訳者のまえがき
『女心の研究(女性研究)』は、リストメール侯爵夫人とラスティニヤックとの間に起こった行き違いをビアンションが語る話である。
ラスティニヤックは恋人のヌッシンゲン夫人にラブレターを書くが、寝ぼけて宛先をリストメール夫人と書いて出してしまう。お堅いことで有名なリストメール夫人であるが、その手紙を読んで、いつか夫人の方でもその気になっている。ラスティニヤックがわびを言いに行った場面でのこの二人の言葉の応酬がおもしろい。ふったつもりがふられてしまう夫人の心の動きが見所か。
『ゴリオ爺さん』に出てくる貧乏学生だったラスティニヤックは、すでに金持ちの男爵になっていて、召使いを抱えて、部屋着を来て、暖炉の前でくつろいで、恋人にラブレターを書くような境遇になっている。『ゴリオ爺さん』の読者は、人物再登場の妙味を味わうことができるだろう。
一方、リストメール侯爵夫人は『谷間の百合』の主人公フェリックス・ヴァンドネスの姉である。
貞淑な女性はふしだらなラブレターを読んでもそんなものに動かされないという自信を持っているから、好んでそういう物を読みたがる。だから、リストメール夫人は手紙をすぐに火にくべずに全部読んでしまう。『アルベール・サヴァルス』(全集第9巻324頁下)に同じようなことが書いてあるのを見つけた。
この小説はビアンションがご婦人たちの前で話をするという想定で書かれているため「ですます」調にした。
女心の研究
リストメール侯爵夫人は、王政復古の時代の精神に育てられた若い婦人の一人です。節操がかたく、精進日を守り、教会にも熱心に通うけれども、その一方で、華やかに着飾ってオペラ座の舞踏会にも行くし、道化芝居も見に行きます。聴聞僧は彼女が聖と俗を両立させることを認めています。
ですから、教会に対する義務も果たし、社交界とのつきあいも欠かしません。彼女は「正統性」という言葉をモットーとする今という時代の申し子のような人なのです。
もっと詳しく言うと、彼女の立ち居振る舞いには、ルイ十四世の時代でいうなら、その治世の終盤のマントノン夫人時代の深刻な敬虔さにも負けないほどの信心深さが見られますし、同時にまた、その治世初期の優雅な風習を自分のものとして取り入れることができるほど社交界の作法に通じたところがあると言えるでしょう。
いま彼女に恋人はいません。それは、その方がいいと思っているからですが、多分それが彼女の性に合っているのでしょう。リストメール侯爵との結婚生活は七年になります。侯爵は下院議員の一人で貴族院に入ることを狙っています。これは一族の願いで、夫人は自分の堅苦しい振るまいがこれに役っていると思っています。
しかし、一部のご婦人たちは、彼女の評価を決めるのは、夫のリストメール氏が貴族院に入るか、彼女が三十六歳になるのを待つべきだと言っています。その年になると、たいていの女性は、社会のしきたりを守っていても何もいいことがないことに気づくからというのです。
夫の侯爵はというと、彼はいたって影の薄い人です。王室の受けはいいけれど、長所も短所も共に目立たない人なのです。長所のおかげで立派な人という評判がたつこともないし、短所のせいで悪い人だという噂が立つこともありません。代議士としては、発言はしないがしっかり投票だけはするというタイプです。
家庭での彼の振る舞いは議会での振る舞いと同じです。だから、彼はフランスで一番善良な夫だという評判です。激しやすいということがない一方で、人に待たされたとき以外は不平一つ言わないからです。
友人たちは彼のことを「曇天」と呼んでいます。実際、彼の性格には生き生きとした輝きもなければ真っ暗な闇もないのです。つまり立憲君主制が始まって以来フランスに次々に現れたすべての大臣たちと彼はそっくりなのです。
彼女のようなお堅い女性にとっては、侯爵はまたとない結婚相手でした。貞淑な女性にとって、間違いを犯すはずのない男と結婚したということは大したことなのです。
これまでに、色男たちの中には、夫人とダンスをするときに失礼にも侯爵夫人の手をそっと握るようなことをする者がいましたが、彼女から軽蔑の視線を投げられるだけでした。そして誰もがみんな、相手が侮辱的なほどに無関心であることを知りました。そして、どんな大きな希望も、春の霜が降りた新芽のように、萎えてしまったというわけなのです。
美男子も、才人も、うぬぼれ屋も、平身低頭で暮らしている気の弱い男も、立派な肩書きを持っている男も、有名な男も、大物も、小物も、誰も彼も彼女のそばにくると青くなってしまうのです。
こうして彼女は、気のきいた男と好きなだけ思う存分話しをしてもけっして誰からも悪口を言われない権利を手に入れたのです。もちろん、浮気っぽい女が、あとで自分の気まぐれを満足させるために七年間ほどこういうやり方を続けることはあります。しかし、リストメール侯爵夫人にそんな下心があると言えば、彼女を言われなき中傷にさらすことになるでしょう。
この徳の鏡とも言うべき侯爵夫人に、わたしもお目にかかる光栄に預かることができました。彼女は話し好きで、わたしは聞き上手、ということで、わたしは彼女のお気に召して、彼女のパーティーに通うようになりました。わたしの目当てはそれだけでした。
リストメール夫人は美人とは言えませんがけっして醜い人ではありません。歯は白く、唇はとても赤く、顔色はつややかです。体は大柄ですがスタイルはいいほうです。足は小さくてすらりとしていますが、彼女はそれを突き出して見せるようなことはありません。
パリの女たちの目はくすんでいるものですが、彼女の目はけっしてそんなことはありません。やさしい輝きをしていて、たまに興奮したときには神秘的にさえなるのです。この目のかすかな動きから、かろうじてわたしたちは彼女の心の動きを推測するのです。
会話に興味を持ったときには、冷たい態度で予防線を張ったうえで、相手に対して好意を見せることがあります。そういうときの彼女はとても魅力的です。彼女はもてようとせずに、もてるのです。
人は自分が求めていないものをいつも手に入れてしまうものです。この言葉はとてもよく当たるのでいつか格言になるかもしれません。この言葉は今度の事件の教訓でもあります。この事件は今ではパリの社交界では誰でも知っていることなので、わたしがみなさんにお話しても構わないと思います。
一ヶ月ほど前、リストメール夫人はある若者とダンスをしました。彼は謙虚な男ですが軽率なところがあります。長所がたくさんあるのに、欠点ばかり目立ちます。本人は情熱的なのに、情熱を軽蔑しています。才能があるのにそれを人に見せようとしません。貴族たちと一緒にいる時に学者のようにふるまい、学者たちと一緒にいるときに貴族のようにふるまうような男です。
彼ユージン・ラスティニヤックはとても賢い青年で、自分の将来を知るためには、何でも試してみますが、その一方で、他人の腹の中を探っているようにも見えます。野心を実現できる時を待ち望んでいながら、世の中のすべてを軽蔑しています。彼は上品な性格をしていますが、非凡なところもあります。この二つの性格は相反するために、両方とも備えているのは非常にめずらしいことです。
彼は特に相手に好かれようという気もなく、リストメール侯爵夫人とおよそ半時間も話をしました。会話の内容はくるくると変わって、歌劇「ウイリアム・テル」の話に始まって、女性の義務に関する話にまでおよびました。その間、彼は相手がどきっとするような見方で一度ならず侯爵夫人のほうを見ました。
やがて夫人のそばを離れると、その晩はもうそれ以上夫人とは話をしませんでした。彼はダンスをして、トランプをして、いくらかお金をすって、それから寝に帰りました。ここまではすべてがこの通りに起こったということをここに断言させていただきます。わたしは何も付け加えておりませんし、何も省略しておりません。
翌朝遅く目覚めたラスティニヤックは ベッドの中で朝のとりとめない空想にふけっていました。その空想の中で若い男たちは、空気の精となって、絹やカシミヤやコットンなど様々なベッド・カーテンのなかに滑り込むのです。こういう時には、眠気のせいで体がだるい分だけ頭はよく回ります。
ラスティニヤックは、たしなみのない男たちのようにあくびを何度も繰り返したりはせず、ベッドから抜け出すと、呼び鈴を鳴らして召使いを呼びました。そして紅茶を作らせて、がぶがぶ飲みしました。
紅茶の好きな人たちにはこれはさして異常なこととは思われないでしょう。しかし、紅茶を単なる消化不良の万能薬ぐらいにしか考えない人たちのために、この状況をついでにご説明しますと、ラスティニヤックは手紙を書いていたのです。
彼はゆったりと椅子に腰掛けていました。その間、足はどちらかというとスリッパを脱いで暖炉の薪置き台に乗せていました。ベッドを出て部屋着を着て、暖炉の灰受けの二つのグリフィン像をつなぐよく磨かれた横棒に足を乗せて恋愛のことを考える。まったく、これほど楽しいことはありません。
わたしは、自分に恋人もなければ薪置き台も部屋着もないことをつくづく残念に思います。もしわたしにそれらがあれば、人のことなど話していずに、そのよさを自分で味わっていることでしょう。
ラスティニヤックは、一つ目の手紙を簡単に書き終えて、折りたたんで封筒に入れて、封印をしてから、宛名は書かずに目の前におきました。二つめの手紙は十一時に書き始めてやっとお昼に書き終えました。便箋四枚がいっぱいになりました。そして、手紙を折りたたみながら彼は独り言を言いました。
「このひとのことは僕の頭から離れないなあ」
そして手紙をまた目の前に置きました。さっきから続いている空想が終わってから宛名を書くつもりでした。花柄の部屋着の裾を合わせると、両足は足乗せ台にのせて、カシミアの赤いズボンのポケットに手を滑り込ませて、耳付きの素敵な安楽椅子にもたれました。椅子の背もたれと座面は百二十度という快適な角度を描いていました。
もうお茶を飲まずにじっとしていました。目は暖炉のシャベルの柄に注がれていました。シャベルの柄は金色でした。しかし、その柄もシャベルもその金箔も見てはいませんでした。
彼は暖炉の火をかき立てようとさえしなかったのです。しかし、それは大きな間違いというものです。女のことをあれこれ考えながら暖炉の火をいじくること以上に大きな楽しみがあるでしょうか。
暖炉の中で突然燃え上がってぱちぱち音を立てる青い炎を見ながら、わたしたちはすてきな言葉を思いつくのです。ブルギニョンの不意に現れる力強い言葉から、さまざまな意味が読みとれるのです。
ここで「ブルギニョン」という言葉を知らない人のために、一休みして著名な語源学者の説をご紹介しましよう。学者の名前は本人の希望にしたがって匿名にしておきます。
「ブルギニョン」はシャルル六世(訳者注;治世1380ー1422)の時代に始まった言葉で、ポンという破裂音に与えられた象徴的な名前で、よく知られています。この音がするとじゅうたんや服の上に石炭片を飛んできて、小さいけれども大火事の原因になります。イモムシが木の中に作った空洞が原因で、それが火で暖められて中の空気が吹き出して来るのだといわれています。「Inde
amor, inde burgundus(そこから恋が生まれ、そこからブルギニョンが生まれる)」
燃える二本の薪の間に丁寧に積み上げた石炭が雪崩のように転がり落ちるのを見るとき、人はぞくぞくとした身震いを感じるものです。恋をしているときに暖炉の火をいじくることは、まさに自分の思いをものをつかって表現することなのです。
わたしがラスティニヤックの部屋に入ったのはちょうどそんな時でした。彼はびくっとして
「ああ、君か、ビアンション。いつからそこにいるんだい」
とわたしに言いました。
「今来たところだ」
「助かった!」
彼は二通の手紙を手にとって宛名を書くとベルを鳴らして召使を呼びました。
「これを直接届けてきてくれ」
召使いのジョセフは黙って出かけていきました。実にすばらしい召使です。
わたしたちはモレ将軍の遠征のことについて話し始めました。わたしがその遠征に軍医としてぜひ参加したかったと言うと、彼はパリを離れるのは失うものが大きいと言いました。それから、二人はとりとめのない話をしました。この二人の会話を省略しても、わたしをお恨みになる方はおられないと思います・・・。
・・・
一方、お昼の二時ごろにリストメール侯爵夫人がベッドから出ると、小間使いのカロリーヌが一通の手紙を夫人に手渡しました。夫人はカロリーヌに髪を結わせながらその手紙を読みました(こういう軽率な行動は若いご婦人たちに多いようです)。
「ああ、いとしき恋の天使よ、わが人生の宝よ、幸せの宝庫よ!」
夫人はこの言葉を読むと、手紙を火にくべようとしました。しかし、彼女の頭にふとした気紛れが起こりました。こういう気持ちに対して、貞淑なご婦人方はみなさん不思議なほどに理解があります。要するに、彼女はこんな風に書き始めた男はどんな風に締めくくるのか知りたくなったのです。彼女は手紙を読み通しました。そして四枚目を読み終えたときには、ぐったり疲れたように両手を下にたらしました。
「カロリーヌ、誰がこの手紙をうちに届けたのか聞いてきてちょうだい」
「奥さま、その手紙はラスティニヤック男爵の召使からわたくしが受け取ったものでございます」
それからしばらくの間沈黙が続きました。
「奥さま、着替えをなさいますか」
とカロリーヌが聞きました。
「いいえ」
と言ってから、「あの人はきっとよほど不作法な男なんだわ」と思いました・・・。
・・・
彼女がここで何を考えたかは是非ともみなさんで想像して下さい。
リストメール夫人が考えた末に出した結論はこうでした。それは、ラスティニヤック某が来たら門前払いすること、そして、社交界で会ったときには、この上ない軽蔑のまなざしを向けることでした。彼の行った不作法は侯爵夫人がこれまで大目に見てきたものとはまったく比べ物にならなかったからです。
最初、彼女はこの手紙をとっておくつもりでしたが、よく考えた結果、焼き捨てました。
カロリーヌは家政婦に
「奥さまはついさっき素敵なラブレターをお受け取りになって、それをなんと最後までお読みになったのよ」
と言いました。年のいった女はびっくりして
「奥さまがそんなことをなさるなんて信じられないわねえ」
と答えました。
その夜、侯爵夫人はボーセアン侯爵の屋敷に行きました。そこにはラスティニヤックが来ているはずでした。その日は土曜日でした。ボーセアン侯爵はラスティニヤックの遠い親戚にあたるので、そのパーティーには必ず来るはずだったのです。リストメール夫人はもっぱらこの男を冷淡にあしらってやろうという気持ちから遅くまで残っていたのですが、
朝の二時になってもラスティニヤックは現れませんでした。
スタンダールという才人は面白いことに、このパーティーの前後を通じた侯爵夫人の心の動きを結晶作用と名付けています。
それから四日後のこと、ラスティニヤックは自分の召使いを叱りつけていました。
「どういうことなんだ。ジョセフ、こんなことでは辞めてもらわないといけないな」
「なんでございましょう、旦那様」
「おまえはどじばかりやっているね。金曜日[原文ママ]に渡した手紙をおまえはどこに届けたの?」
ジョセフは茫然となりました。彼は、頭を働かせることに没頭して、まるで教会の入り口にある銅像みたいに、ぴくりともせずに立っていました。やがて急に馬鹿みたいに笑ってこう言いました。
「一通はサン・ドミニク通りのリストメール侯爵夫人宛で、もう一通は旦那様の弁護士宛でしたが・・・」
「今いったことは確かなのかい?」
ジョセフはしどろもどろになりました。わたしはまたもや偶然その場にいたのですが、自分が口をはさむべき時だと思いました。
「ジョセフの言うとおりだよ」
と言うと、ラスティニヤックがわたしの方を振り向きました。
「手紙の宛先をついうっかり読んでしまったんだ。それで・・・」
「それで、片方はヌッシンゲン夫人宛じゃなかったかい?」
とラスティニヤックがさえぎって言いました。
「いや、断じて違う。ねえ、ぼくが思うに、君の心はサン・ラザール通りを離れて、サン・ドミニク通りの方を向いていたのさ」
ラスティニヤックは手のひらでおでこを叩いてにやりとしました。ジョセフは、この失敗が自分のせいではないことを覚りました。
さて、ここには若い男性ならよく覚えておくべき教訓があります。
過ちその一、リストメール夫人に間違って他人宛のラブレターを送りつけておきながら、その間違いを夫人に笑われるのも一興だと考えたこと。
過ちその二、事件から四日後までリストメール夫人のもとを訪れず、貞淑な若い婦人の頭の中に結晶作用を引き起こしてしまったこと。
そのほかに彼は十ぐらいの過ちを犯しているのですが、ここでは触れずにおきましょう。この辺の事情に詳しいご婦人方は、わからない人に教えてあげて下さい。
侯爵夫人邸にやって来たラスティニヤックは、家に入ろうとすると門番に止められて、奥さまは外出中だと言われました。それでまた車に戻ろうとしたとき、侯爵が外から帰ってこられました。
「君、構わず入りたまえ。家内は中にいるよ」
あっ、みなさん、このことで侯爵を責めないでくださいね。どんなにいい夫でも、なかなか完璧とはいかないものなのです。ラスティニヤックは、階段を上りながら、社交界のしきたりを十ばかりミスしたことにやっと気づきました。このミスは、彼の人生の美しい書物の1ページをこうして飾ることになりました。
リストメール夫人はラスティニヤックが夫と一緒に入ってくるのを見ると、顔を赤らめずにいられませんでした。若い男爵の方でも彼女が赤面したのに気がつきました。
有害な媚態を女性が捨てられないのと同じように、男はうぬぼれを捨てられません。どんなに謙虚な男にも少しぐらいはうぬぼれがあるものです。ですから、この時ラスティニヤックが頭の中で「おや、この要塞も陥落したか」と考えたとしても、誰が彼を非難できるでしょう。
彼はネクタイを直す振りをしました。若い男たちはすごく欲張りでなくても、誰でも自分のコレクションの中にメダルを一つ加えることを喜ぶものです。
夫のリストメール氏は暖炉のマントルピースの片隅で見つけたガゼット・ド・フランス紙を手にとりました。そして、窓のそばに行って、新聞記者の意見を参考にフランスの現状に関する自分の意見をまとめにかかりました。
ご婦人というものは、特に上品ぶったご婦人なら、どんなに困難な状況になっても、いつまでもおどおどしていることはありません。イブの昔から延々と受け継がれたイチジクの葉っぱを、女性はいつも手に持っているのでしょう。
ラスティニヤックは玄関で門前払いされたことを自分に都合のいいように解釈して、かなり思わせぶりな態度でリストメール夫人に挨拶しました。しかし、夫人はその瞬間に、例の女性特有の微笑で自分の本心をことごとく隠してしまいました。その微笑は国王のお言葉もかくやと思われるほどに謎めいていました。
「奥さま、さきほど面会をお断りになられましたが、どこかお加減でもお悪いのですか?」
「いいえ」
「では、お出かけになるところでしたか?」
「別に」
「どなたかとお待ち合わせでしたか?」
「誰とも」
「わたくしのご訪問が礼儀にはずれておりましたら、それは侯爵さまをおとがめ下さい。わたくしは奥さまの不思議なお指図に従うつもりでいました。ところが、侯爵さまが、わたくしを、入っていけないこの部屋に通して下さったのです」
「主人はわたしの個人的なことにはタッチしておりませんの。ある種の隠し事まで夫に知らせるのはあまり賢いことではありませんから・・・」
この言葉を話すときの侯爵夫人のしっかりとした穏やかな口調と、威厳のあるまなざしから、ラスティニヤックはネクタイを直す振りをするのが早すぎたことを覚りました。彼は笑顔を作って言いました。
「奥さまのおっしゃるとおりです。そういうわけでしたら、わたくしはたまたま侯爵さまにお会いしたことを二重に喜ばなければなりません。こうして奥さまに申し開きをすることができる機会を頂いたのですから。みなさんがおやさしい方でなければ、それは非常にむづかしかったことでしょう」
侯爵夫人はひどく驚いた様子で若い男爵の方を見ました。けれども、威厳を持ってこう言いました。
「黙っておられるのがあなたにとっては最善の申し開きというものですわ。わたしとしては、すべてをきれいさっぱり忘れて差し上げることをお約束します。それでかろうじてあなたを許して差し上げます」
ラスティニヤックはあわてて言いました。
「奥さま、わたしを許して下さるにはおよびません。そんな大したことではないのです」
それから、声を低めて付け加えました。
「わたしがお送りしたあの手紙をお読みになって、何という不作法なとお感じになったでしょう。でも、実はあれは奥さまに宛てた手紙ではなかったのです」
侯爵夫人は「大したことだ」と言いたかったのですが、思わずにやりとしてしまいました。そして、いかにも相手を軽蔑したような陽気さを装って、しかも相変わらず穏やかな調子で答えました。
「嘘をおつきになる必要はありませんのよ。もうあなたに対するお小言は済みましたから、そんな無邪気な作戦は笑い飛ばして差し上げますわ。その作戦に引っかかる女たちがいることは存じています。そういう女ならきっと『まあ、この人はわたしにそんなに惚れているのね』と思うのでしょうが」
侯爵夫人は作り笑いをしてから、寛大な態度でこう付け加えました。
「わたしたちが今のままお友だちでいたいと思うのでしたら、間違ったなどと言うのはやめにしてください。そんなことを言ってもわたしが勘違いすることはありませんから」
「わたしの名誉にかけて申しますが、奥さまはご自分では否定なさっても、すでに充分勘違いなさっておられますよ」
とラスティニヤックは勢い込んで答えました。夫のリストメール侯爵は、さっきからよく分からないままに二人の話を聞いていましたが、こう問いかけました。
「いったい何の話をしているんだい?」
「あら、これはあなたには関係のない話ですわ」
と侯爵夫人は答えました。リストメール侯爵は再び黙って新聞を読み出して、こう言いました。
「おや、モルソーフ夫人が亡くなったね。お前の気の毒な弟はきっと今頃クロシュグールドに行っていることだろうねえ」(訳注:モルソーフ夫人は『谷間の百合』の主人公で、クロシュグールドはその舞台となった土地)
侯爵夫人はラスティニヤックの方に向き直って、話を続けてこう言いました。
「あなた、今とても厚かましいことをおっしゃいましたが、お気づきですか?」
それに対してラスティニヤックは無邪気にも答えました。
「奥さまがどれほどお堅い方かは存じております。さもなければ、あり得ないようなことをわたしの心に吹き込もうとしておられるか、それとも、わたしの秘密をこの口から聞き出そうとしておられると思うところですよ。いや、ひょっとして、奥さまはわたしをからっておられるのでしょう?」
侯爵夫人はにやりとしました。この笑顔にラスティニヤックはとうとうしびれを切らして、こう言いました。
「分かりました。奥さまは、わたしがやってもいない不作法なことをしたと永久に信じておられるといいでしょう。社交界の中で本当は誰があの手紙を読むはずだったのか、どんな偶然からも奥さまにはお分かりにならないとすれば、本当にありがたいというものです・・・」
「おや、おや。あなたのお相手は相も変わらずニュッシンゲン夫人だったのですか」
とリストメール夫人は大声で言いました。このときの夫人は、ラスティニヤックの皮肉の仕返しをするというよりは、相手の秘密を探りたいという気持ちの方が強くなっていました。
ラスティニヤックは真っ赤になりました。恋人に対する愚かな忠節ぶりを皮肉られて顔を赤らめないでいるためには、二十五才をずっと過ぎている必要があります。ご婦人たちはこの忠節ぶりがうらやましいのですが、それを見せたくないために、こうして相手に皮肉を言うのです。そんなことも知らないラスティニヤックは実に平然とこう言い放ちました。
「いいじゃないですか」
これは二十五才の人間のよく犯す過ちです。この告白はリストメール夫人の心に激しい動揺を引き起こしました。しかし、ラスティニヤックは、横目でさっと女性の顔色をうかがうという芸当をまだ身につけてはいませんでした。侯爵夫人は唇だけがまっ青だったのです。
リストメール夫人は暖炉の薪を持ってこさせるために呼び鈴を鳴らしました。こうして、ラスティニヤックに出て行くようにしむけたのです。しかし、侯爵夫人はラスティニヤックを呼び止めて、気取った態度で冷たく言いました。
「もしもあなたの言うとおりだとしても、どうしてわたくしの名前があなたのペン先から出てきたのか、それをわたくしに説明するのはむつかしいことでしょうね。手紙の宛先を書くということは、舞踏会の帰りにうっかり隣の人の帽子を自分の帽子と取り違えるのとはわけが違いますからね」
狼狽したラスティニヤックは、うかつなのか愚かなのか分からない顔をして侯爵夫人の方を見ました。彼は自分が滑稽な立場におちいっていることに気づいて、舌足らずの小学生のようにぼそぼそとあいさつをして部屋を出ました。
数日後、侯爵夫人はラスティニヤックの言ったことが嘘ではなかったことの明白な証拠を手にしました。それから二週間以上もの間、彼女は社交界に出ておられません。
リストメール侯爵は夫人のこの変化の理由を尋ねる人たちに対して
「家内は胃の調子が悪くてね」
と仰っています。
しかし、夫人を診察してその秘密を知っているわたしには、彼女が軽いヒステリーになっているだけで、それをいいことに、家にじっとしていることが分かっているのです。
誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。
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