『アエネイス』第一巻



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 わたしは戦いの歌をうたう。そして運命にしたがって祖国トロイを捨てて、仲間とともにイタリアのラウィニアの岸辺にやってきた一人の男の歌をうたう。男は、執念深い女神ジュノーの怒りのために、空の上の神々の力にほんろうされて、海の上でも陸の上でも大いに苦しんだ。そのうえ幾多の戦火をくぐり抜けて、やっとのことでラティウムの地に町を造り、神々を移し終えたのだった。ラテン民族が始まり、古都アルバに王たちが君臨し、ローマに高い城壁が築かれるのは、みなこの後のことである。

 女神ミューズよ、教えたまえ。神々の女王、女神ジュノーは何がお気に召さないのか、女神は何をお怒りなのか。あれほど立派な素晴らしい男を、あれほど多くの危険な目に会わせ、あれほど多くの辛苦をなめさせたのは、いったいどういうわけなのか。いったい、これほどにも激しい怒りが、神々の胸に宿るものなのか。

 その昔カルタゴという都があった。それはティルスからやってきた人たちが移り住んだ町。それはローマから遠く離れてはいるものの、ティベルス川の河口の真向かいにあって、戦争好きな人たちの住む裕福な町だった。それは女神ジュノーが、どこよりも、自分の神殿のあるサモスよりも愛した町だった。この町に女神はよろいと戦車を預けていた。女神は運命がゆるせばこの町を世界の首都にしたいと願っていた。しかし女神は聞いていた。トロイの一族の子孫がいつの日かこの地にやって来て、この移民の町を滅ぼすだろうということを。そして戦いに長けた彼らこそ、運命の神の思し召しで、アフリカの地に破滅をもたらし、いずれは世界の征服者になるということを。サトュルヌスの娘、女神ジュノーはこの運命が実現するのを恐れていたのだ。

 女神は、かつてトロイの地で自分が愛するギリシア人のために戦った日々のことを忘れていなかった。女神の心には、そのときの怒りがなおも渦巻いていた。その怒りのもとになった出来事が頭の中にこびりついていた。それは自分の美しさをビーナスに劣るといったトロイの王子パリスの屈辱的な判定だった。そもそもトロイは夫のジュピターが別の女に生ませた子ダルダノスが始めた憎い町。その上ジュピターはトロイのガニュメデスを自分のもとに連れてきて可愛がったのだ。こうしたことに我慢がならない女神は、勇猛なアキレスをはじめとするギリシア人たちがトロイを滅ぼしたそのあとも、トロイの残党アエネアスを大海原にもてあそび、けっしてラティウムの地に近づけようとはしなかった。こうしてトロイ人たちは長い年月の間、運命に翻弄されて、世界中の海をさまよったのだ。ローマが生まれるまでには、これほどの大きな苦難があったのである。

 シチリア島を発ったときには、船は順風満帆だった。沖合に出るころにはトロイ人たちは意気軒昂で、懸命にこぐオールの先には波が白く泡立っていた。その時、女神ジュノーは心の底に何時までも消えない傷を抱いて、一人こうつぶやいた。

「このわたしが一旦こうと決めて始めたことを途中で諦めて、すごすごと引き下がらねばならないのか。わたしはトロイ人の大将アエネアスをイタリアから遠ざけることさえできないのか。しょせん、このわたしも運命の力には逆らえないということなのか。

「しかし、女神ミネルバはオイレウスの子アイアスが逆上して罪を犯したというだけで、ギリシアの全艦隊を炎上させ、乗組員を全員海の底へ沈めることができたではないか。あの女神は、嵐をおこして海を荒れさせ、雲の上からジュピターの稲妻を投げつけて船を粉々にした。そのうえ、雷に胸を打たれて火の息を吐くアイアスを竜巻に乗せて、とがった岩に突き刺したのだ。

「それなのに、神々の女王でありジュピターの妻であり妹でもあるこのわたしが、たった一つの民族を相手にした戦いに、こんなにも手間取っている。こんなことでは、だれがジュノーを神として崇める(あがめる)だろう。だれがわたしの助けを求めて祭壇にお供えをするだろう」

 心に憎しみの炎を燃やし続ける女神は、こんな独り言を言いながら、神アイオロスの国へと向かった。

 そこは荒れ狂う風と雲が集う国。この国の王アイオロスは、山の大きな洞くつの牢屋の中に風たちを閉じ込めて、音を立ててひしめき合うかれらを支配していた。風たちは怒り狂って、入口の扉に向かって息を吹きつけては、山全体にごう音を響かせる。山の頂き高く座を占めたアイオロスは、支配を意味する杖を手に、風たちの怒りと暴力をおさえつけていた。さもなければ、風たちは猛烈に吹き荒れて、海と空と大地を根こそぎ巻き上げて、空中に吹き飛ばしてしまうことだろう。そうならないようにと、全能の神ジュピターが真っ暗な洞くつの中にかれらを閉じ込めて、その上に重しとして大きな山を乗せて、支配者を一人任命したのだ。この支配者アイオロスはジュピターの命令で、この支配の手綱を緩めたり強めたりしていた。

 いまジュノーはこのアイオロスに願い事をかなえてもらおうと、こんなふうに話しかけた。

「アイオロスさん、あなたは風の力で波を起こしたり静めたりする力を、神々の親であり人間の王であるジュピターからもらっているのでしょう。そのあなたに一つお願いがあるのよ。わたしの嫌いな国民が、滅亡したトロイの都とその神々を移そうとして、イタリアに向かってテュレニアの海をいま航海しているところなの。その船を強い風をおこしてひっくり返して海に沈めてほしいのよ。あなたの風であの船団をけ散らして、トロイ人を海のもくずにしてほしいのよ。わたしのところには美しいニンフ(妖精)が十四人もいるわ。もしあなたがわたしの言うとおりにしてくれたら、そのなかで一番美しいデイオペアをあなたの妻にしてさしあげるわ。こんどの働きのごほうびにあの子を手に入れたら、あの子はずっとあなたの側にいて、かわいい子供を生んでくれるでしょう」

 それに対してアイオロスはこう言った。

「神々の女王よ、あなたはただ何がしたいか言ってくださるだけでいいのです。わたしはそれをただ実行するだけです。あなたがわたしにこの国を下さったようなものなのですから。なぜなら、わたしをこの国の王にするようジュピターにとりなしてくださったのはあなたです。そのおかげで、わたしは神々の食卓の席に連なることができました。あなたこそはわたしを雲と風の支配者にしてくだっさお方です」

 こう言うと、杖の向きを変えて、中がうつろになっている山の横腹を一突きした。すると山門が開いて風たちがいっせいに飛び出していき、竜巻となって大地を吹き荒れた。風たちは東から、南から、さらに嵐を呼ぶという南西方向から、海に襲いかかった。すると海は底からかき回されて、海岸に巨大な波を打ち上げた。それに続いて男たちの叫び声とロープのきしむ音が海原に響きわたった。すると、突如として青空に雲が広がり、太陽の光がトロイ人たちの視界から消え去った。ついに真っ黒な闇があたりにたちこめた。何本もの稲光が空を走り、雷鳴が空中にとどろき渡る。すべては、死が男たちの間近に迫っていることを告げていた。突然、恐怖を感じたアエネアスの手足に寒気が走った。彼は両手を空に差しのべて、うめくようにこう言った。

「ああ、父の見ているトロイの高い城壁の下で死んでいった者たちはわたしよりどれほど幸せだろう。トロイの地ではあの荒々しいヘクトールでさえアキレスの槍にかかって倒れ、あの巨大なサルペドンでさえ討ち死にした。そして多くの勇敢な戦士たちが、死体となってかぶとや楯といっしょにシモイス河に流された。その同じ場所で、どうしてわたしだけが死ななかったのか。おお、ギリシアの勇者ディオメデスよ、どうしてあの時お前はわたしにとどめを刺してくれなかったのだ」

 この時、アエネアスの船の前方から、北風が激しい勢いで音を立てて吹きつけた。すると大きな波が空に向かって立ち上がった。船のオールが二つにくだけ、へさきはくるりと方向を変えた。波が船の横から襲ってくる。続いて、切り立った山のような波が押し寄せてくる。船は波の頂きに高々と押し上げられたかと思うと、海の底を見せるほどに深い波の谷間に沈む。あたりには砂混じりの大波が荒れ狂う。三隻の船が南からきた風に押し流されて暗礁に乗り上げた(波間に隠れて海面に大きな背中を突き出す岩礁を、イタリア人はいみじくも生け贄の祭壇と呼んでいる)。つぎに、別の三隻が東からきた風に吹かれて、沖から浅瀬へ押し流されて、無残にも岸へ打ち上げられて砂山にめり込んだ。アエネアスの目の前で、巨大な波がリュキア人を乗せた、家臣オロンテスの船に真上から襲いかかった。すると舵取りが頭から船の外に投げ出された。船は同じ場所で三度くるりと回転すると、あれよあれよという間に渦巻きの中へ飲み込まれる。海一面のあちこちに乗組員の漂うすがたが見えた。勇者のよろいとトロイの財宝が船板の間に浮いていた。見るも恐ろしい海の水が船板のゆるんだ継ぎ目からしみこんで、船体に大きな裂け目を作ると、イリオネウスの頑丈な船も、力強いアカーテスが乗った船も、アバスの船も、年老いたアレーテスの船もことごとくみな嵐の餌食となっていった。

 しかししばらくすると、海の神ネプチューンが、海が大きな音をたてて荒れ、嵐が起こって海底で水が逆流していることに気づいた。この神は大いに驚いて、様子をよく見ようと頭を海面からそっと突き出してみた。するとアエネアスの船団が海一面にちらばって、トロイ人が嵐と波に苦しんでいる様子が目に入った。ネプチューンは、これが怒り狂う妹ジュノーの仕業に違いないとすぐに分かった。そこで彼は、東の風と西の風を自分のもとへ呼びつけてこう言った。

 「わしの許しもなしに、空と大地をかき回してこんな大混乱を引き起こすとは、お前たち風の一族も偉くなったもんだな。お前たちは、ほんとうにしょうがないやつらだ。だが、それより荒れた海を静めるほうが先決だ。お前たちのことは、あとでたっぷり懲らしめてやる。今はとにかく自分のねぐらへ帰れ。そしてお前たちの王に、わたしがこう言っていたと伝えるのだ。『海の支配者はおまえではなくこのわたしだ。このネプチューン様が、くじでこの恐るべき三又の鉾を手に入れたのだ。アイオロスよ、おまえには風たちの住みかとなっているあの大きな山がある。おまえはそこの王宮でせいぜいいばっているがいい。そして、風どもを閉じ込めた洞くつの番だけはちゃんとしておけ』とな」

 ネプチューンはこう言うと、さっそく荒れ狂った海を静めて、上空に集まった雲を追いはらって、太陽を元の場所に戻した。ネプチューンの息子のトリトンはニンフのキューモトエーと協力して、けわしい岩場から船を押し戻した。またネプチューンもみずから車に乗って、海の上をすべるように軽やかに走っていった。そして、手にもった鉾で船を引き起こしたり、広大な砂州に道をつけたり、波を静めたりしてまわった。

 それはたとえてみれば、大きな町で大衆が怒り狂って暴徒と化して、武器を振り回して、たいまつや石を投げているときでえ、責任感と公共心が強く、権威のある人物が彼らの前に姿を現すと、彼らは急に静かになって聞き耳をたてて立ち止まる。すると男は人々に話しかけてみなの気持ちを静めてやる。それと同じように、海の支配者ネプチューンが海を見渡しながら、広い空を馬をあやつって大急ぎで車を飛ばしていくと、嵐はことごとく静まった。

 疲れたきったアエネアス一行は、とりあえず一番近くの岸に船をつけようとアフリカへ向かった。そして広々とした入江に入った。その入り江は、向かい側の島とともに恰好の港を形作っていた。沖合から来た波は島にぶつかって二手に分かれて砕けていき、入江のふところまでは届かないのだ。

 浜の両側には大きな岩壁が二つそそり立っており、その先が空中にむかって突き出している。そして、その下には海の水が静かにたたずんでおり、見上げると光輝く林を背にして黒い木立がせり出して暗い陰をなげかけている。この二つの突き出た岩壁の間の入江から見て正面のところに洞くつが一つあった。中には真水がわき出していて椅子の形をした岩がある。そこはニンフの住みかだった。

 旅に疲れた船をこの入江にとめておくのに、船をロープでつなぐ必要も先の曲がったいかりを沈めておく必要もなかった。アエネアスが二十隻あった艦隊のうちの七隻の船をつれて立ち寄った入江はこんな入り江だった。

 トロイ人たちは久し振りに陸地が踏めるとばかりに、喜び勇んで上陸すると、心行くまで浜辺に腰を下ろして、航海で疲れ切った手足を伸ばした。さっそくアカーテスが火うち石で火を起こすと、それを木の葉に移してまわりに消し炭をくべた。そうして薪を燃やした。すると、仲間は、嵐で疲れた体にむち打って、海水につかって傷みかけた食糧を調理道具といっしょに船から運び出してきて、痛んでいない穀類を火で乾かして石臼でひきはじめた。

 一方、アエネアスは岩壁の上に登って、どこかに二段オールのトロイ船が見えないか、強風に飛ばされたアンテウスやカピスが見えないか、ひょっとして船尾の高見やぐらにすえたカイクスのよろいが見えはしないかと、海のかなたを四方八方見渡した。しかし、船はどこにも見えなかった。

 見えたのは、遠くの海岸に迷いでてきた三頭の鹿だけだった。その鹿のあとを仲間の鹿たちがついてきて、谷沿いに列をつくって草を食んでいる。アエネアスは歩みをとめて家来のアカーテスが持ってきた弓矢を手にとった。彼はまず最初に、大きな角をはやした先頭の鹿が頭を高く掲げているところを射倒した。次に残りの鹿たちに矢を向けたが、群れはいっせいに青葉のしげる木立の中へ逃げこんだ。しかしそれまでにアエネアスは大きな鹿を船の数と同じ七頭だけ倒していた。

 アエネアスは入江に戻り、獲物をみんなに分配した。また、シチリア島を発つときに親切な王のアケステスが壺にいれて岸辺で土産にくれたワインをみんなで分け合った。そしてアエネアスは悲しみに沈む仲間の心をつぎのような言葉で励ました。

 「仲間たちよ、私たちが困難に出会うのはけっしてこれが初めてではない。いや、私たちはこれよりもっと大きな困難をすでに乗り越えてきた。神は私たちをけっして見捨てはしない。今回の苦しみもきっと終わるときがくる。お前たちは、怪物スキュラの洞くつの不気味な鳴き声も聞いてきたし、一つ目巨人のキュクロプスの投げる岩の下もくぐり抜けてきた。さあ、みんな元気を出してくれ。もう恐れることはない。いつまで悲しんでいても仕方がない。いつの日かこの体験をなつかしく思い出すときがくる。どんな困難に出会おうとも、どんな危険な目に会おうとも、いずれはラティウムの地に着くときがくる。そこには安住の地が待っている。そこへ行けばトロイの王国を再建することがきっとできる。それが神の思し召しなのだ。だから、もうすこしだけ我慢してくれ。そして、幸運が訪れる日にそなえて今のうちに充分英気を養っておいてくれ」

 アエネアスは仲間にはこう言ったものの、心は大きな不安でいっぱいだった。みなの前では希望に満ちた表情を見せてはいたが、心の中は悲しみに満ちていた。いっぽう、仲間たちは急いで食事の準備をにとりかかった。彼らはアエネアスが捕ってきた獲物の皮をはぐと、たちまち骨と肉だけにした。そして、まだぴくぴく動くほど新鮮な肉を小さく切って串にさした。浜辺では火にかけた鍋の中で湯が沸いていた。そしていよいよ食事が始まった。みんな草の上に横たわって古いワインと脂ののった鹿の肉をたらふく食べると、その顔には生気がよみがえってきた。

 食べ物で空腹を満たして、後片付けを終えると、みんなは思い思いに行方知れずの仲間たちのことを話しはじめた。はたしてどこかでまだ生きているのだろうか、それとももう呼びかけても声の届かない世界へ行ってしまったのだろうか。思いは希望と絶望の間を大きく揺れ動いた。仲間思いのアエネアスの悲しみはとくに大きかった。彼は勇敢だったオロンテスの不幸を、アミュコスの不幸を、リュコスを襲った残酷な運命を、そして勇敢なギュアスとクロアントスの悲運を一人ひそかに嘆いていた。

 ちょうどこの食事が終わるころ、ジュピターは空の頂きから下界を眺めていた。海には多くの船が行き交い、眼下に広がる大地と海岸にはあちこちで人間たちが暮らしていた。だが、突然天空の頂上に立ち止まると、目をこらしてアフリカの王国カルタゴを眺めはじめた。ジュピターはそのあり様を見て心を痛めた。そこへ悲しみにくれたビーナスが現れて、輝くまなこに涙を一杯ためながらジュピターに話しかけた。

「あなたはそのお得意の稲妻で神と人間の世界をこれからも永遠に支配なさればいいでしょう。でもわたしのアエネアスがあなたにいったい何をしたというのです。トロイ人はいったいどんな悪いことをしたというのですか。彼らはイタリアへ行こうとしたばかりに、世界中の海をいつまでもさまよい続け、こんなにたくさんの命を奪われてしまったのです。

「あなたは約束してくれたではないですか。歳月を経ていつの日か必ずこのトロイ人たちからローマ人が興り、トロイ王国が再建されて世界中の海と陸地の支配者になると。お父さま、あの約束は嘘だったのですか、それとも気が変わったとでも言うのですか。あの約束があったからこそトロイの陥落をわたしは我慢したのです。この不幸のあとには幸福が待っていると思ったからこそ、トロイの悲惨な滅亡を受け入れもしたのです。ところがどうでしょう。あの人たちはあんなつらい目にあったにもかかわらず、あいも変わらず不幸に見舞われ続けているではありませんか。あなたはこれでもあの人たちの苦しみは終わったと言うのですか。

「ところで、ギリシア軍の囲みを脱したもう一人のトロイ人アンテノールの一行は、アドリア海を通って奥地のリブュルニア王国に無事たどり着きました。そしてティマーウィ河の水源を横切りました。そこは九つの泉から、山鳴りの音とともに溢れ出てくる水であたり野原一面が波うつ海に変わってしまうようなところです。ところが、彼はなんとそこにパドュアの町を開いてトロイ人の居と定め、地名もトロイとつけ変えて、トロイからもってきた武器を神殿に奉納したのです。そして今は永遠の平和を謳歌して静かに暮らしているのですよ。

「ところがあなたの血を引き神の国を約束されたわたしの子は、ひどいことに、船団をなくしてしまったのです。わたしの子に恨みをいだくたった一人の女神のために、約束は反故にされて、わたしの子はイタリアの地に行かせてもらえないのです。これが、あなたの言うことを聞いたおかげで私たちが受け取る見返りですか。これが、あなたが私たちに約束したトロイ王国の再興なのですか」

 人間と神々の父ジュピターは、どんな嵐でもなだめて晴れた空にもどすような笑顔を自分の娘に見せて、彼女に軽くキスをしてからこう言った。

「ビーナスよ、何も心配することはない。お前の息子の運命は何も変わっていないのだ。ラウィニアの地に約束通り、町と城壁のできる日が必ずやって来る。また、立派なアエネアスの魂がおまえの手で神の座に引き上げられる時が必ずやって来る。誰がどう言おうと、わたしの気持ちに変わりはない。

「だが、おまえがそんなに心配ならば、もっとくわしく教えてやろう。おまえにひとつあの男の運命の秘密を解きあかしてやろう。あの男がイタリアにつくと、まずルトゥリー族との間に大きな戦いが起こることになっている。彼はこの強敵を打ち倒してから、町に城壁を築いて、人々を法の支配のもとにおくだろう。そして、ルトゥリー族を征服してから三つの夏と三つの冬が過ぎるあいだ、ラティウムの王の地位にいるだろう。

「だが、つぎに今ではユルスと呼ばれている息子アスカニウスが(トロイ王国がまだ健在だったころには彼はイルスと呼ばれていた)、三十カ月の間王として君臨するだろう。彼はその後、国をラウィニアからアルバロンガに移して、その地に巨大な城壁を築くことだろう。その後三百年の間、この国はトロイの勇者ヘクトールの血をひく者たちが支配し続けることだろう。

「そしていよいよ王家の血をひく巫女のイリアが、戦いの神マルスの子を身ごもって、双子の男の子を産み落とす。そのうちで幸せ者のロムルスが、自分を育てた狼の褐色の毛皮を身につけて、この一族の王座につくだろう。彼が築く城壁はマルスの城壁と呼ばれ、その国は彼の名にちなんでローマと呼ばれることになる。この国は、はてしなく栄え続け、はてしなく広がり続けるだろう。この国は永遠に不滅の帝国となる。あのジュノーでさえも、いまでこそ怒り狂って海と大地と空を混乱に陥れてはいるものの、いずれは考えを改めて、わたしとともに平和を愛する世界の覇者ローマ人の味方になるだろう。

「すべてこうなることは運命によってもう決まっている。時がたてばいつの日か、トロイの血を引くこの国民は、アキレスの生まれたピュティアもアガメムノンが支配した名高いミケーネも征服し、そのうえディオメデスの故郷アルゴスも打ち負かして支配することだろう。

「この高貴な血筋からいつかトロイ人シーザーが生まれ、偉大なユルスの名を受け継いで、その名もユリウスと名付けられ、国土を世界のはてまで広げていき、天に聞こえる名声を確立することだろう。東の国でかくかくたる戦果をあげたこの男を、いつか必ずおまえが神の国に迎え入れる日がくるだろう。誓いをたてるときに、人々はアエネアスの名とともに、この男の名を呼ぶことになる。

「そして戦いが終わり、乱世は終わりを告げることになる。由緒正しい信義の神と、家族を守る神ヴェスタとともに、双子の兄弟ロムルスとレムスが神となって正義をつかさどる。いっぽう、恐ろしい戦争の門は鉄の扉が閉ざされて厳重に鍵がかけられる。中に閉じ込められた邪悪な狂乱の神は、危険な武器の上にあぐらをかいて、血まみれの口を開いて恐ろしい叫びを上げはするものの、青銅の百の鎖で後ろ手に縛られていることだろう」

 ジュピターはこう言うと、新しい町カルタゴがトロイ人を暖かく迎えるように、また、自分の運命を知らぬ女王ディドーがこの町から彼らを追い返したりしないようにするために、マイアの息子マーキュリーを下界へ送り出した。マーキュリーは翼をはためかせて空中を飛んでいき、たちまちアフリカの岸辺に下り立った。そして命令を実行すると、神の望み通りにカルタゴ人は野蛮な心を捨て去った。とくに女王はトロイ人に対して優しく親切な感情を抱くようになっていた。

 いっぽう、一途な性格のアエネアスは一晩中あれこれと思いを巡らしていた。恵み深い朝の光が差し込むと、この見知らぬ土地の探検にすぐに出発することにした。自分たちが風に流されてたどり着いた岸辺はどこなのか、この荒れはてた土地には何があるのか、どんな動物がいるのか、はたして人間は住んでいるのかを明らかにして、その結果をくわしく仲間に知らせようと考えた。

 船は森がひさしをつくり両側から木々がとり囲む岩壁の下の奥まった日陰に隠しておいた。アエネアスはアカーテス一人をお伴につれて、大きなやいばの付いた槍二振りを携えて出発したのだった。

 森の真ん中までくると、彼のまえに少女の姿に身を変えた母神ビーナスが現れた。それはまるで狩りの道具をもったスパルタの少女か、それとも、馬に乗ればヘブルス川の速い流れも追い越すというトラキアの少女ハルパルケーさながらだった。少女は狩りにふさわしく肩から小さな弓を下げ、流れるような衣をひもでゆわえて、ひざ小僧をむき出しにして、髪を風になびかせながら狩りをしているところだった。少女はアエネアスたちに呼びかけてこう言った。

「こんにちは。ちょっとお尋ねしますが、わたしの妹をこのあたりで見かけませんでしたか。矢筒を背負って、まだら模様の山猫の皮を着ています。いのししが口から泡を飛ばして逃げるのを、大声をあげながら追いかけていたと思いますが」

 ビーナスがこう言うと、それに対して息子のアエネアスはこう切り出した。

「あなたの妹さんのことなど見たことも聞いたこともありません。それより、あなたはいったいどなたですか。あなたのその顔もその声もとうてい人間のものとは思えません。あなたはきっと神さまでしょう。アポロンの妹の女神ディアナさまですか、それともニンフたちのお一人ですか。

「あなたがいったいどなたにしろ、女神よ、どうか私たちの力になってください。どうか私たちをこの苦しみから救って下さい。そして、どうかお教えください。私たちはいったいどこの空の下にいるのでしょう。私たちが打ち上げられたのはいったいどこの浜辺でしょう。私たちは、波と風にもてあそばれてあちこちをさまよったすえに、やっとこの地にたどり着いたのですが、ここに誰が住んでいるか、ここはいったいどこなのか、まったく分からないのです。お礼の生け贄はこの手であなたの祭壇にたっぷりお供えさせていただきます」

 するとビーナスはこう言った。

「わたしはそんな大層なお礼をしていただくような者ではありません。カルタゴの娘はみんなこうして矢筒を身にまとい、ふくらはぎまである紫色の深いブーツを履くものなのです。あなた方が今いらっしゃるのはカルタゴという王国です。アゲノール王の国であるティリンスから来た人たちが住んでいます。でも、このあたりはアフリカといって、戦争になれば手に負えない民族が暮らしているところです。

「女王のディドーがこのカルタゴの支配者です。兄の迫害を逃れてティリンスからやってきた女性です。その時のいきさつは複雑で話せば長くなりますが、かいつまんでお話ししましょう。

「最初ディドーにはシュカエウスという夫がいました。彼はフェニキア人のなかで一番の金持ちでした。不幸な彼女はこの男をとても好きになりました。彼女の父は初婚の娘にふさわしい婚礼を催して、汚れなきこの娘をこの男のもとに嫁がせました。

「しかし、ティリンスの王になったのは彼女の兄のピュグマリオンでした。悪いことをさせたらこの男の右に出るものはないという残忍な男です。この男は義理の弟を大変嫌っていました。それで、けしからぬことに、シュカエウスが祭壇の前にいるところを不意討ちにして殺したのです。彼に対する妹の愛情のことを気にかけるどころか、彼を殺して財宝を奪おうとたくらんでいたのです。

「悪賢いピュグマリオンは、急にいなくなった夫のことを心配する妹に殺害のことを長いあいだ隠していました。夫を恋しがるディドーに対してあれこれ言いつくろっては、むなしい希望を抱かせ続けたのです。

「しかし、ある夜のこと、死んでも埋葬されていない夫が亡霊となってディドーの夢枕に立ったのです。亡霊は驚くほど青白い顔をこちらに向けて、血塗られた祭壇のありさまと、剣に差し貫かれた自分の胸を見せて、この家でひそかに行われた犯罪をすべて明らかにしました。そして、夫はディドーに対して、早くこの国を捨てて逃げるように勧めました。そして、旅の資金にするようにと、家に伝わる秘密の財宝の在りかを彼女に教えました。それは金と銀の大きなかたまりでした。

「これを見たディドーは、さっそく夫の指図どおりに町を出る準備を始めて、同行する者たちを集めました。暴君に対して憎みや恐怖をいだく者たちがすぐに集まりました。彼らは、たまたま出航の準備をしていた船を捕らえて、財宝を積み込みました。こうしてピュグマリオンが欲しがっていた財宝は海のかなたへ運ばれて行ってしまったのです。

「ディドーは女の身ながらこの逃避行の一切を取り仕切ったのです。そしてこの一行が到着した先が、あなたがいまいるカルタゴなのです。彼らはここで一頭の牛で作った皮ひもで囲めるだけの大きさの土地を買って、新たに大きなとりでと城壁を建設したのです。そのために現地の言葉でこの町はブルサ(牛皮の町)と呼ばれています。

「それはそうと、あなたはいったいどなたですか? どこの国からいらしたのですか? これからどちらへ行くところなのですか?」

 こう問われたアエネアスはため息をつきながら、胸の底から声を絞ってこう答えた。

「女神よ、私たちのこれまでの苦労をはじめからお話しすれば、たとえあなたにわたしの話を聞く時間があっても、わたしの話が終わる前に日が沈んで、あなたの住むオリンポスの扉が閉まってしまうことでしょう。

「トロイという名前はすでにあなたのお耳にも達しているでしょうか。私たちはその歴史ある都トロイからやって来ました。長い航海のすえに嵐にあって、このアフリカの岸辺に流れついたのです。

「わたしの名前はアエネアスと申します。神々を尊ぶ男として神々にはよく知られていることでしょう。いまは敵の手から救い出した祖国の神々を船で運びながら、イタリアという新しい祖国に向かっているところです。

「わたしは最高神ジュピターの血を引き、女神を母にもつ者です。その母が示した行き先を目指して、運命の命ずるままに、二十隻の船を従えてトロイの海に乗り出したのです。ところが、この度の嵐で難破を免れたのはわずかに七隻、しかもそれらは強風と高波にさらされてもうぼろぼろです。わたしはヨーロッパにもアジアにもたどりつけずに、この見知らぬアフリカの荒れ野を、こうして食糧を求めてさまよい歩いているあり様です」

 このつらい話をビーナスはそれ以上聞いていられず、話の途中に口をはさんだ。

「あなたがどこの何者であろうと、こうして生きてカルタゴに着かれたのですから、あなたが神々に嫌われているとはとても思えませんわ。

「とにかく、あなたはこの道をたどって女王のお屋敷へ行ってごらんなさい。いいことを教えてあげましょう。あなたのお仲間をのせた船団は、北風に吹かれてすべて無事にこの海岸に流れつくことになっています。

「わたしが親から教わった鳥占いに間違いがなければ、きっとわたしの言うとおりになりますよ。ほら、ごらんなさい。十二羽の白鳥が楽しそうに群をつくって飛んでいます。それに向かって広い空の彼方から鷲が一羽襲いかかってきました。白鳥たちは空一面に散らばって離れ離れになってしまいました。でも、ほら、白鳥たちは順番に地面に降りてきます。残りの白鳥も、地面に降りた仲間を空から眺めています。全員元どおりそろいましたね。そして羽音をたてて楽しそうに遊んでいます。おや、もう空に飛び立って輪になって歌をうたっています。あなたたちもきっとこれと同じようになりますよ。あなたの船団は仲間たちを乗せて、今ごろもう港に入っています。残りの船も帆を張って港に入るところにちがいありません。とにかく、今はこの道をまっすぐに行ってごらんなさい」

 こう言って女神が背を向けると、ばら色のうなじが輝いて、女神の髪の毛がこの世ならぬ香りをふりまいて、衣が足元にすべり落ちた。そして、女神は歩きながら本当の姿にもどっていった。アエネアスは女神が自分の母親であるとわかると、去っていく後ろ姿にむかってこう言った。

「あなたは冷たい人だ。どうしていつもそんなふうに姿を変えて、自分の息子をからかうのです。どうしてわたしにその手を握らせてはくれないのです。どうしてわたしに偽りのない言葉をかけてはくれないのです。どうしてわたしから偽りのない言葉を聞こうとはしてくれないのですか」

 彼はこう言って母を責めたが、そのまま町へ向かって歩きだした。いっぽう女神は、歩く二人のまわりを薄暗いかすみで包み、さらに雲でできた大きな幕で二人をおおった。それは二人が誰にも気づかれないようにするためだった。こうしておけば、だれも二人の邪魔をしたり、町に来た理由をたずねたりして、二人の歩みを遅らせることはない。

 女神自身はキュプロス島のパフォスにむけて飛び立った。そして満ち足りた気分で自分の神殿にもどって行った。神殿の中では無数の祭壇からアラビアのシバでとれた香の煙が立ちのぼり、摘みとったばかりの花輪の香りがあふれていた。

 いっぽうアエネアスとアカーテスは、ひたすら道を先へ急いだ。やがて二人はまぢかに町を一望する小高い丘のうえに出た。アエネアスの正面には数々の塔が見えた。彼はまず町の大きさに驚いた。そこはついこの間まで小さな村しかなかったはずのところだ。ところが、そこにはいくつかの城門と石畳をしきつめた道路があり、町のざわめきが聞こえてくるではないか。

 人々は熱心に働いていた。あちらでは砦(とりで)の壁を造ろうと岩を転がしている人たちがいる。こちらでは建物の用地を選定して、まわりに溝を掘っている人がたちいる。また、法律を公布する人たちもいれば、裁判官を選んだり、公正な元老院のために議員を選んでいる人たちもいる。さらには、海の底を掘って港を造っている人たちもいれば、劇場の基礎を造っている人たちもいる。また、舞台を飾る大きな柱を、岩から切り出している人たちもいる。

 その様子はまるで初夏の蜜蜂のようだった。夏が始まると蜜蜂は花咲く野原に出て、太陽の下でいそいそと働きはじめる。ある者は大きくなった子供たちを外へ連れ出し、ある者は蜂の巣を、流れる蜜で満たしていき、巣穴を蜜でいっぱいにする。ある者は帰ってきた蜜蜂から収穫物を受けとり、ある者は隊列を組んで、怠け者の雄蜂たちから巣を守っている。巣の中は仕事に対する熱意がみなぎり、タイムの香りのついた蜜の香りでいっばいだ。

 アエネアスは町にそびえる建物を見上げながらこう言った。

「こうしてすでに自分の町をもっている人たちはなんと幸せなことだろう」

 アエネアスは不思議な雲に包まれたまま、町の中に入っていった。しかし、彼の姿は雑踏の中に入っても誰の目にも見えなかった。

 町の中央に神の森があって、心地好い日陰をつくっていた。フェニキア人たちが最初に嵐の海をのがれてこの地にたどりついたとき、女神ジュノーの教えにしたがって、駿馬の首を掘りあてたのはこの森の中だった。そこに町を造れば、いつまでも勝利の栄光に輝く裕福な町になると女神は予言した。

 ジュノーの大きな神殿を、この森にディドーは建てた。そこには女神の像が安置され、豊かな供物が捧げられている。階段のうえに入口があり、敷居は青銅でできていた。扉にも青銅の飾りが付いていて、アエネアスがその扉を開けると青銅のちょうつがいのきしむ大きな音がした。

 その中にくりひろげられている不思議な光景を前にして、この森に入ってからはじめてアエネアスは自分の恐怖心が和らぐのを感じ、身の安全に対する希望がわいてきた。アエネアスは困難な状況に置かれていたにもかかわらず、将来への自信を深めたのだった。

 実際その光景は信じがたいものだった。アエネアスは、町の繁栄ぶりに感心しながら、この大きな神殿の中で女王を待っていた。そして、丹念に作られた数々の芸術作品を一つ一つ眺めていると、その中にトロイ戦争の出来事を順に描いた作品を見つけたのだ。トロイ戦争はもうすでに世界中の人々に知れ渡っていたのだ。

 アガメムノンとメネラオスが、すでにここに描かれている。この二人に対して激しく怒るアキレスの姿が、そしてトロイ王プリアモスの姿がすでにここにある。アエネアスはその前に立ち止まって、涙を流しながらアカーテスに話しかけた。

「アカーテスよ、われわれの悲しい出来事を世界中の人たちはもう知っているのだ。ごらん、ここにプリアモスがいる。この国の人たちは、立派な行いにはそれにふさわしい名誉を与えるべきことを知っているのだ。この国の人たちは、世界の出来事に心を動かされて涙を流すことを知っているのだ。もうおまえは何も恐れる必要はない。私たちのことを知っているこの国の人たちなら、きっと私たちの力になってくれるはずだ」

 こう言うと、アエネアスはため息をつきながら、止めどない涙で頬を濡らした。そして、この魂をもたない絵を心ゆくまで眺めつづけた。絵にはトロイの城壁の回りで繰り広げられた戦いの場面が描かれていた。こちらには、トロイの兵士たちに追われて逃げるギリシア勢の姿が見える。またこちらには、逃げるトロイ人を戦車に乗って追いかける、かぶと飾りも勇ましいアキレスの姿が見える。アエネアスはその近くにレーソスの真っ白い布張りのテントを見つけて涙を流した。彼の軍は、寝入りばなにディオメデスの襲撃を受けて、皆殺しの目にあったのだ。血にまみれたディオメデスは、トロイの草もクサントスの水もまだ口にしていない名馬たちを奪って自分のテントに連れ帰った。

 別のところには、鎧(よろい)をまとわぬトロイラスが、かなわぬ強敵アキレスから逃げる姿が描かれていた。哀れなこの少年は、手綱を握りしめて地面にあおむけになりながら、無人の戦車もろともに馬に引かれていく。首すじも髪の毛も土にまみれて、逆さになった槍が土ぼこりの中に線を引いていく。

 いっぽうこちらでは、ギリシアびいきの女神ミネルバの神殿に、悲壮な面持ちのトロイの女たちが、手で胸を打ちながら髪ふり乱して嘆願に行き、女神の像を飾る衣を差し出している。それをこころよく思わない女神は、眼差しをあげることもない。

 またこちらでは、ヘクトールの体を引きずってトロイの城のまわりを三度まわったアキレスが、財宝と引換えに亡骸を父プリアモスに引き渡している。アエネアスは、自分の友の戦車とよろいとその遺体を見て、さらに武器ももたずに両手をさし伸べているプリアモスの姿を見て、胸の奥から大きなため息をもらした。

 それから、彼はギリシアの英雄たちと矛を交えている自分自身の姿を見つけた。また、黒人メムノンが率いるエチオピア人の軍隊もそこにいた。三日月型の楯をもつアマゾンの幾千の女軍団をひきいて荒れ狂う、勇敢なペンテシレイアもそこにいた。この少女は、裸の胸を金色のベルトで押さえつけながら堂々と男たちと渡り合っていた。

 トロイのアエネアスはこれらの絵に目線を釘付けにしたままで、我を忘れて立ちつくしていた。こうして彼が絵に見入っていたとき、この上なく美しい姿をした女王ディドーが大勢の若者たちを従えて神殿に入ってきた。

 彼女の姿は、スパルタの川(エウロータス)の岸辺やデロスの山(キュントス)で踊りの一団をひきいる女神ディアナさながらだった。その女神の後ろには、方々から数え切れないニンフたちが集まってくる。肩に矢筒をさげて歩くディアナの背丈は、その中でも頭一つぬきんでている。それを見て女神の母ラトナは心の底で喜ぶのだ。ディドーは、まさにこのディアナのように楽しげに人々の間を進みながら、国づくりの仕事に専念していた。そして衛兵に守られながら、女神の像のお社の前、神殿のドームの真ん中にある壇上の玉座にゆっくりと腰を下ろした。それからアエネアスが見ている前で、女王は法律を定めたり、命令したり、仕事を抽選で平等に振り分けたりし始めた。そこへ突然あの勇敢なクロアントスやアンテウスやセルゲストスをはじめとするトロイ人の一団がやってきた。アエネアスは驚いた。真っ暗な嵐の海で散り散りになって遠い他国の岸に打ち上げられたと思っていた人たちが目の前に現れたのだから。いっぽうアカーテスも喜びと不安におそわれて茫然としていた。二人はすぐにも仲間たちと手をとりあって再会を祝いたかったが、この不思議な光景に対する驚きにとらわれてどうすることもできなかった。彼らに何があったのだろう? 彼らはどこの岸で船を降りたのだろう? 何をしにここにやって来たのだろう? こうした疑問を解くために、二人ははやる気持ちを押し殺して雲に包まれたままでじっとしていた。見ると彼らはそれぞれの船から選ばれてきた者たちだった。その一団が女王に面会を求めて大きな声をあげながら神殿に近づいてきた。

 そして、面会を許されて全員が中に入ると、一番年かさのイリオネウスが落ち着いた態度でこう言った。

「女王陛下。あなたがもしジュピターのお許しを得て、ここに新しい町を起こして、気性の荒いこの土地の民族を統治しておられるお方なら、どうかお願いでございます、私たちの船を焼き払わせないでくださいませ。私たちは風に吹かれて海をあちこちさまよっている哀れなトロイ人でございます。どうか、神を恐れる私たちにお慈悲をおかけくださいませ。私たちをもっとよくご覧になってください。私たちはけっして町を荒し回って略奪品を海へもち帰るためにこのアフリカにやって来たのではございません。私たちはそんな野蛮な民族でもないし、そんな乱暴者でもありません。私たちは戦いに敗れて逃れてきた者でございます。

「ギリシア人によってヘスペリア(西方の地)と名付けられた古い国があるのはあなたもご存じのことでしょう。まことに強力な軍隊をもつ資源豊かなところです。その地にはむかしからオイノトリア人が住んでいますが、その子孫たちは王の名(イタルス)にちなんで自らをイタリア人と呼んでいます。実は、私たちはそのイタリアに向かっていたところでございます。ところが、嵐を呼ぶオリオン星が沈むころに、突然海がしけはじめ、大きな波が巻き起こって、私たちの船は暗礁のうえに乗り上げたり、荒れ狂う海のただなかを強風に吹かれたりして、あるいは波のはるかかなたへと、あるいは通行不能な岩場へと、散り散りばらばらになってしまったのです。そのうちのごく少数のものたちが、あなたの国の岸辺にまでやっとたどりついたというわけなのです。

「ところが、ここに住む人たちは何という人たちでしょう? あんなことをするなんて、この国の人たちはなんと野蛮な人たちでしょう? なんと私たちが岸に船をつけるのを拒否したのです。そのうえ戦いを仕掛けてきて、私たちの上陸をあくまでも阻もうとするではありませんか。たとえあなた方が人を尊敬する心をもたず、人と戦うことを苦にしないとしても、不正を犯す者に対していつも目を光らしている天上の神々のことを忘れてはなりません。

「私たちはアエネアスという王といっしょでした。正義を尊び、神を敬い、武勇にひいでた、誰よりも立派なお方です。もしあの方が運よく命を救われて、今もあの世の闇に横たわることなく、この空の下のどこかで生きておられるなら、わたしたちには何の心配もありません。あなたが率先して私たちに親切にしてくださったとしても、あの方は必ずあなたを後悔させないようにしてくださるでしょう。またあの方のほかにも、シチリアにはトロイの血をひく高名なアケステス殿がおられます。そこには、私たちの町も軍隊もございます。ですからどうか、嵐で壊れた船を引き上げて修理することと、森の木でオールを作ることを、私たちに許してくださいませんか。もしそれがかなえば、そしてもし私たちの王とその仲間たちが戻ってきたなら、私たちは喜びいさんでイタリアのラティウムに向かって出発することができるのです。また、たとえわれらの王アエネアス様がアフリカの海の藻屑と消え、仲間たちも戻ってこず、王子ユルス様に託した希望がむなしいものとなったとしても、私たちはいま海を渡ってやつてきたばかりのシチリア島の、私たちのために用意されている場所に戻ることができます。もしそうなれば、私たちはアケステス様を王として仰ぐことになるでしょう」

 イリオネウスはこう言った。すると残りの者たちは、トロイ人たちは全員イリオネウスに呼応してそのとおりだと声を上げた。

 ディドーは彼らのいるほうを見下ろすと、次のように短く答えた。

「トロイから来たみなさん、安心してください。何も心配することはありません。まだこの国はできたばかりで安心できる状態ではありません。ですから、仕方なく国ざかいのいたるところに見張りを置いているのです。

「あなた方のことはわたしたちもよく存じております。トロイ人のこと、トロイの町のこと、あの勇ましい戦士たちのこと、あの激しい戦いのことは、この町の誰もみなよく知っています。わたしたちカルタゴ人はそんなことも知らないほど愚かではありません。この町は、お天道様の通り道からそんなに遠く離れてはいないのですよ。

「あなたたちがこれから、かつてサテュルヌス王が支配した偉大なイタリアの地に向かわれるにしろ、むかしエリュクス王が支配したシチリアのアケステス王のもとに向かわれるにしろ、護衛と食糧をつけてわたしの手であなたたちを安全に送り出してさしあげましょう。でも、もしよろしければ、この国にわたしたちと対等な市民としてこのまま住みついてはいかがでしょうか。わたしが作ったこの国はあなたたちの国となるのです。もちろん船は岸に引き上げてかまいませんとも。わたしにとってはトロイ人もカルタゴ人も同じです。できればアエネアス様もあなたがたといっしょに嵐に吹かれてこの国に来てくださればよかったのに。わたしはこれから、信頼できる者たちにアフリカの海岸を端から端まで手分けして調べさせましょう。アエネアス様がどこかの岸に打ち上げられて町や林をさまよっていないとも限りませんから」

 たくましいアカーテスとその主人のアエネアスはこの言葉を聞いて大いに勇気づけられた。そして、体を包む雲からもう抜け出してもいいと思った。そこで、アカーテスがアエネアスに話しかけた。

「神の息子アエネアス様、あなたはどうお思いですか? まったく心配はなくなったと思われませんか。船は無事ですし、仲間もオロンテスを除いて全員無事のようです。あの男は私たちが見たとおり波に飲み込まれてしまったのです。でも、他のことはお母様のおっしゃった通りになっていますよ」

 彼がそう言った時、突然二人を包んでいた雲がちぎれて、空の高みへ消えてしまった。そして、そのあとにアエネアスの目映いばかりに輝く姿が現れた。肩から上は、まるで神かと見紛うばかりの美しさだった。なぜなら、彼の母が息子に若々しい輝きを与えて、髪にはみずみずしい光沢を、目には魅力的な光をそそぎ込んだからである。それはさながら、芸術家によって象牙が美しく磨き上げられ、あるいは銀や大理石が金箔で覆われるのを見るかのようだった。アエネアスの突然の出現に全員あっけにとられていたが、アエネアスはただちに女王に向かってこう言った。

「あなたがお探しのトロイのアエネアスはここにいます。アフリカの海から無事この国にたどりつきました。それにしても、あなたはなんと哀れみ深いお方でしょう。わたしたちはギリシアとの戦いにかろうじて生き残ったものの、それからというもの、とても言葉で言い表せないような苦労を味わいました。陸といわず海といわず、うちつづく災難でわたしたちは何もかも失ってしまい、もう心身共に疲労困憊しています。そんな私たちを哀れんで、あなたはこの町に一緒に住もうと言ってくださった。

「ディドーよ、あなたのこれほどのご好意に対して、わたくしはお礼の言葉もございません。この広い地球上に住む全てのトロイ人の富を合わせたところで、とうていこのご恩に報いることはできますまい。しかしながら、もし神々に善人を尊ぶ気持ちがおありなら、いや、そもそもこの世に正義というものがあるのなら、必ずやあなたに神々の御加護があることでしょう。いやむしろ、ご自分が正しいことをしたと思うことこそ、あなたにとって最大の報酬であるかもしれません。

「それにしても、あなたのようなすばらしい人に出会えるとは、この世もけっして捨てたものではありません。さぞやあなたのご両親は立派な方でしょう。わたしがどこへ行こうとも、空に星があるかぎり、川が海へと流れるかぎり、また谷間に日陰があるかぎり、立派なあなたのお名前とあなたから受けたこのご恩を、わたしはけっして忘れないでしょう」

 こう言うとアエネアスは友人のイリオネウスに右手を、セレストスには左手を差し延べた。それから勇敢なギュアス、次にクロアンテスへと順に手をさし伸べていった。

 シドン出身のディドーは、アエネアスのこの突然の出現にも驚いたが、それ以上にこの男の数奇な運命に驚いていた。そして次のように言った。

「アエネアス様、あなたは神の子に生まれながら、そのような危険な目に何度も会われるとは、何と不幸なお方でしょうか。あなたのようなお方がこのような未開の土地にやって来られるとは、なんと不思議な巡り合わせでしょう。

「本当にあなたがあのアエネアス様ですか? ダルダノスの末裔アンキセスと恵み深い女神ビーナスとの間に、トロイのシモイス川で生まれたというあのお方ですか?

「わたしは今でも、ギリシアの将軍テウクロスがシドンに来たときのことを覚えています。その時ちょうどわたしの父ベルスは、キュプロスを征服して、その豊かな富を我がものにしたところでした。そして、祖国を追われたテウクロスは父の援助でキュプロスに新しい国を開いたのです。

「その時わたしは、トロイの過酷な運命も、あなたのお名前も、ギリシアの将軍たちのことも聞きました。テウクロスは、かつての敵トロイ人を口を極めて賞賛しました。長い歴史を誇るトロイ人の血が自分にも混じっているとまで言うのです。

「そういうわけですから、みなさんをわたくしの屋敷にご案内いたします。わたしもみなさんと同じく不幸な目にあって、多くの苦労を重ねた末に、ようやくこの地にたどりつきました。わたしは自分が不幸を経験してからは、困っている人を助けることにしているのです」

 ディドーはこう言って、アエネアスの到着を祝って神々の祭壇に生贄をささげると、さっそく自分の王宮へ案内した。いっぽう海辺に残った者たちにも、到着を祝う贈り物として、牛二十頭、剛毛の巨大な豚百頭、丸々と太った子羊百頭に母羊をつけて送らせた。

 王宮のなかは華やかに飾りたてられて、まばゆいばかりに輝いていた。中央の大広間では宴の支度が進んでいた。巧みに刺繍がほどこされた紫色の掛け布が長椅子をおおい、銀の食器がテーブルに並んでいた。その銀の食器には、一族の始まりから順に連なる先祖たちの武勲が金で彫り込まれていた。

 いっぽう我が子を残してきたアエネアスは、息子アスカニウスのことが心配で気持ちが休まることはなかった。そこでさっそくアカーテスを、船に残った息子のもとに使いにやって、この話を伝えて、町へ呼び寄せることにした。そのとき父の頭のなかは息子のことでいっぱいだった。

 さらに、彼はアカーテスに、トロイの廃墟から救い出してきた品物をディドーへの土産としてもってくるよう命令した。それは金色の絵模様が刺繍された高価なマントと、黄色い花模様で縁を飾ったベールで、ギリシアのヘレンが母レダからもらったものだった。それをヘレンは、許されぬ結婚をするときにトロイへ持ってきたのだった。また、プリアモスの長女イリオーネのものだった王笏と真珠のネックレスと、宝石を散りばめた金の二重の冠もいっしょにもってこさせた。アカーテスはこの命令をすぐに実行するために船の方へ道を急いだ。

 そのころ、女神ビーナスは心のなかでいろいろ考えながら次の計画を立てていた。彼女は恋の神キューピッドをかわいいアスカニウスの姿に変えて、本人の代わりに王宮に送り込むことを思いついた。そして、贈り物で有頂天になった女王の心に火をつけて、骨の髄まで恋の炎で焼きつくそうと考えた。女神はカルタゴの王家を信用していなかった、カルタゴ人は嘘つきだと思っていたのだ。そのうえ意地悪な女神ジュノーも悩みの種だった。彼女の心は夜になるたびに不安が募っていた。そこで、背中につばさをもった恋の神にこう話しかけた。

「坊や、おまえはいつだってわたしの味方だったわね。いつだってわたしの頼もしい力となって働いてくれたわね。そういえば、大神ジュピターの稲妻をものともしないのは、坊や、おまえだけだったわね。

「ねえ、そのおまえに頼みがあるのよ。おまえの力をぜひとも貸しておくれ。おまえの兄弟のアエネアスが意地悪なジュノーの恨みをかって、広い海を今日はあちら明日はこちらと、さまよっていたのを知っているわね。そのことでわたしがずっと心を痛めているのを見て、心配してくれていたわね。いまあの人はカルタゴのディドーのところに来ているわ。あの女の甘言につられてあんなところで道草を食っているのよ。あの女はどんな魂胆があってあんな歓迎をするのか、とても気になるわ。あれはきっとジュノーの差し金よ。こんな大事な時にあの女神が何もしないでいるなんて考えられないもの。

「だから、わたしは先手を打って、あの女王を計略にかけてアエネアスに対する恋のとりこにしてしまおうと思うの。そうすれば、あの女は神々のどんな力によっても、けっしてわたしたちを裏切らない忠実な味方になると思うの。

「どうすればそんなことができるか、わたしが考えた計画を聞いてちょうだい。アエネアスの息子はわたしの大のお気に入りだけど、いまあの子はお父様のお呼びでカルタゴの町へ行こうとしているの。トロイの戦火を逃れ、荒海を乗り越えてここまでたどりついた宝物を、あの女に届けるためにね。

「わたしはあの子を眠らせてからキュテラかキュプロスの高台の神殿に隠してくるわ。あの子がこの企みを知ったり私たちのじゃまにならないようにするためにね。おまえは今晩一晩だけあの子に姿を変えてあの女を陥れてほしいの。もともとあの子はおまえによく似ているから、おまえも知っているあの顔にそっくりになるように姿を変えるのよ。ディドーは、宴の席に酒が出されてうちとけてくると、そのうちおまえを抱き上げて甘いキスを浴びせてくるから、おまえはそのときこっそりあの女に恋の炎をそそぎ込んで、おまえの魔力のとりこにするのよ」

 恋の神は大好きな母親のいいつけをきいて、喜んでアスカニウスの姿に変わると、背中のつばさを外して地面におりた。いっぽう本物のアスカニウスにはビーナスが体じゅうに静かな眠りをそそぎ込んで、胸に抱えてキュプロスの高台の聖なる森へ運んだ。アスカニウスの体は、木陰にただようマヨラナの花のふくよかな香りに包まれた。

 いっぽうキューピッドは母の指図にしたがって、楽しげにアカーテスに連れられて出かけていった。手には女王への土産をもっていた。

 宮殿に到着すると、豪華なカーテンで飾られた広間の中央で、女王が金色のソファーに横たわっていた。すでに父アエネアスだけでなくその仲間たちも到着して、紫色のソファーで休んでいた。召し使いたちは手洗い水と柔らかいタオルをくぱってから、かごに入れたパンを勧めてまわった。厨房では五十人もの給仕女が聖なる火で調理をしたり、料理を盛りつけたりと忙しそうに立ち働いていた。いっぽう、広間では同い年の男女それぞれ百人の召使いたちが、料理と酒杯をテーブルに並べていた。入口はつぎつぎに到着するカルタゴ人でにぎわっていた。彼らはそれぞれ言われたとおりに、色どり豊かなソファーに横になると、アエネアスの贈り物とアスカニウスに扮したキューピッドの姿に見とれていた。キューピッドは言葉使いは幼子そのままだったが、顔は神々しく輝いていた。また例のマントと黄色い花模様のベールもみなの注目の的だった。

 しかし、誰よりも飽きたらぬ思いでこの贈り物と子供に見とれていたのは、不幸な運命のもとにあるカルタゴの女王だった。彼女はこの子と贈り物を夢中で見ているうちに、興奮して心が熱くなってきた。

 父親もキューピッドに騙されていた。その子はアエネアスに抱きつくと首筋に腕をまわして、父親の愛情に応えた。つぎにその子は女王のほうへ行った。

 その子に目を奪われていた女王は、時々ひざに抱きあげては、その子を思う存分かわいがった。不幸な彼女には、それが全能の神であることなど知るよしもなかった。いっぽうこの神は母親の言いつけを忘れず実行した。神はまず彼女の心から前の夫シュカエウスの記憶をしだいに消していき、長い間恋することなど忘れてしまっていた彼女の心に新しい恋心をそそぎ込んでいった。

 宴が一段落すると、テーブルが下げられ、それに代わって花で飾った巨大な酒瓶(かめ)が持ち込まれた。宮殿にざわめきが起こると、それは広い部屋じゅうにひろまった。金色の天井からぶらさがったランプには火が入り、たいまつの明かりが夜の闇を照らした。

 この家には父ベルスの代から使われている、宝石を散りばめた金の大きな盃(さかずき)があった。女王はこの盃を持ってこさせて、水で薄めていないワインをなみなみとその盃につがせた。すると部屋じゅうが急に静まり返った。

「おお、神ジュピターよ、客人をもてなす掟を作ったと言われる神よ、願わくは、今日この日がトロイから来た客人と私たちカルタゴ人にとって、喜びの日となり、願わくは、今日この日が末永く子孫たちの記念日となりますように。おお、喜びをもらたらす神バッカスよ、われらの守り神ジュノーよ、今こそお出ましを。さあ、ここに集まったわが国民よ、皆してこの宴の日を祝っておくれ」

 ディドーはこう言うと、神々のためにワインをテーブルに注ぎかけた。そしてまず最初に彼女がその大きな盃に唇をつけると、つぎにそれを貴族のビティアにまわして、飲み干すように命じた。ビティアは金色の盃を顔が隠れるまで傾けながら、泡立つワインを一気に飲み干した。続いてほかの貴族たちも彼にならった。

 長い髪のイオペスが、金色の竪琴で音楽をかなではじめた。やがて、イオペスは、天を支える巨人アトラスから教わったという歌をうたいはじめた。まず彼は、月の運行と太陽の働きを歌った。つぎに、彼は、どのようにして人間と動物が始まったのか、どのようにして雨と火が生まれたかについて歌った。そしてさらに、牛飼い座のアルクトュールスと、雨を降らす牡牛座のヒアデスと、大熊座・子熊座について歌った。それから彼は、冬はどうして昼が短く夜が長いのかについても歌った。カルタゴ人は彼の歌に賞賛の拍手をおしまなかった。トロイ人もそれに負けず劣らず大きな拍手を送った。

 運命の女ディドーは夜遅くまであれこれと話をしながら時をすごした。プリアモスについて、ヘクトールについて、アエネアスから多くのことを聞き出しては、胸の奥でアエネアスに対する恋心を募らせた。さらに彼女は、オーロラの子メムノンはどんな鎧をつけていたのか、ディオメデスはどんな馬を連れていたのか、アキレスはどんな立派な体をしていたのかを聞き出した。しかし彼女はそれだけでは飽き足らずにこう言った。

「アエネアス様、ぜひとも最初から話してください。ギリシア人はどんな作戦を立てたのか。トロイのお城が陥落したときはどんなようすだったのか。それから、あなたたちが世界中をさまよっていたときの出来事を話してください。あなたたちは世界中の海と陸を七年もの間さまよいつづけてこられたのですから、さぞやいろんなことを経験されたことでしょう」

第一巻終わり

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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