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第一章
1. 私はこの国のために引き続き働くためには、自分はどうすれば出来るだけ多くの人たちの役にたてるかをずいぶんと検討した結果、高級な学問の道を教授するより優れたことはないと思いついた。
すでに多くの書籍において私はこれを実行に移してきたと思っている。たとえば『ホルテンシウス』と題した本では哲学の研究を出来る限り奨励した。また、『アカデミカ』4巻の中では哲学というものをそれほど難解ではなく几帳面に整合性のある形で明らかにした。
2. 『善と悪の究極について』では哲学の基本を置き、5巻の中でこの問題を徹底的に扱った。各々の主張とそれに対する反論が明らかになったと言われている。
また次に出した5巻の『トゥスクルム荘対談集』では、幸福な生き方をするために必要なことを明らかにした。
その第1巻では死は軽蔑すべきであること、第2巻では痛みに耐えること、第3巻では悲しみを和らげること、第4巻ではそれ以外の心の動揺について、第5巻では哲学全体を最もよく明らかにする話題を扱った。つまり、幸福に生きるためには美徳だけで充分であることを明らかにした。
3. これらを行った私は次に『神々の本質について』3巻を完成した。そこではこの問題についての全ての話題が扱われている。それをもっと平易に詳しく扱うために、この『占いについて』を書き始めたのである。
これに『運命について』を加えればこの問題の全体を充分に扱ったことになると思う。これらに加えて『国家について』の6巻がある。これは私が国政を担当していた時に書いたものだ。
この重要な問題は哲学に相応しいもので、プラトン、アリストテレス、テオフラストスなど全ての逍遥学派によって詳しく扱われている。
さらに『慰めについて』という本も書いた。これは私自身の心の慰めになるものだが、他の人にも役立つと思う。
その間に最近『老年について』という本を書いて友人のアッティクスに送った。それから、人は哲学によって勇敢にも強くもなるものなので、『カトー賛』も哲学関係の本の中に含めてよいだろう。
4. また優れた知性で多くの仕事をしたアリストテレスとテオフラストスという傑出した人たちは哲学と弁論術を結びつけているので、私の弁論術についての本も同じグループに含めてもいいだろう。『弁論家について』3巻、4巻目の『ブルータス』5巻目の『弁論家』である。
第二章
今のところ哲学についてはこれだけである。この分野の残りの話題についても鋭意努力してきた。もしさらに重大な事態のせいで妨げられることがなければ、全ての話題をラテン語で明らかに出来たことだろう。
私がこの国に対して出来ることで若者たちを教え導く以上に大切なことがあるだろうか。とりわけ道徳が荒廃した時代において、堕落した若者たちを引き留めて正しい道に導かねばならない時代なのだから。
5. 若者たちを全員この研究に向かわせることは出来ないし望むべくもない。少しでいいのだ。しかし、少しの人たちの努力がこの国に広く影響力を持つのである。
実際少しの人たちから私は自分の苦労の成果を得ている。彼らは年を重ねて今や私の本に憩いを見出だしている。彼らの読書熱が私の執筆欲を日々益々掻き立てるのだ。
こういう人たちの数は私が思ったよりも多いことを確認した。哲学をギリシャ語を使わずに議論するようになればローマ人にとって素晴らしい誇りである。
6. この事はもしこの計画を完成させたら達成できるはずだ。実際、この国の不幸は私に哲学を研究する機会を与えてくれた。この国は内戦に突入して、もはや私のやり方で守ることは出来なかったが、さりとて何もしないというわけにもいかずに、私にはこれ以上にふさわしい事はなかったからだ。
国家が一人の人間の独裁下に置かれても、私が隠遁生活に引きこもらず、自暴自棄にもならなかったことを、ローマ市民は許すどころか、感謝することだろう。私は一人の人間に、あるいは時代に腹を立てたり、自分の運命を惜しむあまりに、他人の幸運におもねったり賞賛するようなことはしなかったのだ。
というのは、国家の栄枯盛衰は自然なことだと私は哲学とプラトンから学んでいた。国家は寡頭制から民主制へ、そして独裁制へ移るのである。
7. この国が独裁になって、私はかつての貢献を奪われ、この研究を再開した。その結果私の心はこの研究によって悲しみから解放され、自分に可能なことによってローマ市民の役に立つことになったのである。
というのは私は自分の本の中で語り論争して、哲学を国政を担当する代わりにしたからである。
ところが、いま国政のことをまた相談されるようになって、政治に精力を注ぎ込み、思考と気遣いの全てをそこに向けることになってからは、公的な仕事から逃れて時間が出来た分だけをこの研究に注ぎ込むことになった。この話の続きは別のところでしよう。今は最初の議論に戻ろう。
第三章
8. 『占いについて』の第1巻で書いたようにして弟のクィントゥスが論じ終えると、私たちは充分に散歩したと思ったので、リュケイオンにある図書館の中に席をとった。
そこで私が言った。「クィントゥス君、ストア派の考え方を見事に、しかもストイックに擁護したね。それに僕が一番気に入ったことは、沢山の実例をあげたことだ。それも有名な実例をね。
そこで僕は君が語ったことについて話をすることにしよう。しかし僕は自分自身に疑いを抱く懐疑派として、一切を肯定せずに、全てを疑うことにする。もし僕が自分の言うことに少しでも確信をもつようなことがあれば、占いを否定する僕が占いをしていることになってしまうだろう。
9. 僕が実際気になっているのは、カルネアデス(=前2世紀、新アカデメイア派、懐疑派)がいつも第一に問題にしていること、つまり占いの対象となるものは一体何かという問題だ。それは五感で捉えられるものだろうか。つまり、目で見、耳で聞き、舌で味わい、鼻で匂い、手で触れられるものなのだろうか。
これらの物の中で人間の本性それ自体ではなく予知とか霊感を使って感じとるようなものが何かあるだろうか。
それとも、予言者は、例えばテイレシアスのように視力が奪われても、何が白で何が黒か見分けられたり、聴力がなくても声の違いや音程が分かるのだろうか。つまり、感覚で捉えるもので占いを必要とするものは一つもないのだ。
また、技術によって扱われるものは占いを必要としない。病人のもとへ呼ぶのは予言者や占い師ではなく医者であり、琴や笛を演奏したい人はその使い方を占い師ではなく音楽家から教わるからである。
10. 知識を扱う学問の分野でも同じことが言える。地球より太陽の方が大きいかどうか、それとも見かけ通りの大きさなのか、月が輝いているのは自分の光でか太陽の光でか、占い師と呼ばれる人たちが答えられると思うだろうか。太陽や月や五つの惑星はそれぞれどんな動きをしているか彼らは答えられるだろうか。
予言者と言われる人たちはこれらに答えることを仕事にしているわけではない。また、幾何学で何が真で何が偽かについて述べることも予言者の仕事ではない。これは数学者の仕事であって占い師の仕事ではないからである。
第四章
哲学に関することで、何が善で何が悪で何がどちらでもないかについて、予言者の誰かが相談されて答えているだろうか。これらは哲学者の仕事である。
11. さらに、義務については、親兄弟や友人とどのように暮らすべきで、金と地位と権力はどのように使うべきかを、誰が占い師に相談するだろうか。それらについては予言者ではなくて哲学者に相談するのである。
さらに、弁証家や物理学者が扱う問題、つまり、宇宙は一つか複数なのか、万物が生まれる元となる始まりは何であるかが、占えるだろうか。この知識は物理学者のものなのである。
「嘘つきのパラドックス」と呼ばれるものをどうやって解くかとか、どうやってソリテスに立ち向かうか(ソリテスは、必要なら砂山のパラドックスと言ってもいいが、その必要はない。フィロソフィアなど多くのギリシャ語と同様にソリテスもラテン語の中に充分浸透しているからだ)、これを教えてくれるのは占い師ではなくて弁証家だ。
さらに、国の政治体制は何が最善かとか、どんな法律や慣習が有益で有害かが問題の時にエトルリアから占い師が呼ばれるだろうか、それとも政治に詳しい一流の優れた専門家に決めさせるだろうか。
12. もし五感に依存することも、技術に依存することも、哲学で議論されることも、政治に関することも占いを使えないとすれば、占いは何に使えるのか僕は全くわからない。
というのは、占いがこの全てに使えるのですなくても、何か占いを使う機会が一つぐらいありそうなものだからである。ところが、いま考えて来たように、占いはこのどれにも使えないし、占いを使えそうな機会もないのである。
第五章
したがって、占いは無意味だと知るべきだよ。これと同じ意味の事を言ったギリシャの有名な詩がある。
推理にたけた者こそよき占い師なり。
占い師は嵐が迫っていることを航海士よりうまく予測できるだろうか。占い師は病気を医者よりうまく診断できるだろうか。占い師はを使って将軍よりうまく戦争の指揮をできるだろうか。
13. しかし、僕は気付いている。クィントゥス君、君は用心深く、技術と知識を必要とする推理や、五感や訓練によって認識されることから、占いを区別している(第1巻111節以下)。そして次のように占いを定義している。
つまり、占いとは偶然の出来事の予知や予見のことだと(=クィントゥスは偶然ではないことの予知だと定義している。第1巻125節)。しかし、第一に君は同じ場所を堂々巡りしている。なぜなら、医者も航海士も将軍も偶然の出来事を予測するのが仕事だからだ。
というのは、病人が病から脱することを医者よりもうまく、船を危険から脱することを航海士よりうまく、軍隊が待ち伏せから脱することを将軍よりうまく言い当てられる占い師や鳥占い師や霊感占い師や夢占い師がいるだろうか。
14. また、風や雨が迫っていることを何らかの前兆から予測するのは占い師の仕事ではないと君は言った(この点で君は僕が訳したアラトスの伝える現象を正しく引用している)。それらは偶然の出来事であって、よく起きる現象ではあっても必ず起きる現象ではないからだ。
では、君が占いと呼ぶ偶然の出来事の予知とはどんなことで、何に関わるものだろうか。技術や理性や習慣や推測によって予測することは占い師の仕事ではなく専門家の仕事であると君は言う。すると、技術でも英知でも予測できない偶然の出来事を予知することが占い師の仕事であるということになる。例えば3度執政官になったマルクス・マルケッルスが海難事故で死ぬことを何年も前に言った人がもしいたら、彼は確かに占いをしたことになるだろう。 そんなことは他のどんな技術でも英知でも知ることは出来ないからだ。つまり、未来に属するそのような出来事の予知が占いだということになる。
第六章
15. では、未来の出来事でどんな合理的な説明も出来ないことを予知するのは可能だろうか。偶然、運、巡り合わせ、事故とは、まさにそういったやり方で起きたことを言う言葉である。そんな全くの偶然にたまたま出鱈目に起きることをどうすれば予知することが出来るだろうか。
16. 医者は病人の病状が悪化するのを予測するのも、将軍が待ち伏せを予測するのも、航海士が嵐を予測するのも合理的な論理による。しかし、常に確実な論理によって予測する彼らもしばしば間違う。例えば農夫はオリーブの花を見ると、そのうち実が見られると思うとき、常に論理的にそうするが時々間違う。
常に信頼できる推理や論理によって判断する彼らが間違うのに、内臓や鳥や天変地異や神託や夢で未来の出来事を予知する人の解釈をどう評価すべきだろうか。肝臓の裂け目やカラスの鳴き声やワシの飛び方や星の移動や狂人の叫び声やくじや夢などの前兆をまったく無意味だとはまだ僕も言わない。それぞれに関しては個別に論じるとして、今は全体的な話をしよう。
17. 将来起きる原因も痕跡もないことが起きることは、どうすれば予知できるだろうか。日蝕や月蝕は天体の動きを数学的に研究している人によって何年も前から予知されている。彼らは自然の法則が必然的に引き起こすことを予知しているのだ。
月の規則正しい動きから、いつ月が太陽と正反対の位置に来て地球の影の中に入るか、いつ夜の頂点に達して、ちょうど月が暗くなるかを知っている。その同じ月はいつ太陽の真正面に来て我々の目から太陽の光を隠すか、個々の惑星はそれぞれの時にどの星座にあって、ある星座がそれぞれの日のいつ昇っていつ沈むかを知っている。彼らがそれらを前もって言い当てるのは、どういう論理に従っているかは、君も知っている。
第七章
18. 宝を発見したり財産を相続することを言い当てる人たちは、何に従っているのだろうか。それらが未来に起きることはどんな自然の法則に従っているのか。もしこういった事にそのような必然性があるのなら、一体何が偶然に起きると我々は考えるだろう。なぜなら、偶然ほど論理や一貫性に反するものはないからだ。神でさえも偶然で起きる未来の出来事を知ることはないと僕は思う。
というのは、もし神がそれを知っているなら、それは必ず起きる事だが、必ず起きる事はけっして偶然に起きる事ではない。ところが偶然に起きることもある。したがって、偶然に起きる未来の出来事は予知できないのである。
19. それとも、もし君は偶然を否定して未来の出来事は全て永遠の昔から運命によって決まっていると言うのなら、君は占いの定義を変えないといけない。さっき君は「占いとは偶然の出来事を予知することだ」と言っていたんだから。だって、永遠の昔から起きることが決まっていることしか起きないのなら、偶然なんてものはあり得ないじゃないか。
もし偶然がなければ、偶然の出来事を予知すると君が言う占いの出番はどこにあるんだ。ところが君は今の出来事も未来の出来事も全ては運命にかかっていると言ったんだよ(1巻125節)。運命なんて言葉は実に馬鹿げているし迷信に満ちたものだ。ところが、ストア派の連中は運命についてしきりに論じている。それについては別の本(『運命について』)で詳しく扱うとして、今は必要なことだけを話そう。
第八章
20. もし全てが運命で決まっているなら、占いは不幸を避けることには役に立たなくなってしまう。なぜなら、占い師が予言したことは必ず起きるからである。すると、ワシが僕たちの友人のデイヨタルスを旅から引き戻したことの意味が僕には分からなくなる。「彼がもし引き返さなかったら、次の夜に崩壊する部屋に彼は泊まらねばならず、彼は押し潰されていたでしょう」と、君は言うだろう。
しかし、それがもし運命なら彼はそれを避けられなかったはずだし、もし運命でなかったなら、彼はその不幸に遭わなかった。すると、占いは何の役に立つと言うのか。くじや内臓や予言は何を避けろと僕に警告しているのだろうか。
もし第一次ポエニ戦争でローマの戦艦が嵐で沈みカルタゴ軍によって沈められるのが運命だったのなら、たとえ執政官のルキウス・ユニウスとプブリウス・クラウディウス(=第1巻29節)に雛鳥が完璧な吉兆をもたらしていたとしても、戦艦は沈んだはずなのだ。しかし、逆にもし彼らが鳥占いの凶兆に逆らわなければ戦艦は沈まなかったのなら、沈むことは運命ではなかったことになる。ところが君は全ては運命によって起きると主張する。それなら、占いは無意味なことになってしまう。
21. またもし第二次ポエニ戦争でローマ軍がトラスメヌス湖で全滅するのが運命だったのなら、執政官のフラミニウスが戦いを禁ずる前兆と鳥占いに従っていたなら、全滅を避けられたのだろうか。きっとそれは不可能だったはずだ。
つまり、占いに意味があるためには、軍が全滅したのは運命ではなかったのでなければならない(運命は変えられないのだから)。なぜなら、もし全滅が運命だったのなら(たぶん君はそう言わだろうが)、たとえ鳥占いに従ったとしても、同じ事が起きたはずだからである。
すると、ストア派の占いはどうなるのか。もし全てが運命によって起きるのなら、占いは我々に用心すべきことを警告できないことになる。なぜなら、我々がどう振る舞おうと、起きると決まっていることは起きるからである。
逆にもし運命が変えられるのなら、運命は無意味なことになってしまう。すると、未来に起きる事を予知することも無意味なことになってしまう。何らかの配慮によって起こらないように出来るのなら、未来に確実に起きることはなくなってしまうからである。
第九章
22. それに僕は未来の出来事に対する知識は無用だと思っている。というのは、もしプリアモスが若い頃から自分が年老いた時の出来事を知っていたら、生きている意味がなくなってしまうからである。物語から離れてもっと身近なことを見てみよう。我が国の著名人の不幸な最後についての話を僕は『慰めについて』の中に集めた。
ではどうだろう。昔の人の話は後回しにして、大金持ちで裕福な暮らしをしていたマルクス・クラッススにとって、息子のプブリウスが殺され、自分は軍隊を失ってユーフラテス川を渡るときに不名誉な死に方をすることを知っていることが何かの役に立ったと、君は思うかね。
3度執政官になり3度凱旋式をしたグナイウス・ポンペイウスは、もし自分が軍隊を失ってエジプトで一人切り殺されて、自分の死語涙なくしては語れぬことが起こることを知っていたら、自分の栄光を喜べたと君は思うかね。
23. カエサルはどうだろう。ほとんど自分が選んだ元老院で、ポンペイウスの議事堂の中のポンペイウスの像の前で、自分のあれだけの百人隊長の見ている前で、自分が栄誉を授けた高貴な市民たちの手にかかって切り殺されて、その遺体には自分の友人どころか召使いたちも誰一人近づけず横たわることになることを、彼が占いで知っていたら、彼の人生はどんなに辛いものになっただろうか。以上のように、どう見ても、未来の不幸な出来事を知っているよりは知らない方が有利なんだよ。
24. というのは、特にストア派によれば、「もし知っていれば、ポンペイウスは出陣しなかったとか、クラッススはユーフラテス川を渡らなかったとか、カエサルは内戦を始めなかった」とは言えないからだ。そしてもしそうなら、彼らの死は運命ではなかったことになる。しかし、君は全ては運命によって起こると主張する。もしそうなら、彼らが占いをしたことは役に立たなかったし、無益だったことになるし、そんなことをすれば、彼らはそれまでの人生の楽しみを全てを失っていただろう。だって自分の不幸な末路を考えながら生きる人生の何が楽しいだろうか。
こうして必然的に、ストア派があれこれといくら上手い事を言っても、彼らの言っていることは無意味なんだよ。つまり、もし将来起こることがいずれにせよ起こり得るなら、運命は大きな意味があるが、それでも偶然の出来事を確定することはできないことになる。逆にもし、これこれの事についてこれこれの時に何が起こるかが決まっているなら、占い師が僕に不幸な出来事が起きると言ったところで、僕には何の役にも立たないのだ。
第十章
25. ストア派は最後にこう付け加えている。「占いをすることで不幸は軽減できる」と。しかし、全てが運命によって起きるのなら、占いをしても何も軽減できない。ユピテルが自分の息子のサルペドンの命を運命に逆らって救うことが出来ないことを嘆く様子を描いたホメロスもそう考えていた。次のギリシャの詩もこれと同じことを意味している。
起こることが準備されていることは、最高神ユピテルも防げない。
アテラの町の笑劇では運命はことごとく馬鹿にされているが、それはそれでいい。しかし、真面目なことには冗談の入り込む余地はないのだ。
僕の議論をまとめると次のようになる。もし将来偶然に起きることは確定できないので予想できないのなら、占いは無意味である。逆にもし未来の出来事は運命によって確実に決まっていているので予想できる場合もまた、占いは無意味である。以上は、占いは偶然の出来事を扱うものだという君の意見に対する結論だ。
26.
しかし、ここまでの僕の議論は小競り合いのようなものだ。ここからの議論では君の議論の本陣を突き崩せるかどうかやってみよう。
第十一章
君は占いには2種類あると言った。一つは技術がもたらすもの、もう一つは自然がもたらすものだ。技術がもたらす占いとは、推測によるものと、長年の観察によるもの。自然がもたらす占いは、人間の心は全て神の本性から汲み出され引き出されたものなので、外部にあるその神の本性から人間の心が取り出してくるものだ。
君の説では、技術がもたらす占いは、内臓占い、稲妻と天変地異による占い、鳥占い、前兆や縁起の良し悪しによる占いがが入るということだった。解釈による占いも君はこの中に入れていたね。
27. 自然がもたらす占いとは、霊感によってもたらされる占いと、眠りによって五感と悩みから解放された心が予言する占いだったと思う。
君は全ての占いを神と運命と自然という三つのものから導きだした。だが原因は全く説明できないのでフィクションの世界の例を驚くほど沢山あげて論じた。この最初のものについてはこう言えるだろう。つまり、たまたま正直な人か、嘘つきかもしれない人を証人にするのは哲学者のする議論とは言えないということだ。個々の出来事が何故起こるかは、証拠と論理によって示さねばならない。その場合、信じられないような出来事を利用してはならないんだ。
第十二章
28. まず、僕が国のためと国の宗教のために大切にすべきだと思っている内臓占いについて始めよう。それに、今は僕たち二人きりなので、遠慮なく真実を追及できる。特に多くの事を疑ってかかる僕にはそれが許されている。
よければ内臓のことを考えてみよう。内臓に示されていることを長年の観察によって内臓占い師たちが知っているなんて誰が信じられるだろうか。
その観察はどれほど長い期間のものだろうか。どれほど長い時間観察できたのだろうか。どの部分が凶でどの部分が吉で、どの裂け目が大凶でどの裂け目が大吉を示しているかを、占い師たちはどうやって合意したのだろうか。
このことについてエトルリアとエジプトとカルタゴの内臓占い師たちは相談したのだろうか。しかし、そんなことは不可能だから、想像すら出来ない。それぞれが別々のやり方で内臓を解釈しているし、全員に共通の一つの教えなどないことを僕は知っている。
29. もし内臓に未来の出来事を明らかにする力があるなら、内臓は自然の法則に従っているか、神々の意思か神の力に何らかの仕方で合致していなければならない。自然を支配する素晴らしい神の意志があらゆる場所のあらゆる動きに浸透しているとして、それと鶏の胆嚢(この臓器はとてもおしゃべりだと言う人もいる)や牡牛の肝臓や心臓や肺が何の関係があるというのか。そこには未来の出来事を明らかにできる自然のどんな要素があるというのか。
第十三章
30. 自然学者は誰よりも偉そうにしているものだが、そのわりにデモクリトスの次の冗談はしゃれている。
目の前にあるものを誰も見ずに広い大空を探し回る。
それにも関わらず、彼は内臓の色と状態から少なくとも牧草の種類が分かるから、大地に生育するものの豊作か不作かは明らかにできると言っている。また、健康か不健康かが内臓によって示されると彼は考える。
冗談の種の尽きない幸せな人だ。この人はあまりに冗談が過ぎて、全ての家畜の内臓が同じ時に同じ状態と同じ色に変わる場合だけしかそんな考えは当てはまらいのが分からなくなったのだろうか。しかし、もし同じ時にある家畜の肝臓は健康で太っていて別の家畜の肝臓は不健康で痩せていたら、内臓の状態と色から何が分かると言うのだろうか。
31. 君が挙げたフェレキュデスの言葉もこれと似たようなものだろう。彼は井戸から汲んだ水を見て地震が起きることを予言した。地震が起きてから、どんな力がそれを引き起こしたかを敢えて言うだけでもかなりの勇気がいることだ。実際、流水の色から地震の発生を予知できるだろうか。そのようなことが学校ではよく言われているが、彼らの言うことを全く信用すべきではないと知るべきだよ。
32. デモクリトスの言うことが仮に本当だとしても、内臓からそんなことを調べることなどあるだうか。内臓占い師が内臓を観察してそんなことを言うのを私は聞いたことがない。占い師は洪水や火災の危険を警告する。また、遺産が入ると言ったり大損すると言ったりする。内臓の筋が吉だ不吉だと言う。また彼らは肝臓の頭をあらゆる方向から熱心に探そうとする。もしそれがなかったら、大変な不幸が起きると考えるのだ。
第十四章
33. しかし、既に言ったように、こんな観察を確実性をもって実行するのは不可能なのだ。つまり、これは長年の蓄積で発見されたことではなく、何か技(わざ)を使ったでっち上げなのだ。しかも、それは未知なものに対する技があるとしての話である。だが、そんな発見が自然の法則とどんな繋がりがあると言うのだろうか。
それらが一貫して一つの調和(=神)に結び付いているとして(これは自然学者、特に存在の全ては一つのものであると言う人たちの意見である)、この宇宙がある財宝の発見とどう繋がっているというのか。
というのは、もし内蔵によって僕のお金が増えることが示されていて、それは自然の法則によると言うなら、第一にその内臓は宇宙と繋がっていて、僕のお金は自然の法則に従っていることになるが、自然学者がそんなこと言って恥ずかしくないだろうか。それでも、今は自然の法則には何かの繋がりがあることを僕も認めよう。
ストア派が多くの例を集めているからだ。ネズミの肝臓は冬は大きくなるし、乾燥ハッカは冬至の日に花が咲くし、膨らんだ鞘は割れて、鞘の中にある種が方々に散らかる。琴は弾いた弦とは別の弦が音を出すし、牡蠣などの貝は月の満ち欠けに合わせて太ったり痩せたりするし、木の伐採は時期的に冬の月が欠ける頃が木が乾燥するからよいと思われている。
34. 海の満ち引きが月の満ち欠けに支配されていることも、くどくど言う必要はないだろう。このような例は無数にあるので、離れているものが自然の法則によって繋がっていることは明らかだ。
だから、この事を僕は認めてもよい。なぜなら、それでも僕の主張には何も不利にはならないからだ。だって、肝臓の筋がどうにかなっていたとして、それで僕のお金のことが分かるだろうか。肝臓の筋と僕のお金、僕の儲けと空や大地や自然の法則とは、どんな自然の結び付き、自然の調和、ギリシャ語で言えば、シュンパテイアによる繋がりがあると言うのだろうか。
第十五章
君が望むなら、それさえ認めてもいい。内臓と自然には何らかの繋がりがあると認めたら、僕の主張に大きな損失を被るとしてもだ。
35. でもこれを認めたとしても、どうして吉兆を得ようとする人は自分の目的に合う生贄を捧げることになるのだろうか。僕はこれこそ解明出来ない問題だと考えた。しかし、それがなんとうまく解明されていることか。
君の記憶力の良さには感心するが、残念なのは君ではない、クルシッポスとアンティパトロスとポセイドニトスだ。彼らは君が言った通り、犠牲獣を選ぶときに、この宇宙に満ちている神の意志、神の力が導きとして働くと言っているからだ。
さらに、君も借用して彼らも言っているのが、次の改善版だ。誰かが犠牲を捧げようとすると、その時にその犠牲の内臓が変化して、何かが無くなったり、残ったりするという説だ。全ては神の意のままだからね。
36. そんなことは今時迷信深い老婆も考えない。それとも、同じ子牛を選んでも人によって頭のない肝臓を見つけたり、頭のある肝臓を見つけたりすると君は考えるのかね。
このように頭が無くなったりくっついたりするのは、犠牲を行う人の未来に合わせて突然起きるのだろうか。犠牲獣を選ぶときには偶然の要素が大きいと君は思わないだろうか。実際そうなんだよ。
というのは、大凶だと言われている頭のない内臓が出た時には、次の犠牲をすると大吉と出ることがよくあるからだ。ではさっきの犠牲の内臓の大凶はどうなるのだろうか。それとも、そんなに早く神は宥められのだろうか。
第十六章
君はカエサルが犠牲を捧げた時に元気な牛の内臓に心臓がなかった話をした。犠牲獣は心臓がなくては生きてはいられないから、そんなことはあり得ない。だから、生贄にする時には心臓はあったと考えるべきだ。
37. 君は心臓のない牛は生きていられないことを分かっていながら、心臓が突然どこかへ飛び去ることなどあり得ないことがどうして分からないだろうか。僕としては、生きるために心臓がどれほど意味があるか知っているから、牛の心臓が何かの病気にかかって痩せ衰えて心臓とは似つかないものになっていたと推測するかしかない。
元気な牛にさっきまで心臓があったのに生贄にすると突然なくなったとしたら、その理由を君は分かるかい。カエサルが紫の衣装をきて心を失っているのを牛が見て、自分も心臓を無くしたのだろうか。
君は哲学の要塞を守りながら、本丸を明け渡したようなものだ。なぜって、内臓占いは当たると言いたいばかりに生理学を台無しにしてしまったのだから。
肝臓には頭部があり内臓には心臓がある。それが引き割麦とワインを振り掛けた途端に、神がそれを取り去るか、何かの力がそれを片付けるか、貪り食うかして、姿を消してしまうというのだからね。
それだと、万物の誕生と消滅は自然の法制に従って行われるのではなく、何かが無から生まれたり、突然無に帰るということになる。こんなことを自然学者の誰が言っただろうか。ところが、内臓占い師はそんなことを言っているのだ。君は自然学者より内臓占い師の方を信用すべきだと考えるのかね。
第十七章
38. さらに、いろんな神に犠牲を捧げると、神によって吉兆が出たり出なかったりするのはどうしてだろう。最初の犠牲では凶が出て、次の犠牲では吉が出るとは、神々はなんて気まぐれなんだろう。
それとも、兄弟の神々の間で意見の相違がよくあるから、アポロンへの犠牲では吉なるのにディアナへの犠牲では吉にならないのだろうか。犠牲獣は当てずっぽうに選ばれるのだから、どんな内臓であるかは、どの犠牲獣が当たるか次第であることは明らかだ。
「しかし、どの犠牲獣が当たるかこそがまさに神の意志なのです。それはくじ引きでは、何を引くかにかかっているのと同じことです」と君は言うだろう。くじ引きのことは後で話そう。もっとも、くじ引きとの比較では犠牲獣の価値を補強出来ていないし、それどころか、犠牲獣との比較でくじ引きの権威を弱めてしまっている。
39. それとも、僕が犠牲式をした時、アエクイマエリウム広場(=カピトリウムの丘の近く)から召使いが連れて来た羊が吉兆の内臓を持っていたのは、偶然ではなく、神の導きによるのだろうか。
というのは、くじ引きの場合と同じく、この場合の偶然は神々の意志と結び付いていると君が言うなら、残念ながら、僕たちと親しいストア派を嘲笑する大きなチャンスをエピクロス派に与えてしまうことになるからだ。エピクロス派がこんな考えをどれほど馬鹿にしているかは君も知らないはずはないからだ。
40. しかも、彼らはそんなことをしても平気なのだ。なぜなら、エピクロスが面白半分に言う神々とは、透明で風になびいて、宇宙の崩壊を恐れて、ローマの二つの森の間に住むようにして、二つの宇宙の間に住んでる。彼らは人間と同じ手足を持っていながら全く使わないと彼は言うのだ。
このようにして、彼は遠回しに神の存在を否定しているので、躊躇なく占いを全否定する。しかし、ストア派はエピクロスのような一貫性がない。というのは、エピクロスの神は自分のことにも他人のことにも関心がないので、人間に占いの方法を授けることは出来ないが、君たちの神は宇宙を支配して人間のことを心配しているのに、人間に占いの方法を授けられないでいるからだ。
41. どうして君たちは自分で説明できない詭弁に引き込まれてしまったのだろう。ストア派は性急にいつもこう結論する。「もし神が存在するなら占いは可能だ。ところで、神は存在する。したがって、占いは可能だ。」これより次の方がもっともらしい。「ところで、占いは不可能だ。したがって、神は存在しない」
彼らは「もし占いが不可能なら、神は存在しない」などと言っているが、それが如何に罪深いことかは君も知るべきだ。占いをきっぱり否定するとしても、神の存在を否定してはいけないのだ。
第十八章
42. 内臓占い師のこの種の占いが否定された以上は、内臓占いは全て否定されたことになる。次に来るのが天変地異と稲妻だ。ところが稲妻は長年の観察がものを言うのに対して、天変地異の場合は多くの場合推測や解釈が用いられる。
では、稲妻の場合には何が観察されるのか。エトルリア人は空を十六等分する。それは簡単だ。我々は空を四等分するが、それを倍にして、さらに倍にするわけである。それから稲妻が空のどの部分から来たかを言うのだ。
しかし、第一にそれが何の関係があるのか。第二にそれが何を意味するのか。そもそも人々が雷鳴と稲妻を怖がったことから、万物を支配するユピテルがそれを起こしていると信じるようになったのは明らかではないだろうか。だから、我々卜占官の規則にはこう書いてある。「ユピテルが雷を鳴らし稲妻を走らせたら民会を行ってはならぬ」と。
43. これは恐らく政治的な要請で決められたのだ。なぜなら民会を開かない理由が必要だと思ったからだ。民会が開けない不吉な理由は稲妻だけなのだ。しかし、民会以外の事では左手の稲妻は大吉の鳥占いと同一視される。しかし、鳥占いのことは別のところで話そう。今は稲妻のことだ。
第十九章
そもそもあやふやな事によって確かなことが何か示されると言うことほど自然学者のすべきでないことがあるだろうか。君はユピテルの稲妻をエトナ山のキュクロポスが作ったという話を信じていないだろうね。
44. また、ユピテルは稲妻を一つしか持っていなかったら、あんなに何度も稲妻をどうやって投げたのか不思議なことになる。また、稲妻を使って人間に何をすべきで何をすべきでないかを警告したはずもない。
ストア派の説明では「大地の冷たい蒸気が流れ始めた時に風になる。それが雲の中に入ると、雲の薄い部分をあちこち引き裂き始めて、それを何度も激しく繰り返すと、稲妻と雷鳴が生まれる」ということだ。
また、雲の摩擦から熱が生まれて稲妻が放たれたれることもある。こんなことは自然の力で何の一貫性もなくしょっちゅう起きるのを我々は見ている。それなのに、後に起きることの予兆を僕たちは稲妻から求めるのだろうか。実際、もしユピテルがそんなものを示しているとしたら、実に多くの稲妻を無駄に投げたことになるじゃないか。
45. だって、何のためにユピテルは海の真ん中に稲妻を投げていると言うのか。落雷が一番多いのは非常に高い山だが、そのことに何の意味がある。人の住まない荒野の落雷はどうか。いやそもそも落雷の観察など一切しない国に落ちた雷はどうなのか。
第二十章
しかし、「ティベルス川で稲妻の神の頭部が占い師の言うとおりに見つかったじゃないですか」と君は言うだろう。僕は占い師が何かの技(わざ)を持っていることは否定しない。僕が否定しているのは占いの方だ。さっき言ったように空を分割して、観察して分かる確かなことは、稲妻がどこから来てどこへ行ったかだ。しかし、それが何の前兆であるかは理性では分からない。ところが、君は僕の詩を出してきて僕を困らせる。
高みに轟く父は光り輝くオリンポスに立って、自分の丘と神殿に狙いを定め、カピトリヌスの社に稲妻を放った。
「その時、ナッタの像と神々の像とロムルスとレムスの像と二人に乳を与える獣の像が稲妻に打たれて倒れ、それについての占い師の回答は正しかった」
46. 一方、元老院に陰謀が報告されたちょうどその時、ユピテルの像が約束の2年後にカピトルの丘に建てられたのも、不思議なことだったと君は言う。
「では、あなたは自分のした事にも自分の書いたものにも反して、その主張を続けるつもりですか。」と、君は僕を責める。
君は僕の弟だ。それだけに僕には遠慮がある。しかし、この詩の何が問題なのか。この詩の内容なのか、それとも真実を求める僕の態度かね。僕は君には反論しない。僕はただ全ての占いについてそれが当たる理由を言ってほしいだけだ。
ところが、君はうまい隠れ家に逃げ込んでしまった。というのは、僕に個々の占いが当たった理由を聞かれたら困るので、しきりにこう言ったからだ。「この問題を考える時には、私は理由を問うことはしません。大切なのは何が起きたかであって、どうしてそうなったかではないのです」と。
だが、僕は占いが当たったことを認めていないし、それがなぜ当たったかを問わないことは哲学者の本分ではないと思っているのだ。
47. そこで君は僕の『前兆集』を引用したり、様々な薬草とヒルガオの根とアリストロキア(ウマノスズクサ)を、原因は分からなくても効能は分かっている例として挙げたりした。
第二十一章
しかし、それらを全部いっしょくたには出来ない。なぜなら、様々な徴候の原因は君が名前をあげたストア派のボエトスと僕の友人のポセイドニオスが探求しているし、それらの原因が分からない場合も、その現象を批判することは出来た。
ナッタの像や法律の青銅の板に雷が落ちたことは、昔から観察されてきたことだろうか。「ピナリウス・ナッタは貴族ですから、貴族が危機をもたらすということです」と君は言うだろう。
そんなことをユピテルは抜け目なく考えていたのだろうか。「乳飲み子ロムルスの像が雷に撃たれたのは彼が建国したローマに危機が迫っている予兆です」と君は言うだろう。ユピテルはこんな合図を使って何と巧みに僕たちに知らせてくれたのか。
「陰謀が報告されたのと同時にユピテルの像が建てられました」と君は言うだろう。そうすると、あれは偶然の一致ではなく、神の意志だと君は思いたいのだね。トルクワトスとコッタにあの柱の建設を約束した人が約束を守らなかったのは怠惰のせいでも金詰まりのせいでもく、神の意志によってその時まで止められていたと思いたいのだね。
48. そんなことはあり得ないと僕は思っているわけではない。よく分からないから君に教えてもらおうと思っているんだ。
占い師の予言通りになったのを僕は偶然だと思っているし、君も偶然について詳しく話した。そして「ビーナス数といって4つの4面サイコロが全部異なる数になるのは偶然だが、4つのサイコロを100回投げて100回ともビーナス数になるのは偶然ではない」と言った。
どうしてそれが偶然でないのか僕には分からないが、反論するのはやめておく。絵の具をばらまいたり豚の鼻づらで絵を描いたり等々、君は似たような例を沢山挙げている。
カルネアデスでさえもパン神の小さな像の頭部の話をしていると君は言う。しかし、そんな事はたまたまだし、プラクシテレスの作ったような像の頭部がどこかの大理石の中に含まれていても不思議ではない。
もちろんそれは周囲を切り取っていけば出来るもので、プラクシテレスが作って岩の中に持ち込んだものではない。あちこち切り取っていけば、顔の輪郭が出来るのだ。それが磨き上げられていたとしても、元々は岩の中にあったことは君も認めるだろう。
49. だから、そのような物がキオスの石切場に自然に出てくることもあるのだ。しかし、それは嘘だというなら、これはどうだ。君はライオンの形やケンタウロスの形をした雲を見たことがないかね。君がどう否定しようが、偶然が真実に似ていることはあるのだ。
第二十二章
内臓占いと稲妻占いは充分論じたから、残るは異常現象による占いだけだ。それで占いは全部扱ったことになる。
君はラバの出産の話をしていた。そんなことは滅多にないので不思議ではある。しかし、ありえないことなら起こっていないはずだ。
しかし、次の事はどの異常現象に対して言える。つまり、起こり得ないことは決して起こらない。起こり得ることなら驚くことはない。新奇な出来事に驚くのは原因を知らないからだ。逆に、見慣れたことなら、原因を知らなくても誰も驚かない。
50. ラバの出産に驚く人は、どのようにしてメスが出産するか、動物の出産にはどんな自然の法則が働いているかを知らない人だ。一方、よく目にすることは原因を知らなくても誰も驚かない。ところが、見たことのないことが起きると異常現象だと思うのである。ではラバの妊娠と出産のどちらが異常現象だろうか。おそらくラバの妊娠は自然の法則に反した異常なことだとしても、出産はごく当然の事なのだ。
第二十三章
もう充分だろう。では、占いの起こりについて見てみよう。そうすれば、占いにどれほど信憑性があるか容易に判断できるはずだ。タルクイニ地方の農夫が畑を耕していた時、溝をいつもより深く掘り込むと、土の中からタゲスという人が突然現れて農夫に話しかけたと言われている。このタゲスはエトルリア人の書物には、童顔だが長老の知恵の持ち主だと書かれている。
それを見た農夫は驚いて大きな声を上げたので、人々が集まってきて、瞬く間にエトルリア人が全員そこにやってきた。
するとタゲスは沢山の聴衆に向かって長々と演説をした。人々はその言葉は全部聞いて文字に書き留めた。その話の内容はすべて占いに関するものだった。この教義は新たな事に出合って原則に照らし合わせることで改良されていった。僕たちはこの話をエトルリア人から直接聞いたし、彼らはそれを文字にして保存している。それが彼らの占いの教えの基礎となったのである。
51. この話を批判するのに、カルネアデスやエピクロスが必要だろうか。神か人間かは知らないが、タゲスが地面から掘り出された話を信じるような愚かな人がいるだろうか。もし神だとしても、どうして彼は鋤で掘り出されて日の目を見るまで、不自然にも地中に隠れていたのだろうか。
さらに、その神はその教義をもっと高い所から人間に伝えることは出来なかったのだろうか。一方、もしタゲスが人間なら、一体どうやって地中に埋まったまま生きていられたのだろうか。さらに、彼は人に教えたことを誰に教わったのだろうか。しかし、エトルリア人に対してこんなに長々と無駄な反論する僕は、こんな話を信じている彼らよりもよほど愚か者に違いない。
第二十四章
占い師が他の占い師を見て笑わずにいられるのは不思議だというカトーの昔の言葉は言い得て妙である。
52. 占い師の予言はいくらも当たらないじゃないか。もし当たったのなら、それがまぐれ当たりでないどんな証拠があるというのか。
プルシアス王は自国に亡命しているハンニバルに決戦を薦められたとき、王は内臓占いでするなと出ているから、決戦は出来ないと答えた。そこでハンニバルは言った。「まさか、あなたはベテランの将軍の言うことよりも子牛の肉の方を信じるのですか」と。
さらに、カエサルは主だった占い師に冬になる前にアフリカに渡らないよう警告を受けても、アフリカ行きを決行した。もし彼がアフリカ行きをやめていたら、敵の全軍が一ヶ所に集結していたことだろう。さらに僕は外れた占いや、逆の結果になった占いをいくらでもあげることが出来る。
53. 今回の内戦で僕たちは神々にどれほど騙されたことだろう。占い師たちがローマからギリシャにいる僕たちのもとに送った回答は何だったんだ。ポンペイウスに送って来た回答は何だったんだ。彼は内臓占いと異常現象による占いを信じたのだ。
それをいちいち挙げるつもりはないし、君も現場にいたからその必要はない。君も知ってのとおり、占い師の予言はことごとく外れたのだ。しかし、これ以上はよそう。今は異常現象の話に戻ろう。
第二十五章
54. 君は僕が執政官の時に書いたものを沢山引用した。また、同盟市戦争の前に歴史家シセンナが色々書いていることも持ち出したし、スパルタがレウクトラで敗戦する前のことをカリステネスが記録したことにも言及した。
僕はそれについて必要があれば言及するが、まずは異常現象について全体的なことを言おう。神々が送る異常現象は何を意味するのだろうか。不幸な結果を教える神の意図は何だろうか。神々は何がしたいのだろうか。何のために神々は解釈する人なしには理解できない前兆を示したり、避けられない不幸を知らせたりするのだうか。
正直な人なら、友人にどうしても避けられない不幸が差し迫っていることを教えたりはしない。例えば医者は患者に病気で死にかけていることが分かってもそれを告げたりしないものだ。なぜなら、不幸な予言はその不幸を避ける手だてと一緒に教えてこそ誉められるものだからである。
55. 昔のスパルタ人と最近の我が国の人たちにとってあれらの異常現象とその解釈者たちは何の役に立っただろうか。もしあれが神々の示したことだと言うなら、どうしてあんなに分かりにくいものだったのか。もし我々に結果を理解して欲しければ、神々ははっきり分かるように示すべきだった。もし神々にその気がないなら、謎めいた形でそんなものを示すべきではなかったのである。
第二十六章
占い師は自分たちの解釈を拠り所にしているが、そもそも解釈などというものは考え方次第でどうにでもなるし、全く正反対の解釈も出来るのだ。
例えば、法廷弁論では原告側と被告側とではまったく解釈は異なるのに、どちらの解釈ももっともらしく見えるものである。万事解釈が幅を効かすようなことでは、どのようにでも言えるのである。
むしろ、自然現象や偶然の出来事(類推はしばしば間違いの元である)を神がもたらしたと見なして、その原因を追求しないのは愚かなことなのだ。
56. レバディアの町の家禽の雄鶏が鳴いたのを見てボイオティアの占い師がテーバイの勝利を予言したという話を君は信じている。雄鶏は負けたときは黙っているが、勝つときはいつも鳴くからというのだ。ユピテルはこれほどの大国に対して雌鳥を使って合図を送ったのだろうか。それとも、その鳥は戦争で勝った時以外は鳴かないのだろうか。
いや、雄鶏が鳴いた時はまだ勝ってはいなかった。「それは異常現象なのだから」と君は言うだろう。実に不可思議だ。しかし、鳴いたのは魚ではなくて雄鶏だった。その雄鶏は夜にしろ昼間にしろ鳴かない時があるのだろうか。もし勝ったときに元気になって喜びのあまり興奮して鳴いたのなら、ほかの事で嬉しい時にも鳴くことだってあったはずだ。
57. デモクリトスは夜明け前に雄鶏が鳴く理由を見事な言葉で説明している。寝ている間に食物がこなれて胃袋から出て体中に浸透すると、雄鶏は眠りに飽きて歌い出すのだと。エンニウスによれば、「夜の静寂の中で、 喉を真っ赤にして歌を楽しみ、羽をたたいて音を出す」
この生き物が歌好きであり、鳴いた原因は自然か偶然だったかもしれないのに、どうしてカリステネスは神々が雄鶏に歌う合図を送ったと思ったのだろうか。
第二十七章
58. 確かに、「血の雨が降り、アラートゥス川の流れが血に染まり、神の像が汗をかいたことが元老院に報告された。」しかし、この知らせをタレースや、アナクサゴラスなどの自然学者が信じたと君は思うかね。
血や汗は生き物の体からしか出ないものだ。川の水に土が混じって、水の色が変わって血の色に似ることもある。また、外気の湿り気が神像におりて来ると汗をかいたように見える。それは南風が吹くときに漆喰壁に起こる現象だ。
しかも、これらは戦時中に恐怖に陥っている人たちによって頻繁に観察される現象で、平時にはあまり観察されない。そんな話は国が危機のときには信用されやすいし、作り話であっても咎められることは少ないものだ。
59. しかし、いくら軽率で愚かな僕も、物をかじるのが専門のネズミが何かをかじったことを異常現象だと考えるだろうか。君の話では、「同盟市戦争の前にラヌウィウムの町の盾がネズミにかじられたことを占い師たちは極めて異常な現象だと言った」。しかし、日夜何かをかじっているネズミが穴を開けたのが盾であろうと篩(ふるい)であろうと何が違うというのだろうか。
だって、その伝で行くなら、僕の家のプラトンの『国家論』が最近ネズミにかじられたら、僕はこの国の行く末を心配しないといけないし、エピクロスの快楽説の本がかじられたら、人々の欲望に歯止めが効かなくなって、市場の食料品の値段が高騰すると思わないといけなくなる。
第二十八章
60. それとも、もし家畜や人間に奇怪な子供が生まれたら、僕は恐怖を抱くだろうか。簡単に言えばそんな場合の考え方は一つしかない。何にしろ生まれて来たものは、必ず自然の法則に基づいている。たとえ異常な出来事だったとしても、自然の法則に反した出来事ではあり得ない。
だから、奇怪な驚くべき事があったら、出来るだけその原因を探るべきなのだ。もし原因が見つからなくても、原因なしには何も起こらないことを忘れてはいけない。事の目新しさのために恐怖を抱いても、自然の法則を考えて恐怖を払い退けるべきである。だから、大地が震えても空が割れても、血の雨が降っても乳の雨が降っても、流れ星が見えても、松明が見えても、君はもう恐れることはないのだ。
61. これらの原因をクリュシッポスに尋ねたら、彼は占いの信奉者であるが、それらが偶然に起きたとは決して言わずに、全てを自然の法則から説明するはずだ。つまり、「原因なしには何事も起こらないし、起こり得ない事は何も起こらない。もし起こり得る事が起きたのなら、それは、異常現象と見るべきではない。したがって、異常現象は存在しない」と。
もしめったに起きないことが起きたら異常現象だと見なすべきなら、世の賢人の存在こそ異常現象だ。なぜなら、ラバの出産より世に賢人が現れることの方がはるかに珍しいことだと僕は思うからだ。そこで結論はこうなる。「起こり得ないことが起きたことはないし、起こり得ることが起きたのなら、それは異常現象ではない。したがって、異常現象などまったくあり得ない。」
62. 異常現象を解釈するある占い師の回答が賢明だったと言われている。彼は、ある時、家でヘビが金梃に巻き付いたことを異常現象だと言って相談に来た人に、「もし金梃がヘビに巻き付いたら異常現象だろう」と言ったのだ。起こり得ることは異常現象と見なすべきではないことを彼はこの回答によって明らかにしたのだ。
第二十九章
ガイウス・グラックスはマルクス・ポンペイウスへの手紙の中で、二匹のヘビが家で捕まったときに彼の父親が占い師を呼び寄せたときの話をしている。しかし、どうしてトカゲやネズミではなくヘビだったのだろう。「家でトカゲやネズミを捕まえることはよくある事ですが、ヘビは珍しいからです」と君は言うだろう。だが、起こり得ることの頻度の違いは問題ではないのだ。
僕が不思議に思うのは、雌のヘビを逃がすとティベリウス・グラックスが死ぬが、雄のヘビを逃がすとコルネリアが死ぬというのに、どうしてどちらかを逃がそうとしたのかということだ。というのは、どちらも逃がさないとどうなるかという占い師の答えは何も書いていないからだ。
「しかし、その後ティベリウスが死にました」と君は言うだろう。たぶん彼の死の原因は、ヘビを逃がした事ではなくて、重い病気だったに違いない。とにかく、たまたま占い師の予言通りになったのは、占い師にとっては幸いな事だったに違いない。
第三十章
63. 君はホメロスの詩の中でカルカスが雀の数からトロイ戦争の年数を予言したことを話たが、もし僕がその話を信じたら、僕もその話に驚くところだ。カルカスの占いについて、ホメロスの詩の中でアガメムノン(=実はオデュッセウス。『イリアス』2巻299~330行)は次のように言っている。以下は僕が暇なときに作った翻訳だ。
兵士たちよ、この苦しい試練に耐えて欲しい、我らの占い師カルカスの予言が本当か、それとも彼の胸から生まれた嘘かを知ることができるまで。不幸な死を迎えなかった者たちは、誰もがあの前兆のことをよく覚えている。
アウリスの港にギリシャの船が、プリアモスに死を、トロイに破滅をもたらすべく勢揃いした時、我らは冷たい泉の周りで神威をなだめるために、煙を立てる祭壇に黄金の冠をした牡牛を捧げた。その時、泉が涌き出るプラタナスの日陰に恐ろしげな大蛇がとぐろを巻いて、ユピテルの祭壇から出てくるのを我々は見た。
大蛇はプラタナスの枝に生い茂る葉並みに隠れていた小鳥たちに襲いかかった。大蛇が飲み込んだ小鳥の数は八羽、九羽目の親鳥は震える鳴き声をあげながら飛び上がったが、無慈悲な大蛇は大きな牙でその肉を引き裂いた。
64.
大蛇が雛鳥と親鳥を殺すと、この蛇を送り出したサトゥルヌスの息子(ユピテル)は、この蛇を人目から隠して、その姿を固い岩の覆いによって作り変えた。恐怖に怯えた我らは立ったまま、この不思議な光景が神の祭壇の真ん中で繰り広げられるのを目撃した。
その時カルカスは自信に満ちた声でこう言った。「ギリシャ人よ、急に何を呆然として立ちすくんでいるのか。これは神々の父が自ら我らに送りたもうた前兆だ。送られるのが遅れたが、これは永遠に語り継がれることになる。醜い牙で殺された鳥の数は、我らが耐えるトロイでの戦いの年数だ。トロイは十年目に陥落して、ギリシャ人は復讐を果たすのだ。」カルカスはこう言った。その言葉が今や成就するのを我らは目にするだろう。
65. しかし、雀の数から月や日の数ではなく年数を予言したのは、一体どういう事だろう。どうして何ら不思議ではない雀のことで占って、大蛇が石になるという、起こり得ないことには何の言及もなかったのだろうか。そもそも雀の数と戦いの年数にはどんな類似点があるのだろうか。
例えば、生贄を捧げていたスラのもとに現れたヘビについて、僕は二つの事を覚えている。まず、スラはまさに遠征に出ようとしていた時に生贄を捧げたらヘビが祭壇から出て来たこと、次に、まさにその日に勝利をあげたが、それは占い師の助言のおかげではなく、将軍の知恵のおかげだったことである。
第三十一章
66. この種の異常現象に不思議なことは何もないが、それが起きたときに占い師による解釈が出ている。子供時代のミダス王の口に小麦の粒が積み上げられていたのも、子供の頃のプラトンの唇に蜂が集まっていたのもそうだった。これらは占いの方は当たったが、別段不思議な出来事ではなかったのである。だから、これらは作り話だったのか、さもなければ予言が当たったのは偶然だったのである。
ロスキウスにヘビが巻き付いていたという話も作り話の可能性がある。しかし、揺り籠にヘビがいたことはそれほど不思議なことではない。特にソロニウムでは暖炉の近くにヘビが群がることはよくあるからだ。占い師がこの子は誰よりも名高い有名人になると答えたことについて言うなら、神々はこの役者が将来有名になることを示したのに、小スキピオには何も示さなかったことの方が不思議である。
67. フラミニウスに対して現れた前兆のことも君は話した。彼が突然馬ごと転倒したことは、それほど不思議なことではない。一列目の軍団兵の軍旗が抜けなかったのは、きっと旗持ちが旗を突き刺した時には自信に溢れていたのに、旗を抜こうとした時には臆病風に吹かれていたからに違いない。
ディオニシウスの馬が川から出てきて、そのたてがみにハチの大群が止まっていたことに何の不思議なことがあるだろうか。ところが、間もなく彼が王位についたので、偶然に起きたことが前兆の意味を持ったのである。
「しかし、スパルタ人にはヘラクレスの神殿の武器が音をたてたし、同じ日にテーバイのヘラクレスの神殿の両開きの戸が突然勝手に開いて、高い所に固定してあった盾が地面に落ちているのが見つかりました。」そんな事は何かの力がかからないと起こるはずがないが、どうしてそれが偶然ではなく神の意志によると言えるのだろうか。
第三十二章
68. 「しかし、デルフィにあるリュサンドロスの像の頭に野草の冠が出現しました。しかも突然に」と君は言う。
そんなことがあるだろうか。種から芽が出ることなしにそんな冠が出現したと君は思うのかね。野草は人が種を蒔いたのではく、鳥が運んだものだと思う。頭の上に何かが出来たら、それは冠のように見えるだろう。
同じ頃デルフィに奉納されていたカストールとポリュックスの黄金の星がなくなって二度と見つからなかったと君が言ったことについては、神の仕業ではなく盗人の仕業だと僕は思う。しかし、ドドナの猿のした悪戯がギリシャの歴史に記録されていることに僕は驚く。
69. あんな野蛮な生き物がくじの壺をひっくり返してくじをばら蒔いたことに何の不思議なことがあるだろう。それなのに、スパルタ人にとってこれ以上に悪い前兆はなかったと歴史家は言うのだ。
「アルバヌス湖が増水して海に流れ込んだらローマは敗れ、その増水を抑えたらウェイイ族が敗れる」というウェイイ族の予言がある。しかし、あの時アルバヌス湖から水が引かれたのは、ローマの城塞と町を守るためではなく、郊外の田畑の灌漑のためだったのだ。
「しかし、そのすぐ後でローマが占領されないように備えよと言う警告の声が聞こえました。その結果、新道に告知神アイユスのための祭壇が奉納されました。」と君は言うだろう。
それなら、告知神アイユスは誰にも知られない時に話し掛けて、そこからその名前をもらったのに、社と祭壇と名前が出来たあと沈黙を守っているのは何故だろうか。同じ事が警告神ユノーについても言える。この女神は妊娠した豚の警告をした以外にどんな警告をもたらしただろうか。
第三十三章
70. 異常現象についてはもう充分だろう。次は鳥占いとくじ引きについてだ。巫女が口走る神託のことは、自然がもたらす占いについて話すときにしよう。さらに占星術師のこともある。だがまず鳥占いについて話そう。
「卜占官であるあなたには批判しにくい話題でしょう」と君は言うだろう。たぶんマルシの卜占官にとってはそうだろうが、ローマの卜占官にとってはそうではない。なぜなら、僕たちは鳥などの前兆を観察して未来を占うことはしないからだ。
ただし、鳥占いによってローマを建国したロムルスは、占いによって未来の出来事を予知できると信じていたのだろう(昔の人たちは多くのことで間違っていた)。今では長年の経験や研究のおかげで占いは変貌している。しかし、その一方で大衆の信仰と国の便益のために、占いの慣習も儀式も教義も規則も卜占官団の権威も失われてはいない。
71. 不吉な鳥占いに逆らって航海した執政官のプブリウス・クラウディウスとルキウス・ユニウスはどんな罰を受けても当然だ。宗教には従うべきだったし、祖国の慣習をあんなに強情に拒否すべきでもなかった。だから、一人が民会で罰を受け、もう一人が自害したのは仕方がない。
だから「フラミニウスも鳥占いを無視したので軍と共に全滅しました」と君は言うだろう。だが一年後にルキウス・パウルス(=第一巻のパウルスの父)は鳥占い従った。にもかかわらず、彼はカンネーの戦いで軍と共に全滅したではないか(前216年)。鳥占いなど無意味なものだが、仮に鳥占いに意味があるとしても、今僕たちが行っているものは、吉兆占いにしろ天空観察にしろ、鳥占いを真似たものだが、実際には鳥占いでも何でもない。
第三十四章
例えば僕が「クイントゥス・ファブィウス君、鳥占いに同席してくれたまえ」と言うと、彼は「はい、分かりました」と言うだろう
72. (この場合父祖たちの頃には経験に富む人が招かれたが、今では誰でもいい。一方、専門家は沈黙の意味が分かっている必要がある。不吉なことを避けることを鳥占いでは沈黙という。この理解は完璧な卜占官にとって必須条件だ)
すると鳥占いに招かれた人に対して鳥占いの主催者はこう命じる。「沈黙が守られているかどうか言いたまえ。」すると同席者は上の方も回りも見ずに直ちに「沈黙は守られています」と答えるだろう。
すると主催者は「餌を食べているかどうか言いたまえ」「食べています。」どんな鳥が食べているのか。あるいはどこで食べているのか。「鳥の番人と呼ばれている人が鳥籠に入れて持ってきた鳥です」と君は言うだろう。その鳥がユピテルの使いの鳥だと言うのだ。では、この鳥が餌を食べると食べないとでどう違うのか。そんな事は鳥占いとは何の関係もないのだ。
ところが、鳥が餌を食べている時には必ず口から何か落ちて地面を叩く(terram pavire)ので、それは最初は terripavium 、次に terripudium と言われ、今では tripudium と言われている。そこで、餌が鳥の口から落ちた時に、鳥占いの主催者に対して完璧な吉兆(tripudium)が告げられる。
第三十五章
73. こんな無理やりの不自然な鳥占いで未来が占えるだろうか。こんなことは昔の人たちはしなかったのは明らかだ。なぜなら、僕たち卜占官団には古くからの決まりがあって、そこには「どんな鳥も吉兆(tripudium)を出せるが、その鳥が自由に姿を現せる時だけ鳥占いが可能で、その時その鳥はユピテルの意を体した使者である」と書いてあるからだ。
それが今では、鳥が籠に閉じ込められて餓え死にしそうになって、餌に飛びついて、それが口から落ちた場合に、これを君は鳥占いと呼ぶのだろうか。さらに、ロムルスはいつもこんなことをしていたと思うのだろうか。
74. 鳥占いの主催者は昔はいつも自分で天空観察をしていたとは君はまだ思わないだろうか。ところが、今の主催者は鳥の番人に指図をして、そして報告を受ける。僕たちは今では左手の稲妻を見て、民会以外の全ての場合に大吉の鳥占いと同一視している。民会については政治的な理由で決められたもので、民会で裁判をしたり法律を制定したり政務官を選ぶ場合には、国の指導者が解釈するのである。
「しかし、執政官のスキピオとフィグルスは、ティベリウス・グラックスの書簡に従った卜占官たちによって自分たちの選出が占いに反して行われたと判断されたときに辞職しました」と君は言うだろう。
誰が卜占官の規則を否定しているだろうか。僕は占いを否定しているだけだ。
「しかし、占い師は神の意を体しています。ティベリウス・グラックスは、最初の投票団の投票結果を報告していた立会人が突然倒れて急死したために、占い師たちを元老院に招きましたが、そこで彼らは正統な立会人がいなかったと述べたのです。」
75. 第一に、彼らは投票団の立会人について言っていることに注目すべきだ。その人は死んでしまったからだ。一方、彼らは占いなしで推測でそれは言えたのである。第二に、それはまぐれ当たりだったかもしれない。この種の事では偶然は排除できないからだ。
だってエトルリアの占い師はテントが正しく張られたかとか境界線は正しく横切られたかどうかをどうして知ることが出来たろうか(=これが執政官辞任の理由となったが、占い師は立会人のことを言っただけだった)。僕は同僚の中ではアッピウス・クラウディウスよりはガイウス・マルケッルスと同じ考えだ。卜占官団の規則は最初は占いに対する信仰から作られたとしても、その後は政治的な理由から維持されて守られているに過ぎないんだ。
第三十六章
76. だが、この話の続きは別の機会にして今はこれまでとしよう。そして、外国の鳥占いについて見てみよう。それは技術によるというよりは迷信によるものなのだ。
ローマ人が鳥占いに使う鳥は少ないが、外国ではあらゆる鳥を鳥占いに利用する。また、国によって何を不吉とするかは違っているんだ。デイオタルス王は我が国の鳥占いの規則についてよく僕に質問したし、僕も彼の国のやり方を彼に質問した。まったく何と違うことだろうか。まったく、ほとんど正反対と言えるほど違うんだよ。
しかも、彼はいつも鳥占いをするが、僕たちは民会が鳥占いを受け入れる場合以外にはほとんどやらない。我らの父祖たちは鳥占いをせずに戦争を始めようとはしなかった。しかし、属州の総督たちが鳥占いをせずに戦争をするようになってからどれほどの年月が過ぎたろうか。
77. 彼らは鳥占いをせずに川を渡るし、吉兆占い(tripudium)もやらない。いったい鳥占いはどうらなったのだろうか。鳥占いをせずに戦争が行われるようになってからは、鳥占いは戦争から排除されて、ローマ市の内政のために維持されているに過ぎないのだ。
軍隊しかやらない槍による占いも、5度の執政官経験者であるマルクス・マルケッルスがすでに完全に廃止してしまった。それでも彼は優れた卜占官であり優れた司令官だ。彼は作戦行動に出るときには占いに邪魔されないように、いつも覆いをした籠で移動していたと話してくれた。
78. 僕たち卜占官の指図もこれと似ている。それはくびきに繋がれた牛が起こす不吉な現象に邪魔されないように、家畜のくびきは外しておけと言うものだ。もちろん、前兆現象が起きないようにすること、起きても見ないようにすることは、ユピテルからの警告を拒否することに他ならない。
第三十七章
というのは、デイオタルス王の話は馬鹿げているからである。彼は「内戦でポンペイウスに付くことを決めた占いを後悔していない。なぜなら友情と信義に従うことでローマの民衆に対する義務を果たしたからだ。自分の名声も名誉も王位や領土を手にするよりも大切だからだ」と言っている。
79. それは本当だろうが、占いとは関係のないことである。ローマの民衆の自由を守ろうとするのが正しいと、カラスが鳴いて教えたはずがないからだ。それは彼が思ったことに他ならない。鳥は結果が成功するか失敗するかを示すだけだ。つまり、デイオタルスは、信義を守る限りは運命のことを考えてはならないとする美徳の占いに従ったのだと僕は思う。
鳥占いがよい結果を示していたのなら、確かに、彼は鳥占いに騙されたことになる。彼はポンペイウスと共に戦いから逃亡したのは辛い事だったし、彼がポンペイウスを見捨てたのは悲惨な事だった。彼はカエサルを同時に敵であり味方として迎えることになったのだ。これほど残酷な事があろうか。
カエサルはデイオタルスからトロクミー族に対する四分領主の地位を奪い、ペルガモンの某の取り巻きにくれてやった。さらに元老院が彼に与えたアルメニアを取り上げた。彼がカエサルを豪勢に迎え入れた時、カエサルは自分をもてなした王の財産を奪って帰ったのだ。
知らない間に長くなっている。じきにテーマに戻るよ。デイオタルスの鳥占いが示した結果から見れば、彼はけっして幸福とは言えない。しかし、彼が果たした義務を見るなら、それは鳥占いではなく彼の美徳が求めたことである。
第三十八章
80. ロムルスの杖が大火でも焼失しなかったと君が言ったことについては省略しよう。アットゥス・ナヴィウスの火打ち石のことはもういいだろう。フィクションは哲学で扱う問題ではないからだ。
全ての鳥占いの本質と起源とその定着過程について考える方が、哲学者にはふさわしい。
鳥があちこちへと飛ぶことに意味を見いだして、その飛び方と鳴き方から、人に行動を命じたり禁じたりする鳥占いの本質とは何だろうか。どうしてある人にとっては右から、ある人にとっては左から与えられた鳥の前兆が吉兆になるのだろうか。鳥占いは誰がいつどういう風にして始めたのだろうか。
エトルリアの占いを始めたのは畑から掘り出された少年だったが、ローマの占いを始めたのは誰だろうか。アットゥス・ナヴィウスだろうか。しかし、彼より何年も前のロムルスとレムスは二人とも卜占官だったと伝えられている。それとも、ピシディア人かキリキア人かプルギア人が始めたと言うべきだろうか。こんな未開の民族が鳥占いの先輩だと言うのだろうか。
第三十九章
81.「しかし、どの王もどの国民も民族も鳥占いを使っています」と君は言うだろう。では、馬鹿げた考えほど広く普及するということだろうか。君は物事の判断を無知な大衆に任せるべきだと言うのだろうか。快楽を悪だと言う人がいかに少ないことか。一般大衆は快楽を最高善だと考えているんだよ。
ストア派の人たちは一般大衆の意見のために自分たちの意見を捨てたのだろうか。それとも、一般大衆は多くのことでストア派の意見に従っているのだろうか。知力の劣る人間が鳥占いなどの占いによって馬鹿げた考えを抱いて、真実を見極められないとしても、何の不思議があるだろうか。
82. 一方、卜占官たちの間でどんな一致した見方が定着しているだろうか。我が国の卜占官についてエンニウスはこう言っている。
その時、よく晴れわたった空の左手から幸先よく雷鳴がとどろいた
しかし、ホメロスの中のアイアクス(=ここも実はオデュッセウス、『イリアス』9巻236行)はトロイ軍の獰猛さをアキレスにこぼしてこう言っている。
ユピテルは右からの稲妻でトロイ人に幸先のよい兆しを示している。
このように我々には左の方が、ギリシャ人と野蛮人には右の方が吉兆なのだ。もっとも、我が国でも右手を吉兆と言う場合があることは僕も知っている。しかし、我々は吉兆を左手で表し、諸外国は右手で表してきた。それが多くの人の吉兆についての意見だからだ。しかし、何と大きな違いだろうか。
83. さらに、どの鳥を使うかも、どの兆しに従うかも、どう観察するかも、どう答えるかも国によって違っている。それがある場合は愚かさから、ある場合は迷信から、多くの場合は勘違いから始まったことは言うまでもない。
第四十章
君はこれらの迷信の中に縁起のいい事を当然のように含めている。「アエミリアがパウルスにペルセウスが死んだと言い、それを父は幸先がいいと思った」「カエキリアは自分の妹の娘に自分の席を譲った」さらに「口を慎め」という言葉と、投票にとって幸先のいい「最初に投票する選挙団」を挙げた。これは君自身にとってまさに語るに落ちるということだ。
というのは、君はこんなものを大事にしていながら、事をなすに当たって迷信ではなく理性に従えるほど冷静でいられるのだろうか。そうだろう。誰かが何かをしたり話したりしているときに何か言って、その言葉が君がやろうとしたり考えたりしていることに符合した場合には、君はその事で不安になったり喜んだりするのかね。
84. マルクス・クラッススがブルンディシウムで軍を乗船させようとした時、港にカウヌス(=小アジアのカリア)から来たイチジク売りが「カウネアス(カウヌスのイチジク)」と叫んでいた。それは君の言うようにクラッススに対する「カウェネアス(行くのはやめろ)」という警告で、クラッススはその言葉に従っていたら死ぬことはなかったとしよう。しかし、もし僕たちがこういったものを受け入れるなら、躓いたり靴ひもが切れたりくしゃみをしたら気を付けないといけないことになるだろう。
第四十一章
85. 次はくじ引きと占星術師、それから神託と夢占いだ。くじ引きについて議論すべきだと君は思うかね。くじ引きとは何だろうか。それは指の数当てゲームや4面サイコロ、6面サイコロと似たようなもので、それは理性でも知性でもなく行きありばったりの偶然が支配するものだ。こんなものどれも金儲けや迷信や愚かさのためにインチキで編み出されたものだ。
内臓占いについてやったように、有名なくじ引きについて言われているその起源を見てみよう。記録によれば、プラエネステのヌメリウス・スフスティウスは高貴な生まれの立派な人だったが、ある所で火打ち石を切れと命じる夢を何度も見て、最後に脅される夢を見たので怖くなって、町の人たちに馬鹿にされながらも、それをやろうとした。すると石が割れると中から古代の文字を樫の木に彫りつけたくじが飛び出して来たというのだ。
その場所は今では神聖な地として垣に囲まれている。その近くには乳飲み子ユピテルの神殿があって母親たちに厚く信仰されている。そのユピテルはユノーと共に描かれて、幸運の女神の膝の上で乳を求めている。
86. このくじが見つかったのと同じ頃、いま幸運の女神の社がある場所で、オリーブの木から蜜が流れ出たと言われている。すると占い師たちはそのくじが非常に有名になると言い、彼らの指示でそのオリーブの木から箱が作られて、そこにくじが納められた。今日でも幸運の女神のお告げにしたがって、そのくじが引かれている。
幸運の女神のお告げが出ると、くじを子供が手で混ぜてから引くのである。そんなくじがどれほど信用できるだろうか。そのくじはどのようにして石の中に入れたのだろうか。誰が樫の木を切ってくじの形にして文字を刻んだのか。
「神に出来ないことはない」と人は言うだろう。それなら、神はストア派の哲学者たちが情けない迷信じみた不安を抱いて何でも信じ込まないようにしてもらいたい。しかし、概して今ではこんな占いはすたれてしまっている。神殿の美しさと歴史のおかけで、プラエネステのくじの名前が一般大衆の間に残っているにすぎない。
87. だっていま政務官や高名な人の誰がこのくじを使っているだろうか。くじに対する熱意はローマ以外の場所でもまったく醒めてしまっている。クリトマクス(=前2世紀、カルタゴ生まれの哲学者、カルネアデスの弟子、アカデメイアの学頭)の書いたものによると、カルネアデスは世の中の幸運の女神のなかでプラエネステの女神ほど幸運な女神を見たことがないとよく言っていたそうだ(=他のくじは廃れたということ)。だから、この種の占いについてはここまでにしよう。
第四十二章
では、占星術師の言う前兆を見てみよう。学者たちの話では、プラトンの弟子のエウドクソスが天文学の第一人者であることは疑いがない。その彼が書き残した著作の中で、人の生涯を誕生日によって占う占星術師の言う事は信じるに足りないと言っている。
88. ストア派の中で唯一人占星術を否定したパナイティオスは、彼と同時代の最も高名な天文学者であるアンキアロスとカッサンドロスは天文学の多くの分野で優れた人たちだが、占星術はやらないと言っている。
パナイティオスの友人であるハリカリナッソスのスクュラクスは、天文学に優れているだけでなく、自分の国の政治的指導者だったが、占星術を全否定している。
89. 人の意見は別にして、自分たちで考えてみよう。誕生日から未来を占う占星術を擁護する人たちは次のように言っている。ギリシャ語でゾーディアコスと言われる黄道帯にはエネルギーがあって、黄道帯の各部分(十二星座宮)は、各季節に黄道帯のその部分か隣りの部分に位置する星に応じて、様々に天空に影響を与えて変化させる。さらに、そのエネルギーも惑星と呼ばれる星(=太陽と月を含む)から様々な影響を受ける。
一方、生まれた人の誕生日にあたる黄道帯の部分(=上昇宮)や、それと関連したり一致したりする部分に惑星が来た時、その部分を占星術師はそれぞれ三角相および四角相と呼んでいる。
季節ごとに星が近づいたり離れたりすることで天体が大きく回転して変化して、我々が目にするような現象が太陽の力で起きると、大気の温度に応じて生まれた子供の心と体が決定され、そこから個々の人の才能、性格、気質、体格、人生の活動、運命と終末が形作られることが、確からしいだけでなく確実であると彼らは考えている。
第四十三章
90. 何と信じがたい妄想だろうか。なぜなら、全ての過ちを愚行と呼ぶべきではないからである。ストア派のディオゲネスはこの占星術に幾分の譲歩をして、個々の人がどんな性格をして、将来どんな事に向いているかを予言することは占星術でも可能だと言っている。
しかし、彼は占星術師が公言するような他の事を言い当てるのは不可能だとも言っている。実際、双子は外見はそっくりだが大抵の場合その人生も運命も違っている。
スパルタ人の王となったプロクレスとエウリュステネスは双子の兄弟だったが、寿命も違っていたし(プロクレスの方が一年早死にしている)、プロクレスの方が有名になっている。
91. しかし、あの立派なディオゲネスがいわば信義則に反して占星術師にこの譲歩をしていることが僕には理解できない。占星術師は、子供の誕生が月に支配されていると言ったり、誕生日の月と結び付いた星座に注目しているが、彼らは、知性によって判断すべきことを、視覚というもっとも誤りやすいものに頼って判断しているからである。
占星術師も知っているはずの数学の知識によれば、月は地球の近くを通ってほとんど地球に触れんばかりであり、一番近い水星でさえ月からはかなり離れており、金星はもっと遠くにあり、月が光を反射している太陽からはさらに遠く、残りの三つの惑星である火星、木星、土星と太陽の距離、土星から宇宙の端にある天空までの距離はほとんど無限なのである。
92. ほとんど無限に離れた所にある天体から月や地球がどんな影響を受けると言うのだろうか。
第四十四章
人の住むどこの土地で生まれたどの人もみんな同じ性格であり、天空と星座が同じ位置の時に生まれた人には必ず同じ事が起こると、占星術師は必ず言うことになっている。しかし、これでは彼らが天空を解釈しながら天空の本質を知らないことは明らかではないか。
というのは、天球を言わば二分して我々の視界をさえぎる地平線(ギリシャ人の言うホリゾンで、ラテン語ではフィニエンテスと呼ぶのが正しい)はけっして一様ではなく、場所によってまったく違っているので、星の出と星の入りはどこでも同じになることはあり得ないからだ。
93. そして、もし天空が惑星のエネルギーから受ける影響が場所によって異なるなら、どうして天空が違っているのにその時生まれる子供に同じエネルギーが働くだろうか。例えば、我々が住む所では夏至のあとのしかも数日後にシリウスが昇るが、トログロデュテス人(エチオピアの穴居人)の住んでいるところでは、シリウスは夏至の前に昇ると物の本には書いてある。
だから、仮に天空のエネルギーが地上に生まれる人に何らかの影響を与えることを認めるとしても、同じ時に生まれた人は場所の違いによって異なった性格になることを占星術師は認めるべきである。しかし、それを彼らは認めようとしない。彼らは同じ時間に生まれた人はどこに住んでいようとも、同じ運命をもって生まれると主張するのだ。
第四十五章
94. 天空は非常に大きく変動するのに、どこの風も雨も嵐も無意味だと考えるとは、彼らはどういう頭をしているのだろう。トゥスクルムとローマは天気が違うように、近くの町でも天気はまったく違うのだ。
これは船乗りがよく知っていることだ。彼らは岬を回るだけで風がまったく変わることをしばしば体験する。つまり、天空は場所によって晴れたり嵐だったりするのに、これが生まれて来る人の誕生に影響しない(実際に影響はない)と彼らは言う。それなのに、天空が月や他の星から受ける影響という、頭で理解できても実感とはほど遠いことが、生まれて来る子供に影響すると言うのは、正気の人間のすることだろうか。
さらに、彼らは人の誕生にもっとも大きな意味を持つ血統の力をまったく度外視している。それが分かっていないのは彼らの大きな欠陥である。子供が親の体型や性格や動作など多くの特徴が似ていることは誰でも知っている。もし親のエネルギーと性格が子供に影響するのではなく、月の状態や天空のエネルギーが影響するのなら、子供が親に似ることはないはずだ。
95. さらに、同じ瞬間に生まれた人たちがまったく異なる性格をしてまったく異なる生涯を送ることからも、いつ生まれるかはその人の人生に何の関係もないことは明らかである。それとも、小スキピオとまったく同じ瞬間に受胎して生まれた人は一人もいないと考えるべきだろうか。あるいは、あれほどの人が他にもいるのだろうか。
第四十六章
96. さらに、自然に反した不具な体で生まれてきた多くの人は、医術によって正常な姿を取り戻すか、自然の力が回復したら自然の力で回復する。このことに疑いがあるだろうか。例えば、生まれつき舌がくっついてしゃべれない人は、医者にメスで切開して切り離してもらう。
しかし、多くの人は生まれつきの欠陥を訓練によって克服する。ファレーロンのデメトリウスの書いたものによると、デモステネスはρが発音出来なかったが、訓練ですらすら言えるようになった。もしこの欠陥が生まれついた星座によって賦与されたものなら、何をしようと変えることは不可能だろう。
さらに、生まれた場所の違いは民族の違いと関係があるのではないか。この例をいくつか挙げるのは簡単だ。インド人とペルシャ人とエチオピア人とシリア人の体と心の違いは信じがたいほど大きいことは言えばいいからである。
97. 以上から、人間の誕生には生まれた場所の影響の方が月の影響よりも大きいことは明らかである。占星術師が47万年の間生まれた子供を調べて月の影響を確かめたと言っているが、嘘なのだ。もしそんなことを続けていたなら、今も続けているはずだ。また、僕たちの歴史家の中には、そんな観察が今も行われているとか昔行われていたとか言う人はいないのである。
第四十七章
僕が言っていることは、カルネアデスが言ったことではなくて、ストア派の第一人者のパナイティオスの言ったことであるのが分かるだろうか。僕が問題としているのは、カンネーの戦いで倒れた人は皆同じ星座の元に生まれたのかということだ。彼らは全員が同じ死に方をしたのである。さらに、才能も性格も異なる人たちは、みんな違う星座の元に生まれたのだろうか。しかし、同じ時に無数の人が生まれているのである。ところが、ホメロスのような人は他にはいないのである。
98. もしどの生物にも生まれた時の天空の状態と星の配置が影響するなら、必然的に無生物に対しても影響するはずだが、こんな馬鹿げたことがあるだろうか。
実際、フィルムムの町の僕の友人のルキウス・タルティウスは、占星術に非常に詳しい人だ。彼はロムルスがパレース神の祭典の日にローマを創設したと伝えられていることから、我々の町の生まれた日をその日だと考えた。そして、ローマは月が天秤座に入った時に生まれたと言ったのである。そこから大胆にも彼はローマの運命を占った。
99. ああ、妄想の力の何と大きなことよ。ローマの生まれた日が星座と月の影響の下にあったと言うのだろうか。生まれてきた子供がどんな天体の影響のもとに産声を上げたかが重要だと言うのはいいだろう。しかし、そんなものが都市を建設する煉瓦や石塊(いしくれ)にとって意味があったと言うのだろうか。
まだ言う必要があるだろうか。彼らの言っていることが間違いなのは毎日明らかになっているのだ。僕は占星術師がポンペイウス、クラッスス、カエサルに対して何を言ったかよく覚えている。彼らはみんな老年を迎えてから自宅で名誉に包まれて死ぬと、彼らは言ったのである。それが外れたことは日々の事実と結果によって証明されているのである。それを見てもまだ彼らの言うことを信じる人がいることに、僕は大いに驚かざるを得ない。
第四十八章
100. 残るは霊感占いと夢占いの二つだ。これは技術ではなく自然がもたらす占いと言われているものだ。クィントゥス君、よければこれらについても論じよう」と私は言った。
クィントゥスが言った。「そうしましょう。今までのあなたの主張に私も同感です。本当のことを言えば、私はあなたの話に説得されなくても、占いについてのストア派の考え方はひどく迷信深いと自分でも思っていました。僕はむしろ逍遥学派と、昔のディカイアルコス(アリストテレスの弟子)といま流行りのクラティッポス(キケローと同時代のギリシャ人哲学者、アテネでキケローの息子の教師)の考え方に共鳴しています。それは、人間の心には神託のような力があって、それが神憑りの狂気に呼び起こされたり、眠りによって解放されて、自由に活動している時には、未来を予知するというものです。この二つの占いについてあなたがどう考えているのか、この二つをどんな理論で否定するのか、是非お聞きしたいのです。
第四十九章
101. クィントゥスがこう言うと、私は気持ちを入れ換えて再び話し始めた。私は言った。「クィントゥス君、君はほかの占いには疑いの目を向けているが、解放された心から生まれると言う二つの占い、霊感占いと夢占いは認めているのは、僕もよく知っている。だから、この二つの占いについての僕の考えを話そう。だがその前に、ストア派と僕の友人のクラティッポスの例の推論が正しいかどうか見ておこう。
君はクリュシッポスとディオゲネスとアンティパトロスは次のように推論していると言った。「仮にもし神が存在しているのに、神が将来の出来事を人間に前もって知らせないとしたら、それは神が人間を愛していないか、あるいは、神は未来の出来事を知らないか、あるいは、未来の出来事を知ることは人間には有益ではないと神は考えているか、あるいは、人間に未来の出来事を教えるのは自分たちの権威にそぐわないと考えているか、あるいは、神でありながら未来の出来事を人間に教えることは出来ないかのいずれかである。
102. しかしながら、神が我々を愛していないことはあり得ない(なぜなら、神は人類に対して慈悲深く友好的だからである)。また、神が自分たちの決めたことや計画した事を知らないことはあり得ない。また、我々が未来の出来事を知ることは有益でないことはあり得ない(なぜなら、我々は未来の出来事をもし知っていればもっと用心深くなれるからである)。また、神が人間に未来の出来事を教えることを自分たちの権威にそぐわないと考えることはあり得ない(なぜなら、慈悲深さ以上に優れた徳性はないからである)。また、神が未来の出来事を予見できないことはあり得ない。
「すると、神が存在するのに未来の出来事を人間に教えないことはあり得ない。しかしながら、神は存在する。したがって、神は未来の出来事を人間に教える。そして、もし神が未来の出来事を人間に教えるとすれば、その教えを理解する方法を人間に何も与えないことはあり得ない(なぜなら、もし理解する方法を人間に与えなければ神が何を教えても無意味だからである)。そして、もし神がその方法を人間に与えるとすれば、占いが可能でないことはあり得ない。したがって、占いは可能である」
103. ああ、何と頭のいい人たちだ。彼らはこんな短い言葉で問題を解決したと思い込んでいるのだ。しかし、彼らが前提としていることは、どれもこれも僕たちは認めていないことばかりだ。疑われていることを証明するには、明白なことから導かねばならない。そうした場合だけ、論証の結論は受け入れられるものとなるのだ。
第五十章
エピクロスのことをストア派の人たちは愚鈍で未熟だと常に言っている。その彼がどのようにして宇宙(自然の法則に従う全体)は無限であると結論づけているか知っているかね。曰く「有限なものには終わりがある。」これを誰が認めないだろうか。「終りのあるものは他のものによって外側から認識される。」これもまた認めるしかない。「しかるに、宇宙は他のものによって外側から認識されることはない。」これも否定することは出来ない。「宇宙にはどんな終わりがないとき、それは必然的に無限である。」
104. エピクロスは疑われていることを我々にとって明白なことから証明していることが分かるかね。君の弁証家たちはこれが出来ていない。万人に明らかなことを前提にしていないだけでなく、それが万人に明らかな前提だとしても、そんな結論は導けないのだ。例えば最初の前提はこうだ。「もし神が存在するなら、神は人間に対して慈悲深い。」誰がこんなことを認めるだろう。エピクロスは認めるだろうか。彼は神は他人の事も自分の事も心配していないと言っている。それとも僕らのエンニウスは認めるだろうか。彼は次のように言って観衆から万雷の拍手を受けている。
私は神は天空に存在する言っているし、これからも言うだろう。しかし、神は人間世界の出来事には無関心だと思う。
そして、彼はそう思う理由を付け加えているが、続きを引用するには及ぶまい。ただ、ストア派の人たちは、疑わしいこと、議論の別れることを当然のこととして証明の前提に使っていることが分かれば充分である。
第五十一章
105. 次の前提は「全ては神によって定められたことだから、神は全てを知っている」というものだ。しかし、この点についてどれだけ激しい論争があることだろうか。全てが神によって定められたことを否定する学者は多いのだ。「未来の出来事を知ることは我々の役に立つ」という前提にしても、ディカイアルコスはその大著で未来の出来事を知っているより知らない方がいいことを証明している。さらに、彼らは「人間に未来の出来事を教えることは神の権威にそぐわないことはない」と言っているが、そうすると、神はそれぞれの人間には何が役に立つか知るために、全員の家の中を覗いて回っていることになる。
106. 「神が未来の出来事を予知できないはずがない」というが、未来に何が起こるか分からないと言う人たちは、神は未来を予知出来ないと言っている。ところが、ストア派は確かでないことを確かなこと、明らかな事として前提にしていることか君には分かるかね。そこから、彼らは急転直下して、次のように結論する。「神が存在してしかも未来の出来事を人間に示さないことはない。」彼らはそれで完成したつもりである。そこに彼らはさらに前提を立てる。「しかるに神は存在する」。これは誰もが認めている事ではない。「だから、神は未来の出来事をに示す。」しかし、こうは繋がらない。神は何も示せなくても存在しうるからである。「神が未来を示すのなら、それを知る方法を人間に教えないことはあり得ない」しかし、神はその方法を知っていても人間に教えない可能性はある。さもなければ、どうして神は未来を知る方法をローマ人には教えずにエトルリア人に教えたのか。「もし神が人間に未来を知る方法を教えるなら、占いが不可能なはずがない。」神が人間にその方法を教えるとしても(これ自体あり得ないが)、人間がそれを学べなかったら同じことではないか。結論は「したがって占いは可能である。」これが結論だとしても、証明はなされていない。嘘からは真実を証明出来ないからだ。それは僕たちが彼らから学んだことだ。だから、この推論は全体として破綻している。
第五十二章
107. 次に僕らの友達、あの立派なクラティッポスの言うことを見てみよう。彼は言う。「目は時々その機能を果たすことが出来ないことがあるとしても、目がなくては目を使って物を見ることは出来ない。しかしながら、一度でも目を使って真実を見た事のある人は、目は真実を見分けられると考える。それと同じように、占いをしても時々その役割を果たせずに間違ったり真実を見分けられないことがあるとしても、占いが全く不可能ならば占いを使って未来を知ることは出来ない(1)。しかし、何かの占いに成功して、それが偶然の一致ではないと思えるようなことが一度でもあれば、占いが可能であることを認めるのに充分である(2)。ところが、その様な占いの例は無数にあるので(3)、占いが可能であることを認めるべきである。」短く見事にまとめている。しかし、好き勝手な前提を二つ使っている。それらを僕たちがあっさり受け入れるとしても、彼がさらに前提としたことはとても受け入れることが出来ない。
108. 彼の言っている事は「もし目が物を見損なうことがあるとしても、正しく見ることもあるのだから、目には物を見る力がある。それと同じように、もし占いで何かを予知する人がいるなら、間違うことがあるとしても、彼には占いをする能力があると見做すべきである」ということだ。
第五十三章
僕は友人のクラティッポス君に是非とも尋ねたい。目と占いはどこが似ているのだ。僕には似ているとは思えない。目が真実を見る時にはその本性と感覚に従っている。それに対して、心が仮に霊感や夢で真実を見たとしても、それは偶然と運のおかげなのである。それとも、夢はどこまでも夢でしかないと考えている人たちでも、正夢を見たときにそれを偶然とは考えないと彼は思うのだろうか。仮に君の二つの前提(弁証家たちはこれをギリシャ語でレンマタと呼んでいるが、僕たちはラテン語を使おう。)を認めるとしても、その次の前提(これを弁証家たちはプロレープシスと呼ぶ)の方は認められないだろう。
109. つまり、クラティッポスは3つ目の前提として「まぐれ当たりでない予知は無数にある」と言っている。しかし僕はそんなものは一つもないと思う。どれだけ異論があるか考えて欲しい。前提が受け入れられない以上は結論も受け入れられない。「こんな明白なことを受け入れないのは傲慢だ」と彼は言うだろう。しかし、何が明白なのだろう。「予言が当たったことは沢山ある」と彼は言うのだろう。しかし、外れた方がはるかに多いことはどうするのだ。
結果がまちまちであることは偶然の特性だが、それはまさに占いが当たるのは偶然であって、自然の法則によるものではないことを示していないだろうか。さらに、クラティッポス君の推論が正しいとすれば、その同じ推論は内臓占い、稲妻占い、前兆占い、鳥占い、くじ引き占い、占星術のどれにも当てはまるはずだ。それくらい分かりそうなものだ。なぜなら、これらのどの占いも当たったことはあるからだ。すると、彼が正当にも否定しているこれらの占いを彼は無効だと言いながら、彼が特別扱いするこの二つの占いだけがどうして有効だと言えるのか。そこが僕には分からない。彼がここで持ち出した論理を使えば、彼が否定した占いもまたその可能性を認めざるを得ないからである。
第五十四章
110. 君が神憑りと呼ぶあの狂気にどれほどの信憑性があると言うのか。哲学者に見えないことが、狂った人には見えると言ったり、人間の知性を失った人間には神の知性が宿ると言ったりするが、どんな根拠があるのか。狂気の人間の口から出たというシビュラの詩を僕たちは大切にしている。
最近ではシビュラの詩の解釈者(=ルキウス・コッタ)が「我々の安全を保ちたければで、事実上我々の王である人(=カエサル、スエトニウス79章とプルタルコス60章にある)を王と呼ぶべきだ」と元老院で言うつもりだという風評が流れた。
これがもしシビュラの詩の本に書いてあるとしても、それは何時の誰のことを指しているのだろうか。というのは、これを書いた人は何が起こっても予言通りだったと思えるように、抜け目なく、時期と人物に関する情報を省いているからだ。
111. つまり、この作者はわざと曖昧にすることで、同じ詩が色んな時代の色んな事件に当てはまるようにしたのだ。こんな詩が狂人の作ったものではないことは、詩の作り方を見れば明らかである(これは霊感の働きというより技術と配慮の賜物である)。さらに、詩の各行の最初の文字をつなげると言葉になるように書かれている(アクロキスと言う)。これはエンニウスの詩の頭の文字を縦に読むと「クィントゥス・エンニウスこれを書けり」と読めるのと同じである。こんなことは確かに注意深い人間のすることで気の触れた人間のすることではない。
112. シビュラの予言書ではそれぞれの歌の最初の行からその歌の最初の文字を縦に読んでいくとその歌の意味が分かるようになっている。これは気が触れてなどいない注意深い正気の作家の手になるものである。
だから、シビュラの巫女のことは秘密にすべきであって、我らが父祖の言い伝えによれば、元老院に無断でシビュラの予言書を読んではならないのである。そして、予言書は迷信を助長するためではなく迷信を抑えるのに役立てるべきものである。そして、予言書の解釈人に僕たちが要請すべきことは、その書物をもとに何を予言してもいいが、王が生まれる予言はしないようにということだ。神々の人々も今後ローマに王を受け入れることがあってはならないからである。
第五十五章
しかし、「霊感占いもしばしば当たる」と君は言うだろう。たとえば、
すでに大海には快速の艦隊が造られている・・(第1巻67節)
また、その少し後で、
ああ、見よ! 誰かが三女神に有名な審判を下した・・(同114節)
113.信じさせるつもりかね。言葉と意味と韻律と歌をそなえた神話がどれほど魅力的なものだとしても、僕たちは空想の産物を信じるわけにはいかない。
同様にして僕はプブリキウスと言う人間も、マルキウスの予言者もアポロンの神託も信用すべきではないと僕は思う。それらは明らかな創作であったり、でたらめな言葉で、賢明な人たちだけでなく常識のある人なら真に受けないものである。
114. 「では、コポニウスの艦隊の漕ぎ手は事実を予言しなかったでしょうか。」と君は言うだろう。しかし、その男は当時起こるのではないかと誰もが恐れていたことが起きると予言しただけなのだ。なぜなら、テッサリアで二つの陣営が対峙しているのを僕たちは聞いていたし、内乱を起こしたカエサルの軍隊の方が大胆であり、ベテラン兵の数も多いので、優位に立っていると僕たちは思っていたからだ。
だから、僕たちはみんな戦いの結果を恐れていたが、冷静な人間に相応しく誰も顔には出していなかった。一方、あのギリシャ人が大きな恐怖に襲われて、よくあるように、自制心も理性も正気も何もかも失っていたとしても、何の不思議があるだろうか。そのギリシャ人はこの不安の中で、正気の時に起こるのではないかと恐れていたことを、正気を失ってから話したに過ぎないのだ。
しかし、一体全体、あの気の触れた漕ぎ手は神の忠告に気付くことが出来たのだろうか。むしろそれが出来たのは、当時そこにいた私たち、つまり私、カトー、ウァロー、コポニウスだったと見るのが、真相に近いのではないだろうか。
第五十六章
115. アポロンよ、いよいよ汝について語ろう。
ああ、大地の確かな臍に住まう聖なるアポロンよ、そこから初めて神憑りの荒々しい声が現れた。
クリュシッポスは一冊の本にアポロンの神託を集めた。それらは僕が言うように、外れているものが多い。中にはまぐれ当たりをしたものもあるが、それは誰の話にでもあることだ。それから、文面が曖昧すぎて、解釈をしてもその上にまた解釈が必要になるもの、その神託が別の神託を指しているようなものもある。また、意味が二通りに取れるので、弁証家に相談する必要があるものもある。
たとえば、次のような神託が小アジアの金持ちの王に下された。
クロイソスはハリュス川を渡ると大きな王国を倒すだろう、
彼は自分が敵の王国を倒すものと思っていたが、実際には自分の王国を倒したのだった。
116. この場合、どちらに転んでも神託は当たっていた。クロイソスに下された神託を僕がどうして信用できようか。エンニウスよりヘロドトスの方が嘘つきでないとどうして言えようか。エンニウスがピュロス王について書いた嘘より、ヘロドトスの嘘の方がましだったと言えるのだろうか。
アエアクスの息子よ、汝のローマ人の勝利を得んことを我保証す。
とピュロス王に答えたというアポロンの神託を信じる人が誰かいるだろうか。
第一にアポロンはラテン語をしゃべらない。第二に、ギリシャ人はそんな神託は聞いていない。特にピュロスの時代にはアポロンは詩で語るのを止めている。最後にエンニウスも書いているように、
アエアクスの裔の愚鈍な一族は、知恵よりも戦にたけている、
としても、ピュロス王はこの詩の両義性を理解できたはずだ。「汝のローマ人の勝利を得んこと」では勝つのはピュロスかローマ人か分からない。この両義性にクロイソスとそして多分クリュシッポスも騙されたが、エピクロスは騙せない。
第五十七章
117. 問題の要点は何故デルフィがそのような神託を、現代どころかずっと前から出さなくなって、ひどく馬鹿にされるものになってしまったのかということだ。この点を批判されると、「かつては大地から蒸気が出て、それで巫女が霊感を受けて神託をもたらしていたが、そんな大地の力が長い時間のうちに消えてしまったからだ。」と言う人がいる。この力とは酒か塩水のことだと君は考えている。それが消えてしまったというのだ。しかし、その土地の力は自然だけではなく神から来るものでもある。そんなものがどうして消えてしまうのだろうか。
君は「長い時間のうちに」と言う。しかし、どれほど長い時間が立てば神聖な力が消えると言うのか。人の心が未来の出来事を予知できるようにする大地の霊気のような神聖な物とは何だろうか。しかも、未来を知るだけでなく、韻律のある詩で語るようになるのだ。しかし、その力はいつ消えたのだろうか。むしろ、それは人々の信仰心が薄らぎ始めた頃からではないだろうか。
118. デモステネスは今から300年前の人だが、すでにプティアの巫女はフィリッピゼイン、つまりフィリッポスの支配下にあると言った。これは巫女がフィリッポスに買収されていると言ったに等しい。すると、デルフィの神託は他の場合にもインチキがあったと見てよいことになる。ところが、君の仲間の哲学者たちは迷信家いや狂信家なのか、何故か自分たちが分別があると見られることを望まないのだ。そして、そんな神聖なものがもし存在したのなら永遠に存在するはずなのに、君たちストア派はそれが消えてしまったのだと言う。そうやって、信じ難いことを信じようとしているのだ。
第五十八章
119. 夢占いという妄想もこれとよく似ている。夢占いを擁護する議論はどこまでも念が行っている。ストア派の人たちが言うには「我々の心には神性がある。そして、それは宇宙から取り入れた物であって、宇宙は調和した多くの心で満たされている。そこで、眠っている人間の心はそれが持つ神性と宇宙の心との結び付きによって未来の出来事を見るのである」。
しかし、ゼノンは心が眠るとは心が縮んで言わばくずれて倒れることだと考えている。さらに、最も権威ある哲学者であるピタゴラスとプラトンは、睡眠中に正夢を見るためにはある種の食生活で準備をしてから眠りにつくべきだと言っている。ピタゴラス派の人たちは特に豆を控えるように言っている。まるで豆を食べると腹ではなく心が膨れるかのようてある。どういう分けか、哲学者とはこんな馬鹿げたことを言うものである。
120. では、僕たちはどう考えたらいいのだろう。眠っている人の心が夢を見るのは自発的な行動なのだろうか、それともデモクリトスが言うように、外界の幻影に影響を受けて夢を見るのだろうか。どちらにせよ、多くの場合、人は夢を見ている時には幻を真実だと思って見ているかもしれないのだ。
例えて言えば、船に乗っている人から見れば、動かないものが動いているように見えるし、ランプの一つの炎がじっと見ていると二つに見えるようなものだ。狂人や酔っぱらいが多くの幻を見ることは言うまでもない。そんな幻を信じるべきでないとすれば、どうして夢を信じる必要があるだろうか。
なぜなら、夢について言えることは、このような幻影についても言えることだからである。つまり、夢占いとは、動かないものがが動いていると見えたのを地震や突然の敗走の前触れだと言ったり、ランプの炎が二つに見えたら内乱の前兆だと言うようなものなのである。
第五十九章
121. だから、狂人や酔っぱらいが見る無数の幻から未来の出来事を占うことだって出来るのだ。誰だって一日中槍を投げていたらそのうち的に命中するからだ。僕たちは毎晩夢を見る。夢を見ない夜はほとんどない。だから、夢に見たことが一度ぐらい現実になったからと言って驚くべきだろうか。
サイコロの目ほど当てにならないものはない。だが、何度も投げていればヴィーナス数を出すことはたまにあるし、二三度続くこともある。それを僕たちは偶然ではなくヴィーナスの霊感を受けた結果だと馬鹿みたいに言うのだろうか。もし他の幻を信じるべきではないのなら、幻が真実の価値を持つような何か特別なものが眠りにあるとは僕には思えないのだ。
122. 眠っている時に夢に見ていることを実際に行うのが人間の本能なら、寝床に就いた人間は全員縛り付けなければならない。狂人よりも夢を見ている人間の方がひどい乱暴狼藉を働くはずだからだ。もし狂人の見る幻は妄想で当てにならないのなら、夢を見ている人の見る幻はもっと無茶苦茶である。それなのにどうして夢は当てに出来ると言うのだろうか。狂人は自分の見た幻を占い師に話さないが、夢を見た人はそれを占い師に話すからだろうか。
さらに考えてみよう。僕が何か物を書いたり読んだり歌ったり楽器を演奏したり、幾何や物理や弁証法について何か解明したければ、夢を見るのを待たねばならないだろうか。それとも、こうしたものを実行したり解明したりするのに欠かせない学問に従うべきだろうか。しかし、僕が船を操縦しようとする場合には、夢で教えられた方法で舵を取ったりはしない。すぐにとんでもないことになるからだ。
123. ところが、病人は病の治療法を医者ではなく夢占い師に求めるのをよしとする。これはどうしてだろうか。アスクレピオスやセラピスなどの神々は夢で僕たちに病気の治療法を教えることができるが、ネブトゥーヌスは航海士には航海術を教えられないのだろうか。
さらに、ミネルバ神は医者がいなくても医学を教えられるなら、ムーサは物を書いたり読んだりする方法だけでなく多くの学問の知識を夢見る人に教えられないだろうか。もし夢によって病気の治療法が教えられるなら、今言った知識も夢で教えられるはずだ。ところが、これらは夢から教わることは出来ない。すると、医学も夢から教わることは出来ないはずだ。そして、もし夢から医学が教われないとなると、夢を当てにする人はもう全くいなくなるだろう。
第六十章
124. 以上のことはもう充分明らかだとして、もっと肝心なことを見てみよう。夢占いが成り立つためには次のどれかが必要である。つまり、人間のことを心配している神々が人間に夢のお告げをしている。あるいは、ギリシャ語でシュンパテイアと呼ぶ共感力という自然との繋がりによって、夢占い師がそれぞれの状況にとって有益なこと、それぞれの出来事に続いて起きることを言い当てる。あるいはそのどちらでもなく、眠っている間に夢を見たときに何が起きるかを観察する方法が長年の間に確立している。
第一に明らかなことは、神々は人間に夢をもたらすことなど出来ないことである。しかも、人間が見る夢で神の意志から出たものなど一つもないことは明らかである。もし夢が神から送られているなら、我々が未来を予想できるように神がわざわざしてくれていることになる。
125. それにしては、夢のお告げに従ったり、夢の意味を理解したり、自分の見た夢を覚えている人の何と少ないことだろうか。逆に、いかに多くの人が夢を無視し、夢に頼るのは無力で愚かなことだと思っていることだろうか。夢を気にしないどころか夢を覚えている価値がないと思っているこんな人たちのことを、神が心配して夢で忠告するどんな理由があるというのだろうか。
というのは、神はそれぞれの人のこうした考え方を知らないはずはないし、分けもなく無駄に何かをするのは神にふさわしくないからである。そんなことは、賢明な人間さえもしない。したがって、もし人間が夢を無視して顧みないのに神が夢でお告げをしているとしたら、神は人間の考えを知らないか、あるいは無駄に人間に夢を送っているかのどちらかだということになる。しかし、そのどちらも神にはふさわしくない。したがって、神はいっさい夢でお告げをしないと認めなければならないのである。
第六十一章
126. 次に僕が疑問に思うのは、もし神が僕たちに未来のことを知らせるために夢を送っているなら、どうして僕たちが目覚めている時ではなくて眠っている時に送るのだろうか。というのは、眠っている間に人間の心が夢を見るのは外界の影響を受けるからか、自発的な動きなのか、それとも、別の理由から眠っている人間の心が何かを見たり聞いたり動いたりするにしろ、目覚めている時にも同じ理由から同じことをするはずだからである。
しかも、もし神々が我々のために眠っている間にそうするなら、目覚めている時にも同じことをするはずなのだ。特にクルュシッポスはアカデメイア派に反論して、眠っている時より目覚めている時の方がはるかに明瞭ではっきりした夢を見ると言っているからである。しかも、神が人間の事を心配しているのなら、夢を使って分かりにくいことを告げるより、目覚めている人に分かりやすいことを告げる方が、神の慈愛に相応しい。ところが神はそうしないのであるから、夢は神が送ったものではないと考えるべきなのである。
127. そもそも、神は人間に直接分かりやすく告げることをせずに、夢占い師を使うような回りくどいことをするどんな必要があるというのだろうか。もし神が我々のことを心配しているのなら、我々が眠っている時に夢で告げたりせず、目覚めている時に「こうしろ」「こうするな」と言うはずなのである。
第六十二章
夢が全部正夢だなどと言う人は誰かいるだろうか。エンニウスも「正夢はいくつかあるが、全部が正夢であるわけがない」と言っている。ではいったいどう違うのか。どんな夢が正夢でどんな夢が嘘だろうか。もし正夢は神が送ったものなら、嘘の夢はどこから送られてくるのか。だって、もし神は嘘の夢も送るのなら、神ほどいい加減なものはないことになる。人間の心を嘘の夢で掻き乱すことほど愚かなことはないからである。
逆にもし正夢は神のもので無意味な嘘の夢は人間のものだとしても、これは神がもたらした夢でこれは人間の本性がもたらした夢と区別するのは実に厚かましいことである。むしろ、全ての夢は神がもたらしたもの(これを君は否定している)か、全ての夢は人間の本性がもたらしたものと言うべきである。しかし、君は前者を否定している以上は後者を認めるべきである。
128. 僕が人間の本性と呼ぶのは、人間の心を刺激して常に活動させる力のことである。肉体が無力になって心が手足も五感も使えない時に、心は漠たる様々な幻を見るのだ。それは「目覚めている時の行動と考えの痕跡が消えずに残っているからだ」(アリストテレス)。不思議な夢はしばしばこの茫漠とした現実の残滓から生まれるのである。
それがある時は嘘の夢であり、ある時は正夢だと言うなら、この二つはどんな方法で区別できるのか僕は是非とも知りたいものだ。もしそんな方法がないのなら、僕たちはどうしてそんな夢占い師の言うことに耳を傾けるだろうか。しかし、もしそんな方法があるなら、それは何か是非とも聞きたい。しかし、彼らは答えられないだろう。
第六十三章
129. いまや問題は次のどちらがもっともらしいかだ。全てに至高かつ不死なる神々が至る所走り回って死すべき人間たちの立派なベッドも粗末なベッドも見て回り、いびきをかいている人を見つけては複雑で分かりにくい夢を与えて、夢に驚いた人が翌朝占い師のもとに相談の行くのか、それとも、自然の法則に従って心が活動して、目覚めていた時に見たものを眠っているときに見るように思うのか。このどちらなのだろう。
それを老婆の迷信で説明するのと、自然の法則で説明するのとでは、どちらが哲学者の取るべき道だろうか。だから、仮に夢を正しく解釈することが可能だとしても、それは夢占い師には不可能だ。なぜなら、彼らは全く軽薄で教養のない人たちばかりだからである。実際、君の友人のストア派の人たちは哲学者以外には神の意志を知ることは出来ないと言っている。
130. クリュシッポスは占いを次のような言葉で定義している。「占いとは神が人間に送った前兆を見て知って説明する能力であり、占い師の仕事は神が人間に対してどんな考えでどんな前兆を与えており、それをどのようにしてあがない清めるかを、前もって知る事である」と。
彼はまた夢占いを次のように定義する。「神が人間に夢でしめしたことを知ってその意味を明らかにする能力」と。ではどうだろうか。このためにはありきたりの常識の持ち主ではなくて、並外れた知能と完璧な知識の持ち主が必要だ。しかし、僕はそんな人を誰も知らない。
第六十四章
131. だから、僕はけっして占いを認めないが、もし君に譲歩して占いを認めるとしても、こんな占い師はけっして見つけられないことを知るべきだ。神が夢で示すことを、僕たちは自分で理解できないし、それを理解できる占い師を見つからないとすれば、神はいったいどういう積もりでそんなことをするのだろうか。神は自分が示すこと僕たちが理解できないし解明してくれる人もいないことを承知の上でそんなことをするのだろうか。もしそうなら、神がしていることは、カルタゴ人やスペイン人がこの国の元老院で通訳なしで演説するのと同じことである。
132. 夢が曖昧で謎めいているのは何のためだろうか。神は僕たちのために忠告することを僕たちに理解してもらいたいに違いない。「それがどうだと言うのですか。詩人や学者が難解な言葉を使うようなものです」と君は言うだろう。
133. 確かに、彼らの言葉は難解だ。エウフォリオンの詩は特にそうだ。しかし、ホメロスはそんなことはない。どちらが優れた詩人であるかは明らかである。哲学者ヘラクレイトスは難解だがデモクリトスはそんなことはない。しかし、二人はどちらも優れた哲学者だ。しかし、君が僕に忠告してくれて、僕がそれを理解できないとしたら、君は何のために忠告するのかね。それは医者が病人に普通の言葉で「かたつむり」を処方するとは言わずに、
大地から生まれて草の上を行き、家持ちの無血の生き物
を処方すると言うのと同じだ。というのは、パキュウィウスが描いたアンフィオンは
四つ足で歩みが鈍く野性で背が低く、でこぼこで、頭が小さく蛇首で獰猛な目付きで、腹を割かれて死んでからも元気な音がする。
彼の言うことが分かりにくいので、アテネの人たちはこう答えた。
はっきり言ってくれないと、僕たちは分からない、と
そこで彼は一言「亀」と言った。初めからそう言えなかったのかね、キタラ奏者くん(=アンフィオン)。
第六十五章
134. これはクリュシッポスの本に書かれている話だが、ある人が自分の寝室のベッドの帯から卵がぶら下がっている夢を見たと夢占い師に相談に来た。占い師はベッドの下に財宝が埋まっていると答えた。そこでその男がそこを掘ると大量の金が見つかった。その金には銀の縁取りがあった。そこで彼は占い師にふさわしい謝礼としてその銀を贈った。すると占い師は言った。「卵の黄身の分は無いのかね」。占い師は卵の黄身が金で白身が銀を意味すると思っていたのだ。
135. しかし、卵の夢を見た人はほかには誰もいないだろうか。卵の夢を見て財宝を見つけたのはどうしてこの男だけなのだろうか。神の庇護が必要な貧しい人は五万といるが財宝を発見することを夢で教わった者はいない。それにしても、神はシモニデスには夢で船に乗るなと命じたのに、この場合にはどうしてはっきり財宝を探せと言わずに卵と財宝の類似という分かりにくい教え方をしたのだろうか。夢のお告げも分かりにくくては、神の権威に相応しいものとは言えない。
第六十六章
次にはっきりした夢について見てみよう。例えば、メガラの宿屋の主人に殺された男の夢、シモニデスが埋葬した男に乗船を止められた夢、それから不思議なことに君は挙げなかったが、アレクサンドロスの見た夢がそうだ。彼の仲間のプトレマイウスは戦いで毒矢に射たれて、その傷の激しい痛みで死にかけていた。その時、そばで看病していたアレクサンドロスは眠りに襲われた。
彼は母が飼っているヘビの夢を見たと言われている。ヘビは植物の根を口にくわえながらその植物が近くで生えている場所を教えて、その根を使えばプトレマイウスの傷は治ると言ったのである。目覚めたアレクサンドロスは友人たちにその夢の話をしてから、人をやって探させた。それが見つかると、プトレマイウスだけでなく、同じ毒矢で傷ついていた者たちの治療が行われたという話だ。
136. 君は歴史に記録されている多くの夢の話をした。ファラリスの母親の夢、先代のキュロス王の夢、カルタゴのハミルカルの夢、ハンニバルの夢、プブリウス・デキウスの夢、祭りの先頭の躍り手についての有名なローマ人の夢、ガイウス・グラックスの夢、バリアリクスの娘カエキリアの最近の夢。
このうち外国人の見た夢については僕たちは直接知らないので、そのいくつかは作り話かもしれない。事実であることを保証する人がいないからだ。また、僕たちの見た夢についてはどう言うべきだろう。君は僕が馬に乗って川岸に現れたと夢を見た。僕はマリウスが月桂樹を巻いた束桿をもって彼の記念堂に僕を導いた夢を見た。
第六十七章
クィントゥス君、どんな夢も説明がつくものだ。僕たちはこの事を忘れてけっして迷信にとらわれてはいけない。137.例えば、僕が夢で見たマリウスは何だったと思うかね。デモクリトスの意見に従えば、あれはきっとマリウスの「亡霊」つまり「幻」だったのだ。それはどこから来たのか。実際に形のある「肉体」から出てくるとデモクリトスは言う。すると、マリウスの肉体からだったのか。「そうではなくて、マリウスの肉体だったものからだ」とデモクリトス。するとマリウスの「幻」がアティナの草原を僕のあとに付いてきたのだろうか。「どこにも幻はたくさんある。何かの亡霊を目にするのは必ずその幻の影響によるものだ」
138.だからどうだと言うのか。その幻は僕たちの言葉を聞いて、僕たちの希望通りに現れるとでも言うのか。もはやこの世に存在しない物の幻がそなことをすると言うのか。というのは、そんな物がなくても人間の心はこの世に存在しないどんな奇妙な幻でも思い描くことが出来るからである。例えば、人間の心は町の姿であろうが人の顔であろうが、一度も見たことがないものを思い描くことが出来るのだ。
139. 例えば僕がバビロンの城壁やホメロスの顔を思い描く時、その幻が僕を刺激するというのか。僕たちはどんなものでも知ることができる。僕たちは自分で思い描けないものはないのだ。従って、夢を見るのは眠っている人の心に外から幻が侵入してくるのではないのである。また幻が外へ流れ出ていくこともないのである。デモクリトスほどの偉大な学者でこんな下らないことを言う人を僕は知らない。
人間の心は本来、目覚めている時には外部からの働き掛けがなくても、自力で信じられない速さで活動している。人間の心は五体と五感に支えられている時には、すべてを確実に見て考えて認識するのである。しかしながら、その支えが全て取り去られて、肉体が力を失い、心だけがとり残された時にも、心は自力で活動しているのである。だから、人間の心の中に様々な幻が現れ、心が様々な動きをして、色んな事を言ったり聞いたりする夢を見るのである。
140. もちろんこの場合、心には力がなく弛緩しているので、多くの物が明確な姿をとらずに漠然としている。特に目覚めている時に考えたり行動したりしたことの痕跡が心の中でうごめいているのである。マリウスがあの当時僕の心の中に現れたのも、彼が自分の辛い運命に動じることなく立派に耐えたことを僕が思い出していたからだ。僕がマリウスの夢を見た理由はそういうわけだと思う。
第六十八章
また君は僕が突然川から出てくる夢を見たが、それは君が僕の事を心配していたからだ。僕たち心にはどちらも「目覚めている時に考えていたことの痕跡」が現れたのである。僕の夢にマリウスの記念堂が出てきたり、君の夢に僕の乗っていた馬が僕と一緒に見えなくなってまた現れたりしたのは、夢の中で付け加えられたことだ。
141. しかし、夢が一度当たったと言って、僕たちはもうろくした婆さんみたいに夢を信じるべきだと君は思うかね。アレクサンドロスはヘビが喋る夢を見た。この夢は嘘かもしれないし本当かもしれない。しかし、どちらであっても不思議ではない。なぜなら、ヘビが喋るのを聞いたのは現実でなく夢だからである。しかも、それだけではなく、ヘビは植物の根を口にくわえながら喋ったのである。しかし、夢ならそれも大したことではない。しかし、僕が問題にしているのは、アレクサンドロスがそんなはっきりした夢を見たのがその時だけだったのは何故なのか、どうして他の友人たちは見なかったのかということだ。僕もまたあんなにはっきに覚えている夢はあのマリウスの夢だけだった。つまり、長年生きてきた僕は多くの夜をろくな夢も見ずに過ごしたのである。
142. 今の僕は法廷の仕事をやめてからは、徹夜することが減って、昼寝をすることが多くなった。そんなことは以前にはなかったことだ。それほどよく眠っているのに、この深刻な情勢について僕に忠告してくれるような夢を一つも見ないのだ。ただ、公共広場に政務官たちがいるのを見て、元老院で元老たちがいるのを見ている時に、こんな夢を見たことはないと思うのだ。
第六十九章
夢占いが成り立つ前提として次に来るのは、ギリシャ語でシュンパテイアと呼ぶ共感力である。これは自然との調和と結び付きで、それで卵から財宝が分かるというのだが、いったいどんなものだろうか。医者は特定の事実から病の兆候と悪化を、また回復の兆候を読み取るが、その一方で、我々の体が体液に満ちているか欠乏しているかは、ある種の夢から分かると言っている。しかし、財宝、遺産、名声、勝利、その他これに類することが、自然とのどんな共感力によって夢と結び付いていると言うのだろうか。
143. 夢で性交した人は結石を排出したと言われている。僕はここに共感力を見ることは出来る。というのは、眠っている人がこんな夢を見るたことによって、結石の排出の原因は自然の力であって、妄想に対する思い込みでないことが明らかだからである。
では、乗船をやめさせる幻をシモニデスに送ったのはどんな自然の力だろうか。アルキビアデスの夢と言われるものと自然はどんな繋がりがあるのだろうか。彼は死ぬ前に、愛人からマントを掛けられる夢を見た。すると彼が死後に埋葬されずに見捨てられて横たわっていた時、彼の遺体を愛人がマントで覆ったのである。これは自然が原因となって将来起きると決まっていたのだろうか、それとも、夢とこの出来事は偶然の一致だったのだろうか。
第七十章
144. さらに、占い師の占いから分かることは、自然の共感力よりも彼らの狡猾さの方が大きいな力を持っていることではないだろうか。むかしオリンピックで走ることを考えている走者が、夢で自分が四頭立ての馬車で運ばれる夢を見て、翌朝占い師に相談した。
占い師は「君が勝つ。馬が速く走る能力はそのことを意味している」と言った。そのあと彼はアンティフォンに相談した。すると彼は「君は必ず負ける。君の前に四人走って行ったのが分かるだろう」と言ったのである。
別の走者は(クリュシッポスとアンティパトロスの本にはこんな話がいっぱい載っている。だが、走者の話に戻ろう)自分が鷲になる夢を見たと占い師に相談した。占い師は「君が勝つ。鷲ほど速く飛ぶ鳥はいないからだ」と言った。この走者にアンティフォンは「馬鹿だな。君は自分が負けることが分からないのか。その鳥はほかの鳥を追いかけるのでいつも一番後ろを飛ぶからだ」と言ったのである。
145. 子供を欲しがっているある婦人が自分が妊娠しているのではと思っている時に、自分の性器が封印された夢を見た。相談された占い師は、「封印されたのだから、妊娠の可能性はない」と言った。しかし、別の占い師は、「中身のないものを封印することはないので、妊娠している」と言ったのだ。
占い師の技とは人を言いくるめる才能のことだろうか。いやそれどころか、僕が言った例やストア派が集めた無数の例から、それはある種の類推から時と場合に応じてどのような解釈でも導き出す才能以外の何物でもないことは明らかである。
医者は病人の血管や息づかいなどを診断して将来を予測する。航海士はイカが飛び跳ねたりイルカが港に急いで入るのを見て嵐の前兆を知る。これらは理屈で説明がつくし、原因を自然に求めることが出来る。ところが、いま言った占いの例はけっしてそうはいかないのだ。
第七十一章
146.「しかし、夢占いは長年にわたる事実の観察(残る一つがこれだ)がもたらした」と君は言うだろう。それは本当だろうか。夢を観察することが可能だろうか。それは一体どのようにして観察するのだろうか。夢は千変万化である。人は途方もなく無秩序で異常なものを夢では見るのだ。どうすれば常に新しくそれが無限に続くものを記録したり、観察して知識として蓄えたり出来るのだろうか。
占星術師は惑星の動きを記録して、思いもよらぬ秩序を発見した。では、夢にどんな秩序や共感力があるのか見せてほしい。同じ夢を見ても人によって違う結果になり、同じ人でもいつも同じ結果になるとは限らないのに、どうして嘘の夢と正夢を区別できるのか。僕たちは嘘つきが本当の事を言っても信用しないのに、ストア派の人たちは、夢が一つでも当たったら、多くの嘘の中の一つの正夢に不審を抱くのではなく、一つの正夢のために多くの嘘まで信じてしまう。どうしてそうなるのか、僕には多いに不思議である。
147.
そして、もし神が夢を送っているのではなく、自然と夢に何かのつながりがあるわけでもなく、観察による知識の蓄えもあり得なら、結果として、夢は全く信じるに値しないことになる。
しかも、特に、夢を見た本人は何も未来を予知することなく、夢を解釈する人は自然の法則に従うのではなく推測するだけであり、その一方で夢よりも偶然の方が多くの不思議な出来事を歴史を通じて多くの人々にもたらしており、推測は人によってまちまちであり、時に正反対になるものであって、まったく信用できないからある。
第七十二章
148. したがって、夢占いも他の占いと同様に拒否すべきものということになる。実を言えば、迷信は人間の弱みにつけこんで人々を支配して、多くの民族に広まったきたものである。これは『神の本性について』という本にも書いたし、今回の話でも特に強調してきたことである。
もし僕が今回の議論で迷信を根底から排除できたら、それは僕たちだけでなく我が国民に多大な貢献をしたことになると僕は考えた。もっとも、迷信を排除することは宗教を排除することではない(これは君にも是非とも分かってほしい)。というのは、神聖な儀式を廃らせることなく、父祖たちの作った制度を維持していくことは世の賢人たちの責務だからである。そして、永遠に崇高なる自然が存在すること、人類はこの自然を尊重し崇めるべきことは、宇宙の美と天界の秩序を知れば、認めざるを得ないことなのである。
149. 自然の法則と結びついた宗教は広げて行くべきだが、迷信は根絶やしなければならない。迷信は至る所どこを向いても僕たちを追いかけてくる。霊感占い師の言葉を聞き、縁起の良い言葉に耳を傾け、生贄を捧げ、鳥占いをし、占星術師と内臓占い師に相談し、稲妻と雷の轟きと落雷を経験し、異常現象と思われる生き物の誕生や、ある種の事件に出会ったとき、僕たちはいつも迷信の誘惑に駆られる。このような現象は多くの場合避けられないが故に、人は常に平常心を揺さぶられ続けるのである。
150. 眠りはあらゆる苦悩と不安の休息場だと言われている。しかるに、その眠りが大きな不安と恐怖のもとになっているのである。夢はもし哲学者たちが珍重することがなければ、それ自体に大きな意味はなくむしろ軽蔑すべきものだったはずなのである。ところが、つまらない哲学者だけでなく最も優れた知性の持ち主、一貫性と矛盾に最大の注意を払う哲学者、ほとんど完璧だと思われている哲学者(=ストア派)たちが夢を珍重するのだ。
もしカルネアデスが彼らの馬鹿げた行為を批判しなかったら、彼らだけが哲学者の名前を欲しいままにしていたことだろう。僕が彼らに対してこの論争を挑むのは、彼らを馬鹿にしているからではなく、彼らは占いを擁護する哲学者の中でもっとも優れた知性の持ち主であると思うからである。
それに対して、アカデメイア派の伝統は、自分たちの個人的な判断を持ち込まず、もっとも本当らしい考えだけを受け入れ、多くの場合を比較して、それぞれの主張にとって可能なことだけを表明し、自分たちの権威に頼らず、自由に判断する余地を聞き手に残すことである。僕はソクラテスから受け継いだこの伝統を大切にしていくし、クィントゥス君、君さえよければ、僕たちの議論の場でもこの伝統に出来るだけ従うことにしよう。」するとクィントゥスは「私もそれに大賛成です」と言った。以上の話を終えると、僕たちは立ち上がった。
Translated into Japanese by (c)Tomokazu Hanafusa 2015.6.22 - 7.11