訳者のまえがき
「無神論者のミサ」は、無神論者で知られた有名な医師デプランがひそかに教会でミサを挙げていることを知ったビアンション(人間喜劇によく再登場する医者)が、そのわけを本人から聞き出す話である。
結局、デプランは若いころ本を買うにも試験を受けるにも金に困っていたときに助けてくれた一人の水配達の男のためにミサを挙げていることが分かる。
それだけのことなのだが、これがバルザックの手にかかると実に泣かせる話になる。最後のところは、実に感動的ですらある。
この水配達人が飼っていた犬の話が出てくるあたりから、涙もろい人ならハンカチの用意がいるだろう。犬を出すというのは読者を泣かせる常套手段である。このストーリーに犬はなくてもいいが、バルザックは最高の効果を出そうとしたのだろうと思う。
バルザックの話にはシビアなものが多いが、これはめずしく心温まるストーリーで、一読の価値ありだ。
なお、このなかで無神論者デプランの「不敵な笑い」というのが出て来るが、それがデモクリトスの笑いであり、ギリシャ哲学のエピクロス派の笑いであることは、このホームページのユウェナリス第十歌を読んだ人なら分かるだろう。また、最後のところの「神はいいやつで人間を憎んだりしない」という考え方もエピクロス派のものである。
また、最後の文にあるパンテオンは祖国に貢献した偉人たちが埋葬される場所である。
[ ]内は訳者による注である。
無神論者のミサ
生理学の素晴らしい理論によって医学に貢献し、若くしてすでにパリの医学界の名士たちの間に名を連ね、その第一人者としてヨーロッパの医者たちの尊敬を一身に集めているビアンション博士も、医学の研究に身を捧げる以前は長い間一介の外科医にすぎなかった。
ビアンションの初期の研究を指導したのは、フランスの生んだ偉大な外科医の一人で、医学の世界を彗星のように通り過ぎていったあの有名なデプランだった。
彼の反対派も認めるように、デプランのたぐいまれな理論は、彼の死とともに永遠に失われてしまった。彼は、あらゆる天才の例に漏れず、後継者に恵まれなかったのである。彼は自らもたらした物をすべて持ち去った。
外科医は役者とよく似ている。彼らの栄光は彼らが生きている間だけ意味を持つ。彼らの才能は彼らがこの世から消え去るとともに忘れ去られてしまう。外科医と役者は両方とも、自らの演奏によって音楽の魅力を何倍にもする偉大な演奏家や偉大な歌手と同じ様に、一瞬だけのヒーローなのである。
この束の間の天才たちの運命がよく似ていることを、デプランは証明している。かつてあれほど知られていた彼の名前も、今日ではほとんど忘れ去られてしまった。彼の名声は彼の専門分野の中だけに留まっており、専門の垣根を越えて広がることはない。一人の学者が学問の世界を越えて人類の歴史にその名をとどめるためには、何か尋常ならざる状況が不可欠なのである。一人の人間をある時代の代名詞にしたり立役者にしたりするほどの幅広い知識を、彼は持っていただろうか。
確かに、デプランはすばらしい洞察力を持っていた。それが生まれつきなのか経験によるのかはともかく、彼には直感で患者の病状を見抜く力があった。そして、個々の患者に対して最適の診断を下し、大気の状態と体質の特異性を考慮に入れながら、手術の執刀時刻を何時何分に至るまで正確に決めることができた。
彼はこのように自然と調和をはかるために、大気に含まれる物質や大地がもたらす物質――人間はそれらの基本物質を取り入れ、それを加工して個々の用途に役立てるのであるが――と人間との密接なつながりを研究していたのであろうか。それとも彼は、キュビエの天才を生みだした演繹と類推の能力によって行動していたのであろうか。
いずれにしろ、デプランには人体の語りかける言葉が理解できた。そして、肉体の現在の姿に基づいて、その過去の姿と未来の姿を把握できたのである。では、彼は、ヒポクラテスやガレーノスやアリストテレスのように、医学の全てを自分自身の中に凝縮していただろうか。あるいは、医学界全体を新しい世界へ導いて行ったのであろうか。いや、彼はそんなことはしなかった。
人体の内的変化を常に観察していた彼が、基本要素の融合に関する知識や、生命が誕生する根拠や、生まれる前の生命や、存在する以前の準備期間における生命についての知識、要するに、古代ペルシャのマジ教の教えに類する知識に秀でていたことは否定できない。しかし、残念ながら、彼の知識の全てはきわめて私的なのものであった。
彼は利己主義のために生涯孤立していた。今日彼の名声が失われてしまったのはこの利己主義のためである。彼の墓は、いわば、天才が生涯をかけて追究した謎を後世の人々に伝える「物言う立像」に欠けているのである。おそらく、デプランの才能は彼の信念とかたく結びついたものだったために、不死の命を持つことが出来なかった。
彼にとっては、地球を取り巻く大気は、生命を生みだす袋だった。彼は地球をニワトリの体内の卵のように見ていた。そして、ニワトリが先か卵が先か分からないので、いわば、ニワトリも卵も両方とも否定した。つまり、人間が生まれる前の動物の存在も、人間の死後の魂の存在も信じなかったのである。この点については何らの迷いもなかった。彼は確信を持っていたのである。
彼のあけすけで混じり気の無い無神論は、多くの科学者たちの持つ無神論と同じものだった。彼らは世界で最高の人たちであるが、同時に、信仰厚い人たちがその存在を否定するような徹底的な無神論者たちである。
そもそもデプランのように、若いころから人体の解剖を始めて、出産前の人間から死後の人間にいたるまで、あらゆる人間の解剖に慣れ親しんできた者にとって、その無神論が徹底的なものになるのは当然のことであった。彼は人体の全ての器官をくまなく捜しまわったあげくに、宗教理論にとってはかけがいのないあの唯一の魂を見つけることが出来なかった。
そのかわりに彼は大脳中枢と神経中枢と循環中枢とを見つけた。特に前の二つは完璧な補完関係にあるために、音を聞くのに聴覚は絶対に必要ではなく、ものを見るのに視覚は絶対に必要でもなく、太陽神経叢が立派にそれらの代役を果たしうると、後年彼は確信するようになった。このようにして人間の中に二つの魂を発見すると、彼の無神論は事実による裏付けを得たのである。
とはいえ、彼は神の存在について何らかの先入観を持っていたわけではない。しかしながら、彼は世の多くの天才たちと同じく、不幸にも改悛の秘蹟を受けずにこの世を去ったと言われている。彼らに神の許しが与えられんことを!
かくも偉大な人物であるが、反対派が彼の名声を損なうために使った言い方をするなら、その人生において「狭量な行為」が多く見られたという。しかし、それはむしろ明らかな誤解と呼ぶのが適当だろう。偉大な精神の持ち主が行動するときの決断をあずかり知らない愚かな人や嫉み深い人たちは、彼の行為の表面的な矛盾をとらえて告訴状を提出し即決裁判を求めるものである。そして、批判された行為がたとえ後に成果を上げて、手段と結果の相関関係があきらかになったとしても、早まった中傷の全てが消え去るわけではない。
現代の歴史で言うなら、ナポレオンが戦線をイギリスに広げようとしたときに当時の人たちの批判を招いたことについても同じことが言える。1804年にナポレオンがブローニュの港に平底船を集結させたことの正しさは1822年になってはじめて明らかになったのである。
デプランの場合には、彼の名声も学問も非の打ち所が無かったために、反対派の人たちは彼の気まぐれな態度や特異な性格に非難の矛先を向けた。しかし、彼は単に英語でいうエキセントリックな人であるにすぎなかった。
ある時は、悲劇作家クレビヨンのような派手な服装で出かけるかと思うと、ある時には、着るものに対して奇妙なまでに無頓着な態度をみせる。また、彼はある時は豪華な馬車に乗っているかと思うと、ある時は一人で歩いていたりする。ぶっきらぼうであるかと思うと親切なのである。一見貪欲でけちに見えるが、自分を数日でも受け入れてくれたかつての雇い主たちが亡命したときには、自分の全財産を彼らのために提供している。
したがって、評価が人によってこれほど食い違う人物はいないだろう。一般に医者には手が届かないとされている黒綬褒賞を受けるために、宮廷の中で内ポケットから祈祷書をすべり落として見せる才覚が彼にはあったが、一方で、信じがたいことだが、彼は心の中であらゆるものをあざ笑っていた。つまり、彼は人間を心底から軽蔑していたのである。なぜなら、彼は人間を上から下までくまなく観察していたし、人生における最も崇高で最も卑小な行為の瞬間に人間が本性をさらけ出している場面に立ちあってきたからである。
偉大な人間の中にあっては、様々な要素が密接に結びついている。したがって、偉人たちの中に機知より才能に恵まれていると言われる人がいるとしても、彼は、単に「機知に富んである」と言われる人たちよりもはるかに機知に富んでいるものである。天才はみな精神的な洞察力を持っている。この洞察力は何らかの専門分野に適用されるが、例えば、花を見ることの出来る者は、日の光を見ることも出来るのである。
彼が命を救ってやった外交官が「皇帝陛下はお元気ですか」と尋ねたとき、彼は「廷臣が戻られたのですから、あの方も後から来られます」と答えたという。このようなことのできる人間はもはや単なる外科医でも医者でもない。彼は途方もなく機知に富んでいたのだ。以上から、人間性を辛抱強く熱心に観察している者には、デプランの途方もない野心さえも不当な事とは映らないはずだ。彼が自ら自負していたように、偉大な外科医だけでなく偉大な大臣となるのにふさわしい人間だったことは容易に理解されるだろう。
デプランの生涯の出来事の中には、当時の多くの人たちによって謎とされたことが数々あったが、わたしはその中から最も興味深いものをここに一つ選び出した。それは、結末でその謎の答えが明らかになるとともに、彼に対する馬鹿げた中傷の誤りを正せるからである。
デプランの病院にいた弟子たちの中で、彼が最もかわいがったのはオラス・ビアンションだった。市立病院の研修医になる前、医学生ビアンションは、カルチェ・ラテンのヴォーケル館という有名なぼろ下宿に住んでいた。
貧しい若者はその下宿で、洗うがごとき赤貧の厳しさを肌で感じた。それは、ダイヤモンドがどんな衝撃を受けても壊れないのと同じように、偉大な才能の持ち主だけが清廉潔白なまま無事に脱出できる一種のるつぼだった。彼らは、自分たちの奔放な情熱の激しい炎によって、何物にも負けない誠実さをつちかうのであり、叶えられぬ欲望を押さえながら一途に労働に励むうちに、天才たちを待ち受けている戦いに慣れて行くのである。
ビアンションは人の名誉に関わる問題にはつねに真正面から取り組むまっすぐな性格の持ち主であり、あれこれ言わずに核心をつき、友人のためなら、時間を割いたり夜明かしをするのはもちろん、自分のコートを質屋に置くことも厭わなかった。要するに、ビアンションは友人として自分が与えたものにどんな見返りが得られるか少しも気にならなかった。彼は自分が与えるものよりも沢山の見返りが来ることを確信しているような類いの人間だったのである。
友人たちの大半は、掛け値なしに立派な人間に対して誰もが感じる心からの尊敬を、ビアンションに対して感じていた。そして、彼らの多くはビアンションから叱られることを非常に怖れていた。ところが、このような彼の立派な振舞いには、気取ったところ少しもがなかった。彼は牧師でも清教徒でもないのに、友人に忠告するときには、すすんで神の恵みを祈ったが、一方で、機会があれば友人たちとどんちゃん騒ぎをすることも厭わなかった。
彼はまさに「いいやつ」で、その気取りのなさは鎧をまとった騎兵もかくやと思われるほどだった[騎兵のフランクさについては、バルザックの『砂漠の情熱』の初めに同様の記述がある]。また彼は飾りのない男だったが、その率直さは水兵のような率直さではなかった。今どきの水兵は外交官のようなずるさをもっているからである。それは、自分の人生に何の隠し事もない実直な青年の率直さだった。
彼は頭をあげて堂々と歩いたが、頭の中は陽気な考えで満ちていた。要するに、一言で言うと、ビアンションは複数のオレステスに仕えるピュラデスだった。そして、今日の借金取りは、かつてオレステスを追い回した復讐の女神エリュニエスのまさに現代版である。彼はこの陽気さによって貧困を耐えた。おそらく、陽気さこそは勇気を構成する最大の要素の一つなのである。あらゆる無一文の人間と同様、彼はほとんど借金をしなかった。彼はラクダのように節制したが、雄ジカのように活発で、考え方も行動も実にしっかりしていた。
医師オラス・ビアンションは、友人たちにはその長所だけでなく欠点によって[バルザックは『フランドルのキリスト』の初めの方でも善人の魅力が長所と欠点の両方にあるという言い方をしている]、二重に魅力的な存在であったが、まさにその長所と欠点が高名な外科医の目にとまったときから、ビアンションの生活は上向き始めた。ある病院の院長が一人の若者を自分のふところに迎え入れたときから、この若者の俗に言う運が開けたのである。
デプランは金持ちの家に往診に行くときにはいつもビアンションを助手として連れていった。こういうときには、たいてい、研修医のさいふにいくばくかの心付けが転がり込むのが常だった。また、この田舎出の青年がパリの生活の内情に徐々に通じていったのもこういうときだった。
デプランは診察時間にも自分の診察室からビアンションを離さずあれこれと仕事を言いつけた。時には、金持ちの病人が温泉で湯治をするのにビアンションを付き添わせたこともあった。こうしてデプランはビアンションに得意客を作ってやったのである。
こうしてしばらくするうちに、この外科の王者は自分の意のままになる腹心の部下を手に入れていた。一人は、学界の頂点に立ち、正に栄光を極めて莫大な財産と名声を手にした男、いま一人は、わずかに学界の末席に連なったばかりで名誉も財産もない男、この二人が切っても切れない仲となったのである。偉大なデプランはこの研修医に何もかも話した。研修医は、これこれの女性が腰掛けていたのは先生のそばの椅子だったのか、それとも診察室でデプランが眠るという評判の長椅子だったのかまで知っていた。
デプランの激しい気性は、偉人の姿を並外れて大きく見せることに貢献したが、同時に彼の心臓を肥大させ最後には彼に死をもたらした。しかし、ビアンションは、師のこのライオンと闘牛を合わせたような激しい気性の裏側にあるものを知っていた。
師の多忙な人生の中の奇妙な行動、この卑劣なまでに貪欲な男の様々な計画、学者のうらに隠された政治家の野望をビアンションはじっと見ていた。そして、ただ一つ表沙汰にせず心に秘めていたこの感情が失望に終わることを、ビアンションには予想できた。彼は、デプランが冷徹な心の持ち主ではなく、ただ冷徹を装っているだけであることを知っていたからである。
ある日のこと、ビアンションはサン・ジャック地区の貧しい水配達人が過労と栄養失調でひどい病気になっていることをデプランに知らせた。男はオーヴェルニュ地方出身で、1821年の厳しい冬にじゃがいもしか食べていないということだった。デプランは自分の患者を全部後回しにして、ビアンションと一緒にこの貧しい男の家に、馬を乗りつぶすのも構わず飛ばしていった。そして、高名なデュボアがサン・ドゥニ通りに建てた病院に、みずからこの男を運ばせた。彼はこの男の看病に通い、男が病気から治ると、馬と樽を買う費用を渡したのである。
このオーヴェルニュ出の男には奇妙な癖があった。自分の友だちが病気になると、すぐにデプランのところに連れてきたのである。そして自分の恩人にこういった。
「こいつがよその医者のところに行くのが我慢できないんだ」
それに対して日頃無愛想なデプランが男の手を握りしめてこういったのだ。
「みんなわたしのところに連れてきて下さい」
その後デプランは、カンタル県生まれのこの男を市立病院に入院させて、最高の治療を受けさせた。ビアンションはデプランがオーヴェルニュ地方出の人たち、中でも特に水配達人を好んで入院させることにすでに何度も気づいていた。しかし、それを特に変なことだとは思わなかった。デプランは市立病院における自分の治療にある種の誇りを持っていたからである。
ある日の朝九時頃、ビアンションは、サン・スルピス広場を横切っていたとき、自分の恩師が教会の中に入っていくのに気付いた。デプランはその頃外出するときにはいつも自前の馬車を使っていたが、その日は歩いていた。しかも、まるでそこがいかがわしい場所ででもあるかのように、プチ・リヨン通りの入り口からこそこそと中へ入って行ったのである。当時研修医だったビアンションは、恩師の考え方をよく知っていたし、ビアンション自身筋金入りの唯物論者だったので、当然恩師の行動に興味を覚えて、自分もサン・スルピス教会にそっと忍び込んだ。
デプランは、医者のメスとは無縁で痔にも胃炎にもかからない守護天使に何の哀れみも感じない無神論者だった。その偉大なデプランが、終始不敵な笑みを浮かべているデプランその人が、うやうやしくひざまずいているのを見たビアンションの驚きは尋常ではなかった。しかも、それが聖母マリアの礼拝室の中だったからなおさらである。デプランは祭壇の前でミサを聞くと、祭礼の費用を納めて、貧しい人たちに対する施しをしたが、その間の彼の表情は手術をしている時と同じくらいに真剣そのものだったのである。この上ない驚きに捕われたビアンションはこう考えた。
「あの人が聖母マリアの出産についての問題を解明するためにここに来たのでないことだけは確かだ。あの人が聖体節に祭壇の天蓋から伸びた綱をつかんでいるところを目撃したとしても、それは笑い話にしかならない。しかし、この時間にこっそりと一人でということになると、これはどうしても何かあると思わざるを得ない」
ビアンションは、市立病院の外科医長の行動を探っているように思われたくはなかったので、その場から立ち去った。たまたまその日、彼はデプランから夕食の招待を受けていた。
それは彼の自宅ではなく、とあるレストランの中だった。ビアンションは、デザートが出て話が弾んできたころに、巧みに教会のミサのことに話しを向けて、それをこっけいな儀式でお笑い草だと思うといった。それに対してデプランはこういった。
「まったくのお笑い草だよ。そのために、ナポレオンの全ての戦争で流された血よりも、ブルッセの全てのヒルが吸い取った血よりも、はるかに大量のキリスト教徒の血が流されたのだからね。ミサなんてものは『これはわが身体なり』というキリストの言葉に基づいてローマ教皇が編み出した代物で、その起源はたかだか6世紀より以前にはさかのぼらないものだ。
「聖体節をつくるためにいったいどれほど沢山の血が流されなければならなかったろう。聖体節は、キリスト実在説の問題における勝利を確実にするためにローマ教会が設立したものなのだ。この問題による異端騒ぎは、カトリック教会を三百年ものあいだ悩ました。最後にこの問題に決着を付けたのが、トゥールーズ伯とアルビジョア派に対する戦争[1208]だ。ワルド派とアルビジョア派はこの新説を拒否していたんだよ」
要するにデプランは無神論者ならではの自分の説を思う存分に語ったのである。それはヴォルテール風のジョークの連発であり、さらに正確に言うと、教会を批判した文書である『引用句集』の悪質なパロディーだった。ビアンションは思った。
「おやおや、今朝見たあの信心家はどこに行ってしまったのだろう」
彼は今朝のことを言い出せずに終わった。そして、サン・スルピス教会で見かけたのが本当にこの人だったのか自信が持てなくなっていた。デプランがわざわざビアンションに嘘をつくはずがなかった。二人は互いのことを知りつくしていた。あらゆる重要な問題について、二人は互いの意見を交換していた。宇宙の本質に関するさまざまな説についても、二人は無神論者のメスで探りを入れ解剖して論じあった仲だったのである。
それから三ヶ月が過ぎた。ビアンションの記憶にはあの事が重くのしかかっていたが、それを追究しようとはしなかった。その年のある日のこと、市立病院のある医師がビアンションの目の前でデプランの腕を捕まえて、まるで尋問するかのようにこういった。
「先生、サン・スルピス教会にいったい何をしに行かれたのですか」
「ひざの具合がわるい牧師がいて、その往診に行ったのだ。アングレーム公爵夫人がわざわざ私を推薦して下さったの だよ」
とデプランは答えた。この医師はデプランの言い訳に満足したようだが、ビアンションはそうはいかなかった。彼はこう一人ごちた。
「ええ? 教会にひざ痛の病人を見に行った!? ミサを聞きに行ったくせに」
ビアンションはデプランを待ち伏せすることに決めた。彼はデプランがサン・スルピス教会に入るところを見かけたのは何月何日の何時ごろだったかを思い出した。そして、デプランがまた来るかどうか確かめるために、次の年の同じ日の同じ時刻にその教会に行くことにした。もし来たなら、デプランのお参りは定期的なものであることになり、その理由を徹底的に究明する必要がある。これほどの人間に明白な言行の不一致のあるはずがないからである。
そして、次の年、すでにデプランのもとでの研修を終えていたビアンションは、まさに例の日の例の時刻に、この高名な外科医の馬車がトゥルノン通りとプチ・リオン通りの角に止まっているのを見つけた。デプランは通りの角からこそこそと壁にそって進むと、サン・スルピス教会に入って、またもや聖母マリアの祭壇の前でミサを聞いたのである。それは間違いなく外科医長デプランだった。心は無神論者なのに、時には信心家になる! 謎は深まるばかりだ。この高名な学者がミサを継続して聞いているとは! 何もかも分からなくなってきた。
デプランが立ち去ると、ビアンションは祭壇の後片付けをする男に近づいて、あの人はいつも来るのかどうかを尋ねた。その男はこういった。
「わたしがここに勤めて二十年になりますが、その間ずっとデプランさんは年に四回ここにミサを聞きにいらっしゃいます。あの方の献金で始まったミサなんです」
あの場を後にしながらビアンションは考えた。
「あの人がミサを創設するとは! これは聖母マリアの処女懐胎に匹敵するミステリーだ。処女懐胎だけでも、医者から信仰を奪うのに十分なのに」
ビアンション医師はデプランと親友だったが、相手の人生の個人的な事情について話せるような状況が生まれるまでには、かなりの時が過ぎた。診察の時や社交界で顔を会わせる機会はあったが、椅子の背中に頭をもたせかけて暖炉の前で互いの秘密を打ち明けあうような、打ち解けた二人だけの時間はなかなか訪れなかった。
その後再びデプランがサン・スルピス教会に入るところをビアンションが見かけたのは、七年後のことだった。それは1830年の七月革命のあとで、民衆が大司教の館に押し掛けていたころであり、広大な家並の上に稲妻のごとくにそそり立つ金色の十字架を破壊するよう共和主義の煽動家たちが民衆を駆り立てていたころであり、信仰の喪失と民衆の暴動がともに大手を振って街角にのさばりだしたころだった。
ビアンションはデプランに続いて中に入り、彼の隣に席を取った。しかし、デプランは少しも表情を変えず、少しも驚いた様子を見せなかった。デプランの創設したミサを二人はともに聞いた。
教会を出るときビアンションはデプランにいった。
「先生、この信心のわけをお聞かせ願いませんか。わたしは、先生ともあろう方がミサに行かれるところをもう三度も見たのです。わたしにこの謎の説明をしてください。この明らかな言行不一致の理由を話して下さい。先生は神の存在を信じてはおられない。なのに、ミサに出席される。先生、これはどうしても説明していただかなければ困ります」
「わたしは単に多くの信心家と同じことをしているだけだよ。君や僕のように、神なぞ信じていないくせに表向きだけ熱心な宗教家の振りをしている多くの人たちと同じだよ」
そして、デプランは数人の政治家に対する辛辣な皮肉をまくし立てた。そのうちの一番有名な者などは、モリエールが作ったタルチョフの現代版だと言うのだった。そこでビアンションはいった。
「わたしは先生にそんなことをお聞きしているのではありません。わたしが知りたいのは、先生がここに来てなさっていることの理由です。どうしてあのミサを創設なさったのかということなのです」
それに対してデプランは答えた。
「そうだな。わたしもそろそろ棺桶に片足を突っ込むような年だ。もう自分の若いころの話をしてもいいだろう」
ちょうどその時、ビアンションとデプランはカトル・ヴァン通りにいた。この通りはパリでも最も醜い通りの一つだった。デプランはオベリスクのようにそそり立つ建物の七階を指さした。その建物の小さな門をくぐると通路があり、その端には曲がりくねった階段があって、窓から光をとり入れていた。この窓のことをフランス語では「苦しみの日々」と書くが、まさに言い得て妙である。
この建物は緑色がかっており、一階には家具屋が住んでいたが、各階にはそれぞれ各人各様の貧乏暮らしをしているのが見られた。デプランは激しい身振りで手を振り上げると、ビアンションに向かっていった。
「わたしは二年間あの上に住んでいたんだよ」
「存じています。ダルテスがそこにいたので、わたしも若いころはほとんど毎日あそこに通っていました。あの頃みんなはあそこを偉人の漬物樽と呼んでいました。それで?」
「君が言うそのダルテスが住んでいた屋根裏部屋は、いま窓の植木鉢の上で洗濯物がひらめいているあそこだろ? ぼくもちょうどそこに住んでいたんだが、そのころ起きた出来事が、今聞いたミサと関係があるんだ。
「あの頃のぼくの暮らしぶりはそれはひどいものだった。パリ中で貧乏合戦をしたらぼくが優勝したんじゃないかと思うほどだ。でもぼくは耐えたよ。飢えにも渇きにも耐えた。お金も着るものも靴も下着もなかったが耐えた。貧乏がもたらすあらゆることに耐えたんだ。君といっしょにあの『偉人の漬物樽』にまた行ってみたいよ。
「ぼくはあそこで寒さにかじかむ指に息を吹きかけていたんだ。頭から湯気がたつのを見ながら、ひと冬を勉強して過ごしたものさ。自分の汗が湯気に変わるのがはっきり見えたよ。氷点下の寒い日に馬の汗が白い湯気に変わるようにね。いったい何をより所にして人はあんな暮らしに耐えるのだろう。
「ぼくはひとりぼっちだった。助けてくれる人は誰もいなかった。本を買うにも医学校の学費を払うにも、手許には一文もなかった。それに、友だちは一人もいなかった。暗くて落ち着きがなくて怒りっぽいわたしの性格が災いしたんだね。ぼくが怒りっぽかったのは、社会の底辺から浮かび上がろうとしてもがいている人間の不安と苦しみの表われだったんだが、そんなことを分かろうとする人なんて一人もいなかった。
「しかし、これは何も遠慮する必要のない君にだけ言えることなんだけれど、ぼくは自分の根本にある優れた感覚と豊かな感受性を無くしはしなかった。これは、貧乏のどん底で長い間足踏みしていてそのあと何らかの頂点を極めることのできる人間、それだけの強さのある人間の心の中には必ず見つかるものだろうね。
「ぼくは、不充分な仕送り以外には、親からも田舎からも、何も期待することは出来なかった。だから、その頃はプチ・リヨン通りのパン屋が安く売ってくれる昨日か一昨日の小さなパンを朝食にしていたんだ。そのパンを粉々に砕いてミルクにつけて食べるのさ。こうやって朝食は一日二スーで済んだ。下宿で夕食をとるのは一日おきだった。それが十六スーだ。これで食費は一日あたり九スー[原文ママ]になった。
「ぼくが服や靴をどれほど大切にしていたかはお互いによく知っているとおりだ。後になってぼくたちは仲間の裏切りで苦汁をなめたことはあるが、それだって、靴があざ笑うようにぱっくり口を開けているのを見つけたときや、コートの袖口がばりっと破れる音を聞いたときの悲しみに比べたら大したことはなかつたね。
「ぼくが飲むものといえば水ばかりで、カフェに最高のあこがれを感じていたものだ。カフェ"ゾッピ"がぼくにはローマの富豪ルクルスのような人しか入れない、聖書の『約束の地』のように思えたね。『いつの日か、あそこで自分がクリーム入りのコーヒーを飲んだり、ドミノ・ゲームをしたりできる日が来るのだろうか』と、よく一人で考えたものだ。
「要するに、ぼくは自分の貧しさから来る口惜しさを勉強にぶつけたのさ。医学の知識を片っ端から頭の中に詰め込もうと精を出した。いつかこの惨めな境遇から抜け出した時にたどり着くはずの地位にふさわしい値打ちのある人間になるためにね。
「ぼくはパンよりもランプの油代によけいにお金を使った。毎晩ぼくを照らし続けた明かり代が、食費よりも高くついた。この不屈の戦いは長かった。しかも何の慰めもなかった。また、ぼくは回りの人に同情してもらおうともしなかった。友だちを手に入れるためには、若者たちと仲良くなる必要があるし、彼らと飲みに行く金も多少は必要になる。また、学生たちが集まるような場所について行く必要がある。そうじゃないかい。ところが、わたしは一文無しだった。しかも、一文無しだと言うのは本当に金がないということが、パリの人には想像できないんだ。それでとうとう自分の貧乏を人に明かさないといけなくなったときには、喉のところがひきつって痛んだものさ。病院の患者たちが『食道から喉にビー玉が登ってくるみたいだ』と言うあの感じだね。
「後にぼくは、裕福な家に生まれて何不自由なく暮らしてきた人たちの存在を知った。彼らは『若者:罪=五フラン硬貨:未知数X』の比例算、つまり、『若者が五フランないと罪を犯すしかないときにはどうすべきか』という問題を経験したことがないのだよ。金にまみれたこの愚か者たちはぼくにいったものだ。『どうして借金なんかしたんだ。どうしてやっかいな債務を背負い込むようなことをしたんだ』とね。国民が飢えで死んでいくのを聞いて『どうしてブリオッシュ[クロワッサンと同種の高級パン]を買わないのか』と言った王妃がいたが、ぼくにとっては彼らはまさにこの王妃と同じだった。
「いま金持ちたちは、わたしの手術代が高すぎると不満を言っているようだが、頼れる人も友だちもない孤独な一文無しの生活を、彼らもこのパリで一度経験してみればいいのだ。そして、生きるために自分の腕を使って働いてみればいいんだ。そうなったら、彼らはどうするか、飢えをしのぐためにどこへ行くか、見てみたいものだ。
「ビアンション、ぼくは時々とても辛辣で冷酷な人間に見えるときがあるだろう。そういう時ぼくは、上流階級の人たちの間で何度も見せつけられた冷淡さとエゴイズムを自分の若いころの苦労とを重ね合わせて思い出しているのさ。さもなければ、わたしを憎み嫉み誹謗する人たちが、わたしを成功させないために行った様々な妨害行為を思いだしているのさ。パリでは、あぶみに足をかけている人を見掛けると、落馬して頭を割ればいいと、服のすそをひっぱる者あり、鞍の下帯のバックルをゆるめる者あり、さらには馬の蹄鉄をはずしてしまう者もあれば、笞を盗んでしまう者もいる。一番信頼している人間が、目の前にやってきて正面から拳銃をぶっばなす有り様なのだ。
「君は才能に恵まれているから、無能な連中が有能な人間に対してひっきりなしに挑んでくるこの恐ろしい戦いのことをじきに知るだろう。君がある晩五百フラン無くしたとしよう。すると次の日に君は賭博をしたと非難されるだろう。そのうち君の一番の友だちが『君は昨晩二万五千フラン無くしそうだね』と言うことだろう。
「もし君が頭痛を起こしたら、君は気が狂ったと言われるだろうし、もし君が短気なら、つきあいが悪いと言われるだろう。もし君がこの小人の群れに立ち向かうために、自分のもつ優れた力を集中したりすれば、君の一番の友だちが『君は何もかも自分のものにしようとしているそうだね。君は支配権を、いや王座を狙っているそうじゃないか』と大騒ぎするだろう。
「要するに、君の長所は欠点になり、君の欠点は悪癖になり、君の美徳は罪悪となるのだ。もし君が誰かの命を助けても、君は彼を殺したことになるだろう。もし君の患者が社会復帰すれば、きっと将来のことを考えずに無理をさせていることになるだろう。もし患者が今死んでいないのなら、やがて死ぬことにされるだろう。君が少しでもよろめいたら、倒されてしまうだろう。君が何かを発明してその権利を主張したら、君は気難しくて抜け目のない人間で、若いものにチャンスをやろうとしないと言われるだろう。
「こういうわけだから、もしわたしが神の存在を信じられないとしても、人間の方はそれよりもっと信じられないのさ。人がわたしの悪口を言って、わたしの姿を全く違うものにしていることは君も知っているとおりじゃないか。だが、これ以上泥の山をほじくるようなことはやめよう。
「とにかく、わたしはこの家に住んで、最初の試験に受かるために勉強していた。そして君も知っての通り、わたしにはまったく金がなかった。わたしはあの頃、誰もが軍隊に志願しようと考えるほど切羽詰ったところに追い込まれていたんだ。
「でもぼくには一つだけ希望があった。下着の入ったトランクが田舎から届くの待っていたんだ。それは年のいったおばさんたちのプレゼントだった。パリのことは何も知らないおばさんたちは、ぼくが月三十フランでご馳走を食べていると思ったのか、シャツを送ることを思いついた。そのトランクはぼくが学校に行っている間に届いた。運賃は四十フランだった。屋根裏に住んでいた門番で靴直しのドイツ人がその運賃を払って、トランクを預かってくれた。
「トランクの中の下着を売った後ならそれくらいの額は当然払える。だがその金を払わないでトランクを受けとる方法はないのか。何の名案も浮かばないままに、ぼくはサンジェルマン・デプレの掘割り通りと医学校通りをとぼとぼと歩いていた。いかに愚かなわたしでも、自分が外科医になるしか能のない人間であることは分かっていた。わたしの繊細な知能は高度な領域でしか力を発揮できないのだ。わたしには策をめぐらす機転が欠けていた。うまい方法をいくらでも思いつくあの才能が欠けていたのだ。だが、こういう人間には偶然の神という守り神がついている。探しても駄目だが、出会いには恵まれているのさ。
「結局、わたしは夜になって下宿に戻った。ちょうどその時、隣に住むブルジェというサン・フルール生まれの水配達人が帰って来た。二人は同じ階に部屋を持つ借家人同士の知り合いで、相手が眠ったり咳をしたり服を着たりする音を聞ききながら、次第に相手に対して親しみを持つようになっていた。
「その彼がわたしに教えてくれたんだ。三ヶ月間家賃をためていたわたしを家主が追い出すことにしたということと、わたしはあした中に立ち退かなければならないことを。さらに彼自身も仕事のせいで部屋を追い出されることになったといったのだ。
「わたしはその夜、人生でもっともつらい一夜を過ごした。『少ない家財道具と本を運ぶ運送屋をどこで雇えばいいのだろう。運送屋と門番にどうやって支払いをすればいいのだろう。おれはいったいどこへ行ったらいいのだろう』狂人が同じ歌を何度も繰り返して歌うように、この解けるはずのない問いを、わたしは涙を流しながら何度も何度も頭の中で繰り返した。やがてわたしは眠りこんだ。貧しい暮らしをする者には、特別に美しい夢に満ちたすばらしい眠りが与えられるのだ。
「翌日の朝になって、わたしがミルクにつけたパンくずを食べていたとき、隣のブルジェがぼくの部屋に入ってきて、ひどいなまりでこういった。
『学生さん。わしは貧しい男で、サン・フルール病院に拾われた捨て子だよ。父親も母親もいない。結婚するような貯えもない。あんたも親戚に恵まれているわけではないし、手持ちの金もないようだ。いいかね。下にわしの荷車がある。一時間あたり二スーで借りているものだよ。あれにわしら二人の荷物を積めばいい。あんたさえよかったら、いっしょに部屋探しをしようじゃないか。ここから二人とも追い出されるのだから。要するに、ここは地上の楽園ではなかったんだ』
「それに対してわたしはいった。
『わたしもそれはよく知っていますよ、ブルジェさん。でも、わたしにはひとつ困ったことがあるんです。それは下にあるわたしのトランクです。中には売れば五百フランにはなる下着が入っています。その金で家賃を払えるし、門番に借金も返せます。でも、いまは五フランも持ってないんです』
「するとブルジェは、古くて汚い革の財布を見せながら、うれしそうに答えた。
『それなら、わしが少しは持っている。あんたは下着を売ることはないよ』
「そして、ブルジェがわたしの三ヶ月分の家賃と自分の家賃を払って、ぼくの門番への支払いもしてくれたんだ。それから、彼は二人の家具とわたしの下着を自分の荷車に積み込んで、通りを引っ張って歩いた。そして、途中で張り紙のある家が見つかるとその前に止まって、わたしが家に入って二人が借りられるような部屋か見に行くのだった。お昼になってもまだ見つけられずに、二人はカルチェ・ラタンをさまよっていた。家賃が大きな障害となっていたのだ。ブルジェは酒屋で昼飯にしようといったので、荷車は店の入口に止めておいた。
「夕方近くになって、わたしはクール・ド・ロアンの商店街にある建物の屋根裏に階段で隔てられた二つの部屋を見つけた。家賃は両方とも一年で六十フランだった。謙虚な友人とわたしはそこに落ち着くことにした。
「二人は夕飯を一緒にとった。日におよそ二フラン半稼いでいたブルジェには五百フランぐらいの貯えがあった。樽と馬を買うという長年の夢がもうすぐ実現するところまで来ていた。しかし、彼はわたしの窮状を知ると、自分の長年の夢をしばらくの間あきらめることにしたのだ。
「彼の親切は今でも思い出すたびに胸が熱くなるよ。彼はわたしからうまく秘密を聞き出してくれたのだ。ブルジェは二十二年間にわたって道で物売りをしてきた男だ。それなのに、自分の五百フランをわたしの将来のために犠牲にするというのだよ」
こう言ってデプランはビアンションの腕を強く握りしめた。
「彼はね、ぼくの試験のために必要なお金を出してくれたんだ。この人はぼくが使命をもって生きていると思ったんだね。そして自分の夢よりも、わたしの才能の要求を優先してくれたんだ。彼はわたしのことを『わしのせがれ』と呼んで、わたしの面倒を見てくれるようになった。本を買うのに必要なお金も貸してくれた。わたしが勉強するところを何度もそっと見に来たものだ。しまいには、わたしに対して、母親のような気配りを見せるようになった。おかげで、わたしはそれまで仕方なくとっていた貧しい食事に代わって、健康的な食事をたっぷりとれるようになった。
「ブルジェは当時四十才ぐらいだったが、おでこが張り出していて、中世の商人のような顔で、絵かきがスパルタのリュクルゴスの肖像を描くためにきっとモデルにするような顔をしていた。
「彼の胸には愛情が溢れていたが、当時はその相手を失っていた。彼に生まれて初めて自分に愛情をくれたむく犬に、少し前に死なれていたんだよ。彼はその犬の話をよくしたが、その時はいつも、カトリック教会はこの犬の魂の安らぎのためにミサをあげるのを認めてくれると思うかって、わたしに尋ねるんだ。それから彼はこういった。
『あの犬は嘘偽りの無いキリスト教徒だった。十二年間、わたしといっしょに教会に通ったが、中では一度もほえたことがなかった。口を閉じてじっとオルガンの音に耳を澄まして、わしのそばにふせていたよ。その時のあの犬といったら、わしといっしょにお祈りをしているとしか思えない顔をしていたんだ』
「あの人は自分の愛情の全てをわたしにふり向けた。彼はわたしがひとりぽっちで苦しんでいることを知っていた。わたしにとって彼は誰よりも気のつく母親であり、誰よりも親切な恩人だった。要するに、彼は行為自体に満足してけっして見返りを求めない美徳の鑑のような人だった。彼は外でわたしを見掛けると、驚くほど気品に満ちた、理解の眼差しを向けるのだった。そんなときには、彼はまるで何も運んでいないかのような様子をした。そして、わたしがいい身なりをして元気なのを見るのがうれしくてたまらないようだった。
「要するに、それは庶民だけに見られる盲目的な献身であり、お針子女の恋を高尚にしたような惜しみのない愛情だった。ブルジェはわたしの使い走りまでしてくれた。夜決まった時間にわたしを起こしてくれたり、ランプの掃除をしてくれたり、階段の踊り場のふき掃除もしてくれた。やさしい父親であると同時に優れた召使いでもあり、イギリス女のように清潔でもあった。彼は家事を全部やってくれた。ギリシャの将軍フィロペーモン[プルターク英雄伝の『フィロペーモン伝』に、使い走りと間違われてまき割りを頼まれたが断らなかった逸話がある]のように気さくに薪割りもしてくれた。彼のあらゆる行動に性格の素朴さが現れていた。けれども、けっしてそれで品位を失うということはなかった。というのは、目的が全てに気品を与えるということを、彼は知っていたのだと思う。
「わたしが研修医として市立病院に入るために、この親切な人のもとを去ったとき、彼はもうわたしといっしょに暮らせないと思って計り知れない悲しみを味わったようだった。しかし、まだ学位論文を作るために必要な経費をわたしのために貯金する楽しみがあると分かると、それを自らの慰めとしたんだ。それから、わたしが休みの日には必ず遊びに行くとわたしに約束させた。ブルジェはわたしを誇りにしていた。彼がわたしを愛したのは、わたしのためでもありまた自分のためでもあった。わたしの学位論文を見れば、あの論文は彼に捧げたものであることが分かるはずだ。
「研修医としての勤務の最後の年には、わたしの貯金も大分たまって、オーヴェルニュ出のこのすばらしい人に馬と樽をプレゼントして、これまでの全てのお返しをすることができた。彼はわたしが自分の金を使わずに貯めていたことを知るとひどく怒ったが、それでも自分の夢が実現したのを見て喜んでくれた。彼は笑顔を見せながらもわたしを叱った。彼は樽と馬を眺め、涙をぬぐいながらこういった。
『それはよくないよ。だが、きれいな樽だ。あんたはこんなことをしてはいけないよ。しかし、なんとたくましい馬だ。オーヴェルニュ人みたいだ』
「わたしはこれほど感動的な光景を見たことがない。君もわたしの診察室にある銀の飾りのついた診察かばんを見たことがあると思うが、ブルジェはわたしのためにあれを買うと言ってきかなかった。あれはわたしの一番大切な宝だよ。
「彼はわたしの若いころの成功を心から喜んでくれた。それはみんな彼のおかげだった。しかし、そんなことを彼は一度も口に出すようなことはなかったし、そんなそぶりも見せたことはなかった。しかし、もし彼がいなかったら、わたしは貧乏のために駄目になっていただろう。
「彼はわたしのために身を粉にして働いた。また、徹夜するわたしにコーヒーを飲ませるために、ニンニクをすり付けたパンしか食べなかった。彼も最後にはとうとう病に倒れた。君が想像するように、わたしは彼のまくら元で幾晩も過ごしたよ。
「最初のときは彼を危機から救い出すことが出来た。しかし、二年後にまた倒れたときには、どんなに手を尽くしても、どんなに医学の粋を注ぎ込んでも、彼を助けることはできなかった。どんな王様といえども、あの時の彼ほど手厚い治療をわたしから受けたものはいない。そうだ、ビアンション。わたしは彼の命を死神の手から取り戻すために、誰も知らないようなことまで試したよ。
「わたしはあの人に生きていて欲しかった。あの人のそれまでの苦労が実を結んであの人の願いが全て実現されたところを見てもらうために、あの人には是非とも生きていて欲しかった。そして、せめてわたしの心の中にあふれていた感謝の気持だけでも満足させて欲しかった。わたしのこの思いは消えることのない炎となって、今もわたしの胸を焦がしているんだよ」
あきらかに感極まったデプランは、ここで一呼吸おいてから続けた。
「わたしの第二の父となったブルジェはわたしの腕の中で息を引き取った。彼は遺言で自分の財産をすべてわたしに遺してくれた。遺言は代書人に作らせていたんだが、その日付は、わたしたちがクール・ド・ロアンの部屋に住み始めた年になっていたんだよ。
「彼の信仰は実に素朴なものだった。自分の妻を愛するように聖母マリアを愛していた。彼は熱心なカトリック教徒だったが、わたしの不信心については何も言わなかった。ただ、彼が危篤になった時には、教会の救いを得るためには何も惜しまないで欲しいとわたしに懇願した。
「わたしは彼のために毎日ミサをあげてもらった。夜になると、ときどき彼は自分の未来に対する不安をわたしに訴えた。自分は十分に清らかな人生を送らなかったかもしれないといったんだ。かわいそうな人だ。彼は朝から晩まで働いた。もし天国があるのなら、それが彼のものでなくて一体誰のものだと言うんだ。彼はまるで聖人のように最後の秘跡を受けた。彼は実際聖人そのものだった。彼の死はその生にふさわしいものだった。
「彼の葬列に従ったのはわたし一人だった。わたしは自分の人生でただ一人の恩人の棺を埋葬しながら、どうすれば彼の恩に報いることが出来るか考えた。彼には家族も友だちもなく妻も子もないことにわたしは気づいた。しかし、彼には信仰があった。彼は宗教的な信念を持っていた。それに異議を唱える権利がわたしにあったろうか。
「死者の安らぎのために唱えるミサのことも、彼は遠慮がちにわたしに言い出したものだった。その時彼は、けっしてこれを義務としてわたしに強制しようとはしなかった。それでは恩返しをさせることになると思ったのだろう。わたしはミサを創設するだけの財力がつくと、すぐにサン・スルピス教会に年に四回のミサをあげてもらうための費用を納めた。わたしがブルジェにしてやれることは、彼の敬虔な願いを満たしてやることだけだ。だから、季節はじめのミサの日に、わたしは彼のために教会に行って彼のために望み通りの祈りを唱えているのだ。そして、わたしは無神論者の誠意を込めてこう言うのだ。
『神様、汚れなき人間を死後に住まわせる場所を、もしあなたがつくっておられるのなら、どうか、善良なブルジェのことを忘れないで下さい。もし、試練が彼を待っているのなら、人々が天国と呼んでいる所に彼が出来るだけ早く入るために、その試練をこのわたしにお与えください』
「ビアンション、これがわたしのような無神論者の出来る精一杯のことなのだ。神はきっといいやつだから、わたしのことを怒ってはいないだろう。ただ、これだけははっきり言える。ブルジェの信仰心がわたしの脳みその中に生まれることができるなら、わたしは全財産を投げ出してもいい」
ビアンションはデプランの臨終のときを看取ったが、彼はこの高名な外科医が無神論者のままで死んだとは、今もって断言することが出来ない。信仰厚き者なら、デプランの枕もとにあの貧しいオーヴェルニュの男が来て天国の扉を開いてやったと思いたいのではなかろうか。なぜなら、正面に「祖国は偉人たちに感謝する」と書かれた地上の神殿パンテオンの扉を、かつてデプランのために開いてやったのはまさにこの男だったのだから。
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