1.ギュゲスが王になった理由 2.ペルシャ戦争の原因を作った男 3.イルカに乗ったアリオン 4.賢者ビアスの忠告
そのうち王はこんな事を言いだしました。「わたしがいくら口で言っても、お前にわたしの妻の美しさは解らないだろう。よし、百聞は一見にしかずだ、お前にわたしの妻の裸の姿がどれほど美しいか見せてやろう」。
ギュゲスはこのとんでもない申し出に「女というものは着物といっしょに羞恥心も脱ぎ捨てるといいます。そんなところを他人に見せるものではありません」と言って、なんとか断ろうとしました。けれども、王からの申し出を誰も拒み続けることはできません。そのうちとうとう王の言うとおりにすることになってしまったのです。
ギュゲスは王の寝室の入り口のとびらの陰に隠れて、后が服を脱ぐところを盗み見ることになりました。后がこちらに背を向けてベッドに向かうすきに部屋の外へ出て行こうというのです。
しかし、こんなことがうまく行くはずがありません。部屋の外へ出ようとするギュゲスの姿が后の目に入ってしまったのです。后はすぐにこれが夫の企みであると気づいたのですが、その夜は何も言いませんでした。
翌朝ギュゲスは后に呼ばれました。后に呼び出されるのはよくあることなので、ギュゲスは何食わぬ顔をして后のもとに出向きました。ところが、そこには后の家来が大勢集まっていました。そして、后はギュゲスに対して次のように言ったのです。
「お前には二つの道があります。わたしの夫を殺してリディア王となってわたしと結婚するか、見てはならぬものを見たつぐないにここでわたしの家来の手にかかって死ぬか、さあ、このどちらか一つを選びなさい」
主人を殺すか自分が殺されるかの二者択一の瀬戸際に立ったギュゲスは、仕方なく自分が生きる道を選びました。カンダレス王は妻に恥をかかせたのと同じ寝室で、同じくとびらの陰に隠れていたギュゲスによって寝込みを襲われて殺されたのです。
ところで、話はここで終わりません。ギュゲスが王になると国内で反乱が起こりました。やがて、反乱派とギュゲス派とは一つの合意に達しました。それはデルフィの神託にうかがいを立てて、神託が認めたらギュゲスがそのまま王位に留まるが、認めらなければ王位をカンダレスの家に戻すというものでした。ところが、デルフィの神託はギュゲスの王位を認めたのです。ただし、カンダレス家の恨みはギュゲスの子から数えて五代目のときに晴らされるだろうと神託はつけ加えました。
こうしてギュゲスはリディア王となったのですが、神託の後半の部分は誰も覚えてはいませんでした。しかし、この話の鍵はここにあります。ギュゲスは主人殺しの責任を問われることなくその生涯を終えたのですが、ギュゲスの子孫でヘロドトスの「歴史」第一巻の主人公の一人のクロイソスが先祖の犯した罪をつぐなうことになるのです。
彼らは言います。「そもそもの事の起こりは、ギリシャにやってきたフェニキア商人が都市国家アルゴスの王の娘であるイオをさらったことにはじまった。それに対して、ギリシャ人は仕返しにフェニキア王の娘エウロパをさらった。さらにギリシャ人は黒海のコルキス王の娘メデアをもさらった。すると、今度はアジアの側にあるトロイの王子パリスがギリシャからスパルタ王の妻ヘレンをさらってきた。ここまでは単なる人さらいだった。ところが、ギリシャ人たちがこの女ヘレンを取り戻すために軍隊をくり出したことから、ことは大事になってしまった。女をさらうのはよくないが、そんなことで軍隊を動かしたギリシャ人はもっとよくない。アジア人は女が盗まれたぐらいで大騒ぎしないのに、ギリシャ人はたかが女一人のために戦争を始めてトロイ一国を滅ぼしてしまったのだ。ギリシャ人がこんな愚かなことをするから、両者の間に反感が生まれてペルシャ戦争が起こったのだ」。
このようにペルシャ人たちはペルシャ戦争をアジア人とギリシャ人との伝統的な抗争の最近の例として把握していました。これ対して、ヘロドトスは「わたしはギリシャ人に対して最初に不正を働いた男が誰かを知っている。その男の名を明らかにしてからその後の話を進めていきたい」と言い、リディアの王クロイソスの名を挙げたのです。「このクロイソスこそはわたしの知る限り、外国人の中で初めてギリシャ人を支配して、ギリシャ人の国を属国の地位におとしめたのである・・・クロイソスの支配が始まるまでは全てのギリシャ人は自由だった」
ヘロドトスはペルシャ戦争の原因が遥か昔のことではなく、クロイソスがギリシャ人に加えた不正行為に始まっており、その不正とは女をさらうことではなくて、自由を奪うことであると言うのです。
この自由を奪われたギリシャ人とは現在のギリシャ地方に住んでいたギリシャ人のことではなく、小アジアの西海岸沿いの、いわゆるイオニア地方に暮らしていたギリシャ人のことです。そして、彼らの自由を回復する試みが、ペルシャ戦争の発端となったいわゆる「イオニアの反乱」なのです。ところが「イオニアの反乱」がこの「歴史」に登場するのはだいぶ先の話です。
ある時アリオンはイタリアに公演に出かけることになりました。公演は大成功で、アリオンのふところにはたくさんのお金が入りました。さて、コリントへの帰りの船旅には、信頼できるコリント人の船を使うことにしました。ところが、船が海上に出ると途端に乗員たちは、アリオンを殺して金を奪う計画を練りはじめたのです。
これに気づいたアリオンは、金はやるから命だけは助けてくれと懇願しました。そしてこの願いが聞き入れられないと分かると、彼はこの世の名残りに一曲歌わせてくれと言ったのです。有名な歌手の歌を聴けると喜んだ乗員たちは、この願いを叶えてやることにしました。
アリオンは演奏会用の衣装に身を包んで、一人船尾の甲板の高みに立つと、中央甲板から見上げる乗員たちに向かって、竪琴を弾きながら朗々と一曲歌い上げました。そして歌い終わるとともに船尾から海中に身を投げたのです。
そして、船はそのままコリントに向かいました。しかし、身投げしたアリオンは死んではいませんでした。アリオンの歌に聞き惚れていたのは船の乗組員たちだけではなかったのです。歌に引き寄せられて船尾に集まっていた一頭のイルカが、落ちてきたアリオンを受けとめたのです。そしてアリオンはそのままイルカに乗って一足先にギリシャに帰り着いたのです。
その後歩いてコリントに到着したアリオンは、ことの次第を残らずペリアンドロスに話しました。しかし、イルカに助けられたなどと言っても信じてもらえず、アリオンはそのまま屋敷に留置されてしまいました。
やがて例の船がコリントに到着すると、さっそくペリアンドロスは船員たちを王宮に呼び寄せて、アリオンの安否を尋ねました。すると彼らは「アリオンはイタリアで元気にしているところを見かけた」と答えたのです。その時でした。もの陰に隠れていたアリオンが、身投げしたときと同じ姿で彼らの目の前に現れたのです。驚いた船員たちは、たまらず自分たちの犯した悪事を正直に白状したのでした。
アリオンはイルカに救われたことに感謝して、自分が海から上がった町の神殿に小さな銅像を奉納しました。それはイルカに乗った人の姿を型どったものでした。
当時、リディアの都サルディスにいたギリシャ人のビアスは、この話を聞いてクロイソスに面会を求めました。彼はクロイソスに会うと、次のように話しかけました。
「王様、ギリシャの島々では、一万頭の馬を集めてサルディスに攻め込もうと企んでいるという話でございます」。
これを聞いたクロイソスは「海の民族がわれわれ陸の民族に対して馬で戦いを挑んでくれるとは、これは有り難い。是非ともそう願いたいものだ」と喜びました。
そこですかさずビアスは次のように言ったのです。「そうでございましょう、王様のお喜びは当然でございます。ところで、王様は船を仕立てて島々のギリシャ人に戦いを仕掛けようとされているそうでございますが、彼らがこの話を聞けば、王に征服された小アジアのギリシャ人たちの敵討ちをする絶好の機会が訪れると、さぞかし大喜びすることでございましょう」
クロイソスはこの言葉にいたく感心しました。クロイソスは、陸の民族が海の民族に海戦を仕掛けることの愚さを悟ると、すぐさま船の建造をとり止め、島のギリシャ人たちと友好関係を結ぶことにしました。
このようにして島のギリシャ人たちを戦争の災禍から救ったビアスは、ギリシャの七賢人のなかに数えられています。
クロイソスは彼を客人として丁重にもてなしました。そして、宮殿の中を案内させて、豊かな財宝をあますところなくソロンに披露しました。戻ってきたソロンにクロイソスは次のように問いかけました。
「あなたは世界中を旅してこられたと聞いている。あなたがこれまで出会った人たちの中で一番幸福な人間は誰だと思われるか」
クロイソスは当然自分の名が出るだろうと思っていたのです。しかし、ソロンは「アテネのテルスです」と全く無名の男の名前を挙げました。その答えに驚いたクロイソスが理由を尋ねると、このテルスという男は豊かな町に住んで、すぐれた子と孫に恵まれ、人並みの生活をして、兵士として国のために手柄をあげて名誉の戦死を遂げたからだと言います。
では自分は二番目に違いないと思ったクロイソスは、その次に幸福な人間は誰か尋ねました。しかし、ソロンは「アルゴスのクレオビスとビトンです」と言って、次のような話をはじめました。
「それは女神ヘラのお祭の日のことでした。クレオビスとビトンの母親も祭を見に行くことにしていました。ところが、出発の時が来ても車を引く牛が用意できません。そこで、二人は自分たちで車を引いて、母親を遠路はるばる祭に連れて行ったのです。祭に来た人たちは、このような孝行息子をもったあなたは幸福者だと母親を讃えました。そこで、母親は女神に対して、この世で最上の幸福を息子たちに下さるように祈りました。すると、その夜神殿で眠りについた息子たちは翌朝には帰らぬ人になっていたのです。アルゴスの人たちは、記念にこの二人の銅像を作ってデルフィの社に奉納したそうです」
クロイソスは自分とは比較にならない者たちの名前ばかり挙げるソロンにとうとうしびれを切らしました。「あなたはわたしの幸福は、そんな者たちにも劣ると言うつもりか」とソロンに詰め寄りました。
それに対するソロンの答えは次のようなものでした。
「神は幸せ者に嫉妬するということを王はご存じか。浮き沈みは人の世の習い。幸福がいつまでも続くとは限りません。幸福のうちに人生を終えた人こそ幸せ者と呼ぶことができましょう。しかし、それまでは単に運のいい人でしかありません。その上、金持ちは貧乏人よりもはるかに多くのトラブルに巻き込まれやすいもの。わたしは、あなたが幸せ者であるかどうかという問いにはお答えできません」
クロイソスはこの答えの意味が理解できませんでした。しかしそれが分かる時はすぐにやってきました。
ヘロドトスはクロイソスがこんな夢を見たのは、自分が世界中で一番幸福だと思い上がっていたからだと言っています。ヘロドトスの話には夢のお告げがよく登場します。当時の人たちは夢のお告げを神託と同じように、未来を言い当てる力があると信じていました。
ですから、この夢はクロイソスにとってすでに大きな不幸でした。しかし、クロイソスは簡単にあきらめたりせず、息子アテュスを死なせまいと思いつく限りの手だてを尽くします。
夢から覚めたクロイソスはまず息子に嫁を取らせます。そして、息子に二度とリディア人を率いて戦場に行かせないことにしました。さらに、壁に掛けた槍や剣が万が一息子の上に落ちてはいけないと、武器のたぐいは全て男たちの部屋から女たちの部屋に移しました。
人をあやめて国を追われた一人の男が自分の汚れを清めて欲しいとクロイソスのもとを訪れたのは、ちょうどそんなときの出来事でした。クロイソスは男の求めに応じて、しきたりどおりの浄めの儀式をしてやりました。そして、男がアドラストスという名で、親交のある隣国フルギアの王子であり、過って弟を殺して父親に追放された気の毒な身の上であることを知ると、彼を屋敷に泊めて生活の面倒を見てやることにしました。そして「ご自身の不幸な身の上について、あまり深刻に考えてはいけません」と慰めの言葉まで与えました。
しばらくして、属国の一つのミュシアからクロイソスのもとに援助を求めて使節がやってきました。ミュシアに巨大な猪が現れて国中を荒し回っているが、自分たちだけではとても手に負えない。ご子息を代表とする部隊を派遣して欲しい、というのです。しかし先の夢のお告げを恐れていたクロイソスは、息子の派遣をきっぱりと断りました。しかし、息子の代わりにほかの者を送ることを約束しました。この答えにミュシアの人たちは満足しましたが、話を聞いた息子アテュスは自分が行けないことに納得できずに王の前に姿を現します。
「父上、これまでわたしは狩りや戦いの場で手柄を立てることを何よりも名誉なことだと思っていました。ところが父上はその両方ともわたしから取り上げてしまわれました。まさかわたしのことを、臆病者と思っておられるわけではありますまい。しかし世間がこれをどう取るかと思うと、わたしは恥ずかしくて外に出ていけません。いやそれ以上に、今度わが家に迎える新妻の目にわたしはどんな男に映ることでしょう。父上、是非ともわたしにこの狩りに行かせて下さい。どうしてもだめだとおっしゃるなら、その訳をわたしに聞かせて下さい」
この息子の問いかけに対してクロイソスはこう答えました。
「お前がけっして臆病者でないことは、このわたしが一番よく知っている。実はわたしは夢を見たのだ。槍がお前の体に突き刺さってお前が死ぬ夢をな。お前の結婚を急がせたのも、今回の狩りにお前を行かせないことにしたのも、みなこの夢のためなのだ。わたしは自分が生きている間は、お前の命を守るためならどんなことでもするつもりだ。お前の弟は障害があって将来を当てにできない以上、お前はわたしの一人息子も同然なのだから」
これに対して息子は反論します。
「そんな夢をごらんになったのなら用心したくなるのも不思議ではありません。でも父上は一つ勘違いをなさっています。父上は先ほど、わたしの体に槍が刺さってわたしが命を落とす夢を見たとおっしゃいました。しかし、今回の相手は猪です。猪がどんな槍を投げるというのでしょう。猪が槍を使うわけがありません。わたしが猪の牙に刺さって命を落とすというならともかく、夢ではわたしは槍で死ぬ事になっているのでしょう。それなら、今回は大丈夫です。父上、わたしをこの狩りに行かせて下さい」
これに対してクロイソスはこう言いました。
「息子よ、どうやらわたしの負けだな。言われてみれば、なるほどその通りだ。あの夢の意味はお前の方がよく解っているようだ。よろしい、今回の狩りに行くのを認めるとしよう」
しかし、クロイソスは、もしや息子が旅の道中で追い剥ぎにでも会って命を落とすのではないか、と心配でした。そこで、息子にボディーガードを付けてやることにしました。その仕事を屋敷に泊めていたあの隣国の王子アドラストスに頼んだのです。これがこの男の名誉回復の一助にでもなればという思いもありました。
さて、狩りが始まり目的の猪が見つかると、全員でそのまわりを取り囲みました。そして一斉にみんなで猪めがけて槍を投げました。ところが、人殺しの浄めを受けたばかりのアドラストスの投げた槍は、猪をはずれたばかりか、クロイソスの息子のアテュスに当たってしまったのです。こうして、クロイソスの見た夢は現実のものになったのです。
クロイソスは大きなショックを受けました。息子を殺した男が、自分がわざわざ罪を清めてやり、そのうえ屋敷に泊めてやり、しかも息子の護衛に付けた男だったからです。クロイソスが良かれと思ってしたことは全て裏目に出て、息子の死につながってしまったのです。しかし、クロイソスは息子を殺したアドラストスを責めたりはしませんでした。これは神々の仕業であることを知っていたからです。
一方、またもや過って人を殺してしまったアドラストスは、自分で自分の運命を呪いました。そして、クロイソスの息子の埋葬が終わると、その墓の上で自害をして果てたのです。
クロイソスは数多くある神々の中でどの神が当てになるかをまず確かめようとしました。その方法はこうでした。いっせいに各地の神託所に使者を派遣して、出発してからちょうど百日目に同時にそれぞれの神託所に「今リディアのクロイソスは何をしているか」を占わせるのです。
そしてクロイソスはその日に誰も思いつかないようなことをしました。それは亀と羊をぶつ切りにして銅の鍋で煮るというものでした。しかしデルフィの神託所ともう一つの神託所だけはこれを見事に言い当てたのです。
するとクロイソスはこの二箇所の神のために考えうる限りの犠牲を捧げて、できる限りの豪華な寄進をして、神の好意を勝ち取ろうとしました。ヘロドトスはこの様子をこれでもかこれでもかという具合に延々と書いています。クロイソスはこれ以上のことはないと言えるほどに万全を尽くしたのです。
そうしておいてから、この二箇所の神に尋ねました。「自分はペルシャと戦争をすべきかどうか。また、自分はどこかの国と同盟を結ぶべきであるか」。得られた答えは二つとも同じでした。
「おまえがペルシャを攻撃すれば大国を滅亡させることになろう。またギリシャの中で最も強い国と同盟するがよい」
この答えを聞いたクロイソスは躍り上がって喜びました。ペルシャの征服を神に約束されたと思ったからでした。しかし、実はここに重大な思い違いがあったのです。
綿密な調査の結果、クロイソスはアテネよりもスパルタの方が政治が安定して国力も充実していることが分かると、使節をスパルタに派遣して同盟を申し入れて、望みどおりにスパルタの同意を得ました。そして「ペルシャを攻撃すれば大国を滅亡させることだろう」という神託を当てにして、勇んでペルシャ征服に出発したのです。
しかし征服は思うようにはいきませんでした。そこでクロイソスはつぎの遠征の準備をするために、いったんサルディスに引き上げて軍隊を解散してしまいました。ところが、その間げきをついたペルシャ王のキュロスによって、首都サルディスが包囲されてしまったのです。こうして、リディア王国は滅亡の時を迎えました。
神託が言ったクロイソスが滅亡させる大国とは、実はリディア王国のことだったのです。
「愚かなクロイソスよ、息子の声が聞けないことを幸せに思うがよい。その子が初めて口をきくときは汝の悲しみの日であるものを」
その悲しみの日とはリディアの滅亡の日のことだったのです。
それは都市の城壁が破れて、ペルシャの軍勢が王宮になだれ込んできたときのことでした。ペルシャの兵士たちはクロイソスを生け捕りにせよという命令を受けていましたが、一人の兵士がクロイソスめがけて切りかかってきました。この兵士はクロイソスの顔を知らなかったのです。万事休すと悟ったクロイソスはこの兵士に対して何の抵抗もしませんでした。しかしその時そばにいた口のきけない息子が、恐怖に駆られて大声をあげたのです。
「こら! クロイソス様に手を出すではない! 」
これがこの息子がしゃべった初めての言葉でした。こうしてクロイソスの命が救われるとともに、この息子は口がきけるようになったのです。
その声を聞いたキュロスは、ソロンとは誰のことかをクロイソスから聞き出すように通訳に命じました。クロイソスは通訳に対してしばらく黙っていましたが、しつこく問いただす通訳に対して、やがて「あの男の話を全ての王と呼ばれる者たちに聞かせてやれたら、どれだけ金を使っても惜しくはない」と言いました。そして、アテネから来たソロンが彼の財宝を見ても驚かずに「幸福のうちに人生を終えた人こそ幸せ者と呼ぶことができる」と言った話をして、すべてはソロンの言うとおりだったこと、これは自分だけではなくあらゆる人間に、特に自分が幸福であると思いこんでいる人たちに当てはまると言いました。
クロイソスが話している間にも、すでに点火されていた火は彼の近くに迫っていました。
通訳からクロイソスの話を聞いて心を打たれたキュロスは、人間の身でありながら同じ人間を生きたまま火あぶりにすることの間違いに気づきました。そして、すぐに火を消すように命じました。しかし、すでに燃え盛る炎の勢いはどうしようもありませんでした。
クロイソスは、キュロスが考えを変えて部下に火を消すように命じたことを知ると、大声で神に救いを求め始めました。そして、自分がかつて奉納した品物が神のお気に召したのなら、どうかこの不幸からわたしを救って下さいと祈りました。泣きながらクロイソスが神の名を唱えていると、それまで晴れていた空がにわかに真っ暗になって、滝のような雨が落ちてきたのです。そして、燃え盛る炎を一瞬のうちに消してしまったのです。
こうして命を救われたクロイソスは、キュロスによって大切にされてペルシャの宮廷で暮らしました。
それに対する神の返事は次のようなものでした。「わたしはお前に『ペルシャを攻撃すれば大国を滅亡させるだろう』とは言ったが、その大国がどこの国かは言わなかった。それを確かめるためにもう一度聞きに来なかったのはお前の落ち度だ。そもそも、神といえども人の運命を変えることはできない。お前の4代前の祖先のギュゲスは主人殺しという大罪を犯した。その罪の償いをお前がすることになったのだ。予言をしたときは、お前の子供の代が償いをすると言ったが、運命はお前を選んだのだ。ただ、わたしもお前の寄進をよく覚えている。だから、サルディスの陥落を少し遅らせてやったし、お前の命も救ってやったではないか」
この答えを聞いたクロイソスはすっかり観念して、自分の失敗の責任は全て自分自身にあることを認めて、二度と神を責めたりはしませんでした。そして第一話のギュゲスの話はここで完結したことになるのです。
その夢とは、娘のマンダネが膨大な量のおねしょをして、それがメデアの首都エクバタナを水浸しにして、さらにアジア全体を覆いつくしてしまうという夢でした。王からこの話を聞かされた夢占い師たちは、この夢は王に不吉なことが起こる前兆に違いないと言いました。
自分の地位を娘におびやかされることを恐れた王は、娘が成人するとメディア人の貴族ではなく当時は卑しい地位にあったペルシャ人の、しかも名もない男のもとに娘を嫁がせました。
娘のマンダネが結婚してから一年たって、お腹に子供ができると、アストュアゲス王はまたも不思議な夢を見ました。今度は、マンダネの股の間から芽生えたブドウの木が、見る間に大きな枝を広げてアジア全体を覆いつくすという夢でした。
アストュアゲスの夢占い師たちは、この夢はマンダネの生む子によってアストュアゲスが王座を追われることの前兆であると言いました。そこで王は生まれてくる子を殺させることにしました。
「ハルパゴスよ、これからおまえに申しつけることがあるから心して聞け。わたしの命はおまえの肩にかかっている。万が一にもわたしのこの言いつけを破るようなことがあれば、あとできっと後悔することになるぞ。おまえはマンダネが生んだ子を家に持ち帰って殺すのだ。埋葬はおまえに任せる」
それに対してハルパゴスはこう答えました。
「ご存じのとおり、わたくしはこれまでいつも王様のお気に召すように致して参りました。これからも王のお言い付けどおり粗相の無いよう致して参る所存でございます。今回も、それが王の御心ならば、わたくしはただ王のおっしゃることを忠実に実行に移すだけでございます」
実はこの子は未来のペルシャ王キュロスだったのですが、こうして死に装束に飾られてハルパゴスの手に渡されたのです。
ハルパゴスは赤ん坊を受け取ると、泣きながら自分の家に向かいました。そして、家に着くと彼は王の命令をありのままに自分の妻に話しました。
「それであなたはどうなさるおつもりですか」と妻に聞かれると、ハルパゴスはこう言いました。
「まさか王の言い付け通りになどするものか。まったく王は何を言い出すものやら。あの人は頭がおかしいのだ。これから先また何を言い出すかは知らんが、とにかく、わたしはごめんだ。こんな企てにどうして手が貸せよう。わたしは人殺しの奉公などするつもりは毛頭ない。そのわけはたくさんあるが、第一この子はわたしと血がつながっているのだ。
「そのうえ、もしこのまま王が男の子の世継ぎなしに亡くなったら、あのマンダネ様が王座を継ぐことになる。その時のわたしの立場はどうなると思う。女王の子を殺したとなると只では済まない。ただし、この子にこのまま生きていられては今度はわたしの命が危なくなる。かといってわたしの家の者に手を汚させるわけにはいかない。ここはひとつ王の家の召使いに、この子の処分をさせるしかあるまい」
ハルパゴスは王に仕えている牛飼いの中で、子供を捨てる場所として格好の、獣がうようよいる山奥に住んでいる男を選んで呼び出しました。そして、この男に赤ん坊を手渡しながら、
「この子を荒れ果てた山中に持っていって殺してくるようにと王はお前に命じられた。もし言い付けどおりにせず、この子の命を助けるようなことがあれば、お前には恐ろしい罰が待っているとの仰せだ。ちゃんと捨てたかどうかは、わたしが確かめる」と言ったのです。
妻の方もまた、夫が何のために急にハルパゴスに呼び出されたのかと不安で一杯でした。夫はもう二度と帰って来ないのではと心配していたのです。妻は夫が家に帰り着いて自分の前にくるなり、ハルパゴスにこんなに急に呼びだされた理由は何だったのか早速たずねました。それに対する夫の答えはこうです。
「町へ行ってえらいものを見てきた。いま王様たちの家は大変なことになっているぞ。ハルパゴス様の屋敷に着くと、家中から泣き声が聞こえてくるんだ。何事かと驚きながら中に入るとその途端に、赤ん坊が手足を元気一杯動かしながらおぎゃあおぎゃあと泣き声を立てているのが目に入ったんだ。それがまたキラキラと光るきれいな産着を着せられているんだ。ハルパゴス様はわたしの顔を見ると、すぐにこの子を運び出して山の中の獣がいっぱいいる所に捨ててこいとお命じになった。『これは王様のご命令だ、もし言いつけを破ったりしたらひどい目に遭うぞ』とおっしゃるのだ。わたしはその子が誰の子か見当もつかなかったが、屋敷にいる誰かの子だろうと思いながら、赤ん坊を受け取って外へ出た。もっとも産着が金色に輝いてあまりに立派だったし、家中の者が人目をはばからずに泣いているのでおかしいとは思ったんだ。
「外へ出るとすぐに、赤ん坊を渡してくれた召使いが後からついてきて、町の外まで歩きながら何もかも教えてくれたよ。男が言うには、なんと赤ん坊はアストュアゲス王のお姫さまのマンダネ様とカンビセス様との間に生まれた子で、それを王様は殺せとおっしゃったというのだ。ほら、それがこの子だ」
牛飼いはこう言うと箱の蓋を取って赤ん坊を妻に見せました。妻はまるまるとしたかわいい赤ん坊を見ると、泣きながら夫の膝に抱きついて、どんなことがあってもこの子を捨てないでと懇願しました。
しかし夫は「ハルパゴス様の見張りの者が確かめに来るからそれは無理だ。それに、言われたとおりにしないと恐ろしい目に遭うぞ」と言って妻の願いを退けました。すると女はこう言ったのです。
「赤ん坊はどうしても捨てなければいけないのね。どうしても死んだところを見せないといけないのね。それなら、こうしてちょうだい。実はわたしも今日子供を生んだの。でも死産だった。ねえ、あなたはこの死産の子を捨ててきてちょうだい。そして、マンダネ様の子をわたしたちの子供として育てましょう。そうすれば王様の言い付けに従わなくても分かりはしないわ。それどころか、きっとこれはいい考えよ。だって、こうすれば死産の子は王様のように葬ってもらえるし、元気に生きている子は死なずにすむのだから」
妻の言うことをもっともだと思った牛飼いは、さっそく妻の言ったとおりにしました。まず、殺すために運んできた赤ん坊を自分の妻に渡して、赤ん坊を運んできた箱に死産の子を入れました。そして、王家の子の豪華な産着でくるんで荒れ果てた山中に捨ててきたのです。こうして、牛飼いは、ハルパゴスが送った見張りの目をくらまして、王家の赤ん坊を自分の子として育てたのです。
王は死んだはずの孫が生きていることを知ると、ハルパゴスに対する怒りがこみ上げてきました。しかしハルパゴスを呼び出すと、本心は隠しておいて、実は孫を殺したことを後悔していたので生きていることを知って喜んでいると言ったのです。そしてお祝いの宴会を開くから是非出席してくれ、そして、ハルパゴスの一人息子を自分の孫に引き合わせたいから宮殿によこすようにと命じました。
ハルパゴスは事態がいい方向に転んだことを知って、喜び勇んで帰宅しました。そして、さっそく一人息子を宮殿に向かわせ、妻に今日あったことを喜びいっぱいに話して聞かせました。
一方、ハルパゴスの息子が宮殿に到着すると、王はその子を殺してから八つ裂きにしてその肉で料理を作らせました。そして、その料理を宴会でハルパゴスに食べさせたのです。ハルパゴスがたらふく食べた頃を見計らって、王は「うまかったか」と聞き、ハルパゴスが「おいしゅうございました」と答えると、取りのけてあった子供の手足と頭を見せながら「おまえは何の肉を食べたか分かるか」と言ったのです。ハルパゴスは顔色一つ変えずに「よく分かりました。わたくしは王のなさることに対して何の異存もございません」とだけ言って、息子の遺骸を持って家へ帰りました。 ハルパゴスが、表面上はともかく、この事件によってアステュアゲスに対する激しい復讐心をたぎらせたのは、言うまでもありません。
この子はすでに子供たちから王に選ばれているだけでなく、子供たちに「王の目」「王の耳」などの仕事を割り当てて、子供たちの間で立派に政治を行っていました。
占い師たちはこの事実を次のように解釈しました。
「子供たちの王であっても、とにかくすでに前兆の通りにその子が王になったのであれば、夢に現れた予言はすでに成就したと考えられる。だから、もうこの子がアストュアゲスの王座を奪って王になることはない」と。だから、あの子はペルシャ人の親の元に返してやっても差し支えないと王に進言しました。王はこの意見を聞くと納得して占い師たちの言うとおりにさせました。
実は、これもまた前兆の読み違いであることが、後に明らかになります。
両親はキュロスに対してどうやって死なずに済んだのかたずねました。キュロスは、それは自分もついさっきまで知らなかったと答えました。そして、これまで自分は誤ってずっと牛飼いの子だと思っていたが、ここへ来る途中に付き添いの者から自分の身の上についてすっかり教えてもらったと言いました。その後、自分を育ててくれた牛飼いの妻キュノーのことに話が及ぶと、キュロスはもう何を聞かれてもキュノーのことばかりで、彼の口から出てくるのは育ての親のキュノーに対する賛美の言葉ばかりでした。
キュロスが成長すると、メデアのハルパゴスは、息子を殺された恨みをはらそうと、アストゥアゲス王に対する反乱を促す密書を、ウサギの腹に縫い込んでキュロスのもとに送りました。
一方、キュロスはメデア人に支配されていたペルシャ人に、自由のすばらしさを教えるために、民衆を広場に集めました。そして、一日目は一日中労働をさせ二日目は一日中宴会をさせて、どちらがいいか考えさせました。こうしてペルシャ人は自由の良さを悟って、反乱を起こす気になったのです。
反乱の知らせを聞いたアストゥアゲスは、何も知らずにハルパゴスをメデア軍の総司令官に任命しました。その結果、ペルシャ軍を前にして、メデア軍の中から続々とペルシャ側に寝返るものが出できて、メデア軍は総崩れになってしまいました。
アストゥアゲスは間違ったことを自分に教えた夢占い師たちを磔(はりつけ)の刑にしました。そして、自ら先頭に立ってペルシャと戦いましたが、最後はキュロスに生け捕りにされて、王の身分から一気に奴隷の身分に転落してしまったのです。こうして夢の予言は成就したのです。
「あるとき笛吹きが海の魚たちに海から出てきて踊ってくれないかと一曲吹いたが、魚たちは知らんぷりをして踊ろうとしなかった。ところが、笛吹きが網を取り出して魚たちを捕まえると、途端にぴょんぴょんとはねて踊りだした。そこで笛吹きは言ったそうだ。 『わたしが笛を吹いたときに踊ってくれたらよかったものを、捕まったからといって急に踊りだしてもだめだよ』」
キュロスはクロイソスと戦いを起こす前に、ギリシャ人たちにクロイソスに対して反乱を起こして、自分と同盟を結ぶように申し出たのですが、ギリシャ人はこの申し出を断わったのです。ところが、戦いが決した今ごろになって、彼らは忠誠を示しにやってきたのですから、あまりに虫が良すぎたと言えるでしょう。こうして彼らは体よく追い返されたのです。
そしてハルパゴスに命じて、小アジアのギリシャ人をペルシャの奴隷にしたのです。これをヘロドトスは2度目の隷属と言っています。一度目にギリシャ人を奴隷にしたのはクロイソスで、2度目がキュロスだと言うのです。
そしてクロイソスの場合と同じように、ヘロドトスは次にキュロスが破滅に向かう話を始めます。ギリシャ人を不幸にした人間はみんな破滅すると、ヘロドトスは固く信じていたのです。
「町の真ん中に広場を作って、互いに誓いをたて合っては騙しっこしているような連中なぞ、わたしは全然恐くはないぞ。イオニア地方のギリシャ人の苦しみをいつかこいつらにも味わせてやる」。
ここで「騙しっこ」と言っているのは、ギリシャ人が熱心に打ち込んだ弁論術のことでした。自ら誓いを立てておきながら、どんなことでも二つの面から論じることのできる弁論術を使うギリシャ人のことが、キュロスの目には信用できない連中だと映ったのです。
しかし、キュロスはこのおどしを実現することなく命を落とします。
この時、戦争の仕方についてペルシャ軍のなかで議論が起こりました。それはマッサゲタイの女王が、二つの領地の境界線となっている川のどちらで戦うか選ぶようにと言ってきたからです。ペルシャ人の多くは自分の領地で戦うべきだと主張しましたが、元のリディア王で今は顧問としてキュロスに仕えているクロイソスだけは、相手の領地で戦うべきだと主張しました。
クロイソスの主張はこうです。
「万一戦いに敗れた場合、それが自分の領地で起こったならペルシャ王国自体を失う可能性があるが、敵の領地でなら単なる一つの敗戦ですむ。また勝った場合には、それが自分の領地で起こったなら単なる一つの勝利に過ぎないが、相手の領地で起こったなら相手の国を滅ぼすことができる」
キュロスはこの進言を取り入れて、川向こうの相手の領地を戦場にして戦う方を選びました。
しかし、これは一種の賭けでした。そして、結果からいうとこの決断は間違っていました。なぜなら、キュロスはマッサゲタイの全軍隊を相手にすることになったからです。
そして、キュロスは川向こうに渡った最初の夜に、ある夢を見ました。キュロスの破滅にも夢のお告げが登場します。それはキュロスの夢の中に、のちにペルシャ王となるダリウスが翼をつけて現れ、その翼の片方がアジアを覆い、もう片方がヨーロッパを覆うという夢でした。
この夢をキュロスは過って解釈して、アケメネス一族の重臣の息子ダリウスが自分に対して反乱を企てていると考えました。しかし、神がキュロスの夢の中でダリウスが王座につくことを示したのは、この戦争でキュロスが命を落とすことを警告するためだったのです。夢を過って解釈するということは、ヘロドトスの話の中ではよく起こることです。そしてこの戦争でキュロスは討ち死にします。
ヘロドトスはキュロスがこの戦争を企てた理由を次のように述べています。
「キュロスを今回の戦いに駆り立てた理由はたくさんあるが、そのうち一番大きいのは彼が自分の生まれから、自分自身を何か人間以上のものと思っていたことである。2番目に大きな理由は、これまでの戦いでつねに運に恵まれていたことだ」実は、これこそはキュロスの破滅の原因だったのです。つまり、運に恵まれ続けたこと自体がすでに破滅を予言するもので、自分を人間以上のものと見なすことは神の反感を買う原因となるのです。
そして、キュロスが自分を神の寵児であると思い上がっていたことは、予兆を示す夢を見たあとの彼のせりふに表れています。
「神はわたしに特別な扱いをしてくださって、未来の出来事をあらかじめわたしに知らせてくださったのだ」
ソフォクレスの『オイディプス王』を読んだ人なら、オイディプスがまさに自分は神の寵児だと思い上がった次の瞬間に破滅の道を転げ落ちたことを覚えているでしょう。この二つの作品の間の価値観の一致は偶然とは思えません。実際これ以外にもヘロドトスの『歴史』とソフォクレスの悲劇の間には多くの類似点が指摘されています。そしてヘロドトスは、キュロスもまた自分の傲慢さゆえに破滅したと考えたのです。
誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。
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