リヴィウスの『ローマ建国史』



序文 *
第一巻 王たちの時代 *
 
 
第一章 始祖アエネアスのイタリア到着 *
第二章 ラテン民族の誕生 *
第三章 アルバ王国の建設 *
第四章 ロムルスとレムスの誕生 *
第五章 アミュリウス王の殺害 *
第六章 ヌミトル王の復権 *
第七章 ロムルス王の誕生とヘラクレス伝説 *
第八章 元老院の創設 *
第九章 サビニーの女たちの誘拐 *
第十章 ロムルスの戦いと勝利 *
第十一章 タルペイアの裏切り *
第十二章 サビニーとの戦い *
第十三章 サビニーの女たちの嘆願 *
第十四章 フィデナとの戦い *
第十五章 ウェイイとの戦い *
第十六章 ロムルスの昇天 *
第十七章 王の不在 *
第十八章 ヌマ王の選出 *
第十九章 ヌマの政策 *
第二十章 神官の任命 *
第二十一章 宗教の浸透 *
第二十二章 トゥッルス王の即位 *
第二十三章 アルバとの戦争 *
第二十四章 条約の締結 *
第二十五章 三つ子の戦い *
第二十六章 ホラティウスに対する裁き *
第二十七章 アルバ軍の裏切り *
第二十八章 メッティウスの処刑 *
第二十九章 アルバの破壊 *
第三十章  トゥッルス王のその他の業績 *
第三十一章 トゥッルス王の最期 *
第三十二章 アンクス・マルキウス王 *
第三十三章 ラテン人との戦争 *
第三十四章 タルクイニウスのローマ移住 *
第三十五章 タルクイニウス王の誕生 *
第三十六章 占い師ナヴィウス *
第三十七章 サビニーとの戦闘 *
第三十八章 タルクイニウスのその他の功績 *
第三十九章 セルヴィウスの奇跡 *
第四十章   タルクイニウス王の暗殺 *
第四十一章 セルヴィウス王の誕生 *
第四十二章 セルヴィウス王の事績 *
第四十三章 国勢調査と階級分け *
第四十四章 ローマの人口 *
第四十五章 ディアナの神殿の建設 *
第四十六章 タルクイニウスの息子の策謀 *
第四十七章 トゥッリアのそそのかし *
第四十八章 娘婿のクーデター *
第四十九章 タルクイニウス傲慢王の恐怖政治 *
第五十章  傲慢王に対するラテン人の反発 *
第五十一章 トュルヌスの処刑 *
第五十二章 タルクイニウスによるラテン支配 *
第五十三章 ヴォルサイ族に対する戦い *
第五十四章 セクストゥス・タルクイニウスの働き *
第五十五章 ユピテルの神殿などの建設 *
第五十六章 解放者ブルータスとデルフィの神託 *
第五十七章 コラティヌスの妻ルクレティア *
第五十八章 ルクレティアの陵辱 *
第五十九章 革命のぼっ発 *
第六十章  王制の終焉 *

第一巻要約A *
第一巻要約B *


序文

 ローマの歴史をその建国の初めから記録するというこの仕事が、はたして意味のあるものになるかどうかは分からない。いや、たとえそう思っていたとしても、それを口にするほどの思い上りはわたしにはない。歴史家が思い上がった考えを抱きがちなのは昔からの常で、それはわたしもよく知っている。なぜなら、あとの歴史家ほど正確な事実を伝えられるし、うまい文章が書けると思うからである。

 それはともかく、この世でもっとも優れた民族の歴史に貢献できることは、必ずやわたしにとって大きな喜びとなるだろう。また、たとえわたしの名前が多くの歴史家のなかに埋もれてしまうとしても、自分があのきら星のごとき歴史家たちの末席に連なったというだけで満足である。

 ローマの歴史を書くというこの仕事が膨大なものになることは確実である。なにしろ、ローマは優に七百年以上もの長きにわたって続いている。初めのうちは書くことが少なくても、時代が下がるつれて次第にその量は増えていき、最後には手に負えないほど多くの出来事を扱うことになるからである。

 多くの読者にとって、ローマ史の初めの方はあまりおもしろいものではないらしい。だから、そのあたりはさっさと読み飛ばして、現代の話に行こうとする。その現代のローマは、かつての国力をすでに失い始めているというのにである。

 しかし、逆にわたしは、昔のよき時代の歴史を書いている間のほうが楽しい。なぜなら、その間だけは、内乱続きで混乱したこの世の中のことを忘れていられるからである。その上、現代のことを書くときには、真実を曲げるとは言わないまでも、一応多少の手心は加えなければならない。一方、遠い昔のことを書いている間はそのような気遣いがいらないのがいい。

 ローマの建国以前の伝承や、建国にまつわる伝承は、すべてが正確な事実の記録に基づいているわけではなく、多分に詩的な装飾が混じっている。しかし、そのような伝承をわたしは全面的に受け入れるつもりも、すべてを排除するつもりもない。古代史の分野では、人間の世界と神の世界を結びつけて、ローマの始まりを神聖なものにすることが許されているからである。

 そして、自分の国の誕生を神聖なものにしたり、神を先祖にしたりする権利のある国民がどこかにいるとすれば、それは我がローマ人をおいてほかにない。事実、輝かしい戦歴を誇るローマ国民が、自分たちの先祖(それはすなわち建国者の親であるが)を他ならぬ軍神マルスであると言ったとき、世界の国々が、ローマの支配を受け入れると同時に、この伝説をもありがたく受け入れたのは当然である。

 ただし、読者がこのような伝説やこれに類する事柄をどう受け取るかは知らないが、こうした事柄をわたしはあまり重視していない。

 むしろ、わたしは読者がこの本を読むときには、昔はどんな考え方をした、どんな人たちがいたのか、また平和なとき戦争のときに誰がどのようにしてローマの支配権を確立し、それを拡大していったかということに、注目してもらいたいと思う。

 そして、昔の教えが徐々に忘れられていき、まず人々の心に怠け心が芽生え、モラルが次第に低下していき、やがて道徳が崩壊し始め、ついには人々の心に悪に対する抵抗力も、悪を排除する力もなくなって、現代に至っているのである。読者はこの過程にも注意して読んでもらいたい。

 歴史を知ることには大きなメリットがある。それは、あらゆる種類の教訓を、歴史のなかに非常にわかりやすい形で見出すことが出来るからである。歴史からは、誰でも自分たちが国として見習うべきこと学ぶべきことを見つけることができるし、やってはいけないし考えてもいけない不名誉なことを学ぶことができる。

 もし自分の取り上げた主題に対する愛着心によってわたしの判断力が曇らされていないなら、わたしは、ローマほど偉大な国はないし、ローマほど清潔な国はないと思っている。また、お手本にできるような立派な人物をこれほど多く輩出した国はないし、これほど長い間、質素、倹約が尊ばれつづけ、贅沢や金銭に対する執着心と無縁でありつづけた国はないと思っている。

 実際、ローマ人は国が貧しい間は少しの物で満足していた。ところが、最近になって国が富んでくると金銭に対する執着心が生まれてきた。そして、過度に欲望が充足されてくると、放蕩と道楽が高じていき、もう何もすることがなくなると、最後には個人ばかりか集団にも破滅への願望が生まれてくるのである。

 ところで、批判的な言葉はおそらくなくてはならないものであるとしても、やはり耳障りなものであり、このような作品の最初に掲げるにはふさわしくないかもしれない。もし歴史家に詩人と同じ習慣があるなら、「これから始めるこの作品が成功を収めますように」と、わたしも神々に対して幸先のよい祈りの言葉を捧げることで、もっと機嫌よく仕事に取り掛かるところであろう。

 

第一巻 王たちの時代

 

第一章 始祖アエネアスのイタリア到着

 さて、何よりもまず次のことは確かである。トロイが陥落したとき、ほかのトロイ人はみな過酷な運命を逃れることはできなかったが、アエネアスとアンテノールの二人だけは、ギリシャ人との古い友情と、戦争をやめてヘレネを返すことをいつも主張していたために、ギリシャ人の復讐の手を免れることができた。

 しかしそのあと、二人は波乱に満ちた人生を送ることになる。

 まず、アンテノールは、ウェネティー人を自分の一団に引き入れた。ウェネティー人は、内紛によってパフラゴニア(小アジアの国)を追われ、そのうえトロイでプュラエメネス王を失ったために、祖国と指導者を捜していたのである。

 アンテノールはアドリア海の奥の入り江にたどり着いた。そこで、トロイ人とウェネティー人は、当時アドリア海とアルプス山脈の間に住んでいたエウガネイ人を追い出して、土地を自分たちのものにした。彼らが最初に上陸した場所は今でもトロイと呼ばれ、そのあたりはトロイ地方と呼ばれている。また、そこに住む民族は今でもウェネティー(ベネチア)人と呼ばれている。

 アエネアスもまたアンテノールと同じ事情で祖国を追われたが、彼はアンテノールよりもはるかに大きな国をつくる運命を担っていた。彼は、まずマケドニアに行き、つぎに住み処を求めて船でシシリーに行き、シシリーからイタリアのラウレントゥムに着いた。ここもまた今もトロイと呼ばれている。

 彼らはこの地に上陸したが、長い放浪の結果、彼らの手には船と武器しか残っていなかったので、農地に対して略奪行為をはじめた。すると当時そこに住んでいたラティヌス王とアボリギネス人が、侵略者の暴力を押さえようと、武器をとって町や村から集まってきた。

 ここまでは確かであるが、ここから先は二つの説に分かれている。

 一つの説は、戦いに敗れたラティヌス王がアエネアスと平和条約を結んで、それから彼の親戚になったと伝えている。

 しかし、もうひとつの説によると、両軍の配置が終わったあと、開戦のラッパが鳴る直前に、王ラティヌスが重臣たちといっしょに進み出て、この見知らぬ者たちの王に話し合いを呼びかけた、ということになっている。

 ラティヌスは、彼らが何という人たちで、どこから、どんな事情で祖国を追われ、何を求めてラウレントゥムにやって来たのか尋ねた。

 そして、彼らがトロイ人で、その王がアエネアスであって、アンキセスとビーナスの子であることや、彼らが祖国を焼失して、住み処と町をつくる場所を求めてさまよっていることを知った。ラティヌスは、相手が有名なトロイ人とアエネアスであり、彼が勇敢な戦士であるだけでなく平和を熱望していることを知ると、感激してアエネアスの手をとり、いつまでも変わらぬ友情を約束したと言われている。

 そして、二人の王は条約を結び、両軍はエールを交換した。アエネアスはラティヌスの家で歓待を受け、さらに神棚の前でラティヌスから娘のラヴィニアを妻として与えられた。こうして、国と国との約束に個人的な約束が付け加えられた。

 いずれにせよ、こうして、やっとのことでトロイ人は放浪生活に終止符を打って安住の地を手に入れた。彼らは自分たちの夢を実現したのである。

 町づくりが始まると、アエネアスは妻の名に因んで、その町にラヴィニウムという名前を付けた。まもなく新婚の二人に男の子が生まれた。二人はその子をアスカニウスと名付けた。

 

第二章 ラテン民族の誕生

 しかし、まもなくトロイ人とアボリギネス人は戦争に引き込まれた。ルトゥリ人の王トゥルヌスは、アエネアスが来る前にラヴィニアと婚約していたのである。自分が新参者のためにないがしろにされたことに腹を立てた彼は、アエネアスとラティヌスに対して戦争をしかけたのである。

 この戦争では、敵味方ともに大きな痛手を被った。ルトゥリ人は敗北の憂き目を見たが、勝利を収めたアボリギネス人とトロイ人もラティヌス王を失った。

 この敗戦で自信を失ったトゥルヌスやルトゥリ人は、裕福なエトルリア人の王メゼンティウスのもとに逃げ込んだ。

 カエレという豊かな町の支配者であったメゼンティウスは、元々新しい町の誕生を快く思っておらず、トロイ人の国がこれ以上急速に発展することは近隣諸国の脅威になると思っていたので、喜んでルトゥリ人と同盟を結んだ。

 大きな戦争を前にしたアエネアスは、アボリギネス人の自分に対する忠誠を確実にするためには、トロイ人とアボリギネス人が同じ権利だけでなく同じ名前をも持つ必要があると考えた。そこで彼は二つの民族をラテン人と呼ぶことにした。それ以後、アボリギネス人はアエネアス王に対する忠誠心でトロイ人に少しも引けをとらなくなったと言われている。

 大国エトルリアの名声は、陸といわず海といわずアルプスからシシリー海峡まで、イタリア全土に鳴り響いていた。しかし、二つの民族が日に日に心を一つにしていくようすに意を強くしたアエネアスは、城壁の中にこもって戦争を避けることができたにもかかわらず、軍隊を率いて決戦に打って出た。

 戦争はラテン人の勝利に終わったが、この戦いはアエネアスにとっては、この世における最後の奉公となった。彼はヌミクス川のほとりに埋葬された。彼を神と呼ぶのがふさわしいかどうかはともかく、人々は彼を土地のユピテル(ジュピター)と呼ぶ慣わしとなっている。

 

第三章 アルバ王国の建設

 アエネアス亡きあと王座についたのは、まだ幼い息子のアスカニウスだった。しかし、彼が成長するまでの間も王座が揺らぐことはなかった。その間、彼が祖父と父から受け継いだラテン王国は、母親の後見によって支えられたのである。ラヴィニアにはこうしたことに対する才覚があった。

 ところで、この子がこの地で生まれたアスカニウスなのか、それともアスカニウスより年上で、まだトロイが健在の頃にクレウサから生まれて、父とともにイタリアに逃れてきて、のちのユリウス族の始祖となったユルスであるかを、ここで論じるつもりはない。こんな昔のことについて、確かなことは誰も分からないからである。どこでどの母親から生まれた子であるにしろ、このアスカニウスがアエネアスの子であることに変わりはない。

 ラヴィニウムの町の人口が増えて、当時としては非常に豊かな町になると、アスカニウスはラヴィニウムの統治を母親(あるいは継母)に委ねて、自分はアルバの丘に新しい町をつくり始めた。町が丘の上に長く伸びていることから、この町はアルバ・ロンガと呼ばれた。ラヴィニウムができてから、このアルバ・ロンガに植民市ができるまでにおよそ三十年の歳月が経っていた。

 ラテン人の国は、特にエトルリアを破ってから隆盛を極めたので、アエネアスが死んだときも、次の王がまだ若くラヴィニアが後見をしていた王朝の初めの頃でさえも、メゼンティウスのエトルリアも近隣諸国も戦争をしかけようとはしなかった。

 こうして、イタリアに平和が訪れた。ラテン人の国とエトルリア人の国の境界線は、現在のティベリス川、当時の呼び名でアルビュラ川となった。

 アスカニウスのつぎに王になったのは、森のなかで生まれた彼の息子シルヴィウス(森の子)だった。シルヴィウスの次の王はアエネアス・シルヴィウス、その次はラティヌス・シルヴィウスである。プリスキ・ラティニ(初期ラテン人)と呼ばれている人々が周辺地域に植民をしたのは、この王のときのことである。それ以後アルバの町を支配したすべての王はシルヴィウス姓を名乗った。

 このラティヌスの子がアルバで、アルバの子がアテュス、アテュスの子がカピュスで、カピュスの子がカペテュス、そしてカペテュスの子がティベリヌスである。

 このティベリヌス王がアルビュラ川を渡るときに溺れ死んだことから、この川は後にティベリス川と呼ばれるようになった。

 ティベリヌスの子がアグリッパである。アグリッパが死ぬと、その子のロムルス・シルヴィウスが王座を継いだ。このロムルスが雷に打たれて命を落とすと、息子のアヴェンティヌスが王位を継いだ。この王が埋葬された場所が、ローマのアヴェンティヌスの丘である。

 つぎに王座についたのはプロカだった。プロカには二人の息子ヌミトルとアミュリウスがいた。王は一家の長男のヌミトルにシルヴィウス家の由緒ある王座を継がせた。しかし、この時物を言ったのは、父親の希望や長男の権利ではなく力だった。アミュリウスは力ずくで兄を王座から退けて自分が王になったのである。

 この王は次々と悪事を重ねた。彼は兄から生まれた男の子を全員殺してしまい、女の子のレア・シルヴィアはヴェスタの巫女に任命した。一見名誉を授けたようであるが、実は彼女を永遠の処女にして、子が生まれないようにしたのである。

 

第四章 ロムルスとレムスの誕生

 しかしながら、神の国を除けばおそらく最大の帝国となった偉大な都市ローマの誕生は、運命によって定められていたのであろうか、このヴェスタの巫女が乱暴されて双子の男の子を生んだ。

 そして彼女は、自分自身そう信じていたのか体面を繕うためかはともかく、子供たちの父親はマルスの神だと言った。にもかかわらず、神々も人間も誰もこの親子を王の魔の手から救おうとはしなかった。巫女は捕らえられて牢屋に閉じこめられたのである。

 一方、子供は川に捨てて来るようにという命令が下った。ところが、不思議な巡り合わせで、その日はティベリス川が氾濫してあたりが水浸しになっていたので、誰も川に近づくことができなかった。子供を運んできた男たちは、あたりのよどんだ水のなかでも溺れるだろうと考えて、川からあふれた近くのよどみのなかに子供を捨てて、それで王の命令を果たしたことにした。

 その場所は現在、ルミナの無花果が生えているところである。この木は昔は「ロムルスの無花果」と呼ばれていたという言い伝えもある。

 当時そのあたりは人里離れた荒れ地だった。伝説によると、かごに入れられた捨て子は、少しは水に流されたものの、水が引いて陸地に取り残された。そこへ、近くの山から水を飲みにやってきた雌オオカミが、泣き叫ぶ子供たちを見つけて乳を与えた、と言われている。

 王の羊飼い(ファウストゥルスという名前だといわれている)は、狼が子供たちをとても可愛がって舌でなめているところを見つけると、子供たちを自分の小屋に持ち帰って妻のラレンティアに育てさせた。

 実はラレンティアは体を売って暮らす女で、羊飼いたちの間で狼という名前で通っていたと考える人たちがいる。そこからこの不思議な話が生まれたというのである。

 このようにして生まれ育った二人の子供は、大きくなると農園や牧場でせっせと働き、狩りをしながら野山を駆け巡った。そして二人は、心身ともにたくましく成長すると、動物だけでなく、盗品をたくさん抱えた盗賊をも襲うようになった。奪った盗品は羊飼いたちの間で山分けにした。二人は彼らと苦楽を共にした。そして、若者の集団は日に日に大きくなっていった。

 

第五章 アミュリウス王の殺害

 今日のルペルカル祭は、当時からすでにパラティヌスの丘で行われていたといわれている。パラティヌスの丘の名称はギリシャのアルカディア地方のパッランテウムから来ており、それがパッランティウムとなり、パラティヌスと呼ばれるようになったという。

 この祭りは、その昔この地に住んでいたアルカディア出身のエウアンドロスがもたらしたものだといわれている。ルキアの神パン(後のローマの神イヌウス、あるいはファウヌス)を崇める祭りで、裸の若者たちがいたずらをしながら走り回る祭りである。

 盗賊たちはこの祭りのことを知り、盗品を奪われた仕返しに、祭りに興じている羊飼いたちを待ち伏せをして襲った。ロムルスは自力で自分を守ったが、レムスは彼らに捕まってしまった。

 盗賊たちは捕まえたレムスをアミュリウス王に引き渡した。そして、

「この男とその兄弟が若い者を集めて、ヌミトル様の領地に入り込んで乱暴狼藉を働いております」

とわざわざご注進に及んだ。そこで王は処罰をさせるためにレムスの身柄をヌミトルに引き渡した。

 ファウストゥルスは初めから、自分が育てている子供が王の血筋を引いているのではないかという疑いをもっていた。というのは、王の命令で子供が捨てられたという話を聞いていたし、自分が子供を拾った時期がその時期とぴったり符合したからである。しかし、適当な機会が来るまでは、必要もないのにあわてて事実を明らかにするつもりはなかった。しかし、今そのときがやって来た。心配になったファウストゥルスは、ロムルスに真実を打ち明けた。

 レムスを捕らえていたヌミトルもまた、ロムルスとレムスが双子であることを知ると、二人の年齢とその高貴な性格から、自分の孫のことを思い出した。調査の結果も同じ事実を指していた。彼はレムスが自分の孫であると確信するにいたった。

 こうして、至るところでアミュリウス王に対する包囲網が敷かれていった。ロムルスは、若者たちだけで王に攻撃をしかけても勝ち目がないと思ったので、至る所の羊飼いに伝令を送った。そして、彼らが指示通りの時刻に王宮前に集結すると、王に対する攻撃を開始した。

 それとは別にヌミトルの屋敷からも、レムスが部下を集めて、ロムルスの加勢に向かった。こうして、ロムルスはアミュリウス王の殺害に成功した。

 

第六章 ヌミトル王の復権

 ヌミトルは争いの当初、敵が都に侵入して王宮を攻撃していると言って、アルバ市民を武装させて城塞の警護に向かわせた。しかし、ロムルスとレムスがアミュリウス王を殺害して、自分を祝福するためにやってくるのを見ると、すぐに集まりを開いて真相を明らかにした。

 まず、弟のアミュリウスが自分に対して行った悪事について、さらにはロムルスとレムスが自分の孫であること、二人がどのようにして生まれて成長したかについて、また二人の素性が判明したいきさつを明らかにした。そして、アミュリウス王が殺害されたことと、この殺害は自分がやらせたことだと話した。

 二人の若者は部隊を引き連れて、集まった群衆のなかから進み出ると、自分たちの祖父を王と呼んで敬意を表した。集まっていた群衆もそれに続いて全員声を上げて、ヌミトルを王にすることに賛成した。こうしてアルバ王国はヌミトルのものになった。

 一方、ロムルスとレムスは、自分たちが捨てられて育てられたところに新しい町をつくろうと思い立った。当時アルバの町もラヴィニウムの町もすでに人口過剰になっていた。彼らはこのあふれた人口に羊飼いたちが加われば、優にアルバもラヴィニウムも上回る大きな町が生まれると考えた。

 しかし、この計画の前に大きく立ちはだかったのは、祖父のときにも見られた権力に対する欲望だった。この欲望のために、極めてささいなことから、二人の間に醜い争いが起こった。

 双子の二人はどちらが兄か弟か分からなかった。そのため、誰が新しい町の名付け親になるのか、町ができたときに誰がその支配者になるのかを、鳥占いを使って、土地の守護神に決めてもらうことになった。

 神の意志を知るために、ロムルスはパラティヌスの丘に、レムスはアウェンティヌスの丘に登った。

 

第七章 ロムルス王の誕生とヘラクレス伝説

 神の合図が最初に現れたのはレムスのほうだったという。鷲が六羽飛んできたのである。そしてこれが報告された後で、十二羽の鷲がロムルスの前に現れた。

 二人の支援者たちは、両方ともそれぞれを王と呼んだ。レムスの支援者は鷲が先に現れたことを、ロムルスの支援者は鷲の数の多さを、それぞれ王権の証とみなした。

 両者は口論をはじめた。それはやがて暴力に発展し、ついには殺し合いになってしまった。レムスはこの騒動の最中に殴り殺された。

 しかし、一般に知られている話では、レムスがロムルスのことを軽んじて、つくったばかりの境界の壁をとび越えたので、それに腹を立てたロムルスがレムスを殺して、

「今後わたしのつくった城壁を飛び越えたものは、誰であろうとこうなるものと思っておけ」

と大声で威嚇したということである。

 ロムルスはこうして王権を我が物とした。そして、新しい町は創設者であるロムルスの名前をとって、ローマと呼ばれることになった。

 まず最初に、ロムルスは自分が育てられた場所であるパラティヌスの丘を城壁で取り囲んだ。そして、ヘラクレスに対してギリシャの仕来たりに従って、他の神々に対してはアルバの仕来たりに従って生け贄を捧げた。

 ヘラクレスに生け贄を捧げる仕来りは、エウアンドロスがはじめたものだといわれている。その由来は次のごとくである。

 怪物ゲリュオンを倒して美しい牛を奪ったヘラクレス(ハーキュリーズ)は、この地にやってくると、牛を追いながらティベリス川を泳いで渡った。そして、川の近くに草地を見つけると、牛を休ませて牧草をたっぷり食べさせるとともに、自分も旅に疲れた体を横たえた。

 ヘラクレスが飲み食いに飽きて眠り込んでいる間に、彼の牛の美しさが、近くに住む羊飼いで名うての乱暴者であるカクスの目にとまった。カクスは牛の美しさに心を奪われて、何とかして自分のものにしたいと思った。しかし、牛を盗んで洞窟のなかに隠しても、足跡をたどればすぐに居場所は分かってしまう。そこでカクスは、牛のなかから特にきれいなものを選ぶと、牛の尻尾をつかんで後ろ向きに洞窟のなかへ引っ張っていった。

 朝になって目覚めたヘラクレスは、牛の群れをよく見ると、数が足りないことに気づいた。そこで、足跡がないかと近くの洞窟のそばまで行った。足跡はあったが、それはみな洞窟から外に向かうものばかりだった。ヘラクレスはまったく訳が分からなくなって、この奇妙な場所から牛を連れて立ち去ろうとした。

 ところが、よくあることだが、いっしょに歩き始めた牛のなかに、残された牛を悲しんで鳴き声を上げるものがいた。すると洞窟に閉じこめられていた牛が鳴き声を返したのである。

 ヘラクレスはすぐに引き返した。するとカクスは、ヘラクレスを洞窟へ行かせまいと暴力を振るった。そして、仲間の羊飼いに助けを求めた。しかしその甲斐もなく、カクスはヘラクレスの棍棒の一撃で命を落とした。

 当時、そのあたりはギリシャのペロポネソス半島から亡命してきたエウアンドロスが支配していた。彼は力ではなく権威で国民に君臨していた。また、ローマ字を発明したことで国民の尊敬を集めていた。文字は文化の未熟な当時のローマ人にとっては不思議なものだったのである。

 また、彼の母親であるカルメンタは、シビルの巫女がイタリアに来る以前にいた巫女で、国民に非常に崇拝されていた。この神秘的な母親のおかげで、王に対する国民の尊敬はなおのこと高まった。

 その時も、羊飼いたちが見知らぬ男を取り囲んで人殺しだと騒いでいるというので、エウアンドロスがやってきた。そして事件とその原因について彼らから話を聞いた。しかし、犯人の態度や外見に人並み外れた神々しさを感じたエウアンドロスは、犯人に名前を名乗るように求めた。そして、男の名前と彼がどこで生まれた誰の子なのかを知ると、次のように言った。

「おおヘラクレスよ、ゼウスの御子よ、ようこそ参られた。わたしの母は神々の意志を伝える、間違いのない予言者である。母は、あなたがいつの日か神々の列に加わるだろうと話している。また母の予言によると、この地にあなたの祭壇がつくられて、いつの日か地上でもっとも豊かになる民族によって『第一の祭壇』と呼ばれることになる。また、その祭壇にはギリシャの仕来たりに従って生け贄が捧げられることになろう」

 ヘラクレスはエウアンドロスと握手をしながら、「わたしはその予言を受け入れよう。その予言を実現するためにこの地に祭壇をつくって生け贄を捧げよう」と答えた。そしてその場で群れのなかから美しい牛が選ばれて、ヘラクレスへの最初の生け贄が捧げられた。

 この生け贄の祭典をつかさどる仕事は地元の名士であるポティティ家とピナリ家に任された。ところが、ポティティ家は時間どおりにやって来て臓物を分け与えられたが、ピナリ家は遅刻してしまい、臓物が食べ尽くされて残り物しかなくなった頃にやってきた。

 これがもとで、ピナリ家の者はこの祭りの臓物を食べないという伝統が生まれ、それはこの家が絶えるまで続いた。

 一方、ポティティ家の者はエウアンドロスの教えを受けて、その後何世代にもわたってこの生け贄のまつりの祭司をつとめた。この家の者が死に絶えてからは、この仕事は公共奴隷に任されている。

 ロムルスはこの生け贄の仕来りを、唯一つ外国から受け入れた。そして、人類に対する貢献によって不死の命を得たヘラクレスをたたえた。ロムルスもまた同じように不死の命を得ることになる。

 

第八章 元老院の創設

 ロムルスはこのようにして宗教的な儀式を終えると、民衆を召集して会議を開いて法律を発布した。法律だけが民衆を国民として一つにまとめる力を持っているからである。ロムルスは、野蛮な民衆が法律を尊敬するようにするためには、自分自身を権威付けして尊敬の対象にする必要があると考えた。そこで彼は王として特別な衣装を身につけ、自分の前を進む十二人のリクトル(官吏)を任命した。

 この十二という数字は、ロムルスが王になることを示した鳥の数から来ているという人がいる。しかしわたしは、ローマの高官が座る椅子も紫の縁取りをした衣装も隣国のエトルリアから取り入れたものであるから、リクトルという制度もその人数もエトルリアから取り入れたものであるという人たちの意見に賛成である。

 ちなみに、エトルリアでリクトルが十二人になったのは、十二の部族が集まって王を選んだ時に各部族が一人ずつリクトルを出したからであると言われている。

 ローマは城壁をつくりながら町の面積をどんどん拡張していった。将来の人口の増加を見込んで、町の城壁をつくっていったのである。

 ロムルスは、この巨大な都市を人けのない町にしないために、人口を増やそうとして、昔から都市建設者がよく使う手段をとった。つまり、素性の卑しい者たちやいかがわしい連中を大勢集めて、それを地面から生まれてきた自分の子孫だと言い張るのである。

 ロムルスはカピトリヌスの丘の途中にある雑木林の間に亡命者の避難所を開いた。現在塀でふさがれているところである。そこへ近隣諸国から大勢の避難民が、自由人と奴隷の区別なく、新しい生活を求めてやってきた。彼らは都市の発展にとって重要な出発点となった。

 こうして国力が充実してくると、つぎにロムルスはこの力を使うための知恵を国民に授けた。百人の元老を任命したのである。

 百という数字が、ロムルスがこれで十分だと思って決めた数字か、国父に任命できる人間が百人しかいなかったから決まった数字かは不明である。

 いずれにせよ、この国父(パトレス)という名称がその人の社会的地位の高さに由来していることは明らかである。彼らの子孫が現在パトリキ(貴族)と呼ばれている人たちである。

 

第九章 サビニーの女たちの誘拐

 この頃のローマは国力が充実して、近隣諸国と充分対等に戦えるようになっていた。しかし、ローマには女が不足していた。このままではローマの繁栄も一世代で終わってしまうのではという危惧が生まれた。国内で子供が生まれる可能性はないし、近隣諸国から嫁をもらう取り決めもなかったからである。

 そこで、ロムルスは元老たちの意見に従って、近隣諸国に使節を送った。彼らは新しい国民を代表して、それぞれの国に対して民族間の結婚を含めた同盟関係を申し入れた。

「何についても言えることだが、町も生まれたばかりの頃は小さいものだ。その町が大きな力と名声を獲得するには、勤勉さと神々のご加護が必要だ。われわれは、ローマの誕生が神々の祝福を受けたものであり、ローマ人がいつまでも勤勉さを忘れない国民でいることを確信している。だから、あなた方は、われわれを同じ人間として扱ってほしい。そして、われわれとの婚儀を受け入れてもらいたい」

 使節たちは、このような話をしたが、どこへ行っても好意的な扱いは得られなかった。近隣諸国の人たちはこの新興国の出現をさげすみながらも、イタリアの中央にこのような強国が出現したことを、自分たちや子孫に対する脅威と受け止めていたのである。

 また、多くの使節たちは、

「女性用の避難所を作ったらいい。そうすればきっとローマ人にふさわしい結婚相手が見つかるだろう」

 といわれて追い返された。ローマの若者たちはこのような扱いにひどく腹を立てた。もはや暴力沙汰は避けられない情勢だった。

 そのための適当なきっかけをつくるために、ロムルスは馬の神ネプチューンを祭る競技会を開くことにした。彼は自分の怒りは公にすることなく祭りの準備を進め、コンスウァリア祭という名前を付けて、その開催を近隣諸国に通知させした。国民は知恵を出し合って、この祭りを魅力的で話題性のあるものにするために、懸命に準備をした。

 新しい町に対する好奇心も手伝って、たくさんの人々がこの祭りに集まってきた。特にカエニナとクルストゥミウムとアンテムナエなどの、隣接する国の人たちが多く集まった。なかでも、サビニー人は妻子を連れて全員がやってきた。

 彼らはローマ人の家庭に丁重に迎えられると、町並みと城壁と多くの建物を見て回った。そして、こんな短期間にローマが発展していたことに驚いた。

 競技会が始まると、客たちは競技に夢中になって、視線を競技に集中した。その時、予定していた行動が始まった。ローマの若者たちが、合図とともに一斉に走り出して、娘たちをつぎつぎとさらって行ったのである。

 娘たちはたいていの場合、手当たり次第に連れ去られた。しかし、特に美しい娘は元老の有力者たちに割り当てられて、雇われた平民の男たちが彼女たちをさらって行った。

 中でもずば抜けて美しい一人の娘は、タラッシウスという男の雇った者たちによって連れ去られた。彼らは人々に誰のところへ運ぶのかと聞かれるたびに、「タラッシウス様の花嫁になる娘だ。この娘に触れてはならん」と何度も大声で叫んだ。後に花嫁たちが「タラッシウスの花嫁」と声を掛けられるようになったのは、このことが始まりであると言われている。

 人々はパニックに陥り、競技会は打ち切りになった。娘を失った親たちは悲しみに暮れながらローマから逃げ出した。彼らは「これは人をもてなす仕来りを破った犯罪だ」とローマ人を非難した。そして、神ネプチューンに向かってこう訴えた。

「あなたの名前を信じてこの祭りに来たのにだまされた」

 連れ去られた娘たちの方もこの扱いに腹を立てたが、それ以上に自分たちの置かれた境遇に絶望した。そこで、ロムルスは娘たちの元をつぎつぎと訪れては、

「あなたがこうなったのは、あなたの親の傲慢さのせいなのだ。隣人であるわれわれとの婚儀を断ったのだから。だが、この町の人間と結婚すれば、この町の市民権が手に入るし、ローマの富をわれわれと共有できる。その上、人間にとってもっとも貴重な子供を授かるかもしれないのだ。だから、いつまで怒っていないで、運命があなたを委ねた男にすべてを委ねなさい」

 と娘たちを諭して回った。また、ロムルスはこうも言った。

「相手を傷つけたという思いが相手に対する愛情に変わるのはよくあることだ。だから、あなたの夫はきっとあなたにやさしくしてくれるはずだ。祖国と親をなくしたあなたたちのさびしさを補おうとして、なおさら、彼らはよい夫になってくれるに違いない」

 ロムルスのこの言葉に加えて、夫たちは自分たちの行為を愛情と熱意のためだと言って、精一杯やさしくした。それはどんな言い訳よりも女たちの心を開くのに効果があった。

 

第十章 ロムルスの戦いと勝利

 こうして女たちの怒りは治まった。しかし、娘をさらわれた親たちは、ちょうどその頃、喪服をまとって、自分たちの不幸を国に対して涙ながらに訴えていた。そして、自分たちの怒りを国内にとどめておくことができず、サビニー人の王ティトゥス・タティウスのもとに各地から続々と集まった。さらに各国の使節たちもこの王のところに集まった。このあたりではタティウスの力がもっとも強かったからである。

 カエニナとクルストゥミウムとアンテムナエの各都市の人たちも同じ災難にあったが、タティウスをはじめとするサビニー人の対応の遅さにしびれを切らしていた。

 そこで、この三国だけでいっしょに戦いを起こすことにした。

 しかし、なかでもカエニナ軍は憤りと苛立ちのあまり、クルストゥミウム軍とアンテムナエ軍を待てずに、単独でローマ国内に侵入した。しかし、彼らがばらばらに略奪行為を働いているうちに、軍隊を引き連れたロムルスが現れて、カエニナ軍を簡単に蹴散して、力を背景にしない怒りの無力さを教えた。

 彼は敵を破り敗走させ、さらに逃げる敵のあとを追った。そして、カエニナ王を戦死させてその鎧を奪い取った。さらに、ロムルスは主を失った町をただ一回の攻撃で征服した。

 多くの戦利品とともに凱旋したロムルスは、戦果を国民に誇示した。彼は、敵の将軍から奪った鎧を特製の木枠に乗せて自ら運びながら、カピトリヌスの丘を登った。そして、羊飼いたちが神聖視していた樫の木の前にこの戦利品を置いてユピテルに捧げると同時に、この地をユピテルの神域に定めた。

 ロムルスはこの神に名前をつけて、「ユピテル・フェレトリウスよ」と呼びかけた。そして、

「この品は国王であるわたくしロムルスが自ら持ち帰った敵の王の鎧です。わたしはいま心のなかで定めた神域をあなたに捧げます。これから先もわたしの後に続く者たちが、敵の王や将軍を倒したときに得る最高の戦利品(スポリア・オピマ)をこの場所にもたらすことでしょう」

 といって祈った。こうしてローマにおける最初の神殿が生まれたのである。

 神はこの言葉を受け入れた。実際、この神殿を作ったロムルスの言葉通りに、彼の後継者はこの場所に戦利品をもたらした。

 しかし、この奉納の名誉を授かったものは少なかった。その時から現在に至る長い年月の間に幾度もの戦争があったが、戦利品がここに運ばれたのはたったの二回だった。この名誉に授かるほどの幸運に恵まれた者は実にまれだったのである。

 

第十一章 タルペイアの裏切り

 こうしてローマ人が戦勝を祝っていると、この機会をとらえてアンテムナエ軍が誰もいない国境線を突破してローマ領に侵入した。しかし、ローマ軍はあっという間にアンテムナエ軍の前に現れて、農地を漫然と進んでいた敵軍に襲いかかった。ローマ軍が鬨(とき)の声をあげて一度攻撃しただけで、敵は退散し、アンテムナエの町もローマ軍の手に落ちた。

 ロムルスは二度の勝利に得意になっていたが、ロムルスの妻のヘルシリアは、略奪された花嫁たちの度重なる嘆願に悩まされいた。そこで彼女はこの機をとらえて、

「娘たちの親を赦免してローマに受け入れてほしい。そうすれば、国民の和合によってこの国は強固なものになる」

 と、ロムルスに申し出た。ロムルスはこの願いを快く受け入れた。

 ロムルスは、続いて侵入してきたクルストゥミウム軍とも対戦した。敵は他の軍の敗戦を知って弱気になっていたため、さらに簡単に撃退された。

 つぎに、アンテムナエとクルストゥミウムに対して移民団が送られた (土地が肥えているクルストゥミウムへの応募者の方が多かった)。また、ローマへの移民も多く、そのほとんどは略奪された花嫁の親や親戚たちだった。

 最後にローマに戦いをしかけたのはサビニー人だった。この戦争はこれまでよりもはるかに激しいものとなった。サビニー人の行動には怒りや欲望などの感情に流されたところは一つもなかった。その攻撃は単なる見せかけのものではなく、しっかりとした作戦に基づいていた。

 その上、ローマから裏切り者が出た。

 当時カピトリヌスの丘の城塞を守っていたのはスプリウス・タルペイウスだった。彼には神社の巫女をしている娘がいたが、たまたま神殿に供える水をくむために砦の外に出たときに、サビニー人の王タティウスによって買収されて、敵の軍隊を城塞のなかに引き入れたのである。

 しかし、武力で砦を占領したように見せるためか、それとも裏切り者との取り引きは無効だという教訓を示すためか、敵は砦の中に入ると盾を投げつけて彼女を殺してしまった。

 ある伝えでは、サビニー人が左腕に太い金の腕輪と大きな宝石のついた指輪をしていたので、彼女は敵に左腕に持っているものを交換条件として要求したところ、宝石の代わりに盾を浴びせられたと言われている。しかし、別の説によると、彼女がサビニー人に要求した条件は左腕に持っているものを差し出すというものだったが、あとで彼女が盾を要求したので、だまされたと思ったサビニー人は、逆に彼女をだまし討ちにしたといわれている。

 

第十二章 サビニーとの戦い

 こうしてサビニー人はカピトリヌスの丘の砦を占領した。翌日になると、ローマ軍はカピトリヌスの丘とパラティヌスの丘の間にぎっしりと埋め尽くした。そして、砦を取り戻そうと勇み立ったローマ軍が丘を登り始めると同時に、サビニー軍が丘から降りてきた。

 サビニー軍はメッティウス・クルティウスが、ローマ軍はホスティウス・ホスティリウスが、それぞれの軍の指揮をとった。

 不利な状況にもかかわらず、ホスティリウスは勇敢にも前線でローマ軍を支えつづけた。しかし、彼が倒れると、とたんにローマ軍は後退し始めて、最後にはパラティヌスの丘の旧門のところまで退却してしまった。ロムルスは、逃げまどう群衆に押されながらも、剣を空に差し上げながら、こう言った。

「ユピテルよ、あなたが送った鳥の印に従って、わたしはこのパラティヌスの丘にローマの最初の礎を築きました。いまサビニー人がカピトリヌスの城塞を裏切り者から買い取って占領しています。彼らはそこから谷を渡ってここまで攻めてこようとしています。神々と人間の父たるユピテルよ、敵をここから追い返してください。そして、ローマ人の心から恐れを取り除いて、恥ずべき敵前逃亡をやめさせてください。あなたのお力でローマが救われたことを記念して、わたしはここに守護者ユピテルの神殿を建てることを誓います」

 このように祈ると、まるで自分の祈りの言葉が神の耳に届いたかのように、

「ローマの兵士たちよ、最高神ユピテルがおまえたちに、立ち止まって戦いを再開せよと命じられたぞ」

 と言った。するとローマの兵士たちは、まるで天の声を聞いたかのように立ち止まった。ロムルスは自ら戦いの前面に躍り出た。

 メッティウス・クルティウスは先頭を切ってカピトリヌスの城塞から駆け降りていた。そしていま公共広場のあるあたりを逃げ惑うローマ兵を追い回した。

 パラティヌスの丘の門の近くまで来ると、彼はこう叫んだ。

「客をだます不心得者どもを打ち破ったぞ。敵は戦う力などない者どもだ。娘をかどわかすのと兵士と戦うのとは大違いだということを思い知ったことだろう」

 勝ち誇ってこう言うクルティウスめがけて、ロムルスは精鋭部隊を引き連れて突撃をしかけた。そのときクルティウスは馬にまたがって戦っていたので、やすやすとその場から逃げ出した。ローマの若者たちは逃げる彼の後を追いかけた。

 王の大胆さに触発されたローマ軍は至る所でサビニー軍を敗走させた。クルティウスの馬は、追っ手の出す大きな声に驚いて、クルティウスを乗せたまま沼の中に突っ込んでしまった。指揮官が危機にさらされていることを知ったサビニー軍は退却し始めた。やがてクルティウスが味方の身振り手振りを交えた声援に励まされて沼から脱出すると、ローマ軍とサビニー軍は丘と丘の真中で新たに戦闘を開始した。しかし、ローマ軍の優勢は変わらなかった。

 

第十三章 サビニーの女たちの嘆願

 そのときだった。突然、サビニーの女たちが戦場に飛び出してきた。この戦争が起こったのは、ローマで誘拐された彼女たちのためだった。いまその女たちが、髪を振り乱して服の乱れもそのまま、事態の深刻さに怖さも忘れて、飛び交う槍も物ともせず、敵対する両軍の間に割って入ったのである。そして、勇み立つ両者を引き離して、

「婿と舅の間で血を流し合うのは間違っています。おなかの子はあなたの子供であり、あなたの孫なのです。この子の誕生を両者の殺し合いで汚すのはやめてください」

と嘆願した。そして、さらにこう言った。

「もしあなたたちがこの縁組に不満なら、そして、もしこの結婚に反対なら、その怒りはわたしたちに向けてください。わたしたちのために戦争が起こり、わたしたちのために父と夫が傷つき、命を落とそうとしているのです。わたしたちは、これから先、あなたたちのどちらかを失って、父無し子、あるいは未亡人として生きて行くくらいなら、いま死んでしまう方がよほど増しです」

 女たちの言葉は兵士たちだけでなく指揮官たちの心をも揺り動かした。あたりはしんと静まり返った。

 指揮官たちは休戦するために進み出てきた。そして平和条約を結ぶだけでなく、国と国とを合わせて一つにすることになった。さらに、王座を分け合い、首都をローマに定めた。

 こうしてローマの人口は二倍になったが、サビニー人に敬意を払うために、サビニーの首都クレスの名を取って、ローマ市民は別名クイリテスと呼ばれることになった。

 また、この戦争でクルティウスを乗せた馬が深い沼からはい上がって、主人を岸まで運んだことを記念して、この沼はクルティウス湖と呼ばれるようになった。

 悲惨な戦争が突如として喜ばしい平和に変わったことで、サビニーの女たちは、夫や両親にとってだけでなく、誰よりもロムルスにとって掛け替えのない存在となった。そこで、人口を三十の選挙区(クリア)に分けるときに、選挙区の名前にサビニーの女たちの名前をつけた。女の数は明らかに三十より多かったが、選挙区に名前をつける女を選んだ基準が、彼らの年齢だったのか彼らの地位だったのか夫の地位だったのか、それともくじ引きだったのかは伝わっていない。

 同時に騎士階級からなる三つの百人隊(ケンテュリア)がつくられた。それは、ロムルスにちなんだラムネス隊、ティトゥス・タティウスにちなんだティティエンセス隊、命名の理由が不明のルケレス隊である。

 こうして、二人の王が協力して共同統治を始めた。

 

第十四章 フィデナとの戦い

 それから数年後に、タティウスの近親者がラウレントゥムから来た使節に乱暴を働くという事件が起こった。しかし、タティウスはラウレントゥムから国際法に基づく賠償請求が来たときにも、自分の身内をひいきして相手の訴えに耳を貸さなかった。その結果は自分自身の身に降りかかってきた。タティウスがラヴィニウムに恒例の生贄の式典に出かけたとき、暴徒の襲撃を受けて殺されたのである。

 しかし、ロムルスはタティウスとの共同統治に不満を抱いていたためか、この殺害を正当なものと受け止めたからか、タティウスの殺害にそれほど怒りを表さなかった。従って、ラウレントゥムとの戦争を起こすことはなかった。ただし、使節への不正行為とタティウス殺害について賠償を行うために、ローマとラヴィニウムの両都市間に新たな条約が結ばれた。

 こうして、予想に反してラウレントゥム人との平和は維持されたが、別の戦争がもっと近くの、ほとんど市の城門のそばでぼっ発した。

 フィデナ人たちはあまりにも自国に近いところに強国が生まれたことに危機感を抱いていた。そこで、これ以上大きくならないうちに、ローマに戦争をしかけたのである。

 武装したフィデナの若者たちは、まずローマとフィデナの間の農地を荒らし回った。つぎに、右手はティベリス川が邪魔をしたため、左手に方向転換して、農民たちが震え上がる中、略奪を繰り返した。農民たちが急に町に流れ込んできたことで、戦争のぼっ発が明らかになった。

 近くで戦争が起こったため猶予は許されず、ロムルスは急いで軍隊を町の外に引き出して、フィデナから一マイルの場所に陣を敷いた。そして小人数の守備隊をそこに残すと、全員を引き連れて陣地から出ていった。

 そして、部隊の一部を深い茂みの暗闇に配置して待ち伏せを命じた。自分は残りの部隊と騎馬隊を連れて、陽動作戦を実行した。つまり、フィデナの城門近くまで騎馬隊を進ませてから、挑発的にばらばらの戦い方をして、敵をおびき出しにかかったのである。騎馬隊の戦いでは、逃げる振りをして背中を見せても何ら不審に思われることはなかった。

 騎馬隊が退却するか攻撃するか迷っていると、今度は歩兵が退却し始めた。すると、フィデナの城門近くに集まっていた敵は、ローマ軍の誘いに乗って、急に城門から外へあふれ出てきた。そして逃げ出したローマ軍の後を躍起になって追いかけているうちに、例の待ち伏せ場所の近くまで引き出されてしまった。

 隠れていたローマ軍は、突然横から飛び出して敵に襲いかかった。さらに、陣地の守備に残っていたローマ兵たちが、ローマの旗を立てて飛び出してきて、ひるんだ敵に追い討ちをかけた。二重の恐怖に襲われたフィデナ軍は、ロムルス率いる騎馬軍が手綱を返して向かってこないうちに背中を向けて潰走し始めた。逃げるを振りをする敵を追いかけていたフィデナ軍は、本当に逃げる羽目に陥り、まさに散り散りになって自分の町をめがけて走り出した。

 しかし彼らは追ってくるローマ軍を振り切ることはできなかった。敵のすぐ背後に迫っていたローマ軍はフィデナの城門がしまる直前に、敵と一体になって町の中へなだれ込んだのである。

 

第十五章 ウェイイとの戦い

 
 フィデナが戦争を始めたことに刺激されて、ウェイイも参戦してきた。ウェイイ人はフィデナ人と同じエトルリア系の血を引いていたが、それに加えて、ウェイイがローマに近いことも、参戦に拍車をかけた。ローマが近隣諸国に片っ端から戦争をしかける恐れがあったからである。

 彼らもローマ領内に侵入して来たが、まともな戦争を起こすことなく、もっぱら略奪にふけった。陣地を置くわけでもなく、また敵軍を待つわけでもなく、農地から手に入れた略奪品をもってさっさと自国に引き上げたのである。

 農地に敵軍を発見できなかったローマ軍は、決戦に打って出るために、隊列を組んで勇躍ティベリス川を渡った。ローマ軍が決戦のために陣を敷いて町に近づいていることを聞いたウェイイ人は、町にこもって城壁と町を守って戦うよりは外へ出て戦おうと出撃してきた。

 しかし、ローマ軍はたいした戦術も使うことなく、軍の中のベテラン兵の力だけで戦いを制した。そして、逃げる敵を城壁まで追い詰めた。しかし、町は強固な城壁と有利な地形のおかげで難攻不落だった。そこで、ロムルスは、町の攻略をあきらめて、ウェイイの農地を略奪しながらローマに引き上げた。これは略奪自体が目的ではなく、ローマの農地を荒らされた仕返しとして行われた。

 敗戦と略奪という二つの痛手を被ったウェイイは、ローマに使節を送って和睦を申し出た。ウェイイは、農地の一部を賠償金の代わりに提供することで、ローマとの間に百年間続く平和条約を結んだ。

 以上がロムルスが王座にある間に国の内外で成し遂げた業績である。そのどれ一つをとっても、彼が神の子であるという信仰と彼が死後神になったという伝承にもとるものではない。祖父の王座を取り戻したその気概やしかり、ローマを建設し戦争と平和によって国を強化したその手腕やしかりである。

 事実、彼によって力を蓄えたローマは、その後四十年にわたって完全な平和を享受する。しかし、彼はどちらかというと元老たちよりも大衆に好かれた。特に兵士たちには誰よりも人気があった。彼はその中の三百人をケレレース(はやぶさ隊)と名づけて、近衛兵として戦時平時を問わず自分のそばに置いた。

 

第十六章 ロムルスの昇天

 
 このように、ロムルスの業績は不滅のものだった。ところが、ある日のこと、彼がカプラの沼のほとりの広場で軍隊の謁見式を行っていたとき、突然嵐が起こった。そして、稲光が走り雷鳴がとどろくとともに、分厚い雲が王の姿を覆って、人々の視界から隠してしまった。これが地上におけるロムルスの最後となった。

 嵐が去ってもとの静かな日差しが戻ってきて、恐怖から覚めたローマ兵は、王座が空っぽであることに気づいた。王の近くにいた元老たちが、王は竜巻にさらわれたと説明すると、兵士たちはそれを信じたが、親を失ったような悲しみにとらわれて、しばらく沈黙しつづけた。

 そのうち、数人の者の発案で、兵士たちは全員そろって、ロムルスを神と呼び、神の子と呼び、ローマ王と呼び、ローマの父と呼んだ。そして、

「あなたの子孫であるローマ市民をいつまでもお守りください」

 と祈って、ロムルスに加護を求めた。

 しかし、当時から、ロムルスは元老たちの手によって八つ裂きにされて殺されたのだと密かに言うものがいたことは確かである。実際この噂は茫漠としていたが、いつまでも消えなかった。しかし、ロムルスに対する尊敬と、自分たちの将来への不安のせいで、ロムルスは天に召されたという説の方が広まった。

 この説の信憑性は、ある男の知恵によって高められたと言われている。伝承によると、何事につけても人望の厚かったプロクルス・ユリウスは、ロムルスを慕う気持ちが市民たちの間に不安と反元老感情を生んでいるのを憂慮して、国民を集めると次のように言った。

「市民たちよ、この町の親であるロムルス様が今朝早く空から舞い降りて突然わたしの目の前に立たれた。わたしは驚きと畏敬の念にとらわれて立ち尽くした。そして、ロムルス様を正面から見ても罰が当たりませんようにと祈っていると、あの方はわたしにこうおっしゃった。

『さあ、行ってローマ国民に話してこい。天の神々はわたしのローマが世界の首都になることをお望みだから、軍事力を強化すべきである。そして、地上のどの国もローマに反抗することはできないことを自ら信じ、また子孫たちに伝えよと』

こうおっしゃるとロムルス様は天に戻って行かれたのだ」

 驚くべきことではあるが、人々は彼の話を信じた。そして、ロムルスが神になったことを確認した平民や兵士たちは、ロムルスを失った悲しみからいやされたのである。

 

第十七章 王の不在

 
 一方、元老たちの間では、次の王座を獲得するための争いが始まっていた。しかし、まだ国が新しかったので特に抜きんでた人物が見あたらず、特定の一人を選ぶところまでは行かなかった。むしろ、ローマ人とサビニー人の間の派閥争いが活発になった。

 サビニー人は、タティウスの死で王権を手放していたため、今後の共同統治で王権を喪失することのないように、是非自分たちの中から王が生まれることを望んでいた。しかし、ローマの長老たちは外国人の王が生まれることを嫌っていた。しかし、いろいろ言っても彼らがなおも王の存在を望んだのは、彼らがまだ自由の有り難みを知らなかったからである。

 元老たちが心配したのは、周辺諸国が、ローマに王がいずローマ軍に指揮官がいないことに乗じて、攻撃をしかけて来ないかということだった。そのため、トップに立つ人間がいるほうがよいと誰もが思ったが、誰も人に王座を譲ろうとはしなかった。

 そこで、百人の元老たちが国を共同して治めることになった。そして、元老たちを十のグループ(デキュリア)に分けて、それぞれから一人ずつ元老が統治に参加する。つまり、十人の支配者が生まれたのであるが、そのうちの一人が王の衣装をまといリクトルを連れて歩くことができた。その期間は五日間だけで、この役は順番に全員に回った。このような王の不在期間は一年続いた。この期間は空位期間と呼ばれたが、この言葉は現在でも使われている。

 しかし、やがて平民たちは、大勢の人に仕えなければならないことに不満を抱き始めた。王が百人に増えたようなものだからである。もはや正式な王でなければ、しかも自分たちの選んだ王でなければ我慢できないという雰囲気だった。

 この動きを察した元老たちは、いずれは失うことになるものなら進んで提供したほうがよいと考えて、最高権力を国民に委ねて国民から感謝される道を選んだ。しかし、これは実質的には、国民がすでに持っているものを与えたにすぎなかった。というのは、国民が王を選ぶけれども、それを承認する権限は元老に残しておいたからである。

 現代でも役人の選出や法案の採決では同じやり方がとられている。ただし現代では形骸化していて、元老院は民会が投票する前のまだ投票結果が分からない段階で承認することになっている。

 さて、その時仮の王だった元老は国民を集めて次のように言った。

「このことが、首尾よく運び、成功に終わりますように。さて、市民たちよ、おまえたちがローマ王を選ぶがよい。元老たちはそう決議した。もし、おまえたちがロムルス様の後継者にふさわしい者を選んだら、それを元老たちが承認しよう」

 平民たちはこれにいたく感動して、元老たちの気前の良さに負けまいと、誰がローマ王になるかは元老院が決定するようにと決議した。

 

第十八章 ヌマ王の選出

 
 当時、ヌマ・ポンピリウスが公平で信心深いということで有名だった。サビニーの首都クレスに住み、人間世界の法律についても、神のおきてについても、当時としては並ぶ者がない博識を誇った。

 彼にこの知識を与えたのはサモスのピュタゴラスであるという人がいるが間違いである。これはほかに適当な人物が見あたらないから出た説で、ピュタゴラスがイタリアの南端の海岸沿いのメタポントゥムやヘラクレアやクロトンあたりに来て若い研究者集団をつくったのは、それより百年以上も後、セルヴィウス・トゥッリウスがローマ王だった時代である。

 仮にピュタゴラスがヌマと同時代の人間だったとして、彼の名声がどうやってサビニーまで伝わっただろうか。また彼はどんな言語を使って、サビニー人たちの学習意欲を掻き立てたというのか。言葉も習慣も違う国々の間を、彼はいったい誰に守られてたった一人でサビニーまでやってきたというのであろうか。

 わたしは、ヌマは本人の性格によって、自分自身を優れた人格者に鍛え上げたのだ、と信じている。当時サビニー人ほど厳しい道徳観をもった国民はなかったのである。彼を育てたのは、その古いサビニーの厳格な教えであって、外国製の学問ではなかった。

 ヌマの名が挙がったとき、ローマの元老たちは王座をサビニーにとられたら権力もサビニーに移ってしまうのではと心配した。しかし、誰も自分が王になるとは言い出せず、またローマの元老たちや市民たちの間にヌマより優れた人物を見いだすことはできなかったので、全員一致でヌマ・ポンピリウスを王に推挙することに決めた。

 ヌマは呼び出しを受けると、ロムルスがローマを建設するときに鳥占いによって王座を手に入れた前例にならって、自分についても神々の意思を問うように求めた。 

 そこで、このときの功績で後に国の終身の神官となった鳥占い師が、ヌマをカピトリヌスの城塞に導いていき、石の上に南向きに座らせた。そして、自分の頭を布で覆うとヌマの左側に座って、右手にリトゥースと呼ばれる節のない曲がった杖を握って、町と農地を眺めながら、神々に祈りを捧げた。そして東から西へと眼差しを移しながら、天の領域を見定めた。そして、南を吉の領域、北を凶の領域とすると言ってから、正面の目の届く範囲でもっとも遠いところに目印を決めた。つぎに、占い師はリトゥースを左手に移して右手をヌマの頭に置くと祈り始めた。

「父なる神ユピテルよ、もしもわたしが頭に手を置いているこのヌマ・ポンピリウスがローマ王となるのが神意に叶うならば、わたしが定めた領域の中に確かな印を示し給え」

 そして、現れて欲しい鳥のしるしを言葉で表した。すると、そのとおりの鳥のしるしが送られ、ヌマは正式に王と宣言された。そして彼は鳥占いを行った丘から降りた。

 

第十九章 ヌマの政策

 
 こうして王座についたヌマは、前任者が武力でつくりあげたローマを、法と宗教に基づいて新たにつくりなおした。戦争によってすさんだ心に法と宗教を教えるためには、武器を使わせないことによって野蛮な国民性を軟化させる必要があると考えた。そこで、今のアルギレトゥム地区の端にヤヌスの神殿を建てて、国が戦争をしているかいないかを表示することにした。つまり、国が戦争中は神殿の扉を開き、周囲の国を平定したときは神殿の扉を閉じるのである。

 ヌマの治世の後、この神殿の扉は二度閉じられた。一度目は、第一次ポエニ戦争終結後の、ティトゥス・マンリウスが執政官だったときであり、二度目は、アクティウムの戦いの後、将軍アウグストゥス・カエサルによって海と陸の両方に平和がもたらされたときである。われわれの世代がこれを目撃できたのは神の恵みである。

 ヌマは近隣諸国との間で条約を結んで平和を確立すると、自らヤヌスの神殿の扉を閉じた。そして、国外から危険が及ぶ心配がなくなると、ヌマはこれまで敵に対する恐怖と軍事訓練によって引き締められていた国民の心がだらけてくることを心配した。そこでまず最初に神に対する恐怖心を国民の心に吹き込む必要があると考えた。当時の無知で野蛮な大衆にとっては、これがもっとも効果的だと思ったのである。

 しかし、何か不思議な仕掛けを施さないと国民の心を動かすことは難しいと考えたヌマは、女神エゲレアと自分が夜な夜な会っているふりをした。そしてこの女神の教えであると称して、神々にもっとも喜ばれる儀式を創設して、それぞれの神に仕える神官を任命した。

 つぎに何よりもまずヌマがしたことは、月の運行に従って十二ヶ月を一年と定めたことである。月の満ち欠けの周期は三十日に満たず、一年は太陽暦の一年より十一日少ないので、閏月(十九年間に七回)を設けて、二十年目に周期が完了したときに、太陽暦の太陰暦の日数が、一日の始まる太陽の位置で、完全に一致するようにした。

 またヌマは公事を行う日と行わない日を定めた。国民の仕事をしなくてよい日が何日かあるほうが望ましいと考えたからである。

 

第二十章 神官の任命

 

 つぎにヌマは神官の任命にとりかかった。もっとも、ヌマは多くの儀式、中でも特にユピテルの神官が現在行っている儀式は自分で行った。しかし、ヌマは「ローマ人のような好戦的な民族では、自分のような王よりロムルスのような王の方がたくさん輩出するだろう。そうなれば王自らが戦場におもむくことになるだろう」と考えた。そして、そんなときにも、王の仕事である宗教儀式がないがしろにされることのないように、ユピテルの神官職をつくって永久に無くならない地位にした。そして、この神官には特別の衣装と、王が座るような特別の椅子を与えた。

 このほかにマルスの神に一人、クイリヌスの神に一人神官を任命した。ヴェスタの神には生娘たちを巫女に任じた。この神官職はアルバに由来するため、創設者であるヌマの家系とつながりがあった。また彼女たちが神殿の仕事に専念できるように、国庫から給金を支給することにした。巫女たちは処女であるためだけでなく、数々の儀式を行うことによって、尊く神聖な存在とされた。

 同様にして、神マルス・グラディウスのためには十二人のサリウスという踊り手を選んだ。彼らには特別に刺繍つきのトューニック(下着)をまとわせた。またトューニックの上には銅の胴巻きをつけさせた。そして歌をうたい踊りをおどりながら町を練り歩くさいに、アンキリアという神聖な盾を持つように命じた。

 つぎに、彼はマルクスの子ヌマ・マルキウスを元老の中から選んで神祇官(じんぎかん)に任命した。そして彼にすべての儀式の式次第を書き記したものを預けた。そこには、どの生贄を何時どの神殿で捧げるか、その経費はどこから出すかが書かれてあった。

 そして、公私を問わずこれ以外の儀式についても、国民をこの神祇官の指図に従わせることにした。国民が祖国の儀式を無視したり、外国の儀式を採用したりして、神の掟に混乱をきたすことがないよう、相談しに行ける人間をつくったのである。

 神の儀式だけでなく、正しい葬儀の仕方、死者の亡霊を慰める方法も同じく神祇官が教えることにした。また、雷など形で現れる前兆のどれを受け入れるべきかどれに注意すべきかを教えることにした。そして、神々の心からこれらの知識を引き出すために、神ユピテル・エリキウスの祭壇をアウェンティヌスの丘に奉納した。そして、どんな前兆を観察すべきかを鳥占いを使ってユピテルに相談した。

 

第二十一章 宗教の浸透

 

 民衆の関心はいまや武力や戦争から神々に関する知識を手に入れたり聞いたりすることに移った。彼らは考え事にふけり、頭は神のことばかりになり、人間界の出来事には神の意思が関わっていると信じ始めた。その結果、すべての人に神を敬う気持ちが生まれて、法や刑罰に対する恐怖に代わって約束や誓いが国民を支配するようになった。

 それまでは近隣諸国の人たちはローマのことを町と言うよりは自分たちの真中にできた要塞で、国際平和を脅かす存在であるとみなしてきた。ところが、ローマ国民が王の人柄を手本にして行動するようになると、彼らもローマを尊敬の対象とみなすようになり、完全に神々に帰依したこのような国に対して侵略行為を企てることは、神に対する冒涜であると考えるようになった。

 ところで、真ん中の薄暗い洞窟からわき出る泉によっていつも潤っているある森があった。それは、ヌマが女神エゲリアに会うと言って一人で通っていた森だった。ヌマは「この森で女神カメーネ(芸術の神ムューズ)が自分の妻エゲリアと会っているのだ」と言って、この森を女神カメーネに捧げた。

 約束の神(フィデス)の祭りもヌマが創設した。この神官たちは、覆いのついた二頭立ての馬車で神殿に行き、指の先まで布で包まれた手で神事を行うように命じられた。この装束は、約束を尊ぶべきことと、握手をする右手にはこの神が宿っていることを意味していた。

 その他の多くの神の祭りや儀式を行う場所もヌマが創設した。これらの場所を神祇官たちはアルゲイと呼んだ。

 しかしこの王の最大の業績は、その治世の間は自分の王座を守ることよりも平和を守ることに熱心だったことである。

 以上の二人の王は、それぞれのやり方で、つまり一人は戦争によって、もう一人は平和によって、国を大きくした。ロムルスは三十七年間、ヌマは四十三年間王座にあった。こうしてローマは内政と外交の知識を積み重ねて、強力かつ節度ある国民となった。

 

第二十二章 トゥッルス王の即位

 

 ヌマの死後しばらく空位期間があった。それから、カピトリヌスの城塞の下でサビニー人と戦ったあの有名なホスティリウスの孫のトゥッルス・ホスティリウスが、国民によって王に選ばれた。元老もこの王を承認した。

 この王は先代の王とはまったく違い、非常に好戦的な王で、ロムルスよりもさらに戦いを好んだ。その若さや体力だけでなく祖父の栄光が彼を戦いに駆り立てた。何もしないでいると国力が衰退すると信じていた彼は、至る所に戦争を起こすきっかけを捜した。

 たまたま、ローマの農民がアルバの農地で、アルバの農民がローマの農地で互いに略奪行為を働く事件があった。

 当時アルバの王はガイウス・クルヴィリウスだった。

 賠償を請求する使節が両方の国からほぼ同時に出発した。トゥッルス王は使節に対して、向こうに着いたらすぐに要件を切り出すように命じておいた。「アルバの王はこの請求を拒否するに決まっている。そうなれば、戦いを始める大義名分ができる」と考えたのである。

 一方、アルバの使節はなかなか用件を切り出さなかった。トゥッルスによって丁重なもてなしを受けると、王の催す晩餐会にも機嫌よく出席した。

 その頃ローマの使節はアルバよりも先に賠償を請求して、それが断られると十三日目にアルバに対して戦争を始めると宣告していた。そして帰ってトゥッルスにこの報告をした。

 その時になってトゥッルスは、アルバの使節にどんな要件で来たのか話すきっかけを与えた。何も知らない彼らは、まずは遺憾の意を表すことに時間を割いた。

 「わたしたちはトゥッルス殿があまりお喜びにならないようなを口にするのは気が進まないのですが、王の命令には従わねばなりません。わたしたちは賠償の請求のために参ったのです。もし賠償に応じて頂けなければ、戦争の布告をするよう命じられています」

 これに対してトゥッルスはこう言った。

 「あなたたちの王に伝えるがよい。『賠償の請求に来た使節の言い分を退けて使節を追い返したのは、どちらの国が先であるかは、誰の目にも明らかである。神々はこの罪深い国を、必ずやこの戦争の敗者にしてくださることだろう』と」

 

第二十三章 アルバとの戦争

 

 アルバの使節は帰国するとこの事実を報告した。そして両国とも全力をあげて戦争の準備にとりかかった。この戦争は内戦に等しかった。いわば親と子の間の戦いである。どちらもトロイ人の子孫であり、トロイからラヴィニウムが生まれ、ラヴィニウムからアルバが生まれ、アルバの王家の血からローマが生まれたからである。

 しかし、結果として、この戦争はそれほど悲惨な戦いにはならなかった。なぜなら、軍と軍との衝突はなく、ただ一方の町の家屋が破壊されて、二つの国民が一つになっただけだからである。

 先にアルバが大軍を引き連れてローマの農地に侵入して来た。そしてローマから約五マイルのところに陣を敷き、堀で周りを囲んだ。この堀は、アルバ王クルヴィリウスの名を取ってクルヴィリア堀と呼ばれ、その後何世紀もの間存在したが、古くなって消えてなくなるともに、その名前も忘れられてしまった。

 アルバ王クルヴィリウスはこの陣内で急死したため、メッティウス・フフェティウスが独裁官に選ばれた。敵の王の死によって勇気付けられたトゥッルスは、

「偉大な神は、この不正な戦いの罰を、敵の大将から始まってアルバの全兵士に加えてくださるつもりなのだ」

 と言って、夜中に敵の陣営の前を通り過ぎて、アルバの農地を侵略した。

 これを知ったメッティウスは自陣から出発して、ローマ軍のすぐそばまで近づいた。そして使者をトゥッルスの元に送って、

「戦う前に話し合いたい、もし会談が成立すればアルバにとってもローマにとっても有益なことを提案する」

 と申し入れた。

 トゥッルスはこの申し出を受け入れたが、万一それが嘘である場合に備えて、軍隊に戦争の準備もさせた。対するアルバ軍も隊形を整えた。

 両軍が整列し終えると、トゥッルスとメッティウスはそれぞれ数人の将軍を連れて両軍の真ん中に進み出た。そしてまずアルバのメッティウスが口を開いた。

「わがクルヴィウス王から聞いたところでは、この戦争の原因は、国土が略奪されながらも条約に基づく賠償を拒否されたことであると思う。トゥッルスよ、おそらくあなたの国も同じように主張されると思う。

「しかし、建前ではなく本当のことを言うなら、隣接する親戚同士である両国をこの戦争に駆りたてたものは支配欲である。わたしはこれが正しいとか間違っているとか言うつもりはない。これは、戦争を始める人間がよく考えておくべき問題である。アルバ人はこの戦争を遂行するためにわたしを指導者に選んだ。しかし、王よ、わたしはあなたにこれだけは言っておきたい。

「わが国を、そして特にあなたの国を取り巻くエトルリアの勢力がどれほど大きいかは、エトルリアと隣接しているあなたのほうがよくご存知であろう。彼らの陸軍は強力である。彼らの海軍はさらに強力である。よく考えていただきたい。もし今あなたが戦争を始めたなら、彼らはこの二つの軍隊の戦いに注目して、両軍が疲れきったときを待って、勝者と敗者に対して同時に襲いかかることだろう。

「しかるに、われらは現在の確かな自由に飽き足らず、支配か隷属かの危険な賭けに出てしまったのだ。こうなった以上、どちらの国にも大きな損害を与えず、どちらの国民の血も大量に流すことなく、どちらが支配者になるかを決める方法をとろうではないか。もしわれら両国が神々のご加護の元にあるなら、そのような方法は可能なはずだ」

 戦争好きのトゥッルスは、勝算ありと見ていたので戦いを望んだが、この提案に同意した。双方で協議した結果、ある方法に決まった。それはまったく偶然の産物といえるものだった。

 

第二十四章 条約の締結

 

 たまたま両軍には年恰好も体格も同じような三つ子の兄弟がいた。彼らの苗字がホラティウスとキュリアティウスであることはわかっている。この事件は古代の伝説のなかではもっとも有名なものの一つである。ところが、これほど有名な事件にもかかわらず、彼らがどちらの名前だったか、つまりどちらの三つ子がホラティウスでどちらの三つ子がキュリアティウスだったのか、分からないのである。歴史家たちの間で説が分かれているのだ。ただ、ローマの三つ子がホラティウスだったという説を取る人のほうが多いようである。わたしもこの説をとりたいと思う。

 王たちはこの二組の三つ子に

「祖国を代表して戦ってほしい。この戦いに勝ったほうに支配権が行くことになっている」

 と話した。

 三つ子は両方ともこの申し出を受け入れた。つぎに時間と場所が決められた。そして実際に三つ子たちが戦う前に、ローマとアルバの間で条約が結ばれた。その内容は、この戦いで勝った国が他方の国に対する完全な支配権を得るというものだった。

 条約の内容は場合によって違うが、その手続きは常に同じである。この条約は記録に残っている最古の条約である。その締結の手続きは次のようであったと思われる。

 まず外交担当祭司が王トゥッルスに次のように質問した。

「王様、アルバの代表と条約を締結することをわたしに命じられますか?」

 王が命ずると、

「では、王様、わたくしに神聖な薬草(サグミナ)を下さい」

 そこで王は言う。

「汚れなきものを採るがよい」

 祭司はカピトリウムの城塞から汚れのない薬草を摘んだ。その後王に次のように問うた。

「王様、わたくしに紋章と随行員をお与えくださり、ローマ市民を代表する王の使者となさいますか」

 それに対して王は次のように答えた。

「わたしとローマ市民に損害を与えないようにしてもらいたい」

 この祭司はマルクス・ウァレリウスだった。彼はスプリウス・フュシウスの頭と髪を薬草でなでて、彼をローマの代表に任命した。

 この代表は誓いの言葉を述べて条約を神聖化する役割を負っていた。この誓いの内容をここに掲載することはできないが、韻を踏んだ膨大な言葉からなっている。

 つぎに条約の条文が読み上げられると、

「ユピテルよ、聞くがよい。アルバの代表よ、聞くがよい。アルバの国民よ、聞くがよい。

「このロウを塗った書き付け板にあるこれらの条文が、始めから終わりまで人々の面前で誠意をもって読み上げられ、今日ここで正しく理解された以上は、ローマ国民が最初にこれらの条文にそむくことはないだろう。

「もしローマ国民が悪意とはかりごとによって先にこの条文にそむくことがあれば、そのときは、わたしがこの豚を今日ここで打ち据えるように、ユピテルよ、あなたはローマ国民を打ち据えるがよい。力の限り打ち据えるがよい」

 こう言うと、祭司は豚を石の刀で強く打った。

 同様にして、アルバの代表として独裁官と祭司が、決り文句と誓いの言葉を述べた。

 

第二十五章 三つ子の戦い

 

 条約が締結されると、二組の三つ子は合意にしたがって、武器を手に取った。両軍は彼らに声援を送った。

「祖国の神々も、祖国も、お前たちの両親も、国に残っている市民たちも、軍の兵士たちも、お前たちの戦いぶりに注目しているぞ」

 と励ました。もともと勇猛果敢な彼らは、それぞれの国民の熱心な声援にますます意を強くして、両軍の間の中間点まで進み出た。

 兵士たちはそれぞれの陣地の前に腰を下ろした。彼ら自身の危険は遠のいたが、心の不安はむしろ募っていた。自分の国の未来がこんな少ない男たちの勇気と運命にかかっていたからである。そのために、彼らははらはらしながらこの恐ろしい見世物を熱心に見つめていた。

 合図とともに剣を抜いた三つ子の若者たちは、一列に並んで、大軍の期待を一身に背負って出撃していった。

 彼らには自らの身の危険を省みる余裕はなかった。その念頭にあるのは、自分の国が支配者となるか奴隷となるかということだけだった。自分たちの運命が国の運命となるのである。

 両者が衝突するととたんに、盾のぶつかり合う音が聞こえ、きらめく剣からは火花が散った。見ている者たちの体を戦慄が走った。そして、形勢不明のなかで、彼らは息を詰め声を潜めて、戦士たちを見守った。

 やがて戦いはもみ合いとなった。体をぶつけたり、剣を突いたり、盾を振り回したりしているうちに、兵士たちの体は傷つき、血が流れた。そして、ローマ側の二人が次々と倒れて命を落とした。しかし、アルバ側の三人も傷ついていた。

 ローマの二人が死んだことで、アルバ軍は喜びにわき上がった。一方、ローマ軍は意気消沈した。残りの一人がアルバ側の三人に取り囲まれている様子を、ただはらはらしながら見つめるだけだった。

 ところが、たまたまこの一人は無傷だった。彼には三人全員と一度に戦う力はなかったが、別々なら勝てる自信があった。

 そこで彼すなわちホラティウスは、三人と別々に戦うために、その場から走り出した。傷ついた相手の三人はそれぞれの体力の許す速さでしか追いかけて来られないことを、彼は充分に見越していた。

 最初に戦っていた場所からかなり離れた場所まで来てホラティウスが振り向くと、三人の追っ手の間隔は大きく開いていた。

 一人のアルバ兵がすぐ背後に迫っていた。ホラティウスは、この兵士に猛然と襲いかかった。アルバ軍はあとの二人に「兄弟を助けろ」と叫んだが、その甲斐もなくホラティウスはこの一人を打ち倒した。

 彼は勝ち誇った様子で、次の敵を待った。その時、ローマ軍の兵士たちは、競技会の思わぬ展開に熱心なファンたちが上げるような大きな歓声を上げた。これに励まされたホラティウスは、急いで次の相手にかかっていった。そして、近くまで来ていた最後の一人が着かないうちに、もう一人アルバ兵を片付けた。

 こうして、最後の決戦に二人の兵士が残った。しかし、二人の間の体力と気力には大きな開きがあった。一方は体に傷もなく二人を倒してますます意気盛んな様子で三人目との対戦に向かおうとしていたのに対して、他方は体に傷を受けている上に走ったためにくたくたになっていた。おまけに目の前で兄弟を二人殺されたのである。どちらが勝ち、どちらが敗れるかは明らかだった。

 もはやそれは戦いとは言えなかった。ホラティウスは勝ち誇った様子で、

「敵の二人の命を、わたしは死んだ二人の兄弟に捧げた。三人目の命を、わたしはローマがアルバの支配者となるために奪う」

 と叫んだ。彼は武器を持つこともままならない相手の首に、上から剣を突きたてて殺した。そして死んだ相手のよろいを剥ぎ取った。

 ローマ軍は大喜びで歓声を上げながらホラティウスを迎えた。一時は敗色が濃厚だっただけに、なおさら彼らの喜びは大きかった。

 両軍はそれぞれの兵士の埋葬にとりかかったが、支配権を得て意気上がるローマ軍と、他人に支配される身となったアルバ軍とは対照的だった。

 墓はそれぞれの兵士が倒れた地点につくられて現在も存在している。二人のローマ兵はアルバの近くにいっしょに埋葬され、三人のアルバ兵はローマの近くに、戦ったときと同様、ばらばらに埋葬された。

 

第二十六章 ホラティウスに対する裁き

 

 両軍が別れる際に、メッティウスは締結した条約どおり、トゥッルスに対して、何を命ずるつもりか尋ねた。するとトゥッルスは、もしウェイイとの戦いが始まったときにアルバ軍を使えるように、軍の武装を解かないように命じた。こうして両軍は祖国に帰った。

 ローマ軍の先頭にはホラティウスが、アルバの三つ子の鎧を掲げながら進んだ。

 ホラティウスには妹がいて、アルバの三つ子のうちの一人と婚約していた。彼女はカペナ門の前でホラティウスの前に現れた。そして、婚約者のために自分がつくった軍服が、兄の肩に掛かっているのに気づくと、髪を振り乱して泣きながら、今は亡き婚約者の名前を呼んだ。

 国民がみんな喜んでいるのに、自分の勝利を自分の妹が悲しんでいることを、血気盛んなホラティウスは許せなかった。彼はかっとなって剣を抜くと、次のように怒鳴りつけて、妹を刺し殺してしまった。

「おまえの頭の中には、亡くなった兄のことも生き残った兄ことも祖国のことも何もないのか。時をわきまえぬ愛情がそんなに大切なら、お前の愛する人のもとに行くがいい。敵の死を悲しむようなローマの女は、みんなこのようにして死ぬがいい」

 元老たちも民衆もこの残酷な行為を目撃したが、今しがた手柄を上げたばかりのホラティウスに対して何もできなかった。

 しかし、ホラティウスは捕らえられて、裁きを受けるために王の前に引き出された。

 王は国民に不人気な裁判をしたくなかったし、判決を下してホラティウスを死刑にしたくもなかったので、民衆を集めてこう言った。

「わたしは法に従って二人官を任命し、法を無視したホラティウスを反逆罪の容疑で裁かせることにする」

 この法律の条文は恐ろしいものだった。

「反逆罪の判決は二人官が宣告する。もしこの判決が控訴されたら、その控訴は審議される。控訴が棄却されたら、被告は頭を布で覆われ、ロープで不幸の木に縛られ、その後、町の中あるいは町の外でむち打たれる」

 この法に従って二人官が任命された。この法律では、二人官はたとえ被告が無実でも無罪の宣告はできないことになっていた。そこで有罪の宣告したのちに、二人のうちの一人が、

「プブリウス・ホラティウスよ、汝に反逆罪の判決を下す。リクトルよ、彼の手を縛りなさい」

と言った。リクトルはホラティウスに近づいて手錠をはめようとした。すると、ホラティウスは、法律を寛大に適用したいトゥッルスの指示によって、

「控訴する」

 と言った。この控訴についての審議が民衆の前で開かれた。この審議のなかで人々の心をもっとも大きく動かしたのは、ホラティウスの父親の次のような発言だった。

「わたしは、娘が殺されたのは正しいと思っています。もし間違っていると思ったなら、父親の権利を行使してわたし自身が息子を処罰したでしょう」

 そして父親の言葉は哀願に変わった。

「あなたちはわたしがつい先ほどまですばらしい子供たちに恵まれていたことをご存知でしょう。そのわたしを子供のない人間にしないでください」

 こう言いながら、老人は息子を両手で抱きしめた。そして、息子がアルバの三つ子から奪った戦利品(それがあった場所は今では「ホラティウスの槍」と呼ばれている)を指しながら、こう言った。

「ローマ市民よ、つい先ほど名誉に包まれて凱旋したばかりのこの子が叉木に縛られ鞭を打たれ、拷問される姿を、あなたたちは正視できるのですか。アルバ人ならば、そんな醜い光景を目にすることは耐えられないはずです。

「さあ、リクトルよ、つい先ほど武器を握ってローマに支配権をもたらしたこの手を縛りなさい。さあ、この町を救った男の頭を布で覆って不幸の木に縛りなさい。そして、町の中の、この子が敵から奪った槍と戦利品の真ん中で、この子を鞭で打てるものなら打ってみなさい。それとも、町の外の、アルバの三つ子の墓の真ん中で、この子を鞭で打てるものなら打ってみなさい。おまえたちはこの子をどこに連れて行こうと、手柄を立てたこの子に対して、これほど醜い罰を加えることなどできないはずです」

 民衆は、父親のこの涙に抗することはできなかった。そして、どんな苦難に遭遇しても堂々としているホラティウスの勇気に打たれた。彼らは、ホラティウスの言い分を認めはしなかったが、その立派な態度に感動して、彼を釈放した。

 しかし、明らかな殺人の罪を何らかの方法で清める必要があった。そこで、国の金を使って息子を清めるようにと父親に対して命令が下った。

 父親は、今もホラティウス家に伝わっている清めの儀式を行った。そして、道の上に棒を渡して、くびきを背負ったことに表すために、その下を布で頭を覆った息子を通らせた。

 この横木は「妹の横木」と呼ばれ、国の費用で作りなおされて今も同じ位置に存在する。また、ホラティウスの妹の四角い墓石は、彼女が殺されたのと同じ場所に今も存在する。

 

第二十七章 アルバ軍の裏切り

 

 アルバとの平和は長続きしなかった。気の弱い独裁官は、三つ子の兵士に国の将来を託したことに対して国民の批判を受けると、簡単に堕落した。正しい考えでよい結果が得られなかったので、今度は不正によって国民の支持を取り戻そうとしたのである。

 彼は、前に戦争の中で平和を求めたが、今度は平和の中で戦争を求めた。自分の国民はプライドは高いが力が伴わないことを知っていたので、ローマに宣戦を布告するのは他国にやらせて、自分たちはローマの味方の振りをしながら、寝返りすることにした。

 そして、ローマの植民地だったフィデナに対して、アルバはあとで寝返りすると約束して、ウェイイといっしょに、ローマに戦争を起こさせたのである。

 フィデナが公然とローマから離反すると、ローマ王トゥッルスは、メッティウスとその軍隊を呼び寄せてから敵に向かって出撃した。彼はアニオ川を渡ってから、川の合流地点に陣を張った。

 一方、ウェイイ軍は、ローマの陣地とフィデナの間のティベリス川を渡った。ウェイイ軍はこの川の近くで軍の右翼を形成した。一方、フィデナ軍は山側に陣を布いて軍の左翼をつくった。

 トゥッルスはローマ軍をウェイイ軍に対して、アルバ軍をフィデナ軍に対して配置した。

 アルバのメッティウスは、信義に欠けていただけでなく勇気にも欠けていた。彼はその場に留まることもできなかったが、公然と寝返ることもできなかったのである。彼はただ山の方へ徐々に近づいて行った。そして、山の近くまで来ると軍を山に登らせた。メッティウスは、なおも決心がつかずに時間稼ぎをするためにキャンプを張った。彼は勝ちそうなほうに味方しようと考えていたのである。

 アルバ軍の隣に陣取っていたローマ軍は、いつの間にか味方が離れて自軍の側面が空いていることに気づいて驚いた。一人の騎士が馬を飛ばしてアルバ軍が離れたことを王に伝えた。緊急事態を知ったトゥッルスは、恐怖の神と恐慌の神に十二人の踊り手(サリウス)と神殿を捧げることを誓った。それから、この騎士に向かって、敵に聞こえるくらいの大きな声で次のように言った。

「戦いに戻れ。何も心配することはない。アルバ軍はわたしの命令で、フィデナ軍の無防備な背後を攻撃しようと動いているだけだ」

 さらに、

「騎士は全員槍を立てろ」

 と命じた。騎兵たちが槍を立てると、離れていくアルバ兵の姿がローマのほとんどの歩兵からは見えなくなった。また、アルバ兵が離れていく姿を見た歩兵たちも、王が今言ったことを信じて、ますます激しく戦った。

 今度は敵が恐怖にとらわれた。ローマ王の声が敵にはっきり聞こえただけではなく、ローマからの移民が混じっていたフィデナ人の多くは、ラテン語が理解できたのである。

 フィデナ軍は、アルバ兵が突然山から降りて来て町への帰路を絶つのではないかと恐れて、退却し始めた。すかさずトゥッルスはその後を追った。そして、フィデナ軍が担っていた一翼をばらばらにすると、味方の潰走にうろたえていたウェイイ軍の方に戻って、さらに激しく襲いかかった。

 ウェイイ軍はこの攻撃に耐えられずに、算を乱して逃げ出したが、背後にある川のせいでそれもままならなかった。ウェイイ軍の兵士たちは川まで来ると、ある兵士は、惨めに武器を投げ捨てて闇雲に川に飛び込んだが、ある兵士は、逃げるか戦うか迷っているうちに川岸の上で捕まってしまった。

 この戦いはローマ軍にとっては、それまでにない凄惨なものとなった。

 

第二十八章 メッティウスの処刑

 

 その時、戦いの様子を見ていたアルバ軍が平地に降りてきた。メッティウスは敵を制圧したトゥッルスを祝福した。それに対してトゥッルスはメッティウスに丁寧に答えた。そして神の加護を祈ると、翌日の清めの儀式の準備をするためだと言って、アルバ軍の陣地とローマ軍の陣地を一つにするように命じた。

 夜が明けて儀式の準備が整うと、トゥッルスは慣例に従って両軍を集会に呼び出した。触れ役はまずキャンプの端から順にアルバ軍を呼び出した。アルバ兵たち初めてのことなので、ローマ王の演説をよく聞こうと、王のすぐそばに座った。

 ローマ軍は手はずどおりに、武装してアルバ兵のまわりを取り囲んだ。百人隊は命令をすぐに実行できるようになっていた。そこでトゥッルスは話し始めた。

「ローマ兵たちよ、昨日の戦争で、おまえたちは勇敢によく戦った。だが、勝てたのは神々のおかげだ。だから、何よりもまず神々に感謝しよう。なぜなら、昨日の戦いは単なる敵との戦いではなく、裏切り者との戦いという、はるかに困難で危険に満ちた戦いだったからだ。

「実を言えば、昨日アルバ軍が山のほうへ移動したのは、決してわたしの命令ではなかった。味方が寝返ったことを知っておまえたちが戦意を喪失しないように、わたしは命令をした振りをしたのだ。わたしがそう言えば、敵は背後に先回りされるのではという恐怖を抱いて逃げ出すだろうと思ったのだ。

「しかしながら、この寝返りの責任はアルバ兵たちにはない。おまえたちローマ兵も、わたしがどこかに向かうように命じたら、そうしたに違いない。彼らもまた指導者の命令に従っただけなのだ。

「そしてその命令を出した指導者こそは、このメッティウスである。このメッティウスは、この戦争を仕組んだ張本人だ。このメッティウスがローマとアルバの条約を破ったのだ。もしここでわたしがこの男を罰して他の者への見せしめにしなければ、また同じようなことをする者が出てくるに違いない」

 百人隊が刀を抜いてメッティウスを取り囲んだ。トゥッルスは話しを続けた。

「このことが、ローマ人とアルバ人よ、おまえたちのために、首尾よく運び、成功裏に終わりますように。わたしは、アルバの全国民をローマに移して、民衆に市民権を与え、貴族を元老の列に加え、一つの町と一つの国にするつもりだ。もともと、アルバは一つの国から分かれて生まれた国だ。だから、それをいま元に戻すのである」

 アルバ兵たちは、この話を聞いてさまざまな思いを抱いて、一様にパニックになったが、丸腰で武装兵たちに囲まれていたので押し黙っていた。

 つぎにトゥッルスはこう言った。

「もしおまえが信義を重んじ条約を遵守することを学べるものならば、おまえを殺さずに、わたしが教えてやるところだ。ところが、おまえの心はもはや腐りきっている。ならば、おまえは自らの命と引き換えに、おまえが破った約束が如何に大切なものであるかを人々に教えるがよい。

「先ほどまでおまえの心はフィデナとローマの両方に股裂き状態だった。今度はおまえの体が股裂きになればよい」

 こう言うとトゥッルスは、用意させておいた二台の馬車の後ろにメッティウスの体を大の字の形につながせた。そして、同時に両方の馬に鞭を当てて、それぞれの馬車を反対方向に走らせると、彼の手足をつないだ馬車は彼の体を真っ二つに引き裂いて、それをそのまま引きずっていった。

 それは誰もが思わず目を背けるほどの残酷な光景だった。

 このような人間性を無視した刑罰がローマで行われたのは、これが最初で最後だった。これを除けば、ローマほど寛大な刑罰を実施してきた国はないことを、われわれは誇りに思ってよいと思う。

 

第二十九章 アルバの破壊

 

 その間に、アルバの民衆をローマに移すために、騎馬隊がアルバに派遣されていた。それに続いて、町を破壊するために、歩兵隊が送り込まれた。

 彼らがアルバの町の門に入るときには、占領される町によく起こるような混乱やパニックはまったくなかった。

 普通、町が占領されるときは、城門が破壊されたり、城壁が破城槌によって壊されたり、丘の城塞が占領されたときには、敵の兵士たちの歓声が聞こえるものである。そして、兵士たちが突入してくると、至るところ殺戮と放火で大混乱に陥る。

 しかしこの時、人々は重苦しい沈黙と言い知れぬ悲しみに支配されて呆然としていた。何を持っていき、何を置いていけばよいのか分からず、互いに尋ね合っているような有り様だった。家の敷居の上に立ったり、外へ出てこれが見納めとばかりに家の間をさまよったりした。

 やがて、家が破壊される大きな音が町の端のほうから聞こえ始め、遠くの場所から埃が雲のように立ち昇って至る所に満ち溢れるようになると、立ち退きを命ずる騎馬兵の急き立てる声に促されて、人々は手当たり次第のものを手にとって、それぞれが生まれ育った家とその守り神を後に残して旅立った。

 道を埋め尽くした移民たちの群れは延々と続いた。彼らはお互いの惨めな姿を見て涙を新たにした。特に女たちは、兵隊に占拠されている尊い神社の前を通り過ぎるときに、神々を囚われの身にしていくことを悲しんで泣き声を漏らした。

 アルバ人が町から出て行くと、ローマ兵は至るところで、個人の屋敷も公共の建造物もことごとく壊し始めた。アルバ人が四百年にわたって築いてきた財産は、一瞬のうちに破壊し尽くされた。ただ、王の命令で、神々の神殿だけは破壊を免れた。

 

第三十章 トゥッルス王のその他の業績

 

 一方、ローマはアルバの消滅によってさらに大きくなった。市民の数は二倍に増えた。また、ケリウスの丘がローマの領地に加えられた。トゥッルス王はこの丘への移住を促そうと、王宮をこの山に作って自らそこに住みついた。

 ローマの元老の数も増やすべきだと考えたトゥッルスは、アルバの貴族たちを元老の中に加えた。それは、ユリウス家、セルヴィリウス家、クインクティウス家、ゲガニウス家、キュリアティウス家、クロエリウス家だった。増大した元老たちの会議場として、元老院がつくられた。この建物はキュリア・ホスティリアと呼ばれ、われわれの父の代まで存在した。

 またすべての軍隊を新しい市民によって強化しようと、アルバ人だけで十の騎馬隊を作ったり、昔からある歩兵隊にアルバ人を補充したり、アルバ人だけの歩兵隊を作ったりした。

 この軍事力に対する自信を背景にして、トゥッルスはサビニーに対して宣戦を布告した。当時サビニーはエトルリアを除けば国力においても軍事力においてももっとも豊かな国だった。

 ローマとサビニーの両国はお互いに損害を被り、その賠償交渉は不調に終わっていた。トゥッルスは、サビニーのフェロニアの森で開かれた市場の賑わいの中でローマの商人が逮捕されたことの不正を訴えていた。それに対してサビニー側は、聖域に逃げ込んだサビニー人を拘束したのはローマ人の方が先だと言って反論した。これらの主張が戦争を起こす理由にされた。

 サビニーは自国の人口の一部がタティウス王の時代にローマに移っていることや、ローマが最近アルバ人を加えて大きくなったことをよく知っていたので、外国に援軍を求めた。

 近くにはエトルリアがあり、すぐ隣にはエトルリア系の国であるウェイイがあった。そのウェイイからは、以前の戦争に対する恨みからローマに反抗心を抱く人たちが志願兵として集まってきた。また貧しい民衆や職のない人たちがサビニーに兵隊として雇われた。しかし、国としてサビニーを助けるところはなかった。ウェイイもまた、当然の事ながら、ロムルスとの間に結ばれた条約を破る気はなかった。

 両国とも全力をあげて開戦の準備を行った。先手必勝と見たトゥッルスは、サビニーの農地に先に侵入した。

 マリティオーサの森で激しい戦いが行われた。この戦いで、ローマ軍は歩兵の力だけでなく、特に最近増強されたばかりの騎兵のおかげで勝利を収めた。サビニー軍は突如襲ってきたローマの騎兵によってばらばらにされてしまった。そのために、サビニー軍は、その場に踏みとどまって戦う者たちからも、退却する者たちからも、大量の犠牲者を出した。

 

第三十一章 トゥッルス王の最期

 

 サビニーを倒して、トゥッルス王をはじめとする全ローマが大きな名声と富を獲得して盛り上がっていたとき、王と元老たちのもとに、アルバの丘に石の雨が降ったという知らせが入った。

 この知らせが信じられなかった彼らは、事件を調べるために使者を送った。すると、その使者の目の前で大量の石が空から降ってきた。まるで大きなあられが風に吹かれて地面に打ちつけられるようだった。そのうえ、その使者は丘の頂の森からは大きな声が聞こえたような気がした。その声は、

「アルバ人は祖国のやり方に従って神の儀式を行え」

 と聞こえた。

 アルバ人は、祖国と祖国の神を捨てたときに、自分たちの祭りを忘れてしまっていた。彼らの多くはローマの祭りを受け入れていたが、中には、自分たちの不幸に腹を立てて、神々を敬うことをやめてしまった者もいた。

 この不思議な出来事を契機にして、アルバの九日祭がローマでも始まった。これもアルバの丘の神の声によるという伝承もあるが、占い師たちの進言によるという説もある。とにかく、同じような現象が報告されたときには、九日祭が行われることになった。

 この事件からしばらくして、ローマは疫病に襲われた。その結果ローマには厭戦気分が広がったが、戦争好きの王は軍事行動を休むつもりはなかった。若者たちは家にいるより戦場にいるほうが健康であると思っていたからである。

 ところが、最後に王自身も長患いで臥せってしまった。体調を損なった王はまったく弱気の虫にとりつかれてしまった。そして、以前は宗教に帰依することなど王のすることではないと言っていたこの王が、突然、大小あらゆる種類の迷信のとりこになってしまった。そして国民を宗教漬けにしてしまった。

 人々は、病気を治すには神のご加護と許しを得るしかないと信じて、ヌマ王の時代の政治をなつかしんだ。トゥッルス自身、ヌマの書いたものの中にユピテル・エリキウスに対して行われた秘儀を見つけると、密かにこの儀式に夢中になったと言われている。

 しかし、儀式のやり方が間違っていたのか、王の前に神の姿は現れなかった。それどころか、間違った信仰に怒ったユピテルは、王の屋敷に雷を落として、王を屋敷もろとも焼いてしまったのである。

 輝かしい戦歴を残したトゥッルスはこうして三十二年の治世を終えた。

 

第三十二章 アンクス・マルキウス王

 

 トゥッルスが亡くなると、最初に決められたとおり政府は元老たちの手に戻り、元老院は仮の王を選んだ。この仮の王が開いた集会で、国民はアンクス・マルキウスを新しい王に選び、元老たちの承認を得た。アンクス・マルキウスは二代目の王ヌマ・ポンピリウスの母方の孫だった。

 この王は、その統治を始めるにあたって、祖父の成功を意識していた。また、先代の治世が他の点では優れていたが、宗教を軽視し儀式の方法を誤ったために、失敗した面があることを知っていた。そこでアンクス王は、ヌマ王が始めた公の祭事を何よりも重視して、神祇官に対して、ヌマ王の書き残したものをすべて写して公表するように命じた。

 平和を願うローマの民衆も周辺の国民も、この王が祖父のような政治をするのではないかと期待した。

 しかし、逆にこれで勇気を得たラテン人は、トゥッルス王の時代にローマと条約を結んでいたにもかかわらず、ローマの農地を侵略しておいて、賠償を求めに来たローマ人に高飛車な返答をして追い返した。今度のローマ王はおとなしくて、祭壇と神棚の間を行ったり来たりするしか能がないと思ったからである。

 しかし、アンクスの性格は偏ったものではなく、ヌマとロムルスの両方の性格を受け継いでいた。アンクスは、まだ国が新しく野蛮なときには祖父のような平和な政治が必要だが、何の損害も受けずに平和を保つことは生易しいことではないことを知っていた。平和を第一にすれば忍耐力を試され、我慢をしていると相手になめられる。情勢はヌマ王よりはトゥッルス王のやり方に向いていると思われた。

 しかし、ヌマが平和なときに宗教儀式を創設したように、アンクスは戦争を起こす儀式を創設した。つまり、単に戦争をするのではなく、何らかの儀式によって宣戦を布告するのである。そしてアンクスは現在、外交担当祭司によって行われている賠償請求の儀式を、歴史ある民族であるアエクイ人からとり入れた。

 それによると、使節は賠償を請求する国の国境に来たら、頭に羊毛の布をかぶって、

「聞け、ユピテルの神。聞け、これこれの民族の国境よ。聞け、正義よ。わたしはローマ国民の正式な伝令である。わたしは正義の使者である。わたしの言葉を信じてもらいたい」

 こう言ってから、要求を読み上げる。それから、ユピテルを証人として、

「もしわたしが人間なり物なりの引渡しを不正に要求したなら、わたしを二度と祖国に返さないでもらいたい」

 と誓う。

 国境を超えるとき、最初の人間に出会ったとき、門に入るとき、公共広場に入ったとき、使節は、決り文句や誓いの言葉の内容を多少変えて、以上のように言うのである。

 そして、もし三十三日(慣習上の数字である)経っても要求したものが相手から引き渡されない場合に、使節は次のように宣戦を布告する。

「聞け、ユピテルよ、聞け、汝、ローマのヤヌスの神よ、天にましますすべての神よ、汝ら地上の神々よ、汝ら地下の神々よ。わたしは汝らを証人として、これこれの民が不正を犯しながら、正しい償いをしなかったことを証言する。しかし、この問題については、祖国の元老たちと協議して、いかなる方法で正義を回復すべきか決めることになろう」

 実際に使者が協議のためにラテン人の国からローマに帰ると、すぐに王はほぼ次のように言って元老たちと協議した。

「ローマ市民の代表がプリスキ・ラティニ(初期ラテン人)の代表、およびプリスキ・ラティニ人に対して要求したり訴訟を起こしたりしている事柄について、相手がなすべきであり、与えるべきであり、賠償すべきであるにもかかわらず、相手がすることを拒み、与えることを拒み、賠償することを拒んでいる事柄について、言い給え」

 そして「いったい君はどう思うか」と、いつも最初に意見を求める相手に向かって問いかけた。すると相手は、

「それは、正義の戦い、神聖な戦いによって、相手から要求すべきであると思います。わたしはこう考え、この意見に投票します」

 こうして順に意見が求められ、出席者の過半数が戦争に賛成した時点で、戦争を起こすことに決まった。

 つぎに、慣例にしたがって、外交担当祭司が鉄の槍か、先に焼きの入った槍をプリスキ・ラティニの国境へ運んで、三人以上の成人男子を証人にして、次のように言う。

「プリスキ・ラティニの国民およびプリスキ・ラティニの人々がローマ国民の利益に反して行動しまたは行動を怠ったがゆえに、ローマ国民がプリスキ・ラティニの国民との間で戦争をするように命じたがゆえに、ローマ国民からなる元老院がプリスキ・ラティニとの間で戦争をすることに意見が一致したがゆえに、わたしとローマ国民はプリスキ・ラティニの国民ならびにプリスキ・ラティニの人々に対して宣戦を布告し、戦争を行う」

 こう言ってから祭司は槍を相手の領内に投げ込む。実際、これと同じやり方でラテン人に対して賠償請求と宣戦布告が行われた。この方法は子孫に受け継がれている。

 

第三十三章 ラテン人との戦争

 

 アンクス王は犠牲の式典などを神官たちに任せて、自分はあらたに召集した軍隊と共に出撃して、ラテン人の町ポリトリウムを攻略した。そして、敵の国民を受け入れてローマを大きくした先代の王たちのやり方に倣って、ポリトリウムの国民を全員ローマに移住させた。

 最初にローマ人が住みついたパラティヌスの丘を中心に、サビニー人がカピトリヌスの丘とその城塞に住み、アルバ人がケリウスの丘に住んでいた。そして、今度の移民にはアウェンティヌスの丘が与えられた。すぐ後でテレナとフィカナの町が征服されたが、それらのラテン人も新しい市民としてこの丘の住人の中に加わった。

 その後ポリトリウムの町にはもう一度攻撃が加えられた。空になっていたこの町にプリスキ・ラティニ人が住みついたからである。このため、もう二度と敵の住み処にならないように、ローマ軍はこの町を徹底的に破壊した。

 ラテンとの戦いの最後の決戦はメドゥッリアで行われた。戦いは一進一退を繰り返し、勝負の行方はなかなか決まらなかった。この町は堅固な城壁と守備隊に守られていた。ラテン軍は陣地を外において、ローマ軍との間で何度も接近戦を繰り広げた。

 最後にアンクスは全軍を投入して、やっとのことで勝利を得た。そして巨大な戦利品を持ってローマに凱旋した。今回もまた何千というラテン人たちがローマ市民になった。彼らはパラティヌスの丘とアウェンティヌスの丘をつなぐために、現在女神ムルカの神殿があるあたりに住居が与えられた。

 つぎに、ヤニクルスの丘がローマの領地に加えられた。これはローマが手狭になったからというよりは、敵の要塞として使われないためだった。この丘をローマ人は要塞化して、町と結びつけることにした。また、この丘と町との行き来を便利にするために、ティベリス川にはじめて木造の橋が架けられた。さらに、アンクス王は、平地からの侵入を防ぐためにクイリテスの堀という巨大な防護施設もつくった。

 ラテン人が大量に加わったことでさらにローマは大きくなったが、これほど人口が増えると、善悪の区別がないがしろにされ、隠れた犯罪が横行するようになった。そこで、増大する犯罪を恐怖心で抑えるために、町の中央の公共広場のすぐ上に刑務所がつくられた。

 この王の時代には、ローマの町だけでなく、農地や領地も拡大した。ウェイイからマエシアの森を手に入れたために、ローマの領地は海まで広がり、ティベリス川の河口にオスティアという町を作った。またその近くには塩田が作られた。

 一方、戦勝を記念してユピテル・フェレトリウスの神殿が建てられた。

 

第三十四章 タルクイニウスのローマ移住

 

 ルクモーという男がタルクイニーからローマに引っ越してきたのは、このアンクス王の時代だった。彼は非常に金持ちでやり手の男だったが、よそ者の血を引いていたので、タルクイニーでは出世の見込みがなかった。そこで、ローマで一旗上げようとしてやってきたのである。

 ルクモーの父デマラトゥスはコリントスの出身で、政争のために祖国を追われてタルクイニーに移り住んでいた。現地の女を妻にして二人の息子がいた。その息子の名前はルクモーとアッルンスだった。

 父の遺産をすべて受け継いだのはルクモーだった。アッルンスは身重の妻を残して父親のデマラタスより先にこの世を去っていた。また、デマラタスもアッルンスの後を追うようにして亡くなった。デマラタスは、この息子の嫁が妊娠していることに気づかず、遺言に孫のことを何も書かずに死んでしまった。そのために、祖父の死後生まれた子供は遺産を何一つ受け取れなかった。そこで、この子には貧しいという意味のエゲリウスという名前がつけられた。

 逆に全財産を受け取って金持ちになったルクモーは得意になっていた。彼の自尊心は、貴族の娘タナクイルを妻に娶ってさらに膨れ上がった。

 一方タナクイルは、自分の嫁ぎ先の社会的地位が自分の実家より低いことに我慢できなかった。ルクモーは亡命者の息子であるためにエトルリア人に馬鹿にされていたが、タナクイルはこの恥辱にも耐えられなかった。

 彼女は祖国に対する生まれながらの愛情を捨てて、夫の出世のためにタルクイニーから出て行こうと決心した。移民先はローマが最善だと思われた。新しい国では、実力次第ですぐに出世が可能だった。頑張り屋でやり手の夫には必ずチャンスがあると思ったのである。

 実際、タティウス王はサビニー人で、ヌマ王もサビニーのクレス出身だった。またアンクス王もサビニーの女から生まれており、先祖にはヌマ王がいるだけだった。

 出世欲が強いルクモーは、タルクイニーが母方の祖国でしかなかったこともあって、妻の意見をすぐに受け入れた。

 二人は財産をかき集めてローマに向かって旅立った。たまたま彼らがヤニクルスの丘にやってきた時だった。ルクモーが妻と一緒に荷車に座っていると、一羽の鷲が羽の動きを止めて軽やかに舞い降りてきた。そして、ルクモーの頭の被り物をつかみとると、荷車の上空へ大きな羽音を立てながら舞い上がった。再び戻ってきた鷲は、今度はまるで神の使いであるかのように、その被り物をルクモーの頭の上に戻した。そして、再び空高く飛び去ったのである。

 タナクイルは、この出来事を神のお告げたと言って喜んだという。彼女はエトルリア人の例に漏れず、空の現象については非常に詳しかった。タナクイルは立ち上がって夫を抱きしめながら、こう言った。

「望みを高くお持ちなさい。あれは神のお告げです。空のあの方角から来たあの鳥は、空の神様のお使いとして来たのです。あの鳥はあなたの頭の上であなたの未来を示したのです。あの鳥があなたの頭の上に置かれた飾り物を取り上げて元に戻したのは、神のお告げなのです」

 このような希望と共に、様々な思いを巡らしながら、彼らはローマにやってきた。そして住居を手に入れたルクモーは、ルキウス・タルクイニウス・プリスクスと名乗った。

 彼はリッチな外国人としてローマ人の注目を集めた。彼自身愛想がよく、人付き合いが好きで、気前がよかったので、その交友範囲はどんどん広がっていった。こうして彼は自分の運命を着々と切り開いて行き、やがて彼の評判は王宮にまで届くようになった。

 タルクイニウスの名が王宮に知られるようになってから、王の友人の地位を獲得するまでにはそれほど時間はかからなかった。彼は持ち前の気前の良さを発揮して、巧みに王に取り入った。そして、彼は王の家庭のことだけでなく、内政・外交を問わず国の政治についても王から相談を受けるようになった。

 すべての面で王の信頼を勝ち得たタルクイニウスは、最後には王の遺言で子供たちの後見役に任命された。

 

第三十五章 タルクイニウス王の誕生

 

 アンクス王の治世は二十四年で幕を閉じた。内政・外交の両面で彼が発揮した手腕とそれによって獲得した名声は、先代の王たちの誰にも引けを取らないものだった。

 王の息子たちはすでに成年に近づいていた。そのためタルクイニウスは王を選ぶ会議を早急に開催するよう要求した。そして、この会議の開催が決まると、彼はあらかじめ王の息子たちを狩に行かせて町から追い出しておいた。

 そして、タルクイニウスは、誰よりも先に王座に名乗りをあげて、民衆の支持を得るために次のような演説をしたと言われている。

「わたしが望んでいることは決してこれまでに前例のないことではない。前例のないことに対して、国民が驚き憤慨するのは当然かもしれない。しかし、外国人でありながらローマ王になろうとしたのは決してわたしがはじめではなく、三人目なのである。しかもタティウス王は外国の出身であるだけではなく、敵国から来た王だった。さらにヌマ王にいたっては、ローマのことなど何も知らず、自ら王になろうとしたわけでもないのに、ローマの求めに応じて王になっている。

「わたしは一人前になるとともに、すぐさま妻とともに全財産を携えてローマに移住して来た。わたしは、社会のために働ける年齢になってからというもの、ほとんどの人生を生まれ故郷ではなくローマで過ごしてきた。しかも、わたしは、内政・外交の全般について、ローマの法と儀式を、これ以上は望むべくもない最高の教師であるアンクス王自身から学んだ。

「わたしは、アンクス王に対する忠誠と尊敬では他の誰にも引けを取らなかったし、国民への貢献度ではアンクス王にさえ負けてはいなかった」

 ローマ国民はタルクイニウスの言うことを正しいと認めて、満場一致で彼を王に選出した。その後、タルクイニウス王はすべての面で優秀さを発揮したが、王になるための人気取りを、王になった後もやめなかった。この王は、国を強化することに劣らず自分の王座を強化することに熱心だった。彼は、後に第二貴族(gentesminores)と呼ばれることになる人たちを百人選んで元老にしたのである。王のおかげで元老になれた彼らが王の支持者になったことは疑いがない。

 王はまずラテン人に対して戦争をしかけてアピオラの町を攻略した。そして市民が予想した以上の戦果を上げて凱旋した。そして、これまでのどの王よりも豪華な競技会を大々的に催した。

 現在、第一競技場(circusmaximus)と呼ばれている競技場が最初につくられたのはこのときである。そこには、フォルスと呼ばれる、元老と騎士のための特別な観覧席がつくられた。その観覧席は梁で支えらて地面から十二フィートの高さに建設された。

 競技の内容は、エトルリア由来の競馬とボクシングだった。それ以後この競技会は毎年開催されるようになり、大競技会ともローマ競技会とも呼ばれている。

 またこの王は、公共広場のまわりに個人が家を建てる場所を割り当てて、アーケードや商店をつくらせた。

 

第三十六章 占い師ナヴィウス

 

 タルクイニウスは町を石の壁で取り囲むための建設事業を進めていたが、サビニー人が戦争をしかけてきたためこの事業は中断された。あまりにも突然の戦争だったので、ローマ軍の出撃が遅れて、敵がアニオ川を渡るのを阻止できなかった。そのため、ローマはパニックに陥った。

 はじめのうちは戦況が判然とせず、双方に大量の戦死者が出た。そのうち敵は自陣に兵を引いたので、ローマ軍に新たに戦いの準備をするチャンスが生まれた。タルクイニウスは、味方には騎馬隊の戦力が不足していると考えて、ロムルスがつくった三つの百人隊であるラムネス隊、ティティエンセス隊、ルケレス隊に、新たな百人隊をつけ加えようとした。そして記念としてその百人隊に自分の名前をつけようとした。

 ところが、当時占い師として有名だったアットゥス・ナヴィウスは、

「百人隊の創設はロムルスが神のお告げを得てやったことなので、それを変えたり新しい百人隊を作ったりするには、鳥占いによる承認が必要です」

 と言った。

 これに腹を立てた王は、占いの術を軽く見て、

「それでは、一つ占ってみろ。わたしが今考えていることは果たして実現するか」

 と言ったという。この占い師は鳥占いをすると、

「必ず実現します」

 と答えた。すると王は、

「わたしが考えていたことは、おまえがかみそりで砥石を切り裂くだろうということだ。さあ、これを手に取っておまえの鳥たちが起こると予想したことを実際にやってみろ」

 と言った。すると、占い師は何のためらいもなく砥石を真っ二つに切り裂いたという。

 この事件が起こった場所には、頭を布で覆ったナヴィウスの像が、元老院の階段の左手に昔は存在した。この砥石も、奇跡を後世に伝えるために同じ場所に置かれていたと言われている。

 いずれにせよ、鳥占いとその神官の価値は一気に高まり、内政・外交のいずれにおいても鳥占いなしには何も行われず、民会の開会も、軍隊の召集も、国の重要な出来事は、鳥占いによる承認がないときは、延期されるようになった。

 また、このときタルクイニウス王は騎士の百人隊の編成を変えることができなかったので、騎士の数を倍に増やすことにした。その結果三つの百人隊に千八百の騎士が所属するようになった。補充された騎士は、既存の三つの百人隊に加わったが、第二騎士と名付けられた。これらの騎士の百人隊は数が倍増したために、現在では六つの百人隊になっている。

 

第三十七章 サビニーとの戦闘

 

 タルクイニウスは、この部分の戦力を増強してから再びサビニー軍に戦いを挑んだ。ただし、彼は軍隊の戦力を強化しただけでなく、秘策も講じていた。アニオ川に部隊を送って、川岸にあった大量の木材に火をつけて川に投げ込ませたのである。風にあおられて燃え盛る木材は、大部分がかたまりとなって流れて、橋の橋脚に引っかかって橋に火をつけた。

 戦いの最中に起こったこの事件は、敵をパニックに陥れた。その上、橋が燃えたためにサビニー軍は退却できなくなってしまった。多くの敵はローマ軍から逃れようとして川に落ちて溺れ死んだ。溺れた兵士の盾がティベリス川を伝って町に流れついたために、ローマの勝利は伝令より先に町に伝わった。

 この戦いにおける騎馬隊の活躍は特に目覚しかった。ローマ軍の両翼に配置された騎馬隊は、中央に配置された歩兵隊が破れそうになったときに、両脇から敵に襲いかかって、味方に迫るサビニーの歩兵隊の猛烈な進軍を止めただけでなく、敵を一気に退却に転じさせたと言われている。

 ばらばらになって逃げるサビニー兵たちは山に向かったが、そこまで到達できたものはわずかだった。大部分の者は、今述べたように、騎馬隊によって川へ追いやられた。

 タルクイニウスは、おびえた敵に追い討ちをかけようとした。そこでまず、戦利品や捕虜を先にローマに送って、ウォルカヌスの神に対する供物として、敵の武器を高く積み上げて火をつけさせた。それから、ローマ軍をサビニーの農地に引き入れた。

 戦況はサビニー側に不利で、これ以上好転する見込みもなかったが、相手は作戦を立てる余裕もなく、即席の軍隊でローマ軍と激突した。しかし、再び敗走して、もはやどうしようもなくなると、ローマに和平を申し出た。

 

第三十八章 タルクイニウスのその他の功績

 

 この平和条約によって、タルクイニウスはサビニーからコッラティアの町とその周囲の農地を獲得した。王の弟の息子であるエゲリウスがこのコッラティアの守備を任された。

 コッラティアの住民の降伏の様子とその際の決り文句は次のようであったと思われる。まず王がこう尋ねた。

「あなたは自分自身とコッラティアの住民を降伏させるために、コッラティアから送られた使節であるか」

「そうである」

「コッラティアの住民は独立した国民であるか」

「そうである」

「あなたは自分自身と、コッラティアの住民と、町と、農地と、水資源と、境界線と、神殿と、その備品と、神と人間に関わるすべての物を、わたしとローマ国民の権限に委ねるか」

「委ねる」

「では、受け入れよう」

 サビニーとの戦いが終わるとタルクイニウスはローマに凱旋した。

 つぎに、プリスキ・ラティニ人に対して戦いを起こした。ラテン側は団結して戦争に取り組もうとしなかったために、タルクイニウスは町を一つ一つ順番に攻撃することで、全ラテンを制圧した。

 今回征服されたプリスキ・ラティニ人の町は、コルニキュルム、古フィクレア、カメリア、クルストゥメリウム、アメリオラ、メドゥッリア、ノメントュムだった。この中には、ローマに反乱を起こしていた町も含まれている。これ以後ローマに平和が訪れた。

 そこでタルクイニウスは国内の事業の推進に熱意を傾けた。それは、戦争に対する王の熱意を上回るものがあった。その結果、平和になったにもかかわらず、戦時と同じく国民は休む暇がなかった。

 石の壁で町を囲む事業がサビニーとの戦争で中断していたので、タルクイニウスは、残りの壁の建設を再開した。

 また、公共広場の近くの低地と丘に挟まれた平坦な地域の水はけが悪いため、ティベリス川に流れる下水道を整備して、排水を改善した。

 さらに、タルクイニウスはカピトリヌスの丘の将来の発展を予想して、ここにユピテルの神殿の基礎を築いた。この神殿はサビニー戦争の際に神に建設を誓ったものである。

 

第三十九章 セルヴィウスの奇跡

 

 見るからに不思議な事件が王宮の中で起こったのはこの頃のことだった。セルヴィウス・トゥッリウスという名前の子供が眠っていると、大勢の人の目の前で、その子の頭が燃え上がったというのである。

 この不思議な光景にみんなが大きな声を上げたので、王と王妃は急いでそこに現れた。そして召使の一人が火を消そうと水を持ってくると、王妃タナクイルはそれを制止した。騒ぎが静まると、彼女は

「子供が自分で目覚めるまで起こしてはいけません」

 と言った。そのうち、子供が眠りから覚めると、炎が消えた。

 その時、タナクイルは夫を物陰に引き寄せて、こう言った。

「あの子を見ましたか。あの子は、これまであんな貧しい身なりで育てられてきた子ですが、きっと将来わたしたちが困ったときに光となってくれる子供です。その時にはこの子が、危機に陥った王座を救ってくれることでしょう。ですから、あの子を、できる限りの愛情を込めて育てましょう。あの子は、この国とわたしたちに大きな名誉をもたらしてくれる子供なのです」

 それ以後この子は王の子供と同等に扱われるようになった。その上、王になるための教育さえも受けたのである。

 神の意思は、順調に実現した。やがてセルヴィウスは王になる素質を表してきた。そして、タルクイニウスが娘の結婚相手を捜す頃には、どの点をとってもローマの若者で彼に匹敵するものはいなかった。そこで、タルクイニウスはセルヴィウスを自分の娘と結婚させた。

 どのような理由があるにせよ、この若者にこれほど高い地位が与えられたということと、この子の母親が乞食でこの子が子供のころ乞食だったという話は、わたしにはとても両立しがたいように思われる。

 わたしはむしろ次のような考え方に賛同したい。

「セルヴィウス・トゥッリウスはコルニキュルムの王で、この町がローマによって攻め落とされたときに殺害された。彼の身重の妻が捕虜の中から発見されたが、ローマの王妃は彼女の高い地位を考えて奴隷にせず、ローマのプリスクス・タルクイニウスの家でお産をさせた。やがて、この親切をきっかけに、女同士の友情が生まれた。生まれた子供も、最初から王宮で育てられ、非常に大切に扱われた。ところが、町が占領されたときには母親がローマの捕虜だったことから、この子が乞食の子であると信じられるようになったのである」

 

第四十章 タルクイニウス王の暗殺

 

 タルクイニウスが王になって三十八年目の頃には、セルヴィウス・トゥッリウスは王だけでなく、元老たちや国民の間でも、非常に高い評価を得ていた。

 しかし、先代の王アンクスの二人の息子たちは、自分たちが後見人のタルクイニウスに騙されて王座から追われ、その上、隣の国から来た外国人でイタリアの血筋も引かない男がローマの支配者になったことに対して、常に大きな憤りを感じていた。

 その上、今ではタルクイニウスが死んだあとも王座は自分たちの手には戻ってこずに、そのまま奴隷の男の手に移ってしまいそうな情勢であることに、彼らはますます怒りを募らせた。

「神から生まれ自ら神となられたあのロムルス様が地上にいる間に手にしておられた王権が、百年後の同じこの国で、奴隷の息子である奴隷の男の手に渡ることなど、どうして許されるだろうか。

「アンクス王の血筋を引く男子が生きているにもかかわらず、よそ者のしかも奴隷の手にローマの王座が行くようなことが許されるならば、それはローマ人全体の不名誉であるだけでなく、自分たちの家名の恥である」

 と彼らは思った。

 そこで彼らは、この恥辱を剣によって阻止しようと決心した。

 しかし、この不正に対する彼らの怒りの矛先は、セルヴィウスではなくタルクイニウス王に向けられていた。さらに、王が死ねば臣下の仕返しを心配すればよかったが王が生きていれば王から厳しい追求を受ける可能性があった。また、セルヴィウスを殺しても、王が別の誰かを娘婿に選んで自分の後継者にする可能性があった。こうした理由から、彼らは王に対して陰謀をめぐらした。

 この暗殺のために羊飼いの中からもっとも乱暴な者たちが二人選ばれた。

 二人は野良仕事に使ういつもの鉄の道具を持って、王宮の玄関にやってきた。そして、できるだけ激しく口論をし始めた。すると、王宮の召使たちは全員二人のまわりに集まってきた。

 やがて、二人は王に裁きを求めて騒ぎ始めた。その声は王宮の中にまで届いた。二人は王に呼ばれて王の前までやってきた。はじめは、二人とも大きな声を出して喧嘩腰で互いになじり合っていた。しかし、リクトルに制止されて、順番に話すように命令されると、ようやく口論を止めた。

 そして、手はずどおり、片方の男が事情を説明し始めた。王がその男の方に体を乗り出して、男の話を熱心に聞いているときだった。もう一人の男が斧を振り上げて、それを王の頭めがけて振り下ろしたのである。それから、二人は斧を傷口に残したまま、一目散に外に向かって走り出した。

 

第四十一章 セルヴィウス王の誕生

 

 瀕死のタルクイニウスの体は周りにいた者たちが受け止め、逃げる犯罪者はリクトルが取り押さえた。何事が起こったのかと驚いた民衆が、騒ぎながら集まってきた。

 この混乱の中、王妃タナクイルは王宮の扉を閉めるように命じて、野次馬を追い出した。そして、まだ王に回復の見込みがあるかのように、傷の治療のために奔走したが、それと同時に絶望的な事態に備えて、わが身の保身のために必要な手も打った。

 彼女は急いでセルヴィウスを呼んで、死にかかっている夫を見せると、セルヴィウスの手をつかみながら、次のように言った。

「夫が死んだら、あなたが必ず仕返しをしてください。あなたは、決してわたしを敵どもの笑いものにしないでください。

「あなたが真の男なら、この王座はあなたのものです。決して、卑劣な犯罪をほかの人間の手を借りて行った者たちのものではありません。しっかりするのです。あなたは神々のお導きに従えばよいのです。神々は、あなたのこの頭にいつの日か王冠が輝くことを、あなたの頭を炎で包んで予言したのです。今こそ、あの天の炎があなたを呼び起こすときなのです。今こそ、あなたが目覚めるときなのです。

「わたしたちは外国人でありながら玉座につきました。ですから、あなたはただ自分自身を信じなさい。誰から生まれたのかなど考える必要はありません。あまりに急なことでどう考えてよいか分からないのなら、わたしの言うとおりにすればよいのです」

 そして、押し寄せてきて騒ぐ群衆をもはや抑えきれないと悟ったタナクイルは、王宮の上の階の新道(NovaVia)に面した窓から(当時王宮は守護者ユピテルの神殿の近くにあった)民衆に向かって話しかけた。

「みなさん、安心してください。王は突然切りつけられて気絶しておられましたが、幸い傷は浅く、今しがた意識を取り戻されました。血はきれいに拭い取られて、傷の診察が行われましたが、すべては良好です。王はじきにみなさんの前に姿を現されると思います。それまでの間、みなさんはセルヴィウス・トゥッリウス殿の指示に従ってください。この方が法の執行にあたられます。また王の政務はすべてこの方が取り仕切ってくださいます」

 この後、セルヴィウスは、王の装束をまとい、リクトルと一緒に現れると、王座に座った。そして、多くの事柄については自ら直接判断を下したが、ときどき「これは王に相談して決める」と言ってタルクイニウスがまだ生きている振りをすることを忘れなかった。

 そして、数日後いよいよタルクイニウスが息を引き取っても、セルヴィウスは、王の死を公表しなかった。なおも王の代理で仕事をしているように装いながら、自分自身の権力を固めていったのである。それからやっとのことで、王宮から泣き声を立てて、真実を明らかにしたのである。

 セルヴィウスは強固なボディーガードに守られて、はじめて国民によって選ばれることなく、元老たちの同意だけで王となった。

 アンクスの息子たちは、自分たちの手先が逮捕され、王が生きており、セルヴィウスが権力を固めたことを知ると、スエッサ・ポメティアというヴォルサイ族の町に亡命した。

 

第四十二章 セルヴィウス王の事績

 

 セルヴィウス王は、自分の権力を守るために公私両面で対策を立てた。

 まず、アンクスの息子たちがタルクイニウス王に対して抱いたような敵意をタルクイニウスの子供たちから受けないようにするために、タルクイニウスの息子たちのルキウスとアッルントゥスに自分の二人の娘を嫁がせた。

 しかし、人間の知恵で運命の必然を避けることはできなかった。権力に対する妬みのせいで、王の家族は不信感と敵意に満ちたものになったのである。

 国内の事態を沈静化したい王にとっては、平和条約が失効したウェイイや他のエトルリア人との戦争は、まさに打ってつけだった。この戦争では、王の勇敢さと運の強さが遺憾なく発揮された。敵の大軍を打ち破った王は、元老と平民の自分に対する支持を確信してローマに帰った。

 それから、セルヴィウスは内政上のもっとも重要な仕事に取り掛かった。ヌマ王が宗教的儀式の創設者となったように、セルヴィウスは全国民を区別するための基準を作った王として後世に名を残すことになった。つまり、彼は地位と財産の違いを明らかにする階級を創設したのである。

 そのために、この王は国勢調査を創設した。これはそれ以後の国の発展にもっとも寄与した事業である。これによって、戦時と平時における国民の義務が、以前のように無差別ではなく、国民それぞれの財産状態に応じて、課せられることになった。彼は、当時行った国勢調査に基づいて、次のような順序で階級分けを行った。これは戦時平時を問わず役立つものだった。

 

第四十三章 国勢調査と階級分け

 

 まず最初に、十万アス以上の資産をもつ人たちによって八十の百人隊がつくられた。その半分は老年者、残りの半分は若年者で構成された。これらは全体として第一階級と呼ばれた。老年者はローマの守備を担当し、若年者は国外での戦争を担当した。

 この階級に要求される武器は、防御器具としては、兜、丸盾、すね当て、胸当てで、すべて銅製でなければならない。攻撃用の武器としては、投げ槍と剣が必要である。この階級には、工兵の百人隊が二つ所属した。工兵は武器を持たずに従軍して、戦場で城攻め用の機械を作る仕事をした。

 第二階級は、十万アス以下で七万五千アス以上の資産を持つ人たちで構成された。この階級からは老年者・若年者あわせて二十の百人隊が登録された。要求される武器は、丸盾の代わりに角盾でよく、胸当てが必要ない以外は、第一階級とすべて同じだった。

 第三階級は五千アス以上の資産を持つ者から構成された。第二階級と同じ数で同じ世代構成の百人隊がつくられた。すね当てが除外された以外は第二階級と同じ武器が要求された。

 第四階級は二千五百アス以上の資産を持つものからつくられた。百人隊の数は第三階級と同じだが、武器は違っていて、槍だけでよかった。

 第五階級からは、第四階級より多い三十の百人隊がつくられた。飛び道具として投石器と石を持つだけでよかった。この階級にはラッパ吹きからなる二つの百人隊が所属した。千百アス以上の資産が要求された。

 それ以下の資産しか持たない残りの民衆から一つの百人隊がつくられたが、彼らは兵役を免除された。

 歩兵隊の構成とその武器は以上のごとくである。

 また、騎士の百人隊が市民の最上クラスから十二個作られた。そのほかに、ロムルスが鳥占いでつくっていた三つの騎士の百人隊を、名前はそのままで六つにした。それぞれの騎士には馬の購入のために国庫から一万アスが与えられた。また、馬の世話の費用として、毎年二千アスが寡婦の財産に課せられた。

 こうしてすべての負担は貧乏人から金持ちたちへ移された。そのために金持ちには特権が与えられた。つまり、ロムルス以来歴代の王によって投票権は伝統的にすべての人間に、同じ内容で同じ効力を持つものとして与えられてきたが、セルヴィウスはこれを変えて、投票の順序を作った。

 その結果、表面上は誰も投票権を奪われることはなかったが、実際の権利は上流階級の手に握られるようになった。なぜなら、まず最初に騎士階級が投票して、つぎに第一階級の八十の百人隊が投票した。そして、まれにその時点で意見がまとまらないときだけ、第二階級が投票を許された。これより下に投票が移って、一番下まで行くということはほとんどなかった。

 現在の階級分けは、部族(トリブス)の数が三十五に増えて、老年者と若年者の百人隊の誕生で部族の構成員の数が倍増した後に作られたものである。これとセルヴィウスが創設した階級の数とが合わないのは驚くにあたらない。

 セルヴィウスは、丘を含めたローマの居住地域を四つに分けて、それぞれを部族(トリブス)と呼んだ。これは税を表すトリブトゥムからきた言葉だとわたしは理解している。というのは、この同じ王によって国勢調査に基づいた税の計算が始められたからである。部族の数は百人隊の数や編成とは何の関係もない。

 

第四十四章 ローマの人口

 

 セルヴィウスは、国勢調査を促進するために、登録しない者は逮捕され死刑になる可能性があるという法律を作って、強制的に調査を進めた。国勢調査が終了すると、「全ローマ市民は、騎馬隊も歩兵隊もそれぞれ自分の百人隊に分かれて、翌朝マルスの広場に集まるように」という布告を出した。

 全軍が整列すると、豚と羊と牛の生贄の儀式を行って、全員を清めた。これは国勢調査の終了後に行われるので「終わりの清め(ルストルム)」と呼ばれている。また、登録されてこの清めを受けた市民は八万人だったといわれている。ローマの最初の歴史家であるファビウス・ピクトルは、この数字は武器を用意できた人の人数であると書き添えている。

 この人数の多さに応じて、さらに町の拡張が図られ、クイリナレスとヴィミナレスの二つの丘がローマ領内に加えられた。さらに、ヴィミナレスの丘に続いてエスクイリヌスの丘もローマ領内に加えられた。そして、エスクイリヌスの丘の評判を高めるために、セルヴィウス王自らがこの丘に住み着いた。そして、ローマのまわりを堀と壁で取り囲んだ。そして、壁の前後(ポメリウム)を外へ広げていった。

 ポメリウムとは、語源に詳しい人たちによると、ポストモエリウム、すなわち壁の後ろのことだと言われている。しかし、これは、昔エトルリア人が町を建設したときに、壁をつくる場所の区画を決めた後に、鳥占いで清めた場所のことで、壁の前後のことを意味している。今では壁に続いて家が立っているが、昔は、壁のすぐ内側には家を建てないことになっており、壁のすぐ外側も耕作を禁じられていた。ローマ人は、人が住むことも耕すことも許されないこの地域のことを、壁の後ろにあるからではなく、その後ろに壁があるということから、ポメリウムと呼ぶようになった。そして、町が拡張するにつれて、壁が外へ広がった分だけ、この神聖な区画も外へ広がって行ったのである。

 

第四十五章 ディアナの神殿の建設

 

 町の面積も拡大して、ローマは充分大きくなり、平時にも戦時にも適応できる体制が整ったので、セルヴィウスは、一度ぐらいは武力を使わずに国力を高めたいと思っていた。そこで彼は、ローマの支配権を拡大し、しかも同時にローマに美観を添えるようなある計画を試みた。

 当時すでにエフェソスにあるディアナ女神の神殿は有名だった。この神殿は小アジアの様々な国が協力してつくったと言われていた。

 セルヴィウスはそれまで公的にも個人的にもラテン人の指導者たちと努めて仲良くしようとしていたが、彼らに対して、アジアの人たちが一つの神を仲良く一緒に崇拝していることを、口を極めて賞賛した。

 しかもセルヴィウスはこれを何度も繰り返した。そして最後に、ラテン人の指導者たちに、自分の意見を通して、ローマ人とラテン人が協力してローマにディアナの神殿を建設することにした。これまでこの二つの国は何度も武力で首都の場所を争ってきたが、これはローマが首都であると認めることを意味していた。

 首都は元々何度武力で戦ってもラテン人の手には入らなかったので、ラテン人はみんなこの問題をあきらめていたが、サビニー人の中にはまだ支配権を取り戻すチャンスがあると思って密かに計画を立てている人間が一人いた。

 サビニーのある家の主人が、大きさでも美しさでも並外れた雌牛を持っていた。この牛の角は後になって記念としてディアナの神殿の玄関に何世代にもわたって飾られたほどすばらしいものだった。この牛は実際この世の奇跡だと思われていた。

 予言者たちは、この牛をディアナに生贄として捧げた人の国が支配権を得ると予言した。このお告げはディアナの神殿の神官の耳にも入っていた。

 サビニーの男は生贄の儀式にふさわしい日がくると、この牛をローマに引いていき、ディアナの神殿に連れてきた。そして、牛を祭壇の前に立たせた。ローマ人の神官は、この生贄の牛の聞きしに勝る大きさに驚いた。お告げを知っていた神官はサビニーの男に次のように話しかけた。

「いったいあなたは何をするつもりですか。自分を清めもせずにディアナに生贄を捧げるつもりですか。まず流水で身を清めてきなさい。この谷底にティベリス川が流れています」

 信心深いこの外国人は、予言を実現させるために全てを作法通りにしたかったので、すぐにティベリス川の方へ降りていった。その間にローマ人の神官がこの牛をディアナに生贄として捧げたのである。このことを知って、王も国民も非常に喜んだと言われている。

 

第四十六章 タルクイニウスの息子の策謀

 

 セルヴィウスが王座に就いてから長い年月が経った。その頃には、王座が彼のものであることはもはや疑いの余地はなくなっていた。しかし、「この王は国民の承認を受けていない」と若いタルクイニウスが言いふらしているという噂が、セルヴィウスの耳に届いた。

 そこでセルヴィウスは、まず平民に対する人気取り策として、敵から奪った農地を分配してから、大胆にも、自分が王であることを認めるかどうか決めるよう国民に提案した。セルヴィウスはこれまでのどの王にも勝る圧倒的な支持を得て王と認められた。

 しかし、これでも若いタルクイニウスの王座に対する熱意が冷めることはなかった。いやそれどころか、むしろ火に油を注ぐ結果となった。なぜなら、平民に農地を分け与える決定は元老たちの意に反したものだったからである。タルクイニウスは元老たちに王の不当性を訴えて元老院での自分の影響力を強めるチャンスが来たと思った。

 彼はもともと血気あふれる若者だったが、家にはトゥッリアという妻がいて、熱しやすい夫を焚き付けていた。

 ここからのローマの王家の話は、ギリシャ悲劇同様の残酷な犯罪の物語である。ただし、この犯罪によって王に対する反感が生まれ、王制の終焉が早まった。また、この犯罪によって作られた王が、最後の王となった。

 実はこのタルクイニウスがタルクイニウス・プリスクスの息子であるのか孫であるのかについては議論のあるところだが、筆者は多数意見にしたがって息子であることにする。

 このタルクイニウスには性格のおとなしいアッルンス・タルクイニウスという弟がいた。この二人はすでに述べたように、セルヴィウスの二人の娘と結婚していたが、この二人の女の性格も大きく違っていた。

 はじめは、この気の強い二人は夫婦ではなかった。そのために、セルヴィウスの治世が長続きして、ローマの制度が確立したことは、ローマの国民にとっては幸運であった。

 気の強いトゥッリアは、自分の夫が欲も野心もないことを不満に思っていた。彼女はもう一人のタルクイニウスにぞっこんだった。そして、この男のことを「これこそ真の男だ、王家の血を引いている」と誉め上げた。また、姉については、せっかくあれほどの夫を持っていながら「女の大胆さに欠ける」と言って、姉をけなした。

「類は友を呼ぶ」というとおり、この二人の男女は急速に接近した。悪い女には悪い男が似合いなのである。しかし、いつも悪事を始めるのは女である。この女は人の夫とたびたび密会しては、精一杯自分の夫の悪口を言い、相手の妻を非難した。そして、次のように言った。

「不釣合いな相手と一緒にいて相手の気の弱さのために人生を棒に振るくらいなら、いっそあなたもわたしもそれぞれの相手と別れるべきです。もし神様がわたしを自分にふさわしい相手の妻にしてくれるなら、すぐにでもわたしの父親が持っている王座を、自分の夫のものにして見せます」

 この若者はこの女の無謀な考えをすぐに受け入れた。二人は新しい結婚のために、アッルンス・タルクイニウスと姉のトゥッリアを次々に葬って独身に戻った。そして、セルヴィウスが認めも反対もしないうちに結婚してしまった。

 

第四十七章 トゥッリアのそそのかし

 

 この時から年老いたセルヴィウスの王座は日に日に不安定になっていった。トゥッリアはもう次の悪事を企んでいた。過去の殺人を無駄にしないために、彼女は夜も昼も夫に休む間もなく急き立てた。

「わたしが欲しかったのは、単なる夫ではありません。わたしが欲しかったのは、黙って人に仕えていられる男ではありません。わたしが欲しかったのは、自分こそ王だと思える人です。自分がタルクイニウス・プリスクスの息子であることを忘れない人です。王座に憧れるだけではなく、王座を自分の手にしようとする人です。

「もしあなたが、わたしが思ったとおりの人なら、わたしはあなたを夫と呼ぶだけでなく、王と呼ぶことでしょう。しかし、もしそうでないのなら、わたしは駄目な方に乗り換えたことになります。なぜなら、あなたは臆病な犯罪者なのですから。

「もういいかげんに、覚悟を決めなさい。あなたはコリントから来たのではありません。あなたは父上のようにタルクイニーから来たのでもありません。あなたには、よその国の王座を手に入れる苦労は必要ないのです。神々も、家の守り神も、元老たちも、父上の肖像も、宮殿も、王の椅子も、タルクイニウスの名前も、みんなあなたが王になることを助けてくれるのです。

「それとも、いまさら勇気がないとでも言うのですか。それなら、どうしてこれまで国民を騙してきたのです。どうして自分を王子であると見せてきたのですか。もう、タルクイニーへ帰りなさい。コリントへ帰りなさい。あなたは自分の父よりも弟の方に似ています。あなたには先祖の平凡な暮らしが向いているのです」

 トゥッリアはこのように言ってタルクイニウスを叱咤激励した。また彼女は、タナクイルが外国出身でありながら頑張って自分の夫と娘婿を二代にわたって王にしたのに、王家の血を引く自分には王座を左右する力もないのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。

 タルクイニウスはのぼせ上がったこの妻に尻をたたかれて、元老たちの中の特に第二貴族たちの家を回って自分を王にするように頼んでまわった。彼は自分の父親が彼らに施した恩を思い出させて、その借りを返すように求めた。また、若い貴族たちを買収して味方につけた。そして、途方もない約束をしたり、王の悪口を言ったりして、あらゆる所で自分の支持者を増やしていった。

 いよいよ決着をつけるときが来たと判断したタルクイニウスは、ボディーガードの一団を引きつれて公共広場に突入した。そして、全員があっけにとられている間に、元老院の王の椅子に座ってしまった。そして、伝令を通じて「元老たちはタルクイニウス王に会いに元老院に集まるように」と命令した。

 元老たちは急いで集まってきた。中にはあらかじめ準備をしていた者もいたが、そうでない者も、行かないと後が怖いと思って元老院に集合した。彼らは、これまでにない事態の進行に驚いたが、誰もがその時セルヴィウス王の時代が終わったことを知った。

 元老たちが集まると、タルクイニウスはセルヴィウスの卑しい生まれに対する攻撃を始めた。

「セルヴィウスは、父親が惨めな死に方をしたあとに、奴隷の女から生まれた奴隷である。しかるに、前例に従うことなく、王の空位期間もおかず、民衆の会議も開かず、民衆の選挙にもよらず、元老の承認も受けずに、一人の女から王座をもらい受けて王となったのだ。

「このような生まれであり、このようにして王になったがために、彼は自分と同じ生まれである最下層の人間たちの機嫌を取っている。彼は、自分にはない生まれの良さに対する憎しみから、貴族の農地を取り上げて、最も卑しい者たちに分け与えたのだ。

「またセルヴィウスは、かつては国民全員が国のために背負っていた負担を、すべて貴族の肩の上に背負わせてしまった。セルヴィウスが国勢調査を始めたのは、金持ちの財産を人目にさらして、それを妬みの対象にするためなのだ。そして、自分が貧民たちに施しをしたくなったときに金持ちの富をいつでも使えるようにしたのだ」

 

第四十八章 娘婿のクーデター

 

 タルクイニウスの演説は、緊急事態を知ってやってきたセルヴィウスによって中断された。彼は元老院の玄関に入ると、すぐさま大声でこう言った。

「タルクイニウスよ、これはいったい何事だ。わたしを差し置いて勝手に元老を呼び集めたり、わたしの椅子に座ったりするとは、何をのぼせたことをしている」

 それに対してタルクイニウスは激しく言い返した。

「わたしは自分の父の椅子に座っているだけだ。王の息子であるわたしの方が、奴隷であるお前よりも王の後継者としては遥かにふさわしい。奴隷の分際で、ずうずうしくもご主人様を見下ろして馬鹿にするのはいいかげんにしろ」

 双方の支持者から声援が起こり、民衆が元老院に向かって押し寄せてきた。この争いに勝ったほうが王になることは明らかだった。

 タルクイニウスはもう後戻りは許されなかった。体力においても若さにおいても優位に立つ彼は、セルヴィウスの体をひっつかむと、元老院の外に運び出して階段の下へ投げ落とした。そして、元老たちを席に戻すために元老院の中に戻って行った。

 王の召使や取り巻きたちは、王を残して逃げ出した。王は召使もなく一人で元気なく屋敷に戻ろうとした。しかし、タルクイニウスの送った者たちが、逃げる王のあとを追いかけて殺害した。

 このような悪事を考え付く人間がほかにいたとは考えにくいために、この殺害を指図したのもトゥッリアであると信じられている。

 いずれにせよ、トゥッリアが馬車で公共広場に乗りつけて、男たちの集まりをものともせず、夫を元老院から呼び出して、誰よりも先にタルクイニウスを王と呼んだことは確かである。

 トゥッリアは、夫に「こんな物騒なところにいないで家に帰れ」と言われて、自分の家へ向かった。その途中、ディアナの神殿のあるキュプリウス通りの一番上まで来て、エスクイリヌスの丘に行くために、ウルビウム坂の方へ右に曲がろうとした時である。御者が青い顔をして馬車を止めて、セルヴィウスが殺されて倒れていることを彼女に教えた。

 それから、おぞましくも非人間的な犯罪が行われた、と言われている。この事件の記憶を保つために、この通りは犯罪通りと名づけられている。姉と夫の悪霊にとりつかれて正気をなくしたトゥッリアは、父親の死体を車でひかせたのである。彼女は、血しぶきを浴びて汚れた体のまま、血に染まった馬車に父親の死体の一部と返り血をつけたまま、自分の守護神のもとに戻ったという。

 彼女はこうして自分の守護神の怒りを買ってしまった。その結果、不幸な始まり方をした王権はすぐに不幸な結末を迎えたのである。

 セルヴィウス・トゥッリウスによる支配は四十四年間だった。彼の後の王がたとえ善良で節度ある王だったとしても、この王には叶わなかったと思われる。

 彼とともに合法的で正当な王制が終わったことも、この王の業績の一つに数えられる。彼の政治は非常に節度のある慈悲深いものであったが、それでも一人の人間による支配であることに変わりはなかった。それを知っていたセルヴィウスは王座を捨てる覚悟でいたという人たちもいる。しかし、祖国を王制から解放するという彼の考えは、身内の犯罪によって実現しなかった。

 

第四十九章 タルクイニウス傲慢王の恐怖政治

 

 こうして、ルキウス・タルクイニウス王の支配が始まった。彼はその行動から傲慢王というあだ名がつけられた。なぜなら、彼は「ロムルス王も亡くなったときには埋葬されなかった」と言って自分の義父の埋葬を禁じたり、セルヴィウスの味方をしたと思われる元老たちを殺したりしたからである。

 タルクイニウスは、ボディーガードを常に自分の身のまわりに置いた。自分を真似た犯罪によって王座を奪おうとするものがいるかもしれないと思ったからである。と言うのは、国民の選挙にもよらず元老院の承認もなく王になったタルクイニウスにとって、王座の正当性を保証するものは力以外には何もなかったからである。

 そのうえ、国民の人気を当てにできなかったタルクイニウスは、恐怖によって王座を守るしかなかった。できるだけ多くの国民の心に恐怖心を吹き込むために、彼は重罪の裁判を自分の独断で行った。この方法を使って彼は、犯罪の容疑者や政敵に対してだけでなく、単に財産を取り上げるだけのために、人を死刑にしたり追放刑にしたり没収刑にした。

 この方法で彼は特に元老の人数を減らした。そして元老の補充はしないことにした。というのは、「元老の数が少なくなれば元老院の地位が下がり、そうなれば、国政に関与できなくても元老たちは文句を言えなくなる」と考えたからである。

 というのは、この王は何事についても元老院に相談するという、歴代の王によって受け継がれた伝統をはじめて捨てたのである。つまり、タルクイニウスは国政をすべて自分の身内の考えだけで行った。国民にも元老院にも承認を受けずに、自分だけの判断で、戦争も和睦も、条約の締結も外国との同盟も、自分の好きな相手と始めたりやめたりした。

 タルクイニウスは、特にラテン人との親交を深めたが、それは国内での自分の地位を外国の援助で強化するためだった。そのために、ラテン人の指導者たちとは単に交際を深めるだけではなく、親類関係を結ぼうとした。

 ラテン人の第一人者であったオクタヴィウス・マミリウス・トゥスキュラノスは、伝承を信じるかぎり、ユリシーズと女神キルケを祖先としていた。タルクイニウスはこのマミリウスに娘を嫁がせた。この結婚によって、マミリウスの多くの親類や知人がそっくりタルクイニウスの支援者になったのである。

 

第五十章 傲慢王に対するラテン人の反発

 

 こうしてラテン人の貴族たちの間でタルクイニウスの影響力が増大した後のある日、彼らはタルクイニウスから「両国の問題で話し合いたいことがあるからフェレンティナの森に集まるように」と言われた。

 ラテン貴族たちは朝早くから次々にこの森に集まってきた。ところが、タルクイニウスは約束の日には来たものの、その時にはもう日が沈みかけていた。

 それまでの間、ラテン人たちは様々なことを一日中ずっと話し合っていた。中でも、アリキアの町から来たトゥルヌス・ヘルドニウスは、タルクイニウスが来ないことに対して激しい非難の言葉を並べた。

「ローマ人が彼のことを傲慢王と呼ぶのは当然だ」(当時人々は内緒話をするときには、誰でもタルクイニウスのことをこう呼んでいた)「今回のことは、全ラテン民族に対する侮辱である。いったいこれ以上に傲慢なことがあるだろうか。ラテン民族の指導者たちを家からはるばる呼び出しておいて、呼び出した本人が来ないとはどういうことだ。きっとわれわれがどこまで我慢するか試すつもりなのだ。そうして、自分の言いなりになると分かれば、われわれを自分の奴隷にしようと考えているのだ。

「タルクイニウスがラテン人に対する支配権を狙っていることは誰の目にも明らかではないか。たとえ彼がローマの正当な王だとしても、いやそもそも、彼が人殺しで王になったのではなく国民から選ばれて王になったとしても、われわれはよそ者であるあの男に支配権を委ねるべきではない。

「ところが、ローマ人は次から次へとあの男によって殺されたり、追放されたり、財産を奪われたりしている。そのために、国民は彼のことを嫌っているのだ。どうして彼がラテン人に対してはもっと善い政治をすると期待できるだろう。もしわたしの言う通りだと思うなら、もう自分の家に帰るべきだ。指図した本人が約束を守らないのに、われわれが約束の日にちを守ることはない」

 トゥルヌスは、頑固で人の言うことを聞かない男としてラテン人の間でも有名だった。彼がちょうどこのようなことを一気にまくし立てていたときに、タルクイニウスが突然やってきた。トゥルヌスは話をやめ、全員タルクイニウスの方を向いて挨拶した。

 全員が静かにしていると、側近に促されたタルクイニウスは

「今ごろ着いたのは、親子喧嘩の仲裁役をしていたからだ。仲直りさせるのに手間取って、一日かかってしまった。予定の話は明日にしたい」

と弁解をした。これに対してもトゥルヌスは一言言わずには済まなかったという。

「親子の間の仲裁ほど簡単なものはない。『親の言うことを聞かなければ、ひどい目に会うぞ』と、それだけ言えば済むことだ」と。

 

第五十一章 トュルヌスの処刑

 

 トゥルヌスはローマ王に向かってこんな皮肉を言ったのである。会合はそのままお開きになった。タルクイニウスは何でもない風を装ってはいたが、はらわたは煮え繰り返っていた。そして、トゥルヌスを亡き者にしようとすぐに企みをめぐらした。自分の国民と同じように、ラテン人にも自分の恐さを思い知らせてやろうと思っていた。

 タルクイニウスは、支配者の権限で公然とトゥルヌスを処刑することはできないので、罪をでっち上げて何の落ち度もないトゥルヌスを破滅に追い込むことにした。

 彼は、まずアリキアの町のトュルヌスの反対勢力を使って、トゥルヌスの奴隷を買収した。そしてこの奴隷に、大量の刀を密かにトゥルヌスの宿に運び込ませた。

 こうしてその夜のうちに手はずを整えると、タルクイニウスは夜明け前にラテン人の指導者たちを呼び出して、思いもよらぬ知らせにいかにも当惑したような顔をして、次のような話しをした。

「昨日わたしは会議に遅れたが、あれはまさに天の恵みだったのだ。というのは、あのおかげで、わたしと君たちは命拾いをしていたことが分かったからだ。トュルヌスがラテン民族を一人で支配しようと企んで、わたしと君たちに対して暗殺計画を立てていることが判明したのだ。

「トゥルヌスは昨日の会議を襲撃するつもりだった。ところが、会議の主催者で一番の標的であるわたしがいなかったために、計画は延期になったのだ。だから、昨日あの男は、遅刻したわたしの悪口を言ったのだ。あれは、わたしの遅刻で計画が駄目になったからだったのだ。

「この知らせに間違いがなければ、今日の夜明けとともに、あの男は仲間と一緒に武器を持って会議を襲うはずだ。なぜなら、大量の刀があの男のもとに運び込まれたという情報があるのだ。それが本当かどうかはすぐに分かることだ」

 そしてタルクイニウスは、集まった者たちに対して「これから自分と一緒にトゥルヌスの宿に行こう」と言った。

 トゥルヌスの激しい性格と、昨日の彼の演説と、タルクイニウスが遅れて来たことを考え合わせると、これは大いにありうることだとラテン人たちにも思われた。さらに、タルクイニウスの遅刻のお陰で暗殺計画が頓挫したというのも、実にありそうな話だった。

 そこでラテン人たちも出かけることにした。彼らの気持ちはタルクイニウスの話を信じるほうに傾いてはいたが、剣が発見できなければ、クーデターの疑惑は晴れると思っていた。

 彼らが宿に着くと、寝ていたトゥルヌスをたたき起こして警備兵で取り囲んだ。そして、トュルヌスのために腕力をふるいそうな奴隷たちが拘束されるとともに、隠されていた刀が宿屋のいろんな所から発見された。

 今や容疑は明白だった。トュルヌスは手錠を掛けられた。ラテン社会は大騒ぎになった。直ちにラテン人の会議が召集された。

 積み上げられた刀を前にしたラテン人たちは、激しい怒りに取りつかれた。そのために彼らは、トゥルヌスの言い分を一言も聞かずに処刑してしまった。

 それは、簀の子をかぶせた上に石を積み上げて、フェレンティナ湖の入り口に投げ込んで溺れさせるという、新しい方法を使った処刑だった。

 

第五十二章 タルクイニウスによるラテン支配

 

 タルクイニウスはラテン人たちを議場に呼び戻して、

「よくやった。トゥルヌスはクーデターを起こそうとしたのだ。反逆の罪が明らかになったのだから、あの男は当然の罰を受けたのだ」

 と誉めてから、次のように言った。

「全てのラテン人は、アルバ出身である。従って、トゥッルス王のときにアルバがその住民とともにすべてがローマの支配下に移ることを決めた条約に、君たちも拘束される。しかし、わたしはそんな古い話を持ち出して、自分の権利を主張するつもりはない。

「そんなことをすれば、君たちはこれからも、アンクスやわたしの父が王だったときのように、町を破壊され農地を荒らされることを覚悟しなければならないし、また実際にそんな目に会うことだろう。それより、ローマと新たな条約を結んで、ラテン人がローマの一員となって、ローマの豊かな富を享受するほうが、君たち全員にとって遥かに有利であると思う」

 この条約ではローマの方が優位に立っていたにもかかわらず、ラテン人たちはたやすくこの提案を受け入れた。自分たちの指導層がローマ王にとり込まれているのは明らかだったし、何といっても、もし反対すればどんな危険が待っているかを、たった今見せつけられたばかりだった。こうして新しい条約が結ばれた。

 この条約に従って、ある日、ラテンの若者たちに対して、フェレンティナの森に武器を持って集まるようにと命令が下った。彼らはローマ王の命令通り、全ての町から集合した。タルクイニウスは、彼らがローマとは別の指導者や旗をもって、別の指揮系統にいることが気に入らなかった。そこで、彼はラテン人の部隊をローマ人の部隊と混ぜ合わせたのである。つまり、二つの部隊を一つにしてから、今度はその一つの部隊を二つに分けた。こうして部隊の数を二倍にしてから、それぞれに百人隊長を置いた。

 

第五十三章 ヴォルサイ族に対する戦い

 

 タルクイニウスは国内では悪い王だったが、戦争の指導者としては有能だった。戦争の能力だけならタルクイニウスは先代の王たちに勝るとも劣らぬ王だった。しかし、彼のこの栄光は他の面における不名誉によって汚されていた。

 その後二百年以上にわたって続いたヴォルサイ族に対する戦いを始めたのはこの王だった。彼はヴォルサイ族からスエッサ・ポメティアを攻め取った。そしてこの戦いで得た戦利品を売って、銀四十タラントの収入を得た。

 戦争で得たこの金を、彼はユピテルの神殿建設用にとっておいた。この神殿を彼は、神々と人間の王であるユピテルにもふさわしく、ローマ帝国にもふさわしく、父が築いた立派な基礎にもふさわしい、大規模な神殿にするつもりだった。

 しかし次の戦いは思ったよりも長引いた。隣の町であるガビイを攻撃したが失敗したのである。そこで町を包囲する作戦に希望を託したが、城壁に跳ね返されて、それも失敗した。

 最後にタルクイニウスは、ローマの伝統に反して、相手をだまし討ちにする方法を選んだ。彼は戦うことを止めて、神殿の基礎の建設や町の他の施設の充実に心が奪われているような振りをした。そして、三人の息子のうちで一番若いセクストゥスをわざとガビイに寝返らせて、自分に対する父親の乱暴に我慢ができなくなったと言わせた。

「他人に向けられていた父の権力に対する欲望は、とうとう自分の身内にまで向けられるようになったのです。王は元老の数だけでなく、子供の数が多いのも気に入らないのです。元老院と同じく家の中でも、自分の権力を奪いそうな者たちを排除しようとして、王座の後継者となるはずの自分の子供たちをも殺そうとしています。

「事実わたしは、父が差し向けた殺し屋の刃(やいば)をかいくぐって、命からがら逃げてきたのです。もうわたしにとっては、タルクイニウス王の敵の元にしか安全な場所はないと思っています。

「間違わないように言っておきますが、タルクイニウスは戦争をやめた振りをしているだけで、実はまだ続けています。父は機会を見て、油断したところを攻撃しようとしているのです。

「もしあなたたちの町に亡命者を受け入れる余地がないと言うなら、わたしはラティウムの町を片端から訪ねて歩くつもりです。そのつぎには、ヴォルサイ族、アエクイ族、ヘルニキ族と、父の恐ろしい魔の手から子供を守ることのできる者たちのいる所にたどり着くまで、訪ね歩いて行くことにします。おそらく、もっとも傲慢な王ともっとも戦争好きな民族に対して、武器をとって戦いを挑むだけの根性のある国民にどこかで会えることでしょう」

 これを聞いたガビイ人たちは、もし彼を冷遇すれば怒って飛び出して行きそうな勢いだったので、彼を暖かく迎え入れた。そして、次のように言った。

「あの王が自分の国民や同盟国に対してとったやり方を最後に自分の子供たちに向けたとしても、何も不思議なことではない。そのうち自分のまわりに誰もいなくなったときに、自分自身の破滅の時が来たことを知るだろう。

「わたしたちはあなたが来てくれたことを歓迎する。もしあなたが助けてくれたら、ガビイの城門の前で行われているこの戦いを、すぐにローマの城壁の下に移すことができると思う」

 

第五十四章 セクストゥス・タルクイニウスの働き

 

 やがてセクストゥスは民衆の会議に出席を許されるようになった。その会議で彼は次のようにと言って、何度もローマに戦争を起こすように勧めた。

「他のことについてならガビイの長老方たちのほうが詳しいから、わたしもガビイの人たちの考えに異を唱えるつもりはありません。しかし、わたしはこの国とローマの両方の戦力をよく知っています。ローマ王が息子たちさえも耐えられないほど傲慢で国民に嫌われていることも、わたしならよく知っています。わたしはローマと戦うために、他の者にはない知識をもっているのです」

 こうして、徐々にローマとの戦争を再開する方向へ、ガビイの指導者たちを導いていった。また、若者たちのうちでもっとも勇敢な者たちを連れて自らローマへ遠征して略奪を行った。彼は言葉と行動の全てを使ってガビイ人をすっかり欺いて、自分に対する信頼を勝ち取っていった。こうして最後にセクストゥスはこの町の戦争の指導者に選ばれた。

 そして、セクストゥスが何を企んでいるのか誰も気づかないうちに、ローマとガビイの間に戦端が開かれた。そして、この戦いでガビイ軍が至るところで勝利を収めると、セクストゥスのことを神が贈り込んだ指導者だと、人々は上から下まで競って誰もが主張するようになった。

 セクストゥスは、どんな危険も苦難も兵士たちと共にし、戦利品は気前よく分配したので、兵士たちに非常に愛された。ガビイにおけるセクストゥスの力は、もはやローマにおけるタルクイニウスの力をもしのぐほどになった。

 こうしてセクストゥスはガビイで何でもできる権力を手にすると、

「神々はわたしにガビイの国の最高権力を授けてくださいました。ついては、父上はわたしに何をすることをお望みですか」

 と尋ねさせるために、ローマにいる父親の元に家来を派遣した。

 タルクイニウスはこの使者を信用できなかったのであろう、一言も返事をしなかった。彼は息子の使者を連れて、何か考え事でもするかのように、屋敷の庭の方へ歩いていった。そして、そこを歩きながら、黙ったまま芥子(けし)の花のうちで背の高いものばかりを自分の杖で払い落としていった。

 使いの男は王に何度も質問して答えを待ったが、仕事を果たせないまま疲れきってガビイに戻った。そして自分が話した事と見た事をそのまま報告した。

「タルクイニウス様は、ご機嫌が斜めだったのか、わたしがお気に召さなかったのか、それとも生来の気位の高さからか、わたくしに対しては一言もおっしゃいませんでした」

 しかし、セクストゥスには、父親が何を望んでいるのか、無言のしぐさが何を意味しているのか理解できた。すぐに彼は、ガビイの有力者たちの粛清を始めたのである。

 あるものは公開の法廷で断罪し、あるものは国民に嫌われているという理由で、いずれも殺害した。多くのものは公開の場で処刑したが、適当な罪状が見つからないものは暗殺した。中には亡命を許されたり国外追放になった者もいた。

 殺された者と国外に去った者の財産は没収された。セクストゥスはそれで施しをしたり、ほうびを与えたりした。甘い汁を吸って個人的な利益で潤った国民は、もはや国の不幸を省みることはなくなってしまった。こうしてガビイは、考える力も戦う力も奪われて、何の抵抗もなくローマ王の手に移ったのである。

 

第五十五章 ユピテルの神殿などの建設

 

 ガビイを手に入れたタルクイニウスはアエクイ人と平和条約を結び、エトルリア人との条約を更新した。それからは国内の事業に専念した。

 まず最初に、タルクイニウス王家の記念として、タルペイウスの丘(カピトリヌスの丘のこと)にユピテルの神殿を建てる事業にとりかかった。この神殿はタルクイニウス家の二人の王のうちで、父が神にその建設を誓って、息子がそれを実現させることになった。

 まずは、この丘をこれから建てるユピテルとその神殿だけの神域とするために、他の全ての神を立ち退かせることにした。昔タティウス王がロムルスとの戦いで危機に陥ったときに、この地にはじめて神殿の建設を誓って、後に神聖な儀式を行っていくつかの神殿や祭壇をつくっていた。タルクイニウスはこれらの建物から神々を立ち退かせることにした。

 この建設工事が始まった頃に、この国が偉大な国になることを示す不思議な出来事があったと言われている。それは、鳥占いによって他の全ての神殿の神々の立ち退きは認められたが、テルミヌス(境界線)の神の社だけは立ち退きが認められなかっということである。

 人々はこのお告げをこう解釈した。「テルミヌス神の場所が動かせず、神々の中でこの神だけがこの神域から立ち退かせられないということは、ローマの全てが確固として安定したものになることを意味している」と。

 ローマの永遠性を示すこの出来事に続いて、さらにもう一つ、ローマ帝国の大きさを予言する不思議な事件があった。神殿の基礎工事をしているときに、完全な形をした人間の頭が出てきたのである。カピトリヌスの丘がローマ帝国の砦となり世界の首都となることを、この事件が示してしたことは明らかである。この出来事について相談するためにエトルリアから呼ばれた予言者も、ローマにいた予言者も、みなこう解釈した。

 これで自信を得た王は、この事業にどんどん金をつぎ込んだ。そのために、スエッサ・ポメティアを攻略して得た金はすべてこの神殿建設のためにあてられたが、基礎工事だけで使いきってしまった。

 この金額が四十タラントしかなかったというファビウスの方が、銀四万ポンドだったと書いたピソーよりも信憑性があるのは、ファビウスの意見のほうが古いだけでなく、以上のような事情があるからである。 

 銀四万ポンドもの大金が、当時の町を一つ攻略しただけで手に入るわけがないし、また、たとえいま何を建てるにしても基礎をつくるだけでそんな大金を使いきることなど不可能だからである。

 

第五十六章 解放者ブルータスとデルフィの神託

 

 神殿建設に打ち込んでいたタルクイニウスは、エトルリアの至る所から建築家を呼び寄せた。またこのために国の金が使われただけでなく、平民の労力も動員された。

 平民には兵役があったし、神殿建設は決して楽な仕事ではなかったが、あまり不満は言わなかった。しかし、その後もほかの仕事に駆り出されるようになると、そうはいかなかった。

 それらは、競技場に座席を作ったり、ローマの全ての排泄物を通す巨大な下水道を地下に作ったりする工事で、美的には劣るのに遥かに多くの労力を要するものだったからである。この二つの工事は、現代のどんな工事も及ばないほど大規模なものだった。タルクイニウスがこのような労働で平民を酷使したのは、民衆を遊ばせているのはトラブルの元だと考えたからである。

 さらに王は住民を開拓移民として送り出して支配地域を拡大しようと考えた。そこで、山側のシグニアと海沿いのキルケイに移民団を送った。これによって海と山の両側からローマを守ろうとしたのである。

 タルクイニウスがこんなことに専念している時に、不吉な恐ろしい事件が起こった。大蛇が木製の柱から出てきたために、王宮中がパニックになって逃げ回ったのである。

 王自身も突然の恐ろしい出来事にびっくりしたが、それよりもこれが何を意味するのかと不安でたまらなかった。国についての神のお告げならば、エトルリアの占い師に相談すればよかったが、何か個人的なお告げではないかと思った王は、世界で一番有名な神託所だったデルフィの神託所に人を送ることにした。

 当時、デルフィがあるギリシャまでのルートは、陸上も海上もまだローマ人には知られていなかった。しかし、王は占いの答えを他人に託す気にはなれなかったので、二人の息子のティトゥスとアッルンスを派遣することにした。

 二人のお供としてルキウス・ユニウス・ブルータスがついて行くことになった。タルクイニウス王には妹がいて、ブルータスはこの妹の子だった。彼は本性を隠して生きていた。自分の兄を含めてローマの有力者たちが自分の叔父に殺されたことを知っていたのである。そこで、王に警戒されたり妬まれたりしないように、目立たない生き方をすることに決めたのである。正しさが自分の身を守ってくれないところでは、軽蔑されるのが最高の安全策だった。

 そこでブルータスはわざと愚か者の振りをすることにした。そして、王にやりたい放題にされ、財産を取られても怒りもしなかった。挙句の果てに馬鹿を意味するブルータスというあだ名をつけられた。それでも文句一つ言わなかった。むしろ彼はこのあだ名を隠れ蓑に利用した。王の手からローマを解放することになるこの偉大なる魂は、自分の出番が来る時を密かに待っていたのだ。

 タルクイニウスの息子たちは、ブルータスを旅仲間というよりは、単なる気晴らしの相手として、デルフィに連れていった。そのブルータスは金の杖を角製の杖の中に隠してアポロンの社に奉納したと言われている。遠まわしに自分の真の姿を神に示したのである。

 さて、デルフィに到着して王に言われた仕事を果たし終えると、王の息子たちは、自分たちのうちで誰がローマの王座を継ぐことになるかを神託に聞いてみることにした。

 洞穴の底から聞こえてきた声は次のようなものだった。

「若者たちよ、ローマの最高権力の座はお前たちのうちで、自分の母親に最初に口付けをしたものに与えられる」

 タルクイニウスの息子たちは、ローマに残ったセクストゥスにこの神託のことを知らせなければ王座は自分たちのどちらかのものになると考えた。そこで、彼らはこのことを絶対に人にしゃべるなとブルータスに命令した。そして、二人はローマに帰ったらどちらが母親に口付けするかをくじ引きで決めた。

 ブルータスはこの神託を別の意味に解釈していた。彼は、けつまづいた振りをして地面に倒れ込むと、自分の唇で大地にさわった。大地は全ての人間にとって共通の母だった。

 三人が帰国したとき、ローマはルトゥリ人に対する戦争の準備の真っ最中だった。

 

第五十七章 コラティヌスの妻ルクレティア

 

 ルトゥリの都はアルデアだった。ルトゥリは、この地域のこの時代の国としては、非常に豊かな富を誇っていた。そしてこれが戦いの理由だった。

 大規模な公共工事に全ての財産をつぎ込んだタルクイニウスは自ら金が欲しかったが、それと同時に、是非とも民衆の間に戦利品を分配して、自分に向けられている民衆の怒りをなだめる必要があった。民衆は、もともと傲慢な王に対して反抗的だったが、王のために建築作業員として奴隷のような労働に長期間従事させられたことを特に怨んでいたからである。

 最初、タルクイニウスはアルデアに猛攻を加えて占領しようとしたが、それに失敗すると、つぎは町のまわりに塹壕を掘って敵を封鎖することにした。

 戦いがすぐに決着がつかず長期戦になってくると、常設のキャンプでは休みがかなり自由に取れるようになった。特に一般兵よりも指揮官たちのほうが、自由に休みが取れた。王家の若者たちは、暇つぶしに宴会を開いて一緒に酒を飲むことが多くなった。

 ある時、彼らは、エゲリウスの息子のコラティヌス・タルクイニウスも加わって、セクストゥス・タルクイニウスのキャンプで宴会を開いていたが、話がたまたま自分たちの妻たちのことになった。おのおの自分の妻を大いに自慢したが、議論が熱を帯びてくるとコラティヌスがこんなことを言い出した。

「百聞は一見にしかずだ。わたしのルクレティアが他の妻たちよりどれほど優れているかは二三時間もあれば分かることだ。もしあなたたちに若さと活力があるなら、さあ馬に乗って、今すぐわたしたちの妻の本当の姿をこの目で確かめに行こうではないか。予告なしに夫が現れたときに彼女たちが見せる本当の姿を、一人一人試していこうではないか」

 彼らは酒のせいで熱くなっていたので全員が「やろう。やろう」と叫ぶと、馬を飛ばしてローマに向かった。

 ローマに着いたときにはもう日が暮れかかっていた。王家の妻たちはみんな、年の似通った女友達といっしょに宴会を開いて贅沢をしながら時間をつぶしていた。つぎにコラティアの町に着いたが、ルクレティアは王家の妻たちとはまったく違っていた。彼女はもう夜も遅いのに、夜なべ仕事をする召使の女たちに混じって、家の広間に座って糸を紡いでいたのである。女らしさの争いではルクレティアに軍配が上がった。

 ルクレティアは、タルクイニウスの息子たちが自分の夫といっしょに到着したことを知ると、彼らを丁重に出迎えた。勝者となった夫は王家の若者たちを愛想よくもてなした。

 その時、セクストゥス・タルクイニウスの心に、ルクレティアを力ずくで犯したいという良からぬ欲望が芽生えた。ルクレティアの美しさと疑いなき貞節に欲情をそそられたのである。しかしそのときは、夜を徹した他愛のない遊びを切り上げて、全員いっしょにキャンプに戻った。

 

第五十八章 ルクレティアの陵辱

 

 それから数日後、セクストゥス・タルクイニウスは、コラティヌスの知らぬ間に友達を一人連れてコラティアの町にやってきた。コラティヌス家の女たちはセクストゥスの企みなど何も知らずに、彼を丁重に迎え入れた。

 食事が終わるとセクストゥスは客用の寝室に案内されたが、その頃には彼の欲情は燃えたぎっていた。全員が寝静まってあたりが静まり返った頃を見計らって、セクストゥスは刀を抜いて、ルクレティアが眠っている部屋に入った。そして左手で相手の胸を抑えつけながら、こう言った。

「ルクレティア、声を立てるな。わたしはセクストゥス・タルクイニウスだ。刀を持っている。声を立てたら死ぬぞ」

 驚いて目覚めたルクレティアは、誰も助けてくれないことと、死が間近に迫っていることを悟った。セクストゥスは自分の欲望を告白した。そして嘆願したり、脅したりすかしたりして、あらゆる手段に訴えて女の気持ちを揺さぶろうとした。

 しかし、相手がどうしても言うことを聞かず、死の恐怖によっても気持ちが揺らがないことがわかると、

「それなら不名誉な死に方をしてもいいのか。お前の死体のそばに裸の奴隷の死体を置いてやる。そうして、汚らわしい不貞行為のために殺されたと言われるようにしてやる」

 この脅しには、気丈なルクレティアも勝てなかった。こうしてセクストゥスの情欲は力ずくでルクレティアの貞節を征服した。そしてセクストゥスは女の尊厳を踏みにじったことに有頂天になって引き上げた。

 ルクレティアはこの災難を悲しんで、ローマの父親とアルデアにいる夫に同時に使者を送って、

「信頼できる友人を一人だけ連れて、こちらに来てください。それも大急ぎで来て欲しいのです。恐ろしいことが起こりました」

 と伝えた。父のスプリウス・ルクレティウスは、ウォレススの息子のプブリウス・ウァレリウスを連れて、コラティヌスはルキウス・ユニウス・ブルータスを連れてコラティアの町にやってきた。コラティヌスはブルータスと一緒にローマに帰るところをたまたま妻の使者に出会ったのである。

 彼らが家に着いたとき、ルクレティアは寝室で泣きながら座っていたが、身内が到着すると、彼女の目から一気に涙があふれた。夫が「大丈夫か」と尋ねると、

「いいえ。自分の貞節を奪われた女がどうして大丈夫でいられましょう。コラティヌス、あなたのベッドを別の男が土足で踏みにじったのですよ。でも、体は汚されても、わたしの心は潔白です。死んで身の証を立てるつもりです。

「さあ、右手を出して、この犯人を必ず罰してくださると約束してください。敵はセクストゥス・タルクイニウスです。あの男は昨夜我が家に客の振りをしてやってきて、この場所でわたしを力づくで慰み者にしたのです。こんな目に会ったわたしは死なねばなりません。しかし、もしあなたたちが真の男なら、あの男も死なねばなりません」

 と言った。男たちは順番に復讐を誓った。そして、

「おまえは被害者だから悪くない。罰を受けるべきなのは加害者である男の方だ。体ではなく心が罪を犯すのだ。心まで奪われていない以上、お前には罪はないのだ」

 と言って、悲しみに沈んだルクレティアの気持ちを慰めようとした。しかし彼女は、

「あの男をどう罰するかはあなたがたにお任せします。わたしはたとえ無実でも、罰を逃れるつもりはありません。ルクレティアは、貞節を汚された女がおめおめと生きつづける前例になりたくありません」

 と言うと、ふところに隠していた短剣を取り出して、自分の胸に突き立てて、傷の上に倒れて込んで自害した。彼女の夫と父親はともに声を立てて男泣きに泣いた。

 

第五十九章 革命のぼっ発

 

 二人が悲しみに暮れている間に、ブルータスはルクレティアの体から短剣を抜き取った。そして、まだ血の滴るその短剣を自分の体の前に持ちあげてこう言った。

「この血は王家の息子に汚される前には、もっとも清らかな血だった。わたしはこの血にかけて誓います。神々よ、わたしはあなたたちを証人にして誓います。わたしは、殺戮、焼き討ちなど、どんな手段を使っても、傲慢王ルキウス・タルクイニウスとその邪悪な妻と子供たちを、必ず追い詰めて罰を下します。わたしは、タルクイニウス家の者であろうと誰であろうと二度とローマの王座につくことを許さないことを誓います」

 そしてブルータスは短剣をコラティヌスに渡し、コラティヌスはルクレティウスに、ルクレティウスはウァレリウスに渡した。彼らは、ブルータスのどこにこんなことを言う人間が隠れていたのだろうと、この不思議な変化に驚いていた。

 彼らは、ブルータスの命じるままに誓いをたてた。彼らの悲しみは怒りに変わった。そして、王家に対する戦いを主張するブルータスを指導者として、彼の言うことに従うことにした。

 彼らはルクレティアの遺体を家からコラティアの公共広場に運んだ。この常軌を逸した思いもよらぬ出来事に、当然ながら、野次馬が続々と集まってきた。その野次馬に向かって、彼らはそれぞれ王の息子の罪と暴力を糾弾した。

 ルクレティアの父親の悲嘆ぶりは人々の心を打った。そして、ブルータスが、

「ただ泣いたり不平を言ったりしているだけでは何にもならない。さあ、男らしく、ローマ人らしく、国民を大胆にも敵にまわした者どもに対して武器を取ろう」

 と言うと、人々の心は奮い立った。

 まず勇気ある若者たちが武器を持って志願してきた。残りの若者たちもその後に続いた。そして、反乱の知らせが王宮に届かないように見張りを置き、コラティアを守るためにルクレティアの父親が町に残ることになった。あとは全員武器をとってブルータスを先頭にローマに向かって出発した。

 ローマに着いたこの武装集団は、至る所で不安と混乱をもたらした。しかし、先頭を行くのが市民の有力者だったので、これが単なる暴徒でないことは明らかだった。

 そして、ルクレティアの身に起こった恐ろしい事件の知らせは、コラティアの人々に劣らず、ローマの人々の心を動かした。市民たちがローマの至る所から公共広場に急いでやってきた。そして、彼らが到着すると、触れ役の男が彼らを近衛隊長のもとに集合させた。たまたまその時近衛隊長だったのがブルータスである。

 そこで、彼は演説を始めたが、その中で、彼はその日まで隠していた本当の性質と胸のうちを明らかにした。そして、セクストゥス・タルクイニウスの乱暴な振る舞いと不品行、ルクレティアに対する不名誉な暴行と彼女の哀れな死、娘を失った父親のルクレティウスが、娘の死よりもその死の原因を嘆き悲しんでいることを話した。

 それに加えて、タルクイニウス王の傲慢さや、この王が平民を下水道や水路に押し込んでその工事にこき使ったこと、周囲の民族に打ち勝ったローマ市民を、戦士ではなく肉体労働者や石切り工にしてしまったことを語った。

 さらに、先代のセルヴィウス・トゥッリウス王の不当な暗殺と、娘が父親の遺体を呪われた車で轢いたことにも言及して、この親殺しを懲らしめることを神に祈った。

 彼はこのほかにも、一歴史家には到底描ききれないけれども、当時のひどい政治を経験した者なら容易に思いつくような、もっと厳しい王制批判を展開したに違いない。

 この演説によって目覚めた民衆は、王制の廃止を決意して立ち上がった。そして、民衆はルキウス・タルクイニウスとその妻と子供たちの国外追放を決議した。

 ブルータスは、名乗り出た若者たちを集めて武装させると、軍隊を王に反乱させるために、アルデアのキャンプに向かって出発した。ローマの支配は、以前に王によってローマの行政長官に任命されていたルクレティウスに委ねられた。

 この混乱のさなかに、トゥッリアは家から逃げ出した。男も女も至る所で彼女に向かって「この親殺しめ、復讐の神のたたりを受けろ」と呪いの言葉を投げかけた。

 

第六十章 王制の終焉

 

 事件の知らせがアルデアのキャンプにもたらされて、革命のぼっ発に気づいたタルクイニウスは、反乱を抑えるために急いでローマに帰ってきた。それを知ったブルータスは王と鉢合わせにならないように別の道を取った。そして、ほぼ同じ頃に、別々の道を通って、ブルータスはアルデアに、タルクイニウスはローマに到着した。

 しかし、ローマの城門はタルクイニウスに対して開かれることはなかった。そして、彼は国外追放を宣告された。ローマの解放者ブルータスは、アルデアのキャンプにいた者たちから喜んで迎えられ、王の息子たちはキャンプから追い出された。彼らのうちの二人は父の後を追って、エトルリアのカエレの町に亡命した。

 一人セクストゥス・タルクイニウスだけは、自分の国にでも帰るつもりでガビイへ向かった。しかし、彼は、かつて行った殺戮や財産没収のために恨みを持つ者たちによって殺害された。

 傲慢王ルキウス・タルクイニウスの治世は二十五年間続いた。建国以来王に支配されつづけたローマは、二百四十四年後に王の支配から解放された。

 セルヴィウス・トゥッリウス王の残した記録にしたがってローマの行政長官が行った階級別の投票によって、二人の執政官(コンスル)が選ばれた。その二人は、ルキウス・ユニウス・ブルータスとルキウス・タルクイニウス・コラティヌスだった。

 

第一巻要約A

 

 アエネアスのイタリア到着。彼の功績。アスカニウスとその後に続くシルヴィウス家によるアルバ支配。ヌミトル王の娘と神マルスから、ロムルスとレムスの誕生。アミュリウス王の殺害。ロムルスによるローマ建国。元老の選出。サビニー人との戦争。最高の戦利品(スポリア・オピマ)をユピテル・フェレトリウス神に奉納。国民を三十の選挙区に分割。対フィデナ、対ウェイイ戦の勝利。ロムルス、神となる。

 ヌマ・ポンピリウス王が宗教儀式を伝える。ヤヌスの神殿の扉が閉じられた。

 トゥッルス・ホスティリウス王がアルバを攻略。三つ子同士による戦い。メッティウス・フフェティウスの処刑。トゥッルス、雷に打たれて焼死。

 アンクス・マルキウス王が対ラテン戦で勝利。オスティアを建設。

 タルクイニウス・プリスクス王が対ラテン戦で勝利。競技場を建設。周辺住民を征服。城壁と下水道を建設。

 セルヴィウス・トゥッリウスの頭が燃える事件。セルヴィウス・トゥッリウス王が対ウェイイ戦で勝利。国民を階級に分割。ディアナの神殿を奉納。

 タルクイニウス傲慢王、トゥッリウス王を殺害して王座を奪取。トゥッリアの父親に対する犯罪。トゥルヌス・ヘルドニウスのタルクイニウスによる処刑。ヴォルサイ族との戦い。セクストゥス・タルクイニウスの奸計によってガビイを攻略。カピトリヌスの丘の神殿の建設始まる。テルミヌスとユウェンタの祭壇だけ動かせず。ルクレティアの自害。傲慢王の追放。王制は二百五十五年で幕。

 

第一巻要約B

 

 アンクス王はラテン人を破るとアウェンティヌスの丘に住まわせた。また、ローマの領地を拡大して、オスティアに植民し、ヌマが創設した宗教儀式を復活した。

 この王が、占い師のアットゥス・ナヴィウスの技術を試すために、自分が考えていることが実現するかどうか尋ねたと言われている。アットゥスが実現すると答えたので、王がかみそりで砥石を切れと命ずると、アットゥスは即座にそれを実行したという。

 アンクス王の在位は二十四年。その在位中に、コリント出身のデマラトゥスの息子ルクモーが、エトルリアの町タルクイニーからローマにやってきた。そしてアンクス王の友人となり、タルクイニウス・プリスクスと名乗って、アンクスの死後王座についた。

 タルクイニウス王は元老を百人増やした。ラテン人を征服して、競技場で見世物を開催した。騎士の百人隊を増員した。町を城壁で囲み、下水道を整備した。この王は三十八年間王座にあった後、アンクスの息子たちによって暗殺された。

 このあとを襲ったのがセルヴィウス・トゥッリウスだった。この王はコルニキュルムの町が陥落したとき捕虜となった貴族の女の子供で、ゆりかごに入れられていたときに頭から炎が立ったといわれている。

 この王が最初に国勢調査を行った。そして、終わりの清め(ルストルム)を創設した。このときの調査では、ローマの人口は八万人だったと言われている。ポメリウムを拡大。クイリナレス、ヴィミナレス、エスクイリヌスの丘をローマに加える。またディアナの神殿をラテン人と共同でアウェンティヌスの丘につくった。彼は、娘トゥッリアの策略で、タルクイニウス・プリスクスの息子のルキウス・タルクイニウスによって殺された。在位期間は四十四年。

 この王の次は、ルキウス・タルクイニウス傲慢王が、元老の承認も、国民の選挙も経ずに王座を簒奪。自分の身を守るためにボディーガードを従えた。ヴォルサイ人との戦争を起こし、その戦利品でカピトリヌスの丘にユピテルの神殿を建設。奸計によって、ガビイ人を自分の支配下に加えた。

 自分の息子たちをデルフィに派遣。息子たちは、自分たちの誰が次のローマ王になるか神に尋ねて、「最初に母親に口付けするものが王となる」という答えを得る。この答えを王の息子たちは間違って解釈するが、彼らと一緒にいたユニウス・ブルータスは倒れた振りをして地面に口付けをした。この行動の正しさは事実が証明した。

 タルクイニウス傲慢王は専制政治によって国民をすべて敵にまわした。ある夜、息子のセクストゥスがルクレティアを陵辱。彼女は自分の死の敵討ちを懇願して短剣で自害。これがきっかけで、特にブルータスの尽力により傲慢王は最後に追放された。在位二十五年。

 それから、ルキウス・ユニウス・ブルータスとルキウス・タルクイニウス・コラティヌスが最初の執政官に選出された。

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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