカの大リーグと違って、日本のプロ野球では応援団が太鼓やラッパを使ってうるさいが、あれを日本の文化だと言って正当化する人たちがいる。

 「不倫は文化だ」と言った俳優がいる。

 また、わたしの町では町内会が連絡事に屋外拡声器を使うが、こんなやかましいことはよそではやってないと言うと、地域性だと言われたが、これも同じだ。

 社会や国によってやり方が違う。それはそうだろう。しかし、よくないことや迷惑なことをよいと強弁するときに、文化だとか地域性とか言うのはやめてほしいと思う。それは何よりも、説得を放棄している点で間違っている。(2002年5月24日)






 姫路空港は必要かどうか地元の住民にアンケートをとったら五五パーセントの人が必要がないといったそうだ。それはそうだろう、われわれはたいてい飛行機などに乗ることなく一生をすごすのだから。
 
 それにどうしても飛行機に乗りたければ、姫路の近くには岡山空港がある。しかも、姫路岡山間は新幹線で二〇分しかかからない。岡山空港からは国際便もあってグァムや中国にも行ける。

 また、関西国際空港までは二時間もあれば行ける。

 飛行機をよく使うごく一部の人たちにはそれで十分だ。彼らのために、わざわざ姫路に新たに空港をつくってやる必要などないのだ。

 飛行機事故の報道ぶりを見ても、飛行機に乗る人たちは特別な人たちである。つまりお金持ちだ。

 そうだ、飛行機は金持ちの乗り物なのだ。われわれ貧乏人には縁のない乗り物なのだ。だから、われわれには飛行場はいらぬ。そのとおりだ。(2002年5月20日)







 薄田泣菫の「茶話」を読んでいると大正時代の有名人がつぎつぎに登場して、泣菫にちゃかされている。
 
 名前を見ても知らない人ばかりなので、インターネットで検索しながら読むのだが、検索に引っかかるホームページには泣菫のちゃかしの対象が、皆がみな偉人として登場するからおもしろい。

 おそらく当時でも偉人だったのだろうが、その偉人の滑稽な素顔を「茶話」のように伝えるホームページはないようだ。

 どんな偉人も、くだらない癖があったり、見栄を張って失敗したりすることからは逃れられない。それをとらえて描く泣菫の筆力が天才なのは当然として、このちゃかしのユーモアを許した大正という時代の寛容さもたいしたものだ。

 アメリカのマイク・ロイコも辛辣なユーモアの持ち主で、それが楽しみでジャパンタイムスをとっていたことがある。日本なら山本夏彦だろうか。

 一方、今の新聞のコラムがどれもつまらないのは、このユーモアの精神が欠けているからだろう。それは今の社会がユーモアを許さない社会だからかもしれない。(2002年5月17日)






 今回の瀋陽の事件は、中国という国の恐ろしさをあらためて教えてくれた。
 
 中国は北朝鮮国内の抑圧政策を支持し、北朝鮮からの亡命者を捕まえて送り返そうとする信じられない国である。
 
 国内で人権無視の政策をとっていることといい、対外関係で問題が起きると責任を相手になすりつけるやり方といい、中国は北朝鮮と同じなのである。だから、中国を信用するということは、北朝鮮を信用するということである。
 
 両国の違いは、金儲けがうまいかへたかだけだと言っていい。
 
 中国は自分に都合の悪い情報を完全に押さえ込んで作り上げたものを事実だと言い張っているが、これは南京事件を大虐殺と言い換える手法と同じである。
 
 この事件で中国に屈することは、北朝鮮に屈することと同じであり、自由と民主主義を捨てることである。
 
 私たちは、中国がブッシュ大統領のいう「悪の枢軸」北朝鮮の仲間であることを忘れてはならない。(2002年5月16日)







 電話があって出ると朝日新聞の「声」の担当者で、わたしの投書を載せたいという。それから、内容の添削が延々と続き、これは違いますね、あれは違いますねとあちこち直された。
 
 そのあとで、わたしの「翻訳業」という肩書きについて聞いてきた。他紙ではなかったことだが、正直に話をすると「そういうことですか」とのたまう。そして、例によって二重投稿でないことを確認してから、「また後日、お電話さしあげるかもしれません」と言って切った。
 
 なぜまた電話するのかといぶかしく思っていると、さっそく翌日同じ担当者から電話がかかってきた。瀋陽の問題でたくさん投書が来たから、あなたのはボツにするというのだ。この事件はずっとまえだから、明らかに嘘である。前の日の電話のなかで、やっぱり不採用にするとは言えないので日を変えたのである。

 どうやら、わたしは朝日の資格試験に落ちたらしい。

 朝日はリベラルな新聞社のように言われているが嘘である。朝日に投書するのなら、通りのよい肩書きを手に入れてからにする方がよいらしい。(2002年5月16日)








 沖縄から米軍基地を無くす方法はある。沖縄県民は基地のアメリカ人といっさいつきあわないようにすればよいのだ。そうすれば、米兵は沖縄で暮らすことはできなくなるから、基地を維持することはできなくなる。そうなれば、アメリカは沖縄から出ていくしかなくなるはずだ。
 
 具体的には、沖縄の人たちは米軍基地ではけっして働かないし、基地周辺の飲食店はアメリカ兵を決して入れないようにする。タクシーもバスの運転手も、交通機関は、米兵の利用を一切拒否するのである。これは一日だけでもよいのだ。

 このうちであとの二つは違法かもしれない。しかし、背に腹はかえられないだろう。それぐらい沖縄は米兵に出ていってもらいたいと思っているということを態度で示すのだ。そうすれば、米兵たちも沖縄の怒りを、沖縄の苦しみを、肌で感じるはずだ。

 沖縄県民は米兵に対してYesなのかNoなのかをはっきりさせなければいけない。本音ではYesだが建前はNoではないのかと思われるようなことがあれば、米兵はいつまでたっても出て行かないだろう。(2002年5月15日)







 「在日米軍基地の75パーセントは沖縄にある」これは事実だろう。しかし、これは「沖縄の75パーセントは在日米軍基地である」ということではない。
 
 ところが、沖縄の基地問題について書かれたものを見ると、あたかも後の方が事実であるかのような書き方がしてある。例えば「沖縄を歩けば基地に当たる」などと嘘を書くのである。

 しかし、現実の沖縄はそんなところではない。確かに、基地の近くは騒音がひどかろう。しかし、沖縄のほとんどの場所は非常に住みやすいところである。このことは、いろいろな有名人が競うようにして沖縄に移住していることを見てもわかる。

 それに、沖縄がそんなにひどいところなら、観光地としても成り立たないではないか。現実は、在日米軍基地の75パーセントがあるにも関わらず、沖縄はよいところなのである。

 沖縄の基地問題を考えるときには、軍隊や基地を即悪と見なす反戦平和主義者たちによって過大に誇張されている面があることを忘れてはならない。(2002年5月15日)







 合意のないセックスは強姦であって、合意の上のセックスは強姦ではないが、合意の上でも、もし金をやると買春になるのだろうか。
 
 しかし、その関係が継続的なら内縁関係ということで買春ではなくなるのか。内縁関係とおめかけさんは同じことなのか。
 
 さらに、もし金をやった女が18才未満なら児童買春で逮捕されるかもしれないが、それがもし継続的ならどうなのか。内縁関係が売春ではないなら、18才未満でも売春ではなくなるのか。
 
 民法では16才以上の女は結婚できるとなっているから、もしその女が18才未満でも16才以上で結婚するつもりならなら児童買春ではなくなるのか。
 
 民法で女は16才で一人前の女と認められているが、児童買春禁止法では児童なのはどうしてか。
 
 買春が金のやりとりなら、結婚もまた金のやりとりである。とすると、内縁の関係は法的にはほとんど買春と同じなのか。
 
 恋愛関係なら買春にはならないはずだが、相手を美しいと思うだけでは恋愛にならないのだろうか。
 
 要するに警察に逮捕されたくなかったら、セックスをしないに越したことはないということなのか。しかしそうすると、日本の人口は増えなくなってしまうような気がするが、この考え方は間違いなのか。よくわからない。(2002年5月13日)






 中国瀋陽の日本総領事館前で起こった出来事のビデオ映像を見て、何よりもまず思うことは、中国とは何と恐ろしいところかということだろう。
 
 ところが、政府を批判するためなら何でも利用しようとする一部マスコミには、あの親子に対する中国警察のしうちではなく、日本人職員の行動が目につくらしい。

 しかし、日本のマスコミのサラリーマン記者たちにあの職員たちを批判する資格はない。

 空爆のさなかにあるアフガニスタンの現地取材を全部フリージャーナリストに任せきりにしていた彼らが、もしあの場にいても、体を張って北朝鮮難民を救うことなどあり得ないからである。

 そもそも、何より我が身大事のいまの日本人のなかに、他人の苦境を救おうという男気を捜すこと自体至難である。ならば、自分ならどうしたろうかと問うてみるのが最低限のモラルだろう。

 しかるに、自分に出来もしないことを他人がしないといって攻めるのは卑怯というものである。(2002年5月11日)






 靖国問題を論じるときに過去の判例を持ち出す人をよく見かける。もちろん参考資料の一つとして言及することに異論はない。しかし、裁判官でもないものが、自分の主張の論拠に使うのはどうかと思う。
 
 判例は裁判官という官僚の判断にすぎない。しかも、それは人によって違うし、世論によって影響を受けるし、時代に応じて変化もする。
 
 ところが、首相の靖国参拝を反対する人が、その根拠に確定判決があるといってみたり、賛成する人が最高裁の判例がないといってみたりする。最後はお上の判断に頼る日本人の情けない傾向がここにも見られると言えよう。
 
 そのような情けない人たちの中に学者が多く含まれることは残念なことだ。彼らは、よほど自分の学説に自信がないか、それとも、正解はいつも問題集のうしろの書いてあった受験勉強の癖が抜けないのだろう。
 
 しかし、判例という過去の人間の判断に頼っているようでは、とても世論を変えることはおぼつかない。判例は世論が作るものであって、その逆ではないからである。(2002年5月10日)






 中国や韓国が日本の首相の靖国参拝に腹を立てるのは、靖国参拝自体に腹が立っているわけではあるまい。むしろ、自分たちの言い分が無視されたから腹が立っているのであろう。
 
 そもそも中国や韓国が首相の靖国参拝に最初に日本に対して苦情を言ってきたときに、本当に腹が立っていたのだろうか。これは非常に疑わしい。

 彼らが問題にするA級戦犯合祀は七八年であるが、中国や韓国が苦情を言ってきたのは八五年だからである。その間も首相の靖国参拝は続いていたのだ。

 すると、彼らはこの七年間は知らずにいたが、八五年になってはじめて知ったから腹が立ったとでも言うのだろうか。

 それに、そんなに腹の立つことに対してどうして英米の指導者は腹が立たないのだろう。

 苦情を申し込むときは、本当に迷惑を感じたときだけに限るべきである。

 苦情を言うと、それが聞き入れられないときには、自分の存在そのものが無視されたと思って非常に腹が立つ。その時には、迷惑を受けて腹が立ったとき以上に腹が立つものだからである。(2002年5月10日)








 大江健三郎と言っても五十年後の日本ではほとんど知られていないだろうが、その大江氏がまた海外で勲章をもらった。日本の勲章は断る人だが、外国の勲章ならありがたく頂戴する人だ。
 
 この人はノーベル賞をもらったあとで、文化勲章を「国がらみの賞は受けたくありません」といって断った。しかし、フランスと名の付く国の勲章なら受けるのだから、「国」は本当の理由ではなかったことになる。

 それに、平和主義者の氏なら、そもそもノーベル賞がノーベルという人がダイナマイトを売って戦争で大儲けをした金でできた賞だということはご存じだろうが、それはこの賞をことわる理由にはならなかった。

 ということは、この人は日本という国が嫌いなのだろうか。海外で翻訳がたくさん出版されているので、日本での売れ行きが下がったところで痛くもかゆくもないということなのか。そうではないだろう。

 もしノーベル賞をくれる前に文化勲章をくれていたら、大江氏も断らなかったかもしれない。ノーベル賞をもらったから文化勲章をやるという文化庁の態度が気に入らなかったのなら、わたしにも理解できる。(2002年5月8日)





 ビルマのスーチー解放に対する各新聞社の対応は様々である。軍政を悪と決めつけてビルマの軍事政権を非難する朝日に対して、ビルマの軍事政権に寛容な態度を見せ、むしろスーチーの急進的な民主化要求を批判する産経。
 
 しかし、その産経は民主化できない中国に批判的で、朝日は軍の発言力の強い中国に寛容である。

 各新聞社はそれぞれのの都合でものを言っているといことが、これでもよく分かる。

 「民主政治こそが真の発展への道であることは、近隣の東南アジア諸国連合各国の歩みが実証している」と朝日の社説は言うが、中国やパキスタンは民主政治ではないし、マレーシアやシンガポールの民主制は形だけで実質は独裁である。

 また、今日の天声人語は軍を戦争をし国民の自由を抑圧する悪い機関だと決めつけているが、軍はどこの国にもあるし、軍も国民の世論で動くものである。ところが、日本の有事法制に反対する都合があって、その辺は書かないのである。(2002年5月8日)




 違法行為によって世論に訴える。フランスの小規模農家の団体である農民連合がとってきた手段だ。
 
 ジョゼ・ボベを代表とするこの団体がファーストフード店を破壊したのは三年前のことだ。ジョゼ・ボベは禁固三年の刑を受けた。しかし、農業のグローバル化に反対する彼の運動は政府を動かして法制化に結びついたという。

 日本ではこのやり方は通用しない。警察につかまればそれで終わりだ。日本でならジョゼ・ボベはその瞬間に世論に悪人扱いされてしまうだろう。

 日本でも数年前にやみ米やどぶろく作りで国の政策に反旗を翻した人がいた。最初のうちは世論も彼の主張に同情的だったが、警察が出てきたとたんに風向きは180度変わり、裁判で有罪判決が出るともう見向きもされない。

 ものごとの決着を官権にもとめる日本と、違法行為に訴える団体に人々が賛同して政府を動かすフランス。

 それは、選挙の投票率が80パーセントにもなる国と、選挙で過半数が棄権するのがまれではない国との違いである。(2002年5月7日)






 「誕生死」という本が話題になっている。この本の「あとがき」にはこうある。

 「英語では、おなかの中で亡くなったケースを、”STILLBORN(スティルボーン)”と言います。日本語では単に『死産の』と訳されますが、”STILLBORN”には、『それでもなお生まれてきた』という深い含みがあり・・・」

 ここにはえらく断定的に書いてあるが、STILLBORNに『それでもなお生まれてきた』という深い含みはない。STILLBORNのSTILLは「静かに」という意味でしかない。

 この誤解はレオナルド・クラーク(Leonard Clark)という人の"Stillborn"という詩から来ている。それはここにある。

http://www.geocities.com/tcf-troy/OthersWrite/Stillborn.html

 そのなかに I KNOW THAT FOR ME YOU ARE BORN STILLという行がある。これはまさに『それでもなお生まれてきた』という意味である。しかし、これはこの詩の作者のつくった地口つまりしゃれであって、STILLBORNという単語の意味の解説ではない。

 もともと、bornという言葉は「母体から出た」という意味があるだけで、生を受けたという含みはない。つまりSTILLBORNとは母体から出たが産声をあげなかったことを意味しているにすぎない。

 「誕生死」という本が多くの人の励ましになったのはよいとしても、誤解から出発していることは悲しいことだ。(2002年5月5日)







 NHKスペシャル「サッカー地球の熱情2」を見た。ブラジルのサッカーのサポーターの熱心な活動を紹介していた。
 
 日本のプロ野球ファンと同じく、朝から晩まで自分のひいきチームのことを考えている熱心な男性ファンがブラジルにもいることが分かった。

 奥さんが旦那さんの熱狂ぶりを迷惑がっている様子が放映され、そのような熱心さが男性に特有のものであることも洋の東西を問わないようだ。

 それが高じて最近は暴力事件が頻発しているという。これも男たちが起こす問題である。つまり、この番組の主人公は男ばかりなのである。

 となると、この番組名にいちゃもんをつけたくなる。「地球の熱情」ではなく「地球の男たちの熱情」ではないのか。

 男は地球の人口の半分しかない。その価値観をもって全体の価値観のように表現するのはおかしい。少なくとも、男女共同参画社会を作っていくつもりなら、プロ野球やサッカーに熱狂しない多くの女たちの価値観をも尊重すべきだろう。

 この番組は、社会=男社会であること、女はいつも男の価値観に合わせられて生きていることをも、描いていたように思う。(2002年5月4日)







 うちでは毎日新聞をとっている。一面のコラムである「余録」がおもしろそうだと、去年とりだした。ところが、最近は余録の書き手が代わったのか、つまらないものばかりだ。
 
 今日は星野タイガースの好調をとらえて「野村前監督は『選手がアホやから』とぼやいていたかもしれないが、そうではなかった」と書いている。

 野村氏は敗戦の責任を選手のせいにする監督ではなかったと思うが、私の思い違いだろうか。

 つづけて「好成績は野村時代に培ったものが花開いたからとの説もある。そうかしら。むしろトップのかじ取り一つで組織がいかに活性化するかの見本ではないか」と書く。ここまでくると、筆者は野村氏が嫌いなのだと思うしかない。

 それにしても、もう辞めた人の悪口をなぜ書くのだろう。

 もしかしたら、毎日新聞が売れないのもトップの舵取りが悪いからだと言いたいのかもしれない。

 いずれにしろ、成功は地道な努力の積み重ねより指導者次第というお説は、モラルの向上には役立つまい。(2002年5月4日)







 憲法記念日ということで、日本国憲法を読んでみた。すると、最初に公布文があって「朕は朕は、日本国民の総意に基いて、・・・これを公布せしめる」とあり、その日付が昭和二十一年十一月三日となっている。まずこれが驚きである。

 戦争が終わったのが昭和二十年の八月で、それからたった一年しか経っていない。これでは「国民の総意に基づいて」いるとはとても言えないだろう。当時、日本はアメリカ軍の占領下にあり、言論の自由はなかった。国民は何も議論などしていないのだ。だから、ここは正しくは「占領軍の意志に基づいて」だろう。

 次に前文がくるが、そこで驚くのは、つい一年前まで世界を敵にして戦争をしていた国民に「すべての国と平和的に協調することで得られた成果を子々孫々にわたって守り続けることを決意した」(we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations)と言わせていることである。これではまるで嫌味であり、お仕置きである。

 ではそのアメリカが、平和主義を信じていたかと言えば、全く違う。それはその後のソ連との軍拡競争を見ても明らかである。
 
 アメリカは、この憲法によって日本を理想的な国にしようと考えていたのか、それとも広島と長崎に原爆を落として無辜の市民を殺害したことに対する報復を恐れて、日本を戦争のできない骨抜きの国にしようとしたのか。よく考えてみる必要がある。(2002年5月3日)






 「私たち日本人はいつまでも平和を求める。世界の人々が仲よく暮らすためには高い理想は欠かせないから、私たちは常にこの理想を頭においてことを決める。この国の存続、この国の安全は、私たち同様に平和を大事にする世界の人々の正義感と信念に委ねよう」

 池澤夏樹による日本国憲法の前文の訳である。

 彼は、今の日本国憲法は元の英文の真意を正しく伝えていないと言っている。それを「普通の感覚で」訳し直したのがこれだ。

 しかし、変な訳である。
 
 「私たち日本人はいつまでも平和を求める」がまず日本語としておかしい。「私たち日本人はいつも平和を求めている」あるいは「私たち日本人はいつまでも平和を求め続けるだろう」ではないか。

 「この国の存続、この国の安全は、私たち同様に平和を大事にする世界の人々の正義感と信念に委ねよう」もおかしい。これでは自国の存続を他人に委ねてしまうことになり、独立を放棄することになってしまう。

 池澤の訳は、日本国民を骨なしの民族にしてしまおうという当時のアメリカの真意が明確に現れた訳だとは言える。
 
 ところで、池澤は原文の英語を名文だといっているが、とんでもない。原文はたくさんの内容を一つの文章に詰め込んだ典型的な条例文であって、悪文の典型と言える。
 (2002年5月3日)





 政治家の秘書が次々に逮捕されている。彼らはなぜに違法な口利きやあっせんによって金集めに奔走するのか。それは、自分の仕える政治家にどうしても金がいるからである。
 
 井上前参議院議長の秘書が土建会社から引き出した六四百万円はどこに行ったか。秘書が自分の懐に入れるために、土建屋をだましたのだろうか。そうとは思えない。

 加藤前代議士の秘書が脱税で逮捕されたが、脱税とは個人的な犯罪である。そんなはずはない。加藤氏に金が必要だったから金を集めてまわった。その処理が曖昧なことから、秘書の個人的な責任にされてしまっただけではないのか。

 前徳島県知事の場合は秘書ではないが、やはり選挙に金がいるから違法な金をもらったのである。

 社民党の辻本前議員の場合も同じだ。金がいるから、秘書の給料をごまかしたのである。

 政治に、そして選挙に金がかかる仕組みを改めない限り、この種の犯罪は跡を絶つことはない。私はそう思う。(2002年5月2日)
 
 






 また世論調査が行われた。小泉首相の公約がどの程度実現していると思うかという問いに対して、ほとんど実現されていないと国民は思っているという結果である。
 
 このほとんど実現していないという情報を国民はどこから得たかというと、それはマスコミからなのである。

 では、そのマスコミは改革の進展状況をどこから知るかというと、政府の発表からなのだ。ところで、小泉首相は改革は着実に進んでいると言っている。となると、マスコミは政府から得た情報を国民にゆがめて伝えていることになる。

 日本のマスコミは自力で情報を集める力はなく、政府や警察の発表をもとにニュースを作っているだけだからである。

 国民の多くは自分たちが選挙で選んだ小泉首相の言うことよりも、大企業の広告で成り立っているマスコミの言うことの方が正しいと思っているのである。

 選挙に行かない、責任感のうすい人の多い国民だから、これも仕方のないことかも知れない。(2002年5月2日)






 鈴木宗男代議士の秘書が逮捕されてマスコミはまた大騒ぎしている。各紙が検察による疑惑の解明を期待するという趣旨の社説を一斉に出した。しかし、どうして検察に期待するのだろう。
 
 マスコミがあいつは悪いやつだと言って世論をあおり、警察や検察に決着をつけてもらおうというパターンの繰り返しである。

 そもそもどうしてマスコミは自分で鈴木氏を決定的に追いつめることができないのか。検察が調べるととたんに悪事が次々と明らかになってくる。マスコミはどうしてそれを自分で明らかにできないのか。

 新聞は例によって検察の発表をせっせと掲載するだけだが、こんな楽な仕事はない。マスコミのレベルがこれだけ低いと、検察ににらまれなければ大丈夫と、また悪いことをする代議士は跡を絶たないだろう。

 日本にはボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインの出現は望めないらしい。
 
 かくして、またもや国民の選挙で選ばれた人間が、検察の手によって葬り去られるのである。

 これでは検察国家といわれても仕方がないだろう。とても民主国家とは呼べない。(2002年5月1日)
 






 鈴木宗男議員の秘書が逮捕されたことで、鈴木議員に対する議員辞職勧告決議案を採決せよと、野党は勢いづいている。

 議員辞職勧告決議案が採決されたという前例はない。もし、今回採決され可決して、鈴木議員が辞職したりすれば、今後は議員の不届きな行動が明らかになるたびに、議員辞職勧告決議案が採決されて、その議員は辞職させられることになるかもしれない。

 はたしてそれでよいのだろうか。

 議会で多数を握っているのは与党だ。もし、このやり方を与党が使えば、気に入らない野党議員を辞職に追い込むことができるわけで、与党は強力な武器を手にすることになる。

 これまで野党には、不信任案や問責決議案という政府与党を攻撃するための強力な武器が与えられていた。

 しかし、これからは、例えば、野党議員の不倫が明らかになったりすると、国会議員にふさわしくないとして、議員辞職勧告決議案を与党から突きつけられる恐れが出てくる。
 
 これは野党の党首を攻撃するのには格好の手段になるに違いない。(2002年5月1日)







 憲法第二十条には、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあり「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とある。
 
 首相の靖国神社参拝はこれをもって憲法違反であるという人たちがいる。池澤夏樹がそうである。

 しかし、本当に憲法違反だろうか。

 まず何より、神社に参拝することはこの条文にいう「宗教的活動」だろうか。

 この条文が規定しているのは国家宗教を作ってはいけないということであろう。そのための宗教教育などをしてはならない。そう読むのが自然だ。

 もしこの条文が首相に神社をお参りすることさえ禁じているとするなら、たとえ国立墓地を作っても、そこにお参りすれば憲法違反になるのではないか。

 なぜなら、お墓というものは無宗教なものではあり得ないし、もし特定の宗教を排したとしても、今度は無宗教という名の国家宗教を作ってしまうことになる恐れがある。だからこそ、現に政府が考えているものは、墓地ではなく祈念碑でしかない。

(日本にもアーリントン墓地のようなものを作れと言う人がいる。しかし、あそこにはベトナム戦争で死んだ兵士の墓もある。また、あそこがキリスト教による施設であることを忘れてはいけない。つまり、靖国神社と同じなのである。違いは、他国が文句を言うか言わないかでしかない)

 また、首相が参拝したくらいで、靖国神社が国から特権を受けているとか、政治上の権力を行使していると考えるのも行き過ぎではないのか。

 ところが、池澤夏樹の議論はこれらについての検討をすっ飛ばして、なぜこんな憲法違反なことを小泉首相はするのかに終始している。

 彼のこの種の議論は朝日新聞のホームページで読むことができる。それは彼の日々の思考を綴ったものだそうだ。

 しかし、こんな決めつけが満載でとても思考と言えるものではない。むしろプロパガンダ(政治宣伝)と呼ぶのがふさわしい。(2002年5月1日)







 先日、テレビの旅番組を見ていて驚いた。旅先は三重県鳥羽市なのだが、ショックだった。

 朝の8時半とお昼の12時に、地元出身の歌手の歌謡曲が拡声器で町中に流れるというのだ。

 テレビに映し出された風景は海辺ののどかな町だ。そこへ突然、お昼のチャイムと共に歌謡曲が大きな音で流れてきたのだ。歌謡曲は朝の八時半にも流れるという。その場面も映し出されていた。
 
 日本中に拡声器による放送が広まっているらしいことは、薄々知っていたが、あんなところにまで広がっているとは。
 
 もはや日本には静かな町はなくなってしまったらしい。

 番組は「いい町ですね」で終わっていたが、朝の8時半に歌謡曲を強制的に聴かされる町が、いい町であるはずがない。

 あれでは夜の遅い仕事の人は絶対に住めないではないか。すごい町があったものだ。誰も苦情を言わないのだろうか。

 どうやら日本全国拡声器だらけらしい。静かな町に住みたければ、日本を出ていくしかないのだろうか。(2002年4月30日)








 新聞に書かれている記事は半分は間違いで半分は嘘だと思っている。あそこに真実が書かれているなどということはない。
 
 スポーツ新聞には嘘ばかり書かれているが、一般紙はそうではないと思っている人は多いと思う。確かにそのとおりで、一般紙に書いてあることは嘘ばかりではない。嘘ではないが、間違ったことが書かれているだけである。
 
 自分が直接見たことでも正確に伝えることは難しい。それを人から聞いて書いたことがどうして正確であり得ようか。実際、事件報道では記者たちは警察の思いこみをさも事実のごとくに書いている。

 まだそれだけならよいが、新聞記者は聞いたとおりに書かずに自分の意見をそのなかに混ぜようとする。そのため、記事はさらに事実から遠ざかってしまう。ほとんど自分の意見ばかりで、意見広告かと思うようなものまである。

 ところがそんな新聞を彼らは金をとって売っているのである。読んでほしけりゃ金を出せと言いたいぐらいである。(2002年4月29日)





 日本の二大スポーツといえばプロ野球と大相撲だろう。
 
 この野球と相撲で違うところを一つあげると、相撲は強ければずっと勝つスポーツであるのに対して、野球はいくら強くても勝ったり負けたりするスポーツだということだ。

 だから、大相撲で強い力士はたいてい勝つから、その力士のファンはたいてい幸せな気分でいられる。

 ところが、プロ野球ではどんな強いチームでもずっと勝つというわけにはいかず、必ず半分近くは負ける。

 プロ野球は1シーズンは一四〇試合だから、プロ野球のチームのファンはシーズン中には確実に六〇日以上はがっかりして機嫌が悪くなることは避けられない。

 それでも自分だけで不機嫌になっている分には構わないのだが、ひいきのチームが負けて、腹いせに汚いヤジを飛ばしたり、まわりの人にあたったり、物を投げたり壊したりする人がいるのは困ったものだ。

 野球は勝ったり負けたりするスポーツであることを自覚して、さわやかに応援してもらいたいものである。(2002年4月29日)






 戦いに負けると、表面上だけでなく心の底から相手の言いなりになり、ついこの間まで指導者と仰いできた人間に対しても、相手が犯罪者だと言うと、いっしょになって犯罪者扱いする。こういうことをする人間が、どこの世界で立派な人間だとされているだろうか。
 
 ところが、日本にはそういう人間がごろごろいる。占領下で行われた東京裁判でA級戦犯にされた人たちが祭られているからといって、靖国神社に首相が参拝するのを非難する人たちがそれである。

 もし日本がいま占領下にあるのなら、それも仕方がないだろう。しかし、独立を回復してから50年もたつというのに、いまだに占領軍の言うとおりだと言う人たちがたくさんいるのは不思議なことだ。

 占領軍が出て行ったなら、その間に押しつけられたものは排し、たとえ失敗した指導者であっても、裏切り者でない限り犯罪者扱いなどせず、戦場で命を落としたものと同じように手厚く祭るのが、まっとうな人間のすべきことではないだろうか。(2002年4月28日)






 フランス大統領選挙の決選投票に極右のル・ペン候補が進んだということで、フランス国内は大騒ぎになっている。あちこちで反ル・ペンのデモが行われている。投票権のない高校生までがデモにくりだしている。
 
 ル・ペン候補の公約は、移民排斥、新通貨取りやめ、欧州機構からの脱退、死刑復活というものだ。

 ル・ペン氏の思想のことは知らないが、この公約だけを見るとそれほど極端なことではない。日本ではすでに行われていることばかりだからだ。

 日本では死刑はずっと昔から行われているし、移民は受け入れていない。日本はどこの機構の一部でもない。当然のことだが、通貨も昔からずっと円で変わりはない。

 逆に言えば、フランスはこれらを全部変えてきており、それを元に戻そうというのがル・ペン候補の主張だ。

 日本という何にも自分で変えられない国に住んでいる人間から見ると、こういう候補が出てくること自体が夢のような話である。(2002年4月27日)







 地方議会の議員のうちで女性のしめる割合は6.8パーセントしかないという。男女共同参画社会などと言うが、絵に描いた餅にすぎないことがよく分かる数字だ。
 
 日本では社会という場合それは男社会のことなのである。女の主張、女の気持ちは二次的なものにすぎない。

 その際たる現れが野球だ。野球をほとんどの女性は知らないし興味がない。にもかかわらず、高校野球やプロ野球の一チームの勝ち負けが社会現象のごとくに扱われる。女の気持ちはまったく眼中に入っていないのである。

 新聞記者も男ばかりで、女が新聞社に入ってきても野球のことを全く知らなくて馬鹿にされ、ルールの勉強をさせられたりする。

 いかに男の常識が社会の常識とされているかが分かる。女が社会に入るということは、男の価値観を身につけるということなのである。これでどうして男女共同参画社会と言えるだろうか。

 男は女の価値観をもっと受け入れる努力をしなければならないのではないだろうか。(2002年4月27日)






 人の顔ほどその人の価値を決めるものはない。
 
 それは、顔の輪郭や部品の配置だけではない。ふくらみ方も重要なのだ。目元、口元は特にそうである。

 ちょっと縁が突き出ているその様が大切なのだ。それを見て人は魅力的であると思うのである。それに人生をかけたりもする。

 顔ではなくて中身だという。もちろん生活の面ではそうである。しかし、自分のタイプであるかどうかは、外見が決める。

 タイプであるということはセックスもOKということである。つまり、性的なことはすべて外見が決定的要素になる。
 
 顔だけでなく体もそうだ。胸の膨らみ形が重要なのだ。気持ちをそそる形というものがある。内面的なものは寝た後の話だ。

 形というものはそれほど大切なものなのである。中身は見て見ぬ振りはできても、外見は否応なく目に入ってくる。

 整形外科が人生を変えると言っても、あながち嘘を言っているわけではない。(2002年4月25日)







 韓国は北朝鮮に対して太陽政策をとっているが、これは韓国が北朝鮮を悪の枢軸とか犯罪者国家とは思っていないことを意味している。同じ民族だから北朝鮮も本質的に善人の国家であると思いたいのである。
 
 もともと朝鮮が二つに分裂したのは決して日本のせいではない。もし第二次大戦でソ連が南下していなければ、朝鮮戦争で中国とソ連が北朝鮮を助けていなければ、朝鮮半島は分裂していない。

 恨むべきは中国とソ連であり、また中国とソ連に助けを求めた北朝鮮なのである。ところが韓国政府は北朝鮮が同じ民族の国であるために北朝鮮を非難できないでいる。そして、その怒りの矛先を日本の植民地統治に向けたのである。

 現在、韓国人の40代以上の大人は戦争を全く体験していないにも関わらず、日本の植民地支配が、今の韓国の不幸の最大の原因であると思って日本を恨んでいる。これは政府の教育の結果に他ならない。

 中国も同様で、国内の不満をそらすために、まるで日本を敵国のように国民に教えこんでいる。

 これが首相の靖国参拝や歴史教科書に中国と韓国だけがいちいちいちゃもんをつけてくる理由である。(2002年4月24日)







 ヨーロッパの政界にとっての極右は、日本の政界にとっての共産党の位置を占めているらしい。
 
 日本では選挙で共産党対他の政党という図式がよく見られるが、ヨーロッパでは、今回のフランスの大統領選挙に見られるように、極右政党の進出をくい止めるためなら左右が結束する。

 ヨーロッパでは極右は戦前のナチに近い思想を持つ危険な人たちの集まりで、民主主義を否定する勢力だと見なされている。

 それに対して、日本の共産党はどうして排斥されるのか。それは共産党が君主制に反対しているからである。

 つまり、ヨーロッパでは民主主義のために結束するのにたいして、日本では君主制のために結束する。こう見ると、彼我の隔たりは天と地ほど大きい。

 ヨーロッパでは民主制が何よりも重視されるというのに、日本で何より大切なのは君主制を維持することなのである。これでは、日本の国民にはいつまでたっても未来が開けてこないは当然だ。(2002年4月23日)







 小泉首相の靖国参拝に対して、韓国や中国政府が抗議したという。A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝するのはけしからんというのだ。しかし、アメリカやイギリスからは抗議の声はない。この両国こそは、東京裁判を主催しA級戦犯を罰した当の国である。

 日本の首相が靖国神社に参拝することが本当にけしからんことなら世界中で非難の声があがってよいはずだ。現に今のイスラエルのパレスチナへの軍事侵攻に対してはそうなっている。

 ところが、このことで抗議するのは中国と韓国だけである。この二つの国の国民だけが先の大戦で日本軍にひどい目にあったからだろうか。そうではない。被害を受けたと言っている人は世界中にいる。

 では、なぜこの二国だけなのか。それはこれを問題視してもアメリカやイギリスの政府には何の得にもならないが、この二つの国には得になるからである。したがって、日本人はこの抗議を真に受ける必要はない。

 ところで、日本の一部の新聞にこれに抗議して社説を書いたりする人たちがいるが、それは何の得があってのことだろう。一度教えてほしいものである。(2002年4月23日)






 いつまで構造改革ができない日本、いつまでも民主化できない中国、いつまで統一できない朝鮮、これらはアジアの代表的な国々だが、自分で自分を変えられない点でも代表的だ。
 
 一方で、フィリピンやマレーシアやシンガポールといった自分で自分を変えられた国もある。

 この二つの国々の間の違いは何だろう。一つはっきり違っているのは、後の方の国々はみんな母国語を捨てて英語を公用語に採用していることだ。

 言葉を変えられるくらいだから他のことも変えられるということだろうか。それとも、変革を重ねてきた欧米流のものの考え方を言葉と共に自分たちのものにできたからだろうか。

 ところで、靖国神社に日本の首相が参拝すると大騒ぎするのも、最初にあげた三つの国のマスコミだけだ。過去を清算して未来に向かって歩き出すことができないでいる現れである。

 日本が改革を成し遂げ、中国が民主化し、朝鮮が統一されていくに従って、この騒ぎもまた次第に消えていくことだろう。(2002年4月22日)






 広島市が暴走族追放条例を作って、市長自らが町に出て暴走行為をやめてくれと言ってまわっているそうだ。
 
 わたしは暴走族の問題も、この親にしてこの子ありの一例だと思っている。大人たちもでたらめをやっているのだ。ただ大人たちは轟音をたててバイクを走らせないだけなのだ。

 大人が立派になれば子供も立派になる。大人がでたらめばかりやっていると子供もでたらめをやる。子供は大人がするようにするのであって大人がして欲しいようにするのではない。

 広島市民は胸に手を当てて、自らにやましいところがないかどうかよく考えてみることだ。

 例えば、どこの市議会にも高給を取って遊んでいる議員がいっぱいいる。彼らがもし給料を返上してボランティアで暴走族に呼びかけたら、こんな条例を作らなくても、暴走族は彼らの言うことを尊重して暴走行為をやめるかもしれない。

 尊敬するに値しない大人がりっぱな条例を作って暴走行為を抑え込んでも、表向きだけのことだけに終わるだろう。(2002年4月21日)







 今年のプロ野球は星野阪神が中心に動いている。これまでは巨人が中心だったが、今年は違っている。これは阪神が20年前に優勝したときにもなかったことだ。
 
 わたしがそう思う理由の最たるものは、阪神が勝ったときだけ勝利監督インタビューがあることだ。

 勝利監督インタビューはこれまではリーグ戦に優勝した後と、日本シリーズの各試合後に行われただけである。それが今年は阪神の試合に限ってリーグ戦の途中にもかかわらず行われている。

 プロ野球のニュースもいまやすべてが阪神の話題から始まる。阪神が勝ったときは阪神戦から始まり、阪神が負けたときは阪神戦は最後になる。このやり方はこれまでは巨人戦のものだった。

 これは長島監督がやめて巨人のニュースバリューは無くなり、その地位を星野阪神が占めていることを意味している。

 マスコミにとって、星野が長島の代わりになったのである。こうなった以上はアンチ巨人だったわたしはアンチ阪神にならざるえない。(2002年4月20日)







 昭和五十年、わたしは東京の東中野の下宿にいたが、その当時の思い出に荒井由美の歌がある。隣の部屋の住人が荒井由美の「ルージュの伝言」を大きな音でかけて迷惑したからである。
 
 当時はそれほど思わなかったが、いま思うとこれが実に甘ったれた声の歌だった。

 歌詞の内容も男とつきあっていてうまく行かなくなったので相手の男の「ママに叱ってもらうわ」というもので、実に甘ったれたものである。

 いま思うと、荒井由美の歌は、当時の若い女の甘えた言葉づかいをそのまま歌にしたものである。別の曲だが、半音はずれたメロディーで歌う「あなーたがすーき。きいっと言えーる」はまさに甘ったれそのものだ。

 甘えといえば土井健郎の「甘えの研究」であり、甘えこそは日本の風土を一語で表す言葉のように言われてきた。その甘えを的確にメロディーと詩にしたのが荒井由美の歌だったのだ。それが当時、一世を風靡したのは当然かもしれない。

 しかし、そのことに今頃わたしが気づいたのはどういうことなのか。これは甘えの時代が終わったということを意味しているのではないか。そんな気がする。(2002年4月20日)






 五月の連休が近づくと決まったように昔の朝日新聞阪神支局の襲撃事件のニュースが新聞やテレビで扱われる。正直言ってうんざりである。
 
 このニュースではまた決まったように亡き記者の奥さんの話が出てくる。そのたびにわたしは思う。見たこともない人間を恨んで一生を過ごすのはむなしいだけだ。早くこんな事件のことは忘れて再婚でもした方がいいのにと。
 
 このニュースはマスコミが騒ぐほど一般の興味を引かない。むしろ、犯罪の被害者は星の数ほどいるのに、どうして新聞記者が被害者だとこうも特別扱いなの かという疑問の方が強いのではないか。わたしには、新聞記者たちは自分たちを特別な階級に属する人間だと思っているのではないかという気さえしてくる。

 彼らは民主主義を守るとか何とか言っているが、その実、他人の不幸をネタにして金儲けをしているハイエナのような存在である。いくらきれい事を言っても世の中はだまされないものだ。だから朝日新聞支局の襲撃事件はたいした興味を引かないのではないか。
 
 新聞記者たちはむしろこの日を「身の程を知れ」と自戒する日にしたらどうか。そうすればもっと世間の同情を得られるだろう。(2002年4月20日)




 プロ野球の阪神が三連敗した責任は選手にあるというのがマスコミの一致した意見だ。こんなにすばらしい監督をもっているのに選手たちはどうしてもっとがんばらないのかというわけだ。
 
 しかしちょっと待ってくれ、勝っていたときは星野監督のおかげだったと思う。その星野氏が監督でどうしていま負けだしたのだろう。

 勝ったのが星野氏のせいなら負けたのも星野氏のせいのはずだ。

 しかしいま星野氏の采配ミスを指摘する声はない。おそらくこのまま負け続けたとしてもそれは星野氏のせいではなく選手たちの、ひいては球団の責任にされてしまうだろう。

 実は前もそうだった。星野氏は11年も中日の監督をしていながら二回しか優勝できなかった。彼はよほどの戦力とよほどの幸運があってはじめて優勝できる凡庸な指導者でしかない。しかし、その事実を指摘する声もマスコミにはない。

 星野氏はそれほどの人格者なのだろう。しかし人格と勝ち星とは関係がないことをファンはもうそろそろ気づいてもよいのではないか。(2002年4月20日)






 個人情報保護法案に対してマスコミが一斉に反発している。そりゃそうだろう、彼らは他人の個人情報で商売をしているわけだから、それが自由に使えなくなればこれまでのような好き勝手に人の不幸をネタに金儲けができなくなってしまうからだ。

 和歌山カレー事件でマスコミの被疑者に対するインタビューが裁判で証拠として採用されたことは、マスコミと我々との関係を考え直すよい機会になった。マスコミは抗議声明を出しただけで、ストライキをするわけでもなく適当にすませてしまった。

 マスコミとつきあったりすれば金儲けに利用されるだけで、ろくなことはないということがこれではっきりしたと言える。彼らは国民の個人情報を守る気など更々ないのだ。

 そんな彼らに対して痛手となる個人情報保護法案は、一般国民にとっては救いの神だ。これによって取材という名のマスコミの横暴が少しでも減るなら、これほど喜ばしいことはない。

 週刊誌の一本の記事で国民の選んだ議員が辞めさせられるのはおかしなことである。マスコミには一定の歯止めが必要だ。個人情報保護法案にそれを期待してもよいのではないか。(2002年4月18日)






 学校五日制は何のためか。春休み、夏休み、冬休みと休みだらけの労働者=教員たちがまだ休み足りないと、週休二日制も導入したということである。表向きは子供たちにゆとりをなどときれい事を言っているが、怠け者の教師たちに他の公務員並の週休二日制が与えられただけなのだ。
 
 どうして彼らは春休みと夏休みと冬休みで満足できないのか。週休二日制の導入によって、教員たちは日本の労働者の中で欧米並の少ない労働時間と長い有給休暇を手にした唯一の職種ということになる。

 そんなに休んで何をするのかを知りたければ、教員たちが国内のみならず世界各地の旅先でいかに豊かなバケーションを送っているか調べてみるがいい。

 その彼らの低い教育能力は、予備校や塾の教師の比ではない。学校五日制の導入で、能なしをただで遊ばせる日本の教員制度は悪化するばかりだ。

 先生などというと何か立派な人たちの集まりかと思いがちだが、実はろくでもない人間の集まりである。学校五日制の導入はその一例にすぎない。(2002年4月18日)





 天国や地獄など存在しないことは、これまで地球上にどれだけの数の人間が生きそして死んできたかを考えてみれば容易に分かることだ。
 
 天国や地獄があるなら、そこにはそれらの人間が全部いることになる。その人口たるや何百億・何千億いやもっと多くきっと天文学的数字になるだろう。いったいそんなにたくさんのものがいられる場所とはどんな場所だろうか。

 されにそれを一人の神様が管理するなんて可能だろうか。

 人口が少なくて世界に対する知識もなかった中世のような時代の人間なら、天国とか地獄とかが存在すると思いこむことはあるだろう。しかし、地球には様々な民族が住み、その人口が60億以上もあることを知っている我々にはとうてい信じることはできない。

 天国や地獄があると考えることは、世界が自分の周りのごく狭い社会で成り立っていると考え、世界が自分を中心にまわっていると考えることにほかならないのだ。(2002年4月17日)






 自爆テロ犯は天国に行けると信じて凶行に及ぶ。一見狂信的に思えるが、天国があると思っている国民は多い。むしろ天国も地獄もないと思っている国民の方が少ないだろう。その少ない中に含まれるのが日本人ではないか。
 
 葬式仏教以外に宗教を持たない大部分の日本人は無信仰であり、あの世の存在を信じない国民である。占いを信じはするがそれもこの世の出来事に限られている。

 世界でも希有な国民であるこの日本人の一員として、私は是非ともパレスチナの自爆テロ犯に天国なんてないんだよと教えてあげたいと思う。

 しかし、どうやって教えるか。天国が存在しないことを知っていてもそれを証明するのは難しい。

 それより、彼らを日本につれてくるのが手っ取り早いかも知れない。そうして、おもしろおかしく生きることが最上であり、この世こそ天国だと思って生きている日本人を目の当たりにすれば、自爆テロをするなんて馬鹿馬鹿しいと思えてくるかも知れない。

 「パレスチナ人に日本を見せる」。これこそ日本が世界の平和に役立つ道ではないだろうか。(2002年4月16日)





 社民党は、秘書給与の流用問題で組織防衛のためになりふり構っていられない事態に追い込まれている。
 
 辻本元議員の参考人招致を病気を理由に延期させたのは、その一つの現れだろう。高齢者ならいざ知らず、まだまだ若い辻本氏が国会に出てこれないなど誰が信用するだろう。

 次が原陽子議員。自分のホームページで政策秘書の名義貸しが自分の所属する党支部に持ちかけられたと公表した。ところが、持ちかけたのは誰か分からないとごまかしている。話の流れから、それが党本部であることは容易に推測できる。それなのに、原氏は党ぐるみとは思っていないと言っている。党の指示に従っ た発言だろう。

 しかし、これが党ぐるみでなければ何をもって党ぐるみと見なすのか。

 党首の秘書が持ちかけたのなら、党ぐるみと見なされても仕方がない。それが表沙汰になることを恐れて、辻本氏の参考人としての出席をやめさせた。そう推測されても仕方がないところだ。

 私の中ではすでに社民党はアウトである。(2002年4月16日)






 えん罪の多くは虚偽の自白に起因する。してもいないことをしたと自白してしまうことはよくある。真実はどこでも同じだと考えると、虚偽の自白などあり得ないことになる。しかしそうではない。
 
 真実の基準は時代によって違ってきたように、現代でも状況によって異なっている。取調室という場所での真実は、取調官の考えるような真実でなければならない。

 これは、教会が強い権力を持っていた時代では、教会が納得するようなものしか真実だ認められなかったのと同じである。昔の西洋では聖書の教えに反するものは真実とは認められなかった。

 取調室という限られた人間によって構成される世界でも、真実はこの世界を構成する限定的な価値観に制限されてしまうのだ。だから嘘の自白をする人間がいて、それを真実だと受け取る取調官がいる。

 裁判ではどうかというと、これもまた嘘が真実として通用してしまいかねない空間である。けしからぬ犯罪、憤る民衆、憎悪に燃える遺族、それに乗っかるマスコミ、これらが一緒になって、認められるべき真実は限定されてしまう。誤判を100パーセント避けることが困難なゆえんである。
 
 だからこそ、自白だけで人を罰してはいけないと憲法に規定してあるのだ。(2002年4月15日)





 日本のインターネットは欧米に比べて、設備の面では遜色がない。しかし、中身の面では日本の方が遅れている。
 
 新聞社や雑誌社のホームーページを比べてみるとその差は歴然だ。
 
 日本の新聞社のホームーページでは、いまだに記事検索ができないものが主流だ。むかし開発した有料の記事検索をやめられずにいる。

 記事の内容も紙の新聞と比べると非常に限られたものになっている。これはニューヨークタイムズやワシントンポストと比べて大違いだ。

 雑誌になると海外と日本の差はさらに開く。日本の雑誌は記事をほとんどホームーページに掲載しない。ホームーページを単なる広告手段として扱っているのだ。私がよく見るタイムやフランスのパリマッチなどはとは大違いである。

 雑誌はいつも立ち読みするだけの私にとっては、本屋で読むかパソコンで読むかの違いでしかない。だから、雑誌社はホームーページに記事を出すことによって購買数が減る心配をする必要はない。
 
 それに元々新聞も雑誌も収入の大半を広告料から来ている。だからやる気さえあれば、日本の出版社も欧米並のことはできるはずだ。
 
 しかし、現状では世の中の変化に一番遅れているのは、出版界ではないかと思えてくる。(2002年4月15日) 






 阪神が優勝すれば、経済の波及効果は2000億円という予測を関西の経済界が出した。いい加減にしろといいたい。自分たちの無能のつけをプロ野球に肩代わりしようとしているだけではないか。
 
 最近の関西の不況の責任を野村前監督に押しつけるに至っては愚かというしかない。野球の勝ち負けが監督の能力によって決まるのなら、関西の経済界の指導者たちは、とっくに不況の責めを負って野村氏と一緒に辞任しているはずだ。

 消費の鍵を握っているのは女性であろう。その女性のほとんどは野球のルールさえ知らない。その野球が経済復興の決め手になると言うのは、風が吹けば桶屋が儲かると言うほどに、無関係なものを結びつけているにすぎない。

 本当に阪神の成績が経済の活性化と関係があるのなら、経済界で阪神を買い取って金をどんどんつぎ込めばいいではないか。

 関西経済界の野球好きのおじさんたちよ、阪神がいくら好きだといっても、それを景気と結びつけるのは無責任なこじつけでしかないことを知るべきだ。(2002年4月13日)





 先日、パウエル国務長官は、軍事力によってテロはなくならないと発言した。ただし、この発言が行われたのは、自国の政策の過ちを認めるためではなく、イスラエルの政策の過ちを指摘するためである。
 
 しかし、どちらでも同じことだ。

 アメリカによるアルカイダやタリバンに対する武力行使と、イスラエルによるパレスチナに対する武力行使には、違いがない。相手はどちらも曲がりなりにも国家であるし、タリバンにはビンラデン率いるアルカイダが、パレスチナにはハマスやファタハがいてテロを推進している。

 違いは、アメリカが超大国であってイスラエルがそうでないことだけだ。

 いまアメリカではアルカイダによる次の本土攻撃があると信じている政府関係者がたくさんいるという。オマル師もビンラデンも捕まっていないばかりか、アルカイダの首脳をほとんど取り逃がしたからである。

 結局、アメリカは武力による報復は次の報復を呼ぶだけで何の解決にもならないことに気づいたのである。イスラエルに武力行使をやめさせたければ、アメリカは正直に自分の誤りを認めるしかあるまい。(2002年4月12日)







 マスコミの健忘症は何も日本のプロ野球のことだけではない。パレスチナ問題でも同じだ。

 パレスチナ国家の独立はすでに二年前の2000年秋に行われる予定だった。ところがそれを国際社会がやめさせたのである。自爆テロが頻発する前のことである。

 むしろ独立できないことに対する絶望が自爆テロにつながっている。

 しかるに、いま日本の新聞は、自爆テロがパレスチナ国家の独立を妨げているからやめるべきだと平気で書く。自爆テロを批判する理由が見つからなかったのだろうか。

 当時のイスラエルの首相は穏健派のバラクだった。国際社会はあのときにこそイスラエルに圧力を加えて、パレスチナ国家の独立を認めさせるべきだった。強硬派のシャロンが首相になってからでは遅いのだ。

 ところがマスコミはいま頃米国の仲介に期待すると言っている。しかし、戦争が始まってしまった以上は、行き着くところまで行かない限り停戦はない。

 この戦争の責任はイスラエルをこんなところに作り、パレスチナ国家を許さなかった国際社会にある。争いの原因を作っておいて停戦だけ呼びかけても無責任なだけである。(2002年4月12日)






 何々主義とは何かを至高としてそれ以外のものを従属させる考え方をいう。たとえば、平和主義とは平和が一番大切でそれ以外は二の次とする。
 
 ところで、いまの世の中を支配しているものの中に商業主義というものがある。お金が儲かることが第一でそれ以外は二次的であるとする考え方である。

 たとえば、いまプロ野球の阪神の快進撃を、時期は違うが二年前にも三年前にも似たようなことがあったと言うマスコミはない。これが商業主義なのである。ここで儲けぬ手はないからである。

 また、イスラエルのパレスチナ進軍をアメリカが批判し即時撤退を要求し、マスコミがこれに期待を寄せているが、これも商業主義である。

 もしアメリカが自分たちのテロ撲滅戦争と同じだといって、イスラエルの行動を支持したりすれば、アラブ諸国を怒らせて石油の全面禁輸などという事態になる恐れがあり、そうなれば世界の経済がいっぺんに麻痺してしまうからである。

 しかし、どんな主義についても言えることだが、真実は別のところにある。それを見誤らないようにしたい。(2002年4月11日)





 徳島県の前知事辞任にともなう出直し知事選挙が告示された。前知事は業者からもらった金を賄賂とされて逮捕された。金をもらったのは選挙資金にするためである。選挙に勝つには金がいるのだ。
 
 ところが、選挙に金がかかると仕組みは何も変更されずに、選挙はそのまままた行われる。

 当選する候補は、一番たくさん金を使った候補に違いない。借金が残るだろう。また、再選するために金を集める必要に迫られるだろう。

 金をくれるのは誰か。まとまった金をくれるのは業者以外にない。かくして、また次の知事も汚職事件で逮捕されるだろう。

 逮捕されないように、お金をもらわずに済ませる方法はある。選挙で有力な対立候補が出ないようにするのである。裏で根回しをするのだ。そのためには、共産党以外のすべての党を与党につけるのだ。かくして、相乗り多選知事の誕生である。

 金のかからない選挙の仕組みを考えない限り、ろくな知事が生まれないのが道理なのである。(2002年4月11日)







 天王寺動物園の雄のクロサイがイギリスに行って向こうの動物園の雌のサイとお見合いをするというニュースを見た。
 
 乱獲でクロサイは何千頭にまで減っているために、世界の動物園が互いに繁殖を進めて、種の保存につとめているのだという。

 一方で、日本に持ち込まれた台湾ザルがニホンザルと勝手に交配するために、純粋なニホンザルが絶滅するおそれがあるとして、駆除されている。

 動物の特定の種の保存のために、片方では生かし、片方では殺す。大事なのは種の保存であって、個々の動物の命ではないのである。人間は個人として尊重されるべきだが、動物は種として尊重されるだけでよいということだ。

 動物に対するこのやり方は、アーリア人種を尊重するためにユダヤ人を虐殺したナチスのやり方と同じである。

 種の保存に人間が介在してよいとするこの考え方の中には、神の役割を代行しようとする人間のおごりが見える。これをよしとするなら、クローン人間をどうして批判できよう。 (2002年4月9日)
 





 モラビアの「倦怠」を読んだ。これは、恋人の浮気に悩まされてその後を追いかけ回す男の話である。話は男の独白で進む。その特異な論理の展開がおもしろい。
 
 男は人生に倦怠している。しかし、それが彼の生き方だ。
 
 女とつきあったが、すぐに飽きてしまう。それで別れを持ちかけようと待っていたら、女が約束を破って会いに来ない。浮気か? この疑いが一気に女に存在感を与える。

 嫉妬に燃えて、浮気の現場を捕まえようと躍起になる。浮気をされていると思ったとたんに、女を独占したくなったのだ。所有してはじめて、女を捨てること ができる。そうすれば、本来の倦怠に戻ることができる。そう思って女を問いただし、セックスを求める。セックスでは女を完全に所有することはできない。し かし、やめられない。

 やっと女は浮気を白状するが、浮気をやめるといわない。男は、こうなれば結婚するしかないと考える。結婚すれば、女の浮気もおさまるだろう。そうなれば完全に女を所有できる。そうなれば、女に倦怠を感じて本来の自分を取り戻せる。

 しかし、女は結婚を断るだけでなく、浮気相手と旅行に行ってしまう。正気を失った男は、とうとう自動車事故を起こして入院する。そこでやっと現実に目覚める。こういう話だ。一気に読み通せる名作である。(2002年4月9日)






 アラブ諸国はイスラエルに対して占領地を返せ、返したら平和を保証してやると言っている。この占領地とは中東戦争でアラブ側が負けて失った領土である。
 
 中東戦争をしかけたのはアラブ側だから、イスラエルがこの要求を拒否してきたのは当然だ。領土を失ったのはアラブ側の落ち度であって、イスラエルの側には責任はない。

 日本もロシアに対して同じような要求をしている。領土を返せ、返したら平和条約を結んでやると。第二次大戦をしかけたのは日本なのだから、ロシアがこの要求を拒否してきたのも当然だ。領土を失ったのは日本の落ち度であって、ロシア側には責任がない。少なくとも、ロシア側から見ればそうである。

 いや、日本はロシアに対しては戦争をしかけていない。当時のソ連との間には日ソ不可侵条約があった。それを無視して、攻め込んできたのはソ連ではないか。だから、日本が北方領土を失ったことには、日本には落ち度がない。これが日本の主張だ。

 いまイスラエルは領土返還に応ずる可能性が出てきたという。それぐらいイスラエル国民は平和を望んでいる。一方、ロシアは軍事的には日本に何の脅威も感じていない。だから、ロシアはよほどの交換条件がない限り、北方領土を返す可能性はない。そう考えるべきだろう。(2002年4月8日)







 結婚していない人は大人になっても親と一緒に実家で暮らすのがいまは普通だ。これをパラサイトシングルというらしい。
 
 パラサイトとは寄生という意味だから、この言葉には悪いイメージが込められている。しかし、いまでは親子がずっと一緒に暮らすのは当たり前のことだから、言葉を変えた方がいいと思う。

 大人になったら、別居するという考え方は、戦後のもので昔は大家族だった。昔は小姑なんてものが家にいたが、これも大人の同居人がいたことを意味している。

 一体何の理由があって別居する必要があるのだろうか。親にとっても子にとっても別居は不便なだけでなく、さびしいものである。人間は一緒に暮らす必要があるのだ。だから同居が増えたのは自然な姿に戻ったと言える。

 内閣府がパラサイトシングルについてどう思うかアンケートをとったそうだが、人がどう思おうが知ったことではないのである。(2002年4月8日)







 国連がイスラエルにパレスチナ自治区からの即時撤退を決議し、アメリカもそれに同調している。しかし、国連はパレスチナ人による自爆テロを防ぐ有効な手だてを何も提示していない以上、イスラエルがそれに素直に従わないのは当然だろう。
 
 国連は平和を維持する機関であって、戦争に反対するのが仕事だ。しかし、イスラエル国民の安全を保証するのは国連の仕事ではない。だから、即時撤退などと無責任なことが平気で言える。
 
 イスラム世界のど真ん中にユダヤ教国であるイスラエルを作ったのは国連を中心とする国際社会である。そんなことは容認できないとイスラム世界はイスラエルに即座に戦争をしかけたのだ。
 
 先に手を出すのはいつもアラブ側である。今回も、暴力をはじめたのはパレスチナ人の方だ。イスラエルがそこにある限りアラブ人からの攻撃はなくならないだろう。

 それに対して、国際社会はイスラエル人の安全をどう守るつもりなのか。それを、はっきりさせてから平和を口にすべきではないか。(2002年4月7日)







 プロ野球で阪神が快進撃を続けている。しかしこのチームは私にとって阪神ではなく、中日の支店でしかない。監督になった星野氏は生粋の中日人間であって、野村前監督のような放浪人ではないからである。
 
 星野氏が阪神の監督になるということは、たとえて言えば、巨人の選手と阪神の選手を総入れ替えしたようなものだ。それで勝つようになったとしても何らめでたいことではない。

 さらに、たとえて言うなら、アメリカ人に税制も憲法を作ってもらって、それで繁栄しても、それは日本の繁栄ではない。それと同じだ。

 ところが、日本はそれに気づかなかったために、五十年以上も後になって、自分でこの国を立て直さなければならなくなった時に、どうしていいか分からなくなっている。
 
 プロ野球のチームの再建も自分の手でやらなければならない。さもなければ、たとえそれで成功しても一時のあだ花に終わってしまう。そのことを、日本の歴史が教えていると言えないだろうか。(2002年4月7日)






 イタリアでクローン人間の妊娠に成功したというニュースに、私がまず思ったことは、やはりイタリアかということだった。中世に地動説を発表したガリレオもまたイタリア人だった。

 当時地動説を唱えることは、まさにいまのクローン人間に対するのと同じくらいに大きな非難の対象となった。今日の新聞に出た「信じられない」とか「人間の尊厳を冒す」などという言葉は、そのまま当時のガリレオに向けられた言葉であったに違いない。

 現代の価値観で見る限りとんでもないことが将来の価値観では自然なこととなる。それが科学の進歩だ。

 ガリレオが地動説を知る技術を手に入れてしまったのと同じく、現代の我々はクローン人間を作る技術を手に入れてしまったのである。もはや、後戻りはできない。

 むしろ、後戻りを強いることこそ人類の尊厳を損なうことではあるまいか。

 地動説はそれまでにあった価値観を覆し、中世に終わりをもたらした。クローン人間もまた人類に新たな価値観の創造を求めているに違いない。(2002年4月6日)






 最近、歯磨きを日に二回することにしている。
 
 子供の頃は歯磨きはしなかったが、大学へ行って一人暮らしをするようになってから、日に一度寝る前に歯磨きをする習慣を身に付けた。それからずっとそれでやってきたのだが、最近通っている歯医者に勧められて、日に二回に増やすことにした。
 
 一日一回では二十四時間分の汚れを取ることはできないと言われたのだ。
 
 最近は電動歯ブラシを使うので、歯磨きは面倒ではない。ブラウン式の丸いブラシが先に付いているものを使って、ブーンと言わせながら口の中を一二周させるだけだ。
 
 それより、これを勧めた歯医者の人柄がこの習慣をはじめた原因だといえる。この歯医者は歯の磨き方を丁寧に教える。必要なら自分の指を患者の口につっこんで歯茎全体を丁寧にマッサージもする。こんなことをする歯医者をほかに知らない。

 歯医者が金儲け本位だと、患者の方も悪くなればまた治してもらえばよいと思うだけだが、患者本位の治療をされると歯を大切にしなければという気持ちが患者の方にも生まれてくるものなのである。(2002年4月5日)







 日本社会を支配しているのは中高年のおじさんたちであるということを一番強く感じるのはプロ野球中継が延長放送されたり、プロ野球の試合結果が一般のニュースで報じられるときである。
 
 野球に興味があるのは、男のしかも中年以上でしかない。女性のほとんどは野球には興味がないし、男でも若い世代は野球のようなダサイスポーツには関心が薄い。

 そのプロ野球では、特定の球団が勝つことがよいことだとされていて、たとえばパリーグのチームやセリーグでもヤクルトなどが勝っても意味がない。

 一方、巨人や阪神のことには非常に熱心で、球界全体が勝ってほしいと願っている。

 だから、今年などは、阪神の監督になった星野さんに勝たしてあげようという雰囲気が、球界に充満していて、いわば球界全体で八百長をやっているようなものなのだが、そんなものにまじめに一喜一憂しているのが、プロ野球ファンといわれる人たちなのだ。
 
 この社会はそのような人たちに支配されているのだから、うまくいかなくなるのは当然なのである。(2002年4月4日)







 名選手必ずしも名監督ならずというが、最近は名監督必ずしも名監督ならずである。かつては名監督として名をはせた野村監督が結果を残せず阪神を去った。そして、横浜の森監督は今もなお苦労し続けている。
 
 いくら監督としての能力があっても、選手に恵まれなければどうしようもないということだろうか。
 
 阪神の監督になった星野氏の場合はどうだろう。いま阪神は調子がいい。しかし、星野氏が名監督でないことは明らかだ。去年、星野氏は中日の監督として、最下位の阪神に負け越しているからだ。
  
 去年優勝したヤクルトの若松監督も名監督ではない。前任者の野村監督のもとで毎年のように優勝していたチームを引き継いだのに、なかなか優勝できなかった。
 
 むしろ若松監督は「優勝するかどうかは、監督とは関係がない。良い選手が揃い、その彼らの調子が良ければ勝てる」ということを証明したと言える。
 
 阪神の星野監督の場合も同じではあるまいか。ところが、今年の理想の上司のアンケートで星野氏がトップになった。実は数年前にそのトップの座には野村氏がいた。世論の評価などいい加減なものである。(2002年4月3日)







 客観報道と称してテロリストに敬称をつけてビン・ラデン氏と呼ぶマスコミは、皇室報道でも敬語を使う。これも、客観報道なのだろうか。
 
 しかし、そのマスコミも海外の皇室に対しては敬語を使わない。我々はよその家の親、よその会社の社長については敬語を使って表現するが、身内については敬語を使わない。これが常識だが、マスコミはこの逆を行っているわけだ。

 そのうえ最近では、赤ん坊にまで敬語を使うマスコミの卑屈な報道姿勢に、俺たちは主権者なのにあの子供より下なのかと思って情けなくなる。

 これは余談としても、敬称や敬語というものは客観性とは無縁のものであることを確認しておくことは無益ではないだろう。

 客観的ということは、主観的の反対であって、特定の人間の間だけ通用するのではなく、どこの誰にとっても等しく通用するということである。

 だから、他のどこの先進国の報道でも、テロリストに敬称はつけないし、皇室に敬語は使わない客観的な報道を行っている。(2002年4月3日)






 イスラエルはもう充分に我慢した。いくら自制したところで、いくら停戦協定を守ったところで、パレスチナ人による自爆テロがやむことはない。
 
 パレスチナ人はイスラエルとの共存共栄などあり得ないと考えている。イスラエルが、たとえパレスチナ国家の独立を許したとしても、自爆テロがなくなることはない。
 
 パレスチナ人の願いは単にパレスチナ国家を樹立することではなくて、ユダヤ人をパレスチナの地から追い出すことだからである。

 パレスチナ人を許すということは、ユダヤ人の虐殺を許すということである。イスラエルに残された手段はパレスチナ人を排除すること以外にない。さもなければ自分たちが排除されてしまう。

 イスラエルには、もはや選択の余地はない。きれい事を言っている場合ではない。今や、事態は食うか食われるかなのだ。
 
 イスラエルにとって、いま平和を尊ぶということは、自国民を見殺しにするということである。そんなことをすれば、国家の存在意義がなくなってしまう。わたしは、シャロン首相の軍事侵攻を支持する。(2002年4月1日)






 「謹慎」「処分」。なにやらいかめしい言葉が飛び出してきた。高校野球の全国大会でどこかの高校の副部長がちょっと知恵を働かせたことに対して出てきた言葉である。

 このような言葉が出てくる人々の集まりとはどのようなものだろう。少なくとも、みんなで何かをいっしょに楽しもうという人たちの集まりでないことは確かだ。
 
 高校野球はいつからこんな言葉を使うようになったのか。たかが子供の野球ではないか。野球はスポーツであり遊びである。ところが大人たちが、それに対して何かと注文を付けては、子供たちにのびのび試合をさせないようにしている。

 ある地方で甲子園とそっくりの野球場を作るという。大人が自分たちの思いこみだけで「甲子園、甲子園」と、よけいな重圧を子供たちにかけていることが分からないのか。

 電気屋のテレビの前で高校野球の中継に見入っているのは、今では中高年のおじさんだけである。高校野球はとっくにダサイスポーツになってしまっているのではないか。(2002年3月30日)







 高校の硬式野球部の部員数が減り続けていたのが最近増加に転じたという。これはどういうことなのか。
 
 プロ野球に対する人気も高校野球に対する人気も下がっている。一方、アメリカ大リーグに対する人気はウナギ登りだ。つまり、イチローや新庄に対する人気が、高校野球の部員を増やしているのだ。

 野球をすれば大リーガーになれるかも知れない、ひいては世界的なヒーローになれるかも知れないという夢がそこに込められるということだろう。

 それは、もっと言えば、この先の見えない日本から脱出して、世界に羽ばたく機会を野球が与えてくれるかも知れないということである。

 しかしながら、もともと、高校野球の部員が増えるということは決して喜ぶべきことではない。これは、勉強をしない人間が増えることだからである。高校の勉強は野球をしながら誰でもマスターできるほど簡単なものではないのだ。

 だから、最近、高校野球の部員が増えたということは、地道な努力による成功ではなく、派手な野球で一攫千金を夢見る子供たちが増えたということにすぎないのではないか。わたしはこの現象を、かく憂えるものである。(2002年3月29日)







 辻本議員に辞職を求める社説を日経新聞がまっ先に出したのは、自民党系の新聞としては妥当なことかも知れない。しかし、翌日に朝日と毎日がそろって同じような社説を出したのは、いい格好をしすぎたのではないか。
 
 四面楚歌で辻本議員が辞職に追い込まれた翌日、産経・読売・日経が社説で勝利宣言したのに対して、毎日は辻本氏に対する攻撃を止めて公設秘書制度の問題点を述べただけ、朝日に至っては辻本氏のことを取り上げてもいない。

 この両紙は今になってやりすぎに気づいたのかも知れない。自分の陣営の有力な人材を失ったからである。
 
 マスコミは政治の世界から超然として正義を論じていればよいというのが朝日・毎日の態度だが、それが祟っていっこうに野党が政権につくことが出来ない。
 
 フランスのシラク大統領は、公共工事に絡む献金疑惑で証言テープまで出てきたのに、ろくな追求もされずに、今年の大統領選挙でも接戦している。これは、保守系政党だけでなく、保守系マスコミも疑惑追及に不熱心だったことと無関係ではない。
 
 マスコミもまた党派性から逃れることは出来ないのだ。政権交代を実現したければ、朝日や毎日も少しは目をつぶることを覚えなければいけないのではないか。(2002年3月27日)






 これまで鈴木宗男議員にも加藤紘一議員にも社説で辞職を求めた新聞はない。ところが、辻本議員に対しては、どの新聞も社説を使って辞職を求めている。まったく、辞めろ辞めろの大合唱なのである。
 
 このヒステリー状態はいったいなんなのだろう。自分の価値観を人に押しつけるのが新聞の仕事なのか。辻本氏がなかなか辞めないものだから、意地になって書いているとしか思えない。

 頭を冷やしてものを考えられる人間は新聞社にはいないのか。ついこの間まで英雄扱いしておきながら、たった一つの失敗を捉えて、一人の無力な女をやりこめにかかっているという印象が強い。

 横山ノックの時も、野村沙知代の時もそうだった。辞めてどうやって食っていけというのか。自殺しても自業自得と笑うのがマスコミだ。

 あちらへワーと行ったかと思うと今度はこちらワーと行く。こんな定見のないマスコミからは、その牙を抜くのがよい。そのための法律、個人情報保護法が準備されているという。是非とも成立させてもらいたい。(2002年3月26日)






 「何でわたしがやめなあかんの」というのが社民党の辻本氏の気持ちだろう。

 もし、政策秘書の名義借りをしていたとしても、そんなことを一年生議員の辻本氏が自分一人の考えで出来るわけがない。社民党の誰かの入れ知恵があったに違いない。その人にも責任があるはずだ。
 
 かつて自民党は造船疑獄で逮捕状の出たにもかかわらず佐藤栄作議員をかばって逮捕させなかった。佐藤氏はそれだけ党にとっても国にとっても重要な人物だったのである。
 
 ところが辻本氏の場合は、逮捕状も出ていないし、あるのは道義的責任だけだ。それなのに、社民党は辻本議員をかばおうとしない。
 
 社民党は、結局は政権政党ではなくカッコをつけるための政党でしかないからだろう。だから、誰も泥をかぶろうとせずに、党にとって国にとって重要な人材を切り捨てられるのだ。
 
 彼女が鈴木宗男議員の証人喚問に立ったことの意義を社民党は、軽く考えすぎている。何で彼女がやめなあかんのかである。(2002年3月25日)







 ヤコブ病訴訟でよく分からないのは、国に謝罪を求めている点だ。金でかたを付けるために裁判を起こしたのではないのか。

 そもそも、裁判で謝罪を勝ち取ったところでどうなるというのか。謝罪が本心からのものかどうかは誰にも分からないのだ。大臣が被害者の墓参りをしていたが、あれが形だけでないと誰が断言できよう。

 裁判での被告の態度も同じことだ。日本の裁判官は、被告に反省が見えないのが、けしからんとよく言う。しかし、反省の態度を見せろというのは、うまく振る舞えといっているに等しい。

 確かに、気持ちが態度に表れるという面もある。しかし、人の心を正確にのぞき見ることは出来ないのだ。

 相手に単に賢く振る舞う以上のこと、本当の謝罪や反省を求めるのであるなら、嘘発見器にかけて「本当に反省していますか」と聞いて反応を見るしかない。
 
 しかしそんなことをすれば、永遠に謝罪など得ることはできないだろう。(2002年3月25日)






 イスラエルでパレスチナ人による自爆テロが繰り返されるようになったのは、今から一年半前(2000年9月28日)にイスラエルの右翼政党リクードの党首で、現イスラエル首相のシャロン氏が、ユダヤ人であるにもかかわらずイスラム教の聖地(神殿の丘)にお参りをしてからである。

 シャロン氏はこの訪問によって、この聖地がユダヤ人のものであると主張したわけだ。それに怒ったパレスチナ人たちが暴動を起こし、イスラエルが軍隊を繰り出してそれに応戦した。

 ここで分かるのは、イスラエルの中にはたくさんのパレスチナ人が住んでいるということだ。日本にもたくさんの朝鮮人が住んでいる。それと同じようなものだろう。ところが、パレスチナ人には自治政府というものがあって、ここが違う。日本には朝鮮人自治政府なんてない。

 政府と言うからには国かといえば、そこまではいかない。何せ国境がない。だから、どんどんイスラエルの中に入ってきて、自爆テロを繰り返す。

 結局、イスラエルはもしパレスチナ人に殺されたくなかったら、パレスチナを国として認めて、国境を作って、イスラエルの中に入ってこないようにするしかない。そうすれば、イスラエルの領土は減るが、国民の命と引き替えには出来ないだろう。(2002年3月25日)







 「二十日の記者会見は間違いでしたすいませんと謝るべきだと思います」辻本議員と同じ党の福島議員の言葉だ。彼女もまた日本式の謝るのが一番いいという考え方の持ち主であることが分かった。
 
 それと同時に、弁護士出身の福島議員がどんな弁護活動をしていたかも垣間見せている。彼女は全面降伏して、裁判官の情状に訴えるというやり方をいつもとっているに違いない。
 
 一見どんなに不利な状況でも、あくまで被疑者の側に立って、被疑者の立場を有利な方向にもっていこうとするのが弁護士の仕事であるはずだが、彼女の場合はそうではないのだろう。
 
 結局は、日本には本当の意味での弁護士は一人もいないのではないか。

 この場合も、いつものように自分は有利な立場にとどまりながら、困っている人間を見捨てるのである。

 「誰もが犯罪者になりうる」。辻本議員の事件は改めてそのことを思い出させてくれた。それなのに、社民党の議員たちは他人ごとのように振る舞って、仲間をかばおうともしない。これなら、鈴木宗男議員をかばう自民党の方がよほど人間的だ。 (2002年3月25日)







 政治家は金がいる。それをどうやって集めるか。何の関係もない人は金をくれない。ファンです好きなように使ってくださいと、ポンとお金をくれる人がこの世の中に何人いるだろうか。
 
 結局、政治家は特定の誰かの役に立って、その人から政治資金です、選挙に使ってくださいと言われながらお金をもらうしかない。これが賄賂だというなら、賄賂をもらわないで政治家はやれないことになる。

 国会議員は国から給料だけでなく、党を通じて政治資金がもらえるが知れたものだ。それ以外の議員や地方の首長ははじめから自分で工面するしかない。

 アメリカでもイギリスでもは収賄事件は起こらない。アメリカは政治献金が賄賂扱いされることはないし、イギリスでは選挙資金自体が厳しく制限されている。

 日本は中途半端で、金は集めてよいが何の関係もないところから集めてこいというのだ。そんなやり方で金が集まるはずはなく、今後も収賄事件が起こることは避けられないだろう。(2002年3月24日)






 わたしは「秘書」の「秘」は「秘密」の「秘」で、秘書は雇い主の秘密は死んでも漏らさないものだと思っていた。しかし、社民党の辻本議員の雇っていた秘書はそうではなかったのか。
 
 彼女の政策秘書が知人に「月5万円で名前を貸すことになった」と漏らしていたことが明らかになったからである。
 
 政治には金がかかる。社会党のしかも女性代議士の収入は高が知れている。事務所の維持もままならないの実状だ。そこで、お互いにお金を出し合っていきましょうということになった。ところが、辻本議員はこともあろうに同じ女性からこんな裏切り行為をされた。

 それなら、あきれた秘書だということになる。しかしそうではないかも知れない。

 売れっ子の辻本氏のことだ。テレビの出演料などで莫大な収入を得ているはず。ところが、彼女はしみったれで、安月給で何人もの秘書こき使っている。それを見て腹を据えかねた政策秘書が「わたしなんかたった五万円よ」と暴露に出た。これが真相なのかも知れない。

 それなら、辻本氏は身から出た錆でわが身をおとしめたということになる。(2002年3月24日)






 第二次大戦中、アメリカはアウシュビッツ強制収容所のユダヤ人を一切救おうとしなかった。

 アメリカは1941年の時点ですでにユダヤ人が大量に虐殺されていることを知っていた。にもかかわらず、アメリカ軍はアウシュビッツの収容所に通じる鉄道を空爆しようとさえしなかった。

 当時のアメリカの目的はあくまで戦争を終わらせることであり、そのためには民間人の犠牲は大した考慮の対象ではなかった。だから、アウシュビッツは見逃されたのである。しかし、だからこそ、アメリカは広島・長崎に対して原爆を落とすことが出来た。
 
 アウシュビッツの悲劇と広島・長崎の悲劇とは相通ずるものだったのである。民間人の犠牲に対して、世論は現代ほどに神経質ではなかったのである。

 当時は、勝つこと、相手をやっつけることが何より優先された。個人の人権は二の次だったのだ。アメリカでさえそうだった。

 当時アメリカは全体主義に対する戦いなどと言っていた。しかし、当時は実は、誰も彼もが全体主義の世の中だったのである。(2002年3月24日)






 金の鯱(しゃちほこ)が盗まれたというニュースに、久しぶりに大笑いした。岐阜県の墨俣城の中に展示してあったものが盗まれたというのだ。
 
 いったいそんなものを盗んでどうするのだろう。そこにしかないもの、特別なものなのだから、誰も買ってくれない。鋳つぶす手段があったとしても、金は石である。石を持っていってもスーパーでものは買えないのだ。金をカネに代えるには特別な登録業者に行く必要がある。そんなことをすれば足がついてしまう。

 結局、家の中に飾っておくしかない。しかも誰にも自慢できないのだ。

 それにそもそも純金の鯱なんか作ってどうするのか。城の飾りに使うものなら、金メッキでいいじゃないか。純金にしたからどうだというのか。無駄な出費もいいところだ。

 江戸時代に純金で作った鯱があってそれを盗んだ大泥棒がいたという話があるが、そんなものはみんな話の中だけのものだ。

 ところがそれを真に受けて、純金で鯱を作った人がいる。それを盗んだ人がいる。平成の時代とはなんと豊かな時代だろう。

 純金の鯱を作る馬鹿、それを盗む馬鹿である。(2002年3月23日)






 北朝鮮が有本恵子さんを拉致誘拐した問題で、朝鮮赤十字会が調査を継続すると発表したという。これをもって日朝関係が対話へ動き出す可能性が出てきたというのが共同通信の記者の見方だ。
 
 しかし、わたしの見方は全く違う。北朝鮮はこの事件を交渉のカードとして使おうと企んでいる。つまり、これを交換条件として北朝鮮は日本から何かせしめようとしているのだ。そうとしか、わたしには見えないし、これまでの北朝鮮のやり方がまさにそうだった。

 だから、このような問題で北朝鮮と話し合いをするということは、犯罪者やテロリストと取り引きするということになる。テロリストと取り引きしてはならないのは、あらゆる場合の鉄則である。

 ブッシュ大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」のなかに含めたことは、故なきことではない。相手は犯罪者であることを忘れるなと言っているのだ。
 
 犯罪者には相手をあざむく場合を除いては、何の交換条件も提示してはならない。「有本さんをすぐに日本に返還せよ、さもなければ・・・」と命令すればよいのである。

 それが犯罪者に対してとるべき態度である。もちろん、交渉のために米を送るなどもってのほかであることは言うまでもない。(2002年3月23日)






 困った裁判官もいたものだ。和歌山カレー事件の裁判官が、報道機関の取材結果を、もう報道されたものだから報道の自由は侵さないと言って、証拠採用したのだ。

 報道の自由は取材の自由無くして成り立たない。しかし、裁判所がこんなことをするなら、今後、報道機関の取材に応じる人が少なくなることは明らかだ。へたに協力してあとでその内容を証拠にされてはたまらないからである。

 しかし、報道機関も自業自得である。報道は取材源を守る義務があるのに、この取材では、取材相手が犯人であることを暴いてやろうと取材に行っているからだ。それを証拠採用されたのだから、実は本望ではないか。
 
 しかし、個人情報保護法が出来るとこんなさわぎも無くなるだろう。この法律では、自己に不利になるような内容の報道を止めさせられるそうだから。
 
 となると、まわりまわって、今度は検事とそれに協力したがる裁判官が困ることになる。証拠に出来るような報道自体が無くなるのだから。(2002年3月22日)







 「葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬(ちょくきゅう)という者あり。その父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証言す。孔子の曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きことその内にあり」
 
 これはわたしが高校の漢文の時間に習った論語の一説である。その時は、そうなのかと感心したものだ。悪事は悪事として扱うのが正しいと思っていたわたしには、新鮮だった。

 子は親に育ててもらった恩があるということだろう。しかし、「親は勝手に子供を生んだのだから育てるのは当然だ。親に恩義など感じる必要はない」というのが今の一般的な考え方ではないだろうか。

 ところで、ケニー野村氏が母親を警察に売った動機は何なのだろう。少なくとも母親の方は息子を信用していた。だからこそ、口裏合わせをたのんだのだろう。ところが、息子はそれを録音して警察に提出した。

 そこにあったのが正義感なのか憎しみなのかは分からない。しかし、息子が母親の信頼を裏切ったことだけは確かだ。

 氏は今のマスコミにもてはやされることはあっても、天国の孔子さまのお誉めにはあずかれまい。(2002年3月20日)







 プロ野球阪神のオープン戦の成績がよい。それはよいとして、星野監督から前任者の監督に対する批判めいた言動が出てくるのはどうしたことだろう。
 
 前任者の野村監督は自分の前任者に対する批判は決してしなかった。彼の任期中も阪神がペナントレースで首位に立つこともあったが、野村監督は巨人の金権野球と長島監督を批判することはあっても、決して前任者の吉田監督を批判するようなことはなかった。

 ところが、今見ていると、たかがオープン戦の成績がよいだけで、星野監督の言葉の端々から野村野球に対する批判が飛び出してくる。「おれがやればこれだけ違う」と言わんばかりなのだ。

 さらに、彼が今も巨人に在籍する長島氏からの応援を受けたりしているのもおかしなことだ。星野氏は自分の敵が誰なのか分かっていないのではないか。

 実際のペナントレースがどうなるかは知らないが、星野監督は、このような道徳的に見てとうてい誉められない言動によって、すでに自分の勝利の価値を引き下げてしまったことは間違いない。

 今回の阪神からの監督要請は、本来断るべきものであった。引き受ければ先輩にあたる前任者の批判になる恐れがあったからである。それに気づかないほど能天気な星野氏がこのような言動に出るのは不思議なことではないのかもしれない。(2002年3月19日)






 高校野球の全国大会は変だ。開会式から試合をするまでに一週間も待つチームがある。球場を三つ使えば、一回戦を二日で済ますことが出来るのに、それをせずに、選手たちはまるで舞台の出を待つ役者のように順番を待つのである。
 
 サッカーの全国大会は複数の会場を使うから、そんなことはない。もしこれを国立競技場だけでやれば高校野球の全国大会と同じになる。これがどんなに変なことか分かるだろう。

 最初は高校野球も複数の球場に分かれて短期日で行われていた。それを甲子園に限定したものだから甲子園神話などというものが出来てしまったのだ。
 
 その結果、高校野球の全国大会は、全試合がテレビ中継されるという異常なことが行われ、青少年の育成とは名ばかりの見せ物となってしまったのである。
 
 高野連はこの過ちを正そうともせず、今年もまた高校生をスターに祭り上げる一大ショーを開催しようとしている。いつになったら自分たちの過ちに気づくのだろうか。(2002年3月18日)







 鈴木宗男議員が自民党を離党した。ということは、鈴木議員と各政党との関係は全部同じになったかと言うと、そうではないらしい。

 鈴木議員は無所属議員になったにもかかわらず、自民党などの与党は彼を自分たち与党の一員として扱っている。なぜなら、与党は彼に対する辞任勧告決議案を採決しようとしないからある。

 しかしこの事実は、国民が小泉政権を考えるときに決定的な要素となりうる。

 なぜなら、与党と小泉政権は、国会の採決の時に彼の票をあてにしているということになるからである。国民がこのような汚れた票をあてにする小泉政権を支持出来ないのは当然である。

 もし小泉首相にはそんな気持ちはないと言うのであれば、首相は野党といっしょになって鈴木氏に辞職を迫り、鈴木氏が自分の仲間でないことを示さなければならない。

 鈴木氏に議員辞職を勧告しないで、与党の一員として扱う限りは、鈴木氏の疑惑は与党の疑惑であり、ひいては小泉政権の疑惑であり続けるのである。(2002年3月17日)







 有力な日本の野球選手がアメリカの大リーグに移り、わたしの野球に対する興味も大リーグに移ってしまった。その上に、阪神の野村監督の後釜に中日の星野監督がついて、わたしのプロ野球に対する興味はきれいさっぱり消えてしまった。
 
 それとともに、高校野球に対する興味も消えてしまった。高校野球の春の全国大会が始まると言うが、全く興味が湧いてこない。これも別段不思議なことではない

 高校野球人気は結局はプロ野球人気の延長なのである。高校野球の価値は明日のプロ野球選手の活躍の場としての価値なのである。そのプロ野球が大リーグの二軍と化した今、高校野球は大リーグの三軍となってしまった。つまり、かつての都市対抗野球の地位に沈んでしまったのである。

 マスコミは、野球は飯の種であるから盛り上げようと報道する。しかし、それらが作られたものであることはすぐに明らかになるだろう。

 結局、日本のプロ野球は、変われないだめな日本の典型の一つでしかなくなっているのが現実なのである。(2002年3月17日)







 「東京大空襲・戦災資料センター」が開館するという。
 
 現在、民間人に対する空爆は非難の的だ。「アフガニスタンに対する空襲は間違っている。民間人が犠牲になるからだ」と。ならば当然、東京大空襲も間違いだったということになる。

 こんなことを言えば、現在の価値観を過去に当てはめるのは間違いだと言われそうである。しかしこの意見はまさに戦前戦中の日本に対する批判的な考え方を自虐史観と言って退ける人たちの主張ではなかったか。

 「新しい歴史教科書」は、過去のことを過去の価値観で判断しようとした。しかしそれにに対して、毎日新聞に出た書評は、過去のことを現在の価値観で評価するのが歴史だと言うのだ。

 要するに、アメリカのしたことは過去の価値観で、日本のしたことは現在の価値観で評価するのが正しいことであるらしい。

 これがインチキであることは、明らかだろう。

 あるタレントがゴルフでボールを動かしているのを見つけられて、こう言ったそうだ。「そやかて、勝ちたいもん」

 東京大空襲では日本を批判し、アフガニスタンの空襲ではアメリカを批判する人たちは正直に言えばよい。「勝ちたいから」と。(2002年3月10日)







 今日の毎日新聞に城山三郎が、個人情報保護法案の恐ろしさについて書いている。

 この法案によれば「A氏のことを書こうとする場合、まずA氏の了解を得、A氏のことを知るB氏やC氏から取材するのに当たっても、先にA氏の了解をとらねばならず、さらに雑誌などに発表する前に、原稿をA氏に「検閲」してもらって、了解をとらねばならない。

 「このため、悪人について、その悪い点を書くことはできず、もし二重三重の「検閲」をパスしなければ、主務大臣が出版社や書き手である国民に、改善を勧告・命令することができ、応じない場合は6月以下の懲役または30万円以下の罰金が科せられる

「─という自由主義社会のどこにもない悪法であり(ママ)、悪人が善人面して大いばりできる社会になり、ファシズムや全体主義が猛威をふるった戦前、いや戦前以上にひどい暗黒社会へと一直線に突き落とされ、とり返しのつかぬことになる」のだそうだ。
 
 しかし、この文章にはあまり説得力がない。
 
 まず第一に、人のことを好き勝手に書いて金もうけをする人には困った法律だということは分かる。しかし、そんなことをするのがよくないのは当然で、それ取り締まるのは良いことではないのか。
 
 次に、ここで言われている「悪人」は誰が決めるのか。マスコミにはこれを決める権限があってそれを奪われるというのだろうか。容疑者が犯罪者であるかどうかは裁判によって決まる。その前に、誰かを悪人と決めつける権限がほかの誰かにあると考える方がおかしいのではないのか。
 
 第三に、これが仮に悪法だとして、現代の日本はそのために暗黒社会になってしまうような非民主主義の国なのだろうか。現代の日本国民は悪法を訂正することができないようなだめな国民なのだろうか。
 
 最後に、「悪人が善人面して大いばりできる社会」になると言うが、いま現在城山三郎が悪人でもなく、善人面して大いばりもしていないと、どうして言えるのだろうか。
 
 仮に彼の書いたものによって被害を受けた人がいるなら、その人にとって城山三郎はまさに悪人で善人面して大いばりしていることになる。そして、もしそうなら、その人にとっては、この法案は良い法案だということになるが、それでも悪法なのだろうか。(2002年3月10日)







 日本人はすぐに集団ヒステリーにかかる。鈴木宗男が悪人だと思い始めると、何もかもが悪いと言い始める。
 
 鈴木宗男が何か要求したり変えさせたりしたことは、いまや「強要」とか「どう喝」とかいった、恐ろしい言葉を使って報道されている。

 彼が大きな声で何か要求したら、みんな犯罪となるかのようである。

 一般人にとっては、行政寄りの給料泥棒みたいな役に立たない議員ばかりの中で、珍しく行政と喧嘩のできる頼りになる人だと思ったら、それが全部犯罪扱いされている。ある人たちにとっては、住民の声がこれほどすぐに実現する議員はいないのではいはずなのだが。

 もちろん、一方にとって役に立つということは、他方にとっては損になるということである。ところがいまや、その他方からの見方がすべてを覆い隠している。

 三月十一日に鈴木宗男の証人喚問が行われる。彼がいかにして反論するか、すべてを一方的な見方だけで見ることは間違いであることを、彼はどうやって示すことができるか、見物である。(2002年3月9日)







 原爆慰霊碑にペンキがかけられた事件で、関係団体が「被爆者を冒とくするもの」との声明を出したが、この犯人が冒涜したのは被爆者ではない。それは、この慰霊碑を作った人たちであり、おそらくはこの声明を出した団体の人たちである。
 
 この慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。これが原爆慰霊碑をめぐって次々と事件が起きる原因であることに間違いはない。
 
 この文章には政治的な主張が含まれているからである。つまり、この文章には、「悪いのは原爆を落としたアメリカではなく、落とされた日本である」という主張が込められている。

 しかし、それが戦後のしかも一部の人たちの政治的主張でしかないことは誰でも知っている。そして、それが戦時中に被爆して命を落とした人たちの主張でないことも明らかである。
 
 このような事件をなくすには、誰もが素直に慰霊できるような文章にする以外にないだろう。例えば、もしこの碑文が単に「安らかに眠ってください」だけなら、このようなことが二度と起きないことは確実である。(2002年3月6日)







 徳島県知事が収賄で逮捕されたが、その報道内容を見て驚いた。検察庁が現職知事を東京に呼びつけて、否認のまま逮捕したのである。検察とはそんなに偉いのか。まるで江戸時代の大目付もかくやという、強権ぶりだ。

 しかし、いまは民主主義の世の中である。有権者の意志が何よりも勝るはずだ。選挙で選ばれてもいない検察庁の官僚にそれを無視する権利があるのだろうか。

 知事が逮捕されれば、辞任しなければならなくなる。そうなれば、選挙だ。一度選挙をするのにどれだけの金がかかるか。今回収賄したと言われている八百万円どころですまないことは明らかである。

 七九年に現職で逮捕された宮崎県知事の場合は無罪になっている。県民は検察のために無駄な選挙をさせられたのである。宮崎県は選挙費用の賠償を検察に求めるべきではないか。

 私は、国会議員と同様に知事にも不逮捕特権を与えるべきだと思う。知事を辞めさせるのはあくまで検察ではなく、選挙民でなければならいからだ。(2002年3月5日)







 「武富士放火殺人」という言葉が今日のマスコミをにぎわしている。日本にはこのように事件の名前を統一する習慣がある。容疑者が捕まったらしいが、事件の全容は分かっていないし、物証もない。ところがもうこの容疑者があの事件の責任を全部負わされてしまったらしい。
 
 「殺人」という以上は殺意が無ければならないが、あの犯人は金が欲しかっただけで、脅す道具としてガソリンを持っていっただけである。ところが支店長は すんなり金を出さなかった。どうせ保険に入っているくせにである。支店長は金を出すぐらいなら、火をつけられてもかまわないと思ったのである。
 
 死者が五人も出たことについては、建物の防火対策にも原因がある。
 
 しかし、「武富士放火殺人」という言葉には、そんなことには全く無視して、あらゆる責任を犯人におっかぶせようとするものだ。

 しかも、今回の逮捕は「任意同行」による強制的取り調べによって自己に不利益な供述を強要した結果である。これが憲法に違反していることは言うまでもない。(2002年3月4日)







 テレビ時代劇の「御家人斬九郎」が終わってしまった。今回のシリーズでは、「母の夢」という回が秀逸だった。ストーリーはこうである。
 
 斬九郎が良家のお嬢さんとの見合いに呼ばれる。行くと候補者があと二人いて順番待ちをさせられる。一人が終わって戻ってきたので外を見ると、相手のお嬢様の「よしの様」は退屈そうにあくびをしながら手まりをもてあそんでいる。斬九郎の番が来たので部屋に入って名前を名乗ったが相手は返事もしない。そこで切れた斬九郎はよしのに対して無礼をとがめ、見合いを断って帰ってきてしまう。怒ったよしのは持っていた手まりを斬九郎に投げつける。しかし、結果、よしのに気に入られたのは斬九郎だった。

 三人目の候補者の母親は、斬九郎の母親麻佐女と幼なじみで、自分の息子の出世のためにこの縁談を是が非でも成功させたかった。そこで彼女は斬九郎にこの縁談を断ってくれと言いに麻佐女のもとに乗り込んでくる。息子はこの母親の言いなりで、斬九郎と果たし合いをすることになるが、逆に斬九郎にマザコンぶりをしかられる。しかし、斬九郎は、自分と同じく母親のプレッシャーに悩むこの男に同情して、男の相談に乗ってやるようになる。
 
 その二人の会話の中で、男の藩の有力者が陰謀をたくらんでおり、よしのの父親が、藩の目付役として不正摘発に動いていることが明かされる。

 とうとう、この父親が墓参りの途中をおそわれ、よしのが誘拐されるという事態になる。斬九郎は父親を助けに走り、男はよしのがとらわれている屋敷に飛び込んでよしのを探す。そして、とある部屋を開けると屏風の陰から、よしのの手まりが転がり出る。男は、縄を切って縛られたよしのを救い出すと、今度はよしのを背中に守りながら剣を手に悪人たちと大立ち回り。娘の励ましの声が飛ぶが、次の瞬間男の胸から血潮がさっと飛ぶ。しかし、軽傷だった。そこへ同心たちが飛び込んできて悪人たちはご用となる。

 エピローグで斬九郎の仲間たちが飯屋に集まり、縁談がだめになったことが話題になる。そこへ、例の男が事件の解決と自分の出世の礼を言いにやってくる。すると男の胸元からよしのの手まりが転がり落ちて鈴の音を立てる。男は恥ずかしそうに手まりを拾い上げる。彼はよしのの心を射止めたのだ。

 このドラマの中で、この手まりが重要な役割をしていた。手まりは娘の心なのだ。
 
 ところで、これと似たようなシーンを描いた古代ローマの詩人カトゥルスの詩がある。それをここに引用しよう。
 
 恋人から内緒でもらった一つの林檎が乙女の純潔な胸からころがり出た。
 彼女は自分のふっくらとした下着のなかに隠しておいたことを忘れていた。
 母親の近づくのを見て立ちあがる拍子に、かわいそうに彼女はそれを足もとに落したのだ。
 乙女は自分の顔がたちまち赤らむのを感じる。
 (カトゥルス65の19 モンテーニュ「随想録 下」松浪信三郎訳 河出書房新社刊 268頁より)
 
 このドラマの作者はこの詩を知っていたのだろうか。(2002年3月3日)






 私の住む町にも広報がある。その中に、各自治会による「環境保全活動」の取り組みが紹介されている。しかしそこに書かれていることは、要するにみんなで掃除をしましたという報告ばかりである。

 しかし、掃除なら昔から誰もがやっていることで、なにも「環境保全」などと言う必要はない。この町の人たちは、ただ役場に言われるままに町内を掃除して、それで「環境保全」に取り組んでいますと言っているのである。

 そもそも環境庁は何のために作られたか。「環境」が問題になったのは何故なのか。それは公害問題だろう。

 掃除や清掃活動は昔から誰でもやっていることだ。その過程で公害が起きて問題となったから、環境が意識とされるようになったのであろう。

 ではその公害とは何か。それは大気汚染であり騒音であろう。掃除をするのは昔からのことだ。それをどうやったら公害を起こさずにやるか。「環境保全」を云々するとはそういうことであるはずだ。

 ところが、この町の人たちは環境保全をするからご協力をと、拡声器で朝から大きな音を町中に流すのである。刈った草を燃やしてあたりを煙りだらけにするのである。

 これでは「環境問題」など何もわかっていないと言われても仕方がないだろう。(2002年3月3日)







 フレッシュネス・バーガーというハンバーガー屋に初めて入った。隣の町の百貨店の一階に新しくできた店で、いつも入る喫茶店が満員だったので、一度入ってみようというわけだ。
 
 欧米式に店の外にもテーブルがあり、店内はマックと違って、木目調の装飾で腰板が張ってあり、まるで映画の「ユー・ガット・メール」に出てくるような大人の雰囲気である。若い女性たちに人気がありそうだ。
 
 注文をカウンターでして、テーブルで待っていると、すぐにコーヒーが来て、しばらくするとハンバーガーが来た。袋の中を見ると、このハンバーガーはトマ トが一切れはさまっていて非常に分厚い。しかも、できたてで熱い。私は、やむなく読んでいた本をテーブルに置いて、両手でハンバーガーの袋を持ってかぶりつくことにした。

 しかし、うまく食べないとハンバーガーのソースと肉がパンからずれてしまう。紙の袋を食べないように気をつける必要もある。これは非常に食べにくい。
 
 ふと前のテーブルを見ると、私の前に注文した若い女性もハンバーガーを食べている。彼女は足を組んで膝の上に雑誌を広げてそれを読みながら、左手だけでハンバーガーを持って上手に食べている。なぜあんなことができるのか不思議だ。彼女のハンバーガーは私のと違うのだろうか。あれではソースが紙の袋に出てしまうではないか。

 しかし、彼女が食べ終えてテーブルの上に戻した紙の袋はほとんど汚れていない。私はどうかというと、結局肉の一部とソースがべっとりと袋にこぼれてしまった。

 私のあとから、黒いブーツに黒いセーター黒いジーンズという黒ずくめの若い女性が入ってきた。彼女は注文したハンバーガーが来てもすぐに食べない。しばらくして少しさめてから食べるのである。彼女もハンバーガーを左手に持って、膝の上に広げた雑誌を読みながら食べ始めた。どうやら、ハンバーガーを食べるスタイルも若い女性の間では決まっているようだ。

 ところで私はというと、袋の底にこぼれた肉とソースを何とかしなければいけない。私はコーヒーも注文していた。そこで私が、コーヒースプーンを使って、袋の中をきれいにすくって食べたのは言うまでもない。もちろん、前のテーブルにいる女性たちは誰もそんなことをしなかったが、私は非常においしくいただいた。
 
 しかし、次は私も片手で食べようと思う。(2002年3月2日)






 加古川線の電化工事が始まるというニュースを新聞で見た。いったい誰のための、何のための工事だろう。電化すれば速くなるというが、わずか五分のことだ。そのために60億円もかけるというのだから驚く。
 
 今ディーゼル機関車で細々とやっているから維持できている。それを経費がよけいにかかる電気にして、果たして維持できるのか。
 
 加古川線には現在、昼間の時間帯で一時間に二本走っている。電化して利用者が増えればそれを四本にできるというのだ。
 
 しかし、私の近くの山陽本線の駅から姫路まで行ける電車は昼間の時間で加古川線と同じ一時間二本である。本線でずっと二本なのに、支線で四本に増えるわけがないのは明らかだ。
 
 すでに播但線が電化したが、経費がかかるためにディーゼル時代より本数が減ったという。加古川線も同じ運命をたどると考えるのが普通だろう。
 
 結局は、例によってこれも地域の土建屋に仕事をやるための公共工事なのだ。
 
 建設費60億のうち、15億は沿線の企業や住民の寄付でまかなうという。しかし電化して本数が減るとさらに利用者数が減るという悪循環に入ることは必定だ。その時、利用者数を維持するために、またもや住民や企業にしわ寄せが回ってきて、乗りもしないが定期券を買わされることにならなければよいが。 (2002年3月2日)






 兵庫県の姫路はお城で有名だ。その城があるのが姫山で、その斜め後ろに男山というのがある。ここは姫路城を眺めるビュースポットとして有名だ。私も先日この山に登ったが、そのためには全部で200段ほどの階段を上る必要がある。
 
 眺めを堪能して山を降りてきた私は、どこかで一休みしようと近くにある姫路文学館に入ろうとした。ところが建物の入り口がよくわからない。おまけに建物は二つあってどちらに行けばよいのかと迷いながら、水の流れる小川沿いに続く曲がりくねった坂道を50メートルほどまた登るしかなかった。そこで右後ろを振り向くと、そこにやっと入り口らしきものがある。しかし天井が低くてとても来場者を歓迎している雰囲気ではない。おまけに有料ときた。
 
 とても気楽に入れるところではないので、私はそのままあきらめて、疲れた足を引きずりながら、駅に戻ることにした。
 
 少し考えると、この文学館の作りは姫路城をイメージしたものであることがわかる。小川はお堀であり、通路も入り口も敵を容易に本丸に近寄せない城の作りをまねたものだ。同時にあれは、建築家の安藤忠雄の設計ではないかとピンときた。調べてみるとやっぱりそうなのだ。
 
 彼は自分の発想を大切にして建築する。テレビで見たが、例えば、仏様と言えば蓮の花のイメージだ。そこで、お寺を作るのに池を作って本殿を池の下にしてしまった。おかげで、お寺だから塔があると思って来た人には永久に見つけられない寺になってしまった。
 
 あるいは、個人の家の設計を頼まれて、ふつうの家でも外気と親しむべきだと考えた氏は、家を二つに分けて、空の下を行き来するようにした。おかげで自宅の中を移動するのに、雨の日は傘を差さねばならない家になってしまった。

 その安藤忠雄がまた海外で賞をもらった。日本人は海外の評価に弱いから、彼はとうとう東大の教授にまでのし上がった。しかし公共建築物が入りにくくてどうするのか。(2002年3月2日)






 英会話学校のNOVAがまた変わったコマーシャルをやっている。
 
 フランス語をしゃべる女性の声が聞こえてきて、次に日本人女性が映り、「日本人」と文字がでる。次に、日本語をしゃべる女性の声が聞こえてきて、顔が映り「アメリカ人」と文字がでる・・・。という具合だ。顔と言葉は一致しないと言いたいのだ。
 
 そのほかにも、日本語をしゃべる男性の声のあとでイタリア人男性が映り、イタリア語をしゃべる女性の声のあとで日本人女性が映り「関西人」と出る。
 
 最後に宇宙人が出てきて、関西弁で「異文化コミュニケーションええのんちゃうかな」と言って終わる。

 何度も流れるのでよく見ていると、実にインチキ臭いものだということが分かってくる。そもそも関西人は日本人だし、あの宇宙人も日本人だ。
 
 さらに、よく見るとイタリヤ人男性と日本人男性と最後の宇宙人は同じ人間が演じているらしいのだ。
 
 となると異文化コミュニケーションどころか、これは一人芝居の一人コミュニケーションだということになる。うそ臭いことはなはだしい。(2002年3月2日)







 ここ兵庫県播磨町は国の方針に反して市町村の合併を推進しないそうである。その理由が振るっている。自治体が大きくなると住民の声が行政に届きにくくなるからだと言うのだ。しかし、これは住民が言うならともかく、役場が言うことではない。そんなことも分からないのがこの町の行政の実体だ。

 わたしは自治体が合併を渋るのは、役人の保身のためだと思っている。自治体が減れば首長の数の役人の数も議員の数も当然減ることになるからだ。

 また、今のままなら予算を地元の業者のために好き勝手に使えるが、合併するとそれが出来なくなる。談合情報が頻発する町のことだから、合併の過程で行政の内情がオープンになると困ることがあるのではないかという疑いもある。
 
 住民にとって自治体が小さくて良いことは何もない。

 福祉がその筆頭だろう。例えば、親を引き取って面倒をみるにも、姫路市では住民票がない老人でもサービスを受けられるのに、この町ではサービスが受けられない。

 この町にもプールがあるが、その利用料金の高いことは東京都の区営プールの比ではない。

 また、関西電力のインターネットサービスは、加古川市や明石市では利用できるが、播磨町はサービスの対象外になっていて受けられないということもある。
 
 そして何より、町が小さいと役場の役人が住民に近いために、住民はへたなことを言って役場に睨まれると容易に村八分される心配があって、言いたいことを言えないという、役場の主張とは正反対のことがあるのだ。
 
 合併を渋っている自治体には気を付けよう。きっと何かよからぬ魂胆があると思って間違いはない。(2002年3月1日)






 「デッドマン・ウォーキング」は「死刑とは何か」をあらゆる角度から眺める映画である。
 
 死刑とは正義の成就である。死刑とは遺族による復讐である。死刑とは犯罪の抑止である。死刑とは貧乏人のための刑である。死刑とは政治的プロパガンダである。死刑とは殺人を刑務官の仕事にすることである。死刑とは罪の償いである。死刑とは無実の人間を殺すかもしれないことである。死刑とは囚人を家族から引き裂くことである。死刑とは罪人を真人間に変えることである。死刑とは何本も注射を打つことである。
 
 死刑を廃止すべき理由は単純である「殺すのはいけないと言いながら人を殺すのは納得できません」人を一人殺すのがこれだけ大変な意味を持っているということをまざまざと見せてくれる名画だ。
 
 死刑とはもう一度キリストを殺すことである。(2002年2月25日)






 ジャック・ロゲIOC委員長とチンクアンタISU会長が二人してオリンピックをぶちこわしにしているようだ。
 
 ロゲ委員長はフィギュアスケートの判定に介入するというこれまでIOC委員長が誰もやらなかった競技結果の変更をやってしまった。いったんこんなことが行われると、あらゆる競技の審判の公正さが疑われ収拾がつかなくなってくる。
 
 チンクアンタ会長は強引にフィギュアスケートの判定に不正があったことにして、その責任をフランスの女性審判に負わせてしまったもようだ。その後の、この審判の発言で実は競技前からカナダペアを勝たせるようにISUから圧力を受けていたことが明らかになっている。これでは、もともと不正を仕組んでいたのはISU自身だということになる。

 その後もショートラック競技、スキー競技と次々に審判の不公平さが指摘されるようになり、とうとうロシアがボイコットを言い出すまでになった。もしそうなれば、ロゲ委員長は自分がオリンピックを手がけた途端にオリンピックが崩壊するという不名誉を背負うことになるだろう。(2002年2月22日)







 御家人斬九郎がなかなか面白い。話はシリアスながら、コミカル仕立てで、大いに笑わせる。配役もぴったりだ。

 母親役の岸田今日子にはいつも大笑いだ。

 渡部謙と若村麻由美という美男美女が主役で、男っぷり、女っぷりとも絶品。

 なぜか、この作品では出てくる俳優がみんな名演技をする。

 若村がお休みのときには、その代わりに蜷川有紀が女盗賊役で出たりする。それがまたべっぴんなのだ。

 美保純が出たときの演技には思わずほろりとさせられた。

 このシリーズは予告なしに、思い出したように始まり、断りなしに休むから、テレビ欄をよく見ていないといけない。去年の年末にまた始まったかと思うと、最近まで勝手にお休みだった。

 おととしにはじめて見てから、録画を撮って見落とさないようにしている。夜中に一杯飲みながら、見るのには絶好だ。

 「御家人斬九朗」に何かの賞をやれないものかと思う。それぐらい、いつも秀作揃いだ。「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」などとは、レベルが違う。大人向きの時代劇だ。

 ところで、若村はアリーマイラブの吹き替えで、舌足らずぶりを露呈して、やっぱり顔が命の女優さんだと思う。蔦吉の芸者役がはまり役だ。

 ところが、この女優さん、対談番組なんかに出ているのを見ると、びっくりするくらいありきたりの人なのだ。素顔は二つの眉毛が真ん中でくっつきそうで、美人でもない。顔の出る役になってはじめて魅力の出る人なのだろう。その意味で本当のプロの役者さんだ。(2002年2月20日)







 オリンピックのショートトラック競技で、ある選手が失格となったことを不服として監督が正式に抗議するという。
 
 その選手は他の選手の妨害をしたから失格にされたが、実際には妨害はしていないから、失格にしたのは間違いだと言うのである。ビデオで確認したら、妨害の事実がないことが明らかだともいう。
 
 しかし、もし勝っていたとしても、他の選手が倒れたための勝ちで実力による勝ちではない。「棚ぼたの勝利」を奪われたからと言って、大騒ぎするのはみっともないと思う。
 
 選手自身はもう気にしていないと言っているのに、監督が大騒ぎするのもおかしなことだ。
 
 また、ビデオ判定にすべきだなどというのは、先に言うべきことで、自分の側に不利な判定が出てから言い出すのでは、説得力がない。
 
 人間が判断する以上は、間違いがあるのは仕方がない。むしろ、間違った判定にも黙って従うのが、スポーツマンシップではないのか。少なくとも、日本人くらいはそういう潔さを見せて欲しいと思う。(2002年2月18日)






 来日したブッシュ大統領が明治神宮に参拝したが、小泉首相がいっしょに行くと公式参拝になるとして参拝しなかったという。
 
 それをとらえて、二人で行って違憲なら一人で行っても違憲じゃないか。ならば靖国神社の私的参拝も違憲だという人がいるが、逆ではないかとわたしは思う。
 
 アメリカ大統領が明治神宮に公式参拝しても、政教分離に反しない。ということは、日本の首相が公式参拝しても政教分離には反しないということを証明しているからである。
 
 元々、政教分離の考え方はアメリカの憲法から取り入れたものである。アメリカでよいものが日本で悪かろうはずがない。政教分離と公式参拝を結びつけて考えるのは、日本だけなのだ。
 
 公式参拝を違憲だというのは、過去の日本の歴史を現代に短絡的に結びつけて考える人たちだけである。
 
 要するに参拝するのが神社だから文句が出るのであろう。ならば、首相は神社にも寺院にも教会にも公式参拝すればよい。それでも文句を言うなら、まさにいちゃもんでしかない。(2002年2月18日)






 この国の経済が回復するかどうか。それはひとえにこの国の国民が、経済を回復させたいかどうかにかかっている。消費が伸びないから不況なら、消費を伸ばすしかない。消費をするかしないかは国民次第である。政府に期待する問題ではない。
 
 国民に金がないかといえば、そんなことはない。銀行は金で溢れている。貯金だらけだ。貯金してばかりで使わないから不況なのだ。国民がこの国を破産に追い込みたければ、このまま貯金を続ければよい。
 
 しかし、国が破産すれば、貯金があっても無意味である。それとも、アルゼンチンの愚かな国民をまねて、国がどうなっても知らない、自分さえよければと、今のうちに円をドルに両替しておくか。そんなことをしてもだめなことは、これまたアルゼンチンの政府が教えてくれた。
 
 さあ、みんな金を使おう。老後の心配など止めることだ。いま金を使って、国を立て直さなければ老後も何もない。いまこそ、消費は美徳なのだ。(2002年2月12日)







 田中前外務大臣の仕事を評価する国民が七割もいるということが、NHKの最新の世論調査で分かった。すでに、田中氏の解任理由がマスコミを通じて明らかになっているのにも関わらず、この有り様である。
 
 まったく、この国の国民は馬鹿の集まりだというしかない。これでは、改革は出来ない。この国の先行きは真っ暗だ。物事の善悪がよく分からない人間の集まりなのだから。

 この国の国民は好き嫌いでしか物事を判断できない。これでは、政府は情報を国民に開示してはいけない。知らしむべからず、寄らしむべしでいかなければいけない。教えても、彼らはちゃんとした判断できないのだ。情緒的判断しかできないのだ。

 消費税に対する対応からしてそうだ。消費税が嫌いだからといってものを買わないのだ。ものを買うのは何も自分だけのためではない。消費しないと国の経済が成り立たなくなるといわれても買わない。自分さえよければよいのだ。しかし、国が破産すれば、自分の財産もゼロになることが分からないのだ。馬鹿は死ななきゃ直らない。この国もつぶれるしかないのだろう。(2002年2月12日)







 教師に採用されたからといってすぐに教師になれるわけではない。生徒の信頼を勝ち取ってはじめて教師になれるのである。それと同じように大臣に就任したからといってすぐに大臣になれるわけではない。周囲の信頼を勝ち取ってはじめて大臣と言える。
 
 それをはっきり証明したのが田中真紀子議員だった。彼女は最後まで肩書きだけの大臣だった。
 
 ところがそんな大臣に多くの国民の支持が集まった。

 知事に当選しただけでは知事にはなれないことは、すでに青島幸夫氏が証明している。彼もまた人気だけの政治家だった。何度も懲りずに同じことを繰り返すのが大衆というものか。多くの評論家もこの尻馬に乗って、真紀子擁護論を繰り広げているようだ。

 しかし、約束を守らない人間、自分の落ち度を人のせいにする人間、自分の思うようにならない自分の勤務先を伏魔殿と呼び、改革をするといって人の首切りに奔走する人間。これはまさに独裁者の行状だ。
 
 しかし、スターリンも生前はその風貌と物腰で国民に人気があった。この国の国民はいま独裁者を求めているのだろうか。(2002年2月4日)






 地方自治体のごみ収集で、分別収集がすすんでいる。燃えるごみ、燃えないごみ、プラスチックごみ、粗大ごみ、これらを分けて収集する。これが環境行政のすすんだ形だということらしい。わたしの住む町でも同様である。

 で、どうなったか。ゴミ収集車が週に四回も来るようになった。つまり、ゴミ収集車が、騒音を立て、排気ガスを撒き散らし、くさいにおいをさせながら、町中を平日のほぼ毎日走り回るようになったのである。どこの市町村でもそんなものらしい。

 これが環境行政の実態なのだ。環境美化のためにと言いながら、その実、環境を破壊して回ることになってしまう。
 
 開発型行政の根本の考え方が何も変わっていないからか、環境美化といっても金を使うことしか思いつかない。プラスチック処理の高価な機械を買って、プラスチックごみだけ別に集めて回る。それで逆に住環境が破壊されることにまでは思い至らない。

 ごみを集めてまわる前に、ごみを減らす工夫をやっていかないと、何をどうしようが、結局行政は環境を悪化させるばかりなのである。(2002年1月14日)






 雪印乳業が業績の低迷を理由にまた一つ工場を閉鎖するという。
 
 雪印が起こした集団食中毒事件は一年半も前の夏のことである。しかし、雪印に対する消費者の不信感はいまだに消えることはない。その理由は、事件そのものよりも、むしろその後の雪印の姿勢にあるとわたしは思っている。

 雪印はその後、有名な女優をコマーシャルに採用したりして莫大な金を使っておきながら、被害者に対してろくな保証せず、裁判沙汰になっている。

 また、牛乳のパッケージのデザインを変えてなるべく雪印の名前が目立たないようにもしている。

 このような雪印の姿勢はむしろ姑息で意地汚いものと消費者に受け取られ、製品の安全性に対する不信感以上に、この会社に対する不信感を人々の心に産み出しているのだ。 

 雪印が業績を回復するためにまずすべきことは、目先の消費拡大策ではなく、被害者に対する謝罪と充分な保証であるはずだ。それが終わるまでは、雪印の製品を買いたくないと思っている人はわたしだけではあるまい。(2002年1月7日)




私見・偏見(2002年後半)




 ネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込まれた発言で名誉を傷つけられたとしてある動物病院が発言の削除と賠償を求めて裁判を起こしたという。吉本新喜劇のギャグで言えば「あほちゃうー」というところだ。
 
 「2ちゃんねる」は自由な情報交換の場だ。例えば、いろんな会社の製品が名指しでいろんな評価を受けている。動物病院もそれも同じことである。結果がよくなければ、それがここで公表されるだけのことだ。

 ここの利用者はけっして与太者だけの集まりではない。嘘だと分かれば、ちゃんと嘘として葬り去る程度の良識は持っている。利用者は単に憂さ晴らしのためだけでなく、有用な情報を求めて集まってきているからである。だから、しっかり反論すれば理解してくれる人達を見つけることは出来たはずだ。

 ところが、それを名誉毀損で裁判所に訴えるとは、なんと野暮なことをしたものだろう。そんなことをしたら、自分自身で名誉を損なうようなものである。(2002年12月28日)







豊郷小学校問題では住民側のやりすぎを批判する声も多いようだ。

住民側は本当に建物が大切で運動をしているのか、それとも町長に勝つために意地になっているだけなのか分からなくなっているからである。

 一部マスコミは住民側に共感しているようだが、特に、町長を告訴したのはやりすぎだろう。一体、人を犯罪者にしてまで保存したい建物とは何なのか。これでは全くの本末転倒で、建物と人間のどちらが大切なのか分からなくなってしまう。

 もしこれで仮に校舎が保存されたとしても、住民側がこんな泥仕合をしてしまったために、この建物には将来常にいやな思い出がつきまとう建物になってしまった。住民側はそれもこれも町長が悪いというのだろうが、それでは無責任である。

 こんなことになった以上、この建物は保存する意味がなくなったのではないか。人間あっての建物である。わたしには住民側の真の目的は何なのか疑わしいと思わざるを得ない。(2002年12月24日)







 今の北朝鮮のむちゃくちゃぶりを見て、朝鮮民族がしっかりしてくれよと、思っている人が多いのではないか。
 
 朝鮮の南北分裂を朝鮮民族はどうして解決できないのか。ドイツ民族もベトナム民族もとっくに解決した。
 
 考えてみれば、もし朝鮮民族がしっかりしていたら、日清戦争も日露戦争も、いやそれどころか、太平洋戦争も無かったのではないかと思えてくる。
 
 朝鮮民族はいつも自国の中ではなく、外の大国を相手にしたがる。
 
 近代の朝鮮は、あるときはロシアと結び、あるときは中国と結んで国情が安定したことがなかった。当時の朝鮮がロシアや中国に支配される恐れがなかったら、日本は朝鮮に兵力を送る必要はなかったのだ。もし、そうなら満州国をつくる必要もなかったし、日華事変も起こっていないだろう。
 
 第二次大戦後は北朝鮮がロシアと中国と結んで朝鮮戦争を始めた。今また、北朝鮮はロシアと中国をあてにして、アメリカを挑発して戦争を起こそうとしている。
 
 それなのに韓国は反米の大統領を選んだ。これでは、一体朝鮮人は何がしたいのか分からない。朝鮮民族よ、しっかりせよ。そして、自分たちの問題は自分たちで解決して欲しい。(2002年12月24日)






 映画版『ゼロの焦点』は、今のサスペンスドラマの原点のような映画だ。それらがどれも海辺の崖の上の謎解きで終わる理由がこれで分かる。みんなこれを真似しているのである。
 
 しかし、映画自体は、最後にスター有馬稲子のためのストーリーを付け加えたために、話の焦点がぼやけてしまった。
 
 夫の失踪とその謎解きのストーリーは、久我美子と高千穂ひづるが崖の上で話し合う場面で終わっている。

 夫には過去に女(有馬稲子)がいて、久我美子との結婚のためにその関係を精算しようとして偽装自殺を考え出しして遺書を書く。ところが、自分の過去を知られた高千穂ひづるによってそれが利用されて本当に殺されてしまう。そのことが明らかになったことで謎解きは充分だった。

 ところが、夫の過去の女の話になって、あのきれいなきれいな有馬稲子の顔がスクリーンを占領し始めると、映画自体の興味はかえって間延びしてしまった。そして、それまでの恐い恐い映画が、切れ長の大きな目をした有馬稲子の可愛い笑顔によって可愛い女の映画に変わってしまった。

 結局、この映画は有馬稲子の笑顔で心なごまされて終わった映画だ。彼女は今いうところの癒し系だろう。有馬稲子とは実に美しい女優なのである。(2002年12月18日)





 飲酒運転の厳罰化についてマスコミの言っていることを読むと、「一杯ぐらいの甘えも許されない」とか「飲んだら乗るなの交通標語をかみしめたい」などと言っているが、その偽善者ぶりには驚かされる。
 
 そういう人間には、「いいかっこ言うな。お前も一度や二度は飲酒運転したことがあるだろう」と言いたくなる。

 そもそも「飲んだら乗るな」を厳密に守っていては日常社会は成り立たなくなる。人の集まりに出て「今日は車だから」と言って酒を断っていては、友だちは一人もいなくなるだろう。

 警察官の飲酒運転が無くならないことを見ても、酒は日本の社会にとって必要なものなのである。

 実際、今回の厳罰化の中身をよく見れば、全然飲むなとは言っていない。呼気中に0.15mg以上のアルコールが検出されれば酒気帯びと見なすと言っているだけである。しかし、0.15mgに達するにはビール大瓶を一本全部飲みほす必要がある。

 ということは、お父さんが家族といっしょに車で外食に行って、ビールをコップ二杯ぐらい飲むのはかまわないと言うことである。もっとも、それでも事故を起こせば「酒酔い運転」にはなるが、それは自己責任である。
 
 それより、何でも政府の規制に依存することの方がよほど危険である。(2002年12月18日)








 国立市の高層マンション訴訟で、裁判官が景観保護のために、すでに完成している14階建てのマンションの20メートルから上を撤去せよと命じる判決を下した。
 
 国立市には、高さ20メートルを超える建物の建築を禁止する条例がある。しかし、それができたのはこのマンションの建設が始まった後である。法律は遡って適用できない。だから、建設前に法律を整備しておかなかった住民側の負けである。

 そこで、この裁判官は住民側の言い分を生かすべく「景観利益は法的保護に値し、これを侵害する行為は不法行為に当たる」として、こんな判決を出した。
 
 確かに、この判決は、結果として、あとからできた条例をこのマンションに適用したように見える。しかし、住民の反対運動を無視して建設を強行した業者に問題があったのである。
 
 この判決は業者は何かをする前に法律だけでなく住民の意見も重視しなければいけないとする画期的な判決だと言える。(2002年12月18日)





 この地球上でゴミがあるのは人間だけだ。人間以外のどの動物にもゴミなどというものはない。人間以外の動物には汚物もない。食べるものがなければ動物は糞でも食らう。
 
 動物はゴミというものを意識しないから、それを取りのけて処分しようとは考えない。動物にはゴミ箱はないのだ。

 いま、ゴミ御殿といってゴミを自宅にため込んで近所迷惑になっている人がよく話題になっている。ゴミ御殿の主人は「これはわたしの財産だ」などと言っているというから、ゴミが汚いものだとは考えていないことは確かだ。これは、彼が本来の動物の姿に戻ったということだろう。

 野生の動物がもし人間の社会の中で生活していたら、迷惑なことだろう。それと同じで野生と化した人間が暮しているのだから、迷惑この上ない。

 しかし、動物のなかでゴミを集めて捨てようとするのは人間だけだということを思い出したら、ゴミを捨てようとしない人間の存在も、すこしは我慢しやすくなるかもしれない。(2002年12月16日)






 無くてはならないものと思っているものが、実はそうではなく、むしろ害になっているものが多い。
 
 例えば、歯磨き粉がそうだ。歯医者によると歯を磨くのに歯磨き粉は必要がない。むしろ、あの爽快感は汚れが取れたとか、口臭が無くなったと勘違いするもとだという。

 また、歯磨き粉を使うと香料のせいで長く歯磨きを続けられない。少なくとも二分はすべきなのだが、カーとなってきてできなくなる。

 電動歯ブラシを使っている人には、研磨剤の入っている歯磨き粉は特に要注意だ。歯のエナメル物質を削り取ってしまうからだ。歯茎との境目のもっと柔らかいセメント質を削り取ってしまうともっと大変なことになる。

 歯磨き粉で歯を白くしようというのは間違いで、人の唾液にはカルシウム分が入っていてそれで白くなるのだそうだ。

 歯磨き粉も歯ブラシもよく売れているのに、どうりで歯医者はどこも満員のはずである。

 さらに、多くの歯磨き粉には界面活性剤が入っていて、よく泡が立つようになっている。しかし、これは海の赤潮の原因になる物質だ。歯磨き粉は環境にも悪いのだ。まさに百害あって一利なしなのである。(2002年12月16日)






 判決の瞬間、にやりと笑ったっていうけど、そりゃ笑いたくもなる。
 
 高い金をかけて弁護士を雇って、長い時間をかけて裁判をしたところで、何の意味もない。裁判官は弁護士の言うことなんか全然聞かず、検事の言うことだけを聞いて、あとは自分勝手に考えて判決を作るのだから。
 
 弁護士の言うとおりに黙秘しても何の意味もなかった。これじゃ、初めから結論が決まっていてそれに向かって手続きが取られてきただけのことだ。

 マスコミが作り上げた虚像を信じ込んだ裁判官に何が裁けるか。だいたい、警察が動き出したのはマスコミがさんざん騒ぎ立てた後じゃないか。
 
 死刑になる犯罪を犯した人間が事件後何ヶ月も同じ場所にぐずぐずしているわけがない。とっくの昔にどこかに逃げ出しているに決まっているじゃないか。それをおとなしく逮捕されてやったら、このざまだ。

 弁護士なんて何の役にも立たない。裁判なんて糞食らえだ。正義なんてこの世にはないのさ。けっ。(2002年12月14日)





 円谷幸吉が自殺したとき、わたしは小学生だった。このニュースをわたしは小学校で聞いた。いや聞いたのではないかもしれない。円谷の自殺のことを、小学校の二階の廊下で茫然と外を眺めながら思ったことを覚えている。それほど衝撃的だった。
 
 円谷があの有名な「父上様母上様、三日とろろ美味しゅうございました」で始まる遺書を残したことを知ったのは、ずっと後のことだ。

 東京オリンピックのマラソンで期待を背負っていたのは君原だった。競技の前夜、緊張で眠れない君原の傍らで円谷はすやすやと眠っていたという。そして、三位になった円谷が今度は期待を一人で背負うことになった。

 しかし、実は東京オリンピックが円谷の頂点だった。あの試合の最後の場内一周はふらふらだった。円谷は腰を痛めていたのである。そして、ついにこの腰痛から永久に立ち直ることはなかった。そのことを最近の週刊誌で読んで知った。

 彼の栄光はその時すでに自分の命と引き替えに手に入れたものだったのである。栄光とはみんなそんなものかもしれない。(2002年12月12日)





 和歌山カレー事件の判決に対してマスコミは状況証拠を丹念に積み上げた判決として評価している。そして、今後も容疑者が黙秘する事例が増える状況では、このような判決が増えるだろうなどといっている。
 
 しかし、これは黙秘権を行使すれば状況証拠だけで有罪にされても仕方がないということなのだろうか。もしそうなら黙秘権に対して今後は制限が加えられるということになる。それなら英国のように、ちゃんと法律を改正すべきだろう。

 憲法も法律も変わらないまま、裁判官の裁量だけで法制度が変わっていくのは決して民主的なことではないからである。

 また、状況証拠だけでは容疑者が犯人である可能性が高いことしか分からない。それなのに、有罪だといって死刑にしてしまって、万が一でも後から真犯人が現れた場合にはどうするのか。

 状況証拠だけによる有罪判決が許されるなら、死刑制度を廃止する必要性はますます高まったと言わなければならない。(2002年12月12日)





 和歌山カレー事件の判決は変な点がいろいろある。まず、殺人の動機を立証していない。ということは、犯罪の証明が不十分だということになる。「未必的な殺意」などといっているが、それは犯行を前提として導き出されたものでしかなく、もし無実なら成立しない。
 
 この裁判官は初めから事件の被害者の側に立って裁判を行ったのではないかと思われる。
 
 まず、被告が黙秘をしていることを理由に事件の報道テープを報道の自由を侵してまで証拠採用したが、これは黙秘に批判的だったことになる。

 また、この人は裁判でいろいろと遺族や被害者に分かりやすくなるように便宜を図っている。これは裁判官の気持ちが初めから原告側に傾いていたことを意味しているのではないか。

 被害者に対して「ちゃんと有罪にしてあげますから見ていなさい」という気持ちがこの人にあったのではないか。つまり、結論が先にあって作られた判決である可能性がある。

 はたしてこんな不公平な裁判で人一人の命を奪っていいのだろうか。(2002年12月11日)




 和歌山カレー事件の判決は死刑だったが、判決理由は被告が犯人である可能性が充分高いというだけである。はたして、可能性が高いというだけで人を死刑にしてよいものだろうか。
 
 この事件ではヒ素の付着した紙コップが事件現場で発見されている。ところが、そのコップからは指紋が発見されていない。

 もし、被告が殺人目的でヒ素を入れたならその紙コップを現場に放置するはずがないだろう。しかし、それが放置され、しかも指紋が付いていない。

 こういう場合、サスペンスドラマでは、被告に恨みを持つ人間が犯行後に、被告に不利になる証拠を現場に放置した場合がほとんどである。
   
 ヒ素は被告の家にあるのと同種のものであり、しかも、被告はヒ素入りの食べ物で人を病気にして保険金を取るような人間である。この状況下では、ヒ素の付いた紙コップという証拠さえあれば、被告に疑いの目が向けられると考えたとしても無理はないだろう。
 
 さらに、カレーの見張りを誰もしていなかった時間帯があるという。わたしは第三者犯行説を排除できないと思う。(2002年12月11日)






 イージス艦を派遣することが憲法違反だという人達は、たとえばこういうことを言う。
 
 「仮に派遣されるイージス艦のレーダーで得た情報を基に、米軍がミサイルを発射したとすれば日本が直接攻撃に参加したことになりかねない」

 では、仮に自衛隊の補給したガソリンを使って米軍がミサイルを動かして発射したとすればどうなのか。

 また、仮に自衛隊が補給した食料を食べた米兵がミサイルを発射したとすればどうなのか。

 いやそれどころか、仮に自衛隊が側にいることで友情を感じて励まされた米兵がミサイルを発射したとすればどうなのか。

 わたしには、これらの間にはどれ程の違いがあるとも思えない。いったい、情報ならば違憲だが物の補給や精神的な支えなら違憲ではないという根拠は何なのか。

 しかもその違憲というのが「日本国憲法は集団的自衛権を禁じている」という一つの解釈に基づいたものでしかない。これではまるで「風が吹けば桶屋がもうかる」と言うのと大差ないではないか。(2002年12月11日)





 『源氏物語』の夕顔の巻は前後と比べて読みやすい。古文がそれほど難しくないのだ。難しさのレベルは『徒然草』に近いと言える。『大鏡』よりやさしいのではないか。若紫の巻や『紫式部日記』の難解さとは雲泥の差である。

 内容も、新古今和歌集からの引用があったり、『大鏡』の中の話が使われていたりする。これらは紫式部の時代から大分後に作られたものだ。最後の作者の言い訳も、この巻が特別にあとから付け加えたことを印象づける。

 『源氏物語』は全部が一度に作られたものでないという説もある。逆に、今の源氏にはない巻も平安時代にはあったといわれている。

 だから、夕顔の巻は鎌倉時代の人の挿入ではないだろうか。ちなみに源氏の最古の写本を作った藤原定家も源光行・親行親子も鎌倉時代の人である。(2002年12月10日)
 




 ブラウンの乾電池式電動歯ブラシの欠点は、ブラシの回転角度つまり、左右に動く度合いが、35度と小さいことだと思う。だから、振動数は9600回と多いのに、こすれている感じが少ないのだ。

 他の製品の数字を挙げると、

D17 5XX 3d-excel      45度7600回、
D15 511  3d          56度7600回、
Ultra タイマーD9511      60度7200回、
D6011CS            70度2800回(たぶんこの倍)、
リーチは             60度6000回

 3d-excelも少な目だから、不満が出るのではないか。こうして、比べるとスーパーに売っているブラウンの2980円の充電池式 D8013 がけっこういいのかもしれない。(このデータはホームページにはなかった)

 要するに、高級品は角度を犠牲にして、回数を増やしたり、3d振動を加えたりしていると、考えられるからだ。

 しかし、一方では振動幅は小さい方がブラシの先が歯の間に入りやすくてよいという人もいる。
 
 また、振動数も多い方が汚れが落ちやすいと思われている。そのために、リニアモーターを使ったものまで出ている。しかし、あまり振動数が多いと磨いているというよりも、震えているという印象の方が強くなってしまい、本来の歯磨きとは違ってしまう。(2002年12月9日)





 川崎の安楽死事件に関して逮捕された医師については、全く気の毒というしかない。医師に対して長男が安楽死を望んだのに、後から次男が望んでいないと言いだしたために事件になってしまった。いわばあの医師は家族の中の主導権争いに巻き込まれて容疑者にされたのである。
 
 新聞は過去の安楽死に関する判例を列挙している。しかし、どこの新聞記者があんなものを常識として知っているだろうか。

 いやそれどころか、彼らとて、人間社会はけっして判例や法律を頼りに成り立っているのではないことぐらい知っているはずだ。もし、法律に反する行為をすべて取り締まらなければ社会が成り立たないとすれば、この世の人間は全員犯罪者になってしまう。飲酒運転を自己申告制にしたら、運転免許を今現在持ち続けられる人間はごく限られてしまうからである。

 社会は法律によってではなく、人々の善意をやりとりによって成り立っている。それを、拒否して法律だけに根拠を求めるならば、今後だれも医者の治療など受けることはできなくなる。あの医師は即刻釈放すべきである。(2002年12月9日)







 敷金返還訴訟でつぎつぎと借り主側が勝利している。めでたいことだ。わたしも何度かアパートを借りたことがあるが、大阪では何かといちゃもんをつけて敷金を全額返そうとしない。こんなことは東京ではないことだ。

 そもそも敷金とは家賃の滞納や、家賃を払わずに夜逃げすされた場合にそなえた保証である。

 だから、家主は優良な借り手には出ていくときに敷金を全額返すべきである。それでも家主の手元には礼金と家賃が残っている。出たあとの家の美化はそれで賄えばよいのである。敷金からは、ガラスをこわしたとか、襖を破ったとかの純粋な弁償にとどめるべきだ。

 だいたい、借り手が出るときに部屋をまっさらに戻す義務があるなら、家主ほど楽な商売はないことになる。いったん家を作ったらあとは全部借り主の負担でやってもらえて、しかも、家賃と礼金が入ってくるのなら、家を建てたあとの出費はゼロで、儲かる一方だということなる。それでは家主はあまりに優遇されすぎというものだ。(2002年12月5日)






 (承前) こんなワルの光源氏だが、空蝉につれなくされて、女に振られるという初めての体験のおかげで、がっくり落ち込んでしまう。そして、人生をはかなんで、「もう俺は死にたいよ」などと、小君という小姓にこぼすのだ。
 
 こうなるとこのワルは愛すべきワルだということになる。わたしは、こんな光は『蒲田行進曲」の銀ちゃんなのであり、小君はヤスなのかと思えてきた。
 
 空蝉に会えないことが忌々しくてならない光は、もう一回会う場面をセッティングするように、小君を責め立てる。ところが、小君は、銀ちゃん命のヤスのように、自分をあてにしてくれる光君のためなら「たとえ火の中水の中」とばかりに、よろこんで走り出すのだ。

 そして、空蝉の夫が仕事で地方に下るという情報をつかんできて、光を自分の車で空蝉の家に忍び込ませることまでする。

 ところが、家に入った光は中を覗いて、空蝉が他の女といるところを見つけて、その女が美人だとわかると、もうこっちの女もいいなと思い始めているのだ。

 そこへ小君が連絡に来たので、光は女を覗き見していたことは知らぬ顔で縁側の欄干にもたれて空などを眺める振りをする。そして、「で、どうなんだ。うまくいきそうか」と小声でせっつくのである。(2002年12月5日)






 警察が人を逮捕するということは、容疑を固めたということである。したがって、逮捕後の取り調べの目的は、容疑者の言い分を聞くことではなく、起訴するための証拠をつくることである。
 
 警察が逮捕した容疑者の言い分を聞いて釈放するなどということはあり得ない。そんなことをすれば、逮捕が間違いだったことになってしまう。

 だから、逮捕された人には自分を守る手段として黙秘権が与えられている。逮捕されたあとでも、容疑者は事情を説明して無実を主張すべきように思われるが、そんな主張に警察が耳を貸すことはあり得ない。

 だから、逮捕された後の取り調べで黙秘しない場合には、罪を認めてその内容を供述して情状を求めることだけが許されている。

 したがって、逮捕後の取り調べで容疑者が黙秘したことを理由に、容疑者を批判するのは筋違いである。これは容疑者が真犯人である場合でも同様である。

 和歌山カレー事件で容疑者が逮捕後の取り調べで黙秘したことを批判するのは、警察というものを知らない人のすることである。(2002年12月4日)





 『源氏物語』の光源氏はかなりの悪(わる)である。彼のワルぶりは、「帚木」の段でさっそく描かれている。
 
 彼は自分の煙たい正妻のいる家にはめったに帰らない。たまに帰るのもちょうど方角が悪くて、その晩は泊まれない日だったりする。それで友だちの家に行くのだが、ちょうどその晩美人の継母が泊まると聞くと相手が迷惑がるのもかまわず無理やり押し掛けてしまう。

 そして、継母の部屋がちょうど隣だとわかると、適当な口実をつけて女が寝ているところへ入っていって、抱き上げて自分の部屋にもち帰って、「あなたのことをずっと思っていました」とかなんとか出任せを言いながら、相手が必死に抵抗するのもかまわず関係してしまうのである。

 もち帰る途中に女の侍女に見つかっても動じるどころか、朝になったら迎えに来いと言って目の前で障子を閉めるプレーボーイぶりだ。

 そのうえ、その一回では満足できず、女の弟が就職口に困っているという弱みを抜け目なく利用して、弟を自分の小姓に雇って、女との連絡に利用するのである。それが光源氏まだ17才のときのことなのだ。

 紫式部などというお堅い淑女が書いたとはとても信じられない話の進み具合である。(2002年12月4日)






 民主党の鳩山代表がとうとう辞意を表明させられた。補選敗北の責任をとった形は取っているが、要するに反対派がよってこって辞めさせてしまったのだ。
 
 それにしても、自分たちが選挙で選んだ人間をたった三ヶ月で辞めさせてしまうとはどういうことだ。

 イギリスの保守党でも、党首選挙で選ばれた前の党首は不人気だったが、こんな辞めさせ方はしなかった。

 フランスのシラク大統領などは、献金疑惑があって証言テープまで出てきたのに、一回の事情聴取もされずに、とうとう再選してしまった。どちらも、選挙で選ばれた人間はそれだけ大切にされるということだろう。

 これぐらいなら有権者もわざわざ投票に行く甲斐がある。
 
 ところが、日本では選挙結果が簡単に覆ってしまう。例えば、せっかく国民が選挙で選んだ人間を議会が気に入らないといって辞めさせてしまうのだ。これでは日本の選挙は軽視されていると言わざるを得ない。
 
 日本で選挙結果が重視されるとしたら、それはせいぜい人を辞めさせる口実としてだけだといっても言い過ぎではあるまい。(2002年12月3日)





 『猫と庄造と二人のをんな』 という映画をみた。1956年の作品だ。家の水は手押しポンプで汲み上げる時代だ。電動モーターが井戸の上に据えられるのは、それよりも少し後のことだ。洗濯はたらいでしていた。夏は夜に蚊帳をつった。家の明かりも蛍光灯ではなく電灯である。自動車もあまり走っていなかった。そういう時代だった。
 
 この映画を見ていると、この風景は夏目漱石の『吾輩は猫である』の風景とあまり変わらないのではないかと思えてくる。明治時代の後期なら、似たり寄ったりだろう。つまり、戦争で一時忘れていた町の風景が、昭和30年頃には回復していたのではないか。そんな気がするのだ。

 それがその後の高度成長時代の間に変わってしまった。それと同時に人の心も変わってしまったのだ。つまり、変わったのは、戦争に負けたからではなく、昭和30年頃からあとの高度経済成長のせいだったのではないのか。

 その何よりの証拠は、この映画の題名だ。「をんな」は「おんな」の旧仮名遣いだ。今ではあり得ないことだが、それが昭和30年頃までは通ったのだ。ということは、そのころまでは、旧仮名遣いの日本がまだ社会の底辺には息づいていたのかもしれない。(2002年12月3日)





 昔の歌謡曲に「あなたがかんだ小指が痛い」というのがあった。これは男が女の指をかんだ話のようである。もちろん歌っている歌手は女性だから、女が男にかまれたととるのが当然だ。しかし、はたして、男が女の指をかむだろうか思っていた。
 
 ところが、やはりかんだのは女の方だと『源氏物語』を読んで思うようになった。「帚木」の段を読むとそれが分かる。

 いつも自分に嫉妬ばかりする女がうるさくなって、「そんなに焼き餅ばかり焼くのなら、もうこれっきりだと思え。これからも、いっしょにやっていきたいのなら、性根を入れ替えてもう焼き餅を焼くのを止めることだ」と叱りつけたのに対して、女は「あんたが全然出世できないでいるのは気長に待ってあげてもいいけど、あんたの浮気癖が直る時がくるまでは、とうてい待てないわ。そうね、もうそろそろわたしたち、おしまいね」ときた。カッとなった男はさらに憎まれ口を畳みかけると、女は男の手をつかんだかと思うと、悔し紛れに男の指にかみついたのだ。

 こんなことがあって別れた女も今はこの世になく、懐かしい思い出になっているという話である。

 指にかみつくのはやはり、女なのである。(2002年12月2日)





 日本の政治家は選挙の結果というものをどう考えているのか。長野県知事の解職に続いて、こんどは民主党の代表を辞めさせようとしている。
 
 いったい、選挙の結果は神聖なものである。だから、選挙で選ばれたものが辞める理由は、非行があった場合に限るべきである。結果が気に入らないからといって、あれこれいちゃもんをつけて辞めさせようとするのは選挙の重要性を無視するものだ。

 民の声は天の声であるというのは、選挙の結果は絶対であるということである。それが民主主義というものだ。

 いったい、どこの先進諸国で選挙で選んだ人間を犯罪以外の理由で軽々しく辞めさせたりすることがあるだろうか。イギリスの野党である保守党の前党首も不人気だったが、だからといって一年も経たずに辞めさせられたりはしていない。

 ところが、民主党では鳩山党首が当選直後から辞任させようと運動する者が排出した。こんな政党はとても民主的な政党とは言えないのである。(2002年12月2日)





 毎日新聞夕刊の「雑誌を読む-11月」(橋爪大三郎)が興味深い。その一節。
 
 「国家は人民を抱えているので、反撃を恐れる。つまり、抑止がきく。しかし、人民には責任を持たないテロリストに、抑止はきかない。」
 「国家と国家の戦争が最大の脅威だった時代は、先に戦争を仕かけるのは不法行為とされた(不戦条約)。だが、《テロリストは殉教者であり、従来の抑止理論からはみ出る。死にたい者を事後報復で脅しても無効だから、先制攻撃に出るというのは・・・理論的に正しい》(片岡論文)」
 
 同様にして、パレスチナに対するイスラエルの報復攻撃が役に立たず、報復の連鎖になっているのは、パレスチナが国ではないからである。アフガニスタンに対する報復攻撃がテロ撲滅につながっていないのは、ビンラデンに国民に対する責任がないからである。
 
 ならば、パレスチナを国にして、そこの大統領をビンラデンにすれば、全部が一度に解決する!? 少なくとも先制攻撃以外の選択肢もありそうだ。(2002年11月28日)






 あるテレビ番組を見ていたら、中国人の日当は三百円、日本人は時給が七五〇円だという。日本人の場合は八時間で六千円だから、両国の人件費の差は二十倍もあるのだ。

 これを利用して、日本の企業は中国でものを作って日本に輸入して安く売る。しかし、日本製に比べてむちゃくちゃ安いというわけではないから、日本で作るのに比べて企業は大きな収益を得られる。日本で作って日本人に支払うはずの給料の二〇分の一を中国人に支払うだけだからである。

 その儲けの残りが、日本の本社の従業員の給料にまわってくる。つまり、日本人の高い給料は中国人の安い給料のおかげで成り立っているということになる。だとすれば、日本と中国は運命共同体になっているということである。

 しかも、これは両国がEUのように密接に結び付いていないからこそ維持できる。もしEUのように関税なしの自由往来となれば、日本人は自分で中国から輸入してしまい、日本企業の稼ぎのからくりは消えてしまうからである。

 はたしてこんなからくりがいつまで続くものだろうか。(2002年11月25日)






 高円宮が亡くなった。そのニュースの文字が新聞社によって二通りに別れた。一つは「高円宮さま急逝」もう一つは「高円宮さまご逝去」だ。前者が朝日・毎日・日経であり、後者が読売・産経である。
 
 皇室のニュースに敬語を多用するかどうかで、新聞社は常に二分されてきたが、ここでもはっきり二つに分かれた。

 しかし、左寄りの新聞も高円宮の死を悼む記事を書かずに入られない。朝日新聞は、ノーベル賞受賞者を扱ったときと同じく、社説のスペースを割いて生前の高円宮を讃えた。

 産経抄は「三笠宮ご一家の兄弟では一番若く、一番元気であらせられた。ご一家の嘆きはいかばかりか」と古風に結んだ。

 ただ、中身は各社似たり寄ったりである。英語でプロポーズしたとか、サッカーで日韓交流に尽力したとか。要するに、生まれの良さを除けば、ごく常識的な人だったようだ。

 しかし、わたしには、なぜ新聞社がこれほど皇室に媚びをふる必要があるのかわからない。高円宮と聞いて誰のことか分からないような我々平民には想像もつかないことがあるのかも知れない。(2002年11月23日)






 電動歯ブラシがいろいろ出ている。わたしは最初オムロンのを買ったが、横磨きでたいしてこすれていないようなので、コルゲートのスピンブラシに代えた。
 
 ところが、こいつには大きな欠点がある。ブラシと本体の結合部に歯磨き粉が入り込んで溜まるのだ。それが時間が経つと臭くなる。そのために、使ったらブラシを抜いて、駆動部を洗う必要がある。

 次に、ブラウンの乾電池式を購入。こちらにも、ブラシと本体の結合部に磨き粉が入るが、駆動部が外に突き出ている形なので、溜まることはなく、簡単に洗い落とせる。

 次に、リーチの電動歯ブラシを購入。これもブラシと本体の間に歯磨き粉が入る。だから、ときどき外して洗ってやる必要がある。

 リーチのはブラシが単にスピンするだけではなく、振動もするので、よく磨けるような気がする。電池が一本で軽いのだが、その分電池の交換時期が早く来る。また、一月もしないのにブラシの毛の先が開きだしたのが心配だ。(2002年11月22日)





 犬は昔は「びょーびょー」と鳴いていたと、狂言の和泉元彌がテレビ番組で話していた。そういえば、昔狂言を見たとき、実際にそう鳴きまねするのを見たような気がする。

 『大鏡』の犬の葬式の話に出てくる鳴き声は「ひよ」であるが、濁点を付けて「びよ」と読むと、最近国文学者の山口仲美が言っているが、正しいと思う。

 では、なぜ現代の「わんわん」に変わったか。犬が家畜化したからだという意見があるが、私にはそうは思えない。はるか昔から、犬は人間の友として家に飼われていたからだ。
 
 私の考えでは幼児語の「わんわん」が先に生まれて、そこから鳴き声に使われるようになったのではないかと思われる。
 
 たとえば猫の幼児語は「にゃんにゃん」だが、猫はそうは鳴かない。猫の場合、鳴き声の「にゃおにゃお」に「ん」を付けて幼児語になった。それと似た過程が犬の場合にもあったのではないかと思う。(2002年11月17日)





 「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり」と言った福沢諭吉は慶応大学の創始者である。その慶応大学の学生サークルが企画した台湾の李登輝前総統の三田祭での講演を、中国の反発を恐れた大学当局が学生側に圧力をかけてやめさせてしまった。
 
 慶応大学は情けないことをしたものだ。原理原則よりも、おつきあいを優先したのである。これが処世術として立派なものであることはもちろんだが、正義の実現にほど遠いことも認めねばなるまい。それは単に言論と集会の自由に反しているだけではない。

 李登輝氏といえば、一党独裁国家中国の武力による脅しをものともせずに、台湾の独立を主張している人だ。その人の講演を止めさせることは、この人を「分裂主義者」とおとしめる中国の言い分に同調することになる。それが上記の諭吉の平等の精神に反することは明らかだ。諭吉は後輩たちの意気地のない行為を天国でさぞ苦々しく見ていることだろう。(2002年11月12日)






 講談社文庫の徒然草をいつもの図書館で借りようとして、予約の電話をしたら、年輩の男性とおぼしき人が出てきた。ちょっとついてないなと思いながらも、「徒然草で、講談社文庫のありますか」と聞くと、コンピューターで調べて「あります」と言ったが、続けて「古い本ですよ」とおっしゃる。書庫にある本なのだ。
 
 わたしは古くて本屋にないから借りようと思ったのだが、古いものはよくないとお考えなのだろうか。しかし、図書館員の考えには興味はないので、よけいなことを言うなと思いながらも、予約を頼んで車で受け取りに行った。

 カウンターで予約の件を話すと、受付の女性はなんと岩波文庫の徒然草を出してきた。おまけに、紙が付いていて、予約の本は見つからなかった旨が書いてある。

 「古いですよ」の意味が一瞬にして理解できた。自分は書庫を走り回って本を探すのが苦手である。徒然草が読みたかったらこれでもいいだろうと。住民を見下した態度も気になった。

 これはたいして探さなかったなと思って、なじみの図書館員に再度の調査を頼むとちゃんと探し出してきてくれた。探す気があれば見つかるのだ。いい加減な公務員はどこにでもいるものである。(2002年11月11日)





 兵庫県播磨町の広報誌「はりま」11月号に奇妙な文章が載っている。題は「町長からのメッセージ」となっているが、実に感情的なものである。
 
 議会の中に町長のいいなりにならない議員がいて、議会でたびたび自分を批判するのを腹に据えかねて書いたものらしい。

 本来、議員に対する反論は議会ですべきある。ところが、「議会だより」を見ると、この人は議会で反対派の質問に会うと、激昂してちゃんと喋れなくなるようなのだ。それで言いたいことが言えなかったものだから、広報誌を利用して自分の言い分を書いたのである。

 しかし、広報誌というものは町長の私有物ではない。「今月号から数カ月ごとに町長からのメッセージを、お届けしたいと思っております」と前置きしているが、これを書きたくて作らせた欄であることは明白である。

 こんなことは自分の金でやればいいことだ。広報誌は町民のためにあるもので、町長のためにあるものではないからだ。(2002年11月10日)






 旧正田邸の保存問題は、皇室の意向を勝手に想像して錦の御旗をたてる人間がまだまだいるということを如実に示したものだと言える。
 
 保存を主張した人たちの心には、自分の生家は残したいものだから、皇后もきっと生家を残したいはずだという思いこみがあったのではないか。

 こういう考え方は危険である。戦前に軍部は、天皇は戦争に勝ちたがっているはずだ、国土の拡大を望んでいるはずだ、と勝手に想像してどんどん戦争を押し進めた。ところが、昭和天皇は平和主義者で最後は人間宣言までした。
 
 今回も、当の皇后が存続を望まないとわざわざ発表しなければならなくなった。これは騒動を鎮めたいという意向が働いたからに違いない。そもそも、皇室は政府の意向に反対することはできない。そんなことをすれば憲法違反になるからだ。

 しかし、解体業者が辞退したことなどを見ても、皇室のためと勝手に錦の御旗をたてる人間には逆らえない風土が、まだまだこの日本には存在するということで、空恐ろしいことである。(2002年11月8日)






 今度の統一地方選挙では投票率の低さが言われている。千葉県の投票率はたった二四パーセントしかなかった。一方、一番投票率の高かったのは鳥取県で五六パーセントである。
 
 しかし、選挙結果をよく見ると、この一番投票率が高かった鳥取で当選した人の得票は九万票なのに、千葉で次点で落選した人の得票数は四二万票もある。

 つまり、投票所に足を運んだ人の数だけを比べたら、千葉の方がはるかに多いのである。それなのに千葉の有権者は政治に無関心だと言われる。これはおかしいと言わねばならない。

 当選した人の得票数を比べたら、この二つの県の間の一票の格差は五倍もあることは明白である。ところが、国会も裁判所もこれでいいと言っているのだ。

 しかし、おまえの所の人間は五人で一人前だと言われているのに、誰がわざわざ正直に投票所にまで足を運ぶだろうか。国は国民に投票を呼びかけるなら、その前に公平な選挙制度を整備すべきだろう。(2002年10月28日)





 アメリカ大リーグのワールドシリーズの視聴率が低迷しているというが、当然だろう。ジャイアンツの4番バッターのボンズが打席に立つと、敬遠の四球の連発なのだから。
 
 特に、一死で走者が一塁三塁の場面で、敬遠するのにはあきれた。日本では一塁ベースに走者がいるときには敬遠しないものだ。うまく内野ゴロを打たせたらダブルプレーをとれる可能性があるからだ。その可能性も棄てて満塁にして、大量失点の危険を冒してでも敬遠するのだ。これでは野球の面白みは半減である。

 ボンズがまともに勝負してもらえるのは、相手が大量リードでホームランを打たれても勝敗に影響が出ない場合だけである。また、そんな状況だからホームランがよく出る。ボンズがホームランを打った試合は負け試合が多いのも当然である。

 いくらホームランバッター相手でも、日本ではこんな事はない。勝負所で一流投手と一流打者がのるかそるかの勝負をする、日本の野球の方がまだ面白いといえる。(2002年10月24日)





 騒音問題を解決すると言うことは、騒音源をなくすことであるはずだ。ところが、金をやるから騒音を我慢しろというのが、今の伊丹空港の騒音問題の解決の仕方である。
 
 そもそも、関西新空港を作ったのは、伊丹空港を廃止して騒音被害者を救済することであったはずである。

 ところが、伊丹空港からうまい汁を吸っている人たちの声が大きくなって、空港は廃止されず、その代わりに金を配ればいいと言うことになった。

 しかしながら、そもそも、騒音被害者が裁判を起こしたのは何のためだろう。騒音と引き替えに金を引き出すことであったはずはない。騒音とは金をもらえば耐えられると言うものではないからだ。

 最近、国土運輸省が伊丹空港の格下げを打ち出し、扇大臣が伊丹空港廃止にまで言及した。

 伊丹空港の騒音公害調停団はこれをきっかけにして、自分たちの本来の目的である騒音被害の解消、つまり、伊丹空港廃止に向けた取り組みを再開すべきである。(2002年10月17日)






 バリ島の事件とアメリカが計画しているイラク攻撃を結びつけて、ある新聞は「このテロは、・・・米国主導の「対テロ戦争」の見直しを迫る。イラクを攻撃してフセイン政権をつぶせば、テロはなくなるのか、と」などと言っている。
 
 テレビでは「テロ対策がテロを呼ぶ」などと言う人も現われた。

 それぞれ一見うがった意見のようではあるが、現実は話が逆である。

 インドネシア政府はアメリカから何度もテロの警告を受けていた。今回も前日に警告を受けながら、何もしなかったのである。

 今回のテロは、テロ対策を怠ればテロが起きるということを証明したようなものだ。

 ところが、日本では、テロの原因は貧困にあるというような、犯罪者に同情的な議論が跡を絶たない。イラク攻撃についても、侵略者フセインに味方するような意見が横行している。

 このような議論は、テロリストを利することあっても決してテロ撲滅にはつながらないと知るべきだ。(2002年10月17日)






 拉致被害の生存者が日本に帰ってきたが、彼らは祖国の土を踏み家族に会うために帰ってきたのであって、家族の会の質問を受けるためではない。まして、拉致問題を解決するためでは決してない。
 
 彼らは生きて帰ってきたというその事実だけで尊いのである。ところが、死亡者とされる人たちの家族の質問に満足に答えないといって早くも批判されている。

 国民が躍起になって拉致問題の解決を求め、拉致被害者の家族が団結して死亡者とされる人たちの消息を求めているのに、それに積極的に協力しないのはおかしい。そう拉致被害者の家族の会は言いたそうだ。

 しかし、家族の会は被害者が頼んで作ったものではない。その家族の会が帰国者たちに質問しても、彼らはそれに答える義務はない。帰国者の側から見れば、彼らは単なる赤の他人なのである。

 家族の会が、帰国者の行動を不可解だとか、発言がテープレコーダを聞いているようだとか言っていたのには驚いた。家族の会は彼らが生きて帰って来たことをどうして理屈抜きに喜んでやれないのか。(2002年10月16日)






 拉致被害者がやっと越えて帰ってきた。ところが、どういうわけか一時帰国である。しかも、なんと北朝鮮は被害者たちが早く北朝鮮に帰りたがっており二週間の日程が十日に縮まるという。
 
 どうしてそれが被害者たちの意志であり得ようか。むしろ、このまま日本に留まることこそ、彼らの本心であるはずだ。

 ならば、日本政府は「彼らはこのまま帰りたくないと言っている」と発表して。彼らを日本に永住させ、家族を早急に引き渡すことを要求すべきであろう。そしてもし、そうしないのなら、国交正常化交渉は終わりだと言えばよい。

 これに対する拒否はないはずだ。家族を含めた彼らの永住帰国は彼らの当然の権利である。

 なぜなら、北朝鮮は家族の返還をもし拒否すれば、正常化交渉が終わるだけでなく、家族を人質に取るという新たな犯罪を、今度ははっきり国家の名において犯すことになるからである。(2002年10月16日)







 小泉首相の「北朝鮮批判」報道を各紙比べると面白い。

読売新聞は

北朝鮮による日本人拉致事件に関して、「北朝鮮は確かにけしからん国だ。(日本人を)拉致して殺してしまう。日本社会を不安にさせるような工作員を送り込んでいる。国民の安全にとって重大問題だ。そういうことを2度とさせないためにも、私は交渉すべきだと思っている」と述べ・・・

と発言の本旨である日朝交渉の重要性までちゃんと引用している。

 ところが朝日新聞は、

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致事件について「(5人以外にも)生存されている方々がいると期待している」としたうえで、「確かにけしからん国だ。(日本人を)誘拐して、拉致して、殺してしまう。工作船にロケット砲を積んでいる、機関銃を積んでいる。日本の社会経済を不安にさせるような工作を、工作員を送り込んでしようとしている」などと語った。

と、その本旨はカットしてしまい、被害者の生死だけを問題視している。が、発言の趣旨、方向性は外していない。

 それが毎日新聞になると、

北朝鮮について「けしからん国だ。(日本人を)誘拐して、拉致して、殺してしまう」と発言した。

となってしまう。まるで首相はこれだけ言ったかのようである。本旨も趣旨もあったものではない。これによっても、毎日新聞はニュースを作ってしまう新聞だということがよく分かる。新聞協会賞受賞もあてにはならない。(2002年10月15日)






 高速道路で何台もの自動車がからむ多重事故がよく起こる。淡路島の事故は記憶に新しい。その原因の最たるものは、車間距離を取らないで走ることにある。
 
 しかし、これらの事故を教訓にして車間距離を取って走ろうという人は、滅多にないのが現実だ。時速に応じた車間距離を取って走っていると、必ず後ろの車に追い越されて、前に入ってこられる。

 先日、テレビであるタレントが車で渋滞していた時に「アホがまた車間距離を取って走っているからやと思った」と言って、誰にも咎められないという場面に出くわした。

 どうやら、車がたくさん走っているのに車間距離を取って走る人間は渋滞を引き起こす、常識のない人間だという評価が、世間では出来ているようなのだ。

 しかし、車間距離を取って走るのは道交法で定められていることであって、それを無視する方がアホでなければならないはずだ。

 ところは、現実は逆で、時速100キロでも前と10メーターほどしかあけずに走るのが、常識なのである。

 これでは高速道での多重衝突事故はなくならないはずである。(2002年10月15日)








 岩波文庫の「平家物語」を図書館から借りてきて、買わなかくてよかったと胸をなで下ろした。本文は歴史的かなづかいで書いてあるが、漢字のふりがなが現代かなづかいになっているのだ。これには仰天した。
 
 本文の平仮名を読むときは、歴史的かなづかいの知識を使って読むのに、漢字の所だけは日頃の現代かなづかいで読めというのだ。そんなややこしい芸当を誰ができるというのだろう。
 
 そもそも古典を原作で読むということは、歴史的かなづかいを読むということである。これは慣れればそんなに面倒なことではない。しかも、漢字を見ながら読むのだから、仮名だけの場合よりもはるかに容易である。

 それに、天皇(てんわう)とあるのを「てんのお」と読み、関白(くゎんぱく)を「かんぱく」と読むのが楽しいのである。

 現代かなづかいにして、この楽しみの代わりに読者が得るものはいったい何だろう。便利さだろうか。わたしには古典が何か安っぽくなった印象しかない。(2002年10月15日)






 国会図書館が柳美里の「石に泳ぐ魚」の閲覧を禁止した。到頭来るべきものが来たという印象だ。これが閲覧できないと言うことは、何を書いたら出版できないかを自分では判断できなくなったと言うことだ。まさに「知らしむべからず、よらしむべし」である。
 
 憲法には出版の自由を保障すると明確に書かれている。しかし、これからは役人が認める出版の自由だけが保障されることになったのであり、事実上この条文は空文となったと言っていい。

 裁判所の判決は「石に泳ぐ魚」の単行本の出版を禁止したものだ。ところが、このように、役人が最初の雑誌の出版にさかのぼって禁止してしまえば、もはや、この国には出版の自由はないと言ってよい。

 裁判所は若い女に甘い。そこでは原理原則よりも、若い女の感情の方が重視される傾向がある。これが男なら相手にされなかったろうし、そもそも男は顔のことを書かれたことぐらいでは訴えない。どうして、それを考えなかったのか。

 この判決が「女性専用車両」などという、世界に例のないものがある国ならではの判決だということを忘れてはいけない。(2002年10月13日)








 充電2時間半で30キロ走れる電動スクーターがでるという。これはぜひとも郵便局や新聞配達店に置いてもらいたい。静かな住宅地における騒音源の一番手は、実は郵便局と新聞配達のバイクだからである。

 郵便配達も新聞配達も昔は自転車が主流だったが、いまはバイクばかりだ。しかし、バイクはエンジンの音がものすごい。それは自動車の比ではない。とくに、早朝の新聞配達のバイクの音は、安眠妨害である。

 これはよくは分からないが、一回の充電で30キロ走れたら、配達地域を一回りぐらいできるのではないだろうか。
 
 電動スクーターというと、排気ガスが出ないことが注目されがちだが、わたしは騒音面でもっと注目されるべきだと思う。
 
 そのうち性能が改善されて、うるさいガソリン式のミニバイクがなくなれば、夜中のミニバイクの暴走もできなくなるわけで、こんなにありがたいことはない。(2002年10月9日)





 湯川秀樹が1949年に日本で最初にノーベル賞を取ってからもう50年近くたつが、日本人がノーベル賞をとったニュースは、いまだにトップニュース扱いである。

 各新聞は一面でこのニュースを扱い、社説と一面のコラムがこぞって取り上げる。社会面も全面、受賞者の喜びをあつかう。まったく、田舎者まるだしである。

 日頃からこういう話題を学芸面でしっかり扱っておけば、あわてて何理論がどうのこうのという必要もないし、ノーベル賞受賞者を誰も知らなかったということもないはずだ。

 要するに、マスコミが興味を示すのは、名利に関わるものだけで、そうでもないかぎり、この人のことなどまったく知らんぷりである。

 引用される日本人の論文の数がたまに話題になることはあるが、それとても、論文の中身が話題になることはない。

 多くの学者の理論が日頃から話題になり、ノーベル賞受賞のニュースがさらっと上品に科学面だけで扱われる日が、この日本にいつかやってくることはあるのだろうか。(2002年10月9日)





 自分の家に住んでいる人が拡声器を使って外から人に話しかけられるとしたら、それは家に立てこもった犯人ぐらいものだろう。普通は家にいて、外から拡声器で話しかけられることはないし、もしそんなことをしたらとても失礼なことになるだろう。
 
 ところが、わたしの住む播磨町では、そういうことが日常的にある。どこかの自治会長が回覧板をまわすより早いと思いついたらしいが、自治会で連絡したいことがあると、拡声器で用件を言いながら町を歩くのだ。

 最近では、拡声器を持って歩かないで済むように、電柱を何本も建ててその上に拡声器をいくつも設置して、自治会館から放送をする。
 
 しかし、そんなことをしたらプラバシーの侵害になることがどうして分からないのか。人が自分の家にいるときは自由なはずだ。そこへ拡声器で放送をするということは、聞くことを強制することになる。それはあきらかな人権侵害である。こんなことは絶対にやめるべきである。(2002年10月5日)






 北朝鮮による拉致のニュースに対して国民はいまヒステリーに陥っている。テレビをはじめとするマスコミはこのニュースを感情的に扱っているため、国民のヒステリーはエスカレートするばかりだ。
 
 おかげで、在日朝鮮人に対する嫌がらせがあちこちで起きているという。国民感情が悪化して、日本人妻の帰国も延期しなくてはならなくなった。

 被害者の家族と一緒になって、怒りと悲しみに浸るのがはたしてマスコミの仕事だろうか。社会の木鐸であるべきマスコミがそれでは、役割を果たしているとは言えないのではないか。

 被害者の家族たちは、生存者を強制的に連れ帰るべきだなどと、無茶なことを言いだしている。それでは北朝鮮と同じではないか。彼らは現実を見る目を失っているとしか思えない。

 拉致問題に対しては感情的になっても当然だが、在日朝鮮人に対しては冷静な対応をすべきだというのことなのか。そんなに都合よくいくわけがない。

 「拉致の結果を冷静に受け止めよう」そう呼びかける勇気が今こそマスコミには求められているのではないか。(2002年10月4日)






 「更級日記」のクライマックスといえば源氏物語を親戚のおばさんにもらって家にもって帰るときの次の一節だ。
 
 「はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思う源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几張のうちにうちふしてひき出でつつ見るここち、后の位も何にかはせむ」

 この文章の言いたいことは最後の「后の位も何にかはせむ」であるが、そこに至る文章の飛翔。とくに「はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思う源氏を」がすばらしいのである。

 これを「いままでとびとびに読みかじって、話の筋も納得がいかず、じれったく思っていた源氏物語を」と訳してしまえば、何のことはない平凡な説明文になってしまう。「はしるはしるわづかに見つつ」の感じはそんなものではない。

 本をもらった帰りの走る車の中で、やっと手に入れた源氏物語をわくわくしながらちょっとめくってみるその喜びこそは、「はしるはしるわづかに見つつ」ではないだろうか。そして、彼女はこれから一人きりで源氏物語を読みふけることが出来るわが身の幸せを思い浮かべるのである。その自分の幸せな姿と比べたら「后の位も何にかはせむ」なのである。

 読書の喜びをこれほど熱烈に表現した文章はないと言っていい。この熱意をいつまでも忘れないようにしたいものである。(2002年10月4日)
 







 「厳重な監視のもとにあるから、帰りたくても帰りたいとは言えないのだろう」と拉致被害者の家族は言う。しかし、この期に及んで日本に帰りたいと言ったところで、その人間を北朝鮮がどうするというのか。

 「強制的にでも連れて帰ってきて本心を聞きたい」。しかし、仮にそんなことが可能であっても、彼らの言うことは同じだろう。
 
 二十四年は長すぎたのだ。誘拐された人間が犯人と仲良くなるのはストックホルムシンドロームといって、よくあることである。ストックホルムのくだんの事件では、人質が犯人の仲間になるまでたった六日しかかからなかったという。それがこの場合は何十年である。拉致された人たちが北朝鮮を好きになっていたとしても、けっしておかしくない。

 「北朝鮮みたいな国になんか一瞬たりとも居たくないはずだ」被害者の家族はそう思いたいのだろう。しかし、そんな国に二千万の人たちが暮らしているのである。そのほとんどの人たちが不幸だとどうして言えよう。社会に順応して幸福に暮らしている人もたくさんいるはずだ。また、食うに困っているから、自由がないから不幸だとも言えない。
 
 彼らを無理に連れ帰ってきたとして、それで彼らが幸福になれるとは誰も保証出来ない。むしろ、マスコミにもみくちゃにされていいように利用されるのが落ちだろう。そっとしておいてやるべきではないのか。(2002年10月3日)





 北朝鮮から外務省がもってきた拉致被害の報告に対してマスコミはこぞって「さらなる解明が必要」という。しかし、解明がこれまでに何をもたらしたか。怒りと悲しみだけだった。今後の解明はさらなる怒りさらなる悲しみをもたらすだけだろう。
 
 「とても信じがたい」とマスコミはこれもこぞっていう。では、もっと調べたら信じられるようになるのか。初めから信じたくないものは、どう調べようと信じられるものにはならないのではないか。

 これから調査を重ねてその報告が来るたびに、テレビのワイドショーを初めとするマスコミは大にぎわいする。これだけは確かだが、それでいいのか。

 被害者の家族にとって満足できる結果があるとすれば、北朝鮮の政府転覆ぐらいしかないだろう。しかし、それで死亡者とされる人たちについての正確な情報が得られるかといえば、大いに疑問だ。

 拉致被害者で生存している人たちは、日本への帰国に慎重だという。きっとそれが本心だろう。彼らにはすでに彼らの守るべき生活がある。これが真実の重みだと言ったら叱られるだろうか。(2002年10月3日)






 北朝鮮の拉致被害者の家族や関係者たちの対応が少々気になってきた。
 
 外務省の役人がはるばる北朝鮮まで行って自分たちの家族の安否を調べてきてくれたことに対する感謝の言葉は誰からも聞かれることなく、国に対する不満ばかりを言う人たち。その調べてきてくれた内容をべらべらと公衆の前で読み上げる人。「拉致されたことは信じられるが死んだことは信じられない」と、勝手なことを言う人。そして政府批判をあおり立てる一部の政治家。

 拉致された人に対する同情が薄らぐことはないが、その家族や関係者たちのエゴ丸出しの対応ぶりには鼻白むことが多くなってきた。
 
 この事件に関しては、国に何かしてもらうことが当然だという雰囲気ができあがっているのか。「この事件で自分たちは国のために何かお役に立てることはないでしょうか」というような言葉が彼らの口から聞かれる可能性はゼロなのだろうか。それではあまりにさびしいではないか。(2002年10月2日)





 牛肉偽装や原発トラブル隠しで企業が責められ、不正をする企業というものが批判されてきた。しかし、不正をするのは実はそれに携わる一人一人の人間である。そのことをあらためて教えてくれたのが、札幌のスーパー西友の返金騒動だ。
 
 これまで、不正を犯す企業とそれに怒る消費者という別々のものがあって、それが対立しているように思われていたが、実は、様々な不正の根っ子には、モラルを失った日本人という一つの同じものがあるだけなのだ。

 批判する人間も批判される人間も、みんな同じ穴のむじななのであって、似たり寄ったりの日本人、うまい汁が吸えるとなると恥も外聞も忘れて群がる日本人なのである。

 はたして、今の日本で他人の不正行為を批判する資格のある人間がどこかにいるのだろうか。
 
 西友の騒動を見て我々が出来ることは「恥ずかしくないのか」と怒ることではなく、その場にいれば同じことをやりかねない日本人である自分自身をせいぜい戒めるだけである。(2002年10月2日)






 現代の国語は使える漢字を増やそうという傾向にある。

 戦後すぐに決められた当用漢字1850では足りないとして、1981年に常用漢字1945が定められた。その後ワープロの普及によってますます使われる漢字は増える傾向にある。

 実際、漢字は文の意味を知るには便利な道具だ。古文でも平仮名だけで書かれたテキストは非常に読みにくい。歴史的仮名遣いを愛用する文筆家も平仮名だけで書こうとはしない。

 しかし、日本語の学習を難しくしているのも漢字である。日本語を流暢にしゃべる外国人も、書いたものは読めないというのが普通だ。これがカナだけならはるかに日本語の普及は楽だろう。

 もともと日本語は仮名だけで十分表現できた。ところが、歴史的仮名遣いをやめた時に仮名の持っていた表現力は決定的に失われてしまった。

 歴史的仮名遣いは実際の発音と違うということで捨てられてしまったが、英語を見ても分かるように、歴史のある言葉とはそんなものだ。惜しいことをしたような気がする。(2002年10月1日)





 英語は表音文字であるアルファベットだけで書く。日本語も表音文字であるカナだけで書いたらどうなるか。同音異義語が沢山あって意味不明の文章ができあがるだろうか。
 
 じっさいに古文はほとんど平仮名だけで書かれているが、それで意味が通じる。それは歴史的仮名遣いのおかげである。

 たとえば、いま平仮名で「じょう」と書く言葉は、歴史的仮名遣いでは「じょう」「じゃう」「ぜう」「ぢゃう」「でう」「でう」「でふ」と書き分けた。だから、同音異義語は今よりもはるかに少なかったことになる。同時に、言葉の意味は文脈からも理解されるから、この書き分けによって、平仮名だけでも誤解の可能性はほとんど無かったわけだ。

 日本語は元々漢字によって出来た言葉ではない。外来語である漢語を別にすれば、漢字なしで言いたいことが言えるはずである。

  戦後の国語政策は、歴史的仮名遣いをやめ、使える漢字も減らすという方向だった。

 しかし、日本語の表現力を保ちつつ、しかも、書くのを簡単にするのが目的なら、漢字は減らしても、歴史的仮名遣いはやめるべきではなかったのかもしれない。(2002年10月1日)
 






 国産牛肉買い取りで偽装して国から金をだまし取った企業のニュースで相も変わらず大騒ぎだが、今度は、北海道の西友が国産と偽って外国産の豚肉を売ったことに対して、勝った客に金を返そうとしたところ、買ってもいない客が詰めかけて金をもらって帰ったという。
 
 どちらも嘘をついて金をもらおうとした点では同じだ。

 ところが、嘘をついて国から金をもらおうとした企業を非難する声はテレビからいっぱい聞こえてくるのに、嘘を付いて西友から金をだまし取った消費者を非難する声はまったく聞こえてこない。

 マスコミにとっては消費者や被害者は神様である。だから、彼らを非難するようなことは決してないのだ。

 北朝鮮の拉致被害者の家族に対しても同様で、彼らのエゴ丸出しの態度を非難する声はテレビからは全く聞こえてこない。

 マスコミは悪いものは悪いという姿勢ではないのである。(2002年9月30日)







 ブラウンの電動歯ブラシは、ほかのスピンブラシと違って、ブラシの両端の毛が長くなっているため、使い方にこつがいる。
 
 ブラシの柄が歯列に対して平行になるようにして、あの長い毛が歯間に入り込むようにしなければいけない。そしてブラシの先で一本ずつ歯を包むようにして磨くのである。
 
 そうしないと、それ以外の中央部の毛が歯によく当たらないので、十分磨けないことになってしまう。
 
 最近、ブラウンの電動歯ブラシに乾電池式が出た。それで他のスピンブラシから有名なブラウンに買い換えてみようと思った人は多いのではないか。わたしもその一人だった。ところが、最初はこのこつを知らずに使っていたので、以前よりも汚れ落ちが悪いような気がしていた。
 
 ブラウンの説明では、あの長い毛で歯間も磨けるように書いてあったが持ち方まで説明はしていない。
 
 ちなみに、濃いウーロン茶を飲むと茶渋が歯の汚れに付くので、汚れ落ちの度合いがよく分かるようだ。(2002年9月30日)
 
 






 賞味期限とか品質保持期限とかで大騒ぎするのは、いい加減にしたらどうか。
 
 これらは本来、消費者の便宜のために作られたものである。それが今や企業の首を絞める事態になっているのはおかしなことだ。
 
 資源を大切にしなければならない時代であれば、むしろ期限が切れたからといって捨ててしまうことの方をいましめるべきではないか。
 
 昔から、食べられるものを捨てるのは大きいな罪だった。ところが、今や、食べられるのに期限が切れたら捨てろ、そうしなければけしからんといって叱られる時代になった。今の時代は狂っているいうしかない。
 
 腐ったものを売ったら怒ればよい。腐っているどころか、十分な品質を保っているものなら、それを売ることはむしろ誉められるべき事である。
 
 品質に自信があるなら、期限が切れたからといって安売りする必要もない。ラベルを貼り替えたことが何だろう。それよりも、食えるものを捨てる方が余程悪いことである。(2002年9月27日)






 今回の日朝首脳会談の最大の収穫は、北朝鮮がアメリカのブッシュ大統領の言うとおり紛れもない「悪の枢軸」であることが明らかになったことだ。
 
 ブッシュ大統領のこの表現に眉をひそめた日本人は多かった。しかし、金総書記が自ら拉致を認め、そのうちの多くが不可解な死を遂げていたという現実は、ブッシュ大統領が正しかったことの何よりの証拠である。

 拉致は明らかな刑事事件であり、この容疑者の引き渡しを日本が北朝鮮に求めるのは当然のことだ。さらに、金総書記がこの拉致事件に関わっていたことが明らかになるなら、彼を人道に対する罪で告発しなければならない。

 そうなればもはや北朝鮮に政変でも起こらない限り、日朝の国交正常化は問題外となる。

 日本の安全保障のために、こんな国のこんな人間に頭を下げる必要は全くない。それで日本が再びミサイルの脅威にさらされることになるかもしれないが、その時は日米が団結して事に当たるだけだ。(2002年9月20日)







 2002年9月13日毎日新聞の余録はこう結ばれている。

 大統領はイラク攻撃を広言する。だが、100歳をはるか超えて成熟した女神はもう血を求めていないだろう。女神の台座にはユダヤ系女性詩人エマ・ラザラスの詩が刻まれている。《あなたの国の疲れた人、貧しい人を私に与えよ……住む家もなく、嵐にもまれる人を、私に送りたまえ。私は黄金の扉の傍らで灯(ともしび)をかかげよう》

 自由の女神に刻まれた、エマ・ラザラスの詩はこうなっている。

Not like the brazen giant of Greek fame,
With conquering limbs astride from land to land;
Here at our sea-washed, sunset gates shall stand
A mighty woman with a torch, whose flame
Is the imprisoned lightning, and her name
Mother of Exiles. From her beacon-hand
Glows world-wide welcome; her mild eyes command
The air-bridged harbor that twin cities frame.
"Keep ancient lands, your storied pomp!" cries she
With silent lips. "Give me your tired, your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these, the homeless, tempest-tost to me,
I lift my lamp beside the golden door!"
--"The New Colossus" (1883) by Emma Lazarus(1849-87),

 最後の所を訳すと、次のようになる。
 
 「私に与えておくれ、あなたの国の疲れた貧しい人たちを、
自由な空気を求めて体を寄せ合っている人たちを、
人であふれた岸辺に惨めに捨てられた人たちを。
私のもとに送っておくれ、この家なき人たちを、
嵐に翻弄された人たちを。
私は黄金の扉のそばでランプをかかげよう」

 「余録」は自分に都合のいい部分だけ引用したのである。この詩の中心である「自由」の二文字をカットするとは、まったく毎日新聞もいい加減なことをするものである。(2002年9月16日)







 最近の日本語ブームでわたしも日本の古典を読んでみるのだが、歴的的仮名遣いという大きな障害に当たってなかなか前へ進めない。
 
 それは単に「い」と「え」と「お」の音を表すカナが二種類あるということだけではない。この二種類のうちのどちらを使うかが単語毎に決まっているので、古語辞典で目当ての単語を探し出すのが非常にやっかいなのだ。
 
 わたしはついつい現代仮名遣いで引いてしまい、見つからなくてもう一度テキストを見直して引き直すことがしょっちゅうである。

 実は英語もつづりと発音は別に覚えるが、英語は中学からうんとやらされているから辞書を引くのに困るということはない。一方、古文の勉強をうんとやらされたのは高校に入ってからだ。それではむつかしい歴史的仮名遣いに慣れるのには遅すぎたのである。

 どうやら古文は中学から本格的に学ぶべきものなのである。なぜなら、歴史的仮名遣いは過去と現代の日本文化をつなぐ鍵であると思われるからである。(2002年9月14日)






 滋賀県が琵琶湖で釣ったブラックバスのリリースを条例で禁止するそうだが、これこそ「焼け石に水」というものではないだろうか。
 
 そもそも琵琶湖でブラックバスが増えた始まりは、釣り人がブラックバスを琵琶湖に放したことからだろう。ということは、最初の数匹が今の数まで増えてしまったことになる。

 とすれば、仮に条例によって数匹までブラックバスを減らすことができたとしても、完全に絶滅させない限り、すぐに今の状態に戻ってしまうということになる。

 在来魚の保護のためというが、人為的にそんなことが出来るものだろうか。

 仮にブラックバスなどを食い尽くしてくれると同時に在来魚にやさしい魚がいるとして、そんな魚を放流したとしても、その結果はまったく予想できない。

 人間は神ではない。人の力で自然の生態系をいじるということは、遺伝子操作をしたり、クローン動物を作ったりするのと同じリスクをともなう。滋賀県にそれだけの覚悟があるのだろうか。(2002年9月13日)






 現代の日本人が自国の古典と縁遠くなってしまったことの決定的な原因は戦後すぐに行われた現代仮名遣いの採用だろう。
 
 これは表記を発音に近づけようとすることだったが、このおかげで現代の日本人は、江戸時代以前はおろか樋口一葉の書いたものさえ簡単には読めなくなってしまった。

 外国語でもフランス語やイタリア語のように歴史が浅い言葉は、発音と表記が一致しているが、歴史のある英語は発音どおりの表記ではない。これを発音通りに変えてしまったらどうなるか。それはシェークピアを含めた過去の英国の文学との間に、断絶を作ることになる。

 日本語の場合は、仮名遣いを変えたときに、まさにそれと同じことが起きたのである。

 おかげで、われわれは自分の古典を翻訳によってでしか理解できない国民となった。これは、過去の日本が外国のようなものになってしまったということである。

 要するに、戦後の日本は過去の軍国主義を捨てるだけでは足りずに、同時に過去の精神文化も捨ててしまったのである。(2002年9月9日)







 日本の憲法は変えることは出来ない。理屈の上では可能だが、事実上不可能だ。なぜなら、日本の憲法は日本の敗戦の象徴だからである。
 
 この憲法はアメリカの統治下で、日本の主権が回復していない間に、有無を言わさずアメリカによって作られて公布させられたものであって、まさに日本がアメリカに敗れたことを象徴するものなのである。
 
 だから、日本国憲法を変えるということは、日本の敗戦の象徴を変えることになる。
 
 この憲法はアメリカの押しつけであるが故に汚れのない理想の憲法であり続けることが出来た。もし変えたらそれは日本の政治によって穢されたものになってしまう。それはどの条文を変えるにしても同じことである。
 
 それはもはや元の憲法ではなくなり、だめな日本人の作っただめな憲法になってしまう。それが今の日本人には耐えられないのだ。
 
 しかし、もしこれを変えることできたら、そのときこそ日本の戦後の終わりであり、新しい時代が始まることになることは間違いない。(2002年9月4日)








 不祥事のあった企業の製品をスーパーが独自の判断で売場から撤去することが、普通のように行われているが、これはいわゆる村八分で、明らかな私的制裁であって人権侵害に当たるおそれがある。
 
 また、企業の一部の人間が犯した過ちに対して、その企業で働く全員に連帯責任を負わせているが、これは明白な人権侵害である。

 スーパーには私的制裁をする権限はないし、ましてや誰かに連帯責任を負わせる法的根拠ももっていない。

 そもそも不祥事をどう考えるかは消費者が判断すべきことであって、消費者が買うかもしれない商品を勝手に売場から撤去するのは消費者の選択権を侵害している。

 もともと、スーパーなどが不祥事のあった企業の商品を撤去するのは、消費者の批判を招いて企業イメージを損なうことを恐れた姑息な自己保身でしかないものだ。

 そんな彼らが「日本ハムが再発防止策が発表したから今日からまた販売を再開する」などと偉そうに言える身分でないのは明らかである。

 まったく、スーパーも偉くなったものである。(2002年9月3日)






 北朝鮮の金日成総書記と会談することになった小泉首相は、この会談に「政治生命を賭ける」と言ったという。その言やよしである。国民の生命財産を守ることこそ政府の第一の仕事である。それが出来ずに他のどんな立派な政治を行っても無意味だからである。
 
 今回の首相の決断を最も喜んだのは拉致被害者の家族だろう。首相はこの家族と直接面談して、家族の気持ちを肌で感じたはずだ。この決断をした首相の頭に拉致家族の真剣な眼差しがあったことは間違いない。

 この決断が冷静な計算の上に立ったものかどうかは知らないが、この決断の裏に、遺族会の願いを叶えるために決然として靖国に参拝したのと同じ心意気があることは間違いがない。

 拉致問題よりも国内の政治改革の方が大事だと思う人たちは、こんなところで政治生命を賭けてもらっては困ると思うかもしれない。

 しかし、わたしは、拉致問題に対する糸口を少しでも見つけることが出来るなら身を捨ててもよいと考えた小泉氏に敬意を表したい。(2002年9月2日)






 NHKは放送時間の変更が多すぎる。特に衛星放送と教育テレビはあらかじめ予告もなしに、放送時間の変更をしたり、放送を中止したりすることがしょっちゅうだ。

 民放ではスポンサーの意向を重視するため、めったなことでは放送時間の変更はない。NHKには各番組にスポンサーが付いているという意識がないようだ。

 しかし、受信料を払っている我々はスポンサーである。どの番組にも、見ようと思って待っている人がいるのである。その人たちこそ、それぞれの番組のスポンサーだ。

 ニュースを見たい思って受信料を払っている人もいれば、特定のドラマを見ようと思って払っている人もいるだろう。

 だから、放送時間を変えたり、放送しなかった場合には、受信料の返還を求める権利が視聴者に発生するのではないか。スポンサーの意向を無視した以上当然だろう。スポンサーとしての金はもう払ってあるのだ。

 金をもらったらこっちのものだと言わんばかりに優先順位を勝手に決めて、番組をあちらにやったりこちらにやったりするNHKのやり方にはまったく腹が立つ。(2002年8月31日)






 更級日記は自分の人生を振り返って、もっとましな人生があったはずだと後悔する話である。
 
 結婚して男の子ができて夫が国司になって、さあこれからだというときに突如夫が死んでしまう。それは自分が物語にばかり打ち込んで、しっかり信心してこなかったからだという思いで書いたのが、この日記だ。

 子供の頃から物語が読みたくて読みたくて、そのために望み通りに上京して、しばらくしてやっと源氏物語を手に入れて、「后の位もいらない」と天にも昇る気持ちで、むさぼり読んでいる時に、坊さんが夢に出てきて「早く法華経の五巻を勉強しなさい」と言う。

 それからそんな夢を何度も見たのに、その頃は真に受けずに、浮ついた人生を送ってしまった。それがよくなかったと言うのだ。

 夢の場面はそこだけを読むと、何故こんな夢のことを書いているのか不思議だが、最後まで読むとその理由が分かる。

 この時代の人の世界観がいかに信仰と密接に結びついているか、よく分かる話である。(2002年8月30日)








 環境保全のためにはゴミの分別収集が大切だといわれている。資源の再利用のためにはその方がいいのだろう。しかし、それによって本来の目的である環境の保全が本当に出来るのだろうか。
 
 わたしは、分別収集によって環境保全産業が活況を呈することは確かとしても、環境が改善されることは疑わしいと思っている。

 それは例えば、これまで週二回だったゴミ収集が、分別すればするほど回数が増えることを考えても分かる。やれ、燃えないゴミだ、やれ、プラスチックゴミだ、やれ空き缶だビンだと、分別が進む度に収集車の走る回数が増えるのである。

 自動車は地球の環境を破壊するものの代表格だ。それが走りまわる回数が増えるということは、それだけ環境破壊が進むことにほかならない。

 だから、ゴミの分別収集によって環境を改善するつもりなら、ゴミ収集車の走る回数を増やさない工夫が必要となる。

 また、ゴミ収集車はだいたいディーゼル車が普通だ。これも変えて行かねばならないのではないか。(2002年8月28日)







 動物愛護法は妙な法律である。公共団体は動物を殺してもよいのに、個人が動物を殺すことを禁じている。法のもとでは公共団体も個人も対等であるのに、この差をもうけている。
 
 国民に動物を大切にせよというならまず役所が動物を大切にして手本を示すべきなのだが、実体はその反対である。役所は何かと理由を付けて動物を殺していながら、市民には動物を大切にせよと言っているのだ。
 
 江戸時代にも「生類憐れみの令」といって動物を大切にせよという法律があった。しかし、江戸幕府は国民に命ずるだけでなく、まず自ら率先して動物を大切にした。

 死刑についても同じ事が言える。現代の法律では、国民に人を殺すなと言いながら、国は人を殺しているからだ。

 ここでも江戸時代の方が合理的のように見える。自らは人殺しをしながら国民に人殺しを禁じたのは同じだが、敵討ちを認めて、国民にも罪人を罰することを許していたからだ。

 これは、刑罰としての殺人なら国民にもしてもよいと言っていたことになり、政府も国民もこの意味では対等だったことになる。(2002年8月25日)






 米国が二酸化炭素などの削減率を定めた京都議定書に不参加を決めたことを批判する向きが多い。しかし、わたしは一理あると思っている。
 
 この議定書で定められた削減率が国によって違うことは問題である。本当に二酸化炭素などを排出することが地球にとって悪いことなら、どの国も同じように排出を減らすべきである。
 
 ところが、先進国の削減率が高いのに、途上国は低い。特にロシアや中国は0である。議定書に法的な拘束力を持たせたければ、法の下における平等という原則をまずうち立てなければならない。

 つまり、悪いことは誰がやっても悪いのでなければ意味がないのだ。いまの国別に違う削減率は、金持ちは泥棒をしてはいけないが、貧乏人は泥棒をしてもいいと言うのと同じである。
 
 途上国の産業発展を考慮に入れようとするからこんなおかしな事になる。途上国は京都議定書によって地球温暖化問題をきっかけに、南北の経済格差を縮めようとしてると思われても仕方がない。

 南北問題は地球温暖化問題と切り離して考えるべきなのである。(2002年8月25日)








 8月22日の産経抄は敬語の使い方を考えさせるいい例だ。

 「きのう本紙の「8月に語る」で脚本家大石静さんとエッセイスト阿川佐和子さんお二人の人生にも、父親が大きな影を落としていることが語られていた。」と始まるものだ。ここでは敬語が使われている。そして「阿川さんのお父さんはいうまでもなく作家の弘之氏だが」云々に続いて、「父親をモデルに書きつづけた作家に向田邦子がいる(八月二十二日が命日)。父の敏雄は」と話の対象が変わる。すると途端に敬語が消えた。
 
 生きている人について書くときには敬語を使い、死んだ人について書くときに敬語を使わない。これはどういうことか。生者は尊ぶべきだが、死者は尊ぶべからずということか。そうではなかろう。これがマスコミの習慣だからそうしているのである。
  
 しかし、並べて書くと妙な習慣だということが分かる。新聞社としておつきあいのある人には敬語を使い、死んでつきあいの無くなった人には敬語を使わないというふうに見える。そして、読者にそんな関係を押しつけているように見える。だから、読んでいて違和感を感じるのである。

 この文章は全部敬語なしで書いたほうがすっきりしていて読みやすいものになる。

 「きのう本紙の「8月に語る」で脚本家大石静とエッセイスト阿川佐和子が二人の人生に父親が大きな影を落としていると話していた。・・・阿川の父はいうまでもなく作家の弘之だが・・・父親をモデルに書きつづけた作家に向田邦子がいる(八月二十二日が命日)。父の敏雄は・・・」(2002年8月24日)





 出会い系サイトをきっかけにした犯罪が多いというので、出会い系サイトを悪者扱いする人たちがいる。日本人らしい発想だ。しかし、本当は、悪いのは出会い系サイトではなく、出会い系サイトを悪用する人である。

 これは何事に当てはまる。悪いのは物ではなくそれを悪用する人である。それは核兵器についても言える。悪いのは核兵器ではない。核兵器を悪用する人が悪いのである。

 ところが、「核兵器をもたず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則は、核兵器が悪いという発想である。

 もし、核兵器があったら悪用してしまうかもしれないという発想である。あっても悪用しないだけの自信がないと言っているのである。これほど自信の欠如した、自虐的な考え方はない。

 これが日本の国是だという。しかし、自分の国は自信のない国だということを国是にしている国がどこにあろう。さっさと廃止すべきである。

 まして、これを法制化するなど以ての外である。(2002年8月23日)






 新井白石の「読史余論」を読むと、徳川時代以前の政治家、特に織田信長を極悪人のごとくに書いているのに驚く。白石は、信長を戦後日本にとっての東条英機のように扱っているのだ。
 
 「総じてこの人は、生まれつき残忍な性格で、詐力によって志をとげた。だから、その最期がよろしくなかったことも、自業自得である。不運というのではない」と、白石は言い切っている。最近の日本では信長は英雄視されているが、それとは大違いである。

 なぜこういうことになるかというと、白石は徳川時代の価値観で前の時代を批判しているからである。徳川時代は儒教全盛で、主君や親兄弟をだまし討ちした信長は、言語道断の人間なのだ。

 それと同じく、現代の平和主義の価値観からすれば、太平洋戦争を始めた東条英機は悪人である。しかし、何百年後の日本で、その同じ人間が信長と同じように悲劇のヒーローと見なされる日が来ないとも限らない。

 いやすでに、東条英機を見直す映画や本も出ているようだ。

 公平な見方をするなら、一度でもトップに立ったような人間が単なる悪人であるはずがない。ヒトラーも例外ではない。(2002年8月21日)






 戦闘機による神風特攻隊が特別なもののように見なされているがそれは誤りである。

 戦前の兵隊はみな死ぬために出撃したのであり、それは飛行機のパイロットも歩兵も同じことだった。どの部隊に属するかには関係なく、すべての兵士は一身をお国のために捧げるために、故郷をあとにしてきたのである。それを当時の人たちは当然のことと考えた。

 ただし、病気の兵隊は突入させなかった。飛行機が故障すれば、無駄死にさせないために引き返させた。だから、全滅であっても、生き残りはいる。しかし、それは上官の温情ではなく決まり事なのだ。
 
 鹿児島の知覧には特攻兵を顕彰した展示施設があるそうだ。しかし、それをするなら肉弾突撃をやったすべての歩兵のための記念館を全国に作るべきだ。
 
 知覧は国内からの突撃だったからよく知られているが、どの兵隊もみな「全滅を期して突撃せよ」と言われて突撃していったのである。誤解の無いようにしたい。(2002年8月21日)







 日本ハムをもう許してやれ。日本ハムは牛肉偽装で税金をだまし取ったわけではない。検査にかかる前にやめて撤回したのである。雪印と決定的に違うのだ。
 
 それに、日本ハムは消費者をだましたのではない。日頃悪いことばかりしている官僚をだまそうとしただけだ。むしろ、農水省の管理不行き届きで起きた事件ともいえる。今度の処分は官僚の側の復讐でしかない。

 それに農水省の意見とは違い、日本ハムに対する消費者の批判は強くない。日本ハムの製品によって消費者がだまされたわけではないからだ。それなのに、店頭から日本ハムの製品を撤去するのはやりすぎである。

 これらの事件の大本の原因は経済不況にある。だから、これらの事件の根本責任は政府にある。そして、その政府を選んだ国民自身にある。

 いったい、この日本に本当に日本ハムを批判する資格のある人間が何人いるか。あらを捜せば五十歩百歩であるはずだ。日本ハムに対するバッシングはいいかげんにすべきである。(2002年8月20日)






 秋場所に向けた貴乃花のけいこの様子が日々報道されている。貴乃花はあくまで強気で「まあ、見ていてください」と言っているという。
 
 北の海理事長は貴乃花の体調をしっかり把握しているのだろうか。横綱審委員会が貴乃花に秋場所での全快復帰と求めている。もし、それができなければ、日本国民は貴乃花を永遠に失うことになってしまう。そんなことにならないための有効な手を何か打っているのだろうか。非常に心配である。

 例えば、理事長は「そもそも年に6場所は多すぎるのだから、いずれは2場所ぐらい減らすつもりだ。とりあえず、今度の秋場所は中止にしたい」と言ってもよいのではないか。これは貴乃花とは関係がないと言って、貴乃花に事実上の時間的猶予を与えてもよいのではないか。

 仮にそうしたからと言って、国民は相撲協会を恨みはしない。その結果、全快の貴乃花を土俵上に迎えたなら、国民は熱狂して彼を迎えるだろう。そのためには、一場所ぐらいは惜しくはないのではなかろうか。(2002年8月16日)







 「わたしたちは戦争の愚かさを後の人たちに伝えていかねばなりません」この時期よく聞く言葉である。しかし、この「戦争」とは戦争全般のことなのか、それとも日本が中国やアメリカに対して行った戦争のことなのだろうか。
 
 もし、愚かというのが戦争全般のことなら、アメリカがアフガニスタンで行った戦争も愚かだったことになるし、第二次世界大戦で日本に対して行った戦争も愚かだと言うことになる。そして、もしそうなら、アメリカはアフガニスタンに対しても日本に対しても戦争をしなかった方がよいことになる。本当に、それでよいのか。
 
 もし、愚かというのが日本の行った戦争のことなら、それは弱肉強食のあの時代にも日本は戦争は起こさなければ良かったことになる。それはつまり、日本はどんな脅威を受けても戦争をすべきでないと言うことになる。しかし、もし日本が他国に攻撃されたらどうするのか。すぐに無条件降伏すべきだというのだろうか。
 
 「戦争の愚かさ」という言葉は、簡単に言えて実に手頃な言葉ではあるが、これほど無責任な言葉はない。(2002年8月15日)






 終戦の日に各地で平和について考える集会が開かれたという。しかし、実はそれは平和について考えるのではなく、戦争について考えることでしかない。なぜなら、平和は戦争の後に来るものであり、平和の大切さを言いたければ、戦争のことを話すしかないからである。
 
 ところで、戦争について話す以上は、戦争についての本当のことを話さなければならない。嘘を言ってもわかるものだし、それでは説得力がないからだ。
 
 ところが、そうなると戦争には肯定的な面もあるし、格好のいいところもあることが分かってしまう。

 例えば、アメリカのテレビドラマ「スタートレック」は未来の宇宙戦争の話だが、けっして悲惨な話ではない。それどころか、感動的な話ばかりである。

 いっぽう、平和について考える会の目的が反戦である以上は、そこで話されることは戦争の悲惨なことばかり話すことになる。つまり、戦争の真相ではない。だから、彼らの平和運動には説得力が無く、広がりを持たないのである。(2002年8月15日)






 韓国の主張に従って、ある国際機関が発行する海図から「日本海」という名前が削除されそうだという。これは、韓国が日本の領土である竹島を韓国の国立公園化すると決めたことにつづく出来事だ。

 サッカーW杯の日韓共催によって日本は韓国から友好という贈り物をもらった。昔あんな悪事を働いた日本が韓国からそんな高価なものをもらったのだから、その返礼として、日本が島の一つ、海の名前の一つを韓国に譲歩したところで、何の不思議もないと言うわけだろうか。
 
 それとも、平和主義の日本に韓国の主張は阻めないと考えたからだろうか。
 
 いずれにしろ、韓国とはこういう国なのだ。なぜ、秀吉が朝鮮征伐に乗り出し、なぜ、明治時代の日本に征韓論が起こったかが、これで分かったような気がする。
  
 江戸時代の政治家新井白石は、朝鮮使節の不当な要求を戦争の危機を恐れず毅然として退けている。現代の日本に彼のような政治家がいてくれたらとわたしは思う。(2002年8月15日)






 新井白石の「折たく柴の記」を自伝文学の傑作と言ってルソーの「告白」に比べる人がいるが、実際に読んでみると、これは自叙伝というような個人的な内容のものではない。
 
 白石個人に関わる伝記らしい記述が見られるのはごく最初の部分だけで、あとはすべて白石が関わった幕府政治の記録である。

 彼は博覧強記の学者でしかもとびきり弁が立った。当時の学問は儒学しかないが、そのあらゆる知識を駆使して、次々に起こる問題や訴訟事に関して、反対者を論破しながら、世の中を改善する自分の策を採用させていく。この本はその際の細々とした議論を記録したものである。

 白石は徳川家宣(いえのぶ)にとって将軍になる前からの儒学の先生であり、家宣は彼に心酔していたので、どんなことでも白石に意見を求め、重要なことから些細なことまでことごとく白石の言うとおりに幕政を運営した。その様子がこの本からは手に取るように分かる。

 しかし、このような白石の公的な姿は分かっても、彼の私的な姿をこの本から知ることは出来ない。だから、ルソーの自伝を読むときのような楽しみ、たとえば、秘密の告白を聞くような楽しみを、この作品から味わうことは出来ないのである。(2002年8月14日)






 原爆の日に不思議に思ったことは、原爆を投下したアメリカの行為を批判する声が少ないことだ。日本への原爆投下を決めたトルーマンを非難する声がないことだ。それどころか、マスコミには「原爆が落ちた」「原爆が投下された」等の言葉があふれ、誰が落としたかに言及する言葉がないのである。
 
 アメリカは自国の将兵の犠牲を少なくするためだったと、原爆の投下を正当化している。しかし、そのために日本の民間人数十万の犠牲をやむえないとするのは、アメリカ人を日本人の上に置く考え方であり、ドイツ人を救うためにユダヤ人を殺したナチスの考え方と何ら異なるところがない。
 
 ドイツナチスのユダヤ人虐殺が大罪なら、アメリカの原爆投下による日本人虐殺も大きな罪なのである。
 
 この罪を追求することを怠って、昨今のアメリカの政策を批判して事足れりとした今年の広島・長崎の平和宣言のごときは、平和宣言の名に値するどころか、一片の政治的パンフレットに過ぎずと言うべきであろう。(2002年8月14日)





 毎年この時期になると「核兵器が無くなれば世界は平和になる」という意見があちこちで聞かれる。では、今は平和ではないのだろうか。
 
 いや、今は平和だが核兵器が無くなればもっと平和になると言うのだろうか。つまり、こんな恐い物が地球上から無くなれば安心して平和を享受できると言うことだろうか。

 しかし、過去には実際に核兵器のない時代があったのである。第二次大戦でアメリカが核兵器を開発する以前には、この地球上には核兵器は無かった。そして、その時代は平和ではなかったのである。ところが、多くの日本人はこのことを忘れてしまったかのように、核兵器を無くせと言う。

 仮にもし核兵器を廃絶できたとしても、それは平和な時代を意味するだろうか。冷戦が終われば世界はどれほど平和になるかと思った人は多かったろう。しかし、事実はその反対だった。

 核兵器がなくなれば平和になるという単純な思考では人類は決して救われはしない。日本の多くの人たちがこのことに気づくのはいつのことだろう。(2002年8月10日)





 地方自治体が次から次へと公共工事をしたがる公共工事熱中病の症状は、ダム建設だけではない。いまこの病気で流行している症状は、全天候型多目的ドームだ。
 
 出雲ドームが皮切りとなったもので、いまや全国至る所で、このドーム施設の建設がブームとなっている。
 
 試しに「多目的ドーム」でインターネット検索すると、出るは出るは、県や大きな市から、人口一万人以下の小さな町まで、至るところで既に存在するか、計画中である。
 
 というわけで、わたしの住む播磨町でも作ることになったそうだ。今の町長は、よその町に播磨町の施設を作ったぐらいに公共工事大好き町長であるから当然のことかもしれぬ。
 
 以前に公民館建て替えを町民にアンケートをとって反対されたことの反省からか、今回はアンケートなしで住民にろくに知らせもせず三月の議会で可決したという。
 
 しかし、既存のスポーツ施設が大赤字のために併設の駐車場を有料にするなど、町の借金財政のほころびは既に明らかである。
 
 一体、この町長の病気を直す手だてはないものだろうか。(2002年8月5日)






 「ホタル」という映画にはストーリーらしいストーリーはない。昭和天皇崩御のあとの数日の間に、高倉健と田中裕子が演ずるある特攻隊の生き残り夫婦の身の回りに起こった出来事を、淡々と描いた映画である。
 
 だから、この映画は、見る人が見たいものを見ることのできる映画だ。反戦映画をみたい人にはそう見える。兵士の決意の尊さを見たいものにはそう見える。夫婦の情愛を描いた映画とみたければそう見える。戦前をしみじみと懐かしむ映画と見なすこともできる。命の大切さを伝える映画とも見れるだろう。日韓の戦後処理の複雑さを見たければそれも良い。

 つまり、良い意味でも悪い意味でも、日本映画らしい映画なのだ。韓国での対面のシーンで、ずっと無言でいた朝鮮人の老人が、真意を理解して高倉健のもとに駆け寄りながら、むかし習った日本語で語りかけたらさぞ感動的なのだが、そういうこともない。

 ところで、あの若々しい高倉健と田中裕子夫婦の回想場面を描くのに、全然似ていない別の俳優を使っていたことに、日本映画のレベルの低さを痛感した。(2002年8月4日)





 昔はこの国の政治家は保守と革新に分かれていた。これは五五年体制の過去の遺物だが、新聞は未だにこの二つに分かれている。それは、住基ネットに対する報道姿勢を見れば明らかだ。

 これは扶桑社の歴史教科書に関する報道の時も同じだった。朝日と毎日は、あらゆる紙面を使ってこの教科書採択に反対する運動を繰り広げた。それは手段を選ばない左翼活動家の犯罪的な行動と結びついていた。

 それが住基ネットでも同様の様相を呈してきたのだ。静岡市役所には強迫状が届いたという。住基ネット反対運動は、反政府運動にエスカレートしそうな勢いである。不参加を表明した福島県の田舎町に転入の問い合わせが相次いでいるのは、その運動の現れだろう。本気であんな不便なところに転入を希望するはずがないからだ。
 
 地方自治体が理屈を付けて国に逆らうようになれば、この国の社会的秩序は保てなくなる。この地方の反乱を早く抑え込まないと、社会不安が広がりかねない。(2002年8月3日)





 「実録ー福田和子」は大竹しのぶの名演もあってなかなかの出来だった。

 菓子屋の女将におさまっていたとき、警察の手が身辺に伸びたと知って、エプロン姿のまま突っかけを履いて自転車に飛び乗り、ひたすらこいでこいで逃げて逃げて逃げおおせ、逃げてきた家の夫に電話ボックスから詫びの電話をして、そこでタバコを一服吸う姿は感動的でさえあった。
 
 このドラマがもし事実をそのまま描いているのなら、福田和子はかなり人好きのする女だ。だからこそ逃げ続けられた。彼女には自分を好いてくれる人間を見分ける才能があるのだ。

 もちろん、人を利用して逃げつづけた。しかし、人を上手に利用できる人間こそが人に愛される人間なのである。これは「宴のあと」の般若苑の女将にも共通する。やり手であり、たくましい人間なのだ。
 
 やりたいことはみんなやった。逃亡先に息子を呼び寄せて一緒に暮らしもした。逃亡中なのに、息子の婚約者に会って挨拶もした。逃亡者にならなければ経験できないような様々なことを経験した。逃げている間に、人生を学んだのではないか。

 しかし、判決は無期懲役。上告したが、官僚やエリート裁判官は罪を犯して逃げるような下賤な者には冷たいから、上告は棄却されるだろう。これが王妃なら何人殺しても罪に問われることはない。大学出のエリートなら有期刑になったろう。だが、中学出なら死刑もあった。

 無期懲役でも仮釈放のときにはまだ60代だろう、あと30年近く生きられる。再起すればよいし、彼女ならきっとするだろうと、そう思いたくなるドラマだった。(2002年8月2日)






 毎日新聞の投稿欄(7月31日)に投稿に関する注意が掲載された。前代未聞なので、ここに書き写す。
 
 「今回は、本欄への投稿上の注意点について説明します。毎日新聞のホームページ上からの投稿で、困っているのは、封書による投稿と比べて内容が見劣りする点です。自分の意見を訴えるため、説得力のある文章を書いているという印象を受けません。メールでのやり取りと同じ感覚、極端にいうと、おしゃべりと同じです。原稿を書いた後、推敲するようにお願いします。・・・なお、1次審査をパスした原稿は、当分の間保存し、使用することもあります。また、他紙や雑誌への同じテーマによる二重投稿はご遠慮ください。7月の一般投書は1621通、ふんすい塔786通、カット110通でした。【編集委員・浜田重幸】」

 一読、笑ってしまった。稚拙な文章だ。「先生あのね・・・」で始まるたどたどしい小学生の文章に似ている。「投稿で、困っているのは、」とは誰が困っているのか。まさに「おしゃべり」レベルである。

 以前、他紙の投稿係から投稿先の電話番号が変わる旨を伝える丁寧なファックスを頂いたことがある。それが実に立派な文章で、投稿のことが「玉稿」と表現してあり、恐縮したものだ。それと比べると「1次審査をパス」だの「使用」だのと、なんと客を見下した文章だろう。毎日新聞ではこういう文章がパスするらしい。(2002年8月1日)






 キューバ野球のリナレス選手が中日に入団するまでのいきさつを描いたNHKのドキュメントを見た。リナレスが中日に入れたのは中日球団がキューバの老朽化した球場の改修に金を出すという条件を中日が飲んだからだったのである。
 
 最初は、リナレス選手の中日入りは拒否に決まっていた。スター選手がプロ入りすれば国民が騒ぎ出すかもしれず、社会主義体制の維持に支障をきたすというのがその理由だ。
 
 ところが、キューバは野球の世界大会を開こうとしているのに、ぼろぼろの球場しかなく、その改修費用に困っていた。そこでベテランのリナレスなら出してもいいということになった。彼なら指導者育成という名目がつけられるというわけだ。
 
 しかしこれは要するに、キューバも、友好を経済援助と引き替えにする北朝鮮と大して変らないということであろう。彼らは国内では商売を否定しているくせに、よその国に対してはとても商売上手なのである。
 
 お陰で中日は私企業でありながら政府開発援助のようなことをさせられることになったのである。(2002年7月31日)
 






 ガダルカナル島で日本軍はアメリカ軍に対して四度総攻撃と加えてことごとく失敗した。その作戦の見通しの甘さが、しばしば指摘されている。

 しかし、日本の陸軍のやることは昔から決まっている。「全滅を期して、突撃せよ」これである。突撃とは肉弾突撃であり、白兵戦である。これが日本陸軍の唯一の戦法なのだ。

 日露戦争でもそうだった。旅順攻略まで何度総攻撃をやり何度失敗したことか。それでもひたすら突撃をやり続けて、とうとう攻略したのだ。

 ところが、ガダルカナルでは四回失敗しただけで断念、撤退を決めてしまった。何と無責任なことか。なぜ、奪回するまでやり続けなかったのか。旅順では一万死のうが二万死のうがやり続けた。そうしなければ、国家を失うと思ったからだ。

 ところが、当時の軍部はガダルカナルを失っても国家を失うとは思わなかった。だから、断念した。ところが、この撤退をきっかけに、日本は敗戦の坂を転げ落ちることになった。

 この戦いの敗戦の原因は、作戦の誤りではなく、この戦いの重要性を見誤ったことにあると、わたしは思う。(2002年7月31日)






 今年の六月にインドとパキスタンの間の軍事的緊張が高まったとき、両国に住む外国人がつぎつぎと退去したことがあった。当時わたしは「そんな必要はない。核武装した両国が開戦するはずがない」と思ったものだ。

 そして実際、そのとおりになった。日本の一部の人たちが唾棄する核兵器は立派な抑止力となり、平和の維持に役立ったのである。

 7月31日の毎日新聞の「記者の目」は、この現実を踏まえてあの危機を冷静に分析している。この記者はパキスタン在住の日本人主婦が不安を訴えてきたのに対して「大丈夫。戦争にはなりません」と答えたそうだ。

 ひるがえって、我が国では政府高官が非核三原則の変更に言及しただけで、蜂の巣をつついたような騒ぎになる。この国では核兵器はまるで「悪」でしかないかのようだ。それどころか、同じ「核」を使うということで、原子力発電も「悪」だと決めつける人たちがいる。

 「核」は確かに危険である。しかし、その危険と背中合わせの大きな力を利用してこその人間の知恵なのである。(2002年7月31日)





 角田房子の「閔妃暗殺」を読んだ。この本は本来の意味での歴史書ではない。筆者がプロローグの中で言っているように、「遺憾の念は日本政府だけでなく、私たち大衆が持つべきだ」という考えにもとづいて、過去の日本を現代の視点から糾弾するために書かれたものである。だから、この本は文章が初めから予見に満ちている。
 
 いっぽう、この筆者は出来事を年号のあとに年表のように書いて並べたり、自分が調べたことや旅行したこと、閔妃とは直接関係のないこと、むしろ注にすべきことを、本文中に挿入しているので非常に読みにくい(時間のない人は287ページから読むとよい)。

 だからストーリーとして読むことは出来ないが、近代の朝鮮の歴史を年表的に知るには便利な本である。
 
 また、朝鮮は十九世紀になっても十歳程度の子供を王にして、その一族が政治を私物化するという、日本の平安時代のようなことをずっとやっていたこと。王族同士が貧しい国民を尻目に政争に明け暮れていたこと。政権をとっても国民のための政治は行わず、一族の繁栄しか眼中になかったことなどが、よく描かれている。この点では、大院君も閔妃も同罪だった。
 
 特に、閔妃は国家衰亡の元となった女性で、朝鮮の西太后、朝鮮のマリーアントワネットであり、いつ暗殺されてもおかしくない非情な暴君だったことがよくわかる。
 
 しかし、この女性が筆者にとってはスターなのだ。だから、筆者はこのような閔妃のやり方を無批判に書き、批判の矛先を常に日本に向けている。
 
 しかし、当時朝鮮にいて暗殺に加わった日本人の誰もが宮廷討ち入りをお国のために働ける千載一遇の好機ととらえ、閔妃暗殺を美挙だと信じて疑っていなかったことは、正確に描かれている。
 
 また、これが単なる暗殺事件でも殺人事件でもなく、歴とした政治的クーデターであったことが、筆者の意図に反して、明らかになっている。それにしてもずさんな本だ。(2002年7月28日)





 ジョン・ラーベという人の書いた「南京の真実」という本を読んだ。読んだと言うより見たという方が正しいだろう。この本は、日本では南京大虐殺の真実を証明する意図で作られた本なので、前から順番に読んでいっても意味がないからだ。
 
 石光真清の手記も同じように日記から構成されたものだが、それとは違ってこの本の読み物としての価値は乏しい。要は、どういう証拠を挙げているかだ。
 
 ところが、この本には「城下の人」にあるブラゴベシチェンスクにおけるロシア人による中国人大虐殺のように、何千という中国人を町からつれ出して、揚子江の川べりで包囲して、機関銃でいっせいに機銃掃射したというような記述はどこにもない。三四十人の民間人が機関銃で撃たれたという話ならあるが、それも伝聞でしかないのだ。
 
 むしろ、ラーベ氏は自分の家の六五〇人を含む二十万以上の民間中国人が自分たちの奮闘のお陰で何とか生き延びていると書いているのだ。そして、これこそラーベ氏が日記を通じて言いたかったことで、日記全体が一種の手柄話になっている。
 
 もちろん、日記の個々の記述を疑おうとすればいくらでも疑える。しかし、南京ではドイツのユダヤ人虐殺に匹敵するような民間人の大虐殺がなかったことを、この本はこのままでも十分に証明していると言える。(2002年7月27日)





 夏になると各自治体で花火大会がある。昔は、こんなことはなかったのだが、いまではどこでもする。これが市町村合併したどうなるのか。たとえば、加古川市と明石市と播磨町が合併したら、花火大会はどこか一カ所だけになってしまうのだろうか。
 
 総務省などは合併しても今まで通りに三カ所でやればよいと言うかもしれないが、自治体あっての花火大会だから、自治体が一個になれば花火大会も一個になるべきだという考え方もあろう。
 
 この地域で合併話が進まないのは、要するに、こういう心配があるからである。それぞれにもう十分に裕福で高度な文明生活を営んでいる。それを合併してわざわざ文化レベルを下げることはないじゃないかと言うわけである。
 
 結局、この地域では合併によるメリットよりもデメリットの方が大きいように感じられるのだ。

 国が市町村合併を押し進めたいなら、それによって住民が得られるメリットをもっと具体的に示す必要があるのではないか。(2002年7月27日)





 自分に対する批判を平気で聞ける人はなかなかいない。わたしなども、自分を批判する文章を読まされたりすると、頭に血が上ってしまって、どうにかして相手をやっつけてやろうと思う。
 
 だから、自分に対する批判を年がら年中聞かされる内閣総理大臣は余程辛抱のいる商売である。昔は新聞条例などがあって政府を批判するものを捕まえることが出来たが、今は言論の自由というものがあって、首相は批判されて頭に血が上っても、おいそれと相手をやっつけるわけには行かない。
 
 しかし、兵庫県播磨町の佐伯町長は、自分を批判する内容の議長不信任案を反対議員に突きつけられて辛抱できなくなったようだ。彼は不信任案を否決するだけでは治まらずに、逆に反対議員に対する問責決議案を与党議員に提出させて、相手をやっつけてしまった。

 しかもその問責決議案で、相手の言い分を根拠のない誹謗中傷だと決めつけてしまったのである。これでは言論の自由も何もあったものではない。まさに田舎の町政恐るべしである。(2002年7月27日)






 最近マスコミでは三井物産たたきとUSJたたきが盛んである。

 三井物産たたきで新聞によく出てくるのが創業者の益田孝の名前だ。昔の人は偉かったという伝である。しかし、石光真清著の「城下の人」には、真清の兄の真澄が三井物産の経理をしていた頃、何事にも厳格な兄の作った決算書が赤字になったのを見た益田孝は、これもあれも利益に計上しろと言って、それに従わない兄を首にしてしまった話が出ている。今で言う粉飾である。となると、商売とは昔からそんなものだと言うことになる。

 一方、USJだが、問題の出てきた時期が稼ぎ時の夏休みの直前というのが、引っかかる。このニュースの出所は利用者からではない。ちょうどそのころ、めずらしく東京ディズニーランドがテレビでコマーシャルを流していた。とすると、これはUSJにディズニーランドのスパイが潜入していて、時期を見計らってUSJのイメージダウンになる情報を流したのではないかと推測してみたくなる。一方、ディズニーランドとて細かくあら探しをすれば、似たようなことがないとは言えないから、そのうちUSJのスパイが・・・。

 ニュースは額面だけでとらえない方がよい。(2002年7月27日)






 わたしの住む兵庫県播磨町の「広報はりま」の今月号を何気なくひらいて驚いた。どうやら町長と一部の議員とが感情的に真っ向から対立しているらしい。
 
 ことの起こりは、全天候型体育施設を町に建設することについて、町長が与党議員数名を引き連れて視察旅行をしたことにある。町が政策立案して議会がそれを審査するのが普通だが、この場合は、町長と与党議員が一緒に政策を立案したのか、あるいは、議会を開く前に町長が公然と議会に根回ししたかのどちらかだろう(その様子が何と「議会だより」の表紙として公表されている)。

 それに対して野党議員が、これでは町長と議会のなれ合いであり、議会の存在意義を否定するものだとかみついた。そして町長に同行した議長に対して不信任案を提出した。が、内容は町長に対するものであることは明らかだ。当然否決。

 それに対して今度は与党議員が、こんな不信任案を出すとはけしからんと、提出した議員だけでなく、それに賛成した議員に対しても問責決議案を出して可決した。まさに泥仕合である。

 しかも、その際、町長は自分に対する不信任案でなかったにもかかわらず、問責決議案に賛成するためにわざわざ発言を求め「同行したって何の問題もない。こんな無知な議員は許せないと」と怒りをぶちまけた。

 まさにその発言内容が、口吻も生々しく広報に掲載されているのである。少なくともこれを読めば、地方分権なんてしてもいいのかなと誰が思っても不思議はないだろう。(2002年7月27日)






 江戸時代には月代(さかやき)と言って男は頭をわざわざ前から剃り上げて、いまならハゲ頭といわれるようにした。また、女はお歯黒をつけて歯を黒く塗って、いまなら歯抜けといわれるようにした。これらは、いまの美的感覚からはとても信じられないことだ。
 
 今では増毛産業が盛んで頭の髪の毛が黒々としているのが、男らしさであり、白い歯が女の美しさの源とされて、歯を白くする歯磨き粉が大流行だ。

 つまり、現代では若々しいことが、美しさと密接に関係していると思われているが、それが昔は逆で、老人のようであることが美しいことだったのだ。

 このように価値観というものは時代によって全然違うものであるが、人の笑いを起こす元は変わらないと見えて、江戸時代に書かれた「東海道中膝栗毛」でも、その下ネタは、現代のわれわれも大笑いさせてくれる。
 
 とすると、人間の価値観は時代によって違っていても、感情面ではいつの時代も変わらないということか。(2002年7月26日)






 播磨空港の建設計画が中止になったという。なぜこういうことになってしまったのか、不思議である。
 
 一家に三台も自動車があったり、部屋ごとにテレビがあったり、クーラーも冷蔵庫も何もかも個人の家にある時代に、町に一つ空港を作ろうとすると反対運動が起こる。

 やれ自然破壊だ、税金の無駄遣いだというが、高速道路が縦横に走り、いたるところ車だらけで、排気ガスが空を覆っている世の中に、空港一つ作らなかったくらいでどれほどの自然破壊が防げ、どれだけの税金の無駄遣いが減るというのか。この中止で得られる効果は高々気休め程度のことにすぎまい。

 その気休めのために狂ったように徒党を組んで大騒ぎをする人たちがいる。こういう運動を理性的なものと理解するのはわたしにはとうてい不可能である。むしろ、日頃は自分たちの力ではどうにもならない行政に一矢を報いたいという市民たちのウップン晴らしと捉えるのが妥当ではあるまいか。

 しかし、日常的に飛行機を使う人たちには大きに迷惑なことであろう。(2002年7月25日)






 町長も当選が五回にもなり、対立候補も出ないとなると、一城一国の主にでもなった気になるのだろうか。福島県矢祭町の町長が国の政策に次々と逆らっている。国の進める市町村合併をしないと宣言したかと思うと、今度は、住基ネットに接続しないと言い出した。
 
 これが町民の総意だというならまだしも、総務省が住民との話し合いを求めると「議会制民主主義にあっては、議会の議決は町民との対話そのものである」と言って拒否したそうだ。こうなれば明らかに独裁である。

 この町の人口は約七千人。町が小さいとこういう町長が出てくる。だからこそ市町村合併が必要なのだ。

 ところが毎日新聞は、この独裁町長の尻馬に乗って「矢祭町に続け」と社説で住基ネット反対を奨励している。この町長は反対の理由として、毎日新聞がついこの間まで猛反対していた個人情報保護法がまだ成立していないからだと言っているにもかかわらずである。

 自分の主張を通すためなら何でも利用する、これこそマスコミのご都合主義の典型であろう。(2002年7月24日)






 たった550円の万引き犯を捕まえようと、一キロ近くも追いかけて殺された人の正義感が云々されている。しかし、はたして、これを正義感と呼べるかどうか疑問だ。
 
 この支店長は以前にも万引きをとがめて仕返しされている。老女が店頭のパンに針を入れるという事件を起こしているのだ。
 
 その後に、この殺人である。支店長と万引き犯の間に余程のことがあったにちがいない。
 
 食うに困って万引きする奴らも、プライドだけは一人前だ。しかも社会に恨みを抱いている。正当な反抗手段を持たない者たちが、窮地に追い込まれたとき犯罪的な手段に訴えるのは、パレスチナであろうが、日本であろうが同じだ。
 
 この支店長の熱心すぎた行動は、本社から東京駅という一等地の店を任されたことに異常なプレッシャーを感じて精神的余裕を失っていたためだとわたしは推測する。
 
 本社は万引き犯の安全な扱い方も教えておくべきだったろう。支店長の冥福を祈る。(2002年7月22日)







 朝日新聞が世論調査をして「住基ネット」について質問したら、八割方の人が不安を感じるから実施を延期しろといっていると発表した。

 「住基ネット」と言われてもピンとこない人がほとんどであるはずなのに、よくもこんな数字が出たものだと思って、先の方を読むと、この世論調査の有効回答率は53パーセントだったと書いてある。ということは、半分の人はそもそも質問に答えていないのである。
 
 それなら、その半分の人は「住基ネット」に賛成で今すぐ実施してほしいと思っているかもしれないことになる。つまり、あの八割という数字は大嘘である可能性大なのである。
 
 かつて、小泉首相の靖国神社参拝に七割の人が賛成しているという世論調査の結果を、毎日新聞はすぐに発表しなかったことがあるが、これなどもそれと同じで、我田引水の極みと言えるだろう。
 
 世論調査をしたというなら、せめて七割以上の回答を得てからにしてもらいたいものだ。(2002年7月22日)









 世の中は自分一人の個人的な基準では動いていないものだ。ところが、公立学校ではそうではないらしい。今年から五段階の相対評価ではなくて、個々の生徒の目標達成度に応じた絶対評価を導入するからである。

 絶対評価には良い面もある。自分が幸福かどうかは隣の芝生が青いかどうかとは関係がなく、自分が満足ならば幸福なのだという考え方を、通知簿にも導入したからである。

 一方、社会には法律という自分とは別個の基準があって、それに合わないと罰を受けて刑務所に放り込まれると言う現実がある。もし、法律の世界でも絶対評価が有効なら、犯罪者の言い分はそれぞれにとって正義だから、彼のしたことは正しいことになってしまう。しかし、現実はそうではない。
 
 だから、教師たちは、絶対基準というのは、落ちこぼれを無くすための方便であって、個人的にしか通用しないものだということを、子供たちによく言い聞かせておく必要がある。

 さもなければ、この制度のおかげで犯罪者がもっと増えるのではないかと、わたしは心配している。(2002年7月20日)






 石光真清の「望郷の歌」には、明治44年に帝国劇場が開場してはじめて女優が舞台に上がったと書いてある。ということは、それまでは女優が舞台に上がることはなかったと言うことになる。実際、これが日本で最初の女優劇だったらしい。

 それまでは、江戸時代の延長で役者はみんな男だった。女優は徳川家光のときに禁止されて以来なかったのである。それ以前の女優とはすなわち遊女であった。女優は遊女の美女ぶりを披露する手段でしかなかった。

 それが、明治44年になってはじめて遊女でない女優、いまの女優が生まれた。

 このように大正時代までの日本の文化は、江戸時代の文化とさほど変わりがなかった。
 
 だから「茶話」によると、当時の初代渋谷天外の愛読書が古文の「東海道中膝栗毛」であり、今では何を言っているか分からない浄瑠璃が大流行していた。また、石光真清の妻は夫宛の手紙の末尾に和歌を三首書いたのである。与謝野晶子訳の「源氏物語」の和歌に訳が付いていないのもそのためだろう。

 いまわたしたちはNHK教育テレビで近松門左衛門の芝居を見ても、テキストと解説抜きでは何を言っているか皆目分からない。ところが、それはついこの前までは一般大衆の文化だったのである。戦後教育によって、わたしたちは日本文化の大切なものを失ってしまったのではないだろうか。(2002年7月14日)







 石光真清の手記の「誰のために」では、石光はロシア革命とそれに対する反革命の嵐に巻き込まれる。
 
 場所は東シベリアのブラゴベシチェンスク、石光が最初にロシア語習得のために留学した町だった。中央で起こった革命で、このシベリアの町も混乱状態に陥っており、ボルシェビキの武装蜂起も秒読み段階にあった。

 刻々と近づく蜂起を前に、町は一触即発の緊迫感に包まれる。反革命の謀略機関の長となっていた石光は命を狙われていた。そのなかで、ボルシェビキの頭目ムーヒンと石光との命がけの会談。そのムーヒンの逮捕、脱獄、そしてとうとうやってきた武装蜂起。町は赤軍の手に落ち、赤い旗が町中に翻る。

 ところが、日本のシベリア出兵で、一転、ムーヒンは町を反革命勢力に譲り渡すことになる。

 そんな中で、石光はムーヒンの立派な人柄に打たれ、二人の間に友情が生まれる。「ムーヒンに値する人物が、一人でも共和派や保守派にいるだろうか。いや、日本においても彼のように、己れを棄て、身を張って、国家、民族のために闘える人物が幾人いるだろうか」

 任を解かれて日本に帰っていた石光は、ムーヒン暗殺の報を受けた日から、ムーヒンから譲り受けていた形見のステッキを愛用するようになる。それはシベリアにおける彼の悪戦苦闘のおそらくは唯一の収穫だったのである。(2002年7月14日)






 石光真清の手記の「望郷の歌」には日露戦争でのすさまじい肉弾戦の有様が描かれている。肉弾戦とは特攻突撃のことだ。
 
 第二次大戦では戦闘機でこの戦法がとられ、それが神風と呼ばれて、世界的に有名になった。

 日露戦争では、機関銃で撃ってくるロシア軍の要塞に向かって、日本の兵隊は単発銃と軍刀しか持たずに次々と突撃していった。

 これは相手が刀しかもっていない時代と同じ戦法で、日本では西南戦争でもとられたものだ。当然のことながら、この戦法はロシア軍の機関銃掃射の前に死体の山を築いた。

 しかしながらそれを見た日本軍の総司令官の命令は「全滅を期して攻撃を実行せよ」だったのである。それを実行する現場の指揮官はこう言った。

 「戦友が倒れても留まるな。彼を踏み越えて進め。少尉が倒れたら曹長が指揮をとれ、曹長が倒れたら軍曹が指揮をとれ、軍曹が倒れたら上等兵が指揮をとれ、一歩も譲ってはならぬ。踏みとどまってはならぬ」

 こんな戦い方をする民族はなかった。これに恐れをなしたロシア軍は退却に退却を重ねることになるのである。(2002年7月12日)







 憲法第二十条第三項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と書いてある。
 
 この宗教的活動とは何を指すかがしばしば問題になる。しかし忘れてならないのは、ここに言及されているのは「宗教的活動」であって「宗教的行動」ではないということだ。

 「宗教的行動」ならば、神社にお参りすることなど、宗教行事に関わるあらゆる行動を指すことになるだろう。

 しかし、「宗教的活動」となれば、単に神社にお参りするようなことではなく、もっと積極的で継続的で意図的に宗教を祭り、宗教を広めようとするものでなければならないのではないか。そして、その典型的な例が宗教教育であろう。

 天皇の即位儀礼である大嘗祭に県知事が県費で参列したことが、憲法に違反するかどうかが争われた訴訟で、最高裁は合憲の判断を下した。その理由は、要するに伝統行事に参列しただけだからだというものである。当然の判決といえる。(2002年7月12日)







 長野県の田中知事の支持率が70パーセント近くもあると誰が予想しただろう。
 
 さすがの高支持率の田中知事も最近はじり貧だと誰もが見ていた。マスコミもそうだったし、県議会もそうだった。だから、県議会は不信任を突きつけたのだし、それを見たマスコミはざまを見ろと言ったのである。

 ところが七割もの県民の支持があると分かって、県議会は驚いた。これでは知事を辞めさせるどころか、「脱ダム」に選挙によるお墨付きを与えてしまう。そのうえ、不信任を突きつけた議員たちは責任をとらされるかもしれない情勢なのだ。議会側は一転して窮地に立たされてしまった。

 すべてが田中知事有利に進んでいる。岐阜県や静岡県を荒らし回った台風6号も、どういうわけか長野県には被害をもたらさなかった。新聞社の偉いさんたちと違って、テレビの田原総一郎や筑紫哲也も田中びいきだ。

 もはや県議会側には勝ち目がない。不信任決議をしたことの過ちを認めて、知事選には対立候補を出さず、坊主にでもなって県民に謝ったらどうだろう。
 
 それとも、「宴のあと」や横山ノックの場合のようにスキャンダルを仕掛けるか。政治は何でもありの世界だから、これからが見物だ。(2002年7月11日)






 7月10日の読売新聞の編集手帳は「人類の歴史は数百万年。戦争するようになったのは、わずか九千五百年前。土器の種類なんか覚えなくていい。人間は本来、戦争を知らなかったということを理解するほうが、ずっと大事なんだ」という言葉を引いた。
 
 なるほど。しかし、戦争がないと言うことは国がないと言うことだろう。国がないと言うことは、人殺しも強盗もやり放題で、安心して暮らせる場所がなかったと言うことではないのか。
 
 国がなく戦争がないころは、人々は動物と同じように、強い者勝ちの戦争状態を日常としていたのでないのか。
 
 軍隊を悪と見なし、戦争を悪と見なす人たちは、軍隊と戦争さえなければ平和であると言いたがる。しかし、ただ戦争がないと言うだけで平和であると言うことにはできない。

 本当の平和とは、戦争をしようと思えば出来るが、やらないあるいはできない状態のことであろう。それは、冷戦が終わった現代世界を見ればわかることだ。(2002年7月10日)






 石光真清の手記の「曠野の花」を読むと、そのころは女が外で働くと言うことはすなわち体を売ることだったことがわかる。
 
 産業革命以前は労働と言えば肉体労働だった。そして、そういう場面では女は役に立たなかった。だから、女が外で金儲けしたければ女郎になるしかなかった。そのような状況は明治時代の終わり頃まで続いていた。

 日露戦争前の満州を描いた「曠野の花」に登場する日本人の女たちは、皆が皆女郎か女郎上がりなのだ。

 そのころまでは、働く女=女郎であることが普通だったのである。産業革命によって、腕力のない女たちが手先の器用さではじめて労働力となる機会を得たのである。

 だから、織物工場で働く女たちが辛酸をなめた「女工哀史」は、女がはじめて体を売らずに金を稼げたという意味では「哀史」ではなかったのだ。それ以前の方が働く女にとってはずっと悲しい歴史だった。

 「曠野の花」とは、満州の荒れ野を戦火から逃げまどう悲しい女郎たちをさした言葉である。(2002年7月9日)






 肉の産地偽装で逮捕者まで出ている。しかし、これはそんな大きな問題だろうか。もともと商売なんてものは売り手と買い手の騙しあいだ。
 
 だから、たとえば、国産にしては安すぎると思うなら買わなくてもいいし、買ってうまかったなら得をしたと思ってもいいのだ。それを詐欺だと言って騒ぎ立てるのは大人げないのではないか。
 
 そもそも消費者に肉の産地が見抜けるのか。見抜けないなら産地名のついている高い肉は買わなければいい。実際、たいていの消費者は産地名の虚偽表示は見抜けなかった。だから、虚偽表示が問題化したのも消費者の力ではなかったのである。

 それどころか、実際に見抜けないにしても、多くの消費者は嘘かもしれないと思いながら、高級だという表示を楽しんでいたという面もある。今度の虚偽表示の問題化はそういう消費者の密かな楽しみを奪うものでもある。
 
 つまり、これまで表示を信じていい肉を食べていると満足していた貧乏人たちは、やっぱり自分たちには本当の高級肉など高嶺の花だったと思い知らされたのである。(2002年7月9日)






 NHKの教育テレビに手話ニュースというのがある。ニュースの最初だけ手話を使うが、後半は字幕である。なぜ、全部字幕にしないのか。
 
 手話は耳が聞こえない人たちの伝達手段だから、目はちゃんと見える。ニュースを知るのには字幕だけで十分だしその方が分かり安いだろう。

 実はテレビには文字放送というものがあってその受信機もかなり普及していて、聴覚障害者はテレビを見るのにあまり不自由はしないようになっている。ニュースも普通のニュースを字幕つきで見られるのである。

 であるから、便宜上から言えば、わざわざ教育テレビで手話ニュースなど流す必要はない。ということは、これには別の目的がなければならない。

 それは、手話を普及し、聴覚障害者に対する一般の理解を広め、また聴覚障害者たちのの励みとなることであるはずだ。

 ところが、NHKが手話ニュースについて配っているパンフレットには、聴覚障害者というマイノリティーのためのニュース番組という位置づけしかない。わかってないなあ。(2002年7月8日)






 兵庫県が阪神大震災の被災者自立支援金の支給対象を被災世帯の世帯主としたことが波紋を呼んでいる。
 
 県としては一世帯ごとに百万円ずつ配っていいことをしたつもりだった。しかし、一人暮らしでも百万円、五人暮らしでも百万円、アパート暮らしでも百万円、持ち家を失っても百万円なのだ。つまり、はじめから制度に欠陥があったのである。

 女性がアパートに一人暮らしでそのうえ被災後に結婚していたりすれば、百万円は丸儲けである。ところが、県はあんたはもう世帯主じゃないから百万円はやれないと言い出した。だいたい自立してないじゃないかというわけだ。当てが外れた女性は怒って裁判に訴えた。

 裁判官は女性に優しいから「世帯主条項」は憲法違反、女性に百万円払えと判決した。しかし、「世帯主条項」が間違っているというのなら、五人家族でも百万円で辛抱していた人たちが今度は納得がいくまい。

 県ははじめからひとり二十万円ぐらいずつ公平に配っておけばよかったのである。家という古い制度にこだわった明らかな失敗である。(2002年7月8日)






 石光真清の「城下の人」には西南戦争のことが詳しく書かかれている。

 この戦争では、熊本城下の町は薩摩軍が来るまえに大火に見まわれ、熊本城は焼け落ち、あたりは一面焦土と化してしまう。

 最初これは薩摩軍の隠密が放火したものだと思われていたが、実は熊本の官軍が敵の侵入に備えて火をつけたものだと判明する。それは敵に根拠を与え糧食を与えて戦争が長期化することを防ぐためだった。

 軍隊は国民の生命財産を守ることを第一とするものではなく、敵に勝つことを最優先にすることがこれによってもよく分かる。これは、先の大戦の沖縄戦の場合でも同じことだったろう。

 最近はここから、だから軍隊は悪だ、有事法制はいらないという短絡的な議論をよく見かけるようになった。また、野党の反対理由の中に、国民の生命・財産の安全の確保が後回しになっているというのがある。
 
 しかし、これらがきれいごとの議論にすぎないことは「城下の人」が教えているとおりである。(2002年7月8日)






 石光真清の手記は面白くて面白くてやめられない本だ。笑いあり涙あり、感動あり。まさに「一読巻を措く能わず」と言いたいところだが、話の一つ一つに筆者の気持ちがこもっていて、それとまともにつきあうには、休み休み読む必要がある。
 
 「城下の人」で圧巻なのは、大津事件のくだりだ。大津事件というと今では司法の独立を守った児島惟謙のことばかり語られるが、この本での主役はなんと言っても明治天皇だ。

 大国ロシアの皇太子が日本人によって斬り付けられるという事態を前に、明治天皇はなんとしても自ら行って詫びねばならないと、東京から京都まで赴く。
 
 そして、海上に浮かぶロシアの軍艦上で開かれる最後の晩餐会に招かれると、天皇がそのまま誘拐されるかもしれないと恐れる重臣たちの制止をふりきって、皇族数名と外相一人を連れただけで軍艦を訪問、礼を尽くして国難を回避したという。

 この勇気ある行動は第二次大戦後に昭和天皇が単身マッカーサー元帥を訪問したことに匹敵するだろう。しかし、明治天皇の場合、戦争回避のための訪問だったという点で一段と立ち勝っていると言える。(2002年7月7日)






 長野県議会が知事に「県政を混乱させた政治手法」を理由に不信任決議案を出し、それを可決したのは憲法違反ではないか。議員たちは要するに好き嫌いで不信任を決めた。議会にそんなことが許されているのだろうか。
 
 もしそんなことが許されるなら、選挙の意味は無くなってしまうだろう。選挙で選ばれた人を何の非行もないのに議会の判断でやめさせることは、選挙の結果の軽視であり、それはとりもなおさず、民主主義の軽視である。

 最後の決定権を持っているものは誰か、それは選挙民だ。ところが、選挙民の選択をそれはおかしいからやり直せと言っているのが、今回の長野県議会の議決である。そんな権限が県議たちに与えられているとは思えない。

 県知事は大統領制に似ていると言われる。しかし、アメリカの大統領でも刑法に反した事例以外で辞職に追い込まれた例はない。県知事の場合も同じだ。それだけ国民の選択は尊重されるべきなのだ。

 ある県議を田中知事を傲慢だと言った。本当に傲慢なのは数にものを言わせた議会の方である。
 
 わたしは不信任案の提出用件を法律で知事の不正行為に制限すべきだと思う。(2002年7月5日)







 改革するということは旧勢力との食うか食われるかの戦いである。みんなで仲良く改革をするなどということはない。
 
 もし混乱せずに改革するとすれば、旧勢力と妥協するしかない。しかしそうすれば、改革は中途半端なものになる。いや、下手をすると骨抜きになってしまうだろう。

 結局、混乱を覚悟で改革するか、はじめから改革しないかの二つに一つしかない。

 ところが、日本ではみんなが改革を口にする癖に、混乱をきたすと非難する。世間を騒がしただけで罪なのである。

 長野県議会が、「県政の停滞と混乱を招いた」という理由で田中知事に対して不信任決議をした。改革をしたくない議会からすれば当然のことだ。

 いや東京都の石原知事を見よ。彼は混乱をきたさずに旧勢力を抑え込んで改革していると言う人がいるかもしれない。確かに都議会は混乱していない。しかし、それは知事の改革が議会の受け入れやすいものばかりだからである。しかし、それが本当の改革になっているかは大いに疑問だ。(2002年7月5日)







 毎日新聞の一面コラム「余録」のバックナンバーが毎日新聞のホームページで読める。暇に飽かせて読んでいる。
 
 その中で気に入ったのをあげてみる。

 2000年12月23日アムネスティ、2001年3月16日杉浦民平、4月12日井伊直弼、4月23日李登輝、5月15日田中正造、5月18日團伊玖磨、6月2日加島祥造、6月22日オオカミ少年、6月29日ムーミン、7月19日玄侑宗久、7月14日劉連仁、7月31日田村亮子、8月24日フレッド・ホイル、8月27日チンギス・ハーン、8月31日回転ずしを発明した人。

 これ以前にもたくさんおもしろいものがあるようだが、これ以後にはなかなかよいのがない。
 
 これで見るとだいたい月三回だが、ずっとさかのぼっていくと、おもしろいものの頻度が高くなるようだ。最近はそれが無くなった、それで今度余録の筆者が代わることになったかどうかは分からない。

 わたしが気に入っているのは、総じて筆者があまり自分の意見を書かずに、引用文をたくさん使って、おもしろい話を聞かせてくれるものだ。(2002年7月5日)






 横綱審議委員会のある人の身勝手な発言のために、貴乃花に対する同情が集まっている。
 
 相撲人気を高めるために横綱にされて相撲人気を高めた貴乃花が、怪我でしばらく出てこれないでいると、もう用はないと横綱審議会の委員長である渡辺恒雄氏は言っているそうだ。
 
 日本のプロ野球はすでに渡辺氏の私有物に化して久しいが、日本の国技である大相撲も同じような状態に陥ってしまったのであろうか。

 貴乃花の引退は本人とそして大相撲ファンだけが決めればいいことだ。それを一部の人間が決めることなどもってのほかだ。

 貴乃花よ、膝が完治するまで好きなだけ休養をとればいい。サッカーではブラジルのロナウドが膝を負傷しながら、今度のW杯で見事にカムバックを遂げて見せた。だから、きっと君の怪我も完治する日が来る。

 真の大相撲ファンは、君が日本の大相撲に多大な功績をしてきたことを忘れるような恩知らずではない。わたしたちは君が土俵に復帰するまでいつまででも待っていることを忘れないでもらいたい。(2002年7月4日)






 賞味期限の切れた材料を使ったといってまたどこかの会社が記者会見で頭を下げていた。
 
 賞味期限は本来消費者の便宜のために作られたものだが、今やそのために企業の首が絞められる事態になった。規則はこうして一人歩きして、よけいなことをする。昔の治安維持法と同じである。

 食べ物が食べられるかどうかは本来各人が自分で判断すべきことだ。ところが賞味期限などというものが出来たために、それは出来なくなった。もしそんなことをすればモラルの低下などとマスコミに言われる。まさに本末転倒である。

 ところで、マスコミは同じニュースを何度も使って金儲けをしているが、それも賞味期限違反じゃないのか。特に、新聞などはもうとっくに誰もが知っている賞味期限切れのニュースを平気で載せている。いや、そもそも新聞というもの自体の賞味期限が切れかかっている。

 人間はどうだ。賞味期限切れの人間があちこちでのさばってはいないか。ただし、この場合は、各人が自分で判断しないといけない。賞味期限のラベルは貼ってないからだ。 (2002年7月4日)






 政府と自民党が作った郵便関連法案では郵政の民営化は進まないと、マスコミは総じて批判的だ。しかし、国民の多くが郵政の民営化を望んでいない現状ではやむを得ないものではないだろうか。
 
 特に首相が与党と妥協したことに批判が集まっているが、野党の民主党が、何かとけちを付けてこの法案に反対している以上、当てになる賛成票は与党の票だけであり、仕方のないところだ。

 わたしは、郵政の民営化は少しずつ進めていけばよいと思う。まず、公社化してどうなるか、国民はそれをどう受け止めるかが大切だ。それで民営化してほしいという声が国民の間で大きくなれば民営化を進めていけばよい。

 むしろ早急に民営化しなければならないのは道路公団の方だろう。こっちは赤字でどうにもならなくなっている。ところがこれも族議員がいて、なかなか進みそうにない。

 しかし、改革をするにも法律を作らないといけないから、国会の賛成を得ることが必要だ。独裁制にしない限り、妥協は仕方がない。(2002年7月4日)






 無実の罪で誤認逮捕されたウルトラマン俳優は、無実を認められることなくマスコミの表舞台のから消えていくことになった。ウルトラマンは正義の味方ではなく、単なる金儲けの道具に過ぎなかったのである。
 
 人気テレビドラマ「ウルトラマンコスモス」の主役俳優が知人をなぐりその上、金をおどしとっていたとして逮捕されたが、事実はそうではないことが分かった。しかし、番組は中止になりこの俳優は仕事を失ってしまった。こんな正義に反することがテレビ局ではまかり通るのだ。

 濡れ衣を負わされた無実の人間を救い、社会正義を回復してこその「ウルトラマン」だろう。
 
 ところが、松竹と毎日放送はそうはしなかった。金儲けのためには、一度でも逮捕されたような人間には用は無いというわけだ。

 毎日放送よ、まちがってもこれからはニュース番組で正義などという言葉は使うなよ。あんたらにはその資格はない。(2002年7月3日)






 大阪のJRの環状線で「女性専用車両」が運行をはじめたことが話題になっている。わたしはもし日本にもレディーファーストが定着すればこんなことをする必要はないと思っている。
 
 アメリカなどではレディーファーストが徹底している。電車に乗るときも降りるときも、座席に座るのも女が優先だ。だから、電車のなかには泥棒はいても、女性の体に意図的に触ろうなどというけしからぬ男はいない。
 
 しかし、日本で男がレディーファーストをやろうとするとかえって女性に変に受け取られて痴漢と間違われたりするから、男だけでなく女もレディーファーストを学ぶ必要がる。
 
 レディーファーストとは要するにわたしはあなたの敵ではないというサインである。そして、そういうサインを出す男は痴漢になりようがない。
  
 日本ではレディーファーストはなかなか定着しないが、男たちはこれを機に考え直すべきである。なぜなら、女性専用車両をつくられることは、男たちにとって恥だからである。(2002年7月2日)


私見・偏見(2001年)
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 「小学校長を児童買春などの疑いで逮捕」こんな見出しをニュースに見つけた。しかし、記事を読むと相手の女は十八才、れっきとした女だ。けっして児童ではない。ただ、高校生というだけである。
 
 校長先生であろうが、裁判官であろうが、エッチをしたいのは万人に共通である。それは便所の行きたくなるのと同じ。それを暴かれて職を失う。気の毒なことなことだ。それどころか、色恋で失職するのはむしろ男子の本懐か。

 日本の女性の多くは高校生のときにセックスを覚える。しかも、その三年間ほどが一番盛んで、二十歳をすぎるとおとなしくなるという。

 相手はたいてい年上だから、校長さんも金を払わず合意の上なら、これは当たり前の日常的出来事なのだ。

 こういう事件を無くしたかったら、法律を作って「お酒は大人になってから」というのと同じく、「エッチは大人になってから」とキャンペーンでもするしかない。

 しかし、実際には、高校野球でもしていない限り、酒を飲む子供は罰せられないのと同様、エッチをする子供を罰することもできまい。かくて、地位も名誉もある男が児童買春で捕まる事件は決してなくならず、格好のニュースネタを提供し続けるだろう。(2001年12月22日)







 星野仙一氏が阪神の監督に就任するという。全くの茶番である。

 何をしてよいか、何をしてはいけないか、阪神の経営者も、星野氏も分からないらしい。
 
 プロ野球は誰のためにあるのかということを両者共にまったく忘れてしまったのだろう。ファンの気持ちを置き去りにして、何を再建をしようというのか。
 
 中日ファンといえば星野ファンである。その中日ファンに、来年の阪神×中日戦でいったいどちらを応援しろというのか。

 阪神ファンには、中日の人間に支配されたチームをどう応援しろと言うのか。

 結局は、どちらのファンも、日本のプロ野球に見切りをつけるしかないということだろう。これでは去年進行していた、ファンのプロ野球離れがさらに進むだけのことだ。

 プロ野球界全体のことを考えた結果だとは、ちゃんちゃらおかしい。一つのチームをどうにも出来ない人間が、プロ野球全体をうんうんすることのおこがましさよ。自分を何様だと思っているのか一度おうかがいしたいものだ。(2001年12月15日)






 不思議の国日本とよく言うが、最近の一番の不思議は日本のマスコミの多くがテロリストの名前に敬称をつけて呼んでいることだろう。
 
 ビン・ラデンのことである。逮捕状こそ出ていないが、ビン・ラデンはアメリカの官憲によって懸賞金付きで指名手配されている犯罪者である。それなのに日本の多くのマスコミはこの男に敬称をつけて呼んでいる。これほどの不思議はないだろう。

 しかし、日本のマスコミの多くはこれを変だとは思わないし、日本の識者の多くもそれでよいと言っている。

 あれだけのことをやったのだから尊敬に値するということなのだろうか。そうではあるまい。しかし、これは子供たちに間違った教訓を与える恐れがある。同じ悪いことをするにしても、海外で大きなことをやればよいのだと。

 しかしながら、これをやめたのは読売新聞だけで、テレビ局を含めて、相変わらすテロリストに敬称をつけて呼ぶ不思議な光景が日本では続いている。(2001年12月14日)






 今年の十二月八日は日米開戦六〇周年だそうだ。
 
 この六〇年の間に日本は大きく変わった。軍国主義の日本はアメリカとの戦いに敗れて、アメリカが作った憲法を受け入れて、二度と戦争をしない平和主義の国になった。
 
 ところが、その平和主義の憲法を作ったアメリカは、六〇年前と全く変わらずにいるようである。
 
 アメリカの政治家たちは、大統領を筆頭にして、今回のアフガニスタンの戦いを、六〇年前の日本との戦いになぞらえて、軍事力こそ正義を実現するための手段であると堅く信じていることを明らかにしたのである。

 つまり、彼らは日本国憲法の前文に書いてある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」できるなどとは、これっぽっちも思っていないのだ。つまり、彼らは自分では思ってもいないことを日本人にさせようとしたのである。

 それにも関わらず、日本はアメリカの言うとおりにうかうかと平和愛好国になった。はたしてこれでよかったのだろうか。考えさせられる一日であった。(2001年12月8日)
 





 阪神が前中日監督の星野仙一氏に監督就任を求めているという。
 
 阪神のフロントはどこまでも考えが浅いのだろうか。スポーツ紙に載った、就任要請があればすぐにでもOKしそうなコメントを真に受けたのかもしれない。

 しかし、いざ実際に要請が来てみると途端に「ハムレットの心境だ」というコメントが出てきた。当然だ。

 星野氏は生え抜きの中日人間である。野村前監督がヤクルトから移ったのとは全く状況が違う。

 阪神の監督として、中日に負けたら、阪神ファンに何を言われるか、中日に勝ったら、今度は中日ファンに何を言われるか。よく考えないといけない。

 星野氏が阪神の監督になったら、きっとまた野村前監督のように泥まみれにされるだろう。それでもいいのか。

 星野氏の阪神監督就任は、阪神のためにも、ご本人のためにもならないとわたしは思う。(2001年12月8日)






 高速道路の料金所で料金を払うために止まらなくてもよくなるETCという名前のシステムができたという広告をよく見るようになった。

 しかし、考えてみればこんな馬鹿げたことはない。料金所さえなければこんなものはいらないのである。それを、料金所では金を払えといい、しかも、止まりたくなかったらもっと金を払えというのである。

 それもこれも、日本では、業者がいかに儲かるかばかりが重視されて、利用者の便宜はいつも後回しになるからである。

 高速道路にしても、そもそも何のために作るかというと、それはまず第一に業者に仕事をやるためなのだ。そのために、料金所を作って利用者から金をとる仕組みを作ったのだ。税金で作れるだけのものを作っていくつもりなら、こんな仕組みは必要ないはずだ。

 だから、必要なことは新しい機械を考え出すことではなくて、まず根本の間違いを正すことだ。そして、欧米並に料金所を無くせばいいだけのことである。(2001年12月7日)







 最近、無期懲役の囚人が仮出所中に殺人を犯して死刑の判決を受けるという痛ましいことがあった。

 この人間は若い女性を見ると殺さずにはいられない性癖があるという。それなのに刑務所の外へ出たために、一人の女性が殺され、それに続いて、本人が命を落とすことになったのである。

 彼が刑務所から出ていなければ、この二つの命が失われることはなかったに違いない。無期懲役といいながら法務省が形式的手続きにしたがって、この人物を釈放したことの責任は大きいと言わなければならない。 

 ところが、日本の司法は、彼を釈放した己の責任を棚に上げて、悪いやつだから殺してしまえと言っているのである。全く、何をか言わんやである。

 死刑廃止議員連盟という国会議員の集まりがあって、その会長を亀井静香議員がつとめているという。氏がもし本気で死刑の廃止を望んでいるのなら、是非ともその強大な政治力を使って、これ以上司法制度のために命を落とす人がなくなるようにしてもらいたい。(2001年12月6日)







 名誉毀損とは他人の行為によって自分の社会的信用が損なわれたことをいう。自分の名誉感情が損なわれただけでは成立しない。単にプライドが傷つけられたとか、人の言ったことが癪に障るだけではだめなのだ。
 
 ところが、小泉首相の靖国参拝を憲法違反として提訴した人たちが、それに対する小泉首相の「おかしな人たちがいるものだ」という発言を捉えて、名誉毀損だと訴えた。
 
 しかし、彼らは、首相の発言によって、自分たちの社会的信用が失われたと本当に思っているのだろうか。そんなことはあるまい。

 それでは、日本の多くの人たちが首相の発言を支持していると認めたことになってしまう。

 だから、おそらく、彼らは名誉毀損が成立しないことは知っていながら、首相の発言が気にくわないというだけで提訴したのではないだろうか。

 しかし、もしそうなら提訴権の乱用である。裁判所はそうでなくとも仕事が手一杯なのだ。良識を持って訴状を取り下げることが望ましい。(2001年12月4日)







 皇太子妃が女の子を産んだことで女帝論が盛んだ。男女平等だからだという。
 
 しかし、男女平等という民主主義の概念が、はたして天皇制と相容れるものなのだろうか。
 
 さらに、男女平等というならば、天皇になりたいかどうかという本人の意思を尊重しなければならなくなることも、忘れてはならないはずだ。
 
 そもそも今の皇室典範が女子の天皇即位を認めていないのはなぜかも考えるべきだろう。
 
 その中の、結婚した女子は皇室から離れていく規定は何のためなのか。それは皇室を縮小していくことを念頭に置いたものであるはずだ。それなら、いつかは男子の血統が絶える日が来ることは明らかである。ということは、日本人も天皇家に頼らず、いつかは自分自身の責任で生きて行く日が来るべきだと言うことではないのか。
 
 出産当日、大手のテレビ局は軒並み特別番組を放送したが、最も視聴率が高かったのはそのどれでもなく、平常どおり放送された地方局制作のグルメ番組だったという。日本人は自己責任で生きていく準備がすでにできていると言ってよいのではないだろうか。(2001年12月3日)






 今回の医療制度改革案では、小泉首相の言う患者負担の引き上げは時期が曖昧なままに終わったのに対して、自民党の族議員の主張した保険料の引き上げの方は時期が明確に決定した。

 つまり、族議員の言い分が勝ったのである。これをみても、自民党の族議員が小泉改革をいかに妨害しているかは明らかである。これでは小泉改革の先が思いやられる。

 一体、自民党の一議員の方が首相よりも発言権が強いとはどういうことだろうか。そんな国が他にあるだろうか。

 しかも、族議員の多くはかつての閣僚経験者だというから驚く。彼らは政府にいるときは一体何をしていたのだろう。大臣のときは全国民を代表するが、大臣を辞めたら一利益団体のことにしか興味がなくなるのだろうか。しかし、それでは国会議員失格だろう。

 いま大きな顔をしてテレビに出ている族議員たちの顔と名前を、わたしたちはよく覚えておかないといけない。そして、次の選挙で彼らを政界から排除しなければいけない。彼らこそこの国を破滅に導く元凶であることは間違いないのだから。(2001年11月29日)







 刑罰を引き上げて、飲酒運転による交通事故を減らそうと法律を改正したという。しかし、はたしてそんなことで飲酒運転が減るだろうか、疑問である。
 
 国会議員のようにお抱え運転手がいる人ならともかく、普通の人間は車を運転する以上、飲酒運転は避けられないはずだ。
 
 総じて、刑罰を厳しくすれば犯罪が減るという考え方自体馬鹿げている。人を殺したら死刑になるから人を殺さないのではない。人を殺すにはやむにやまれぬ理由がある。飲酒運転も同じことだ。

 被害者の側に立った刑罰強化のつもりだろうが、被害者になることを恐れて加害者になってしまう人間がどれほど多くいることか。

 刑罰を厳しくする方がよいと考える人は、自分が加害者になるかもしれないとは思ってもみないのだろう。ところが、刑罰強化は世論の支持を得ているらしい。

 しかし、これで自分は飲酒運転をする可能性が減ると自信を持って言える人がこの国にどれだけいるか調べたらよい。刑罰強化はそれからでも遅くないはずだ。(2001年11月28日)







 「先日ふと見た映画の中に一瞬映った世界貿易センタービルの姿に、あれがもうないのだと思うと、事件の意味の大きさを改めて実感した」ということを、ニューヨークタイムズの記者がある新聞のインタビューの中で述べていた。
 
 これはまさにわたし自身が、あるアメリカ映画を見ているときに感じたことだった。
 
 しかし、このインタビューをした女性記者はそうではなかったらしい。この言葉に続いて彼女は「米国はなぜテロ攻撃を受けたと思いますか」と質問したのだ。
 
 彼女は人の不幸を自分の不幸と感じることのできない人なのだろうか。彼女はこのインタビューを「高慢なニューヨークがこの事件でその鼻っ柱をおられて優しくなっている」というような言葉で総括した。
 
 アメリカの不幸ならこんなことを書いてもよいと思ったのだろう。しかし、彼女とて日本で犯罪被害者に対して「なぜこんな目にあったと思いますかと」と質問する人ではないだろう。記者たることは悲しいことである。(2001年11月27日)
 





 先日、読売新聞の見本紙というものがうちのポストに入っていた。ご購読中の新聞と比べてくださいというわけだ。
 
 そこで読んでみると、読売新聞と他紙との最大の違いは、文章が易しいことだ。長くて複雑な文章は極力避けているという印象を受けた。
 
 一面のコラムは典型的である。例えば毎日新聞の余録は抽象的な言葉が多用されて非常に難しい文章になっている。インテリを対象にしているのであろうか。読売の編集手帳は庶民的な文章で書かれている。
 
 また、読売は読者の気持ちをよく反映した記事作りをしているようだ。その代表例が、オサマビンラデンの扱いだ。他紙は軒並みオサマビンラデン氏としているのに対して、読売だけは「氏」を付けていない。
 
 これは、なぜ日本のマスコミだけはオサマビンラデンに「氏」を付けるのかと疑問に思う多くの読者の気持ちを反映してのことだろうか。
 
 購読者数一千万部は伊達じゃないことをうかがわせる内容になっていると言っていい。(2001年11月20日)






 若者たちがミニバイクや自動車で違反しているところを警察に見つかり、逃げて事故を起こして命を落としたというニュースをよく耳にする。

 そんなときわたしはいつも「なぜ逃げるのか」と思う。

 もちろん違反しているのだから、警察に捕まれば、小言を食らうかもしれないし、罰金を払わされるかもしれない。

 しかし、だからといって、逃げることはない。逃げるとなると命がけになる。

 おとなしく捕まっておれば、罰金だけで済む。しかも、それで犯罪を犯したことにはならずに済むのだ。ところが逃げたら犯罪になる。その上、命を落とす可能性さえ出てくるのだ。

 逃げた若者が命を落とすと、無理に追いかけなければいいのにと、警察に非難の矛先が向けられることがある。しかし、警察は逃げたら追いかけるのが仕事だ。逆に、追いかけなければあとで叱られるだろう。

 わたしは若者たちに言いたい。「違反を見つかったら捕まっておけ。くだらないことに命を掛けるな」と。(2001年11月16日)




 アフガニスタンの戦争のニュースの中で、一つ注目すべき点は、海外の女性は実に様々なところで活躍しているということである。
 
 アフガニスタンの戦闘に巻き込まれて死亡した外国人記者の中に、フランス人女性がいたことには、一番驚かされた。
 
 別のフランス人の女性記者がタリバンに拘束されてその後解放されたニュースも記憶に新しい。
 
 タリバンに人質になっていたNGOの国際援助職員のなかにも女性がたくさん混じっていた。
 
 海外では、男女平等とは、危険なところに行くのも男女の区別はないということなのだ。
 
 ひるがえって日本人の記者では、男性の記者がアフガニスタンに入っているということはニュースから分かるが、女性はパキスタン止まりのようだ。
 
 日本の女たちの言う男女同権は、まだまだ口の達者な女性たちが目立つだけで、実際の行動の、しかも危険な事となると、結局は男頼みだ、と言ったら叱られるだろうか。(2001年11月16日)






 日本でパソコンを買うと、キーの上にひらがなが書いてあるキーボードがついてくる。

 ところが、このひらがなを使って入力する人は比較的少なく、ローマ字で入力する人の方が多い。小学校のパソコン教育では「ローマ字入力」を教えているそうだから、今後はもっと多くなるに違いない。

 実際、ノートパソコンの中には「ローマ字入力」を前提にして、「かな入力」で「っ」を打つときに絶対に必要な右側のシフトキーを小さくしたものもある。

 ところが、英語を入力するときには、この小さなシフトキーでは大文字が非常に打ちずらい。しかも、インターネットの普及した現代では、英語を入力する機会は誰にでもある。

 実は「ローマ字入力」する人にとっては、英語配列のキーボードの方が見た目がすっきりしているだけでなく便利でもある。

 そこで、パソコンメーカーの中には英語のキーボードを最初から選べるようにしているところもでてきた。わたしはこの動きを歓迎したい。(2001年11月11日)






 今年のプロ野球の特に巨人戦はつまらなかった。だから、当然視聴率は上がらなかった。そこで、わたしは来年からは巨人戦の放送時間の延長をやめてくれないかと期待していた。
 
 何よりそのほうがビデオの予約設定が楽になる。延長分を考える必要がなくなるからだ。
 
 ところが、何と逆に延長時間を延ばすというではないか。しかし、元々面白くないものをいくら長くしたところで面白くなるわけがない。放送時間よりもその中身を面白くすることのほうが先決問題であるはずだ。
 
 いまのプロ野球が面白くない最大の理由は、巨人がいい選手を独り占めしていることだ。巨人が善玉なら巨人が勝つのを見るのも面白かろう。しかし、今や金に物を言わせる悪玉と化した巨人が勝つところなど見たくもない。だから、視聴率が上がらないのだ。
 
 ところがこちらの原因はまったく改める気はないらしい。わたしとしては、他の民放各局がこの愚かな決定に追随しないことを祈るのみである。(2001年11月1日)






 テロ対策法の審議過程でしきりと国会の事前承認を求める声が上がったが、それは戦前に逆戻りして自衛隊が暴走してしまうことを恐れるからだという。しかし、そんな心配は杞憂である。戦前の日本軍は完全に解体されてしまったからである。
 
 ところが、軍隊も含めて戦前に存在した官僚組織のうちで解体されていないものがたくさんあって、そちらの暴走はなかなか止まらない。総理大臣の言うことに抵抗する官僚たちがたくさんいるのだ。
 
 国の役人たちは、特殊法人の廃止・民営化を唱える総理大臣の指示になかなか素直に従わないというではないか。
 
 シビリアンコントロールは、軍隊だけのことではない。他の官庁の役人たちに対しても当然あてはまるはずだ。現場の役人つまり兵隊たちは、総理大臣の意向を無視して動いていいはずはないのである。
 
 さもなければ、またもや官僚の暴走によって、いつか来た道を、こんどは経済の分野でたどることになりかねない。(2001年10月31日)
 





 今年のプロ野球の日本シリーズは、「面白い野球をするパリーグ」が「つまらない野球をするセリーグ」に負けたシリーズだと言える。
 
 今年のセリーグはまったくつまらなかった。巨人がたくさん金をかけて選手を集めて、見かけ上はずっと首位を独走してしまい、興味をそいだ。ところが、巨人に負け越し、最後はずっと負けてばかりいたヤクルトが優勝してしまうというつまらない結果になった。
 
 それを救ったのがパリーグの近鉄の優勝だった。打って打って打ち勝つ、見ていて楽しい野球をして、その結果の優勝だったために、大リーグに奪われていた興味は一気に日本のプロ野球に戻った。
 
 しかし、日本でも面白い野球が見られると期待した日本シリーズでは、つまらない野球をやり通したヤクルトが勝ってしまうという結果に終わった。
 
 近鉄の選手たちはきっとセリーグの野球に戸惑ったことだろう。大リーグから来たアメリカ人の選手が日本のセリーグに入って感じるのと同じ戸惑いを、彼らは感じたに違いない。
 
 ストライクで勝負をしないセリーグの野球はパリーグの野球とはまったく違う。だから、外国人選手はパリーグではよく活躍するが、セリーグではなかなか活躍できない。(例外のヤクルトは、球場の狭さが外国人選手を救っているだけである)
 
 今年の日本シリーズで、つまらないセリーグ野球が勝ったことで、日本の野球はますますつまらない方向に向かいそうである。(2001年10月25日)






 アーミテージ米国務副長官の言った「ショー・ザ・フラッグ」という言葉を日本政府は「日の丸を見せて欲しい」と解釈したが、それは誤訳だと言う人たちがいる。

 なかでも英会話で有名な鳥飼玖美子さんは「英和辞典を引けば『(国などの)支持を表明する』ことと、説明が載っている。各紙とも、辞書を調べて確認するくらいの慎重さが欲しかった」と苦言を呈しておられる。

 しかし、わたしはこの意見に疑問を持った。言葉の意味は辞書が決めるのではなく、文脈が決めるからである。大切なのはアーミテージ氏がどういう意図であの言葉を使ったかであって、辞書にどんな訳語があるかではない。

 それどころか、わたしの愛用の英和辞典にはshow the flagの訳語として、ちゃんと「(他国で)自国の軍事[政治]力の存在を見せつける」と書いてあるのだ。

 つまり「日の丸を見せて欲しい」という解釈は、文脈の上からも辞書の訳語としても決して誤りではないのである。
 
注 この英和辞書は人気の高い「ジーニアス英和辞典」で、この辞書には他の辞書にない新しい訳語がたくさん載っています。(2001年10月19日)






 イスラムにはイスラム原理主義者がいますが、日本にはたくさん平和憲法原理主義者がいます。
 
 この人たちは何よりも憲法が大切。この人たちは国よりも憲法の方が大事な人たちです。だから、何よりまず第一に憲法を守れといいます。世界から孤立しようがどうしようがかまわないから、憲法を守れといいます。
 
 いやそうじゃないと言うかもしれません。守れないならまず憲法を変えてからにしろと。しかし、憲法は急には変えられません。そんなときはどうするか。憲法は破っていいのです。
 
 憲法は自分に対する約束なのです。自分に対する約束は守れなくなったら変えればいい。すぐに変えられなければ、破るしかないのです。そして、今どうしてもしなくてはいけないことをするのです。そうしないと人も国も死んでしまいます。
 
 いまの日本は民主主義の国です。だから、大丈夫です。決して、戦前に逆戻りするなどということはありません。(2001年10月18日)






 アフガニスタンのタリバン勢力に対して空襲が始まりました。それを見てわが国が第二次大戦の時に受けた空襲を思い出す人も多いでしょう。東京大空襲では十万の無実の市民がアメリカ軍によって殺されました。今また、アフガニスタンの無垢の市民の命が奪われています。
 
 しかし、日本はあの空襲を受けて自分の過ちを悟ってアメリカに降伏することによって、平和な国に生まれ変わったことも忘れてはなりません。
 
 そうです。タリバンは昔の日本なのです。昔の日本が間違っていたようにタリバンも間違っています。それをアメリカは正しい国にしてやろうとしているのです。
 
 アフガニスタンのタリバン勢力も早く自己の非を認めて降伏することを祈ります。タリバンが降伏してアメリカの占領を受け入れれば、様々な援助を得てアフガニスタンは日本と同じような、圧制で国民を苦しめることのない平和な国に生まれ変わることができるでしょう。
 
 そのアメリカを日本が支援するのは当然ではないでしょうか。(2001年10月10日)






 英国のブレア首相はアメリカのテロで自国民が多数殺されたことから自衛権を発動して今回の戦争に踏み切り、戦時内閣を結成した。日本も同じく多数の自国民が同じテロで殺されたが自衛権は発動せず、アメリカの後方支援に甘んじている。
 
 いっぽう、北朝鮮には百人以上の日本人が拉致されて奴隷状態に置かれているといわれている。ルソーは「人が奴隷状態にいるということは、戦争状態にあるということである」と言っているが、この言に従えば、すでに日本と北朝鮮は戦争状態に入っていることになる。
 
 ところが、どういうわけか日本は武力に訴えて自国民を救おうとはしない。少数の人のために国が戦争するなんて馬鹿げている。いやそもそも戦争は悪だから、一部の人には辛抱してもらえばよいというのが一般的な考え方だ。
 
 そして、今またニューヨークで日本の自国民の多数の命を奪われながら、日本は武器を取って戦おうとしない。いったいこれで国といえるだろうか。(2001年10月9日)






 テロ対策法についての対応で、またもや民主党は政権担当能力のなさをさらけ出してしまった。
 
 イギリスのブレア首相は労働党の首相である。しかし、彼が保守党の首相であっても今回の対応は同じものであったに違いない。フランスの大統領は保守で首相は革新であるが、二人の対応に違いはない。
 
 このように、国家の安全保障にかかわる問題では、保守も革新もないのが欧米での常識である。
 
 ところが日本はどうか。今回のテロ対策に関して、民主党の政治家たちは相も変わらぬ憲法論議を持ち出して、積極的な対応をとれないでいるのだ。
 
 国民の安全を守るということは、国を守るということだ。その国の安全が危機に瀕しているときに、何が憲法だろうか。国が無くなってしまえば憲法も無くなってしまうということが彼らには分からないのだろうか。
 
 憲法あって国家なし。これでは民主党の政治家にこの国は任せられないと言わざるを得ない。(2001年10月7日)






 今回の同時多発テロでは国連という組織が相変わらず役に立たないものであることが明らかになった。
 
 国連総会はテロ撲滅のための決議一つすることができないでいる。会議はテロの定義をするのに行き詰まってしまい、あげくの果てには、アメリカの報復攻撃自体をテロだと言い出す国が出る始末である。
 
 これでは国連は発展途上国の憂さ晴らしの場でしかない。
 
 国連の職員たちは世界をアメリカに牛耳られ、その無力感を反米的発言で発散している。
 
 アメリカが平和主義であってくれさえすれば、今回の事件もなく、大量の難民も生まれなかったはずだからだ。難民支援に駆り出される職員たちは、アメリカの尻拭いをさせているという気持ちだろう。
 
 しかし、アメリカが日本のように平和主義を標榜できる日は当分来そうにない。その前に、まずテロ組織が無くなり、朝鮮半島が統一し、おまけに中国が民主化する必要があるからである。(2001年10月3日)
 






 今回の同時多発テロに関して、新聞の中にはアメリカの報復攻撃を批判する記事の見出しとして「テロはなくならない」と書いたものがあった。
 
 報復攻撃ではテロはなくならないと言いたいのだろうが、彼らは自分の主張のためにテロを正当化していることに気づいていない。
 
 もし、国内の犯罪に関して新聞の見出しに「犯罪は無くならない」と書けば、犯罪を正当化するのかと袋叩きにあうことは必至である。ところが、ことが戦争となると自分が何を言っているかわからなくなってしまうのである。
 
 現実は逆が真実であることを教えている。この世に犯罪はなくならなくても、テロはなくなる。実際、日本にも戦前にはテロが横行したものだが、今ではテロなどほとんどない。それはテロ組織が徹底的に壊滅されたからにほかならない。
 
 今もまたアメリカが世界の国々といっしょになって、テロ組織の撲滅に乗り出そうとしている。この国には、それをあたかも悪いことのように書き立てる新聞がある。この国には目が見えていない新聞記者が多すぎるようだ。(2001年10月3日)






 ルソーの「社会契約論」の第一巻の「主権」の章を読むと、社会契約というのは、国民の国に対する義務と、国の国民に対する義務を規定するものではあっても、国の国自身に対する義務を規定するものではない、これは憲法でも同じだと書いてある。
 
 国の国自身に対する義務を定めるということは、自分自身に対する約束であるから無意味だというのである。それはいつでも破れるものであるし、もし破れないと自己保存すらできなくなるからだと言うのである。
 
 これをわが国の憲法に当てはめると、国民の国に対する義務とは納税や労働の義務などであり、国の国民に対する義務とは人権の尊重や言論の自由の保障などであろう。

 憲法九条の戦争放棄はどれにあたるだろうか。これは上の二つのいずれにも該当しない。それは国の交戦権を否定し、主権を制限したまさに自分自身に対する約束である。ルソーによれば、これは主権国家の憲法として無効な条文だということになる。

 そういえば、この憲法は日本が主権をまだ回復していない時に米国によって作られたものである。だから、憲法としては無意味なこんな条文が紛れ込んでしまったのであろう。(2001年9月28日)






 アメリカは今回のテロで多くの市民を殺されて、報復を叫んでいる。個人は報復してはならないが国家は報復しなければならない。だから、それが当然なのである。
 
 ひるがえってわが国のことを考えれば、広島と長崎で何十万という無辜の市民をアメリカに殺害されながら、それに対して報復しなかった。
 
 しかも、アメリカによって日本の軍隊は解体され、憲法によって戦争する権利さえ奪われてしまい、もはや、二度と報復できない国になってしまったのである。
 
 こんな国をはたして国家と呼べるだろうか。
 
 報復しない国は国家ではない。だから、イスラエルは必ず報復し、アメリカは報復しようとしているのである。報復しない国は、愛国心を国民の間に育てることができない。報復しない国の国民は、国旗のもとに団結することができない。

 わが国が、広島・長崎の被害に対して報復しなかったために負ったトラウマは、深く今も生き続けて、国民に誇りと愛国心を持つことを恐れさせているのである。(2001年9月19日)






 毎日新聞に「記者の目」というコーナーがある。
 
 毎日新聞は読者に新聞に対する意見を求めているそうだ。なら、言おう。このコーナーはやめた方がいい。誰も読まないからだ。
 
 もともと毎日新聞は意見が多すぎる。その意見が多様ならまだいい。ところが、毎日の記者たちの書く意見なんてみんな同じ。日本の視野の狭い社民主義・共産主義たちの意見と同じなのだ。だから、どれを見ても同じことが書いてある。
 
 読者にとってすべては旧聞に属することばかり、これじゃ新聞じゃない。
 
 今日と昨日の「記者の目」も例によって空想的平和主義からの貧しい主張だ。汲々として社論に合わせて生きていこうとする、自立心のない毎日新聞の記者像が浮かび上がってくるだけだった。
 
 このコーナーは、毎日新聞の若手の記者に意見を発表する場を与えて、やる気を持ってもらうために作ったコーナーであろう。読者のために作ったコーナーでないことは確かだ。そんなものは廃止しろ。

 読者はニュースを求めている。新しい出来事、新しい発想、つまり新聞を求めているのだ。(2001年9月19日)






 アメリカの同時多発テロのニュースの中で、ウォールストリートの証券市場の建物に、また、大リーグの野球場に、巨大なアメリカの国旗が広げられ、掲げられている映像を見ながら、日本のことを考えた。
 
 国旗に対する態度はあれが本当なのであると。それができなくなってしまっている日本人はおかしくなってしまっているのだと。先の大戦の敗北で、日本人が国旗に対して持つべき自然の感情、国民としての団結の象徴としての国旗を見失ってしまっているのだと。そう考えないわけにはいかなかった。
 
 不幸なのはテロの被害を受けたアメリカ人ではなくて、むしろ国民としての団結心を見失ってしまった日本人ではないのかと。
 
 「こういうときにはアメリカ人はよく団結しますが・・・」と、あるニュースキャスターは言ったが、団結するのが当たり前なのに、日本人はそれを不思議なことのようにしか見られなくなっているのだと。
 
 これは異常なこと、不幸なことなのであると、思わずにいられなかった。(2001年9月19日)





 新聞にも色々あって、やたらと意見を載せたがる新聞がある。
 
 しかし、意見の記事は、電話の前に座っていれば書けるから、じつに楽である。有識者とかいう人たちに電話をしたり、ファックスやメールで送られてくる意見を、適当に書き写したらそれで記事になる。こんな楽なことはない。
 
 ところが、事実は小説より奇なりと言って、出来事は実に様々でバラエティーに富んでいる。だから、記事は足で書けというのだ。意見ばかり載せる新聞は、その反対のことをやって楽をしているわけだ。言ってみれば手抜き新聞である。
 
 しかも、意見はもともとみんな似たり寄ったりである。わずかに左右の違いがある程度で、そんなに違ったことを言える人はいない。だから、意見ばかり載せていると、毎日同じニュースをくり返しくり返し載せているのと同じことになる。
 
 はたしてそれで新聞と呼べるのかどうか。旧聞に属することばかり書いているのだから、そんな新聞は旧聞と呼ぶ方が正しいのではないか。(2001年9月18日)







 今日の毎日新聞の社会面に「厳刑を求める署名六十万」とあった。
 
 これを見て最初、「減刑」だと思い、「なかなか立派な人たちがいるものだ。許しを覚えてこそ人間」と思った。
 
 ところがよく見ると、「厳刑」ではないか。まさか、この国には、死刑を求める署名をするような人道に反したことをおおっぴらにする人たちがいるのかと。まったく恥ずかしいことだ。
 
 「厳刑」を求めるその裏にあるのは、どろどろとした憎しみと復讐心だけ。要するに、報復を求めているのだ。
 
 一方で、この新聞は、アメリカのテロ事件の被害者が報復を求めていることに反対している。

 ほほー、あなたたちは、テロの報復は反対で、小学生殺人の報復には賛成なのですか。

 あっちを向いてはこう言い。こっちを向いてはああいう。これでは読者の支持は得られませんなあ。
 
 ヨーロッパの社民主義が成功したのは、日本と違って正道を行っているからでしょう。彼らは死刑を廃止して個人の報復の道を封じた。しかし今回の事件では「われわれはみんなアメリカ人だ」と言って、国家としての報復に賛意を示した。
  
 「国家は報復しなければならず、個人は報復してはならない」これが世界の常識なのですよ。その正反対を行く毎日新聞、そして日本の社民主義。どちらも、支持を失うばかりですなあ。(2001年9月18日)






 アメリカのテロ報道についての日米のマスコミの報道姿勢の違いが印象的だ。

 日本人はまず自分、自分さえよければよいという国民性だ。マスコミもそれを反映して、個人の安否情報が中心となる。個人の命がすべてなのだ。だから固有名詞がつぎつぎに出てくる。顔写真まで出てくる。

 アメリカのマスコミは個人の安否は一切扱わない。何が起こったかを精密に検討し、それに対してこの国はどうすべきかを論じ続ける。個人の名前はおろか、会社の名前も出てこない。

 ところが、アメリカは個人主義の国であって、日本は個人主義ではないのだ。

 (日本で命の大切さをいう場合、それはあくまで個人の利益の問題なのだ)

 アメリカのマスコミは個人名を調べようとはしないどころか、行方不明者の顔写真を手に入れようとするなどもってのほか。そんなことをすれば、人の不幸を笑うことになるからだ。人の不幸で金儲けをすることになるからだ。当然のモラルである。

 日本ではこの事件で景気がどうなるかとか、個人の安全がどうなるのかなどにしか興味が行かない。アメリカが戦争なんか起こしたら大変だ、協力を求められたらどうするのかと心配しているのだ。

 いかに日本のマスコミにはモラルがないことか。唖然とするほどだ。(2001年9月12日)





 「新しい歴史教科書をつくる会」主導の中学歴史教科書の出版の禁止を求めて東京地裁に仮処分申請をしていた韓国の国会議員がこの申し立てを取り下げたとき、「日本の良心を見せて下さった日本国民に深い感謝と尊敬の意を表す」とコメントを出したという。

 彼らはどうやら日本の事情をご存じないらしい。日本人は七割方あの教科書の採用に賛成しており、反対は二割ほどしかないはずだ。では、なぜほとんど採用されなかったか。それは、採用して自分の家に火をつけられたくなかったからである。良心ではなく、恐怖心がその原因なのだ。

 また「日本の民主主義に感謝する」と言った人がいるそうだが、それも間違い。二割の意見が通るのが民主主義かどうかは明らかである。もっとも、日本は韓国よりは民主的で、いったん出た本についてあれこれ言えても、本の出版をはじめから禁止することなど出来ない。言論出版の自由があるからだ。

 さらに言うなら、この教科書はベストセラーになって、学校という狭い社会ではなく、一般社会に受け入れられたことも忘れてもらっては困る。(2001年9月5日)






 選挙違反で逮捕者を出している郵政省出身の高祖議員に対して、野党が辞職要求を出している。しかし、野党の議員の多くは高祖議員の選挙を批判できる立場にはない。組織に依存した選挙で当選している議員がたくさんいるからである。 

 そもそも高祖議員と野党の労働組合出身の議員との違いは、選挙の運動員が公務員であるかないかだけである。つまり、公務員でなくなれば何の違いもないのである。しかも、郵便局はこれから民営化するのである。参議院議員の任期は六年もある。その間に違いはなくなっているはずだ。

 だから、高祖議員は連座制の適用がない限り、野党の要求に屈して辞任する必要などさらさらない。

 しかし、高祖議員が郵便局の民営化に反対するなら話は別である。選挙運動をした公務員たちは将来も民間人にならないからである。

 高祖議員は自ら先頭になって郵便局の民営化を推進すると宣言してほしい。それが、野党議員たちの口を封じ、国民に対して罪滅ぼしをする唯一の道である。(2001年8月30日)






 神戸に入港する艦船に「非核証明書」を義務付ける「非核神戸方式」は、二五年も前の神戸市議会で決議されたものだ。

 この決議は米国には入港拒否と受け取られ、以後、神戸に米艦は一度も来ていない。

 しかし、最近、同じ兵庫県内の姫路港にアメリカのイージス艦ビンセントが入港した際、反対運動のために姫路港に集まった人たちは五百人、それに対して、米艦の見学に集まった人たちは八月二八日の一日だけで二千八百人に達したという。

 この数字から、米艦の姫路港入港に反対したのは一部の市民団体だけであると考えられる。

 「非核神戸方式」決議以前には、神戸港にも米艦が来て見学者でにぎわっていた。当時でさえも「非核神戸方式」が正しく世論を反映していたかは疑わしい。

 日本の中心的な港である神戸港が、同盟国の艦船の入港を拒否しているのは、有事の備えを放棄していることにもなる。

 世論を反映しない危険な「非核神戸方式」は見直すべきだと思う。(2001年8月29日)






 靖国問題では国民の気持ちがメディアに反映されていなかった。参拝反対は国民の二割、逆に賛成は七割にのぼった。それなのに、全国有力五紙の三紙が参拝に反対の社説を出した。これは変なことだと言わざるを得ない。反対は一紙でよかったはずだ。

 新聞社だけではない、テレビ局にいたっては、主要民放4チャンネルのどれもこれもが反対を唱えていた。実に不可解な状況が作られていたのである。

 小泉首相の改革に関しても同様のことがいえる。国民の八割がこの改革を支持している。ところが、この改革のマイナスイメージを書き立てる新聞が全国紙のあいだで二紙もある。民放のテレビ局はどの局も、それと似た報道姿勢をとっている。

 マスコミには一定のチェック機関としての役割があるのは確かだ。しかし、マスコミと国民の気持ちがこれほどかけ離れていてよいのだろうか。

 世論に応じて政治は変わろうとしているのに、マスコミは一向に変わろうとしない。変化に一番順応できないのはマスコミでないか。(2001年8月29日)
 
 




 「十日間飲まず食わずだった」太平洋上を漂流していてやっと救助された漁師の言葉だ。

 ところが、似たようなことは人がいっぱいいる陸の上でも起きる。

 海外旅行でベルリンに到着したとき、パスポートとお金を盗まれてしまった人が、ドイツの日本大使館に救助を求めたときの話だ。

 大使館は、当座に泊まるところの手配と、パスポートの再発行と日本からの送金の手配はしてくれたが、それ以外は一切何もしてくれなかったというのだ。

 そのために彼はお金が届くまでの十日間をまったく飲まず食わずで過ごしたという。 海外には外務省の役人が税金を使って滞在している。にもかかわらず、太平洋上を漂流している人と同じことが起こるのである。

 お金を盗まれたら食べるものを自分で買えないのは明らかだろう。ところが彼らは「お金は貸せない」と突き放したというのだ。

 わたしたちは海外旅行をするときには、太平洋に船で乗り出すのと同じ覚悟をしておく必要があるようだ。少なくとも、大使館は国民を助けてくれない。(2001年8月28日)






 日本の現代の風景の中でもっとも戦前的なものを保存しているのが、高校野球の全国大会が開催される甲子園の空間だ。

 そこでは君が代が吹奏され日の丸が掲揚される。音楽に合わせた入場行進が行われ、選手たちが整列して選手宣誓が行われる。そして最後の会長の挨拶。あの口から「天皇陛下万歳」が最後に出てきても何の不思議もない権威主義的雰囲気。

 野球部には戦前的な上級生の下級生いじめがしっかり保存されている。戦後五十年以上経っているのにも繰り返される暴力事件。

 高野連が「青少年の育成」を口実に、あちこちに口出しをして国民の自由な活動をやめさせるやり方は、まさに戦前の軍部が「兵隊さんのため」を口実に口出ししていたやり方とそっくりだ。

 高校野球は戦後日本の中に温存された戦前そのものである。甲子園を慰霊空間に? とんでもない。甲子園大会をやめること、それが最大の慰霊であり、戦前との決別である。(2001年8月25日)






 台風が来るといつも思うことは、その名前の付け方である。日本では何号と番号をつけるだけだ。ところが、外国では名前を付ける。台風花子という具合にだ。

 日本人にはとてもこんな事は出来ない。人々に被害をもたらし、人を殺しさえする。そんなものに人の名前をつけるなど不真面目な気がするからである。ところが、外国の人たちはそう感じないのである。なぜか分からない。

 しかし、これだけを見ても、外国の人たちと日本人のものの感じ方考え方がいかに違っているかが分かる。日本人はけっして全てについて外国人と同じように感じ考えることは出来ないのである。文化の断絶とはこれほど激しいものなのだ。

 しかし、だからといって日本は外国を批判したりしない。だが、個人の場合、いっしょにいるとそれが喧嘩の原因になることがある。国対国となれば戦争だ。

 それを防ぐには結局は、お互いの違いを認めあう以外にはないのだ。靖国問題もその一つだと思う。(2001年8月23日)






 今回の高校野球の全国大会で、応援中のブラスバンドの女性部員にファールの球が当たって失明の危機にあるという。高野連は甲子園のフェンスを高くしよう考えているそうだ。

 しかし、原因は高校野球の応援の仕方にあるのではないだろうか。野球の応援に来ていながら、野球を見ていない人がたくさんいる。だからファールがよけられないのである。

 ピッチャーが球を投げ始めたら、球場の方に注意を向けて、その行き先がどうなるか息を詰めて注視する。それが野球の応援のし方である。ブラスバンドはその間演奏をやめるべきなのである。

 それが常識となっているから、アメリカの大リーグの球場は、キャッチャーのすぐ後ろ以外には観客席のフェンスがなく、ファールボールを拾う仕事を女性がやっているくらいである。

 このような事故を防ぐ第一の対策は、フェンスを高くすることではなく、応援の仕方を改めることなのである。わたしはこれ以上野球を檻の向こうの見せ物にしてもらいたくはない。(2001年8月22日)






 靖国問題では国民の気持ちがメディアに反映されていなかった。参拝反対は国民の二割にすぎなかった。それなのに、全国有力五紙の三紙が参拝に反対の社説を出した。これは変なことだと言わざるを得ない。

 反対は朝日一紙でよかったのだ。それでバランスがとれていたのである。

 ところが、民主党の管直人幹事長は、先の参議院選挙の直前に靖国問題で激しく小泉首相を非難した。あの批判のおかけで、民主党へ行こうとした票の多くは自由党に流れたのでないだろうか。彼はきっと国民の七割が参拝に賛成しているという事実を知らなかったのだろう。

 なぜなら、毎日新聞の六月の世論調査の結果のこの部分を知っている人は少ないはずだからである。わたしも八月二十二日の世論調査発表の記事の中ではじめてこの事実を知った。

 毎日新聞の人たちはどうなのだろう。自分たちがたった二割の支持しか得られない記事、つまりほとんど読まれない記事を書いていることを知っていたのだろうか。実際、八月の世論調査で見られるように、賛成から反対にまわった人はほとんどいないようである。

 毎日新聞は国民の世論をもっと反映した紙面づくりをしていってほしいと思う。それが毎日の生きる道だとわたしは思う。朝日は二つ要なないから。(2001年8月22日)






 明石の花火大会の事故で、「茶髪のせいにしよう」と警備会社と明石市が口裏合わせをしたと兵庫県警の調べで分かったというニュース、じつは兵庫県警のでっち上げだったそうだ。

 新聞は、警察発表を信じて、そのたびに記事にするのはやめたらどうだろうか。特に取調室から出てくるニュースは嘘が多い。警察は取調室でむちゃくちゃなことをしているのは誰でも知っている。

 憲法には第三十四条に「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と明記されている。ところが取調室でやっていることは、この「自己に不利益な供述の強要」以外の何物でもない。

 憲法違反は何も九条や二十条だけのことではないのだ。

 沖縄の婦女暴行事件で、日本の刑事裁判制度が海外のメディアに批判されているが、彼らは日本の実態をよく知っているのである。

 新聞は警察と仲良くしないとニュースがとれないかもしれない。しかし、新聞はもっと警察を疑って記事を書いてほしいものだ。(2001年8月22日)
 





 八月二十日の毎日新聞を読んで驚いた。世論調査の結果を発表しているのだが、その中でなんと「首相の靖国参拝に対しては、6月の世論調査で「参拝してよい」が69%と「すべきでない」の21%を上回ったが・・・」と書いてあるのだ。

 わたしは毎日新聞は毎日読んでいるが、この事実ははじめて知った。

 毎日新聞は首相の靖国参拝に反対して連日特集記事を組み、七月には社説で二回にわたって参拝反対を主張していた。例えばそのうちの一つは「靖国神社参拝 首相は強行理由を明確にせよ」と題していた。しかし、これに対して「それは国民が圧倒的に支持しているから」という毎日新聞自身がよく知っていた事実があったのである。

 ところがわたしの知る限り、毎日新聞はこの事実を六月の時点で公表しなかった。ずるいというしかない。

 本当は靖国参拝は国論を二分する問題ではなかったのである。それを彼らは二分しているかのように書きつのった。日にちを変えて参拝した首相は、見事に一杯食わされたわけである。(2001年8月20日)






 野球はツキが勝敗を大きく左右するスポーツである。だから、強いチームが必ずしも勝つとは限らない。

 ところが高校野球の夏の大会は全部トーナメント制の一発勝負である。だから、全国優勝するチームは、一番運が良かったチームではあっても、必ずしも一番強かったチームではない可能性がある。

 しかも、運がよいということは、いいことばかりではない。運が良いために試合が続いて、体を壊してしまって、野球が出来なくなった選手は過去にいくらもいる。

 また、全国大会で優勝した選手がプロ野球で大成しなかったり、逆に、全国大会に出られなかった選手の中からプロ野球で活躍する選手が出たりするのだ。

 だから、高校野球の大会で負けてしまったからといって嘆く必要はない。学生時代の勝利は仮の勝利でしかない。本当に力のある選手には、大人になってから本当の勝利を得るチャンスが必ずやってくる。

 このことを学生たちは是非知っておいてほしい。(2001年8月18日)





 憲法第三十四条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

 憲法にはこんなことが書いてある。しかし、警察はこれを守っているだろうか。日本の警察の被疑者に対する取り調べは、まさに「自己に不利益な供述」を引き出すために行われている。憲法違反である。

 憲法どおりなら、彼らに許されているのは、被疑者に自白する気があるかどうか聞いて、その気があるなら、自白を聞くことだけである。

 自白する気がない被疑者を、厳しい取り調べによって、自白する気持ちにさせようとしてはいけないのである。本人が嫌がっている事をさせるのは強要だからである。

 しかるに、彼らは一貫して何としてでも被疑者に自白させようとする。憲法違反をやり続けているのだ。

 欧米ではこの条項を守らせる担保として、取り調べに弁護士が同席する。しかし、日本ではそれがない。警察にまかされているのだ。

 警察とは、法を守らせるための組織である。それならまず自ら憲法を厳密に守って範を示してほしい。(2001年8月18日)





 阪神タイガースは来年も野村監督にお願いすると発表した。ということは、来年も最下位と言うことだ。

 野村監督は弱い投手陣をやりくりして最小失点にすることには長けているが、弱い打撃陣をやりくりして何とか得点をもぎ取るということは苦手である。

 彼は自身ホームランバッターであり、キャッチャーであった。それが采配にそのまま現れている。キャッチァーとして投手を操ることは得意だが、ホームラン以外の方法で得点をすることは得意ではない。

 ヤクルト時代には球場が狭いこともあって、代打のホームランで勝ちを拾うという試合がいくらもあったし、そんなことができるバッターがたくさんいた。ところが、阪神の場合、甲子園球場は広すぎるし、そのうえ、ホームランを打てるだけの腕力のある選手が少ない。

 この状況が同じである以上、野村監督が何年阪神の監督をやっても最下位を脱出することは出来ないだろう。(2001年8月16日)






 テレビのプロ野球の巨人戦を見ていると、アナウンサーはみんな巨人びいきである。あれを毎日見ている子供たちは巨人びいきになる。巨人が正義であると思いこんでしまう。好き嫌いはこんなことで簡単にできあがってしまい、同じ環境にいる限り、それを変えることはなかなか出来ない。わたしもそうだった。正義感などというものもその程度のものである。

 ところが、大学に入って東京に行ってテレビを見なくなると途端に巨人ファンでなくなってしまったのである。そしていつの間にか、アンチ巨人になっていたのである。

 これは全ての場合に当てはまる。日頃その人の接するマスコミの言い方がその人の価値観を左右するのだ。例えば、朝日新聞をとっていると朝日新聞の言うことが正しいと思ってしまう。しかし、産経新聞をしばらくとっていると、産経の言うことにも一理あると思うようになる。

 人の価値観などとはその程度のものである。最近はやりの反戦平和主義についても同じに違いない。(2001年8月15日)






 軍国主義はどこにでもある。

 企業のために働きすぎて死ぬのは軍国主義である。

 人を強制して意に添わぬことをさせるのは軍国主義である。人のしたいということをやめさせようとするのも軍国主義である。

 軍隊がなくても軍国主義になるし、軍隊があっても軍国主義にならないこともある。人の自由が守られ、人が法を守る国は軍国主義にはならない。

 日本には軍隊がなくなったのに、軍国主義はなくなっていない。

 平和主義を唱えていながら、軍国主義なのである。

 人の命を尊ばない、人の意志を尊ばない。

 死者を尊ばない。平和主義のくせに軍国主義である。

 家族と個人を大切にしないのは軍国主義である。(2001年8月15日)






 高校野球は軍国主義である。まず軍国主義の戦前に始まり、軍国少年の精神を形成した。それはけっして楽しみのために行われたものではなかった。高校野球が戦争の犠牲になったように言われるが嘘である。

 鐘太鼓を使った応援は、軍国主義である。戦争で戦うときに各軍隊に楽団が同行した。音楽に合わせた入場行進は軍国主義である。学徒動員を思い出させる。日の丸を掲揚し、君が代を歌うのは、軍国主義である。

 千本ノックは軍国主義である。楽しむ野球のすることではない。強制して練習させるのは軍国主義である。

 夏の炎天下の全国大会は軍国主義である。人の命を大切にしていない。

 高校野球の根性主義は軍国主義である。

 高野連の会長の挨拶は軍国主義である。学徒動員の東条英機の挨拶を思い起こさせる。高校野球が楽しみでやる野球にならない限り、日本の軍国主義はなくならない。軍隊がなくても。

 軍国主義に反対するなら、高校野球の全国大会は戦後になって再開すべきではなかったのだ。(2001年8月15日)






 PL学園の野球部が暴力事件を起こして、試合に出られなくなった。

 PL学園と言えば、高校野球界では代表的な学校である。だから、これは単に一つの学校の問題ではなく、高校野球全体の問題と捉えるべきだろう。

 高校野球の全国大会は、いわゆる革新系の新聞社が主催者となって、教育の一環とか人格形成とか、きれい事を言いながら続けられてきた。しかし、この事件を見ると、実はそんなことは何一つ達成されなかったのではないかという疑問がわいてくる。

 これは、戦後五十年にわたってこれらの新聞社が平和主義だ民主主義だと言ってきたことが、いかにスローガンだけのものだったのかということとつながってくる。

 彼らは、軍隊さえなければ軍国主義はなくなるかのように言っているが、びんたやけつバットが上級生の権利として残っている高校野球は、戦時中の軍国主義を形を変えて温存してきていると言える。

 PLの暴力事件で一番反省すべきは、これらの新聞社であるはずだ。高校野球もまた見直すときが来ているのではないか。(2001年8月12日)






 今回の靖国問題で小泉首相の受けたダメージは限りなく大きいものとなった。彼が当初持っていた強い首相という改革者としてのイメージはもろくも崩れ去ってしまったからである。

 「虚心坦懐に意見を聞いて熟慮する」と言ったことは最大の間違いだった。「これはわたしの心の問題だ」と小さく扱うべきだったのだが、善人ぶったのがよくなかった。これによって、首相はぐらついているという印象を与えてしまったのだ。もはや、首相が実際にいつ参拝するかどうかは問題ではなくなったのである。

 このぐらつきによって、彼の唱える構造改革はとん挫したに等しくなってしまった。国が危機にあるときに、いちいち反論に耳を貸していれば、窮状を打開することは不可能である。しかるに、靖国問題で彼は反論に耳を貸してしまった。他の問題でも、反論を無視できなくなってしまったのである。

 どうやら、早くも次の首相探しを始めなければならなくなったようである。さもなければ、この国がつぶれてしまう。(2001年8月12日)






 どうやらこの国は変われそうにない。まったく絶望的なことであるが、こう結論せざるを得ない。

 この国で何かを変えることがいかに難しいか。靖国問題一つ見ればそれは明らかだ。少し変えようとすると、あらゆるところから文句が出る。

 そして、その最大の抵抗勢力はマスコミなのだ。

 もともとマスコミは、変わることを最も嫌う勢力だ。マスコミの改革について、色んな議論は出たが結局何一つ変わらなかった。再販制度一つ変えられない。既得権保持に血眼なのだ。

 靖国問題もそうだ。ルールも何もあったものではない。あのニュース、このニュースはどこへいったのか。これが新聞かと思うほど、政治キャンペーン一色だ。

 土下座外交でも、外国追従でも何でもいいらしい。自分たちの既得権を保持することが一番というわけだ。

 靖国問題はマスコミの最大の既得権となっている。それを捨てられない。しかし、それを捨てない限り、日本は変わらない。(2001年8月11日)






 首相の靖国神社参拝問題は、この国をとりまく多くの他の問題と同じく、「既得権の打破」という問題の一つだと考える。

 靖国神社参拝を首相に断念させることは、この国の左翼陣営と中国共産党と韓国世論にとっては、一つの既得権となっている。だから、彼らはいま大騒ぎしているのである。それは、郵政族が郵便局の民営化で大騒ぎし、道路族が道路特定財源の見直しで大騒ぎしているのと何ら変わらない。

 彼らにとって、首相の靖国神社参拝の善し悪しなどは二の次である。これもまた、族議員にとって、郵便局の民営化の善し悪し、道路特定財源の見直しの善し悪しが二の次なのと同じである。

 既得権を死守するためには何でもするこのような人たちが、今後小泉首相の前にはつぎつぎと現れるだろう。しかも、彼らはみな善人面をしていることだろう。しかし、それに惑わされていては改革はできない。

 靖国神社参拝は、小泉首相が本当に改革ができるかどうかの試金石となるだろう。(2001年8月1日)







 日本では容疑者に対する警察の取り調べの内容がどんどん報道される。こんなことは陪審制を採用している国では、そして「推定無罪」の国では、行われていない。なぜなら、マスコミは陪審員に予見を与える可能性があることをしてはならないからである。

 日本では容疑者に対する取り調べでは弁護士の立ち会いがないため、警察は容疑者に対して何でもできる状況にある。欧米では、そのような場所で得られた供述はそもそも信用できないと判断される。ところが、日本のマスコミは警察発表をまるで事実のように報道する。人権感覚がゼロである。

 また、個人的な殺人事件を毎日毎日報道するような新聞は、欧米では大衆紙と呼ばれ、一流紙はそんなことはしないものだ。なぜなら、それらはプライバシーの侵害になるうえに、人の不幸を金にすることになるからである。ところが、そんな意識の乏しい日本では大新聞が欧米の大衆紙のようなことを毎日やっている。情けないことだ。(2001年7月18日)






 話題の「新しい歴史教科書」を購入して、通読した。そして、日本の一部の歴史家たちが発表している「『新しい歴史教科書』に見られる初歩的な誤り」を点検してみた。

 すると、その内容は明確に誤りと言えるようなものはほとんどなく、細かい表現の仕方に言い掛かりをつけたものばかりであることがわかった。その多くは重箱の隅をつつく内容で、とても「初歩的」などとは言えないものなのだ。

 結局、彼らは「新しい歴史教科書」をおとしめるためにこのようなものを発表した、としか感じられなかった。

 ここには既存の歴史家たちの「なわばり意識」も感じられた。この教科書の執筆者の中に、従来の歴史家の範疇に入らない人たちが含まれているからである。

 彼らが誤りとして指摘したことが、一つを除いて、単なる表現上の問題として、文部省にしりぞけられたのは当然である。

 むしろわたしは、日本の多くの歴史家が、表現の自由を踏みにじるこのような活動に加わっていることを情けなく思うばかりであった。(2001年7月14日)






 小泉総理大臣は、靖国神社に合祀されているA級戦犯について「死者を選別する必要があるのか」と述べたという。

 わたしはこの話を聞いて、古代ギリシャ悲劇「アンティゴネ」を思い出した。

 テーバイの王座をめぐる戦いで、オイディプスの二人の息子は敵味方に別れて戦い、二人とも死んでしまった。その後テーバイの王座についたクレオンは、テーバイの側で戦った方は手厚く埋葬するが、テーバイの敵として戦った方の遺体は埋葬を禁じて、野良犬に食わせるよう命じた。

 しかし、二人の妹のアンティゴネは、この命令に反して、放置された兄の遺体に埋葬の儀式を施す。そして、死ねばもはや敵も味方もない、肉親を埋葬するのは当然のことだと主張する。この主張は古代アテネの民衆の意見でもあった。

 A級戦犯となった人たちも、わが国民の一員であることに変わりはない。ましてや、彼らは敵としてあの戦争を戦ったのではない。国民の代表たる総理大臣が参拝して、彼らの御霊に礼を尽くすのは当然のことなのである。(2001年7月12日)
 






 筋弛緩剤混入疑惑事件は、日本の警察の捜査方法がいかに人権を無視したものであるかをよく示している。
 
 「容疑者の人権は保護されるのに、被害者の人権はなおざりにされている」とよく言われるが、容疑者の人権が保護されていると言うためには、容疑者に対するの警察の尋問に弁護士を立ち会わせることが前提条件である。

 ところが、弁護士が同席しない日本では、警察の尋問は、容疑者を自白に追い込むための場でしかない。警察官は、あの手この手を使って、事実上、容疑者に精神的なリンチを加えることが許されている。これでどうして容疑者の人権が守られていると言えるだろうか。

 この事件の容疑者は、弁護士と接見したとたんに自白をひるがえした。ということは、弁護士が知らぬ間に、警察官がやりたい放題をやったことの何よりの証拠である。

 このような自白偏重の捜査方法は、世界でも例のない人権侵害である。これを改めるには、容疑者の尋問に弁護士を同席させるように一刻も早く制度を改めるしかない。(2001年7月11日)
 





 「新しい歴史教科書」を読んだ。これほど多方面から批判されるのである。それだけでも大したものだ。だから、購入した。
 
 しかし、読んでみると教科書はしょせん教科書である。事実が淡々と列挙されている個所がほとんどで、退屈なくらいだ。どんなにすごいことが書いてあるのかと楽しみにしたが肩すかしだった。

 ただ、この教科書の事実の選択の仕方には一つ特徴がある。それは、冷戦終結という事態をそこに反映しているということである。共産主義の敗北が明らかになった後に出た教科書として、これまでの共産主義に同情的な学者ならきっと書かなかったような事実が書いてある。ソ連によるアフガニスタン侵攻の実態や、レーニンの独裁などがそれである。

 それがこれまでの歴史家たちの気にさわったのだろう。この教科書を認めることは、自分たちが敗者であることを認めることになってしまうからである。従って、彼らの批判は感情的であり、揚げ足取りやあら探しが主になっている。彼らは、細部の間違い探しを、これまでの教科書に対して行ってこなかったのに、この教科書に対してだけ行っているのだ。

 彼らは、まるで歴史教科書を書く専売特許を奪われることに腹が立っているかのようである。その意味で、彼らは既得権益を死守しようとする特殊法人に似ている。彼らも今の日本の反改革勢力の一つのように見えてくる。

 自分のたちの書いたものに自信があれば、人の揚げ足取りをする必要はないはずである。(2001年7月8日)






 アメリカで妊娠中絶手術を行っていた医師を殺害したアメリカ人の容疑者が、先日フランスで拘束され、身柄がアメリカに引き渡された。その際、フランスはこの容疑者に死刑を求刑しないという条件を付けた。アメリカはすぐにそれに従ったという。

 フランスでは死刑制度がないために、容疑者の引き渡しに自国と同レベルの人権保護を求めたのである。

 日本ではこの事件はあまり報道されなかったが、このように欧米先進諸国では、他国から犯罪の容疑者の引き渡しを求められた場合には、自国の人権保護のレベルを守ることを条件とするのは常識となっている。

 アメリカが、沖縄で婦女暴行事件を起こしたとされる米兵容疑者の身柄を日本側に引き渡すに際して、アメリカ並の人権保護を求めたのは、当然のことなのである。

 したがって、今回、容疑者の引き渡しが遅れたことでアメリカを非難するのはお門違いである。むしろ、日本人と日本政府の人権感覚の乏しさを反省すべきなのである。(2001年7月6日)


 精神障害者による殺人事件が起きるたびに、彼らに対する偏見が大きくなることは残念なことである。その結果、精神障害者の支援体制の整備が遅れたり、彼らを閉じこめてしまうような風潮が広がってしまう。しかし、そのような事件が起きるのは、逆に、わが国の精神病の治療体制と支援体制の遅れが原因なのである。

 彼らもまた人間としてのプライドを持っており、自由を奪われることに非常に嫌う。したがって、自由な行動を禁止して一ヶ所に長期間閉じこめたりすれば、彼らは社会に対して激しい恨みを抱くようになり、社会に対して復讐を企てたり、自由を手に入れるために手段を選ばなくなってしまう。それが殺人事件につながってくるのである。

 しかし、例えば、パールバックの「大地」では、ダウン症の娘の存在が最後には主人公の精神の拠り所になるところが描かれているし、朝日放送の「探偵ナイトスクープ」では、障害者の少女が大阪から四国まで旅行する感動的な姿が放送された。われわれは彼らを社会の宝として大切にしなければならないのである。

 そのためには、精神病院では開放病棟による治療をもっと押し進め、社会的な支援体制を拡充して行くべきだろう。それが事件の再発の防止にもつながってくるのである。(2001年7月3日)







 死刑制度は凶悪犯罪を抑止するどころか、凶悪犯罪の誘因となる。このことは、今回の大阪の小学校乱入事件で改めて明らかになったのではないか。何と容疑者は死刑になりたいから事件を起こしたと言っているという。ということは、死刑制度がなければこの事件は起きなかったかもしれないのだ。

 もともと死刑制度は人が人を殺すことを認めている点で、殺人事件の遠因となりうる。たとえ公的権力にだけ許されているとは言え、悪い奴は殺しても構わないと言う考え方は、簡単に個人的に応用されてしまうからである。つまり、誰かにひどい目にあった人間は、相手を許せない卑劣な人間だと判断すれば、殺しても構わないということになってしまう。

 どんな悪い人間でも殺してはいけないという考え方を国が手本として示さない限りは殺人事件は減りようがない。国だけが人を殺してもよいというのでは理不尽すぎるからである。

 日本も一日も早くヨーロッパ諸国にならって死刑を廃止すべきである。(2001年6月29日)






 小泉内閣の改革の中身が次第に具体化してきているが、それとともにそれが実現可能性の低いものであることも明らかになってきた。

 この改革の方針はまさに自民党の多くの議員たちの基盤をおびやかすものばかりであり、いわば自民党の議員たちに自殺を求めているような内容であるからだ。こんなものが自民党政権で実現することなどあり得ないのは明らかである。

 他人の首をしめる政治家はいても、自分の首のしめることのできる政治家はいない。

 この小泉革命がすでに自民党の議員たちの反感を買っていることは明らかになりつつある。田中外務大臣を更迭に追い込む動きはすでにはっきりしている。参議院選挙が終わればこうした動きは一気に奔流となって吹き出してくるだろう。自分を殺す動きに反対するのは当然のことだからである。

 そうなれば、小泉首相が退陣に追い込まれるのは時間の問題である。その時、改革は政権交代抜きにはあり得ないことを国民は知るだろう。(2001年6月22日)
 





 禿鷹のように舞い、ハイエナのように群がる。マスコミが事件を食い物にする様子は、文字通りこのままである。

 何か事件が起きると、その上にあちこちからたくさんのヘリコプターが集まってきて空中から映像をとる。その様子はまさに禿鷹そのものである。

 そして、事件現場や容疑者の家のまわりに、カメラをもった人たちが殺到する様子は、まさにハイエナそのものだ。

 彼らはそうして金儲けのネタを探しているのである。彼らのこうした行動は何らかの権利に基づいているわけではない。警察のように捜査権を持っているわけではもちろんない。被害者を実名で報道するのも、決して何らかの権利に基づいてやっているわけではない。

 要するに人の不幸で飯を食べているわけである。こんな仕事だけはしたくないものだ。(2001年6月18日)






 大阪の小学校乱入事件で、容疑者に刑事責任を負わせるために、警察が容疑者の精神病を芝居であると決めつけようとしていることに危惧を感じる。この容疑者の過去の事件で刑事責任を問わなかったことに対する言い訳を見つけようとしているのように見えるからである。

 言うまでもなく、事件の大きさは容疑者の刑事責任の認定とは関係がない。傷害事件で問われなかった刑事責任が、殺人事件だから問われるとしたらおかしい。そこで考え出したのが、芝居説ではないかと思えるのだ。

 この容疑者が刑事責任を問えるかどうかは、精神鑑定に依るべきで、密室での取り調べの内容で決められるものではない。むしろ、精神的に弱い人間が追い込まれている可能性は充分にある。

 犯人逮捕後のこの時期の警察は、容疑者がいかに悪人であるかを強調しようとする傾向がある。

 しかし、この事件は犯人憎しだけで片づけられないもっと大きな問題をはらんでいるように思われる。それを明らかにするためにも、適正な捜査が望まれる。(2001年6月15日)
 






 兵庫県の貝原知事が任期途中で突然辞めたのは、県知事選挙を参議院選挙と同時にするためではないか。そうやって、国会議員が知事選に転出してくることを防いだのではないか。また、任期いっぱい勤めて、知事選挙が参議院選挙のあとになれば、選挙に落選した人が知事選挙に出てくることも考えられる。それを防止したわけだ。自分の好みの副知事をすんなり自分の後継知事に据えるために、貝原さんは深慮遠謀を働かせたということだろう。

 しかし、そんなことを考えている暇があったら震災被害者に出す援助金の男女差別をやめる努力をすべきだろう。このまま副知事しか有力候補が出ないときには、わたしは白票を投ずるつもりだ。こんな八百長選挙は許せないからである。

 後継知事といわれている副知事もなかなか出馬表明をしない。他から有力候補が出ないことを見計らって表明するつもりだろうか。勝ち戦しかしたくないというわけだろう。しかも、そんな人間を連合兵庫までもが候補として推薦したという。これでは兵庫県民は救われない。誰か本気で県民のためになってくれる人はいないのか。(2001年6月14日)





 日本の自殺者は年間に三万人、つまり毎日百人近くの人がこの世に絶望して死んでいくのである。その百人の中の一人ぐらいは、人に迷惑をかけてから死んでやろうと思ったとしても不思議ではない。

 今回の大阪の小学生殺人は、この範疇にはいる人間のしでかしたことではないか。つまり、人生の負け組が人生の勝ち組に対して死ぬ前に復讐をしようとしたのだ。 

 さらに、犯人は、死刑になることが目当てだったと言っている。となると、死刑が犯罪を引き起こしたと言える事件だ。死刑があれば凶悪犯罪が少なくなると思っていたら、逆だったのだ。しかし、一般に自殺願望のある人間が人殺しをするのだから、この犯人の言うことは一応は筋が通っている。

 結局この事件は、大量の自殺者が出る社会、死刑のある社会が生んだ事件である。本当に人の命を大切にする社会なら、この事件は起こらなかった。そう言えるのではないか。(2001年6月14日)






 精神障害者は、軽い傷害事件なら責任能力は問われないが、凶悪事件なら問われるのだろうか。かつて責任能力なしとして不起訴になったのなら、この事件でも不起訴にならなければならない。それが法だ。それが正義だ。マスコミは同じ人間の以前の犯罪を精神病患者の犯罪として報道しなかったのは間違いだったのか。

 犯罪が大きくなればルールは無視して構わないというなら、犯罪者と同列になってしまう。いま日本にはルールを守る人間はどこにもいなくなっている。

 被害者がかわいそうだという報道は本心からではあるまい。本当に被害者を気遣っているのなら、実名は出さないはず。実名を出すのは売るためである。視聴率のためである。金のためである。その後ろめたさを隠すために、被害者の子供の夢がどうだかという記事を書く。「そっとして置いて」と言うなら、記事を書かないことだ。被害者をさらし者にするのはけっして正義ではない。(2001年6月14日)






 ティモシー・マクベイ。この名前はアメリカの死刑制度のおかげで一躍世界じゅうに知れ渡った。この人物は死刑になったおかげで歴史上の人物になったのだ。もしこれが終身刑だったら大した話題にもならなかっただろう。皮肉なことである。

 この死刑によって、凶悪犯罪が減るとは考えられない。一介の無名の人物が、超有名人になったのだから、これ以上得なことはない。悪いことをして有名になれるのだ。死刑制度の無意味さ愚かさは、この死刑執行を見ても明らかだ。

 アメリカとはなんと野蛮な国か。この刑の執行を関係者に公開したというのだ。死の直前に彼はカメラの方をじっと見たという。彼が見ている人たちに対して呪いの言葉をはかなかったのが不思議だ。

 事件による死者をもう一人増やしすのが死刑である。人命を尊ぶというスローガンがいかにうそっぱちであるかよく分かる。人命に差別を付けたのが死刑制度だ。(2001年6月14日)






 大阪の小学校の殺人事件のニュースも今日で四日目になる。しかし、どんなニュースも三日も同じニュースを聞かされるとうんざりだ。それが四日も五日もなるとチャンネルを変えてしまう。新聞も読む気がしない。

 これは一般人の反応ではないか。一般人にとっては、どんな深刻な事件も他人事にすぎない。どんな重大な事件も例外的なものにすぎない。しかもどんなに報道しても殺人事件は絶対に無くならない。

 マスコミと一般人とのこのギャップはどこから来るか。それはひとえにそれで金儲けになるかどうかだ。マスコミは何日もやればそれで金になる。

 ついこの間も一つの事件で何日もマスコミは大騒ぎをしていた。また同じことの繰り返しだ。前の事件は何だったかすぐには思い出せなかった。よく考えると、多分、浅草の殺人事件だったか、メル友殺人だか、そんなことだったと思う。こうしてマスコミは次から次へと事件に食らいついては金儲けをしていく。新しい事件が起こると前の事件は忘れてしまったかのように。(2001年6月12日)
 






 田中真紀子外相が、アメリカの全米ミサイル防衛構想に反対する発言を他国の外相にしたということが問題視されているが、公式発表でもないのものがどうして問題になるのだろう。

 外交交渉の場では何も本当のことだけを言うとは限らない。相手の本心を探るために嘘を言ってカマを掛けてもかまわないのである。虚々実々の駆け引きというではないか。

 中国などは公式発表すら本心から言っているのか、単なるこけおどしなのか分からないくらいだ。本当に、日本人はばか正直というか、何でも真に受けすぎる傾向がある。外交は道徳の発表の場ではないのだ。何が国益につながるかが第一であり、そのために嘘を言っても構わないのである。相手もそれぐらいは知っている。

 外相は政府の統一見解しかしゃべってはいけないなどということはない。田中外相は、今回の批判は軽くかわして、これからも自分の感覚を信じてどんどんやってもらいたい。それゆえの田中人気なのだから。(2001年6月2日)






 土地の値段は変わるのに土地を担保にして金を貸したから不良債権になった。金は人に貸すべきものであって土地に貸すものではない。最近聞いた言葉で、実に名言だと思う。

 ところが、最近、警察がしきりにあちこちで捜査している背任事件は、充分な担保を取らずに金を貸したという容疑である。いったいどうなっているのかと思う。

 これでは、金を貸すときは、土地建物を担保にとらなければ手が後ろに回るということになる。相手を信用して、相手の能力に期待して、困っている人に対して、金を貸してはいけないということになる。

 しかも、いったい誰が自分の属する組織に損をさせようと思って金を貸すだろうか。

 経済分野の背任事件はよほど注意して捜査しなければ、警察が金の貸し方を制限することになる。そうなれば、経済活動の自由な発展が阻害されるばかりか、土地神話が復活してしまう恐れさえある。こういうことに対して警察はどういう認識を持っているのか、聞いてみたいものである。(2001年5月30日)







 けがを押しての出場には感動したが、勝ってしまったときには白けた、というのが多くの人の感想ではないか。今場所の大相撲、千秋楽の横綱貴乃花についてである。

 それにしても貴乃花は人気がない。あれだけがんばって優勝決定戦に勝ったにもかかわらず、その瞬間場内に座布団が舞ったのである。しかも、表彰式のために場内に再登場した貴乃花に対する拍手も満場割れんばかりの拍手というものではなかった。それは、そのあとに登場した小泉首相に対する、場内立ち上がっての拍手と比べても歴然とした差があった。武蔵丸ファンがそれだけ多かったのかそれともアンチ貴乃花が多かったということだろうか。あのけがは芝居だったのかという声さえ聞こえたのだ。

 貴乃花はすごい、しかしすごすぎて人間味がないということだろう。まるで相撲サイボーグかロボコップかといったところだ。それに加えて、優勝インタビューの素っ気ないこと。もしあれが引退した曙なら、もっと雄弁に人々の涙を誘うような言葉を並べたことだろう。ところがあの言葉少なさ。あれもまた人間味の薄さを感じさせる。土俵の鬼は人間ではないということか。彼は勝つべきではなかったのかも知れない。(2001年5月28日)






 シルバー人材センターというものが全国的に作られている。引退した老人の経験を生かそうというのだが、実態はどうなのか。

 失業率が増大しているなかで、若い人の仕事を奪ってはいないのか。本当に老人は有能なのか。老人の力を借りなければ、できないような仕事がそんなにあるのか。第三セクター方式で作られており、役場の仕事を優先的にもらっているようだが、民業を圧迫しているのではないのか。結局は税金の無駄遣いになっているのではないか等々、数々の疑問がある。

 老人を民間企業が雇わないのは理由がある。使いにくいからである。自分の経験にとらわれて、新しいことに対する順応力が低いのだ。しかもプライドは高い。多くの老人は体力がなく、もたもたして仕事が遅い、などなどである。

 こんな分かり切ったことがあるのに、税金を使ってシルバー人材センターがあちこちに作られている。食べていけない老人を救済するというならわかるが、年金をもらってるのにまだ働くのかという感じだ。

 老人の手も借りたいというほどに景気が戻ってくるまでは、シルバー人材センターはお休みにしてもいいのではないだろうか。(2001年5月21日)






 阪神の野村監督の野球は、一般には知られていないが、長島監督以上にホームランに頼った、ホームランを待つ野球である。投手をつないでつないで最小失点にとどめて、あとは一発のホームランで勝つのである。

 攻撃は決して積極的ではない。盗塁も滅多にしない。そんなことをしてアウトになればホームランの出るチャンスが減ってしまうからである。

 ヤクルト時代はそのやり方で何度も優勝できた。しかしそれはまさにヤクルトのように年間に十本以上ホームランを打てる力のある選手が何人もいて、しかもホームラン王になるほどの外人バッターがいて、狭い神宮球場がホームで、後攻めの利点をもっているチームだったからこそはじめて可能だったのである。

 阪神のような非力な選手しかいないチームで、そのうえ甲子園球場のような広い球場をホームにしているチームで同じやり方をしても勝てないのは当然だ。せめて外人バッターがホームラン王になるほどの選手ならよかったのだが、それもまさに、野村監督の野球が、ホームラン待ちの野球であることの証拠だ。

 甲子園球場の野球は、高校野球の監督がよく知っている。ホームランバッターのいないチームはヒットエンドランや盗塁を多用して足でかき回してはじめて勝てる球場なのだ。事実、野村監督は今年、足の速い選手をたくさん集めた。しかし、実際の試合となると、走らせない野球、待ちの野球、守りの野球、ホームランを待つ野球に戻ってしまう。

 彼の野球は南海時代の野球を引きずっているのではないか。南海時代は自分がホームランを打って決着をつけていた。そして、彼のホームラン数が減るとともに、南海の成績も落ちていき、最後に解任された。

 彼は阪神むきの監督ではなかった。ヤクルトや広島やオリックスやダイエーや近鉄などホームランを打てるバッターがたくさんいるチームなら優勝できるが、そうでないチーム、例えば中日や横浜やロッテそして阪神ではなかなか勝てない。そういう野球なのである。(2001年5月20日)






 「アンチ巨人なんていうのはおかしい。プロ野球のファンならどこかのチームのファンであるべきで、そのチームを応援すればいいのだ。巨人が負けることを願って試合を見るのは普通じゃない」

 ある巨人ファンの人がかつてわたしにこう言ったことがある。

 アンチ巨人の人間の心理は、子供時代の夢を実現した幸福な人たちに対するねたみに発するものであろう。例えば、清原が西武にいたときには応援したが、巨人に入ってからは応援しなくなったという人は多いのではないか。

 しかし、巨人があまり負けなくなった今では、そんな人たちは巨人戦を見る理由がなくなってしまった。そのかわりに、地元のUHF局やCSテレビで、それぞれのひいきのチームの試合を応援しながら見るようになったのではないか。かく言うわたしがそうのである。

 そして、まさに最初にあげた彼の言う普通の状態になったのである。巨人戦の視聴率が下がったからと行って、プロ野球全体の人気が落ちたとは一概には言えないとわたしは思う。(2001年5月20日)







 雅子妃のご懐妊を機に女子の天皇を認めようという声が上がっているが、どうだろうか。

 皇室典範は皇位の継承順位をちゃんと定めていて、天皇に女の子しかない場合にも支障がないようになっている。

 皇室は一般と違って長子相続である。それを長女でもよいというなら、その伝統を変えることになる。一般にならって男女平等にすべきだというなら、長男以外の男子はどうなのかということにもなる。さらに、長女のあとに長男が生まれたときはどうするのかという問題も生まれるだろう。

 また、皇室には継承順位に則った方が現におられる。長女相続をここで加えるならば、その方の継承権を取り上げることにもなってしまう。はたしてそれでよいのか。

 確かに、女性の天皇はこれまでの歴史の中でなかったわけではない。しかしそれは遠い昔の話である。皇室典範自体が、戦後に作られたものだということも忘れてはならないだろう。雅子妃の人気に便乗した議論は慎むべきである。(2001年5月16日)






 いったん検定を合格したものを再修正することはあり得ない。教科書問題での政府のこの姿勢は、正しいと言える。ただし、もし検定の過程に誤りがなかったらの話である。だが、もしその過程に誤りがあったならどうだろう。

 今回の扶桑社の歴史教科書の検定は「初めに合格ありき」だった。そして、合格させるために数々の修正をさせている。そう見えるのだ。

 つまり、当時の文部大臣と自民党は「この教科書のせいで、日本と韓国の間の関係が悪化してもかまわない。修正で合格させてしまえ。いったん合格させてしまえばこっちのものだ。あとで何を言ってこようが、内政干渉で突っぱねたらいい」という考えだったように見える。

 しかしもしその通りなら、この検定は八百長試合と同じである。

 小泉政権は、この教科書の検定の過程を調べ直すべきだ。そして、もしそこに誤りがあったのなら、この教科書の検定を最初からやり直すべきだろう。八百長は許されない。(2001年5月9日)






 今年になってわたしはテレビでほとんどプロ野球を見ていない。

 わたしはアンチ巨人である。特にひいきのチームはなく、巨人が負けるのを楽しみにテレビを見ていた。ところが、このごろはたいてい巨人が勝ってしまうので見ないのである。

 巨人はわたしにとって悪玉である。その悪玉がテレビでやっつけられるのが面白かった。その悪を懲らしめてくれる正義の味方は、どこのチームでもよかった。

 ところが、最近はそんなチームがいなくなってしまった。たまに巨人に勝っても、巨人の優勝を阻めるようなチームはいなくなってしまった。巨人が大金を使って他の球団の優秀な選手を引き抜いてしまったからである。

 しかし、金の力で自分の思いを遂げるのはドラマの中では昔から悪役と決まっている。巨人は本当に悪役になってしまったらしい。最近は昔からの熱心な巨人ファンもフャンをやめているという。悪役と知って誰が応援するだろうか。当然の結果である。(2001年5月8日)






 小泉首相は所信表明演説で改革を訴えた。しかし、改革者であるためには国民に嫌われ政権を失うことを覚悟しなければならない。

 例えば、昔で言えば、寛政の改革や天保の改革がそうである。どちらの政治家も最後は失脚した。彼らは本当に改革を実行して国民からそっぽを向かれたからである。

 小泉首相ももし本当に改革を行ったら、まず自民党内から、次に自民党の地盤から総攻撃を受け、最後に国民全体から嫌われるだろう。そうなれば、必ず政権を失うときが来る。しかし、それが本当の改革というものである。

 だから、これまでの自民党政権は口で改革を言いながら、実際には何もやってこなかった。

 しかし、小泉首相の場合は、言うだけで何もしないとなると、その場合もまた政権を失うだろう。国民はとにかく今は改革を望んでいるからだ。

 彼が政権を失わない方法がただ一つだけある。それは少しだけ改革をしてお茶を濁すことだ。しかし、その時にはこの国が滅ぶ。つまり、どちらに進むにしてもこの首相にとっては地獄道である。とにもかくにも、あの人はその道に踏み出したのである。

 彼が失脚して改革が実現する日を待とうではないか。野党の諸君はその日のための準備を忘れないことだ。(2001年5月8日)






 小泉政権の支持率が異常に高いのは、日本の閉塞感の表れで予想されたことだ。しかし、小泉首相が言ったとおり、これからは支持率は下がるだけである。言ったことが実行できないと言うことが明らかになれば、急降下することは間違いない。

 ところが、その言ったことの内容が過激でとても簡単にできそうにないことばかりだ。すぐに言行不一致に陥ってしまうだろう。

 特に、憲法の改正に言及したのはどうだろうか。首相公選制ならできるだろうと言うが、もっと簡単な条項すら改正されずに来ている。日本ではとてもじゃないが憲法は変わらない。

 靖国神社の公式参拝にしてもそうだ。わたしは祖先に敬意を表するのに外国に遠慮する必要はないと思うが、与党の中に反対者がいるのなかではとてもできないだろう。

 郵政三事業の民営化問題もそうだ。自民党の支持母体の意向に反した改革が自民党を中心とする政権でできるわけがない。

 このように、できないことばかりを彼は言っているのだ。竜頭蛇尾に終わることは今から目に見えている。

 政権交代無くして改革なし。もしこのことに気づかせてくれるのなら、それが小泉政権の唯一の功績となるだろう。(2001年5月6日)
 





 北朝鮮の金総書記の長男が不法入国したというが、政府の対応は実にお粗末だった。北朝鮮に恩を売りたいからすぐに国外退去にしたと言うが、話が逆だろう。金総書記の息子なら旅券など必要はないとしてVIP待遇で歓待すればよかったのだ。それでこそ北朝鮮に恩を売ったことになるだろう。

 ディズニーランドに行きたいというなら護衛をつけて行かせてあげればよかったのだ。彼が金総書記の後継者として北朝鮮の指導者になったときにどれだけ日本びいきの指導者になるかは、少し考えれば分かることだ。

 総書記の息子を歓待してくれたとなれば北朝鮮に拉致されている日本人に対する待遇も変わったはずだ。もしかしたら何人かをすぐに返してくれたかもしれない。相手だって血も涙もある人間なのだ。外務省はそんなチャンスをみすみす捨ててしまった。

 外交の基本は人を如何にもてなすかであろう。そんなイロハを知らぬ連中が外交をしているのだから、国益を守れるはずがない。 (2001年5月4日)






 野中前幹事長の古賀幹事長留任発言が出たが、これは野中氏のいつもの作戦だ。こうして自派の候補である橋本龍太郎氏が総裁になるための流れを作ってしまおうとしているのである。

 この「流れを作る」というやり方は小渕さんの時も、森さんの時も同じだった。また、加藤の乱の時もこれと同じやり方で勝利を収めた。

 このやり方の特徴は、流れを作ることで「投票」という神聖な行為を無意味なものしてしまうという点である。しかも、同時に、彼がフィクサーとしての自分の地位を固めていることも見逃せない。

 彼は総裁選挙に出ることを辞退したが、それが謙虚さから出たのではないことは明らかである。

 このような行動を反民主的な行動であると言わずして何と言おうか。このようなことを繰り返す政治家を、いつまでわたしたちはのさばらせておかねばならないのか。

 野中的やり方と野中的政治家を排除すること。もし自民党が再生するとしたら、それしかないとわたしは確信している。 (2001年4月20日)







 日本のプロ野球の人気が下がっているという。その理由として、アメリカの大リーグでの日本人選手の活躍があげられているが、もっと別の問題がある。

 それは日本のプロ野球が巨人を勝たすための組織になっているということだ。

 ドラフト制度もフリーエージェント制度も巨人を勝たすためにしか役立っていない。特に、フリーエージェント制度で巨人から出ていった選手はただの一人しかないのに、巨人に入った選手は数知れない。

 その上に、今年から始まった勝率ではなく勝ち数が多いチームに優勝させる制度である。昔、勝ち数で優りながら勝率で下回ったために巨人が優勝出来なかったことの反省から生まれたものだ。これが露骨な巨人優遇策であることぐらい誰でもわかる。その証拠に、パリーグではこんな制度はとられていない。

 まったくファンを馬鹿にしたやり方だ。こんな八百長ばかりする日本のプロ野球にファンがそっぽを向くとしても、それは当たり前である。(2001年4月12日)







 播磨町に住んでいると休日は朝からにぎやかでね。7時過ぎからあちこちの町内会が何かやるらしくて拡声機で放送をするわけ。それが町内につぎづきと響き渡って、前の日に夜更かしなんかしたら罰を受けているようなもの。きのうも、チャイムの音があちこちでよく鳴っていました。田舎に住むと静かだというのは嘘ですよ。都会暮らしの頃が懐かしいです。都会ではああいうことはないから。

 携帯電話を電車の中で使う人を不心得者と決めつけてる人がいるみたいだけど、そういう人がえてして朝から拡声機で放送してるんじゃないのかな。相手が単数でも複数でも、関係ない音が迷惑なのは同じなんですよ。(2001年4月1日)
 



 再販制度などというものは、新聞社が保護を受けなければやっていけない情けない企業であることを証明しているようなもので、いわば業界の恥部のようなもの。だから、そんなことを文化だの公共性だのときれい事を並べて主張することがそもそも恥ずかしいと言う認識がないといけない。新聞社にはそう認識が欠けている。

 98パーセントの国民が制度維持に賛成していること自体、国民のなかにいかに多様性が育っていないか、いかにメディアの世論操作が強烈であったか物語るだけである。

 新聞社の経営を支えているのは、購読料ではなく、広告料であることは誰でも知っている。再販制度と宅配制度とは大した関係がないはずだ。もし大いに関係しているというなら、経営状態を公開すべきだろう。

 新聞は購読料を無料にして、購読者数を倍増させれば、広告料だけでやっていけるはずだ。現にテレビ局はそうしている。

 いったい、他の業界に対して自由化を主張しながら、自分だけ保護を求めることを恥とする骨のある新聞人はいないのか。(2001年3月25日)






 新聞の収益の大部分を占めるのは、購読料ではなく、広告収入である。

 実際、新聞を取っている人たちは、何も新聞を読みたい人ばかりではない。新聞をとっていても、見るのはテレビ欄と広告ばかり、中には折り込み広告しか見ない人たちが沢山いる。 だから、より多くの広告収入を得るためには、新聞はより多くの購読者数を持っている必要がある。

 しかし、現在の購読料の高さは購読者を集めるうえでの大きなネックとなっている。それなのにどういうわけか新聞社は購読料金を下げるどころか、引き上げ続けてきた。

 しかも、各新聞社は再販制度の維持を横並びで主張している。何をか言わんやである。本当は、購読者数の多い新聞はそれだけ安くていいはずなのだ。購読者数が多ければ、購読料による収入だけでなく広告収入が多くなるからである。

 海外では購読者数を伸ばすために新聞を無料で配付する試みが始まっているという。読者が高い金を払わされているのは日本だけということは願い下げにしたい。(2001年3月22日)







 最初、加古川に「そごう」ができたとき、こんな田舎に百貨店を出店するなんて「そごう」もむちゃなことをするものだと思ったが、案の定十年ほどでつぶれてしまった。そりゃあそうだ、町で一番立派な建物が市役所であるような町に百貨店は分不相応である。

 高嶺の花の良家のお嬢さんがお嫁に来てくれたが帰ってしまった、あるいは、貧しい農家に突然やってきた美人が鶴に戻って旅立ってしまった、そんなところである。

 ところが、高嶺の花のために特別に作った御殿が空き家では困ると、別の百貨店が入ることになった。入れ物があるから中身を作ろうと言うわけだが、何か本末転倒のような気がする。日頃クラシックなど聞く人などいないのに、豪華なコンサートホールをつくる田舎の町の発想だ。要するに、人間が先じゃないのだ。

 そもそも百貨店というのは都会にあってこそ意味がある。それを田舎に作ってどうするのか。加古川は人が寝に帰るところである。そんな町に必要なのは日用品がそろう店であって贅沢品を並べた百貨店ではない。

 分不相応には必ずツケを払うときがやって来る。それを払うのは国民である。(2001年3月7日)






 国会で野党が不信任案を出すとか出さないとか言っているが、国民はそんなことにはもう興味がない。国会は機能不全に陥っており、そんなところでちまちまと何かをしてもらっても何もうれしくない。それより、いっそこんな国会をぶっつぶしてくれるような人が現われないかと思っているのだ。 

 日本の国会はすでに物事を決定する機関ではなくなっている。決めるのはどこかよその場所であって、ただ民主主義の形をつけるだけのために開かれているだけなのだ。だから、与党は野党が出てこようが来まいが審議を進めて裁決してまう。形をつけるだけなのだから、野党の意向などどうでもいいである。

 国会がこうなってしまった以上は、野党は国会以外のところで勢力を伸ばせばいい。例えば、この国の重要な事柄は国会ではなく、県レベルで決定され始めている。東京都のディーゼルエンジン対策や長野県の「脱ダム宣言」などはその典型だ。

 憲法にどう書いてあろうが、もはや国会は国権の最高機関ではない。その最大の証明が森喜朗なる人物が首相になったことであることは言うまでもない。(2001年3月3日)







 警察は大きな事件、重要な事件を解決することを優先する。しかし、個々の被害者にとっては、大きな事件も重要な事件もなくて、ただ自分の事件があるだけである。いくら重要な事件を解決されたところで、それで自分の事件が解決されなければ、警察に対する信頼感は沸いて来ない。

 例えば、スージーさん失踪事件で警察は織原容疑者を何度も何度も再逮捕して一生懸命に捜査しているが、それを見て警察を応援したくなる気持より、むしろ被疑者を好き放題に拘束できる警察という存在に対して恐怖感を持つようになるだけである。

 先に証拠を見つけてから逮捕すれば、あんなことはする必要がないはずで、警察に睨まれると何されるか分からないのは戦前と同じだという印象を受ける。

 マスコミは悪いやつを捕まえろと騒ぐかもしれないが、それをそのまま一般市民の考えだと受け取ってもらいたくない。どこの誰だか知らない人の事件が解決するより、自分の事件が解決してくれる警察の方がよほど頼りになる存在なのである。(2001年2月23日)






 最近、拡声器を積んだ車による物品販売が盛んになっています。私は一日自宅にいるのでよく分かるのですが、そのような車が一週間のうちでやって来ない日はないと言っていいほどです。

 ところが、あまり知られていないと思いますが、住宅地で拡声器を使って物を売ったりすることは各都道府県の条例によってはっきりと禁止されているのです。

 つまり、あのような業者はれっきとした条例違反を犯しているのです。末端の販売員はともかく、経営者は大きな投資をするのですから、あらかじめこの事実を知っていないはずはありません。つまり、彼らはそれと知りながら法律違反をしているのです。そのような人たちが信用できる人たちかどうかは、論じるまでもありません。

 せっかくわたしたちの静かな住環境を守るために作られた条例です。少しぐらい便利だというだけで、せっかく手に入れた権利を住民自らが放棄してしまうことがないようにしたいものです。(2001年2月15日)
 






 御津のタクシー強盗犯の少年が検察官送致になった。それを当然だという声が各方面から聞かれるが、いかがなものか。

 わたしは少年の犯罪はあくまで少年法で裁くべきだと思う。さもなければ少年法の存在意義がなくなってしまう。あの少年を刑法で裁けば、強盗殺人であり、死刑または無期懲役である。これではあの少年の人生が終わったに等しい。もう、やり直しどころではない。

 少年の罪はまわりの大人の罪だという考え方が、このようにしてなし崩しにされていけば、社会が人を育てるという考え方はなくなってしまい、ますます自分中心の人間が横行するようになるだけである。

 厳罰主義を求める声の広まりの根底にあるのは、自分はいつも被害者で、犯罪者はいつも他人だという自己中心的な考え方であろう。現実は、裁判官や検事でも、誰でも明日は犯罪者になりうるのである。

 欧米では社会の進歩とともに死刑は廃止され、刑罰は軽減される方向にある。それなのに、日本だけは『目には目を』のハムラビ法典の昔に逆戻りしようとしているのだろうか。(2001年2月14日)







 定住外国人の参政権付与に反対する人たちの最大の根拠は、国の安全保障をおびやかされるということである。そして定住外国人は参政権を欲しければ日本国籍を取るべきだと言っている。

 安全保障をおびやかされるということは、要するにスパイをされる可能性があるということであるが、それは国籍を取ったところで同じことだ。

 例えば、戦争になれば、たとえ日本国籍を取っていようと、敵国の出身者が日本国に対する忠誠を疑われることになるのは、太平洋戦争における日系アメリカ人にアメリカにおける扱いを見ても分かることだ。

 国籍はないが日本の政策に直接影響を受ける人たちが参政権を持つことに対する合理的な反論の根拠は、すくなくとも安全保障の観点からは得られないと考えるぺきであろう。(2001年2月5日)






 灯油の巡回販売が定着して冬の風物詩の一つになった感がある。しかしそれにともなって、問題点も目立つようになってきた。

 その一つは、騒音問題である。音楽と宣伝文句を拡声機で流しながら販売するという方法をとっているが、その音がかなり大きい。そのため、家の前に来たときだけでなく、かなりの長時間にわたって町中にひびく音楽を聞かされる。それが一社で週二回、二社来るから週四回である。

 次に問題なのは、地域の交通安全を脅かしていることだ。彼らは家の玄関口に出されたポリタンクを探しながら、道あるところどこまでも入ってくる。一台のタンクローリーの受け持ち範囲はかなり広く、その全ての道を一日で回らなければならないため、ゆっくり運転している余裕はなく、ポリタンクがないとわかると住宅地でも構わずアクセルを踏み込んで去っていくのだ。

 これらの問題を放置しておいてよいのかどうか、考えるべき時に来ているのではないか。(2001年2月5日)






 拡声機を使った巡回販売が多くなっている。灯油の販売店がタンクローリーが音楽を流しながら住宅地のなかを回る光景はいまや冬の風物詩になった感さえある。しかもそれは一社ではない。また、それを真似て最近ではパン屋が放送しながら住宅地に来るようになった。休日には休日で中古バイクの回収車が大きな音を出しながら回ってくる。

 こうして、このごろでは拡声機による宣伝放送を聞かない日はないぐらいになっている。もはや住宅地の静かな環境は失われてしまっている。

 これをそのまま放置してよいのだろうか。大切な選挙の時でさえも、拡声器を使う選挙カーを使う時間帯は制限されている。ところが、こちらの宣伝放送はまったくの野放し状態である。実際、このような宣伝活動は県に問い合わせると生活環境条例に違反しているそうである。

 しかし自分たちの生活環境を守るのは、結局は自分たち自身である。住民の側でも、自分たちの静かな環境を守るためには、便利だからといってそのような巡回車を安易に利用しない心構えが必要ではないだろうか。(2001年2月1日)






 灯油の巡回販売が全国に広まっているようだ。しかし、拡声機を使って音楽を流しながら売り回るあの商法は、県に聞くと、れっきとした条例違反なのだそうだ。つまり、あれは騒音をまき散らしているのである。しかし、利用者がいるから禁止はしていないという。

 確かに、灯油を玄関先まで運んでくれるのは便利ではある。しかし、だからといって違反が許されるとは、どういうことだろう。

 実際あの放送はかなりうるさいもので、選挙運動カーの拡声器の音よりも大きいくらいだ。しかし、選挙のほうは時間が決められているし、期間も短い。ところが、こちらは一冬中。時間も野放し状態である。ひどいのになると、夜中の十時に来たという話もある。

 難しいことは知らないが、静かな環境を守るためにつくった条例だろう。それが、あのような騒音を防止するのに役に立たなければ、絵に描いた餅でしかない。悪いものは悪いと、しっかり取り締まってもらいたいものだ。そうすれば、騒音なしの販売方法も生まれてくるはずだ。(2001年2月1日)






 「社会を統治するには国民に恐怖か希望のどちらかを与える必要がある」と誰かが言っていたが、まさに至言である。

 戦前の日本は恐怖によって統治されていた。それに対して戦後の日本は希望によって統治されてきた。しかし、ここに来て日本にはもはや希望がないということが次第に明らかになってきた。その結果として、日本の統治は底辺の部分でほころびを見せはじたのである。成人式の若者たちのご乱行はまさにそれだ。

 そこで、ある人たちは恐怖を国民に与えよと言い始めた。それは神の存在を教えろという宗教教育の提唱にほかならない。それは教育とは強制であるという言う人たちと同じ人たちの口から出てきている。

 しかし、恐怖ははたして悪か。たとえば、神に対する恐れは人間を謙虚にする。そこには秩序が生まれるだろう。それならば、ひょっとして恐怖による支配は悪いことではないかもしれぬ。

 だが、月が埃の固まりでしかないことを知っている今の世代に、神を信じろと言っても無理な話だ。宗教教育は、たとえやってもうまくは行くまい。結局、それは単なる恐怖政治に至る道でしかないかもしれない。(2001年1月16日)


私見・偏見(2000年)
私見・偏見(1999~97年)へ






 日頃おとなしい動物園の動物が飼育員を殺したりすることを、野生に戻ったというふうにわれわれは考える。人間の場合に、日頃おとなしい人が人殺しをしたりするのも、これと同じように考えることができる。

 人間には理性によっては抑えられない衝動というものがあって、それが姿を現すとき反社会的な行動をとる。動物の場合、その動物には何の罪もないこ とは明らかである。動物園という社会に連れてこられないかぎり、その動物は裁かれることはない。しかし、動物園にいるために人間を殺した動物は処分されて しまう。

 人間社会の犯罪もそれと同じことである。社会を作っているがゆえに人間は犯罪者になる。社会というものを大切にするかぎりは刑法と言うものは無くてはならない。

 しかし、人間もまた動物である以上は、犯罪者になる可能性は誰もが持っているということを忘れるべきではない。犯罪が自分以外の別のところにあるかのような議論をする人は自分を神と見なしているのと同じである。誰もが犯罪者の予備軍なのである。

 誰かが今の時点で犯罪者にならずに済んでいることは、単なる偶然の産物と言っていい。犯罪者を蛇蝎視することは、天につばする行為であることを忘れずにいたいものである。(2000年12月28日)






 わが町の休日の朝の空は自治会の拡声機を使った放送によって占領されている。休日の朝7時から9時にかけて、各自治会の役員が自前の放送設備を 使ってその日におこなう行事の案内をする。ピンポンパンポンというチャイムの音が、間を置いてあちらからこちらからと町の空を覆っていく。

 行事の内容は、運動会であったり祭りであったり公園の清掃であったり廃品回収であったりと様々である。それらの行事に参加を求める放送があちらからこちらからと聞こえてくるのである。

 しかし、このようにして朝の静けさを奪うことは、第一にまず環境破壊であろう。

 また当然ながら、この時間帯に眠っている人の睡眠を妨害することになる。「普通の人なら起きている時間だ」と考えて放送しているのなら、それは夜中に働く人たちを差別していることにもなる。

 本来、自治会活動は、住民相互の善意の上に成り立っているものである。それを「今からやるから集まれ」と言わんばかりに放送で招集をかけるとは、少々乱暴すぎると思うのである。(2000年12月20日)






 人間の進歩はけっして良い結果だけをもたらすわけではない。

 最近起こったオーストラリアの登山電車の火災事故についてもこのことがいえる。かつては、山上のゲレンデまで行くのに何時間もかかっていたもの が、山腹を貫くこの電車の開通でわずか一時間で行けるようになった。しかも一度に大量の人間を運べるようになった。しかしその結果、今回の事故での死者数 は百五十人近くにのぼることにもなったのである。

 尼崎の公害訴訟では被害者原告団のうちで百四十人もの人たちがすでに亡くなっているという。わたしたちは自動車の便利さを手に入れたこととの引き換えに、これだけ大きな代償を支払ったわけである。

 最近のニュースを見ているだけでも、人間の進歩は常に悲劇と背中合わせのものなのだとつくづく思う。それでも人間は進歩の歩みを止めてしまうわけにはいかない。進歩をあきらめた人間はもはや人間ではなくなってしまうからである。(2000年12月10日)






 雪印はあれだけの食中毒事件を起こしたのにもかかわず、あまり反省しているようには見えないという意見を、多くの被害者の方たちが抱いているそう だ。被害者でないわたしでもそれは想像がつく。なぜなら、雪印は牛乳の紙パックのデザインを変えることなく販売を再開したからである。

 被害者の立場に立てば、あの牛乳バックのデザインを見るだけでも気分が悪くなることは容易に想像がつくはずだ。もし販売を再開するなら、外見から変えるべぎであろう。それが被害者に対する思いやりであり、消費者に対するサービスであろう。

 小さな会社が消費者の注意を引こうとして牛乳パックのデザインをいろいろと工夫をして販売しているのに対して、雪印は何十年もあの単純なデザインで売ってきている。このこと自体、雪印がブランドにあぐらをかいてきた証拠である。

 消費者に対するそういう姿勢に反発を感じたわたしはもともと雪印の牛乳をあまり買わなかったが、雪印がこの姿勢を改めるつもりがないらしいのはあのパックを見てもわかる。(2000年12月9日)







 アメリカの大統領選挙のフロリダでのごたごたを見ていて、一番驚いたことは、アメリカ人は投票用紙の勘定もろくにできない国民らしいということだ。日本人なら一晩で数えてしまうものを何日もかけて、しかも設定された期限までに数えられずにいるである。

 いったいこういう国民が世界を支配する資格のある国民であるといえるだろうか。

 例えば、彼らのつくったコンピュータが世界の標準として世界中で使われている。しかし、これがどうにかするとすぐに動かなくなって、最初 からやり直さなければならないような代物なのだ。まさに今の大統領選挙に見られるアメリカ人の不器用さをそのまま反映したようなものなのである。

 しかし、日本人ならもっとうまくやれる。例えばこのやっかいなコンピュータを上手に活用した携帯電話がいい例だ。

 そして今のこの大統領選挙の不手際である。アメリカ人恐れるに足らず。これをアメリカに対する盲目的な信仰から脱却する機会にしようではないか。(2000年12月5日)






 野党の不信任案に同調するなら加藤氏は自民党を離党すべきだったという意見が多く見られるが、これはまったく間違った考え方である。

 そもそも投票するという行動は政党の枠を越えて個人の判断でなされるべきものである。どの党に属するからどう投票しなければなならないなどという ことがまかり通るならば、投票すること自体が無意味になってしまう。それは別々の独立した人間が投票したことではなくなり、一人の同じ人間が何票も投票す るのと同じことになってしまうからである。

 したがって、議員の投票行動によって党の幹部がその議員の待遇をどうのこうのするなどということは、投票という神聖な行為に対する冒涜でしかない。議員は政党を代表する前に、何を措いてもまず全国民を代表する存在であるからだ。

 これは欧米先進諸国では常識である。ところが、こんな基本的なことを知らない人間がこの国では首相を筆頭としてマスコミにもあふれている。情けないかぎりである。(2000年 11月27日)






 今回の不信任案否決を、わたしは野党の民主党の失敗であると考えている。

 小沢一郎氏ら自由党は不信任案の提出時期を十七日の金曜日とすべきだと言ったという。結果の読めないあの時期なら、自民党の加藤氏も賛成投票をし ていたろうし、主流派からも欠席議員が出たかもしれない。また、たとえ否決されたとしても、自民党を分裂に追い込んでいたかもしれないのである。

 ところが民主党は共産党といっしょになって、衆議院の予算委員会を終えてから出すことにしてしまった。

 その間に、自民党の幹部のなりふり構わぬ締めつけが進んで、造反議員の数はどんどん減っていき、とうとう加藤氏は投票できないところに追い込まれた。

 一方、なりふりを構った民主党は、加藤氏に期待するという過ちを犯して、加藤氏を何一つ利用できず終わったのである。

 民主党はかつての金融国会の時にもなりふりを構って政権取りを逃している。民主党は政権を取る気があるのか疑わしいと言わざるを得ない。(2000年11月21日)






 わたしの住む地方では、人が亡くなると町内会長が拡声器を使ってその死を伝え、お通夜や葬式の日取りを放送して、多くの人に参加するようにと勧めることが習慣となっている。このような習慣は他の地域にも存在するのだろうか。

 この地域に拡声機による放送網が張り巡らされたのはそう古いことではないので、この習慣も最近生まれたものであろうが、わたしはこの習慣に疑問を持っている。

 この放送は当然遺族の依頼によるものではない。いわんや死者が生前に望んだことでもない。もしこんな放送をして欲しいかと尋ねなられて、 お願いしますという人は皆無であろう。死んでまで世間を騒がせたくないというのが普通の気持だからである。要するに町内会がおせっかいでやっていることな のである。

 このようなことをする原因としては、日本ではまだプライバシーの考え方が未熟なこともあるだあろう。例えば、飛行機事故の犠牲者名を一切公表しない欧米などでは、人の死という極めて個人的な事実を拡声機で放送するなど考えられないことである。

 こんな習慣はやめたほうがいい。少なくともわたしが死んだときには放送はお断りである。(2000年11月9日)






 国鉄がJRになったときに国労の組合員が採用されなかったことの非を訴えた裁判に対する裁判所の判決は、全くJR側の言い分を鵜呑みにしたものだ。JR は国鉄が提出した名簿に基づいて採用しただけだと言うが、国鉄が民営化したときに国鉄の経営陣が全員解雇され、JRの経営陣は全員別の人がなったというの ならその言い分は正しいかもしれない。しかし、民営化とは何も経営陣が総入れ替えになることではないはずだ。

 本当は、ほとんど同じ人間が、まず国鉄側として採用者の名簿を作ってから、JR側としてその名簿にしたがって採用者を決めたに違いない。しかし、それは脱法行為である。

 この裁判の例のように、労働者側が経営者側を訴えたときに、労働者を切り捨てるような判決が目立っている。これまでの法に照らせばそれが 正義なのだろう。しかし、その正義が労働者の労働意欲を殺ぎ、ひいては就労意識を弱め、フリーターを生み出していると言えば言い過ぎだろうか。

 裁判所はもっと労働者を助けるような判決を心がけなければ、フリーターの増加に歯止めがかからないだろう。(2000年11月8日)






 オリックスのイチロー選手がアメリカの大リーグに行くことを歓迎する見方があるが、わたしは、これは日本のプロ野球の危機だと考える。

 今後同じようなことが繰り返されると、日本にいるプロ野球選手は大リーグに行く能力のない選手の集まりになってしまうだろう。そうなれば、もはや 日本のプロ野球では二流のプレーしか見られないことになり、大学野球や社会人野球のようになってしまうかもしれないからである。

 大学野球も社会人野球も、それぞれプロ野球に行けなかった人たちの集まりであと見なされ、その世代の若者たちの最高のプレーが 見られないと思われているがゆえに、その試合は関係者以外には興味を引かないものになっている。彼らはブロ野球の二番せんじか出がらしとなっているからで ある。

 同じようにして、もし日本のプロ野球が米大リーグの出がらしとなってしまえば、プロ野球は人気を失って衰退することは想像に難くない。

 優秀な選手、特にパリーグのスター選手が大リーグに行かずとも満足できるような環境の整備を考えなければ、日本のプロ野球の将来はないと言っていいのではないか。
(2000年11月7日)






 フリーター現象が将来の日本を危うくしかねないことは、産経新聞の十一月五日の主張の言う通りであろう。しかし、そこに言うような職業意識、就業意識を若者たちに根づかせることの重要性をいくら説いたところで、現実感にとぼしい。

 むしろ、定職につくことによってある程度の幸福が確保できるという意識の方が大切ではないだろうか。つまり正社員になれば人生において有利な立場に立てるというのでなければならない。そのためには、労働環境の整備が急務であろう。

 例えば、週四十時間制が確実に実施され、しかも長期の有給休暇が自由にとれ、しかもフリーターでは得られない安定した地位が手に入るというのなら、若者たちは競って定職に就こうとするだろう。

 ところが現状では、会社で正社員として働くことは、会社の言いなりになることであり、サービス残業などの過酷な労働状況に自らをおくことを意味している。しかもいつ首になるか分らないのだ。

 フリーター対策は、まず労働環境を改善することから始めるべきである。(2000年11月6 日)






 プロ野球選手会が、無免許運転で謹慎中の松坂大輔投手について、球団が科している「年内の野球活動の禁止」を解除してほしいとの要望書を西武球団に出したという。プロ野球の選手たちは、いったい何を考えているのだろうか。

 松阪選手のやった替え玉事件は一般人なら当然逮捕拘禁されて、裁判まで拘置所暮らしを強いられても仕方がないところだ。そこを有名プロ野球選手と いうことで大目に見てもらっている。それでもまだ足りない、野球をさせろとは自分たちの立場をわきまえていない愚挙だと言わざるを得ない。

 彼らは今の日本のプロ野球が置かれている危機的情況を知らないのか。有力選手は大リーグに行くか巨人に行くかで、一方的な試合 ばかりが多くなっている。おまけに、一部チームのわがままのためにオリンピックでのメダルなし。その上に、巨人杉山捕手の逮捕、江藤選手のスキャンダル。 そんなことはどこ吹く風と言わんばかりの、巨人の優勝シャンパンかけの大はしゃぎ。

 これでは、心あるファンの気持がどんどんプロ野球から離れてしまっていくのも当然だ。プロ野球の選手会は、いったいこの事態を どうするのか真剣に考えるべきときだろう。それなのに、自分たちが野球バカの集まりであることを証明するようなことをしかできないとは、まったく嘆かわし いかぎりである。(2000年11月1日)






 古代のギリシアの作家クセノフォンの『アナバシス』(筑摩書房)を読んだ。まったく唖然とするほかない訳である。

 いったいどうしてこうなのか。訳者は何十年とギリシア語をやって飯を食ってきている人物である。それなのにどうしてこんな訳しか書けないのだろう。

 そもそも、クセノフォンといえばギリシア語ではやさしい方の代表格で、初心者のテキストに使われるほどのものである。しかるに、ここぞというところに来ると、まったく臆病とも言える忠実さで原文をなぞって、たどたどしい日本語にすることしかできていないのだ。

 また、例えば、なぜ「バルバロイ(蛮族、蛮人ども)」を「異民族」や「土着民」や「異国人」と訳してしまうのか。文章には書き手の誇りがこめられているはずだ。ところが、これでは作者のギリシア人としての誇りも何もあったものではない。

 確かに、間違った翻訳だとはいえない。しかし、クセノフォンは果たしてこんなものを書きたかったのか。クセノフォンは自分の『オデッセイ』を書いたつもりのはずなのだが。(2000年10月30日)






 政府与党は参議院の選挙制度を非拘束名簿式にする法律をなんとかして成立させようとやっきである。

 しかし、この制度になったとしても、党名で投票できるところをわざわざ面倒な個人名で投票する有権者がどれだけいるか大いに疑問だ。むしろ、投票方法が複雑になって投票率が下がる原因になる可能性が大である。

 さらに、この制度では、候補者名で大量得票した候補の処遇が難しいと思われる。

 例えば、一人で何人分もの票を獲得した候補に対して何の特別待遇も与えないなら、その候補はたんなる人寄せパンダとして使われただけとい うことになり、候補もその人に投票した有権者も釈然としないだろう。一方他人の票で当選した議員は肩身が狭いことになるだろうし、そもそも、当選したとき から国会議員の間に優劣が生まれるというおかしなことにもなる。

 このように私のような素人の頭にもさまざまな疑問点が浮かぶ制度を、選挙制度審議会も通さずに、一回の国会だけでむりやり法律化してしまうのは拙速に過ぎると言うしかない。(2000年10月19日)







 昔の栄光に頼った人寄せパンダのヘボ監督二人が、金にあかして有力選手を集めて、それでもやっとのことでリーグ優勝して対決するのが今年の日本シリーズだ。

 世に0N対決などともてはやす向きはあるが、その実態はヘボ監督の金権野球対決でしかない。そんなものにぞくぞくするなどということはあるはずもない。むしろ、誰がこんなシリーズを観るものかと強がって見せてこそ、大和魂というものだろう。

 この日本シリーズは、相撲界で言えば、まさに若乃花の横綱昇進のころの二子山部屋全盛時代と情況が同じ。人気があれば底上げ横綱でも構わ ないという風潮に嫌気がさして、相撲観戦をやめた真剣なファンの心情が、ここにも当てはまるのだ。人気があれば底上げ名監督でも大歓迎ということらしい が、わたしは騙されない。

 その後の二子山部屋の衰退ぶりは、プロ野球界にとっても他山の石とすべきはずなのだが、浮かれるマスコミには、阪神の野村監督の巨人批判に真剣に耳を傾ける冷静さはないのか。(2000年10月12日)







 国会の委員会といえば、かつては野党の議員が審議を中断しただけで自民党は大慌てで審議再開のために奔走したもので、その議員は爆弾男などと呼ばれてもてはやされたものだ。

 ところがいまや、審議の中断どころか野党が出席していなくても与党だけで勝手に審議を進めてしまって平気である。国会対策委員長も昔ならば、野党 に審議に出て来てもらうために知恵を絞ったものだが、今や国対委員長ほど楽な仕事はない。野党がいなくても審議が進んで、どんな法案でもどんどん通るから である。

 昔の自民党のリーダーたちはなぜあんなに国会の審議を大切にしたのだろうか。彼らには野党のいないまま審議をするなど考えられなかったのであろう。野党がいてこその民主主義だということを彼らは知っていたのである。

 ところが、今の自民党にはこんなことはしてはいけないと言う政治家が一人もいない。これではいくら選挙制度をいじくったところで自民党が勝つ見込みなど生まれるわけがない。(2000年10月11日)







 参議院の非拘束名簿方式の導入を柱とする選挙制度の改正法案を与党が強行採決をしてでも成立させようとしているが、これを見てわたしは日本はもうだめなのではないかという気持が強くなっている。

 選挙制度などというものはその裏にしっかりとした理念や思想が無ければならないものだ。この制度に変えることによって日本は、そして参議院はどう良くなるという考え方が存在しなければならないはずだ。

 ところが、今度の改革はどうすれば自民党が勝てるかという考え方だけで生まれたものだ。こんな選挙制度改革をよく恥ずかしくもなく自民党は国会に提出できたものだと思う。もはや、自民党は恥も外聞もなくただひたすら政権にすがりつくことしか眼中に無くなっている。

 そんな政党が一番多くの議席を取っていて、それを助ける政党があって政権にとどまっている。国民はそれを不思議とも思わない。これはもうこの国はだめだと言うしかない。

 この国を去っていく若い女性が急増しているというが、わたしもその仲間に加わりたい気分である。(2000年10月6日)






 オリンピックの野球で日本チームの試合を見ていると、試合の解説をしているアマチュア野球の指導者が、プロ出身の選手たちに対して実に気を使ってコメントをしている。プロの選手に無理を言って来てもらっているという引け目があるのだろう。

 しかし、元々彼らを育てたのは全部アマチュアの指導者たちである。プロの選手たちが今あるのは、彼らの指導のおかげなのである。彼らを無視してプロ野球選手の存在は考えられないのだ。だから何も遠慮せずに言いたいことを言ってよいのである。

 そもそも、彼らアマチュア野球の指導者たちのおかげで日本の津々浦々で野球が盛んなのであり、その結果としてプロは優秀な選手を獲得する ことが出来ているのである。だから、アマチュア野球がオリンピックのためにプロに協力して欲しいと言ったとき、ブロ側は率先して協力すべき立場にあったの である。

 ところが現実にはプロ側がオリンピックの野球チームに選手を出すことを渋った。わたしにはこれは実に恩知らずな行為だったと思えて仕方がない。(2000年9月24日)







 先日NHKは巨人が優勝したことニュース速報を打ってテレビで伝えたが、不思議なことをするものだ。なぜなら、巨人戦はちゃんと他のテレビ局で全国中継されており、巨人の優勝に興味のある人は自分で見て知っているからである。

 NHKは巨人以外のチームの試合を中継しているときにも、他局で生放送されている巨人戦の途中経過を熱心に報道する。

 このような情報は、巨人ファンでいながら巨人戦を見られない人たちにはきっと有り難いことだうろ。

 しかしそれはいったい誰だろうか。それはNHKの中の巨人ファンの人たちではないのか。NHKは巨人ファンが多く、他の番組を放送していて巨人戦を見られない人のために、巨人戦の情報をいち早く流すのではないのか。

 しかし、巨人戦が見たい視聴者は自分で巨人戦を見ている。見ていない人は見たくないか野球に興味がないから見ていないのである。そんな人に、巨人の情報を伝えても邪魔なだけである。公共放送を社内連絡に使うのは止めてもらいたいものだ。(2000年9月 24日)






 オリンピックの柔道の決勝で篠原選手が審判の誤審によってフランス人選手に敗れたその夜、メダルを獲得した他の日本人選手がテレビ番組に出演して笑いな がら手柄話をしていたが、それを見たわたしは、なんと日本人は連帯意識にとぼしい国民であろうかと思わずにはいられなかった。

 あれがもし立場が逆で誤審で負けたのがフランス人選手だったら、他のフランス人の選手たちは誤審に対する抗議の意志を何とかしてテレビ画面に表そうとするだろう。フランス人は個人主義であるが、いざと言うときに見せる連帯意識の強さは見習うべきものがある。

 例えば、フィリピンでフランス人が人質になった最近の事件では、大統領が先頭に立って解放運動を行った。それに対して、日本政府は北朝鮮に拉致された人たちの返還を熱心に求めるどころか、外務大臣にいたってはこの問題を邪魔者扱いするありさまである。

 上がこうなのであるから、国民に連帯意識がとぼしいのも仕方のないことなのかもしれぬが、実に情けないことである。(2000年9月22日)






 憲法にいう三権分立とは、政府と国会と裁判所という三つの権力の持ち主がそれぞれ我こそはこの国の最高権力者であると主張するものであるという前提に立っている。

 例えば、最高裁判所は政府の政策が憲法違反であって無効であると言い、この国の全ての最終決定権は我々にあると主張してこそ、その存在価値がある というものである。だからこそ、それに対抗するために政府に最高裁判所の判事の任命権が与えられているのである。そして、それではじめて憲法は正常に機能 するのである。

 ところが、日本の最高裁判所のように、選挙で五倍近くの人口格差があるのに合憲であると言ったり、あれもこれも政府の裁量権の 範囲内だと言って合憲にするのであれば、何も三権分立にする必要はない。むしろ、このような行為は憲法の精神を踏みにじるものでさえあると言える。

 これでは最高裁判所は単なる政府の一官僚機関でしかないと言われても仕方がないだろう。このような最高裁判所は即刻解体して、官僚を廃して作り直すべきである。(2000年 9月10日)







 ブロ野球の巨人が大金をかけて他球団の有力選手を引き抜いて戦力アップしたことに対して、「なりふり構わぬ補強」と批判が出るのは当然である。

 巨人はなりふりを構うべきチームなのだ。かつては、巨人は正義の味方として、次々とかかってくる敵と戦ってきた。だからこそ、巨人戦だけは全国中継される価値があった。だからこそ「巨人軍の選手は紳士であれ」と言われたのだ。

 ところが、今や勝つためにはなりふりを構わぬチームになってしまった彼らは、もはや正義の味方ではない。いわば「なりふり構わぬ悪の味方」が「なりふリ構う正義の味方」と戦ってしかも勝ってしまうのである。

 そんなところを毎日テレビで見せられた子供たちが、これを正義だと勘違いして、誰も彼もなりふり構わぬ自己中心の生き方を始めたら、世の中いったいどうなるのか。

 もはや巨人戦は全国放送されるべきではない。放送は東京ローカルに限るべきである。一地方球団がどんな補強の仕方をしようが自由だからである。(2000年9月3日)







 脳死移植のドナーカードが普及しない最大の理由は、縁起が悪いということだろうと思う。このカードを持つことは自分の死を予定することになるからである。

 このカードを持ったために、なにかの事故に会ったり病気にかかったりして自分が死ぬことになるのではないかという恐怖感がある。何もわざわざ死を近づけるかもしれないギャンブルをすることはなかろうと思うのである。

 これが全員一斉に持つというのならばよい。全員が同じことをするのであれば、全員が同じ運命を分け持つのであるから、自分だけに不幸が降りかかるかもしれないという恐れは緩和される。

 だから、ドナーカードを普及させるには義務化するしかないだろう。運転免許の更新時など、様々な機会を通じて、義務としてカードを持っていくしかない。これは脳死移植を認めることを強制するのではないのだから問題はないと思われる。

 誰もが脳死移植を受ける立場になる可能性があるということからも、やはり義務化が望ましい。(2000年8月29日)







 「ややこしいことに関るのはごめんだ」と、会場の一般使用を止めてしまったピースおおさかのやり方は、まったく日本人らしいやり方だ。

 だがはたして、それで良いのか。この施設は過去の戦争の反省から生まれたものであるはずだ。なぜあんな戦争をしたのか。それは戦争の是非を論じる ようなややこしいことを国民がしなかったからではなかったのか。その結果、戦争を助長することになり、戦争の惨禍を被ったのではなかったのか。その過去の にがい経験を生かすために作られたピースおおさかではないのか。

 それとも過去の経験など水に流して、日本人らしく事なかれ主義で行けば、平和は続くとでも考えているであろうか。

 ピースおおさかは、議論の可能性を排除したことによって、自分たちが平和を語る資格をも失ってしまったことに気づくべきである。議論の可 能性のないところに真実は生まれない。こんな簡単なことも知らずに平和を主張できると思うなら、それは大きな勘違いというものである。(2000年8月 25日)







 今年の夏の高校野球もまた、野球の素晴らしさを思い出させてくれるものだった。特にその幕切れは劇的だった。

 一点差で迎えた最終回ツーアウト。打球はショートの手前で跳ね上がってレフトの前に転がる。それを見たセカンドランナーがホームに向かって走っ た。が、その前にレフトからの返球がキャッチャーミットにおさまる。ランナーとキャッチャーはホームベースの手前で交錯して二人ともに倒れ込む。仰向けに なったキャッチャーは右手に持った白球を高々と空に向かってさし上げた。

 もう一つの試合も一点差で最終回ツーアウト。ランナーはセカンド。外角の球を捕えた打球は金属音を残してライトへ。これで同点 だと誰もが思った瞬間、白球は、思いさまジャンプして倒れ込んだ二塁手のグローブの中におさまっていた。一塁に向かっていた打者は、それを見て頭から走路 に倒れ込んでうずくまる。

 こんなシーンはわが国の高校野球以外には見られまい。それもこれも高校生のひたむきな心が生み出したものだ。なんだかんだ言っても、今どきの高校生も捨てたもんじゃないぞ。(2000年8月20日)







 わたしの祖先の墓と同じ敷地に兵士の墓がある。兵士の墓は他の墓と違って、細く先細りなっており、頭が尖っている。そして、その側面には、故人が生まれてから戦死するまでの一生が細かい文字でぎっしりと刻まれている。

 生まれたときのこと、出身学校のこと、就職した会社のこと、応召で入隊した連隊のこと、国内の各地を移動したことが記され、最後に南方に出征して 戦死したことが書かれている。実に淡々とした文章である。おそらくは型にはまった文章なのであろう。しかし、これをたまたま一度読んでからというもの、自 然と毎年この場所に引きつけられる。

 ぎっしりと一面に刻まれた文字からは、戦争で息子を失った親の無念さが伝わってくる。そして、この日本の片田舎の一青年をはるか彼方の海外の地にまで送り込んだあの戦争の凄まじさを肌で感じることができる。

 わたしの知らないあの戦争を、墓石の文章は、どの書物より、どの映像よりも現実のものとして教えてくれるのである。(2000年8月13日)







 屋外に設置した拡声機による放送は、けっして確実な伝達手段ではない。風向きによって聞こえるところと聞こえないところが必ず発生する。しかも、特定の地域にだけ聞こえるような放送は不可能であるから、必ず関係のない人たちに騒音被害をもたらす。

 また、拡声機による放送は、テレビやラジオの放送などと違って、聴取者の側に選択権がない。まったく強制的な手段である。そのような手段を使ってまで伝えるべき情報があるとすれば、それは災害情報ぐらいのものであろう。

 ところが、このようなものを町内会の連絡手段に使うようにと奨励している地方自治体がある。例えば、明石市である。そしてこの放送設備を設置するために市が金銭的補助もすると言っている。この設備にはかなりの金が必要だからである。

 とすると、この設備で潤う企業もあるはずだ。つまりはここにもしっかりと利権が絡んでいるのだ。

 民主的な手続きという点で不適当なこのような設備に熱心であるために、いったい他にどんな理由が考えられるだろうか。それとも単に明石市の役人に民主的な考え方が不足しているだけなのだろうか。(2000年8月13日)







 横山ノック前大阪府知事のセクハラ事件にたいする有罪判決が出た翌日の全国紙は一斉に社説でこの判決を取り上げ論評した。

 これを見ても、この事件の対立軸が原告女性対横山氏ではなく、マスコミ対横山氏であったことがよく分る。もはやマスコミにとって大切なのは、マスコミに挑戦した横山氏をやっつけることで、事件の真相などどうでもよくなったかのごとくである。

 例えば、家族の反対を押し切って告訴した女性の勇気をたたえる記事をあっても、ではどうして事件の翌日に告訴できたのという点に疑問を呈するマスコミはない。

 また、最初に彼女と接触した弁護士(一部で共産党系弁護士と報道された)が彼女を政治的に利用したのではないかという疑いは消えない。しかし、この点に言及するマスコミはもはやなくなった。

 このような扇動的なやり方は、わたしの中のマスコミに対する信頼感を新たに減ずるものだった。

 将来、原告女性は告訴したせいで就職に苦労するかもしれない。この女性を英雄扱いしたマスコミ各社は、自社への就職を提示して、彼女の「勇気」に報いるべきだろう。 (2000年8月11日)







 今年のプロ野球のオールスターゲームはセリーグの圧勝で終わったが、これは逆指名によるドラフト制度の形骸化とフリーエージェント制の導入が何をもたらしたかを白日の下にさらけ出したと言ってよい。

 実力のある新人選手は逆指名制度によって人気のあるセリーグに集まり、実力のあるパリーグの選手がフリーエージェント制度によってセリーグに移籍するのであるから、セリーグがパリーグより強くて当然なのである。

 また、この二つの制度によって、実力のある選手は、最も人気のある巨人に集まってくる。特に、フリーエージェント制度によって、他の球団の有力選手の多くは、巨人に移るかアメリカの大リーグに行くかするのであるから、巨人と他の球団の実力の差は開くばかりである。

 こうなれば、当然、今後毎年巨人が優勝することだろう。では、他の球団のファンは何を楽しみにプロ野球を見ればいいのだろうか。プロ野球機構のお偉方には、ぜひ教えてもらいたいものである。(2000年7月28日)






 「人間の休息を敵視する神が学問を発明したというのは、エジプトからギリシアに伝わった古い伝説でした。では、学問の生みの親であるエジプト人自身が、 学問について持っていたにちがいない見解は、どんなものだったのでしょうか」(岩波文庫、ルソー『学問芸術論』第二部冒頭)

 「どんなものだったのでしょうか」はないでしょう。ルソーはそういうものだった、つまり休息を邪魔する程度のものだったと言っているのですから。実はここは、原文には疑問詞が付いていますが、意味的には疑問文ではなく感嘆文なのです。

 「学問の生みの親であるはずのエジプト人が、学問に関していったい何という意見を持っていたのでしょう。こんなはずがあるでしょうか」とルソーは言っているのです。

 疑問文の中のdoncは辞書を引くと「いったい」と訳すことはすぐ分ります。それを「では」と訳すなんて、いったいなんという学者が日本にははびこっているのでしょうか。
 
 これが第一流の学者として名前が通っているのですから、いやはやです。この翻訳にはこの種の誤訳がたくさん入っているので気をつけましょう。(2000年7月27日)







 今や出版業界はコンパクトディスク(CD)が花盛りである。コンピュータやインターネット関係の雑誌や書籍にはCDの付いているのが常識である。

 そのCDが今度は語学関係の書籍にも広がってきた。これまでは語学の書籍はテキスト中心でネイティブスピーカーが話す声を聞きたければ、別売りのカセットを買わなければならなかった。カセットは一本二千円はしたものだ。

 ところが、もうこの別売りカセットを買う時代は終わった。テキストの内容を吹き込んだCDが本に付録で付いてくるようになったのである。しかも、値段は本だけのときと全く変わらない。

 これは、CDはカセットテープよりも安く大量に複製でき、しかも本に添付するのが簡単であるためだろう。

 そうなると次は音楽CDの番ではないか。カセットやレコードからCDに移ったときに中身は同じなのに値上りした。しかし、今ならもっと安く作って安く売れるはずである。それを出版界が教えてくれている。(2000年7月26日)







 先日のこと、わたしは涼を求めて入ったある喫茶店でクリームソーダを注文した。一口飲んだソーダ水にかすかにチーズのような臭いがしたが、おかし いと思いながらアイスクリームだけ食べてしばらくすると、溶け出たクリームがソーダ水と完全に分離してしまった。わたしはこれはおかしいと確信して勇気を 出して店員にクレームをつけた。

 やがて出てきた店長らしき女性は、わたしにクレームの内容を確認すると、謝罪もせずに店の奥に引っ込んでこうのたまわったのである。「ソーダ水が 薄いとこういうことがあるのよ」と。そして「アイスクリームはもう食べてるから、ソーダ水を足せばいいでしょう」と言ってから、ソーダ水を上から注ぎ足し たものを持ってきたのである。

 彼女にすればうまくやったつもりかもしれない。しかし、こんなことをされて再び同じ店に足を運ぶ客がいるだろうか。客商売で生きる人間なら、せめて客のクレームを真剣に受け取る心構えは持っていて欲しいものである。(2000年7月24日)






 プロ野球のヤクルト球団が古田選手をオリンピックに参加させないことを決めたことは、国の威信よりも一企業の論理を優先させた結果であろう。今の時代には、そういう決定もあるのかもしれない。

 しかしである。そのチーム名が示す通り、ヤクルト球団は、ヤクルトの宣伝活動の一環として存在する。言ってみれば、古田選手はヤクルトの宣伝員の一人である。

 その古田選手が、全国民が注目するオリンピックに出場した場合と、ヤクルトがペナントレースで優勝した場合とでは、どちらの宣伝効果が大きいであろうか。

 さらに、古田選手をオリンピックに出場させないことに対する国民の反発は、ヤクルトの売れ行きに何の影響も与えないのであろうか。

 ヤクルトといえば、一個何十円の商品を売るためにヤクルトおばさんたちが頭を下げてまわっている商品である。わたしは、今回の古田選手出場拒否を決定するときに、そのおばさんたちの努力が、首脳陣の頭の片隅にあったかどうか疑わしいと思っている。 (2000年7月23日)






 日本の小選挙区制度は現状ではうまく機能しているとは言えない。これは、地元密着の後援会型の選挙のためだと思われる。

 例えば、小選挙区制なら、政府が失政を行えば、一度の選挙で政権交代が起ると言われたが、後援会型選挙ではそんなことはまず起らない。

 また、今回の選挙で、汚職議員が当選したり、大量の二世議員が当選したことも、後援会型選挙が小選挙区制の掲げた理想の実現を阻んでいる例である。

 小選挙区制の理想である、政権交代が起きやすく、汚職議員が淘汰されるような選挙制度にするためには、後援会型選挙が出来ない仕組みにするしかない。具体的には、後援会作りを事前運動として禁止することである。

 こうすれば、候補者は全て地元出身者以外のいわゆる落下傘候補と変わらなくなる。そうなれば、もはや日本型の利益誘導政治もなくなるし、国会議員は今のように後援会作りのために奔走することがなくなるため、国政に集中できるようになる。

 小選挙区制は日本に向かないという議論は、まずこの後援会型選挙をやめてからにしてもらいたい。(2000年6月29日)






 野村監督で阪神は強くなるはずだったのに、どうして強くならないのでしょうか。

 野村監督は潜在能力を引きだす名人だということは、他球団で証明されています。すると阪神には、潜在能力のある選手が新庄以外には一人もいなかったというわけでしょうか。

 ヤクルトには潜在能力の高い選手がいっぱいいた。古田とか、飯田とか、土橋とか、いっぱいいた。しかも外人のホームラン王が必ずいた。しかも、すごいピッチャーがいっぱいいた。ところが、阪神にはどれもいないのです。

 とすると、これは阪神のスカウトがスカばっかり連れてきたということですね。そして、二軍の練習が甘くて、一軍クラスの選手を作れていないということでしょう。

 これでは、野村さんでも勝てないのは仕方のないことでしょう。

 それとももう野村さんの知恵も尽きたということ?それに、あげまん女房の不幸がひびいている?(2000年6月27日)






 今回の衆議院選挙の投票率の低さは危機的なものである。前回、およそ59パーセントしかなかった反省から、投票時間が2時間延長され、不在者投票も簡素化されて、投票しやすい環境になったにもかかわらず、たったの3パーセントしか増えなかった。

 こうなれば、選挙権が持てる年齢を18才に引き下げるしかないのではいなか。

 小・中・高と学校にいる間、若者たちはみな学校の中でいろんな機会に投票を行っており、投票することは学生にとっては自然な行為となっている。

 ところが高校を出て次に投票するまでの2年間はほとんど投票することなしに過ぎてしまう。その間に、若者の多くは投票することの意義を忘れてしまい、その結果、投票しなくなってしまう。しかし18才から投票権があれば、そのブランクを防ぐことが出来るのではないか。

 また、高校で選挙に行く心構えを教えればよい。高校生である18才のときに選挙があれば、その教育が実地に生かされることにもなる。(2000年6月26日)







 今回の衆議院選挙で、汚職で有罪判決を受けた議員が当選したことは、この国では小選挙区制による選挙では政権交代は起らないことを象徴的に示した出来事だと言える。

 小選挙区制にすれば、汚職議員は淘汰されるというスローガンは、この国ではまったく当てはまらないことが明らかになったのである。これは、わが国民は善悪に基づいた合理的判断ではなく、あくまで候補者に対する好き嫌いで投票するということを示している。

 小沢一郎氏が、この衆議院選挙で与党は過半数をとれないと言明したのは、国民が合理的判断力を持って投票すると誤解したからである。もしそうなら、これほど失政を続ける与党が過半数を取れるはずがない。

 現代のように国が危機に陥っているときに、国民がこのように相も変わらず私的理由でしか投票できないことは、この国にとって絶望的なことである。

 もし日本で政権交代を実現したければ、小選挙区制ではなく、別の選挙制度を考えなければならないことが、この選挙で明らかになったと言える。(2000年6月26日)







 シドニー・オリンピックの野球の日本代表にプロ野球のヤクルト球団が古田捕手を出したくないと言っているが、それは当然だと思う。なぜなら、プロの試合で勝つことが彼らの仕事だからである。

 アマ側は日本が勝つためには古田捕手が必要だと言うが、そもそもアマチュアの団体がオリンピックに出場するのにプロ野球の選手の助けを借りようとするところに問題がある。

 今度のオリンピックはアマチュア主催で監督もアマチュア出身なのだから、選手もアマチュアだけで戦うべきである。

 どうしても日本に勝利をもたらしたいというのなら、アマ側は監督人事も何もかもプロ側に譲るべきだろう。そうすればきっと勝つチャンスは 広がる。しかし、手柄もプロ側に行ってしまうだろう。アマチュア中心でしかもプロの力を借りて自分の手柄にしたいというのでは虫がよすぎる話である。

 あの選手が欲しいこの選手が欲しいと、人のふところに手を突っ込むようなまねはやめることである。(2000年6月23日)






 わたしは自治会活動に反対するものではないが、あまり活発なのも考えものだと思っている。

 自治会の会長に会社を退職したような人がなる場合には、自治会活動に非常に熱心になって、毎日毎日それにかかりっきりになる方がおられる ようだ。そうなると自治会の行事や活動をつぎからつぎへとやろうとする。その連絡のために、屋外の拡声機を使って毎日のように放送する。役員会は平日でも かまわず開催する。自治会内の誰かが亡くなると葬式の告知までやる。もはや個人の自由な生活などは無いがごとくである。

 こうなればその自治会の人間の中にも苦々しく思う人も出てこようが、熱心にやって下さるのだからと我慢もできよう。しかし、そ の自治会の外に住む人間には迷惑以外の何ものでもない。なぜなら、その熱心な放送がチャイムの音とともに、自治会の外に住む人間の耳にも必ず聞こえてくる からである。

 自治会活動は熱心なものになればそれだけ、人迷惑なものにもなりうるのである。 (2000年6月21日)






 横山ノック氏が強制わいせつ罪の裁判で罪を認めたのを見て、「真っ赤な嘘」をついていたのは自分の方だったじゃないかと息巻いた新聞のコラムがあったが、このコラム氏は真実が法廷で語られると思っているのであろうか。

 法廷とは決して真実が明らかになる場ではない。このことはこれまでの日本の裁判の歴史で明らかである。この前の愛媛の誤認逮捕事件でも、 真犯人が現れなかった場合には、無実の被告がそのまま有罪の判決を受けただろうと言われている。そのように、裁判官は検察官の主張を鵜呑みにする傾向が大 なのである。

 しかも強制わいせつ、つまり痴漢の裁判で無罪を主張しても主張が通ることはまずなく、最高裁まで争っても無罪にならないことが普通だと言われている。

 さらに、無罪を主張すれば裁判官の心証を害して「反省の色がない」として重い刑を言い渡されるのである。

 つまり、無罪を主張することは、日本の裁判では不利な立場に自分を置くことにほかならない。そのために、軽い罰ですますために、仕方なく罪を認めた人がこれまでにどれほどいたことか。

 横山氏は裁判を続けて残り少ない人生を空費することを避けるために、無実であるにもかかわらず、有罪答弁をしただけのことなのである。(2000年6月20日)






 森首相の「神の国」発言は、戦前の日本を全否定してきたこれまでのものの考え方に対して一石を投じたものと見ることが出来る。

 今の日本には、自分さえよけれぱという個人主義が蔓延して、一人ひとりがばらばらに生きている国になってしまっている。それでいいのか、 天皇を中心としてまとまりを持つ国に戻ってもよいのではないか。わたしは、首相のこの発言をそう受け取った。それは教育勅語にもいいところがあるという別 の発言からも、うかがうことが出来る。

 戦前=悪、戦後=善であるという価値観からすれば、こんなことはけしからんということになるだろう。しかし、教育勅語があったから、明治憲法があったから戦争になったというのはあまりにも短絡すぎる考え方である。

 歴史とは現代の価値観から過去を断罪することではないはずだ。

 間違いは改めるとしても、自分の過去のなかの良い点を見直すことに躊躇してはならない。首相はそう言っているのである。(2000年5月28日)






 森首相に対する支持率が急降下しているが、その原因は「神の国」発言そのものよりも、むしろその後の首相の自信なげな対応ぶりが原因ではないだろうか。

 一部のマスコミは別として、この国の国民はそれほど人の意見に対して狭量ではない。しかし、あの発言のあとで国会で謝ったり、党首討論を拒否したのに対して、がっかりした国民は多いと思う。

 野党の求める党首討論を受けて立って、堂々と自分の意見を述べて相手をやり込めるくらいのことをしていれば、かえって支持率が上がったかもしれないのだ。

 その好機を生かそうともせず、あげくに人の書いたものばかりを読むこの体たらくぶりは、とても一国のリーダーにふさわしいものとはいえない。

 いま国民はこの人に沖縄サミットを任せて大丈夫だろうかと心配になっている。野党の要求は別として、もし自分の言動に自信がないのなら、即刻辞任すべきだろう。そうでないのなら、堂々と自分の意見を語る勇気を見せてもらいたい。(2000年5月23日)






 あるテレビの番組で、4人のタレントをあげて、この中でいっしょに不倫旅行をしてもいいと思う人は誰かと、若いOL五十人にアンケートをした。すると、その五十人全員が、そのうちの誰かを指名したのである。

 これは驚くべきことである。つまり、だれ一人として不倫旅行は悪いことだから、選べないとは言わなかったのだ。若い女性の道徳感の堕落ぶりをこれほど如実に示すものはない。

 もともとテレビ局はあたかも不倫を奨励するようなドラマを作ってきているのであるから、何の疑問も抱かずにテレビ局がこのようなアンケートを企画して、女性たちがそれに喜んで答えるのは不思議ではないかもしれない。

 しかし、テレビ局はニュースやワイドショー番組の中ではいろんな事件が起きるたびに世の中の堕落ぶりを嘆いているのである。

 視聴率全盛のこの時代に、もっと一貫性のある番組作りをテレビ局に望むのは無理なことなのだろうか。(2000年5月5日)






 大阪の引ったくり事件を減らすためには、警察による「おとり捜査」の導入しかないのではないかと、わたしは思っている。

 警察官がおばさんの格好をして人気の少ない道を歩くのである。もしこれで悪ガキを一人でも捕まえることが出来たら、本当のおばさんの持ち物に手を出す少年の数は激減するのではと思うのである。

 現在、日本では「おとり捜査」は原則として禁止されている。そのため逆に、日本の子供たちはおばさんたちを狙って、安心して引ったくりを繰り返している。そのおばさんがもしかして警察官かも知れないとなれば、それだけで、犯人たちに二の足を踏ませる効果があるはずだ。

 「おとり捜査」を導入は、自白に頼った捜査方法を改善することにつながるという利点もある。この捜査方法によれば証拠が確実に得られるため、犯人の自白はなくても確実に有罪に持ち込めるからである。

 実際の導入には立法化が望ましいが、まずは引ったくりに限って大阪府が条例を作ったらどうだろうか。(2000年4月21日)






 テレビで第二次世界大戦のドキュメンタリーを見た。その中に、ヒトラーのドイツはソビエトと東ヨーロッパを半分ずつ支配するつもりでポーランド侵攻を始めたというくだりがあった。

 それに対して、イギリスがドイツに宣戦布告したというのだ。そしてヨーロッパ全土を焼土にして、イギリスはドイツに勝ったが、その結果どうなったか。東ヨーローパの全部と、ドイツの東半分までもが、ソビエトのものになってしまったのである。

 これではイギリスは何のために戦争を始めたのか分らないではないか。

 もともとポーランドは昔から周辺諸国の分割を受けてきた歴史がある。それと同じことが起ったと考えて、もしイギリスが戦争を始めていなければ、ソビエトは東ヨーロッパの半分しか手にすることなく、平和な世界が続いていたかもしれないのだ。

 これは正解ではないかもしれない。しかし、イギリスなどの戦勝国の視点から書かれた歴史だけが正解ではないことは確かだろう。(2000年4月14日)






 「一人を殺せば殺人罪だが、百人殺したら勲章がもらえる」。これは戦争を批判するときによく言われる言葉だ。しかし、戦争でないときに は、一人殺しても百人殺しても、殺人罪であることに違いはない。戦争の場合は殺人を社会が認めているのに対して、単なる殺人はそうではないが故に罪に問わ れるのである。

 死刑についても同じことが言える。死刑も殺人には違いないが、これもまた社会が認めた殺人であるから合法的殺人である。

 そのほかに、成功すれば犯罪ではないが、失敗すれば犯罪となる殺人もある。クーデターや革命における殺人がそうである。成功すればそれは社会が認めたものとなり、失敗すればその逆ということになる。

 つまり、多くの人間の同意を得ることが犯罪行為をそうでなくす決め手になるということである。

 一般的に世の中に変化をもたらすこと(人間を一人減らすこともそれに含まれる)は、たとえそれが良いことではあっても(「あんな悪いやつはいないほうがいい!」)、必ず誰かの利益を損なうことであり、したがって、個人が勝手にやると犯罪になる。

 多くの人間の同意を得る過程が重要であるゆえんである。(2000年4月9日)







 摂津の少女誘拐事件の犯人が逮捕されたが、その決め手になったのが誘拐された少女の証言だったという警察発表にわたしは危惧感を抱いた。警察は功を焦ったのではないか。

 顔写真を見た少女が「このおっちゃんや」と言ったというのが逮捕につながったというが、これは将来の犯罪者に子供を生きて返せば自分の逮捕につながるという教訓を与える恐れがあるからである。

 この種の事件は毎年必ず数件発生する。将来、事件に巻き込まれることになる子供の命にまで配慮がおよぶべきではなかったか。

 その後、自白も得られ、家宅捜索で物証も見つかっているが、もし物証が見つからず自白も得られなかった場合、少女が法廷に立たさせることにもなっていただろう。

 物証が無いまま被疑者の逮捕に踏み切ったことも、自白に頼った捜査として批判されるべきだ。

 犯人が捕まってよかったで済まされる問題ではない。捕まえ方にもっと気を使って欲しかったと思う。(2000年4月8日)






 自由党が政権から離脱して、野党に帰ってきた。野党の議員たちは「よくやった」とこれを歓呼をもって迎えるべきであろう。自分たちが望ん でも叶えられなかった党首討論の場を作り、政府委員を廃止し、閣僚の数を減らし、衆議院議員の定数を削減したのは、これすべて小沢一郎氏の功績である。

 そして、いまこの強い味方が野党の側に帰ってきたのである。

 一昨年の金融国会で小渕内閣に野党案を丸のみさせることが出来たのは、参議院の首相指名選挙で野党統一候補を立てて管直人氏を首班に選出した小沢一郎氏の発案がその出発点だった。もしそれがなければ、野党は今と同様にばらばらの無力な烏合の衆に過ぎなかったろう。

 思い返せば、ここ数年の政局の動きはすべて小沢一郎氏が作り出してきたものだ

 今、その小沢氏が野党の側に戻ったのである。野党の議員諸君は今の守勢を攻勢に転じるために、彼の帰還を歓迎することはあっても、けっして仲間外れにすることはできないはずだ。(2000年4月7日)






 本当に偉い人間のことは他人には理解できないものだ。どうしてそんなことをするのか。きっと何かの計算があってのことだろうと、自分と同じレベルから推 測する。無私な心から出ている行為などあるわけがないと思っているから、党利党略だとか、保身だかとかいう観点からしか、説明できない。

 なぜ、今政権を離脱するのか。党利党略を考えているに違いないと誰もが思う。しかし、自民党が党利党略だけを考えているから大 政党であり続けていることを考えると、減る一方の小沢一郎氏が党利党略で行動しているとは考えにくい。むしろ、それが無いがゆえに、人が離れていくのであ ろう。政策実現一本やりであるから人がついてこないのだろう。「バンがなくては生きていけないのだ」と言って、人が離れていくのだ。

 偉い人といえば、横山ノック氏もそうだ。まったく不可解な行動を次々とやる。どうして、民事訴訟で争わなかったのか。どうして刑事訴訟でも争わないことにしたのか。まったく常人には理解しがたい行動である。

 訴訟というものは、オーム真理教の裁判を見ても分るように、やり方によっては何年でも引き伸ばすことが出来る。激しく争えば、知事の任期の4年などはあっという間に過ぎてしまうことだろう。しかし、彼はそれをしなかった。

 マスコミはこの行動を自分の利益のためにやったしかとれないでいる。さもしい心根しか持ちあわせていないとそういうことになる。しかし、あの人は、右の頬をぶたれたら左の頬を出す人なのではないかと思えるのだ。

 わたしたちは人の行動に対して軽々に判断を下してはならないのである。(2000年4月4 日)






 バルザックの『谷間の百合』を読んでいると、「二人の女性」という題の第三巻でレディー・ダッドレーとレディー・アラベルという二つの名前に出くわす。

 ああ、これが「二人の女性」の名前なのかと思いながら、読み進んでいくと、どうもおかしい。どうもこの二つの名前は一人の女性を指しているらしいことに気づく。

 外国の書き物にはこういうことがよくある。同じ人間について、そのファーストネーム、セカンドネーム、肩書き、あだ名、果てはその人間の特徴など、いろんな呼び方でその人間を指すことがよくある。

 翻訳がこれをそのまま訳すと、別の人間がたくさん出てきているように読めてしまうことになる。それで親切な訳は同じ人間を指していることが分るように配慮することになる。当然原文にない言葉を使うことになる。

 しかし現在手に入る『谷間の百合』の日本語訳はその配慮がないので注意が必要だ。(2000年4月7日)






 古墳の発掘などで「邪馬台国」と「卑弥呼」の話題が新聞のニュースになるたびに、わたしはどうしてこのような国辱的な名前を自分の祖先に使って恥じないのであろうか思う。

 「邪」とか「卑」とかいう文字は、相手をさげすむ意味を持つものであり、当時の日本人が自分の国や女王の名前に使うはずはなく、当時の中国人が日 本人をさげすんで「邪馬台国」や「卑弥呼」という名前を使ったことは明らかであろう。それを現代の日本人がどうして何の疑問もなく自分の祖先に対して使い 続けるのであろうか。

 さらには、学者たちは当時の中国の史書を金科玉条のごとくに扱って、「邪馬台国」が奈良にあったか九州にあったかなどと論争し ているが、こんな差別的な史書にどれほどの信ぴょう性を期待できるだろうか。それが誤解と偏見に満ちたものであることは容易に想像がつきそうなものだ。

 「邪馬台国論争」はこのような常識的な感覚とあまりにかけ離れているとわたしは思っている。(2000年3月28日)






 国会における証人喚問の場において偽証を行った者は、議院証言法によって国会から告発される。告発されなかった場合には、偽証はなかったということになるはずだ。

 ところが、その同じ事件について、裁判官が判決の中で、国会における証言を嘘と断じることが間々生じている。最近では、商工ローンの取り立てに関する判決がそうであり、今回の山口前労働大臣に対する判決がそうである。

 証拠が無いがゆえに国会は偽証を告発していないのである。その同じ事件について証拠もないのに一裁判官が自分の心証だけで勝手に偽証と断 じているのである。これはどういうことだろうか。この裁判官は国会が間違っていると言っているのだろうか。それとも国会の怠慢を告発しているのであろう か。

 国会は、自分の権威を無視して、自らの頭ごなしにこのような判決を書く裁判官に対してどうして黙っているのであろうか。一裁判 官の判断の方が国会の判断より優先されるなら、証人喚問など単なるセレモニーでしかなくなってしまう。もしそうなら、そんな証人喚問など時間と経費の無駄 だから、やめてしまうほうがよい。(2000年3月16日)







 わたしは死刑制度に反対だが、その理由は、自分はえん罪で死刑台に立ちたくはないということ、それに自分は死刑を執行する人間にはなりたくないという二点にある。

 人知には限りがある。えん罪は防げないのである。ならば死刑制度があるかぎり、いつ自分がえん罪で死刑になるかもしれないのである。その時、死刑制度を維持するために自分は犠牲になってもよいと思えるなら、死刑制度に賛成すればよい。

 裁判の審理の結果によるものであっても、死刑は人殺しの一つに違いはないのだ。天上の世界から見れば、死刑もまた愚かな人間が殺し合いをしていると見えるだけのことである。

 死刑制度には人の命を社会の持ち物と考えるおごりがある。しかし、もし人の命は神からの授かり物だと思うなら、それを人間が勝手に理屈をつけて奪って良いはずがないことは簡単にわかるはずだ。

 一方で、命を大切にしようと言いながら、他方で人殺しに賛成する、これが大いなる矛盾ではないと証明できるなら死刑に賛成すればよい。(2000年3月16日)







 「物事の是非を判断するのに専門的知識は必要がない。物事の最終的な判断を下すのは国民であり、一官僚であってはならない」

 裁判の陪審制はこの二つの点に立脚している。したがって陪審制の裁判では裁判官は決して主役ではない。

 しかも、日本の陪審制は戦争で中止になっているだけで廃止されてはいない。したがって、現在の裁判では裁判官が市民になり代わって判決を下しているだけである。さもなければ、一官僚に過ぎない裁判官に強大な権力が与えられていることになる。

 その精神は、現代の日本の裁判でも忘れてはならないと思う。つまり、彼は単なる行司でなくてはならないのである。裁判官は中立の立場に あって、原告被告のどちらの言い分にも取り込まれるようなことがあってはならない。彼はどうすれば公平な立場を維持できるかに最大の考慮を払うべきであっ て、その意味で、あくまで黒子の立場を守らなければならない。

 逆に言えば、裁判官は世の中を良くしようなどという気を起こして、表に出てくるようなことがあってはならないのである。ところが日本の裁判官はこうした立場を忘れて、正義の味方のふりをしたがるようだ。しかし、それは思い上がりというものである。

 最近、陪審制についての論議が盛んになっているが、それはこうした裁判官の思い上がりを反省させるためにも意義のあることだと思う。(2000年3月15日)






 アメリカ大リーグのロッカー投手の差別的発言に対する処分が結局軽いもので終わったことは、アメリカ社会では個人や組織に対する批判には 必ずそれに対する別の見方が現れて、それが緩衝剤(クッション)として働いて、極端なバッシングに進むことなく収束することの一例と見ることが出来る。

 それに対して、日本では批判は必ずバッシングに進み、適当なところで終わることが出来ずに、相手からすべてを奪い取るまで進んでしまう。

 クリントン大統領の女性問題が罷免に至ることなく終わったのに対して、大阪府知事が辞任に追い込まれてしまったのも、その一例と見ることが出来る。

 日本社会は反対意見を許さない狭量な社会である。オーム真理教、野村沙知代問題、大阪府知事、商工ローン、そして今の警察と、バッシング が続いている。これらを悪と見なす以外の見方はすべて封殺されしまっている。そして、別の見方が現れるとそれもバッシングの対象になるだけで緩衝剤の役割 を果たすことなく、行き着くところまで行ってしまうのである。

 こういうことを避けなければならないという考え方がもともと日本社会には欠落している。そこには生け贄の羊を避けようとする賢 明さがない。誰かを人身御供にしても事態が解決するわけではないという理性的判断力がない。物ごとには必ず二つの見方があるということを認めたがらず、そ のためにヒステリー現象を避けることができない。つまりは、合理的思考能力が尊重されない社会なのである。

 新潟県警の問題については、監察時期が監禁事件の発覚の時期と重なったということが最大の不運であったのは事実である。しか し、「運が悪かった」という首相の一言はバッシングを呼んだだけだった。あれこそは別の見方を提供するものであるにもかかわらずも、マスコミはそれを利用 することが出来ずに、けしからんとか、不謹慎とかいう批判を浴びせただけだった。しかし、これこそまさにヒステリー現象が起っていることの証拠である。そ こではいつも情緒的・倫理的批判が優先されて、合理的批判がしりぞけられてしまうのである。

 そしてこの社会のヒステリーは、第二次大戦のときからずっと変わっていないのではないかと、わたしは思っている。(2000年3月13日)






 時代劇を見ると悪いことをする人間は必ずどこまでも悪い人間であり、被害者はどこまでも良い人間である。そして勧善懲悪の世界観のもとに悪が懲らしめられる様子が描かれる。

 一方、サスペンスものの現代劇ではそうではない。犯罪者は決して悪い人ではない。むしろ被害者の悪辣な仕打ちに耐えかねたうえでの犯行であったり して、様々なやむにやまれぬ動機が描かれる。むしろ、犯人は善人である場合が多い。したがって、現代劇では犯人はスターが演じる。ここでは勧善懲悪の価値 観だけでは出来事の意味は測れないことを視聴者は知る。そして人生の不合理を学ぶのである。

 ところで、新聞やマスコミはどうかというと、これは勧善懲悪の価値観に基づいて記事が作られている。ちょっと驚くことだが、時代劇と同じなのだ。

 しかし、われわれはすでにサスペンスものによって、犯人は必ずしも悪い人間ではないことを知っている。争いごとがもとで殺人事件が起きた 場合などは、犯人は被害者に余程ひどい目に会わせられたのだろうと想像する。また、被害者が何の罪もない子供である場合でも、そんな子供を殺すとは、加害 者は余程どうしようもないところに追い込まれた不幸な人間だろうと考える。そして、それが大人の物の見方だ。

 つまり、ある程度精神的に成長した人間は、加害者=悪人とは考えないものである。

 ここから見ると、マスコミの物の見方がいかに一面的であるかがわかる。新聞などを見ると、加害者が極悪人であるように書いてあるが、それ はそうするのが彼らの仕事だからである。決して本心からそう思っているわけではない。だから、新聞を読むときは、そこに書いてあることをそのまま真実であ ると信じてはいけないのである。

 何故マスコミがこういう一面的な書き方をするのかというと、それは新聞がよく売れるためである。そしてそのためには、事件を分かりやすくセンセーショナルに描く必要があるからである。そのほかに、彼らは警察と仲良く仕事をする必要があるというのもその理由の一つだ。

 警察は、「こんな悪いやつだから逮捕という強制的な手段をとったのだ」と、自分たちの行動を正当化する。そのために、犯人を悪い人間であ ると表向き主張するのである。しかし警察官とて馬鹿ではないから、本当はそうではなく加害者が非常に不幸な人間あることぐらいは知っている。

 しかし、われわれはこうしたマスコミの犯人の扱い方をそのままの形で受け入れがちである。そして、何の疑問も持つことなく、犯罪者を悪人であると思い込みがちである。

 新聞を読んだりテレビのニュースを見たりするときは、これは事件を時代劇調(正義の味方!)で描いたものであると思いながら、見たり読んだりすることを忘れないようにしたい。(2000年3月3日)







 新聞やテレビの報道の内容が間違っているとすれば、その責任はまず何をおいてもマスコミにある。もし警察が嘘の発表を行ったとしても、それをそのまま報道すれば、その責任はまずマスコミにあるはずである。なぜなら、マスコミは警察の公報機関ではないからである。

 今回の新潟県警の嘘発表についても、国民はマスコミを通じて嘘を教えられた。つまり国民に嘘をついたのはまずマスコミである。その嘘の源 が警察の発表であったにすぎない。マスコミはこれが嘘であるかどうかを自分で調べてから報道するということを怠った。マスコミは警察の発表を裏付けも取ら ずにそのまま報道したのである。マスコミの怠慢である。

 今回の嘘に対して警察の幹部は責任をとったが、どこの新聞社の社会部長も、嘘を報道したことに対して何の責任もとっていない。不思議なことである。むしろ、マスコミは誤報の全責任を警察になすりつけることで自分たちの責任を完全に回避したようにみえる。

 しかし、今回の嘘によって警察だけではなくマスコミの信用も損なわれたことを忘れてはならない。マスコミはよく調べもせずに警察の発表をそのままニュースとして流していることが明らかになったからである。(2000年3月3日)






 関西では夕方のテレビ番組でワイドショーを二つの局が放送しているが、いずれも視聴率が低迷しており、他の局が再放送しているサスペンスドラマに勝てないでいるそうだ。

 その原因は、これらのワイドショーがニュースや芸能情報をほとんど扱わないためだと思われる。

 東京発のワイドショー番組が芸能ニュースや三面記事的なものを中心にしているのとは一線を画している姿勢は評価できる。しかし、関西のワ イドショーはいずれも中身が、健康や娯楽、料理など生活情報が中心で、特に興味を引くものはなく必然性のあるものでもなく、むしろ画一的であると言える。 それらは総じて「お気楽情報」と一括りできるものばかりなのである。

 それらに比べるとサスペンスドラマの内容ははるかに濃厚である。架空の犯罪事件を内容にしながらも、人生を生きるということの意味を問いかける重いテーマを持つものが多いのである。人の幸不幸とは何かと考えさせるものが多いのである。しかも、そこには感動がある。

 いわば人生の表側を撫で回しているだけのワイドショーが、人生の深層を見ようとするサスペンスドラマに勝てないのは当然であろう。

 わたしはこれらのワイドショーを見ていると、大阪の人間はまじめにものを考えることが苦手なのであろうか、何でも笑っていれば済んでしまうと考えているのではないかと思ってしまう。

 そう言えば、これらの番組は先の大阪府知事の交代劇の際にも、これをまじめに取り上げて考えてみようとしたことも無かったように思う。

 しかし、低い視聴率が示すように視聴者は連日提供されている「お気楽情報」ばかりを求めてはいるのではない。東京のワイドショーと違った切り口で、時事問題を取り上げる方向があってもよいのではないか。(2000年3月1日)






 国会は言論の府である。議員はそこで議論を戦わせて物事を決めていくのが仕事である。ところがこんな基本的なことがわからない人たちがこの国の国会議員の中には沢山いる。今、審議拒否をして国会に出てこない議員たちのことである。

 彼らは議論以外の方法で物事を決めようとしている。これはルール違反であり邪道である。

 議論をするのは自分の考えの正しさを人にわかってもらうためである。わかってもらえなかったら議論に説得力がなかったのだと反省するしか ない。そこで昔から西洋の政治家たちは説得力のある議論の仕方を身につけようと弁論術の修得に精を出した。一方日本の野党の政治家は議論をしないことを選 んだわけだ。これがいかにこっけいであるかは明らかだろう。国会開設のために命がけで奮闘した明治の政治家たちは、彼らが苦労して開いた国会に出て行かず に議論を放棄している今の野党議員たちの姿を見て、きっと嘆き悲んでいることだろう。

 野党議員たちは速やかに議場に戻るべきである。(2000年2月4日)







 大相撲には八百長があるという板井氏の発言を迷惑視する相撲ファンが多いようだが、わたしはそうは思わない。

 七勝七敗の力士が勝ち越しのかかった千秋楽の一番で必ずといっていいほど勝つこと、有望力士の昇進のかかる一番が、相手力士のたいした攻撃もなく大抵あっさり勝負がつくことなど、ファンが疑問に思うようなことは多いのである。

 しかも、八百長疑惑は以前にも言われてきたが、今回はこれまでと違って歴とした元幕内力士が自分がやったと言っているのであり、しかも単 なる週刊誌ネタではなく公開の場所で行われた発言である。その重みはまったく違うと言わなければならない。証拠がないとむげにしりぞけて済む類いのもので はないはずである。

 わたしは相撲協会に八百長の存在を認めろとは言わないが、例えば取り組みの発表を前日ではなく当日にするなど八百長をやろうとしても出来ない仕組みを考えてもよいのではないだろうか。(2000年2月3日)






 ある殺人事件に関わっていると目されている青年が釧路の湖で水死体で発見されたというニュースには、まったく痛ましいというほかない。しかし、これを扱 うテレビのニュースショーに見られるのは真相解明という美名に隠れた露悪趣味ばかりであり、命の大切さを訴える言葉はどこにも見られない。

 悪いことをしたのだから死んでも仕方がないというのだろうか。否、この世に死んでいい人間などどこにもいないはずである。どんな悪人であろうと同じである。そうであってこそはじめて、「命を大切にしよう」という願いは人々の間に広がることが出来る。そうではないか。

 逆に、「あんな悪いやつは死んでもかまわない」という思いが容認されているかぎり、自分の、そして人の命を粗末に扱う事件が跡を絶つことはない。そうではないだろうか。

 親鸞は言った。「善人なおもて往生する。いわんや悪人をや」と。ならばわれわれは敢えてこう言おうではないか。「まじめに生きている人の命は尊い。悪人の命はなおさらである」と。(2000年1月31日)



私見・偏見(1999~97年)
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 「ノックさんならやりかねない」これが横山ノック大阪府知事のセクハラ疑惑に対する大方の関西人の感想だろうか。

 しかし、女子大生をとるかノックさんをとるかと言われれば、ノックさんをとるというのもまた多くの関西人の見方ではあるまいか。

 ノックさんはこれまで長い間わたしたちを楽しませてきてくれた愛すべき人である。たとえ、女子大生側の主張が事実だとしても、そのためにノックさんが追いつめられるようなことになれば、私たちが失うものはあまりにも大きい。

 女子大生側は多大の賠償金を勝ち取ったのだから、もうノックさんをそっとしておいてやって欲しい。これを政治的に利用すること自体、ノックさんの選挙運動員までした女子大生自身の本意ではないと思う。

 それにしても、報道とは言い条、これまでノックさんのおかげで潤ってきたことがあるはずの関西の各放送局の今度の事件に対する対応のつれなさは、とても恩人に対するものとは思えない。

 わたしは、むしろピンチに立っている今こそ、ノックさんに頑張れとエールを送りたい。(1999年11月4日)







 介護保険制度は保険方式ではなく税方式でやるべきという自由党の主張に賛成である。

 保険方式を主張する人たちは、負担とサービス給付の関係を明確化できると言う。これは、自分が将来介護を受けるためにあらかじめお金を納めておくという意識を持ってもらえるという考え方である。

 しかし、介護保険料はサラリーマンにとっては健康保険と同じく天引きであるため、給料から引かれるというイメージのほうが強く、逆に、自営業者の場合には、国民保険と同じく収めない人が出てくる。要するに、介護保険料には一般に言う保険を収めるというイメージは薄いのである。

 むしろ、自由党のいう税方式、つまり消費税を充てる方式こそ、寝たきり老人の面倒を社会がみんなでみるという考え方に合致していると思われる。

 それを国民に意識してもらうために、消費税の名前を「介護福祉税」などという名に変えればよい。そうすれば、これまでの消費税の「いやいや払わされる」というイメージも払拭でき、増税に対する国民の拒絶反応も減らせるのではないだろうか。(1999年10月29日)






 インターネットのホームページを見ると、よくこんな情報をただで公開しているなと感心するようなページがある。金が取れようが取れまいが、人間は自分を表現したいという欲望が非常に強いということだろう。

 これまでのメディアを通じて自分を表現するには、金儲けという形をとる必要があった。それは、もちろん飯を食う必要があるためだが、そのほかに、自己表現を公開するためには他人の手を借りなければ不可能だったからである。

 しかし、ホームページというメディアでは他人の手を借りる必要がない。おかけで、金儲けを度外視した自己表現が可能になった。つまり、自己表現を公開するために、自分を売り物にする必要がなくなったのである。

 今の世の中はフリーターの時代である。金儲けをしない人たちが大威張りでいられる時代だ。だから、飯を食う必要という第一条件のほうも疑わしくなっている。

 かつては物書きは売文の徒と言われ、おのれの身を切って文章を書きながら飯の種を稼いだが、こんな時代にあってはもうそのような人種は育たなくなるかもしれない。自己表現という要求は、金儲けという要求から無関係なまま存在することが可能だからだ。少なくとも、ホームページは金儲けとは無縁でいられる表現の場である。

 ところで、はたして、金儲けのからんだ表現とそうでない表現と、どちらがすぐれたものを生み出せるだろうか。興味深いところだ。(1999年10月26日)






 西村前政務次官の発言問題で、自分の考えに反する意見に対する多くの日本人の不寛容ぶりをまたも見せつけられた。特にその傾向は左寄りの人間に強い。

 彼らは一方で言論の自由を口にしながら、他方で自分の気にくわぬ考えに出会うと、どんな屁理屈でも持ちだして、揚げ句の果てには相手の人格までも否定し、議論の可能性をも含めてその全てを否定しようとするのである。

 それにしても、今回の問題の対する民主党の対応には失望した。この党の党首の鳩山氏は、先の党首選挙で徴兵制の復活を主張している。タブーを恐れずあらゆることを議論しようというこれまでにない姿勢の現れであろうかと期待を抱かせるものであった。

 ところがその鳩山氏を党首に選んだ民主党が、西村氏のタブーに挑戦する発言に対して野党の先頭に立って罷免を要求した。これでは、民主党がタブーを恐れないのは野党にいる間だけで、民主党が政権についても何も変わりませんよと言っているようなものではないか。(1999年10月21日)







 最近、刑事裁判で係争中の被告に対して民事裁判を起こして損害賠償を請求する事例が数多く見られる。わたしはこのような傾向が果たして正しいものか識者の意見を問いたい。

 なぜなら、刑事裁判においては推定無罪の立場にある被告が、同時期に民事裁判においては犯人であるとの推測の元に損害賠償を請求される立場におかれるからである。しかも、それらは弁護士という同じ職業のものによって主張されるのである。

 これは言い換えれば、ある弁護士が容疑者の無罪を主張している際中に、別の弁護士が容疑者の有罪を主張していることになる。

 聞くところによると、金にならない刑事裁判で容疑者の権利を擁護する弁護士の数は少なく、高い報酬が得られる民事裁判で容疑者を追及する民事弁護士の方がはるかに多いそうである。

 もちろん彼らにも被害者の権利を守るという立派な使命はあるだろう。しかし、刑事裁判で被告の有罪が確定してから民事裁判を引き受けるぐらいの職業倫理を彼らに期待するのは間違っているのだろうか。(1999年10月19日)







 新たに二千円札が発行されるそうだが、わたしは歓迎したい。

 このお札の発行を聞いて「二万円札かと思った」とテレビで述べた人がいたが、さぞかしあの方の財布には一万円札の束がうなっていることであろう。

 しかし、わたしのような庶民の財布の中でうなっているのは千円札ばかり。たまに一万円札が迷いこむことがあっても、またたくまに千円札の分厚い束に姿を変えてしまう。おかげでわたしは、中身は知れているのにもかかわらず丸々と太った財布でポケットを膨らませて歩くことになる。

 もし二千円札が発行されれば、このような不便も少しは解消されることだろう。また、店員が一万円札のおつりに出す千円札を数えているのを、一緒になって首を動かしながら数える手間も減るというものだ。

 わたしはこのニュースを聞いたときに、まず何よりもその発想の豊かさに驚いた。西暦二千年に二千円札をしかも沖縄サミットを記念して発行することなど、いったい誰が思いつくだろうか。まだまだ日本の政治家も捨てたものではない。(1999年10月16日)






 東海村の燃料会社の事故で、マニュアルどおりにしていなかったことが問題になっているが、わたしはむしろフェイルセーフ、つまり失敗しても事故が起きないシステムになっていなかったことに問題があると思う。

 人間のすることである以上はマニュアルが変わっていくのは当然のことだからである。

 最初に教えられた方法よりももっとうまい方法はないかと常に思いながら事に当たる、これが人間の当たり前の姿である。また、それでこそ、仕事にもやりがいが生まれてくる。何から何までマニュアルどおりにやって欲しかったら、ロポットにやらせたらよいのである。これは自動車の運転技術一つとって考えてみても分ることだ。

 人間は自分の判断と創意工夫で生きている。最初に教えられたとおりにいつまでも同じようにやっていられる人間がいたら、むしろその方が異状である。

 今度の事故でマニュアル、マニュアルと言い立てる人は、きっと自分の頭でものごとを考えることのできない人であるとわたしは思っている。(1999年10月14日)







 東海村の核燃料施設で発生した事故のおかげで、原子力は危険だから原子力発電などやめてしまえという声がまたざろ大きくなってきた。しかし、これは間違った考えだと思う。

 原子の火も、普通の火と同じく、使用を誤れば大災難をもたらすことに変わりはない。しかし、それを上手に管理して利用するところに人間の知恵がある。

 昔、人類がはじめて火を手にしたとき、それが有用なだけでなく恐ろしく危険なものでもあることを知って、神として敬いながら活用した。

 火によって多くの災難を被ったはずだが、だからといって、火は危険だから使わないようにしようとは考えなかったのである。もしそうしていたら、人類は現在の文明を築くどころか、とっくの昔に地球上から姿を消していたことだろう。

 石炭や石油などの化石燃料がこの地球上から枯渇するときは必ずやってくる。太陽電池を家の屋根につけたところで、その家の必要電力すらまかなえないのが現実である。原子力発電をやめてしまうことは人類の歴史に逆行するだけでなく、未来の人類の存続そのものをも危険にさらしかねない行為であると知るべきであろう。(1999年10月8日)






 自由党の主張する衆議院議員の定数削減法案に公明党は反対しているが、まったく筋が通っていない。

 この法案は、自民党と自由党が連立政権を作るときの合意事項であり、公党間の約束である。公明党はその約束を自民党に破ることを求めているのである。

 いったい、人に約束破りを求めることのどこに道理があるのか。

 公明党は自民党と連立するつもりらしいが、その際に自分たちもまた自民党と政策協議を行って、政策上の約束を取り付けるのではないのか。その約束を公明党は是非とも自民党に守ってもらいたいはずだ。しかし、いま、公明党が自民党に対して、自由党との約束を破れということは、自分との約束も破ってよいと言っているに等しい。

 自分との約束は絶対に守って欲しいが、ほかとの約束は破っても良いと言うは、人の道に反したことだし、あまりにも虫が良すぎる。

 自民党は内心ほくそ笑んでいることだろう。いましぶしぶ公明党のいいなりになって、自由党との約束を反故にしておけば、後で公明党との約束を守れなくなったときに、公党間の約束でも守れないことがあることの、言い訳に使えるからである。(1999年9月5日)







 今年の夏もまた高校野球は多くの感動をもたらしてくれたが、また多くの矛盾を含んでいることも明らかになった。

 その中でも一番大きな矛盾は、大人でも先発投手の連投はあり得ないのに、高校生の投手たちが最高で四連投もしたことである。

 高野連は複数投手制を奨励してはいるが、まったく形だけであり、勝ち残るチームは一人のエースに頼らざるを得ないのが現実である。

 本気で子供たちの体の成長を考えるのなら、百球以上投げた投手は四日以上の間隔を置かなければ登板してはならないという規定を作るべきではないか。そんなことをすれば、トーナメント制の大会は開けないと言うかもしれない。しかし、ここに大きな矛盾がある。

 子供たちが体を壊すような無理をしなければ維持できないような大会の存在意義とは何なのか。

 高野連は、大人の楽しみのために子供を英雄に祭り上げて過大な負担を強いているという現実にもう少し目を向けるべきではないだろうか。(1999年9月5日)






 小沢一郎氏はよく「日本人はまだ多数決原理を受け入れていない」と言うが、まさにその通りの光景が最近の参議院で繰り広げられた。多数決による決定に反対する人たちが、委員長席に押し掛けて、採決を腕力で阻止しようとしたのである。

 議題は通信傍受法案である。この法案の成立に野党は絶対反対である。少数派である彼らは、採決されたらおしまいだと思って必死に採決を妨害しようとした。

 しかし、本当に採決されたらおしまいだろうか。実は、彼らは、次の選挙で多数の議席を取ってこの法律を廃止する法案を作って、多数決で成立させればよいのである。そのためには、国民の多数を説得するしかない。民主主義の根本はこの説得ということであって、腕力で採決を阻止することではない。

 ルソーは『社会契約論』のなかで「多数決の原理の前に、この原理を受け入れることに対する全員一致の賛成が必要だ」と言った。この社会が民主主義社会である以上、この原理に対する全員一致の賛成は大前提のはずである。

 ところが日本では、重要法案の採決が行われるたびに、この多数決原理に反対する議員が現れる。その多くの人たちが、少数意見の支配する共産主義・社会主義勢力を代表する人たちであることを考えれば、むべなるかなである。 (1999年8月11日)






 君が代伴奏を拒否した女性教師が処分を受けたというニュースがNHKで流れたが、なぜこれがニュースになるのだろうか。こんなことはけしからん、思想弾圧だとでも言うのだろうか。思想信条の自由を理由に仕事を拒否することは許されるべきだとでもいうのだろうか。

 そうなると、たとえば、NHKの相撲中継で君が代斉唱の場面を思想信条の自由を理由にカメラマンが撮影を拒否するとしても、許されるということになる。

 しかし、そんなことはあり得ないだろう。そんなことをすれば、公私混同だとして処分の対象になるからである。それともNHKではそういうことが許されているのだろうか。

 そもそも、あのニュースをもし局のアナウンサーが読むことを拒否したらどうするのか。そこまで考えてあのニュースを作ったのだろうか。うちの局では、そんな変な人は雇っていないと言うだろう。ところが、あの小学校はそんな人間を雇っている。

 思想信条は個人の問題である。それを仕事の場に持ち出すとは何事か。こういって彼女はきびしく叱られるべきなのである。(1999年7月29日)







 今年のプロ野球のオールスターゲーム第1試合は、西武ライオンズの松阪投手一人のための試合だった。松阪が一球投げるごとに、アナウンサーは大きな声を上げて絶叫を繰り返す。他の選手は、主役である松阪のために登場する脇役、いやエキストラのごとくに扱われた。

 そして、彼の登板が終わると、グランド上での出来事などはまったくそっちのけで、 彼に対するインタビューが延々と行われわれた。視聴者が試合の進行を楽しむことなど、とてもできるような状態ではなかった。

 今年の西武ライオンズは、ペナントレースでの成績がもうひとつだが、このフィーバーぶりを見れば無理もない。西武の試合は、松阪が出る試合と松阪が出ない試合の二種類に分けられ、観客は松阪の出る試合にだけ殺到するのである。これで、ライオンズの選手たちの間にチームワークが保たれるとしたら、奇跡というしかない。

 オールスターゲーム第1試合の裏番組は、大輔という名前の松坂牛を登場させてこのフィーバーを皮肉ったが、野球の楽しみを松阪に奪われたわたしには、実に痛快事だった。

 松阪よ、君はいま人寄せパンダになってしまっている。もし本当に君が野球をしたいのなら、マスコミを遠ざけて野球に打ち込んできたオリックスのイチローの姿を見習うことだ。さもなけば、そのうちマスコミにつぶされてしまうだろう。 (1999年7月25日)






 公明党は世論の批判をまったく気にしない政党のようである。地方振興券が何の効果もないと批判されても、公明党はまったく気にする様子がない。それどころか、天声人語氏によれば、党の機関誌で自画自賛しているという。

 選挙制度を中選挙区制にもどすという同党の案も、マスコミから総すかんを食らっているが、平気の平左で言い続けている。

 自分にだけ都合の良い選挙制度は、昔からゲリマンダーと言って政治家にとって恥ずべきものとされてきたが、公明党はそんな案を出しているのに、まったく恥ずかしがる様子がない。

 世論の批判を浴びれば、考え直すのが民主主義である。しかし、公明党にはそんな姿勢は全くない。学会の外の人間に、どんなに批判されても痛くもかゆくもないからだろう。選挙になると、 学会員が全員運動員となって選挙運動をし、また自ら投票するからである。それ以外の人間の言うことに耳を貸す必要はないわけだ。

 そんな唯我独尊の政党が自民党と手を組んで政権を握ろうとしている。不安を感じるのはわたしだけではあるまい。(1999年7月15日)






 中身より名前で売ろうとするためか、有名人の翻訳には読みにくいものがたくさんある。

 たとえば小説家では吉行淳之介の『酒について』、古井由吉の『愛の完成』、評論家では佐伯彰一の『さよならコロンバス』、それにわたしが今読んでいる寺田透の『浮かれ女盛衰記』などが代表的だ。

  翻訳家でも有名なのは気をつけたほうがいい。常盤新平などがそうで『大統領の陰謀』や『夏服を着た女たち』などはかなり読みにくい。

  さらに、この『夏服の女たち』の原作の文庫が日本で出ているが、それに付いている注釈は常盤氏の訳の写したものであるから、何の助けにもならない。
 
  結局、本当の意味は自分で読んで見つけるしかないのである。(1999年7月2日)






 純文学。半人前の小説。話を自分で作れないから実際の出来事をさも自分の創作のようにして文章にしたもの。創造力のない国民にだけ見られる特有の現象。しかし、日本ではそれに賞を設けて特別に奨励している。

 私小説。ノン・フィクションとしては材料の足りないところを想像で補ってつくった半端な作品。自分のことだけ書いている場合は問題はないが、しばしば自分の友人を登場させて、あとで訴訟を起こされる。

 小説家。自分の友達をいつのまにか小説の材料に利用してしまう裏切り者。

 外国の作家は、しばしば嘘ばかりついているといって非難されるのに、日本の作家は本当のことを書いているといってしばしば非難される。

 確かに、かのギリシャの詩人ホメロスの作品も作り話と思われていた、その中に事実が含まれていることをトロイを発掘したシュリーマンが証明している。どんな作り話でも、現実の出来事から出発する。

 裁判官はモデルを使うなと言っているわけではない。それなら、モデルにした人に感謝されるような作品を書けばいいのである。人を傷つけて金もうけしていいという法はない。

 それよりも、この判決に対するこの作家の態度には失望した。勝負事に負けたときにその人の本性が出るものだが、この作家が「こんなことなら小説なんて書けない」とむくれて見せたのはいただけない。

 小説を読んでいて、よくもこう見てきたようなことを書くものだと感心するものだが、それが実は本当に見てきたことだったとしたら、読者はだまされたことになる。(1999年6月23日)






 おいしい紅茶を家で飲めなくなって久しい。おいしい紅茶を飲むには喫茶店に行かなければならない。昔はティーバックの紅茶でもいい香りのするおいしい紅茶が飲めたものだ。

 しかし、いつの頃からか、ティーバックはだめになり、ホテル仕様などという袋入りの紅茶を買わなければならなくなった。しかし、それもいつの間にか単なる色付け粉でしかなくなると、もはや市販の紅茶では紅茶の味は楽しめなくなった。

 それでも新しい銘柄の紅茶が出ると、もしやと思って試しに買ってみる。そして、聞いたことのないメーカーのティーバックを近くのコンビニで見つけて、久しぶりにおいしい紅茶を飲んだことがある。ところが、そのティーバックもいつの間にか店頭から消えてしまい、それに代わって店頭に置かれた有名メーカーのティーバックは、単なる色付け粉でしかなかった。

 おいしい紅茶の出るティーバックは一体どこへ行ってしまったのだろう。市販の紅茶は一体どうなってしまったのだろう。おいしい紅茶を家で飲むには、勇気を出して喫茶店で紅茶の葉を分けてもらうしかないのだろうか。あなたはおいしい紅茶を家で飲んでいますか。(1999年6月18日)





 革命当初のフランスでは、共和主義を唱える人たちが主権在民の世の中にトランプの絵柄が王様ではおかしいと言って、それを変えようとした。さらに、実際にカレンダーの月の名前を変えてしまっている。テルミドール云々という今となっては訳の分からない名前を使うことにしたのである。

 その理由は、現行の暦を最初に作ったのは古代のローマ王であり、無知蒙昧な神話からとった名前や、皇帝の名前が含まれており、主権在民の世の中にふさわしくないからというのである。

 日本でも、同じようなことがある。例えば元号の使用の拒否がそうである。元号は天皇の寿命に合わせてあるから、主権在民にはふさわしくない。したがって、彼らは元号を使わずに西暦を使うのである。国歌の「君が代」に対する反対運動も同様の理由からである。

 つまり、彼らがやろうとしていることは革命当初のフランスの人たちがやろうとしたことと同じことなのである。

 ところで、そのフランス革命とは何だったのか。

 たとえばシュテファン・ツヴァイクは「マリー・アントワネット」の中で、「革命とは人間の果てしない低俗化と教養の否定であり、それに合致しないものの死を意味する」ということを、これでもかという具合に赤裸々に描いた。

 また、アナトール・フランスは「神々は渇く」の中で、革命に付随する粛正の悲惨さと愚劣さを、これもまたあからさまに描いた。

 特にこのフランスの作品の中で印象的なのは、主人公に対して母親が言った次の言葉である。

 「古い制度が滅びたことを残念だとは思わないけれど、でも、革命によって平等が打ち立てられるなんて考えてはいけないよ。人間はどんなにしたって平等になることなどないんだからね。どんなに国をひっくり返してみたところで、お偉方とささやかな庶民と、肥った者と痩せたものがあることに変わりはないんだ」

 この言葉の真実はその後の歴史の証明するところである。フランス革命を真似てさまざま革命が行われたが、その結果、どこの国民も平等にはならなかった。ただおびただしい数の人たちが殺されただけである。

 ベルリンの壁が壊されてからもう十年にもなる。しかし、なおもこの事実を認めたくない人たちが、日の丸・君が代を批判して、フランス革命の愚を繰り返そうとしている。わたしにはそう思えてならない。なぜなら、実際にこの批判のために人の命が奪われているからである。(1999年6月3日)








 「同点の七回裏二死一、三塁。力投していた薮が、清水に勝負を決定づける3ランを右翼スタンドへ運ばれた―。これまでの野々村監督のさい配なら、当然、左の遠山か田村の場面だった」

 産経新聞の大月達也記者はちょくちょく間違いを犯すが、今日のスポーツ面のこの記事も間違っている。こういう場面でエース級のピッチャーを代えないのが野村監督一流のさい配であることをこの記者は知らない。

 ヤクルト時代の野村監督がエース級のピッチャーを交代しなかったために勝ち試合を同点にされたり逆転されてしまった場面を、わたしは何度も見てきている。石井や吉井といったエース級のピッチャーは、勝っているときには同点になるまで、同点の時は逆転されるまで代えないのを常としていたのである。

 目先の一勝よりも大切なものがあることを野村監督は知っているのだ。シーズンを通して選手に働いてもらうためには、主力級の選手のプライド、選手の格というものを大切にしなければならないことを知っているのだ。そうしないと、トータルで勝ち越せないのである。

 野球は勝ったり負けたりのゲームである。全部勝ちに行くさい配をすれば結局負け越してしまう。勝ち越すためには、いかにプラスの価値を残して負けるかである。

 藪は、代えられずに打たれたからこそ、次の試合でも一人で最後までがんばろうと思うのである。あそこで代えていたら、藪は、次の試合から、ピンチに左打者が出てくるたびにベンチの顔色を覗うようなピッチャーになってしまうことだろう。それではエースはつとまらないのだ。

 大月記者は野村監督のさい配を批判する前に、野村ヤクルトの負け試合の記事を読み直してみるべきだろう。勉強不足である。(1999年5月31日)







 コソボ紛争でNATOは政治解決に傾いているという。どうやらこの戦争はユーゴのミロセビッチ大統領の勝ちのようである。

 民主主義は弱し。全体主義を相手の戦争では勝てないのである。

 なぜなら、民主主義のNATOは敵国だけでなく、マスコミも相手に戦わなければならないからだ。全体主義のユーゴは報道管制をしいてユーゴ軍の虐殺をまったく報道しないのに、西側のマスコミはNATOが誤爆すると途端に報道してしまうのである。

 そのうえ、ユーゴ軍がどんどんアルバニア系住民を殺しているというのに、NATO軍は民間人を殺せない。いくら空爆でユーゴの国力をそいだつもりでいても、民間人が安泰なら、国は安泰である。壊されたのがモノだけならあとで作り直せばよいのだ。

 ユーゴはコソボからアルバニア系住民をほとんど追い出して手中に収めてしまった。これをNATOが取り返すには地上軍の投入以外に手はない。

 しかし、やんぬんかな、NATOは民主主義である。自分の命を危険にさらしたくない世論にお伺いを立てねばならないのだ。もはや勝負はついているといっていい。民主主義陣営は全体主義国に戦争を仕掛けても勝てないのである。ほかの方法を考えるべきときであろう。(1999年5月24日)








 イスラエルで新しい首相が誕生したが、このニュースを聞いて首相を直接選挙する制度があることに驚いた人も多いのではないか。特にこの選挙で注目すべき点は、上位二人による決選投票方式を採用している点だ。

 今度選ばれたイスラエルの新しい首相はいまは野党の党首だが、この決選投票方式のおかげで、選挙の段階で政党レベルの過半数の支持を確保したため、組閣するときに過半数の与党を容易に形成することが出来るので、不信任決議におびえる必要がない。

 いっぽう日本の選挙では地方自治体の首長は直接選挙で選ばれるが、決選投票を行わないため、野党の出身者が当選した場合、議会対策に苦しむことになる。

 中には、議会から不信任を突きつけられて、職を失うものが出てくる始末である。そうなると、不信任決議、議会解散、議員選挙、不信任決議、首長選挙となり、無駄な労力と金が使われ、政治に空白が生ずる。

 このような無用の混乱を回避するために、日本でも決選投票方式を採用したらどうだろうか。(1999年5月18日)








 ユーゴスラビアに対するNATOの空爆の問題で、NHKは中国の動きを大きく報道しているが、これは以下の意味において間違っていると思われる。

 すなわち、中国は平和主義の国ではなく、今回の空爆に関しても、ユーゴに平和をもたらすことには興味がなく、世界における権威の確保のためにしか動いていないからである。

 今回、中国がロシアとともに、空爆の停止を政治的解決の条件としたことの目的も、真にNATOの空爆停止を求めているわけではなく、ロシアをNATOから引き離すことでしかない。これは、共産主義国がよくやる政治的駆け引きであるにすぎない。

 そもそも、NATOが空爆を始めた目的はコソボからのユーゴ軍の完全撤退であり、その目的を達成することなく空爆をやめれば、空爆が無意味となる。

 ところで、NHKが「ユーゴに対するNATOの空爆によって発生しているアルバニア人難民」という表現を使っているが、これは間違っている。「セルビア軍の民族浄化によて発生しているアルバニア人難民」と正確に報道すべきである。知ってやっているとすれば悪質である。

 NHKはユーゴスラビアや中国の報道機関ではないはずだ。(1999年5月11日)






 アメリカでは決して銃規制が完全に実現することなぞあり得ない。それは、銃を持つことは自らが民兵となる権利を持つことだからである。

 民兵とは何か、それは革命をするための軍隊である。銃を所持することは革命するを権利を国民の手に保持することである。馬鹿な少年の起こした事件のために革命を起こす権利を、それはすなわち民主主義を守る権利を手放すはずがないのである。

 ひるがえって、銃を持つ権利を奪われている日本国民は決して革命を起こすことは出来ない。それは共産主義革命を防止するには役立つだろう。しかし、革命を起こすことが出来ないということは、憲法を捨てることが出来ないということである。

 主権者は憲法を捨てることが出来なければならない。憲法は主権者にとっては自分自身に対する約束であって、自分の存在がおびやかされたときにはそれを捨てる権利を持っている。ところが、銃を持たない国民は革命を起こすことが出来ないゆえに、それが出来ないのだ。(1999年5月3日)







 私の住む小さな町でも町会議員を選ぶ選挙があった。立候補者の二十一人の中から一人を選んで投票しなければならない。しかし、いったいどういう基準でその一人を選び出せばいいのだろうか。

 公平を期すならば二十一人全員についてよく勉強しなければならない。しかしどうやって勉強するのか。選挙公報もあるが、全員が全員似たようなことを書いている。

 ほかの人たちは何かの縁故で投票する人を選ぶのだろうと思う。しかし、何の縁故もない私には選びようが無いし、そもそも縁故で投票するのがよいとも思えない。

 そこで私は思うのである。これが二人のうちの一人を選ぶのだったらどれほどいいだろうかと。二人を比べるのならそれほど難しいことではなさそうである。もちろん、二十一人を比べるよりもはるかにたやすいに違いない。

 この二人のうちの一人を選ぶやり方、つまり小選挙区制は、日本でも衆議院議員の選挙ではその方向に進んでいるようだが、地方議会議員の選挙からそうしてもらえないだろうか。私はそれが選挙民に対する何よりの親切だと思うのである。

 ところで、私の町の町会議員選挙の結果は、産経新聞には翌日に掲載されないため、私の家では地元の新聞をわざわざ買いに行かねばならなかった。産経新聞は翌々日に掲載とのことだが、これでは古新聞と何の違いもないのではないだろうか。古新聞を金を出して買う馬鹿はいない。(1999年4月26日)







 最近ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」を久しぶりに読み直してみたが、こんなにユーモアに満ちた面白い本だったのかと、まるで宝物を発見した気分である。

 実は昔読んだときには、単に寒いところの話という印象しかなかったのだが、ソビエトが崩壊して、社会主義の嘘があばかれた今だからか、作者がずっと昔にこの本で言っていることが実によく理解できるのである。

 話は強制収容所に放り込まれた男の一日の出来事をつづったものだが、ソビエトは何と、収容所の囚人に、ろくな材料も与えずに只働きさせて、それで都市を造り、工場を造り、おまけに収容所まで作っていたのである。そのでたらめぶりを、作者は実体験をもとに皮肉たっぷりに描いている。

 これを読むと、何よりも人生やる気が出てくる。不況どころの話じゃない、強制収容所という絶望的な状況にいながら、プライドを失わず、自分自身を律して、たくましく、巧みに環境に順応して、そこから最大の利益を引き出し、少しずる賢く生き延びていく主人公ショーホフの姿に、わたしは大いに元気づけられたのである。(1999年4月21日)







 東京都知事に当選した石原氏に対する中国の批判をニュースで見たが、わたしはあのニュースを見て「もっともだ」と思うどころか、「また始まった。いいかげんにしてくれ」と思った。なぜなら、それは「中国を怒らせたら怖いぞ、発言に気をつけろ」という脅しにしか聞こえないからである。

 考えてみれば、中国の言うことはすべて権力闘争の一環であり、利益を狙ったものであって、純粋な感情の表現でないことは、誰の目にも明らかである。それなのに、中国の言うことを、いちいち真に受けて日本で報道する必要があるのだろうか。

 中国に関するニュースはその扱い方をよく考えて行わなければ、かえって日本人の反中国感情を増幅し、日中関係を危うくするだけだと思われる。

 ベルリンの壁の崩壊の前と後では、共産主義国に対する国民の見方は大きく変わっている。したがって、報道機関の姿勢も変わらなければいけないと思われる。しかし、彼らの多くは、共産主義は民主主義ではないという事実をまだ受け入れていないように思われてならない。(1999年4月19日)







 当選したばかりの新知事を待っているのは「あなたの公約は実際には何一つ実現できませんよ」という言葉である。

 まず、テレビのニュースキャスターがその先鞭を切り、つぎに役人、最後に議会がそれを知事に教える。そうやって、政策の実現できない知事を選んだ国民のおろかさを明らかにするのである。

 特に議会は、新知事の政策をことごとく拒否して、自分たちが支持する知事を選ばなかった国民を非難するのである。そんな政策なんぞ実現しなくても、この世の中はうまくやっていけると言うのならまだしも、議会は、国民を不幸にして、政治の混乱をまねいても、新知事の公約を何一つ実現させないようにするのである。そして、その全ての責任を知事に押し付けるのである。

 首相公選制をいう人がいるが、日本でそんなことをすれば、これと同じことが起こるとことは明らかである。アメリカで大統領制が機能しているのは、議会で野党の議員が過半数を占めていても、大統領の政策が全て否決されることはないからである。日本の村政治ではそうはいかない。(1999年4月12日)







 セルビア人はいまアメリカの空爆を受けて、不幸な目に会っている。しかし、彼らに教えたい。これはよい兆候である。アメリカには破れたほうがいいのだ。

 日本を見たまえ。日本はアメリカに破れたおかげで、軍国主義から解放され、民主主義を与えられ、すばらしい憲法を与えられ、二度と戦争をする心配のない国になったのである。

 ところがアメリカに勝ったベトナムはどうなったか。社会主義のくびきにつながれ、言論の自由を奪われ、経済の発展もままならず、戦争前よりも貧乏な国になったではないか。

 考えてみれば、セルビア人は幸福である。かつての日本に対する空襲は、今行われているような生ぬるいものではなかった。民間人もお構いなしに攻撃対象にされ、揚げ句のはてには、原子爆弾まで落とされたのである。ところが、ユーゴに原爆が落ちる心配はない。

 セルビア市民にはアメリカにすすんで降伏することをお勧めする。そうすれば、日本のような幸福な国に生まれ変わることが出来るのであるから。(1999年4月9日)







 国旗・国歌の法制化に反対する人たちはよく「国民的な合意がない」と言っているが、この国民的合意とはいったい何を意味するのだろう。

 もしそれが全員一致を意味するとすれば、全体主義社会でもないかぎり、その達成は不可能だろう。それとも、少しぐらいは反対する人がいても、ほとんどの人が賛成するということだろうか。その「ほとんど」とは例えば、三分の二以上の賛成なのだろうか。それなら達成は可能だが、根強い反対論が消えることはないだろう。

 現に七割以上の人たちが「君が代・日の丸」に賛成しているが、反対する人たちは「国民的合意がない」と言っている。これは四分の三でも同じことである。

 ところで、民主主義とは過半数の賛成意見を全体の意見として採用する制度である。もしわれわれが民主主義を選択するつもりなら、「国民的な合意」などというものはあきらめて、過半数の賛成で我慢すべきではないだろうか。さもなければ、新しいことは何一つ実現出来ないことになってしまうからである。(1999年4月8日)








 広島県世羅高校の入学式で君が代が斉唱される様子がテレビで放映されたが、会場中央の学生や父兄達の席の人たちが起立して斉唱しているのに対して、教員席にいる人たちがほぼ全員座ったままでいた。まったく異様な光景であった。座ったままでいた教員たちにわたしは言いたい。

 目を覚ませ。主権在民はそんなことをしても達成できないぞ。馬鹿なことはよせ。テープレコーダが壊れて音楽を流せなかったそうだが、まさか君たちの仕業ではあるまいな。そんなことをしても誰にも尊敬されないぞ。

 共産主義革命でも考えているのか。そんなことをしても誰も幸福にならないことはもう明らかなんだぞ。天皇が嫌いなのか。それならそうとはっきりそう言え。

 それより何より、そんなことに血道を上げている暇があったら、教え方の勉強でもしろ。高校生の勉強は難しいんだぞ。ほとんどの高校生が教科を理解できないで落ちこぼれているんだぞ。責任を感じないのか。身の程をわきまえろ。(1999年4月7日)








 産経新聞に連載中の『坂の上の雲』をこれまで読んだ中で、最も衝撃的だったことは、日清戦争の勃発を当時の首相の伊藤博文は望んでなかったということである。首相が戦争に発展することを恐れて大軍の派遣に反対したのに、軍部が統帥権をたてにそれを堂々と無視したのである。

 第二次大戦の時に近衛首相らが戦争の拡大を望まなかったことはよく知られている。しかし、伊藤博文がそうだったことはあまり知られていないのではないか。軍部の独走はなにも第二次大戦に始まったことではなく、明治憲法の初めからそうだったのである。

 そしてこれが衝撃的なのは、もし明治の初めから総理大臣に統帥権があったなら、第二次大戦はおろか、日清日露の戦争もなかったことになるからである。もちろん軍国主義もなかったのである。

 戦前の軍国主義の罪を君が代や日の丸に負わせようとしている人たちは、是非とも『坂の上の雲』を読むべきである。そうすれば、軍国主義の罪は、旗や歌などのモノにあるのではなく、明治憲法の条文にあることが分かるはずである。(1999年4月6日)







 最近の省エネブームで私も徒歩や自転車で外出することが多くなったが、そこで一番驚きまた憤慨させられるのが、子供たちが誰も信号を守らないということである。

 私などは信号は守るものだと思っているから、車が来る来ないに関わらず、目の前の信号が赤ならあきらめてじっと待っているのだが、車が来ないとわかると子供たちは後ろから前からどんどんわたっていく。

 中には、こちらの方を見ながら「ばーか」と言わんばかりの表情でわたっていくのがいる。私も腹が立つから「お前ら、絶対に車にひかれて死ぬぞ」と言ってやるのだが、彼らは平気である。

 もともと信号は歩行者のためにある。だから車が来なければいいじゃないかとも言える。しかし、余裕のあるときは安全かもしれないが、急いでいるときやあせっているときに、いつものくせが出るのが恐いのだ。たまたま通りかかった自動車とはちあわせしたときにどうなるかは明らかである。

 子供を交通事故で失った親は、例外なく、うちの子に限って信号を守っていたはずだという。しかし、私はそういうニュースを聞くと、いつも「へえー、そうですかね」と思ってしまう。それほど、最近の子供は例外なく信号を守らないのである。(1999年3月23日)







 「君が代の歌は、我が天皇陛下のお治めになるこの御代みよは、千年も万年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるやうにという意味で、まことにおめでたい歌であります」

 戦前の国定教科書にはこう書いてあると朝日新聞の「天声人語」はいう。つまり、「君が代」の「君」とは天皇のことだ、だから主権在民の現在の日本にはふさわしくない、と言うのであろう。

 しかし、日本は主権在民であると同時に立憲君主制の国である。それは憲法の第一条にも規定されている。君主制の国では、国歌の中で君主の幸福を祈るのはあたりまえのことである。それはたとえば英国を見ればよい。

 だから、「君が代」の是非を議論するということは、君主制の是非を議論するということである。日本は天皇制をやめて共和制にすべきかどうかを議論することである。それが出来ないのなら、国歌は「君が代」でよいということになる。

 ところで、共産党や社民党も含めて日本の国会議員で天皇制に反対している人は一人もいない。これは、誰も「君が代」の「君」が天皇であることに反対していないことを意味している。国民の代表である国会議員が全員認めているのであれば、「君が代」が国歌であることには誰も異存はないはずである。(1999年3月11日)







「国旗国歌をなぜ強制されなれければならないのだろう」というのは、実に素朴な疑問である。しかし、わたしは「では、国旗国歌を拒否する人間がどこかの国民であると言えるのだろうか」という素朴な疑問をもっている。

自分がどこかの国の国民であることを示すのは、自分の国旗国歌がこれこれであり、自分はこの旗の下に生きていると言えることではないのか。それが国民であることの出発点ではないのか。

国旗国歌に関して様々な議論があるからといって、学校の教師は国旗国歌に対して敬意を払うことを子供に教えなくてよいのか。それでは、どこの国にも属さない人間を作り出していることになるのではないのか。

まして、それらを拒否することを教えることは、国民であることを拒否することを教えていることになるのではないのか。もしそうだとしたら、国民主権も何も言えなくなるのではないのか。

アメリカでは幼稚園に入る子供に「わたしはアメリカ国旗並びに神のもと自由・正義で結ばれたアメリカ社会に対し忠誠を誓います」という忠誠の誓いを暗唱させるという。日本の一部の学校ではこれとは逆のことが行われているそうだが、それでよいのだろうか。素朴な疑問である。(1999年)






 脳死移植、国旗国歌の問題でよく聞かれるのは、様々な議論があるから実施には慎重であるべきだという意見である。 「国旗国歌に関しては様々な議論がある。だから、国旗の掲揚も国歌の斉唱もしなくてもよい。それを無理にすれば押し付けになる」と言うのである。

 地方振興券についても「お金を使うのは自分の勝手だ。使うのを強制されるのはご免だ」という意見をよく聞く。そこによく出てくるのは「人に押しつけてはいけない」という言い方である。しかし、その中身は体のよい自分勝手主義に過ぎない。

 民主主義とは過半数の賛成があれば、少数派もそれに従うという制度である。「少数の反対がある間は、何もすべきではない。それは少数者に対する押し付けになる」というのでは、少数者による支配になってしまう。それは民主主義ではない。

 民主主義に賛成している以上は、自分の意見が多数の支持を獲得しなかったからといって、多数意見の失敗を願ったり、その実施を妨害するのはフェアな態度ではない。

  「様々な議論がある」と言うのはよい。しかし、そこから、「だから、何もしないでおこう」というのでは困る。議論があるからと言って、国旗も国歌も知らない子供をつくってどうするのか。それでは、子供たちに議論する権利さえ奪っている。

 いったい過去の歴史を理由に自分の国の国旗や国歌を否定している国がどこにある。民主主義の国である英国は、はっきりと「神よ、女王を救い給え」と歌い。

 ベトナム戦争の経験のある米国は、幼稚園の生徒に国旗に対する忠誠を教えるために、忠誠の誓いを暗記させる。国旗も国歌も知らない人間はどこの国にも属さない人間だからである。(1999年3月5日)







 脳死による臓器移植の第一号の報道の加熱ぶりは、臓器提供者の家族が臓器提供の承諾を撤回させるに充分なものがある。

 今日明日の間に臓器提供者の家族の家の周りにはレポーターが殺到して、インターフォンによって家族にインタビューをしようとするものが続出するのではないか。

 また、いたずら電話がかかるようになり、嫌がらせの手紙や葉書が舞い込むようになるのではないか。そして、この臓器提供者の家族は、電話番号を変えなければならないのではないか。このような危惧を抱かせるに充分だからである。

 今回の報道では、臓器提供者の名前は匿名で報道されているが、報道してしまった以上は、提供者の名前が広く知れわたるのは時間の問題である。

 この大騒ぎを見た人たちは、脳死による臓器提供によって家族の安全が確保できないと思うようになり、脳死による臓器提供を拒否するようになるのではないか。

 脳死による臓器提供が進展しないことに対する報道機関の責任は大きい。脳死判定の段階で報道してしまうのではなく、移植後まで報道管制を敷くべきではなかったか。(1999年2月25日)







 わたしはNHKの大河ドラマ『元禄繚乱』は次のような解釈のもとに作られていると思って見ている。

 狂人ばかりの中に一人だけ正気の人間がいれば、その人は狂人だと思われる。これまで、浅野内匠頭の刃傷事件は狂気の沙汰だと思われていた。だが、実はあの狂った世の中で一人正気を保っていた人物が浅野内匠頭だった。

 成人した彼は、世の中に出ていくと、まわりの人間のいいかげんさ、自分勝手さ、不道徳さに次々と気づいていく。内匠頭はそれに対して怒りを感じた。世の中は狂っていると思った。

 そして、浅野内匠頭にとって、この狂った世の中の典型が吉良上野介だった。彼の怒りはこの男に対する怒りとなって結晶していく。その結果起こったのが刃傷事件であった。

 大石内蔵助もはじめは世の中の風潮と同じく狂った生活を送っていた。しかし、内蔵助は主君の死によって目覚めた。それがもう少し早ければ、主君を追い込まずに済んだかもしれないと、彼は悔やんだ。そして、主君に対してどうしてもわびたいと思った。それは内蔵助にとって主君の仇を討つことであった。その結果が討ち入り事件であった。

 はたしてドラマはこのように進むかどうか、楽しみにして見ている。(1999年2月21日)







 プロ野球のオーナーたちが、シドニーオリンピックには二軍のプロ野球選手なら出してもいいが、一軍選手は出さない意向を表明したという。しかも、あるオーナーは韓国に負けたって構わないというような発言をしているという。

  このような発言が飛び出してくる原因は、日本の野球にアマチュア野球とプロ野球の区別があり、オリンピックに関してはアマ野球側が大きな権限を握っていることにあると思われる。

 プロ野球側は、日本が韓国に負けても自分たちに責任がないから、ペナントレース優先などということが平気で言えるのである。
 
 日本の野球がオリンピックで勝てるようにするには、アマチュア野球がプロ野球に協力を求めている現状を変えて、オリンピックの選手団の派遣に関するすべての権限をプロ野球のコミッショナーに譲り渡すしかない。

 もしそうなれば、コミッショナーは真剣にオリンピックのことを考えて、例の通達によって特別なシーズンにすることを決め、一軍の選手を参加させ、韓国にも勝てるようするのではないか。

 さらに言うなら、この際アマとプロの区別をやめて、野球機構を一つに統一するのが最善であろう。アマチュア野球の山本英一郎会長の英断を期待したい。(1999年2月10日)






 地方自治体の首長が無所属で立候補するのは、議会の議員の構成に左右されずに政治を行えるようにするためである。野党の方が多いということが往々にしてあり、その場合には首長が政党に属していれば、議会が何かも否決するという結果になってしまう。

 それを避けるために、無所属になるのである。こうして、少数与党になることを避けようとする。逆に政党色をはっきりさせる共産党の首長が誕生した場合には、議会が何でも否決してしまうということが起きている。

 これは、個々の議員の良識よりも党派性が優先している日本だけの現象である。 アメリカでは大統領はたいてい野党の方が多い議会を相手にするが、法案が一つも通らないなどということは起こらない。

 なぜなら、大統領は国民によって選ばれた存在であるために、ふさわしい尊敬が与えられるだけでなく、議員が議会でも党議拘束を受けずに投票するからである。

 ということは、日本の民主主義が未熟だということである。日本で首相公選制をとる場合は、候補者は共産党以外は全員無所属になるだろう。二大政党制とは何のためにあるのか。(1999年2月9日)







 青島幸雄氏の東京都知事選不出馬を聞いて、わたしはシェークスピアの『コリオレイナス』(ラテン語はコリオラヌス)という劇を思い出した。

 古代ローマの将軍コリオレイナスは蛮族との戦いで手柄を上げて凱旋し、ローマの執政官(日本の首相にあたる)に推薦される。しかし、彼は民衆の賛成を得るために、選挙運動をしなければならないとことが死ぬほどいやだった。民衆に頭を下げることは彼のプライドが許さなかったのである。

 しかし、民主主義とは為政者に対して、民衆に頭を下げることを要求する制度であり、古代ローマにおいてすでに定着した制度だった。

 ところで、青島氏はこれまでの選挙で一度も国民に頭を下げてこなかった。しかし、今再選に向けて出馬するとなれば、もはやこれまでのように、選挙期間中に海外旅行をしていて勝てるような情勢ではない。

 国民に頭を下げて選挙運動をする必要がある。しかし、それは青島氏のプライドが許さない。そこで、不出馬を決断した。わたしはそう推測している。

 今回のことで、国民は重要な教訓を得たのではないか。つまり、民衆に頭を下げて選挙運動をしようとしない人を行政のトップに選んでいけないということである。しかし、国民に対して責任を負うということは、そこから始まる。青島氏は無責任であるといわれても仕方がない。(1999年2月2日)








 青酸カリの自殺でマスコミが騒いでいるが、いったいなぜ騒いであるのかよくわからない。自殺する人間は年に二万人もいる。ということは、一日六十人も自殺している。その原因を一体マスコミはつかんでいるのか。二万人死んだら死に方はいろいろあるのは当たり前だ。

 死にたい人は死ねばいいというのが、いつものマスコミの姿勢ではないのか。中学生の自殺以外はほとんど報道しないくせして、今回だけは大騒ぎしている。警察が動いたから騒いでいるとしか見えないのである。

 社会の病理だとかインターネットの危うさだとか、適当な言葉を使って勝手な事を書いているが、マスコミは本気で他人の自殺を扱う気があるのか。それなら、毎日、自殺者数とその原因と手段を報道してほしい。

 そんなことすれば、世の中暗くてやってられないというかもしれないが、世の中の真の姿を報道するのが君たちの使命ではないのか。

 マスコミの報道が如何にいいかげんなもので、警察のいいなりであるかが、今回もまた明らかになった。札幌の男性を悪者扱いしているのがそのいい例だ。

 主婦の証言によると「ドクター・キリコの診察室」というページをつくったのはなんとその男性ではないというではないか。まったくこれまでの報道はでたらめだったのだ。ここまでくればこれはもうマスコミの暴力である。

 「マスコミは彼らをそっとしておいてやれ。おまえら彼らの生き死にに責任持てるのか」「警察につられた報道はいいかげんにしろ」これがマスコミに対する今回の騒ぎに対するわたしの意見である。(1998年12月29日)







 インターネットは本音の世界、新聞は建前の世界である。新聞紙上ではけしからぬホームページがインターネットにアクセスする人間にとってはありがたいホームページなのである。

 早い話がアダルトのページだ。新聞記者は間違ってもこれらのページを貴重なページだとは書かないだろう。むしろ有害ページなどと思ってもみない言葉を使って表現する。しかし、インターネットの世界ではこれらは貴重なページの一つである。

 それと同じように、自殺を勧めるホームページもインターネットの世界では貴重なページである。新聞は自殺を本気で扱わない。建前のメディアである新聞は自殺をあってはならないこととして片付けてしまう。だから、一日六十件以上も自殺があるのに報道しない。見て見ぬ振りをするのだ。

 例えば、全ての自殺を毎日報道する新聞があればどうだろう。しかし、そんな新聞は成立しない。誰も買わないからではない。けしからんと言われて出せないからである。しかし、インターネット上で自殺だけを報道するホームページが現れたとしても、それをやめさせることはできないのではないか。

 死を論じることが哲学であるなら自殺について考えることも必要なことに違いない。それができるのは本ではなく、新聞ではもちろんなくてインターネットの世界である。自殺についてのページが無数にあるのは、それを実証している。

 新聞や本よりもマイナーなメディアとしての役割がインターネットの役割の一つである。「普通」という基準にとらわれることのない世界である。一日に六十人の人にしか必要とされないメディアでも存在価値を失わないでいられるのがインターネットだとも言えるだろう。(1998年12月28日)







 アジア大会に日本の野球チームはアマチュア選手だけが参加しているのに対して、台湾・韓国はプロ野球選手が参加している。特に韓国は、アメリカの大リーグにいる選手がこの大会のためにわざわざ帰国して参加している。ところが日本のプロ野球の選手にもアメリカ大リーグの日本人選手にもお呼びがないらしい。なぜなのか。

 勝たなくてもいいと思っているからではないだろうか。

 この大会で、プロの選手でない日本の投手は台湾や韓国のバッターに滅多打ちにあっている。プロの投手ならあんなことにはならないのではないか。

 次のオリンピックでもプロの選手が参加できるが、日本はプロの選手は参加しないという。シーズン中だからというのがその理由らしいが、これがはたして理由と言えるだろうか。なぜオリンピックは特別だという気にならないのだろう。

 プロは変則シーズンを組んででも参加すべきではないだろうか。各チーム公平に選手を出して、オリンピック期間中はシーズンを中断するか前期後期制にすれば問題はクリヤーできるのではないか。要はやる気の問題であろう。

 プロの選手の中には、一般庶民にはとても手の出ない夢のようなか豪邸に住んでいる選手が大勢いる。彼らは、日頃から自分たちの成功をファンのお陰だとか、ファンの夢を叶えるのが使命だとか口癖のように言っている。もしそれが本気ならば、国民のためにユニホームを着て恩返しをしようという気になってもいいのではないか。

 去年の脱税事件、今年のスパイ疑惑と、プロ野球選手の資質に対して疑問符がつくような事件が続いている。オリンピックはそのような汚名を挽回する絶好のチャンスでもある。

 国民の代表として出場して国民のために汗を流せば、プロ野球人気もまた違ったものになるのではないか。アメリカの大リーグ選手が出ないとすれば、金メダルを取るチャンスでもある。

 ところで、アメリカの大リーグの選手がオリンピックに出ないのは、金属バットではボールが飛びすぎて危険だからだという、まことしやかな記事が出ていたが、あれはアメリカ人お得意のジョークであろう。本気で言ったとすれば他国の野球を馬鹿にしたことになり、大変失礼な発言である。

 しかし、発言はジョークでも本心は似たようなものかもしれない。アメリカの大リーグ選手たちは、自分たちの権利のためにはストライキをしてシーズンを途中で止めてしまうほどにファンを無視した行動がとれる。そんな選手たちが、オリンピックで怪我でもしたら大損だと思っているとしても不思議ではないからである。

 日本の選手はこんなことは考えていないとわたしは信じている。(1998年12月17日)







 林容疑者が和歌山のカレー事件の犯人として逮捕されたが、この逮捕にはたくさんの疑問点がある。

 例えば目撃証言の信憑性だ。あの少年の目撃証言は林夫婦に報道の目が集中する以前に出たものであろうか、それともそれ以後であろうか。あの人が怪しいという報道の後で出てきた証言は、非常に危うい面がある。

 あれだけの悪人の有罪を証明するためなら、ある程度の嘘は許されると考える人物が出てきても何ら不思議ではない。その結果生まれた目撃証言が冤罪を作り出した例は洋の東西を問わず数限りなくある。また、目撃証人に対する警察の誘導が百パーセントないと言えるのだろうか。

 また、園部地区の他の住民の証言は百パーセント信じられているようであるが、本当にそれで大丈夫だろうかという疑問もある。他の住民が何らかの方法で砒素を手に入れていた可能性は全くないのだろうか。複数犯である可能性はないのだろうか。

 あの現場検証に林容疑者が来ていないということは、他の住民の行動や証言が無批判に受け入れられたということにはならないのか。現場検証は容疑者本人が立ち会うのが普通ではないのかという疑問もある。

 警察の捜査はすべていわゆる見込み捜査ではないのか。少なくとも林夫婦に対する捜査は、この夫婦が犯人であるという想定で行われているように見える。

 もし林夫婦が犯人でなければという観点から事件を考えてみる必要はないのだろうか。

 林容疑者が犯人でないと仮定してまず浮かぶのは、林夫妻を陥れるための謀略説である。この夫婦を陥れるために砒素を使った大量殺人事件を起こした人物がどこかにいないだろうか。

 その人物は、この夫婦に恨みを持ち、この夫婦が砒素を使って保険金詐欺を何度も行っていることを知ってる人物である。もしその人物が、何らかの手段を使ってあの夏祭りで砒素を使った殺人事件が起こせば、

 あの夫婦に疑いの目が向くのは時間の問題であろう。もちろん、その人物は夏祭りのカレー作りの時間帯に、園部地区にいる必要がある。

 本当にそのような人物は一人もいないのだろうか。一度その可能性を全て消してから、もう一度林夫婦に疑いの目を向けても遅くはないはずだ。決定的証拠がない以上は裁判が長期化するのは今から予想できる。時間はまだまだあると思う。

 「疑わしきは被告人の利益に」というのが裁判の原則である。このままでは、無罪になる可能性が大きい。(1998年12月9日)





 アメリカのプロ野球のドラフト制度は、大の大人が子供に振り回されることがないようにできている。ところが、日本のプロ野球のドラフト制度では、毎年大の大人が18才の子供の好き嫌いに振り回される。

 挙げ句の果てに今年は自殺者まで出してしまった。こんなことでよいのか真剣に考えるべき時である。

 今の制度はプロ入りするかプロ入りしないかをくじ引きの結果を見てから決めるなどという虫のいい考え方を許している。高校生には、まずプロに入るか入らないかをはっきりさせることだ。

 そしてすぐにプロ入りしたい高校生だけを対象にくじ引きであろうが前年度最下位チームからの選択によろうが、選手の所属を決めてしまう。

 そして三年間辛抱させるのだ。その後にあらたに希望球団を選ばせればよい。なんといってもアマチュアに行くより稼げる点にプロ入りのメリットがある。また、球団にとっても、三年後に自分が仕込んだ一人前の大人を交渉相手にできるというメリットがある。

 一方、逆指名の資格がほしい高校生には、社会人で三年間なり大学で四年間なり辛抱させればよい。プロで三年間お世話になってから他球団に行くよりも、この方が好きな球団にあっさりいけるというメリットがある。

 いずれにしても、最低三年辛抱させるという点で条件を同じにするのだ。

 そして、これならもう18歳の子供に大の大人が振り回されるようなことはなくなるはずだ。これは大人たちのためだけでなく、子供たちのためでもあることは明らかである。なぜなら、子供に辛抱させることは悪いことではないからである。(1998年11月28日)








 人間は過ちを犯す動物である。林被告がカレー事件の犯人であるかのごとくマスコミは報道している。しかし、この判断は絶対に正しいと言えるか。

 林被告の黙秘に批判が集まっている。しかし、もし被告が無実であるなら、自分が何を言おうとどう答えようと、自分を犯人だと決めつけて自白させようとする捜査官に対して、被告がとりうる手段はそれしかない。

 証拠といっても状況証拠しかない。被告に不利な目撃者はこの状況ではいくらも出てくるだろう。しかし、これまで偽りの目撃者の証言によって死罪になった人は少なくないのだ。

 死刑が執行された後で、本当はわたしがやったと申し出る人が出たら取り返しがつかない。

 真犯人は思いもかけないところにいるかもしれない。松本サリン事件がそうだった。あの事件の教訓はこの事件では全く生かされていない。

 冷静になって考えるならば、わたしはこの事件で弁護団の言っていること行っていることは、百パーセント正しいと言わざるを得ない。弁護士が仮にも庶民感情に流されるようなことがあっては決してならないのだ。(1998年11月13日)






 消費税があるかきり日本の景気回復はないのではないだろうか。

 日本人は消費税が嫌いなのだ。それがどんな名目であろうと消費税は払いたくない。福祉目的税にしてもいやなものはいやなのだ。それは、細川政権のときにはっきりしている。
 
 そもそも物を買うときにいくら払うことになるかわからないから、消費税が嫌いなのだ。頭の中でいくら払うことになるとだいたい計算しても、それよりかなり多くなってしまうことが多いのだ。足し算は暗算でできても掛け算まではできない。計算機を持ち歩かないと安心して買い物ができない。だから消費税が嫌いなのだ。

 車を買おうと思っても、車屋のチラシを見て買えると思う車と、税金を足した後で買える車はまったく違う。「そんなに税金を払うのか、なら今の車でいい。まだ充分走るから」ということになるのだ。

 税制で欧米の真似をしようとしてもだめだということだ。何でも欧米の制度を日本にそのまま持ち込んでもうまくは行かないのだ。消費税がその典型だ。

 消費税がある限り、日本はだめになる。別の方法を考えるべきではなないのか。そんな気がする。(1998年11月13日)







 阪神に野村監督が来たのに、どうして阪神を逆指名する選手が出て来ないのか不思議である。一人前の選手になれるこれ以上のチャンスはないのに、それをみすみす見逃そうというのだろうか。

 彼らは、よい指導者に出会うということがどれだけ大切なことなのかを知らないのだろうか。彼らは自分だけの力でプロ野球界に入れるようになったと思っているのだろうか。彼らはアマチュア時代によい指導者に恵まれたからこそ、今こうして注目される選手になったということがわからないのだろうか。

 いったいこの現代のプロ野球の世界に、野村氏以上の優れた指導者がどこにいるというのだろうか。彼らは指導者を見てから行くべき球団を決めていないのだろうか。

 人生におけるこのような大切な選択を前にしたとき、自分の好みなど二の次にすべきであることを誰にも教わらなかったのだろうか。

 野球をやっている若者たちはいったい何を考えているのか、まったく不思議である。(1998年11月8日)







 アメリカのスペースシャトルのニュースで、しきりに「宇宙に行った、宇宙に行った」と言っていますがあれは大気圏外に行っただけのことでしょう。彼らは別に地球から離れて宇宙旅行をしているわけではない。地球の周りを回っているだけじゃないですか。

 宇宙といえば少なくとも月より向こうに行ってくれないといけない。飛行機だって地球の周りを回っているんだし、スペースシャトルは人工衛星みたいに地球から遠く離れるわけではない、飛行機の少し上を飛んでいるだけなのに「宇宙に行った」とは言い過ぎじゃないですか。

 いったい飛行機と如何ほどの違いがあるというのでしょう。飛行機が飛ぶ上空もかなり空気は薄いし、そんなに違う訳じゃない。実際飛行機でも無重力になることもあるし、スペースシャトルでも無重力じゃないこともある。飛行機だって離陸と着陸は今でもかなり危険です。

 なんと言っても、地球の重力圏内にいるのに宇宙とは変ではないですか。あれは、正確に「大気圏外に行った」と言ってほしいものです。

 地球の重力圏を抜け出てこそ宇宙じゃないですか。マスコミの人たちはスタートレックを見ないのでしょうか。あれを見ていると、アメリカのやってるスペースシャトルなんて、地球というリンゴの皮の上をはい回っているようなものです。

 もちろんアメリカ人は自分のやっていることを誇張して「宇宙に行った」などと言いますが、何もそれにおつきあいすることはない。あれは「大気圏外に行った」と言うのが人類としても分相応なのです。

 もちろん大気圏外に行くことが大変なことであることには違いありませんが、あれを「宇宙に行った」などといわれると、ちょっとどうかなと思います。(1998年11月1日)







 野村氏の阪神監督就任したことで、来シーズンの開幕戦が楽しみになってきた。開幕戦で阪神は巨人と対戦することになるからである。そして、長島巨人と野村氏の率いるヤクルトとの開幕戦では、必ずといっていいほど何か事件が起きたものだ。

 巨人の篠塚選手の放ったファールがホームランと判定されたのも開幕戦だったし、広島を解雇されてヤクルトに移ったばかりの小早川選手が2ホーマーを放つ大活躍をしたのも開幕戦だった。

 そのヤクルトが3連敗して今年の優勝を逃すきっかけとなったの今年の巨人との開幕戦だった。開幕戦ではそのシーズンを象徴するような何かが起こるのだ。

 長島氏は野村氏の阪神監督就任ついてノーコメントで通しているという。「またいやな相手と開幕であたる」。そう思っているのではないだろうか。しかし、長島氏が監督に留任したのに野村氏がヤクルトの監督をやめたことを残念に思っていたわたしたちプロ野球ファンにとっては、また長島対野村の対戦が見られることが今から楽しみだ。(1998年10月29日)







 最近の二つの裁判結果について、わたしは人を無視することがいかに罪深いことかをあの少女とともに学んだ。弁護士という仕事がいかに危険であるかを私は学んだ。

 それとともに、わたしがあの青年と同じ立場に立たずにすんだことを幸せだと思う。わたしは少女に車にのせてやろうなどと一生言うまいと心に決めた。わたしは弁護士一家を殺さなければならない立場に追い込まれなかったことを幸せに思う。わたしは一生宗教には関わるまいと心に決めた。

 わたしは彼らに下された判決には興味がない。彼らはすでに生きながらにして死んでいる。あの青年は永遠に刑務所の中で人知れず残りの人生を過ごしたいと思っていることだろう。出所したとていったいその後にどんな人生が待っていよう。おそらくこの世の中は彼にとって地獄だったに違いない。その世の中に帰ることはむしろ恐怖であろう。

 高級官僚や大会社の重役たちでさえもつぎつぎと逮捕されている世の中である。自分が今後の人生を彼らの仲間入りをせずにすごせるかどうかはわからない。ああ願わくは、わたしは不幸な加害者になるよりは、むしろ不幸な被害者になりたいものだ。(1998年10月25日)







 商品券を使った減税の話が新聞に出ているが、この方法は大いに疑問だ。たとえ商品券であっても、誰かがどこかの段階で換金できなければ意味がないからだ。

 例えばお店で商品券を使って物を買うとする。その商品券は今度はその店が商品の仕入れに使うのであろうか。そのようにして商品券は最後には、商品のメーカーに行きつくのであろうか。そして、そのメーカーが商品券を金に換えるのであろうか。まさか、商品券で給料を支払うわけではあるまい。

 それとも、一度商品の購入に使われた商品券なら、誰でも銀行へ行けば、金に換えてもらえるのだろうか。では、いったいどうやって一回使われたことを証明するのであろうか。

 消費者はお金に換えられないが、業者ならお金に換えられるのだろうか。しかし、誰もが消費者であり、誰もが製造者である。一方だけの役割しか持たない人は年金生活者ぐらいのものだろう。つまり、そんな区別はつけようがないのだ。

 結局、商品券といえども政府が発行する以上は、お札と同じ意味を持たざるを得ない。とすると、使用期限付きのお札が世の中に出回ることになる。このことによって生まれるのが、果たして、景気の回復であるか、経済の混乱であるか、頭のいい宮沢さんなら分かりそうなものだ。(1998年10月8日)







 「子供は親の言うとおりにするのではなく、するとおりにする」と言うが、これは国民の政治に対する行動とマスコミとの関係に似ている。

 マスコミは投票率の低下を嘆き国民に投票を呼びかけるが、国民はマスコミの言うとおりになどしない。国民はマスコミの日頃の政治に対する言動を見て、それに応じた行動をするのだ。

 マスコミは政治の実態を報道しているつもりなのだろうが、その報道を見れば、あんな胡散臭い連中のために投票に行くことをばからしいと思うのは当然である。新聞は大臣について回って提灯記事のようなものを書くか、内情を暴露して馬鹿にしてみせるかどちらかなのである。

 記者たちは政党の政策を場当たりの人気取りでしかないように言い、自分だけがいい子になって、ああでもないがこうでもないと評論をしてみせるが、国民の政治離れを招いている責任の一端がそんな自分たちの記事にあることに気が付かないのだろうか。

 それもこれも彼らが公平中立という仮面をかぶらざるを得ないことから来ているのだと私は思う。少なくとも新聞ぐらいは、どの政党のどの政策を支持するかを明確にすれば、無責任な評論をなぐり書きするようなこともなくなるのではないか。新聞も変革の時だと思う。(1998年6月24日)







 社民党が与党を離脱したそうだが、彼らがまずすべき事は国民に謝罪することではないのか。

 国民に今日の政治不信を広めたのは、誰でもない彼らである。政治なんて誰がやっても同じだという考え方を、彼らほどはっきり証明した政党はない。政治家の言うことなど当てにならないことを、彼らほど白日の元にさらけ出した政党はない。

 消費税の導入にあれほど反対しておきながら、その消費税を引き上げたのは彼らである。自民党政権にあれほど反対しておきながら、その自民党政権を復活させたのは彼らである。彼らが与党にいてどんな実績を上げたにしろ、それを相殺して余りあることを彼らはやったのだ

 。それにもかかわらず、自分たちはいいことをしたのだという顔をして、謝りもせずに、与党離脱を表明するとは、よほどの恥知らずではないか。

 政治倫理に対する自民党の体質は今に始まったことではない。そんなことが今まで分からなかったことは恥ではないのか。自民党と手を組めば出口のない迷路に迷い込むことが分からなかったことは恥ではないのか。

 人の本質も見抜けず将来に対する見通しもつけられず恥も知らないそんな政治家はいらない。解党して国民に謝罪する、これが人間として取るべき道ではないのか。それとも、彼らは人間以下だということなのか。(1998年6月13日)







 内閣不信任案が提出されるそうだが、テレビや新聞の報道を見ているとまるでよその国の出来事のように感じる。この内閣でよいのかどうかが問われているのだから、もっと国民の間でこのままでよいのかどうかについて議論を起こすべきではないのか。

 まず、この不信任案の提出はそもそも正しいことなのかどうかについて報道は何も論じようとはしない。単なる党利党略でしかないから勝手にやらせておけばいいことなのか。それとも、この国の行方が問われている重要な出来事だから、国民がいっしょになって考えるべきことなのか、われわれは全く分からない。

 報道はただ事実を伝えればよいのではないはずだ。この不信任案の提出の善悪から、この不信任案に賛成するのが善悪まで、しっかりと報道は自分の意見を言ってもらいたい。それでこそ、言論自由であろう。

 現実の報道を見ていると、この内閣でも仕方がないというあきらめや現状肯定的姿勢がむしろ目立つように思える。内閣不信任案の提出という機会に、もっとはっきりと報道は自分の意見を述べて国民の判断材料を提供してもらいたい。(1998年6月11日)







 相撲界の活性化のためには、二子山部屋以外の力士の奮起を待つしかないという「主張」は正論だ。しかし、はたしてそんなことが可能だろうか。わたしは、それは誰がどうがんばっても、現状では数字的に不可能なではないかと思う。

 よく考えてみて欲しい、二子山部屋以外の関脇は横綱大関戦が五番ある。それに対して、彼を迎え撃つ二子山部屋の横綱大関は、それが二番しかない。もしこの関脇が自分より下位の力士にとりこぼし無く戦ったとしても高々九勝だ。その上に、取り組みで自分より三番も楽な横綱大関三人と対戦して勝ち星を重ねなくてはならないのだ。

 これは、二子山以外の力士が好成績を残すには下位との対戦で一切の取りこぼしが許されないのに、二子山部屋の力士は下位に取りこぼしをしても悠々と優勝争いが出来るという結果に現れている。

 これを小結以上の役力士全員に広げて考えてみれば、他の部屋の力士の不利はさらに顕著になる。そして実際に関脇や小結の地位に二子山部屋の力士がいることが多いのである。これだけ何重にも不利な条件に置かれて、どうやって大関昇進に必要な三場所続けて十番前後の好成績を上げることが出来るだろうか。

 一門別総当たりから部屋別総当たりになったときも力士は戸惑ったが、それも最初だけだった。相撲界にも独占禁止法を作らない限り、個人総当たり制にするしか大相撲の活性化は図れないと考えるべきである。(1998年5月26日)






 なべて世は事もなし。最近のNHKの相撲中継を一言でいうとこうなるだろうか。

 わたしがNHKの相撲中継をほとんど見なくなってから久しい。学生時代は飲食店に入ってテレビで相撲をやっていないと、チャンネルを変えてもらってまで見たものだが、それが最近はまったく見る気がしない。

 今の大相撲は多くの問題を抱えているのに、それをまったく無視し見て見ぬふりをして、何の問題もないかのようにしている放送が白々しくて馬鹿らしくて嫌になったからである。

 別に八百長云々を言いたいのではない。わたしが問題だと思うのは、二子山部屋の独占による弊害である。

 いったい相撲とは個人競技なのか団体競技なのかまったく分からなくなっているのが現状ではないのか。二子山部屋の力士自身公言しているように援護射撃付きで相撲をとっている。果たしてそれでいいのか。

 それに取り組み自体、非常に不公平なことになっている。

 考えてもみてほしい、他の部屋の下位力士は横綱大関戦が五番もあるというのに、それを迎え撃つ二子山部屋の横綱大関にはそれが二番しかない。これでは、他の部屋の力士がいくらがんばって稽古をしても昇進のしようがないではないか。自分より下位にとりこぼし無くやっても、たかだか九勝だ。

 その上に、取り組みで自分より三番も楽な横綱大関と対戦しなければいけないのである。彼らが何の文句も言わずにやっているのは、よほど人間ができていると言うべきだろう。

 いやそもそも、この大相撲の閉鎖社会では、文句を言うことは許されないのではないか。協会の御意向には逆らえないのではないのか。なぜ、今場所の武蔵丸がああもあっさりと若乃花に負けたのか。「若乃花を横綱に」という協会の意向に逆らうべきではないという空気ができあがっていたからではないのか。そんなことはまったくないと、果たして言い切れるのか。

 また、曙・若乃花戦で、土俵の回りにいた協会の人間=審査役が行事の判定を変えて、取り直しにせずに若乃花に勝たせてしまったことも疑問だ。

 ビデオで止めれば、若乃花は立っていよう、残っていよう。しかし、ビデオ判定は動いているスポーツを止めて判定することだ。しかし、動いているところを見た行事には若乃花の体がないと見えたのではないのか。それとも、あの行事は協会の意向に無頓着だっただけなのか。

 そもそも、ビデオの導入は審判が自分の目に自信がなくなってしまったことの証拠ではないのか。ビデオ判定が導入されていれば、大鵬の連勝がもっと続いたはずだというが、それでは大鵬の人気に審判が負けたことにならないのか。

 野球でビデオ判定をすれば、審判の権威はまるつぶれだろう。ところが、相撲ではそれがあたかも公正なことであるかのように行なわれている。間違いをするのが人間ではないのか。それも含めたものが権威ではないのか。

 さらに、協会の人間があとで判定に文句を付ける物言いの制度も、公正を保つための制度のようではあるが、結果として、行事が便宜的な道具になってしまっている、土俵のお飾りになってしまっている。行事には何の権威もないのだ。ほんとうにあれでいいのか。

 そもそも、審査役制度はいつから始まった制度なのか。何のために何がきっかけで始まった制度なのか。洗い直すべき時期に来ているのではないのか。行事の服装が、昔から今と同じだったのではないように、審査役制度も今と同じだったはずがない。

 選手の身内が審判をするなんて公正さの観点から言えば信じられないことだ。裁判官は、当事者の関係者であってはならない。それが世間の常識ではないのか。

 世の中変わろうとしているが相撲はこのままでいいのか。わたしの目には大相撲は日本の談合社会の典型のように写るが、それはわたしだけなのか。かつての良き伝統は、いつまでも良き伝統なのか。

 相撲協会は自分で自分を変える力がない。変えようとした前会長は辞めさされてしまった。この上、NHKが何の問題もないという放送をし続けるなら、相撲は年寄りしか見ない番組になってしまうだろう。

 百歳のじいさんが、NHKの番組で貴乃花のファンだと言ったのをわたしはよく覚えている。百歳のじいさんにはあれでいいんだとわたしは感心したものだ。しかし、若者たちはフェアでないスポーツにはいずれ見向きもしなくなるだろう。それでもいいのか。

 二子山部屋独占のそもそもの起こりは、前の二子山親方、元の若乃花が藤島親方に株を譲ったことに始まる。しかし、そこに不正があったことは司直の手によって明らかにされている。ところが、その結果招来した独占には手が着けられないままだ。アンフェアな行為によってアンフェアな結果が生まれるのは当然のことだろうに。

 「大相撲はこのままでよいのか」と思えるようなことが、二子山の独占で目立つようになってきている。それを何事もないように放送し続けるのか、それとも、事実は事実として放送するのか。相撲放送は過渡期に来ていないのか。

 日本は閉塞状態にあると言われる。政治がそうだろう。経済もそうだろう。相撲もそうではないのか。「相撲をオリンピックに」などという声があるが国内でこんなことをやっていることが、はたして世界に知れ渡っていいのだろうか。よく考えてもらいたい。(1998年5月26日)







 若乃花が横綱になるという。「お手盛り横綱」、「援護射撃付き横綱」の誕生である。

 この横綱は協会がお手盛りで作った横綱である。二子山部屋という有利な立場にある大関が三敗もしたにもかかわらず横綱に推挙したのだ。武蔵丸の横綱挑戦の時に高いレベルの優勝を要求した協会は若乃花の場合には何も言わなかった。

 出島が若乃花と同星に並ぶと、小結は他にいるのに二子山部屋の安芸乃島をぶつけるという念の入れようだ。曙・若乃花戦を差し違いにして取り直しにしなかったのも疑わしい。協会による「お手盛り」が見え見えである。

 二子山部屋の他の力士は若関を優勝させるために一致団結した。好調な力士は若乃花の上にいくまいとしてか、不思議に負け続けた。しかし、若乃花の優勝を邪魔する力士に対してはしっかり勝った。まさに「援護射撃付き横綱」の誕生である。

 それにしても、気の毒なのは若乃花本人だ。大関の地位を維持するのにも汲々としていた力士が、こんどは横綱の地位を維持しなければならないのだ。力士生命が縮まったことだけは間違いあるまい。それともこれからも援護射撃とお手盛りでしのいでいくのだろうか。(1998年5月24日)







 先日、産経新聞連載の戲論で「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言の間違いを指摘した玉木氏が「ユウェナリスは若者が体を鍛えるだけで勉強しないことを嘆き、『健全な肉体には健全な精神も!』(肉体だけ鍛えてもダメ!)といった」と書いておられる見て、なるほどそうだったのかと、久しぶりに手もとにある原文をひもといてみたが、どうもそうでもなさそうなのでご報告したい。

 この言葉の出てくるユウェナリスの十番目の詩の内容を注釈書の助けを借りてごく大ざっぱにまとめると次のようになる。

 人々は間違ったことばかりを神様にお願いしている。例えば金持ちになること、例えば長生き、例えば美貌。しかし、これらはなかなか手に入りにくいだけでなく、手に入ったところで決して持ち主を幸福にはしない。金持ちになっても泥棒の心配が増えるだけ。長生きしても、もうろくした人生にいいことはない。

 美人になっても不倫に陥って苦しむだけだ。「心身ともに健康であること」。願うならこの程度にしておきなさい。これなら誰でも自分の力で達成できるし、それが手に入ったことによって不幸になることもない。しかし、けっしてそれ以上の大きな願いを抱いてはいけない。

 ユウェナリスが言いたかったことは、要するに「青年よ大志を抱くな」であるらしい。玉木氏の誤訳の指摘はありがたいが、この詩がスポーツマンに勉強しろと言っているのでないことは確かである。(1998年2月6日)







 プロ野球の日本シリーズが終わってからまだ日が浅いというのに、近頃はあれがまるで作り事の世界の出来事ように思えてしまう。それはドラフト逆指名とFA(フリーエージェント)というどろどろとした現実の世界が始まったからにほかならない。

 シーズン中はチームのためにという合い言葉を胸に「協力する」とか「助け合う」とか「恩に報いる」などというような理想的な人間の姿を追い求めていた選手たちが、シーズンが終わりFAが始まると途端に我利我利亡者の群に豹変するのだ。

 例えば、日本シリーズ中に自分の帽子に怪我で出場できない飯田選手の背番号を書いたヤクルトの吉井投手とFAで移籍球団を捜している吉井選手が同じ人間であるとはとても思えない。まるであれはスポーツという一種のフィクションの世界の出来事にすぎなかったのかと思えてくるのである。

 しかしながら、あれがスポーツの世界の紛れもない現実であったことに間違いはない。つまり、スポーツの世界とは実に道徳的なものを求めていく世界なのである。

 飯田選手の欠場を契機に「飯田のためにがんばろう」という言葉で、選手たちを一挙に理想的な価値を追求する人間集団に変えてしまったヤクルトの野村監督の手腕はその意味で特筆に値する。また、球場の中だけでなく野球を離れた場面でも、選手たちが理想的な人間であることを求められるのも同じく忘れてはならない現実である。

 ところが、ここにその理想的な人間像とかけ離れたことをやってよいという制度が、そのスポーツの世界自身から提供されているのである。君は今日から自分のことだけを考える身勝手な欲深い人間として行動してよいというのである。

 これがスポーツ選手として大成しようとする者にとって甘い罠であることは明らかだろう。多くの選手がFA制度を使って他のチームに移籍しようとしないのは、その方が有利だからという理由からではなく、この罠の危険性をよく知っているからではないだろうか。

 実際、FA制度を使って他のチームに移籍して以前と同じような活躍をした選手が何人いるだろう。自分のスポーツマンとしての心の中にスポーツに反する要素が入り込むことがスポーツマンとしての自分の人生にとって命取りとなりかねないことを、賢明な選手たちは知っているに違いないのだ。

 これは逆指名制度についても当てはまる。プロの世界では何の実績のない、今後も何の実績も残せないかもしれない若者たちが、我が物顔に何の臆面もなく、金のある方へ、自分に得な方へと向かっていくことを許すような制度が良い制度であるはずがない。

 この制度は若者たちにスポーツの求めるものとは正反対の心を植えつけてしまう恐れが大である。実際、逆指名制度を使って個人的な選り好みを優先させて入団した選手で、実際に活躍している選手が何人いるだろう。

 スポーツマンシップに反するFA制度と逆指名制度が廃止されるべきであることは明らかである。(1997年12月17日)





 佐藤総務長官が辞任するというが、辞任する理由がいったいどこにあるというのだろうか。

 彼は大臣に就任してから今までに何も悪いことをしていないし、この間に過去の悪事が露見したわけでもない。彼が収賄の前科のあることはすでに任命される前から誰もが知っていることであって、大臣になってから分かったことではない。それを知った上で、橋本首相が任命したのである。

 それにもかかわらず、就任後に過去の前歴を理由に辞任しろというのは筋が通らない。そんなことがあれば、佐藤氏の名誉と人権の侵害に当たるのではなかろうか。

 ところが、社民党が突然、佐藤氏を罷免しないかぎり与党を離脱するといい出した。しかし、土井党首はすでに組閣前に佐藤氏を入閣させないようにと申し入れているのであり、それにもかかわらず首相が佐藤氏を大臣に任命したのだから、その段階でいさぎよく与党を離脱すればよかったのである。

 いったんになってしまった人間をやめさせろ、さもなければ与党を離脱するなどと交換条件にするのは、与党を離脱したくないから罷免してくれと言っているようなものである。

 これでは政治姿勢をアピールしたことにならない。また、たとえ佐藤氏が辞任をしたところで、首相が佐藤氏を大臣にしたという事実が消えるわけではない。それでもそんな首相を支持してこのまま与党に留まるというのであれば、社民党の政治姿勢が改めて問われることになろう。

 また、この社民党の恫喝に屈して自民党の議員までが佐藤氏に辞任を求めたらしいが、これは自民党が政治姿勢を正したということではなく、権力維持のための方便で言い出したにすぎないことは明らかである。自民党とは、党の総裁の決めたことを貫くこともできない情けない政党なのである。(1997年9月18日)







 ダイアナさんの死についてどう思いますか。

 彼女をかわいそうだと言う報道で一色ですが、わたしは、一般道を150キロ以上のスピードで走って事故を起こして死んだのだから自業自得だと思います。誰であっても、どんな事情であっても、そんなスピードを出すことは許されないはずです。それが自分たちには許される、自分たちは特別なんだというおごりがあったのだと思います。

 写真家たちが悪いように言われてますが、かれらに追い回されているのはダイアナさんだけではないはずです。また、もしカメラマンが悪いとするなら、その写真を見て喜んでいた一般大衆にもまた事故の責任があることになると思います。

 この死に方を見れば、あの人の慈善運動もパリの上流階級の華やかなお遊びの上辺を繕うものでしかなかったのではないかと思います。(1997年9月1日)







 自虐史観などという言葉をよく見かける。日本が戦時中に犯した悪を明らかにする歴史観をこう言う名前で呼んで批判するときに使われているようだ。こんな歴史では自分の国に誇りを持てなくなると言うのである。

 しかし、この言葉の使い方はちょっとおかしいのではないかと最近思えてきた。自虐的とは自分を虐げると書くのだが、過去の悪事を明らかにすることは何も自分をいじめるためではない。過去の悪事を暴くこと、自分の恥をさらすことは、将来の自分たちのあるべき姿を考えるための行為である。

 自分たちはこれからどういう国をつくって行くべきか、過去を反省しようと言うのである。であるから、自虐的ではなく自省的と言うべきである。そしてこの自省、過去に対する反省はプラスの要素をもたらすものであることは疑いがない。自己批判はよりよいものを求めてするものだからである。

 自己批判をすれば誇りを失うだろうか。そんなことはない。人間は失敗をする、その失敗を反省することはけっして誇りを失わせる行為ではない。罪を犯してその罪を償う行為はけっして誇りを失わせる行為ではない。反省を自虐というのは言葉の過った使用だ。また、自分の悪事を隠してもけっしてそんな自分を誇ることが出来ないのは明らかだ。

 それに比べて、韓国人の反日教育はどんなプラスがあるのだろうか。わたしはこのような教育こそ自虐的と呼ぶべきだと思う。

 自分が過去に受けた被害を数え上げることは、自分を慈しむ行為ではない。人にひどい目にあったことを思い出して、その人に対する憎しみの感情をかき立て、しかも現実には何もできないでいる自分の姿はまったく情けないというしかない。自分が虐められたことばかり思い出す行為こそ自虐的である。

 国のレベルでも同じことが言えるのではないか。韓国人が日本人によって自分たちに祖先に加えられた悪事をこれでもかこれでもかと暴きたてることもまた情けない行為である。

 それは彼らの将来になんらブラスの要素をもたらさないどころか、ただ日本人に対する憎しみをかき立てるだけである。憎しみという感情は何か良いことをもたらすのであろうか。他人にされた被害を考えることが、はたして自分たちの将来を考える上で正しい方法だろうか。

 臥薪嘗胆という言葉があって、過去の悔しい思い出を将来の成功のための糧とするのはよいことであり立派な行為である。しかし、憎しみはこれとは違う。ただ自分を不幸にするだけだ。人を呪わば穴二つという。過去の不幸に浸ったところでそれは未来の幸福に結びつかない。復讐心に燃えることは野蛮なことなのである。

 日本人が自分がした悪事を数え上げることはけっして自虐ではないが、韓国人が自分の身に受けた悪事を数え上げることこそ自虐である。

 自虐史観という言葉をつくったのは誰かは知らないが、産経新聞の読者でなければなかなかお目にかかれない言葉である。このような言葉をつくらなければ自分の主張を出来ないわけではない。ところがこのような言葉をつくるところには、一般大衆に対する受けを狙ったキャンペーン的な要素を見て取ることが出来る。

 最近では「人権派」という言葉を作って、犯罪の容疑者の人権を擁護することに対する批判を繰り広げているが、これもまた似た手口だと言える。

 そして人権という言葉を容疑者など人権侵犯の危険にさらされている人たちに対してではなく、誰であれ生きる権利を持つ人間全体に対して使おうとする。その結果、彼らによれば、戦争における侵略行為は他国の国民に対する人権侵犯であり、軍隊による防衛は国民の人権を守ることだということになるのだ。(1997年8月20日)







 昔は「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がよく使われたものだが、最近は「被害者の人権」という言葉がしきりに使われるようになった。「被害者の人権が抹殺されたのに、加害者の人権が守られているのはおかしい」。こういうふうに使うらしい。最近の須磨の事件から特にこんな言い方がよくされるようになった。

 しかしちょっと待ってくれと言いたい。「被害者の人権」というと聞こえはいいが、ではあの事件で誰が被害者の人権を抹殺したと言うのだろうか。それは中3の少年に決まっているじゃないかという答えが返ってくるかもしれない。

 しかし、そうすると「中3の少年が小学校6年生の少年の人権を奪う」などという現象が発生したということになる。しかしこれはおかしい。こんな言い方はない。奪われたのは人権ではなく人生だろう。

 いったい加害者が被害者を殺害したことが、人権問題と何の関係があるというのだろう。そこには、人権という言葉の意味を情緒的に拡大して、加害者の人権を軽視したいという魂胆が見えかくれする。このような風潮は非常に危険なことだと思う。

 その上、この事件の場合の加害者とされているのは子供である。子供のしたことは大人の責任だと昔から決まっている。これに例外はないはずだ。それなのにこの事件でいったいどの大人が責任をとっただろうか。それどころか、大人たちは自分たちの責任を問うことなく、子供一人に全ての責任をとらせようとしている。

 子供は法律を知らない弱者である。その子供に対して厳罰を求める風潮にこそ人権問題が発生しているのでないだろうか。(検察庁は巧妙にも死んだ祖母に責任を転嫁して見せた。公務員の身内意識を見せつけられたような気がしたのは私だけだろうか)

 そもそも人権宣言や人権擁護という言葉に使われている人権とは現に生きている人間の権利のことであって、決して死んだ人間のことではない。また、人権を奪うことが出来るのはか弱い個人ではなく、強大な力を持った官憲やマスコミなどの存在である。須磨の事件で誰かの人権が奪われたとすればそれはマスコミの報道によるものであろう。

 人権問題は生きている人間にのみ発生する。全ての議論はここから出発しなければならないはずだ。そしてその時にこそ、「罪を憎んで人を憎まず」という古い言葉に込められた昔からの人間の知恵をかみしめることが大切であろう。(1997年8月4日)







 死刑は被害者側の復讐欲を満足させるだけの意味しかない。犯罪者に対して重い刑であると思うのは勝手な想像である。

 死が恐ろしいものであるというのは生きているものの想像でしかない。その恐ろしさを知っているものはこの世にはいない。勝手に恐ろしいと思っているだけなのだ。死は死ぬ当人にとっては快いものかもしれない。

 医学は死が不快なものであることを証明してはいない。苦痛は生きているものにだけに与えることができる。われわれは犯人を死刑に処すことで彼に至福を与えているかもしれないのだ。古代ギリシャ人は死を神の与えうる最大の恵みであると考えていた。

 そもそも、死刑は犯罪者に死を与えるだけであって、苦痛を与えることは許されてはいない。死刑は残酷な刑ではないように行われている。これらから死刑が無意味であることが分かる。

 むしろ誰にとっても確実に恐ろしいことは罪を犯しながら生き続けることである。終身刑は一生許されることのない刑罰である。これほどおそろしい罰はない。

 また死刑がよくないことの理由としてえん罪の可能性がある。人間は過ちを犯すものである。裁判官も陪審も人間である限り犯罪者が過ちを犯したのと同じ確率で過ちを犯す可能性がある。死刑が執行されてからその過ちが明らかになった場合その過ちは取り返しがつかないものとなる。しかし終身刑であるなら、再審の道がある。(1997年6月5日)






 このところのヨーロッパの激動を見ていてつくづく思うのは、西洋の人達はなんとまあ理念というか理屈で考えていいと思うことを実行に移せる人達だなと思う。

 もちろん、これまでに長い年月があったにしても、あのソ連が一党独裁でなくなったり、ヨーロッパがECとして国境を撤廃しようと相談したり、ドイツの壁が無くなってしまったり、考えてみれはいいに決まっていることがどんどん実行に移されていくのだ。

 自由と平等。いいに決まっているじゃないか。戦争を止めよう。軍備を無くそう。歓迎だ。そして、ヨーロッパではその方向にどんどん歩み出している。

 ところで日本はどうか。日本にも立派な理屈がある。自由と平等を押し進めようという理念はある。憲法を開いてみればいい。そこにはいいに決まっていることがいっぱい書いてある。ところがどうだ。じっさいに実行に移されていることはほとんどないんじゃないか思えるくらいだ。

 そして、実は判例というのがあって、憲法の条文はどんどん、読んですぐに分かる内容からは違うことを意味するとされてしまっている。憲法なんかよりも実情とか、実際にあるもの、現に存在するものの方が優先されて、それにあわせてどんどん「解釈」されてしまっているだ。

 そして憲法などは、たんなる「理屈」でしかなくなってしまっているのだ。だが、いったいそれでいいのか。理屈を言うと角が立つという言い方が日本にはあって、人付き合いを円満にしたければ理屈をいってはいけない、言われたとおりにしているのが一番いいという考え方が蔓延しているのだ。(1997年4月17日)







 みなさん、じゃんけんではパーがいちばん強いというのをご存じですか。

 まず形の作り安さから考えてみて下さい。じゃんけんでグーが一番出しやすいことは明らかでしょう。最初はみなグーの形をしているのですから、それをそのまま出すグーが一番出しやすいのは当然です。その次に出しやすいのはパーでしょう。握っていた手をただ開くだけでいいわけですから。それに対して、チョキの手の形は半分握って半分広げるという特殊な形で、Vサイン以外には日頃使わない形です。チョキが一番出しにくい形と言えるのでしょう。
 
 こう考えていくと、「グーかパーの出る確率が高い」、つまり「パーが一番勝つ確率が高い」となるのです。

 この法則をわたしはむかし自動車教習所でキャンセル待ちをしていたときに発見しました。

 教習の予約をキャンセルした人があると、その度にホールにいる人たちはカウンターのお姉さんの所に行ってその場でじゃんけんをして勝った人が教習を受けられます。

 ところがみんな初対面の人ばかりで気後れするのでしょう、心の準備もなければ、作戦を考えることもなく、じゃんけんで突きだした手の形、つまりグーをそのまま出してしまうのです。

 それに気づいたわたしはいつもバーを出すことにしました。その結果、わたしはいつもじゃんけんに勝ってどんどん教習を進めることができ、合宿でもないのに3週間ほどでさっさと免許を取ることができました。

 そうです、心理的な面からいっても、バーが勝つ確率が一番高いと言えるのです。グーはそのまま出せばいいのに対して、パーやチョキを出すには一種の決断がいります。いわんやチョキには形が二通りあり、地方によっては自分の知っている形が通用しない可能性さえあるのです。

 初対面同士で急にじゃんけんをしなければならない状況で、最初からチョキを出すのはかなり勇気がいると言えるでしょう。

 このように形の面から言っても、心理的な面から言っても、じゃんけんではパーが一番勝つ確率が高いのです。このことを知っているかいないかによってじゃんけんは勝ち負けに大きな差が出ます。ですから、重要な事柄の決定にじゃんけんを使ってはいけないのです。(1997年2月22日)







 インターネットであれだけたくさんのホームページがあるのにインターネットの使い方を知るのに本を買わなければならないとはおかしなことだ。

 どこかに必要な情報があるに違いない。だがそれを捜すのが一苦労なのだ。だから、時間で金を取るプロバイダでは使いこなせないと考えるべきだ。

 Niftyserveぐらいのスペースで一括ダウンもできるものなら時間による課金もよいが、世界中に広がっているものを相手に一分いくらでは何もできない。その意味でBekkoameの存在価値は大きいのではないか。(1997年2月20日)








 ドイツ人はナチスの復興を恐れ、日本人は軍隊の復興を恐れる。それは第二次世界大戦の失敗の原因をドイツ人はナチスに求め、日本人は軍隊に求めているからである。

 それは自国民全体の失敗ととらえたくない気持ちの表れと言ってもよい。しかし、ナチスを権力の座につけたのも軍隊を増長させたのもどちらも当時の国民全体である。だから、ナチスとヒトラーを犯罪者扱いしたところで問題の解決には結びつかないはずだ。

 ヒトラーを全否定するところからは明日のドイツはないはずだが、彼らのしていることはまさにそのことであり、あの時代の否定である。

 しかし国の歴史がその時代を空白に見なすことができないのと同様に、あの時代の出来事を全て否定しつくしても現代のドイツ人の誇りは生まれない。それは伝統の否定であるからである。

 伝統を否定した未来像などというものはない。すべてをありのままに受け入れることがまず必要だ。ナチスは特殊なごく一部の人たちのやったことと見なす考え方が主流のようだがそれは間違いだ.あの時代のドイツ人はみんなヒトラーを積極的にせよ消極的にせよ支持したのだから。(1997年2月13日)







 ドラマの本質は人間の生存競争だ。生存をかけた争いが描かれればそれだけでどきどきさせるものになる。

 だから、映画のカーチェイスも非常にドラマチックではらはらどきどきさせてくれる。だから、恐竜に追いかけられて必死に逃げるシーンに見入ってしまう。

 映画『ジュラシックパーク』には、何と生きるか死ぬかの場面の多いことか。しかも危害を加えてくる相手は恐竜だけでなく人間のこしらえた文明の利器であったりする。

 とにかくこの映画はそんなシーンの連続だ。そしてそのどの場面でも主人公たちは生き延びられるかどうかの瀬戸際に追い込まれる。

 考えてみればギリシア悲劇の『オイディプス王』でも生きるか死ぬかの瀬戸際に主人公はいつのまにか追いつめられている。直接命を狙われるわけではないものの、オイディプスもまた自分の存亡をかけた瀬戸際に立たされるのだ。

 だから、はらはらこそどきどきしながら見入ってしまうのだ。そうでなければそれは演出が悪いということである。(1997年2月9日)




私見・偏見(1996年以前)
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 日本のマスコミは小沢一郎に選挙で勝たせるぐらいなら消費税が5パーセントになる方がましだと思った。そこで消費税の引き上げが正しいかのような報道を行って自民党に勝たせた。一部の新聞は選挙の出口調査の結果を自民党や民主党に教えて反小沢を実行した。

 消費税の引き上げ反対を言い出したのが小沢新進党でなかったら、マスコミはきっと消費税の引き上げ反対に回っただろう。なぜなら、国民の多くは消費税引き上げに反対していたからである。消費税導入に反対した大衆を扇動して社会党に勝たせたのはまさにマスコミだった。

 ところで、本当に消費税の引き上げが必要かどうかなど誰にも分からない。そうすれば必ず日本がよくなるとは誰も断言できない。

 にもかかわらず、マスコミが消費税の引き上げに反対した小沢一郎を批判したのは小沢一郎を嫌っているからという理由以外には考えられない。これは日本のマスコミは何が正しいかではなく好き嫌いを基準にして報道することの明らかな証拠と言えるだろう。

 小沢一郎を首相にするより消費税を引き上げる方が正しかったかどうかは一年もすればじきに分る。(1996年12月13日)











 戦時中に全体主義と滅私奉公を強いられた体験は、戦後の人間を個人主義に向かわせたが、この個人主義は単なる自分勝手主義でしかないものだった。

 国家に対する忠誠や社会に対する奉仕こそが最も大切なものであるという教育はなされてこなかったのである。そんなことを言えば全体主義者という烙印を押されかねない風潮がある。

 しかしたとえぱ国旗に対する忠誠は、どこの国でも当然のこととして求められるものである。にもかかわらずこの国では国旗を掲げることに反対する人間が大手を振っているのが現状だ。

 もし清原選手がファンのために野球をし、プロ野球界全体の将来を考えて移籍先の球団を選んでいたなら、そしてこの選択が広く日本人に与える影響を考えて いたなら、また後に続く子供たちに対する影響を考えのうちに入れていたなら、かれは結婚相手を選ぶときのような選択の仕方をしなかっただろう。

 自分の好みを優先する社会風潮がこれ以上広まらないことを祈るのみである。(1996年11月25日)









 オリックスのイチロー選手は日本シリーズの優勝の瞬間に、誰よりも早く客席のファンの方を振り向いた。それに対して、西武時代の清原選手は巨人に勝った日本シリーズでまず自分自身の過去に思いが行って涙してしまった。この違いがこの両選手の根本的な違いを象徴している。

 ファンのためにプロ野球はあるのだということに、清原選手はまったく気づくことがないままにプロ野球生活を送ってきたのだ。そのことに気づかなかったがゆえに彼は何のタイトルも取ることもできなかったと言ってよい。

 自分のためだけに生きている人間は弱い。人間は人の間にあって始めて一人前の人間であるのだ。そしてそのときはじめて最高の力を発揮することができるのである。

 社会のために生きることが戦後の教育ではなおざりにされてきている。わがままを通すことが民主主義であるとと教えられてきた。自分の願いよりもまず人の願いを満たすことに専念できる人間をこの社会は育ててこなかったのである。(1996年11月25日)









 清原選手は巨人を選んだが、さて彼は誰の気持ちを大切にしてこの選択を行ったのだろうか。

 プロ野球選手は誰のために野球をするのかについて、彼はこの9年にも及ぶプロ生活でついに学ぶことがなかったようである。

 プロはフャンのために野球をするのである。自分のために野球をするのはアマチュアである。高校を出たばかりの福留選手がこのことが理解できずに、自分の 好みを優先して近鉄球団入りを拒否したが、清原選手は阪神入りを熱望する多くの阪神ファンの気持ちがまったく眼中になかったのだろうか。

 PL学園の中村監督は今年卒業する前川投手の近鉄入りを表明した席に同席して、選手としてだけでなく人間として大成することの重要性を強調した。しかしこの言葉の意味も清原選手は理解できなかったのだろう。

 入団する気もない阪神との交渉の席について、阪神側に期待を抱かせたことの罪にも気づくことなく、親に助言を求めてやっと巨人入りを表明するというていたらくだった。

 彼の将来は推して知るべしである。(1996年11月25日)









 西洋型民主主義が現代文明を生んだということを忘れて西洋型民主主義を否定するなら、それは現代文明自体をも否定することになることを忘れてはならない。

 ギリシャの民主主義抜きにギリシャ文明は生まれなかった。ギリシャ文明の素材はエジプトやアジアが提供したものだが、ギリシャの自由な思考のみがそれを科学に発展させた。

 たとえば幾何学の基になるものを使いだしたのはエジプト人だがそれを人類共通の知識に変えたのはギリシャ人だった。エジプトの専制政治のもとでは自由な思考が発展する余地はなく、ギリシャの民主的な空気の中ではじめて科学の形に結実したのである。

 もしそれを忘れて、文明だけを享受しながら西洋民主主義を東洋的でないとして拒否するなら、それは中国の共産主義となんら変わらない、中身を欠いた形だけの文明ということになる。

 精神面では圧制を許容しながら、物質面だけの自由を求めることになるからである。(199611月19日)










 行政改革に対する期待が高いが、まず補欠選挙というのをやめたらどうだろうか。

 まずもって、一人や二人国会議員が欠けたところで大勢に影響がないのは明らかだろう。政治家の数が多すぎると言う意見も最近よく聞く。次の選挙まで欠員扱いで十分だろう。

 とくに今回の兵庫県の補欠選挙では当選した議員の任期はたったの一年半というではないか。いなくてとくに困るというものではない。しかも存在感の薄い参議院である。

 今回の補欠選挙は特に税金の無駄使いであるようなに気がする。

 この選挙は参議院議員が衆議院に鞍替えするために辞職したために行われたものだ。つまり一個人の勝手な都合のために選挙が行われ、そのために膨大な費用が使われたのだ。

 議員が死亡したのなら仕方がないという気もするが、衆議院議員の親の跡目を継いで立候補するために参議院を辞めたのだから、この補欠選挙のための出費はその議員が負うべき性質のものである。(1996年11月19日)










 昔は経済一流政治は三流と言われたが、次にバブルの崩壊で経済も三流だと言われて銀行などに批判が集中した。かと思うと、政治が三流であることはいつのまにか忘れられてしまい、今では政治家に行政改革の期待が寄せられている。

 しかし三流は三流であって政治家の顔ぶれは変わっていないのだからそんな連中に期待しても無駄というものだろう。(1996年11月18日)









 今、日本では行政改革ができないと日本は滅亡するかのように騒がれている。このまま官僚に日本をまかせていれば大変なことになると言われている。だから、今は橋本政権に期待するしかないということらしい。そして国民はこれを支援すべきだなどと言われている。

 確かに、大和銀行事件に見られるように日本の官僚には必要以上の権限が与えられているし、政府を動かしているのが選挙の洗礼を受けない官僚たちであるのは民主的でない。

 しかし、たとえ行政改革が必要だとしても、はたして橋本政権にそれができるだろうか。

 この政権をつくっている自民党の政治家たちの顔ぶれを見れば、この党が以前の単独政権の時代と何も変わったいないことはすぐ分かる。ロッキード事件やリ クルート事件で名を馳せた者たちが相変わらず幅を利かせているからだ。そして共和の献金疑惑はまったく晴らされていない。この党は相変わらず金権腐敗にま みれた者たちであふれているのだ。

 しかも、自民党はかつて政治改革に反対した者たちで構成されている党である。彼らは現在の行き詰まりをもたらした張本人たちでもある。

 その彼らに行政改革をどうして期待できるだろうか。行政改革が急務であることが事実であるなら、そしてここ三・四年が大切だというなら、国民は橋本政権に一日も早い退陣を願うぺきだろう。あだな期待にうつつを抜かしている時間はないはずだ。(1996年11月11日)









 都心部、とくに近畿地方で自民党の議員が選挙で大敗したのに対して、それ以外の地方で自民党の議員が大量に当選した。そして大阪出身の自民党の議員は、今後近畿地方の意見は政府の政策に反映されにくくなると、近畿の財界に対して警告を発したという。

 これは今回の選挙で生まれた政府が、自民党が大量当選した地方の民意を強く反映しものになったということを示している。

 ところが、この民意は、地方と都心部では一票の格差が大きいために、国民全体のものとはかけ離れたものである可能性が大きい。

 一票の格差の問題は、選挙によって生まれる政府が国民のどの部分の意見を代表するものとなるかに、大きく影響してくるのである。

 このまま格差が解消されず、しかも都心部に人口が集中し続けるなら、ますます都心部の人間の意見は軽視され、安定を求める地方の少数の人たちの意見ばかりが反映される政府が作られることになる。

 一票の格差をなくす運動は一部の人たちの問題ではなく、都会に住む人間全員にとって重要なことなのである。(1996年11月8日)









 近頃、若い女性が男に殺される事件が相次いで起こっている。しかもそのあとで家に放火するという悪質なものが多い。これらはほとんどが恋愛関係のもつれが原因だ。

 これらの事件を引き起こした男たちとて、正気に返ればなぜあんなことまでしたのか自分自身の行為を悔いているはずだ。そして、彼らが後悔するのはそれが正気を失っていた間の出来事であるからだ。

 とはいえ、一般に恋愛は精神異常とは認められないため、彼らは自分の行った犯罪の責任をとらねばならないが、彼らが一時的に正気を失っていたと言っても間違ってはない。

 これらの事件を見れば分かるとおり恋愛とは一種の狂気であり、人間を正気では考えられないような行動に向かわせる。

 古代ギリシャ悲劇の「アンティゴネ」には、恋愛をうたった歌があるがそれは恋は狂気であるといって、人々に警戒をうながすものだ。そこには今日のドラマのような甘い浮ついた恋愛のイメージはまったくない。恋愛礼賛はやめるべきだろう。(1996年11月2日)










 自民党が行っている社民、さきがけとの政策協議を見ていると、まったく腹が立ってくる。

 今回の選挙での国民の審判は自社さ連立政権に対する批判であったはずだ。それにもかかわらず選挙前と同じ連立政権を作ろうと画策するととは、まったく民意を無視した行動と言わざるを得ない。

 とくに社さは、国会で嘘をついたことがほぼ明らかになった自民党の加藤幹事長と同じテーブルについていること自体を恥と感じるべきである。

 社民党はこれまで金権批判を繰り返してきたはずだが、それを忘れてしまったかのように、献金疑惑がもたれている人間と政策協議をするなどもってのほかだ。

 しかもその協議の内容といったら、「いっしょに考えましょう」というレベルのものばかりで、とうてい合意とは言えないにもかかわらず、合意文書を交わし たという。これでは単なる数字合わせが目当てであることは明らかだ。まったく国民を馬鹿にした茶番である。(1996年11月1日)









 ヘロドトスの「歴史」の第二巻でエジプトの話である。

 そこで彼は「エジプトを作ったのはナイル川である、エジプトはナイルの賜だ」という有名な言葉を残したが、それはエジプトの肥沃なデルタ地帯はナ イル川が運んできた土砂の堆積によって作られたもので、デルタ地帯は元々何もなかったところに生まれたものだという意味である。

 そして、このエジプトの繁栄はナイル川の定期的な氾濫のおかげであり、この氾濫が如何に農業をたやすいものにしているかを説明している。

 しかしその一方ヘロドトスは、このままナイル川による土砂の堆積が続くと、土地が高くなってしまいナイル川は簡単には氾濫しなくなってしまい、その結果大地が干上がってしまい、国民は飢え死にすることだろうとも言っている。

 実際、メソポタミア文明もエジプト文明も水が枯渇して滅んだことを考えると、ヘロドトスの言ったとおりになったのだろうかと思いたくなる。実際はどうなのだろう。(1996年10月30日)









 そもそも大相撲の不公平な状況は現在の二子山部屋の誕生に始まっている。あの時二子山部屋と藤島部屋とが合併して大勢の幕内力士が一つの部屋に集まってしまったことが間違いの始まりである。しかも、その二子山部屋の誕生に不正行為がからんでいることが明らかになった。

 その不正行為を犯した当事者は処分を受けたが、それによって生まれた二子山部屋力士による上位独占と不公平な状況はなにも変わっていないのである。

 この二子山部屋の力士に有利な状況を、他の部屋の親方たちもおもしろく思っていないはずだ。この状況を放置したままで、他の部屋の親方たちから一方的に 年寄名跡という既得権を取り上げようとしても、何故よその部屋の不祥事でとばっちりを受けなければならないのかと反発を買っても不思議ではない。

 大相撲の改革はまず取り組みの公平さを維持するという、スポーツとして最も基本的なことから始めなければいけないのでないか。貴乃花と若乃花が人気力士であることをいいことにして今の状況をこのままにしていてはいけない。(1996年10月29日)









 また大相撲の季節がやってきたが、取り組みが二子山部屋の力士に有利な状況はなんら改善される様子がない。

 その間にまた二子山部屋の力士が大関になろうとしている。それは貴闘力のことだが、現状から考えれば、彼が大関に昇進することはそれほど困難なこどではない。

 なぜなら、自分より上位の力士、つまり自分より強い力士との対戦が2番しかないからである。そのため彼は自分より弱い力士との対戦だけで大関昇進に必要な勝ち星を稼ぐことができる。

 これはこれまで大関昇進に挑戦して失敗している武双山や魁皇とはまったく条件が違っている。彼らには横綱大関戦が4番から5番もあり、横綱か大関を必ず倒さなければけっして昇進を望むことはできなかった。

 つまり、自分より強い力士に勝たなければならなかったのである。しかし二子山部屋の力士にはその必要がない。だから、大関昇進は貴闘力の場合には難関を突破するというイメージが乏しいことは否めない。(1996年10月29日)










 『嵐が丘』第一章。ロックウッドはヒースクリフの家で犬に取り囲まれて女中に危うく救われる。そのあと、ヒースクリフに犬に咬まれなかったどうか聞かれれた時、ロックウッドは不愛想な歓迎にむかつきながらこう答えた。

 If I had been, I would have set my signet on the biter.

 このsignetとは何か。辞書を引くと「指輪などに彫った印鑑」と出ている。文字通り訳すと「咬んだ者に印鑑を押しただろう」となるが分かりにくい。 そこで多くの訳書では「焼き印を押していただろう」というふうに訳している。直前に火かき棒で犬を追い払ったという記述があることからそういう連想になっ たのだろう。

 しかし、これは自分の指輪の印鑑のことだから「もし噛まれたりしたら、その犬にわたしの指輪の印章のあとをつけてやったことでしょう」ということであ る。つまりは「そんなことをする犬がいたらわたしのパンチを一発お見舞してますよ」という意味なのである。(1996年10月21日)










 『嵐が丘』第一章最後。ヒースクリフは、善良な店子であるロックウッドの機嫌をそこねるのは得策ではないと思ったので、それまでの調子を改めて、相手の興味を引きそうな話題について話し始めた。その時の彼の口調はどうだったのか、
 
  He relaxed a little in the laconic style of chipping off his pronouns and auxiliary verbs.
 
 これを「端々を削り落としたようなぶっきらぼうな言葉遣いを少しばかりやわらげて」(田中西二郎訳)のように訳しているものが多い。その中でただ一つ学研の世界文学全集に入っている荒正人訳だけは「少し、打ちとけ、できるだけ短いぶっきら棒な話し方で」としている。

 私はこの方が正しいと思う。確かに、自動詞のrelaxeにはrelaxe in の例文はあるがその場合は努力をゆるめる意味に使う。ここはむしろrelax intoの「リラックスして~になる」の方が近い。すなわち「少しくつろいだ様子で、代名詞や助動詞を省略した単刀直入な話し方になって」であろう。

 文脈から見てもこの方がいい。ヒースクリフはこれまでの慇懃無礼な話し方をやめて、親しげな話し方を始めたのである。ちなみに、laconic styleには「ぶっきら棒な」というような悪い意味はない。むしろ単刀直入にという意味に近い。(1996年10月21日)










 相撲協会はなぜ公平さに対して鈍感なのか。横綱大関戦が四番ある力士と二番しかない力士がどうして勝ち星で優勝を争って公平と言えるのか。

 力の接近した力士との対戦こそ、もっとも緊張する一番であろう。その一番に備えて前半中盤と戦っていく。しかしその大一番が土日にしかない力士と木曜から四日間続く力士では、それまでの戦い方が全然違うはずだ。

 優勝が部屋によって争われるのならともかく、個人によって争われる限り、個々の力士の条件は同じなくてはならないはずだ。

 横綱大関戦が二番しかない力士がいるのなら、その力士に他の力士も合わせるべきではないか。そして同じ条件にたってこそ、力士の真の力量を比べることができるのではないか。(1996年9月19日)









 原発を設置するかどうかを議会が投票で決めるのがよくて、どうして住民が住民投票で決めるのはよくないと言えるのか。

 従軍慰安婦自身が強制されたと言っているのに、どうして従軍慰安婦が強制されたという証拠はないと言い張れるのか。

 100人殺しても大虐殺なのに、どうして2・3万人だから南京では大虐殺はなかったと言えるのか。

 国民が愛国心をもてるような歴史教育がどうして過去を美化して都合の良い事実だけを見ることになるのか。

 韓国の軍事政権の大統領は全員暗殺されたり告発されたりしているのに、どうしてビルマの軍事政権を韓国の軍事政権になぞらえて肯定できるのか。(1996年8月23日)









 近代オリンピックは国別対抗戦という色彩が強い。国単位でメダルの獲得数を争っている。日本はメダルをいくつとったという言い方がよく使われる。正しくは日本の選手がとったメダルの数なのだが。

 オリンピックは本来、誰が最も足が速いか誰が一番力持ちかということを決めるためのものだった。ところが今では、どの国がスポーツに優れた人間を一番多く輩出できるかの方が重要であるかのように、日々メダルの数が数えられている。

 団体競技の場合は、どうしても国対抗の競技になってしまう。そこから、オリンピックに政治の入り込む余地が生まれた。

 誰が一番かにしか興味がないなら、その選手がどこの国の出身であるかは意味がないはずだ。ところが、国が前面に出てきたがために、国単位で参加させない参加しないという話になってしまったのである。(1996年8月1日)









 金銀銅のメダルを賞品にすることによって、優勝者以外の者も表彰の対象にするという新しい考え方が導入された。いわば残念賞が出るようになったのだ。

 しかし、それと同時に「参加することに意味がある」という考え方が生まれたことを忘れてはいけないだろう。ところが、このことを忘れたマスコミは銀メダルや銅メダルを金に値する銀だの銅だのといって自国の選手を慰めはじめた。

 そして同時に4位以下の選手を軽視する傾向が生まれた。3位と4位では雲泥の差だなどと言いだしたのだ。

 こんなことなら、いっそ2位や3位にはメダルをやらないか、4位以下にも錫や鉄や鉛などといったメダルをやればよい。そしてもう一度参加することに意義があることを思い出した方がよいのではないか。(1996年8月1日)









 金・銀・銅のメダルが賞品に出ることが、オリンピックを魅力的なものにしていることは疑いがない。もしメダルがなかったら、どれほどオリンピックは味気ないものになるだろう。

 しかし古代オリンピックにはメダルなどなく、賞品はただ月桂樹で編んだ冠一つだった。かつてギリシャを攻めたペルシャ軍が、このことを知ったとき恐怖に襲われたという話がある。ペルシャ人は物欲以外の動機で競争する民族を理解できなかったのである。

 現代の我々にとってもメダルという物ぬきのオリンピックなど考えられない。逆に言えば、メダルを賞品にすることで近代オリンピックはペルシャ人のみなら ず世界中のバルバロイ(ギリシャ人以外の野蛮人という意味)にとって魅力的なものになったのである。(1996年7月22日)









 ペルシャ戦争をヘロドトスは自由と民主主義をめぐる対立であるととらえた。ミャンマーの民主化運動をめぐるアジア諸国と欧米の対立を見ると、古代の対立はいまだに存在することが分かる。

 かつてペルシャが他国の民の自由と民主化に対して無関心であったのと同じように、現在のアジア諸国もミャンマー国民の自由と民主化に対して内政干渉を口実に知らぬ顔を決め込んでいる。

 いっぽうアメリカを代表とする欧米諸国は制裁を使ってまでミャンマーの軍事独裁を非難している。これまた、他国の政治体制に積極的に干渉して民主主義を 広めようとしたアテナイと同じである。二千年以上の時間を隔てても、民族の考え方には大した変化がないと言っていいのかも知れない。(1996年7月21 日)









 プロボクシングの辰吉選手が国内で試合が出来るようになった。一部にはルールを守れと反発する声がある。もちろんある社会に属するものは、その社会のルールを守ることを要求される。

 しかし、その社会で一定の市民権を獲得した人間、つまりその社会で実力を認められた人間は、その社会の既存のルールの改正を要求する権利をもっていることを忘れてはならない。

 それを忘れて、やみくもにルール遵守を叫んで一人の実力ある選手を見殺しにしてよいという議論は、全体の秩序維持のためには個人の能力を封殺してもよいとする非民主的で人権無視の考え方である。

 プロ野球オリックスの長谷川投手が大リーグ入りを希望している。彼の願いを叶えるためには、おそらくこの社会のルールの変更が必要だろう。しかし、彼は すでにこの社会で立派に市民権を獲得した一人前の選手である。当然、彼のためにルールの改正を検討してやってよいはずだ。ところが、彼に対してもルールを 守れという声が出ている。

それに対して、まだ半人前にすぎない福留選手が好きな球団に入れなかったからルールを変えろという意見が出ている。人権の何たるかを履き違えた議論であろう。(1995年)









 福留選手が近鉄入団を拒否するのが間違いである理由はいくらでもあげることができる。

 まず、彼自身自分を含めて3年先がどうなっているかはまったく分からないということがある。自分の願いを達成するのに、ただ3年過ぎるのを待てばよいなどという虫のいい話がどこにあろうか。この3年間に何が起きても不思議ではない。

 いや、むしろこういう場合にはどんでんがえしがあるのが人生の常である。自分の願いを成就させるのは、自分の努力以外にはなく、その上さらに運というのもが付きまとう。それが人生だろう。

 つぎに、プロへ入る実力がありながらプロ球団をより好みして社会人の球団に入ってくる選手を、社会人の選手たちがどんな気持ちで迎えるか考えるべきだろう。

 すぐれた選手が入部することは、部長にとっては喜びかもしれない。しかし、レギュラーの座を奪われるかもしれない選手たちが、3年間腰掛けの積も りで入ってくる少年を手放しで歓迎するとはとても考えられない。野球がチームでするスポーツであることを考えれば、彼の立場が微妙なものとなることは明ら かだろう。

 そもそも社会人野球とは、ふつうはプロ野球のレベルに達していない選手が入るところである。また、そうであるからこそ、より高いレベルを求めて共に切磋琢磨する雰囲気も生まれてこよう。

 ところがそこへ、もうプロから誘いを受けてしかもそれを断った選手が入ってくる。彼の高い技量は他の選手の手本となるだろうか。いや、チームの中で浮いた存在となってしまうのは目に見えている。

 くわえて、彼を受け入れる会社は、彼がダーティーなイメージの付きまとう巨人の入団を希望している点から、企業イメージを損ねることが考えられると言えば言いすぎだろうか。しかし、近鉄ファン、さらにアンチ巨人ファンの人間は多いのである。

 そのほかに、球団をより好みしてプロ入りを拒否するような選手は、概して自分に甘いということが言える。それは、結局、最後には自分との戦いであるプロ の勝負の世界で成功できないことを意味している。現に、プロ入り時に自分の選り好みを何よりも優先した選手は、野球人として大成していない。

 高校時代ならば、ずば抜けた才能と恵まれた体格さえあれば、ある程度努力すれば他の選手を圧倒するだけの力を獲得することは可能だろう。

 しかし、プロの世界はすでに自分と同じかそれ以上の体格をもち、自分と同じかそれ以上の才能の持つ人間の集まりである。その中で勝ち抜いていくためには、並み大抵の努力では対等に位置に立つことさえおぼつかない。

 おまけに外国人選手という超えがたい壁があるのだ。自分の好き嫌いを優先して、自分に勝つことを知らない選手が、この世界で勝ち残っていけるとはとうてい考えられない。

 これだけの理由があれば、彼の判断が正しいものではないことは明らかではないだろうか。いや、この世に正しさなどというものはない、あるのは好き嫌いだけだとでも彼が思っているなら、何をか言わんやである。(1995年)








 一人の少年が間違った判断に固執しているのに、適切な忠告ができない大人社会。現代の日本社会の欠陥を、福留君のプロ野球入団をめぐる問題は露呈している。

 3年後の人の心を誰が予言できよう。3年後の自分の心を誰が予想できよう。今の執着が3年間変わらないなど、とても言い切れるものではない。しかも、子供が大人になる狭間の時期にさしかかった少年の好みを何よりも重視する社会がどこにあろう。

 自分のより好みを何よりも優先する人間を、結局大人社会は尊しとはしないことに少年は気づいていない。なのに、どうしてそのことを誰も教えてやらないのか。

 もし、少年が意見を変えることを弱さだと勘違いして、一つの考えに固執し続けているとすれば、説得を受け入れることは決して悪いことではないと誰か教えてやってほしい。

 力さえあれば好きな球団にいつか行けるときが来ることは、多くのプロ野球の先輩が証明しているではないか。いまは自分の執着よりも、まず野球人と して大成することの方がいかに重要であることを誰かこの少年に教えてやってほしい。そしてこの少年に人生を誤らせないでやってほしい。(1995年)










 自分の兄を優勝させるために二番つづけて八百長まがいの相撲をとった相撲とりに同情がよせられ、何の悪さもしていないクモが目の敵にされて、絶滅させられようとしているのに誰も同情しない、日本とは妙な国である。

 この国には毒のある虫はこれまで一匹も存在したことがないのか。刺されて死ぬ恐れがある虫は全滅させてよいなら、すずめバチはどうなるのだ。セアカコケグモには何の罪もない。

 外国でこのクモを絶滅させようという動きがあったというなら教えてもらいたい。いったい日本には毒のあるクモは一匹もいないのか。沖縄にいるなら問題ではないのか。 

 それに対して、土俵を私物化して、国民の浄財で成り立っているNHKの番組のなかで、自分の兄のためにいい加減な相撲をとる力士の存在が許されている。これこそ絶滅すべき害虫ではないのか。

 情によって勝負を左右することが許されるなら、ヤクルトは神戸の人のためにオリックスにわざと負けるべきだったのか。

 相撲をマスコミは未だにスポーツ欄で扱っている。これが大きな間違いであることは今場所の一人の力士が示してくれた。相撲は今後、プロレスと同じく娯楽面で扱うべきだ。(1995年)









 野茂選手の活躍を見ようと、わたしも今年から衛星放送を見始めた一人ですが、衛星放送を 見ていて気付いたことが一つあります。 それはイギリスやアメリカのニュースには黒人のニュースキャスターが非常に多いことです。とくにイギリスのBBC のニュースに黒人の姿を見て不思議な気分になりました。

 イギリスといえば白人と思っていた日本人が多いのではないでしょうか。わたしもその一人で最初は違和感がありました。

 しかしそのうち、日本ではどうだろうかと考えるようになりました。日本の七時のニュースに在日朝鮮人や中国人のアナウンサーが出ていても、いいのではないか。そう思うようになりました。

 しばしば問題になる日本の植民地支配に対する反省が、もし建前だけでなく現実のものであるならば、NHKの七時のニュースでキムさんや王さんがアナウンサーをしていてもまったく不思議ではありません。

 イギリスやアメリカでは過去に対する反省が、ニュースの画面に現実の姿をとってあらわれています。しかるに日本では在日朝鮮人や中国人は大企業に雇用すらされない。それが日本人の反省の実態ではないでしょうか。(1995年)










 二子山部屋の力士が上位を独占してから大相撲に対する興味が半減してしまった。同部屋の力士の対戦がないため、二子山部屋の横綱や大関は、下位の力士にばかり勝っていても優勝や勝ち越しができるからである。

 個人総当たり制を採用せずにこの状況を改善するには大相撲に勝ち点制度を導入するしかない。たとえば大関・横綱に勝てば勝ち点三、関脇・小結に勝てば勝ち点二、平幕に勝てば勝ち点一とする。

 こうすれば、弱い力士と対戦しても強い力士と対戦しても一勝の価値に変わりがないという状況が改善できるし、大関・横綱に四回対戦する力士と、二回でよい力士が勝ち星だけで優勝を争うという不合理もなくなる。

 ちなみに、これで今場所の成績を計算すると、貴乃花は十七点、それに対して曙は十九点と逆転する。しかし優勝したのは二〇点を稼いだ武蔵丸である。大関若乃花は成績こそ曙と同じ十一勝四敗だが勝ち点はたった十三点となり六点もの差が生まれる。

 現状の不合理さこそ日本文化だという人がいるだろう。しかし、不合理なスポーツなどというものはない。大相撲がスポーツでなく単なる見世物というならば現状のまま放置するがよい。(1995年)









 この町でも町会議員の選挙があった。連日、各候補者は宣伝カーを走らせて、自分の名前を連呼する。しかし、どうしてあんなことをするのか不思議だ。名前を大きな音で聞いたからといって、投票所でその人の名前を書く人など一人もいないだろう。

 有権者はそれほど愚か者の集まりではない。見ず知らずの人の名前を何度聞いたところで、夢遊病者でもあるまいし、投票所で思わずその人の名前を書いてしまうなどということはいない。

 もちろん、知名度が低いから、それを上げようとしてあんなことをしているのだということくらいは想像がつく。しかし、知名度を投票間際になって、あんな 手段で上げようなどと考えること自体愚かである。タレントでなくても知名度を上げる方法はありそうなものだ。それすら工夫できない人が議員になっても町の ために何もできないだろう。

 そもそも、人の静寂を自分の都合のために乱しても仕方がないと思っている人が議員に当選したところで、よい政治ができるわけがない。もしよい政治をするつもりなら選挙運動の仕方から変えてもらいたいものだ。(1995年)










 「ああわが受け売り人生」とお嘆きの素粒子殿、安心召されよ。受け売り人生は貴殿のみに あらず。かの柳沼先生もまた同じ。先生のご意見もまたG.ハイエット氏『古典の伝統』の受け売りに他ならず。かくて記者と学者のこの両者は仲良く受け売り 人生を送るなり。ただし学者はこれを「受け売り」とは言わず「参考」と称して恥じることなし。

 というわけで、柳沼先生も著作の中のどこかにハイエット氏の名前を入れておられるはずです。なにせご自分の訳書ですから。またハイエット氏も自分の取材先を注の中で明確にしています。(ちくま叢書141、本文上巻7ページ下段と268ページ注6)

 さては、学問とは受け売りの連続のことと見つけたり。

 ちなみにハリエット氏の本は、丸谷才一氏が書評でギリシャ・ローマに言及するときによく引用(受け売り!)する本でもあり(これしかご存知ないのかと思うくらい)、素粒子殿もご存知のことでしょう。

 すでに柳沼先生からのご連絡や、他の投書でご存知ならば悪しからずご了承下さい。
「悪口を言わせたら天下一品」の素粒子殿の今後のご活躍をお祈りしております。ただしこれは受け売りにあらず。










 素粒子に注文がある。

 新しい素粒子は個性がある。それはよい。すばらしいことだ。現代的だ。これまでの素粒子は、人が代わっても分からないほど、個性がなかった。だれが書い ても同じような文章だった。今度の素粒子には顔がある。しかし、今度の素粒子にないものがある。それは、はっきり言って、情報だ。

 昔は、素粒子を読んで自分の見落としたニュースの存在を教えられることが多かった。丁寧に読んだつもりが見落としていたニュースの多さに驚かされた。お いおい、こんなニュースどこに出ていたっけと朝刊を広げ直すことが多かった。この人は何と新聞を丁寧に読んでいるのだろうと驚かされたことがよくあった。 だから、素粒子は貴重な情報源だった。

 言い方を変えれば、むかしの素粒子は新聞の読み方を教えてくれた。

 だが、今はそんなことは殆どなくなった。一面トップのニュースの感想文ばかり読まされることが多くなった。一番つまらないのは、政治に対する皮肉であ る。政治の悪口を言っておけば無難だ。原稿用紙の枡目を埋めるのに、これほど簡単な方法はない。最も安易なやり方だ。おかげで情報源が一つ減った。

 素粒子には、三行で一つのニュースを扱う、それぐらいの厳しさをもってやってもらいたい。素粒子の仕事は、まず新聞を隅から隅まで読むことだ。そして、一見見落とされるような記事を書いた記者の労に報いてやることだ。違うだろうか。

 不真面目だという意見は当たらない。大真面目なのだ。この個性に、ファンも多いことだろう。個性はよい。スタイルは自由だ。しかし情報はどこへ行った。









 行政対市民の訴訟で裁判官が行政寄りの判決を出す傾向があるとよく言われるが、それは何も裁判官が行政側の肩をもつからだけではない。その理由の一つに裁判所は政策決定機関ではないということがある。

 公共機関が決定したことに市民が気に入らないといって、裁判を起こせば何でも取り止めになるなら行政の機能は麻痺してしまうからである。

 行政のやり方が気に入らないなら、それは選挙によって表現するのが正しいやり方で、任期の間を待てないのなら、陳情するなり、議員に頼むなり、運動して大衆の意見を変えて行くしかない。

 議会で決定されたら、それは法律であったり、条例であったりするから、それには従うのが市民の義務というものである。その法律が別の法律に違反することが明確に指摘できるなら、そしてその違反によって自分に損害が生ずるなら裁判所に訴えることができる。

 しかし、相手に明確な違反が見出されないなら、裁判官は行政側の勝ちとするだろう。そうするのは、既に言ったように、政策を決定する権限は裁判所ではなく、行政と立法機関に委託されているからである。

 これが間接民主主義で、市民は権限の一部を自分たちの代表に委託して政治を行わせているのだから、そうしたものである。その代表を選ぶのが選挙で、政治に参加する重要な機会ということになる。選ばれた人間は市民の声を拾い上げて政策とし、法律によってそれを実現する。

 そこで、彼らが市民の意見を拾い上げずに勝手なことばかりするなら、次の選挙で辞めてもらうか、途中で辞めてもらう手続きを取るしかない。政治家のすることが法律に違反していないなら、裁判所に頼んで止めさせることはできない。

 例えば国側といっても、要は自民党政権のことだから、損害を被ったのに国が弁償してくれないようなら、弁償してくれるような政党に政権を取らせるように運動することだ。

 裁判所に訴えても、国などに余程の過失が無くては到底勝てる見込みはないと思ったほうがよい。世の中良くならないと嘆いても、裁判所は政策決定機関ではないのだから、助けて欲しいと思って訴え出ても無理というものである。










どんな事もありうる。
何でも起こりうる。
時間にも空間にも縛られず、
想像の力は色あせた現実から、
美しい模様の布を紡ぎ出すのだ。
『ファニーとアレクサンドル』より









 構築するのはすばらしい。言葉によって何らかのものを作り出すとき、はじめて充実感をともなった疲労を感じることができる。それは、ただものを読むだけでは得られないものだ。

 ものを読むとは理解することだが、ものを書くとは作りだすことだ。そして、作り出すとは構築することだ。翻訳でさえ作りだすことだ。

 ただ理解するだけでは文章に作り変えることはできない。それだけでは、文章を作り出すことはできない。写し出すことには違いがないが、別のものを作り出すことである。つまり、翻訳もまた構築することだ。だから愉快なのだ。

 文章は一つの織物だが、その模様には意味がある。何かの表現がある。そこに向かって作り上げていくのである。









 野田氏の受験制度批判を大学教授だからといって批判するF君、では集団の構成員として適応していない無職の私が言えば文句はないだろう。私も今の受験体制に反対である。

 私は君に問う。義務教育終了から今までの5年間、君はいったい何をして生きてきたのかね。あと2年で大学を出て一人で食っていく用意は出来ているのか。 おそらく勉強以外何の能力もなく、会社に入るしかないのだろう。そういう人間を大量生産しているのが今の受験体制であることに、君はまだ気付いていないら しい。

 大学卒業後の君を待っているのは、いまだ封建体制の確固としている会社社会でしかない。そこへいったん入ってしまえば、二度と抜け出すことはできない。 会社にとって一番欲しいのはやめない、そしてやめられない人間なのだ。その会社で君は朝の8時から真夜中の2時まで働かされるのである。

 週休二日もサービス出勤のただ働きで消えてしまう。そして死んだら本人の責任にされるだけのことだ。こんな社会に適応する人間を造り出しているのが、君の擁護する受験体制なのだ。

 そしてこの受験体制にとって一番のタブーは、自分は何がしたいかを考えることである。職業は点数が決めるからそんなことを考えるよりまず点数を稼げといって、職業選択の自由を奪っているのがこの受験体制である。

 例外的な芸能入試などで入っている者こそ本来のあるべき姿なのだ。彼らは自分のしたいことを知っている。君はこの例外をもってこんな制度全体を擁護するのかね。私は野田氏の議論のどこにもおかしいところはないと思う。









 現在の改憲論議に欠けているものは、憲法は理想を語るものであるという視点であろう。

 憲法を現実に則していないから改正すべきだというなら第9条は改正すべきであろう。現実に軍隊があるのに、あたかも軍隊を持っていないかのような条文は現状にあわない。だから改正すべきだというのである。

 しかし、現実が条文と食い違う条項は数多くある。例えば男女平等条項。残酷な刑罰の禁止条項もそうだろう。天皇を元首でなく象徴とする条項もそうだという人もいることだろう。また基本的人権より公共の福祉の方が常に重視されている現実を憲法に明文化しなくなよいのか。

 しかしこれらを改正せよという声はない。それはこれらがこれから達成すべき理想であることがあきらかだからである。

 当たり前のことだが、憲法とはわれわれの理想、これから目指す目標を示すものである。そうであるならば憲法を変えようという試みは、われわれの理想を変える試みであるはずである。

 すなわち、国際社会に対して軍事力によって貢献することをわが国の理想としてよいかどうかが今問われているのである。それは国民の血を流すことによって貢献することを意味するが、はたしてこれがわれわれ全員が共通してもちうる理想であろうか。おおいに疑問である。

 いやその前に改憲を唱える人たちは、憲法を理想を描くものではなく、現実の目標を達成するための道具と考えているように思われてならない。









 高校野球の新聞記事に「強攻策」という言葉をよく見掛ける。これは、攻撃側がチャンスに犠牲バントを使わず、積極的に打っていく戦法をとることをいう。「強攻策がことごとく失敗した」とか「強攻策がまんまとあたった」とかいうふうに使う。

 チャンスには犠牲バントをするのが当然であり、それをせずにバッターに打たせるのは異例であり危険な賭であるという考えが、この表現の裏にはあ る。が、はたしてこれが野球の本来の姿であろうか。野球とは、投手の投げた球を打者がいかにうまく打ち返すかを競うゲームであるはずであろう。一方、バン トはヒットを打つチャンスを捨てて、ランナーを進めて、得点を挙げる可能性を増やし、チームの勝利を優先する。個人を殺し全体を優先するいき方である。

 日頃よく打つチームが好投手を前にして打てずに敗れたときに、「打力に頼ったチームのもろさを露呈した」などという批評をよく見掛ける。打力に頼らなけ れば、何に頼るべきだと言うのであろうか。この場合、投手力や守備力のことを言っているのではない、バント戦法を使えと言っているのである。「バントで確 実にランナーを進めておく」などと言う。

 しかし、考えてみれば選手は日頃何のためにバッティングの練習にあれだけ時間をかけるのか。それはバッティングが非常に難しい技術を要するからであろう。しかるに、いざその技術を発揮すべきチャンスがきたというのに、自分の技術を捨てて、バントをするのである。

 スクイズなどはその典型である。なんともなさけないことではないか。また、全力でボールを投げてくる投手に対して失礼であろう。

 だからであろうか。犠牲バントをする選手はみなバットを両手で持ち替えて横向きにして、腰をかがめて投手に対して拝むような格好をする。無意識の内に、投手に対して卑怯な戦法をとってすまないと詫びているのであろう。

 スクイズなどは最低の戦法である。なんと言っても成功の手柄を監督にとられてしまうところが情けない。打つ自信がないからバントで点を取ろうというので ある。「打てなくても勝てるチームを作ってきた」などと自慢する監督がいたりする。打てなければ負けるのが野球であって、それでも勝とうとするのである。 なにがなんでも勝ちたいのだ。

 実は打てずに勝っても、それはただ勝ったいうだけで、選手には何の収穫もないのである。日頃の打撃練習の成果を得ることもない。チャンスに打てたという自信を得ることもない。監督のサインで勝っただけの、監督一人のした試合である。

 監督の名声は高まろうが、主役は監督になってしまう。高校野球の監督だけで食っている先生がよく犠牲バントとスクイズをやるのも理解できる気がす る。彼らはプロなのだから、なにがなんでも勝つ必要がある。食うために稼ぐことは、いずれにしても情けないことである。しかし、高校生を飯の種にするのだ けはやめてもらいたい。

 「スクイズの失敗は監督の責任になる。選手に悔いを残させたくない」なとど言う監督がいる。しかし成功の手柄も自分のものになってしまう。本当に 生徒のためを考えているのなら、必要以上に勝負にこだわらず、堂々と勝負をさせて、選手にチャンスやピンチに耐える力を教える戦法をとるはずだろう。

 そこには犠牲バントやスクイズや敬遠のファーボールなどはないはずである。堂々と勝負をして敗れて「上には上のやつがいる」と知っただけでも値打ちがあろう。プロ野球ではない、姑息な手段を取らないでもらいたい。










 「改新」結成の経過が気に入らないと言って「改新」からの離脱を求めている日本新党の議員は、自分たちが既に権力側の人間になってしまっている事実を真正面からとらえる努力が足りないのではないか。

 政権に参加した時点で、日本新党の議員は、理想を云々しておればよい段階を過ぎて、結果を要求される段階に来てしまっていることに気が付かなければならない。もはや期待される立場は終わり、批判される立場に立っているのである。

 既存の政治を批判しておればよい段階は終わり、今や現状に対する責任を取ることを求められているのである。理念を主張するだけで良かった結党時とはもう違っているのである。もはや野党のような議論の仕方では国民の信託は得られない。

 権力の内側に入ってしまった人間が、外側にいる人間のように振る舞うことはもはや許されないのだ。権力という汚いものの内側に漬かってしまってい るのてある。先の選挙では、野党としての日本新党が信任を受けたに過ぎないということを理解しなけれはならない。しかるに、結党時の野党のような立場でい たいといってもそれは出来ないのである。

 「毒食わば皿まで」で行くしかないのだ。それがいやなら、毒を吐き出して離党して野党に入るか、日本新党自体が野党になるしかないのである。

 社会党と「さきがけ」は後者を選んだ。単に「改新」を離脱するだけではだめなのである。それだけでは、消えてなくなるだけなのだということを理解しなければならない。野党にもどるか、離党するか、権力の内側で毒に染まってやっていくか、どれか一つしか選択肢はないのだ。

 再び選挙で信任を得るには、再び野党に戻るか、さもなければ与党としての立場に立ってその実績を訴え、野党の無責任を言いたて、与党としての公約を示さなければならないのである。そして与党としての特権を最大限に利用しなければならないのである。

 奇麗事を言って済む段階は終わったのである。与党にいながら、野党のような事を言っていてももはや誰も相手をしてくれないのでる。新自由クラブは一度与党になったことで消えてしまった。野党のままでいれば続いただろう。

 日本新党は今同じ岐路に立っているのだ。そして細川代表は与党の毒につかる方を選んだのである。細川代表は首相になったとき、もう戻れぬ河を渡っ たことを知っているのである。細川氏は細川政権の政策の継承を訴えている自分の後継政権から離脱することができるわけがない。それでは自分自身を否定する ことになってしまう。

 もちろん「改新」の結成は、強力なリーダーシップを持つ首相を作り出すため一つの段階であることに違いはない。しかしまた、それは政治家としての 唯一許された生き方なのだという事も理解しなければならない。「改新」離脱はイコール細川氏の政治的な死であることを理解しなければならない。(1994 年)










 日本国憲法と日米安保条約との関係が、いま一つはっきりしない。

 憲法は第9条で戦力の保持を禁じ、交戦権を否定しているが、安保条約によって日本には強大な米国軍が駐留している。この条約は国会で批准されたもので あって、法律に等しい地位を持つものである。そして、法律は憲法に違反してはならないから、日本国内の米国軍は戦力であってはならないし、交戦権もないは ずである。

 だが、実際にそんな拘束力は日本国憲法にはなく、米国は国内の基地から朝鮮半島やベトナムに軍隊を派遣した。いったい、安保条約は憲法の下位に位置するのでないのでないかという疑問が、ここから生まれる。

 自衛隊の創設は米国の指示によるから、この憲法を実際に作成した米国側には、自衛のための戦力の保持までは否定していない、と言ってよいのだろうか。

 それとも、米国は日本に憲法を違反するように求めたのだろうか。また、憲法を実際に作成した米国人は、自衛の為の軍事力の保持までは否定していないと明確に述べているが、いったん日本人のものになった以上、その解釈は日本人が独自になされるべきなのであろうか。

 憲法9条の本来の趣旨は、日本から軍事力を奪い、軍国主義の台頭を防止して、日本を二度と戦争できない状態にしておくことであったのでないか。

 日本の平和は、憲法の平和主義によって守られてきたのであろうか。それとも、日本に駐留する強大な米国の軍事力によって守られたのであろうか。精神的な面では、憲法が、実際的な面では、米国軍が、今日の日本の平和と反映をもたらしたのだろうか。

 平和憲法が、日本の現在の繁栄をもたらしたという意見をよく聞くが、平和憲法の理念に相いれないような米国軍の存在の貢献には、何も言及されないことが 多い。それとも、安保条約や米国軍の存在は、むしろ日本をソビエトの敵国にし、日本を戦場にする危険性にさらしたのだろうか。









 憲法9条と国家の関係は、今や戦前の統帥権と国家の関係に類似する様相を呈するに至っている。

 戦前に統帥権が憲法の他の全ての条項の優位に立ち、それらを支配してしまい挙句に国家の自殺を招いてしまったように、今、憲法9条は国家の自殺を招来しようとしている。

 戦前のマスコミが統帥権の侵犯を言い立てて政府を追求したように、いまマスコミは憲法9条によって政府を追い詰めようとしている。

 統帥権の独り歩きがかつてあったように、憲法9条の平和主義が独り歩きをしている。

 憲法9条が日本の平和を支えてきたと本気で言う人が大勢いる。まさに、一個の文章が生きて立ち上がり、世の中を支配しはじめた。かつての統帥権の条項のように。

 そして、かつて統帥権が日本を破局の淵へ追い込んだように、憲法9条が今日本を破局へ追い込もうとしている。統帥権が日本を孤立へ導いたように、今、憲法9条が日本を孤立へ導こうとしている。

 統帥権は国防の独走を生みだし、9条は国防の怠慢を引き起こしている。憲法9条は日本に二度と戦争をさせないようにするためにアメリカが考え出した条項であるのには間違いはない。

 ところが、憲法は今や聖法と化している。聖法は国家の上位に位置し、国家の存亡以上の価値を有する。聖法の遵守は国民の生命財産の保護よりも優先する。

 聖法あるところに、多様性の文化のあったことがない。聖法は中世のキリスト教であり、東洋の専制を支えたものである。聖法に反するものは、異端として審問に付され断罪される。

 9条こそは、この聖法の最高位に位置する。そしてその神官はマスコミである。









 中世キリスト教では、聖書に記載のない天動説という教理があった。現代の聖法には「南京大虐殺は事実である」という教理がある。「南京大虐殺は事実ではない」と言えば、中世のように異端審問の場に引きずり出され、撤回を迫られる。

 中世のガリレオが地動説を唱え、異端審問の場に引きずり出され撤回させられた、まさにそれと同じように。聖法は自由な言論を禁じるのである。思想信条の自由をも禁ずる。










 「軍国主義の復活をめざしている、またはかつての軍国主義を認めている」。これがいまだに日本で政敵を非難する有力なレッテルとして機能している点に、日本の政治の不幸がある。

 憲法改正即ち軍国主義の復活という論理で憲法の改正は拒否されるのである。

 しかし、その前に日本に再び軍国主義が復活することが可能かどうか厳密な議論が戦われたことはない。

 軍国主義を実体のない一種のシンボル化してその存在の可能性をさぐれないものとしている点に問題がある。それは幽霊のようなものである。ある人は 見たことがあると言うが、その実体は不明である。現代の日本でも軍国主義の芽があると言う人がいるが、それがどこにあるのか明示でき証明されたものとして 提示した人はいない。

 右翼が軍国主義の本体なのか。右よりの政治家が軍国主義者なのか。自衛隊が軍国主義の本体なのか。はっきりしているわけではない。

 しかし、政治家が前の大戦について何らかの弁護をするようなことがあると、軍国主義者のレッテルを貼られることになり、いっさいの言論の自由は奪われ、政治的権利も奪われてしまうのである。









 先日の「声」欄に前の衆議院選挙では小選挙区並立制を公約にして戦った政党はなかったから、民意を問うために中選挙区制で解散すべきだという意見が掲載された。

 そんな意見もあるものかと感心したものだが、その後この意見が共産党の書記局長の口から出てくるのをテレビで見たときは開いた口が塞がらなかった。なんと、あれは共産党の意見だったのである。新聞の投書欄が共産党の宣伝に利用されてよいのか。

 そんなことを思っている矢先に、今度は自民党の森山眞弓氏の「私の紙面批判」が掲載された。最近のものは朝日に対する恥知らずのおべんちゃらばかりだが、これもその一つかと思って読んでみると、まさにその通り。

 小沢氏の女性蔑視発言報道に対する賛辞がたらたらと書き連ねてある。しかし、よく読んでみるとそれは紙面批判とは名ばかりのもの。公器たる新聞紙上を純然たる政治目的に利用した小沢批判でしかない。

 「紙面批判」をこのように政治的なプロパガンダに利用してしまう森山氏のしたたかに感心させられられたが、それに気がつかない朝日ではあるまい。これをそのまま掲載した意図は何なのか、先の投書の件と合わせて考えさせられてまった。

 最近の朝日新聞社は社をあげて小沢攻撃に取り組んでいるという印象を与える。まさに「切っても切っても豚」状態で、この新聞はどこを見ても、だれの記事を見ても小沢批判一辺倒だ。社説、天声人語、素粒子みな同じ意見だ。

 しかし、社内の誰も彼も同じ考え方をしているとは考えられない。ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムスが記者によってクリントン政権に対して180度違う意見のあることを隠していないのと、好対照だ。

 しかもその批判は度を越しているように見える。小沢氏を批判するためなら、自民党政権が復活しても、政治改革がつぶれても構わないと考えているのではないかとすら思えてくる。

 また奥田議員運営委員長の解任問題に関して朝日がまったく論評をしていないのも不可解だ。日頃数の暴力は民主主義に反すると書き立てている新聞が、小沢氏を困らせるためならと見て見ぬふりをしているのてはないか。

 多数決の乱用を批判した天声人語も今回は沈黙している。多数決批判も単なる小沢批判の一環でしかないのではないかという気がしてきた。

 しかし、このような個人攻撃は結局はこれまでの朝日の公平でリベラルな論調を愛してきた読者の離反をまねくだけだ。やめたほうがいい。(1994年)









 日本人は本当に変わった国民だ。アメリカが自分の都合に合わせて作った憲法を押しつけられても、それを後生大事にしている。文民条項にしてもそうだ。こ れは日本の軍国主義の復活を恐れたアメリカが旧日本軍の軍人が政府の要職について国策を左右する事態にならないように設けた条項にすぎない。

 しかしアメリカの当初の目的が無くなってしまった今でも、日本人はアメリカの意図をまるで自分の意図のごとくに大切にしているのである。

 9条にしても同じである。アメリカは日本の軍国主義の復活を恐れて戦力を日本に持たせないようにしたが、朝鮮戦争が勃発すると途端にその態度を変えて、警察予備隊を創設させた。

 ということは、日本人に軍隊を持つことを、憲法を作った当事者が許したのに、いや欲しくないと日本人は言っていることになる。犬はいったん主人に教えこまれたことは死んでも守るが、日本人は犬より忠実だ。

 閣僚の発言が気に入らないから解任せよと外国から言われると、そうだそうだといって辞めさせてしまうのも日本人のよくやることだ。主権意識なんてものは日本人になくなってしまった。内政干渉大歓迎の国なのである。他国の価値感を自分のもののように感じるのだ。

 なぜ、日本人は、中国や韓国など第二次対戦で日本から被害を受けた国民の感情を共有できるのだろうか。日本人はそれほど博愛主義なのか。加害者は 被害者の気持ちになって考えるべきだとは口では簡単に言えても本当に実行するのは難しい。しかし、日本人はいとも簡単にそれをする。

 国旗や国歌に反対するのも同じだ。今の国旗や国家を見ると、侵略された過去の忌まわしい思い出がよみがえる。被害者国がそう言うのはうなずけるが、加害者国の日本人の中にそういう人が多いのはなぜだろう。

 実は、日本人には加害者としての自覚がなく、むしろ先の大戦では国民は被害者であり、中国や韓国の人たちと同じ立場であると思っている人が多いのだろうか。










 アメリカに否定された日本の文化や固有の価値感は、いつもでも否定されたままでいなければならないのだろうか。戦後はいつになれば終わるのか。

 日本は戦争の賠償をしなかったのか。永遠に批判の対象でいなけれはいけないのか。日本はいつまで戦争の捕虜のような生き方を強いられるのか。

 独立国家、一人前の国が外国の干渉で政府の大臣を更迭するのを当然視する人たちがいつになったらいなくなるのか。そんな国が海外にもあるのか。

 日本人の捕虜はいったん捕まってしまうと、限りなく敵国に協力し、日本の国益や日本人としての価値感を捨ててしまうそうだが、日本の戦後はまさにこれと 同じ態度を海外に対してとり、国民はこれに負けずに文化や価値感を海外の国家に対して迎合的なものにどんどん変えていった。

 日本人は「転向」してしまったのである。これは「改宗」といってもよい。










 日本人は妙な国民だ。北朝鮮の金日成の葬式の模様を長々と放送する。金日成といえば朝鮮戦争を始めた男であり、韓国機の爆破事件、ビルマの爆破事件の首謀者である。北朝鮮がテロ国家であることは国際的にも常識となっている。

 それにもかかわらず、この犯罪者の頭目である金日成の死に際して彼に対して何の批判も向けることなく、葬式の模様を放送する。妙なことだ。

 在日朝鮮人が金日成の死を悼む様子も放送された。日本にはこの犯罪者の親玉の同調者がこれほどたくさんいたのかと思ってぞっとした人は私だけではあるまい。それをまるで立派な人の死を悼む様子を伝えるがごとくに何の批判も交えずに放送する。

 金日成が憲法第九条の精神からしても決して容認できない人間の一人であることは間違いない。彼が他国の元首であったとしても、朝鮮戦争で韓国人に対して侵した犯罪の大きさは何ら変わることがない。

 それにもかかわらず、自分の祖国の祖先を犯罪者扱いしてやまない日本国民が、他国の明白な犯罪者に対してこれほど寛容であるのはまことに奇異なことであると言わなければならない。(1994年7月17日)









 自衛隊の合憲、日米安保条約の堅持を言い出した以上、国民にとって社会党の存在意義はなくなってしまった。

 自衛隊が合憲ならば、憲法九条の解釈改憲を認めたことになる。安保イコール軍事同盟を認めることは、軍事力による平和の維持を認めたことになる。 護憲社会党はなくなってしまったのである。他の政党とどこに差があるのか、あるとすれば、統治能力の低さという悪い意味での違いでしかない。









 最近の朝日新聞の論調に危険なものを感じているのは何も小沢氏一人のことではない。長年朝日を講読してきたが、政治に関する最近の論調はあまりにヒステリックであり、また言葉遊びが過ぎると思われるものが多い。

 特に社会党が政権離脱をした翌日の4月27日の社説はひどかった。それは「改新」結成に対する嫌悪感をあらわにしたものだったが、「クーデター」や「だまし討ち」などと物騒な言葉が飛び交い、一種異様な雰囲気さえ漂った。

 その後タイム誌の東京特派員がこれを小沢氏に向けた「ビーンボール」と呼んだが、この社説の異様さに気付いた読者は私だけはなかったようだ。

 また石川真澄氏の一連の記事には違和感を覚えざるをえない。その典型は5月10日の「『改革』の底流に古い歴史観」と題したコラムである。小沢氏の『日 本改造計画』の真意が永野発言に現れているかのように論じ、この本には「侵略」に対する反省の言葉がないなど事実に反する嘘も混じえて、小沢氏があたかも 軍国主義の復活をねらっているかのごとくに書き立てている。

 このような際どい論調に終始する新聞に対して、小沢氏ならずとも危険なものを感じるのは当然だ。

 別の署名記事では永野前法相を「愚者」ときめつけたり、羽田氏を「うそつき」と言ったり乱暴な言葉遣いを繰り返している。いずれも、名誉棄損で訴えられたら勝てないものばかりで、挑発目的の確信犯であるとの印象すら受ける。

 このようななりふり構わぬ小沢批判にはなんら説得力がないことを知るべきだろう。これらは一部の党派性に染まった人たちには受け入れられても、公平な論調を好む一般読者の心情とは掛け離れたものだ。(1994年)









 自社連合政権の成立を正当化しようとして、冷戦構造の終結を持ち出す人がいる。しかしこの意見はどこかおかしい。投票する国民が視野に入っていないからである。
 自社の支持母体は全然違う。その原因はなにも冷戦構造のせいではない。会社があって使う人と使われる人がいる。その違いからこの支持母体の違いが生まれた。冷戦構造の終結はこの違いに何の変化も与えていないのである。

 そもそも,日本国内の政権交代と自民党の議席の後退は冷戦構造の終結がもたらしたものでは決してない。その原因はひとえにこの政党の腐敗と堕落 だったのである。また,ベルリンの壁が壊れても労働組合も消費者団体も自民党を支持し始めることはなかった。日本国内の対立構造が何も変わっていないから である。

 まして,ただ政党と政党が勝手にくっついたからといって,この現状は変わりようがない。国内のこの現状に関係なく自社が連立したことを冷戦構造の終結と結び付けようしても,それが単なる詭弁でしかないのは明白である。

 この政権を正当化するものがあるとすればそれは選挙でしかない。そして今明らかなことは,この政権は国民が選挙で選んだ政権ではないということだけである。 









 自衛隊を合憲とした社会党はもはや護憲政党ではない。憲法九条の解釈改憲を追認したからである。これではずるい自民党と同じだ。憲法九条には軍備を持た ないと明記してあり,国際紛争は軍事力によって解決しないと明記してある。しかるに軍隊である自衛隊を憲法に違反しないと言いくるめる。

 確かにそれは現実を生きるための大人の知恵であろう。しかしそこには平和に対する理想はない。日本国憲法が非武装中立を理想として提示していると 信じて,それを党の基本政策としてきた政党であったがゆえに社会党は,理想を失わない多くの人の支持を得てきたのではなかったか。

 他の政党がなし崩し的に解釈改憲を進め,現実的という美名のもとに,大人のずるい姿を見せたきたのにかかわらず,社会党はその大人のずるさを知らぬ純粋な心で日本を眺め続ける政党として,将来の日本の理想の姿を追求し続ける政党として存在してきたのではなかったか。

 その社会党がずるい大人の仲間入りをしてしまった。今後,護憲政党などと名乗るのは止めてもらいたい。









 社会党は政権を離脱してこんどは自民党と手を組むのだそうな。テレビで自社の国対委員長が握手しているのを見たが、びっくり仰天した。そもそも、自民党 は経営者、資本家の政党であり、社会党は労働者の政党のはずだ。その両者が手を組むとはどういうことか。経済連と連合が連携するということなのか。こんな 無茶苦茶な話があるだろうか。

 労働組合はいったい何のためにあるのか。経営者と対抗するためではなかったのか。いや、労働組合はどこでも御用組合で経営者とは仲良くやってきた から、社会党と自民党が手を組んでも何も不思議はないということなのか。いつから、社会党は自民党の御用政党になり下がったのか。

 いったい社会党の主義主張はどこへ行ったのか。たとえそれが打倒小沢を目指すものであっても、経営者の党と組むなど、いつも社会党が批判している党利党略以外の何物でもないではないか。
 
 それに、そもそも自民党は改憲政党ではないか。護憲リベラル勢力と連携していくなどときれいごとを言っているようだが、自民党とは部分的に連携するとでもいうのだろうか。

 渡辺前外相とは組めないと言って氏を拒否したのはついこの前のことだ。その渡辺氏のいる自民党とどうして組めるのか。これはまさに国民に対する裏切りでなくてなんだろう。国民を馬鹿にするのもいいかげんにしろと言いたい。








 社会党が、現在の自民党とそのまま連立政権を作ることなど不可能だ。であるからには、まず護憲リベラル勢力が自民党を割って出てこなければいけない。

 しかし、仮にそんなことがあったとして、国会で過半数を取れるのだろうか。それとも、単に野党として連携したいだけなのだろうか。しかしそれでは、政権はいらないということになる。

 では、護憲リベラルの自民党員と一緒になって、いったい何をしようというのか。どんな政策を実現させようとするのか。社会党の公約である消費税の引き上げの阻止だろうか。(それで、減税だけして、どんどん赤字発行し続けるつもりなのだろうか。)

 だが、自民党と新生党てはたいした政策の違いはない。結局は、自民党と一緒に政権をとったところで、同じように政策で譲歩を迫られ、あげくに飛び出すという同じ轍を踏むだけなのではないのか。

 それに、そもそも社会党が自民党と連携して実現できるような政策があるのだろうか。憲法を守るなどというのが政策となるのでろうか。

 そもそも、あっちがだめだから、こっちに行く、そんな政党を誰が真剣なパートナートとして信用するだろうか。結局自民党に利用されるだけに終わるだろう。










 自民党からの政権交代を望んでいた国民にとっては、社会党はこのためにこそあったのである。実は新生党もまたそうなのである。ところが、もし社会党が自民党に政権を戻す役割を演じてしまうことになると、もはや社会党の存在意義はなくなってしまう。

 国民は元々社会党には現実的な政策など求めていなかった。それは自民党が充分やっていたことで、その行き過ぎを抑える意味のみで社会党は支持された。反自民であれば、実はどの党でもよかった。

 現実に不満のある人間は、アンチ巨人になるように反自民になり、社会党を、また共産党をさえ支持した。そして、非自民の政権はどの党によるものでもよかった。

 だから、自民党がそのまま引っ越してきたような小沢新生党が中心でも、細川政権は高い支持を得た。そしてその構成員として社会党は価値があった。

 そして、まだまだ非自民政権が続いてほしいという人は多い。そんな中で、社会党がこの非自民政権を壊しにでた。国民は早晩、この行為の結果が自民 党政権の復活につながることに気が付くだろう。その時、社会党の今回の政権離脱がなおも支持され続けるかはおおいに疑問である。










 護憲リベラルとは結局は現状維持派といってよいのではなか。もっと言えば完璧な保守、いや守旧派である。消費税を上げない、自衛隊を海外派兵しない等 々、なにかをしないことを主張する勢力である。そのような勢力は結局は受け身であって、なにかしたいことを主張する勢力にはどうしてもかなわない。

 護憲リベラルとは反対第一主義とも言える。行動力のある勢力に対する、行動力のない勢力では勝ち負けは始めから分かっている。

 私は選挙権を得て以来ずっと一貫して社会党に投票してきた。しかし、連立政権参加以来、社会党が見せた一連の情ない有り様にはほとほと愛想が尽きた思いだ。連立政権の中でせっかく第一党になっておりながら首班候補を出す意欲もなければ、重要な閣僚ポストも担えない。

 社会党の固有の政策が何か一つでも法案化されたというようなことは全く聞いたことがない。やっているのは、ただ与党内野党のようなことばかり。政権を支えることすら満足にできずに、あげくの果ては内輪もめからの政権離脱だ。

 多くの国民は社会党の政権離脱を支持しているらしいが、それを社会党に期待してのことでは全くない。野党しかできない党が野党になるのは当然だと言っているだけなのだ。

 それなのに、自民党と手を組んで政府を衆議院解散に追い込んで、中選挙区制で選挙すれば議席が増えるとでも思っているのだろうか。

 国民はそれほどお人好しではない。能力のないものは去れ。社会党は解散して一からやり直すことだ。わたしは今のままの社会党に二度と投票するつもりはない。









 社会党は野党になって自民党と必要に応じで連携していくそうだ。それなら、ひとつ提案がある。政府の鼻を明かすような立派な法案を自社両党が共同提出して可決にまでもっていったらどうだろう。

 社会党と自民党が組めば圧倒的な過半数を占める今日、両党が力を合わせれば法案の一つや二つ通すことは難しくないはずだ。

 例えば、政治改革法案が可決する前に自社の議員で共同提案した腐敗防止法を再び提案するのも悪くない。また消費税の改革法案でもいいではないか。自社両党の善意に基づいた法律作りならば、国民はきっと歓迎するに違いない。

 そうして、野党になってもこれだけできますよと国民にアピールすれば、社会党の政権復帰も遠いことではなくなるはずだ。

 しかし、社会党が再び野党になってやることが自民党と共同でする倒閣運動でしかないとしたら、国民は失望するのではないだろうか。われわれが今求めているのは、そのような陰険な権力闘争ではない。

 今こそ、社会党が単なる反対野党から脱却したことを国民にアピールする好機である。 この期を捕らえて、国民のためになる善意に満ちた政策を実現するために積極的に行動してもらいたい。(1994年)










 社会党はもはや後戻りの出来ない道を歩み出した。自民党が嫌になってももうどこにも行く所がなくなってしまった。社会党は自民党との連立を解消したくなっても、もはや旧与党側に鞍替えすることはできない。

 政策の不一致が理由で自民党側につきながら、政権に就くやいなや固有の政策を次々に捨てていき、政策の不一致が実は自民党側につくための口実でしかなかったことが明らかになってきたからである。

 自民党は社会党の党首を首相にしてもらったお返しに次は自民党の総裁を首相にするように要求してくるだろう。その時、社会党は分裂せざるを得ない事態に立ち到るに違いない。

 もし選挙で自民党が単独で過半数を獲得した場合、社会党は用済みのおはらい箱になりたくなければ、自民党に小判鮫のようにくっついていくしかない だろう。しかしそんな社会党にどんな存在意義があるというのだろう。旧与党に戻るにしても新生党や公明党が左派社会党を切ることを要求するだろう。

 こうして、自民党の総裁を次期首相にすることを求められた時に社会党の終わりの時が来る。社会党はその時冷戦時代のあだ花としてのむなしい生命を終えることだろうう。(1994年)










 社会党はかくもあっさり政権の座を捨ててしまったが、社会党にとって政権の座というのはこんなに軽いものだったのか。政治家にとって政権をめざしてそれを獲得することが夢なのではないのか。それは何に替えても手に入れたいものではないのか。

 政党は自己の政策を実現するためには政権をめざすのではないのか。それとも、野党にいるほうが気楽だとでもいうのだろうか。そんな政党があるだろうか。

 いや、まさに社会党はそんな政党なのだ。答えは出たと思う。自民党の分裂で政権はころがりこんで来たが、社会党は実際に実現できるような政策は一つも持っていなかった。前政権の政策を継承するのでは、何もできない。いや、そもそも実現可能な政策などもっていなかった。

 野党として政府の政策に反対するための政策は持っていても、命懸けで実現したいような政策などもっていなかった。社会党にとっては、政権は何よりも大事なものではなかった。

 それにしても、かくも簡単に政権を投げ出してしまうこのような政党があるだろうか。いったこれが政党なのか。これでは政党の名に値しないのではないか。反対するだけの野党がまだ必要とされているとでも思っているのだろうか。










 社会党が政権離脱を一晩で決めてしまったことは、あまりにも早計であったと思う。

 一部の冷静な社会党員も言っていることであるが、このような面子にこだわった決定は一時的な感情を満足させるにはよいかもしれないが、将来の社会党や国政の安定を考えた場合、もっと慎重になすべきだった。

 将来、解散総選挙になったときに、現行選挙制度のもとで行われた場合、過半数を取れる政党はないだろう。その時、社会党はどうするのだろうか。

 もし自民党と連立するようなことになれば、それこそ国民に対する背信行為となろう。しかし、どことも連立しないとなれば、少数与党政権が続き、国政の不安定な状態を放置することになる。

 また、新しい並立制のもとでの選挙になった場合には、自民党が勝利することは、この前の石川県知事選挙での際どい連立政権側の勝利から見て容易に想像できることである。それでは、自民党政権の復活に社会党は手を貸したことになってしまう。

 さらに、小選挙区制の選挙では、連立政権を離れた社会党は議席を伸ばすどころか半減してしまう恐れが大きい。

 政権離脱などという国を行き先と党の将来を左右するような決定を一晩で感情にまかせてしてしまったことに、大きな危惧を感じざるをえない。(1994年4月26日)










 自民党対社会党の対立構造は、連立政権になってからも形を変えて続いている。新生党対社会党の対立がそれである。新生党の党員は自民党出身者によって構 成されている。その党と一緒になって政権を獲得した社会党のとっている政治的な姿勢は、あいかわらずの反対反対である。政権に入っているからこそ、今では 反対を貫くことはできにくくなっている。しかし、時に連立離脱という切り札を使って反対を貫くこともある。

 また、マスコミの政治に対する見方も、自民党対社会党の対立構造が形を変えた新生党対社会党という対立構造を通じたものである。

 社会党はまるで、与党内野党ともいうべき立場にある。社会党は単に与党の中にかつての野党としてのやり方をそのまま持ち込んだにすぎない。

 しかし、本来あるべき姿は、与党対野党の対立であろう。しかしながら、マスコミは、いまだに社会党的立場で政府を批判している。本来ならば、自民党や共産党などの野党的な立場でなされるべきものであろう。なぜ社会党の立場に立たなければならないのか。

 社会党が善であり新生党が悪であるかのごときその批判の正当性がどこにあるのだろう。それは単に前時代の習慣にすぎないのではないか。まだ新しい ものの考え方が生まれていず、現状をどう解釈してよいか分からないため、かつての枠組みでしか理解をすることができないのではないか。

 しかし、すでに社会党のものの考え方の基礎である社会主義は、その実行性が実際には否定されてしまってる。世界の社会主義国はすべて資本主義に変換し、社会主義や共産主義の体制をかつて持った国は、すべて悲惨な結末を引き起こしているのである。

 すでに、社会主義は民主主義とイコールではないことが明らかになっている。マルクスの思想は実行すれば、人に幸福ではなく不幸をもたらすことが明白になっている。にもかかわらず、社会党の立場に立った批判が、政府に対してなされるのはなぜか。

 社会主義というものを別にして、社会党は実際にこの国にどんな貢献をしてきたのかを知るべきである。彼らの反対は結局間違いであることがわかったものばかりではないのである。









 日本には本当の民主主義なんていうものは本当はないんだということが最近分かってきた。日本で民主主義と呼ばれているものは実は、「和をもって尊しとせよ」の精神なのである。調和を第一に考えることが人々にとって最も重要なことである。

 国民主権というのも、国民みんなが仲良く、みんなが満足して暮らしていくべきだという意味なのだ。憲法はアメリカ人が西洋流の民主主義の理念で書いたもので、そのまま日本には当てはめることができないから、必要な場合に必要なだけ拾い出して使うのがこの国の習慣である。

 言論の自由も、大抵は右翼のテロに対して言われるだけで、大勢に反した言論によって職を失う人が出ても、言論の自由を守れという議論はけっして起こらない。

 もともと現行の憲法は、当時のアメリカ政府につごうよく書かれたものであって、例えば大臣は文民に限るとする条項などはその最たるものだ。アメリカでは 軍人が大統領になることができる。アイゼンハワーはれっきとした将軍だった。マッカーサーが大統領選挙に出る意志があったことはよく知られている。

 文民統制の条項は、軍国主義の復活を恐れたアメリカ人が作ったものに過ぎない。軍国主義の復活などありえない現代では無用の条項だ。それは、憲法第9条の軍事力不保持の条項が設けられたのと同じ理由である。

 しかし、軍人=悪人とするような現代の条項は、軍人の人権をそこなうものであろう。なぜなら人権には例外はないからである。(1994年5月)









 政府を動かすのに外国の力を借りなければならないのは、選挙で政府を選べなかったからではないだろうjか。それとも衆議院の解散まで待てないのだろうか。

 主権というものは、国民のものであって、外圧でものが決まるのは国民一人一人の主権が侵されていることになるのだが、それが分からないようだ。まったく権利意識のない国民である。

 憲法というのもは、理想を掲げるものではあるが、自分で思いついた理想であるべきではないのか。しかも日本国憲法は、日本を民主主義国家に変えて、米軍 をてこずらせた軍国主義の復活を防止するという目的で作られたものであって、日本人が自分の理想を形にしたものではない。(1994年5月)








 永野前法相に関して文民でないとの批判があるが、いかがなものかと思う。

 文民条項によって、かつての軍人や自衛隊員が、閣僚になれないとする意見を持つ人たちは、憲法第14条の法の下の平等の条項を思い出すべきだろう。もし、一度自衛隊に入隊したものは政治家になれても大臣になれないとなれば、自衛隊員に対する政治的差別になるだろう。

 もちろん、自衛隊員は存在してはならないとする意見があることは承知している。しかし理想は何であれ、現に存在する人たちの人権に対する配慮は公平になされるべきであろう。

 またもと日本軍の軍人が大臣になれないとするのも、同じ意味で同意しかねる。

 シビリアンコントロールの本旨は軍事独裁を防ぐことである。であれば、退役軍人は排除されないと考えるのが自然ではないか。これは、アメリカの大統領が退役軍人を排除していないことからも分る。アイゼンハワー大統領はれっきとした軍人であった。

 有為な人材を過去の経歴で排除するのは、国益に反することでもあろう。文民とは現役軍人でない人をさすと考えるのが適当であろう。(1994年5月)









 今回の法相の更迭は、二つの意味で非常に残念な結末を迎えた。

 その第一は、南京虐殺についての少数意見が多数の反対意見を前に撤回させられたということである。民主主義にとって少数意見の尊重の大切さはよく言われることだが、実際に不快な少数意見に出会うと、途端にこの主張は忘れられてしまった。

 外国の感情を害したことには大いに謝罪すべきだろうが、事実についての論議が起こることなく終わった点に悔いが残る。南京大虐殺について知らない若者は多いはずである。

 その第二は、外国の意見によってわが国の大臣が更迭されたことである。このようなことは主権国家、独立国家にとってあってはならないことである。わが国 は中国や韓国の属国ではない。謝罪することと、大臣を更迭することとは同じではない。謝るべきは謝ればよい。しかし、大臣の更迭を求めるような態度を示さ れたら、独立国家として毅然として拒否しなければならない。

 いったい、外国の意見で大臣を変えて得られる友好とはなんなのか。このような要求に屈し続けても、結局得られるのは尊敬ではなく軽蔑だけであろう。私は以上二つの点で今回の事件の結末を残念に思う。(1994年5月7日)








 例えば本田勝一が中国で行った取材は、単に日本国内での朝日新聞社など戦争犯罪を追求する勢力の優位を獲得するための材料を集めるためであって、中国人に対する謝罪ではなかったといっていい。南京大虐殺についての取材はその典型的な例である。

 「歴史的現実は個人においては幾多の動機の乱立を、グループでは躊躇と不確かな手探りをはらんでいる」
 「関係する人々の動機が大変複雑であるために、宣伝文句の作成は最も粗雑な単純化をもってしかおこなわれない」
 「歴史を書くということの非常な困難さから、たいていの歴史家は伝説の手法を用いるという譲歩を余儀無くされる」

 南京攻略やその後の虐殺事件に関しても、さまざまな動機が錯綜していたに違いなく、侵略の一言で割り切ることは歴史的認識の浅さを示すものであ る。また謝罪の言葉が書かれていても、それは中国人に対するものではなく、日本国内の侵略を否定する勢力の口を封じることが目的である。

 「中国の人たちに謝罪すべきだ」と言うことによって、国内での自分たちの立場を強固にし、あらゆる事実に関する議論を無礼でけしらんものとして抑 圧してしまうのである。そうすることで平和主義を唱え、護憲を主張する勢力が拡大され、改憲派を押さえ込もうとしているのである。

 しかも護憲という主張すら、自派の勢力拡大のための手段でしかないと思われる。なぜなら、それによっては合理的な方向を指し示すことができないばかりか、現状を合理的に説明することすらできていない。

 彼らの言うことは、単に憲法9条が日本の平和と繁栄を支えてきたというのみであって、あたかも軍事力が無用であるかのような狂信的な議論を平気で繰り広げるのである。

 歴史とは本来倫理やレトリックとは無縁のものである。朝日の歴史認識は実はこの程度のものでしかなく、もしそれを知りながら、あえて倫理を歴史認識の前面に打ち出しているとすれば、それは歴史ではなく政治でしかない。

 政治的意図が彼らをして、「永野法相の歴史認識が疑わしい」と言わしめたのである。

 古代の歴史は、この倫理とレトリックのみであるといってよく、近代の歴史観からは掛け離れたものでしかなかった。(1994年5月)








 永野法相がかつて軍人であり自衛隊出身者であるから大臣になってはいけないというのは、自衛隊員に対する差別ではないだろうか。

 自衛隊に入隊することは、すなわち将来政治家になり、大臣になる権利を失うものとすれば問題ではないか。このような条項は改正によって廃止される べきではないだろうか。どの職業についたものが、どの職業につくことができないとするのは、中世、封建時代の出来事でなかったか。

 つまり、軍人の経歴を持つものは大臣になれないとすると、以上のような不合理が出てくる。憲法66条第2項の文民条項は、現役の軍人が大臣になれないことを言っていると取らなければおかしなことになる。文民統制の意味を履き違えてはいけない。

 現行憲法では、軍人の存在はありえないから、過去の軍人を指すという説があるが、日本だけシビリアンコントロールの意味が歪められて解釈されているのも、軍国主義の亡霊にいまだに悩まされ続けているからであろうか。

 これが米国では、現役軍人を指すことは、パウレル参謀総長が、退職後に大統領選挙出馬を考えていることからも、明らかである。(1994年5月)










 永野法務大臣が「南京虐殺はでっちあげだ」と発言した問題で、辞任を求める声が出ているが、今回は言論の自由は問題にならないらしい。人がその発言によって職を失うことは、言論の自由に反しているのではなかったか。

 かつて長崎市長が、天皇の戦争責任発言で右翼に狙撃されたときには、言論の自由を侵すものとして大きな問題になったものだ。しかし、自衛隊員が雑誌に発表した論文の内容が問題となって解雇された事件では、言論の自由はまったく顧慮されなかった。

 これらの例や今回の事件から見ると、言論の自由を尊重すべきなのは、その発言が多くの人の支持を得ることができる場合だけであることがわかる。

 しかし、そんな言論の自由をわざわざ憲法は保障しているのであろうか。多くの人の憤激を買い、「けしからん」と大騒ぎになるような言論こそ、力で封じてはいけないということではなかったのか。

 戦時中に、戦争反対演説をした国会議員がやめさせられた。そんなことが二度とあってはならないということではないのか。大勢に逆らえば首になるのでは戦時中と同じだ。

 永野法相はその言論の内容によっては辞職する必要はない。辞職するならばそれは唯一、政府の方針に反した言動をとり、内閣の一致を乱したという理由でなければならない。(1994年5月)









 いまだ政治的な何の能力もない、ただひたすらに理想に燃えた他党の若手政治家なんてものは、小沢氏にとって、政権を作るための単なる数合わせの道具でしかないことを理解しなければならない。

 君たちにいったい政治的にどんな力があるのか。自分の理想を実現するどんな力があるのか。どんな経験があるというのか。どうせ数合わせの道具でしかないのだから、どうせのことなら自分の党の議員である方が何かにつけ好都合だ。

 数という価値以外に何も提供するものを持っていない若造に、どうして選挙区の一つを任せることができるだろう。一つ選挙区か欲しかったら替わりに何か出せと言うのは当然だ。それが単なる統一会派加入だけでよいとはなんと気前のいいことだろう。

 野党として選挙に受かっただけの若手政治家が与党の一員として役に立つ政治家であることの証明を求められているといってもよい。小沢氏と組んで与党統一候補になりたくないなら、それでも政治家として生き延びたかったら五十嵐氏のように離党するしかないのが現実なのだ。

 新生党の支持率は下がっていないのに、日本新党の支持率が下がっているのは、中途半端な議員が多いからである。










 「連立政権の継続は時代の要請である」。社会党の久保書記長のこの言葉は、けだし名言ではあるまいか。

 社会党が与党でいること。これは現代の歴史的な要請なのだ。なぜなら、今こそ、社会民主主義的な政策が求められている時代だからである。

 金儲け一点張りの時代はもう終わったのだ。生活者の時代、福祉の時代、環境の時代が来たのである。これらは、どれも、まさに社会党が訴えてきたものなのだ。

 経済界=自民党の出番はもう終わったのである。 このような政策を実行に移すためには、確かに社民リベラル勢力が結集されることが望ましい。しか し、自民党が国会解散を言っている以上党の分裂が起こる可能性はなく、自民党のリベラル勢力が新党を結成して社会党と手を組める状況には今はないのだ。

 いや、それどころか、このままの状況を続ければ、社会党は単に自民党に利用されるだけに終わってしまい、もう用済の自民党がそのまま政権に復帰してしまう可能性すら出てくる。これでは元の木阿弥である。それに河野首相ではあまりに頼りない。

 連立政権は社会党が参加していてこそ、真の意味での連立政権である。私は歴史認識において的を射た久保書記長の言葉に大賛成である。










 かつて日本には反対野党という与党の言うことなら何でも反対する野党がいた。今の日本には、それに代わって反対与党なるものが誕生した。

 自社連立政権がそれである。彼らの政策は旧与党の政策の逆であるに過ぎない。彼らには本来のビジョンがない。そのため、人の反対を唱えるしか方法がない。安全保障理事国になるのも反対、消費税を値上げするのも反対、なんでも反対反対である。

 反対というからにはその元になる政策がある。実際それは人の政策で、その反対の政策というだけの政策には実行性がない。現実性がない。

 赤字国債の発行を言い出したのがそのよい例だ。赤字国債がインフレを招くことは中学生でも知っている。赤字国債が国の財政をどんな状態にしてしまうかは明らかである。

 野党ならば、しかしそんなことを言っていても別段支障はなかった。消費税の反対も野党だから言えたことで、いざ政権に就いてみると消費税を廃止することなど不可能であることはよくわかっているはずだ。

 将来を何も見越さない政策は野党だけに許される。高齢化社会が来てから、消費税をアップしましょうと言い出したところでもう間に合わない。実質増 税になるのはやむを得ないことは多くの国民が知っている。しかしそれにも係わらず、老齢化社会のビジョンができるまでは消費税をあげてはならぬとのたま う。

 ビジョンができたが、いざできてみても財源がないということでよいのか。それからでも間に合うという保証があるのか。実に現政権の無責任ぶりはここに極まれりである。野合政権であるとともに、野党政権と言う言葉がぴったりくる政府である。









 世論調査を偏重すべき時代は終わった。自民党の一党支配の続いた時代では、選挙で野党が政権につくことが不可能であったため、政府は世論調査の結果を重視すべきだった。首相が失政をおかしても、決して選挙によってその地位を失うことはなかった。

 選挙の勝敗は常に相対的なもので、過半数を割ることはほとんどなく、仮に割ったところで、政権を担える政党は他になかったのであるから、議席の増減を勝ち負けの基準として、党の総裁として責任が問われただけであった。

 そのような時代では、国民の意志は選挙によっては明らかにならず、(中選挙区制における選挙は自民党の派閥間の議席争いでしかなく、また議員個人の人気投票に過ぎなかった)、必然的に世論調査の結果を重視しなければならなかった。

 首相の支持率の低いものは、まさにそれによって辞職に追い込まれるしかなかった。世論調査こそは、選挙の役割を替わりに果たしていたのである。

 しかし、政権交代の可能な野党と選挙制度が存在する現在では(1994年4月)、世論調査はその本来の役割分担に甘んじ、あくまで世論の表れとして止ま るべきである。少なくとも世論調査の数字の多寡で首相が辞任に追い込まれるということは、もはやあってはならない。それはあくまで選挙制度がうまく機能し ない場合の、緊急避難的な利用にとどめるべきものだ。









 世論調査と選挙との一番大きな違いは、世論調査がごく一部の人間の意見を聞くだけであるのに対して、選挙は全員の意見を聞くということてあろう。

 本来、世論にあまりに重きを置く政治は衆愚政治になる恐れがある。プラトンはかつて世論の動向に合わせた政治を劇場政治と呼んだ。そこでは「一切が聴衆 の拍手喝采によって決定された」。それはデマゴーグの煽動演説によって国策を決定することである。デマゴーグとは国政のいかなる官職のにつかずに一国の言 論を支配し国策を左右するもののことである。

 現在のマスコミはまさに、このデマゴーグになる可能性を大いにもっている。新聞の投書欄を見ると、いかに国民が新聞社の言論に左右されているかがよくわ かる。それらはほとんど新聞の論調の丸写しか、新聞の論調が国民の中にかき立てようと目指した感情の吐露にほかならない。

 首相の疑惑追求や権力の二重構造論など、それらの是非の判断を投書は全て新聞に委ねている。

 現在のようにマスコミがさんざん政府に対する批判的な報道を繰り返してから世論を調査すれば、支持率が下がるのは当然のことだからである。わざわざ支持 率を下げるための報道をしておいてから調査をして、今度はその数字を根拠に政府批判が正しいと主張するとしたら、まったく本末転倒であろう。










 海外の裁判の陪審制では、外部の過激な報道からいっさいシャットアウトされた環境に陪審員を置くことに非常な注意が払われている。そうでなければ、公正な判断は期待できないからだ。

 現状のような世論調査は、あらかじめ報道によって偏見をたたきこまれた後のものであることが多いため、その信憑性は疑わしいといわざるを得ない。

 しかも、同じものに関する調査であるにも関わらず調査機関によって数字が10ポイントも食い違いを示す場合が多いことも、世論調査の信憑性を下げていると言っていい。 

 マスコミ各社がいっせいに世論調査をして政府の支持率をはじき出した。世論調査は民主主義を維持するために重要なものであることはわかる。しかし、それなら調査をする前に、できる限り多様な意見を公平な形で報道してもらいたい。

 国民はそのどれを採るべきかを自ら判断して調査結果に反映させることができる。また、そうである場合にのみ、その調査結果を正しいものと言える。

 しかし、今回の調査は、政府や与党の主要人物に対して猛烈な批判報道がなされ、政権を離脱した政党が正しいとする意見ばかりが大声で喧伝されて、それに反対する意見が殆ど聞こえてこない状況下で行われた。これでは、政府の支持率が低く出るのは当然のことであろう。

 しきりに批判報道をしておいて、その直後に世論調査をするのはフェアなやり方ではない。このような調査に表れている数字は報道機関の主張がどれほど国民 に浸透したかを示すものでしかない。そして、その数字を今度は報道で政府を批判するために使うのである。何かおかしいと言わざるを得ない。

、 (とくに小沢一郎氏の政治手法について批判があいついだ。しかし、「政治手法」という言葉じたい何ら明確な意義づけのない、間に合わせの言葉でしかない)









 比例代表制だけの選挙制度を採用すべきだという人たちは、しばしば二大政党制ではなく、多数の政党が競いあう姿こそは民主的だと主張するが、その実は既存の反対野党の存在を温存しようとしているのではないかと疑われる。

 比例代表制は、政党支持率が正確に議席配分に反映する点を長所としており、実際またそうなるようであるが、政党支持率自体大きく変動するものではないため、議席配分も固定されてしまい、とうてい政権交代は望めない。

 それは、中選挙区制と非常によく似た結果をまねく。かつて比例代表制をとっていたイタリアと中選挙区制をとっている日本が、同じように政権が特定の集団に固定され、政治腐敗が横行したことはよく知られていることである。

 英国の世論調査では、保守党の政党支持率が非常に低く、今選挙をすれば保守党政権は倒れるだろうと言われながらも、実際に選挙をすると保守党が勝利して保守政権が続いている。これは小選挙区制が有効に機能していない証拠であるかのように言われることがある。

 しかし、世論調査と選挙では国民の真剣度が違うのではないかという疑問がある。保守党はいやで労働党政権を選ぼうとすると、過去の労働党政権の失政の記憶がよみがえり、結局政権担当能力のある保守党に投票するということが繰り返されているのではないか。

 労働党の政策に国民の生活を委ねられないという意見が多いということだろう。政権担当能力のある政党が一つしかない場合には小選挙区制は適当ではないのかもしれない。

 逆に言うと、政権担当能力のない単なる反対野党はその存在意義を失った。いやそれどころか、新しい選挙制度はそのような政党の存在意義を否定している。









 「民主的」という言葉は、新明解国語辞典には、「どんな事でも一人ひとりの意見を平等に尊重しながら、みんなで相談して決め、だれでも納得のいくようにする様子。←→独裁的」と解釈されている。

 実はこれは全会一致主義であって民主主義にのっとったという意味ではない。この解釈は話し合いによって全員の意見が一致するということを暗黙の前提としている。そして、全会一致でなければ民主的でないという考え方である。

 これは実にファシズム、全体主義、大政翼賛政治に近い。全会一致を得ることが尊重されるため、突飛な意見は嫌われ、また意見の違いを調整して玉虫色の結論を得ることが好まれる。

 全会一致で得られる結論は、得てして感情的なものが多く、それがファシズムに道を開く結果につながる。

 また、全会一致が得られない場合は、結論を出さず、何もしないことになるか、多数を占めた意見が採用されるが、それに不満の少数派は採決をボイ コットしたり暴力で妨害したり、揚げ句の果ては全体のグループから脱退・離脱・分離・分裂してしまって、多数の意見に従わないという事態にまで進む。そし て、少数派は多数派を非民主的であると非難するのである。

 真に民主的であるとは、全員の自由な討論の後、多数の意見を採用することである。意見の調整がなされてもそれは多数の同調を得るためであって、全員の意見を一致させるためではない。

 また、少数意見をもつ者は採決の結果に従わなければならない。しかし、日本では多数の支持を得た方が勝ち、敗者はそれに従わなければならないという前提がないため、議論に説得力を持たせようという努力は全くなされない。

 ただもう一方的に自分の主張をするだけで、人がどう思おうとかまわないという討論の繰り返しとなる。議論の場は説得の場ではなく、形式的なものになり、裏取引きが実際の交渉の場とならざるをえないのである。

 このあたりは古代ギリシャ・ローマの影響のもとに文化を形成してこなかった日本文化の弱点と言っていい。









1、「民主的な政治手法」という言葉がよく使われているが、現在よく使われているのは、単なる比喩的な意味で使われており、真の意味での民主的な政治手法を意味していないこと。

2、にもかかわらず、この比喩的な意味での「民主的な政治手法」が民主主義にとって大切であるという主張がなされいること。

3、民主主義とは、国民に政策の決定権があり、その決定は話し合いによって形成された過半数の国民の意志を全体の意志としてなされ、反対者もそれに従うということであること。

4、過半数の意志に従いたくないために、少数意見を持つものが、実力に訴えて、過半数の意志を覆そうとすることは非民主的であり、少数意見の尊重は意志を 決定する過程で行われるべきことであるということ。従って、過半数の意志が決定される過程を、議論によらずに実力で妨害することは非民主的であるというこ と。また、投票行為自体を実力で妨害することも非民主的であるということ。議論によって反対するのではなく、議論をすることを妨害したり、議論することを 拒否したりすることは非民主的であるということ。

5、しかし、いくら話し合いをしても全員の合意が得られないから採決をとったとしても、決して非民主的ではないということ。さらに、採決をすることに全員が賛成しなかったのに採決したとしても、それは非民主的であるとは言えないこと。

6、さらに、仮に結論を急いで、充分な話し合いを経ずに採決をとったとしても、それは非民主的とまではいえないこと。これらの強引なやり方を仮に非民主的であるといったとしても、それは比喩的な意味においてそうであるとしか言えないこと。

7、充分な話し合いなしに、強引にものごとを決定してしまうことを非民主的であるというのは、比喩的な意味でそうであるということ。

8、確かに、全員の人の意見をよく聞いてから採決によって決定することは、民主主義の基本の一つであるということ。反対者は議論や弁論によって反対すべき であること。その弁論が長くて議事の進行を遅らすというのが、民主的に許容できる限度であり、弁論以外の方法で議事を遅らすのは、明確に非民主的であると いうこと。

9、しかし、ペルシャのダリウス大王は部下の意見をよく聞いてからギリシャ遠征を決定したり、他民族を大切にしたり国民の意見をよく聞いたが、これを指し てダリウス大王は国民を大切にした民主的な君主だとは言えないから、民主的なという形容は、民主主義の国の政治家にしか当てはまらないということ。






 マスコミに「政治手法」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、いつごろからのことだうか。一つ確かなことは、この言葉がきまって小沢一郎氏につ いて使われることだろう。そして、今や「民主的な政治手法」こそは、何をおいても民主主義にとって一番大切な事柄であるかのように言われている。しかし、 例えばこの「政治手法」という言葉一つをとっても、それを厳密に定義する議論を聞いたことがない。

 例えば、会社の上司に対して、民主的でないとか、封建的であるとか、強圧的であるとか、ものごとの決め方話しの進め方を比喩的に批判することがある。これは多くの人の合意や根回しなしに、民主的な手続きを経ずに、独断先行で話を進めてしまう人についてよく言われる。

 まさに、この上司の政治手法が問われているのである。この場合の政治というのが比喩的であることは、はっきりしている。しかし、最近小沢氏に関して言われている「政治手法」の場合、これが比喩表現であるのか、真の意味での政治の方法を指しているか非常に曖昧である。

 それなのに「民主主義にとっては、政治手法が大切である」と言われては、にわかに信じることはできない。

 さらに、ここにもうひとつ問題がある。小沢氏の「民主的でない政治手法」と言った場合、はたしてこれは真の意味での民主主義と関係のあることなのだろうか、という問題である。

 確かに、小沢氏の物事を決めていくやり方は、非常に強引なものであろう。また、国民の意見をよく聞いて、物事をきめることこそ民主主義である。

 しかし、氏のようなタイプの独断先行型の人物は、民主主義という言葉や概念が生まれる以前から、(民主的という言葉は使われなくても)、様々な言葉で批 判を受けたであろう。また、人の和を大切にしなければならないということであれば、聖徳太子の時代の昔から重要なことであった。

 多くの人に相談して合意を得た上で決定を下すべきであるのは、まさにどの時代でもそうである。しかし、これが厳密な意味で民主的であることを意味するかと言えば、それは疑わしいと言わざるを得ない。

  「民主的な政治手法でない」などというと如何にももっともらいし政治学の用語であるかのようである。しかし、これは、やり方が強引だということの単なる比喩的表現でしかないのである。

 やり方が強引だと言えば、人柄や付き合いの仕方対する批評であるとすぐ理解できる。偉そうにしているとか、傲慢だとかいう場合も同じく人物を批評しているのてある。そのような人物が政治をやってもうまくはいかない。それはは古今東西を通じて同様である。

 それは王制であろうと、独裁制であろうと、貴族制であろうと、うまくいかない。これらの言葉は制度としての民主主義とは関係のない批評の言葉なのである。結局、「民主的な政治手法」とか、「民主的な手続き」と言っても、それは単に比喩的な表現でしかない。









 また、プロセスを大切にする政治手法が云々されているが、これとて小沢氏を批判するために出てきた言葉であろう。そして、これは「俺たちに相談もなしに勝手に決めた」という反感を、もっともらしい言葉で正当化する場合に使われている。

 また、記者が小沢氏の政治手法を批判する場合、その裏には、小沢氏にぞんざいに扱われた記者の個人的反感が潜んでいる疑いが濃い。彼らは、まるで自分の上司が「民主的でない」ことに腹を立てたサリーマンのように、小沢氏を「民主的でない」と言っている疑いがある。

 そういえば、記者に当たりのやわらかい新党さきがけの武村氏に対する記事はおおむね好意的であるが、これは偶然だろうか。しかし、武村氏もまた「俺には相談がなかった」という怒りを「プロセスを大切にしよう」という言葉で表現した一人にすぎなかった。

 しかし、実際に行動に出た場合、例えば与党の政策協議に先立つ党首会談の呼掛けや、与党各党に相談もなく園田氏を代表者会議から引っ込めてしまったのは、いかにも唐突で強引であった。皮肉なことである。









 政治家に対する評言が、その人に対する好き嫌いを多分に反映しているのは、記者も人間であるから致し方のないことでろう。が、そればかりでは、単なる中傷記事と大差ないものとなってしまい、新聞の品位を保つことはできない。

 「それなら、小沢氏さえいなければ日本はよくなるのか」と問い返したくなるような小沢批判の大合唱は、それこそ民主的ではなく、まさにデマゴーグのやり方である。

 民主主義という言葉は至高のものとして、あらゆる場合に使われる。北朝鮮は正式には朝鮮民主主義共和国と呼ばれている! そして日本では、もっとも大切なものを蔑ろにする政治家として小沢氏を批判する際に使われている。

 しかし、もし、比喩的表現を意図的に混同して、あたかも制度として民主主義を破壊する危険人物であると受け取られる可能性を知りながらこの言葉をつかって批判し続けるならば、それは非常に危険なことだ。

 かつてアメリカで吹き荒れたマッカーシズムがそうであった。「コミュニスト」という言葉は、人物に対する比喩的表現を越えて、政治的に利用されたため、多くの人間が迫害を受けた。かれらはいつの間にか真の共産主義者にされてしまったのである。

 政治家が他の政治家をさして、民主的でない、民主主義の敵だなどと言っても、これが誇張した表現であることは、おおむね理解できよう。しかし、新聞が特 定の政治家をさして反民主的だというからには、単なるやり方の問題以上に、民主主義という制度の何に違反し、何を破壊しようとしているのか明確に論じなけ ればならない。

 なぜなら、新聞においては言葉は感情を表現する道具ではなく、理性の道具であるべきであるからだ。さもなければ、新聞はデマゴーグになってしまう。









 最近のニュースステーションはつまらない。昔は、弱い野党といっしょになって、強い与党の自民党をとっちめている様子が実に爽快だった。ところが、政府が変わった今でも同じ調子で政府批判をやっている。

 しかし、今度は、強い野党といっしょになって弱い連立政権の揚足とりをしているだけで、おまけに、首相の雛人形を出したり、時に厭味で悪趣味であったりする。

 番組をラジオ風に編成して映像を流さなかったり、在日韓国人の家族を呼んだりいろいろ工夫の跡は見えるが、小手先のものでしかない。いつだったか、久米キャスターが休んでいる間も、あまり物足りなさを感じなかったことをよく覚えている。

 プロ野球のニュースを全チーム公平に放送している以外、他のニュース番組とたいして変わらないものになってしまった。もっと斬新な考え方を導入するか、いっそやめてしまうほうがよいと思う。政権が変わって、もうその使命は終わったと思う。










 多数決は、政権交代が可能な国会では、決して横暴ではない。ところが、多数決を多数の暴力などとする議論が相変わらずなされている。しかし、これは55年体制においては有効な議論だったが、それが終わった今ではもはや意味がなくなっている。

 55年体制下の日本では、自民党という強い政党が一手に政権を担っており、他の党には政権獲得の可能性はまったくなかった。そのような状況では、 多数決の採決をただ繰り返すことは、一方的に一つの政党の政策ばかりが実施されることになり、その政策が失敗に終わっても、選挙によって政権が交代するこ とはないから、その失敗の責任をその政党がとることはなかった。

 採決をとりさえすれば、その政党の政策が法律化され、けっして否定される機会もなく、その責任をとる必要もない、となれば、多数決によって政治を 運営することは、いわば、独裁体制が敷かれているのと同じことになってしまう。(それを知ってか知らずか、とにかく自民党では総裁の任期が2年と定められ ていた。)そのため、55年体制下では、採決に到る過程がことのほか重視されねばならなかった。

 しかし、その55年体制が終わり、政権交代の可能な野党が存在し、しかも政権交代を可能とする選挙制度が生まれた現在の日本では、この多数決を多数の暴力とする議論は意味を持たなくなった。

 そもそも、多数決は反対者の存在を前提にしている。反対者がいるからこそ採決を取る。そして、反対者もその採決の結果を受け入れる。そして、その結果実 行された政策が失敗に終われば、反対者の意見の正しかったことが明らかになる。そこで、選挙によって政権交代が起こり、反対者が多数を制して政権の座につ く。

 もしこの過程の中で、少数の反対者が採決の結果を受け入れないとすればどうなるか。また、この反対者が不利な採決の結果を予想して採決に反対すればどう なるか。いやそもそも、採決にいたる審議をすら拒否すればどうなるか。かれらは政府の失政によって政権の座につく可能性があるにもかかわらず、こういう態 度をとった場合いったい国政はどうなるだろうか。

 それに対して、反対者を説得したり反対者に譲歩したりしてなるべく反対者のない状態にもっていくことこそ、民主的ではないのかとする意見があるだろう。 採決は後にしこりを残す。いたずらに対立を深めることは良いことではない。全員が賛成できる政策こそ最もよい政策ではないのか。全員が賛成して全員が一致 してその実行にあたれば、きっとよい成果が得られるに違いない。和をもって尊しとなす、である。

 採決によって物事を決めるのは、民主主義の大原則である。それをせずに、話し合いで一致点をあくまで捜し出して対立を無くそうとするのが日本的な考え方であるが、これは全体主義につながる危険性がある。









 多数決をすると一党の独裁であるという人がいる。ばかげたことである。野党がいない状況を一党独裁というのである。野党は採決では負けるのが当たり前であってそれは不正ではない。野党は次の選挙に備えて反対の主張の正しさを有権者に訴え、政府の失敗を待つほかないのだ。

 多数決をせずに全員が一致できるように話し合う必要はない。まったく政権担当能力のない野党しかいないという状況では、多数党しか実際には政党がないのと同じであって、ほとんど一党独裁状態と言えるだろう。そんな状況で、多数決を繰り返すことは民主的とはいえない。

 しかし、政権担当能力のある野党があって、政権交代が可能な状態にあるならば、それは一党独裁状態ではなく、多数による採決は何も問題がない。そ の採決の結果が、うまく運ぶかどうかに政府の責任がかかっているのであり、それが失敗すれば、野党が代わって政権の座につくのであるから、なんら独裁政治 にはならないのである。

 政権交代の可能な国会における多数決による採決はいくは行われても、決して多数による暴力でもなければ、独裁政治でもない。

 むしろ、審議拒否をすることこそ、暴力である。

 現在の国会ではどんどん多数決をやって、政治を実行してもらいたい。その結果を選挙によって国民が審判できる選挙制度ができたのであるから。(以上、ドイツの新聞社の記者の意見。NHKの「視点」より)

 審議拒否は一種のストライキ戦術である。ストライキは労働者の権利として認められている。しかし、国会議員は労働者ではないし、仮に労働者であったとしも彼らは公務員であってストライキ権はない。










 似たような事があるものです。私がS予備校の下総中山寮にいたころ、友達と同室の、あれは全国模試でいつもトップを争っていた、その名も忘れもしない野 口君が理科3類コースの、ぼくたちには一面識もない松本なんとかさん(さすがに名前までは忘れてしまいました)が好きになったので、彼女のサインをもらっ てきて欲しいと無茶を言って同室の友達を困らせているという話を聞きつけたのです。
 あれは寮の食堂の入り口に列を作って並んでいる時でしたが、私は「そんなことで困っているのかい、簡単じゃないか、ぼくがもらってきてやる」とそ れこそ大見えをきったものです。事実その時は簡単なことだと思ったのですが、実は自分が対人恐怖症で非常に気後れするタイプであることをすっかり忘れてい たのでした。

 でもつぎの日、ぼくは友達と二人で理科3類の教室のある3階にまで出かけていったのです。教室は休み時間で女の子が数人残っていました。野口君が好きだという松本さんという子を友達が教えてくれました。

 ぼくはその子を見て、野口君がどうしてあの子を好きになったのか不思議に思いましたが、それ以上に、ぼくたちとその数人の女の子たちとの間に、目に見えない大きな壁が立ちふさがっていることに、ぼくはその時はじめて気づいたのです。

 いやそれでもぼく一人だったら、目をつぶってでもその女の子の方へ向かって行ったことでしょう。ところがぼくは不覚にも友達の関西弁の「やめと こ、やめとこ」という軟弱な言葉に従って逃げ帰ってしまったのです。ぼくは次の授業時間中に、しかたなく紙に自分で女の子らしい筆跡で松本なんとかと書い て、あとで野口君に渡したのでした。

 野口君は大喜びでした。ぼくはこれでなんとかうまくいったと思ったものです。あとは正直者の友達が野口君に黙っていてくれるかどうかだけでした。ところが野口君と同室の彼はこの嘘を一週間もつき続けることが出来なかったのです。

 その次の日、ぼくはかんかんに怒った野口君に予備校じゅう追いかけまわされ、あげくの果てに屋上に隠れてなんとか難を逃れたものでした。私が今一 番後悔しているのはにせのサインを作ったことよりも、あのときサインをどうして一人でもらいに行かなかったのかということです。友達はあてにならないので す。あなたの場合も必ず一人で行くことです。(1992年12月19日)








 大人は子供には間違いは間違いと正しく教えなくてはならない。9月1日の紙面で高知の記者は、明徳義塾の肩を持った議論を展開している。子供たちと長い間いっしょにいて情が移ったのでろう。

 しかし「玉砕しろというのか」と居直ってしまっては困る。(勝ちという名誉を重んずるあまりに、結局本当に玉砕してしまったのは、明徳義塾の方だったのではないだろうか)

 この記事から分かるのは、あちこちから批判されて明徳の子供たちも意地になってしまっているらしいということである。「ともに野球をした仲間として松井君には一言謝りたい」という言葉が出てきてもよいのだが。

 残念ながら、彼らの回りには「自分たちが同じことをされたらやはり腹がたつだろう。やはり正々堂々とやらなければいけなっかった。間違いは素直に認めて謝るべきだ」と教える大人はいないらしい。

 大人の中には勝手な議論をする人がたくさんいるものだ。しかし、それにつられて、間違ったことを正しいかのように子供たちに教えるようなことがないようにしたい。もしあんなことを正しいと勘違いして、全国の子供たちが真似しはじめたらどうするのか。

 新聞記者は情に流されて判断を誤ってはいけない。少なくとも今年の明徳義塾の野球部員は、どこへ行っても「ああ、あの年の」と言われ続けることは間違い ない。また、そうでなければ、この世に正義は実現できないだろう。だから少なくとも子供たちに、自分たちのプレーに対する観客のブーイングを批判するよう なことを教えてはいけない。(1992年9年1日)









 日本と韓国の歴史学者が歴史教科書を共同で見直していく集まりを開いた時、あまりにも韓国側から批判されたために、日本の学者は、「日本と仲良くしていく気があるのなら、日本人にも韓国併合に反対した人がいたことを韓国人は認めなければならない」と言い出した。

 これは、日本が日韓条約を作成したときの韓国に対する態度と同じである。当時の日本側は条約を結びたかったら、日本の言い分通りにせよと、謝罪を拒否し賠償を拒否し経済協力で我慢させたのである。

 しかし、韓国に日本と仲良くしたい気持ちが無くて当然なのではあるまいか。被害者は決して加害者と仲直りなどしたくはないものだ。握手を求めると すれば、日本側からだけだろう。被害者側から手をさしのべることを要求することはできない。仲良くしてもらいたかったらというのは傲慢である。

 日本は韓国に対しては謝罪をしつづける以外に韓国人と仲直りをする方法はない。韓国側が日本批判を強調するのは建前だとする議論は笑止である。建前と本音が違うのは日本人の話で韓国人にそんな二重の基準をあてはめるは間違いだ。

 もちろん、外国人とて本心と違うことを口にすることはよくある。しかし、それは策略である。本心を隠すことで相手に対して優位に立って交渉を上手 く運ぼうとするのは当たり前のことである。つまり、勝負の場面ではこのようなトリックを使うことは当然で、むしろ使わない方が愚かというものだ。

 ところが、これが勝負事でない場面でも現れるのが日本人の建前と本音のダブルスタンダートなのである。(1992年9月1日)









 高校野球は相手とファンがあって初めて成り立つスポーツだということを知らない人が多い。この間の連続四球に対して客が騒いだのがひいきの引き倒しだと非難する人がいるが、ファンをけなしては高校野球は成り立たない。

 全国中継をし5万人も収容できる特別の球場でやっている野球が客を無視してはよいわけがあるだろうか。わざわざ足を運んで来てくれた客が怒ったことを少なくとも主催者、放送局、出場校側は批判できないはずだ。

 客あっての高校野球である。客を無視するようなことがこれからも続けば、高校野球も今の大学野球や実業団並みに誰も見に行かなくなってしまうだろ う。(もっとも今の大学野球や実業団はプロへ行けなかった人たちの集まりで、プロ野球のおちこぼれ野球になってしまっている点にも不人気の原因があるのだ が)

 その他に、ルールだから良いという意見を学校の教員が出していたのを見て不安を覚えた。この教員、きっとルールだから校門を閉めたの正しい、はさ まれた方が悪いと考えているのではないか。校則もまた野球のルールと同じで相手を人間として尊重するという、紙に書いていない事柄から出発することにおい て何ら変わらない。

 生徒の人格を尊重せずルールを杓子定規に当てはめるからあんな事故がおこる。同様に、長年練習を積み重ねてきた相手の選手を尊重する気持ちがあればあんなプレーはなかったはず。さらに見に来てくれている観客を尊重する気持ちがあればあんなプレーはなかったはず。

 あれは自分さえよければよいというプレーである。自分と相手とわざわざ見てくれている客とこの三者を大切にする、そこから野球は始まるのである。 とにかく、全国民の見ている前で無様なことはできない、恥ずかしいことはできない、そういう気持ちを失ってしまって、目先のことしか見えなくなってしまう とああいう恥ずかしいことになる。

 それに比べて、天理高校の選手はよく教育が行き届いていると感心した。特に感心したのは、デッドボールを受けても、選手が自分から審判に訴えなかった点だ。打席に入ったからには打ちたい。デッドボールなんかで塁に出たくないというのである。

 四番バッターなどは、バットに当たったと主張して「打ちたい」という意志を強く見せた。当たってもいないのに当たった振りをするような恥ずかしいことは大勢のお客さんの前ではできないし、それ以上に、一塁に出るにもその過程が大事だと教わっているのだろう。

 かつて天理高校が優勝した時、準決勝でエース・ピッチャーが登板しなかったが、試合後そのピッチャーは相手校に謝りに行ったそうである。彼は肩が痛くて投げられなかったのであって、決して相手を見下してのことではないと謝ったそうである。

 試合は試合として、明徳の選手も謝りに行く勇気を出して欲しかったと思う。「自分は勝負をしたかったのだが、作戦で仕方がなかった」と一言いえばよかっ た。そうすれば、自分たちもすっきりして次の試合で実力を出せ、あんな無様なコールドゲームのような負け方をしなかったことだろう。

 しかもその一言から、新たな友情も生まれたことだろう。しかし、あのままでは、友情どころか今後北陸地方のチームは明徳とは練習試合をしてくれなくなるだろう。相手がいなければ野球はできないことを思い知るだろう。(1992年8月26日)









 夫婦喧嘩で奥さんが言葉でさんざん夫をやっつける、反論に困った夫は奥さんをぴしゃりとたたく、これは言論の自由に違反しているだろうか。

 暴力団が雑誌社に殴り込んだが、暴力団のしたことは言論の自由に違反しているとすれば、さっきの旦那さんは言論の自由違反だろう。

 言論に対して暴力で危害を加えられる恐れがあるため、言論が自由に使用できなくなるのも困ったことだ。しかし、それが個別の当事者、言論の対象者だけのことになれば、奥さんをぽかりとやった旦那さんと同じで、仕方がないとは言えないか。

 右翼の行動は右翼に対する言論でなく天皇制に反する全ての言論を暴力で封じ込めようとする点で、言論の自由を侵すものであろう。しかし、やはり警察の警護は言論の自由を守るためであるかどうかは疑わしい。(1992年8月26日)




 




 
 日本人は対立を最も嫌う。そのため日本では二大政党制がけっして生まれない。二つに分裂した時代は不幸な時代であって、平和な時代は必ず反対勢力が非常に小さいものである時代である。

 社会党は日本では不満の代弁者以上のものであったためしはない。いわば不満分子でしかなかった。二つのものの対立から何か一つの良いものを作り出していく、などといういわば弁証法的進展はありえない。

 自民党内でも、主流派が圧倒的な勢力を持っているときだけ自民党は安定した政治を行えた。政変は常に異常事態であり、選挙によって政変が起こることはない。(1992年8月25日)










 選挙で社会党が敗れ、新聞が頻りに社会党に対する苦言を呈している。愚かなことである。選挙は自民党に対する信任投票としての意味合いしかない。社会党は国政に参画していない。政治をしているのは自民党だけなのである。

 自民党に不満があれば棄権が増えたり社会党の票が増えたりする。しかし、それは社会党に対する信任票ではない。社会党は実際には何も政治をしていない。高々一部の利権を質問によって確保しているだけのことである。

 社会党は国会の過半数の議席を占めるだめの候補を立てる能力がない。能力のないものを批判してもはじまらない。政治を実際に動かしている自民党の 在り方が変わらない限り、日本の政治は変わらない。自民党の中で全てが決まっており、派閥の対立が与野党の対立の代わりをしている。野党は国会の開会を遅 らせるようなこと以外に何の力も与えられていない。

 討論によって、説得によって、何かを達成しているのは、自民党内の出来事であり、与野党間の出来事ではない。(1992年8月23日)









 何事にも両論ある。事実だという人もいれば、そうでないという人もいる。また、あれでよいという人もいれば、あれはよくないという人もいる。しかし、結局どちらが正しいのかを明確にしない。そしてうやむやになってしまう。

 南京大虐殺では兵士に罪はないといい。また高校野球では選手に罪はないという。では、司令官の罪を、また指導者の罪を厳格に追求するかといえばそうでもない。うやむやである。

 そして、何が正しいのかについての議論はついにされないまま終わってしまう。日本的な解決法である。

 また例えば、談合は悪いという人がいれば、いや日本的慣行であるという人がいる。そこで談合の悪さは相殺されてしまい厳しい追求はされずに終わる。

 正邪の観念の欠如である。正しいことというものが厳として存在していない。法を守ることが正しいことであるという考え方がない。

 星陵松井選手の5四球の「アンフェア」であるということが、日に日に曖昧になっていく様子に、日本人の正義の観念の無さがよく現れている。今日の 新聞の指摘は「選手に罪はない」となってしまっている。「アンフェア」という事実は変わらないはずだが、「和」の方を優先させたのである。

 日本人にとって最も大切なことは「和」であって、「正しさ」ではない。










 星陵松井選手の5四球を作戦として認める人たちに反論したい。

 アメリカのプロ野球で、隠し持っていたジャガイモを三塁に暴投して、三塁走者を釣りだしてアウトにしたキャッチャーがいたそうだ。これはルール違 反ではない。こんなことまでルールブックには書いてないからだ。しかし、この選手はその後試合に出してもらえなくなったという。

 野球のルールにジャガイモの規定がないように、全打席四球を禁止する規定もない。まさかそこまでずるいことをする選手はいまいというのと、そんなことをすれば相手に失礼であり、今後試合をしてもらえなくなるからである。

 ルールの他にスポーツで大切なことは、相手があって初めて成り立つということである。だれも相手にしてくれなくなれば、試合はできなくなる。あんなことをする奴とは試合をしたくないと言われるようなことはしてはいけないのである。

 今回の連続四球もこれにあたると思う。試合の初めに「お願いします」といい、終わりに「ありがとうございました」といって互いに頭を下げるのはなぜかを忘れて、「作戦だから」では通らない。(1992年8月19日)









 憲法34条は「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ、拘留又は逮捕されない」と言っている。刑事訴訟法30条は「被告人又は被疑者は、何時でも弁護人を選任することができる」と言っている。

 法律はこのように述べているが、実際には弁護士は被疑者段階で容疑者につくことはほとんどなく、起訴された後のことにすぎない。戦後も冤罪が後を絶たない原因であろう。

 今日当番弁護士制度が全国でスタートしたとニュースがあった。逮捕されたらすぐに弁護士を呼べるように初めてなったのである。憲法が「直ちに」といい刑訴法が「何時でも」といっても、何十年間の間これらの条文は実際には行われなかったのである。

 このことをこの制度のスタートは端なくも明らかにしている。国の義務である国選弁護人の制度は、国が法が出来たときから実行に移している。しか し、この憲法と刑訴法の条文の実施は一に弁護士次第だったわけである。弁護士自身が憲法を守るということにあまり熱心でないことを示している。弁護士の怠 慢と言えよう。

 つぎに、当番弁護士制度がスタートしたと言っても、それが実際にどう生かされるかはもまた弁護士の努力にかかっている。当番弁護士制度は英国が手本であると聞く。

 今日見た英国の映画の中では、それだけでなく、弁護士は被疑者の警察による尋問の際に同席していた。現実にそうなっているのだろう。日本で弁護士が逮捕後すぐに付いても、面会時に黙秘権を伝える程度のことだそうである。日英のこの差の何と大きなことであろう。

 弁護士が警察の尋問に付き添うことは、長時間の尋問や、長期間の拘禁を止めさせるきっかけになるものと思われる。しかし、これは決して警察側から弁護士に求めてこないことで、やはり弁護士の努力にかかっている。

 しかし、日本の弁護士は被疑者の権利には興味がないのだろうかと疑われる。当番弁護士制度が出来るのに憲法か出来てから50年かかった。弁護士たちが50年間怠慢であったわけである。

 被疑者と同席するまでにこれから何年の怠慢が重ねられることであろう。被疑者と同席しても大して儲からないのは確実であるから、日本ではこんな制度は生まれないかもしれない。(1992年8月14日)









 高校野球が始まった。今年の夏の大会には大阪代表が4校も出ているそうだ。正確に言えば、部員が大阪出身者で占められる高校が、大阪代表以外に3校もある。

 実は、大阪では代表になるのに8回勝たなければいけない。その難しさを嫌って、大阪の中学生が他府県の高校に進学して甲子園を目指した結果である。県によっては出場校が少なくて、5回勝てば甲子園に出られる所がある。

 大阪ならば5回勝ってやっとベスト8進出である。もし予選で5回勝てば出場権を与えるとするなら、大阪は8校も甲子園に出場できる計算になる。ならば、4校出場もやむをえまい。制度自体が不公平なのであるから。

 すなわち、今の制度では、地方大会で8回も勝ったチームも5回しか勝たなかったチームが、府県が違うというだけで、同じように甲子園に出場できるという不公平がある。

 しかし、例えば大阪の代表を東京のように2校にするなどしてこれ以上出場校を増やすことは日程的に難しいだろう。昔は今のように一県一校出場ではなく、 県大会の後で、それより広い地域の大会を開いてきた。しかし、地方色の強くなった今の高校野球を、昔に戻して出場校を減らすのはもっと難しかろう。

 そこで提案だが、地方大会の試合数を同じにすることが難しいなら、甲子園に来てから、それまで多く戦ってきたチームに特典を、つまりシード権を与えてはどうだろう。例えば7回以上勝ったチームを、甲子園では2回戦からの出場にしたらどうだろうか。

 これで、大阪出身者の占める学校が減ることはないだろうが、少しは今の不公平感が緩和されるのではなかろうか。 

 真夏に過密スケジュールで体をこわす選手も多いと聞く。多く戦ってきた選手に、シード権を与えて甲子園での試合日を遅らせて休養させたり、試合数を減らしてやる工夫があってもよいはずである。関係者に一考を請いたい。(1992年8月10日)









 憲法13条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】 に付記された「公共の福祉に反しない限り」とは、他人に重大な害毒を及ぼすことがないこと、厳密には刑法に反しないこと程度に解釈すべきである。

 もしこれが「多くの人の利益に反しない限り」という意味だとするなら、この条項は滅私奉公の肯定を意味することになる可能性さえ出てくる。もともと個人の利益は多くの人の利益に対しては、数のうえから言っても勝ち目がない。

 だから、もしこれが「多くの人の利益に反しない限り」という意味なら、この憲法13条の存在する意味がなくなってしまう。それどころか、憲法13条はそもそも個人の尊重を言うものであるのに、まったく逆に個人の権利を制約する条項になってしまうだろう。









 多数決の原理は民主主義のルールであるが、そう言えるためには前提条件がある。それは、党派を組んで予め投票者の投票を縛ることがないということである。さもなければ、投票は単なる儀式となってしまい、議会は飾り物になってしまうだろう。

 そして、党と党の間の折衝だけが最も重要なものになってしまう。いわゆる国対政治の現状がそれである。演説は投票に対する説得のためにするもので なくなり、単なる形式的手続きの一つになってしまう。党と違う投票をするためには、離党するしかない日本の政治は、議員一人一人の意見の自由を奪うもので あり、決して民主的なものとはいえない。

 英米の議会ではこのようなことがないのは当然のことである。それゆえ、投票に対する説得が党内はもとより、他党に対しても活発に行われる。二大政党制でありながら、決して票が単純に党員の数に従って二分されることはない。

 日本で党議に縛るやり方があるのは、きっと、党が議員に金を配っていることと関係があるに違いない。これはよく考えれば一種の買収行為なのだが、倫理感覚の鈍い日本の政界ではこれに疑問を抱く人はいないのである。

 国会が形骸化しているという人は多い。しかし、もし党籍にかかわらず各議員が自由に投票することができるとしたらどうだろう。国会が国会の役割を、そしてその地位を回復するのではあるまいか。

 国会形骸化の最大の理由は明らかなことだが、誰がどう投票するか分かってしまっているためである。どこの国の議会もこうなのだろうか。票数を予め 正確に予測することはできないからこそ投票行動に意味があるはずだ。そしてそれでこそ、多数決を民主主義のルールだと言えるのではないだろうか。

 そうなるためには、国会の投票でも国政選挙の時と同じく秘密投票の原則に従わなければならないし、党が投票を拘束したり、違反すれば罰を加えると いうようなことがあってはならない。また、金銭的に議員は党から自由でなければならない。党に多額の資金をあおいでいるような議員は党の言いなりにならざ るをえないからである。

 民主主義の進歩を生み出したのは話し合いではないということは、よく忘れられがちなことである。それは、戦争であり、ストライキであり、デモで あった。だれが話し合いで既得権を手放すだろうか。国会での野党の牛歩戦術を非難する人は、民主主義の何かを知らぬ人たちである。権利の獲得は話し合いで は達成できないのである。










 日本の総理大臣が靖国神社を参拝するというが、これはドイツの首相がヒトラーやナチスの人たちの墓に墓参りするのと同じことではないだろうか。靖国神社 にはA級戦犯が祭られている。また日本軍の軍人が祭られている。彼らはドイツにおけるナチスと同じ役割を日本において行った人たちだと思われている。

 ドイツのコール首相がナチスの墓に参ったら大騒ぎになり、首相の座を棒にふるだろう。しかし、日本の首相は「日本のナチス」の神社に御参りをしな いと首相の座が安泰ではない。日本人が前の大戦を悔いているどころか、自分たちは彼らの後継者であると思っていることは、これからも明らかであろう。

 その最大の原因は天皇制が敗戦によっても無くならなかったことにある。第二次大戦は天皇のための戦いだったのだから、その大義名分か否定されていない以上、戦前の日本と戦後の日本は政治的にも継続していると言える。

 憲法は新しくなったものの、その運用によって殆ど前の憲法と同じものになってしまっている。日本は戦前と戦後で何も変わっていないのである。

 第二次大戦を起こしたのは、一部の犯罪者の集団ではなく我々の尊敬すべき祖先であった。彼らはナチスではなく、われわれの親であり祖父なのである。親の墓参りに行くのは当然であり、今はなき親の罪を許し、その霊を慰めるのは当然の事なのである。(1992年8月10日)










 日本の女子バレーが勝てないのは当然だ。ゴムまりのように跳ね回る外国の女たち、あるいは男勝りのおばさんがかっぽする恐ろしき外国の女たちに対して、柳腰の淑やかな女たちの日本、かわいい乙女たちの日本の女子選手が勝つはずがないのは、当然だろう。

 嘆くことはない。人にはそれぞれの良さというものがある。(ソ連の選手に勝てなくても嘆くことはない。彼女たちはバレーボールを仕事にしているのだから。だからこそあんなに歳をとっているのに続けられていられるのだ)(1992年8月5日)









 過労死に関して、何のために働くのかということが新聞で話題になっているが、そんなことは遠の昔に分かっている。遊ぶためである。

 遊ぶという言葉が都合が悪ければ、休暇をとる為であると言ってもよい。ところが、日本人はそうは考えていないらしい。日本人にとっては、働くのは生きるためであるとでも言ったほうがぴったりくる。人並みに生きるためにと言った方がはっきりするだろう。

 しかし、人並みに生きるというなかには、休暇をとるというのは入っていない。なぜなら、ほかのひとは休暇を取らないからだ。働いて食べて寝ること、それが労働者の一日であり、その永遠の繰り返しなのである。

 労働の短縮は人間らしさと切り離しては考えられない。動物は、そして奴隷は働き続けて休むことを知らないし、許されない。人間は動物とは違う、それは人間は休暇をとるからであると、西洋の人たちは考えた。

 しかし日本人はそうは考えない。日本人は人間と動物が違うことには大した意味を見出さない。人間は自然の一部であるから、動物と同じであってかまわないのである。働いて働いて意味もなく死んでいくのが日本人の死生観である。

 労働時間の短縮を誰が叫ぼうと、そんなことは日本では実現されない。表面的には短くなるが、サービス残業が増えるだけのことである。(1992年8月5日)









 国家に育てられた選手と個人で努力してきた選手とでは、国家に育てられた選手の方が強いことがよくある。国家によって育てられた選手は、運動が仕 事であり、年中そればかりやっているのに対して、個人の努力による選手は運動は仕事ではなく、年中練習をしているわけではなく、食べるために仕事をもって いる。

 両者が争えば、国家による選手の方が勝つのはむしろ当然だ。しかし、オリンピックは本来、国の争いの場ではない。世界の力自慢、腕自慢が集い寄り、その技能や力を競うことに主眼がある。

 国が育てた選手を力自慢と呼ぶにはふさわしくない。それが仕事なら自慢するに値しない。強くて当然だからである。自慢というからには、やはり余技でなくてはならない。

 しかも国に育てられた選手が争うのは国のためということになるが、個人の方は自分自身のためであって、両者は大きく違う。国のために戦った者は、 国が無くなれば勝った意味も無くなっってしまう。国のお蔭で勝者になれたのであって、自分の努力によって勝ったとは言えないからである。

 国のお蔭で勝つのは薬のお蔭で勝つのと、似ていはしないか。国が育てた韓国や中国の選手(またかつての東ドイツの選手も同じことだが)がいくら 勝ったところで、「世界は広い、上には上があるものだ」と感心するだろうか。むしろ「国の力はすごいな」、と関心するだけだろう。

 あるいは、どんな練習をさせられたのだろう、と哀れむ人もいるかもしれない。負ければ彼らは国の恥だろう。しかし、個人で、自分の時間と気力と努 力とおそらくは金を注ぎ込んで獲得した技能で出場した選手は、たとえ敗れようと、誰に恥じることはない。自分自身にのみ責任を負うだけである。

 国民の期待は期待として受け止めるしかない、期待に反したとしても国民に謝る必要はないわけである(伊藤みどりが謝ったはその意味では間違いで あったし、そんな気持ちがあったからこそ勝てなかった。また、「自分のために走って下さい」というキョン・キョンのビールのコマーシャルは正しい)。

 誤らねばならなくなるとすれば、国に育てられた選手だろう。個人の選手は、多くの人の世話になってきたという気持ちはあっても、根本的には自分あってのことであるはずで、誰に恥じるところはないわけだ。

 自分のために走る者こそ偉大なのである。中国の飛び込みの選手、韓国のアーチェリーの選手はいくら金メダルを取っても、誰も偉大だとは思わない (故にアメリカ選手がアーチェリーでメダルを取れなかったことを個人の練習だけで国の支援の少なさのせいとし、韓国の国の育成を讃えた朝日の今日の記事は 誤りである)。

 彼らは単なる国の器械に過ぎない。子曰く、君子は器ならず。諸君は器械であってもらっては困る、なのである。誰のためにしたのでもない自分のためにしたということが一番大事な点である。(1992年8月5日)









 公定歩合がまた下がり3.25%になった。バブルの崩壊で苦しんでいる人たちを救うしか、景気を浮揚させる方法は結局はない。日本経済は結局はバ ブルに乗っていなければ繁栄しないということはみんな知っていたのだが、建前としてそれはよくないというわけで、金融を引き締めてみたのだが、建前では景 気は良くならない、やっぱりバブルに戻った方がよいという本音が出てきたというわけだろう。

 ただし、そんなことをおおっぴらに言う人はいまい。経済というのは麻薬のようなもの、実体のない幻想に頼っていないとやっていけないのだ。

 もともと資本主義というのもが、資本という名の借金によって成り立っているのだから、その金を貸ししぶる雰囲気になれば、株価は下がる。証券や株式で金を集めて事業をするのは、一種のギャンブルに他ならない。ギャンブルがいつまでもうまくいくとはかぎらない。

 最後まで勝ち続けるギャンブルはない。それなのに経済には終わりはないのだ。好景気が何時までも続くというのはギャンブルに勝ち続けることなのだ から、いつか大負けするときが来るのが当然。おまけに、このギャンブルは金を借りてするギャンブルである。うまくいかなくなって当然。資本主義の運命だろ う。

 公定歩合を下げるということは、銀行の金利を下げてその借金の利息を楽にしてやろうというわけだ。さて借金の利息が下がればギャンブルもやりやす くなるには違いない。しかし、ギャンブルする気が起こらなければ、景気は良くはならないところが困ったところで、人の気持ちまで、金利で変えられはしない のである。

 借金しやすくなったから、もっとギャンブルしなさいと言われても困る。なぜなら、ギャンブル自体に勝てるかどうかは、金利とは関係がないからだ。

 作った商品が売れる保証が少しでもなければならない。消費者の購買意欲というのが、そこで問題になる。公定歩合が下がれば預金金利も下がる、それなら、銀行に置いておくより、使ってしまえとはならないのだ。

 また上がるまで置いておこうとなるかもしれない。買う方も借金をしやすくなるわけだが、消費者でも堅実な部類の人たちは特に借金はなるたけしたくない。

 家は借金でしか買えないものだが、家を買うには土地の値段がまだまだ高すぎる。土地持ちを損をさせずに土地の値段は下げられないのだが、支持者が 土地持ちが多い自民党政権では土地の値段は下げられない。日銀に公定歩合を下げさせるなら、痛みは消費者なのだから簡単にできるということで、いくらでも 下げる。

 しかし、公定歩合を下げれば、借金して土地を持っている人たちはおかげで土地を手放さずにすみ、土地の値段は下がらないから、家を買う人は増えな い。というわけで公定歩合を下げても、一番金の動く不動産部門の不振は続き景気は上がらないというわけた。(1992年7月27日)









 参議院の選挙の投票率が低かった。しかし、現在の国会のありかたからして致し方あるまい。

 つまりまったく形式的な存在でしかなくなっており、誰が当選しようが大勢に影響しないことが明らかになっている。議員は個人としての価値はほとんどなくなって、国会での数合わせにしか役立っていないからである。

 国会は開会される前にすでに、どの法案が通過するかどうか判ってしまっている。与党が出した法案が否決されることはないのである。開かれてしまえば、もはや野党は牛歩戦術でも取らない限り、野党が与党の法案をつぶす方法はない。

 ならば、国会を開くまでが勝負ということになり、国会対策が重要になり、議長よりも国会対策委員長の方が実質的な地位の高くなるのも当然だ。

 また、野党は対立する法案を出しても、反対するためには全く何の役にも立たない。国会の開会を妨害するしか与党の法案をつぶす方法はない。一旦開かれたら、野党が反対する手段は牛歩しかないのである。

 国会が討論と説得の場であり、優れた意見が党派を越えて支持を受けて各議員がそれぞれ独立した判断力をもって投票するのではなく、国会が開かれる前に党によって投票行動が決められているのでは、国会を開くのは形式でしかなく、また必要な手続きでしかない。

 つまり、党議拘束がありかぎり、国会の形骸化はなくならないのである。









 PKO法案には反対なのに与党にいるいう理由で賛成投票をして、あとで本心は反対だから離党する議員がいた。先に離党して反対投票をするのでは、与党内から造反者を出すことになり、党に迷惑をかけると思ったから、後で離党したのだろう。

 しかし、これは国会議員の独立のない今の実体をよく表している。つまり選挙で誰に投票しても党に投票しているのと同じことである。こんな議員しかいないのなら、いっそ全部比例代表制にしてしまったほうが、現在の国会の状態をよく反映していると言える。

 小選挙区制は、個人に投票して党を選ぶ制度であるから、これでもよい。今の中選挙区制だけは現実の国政を反映していないのは確実である。

 政党は本来政権をとるための組織であり、法案を出したり通したりするのは各議員の役割である。同じ意見に賛同する10人が一つの法案を出す。それを審議してよい法案を各議員の判断によって採決するのが国会である。

 政党が法案を出して通すのは、一種の八百長を国会に持ち込んでいるに等しい。採決以前に投票を拘束してしまっては投票する意味がない。談合と同じことである。

 また、根回しも日本人のよくやる八百長の一つである。試合をする前に何方が勝つか決めてから試合をするのを八百長と言う。談合、根回し、党議拘束、日本の三大八百長である。

 日本人は対立を嫌うから談合や根回しがあるとよく言われているが、それは間違いである。結果に対する不安を解消するために、勝負をせず、運に任せることをせず、予め話し合いと取引で勝ち負けを決めてしまうのである。

 日本人が卑怯だといのは、パールハーバーを引合にしてよく言われるが、実は戦争に匹敵することでは、何事においても卑怯なやり方をとる民族で、公正さは後回しとなる。(1992年7月26日)










 連合が馬脚を現し参議院選挙で惨敗した。自分自身は政治団体をもたず、野党におんぶして選挙をやって、国会議員になったら自分たちの政治集団を作ってどの野党にも属さないというのでは、野党は選挙で結局何の得もしない。

 だから野党が積極的に支援するはずがないのは当然で、連合の会長が敗北の原因は野党にあると言っても、自分で集票をせずに、野党の選挙組織に頼って国会議員を作ろうとしてもそう虫のいいことは続かない。

 国民もその辺を見抜いて、彼らは一人前の政治団体ではなく、政策もないと分かれば、無所属で出馬するば当選したかもしれない候補も落選させてしまった。

 その点大阪の西川候補が連合からの出馬を断ったのは賢明だった。彼ももし連合から出ていたら共産党に負けたかもしれない。逆に連合が西川氏に断られたのは、その政治団体としての節操のなさを見抜かれていたのかもしれない。

 この選挙で現れた庶民の連合に対する判断を西川候補が既に持っていたと言うべきかもしれない。それとも西川氏が予め庶民の批判的な見方を見抜いていたのかもしれない。

 連合は野党から推薦だけはもらったがいざ選挙が始まってみるとはしごを外されてしまったし、国民からも弱点を見透かされてしまった。(1992年7月26日)









 会社なんぞに行ったら、働いて食って寝るだけになってしまうじゃないか、と言ったら、そんなもんだと会社員の友人が答えた。また、会社にしがみついて金 儲けをすることが一番大切なことだと考えない奴はいいかげんな奴と思われる世の中だ。金儲けは大切だが、その目的が食って寝ることでしかないのに、それが 一番大切というのか。

 食って寝るだけが、日本人の生活だ。自分自身の生活がない。だから、金さえ稼げればよい。だから、金にかかわる事には興味があるが、国際関係や憲法などという話となると、まるで興味が無くなってしまう。

 よけいなことを考える暇があったら、勉強しなさい、または金を稼いで来い、というわけである。消費税には反対して投票するが、自衛隊がどこで何をしようが自分には関係がないのだから、投票にいく必要は特にない。

 PKO法案がもし、国民の一人々々の汗をながす国際貢献を求めるものだったら、国民は選挙に関心を持ち、さらにはそれに反対する野党の大勝利ということになるだろう。

 要するに利己主義をこれほど尊ぶ国はない。

 平和維持活動に関する法律が、直接自衛隊が出動する、自衛隊が貢献することを定めた法律であれば、そんな法律は法律ではなく、施行令のような行政的なものであるはずだ。

 特定の団体に関する決まりをそれに関係のない人たちが決めるなどということはない。国民全体のことを決めるのが法律というものだ。この法律が真に法律なら、国際貢献をするのが自衛隊だけだとは特定していないはずである。

 国民は知らぬうちに、国際貢献をすることを約束してしまったのではないか。自衛隊がだめなら、国民が出ていかなければならないということなのでは ないなだろうか。つまり、この法律によって徴兵制が解釈によって可能となったのではないかという心配がある。(1992年7月24日)









 一年前から町じゅうにポスターが張り出され、3か月前から、車で名前の連呼をやっていたと思ったら、葉書がうちに二枚も来た。有名な国会議員の息子だそうな。今日新聞を見ると、その候補者が一番有力だと出ている。さもありなん。

 他のどの候補も一年も前からポスターを張っていないし、誰も3か月前から連呼していなかったし、他の候補者からは葉書は一枚も来なかったもの。 で、彼らは今日の新聞では難しいとある。どうも最初の二つは違反じゃないかしら。たくさんの人間が投票するそうだから、そうでもないのかな。

 結局選挙は一年前から金かけてやったものが勝ちというわけだ。PKOなんて関係ない。一票の重みというけど、これはきっと金の重みのことだね。おこぼれにあずかれないわれわれはいったい投票所にいって何を得するというのだろう。

 なんだか投票所に行く気がしなくなった。またまた自民党が勝ちそうだ。日本人の物の考え方からは、自民党しかいらないのではないかと思われる。(1992年7月22日)









 バイクに2度乗っただけの学生を退学処分にして、その学生の人生をぶち壊した学校に違法の判決が下った。この際、この処分を決めた高校の校長はこの判決を受けて辞職してはどうか。

 規則には従いなさい、さもなくば追い出されると、彼は生徒に教えたはずだ。反論することは許されないとも教えたはずだ。まず自ら手本を示すべきである。そうすればまた、この校長は生徒の痛みを身をもって体験することができ、より立派な教育者になれることだろう。

 なにより教育者は潔くなくてはならない。人に規則を押しつけるなら自分も規則に従うことだ。まず魁より始めよである。しかし、裁判官はこの校長に 辞職を勧めはしなかった。これは校長にとって残念なことであった。なぜなら、校則に違反したら即退学にすべしというやり方の正さを実践する機会が得られな かったからでる。

 また、辞職した自分の命の大切さとその意味を考える機会が得られなかったからである。しかしまだ遅くはない、今すぐきっぱりと辞職したまえ。(1992年3月20日)









 ダウン症のコーキーが劣等感に悩みながらそれを乗り越えようと挫折を繰り返しながら真剣に努力する姿は感動的だ。その努力を支えようとする家族の姿がすがすがしい。

 死の問題、老いの問題。自然保護の問題。男と女の問題。差別の問題。自立とは。家族とは。人間とは。生きるとは。毎回様々な問題に子供の目で真正面から取り組んで答えを出そうとする。

 「正しい姿勢がとれなければ優雅ではない、優雅でなければ魅力がない、魅力こそはダンスのすべて」。正義感の強い妹のベッカーのチャーミングな口許。人生には勇気が必要だということ。

 ダウン症の子を養子にしたいという人が順番待ちをしているという国ならではの物語か。コーキーの顔つきはダウン症の子のそれで、だから嫌うという人もいるが、ダンウ症に対する偏見を無くそうとする意図も成功している。

 このドラマは毎回決して期待を裏切ることがない。最後には必ず感動とそして生きる勇気を与えてくれる。(1992年)









 日教組の集会について、私は和歌山の中学生の意見に肩入れしたい。日教組も言論の自由を行使しているなら、右翼もまた言論の自由を行使しているのに違いない。相手の言論に反対するのは立派な言論だ。

 日教組は集会を開くと周辺住民に迷惑がかかるのは、全部右翼が悪いからだというのは間違いだ。右翼を帰らせることの出来ない日教組にも責任がある。日教組は右翼を帰らせるのは警察の仕事だとでも思っているのだろうか。

 しかし、警察はそこまで面倒は見てくれない。警察が出動するのは言論・集会の自由を守るためではない。あくまで暴力行為が起きないようにするためである。そもそも、言論の自由とは、警察官に守られて与えられるものではないはずだ。

 それは政府から言論の統制を受けないということであって、右翼によって言論の自由を暴力的に妨害されないことを保証するものではないはずだ。

 人の気に入らないことを言えば、相手に暴力を見舞われるかもしれない。これは覚悟しておかなければならない。暴力はよくないが、人間は感情の動物である、かっとなって殴りかかったりしてくるかもしれない。

 言いたいことをいう以上、それは覚悟しておかなければいけない。自分は自分で守るしかないのだ。いや、言いたいことをなんの心配もなく自由に言えるのが言論の自由であるというユートピアを夢見ている人がいるかもしれぬが、そんな世界はどこにもない。

 言った事の責任は取らなければならない。相手が傷つくことを言えば、たとえ暴力に訴えなくとも、名誉棄損に訴えられたり慰謝料を請求されるかもしれない。

 言論の自由を公権力によって守ってもらっているようでは日教組もなさけない。羊飼いが狼をシェパードの替わりに雇っているようなものだ。このようなことが続くとその力は衰えざるをえない。現に日教組に加盟する教職員の数は減る一方ではないか。

 日教組は、自前でガードマンを雇うか右翼と正々堂々と対決すればよい。こそこそと会場に忍び込む組合員の姿を見れば、組合に入ろうという気はなくなるだろう。日教組は右翼と談判して会場周辺から帰ってもらうことだ。

 それには勇気がいる。しかし相手も無闇に刀を振り回すだけが能でないことぐらいは知っている。談判一つできないやつらが何の教育だろう。日教組の 集会は今のままでは、右翼が付いてくる、機動隊が出てくる、回りの住民に迷惑がかかる、そして日教組の値打ちが下がるという図式から抜け出せないだろう。

 右翼のせいにしているだけでは、一歩も前へ進まない。話せばわかるという信念のないやつは教師なんか辞めてしまうほうがいい。いや、そんな信念ある教師などいないだろう。だったらとっくに子どもに体罰という暴力を振るう教師はいなくなっているはずだ。

 言っても分からないなら暴力に訴えてもいいと思っているから体罰にでるのだろう。教師も右翼と大差ないじゃないか。右翼に帰ってもらうだけの能力も熱意もないのなら集会などやめてしまうがいい。そのほうが回りの住民のためになる。

 この意見に気に入らないやつはどこからでも私にかかってこい、相手になってやる。ところで、この意見が掲載される場合は匿名に願います。









 わたしは対人恐怖症です。人が信用できません。悪口を陰で言いながら、表では仲良くしているのはいやだという中学生の人の意見に同感です。わたしはいつも裏表のないつきあいをしたいと思っています。

 気に入らないことがあれば、はっきり面とむかって言ってほしい。本心を打ち明けてほしい。それでこそ真の友達じゃないか。「こいつ腹では何思っているのかわかない」と思うと、とても不安でつきあいたくなくなります。

 自分だけの友達だと思ってたのに、あいつにもこいつにも仲良くしたがるやつがいます。そういうときはひどくがっかりします。ああ、どうすれば人の心がわかるようになるのだろうと思います。人の心が分かればきっと安心して人とつきあえるようになるのにと。

 また「本当はあいつ、おれと付き合っているのは単におれが便利なためだけじゃないか」と思ったりします。本音で付き合えるやつが欲しいのです。本当に俺のことが気に入っていてくれて付き合ってくれるのでなきゃいやなのです。

 人が他人の悪口を言っているのを見ると、自分も陰で何を言われているのか分からないという気持ちになります。陰口を言うやつとは付き合いたくありません。

 陰口は嫌いですが、面とむかって悪口を言われるのはもっと嫌いです。「君は常識がないね」と言われると、お前にどれだけ常識があるねんと思ってし まいます。「君、ドアを開けるときはノックぐらいしなさい」と言われると、人のミスをあげつらうな。「部屋に入ったらコートは脱ぐものだよ」うるさいな あ。「君の字はきたないね、もっと丁寧に書いたらどうだ」お前はどうやねん。「もっとゆっくりしゃべりなさい」耳の穴ほじくってよく聞け。「君の顔はイグ アナに似ているね」ほっとけ。「君のことなんて、誰も心配してないよ」死んじまえ。「あんたなんて、嫌いよ。二度と電話しないで」ばかやろう。

 悪口を言われると、たとえ相手が忠告のつもりで言っていてもいやなものです。いったい自分を何様だと思っているのか、あんたは間違いがないのか、欠点はないのかと思ってしまいます。

 わたしは謙虚な人間ではないので、悪口は忠告として聞くことはできません。だから陰でも表でも言ってほしくない。自分の欠点は自分で直します。だからほっといて欲しいとね。

 そのかわりにほめ言葉はどんどん陰でも表でも言ってほしい。「おまえはまあまあ男前のほうだよ」とか「君は独創的だね」とか「さすがに頭がいい ね」とかいわれるのはいいものです。また「歌がお上手ね」とか「またお会いしたわ」「またいらしてね」とかも悪い気はしない。ひょっとして「あなたが好き よ」なんていわれるのは特にいい。

 ほめことばというのは人づてに聞くのもまたよいものです。また、けなす場合でも、「この人ぶあいそね」と言われるよりも「こちらお静かね」と言われるほうがよいものです。

 しかし、なかなか只でそんなによいことは言ってもらえないものです。きっとこちらが何か先に親切をしたり大事にしてあげたり、後でたんまりお金を払わされたりします。

 まあとにかく、野球で言えば「攻撃は最大の防御なり」というところで、自分を大切に思ってくれている人の悪口は言わないものだから、悪口を言われないためにはまず先に人を大事にするしかないらしいのです。

 ところがこちらが大事にしても必ずしも相手もこちらを大事にしてくれるとは限らないのがやっかいなところで(無視されるかもしれないし、通じない かもしれないし、誤解されるかもしれないし、うるさがられるかもしれない)。これは賭けでいうと「一か八か」「出たとこ勝負」というところでしょうか。

 恐ろしいことです。人を大事しようというのに、なんと勇気がいるとは。野球の「ピンチに直面したマウンド上の孤独な投手」の心境を、日常の世界で味わわねばならないなんて。

 しかも、野球は失敗しても打たれるだけですが、こちらは心が傷つくことになるので、逃げ出したくなるのは当然のことでしょう。「とにかく真ん中めがけて投げてみろ」と言われても怖くてしかたがないのに無理なことは言わないでほしい。

 というわけでなるべく人とは付き合いたくありません。だって怖いんですから。誰か怖くなくなる方法教えて。なに、「稽古が足りんからだ」だって?









 同窓会名簿、わたしも親には見せたくありませんでした。わたしは思いました。

 きっと親は同級生の就職先を知りたがるだろうな。たれそれ君は有名などこそこに行っている、あのたろべい君が公務員になっている、てなことを話題にしたがるに違いない。みんないいところに就職しているからなあ。いやだなあ。

 そうだよ個人の値打ちは就職先によって決まるわけじゃないんだ。しかし俺は就職失敗したしな。比べられるといやだな。よく見ると中には『パリ在住』なんてのがいたりする。俺は田舎にいるしな。『画家』なんてのもいる。すごいな。

 それに比べて俺は何だろうな。情け無いな。『プロゴルファー』なんてのもある。テレビで見たことないなあ。でも何にも書いてないのもけっこうある。会社に行ってないのかな。それともかっこ悪いから書いてないのかな。

 女の子はたくさん名字が変わってしまったな。変わってないのもあるな。男でよかったよ。おや、住所も書いてないのがいる。かわいそうに、行方不明なんだな。

 『物故者』というもある。そういや亡くなったやつもいるんだ。でも、生きていくのも大変だよ。

 というわけで、親には見せずにいました。ところが、しばらくして住所を調べるのに出してそのままにしておいたのに対して、親は別段興味を示す様子もありません。

 わたしは思いました。ははあ、もしかして、親も気を使ってくれているのかもしれないな。いやいやそんなに甘くない。きっとこんなの見てもしゃくに さわるだけだから、知らん顔しているのかもしれない。そりゃそうだ。人の就職先を見たくなるからには、自分の子のがよくなくちゃいけないからな。

 きっとそうだ。そういや昔、人の子の進学先を知りたがったことがあったけど、あの頃は、きっと俺の進学先が自慢だったに違いない。名簿を見たがるのもいやだが、見たがらないというのも、ちょっと情け無いもんだな。

 というわけで、同窓会名簿というやつ、自分の進学先や就職先が良くても親には見せたくないし、良くなくても見せたくないものなのです。

 じゃあ何の役にも立たないのかというとさにあらず。これを一番役立てているのが実は会社の営業マンたちなのです。その証拠にそのうちきっと家に電話がかかってきたり、ダイレクトメールが来たりします。(1991年)










 市立尼崎高校が筋ジストロフィーの学生を入学させずに裁判になっている。このニュースが出るたびに、そして車椅子の姿がテレビに映し出されるたびに彼の姿が痛ましくてならない。

 なぜこれほどのハンディを持った人間がこうまでしなければならないのだろう。学校側はこの姿を見てどうして裁判を受けて立つ気持ちになれたのだろう。早く彼を入学させてやって欲しい。彼にチャンスをやってもいいではないか。

 3年間の履修は不可能だというのが不合格にした学校側の理由だそうだが、仮に学校側の予想どおりだとして彼が修学を続けることができなくなったと しても、それは本人の問題ではないか。彼はきっと、トライはしたがだめだったと納得して学校を去っていくだろう。しかも彼はチャンスを与えてくれた学校に 感謝するだろう。

 入学させたからには卒業させなければならないという学校側の責任感は立派だ。しかし彼ならきっと最後までやり通すのではないだろうか。合格しても 中退する学生はいくらでもいるが、それと同じかどうか裁判に向かう彼の姿をよく見てやって欲しい。私は赤の他人だがそう願わずにはいられない。(1991 年3月)









 大学時代、下宿生活を経験したが、やたらあちこちに張り紙がしてある下宿があった。トイレの中にまで張り紙がしてあって、「こぼさないこと」など と書いてある。「廊下は静かに歩くこと」などとも書いてある。常識である。が、若い連中はできない。で、階下に住む下宿の主人は注文を紙に書いて張り出 す。

 口に出して言えば角が立つということもあろう。しかし、口で言おうとすれば、それなりに相手に対する配慮も生まれ、また婉曲な表現を使ったり丁寧な言い方になったりする。しかし張り紙となると直接的である。寛容の精神の入り込む余地もない。

(人を介して忠告する場合も、これに似ている。仲介者は婉曲な言い方をしない。問答無用の命令を伝えるものにある)。

 張り紙は相手の弁解を許さない。張り紙は話し合いやコミュニケーションを拒否したやり方である。こんな下宿の主人と下宿人の間に信頼関係は生まれない。

 家族はよほどのことがないかぎりこんなやり方をとらない。まず話し合おうとするだろう。相手を相互に尊重する気持ちがあるからである。

 校則は張り紙に似ていないか。教師の側が生徒について気に入らない点が見つかると、どんどん校則にする。挙げ句には単なる常識としか言えないような事が校則になってしまう。生徒と教師の間に話し合いなどなく、ただ教師が要求を押しつけるだけである。

 廊下を走る子供がいれば、走ったら危ないし、音がしてうるさいことを納得のいくように伝えればそれでよい。ところが、口で言わずに紙に書く。校則にする。「廊下は走らないこと」だと。ここにはどうせ、言っても分からないだろういう姿勢がある。

 教師は生徒を尊重しているか。むしろ、生徒を敵視しているかのようである。こうして、校則は下宿の張り紙同様、生徒にとっては追い出されないために守るだけの存在となる。

 校則をもし生徒と教師の話し合いによる合意で作ろうとするようになるならば、むしろ校則自体がなくなってしまうだろう。コミュニケーションのある場に張り紙は必要ない。校則も同様である。










 実質的な権力のない首相がまた生まれた。

 日本の最高権力者は歴史の始めから次々と権力の無い存在に変わっていった。天皇、摂政、太政大臣、関白、将軍、執権、老中、大老と次々に権力を持つものの名前が変わっていった。

 戦時中には、権力を軍部が握ったこともある。(実質的な権力者であった東条は、天皇によって名目的な権力の地位である首相にされる)

 明治時代、天皇が権力者であった時期には、首相が実際の権力を握った。首相が権力者である現在は、党の幹事長が実際の権力をにぎる。

 将軍が権力者であった時代には老中や執権か権力を握った。家庭の中では、亭主が権力者であるが、実際の権力は女房のものである。









 脳死を人の死とする医者の意見に反対が出る裏には、医者が信頼されていないということがあると思う。

 「医者がより多くの人の命を救うためにと考えて、脳死を人の死としようと言っている。彼らの言うことだから間違いがないだろう。みんな考えを改め よう、首から下が動いていても生きていることにはならないのだから、首から上が動いている人のためになるようにしようじゃないか」そんな議論が出てきても おかしくない。

 しかし、本当に彼らの言うことに間違いがないか。彼らの言うことは信頼できるか。そこに疑問符が付くかぎり、その後の議論は続かない。

 多くの医者は、医術を金儲けの道具にしか使っていない。外車を乗り回し贅沢な暮らしをして休日には出かけてしまう。自分は高い給料を取っていながら安い給料で看護婦をこきつかう。救急病院は患者をたらい回しにして、人を殺してしまう。

 患者を薬づけ、検査づけにしてしまう。税金で優遇されているのに脱税する。医者は庶民の味方ではなく、一個の利益団体でしかない。これではいくら良いことをしようとしても反対が出るのは仕方がないではないか。(1990年)









 10月5日付け朝刊の手紙欄には驚きあきれてしまいました。AV嬢が夕刊の一面に載ったのを不快極まると罵り放題の女性の投書が載っていたのです。

 多分、こういうのを載せたらきっと反響がいっぱいあるだろうという目論見で載せたんでしょう。でもこういう職業差別に満ちた意見を堂々と載せるとは。天下の朝日さんがこんな投書をする女性をわざわざ白日のもとにさらすことはないでしょうに。

 人にはそれぞれ生まれ持ったものがあってそれを生かして金儲けや出世など自分の夢を実現しようと思って、悪戦苦闘するのでしょう。それのどこが悪いのでしょう。

 この投書の女性はきっとほかの分野で優れているか、有名になりたいなんて夢をとっくの昔に捨ててしまったのか。いずれにせよ、最近の風潮に乗せられてちょっとあさはかです。こういう人なんでしょう、美人コンテスト反対とか言ってるのは。

 「あんなものバネにしたってちっともカッコ良くないし」っていう、そのあんなもの、彼女は持ってないんでしょうか。それが無くてはどんな女性もきっと男 に相手されないかもしれないもの。それがなくて、女がいきなり老いた姿で生まれてきたら一生一人で食ってかなきゃいけないかもしれないもの。

 そんな大事なもの、男に無いものをあんなものという言葉で片づける根性ってスッバラシイ。年取ってからもう一度聞きたいものです。

 寅さんが「男が目方で売れるなら」こんな苦労はしないと歌ってますが、裏を返せば女は目方で売れるのかもしれないって考えたことありませんか。それにしても同性がこの恐らくは最後のカードを切ってまでして自分の夢に邁進する姿をさげすむとは。

 それよりあの記事、こう読めませんでしたか「ああ、このけなげなお嬢さんの叶わぬかも知れない夢の手伝いが、ほんの少しでも出来たらな」と自分の娘みたいな女の子を前にした男が社内の反対押し切って夕刊の一面に載せたんだって。ま、そんなことないか。

 それにしてもあの「手紙」はないでしょ。ひとの人生バカにする権利はないよあんた。(1990年10月5日)









 9月14日の、縦書きは日本の文化財で是非とも守らなければというご意見、しかし万年筆で縦書きをすると字が汚れてしまうというもう一つのご意見 の二つを拝見した。それならこの両者を生かした一石二鳥の新しい方法がある。縦書きで左から右へ書くのである。これなら字を汚すことなく縦書きができる。

 元来は毛筆で手を紙から離すから字が汚れることはなかった。また昔は巻紙を使った。巻紙は左手に持って左から右へ回しながら広げるのが自然で、右から左 へ書くのが便利だった。しかし、現代では手を浮かせて書く人はまれであり、巻紙も使わない。だから、縦書きでは字を汚すか、吸い取り紙が必要になる。

 しかし、もし左から右へ書き進むようにすればどんなに便利だろう。字を汚す心配がなくなるだけではない。すでに書いた内容を確認する場合にいちい ち腕をどける必要がなくなる。さらに、書いた内容を簡単に見渡すことができ、前後関係の明確なよい文章も書けるようにもなるだろう。

 昔は横書きも右から左へ書いたが、今では左から右に書いている。縦書きを左から右に変えるのもあながち不可能なことではないのではなかろうか。(1990年9月14日)









 「女性専用車両をつくろう」というご意見に、おじさんである私も賛成です。

 女性専用車両ができれば、まず第一に、朝からくっさい香水の臭いを嗅がなくてすむようになるでしょう。

 第二に、あのとんがったハイヒールにふんずけられて痛い思いをしなくてすむようになるでしょう。

 第三に、痴漢と間違われて、「この人痴漢で~す」などと言われて、赤っ恥をかくようなこともなくなるでしょう。

 第四に、挑発的な女性の身なりを気にせず、集中して読書ができるようになるでしょう。

 第五に、ロングヘヤーがこちらの顔にあたって不愉快な思いをしなくてもすむようになるでしょう。

 さらには、ひょっとすれば、座席の狭い隙間に、おばさんの大きなお尻をつっこまれなくなるかもしれません。(ただし、おばさんたちがそちらに乗ってくれればの話ですが)

 いささか残念なことに、女性専用車ができれば、女性の顔が化粧によってどんなに変わるものか、その過程をつぶさに観察する機会が失われることになるでしょうが、そんなことはすぐに慣れるでしょう。

 あっ、それから、その車両には是非とも子供連れのお母さん方にも乗っていただけるとよいのですが。そうなれば、おじさんたちもさらに安心して電車に乗れるようになるでしょう。

 さて、このようにいいことずくめの女性専用車両です。それをつくるのはおじさんも賛成です。ただ、一つだけお願いがあります。女性専用車両をつくるなら、是非とも、中央の車両ではなくて、先頭車両か最後尾の車両にしてもらえませんか。

 発車間際に女性専用車両に間違って飛び乗ってしまって、一駅区間彼女たちの冷たい視線をあびるのだけはご勘弁願いたいからです。

 以上は、大方の真面目なおじさんたちに共通の意見だと思いますが、いかがでしょうか。(1990年)









 女性のみなさんは元々自分勝手な存在ですが、若いうちは気後れしたりしてなかなかそれを表に出しません。でも若いうちは劣等感の固まりだったような女性が子供を生むと突然強くなって、なりふり構わず自分勝手なことを言い始めます。

 自分一人のためならセクシャルハラスメントを我慢することはあっても、子供という理由ができると途端に人のためになることでも腹が立つというわけです。

 この前の投書のお母さんは女性専用車が端っこになったら子供を抱いて走ることになるとお怒りになっています。社会が共存共栄だと言うなら、どうして痴漢 に悩んでいる若い女性のために早めに駅に来ようとは思わないのでしょうか。それに、痴漢は電車の混み具合などおかまいなしなのをご存じでしょうに。
 間違ってもらっては困りますが、私はけっして若い女性の味方ではなく、むしろ彼女たちの被害者と言ってもいいくらいです。最近の若い女性は子供もいないくせに実に自信たっぷりでずうずうしい。思わせぶりなことを言って、高級料理を食い逃げするくらい朝飯前です。

 もちろん立派な女性もいるでしょう。しかし、人間の中身というものほど分かりにくいものはない。顔はもうひとつだけど言うことはまともだから信用 していいかと思っていると、ものの見事に裏切られたりします。女性は若くて外見さえよければいいのだと言う人がいても、これでは当然ではないですか。

 それに男女平等と言っても、女は男の方がいくぶんでも強くなければ相手を軽蔑します。本当は女性は主導権を握りたいのではないでしょう。責任は男にとらせておいてあれこれ文句を言っていたいだけではないですか。

 文部省に気兼ねして内申書を公開できないのも男なら、電車の利用状況をよく考えて女性専用車を作らないのも男なのです。とにかく、子供を錦の御旗にするのはやめてもらいたいのものです。(1990年)






 日本の小説は登場人物の性格を一つの作品によって描こうとする。欧米の小説は登場人物の性格は簡単な言葉で最初に説明しておいて、そのあとその人たちを中心にして起こる出来事を一つの作品によって描こうとする。

 日本の小説では主人公の顔も年齢も服装もまったく分からないということが少なくない。そんなものは重要なことではなく、その人のもっている深遠で不可解で魅力的な性格、つまり人物を出来事を通じて描いていく。

 欧米のは、どんな顔をしているか、どんな服をきているか、年齢はいくらかがはっきりと書かれてから、話が展開していく。そして事件の展開がどうなるかをスリリングに追っていくことになる。

 日本の小説は事態の推移、ストーリーはただ小説を前に進めて、お終いにもっていくためだけにあると言っていい。






 常磐新平という翻訳家はどうして有名なのだろう。彼の訳した『大統領の陰謀』という本を読むと、その翻訳が非常にぎこちない日本語であり、専門用語もかなり適当な訳語が付けられていることがわかる。

 友だちが常磐新平訳という本を買って読んだらひどい訳だったと言ってきて、きっと本当は別人の訳で名前だけ常磐新平を使っているんだろうと言っていたが、そうなのだろうか。

 『大統領の陰謀』の日本語と『アメリカを変えた五十人』という本のなかの常磐新平の訳は、日本語がよく似ていて、括弧(原文にないことばを補うときに括 弧を使ってその中にいれる)の使い方も同じである。もし友だちの考えどおりだと、どちらも本人が訳したものではないことになってしまう。

 例えば『大統領の陰謀』の翻訳のなかに『支配人小切手』という奇妙な訳語が出てくる。これはCASHIER'S CHECK の訳として使われているのだが、辞書にはそんな訳語はない。

 そもそも銀行に支配人がいること自体驚きである。実は英和辞典の中に、CASHIER に「(銀行の)支配人」という訳語をつけているものがある。どうやら、それと「小切手」を単純にくっつけて作った言葉らしい。

 では、その小切手が実際にはどういう風に銀行で発行されるのかというと、それが不明なまま訳されていることが、あちこちの訳文から明らかである。つまり、よく調べもせずに訳したらしいのである。

 また、全体的に訳語の統一もされておらず、二、三ページの間に同じ人物を指す単語として、元官吏、元役人、元職員と違う言葉が出てくる。
なぜこんなに違う訳語を使ったのかというと、それは単に次々と出てきた単語を直訳しただけだからである。

 確かに、欧米では同じ人間のことを表すのに様々な表現を使う習慣がある。しかし、英文で読めば分かる場合も日本語でそのまま直訳されると読み手は混乱してしまう。

 だから、彼の訳では別の人間が登場したのかと思ってしまうのだ。実際、私は何回も読み直してやっと、ああ同じ人間のことを指しているのだと分かったような次第だ。

 この『大統領の陰謀』の翻訳は完全な直訳調で、おそらくまず全体を最後まで一回読むこともせずに、頭から順に訳していったものらしい。

 ところで、最近彼は小説家としての大した実績もないのに直木賞を取ってしまった。たぶん彼は出版業界ではかなりのやり手なのだろう。

 それにしても、翻訳家として有名になるのに一番重要なのは正確な翻訳力ではないらしいことは、この人の翻訳書が証明している。これから翻訳家になろうという人にはとっては全く励みにならないことである。







1990 - 2010.11.12 Tomokazu Hanafusa
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