第ニ章 思想と言論の自由
(岩波文庫p48からp50まで)
現代は人々が神に対する信仰を失いながらも神の存在を否定されることを恐れている時代であると言われている。この時代の人々は、自分たちの考えが正しいかどうかには自信がないが、自分たちの考えは生きていくうえで無くてはならないものだということは確信している。したがって、ある考えを大衆の攻撃から守る必要があるとすれば、それはその考えが正しいからではなく、それが社会にとって無くてはならないものである場合に限られる。
そこで、ある人たちは次のように言っている。「健全の社会を維持するために、無くてはならないとは言わないまでも、非常に有益な考え方というものがある。だから、それを守ることは、他の社会の利益を守ることと同様に、政府の義務である」
「そのような必要のある場合でしかもそれが政府の仕事に関係のある場合には、政府は世論の支持があるのなら、それが絶対に正しいかどうかに関らず、自らの考えに基づいて行動することが許されているし、そうすべきである」と。
「そのような健全な考え方を弱めようとするのは悪い人間以外にない」と言う人は多く、そう思っている人はもっと多い。だから「そんな悪い人間を取り締まったり、そういう人間の行動を禁ずるのは何も悪いことではない」と思っている人も多い。
こういう考え方の人たちは、ある種の考え方の正しさはともかくその有益性について反論することを制限してもかまわないと思っているのである。また、有益性に対する反論を禁じるだけなら、自分たちが世論に関して絶対に誤ることのない判定人だと独善に陥る恐れもなくなると思っているのである。
しかし、これでうまく行くと思っている人たちは、無謬性の仮定を右から左へ移したに過ぎないことが分っていないのだ。なぜなら、一つの考え方の有益性も、その議論の正しさと同じくらいに、討論の対象として議論されるべき重要な問題だからである。
もし非難の的となっている考え方に対して、充分にそれを弁護する機会が与えられていない情況で、その考え方が有益でなく有害であると断じるためのは、その考え方が間違っていると断じる場合と同じく、自分は絶対に間違いを犯さない判定人だという独善に必ず陥ることになる。
また、「この異端者は自分の考えが間違っていないことを主張することは許されないが、それが無害で有益でさえあることを主張することは許される」と言うのもおかしなことである。ある考えが間違っていないことは、それが有益であることと不可分である。ある定理を有益だとして信ずべきかどうかを考えるときに、それが間違っていないかどうか考えることなしにすませられるだろうか。
「間違った考え方はけっして有益な考え方ではありえない」と主張するのは、けっして悪い人ではなく、この上なく立派な人たちである。有益であると言われていても、自分では間違っていると思っている考えを拒否したとして罪に問われたときに、そんな立派な人がこの主張を使って必死に反論するのを止めさせることができるだろうか。
既存の考え方の側に立つ人たちは、必ずやこの同じ主張を最大限に利用しようとするだろう。彼らは、ある考えが有益であるかどうかの問題をその考えが間違っていないかどうかの問題と切り離して扱おうとはしない。逆に、彼らは自分たちの考えは間違っているはずがないのだから、それは有益であるに違いないと言うのである。
このように、一方で正しさの議論をなおざりにしながら、もう一方で有益さの議論だけしようとしても、それは有益さについての公平な議論とはなり得ないのである。
そして実際問題として、法律や世論によってある考え方の正しさを議論することが禁じられているときには、その考え方が有益であることを否定する議論も禁じられることだろう。このような場合に法律や世論の期待できることは、その考え方の必要性の度合いを多少緩和したり、その考え方を拒否する者に対する罰を軽くする程度のことである。
誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。
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