問はず語り 巻一
後深草院 二条
一 十四の春
文永八年(1271)元旦、作者十四歳、後深草院二十九歳。院の御所で元旦の祝酒が行われ、作者の父大納言源雅忠は御薬の役を勤める。院から雅忠に、「今年からお前の女を我が側室に納れるように」とのお言葉があり、雅忠、はかしこまって退出した。[一の一]〔1たのむの雁〕1
くれ竹の(=枕詞)ひとよに春の立つ霞、(=女房たちは)今朝(けさ)しも待ち出でがほに(=様子で)花を折り(=着飾る)匂ひを争ひて並み居(=並んで座る)たれば、
我も人なみなみにさし出で(=人前に出る)たり。莟紅梅(つぼみこうばい)にやあらむ、七つに、紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、赤色の唐衣(からぎぬ)などにてありしやらん。梅唐草(からくさ)を浮き織りたる二小袖(ふたつこそで)に、唐垣(からかき)に梅を縫ひて(=刺繍)はべりしをぞ着たりし。
今日の御薬(=お屠蘇を献じる正月の儀式)には、大納言(=父)陪膳(ばいぜん)に参らる。とざま(=公式)の式(しき)果てて、また内(=御簾内)へ召し入れられて、台盤所の女房(=女官)たちなど召されて、如法(=いつも通り)、をれこだれたる(=くつろいだ)九献(くこん=酒宴)の式あるに、大納言、三々九(=三かける三)とて、とざまにても九返(ここのかへり)の献盃(けんぱい)にてありけるに、また「内々の御事(おんこと)にも、「その数にてこそ」と申されけれども、「この度は九三(=九かける三)にてあるべし」と仰(おほ)せありて、如法、上下酔ひ過ぎさせおはしましたる後、
御所の御土器(かはらけ=盃)を大納言に賜はすとて、
「この春よりは、たのむの雁(かり=お前の娘)も我が方によ」とて賜ふ。ことさらかしこまりて、九三返したまうてまかり出づるに、何とやらん、忍びやかに仰せらるる事ありとは見れど、何事とはいかでか知らむ。
二 鶴の毛衣
思いがけずも、その夜ある人から恋歌を添えて着物が贈られた。作者はその人を誰とも書いていないが、初恋の人「雪の曙」すなわち西園寺実兼(二十三歳。当時権中納言)であった事は、しぜんに分かるように次々記されてゆく。実兼は院が作者を側室とせられる事を知って、いち早く、こういう手を打ったのであろう。作者はこれを一度返したが、再び届けられたので受取り、翌日後嵯峨院御幸の時にこれを着て出仕し、父に問われ、偽って常磐井の准后からいただいたと答える。[一の二]〔2鶴の毛衣〕2
拝礼(=年賀の礼)など果てて後、局(つぼね)へすべりたるに、
「昨日(きのふ)の雪も今日よりはあとふみ(=文)つけん行く末(ゆくすゑ=今後)」
など書きて、御文(おんふみ)あり。紅の薄様(うすやう=鳥の子紙)八つ、濃き単衣(ひとへ)、萌黄の表着、唐衣、袴(はかま)、三小袖(みつこそで)、二小袖など、平包み(=風呂敷)にてあり。いと思はずにむつかし(=煩わしい)ければ、返し遣はすに、袖の上に、薄様の札にてありけり。見れば、
001つばさ(=肌)こそ重ぬる(=結婚)ことのかなはずと
着てだに馴(な)れよ鶴の毛ごろも
心ざしありてしたため賜(た)びたるを、返すも情けなき(=無情な)心地しながら、
002よそ(=別々)ながら馴(な)れてはよしやさ夜衣(さよごろも=寝具)
いとど袂(たもと)の朽ち(=涙で)もこそすれ
(=私を)思ふ心の末むなしからずは(=ば、いつか会いましょう)」など書きて返しぬ。
上臥し(=宿直)に参りたる(=留守)に、夜中ばかりに、下口(しもくち=裏口)の遣戸(やりど=引き戸)を打ち叩く人あり。何心なく、小さき女(め)の童(わらは)開けたれば、「さし入れて、使ひはやがて見えず」(=戸を叩く人は)とて、またありつるままの物あり。
003契りおきし(=愛を誓った)心の末の変らずは
一人かたしけ夜半(よは)の狭衣(=衣)
(=使いの人が帰ってしまったので、誰か分からないので)いづくへまた返しやるべきならねば留めぬ。
三日、法皇(=後嵯峨)の御幸(みゆき)この御所へなるに、この衣を着たれば、大納言、
「なべてならず色も匂ひも見ゆるは、御所(=後深草)より賜はりたるか」
と言ふも胸騒がしくおぼえながら、
「常磐井(ときはゐ=西園寺実氏邸、その妻)の准后(じゆごう=北山准后、今林准后、藤原貞子)より」
とぞ、つれなく答(いら)へはべりし。
三 つれなき一夜
正月十五日、院と結婚のため、河崎(かはさき)なる父の邸に呼ばれる。作者には実情が知らされていないので不審に思う。十六日、院の御幸があり、作者の寝所に入って来られた。作者が目をさまして見ると、院が馴れ顔に寝ていられる。驚いて逃げようとしたが放されず、今日まで恋いつづけて来た事をくどかれる。しかし拒み通して、その夜は明けた。[一の三]〔3御方違えの御幸〕3
十五日の夕つ方、河崎(=自宅)より迎へにとて人訪(たづ)ぬ。いつしか(=早すぎ)とむつかし(=面倒だ)けれども、否(いな)と言ふべきならねば出でぬ。見れば、何とやらむ、常の年々よりも、はえばえしく、屏風・畳も、几帳・引きもの(=仕切り)まで、心ことに見ゆるはと思へども、年の始めのことなればにやなど思ひて、その日は暮れぬ。
明くれば供御(くご=お食事)の何かとひしめく。「殿上人の馬、公卿の牛(=牛車)」などいふ。母(はは=祖母)の尼上(=久我尼)など来集まりてそそめく(=ざわざわする)時に、
「何事ぞ」
と言へば、大納言うち笑ひて、
「いさ(=いやなに)、今宵(こよひ)御方違へに御幸なるべしと仰せらるる時に、年の始めなれば、ことさらひきつくろふなり。その御陪膳(ごはいぜん=給仕)の料(れう=ため)にこそ迎へたれ(=お前を)」
と言はるるに、
「節分(せちぶん)にてもなし、何の御方違へぞ」
と言へば、
「あら言ふかひな(=幼い)や」
とて皆人笑ふ。
されどもいかでか知らむに、我が常に居たる方にも、なべてならぬ屏風たて、小几帳たてなどしたり。
「ここさへ晴れにあふ(=院が来る)べきか。かくしつらはれたるは」
など言へば、皆人笑ひて、とかくのこと言ふ人なし。
夕方になりて、白き三単衣(みつひとへ)、濃き袴を着るべきとて遣(おこ)せたり。空薫(そらだき=香り付け)などするさまも、なべて(=普通)ならず、ことごとしき(=大げさな)さまなり。灯ともして後、大納言の北の方、あざやかなる小袖(=肌着)を持ちて来て、「これ着よ」と言ふ。またしばしありて大納言おはして、御棹(おんさを=衣桁)に御衣(おんぞ)掛けなどして、
「御幸まで寝入らで宮仕(つか)ヘ。女房は何事もこはごはし(=無愛想)からず、人のまま(=言いなりに)なるがよきことなり」
など言はるるも、何の物教へとも心得やりたる方なし。何とやらんうるさきやうにて、炭櫃(すびつ)のもとにより伏して寝いりぬ。
〔4事あり顔なる朝帰り〕4
その後のこといかがありけん知らぬほどに、すでに御幸なりにけり。大納言、御車寄せ、何かひしめきて、供御参りにける折(をり)に、言ふかひなく寝入りにけり。
「起せ」
など言ひ騒ぎけるを聞かせおはしまして、
「よし、ただ寝させよ」
と言ふ御気色(=御意向)なりけるほどに、起す人もなかりけり。
[一の四]
これ(=私)は障子(しやうじ=襖)の内のくちに置きたる炭櫃に、しばしばかり掛かりてありしが、衣ひきかづきて寝ぬるのちの、何事も思ひ分かであるほどに、いつのほどにか寝おどろき(=はっと目覚める)たれば、ともし火もかすかになり、引物(ひきもの=垂れ幕)もおろしてけるにや、障子の奥に寝たるそばに、馴れ顔に寝たる人あり。
こは何事ぞと思ふより、起き出でていなんとす、起こしたまはず。
「稚(いはけな)かりし昔よりおぼしめし初めて、十(とお)とて四つの月日を待ち暮しつる」、
何くれ、すべて書きつづくべき言の葉もなきほどに仰せらるれども、耳にも入らず、ただ泣くよりほかのことなくて、人の御袂までかはく所なく泣き濡らしぬれば、慰めわびたまひつつ、さすが、情けなく(=強引に)ももてなしたまはねども、
「あまりにつれなくて年も隔て行くを、かかる便り(=機会)にてだになど思ひ立ちて、今は人もさとこそ(=関係したと)知りぬらめに、かくつれなくてはいかがやむ(=終わる)べき」
と仰せらるれば、
「さればよ、人知らぬ夢にてだになくて、人にも知られて、一夜の夢の覚むるまもなく物をや思はん(=悪い夢ではなく覚めることのない現実である)」
など案ぜらるるは、なほ心(=大人の心)のありけるにやとあさまし。
「さらば、などや『かかるべきぞ』ともうけたまはりて、大納言をもよく見せさせたまはざりける(=相談させる)」と、
「今は人に顔を見すべきかは」と、
口説きて(=愚痴をこぼして)泣きゐたれば、あまりに言ふかひなげにおぼしめして、うち笑はせたまふさへ心憂く悲し。
夜もすがら、つひに一つ言葉の御返事だに申さで、明けぬる音して、「還御は今朝にてはあるまじきにや(=ではないのか)」など言ふ音(=声)すれば、
「ことありがほなる朝がへりかな」
と独りごちたまひて、起き出でたまふとて、
「あさましく思はずなるもてなしこそ、振分髪の昔の契り(=縁)もかひなき心地すれ、いたく人目あやしからぬやうにもてなして(=完了)こそよかるべけれ。あまりにうづもれ(=引きこもり)たらば、人いかが思はむ」
など、かつは恨み、また慰めたまへども、つひに答(いら)へ申さざりしかば、
「あな力な(=どうしようもない)のさまや」
とて起きたまひて、御直衣などめして、「御車寄せよ」など言へば、大納言の音して、御かゆ参らせ(=召し上がる)らるる(=可能)にやと聞くも、また見るまじき人のやうに、昨日は恋しき心地ぞする。
四 しのぶの山
十七日、院から後朝の文が来た。作者は臥しつづけていて御返事をしない。昼ごろ、思いよらぬ人(実兼)から恋文が来る。それには返事をする。作者は自らの仕打ちに対して自責を感じる。[一の五]〔5重ねぬ袖〕5
還御なりぬと聞けども、同じさまにて、ひきかづきて寝たるに、いつのほどにか御文と言ふもあさまし。大納言の北の方、尼上(=久我尼)など来て、「いかに」「などか起きぬ」など言ふも、悲しければ、「夜より心地わびし(=悪)くて」と言へば、「新枕(にひまくら)のなごり(=影響)か」など、人思ひたるさまもわびしきに、この御文を持ちさわげども、誰かは見む。「御使(つか)ひ、立ちわづらふ。いかにいかに」と言ひわびて、「大納言に申せ」など言ふも、堪(た)へがたきに、「心地わぶらんは」とておはし(=来る)たり。「この御文を持てさわぐに、いかなる言ふかひなさぞ。御返事はまた(=いったい)申さじにや」とて、来る音す。
004あまた年さすがに馴れしさ夜衣(=お前)
重ねぬ袖に残る移り香
紫(むらさき)の薄様に書かれたり。この御歌をみて、面々(めんめん)に、「このごろの若き人にはたがひたり(=身固い)」など言ふ。いとむつかしく(=不愉快)て、起きも上がらぬに、「さのみ宣旨書(せむじがき=代筆)も、なかなか便なかりぬべし」など言ひわびて、御使の禄(ろく)などばかりにて、「言ふかひなく同じさまに伏してはべるほどに、かかるかしこき御文をもいまだ見はべらで」などや申されけん。
〔6煙の末〕
昼つ方思ひよらぬ人の文あり。見れば、
005「今よりや思ひ(=恋の思い)消えなん一方に
煙(けぶり)の末のなびきはてなば
これまでこそ、つれなき命(いのち)もながらへてはべりつれ。今は何事をか(=頼りにながらえよう)」などあり。「(消えねただ忍ぶの山の峰の雲)かかる心のあとのなきまで」と、彩(だみ)つけ(=彩色)にしたる縹(はなだ)の薄様にかきたり。「忍ぶの山の」とある所をいささか破(や)り
て、
006知られじな思ひみだれて夕煙
なびきもやらぬ(=なびいていない)下の心は
とばかり書きて遣はししも、とは何事ぞと、我ながらおぼえはべりき。
五 にひまくら
十七日の夕刻から夜明けまで。作者ついに院と新枕をかわす。しかし実兼に対しても心がひかれる。ここに愛欲の苦悩が始まるのである。そして十八日の暁、院と共に御所に入る。[一の六]〔7解けぬる下紐〕6
かくて日暮し(=一日)はべりて、湯などをだに見(み)入れ(=見向き)はべらざりしかば、「別(べち)の病(やまひ)にや」など申し合ひて、暮れぬと思ひしほどに、
「御幸」
と言ふ音すなり。
またいかならむと思ふほどもなく、引き開けつつ、いと馴れ顔に入りおはしまし(=いらっしゃっ)て、
「悩ましくすらん(=気分が悪い)は、何事にかあらん」
など御尋ねあれども、御答(いら)へ申すべき心地もせず、ただうち臥したるままにてあるに、添ひ臥したまひて、さまざまうけたまはり尽くすも、
いさやいかが(=さあどうかしら)とのみおぼゆれば、「(偽りの)なき世なりせば」と言ひぬべきに、うち添へて、「思ひ消えなん夕煙、一方にいつしか、なびきぬと知られんも、あまり色なく(=そっけない)や」
など思ひわづらひて、つゆの御答(いら)へも聞こえさせぬほどに、今宵はうたて情けなく(=とても無情に)のみあたり(=私を扱い)たまひて、薄き衣は、いたくほころび(=解ける)てけるにや、残る方なくなり行くにも、
世に有り(=生きながらえる)明けの名さへ恨めしき心地して、
007心よりほかにとけぬる下紐(したひぼ)の
いかなる節(=時)に憂き名ながさん
など思ひつづけしも、心(=冷静さ)はなほありけると、我ながらいと不思議なり。
「形は世々(よよ=次の世)に変るとも契り(=愛の誓い)は絶えじ、逢ひ見る夜半(よは)は隔つとも、心の隔てはあらじ」
など数々うけたまはるほどに、(=夢を)むすぶほどなき短夜(みじかよ)は、明けゆく鐘の音すれば、
「さのみ明け過ぎて、もて悩まるる(=迷惑がられる)も所せし(=気詰まり)」
とて起き出でたまふが、
「あかぬなごり(=別れ)などはなくとも、見だに送れ(=せめて見送れ)」
と、せちにいざなひたまひしかば、これさへさのみつれなかるべきにもあらねば、夜もすがら泣き濡らしぬる袖の上に、薄き単衣ばかりを引き掛けて、立ち出でたれば、十七日の月、西に傾(かたぶ)きて、東は横雲わたるほどなるに、桜萌黄(さくらもよぎ)の甘の御衣(かんのおんぞ=狩衣)に、薄色の御衣、固文(かたもん)の御指貫(さしぬき)、いつよりも目とまる心地せしも、誰(た)がならはし(=教えたこと)にかとおぼつかなく(=いぶかしい)こそ。
[一の七]〔8心も知らで〕
隆顕(=叔父、善勝寺)の大納言、縹の狩衣(かりぎぬ)にて、御車寄せたり。為方(ためかた)の卿、勘解由(かげゆ)の次官(すけ)と申しし、殿上人には(=として)一人はべりし。さらでは(=その他に)、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)二三人、召次(めしつぎ=召使い)などにて、御車さしよせたるに、折り知り顔なる鳥(=鶏)の音も、しきりにおどろかし顔なるに、観音堂の鐘の音、ただ我が袖に響く心地して、「(憂しとのみひとへにものは思ほえで)左右(ひだりみぎ)にも(濡るる袖かな)とは、かかることをや(=愛憎二重)」など思ふに、なほ出でやりたまはで、
「ひとり行かん道(みち)の御送りも」
など、いざなひたまふも、「(山の端の)心も知らで(行く月はうはの空にて影や絶えなむ)」(=あなたの本心を知らずに)など思ふべき御事(=お方)にてはなけれども、思ひ乱れて立ちたるに、隈(くま)なかりつる有明(ありあけ)の影、しらむほどになりゆけば、
「あな心苦し(=不憫)のやうや」
とて、やがて引き乗せたまひて、御車引き出でぬれば、かくとだに言ひ置か(=言い残さ)で、昔物語めきて、何となり行くにかなどおぼえて、
008鐘の音におどろくとしもなき(=一睡もしない)夢(=抱擁)の
なごりも悲し有明の空
道すがらも、今しも盗み出でなどしてゆかん人のやう(=まるで今から私を盗んで行く人のように)に契り(=愛を誓い)たまふも、をかしとも言ひぬべきを、つらさを添へて行く道は、涙のほかは言問(ことと)ふ方(=見舞う人)もなくて、おはしまし着きぬ(=冷泉富小路御所にお着きになる)。
六 逃れぬ契り
作者は院と結ばれて後、改めて御所に入った。そこは幼少の昔から住み慣れた所であるが、今は作者の位置が全く変わったので、しかもその位置は日蔭の位置であるから、気がねが多く不安である。角の御所(=富小路御所の東北角の御殿)の中門に御車引き入れて、降りさせたまひて、善勝寺大納言(=隆顕)に、
十日ばかり御所にいて里に帰り、しばらく里住みしてまた御所に帰る。しかし周囲の者に中傷せられ、東二条院(後深草院后妃)の御機嫌も悪く、物思いの多い日々を送る。
「あまりに言ふかひなきみどり子のやうなる時に、うち捨てがたくて伴ひつる。しばし人に知らせじと思ふ。後ろみせよ」
と言ひ置きたまひて、常の御所(つねのごしよ=富小路御所の主の居場所)へ入らせたまひぬ。
〔9逃れぬ御契〕7
幼くよりさぶらひ馴れたる御所ともおぼえず、恐ろしくつつましき心地して、立ち出で(=家を出た)つらんことも悔しく、何となるべきことにかと思ひつづけられて、また涙のみ暇(いとま)なきに、大納言(=父)の音(=声)するは、おぼつかなく思ひて(=不安になって来た)かとあはれなり。善勝寺、仰せ(=ご命令)のやう(=父に)つたふれば、
「今さら、かく中々(=こんな中途半端)にてはあしくこそ。ただ日ごろのさまにて召しおかれてこそ。忍ぶ(=隠す)につけて漏れん名も中々にや(=かえって悪い)」
とて出でられぬる音するも、げにいかなるべきことにかと、今さら身の置き所なき心地するも悲しきに、入らせたまひて、尽きせぬこと(=愛の誓い)をのみうけたまはるを、さすが、次第(しだい)になぐさまるるこそ、これや逃(のが)れぬ御契りならむとおぼゆれ。
[一の八]
十日ばかり、かくてはべりしほどに、夜離(よがれ=通わない夜)なく見たてまつるにも、煙(=雪の曙)の末、いかがとなほも心にかかるぞ、うたてある(=情けない)心なりし。
〔10待ち見るかいある御文〕
さてしも、かくては中々あしかるべきよし、大納言しきりに申して、(=私は御所から)出でぬ。人(=家人)に見ゆるも堪へがたく悲しければ、なほも心地の例ならぬなどもてなし(=見せかけ)て、我が方(=部屋)にのみゐたるに、
「このほどに(=この間まで)ならひて(=親しむ)、積り(=日数が経つ)ぬる心地するを。とくこそ参らめ」
など、また御文こまやかにて、
009かくまでは(=これ程愛しているとはお前は)思ひ遣(おこ)せじ人知れず
見せばや袖にかかる涙を
あながちに厭(いとは)しくおぼえし御文も、今日(けふ)は待ち見るかひある心地して、御返事(かへりごと)もくろみ(=凝り)すぎしやらむ、
010我ゆゑの思ひならねどさよ衣
涙の聞けば濡るる袖かな
〔11 人の物言いさがなさ〕
いくほどの日数(ひかず)も隔てで、この度は常のやうにて(=女官として)参りたれども、何とやらむ、そぞろはしき(=落ち着かない)やうなることもあるうへ、いつしか人の物言ひさがなさは、
「大納言の秘蔵(ひさう)して女御参り(=入内)の儀式(ぎしき)に、もてなしまゐらせたる」
などいふ凶害(けうがい=中傷)ども出で来て、いつしか女院(=后、東二条)の御方ざま、快からぬ御気色(ごきそく)になりもて行くより、いとど物すさまじき心地しながら、まがよひ(=女官か女御かはっきりしないで)ゐたり。
御夜離(よが)れと言ふべきにしもあらねど、積もる日数もすさまじく、また参る人(=他の愛人)の出(い)だし入れも、人のやうに子細(しさい=異議)がましく申すべきならねば、その道芝(みちしば=取り持ち役)をするにつけても、「世(=夜のならわし)に従ふは憂きならひかな」とのみおぼえつつ、とにかくに、「(長らへば)またこのごろやしのばれん(憂しと見し世ぞ今は恋しき、百人一首84)」とのみおぼえて、明け暮れつつ、秋にもなりぬ。
七 東二条院の御産
この御産は後に「宮」「姫宮」「今御所」「女院」「遊義門院」など記される怜子内親王の御誕生と見なければならぬ。しかし史実によれば、それは昨年、文永七年九月十八日であり、ここに文永八年八月二十余日として記されたのは不審である。作者記憶の誤りか。それとも構想うへ、わざとこのように仕組んだものか。[一の九]〔12東二条院の御産〕8
八月にや、東二条院の御産、(=富小路御所の)角の御所にてあるべきにてあれば、御年もすこし高くならせたまひたる上(=高齢出産)、先々(=以前)の御産も煩(わずら)はしき(=難産)御ことなれば、みな肝をつぶして、大法、秘法残りなく行はる。七仏薬師、五壇の御修法(しゆほふ)、普賢延命、金剛童子、如法愛染王(あいぜんわう)などぞ聞こえし。五壇の軍荼利(ぐんだり)の法は尾張の国(=父の知行)にいつも勤(つと)むるに、この度はことさら御心ざしを添へてとて、金剛童子のことも、大納言申し沙汰(=行う)しき。御験者には、常住院の僧正参らる。
二十日(=八月二十日)あまりにや、その御気(け=産気)おはしますとて、ひしめく。いまいまとて二三日過ぎさせおはしましぬれば、誰々(たれたれ)も肝(きも)心をつぶしたるに、いかにとかや、「変る御気色(みけしき)見ゆる(=様子が変だ)」とて、御所へ申したれば、入らせおはしましたるに、いと弱げなる御気色なれば、御験者近く召されて、御几帳ばかり隔てたり。如法愛染の大阿闍梨にて、大御室(おむろ=有明の月)御伺候(ごしこう)ありしを、近く入れまゐらせ、
「かなふまじき(=危険な)御気色に見えさせたまふ、いかがしはべるべき」
と申されしかば、
「定業亦能転(ぢやうごふやくのうてん)は、仏(ぶつ)菩薩の誓ひなり、さらに御大事あるべからず」
とて、御念誦あるにうち添へて、御験者、証空が命に代はりける本尊にや(=五の二〇)、絵像(ゑざう)の不動(=明王)、御前(まえ)に掛けて、
「奉仕(ぶじ)修行者(しゆぎやうじや)、猶如薄伽梵(ゆによばかぼん)、一持秘密呪(いつぢひみつじゆ)、生々而加護(しやうしやうにかご)(=不動経)」
とて、数珠(ずず)押しすりて、
「我、幼少の昔は、念誦の床(ゆか)に夜を明かし、長大の今は、難行苦行に日を重ぬ、玄応(=神仏の感応)擁護(げんおうおうご)の利益(りやく)むなしからんや」
と、もみ伏するに、すでに(=出産)と見ゆる御気色あるに力をえて、いとど煙も立つほどなる。
女房たちの単衣襲(ひとへがさね)、生絹(すずし)の衣(きぬ)、面々に押し出だせば、御産奉行取りて、殿上人に賜(た)ぶ。上下の北面、面々に御誦経の僧に参る(=差し上げる)。階下(かいか)には、公卿着座して、皇子御誕生を待つ気色なり。陰陽師(おんやうじ)は庭に八脚(やつあし)を立てて、千度(せんど)の御祓(はらへ=祝詞)を勤む。殿上人これ(=形代)を取り次ぐ。女房たちの袖口を出だして、これを取りわたす。御随身(みずいじん)、北面の下臈、神馬(じんめ)を引く。御拝(=院の拝礼)ありて、二十一社へ引かせらる。
人間に生を受けて、女の身を得るほどにては、かくてこそあらめと、めでたくぞ見えたまひし。
七仏薬師の大阿闍梨召されて、伴僧三人、声すぐれたる限りにて、薬師経を読ませらる。「見者(けんじや)歓喜(くわんぎ)」と言ふわたり(=あたり)を読む折、御産なりぬ。まづ内外(うちと)、「あなめでた」と申すほどに、内(=甑落とし)へころばしし(=女の子誕生)こそ、本意(ほい)なくおぼえさせおはしまししかども、御験者の禄(ろく)いしいし(=順次)は常のことなり。
八 後嵯峨院御悩
御産七夜の御祝の後、夜半頃に怪異があり、それより後嵯峨法皇御発病。[一の一〇]〔13招魂の御祭り〕9
この度は姫宮にては渡らせ(=いらっしゃる)たまへども、法皇ことにもてなしまゐらせて、五夜、七夜などことにはべりしに、七夜の夜(よ)、事ども果てて、院の御方の常の御所にて、御物語あるに、丑の時ばかりに、橘の御壺(つぼ=中庭)に大風の吹く折に、荒き磯に波の立つやうなる音おびたたしくするを、
「何事ぞ、見よ」
と、仰せあり。見れば、頭(かしら)は海賦(かいふ)などいふもののせい(=背丈)にて、しだいに盃(さかづき)ほど、陶器(すゑき)ほどなるものの、青めに白きが、つづきて十ばかりして、尾は細長(ほそなが)にて、おびたたしく光りて、飛び上がり飛び上がりする。
「あな悲し(=恐ろしい)」
とて逃げ入る。廂にさぶらふ公卿たち、
「何か見騒ぐ、人魂(ひとだま)なり」
と言ふ。
「大柳の下に、布海苔(ふのり)といふ物をときて、うち散らしたるやうなる物あり」などののしる。
やがて御占(うら)あり。法皇の御方の御魂(たま)のよし奏し申す。今宵よりやがて、招魂(せいこ)の御祭(まつり)、泰山府君(たいざんぶくん)など祭らる。
10 かくて九月(ながつき)の頃にや、法皇御悩み(=病気)と言ふ。腫(は)るる御事(=脚気)にて、御灸(きう)いしいしと、ひしめきけれども、さしたる御験(しるし)もなく、日々に、重る御気色のみありとて、年も暮れぬ。
九 天下諒闇
文永九年(1271)正月末、後嵯峨上皇御危篤、嵯峨殿に遷りたまう。後深草院(新院)は作者を共として嵯峨殿に御幸せられ、大宮院(後嵯峨上皇后妃)・東二条院(大宮院妹、後深草院后妃)は御同車で御匣殿(後深草院侍妾)を共として同じく嵯峨殿へ御幸。[一の一一]〔14法皇嵯峨御幸〕
二月九日、両六波羅探題、お見舞いに参る。二月十一日亀山天皇行幸、十二日御滞在、御兄後深草院に御対面、共に父院の御悩を悲しみたまう。
二月十五日、ついに先日お見舞いに参った南六波羅の北条時輔が討たれ、邸宅が焼かれる煙を遠望して作者は世の無常を痛感する。
二月十七日、後嵯峨院崩御。十八日御葬送。
あらたまの年ともにも、なほ御わづらはしければ、何事も映(は)えなき御事なり。正月の末になりぬれば、かなふまじき御さまなりとて、嵯峨(=嵯峨殿、今の天龍寺)御幸なる。御輿(みこし)にて入らせたまふ。新院(=後深草)やがて御幸、御車の後(しり)に参る。両女院(=大宮院と東二条院)同車にて、御匣殿(みくしげどの=久明親王の母三条房子)、御後(しり)に参りたまふ。
道にて参るべき御煎(せん)じ物(=薬)を、種成(たねなり)・師成(もろなり=医師)二人して、御前(まえ)にて御水瓶(みづがめ)二つにしたため(=調合して)入れて、経任(つねたふ=中御門経任が)、北面の下臈信友に仰せて持たせられたるを、内野(うちの=途中の大内裏跡)にて、参らせむとするに、二つながら露ばかりもなし。いと不思議なりしことなり。
「それより、いとど臆(おく)せさせたまひてやらん、御心地も重らせたまひて見えさせおはします」
などぞ聞きまゐらせし。
この御所は、大井殿(=嵯峨殿の大井川に面する御殿)の御所に渡らせたまひて、隙(ひま)なく、男(をとこ)・女房・上臈・下臈をきらはず、「ただ今のほどいかにいかに」と申さるる御使、夜昼隙なきに長廊(ながらう)をわたるほど、大井川(=桂川渡月橋あたり)の波の音、いとすさまじくぞおぼえはべりし。
二月(きさらぎ)の初めつ方になりぬれば、今は時を待つ御さまなり。九日にや、両六波羅、御訪(とぶら)ひに参る。面々に嘆き申すよし、西園寺の大納言(=実兼)、披露(ひろう)せらる。十一日は行幸(=亀山天皇が大炊御門万里小路殿から)、十二日は御逗留(ごとうりう)、十三日還御などは、ひしめけども、御所の内は、しめじめとして、いと取り分きたる物の音(ね)もなく、新院、(=天皇と)御対面ありて、かたみに御涙所せき(=あふれる)御気色も、「よそ(=他の者)さへ露の」と申しぬべき心地ぞせし。
〔15東岱前後の習い〕
さるほどに、十五日の酉の刻(とき)ばかりに、都の方におびたたしく煙立つ。いかなる人の住まひ所、跡なくなるにかと聞くほどに、「六波羅の南方(みなみかた)、式部大輔(たいふ=時輔)討たれにけり。そのあとの煙なり」と申す。あへなさ(=はかなさ)申すばかりなし。九日は(=大輔は)君の御病の御訪らひに参り、今日とも知らぬ御身に先立ちて、また失(う)せにける。東岱(とうたい=死期)前後(ぜんご)のならひ、始めぬことながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは、物など仰せらるることもいたくなかりしかば、かやうの無常(=大輔の死)も知らせおはしますまでもなし。
[一の一二]〔16法皇崩御〕11
さるほどに、十七日の朝(あした)より、御気色(みけしき)変るとてひしめく。御善知識(おんぜんぢしき=臨終の僧)には経海(けいかい)僧正また往生院の長老参りて、さまざま御念仏も勧め申され、
「今生(こんじやう)にても十善の床(ゆか)を踏んで(=天皇になり)、百官に斎(いつ=仕える)かれましませば、黄泉路(よみぢ)未来も頼みあり。はやく上品上生のうてなに移りましまして、還りて、娑婆の旧里に留めたまひし衆生も、導きましませ」
など、さまざま、かつはこしらへ(=なだめ)、かつは教化(けうげ)し(=後嵯峨に)申ししかども、三種の愛に心を留め、懺悔(ざんげ)の言葉に道をまどはして、つひに教化の言葉に、ひるがへしたまふ御気色なくて、文永九年二月十七日、酉の時、御年五十三にて、崩御なりぬ。
一天かきくれて万民憂(うれ)へに沈み、花の衣手(ころもで)おしなべてみな黒みわたりぬ。
十八日、薬草院殿(=嵯峨殿の中の)へ、(=後嵯峨の遺体は)送りまゐらせらる。内裏(だいり=万里小路殿)よりも、頭の中将、御使に参る。御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院(=親王たち)、みなみな御供(とも)に参らせたまふ。その夜の御あはれさ筆にも余りぬべし。
経任、さしも御あはれみ(=後嵯峨の寵愛)深き人なり、出家ぞせんずらんと、皆人申し思ひたりしに、御骨(おんこつ)の折、なよらかなるしじら(=縮羅織)の狩衣にて、瓶子(へいし)に入らせたまひたる御骨を持たれたりしぞ、いと思はず(=意外)なりし。
新院、御嘆きなべてには過ぎて、夜昼、御涙の隙(ひま)なく見えさせたまへば、さぶらふ人々も、よその袖さへ絞りぬべきころなり。天下諒闇(りやうあん=服喪)にて、音奏(おんそう)警蹕(けいひつ=声掛け)とどまりなどしぬれば、花もこの山のは墨染にや咲くらんとぞおぼゆる。
大納言(=父)は人より黒き御色を賜はりて、この身にも御素服(そふく)を着るべき由を申されしを、
「いまだ幼なきほどなれば、ただおしなべたる(=世間並み黒)色にてありなん、取り分き染めずとも」
と、院の御方御気色あり。
十 大納言の嘆き
作者の父雅忠は後嵯峨院の崩御を嘆き、出家を願い出たが御許しがない。とかくする内に亀山天皇(大覚寺統)と後深草上皇(持明院統)との不和が生じ、鎌倉幕府へ御使いが下るという煩わしい事件が生じて五月になった。[一の一三]〔17父の辞状〕12
さても大納言、たびたび大宮院、新院の方へ、出家の暇(いとま)を申さるるに、おぼしめす子細ありとて、御許されなし。人よりことにはべる嘆きのあまりにや、日ごとに御墓に参りなどしつつ、重ねて実定の大納言をもちて新院へ申さる。
「九歳にして、初めて君に知られたてまつりて、朝廷にひざまづきしよりこの方、時に従ひ折にふれ、(=故院の)御恵みならずといふことなし。ことに、父に遅れ母(=久我尼)の不孝(ふけう=不仲)をかうぶりても、なほ君の恩分(おんぶん)を重くして、奉公の忠をいたす。されば、官位(くわんゐ)昇進(しようしん)、理運(りうん)を過ぎて、なほ面目(めんぼく)をほどこししかば、叙位・除目の朝(あした)には、聞書(ききがき)をひらきて、笑(ゑ)みをふくみ、内外に恨みなければ、公事(くじ)に仕(つか)ふるに物憂からず。
「蓬莱宮(ほうらいきう=院の御所、仙洞御所、富小路御所のこと)の月をもてあそんで、豊明(とよのあか)りの夜な夜なは、淵酔(ゑんすゐ)舞楽(ぶがく)に袖をつらねて、あまた年、臨時(りんじ)調楽(てうがく)の折々は、小忌(をみ)の衣(ころも)に立ち慣れて、御手洗(みたらし)川に影を映す。すでに、身(み=私)正二位、大納言一臈(いちらふ=首座)、氏(=源氏)の長者を兼(けん)ず。すでに大臣の位(くらゐ)を授けたまひしを、近衛大将を経(ふ)べきよしを、道忠右大将書き置く状を申し入れて、この位を辞退申すところに、君すでに隠れましぬ。我、世にありとも、頼む陰枯れ果てて、立ち宿るべき方なく、何の職にゐても、そのかひなくおぼえはべる。齢(よはひ)すでに五十路(いそぢ)に満ちぬ、残り幾年(いくとせ)かはべらん。恩を捨てて無為に入るは、真実(しんじち)の報恩なり(=『清信士度人経』)。御許されをかうぶりて、本意を遂げ、聖霊の御跡(=後嵯峨)をも訪らひ申すべき」
よし、ねんごろに申されしを、重ねてかなふまじきよし仰せられ、また直(ぢき)にもさまざま仰せらるることもありしかば、一日二日過ぎ行くほどに、忘るる草の種を得(え)けるにはあらねども、自然に過ぎつつ、御仏事なにかの営みに、明かし暮しつつ、御四十九日にもなりぬれば、御仏事など果てて、みな都へ帰り入らせおはしますほどより、御政務(ごせいむ=後深草院政か亀山天皇親政か)のことに関東(=鎌倉)へ御使下されなどすることも、わづらはしくなりゆくほどに、あはれ五月(さつき)になりぬ。
十一 大納言発病
五月十四日、父雅忠発病。七月十四日、雅忠は六角櫛笥(=京都の地名)の家から河崎邸に移り、すでに死を観念して作者を呼ぶ。しかし作者の妊娠を知ると、皇子御誕生に希望をかけ、再起を祈願する。[一の一四]〔18父の病い〕13
五月はなべて、袖にも露のかかる頃なればにや、大納言の嘆き、秋にも過ぎて露けく見ゆるに、さしも一夜もあだには(=女性なしで)寝じとするに、さやうのこともかけても(=少しも)なく、酒などの遊びもかき絶えなきゆゑにや、「如法、やせ衰へたる」など申すほどに、五月十四日の夜、大谷(おほたに)なる所にて念仏のありし、聴聞(ちやうもん)して帰る車にて、御前(ごぜん=先駆けの者)などもありしに、
「あまりに色の黄に見えたまふ、いかなることぞ」
など申し出だしたりしを、怪しとて、医師(くすし)に見せたれば、
「黄病(きやまひ)といふことなり、あまりに物を思うて付く病なり」
と申して、灸治(きうぢ)あまたするほどに、いかなるべきことにかと、あさましきに、次第に重(おも)り行くさまなれば、思ふはかりなく(=見当もつかない)おぼゆるに、わが身さへ六月(みなづき)のころよりは、心地も例ならず(=妊娠)、
いとわびし(=つわりで苦しい)けれども、かかる中なれば、何とかは言ひ出づべき。大納言は、
「いかにもかなふまじき(=不治である)こととおぼゆれば、御所(=後嵯峨院)の御供にいま一日もとくと思ふ」
とて、祈(いの)りなどもせず、しばしは六角櫛笥(ろくかくくしげ)の家(や=久我尼の家)にてありしが、七月十四日の夜、河崎の宿所へ移ろひしにも、(=後妻の)幼き子供は留めおきて、静かに臨終(りんじゆう)のことどもなど思ひしたためたき心地にて、(=私は)大人しき子の心地にて、一人まかりてはべりしに、心地例ざまならぬを、しばしは我がことを嘆きて物なども食はぬと思ひて、とかく慰められしほどに、しるきことのありけるにや、
「ただならず(=妊娠)なりにけり」
とて、いつしかわが命をもこの度ばかりは(=生き延びたい)と思ひなりて、初めて中堂にて如法(=型のごとく)、泰山府君といふこと七日祀(まつ)らせ、日吉にて七社(ななやしろ)の七番(ばん)の芝田楽(しばでんがく)、八幡(やはた)にて一日の大般若(はんにや)、(=賀茂の)河原にて石の塔、なにくれと沙汰せらるるこそ、我が命の惜しさにはあらで、この身の事(=お産)の行末の見たさにこそとおぼえしさま、罪深くこそおぼえはべれ。
十二 風待つ露
七月二十日頃、作者はまず河崎邸から御所に帰る。院は作者の妊娠を聞いて、一しお憐れをかけられるが、作者には、それもいつまでつづくことかと思われ、また御匣殿が先月お産で死なれたこと、父の病気が次第に重くなってゆくことなどが心細い。[一の一五]〔19風待つ露〕14
七月二十七日の夜、院は作者を寝殿に連れ出して、心からやさしく慰めて下さる。その夜更けに河崎から急の使いがあり、作者は取りあえず河崎へ行く。あとを追うように院が河崎へ御幸なされ、雅忠をいたわり、互に悲しい対話をかわされる。
二十日ごろには、さのみいつとなき(=父の死がいつということはない)ことなれば、御所へ参りぬ。ただにもなき(=妊娠)などおぼしめされて後は、ことにあはれどもかけさせおはしますさま、何も、いつまで草(=キヅタ)のとのみおぼゆるに、御匣殿さへこの六月に産するとて失せたまひにしも、人の上かはと恐ろしきに、大納言の病のやう、つひにはかばかしからじと見ゆれば、何となる身のとのみ嘆きつつ、
七月も末になるに、二十七日の夜にや、常よりも御人少なにてありしに、「寝殿の方へいざ」と仰せありしかば、御供に参りたるに、人の気配もなき所なれば、静かに昔今の御物語ありて、
「無常のならひも、あぢきなくおぼしめさるる」
など、さまざま仰せありて、
「大納言もつひには、よも(=助かるまい)とおぼゆる。いかにもなりなば、いとど頼む方なくならんずるこそ。我よりほかは誰かあはれもかけんとする」
とて、御涙もこぼれぬれば、「問ふにつらさ(=慰めがかえってつらい。以下頻出)」もいと悲し。
月なきころなれば、灯籠(とうろ)の火かすかにて、内も暗きに、人知れぬ御物語、さ夜更くるまでになりぬるに、うち騒ぎたる人音して(=私を)尋ぬ。
「誰ならむ」
と言ふに、河崎より
「いまと見ゆる」
とて、告げたるなりけり。
15 とかくのこともなく、やがて出づる道すがらも、
「『はや、果てぬ』とや聞かむ」
と思ひ行くに、急ぎ行くと思へども、道の遥けさ、東路(あづまぢ)などを分けん心地するに、行き着きて見れば、なほながらへておはしけりと、いとうれしきに、
「風待つ露も消えやらず、心苦しく思ふに、ただにもなし(=妊娠)とさへ見置きて、ゆかん道の空(=気持ち)なく」
など、いと弱げに泣かるるほどに、更けゆく鐘の声、ただ今聞こゆるほどに「御幸」と言ふ。いと思はずに、病人も思ひ騒ぎたり。
[一の一六]
御車さし寄する音すれば、急ぎ出でたるに、北面の下臈二人、殿上人一人にて、いとやつして、入らせたまひたり。二十七日の月、ただ今山の端(は)分け出づる光もすごきに、吾亦紅(われもかう)織りたる薄色の御小直衣(こなほし)にて、とりあへず、おぼしめし立ちたるさまも、いとおもだたし(=光栄だ)。
「今は狩(かり)の衣(ころも)を引きかくるほどの力もはべらねば、見えたてまつる(=お会いする)までは思ひよりはべらず。かく入りおはしましたると、うけたまはるなん、今はこの世の思ひ出なる」
よしを奏し申さるるほどなく、やがて引き開けて入らせたまふほどに、起きあがらむとするも、かなはねば、
「たださてあれ」
とて、枕に御座(ござ)をしきて、つい居させたまふより、袖の外(ほか)まで漏る御涙も所せく、
「御幼くより馴れつかうまつりしに、今はと聞かせおはしましつるも悲しく、いま一度とおぼしめし立ちつる」
など仰せあれば、
「かかる御幸のうれしさも(=身の)置き所なきに、この者が心苦しさなん、思ひやる(=気を晴らす)方なくはべる。母には二葉にて遅れにしに、我のみと思ひはぐくみはべりつるに、ただにさへはべらぬ(=妊娠)を見置きはべるなん、あまたの愁(うれ)へにまさりて、悲しさも、あはれさも、言はん方なくはべる」
よし、泣く泣く奏せらるれば、
「ほどなき袖(=庇護)を、我のみこそ。(=往生の)まことの道の障(さは)りなく」
などこまやかに仰せありて、
「ちと休ませおはしますべし」
とて立たせたまひぬ。明け過ぐるほどに、(=院が)いたくやつれたる(=質素な)御さまも、そら恐ろしとて、急ぎ出でたまふに、久我太政大臣(=祖父)の琵琶とて持たれたりしと、後鳥羽院の御太刀(おんたち)を、遥かに移され(=隠岐に流され)たまひけるころとかや太政大臣に賜はせたりけるとてありしを、御車に参らす(=院にさし上げる)とて、縹の薄様の札にて、御太刀の緒に結びつけられき。
011別れても三世(みよ)の(=主従の)契りのありと聞けば
なほ行末(=来世)を頼むばかりぞ
「あはれに御覧ぜられぬる。何事も心やすく思ひ置け」
など、返すがへす仰せられつつ、還御なりて、いつしか(=さっそく)御自らの御手にて、
012この度は憂き世のほかに巡り会はん
待つ暁(あかつき=弥勒菩薩が現れる)の有明の空
「(=贈物が)何となく御心に入り(=気に入る)たるもうれしく」
など思ひ置かれ(=気を配り)たるも、あはれに悲し。
十三 最後の教訓
八月二日、善勝寺大納言隆顕(作者母方の叔父)、帝の御使として河崎邸に来る。雅忠喜んで饗応する。その夜、死を覚悟した雅忠は、作者に最後の教訓を与える。[一の一七]〔20着帯〕16
八月二日、いつしか善勝寺大納言、
「御帯(=岩田帯)」
とて持ちてきたり。
「『諒闇(りやうあん=喪服)ならぬ姿にてあれ』と仰せ下されたる」
とて、直衣にて、前駆(ぜんくう)・侍(さぶらひ)、ごとごとしくひきつくろひたるも、見る折(=父が出産を見られる間に)とおぼしめし急ぎけるにやとおぼゆ。病人(やまひびと)もいと喜びて、「献盃」など言ひ営(いとな)まるるぞ、これや限りとあはれにおぼえはべりし。御室より賜はりて秘蔵せられたりし塩竈(しほがま)といふ牛をぞ(=善勝寺大納言への礼に)引かれたりし。
〔21父の遺戒〕
今日などは(=父親の)心地も少しおこたるやうなれば、もしやなど思ひゐたるに、更けぬれば、かたはらにうち休むと思ふほどに、寝入りにけり。
おどろかされて起きたるに、(=父は)
「あなはかなや、今日明日とも知らぬ道に出で立つ嘆きをも忘られて、ただ心苦しき(=お前がかわいそうな)ことをのみ思ひゐたるに、(=お前が)はかなく(=頼りなく)寝たるを見るさへ悲しうおぼゆる。さても二つにて母に別れしより、我のみ心苦しく、あまた子どもありと言へども、おのれ(=お前)一人に三千の寵愛もみな尽くしたる心地を思ふ。笑めるを見ては、百(もも)の媚(こび)ありと思ふ、愁へたる気色を見ては、ともに嘆く心ありて、十五年の春秋を送り迎へて、いますでに別れなんとす。(=お前は)君に仕へ世に恨みなくは、慎みて怠ることなかるべし。思ふによらぬ世のならひ、もし君にも世にも恨みもあり、世に住む力なくは、急ぎてまことの道に入りて、我が(=自分)後生をも助かり、ふたりの親の恩をも送り、一つ蓮(はちす)の縁と祈るべし。世に捨てられ、便(たよ)りなしとて、また異君(こときみ)にも仕へ、もしはいかなる人の家にも立ち寄りて、世に住むわざをせば、亡きあとなりとも、不孝の身と思ふべし。夫妻(ふさひ=男女)のことにおきては、この世のみならぬことなれば力なし。それも髪をつけて(=出家せず)好色(かうしよく=遊女)の家に名を残しなどせんことはかへすがへす憂かるべし。ただ世を捨てて後は、いかなるわざ(=生活手段)も苦しからぬことなり」
など、いつよりもこまやかに言はるるも、これや教への限りならんと悲しきに、明けゆく鐘の声聞こゆるに、例の下に敷くおほばこの蒸したるを、仲光(=乳母の夫仲綱の嫡子)持ちてまゐりて、「敷きかへん」と言ふに、
「今は近づきておぼゆれば、何もよしなし。何まれ(=であれ)、まづこれに食はせよ」
と言はる。ただいまは何をかと思へども、しきりに
「我が見る折、とくとく」
と言はるるより、今ばかりこそ見られたりとも後はいかにと、あはれにおぼえしか。芋巻といふ物を土器(かはらけ)に入れて持ちて来たれば、(=父)
「かかるほど(=妊娠中)には食はせぬ物を」
とて、よに悪(わろ)げに思ひたるもむつかしくて、紛らかして取り除けぬ。
十四 涙の海
文永九年八月三日朝、雅忠五十歳にて薨去。四日夜、神楽岡にて火葬。[一の一八]〔22父の臨終〕17
明けはなるる(=夜明け)ほどに、「聖(ひじり)呼びに遣はせ」など言ふ。七月(ふみづき)のころ、八坂の寺の長老呼びたてまつりて、頂き剃り、五戒受けて、蓮生(れんせう)と名付けられて、やがて善知識と思はれたりしを、など言ふことにか、三条の尼上(=久我尼)、「河原の院の長老、浄光房といふ者に沙汰せさせよ」としきりに言ひなして、それになりぬ。「変る気色あり」と告げたれども、(=浄光房は)急ぎも見えず。
さるほどに、すでにとおぼゆるに、(=父は)「起こせ」とて、仲光といふは仲綱が嫡子(ちやくし)にてあるを、幼なくより生(お)ほしたてて身放たず使はれしを呼びて、起されて、やがて後ろに置きて、寄りかかり(=脇息)の前に、女房一人よりほかは人なし。これはそばにゐたれば、「手の首とらへよ」と言はる。とらへて居たるに、
「聖の賜(た)びたりし、袈裟は」
とて請ひ出でて、長絹(ちやうけん)の直垂(ひたたれ)の上ばかり着て、その上(うへ)に袈裟かけて、
「念仏、仲光も申せ」
とて、二人して時の半(なか=一時間)らばかり申さる。
日のちと差し出づるほどに、ちと眠(ねぶ)りて、左の方へ傾くやうに見ゆるを、なほよくおどろかして、念仏申させたてまつらんと思ひて、膝をはたらかしたる(=動かす)に、きとおどろきて目を見上ぐるに、過たず見合はせたれば、
「(=お前は)何とならんずらんは」
と言ひも果てず、文永九年八月三日、辰の初め(=午前七時)に、年五十にて隠れたまひぬ。
念仏のままにて終らましかば、行未も頼もしかるべきに、よしなくおどろかして、あらぬ言の葉にて息絶えぬるも心憂く、すべて何と思ふはかりもなく、天に仰(あふ)ぎて見れば、日月(じつげつ)地に落ちけるにや、光も見えぬ心地し、地に伏して泣く涙は川となりて流るるかと思ひ、
母には二つにて遅れにしかども、心なき昔はおぼえずして過ぎぬ。生を受けて四十一日といふより、初めて膝の上に居そめけるより、十五年の春秋を送り迎ふ。朝には鏡を見る折も、誰が影(=誰に似た)ならむと喜び、夕べに衣を着るとても、誰が恩ならんと思ひき。五体(ごたい)身分(しんぶん)を得しことは、その恩、迷蘆八万(めいろはちまん=須弥山)の頂きよりも高く、養育(やういく)扶持(ふち)の心ざし、母に代はりて切なりしかば、その恩また四大海(しだいかい)の水よりも深し。何と報じいかに酬(むく)いてか、余りあらむと思ふより、折々の言の葉は思ひ出づるも忘れがたく、いまを限りのなごりは、身に代へて(=身代わりになって)もなほ残りありぬべし。
ただそのままにて(=火葬せず)、なり果てむさまをも見るわざもがなと思へども、限りあれば、四日の夜、神楽岡(かぐらをか)といふ山へ送りはべりし。むなしき煙にたぐひても(=一緒に)、伴(ともな)ふ道ならばと、思ふもかひなき袖の涙ばかりを形見にてぞ、帰りはべりし。
むなしき跡(=寝床)を見るにも、夢ならでは(=これは夢だ)と悲しく、昨日の面影(おもかげ)を思ふ。いまとてしも勧(すす)められしこと(=教訓)さヘ、返すがへす何と言ひ尽くすべき言の葉もなし。
013わが袖の涙の海よ(=私を)三瀬川(=三途の川)に
流れて通へ(=父の)影をだにみん
十五 人のなきあと
八月五日、家司仲綱出家。九日、北の方・女房二人・侍二人出家。三七日(みなぬか)忌に後深草院から御弔問。かかる折から京極女院(亀山院后)崩。作者はここに、源基具(雅忠のいとこの子)が父の死を弔問せぬことを非常識だと附記している。[一の一九]〔23家人の出家〕18
五日夕方、仲綱濃き墨染の袂になりて参りたるを見るにも、(=父が)大臣の位に居たまはば、四品(しほん=四位)の家司(けいし)などにてあるべき心地をこそ(=私は)思ひつるに、思はずにただ今かかる袂を見るべくとはといと悲しきに、
「御墓へ参りはべる。御言(こと)づけや」と言ひて、かれも墨染の袂乾く所なきを見て、涙落とさぬ人なし。
九日は、初めの七日(=初七日)に、北の方(=継母)、女房二人、侍二人出家しはべりぬ。八坂の聖を呼びつつ、「流転三界中(=『清信士度人経』)」とて、剃り捨てられしを見る心地、うらやましさを添へて、あはれも言はん方なし。同じ道にとのみ思へども、かかる折節(=妊娠)なれば、思ひ寄るべきことならねば、かひなき音(ね)のみ泣きゐたるに、三七日をばことさら執り営みしに、御所よりもまことしく、さまざまの御弔(とぶら)ひどもあり。
御使(=弔問)は一二日に隔てずうけたまはるにも、(=父が)見たまはましかばとのみ悲しきに、京極の女院と申すは、実雄(さねお=西園寺)の大臣の御女(むすめ)、当代(=亀山)の后(きさき)、皇后宮とて御おぼえも人にはことにて、春宮(=後宇多)の御母にておはします上は、御身がらと言ひ、御年と言ひ、惜しかるべき人なりしに、常は物の怪にわづらひたまへば、またこの度もさにやなどみな思ひたるに、はや御こときれぬと言ひ騒ぐを聞くにも、大臣(=実雄)の嘆き、内(=帝)の御思ひ、身に知られていと悲し。
五七日にもなりぬれば、水晶の数珠、女郎花の打枝(うちえだ=造花)につけて、諷誦(ふしゆ=読経の布施)にとて賜ふ。同じ札に、
014さらでだに秋は露けき袖の上に
昔を恋ふる涙添ふらん
かやうの文をも、(=父なら)いかにせんともてなし喜ばれしに、(=私) 「苔(こけ=墓)の下にもさこそ(=さぞ喜んでる)と、(=わが身の)置き所なくこそ」とて、
015思へたださらでも濡るる袖の上に
かかる別れの秋の白露
頃しも秋の長き寝覚(ざ)めは、物ごとに悲しからずといふことなきに、千万声(せんばんせい)の砧(きぬた)の音を聞くにも、袖に砕(くだく)る涙の露を片敷きて、むなしき面影をのみ慕ふ。
[一の二〇]
露消えにし朝(あした)は、御所御所の御使より始め、雲の上人(うへびと)おしなべて、訪ね来ぬ人もなく、使をおこせぬ人なかりし中に、基具(もととも)の大納言一人訪れざりしも、世の常ならぬことなり。
十六 すさみごと
九月十余日、作者が中陰(=四十九日間の中有)に籠もっている河崎邸を実兼(雪の曙)が訪問して一夜語り明かした事。作者はこの会見をここに「すさみごと」と記している。「すさみごと」とは、心の進むにまかせて感興に耽ることを言い、軽く見れば「慰みごと」、重く見れば「耽溺」である。「問はず語り」では、後の二一段で実兼との密会を記して同じく「すさみごと」と言っている。ここのは「慰みごと」であり、二一段のは「耽溺」である。要するに作者と実兼の関係は、友情的保護者的愛情と、性的恋愛の交錯を以てこの作品を貫いている。とにかく第二段で作者に衣服を贈った事を初め、この段でも後の段でも人物を明らかに示さず、四七段から「雪の曙」という称を用い始める。〔24逢う人からの秋の夜〕19
その折(=父の死)のその暁より日を隔てず、「心の内はいかに」と(=手紙で)弔ひし人の、九月(ながつき)の十日余りの月をしるべに訪ね入りたり。(=天下諒闇で)なべて黒みたる頃なれば、無文(むもん=模様がない)の直衣姿なるさへ、我が(=私の)色に紛ふ心地して、人づてに言ふべきにしあらねば、寝殿の南向(みなみむ=客間)きにて会ひたり。(=雪の曙)
「昔いまのあはれ取り添へて、今年は常の年にも過ぎてあはれ多かる、袖の隙なき、一年(ひととせ=ある年)の雪の夜の九献の式(=あなたの父親との)、『常に逢ひ見よ』(=娘と仲良くしてくれ)とかやも、せめての心ざしとおぼえし」
など、泣きみ笑ひみ、夜もすがら言ふほどに、明けゆく鐘の声聞こゆるこそ、げに逢ふ人からの(=人によって)秋の夜は(=長短する)、言葉残りて鳥鳴きにけり。
「あらぬさまなる(=変な)朝帰りとや、世に聞こえん」など言ひて、帰るさのなごりも多き心地して。
016別れし(=父との死別)も今朝のなごり(=あなたとの別れ)をとりそへて
おき重ねぬる袖の露かな
はした者(=侍女)して、車へ遣はしはべりしかば、
017なごりとはいかが思はん(=父上との)別れにし
袖の露こそ隙なかるらめ
夜もすがらのなごりも、誰(た)が手枕(たまくら)にかと(=まるで寝たかのように)、我ながらゆかしき(=知りたい)ほどに、今日は思ひ出でらるる折節、檜皮(ひはだ)の狩衣着たる侍、文の箱を持ちて中門のほどにたたずむ。かれよりの使なりけり。いとこまやかにて、
018忍び余り(=我慢しかねて)ただうたた寝の手枕に
露かかりきと人や咎(とが)むる
よろずあはれなる頃なれば、かやうのすさみごと(=戯れ事)までも、なごりある心地して、我もこまごまと書きて、
019秋の露はなべて草木に置くものを
袖にのみとは(=袖だけのことを)誰か咎めん
十七 ゆきちがひ
作者の異母弟雅顕が願主で四十九日の法要が河崎邸で行われた。今まで中陰で河崎邸に籠もっていた人々が、それぞれの家に帰る。作者は四条大宮のめのとの家に移った。[一の二一]〔25父の四十九日〕20
四十九日には、雅顕(=私の異母弟)の少将が仏事、河原の院(=既出)の聖、例の「鴛鴦(ゑんあう)の衾(ふすま)の下、比翼の契り」とかや、これ(=私)にさへ言ひ古しぬる事(=諷誦文)の果てし後、憲実(けんじち)法印導師にて、(=父の)文どもの裏に、(=雅顕が)自ら法華経を書きたりし、供養させなどせしに、三条の坊門の大納言(=道頼)、万里小路(までのこうぢ=師親)、善勝寺の大納言など、聴聞にとておはして、面々に弔ひつつ、帰るなごりも悲しきに、今日は行(ゆ)き違ひ(=方違え)なれば、乳母(めのと)が宿所、四条大宮なるにまかりぬ。帰る袂の袖の露はかこつ方なきに、何となく集ひゐて嘆かしさをも言ひ合はせつる人々にさへ離れて、一人ゐたる心の内、言はん方なし。
十八 心のほかの新枕
作者が中陰に籠もっている間にも院は忍んで河崎邸に御幸なされ、「五十日祭が過ぎたら出仕するように」と仰せられたが、作者は気が進まない。その内に中陰も過ぎて作者は四条大宮のめのとの家に移る。そこへ院から「余り長く里住みをするのもどうか。早く出仕せよ」との仰せがある。しかしなお里住みをつづけて十月(かんなづき)になった。さても、いぶせかりつる(=陰鬱な)日数のほどだに、忍びつつ入らせおはしまして(=院)、
十月十余日、実兼からの使で、「毎日にも逢いたく思うが遠慮をしている」との事。その使が、四条大宮の家の築地のくずれに植えてある荊を切って帰る。その夜実兼は、そこから忍び入って作者と枕をかわす。作者はそれを「御夢にや見ゆらんといと恐ろし」と書いている。源氏物語における空蝉の心である。翌日の昼頃、院から作者の不出仕を恨む御文が来る。
「なべてやつれ(=やつし)たる頃なれば、色(=喪服)の袂も苦しかるまじければ、五十日忌(いかき)五旬過ぎなば参るべき」
よし仰せあれども、よろづ物憂き心地して籠りゐたるに、四十九日は九月二十三日なれば、鳴き弱りたる虫の音も袖の露を言問ひていと悲し。御所よりは、「さのみ里住みも、いかにいかに」と仰せらるるにも動かれねば、いつさし出づべき心地もせで、十月(かんなづき)にもなりぬ。
[一の二二]〔26心の外の新枕〕21
十日(=十月)余りの頃にや、また(=雪の曙から)使あり。
「日を隔てずも(=手紙で)申したきに、御所の御使など見合ひ(=出会い)つつ『(波越ゆる)頃とも知らで』や(=院が)おぼしめされんと、心のほか(=不本意)なる日数積もる」
など言はるるに、この住まひは四条大宮の隅なるが、四条面(おもて)と大宮(=大路)との隅の築地(ついぢ)、いたう崩れ退きたる所に、さるとりといふ茨(うばら)を植ゑたるが、築地の上へ這ひ行きて、元の太きがただ二本(ふたもと)あるばかりなるを、この使見て、
「ここには番の人はべるな」
と言ふに、
「さもなし」
と(=家)人言へば、
「さてはゆゆしき御通い路になりぬべし」
と言ひて、この茨(うばら)のもとを刀(かたな)して、切りてまかりぬ、と(=家人が)言へば、とは何事ぞと思へども、かならずさしも思ひよらぬほどに、子(ね)一つ(=真夜中)ばかりにもやと思う月影に、妻戸(つまど=出入り口の板戸)を忍びて叩く人あり。
中将といふ童(わらは)、
「水鶏(くひな)にや、思ひよらぬ音かな」
と言ひて開くると聞くほどに、(=童)いと騒ぎたる声にて、
「ここもとに立ちたまひたるが『立ちながら対面せん』と仰せらるる」
と言ふ。思ひよらぬほど(=時)のことなれば、何と答(いら)へ言ふべき言の葉もなく、あきれゐたるほどに、かく言ふ(=童の)声をしるべにや、やがてここもとへ入りたまひたり。
紅葉(もみぢ)を浮き織りたる狩衣に、紫苑にや、指貫の、ことにいづれもなよらかなる姿にて、まことに忍びけるさましるきに、
「思ひよらぬ身のほど(=妊娠)にもあれば、御心ざしあらば、後瀬(のちせ)の山の後には」
など言ひつつ、今宵は逃れぬべく、あながち(=ひたすら)に言へば、
「かかる御身のほどなれば、つゆ御後ろめたき振る舞ひあるまじきを、年月の心の色をただのどかに言ひきかせん。よその仮臥(かりふし=仮寝なら)は、御裳濯川(みもすそがは)の神(=天照大神)も許したまひてん」
など、心清く誓ひたまへば、例の心弱さは、否(いな)とも言ひ強(つよ=強く出る)り得でゐたれば、夜の御座(おまし=ふとん)にさへ入りたまひぬ。
長き夜すがら、とにかくに言ひつづけたまふさまは、げに唐国の虎も涙落ちぬべきほどなれば、石木(いはき)ならぬ心には、身(=命)に代へんとまでは思はざりしかども、心の外の新枕(=二人にとって初めて)は、(=院の)御夢にや見ゆらんと、いと恐ろし。
鳥の音におどろかされて、夜深く出でたまふも、なごりを残す心地して、又寝にやとまでは思はねども、そのままにて臥したるに、まだ東雲(しののめ=暁)も明けやらぬに、文あり。
020「帰るさは涙にくれて有明の
月さへつらき東雲の空。
いつのほどに積りぬるにか、暮れ(=にまた来る)までの心づくし(=不安)、消えかへり(=消え去る)ぬべきを、なべてつつましき(=人目を忍ぶ)世の憂さ(=苦しさ)も」などあり。御返事には、
021帰るさの(=あなたの)袂(=涙)は知らず(=あなたの)面影は
袖の涙に有明の空
かかるほど(=関係)には、強ひて逃れつるかひなくなりぬる身の仕儀(しぎ=次第)も、かこつ方(=批判する相手も)なく、いかにもはかばかしからじ(=良くない)とおぼゆる行く末も推しはかられて、人知らぬ泣く音も露けき昼つ方、(=院の)文あり。
「いかなる方に思ひなりて、かくのみ里ずみ久しかるらん、この頃はなべて御所ざま(=様子)もまぎるる方なく、御人少ななるに」
など、常よりもこまやかなるも、いとあさまし。
十九 お好みの白物
翌日の事。まだ宵の間に実兼が訪ねて来た。あいにく平素は不在がちな主人の入道が帰って来て、子息たちも大勢集まって来る。ここに「おばば」と記されているのは作者の乳母で、主人仲綱入道の妻で、これがまた、お人よしなのだが、たしなみのない老女で、作者の情事を推察するような頭はとんと働かない。作者を家族の仲間に呼出して酒を飲んで遊ぼうと呼びに来る。作者は実兼を寝所に隠しておいて、気分が悪いからと断る。家族たちの部屋は作者の部屋と庭続きの近い所だから、話し声が筒抜けに聞こえて来る。あたかも源氏物語の夕顔の宿のおもむきである。作者は男の手前、穴にでも入りたい思いをしたが、またそれは、一生に一度とでもいうべきおかしい夜でもあった。作者はこの夜の事を思い出すと、どんな悲しい時にも、吹き出しそうになるのであった。[一の二三]〔27御好みの白物〕22
暮るれば、今宵はいたく更(ふ)かさで(=夜を待つことなく)(=雪の曙がまた)おはしたるさへ、そら恐ろしく、初めたることのやうにおぼえて、物だに言はれずながら、
傅(めのと)の入道(=仲綱)なども出家の後は、千本(=釈迦堂)の聖(ひじり)のもとにのみ住まひたれば、いとど立ち交じる男子(をのこご)もなきに、今宵しも、「珍しく里居したるに」など言ひて(=挨拶に)来たり。乳母子(めのとご)どもも集(つど)ひ居てひしめくも、いとどむつかしきに、御姆(はは=乳母)にてありしものは、さしもの古宮(ふるみや=宣陽門院)の御所にて(=女房の子として)生ひ出でたる者ともなく、むげに用意(=気遣い)なく、ひた騒ぎ(=大騒ぎ)に、今姫君(=狭衣物語)が母代(ははしろ=義理の母)ていなる(=そっくり)がわびしくて、いかなることかと思へども、「かかる人の」など言ひ知らすべきならねば、火なども灯(とも)さで、月影見るよしして、寝所(ねどころ=寝床)に、この人をば置きて、障子(=襖)の口なる炭櫃に寄りかかりてゐたる所へ、御姆こそ出で来たれ。あな悲し(=困った)と思ふほどに、
「秋の夜長くはべる。弾棊(たぎ=おはじき)などして遊ばせはべらむと、御父(てて=入道)申す。入らせたまへ」
と(=乳母が)訴訟顔(そしようがほ=必死に)になりかへりて言ふさまだに、いとむつかしきに、
「何事かせまし。誰(たれ)がしさぶらふ。彼(かれ)もさぶらふ」
など継子・実(じち)の子が名のり(=名前を出し)言ひつづけ、九献の式(=酒宴)行ふべきこと、いしいし、伊予の湯桁(=木の枠)とかや(=ぺらぺらと)、数へ居たるも悲しさに、
「心地わびしき」
などもてなしてゐたれば、
「例の(=いつものように)わらは(=私)が申すことをば御耳にいらず(=言うことを聞かない)」
とて立ちぬ。なま賢(さか)しく、女子(をんなご)をば(=私の)近くをにや言ひならはして、(=娘たちの)常の居所も庭つづきなるに、さまざまのことども聞こゆる有様(ありさま)は、夕顔の宿りに踏みとどろかしけん唐臼(からうす)の音をこそ聞かめとおぼえて、いとくちをし。
[一の二四]
とかくのあらまし(=願い)ごとも、まねばむ(=乳母の真似)も中々にて、漏らし(=言い落とす)ぬるも念なく(=残念)とさへおぼえはべれども、事柄(ことがら)もむつかしければ、疾くにだに静まりなんと思ひて寝たるに、門(かど)いみじく叩きて来る人あり。誰ならんと思へば、仲頼(=仲綱の末子)なり。「陪膳おそくて(=今帰った)」など言ひて、
「さてもこの大宮(=大路)の隅に、ゆゑある八葉(あちえふ=紋)の車立ちたるを、うち寄りて見れば、車の中に供の人は一杯(ひとはた)寝たり。とうに牛はつなぎてありつる。いづくへ行きたる人の車ぞ」
と言ふ。あな、あさまし(=まずい)と聞くほどに、例の御姆、
「いかなる人ぞと、人して見せよ(=見させよ)」
と言ふ。御父が声にて、
「何しにか見せける。人の上ならむに、よしなし(=つまらない)。また、(=二条の)御里居(さとゐ)の隙(ひま)をうかがひて、忍びつつ入りおはしたる人もあらば、築地(ついぢ)の崩れより『(=番人は)うちも寝ななむ』とてもやあるらん。懐(ふところ)の内なるだに、高きも卑しきも、女は後ろめたなし(=気が許せない)」
など言へば、また御姆、
「あなまがまがし(=けしからぬ)。誰か参りさぶらはん。御幸ならばまた何ゆゑか忍びたまはん」
など言ふも、ここもとに(=手に取るように)聞こゆ。
「六位宿世(しゆくせ=六位の人と縁づくとは)とや、咎められん」
と、御姆なる人言はるるぞわびしき。
子(=仲頼)さへいま一人添ひてひしめくほどに、寝ぬべきほどもなきに、聞こゆる物(=酒宴)ども出で来たりとおぼしくて、「こなたへと申せ」と、さざめく。人来て案内(あんない=知らせる)すなり。まへなる人(=私の侍女)、「御心地を損(そん)じて」と言ふに、内の障子あららかに打ち叩きて御姆来たり。今さら知らぬ者の来ん心地して、胸(むね)騒ぎ、恐ろしきに、
「御心地は何事ぞ。ここなるもの御覧ぜよ。なうなう」
と、枕の障子を叩く。さてしもあるべきならねば、「心地のわびしくて」と言へば、
「御好みの白物(=白酒)なればこそ申せ。無き折は御尋ねある人(=あなた)の、(=私が)申すとなれば、例のこと。さらば、さてよ」
とつぶやきて去(い)ぬ。
をかしく(=気の利いた)もありぬべき言の葉ども言ひぬべきとおぼゆるを、死ぬばかりに(=恥ずかしく)おぼえてゐたるに、
「御尋ねの白物は何にかはべる」
と尋ねらるる。霜・雪・霰と、やさばむ(=風流にいう)とも、まことしく思ふべきならねば、ありのままに、
「世の常ならず、白き色なる九献を時々願ふことのはべるを、かく名立(なだ)たしく申すなる」
と答(いら)ふ。
「かしこく今宵参りてけり。(=あなたが私の家に)御渡りの折は、唐土(もろこし)までも白き色を尋ねはべらむ」
とて、うち笑はれぬるぞ忘れがたきや。
憂き節にはこれほどなる思ひ出で、過ぎにし方も行く末も、またあるべしともおぼえずよ。
二十 六趣出づる志
実兼と逢う日が重なるにつれて、御所へ出る気になれなくなる。その内に母方の祖母の喪に籠ることになった。院から出仕をうながして夕方迎えの車をやると仰せになったので、祖母の死を申しあげると弔問の御歌を下さった。[一の二五]〔28しおり重ぬる袂〕23
十一月の初めに出仕したが、何となくつらい思いがする。院は親切にして下さるけど、自分はただもう出家をしたいとばかり思うて、月の末にはまた里へかえった。
かくしつつあまた夜も重なれば、心に染む節々もおぼえて、いとど(=出仕を)思ひ断たれぬほどに、十月(かんなづき)二十日ころより、母方の祖母(うば)権大納言(=女房名)わづらふことありと言へども、今しも露の消ゆべしとも見る見る(=様子見で)おどろかで(=慌てず)はべるほどに、いくほどの日数も積(つも)らで、「はや果てぬ」と告げたり。東山禅林寺、綾戸(あやと)といふわたりに家居して年頃(=高齢)になりぬるを、「今日なんいまは」と聞き果てぬるも、夢のゆかり(=縁者)の枯れ果てぬるさまの心細き、うちつづきぬるなどおぼえて、
022秋の露冬のしぐれにうち添へて
しぼり重ぬるわが袂かな
このほどは御訪れ(=手紙)のなきも、我が過ちの空に(=当て推量で)知られぬるにやと、案ぜらるる折節、
「このほどの絶え間をいかにと」
など、常よりもこまやかにて、この暮に迎へに(=使者を)給ふべきよし見ゆれば、 「一昨日(をととひ)にや、祖母(うば)にてはべりし老い人むなしくなりぬと申すほどに、近き穢れも過ぐしてこそ」
など申して、
023思ひやれ過ぎにし秋の露(=父の死)にまた
涙しぐれて濡るる袂を
立ち返り、
024(=父の死に)重ねける露のあはれもまだ知らで
今こそよその(=院の)袖もしほるれ
〔29六趣を出ずる身ともがな〕
十一月(しもつき)の初めつ方に参りたれば、いつしか(=早くも)世の中(=宮中)も引きかへたる(=様変わりした)心地して、大納言の面影も、あそこここにと忘られず、身も何とやらん振る舞ひにくきやうにおぼえ、女院(=東二条)の御方ざまもうらうらと(=穏やか)おはしまさず、とにかくに物憂きやうにおぼゆるに、兵部卿(=祖父隆親)・善勝寺などに、(=院は)
「大納言がありつる折のやうに見沙汰(=後見)してさぶらはせよ。装束(しやうぞく)などは、上(かみ)へ参るべき物(=献上品)にて」
など、仰せ下さるるは、かしこき仰せごとなれども、ただ疾くして、世の常の身になりて(=出産して)、静かなる住まひして、父母(ちちはは)の後生をも弔(と)ひ、六趣(ろくしゆ=現世)を出づる身ともがなとのみおぼえて、またこの月の末には出ではべりぬ。
二十一 醍醐の山寺
文永九年十二月。作者は醍醐の尼寺勝倶胝院に籠もる。そこへ院が御幸せられて一夜を明かされる。数日を隔てて二十七日の頃、実兼が二夜いつづけて帰る。作者は三十日に四条大宮のめのとの家に帰る。[一の二六]〔30いつあらわれて〕24
醍醐(だいご)の勝倶胝院(しようくていゐん)の真願房(=尼僧)はゆかりある人なれば、まかりて法文(ほふもん=仏法)をも聞きてなど思ひてはべれば、「(さびしさに)煙をだにも(=和泉式部)」とて、芝折りくべたる冬の(=醍醐の)住まひ、筧(かけひ)の水の訪れもとだえがちなるに、年暮るる営み(=年越しの準備)もあらぬさまなる急ぎにて過ぎ行くに、二十日余り(=下弦)の月の出づる(=23時)ころ、いと忍びて御幸あり。網代車(あじろぐるま)のうちやつれたまへるものから、御車の後(しり)に善勝寺ぞ参りたる。
「伏見の御所の御ほど(=あたり)なるが、ただ今しもおぼしめし出づることありて(=醍醐へ来た)」
と聞くも、「(=私の居場所が)いつ顕はれて」とおぼゆるに、今宵はことさらこまやかに語らひたまひつつ、明けゆく鐘にもよほされて、立ち出でさせおはします。
有明は西に残り、東(ひむがし)の山の端にぞ横雲わたるに、むら消えたる雪の上に、また散りかかる花の白雪も折り知り顔なるに、無文の御直衣に同じ色の御指貫の御姿も、わが鈍(にぶ)める色(=喪服)に通ひて、あはれに悲しく見たてまつるに、
暁の行なひ(=勤行)に出づる尼どもの、(=院のことを)何としも思ひ分かぬが、あやしげなる衣に真袈裟(まげさ)などやうの物、気色ばかり引き掛けて、「晨朝(じんてう=午前6時)下がり(=過ぎ)はべりぬ。誰がし房は、何阿弥陀仏(=尼の名前)」など呼び歩(あり)くも、うらやましく見ゐたるに、北面の下臈どもも、みな鈍(にぶ)める狩衣にて、御車さし寄するを見つけて、今しも事ありがほに、逃げ隠るる尼どももあるべし。
「またよ」とて出でたまひぬる御なごりは、袖の涙に残り、うち交はしたまへる御移り香は、わが衣手に染み返る心地して、行なひの音をつくづくと聞きゐたれば、 「輪王(=転輪王)位(くらゐ)高けれどつひには三途に従ひぬ」といふ文(もん=和讃)を唱(とな)ふるさへ耳に付き、回向(ゑかう=回向文)して果つるさへなごり惜しくて、明けぬれば文(ふみ)あり。
「今朝の有明のなごりは、わがまだ知らぬ心地して」
などあれば、(=二条の)御返(おかえし)には、
025君だにもならはざりける(=知らない)有明の
面影残る袖を見せばや
[一の二七]〔31雪の曙〕25
年の残りもいま三日ばかりやと思ふ夕つ方、常よりも物がなしくて、主(あるじ=尼)の前にゐたれば、(=尼は)
「かくほどのどかなること、またはいつかは」
など言ひて、心ばかりはつれづれをも慰めんなど思ひたる気色にて物語して、年寄りたる尼たち呼び集めて、過ぎにし方の物語などするに、前なる槽(ふね)に入る筧の水も凍り閉ぢつつ物悲しきに、向ひの山に薪(たきぎ)樵(こ)る斧(をの)の音の聞こゆるも、昔物語の心地してあはれなるに、暮れ果てぬれば、御灯明(あかし)の光どもも面々に見ゆ。
初夜(しよや=勤行)行なひ、「今宵は疾くこそ(=寝よう)」など言ふほどに、そばなる妻戸を忍びて打ち叩く人あり。
「あやし。誰(た)そ」
と言ふに、(=雪の曙が)おはしたるなりけり。
「あなわびし(=困る)。これにてはかかるしどけなき(=ふしだら)ふるまひも、目も耳も恥ずかしくおぼゆるうへ、かかる思ひ(=服喪)のほどなれば、心清くてこそ仏の行なひもしるきに、御幸など言ふは、さる方に(=それはそれで)いかがはせん(=仕方がない)、すさみごと(=浮気)に心きたなくさへはいかがぞや、帰りたまひね」
など、けしからぬほどに言ふ。折節、雪いみじく降りて、風さへはげしく、吹雪とかやいふべき気色なれば、
「あな、堪へがたや。せめては内へ入れたまヘ。この雪やめてこそ(=帰るから)」
など言ひしろふ(=言い争う)。
主の尼御前(あまごぜん)たち聞きけるにや、(=二条に)
「いかなるけしからず、情け(=無情)なさぞ。誰にてもおはしますべき御心ざしにてこそ、ふりはへ(=わざわざ)訪ねたまふらめ。山おろしの風の寒きに、何事ぞ」 とて、妻戸外(はづ)し、火などおこしたるに、かこちて、やがて入りたまひぬ。
[一の二八]
雪はかこちがほに、峰も軒端も一つに積りつつ、夜もすがら吹き荒るる音も「すさまじ」とて、明けゆけども、起きもあがられず、馴れ顔なるも、なべてそら恐ろしけれども、何とすべき方なくて、案じゐたるに、日高くなるほどに、さまざまのことども用意して、伺候(=家来)の者二人ばかり来たり。あなむつかしと見るほどに、主の尼たちの取り散らすべき(=分ける)物などわかちやる。「年の暮れの風の寒けさも忘れぬべく」など言ふほどに、念仏の尼たちの袈裟衣、仏の手向け(=お供え)になど思ひ寄らるるに、いよいよ、「山賤(やまがつ)の垣穂(=垣根)も光出で来て」など、面々に言ひ合ひたるこそ、聖衆(しやうじゆ=菩薩)の来迎よりほかは、君の御幸にすぎたるやあるべきに、いとかすかに見送りたてまつりたるばかりにて、「ゆゆし、めでたし」など言ふ人もなかりき。言ふにや及ぶ、「かかることやは」とも言ふべきことは。ただ今の(=雪の曙の)賑ははしさに、誰も誰も愛でまどふさま、世のならひもむつかし。
春待つべき装束華やかならねど、縹(はなだ)にや、あまた重なりたるに、白き三小袖(みつこそで)取り添へなどせられたるも、よろづ聞く(=噂する)人やあらんとわびしき(=困ったこと)に、今日は日暮し九献にて暮れぬ。
明くれば、「さのみも」とて帰られしに、「立ち出でてだに見送りたまへかし」とそそのかされて、起き出でたるに、ほのぼのと明くる空に峰の白雪光り合ひて、すさまじげ(=鳥肌が立つ)に見ゆるに、色なき狩衣着たる者二三人見えて、帰りたまひぬるなごりも、
また(=別れが)忍びがたき心地するこそ、我ながらうたておぼえはべりしか。
[一の二九]〔32栄えなき年〕
晦日(つごもり)には、あながちに乳母ども、「かかる折節(=妊娠中)、山深き住まひもいまいまし(=不吉)」など言ひて、迎へに来たれば、心のほかに都へ帰りて、年も立ちぬ。
二十二 皇子誕生
文永十年、作者十六歳。正月、今まで例年行って来た石清水八幡宮への初詣では、喪中であるから社壇までは参らず、門前で祈誓をした。その時霊夢を蒙ったが、その祈誓の内容も霊夢の内容も別記に記し、ここには省略してある。(第八四段に、これに触れた記が見える)よろづ世の中も栄えなき年なれば、元旦・元三(=三が日)の雲の上もあいなく、わたくしの(=父の死に)袖の涙もあらたまり、やる方もなき年なり。春の初めにはいつしか(=すぐ)参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門の外(と)まで参りて祈誓(きせい)申しつる心ざしより、むばたまの(=枕詞)面影(=父の)は別(べち)に記(しる)しはべれば、これには漏らしぬ。
二月十日夜、皇子誕生。産所がどこであったか記してないが、亡父の河崎邸でなかった事を作者は悲しんでいる。末に脱文があるらしく、正解を得ない。
[一の三〇]〔33皇子誕生〕26
二月(きさらぎ)の十日、宵のほどに、その気色(=産気)出で来たれば、御所ざまも御心むつかしき折から、わたくしもかかる思ひのほどなれば、よろず栄えなき折なれど、隆顕(=善勝寺)の大納言取り沙汰して、とかく言ひ騒ぐ。御所よりも御室(おむろ)へ申されて御本坊(ほんばう)にて愛染王の法、鳴滝(なるたき=般若寺)、延命供(えんめいく)とかや、毘沙門堂(びさもんだう)の僧正、薬師の法、いづれも本坊にて行はる。わが方ざまにて親源法印、請観音(しやう・くわんおん)の法行なはせなど、心ばかり(=気持ちだけ)はいとなむ。七条の道朝僧正、折節、峰より出でられたりしが、
「故大納言、心苦しきことに言ひ置かれしも忘れがたく」
とて、おはしたり。
夜中ばかりより、ことにわづらはしくなりたり。叔母(をば)の京極殿、御使とて、おはしなど、心ばかりはひしめく。兵部卿もおはしなどしたるも、(=父が)あらましかばと思ふ涙は。人に寄りかかりてちとまどろみたるに、(=父が)昔ながらに変らぬ姿にて、心苦しげにて後ろの方へ立ち寄るやうにすと思ふほどに、皇子誕生と申すべきにや、事故(ことゆゑ)なく(=無事に)なりぬるは、めでたけれど、それにつけても、我が過ちの行く末(=行先)いかがならんと、今始めたることのやうに、いとあさましきに、
御佩刀(みはかせ)など忍びたるさま(=非公式)ながら、御験者(けんじや)の禄などことごとしからぬさまに、隆顕ぞ沙汰しはべる。昔ながらにてあらましかば、河崎の宿所などにてこそあらましかなど、よろづ思ひつづけらるるに、御乳(おち)の人が装束など、いつしか隆顕沙汰して、御弦打(おんつるうち)、いしいしのことまで数々見ゆるにつけても、あはれ、今年は夢沙汰にて年も暮れぬるにこそ。晴れがましくわびしかりしは、夢の疵(きず)ゆゑ、千万(ちよろづ)人に身(=体)を出だして見せしことぞ、神の利益(りやう)もさしあたりてはよしなきほどにおぼえはべりしか。
二十三 白銀の油壺
文永十年十二月、月のある頃、実兼と密会二泊。場所は四条大宮のめのとの家と思われる。家の女たちは皆、作者と実兼の関係を知ってしまったが、しかし作者から改めて打ち明けるべき事でないから、一人心の中にこめておく。さて第一夜が明けた翌日、院から作者へ意味ありげな文が来る。作者はまぎらかして返事をする。第二夜には、作者と実兼が、共に同じような夢を見る。それは、この夜妊娠した兆であった。[一の三一]〔34思いかけぬ夢〕27
十二月(しはす)には、常は神事何かとて、御所ざまはなべて御隙(ひま)なきころなり。わたくしにも年の暮れは、何となく行なひをもなど思ひてゐたるに、あいなく(=興ざめと)言ひならはしたる十二月の月を導(しるべ=雪の曙は)に、また思ひ立ちて、夜もすがら語らふほどに、
「やもめ烏のうかれ声(=邪魔者)など思ふほどに、明け過ぎぬるもはしたなし」
とて留まりゐたまふも、そら恐ろしき心地しながら向ひゐたるに、文あり。いつよりもむつましき御言の葉多くて、
026「むばたまの夢にぞ見つるさ夜衣(=お前が)
あらぬ袂を重ねけりとは
定かに見つる夢もがな(=願望)」とあるも、いとあさましく、何をいかに見たまふらんと、おぼつかなくもおぼゆれども、思ひ入りがほにも何とかは申すべき(=深刻に返事出来ようか)。
027一人のみ片敷きかぬる袂には
(=男ではなく)月の光ぞ宿り重ぬる
我ながらつれなくおぼえしかども、申し紛らかしはべりぬ。今日はのどかに(=雪の曙と)うち向ひたれば、さすが里の者どもも、女(=侍女)の限りは知り果てぬれども、(=彼女たちは)かくなど言ふべきならねば、思ひむせびて(=嘆きながら)過ぎ行くにこそ。
さても今宵、塗骨(ぬりぼね)に松を蒔(ま)きたる扇(あふぎ)に、銀(しろがね)の油壺を入れて、この人の賜ぶを、人に隠して懐に入れぬ(=懐妊)と夢に見て、うちおどろきたれば、暁の鐘聞こゆ。いと思ひかけぬ夢をも見つるかなと思ひてゐたるに、そばなる人、同じさまに見たるよしを語るこそ、いかなるべきことにかと不思議なれ。
二十四 二つの帯
文永十一年、作者十七歳。正月から九月に入るまでの記。後深草院は正月から二月十七日まで写経精進、しかるに作者は二月末に妊娠二箇月の兆を見て、実兼の胤を宿した事を知り煩悶する。六月七日に実兼は岩田帯を持って作者を訪ね、三日滞在する。その十二日には前例に従って善勝寺隆顕が御所から帯の御使に来た。作者は二つの帯に思い悩みながら九月になる。[一の三二]〔35如法写経の御精進〕28
年返りぬれば、いつしか六条殿(=後白河院が建てた)の御所にて、経手(きゃうしゆ=経生、写経する人)十二人にて、「如法経」書かせらる。去年(こぞ)の夢(=後嵯峨崩御)、なごりおぼしめし出でられて、人のわづらひなくてとて、塗籠(ぬりごめ=私用の納戸)の物どもにて行なはせらる。正月より、御指の血を出だして(=血文字)、御手(=後嵯峨の手紙)の裏をひるがへして、法華経をあそばすとて、今年は正月より二月十七日までは御精進なりとて、御傾城(けいせい=美人)などいふ御沙汰絶えてなし。
〔36見し夢の名残〕
さるほどに、二月の末つ方より、心地例ならず(=妊娠)おぼえて物も食はず。しばしは風邪など思ふほどに、やうやう見し夢のなごりにやと思ひ合はせらるるも、何と紛らはすべきやうもなきことなれば、せめての罪の報いも思ひ知られて、心の内の物思ひ、やる方なけれども、かくともいかが言ひけん、神業(かみわざ=神事)にことつけて、里がちにのみいたれば、(=雪の曙は)常に来つつ見知ることもありけるにや、「さにこそ」など言ふより、いとどねんごろなるさまに言ひ通ひつつ、
「君(=院)に知られたてまつらぬわざもがな」
と言ふ。(=安産の)祈りいしいし心を尽くすも、誰が咎とか言はむと思ひつづけられてあるほどに、
二月の末よりは御所ざまへも参り通ひしかば、五月のころは四月(よつき)ばかりのよしをおぼしめされたれども、まことには六月(むつき)なれば、違ひざまも行く末いとあさましきに、
(=雪の曙は)「六月七日、里へ出でよ」としきりに言はるれば、何事ぞと思ひて出でたれば、帯を手づから用意して、
「ことさら(=ちゃんとしよう)と思ひて、四月(うづき)にてあるべかりしを、世の恐ろしさに、今日までになりぬるを、御所より、十二日は着帯(ちやくたい)のよしきくを、ことに(=別にしようと)思ふやうありて」
と言はるるぞ、心ざしもなほざりならずおぼゆれども、身のなりゆかむ果てぞ悲しくおぼえはべりし。
三日(=三日間)はことさら(=雪の曙が)例の隠れゐたりしかば、十日(=六月)には参りはべるべきにてありしを、その夜より、にはかにわづらふことありしほどに、参ることもかなはざりしかば、十二日の夕方、善勝寺、先の例にとて御帯を持ちて来たりたるを見るにも、故大納言の「いかにがな(=献盃など)」と思ひ、騒がれし夜のこと思ひ出でられて、袖には露の隙なさは「かならず秋のならひならねど」とおぼえても、ひと月などにてもなき違ひもいかにとばかり、(=何かを)なすべき心地せず。さればとて、水の底(=自殺)まで思ひ入るべきにしあらねば、つれなく過ぐるにつけても、いかにせんと言ひ思ふよりほかのことなきに、九月(=産み月)にもなりぬ。
二十五 女児出産
文永十一年九月二日頃、作者は出産が近づいたので、病気と偽って里に下る。里は四条大宮のめのとの家と思われる。実兼は春日籠もりと披露して作者の許に隠れ住む。[一の三三]〔37人の忌ませ給うべき病〕29
九月二十日女児出産。生児は実兼が何処かへ連れ去り、死産と披露する。作者はその後永く里に籠もり、実兼は連夜通って来る。
(=産まれそうなので)世の中も恐ろしければ、二日にや急ぎ何かと申しことづけて(=御所を)出でぬ。その夜やがて彼にも(=彼も)おはしつつ、「いかがすべき」と(=私が)言ふほどに、
「まづ大事(だいじ)に病む(やむ)よしを申せ。さて人の忌(い)ませたまふべき病なりと、陰陽師が言ふよしを披露せよ」
などと、添ひゐて言はるれば、そのままに言ひて、昼はひめもす(=ひねもす)に臥し暮し、うとき人も近づけず、心知る人(=侍女)二人ばかりにて、「湯水も飲まず」など言へども、取り分き尋(と)めくる(=見舞い)人のなきにつけても、「(=父が)あらましかば」といと悲し。
御所ざまへも、「御いたはしければ(=お気の毒)、御使な賜ひそ」と申したれば、時など取りて(=時々)御訪れ(=使者)、かかる心がまへ、つひに漏りやせんと、行く末いと恐ろしながら、今日明日は、皆人さと(=病気だと)思ひて、善勝寺ぞ
「さてしもあるべきかは。医師はいかが申す」
など申して、たびたびまうで来たれども、
「ことさら広ごる(=伝染)べきことと申せば、わざと(=会わない)」
など言ひて、見参(げざん=お目にかかる)もせず。(=善勝寺が)しひておぼつかなくなど言ふ折は、暗きやうにて、衣の下にていと物も言はねば、まことしく思ひて、立ち帰るもいと恐ろし。
さらで(=それ以外)の人は誰(たれ)訪ひくる人もなければ、(=彼)添ひゐたるに、その人はまた「春日(かすが)に籠りたり」と披露して、代願(だいぐわん=代役)を籠(こ)めて、人の文などをば、あらまし(=だいたい)とて返事をばするなどささめく(=ささやく)も、いと心苦し。
[一の三四]〔38恩愛のよしみ〕
かかるほどに、二十日余りの曙より、その心地(=産気)出で来たり。人にかくともいはねば、ただ心知りたる人、一二人ばかりにて、とかく心ばかりは言ひ騒ぐも、(=私が)亡き後までも、いかなる名にかとどまらんと思ふより、なほざりならぬ心ざし(=雪の曙の)を見るにもいと悲し。
いたく取りたる(=変わった)ことなくて日も暮れぬ。灯ともすほどよりは、ことのほかに、近づきておぼゆれども、ことさら弦打(つるうち)などもせず、ただ衣(きぬ)の下ばかりにて一人悲しみゐたるに、(=夜)深き鐘の聞こゆるほどにや、余り堪へがたくや、起き上がるに、(=彼)
「いでや、腰とかやを抱くなるに、さやうのことがなきゆゑにとどこほるか。いかに、抱くべきことぞ」
とて、かき起こさるる袖に取り付きて、ことなく産まれたまひぬ。まづ(=彼)
「あなうれし」
とて、「重湯、とく」など言はるるこそ、いつ習ひけることぞと、心知るどち(=侍女)は、あはれがり(=感心)はべりしか。
「さても何ぞ(=性別)」と、灯ともして見たまへば、産髪(うぶかみ)くろぐろとして、今より見開けたまひたるを、ただ一目見れば、恩愛(おんない)のよしみなれば、あはれならずしもなきを、(=雪の曙が)そばなる白き小袖におし包みて、枕なる刀(かたな)の小刀(こがたな)にて、臍(ほぞ)の緒(を)打ち切りつつ、かき抱きて、人にもいはず、外(と)へ出でたまひぬと見しよりほか、また二度(ふたたび)その面影見ざりしこそ、
「さらばなどや、いま一目(ひとめ)も」と言はまほしけれども中々なれば、物は言はねど袖の涙はしるかりけるにや、
「よしや、よも(=まさか)。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」
など慰めらるれど、一目(ひとめ)見合はせられつる面影忘られがたく、女にてさへ物したまひつる(=いらっしゃる)を、いかなる方へとだに知らずなりぬると思ふも悲しけれども、「いかにして(=会いたい)」と言ふに、さもなければ、人知れぬ音(ね)をのみ袖に包みて、夜も明けぬれば、
「あまりに心地(=病気)わびしくて、この暁はや、(=胎児が)おろし(=流産)たまひぬ。女にてなどは見えわくほどにはべりつるを」
など(=院に)奏しける。
「温気(ぬるけ=熱)などおびたたしきには、みなさることと、医師(くすし)も申すぞ。かまへて(=必ず)いたはれ」
とて、薬(くすり)どもあまた賜はせなどするも、いと恐ろし。
ことなるわづらひもなくて日数過ぎぬれば、ここなりつる人も帰りなどしたれども、百日過ぎて御所ざまへは参るべしとてあれば、つくづくと籠もりゐたれば、(=彼)夜な夜なは隔てなくと言ふばかり通ひたまふも、いつとなく世の聞こえやとのみ、我も人(=彼)も思ひたるも、心の隙なし。
二十六 花の白浪
文永十一年十月(かんなづき)八日、去年誕生の皇子夭折(満一歳七か月)。その悲しみ。実兼との関係についての自責。両親の無い自分の運命の悲嘆。二人の男性の愛にからまる悩み。世を捨てて西行の例に習おうと思うが女の身でそれも叶わぬ。折から後深草院が出家を思い立たれ、院に従って出家する女房二人の中に加えられて喜んでいると、院は出家を思い止まられたので自分も出家を遂げられなくなる。また今まで院の御所に仕えていた叔母の京極殿が東宮御所へ移ることになったので、いよいよ便りなくなり、遁世の志は一段つのるけれど、年末になって御所からしきりに召されるので出仕する。[一の三五]〔39三従の憂え〕30
さても、去年(こぞ)出で気(=産まれた)たまひし御方、(=親王宣旨なく)人知れず隆顕の営みぐさ(=仕事)にておはせしが、このほど御悩みと聞くも、身の過ちの行末はかばかしからじと思ひもあへず、十月(かみなづき)の初めの八日にや、
「時雨(しぐれ)の雨の雨(あま)そそぎ(=雫)、露とともに消え果てたまひぬ」
と聞けば、かねて思ひまうけにしことなれども、あへなくあさましき心の内、おろかならむや。前後相違(さうゐ)の別れ、愛別離苦(あいべちりく)の悲しみ、ただ身一つに留まる。幼稚(えうち)にて母に遅れ、盛りにて父を失なひしのみならず、今またかかる思ひの袖の涙、
(=男女の仲は)かこつ方なき(=つらいこと)ばかりかは。馴れゆけば(=あの人と馴染むと)、帰る朝はなごりを慕ひて、又寝の床(とこ)に涙をながし、待つ宵には更け行く鐘に(=泣く)音を添へて、待ちつけて(=待受けて)後はまた世にや聞こえんと苦しみ、里にはべる折は君(=院)の御面影を恋ひ、かたはらにはべる折は、またよそ(=の女)に積もる夜な夜なを恨み、わが身に疎くなりましますことも悲しむ。
人間のならひ、苦しくてのみ明け暮るる、一日一夜に八億四千とかやの悲しみもただ我一人に思ひつづくれば、しかじ(=いっそ)、ただ恩愛の境界(きやうがい)を別れて、仏弟子となりなむ。
九つの年にや、西行が修行の記といふ絵を見しに、片方(かたかた)に深き山を描きて、前には河の流れを描きて、花の散りかかるに(=西行)居てながむるとて、
028風吹けば花の白波岩越えて
渡りわづらふ山川の水
と詠みたるを描きたるを見しより、うらやましく、難行苦行はかなはずとも、我も世を捨てて、足にまかせて行きつつ、花のもと、露の情けをも慕ひ、紅葉(もみぢ)の秋の散る恨みをも述べて、かかる修行の記を書きしるして、亡からん後の形見にもせばやと思ひしを、
三従(さんしよう=父夫子に従え)の愁へ逃れざれば、親に従ひて日を重ね、君に仕へても、今日まで憂き世に過ぎつるも、心のほか(=心外)になど思ふより、憂き世を厭ふ(=出家を願う)心のみ深くなり行くに、
31 この秋ごろにや、御所ざまにも世の中すさまじく、(=亀山帝が)後院(ごゐん)の別当など置かるるも御面目なしとて、太上天皇の宣旨を天下へ返しまゐらせて、御随身ども召し集めて、みな禄ども賜はせて、暇(いとま)賜びて、「久則(ひさのり)一人、後し(=後始末)にはべるべし」とありしかば、面々に袂を絞りてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、
「女房には、東の御方(=愔子)、二条」
とあそばされしかば、憂きはうれしき便(たよ)りにもや(=辛いは嬉しいに通じる)と思ひしに、鎌倉(=時宗)よりなだめ申して、東の御方の御腹の若宮(=後の伏見天皇)、位(=春宮)にゐたまひぬれば、御所ざまも華やかに、(=富小路御所の)角の御所には御影(みえい=後嵯峨院)御渡りありしを、正親町殿(おほぎまちどの=土御門東洞院殿、後深草院の御所)へ移しまゐらせられて、角の御所(=が)春宮の御所になりなどして、京極殿(=叔母)とて院の御方にさぶらふは昔の新典侍(しんすけ)殿なれば、何となくこの人は過ごさね(=無視できない)ど、憂かりし(=父の)夢のゆかりにおぼえしを、立ち返り、大納言の典侍(=二条の母と同じ名)とて春宮の御方にさぶらひなどするにつけても、よろづ世の中物憂ければ、
ただ山のあなたにのみ心は通(かよ)へども、いかなる宿執(しゆくしふ)なほ逃れがたきやらん。嘆きつつまた経る年も暮れなんとするころ、いといたう(=院から)召しあれば、さすがに捨て果てぬ世なれば、参りぬ。
二十七 嵯峨殿へ御幸
前段に「経る年も暮れなむとする頃、御所へ参った」とあるが、それは年末おしつまっての事ではなく、十一月頃の事であったと見なければならぬ。[一の三六]〔40大宮院に御対面〕32
この段は文永十一年十一月、後深草院が御母大宮院の御所嵯峨殿へ御幸の時、作者が御供をした事を記す。この御幸は、前斎宮が大宮院を御訪問なさるので、大宮院から、前斎宮の御話相手として後深草院をお招きになったからである。
この段には皇子夭折の悲しみ、東二条院の不興によって女院方の出仕を止められた憂鬱、前斎宮と作者とのゆかり、大宮院の作者に対する同情など、さまざま記してある。
兵部卿の沙汰にて、装束(しゃうぞく)などいふも、ただ例の正体(しやうたい)なきことなる(=役に立たない)にも、よろづ見後(みうし=後見)ろまるるは、うれしとも言ふべきにやなれども、露(つゆ)消え果てたまひし御事(=皇子)の後は、人の咎、身の誤りも心憂く、何心なくうち笑みたまひし御面影の、違ふ所なくおはせしを、忍びつつ出でたまひて、「いとこそ、鏡の影に、違はざりけれ」など申しうけたまはりしものをなどおぼゆるより、悲しきことのみ思ひつづけられて、慰む方なくて、明け暮れはべりしほどに、
女院(=東二条)の御方ざまは、何とやらん、犯せる罪はそれとなければ、さしてその節といふことはなけれども、御入り立ち(=出入り)も放たれ、御簡(ふだ)も削られなどしぬれば、いとど世の中も物憂けれども、この御方(=院)さまは、「さればとて我さへは」などいふ御事にてはあれど、とにかくに、わづらはしきことあるも、あぢきなきやうにて、よろづのことには引き入りがちにのみなりながら、さる方に(=それだけに)、この御方ざまには、(=私は)中々あはれなることにおぼしめされたるに命をかけて(=頼りにして)、立ち出でてはべるに、
33 まことや(=ところで)、斎宮は後嵯峨院の姫宮にて物したまひしが、御服(おんぶく=喪服)にて下(お)りたまひながら、なほ御暇(いとま)を許されたてまつりたまはで、伊勢に三年(とせ)まで御渡りありしが、この秋の頃にや、御上(のぼ)りありし後は、仁和寺に衣笠といふわたりに住みたまひしかば、故大納言さるべきゆかりおはしまししほどに、(=私が)仕うまつりつつ、御裳濯川(=伊勢へ)の御下りをも、ことに取り沙汰しまゐらせなどせしもなつかしく、人目まれなる御住まひも、何となくあはれなるやうにおぼえさせおはしまして、常に参りて御つれづれも慰さめたてまつりなどせしほどに、
十一月の十日余りにや、大宮院に御対面のために嵯峨(=嵯峨殿)へ入らせたまふべきに、
「我一人はあまりにあいなくはべるべきに、御渡りあれかし」
と、東二条(=富小路御所)へ申されたりしかば、御政務(=政争)のこと、御立(たち=立太子)のひしめきのころは、女院(=大宮)の御方ざまも、打ち解け申さるることもなかりしを、このごろは常に申させおはしましなどするに、(=院)
「またとかく申されんも」
とて入らせたまふに、「あの御方(=前斎宮)さまも(=二条の)御入り立ち(=出入り先)なれば」とて、一人御車の後(しり)に参る。枯野の三衣(みつぎぬ)に、紅梅の薄衣(うすぎぬ)を重ぬ。春宮に立たせたまひて後はみな唐衣を重ねしほどに、赤色の唐衣をぞ重ねてはべりし。台所(=女房たち)も渡されず、ただ一人参りはべり。
[一の三七]
女院の御方(=大宮院)へ入らせおはしまして、のどかに御物語ありしついで(=機会)に、
「あのあが子(=二条)が、幼なくより生(お)ほし立ててさぶらふほどに、さる方に宮仕も物馴れたるさまなるにつきて、具し歩きはべるに、あらぬさまに取りなして、女院の御方(=東二条)ざまにも、御簡(ふだ)削られなどしてはべれども、我さへ捨つべきやうもなく、故典侍大(すけだい=大納言の典侍、母)と申し、雅忠(=父)と申し、心ざし深くさぶらひし、『形見にも』など申し置きしほどに」
など申されしかば、(=大宮院は)
「まことに、いかが御覧じ放ちさぶらふべき。宮仕ひはまた、し馴れたる人こそ、しばしもさぶらはぬは、便(たよ)りなきことにてこそ」
など申させたまひて、(=私に)
「何事も心おかず、我にこそ(=話しなさい)」
など、情けあるさまにうけたまはるも、いつまで草のとのみおぼゆ。
今宵はのどかに御物語などありて、供御も女院の御方にて参りて、更けて御寝(やす)みあるべしとて、懸りの(=蹴鞠の)御壺の方に入らせおはしましたれども、(=他に添い寝する)人もなし。西園寺の大納言、善勝寺の大納言、長輔(ながすけ)、為方、兼行、資行(すけゆき)などぞはべりける。
二十八 折りやすき花
後深草院が嵯峨殿へ到着された翌日の事。大宮院から前斎宮をお迎えになる。前斎宮到着、しばらく大宮院と御対面。やがて後深草院も出座せられ、作者は御太刀を捧持して側にはべる。前斎宮の成熟せられた御容姿、作者は後深草院が心を動かされるであろうと懸念する。院は我が部屋に帰られた後、恋情に堪えず、作者に手引きをさせて前斎宮と密会。〔41前斎宮の御渡り〕34
明けぬれば、今日斎宮へ御迎へに人参るべしとて、女院の御方(=大宮)より、御牛飼(うしかひ)、召次、北面の下臈など参る。(=院は)心ことに出で立たせおはしまして、「(=斎宮と)御見参あるべし」とて、吾亦紅(われもかう)織りたる枯野の甘の御衣(かんのおんぞ)に、竜胆(りんだう)織りたる薄色の御衣、紫苑(しをん)色の御指貫、いといたう薫(た)きしめたまふ。
[一の三八]
夕方になりて、(=斎宮が)入らせたまふとてあり。寝殿の南面(みなみおもて=のふすまを)取り払ひて、鈍色(にぶいろ)の几帳取り出だされ、小几帳など立てられたり。(=大宮院が)御対面ありと聞こえしほどに、女房を御使にて、
「前斎宮(ぜんさいぐう)の御渡り、あまりにあいなく寂しきやうにはべるに、(=院が)入らせたまひて御物語さぶらへかし」
と(=大宮院が)申されたりしかば、(=院は)やがて入らせたまひぬ。(=私は)御太刀持(も)て、例の御供に参る。大宮院、顕紋紗(けんもしや)の薄墨(うすずみ)の御衣、鈍色の御衣、引き掛けさせたまひて、同じ色の小几帳立てられたり。斎宮、紅梅の三御衣(みつおんぞ)に青き御単衣ぞ、中々むつかし(=しつこい)かりし。御傍親(ばうしん=親族)とてさぶらひたまふ女房、紫の匂ひ(=重ね)五つにて、物の具(もののぐ=礼装)などもなし。
斎宮は二十(はたち)に余りたまふ。ねび(=成熟して)ととのひたる御さま、(=伊勢の)神もなごりを慕ひたまひけるもことわりに、花といはば桜にたとへても、よそめ(=他人の目)は「いかが(=もっと)」と誤(あやま)たれ、霞の袖を重ぬる(=袖に隠れた)隙もいかにせましと(=何とかしたい)思ひぬべき御有様なれば、まして、隈なき(=どこでも色好みの)御心の内は、いつしかいかなる御物思ひの種にかと、よそも(=余所目にも)御心苦しく(=斎宮が気の毒に)ぞおぼえさせたまひし。
35 御物語ありて、(=伊勢の)神路(かみぢ)の山の御物語など、絶え絶え聞こえたまひて、
「今宵はいたう更けはべりぬ、のどかに、明日は嵐の山の禿(かぶろ=はげ山)なる梢(こづゑ)どもも御覧じて、御帰りあれ」
など申させたまひて、わが御方へ入らせたまひて、いつしか、
「いかがすべき、いかがすべき」
と仰せあり。思ひつることよと、をかしくてあれば、
「幼なくより参りし験(しるし)に、このこと申しかなへたらむ(=叶えてくれたら)、まめやかに心ざしありと思はむ」
など仰せありて、やがて御使に参る。ただ大方(おほかた=ありきたり)なるやうに、
「御対面うれしく、御旅寝すさまじく(=寂しい)や」
などにて、忍びつつ文あり。氷襲(こほりがさね)の薄様(うすやう=鳥の子紙)にや、
029知られじな今しも見つる面影の
やがて心にかかりけりとは
[一の三九]〔42折りやすき花〕
更けぬれば、御前(おまえ)なる人もみな寄り臥したる。御主(ぬし)も小几帳引き寄せて御殿籠(とのごも)りたるなりけり。近く参りて、事のやう奏すれば、御顔うちあかめて、いと物ものたまはず。文も見るとしもなくて、うち置きたまひぬ。
「何とか申すべき」
と申せば、
「思ひよらぬ御言の葉は、何と申すべき方もなくて」
とばかりにて、また寝たまひぬるも心やましければ(=気の毒なので)、帰り参りて、このよしを申す。
「ただ、寝たまふらん所へ導け、導け」
と、責めさせたまふもむつかしければ、御供に参らんことはやすくこそ、しるべして参る。甘の御衣などはことごとしければ、御大口(おほくち)ばかりにて、忍びつつ入らせたまふ。
まづ先に参りて御障子を、やをら(=そっと)開けたれば、ありつるままにて御殿籠りたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせたまひぬる後、いかなる御事どもかありけん。
うち捨てまゐらすべきならねば、御上臥(うえぶし)したる人のそばに寝(ぬ)れば、今ぞおどろきて、
「こは誰そ」
と言ふ。
「御人少ななるも御いたはしくて、御宿直(とのゐ)しはべる」
と答(いら)へば、(=相手は)まことと思ひて物語するも用意(ようい)なき(=不用意な)ことやとわびしければ、
「ねぶたしや、更けはべりぬ」
と言ひて、そらねぶりしてゐたれば、御几帳(みきちやう)の内も遠からぬに、いたく御心も尽くさず(=苦心せず)、はや打ち解けたまひにけりとおぼゆるぞ、あまりに念なかりし(=悔しい)。(=斎宮が)心強くて(=夜を)明かしたまはば、いかにおもしろからむとおぼえしに、明け過ぎぬ先に帰り入らせたまひて、
「桜は匂ひ(=色)は美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」
など仰せありしぞ、さればよ(=やっぱり自慢するのね)とおぼえはべりし。
日高くなるまで御殿籠りて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして(=お目覚めになる)、「けしからず、今朝しもいぎたなかりける(=寝坊)」などとて、今ぞ(=今頃)文ある。御返事には、ただ「夢の面影は覚むる方なく」などばかりにてありけるとかや。
二十九 売炭の翁
前斎宮と密会の翌日の夜の事。後深草院方へ大宮院と前斎宮とをお招きして、くつろいだ酒宴が設けられた。[一の四〇]〔43今様の御肴〕36
「今日は珍しき御方(=斎宮)の御慰めに、何事か」
など、(=院が)女院の御方へ申されたれば、「ことさらなることもはべらず」と返事(かへりごと)あり。隆顕の卿に、九献の式あるべき御気色ある。夕方になりて、したためたる(=用意した)よし申す。女院の御方へ事のよし申して、入れまゐらせらる(=お招きする)。いづ方にも御入り立ちなりとて、御酌(おしやく)に参る。
三献(こん)までは御空盃(からさかづき)、その後、「あまりに念なくはべるに」とて、女院、御盃を斎宮へ申されて(=勧めて)、御所に参る(=に酒を注ぐ)。御几帳を隔てて、長押(なげし)の下(しも=庇)へ、実兼(さねかぬ)・隆顕召さる。御所の御盃を(=私が)賜はりて、実兼にさす。「雑掌(ざしやう)なる(=仕事だから)」とて隆顕に譲る。(=隆顕)
「思ひざし(=指名して酒を注ぐこと)は力なし(=やむをえない)」
とて実兼、その後隆顕。
女院の御方、
「故院の御事の後は珍しき(=管弦の)御遊びなどもなかりつるに、今宵なん御心落ちて(=寛いで)御遊びあれ」
と申さる。女院の女房召して琴弾かせられ、御所へ御琵琶召さる。西園寺も(=琵琶を)たまはる。兼行篳篥(ひちりき)吹きなどして、更け行くままにいとおもしろし。公卿二人して神楽(かぐら)歌ひなどす。また善勝寺、例の芹生(せりう)の里(=今様)数(かず)へ(=歌う)などす。
いかに申せども、斎宮九献を参らぬよし(=院に)申すに、御所「御酌(おしやく)に参るべし」とて、御銚子(てうし)を取らせおはします折、女院の御方、
「御酌を御勤(つと)めさぶらはば、『こゆるぎの磯』ならぬ御肴(さかな)のさぶらへかし」
と申されしかば、
030売炭(ばいたん)の翁(おきな)はあはれなり
おのれが衣は薄けれど
薪(たきぎ)を取りて冬を待つこそ
悲しけれ
といふ今様を歌はせおはします、いとおもしろく聞こゆるに、「この御盃を我々賜はるべし」と、女院の御方申させたまふ。三度参り(=飲む)て、斎宮へ申さる(=さしあげる)。また御所(=銚子を)持ちて入らせたまひたるに、
「天子には父母なしとは申せども、十善の床を踏みたまひしも、卑しき身(=私)の恩にましまさずや」
など御述懐(ずくわい=愚痴)ありて、御肴を申させ(=所望申し上げ)たまへば、
「生(しやう)を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命(ごめい)を軽(かろ)くせむ」
とて、
031御前の池なる亀岡(かめをか)に
鶴こそ群れゐて、遊ぶなれ
齢(よはひ)は君がためなれば
天(あめ)の下(した)こそのどかなれ
といふ今様を、三返(さんべん)ばかり歌はせたまひて、(=大宮に)三度申させたまひ(=酒を勧め)て、「この御盃は賜(たま)はるべし」とて、御所に(=院が)参り(=が飲み)て、
「実兼は傾城の思ひざし(=指名)しつる、うらやましくや」
とて、隆顕に賜ふ。
その後、殿上人の方へ下(お)ろされて、事ども果てぬ。今宵はさだめて(=斎宮のもとに)入らせおはしまさんずらんと思ふほどに、
「九献過ぎて、いとわびし(=苦しい)。御腰打て」
とて、御殿籠りて明けぬ。斎宮も、今日は御帰りあり。この御所の還御、今日は今林殿(いまばやしどの=准后の屋敷)へなる。准后(じゆごう=大宮院の母、北山准后)御風邪の気(け)おはしますとて、今宵はまたこれ(=嵯峨殿)に御留まりあり。次の日ぞ京の御所(=富小路)へ入らせおはしましぬる。
三十 東二条院の不満
前段の末に、後深草院は嵯峨殿から帰られる途中、今林殿に准后の風邪をお見舞いなされ、(=また嵯峨殿に戻って)一泊してその翌日京の御所へ還御されたと記してある。この段の記は、京の御所へ還御の夕方、東二条院から後深草院へ、作者を寵愛される事について恨みの文があり、それに対して後深草院から細かに御返事なされた事を記す。東二条院の嫉妬によって作者の地位が不安であった事は前にも記され、この後にも記されるが、ここにはそれが最も明らかに記してある。[一の四一]〔44二条殿が振る舞い〕37
還御の夕方、女院(=東二条)の御方より、御使に中納言殿(=女房)参らる。何事ぞと聞けば、
「二条殿が振る舞ひのやう心得ぬことのみさぶらふ時に、この御方の御伺候(ごしこう)を止(とど)めてさぶらヘば、ことさらもてなされて、三衣(みつぎぬ)を着て御車に参りさぶらへば、人のみな、『女院の御同車』と申しさぶらふなり。これ、詮(せん)なく(=不本意に)おぼえさぶらふ。よろづ面目なきことのみさぶらへば、暇(いとま)を賜はりて、伏見などに引き籠もりて、出家してさぶらはんと思ひさぶらふ」
といふ御使なり。御返事には、
「うけたまはり候ひぬ。二条がこと、今さらうけたまはるべきやうも候はず。故大納言の典侍(すけ=二条の母)あり、そのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれて不憫におぼえ候ひしかば、いかほども(=手厚く)と思ひしに、あへなく失せ候ひし形見には、いかにも(=二条の面倒を見て)と(=典侍が)申し置き(=遺言)候ひしに、領掌(りやうじやう=了承)申しき。故大納言、また最期に申す子細候ひき。君(きみ=君子)の君たるは臣下の心ざしにより、臣下の臣たることは君の恩によることに候ふ。最期終焉に申し置き候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世の障り(=妄執)なく思ひ置くよしを申してまかり候ひぬ。二度(ふたたび)返らざるは言の葉に候ふ。さだめて草の陰にても見候ふらん。何事の身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行く方も知らずも(=私が)候ふべき。
また三衣(みつぎぬ)を着候ふこと、今始めたることならず候ふ。四歳(しさい)の年、初参(しよさん)の折、『わが身位(くらゐ)浅く候ふ。祖父(おほぢ)久我太政大臣が子にて参らせ候はん』と申して、五緒(いつつを)の車・数袙(かずあこめ=下着)、二重(ふたへ)織物(おりもの)、聴(ゆ)り候ひぬ。そのほか、また大納言の典侍は、北山の入道太政大臣(=藤原公経)の猶子(=養子)とて候ひしかば、次いでこれも(=北山)准后御猶子の儀にて、袴を着初め候ひし折、(=准后)腰を結(ゆ)はせられ候ひし時、いづ方につけても、薄衣(うすぎぬ)、白き袴などは聴(ゆる)すべしといふ、事古(ことふ=長くな)り候ひぬ。車寄せ(=玄関に付ける)などまでも聴(ゆ)り候ひて、年月になり候ふが、今さらかやうにうけたまはり候ふ、心得ず候ふ。
言ふかひなき北面の下臈風情(ふぜい)の者などに一つなる(=同じ)振る舞ひなどばし候ふなどいふことの候ふやらん。さやうにも候はば、こまかにうけたまはりて、計(はから)ひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行く方知らずなどは候ふまじければ、女官風情にても召し使ひ候はんずるに候ふ。大納言(=が)、二条といふ名(=渾名)を付きて候ひしを返しまゐらせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『我が位あさく候ふゆゑに、祖父(おほぢ)が子にて参り候ひぬる上は、小路名(こうぢな)を付くべきにあらず候ふ。詮(せん)じ候ふところ、ただしばしは、あが子にて候へかし。なにさまにも(=いずれにしろ)、(=私は)大臣は定(さだ)まれる位に候へば、その折、一度(いちど)に付け候はん』と申し候ひき。太政大臣の女(むすめ)にて、薄衣は定まれることに候ふうへ、家々面々(めんめん)に我も我もと申し候へども、花山、閑院ともに淡海公の末より、次々また申すに及ばず候ふ。
久我は村上の前帝の御子、冷泉、円融院の御弟(おとと)、第七皇子具平(ともひら)親王よりこの方家久しからず。されば、今までも、かの家、女子(をんなご)は宮仕ひなどは望まぬことにて候ふを、母奉公の者なりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召し置きてはべるなり。さだめてそのやうは御心得候ふらむとこそおぼえ候ふに、今さらなる仰せ言(ごと)、存(ぞん)のほかに候ふ。御出家のことは、宿善(しゆくぜん)内にもよほし、時いたることに候へば、何とよそより計ひ申すによるまじきことに候ふ」
とばかり御返事に申さる。
その後は、いとど事(=事態)悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一所(おんひとところ=院)の御心ざしなほざりならずさ(=接尾)に、慰めてぞはべる。
三十一 越えすぎし関
後深草院、前斎宮と再び密会の事。この段は対話と文の混雑。文脈のもつれなどが多く、すっきりせぬ。まず筋を記して見よう。作者は前斎宮の心中を同情して院にあいびきを勧める。院は作者を使として前斎宮に文を贈られる。前斎宮の養母が急ぎ取次に出て作者に面会し、前斎宮がその後思い悩んでいられる事を告げる。作者が帰ってこの事を院に告げると、院は車をやって前斎宮を迎えられる。[一の四二]〔45嵯峨野の夢の後〕38
まことや、前斎宮は嵯峨野の夢の後(のち)は(=院の)御訪れもなければ、御心の内も御心苦しく(=お気の毒で)、我が道芝もかれがれ(=途切れがち)ならずなど思ふにとわびしくて、「さても年をさへ隔てたまふべきか」と(=私が院に)申したれば、「げに」とて(=院から斎宮へ)文あり。
「いかなる隙(ひま)にても、おぼしめし立て(出発せよ)」
など申されたりしを、御養母(やしなひはは)と聞こえし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、(=私が)参りたれば、いつしかかこちがほなる袖のしがらみ(=堰き止め)堰きあへず、
「神よりほかの御縁(よすが=夫)なくてと思ひしに、よしなき(=儚い)夢の迷ひより御物思ひのいしいし(=云々)」
と口説きかけらるるも、わづらはしけれども、
「隙(ひま)しあらば(=御供せよと)の御使にて参りたる」
と答(いら)ふれば、
「これの御隙(ひま)はいつも、何の蘆分け(=障害)かあらむ」
など聞こゆるよしを伝へ申せば、
「端山繁山(はやましげやま)の中を分けんなどならば、さもあやにく(=予期に反する)なる心いられ(=苛立ち)もあるべきに、越え過ぎたる心地して」
と仰せありて、公卿の車(=牛車)を召されて、十二月の月のころにや、忍びつつ参らせらる。
道もほど遠ければ、更け過ぐるほどに(=斎宮は)御渡り、京極面(おもて=富小路御所の角の御所)の御忍び所も、このごろは春宮の御方になりぬれば、大柳殿(=大柳のある御殿)の渡殿へ御車を寄せて、昼(ひ)の御座(ござ)のそばの四間(よま)へ入らせまゐらせ、例の御屏風隔てて、御伽(とぎ=付き添い)にはべれば、見し夜の夢の後かき絶えたる御日数の御恨みなども、ことわりに聞こえしほどに、明けゆく鐘の音を(=泣き声に)添へて、まかり出でたまひし後朝(きぬぎぬ)の御袖は、よそも露けくぞ見えたまひし。
三十二 年のなごり
文永十一年十二月三十日の夜、実兼と密会の事。作者十七歳、罪の意識に苦しみ、発覚を恐れながら、しかも愛人とのほだしを絶ち切る事のできなかった若き日の思い出である。「思い出づるさへ袖濡れはべりて」と結んだところに、切なる思い出が籠もっている。[一の四三]〔46よしなき物思い〕39
年も暮れ果てぬれば、心の内の物思はしさは、いとど慰む方なきに、里へだに、え出でぬに、今宵は東の御方参りたまふべき気色(けしき)の見ゆれば、夜さりの供御果つるほどに、「腹の痛くはべる」とて局へすべりたりしほどに、
「如法(まったく)夜深し」
とて、上口(うへぐち=表て口)に(=雪の曙が)たたずむ。
世の中の恐ろしさ、いかがとは思へども、このほどはとにかくに積りぬる日数言はるるも、ことわりならず(=無理もない)しもおぼゆれば、忍びつつ局へ入れて、明けぬ先に起き別れしは、
今日を限りの年のなごりにはややたちまさりておぼえはべりしぞ、我ながらよしなき物思ひなりける。思ひ出づるさへ袖濡れはべりて。
問はず語り 巻二
後深草院 二条
三十三 十八の春
文永十二年(建治元年)、作者十八歳。後深草院の御所における元旦の記である。世の中の花やかなのを見るにつけても作者は物思いの涙にぬれる。[二の一]〔1隙行く駒〕1
隙(ひま)行く駒の早瀬(はやせ)川、越えて帰らぬ年波の、わが身に積もるを数ふれば、今年は十八になりはべるにこそ。百千鳥(ももちどり=多くの鳥)さへづる春の日影のどかなるを見るにも、何となき心の中の物思はしさ(=鬱屈)、忘るる時もなければ、(=富小路御所の)華やかなるもうれしからぬ心地ぞしはべる。
今年の御薬は花山院(くわざんのゐん)太政大臣(=藤原通雅)参らる。去年、後院の別当とかやに(=花山院が)なりておはせしかば、何(なに)とやらん(=何となく)、この御所ざまには快からぬ御事なりしかども、(=自分の息子が)春宮に立たせおはしましぬれば、世の御恨みも、をさをさ(=なんとか)慰みたまひぬれば、また後までおぼしめし咎むべきにあらねば、御薬に参りたまふなるべし。
ことさら、女房の袖口もひきつくろひ(=気取る)などして、台盤所ざまも人々心ことに、衣の色をも尽くしはべるやらん。一年(ひととせ=先年)、中院大納言(なかのゐんのだいなごん=父)御薬に参りたりしことなど、改まる年ともいはず思ひ出でられて、古りぬる涙ぞ、なほ袖濡らしはべりし。
三十四 御かたわかち
院方と東宮方と組を分けて粥杖(かゆづえ)の競技が行われた。院方の選手は院以外はすべて女房、東宮方は全部男である。それ故この分けかたは二重分類であるが、対抗意識は男性と女性の勝負であった。さてこの段は前後二段筋になっている。前節は十五日の勝負であるが、記事が簡単で或は脱文があるかと思われ、どんな状態であったものか明らかでない。ただ女性方の負けであった事が後筋によって知られる。後節は十八日に作者と東の御方が共謀して大いに院を打ちすくめ、凱歌をあげた記事である。[二の二]〔2粥杖の御怠状〕
春宮の御方、いつしか、御方分(かたわ=競技)かちあるべしとて、十五日の内(=うちに)とひしめく。例の、院の御方・春宮、両方(=敵味方)にならせたまうて、男・女房、面々に、籤(くじ)に従ひて分かたる。相手(=敵対相手として)、みな男に女房合はせらる。春宮の御方(=チーム)には、傅の大臣(ふのおとど=師忠)を始めてみな男、院の御方は御所よりほかはみな女房にて、相手を籤に取らる(=引く)。(=私は)傅の大臣の相手に取り(=引き)当たる。
「面々引出物(=賞品)、思ひ思ひに一人づつして、さまざま能(のう)を尽くして強ひよ」
といふ仰せこそ。
女房の方には、いと堪へがたかりしことは(=粥杖の件)、あまりに、わが御身(=院)一つならず、近習(きんじゆ)の男たちを召し集めて、女房たちを(=粥杖の競技で)打たせさせおはしましたるを、ねたき(=憎らしい)ことなりとて、東の御方(おかた=春宮の母)と申し合はせて、十八日には御所を打ちまゐらせんといふことを談議して、
十八日に、早朝(つとめて)の供御果つるほどに、台盤所に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上の口には、新大納言殿・権中納言、あらはに、別当・九五、常の御所の中には中納言殿、馬道(めんだう=廊下)に、真清水(ましみづ)・さぶらふ(=以上女房の名前)などを立て置きて、(=私は)東の御方と二人、末の一間(ひとま)にて、何となき物語して、
「一定(いちぢやう)、御所はここへ出でさせおはしましなむ」
と言ひて待ちまゐらするに、案にも違はず、おぼしめしよらぬ御事なれば、御大口(おほくち=袴)ばかりにて、
「など、これほど常の御所には人影もせぬぞ。ここには誰かさぶらふぞ」
とて入らせおはしましたるを、東の御方、かき抱きまゐらす。
「あな悲しや(=恐い)、人やある、人やある」
と仰せらるれども、きと(=すぐ)参る人もなし。からうじて、廂(ひさし=廂の間)に師親の大納言が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、
「子細さぶらふ。通しまゐらすまじ」
とて杖を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ちまゐらせぬ。
「これより後、長く人して打たせじ」
と、よくよく御怠状(ごたいじやう=詫び状)せさせたまひぬ。
三十五 罪科の評定
十八日の夕の御食事の時、院から伺候の公卿一同に、今日女房から打たれた事のお話があり、打った女房を罪科に処すべきかの御下問があった。一同、処罰すべしと答える。中にも善勝寺大納言は強硬論者であったが、「その女房は誰でございますか」と伺うと、「お前の姪であり、養女でもある二条の局だ」と仰せになったので公卿一同大笑する。もちろん院は本気で処罰を考えられたのではなく、また一つの遊びを思いつかれたのである。[二の三]〔3院の訴訟〕2
さて新年早々女房を流罪に処するも不吉であるからというので「あがひ」をさせることに定まった。
さて、しおほせたりと思ひてゐたるほどに、夕供御(ゆふくご)参る折、公卿たち常の御所にさぶらふに仰せられ出だして、
「わが御身、三十三にならせおはします。御厄(やく)に負けたるとおぼゆる。かかる目にこそ遭ひたりつれ。十善の床を踏んで万乗の主となる身に杖を当てられし、いまだ昔もその例(れい)なくやあらん。などかまた、おのおの見継(みつ)が(=助成)ざりつるぞ。一同(=共謀)せられけるにや」
と、面々に恨み仰せらるるほどに、おのおのとかく陳じ(=弁解)申さるるほどに、
「さても、君を打ちまゐらするほどのことは、女房なりと申すとも、罪科(ざいくわ)軽(かろ)かるまじきことにさぶらふ。昔の朝敵の人々も、これほどの不思議は現(げん)ぜずさぶらふ。御影をだに踏まぬことにてさぶらふに、まさしく杖を参らせさぶらひける不思議、軽(かろ)からずさぶらふ」
よし、二条左大臣、三条坊門大納言、善勝寺の大納言、西園寺の新大納言(=実兼)、万里小路(までのこうぢ)の大納言、一同に申さる。
ことに善勝寺の大納言、いつものことなれば(=出しゃばって)、我一人と(=一人で)申して、
「さてもこの女房の名字は誰々(たれたれ)ぞ。急ぎうけたまはりて、罪科のやうをも公卿一同に計ひ申すべし」
と申さるる折、御所、
「一人ならぬ罪科は、親類累(かか)るべしや」
と御尋ねあり。
「申すに及ばずさぶらふ。六親(ろくしん)と申して、みな累(かか)りさぶらふ」
など面々に申さるる折、
「まさしくわれを打ちたるは、中院大納言(=既出)が女(むすめ)、四条大納言隆親が孫、善勝寺の大納言隆顕の卿が姪と申すやらん。またずいぶん(=大事にしている)養子と聞こゆれば、御女(おんむすめ)と申すべきにや、『二条殿の御局(おつぼね)』の御仕事なれば、まづ一番に人の上(=人事)ならずやあらん」
と仰せ出だされたれば、御前にさぶらふ公卿みな一声(ひとこゑ)に笑ひののしる。
[二の四]
「年の初めに女房を流罪(るざい)せられんも、そのわづらひなり。ゆかりまで、その咎あらんも、なほわづらひなり。昔もさることあり。急ぎ贖(あが)ひ申さるべし」 とひしめかる(=騒ぐ)。その折(=私は)申す、
「これ身として思ひよらずさぶらふ。十五日に、あまりに御所強く打たせおはしましさぶらふのみならず、公卿殿上人を召し集めて打たせられさぶらひしこと、本意なく思ひまゐらせさぶらひしかども、身数ならずさぶらへば、思ひ寄る方なくさぶらひしを、東の御方、『この恨み思ひ返しまゐらせん、同心せよ』とさぶらひしかば、『さ、うけたまはりさぶらひぬ』と申して、打ちまゐらせてさぶらひし時に、我一人罪に当たるべきにさぶらはず」
と申せども、
「何ともあれ、まさしく君の御身に杖を当てまゐらせたる者に過ぎたること(=罪)あるまじ」とて、御贖(あが)ひに定まる。
三十六 家々のあがひ
先ず二十日には作者の祖父隆親のあがひがあり、二十一日には叔父隆顕のあがひがあって同時に酒宴が行われ、席上隆弁僧正が鯉を料理した。〔4四条家の贖い〕3
次に隆顕から意見が出た。この度の「あがひ」が、二条の母方の親戚にのみかかるのは片手落ちだ、父方の親戚に祖母と叔母がいるから、それにもかけるべきだという。院は不賛成であったが、隆顕は強く主張し、更に北山准后にも、かけるべきだという。これに対して院は准后よりも実兼(雪の曙)に罪がかかるであろうと言われ、実兼があがひをする。さて隆顕から作者の父方の祖母(久我尼上)の許へ、あがひをするようにと勧めてやると、手きびしい拒絶の書面が送られ、その結果、かえって院御自身にあがひがかかるという滑稽な結果になった。
善勝寺大納言御使にて、隆親卿のもとへ事のよしを仰せらる。
「かへすがへす尾籠(びろう=不敬)のしわざにさぶらひけり。急ぎ贖ひ申さるべし」
と申さる。
「日数延(の)びさぶらへば悪しかるべし。急ぎ急ぎ」
と責められて、二十日ぞ参られたる。御事ゆゆしくして、院の御方へ、御直衣、楓(かいで)御小袖十、御太刀一つ参る。二条左大臣より(=含めて)公卿六人に太刀一つづつ、女房たちの中へ檀紙(だんし)百帖参らせらる。二十一日、やがて善勝寺の大納言、御事(おこと=やり方は)常のごとく、御所へは、綾練貫(ねりぬき=絹織物)、紫にて、琴・琵琶(びは)を作りて参らせらる。また銀の柳筥(やないばこ)に、瑠璃(るり)の御盃参る。公卿に馬・牛、女房たちの中へ染物にて行器(ほかゐ=足つき弁当箱)を作りて、糸にて瓜を作りて十合(=蓋付き容器の数)参らせらる。
御酒盛り、いつよりもおびたたしきに、折節、隆弁(りゆうべん)僧正参らる。やがて御前(おんまへ)へ召されて御酒盛りのみぎりへ参る。鯉を取り出だしたるを、(=院)
「宇治の僧正の例(れい)あり。その家より生まれて、いかが黙(もだ)すべき。切るべき」
よし、僧正に御気色(みけしき)あり。固く辞退申す。仰せたびたびになる折、隆顕まな板を取りて僧正の前に置く。懐より庖丁刀(はうちやうがたな)・真魚箸(まなばし)を取り出でて、このそばに置く。
「この上は」
としきりに仰せらる。御所の御前に御盃あり。力なくて、香染(かうぞめ)の袂にて切られたりし、いと珍かなりき。
少々切りて、
「頭(かしら)をば、え割りはべらじ」
と申されしを、
「さるやういかが」
とて、なほ仰せられしかば、いとさはやかに割りて、急ぎ御前を立つを、いたく御感(ぎよかん)ありて、今の瑠璃の盃を柳筥に据ゑながら門前(=の僧正の車)へ送らる。
[二の五]〔5西園寺家の贖い〕
さるほどに隆顕申すやう、
「祖父(おほぢ)叔父(をぢ)などとて咎を行なはれさぶらふ、みな外戚(げしやく)にはべる。伝へ聞く、いまだ内戚(ないしやく=父方)の祖母(うば=久我尼)はべるなり。叔母(をば)また同じくはべる。これにいかが仰せなからん」
と申さる。
「さることなれども、筋(すぢ=血縁)の人などにてもなし。それらまで仰せられんさぶらはんこと、あまりにさぶらふ。うるはしく(=型苦し)苦(にが=野暮)りぬべきことなり」
と仰せあるに、
「さるべきやうさぶらはず。主(=二条本人)を御使にてこそ仰せさぶらはめ。また北山准后(じゆごう)こそ、幼くより御芳心(ごはうしん=親切)にて、典侍大(すけだい)もはべりしか」
と申す折に、
「准后よりも(=お前に)罪かかりぬべくや」
と西園寺に仰せらる。
「あまりにかすかなる(=言われなき)仰せにもさぶらふかな」
としきりに申されしを、
「(=断る)いはれなし」
とて、また責め落とされて、それも勤められき。
4 御事(おこと)常のごとく、沈(ぢん=沈香)の船に麝香(じやかう)の臍(へそ)三つにて、船差(ふなさし=船頭)作りて乗せてと、御衣と、御所へ参る(=差し上げる)。二条左大臣に牛・太刀。残りの公卿には牛。女房たちの中へは、箔・州流し(金銀の砂紙)・梨地(なしじ)・紅梅などの檀紙(だんし)百。
[二の六]
さても、さて(=このままで)あるべきことならずとて、隆顕のもとより、
「かかる不思議のことありて、おのおの(=二条の)咎(とが)贖ひ申してさぶらふ。いかがさぶらふべき」
と言ひ遣はしたる返事に、
「さることさぶらふ(=そのことです)。(=二条は)二葉(ふたば)にて母には離れさぶらひぬ。父大納言、不憫にしたまひしを、いまだ一月(むつき)の中と申すほどより、御所に召し置かれてさぶらへば、私(わたくし=自宅)に育ちさぶらはんよりも、故ある(=教養ある)やうにもさぶらふかと思ひてさぶらへば、さほどに物おぼえぬいたづら者に御前にて生ひ立ちさぶらひけること、つゆ知らずさぶらふ。君の御不覚とこそおぼえさせおはしましさぶらへ。上下を分かぬならひ、また御目をも見せられ(=目をかけられ)まゐらせさぶらふにつきて、甘え申しさぶらひけるか。それも私には(=私は)知りさぶらはず。恐れ恐れも(=恐れながら)、咎は上つ方より(=順に)、御使を下されさぶらはばやとこそ思ひてさぶらへ。またく(=咎に)かかりさぶらふまじ。雅忠などやさぶらはば、不憫のあまりにも贖ひ申しさぶらはん。我が身には不憫にもさぶらはねば、不孝(=勘当)せよの御気色(みけしき=お指図)ばし(=までも)さぶらはば、仰せに従ひさぶらふべくさぶらふ」
よしを申さる。
〔6院の贖い〕
この御文を持ちて参りて、御前にて披露するに、
「久我尼上が申状、一旦(いたん=一応)そのいはれなきにあらず。御前にて生ひ立ちさぶらひぬる、出で所(=事件の大本)をこそ申してさぶらへといふこと、申すに及ばず(=もっともに)さぶらふ。また三瀬川をだに負ひ越しさぶらふ(=三途の川を負って越す最初の男の責任)なるものを」
など申さるるほどに、
「とは、何事ぞ。わが御身の訴訟にて贖はせられて(=償いさせているのに)、また御所に(=私が)御贖ひあるべきか」と仰せあるに、
「上(かみ)として(=下に)、咎ありと仰せあれば、下(しも)としてまた(=上に)申すも、いはれなきにあらず」
とさまざま申して、また御所に御勤めあるべきになりぬ。御事(おこと)は経任うけたまはる。御太刀一つづつ、公卿たち賜はりたまふ。衣一具(いちぐ)づつ、女房たち賜はる。をかしくも堪へがたかり(=おかしくてたまらない)しことどもなり。
三十七 三月十三日
建治元年三月十三日の記。後に作者と深い関係を結ぶ「有明の月」が初めてここに登場する。この男性が後深草院の弟、仁和寺御室性助法親王であろうことは、次々の記事によって推察せられる。作者十八歳、性助法親王二十九歳。[二の七]〔7心きたなきつとめ〕5
かくて三月(やよひ)のころにもなりぬるに、例の後白河院御(=法華)八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ(=文永十1273年焼失)、正親町(=正親町殿の)の長講堂にて行なはる。結願(けちぐわん=最終日)十三日に御幸(ごかう=正親町殿へ)なりぬる間に、(=富小路御所へ)御参りある人(=有明の月)あり。
「還御待ちまゐらすべし」
とてさぶらはせたまひ、二棟の廊に御渡りあり。(=私が)参りて見参(げざん=応対)に入りて、
「還御はよくなり(=すぐである)はべらん」
など申して帰らんとすれば、
「しばしそれにさぶらへ」
と仰せらるれば、何の御用ともおぼえねども、そぞろき(=そわそわ)逃ぐべき御人柄ならねばさぶらふに、何となき御昔語り、
「(=私は)故大納言が常に申しはべりしことも忘れずおぼしめさるる」
など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどと(=のどかに)うち向ひまゐらせたるに、何とやらむ、思ひのほかなること(=愛情の告白)を仰せられ出だして、
「仏も心きたなき勤めとやおぼしめすらんと思ふ」
とかやうけたまはるも、思はずに不思議なれば、何となく紛らかして立ち退かんとする袖をさへ控へて(=抑えて)、
「いかなる隙とだに、せめては頼め(=期待させ)よ」
とてまことに偽りならず見ゆる御袖の涙もむつかしき(=ぞっとする)に、
「還御」
とてひしめけば、引き放ちまゐらせぬ。思はずながら、不思議なりつる夢とや言はんなどおぼえてゐたるに、(=院が)御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九献勧め申さるる。(=私は)御陪膳を勤むるにも、(=私の)心の中(うち)を人や知らんと、いとをかし。
三十八 両院の御鞠
亀山院が御深草院を訪問なされ蹴鞠の御遊が行われる。作者は亀山院の給仕を勤める。この折亀山院から恋歌が送られ、単なる儀礼的返歌をする。この後しばしば亀山院が心ある態度を示される記事が見える。これが作者の境遇を転落せしめる大きな因となる。[二の八]〔8両院の蹴鞠〕6
さるほどに、両院御仲快からぬこと、悪しく東ざま(=鎌倉幕府)に思ひまゐらせたるといふこと聞こえて、この御所(=富小路御所)へ、新院(=亀山院)御幸あるべしと(=亀山院が)申さる。懸り(=蹴鞠の庭)御覧ぜらるべしとて、御鞠あるべしとてあれば、
「いかで、いかなるべき式(=やり方)ぞ」
と、近衛の大殿(おほいどの=鷹司兼平)へ申さる。
「いたく事過ぎぬほどに九献。御鞠の中に御装束直さるる折、御柿浸(かきひた=干柿酒)しまゐることあり。女房して参らせらるべし」
と申さる。女房は誰にてか、と御沙汰あるに、
「御年頃なり、さるべき人柄なれば」
とて(=私が)この役をうけたまはる。樺桜(かばざくら)七つ、裏山吹(うらやまぶき)の表着(うはぎ)、(=禁色の)青色唐衣(からぎぬ)、紅の打衣(うちぎぬ)、生絹(すずし)の袴にてあり。浮織物の紅梅の匂ひ(=重ね)の三小袖、唐綾(からあや)の二小袖(ふたつこそで)なり。
御幸なりぬるに、御座を対座(たいざ)にまうけたりしを、新院御覧ぜられて、
「前院の御時定めおかれにしに、御座の設(まう)けやう悪ろし」
とて、長押の下(=自分の座を下座)へ下(お)ろさるるところに、主(あるじ)の院出でさせたまひて、
「(=源氏物語の)朱雀院の行幸には、主(=弟の光源氏)の座を対座にこそなされしに、今日の出御には御座をおろさるる、ことやうにはべり」
と申されしこそ、「優(いう=優雅)に聞こゆ」など、人々申しはべりしか。
ことさら式(=正式)の供御参り、三献果てなどして後、春宮入らせおはしまして御鞠あり。半ば過ぐるほどに、(=亀山院が)二棟(ふたむね)の東の妻戸へ入らせおはしますところへ、柳筥に御陶器(かはらけ)を据ゑて、金(かね)の御提子(ひさげ)に御柿浸し入れて、別当殿、松襲(まつがさね)五衣に、紅の打衣、柳の表着、裏山吹の唐衣にてありしに、持たせてまゐりて、(=私が)取りてまゐらす。「まづ飲め」と、(=亀山院が)御言葉かけさせたまふ。暮れかかるまで御鞠ありて、松明(しようめい)取りて還御。次の日、仲頼(=亀山院近習、既出)して御文あり。
032いかにせんうつつともなき面影を
夢と思へば覚むる間もなし
紅の薄様にて、柳の枝に付けらる。さのみ御返(おんかへし)をだに申さぬも、かつは便(びん)なきやうにやとて、縹(はなだ)の薄様に書きて、桜の枝に付けて、
033うつつとも夢ともよしや桜ばな
咲き散るほどと常ならぬ(=変わりやすい)世に
その後もたびたび、うちしきりうけたまはりしかども、師親の大納言住む所へ車乞ひて、帰りぬ。
三十九 御壺合せ
建治元(1275)年四月、新造の六条院へ後深草院が移りなされた事。長講堂および定朝堂の落成供養が行われた事。侍臣女房たちが御壺合をして興じた事。[二の九]〔9六条殿の長講堂供養〕7
まことや、六条殿の長講堂造りたてて、四月に御移徙(わたまし=転居)、御堂(みだう)供養は曼陀羅供(まんだらく=曼荼羅を掛ける供養)、御導師は公豪(こうがう)僧正、讃衆(さんじゆ=讃の僧侶)二十人にてありし後、憲実(けんじち)御導師にて、定朝堂(ぢやうてうだう)供養、御移徙の後なり。
御移徙には、出だし車五両ありし。(=私は)一の車の左に参る(=左の席に乗る)、右に京極殿(=叔母)。撫子(なでしこ)の七衣(ななつぎぬ)、若菖蒲(わかしやうぶ)の表着(うわぎ)なり。京極殿は藤の五衣(いつつぎぬ)なり。御移徙三日は白き衣(きぬ)にて、濃き物の具、袴なり。
「御壺合(=つぼあはせ、庭造りの競技)あるべし」
とて、公卿・殿上人、上臈・小上臈、御壺を分け賜はる。(=私は)常の御所の東向(ひんがしむ)きの二間(ふたま)の御壺を賜はる。時継が定朝堂の前、二間(ふたま)が通(とほ)りを賜はりて、反橋(そりはし)を遣水(やりみず)に小さく、うつくしく渡したるを、善勝寺の大納言、夜の間(ま)に盗み渡して、わが(=私の)御壺に置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。
四十 見はてぬ夢
この段の内容は三十七段に接続する。三十七段は建治元年三月十三日に有明の月が、初めて作者に意中を打明けた記であり、この段は同年九月八日頃から月末まで、有明の月が延命供を修する為に院の御所に滞在し、遂に作者と関係を結ぶに至った次第を記す。[二の一〇]〔10樒の枝〕8
かくしつつ八月(はづき)のころにや、御所にさしたる御心地(=病気)にてはなく、そこはかとなく悩みわたりたまふことありて、供御を参らで、御汗垂(た)りなどしつつ、日数重なれば、いかなることにかと(=私は)思ひ騒ぎ、医師(くすし)参りなどして、御灸(やいとう)始めて、十(とを)所(ところ)ばかりせさせおはしましなどすれども、同じさまに渡らせおはしませば、九月(ながつき)の八日よりにや、延命供(えんめいく)始められて、七日過ぎぬるに、なほ同じさまなる御事なれば、いかなるべき御事にかと嘆くに、さてもこの阿闍梨(=この修法を行う僧)に(=として有明の月が)御参りあるは、この春、袖の涙の色を見せたまひしかば、(=私が)御使に参る折々も、言ひ出だし(=求愛)などしたまへども、紛らはしつつ過ぎゆくに、このほどこまやかなる御文を賜はりて、返事を責めわたりたまふ。いとむつかしくて、薄様の元結(もとゆひ=こより)のそばを破りて、夢といふ文字を一つ書きて参らするとしもなくて、うち置きて帰りぬ。
また参りたるに、樒(しきみ)の枝を一つ投げたまふ。取りて片方(かたかた)に行きて見れば、葉に物書かれたり。
034樒(しきみ)摘む暁おきに袖濡れて
見果てぬ夢の末ぞゆかしき
優(いう)におもしろくおぼえて、この後すこし心にかかりたまふ心地して、御使に参るもすすましくて(=気乗りがして)、御物語の返事もうちのどまりて(=落ちついて)申すに、
御所へ入らせたまうて、(=院と)御対面ありて、
「かくいつとなくわたらせたまふこと(=いつまでもお過ごしになるとは)」
など嘆き申されて、
(=有明の月)「御撫物(なでもの=形代)を持たせて、御時(じ=勤行の時刻)始まらんほど、聴聞所(どころ)へ人を賜はりさぶらへ」 と申させたまふ。
[二の一一]
初夜の時(じ)始まるほどに、
「御衣(おんぞ=形代)を持ちて、聴聞所に参れ」 と(=院が私に)仰せあるほどに参りたれば、人もみな伴僧(ばんそう)に参るべき装束しにおのおの部屋部屋へ出でたるほどにや、人もなし。ただ一人おはします所へ参りぬ。
「御撫物いづくにさぶらふべきぞ」
と申す。
「道場(だうぢやう)のそばの局へ」
と仰せごとあれば参りて見るに、顕証(けんそう=あきらか)げに御灯明の火に輝きたるに、思はずに萎(な)えたる衣にて、ふとおはしたり。こはいかにと思ふほどに、
「仏の御しるべは、暗き道に入りても」
など仰せられて、泣く泣く抱き付きたまふも、余りうたてくおぼゆれども、人の御ため、「こは何事ぞ」など言ふべき御人柄にもあらねば、忍びつつ
「仏の御心の内も」
など申せども、かなはず。
見つる夢(=悪夢)のなごりも、うつつともなきほどなるに、
「時(じ)よくなり(=すぐなり)ぬ」
とて伴僧ども参れば、後ろの方より逃げ帰りたまひて、
「後夜(ごや=夜の祈祷)のほどにいま一度かならず」
と仰せありて、やがて始まるさまは、何となきに(=何もなかったように)参り(=祈る)たまふらんともおぼえねば、いと恐ろし。
〔11悲しさ残る〕9
御灯明の光さへ曇りなくさし入りたりつる火影(ほかげ=祈祷の明かり)は、来む世の闇(=地獄)も悲しきに、思ひ焦がるる心はなくて後夜過ぐるほどに、人間(ひとま)をうかがひて参りたれば、
この度(たび)は御時(じ)果てて後なれば、少しのどかに見たてまつるにつけても、むせかへり(=むせび泣き)たまふ気色(けしき=姿)、心苦しきものから、明けゆく音するに、肌に着たる小袖に、我が御肌なる御小袖を、強ひて 「形見に」 とて着替へたまひつつ、起き別れぬる御なごりもかたほ(=不十分)なるものから(=ものの)、なつかしくあはれとも言ひぬべき御さまも忘れがたき心地して、局にすべりてうち寝たるに、いまの御小袖の褄(つま)に物あり。取りて見れば、陸奥国紙(みちのくにがみ)をいささか破(や)りて、
035うつつとも夢ともいまだわきかねて
悲しさ残る秋の夜の月
とあるも、いかなる隙(ひま)に書きたまひけむなど、なほざりならぬ御心ざしも、そらに知られて、このほど(=祈祷の続く間)は、隙をうかがひつつ、「夜を経て(=毎晩)」と言ふばかり見たてまつれば、
この度の御修法(みしゆほふ)は心清(きよ)からぬ御祈誓、仏の御心中も恥づかしきに、二七日(にしちにち=十四)の末つ方より、(=院は)よろしくなりたまひて、三七日(さんしちにち=二十一)にて御結願(けちぐわん)ありて(=富小路御所から)出でたまふ。
明日(あす=退出)とての夜、
「またいかなる便り(=機会)をか待ち見む。念誦の床にも塵積り、護摩(ごま)の道場も煙絶えぬべくこそ(=やめてしまいたい)。(=二人が)同じ心にだにもあらば、濃き墨染の袂(=世捨て僧)になりつつ深き山に籠りゐて、いくほどなきこの世(=短い人生)に、物思はでも」
など仰せらるるぞ、あまりにむくつけき心地する。明けゆく鐘に音を添へて、起き別れたまふさま、いつ習ひたまふ御言の葉にかと、いとあはれなるほどに見えたまふ。御袖のしがらみも、
「漏りて憂き名や」
と心苦しきほどなり。かくしつつ、結願ありぬれば御出でありぬるも、さすが心にかかるこそ、よしなき(=くだらない)思ひも数々色添ふ心地しはべれ。
四十一 両院伏見御幸
新造六条院で九月の御花が行われ、引き続き両院が伏見へ御幸なされた事。前段によれば後深草院は九月八日から月末まで病床にあられたから、この段に記されたような供花の式や伏見御幸の行われるわけはない。この段の九月は前段の翌年、建治二年の九月であろうか。[二の一二]〔12伏見山〕10
九月には御花(おんはな=仏事)、六条殿の御所の新しきにて栄えばえしきに、新院の御幸(ごかう)さへなりて、「女房立ち会いしに(=花を)賜はらん」など、申させたまふほどに、面々に心ことに出で立ちひしめき合はるれども、(=私は)よろづ物思はしき心地のみして、常は引き入りがちにてのみはべりしほどに、
御花果てて、松(=松茸)採りに伏見の御所へ両院御幸なるに、近衛大殿(=兼平)も御参りあるべしとてありしに、いかなる御障りにか、御参りなくて御文あり、
036伏見山幾万代(いくよろづよ)か栄(さか)ふべき
みどりの小松今日をはじめに
御返し、後の深草院(ふかくさのゐん)の御歌、
037栄(さか)ふべきほどぞ久しき伏見山
生ひそふ松の千世を重ねて
(=亀山院が)中二日の(=富小路御所に)御逗留にて、伏見殿へ御幸など有りて、おもしろき九献の御式どもありて、還御。
四十二 玉川の里
建治元年(前段が建治二年ならばこの段も二年)十月(かんなづき)十日、後深草院が三年間見ぬ恋にあこがれて居られた絵描きの女を召され、一夜にして幻滅を感じて帰される。この夜、あいにくにも資行に命じて呼び寄せられた傾城が参る。院は傾城を車のまま釣殿のあたりに待たせて置かれたが、その事をすっかり忘れて居られ、夜が明けてしまった。[二の一三]〔13三年の人〕11
さても、一昨年(をととし)の七月(ふみづき)に、しばし里にはべりて、参るとて、裏表(うらうへ=裏表)に小さき州流(すなが=金銀の砂散ら)しをして、中(=真ん中は)縹(はなだ)なる紙に水を描きて、異物(こともの)は何もなくて、水の上に白き泥(でい)にて、「くゆる煙よ」とばかり書きたる扇紙(あふぎがみ)を、樟木(しやうぎ)の骨に具して張らせに、ある人のもとへ遣はしたれば、その女(むすめ)のこれを見て、それも絵を美しう描く人にて、ひた水に秋の野を描きて、「異浦(ことうら)にすむ月は見るとも」と書きたるをおこせて、扇換(あふぎか)へにしたりしを、持ちて参りたるを、先々(=これまで)の筆とも見えねば、
「いかなる人の形見ぞ」
など、ねんごろ(=念入り)に御尋ねあるもむつかしくて、ありのままに申すほどに、絵の美しきより初め、上(うは)の空なる恋路に迷ひ初(そ)めさせたまひて、三年(とせ)がほど、とかくその道芝いしいしと、御心の暇(いとま)なく言ひわたりたまへるを、いかにしたまひけるにや、十月(かんなづき)十日宵のほどに参るべきになりて、御心の置き所なく、心ことに出で立ちたまふところへ、資行の中将参りて、
「うけたまはりさぶらひし御傾城、具して参りつる」
よし、案内すれば、
「しばし、車ながら、京極面の南の端(はし)の釣殿の辺(へん)に置け」
と仰せありぬ。
[二の一四]
初夜(しよや=午後八時)打つほどに三年(みとせ)の人の参りたり。青柑子(かうじ)の二衣(ふたつぎぬ)に、紫の糸にて蔦を縫ひたりしに、蘇芳(すはう)の薄衣重ねて、赤色の唐衣ぞ着てはべりし。例の導けとてありしかば、車寄せへ行きたるに、降るる音なひ(=音)など、衣の音よりけしからず、おびただしく鳴りひそめく(=鳴り響く)さまも、思はずなるに、具して参りつつ例の昼(ひ)の御座(おまし)のそばの四間(よま)、心ことにしつらひ、薫物(たきもの)の香も心ことにて入れたる案内した()に、 (=女は)一尺ばかりなる檜扇(ひあふぎ)を浮き織りたる衣に、青裏(うら)の二衣に、紅の袴、いづれもなべてならずこはきを、いと着(き)しつけざりけるにや、かうこひじりがかうこなどのやうに(=不明)、後ろ(=襟が)に多く高々と見えて、顔のやうも、いとたはやかに、目も鼻もあざやかにて、美々しげなる人かなと見ゆれども、姫君などは言ひぬべくもなし。肥えらかに(=背が)高く太く色白くなどありて、内裏などの女房にて、大極殿の行幸の儀式などに、一の内侍(ないし)などにて、髪あげて御剣(ぎよけん)の役などを勤めさせたくぞ見えはべりし。
「はや参りぬ」と奏せしかば、御所は、菊を織りたる薄色の御直衣に、御大口にて入らせたまふ。「百歩(ぶ)のほか」といふほどなる御匂ひ、御屏風のこなたまでいとこちたし。御物語などあるに、いと御答(いら)へがちなるも(=多言)、御心に合はずやと思ひやられてをかしきに、御寝(おんよる)になりぬ。例の、ほど近く上臥ししたるに、西園寺の大納言、明り障子の外(と)、長押の下に御宿直(とのゐ)したるに、いたく更けぬ先に、はや何事も果て(=女が落ち)ぬるにや、いとあさましきほどのことなり。
さて、いつしかあらは(=部屋の外)へ出でさせおはしまして召すに、参りたれば、「玉川の里(=がっかり)」とうけたまはるぞ、よそも悲しき。深き鐘だに打たぬ先に帰されぬ。御心地わびしくて、御衣召し替へなどして、小供御(こくご=夜食)だに参らで、「ここあそこ打て」などとて御寝(よる)になりぬ。雨おびただしく降れば、帰るさの袖も思ひやられて。
四十三 五百戒の尼衆
昨夜から車のまま釣殿の辺に待たされていた傾城の事。院は、すっかり忘れて居られたが、作者に注意されて気がつき、様子を見させなさる。車は雨が漏り、衣裳は濡れてさんざんな有様。作者は自分の新しい衣裳に着せかえて院に逢わせようとしたが、傾城は拒絶して帰る。院から文を遣わされたが、それには答えず、別に歌を詠み、切り捨てた髪を贈ってよこした。後年聞くところによると河内の国の土師寺(はじでら)で五百戒の尼衆になっていたという話。[二の一五]〔14ささがにの女〕12
まことや(=それはそうと)、明けゆくほどに、
「資行が申し入れし人は何とさぶらひしそら」
と申す。
「げにつやつや忘れて。見て参れ」
と仰せあり。起き出でて見れば、はや日さし出づるほどなり。
角の御所の釣殿の前に、いと破(やぶ)れたる車、夜もすがら雨に濡れにけるもしるく、濡れしほたれて見ゆ。あなあさまし(=ひどい)とおぼえて、「寄せよ」と言ふに、供の人、門の下よりただ今出でてさし寄す。見れば、練貫の柳の二つ、花の絵描きそそき(=急いでする)たりけるとおぼしきが、車漏りて、水にみな濡れて、裏の花、表へとほり、練貫の二小袖(ふたつこそで)へうつり、さま悪しきほどなり。夜もすがら泣き明かしける袖の涙も、髪は、漏りにやあらん、また涙にや、洗ひたるさまなり。
「この有様なかなかにはべる」
とて降りず。(=私は)まことに苦々しき心地して、
「わがもとにいまだ新しいき衣のはべるを、着て参りたまへ。今宵しも大事のこと(=用件)ありて」
など言へども、泣くよりほかのことなくて、手をすり(=合わせ)て
「帰せ」
と言ふさまもわびし。夜もはや昼になれば、まことにまた何とかはせんにて帰しぬ。
このよしを申すに、
「いとあさましかりけることかな」
とて、やがて文遣はす。御返事はなくて、「浅茅(あさぢ)が末にまどふささがに」と書きたる硯のふた(=盛付の台のうえ)に、縹(はなだ)の薄様に包みたる物(=食物)ばかり据ゑて参る。御覧ぜらるれば、「君にぞまどふ」と、彩(だみ)たる薄様に髪をいささか切りて包みて、
038数ならぬ身の世語りを思ふにも
なほ悔やしきは夢の通ひ路
かくばかりにて、ことなることなし。
「出家などしけるにや、いとあへなきことなり」
とて、たびたび尋ね仰せられしかども、つひに行き方(=ゆきがた)知らずなりはべりき。年多く積りて後、河内国(かはちのくに)、更荒寺(さららじ)といふ寺に、五百戒の尼衆(にしゆ)にておはしけるよし聞き伝へしこそ、まことの道の御しるべ、憂きはうれしかりけむと、推しはかられしか。
四十四 牛王の誓紙
建治元年九月に有明の月と契りを結んで別れた事は四十段に記してあった。この段はその後の事。有明の月は稚児を手引きとしてしばしば文を通わせる。作者も時々返事はしたが、逢う事はなかった。[二の一六]〔15有明の月の御文〕13
年が改まって建治二年、春から御所に忙しい事があって、雪の曙に逢う機会もなく、おぼつかない思いの中に九月になった。一夜隆顕(=善勝寺)に呼び出され、出雲路という所で有明に逢わされたが、固く拒絶して別れる。年末になって、有明の月から激しい文が、隆顕を介して贈られた。それには深刻な恋情が述べられてあったが、作者は堅く決心して拒絶し、一首の和歌を添えてその文を突き返してしまった。
さても、有明の月の御もとより、思ひがけぬ伺候の稚児(ちご)のゆかりを尋ねて御文あり。思はずに、まことしき御心ざしさへあれば、なかなかむつかしき心地して、御文にては時々申せども、自らの御ついではかき絶えたるも、いぶせ(=面倒な)からずと思はぬとしもなくて、また年も返りぬ。
〔16御花合わせ〕
新院・本院、御花合(はなあはせ)の勝負といふことありて、知らぬ山の奥まで尋ね求めなど、この春は暇(いとま)惜しきほどなれば、うち隠ろへたる(=雪の曙との)忍び事どももかなはで、おぼつかなさ(=つらさ)をのみ(=手紙に)書き尽くす。今年は御所にのみつと(=続けて)さぶらひて秋にもなりぬ。
〔17出雲路の一夜〕
長月(=九月)の中の十日余りにや、善勝寺の大納言のもとより、文こまやかに書きて、
「申したきことあり、出でたまヘ。出雲路(いづもぢ)といふわたりにはべるが、女どもの見参(げざん=あなたに会い)したがるがはべるに、いかがして(=来い)。自らの便り(=私のお願い)は、身に代へても(=命がけで)」
など申ししを、まめやかに同じ心に思ふべき(=同意すべき)ことと思ひて(=行ってみると)、この大納言は幼くより(=有明の月と)御心ざしある(=親しい)さまなれば、これもまた(=私と)身親しき人なればなどおぼしめしめぐらし(=有明の月が策略し)けるは、なほざりならず(=真剣だ)とも申しぬべき。
(=私の)例のけしからずさ(=わがまま)は(=有明の月を)恨めしく、疎ましく思ひまゐらせて、恐ろしきやうにさへおぼえて、つゆの御答(いら)へも申されで、床中(とこなか)に起きゐたる有様は、「(枕より)あとより恋の(攻めくれば)」と言ひたるさまやしたるらんと、我ながらをかしくもありぬべし。
夜もすがら泣く泣く契りたまふも、身のよそ(=疎遠)におぼえて、「今宵ぞ限り」と心に誓ひゐたるは、誰かは知らん。鳥の音ももよほし(=促し)がほに聞こゆるも、人(=有明の月)は哀しきことを尽くして言はるれども、我が心にはうれしきぞ情けなき(=薄情な)。
大納言声作づくり(=咳ばらいし)て、何とやらんいふ音(=声)して、(=有明の月は)帰りたまひなどするが、また立ち帰りさまざま仰せられて、
「せめては見だに送れ」
とありしかども、心地わびしとて起き上がらず。泣く泣く出でたまひぬる気色は、げに袖にや(=魂を)残し置きたまふらんと見ゆるも、罪深きほどなり。
(=手引きした)大納言の心の内もわびしければ、いたく(=外が)白々しくならぬ先にと、公事(おほやけごと)にことつけて、急ぎ(=富小路御所に)参りて、局にうち臥したれば、まめやかにありつるままの(=有明の月の)面影の、そばに(=夢に)見えたまひぬるも恐ろしきに、
14 その昼つ方、書きつづけて賜ひたる御言の葉は、偽りあらじとおぼえし中に、(=有明の月)
039悲しとも憂しとも言はん方ぞなき
かばかり(=そっけない)見つる人の面影
今さら変るとしはなけれども、あまりに憂くつらくおぼえて、言の葉もなかりつるものをとおぼえて、
040(=私が)変るらん心はいさや白菊(しらぎく)の
うつろふ色はよそ(=あなた)にこそ見れ
(=有明の月の文は)あまりに多きこと(=内容)どもも、何と申すべき言の葉もなければ、ただかくばかりにてぞはべりし。
[二の一七]〔18起請文〕
その後、とかく仰せらるれども、御返事も申さず。まして、参らんこと思ひよるべきことならず。とにかくに言ひなして、つひに見参(げざん)に入らぬに、暮れ行く年に驚きて(=焦った)にや文あり。善勝寺の文に、
「(=有明の月の)御文参らす。(=あなたの)このやう(=やり方)、かへすがへす詮なく(=よくない)こそさぶららヘ。あながちに厭(いと)ひ申さるることにてもさぶらはず。しかるべき御契りにてこそかくまでもおぼしめし染(し)みさぶらひけめに、情けなく(=薄情に)申され、かやうに苦々しく(=最悪に)なりぬること、身一つ(=私)の嘆きにおぼえさぶらふ。これ(=私)へも同じさま(=有明の月が恨む)には(=この手紙にも薄情なのは?)、かへすがへす恐れおぼえさぶらふ」
よし、こまごまとあり。
文を見れば、立文(たてぶみ)こはごはしげに、続飯(そくひ)にて上下につけ、書かれたり。開けたれば、熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王(ごわう)といふ物(=護符)の裏に、まづ日本国六十ヶ神仏・梵天王(ぼんてんわう)・帝釈(たいしやく)より始め、書き尽くしたまひて後、
「我七歳よりして、勤求等覚(ごんぐとうがく)の沙門(しやもん=僧)の形を汚してよりこの方、炉壇(ろだん=護摩壇)に手(=印契)を結びて難行苦行の日を重ね、近くは天長地久(=天子の長命)を祈りたてまつり、遠くは一切衆生もろともに滅罪生善(めつざいしやうぜん)を祈誓す。心の中(うち)、さだめて牛王・天童・諸明王(しよみやうわう)、験(げん)垂れたまふらんと思ひしに、いかなる魔縁(まえん)にか、よしなきことゆゑ、今年二年、夜は夜もすがら(=あなたの)面影を恋ひて、涙に袖を濡らし、本尊に向ひ持経(=常のお経)を開く折々もまづ(=あなたの)言の葉を偲び、護摩の壇の上には(=あなたの)文を置きて持経とし、御灯明(みあかし)の光にはまづこれを開きて心を養ふ。この思ひ忍びがたきによりて、かの大納言に言ひ合はせば見参(げざん)の便りも心やすくやなど思ふ。またさりとも(=我々は)同じ心(=恋心)なるらむと思ひつること、みなむなし。この上は文をも遣はし、言葉をも交(かは)さんと思ふこと、今生にはこの思ひを断つ。
「さりながら、心の中に忘るることは、生々世々(しやうじやうよよ)あ(=る)べからざれば、我(われ)さだめて悪道(あくだう)に堕つべし。さればこの恨み尽くる世(=一生)あるべからず。両界(=金剛界と胎蔵界)の加行(けぎやう)よりこの方、灌頂(くわんぢやう=の儀)に至るまで、一期(いちご=一生)の行法(ぎやうほう)、読誦(どくじゆ)大乗、四威儀(しゐぎ)の行、一期の間修(しゆ)するところ、みな三悪道(=地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に生まれ変わるため)に回向(ゑかう)す。この力を持ちて、今生長く(=恋が叶わず)むなしくて、後生には悪趣(あくしゆ=地獄)に(=我々は)生れあはむ。
「そもそも生を享けてこの方、幼少の昔、襁褓(むつき)の中にありけむことはおぼえずして過ぎぬ。七歳にて髪を剃り、衣を染めて後、(=女と)一つ床(ゆか)にも居、もしは愛念(あいねん)の思ひなど、思ひよりたることなし。この後(のち)またあるべからず。(=善勝寺が)我にも言ふ言の葉は、なべて人(=普通の人)にもやと思ふらんと思ひ、大納言が心の中、かへすがへす悔やしきなり」
と書きて、天照大神・正八幡宮(しやうはちまんぐう)、いしいしおびただしく賜はりたるを見れば、身の毛も立ち、心もわびしき(=つぶれる)ほどなれど、さればとて何とかはせん。これをみな巻き集めて、返しまゐらする包み紙に、
041今よりは絶えぬ(=もう会わない)と見ゆる水茎の
跡を見るには袖ぞしをるる(=萎れる)
とばかり書きて、同じさまに封して返しまゐらせたりし後は、かき絶え御訪れもなし。何とまた申すべきことならねば、むなしく年も返りぬ。
四十五 小弓の負けわざ
建治三年、年頭の挨拶に、有明の月は後深草院の御所に参る。作者は給仕に出ようとして鼻血を垂れ、その後十日間ほど病臥。〔19御酌の仰せ〕
二月後深草院と亀山院と小弓の競技があり、その負けわざとして、後深草院の女房全部を鞠足(まりあし)のわらは(童)に仕立てて亀山院に謁見させる行事が行われる。
春は(=有明の月が)いつしか(=すぐに)御参りあることなれば、入らせたまひたるに、九献参る。ことさら、外様(とざま)なる人もなく、しめやかなる御事どもにて、例の常の御所にての御事どもなれば、逃げ隠れまゐらすべきやうもなくて、御前(おまへ)にさぶらひし。御所、「(=有明の月に)御酌に参れ」と仰せありしに、参るとて立ちさまに、鼻血(はなぢ)垂りて、目も暗くなりなどせしほどに、御前を立ちぬ。その後十日ばかり、如法大事(だいじ)に病みてはべりしも、いかなりけることぞと、恐ろしくぞはべりし。
[二の一八]〔20小弓の勝負〕15
かくて、二月(きさらぎ)の頃にや新院入らせおはしまして、ただ御差し向ひ、小弓(こゆみ)を遊ばして、
「御負けあらば、御所の女房たちを上下みな見せたまへ。我負けまゐらせたらばまたそのやうに」
と言ふことあり。この御所御負けあり。これより申す(=院がお見せする)べしとて、還御の後、資李(すけすゑ)の大納言入道を召されて、
「いかがこの式あるべき。珍しき風情、何事ありなん」
など仰せられ合はするに、
「正月の儀式にて、台盤所に並べ据ゑられたらんも、あまりに珍しからずやはべらん。また一人づつ占相人(うらさうにん=人相見)などに会ふ人のやうにて出でむも、ことやう(=変な)にあるべし」
など、公卿たち面々に申さるるに、御所、
「龍頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟を作りて、水瓶(かめ)を持たせて、(=『源氏物語』の)『春待つ宿』の返しにてや」と御気色(きしよく)あるを、
「舟いしいしわづらはし」
とて、それも定まらず。
〔21鞠足の童〕
資季(すけすゑ)入道、
「上臈八人、小上臈・中上臈八人づつを、上中下の鞠足(まりあし)の童(わらは=蹴手)になして、橘の御壺に切立(きたて)をして、鞠(=蹴鞠)の景気(=演技)をあらんや、珍しからむ」
と申す。さるべしと、みな人々申し定めて、面々に、上臈には公卿、小上臈には殿上人、中臈には上北面、傅(めのと=補佐役)に付きて出だし立つ。
(=女房たちが)水干袴(=男装)に刀差して、沓・襪(したうづ=足袋)など履きて出で立つべしとてあり。いと堪へがたし。さらば(=ところが)、夜などにてもなくて、昼のことなるべしとてあり。誰かわび(=がっかり)ざらん。されども力なきことにて、おのおの出で立つべし。
西園寺の大納言、(=私の)傅(めのと)につく。縹裏の水干袴に紅の袿(うちぎ)重ぬ。左の袖に沈(=香)の岩を付けて、白き糸にして滝を落とし、右(=袖)に桜を結びて付けてひし(=びっしり)と散らす。袴には岩・井堰(ゐせき)などして、花をひしと散らす。「涙もよほす滝の音かな」(=『源氏物語』若紫)の心なるべし。
権大納言殿(=女房を)、資季入道(=が)沙汰(=補佐)す。萌黄裏の水干袴には、左(=袖)に西楼(せいろう)、右(=袖)に桜。袴、左に竹結びて付け、右に灯台一つ付けたり。紅の単衣(ひとへ)を重ぬ。面々にこの式(=やり方)なり。中の御所(?)の弘所(ひろどころ=弘御所)を、屏風にて隔て分けて、二十四人出で立つさま、思ひ思ひにをかし。
さて、風流(ふりう=にせ)の鞠(まり)を作りて、ただ新院の御前(おまへ)ばかりに置かむずるを、ことさら懸りの(=木の)上へ上ぐるよし(=まね)をして、落つる所を袖に受けて、沓を脱ぎて、(=鞠を)新院の御前に置くべしとてありし。皆人、この上げ鞠を泣く泣く辞退申ししほどに、器量(きりやう=上手)の人なりとて、女院(=東二条)の御方の新衛門督(ゑもんのかみ)殿を、上(=上臈)八人に召し入れて勤められたりし。これも時にとりては美々しかりしかとも申してむ。さりながら、うらやましからずぞ。袖に受けて御前に置くことは、(=私は)その日の八人上首(じやうしゆ=八人のリーダー)に付きて勤めはべりき。いと晴れがましかりしことどもなり。
[二の一九]
南庭(なんてい)の御簾(みす)上げて、両院・春宮、階下(かいか)に公卿両方に着座す。殿上人はここかしこにたたずむ。塀の下を過ぎて南庭を渡る時、みな傅(めのと)ども色々の狩衣にてかしづき(=介添え)に具(=伴う)す。新院、
「交名(けいみやう=それぞれの名前)をうけたまはらん」
と申さる。
御幸(ごかう)、昼よりなりて、九献も疾く始まりて、
「おそし、御鞠とくとく」
と、奉行(ぶぎやう)為方責むれども、「いまいま」と(=私は)申して松明(しようめい)を取る(=時刻に)。やがて面々のかしづき紙燭(しそく)を持ちて、「誰がし(=かしづきの名)、御達(ごたち)の局(=女官の名)」と申して、ことさら御前へ向きて、袖かき合せて過ぎしほど、なかなか、言の葉なく(=屈辱的)はべる。下八人より、しだいに懸りの(=木の)下へ参りて、面々の木の本にゐる有様、われながら珍(めづら)かなりき。まして上下男たちの興(きよう)に入りしさまは、ことわりにやはべらん。御鞠を御前に置きて、急ぎまかり出でんとせしを、しばし召し置かれて、その(=水干袴)姿にて御酌に参りたりし、いみじく堪へがたかりしことなり。
二三日かねて(=二三日前)より、(傅たちは=)局々に伺候して、髪結ひ、水干・沓など着ならはしさぶらふほど、傅(めのと)たち経営(けいえい=世話する)して、「養ひ君(ぎみ)(=女官)もてなす」とて、片寄り(=それぞれ)にことどものありしさま推しはかるべし。
四十六 六条院の女楽復讐戦が行われて今度は後深草院の勝ち、そこで亀山院が負けわざを嵯峨殿で催された。[二の二〇]〔22御妬みと弥妬み〕16
更にまた再復讐戦が行われて後深草院の負、その負けわざとして伏見殿で音楽会が開かれる事になった。会の趣向は源氏物語若菜巻にある六条院の女楽の形で演じようというのである。
さて当日になって演奏が始まろうする時、作者の祖父隆親が、我が子「今参り」の席を作者の上席に移させたので、作者は立腹して脱走し、演奏会は中止になった。
脱走して身を隠した所を、小林の伊予殿の許と書いてあるが、それは初めからのことではなく、初めは真願房の室であったことが次の段で知られる。
さるほどに、御妬み(=復讐戦)には御勝ち(=院の勝ち)あり。嵯峨殿の(=亀山院が)御所(=後深草院)へ申されて(=招く)、按察使(あぜち)の二品(にほん=亀山院の乳母)のもとにわたらせたまふ今御所とかや申す姫宮、十三にならせたまふを(=五節の)舞姫に出だし立てまゐらせて、上臈女房たち(=が)、童・下仕へ(=雑用の女官)になりて帳台の試み(=舞姫の稽古を見るごっこ)あり。また公卿厚褄(あつづま=綿入れ)にて、殿上人・六位肩脱ぎ北の陣(=警護の詰所に)を渡る。便女(びでう)・雑仕が景気など残るなく、露台(ろだい=屋根のない舞台)の乱舞、御前の召し、おもしろくとも言ふばかりなかりし(=言い尽くせない)を、なほなごり惜しとて、いや妬み(=再復讐)まであそばして、またこの御所御負け、伏見殿にてあるべしとて、六条院(=源氏物語の)の女楽(をんながく)をまねばる。
紫の上には東の御方、女三の宮の琴(きん)の代はりに、箏(しやう)の琴を隆親(=祖父)の女(むすめ)の今参り(=新参者)に弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらん、むつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠の折に、ことさら、(=亀山院の)御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、(=私を)明石の上にて琵琶に参るべしとてあり。
〔23六条院の女楽〕
琵琶は七つの年より、雅光の中納言に、初めて楽二つ三つ習ひてはべりしを、いたく心にも入れでありしを、九つの年より、またしばし御所に(=が)教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合(そがふ)、万秋楽(まんじゆらく)などはみな弾きて、御賀の折、白河殿荒序(くわうそ)とかや言ひしことにも、「十にて御琵琶(=院の)を頼りて、いたいけして(=かわいく)弾きたり」とて、花梨木(くわりぼく)の直甲(ひたかふ)の琵琶の、紫檀(したん)の転手(てんじゆ=糸巻)したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、「弾け」とてあるもむつかしく、などやらん、ものぐさながら出で立ちて、「柳の衣に、紅の打衣、萌黄の表着、裏山吹の小袿(こうちき)を着るべし」とてあるが、なぞしも、かならず人よりことに落ちばなる明石になることは。東の御方の和琴(わごん)とても、日頃しつけたることならねども、ただこのほどの御習ひなり。琴(きん)のことの代はりの今参りの琴(こと)ばかりぞ、しつけたることならね。女御の君は、花山院太政大臣の女、西の御方なれば、紫の上に並びためへり。これは対座に敷かれたる畳の右の上臈に据ゑらるべし、「御鞠の折に違ふべからず」とてあれば、などやらん、さるべしともおぼえず。今参りは、女三の宮とて、一定上(=上座)にこそあらめと思ひながら、御気色(みけしき)の上はと思ひて、まづ伏見殿へは御供(とも)に参りぬ。
[二の二一]
今参りは当日に紋の車にて、侍(さぶらひ)具しなどして参りたるを見るにも、我が身の昔思ひ出でられてあはれなるに、新院御幸(ごかう)なりぬ。
すでに九献始まりなどして、こなたに女房、しだいに出で、心々の楽器前に置き、思ひ思ひの褥(しとね)など、若菜の巻にやしるし文のままに、定め置かれて、時なりて、主の院は六条院(=光源氏)に代はり、新院は(=夕霧)大将に代はり、殿(=関白兼平)の中納言中将(=兼忠)、洞院の三位中将にや、笛、篳篥(ひちりき)に階下(かいか)へ召さるべきとて、まづ女房の座みなしたためて、並びゐて、あなた裏にて御酒盛りありて、半ばになりて、こなたへ入らせたまふべきにてある所へ、兵部卿(=隆親)参りて、女房の座いかにとて見らるるが、「このやう悪ろし。まねばるる女三の宮、文台(ぶんだい)の御前なり。今まねぶ人の、これは叔母なり、あれは姪なり。上に居るべき人なり。隆親、故大納言には上首(じやうしゆ)なりき。何事に下にゐるべきぞ。居直れ、居直れ」と、声高に言ひければ、善勝寺、西園寺参りて、「これは別勅(べつちよく)にてさぶらふものを」と言へども、「何とてあれ、さるべきことかは」と言はるる上は、一旦こそあれ、さのみ言ふ人もなければ、御所はあなたに渡らせたまふに、誰か告げまゐらせんも詮なければ、座を下へ降ろされぬ。
出だし車のこと(=前出)、今さら思ひ出だされていと悲し。姪・叔母(=の関係)には、なじかよる(=従う)べき。怪し(=身分の低い)の者の腹に宿る人も多かり。それも叔母は、祖母(うば)はとて、捧げおくべきか。こは何事ぞ。すべてすさまじかりつることなり。これほど面目なからんことに交じろひて詮なしと思ひて、この座を立つ。
〔24思い切りぬる四つの緒〕17
局へすべりて、
「御尋ねあらば消息(せうそく)を参らせよ」
と言ひ置きて、小林といふは御姆(はは)が母、宣陽門院(せんやうもんゐん)に伊予殿と言ひける女房、遅れまゐらせて(=主に先立たれ)さま変へて(=出家して)、即成院(そくじやうゐん)の御墓近くさぶらふ所へ尋ね行く。参らせおく消息に、白き薄様に琵琶の一の緒をニつに切りて包みて、
042数ならぬ憂き身を知れば四つの緒(=琵琶)も
この世のほかに思ひ切りつつ
と書き置きて、「御尋ねあらば、都へ出ではべりぬと申せ」と申し置きて出ではべりぬ。
[二の二二]
さるほどに、九献半ば過ぎて、御約束のままに入らせたまふに、明石の上の代はりの琵琶なし。事のやうを御尋ねあるに、東の御方、ありのままに申さる。聞かせおはしまして、「ことわりや、あが子が立ちけること、そのいはれあり」とて、局を尋ねらるるに、「これを参らせて、はや都へ出でぬ。さだめて召しあらば参らせよとて、消息こそさぶらへ」と申しけるほどに、あへなく不思議なりとて、よろづに苦々しくなりて、今の歌を新院も御覧ぜられて、「いとやさしく(=殊勝)こそはべれ。今宵の女楽はあいなくはべるべし。この歌を賜はりて、帰るべし」とて申させたまひて、還御なりにけり。この上は今参り、琴弾くに及ばず。面々に、「兵部卿うつつなし。老いのひがみか。あが子(=二条)が仕様(しやう=やり方)やさしく」など申して過ぎぬ。
四十七 雲がくれ
この段に初めて「雪の曙」という呼び名が出る。これは第二段に「昨日の雪よりも今日のは云々」の文を送ってよこした初恋の人西園寺実兼で、今までは「この人」「その人」などと書かれていた。朝(あした)はまだ疾く、四条大宮の御姆(はは)がもと、六角櫛笥(ろくかくくしげ)の祖母(うば=久我尼)のもとなど、人を賜はりて御尋ねあれども、「行く方知らず」と(=彼らは)申しけり。
またこの段の記によって作者の御所脱出が建治三年の三月十三日であった事、「有明の月」が初めて作者に意中を打明けたのが建治元年三月十三日であった事が知られる。
この段は御所脱出以後、およそ一個月あまりにわたる作者の動静と述懐を記したものであるが、その間隠れていた所が、最初から真願房の室であったか、諸方を隠れ廻って終りに真願房の室に入ったのか明らかでない。
さるほどに、あちこち尋ねらるれども、いづくよりか(=ここに)ありと申すべき。よきついでに、憂き世を逃れんと思ふに、十二月(しはす)のころより、ただならずなりにけりと思ふ折からなれば、それしもむつかしくて、「しばしさらば隠ろへ居て、このほど過ぐして、身々(=身二つ)となりなば」と思ひてぞ居たる。
これよりして、長く琵琶のばちを取らじと誓ひて、後嵯峨の院より賜はりてし琵琶の八幡(やわた)へ参ら(=奉納)せしに、大納言(=父雅忠)の書きて賜びたりし文の裏に、法華経を書きて参らするとて、経の包み紙に、
043この世には思ひ切りぬる四つの緒の
形見や法(のり)の水茎の跡
[二の二三]〔25道閉じめぬる心地〕
つくづくと案ずれば、一昨年の春三月十三日に、初めて、「(秋萩は)折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに、去年(こぞ)の十二月にや、おびたたしき誓ひの文を賜はりて、いくほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月さぶらひ馴れぬる御所の内をも住みうかれ(=住みづらく)、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言隠れて後は、親ざまに思ひつる兵部卿も快からず思ひて、「われ申したることを咎めて出づるほどの者は、わが一期(いちご=生きている間)には、よも(=御所へ)参りはべらじ」など申さるると聞けば、道閉ぢめぬる心地して、いかなりけることぞと、いと恐ろしくぞおぼえし。
如法(によほふ)、御所よりもあなたこなたを尋ねられ、雪の曙も山々寺々までも思ひ残す隈なく尋ねらるるよし聞けども、つゆも動かれず隠れ居て、聞法(もんぽふ=仏法の聴聞)の結縁(けちえん=縁故)も便(たよ)りありぬべくおぼえて、真願房の室(むろ)にぞ、また隠れ出ではべりし。
四十八 三界無安
この段が建治三年四月の事であるのは前からの連絡上知られるが、史実も一致する。その頃隆顕は父隆親と不和になり、今まで同宿していた父の邸を去り、妻の父九条中納言の家に籠居した。作者はその噂を聞いて隆顕へ慰問の手紙を贈る。それによって隠れがが分かったので隆顕は作者を訪問する。[二の二四]〔26善勝寺の籠居〕18
隆顕は醍醐の勝倶胝院なる真願房の庵室に作者を訪ねて一夜物語をする。その物語の中で、作者は「有明の月」が嘆いている様子を聞いて悲しい思いをする。
さるほどに、四月(うづき)の祭り(=加茂の祭)の御桟敷(おんさじき=院の)のこと、兵部卿(=隆親)、用意して、両院御幸(ごかう)なすなど、ひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、同じ四月のころにや、内(=後宇多帝)・春宮の御元服に、大納言の年の長(た)けたるが入るべきに、前官悪ろしとて、(=隆親が)余りの奉公の忠のよしにや、善勝寺(=隆顕)が大納言を一日借りわたして参るべきよし申す。神妙(しんべう)なりとて、参りて、(=元服式を)ふるまひまゐりて、(=隆顕に)返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひき違へ、経任になされぬ。
さるほどに、善勝寺の大納言、故なく剥がれぬること、さながら父の大納言が仕事やと思ひて深く恨む。当腹(たうふく=本妻の子)隆良(たかよし)の中将に宰相を申す(=申請する)ころなれば、この大納言を参らせあげ(=返還し)て、我を超越(てうをつ)せさせんとすると思ひて、同宿も詮なしとて、北の方が父九条中納言家に籠居(ろうきよ)しぬるよし聞く。いとあさましければ、行きても訪らひたけれども、世の聞こえむつかしくて、文にて、「かかる所にはべるを、立ち寄りたまへかし」など申したれば、「跡なく(=行方不明と)聞きなして後、よろづ言はん方なくおぼえつるに、うれしくこそ。やがて夜さり参りて、いぶせかり(=憂鬱な)つる日数も」など言ひて、暮るるほどにぞ立ち寄りたる。
[二の二五]〔27憂きはなべての習い〕
四月(うづき)の末つ方のことなるに、なべて青みわたる梢の中に、遅き桜の、ことさらけぢめ見えて白く残りたるに、月いと明かくさし出でたるものから、木陰は暗き中に、鹿のたたずみ歩きたるなど、絵に描きとめまほしきに、寺々の初夜(しよや)の鐘、ただ今うちつづきたるに、ここは三昧堂(さんまいだう)つづきたる廊なれば、これにも、初夜(しよや)の念仏、近きほどに聞こゆ。
回向(ゑかう)して果てぬれば、尼どもの麻の衣(ころも)の姿いとあはれげなるを見出だして、大納言も、さしも思ふことなく誇りたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣の袂も絞りぬ。「今は恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひ立つに、故大納言の心苦しく申し置きしこと(=二条の後見)、われさへまたと思ふこそ、思ひの絆(ほだし)なれ」など申せば、我も「げにいとど、何を(=頼りに)か」と、なごりをしさも悲しきに、薄き単衣の袂は、乾く所なくぞはべりける。
「かかるほど(=出産の時)を過ぐして、山深く思ひ立つべければ、同じ(=墨染の)御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひ尽くしはべりし中に、「さても、いつぞや、恐ろしかりし文を見し、われ過ごさぬこと(=過失でない)ながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身と言ひ身と言ひ、かかることの出で来ぬるも、まめやかに、報いにやとおぼゆる。さても、いづくにもおはしまさずとて、あちこち尋ね申されし折節、(=有明の月が)御参りありて、御帰りありし御道にて、『まことにや、かくと聞くは』と御尋ねありしに、『行く方(ゆくへ)なく今日まではうけたまはる』と申したりしに、いかがおぼしけん、中門のほどに立ちやすらひつつ、とばかり物も仰せられで、御涙のこぼれしを、檜扇に紛らはしつつ、『三界無安(さんがいむあん)猶如火宅(ゆによくわたく)』と、口ずさみて出でたまひし気色こそ、常ならん人の、恋ひし、悲し、あさまし、あはれと、申し続けんあはれにも、なほまさりて見えはべりしかば、本尊に向ひたまふらん念誦(ねんじゆ)も推しはかられて」など語るを聞けば、「悲しさ残る」とありし月影も、今さら思ひ出でられて、などあながちに、かうしも(=このように)情なく申しけむと、悔しき心地さへして、我が袂さへ露けくなりはべりしにや。
夜明けぬれば、世の中もかたがた(=互いに)つつましとて帰らるるも、「事ありがほなる朝帰りめきて」など言ひて、いつしか、「今宵のあはれ、今朝のなごり、まことの道には、捨てたまふな」などあり。
044はかなくも世のことわりは忘られて
つらさに堪へぬわが袂かな
と申したりし。「げに憂きはなべてのならひとも知りながら、嘆かるるは、かやうのことにやと、悲しさ添ひて」など申して、
045よしさらばこれもなべてのならひぞと
思ひなすべき世のつらさかは
四十九 春日の夢想
雪の曙(西園寺実兼)は作者の行くえを知りたくて春日神社に籠り夢想に導かれて京に帰る途中、隆顕の中間男に出逢い、作者の隠れがが勝倶胝院であることを知る。[二の二六]〔28三笠の神のしるべ〕19
その夕暮、実兼は作者を訪問し、翌日もそこに滞在する。そして隆顕へ手紙を送り来訪を求める。隆顕来訪。実兼・隆顕相談のうへ、実兼が作者のありかを聞きつけたことにして院に申上げようと定め、おのおの帰る。
雪の曙は、跡なきことを嘆きて、春日に二七日こもられたりけるが、十一日と申しける夜、二の御殿の御前に昔に変らぬ姿にてはべると見て、急ぎ下向(げかう)しけるに、藤の森といふほどにてとかや、善勝寺が中間(ちゆうげん)、細き文の筥(はこ)を持ちて会ひたる、などやらん、ふと思ひ寄る心地して、人に言はするまでもなくて、「勝倶胝院(しようくていゐん)より帰るな。二条殿の御出家(おんすけ)は、いつ一定とか聞く」と言はれたりければ、よく知りたる人とや思ひけむ、「夜べ九条より大納言殿入らせたまひてさぶらひしが、今朝また御使に参りて帰りさぶらふが、御出家(おんすけ)のことは、いつとまではえうけたまはりさぶらはず。いかさまにも御出家は一定げにさぶらふ」と申しけるに、さればよとうれしくて、供なる侍が乗りたる馬を取りて、これより神馬(しんめ)に参らせて(=奉納して)、我が身は、昼は世の聞えむつかしくて、上(かみ)の醍醐(だいご)に知るゆかりある僧坊へぞ立ち入りける。
それも知らで、夏木立ながめ出でて、坊主(ばうず)の尼御前の前にて、善導の御事を習ひなどして居たる暮れほどに、何のやうもなく縁(えん)に昇る人あり。尼たちにやと思ふほどに、さやさやと鳴るは、装束の音からと見返りたるに、そばなる明り障子を細めて、「心強くも隠れたまへども、神の御しるべは、かくこそ尋ねまゐりたれ」と言ふを見れば、雪の曙(あけぼの)なり。
[二の二七]
「こはいかに」と今さら胸もさわげども、何かはせん。「なベて世の恨めしくはべりて、(=御所を)思ひ出でぬる上は、いづれを分きてか(=特別には)」とばかり言ひて立ち出でたり。例の、いづくより出づる言の葉にかと思ふことどもを言ひ続けゐたるも、げに悲し(=いとし)からぬにしもなけれども、思ひ切りにし道なれば、二たび帰りまゐるべき心地もせぬを、かかる身のほど(=妊娠中)にてもあり、誰かはあはれ(=いとしい)とも言ふべき。「御心ざし(=院の愛情)のおろかなるにてもなし、兵部卿が老いのひがみゆゑに、かかるべきことかは。ただこの度ばかりは、(=院の)仰せに従ひて(=戻る)こそ」などしきりに言ひつつ、次の日は留まりぬ。
(=雪の曙は)善勝寺の訪らひ(=お見舞)言ひて、「(=二条が)これにはべりけるに思ひかけず訪ね参りたり。見参(=あなたとお会い)せん」と言ひたり。「かまへて、これへ」とねんごろに言はれて、この暮れに、また立ち寄りたれば、つれづれの慰めになどとて、九献夜もすがらにて、明けゆくほどに帰るに、(=雪の曙が)「ただこの度は、それに(=あなたが)聞き出だしたるよしにて、御所へ申してよかるべし」など面々に言ひ定めて、雪の曙も今朝立ち帰りぬ。
面々のなごりもいと忍びがたくて、見だに送らんとて立ち出でたれば、善勝寺は、檜垣(ひがき)に夕顔を織りたるしじらの狩衣にて、「道こちなく(=無作法)や」などためらひて夜深く帰りぬ。いま一人は、入りがたの月隈(くま)なきに、薄香(うすかう)の狩衣、車したたむるほど、端つ方に出で、主の方へも、「思ひよらざる見参(げざん)もうれしく」などあれば、「十念成就(じやうじゆ)の終はりに、三尊の来迎(らいかふ)をこそ待ちはべる柴の庵(いほり)に、思ひがけぬ人ゆゑ、折々かやうなる御袂にて尋ね入りたまふも、山賤(やまがつ)の光にや思ひはべらん」などあり。「さても、残る山の端もなく尋ねかねて、三笠の神のしるべにやと参りて見しむばたまの夢の面影」など語らるるぞ、住吉の少将が心地しはべる。
明けゆく鐘も、もよほしがほなれば、出でさまに、口ずさみしを、しひていへれば、
046世の憂さも思ひつきぬる鐘の音(おと)を
月にかこちて有明の空
とやらん口ずさみて出でぬるあとも悲しくて、
047鐘の音(おと)に憂さもつらさもたち添へて
なごりを残す有明の月
五十 小林の伊予殿
作者が伏見の小林なる伊予殿の家に移った事。これについては四十六段に、御所を脱走してすぐ小林へ行ったような書き方をしているが、初め諸所に身を隠し、最後に小林へ行き、小林から院に連れもどされたので、このように書かれたのである。四十七段以下の文によってその事が知られる。[二の二八]〔29さもぞ物思う身〕20
さて作者は伊予殿の家に移って、四十八段で隆顕から聞かされた有明の月の嘆きを思い出して悲しんでいると、雪の曙から手紙があり、二人の中に生まれた秘密の女児に面会させようという。それにつけても恩愛の情に心が砕ける事。
後深草院が突然に伊予殿の家に御幸なされ、言葉を尽くして帰参をすすめなさるので、作者は心弱くもお供をして、御所に帰った事。
今日は一筋に思ひ立ちぬる道もまた障り出で来ぬる心地するを、主の尼御前、「いかにもこの人々は(=この場所を)申されぬとおぼゆるに、たびたびの御使に心清くあらがひ申したりつるも、はばかりある心地するに、小林の方へ出でよかし」と言はる。さもありぬべきなれば、車のこと善勝寺へ申しなどして、伏見の小林といふ所へまかりぬ。
今宵は何ともなく日も暮れぬ。御姆(はは)が母伊予殿、「あな珍し。御所よりこそ『これにや』とてたびたび御尋ねありしか。清長もたびたびもうでこし」など語るを聞くにも、「三界無安猶如火宅」と言ひたまひける人(=有明の月)の面影浮かむ心地して、とにかくに、さもぞ物思ふ身にてありけると、我ながらいと悲し。
四月(うづき)の空の村雨(=にわか雨)がちなるに、音羽(おとは)の山の青葉の梢に宿りけるにや、時鳥(ほととぎす)の初音(はつね)をいま聞き初むるにも、
048我が袖の涙言問(ことと)へほととぎす
かかる思ひの有明の空
[二の二九]
いまだ夜深きに尼たちの起き出でて、後夜行ふに、即成院(そくじやうゐん)の鐘の音もうちおどろかすに、われも起き出でて、経など読みて、日高くなるに、また雪の曙より、茨(うばら)切りたりし人の文あり。なごりなど書きて後、さても夢のやうなりし人(=二条の娘)、その後は面影も知らぬことにてあれば、何とかはと思ひて過ぐるに、
「この春のころよりわづらひつるが、なのめならず大事なるを、道の者どもに尋ぬなれば、『御心にかかりたるゆゑ』など申す。まことに恩愛尽きぬことなれば、さもやはべらん」とあり。
いさや、かならずしも、恋し、悲しとまではなけれども、「(悪しかれと)思はぬ山の峰にだに(生ふなるものを人の嘆きは)」と言ふことなれば、今年はいくら(=何歳)ほどなど、思ひ出づる折々は、一目見し夜半(よは)の面影を、二度(ふたたび)偲ぶ心もなどかなからん。さればまた、会はぬ思ひの片糸(かたいと)は、憂き節にもやと、我ながらことわらるれば、「何よりもあさましく(=意外な)こそ、またさりぬべき(=しかるべき)便りもはべらば」など言ひて、これさへ今日は心にかかりつつ、いかが聞きなさん(=聞いて知る)と、悲し。
〔30世に従う習い〕21
暮れぬれば、例の初夜行ふついでに、常座(じやうざ)などせんとて、持仏堂にさし入りたれば、いと、齢(よはひ)傾きたる尼の、もとより居て経読むなるべし。遠くて「菩提の縁」など言ふも頼もしきに、折戸(をりど)開く音して、人の気配(けはひ)ひしひしとす。思ひあへず(=思いがけず)、「たれなるべし」ともおぼえず、仏の御前の明り障子をちと開けたれば、御手輿(おんたごし)にて、北面の下臈一二人、召次などばかりにて、御幸あり。
[二の三〇]
いと思はずに、あさましけれども、目をさへふと見合はせたてまつりぬる上は、逃げ隠るべきにあらねば、つれなくゐたる所へ、やがて御輿を寄す。降りさせおはしまして、「ゆゆしく(=気がかりで)尋ね来にける」など仰せあれども、物も申さでゐたるに、「御輿をばかき返して、御車(みくるま)したためて参れ」と仰せあり。
御車待ちたまふほど、「この世のほか(=出家)に思ひ切ると見えしより、尋ね来るに」と、いくらも仰せられて、「兵部卿が恨みに、我さへ」などうけたまはるもことわりなれども、「なべて憂き世を、かかるついでに、思ひ逃れたくはべる」よし申すに、「嵯峨殿へなりつるが、思ひかけず、かくと聞きつるほどに、例の人づてにはまたいかがかと思ひて、伏見殿へ入らせおはしますとて(=称して)、立ち入らせたまひたり。何と思はむにつけても、このほどのいぶせさ(=気がかり)も、心静かに」と、さまざまうけたまはれば、例の心弱さは、御車に参りぬ。
夜もすがら、「我が知らせたまはぬ御事、またこの後もいかなることありとも、人におぼしめし落とさじ(=人より低く見ない)」など、内侍所(ないしどころ=天照太神)・大菩薩(だいぼさつ=石清水)引き掛けうけたまはるも畏(かしこ)ければ、参りはべるべきよしを申しぬるも、なほ憂き世出づべき限りの遠かりけるにやと心憂きに、明けはなるるほどに還御なる。「御供に、やがて(=そのまま)、やがて」と仰せあれば、つひに参るべからんものゆゑは(=ものならば)と思ひて、参りぬ。
22 局もみな里へ移してければ、京極殿の局へぞ参りはべりし。
五十一 人の宝の玉
建治三年四月下旬の頃、御所で岩田帯をした事。同月三十日某所で、実兼との間に生れた女児に対面した事。世に従ふならひも今さらすさまじきに、つもごり頃にや、御所にて帯をしぬるにも、思ひ出づる数々多かり。
さてここに岩田帯をした胎児の出産の記は欠けているので事がらは不明であるが、御所で帯をしたのであるから院の御子と認められていたのであろうが、作者は「思ひ出づる数々多かり」と記しているので何か秘密が感じられる。次に実兼との間の女児は文永十一年九月の誕生であるから今年四歳であった。実母との対面ということを承知していながら、心にこめて現さぬ利発さが、ここの文で察しられる。
[二の三一]〔31人の宝の玉〕
さても「夢の面影の人、わづらひなほ所せし(=やっかい)」とて、思ひがけぬ人の宿所(しゆくしよ)へ呼びて見せらる。「五月五日は、たらちめ(=生母)の跡弔ひにまかるべきついでに」と申ししを、「五月ははばかるうへ、苔(こけ)の跡弔はむ便り(=ついで)もいまいまし」としひて言はれしかば、四月(うづき)のつもごりの日、しるべある所へまかりたりしかば、紅梅の浮織物(うきおりもの)の小袖にや、二月より生ふされけるとて、いこいこと(?)ある髪姿、夜目に変らずあはれなり。北の方(=雪の曙の妻)、をりふし産したりけるが、亡くなりにける代はりに取り出でてあれば、人はみなただそれとのみ思ひてぞありける。天子に心をかけ、禁中に交じらはせんことを思ひ、かしづくよし聞くも、「人の宝の玉なれば」と思ふぞ、心悪ろき(=ねじけている)。
かやうの二心(ふたごころ)ありともつゆ知らせおはしまさねば、心よりほかに(=院の心外な私)はとおぼしめすぞいと恐ろしき。
五十二 梁園八代の古風
建治三年八月頃、関白兼平、後深草院に参り院と閑談。作者その席に侍す。関白は作者にも親しく話しかけ音楽会における隆親の所為を非難し作者に同情する。また作者の生家である久我家が名門であることをほめたたえる。[二の三二]〔32久我大臣家〕23
八月のころにや、近衛大殿(=兼平)御参りあり。「後嵯峨の院御隠れの折、『かまへて(=後深草を)御覧じはぐくみまゐらせられよ』と申されたりける」とて、常に御参りもあり、またもてなし(=おもてなし)まゐらせられしほどに、常の御所にて内々(うちうち)九献など参りさぶらふほどに、(=私を)御覧じて、「いかに、行く方なく聞きしに、いかなる山に籠りゐてさぶらひけるぞ」と申さる。
「大方、方士(=神仙の術を行う人)が術ならでは、尋ね出でがたくさぶらひしを、蓬莱の山にてこそ」など仰せありしついでに、「自体(=もともと)、兵部卿が老いのひがみ、ことのほか(=意外な)にさぶらふ。さても、琵琶は捨て果てられてさぶらひけるか」と仰せられしかども、ことさらものも申さでさぶらひしかば、「身一代ならず子孫までと、深く八幡宮に誓ひ申してさぶらふなる」と、御所に(=が)仰せられしかば、(=大殿は)「むげに、若きほどにてさぶらふに、苦々しく思ひ切られさぶらひける。自体、あの家(=四条家)の人々はなのめならず家を重くせられさぶらふ。経任の大納言申し置きたる子細などぞさぶらふらん。村上天皇より、家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりに言はれさぶらふ。あの傅(めのと)仲綱は久我重代の家人(けにん)にてさぶらふを、岡屋(をかのや)の殿下(=兼経)、不憫に思はるる子細さぶらうて、『兼参(けさん=両家に仕えよ)せよ』とさぶらひけるに、『久我の家人なり、いかがあるべき』と申してさぶらひけるには、『久我大臣家は諸家(しよけ)には準(じゆん)ずべからざれば、見参(げざん=仕え)子細あるまじ』と、自らの文にて(=兼経が)仰せられさぶらひけるなど申し伝へさぶらふ。隆親の卿、『女(むすめ=は)、叔母なれば、上(うへ)にこそ』と申しさぶらひけるやうもけしからずさぶらひつる。前(さき)の関白(=長男の基忠)、新院へ参られてさぶらひけるに、やや久しく御物語どもさぶらひけるついでに、『傾城の能(のう)には歌ほどのことなし。かかる苦々しかりし中にも、この(=人の)歌こそ耳に留まりしか。梁園(りやうゑん=具平親王から)八代の古風と言ひながら、いまだ若きほどに、ありがたき心づかひなり。仲頼と申して、この御所にさぶらふは、その人が家人なるが、行く方(ゆくへ)なしとて、山々寺々尋ね歩くと聞きしかば、いかなる方に聞きなさむと、われさへ静心なくこそ』など御物語さぶらひけるよし、うけたまはりき」
など申させたまひき。
五十三 今様秘事御伝授
関白兼平は院と閑談の席うへ、次男兼忠に今様秘事御伝授の事を乞う。院はこれを聴許せられ、早速明後日伏見に御幸して伝授しようと約束される。院は西園寺実兼・源師親を伴われ、作者はお供する。籠居中の善勝寺隆顕も召し出される。兼平は長男基忠、次男兼忠と共に伏見御所に参る。秘事御伝授は下の御所で行われ、その後、白拍子の舞を御覧になる。[二の三三]
この段から次段にかけて、上の御所・伏見殿・筒井の御所などの名が見えるが、伏見殿と上の御所は同じで伏見の御所の本殿と思われ、その位置は今の大光明寺綾の辺で南に近く宇治川が流れている。下の御所はそれから約千メートル西、今の京橋辺にあった。筒井の御所の所在は不明であるが、下の御所の近くにあったと思われる。院はこの時下の御所に滞在せられ、伏見殿へは鵜舟をつかわせに出かけられた。
(=大殿)「さても中納言中将、今様(いまやう)器量(きりやう)にはべる。同じくは、その秘事を御許されさぶらへ」と申さる。(=院)「左右(さう)に及ばず。京の御所はむつかし。伏見にて」と御約束(おんやくそく)あり。
〔33今様伝授〕
「明後日(あさて)ばかり」とて、にはかに御幸(ごかう)あり。披露なきことなれば人あまたも参らず。供御(くご)は臨時の供御を召さる。台所の別当一人などにてありしやらん。(=私は)あちこちの歩(あり)きいしいしに、姿も殊のほかに萎えばみたりし折節なるに、(=院が)「参るべし」とてあれば、兵部卿もありしことの後はいと申すこともなければ、何とすべき方もなきやうに案じ居たるに、女郎花(をみなへし)の単衣襲(ひとへがさね)に、袖に秋の野を縫ひて露置きたる赤色の唐衣重ねて、生絹(すずし)の小袖・袴など、色々に雪の曙の賜びたるぞ、いつよりもうれしかりし。
24 大殿・前(さき)の殿(=基忠)・中納言中将殿、この御所には、西園寺・三条坊門(=通頼)・帥親よりほかは人なし。「善勝寺、九条の宿所(しゆくしよ)は近きほどなり。この御所には、(=隆顕が)はばかり申すべきやうなし」とて、たびたび(=来いと)申されしかども、籠居の折節なれば、はばかりあるよしを申して参らざりしを、清長を遣はして召しあれば参る。思ひかけぬ白拍子(しらびやうし)を(=隆顕が)二人召し具せられたりける、誰かは知らん。下(しも)の御所の弘所(ひろどころ)にて御事(=伝授)はあり。上(うへ)の御所の方に(=白拍子は)車ながら置かる。
事ども始まりて、(=隆顕が白拍子の)案内を申さる。興に入らせたまひて召さる。姉妹(おととい)と言ふ。姉二十(はたち)余り、蘇芳(すはう)の単衣襲に袴、妹(おとと)は女郎花、素地(すぢ)の水干に、萩を袖に縫ひたる大口を着たり。姉は春菊、妹若菊といひき。白拍子少々申して、「立ち姿御覧ぜられん」といふ御気色(みけしき)あり。鼓打ちを用意せずと申す。そのわたりにて、鼓を尋ねて、善勝寺これを打つ。まづ若菊舞ふ。その後、「姉を」と御気色(みけしき)あり。捨てて久しくなりぬるよし、たびたび辞退申ししを、ねんごろに仰せありて、袴の上に妹が水干(すゐかん)を着て舞ひたりし、ことやうにおもしろくはべりき。いたく短からずとて、祝言(しゆげむ)の白拍子をぞ舞ひはべりし。御所、如法酔はせおはしまして後、夜更けてやがて出だされぬ。それも知らせおはしまさず。人々は、今宵はみな御伺候、明日一度に還御などいふ沙汰なり。
五十四 筒井の御所の化物
今様御伝授のあった夜更けて後、作者は筒井の御所に用をたしに行って帰ろうとする時、何者かに袖を引かれる。この人が関白兼平であった事は次段の記によっても察せられる。さて作者が下の御所に帰って見ると、院はお目ざめで再び酒を召し上がる。酔うて御寝になったが、作者は袖を引いた人の事が心にかかって眠ることができなかった。[二の三四]〔34伏見の人〕25
御所御寝(ぎよしん)の間に、筒井の御所の方へ、ちと用ありて出でたるに、松の嵐も身にしみ、人待つ虫の声も、袖の涙に音(ね)を添ふるかとおぼえて、待たるる月も澄み昇りぬるほどなるに、思ひつるよりもものあはれなる心地して、御所へ帰りまゐらんとて、山里の御所の夜(よ)なれば、皆人静まりぬる心地して、掛湯巻(かけゆまき)にて通るに、筒井の御所の前なる御簾の中より袖を控ゆる人あり。まめやか(=本当)に化物の心地して、荒らかに「あな悲し」と言ふ。「夜声には、木魂(こたま)といふ物の訪(おとづ)るなるに、いとまがまがしや」と言ふ御声は、さにやと思ふも恐ろしくて、何とはなく、引き過ぎんとするに、袂はさながらほころびぬれども放ちたまはず。人の気配もなければ、御簾の中に取り入れられぬ。御所にも人もなし。「こはいかに、こはいかに」と申せども(=抵抗すれど)、かなはず。
「年月(としつき)思ひ初めし」などは、なべて聞き古りぬることなれば、あなむつかしとおぼゆるに、とかく言ひ契りたまふも、なべてのことと耳にも入らねば、ただ急ぎ参らむとするに、「夜の長きとて、御目覚まして、御尋ね(=お探し)ある」と言ふにことつけて、立ち出でんとするに、「いかなる隙をも作り出でて、帰りこむと誓へ」と言はるるも、逃るることなければ、四方(よも)の社(やしろ)にかけぬるも、誓ひの末恐ろしき心地して、立ち出でぬ。
また九献参るとて、人々参りてひしめく。なのめならず、酔はせおはしまして、若菊をとく返されたるが念なければ、明日御逗留ありて、いま一度召さるべしと御気色あり。うけたまはりぬるよしにて後、御心(みこころ)ゆきて(=満足)、九献ことに参りて(=飲む)、御寝(よる)になりぬるにも、うたた寝にもあらぬ夢のなごりは、うつつとしもなき心地して、まどろまで明けぬ。
五十五 酔ひごこち
伏見滞在の第二日目の記。院御主催の宴が開かれ、終って院御寝の室へ兼平が作者を誘いに来る。作者は院にすすめられ、兼平に隣室へ連れ出されてその意に従う。[二の三五]〔35昨夜の面影〕26
「今日は御所の御雑掌(ざしやう)にてあるべき」とて、資高うけたまはる。御事(=料理)おびたたしく用意したり。傾城(=白拍子)参りておびたたしき御酒盛りなり。御所の御走り舞ひ(=ごちそう)とて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷(をしき)に金(かね)の盃据ゑて、麝香(ざかう)の臍三つ入れて、姉賜はる。金(かね)の折敷(をしき)に瑠璃(るり)の御器(ごき)に臍一つ入れて、妹賜はる。
後夜打つほどまでも遊びたまふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚(さうおうくわしやう)の割れ不動」(=拍子を)数ゆるに、「柿の本の紀僧正、一旦(いつたん)の妄執(まうしふ)や残りけん」といふわたりを言ふ折、善勝寺、きと見おこせたれば、われも思ひ合はせらるる節あれば、あはれにも恐ろしくもおぼえて、ただ居たり。後々は人々の声、乱舞(らんぶ)にて果てぬ。
御殿籠りてあるに、御腰(おんこし)打ちまゐらせてさぶらふに、筒井の御所の夜べの御面影ここもとに見えて、「ちと物仰せられん」と呼びたまへども、いかが立ち上がるべき。動かで居たるを、「御寝(よる)にてある折だに」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て、苦しかるまじ」と忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御後(あと=足元)にあるを、手をさへ取りて引き立てさせたまへば、心のほかに立たれぬるに、(=大殿)「御伽(とぎ)には、こなたにこそ」とて、障子のあなたにて、(=大殿が)仰せられゐたることどもを、寝入りたまひたるやうにて聞きたまひけるこそあさましけれ。
とかく泣きさまたれ(=正体なく)ゐたれども、酔ひ心地やただならざりけむ(=抵抗できず)、つひに明けゆくほどに返したまひぬ。われ過ごさず(=過ちではない)とは言ひながら、悲しきことを尽くして、御前に臥したるに、(=院は)ことにうらうら(=のどか)とおはしますぞ、いと堪へがたき。
五十六 うきからのこる
伏見滞在の第三日の記。今日は兼平の主催で宴が設けられ、夜は上の御所で鵜飼を御覧になって下の御所に帰還。院が深酔御寝の所へ昨夜の如く兼平が参り作者を所望して隣室に宿る。翌朝一同揃って京都へ還る。[二の三六]〔36あまた重ぬる旅寝〕27
今日は還御にてあるべきを、(=大殿)「御なごり多きよし傾城申していまだはべり。今日ばかり」と申されて、大殿より御事(=もてなし)まゐるべしとて、また逗留あるも、またいかなることかと悲しくて、局としもなくうち休みたるところヘ、
049「短夜(みじかよ)の夢の面影さめやらで
心に残る袖の移り香
近き御隣り(=院)の御寝覚めもやと、今朝はあさましく」など(=大殿より)あり。
050夢とだになほ分きかねて人知れず
おさふる袖の色を見せばや
たびたび召しあれば参りたるに、わびしくや思ふらんとおぼしめしけるにや、ことにうらうらとあたりたまふぞ、なかなかあさましき。
事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに、御船に召されて、伏見殿へ出でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼召されて、鵜舟(うぶね)、端船(はしぶね)に付けて、鵜使はせらる。
鵜飼(うがひ)三人参りたるに、(=私が)着たりし単衣襲賜ぶなどして、還御なりて後、また酒参りて酔はせおはしますさまも、今宵はなのめならで、更けぬれば、また御寝(よる)なる所へ参りて、(=大殿)「あまた重ぬる旅寝こそ、すさまじくはべれ。さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「紙燭さして賜ベ。むつかしき虫などやうの物もあるらん」と、あまりに仰せらるるも、わびしきを、(=院)「などや(=断る)」とさへ仰せ言あるぞ、まめやかに悲しき。
「かかる老いのひがみはおぼし許してんや。いかにぞや見ゆることも、御傅(めのと=後見)になりはべらん古き例(ためし)も多く」など、御枕にて申さるる。言はん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなた(=私)も独り寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させたまへば、夜べの所に宿りぬるこそ。
[二の三七]〔37憂きから残る〕
今朝は夜の中(うち)に「還御」とてひしめけば、起き別れぬるも、「憂きから残る」と言ひぬべきに、これは御車の後(しり)に参りたるに、西園寺も御車に参る。
清水(きよみづ)の橋の上(うへ)までは、みな御車をやり続けたりしに、京極より御幸(ごかう)は北へなるに、残りは西へやり、別れし折は、何となくなごり惜しきやうに、(=大殿の)車の影の見られはべりしこそ、こはいつよりのならはしぞと、わが心ながらおぼつかなくはべりしか。
問はず語り 巻三
五十七 告白
巻三は五年間にわたる記事を含んでいる。最後の年は北山准后九十賀の記であるから弘安八年であるが、他は明らかでない。ここにはこれを逆算して、この段を弘安四年と仮定する。この仮定を採れば前巻との間に、弘安元・二・三年が欠けている事になる。これについて考えられる事は、四七段に「(建治二年)十二月の頃よりただならずなりにけりと思ふ」とあり、五一段に「(建治三年四月)つもごりの頃にや、御所にて帯をしぬる」とある胎児の出産についての記事が無い事である。この出産は建治三年十月(かんなづき)頃にあるべきであるから、その頃以後弘安三年までが欠けているのであろう。[三の一]〔1身を恨み寝の夢〕1
さてこの段の梗概は、弘安四年二月中旬、作者が世を煩わしく思いなやんでいる頃、有明の月が院参して激しく言い寄る。それを院に発見せられて作者は全部告白する。院は作者の正直な告白と有明の月の熱情に感動して二人の関係を許し、また、院自身が遠い昔に作者の母を恋した秘密を語られる。
世の中いとわづらはしきやうになりゆくにつけても、いつまで同じ眺めをとのみ、あぢきなければ、山のあなたの住まひのみ願はしけれども、心にまかせぬなど思ふも、なほ捨てがたきにこそと、我ながら身を恨み寝の夢にさへ、(=院から)遠ざかりたてまつるべきことの見えつるも、(=夢と)いかに違(ちが)へむと思ふもかひなくて、二月(きさらぎ)も半ばになれば、大方の花もやうやう気色(けしき)づきて、梅が香匂ふ風訪れたるも飽かぬ心地して、いつよりも心細さも悲しさもかこつ方なき。
人召す音の聞こゆれば、何事にかと思ひて参りたるに、御前には人もなし。御湯殿の上に、一人立たせたまひたるほどなり。「このほどは人々の里住みにて、あまりに寂しき心地するに、常に局(つぼね)がちなるは、いづれの方ざまに引く心にか」など仰せらるるも、例のとむつかしきに、有明の月御参りのよし奏す。
[三の二]〔2有明の月の御参り〕
やがて(=有明は)常の御所へ入れまゐらせらるれば、いかがはせん、つれなく御前にさぶらふに、そのころ今御所と申すは遊義門院、いまだ姫宮におはしまししころの御事なり。御悩みわづらはしくてほど経たまひける御祈りに、如法愛染王行はるべきこと(=有明に)申させたまふ。またそのほかも、わが(=自分のため)御祈りに北斗の法、それは鳴滝にや、(=有明は)うけたまはる。いつよりものどやかなる御物語のほどさぶらふも、(=有明の)御心の中いかがと恐ろしきに、宮の御方の御心地わづらはしく見えさせたまふよし申され(=報告)たれば、きと(=院はすぐ)入らせたまふとて、「還御(=院のお戻りを)待ちたてまつりたまヘ」と(=私が)申さる。
その折しも、御前に人もなくて向ひまゐらせたるに、(=有明は)憂かりし月日の積りつるよりうち始め、ただ今までのこと、御袖の涙は、よその人目も包みあへぬほどなり。何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きゐたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、同じさまなる口説きごと、御障子のあなたにも聞えけるにや、しばし立ち止まりたまひけるも、いかでか知らむ。さるほどに、例の人よりは早き御心なれば、「さにこそありけれ」と推(すゐ)したまひけるぞあさましきや。
[三の三]〔3人分かぬ思い〕2
入らせたまひぬれば、さりげなきよしにもてなしたまへれども、絞りもあへざりつる御涙は、包む袂に残りあれば、いかが御覧じ咎むらんとあさましきに、灯ともすほどに(=有明が)還御なりぬる後、ことさらしめやかに人なき宵のことなるに、御足など参りて(=足を揉む)御殿籠りつつ、「さて思ひのほかなりつることを聞きつるかな。さればいかなりけることにか。いはけなかりし御ほどより、かたみに疎(おろ)かならぬ御事に思ひまゐらせ、かやうの道には思ひかけぬことと思ふに」と、うちくどき仰せらるれば、「さることなし」と申すとも、かひあるべきことしあらねば、相見(あひみ)しことの初めより、別れし月の影まで、つゆ曇りなく申したりしかば、「まことに不思議なりける御契りかな。さりながらさほどにおぼしめし余りて、隆顕に道芝せさせられけるを、情けなく(=つれなく)申したりけるも、御恨みの末も、かへすがへすよしなかるべし。昔の例(ためし)にも、かかる思ひは人を分かぬことなり。柿の本の僧正、染殿の后の物の怪にて、あまた仏(ぶつ)菩薩の力尽くしたまふと言へども、つひには(=后は)これに身を捨てたまひにけるにこそ。志賀寺の聖には、『ゆらぐ玉の緒』と、(=御息所は)情けを残したまひしかば、すなはち一念の妄執(まうしふ)を改めたりき。この御気色(みけしき)なほざりならぬことなり。心得てあひしらひ申せ。我試みたらば、つゆ人は知るまじ。このほど(=有明が)伺候(しこう)したまふべきに、さやうのついであらば、日ごろの恨みを忘れたまふやうに、計ふべし。さやうの勤めの折からは、悪しかるべきに似たれども、われ深く思ふ子細あり。苦しかるまじきことなり」と、ねんごろに仰せられて、「何事にも、我に隔つる心のなきにより、かやうに計ひ言ふぞ。『いかが』などは、かへすがへす心の恨みも晴る」など、うけたまはるにつけても、いかでかわびしからざらむ。
「人より先に(=お前を)見初めて、あまたの年を過ぎぬれば、何事につけても、なほざりならずおぼゆれども、何とやらむ、我が心にもかなはぬことのみにて、心の色の見えぬこそいとくちをしけれ。我が新枕は、故典侍大(すけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに、人知れず(=彼女を)おぼえしを、いまだ言ふかひなき(=幼い)ほどの心地して、よろづ世の中つつましくて明け暮れしほどに、冬忠・雅忠などに主(ぬし)づかれて、隙をこそ人わろくうかがひしか。(=お前が)腹の中にありし折も、心もとなく、いつかいつかと、手の内なりしより、さばくり(=世話)つけて(=常に)ありし」など、昔の古事(ふるごと)さへ言ひ知らせたまへば、人やりならず(=他人事でなく)、あはれも忍びがたくて明けぬるに、今日より御修法始まるべしとて、御壇所(ごだんしよ)いしいしひしめくにも、人知れず心の中には物思はしき心地すれば、(=自分の)顔の色もいかがと、我ながらよその人目もわびしきに、「すでに(=有明が)御参り」と言ふにも、つれなく御前(おまへ)にはべるにも、御心の内いとわびし。
五十八 白銀の五鈷
御修法のため、有明の月は七日間御所に滞在する。院はつとめて二人に逢引の機会を与え、特に有明の月退出の前夜は作者をすすめて有明に逢わせられる。それは弘安四年二月十八日の事であった。院は夢想によって作者が有明の胤を宿した事を知り、それを確かめる為、月を隔てるまで作者を遠ざけられた。それで有明の胤を宿した事は明らかになった。[三の四]〔4先の世ゆかしき心地〕3
常に、御使に参らせらるるにも、日ごろよりも、心の鬼(=良心の呵責)とかやも、せむ方なき心地するに、いまだ初夜もまだしきほどに、真言(しんごん)のことにつけて御不審(ごふしん)どもを記(しる)し申さるる折紙(をりがみ)を持ちて参りたるに、いつよりも人もなくて、面影かすむ春の月、おぼろにさし入りたるに、脇息(けふそく)に寄りかかりて念誦(ねんじゆ)したまふほどなり。
「憂かりし秋の月影(=出雲路)は、ただそのままにとこそ仏にも申したりつれども、かくても、いと堪へがたくおぼゆる(=あなたを思い出すの)は、なほ身に代ふべき(=恋)にや。同じ世になき身になしたまへとのみ申すも、『神も受けぬ禊(みそぎ)』なれば、いかがはせむ」とて、しばし引き止めたまふも、いかに漏るべき憂き名にかと恐ろしながら、見る夢のいまだ結びも果てぬに、「時なりぬ」とてひしめけば、後ろの障子(しやうじ)より出でぬるも、隔つる関の心地して、「後夜果つるほど」とかへすがへす契りたまへども、さのみ憂き節のみ留まるべきにしあらねば、また立ち帰りたるにも、「悲しさ残る」とありし夜半(よは)よりも、今宵は我が身に残る面影も袖の涙に残る心地するは、これや逃れぬ契りならむと、我ながら前(さき)の世(よ)ゆかしき心地してうち臥したれども、また寝に見ゆる夢もなくて、明け果てぬれば、さて(=寝て)しもあらねば参りて御前(ごぜん)の役に従ふに、折しも人少ななる御ほどにて、「夜べは(=取り持つ)心ありて振る舞ひたりしを、思ひ知りたまはじな。我知り顔(私が知っていることを)にばし(=副助詞)あるな。包み(=遠慮)たまはむも心苦し」など仰せらるるぞなかなか言の葉なき。
[三の五]4
御修法の心きたなさも、御心の内、わびしきに、六日と申しし夜は、二月(きさらぎ)の十八日にてはべりしに、弘御所(ひろごしよ)の前の紅梅、常の年よりも色も匂ひもなべてならぬを、御覧ぜられて、更くるまでありしほどに、後夜果つる音すれば、「今宵ばかりの夜半(よは)も更けぬべし。隙作り、出でよかし」など仰せらるるも、あさましきに、深き鐘の声の後、東の御方召されたまひて、橘の御壺の二の間に御寝(よる)になりぬれば、仰せに従ふにしあらねども、今宵ばかりもさすが御なごりなきにしあらねば、例の方(=祈祷所)ざまへ立ち出でたれば、もしやと待ちたまひけるもしるければ、思ひ絶えず(=断らない)は本意なかるべしとかやおぼえても、ただ今までさまざまうけたまはりつる御言の葉、耳の底に留まり、うち交はしたまひつる御匂ひも袂に余る心地するを、飽かず重ぬる袖の涙は、誰にかこつべし(=誰のせいだ)ともおぼえぬに、今宵閉ぢめぬる(=最後の)別れのやうに、泣き悲しみたまふも、なかなかよしなき心地するに、憂かりしままの別れ(=以前の別れ)よりも、やみなましかばと、かへすがへす思はるれどもかひなくて、短夜(みじかよ)の空の今宵よりのほどなさは露の光など言ひぬべき心地して、「明けゆけば後朝になる」別れは、(=再会は)いつの暮れをかと、その期(ご)遥かなれば、
051つらしとて別れしままの面影を
あらぬ涙にまた宿しつる
[三の六]〔5五鈷の夢〕5
とかく思ふもかひなくて、(=姫宮の)御心地もおこたりぬれば、初夜にてまかり出でたまふにも、さすがに残る面影は、いと忍びがたきに、いと不思議なりしは、まだ夜も明けぬ先に起き出でて局にうち臥したるに、右京の権大夫清長を御使にて、「きときと」と召しあり。
夜べは東の御方まゐりたまひき。などしも急がるらん、ただ今の御使ならんと、心騒ぎして参りたるに、「夜べは更け過ぎしも、『待つらむ方の心尽くしを』など思ひてありしも、ただ世の常のことならば、かくまで心あり顔にもあるまじきに、主柄(ぬしがら=人柄)のなほざりならずさに思ひ許してこそ。さても今宵不思議なる夢をこそ見つれ。今の(=彼が)五鈷(ごこ)を(=お前に)賜びつるを、我にちと引き隠して懐に入れつるを、袖を控へて、『これほど心知りてあるに、などかくは』と言はれて、わびしげに思ひて涙のこぼれつるを払ひて、取り出でたりつるを見れば、銀(しろがね)にてありける。故法皇の御物なれば、『わがにせん』と言ひて、立ちながら見ると思ひて、夢覚めぬ。今宵かならず験(しるし)あることあるらむとおぼゆるぞ。もしさもあらば、疑ふ所なき岩根の松(=浮気の子)をこそ」など仰せられしかども、まことと頼むべきにしあらぬに、その後は月立つまで、ことさら御言葉にもかからねば、とにかくに我が過ちのみあれば、人を憂しと申すべきことならで明け暮るるに、思ひ合はせらるることさへあれば、何となるべき世の仕儀ともおぼえぬに、三月(やよひ)の初めつ方にや、常よりも御人少なにて、夜の供御などいふこともなくて、二棟(ふたむね)の方へ入らせおはします。御供に召さる。
いかなることをかなんと思へども、尽きせずなだらかなる御言葉言ひ契りたまふもうれしとや言はむ、またわびしとや言はましなど思ふに、「ありし夢の後は、わざとこそ言はざりつれ(=言葉をかけず)。月を隔てむと待ちつるも、いと心細しや」と仰せらるるにこそ、さればおぼしめすやうありけるにこそ、とあさましかりしか。違はずその月よりただならねば、疑ひ紛(まぎ)るべきことにしなきにつけては、見し夢のなごりも、今さら心にかかるぞはかなき。
五十九 今宵の葦分
作者が先年(建治三年八月頃)伏見の御所で心ならずも兼平に身を許して以来、実兼は次第に作者から離れるようになったが、今年(弘安四年)五月、里住みの作者を久しぶりで訪ねた。ところがあいにく、その夜院の御所で火事があって、すぐに帰ってしまう。[三の七]〔6今宵の葦分け〕6
さても、さしも新枕とも言ひぬべく、かたみに浅からざりし心ざしの人、ありし伏見の夢の恨みより後は、間遠にのみなり行くにつけても、ことわりながら、絶えせぬ物思ひなるに、五月(さつき)の初め、例の昔の跡弔(と)ふ日なれば、あやめの草のかりそめに、里住みしたるに、彼より、
052憂しと思ふ心に似たる根やあると
尋ぬるほどに濡るる袖かな
こまやかに書き書きて、「里居のほどの関守(せきもり)なくは、自ら立ちながら」とあり。返事にはただ、
053「憂き根をば心のほかにかけ添へて
いつも袂の乾く間ぞなき。
いかなる世にもと思ひ初めしものを」など書きつつも、げによしなき(=無意味な)心地せしかど、いたう更かしておはしたり。
憂かりしことの節々をいまだうち出でぬほどに世の中ひしめく。「三条京極富の小路のほどに、火出で来たり」と言ふほどに、かくてあるべきことならで、急ぎ参りぬ。さるほどに、短夜(みじかよ)はほどなく明けゆけば、立ち帰るにも及ばず、明け放るるほどに、「浅くなりゆく契り知らるる今宵の蘆分け(=障害)、行く末知られて心憂くこそ」とて、
054絶えぬるか人の心の忘れ水
相ひも思はぬ中の契りに
げに今宵しもの障(さわ)りは、ただごとにはあらじと思ひ知らるることありて、
055契りこそさても絶えけめ涙川
心の末はいつも乾かじ
かくてしばしも里住みせば、(=会う気があれば)今宵に限るべきことにしあらざりしに、この暮に、「とみのことあり」とて、車を賜はせたりしかば参りぬ。
六十 真言の御談義
院は作者に、二人の関係を許している事を有明の月にも打明けて聞かせよう、と言われた。そして真言の御談義という会を催され、有明も四五日院中に伺候する。ある日、談義の席で酒宴があり、その席で院から「男女の愛慾は前業の果たすところで人の罪ではない」とのお話があり、作者は自分の事を言われているような思いがして汗を流す。この酒宴の後、院は有明をとどめて、作者との関係を知っている事、夢想によって作者が有明の胤を宿した事を知った事、その子をわが子として育ててやろうという事を告げられる。妊娠は院の子として公表せられ、御所で岩田帯をした事。[三の八]〔7力なき御宿世〕7
秋の初めになりては、いつとなかりし心地もおこたりぬるに、「標結(しめゆ)ふほどにもなりぬらんな。(=有明の月は)かくとは知りたまひたりや」と仰せらるれども、「さもはべらず。いつの便りに(=伝えるべき)か」など申せば、「何事なりとも、我にはつゆはばかり(=遠慮)たまふまじ。しばしこそつつましく(=遠慮)おぼしめすとも、力なき御宿世、逃れざりけることなれば、なかなか何か、それによるべきことならずなど申し知らせんと思ふぞ」と仰せらるれば、何申しやる方なく、人(=有明)の御心の中(うち)もさこそと思へども、「いな、かなはじ」と申さむにつけても、なほも心を持ちがほ(=分別)ならむと、我ながら憎きやうにやと思へば、「何ともよきやうに御計ひ」と申しぬるよりほかは、また言の葉もなし。
〔8真言の御談義〕
そのころ、真言の御談義(だんぎ)といふこと始まりて、人々に御尋ねなどありしついでに、御参りありて、四五日御伺候あることあり。法問(ほふもん)の御談義ども果てて、九献ちと参る御陪膳にさぶらふに、「さても広く尋ね、深く学(がく)するにつきては、男女(をとこをんな)のことこそ罪なきことにはべれ。逃れがたからむ契りぞ力なきことなり。されば、昔も例(ためし)多くはべり。浄蔵と言ひし行者は、陸奥国(みちのくに)なる女に契りあることを聞き得て、(=殺)害せんとせしかども、かなはで、それに堕ちにき。染殿の后は、志賀寺の聖に、『我をいざなヘ』とも言ひき。この思ひに堪へずして青き鬼ともなり、望夫石(ばうふせき)といふ石も、恋ゆゑなれる姿なり。もしは畜類・獣(けだもの)に契るも、みな前業(ぜんごふ)の果たす所なり。人はたすべきにあらず」など仰せらるるも、我一人聞き咎めらるる心地して、汗も涙も流れそふ心地するに、いたくことごとしからぬ仕儀にて、誰もまかり出でぬ。有明の月も出でなんとしたまふを、「深き夜の静かなるにこそ、心のどかなる法問をも」など申して、止(とど)めまゐらせらるるが、何となくむつかしくて、御前(おまへ)を立ちぬ。その後の御言の葉は知らで、すべりぬ。
[三の九]8
夜中過ぐるほどに召しありて参りたれば、「(=心に)ありしあらましごとを、序(つい)で(=機会)作り出でて、よくこそ(=有明に)言ひ知らせたれ。いかなるたらちを・たらちね(=父母)の心の闇と言ふとも、これほど心ざしあらじ」とて、まづうち涙ぐみたまへば、何と申しやるべき言葉もなきに、まづ先立つ袖の涙ぞ抑へがたくはべりし。
〔9左右にも〕
いつよりもこまやかに語らひたまひて、「さても人の契り、逃れがたきことなど、かねて申ししは、聞きしぞかし。その後、(=有明に)『さても思ひかけぬ立ち聞きをしてはべりし。さだめて、はばかりおぼしめすらむとは思へども、命をかけて誓ひてしことなれば、かたみに隔てあるべきことならず。なべて世に漏れむことは、うたてあるべき御身なり。忍びがたき御思ひ、前業(ぜんごふ)の感ずる所と思へば、つゆいかにと(=批判的に)思ひたてまつることなし。過ぎぬる春の頃より、ただにははべらず見ゆるにつけて、ありし夢のこと、ただのことならずおぼえて、御契りのほどもゆかしく、見しむばたまの夢をも思ひ合はせむために、三月(やよひ)になるまで(=二条との逢瀬を)待ち暮してはべるも、なほざりならず、推しはかりたまへ。かつは、伊勢・石清水・賀茂・春日、国を護る神々の擁護(おうご)に(=私は)漏れはべらん。御心の隔てあるべからず。かかればとて、我つゆも変る心なし』と申したれば、とばかり(=しばし)物も仰せられで、涙の隙(ひま)なかりしを、払ひ隠しつつ、『この仰せの上は、(=言い)残りあるべきにはべらず。まことに前業(ぜんごふ)の所感(しよかん)こそ口惜しくはべれ。かくまでの仰せ、今生一世(こんじやういつせ)の御恩にあらず。世々(せぜ)生々(しやうじやう)に忘れたてまつるべきにあらず。かかる悪縁に遭ひける恨み忍びがたく、三年過ぎ行くに、(=彼女への)思ひ絶えなんと思ふ念誦持経の祈念にも、これよりほかのことはべらで、せめて思ひのあまりに誓ひをおこして、願書(ぐわんしよ)をかの人のもとへ送り遣はしなどせしかども、この心(=恋)なほやまずして、まためぐりあふ小車(をぐるま)の憂しと思はぬ身を恨みはべるに、さやうにしるき節(=懐妊)さへはべるなれば、若宮を一所(ひとところ=一人)(=仁和寺に)渡しまゐらせて、我は深き山に籠り居て、濃き墨染の袂になりてはべらん。なほなほ年頃の御心ざしも浅からざりつれども、この一節(ひとふし)のうれしさは、他生(たしやう=後生)の喜びにてはべり』とて、泣く泣くこそ立たれぬれ。深く思ひ初めぬるさまも、げにあはれにおぼえつるぞ」など、御物語あるを聞くにも、「左右(ひだりみぎ)にも」とは、かかることをや言はましと、涙はまづこぼれつつ、さても、ことがらもゆかしく、御出でも近くなれば、更くるほどに、御使のよしにもてなして(=ふりをして有明のもとへ)参りたれば、幼(をさあ)い稚児一人、御前(おまへ)に寝入りたり。さらでは人もなし。
[三の一〇]〔10いつの暮れをか〕
(=有明は)例の方ざまへ立ち出でたまひつつ、「憂きはうれしき方もやと思ふこそ、せめて思ひ余る心の中(うち)、我ながらあはれに」など仰せらるるも、(=私は)憂かりしままの月影は、なほ逃るる心ざしながら、明日はこの御談義(おだんぎ)結願(けちぐわん)なれば、今宵ばかりの御なごり、さすがに思はぬにしもなきならひなれば、夜もすがらかかる御袖の涙も所せければ、何となりゆくべき身の果てともおぼえぬに、かかる(=院の)仰せごとをつゆ違はず語りつつ、「なかなか、かくては便りもと思ふこそ、げになべてならぬ心の色も知らるれ。不思議なることさへあるなれば、この世一つならぬ契りも、いかでかおろかなるべき。『一筋にわれ撫でおほさん』とうけたまはりつるうれしさも、あはれさも、限りなく、さるから、(=誕生を)いつしか心もとなき心地するこそ」など、泣きみ笑ひみ語らひたまふほどに、明けぬるにやと聞こゆれば、起き別れつつ出づるに、またいつの暮れをかと、思ひむせびたまひたるさま、我もげにと思ひたてまつるこそ、
056わが袖の涙に宿る有明の
明けても同じ面影もがな
などおぼえしは、我もかよふ心の出で来けるにや、これ、逃れぬ契りとかやならんなど思ひつづけ、さながらうち臥したるに、御使あり。「今宵待つ心地して、むなしき床に臥し明かしつる」とて、いまだ夜(よ)の御座(おまし)におはしますなりけり。
「ただ今しも、(=有明と)飽かぬなごりも、後朝の空は心なく」など仰せあるも、何と申すべき言の葉なきにつけても、「しからぬ人のみこそ世には多きに、いかなれば(=私だけ)」など思ふに、涙のこぼれぬるを、いかなる方におぼしめしなすにか、「心づきなく(=不満)、また寝の夢をだに心やすくもなど思ふにや」など、あらぬ筋におぼしめしたりげにて、常よりもよにわづらはしげなることどもをうけたまはるにぞ、さればよ、思ひつることなり、つひにはかばかしかるまじき身の行末をなど、いとど涙のみこぼるるに添へては、「ただ一筋に(=お前は有明の)御なごりを慕ひつつ、我が御使を心づきなく(=不愉快に)思ひたる」といふ御端にて起きたまひぬるもむつかしければ、局へすべりぬ。
[三の一一]〔11憂き世に住まぬ身にもがな〕9
心地さへわびしければ、暮るるまで参らぬも、またいかなる仰せをかとおぼえて悲しければ、さし出づるにつけても、「憂き世に住まぬ身にもがな」など、今さら山のあなたに急がるる心地のみするに、御果てなるべければ、(=有明が)参りたまひて、常よりのどやかなる御物語も、そぞろはし(=そわそわ)きやうにて、御湯殿の上の方ざまに立ち出でたるに、(=雪の曙)「このほどは上日(じやうにち=当番)なれば伺候してはべれども、おのづ(=あなた)から御言の葉にだにかからぬこそ」など言はるるも、とにかくに身の置き所なくて聞き居たるに、御前(ごぜん)より召しあり。何事にかとて参りたれば、九献参るべきなりけり。
内々に静かなる座敷にて、御前、女房一二人ばかりにてあるも、あまりにあいなしとて、「弘御所に、師親・実兼など音しつる」とて召されて、うち乱れたる御遊び、なごりあるほどにて果てぬれば、(=有明は姫)宮の御方にて初夜勤めて、まかり出でたまひぬる。なごりの空も、なべて雲居もかこつ方なきに、ことごとしからぬさまにて、御所にて帯をしつるこそ、御心の内、いと堪へがたけれ。今宵は上臥しをさへしたれば、夜もすがら語らひ明かしたまふも、つゆうらなき御もてなしにつけても、いかでかわびしからざらむ。
六十一 扇の使
弘安四年九月、院が機会を作って、有明の月に作者を逢わせられた事。[三の一二]〔12扇の使い〕10
九月(ながつき)の御花は、常よりもひきつくろはるべしとて、かねてよりひしめけば、身もはばかりあるやうなれば暇(いとま)を申せども、さしも目に立たねば、人数に参るべきよし仰せあれば、薄色衣に、赤色の唐衣、朽葉の単衣襲に、青葉の唐衣にて、夜の番勤めてさぶらふに、有明の月御参りといふ音すれば、何となく胸騒ぎて聞きゐたるに、御花御結縁とて御堂(=祈祷所)に御参りあり。(=私が)ここにありともいかでか聞きたまふべきに、承仕(しようじ=雑役の僧)がここもとにて、「御所よりにてさぶらふ。『(=わしの)御扇や御堂に落ちてはべると御覧(=探し)じて、参らさせたまへと申せ』とさぶらふ」と言ふ。心得ぬやうにおぼえながら、中の障子を開けて見れどもなし。さて引きたてて、「さぶらはず」と申して、承仕(しようじ)は帰りぬる後、ちと障子を細めたまひて、「さのみ(=日数が)積もるいぶせさも、かやうのほどはことにおどろかるるに、苦しからぬ人して、里へ訪れむ、つゆ人には漏らすまじきものなれば」など仰せらるるも、いかなる方にか世に漏れむと、人の御名もいたはしければ、さのみ「いな」ともいかがなれば、「なべて世にだに漏れさぶらはずは」とばかりにて、引き立てぬ。
御帰りの後、時過ぎぬれば、御前へ参りたるに、「扇の使はいかに」とて笑はせおはしますをこそ、例の心あるよしの御使なりけると知りはべりしか。
六十二 嵯峨殿の祝宴
弘安四年十月(かんなづき)、作者法輪寺に籠る。後深草・亀山両院、大宮院の御病気見舞に嵯峨殿へ御幸。作者召されて出仕。大宮院の御病が軽いので御喜びの祝膳、第一夜は後深草院、第二夜は亀山院が設けなされた。第一夜の酒宴の後、両院の寝所について亀山院の行動を記した部分は明解を得ない。作者はかかる煩わしい宮仕えを逃れ得ない浮世の習わしを嘆く。[三の一三]〔13法輪参籠〕11
両院還御の後、作者は大宮院の許に止る。そこへ東二条院から大宮院に当てて作者に対する嫉妬の手紙が来る。作者は四条大宮の乳母の家に行く。
十月(かんなづき)の頃になりぬれば、なべて時雨がちなる空の気色(けしき)も袖の涙に争ひて、よろづ常の年々よりも心細さもあぢきなければ、まことならぬ母(=義母)の嵯峨に住まひたるがもとへまかりて、法輪(=寺)に籠りてはべれば、嵐の山の紅葉も憂き世を払ふ風に誘はれて、大井川の瀬々に波寄る錦とおぼゆるにも、いにしへのことも、おほやけ・わたくし忘れがたき中に、後嵯峨の院の宸筆(しんぴつ)の御経(=供養)の折、面々の姿・捧物(ささげもの)などまで、数々思ひ出でられて、「うらやましくも返る波かな」とおぼゆるに、ただここもとに鳴く鹿の音は、誰が諸声(もろごゑ=唱和)にかと悲しくて、
057わが身こそいつも涙の隙(ひま)なきに
何を忍びて鹿の鳴くらん
[三の一四]
いつよりも物がなしき夕ぐれに、ゆゑある殿上人の参るあり。誰ならんと見れば、楊梅(やまもも)の中将兼行なり。局のわたりに立ち寄りて案内すれば、いつよりも思ひよらぬ心地するに、「にはかに大宮院こころよからぬ御事とて、今朝よりこの(=嵯峨の)御所へ御幸(ごかう)ありけるほどに、里を御尋ねありけるが、これにとて、また仰せらるるぞ。女房も御参りなくて、にはかに御幸あり。(=あなたの)宿願(しゆくぐわん)ならば、また(=あとで)籠るべし。まづ参れ」といふ御使なり。
籠りて五日になる日なれば、いま二日果てぬも心やましけれども、車をさへ賜はせたるうヘ、嵯峨にさぶらふを御頼みにて(=ほかに)人も参らせたまはぬよし、中将物語すれば、とかく申すべきことならねば、やがて大井殿の御所へ参りたれば、みな人々里へ出でなんどして、はかばかしき人もさぶらはざりつるうへ、これにあるを御頼みにて、両院御同車にてなりつるほどに人もなし。御車の後(しり)に、西園寺の大納言参られたりけるなり。大御所(=大宮院)より、ただ今ぞ供御参るほどなり。
[三の一五]〔14二代の国母〕12
女院御悩み、御脚の気(=脚気)にて、いたくの御事なければ、めでたき御事とて、両院御慶(よろこ)びの事あるべしとて、まづ一院(=後深草)の御分、春宮大夫(=実兼がもてなす役を)うけたまはる。彩絵(だみゑ)描きたる破籠十合(じふがう)に、供御、御肴を入れて、面々の御前(おまへ)に置かる。次々もこの定(ぢやう)なり。これにて三献参りて後、まかり出だして、また白き供御、その後色々の御肴にて九献参る。
大宮の院の御方へ、紅梅(こうばい)・紫、腹は練貫にて琵琶、染物にて琴作りて参る(=差し上げる)。新院の御方へ、方響(はうきやう)の台を作りて、紫を蒔きて、色々の村濃(むらご)の染物を四方に作りて、守(まぼ)りの緒にて下げて、金(かね)にして、沈の柄(つか)に水晶(すいしやう)を入れて、ばちにして参る。女房たちの中へ、檀紙(だんし)百、染物などにて、やうやうの作り物をして置かれ、男の中にも鞦(しりがい)・色革とかや積み置きなどして、おびたたしき御事にて、夜もすがら御遊びあり。例の御酌(おんしやく)に召されて参る。
一院御琵琶、新院御笛、洞院こと、大宮の院の姫宮御事、春宮大夫琵琶、公衡笙の笛、兼行篳篥(ひちりき)。
[三の一六]
夜更けゆくままに、嵐の山の松風、雲居に響く音すごきに、浄金剛院(じやうこんがうゐん)の鐘ここもとに聞こゆる折節、一院、「都府楼は、おのづから」とかや仰せ出だされたりしに、よろづの事みな尽きて、おもしろくあはれなるに、女院の御方より、「ただ今の御盃はいづくにさぶらふぞ」と尋ね申されたるに、新院の御前(おまへ)にさぶらふよし申されたれば、この(=新院の)御声にて参る(=飲む)べきよし御気色あれば、新院はかしこまりてさぶらひたまふを、一院、御盃と御銚子とを持ちて、母屋(もや)の御簾の中に入りたまひて、一度申させ(=勧め)たまひて後、「嘉辰令月(かしんれいぐゑつ)歓無極(くわんぶきよく)」と、うち出でたまひしに、新院、御声加へたまひしを、(=大宮)「老いのあやにく(=皮肉)申しはべらん。我、濁世(ぢよくせ)末(すゑ)の代(よ)に生れたるは悲しみなりと言へども、かたじけなく、后妃(こうひ)の位に備はりて、両上皇の父母(ぶも)として二代の国母(こくも)たり。齢(よはひ)すでに六旬(りくじゆん)に余り、この世に残る所なし。ただ九品(くほん)の上なき位(=極楽)を望むばかりなるに、今宵の御楽(おんがく)は、上品蓮台(じやうぼんれんだい)の暁の楽もかくやとおぼえ、今の御声は、迦陵頻伽(かりようびんが)の御声もこれには過ぎはべらじと思ふに、同じくは今様を一返(いつぺん)うけたまはりて、いま一度きこしめす(=飲む)べし」と申されて、新院をも内へ申さる(=勧める)。
春宮大夫(=実兼)、御簾の際(きは)へ召されて、小几帳引き寄せて、御簾半(はん)に上げらる。
058あはれに忘れず身に染むは、
忍びし折々待ちし宵、
頼めし言の葉もろともに、
二人有明の月の影、
思へばいとこそ悲しけれ
両上皇歌ひたまひしに似る物なくおもしろし(=素敵)。果ては酔ひ泣きにや、古き世々の御物語など出で来て、みなうちしほれつつ立ちたまふに、大井殿の御所へ参らせおはします。御送りとて新院御幸なり。春宮大夫は心地を感じてまかり出でぬ。若き殿上人二三人は御供にて入らせおはします。
[三の一七]〔15御添え臥し〕
「いと御人少なにはべるに、御宿直つかうまつるべし」とて、二所御寝(よる)になる。ただ一人さぶらへば、(=院が)「御足に参れ」などうけたまはるも、むつかしけれども、誰に譲るべしともおぼえねばさぶらふに、「この両所の御そばに寝させさせたまへ」と、しきりに新院申さる。 「ただしは所せき身のほど(=妊娠中)にてさぶらふとて、里にさぶらふを、にはかに、人もなしとて、参りてさぶらふに、召し出でてさぶらへば、あたりも苦しげにさぶらふ。かからざらむ折は」 など申さるれども、 「御そばにてさぶらはんずれば、過ちさぶらはじ。(=源氏物語の)女三の御方をだに御許されあるに、なぞしもこれに限りさぶらふべき。我が身は『いづれにても、御心にかかりさぶらはんをば』と、申し置きはべりし。その誓ひもかひなく」 など申させたまふに、折節、按察(あぜち)の二品(にほん)のもとに、御渡りありし前(さき)の、「斎宮へ入らせたまふべし」など申す宮をやうやう申さるる(=院が申し入れる)ほどなりしかばにや、「(=私に)御そばにさぶらへ」と仰せらるるともなく、いたく酔ひ過ぐさせたまひたるほどに、御寝(よる)になりぬ。御前にもさしたる人もなければ、 (=亀山院)「ほかへはいかが」とて、御屏風後ろに、具し歩きなどせさせたまふも、つゆ知りたまはぬぞあさましきや(=情けない)。
13 明け方近くなれば、御そばへ帰り入らせたまひて、おどろかし聞こえたまふにぞ、初めておどろきたまひぬる。 (=院)「御いぎたなさに、御添臥(そへぶし)も逃げにけり」 など申させたまへば、 「ただ今までここにはべりつ」 など申さるるも中々恐ろしけれど、犯せる罪もそれとなければ、頼みをかけてはべるに、とかくの御沙汰もなくて、また夕方になれば、今日は新院の御分とて、景房が御事したり。
[三の一八]
「昨日西園寺の御雑掌(ざしやう)に、今日景房が御所の御代官(だいくわん)ながら並びまゐらせたる、雑掌(ざつしやう)がら悪ろし(=劣る)」など、人々つぶやき申すもありしかども、御事はうち任せたる仕儀(しぎ)の供御、九献など、常のことなり。
女院の御方へ、染物にて岩(いは)を作りて、地盤(ぢばん)に水の紋をして、沈(ぢん)の船に丁子を積みて参らす。一院へ、銀の柳筥に沈(ぢん)の御枕を据ゑて参る。女房たちの中に、糸綿にて山滝の気色などして参らす。男たちの中ヘ、色革・染物にて柿作りて参らせなどしたるに、「ことに一人この御方にさぶらふに」など仰せられたりけるにや、唐綾・紫村濃十づつを五十四帖の草子に作りて、源氏の名を書きて賜びたり。
御酒盛りは夜べにみなことども尽きて、今宵はさしたることなくて果てぬ。春宮大夫(とうぐうのだいぶ)は、風邪の気とて、今日は出仕(すし)なし。「わざとならんかし」、「まことに」など沙汰あり。今宵も桟敷殿(さじきどの)に両院御渡りありて、供御もこれにて参る。御陪膳両方を勤む。夜も一所に御寝(よる)になる。御添臥しにさぶらふも、などやらん、むつかしくおぼゆれども、逃るる所なくて宮仕ひ居たるも、今さら憂き世のならひも思ひ知られはべり。
[三の一九]〔16東二条院の御文〕14
かくて還御なれば、「これは法輪の宿願も残りてはべるうへ、今は身もむつかしきほどなれば」と申して、留まりて里へ出でんとするに、両院御幸、同じやうに還御あり。一院には春宮大夫、新院には洞院の大納言ぞ、後々(のちのち)に参りたまふ。「ひしひしとして還御なりぬる御あとも寂しきに、今日はこれにさぶらへかし」と大宮の院の御気色あれば、この御所にさぶらふに、東二条院よりとて御文あり。
何とも思ひ分かぬほどに、女院御覧ぜられて後、「とは何事ぞ、うつつなや」と仰せごとあり。「何事ならむ」と尋ね申せば、「その身をこれにて、『(=そなたを)女院もてなして、露顕(=披露)の気色ありて、御遊(ぎよいう)さまざまの御事どもあると聞くこそ、うらやましけれ。古りぬる身なりとも、おぼしめし放つまじき御事とこそ思ひまゐらするに』と、かへすがへす申されたり」とて、笑はせたまふもむつかしければ、四条大宮なる乳母(めのと)がもとへ出でぬ。
六十三 京極殿の御局
作者が里住みしている四条大宮のめのとの家の近くに有明の月の稚児の家があり、有明の月はそこに来て作者としばしば密会する。二人の関係が世の噂にのぼる。そこで後深草院は、自ら京極局と見せかけて、或夜ひそかに作者を訪ね、「そなたの出産を我が児として披露することができなくなったから、ちょうど或女房が死産したのを披露させずにおいた、そなたの産した児をそちらへやって、そなたのを死産と披露せよ」と計られる。作者は院の心づかいを有難く思うものの、いつまでこの親切が続くであろうかと心細く思う。[三の二〇]〔17露の我が身の置き所〕
いつしか有明の御文あり。ほど近き所に、御愛弟(あひてい)する稚児のもとへ入らせたまひて、それへ忍びつつ参りなどするも、度重なれば、人の物言ひさがなさは、やうやう天(あめ)の下のあつかひぐさになると聞くもあさましけれど、「身のいたづらにならんもいかがせむ。さらば片山里の柴の庵の住みかにこそ」など仰せられつつ、通ひ歩きたまふぞいとあさましき。
かかるほどに、十月(かんなづき)の末になれば、常よりも心地もなやましくわづらはしければ、心細く悲しきに、御所よりの御沙汰にて、兵部卿その沙汰したるも、露の我が身の置き所、いかがと思ひたるに、いといたう更くるほどに、忍びたる車の音して門(かど)叩く。
「富小路殿(とみのこうぢどの=院の御所)より、京極殿の御局(=院の女房)の御渡りぞ」
と言ふ。
いと心得ぬ心地すれど、開けたるに、網代車(あじろぐるま)に、(=院が)いたうやつしつつ入らせおはしましたり。思ひよらぬことなれば、あさましくあきれたる心地するに、 「さして言ふべきことありて」 とて、こまやかに語らひたまひつつ、 「さてもこの有明のこと、世に隠れなくこそなりぬれ。我が濡れ衣さへ、さまざまをかしき節に取りなさるると聞くが、よによしなくおぼゆる時に、このほど異方に心もとなかりつる人、かの今宵亡くて生れたると聞くを、『あなかま(=誰にも言うな)』とて、いまださなきよしにてあるぞ。ただ今もこれより出で来たらむをあれへやりて、ここのを亡きになせ。さてぞ、この名はすこし人の物言ひぐさも鎮まらんずる。すさまじく、聞くことのわびしさに、かく計ひたるぞ」 とて、明けゆく鳥の声におどろかされて帰りたまひぬるも、浅からぬ御心ざしはうれしきものから、昔物語めきて、よそに聞かん契りも、憂かりし節のただにてもなくて、度重なる契りも悲しく思ひゐたるに、いつしか文あり。 「今宵の仕儀(しぎ)は珍(めづら)かなりつるも忘れがたくて」 と、こまやかにて、
059荒れにけるむぐらの宿の板廂(びさし)
さすが(=お前と)離れぬ心地こそすれ
とあるも、いつまでと心細くて、
060あはれとて訪はるることもいつまでと
思へば悲し庭の蓬生(よもぎふ)
六十四 男児出生
弘安四年十一月六日、作者は四条大宮のめのとの家で出産する。有明の月も来ている。作者は昨夜の院の仰せを有明に語り、共に嘆きながら、生児を知らぬ所へ渡してやる。[三の二一]〔18有明の光〕15
この暮れには、有明の光も近き(=稚児の家)ほどと聞けども、その気(け)にや、昼より心地も例ならねば思ひ立たぬに、更け過ぎて後おはしたるも、思ひよらずあさましけれど、心知るどち二三人よりほかは立ち交じる人もなくて入れたてまつりたるに、夜べのおもむきを申せば、「(=生まれてくる子)とても身に添ふべきにはあらねども、ここさへいぶせからむこそ口惜しけれ。かからぬ例(ためし)も、世に多きものを」とて、いと口惜しとおぼしたれども、「御計ひの前は、いかがはせむ」など言ふほどに、明けゆく鐘とともに、男子(をのこご)にてさへおはする(=生まれた)を、何の人形(ひとかた=人相)とも見え分かず、かはゆげなるを膝に据ゑて、「昔の契り浅からでこそかかるらめ」など、涙も堰きあへず、大人(おとな)に物を言ふやうにくどきたまふほどに、夜もはしたなく明けゆけば、なごりを残して出でたまひぬ。
この人(=赤子)をば、仰せのままに渡したてまつりて、ここには何の沙汰(=跡形)もなければ、「露消えたまひにけるにこそ」など言ひて、後(のち)はいたく世の沙汰もけしからざりし物言ひも止(とど)まりぬるは、おぼしよらぬ隈(くま)なき御心ざしは、おほやけわたくし、ありがたき御事なり。御心知る人(=雪の曙)のもとより、沙汰し送ること(=仕送り)ども、いかにも隠れなくやと、いとわびし。
六十五 鴛鴦(おしどり)といふ鳥
出産は弘安四年十一月六日であったが、有明の月はその後しきりに作者をおとずれ、特に十三日の夜には、自分の死を予感したような心細い物語をして、もし死んだらいま一度この世に生まれ出て、そなたと契りを結びたい、その為に書写の大乗経は供養を遂げず、死んでもあの世へ持って行くため、暫く竜宮の宝蔵に預けて置く(火葬の薪に加えて焼く)などという。その夜、有明の月は自分が鴛鴦になって作者の身の内に飛びこんだ夢を見る。これはその夜妊娠したことの夢知らせであった。[三の二二]〔19あたりは去らじ〕
〈備考〉出産後わずか七日で妊娠という事は珍しい例ではあるが、これを産科医に質したところ、在り得ることだという。
(=出産は弘安四年)十一月六日のことなりしに、あまりになるほどに、(=有明の)御訪れのうちしきるも、そら恐ろしきに、十三日の夜更くるほどに例の立ち入りたまひたるも、なべて世の中つつましきに、一昨年(をととし)より春日の御榊(おんさかき)、京に渡らせたまふが(=興福寺の強訴)、「このほど御帰座あるべし」とひしめくに、いかなることにか、かたはら病(やみ)といふことはやりて、いくほどの日数も隔てず、人々隠るると聞くが、「ことに身に近き無常どもを聞けば、いつか我が身も亡き人数にと心細きままに思ひ立ちつる」とて、常よりも心細くあぢきなきさまに言ひ契りつつ、「形は世々に変るとも、相見(あひみ)ることだに絶えせずは、いかなる上品上生の台(うてな)にも、共に住まずは物憂かるべきに、いかなる藁屋(わらや)の床(とこ)なりとも、もろともにだにあらばと思ふ」など、夜もすがらまどろまず語らひ明かしたまふほどに、明け過ぎにけり。
出でたまふべき所(=稚児の家)さへ垣根つづきの主(あるじ)が方(=乳母の家)ざまに、人目繁(しげ)ければ、包むにつけたる御有様もしるかる(=目立つ)べければ、今日は留まりたまひぬる、そら恐ろしけれども、心知る稚児一人よりほかは知らぬを、我が宿所(=乳母の家)にても、いかが聞こえなすらんと思ふも、胸騒がしけれども、主(=有明)はさしもおぼされぬぞ、言の葉なき心地する。
[三の二三]
今日は日暮しのどかに、「憂かりし有明の別れ(=出雲路)より、にはかに雲隠れぬと聞きしにも、かこつ方なかりしままに、五部の大乗経を手づから書きて、おのづから水茎(=あなたの筆跡)の跡を、一巻に一文字(ひともじ)づつを加へて書きたるは、かならず下界(げかい)にて、いま一度(いちど)契りを結ばんの大願なり。いとうたてある心なり。この経、書写(しよしや)は終りたる、供養(くやう)を遂げぬは、この度一所(ひとつところ)に生れて供養をせむとなり。竜宮の宝蔵にあづけたてまつらば、二百余巻の経、かならずこの度の生れに供養(くやう)を延べぶべきなり。されば、われ北邙(ほくばう)の露と消えなんのちの煙に、この経を薪に積み具せんと思ふなり」など仰せらるる、よしなき妄念(まうねん)もむつかしく、「ただ一つ仏の蓮(はちす)の縁をこそ」と申せば、「いさや、なほこの道(=恋)のなごり惜しきにより、いま一度、人間に生(しやう)を受けばやと思ひ定め、世のならひ(=死)、いかにもならば、むなしき空に立ち昇らん煙も、なほあたり(=あなたのそば)は去らじ」など、まめやかに、かはゆき(=気の毒な)ほどに仰せられて(=眠った)、うちおどろきて、汗おびたたしく垂りたまふを、「いかに」と申せば、「我が身が鴛鴦(をし)といふ鳥となりて、御身の内へ入ると思ひつるが、かく汗のおびたたしく垂るは、あながちなる思ひに、我が魂や袖の中留まりけん」など仰せられて、「今日さへいかが」とて、立ち出でたまふに、
16 月の入るさの山の端に、横雲白みつつ、東の山は、ほのぼのと明くるほどなり。
明けゆく鐘に音を添へて帰りたまひぬるなごり、いつよりも残り多きに、近きほどより、かの稚児して、また文あり。
061あくがるる我が魂は(=あなたに)留め置きぬ
何の残りて物思ふらん
いつよりも、悲しさもあはれさも置き所なくて、
062物思ふ涙の色をくらべばや
げに誰が袖かしほれまさると
心にきと思ひつづくるままなるなり。
六十六 煙の末
有明の月の発病から死に至るまでの事。死後、有明の稚児が作者を訪うて遺言を伝え、悲しい物語をする事。後深草院から弔問の和歌があり、御返事をした事。年末になって里に籠もっているが、院から今までの様な烈しいお召しもないので、御情が薄くなってゆくように思われ、進んで出仕する気になれない事。有明の月の文を、うら返して法華経を書いて年を送った事。[三の二四]〔20なべて雲居も〕
以上で今年が終る。今年を弘安八年から逆算して弘安四年と仮定したが、有明の月が性助法親王ならば、今年は弘安五年でなければならない。要するに巻三の年立ては、弘安八年以外は確実でない。
やがてその日に御所へ入らせたまふと聞きしほどに、十八日よりにや、「世の中はやりたるかたはら病みの気おはします」とて、医師召さるるなど聞きしほどに、次第に御わづらはしなど申すを、聞きまゐらせしほどに、思ふ方なき心地するに、二十一日にや文あり。 「この世にて対面ありしを、限りとも思はざりしに、かかる病に取り籠められて、はかなくなりなん命よりも、思ひ置くこと(=あなたと子供)どもこそ罪深けれ。見しむばたまの夢も、いかなることにか」と書き書きて、奥に、
063身はかくて思ひ消えなむ煙だに
そなたの空になびきだにせば
とあるを見る心地、いかでかおろかならむ。げにありし暁を限りにやと思ふも悲しければ、
064「思ひ消えむ(=あなたの)煙の末をそれとだに
(=私が)長らへばこそ跡をだに見め
ことしげき御中はなかなかにや」とて、思ふほどの言の葉もさながら残しはべりしも、さすがにこれを限りとは思はざりしほどに、十一月二十五日にや、はかなくなりたまひぬと聞きしは、夢に夢見るよりもなほたどられ(=思い迷う)、すべて何と言ふべき方もなきぞ、我ながら罪深き。
17 「見果てぬ夢」とかこちたまひし、「悲しさ残る」とありし面影よりうち始め、憂かりしままの別れなりせば、かくは物は思はざらましと思ふに、今宵しも村雨うちそそぎて、雲の気色さへただならねば、なべて雲居もあはれに悲し。「そなたの空に」とありし御水茎はむなしく箱の底に残り、ありしままの御移り香はただ手枕になごり多くおぼゆれば、まことの道に入りても、常の願ひなればと思ふさへ、人の物言ひも恐ろしければ、亡き御陰のあとまでも、よしなき名にやとどめたまはんと思へば、それさへかなはぬぞ口惜しき。
[三の二五]〔21同じ水脈にも〕
明けはなるるほどに、「かの稚児来たり」と聞くも、夢の心地して、自ら急ぎ出でて聞けば、枯野の直垂(ひたたれ)の雉子を縫ひたりしが、なえなえとなりたるに、夜もすがら露にしをれたる袂もしるくて、泣く泣く語ることどもぞ、げに筆の海にも渡りがたく、言葉にも余る心地しはべる。
(=稚児)「かの『悲しさ残る』とありし夜、着かへたまひし小袖をこまかに畳みたまひて、いつも念誦(ねんじゆ)の床に置かれたりけるを、二十四日の夕べになりて、肌に着るとて、『つひの煙にも、かくながらなせ』と仰せられつるぞ、言はん方なく悲しくはべる。『参らせよ(=差し上げろ)』とてさぶらひし」とて、榊を蒔きたる大きなる文箱(ふみばこ)一つあり。御文とおぼしき物あり。鳥の跡のやうにて、文字形(かた)もなし。「一夜の」とぞ、初めある。「この世ながらにては」など心あてに見つづくれども、それとなきを見るにぞ、同じ(=三途の川の)水脈(みを)にも流れ出でぬべくはべりし。
065浮き沈み三瀬川(みつせがは)にも逢ふ瀬あらば
身を捨ててもや尋ね行かまし
など思ひつづくるは、なほも心のありけるにや。
かの箱の中は、包みたる金を一はた入れられたりけるなり。さても、御形見の御小袖を、さながら灰になされし、また五部の大乗経を薪に積み具せられしことなど、数々語りつつ、直垂(ひたたれ)の左右(さう)の袂を乾く間もなく泣き濡らしつつ出でし後ろを見るも、かき暗す心地していと悲し。
[三の二六]〔22年もわが身も〕
御所ざまにも、ことにおろかならぬ御中なりつれば、御嘆きもなほざりならぬ御事なるべし。「さても、心の内にいかに」とて文あるも、なかなか物思ひにぞはべりし。
066「面影もなごりもさこそ残るらめ
雲隠れぬる有明の月
憂きは世のならひながら、ことさらなる御心ざし(=愛情)も、深かりつる御嘆きも、惜しけれ」などありしも、なかなか何と申すべき言の葉もなければ、
067数ならぬ身の憂きことも面影も
一方にやは有明の月
とばかり申しはべりしやらむ。
18 心も言葉も及ばぬ心地して、涙にくれて明かし暮しはべりしほどに、今年は春の行く方も知らで年の暮れにもなりぬ。御使は絶えせず、「など参らぬに」などばかりにて、先々のやうに、「きときと」と言ふ御使もなし。何とやらむ、このほどよりことに仰せらるる節はなけれど、色変りゆく御事にやとおぼゆるも、我が咎ならぬ誤りも度重なれば、御ことわりにおぼえて、参りもすすまれず、今日明日ばかりの年の暮れにつけても、「年も我が身も」と、いと悲し。
ありし文どもを(=うら)返して法華経を書きゐたるも、「讃仏乗(さんぶつじよう)の縁」とは仰せられざりしことの罪の深さも、悲しく案(あん)ぜられて、年も返りぬ。
六十七 永き闇路
弘安五年正月十五日、東山の聖の許で有明の月の四十九日の諷誦を捧げる、二月十五日同じく諷誦。この間は東山に籠もる。明日は都へと思う前夜、有明の月に抱きつかれた夢を見て病気になり、翌日都へ入ろうとして清水の西の橋で、前夜の夢の人が車に飛びこんだと思うと失神し、めのとの家に落ちついて静養する。三月も半ばを過ぎると妊娠の兆候が明らかになる。去年十一月十三日の夜、有明の月と交会した後は、男に接した事はないから明らかにその胤と知る。[三の二七]〔23忘れぬ契り〕
改まる年とも言はぬ袖の涙に浮き沈みつつ、正月十五日にや、御四十九日なりしかば、ことさら頼みたる聖のもとへまかりて、布薩(ふさつ)のついでに、かの御心ざしありし金をすこし取り分けて、諷誦(ふじゆ)の御布施(おふせ)にたてまつりし包紙(つつみかみ)に、
068このたびは待つ暁のしるべせよ
さても絶えぬる契りなりとも
能説(のうぜつ)の聞こえある聖なればにや、ことさら聞く所ありしも、袖の隙(ひま)なき中に、まだ有明の古事ぞ、ことに耳に立ちはべりし。
つくづくと籠りゐて、二月(きさらぎ)の十五日にもなりぬ。釈尊(しやくそん)円寂(ゑんじゃく=死)の昔も、今日始めたることならねども、我が物思ふ折からはことに悲しくて、このほどは例の聖の室(むろ)に、法華講讃(ほけかうさん)、彼岸よりつづきて二七日ある折節もうれしくて、日々に諷誦(ふじゆ)を参らせつるも、誰とし顕(あら)はすべきならねば、「忘れぬ契り」とばかり書きつづくるにつけても、いと悲し。今日講讃も結願なれば、例の諷誦の奥に、
069月(=弥勒菩薩)を待つ暁までの遥かさに
今入りし日(=入滅した釈迦)の影ぞ悲しき
[三の二八]〔24人知れぬ契り〕19
東山(ひんがしやま)の住まひのほどにも、かき絶え御訪れもなければ、さればよと心細くて、明日は都の方へなど思ふに、よろづすごきやうにて、四座の講(=四種の講式)いしいしにて、聖たちも夜もすがら寝で明かす夜なれば、聴聞所に袖片敷きてまどろみたる暁、(=有明の月が)ありしに変らぬ面影にて、 「憂き世の夢は長き闇路ぞ」 とて、抱き付きたまふと見て、おびただしく大事に病(や)み出だしつつ、心地もなきほどなれば、聖の方より、「今日は、これにても試みよかし」とあれども、車などしたためたるも、(=車を返すのも)わづらはしければ都へ帰るに、清水(きよみづ)の橋(=五条橋)の、西の橋のほどにて、夢の面影、うつつに、車の内にぞ入らせたまひたる心地して絶え入りにけり。
そばなる人、とかく見助けて、乳母(めのと)が宿所(しゆくしょ)へまかりぬるより、水をだに見入れず、限りの(=死)さまにて、三月(やよひ)の空も半ば過ぐるほどになれば、ただにもあらぬ(=妊娠)さまなり。ありし暁より後は、心清く、目を見交はしたる人だになければ、疑ふべき方もなきことなりけりと、憂かりける契りながら、人知れぬ契りもなつかしき心地して、いつしか、心もとなくゆかしきぞ、あながち(=異常な)なるや。
六十八 父をしらぬ子
四月十日頃、後深草院から特にお召しがあったけれど、気分がすぐれない折であったから、病気のよしを申して不参していると、院から「老人には逢いたくないというのだね」という恨みの文が来た。作者はそれを有明の月の事を思い続けている事と思っていると、そうではなく、亀山院と親しくしていると疑っていられるのだと知った。そこで作者は、妊娠の状態が人目に立たぬうちにと思って、五月初めに急ぎ出仕し、六月頃まで御所にいたが、何となく居にくいので縁者の死に事よせて退出した。そして東山辺の縁者の許に隠り、八月二十日頃、ひそかに出産する。男児であった。我が身が二歳で母を失ったことを思うと、この児が父を知らぬ事が憐れに思われ、四十日余り自ら世話をしたが、十月(かんなづき)初めから御所に参って今年も暮れた。[三の二九]〔25古りぬる身には〕
四月(うづき)の中の十日頃にや、さしたることとて召しあるも、かたがた身もはばからはしく、物憂ければ、かかる病に取り籠められたるよし申したる御返事に、
070「(=有明の)面影をさのみもいかが恋ひわたる
憂き世を出でし有明の月。
一方ならぬ袖の暇(いとま)なさも推しはかりて、古りぬる身(=飽きられた私)には」などうけたまはるも、ただ一筋に有明の御事を、かく思ひたるも心づきなし(=ご不満)にやなど思ひたるほどに、さにはあらで、「亀山院の御位のころ、傅(めのと=仲頼)にてはべりし者、六位に参りて、やがて御すべり(=譲位)に、叙爵(じよしやく=五位)して、大夫の将監(しやうげん)といふ者伺候したるが道芝して、夜昼たぐひなき御心ざしにて、この御所ざまのことはかけ離れ行くべきあらましなり」と申さるることどもありけり。いかでか知らん。
〔26深かりける心ざし〕20
心地も隙(ひま)あれば、いとどはばかりなき(=体が目立たない)ほどにと思ひ立ちて、五月の初めつ方参りたれば、何とやらん、仰せらるることもなく、またさして例に変りたることはなけれども、心の内ばかりは物憂きやうにて明け暮るるもあぢきなけれども、六月(みなづき)の頃までさぶらひしほどに、ゆかりある人の隠れにしはばかりに言寄せて、まかり出でぬ。
[三の三〇]
この度の有様は、ことに忍びたきままに、東山の辺(へん)に、ゆかりある人のもとに籠りゐたれども、取り分き訪(と)め来る人もなく、身を変へたる心地せしほどに、八月(はづき)二十日の頃、その気色ありしかども、先の度(たび)までは、忍ぶとすれども、言問ふ人もありしに、峰の鹿の音を友として、明かし暮すばかりにてあれども、ことなく男(をのこ)にてあるを見るにも、いかでかあはれならざらむ。「鴛鴦といふ鳥になると見つる」と聞きし夢のままなるも、げにいかなることにかと悲しく、我が身こそ、二つにて母に別れ、面影をだにも知らぬことを悲しむに、これはまた父に腹の中にて先立てぬるこそ、いかばかりか思はんなど思ひつづけて、かたはら去らず置きたるに、「折節、乳(ち)など持ちたる人だになし」とて、尋ねかねつつ、わがそばに臥せたるさへあはれなるに、この寝たる下の、いたう濡れにければ、いたはしく、急ぎ抱き退けて、わが寝たる方に臥せしにこそ、げに深かりける(=母の)心ざしも初めて思ひ知られしか。
しばしも手をはなたんことはなごり惜しくて、四十日あまりにや、自らもてあつかひはべりしに、山崎といふ所より、さりぬべき人を語らひ寄せてのちも、ただ床を並べて臥せはべりしかば、いとど御所ざまの交じろひも物憂き心地して、冬にもなりぬるを、「さのみもいかに」と召しあれば、十月(かんなづき)の初めつ方よりまたさし出でつつ、年も返りぬ。
六十九 道のほだし
弘安六年正月元日から二月にかけての記。後深草院の心が隔てあるように思われて心細い。遠ざかった西園寺実兼だけは、絶えず親切に世話をしてくれる。二月、両院が嵯峨殿で彼岸の説法会を聴聞せられ、作者もそこに出仕し、清涼寺に参って菩提を弔う。有明の後を追うて身を投げたいとも思うが、父を知らぬ嬰児に心引かれて、それも叶わなぬ。[三の三一]〔27悩みは末も〕21
今年は元三(ぐわんさん)にさぶらふにつけても、あはれなることのみ数知らず。何事を、「悪し」とも、うけたまはることはなけれども、何とやらむ、御心の隔てある心地すれば、世の中もいとど物憂く心細きに、今は昔ともいひぬべき人(=雪の曙)のみぞ。「恨みは末も」とて、絶えず言問ふ人にてはありける。
〔28道のほだし〕
二月(きさらぎ)の頃は、彼岸の御説法、両院、嵯峨殿の御所にてあるにも、去年(こぞ)の御面影身を離れず。あぢきなきままには、「生身二伝の釈迦を申せば、唯我一人の(=衆生を救う)誓ひ過たず、迷ひたまふらむ(=有明の)道のしるべしたまへ」とのみぞ思ひつづけはべりし。
071恋ひしのぶ袖の涙や大井川
(=あの人に)逢ふ瀬ありせば身をや捨てまし
とにかくに思ふもあじきなく、世のみ恨めしければ、底の水屑(みくづ)となりやしなましと思ひつつ、何となき古反故(ふるほうご=古い手紙)など取りしたたむる(=始末する)ほどに、さても、二葉なるみどり子の行く末を、我さへ捨てなば、誰かあはれをかけむと思ふにぞ、道のほだしはこれにやと思ひつづけられて、(=子供の)面影もいつしか恋しくはべりし。
072尋ぬべき人(=父)もなぎさに生ひ初めし
松はいかなる契りなるらん
七十 御所退出
弘安六年三月頃から年末までの記。去年生まれた嬰児が智慧づき初めた事。秋の初めに祖父隆親から手紙が来て、「局を整理し、御所を引上げてこちらへ出て来い」との事。事情が分からぬので院にうかがったけれど御返事がない。三位殿を初め上臈女房や雪の曙などに聞いて見るが分からない。再び院にうかがうと、甚だ不機嫌な御様子で、「見たくもない」といって座を立ってしまわれた。作者は突き落された悲しみを胸に抱いて隆親の家に行き、初めて事情が分かる。この段は作者の境遇が一転する所である。 御所退出の後は、むしろ心も晴れやかになったが、さすがに淋しい。十一月末から年来の宿願であった祇園千日ごもりを始める。[三の三二]
還御の後、あからさまに出でて(=息子を)見はべれば、ことのほかに大人びれて、物語り、笑み笑ひみなどするを見るにも、あはれなることのみ多ければ、なかなかなる心地して、(=御所に)参りはべりつつ、
22 秋の初めになるに、四条兵部卿(=祖父隆親)のもとより、
「局など、あからさまならずしたためて出でよ。夜さり、迎へにやるべし」という文あり。
〔29世になき身にも〕
心得ずおぼえて、御所へ持ちて参りて、「かく申してさぶらふ。何事ぞ」と申せば、ともかくも御返事なし。何とあることともおぼえで、玄輝門院(げんきもんゐん=東の女院)、三位殿と申す御ころのことにや、「何とあることどものさぶらふやらん。かくさぶらふを、御所にて案内しさぶらへども、御返事さぶらはぬ」と申せば、「我も知らず」とてあり。
さればとて、「出でじ」と言ふべきにあらねば、出でなんとするしたためをするに、四つと言ひける長月の頃より参り初めて、時々の里居のほどだに心もとなくおぼえつる御所の内、今日や限りと思へば、よろづの草木も目留まらぬぬもなく、涙にくれてはべるに、折節恨みの人(=雪の曙)の参る音して、「下の(=局の)ほどか」と言はるるもあはれに悲しければ、ちとさし出でたるに、泣き濡らしたる袖の色も、よそにしるかりけるにや、「いかなることぞ」など尋ねらるるも、「問ふにつらさ」とかやおぼえて、物も言はれねば、今朝の文取り出でて、「これが心細くて」とばかりにて、(=彼を)こなたへ入れて泣きゐたるに、「されば何としたることぞ」と、誰も心得ず。
[三の三三]
大人しき女房たちなども、訪らひ仰せらるれども、知りたりけることがなきままには、ただ泣くよりほかのこともなくて暮れゆけば、御所ざまの御気色なればこそかかるらめに、またさし出でむも恐れある心地すれども、今より後はいかにしてかと思へば、今は限りの御面影も今一度(ひとたび)見まゐらせむと思ふばかりに、迷ひ出でて御前に参りたれば、御前には公卿二三人ばかりして、何となき御物語のほどなり。
練薄物(ねりうすもの)の生絹(すずし)の衣に、薄(すすき)に葛(つづら)を青き糸にて縫物(ぬひもの)にしたるに、赤色の唐衣を着たりしに、きと御覧じおこせて、「今宵はいかに御出(=退出)でか」と仰せごとあり。何と申すべき言の葉なくてさぶらふに、「来る山人の便りには、訪れんとにや。青葛(つづら)こそうれしくもなけれ」とばかり御口ずさみつつ、女院(=東二条)の御方へなりぬるにや、立たせおはしましぬるは、いかでか御恨めしくも思ひまゐらせざらむ。
23 いかばかりおぼしめすことなりとも、「隔てあらじ」とこそ、あまたの年々(としどし)契りたまひしに、などしもかかるらんと思へば、時の間に世になき身になりなばやと、心一つに(=一途に)思ふかひなくて、車さへ待ちつけたれば、これよりいづ方へも行き隠ればやと思へども、ことがらもゆかしくて、二条町の兵部卿の宿所(すくしよ)へ行きぬ。
[三の三四]〔30神に頼みを〕
自ら対面して、「いつとなき老いの病と思ふ。このほどになりては、ことにわづらはしく、頼みなければ、御身のやう、故大納言もなければ、心苦しく、善勝寺ほどの者だに亡くなりて、さらでも心苦しきに、東二条の院より、かく仰せられたるを、強ひてさぶらはんも、はばかりありぬべきなり」とて、文を取り出でたまひたるを見れば、「(=二条は)院の御方奉公して、この御方をば無きがしろにふるまふが本意なくおぼしめさるるに、すみやかに、それを呼び出だしておけ。故典侍大(こすけだい)もなければ、(=お前のほかに)そこに計ふべき人なれば」など、御自らさまざまに書かせたまひたる文なり。
「まことに、この上を強ひてさぶらふべきにしもあらず」など、なかなか出でて後は、思ひ慰むよしはすれども、まさに長き夜の寝覚めは、千声万声(せんせいばんせい)の砧(きぬた)の音も、我が手枕に言問ふかと悲しく、雲居を渡る雁(かり)の涙も、物思ふ宿の萩の上葉(うはば)を尋ねけるかと誤(あやま)たれ、明かし暮して年の末にもなれば、送り迎ふる営みも、何のいさみ(=張り合い)にすべきにしあらねば、年頃の宿願にて、祇園(ぎをん)の社(やしろ)に、千日籠るべきにてあるを、よろづに障り多くて籠ざりつるを、思ひ立ちて、十一月の二日、初めの卯の日にて、八幡宮(はちまんぐう)御神楽(かぐら)なるにまづ参りたるに、「神に心を」と詠みける人も思ひ出でられて、
073いつもただ神に頼みをゆふだすき
かくるかひなき身をぞ恨むる
[三の三五]〔31有明の三年〕
七日の参籠(さんろう)果てぬれば、やがて祇園に参りぬ。「今はこの世には残る思ひあるべきにあらねば、三界(さんがい)の家を出でて解脱(げだつ)の門(かど)に入れたまへ」と申すに、今年は有明の三年(みとせ)にあたりたまへば、東山の聖のもとにて、七日法華講讃を五種の行(ぎやう)に行(おこな)はせたてまつるに、昼は聴聞(ちやうもん)に参り、夜は祇園へ参りなどして、結願(けちぐわん)には、露消えたまひし日なれば、ことさらうち添ゆる鐘も涙もよほす心地して、
074折々の鐘の響きに音(ね)を添へて
何と憂き世になほ残るらん
七十一 千日ごもり
この段は、初めに「年も返りぬれば」とあり、末に「今年も暮れぬ」とあるから。この一段で弘安七年を全部含めている。 嬰児が走り歩くようになった事。亡祖父隆親がなつかしく思い出される事。昔祇園社に植えた桜が生いついた事。去年の末から始めた千日ごもりがこの一年つづいていたのである。〔32契る心〕24 ありし赤子引き隠したるもつつましながら、物思ひの慰めにもとて(=会っていたが)、年も返りぬれば、走り歩き、物言ひなどして、何の憂さもつらさも知らぬも、げに悲し。
[三の三六]
さても兵部卿さへ憂かりし秋の露に消えにしかば、あはれもなどか深からざらむなりしを、思ひあへざり(=思いもよらない)世のつらさを嘆く隙なさに思ひ分かざりしにや、菅(すが)の根の(=枕詞)長き日暮し、紛(まぎ)るることなき行ひ(=勤行)のついでに思ひつづくれば、(=兵部卿は)母のなごりには一人留まりしになど、今ぞあはれにおぼゆるは、心のどまるにやとおぼゆる。
やうやうの神垣(かみがき)の花(=桜)ども盛りに見ゆるに、文永のころ、「(=牛頭)天王の御歌とて、
075神垣に千本(ちもと)の桜花咲かば
植ゑ置く人の身も栄えなむ
といふ示顕(じげん)あり」とて、祇園の社(しや=八坂神社)におびただしく木ども植ゆることありしに、まことに神の托(たく)したまふことにてもあり、またわが身も神恩(しんおん)をかうぶるべき身ならば、枝にも根にも寄るべきかはと思ひて、檀那院(だんなゐん)の公誉(こうよ)僧正、阿弥陀院(=延暦寺)の別当にておはするに、親源法印といふは大納言の子にて申し通(かよ)はしはべるに、かの御堂(みだう=阿弥陀院)の桜の枝を一つ乞ひて、二月(きさらぎ)の初午(はつうま)の日、執行権長吏(しゆぎやうごんちやうり)法印(はうゐん)ゑんやうに、紅梅の単衣文・薄衣、祝詞(のと)の布施に賜びて、祝詞申させて、東の経所(きやうどころ=祇園社)の前に捧げはべりしに、縹(はなだ)の薄様の札にて、かの枝に付けはべりし、
076根なくとも色には出でよ桜花
契る心は神ぞ知るらん
この枝生(お)ひつきて、花咲きたるを見るにも、心の末はむなしからじと、頼もしきに、千部の経を初めて読みはべるに、さのみ局ばかりは差し合ひ(=障り)、何かのためにもはばかりあれば、宝塔院(はうたうゐん)の後ろに二つある庵室(あんじち)の東(ひんがし)なるを点(てん)じて(=指定して)、籠りつつ今年も暮れぬ。
七十二 打出の人数
弘安八年正月の末、大宮院にすすめられて北山准后九十の賀に出仕した事。この段は先ず賀の前日、二月二十九日の記である。[三の三七]〔33准后の九十の御賀〕25
またの年の一月(むつき)の末に、大宮院(おほみやのゐん)より文あり。
「准后(ずこう)の九十の御賀のこと、この春思ひ急ぐ。里住みも遥かになりぬるを、何か苦しからむ、打出(うちい)での人数(ひとかず)にと思ふ。准后(すごう)の御方にさぶらへ」
と仰せあり。
「さるべき御事にてはさぶらへども、御所ざま悪しざまなる御気色にて里住みしさぶらふに、何のうれしさにか、打出でのみぎりに参りはべるべき」
と申さるるに、
「すべて苦しかるまじきうへ、准后(ずごう)の御事は、ことさら幼くより、(=お前の母の)故大納言の典侍と言ひ、その身と言ひ、子にことならざりしことなれば、かかる一期の御大事見沙汰(=参列する)せん、何かは」など、御自らさまざまうけたまはるを、さのみ申すも事ありがほなれば、参るべきよし申しぬ。
籠りの日数は四百日に余るを、帰りまゐらんほどは代願(だいぐわん)をさぶらはせて、西園寺のうけたまはりにて、車など賜はせたれば、今は山賤になり果てたる心地して、晴れ晴れしさもそぞろはし(=落ち着かない)ながら、紅梅の三衣(みつぎぬ)に、桜萌黄(もよぎ)の薄衣重ねて、参りて見れば、思ひつるもしるく晴れ晴れしげなり。
[三の三八]
両院、東二条院、遊義門院いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせたまひけるなるべし。新陽明門院も忍びて御幸(ごかう)あり。二月(きさらぎ)の晦日(つごもり)のことなるべしとて、二十九日行幸・行啓あり。まづ行幸、丑(うし)三つばかりになる。門の前に御輿(みこし)を据ゑて、神司(かんづかさ)幣(ぬさ)をたてまつり、雅楽司(うたのつかさ)、楽(がく)を奏す。院司左衛門督(さゑもんのかみ=実兼の子)参りて、このよしを申して後、御輿(みこし)を中門へ寄す。二条の三位中将、中門の内より剣璽(けんじ)の役勤むべきに、春宮行啓。まず門の下まで筵道(えんだう)をしく。設(まう=臨時)けの御所、奉行(ぶぎやう)顕家、関白、左大将、三位中将まど参り設く。傅の大臣、御車に参らる。
七十三 准后九十の御賀
准后九十賀の当日、弘安八年二月三十日の記である。主催者は大宮院、場所は北山の西園寺邸。まず式場の設備を記し、次に主賓である准后の身分および准后と作者との血縁関係を記す。作者は准后方の女房として出仕するはずになっていたが、大宮院が考えなおされて御自分方の女房中に加えられた事を記し、更に式の進行の次第を記す。[三の三九]〔34御所のしつらい〕
式は准后の息災を仏に祈願し、長寿を祝福して音楽を奏する法会である。
その日になりぬれば、御所のしつらひ、南面(みなみおもて)の母屋(もや)三間(げん)、中にあたりて、北の御簾(みす)に添へて仏台をたてて、釈迦如来の像一幅(いつぷく)掛けらる。その前に香華(かうげ)の机(つくゑ)を立つ。左右に灯台を立てたり。前に高座(かうざ)を置く。その南に礼盤(らいばん)あり。同じ間(ま)の南の簀子(すのこ)に机を立てて、その上に御経箱二合置かる。寿命経(ずみやうきやう)・法華経入れらる。御願文(ごぐわんもん)、草(さう=草稿)茂範(もちのり)、清書関白殿と聞こえしやらむ。
母屋の柱ごとに幡(はた)・華鬘(けまん)を掛けらる。母屋の西の一の間に、御簾(みす)の中に、繧繝(うんげん=の縁)二畳の上に唐錦(からにしき)の茵(しとね)を敷きて内の御座(ぎよざ)とす。同じ御座の北に、大紋(だいもん)二畳を敷きて一院の御座、二の間に、同じ畳を敷きて新院の御座、その東の間に屏風を立てて大宮の院の御座、南面の御簾に几帳の帷子(かたびら)出だして、一院の女房さぶらふ所をよそに見はべりし、あはれすくなからず。同じき西の廂に、屏風を立てて、繧繝(うげん)二畳敷きて、その上に東京(とうぎやう=トンキン)の錦の茵を敷きて、准后(ずこう)の御座なり。
[三の四〇]
かの准后と聞こゆるは、西園寺の太政大臣実氏公の家、大宮院・東二条院御母、一院・新院御祖母、内(=後宇多)・春宮御曾祖母なれば、世こぞりてもてなしたてまつるもことわりなり。俗姓(ぞくしやう)は鷲尾(わしのを)の大納言隆房の孫、隆衡(たかひら)の卿の女なれば、母方は離れぬゆかりにおはしますうへ、ことさら幼くより、母にてはべりし者も、これにて生ひ立ち、我が身もそのなごり変らざりしかば、召し出ださるるに、「褻なりにてはいかが」とて、大宮院御沙汰にて、「紫の匂ひにて准后(ずこう)の御方にさぶらふべきか」と定めありしを、なほいかがとおぼしめしけむ、「大宮の御方にさぶらふべき」とて、紅梅の匂ひまさりたる単衣、紅の打衣、赤色の唐衣、大宮院の女房は、みなはべりしに、西園寺の沙汰にて、上紅梅の梅襲(がさね)八つ、濃き単衣、裏山吹の表着、青色の唐衣、紅の袿、彩物(だみもの)置きなど、心ことにしたるをぞ賜はりてさぶらひしかども、「さやは思ひし」と、よろづあぢきなきほどにぞはべりし。
[三の四一]〔35御賀の第一日〕26
事始まりぬるにや、両院、春宮、両女院、今出川の院・姫宮、春宮の大夫うちつづく。誦経(じゆきやう)の鐘の響きも、ことさらに聞こえき。
階(はし)より東には、関白・左大臣・右大臣・花山院大納言(くわざんのゐんのだいなごん)・土御門の大納言・源大納言・大炊御門(おほひのみかどの)の大納言・右大将・春宮大夫、ほどなく座を立つ。左大将・三条中納言・花山院中納言・家奉行の院司左衛門督。階(はし)より西に、四条前大納言、春宮権大夫、権大納言、四条宰相、右衛門督などぞさぶらひし。
主上(=後宇多)御引直衣(おんひきなほし)、生絹の御袴、一院御直衣、青匂ひの御指貫、新院御直衣、綾の御指貫、春宮御直衣、浮織物の紫の御指貫なり。みな御簾(みす)の内におはします。左右大将・右衛門督、弓を持ち、矢を負ひたり。
[三の四二]
楽人(がくにん)・舞人(まひびと)、鳥向楽(てうかうらく)を奏す。一つ、鶏婁(けいろう=鼓)先立つらむ。左右鉾を振る。この後、壱越調(いちこつてう)の調子を吹きて、楽人・舞人、衆僧(しゆそう)集会(しゆゑ)の所へ向ひて、左右に別れて参る。中門を入りて舞台(ぶたい)の左右を過ぎて、階(はし)の間より昇りて座につく。
講師法印憲実(けんじち)、読師(どくし)僧正守助(しゆじよ)、呪願(じゆぐわん)僧正、座に昇りぬれば、堂達(だうたつ)磬(けい)を打つ。堂童子(だうどうじ)、重経(しげつね)・顕範(あきのり)・仲兼(なかかぬ)・顕世(あきよ)・兼仲(かねなか)・親氏(ちかうぢ)など、左右に分けてさぶらふ。唄子(ばいし)声出でて後、堂童子、花筥(はなばこ)を分かつ。楽人、渋河鳥(しんがてう)を奏して散華行道(さんげぎやうだう)一返(いつぺん)、楽人鶏婁、御前(ごぜん)にひざまづく。一は久助(ひさすけ)なり。院司為方、禄をとる。
後に机を退けて、舞を奏す。気色ばかりうちそそく春の雨、糸帯たるほどなるを、厭ふ気色もなく、このも彼のもに並み居たる有様、いつまで草のあぢきなく見渡さる。
27 左、万歳楽(まんざいらく)・楽拍子(がくびやうし)・賀殿(かてん)・陵王(りようわう)。右、地久(ちきう)・延喜楽(えんぎらく)・納蘇利(なそり)。二の者にて、多久忠(おほのひさただ)、勅禄(ちよくろく)の手とかや舞ふ。このほど、右の大臣、座を立ちて、左の舞人近保(ちかやす)を召して、勧賞(けんじやう)仰せらる。うけたまはりて、再び拝みたてまつるべきに、右の舞人久資、楽人(がくじん)政秋、同じく勧賞をうけたまはる。「政秋、笙(しやう)の笛を持ちながら起き伏す(=拝礼する)さま、つきづきし」など御沙汰あり。
講師、座を下りて、楽人、楽を奏す。その後、御布施を引かる(=与える)。頭中将公敦(きんあつ)・左中将為兼(ためかぬ)・少将康仲(やすなか)など、闕腋(わきあけ)に平胡籙(ひらやなぐひ)を負へり。縫腋(もとほし)に革緒の太刀、多くは細太刀(ほそだち)なりしに、衆僧どもまかり出づるほどに、廻忽(くわいこつ)・長慶子を奏して、楽人・舞人まかりいづ。
大宮・東二条・准后の御膳参る。准后の御膳四条宰相、役送(やくそう)左衛門督なり。
七十四 今日の春日
式の翌日、三月一日の記で、御祝の饗膳、音楽、祝歌の披露、御鞠の興が行われた事。[三の四三]〔36御賀の第二日〕
次の日は、三月(やよひ)の一日(ついたち)なり。内(=後宇多)・春宮・両院、御膳参る。舞台取り除けて、母屋の四面に壁代(かべしろ)を掛けたる、西の隅に御屏風を立てて、中の間に、繧繝(うんげん)二畳敷きて、唐錦の茵(しとね)を敷きて、おほやけ(=天皇)の御座、両院の御座、母屋に設けたり。東の対(たい)一間に繧繝を敷きて、東京(とうぎやう)の錦の茵を敷きて、春宮の御座と見えたり。内・両院、御簾(ぎよれん=簾を上げる役)関白殿、春宮には傅の大臣遅参にて、大夫(だいぶ)御簾(ぎよれん)に参りたまふなりけり。
主上(=後宇多)常の御直衣、紅の打御衣(うちおんぞ=打衣)、綿入れて出ださる。一院、固織物(かたおりもの)の薄色御指貫、新院、浮織物の御直衣、同じ御指貫、これも紅の打御衣、綿入りたるを出ださる。春宮、浮線綾(ふせんりよう)の御指貫、打御衣、綿入らぬを出ださる。 御膳参る。内の御方、陪膳花山院大納言、役送四条宰相・三条の宰相中将。一院、陪膳大炊御門(おほひのみかど)の大納言。新院、春宮大夫。春宮、三条宰相中将、春宮の役送隆良、桜の直衣、薄色の衣、同じ指貫、紅の単衣、壺・老懸(おいかけ=冠の飾り)までも、今日を晴れと見ゆ。
御膳果てて後、御遊。内の御笛、柯亭(かてい)といふ御笛、箱に入れて、忠世参る。関白取りて、御前(ごぜん)に置かる。春宮御琵琶、玄上(げんじやう)なり。権亮親定(ごんのすけちかさだ)持ちて参るを大夫(=実兼)御前に置かる。臣下の笛の箱、別(べち)にあり。笙(しやう)土御門の大納言、笙左衛門督。篳篥(ひちりき)兼行。和琴(わごん)大炊御門の大納言。琴左大将。琵琶春宮大夫・権大納言。拍子(ひやうし)徳大寺の大納言、洞院三位中将琴、宗冬付歌(つけうた)。呂(りよ)の歌安名尊(あなたと)・席田(むしろだ)、楽、鳥の破急(はきふ)、律(りつ)青柳、万歳楽(まんざいらく)、これにてはべりしやらむ、三台の急(きふ)。
[三の四四]〔37和歌の御会〕28
御遊(ぎよいう)果てぬれば和歌の御会(おんくわい)あり。六位殿上人、文台・円座を置く。下臈より懐紙(くわいし)を置く。為道、縫腋(もとほし)の袍(ほう)に革緒の太刀、壺(=背に壺胡籙)なり。弓に懐紙を取り具して、登りて、文台に置く。残りの殿上人のをば取り集めて、信輔(のぶすけ)文台に置く。為道より先に、春宮権大進顕家(あきいへ)、春宮の御円座を、文台の東に敷きて、披講(ひかう=歌を読み上げる)のほど御座ありし、古き例も今めかしくぞ、人々申しはべりし。
公卿、関白・左右大臣・儀同三司・兵部卿・前藤大納言(とうだいなごん)・花山院大納言・右大将・土御門の大納言・春宮大夫・大炊御門の大納言・徳大寺の大納言・前藤中納言・三条中納言・花山院中納言・左衛門督・四条宰相・右兵衛督・九条侍従三位とぞ聞こえし。
みな公卿直衣なる中に、右大将通基、表黄魚綾(おもてぎぎよりよう)の山吹の衣を出だして、太刀をはきたり。笏(しやく)に懐紙を持ち具したり。このほかの衛府(よう)の公卿は、弓に矢を負へり。
花山院中納言講師(=読み上げ)を召す。公敦(きんあつ)参る。読師(どくし=手渡す役)、左の大臣に仰せらるる。故障(こしやう=不都合)にて、右大臣参りたまふ。兵部卿・藤中納言など、召しにて参る。
権中納言の局(=京極為子)の歌、紅の薄様に書きて簾中(れんちゆう)より出ださるるに、新院、「雅忠卿(=二条の父)の女の歌はなど見えさぶらはぬぞ」と申されけるに、「労(いたは)りなどにてさぶらふやらん、すんしうて(?)」と御返事ある。「など歌をだに参らせぬぞ」と、春宮大夫言はるれば、「東二条院より、『歌ばし召さるな』と、准后(ずこう)へ申されけるよし、うけたまはりし」など申して、
077かねてより数に漏れぬと聞きしかば
思ひもよらぬ和歌の浦波
などぞ、心一つに(=心中)思ひつづけてはべりし。
29 内(=後宇多)・新院の御歌は、殿下(てんが=兼平)賜はり(=詠み)たまふ。春宮のはなほ臣下の列(つら)にて、同じ講師(こうじ)読みたてまつる。内・院のをば、左衛門督読師(どくし)、殿下たびたび講(=読み上げる)ぜらる。
披講(ひかう)果てぬれば、まづ春宮入らせたまふ。そのほども公卿禄(ろく)あり。内の御製(ぎよせい)は、殿(との)書きたまひける。今の大覚寺の法皇(=後宇多)の御事なり。
禅定(ぜんぢやう)仙院(せんゐん=後宇多法皇)。
従一位藤原朝臣(ふじはらのあそん)貞子(ていし)九十の齢(よはひ)を賀する歌、
078行末をなほ長き世とちぎるかな
弥生にうつる今日の春日に
新院の御歌(おんうた)は、内の大臣書きたまふ。端書(はしがき)同じさまながら、貞子の二字を止(とど)めらる(=書かないでおく)。
079百色(ももいろ)と今や鳴くらむうぐいすの
九返(ここのか)へりの君が春経て
春宮のは、左大将書きたまふ。「春の日北山の第(てい)にて、行幸するに侍(じ)して、従一位藤原朝臣九十の算(さん)を賀して制(せい)に応ずる歌」とて、なほ上の文字を添へられたるは、古き例にや。
080限りなき齢(よはひ)は今は九十路(ここのそぢ)
なほ千世遠き春にもあるかな
このほかのをば、別(べち)に記し置く。
さても春宮大夫の、
081世々のあとになほ立ち昇る老いの波
よりけん年は今日のためかも
まことに、おもしろきよし、おほやけわたくし申しけるとかや。「実氏の大臣の一切経の供養の折の御会に、後嵯峨の院、『花もわが身も今日さかりかも』とあそばし、大臣の『わが宿々(やどやど)の千代のかざしに』と詠まれたりしは、ことわりにおもしろく聞こえしに劣らず」など沙汰(=噂)ありしにや。
[三の四五]
この後、御鞠とて、色々の袖を出だせる、内・春宮・新院・関白殿・内の大臣より、思ひ思ひの御姿、見所多かりき。後鳥羽(ごとば)の院、建仁の頃の例とて、新院御上毬(あげまり=サーブ)なり。
御鞠果てぬれば、行幸は今宵還御なり。飽かずおぼしめさるる御旅(おんたび)なれども、春の司召(つかさめ)しあるべしとて急がるるとぞ聞こえはべりし。
七十五 妙音院の音楽
九十の賀の後の御遊、三月二日の記で、妙音堂における音楽会の事。[三の四六]〔38御賀の第三日〕30
またの(=次の)日は、行幸還御の後なれば、衛府(よう)の姿もいとなく、打ち解けたる(=リラックスした)さまなり。午(うま)の時ばかりに、北殿(きたどの)より西園寺(=の屋敷)へ筵道を敷く。両院御烏帽子(おんえぼし)直衣、春宮御直衣に括(くく)り上げさせおはします。堂々御巡礼(ごじゆんれい)ありて、妙音堂(めうおんだう)に御参りあり。今日の御幸を待ちがほなる花のただ一木見ゆるも、「ほかの散りなん後(ぞ咲かまし)」とは、誰か教へけんとゆかしきに、「御遊あるべし」とてひしめけば、衣被(かづ)きに混じりつつ、人々あまた参るに、誰も誘はれつつ見まゐらすれば、両院・春宮、(=妙音堂の)内に渡らせたまふ。
廂に、笛花山院大納言、笙左衛門督、篳篥(ひちりき)兼行、琵琶春宮の御方(=春宮)、大夫(=実兼)琴、太鼓具顕(ともあき)、羯鼓(かつこ)範藤。調子盤渉調(ばんしきてう)にて、(=曲は)採桑老(さいしやうらう)・蘇合(そがう)三の帖(てう)破急・白柱(はくちゆう)・千秋楽。兼行、「花上苑(しやうゑん)に明らかなり」と詠ず。ことさら物の音(ね)調(ととのほ)りておもしろきに、二返終りて後、「情けなきことを機婦(きふ)に妬む」と一院詠ぜさせおはしましたるに、新院・春宮御声加へたるは、なべてにやは聞こえん。楽(がく)終りぬれば還御あるも、飽かず御なごり多くぞ人々申しはべりし。
七十六 舟中の連歌
前段と同じく三月二日の記。昼の妙音堂の音楽に引き続いて、夕刻舟中で音楽の遊びが催され、後深草院が、心の進まぬ作者を強いて舟中に召された事。後深草院・亀山院・東宮・東宮大夫実兼・源具顕・作者の六人、舟中にて連歌の事。[三の四七]〔39恨みてのみぞ〕
何となく世の中の華やかに面白きを見るにつけても、かき暗す心の中は、さし出でつらむも悔しき心地して、妙音堂の(=院の)御声なごり悲しきままに、御鞠など聞こゆれども、(=私は)さしも出でぬに、隆良、「文」とて持ち来たり。「所違へにや」と言へども、強ひて賜はすれば、開けたるに、
082「(=あなたと)かき絶えてあられやすると(=私は生きてられるか)試みに 積もる月日をなどか恨みぬ
なほ(=あなたを)忘られぬは、(=別れは)かなふまじきにや。年月のいぶせさも、今宵こそ」などあり。御返事には、
083かくて世にありと聞かるる身の憂さを
恨みてのみぞ年は経にける
とばかり申したりしに、御鞠果てて、酉の終り(=午後七時)ばかりに、うち休みてゐたるところへ、ふと(=院が)入らせおはします。
[三の四八]
「ただ今御船に召さるるに、参れ」と仰せらるるに、何のいさましさ(=乗り気)にかと思ひて、立ちも上がらぬを、「ただ褻なるにて」とて、袴の腰結ひ、何かさせたまふも、いつよりまたかくもなりゆく御心にかと、二年(ふたとせ)の御恨めしさの慰むとはあらねども、さのみすまひ(=拒否)申すべきにあらねば、涙の落つるをうち払ひてさし出でたるに、暮れかかるほどに、
31 釣殿より御船に召さる。
〔40舟の内の連歌〕
まづ春宮の御方、女房大納言殿・右衛門督殿・高内侍(かうのないし)殿、これらは物の具なり。小さき御船に両院召さるるに、これ(=私)は三衣に薄衣・唐衣ばかりにて参る。春宮の御船に召し移る。管弦の具(=船に)入れらる。小さき船に公卿たち、端船(はしぶね)につけられたり。
花山院大納言笛、左衛門笙、兼行篳篥(ひちりき)、春宮の御方琵琶、女房衛門督殿琴、具顕(ともあき)太鼓、大夫(=実兼)羯鼓(かつこ)。飽かずおぼしめされつる妙院堂の昼の調子を移されて、盤渉調(ばんしきてう)なれば、蘇合の五の帖・輪台(りんだい)・青海波(せいがいは)・竹林楽(ちくりんらく)・越天楽(ゑてんらく)など、幾返りといふ数知らず。兼行、「山又山」と打ち出だしたるに、「変態(へんたい)繽粉(ひんぷん)たり」と両院の付けたまひしかば、水の下にも耳驚く物やとまでおぼえはべりし、
[三の四九]
釣殿遠く漕ぎ出でて見れば、旧苔(きうたい)年経たる松の、枝さし交(かは)したる有様、庭の池水(いけみず)言ふべくもあらず。漫々たる海の上に漕ぎ出でたらむ心地して、「二千里の外(ほか)に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、
084「雲の波煙(けぶり)の波を分けてけり
(=お前は)管弦にこそ(=やめる)誓ひありとて心強からめ、これ(=は歌だから)をば付けよ」と(=私を)当てられしも、うるさながら、
行く末遠き君が御代とて(=作者)
春宮大夫、
昔にもなほ立ち越えて貢物
具顕、
曇らぬ影も神のまにまに
春宮の御方、
九十路(ここのそぢ)になほも重ぬる老いの波
新院、
立ち居くるしき世のならひかな
憂きことを心一つに忍ぶれば(=作者)
「と申されさぶらふ心の中の思ひは、我ぞ知りはべる」とて、富小路殿(とみのこうぢどの)の御所、
絶えず涙に有明の月
「この有明の子細、おぼつかなく」など(=亀山院の)御沙汰あり。
七十七 うき身はいつも
九十の賀のなごりの御遊も全部終った三月二日の夕刻から夜にかけての記。さまざまの事が雑然と並べてあるが、それを通じて、世に望みを失った作者のさびしい心境がうかがわれる。〔41憂き身はいつも〕32
暮れぬれば行啓(ぎやうけい)に参りたる掃部寮(かもんれう)所々に立明(たてあか=松明)しして還御急がしたてまつる気色見ゆるも、やう変りておもしろし。ほどなく釣殿に御船着けぬれば下りさせおはしますも、飽かぬ御事どもなりけん。からき浮寝(うきね)の床に浮き沈みたる身の思ひは、よそにも推しはかられぬべきを、安(やす)の河原にもあらねばにや、言問ふ方のなきぞ悲しき。
[三の五〇]
まことや、今日の昼は、春宮の御方より、帯刀(たちはき)清景(きよかげ)、二藍打(ふたあゐうち)上下、松に藤縫ひたり、「うちふるまひ、老懸(おいかけ)のかかりもよしあり」など沙汰ありし。内(=後宇多)へ御使参らせられしに違(ちが)ひて(=入れ違いに)、内裏(だいり)よりは頭(とう)の大蔵卿忠世参りたりとぞ聞こえし。この度御贈り物は、内の御方へ御琵琶、春宮へ和琴(わごん)と聞こえしやらむ。勧賞(けんじやう)どもあるべしとて、一院御給(ごきふ)、俊定四位正下(しやうげ)、春宮、惟輔(これすけ)五位正下、春宮大夫の琵琶の賞は為道に譲りて、四位の従上(じゆうじやう)など、あまた聞こえはべりしかども、さのみは記す及ばず。行啓も還御なりぬれば、大方しめやかになごり多かるに、西園寺の方ざまへ御幸(ごこう)なるとて、たびたび(=院から私に)御使あれども、「憂き身はいつも」とおぼえて、さし出でむ空なき心地してはべるも、あはれなる心の中ならんかし。
問はず語り 巻四
七十八 鏡の宿
前巻との間に三年の空白がある。正応二年二月二十余日京都を出発して鎌倉に向い、まず第一日、鏡の宿に泊る。今年が正応二年であった事は、将軍惟康親王上洛の年(八六段)であった事によって知られる。作者三十二歳。[四の一]〔1慣らわぬ旅の装い〕1
二月(きさらぎ)の二十日余りの月とともに都を出ではべれば、何となく、捨て果てにし住みかながらも、また(=戻る時も)と思ふべき世のならひかはと思ふより、袖の涙も今さら、「宿る月さへ濡るるがほにや」とまでおぼゆるに、我ながら心弱くおぼえつつ、逢坂の関と聞けば、「宮も藁屋も果てしなく」と、眺め過ぐしけん蝉丸の住みかも、跡だにもなく、関の清水に宿る我が面影は、出で立つ足元よりうち初め、ならはぬ旅の装ひいとあはれにて、やすらはるる(=立ち止まる)に、いと盛りと見ゆる桜のただ一木あるも、これさへ見捨てがたきに、田舎人と見ゆるが、馬の上四五人、きたなげならぬが、またこの花のもとにやすらふも、同じ心にやとおぼえて、
085行く人の心をとむる桜かな
花や関守逢坂の山
など思ひつづけて、鏡の宿といふ所にも着きぬ。
暮るるほどなれば、遊女ども契り求めて歩くさま、憂かりける世のならひかなとおぼえていと悲し。明けゆく鐘の音に勧められて出で立つも、あはれに悲しきに、
086立ち寄りて見るとも知らじ鏡山
心の内に残る面影
七十九 赤坂の遊女
鏡の宿から数日を経て赤坂の宿に泊る。やどの遊女と和歌の贈答をする。[四の二]〔2赤坂、八橋〕
やうやう日数経(ふ)るほどに、美濃国赤坂の宿といふ所に着きぬ。ならはぬ旅の日数もさすが重なれば、苦しくもわびしければ、これに今日は留まりぬるに、宿の主に若き遊女姉妹(おととい)あり。琴、琵琶など弾きて情けあるさまなれば、昔思ひ出でらる心地して、九献など取らせて、遊ばするに、二人ある遊女の姉とおぼしきが、いみじく物思ふさまにて、琵琶のばちにて紛らかせども、涙がちなるも、身のたぐひにおぼえて目留まるに、これもまた(=私の)墨染の色にはあらぬ袖の涙をあやしく思ひけるにや、盃据ゑたる小折敷(こをしき)に書きてさしおこせたる、
087思ひ立つ心は何の色ぞとも
富士の煙の末ぞゆかしき
いと思はず(=思いがけず)に、情けある心地して、
088富士の嶺(ね)は恋を駿河の山なれば
思ひありとぞ煙立つらん
馴れぬるなごりは、これまでも引き捨てがたき心地しながら、さのみあるべきならねば、また立ち出でぬ。
八十 八橋・熱田
八橋で業平の昔を忍び、熱田の社では亡き父の思い出に袖を絞り、また遠ざかる都の空を眺めて後深草院の面影を慕うのであるが、折から匂う桜の花の、はかない盛りを思うにつけても、短い恋が思われる。こうして作者は熱田の社をかえり見ながら東を指して下って行く。2 八橋といふ所に着きたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ、友もなき心地して、
さて八橋から熱田へつづけた道順は逆である。後年の思い出を記したのだから、記憶の誤かも知れないが、しかし作者は道中案内記を書くのが目的でないから、道順など、それほど気にとめず、所々で詠んだ歌を中心にして、その所々の思い出を書き留めたもの、これを記憶の誤などと取りあげるべきではなかろう。
089我はなほ蜘蛛手に物を思へども
その八橋は跡だにもなし
[四の三]〔3熱田の社〕
尾張国熱田の社に参りぬ。御垣(みかき)を拝むより、故大納言の知る国にて、この社には我が祈りのためとて、八月の御祭にはかならず神馬をたてまつる使を立てられしに、最後の病の折、神馬を参らせられしに、生絹の衣を一つ添へて参らせしに、萱津(かやつ)の宿といふ所にて、にはかにこの馬死ににけり。驚きて、在庁(ざいちやう=地元)が中より、馬は尋ねて(=探して)参らせたりけると聞きしも、神は受けぬ祈りなりけりとおぼえしことまで、数々思ひ出でられて、あはれさも悲しさも、やる方なき心地して、この御社に今宵は留まりぬ。
都を出でしことは二月(きさらぎ)の二十日余りなりしかども、さすがならはぬ道なれば、心はすすめどもはかも行かで、三月(やよひ)の初めになりぬ。夕月夜(ゆふづくよ)華やかにさし出でて、都の空も一眺(ひとつなが)めに思ひ出でられて、今さらなる(=院の)御面影も立ち添ふ心地するに、御垣(みかき)の内の桜は、今日盛りと見せがほなるも、誰がため匂ふ梢(こずゑ)なるらんとおぼえて、
090春の色も三月(やよひ)の空に鳴海潟(なるみがた)
今いくほどか花も杉村
社の前なる杉の木に札(ふだ)にて打たせはべりき(訳ヌケ)。
思ふ心ありしかば、これに七日籠りて、また立ち出ではべりしかば、鳴海の潮干潟(しほひがた)をはるばる行きつつぞ社を顧みれば、霞の間よりほの見えたる朱の玉垣神さびて、昔を思ふ涙は忍びがたくて、
091神はなほあはれをかけよ御注連縄(みしめなは)
引き違へたる憂き身なりとも
八十一 清見が関・浮島
清見が席・浮島が原を通過した記であるが、途中の名所宇津の山に気がつかず通り過ぎ、浮島が原に来て気がつき、そのことを歌に詠んでいる。文章は伊勢物語や西行の旅の情趣を心に置いて書かれている。[四の四]〔4清見が関、浮島が原〕
清見が関を月に越え行くにも、思ふことのみ多かる心の内、来し方行く先辿られて、あはれに悲し。みな白妙に見えわたりたる浜の真砂の数よりも、思ふことのみ限りなきに、富士の裾、浮島が原に行きつつ、高嶺にはなほ雪深く見ゆれば、五月のころだにも鹿の子まだらには残りけるにと、ことわりに見やらるるにも、跡なき身の思ひぞ積もるかひなかりける。煙も今は絶え果てて見えねば、風にも何かなびくべきとおぼゆ。
さても宇津の山を越えしにも、蔦、楓も見えざりしほどに、それとだに知らず、思ひ分かざりしを、ここにて聞けば、はや過ぎにけり。
092言の葉もしげしと聞きし蔦はいづら
夢にだに見ず宇津の山越え
八十二 三島の社
三島神社に奉幣し、そこに通夜して、なかむし・浜の一万・はれな舞などの神事を見る。〔5三島の社〕3
伊豆の国三島の社に参りたれば、奉幣(ほうへい)の儀式は熊野参りに違はず、長筵(ながむしろ)などしたる有様もいと神々しげなり。故頼朝の大将し始められたりける浜の一万とかやとて、ゆゑある女房の壺装束にて行き帰るが苦しげなるを見るにも、我ばかり(=わたしほど)物思ふ人にはあらじとぞおぼえし。月は宵過ぐるほどに待たれて出づるころなれば、短夜(みじかよ)の空もかねて物憂きに、神楽とて、少女子(をとめご)が舞の手使ひも見馴れぬさまなり。襅(ちはや)とて袙(あこめ)のやうなる物を着て、八少女舞(やをとめまひ)とて、三四人立ちて、入り違ひて舞ふさまも、興ありておもしろければ、夜もすがら居明かして、鳥の音にもよほされて出ではべりき。
八十三 江の島
三月二十日過ぎの一夜、江の島の岩屋に住む山伏の所に泊る。この山伏は修行に年を経た者と思われるが、もとは都の者であったらしく、作者から扇を贈られて、昔の友に逢った気がすると喜ぶ。ここに供とする者の笈から扇を出して与えたとあるから、作者が従者をつれていた事が知られるが、これ以後の長い旅において、作者が供をつれていたと思われる記事はない。[四の五]〔6江の島〕
二十日余りのほどに江の島といふ所へ着きぬ。所のさまおもしろしとも、なかなか言の葉ぞなき。漫々たる海の上に離れたる島に、岩屋どもいくらもあるに泊まる。これは千手(せんじゆ)の岩屋といふとて、薫修練行(くんじゆれんぎやう)も年長けたりと見ゆる山伏一人、行なひてあり。霧の籬(まがき)、竹の網戸おろそかなるものから、艶(えん)なる住まひなる。かく山伏経営(けいめい)して、所につけたる貝つ物など取り出でたる。こなたよりも、供とする人の笈(おひ)の中より、都のつと(=産物)とて、扇など取らすれば、「かやうの住まひには都の方も言伝(ことづて=情報)なければ、風の便りにも見ずはべるを、今宵なむ昔の友にあひたる」など言ふも、さこそと思ふ。
言葉何となく、皆人も静まりぬ。夜も更けぬれども、はるばる来ぬる旅衣(たびごろも)、思ひ重ぬる苔筵(こけむしろ)は、夢結ぶほどもまどろまれず。人には言はぬ忍び音も袂をうるほしはべりて、岩屋のあらはに立ち出でて見れば、雲の波、煙の波も見え分かず。夜の雲収まり尽きぬれば、月も行く方(ゆくかた)なきにや、空澄み昇りて、まことに二千里の外(ほか)まで尋ね来にけりとおぼゆるに、後ろの山にや、猿の声の聞こゆるも腸(はらわた)を断つ心地して、心の内の物悲しさも、ただ今始めたるやうに思ひつづけられて、一人思ひ、一人嘆く涙をも乾(ほ)す便りにやと、都の外まで尋ね来しに、世の憂きことは忍び(=こっそりついて)来にけりと悲しくて、
093杉の庵(いほ)松の柱に篠(しの)簾(すだれ)
憂き世の中をかけ離ればや
八十四 鎌倉到着
鎌倉に到着。極楽寺に参り、僧の動作が都風であるのに好意を寄せる。しかし化粧坂から見おろした町の有様は、袋の中の生活のように思われて、都に生活した作者には、ごみごみしたものに感じられた。[四の六]〔7鎌倉へ入る〕4
由比の浜の大鳥居から遙かに八幡宮を拝して、我が家の氏神であり、かつて父の薨去した翌年(文永十年)の正月に男山八幡に参拝し、父の生所を示して戴きたいと祈誓した時の事を回想して無量の感慨に打たれる。
次いで八幡宮に参り、その地形が男山に比べて遙かに海の眺められる事に好意を持つ。
明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧のふるまひ都に違はず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて鎌倉の方を見れば、東山(ひんがしやま)にて京を見るには引き違へて、階(きざはし)などのやうに重々(ぢゆうぢゆう)に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしと、やうやう見えて、心留まりぬべき心地もせず。
由比(ゆひ)の浜といふ所へ出でて見れば、大きなる鳥居あり。若宮(=鶴岡八幡宮)の御社遥かに見えたまへば、「他の氏(うぢ)よりは(=源氏を)」とかや誓ひたまふなるに、(=私は)契りありてこそさるべき家にと生れけめに、いかなる報いならんと思ふほどに、まことや、父の生所(しやうじよ=来世)を祈誓申したりし折、「(=お前の)今生(こんじやう)の果報(くわはう)に代ゆる」とうけたまはりしかば、恨み申すにてはなけれども、袖を広げん(=物乞いをする)をも嘆くべからず。また小野小町(をののこまち)も衣通姫(そとほりひめ)が流れと言へども、簣(あじか)を肘に掛け、蓑を腰に巻きても、身の果て(=老後)はありしかども、我ばかり物思ふとや書き置きしなど思ひつづけても、まづ御社(=八幡)へ参りぬ。
所のさまは男山の気色よりも、海見遥かしたるは見所ありとも言ひぬべし。大名(だいみやう=地方豪族)ども、浄衣(じやうえ)などにはあらで、色々の直垂にて参る、出づるも、やう変りたり。
八十五 小町殿
小町殿と音信を通じ世話になる。善光寺へ行く予定であったが、先達に頼んだ人も自分も病気をしたので中止となる。八月十五日、小町殿から、都の放生会を思い出されるでしょうと言われて歌を贈答する。次いで鎌倉八幡宮の放生会を見る。[四の七]〔8病いの床〕
かくて、荏柄(えがら)、二階堂、大御堂(おほみだう)などいふ所ども拝みつつ、大倉(おほくら)の谷(やつ)といふ所に、小町殿とて将軍にさぶらふ(=女性)は、土御門定実(さださね=源定実、作者のまたいとこ)のゆかりなれば、文遣はしたりしかば、「いと思ひよらず」と言ひつつ、「わがもとヘ」とてありしかども、なかなかむつかしくて、近きほどに宿を取りてはべりしかば、「便りなくや(=不便な)」などさまざま訪らひ(=見舞い)おこせたるに、道のほどの苦しさもしばしいたはるほどに、
5 善光寺の先達(せんだち)に頼みたる人、四月(うづき)の末つ方より大事に病み出だして、前後を知らず。あさましとも言ふばかりなきほどに、すこしおこたるにやと見ゆるほどに、わが身またうち臥しぬ。二人になりぬれば、人も、「いかなることにか」と言へども、「ことさらなることにてはなし。ならはぬ旅の苦しさに、持病の起こりたるなり」とて、医師(くすし)などは申ししかども、今は(=死にそう)といふほどなれば、心細さも言はん方なし。
(=昔は)さほどなき病にだにも、風邪の気、鼻垂(はなたる)りといへども、すこしもわづらはしく、二三日にも過ぎぬれば、陰陽(おんやう)、医道(いだう)の漏るるはなく、家に伝へたる宝、世に聞こえある名馬まで、霊社、霊仏にたてまつる、南嶺(なんれい)の橘、玄圃(げんぽ)の梨、わがためにとのみこそ騒がれしに、病の床(ゆか)に伏して、あまた日数は積もれども、神にも祈らず、仏にも申さず、何を食ひ、何を用ゐるべき沙汰にも及ばで、ただうち臥したるままにて、明かし暮す有様、生(しやう)を変へたる心地すれども、命は限りある物なれば、六月(みなづき)のころよりは心地もおこたりぬれども、なほ物参り思ひ立つほどの心地はせで、漂ひ歩きて、月日むなしく過ぐしつつ、八月(はづき)にもなりぬ。
[四の八]〔9新八幡の放生会〕
十五日の朝、小町殿もとより、
「今日は都の放生会(はうじやうゑ)の日にてはべり。いかが思ひ出づる」
と申したりしかば、
094思ひ出づるかひこそなけれ石清水
同じ流れの末もなき身は
返し、
095ただ頼め心の注連(しめ)の引く方に
神もあはれはさこそかくらめ
また鎌倉の新八幡(やはた)の放生会といふことあれば、事の有様もゆかしくて、立ち出でて見れば、将軍御出仕(ごしゆつし)の有様、所につけてはこれもゆゆしげなり。大名どもみな狩衣にて出仕したる、直垂(ひたたれ)着たる、帯刀(たちはき)とやらんなど、思ひ思ひの姿ども珍しきに、赤橋(あかはし)といふ所より、将軍車より降りさせおはします折、公卿、殿上人、少々御供したる有様ぞ、あまりに卑しげにも、ものわびしげにもはべりし。平左衛門(へいざゑもん)入道(にふだう)と申す者が嫡子平二郎左衛門が、将軍の侍所(さぶらいどころ)の所司(しよし=次官)とて参りし有様などは、物にくらべば関白などの御ふるまひと見えき。ゆゆしかりしことなり。流鏑馬(やぶさめ)、いしいしの祭事(まつりごと)の作法(さはふ)有様は、見ても何かはせむとおぼえしかば、帰りはべりにき。
八十六 惟康親王上洛
将軍惟康親王が職を奪われ、罪人の取扱いを受けて京都へ送還せられる事件を目撃した事を記す。惟康親王罷職の名目は、親王に異図ありという事になっているが、実は鎌倉における御家人勢力と得宗勢力の軋轢が、京都における持明院統(後深草統)と大覚寺統(亀山統)の対立激化にからみ合った結果、惟康親王はその犠牲になられたものであると思われる。御家人とは頼朝の事業を助けた有力な武士たちで頼朝以来幕府に勢力を有した人々、得宗(トクソウ)とは執権北条氏の一族およびその近臣たちである。御家人と得宗の反目は遂に鎌倉幕府滅亡の要因ともなったのであるが、惟康親王は御家人の尊崇を受けていられたので、これが禍したのである。また一方京都では立太子問題で、後深草・亀山両院の間で不和が生じていたが、作者が鎌倉へ下った年、正応二年四月、西園寺実兼は幕府と結んで、二十一日立太子定めの儀を行い、二十一日に伏見天皇第一皇子胤仁親王を東宮とした。失意の亀山院は九月七日に御出家、そしてその十四日に惟康親王の罷職となるのである。代って将軍になられる久明親王は後深草院の皇子であるから、つまり皇統が持明院統に確定した時期に将軍職も同統にという公武合体政策が惟康親王罷職という事件を起したものと思われる。[四の九]〔10将軍の御上洛〕6
惟康親王は将軍邸を追放せられ、佐介の谷の某所に五日間ほど御滞在、いよいよ都へ御出発の時刻は深夜の丑の刻と定められた。折からひどい風雨であった。惟康親王の御父宗尊親王は後深草院の兄で皇族として尊貴な御身であり、その御子である惟康親王は、特に御生母が藤原氏中でも執柄家の出であるから、世の尊敬が厚かった。ただ父親王が歌人であって名歌を残していられるのに、惟康親王に、それが欠けているのは惜しい。
さるほどに、幾ほどの日数もへだたらぬに、「鎌倉に事出で来べし」とささやく。「誰が上ならむ」と言ふほどに、「将軍(=惟康親王)都へ上りたまふべし」と言ふほどこそあれ、「ただ今御所を出でたまふ」と言ふを見れば、いとあやしげなる張輿(はりごし)を、対の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官(はうぐわん)と言ひしやらん、奉行して渡したてまつるところヘ、相模守(=貞時)の使とて、平二郎左衛門出で来たり。その後、先例なりとて、「御輿さかさまに寄すべし」と言ふ。またここには、いまだ御輿だに召(=乗る)さぬ先に、寝殿には小舎人(こどねり)といふ者の卑しげなるが、わらうづ(=わら靴)履きながら上へ昇りて、御簾引き落としなどするも、いと目も当てられず。
さるほどに、御輿出でさせたまひぬれば、面々に女房たちは、輿などいふこともなく、物をうち被(かづ)くまでもなく、「御所はいづくへ入らせおはしましぬるぞ」など言ひて、泣く泣く出づるもあり。大名など心寄せあると見ゆるは、若党(わかたう)など具せさせて、暮れゆくほどに送りたてまつるにやと見ゆるもあり。思ひ思ひ心々に別れ行く有様は言はん方なし。
佐介(さすけ)の谷(やつ)といふ所へまづおはしまして、五日ばかりにて京へ御上りなれば、御出(おんい)での有様も見まゐらせたくて、その御あたり近き所に、推手(おして)の聖天(しやうてん)と申す霊仏おはしますへ参りて、聞きまゐらすれば、「御立ち丑の刻(とき)と時を取られたる」とて、すでに(=いよいよ)立たせおはします折節、宵より降る雨、ことさらそのほどとなりてはおびたたしく、風吹き添へて、物(=魔物)など渡るにやとおぼゆるさまなるに、「時違へじ」とて出だしまゐらするに、御輿を筵といふ物にて包みたり。あさましく目も当てられぬ御やうなり。御輿寄せて、召しぬとおぼゆれども、何かとて、また庭に舁(か)き据ゑまゐらせてほど経(ふ)れば、御鼻かみたまふ。いと忍びたるものから、たびたび聞こゆるにぞ、御袖の涙も推しはかられはべりし。
[四の一〇]
さても将軍と申すも、夷(えびす=武士)なるなどが、おのれと世を討ち取りて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。(=宗尊親王は)後の嵯峨天皇の第二の皇子と申すべきにや、後の深草御門(ふかくさのみかど)には御年とやらん、ほどやらん御まさりにて、まづ出で来たまひにしかば、十善の主にもなりたまはば、これ(=惟康親王)も位をも継ぎたまふべき御身なりしかども、(=宗尊親王は)母准后(じゆごう)の御事(=身分違い)ゆゑかなはでやみたまひしを、将軍にて下りたまひしかども、ただ人にてはおはしまさで、中務の親王と申しはべりしぞかし。その御跡(=その跡継ぎ)なれば、申すにや及ぶ、何となき御思ひ腹(=妾腹)など申すこともあれども、藤門執柄(とうもんしつぺい=藤原氏)の流れよりも出でたまひき。(=父母)いづ方につけてか、すこしもいるがせなるべき御事にはおはしますと思ひつづくるにも、まづ先立つものは涙なりけり。
096五十鈴川同じ流れを忘れずは
いかにあはれと神も見るらん
御道(=都への道中)のほども、さこそ露けき御事にてはべらめと推しはかられたてまつりしに、御歌などいふことの一つも聞こえざりしぞ、前将軍(=宗尊親王)の、「北野の雪のあさぼらけ」などあそばされたりし御跡にと、いと口惜しかりし。
八十七 新将軍下向
作者は小町殿に頼まれ、平入道の妻の衣服裁縫のことについて入道の邸に趣く。また執権貞時の依頼で新将軍邸のしつらいを見分する。[四の一一]〔11新将軍の御下向〕7
正応二年十月(かんなづき)二十五日、新将軍久明親王鎌倉到着の有様。三日目に執権貞時の山の内邸へ御成りの事。それらの盛儀を見るにつけ、昔の御所生活が思い出され、あわれを感じた事。
かかるほどに、「後深草の院の皇子(=久明親王十三歳)、将軍に下りたまふべし」とて、御所造り改め、ことさら華やかに、世の中、大名七人御迎へに参ると聞きし中に、平左衛門(へいざゑもん)入道が二郎(=次男)、飯沼(いひぬま)の判官、いまだ使の宣旨もかうぶらで新左衛門と申しさぶらふが、その中に上る(=上京)に、「流され人の上りたまひし跡をば通らじ」とて、足柄山とかやいふ所へ越え行くと聞こえしをぞ、皆人、余りなることとは申しはべりし。
御下り近くなるとて、世の中ひしめくさま、事ありがほなるに、今二三日になりて、朝(あした)疾く、「小町殿より」とて文あり。何事かとて見るに、
「思ひかけぬことなれども、平入道が御前(=妻)、御方といふがもとへ、東二条院より五衣を下し遣わされたるが、調(てう)ぜられたる(=新調した)ままにて縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、出家のならひ苦しからじ、そのうえ誰とも知るまじ、ただ京の人と申したりしばかりなるに」
とて、あながち(=強引)に申されしもむつかしくて、たびたびかなふまじきよしを申ししかども、果ては相模守の文などいふ物さへ取り添へて何かと言はれしうヘ、これにて(=私に対して)は何とも見沙汰(=世話)する心地にてあるに、安かりぬべき(=簡単な)ことゆゑ何かと言はれんもむつかしくて、まかりぬ。
[四の一二]〔12相模守の宿所〕
相模守の宿所(しゆくしよ)の内にや、角殿(すみどの)とかやとぞ申しし。(=将軍の)御所ざまの御しつらひは常のことなり。これは、金銀金玉(こんごんきんぎよく)をちりばめ、「光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)を磨いて」とはこれにやとおぼえ、解脱(げだつ=菩薩)の瓔珞(やうらく)にはあらねども、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、几帳の帷子(かたびら)、引物(ひきもの)まで、目もかかやき、あたりも光るさまなり。
御方とかや出でたり。地は薄青に、紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物(からおりもの)の二衣に、白き裳を着たり。みめ、ことがら、誇りかに、丈高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走りきて、袖短(そでみじか)なる白き直垂姿にて、馴れ顔に(=妻に)添ひゐたりしぞ、やつるる心地しはべりし。
御所よりの衣とて取り出だしたるを見れば、蘇芳(すはう)の匂ひの内へまさりたる五衣に青き単衣重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に、濃き紫、青き格子とを、片身替りに織られたるを、さまざまに取り違へて裁ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く、二番は濃き紫などにて、いと珍か(=珍妙)なり。
「などかくは」と言へば、「御服所(ごふくどころ)の人々も、御隙なしとて、知らずしに、これにてしてはべるほどに」など言ふ。をかしけれども、重なりばかりは取り直させなどするほどに、守(かう)の殿(との=執権)より使あり。「将軍の御所の御しつらひ、外様(とざま)の事は日記(=記録)にて、男たち沙汰しまゐらするが、常の御所の御しつらひ、京の人に見せよ」と言はれたる。とは何事ぞとむつかしけれども、行きかかるほどにては、にくいけ(=憎い感じ)して言ふ(=断る)べきならねば、参りぬ。
これはさほどに目当てられぬほどのことにてもなく、うちまかせて(=普通の)おほやけびたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知(げち=指図)し言ふべきことなければ、「御厨子の立て所、所がら御衣(おんきぬ)の掛けやう、かくやあるべき」などにて帰りぬ。
[四の一三]〔13新将軍御下着〕
すでに将軍御着きの日になりぬれば、若宮小路は所もなく立ち重なりたり。御関(=足柄)迎への人々、はや先陣は進みたりとて、二三十、四五十騎、ゆゆしげにて過ぐるほどに、はやこれへとて、召次(めしつぎ=取り次ぎ)など体(てい)なる姿に直垂着たる者、小舎人とぞいふなる二十人ばかり走りたり。その後大名ども、思ひ思ひの直垂に、うち群れうち群れ、五六町(ちやう)にもつづきぬとおぼえて過ぎぬる後、(=将軍が)女郎花の浮織物(うきおりもの)の御下衣にや召して(=着て)、御輿の御簾(すだれ)上げられたり。後に飯沼の新左衛門、木賊(とくさ)の狩衣にて供奉(ぐぶ)したり、ゆゆしかりしことどもなり。
御所には、当国司(=執権)、足利(=貞氏)より、皆さるべき人々は布衣(ほうい)なり。御馬引かれなどする儀式、めでたく見ゆ。三日(=三日目)に当たる日は、山内(やまのうち)といふ相模殿(さがみどの)の山荘(さんさう)へ(=将軍が)御入りなどとて、めでたく聞こゆることどもを見聞くにも、雲居の昔の御事も思ひ出でられて、あはれなり。
八十八 武蔵野の冬
正応二年、年末の記。飯沼の判官に招かれて歌会に列した事。川越の後家の尼の住む小川口の家に身を寄せ、武蔵野の淋しい生活に旅愁を感じ、母の顔も知らぬ我が身の薄命、過ぎ去った院の寵愛など思いつづけて涙に沈み、尼君に述懐の歌を贈る。[四の一四]8〔14川口にての年の暮れ〕
やうやう年の暮れにもなりゆけば、今年は善光寺(ぜんくわうじ)のあらまし(=予定)もかなはでやみぬと口惜しきに、小町殿の、 〈これより残りをば、刀(かたな)にて破(や)られてし、おぼつかなう。いかなることにてかとゆかしくて〉 。(心=)のほかにのみおぼえて過ぎ行くに、飯沼の新左衛門は、歌をも詠み、数寄者といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふ者を使にて、たびたび呼びて、続歌(つぎうた)などすべきよし、ねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情けあるさまにて、たびたび寄り合ひて、連歌・歌など詠みて遊びはべりしほどに、十二月(しはす)になりて、川越の入道と申す者の跡(=後家)なる尼の、「武蔵国に川口といふ所へ下る。あれより、年返らば善光寺へ参るべし」と言ふも、便りうれしき心地して、(=一緒に川口へ)まかりしかば、雪降り積りて、分けゆく道も見えぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。
かやうの物隔たりたる有様、前には入間川(=現在の荒川)とかや流れたる、向かへ(=の岸)には岩淵の宿といひて、遊女どもの住みかあり。山といふものはこの国内(くにうち)には見えず、はるばるとある武蔵野の萱(かや)が下折れ、霜枯れ果ててあり。(=その萱の野の)中を分け過ぎたる住まひ(=境遇)思ひやる、都の隔たり行く住まひ、悲しさもあはれさも、取り重ねたる年の暮れなり。
[四の一五]
つらつらいにしへを顧みれば、二歳の年、母には別れければ、その面影も知らず。やうやう人となりて、四つになりし九月(ながつき)二十日(はつか)あまりにや、仙洞(せんとう=院)に知られたてまつりて、御簡(ふだ=女房の名簿)の列(れち)に連なりてよりこの方、かたじけなく君の恩眷(おんけん)をうけたまはりて、身を立つるはかりごとをも知り、朝恩をもかぶりて、あまたの年月を経しかば、一門(=久我)の光ともなりもやすると、心の内のあらましも、などか思ひよらざるべきなれども(=当然思っていたが)、棄てて無為に入るならひ、定まれる世のことわりなれば、「妻子珍宝王位(さいしちんぱうわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうしゆじふずいしや)」、思ひ捨てにし憂き世ぞかしと思へども、馴れ来し宮の内も恋しく、折々の御情けも忘られたてまつらねば、ことの便りには=何かにつけて)、まづ言問ふ袖の涙のみぞ、色深くはべる。
雪さへかき暗し降り積もれば、ながめの末(=眺望)さへ道絶え果つる心地して、ながめゐたるに、(=宿の)主の尼君が方より、「雪の内いかに」と申したりしかば、
097思ひやれ憂きこと積もる白雪の
跡なき庭に消えかへる身を
問ふにつらさの涙もろさも人目あやしければ、忍びてまた年も返りぬ。
八十九 善光寺
正応三年二月十余日に、おおぜいの同行と小川口を出発して善光寺に詣で、一同の帰る時、一人留まり、高岡の石見入道と知り合いになり、秋まで善光寺に滞在した事。[四の一六]9
軒端の梅に木伝(こつた)ふ鶯の音に驚かされても、相見返らざる(=昔は戻ってこない)恨み忍びがたく、昔を思ふ涙は、改まる年ともいはず、ふるもの(=新しくない)なり。
〔15善光寺参詣〕
二月(きさらぎ)の十日余りのほどにや、善光寺へ思ひ立つ。碓氷坂(うすひざか)、木曽の懸路(かけぢ)の丸木橋(まろきばし)、げに「踏みみるからに」危ふげなる渡りなり。道のほどの名所なども、やすらひ見たかりしかども、大勢に引き具せられて事しげかりしかば、何となく過ぎにしを、思ひのほかにむつかしければ、宿願の心ざしありて、しばし籠るべきよしを言ひつつ、帰(かへ)さには留まりぬ。
(=同行の尼が)一人留め置くことを心苦しがり、言ひしかば、「中有(ちゆうう)の旅の空には、誰か伴ふべき。生(しやう)ぜし折も一人来たりき。去りてゆかん折もまたしかなり。相会ふ者はかならず別れ、生ずる者は死にかならず至る。桃花(たうくわ)粧(よそほ)ひいみじといへども、つひには根に帰る。紅葉(こうえふ)は千入(ちしほ)の色を尽くして盛りありといへども、風を待ちて秋の色久しからず。なごりを慕ふは一旦(いつたん)の情けなり」など言ひて、一人留まりぬ。
所のさまは、眺望(てうばう)などはなけれども、生身(しやうじん)の如来(によらい=善光寺の阿弥陀如来)と聞きまゐらすれば、頼もしくおぼえて、百万遍の念仏など申して、明かし暮すほどに、高岡の石見(いわみ)の入道といふ者あり。いと情けある者にて、歌常に詠み、管弦(くわんげん)などして遊ぶとて、かたへ(=仲間)なる修行者、尼に誘はれて、まかりたりしかば、まことにゆゑある住まひ、辺土分際(ぶんざい)には過ぎたり。彼といひ此といひて、慰む便りもあれば、秋までは留まりぬ。
九十 武蔵野の秋
正応三年秋八月、武蔵野の秋を探る。八月十五夜、浅草観音堂に参籠。隅田川・堀兼の井を訪ね、鎌倉に帰る。[四の一七]〔16武蔵野の秋色〕
八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ、今までこれらにもはべりつれと思ひて、武蔵国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩、女郎花、荻(をぎ)、薄(すすき)よりほかは、また混じる物もなく、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、推しはかるべし。三日にや分けゆけども尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあれ、はるばる一通(ひととほ)りは、来し方行く末、野原なり。
観音堂はちと引き上がりて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに(=まさしく)、「草の原より出づる月影」と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。雲の上(=宮廷)の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣は、如法経の折、御布施に大菩薩に参らせて、「今ここにあり」とはおぼえねども、鳳闕(ほうけつ=宮城)の雲の上忘れたてまつらざれば、余香(よきやう)をば拝する心ざしも、深きに(=道真と)変らずぞおぼえし。
草の原より出でし月影、更けゆくままに澄み昇り、葉末(はずゑ)に結ぶ白露は玉かと見ゆる心地して、
098雲の上に見しもなかなか月ゆゑの
身の思ひ出は今宵なりけり
涙に浮かぶ心地して、
099隈(くま)もなき月になりゆく眺めにも
なほ面影は忘れやはする
明けぬれば、さのみ野原に宿るべきならねば帰りぬ。
[四の一八]〔17武蔵野の歌枕〕10
さても、隅田川原近きほどにやと思ふも、いと大きなる橋の、清水(きよみづ)、祇園(ぎをん)の橋の体(てい)なるを渡るに、きたなげなき男二人会ひたり。「このわたりに隅田川(すみだがは)といふ川のはべるなるは、いづくぞ」と問へば、「これなんその川なり。この橋をば須田の橋と申しはべり。昔は橋なくて、渡し船にて人を渡しけるも、わづらはしくとて橋出で来てはべり。隅田川などはやさしきことに申し置きけるにや、賤(しづ)がことわざ(=言い方)には、須田川(すだがは)の橋とぞ申しはべる。この川の向かへをば、昔は三芳野(みよしの=実をよす)の里と申しけるが、賤が刈り乾す稲と申す物に実の入らぬ所にてはべりけるを、時の国司、里の名を尋ね聞きて、『ことわりなりけり』とて、吉田の里と名を改められて後、稲うるはしく実も入りはべる」など語れば、業平の中将、都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、
100尋ね来しかひこそなけれ隅田川
住みけん鳥の跡だにもなし
川霧籠めて、来し方行く先も見えず、涙にくれてゆく折節、雲居遥かに鳴く雁がねの声も折知りがほにおぼえはべりて、
101旅の空涙にくれてゆく袖を
言問ふ雁の声ぞ悲しき
「堀兼の井」は跡もなくて、ただ枯れたる木の一つ残りたるばかりなり。これより奥ざままでも行きたけれども、恋路の末にはなほ関守(せきもり)も許しがたき世なれば、よしや中々と思ひ返して、また都の方へ帰り上りなんと思ひて、鎌倉へ帰りぬ。
九十一 涙川
正応三年九月十余日。帰京のため鎌倉を出発する前夜、飯沼の左衛門の尉が訪ねて来て、終夜継歌をした事。[四の一九]〔18涙川〕11
とかく過ぐるほどに、九月(ながつき)の十日余りのほどに、都へ帰り上らんとするほどに、先に馴れたる人々、面々になごり惜しみなどせし中に、(=出発は翌)暁とての暮れ方、飯沼の左衛門尉(さゑもんのじよう)、さまざまの物ども用意して、いま一度続歌すべしとて来たり。
情けもなほざりならずおぼえしかば、夜もすがら歌詠みなどするに、「涙川と申す川はいづくにはべるぞ」といふことを先の度(たび)(=左衛門尉が)尋ね申ししかども、(=私は)知らぬよし申してはべりしを、夜もすがら遊びて、明けば、「まことに発ちたまふやは」と言へば、「とまるべき道ならず」と言ひしかば、帰るとて、盃据ゑたる折敷(をしき)に書きつけて行く。
102わが袖にありけるものを涙川
しばしとまれと言はぬ契り(=縁)に
返し遣はしやするなど思ふほどに、また立ち帰り、旅の衣など賜はせて、
103着てだにも身をば放つな旅衣
さこそよそなる契りなりとも
鎌倉のほどは、常にかやうに寄り合ふとて、「あやしく、いかなる契りなどぞ」と申す人もあるなど聞きしも、取り添へ思ひ出でられて、返しに、
104乾さざりしその濡れ衣(ぎぬ)も今はいとど
恋ひん涙に朽ちぬべきかな
〔19小夜の中山、熱田の宮〕
都を急ぐとしはなけれども、さてしも留まるべきならねば、朝日とともに、明け過ぎてこそ立ちはべりしか。
九十二 帰京
九月十余日に鎌倉を立って、月末、京都に到着。途中、さやの中山で西行の歌を思うて詠歌。熱田社で写経をしようと思ったが、大宮司が、とかく故障を申すので着手せぬうちに病にかかったので、そのまま帰京した事。面々に宿々(しゆくしゆく)ヘ、次第に輿(こし)にて(=私を)送りなどして、ほどなく小夜(さや)の中山(なかやま)に至りぬ。西行が、「命なりけり」と詠みける思ひ出でられて、
105越えゆくも苦しかりけり命ありと
また問はましや小夜の中山
[四の二〇]12
熱田の宮に参りぬ。通夜(つや)したるほどに、修行者どものはべる、「大神宮(=伊勢神宮)より」と申す。「近くはべるか」と言へば、津島の渡りといふ渡り(=渡し舟)をして参るよし申せば、いとうれしくて、参らんと思ふほどに、宿願にてはべれば、まづこの社にて華厳経の残りいま三十巻を書き果てまゐらせんと思ひて、何となく鎌倉にてちと人の賜びたりし旅衣など、みな取り集めて、またこれ(=費用)にて(=写)経を始むべき心地せしほどに、熱田の大宮司とかやいふ者、わづらはしくとかく申すことどもありて、かなふまじかりしほどに、とかくためらひしほどに、例の大事に病起こり、わびし(=辛い)くて、何の勤めもかなひがたければ、都へ帰り上りぬ。
九十三 和光同塵
九月の末に都に帰ったが、何となく落ちつかず、むしろ煩わしい気がしたので、十月(かんなづき)末頃奈良の方へ出かける。春日神社に参籠して真喜僧正(実は林懐僧都)の説話を思い浮べる。この説話は春日権現霊験記第十巻、及び漸入仏道集に大略次の如きものである。[四の二一]〔20春日明神〕
一条院の御時に興福寺の別当真喜僧正の弟子に林懐僧都という人があった。春日社に参詣して、自分の到達した法味を心静かに捧げていると、折から宮人が鼓を鳴らし鈴を振り、我が念誦を妨げたので、心の内に誓った事は、我もし立身して、興福寺の別当とならば、社頭の音楽を停止しようと。その後林懐は興福寺別当となった。そこで春日社の音楽を停めたところ、夢に春日明神が現れたまうて、ひどく林懐をお叱りになった。林懐は恐縮して、もとの如く音楽を奏する事にした。 これによると「問はず語り」は林懐と真喜を取りちがえて居るのである。
十月(かんなづき)の末にや、都にちと立ち帰りたるも、中々むつかしければ、(=私は源氏で)奈良の方は藤(=藤原氏)の末葉にあらねばとて、いたく参らざりしかども、「都遠からぬも、遠き道にくたびれたる折からはよし」など思ひて参りぬ。
誰を知るといふこともなければ、ただ一人参りて、まづ大宮(=春日大社)を拝みたてまつれば、二階の楼門の景気(=様子)、四社甍(いらか)を並べたまふさま、いと尊く、峰の嵐の烈しきにも、煩悩(ぼんなう)の眠りをおどろかすかと聞こえ、麓(ふもと)に流るる水の音、生死(しやうじ)の垢をすすがるらんなど思ひつづけられて、また若宮へ参りたれば、少女子(をとめご)が姿もよしありて見ゆ。
夕日は御殿の上にさして、峰の梢に映ろひたるに、若き巫女(みこ)二人、御あひ(=ペア)にて、たびたび(=何度も舞う)する気色なり。今宵は若宮の馬道(めんだう=廊下)の通夜して聞けば、夜もすがら面々に物数(=歌う)ふるにも、狂言綺語(きやうげんきぎよ=歌舞音曲)を便りとして導きたまはんの御心ざし深くて、和光の塵(=俗世)に交はりたまひける御心、今さら申すべきにあらねども、いと頼もしきに、「北院住侶(きたゐんぢゆうりよ)林懐僧正の弟子、真喜僧正とかやの、鼓(つづみ)の音、鈴の声に、行ひを紛らかされて、『我もし六宗の長官ともなるならば、鼓の音、鈴の声長く聞かじ』と誓ひて、宿願相違なく寺務(じむ)をせられけるに、いつしか思ひしことなれば、拝殿の神楽を長く停(とど)められにけり。
「朱(あけ)の玉垣ももの寂しく、巫覡(きね=巫女)は嘆きも深けれども、神慮(しんりよ)にまかせて過ぎけるに、僧正、『今生(こんじやう)の望みは残る所なし。臨終正念(りんじゆしやうねん=念仏)こそ今は望む所なれ』とて、また籠りたまひつつ、わが得る所の法味(ほふみ)を心のままに手向けしに、明神夢の内に現れて、『法性(ほつしやう)の山を動かして生死(しやうじ)の塵に身を捨て、無知の男子(なんし)の後生菩提を憐み思ふ所に、鼓の声、鈴の音を停めて、結縁(けちえん)を遠ざからしむる恨み、やる方もなければ、汝が法味を我受けず』と示したまひけるにより、いかなる訴訟、嘆きにも、これ(=音楽)を停むることなし」、と申すを聞くにも、いよいよ頼もしく、尊くこそおぼえはべりしか。
九十四 菊の籬
法華寺を訪ねて、藤原冬忠公の女で今は尼となっている寂円坊と人生を語り合い、自分もこういう所に暫く住んでみようと思ったが、思いかえして興福寺へ引きかえす途中、春日神社の神官中臣祐家の家の前を通り、籬の菊に歌を結びつけたのが縁で、暫くそこに滞在する。[四の二二]〔21菊の籬〕13
明けぬれば法華寺へ尋ねゆきたるに、冬忠の大臣の女、寂円房と申して、一の室(むろ)といふ所に住まるるに会ひて、生死無常(しやうじむじやう)の情けなきことわりなど申して、しばしかやうの寺にも住まひぬべきかと思へども、心のどかに学問などしてありぬべき身の思ひとも、我ながらおぼえねば、ただいつとなき心の闇に誘はれ出でて、また奈良の寺へ行くほどに、春日の正の預(あづかり=神官)祐家(すけいへ)といふ者が家に行きぬ。
誰がもととも知らで過ぎ行くに、棟門(むねかど)のゆゑゆゑしきが見ゆれば、堂などにやと思ひて立ち入りたるに、さにてはなくて、よしある人の住まひと見ゆ。庭に菊の籬(まがき)ゆゑあるさまして、移ろひたる匂ひも、九重(ここのへ)に変る色ありとも見えぬに、若き男一二人出で来て、「いづくより通る人ぞ」など言ふに、「都の方より」と言へば、「かたはらいたき菊の籬も、目恥づかしく」など言ふもよしありて、祐家(すけいへ)が子、権の預(あづかり)祐永(すけなが)などぞ、この男は言ふなる。祐敏(すけとし)美濃権守兄弟(おととい)なり。
106九重のほかに移ろふ身にしあれば
都はよそにきくの白露
と、札に書きて菊につけて出でぬるを、見つけにけるにや、人を走らかして、やうやうに呼び返して、さまざまもてなしなどして、「しばし休みてこそ」など言へば、例のこれにもまた留まりぬ。
九十五 当麻の曼荼羅
聖徳太子にゆかりの深い、中宮寺・当麻寺・磯長の太子綾などを巡拝する。中宮寺では、昔院の御所で顔見知りの信如坊が寺主である。信如坊は作者を忘れている様子だから、あえて名乗りはしなかったが、親切にもてなされて暫く滞在する。当麻寺は、そこに伝わる蓮糸の曼荼羅が名高い。作者はその由来をここに記している。太子綾では折もよくその寺で如法経書写が行われていた。ちょうどよい所へ参り合わせて仏縁を結ぶことのできたのが嬉しく、小袖を一つ布施して帰る。[四の二三]〔22中宮寺、当麻寺〕
中宮寺といふ寺は聖徳太子の御旧蹟、その后の御願(ごぐわん)など聞くもゆかしくて参りぬ。長老は信如房(しんによぼう)とて、昔御所ざまにては見し人なれども、年の積もるにや、いたく見知りたるともなければ名乗るにも及ばで、ただかりそめなるやうにて申ししかども、いかに思ひてやらん、いとほしく当られしかば、またしばし籠りぬ。
法隆寺より当麻(たいま)へ参りたれば、「横佩(よこはき)の大臣(おとど)の女、『生身(しやうじん)の如来を拝み参らせん』と誓ひてけるに、尼一人来たりて、『十駄(だ)の蓮の茎を賜はりて、極楽の荘厳(しやうごん)織りて見せ参らせん』とて請ひて、糸を引きて染殿の井の水にすすげば、この糸五色(ごしき)に染まりけるをぞ、したためたるところへ、女房一人来たりて、油を乞ひつつ、亥(ゐ)の刻(とき)より寅の刻に織り出だして帰りたまふを、房主(ぼうず)、『さても、いかにしてか、また会ひたてまつるべき』と言ふに、
往昔迦葉説法所(わうじやくかせふせつぽふしよ) 今来法基作佛事(こんらいほふきさんぶつじ)
卿懇西方故我来(きやうこんさいはうこがらい) 一入是場永離苦(いちにふぜぢやうりく)
とて、西方(さいはう)を指して飛び去りたまひぬ」と書き伝へたるも、ありがたく尊し。
太子の御墓は、石のたたずまひも、まことにさる御陵(みささぎ)とおぼえて心留まる折節、如法経(によほふきやう)を行ふも、結縁(けちえん)うれしくて、小袖を一つ参らせて帰りはべりぬ。
九十六 めぐりあひ
この段から百四段までの九段はすべて正応四年中の事である。その内容を表示すれば、かやうにしつつ年も返りぬ。
(1) 八幡で後深草院にめぐり逢った事。(本段)
(2) 熱田神宮に通夜している時、社殿が炎上した事。(九七段)
(3) 伊勢に行き外宮を参拝し、その宮人たちと和歌の交りを結ぶ。(九八・九九段)
(4) 内宮を参拝し、その宮人たちと和歌の交りを結ぶ。(百段)
(5) 二見の浦に遊ぶ。(百一段)
(6) 伊勢の祭主にゆかりある得選「照る月」という者が、作者が二見に滞在している事を院に申しあげたので、院から、今一度逢いたいとの御文が来る。(百二段)
(7) 伊勢から帰り、熱田で写経の宿願を遂げる。(百三・百四段)
右の通りであるが、この記述の順序には史実と一致せぬところがある。即ち熱田社炎上は正応四年二月二日で、後深草院八幡御幸は四月二十六日から七日間であった。これは続史愚抄に記すところであり、二月二日以前に院が八幡へ御幸される暇(ひま)はなかった。それ故前掲の (1) (2) は逆にしなければ史実に合わない。思うに、作者は先年から周遊していた奈良を引上げ、四月末に京都へ帰る途中八幡で院にめぐり逢い、京都へ帰ると直ぐ熱田へ行って見たが、去る二月炎上した跡が生々しい状態で、写経などできそうもないから、津島の渡りをして伊勢に行き大神宮を参拝する。伊勢には一個月ほど居たであろう。伊勢に居る事を聞かれた院は、今一度会いたいとの御文をつかわされたが、作者は御返事を差しあげただけで、心は動かさなかった。その後伊勢を引上げ、熱田で写経をとげ、京に帰る。これが事実であろう。
ところがここには、「二月の頃にや、都へ帰りのぼるついでに八幡に参りぬ」と書いてある。これでは八幡で院に邂逅したのが二月であるという事になる。しかし史実では院の八幡行幸は前記の如く四月末である。思うに「二月の頃にや」は次段に書く熱田炎上が二月の大事件であったので、それに引かれたのであろう。しかも作者はこの事件を目撃したかの如く記して文に生彩あらしめようとの創作意識から、実際には四月末院に邂逅した直後熱田に参って、なまなましい焼跡を見、炎上当時の話を聞かされ、それを実見の如くに書いたものであろう。事実として、昨年から奈良にいた作者が、奈良から帰途、四月末に八幡へ立寄ったのだから、二月に熱田にいたはずはない。
[四の二四]〔23石清水の再会〕14
二月のころにや、都へ帰り上るついでに八幡へ参りぬ。奈良より八幡へは道のほど遠くて、日の入るほどに参り着きて、猪鼻(ゐのはな)を登りて、宝前(ほうぜん=神の前)へ参るに、石見国(いはみのくに)の者とて、侏人(ひきうど)の参るを行き連れて、「いかなる宿縁(しゆくえん)にてかかる片端人(かたわびと)となりけんなど、思ひ知らずや」と言ひつつゆくに、(=石清水の)馬場殿(ばばどの)の御所開(あ)きたり。検校(けんぎやう)などが籠りたる折も開けば、かならず御幸(ごかう)など言ひ聞かする人も、道のほどにてもなかりつれば、思ひもよりまゐらせで過ぎゆくほどに、楼門(ろうもん)を登るところへ、召次(めしつぎ)などにやとおぼゆる者出で来て、「馬場殿の御所へ参れ」と言ふ。
「誰か渡らせたまふぞ。(=私を)誰と知りて、さることをうけたまはるべきことおぼえず。あの侏人(ひきうど)などがことか」と言へば、「さもさぶらはず、紛ふべきことならず、御事(=あなた)にてさぶらふ。一昨日(をととひ)より富小路殿(とみのこうぢどの)の一院、御幸にてさぶらふ」と言ふ。ともかくも物も申されず。
年月は心の内に忘るる御事はなかりしかども、一年(ひととせ=ある年)今はと思ひ捨てし折、京極殿(=叔母)の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに、苔の袂、苔の衣(ころも)、霜・雪・霰にしほれ果てたる身の有様は、誰かは見知らんと思ひつるに、誰か見知りけんなど思ひて、なほ御所よりの御事とは思ひよりまゐらせで、女房たちの中に、あやし(=二条か)と見る人などのありて、ひが目にやとて問はるるにこそ、など案じゐたるほどに、北面の下臈一人走りて、「疾く」と言ふなり。
何と逃るべきやうもなければ、北の端なる御妻戸の縁(えん)にさぶらへば、「なかなか人の見るも目立たし、内へ入れ」と仰せある御声は、さすが昔ながらに変らせおはしまさねば、こはいかなりつることぞと思ふより、胸つぶれて、すこしも動かれぬを、「とくとく」とうけたまはれば、なかなかにて参りぬ。
[四の二五]
「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔たりぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などより始めて、昔いまのことども、移り変る世のならひ、あぢきなくおぼしめさるるなど、さまざまうけたまはりしほどに、寝ぬに明けゆく短夜(みじかよ)は、ほどなく明けゆく空になれば、「(=私が)御籠りのほどはかならず籠りて、またも心静かに」などうけたまはりて、立ちたまふとて、御肌に召されたる御小袖を三つ脱がせおはしまして、「人知れぬ形見ぞ。身を放つなよ」とて賜はせし、心の内は、来し方行く末のことも、来ん世の闇(=地獄)もよろづ思ひ忘れて、悲しさもあはれさも、何と申しやる方なきに、はしたなく明けぬれば、「さらばよ」とて(=扉を)引き立てさせおはしましぬる御なごりは、御跡なつかしく匂ひ、近きほどの御移り香も、墨染の袂に留まりぬる心地して、人目あやしく目立たしければ、御形見の御小袖を墨染の衣の下に重ぬるも、便なく悲しきものから、
107(=体を)重ねしも昔になりぬ恋衣
今は涙に墨染の袖
[四の二六]〔24おなじ袂〕
むなしく残る御面影を袖の涙に残して立ちはべるも、夢に夢見る心地して、今日ばかりも、いかで今一度(ひとたび)ものどかなる御ついで(=機会)もや、など思ひまゐらせながら、「憂き面影も思ひよらず。なからは(=半分は)、力なき身(=私)の誤りともおぼしめされぬべし。あまりにうちつけ(=遠慮なく)に留(とど)まりて、またの御言の葉を待ちまゐらせがほならんも、思ふ所なき(=浅はか)にもなりぬべし」など、心に心を戒めて、都へ出づる心の中、さながら推しはかるべし。
(=院の)御宮巡りをまれ(=でも)、いま一度(ひとたび)よそながら見まゐらせんと思ひて、墨染の袂は御覧じもぞつけ(=見つけ)らるると思ひて、賜はりたりし御小袖を上に着て、女房の中に混じりて見まゐらするに、(=院は)御裘代(きうたい=後深草院正応3年2月出家姿)の姿も昔には変りたるも、あはれにおぼえさせおはしますに、階(きざはし)昇らせおはしますとては、資高(すけたか)の中納言、侍従の宰相と申ししころにや、御手を引きまゐらせて入らせおはします。「同じ袂なつかしく」など、さまざまうけたまはりて、いはけなかりし世のことまで、数々仰せありつるさへ、さながら耳の底に留まり、御面影は袖の涙に宿りて、御山(おやま=男山)を出ではべりて、都へと、北へはうち向けども、わが魂はさながら御山に留まりぬる心地して帰りぬ。
九十七 熱田宮炎上
この段を二節に分けて見る。前節は作者が熱田社に通夜していた夜半頃、社殿が炎上した事。後節は焼け残った御記文に記されてあった熱田神宮縁起のあらましを聞き書きしたもの。この後節の文章はまぎらわしいから、次の事を心において読むがよい。「」の中は御記文のあらまし、その中の『』は天照大神の霊が倭姫命(やまとひめのみこと)にのりうつって仰せられた言葉である。[四の二七]〔25熱田の宮の炎上〕15
さてこの段は前段の〈大意〉で考証した如く作為的なもので、二月に熱田へ行って炎上を実見した記ではなく、四月末に八幡で院に邂逅した後熱田へ行って炎上の跡を見たのを、実見の如くに記したものである。
さても都に留まるべきならねば、去年(こぞ)思ひ立ちし宿願をも果たしやすると試みに、また熱田の宮へ参りつつ、通夜をしたりし、夜中ばかりに御殿の上に火燃え上がりたり。宮人(みやびと)騒ぎののしるさま、推しはかるべし。
神火なれば、凡夫(ぼんぷ)の消つべきことならざりけるにや、時のほどにむなしき煙と立ち昇りたまふに、明けゆけば、むなしき灰を造り返(=再建)しまゐらせんとて、匠(たくみ)ども参る。大宮司、祝詞(のと)の師(し)など申す者ども回(まは)りたるに、開けずの御殿とて、神代の昔、(=素戔嗚尊が)自ら造り籠りたまひける御殿の礎(いしずゑ)のそばに、大物(だいもつ)どもなほ燃ゆる炎のそばなる礎にある、漆(うるし)なる箱の、表(=幅)一尺ばかり、長さ四尺ばかりなる、添へ立ちたり。
皆人、不思議の思ひをなして見まゐらするに、祝詞(のと)の師(し)といふは、神にことさら御むつましく宮仕(みやづか)ふ者なりといふが参りて、取り上げたてまつりて、そばをちと開けまゐらせて見まゐらするに、「赤地の錦の袋に入らせたまひたりとおぼゆるは、御剣なるらむ」と申して、八剣宮(はちけんぐう)の御社を開きて納めたてまつる。
[四の二八]
さても、不思議なりしことには、「この御神(=日本武尊)は、景行天皇即位(しよくゐ)十年生れましましけるに、東(あづま)の夷(ゑびす)を降伏(がうぷく)のために、勅(ちよく)をうけたまはりて下りたまひけるに、伊勢大神宮にまかり申しに参りたまひけるに、『先の生れ、素戔嗚尊(そさのをのみこと)たりし時、出雲国にて八岐(やまた)の大蛇(をろち)の尾の中より取り出でて、我に与へし剣(つるぎ)なり。錦(にしき)の袋あり、これを敵(かたき)のために攻められて、命限りと思はん折、開けて見るべし』とて賜ひしを、駿河国御狩野(みかりの)にして野火の難に遭ふ時に、佩(は)きたまふ剣おのれと抜けて、御あたりの草を切り捨つ。その折、錦の袋なる火打ちにて火を打ち出でたまひしかば、炎(ほのほ)、仇の方へ覆ひ、眼(まなこ)をくらかして、ここにて滅びぬ。そのゆゑ、この野を燒津野(やきつの)ともいひき。御剣をば草薙の剣と申すなり」と言ふ御記文(ごきもん)の焼け残りたまひたるを、ちと聞きまゐらせしこそ、見しむばたまの夢の言葉(=不明)思ひ合はせられて、不思議にも、尊くもおぼえはべりしか。
九十八 外宮参拝
熱田の写経を一先ず断念して伊勢に渡り、まず最初に外宮に参拝する。[四の二九]〔26伊勢の外宮参拝〕16
かかる騒ぎのほどなれば、経沙汰(きやうざた)もいよいよ機嫌悪しき心地して、津島の渡りといふことをして、大神宮(=伊勢神宮)に参りぬ。卯月の初めつ方のことなれば、何となく青みわたりたる梢も、やう変りておもしろし。
まづ新宮(=外宮)に参りたれば、山田の原の杉の群立(むらだ)ち、ほととぎすの初音(はつね)を待たん便りも、「(聞かずとも)ここを瀬にせん」と語らひまほしげなり。
神館(かんだち=神官詰所)といふ所に、一二の禰宜(ねぎ)より宮人ども、伺候したる、墨染の袂ははばかりあることと聞けば、いづくにて、いかにと參るべきこととも知らねば、「二の御鳥居、御庭所(にはどころ)といふ辺までは苦しからじ」と言ふ。
所のさま、いと神々(かうがう)しげなり。館(たち)の辺にたたずみたるに、男二三人、宮人とおぼしくて、出で来て、
「いづくよりぞ」
と尋ぬ。
「都の方より結縁(けちえん)しに参りたる」
と言へば、
「うちまかせては(=普通は)、その御姿ははばかり申せども、くたびれたまひたる気色も、神も許したまふらん」
とて、内へ入れて、やうやう(=色々)にもてなして、
「しるべ(=案内)したてまつるべし。宮の内へはかなふまじければ、よそより」
など言ふ。千枝(ちえだ)の杉の下、御池(おいけ)の端(はた)まで参りて、宮人祓(はら)へ神々しくして、幣(ぬさ)をさして(=捧げて)出づるにも、心の内の濁り深さは、かかる祓へにも清くはいかがと、あさまし。
[四の三〇]
帰(かへ)さには、そのわたり近き小家を借りて宿るに、
「さても、情けありて、しるべさへしつる人、誰ならん」
と聞けば、
「三の禰宜行忠(ゆきただ)といふ者なり。これは館(たち)の主なり。しるべしつるは、当時(=いま)の一の禰宜の二郎(=次男)、七郎大夫常良(つねよし)といふ」
など語り申せば、さまざまの情けも忘れがたくて、
108おしなべて塵に交はる末とてや
苔の袂に情けかくらん
木綿四手(ゆふしで)の切(きれ)に書きて、榊の枝に付けて遣はしはべりしかば、
109影宿す山田の杉の末葉(すゑば)さへ
人をも分かぬ誓ひとを知れ
九十九 法楽舎
七日籠って経を読み仏道修行をしようと思って滞在する。その間に宮人たちと和歌・連歌の交りを結ぶ。別れに臨んで宮人度会常良と贈答する。[四の三一]〔27南天竺の枝〕
この段の文章はやや複雑であるが、外宮に「七日籠りて生死の一大事をも祈誓申さん」と思ったのは作者の初めからの考えなのである。ただし外宮では経を読むことは宮の中ではなく、宮から離れた法楽舎という所と定められているので、毎日そこで読経し、夜は近くの観音堂に泊めてもらった。その七日間、仏道修行の傍ら、宮人たちと和歌・連歌の交りを結んだのも情ある心地がした、というのである。
これにまづ七日籠りて、生死(しやうじ)の一大事をも祈誓(きせい)申さんと思ひてはべるほど、面々に宮人ども歌詠みておこせ、連歌いしいしにて明かし暮すも、情けある心地するに、
うちまかせての社などのやうに、経を読むことは、宮の中にてはなくて、法楽舎(ほうらくしや)といひて、宮の中より四五町退きたる所なれば、日暮し念誦(ねんじゆ)などして、暮るるほどに、それ近く、観音堂と申して、尼の行なひたる所へまかりて、宿を借れば、「かなはじ」とかたく申して、情けなく追ひ出ではべりしかば、
110世を厭ふ同じ袂の墨染を
いかなる色と思ひ捨つらん
前なる南天竺(なんてんぢく)の枝を折りて、四手に書きて遣はしはべりしかば、返しなどはせで、宿を貸して、それより知る人になりてはべりき。
[四の三二]17
七日も過ぎぬれば、内宮へ参らんとするに、初めの先達(せんだち)せし常良(つねよし)、
111今ぞ思ふ道行人(みちゆきびと=旅人と)は馴れぬる(=こと)も
悔しかりける和歌の浦浪
返しには、
112何か思ふ道行き人にあらずとも
とまり果つべき世のならひかは
百 内宮参拝
内宮に参拝して七日間籠る。二の禰宜荒木田延成の後家から、わざわざ手紙があり、和歌の贈答をする。内宮を拝むにつけて、おのずから後深草院のことが思われ、玉体安穏を祈る。それにつけても、片時も院を忘れることのできない自分が、あわれに思われる。一の禰宜荒木田尚良と和歌を贈答する。〔28内宮参拝〕
内宮には、ことさら数寄者(すきもの=風流人)どももありて、
「かかる人の外宮に籠りたる」
と聞きて、
「いつか内宮の神拝(じんぱい)に參るべき」
など(=私を)待たると聞くも、そぞろはしけれども、さてあるべきならねば、参りぬ。
岡田といふ所に宿りてはべる隣に、ゆゑ(=風情)ある女房の住みかあり。いつしか(=さっそく)若き女(め)の童、文を持ちて来たり。
113何となく都と聞けばなつかしみ
そぞろに袖をまた濡らすかな
(=この女房は)二の禰宜延成(のぶなり)が後家といふ者なりけり。「かまへて自ら申さん(=ご挨拶します)」など書きたる(=への私の)返事には、
114忘られぬ昔を(=あなたが)問へば悲しさも
こたへやるべき言の葉ぞなき
[四の三三]
待たれて出づる短夜(みじかよ)の月(=それがまだ)なきほどに宮中へ参るに、これもはばかる(=出家)姿なれば、御裳濯川の川上より御殿を拝みたてまつれば、八重榊(やへさかき)もことしげく立ち重ね、瑞垣(みづがき)、玉垣遠く隔たりたる心地するに、
「この御社の千木(ちぎ=突き出た梁)は、上一人(かみいちにん=天皇)を護(まぼ)らんとて上へ削がれたる(=尖っている)」と聞けば、何となく「玉体(=天皇)安穏(ぎよくたいあんのん)」と申されぬるぞ、我ながらいとあはれなる。
115(=あなたを)思ひそめし心の色の変らねば
千代とぞ君をなほ祈りつる
神風すごく(=寂しく)音(おと)づれて、御裳濯川の流れものどかなるに、神路の山を、分け出づる月影、ここに光を増すらんとおぼえて、わが国のほかまで思ひやらるる心地してはべり。
神拝(じんぱい)、ことゆゑ(=事故)なく遂げて下向(げかう)しはべるとて、神館(かんだち)の前を通るに、一の禰宜尚良(ひさよし)が舘、ことさらに月さし出でてすごく見ゆるに、(=格子を)みなおろし籠めてはべりしかば、外宮をば月の宮と申すかとて、
116(=あなたは)月をなどほか(=外宮の)の光と隔つらん
さこそ朝日(=内宮)のかげにすむとも
榊の枝に四手に書きて結び付けて、神館(かんだち)の縁(えん)に置かせて帰りはべりしかば、開けて見けるにや、宿所(しゆくしよ)へ、また榊に付けて、
117澄む月をいかが隔てん真木の戸を
開けぬは老いの眠(ねぶ)りなりけり
百一 二見の浦
二見の浦歴覧の事。小朝熊宮の伝説の事。[四の三四]〔29二見の浦、小朝熊の宮〕
これにも七日籠りて出ではべるに、
18 「さても二見の浦はいづくのほどにか。御神(=倭姫命)心を留めたまひけるもなつかしく」など申すに、(=尚良)しるべたまふべきよし申して、宗信(むねのぶ)神主(かんぬし)といふ者をつけたり。具してゆくに、清き渚、蒔絵の松、雷(いかづち)の蹴裂(けさ)きたまひける石など見るより、(=倭姫命を案内した)佐美(さみ)の明神(みやうじん)と申す社は、渚におはします。それより船に乗りて、立石の島、御饌(ごせん)の島、通島(とほるしま)など見に行く。御饌(ごせん)の島とは、海松(みる)の多く生(お)ゆるを、この宮の禰宜参りて、摘みて、御神の御饌(ごせん)供ふる所なり。通島とは、上(うへ)に家(や)の棟(むね)のやうなる石、空(うつ)ろに覆ひたる中、海にて、船をさし通すなり。海漫々(かいまんまん)たる気色(けしき)、いと見所多くはべりき。
まことや、小朝熊(こあさくまのみや)の宮と申すは、鏡造りの明神の、天照大神(てんせうだいじん)の御姿を写されたりける御鏡(かがみ)を(=であるが)、人が盗みたてまつりてとかや、淵(ふち)に沈め置きまゐらせけるを、取りたてまつりて、宝前(ほうぜん)に納めたてまつりければ、(=鏡が)「われ苦海(くかい)の鱗類(いろくづ)を救はんと思ふ願(ぐわん)あり」とて、自ら宝前より出でて、岩の上に顕(あらは)れまします。岩のそばに桜の木一本あり。高潮(たかしほ)満つ折はこの木の梢に宿り、さらぬ折は岩の上におはしますと申せば、あまねき御誓ひも頼もしくおぼえたまひて、一二日のどかに参るべき心地して、潮合(しほあひ)といふ所に大宮司(おおみやづかさ)といふ者の宿所(しゆくしよ)に宿を借る。
いと情けあるさまに、ありよき心地して、またこれにも二三日経るほどに、「二見の浦は月の夜こそおもしろくはべれ」とて、女房ざまも引き具してまかりぬ。まことに心留まりて、おもしろくもあはれにも、言はん方なきに、夜もすがら渚にて遊びて、明くれば帰りはべるとて、
118忘れじな清き渚に澄む月の
明けゆく空に残る面影
百二 得選照る月
伊勢出身の得選照る月という者が、作者が二見にいる事をどうして知ったのか、後深草院のお耳に入れた。すると院から「院の御所にゆかりのある女房から」という名儀で作者に文を遣わされた。作者は和歌を以てお返事する。[四の三五]〔30雲居の面影〕
照月(てるつき)といふ得選(とくせん=女官)は伊勢の祭主(さいしゆ)がゆかりあるに、何としてこの浦にあるとは聞こえけるにか、「院の御所にゆかりある女房のもとより」とて、文あり。思はずに不思議なる心地しながら開けて見れば、「二見の浦の月に馴れて、雲居の面影は忘れ果てにけるにや、(=この前は)思ひよらざりし御物語も、いま一度(ひとたび)」など、こまやかに御気色あるよし(=照月が)申したりしを見し心の内、我ながらいかばかりとも分きがたくこそ。御返しには、
119思へただ馴れし雲居の夜半の月
ほかにすむにも忘れやはする
百三 かへる浪路
熱田神宮も火災後の整理がついたであろうと思われるので、いよいよ写経の願を果しに行こうと思う。それで二見から一先ず外宮に帰り、暇(いとま)乞いの参拝をして歌を捧げる。明日は出発というところへ、内宮の禰宜尚良から惜別の歌が送られ、更にその夜半ごろ、土産の絹と歌が贈られて来た。[四の三六]〔31よそに鳴海の〕19
作者は早朝の船に乗るため、前夜大湊に行き、賤しい者の家に一宿して身の落魄を述懐する。その朝外宮の禰宜常良から歌が贈られ、返歌をする。
さのみあるべきならねば、外宮へ帰り参りて、今は世の中も静まりぬれば、経(きやう)の願(ぐわん)をも果たしに、熱田の宮へ帰り参らんとするに、御なごりも惜しければ、宮中にはべりて、
120あり果てん身の行く末のしるべせよ
憂き世の中を渡会(わたらひ)の宮(=外宮)
暁、立たんとする所へ、内宮の一の禰宜尚良(ひさよし)がもとより、「このほどのなごり思ひ出でられはべる。九月の御斎会(さいゑ)にかならず参れ」など言ひたりしも、情けありしかば、
121行く末も久しかるべき君(=院)が代に
また帰り来ん長月のころ
心の内の祝ひは、人知りはべらじ。「君をも我をも、祝はれたる返事(かへりごと)はいかが申さざるべき」とて、夜中ばかりに絹を二巻(ふたまき)包みて、「伊勢島の土産(どさん)なり」とて、
122神垣に待つも久しき契りかな
千歳の秋の長月のころ
[四の三七]
その暁の出潮(でしほ)の船に乗りに、宵より大湊(おほみなと)といふ所へまかりて、賤しき浦人が塩屋のそばに旅寝したるにも、「『鵜のゐる岩の間(はざま)、鯨(くじら)の寄る磯なりと、思ふ人だに契りあらば』とこそ、古き言の葉にも言ひ置きたるに、こは何事の身の行く方(ゆくへ)ぞ、待つとてもまた憂き思ひの慰むにもあらず、越え行く山の末にも、逢ふ坂もなし」など思ひつづけて、また出でんとする暁、夜深く、外宮の宮人常良(つねよし)がもとより、「本宮(ほんぐう=内宮)へつくべき便り文を取り忘れたる、遣はす」とて、
123立ち帰る波路と聞けば袖濡れて
よそに鳴海の浦の名ぞ憂き
返し、
124かねてよりよそに鳴海の契りなれど
返る波には濡るる袖かな
百四 熱田の写経
熱田で宿願の写経を果し京都に帰る。[四の三八]〔32十羅刹の法楽〕
熱田の宮には、造営のいしいしとて、事しげかりけれども、宿願のさのみほど経るも本意なければ、また道場したため(=準備)などして、華厳経の残り三十巻を、これにて書きたてまつりて、供養しはべりしに、導師などもはかばかしからぬ田舎法師なれば、何のあやめ知るべきにもあらねども、十羅刹(じふらせつ=女)の法楽なれば、さまざま供養して、また京へ上りはべりぬ。
百五 涙こととふ暁
伏見の御所に召されて一夜院と語り明かした事。前段を正応四年と見たので。ここに「またの年の九月の頃」とあるから、この段は正応五年のわけであるが、五年九月九日には後深草院の生母大宮院の崩御があったから、後深草院が作者を伏見に召される事は考えられぬ。おそらくこれは永仁元年(正応六年)のことで、前段とすぐ続くのではあるまい。ただしこの辺の年立については、前々段から疑問があり、決定しかねる。[四の三九]〔33伏見の一夜〕20
さても、思ひかけざりし男山の御ついでは、この世のほかまで忘れたてまつるべしともおぼえぬに、一つゆかりある人して、たびたび古き住みかをも御尋ねあれども、何と思ひ立つべきにてもなければ、あはれにかたじけなくおぼえさせおはしませども、むなしく月日を重ねて、またの年の長月のころにもなりぬ。
伏見の御所に御渡りのついで、大方も御心静かにて、人知るべき便宜(びんぎ)ならぬよしをたびたび言はるれば、思ひ初めまゐらせし心悪(わろ=弱さ)さは、げにとや思ひけん、忍びつつ下(しも)の御所の御あたり近く参りぬ。しるべせし人出で来て案内するも、ことさらびたる心地してをかしけれども、出御(しゆつぎよ)待ちまゐらするほど、九体堂(くたいだう)の高欄(かうらん)に出でて見渡せば、世を宇治河の川波も、袖の湊(みなと)に寄る心地して、「月ばかりこそよると見えしか」と言ひけん古事まで思ひつづくるに、初夜過ぐるほどに出でさせおはしましたり。
隈なき月の影に、見しにもあらぬ御面影(=出家姿)は、映るも曇る心地して、いまだ二葉にて明け暮れ御膝のもとにありし昔より、今はと思ひ果てし世のことまで、数々うけたまはり出づるも、我が古事(ふるごと)ながら、などかあはれも深からざらん。「憂き世の中に住まん限りは、さすがに憂ふることのみこそあるらんに、などやかくとも言はで月日を過ぐす」などうけたまはるにも、「かくて世に経る恨みのほかは、何事か思ひはべらん。その嘆き、この思ひは、誰に憂へてか慰むべき」と思へども、申し表すべき言の葉ならねば、つくづくとうけたまはりゐたるに、音羽の山の鹿の音(ね)は、涙をすすめがほに聞こえ、即成院(そくじやうゐん)の暁の鐘は明けゆく空を知らせがほなり。
125鹿の音にまたうち添へて鐘の音の
涙言問ふ暁の空
心の内ばかりにてやみはべりぬ。
百六 御心の色
前段では、伏見の御所で終夜院と語り明かした事を述べた。この段では、まず、夜も明けたので退出したことを言って、改めて筆を起し、昨夜の物語の主要な一節を取上げて細かに記す。ここに記された対話は、いかにも劇的で、院の作者に対する現世的愛着と、作者の院に対する永遠の思慕とがうかがわれる。[四の四〇]〔34心の内の誓い〕
さても、夜もはしたなく明けはべりしかば、涙は袖に残り、御面影は、さながら心の底に残して出ではべりしに、
「さても、この世ながらのほど、かやうの月影は、おのづからの(=私と会う)便りには、かならずと思ふに、遥かに竜華(りゆうげ=来世)の暁と頼むるは、いかなる心の内の誓ひぞ。また、東(あづま)、唐土(もろこし)まで尋ね行くも、男(をのこ)は常のならひなり、女は障(さは)り多くて、さやうの修行かなはずとこそ聞け。いかなる者に契りを結びて、憂き世を厭ふ友としけるぞ。一人尋ねては、さりともいかがあらん。涙川袖にありと知り、菊の籬(まがき)を三笠の山に尋ね、長月の空を御裳濯川(みもすそがは)に頼めけるも、皆これ、ただかりそめの言の葉にはあらじ。深く頼め、久しく契るよすがありけむ。そのほか、またかやうの所々、具し歩く人も無きにしもあらじ」
など、ねんごろに御尋ねありしかば、
「九重の霞の内を出でて、八重立つ霧に踏み迷ひしよりこの方、三界無安猶如火宅、一夜留まるべき身にしあらねども、欲知過去因(よくちくわこいん)つたなければ、かかる憂き身を思ひ知る。一度(ひとたび)絶えにし契り、二度(ふたたび)結ぶべきにあらず。石清水の流れより出づといへども、今生(こんじやう)の果報頼む所なしといひながら、東(あづま)へ下り始めにも、まづ社壇を拝したてまつりしは、八幡大菩薩のみなり。近くは心の内の所願(しよぐわん)を思ひ、遠くは滅罪生善(めつざいしやうぜん)を祈誓す。正直の頂(いただき)を照したまふ御誓ひ、これあらたなり。東は武蔵国隅田川を限りに尋ね見しかども、一夜の契りをも結びたることはべらば、本地弥陀三尊(ほんぢみださんぞん)の本願に漏れて、長く無間(むげん)の底に沈みはべるべし。御裳濯川の清き流れを尋ね見て、もしまた心を留むる契りあらば、伝へ聞く胎金両部(たいこんりやうぶ)の教主(けうしゆ)も、その罰(ばち)あらたにはべらん。三笠の山の秋の菊、思ひを述ぶる便りなり。もしまた、奈良坂より南に契りを結び、頼みたる人ありて、春日の社へも参り出でば、四所大明神(ししよだいみやうじん)の擁護(おうご)に漏れて、むなしく三途(さんづ)の八難苦を受けん。
幼少の昔は二歳にして母に別れて、面影を知らざる恨みを悲しみ、十五歳にして父を先立てし後は、その心ざしを偲び、恋慕懐旧(れんぼくわいきう)の涙は、いまだ袂をうるほしはべる中に、わづかにいとけなくはべりし心は、かたじけなう御まなじりをめぐらして、憐愍(れんみん)の心ざし深くましましき。その御陰に隠されて、父母に別れし恨みも、をさをさ(=しっかいり)慰みはべりき。やうやう人となりて、初めて恩眷(おんけん)をうけたまはりしかば、いかでかこれを重く思ひたてまつらざるべき。つたなき心の愚かなるは畜生なり。それなほ四恩をば重くしはべる。いはむや、人倫の身として、いかでか御情けを忘れたてまつるべき。いはけなかりし昔は、月日の光にも過ぎてかたじけなく、盛りになりしいにしへは、父母の睦(むつ)びよりもなつかしくおぼえましましき。思はざるほかに別れたてまつりて、いたづらに多くの年月を送り迎ふるにも、御幸・臨幸(りんかう)に参り会ふ折々は、いにしへを思ふ涙も袂をうるほし、叙位(じよゐ)・除目(ぢもく)を聞く、他の家(いへ)の繁昌、朋輩の昇進を聞くたびに、心を痛ましめずといふことなければ、さやうの妄念静まれば、涙をすすむるもよしなくはべるゆゑえ、思ひをもや冷ましはべるとて、あちこちさまよひはべれば、ある時は僧坊に留まり、ある時は男の中に交はる。三十一字の言の葉を述べ、情けを慕ふ所にはあまたの夜を重ね、日数を重ねてはべれば、あやしみ申す人、都にも田舎にもその数はべりしかども、(=尼の中には)修行者(しゆぎやうじや)といひ梵論梵論(ぼろぼろ)など申す風情の者に行き合ひなどして、心のほかなる契りを結ぶ例もはべるとかや聞けども、さるべき契りもなきにや、いたづらに独り片敷きはべるなり。都の内にもかかる契りもはべらば、重ぬる袖も二つにならば、冴ゆる霜夜の山風も防ぎはべるべきに、それもまた、さやうの友もはべらねば、待つらんと思ふ人しなきにつけては、花のもとにていたづらに日を暮し、紅葉の秋は、野もせの虫の霜にかれゆく声を、わが身の上と悲しみつつ、むなしき野べに草を枕として明かす夜な夜なあり」
21
など申せば、
「修行の折のことどもは、心清く千々の社に誓ひぬるが、都のことには誓ひがなきは、古き契り(=昔の付き合い)の中にも改めたるがあるにこそ」
と、またうけたまはる。
「長らへじとこそ思ひはべれども、いまだ四十路(よそぢ)にだに満ちはべらねば、行く末は知りはべらず、今日の月日のただ今までは、古きにも新しきにも、さやうのことはべらず。もし偽りにても申しはべらば、わが頼む一乗法華の転読(てんどく)二千日に及び、如法写経の勤め自ら筆を取りてあまたたび、これさながら三途(さんづ)のつと(=土産)ぞとなりて、望む所むなしく、なほし(=猶)竜花(りゆうげ)の雲の暁の空を見ずして、生涯(しやうがい)無間(むげん)の住みか消えせぬ身となりはべるべし」
と申す折、いかがおぼしめしけむ、しばし物も仰せらるることもなくて、ややありて、
「何にも、人の思ひ染(し)むる(=決めつける)心はよしなきものなり。まことに、母におくれ、父に別れにし後は、我のみはぐくむべき心地せしに、事の違ひもてゆきしことも、げに浅かりける契りにこそと思ふに、(=お前が私を)かくまで深く思ひそめけるを知らずがほにて過ぐしけるを、(=八幡)大菩薩知らせ初(そ)めたまひにけるにこそ、御山にてしも見出でけめ」
など仰せあるほどに、
西に傾く月は、山の端をかけて入る。東に出づる朝日影は、やうやう光さし出づるまでになりにけり。
[四の四一]〔35まことしき御訪い〕
ことやうなる姿もなべてつつましければ(=引け目を感じる)、急ぎ出ではべりしにも、
「かならず近きほどに、今一度(いまいちど)よ」
とうけたまはりし御声、あらざらん(=冥途への)道のしるべにやとおぼえて帰りはべりしに、
還御(くわんぎよ)の後、思ひかけぬあたりより、御尋ねありて、まことしき御訪らひ(=お見舞い)おぼしめしよりける、いとかたじけなし。思ひかけぬ御言の葉にかかるだに、露の御情けも、いかでかうれしからざらん。いはんや、まことしく(=偽りない)おぼしめしよりける御心の色、人知るべきことならぬさへ、(=身の)置き所なくぞおぼえはべりし。
昔より何事もうち絶えて、人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御もてなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかども、御心一つには、何とやらん、あはれはかかる御気(=持)のせさせおはしましたりしぞかしなど、過ぎにし方も今さらにて、何となく忘れがたくぞはべる。
百七 笠置寺
これで巻四は終るのであるが、巻五の初めは乾元元年(一二九三)と見たから、この段は、その八年間のある年に旅をした記である。その年をいつと知る事はできないが、「かくて年を経るほどに」とあるから、前段以後数年を経ての事と推測される。ただし起筆と同時に本文が脱落しているので一切不明である。脱落の理由も不明である。原本では巻四の第三十七枚目の紙のウラ三行まで書いて、しかもその行を満たさずにぽつりと切れ、そこに何の注記もない。あたかも巻四の書写を受持った人が、ここまで写して来て、ちょっと一服という形でそのままになっている。[四の四二]〔36笠置寺〕
かくて年を経るほどに、さても二見の浦は、御神も再びみそなはしてこそ、二見とも申すなれば、いま一度(いちど)参りもし、また生死(しやうじ)の(=転生の)ことをも祈誓(きせい)し申さむと思ひ立ちて、奈良より伊賀路と申す所よりまかりはべりしに、まづ笠置寺(かさおきでら)と申す所を過ぎ行く。
問はず語り 巻五
百八 須磨・明石・鞆の津
厳島参拝を思い立って都を出で、瀬戸内海を舟で行く。須磨に泊り、明石を経て鞆の津に泊る。その地の遊女が世を捨てて草庵生活をしているのが羨ましく、そこに一日二日滞在し、別れを惜しんでまた舟に乗る。[五の一]〔1須磨、明石〕1
さてこの旅は何年の事であったか。後に記される東二条院崩御(嘉元二年一月)、後深草院崩御(同年七月)から逆算して乾元元年九月と推定しておく。
さても安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の社は、高倉の先帝(せんてい)も御幸(=1180年)したまひける跡の白波もゆかしくて(=1302年)、思ひ立ちはべりしに、例の鳥羽(とば=淀川)より船に乗りつつ、河尻(かはじり=尼崎)より海のに乗りうつれば、波の上の住まひも心細きに、ここは須磨の浦と聞けば、行平(=業平の兄)の中納言、藻塩(もしほ)垂れつつわびける住まひもいづくのほどにかと、吹き越す風にも問はまほし。長月の初めのことなれば、霜枯れの草むらに、鳴き尽くしたる虫の声絶え絶え聞こえて、岸に船着けて泊りぬるに、千声万声(せんせいばんせい)の砧(きぬた)の音は夜寒(よさむ)の里にやと訪れて、波の枕をそばだてて聞くも悲しきころなり。
明石の浦の朝霧に島隠れゆく船どもも、いかなる方へとあはれなり。光源氏(ひかるげんじ)の、月毛(つきげ)の駒にかこちけむ心の内まで、残る方なく推しはかられて、とかく漕ぎゆくほどに、備後(びんご)の国鞆(とも=鞆の浦)といふ所に至りぬ。
[五の二]〔2遊女の庵り
〕 何となく賑(にぎ)ははしき宿と見ゆるに、大可(たいか)島とて離れたる小島あり。遊女の世を逃れて(=出家して)、庵(いほり)並べて住まひたる所なり。さしも濁り深く、六つの道(=輪廻の迷い)にめぐるべき営みをのみする家に生れて、衣裳に薫物(たきもの)しては、まづ語らひ深からむことを思ひ、わが黒髮をなでても、たが手枕にか乱れんと思ひ、暮るれば契りを待ち、明くればなごりを慕ひなどしてこそ過ぎ来しに、思ひ捨てて籠りゐたるも、ありがたくおぼえて、「勤めには何事かする。いかなる便りにか発心(=出家)せし」など申せば、ある尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者(ちやうじや)なり。あまた傾城を置きて、面々のかほばせを営み、道行人を頼みて、留まるを喜び、漕ぎゆくを嘆く。まだ知らざる人に向ひても、千秋万歳(=の愛)を契り、花のもと、露の情けに、酔ひを勧めなどして、五十路(いそぢ)に余りはべりしほどに、宿縁(しゆくえん)やもよほしけん、有為(うゐ=無常)の眠り一度(ひとたび)覚めて、二度(ふたたび)故郷(ふるさと)へ帰らず。この島に行きて、朝な朝な花を摘みにこの山に登るわざをして、三世(みよ=前世現世来世)の仏に手向けたてまつる」など言ふもうらやまし。
これに一二日留まりて、また漕ぎ出でしかば、遊女どもなごり惜しみて、「いつほどにか都へ漕ぎ帰るべき」など言へば、「いさや、これや限りの(=旅)」などおぼえて、
126いさや(=さあね)その幾夜明かしの泊りとも
かねてはえこそ思ひ定めね(=予定はない)
百九 厳島参籠
厳島神社に参拝して、九月十二日の試楽、十四日の大法会を見る。厳島の神の本体は阿弥陀如来であると聞くにつけ、弥陀の本願に乗じて救われたいと願うのであるが、心中に濁りを持ちながら願っている自分が、自分ながらもどかしく思われる。[五の三]〔3厳島〕2
かの島に着きぬ。漫々たる波の上に、鳥居遥かにそばだち、百八十間の廻廊(くわいらう)、さながら浦の上に立ちたれば、おびたたしく船どももこの廊に着けたり。大法会(だいほふゑ)あるべきとて、内侍といふ者(=巫女)、面々になど(=何か)すめり。九月十二日試楽(しがく=リハーサル)とて、回廊めく海の上に舞台を立てて、御前(=社殿前)の廊より上る。内侍八人、みな色々の小袖に白き湯巻(ゆまき=裳)を着たり。うちまかせて(=普通)の楽どもなり。唐の玄宗の楊貴妃が奏しける霓裳羽衣(げいしやううい)の舞の姿とかや、聞くもなつかし。
会(ゑ=大法会)の日は、左右の舞、青く赤き錦の装束、菩薩の姿に異ならず。天冠をしてかんざしを挿せる、これや楊妃(やうひ)の姿ならむと見えたる。暮れゆくままに楽の声まさり、秋風楽(しうふうらく)ことさらに耳に立ちておぼえはべりき。
暮るるほどに果てしかば、多く集ひたりし人、みな家々に帰りぬ。御前(おんまへ)ももの寂しくなりぬ。通夜したる人も少々見ゆ。
十三夜の月、御殿の後ろの深山(みやま)より出づる気色、宝前(ほうぜん)の中より出でたまふ(=神鏡)に似たり。御殿(ごてん)の下まで潮(しほ)さし上りて、空に澄む月の影、また水の底にも宿るかと疑はる。
法性無漏(ほつしやうむろ)の大海に、随縁真如(ずゐえんしんによ)の風をしのぎて(=厳島の神は)住まひ始めたまひける御心ざしも頼もしく、本地(ほんぢ)阿弥陀如来と申せば、
「光明遍照(くわうみやうへんぜう)十方世界(じつぱうせかい)、念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)摂取不捨(せつしゆふしや)、(=私を)漏らさず導きたまへ」
と思ふにも、「(=私が)濁りなき心の中ならば如何(いか)に」
と、我ながらもどかしくぞおぼゆる。
百十一 足摺の観音
この段の内容は足摺観音の伝説が主となっている。この伝説を記すきっかけとして、まず船中で知り合った女に、我が家に立ち寄れと誘われ、自分はこれから足摺へ行きたいのだから、その帰途にと約束する。そして足摺への紀行は何も記さず、伝説だけを記しているので、果して足摺へ行ったのか、希望だけで実行しなかったのかは確実でない。しかし以下、佐東の祇園社・白峰・松山などの巡歴を書いているから、それも紀行文として順路の光景などを詳しく記したものでなく、ただ事がらを羅列したものであるから、足摺旅行もその例であろう。[五の四]〔4足摺岬〕3
これにはいくほどの逗留もなくて(=私が)上りはべりし船の内によしある女あり。
「我は備後国(びんごのくに)和知(わち)といふ所の者にてはべる。宿願によりて、これへ参りてさぶらひつる。住まひも御覧ぜよかし」
などさそへども、
「土佐の足摺(あしずり)の岬と申す所がゆかしくてはべる時に、それへ参るなり。帰さに尋ね申さん」
と契りぬ。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく下も(=身分)なし。「(=堂は)いかなるやうぞ」と言へば、「昔一人の僧ありき。この所に行なひてゐたりき。小法師一人使ひき。かの小法師、慈悲を先とする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、(=別の)小法師一人来て、斎(とき=朝食)、非時(ひじ=昼食)を食ふ。小法師かならずわが分を分けて食はす。坊主諫めていはく、『一度二度にあらず。さのみかくすべからず』と言ふ。また明日(あした)の刻限(こくげん)に来たり。『心ざしはかく思へども、坊主叱りたまふ。これより後はな御座(おは)しそ(=来るな)。今ばかりぞよ』とて、また分けて食はす。いまの小法師いはく、『このほどの情け忘れがたし。さらばわが住みかへ、いざたまへ、見に』と言ふ。小法師語らはれて行く。坊主あやしくて、忍びて見送る(=一緒に行く)に、岬に至りぬ。一葉の船に棹(さを)さして、南を指して行く。坊主泣く泣く、「我を捨てて、いづくへ行くぞ」と言ふ。小法師、「補陀落世界(ふだらくせかい)へまかりぬ」と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、船の艫舳(ともへ)に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺をしたりけるより、足摺の岬といふなり。岩に足跡留まるといへども、坊主はむなしく帰りぬ。それより、『隔つる心あるによりてこそ、かかる憂きことあれ』とて、かやうに住まひたり」、と言ふ。
三十三身(=観音)の垂戒化現(すゐかいけげん)、これにやと、いと頼もし。
百十一 松山・白峰
安芸のさとと(佐東か)の社に一夜泊り、次に讃岐の松山で写経した事を記す。厳島では九月十四日の大法会を見、その後、さととへ行って一泊し、そこから松山へ渡り、松山では九月末に写経をしていた。そして次段には十一月末に京への船の便宜あるに乗ったとある。十月・十一月の二個月は記事がない。この間に足摺の旅行があったのではなかろうか。[五の五]4
安芸の佐東(さとう)の社は牛頭天王(ごづてんわう)と申せば、祇園(=八坂神社)の御事思ひ出でられさせおはしまして、なつかしくて、これには一夜留まりて、のどかに手向けをもしはべりき。
〔5讃岐の松山〕
讃岐(さぬき)の白峰(しろみね=香川県)、松山(=坂出市)などは、崇徳院の御跡もゆかしくおぼえはべりしに、訪ふべきゆかりもあれば、(=四国に)漕ぎ寄せて下りぬ。松山の法華堂は如法行ふ景気見ゆれば、(=崇徳院は魔道に)沈みたまふともなどかと、頼もしげなり。「かからむ(=死んだ)後は」と西行が詠みけるも思ひ出でられて、(=土御門院)「かかれとてこそ生れけめ」とあそばされけるいにしへの御事まで、あはれに思ひ出でまゐらせしにつけても、
127(=土御門院は)物思ふ身の憂きことを思ひ出でば
苔(=墓)の下にもあはれとはみよ
[五の六]
さても五部の大乗経の宿願、残り多くはべるを、この国にてまたすこし書きまゐらせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに小さき庵室を尋ね出だして、道場に定め、懺法(せんぽふ)、正懺悔(しやうさんげ=行)など始む。長月の末のことなれば、虫の音も弱り果てて、何を伴なふべしともおぼえず。三時の懺法を読みて、「慙愧懺悔六根罪障(ざんぎざんげろくこんざいしやう)」と唱へても、まづ忘られぬ御言の葉は心の底に残りつつ、さてもいまだ幼かりしころ、琵琶の曲を習ひたてまつりしに、賜はりたりし御ばちを、四つの緒(を)をば思ひ切りにしかども、御手馴れたまひしも忘られねば、法座(=自分の席)のかたはらに置きたるも、
128手に馴れし昔の(=院の)影はのこらねど
(=バチを)形見とみれば濡るる袖かな
この度は大集経(だいじつきやう)四十巻を二十巻書きたてまつりて、松山に奉納したてまつる。経の(=供養)ほどのことは、とかくこの国の知る人に言ひなどしぬ。供養には、一年(ひととせ)、「御形見ぞ」とて三つ賜はりたりし御衣、一つは熱田の宮の経(きやう)の時、修行(=写経)の布施に参らせぬ。この度は供養の御布施なれば、これを一つ(=御衣)持ちて布施にたてまつりしにつけても、
129月出でん(=弥勒が来る)暁までの形見ぞと
など同じくは契らざりけむ
御肌(=に付けて)なりしは、いかならむ世までもと思ひて、残し置きたてまつるも、罪深き心ならんかし。
百十二 備後の国和知
帰京の船に乗ったが、海が荒れたので、先般、船中で知り合った備後の国の女の家を訪ねる。そこは地方の豪家であったが主人は情を解せぬ荒くれ者であった。折から、この主人の伯父である広沢与三入道が熊野詣でのついでに立寄る。[五の七]〔6備後の和知〕5
とかくするほどに、霜月の末になりにけり。京への船の便宜(びんぎ)あるも、何となくうれしくて、行くほどに、波風荒く、雪、霰(あられ)しげくて、船も行きやらず。肝をのみつぶすもあぢきなくて、備後国といふ所を尋ぬるに、ここに留まりたる岸よりほど近く聞けば、降りぬ。(=以前)船の内なりし女房、書き付けて賜びたりし所(=和知)を尋ぬるに、ほど近く尋ね会ひたり。
何となくうれしくて、二三日経るほどに、主が有様を見れば、日ごとに男女(をとこをんな)を四五人具し持て来て、打ちさいなむ有様、目も当てられず。「こはいかに」と思ふほどに、鷹狩とかやとて、鳥ども多く殺し集む。狩(かり)とて獣(しし)持て来るめり。大方(おほかた)、悪行深重(あくごふしんぢゆう)なる武士、
鎌倉にある親しき者とて、広沢(ひろさわ)の与三(よざう)入道(にふだう)といふ者、熊野参りのついでに下るとて、家の中(うち)騒ぎ、村郡(むらこほり)の営みなり。絹障子を張りて、絵を描きたがりし時に、何と思ひ分くこともなく、
「絵の具だにあらば、描きなまし」
と申したりしかば、「鞆(とも)といふ所にあり」とて。取りに走らかす。よに悔しけれども、力なし。持て来たれば描きぬ。
喜びて、
「今はこれに落ち留まりたまへ」
など言ふもをかしく聞くほどに、この入道とかや来たり。大方、何とがなともてなすに、障子の絵を見て、
「田舎(ゐなか)にあるべしともおぼえぬ筆なり。いかなる人の描きたるぞ」
と言ふに、
「これにおはしますなり」
と言へば、
「さだめて歌など詠みたまふらん。修行のならひ、さこそあれ。見参(げざん)に入らん」
など言ふもむつかしくて、熊野参りと聞けば、
「のどかに、この度の下向に」
など言ひ紛らかして立ちぬ。
百十三 江田の里
作者が最初に訪ねたのは和知の家であったが、その家の主人の兄が江田に住んでいる。作者は江田へ招かれてそこに滞在することになった。和知の主人がそれを怒って大事件になり、作者の身が危険になった。そこへ熊野から広沢入道が下向して来た。作者が入道に逢って見ると、それは先年鎌倉滞在中、連歌の席に一座した者であった。奇遇というべきであるが、作者はこれによって難を逃れることができた。[五の八]〔7下人沙汰〕
このついでに、女房二三人来たり。江田(えだ)といふ所に、この主の兄のあるが、女(むすめ)寄するなどありとて、
「あなたざまをも御覧ぜよ。絵のうつくしき」
など言へば、この住まひもあまりにむつかしく、「都へは、この雪にかなはじ」と言へば、年の内もありぬべくやとて、何となく行きたるに、この和知の主、思ふにも過ぎて腹立ちて、
「わが年頃の下人を逃(にが)したりつるを、(=作者を)厳島にて見付けてあるを、また江田へかどはれ(=誘拐)たるなり。打ち殺さむ」
などひしめく。こは何事ぞと思へども、
「物おぼえぬ者は、さる中夭(ちゆうえう)にもこそあれ。な働きそ」
など(=江田の兄が私に)言ふ。
この江田といふ所は、若き女(むすめ)どもあまたありて、情けあるさまなれば、何となく、心留まるまではなけれども、先(さき)の住まひよりは心延ぶる心地するに、いかなることぞと、いとあさましきに、熊野参りしつる入道、帰さにまた下りたり。
これに、「かかる不思議ありて、わが下人を取られたる」
よし、わが兄を訴(うた)へけり。この入道はこれらが伯父(をぢ)ながら、所の地頭とかやいふ者なり。
「とは、何事ぞ。心得ぬ下人沙汰(げにんざた)かな。いかなる人ぞ。物参りなどすることは、常のことなり。都にいかなる人にておはすらん。恥づかしく、かやうに情けなく言ふらんことよ」
など言ふと聞くほどに、これへまた下るとて、ひしめく。
この主、事のやう言ひて、
「よしなき物参り人ゆゑに、兄弟(おととい)仲違ひぬ」
と言ふを聞きて、
「いと不思議なることなり」
と言ひて、
「備中国へ、人を付けて送れ」
など言ふもありがたければ、見参(げざん)して、事のやう語れば、
「能(のう)は仇(あた)なる方もありけり。御能(ごのう)ゆゑに欲しく思ひまゐらせて、申しけるにこそ」
と言ひて、連歌し、続歌(つぎうた)など詠みて遊ぶほどに、よくよく見れば、鎌倉にて飯沼の左衞門が連歌にありし者なり。そのこと言ひ出だして、ことさらあさましがりなどして、井田(ゐだ)といふ所へ帰りぬ。
雪いと降りて、竹簀垣(たけすがき)といふ物したる所のさまも、ならはぬ心地して、
130世を厭ふならひながらも竹簀垣
憂き節々は冬ぞ悲しき
百十四 広沢の入道
乾元元年は備後の江田で年を越し、翌嘉元元年二月の末に江田を立って帰京の途につく。出発に当り広沢の与三入道と和歌を贈答し、都に着いたのは三月中の事と思われる。この段の末に「修行も物憂くなりはべりて、なかすみして、時々はべり」とある文章は不明瞭であるが、「旅行もいやけがさして、じっと都に落ちつき、時々ちょっと出かけるくらいであった」の意に解しておく。[五の九]〔8帰京〕6
年も返りぬれば、やうやう都の方へ思ひ立たむとするに、余寒(よかん)なほ烈しく、「船もいかが」と面々に申せば、心もとなく、かくゐたるに、二月(きさらぎ)の末にもなりぬれば、このほどと思ひ立つよし(=入道が)聞きて、この入道、井田といふ所より来て、続歌(つぎうた)など詠みて帰るとて、餞(はなむけ)などさまざまの心ざしをさへしたり。これ(=入道)は、小町殿のもとにおはします中務の宮(=宗尊親王)の姫宮の御傅(めのと=後見人)なるゆゑに、さやうのあたりをも思ひけるにやとぞおぼえはべりし。
これより備中荏原(えばら)といふ所へまかりたれば、盛りと見ゆる桜あり。一枝折りて、送りの者に付けて、広沢の入道に遣はしはべりし、
131霞こそ立ち(=私たちを)へだつとも桜花
風のつてには思ひおこせよ
二日の道を、わざと人して返したり。
132花のみか忘るる間なき言の葉を
心は行きて語らざりけり
[五の一〇]
吉備津宮(つのみや)は都の方なれば、参りたるに、御殿のしつらひも社(やしろ)などはおぼえず、やう変りたる宮柱体(みやばしらてい=宮殿のよう)に、几帳などの見ゆるぞ、珍しき。日も長く、風収(をさ)まりたるころなれば、ほどなく都へ帰りはべりぬ。
さても、不思議なりしことはありしぞかし。この入道下り会はざらましかば、いかなる目にか遭はまし。「(和知の男は私の)主(しう)にてなし」と言ふとも、誰か方人(かたうど=味方)もせまし。さるほどには何とかあらまし(=どうなっていたことか)と思ふより、修行も物憂くなりはべりて、奈良住みして、時々はべり。
百十五 東二条院崩御
嘉元二年一月、東二条院の崩御を聞き、富小路御所に集まる人々の中に混って御様子をうかがう。遊義門院の御悲嘆が特に作者の心を打つ。[五の一一]〔9東二条院の崩御〕
前段で作者は、旅行も物憂くなり、しばらく落ちつく事にしたと書いているが、どこに落ちついたのか明らかでない。この段で「都の方の事を聞くほどに」とあり、「折ふし近き都の住まひにはべれば」とあるから、京に近い所にいたのであろう。
都の方のことなど聞くほどに、一月(むつき)の初めつ方にや、東二条院御悩みと言ふ。いかなる御事にかと、人知れずおぼつかなく思ひまゐらすれども、言問ふべき方もなければ、よそにうけたまはるほどに、今はかなふまじき御事になりて、御所を出でさせおはしますよし、うけたまはりしかば、無常は常のならひなれども、住み馴れさせおはしましつる御住みかをさへ出でさせおはしますこそ、いかなる御事なるらんと、十善の床に並びましまして、朝政(あさまつりごと)をも助けたてまつり、夜はともに夜を治めたまひし御身なれば、今は(=臨終)の御事も変るまじき御事かとこそ思ひまゐらするに、などやなど、御おぼつかなくおぼえさせおはしまししほどに、「はや、御事切れさせたまひぬ」とてひしめく。
[五の一二]7
折節、近き都の住まひにはべれば、何となく御所(ごしよ=伏見殿)さまの御やうも御ゆかしくて、見まゐらせに参りたれば、「まづ遊義門院、御幸なるべし」とて、北面の下臈一二人、御車さし寄す。今出川の右大臣もさぶらひたまひけるが、「御出で」など言ひ合ひたるに、遊義門院御幸(ごかう)、まづ急がるるとて、御車寄すると見まゐらすれば、またまづしばしとて、引き退けて帰り入らせおはしますかとおぼゆること、二三度になれば、今はの御姿またはいつかと、御なごり惜しくおぼしめさるるほども、あはれに悲しくおぼえさせおはしまして、 あまた物見る人どももあれば、御車近く参りてうけたまはれば、すでに召されぬと思ふほどに、「また立ち帰らせおはしましぬるにや」と聞こゆ。召されて(=乗る)後も、例(ためし)なき御心まどひ、よその袂も所せきほどに聞こえさせおはしませば、心あるも心なきも、袂を絞らぬ人なし。宮々(=子供たち)わたらせおはしまし(=いらっしゃる)しかども、みな先立ちまゐらさせおはしまして、ただ御一所わたらせおはしまししかば、かたみの御心ざし、さこそと思ひやりまゐらするもしるく見えさせおはしまししこそ、数ならぬ身の思ひにも、比べられさせおはします心地しはべりしか。
今はの御幸(ごかう)を見まゐらするにも、昔ながらの身ならましかば、いかばかりか、などおぼえさせおはしまして、
133さてもかく数ならぬ身(=私)は長らへて
(=東二条院の)今はと見つる夢ぞ悲しき
百十六 後深草法皇御悩
東二条院の崩御を悲しんでいるうちに同じ年の六月、後深草法皇御病気の噂が伝わり、次第に御重態との事。心配の余り八幡に籠って武内の社の御千度を踏んで法皇の延命を祈る。[五の一三]〔10後深草院の御悩〕
御葬送(ごそうそう)は伏見殿の御所とて、法皇の御方も、遊義門院の御方も、入らせおはしましぬとうけたまはれば、御嘆きもさこそと推しはかりまゐらせしかども、伝へし風(=つて)も跡絶え果てて後は、何として申し出づべき方もなければ、むなしく心に嘆きて明かし暮しはべりしほどに、
同じ年、水無月(みなづき)のころにや、法皇御悩みと聞こゆ。御瘧(おこり)心地など申せば、人知れず、いまや落ちさせおはしましぬとうけたまはると思ふほどに、御わづらはしうならせおはしますとて、閻魔天供(えんまてんく)とかや行はるるなど、うけたまはりしかば、事柄(ことがら)もゆかしくて、参りてうけたまはりしかども、誰に言問ひ申すべきやうもなければ、むなしく帰りはべるとて、
134夢ならでいかでか(=院は)知らんかくばかり
我のみ袖にかくる涙を
[五の一四]
「御日瘧(ひおこり)にならせたまふ。いしいし(=しょっちゅうだ)」 と申し、
「御大事出で来べき」
など申すを聞くに、思ひやる方もなく、いま一度この世ながらの御面影を見まゐらせずなりなんことの悲しさなど思ひ寄る。あまりに悲しくて、七月一日より八幡(やはた)に籠りて、武内(たけうち)の御千度(おせんど)をして、この度別(べち)の御事(=別状)なからんことを申すに、五日の夢に、日食(につしよく)と言ひて、あらは(=戸外)へ出でじと言ふ、〈本のまま。ここより紙を切られて候。おぼつかなし。紙の切れたる所より写す。〉
百十七 西園寺邸訪問
西園寺邸に実兼を訪ねて面会を得ず。空しく帰る帰途、北野神社・平野神社に御身代りにならん事を祈る。再び西園寺邸を訪なう。今回は面会を得、院参の方策を授けられて帰る。めす。
〔11実兼の計らい〕
また、御病の御やうもうけたまはるなど思ひつづけて、西園寺(=実兼)へまかりて、
「昔、御所ざまにはべりし者なり。ちと見参(げざん)に入りはべらん」
と案内すれば、墨染の袂を嫌ふにや、きと申し入るる人もなし。せめてのことに、文を書きて持ちたりしを、
「見参(げざん)に入れよ」
と言ふだにも、きとは取り上ぐる人もなし。
夜更くるほどになりて、春王といふ侍一人出で来て、文取り上げぬ。
「年の積りにや、きともおぼえはべらず。明後日(あさて)ばかり、かならず立ち寄れ」
と仰せらる。何となくうれしくて、十日の夜、また立ち寄りたれば、
「法皇御悩み、すでにておはしますとて、京へ出でたまひぬ」
と言へば、今さらなる心地もかき暗す心地して、右近の馬場を過ぎゆくとても、北野(きたの)、平野(ひらの)を伏し拝みても、
「わが命に転じ代へたまへ(=私を身代わりに)」
とぞ申しはべりし。この願もし成就して、我もし露と消えなば、御(ご)ゆゑ(=院故に)かくなりぬとも知られたてまつるまじきこそなど、あはれに思ひつづけられて、
135君ゆゑに我先立たばおのづから
(=君の)夢には見えよ跡の白露
[五の一五]
昼は日暮し思ひ暮し、夜は夜もすがら嘆き明かすほどに、十四日夜、また北山(=西園寺)へ思ひ立ちてはべれば、今宵は入道殿出で会ひたまひたる。昔のこと、何くれ仰せられて、
「御悩みのさま、むげに頼みなくおはします」
など語りたまふを聞けば、いかでかおろかにおぼえさせたまはむ。「いま一度(いちど)、いかがして」とや申すと思ひては参りたりつれども、何とある(=どう言う)べしともおぼえずはべるに、
「(=私が)仰せられ出だしたりしこと語りて、参れかし」
と言はるるにつけても、袖の涙も人目あやしければ、立ち帰りはべれば、鳥辺野(とりべの)のむなしき跡訪ふ人、内野には所もなく行き違ふさま、
「いつかわが身も」とあはれなり。
136あだし野の草葉の露の跡とふと
行き交ふ人もあはれいつまで
百十八 後深草法皇崩御
七月十五日の夜、実兼をたよって院の御所に参り、わずかに院にお目にかかる。十六日の昼ころ崩御。その夜、両六波羅の武士たちが御弔いに参る。作者は終夜庭にいて、月を眺めて悲しみ明かす。十五夜、二条京極より参りて、入道殿を尋ね申して、夢のやうに(=院を)見まゐらする。
[五の一六]〔12後深草院の崩御〕8
十六日の昼つ方にや、
「はや御事切れたまひぬ」
と言ふ。思ひ設けたりつる心地ながら、今はと聞き果てまゐらせぬる心地は、かこつ方なく、悲しさもあはれさも思ひやる方なくて、
御所へ参りたれば、かたへには、御修法の壇(だん)壊(こぼ)ちて出づる方もあり。あなたこなたに人は行き違へども、しめじめと、ことさら音もなく、南殿(なんでん)の灯籠(とうろ)も消たれにけり。
春宮(とうぐう=花園院)の行啓(=退去)は、いまだ明かきほどにや、二条殿(=富小路)へなりぬれば、次第に人の気配もなくなりゆくに、初夜過ぐるほどに、六波羅(=探題)御弔ひに参りたり。北(=探題)は富小路面(おもて)に、人の家の軒に松明(たいまつ)ともさせて、並(な)みゐたり。南は京極面(おもて)の篝(かがり)の前に、床子(しやうじ)に尻(しり)掛けて、手の者二行に並みゐたるさまなど、なほゆゆしくはべりき。
夜もやうやう更けゆけども、帰らむ空もおぼえねば、むなしき庭に一人ゐて、昔を思ひつづくれば、折々の御面影、ただ今の心地して、何と申し尽くすべき言の葉もなく、悲しくて、月を見れば、さやかに澄み昇りて見えしかば、
137隈もなき月さへつらき今宵かな
曇らばいかにうれしからまし
釈尊入滅の昔は、日月(じつげつ)も光を失なひ、心なき鳥、獣(けだもの)までも、愁へたる色に沈みけるにと、げにすずろに(=ぼんやり)月に向かふ眺めさへ、つらくおぼえしこそ、我ながらせめての(=はなはだしい)ことと思ひ知られはべりしか。
百十九 むなしき煙
七月十七日、終日御所にたたずみ、遠くからでも御棺を拝みたく思うたが叶わず、夜に入って御出棺、はだしで御葬送のあとを追い、遂に追いおくれて、夜明けがた、遙かに火葬の煙を拝す。十八日、伏見の御所に参り、遊義門院の御悲嘆を思いやりながらも、お目にかかるつてはなく、そのまま帰る。[五の一七]〔13御葬送〕
夜も明けぬれば、立ち帰りても、なほのどまるべき心地もせねば、平中納言のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、ゆかりある女房を知りたることはべりしを尋ねゆきて、
「御棺(おくわん)を遠(とほ)なりとも今一度(いちど)見せたまへ」
と申ししかども、かなひがたきよし申ししかば、思ひやる方なくて、いかなる隙にても、さりぬべきことやと思ふ。試みに女房の衣をかづきて、日暮し御所にたたずめどもかなはぬに、すでに御格子(みかうし)参る(=下りる夕)ほどになりて、御棺(おくわん)の入らせたまひしやらん、御簾の透(とほ)りより、やはらたたずみ寄りて、灯の光ばかり、さにやとおぼえさせおはしまししも、目も昏(く)れ、心もまどひてはべりしほどに、
「事なりぬ」
とて、御車寄せまゐらせて、すでに出でさせおはしますに、持明院殿の御所(=伏見院)、門(もん)まで出でさせおはしまして、帰り入らせおはしますとて、御直衣(おんなほし)の御袖にて御涙を払はせおはしましし御気色、さこそと悲しく見まゐらせて、やがて京極面(=通り)より出でて御車の後(しり)に参るに、日暮し御所にさぶらひつるが、「事なりぬ」とて御車の寄りしに、あわてて、履きたりし物もいづ方へか行きぬらん、裸足(はだし)にて走り降りたるままにて参りしほどに、
五条京極を西へやりまはすに、大路(おほぢ)に立てたりし竹に御車をやりかけて、御車の簾(すだれ)かたかた落ちぬべしとて、御車副(みくるまぞひ)登りて直しまゐらするほど、つくづくと見れば、山科の中将入道そばに立たれたり。墨染の袖も絞るばかりなる気色、さこそと悲し。
ここよりや、止まる止まると思へども、立ち帰るべき心地もせねば、次第に参るほどに、物は履かず、足は痛くて、やはらづつ行くほどに、皆人には追ひ遅れぬ。藤(ふじ)の森といふほどにや、男一人会ひたるに、
「御幸先立たせおはしましぬるにか」
と言へば、
「稲荷の御前をば御通りあるまじきほどに、いづ方へとやらん参らせおはしましてしかば、こなたは人もさぶらふまじ。夜ははや寅(=午前四時)になりぬ。いかにして行きたまふべきぞ。いづくへ行きたまふ人ぞ。過ちすな。送らん」
と言ふ。
むなしく帰らんことの悲しさに、泣く泣く一人なほ参るほどに、夜の明けしほどにや、事果ててむなしき煙の末ばかりを見まゐらせし心の中、今まで世に長らふべしとや思ひけん。
[五の一八]9
伏見殿の御所ざまを見まゐらすれば、この春、女院の御方御隠れの折は、二御方(ふたおほんかた)こそ御渡りありしに、この度は女院の御方ばかり渡らせおはしますらん御心の中、いかばかりかと推しはかりまゐらするにも、
138露消えし後のみゆきの悲しさに
昔にかへるわが袂かな
(=遊義門院と)語らふべき戸口(とぐち)も鎖し込めて、いかにと言ふべき方もなし。さのみ迷ふべきにもあらねば、その夕方帰りはべりぬ。
百二十 天王寺参籠
遊義門院が素服を召された事を聞くにつけても、昔後嵯峨院崩御の時の自分が思い出されてたまらなく悲しいので、心をまぎらそうと、天王寺に参る。そこではまた、遊義門院の御悲しみが思い出される。〔14御素服〕
(=遊義門院が)御素服(おんそふく)召さるるよし、うけたまはりしかば、(=私が)昔ながらならましかば、いかに深く染めまし。後嵯峨院御隠れの折は御所に奉公せしころなりしうへ、故大納言、「思ふやうありて」とて御素服の中に申し入れしを、「いまだ幼きに、大方の栄えなき色にてあれかし」などまでうけたまはりしに、そのやがて八月に私(わたくし)の色(=喪服)を着てはべりしなど、数々思ひ出でられて、
139墨染の袖は染むべき色ぞなき
(=私の)思ひは(=遊義門院と)一つ思ひなれども
[五の一九]
かこつ方なき思ひの慰めにもやとて、天王寺へ参りぬ。釈迦如来、転法輪処(てんぽふりんしよ=説教する場所)など聞くもなつかしくおぼえて、のどかに経をも読みて、しばしは紛るる(=気を取られる)方なくてさぶらはんなど思ひて、一人思ひつづくるも悲しきにつけても、女院の御方の御思ひ推しはかりたてまつりて、
140(=女院)春着てし霞の袖(=喪服)に秋霧の
(=喪服を)立ち重ぬらん色ぞ悲しき
百二十一 御四十九日
御四十九日に伏見の御所に参る。伏見上皇もおいでになっていると聞いて、上皇がまだ東宮であられた昔の事などが思い出される。[五の二〇]〔15御四十九日〕
後深草院の御病中、御身代りに立ちたいと祈願したのに叶わなかった。それにつけて、三井寺の証空の昔話が思い出され、定業は神仏の力も叶わぬものと思いつづけながら伏見の御所から帰る。
父の死が秋であったのに、また院の崩御が同じく秋であるにつけても、冥途の御旅が思いやられる。
御四十九日も近くなりぬれば、また都に帰り上りつつ、その日(=当日)は伏見の御所に参るに、御仏事始まりつつ、多く聴聞せし中に、我ばかり(=ほどの)なる心の内はあらじとおぼゆるにも悲し。
事果てぬれば、面々の御布施どものやうも、今日閉ぢめ(=忌明け)ぬる心地していと悲しきに、頃しも長月の初めにや、露も涙もさこそ争ふ御事なるらめと、御簾の内(=女院)も悲しきに、持明院の御所(=伏見院)、この度はまた同じ御所(=富小路)とうけたまはるも、春宮に立ちたまひて、角殿(すみどの)の御所に御渡りのころまでは見たてまつりしいにしへも、とにかくにあはれに、悲しきことのみ色添ひて、「秋しもなどか」と、公私(おほやけわたくし)おぼえさせたまひて、数ならぬ身なりともと、さしも思ひはべりしこと(=院の身代わり)のかなはで、今まで憂き世に留まりて、七つの七日(なぬか=四十九日)に遭ひまゐらする、我ながら、いとつれなくて、
三井寺の常住院の不動は、智興内供(ちこうないぐ=僧)が限りの病(=不治の病)には、証空阿闍梨(しやうくうあざり)といひけるが、
「(=智興の)受法(じゆほふ)恩重し。数ならぬ身なりとも(=私が身代わりに)」 と言ひつつ、晴明(せいめい=安部)に祭り変へられければ、明王(みやうわう=不動)、命に代はりて、
「汝は師に代る。我は行者(ぎやうじや=証空)に代らん」
とて、智興も病(やまひ)やみ、証空も命延びけるに、
君の御恩、受法の恩よりも深かりき。申し請けし心ざし、などしもむなしかりけん。
「(=八幡大菩薩は)苦(く)の衆生(しゆじやう)に代らんために、御名(おんな)を八幡大菩薩と号す」
とこそ申し伝へたれ。数ならぬ身にはよる(=だから)べからず。(=八幡大菩薩の)御心ざしのなほざりなるにもあらざりしに、まことの定業(ぢやうごふ=寿命)はいかなることもかなはぬ御事なりけりなど思ひつづけて、帰りてはべりしかども、つゆまどろまれざりしかば、
141悲しさのたぐひ(=仲間)とぞ聞く虫の音も
老いの寝覚めの長月のころ
古きを偲ぶ涙は片敷く袖(=独り寝)にも余りて、父の大納言身まかりしことも、(=私の涙は)秋の露に争ひはべりき。かかる御あはれ(=崩御)も、また秋の霧と立ち昇らせたまひしかば、なべて雲居もあはれにて、雨とやなりたまひけむ、雲とやなりたまひけん、いとおぼつかなき御旅(=死出の旅)なりしか。
142いづかたの雲路ぞとだに尋ねゆく
などまぼろし(=方士)のなき世なるらん
百二十二 母の形見
大集経書写の費用を弁ずるため、まず母の形見の手箱を売る。[五の二一]〔16母の形見〕10
さても、大集経いま二十巻、いまだ書きたてまつらぬを、いかがして、この御百日の中にと思へども、身の上の衣なければ、これを脱ぐにも及ばず、命を継ぐばかりのこと(=資材)持たざれば、これを去りてとも思ひ立たず。思ふはかりなく嘆きゐたるに、われ二人の親の形見に持つ、母におくれける折、「これ(=この子)に取らせよ」とて、平手箱(ひらてばこ)の、鴛鴦(をし)の丸(まろ)を蒔きて、具足、鏡まで同じ文(もん)にてし入れたりしと、また梨地(なしぢ)に仙禽菱(せんきびし=鶴)を高蒔(たかまき)に蒔きたる硯蓋(すずりぶた)の中には「嘉辰令月(かしんれいげつ)」と、手づから故大納言の文字(もじ)を書きて、金(かね)にて彫らせたりし硯となり。一期(いちご)は尽くるとも、これをば失はじと思ひ、今はの煙にも共にこそと思ひて、修行に出で立つ折も、心苦しきみどり子を跡に残す心地して、人にあづけ、帰りてはまづ取り寄せて、二人の親に会ふ心地して、手箱は四十六年の年を隔て、硯は三十三年の年月を送る。なごり(=愛着)いかでかおろかなるべきを、つくづくと案じつづくるに、人の身に命に過ぎたる宝、何かはあるべきを、君の御ためには捨つべきよしを思ひき。いはんや、有漏(うろ=煩悩の種)の宝、伝ゆべき子もなきに似たり。わが宿願(=院の身代わり)成就せましかば、むなしくこの形見は人の家の宝となるべかりき。しかじ、三宝(=仏法僧)に供養して、君の御菩提(=冥福)にも回向(=供養)し、二親のためにもなど思ひなりて、これを取り出でて見るに、年月馴れしなごりは、物言ひ笑ふことなかりしかども、いかでか悲しからざらむ。
折節、東(あづま)の方へよすが定めて(=移住)行く人、かかる物(=手箱)を尋ぬとて、三宝の御あはれみにや、思ふほどよりもいと多く(=高価)に人取らむと言ふ。思ひ立ちぬる宿願成就(=写経)しぬることはうれしけれども、手箱を遣はすとて、
143二親の形見と見つる玉くしげ
今日別れゆくことぞ悲しき
百二十三 大集経たてまつ納
この段には欠文があり、精しく解し得ないが、大集経の残り二十巻を東山双林寺のあたりで書写し、これを春日神社本宮の峰に納めた事が主文である。[五の二二]〔17双林寺での写経〕11
九月十五日より東山(ひんがしやま)双林寺(さうりんじ)といふあたりにて、懺法(せんぽふ)を始む。前(さき)の二十巻の大集経まで。
折々も昔(=の院)を偲び、今(=の院)を恋ふる思ひ、忘れまゐらせざりしに、今は一筋に「過去聖霊(くわこしやうりやう)成等正覚(じやうとうしやうがく)」とのみ、寝ても覚めても申さるるこそ、宿縁もあはれに我ながらおぼえはべりしか。
清水山(きよみづやま)の鹿の音はわが身の友と聞きなされ、籬(まがき)の虫の声々は、涙言問ふと悲しくて、後夜の懺法(せんぽふ)に夜深く起きてはべれば、東より出づる月影の西に傾くほどになりにけり。寺々の後夜も行ひ果てにけるとおぼゆるに、双林寺の峰にただ一人行ひゐたる聖の念仏の声すごく聞こえて、
144いかにして死出の山路を尋ね見む
もし亡き魂の影やとまると
[五の二三]
借り聖(ひじり)やとひて、料紙(れうし)、水迎(みずむか)へさせに横川(よかは=比叡山)へ遣はすに、(=我は)東坂本(ひんがしさかもと)へ行きて、我は日吉(ひよし=神社)へ参りしかば、祖母(うば=久我尼)にてはべりし者は、「この御社にて神恩をかうぶりける」とて常に参りしに、具せられては、〈ここよりまた刀にて切りて取られ侯。かへすがへすおぼつかなし。〉
「いかなる人にがな」
と(=借り聖が)申されしを聞くにも、あはれはすくなからんや。
深草の御墓へ奉納したてまつらむも、人目あやしければ、ことさら御心ざし深かりし御事思ひ出でられて、春日の御社へ参りて、本宮の峰に納めたてまつりしにも、峰の鹿の音もことさら折知(をりし)り顔に聞こえはべりて、
145峰の鹿野原の虫の声までも
同じ涙の友とこそ聞け
百二十四 父の三十三回忌
嘉元二年、父の三十三回忌を営む。(父の忌日は八月の三日であるから、103段後深草院七七忌――九月五日――の前に置くべきであるが、文章の構成上ここに置いたのであろう)[五の二四]〔18亡父の三十三回忌〕12
この度の勅撰、新後撰集に亡父の歌が採られなかったことを悲しむ。亡父が夢にあらわれて歌道に精進せよと激励する。
さても故大納言身まかりて、今年は三十三年になりはべりしかば、形のごとく仏事など営みて、例の聖のもとへ遣はしし諷誦(ふじゆ)に、
146つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ
十(とを)づつ三つに三つ余るまで
神楽岡(かぐらをか=吉田山)といふ所にて煙となりし跡を尋ねてまかりたりしかば、旧苔(きうたい)露(つゆ)深く、道を埋(うづ)みたる木の葉が下を分け過ぎたれば、石の卒塔婆(そとば)、形見がほに残りたるもいと悲しきに、
「さても、この度の勅撰には漏れたまひけるこそ悲しけれ。われ世にあらましかば、などか申し入れざらむ。続古今よりこの方、(=久我家は)代々の作者なりき。また、わが身の昔を思ふにも、竹園(ちくゑん=皇族)八代の古風、むなしく絶えなむずるにや」
と悲しく、最期終焉(さいごしゆうえん)の言葉など数々思ひつづけて、
147古りにける名こそ惜しけれ和歌の浦に
身はいたづらに海女の捨て舟
かやうにくどき(=つぶやき)申して帰りたりし夜、(=夢の)昔ながらの姿、われもいにしへの心地にて相向ひて、この恨みを述ぶるに、(=父)「祖父久我の大相国は、『落葉が峰の露の色づく』言葉を述べ、われは、『おのがこしぢも春のほかかは』と言ひしより、代々の作者なり。外祖父兵部卿隆親は、鷲尾(わしのを)の臨幸(りんかう=後嵯峨院)に、『今日こそ花の色は添へつれ』と詠みたまひき。(=父母)いづかたにつけても、捨てらるべき身ならず。具平親王よりこの方、家久しくなるといへども、和歌の浦波絶えせず」など言ひて、立ちざまに、
148なほも(=和歌を)ただかきとめてみよ藻塩草(=書き物)
人をも別かずなさけある世に
とうちながめて立ち退きぬと思ひて、うちおどろきしかば、むなしき面影は袖の涙に残り、言の葉はなほ夢の枕に留まる。
百二十五 人丸御影供
人丸の墓に七日間通夜して夢想を蒙る。それは嘉元二年十月(かんなづき)頃の事であろうが月日は不明。嘉元三年三月八日、人丸御影供を行う。[五の二五]〔19人丸御影供〕13
これよりことさらこの道をたしなむ心も深くなりつつ、このついでに人丸の墓(=天理市)に七日参りて七日といふ夜、通夜(つや)してはべりしに、
149契りありて竹(=皇族)の末葉にかけし名の
むなしき節にさて残れとや
この時、一人の老翁夢に(=姿を)示したまふことありき。この面影を写し留め、この言の葉を記(しる)し置く。人丸講(ひとまるこう)の式(しき=講式、賛辞)と名付く。
「先師(=人丸)の心にかなふ所あらば、この宿願(=和歌で名を成す)成就せん。宿願成就せば、この式を用ゐて、かの写し留むる御影(みえい)の前にして行ふべし」と思ひて、(=御影を)箱の底に入れてむなしく過ぐしはべるに、又の年(=嘉元三年)の三月八日、この御影(みえい)を供養して、御影供(みえいぐ)といふことを取り行ふ。
百二十六 父の形見
嘉元三年五月、後深草院の一周忌の近づくにつけ、大乗経五部の写経の残り二部を思い立ち、その費用に当てるため、父の形見の硯を売る。[五の二六]〔20父の形見の硯〕
かくて五月のころにもなりしかば、故御所(こごしよ)の御果てのほどにもなりぬれば、五部の大乗経の宿願、すでに三部は果たし遂げぬ。今二部になりぬ。明日を待つべき世にもあらず。二つの形見を一つ供養したてまつりて、父のを残しても、何かはせむ。幾世残しても、中有(ちゆうう)の旅に伴なふべきことならずなど思ひ切りて、またこれを遣はすとて思ふ。ただの人の物になさむよりも、わがあたりへや申さましと思ひしかども、よくよく案ずれば、心の中の祈誓(きせい)、その心ざしをば人知らで、世に住む力尽き果てて、今は亡き跡の形見まで、飛鳥川に流し捨つるにやと思はれんこともよしなしと思ひしほどに、折節、筑紫(つくし=九州)の少卿(しよきやう)といふ者が鎌倉より筑紫へ下るとて、京にはべりしが、聞き伝へて取りはべりしかば、母の形見は東(あづま)へ下り、父のは西の海を指してまかりしぞ、いと悲しくはべりし。
150する墨(=無一文)は涙の海に入りぬとも
流れむ末に逢ふ瀬あらせよ
など思ひつづけて、遣はしはべりき。
百二十七 御一周忌
嘉元三年五月に大品般若経の写経を始め、これを聖徳太子の御墓に参納して七月の初めに帰京。七月十六日、後深草院の御墓に参り、更に伏見の御所で行われた御一周忌に参る。さて、かの経を五月の十日余りのころより思ひ立ちはべるに、この度は河内国太子(たいし)の御墓(おんはか)近き所に、ちと立ち入りぬべき所ありしにて、また大品般若経(だいぼんはんにやきやう)二十巻(=全40巻)を書きはべりて、御墓へ奉納しはべりき。
[五の二七]
七月の初めには、都へ帰り上りぬ。
〔21後深草院の一周忌〕
御果ての日(=十六日)にもなりぬれば、深草の御墓へ参りて、伏見殿の御所へ参りたれば、御仏事始まりたり。石泉(しやくせん=比叡山)の僧正、御導師にて、院の御方(=伏見院)の御仏事あり。昔の御手(=手紙)をひるがへし(=漉き返し)て、御自らあそばされける御経といふことを聞きたてまつりしにも、一つ御思ひにやと、かたじけなきことのおぼえさせおはしまして、いと悲し。
次に、遊義門院の御布施(ふせ)とて、憲基法印(けんきほふいん)の弟、御導師にて、それも御手の裏にと聞こえし御経こそ、あまたの御事の中に耳に立ちはべりしか。
悲しさも今日閉ぢむべき心地して、さしも暑くはべりし日影も、いと苦しからずおぼえて、むなしき庭に残りゐてさぶらひしかども、御仏事果てしかば、還御いしいしとひしめきはべりしかば、誰にかこつべき心地もせで、
151いつとなく乾く間もなき袂かな
涙も今日を果てとこそ聞け
持明院御所(=伏見)、新院(=後伏見)、御聴聞所(みちやうもんどころ)に渡らせおはします、御透き影(おんすきかげ)見えさせおはしまししに、持明院殿は御色(=喪服)の御直衣、ことに黒く見えさせおはしまししも、今日を限りにやと悲しくおぼえたまひて、また院(=後宇多)御幸ならせおはしまして、一つ御聴聞所へ入らせおはしますを見まゐらせるにも、御跡まで御栄え久しく、ゆゆしかりける御事かなとおぼえさせおはします。
百二十八 亀山院御悩
嘉元三年七月二十一日亀山法皇御病気重きにより嵯峨殿へ御幸。作者は般若経の残り二十巻を書写のため九月十日頃熊野に出立。[五の二八]〔22亀山法皇の御悩〕
このほどよりや、また法皇御悩みといふことあり。さのみうちつづかせおはしますべきにもあらず、御悩(ごなう)は常のことなれば、これを限りと思ひまゐらすべきにもあらぬに、かなふまじき御事にはべりとて、すでに嵯峨殿の御幸と聞ゆ。去年、今年の御あはれ、いかなる御事にかと、及ばぬ御事ながら、あはれにおぼえさせおはします。
14 般若経の残り二十巻を今年書き終るべき宿願、年頃熊野にてと思ひはべりしが、いたく水凍らぬ先にと思ひ立ちて、九月(ながつき)の十日ごろに熊野へ立ちはべりしにも、御所(=亀山院)の御事(=危篤)はいまだ同じさまにうけたまはるも、つひにいかが聞こえさせおはしまさむなどは思ひまゐらせしかども、去年の御あはればかり(=ほどに)は嘆かれさせおはしまさざりしぞ、うたてき愛別(あいべち)なるや。
百二十九 那智の写経
九月二十余日の頃、那智の御山で写経をする。写経も終りに近づいた頃、夢を見る。亡き父が傍にいて夢の中の事を一々説明してくれる。夢には去年崩御せられた後深草院、現存の遊義門院が姿を現わされなさって作者に好意を御示しになる。夢想の扇が枕に残っている。帰京して亀山院の崩御を聞く。やがて年が改まり嘉元四年(徳治元年)となる。[五の二九]〔23那智の御山〕
例(れい)の宵、暁(よひあかつき)の垢離(こり=水垢離)の水を前方便(ぜんほうべん=準備)になずらへて、那智の御山(おやま)にてこの経を書く。九月(ながつき)の二十日余りのことなれば、峰の嵐もやや烈しく、滝の音も涙争ふ心地して、あはれを尽くしたるに、
152物思ふ袖の涙(=血の涙)をいくしほ(=幾入、染める)と
せめてはよそに人の問へかし
形見の残りを尽くして、唱衣(しやうえ=衣を売る)いしいしと営む心ざしを権現も納受したまひにけるにや、写経の日数も残りすくなくなりしかば、御山を出づべきほども近くなりぬれば、御なごりも惜しくて、夜もすがら拝みなどまゐらせて、うちまどろみたる暁方の夢に、故大納言のそばにありけるが、「出御(しゆつぎよ=院の)の半ば(=途中)」と告ぐ。見まゐらすれば、鳥襷(とりだすき)を浮織物(うきおりもの)に織りたる柿の御衣を召して、右の方へちと傾かせおはしましたるさまにて、我は左の方なる御簾より出でて向ひまゐらせたる。証誠殿(しようじやうでん=熊野本宮)の御社(みやしろ)に入りたまひて、御簾をすこし上げさせおはしまして、うち笑みて、よに御快(こころよ)げなる御さまなり。また、
「遊義門院の御方も出でさせおはしましたるぞ」
と告げらる。見まゐらすれば、白き御袴に御小袖ばかりにて、西の御前(ごぜん=熊野神宮)と申す社の中に、御簾、それも半(はん)に上げて、白き衣(きぬ)二つ、裏表(うらうへ=左右)より取り出でさせおはしまして、
「二人の親の形見を、裏表(うらうヘ)ヘやりし心ざし、忍びがたくおぼしめす。取り合はせて賜ぶぞ」
と仰せあるを賜はりて、本座(=元の座)に帰りて、父大納言に向ひて、
「十善の床を踏みましましながら、いかなる御宿縁にて御片端(かたは=傾いている)は渡らせおはしますぞ」
と申す。
「あの御片端(おんかたは)は、いませおはしましたる(=お尻)下に、御腫物(はれもの)あり。この腫物といふは、我らがやうなる無知の衆生を多く後(しり)へ持たせたまひて、これを憐れみはぐくみおぼしめすゆゑなり。全くわが(=ご自身の)御誤りなし」
と言はる。また見やりまゐらせたれば、なほ同じさまに快き御顔にて、「近く参れ」とおぼしめしたるさまなり。立ちて御殿の前にひざまづく。白き箸(はし)のやうに元は白々(しろじろ)と削りて、末には梛(なぎ)の葉二つづつある枝を二つ取り揃へて賜はると思ひて、うちおどろきたれば、如意輪堂(によいりんだう)の懺法(せんぽふ)始まる。
何となくそばを探りたれば、白き扇の檜(ひのき)の骨(ほね)なる、一本あり。夏などにてもなきに、いと不思議にありがたくおぼえて、取りて道場に置く。
このよしを語るに、那智の御山の師、備後(びんご)の律師(りつし)覚道(かくだう)と言ふ者、
「扇は千手(せんじゆ=観音、那智)の御体(おんたい)といふやうなり。かならず利生(りしやう)あるべし」と言ふ。
[五の三〇]
夢の御面影も覚むる袂に残りて、写経終りはべりしかば、ことさら残し持ちまゐらせたりつる御衣(=院の)、いつまでかはと思ひまゐらせて、御布施(ふせ)に泣く泣く取り出ではべりしに、
153あまた年馴れし形見のさ夜衣
今日を限りと見るぞ悲しき
那智の御山にみな納めつつ帰りはべりしに、
154夢覚むる枕に残る有明に
涙伴ふ滝の音かな
かの夢の枕なりし扇を、今は(=院の)御形見ともと慰めて帰りはべりぬるに、はや(=亀山)法皇崩御なりにけるよしうけたまはりしかば、うちつづかせおはしましぬる世の御あはれも、有為無常の情けなきならひと申しながら、心憂くはべりて、我のみ消(け)たぬむなしき煙は立ち去る方なきに、年も返りぬ。
百三十 大菩薩の御心ざし
徳治元年三月初旬、奈良から京都へ上る途中、石清水八幡宮に参拝して遊義門院の御幸にめぐりあう。文中の記事によれば、作者は三月七日に八幡宮に通夜、翌三月八日、門院は八幡宮に奉幣し更に狩尾神社に御参拝あり、作者はその折、門院からお言葉をかけられて感泣し、翌九日門院京都へ還御と聞き、女房兵衛佐を介して門院に桜を献じ、帰京せば直ちに御所へ参らんと申す。九日門院還御。作者はなお三日間参籠し、十二日頃帰京して兵衛佐に歌を贈る。[五の三一]〔24遊義門院の御幸〕15
三月(やよひ)初めつ方、いつも年の初めには参りならひたるも忘られねば、八幡(やはた)に参りぬ。一月(むつき)のころより奈良にはべり、鹿のほか便りなかりしかば、御幸とも誰かは知らん。例の猪(ゐ)の鼻(はな)より参れば、馬場殿開きたるにも、過ぎにしこと思ひ出でられて、宝前(ほうぜん)を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。
「いづれの御幸にか」
と、尋ね聞きまゐらすれば、
「遊義門院の御幸」
と言ふ。いとあはれに、参り会ひまゐらせぬる御契りも、去年見し夢の御面影さへ思ひ出でまゐらせて、今宵は通夜して、明日(あした)もいまだ夜に、(=女)官(くわん)めきたる女房の、大人しきが所作するあり。「誰ならん」とあひしらふ(=挨拶)。得選(とくせん)「おとらぬ」といふ者なり。いとあはれにて、何となく御所ざまのこと尋ね聞けば、
「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」
と言へば、いかにしてか(=私が遊義門院に)誰とも知られたてまつらんとて、御宮巡りばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせんとて、したため(=食事)にだにも宿(やど)へも行かぬに、
「事なりぬ」
と言へば、片方(かたかた=片隅)に忍びつつ、よに御輿(みこし)のさま気高くて、宝前(ほうぜん)へ入らせおはします。
[五の三二]
御幣(ごへい)の役を、西園寺の春宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ=兼季)勤めらるるにも、太上入道殿(=実兼)の左衛門督(さゑもんのかみ)など申ししころの面影も通ひたまふ心地して、それさへあはれなるに、今日は八日とて、狩尾(とがのを)へ如法(によほふ)御参りと言ふ。(=遊義門院は)網代輿(あじろごし)二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、(=私が)誰とかは知られたてまつらん、よそながらも、ちと御姿(おんすがた)をもや見まゐらすると思ひて参るに、また徒歩(かち)より参る若き人二三人行き連れたる。
御社に参りたれば、さにやとおぼえさせおはします御後ろを見まゐらするより、袖の涙は包まれず、立ち退くべき心地もせではべるに、御所作(=お参り)果てぬるにや、立たせおはしまして、
「いづくより参りたる者ぞ」
と仰(おほ)せあれば、過ぎにし昔より語り申さまほしけれども、
「奈良の方よりにてさぶらふ」
と申す。
「法華寺よりか」
など仰せあれども、涙のみこぼるるも、あやしとやおぼしめされんと思ひて、言葉ずくなにて立ち帰りはべらんとするも、なほ悲しくおぼえてさぶらふに、すでに還御(くわんぎよ)なる。
御なごりもせん方なきに、降りさせおはします所の高きとて、え降りさせおはしまさざりしついでにて、
「肩を踏ませおはしまして、降りさせおはしませ」
とて、御そば近く参りたるを、あやしげに御覧ぜられしかば、
「いまだ御幼(おんをさ)なくはべりし昔は、馴れつかうまつりしに、御覧じ忘れにけるにや」
と申し出でしかば、いとど涙も所せくはべりしかば、御所ざまにもねんごろに御尋ねありて、
「今は常に申せ(=会いにこい)」
など仰せありしかば、見し夢も思ひ合はせられ、過ぎにし御所に参り会ひましし(=ます+き)もこの御社ぞかしと思ひ出づれば、隠れたる信(しん)のむなしからぬを喜びても、ただ心を知る物は涙ばかりなり。
[五の三三]〔25桜の枝〕
徒歩(かち)なる(=遊義門院の)女房の中に、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)といふ人なり。次の日還御(くわんぎよ)とて、その夜は御神楽・御手遊び、さまざまありしに、暮るるほどに桜の枝を折りて、兵衛佐のもとへ、
「この花散らさむ先に、都の御所へ尋ね申すべし」
と申して、つとめては還御(くわんぎよ)より先に出ではべるべき心地せしを、かかる御幸に参り会ふも大菩薩の御心ざしなりと思ひしかば、(=神に)喜びも申さんなど思ひて、三日留まりて、御社にさぶらひて後、京へ上りて、御文を参らすとて、
「さても花はいかがなりぬらん」
とて、
155花はさてもあだにや風のさそひけむ(=散る)
契りしほどの日数ならねば
御返し、
156その花は風にもいかがさそはせん(=散らせない)
契りしほどは隔てゆくとも
百三十一 形見の面影
後深草院の御三周忌が近づき遊義門院は伏見の御所に御幸なされた。七月十五日早朝、作者は深草の法華堂に参り、新しく描かれた後深草院の御映像を拝む。その夜、御映像は伏見の御所に移されたまう。[五の三四]〔26深草の法華堂〕
その後、いぶせからぬほどに申しうけたまはり(=手紙のやり取り)けるも昔ながらの心地するに、
16 七月の初めのころより、過ぎにし御所の御三回(みめぐ=三回忌)りにならせおはしますとて、(=遊義門院は)伏見の御所に渡らせおはしませば、何となく御あはれもうけたまはりたく、今は残る御形見もなければ、書くべき経(=五部の大乗経)はいま一部なほ残りはべれども、今年はかなはぬも心憂ければ、御所の御あたり近くさぶらひて、(=三回忌を)よそながらも見まゐらせんなどさぶらひしに、
十五日のつとめては深草の法華堂(=天皇陵)へ参りたるに、御影(みえい=木像)の新しく作られさせおはしますとて、据ゑまゐらせたるを拝みまゐらするにも、いかでか浅くおぼえさせおはしまさむ。袖の涙も包みあへぬさまなりしを、供僧(ぐそう=供奉僧)などにや、並びたる人々、あやしく思ひけるにや、
「近く寄りて見たてまつれ」
と言ふもうれしくて、参りて拝みまゐらするにつけても、涙の残りはなほありけりとおぼえて、
157露消えし後(のち)の形見の面影に
またあらたまる袖の露かな
十五日の月いと隈なきに、兵衛佐の局に立ち入りて、昔いまのこと思ひつづくるも、なほ飽かぬ心地して、立ち出でて、明静院(みやうじやうゐん)殿の方ざまにたたずむほどに、
「すでに入らせおはします」
など言ふを、何事ぞと思ふほどに、今朝深草の御所にて見まゐらせつる御影(みえい)、入らせおはしますなりけり。案(あん=机)とかやいふ物に据ゑまゐらせて、召次(めしつぎ)めきたる者四人して舁(か)きまゐらせたり。仏師にや、墨染の衣着たる者奉行して、二人あり。また預(あづかり)一人、御所侍(ごしよさぶらひ)一二人ばかりにて付き、紙被(かみおほ)ひまゐらせて入らせおはしましたるさま、夢の心地してはべりき。
十善万乗(じふぜんばんじよう)の主として百官にいつかれましましける昔は、おぼえずして(=記憶になく)過ぎぬ。太上天皇の尊号をかうぶりましまして後、仕へたてまつりしいにしへを思へば、忍びたる御歩(あり)きと申すにも、御車寄せの公卿、供奉(ぐぶ)の殿上人などはありしぞかしと思ふにも、ましていかなる道にひとり迷ひおはしますらんなど思ひやりたてまつるも、今始めたるさまに悲しくおぼえはべるに、
つとめて、万里小路(までのこうぢ)の大納言師重(もろしげ)のもとより、
「(=あなたは)近きほどにこそ。夜べの御あはれいかが聞きし」
と申したりし返事に、
158虫の音も月も一つに悲しさの
残る隈なき夜半の(=院の)面影
百三十二 御三周忌法要
徳治元年七月十六日、後深草院御三周忌が伏見の御所で営まれ、伏見上皇はかねてから御幸になっている。上皇は十六日夕還御。作者はしばらく御所近いところにとどまり、久我前内大臣と和歌の贈答をする。[五の三五]〔27後深草院の三回忌〕
追記として遊義門院に扇を献上した事を記す。
十六日には御仏事とて、法華の讃嘆(さんだん)とかやとて、釈迦・多宝(=の)二仏、一蓮台(ひとつれんだい)におはします。御堂いしいし御供養あり。かねてより院御幸(=後宇多)もならせおはしまして、ことに厳しく庭も上も雑人(ざふにん)払はれしかば、
「墨染の袂はことにいむなり」
といさめらるるも悲しけれど、とかくうかがひて、雨垂りの石の辺にて聴聞(ちやうもん)するにも、昔ながらの身ならましかばと、厭ひ捨てし古(いにしへ)さへ恋しきに、御願文(ごぐわんもん)終るより懺法(せんぽふ)すでに終るまで、すべて涙はえ止(とど)めはべらざりしかば、そばに事(=姿)よろしき僧のはべりしが、
「いかなる人にて、かくまで嘆きたまふぞ」
と申ししも、亡き御陰の跡までもはばかりある心地して、
「親にてはべりし者におくれて、このほど忌み明きてはべるほどに、ことにあはれに思ひまゐらせて」
など申しなして、立ち退きはべりぬ。
御幸の還御(くわんぎよ)は、今宵ならせおはしましぬ。御所(=遊義門院)さまも御人ずくなに、しめやかに見えさせおはしまししも、そぞろに物悲しくおぼえて、帰らん空もおぼえはべらねば、御所近きほどになほ休みてゐたるに、久我の前(さき)の大臣(=通基)は同じ草葉(くさば)のゆかりなるも忘れがたき心地して、時々申し通ひ(=連絡)はべるに、(=今回)文遣はしたりしついでに、かれより、
159都だに秋の気色は知らるるを
幾夜伏見の有明の月
「問ふにつらさ」のあはれも、忍びがたくおぼえて、
160秋を経て過ぎにし御代も伏見山
またあはれそふ有明の空
また立ち返り、
161さぞな・げに昔を今と偲ぶらむ
伏見の里の秋のあはれに
まことや(=それはそうと)、十五日は、もし(=遊義門院が)僧などに賜びたき御事やとて、扇を参らせし包み紙に、
162思ひきや君が三年(みとせ)の秋の露
まだ(=私は生きて)乾(ひ)ぬ袖にかけんものとは
百三十三 結び
「問はず語り」全五巻を結ぶ文である。作者はここに、「問はず語り」が書かれたのは、自分の思いを空しく散らしてしまうに忍びず、せめて書き纏めて見たい情にせまられて書いたのだ。もとより形見として後の世に遺そうなどとは思わない、と言っている。その思いというのは、後深草院に対する思慕の情と、それにまつわる数奇な愛欲関係の体験、それから生じた我が身の沈淪、引いては久我家の没落を嘆く思いが一つ、いま一つは巻四以下の諸国修行の思いである。[五の三六]〔28跋文〕17
深草の御門(みかど)は御隠れの後、かこつべき御事(=愚痴)どもも跡絶え果てたる心地してはべりしに、去年の三月八日、人丸の御影供(みえいぐ)を勤めたりしに、今年の同じ月日、(=遊義門院)御幸に参り会ひたるも不思議に、見しむばたまの御面影も、うつつに思ひ合はせられて、
さても宿願の行く末いかがなりゆかんとおぼつかなく、年月(としつき)の心の信も、さすがむなしからずやと思ひつづけて、
(=これを書いたのは)身の有様を一人思ひゐたるも飽かずおぼえはべるうへ、修行の心ざしも、西行が修行の式(しき)、うらやましくおぼえてこそ思ひ立ちしかば、その思ひをむなしくなさじばかりに、かやうのいたづらごとをつづけ置きはべるこそ。後の形見とまではおぼえはべらぬ。
〈本に云はく、ここよりまた、刀して切られてさぶらふ。おぼつかなう、いかなることにかとおぼえてさぶらふ〉
完
底本
問はず語り 玉井 幸助・校訂
岩波文庫 1968年8月16日 第1刷発行
1979年4月20日 第13刷発行