問はず語り 全



これは「物語の部屋」にあるものを一本にして修正したものである。

問はず語り 巻一

後深草院 二条     

一 十四の春

 文永八年(1271)元旦、作者十四歳、後深草院二十九歳。院の御所で元旦の祝酒が行われ、作者の父大納言源雅忠は御薬の役を勤める。院から雅忠に、「今年からお前の女を我が側室に納れるように」とのお言葉があり、雅忠、はかしこまって退出した。
 くれ竹のひとよに春の立つ霞、けさしも待ちいで顔に花を折り匂ひをあらそひてなみゐたれば、我も人なみなみにさしいでたり。つぼみ紅梅(こうばい)にやあらむ七つに、紅のうちき、もよぎのうはぎ、赤色の唐衣などにてありしやらん。梅からくさを浮き織りたる二つ小袖に、からかきに梅をぬひて侍りしをぞ着たりし。
 今日の御くすりには、大納言陪膳(はいぜん)に参らる。とざまのしきはてて、また内へ召し入れられて、台盤所の女房たちなど召されて、如法、をれこだれたるくこんのしきあるに、大納言、三々九とて、とざまにても、ここの返りの勧盃(けんぱい)にてありけるに、またうちうちの御事にも、「その数にてこそ」と申されけれども、「このたびは九三にてあるべし」とおほせありて、如法、上下ゑひすぎさせおはしましたるのち、御所の御かはらけを大納言に給はすとて、「この春よりは、たのむのかりも我がかたによ」とて給ふ。ことさらかしこまりて、九三返し給うてまかりいづるに、なにとやらん、しのびやかにおほせらるる事ありとはみれど、なにごととはいかでか知らむ。


二 鶴の毛衣

 思いがけずも、その夜ある人から恋歌を添えて着物が贈られた。作者はその人を誰とも書いていないが、初恋の人「雪の曙」すなわち西園寺実兼(二十三歳。当時権中納言)であった事は、しぜんに分かるように次々記されてゆく。実兼は院が作者を側室とせられる事を知って、いち早く、こういう手を打ったのであろう。作者はこれを一度返したが、再び届けられたので受取り、翌日後嵯峨院御幸の時にこれを着て出仕し、父に問われ、偽って常磐井の准后からいただいたと答える。
 拝礼など果てて後、つぼねへすべりたるに、「昨日(きのふ)の雪も今日よりは、あとふみつけん行くすゑ」など書きて、御文(おんふみ)あり。紅のうすやう八つ、こきひとへ、もよぎのうはぎ、からぎぬ、はかま、三つ小袖、二つ小袖など、ひらづつみにてあり。いと思はずにむつかしければ、返しつかはすに、袖の上に、うすやうのふだにてありけり。見れば、

   つばさこそ重ぬることのかなはずと
      着てだになれよ鶴の毛ごろも

心ざしありてしたためたびたるを、返すもなさけなきここちしながら、
 「よそながらなれてはよしやさよごろもいとどたもとの朽ちもこそすれ。思ふ心の末むなしからずは」など書きて返しぬ。
 うへぶしに参りたるに、夜中ばかりに、下口(しもくち)の遣戸(やりど)をうちたたく人あり。なに心なく、小さき女(め)の童(わらは)あけたれば、さしいれて、使(つかひ)はやがて見えずとて、またありつるままの物あり。

   契りおきし心の末のかはらずは
      ひとりかたしけ夜半(よは)のさごろも

いづくへまた返しやるべきならねばとどめぬ。
 三日、法皇の御幸この御所へなるに、このきぬを着たれば、大納言、「なべてならず色も匂ひも見ゆるは、御所より給はりたるか」といふも胸さわがしくおぼえながら、「常磐井の准后(じゆごう)より」とぞ、つれなくいらへ侍りし。


三 つれなき一夜

 正月十五日、院と結婚のため、河崎なる父の邸に呼ばれる。作者には実情が知らされていないので不審に思う。十六日、院の御幸があり、作者の寝所に入って来られた。作者が目をさまして見ると、院が馴れ顔い寝ていられる。驚いて逃げようとしたが放されず、今日まで恋いつづけて来た事をくどかれる。しかし拒み通して、その夜はあけた。
 十五日の夕つかた、河崎より迎へにとて人たづぬ。いつしかとむつかしけれども、いなといふべきならねば出でぬ。見れば、何とやらむ、常のとしどしよりも、はえばえしく、屏風・畳も、几帳・ひきものまで、心ことに見ゆるはと思へども、年の始めのことなればにやなど思ひて、その日はくれぬ。
 あくれば供御(くご)のなにかとひしめく。殿上人の馬、公卿の牛などいふ。ばばの尼上など来集まりてそそめく時に、「何事ぞ」といへば、大納言うち笑ひて、「いさ、こよひ御方違へに御幸なるべしとおほせらるる時に、年の始めなれば、ことさらひきつくろふなり。その御陪膳(ごはいぜん)のれうにこそ迎へたれ」といはるるに、「節分(せちぶん)にてもなし、何の御方違へぞ」といへば、「あらいふかひなや」とてみな人笑ふ。されどもいかでか知らむに、我が常に居たるかたにも、なべてならぬ屏風たて、小几帳たてなどしたり。「ここさへ晴れにあふべきか。かくしつらはれたるは」などいへば、みな人笑ひて、とかくの事いふ人なし。
 夕がたになりて、白き三つひとへ、こき袴を着るべきとておこせたり。空(そら)だきなどするかたさまも、なべてならず、ことごとしきさまなり。火ともして後、大納言の北の方、あざやかなる小袖をもちて来て、「これ着よ」といふ。またしばしありて大納言おはして、御棹(おんさを)に御ぞかけなどして、「御幸までねいらで宮つかヘ。女房は何事もこはごはしからず、人のままなるがよき事なり」などいはるるも、何の物教へとも心得やりたる方なし。なにとやらんうるさきやうにて、すびつのもとによりふしてねいりぬ。
 そののちの事いかがありけん知らぬ程に、すでに御幸なりにけり。大納言、御車寄せ、なにかひしめきて、供御(くご)まゐりにけるをりに、いふかひなくねいりにけり。「起せ」などいひさわぎけるを聞かせおはしまして、「よし、ただ寝させよ」といふ御気色なりける程に、起す人もなかりけり。
 これは障子のうちのくちに置きたるすびつに、しばしばかり、かかりてありしが、きぬひきかづきて寝ぬるのちの、何事も思ひわかである程に、いつのほどにか寝おどろきたれば、ともし火もかすかになり、ひきものもおろしてけるにや、障子の奥に寝たるそばに、馴れ顔に寝たる人あり。こは何事ぞと思ふより、起き出でていなんとす。おこし給はず。いはけなかりし昔よりおぼしめしそめて、十(とお)とて四つの月日を待ちくらしつる、何くれ、すべて書きつづくべき言の葉もなき程におほせらるれども耳にも入らず、ただ泣くよりほかの事なくて、人の御たもとまでかはく所なく泣きぬらしぬれば、なぐさめわび給ひつつ、さすが、なさけなくももてなし給はねども、「あまりにつれなくて年もへだて行くを、かかるたよりにてだになど思ひ立ちて、今は人もさとこそ知りぬらめに、かくつれなくてはいかがやむべき」とおほせらるれば、「さればよ、人知らぬ夢にてだになくて、人にも知られて、一夜の夢のさむるまもなく物をや思はん」など案ぜらるるは、なほ心のありけるにやとあさまし。「さらば、などや、かかるべきぞともうけたまはりて、大納言をもよく見せさせ給はざりける」と、「今は人に顔を見すべきかは」と、くどきて泣きゐたれば、あまりにいふかひなげにおぼしめして、うちわらはせ給ふさへ心うくかなし。夜もすがら、つひに一言葉(ひとことば)の御返事だに申さで、明けぬる音して、「還御はけさにてはあるまじきにや」などいふ音すれば、「ことありがほなる朝がへりかな」とひとりごち給ひて、起きいで給ふとて、「あさましく思はずなるもてなしこそ、振分髪の昔のちぎりもかひなきここちすれ、いたく人めあやしからぬやうにもてなしてこそよかるべけれ。あまりにうづもれたらば、人いかが思はむ」など、かつは恨み、また慰め給へども、つひにいらへ申さざりしかば、「あな力なのさまや」とて起き給ひて、御直衣などめして、「御車よせよ」などいへば、大納言の音して「御かゆ参らせらるるにや」と聞くも、また見るまじき人のやうに、昨日は恋しきここちぞする。


四 しのぶの山

 十七日、院から後朝の文が来た。作者は臥しつづけていて御返事をしない。ひるごろ、思いよらぬ人(実兼)から恋文が来る。それには返事をする。作者は自らの仕打ちに対して自責を感じる。
 還御なりぬときけども、おなじさまにて、ひきかづきてねたるに、いつの程にか御ふみといふもあさまし。大納言の北の方、尼上など来て、「いかに」「などか起きぬ」などいふも、かなしければ、「夜より心ちわびしくて」といへば、「にひ枕のなごりか」など、人思ひたるさまもわびしきに、この御ふみをもちさわげども、誰かは見む。御つかひ、立ちわづらふ。「いかにいかに」といひわびて、「大納言に申せ」などいふも、たへがたきに、「心ちわぶらんは」とておはしたり。この御文をもてさわぐに、「いかなるいふかひなさぞ。御返事は又申さじにや」とて、来る音す。

   あまたとしさすがになれしさよ衣
      かさねぬ袖にのこるうつりが

むらさきのうすやうにかかれたり。この御歌をみて、めむめむに、「このごろの若き人にはたがひたり」などいふ。いとむつかしくて、おきもあがらぬに、「さのみせむじがきも、中々びんなかりぬべし」などいひわびて、御つかひのろくなどばかりにて、「いふかひなく同じさまにふして侍るほどに、かかるかしこき御ふみをもいまだみ侍らで」などや申されけん。
 ひるつかた思ひよらぬ人のふみあり。見れば、

 「今よりや思ひきえなん一かたに煙のすゑのなびきはてなば。これまでこそ、つれなきいのちもながらへて侍りつれ。いまは何事をか」などあり。「かかる心のあとのなきまで」とだみつけにしたる、はなだのうすやうにかきたり。「忍の山の」とある所をいささかやりて、

   しられじな思ひみだれて夕煙
      なびきもやらぬ下のこころは

とばかりかきて、つかはししも、こはなにごとぞと、我ながら覚え侍りき。


五 にひまくら

 十七日の夕刻から夜あけまで。作者ついに院と新枕をかわす。しかし実兼に対しても心がひかれる。ここに愛欲の苦悩が始まるのである。そして十八日の暁、院と共に御所に入る。
 かくて日ぐらし侍りて、湯などをだにみ入れ侍らざりしかば、「べちのやまひにや」など申しあひて、暮れぬとおもひし程に、御幸といふ音すなり。又いかならむと思ふほどもなく、ひきあけつつ、いとなれがほに入りおはしまして、「なやましくすらんは、なに事にかあらん」など御たづねあれども、御いらへ申すべき心ちもせず、ただうちふしたるままにてあるに、そひふし給ひて、さまざまうけたまはりつくすも、いまやいかがとのみおぼゆれば、「なき世なりせば」といひぬべきに、うちそへて、「思ひきえなん夕煙、一かたにいつしか、なびきぬ」としられんも、あまり色なくやなど思ひわづらひて、つゆの御いらへもきこえさせぬ程に、こよひは、うたてなさけなくのみ、あたり給ひて、うすき衣は、いたくほころびてけるにや、のこるかたなくなり行くにも、世にありあけの名さへうらめしき心地して、

   心よりほかにとけぬる下ひぼの
      いかなるふしにうき名ながさん

など思ひつづけしも、心は猶ありけると、我ながらいとふしぎなり。
 「かたちはよよにかはるとも契はたえじ、あひみる夜半(よは)はへだつとも、心のへだてはあらじ」など数々うけたまはるほどに、むすぶ程なきみじか夜は、明けゆく鐘のおとすれば、さのみ明けすぎて、もてなやまるるも所せしとておきいで給ふが、「あかぬなごりなどはなくとも、見だにおくれ」と、せちにいざなひ給ひしかば、これさへさのみつれなかるべきにもあらねば、夜もすがらなきぬらしぬる袖のうへに、うすきひとへばかりをひきかけて、立ちいでたれば、十七日の月、西にかたぶきて、東は横雲わたる程なるに、さくらもよぎのかんの御ぞに、うす色の御ぞ、かたもんの御さしぬき、いつよりも目とまる心ちせしも、たがならはしにかとおぼつかなくこそ。隆顕の大納言、はなだのかりぎぬにて、御車よせたり。為方(ためかた)の卿、かげゆの次官と申しし、殿上人には一人侍りし。さらでは、ほくめんの下らふ二三人、召仕などにて、御車さしよせたるに、をりしりがほなる鳥の音も、しきりにおどろかしがほなるに、観音堂の鐘のおと、ただ我が袖にひびく心ちして、左右(ひだりみぎ)にもとは、かかる事をや、など思ふに、なほいでやり給はで、「ひとりゆかんみちの御おくりも」など、いざなひ給ふも、「心もしらで」などおもふべき御事にてはなけれども、思ひみだれて立ちたるに、くまなかりつる有明の影、しらむほどになりゆけば、「あな心ぐるしのやうや」とて、やがてひきのせ給ひて、御車ひきいでぬれば、かくとだにいひおかで、昔物がたりめきて、なにとなり行くにかなどおぼえて、

   鐘のおとにおどろくとしもなき夢の
      名残もかなしあり明の空

みちすがらも、いましもぬすみ出でなどしてゆかん人のやうにちぎり給ふも、をかしともいひぬべきを、つらさをそへて行く道は、涙のほかは、こととふ方もなくて、おはしましつきぬ。


六 のがれぬ契

 作者は院と結ばれて後、改めて御所に入った。そこは幼少の昔から住み馴れた所であるが、今は作者の位置が全く変わったので、しかもその位置は日蔭の位置であるから、気がねが多く不安である。
 十日ばかり御所にいて里に帰り、しばらく里住みしてまた御所に帰る。しかし周囲の者に中傷せられ、東二条院(後深草院后妃)の御機嫌も悪く、物思いの多い日々を送る。
 すみの御所の中門に御車ひきいれて、おりさせ給ひて、善勝寺大納言に、「あまりにいふかひなきみどり子のやうなる時に、うちすてがたくてともなひつる。しばし人にしらせじと思ふ。うしろみせよ」といひおき給ひて、つねの御所へ入らせ給ひぬ。をさなくよりさぶらひなれたる御所ともおぼえず、おそろしくつつましき心ちして、たち出でつらんこともくやしく、なにとなるべき事にかと思ひつづけられて、また涙のみいとまなきに、大納言の音するは、おぼつかなく思ひてかとあはれなり。善勝寺、おほせのやうつたふれば、「いまさら、かく中々にてはあしくこそ。ただ日ごろのさまにて、めしおかれてこそ。忍ぶにつけて、もれん名も中々にや」とて出でられぬる音するも、げにいかなるべき事にかと、いまさら身のおき所なき心ちするもかなしきに、いらせ給ひて、つきせぬ事をのみうけたまはるを、さすが、しだいになぐさまるるこそ、これやのがれぬ御契ならむとおぼゆれ。
 十日ばかり、かくて侍りし程に、よがれなくみたてまつるにも、けぶりのすゑ、いかがとなほも心にかかるぞ、うたてある心なりし。さてしもかくては中々あしかるべきよし、大納言しきりに申して出でぬ。人にみゆるもたへがたくかなしければ、なほも心ちの例ならぬなど、もてなして、我がかたにのみゐたるに、「この程にならひて、つもりぬる心ちするを。とくこそまゐらめ」など、又御ふみこまやかにて、

   かくまでは思ひおこせじ人しれず
      みせばや袖にかかる涙を

あながちにいとはしくおぼえし御ふみも、けふはまちみるかひある心地して、御返事も、くろみすぎしやらむ、

   我ゆゑの思ひならねどさよ衣
      なみだのきけばぬるる袖かな

いく程の日数もへだてで、このたびはつねのやうにてまゐりたれども、なにとやらむそぞろはしきやうなる事もあるうへ、いつしか人の物いひさがなさは、「大納言のひさうして女御まゐりのぎしきに、もてなしまゐらせたる」などいふ凶害どもいできて、いつしか女院の御方さま、心よからぬ御(ご)きそくに、なりもて行くより、いとど物すさまじき心ちしながら、まかよひゐたり。
 御夜がれといふべきにしもあらねど、つもる日数もすさまじく、又まゐる人のいだしいれも、人のやうにしさいがましく申すべきならねば、その道しばをするにつけても、世にしたがふはうきならひかな、とのみおぼえつつ、とにかくに、又此のごろやしのばれん、とのみおぼえて、あけくれつつ、秋にもなりぬ。


七 東二条院の御産

 この御産は後に「宮」「姫宮」「今御所」「女院」「遊義門院」など記される怜子内親王の御誕生と見なければならぬ。しかし史実によれば、それは昨年、文永七年九月十八日であり、ここに文永八年八月二十余日として記されたのは不審である。作者記憶の誤りか。それとも構想上、わざとこのように仕組んだものか。
 八月にや、東二条院の御産、すみの御所にてあるべきにてあれば、御としもすこしたかくならせ給ひたるうへ、さきざきの御産も、わづらはしき御ことなれば、みな、きもをつぶして、大法秘法のこりなく行はる。七仏薬師、五だんの御修法、普賢延命、金剛童子、如法愛染王などぞきこえし。五だんの軍荼利(ぐんだり)の法は、尾張の国に、いつもつとむるに、このたびは、ことさら御心ざしをそへてとて、金剛童子の事も、大納言申しざたしき。御験者には、成就院の僧正まゐらる。
 廿日あまりにや、その御けおはしますとて、ひしめく。いまいまとて、二三日過ぎさせおはしましぬれば、たれだれも、きも心をつぶしたるに、いかにとかや、かはる御気色みゆるとて、御所へ申したれば、いらせおはしましたるに、いとよわげなる御けしきなれば、御験者ちかくめされて、御几帳ばかりへだてたり。如法愛染の大阿闍梨にて、大御室(おむろ)、御伺候(ごしこう)ありしを、ちかく入れまゐらせ、「かなふまじき御けしきに見えさせ給ふ、いかがし侍るべき」と申されしかば、「定業亦能転(ぢやうごふやくのうてん)は、仏(ぶつ)ぼさつのちかひなり、さらに御大事あるべからず」とて、御念誦あるにうちそへて、御験者、証空が命にかはりける本尊にや、絵像(ゑざう)の不動、御前にかけて、「奉仕修行者猶如薄伽梵(ぶじしゆぎやうじやゆによばかぼん)、一持秘密呪生々而加護(いつぢひみつじゆしやうしやうにかご)」とて、ずずおしすりて、「我、幼少の昔は、念誦のゆかに夜をあかし、長大の今は、難行苦行に日をかさぬ、玄応擁護(げんおうおうご)のりやく、むなしからんや」と、もみふするに、すでにとみゆる御けしきあるに、ちからをえて、いとどけぶりもたつ程なる。女房たちの、ひとへがさね、すずしのきぬ、めむめむに、おしいだせば、御産奉行とりて、殿上人にたぶ。上下のほくめん、めむめむに、御誦経の僧にまゐる。階下(かいか)には、公卿着座して、皇子御たんじやうを、まつけしきなり。陰陽師は、庭に八脚(やつあし)をたてて、千度(せんど)の御はらへをつとむ。殿上人これをとりつぐ。女房たちの、袖ぐちを出だして、これをとりわたす。御随身、北面の下臈、神馬(じんめ)をひく。御拝ありて、廿一社へひかせらる。人間に生をうけて、女の身をうる程にては、かくてこそあらめと、めでたくぞみえ給ひし。七仏薬師の大阿闍梨召されて、伴僧三人、声すぐれたるかぎりにて、薬師経をよませらる。「見者歓喜(けんじやくわんぎ)」といふわたりを読むをり、御産なりぬ。まづ、うちと「あなめでた」と申す程に、うちへころばししこそ、ほいなくおぼえさせおはしまししかども、御験者のろくいしいしはつねの事なり。


八 後嵯峨院御悩

 御産七夜の御祝の後、夜半頃に怪異があり、それより後如嵯峨法皇御発病。
 このたびは、ひめ宮にては、わたらせ給へども、法皇ことにもてなしまゐらせて、五夜七夜など、ことに侍りしに、七夜のよ、ことどもはてて、院の御かたの常の御所にて、御物がたりあるに、丑の時ばかりに、たちばなの御つぼに、大風の吹くをりに、あらきいそに浪のたつやうなる音、おびたたしくするを、「なに事ぞ、見よ」と、おほせあり。見れば、かしらは、匙(かい)などいふもののせいにて、しだいに、さかづきほど、すつき程なるものの、あをめにしろきが、つづきて十ばかりして、尾はほそながにて、おびたたしくひかりて、とびあがりとびあがりする。「あなかなし」とて、にげ入る。ひさしに候ふ公卿たち、「なにか、みさわぐ、人だまなり」といふ。「大やなぎの下に、ふのりといふ物をときて、うちちらしたるやうなる物あり」などののしる。やがて御うらあり。法皇の御かたの御たまのよし、奏し申す。こよひよりやがて、招魂の御まつり、泰山府君など祭らる。かくて長月の頃にや、法皇御なやみといふ。はるる御ことにて、御きういしいしと、ひしめきけれども、さしたる御しるしもなく、日々に、おもる御けしきのみありとて、年もくれぬ。


九 天下諒闇

 文永九年正月末、後嵯峨上皇御危篤、嵯峨殿に遷り給う。後深草院(新院)は作者を共として嵯峨殿に御幸せられ、大宮院(後嵯峨上皇后妃)・東二条院(大宮院妹、後深草院后妃)は御同車で御匣殿(後深草院侍妾)を共として同じく嵯峨殿へ御幸。
 二月九日、両六波羅探題、お見舞いに参る。二月十一日亀山天皇行幸、十二日御滞在、御兄後深草院に御対面、共に父院の御悩を悲しみ給う。
 二月十五日、ついに先日お見舞いに参った南六波羅の北条時輔が討たれ、邸宅が焼かれる煙を遠望して作者は世の無常を痛感する。
 二月十七日、後嵯峨院崩御。十八日御葬送。
 あらたまの年どもにも、猶御わづらはしければ、何事もはえなき御事なり。正月のすゑになりぬれば、かなふまじき御さまなりとて、嵯峨御幸なる。御輿(みこし)にていらせ給ふ。新院やがて御幸、御車のしりにまゐる。両女院同車にて、御くしげ殿、御しりにまゐり給ふ。みちにてまゐるべき御煎(せん)じ物を、種成(たねなり)・師成(もろなり)二人して、御前にて御みづがめ二つに、したため入れて、経任(つねたふ)、北面の下らふ信友におほせて持たせられたるを、内野にて、まゐらせむとするに、二つながら露ばかりもなし。いとふしぎなりし事なり。それより、いとど臆(おく)せさせ給ひてやらん、御心(みここ)ちも重らせ給ひてみえさせおはしますなどぞ聞きまゐらせし。
 この御所は、大井どのの御所にわたらせ給ひて、ひまなく、男(をとこ)・女房・上臈・下臈をきらはず、「ただいまの程いかにいかに」と申さるる御つかひ、よるひる、ひまなきに、ながらうをわたるほど、大井河のなみの音、いとすさまじくぞおぼえ侍りし。
 きさらぎのはじめつかたになりぬれば、今は時をまつ御さまなり。九日にや、両六波羅、御とぶらひにまゐる。面々(めん/\)になげき申すよし、西園寺の大納言、披露(ひろう)せらる。十一日は行幸、十二日は御逗留(ごとうりう)、十三日還御などは、ひしめけども、御所のうちは、しめじめとして、いととりわきたる物(もの)の音(ね)もなく、新院、御対面ありて、かたみに、御涙所せき御(み)けしきも、よそさへ露のと申しぬべき心ちぞせし。
 さる程に、十五日の酉のときばかりに、都のかたに、おびたたしくけぶりたつ。いかなる人のすまひ所、あとなくなるにかと聞く程に、「六波羅の南方(みなみかた)、式部大輔討たれにけり。そのあとのけぶりなり」と申す。あへなさ、申すばかりなし。九日、は君の御病の御とぶらひにまゐり、けふともしらぬ御身に、さきだちて、またうせにける。東岱(とうたい)前後(ぜんご)のならひ、はじめぬ事ながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは、物などおほせらるる事も、いたく、なかりしかば、かやうの無常も知らせおはしますまでもなし。
 さるほどに、十七日のあしたより、御気色(みけしき)かはるとてひしめく。御善知識(おんぜんぢしき)には、経海(けいかい)僧正、又往生院の長老まゐりて、さまざま御念仏もすすめ申され、「今生にても十善のゆかをふんで、百官にいつかれましませば、よみぢ、未来もたのみあり。はやく上品上生のうてなにうつりましまして、かへりて、娑婆の旧里にとどめ給ひし衆生も、みちびきましませ」など、さまざま、かつはこしらへ、かつは教化(けうげ)し申ししかども、三趣(さんしゆ)の愛に心をとどめ、さむげの言葉に道をまどはして、つひに教化(けうげ)の言葉に、ひるがへし給ふ御(み)けしきなくて、文永九年二月十七日、酉の時、御年五十三にて、崩御なりぬ。一天かきくれて万民うれへにしづみ、花のころもで、おしなべて、みな黒みわたりぬ。
 十八日、薬草院殿へ、おくりまゐらせらる。内裏(だいり)よりも、頭の中将、御使にまゐる。御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院、みなみな、御ともにまゐらせ給ふ。その夜の御あはれさ、筆にもあまりぬべし。経任、さしも御あはれみふかき人なり、出家ぞせんずらんと、みな人申し思ひたりしに、御骨(おんこつ)のをり、なよらかなるしじらのかりぎぬにて、へいしにいらせ給ひたる御骨(おんこつ)を持たれたりしぞ、いと思はずなりし。新院、御なげきなべてにはすぎて、よるひる、御涙のひまなくみえさせ給へば、さぶらふ人々も、よその袖さへしほりぬべきころなり。天下りやうあんにて、音奏警蹕(おんそうけいひつ)とどまりなどしぬれば、花もこの山のは、すみぞめにや開(さ)くらんとぞおぼゆる。大納言は人より黒き御色を給はりて、この身にも、御素服(おんそふく)をきるべき由を申されしを、「いまだ幼なきほどなれば、ただおしなべたる色にてありなん、とりわき染めずとも」と、院の御かた御けしきあり。


一〇 大納言の嘆き

 作者の父雅忠は後嵯峨院の崩御を嘆き、出家を願い出たが御許しがない。とかくするうちに亀山天皇(大覚寺統)と後深草上皇(持明院統)との不和が生じ、鎌倉幕府へ御使いが下るという煩わしい事件が生じて五月になった。
 さても大納言、たびたび大宮院、新院のかたへ、出家のいとまを申さるるに、おぼしめすしさいありとて、御ゆるされなし。人より、ことに侍るなげきのあまりにや、日ごとに御墓にまゐりなどしつつ、かさねて、実定の大納言をもちて、新院へ申さる。「九さいにして、はじめて君にしられたてまつりて、朝廷にひざまづきしより、このかた、時にしたがひ、をりにふれ、御めぐみならずといふ事なし。ことに、父におくれ、母のふけうをかうぶりても、なほ君の恩分(おんぶん)を重くして、奉公の忠をいたす。されば、官位昇進(くわんゐしようしん)、理運(りうん)をすぎて、猶めんぼくをほどこししかば、叙位、除目の朝(あした)には、ききがきをひらきて、ゑみをふくみ、内外にうらみなければ、公事(くじ)につかふるに物うからず。ほうらいきうの月をもてあそんで、豊の明りの夜な夜なは、淵酔舞楽(ゑんすゐぶがく)に袖をつらねて、あまたとし、臨時調楽(りんじてうがく)のをりをりは、小忌(をみ)の衣(ころも)にたちなれて、みたらし河にかげをうつす。すでに、身正二位大納言、一らう、氏の長者をけむす。すでに大臣のくらゐを、さづけ給ひしを、近衛大将をふべきよしを、道■右大将かきおく状を申し入れて、この位を辞退申すところに、君すでにかくれましぬ。我、世にありとも、たのむかげかれはてて、立ちやどるべきかたなく、なにの職にゐても、そのかひなくおぼえ侍る。よはひすでにいそぢにみちぬ、のこりいくとせか侍らん。恩をすてて無為に入るは、しんじちの報恩なり。御ゆるされをかうぶりて、本意をとげ、聖霊の御跡をもとぶらひ申すべき」よし、ねんごろに申されしを、かさねてかなふまじきよしおほせられ、又ぢきにも、さまざまおほせらるることもありしかば、一日二日すぎ行く程に、わするる草のたね生へけるにはあらねども、自然にすぎつつ、御仏事なにかのいとなみに、あかしくらしつつ、御四十九日にもなりぬれば、御仏事などはてて、みな都へかへりいらせおはしますほどより、御政務(ごせいむ)のことに、関東へ御使下されなどすることも、わづらはしくなり行くほどに、あはれ、さつきになりぬ。


一一 大納言発病

 五月十四日、父雅忠発病。七月十四日、雅忠は六角櫛笥の家から河崎邸に移り、すでに死を観念して作者を呼ぶ。しかし作者の妊娠を知ると、皇子御誕生に希望をかけ、再起を祈願する。
 五月はなべて、袖にも露のかかる頃なればにや、大納言のなげき、秋にもすぎて露けくみゆるに、さしも一夜も、あだにはねじとするに、さやうの事も、かけてもなく、さけなどのあそびもかきたえ、なきゆゑにや、如法、やせおとろへたるなど申す程に、五月十四日の夜、おほたになる所にて、念仏のありし、聴聞(ちやうもん)して帰る車にて、御せむなどもありしに、「あまりに色の黄にみえ給ふ、いかなる事ぞ」など申しいだしたりしを、あやしとて、くすしにみせたれば、「きやまひといふことなり、あまりに物を思うて、つくやまひなり」と申して、灸治(きうぢ)あまたする程に、いかなるべき事にかと、あさましきに、しだいにおもり行くさまなれば、思ふはかりなくおぼゆるに、わが身さへ六月のころよりは、心ちもれいならず、いとわびしけれども、かかる中なれば、なにとかはいひ出づべき。
 大納言は、「いかにもかなふまじき事とおぼゆれば、御所の御ともにいま一日もとくと思ふ」とて、いのりなどもせず、しばしは六角櫛笥(ろくかくくしげ)の家(や)にてありしが、七月十四日のよ、かはさきの宿所へうつろひしにも、をさなきこどもはとどめおきて、しづかに臨終(りんじゆう)のことどもなど思ひしたためたき心ちにて、おとなしき子の心ちにて、ひとりまかりて侍りしに、ここちれいざまならぬを、しばしは、我がことをなげきて物などもくはぬと思ひて、とかくなぐさめられし程に、しるき事のありけるにや、「ただならずなりにけり」とて、いつしかわが命をも、此のたびばかりはと思ひなりて、はじめて中堂にて如法、泰山府君(たいざんぶくん)といふ事、七日まつらせ、日吉にて七やしろの七ばんのしばでんがく、八幡にて、一日の大般若(はんにや)、河原にて、石の塔、なにくれとさたせらるるこそ、我が命のをしさにはあらで、この身の事の行末の見たさにこそと覚えしさま、つみふかくこそおぼえ侍れ。


一二 風待つ露

 七月二十日頃、作者はまず河崎邸から御所に帰る。院は作者の妊娠を聞いて、一しお憐れをかけられるが、作者には、それもいつまでつづくことかと思われ、又御匣殿が先月お産で死なれたこと、父の病気が次第に重くなってゆくことなどが心細い。
 七月二十七日の夜、院は作者を寝殿に連れ出して、心からやさしく慰めて下さる。その夜ふけに河崎から急の使いがあり、作者は取りあえず河崎へ行く。あとを追うように院が河崎へ御幸なされ、雅忠をいたわり、互に悲しい対話をかわされる。
 二十日ごろには、さのみいつとなき事なれば、御所へまゐりぬ。ただにもなきなど、おぼしめされて後は、ことにあはれども、かけさせおはしますさま、なにも、いつまで草のとのみおぼゆるに、みくしげ殿さへ、この六月に、産するとて失せ給ひにしも、人の上かはと恐ろしきに、大納言のやまひのやう、つひにはかばかしからじとみゆれば、なにとなるみの、とのみなげきつつ、七月もすゑになるに、廿七日の夜にや、つねよりも御人すくなにてありしに、「寝殿のかたへいざ」とおほせありしかば、御ともにまゐりたるに、人のけはひもなき所なれば、しづかにむかしいまの御物がたりありて、「無常のならひも、あぢきなくおぼしめさるる」など、さまざま、おほせありて、「大納言もつひには、よもとおぼゆる。いかにもなりなむ。いとどたのむかたなくならんずるこそ。我よりほかは誰かあはれもかけんとする」とて、御涙もこぼれぬれば、とふにつらさもいとかなし。月なきころなれば、とうろの火かすかにて、うちもくらきに、人しれぬ御物がたり、さ夜ふくるまでになりぬるに、うちさわぎたる人音してたづぬ。たれならむといふに、河崎より、いまと見ゆるとて、つげたるなりけり。
 とかくの事もなく、やがていづるみちすがらも、はや、はてぬとやきかむと思ひ行くに、いそぎ行くと思へども、みちのはるけさ、あづまぢなどを、わけん心ちするに、行きつきてみれば、猶、ながらへておはしけりと、いとうれしきに、「風まつ露もきえやらず、心ぐるしく思ふに、ただにもなしとさへ見おきて、ゆかんみちの空なく」など、いとよわげに、なかるる程に、ふけゆく鐘のこゑ、ただいまきこゆる程に御幸といふ。いと思はずに、やまひ人も思ひさわぎたり。御車さしよする音すれば、いそぎ出でたるに、北面の下らふ二人、殿上人一人にて、いとやつして、いらせ給ひたり。廿七日の月、ただいま山のはわけいづる光もすごきに、われもかう織りたるうす色の御小直衣にて、とりあへず、おぼしめしたちたるさまも、いとおもだたし。「いまは、狩の衣を、ひきかくる程のちからも侍らねば、みえたてまつるまでは思ひより侍らず。かくいりおはしましたると、うけたまはるなん、いまはこの世の思ひ出なる」よしを奏し申さるる程なく、やがてひきあけて、いらせ給ふほどに、おきあがらむとするも、かなはねば、「たださてあれ」とて、まくらに御座(ござ)をしきて、ついゐさせ給ふより、袖の外(ほか)までもる御涙も所せく、「御をさなくよりなれつかうまつりしに、いまはときかせおはしましつるも悲しく、いま一(いち)どとおぼしめし立ちつる」などおほせあれば、「かかる御(み)ゆきのうれしさもおき所なきに、この者が、心ぐるしさなん思ひやる方なく侍る。ははには、二葉にておくれにしに、我のみとおもひはぐくみはべりつるに、ただにさへ侍らぬを見おき侍るなん、あまたのうれへにまさりて、かなしさも、あはれさも、いはんかたなく侍る」よし、なくなく奏せらるれば、「程なき袖を。我のみこそ。まことのみちのさはりなく」などこまやかにおほせありて、「ちとやすませおはしますべし」とて、たたせ給ひぬ。
 明けすぐる程に、いたくやつれたる御さまも、そらおそろしとて、いそぎいで給ふに、久我太政大臣の琵琶とて持たれたりしと、後鳥羽院の御太刀を、はるかにうつされ給ひけるころとかや、太政大臣に給はせたりけるとてありしを、御車にまゐらすとて、はなだのうすやうのふだにて、御太刀の緒に結びつけられき。

   わかれてもみよの契のありときけば
      なほ行末をたのむばかりぞ

「あはれに御らんぜられぬる。なに事も心やすく思ひおけ」など、返す返すおほせられつつ、還御なりて、いつしか御身づからの御てにて、

   このたびはうき世のほかにめぐりあはん
      まつ暁の有明の空

なにとなく御心に入りたるも、うれしくなど思ひおかれたるも、あはれにかなし。


一三 最後の教訓

 八月二日、善勝寺大納言隆顕(作者母方の叔父)、帝の御使として河崎邸に来る。雅忠喜んで饗応する。その夜、死を覚悟した雅忠は、作者に最後の教訓を与える。
 八月二日、いつしか善勝寺大納言、御帯(おんおび)とてもちてきたり。「『諒闇(りやうあん)ならぬ姿にてあれ』と、おほせ下されたる」とて、直衣にて、ぜむくう・さぶらひ、ことごとしくひきつくろひたるも、見るをりとおぼしめしいそぎけるにやとおぼゆ。やまひ人もいとよろこびて、勧盃(けんぱい)などいひ、いとなまるるぞ、これやかぎりとあはれにおぼえ侍りし。御室(おむろ)より給はりて秘蔵せられたりし、しほがまといふ牛をぞ、ひかれたりし。
 今日などは、心ちも少しおこたるやうなれば、もしやなど思ひゐたるに、ふけぬれば、かたはらにうちやすむと思ふほどに、ね入りにけり。おどろかされて起きたるに、「あなはかなや、けふあすとも知らぬみちに出でたつなげきをも、わすられて、ただ心ぐるしきことをのみ、思ひゐたるに、はかなくねたるを見るさへかなしうおぼゆる。さても二つにて母にわかれしより、我のみ心ぐるしく、あまた子どもありといへども、おのれ一人に三千の寵愛も、みなつくしたるここちを思ふ。ゑめるを見ては、百(もも)のこびありと思ふ、うれへたるけしきを見ては、ともになげく心ありて、十五年の春秋を送りむかへて、いますでにわかれなんとす。君につかへ、世にうらみなくは、つつしみておこたる事なかるべし。思ふによらぬ世のならひ、もし君にも世にも恨もあり、世にすむ力なくば、いそぎてまことのみちに入りて、我が後生をも助かり、ふたりの親の恩をもおくり、ひとつはちすのえんといのるべし。世にすてられ、たよりなしとて、また異君(こときみ)にもつかへ、もしはいかなる人の家にもたちよりて、よにすむわざをせば、なきあとなりとも、不孝(ふけう)の身(み)と思ふべし。ふさひのことにおきては、この世のみならぬ事なればちからなし。それもかみをつけて、かうしよくの家に名をのこしなどせんことは、返す返すうかるべし。ただ世をすててのちは、いかなるわざもくるしからぬ事なり」など、いつよりも、こまやかにいはるるも、これやをしへのかぎりならんとかなしきに、あけ行く鐘のこゑきこゆるに、れいの、したにしく、おほばこのむしたるを、仲光もちてまゐりて、しきかへんといふに、「いまはちかづきておぼゆれば、なにもよしなし。なにまれ、まづこれに食はせよ」といはる。ただいまはなにをかと思へども、しきりに「我が見るをり、とくとく」といはるるより、いまばかりこそ見られたりとも、後はいかにと、あはれにおぼえしか。いもまきといふ物を、かはらけにいれて、もちてきたれば、かかる程にはくはせぬ物をとて、よにわろげに思ひたるもむつかしくて、まぎらかしてとりのけぬ。


一四 涙の海

 文永九年八月三日朝、雅忠五十歳にて薨去。四日夜、神楽岡にて火葬。
 あけはなるるほどに、「ひじりよびにつかはせ」などいふ。七月のころ、八坂の寺の長老よびたてまつりて、いただきそり、五戒受けて、れんせうとなづけられて、やがて、善知識と思はれたりしを、などいふ事にか、三条の尼上、「河原の院の長老しやう光房といふものに沙汰せさせよ」と、しきりにいひなして、それになりぬ。かはるけしきありとつげたれども、いそぎもみえず。さる程にすでにとおぼゆるに、「起せ」とて、仲光といふは、仲綱が、ちやくしにてあるを、幼なくよりおほしたてて身はなたず使はれしをよびて、起されて、やがて、うしろに置きて、よりかかりのまへに、女房ひとりよりほかは人なし。これはそばにゐたれば、「手のくびとらへよ」といはる。とらへて居たるに、「ひじりのたびたりし、袈裟は」とて、こひいでて、ちやうけんのひたたれの、上(かみ)ばかり着て、その上(うへ)にけさかけて、「念仏、仲光も申せ」とて、二人して時のなからばかり申さる。日の、ちとさしいづる程に、ちとねぶりて、左のかたへ、かたぶくやうにみゆるを、猶よくおどろかして、念仏申させたてまつらんと思ひて、ひざをはたらかしたるに、きとおどろきて目を見あぐるに、あやまたず見あはせたれば、「なにとならんずらんは」といひもはてず、文永九年八月三日、辰のはじめに、とし五十にてかくれ給ひぬ。念仏のままにて終らましかば、行未もたのもしかるべきに、よしなくおどろかして、あらぬ言(こと)の葉(は)にて、いきたえぬるも心うく、すべてなにと思ふはかりもなく、天にあふぎてみれば、日月地におちけるにや光もみえぬ心地し、地にふしてなくなみだは河となりて流るるかと思ひ、母には、二つにておくれにしかども、心なき昔は、覚えずしてすぎぬ。生をうけて四十一日といふより、はじめて、ひざのうへにゐそめけるより、十五年の春秋をおくりむかふ。朝には、かがみをみるをりも、たが影ならむとよろこび、夕に、衣を着るとても、たが恩ならんと思ひき。こたいみふんをえしことは、その恩、迷蘆八万(めいろはちまん)のいただきよりもたかく、養育扶持(やういくふち)の心ざし、母にかはりてせつなりしかば、その恩、又四大海の水よりもふかし。何と報じ、いかにむくいてか、あまりあらむと思ふより、をりをりの言(こと)の葉(は)は、思ひいづるも、わすれがたく、いまをかぎりのなごりは、身にかへても、猶のこりありぬべし。ただそのままにて、なりはてむさまをもみるわざもがなと思へども、かぎりあれば、四日のよ、神楽岡(かぐらをか)といふ山へ送り侍りし。むなしきけぶりにたぐひてもともなふみちならばと、思ふもかひなき袖の涙ばかりを、かたみにてぞかへり侍りし。むなしきあとを見るにも、夢ならではと悲しく、昨日(きのふ)のおもかげをおもふ。いまとてしもすすめられし事さヘ、返すがへすなにといひつくすべき言(こと)の葉(は)もなし。

   わが袖の涙のうみよみつせ河に
      ながれてかよへかげをだにみん


一五 人のなきあと

 八月五日、家司仲綱出家。九日、北の方・女房二人・侍二人出家。三七日忌に後深草院から御弔問。かかる折から京極女院(亀山院后)崩。作者はここに、源基具(雅忠のいとこの子)が父の死を弔問せぬことを非常識だと附記している。
 五日夕がた、仲綱こきすみぞめのたもとになりて参りたるを見るにも、大臣のくらゐにゐ給はば、四品(しほん)の家司(けいし)などにてあるべき心ちをこそ思ひつるに、おもはずに、ただいま、かかるたもとを見るべくとはと、いとかなしきに、「御墓へまゐり侍る。御ことづけや」といひて、かれもすみぞめの袂、かわく所なきを見て、涙おとさぬ人なし。
 九日は、はじめの七日に、北の方、女房二人、さぶらひ二人出家し侍りぬ。八坂のひじりをよびつつ、流転三界中(るてんさんがいちう)とて、そりすてられしを見るここち、うらやましさをそへて、あはれもいはむかたなし。おなじ道にとのみ思へども、かかるをりふしなれば、思ひよるべき事ならねば、かひなきねのみなきゐたるに、三七日をば、ことさらとりいとなみしに、御所よりも、まことしく、さまざまの御とぶらひどもあり。御使は一二日に、へだてずうけたまはるにも、見給はましかばとのみ悲しきに、京極の女院と申すは、実雄のおとどの御むすめ、当代のきさき、皇后宮とて御おぼえも人にはことにて、春宮の御母にておはしますうへは、御身がらといひ、御としといひ、惜しかるべき人なりしに、つねはもののけに、わづらひ給へば、又このたびも、さにやなどみな思ひたるに、はや御こときれぬといひさわぐをきくにも、おとどのなげき、うちの御おもひ、身にしられていと悲し。
 五七日にもなりぬれば、水晶のずず、をみなへしのうち枝につけて、ふしやにとて給ふ。おなじふだに、

   さらでだに秋は露けき袖の上に
      昔をこふる涙そふらん

かやうの文をも、いかにせんと、もてなしよろこばれしに、「こけのしたにも、さこそと、置所(おきどころ)なくこそ」とて、

   思へたださらでもぬるる袖の上に
      かかるわかれの秋のしら露

ころしも秋のながきねざめは、物ごとに悲しからずといふ事なきに、千万声のきぬたの音をきくにも、袖にくだくる涙の露をかたしきて、むなしき面影(おもかげ)をのみしたふ。
 露きえにし朝は、御所御所の御つかひよりはじめ、雲(くも)の上人(うへびと)おしなべて、たづねこぬ人もなく、つかひをおこせぬ人なかりし中に、基具の大納言ひとりおとづれざりしも、よのつねならぬ事なり。


一六 すさみごと

 九月十余日、作者が中陰に籠もっている河崎邸を実兼(雪の曙)が訪問して一夜語り明かした事。作者はこの会見をここに「すさみごと」と記している。「すさみごと」とは、心の進むにまかせて感興に耽ることを言い、軽く見れば「慰みごと」、重く見れば「耽溺」である。「問はず語り」では、後の二一段で実兼との密会を記して同じく「すさみごと」と言っている。ここのは「慰みごと」であり、二一段のは「耽溺」である。要するに作者と実兼の関係は、友情的保護者的愛情と、性的恋愛の交錯を以てこの作品を貫いている。とにかく第二段で作者に衣服を贈った事を初め、この段でも後の段でも人物を明らかに示さず、四七段から「雪の曙」という称を用い始める。
 そのをりの、そのあかつきより日をへだてず、「心のうちはいかに」ととぶらひし人の、なが月の十日あまりの月をしるべに、たづね入りたり。なべてくろみたるころなれば、無文の直衣姿なるさへ、我が色にまがふここちして、人づてにいふべきにしあらねば、寝殿の南向にてあひたり。むかしいまのあはれとりそへて、「ことしはつねの年にもすぎて、あはれおおかる、袖のひまなき、一とせの雪の夜のくこんのしき、つねに逢見よとかやも、せめての心ざしとおぼえし」など、泣きみ、笑ひみ、よもすがらいふ程に、あけ行くかねのこゑきこゆるこそ、げに逢ふ人からの秋のよは、言葉(ことば)のこりて鳥なきにけり。「あらぬさまなる朝がへりとや、世にきこえん」などいひて、かへるさのなごりも多き心ちして。
 
   わかれしもけさの名残をとりそへて
      おきかさねぬる袖の露かな

はしたものして、車へつかはし侍りしかば、

   名残とはいかが思はん別れにし
      袖の露こそひまなかるらめ

夜もすがらの名残も、たがたまくらにかと、我ながらゆかしき程に、けふは思ひ出でらるるをりふし、ひわだの狩衣きたるさぶらひ、文のはこをもちて中門のほどにたたずむ。かれよりのつかひなりけり。いとこまやかにて、

   忍びあまりただうたたねの手枕に
      露かかりきと人やとがむる

よろずあはれなるころなれば、かやうのすさみごとまでも、なごりある心ちして、我もこまごまとかきて、

   秋の露はなべて草木におく物を
      袖にのみとは誰かとがめん


一七 ゆきちがひ

 作者の異母弟雅顕が願主で四十九日の法要が河崎邸で行われた。今まで中陰で河崎邸に籠もっていた人々が、それぞれの家に帰る。作者は四条大宮のめのとの家に移った。
 四十九日には、雅顕の少将が仏事、河原の院のひじり、例の「鴛鴦(ゑんあう)のふすまのした、比翼の契」とかや、これにさへいひふるしぬる事のはてしのち、憲実(けんじち)法印導師にて、文どものうらに、身づから法花経をかきたりし、供養させなどせしに、三条の坊門の大納言、万里の小路、善勝寺の大納言など、聴聞にとておはして、めむめむにとぶらひつつ、かへるなごりもかなしきに、今日はゆきちがひなれば、めのとが宿所、四条大宮なるにまかりぬ。帰るたもとの袖の露は、かこつ方なきに、なにとなくつどひゐて、なげかしさをも、いひあはせつる人々にさへはなれて、ひとりゐたる心のうち、いはん方なし。


一八 心のほかの新枕

 作者が中陰に籠もっている間にも院は忍んで河崎邸に御幸なされ、「五十日祭が過ぎたら出仕するように」と仰せられたが、作者は気が進まない。そのうちに中陰も過ぎて作者は四条大宮のめのとの家に移る。そこへ院から「余り長く里住みをするのもどうか。早く出仕せよ」との仰せがある。しかしなお里住みをつづけて十月になった。
 十月十余日、実兼からの使で、「毎日にも逢いたく思うが遠慮をしている」との事。その使が、四条大宮の家の築地のくずれに植えてある荊を切って帰る。その夜実兼は、そこから忍び入って作者と枕をかわす。作者はそれを「御夢にや見ゆらんといと恐ろし」と書いている。源氏物語における空蝉の心である。翌日の昼頃、院から作者の不出仕を恨む御文が来る。
 さても、いぶせかりつる日数の程だに、しのびつついらせおはしまして、「なべてやつれたる頃なれば、色のたもともくるしかるまじければ、いかき五旬すぎなばまゐるべき」よしおほせあれども、よろづ物うき心ちしてこもりゐたるに、四十九日は九月廿三日なれば、なきよわりたるむしの音も、袖の露をこととひていとかなし。御所よりは、「さのみさとずみも、いかにいかに」とおほせらるるにも、うごかれねば、いつさし出づべき心ちもせで、神無月にもなりぬ。
 十日あまりの頃にや、又つかひあり。「日をへだてずも申したきに、御所の御使など見あひつつ、ころともしらでとや、おぼしめされんと、心のほかなる日かずつもる」などいはるるに、このすまひは四条大宮のすみなるが、四条おもてと大宮とのすみのついぢ、いたうくづれのきたる所に、さるとりといふうばらを植ゑたるが、ついぢのうへへはひ行きて、もとのふときが、ただ二もとあるばかりなるを、「このつかひみて、『ここには番の人侍るな』といふに、『さもなし』と人いへば、『さてはゆゆしき御かよひぢになりぬべし』といひて、このむばらのもとをかたなして、きりてまかりぬ」といへば、とはなに事ぞと思へども、かならずさしも思ひよらぬほどに子一つばかりにもやと思う月かげに、つまどを忍びてたたく人あり。中将といふわらは、「くひなにや、思ひよらぬ音かな」といひて、あくるときく程に、いとさわぎたるこゑにて、「ここもとにたち給ひたるが、立ちながら対面せんとおほせらるる」といふ。思ひよらぬ程の事なれば、なにと、いらへいふべき言(こと)の葉(は)もなく、あきれゐたるほどに、かくいふこゑをしるべにや、やがてここもとへいり給ひたり。もみぢをうき織りたる狩衣に、紫苑にや、指貫の、ことにいづれもなよらかなる姿にて、まことにしのびけるさましるきに、「思ひよらぬ身の程にもあれば、御心ざしあらば、のちせの山の後には」などいひつつ、こよひはのがれぬべく、あながちにいへば、「かかる御身のほどなれば、つゆ御うしろめたきふるまひあるまじきを、年月の心の色を、ただのどかに、いひきかせん、よそのかりふしは、みもすそ河の神もゆるし給ひてん」など、心きよくちかひ給へば、例の心よわさは、いなともいひつよりえでゐたれば、よるのおましにさへいり給ひぬ。ながき夜すがら、とにかくに、いひつづけ給ふさまは、げにから国のとらも涙おちぬべき程なれば、石木(いはき)ならぬ心には、身にかへんとまでは思はざりしかども、心の外の新枕は、御夢にやみゆらんと、いとおそろし。鳥の音におどろかされて、夜ふかくいで給ふも、名残をのこすここちして、又ねにやとまでは思はねども、そのままにてふしたるに、まだしののめもあけやらぬに、文あり。

 「かへるさは涙にくれて有明の月さへつらきしののめの空。いつの程につもりぬるにか、くれまでの心づくし、きえかへりぬべきを、なべてつつましき世のうさも」などあり。御返事には、
 
   帰るさのたもとはしらずおもかげは
      袖の涙にありあけのそら

かかる程には、しひてのがれつるかひなくなりぬる身のしきも、かこつ方なく、いかにもはかばかしからじとおぼゆる行くすゑも、おしはかられて、人しらぬなくねも、露けきひるつかた、文あり。「いかなるかたに思ひなりて、かくのみさとずみ久しかるらん、この頃はなべて御所さまもまぎるるかたなく、御人すくななるに」など、つねよりもこまやかなるも、いとあさまし。


一九 お好みの白物

 翌日の事。まだ宵の間に実兼が訪ねて来た。あいにく平素は不在がちな主人の入道が帰って来て、子息たちも大勢集まって来る。ここに「おばば」と記されているのは作者の乳母で、主人仲綱入道の妻で、これが又、お人よしなのだが、たしなみのない老女で、作者の情事を推察するような頭はとんと働かない。作者を家族の仲間に呼出して酒を飲んで遊ぼうと呼びに来る。作者は実兼を寝所に隠しておいて、気分が悪いからとことわる。家族たちの部屋は作者の部屋と庭つづきの近い所だから、話し声が筒抜けに聞こえて来る。あたかも源氏物語の夕顔の宿のおもむきである。作者は男の手前、穴にでも入りたい思いをしたが、又それは、一生に一度とでもいうべきおかしい夜でもあった。作者はこの夜の事を思い出すと、どんな悲しい時にも、吹き出しそうになるのであった。
 くるれば、こよひはいたくふかさでおはしたるさへ、そらおそろしく、はじめたる事のやうに覚えて、物だにいはれずながら、めのとの入道なども、出家ののちは、千本のひぢりのもとにのみすまひたれば、いとどたちまじるをのこごもなきに、こよひしも、「めづらしくさとゐしたるに」などいひてきたり。めのとごどももつどひゐて、ひしめくも、いとどむつかしきに、御ばばにてありしものは、さしものふる宮の御所にて、おひいでたる者ともなく、むげに用意なく、ひたさわぎに、今姫君がははしろていなるが、わびしくて、いかなる事かと思へども、「かかる人の」などいひしらすべきならねば、火などもともさで、月影みるよしして、ね所に、この人をば置きて、障子のくちなるすびつに、よりかかりてゐたる所へ、御ばばこそいできたれ。あなかなしと思ふほどに、「秋の夜ながく侍る。たきぎなどして、あそばせ侍らむと、御てて申す。いらせ給へ」と訴訟(そしよう)がほになりかへりていふさまだに、いとむつかしきに、「なに事かせまし。たれがしさぶらふ。かれも候ふ」など、ままこ、じちのこがなのりいひつづけ、くこんのしき、行ふべきこと、いしいし、いよのゆげたとかや、かぞへゐたるもかなしさに、「心ちわびしき」などもてなしてゐたれば、「れいのわらはが申す事をば、御みみにいらず」とてたちぬ。
 なまさかしく、女ごをば、ちかくをにや、いひならはして、つねのゐ所も、にはつづきなるに、さまざまの事ども、きこゆるありさまは、夕顔のやどりに、ふみとどろかしけんからうすの音をこそ聞かめとおぼえて、いとくちをし。とかくのあらましごとも、まねばむも、中々にて、もらしぬるも、ねんなくとさへおぼえ侍れども、ことがらもむつかしければ、とくにだにしづまりなんと思ひて、ねたるに、かどいみじくたたきてくる人あり。誰ならんとおもへば、仲頼なり。「はいぜんおそくて」などいひて、「さてもこの大宮のすみに、ゆゑある八葉(あちえふ)の車(くるま)たちたるを、うちよりてみれば、車の中にともの人は、一はたねたり。とうに牛はつなぎてありつる。いづくへ行きたる人の車ぞ」といふ。あなあさましときく程に、れいの御ばば、「いかなる人ぞと人して見せよ」といふ。御ててがこゑにて、「なにしにか見せける、人のうへならむに、よしなし。又、御さとゐのひまをうかがひて、忍びつつ入りおはしたる人もあらば、ついぢのくづれよりうちもねななむとてもやあるらん。ふところのうちなるだに、たかきもいやしきも、女はうしろめたなし」などいへば、又御ばば、「あなまがまがし。たれかまゐり候はん。御幸ならば、又なに故か、しのび給はん」などいふも、ここもとにきこゆ。「六位しゆくせとや、とがめられん」と、御ばばなる人いはるるぞ、わびしき。こさへ、いま一人そひてひしめく程に、ねぬべきほどもなきに、きこゆる物どもいできたりとおぼしくて、「こなたへと申せ」と、さざめく。人きてあんないすなり。まへなる人、「御心ちをそむじて」といふに、うちの障子あららかにうちたたきて御ばばきたり。いまさら、知らぬもののこん心ちして、むねさわぎ、おそろしきに、「御心ちはなに事ぞ。ここなるもの御らんぜよ。なうなう」と、枕の障子をたたく。さてしもあるべきならねば、「心ちのわびしくて」といへば、「御このみのしろ物なればこそ申せ。無きをりは御たづねある人の、申すとなれば、れいのこと。さらば、さてよ」とつぶやきていぬ。をかしくもありぬべき言(こと)の葉(は)とも、いひぬべきとおぼゆるを、しぬばかりにおぼえてゐたるに、「御たづねのしろ物は、なににか侍る」とたづねらるる。霜・雪・霰と、やさばむとも、まことしく思ふべきならねば、ありのままに、「世のつねならず白き色なるくこんを、ときどきねがふ事の侍るを、かく名だたしく申すなる」といらふ。「かしこくこよひまゐりてけり。御わたりのをりは、もろこしまでも白き色をたづね侍らむ」とて、うち笑はれぬるぞ、わすれがたきや。うきふしには、これ程なる思ひいで、過ぎにしかたも行くすゑも、又あるべしとも覚えばとよ。


二〇 六趣出づる志

 実兼と逢う日が重なるにつれて、御所へ出る気になれなくなる。そのうちに母方の祖母の喪にこもることになった。院から出仕をうながして夕方迎えの車をやると仰せになったので、祖母の死を申しあげると弔問の御歌を下さった。
 十一月の初めに出仕したが、何となくつらい思いがする。院は親切にして下さるけど、自分はただもう出家をしたいとばかり思うて、月の末には又里へかえった。
 かくしつつ、あまた夜もかさなれば、心にしむふしぶしもおぼえて、いとど思ひたたれぬほどに、神無月廿日ころより、ははかたのうば、権大納言わづらふ事ありといへども、いましも露のきゆべしとも、みるみるおどろかで侍るほどに、いく程の日かずもつもらで、はやはてぬとつげたり。ひんがし山禅林寺あやとといふわたりに、家居して、としごろになりぬるを、けふなんいまはとききはてぬるも、夢のゆかりの、かれはてぬるさまの心ぼそき、うちつづきぬるなど覚えて、
 
   秋の露ふゆのしぐれにうちそへて
      しぼりかさぬるわが袂かな

この程は御おとづれのなきも、我があやまちのそらにしられぬるにやと、あむぜらるるおりふし、「このほどのたえまをいかにと」など、つねよりもこまやかにて、この暮にむかへに給ふべきよしみゆれば、「一昨日にや、むばにて侍りしおい人、むなしくなりぬと申す程に、ちかきけがれもすぐしてこそ」など申して、

   思ひやれすぎにし秋の露に又
      涙しぐれてぬるるたもとを

たちかへり、

   かさねける露のあはれもまだしらで
      今こそよその袖もしほるれ

十一月のはじめつかたにまゐりたれば、いつしか世の中もひきかへたき心ちして、大納言の面影(おもかげ)も、あそこここにとわすられず、身もなにとやらん、ふるまひにくきやうにおぼえ、女院の御方さまもうらうらとおはしまさず、とにかくに物うきやうにおぼゆるに、兵部卿、善勝寺などに、「大納言がありつるをりのやうに見さたして候はせよ。しやうぞくなどは、かみへまゐるべき物にて」など、おほせ下さるるは、かしこきおほせごとなれども、ただ、とくして、世のつねの身になりて、しづかなるすまひして、ちちははの後生をもとひ、六趣(ろくしゆ)をいづる身ともがなとのみおぼえて、又この月のすゑにはいで侍りぬ。


二一 醍醐の山寺

 文永九年十二月。作者は醍醐の尼寺勝倶胝院に籠もる。そこへ院が御幸せられて一夜を明かされる。数日を隔てて二十七日の頃、実兼が二夜いつづけて帰る。作者は三十日に四条大宮のめのとの家に帰る。
 醍醐(だいご)の勝倶胝(しようくてい)院の真願房は、ゆかりある人なれば、まかりて法文をもききてなど思ひて侍れば、けぶりをだにもとて、しばをりくべたる冬のすまひ、かけひの水のおとづれも、とだえがちなるに、年くるるいとなみも、あらぬさまなるいそぎにてすぎ行くに、廿日あまりの月のいづるころ、いとしのびて御幸(ごかう)あり。あじろぐるまの、うちやつれ給へるものから、御車のしりに善勝寺ぞまゐりたる。「伏見の御所の御程なるが、ただいましも、おぼしめしいづる事ありて」ときくも、いつあらはれてとおぼゆるに、こよひは、ことさらこまやかにかたらひ給ひつつ、あけ行くかねにもよほされて、たち出でさせおはします。有明(ありあけ)は西にのこり、ひむがしの山のはにぞ横雲わたるに、むらぎえたる雪のうへに、又ちりかかる花のしら雪も、をりしりがほなるに、無文(むもん)の御直衣に、おなじ色の御さしぬきの御すがたも、我がにぶめる色にかよひて、あはれにかなしく見たてまつるに、あかつきのおこなひに出づるあまどもの、なにとしも思ひわかぬが、あやしげなるころもに、まげさなどやうの物、けしきばかりひきかけて、「晨朝(しんてう)さがり侍りぬ。たれがし房は、なにあみだ仏」などよびありくも、うらやましく見ゐたるに、北面の下らふどもも、みなにぶめるかり衣にて、御くるまさしよするをみつけて、いましもことありがほに、にげかくるるあまどももあるべし。「又よ」とていで給ひぬる御なごりは、袖の涙にのこり、うちかはし給へる御うつりがは、わが衣(ころも)でにしみかへる心ちして、おこなひのおとを、つくづくとききゐたれば、「輪王くらゐたかけれど、つひには三途にしたがひぬ」といふもんを唱(とな)ふるさへ耳につき、ゑかうして、はつるさへ、なごりをしくて明けぬれば文(ふみ)あり。「けさの有明のなごりは、わがまだしらぬ心ちして」などあれば、御返(おかえり)には、

   君だにもならはざりける有明の
      おもかげのこる袖をみせばや

 としののこりも、いま三日ばかりやとおもふ夕つかた、つねよりも物がなしくて、あるじのまへにゐたれば、「かく程のどかなる事、又はいつかは」などいひて、心ばかりは、つれづれをも、なぐさめん、など思ひたるけしきにて、物がたりして、年よりたるあまたちよびあつめて、過ぎにしかたの物がたりなどするに、まへなるふねに入るかけひの水も、こほりとぢつつ物がなしきに、むかひの山にたきぎこる斧(をの)のおとのきこゆるも、むかしものがたりの心ちして、あはれなるに、暮れはてぬれば、御あかしの光どもも、めむめむに見ゆ。初夜(しよや)おこなひ、「こよひはとくこそ」などいふ程に、そばなるつまどを、忍びてうちたたく人あり。「あやし、たそ」といふに、おはしたるなりけり。「あなわびし。これにては、かかるしどけなきふるまひも、目も耳もはづかしくおぼゆるうへ、かかる思ひのほどなれば、心きよくてこそ、仏のおこなひも、しるきに、御幸(ごかう)などいふは、さるかたにいかがはせん、すさみごとに、心きたなくさへは、いかがぞや、帰り給ひね」など、けしからぬ程にいふ。をりふし、雪いみじくふりて風さへはげしく、ふぶきとかやいふべきけしきなれば、「あなたへがたや。せめてはうちへ入れ給ヘ。この雪やめてこそ」などいひしろふ。あるじの尼ごぜんたち聞きけるにや、「いかなるけしからず、なさけなさぞ。誰にても、おはしますべき御心ざしにてこそ、ふりはへたづね給ふらめ。山おろしの風の寒きに、なに事ぞ」とて、つまどはづし、火などおこしたるに、かこちて、やがて入り給ひぬ。
 雪はかこちがほに、みねも、のきばも、一つにつもりつつ、夜もすがら吹きあるる音もすさまじとて、あけ行けども、おきもあがられず、なれがおなるも、なべてそらおそろしけれども、なにとすべきかたなくて、案(あん)じゐたるに、日たかくなる程に、さまざまの事ども、用意して、しこうの者二人ばかりきたり。あなむつかしとみるほどに、あるじのあまたちの、とりちらすべき物など、わかちやる。「としのくれの風の寒けさも、わすれぬべく」などいふ程に、念仏のあまたちのけさころも、仏のたむけになど思ひ寄らるるに、いよいよ、「山がつの垣ほも光いできて」など、めむめむにいひあひたるこそ、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいがう)よりほかは、君の御幸(みゆき)に、すぎたるやあるべきに、いとかすかに見おくりたてまつりたるばかりにて、ゆゆし、めでたしなどいふ人もなかりき。いふにや及ぶ、かかる事やはとも、いふべきことは、ただいまのにぎははしさに、誰も誰も、めでまどふさま、世のならひもむつかし。春まつべきしやうぞく、花やかならねど、はなだにや、あまたかさなりたるに、しろき三小袖(みつこそで)、とりそへなどせられたるも、よろづきく人やあらんと、わびしきに、けふはひぐらし、くこんにてくれぬ。あくればさのみもとて、かへられしに、「立ちいでてだにみおくり給へかし」とそそのかされて、おきいでたるに、ほのぼのとあくる空に、みねの白雪光りあひて、すさまじげに見ゆるに、色なきかりぎぬきたる者二三人みえて、かへり給ひぬるなごりも、また忍びがたき心ちするこそ、我ながらうたておぼえ侍りしか。
 つごもりには、あながちに、めのとども、かかるをりふし、山ふかきすまひも、いまいましなどいひて、むかへにきたれば、心のほかにみやこへ帰りて、年もたちぬ。


二二 皇子誕生

 文永十年、作者十六歳。正月、今まで例年行って来た石清水八幡宮への初詣では、喪中であるから社壇までは参らず、門前で祈誓をした。その時霊夢を蒙ったが、その祈誓の内容も霊夢の内容も別記に記し、ここには省略してある。(第八四段に、これに触れた記が見える)
 二月十日夜、皇子誕生。産所がどこであったか記してないが、亡父の河崎邸でなかった事を作者は悲しんでいる。末に脱文があるらしく、正解を得ない。
 よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三の雲の上もあいなく、わたくしの袖の涙もあらたまり、やるかたもなき年なり。春のはじめには、いつしかまゐりつる神のやしろも、ことしはかなはぬ事なれば、もんのとまでまゐりて、きせい申しつる心ざしより、むば玉の面影は、べちにしるし侍ればこれにはもらしぬ。
 きさらぎの十日、よひの程に、その気色いできたれば、御所さまも、御心むつかしきをりから、わたくしもかかる思の程なれば、よろずはえなきをりなれど、隆顕の大納言、とりざたして、とかくいひさわぐ。御所よりも御室(おむろ)へ申されて、御本坊にて、愛染王(あいぜんわう)の法、なるたき、延命供(えんめいく)とかや、毘沙門堂(びさもんだう)の僧正、薬師の法、いづれも本坊にて行はる。我がかたざまにて、親源法印、請観音(しやうくわんおん)の法おこなはせなど、心ばかりはいとなむ。七条の道朝僧正、をりふしみねより出でられたりしが、「故大納言、心ぐるしきことにいひおかれしも忘れがたく」とて、おはしたり。
 夜中ばかりより、ことに、わづらはしくなりたり。をばの京極殿、御つかひとて、おはしなど、心ばかりはひしめく。兵部卿もおはしなどしたるも、あらましかばと思ふ涙は、人によりかかりて、ちとまどろみたるに、むかしながらに、かはらぬすがたにて、心ぐるしげにて、うしろのかたへ立ちよるやうにすと思ふほどに、皇子たんじやうと申すべきにや、ことゆゑなくなりぬるは、めでたけれど、それにつけても、我があやまちの行くすゑ、いかがならんと、いまはじめたる事のやうに、いとあさましきに、御(み)はかせなど忍びたるさまながら、御験者(ごけんじや)のろくなど、ことごとしからぬさまに、隆顕ぞさたし侍る。むかしながらにてあらましかば、河崎の宿所などにてこそあらましかなど、よろづ思ひつづけらるるに、御乳(おち)の人がしやうぞくなど、いつしか、隆顕さたして、御(おん)つるうち、いしいしの事まで、かずかずみゆるにつけても、あはれ、ことしは夢ざたにて年もくれぬるにこそ。はれがましく、わびしかりしは、ゆめのきす、ゆつち、よろづの人に、身をいたして、見せしことこそ、神のりやうも、さしあたりては、よしなき程に、おぼえ侍りしか。


二三 白銀の油壺

 文永十年十二月、月のある頃、実兼と密会二泊。場所は四条大宮のめのとの家と思われる。家の女たちは皆、作者と実兼の関係を知ってしまったが、しかし作者から改めて打ち明けるべき事でないから、ひとり心の中にこめておく。さて第一夜が明けた翌日、院から作者へ意味ありげな文が来る。作者はまぎらかして返事をする。第二夜には、作者と実兼が、共に同じような夢を見る。それは、この夜妊娠した兆であった。
 しはすには、つねは神事なにかとて、御所さまは、なべて御ひまなきころなり。わたくしにも、としのくれは、なにとなくおこなひをもなど思ひてゐたるに、あいなくいひならはしたる、しはすの月をしるべに、又思ひたちて、夜もすがらかたらふほどに、やもめがらすのうかれこゑなど、おもふ程にあけすぎぬるも、はしたなしとて、とどまりゐ給ふも、そらおそろしきここちしながら、むかひゐたるに、文あり。いつよりもむつましき御言(おんこと)の葉(は)多くて、
 「むば玉の夢にぞみつるさ夜衣あらぬ袂をかさねけりとは。さだかにみつるゆめもがな」とあるも、いとあさましく、なにをいかに見給ふらんと、おぼつかなくもおぼゆれども、思ひ入りがほにも、なにとかは申すべき。

   ひとりのみかたしきかぬる袂には
      月の光ぞやどりかさぬる

我ながらつれなくおぼえしかども、申しまぎらかし侍りぬ。今日はのどかにうちむかひたれば、さすがさとの者どもも、女のかぎりは、しりはてぬれども、かくなどいふべきならねば、おもひむせびて、すぎ行くにこそ。
 さてもこよひ、ぬりぼねに松をまきたるあふぎに、しろがねのあぶらつぼを入れて、この人のたぶを、人にかくして、ふところに入れぬと、夢にみて、うちおどろきたれば、暁のかねきこゆ。いと思ひかけぬ夢をもみつるかなと思ひてゐたるに、そばなる人、おなじさまに見たるよしをかたるこそ、いかなるべき事にかとふしぎなれ。


二四 二つの帯

 文永十一年、作者十七歳。正月から九月に入るまでの記。後深草院は正月から二月十七日まで写経精進、しかるに作者は二月末に妊娠二箇月の兆を見て、実兼の胤をやどした事を知り煩悶する。六月七日に実兼はいはた帯を持って作者を訪ね、三日滞在する。その十二日には前例に従って善勝寺隆顕が御所から帯の御使に来た。作者は二つの帯に思いなやみながら九月になる。
 としかへりぬれば、いつしか六条殿の御所にて、経衆(きゃうしゆ)十二人にて、如法経かかせらる。こぞの夢、なごりおぼしめし出でられて、人のわづらひなくてとて、ぬりごめの物どもにて、おこなはせらる。正月より、御ゆびの血をいだして、御手のうらをひるがへして、法花経をあそばすとて、ことしは、正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御けいせいなどいふ御さた、たえてなし。
 さる程に、二月の末つかたより、心ち例ならず覚えて物もくはず。しばしは、かぜなど思ふ程に、やうやう見し夢のなごりにやと、思ひあはせらるるも、なにとまぎらはすべきやうもなき事なれば、せめてのつみのむくいも思ひしられて、心のうちの物おもひ、やるかたなけれども、かくともいかがいひけん、神わざにことつけて、さとがちにのみいたれば、つねに来つつ、見しることもありけるにや、「さにこそ」などいふより、いとどねんごろなるさまに、いひかよひつつ、「君にしられたてまつらぬわざもがな」といふ。いのりいしいし心をつくすも、たがとがとか、いはむと、思ひつづけられてある程に、二月のすゑよりは、御所さまへもまゐりかよひしかば、五月の頃は、四月(よつき)ばかりのよしを、おぼしめされたれども、まことには、六月(むつき)なれば、ちがひざまも、行くすゑいとあさましきに、六月七日、「さとへいでよ」と、しきりにいはるれば、なに事ぞと思ひて出でたれば、帯をてづから用意して、「ことさらと思ひて、四月にてあるべかりしを、世のおそろしさに、けふまでに、なりぬるを、御所より十二日は、着帯(ちやくたい)のよしきくを、ことに思ふやうありて」といはるるぞ、心ざしも、なほざりならずおぼゆれども、身のなりゆかむはてぞ悲しく覚え侍りし。
 三日は、ことさら、れいのかくれゐたりしかば、十日にはまゐり侍るべきにてありしを、その夜より、にはかにわづらふ事ありし程に、まゐることもかなはざりしかば、十二日の夕がた、善勝寺、さきの例にとて、御おびをもちてきたりたるを見るにも、故大納言のいかにがなと思ひさわがれし夜の事、思ひいでられて、袖には露のひまなさは、かならず秋のならひならねどとおぼえても、ひと月(つき)などにてもなきちがひも、いかにとばかり、なすべき心ちせず。さればとて、水のそこまで思ひ入るべきにしあらねば、つれなくすぐるにつけても、いかにせんといひおもふよりほかの事なきに、九月にもなりぬ。


二五 女児出産

 文永十一年九月二日頃、作者は出産が近づいたので、病気と偽って里に下る。里は四条大宮のめのとの家と思われる。実兼は春日籠もりと披露して作者の許に隠れ住む。
 九月二十日女児出産。生児は実兼が何処かへ連れ去り、死産と披露する。作者はその後永く里に籠もり、実兼は連夜通って来る。
 世の中もおそろしければ、二日にや、いそぎ、なにかと申しことづけていでぬ。その夜やがて、かれにもおはしつつ、いかがすべきといふ程に、「まづ大事にやむよしを申せ。さて人のいませ給ふべきやまひなりと、陰陽師がいふよしをひろうせよ」などと、そひゐていはるれば、そのままにいひて、ひるはひめもすに臥しくらし、うとき人もちかづけず、心しる人二人ばかりにて、ゆみづものまずなどいへども、とりわきとめくる人のなきにつけても、あらましかばといとかなし。
 御所さまへも、「御いたはしければ、御つかひな給ひそ」と申したれば、時などとりて、御おとづれ、かかる心がまへ、つひにもりやせんと、行くすゑいとおそろしながら、けふあすはみな人、さと思ひて、善勝寺ぞ、「さてしもあるべきかは。くすしはいかが申す」など申して、たびたびまうできたれども、「ことさらひろごるべき事と申せば、わざと」などいひて、見参(げざん)もせず。しひておぼつかなくなどいふをりは、くらきやうにて、きぬのしたにていと物もいはねば、まことしく思ひて、たち帰るもいとおそろし。さらでの人は、たれ訪ひくる人もなければ、そひゐたるに、その人はまた、春日(かすが)にこもりたりと、披露して、代願(だいぐわん)をこめて、人の文などをば、あらましとて、返事をばするなど、ささめくも、いと心ぐるし。
 かかる程に、廿日あまりのあけぼのより、その心ちいできたり。人にかくともいはねば、ただ心しりたる人、一二人(ひとりふたり)ばかりにて、とかく心ばかりはいひさわぐも、なきあとまでも、いかなる名にかとどまらんと思ふより、なほざりならぬ心ざしをみるにもいとかなし。いたくとりたる事なくて、日も暮れぬ。火ともすほどよりは、ことのほかに、ちかづきておぼゆれども、ことさらつるうちなどもせず、ただ、きぬのしたばかりにて、ひとりかなしみゐたるに、ふかき鐘のきこゆるほどにや、あまりたへがたくや、おきあがるに、「いでや、腰とかやを抱(いだ)くなるに、さやうの事がなきゆゑにとどこほるか。いかに、だくべき事ぞ」とて、かきおこさるる袖にとりつきて、ことなくむまれ給ひぬ。まづあなうれしとて、「おもゆ、とく」などいはるるこそ、いつならひけることぞと、心しるどちは、あはれがり侍りしか。
 さてもなにぞと、火ともして見給へば、うぶかみくろぐろとして、いまより、みあけ給ひたるを、ただ一目みれば、恩愛(おんない)のよしみなれば、あはれならずしもなきを、そばなる白き小袖におしつつみて、まくらなるかたなの小刀(こがたな)にて、ほぞのをうちきりつつ、かきいだきて、人にもいはず、とへいで給ひぬと見しよりほか、又二たびその面(おも)かげ見ざりしこそ、「さらばなどや、いま一目(ひとめ)も」と、いはまほしけれども、中々なれば、物はいはねど、袖の涙はしるかりけるにや、「よしや、よも。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」など、なぐさめらるれど、一目(ひとめ)みあはせられつるおもかげ、わすられがたく、女にてさへものし給ひつるを、いかなるかたへとだに知らずなりぬると思ふもかなしけれども、いかにしてといふわざもなければ、人しれぬねをのみ袖につつみて、夜も明けぬれば、「あまりにここちわびしくて、このあかつき、はやおろし給ひぬ。女にてなどはみえわく程に侍りつるを」など奏しける。「ぬるけなどおびたたしきには、みなさる事と、くすしも申すぞ。かまへていたはれ」とて、くすりどもあまた給はせなどするも、いとおそろし。ことなるわづらひもなくて、日かず過ぎぬれば、ここなりつる人もかへりなどしたれども、百日過ぎて御所さまへはまゐるべしとてあれば、つくづくとこもりゐたれば、夜な夜なは、へだてなくといふばかりかよひ給ふも、いつとなく世のきこえやとのみ、我も人も思ひたるも心のひまなし。


二六 花の白浪

 去年誕生の皇子夭折の悲しみ。実兼との関係についての自責。両親の無い自分の運命の悲嘆。二人の男性の愛にからまる悩み。世を捨てて西行の例に習おうと思うが女の身でそれも叶わぬ。折から後深草院が出家を思い立たれ、院に従って出家する女房二人の中に加えられて喜んでいると、院は出家を思い止まられたので自分も出家を遂げられなくなる。又今まで院の御所に仕えていた叔母の京極殿が東宮御所へ移ることになったので、いよいよ便りなくなり、遁世の志は一段つのるけれど、年末になって御所からしきりに召されるので出仕する。
 さても、こぞいでき給ひし御かた、人しれず、隆顕のいとなみぐさにておはせしが、この程、御なやみみときくも、身のあやまちの行すゑ、はかばかしからじと思ひもあへず、神無月のはじめの八日にや、しぐれの雨のあまそそき、露とともに消えはて給ひぬときけば、かねて思ひまうけにし事なれども、あへなくあさましき心のうち、おろかならむや。前後さうゐのわかれ、愛別離苦(あいべちりく)のかなしみ、ただ身一つにとどまる。幼稚(えうち)にて母におくれ、さかりにて父をうしなひしのみならず、いま又かかる思の袖のなみだ、かこつかたなきばかりかは。なれゆけば、かへる朝はなごりをしたひて、又寝(またね)のとこに涙をながし、まつよひにはふけ行く鐘にねをそへて、まちつけて後はまた、世にやきこえんと苦しみ、さとに侍るをりは、君の御おもかげをこひ、かたはらに侍るをりは、又よそにつもる夜な夜なをうらみ、我が身にうとくなりましますことも悲しむ。人間のならひ苦しくてのみ、あけくるる一日一夜に、八万四千とかやのかなしみも、ただ我一人に思ひつづくれば、しかじ、ただ恩愛(おんあい)の境界(きやうがい)をわかれて、仏弟子となりなん、九つのとしにや、西行が修行の記といふ絵を見しに、かたかたに深き山をかきて、まへには河のながれをかきて、花のちりかかるに居てながむるとて、

   風吹けば花のしらなみ岩こえて
      わたりわづらふ山川の水

とよみたるを、かきたるを見しより、うらやましく、難行苦行(なんぎやうくぎやう)は、かなはずとも、我も世をすてて、あしにまかせて行きつつ、花のもと、露のなさけをもしたひ、もみぢの秋のちるうらみをものべて、かかる修行の記を書きしるして、なからん後のかたみにもせばやと思ひしを、三従のうれへ、のがれざれば、親にしたがひて日をかさね、君につかへても、けふまでうき世にすぎつるも、心のほかになど思ふより、うき世をいとふ心のみ深くなり行くに、この秋ころにや、御所さまにも、世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太上天皇のせんじを天下へ返しまゐらせて、御随身(みずいじん)ども召しあつめて、みな禄ども給はせて、いとまたびて、久則(ひさのり)一人、後しに侍ふべしとありしかば、面々にたもとをしぼりてまかりいで、御出家あるべしとて、人数さだめられしにも、女房には、東の御かた、二条、とあそばされしかば、うきはうれしきたよりにもやと思ひしに。鎌倉よりなだめ申して、東の御かたの御はらの若宮、位にゐ給ひぬれば、御所さまも、はなやかに、すみの御所には、御影(みえい)御わたりありしを、正親町殿(おほぎまちどの)へうつしまゐらせられて、すみの御所、春宮の御所になりなどして、京極殿とて、院の御かたに候ふは、むかしの新すけ殿なれば、なにとなく、この人はすごさねど、うかりし夢のゆかりに覚えしを、たち返り大納言のすけとて、春宮の御かたに候ひなどするにつけても、よろづ世の中物うければ、ただ山のあなたにのみ心はかよへども、いかなる宿執(しゆくしふ)なほ遁(のが)れがたきやらん、なげきつつ、又ふる年もくれなんとする頃、いといたう召しあれば、さすがにすてはてぬ世なれば参りぬ。


二七 嵯峨殿へ御幸

 前段に「ふる年も暮れなむとする頃、御所へ参った」とあるが、それは年末おしつまっての事ではなく、十一月頃の事であったと見なければならぬ。
 この段は文永十一年十一月、後深草院が御母大宮院の御所嵯峨殿へ御幸の時、作者が御供をした事を記す。この御幸は、前斎宮が大宮院を御訪問なさるので、大宮院から、前斎宮の御話相手として後深草院をお招きになったからである。
 この段には皇子夭折の悲しみ、東二条院の不興によって女院方の出仕を止められた憂鬱、前斎宮と作者とのゆかり、大宮院の作者に対する同情など、さまざま記してある。
 兵部卿のさたにて装束(しゃうぞく)などいふも、ただ例の正体(しやうたい)なき事なるにも、よろづみうしろまるるは、嬉しともいふべきにやなれども、つゆきえはて給ひし御事ののちは、人のとが、身のあやまりも心うく、なに心なくうちゑみ給ひし御面影(おんおもかげ)の、たがふ所なくおはせしを、忍びつつ出で給ひて、「いとこそ、かがみのかげに、たがはざりけれ」など申しうけたまはりしものをなどおぼゆるより、かなしき事のみ思ひつづけられて、なぐさむかたなくて、あけくれ侍りし程に、女院の御方さまは、なにとやらん、をかせるつみは、それとなければ、さしてその節といふ事はなけれども、御いりたちもはなたれ、御ふだもけづられなどしぬれば、いとど世の中も物うけれども、この御かたさまは、「さればとて我さへは」などいふ御事にてはあれど、とにかくに、わづらわしき事あるも、あぢきなきやうにて、よろづの事には、ひき入りがちにのみなりながら、さるかたに、この御かたさまには、中々あはれなることに、おぼしめされたるに、いのちをかけて、たちいでて侍るに、まことや、斎宮は、後嵯峨院の姫宮にて物し給ひしが、御服(おんぶく)にており給ひながら、なほ御いとまをゆるされたてまつり給はで、伊勢に三とせまで御わたりありしが、この秋の頃にや、御のぼりありしのちは、仁和寺に衣笠といふわたりに住み給ひしかば、故大納言、さるべきゆかりおはしましし程に、つかうまつりつつ、みもすそ河の御くだりをも、ことにとりさたしまゐらせなどせしもなつかしく、人めまれなる御すまひも、なにとなくあはれなるやうにおぼえさせおはしまして、つねにまゐりて御つれづれも慰さめたてまつりなどせし程に、十一月の十日あまりにや、大宮院に御対面のために、嵯峨へいらせ給ふべきに、「我ひとりはあまりにあいなく侍るべきに、御わたりあれかし」と、東二条へ申されたりしかば、御政務の事、御たちのひしめきのころは、女院の御かたさまも、うちとけ申さるる事もなかりしを、このごろは常に申させおはしましなどするに、又とかく申されんもとて、いらせ給ふに、あの御かたさまも、御いりたちなればとて、一人御車のしりにまゐる。枯野の三(みつ)ぎぬに、紅梅のうすぎぬをかさぬ。春宮にたたせ給ひてのちは、みなからぎぬをかさねし程に、あか色のからぎぬをぞかさねて侍りし。だい所もわたされず、ただひとりまゐり侍り。
 女院の御かたへいらせおはしまして、のどかに御物がたりありしついでに、「あのあがこが幼なくよりおほしたてて候ふほどに、さるかたに、宮づかひも物なれたるさまなるにつきて、ぐしありき侍るに、あらぬさまにとりなして、女院の御かたさまにも、御(み)ふだけづられなどして侍れども、我さへすつべきやうもなく、こすけだいと申し、雅忠と申し、心ざしふかく候ひし、かたみにもなど申しおきし程に」など申されしかば、「まことに、いかが、御覧じはなち候ふべき。宮づかひは、また、しなれたる人こそ、しばしも候はぬは、たよりなき事にてこそ」など申させ給ひて、「なに事も心おかず、我にこそ」など、なさけあるさまにうけたまはるも、いつまで草のとのみおぼゆ。
 こよひはのどかに御物がたりなどありて、供御(くご)も女院の御かたにてまゐりて、ふけて御やすみあるべしとて、かかりの御つぼのかたにいらせおはしましたれども人もなし。西園寺の大納言、善勝寺の大納言、長輔(ながすけ)、為方、兼行、資行(すけゆき)などぞ侍りける。


二八 折りやすき花

 後深草院が嵯峨殿へ到着された翌日の事。大宮院から前斎宮をお迎えになる。前斎宮到着、しばらく大宮院と御対面。やがて後深草院も出座せられ、作者は御太刀を捧持して側に侍る。前斎宮の成熟せられた御容姿、作者は後深草院が心を動かされるであろうと懸念する。院は我が部屋に帰られた後、恋情に堪えず、作者に手引きをさせて前斎宮と密会。
 明けぬれば、けふ斎宮へ御むかへに人まゐるべしとて、女院の御かたより、御うしかひ、めしつぎ、北面の下臈などまゐる。心ことにいでたたせおはしまして、御見参あるべしとて、われもかう織りたる枯野の甘(かん)の御(おん)ぞに、りんだう織りたる薄色(うすいろ)の御ぞ、しをん色の御さしぬき、いといたうたきしめ給ふ。
 夕がたになりて、いらせ給ふとてあり。寝殿のみなみおもてとりはらひて、にぶ色(いろ)の几帳とり出だされ、小几帳などたてられたり。御対面ありときこえし程に、女房を御つかひにて、「前斎宮(ぜんさいぐう)の御わたり、あまりにあいなくさびしきやうに侍るに、いらせ給ひて御物がたり候へかし」と申されたりしかば、やがていらせ給ひぬ。御太刀(おんたち)もて、例の御ともにまゐる。大宮院、けんもしやのうすずみの御ころも、にぶ色の御ぞ、ひきかけさせ給ひて、おなじ色の小几帳たてられたり。斎宮、紅梅の三御(みつおん)ぞに、あをき御ひとえぞ、中々むつかしかりし。御はうしんとて、さぶらひ給ふ女房、紫のにほひ五(いつつ)にて、もののぐなどもなし。斎宮は二十(はたち)にあまり給ふ。ねびととのひたる御さま、神も名残をしたひ給ひけるもことわりに、花といはば、桜にたとへても、よそめはいかがとあやまたれ、かすみの袖をかさぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御ありさまなれば、まして、くまなき御心のうちは、いつしか、いかなる御物おもひのたねにかと、よそも御心ぐるしくぞおぼえさせ給ひし。
 御物がたりありて、神路(かみぢ)の山の御物がたりなど、たえだえきこえ給ひて、「こよひはいたうふけ侍りぬ、のどかに、あすはあらしの山の、かぶろなる木ずゑどもも、御覧じて、御帰りあれ」など申させ給ひて、わが御かたへいらせ給ひて、いつしか、「いかがすべき、いかがすべき」とおほせあり。思ひつる事よと、をかしくてあれば、「幼なくより、まゐりししるしに、この事申しかなへたらむ、まめやかに心ざしありとおもはむ」など、おほせありて、やがて御つかひにまゐる。ただ大かたなるやうに、「御対面うれしく、御たびねすさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。こほりがさねのうすやうにや、

   しられじないましもみつる面影の
      やがて心にかかりけりとは

ふけぬれば、御まへなる人も、みなよりふしたる、御ぬしも、小几帳ひきよせて御とのごもりたるなりけり。ちかくまゐりて、事のやう、そうすれば、御かほうちあかめて、いと物ものたまはず。文も見るとしもなくて、うちおき給ひぬ。「なにとか申すべき」と申せば、「思ひよらぬ御言(おんこと)の葉(は)は、なにと申すべきかたもなくて」とばかりにて、また寝たまひぬるも心やましければ、帰りまゐりて、このよしを申す。「ただ、寝たまふらん所へみちびけ、みちびけ」と、せめさせ給ふもむつかしければ、御ともにまゐらんことは、やすくこそ、しるべしてまゐる。甘(かん)の御(おん)ぞなどは、ことごとしければ、御大口(おんおほくち)ばかりにて、しのびつついらせ給ふ。
 まづさきにまゐりて、御(おん)しやうじを、やをらあけたれば、ありつるままにて、御とのごもりたる。御まへなる人もねいりぬるにや、音する人もなく、ちひさらかにはひいらせ給ひぬるのち、いかなる御ことどもかありけん。うちすてまゐらすべきならねば、御(おん)うえぶししたる人のそばにぬれば、いまぞおどろきて、「こはたそ」といふ。「御人すくななるも御いたはしくて、御とのゐし侍る」といらへば、まことと思ひて、物がたりするも、用意(ようい)なきことやとわびしければ、「ねぶたしや、ふけ侍りぬ」といひて、そらねぶりしてゐたれば、御几帳(みきちやう)のうちも遠からぬに、いたく御心もつくさず、はやうちとけ給ひにけりとおぼゆるぞ、あまりにねんなかりし。心づよくて明かし給はば、いかにおもしろからむと覚えしに、明けすぎぬさきに帰りいらせ給ひて、「桜は、にほひはうつくしけれども、枝もろく折りやすき花にてある」など、おほせありしぞ、さればよと覚え侍りし。日たかくなるまで御とのごもりて、ひるといふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず、けさしもいぎたなかりける」などとて、いまぞ文ある。御返事には、ただ「夢のおもかげは、さむるかたなく」などばかりにてありけるとかや。


二九 売炭の翁

 前斎宮と密会の翌日の夜の事。後深草院方へ大宮院と前斎宮とをお招きして、くつろいだ酒宴が設けられた。
 「けふはめづらしき御かたの御なぐさめに、なに事か」など、女院の御かたへ申されたれば、「ことさらなることも侍らず」と返事あり。隆顕の卿に、くこんのしきあるべき御けしきある、夕がたになりて、したためたるよし申す。女院の御方へ事のよし申して、いれまゐらせらる。いづかたにも御いりたちなりとて、御酌(おしやく)にまゐる。三こんまでは御からさかづき、その後、「あまりにねんなく侍るに」とて、女院、御さかづきを斎宮へ申されて、御所にまゐる。御几帳(みきちやう)をへだてて、なげしのしもへ、実兼(さねかぬ)・隆顕召さる。御所の御さかづきを給はりて、実兼(さねかぬ)にさす。さしやうなるとて隆顕にゆづる。思ひざしはちからなしとて実兼(さねかぬ)、そののち隆顕。女院の御かた、「故院の御ことののちは、めづらしき御あそびなどもなかりつるに、こよひなん御心おちて御あそびあれ」と申さる。女院の女房めして、ことひかせられ、御所へ御びはめさる。西園寺も給はる。兼行、ひちりき吹きなどして、ふけ行くままに、いとおもしろし。公卿二人してかぐら、うたひなどす。また善勝寺、れいの、せれうのさとかずへなどす。いかに申せども、斎宮、くこんをまゐらぬよし申すに、御所御酌(おしやく)にまゐるべしとて、御てうしをとらせおはしますをり、女院の御かた、「御酌(おしやく)を御つとめ候はば、こゆるぎのいそならぬ御さかなの候へかし」と申されしかば、
   ばいたんのおきなはあはれなり。
   おのれが衣はうすけれど、
   たきぎをとりて冬をまつこそ、
   悲しけれ。
といふ今様をうたはせおはします、いとおもしろくきこゆるに、「この御さかづきを我々給はるべし」と、女院の御かた申させ給ふ。三度(さんど)まゐりて斎宮へ申さる。又御所もちていらせ給ひたるに、「天子には父母なしとは申せども、十善のゆかをふみ給ひしも、いやしき身の恩にましまさずや」など御述懐(ずくわい)ありて、御さかなを申させ給へば、「生(しやう)をうけてよりこのかた、天子(てんし)の位をふみ、太上天皇の尊号をかうぶるにいたるまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命(ごめい)をかろくせむ」とて、
   おまへのまへなる、かめをかに、
   つるこそむれゐて、あそぶなれ。
   よはひは君がためなれば、
   あめの下(した)こそのどかなれ。
といふ今様を、三返(さんべん)ばかりうたはせ給ひて、三度(さんど)申させ給ひて、「この御さかづきは給ふべし」とて、御所にまゐりて、「実兼(さねかぬ)は傾城(けいせい)のおもひざししつる、うらやましくや」とて隆顕に給ふ。そののち殿上人のかたへおろされて事ども果てぬ。
 こよひはさだめて、いらせおはしまさんずらんと思ふほどに、くこんすぎて、「いとわびし。御腰(おこし)うて」とて、御とのごもりてあけぬ。
 斎宮も、けふは御帰りあり。この御所の還御、けふは今林殿(いまばやしどの)へなる。准后(じゆごう)御風(おかぜ)の気(け)おはしますとて、こよひは又これに御とどまりあり。つぎの日ぞ京の御所へいらせおはしましぬる。


三〇 東二条院の不満

 前段の末に、後深草院は嵯峨殿から帰られる途中、今林殿に准后の風邪をお見舞いなされ、一泊してその翌日京の御所へ還御されたと記してある。この段の記は、京の御所へ還御の夕方、東二条院から後深草院へ、作者を寵愛される事について恨みの文があり、それに対して後深草院から細かに御返事なされた事を記す。東二条院の嫉妬によって作者の地位が不安であった事は前にも記され、この後にも記されるが、ここにはそれが最も明らかに記してある。
 還御の夕がた、女院の御かたより、御つかひに中納言殿まゐらる。なに事ぞときけば、「二条殿がふるまひのやう心えぬ事のみ候ふときに、この御かたの御祗候(ごしこう)をとどめて候ヘば、ことさらもてなされて、三(みつ)ぎぬをきて、御車にまゐり候へば、人のみな女院の御同車(ごどうしや)と申し候ふなり。これ、せんなく覚え候。よろづ、めんぼくなき事のみ候へば、いとまを給はりて伏見などにひきこもりて出家して候はんと思ひ候」といふ御つかひなり。
 御返事には、「うけたまはり候ひぬ。二条が事、いまさらうけたまはるべきやうも候はず。故大納言典侍(こだいなごんのすけ)、ありし日の程、よるひる、ほうこうし候へば、人よりすぐれてふびんにおぼえ候ひしかば、いか程もと思ひしに、あへなくうせ候ひしかたみには、いかにもと申しおき候ひしに、領掌(りやうじやう)申しき。故大納言、また最期(さいご)に申すしさい候ひき。君の君たるは、臣下の心ざしにより、臣下の臣たることは、君の恩による事に候。最期終焉(さいごしゆうえん)に、申しおき候ひしを、心よく領掌(りやうじやう)し候ひき。したがひて、のちの世のさはりなく思ひおくよしを申してまかり候ひぬ。二たびかへらざるは言(こと)の葉(は)に候ふ。さだめて草のかげにても見候ふらん。なに事の身のとがも候はで、いかが御所をもいだし、行くへもしらずも候ふべき。又三(みつ)ぎぬを着候ふ事、いまはじめたることならず候ふ。四歳(しさい)のとし、初参(しよさん)のをり、『わが身位あさく候。おほぢ、久我の太政大臣が子にてまゐらせ候はん』と申して、五緒(いつつを)の車、かずあこめ、ふたへ織物(おりもの)ゆり候ひぬ。そのほかまた大納言典侍(だいなごんのすけ)は、北山の入道太政大臣の猶子(いうし)とて候ひしかば、ついでこれも准后(じゆごう)御猶子(ごいうし)の儀(ぎ)にて、はかまを着そめ候ひしをり、腰をいはせられ候ひし時、いづかたにつけても、かずぎぬ、白きはかまなどはゆるすべしといふことふり候ひぬ。くるまよせなどまでもゆり候うて、年月になり候ふが、いまさらかやうにうけたまはり候ふ、心えず候ふ。いふかひなき北面の下臈らふふぜいの者などに、一(ひとつ)なるふるまひなどばし候ふなどいふ事の候ふやらん、さやうにも候はば、こまかにうけたまはりて、はからひさたし候べく候ふ。さりといふとも、御所をいだし、行くへしらずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、めしつかひ候はんずるに候ふ。大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返しまゐらせ候ひしことは、世かくれなく候。されば、よぶ人々さは呼ばせ候はず。『我が位あさく候ふゆゑに、おほぢが子にて参り候ひぬるうへは、小路名(こうぢな)をつくべきにあらず候。詮(せん)じ候ふところ、ただ、しばしは、あがこにて候へかし。なにさまにも、大臣はさだまれる位に候へば、そのをり、一度(いちど)につけ候はん』と申し候ひき。太政大臣のむすめにて、かずぎぬはさだまれる事に候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山、閑院ともに、淡海公(たんかいこう)のすゑより、つぎつぎ又申すにおよばず候ふ。久我は村上の前帝(せんてい)の御子、冷泉(れいぜい)、円融院(ゑんゆうゐん)の御おとと、第七皇子具平親王よりこのかた家ひさしからず。されば、いままでも、かの家、女子(をんなご)は、宮づかひなどはのぞまぬ事にて候ふを、はは、ほうこうのものなりとて、そのかたみになど、ねんごろに申して、幼少のむかしより召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心え候ふらむとこそおぼえ候ふに、いまさらなるおほせ事、存(ぞん)のほかに候ふ。御出家の事は、宿善(しゆくぜん)うちにもよほし、時いたる事に候へば、なにとよそよりはからひ申すによるまじきことに候」とばかり御返事に申さる。そののちは、いとどことあしきやうなるもむつかしながら、ただ御一所(おんひとところ)の御心ざし、なほざりならずさになぐさめてぞ侍る。


三一 越えすぎし関

 後深草院、前斎宮と再び密会の事。この段は対話と文の混雑。文脈のもつれなどが多く、すっきりせぬ。まず筋を記して見よう。作者は前斎宮の心中を同情して院にあいびきを勧める。院は作者を使として前斎宮に文を贈られる。前斎宮の養母が急ぎ取次に出て作者に面会し、前斎宮がその後思い悩んでいられる事を告げる。作者が帰ってこの事を院に告げると、院は車をやって前斎宮を迎えられる。
 まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御おとづれもなければ、御心のうちも、御心ぐるしく、我がみちしばも、かれがれならずなど思ふにとわびしくて、「さても年をさへへだて給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。「いかなるひまにても、おぼしめしたて」など申されたりしを、御やしなひははときこえしあまごぜん、やがてきかれたりけるとて、まゐりたれば、いつしか、かこちかほなる袖のしがらみせきあへず。「神よりほかの、御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢のまよひより、御物おもひの」いしいしと、くどきかけらるるも、わづらわしけれども、「ひましあらばの御つかひにて参りたる」と、こたふれば、「これの御ひまは、いつもなにのあしわけかあらむ」などきこゆるよしを、つたへ申せば、「は山しげ山のなかを、わけんなどならば、さも、あやにくなる心いられもあるべきに、こえすぎたる心ちして」とおほせありて、公卿の車をめされて、しはすの月のころにや、忍びつつまゐらせらる。道もほど遠ければ、ふけすぐるほどに御わたり、京極おもての御しのび所も、このごろは、春宮の御かたになりぬれば、大柳殿の渡殿へ御車をよせて、日(ひ)の御座(ござ)のそばの四間(よま)へいらせまゐらせ、れいの御びやうぶ、へだてて、御とぎに侍れば、見し夜の夢ののち、かきたえたる御日かずの御うらみなども、ことわりにきこえし程に、あけ行く鐘のねをそへて、まかり出で給ひしきぬぎぬの御そでは、よそもつゆけくぞみえ給ひし。


三二 年の名残

 文永十一年十二月三十日の夜、実兼と密会の事。作者十七歳、罪の意識に苦しみ、発覚を恐れながら、しかも愛人とのほだしを絶ち切る事のできなかった若き日の思い出である。「思い出づるさへ袖ぬれ侍りて」と結んだところに、切なる思い出が籠もっている。
 年も暮れはてぬれば、心のうちの物おもはしさは、いとどなぐさむかたなきに、さとへだに、えいでぬに、こよひは、東(ひんがし)の御方(おかた)まゐり給ふべきけしきの見ゆれば、よさりの供御(くご)はつる程に、腹のいたく侍るとて、局へすべりたりしほどに、如法、夜深しとて、うへぐちにたたずむ。世の中のおそろしさ、いかがとは思へども、この程はとにかくにつもりぬる日かずいはるるも、ことわりならずしもおぼゆれば、しのびつつ、つぼねへいれて、あけぬさきに、おきわかれしは、けふをかぎりの年の名残にはややたちまさりておぼえ侍りしぞ、我ながらよしなき物おもひなりける。思ひいづるさへ袖ぬれ侍りて。





問はず語り 巻二

後深草院 二条     

三三 十八の春

 文永十二年(建治元年)、作者十八歳。後深草院の御所における元旦の記である。世の中の花やかなのを見るにつけても作者は物思いの涙にぬれる。
 ひま行く駒のはやせ川、こえてかへらぬとしなみの、わが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。ももちどりさへづる春の日影のどかなるを見るにも、なにとなき心の中のものおもはしさ、忘るる時もなければ、花やかなるもうれしからぬここちぞし侍る。
 ことしの御くすりは花山院太政大臣まゐらる。去年、後院別当(こうゐんのべつたう)とかやになりておはせしかば、なにとやらん、この御所さまには心よからぬ御事なりしかども、春宮にたたせおはしましぬれば、世の御うらみも、をさをさなぐさみ給ひぬれば、又のちまでおぼしめしとがむべきにあらねば、御くすりに参り給ふなるべし。ことさら、女房の袖ぐちもひきつくろひなどして、台盤所(だいばんどころ)さまも、人々こころことに、きぬの色をもつくし侍るやらん。一とせ、中院大納言、御くすりに参りたりし事など、あらたまる年ともいはず、おもひ出でられて、ふりぬる涙ぞ、なほ袖ぬらし侍りし。


三四 御かたわかち

 院方と東宮方と組を分けて粥杖の競技が行われた。院方の選手は院以外はすべて女房、東宮方は全部男である。それ故この分けかたは二重分類であるが、対抗意識は男性と女性の勝負であった。さてこの段は前後二段筋になっている。前節は十五日の勝負であるが、記事が簡単で或は脱文があるかと思われ、どんな状態であったものか明らかでない。ただ女性方の負けであった事が後筋によって知られる。後節は十八日に作者と東の御方が共謀して大いに院を打ちすくめ、凱歌をあげた記事である。
 春宮の御方、いつしか、御かたわかち有るべしとて、十五日のうちとひしめく。れいの、院の御方、春宮、両方にならせたまうて、をとこ、女房、めむめむに、くじにしたがひてわかたる。あひて、みな男に、女房あはせらる。春宮の御かたには、傅(ふ)の大臣(おとど)をはじめて、みな男、院の御方は、御所より外は、みな女房にて、あひてをくじにとらる。傅(ふ)の大臣(おとど)のあひてにとりあたる。めむめむひきいで物、思ひ思ひに、一人づつして、さまざま能(のう)をつくして強ひよといふおほせこそ。
 女房のかたにはいとたへがたかりし事は、あまりに、我が御身ひとつならず、近習(きんじゆ)の男たちを召しあつめて、女房たちをうたせさせおはしましたるを、ねたき事なりとて、東(ひんがし)の御方(おかた)と申しあはせて、十八日には御所をうちまゐらせんといふ事を談議(だんぎ)して、十八日に、つとめての供御(くご)はつるほどに、台盤所(だいばんどころ)に女房たちよりあひて、御湯殿のうへのくちには、新大納言殿、権中納言、あらはに、別当、九五、常の御所の中には中納言どの、馬道(めんだう)に、ましみづ、さふらふ、などをたておきて、東(ひんがし)の御方(おかた)と二人、すゑの一間(ひとま)にて、なにとなき物がたりして、「一(いち)ぢやう、御所はここへいでさせおはしましなむ」といひて、待ちまゐらするに、案(あん)にもたがはず、おぼしめしよらぬ御事なれば、御大口(おんおほくち)ばかりにて、「など、これほど常の御所には人かげもせぬぞ。ここには誰か候ふぞ」とて、いらせおはしましたるを、東(ひんがし)の御方(おかた)、かきいだきまゐらす。「あなかなしや、人やある、人やある」とおほせらるれども、きと参る人もなし。からうじて、ひさしに師親の大納言が参らんとするをば、馬道(めんだう)に候ふまし水、「しさい候ふ。通しまゐらすまじ」とて、つゑをもちたるを見て、にげなどするほどに、思ふさまに打ちまゐらせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状(ごたいじやう)せさせ給ひぬ。


三五 罪科の評定

 十八日の夕の御食事の時、院から伺候の公卿一同に、今日女房から打たれた事のお話があり、打った女房を罪科に処すべきかの御下問があった。一同、処罰すべしと答える。中にも善勝寺大納言は強硬論者であったが、「その女房は誰でございますか」と伺うと、「お前の姪であり、養女でもある二条の局だ」と仰せになったので公卿一同大笑する。もちろん院は本気で処罰を考えられたのではなく、又一つの遊びを思いつかれたのである。
 さて新年早々女房を流罪に処するも不吉であるからというので「あがひ」をさせることに定まった。
 さて、しおほせたりと思ひてゐたるほどに、夕供御(ゆふくご)まゐるをり、公卿たち常の御所に候ふに仰せられいだして、「わが御身三十三にならせおはします、御やくにまけたるとおぼゆる。かかるめにこそあひたりつれ。十善のゆかをふんで万乗のあるじとなる身に、つゑをあてられし、いまだ昔もその例なくやあらん。などか又、おのおのみつがざりつるぞ。一同せられけるにや」と、面々にうらみおほせらるるほどに、おのおの、とかくちんじ申さるるほどに、「さても、君をうちまゐらするほどの事は、女房なりと申すとも、罪科( かろかるまじき事に候。むかしの朝敵の人々も、これ程のふしぎは顕(げん)ぜず候ふ。御かげをだにふまぬ事にて候ふに、まさしくつゑをまゐらせ候ひけるふしぎ、かろからず候ふ」よし、二条左大臣、三条坊門大納言、善勝寺の大納言、西園寺の新大納言、万里(まで)の小路(こうぢ)の大納言、一同に申さる。ことに善勝寺の大納言、いつもの事なれば、我ひとりと申して、「さてもこの女房の名字はたれたれぞ。いそぎうけたまはりて、罪科のやうをも、公卿一同にはからひ申すべし」と申さるるをり、御所、「一人ならぬ罪科は、親類かかるべしや」と御たづねあり。「申すにおよばず候。六親(ろくしん)と申して、みなかかり候ふ」など、面々に申さるるをり、「まさしくわれをうちたるは、中院大納言がむすめ、四条大納言隆親がまご、善勝寺の大納言隆顕の卿がめひと申すやらん、又ずいぶん養子ときこゆれば、御むすめと申すべきにや、二条殿の御つぼねの御しごとなれば、まづ一番に人のうへならずやあらん」とおほせいだされたれば、御まへに候ふ公卿、みな一(ひと)こゑに笑ひののしる。
 年のはじめに女房を流罪(るざい)せられんも、そのわづらひなり。ゆかりまで、そのとがあらんも、なほわづらひなり。むかしもさる事あり。いそぎあがひ申さるべしとひしめかる。そのをり申す、「これ身として思ひよらず候ふ。十五日に、あまりに御所つよく打たせおはしまし候ふのみならず、公卿殿上人を召しあつめて打たせられ候ひし事、ほいなく思ひまゐらせ候ひしかども、身、かずならず候へば、思ひよるかたなく候ひしを、東(ひんがし)の御方(おかた)、『このうらみ思ひかへしまゐらせん、同心せよ』と候ひしかば、『さ、うけたまはり候ひぬ』と申して打ちまゐらせて候ひし時に、我一人つみにあたるべきに候はず」と申せども、「なにともあれ、まさしく君の御身に、つゑをあてまゐらせたる者にすぎたる事あるまじ」とて、御あがひにさだまる。


三六 家々のあがひ

 先ず二十日には作者の祖父隆親のあがひがあり、二十一日には叔父隆顕のあがひがあって同時に酒宴が行われ、席上隆遍僧正が鯉を料理した。
 次に隆顕から意見が出た。このたびの「あがひ」が、二条の母方の親戚にのみかかるのは片手落ちだ、父方の親戚に祖母と叔母がいるから、それにもかけるべきだという。院は不賛成であったが、隆顕は強く主張し、更に北山准后にも、かけるべきだという。これに対して院は准后よりも実兼(雪の曙)に罪がかかるであろうと言われ、実兼があがひをする。さて隆顕から作者の父方の祖母(久我尼上)の許へ、あがひをするようにと勧めてやると、手きびしい拒絶の書面が送られ、その結果、かえって院御自身にあがひがかかるという滑稽な結果になった。
 善勝寺大納言、御つかひにて、隆親卿のもとへ事のよしをおほせらる。「返す返すびろうのしわざに候ひけり。いそぎあがひ申さるべし」と申さる。「日数のび候へばあしかるべし。いそぎいそぎ」とせめられて、廿日ぞ参られたる。御こと、ゆゆしくして、院の御かたへ、御なほし、かいで御小袖十、御たち一つまゐる。二条左大臣より公卿六人に、たち一つづつ、女房たちの中へ檀紙(だんし)百帖まゐらせらる。
 廿一日、やがて善勝寺の大納言、御事(おこと)つねのごとく、御所へは、あやねりぬき、むらさきにて、こと・びはをつくりて参らせらる。又しろがねのやないばこに、るりの御さかづきまゐる。公卿に、むま・うし、女房たちの中へ、そめ物にて行居(ほかゐ)をつくりて、糸にて瓜をつくりて、十合まゐらせらる。御さかもり、いつよりもおびたたしきに、をりふし隆遍僧正まゐらる。やがて御前(おんまへ)へめされて、御さかもりのみぎりへまゐる。
 鯉を取りいだしたるを、「宇治の僧正の例あり、その家よりむまれて、いかがもだすべき、きるべき」よし、僧正に御(み)けしきあり。かたくじたい申す。おほせ、たびたびになるをり、隆顕まないたをとりて僧正の前におく。ふところより庖丁刀(はうちやうがたな)・まなばしを取りいでて、このそばにおく。このうへはと、しきりにおほせらる。御所の御まへに御さかづきあり。ちからなくて香染(かうぞめ)のたもとにてきられたりし、いとめづらかなりき。せうせうきりて、「かしらをば、えわり侍らじ」と申されしを、「さるやういかが」とて、なほおほせられしかば、いとさはやかにわりて、いそぎ御まへをたつを、いたく御感(ぎよかん)ありて、今のるりのさかづきを、やないばこにすゑながら、門前へおくらる。
 さるほどに隆顕申すやう、「祖父(おほぢ)叔父(をぢ)などとて、とがをおこなはれ候ふ、みな外戚(げしやく)に侍る。つたへきく、いまだ内戚(ないしやく)の祖母(むば)侍るなり。おば又おなじく侍る。これにいかがおほせなからん」と申さる。「さる事なれども、すぢの人などにてもなし。それらまで仰せられん候はん事、あまりに候ふ。うるはしく、にがりぬべき事なり」と仰せあるに、「さるべきやう候はず。ぬしを御つかひにてこそ、おほせ候はめ。又北山の准后(じゆごう)こそ、をさなくより御芳心(ごはうしん)にて、典侍大(すけだい)も侍りしか」と申すをりに、「准后よりも罪かかりぬべくや」と西園寺におほせらる。「あまりに、かすかなる仰せにも候かな」と、しきりに申されしを、「いはれなし」とて、又せめおとされて、それもつとめられき。「御事(おこと)つねのごとく、沈(ぢん)のふねに、麝香(じやかう)のへそ三つにて、ふなさしつくりてのせてと、御衣(おんぞ)と御所へまゐる。二条左大臣にうし・たち。のこりの公卿にはうし。女房たちの中へは、はく・すながし・名したへ・こうばいなどの檀紙(だんし)百。
 さても、さてあるべき事ならずとて、隆顕のもとより、「かかるふしぎの事ありて、おのおの、とが、あがひ申してば、いかが候ふべき」と、いひつかはしたる返事に、「さる事候ふ。ふた葉にて母には離れ候ひぬ。父大納言、ふびんにし給ひしを、いまだむつきのなかと申すほどより、御所に召しおかれて候へば、わたくしにそだち候はんよりも、ゆゑあるやうにもさふらふかと思ひて候へば、さほどに物おぼえぬいたづら者に、御前にておひたち候ひける事、つゆしらず候ふ。君の御ふかくとこそおぼえさせおはしまし候へ。上下をわかぬならひ、又御目をもみせられまゐらせ候ふにつきて、あまえ申し候ひけるか。それもわたくしにはしり候はず。おそれおそれも、とがは、かみつかたより、御つかひをくだされ候はばやとこそ思ひて候へ。またくかかり候ふまじ。雅忠などや候はば、ふびんのあまりにも、あがひ申し候はん。我が身にはふびんにも候はねば、ふけうせよの御気色(みけしき)ばし候はば、おほせにしたがひ候ふべく候ふ」よしを申さる。この御ふみをもちてまゐりて、御前にて披露するに、「久我(こが)あまうへが申状、いたん、そのいはれなきにあらず。御前にておひたち候ひぬるいで所をこそ、申して候ふといふ事、申すにおよばず候ふ。又みつせ河をだにおひこし候ふなるものを」など申さるるほどに、「とは、なに事ぞ。我が御身の訴訟(そしよう)にて、あがはせられて、又御所に、御あがひ有るべきか」とおほせあるに、「上として、とがありとおほせあれば、しもとして、又申すもいはれなきにあらず」と、さまざま申して、又御所に御つとめあるべきになりぬ。御事(おこと)は、経任うけたまはる。御太刀一つづつ公卿たちたまはり給ふ。衣(きぬ)一具(いちぐ)づつ女房たち給はる。をかしくも、たへがたかりし事どもなり。


三七 三月十三日

 建治元年三月十三日の記。後に作者と深い関係を結ぶ「有明の月」が初めてここに登場する。この男性が後深草院の弟、仁和寺御室性助法親王であろうことは、次々の記事によって推察せられる。作者十八歳、性助法親王二十九歳。
 かくてやよひのころにもなりぬるに、例の後白河院御八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町(おほぎまち)の長講堂にておこなはる。けちぐわん十三日に御幸なりぬるまに、御まゐりある人あり。還御待ち参らすべしとて候はせ給ひ、二棟の廊に、御わたりあり。まゐりて見参(げざん)に入りて、「還御はよくなり侍らん」など申してかへらんとすれば、「しばし、それに候へ」と仰せらるれば、なにの御用とも覚えねども、そぞろき、にぐべき御人がらならねば、候ふに、なにとなき御むかしがたり、「故大納言が常に申し侍りし事も忘れずおぼしめさるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうちむかひまゐらせたるに、なにとやらむ、おもひのほかなる事を仰せられいだして、「仏も心きたなきつとめとやおぼしめすらんと思ふ」とかやうけたまはるも、思はずにふしぎなれば、何となくまぎらかして、たちのかんとする袖をさへひかへて、「いかなるひまとだに、せめては、たのめよ」とて、まことに、いつはりならず見ゆる御袖のなみだも、むつかしきに、還御とてひしめけば、ひきはなちまゐらせぬ。思はずながら、ふしぎなりつる夢とやいはんなどおぼえてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九こんすすめ申さるる、御陪膳(はいぜん)をつとむるにも、心の中を人やしらんといとをかし。


三八 両院の御鞠

 亀山院が御深草院を訪問なされ蹴鞠の御遊が行われる。作者は亀山院の給仕を勤める。この折亀山院から恋歌が送られ、単なる儀礼的返歌をする。この後しばしば亀山院が心ある態度を示される記事が見える。これが作者の境遇を転落せしめる大きな因となる。
 さるほどに、両院御なか、心よからぬ事、あしく、東ざまに思ひまゐらせたるといふ事きこえて、この御所へ、新院御幸あるべしと申さる。かかり御らんぜらるべしとて、御まりあるべしとてあれば、「いかで、いかなるべきしきぞ」と、近衛の大殿へ申さる。「いたく事過ぎぬほどに、九こん、御まりの中に、御装束なほさるるをり、御(おん)かきひたしまゐる事あり。女房してまゐらせらるべし」と申さる。「女房はたれにてか」と御さたあるに、「御としごろなり、さるべき人がらなれば」とて、この役をうけたまはる。かばざくら七つ、うら山ぶきのうはぎ、あを色から衣、くれなゐのうちぎぬ、すずしのはかまにてあり。浮織物の紅梅のにほひの三小袖(みつこそで)、からあやの二小袖(ふたつこそで)なり。御幸なりぬるに、御座を、対座(たいざ)にまうけたりしを、新院御覧ぜられて、「前(さき)の院(ゐん)の御時さだめおかれにしに、御座のまうけやうわろし」とて、なげしの下へおろさるる所に、あるじの院いでさせ給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座を対座にこそなされしに、今日の出御には御座をおろさるる、ことやうに侍り」と申されしこそ、「いうにきこゆ」など、人々申し侍りしか。
 ことさら、しきの供御(くご)まゐり、三こんはてなどして後、東宮いらせおはしまして御まりあり。なかば過ぐるほどに、二棟の、東(ひんがし)のつまどへいらせおはします所へ、やないばこに御かはらけをすゑて、かねの御ひさげに、御かきひたし入れて、別当殿、松がさね五(いつつ)ぎぬに、くれなゐのうちぎぬ、やなぎのうはぎ、うらやまぶきのからぎぬにてありしに、もたせてまゐりて、とりてまゐらす。「まづのめ」と、御ことばかけさせ給ふ。くれかかるまで御まりありて、松明(しようめい)とりて還御。つぎの日、仲頼して御ふみあり。

   いかにせんうつつともなき面影を
      夢とおもへばさむるまもなし

くれなゐのうすやうにて、柳の枝につけらる。さのみ、御返(おんかへし)をだに申さぬも、かつは、びんなきやうにやとて、はなだの薄様(うすやう)にかきて、桜の枝につけて、

   うつつとも夢ともよしやさくらばな
      さきちる程とつねならぬよに

そののちも、たびたび、うちしきりうけたまはりしかども、師親の大納言、すむ所へ、車こひてかへりぬ。


三九 御壺合せ

 建治元年四月、新造の六条院へ後深草院が移りなされた事。長講堂および定朝堂の落成供養が行われた事。侍臣女房たちが御壺合をして興じた事。
 まことや、六条殿の長講堂つくりたてて、四月に御わたまし、御堂供養は曼陀羅供(まんだらく)、御導師は公豪(こうがう)僧正、讃衆(さんしゆ)二十人にてありしのち、憲実(けんじち)、御導師にて、定朝堂(ぢやうてうだう)供養、御わたましの後なり。御わたましには、いだし車五輛ありし一の車の左にまゐる、右に京極殿。なでしこの七衣(ななつぎぬ)、若菖蒲(わかしやうぶ)のうはぎなり。京極殿は藤の五(いつつ)ぎぬなり。御わたまし三日は白ぎぬにて、こき物のぐ、はかまなり。
 御つぼあはせあるべしとて、公卿、殿上人、上臈、小上臈、御つぼをわけ給はる。常の御所の東向(ひんがしむ)きの二間(ふたま)の御つぼを給はる。とりつくる定朝堂のまへ、二間(ふたま)がとほりを給はりて、そりはしを、やり水にちひさく、うつくしくわたしたるを、善勝寺の大納言、夜のまにぬすみわたして、我が御つぼに置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。


四〇 見はてぬ夢

 この段の内容は三七段に接続する。三七段は建治元年三月十三日に有明の月が、初めて作者に意中を打明けた記であり、この段は同年九月八日頃から月末まで、有明の月が延命供を修する為に院の御所に滞在し、遂に作者と関係を結ぶに至った次第を記す。
 かくしつつ八月のころにや、御所に、さしたる御心地にてはなく、そこはかとなく、なやみわたり給ふ事ありて、供御(くご)をまゐらで、御あせたりなどしつつ、日数かさなれば、いかなる事にかと思ひさわぎ、くすし参りなどして、御やいとうはじめて、十(とを)ところばかり、せさせおはしましなどすれども、同じさまにわたらせおはしませば、九月の八日よりにや、延命供(えんめいく)はじめられて、七日すぎぬるに、なほ同じさまなる御事なれば、いかなるべき御事にかとなげくに、さても、この阿闍梨に御参りあるは、この春、袖の涙の色をみせ給ひしかば、御つかひに参るをりをりも、いひいだしなどしたまへども、まぎらはしつつ過ぎゆくに、このほど、こまやかなる御ふみを給はりて、返事をせめわたり給ふ。いとむつかしくて、うすやうのもとゆひのそばをやりて、夢といふ文字(もじ)を一つかきて、まゐらするとしもなくて、うちおきてかへりぬ。又まゐりたるに、しきみの枝を一つなげ給ふ。とりて、かたかたにゆきてみれば、葉に、ものかかれたり。

   しきみつむあかつきおきに袖ぬれて
      みはてぬ夢の末ぞゆかしき

いうにおもしろくおぼえて、この後、すこし心にかかり給ふここちして、御つかひにまゐるも、すすましくて、御物がたりの返事も、うちのどまりて申すに、御所へいらせたまうて、御対面ありて、「かくいつとなく、わたらせたまふ事」などなげき申されて、「御なで物を持たせて、御時、はじまらんほど、聴聞(ちやうもん)所へ人を給はり候へ」と申させ給ふ。
 初夜の時、はじまるほどに、「御衣(おんぞ)をもちて、ちやうもん所にまゐれ」と仰せあるほどに、まゐりたれば、人もみな、伴僧(ばんそう)にまゐるべき装束しに、おのおの、へやへやへ出でたるほどにや、人もなし。ただひとりおはします所へまゐりぬ。「御なで物、いづくに候ふべきぞ」と申す。「道場のそばのつぼねへ」とおほせごとあれば、まゐりてみるに、けんそうげに、御あかしの火にかがやきたるに、おもはずに、なえたる衣にて、ふとおはしたり。こはいかにと思ふほどに、「仏の御しるべは、くらき道にいりても」など、おほせられて、なくなくいだきつき給ふも、あまりうたてくおぼゆれども、人の御ため、「こはなに事ぞ」などいふべき御人がらにもあらねば、しのびつつ「ほとけの御心のうちも」など申せどもかなはず、みつる夢のなごりも、うつつともなきほどなるに、「時よくなりぬ」とて伴僧(ばんそう)どもまゐれば、うしろのかたより逃げかへり給ひて、「後夜の程にいま一度かならず」と仰せありて、やがてはじまるさまは、なにとなきよ。まゐり給ふらんともおぼえねば、いとおそろし。
 御(み)あかしの光さへ、くもりなくさし入りたりつるほかげは、こむ世のやみも悲しきに、おもひこがるる心はなくて、後夜過ぐるほどに、人まをうかがひて参りたれば、このたびは、御時はててのちなれば、すこし、のどかにみたてまつるにつけても、むせかへり給ふけしき、心ぐるしき物から、あけ行く音するに、はだに着たる小袖に、我が御はだなる御小袖を、しひて、かたみにとて、着かへ給ひつつ、おきわかれぬる御なごりも、かたほなる物から、なつかしくあはれともいひぬべき御さまも、忘れがたき心ちして、つぼねにすべりて、うちねたるに、いまの御小袖のつまに物あり。とりてみれば、みちのくにがみを、いささかやりて、

   うつつとも夢ともいまだわきかねて
      かなしさのこる秋のよの月

とあるも、いかなるひまに書き給ひけむなど、なほざりならぬ御心ざしも、そらにしられて、このほどは、ひまをうかがひつつ、よをへでと、いふばかりみたてまつれば、このたびの御修法は、心きよからぬ御きせい、仏の御心中も、はづかしきに、二七日(にしちにち)のすゑつかたより、よろしくなり給ひて、三七日(さんしちにち)にて、御結願(けちぐわん)ありて出でたまふ。あすとての夜、「又いかなるたよりをか待ちみむ。念誦のゆかにも塵つもり、護摩(ごま)の道場(だうぢやう)も、けぶりたえぬべくこそ。おなじ心にだにもあらば、こきすみぞめの袂(たもと)になりつつ、ふかき山にこもりゐて、いくほどなきこの世に、ものおもはでも」など仰せらるるぞ、あまりに、むくつけき心ちする。あけ行くかねに音(ね)をそへて、おきわかれ給ふさま、いつならひ給ふ御ことのはにかと、いとあはれなるほどに見え給ふ。御袖のしがらみも、もりてうきなやと、心ぐるしきほどなり。かくしつつ、結願(けちぐわん)ありぬれば、御いでありぬるも、さすが心にかかるこそ、よしなきおもひも、かずかず色そふ心ちし侍れ。


四一 両院伏見御幸

 新造六条院で九月の御花が行われ、引きつづき両院が伏見へ御幸なされた事。前段によれば後深草院は九月八日から月末まで病床にあられたから、この段に記されたような供花の式や伏見御幸の行われるわけはない。この段の九月は前段の翌年、建治二年の九月であろうか。
 九月には御花、六条殿の御所のあたらしきにて、はえばえしきに、新院の、御幸(ごかう)さへなりて、「女房たちあいしにたまはらん」など、申させ給ふほどに、めむめむに、心事に出でたちひしめきあはるれども、よろづ、ものおもはしき心ちのみして、つねは、ひき入りがちにてのみ侍りしほどに、御花(おんはな)はてて、松とりに伏見の御所へ、両院御幸なるに、近衛大殿も、御参りあるべしとてありしに、いかなる御さはりにか、御まゐりなくて、御ふみあり、

   ふしみ山いく万代かさかふべき
      みどりの小松今日をはじめに

御返し、後の深草の院の御歌、

   さかふべきほどぞひさしきふしみ山
      おいその松の千世をかさねて

なか二日の、御とうりうにて、ふしみ殿へ、御幸など有りて、おもしろき九献(くこん)の御しきども有りて、還御。


四二 玉川の里

 建治元年(前段が建治二年ならばこの段も二年)十月十日、後深草院が三年間見ぬ恋にあこがれて居られた絵かきの女を召され、一夜にして幻滅を感じて帰される。この夜、あいにくにも資行に命じて呼び寄せられた傾城が参る。院は傾城を車のまま釣殿のあたりに待たせて置かれたが、その事をすっかり忘れて居られ、夜があけてしまった。
 さても、をととしの七月に、しばしさとに侍りて参るとて、うらうへに、小さきすながしをして、中はなだなるかみに、水をかきて、事ものは何もなくて、水のうへに白き泥(でい)にて、「くゆるけぶりよ」とばかりかきたるあふぎがみを、しやう木のほねにぐして、はらせに、ある人のもとへつかはしたれば、そのむすめのこれを見て、それも絵をうつくしうかく人にて、ひた水に秋の野をかきて、「事うらにすむ月はみるとも」とかきたるをおこせて、あふぎかへにしたりしを、もちてまゐりたるを、さきざきのふでともみえねば、「いかなる人のかたみぞ」など、ねんごろに御たづねあるも、むつかしくて、ありのままに申すほどに、ゑのうつくしきよりはじめ、うはのそらなる恋ぢにまよひそめさせ給ひて、三とせがほど、とかくその道しば、いしいしと御心のいとまなくいひわたり給へるを、いかにし給ひけるにや、神無月十日、よひのほどに、参るべきになりて、御心のおき所なく、こころ事にいでたち給ふところへ、資行の中将まゐりて、「うけたまはり候ひし、御傾城(おんけいせい)ぐしてまゐりつる」よし案内すれば、「しばし、車ながら、京極おもての南のはじの釣殿のへんにおけ」とおほせありぬ。
 初夜(しよや)うつほどに、みとせの人のまゐりたり。あをかうじの二(ふたつ)ぎぬに、むらさきのいとにて、つたをぬひたりしに、すはうのうすぎぬかさねて、あか色のからぎぬぞ着て侍りし。例のみちびけとてありしかば、くるまよせへ行きたるに、おるるおとなひなど、きぬのおとより、けしからず、おびただしくなりひそめくさまも、思はずなるに、具してまゐりつつ、例の昼(ひ)の御座(ござ)のそばの四間(よま)、心事にしつらひ、薫物(たきもの)のかも、心事にて入れたるに、一尺ばかりなる檜扇(ひあふぎ)を、うきおりたるきぬに、あをうらの二(ふたつ)ぎぬに、紅のはかま、いづれもなべてならずこはきを、いと着しつけざりけるにや、かうこひじりがかうこなどのやうに、うしろに多く高々とみえて、かほのやうも、いとたわやかに、目も鼻もあざやかにて、びびしげなる人かなとみゆれども、姫ぎみなどはいひぬべくもなし。肥えらかに、たかく、ふとく、色しろくなどありて、内裏(だいり)などの女房にて、大極殿の行幸の儀式などに、一(いち)の内侍(ないし)などにて、かみあげて、御劔(ぎよけん)のやくなどをつとめさせたくぞみえ侍りし。
 「はや参りぬ」と奏せしかば、御所は、菊を織りたるうす色の御直衣(おんなほし)に、御大口(おんおほくち)にていらせ給ふ。百歩のほかといふほどなる御にほひ、御びやうぶのこなたまでいとこちたし。御物がたりなどあるに、いと御いらへがちなるも、御心にあはずやと思ひやられてをかしきに、御よるになりぬ。れいの、ほどちかくうへぶししたるに、西園寺の大納言、あかりしやうじのと、なげしのしたに御とのゐしたるに、いたくふけぬさきに、はやなに事もはてぬるにや、いとあさましきほどの事なり。さていつしかあらはへいでさせおはしまして、召すに参りたれば、「たま川のさと」とうけたまはるぞ、よそもかなしき。ふかきかねだにうたぬさきにかへされぬ。御こ事ちわびしくて、御ぞめしかへなどして、ご供御(くご)だにまゐらで、「ここあそこうて」などとて御よるになりぬ。雨おびただしくふれば、かへるさの袖も思ひやられて。


四三 五百戒の尼衆

 昨夜から車のまま釣殿の辺に待たされていた傾城の事。院は、すっかり忘れて居られたが、作者に注意されて気がつき、様子を見させなさる。車は雨が漏り、衣裳はぬれてさんざんな有様。作者は自分の新しい衣裳に着せかえて院に逢わせようとしたが、傾城は拒絶して帰る。院から文を遣わされたが、それには答えず、別に歌を詠み、切り捨てた髪を贈ってよこした。後年聞くところによると河内の国の土師寺(はじでら)で五百戒の尼衆になっていたという話。
 ま事や、明けゆくほどに、「資行が申し入れし人は、なにと候ひしそら」と申す。「げにつやつや忘れて。見てまゐれ」とおほせあり。おきいでてみれば、はや日さしいづるほどなり。すみの御所の釣殿のまへに、いとやぶれたるくるま、夜もすがら雨にぬれにけるもしるく、ぬれ、しほたれてみゆ。あなあさましとおぼえて、「寄せよ」といふに、ともの人、もんのしたより、ただいまいでてさしよす。みれば、ねりぬきのやなぎの二衣(ふたつぎぬ)、絵かきそそきたりけるとおぼしきが、車もりて、水にみなぬれて、うらのはな、おもてへとほり、ねりぬきの二小袖(ふたつこそで)へうつり、さまあしきほどなり。よもすがらなきあかしけるそでのなみだも、髪は、もりにやあらん、又なみだにや、あらひたるさまなり。「この有様(ありさま)なかなかに侍る」とておりず。ま事ににがにがしき心ちして、「我がもとに、いまだあたらしききぬの侍るを、着てまゐり給へ。こよひしも大事の事ありて」などいへども、なくよりほかの事なくて、手をすりて「かへせ」といふさまもわびし。夜もはやひるになれば、ま事に又なにとかはせんにてかへしぬ。このよしを申すに、「いとあさましかりける事かな」とて、やがて文つかはす。御返事はなくて、「あさぢが末にまどふささがに」とかきたり。硯のふたに。はなだのうすやうに、つつみたる物ばかりすゑてまゐる。御らんぜらるれば、「きみにぞまどふ」と、だみたるうすやうに、髪をいささかきりてつつみて、

   数ならぬ身の世がたりをおもふにも
      なほくやしきは夢のかよひぢ

かくばかりにて、事なる事なし。出家などしけるにや、いとあへなき事なりとて、たびたび尋ねおほせられしかども、つひにゆきがたしらずなり侍りき。年おほくつもりてのち、河内のくに、はしといふ寺に、五百戒の尼衆(にしゆ)にておはしけるよし聞きつたへしこそ、ま事の道の御しるべ、うきはうれしかりけむと、おしはかられしか。


四四 牛王の誓紙

 建治元年九月に有明の月と契を結んで別れた事は四〇段に記してあった。この段はその後の事。有明の月は稚児を手引きとしてしばしば文を通わせる。作者も時々返事はしたが、逢う事はなかった。
 年が改まって建治二年、春から御所に忙しい事があって、雪の曙に逢う機会もなく、おぼつかない思いの中に九月になった。一夜隆顕に呼び出され、出雲路という所で有明に逢わされたが、固く拒絶して別れる。年末になって、有明の月から激しい文が、隆顕を介して贈られた。それには深刻な恋情が述べられてあったが、作者は堅く決心して拒絶し、一首の和歌を添えてその文を突き返してしまった。
 さても有明の月の御もとより、思ひかけぬ祗候のちごのゆかりをたづねて御ふみあり。おもはずにまことしき御心ざしさへあれば、なかなかむつかしきここちして、御ふみにては時々申せども、身づからの御ついではかきたえたるも、いぶせからずと思はぬとしもなくて、また年もかへりぬ。
 新院・本院、御はなあはせの勝負(しようぶ)といふ事ありて、しらぬ山のおくまでたづねもとめなど、この春はいとまをしきほどなれば、うちかくろへたるしのび事どももかなはで、おぼつかなさをのみかきつくす。
 ことしは御所にのみ、つと候ひて秋にもなりぬ。なが月の中の十日あまりにや、善勝寺(ぜんしようじ)の大納言のもとより、文こまやかにかきて、「申したき事あり、いでたまヘ。出雲路(いづもぢ)といふわたりに侍るが、女どもの見参(げざん)したがるが侍るに、いかがして、みづからのたよりは、身にかへても」など申ししを、まめやかにおなじ心におもふべき事とおもひて、この大納言はをさなくより御心ざしあるさまなれば、これも又、身したしき人なればなどおぼしめしめぐらしけるは、なほざりならずとも申しぬべき、れいの、けしからずさは、うらめしく、うとましく、思ひまゐらせて、おそろしき様にさへおぼえて、つゆの御いらへも申されで、床中(とこなか)に起きゐたるありさまは、「あとより恋の」といひたるさまやしたるらんと、我ながらをかしくもありぬべし。夜もすがら泣く泣くちぎり給ふも、身のよそにおぼえて、こよひぞかぎりと心にちかひゐたるは、誰かは知らん。鳥の音ももよほしがほにきこゆるも、人は悲しき事をつくしていはるれども、我が心にはうれしきぞなさけなき。大納言、こわづくりて、何とやらんいふ音して帰り給ひなどするが、又立ちかへり、さまざまおほせられて、「せめては見だにおくれ」とありしかども、心ちわびしとておきあがらず。なくなく出で給ひぬるけしきは、げに、袖にやのこしおき給ふらんと見ゆるも、つみふかきほどなり。大納言の心のうちもわびしければ、いたくしらじらしくならぬさきにと、おほやけごとにことつけて、いそぎ参りて、つぼねにうちふしたれば、まめやかに、有りつるままのおもかげの、そばに見え給ひぬるもおそろしきに、そのひるつかた、かきつづけて給ひたる御言(おんこと)の葉(は)は、いつはりあらじとおぼえし中に、

   かなしともうしともいはんかたぞなき
      かばかりみつる人のおもかげ

今さら、かはるとしはなけれども、あまりに、うくつらく覚えて、ことのはも、なかりつる物をとおぼえて、

   かはるらん心はいさやしらぎくの
      うつろふ色はよそにこそみれ

あまりにおほき事どもも、なにと申すべきことのはもなければ、ただかくばかりにてぞ侍りし。そののち、とかくおほせらるれども、御返事も申さず。まして参らん事、おもひよるべき事ならず。とにかくにいひなして、つひに見参(げざん)にいらぬに、くれ行く年におどろきてにや文あり。善勝寺の文に、「御ふみまゐらす。このやう、返す返すせんなくこそ候らヘ。あながちにいとひ申さるる事にても候はず、しかるべき御契にてこそかくまでもおぼしめし染(し)み候ひけめに、なさけなく申され、かやうに、にがにがしくなりぬる事、身ひとつのなげきにおぼえ候ふ。これへも同じさまには、返す返すおそれ覚え候ふ」よし、こまごまとあり。文を見れば、たてぶみ、こはごはしげに、そくひにて上下につけかかれたり。あけたれば、熊野の、又いづくのやらん、本寺のとかや、牛王(ごわう)といふ物のうらに、まづ日本国六十個神仏、梵天王(ぼんてんわう)、帝釈(たいしやく)よりはじめ書きつくし給ひて後、「我、七歳よりして、勤求等覚(ごんくとうがく)の沙門(しやもん)のかたちをけがしてよりこのかた、炉壇(ろだん)に手をむすびて難行苦行の日をかさね、ちかくは、天長地久をいのりたてまつり、とほくは一切衆生もろともに滅罪生善(めつざいしやうぜん)を祈誓(きせい)す。心の中、さだめて、牛王・天道・諸明(しよみやう)、知見(ちけん)たれ給ふらんとおもひしに、いかなる魔縁(まえん)にか、よしなき事ゆゑ、ことし二年、夜はよもすがら面影を恋ひて涙に袖をぬらし、本尊にむかひ持経をひらくをりをりも、まづ言(こと)の葉(は)をしのび、護摩(ごま)の壇(だん)のうへには、ふみを置きて持経とし、御(み)あかしの光にはまづこれをひらきて心をやしなふ。このおもひ、しのびがたきによりて、かの大納言に言ひあはせば、見参(げざん)のたよりも心やすくやなどおもふ。又さりとも同じ心なるらむと思ひつる事みなむなし。この上は、ふみをもつかはし、ことばをもかはさんとおもふ事、今生には、このおもひをたつ。さりながら、心の中にわするる事は、生々世々(しやうじやうせぜ)、あべからざれば、我(われ)さだめて悪道(あくだう)におつべし。さればこのうらみ、つくる世あるべからず。両界の加行(けぎやう)よりこのかた、灌頂(くわんぢやう)にいたるまで、一期(いちご)の行法(ぎやうほう)、こんしゆ大乗しにきの行、一期のあひだ修(しゆ)するところ、みな三悪道に、回向(えかう)す。この力をもちて、今生(こんじやう)ながくむなしくて、後生には悪趣(あくしゆ)に生れあはむ。そもそも生をうけてこのかた、幼少のむかし、むつきの中にありけむ事はおぼえずして過ぎぬ。七歳にて髪をそり、衣をそめてのち、ひとつゆかにもゐ、もしは愛念(あいねん)のおもひなど、思ひよりたる事なし。この後又あるべからず。我(われ)にもいふことのはは、なべて人にもやと思ふらんとおもひ、大納言が心の中、返す返すくやしきなり」と書きて、天照大神・正八幡宮、いしいしおびたたしく、たまはりたるをみれば、身の毛もたち、心もわびしきほどなれど、さればとて、なにとかはせん。これをみな巻きあつめて返しまゐらする包紙(つつみがみ)に、

   今よりはたえぬとみゆる水くきの
      跡をみるには袖ぞしほるる

とばかり書きて、おなじさまに封じて返しまゐらせたりし後は、かきたえ御おとづれもなし。
 なにとまた申すべき事ならねば、むなしく年もかへりぬ。


四五 小弓の負けわざ

 建治三年、年頭の挨拶に、有明の月は後深草院の御所に参る。作者は給仕に出ようとして鼻血を垂れ、その後十日間ほど病臥。
 二月後深草院と亀山院と小弓の競技があり、その負けわざとして、後深草院の女房全部を鞠足のわらはに仕立てて亀山院に謁見させる行事が行われる。
 春はいつしか御まゐりある事なれば、いらせ給ひたるに、九こんまゐる。ことさら、とざまなる人もなく、しめやかなる御事どもにて、れいの常の御所にての御事どもなれば、にげかくれまゐらすべきやうもなくて、御前(おまへ)に候ふに、御所、「御しやくにまゐれ」とおほせありしに、まゐるとて立ちさまに、鼻血(はなぢ)たりて、目もくらくなりなどせしほどに、御前をたちぬ。そののち十日ばかり、如法、大事にやみて侍りしも、いかなりける事ぞとおそろしくぞ侍りし。
 かくて、きさらぎの頃にや新院いらせおはしまして、ただ御さしむかひ、小弓(こゆみ)をあそばして、「御まけあらば、御所の女房たちを上下みな見せたまへ。我まけまゐらせたらば又そのやうに」といふ事あり。この御所御まけあり。「これより申すべし」とて、還御ののち、資李の大納言入道をめされて、「いかが、この式あるべき。めづらしきふぜい、なに事ありなん」など、仰せられあはするに、「正月の儀式にて、台盤所にならべすゑられたらんも、あまりにめづらしからずや侍らん。又一人づつ、占相人(うらさうにん)などにあふ人のやうにて出でむもことやうにあるべし」など、公卿たち面々に申さるるに、御所、「龍頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟をつくりて、水がめをもたせて、春まつやどのかへしにてや」と御気色(きしよく)あるを、ふね、いしいしわづらはしとて、それもさだまらず。資季入道、「上臈八人、小上臈・中上臈八人づつを、上中下の鞠足(まりあし)のわらはになして、橘(たちばな)の御つぼに、きたてをして、まりのけいきをあらんや、めづらしからむ」と申す。さるべしと、みな人々申しさだめて、面々に、上臈には公卿、小上臈には殿上人、中臈には上北面、めのとにつきて出(いだ)したつ。水干袴に刀さして、くつ・したうづなどはきて出でたつべしとてある、いとたへがたし。さらば、よるなどにてもなくて、ひるの事なるべしとてあり。たれかわびざらん。されどもちからなき事にて、おのおの出でたつべし。
 西園寺の大納言、めのとにつく。はなだうらの水干袴に、くれなゐのうちきかさぬ。左の袖にぢんのいはをつけて、白きいとにして滝をおとし、右に桜をむすびてつけて、ひしとちらす。はかまには、いは・ゐせきなどして、花をひしとちらす。「涙もよほすたきの音かな」の心なるべし。権大納言殿、資季入道さたす。もよぎうらの水干袴には、左にせいろう、右に桜。はかま、ひだりに、たけ、むすびてつけ、右に、とうだい一つつけたり。紅のひとゑをかさぬ。面々にこの式なり。
 中の御所の広所(ひろどころ)を、びやうぶにてへだてわけて、廿四人出でたつさま、思ひ思ひにをかし。さて風流(ふりう)のまりをつくりて、ただ新院の御前(おまへ)ばかりに置かむずるを、ことさら、かかりのうへへ、あぐるよしをして、おつる所を袖にうけて、くつをぬぎて新院の御前に置くべしとてありし。みな人、このあげまりを、なくなくじたい申ししほどに、器量(きりやう)の人なりとて、女院の御かたの新衛門督殿を、上八人に召し入れて、つとめられたりし。これも時にとりては美々しかりしかとも申してん。さりながら、うらやましからずぞ。袖にうけて、御前に置く事は、その日の八人、上衆(じやうしゆ)につきてつとめ侍りき。いとはれがましかりし事どもなり。
 南庭(なんてい)の御簾(みす)あげて、両院・春宮、階下(かいか)に公卿両方に着座(ちやくざ)す。殿上人は、ここかしこにたたずむ。へいのしたを過ぎて南庭をわたる時、みな、めのとども、色々の狩衣にてかしづきに具す。新院、「交名(けいみやう)をうけたまはらん」と申さる。御幸(ごかう)、ひるよりなりて、九献(くこん)も、とくはじまりて、「おそし、御まりとくとく」と、奉行為方せむれども、「いまいま」と申して松明(しようめい)を取る。やがて面々のかしづき、脂燭(しそく)をもちて、「たれがし、ごたちのつぼね」と申して、ことさら御前へむきて、袖かきあはせて過ぎしほど、なかなか、ことのはなく侍る。下八人より、しだいにかかりの下へまゐりて、面々の木の本にゐるありさま、われながらめづらかなりき。まして上下男(をとこ)たちの、興に入りしさまは、ことわりにや侍らん。御まりを御前に置きて、いそぎまかり出でんとせしを、しばし召しおかれて、そのすがたにて御酌にまゐりたりし、いみじくたへがたかりし事なり。
 二三日かねてより、つぼねつぼねに伺候(しこう)して、髪ゆひ、すいかん、くつなど、きならはし候ふほど、めのとたち、けいえいして、「やしなひぎみ、もてなす」とて、かたよりに、事どものありしさま、おしはかるべし。


四六 六条院の女楽

 復讐戦が行われて今度は後深草院の勝ち、そこで亀山院が負けわざを嵯峨殿で催された。
 更に又再復讐戦が行われて後深草院の負、その負けわざとして伏見殿で音楽会が開かれる事になった。会の趣向は源氏物語若菜巻にある六条院の女楽の形で演じようというのである。
 さて当日になって演奏が始まろうする時、作者の祖父隆親が、我が子「今参り」の席を作者の上席に移させたので、作者は立腹して脱走し、演奏会は中止になった。
 脱走して身を隠した所を、小林の伊予殿の許と書いてあるが、それは初めからのことではなく、初めは真願房の室であったことが次の段で知られる。
 さるほどに、御ねたみには御かちあり。嵯峨殿(さがどの)の御所へ申されて、按察使(あぜち)の二品(にほん)のもとに、わたらせ給ふと御所とかや申す姫宮、十三にならせ給ふを舞姫に出だしたてまゐらせて、上臈女房たち、わらは・しもづかへになりて帳台のこころみあり。また公卿あつづまにて、殿上人・六位かたぬぎ北の陣をわたる。びんだたらのけいきなど、のこるなく、露台(ろだい)の乱舞(らんぶ)、御前のめし、おもしろしともいふばかりなかりしを、猶なごりをしとて、いやねたみまであそばして、又この御所、御まけ、伏見殿にてあるべしとて、六条院の女楽(をんながく)をまねばる。紫の上には東の御方、女三の宮の琴(きん)のかはりに、箏(しやう)のことを隆親の女(むすめ)の今参りにひかせんに、隆親ことさら所望(しよもう)ありときくより、などやらん、むつかしくて、参りたくもなきに、御まりのをりに、ことさら、御ことばかかりなどして、御覧じ知りたるにとて、明石の上にて琵琶にまゐるべしとてあり。琵琶は七つのとしより、雅光の中納言に、はじめて、がく二つ三つならひて侍りしを、いたく心にも入れでありしを、九つのとしより、又しばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合(そがふ)、万秋楽(まんじゆらく)などはみなひきて、御賀のをり、白河殿の荒序(くわうそ)とかやいひし事にも、十にて御琵琶をたまはりて、いたいけしてひきたりとて、花梨木(くわりぼく)の直甲(ひたかふ)の琵琶の、紫檀(したん)の転手(てんじゆ)したるを、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の袋に入れて、後嵯峨(ごさが)の院より給はりなどして、をりをりはひきしかども、いたく心にもいらでありしを、ひけとてあるも、むつかしく、などやらん物ぐさながら出でたちて、やなぎのきぬに、くれなゐのうちぎぬ、もよぎのうはぎ、うら山吹の小袿(こうちき)を着るべしとてあるが、なぞしも、かならず、人よりことに落ちばなる明石になる事は。東(ひんがし)の御方(おかた)の和琴(わごん)とても、日頃しつけたる事ならねども、ただこのほどの御ならひなり。琴(きん)のことのかはりの今参りの箏(こと)ばかりぞ、しつけたる事ならね。女御の君は、花山院太政大臣の女、西の御方(おかた)なれば、紫の上にならび給へり。これは、対座(たいざ)にしかれたる畳の右の上臈にすゑらるべし、御まりのをりにたがふべからずとてあれば、などやらん、さるべしともおぼえず、今参りは、女三宮とて、一でううへにこそあらめと思ひながら、御気色(みけしき)のうへはと思ひて、まづ伏見殿へは御ともにまゐりぬ。
 今参りは、当日に、もんの車にて、さぶらひ具しなどして参りたるを見るにも、我が身のむかし思ひいでられてあはれなるに、新院御幸(ごかう)なりぬ。すでに九献(くこん)はじまりなどして、こなたに、女房、しだいにいで、心々の楽器まへに置き、思ひ思ひのしとねなど、若菜の巻にや、しるしぶみのままに、さだめおかれて、時なりて、あるじの院は六条院にかはり、新院は大将にかはり、殿の中納言中将、洞院の三位中将にや、ふえ、ひちりきに階下(かいか)へ召さるべきとて、まづ女房の座、みなしたためて、ならびゐて、あなたうらにて、御さかもりありて、なかばになりて、こなたへ入らせ給ふべきにてある所へ、兵部卿まゐりて、女房の座いかにとて見らるるが、「このやうわろし。まねばるる女三宮、本妻(ほんだい)の御前なり。いままねぶ人の、これは叔母(をば)なり、あれは姪(めひ)なり。うへにゐるべき人なり。隆親、故大納言には上衆(じやうしゆ)なりき。何事に下にゐるべきぞ。ゐなほれ、ゐなほれ」と、こゑだかにいひければ、善勝寺、西園寺まゐりて、「これは別勅(べつちよく)にて候ふものを」といへども、「なにとてあれ、さるべき事かは」と、いはるるうへは、一たんこそあれ、さのみいふ人もなければ、御所はあなたにわたらせ給ふに、たれか告げまゐらせんも詮(せん)なければ、座をしもへおろされぬ。いだし車の事、今さら思ひ出だされていとかなし。姪、叔母には、なじかよるべき。あやしのものの腹にやどる人もおほかり。それも、おばは、むばばとて、ささげおくべきか。こはなに事ぞ。すべて、すさまじかりつる事なり。これほど面目(めんぼく)なからん事にまじろひてせんなしと思ひて、この座をたつ。つぼねへすべりて、「御たづねあらば消息(せうそく)をまゐらせよ」といひおきて、小林(こばやし)といふは、御ばばがはは、宣陽門院(せんやうもんゐん)に伊予殿といひける女房、おくれまゐらせて、さまかへて、即成院(そくじやうゐん)の御墓ちかく候ふ所へたづねゆく。まゐらせおく消息(せうそく)に、白きうすやうに琵琶の一の緒をニつにきりて包みて、

   数ならぬうきみをしれば四つのをも
      この世の外におもひきりつつ

とかきおきて、「御たづねあらば、都へ出で侍りぬと申せ」と申しおきて出で侍りぬ。
 さるほどに、九献(くこん)なかば過ぎて、御やくそくのままにいらせ給ふに、明石の上のかはりの琵琶なし。事のやうを御たづねあるに、東(ひんがし)の御方(おかた)、有りのままに申さる。きかせおはしまして、「ことわりや、あがこがたちける事、そのいはれあり」とて、つぼねをたづねらるるに、「これをまゐらせて、はや都へ出でぬ。さだめて召しあらばまゐらせよとて、消息こそ候へ」と申しけるほどに、あへなく、ふしぎなりとて、よろづに、にがにがしくなりて、いまの歌を、新院も御覧ぜられて、「いとやさしくこそ侍れ。こよひの女楽はあいなく侍るべし。この歌を給はりて、かへるべし」とて、申させ給ひて、還御なりにけり。このうへは、今参り、ことひくにおよばず。めむめむに、「兵部卿うつつなし。おいのひがみか。あがこがしやう、やさしく」など申してすぎぬ。


四七 雲がくれ

 この段に初めて「雪の曙」という呼び名が出る。これは第二段に「昨日の雪よりも今日のは云々」の文を送ってよこした初恋の人西園寺実兼で、今までは「この人」「その人」などと書かれていた。
 またこの段の記によって作者の御所脱出が建治三年の三月十三日であった事、「有明の月」が初めて作者に意中を打明けたのが建治元年三月十三日であった事が知られる。
 この段は御所脱出以後、およそ一個月余りにわたる作者の動静と述懐を記したものであるが、その間隠れていた所が、最初から真願房の室であったか、諸方を隠れ廻って終りに真願房の室に入ったのか明らかでない。
 あしたは、またとく、四条大宮の御ばばがもと、六角櫛笥(ろくかくくしげ)のむばのもとなど、人を給はりて御たづねあれども、行くへしらずと申しけり。さるほどに、あちこちたづねらるれども、いづくよりか、ありと申すべき。よきついでに、うき世をのがれんと思ふに、しはすのころより、ただならずなりにけりと思ふをりからなれば、それしもむつかしくて、しばし、さらば、かくろへゐて、このほどすぐして、身二つとなりなばと思ひてぞゐたる。これよりして、ながく琵琶のばちをとらじとちかひて、後嵯峨の院よりたまはりてし琵琶の八幡(やわた)へまゐらせしに、大納言(父雅忠)のかきてたびたりしふみのうらに、法花経をかきてまゐらするとて、経のつつみがみに、

   この世には思ひきりぬる四つのをの
      かたみやのりの水くきのあと

 つくづくと案ずれば、をととしの春、三月十三日に、はじめて、「をらではすぎじ」とかやうけたまはりそめしに、こぞのしはすにや、おびたたしきちかひの文をたまはりて、いくほどもすぎぬに、ことしの三月十三日に、年月さぶらひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも永く思ひすて、大納言かくれて後は、おやさまに思ひつる兵部卿も、心よからず思ひて、「我が申したる事をとがめて出づるほどの者は我が一期(いちご)にはよもまゐり侍らじ」など申さるるときけば、道とぢめぬる心ちして、いかなりける事ぞと、いとおそろしくぞおぼえし。如法(によほふ)、御所よりも、あなたこなたをたづねられ、雪のあけぼのも、山々寺々までも思ひのこすくまなく、たづねらるるよしきけども、つゆもうごかれず隠れゐて、聞法(もんぽふ)の結縁(けちえん)も、たよりありぬべくおぼえて、真願房のむろにぞ、又かくれ出で侍りし。


四八 三界無安

 この段が建治三年四月の事であるのは前からの連絡上知られるが、史実も一致する。その頃隆顕は父隆親と不和になり、今まで同宿していた父の邸を去り、妻の父九条中納言の家に籠居した。作者はその噂を聞いて隆顕へ慰問の手紙を贈る。それによって隠れがが分かったので隆顕は作者を訪問する。
 隆顕は醍醐の勝倶胝院なる真願房の庵室に作者を訪ねて一夜物語をする。その物語の中で、作者は「有明の月」が嘆いている様子を聞いて悲しい思いをする。
 さるほどに、四月のまつりの御桟敷(おんさじき)の事、兵部卿、用意して、両院御幸(ごかう)なすなど、ひしめくよしも、耳のよそに伝へききしほどに、おなじ四月のころにや、内・春宮の御元服(ごげんぷく)に、大納言の年のたけたるが入るべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を一日かりわたして参るべきよし申す。神妙(しんべう)なりとて、まゐりて、ふるまひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ、経任になされぬ。
 さるほどに、善勝寺の大納言、ゆゑなくはがれぬる事、さながら、父の大納言がしごとやと思ひて深くうらむ。当腹(たうふく)隆良(たかよし)の中将に宰相を申すころなれば、この大納言をまゐらせあげて、我を超越(てうをつ)せさせんとすると思ひて、同宿もせんなしとて、北の方が父、九条中納言家に籠居(ろうきよ)しぬるよし聞く。いとあさましければ、行きてもとぶらひたけれども、世のきこえむつかしくて、ふみにて、「かかる所に侍るを、たちよりたまへかし」など申したれば、「あとなく聞きなして後、よろづいはんかたなくおぼえつるに、うれしくこそ。やがてよさり参りて、いぶせかりつる日数も」などいひて、暮るるほどにぞたちよりたる。
 卯月(うづき)のすゑつかたの事なるに、なべて青みわたる木ずゑの中に、おそき桜の、ことさらけぢめ見えて白くのこりたるに、月いとあかくさし出でたるものから、木かげは暗き中に、鹿のたたずみありきたるなど、絵にかきとめまほしきに、てらでらの初夜(しよや)のかね、ただいまうちつづきたるに、ここは三昧堂(さんまいだう)つづきたる廊なれば、これにも、初夜(しよや)のねんぶつ、ちかきほどにきこゆ。回向(えかう)してはてぬれば、尼どもの麻のころもすがた、いとあはれげなるを見いだして、大納言も、さしも思ふ事なくふとりたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣のたもともしほりぬ。「今は恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひたつに、故大納言の心ぐるしく申し置きし事、われさへ又と思ふこそ、思ひのほだしなれ」など申せば、我も、げにいとど、なにをかと、なごりをしさも悲しきに、うすきひとへの袂は、かわく所なくぞ侍りける。「かかるほどをすごして、山ふかく思ひたつべければ、おなじ御すがたにや」など申しつつ、かたみにあはれなる事いひつくし侍りしなかに、「さても、いつぞや、おそろしかりしふみを見し、我がすごさぬ事ながら、いかなるべき事にてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身といひ、身といひ、かかる事のいできぬるも、まめやかに、むくいにやとおぼゆる。さても、いづくにもおはしまさずとて、あちこちたづね申されしをりふし、御まゐりありて、御帰りありし御道にて、『まことにや、かくときくは』と御尋ねありしに、『行くへなく今日までは承(うけたま)はる』と申したりしに、いかがおぼしけん、中門のほどにたちやすらひつつ、とばかり物もおほせられで、御涙のこぼれしを、檜扇(ひあふぎ)にまぎらはしつつ、『三界無安(さんがいむあん)、猶如火宅(ゆによくわたく)』と、くちずさみて出で給ひしけしきこそ、つねならん人の、恋ひし、かなし、あさまし、あはれと、申しつづけんあはれにも、猶まさりて見え侍りしかば、本尊にむかひ給ふらん念誦(ねんじゆ)もおしはかられて」など語るを聞けば、「かなしさのこる」とありし月影も、今さら思ひ出でられて、などあながちに、かうしも情なく申しけむと、くやしき心ちさへして、我がたもとさへ露けくなり侍りしにや。夜あけぬれば、世の中も、かたがたつつましとて帰らるるも、「事ありがほなる朝がへりめきて」などいひて、「いつしか、こよひのあはれ、けさのなごり、まことの道には、すて給ふな」などあり。

   はかなくも世のことわりは忘られて
      つらさにたへぬわがたもとかな

と申したりし。「げにうきはなべてのならひとも知りながら、なげかるるは、かやうの事にやと、かなしさそひて」など申して、

   よしさらばこれもなべてのならひぞと
      思ひなすべき世のつらさかは


四九 春日の夢想

 雪の曙(西園寺実兼)は作者の行くえを知りたくて春日神社に籠り夢想に導かれて京に帰る途中、隆顕の中間男に出逢い、作者の隠れがが勝倶胝院であることを知る。
 その夕暮、実兼は作者を訪問し、翌日もそこに滞在する。そして隆顕へ手紙を送り来訪を求める。隆顕来訪。実兼・隆顕相談の上、実兼が作者のありかを聞きつけたことにして院に申上げようと定め、おのおの帰る。
 雪のあけぼのは、跡なき事をなげきて、春日に二七日こもられたりけるが、十一日と申しける夜、二の御殿の御前に昔にかはらぬすがたにて侍ると見て、いそぎ下向(げかう)しけるに、藤の森といふほどにてとかや、善勝寺が中間(ちゆうげん)、細きふみのはこをもちてあひたる、などやらん、ふと思ひよる心ちして、人にいはするまでもなくて、「勝倶胝院(しようくていゐん)よりかへるな、二条殿の御出家(おんすけ)はいつ一定(いちぢやう)とか聞く」と、いはれたりければ、よく知りたる人とや思ひけむ、「よべ九条より大納言殿いらせ給ひて候ひしが、けさ又御つかひにまゐりて帰り候ふが、御出家(おんすけ)の事は、いつとまではえうけたまはり候はず。いかさまにも御出家(おんすけ)は一定(いちぢやう)げに候ふ」と申しけるに、さればよと、うれしくて、供なるさぶらひが乗りたる馬をとりて、これより神馬(しんめ)にまゐらせて、我が身は、ひるは世の聞えむつかしくて、上(かみ)の醍醐(だいご)に知るゆかりある僧坊へぞたちいりける。
 それもしらで、夏木だち眺めいでて、坊主(ばうず)の尼御前(あまごぜん)のまへにて、せん道の御ことを習ひなどしてゐたる暮(くれ)ほどに、なにのやうもなく縁(えん)にのぼる人あり。尼たちにやと思ふほどに、さやさやとなるは、装束(しやうぞく)のおとからと、見かへりたるに、そばなるあかりしやうじをほそめて、「心づよくもかくれたまへども、神の御しるべは、かくこそたづねまゐりたれ」といふを見れば、雪の明けぼのなり。こはいかにと、今さら胸もさわげども、なにかはせん。「なベて世のうらめしく侍りて、思ひ出でぬるうへは、いづれをわきてか」とばかりいひてたち出でたり。例の、いづくより出づることのはにかと思ふ事どもをいひつづけゐたるも、げにかなしからぬにしもなけれども、思ひきりにし道なれば、二たびかへり参るべき心ちもせぬを、かかる身のほどにてもあり、たれかはあはれともいふべき。
 「御心ざしのおろかなるにてもなし、兵部卿が老(おい)のひがみゆゑに、かかるべき事かは。ただこのたびばかりは、おほせにしたがひてこそ」など、しきりにいひつつ、つぎの日はとどまりぬ。
 善勝寺のとぶらひいひて、「これに侍りけるに思ひかけずたづねまゐりたり。げざんせん」といひたり。「かまへて、これへ」と、ねんごろにいはれて、このくれに、又たちよりたれば、つれづれのなぐさめになどとて、九献(くこん)よもすがらにて、あけ行くほどにかへるに、「ただこのたびは、それに聞き出だしたるよしにて、御所へ申してよかるべし」など、面々(めん/\)にいひさだめて、雪のあけぼのも今朝(けさ)たちかへりぬ。面々(めん/\)のなごりも、いとしのびがたくて、見だにおくらんとて立ち出でたれば、善勝寺は、檜垣(ひがき)に夕顔を織りたるしじらの狩衣にて、道こちなくやなどためらひて夜ふかくかへりぬ。いま一人は、入りがたの月くまなさに、うすかうの狩衣。車したたむるほど、はしつかたにいで、あるじのかたへも、「思ひよらざる見参(げざん)もうれしく」などあれば、「十念しやうじゆのをはりに、三尊の来迎(らいかふ)をこそ待ち侍る柴のいほりに、おもひがけぬ人ゆゑ、をりをり、かやうなる御たもとにてたづね入り給ふも、山がつのひかりにや思ひ侍らん」などあり。「さても、のこる山のはもなくたづねかねて、三笠の神のしるべにやとまゐりて見しむば玉の夢のおもかげ」など語らるるぞ、住吉の少将が心ちし侍る。あけゆくかねも、もよほしがほなれば、出でさまに、くちずさみしを、しひていへれば、

   世のうさも思ひつきぬるかねのおとを
      月にかこちて有明のそら

とやらん、くちずさみて、出でぬるあとも悲しくて、

   かねのおとにうさもつらさもたちそへて
      名残をのこす有明の月


五〇 小林の伊予殿

 作者が伏見の小林なる伊予殿の家に移った事。これについては四六段に、御所を脱走してすぐ小林へ行ったような書き方をしているが、初め諸所に身を隠し、最後に小林へ行き、小林から院に連れもどされたので、このように書かれたのである。四七段以下の文によってその事が知られる。
 さて作者は伊予殿の家に移って、四八段で隆顕から聞かされた有明の月の嘆きを思い出して悲しんでいると、雪の曙から手紙があり、二人の中に生まれた秘密の女児に面会させようという。それにつけても恩愛の情に心が砕ける事。
 後深草院が突然に伊予殿の家に御幸なされ、言葉をつくして帰参をすすめなさるので、作者は心弱くもお供をして、御所に帰った事。
 けふは、一すぢに思ひ立ちぬる道も又さわり出できぬる心ちするを、あるじの尼御前(あまごぜん)、「いかにも、この人々は申されぬとおぼゆるに、たびたびの御つかひに、心きよく、あらがひ申したりつるも、はばかりある心ちするに、小林のかたへ出でよかし」といはる。さもありぬべきなれば、車の事、善勝寺へ申しなどして、伏見の小林といふ所へまかりぬ。こよひは、なにともなく日もくれぬ。御ばばがはは伊予殿、「あなめづらし。御所よりこそ、これにやとて、たびたび御尋ねありしか。清長もたびたびもうでこし」などかたるをきくにも、三界無安(さんがいむあん)、猶如火宅(ゆによくわたく)と言ひ給ひける人のおもかげ、うかむ心ちして、とにかくに、さもぞ物おもふ身にてありけると、我ながらいとかなし。卯月のそらのむらさめがちなるに、音羽(おとは)の山の青葉の木ずゑにやどりけるにや、時鳥のはつねをいまききそむるにも、
 
   我が袖の涙事とへほととぎす
      かかるおもひの有明のそら

いまだ夜ふかきに、尼たちの起き出でて、後夜おこなふに、即成院(そくじやういん)のかねのおとも、うちおどろかすに、われも起き出でて、経などよみて、日たかくなるに、又雪のあけぼのより(むばらきりたりし人)の文あり。なごりなどかきてのち、「さても、夢のやうなりし人、そののちは面影(おもかげ)も知らぬ事にてあれば、なにとかはと思ひて過ぐるに、この春のころよりわづらひつるが、なのめならず大事なるを、道のものどもにたづぬなれば、御心にかかりたるゆゑなど申す。ま事に恩愛(おんあい)つきぬ事なれば、さもや侍らん」とあり。いさや、かならずしも、恋し、かなしとまではなけれども、思はぬ山のみねにだにといふ事なれば、事しはいくらほどなど、思ひ出づるをりをりは、一目みし夜半(よは)の面影を、二たびしのぶ心もなどかなからん。されば又、あはぬ思ひの片糸(かたいと)は、うきふしにもやと、我ながら事わらるれば、「なによりもあさましくこそ、又さりぬべきたよりも侍らば」などいひて、これさへけふは心にかかりつつ、いかがききなさんとかなし。
 くれぬれば、例の初夜おこなふついでに、せうさなどせんとて、持仏堂にさし入りたれば、いと、よはひかたぶきたる尼の、もとよりゐて経よむなるべし。「遠くて菩提の因」などいふもたのもしきに、折戸(をりど)あくおとして、人のけはひ、ひしひしとす。思ひあへず、たれなるべしとも覚えず、ほとけの御前の明障子(あかりしやうじ)を、ちとあけたれば、御手輿(おんたごし)にて、北面(ほくめん)の下らう一二人、めしつぎなどばかりにて、御幸あり。いと思はずにあさましけれども、目をさへふと見あはせたてまつりぬるうへは、にげかくるべきにあらねば、つれなくゐたる所へ、やがて御輿(みこし)をよす。おりさせおはしまして、「ゆゆしくたづね来にけるな」と、おほせあれども、物も申さでゐたるに、「御輿(みこし)をばかきかへして、御車(みくるま)したためてまゐれ」と、おほせあり。御車待ちたまふほど、「この世のほかに思ひきるとみえしより、たづねくるに」と、いくらもおほせられて、「兵部卿がうらみに我さへ」などうけたまはるも、ことわりなれども、「なべてうき世を、かかるついでに思ひのがれたく侍る」よし申すに、「嵯峨殿(さがどの)へなりつるが、思ひかけず、かくとききつるほどに、例の人づてには、又いかがかと思ひて、伏見殿へいらせおはしますとて、たちいらせ給ひたり。なにと思はむにつけても、このほどのいぶせさも心しづかに」と、さまざまうけたまはれば、例の心弱さは御車にまゐりぬ。夜もすがら、我がしらせたまはぬ御事、又この後もいかなる事ありとも、人におぼしめしおとさじなど、内侍所(ないしどころ)、大菩薩(だいぼさつ)ひきかけうけたまはるも、かしこければ、参り侍るべきよしを申しぬるも、なほうき世出づべきかぎりの遠かりけるにやと心うきに、あけはなるるほどに還御なる。「御ともに、やがて、やがて」とおほせあれば、つひにまゐるべからん物ゆゑはと思ひてまゐりぬ。つぼねも、みなさとへうつしてければ、京極殿のつぼねへぞ参り侍りし。


五一 人の宝の玉

 建治三年四月下旬の頃、御所で岩田帯をした事。同月三十日某所で、実兼との間に生れた女児に対面した事。
 さてここに岩田帯をした胎児の出産の記は欠けているので事がらは不明であるが、御所で帯をしたのであるから院の御子と認められていたのであろうが、作者は「思ひいづるかずかず多かり」と記しているので何か秘密が感じられる。次に実兼との間の女児は文永十一年九月の誕生であるから今年四歳であった。実母との対面ということを承知していながら、心にこめて現さぬ利発さが、ここの文で察しられる。
 世にしたがふならひも今更(いまさら)すさまじきに、つもごり頃にや、御所にて帯をしぬるにも、思ひいづるかずかず多かり。
 さても夢の面影の人、わづらひなほ所せしとて、思ひかけぬ人の宿所(しゆくしよ)へよびて見せらる。「五月五日は、たらちめの跡とひにまかるべきついでに」と申ししを、「五月ははばかるうへ、こけの跡とはむたよりもいまいまし」と、しひていはれしかば、卯月のつもごりの日、しるべある所へまかりたりしかば、こうばいの浮織物(うきおりもの)の小袖にや、二月よりおふされけるとて、いこい事ある髪すがた、夜目にかはらずあはれなり。北の方をりふし、産したりけるが、なくなりにけるかはりに、とり出でてあれば、人はみな、ただそれとのみ思ひてぞありける。天子に心をかけ、禁中にまじらはせん事を思ひかしづくよしきくも、人の宝の玉なればと思ふぞこころわろき。かやうのふたごころありとも、つゆしらせおはしまさねば、心より外にはと思しめすぞいとおそろしき。


五二 梁園八代の古風

 建治三年八月頃、関白兼平、後深草院に参り院と閑談。作者その席に侍す。関白は作者にも親しく話しかけ音楽会における隆親の所為を非難し作者に同情する。また作者の生家である久我家が名門であることをほめたたえる。
 八月のころにや、近衛大殿御参りあり。後嵯峨の院御かくれのをり、「かまへて御覧じはぐくみまゐらせられよ」と申されたりけるとて、つねに御まゐりもあり、又もてもなしまゐらせられしほどに、常の御所にて、うちうち九献(くこん)などまゐり候ふほどに、御覧じて、「いかに、行くへなくききしに、いかなる山にこもりゐて候ひけるぞ」と申さる。「大かた、方士が術ならでは、たづねいでがたく候ひしを、蓬莱の山にてこそ」など仰せありしついでに、「ぢたい、兵部卿が老(おい)のひがみ、事の外に候ふ。さても、琵琶はすてはてられて候ひけるか」と仰せられしかども、ことさらものも申さで候ひしかば、「身一代ならず、子孫までと、ふかく八幡宮にちかひ申して候ふなる」と、御所におほせられしかば、「むげに、若きほどにて候ふに、にがにがしく思ひきられ候ひける。ぢたいあの家の人々は、なのめならず家をおもくせられ候。経任大納言申しおきたるしさいなどぞ候ふらん。村上天皇より、家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりに言はれ候ふ。あのめのと仲綱は久我重代の家人(けにん)にて候ふを、岡屋(をかのや)の殿下、ふびむに思はるるしさい候うて、兼参(けさん)せよと候ひけるに、『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家(しよけ)には準(じゆん)ずべからざれば、見参(げざん)しさいあるまじ』と、みづからのふみにて仰せられ候ひけるなど申しつたへ候ふ。隆親の卿、むすめ、をばなれば、うへにこそと申し候ひけるやうもけしからず候ひつる。さきの関白、新院へまゐられて候ひけるに、やや久しく御物がたりども候ひけるついでに、『傾城(けいせい)の能(のう)には歌ほどの事なし。かかるにがにがしかりし中にも、この歌こそ耳にとどまりしか。梁園(りやうゑん)八代の古風といひながら、いまだ若きほどに、ありがたき心づかひなり。仲頼と申して、この御所に候ふは、その人が家人なるが、ゆくへなしとて、山々寺々たづねありくとききしかば、いかなるかたに聞きなさむと、われさへ、しづごころなくこそ』など御物がたり候ひけるよし、うけたまはりき」など申させ給ひき。


五三 今様秘事御伝授

 関白兼平は院と閑談の席上、次男兼忠に今様秘事御伝授の事を乞う。院はこれを聴許せられ、早速明後日伏見に御幸して伝授しようと約束される。院は西園寺実兼・源師親を伴われ、作者はお供する。籠居中の善勝寺隆顕も召し出される。兼平は長男基忠、次男兼忠と共に伏見御所に参る。秘事御伝授は下の御所で行われ、その後、白拍子の舞を御覧になる。
 この段から次段にかけて、上の御所・伏見殿・筒井の御所などの名が見えるが、伏見殿と上の御所は同じで伏見の御所の本殿と思われ、その位置は今の大光明寺綾の辺で南に近く宇治川が流れている。下の御所はそれから約千メートル西、今の京橋辺にあった。筒井の御所の所在は不明であるが、下の御所の近くにあったと思われる。院はこの時下の御所に滞在せられ、伏見殿へは鵜舟をつかわせに出かけられた。
 「さても中納言中将、今様(いまやう)きりやうに侍る。おなじくは、その秘事を御ゆるされ候へ」と申さる。「さうにおよばず。京の御所はむつかし。ひみにて」と御約束(おんやくそく)あり。あさてばかりとて、にはかに御幸あり。披露(ひろう)なき事なれば人あまたも参らず。供御(くご)は臨時(りんじ)の供御(くご)をめさる。台所の別当一人などにてありしやらん。あちこちのありき、いしいしに、姿も事のほかに、なえばみたりしをりふしなるに、まゐるべしとてあれば、兵部卿もありし事の後は、いと申す事もなければ、なにとすべきかたもなきやうに案じゐたるに、をみなへしのひとへがさねに、袖に秋の野をぬひて露おきたる赤色のからぎぬかさねて、すずしの小袖、はかまなど色々に、雪のあけぼののたびたるぞ、いつよりもうれしかりし。
 大殿・さきの殿・中納言中将殿、この御所には、西園寺・三条坊門帥親より外は人なし。善勝寺九条の宿所(しゆくしよ)は近きほどなり、この御所にははばかり申すべきやうなしとて、たびたび申されしかども、籠居のをりふしなれば、はばかりあるよしを申して参らざりしを、清長をつかはして召しあれば参る。思ひかけぬ白拍子(しらびやうし)を二人めしぐせられたりける誰かは知らん。下の御所の広所(ひろどころ)にて御ことはあり。うへの御所のかたに車ながらおかる。事どもはじまりて、案内を申さる。興にいらせ給ひて召さる。おとといといふ。あね廿(はたち)あまり、すはうのひとへがさねに袴、おととは、をみなへし、すぢのすいかんに萩を袖にぬひたる大口を着たり。あねは春菊、おとと若菊といひき。白拍子せうせう申して、たちすがた御覧ぜられんといふ御気色(みけしき)あり。つづみうちを用意せずと申す。そのわたりにて、つづみをたづねて、善勝寺これをうつ。まづ若菊まふ。そののち、あねをと御気色(みけしき)あり。すてて久しくなりぬるよし、たびたびじたい申ししを、ねんごろに仰せありて、はかまのうへに、おととが水干(すゐかん)を着て舞ひたりし、ことやうにおもしろく侍りき。いたくみじかからずとて、しゆげむの白拍子をぞ舞ひ侍りし。御所、如法、ゑはせおはしましてのち、夜ふけてやがて出だされぬ。それも知らせおはしまさず。人々は、こよひはみな御しこう、あす一度(いちど)に還御などいふさたなり。


五四 筒井の御所の化物

 今様御伝授のあった夜ふけて後、作者は筒井の御所に用をたしに行って帰ろうとする時、何者かに袖を引かれる。この人が関白兼平であった事は次段の記によっても察せられる。さて作者が下の御所に帰って見ると、院はお目ざめで再び酒を召しあがる。酔うて御寝になったが、作者は袖を引いた人の事が心にかかって眠ることができなかった。
 御所、御寝(ぎよしん)のまに、筒井の御所のかたへ、ちと用ありて出でたるに、松のあらしも身にしみ、人まつむしのこゑも、そでの涙にねをそふるかと覚えて、待たるる月もすみのぼりぬるほどなるに、思ひつるよりも物あはれなるここちして、御所へかへりまゐらんとて、山ざとの御所の夜なれば、みな人しづまりぬる心ちして、掛湯巻(かけゆまき)にて通るに、筒井の御所の前なる御簾(みす)の中より袖をひかゆる人あり。まめやかに、ばけ物のここちして、あららかに「あなかなし」といふ。「夜ごゑには、こたまといふ物の、おとづるなるに、いとまがまがしや」といふ御声は、さにやと思ふもおそろしくて、なにとはなく、ひき過ぎんとするに、たもとは、さながらほころびぬれども、はなちたまはず。人のけはひもなければ、御簾(みす)の中にとりいれられぬ。御所にも人もなし。「こはいかに、こはいかに」と申せども、かなはず。「年月(としつき)おもひそめし」などは、なべて聞きふりぬる事なれば、あなむつかしとおぼゆるに、とかくいひちぎり給ふも、なべての事と耳にもいらねば、ただいそぎまゐらむとするに、夜のながきとて、御目さまして、御たづねあるといふにことつけて、たちいでんとするに、「いかなるひまをも作り出でて、かへりこむとちかヘ」といはるるも、のがるる事なければ、よものやしろにかけぬるも、ちかひの末おそろしき心ちして、立ちいでぬ。
 また九献(くこん)まゐるとて、人々まゐりてひしめく。なのめならず、ゑはせおはしまして、若菊をとくかへされたるが念なければ、あす御逗留(ごとうりう)ありて、いま一(いち)ど召さるべしと御気色(みけしき)あり。うけたまはりぬるよしにて後、御心(みこころ)ゆきて、九献ことにまゐりて、御よるになりぬるにも、うたたねにもあらぬ夢のなごりは、うつつとしもなき心ちして、まどろまであけぬ。


五五 酔ひごこち

 伏見滞在の第二日目の記。院御主催の宴が開かれ、終って院御寝の室へ兼平が作者を誘いに来る。作者は院にすすめられ、兼平に隣室へ連れ出されてその意に従う。
 けふは御所の御ざしやうにてあるべきとて、資高、承(うけたま)はる。御ことおびたたしく用意したり。傾城(けいせい)まゐりて、おびたたしき御さかもりなり。御所の御はしりまひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷(をしき)にかねのさかづきすゑて、麝香(ざかう)のへそ三つ入れて、あね給(たま)はる。かねの折敷(をしき)に、瑠璃(るり)の御器(ごき)にへそ一つ入れて、おとと給はる。後夜(ごや)うつほどまでもあそび給ふに、また若菊をたたせらるるに、「相応和尚(さうおうくわしやう)の割不動(われふどう)」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正、いたんのまうしふや残りけん」といふわたりをいふをり、善勝寺、きと見おこせたれば、われも思ひあはせらるるふしあれば、あはれにもおそろしくもおぼえて、ただゐたり。のちのちは、人々のこゑ、乱舞(らんぶ)にてはてぬ。
 御とのごもりてあるに、御腰(おんこし)うちまゐらせて候ふに、筒井の御所のよべの御(おん)おもかげ、ここもとに見えて、「ちと物おほせられん」と、よび給へども、いかがたちあがるべき、うごかでゐたるを、「御よるにてあるを、かたに」など、さまざまおほせらるるに、「はやたて、くるしかるまじ」と、しのびやかにおほせらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへとりてひきたてさせたまへば、心の外にたたれぬるに、「御とぎには、こなたにこそ」とて、障子のあなたにて、おほせられゐたる事どもを、ねいり給ひたるやうにて聞きたまひけるこそあさましけれ。とかく、泣きさまだれゐたれども、酔ひ心ちやただならざりけむ、つひにあけ行くほどにかへし給ひぬ。われすごさずとはいひながら、かなしき事をつくして、御前にふしたるに、ことにうらうらとおはしますぞ、いとたへがたき。


五六 うきからのこる

 伏見滞在の第三日の記。今日は兼平の主催で宴が設けられ、夜は上の御所で鵜飼を御覧になって下の御所に帰還。院が深酔御寝の所へ昨夜の如く兼平が参り作者を所望して隣室に宿る。翌朝一同揃って京都へ還る。
 けふは還御にてあるべきを、「御なごり多きよし傾城(けいせい)申していまだ侍り。けふばかり」と申されて、大殿より御ことまゐるべしとて、また逗留あるも、又いかなる事かとかなしくて、つぼねとしもなく、うちやすみたる所ヘ、
 「みじか夜の夢のおもかげさめやらで心にのこる袖のうつりが。ちかき御となりの御ねざめもやと、けさはあさましく」などあり。

   夢とだに猶わきかねて人しれず
      おさふる袖の色をみせばや

たびたび召しあれば参りたるに、わびしくや思ふらんとおぼしめしけるにや、ことにうらうらとあたり給ふぞ、なかなかあさましき。
 ことどもはじまりて、けふはいたく暮れぬほどに御船にめされて伏見殿へ出でさせおはしはします。ふけゆくほどに、鵜飼めされて、鵜舟(うぶね)、はしぶねにつけて、鵜、つかはせらる。鵜飼(うがひ)三人まゐりたるに、着たりしひとへがさねたぶなどして、還御なりてのち、また酒まゐりて、ゑはせおはしますさまも、こよひはなのめならで、ふけぬれば、また御よるなる所へまゐりて、「あまたかさぬるたびねこそ、すさまじく侍れ。さらでも、伏見のさとは、ねにくきものを」などおほせられて、「脂燭(しそく)さしてたベ。むつかしきむしなどやうの物もあるらん」と、あまりにおほせらるるも、わびしきを、「などや」とさへ仰せ事あるぞ、まめやかにかなしき。「かかる老(おい)のひがみは、おぼしゆるしてんや。いかにぞや見ゆる事も、御めのとになり侍らんふるきためしも多く」など、御まくらにて申さるる。いはん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとりねはすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所にやどりぬるこそ。
 けさは夜のうちに還御とてひしめけば、おきわかれぬるも、うきからのこるといひぬべきに、これは御車のしりにまゐりたるに、西園寺も御車にまゐる。清水(きよみづ)の橋(はし)のうへまでは、みな御車をやりつづけたりしに、京極より、御幸は北へなるに、のこりは西へやりわかれしをりは、なにとなくなごりをしきやうに、車のかげの見られ侍りしこそ、こはいつよりのならはしぞと、わがこころながらおぼつかなく侍りしか。





問はず語り 巻三


五七 告白

 巻三は五年間にわたる記事を含んでいる。最後の年は北山准后九十賀の記であるから弘安八年であるが、他は明らかでない。ここにはこれを逆算して、この段を弘安四年と仮定する。この仮定を採れば前巻との間に、弘安元・二・三年が欠けている事になる。これについて考えられる事は、四七段に「(建治二年)しはすの頃よりただならずなりにけりと思ふ」とあり、五一段に「(建治三年四月)つもごりの頃にや、御所にて帯をしぬる」とある胎児の出産についての記事が無い事である。この出産は建治三年十月頃にあるべきであるから、その頃以後弘安三年までが欠けているのであろう。
 さてこの段の梗概は、弘安四年二月中旬、作者が世を煩わしく思いなやんでいる頃、有明の月が院参して激しく言い寄る。それを院に発見せられて作者は全部告白する。院は作者の正直な告白と有明の月の熱情に感動して二人の関係を許し、又、院自身が遠い昔に作者の母を恋した秘密を語られる。
 世の中いとわづらはしきやうになりゆくにつけても、いつまでおなじながめをとのみ、あぢきなければ、山のあなたのすまひのみ願はしけれども、心にまかせぬなど思ふも、なほすてがたきにこそと、我ながら身をうらみねの夢にさへ、遠ざかりたてまつるべき事の見えつるも、いかに違(ちが)へむと思ふもかひなくて、きさらぎもなかばになれば、おほかたの花もやうやうけしきづきて、梅が香にほふ風おとづれたるもあかぬ心ちして、いつよりも心ぼそさも悲しさもかこつかたなき。
 人召す音のきこゆれば、なにごとにかと思ひてまゐりたるに、御前には人もなし。御湯殿の上に、ひとりたたせ給ひたる程なり。
「このほどは人々のさとずみにて、あまりにさびしき心ちするに、つねにつぼねがちなるは、いづれのかたさまに引く心にか」など、仰せらるるも、例のとむつかしきに、有明の月御参りのよし奏す。
 やがて常の御所へいれまゐらせらるれば、いかがはせん。つれなく御前に候ふに、そのころ今御所と申すは、遊義門院、いまだ姫宮におはしまししころの御ことなり。御なやみわづらはしくてほどへ給ひける御祈(おんいのり)に、如法、愛染王行はるべき事申させ給ふ。またその外も、我が御祈りに北斗の法、それは鳴滝(なるたき)にや、うけたまはる。いつよりものどやかなる御物がたりのほど、さぶらふも、御心の中いかがとおそろしきに、宮の御かたの御心地(みここち)、わづらはしく見えさせ給ふよし申されたれば、きといらせ給ふとて、「還御まちたてまつりたまヘ」と申さる。
 そのをりしも、御前に人もなくて向ひまゐらせたるに、うかりし月日の積(つも)りつるよりうちはじめ、ただいままでのこと、御袖の涙は、よその人目もつつみあへぬほどなり。なにと申すべき言(こと)の葉(は)もなければ、ただうちききゐたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、おなじさまなるくどきごと、御障子(おしやうじ)のあなたにも聞えけるにや、しばしたちとまりたまひけるも、いかでか知らむ。さる程に、例の、人よりははやき御心(みこころ)なれば、さにこそありけれと推(すゐ)し給ひけるぞあさましきや。
 いらせたまひぬれば、さりげなきよしにもてなし給へれども、しぼりもあへざりつる御涙は、つつむたもとにのこりあれば、いかが御覧じとがむらんとあさましきに、火ともすほどに還御なりぬるのち、ことさらしめやかに人なきよひのことなるに、御足(みあし)などまゐりて御(おほ)とのごもりつつ、「さておもひのほかなりつることを聞きつるかな。さればいかなりけることにか。いはけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御ことにおもひまゐらせ、かやうの道にはおもひかけぬことと思ふに」と、うちくどきおほせらるれば、さる事なしと申すとも、かひあるべきことしあらねば、あひみしことのはじめより、別れし月のかげまで、つゆくもりなく申したりしかば、「まことにふしぎなりける御契(おんちぎり)かな。さりながらさほどにおぼしめしあまりて、隆顕にみちしばせさせられけるを、なさけなく申したりけるも、御うらみの末も、返す返すよしなかるべし。昔のためしにも、かかるおもひは人をわかぬことなり。柿の本の僧正、染殿の后の、もののけにて、あまた仏菩薩の、ちからつくしたまふといへども、つひには、これに身を捨て給ひにけるにこそ。志賀寺(しがでら)のひじりには、ゆらぐ玉のをと、なさけをのこしたまひしかば、すなはち一念の妄執(まうしゆ)をあらためたりき。この御気色(みけしき)、なほざりならぬことなり。心えてあひしらひ申せ。我心みたらば、つゆ人は知るまじ。このほど祗候(しこう)し給ふべきに、さやうのついであらば、日ごろのうらみを忘れ給ふやうに、はからふべし。さやうの勤(つとめ)のをりからは、悪しかるべきに似(に)たれども、我(われ)ふかく思ふしさいあり。苦しかるまじきことなり」と、ねむごろにおほせられて、「なにごとにも、我にへだつる心のなきにより、かやうにはからひいふぞ。いかがなどは返す返す。心のうらみもはる」など、うけたまはるにつけても、いかでかわびしからざらむ。
 「人よりさきに見そめて、あまたの年をすぎぬれば、なにごとにつけても、なほざりならずおぼゆれども、なにとやらむ、我が心にもかなはぬ事のみにて、心の色のみえぬこそいとくちをしけれ。我が新枕(にひまくら)は、故典侍大(こすけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに、人しれずおぼえしを、いまだいふかひなきほどの心ちして、よろづ世の中つつましくて明け暮れし程に、冬忠・雅忠などにぬしづかれて、ひまをこそ人わろくうかがひしか。腹の中にありしをりも、心もとなく、いつかいつかと、手のうちなりしより、さばくりつけてありし」など、昔のふるごとさへ言ひしらせたまへば、人やりならず、あはれもしのびがたくてあけぬるに、けふより御修法はじまるべしとて、御壇所(ごだんしよ)いしいしひしめくにも、人しれず心の中には物思はしき心ちすれば、顔の色もいかがと、我ながらよその人目もわびしきに、すでに御参りといふにも、つれなく御前(おまへ)に侍るにも、御心のうちいとわびし。


五八 白銀の五鈷

 御修法のため、有明の月は七日間御所に滞在する。院はつとめて二人に逢引の機会を与え、特に有明の月退出の前夜は作者をすすめて有明に逢わせられる。それは弘安四年二月十八日の事であった。院は夢想によって作者が有明の胤を宿した事を知り、それを確かめる為、月を隔てるまで作者を遠ざけられた。それで有明の胤を宿した事は明らかになった。
 つねに、御つかひにまゐらせらるるにも、日ごろよりも、心の鬼とかやも、せむかたなき心地するに、いまだ初夜もまだしきほどに、真言(しんごん)のことにつけて御不審(ごふしん)どもを記(しる)し申さるる折紙(をりがみ)をもちてまゐりたるに、いつよりも人もなくて、おもかげかすむ春の月、おぼろにさし入りたるに、脇息(けふそく)によりかかりて念誦(ねんじゆ)し給ふほどなり。「うかりし秋の月かげは、ただそのままにとこそ仏にも申したりつれども、かくても、いとたへがたくおぼゆるは、なほ身にかふべきにや。おなじ世になき身になしたまへとのみ申すも、神もうけぬみそぎなれば、いかがはせむ」とて、しばしひきとめたまふも、いかにもるべきうき名にかとおそろしながら、みる夢のいまだむすびもはてぬに、時なりぬとてひしめけば、うしろのさうじよりいでぬるも、へだつる関の心ちして、「後夜(ごや)はつるほど」と、返す返すちぎりたまへども、さのみうきふしのみ、とまるべきにしあらねば、又たちかへりたるにも、「悲しさのこる」とありし夜半(よは)よりも、こよひは我が身にのこるおもかげも袖の涙にのこる心ちするは、これやのがれぬちぎりならむと、我ながら前(さき)の世(よ)ゆかしき心ちしてうちふしたれども、又ねに見ゆる夢もなくて、あけはてぬれば、さてしもあらねばまゐりて御前(ごぜん)のやくにしたがふに、をりしも人少ななる御ほどにて、「夜べは心ありてふるまひたりしを、おもひしりたまはじな。我しりがほにばしあるな。つつみたまはむも心苦し」などおほせらるるぞなかなか言(こと)の葉(は)なき。
 御修法の心ぎたなさも、御心のうち、わびしきに、六日と申しし夜は、きさらぎの十八日にて侍りしに、広御所(ひろごしよ)のまへの紅梅、つねのとしよりも色もにほひもなべてならぬを、御覧ぜられて、ふくるまでありし程に、後夜(ごや)はつる音すれば、「こよひばかりの夜半(よは)もふけぬべし。ひまつくり、いでよかし」など仰せらるるも、あさましきに、ふかきかねのこゑののち、東(ひんがし)の御方(おかた)めされたまひて、橘(たちばな)の御壺(おつぼ)の二の間に御よるになりぬれば、おほせにしたがふにしあらねども、こよひばかりも、さすが、御なごりなきにしあらねば、れいのかたざまへたちいでたれば、もしやと待ち給ひけるもしるければ、思ひたえずはほいなかるべしとかやおぼえても、ただいままで、さまざまうけたまはりつる御言(おんこと)の葉(は)、耳のそこにとどまり、うちかはしたまひつる御にほひも、たもとにあまる心ちするを、あかずかさぬる袖のなみだは、たれにかこつべしともおぼえぬに、こよひとぢめぬるわかれのやうに、なきかなしみたまふも、なかなかよしなき心ちするに、うかりしままのわかれよりも、やみなましかばと、返す返すおもはるれども、かひなくて、みじかよの空の、こよひよりのほどなさは、露の光などいひぬべき心ちして、あけ行けばきぬぎぬになるわかれは、いつのくれをかと、その期(ご)はるかなれば、

   つらしとてわかれしままのおもかげを
      あらぬ涙にまたやどしつる

とかく思ふもかひなくて、御心地(みここち)もおこたりぬれば、初夜にてまかりいで給ふにも、さすがにのこるおもかげは、いとしのびがたきに、いと不思議なりしは、まだ夜もあけぬさきにおきいでて局(つぼね)にうちふしたるに、右京の権大夫清長を御つかひにて、「きときと」と召しあり。
 よべは東(ひんがし)の御方(おかた)まゐり給ひき、などしもいそがるらんただ今の御つかひならんと、心さわぎしてまゐりたるに、「よるはふけすぎしも、まつらむかたの心づくしをなど思ひてありしも、ただ世のつねの事ならば、かくまで心ありがほにもあるまじきに、ぬしがらの、なほざりならずさに思ひゆるしてこそ。さてもこよひ、ふしぎなる夢をこそ見つれ。いまの五鈷(ごこ)をたびつるを、我にちとひきかくしてふところに入れつるを、袖をひかへて、『これほど心しりてあるに、などかくは』といはれて、わびしげに思ひて涙のこぼれつるをはらひて、とりいでたりつるをみれば、しろがねにてありける。『故法皇の御物なれば、我がにせん』といひて、たちながら見ると思ひて夢さめぬ。こよひかならず、しるしある事あるらむとおぼゆるぞ。もしさもあらば、うたがふ所なきいわねの松をこそ」など仰せられしかども、まこととたのむべきにしあらぬに、そののちは月たつまで、ことさら御言葉にもかからねば、とにかくに、我があやまちのみあれば、人をうしと申すべきことならで、あけくるるに、思ひあはせらるることさへあれば、何となるべき世のしきともおぼえぬに、やよひのはじめつかたにや、つねよりも御人(おひと)すくなにて、よるの供御(くご)などいふこともなくて、二棟(ふたむね)のかたへいらせおはします。御ともに召さる。いかなることをかなんと思へども、つきせずなだらかなる御言葉、いひちぎり給ふもうれしとやいはむ、又わびしとやいはましなど思ふに、「ありし夢の後は、わざとこそいはざりつれ。月をへだてむと待ちつるも、いと心ぼそしや」とおほせらるるにこそ、さればおぼしめすやうありけるにこそ、とあさましかりしか。たがはずその月よりただならねば、うたがひまぎるべきことにしなきにつけては、みし夢のなごりも、いまさら、心にかかるぞはかなき。


五九 こよひの葦分

 作者が先年(建治三年八月頃)伏見の御所で心ならずも兼平に身を許して以来、実兼は次第に作者から離れるようになったが、今年(弘安四年)五月、里住みの作者を久しぶりで訪ねた。ところがあいにく、その夜院の御所で火事があって、すぐに帰ってしまう。
 さても、さしも新枕(にひまくら)ともいひぬべく、かたみに浅(あさ)からざりし心ざしの人、ありし伏見の夢のうらみより後は、まどほにのみなり行くにつけても、ことわりながら、たえせぬ物おもひなるに、五月のはじめ、例の昔の跡とふ日なれば、あやめの草のかりそめにさとずみしたるに、かれより、
 
   うしとおもふ心ににたるねやあると
      たづぬるほどにぬるる袖かな

こまやかに書き書きて、「さとゐのほどの関守(せきもり)なくば、みすからたちながら」とあり。返事にはただ、
 「うきねをば心の外にかけそへていつもたもとのかわくまぞなき。いかなる世にもとおもひそめしものを」などかきつつも、げによしなきここちせしかど、いたうふかしておはしたり。うかりしことのふしぶしを、いまだうちいでぬほどに世の中ひしめく。三条京極富の小路のほどに、火いできたりといふほどに、かくてあるべきことならで、いそぎまゐりぬ。さるほどに、みじか夜は程なくあけゆけば、たちかへるにもおよばず、あけはなるる程に、「あさくなりゆく契(ちぎり)しらるるこよひのあしわけ、ゆく末しられて心うくこそ」とて、
 
   たえぬるか人の心のわすれ水
      あひもおもはぬ中のちぎりに

げにこよひしもの障(さわり)は、ただごとにはあらじとおもひしらるることありて、

   ちぎりこそさてもたえけめなみだ河
      心のすゑはいつもかわかじ

かくてしばしも里ずみせば、こよひにかぎるべき事にしあらざりしに、この暮に、とみの事ありとて車をたまはせたりしかばまゐりぬ。


六〇 真言の御談義

 院は作者に、二人の関係を許している事を有明の月にも打明けて聞かせよう、と言われた。そして真言の御談義という会を催され、有明も四五日院中に祇候する。ある日、談義の席で酒宴があり、その席で院から「男女の愛慾は前業の果たすところで人の罪ではない」とのお話があり、作者は自分の事を言われているような思いがして汗を流す。この酒宴の後、院は有明をとどめて、作者との関係を知っている事、夢想によって作者が有明の胤を宿した事を知った事、その子をわが子として育ててやろうという事を告げられる。妊娠は院の子として公表せられ、御所で岩田帯をした事。
 秋のはじめになりては、いつとなかりしここちもおこたりぬるに、「しめゆふほどにもなりぬらんな、かくとはしり給ひたりや」と仰せらるれども、「さも侍らず、いつのたよりにか」など申せば、「何事なりとも、我にはつゆはばかり給ふまじ。しばしこそつつましくおぼしめすとも、ちからなき御宿世(おんしゆくせ)、のがれざりけることなれば、なかなか何か、それによるべき事ならずなど申し知らせんと思ふぞ」と仰せらるれば、何申しやるかたなく、人の御心の中も、さこそとおもへども、いなかなはじと申さむにつけても、なほも心をもちがほならむと、我ながらにくきやうにやと思へば、「なにともよきやうに御はからひ」と申しぬるよりほかは、また言の葉もなし。
 その頃、真言の御談義(おだんぎ)といふ事はじまりて、人々に御たづねなどありしついでに、御まゐりありて、四五日御祗候(ごしこう)あることあり。法問(ほふもん)の御談義(おだんぎ)どもはてて、九献ちとまゐる御陪膳(はいぜん)に候ふに、「さても広くたづね、深(ふか)く学(がく)するにつきては、をとこをんなのことこそ、罪なきことに侍れ。のがれがたからむちぎりぞ力なきことなり。されば、むかしもためしおほく侍り。浄蔵といひし行者は、みちの国なる女に、ちぎりあることをききえて、がいせんとせしかども、かなはで、それにおちにき。染殿のきさきは、志賀寺のひじりに、『我をいざなヘ』ともいひき。このおもひにたへずして青き鬼ともなり、望夫石(ばうふせき)といふ石も、恋ゆゑなれるすがたなり。もしは畜類(ちくるゐ)けだものにちぎるも、みな前業(ぜんごふ)のはたす所なり。人ばし、すべきにあらず」など仰せらるるも、我ひとり聞きとがめらるる心ちして、汗も涙もながれそふ心地するに、いたくことごとしからぬしきにて、たれもまかり出でぬ。
 有明の月も出でなんとしたまふを、「深き夜のしづかなるにこそ、心のどかなる法問をも」など申して、とどめまゐらせらるるが、何となくむつかしくて、御前(おまへ)をたちぬ。そののちの御言の葉は知らですべりぬ。
 夜中すぐるほどに召しありてまゐりたれば、「ありしあらましごとを、ついでつくりいでて、よくこそいひしらせたれ。いかなるたらちを・たらちねの心のやみといふとも、これほど心ざしあらじ」とて、まづうちなみだぐみ給へば、何と申しやるべき言葉もなきに、まづさきだつ袖の泪ぞおさへがたく侍りし。いつよりもこまやかにかたらひたまひて、「『さても人のちぎり、のがれがたき事など、かねて申ししは、ききしぞかし。そののち、さてもおもひかけぬたちぎきをして侍りし。さだめて、はばかりおぼしめすらむとはおもへども、いのちをかけてちかひてし事なれば、かたみにへだてあるべきことならず。なべて世にもれむことは、うたてあるべき御身なり。しのびがたき御おもひ、前業(ぜんごふ)の感ずる所とおもへば、つゆいかにとおもひたてまつることなし。すぎぬる春の頃より、ただには侍らず見ゆるにつけて、ありし夢の事、ただのことならずおぼえて、御ちぎりのほどもゆかしく、見しむば玉の夢をも思ひあはせむために、やよひになるまで待ちくらして侍るも、なほざりならず、おしはかりたまへ。かつは、伊勢・石清水・賀茂・春日、国を守る神々の擁護(おうご)にもれ侍らん。御心のへだてあるべからず。かかればとて、我つゆもかはる心なし』と申したれば、とばかりものもおほせられで、涙のひまなかりしを、はらひかくしつつ、『このおほせのうへは、のこりあるべきに侍らず。まことに前業(ぜんごふ)の所感(しよかん)こそ口をしく侍れ。かくまでのおほせ、今生一世(こんじやういつせ)の御恩(ごおん)にあらず。世々(せせ)生々(しやうじやう)にわすれたてまつるべきにあらず。かかる悪縁にあひけるうらみしのびがたく、三年過ぎ行くに、おもひたえなんと思ふ念誦持経の祈念にも、これより外のこと侍らで、せめて思ひのあまりにちかひをおこして、願書(ぐわんしよ)をかの人のもとへ送りつかはしなどせしかども、この心なほやまずして、又めぐりあふ小車(をぐるま)の、うしとおもはぬ身をうらみ侍るに、さやうにしるきふしさへ侍るなれば、若宮を一所(ひとところ)わたしまゐらせて、我は深き山にこもりゐて、こきすみぞめのたもとになりて侍らん。なほなほ年ごろの御心ざしも浅からざりつれども、この一ふしのうれしさは、多千(たせん)の喜びにて侍る』とて、なくなくこそたたれぬれ。ふかく思ひそめぬるさまも、げにあはれにおぼえつるぞ」など、御物がたりあるをきくにも、左右(ひだりみぎ)にもとは、かかることをやいはましと、なみだは先づこぼれつつ、さてもことがらもゆかしく、御いでもちかくなれば、ふくるほどに、御つかひのよしにもてなしてまゐりたれば、をさあいちご一人、御前(おまへ)にね入りたり、さらでは人もなし。例のかたざまへたちいでたまひつつ、「うきはうれしきかたもやと思ふこそ、せめておもひあまる心の中、我ながらあはれに」など仰せらるるも、うかりしままの月かげは、なほのがるる心ざしながら、あすはこの御談義(おだんぎ)けちぐわんなれば、こよひばかりの御なごり、さすがに思はぬにしもなきならひなれば、よもすがらかかる御袖のなみだも所せければ、なにとなりゆくべき身のはてともおぼえぬに、かかるおほせごとを、つゆたがはず語りつつ、中々、かくてはたよりもと思ふこそ、げになべてならぬ心の色もしらるれ。「ふしぎなることさへあるなれば、この世ひとつならぬちぎりも、いかでかおろかなるべき。一すぢに我なでおほさんとうけたまはりつるうれしさも、あはれさも、かぎりなく、さるから、いつしか心もとなき心ちするこそ」など、泣きみ笑ひみ語らひたまふほどに、あけぬるにやときこゆれば、おき別れつついづるに、又いつのくれをかと、思ひむせびたまひたるさま、我もげにと思ひたてまつるこそ、

   わが袖のなみだにやどる有明の
      あけてもおなじ面影もがな

などおぼえしは、我もかよふ心の出できけるにや、これ、のがれぬちぎりとかやならんなど思ひつづけ、さながらうちふしたるに、御つかひあり。「こよひまつ心ちして、むなしきとこにふし明かしつる」とて、いまだ夜のおましに、おはしますなりけり。「ただいましも、あかぬなごりも、きぬぎぬの空は心なく」など仰せあるも、何と申すべき言(こと)の葉(は)なきにつけても、しからぬ人のみこそ世にはおほきに、いかなればなど思ふに、なみだのこぼれぬるを、いかなるかたにおぼしめしなすにか、心づきなく、「またねの夢をだに心やすくもなど思ふにや」など、あらぬすぢにおぼしめしたりげにて、つねよりも、よにわづらはしげなることどもをうけたまはるにぞ、さればよ、思ひつる事なり、つひに、はかばかしかるまじき身の行末をなど、いとど涙のみこぼるるにそへては、「ただ一すぢに御なごりをしたひつつ、我が御つかひを心づきなく思ひたる」といふ御はらにて、おき給ひぬるもむつかしければ、つぼねへすべりぬ。
 心ちさへわびしければ、くるるまでまゐらぬも、又いかなる仰(おほ)せをかとおぼえて悲しければ、さしいづるにつけても、浮世(うきよ)にすまぬ身にもがななど、いまさら山のあなたにいそがるる心ちのみするに、御はてなるべければ、まゐりたまひて、つねよりのどやかなる御物がたりも、そぞろはしきやうにて、御湯殿のうへのかたざまにたち出でたるに、「このほどは上日なれば祗候して侍れども、おのづから御言の葉にだにかからぬこそ」などいはるるも、とにかくに、身のおき所なくてききゐたるに、御ぜんより召しあり。なにごとにかとて参りたれば、九献(くこん)まゐるべきなりけり。うちうちに、しづかなるざしきにて、御まへ、女ばう一二人ばかりにてあるも、あまりにあいなしとて、広御所(ひろごしよ)に、師親・実兼(さねかぬ)など音しつるとて召されて、うちみだれたる御あそび、なごりあるほどにてはてぬれば、宮の御かたにて、初夜(しよや)つとめてまかり出でたまひぬるなごりの空も、なべて雲ゐもかこつかたなきに、ことごとしからぬさまにて、御所にて帯をしつるこそ、御心のうち、いとたへがたけれ。こよひは上臥(うへぶし)をさへしたれば、よもすがらかたらひあかし給ふも、つゆうらなき御もてなしにつけても、いかでかわびしからざらむ。


六一 扇の使

 弘安四年九月、院が機会を作って、有明の月に作者を逢わせられた事。
 九月の御花は、つねよりもひきつくろはるべしとて、かねてよりひしめけば、身もはばかりあるやうなればいとまを申せども、さしも目に立たねば、人かずにまゐるべきよしおほせあれば、うす色ぎぬに、あか色のからぎぬ、くち葉のひとへがさねに、あをばのからぎぬにて、夜のばんつとめて候ふに、有明の月御まゐりといふおとすれば、何となくむねさわぎてききゐたるに、御花御結縁とて御堂(みだう)に御まゐりあり。ここにありともいかでか聞き給ふべきに、承仕(しようじ)がここもとにて、「御所よりにて候。『御扇(あふぎ)や御堂(みだう)におちて侍ると御らんじて、まゐらさせ給へと申せ』と候ふ」といふ。心えぬやうにおぼえながら、中のさうじをあけて見れどもなし。さてひきたてて、「候はず」と申して、承仕(しようじ)は帰りぬるのち、ちとさうじをほそめたまひて、「さのみつもるいぶせさも、かやうの程は、ことにおどろかるるに、くるしからぬ人して、さとへおとづれむ、つゆ、人にはもらすまじきものなれば」など仰せらるるも、いかなるかたにか世にもれむと、人の御名もいたはしければ、さのみ、いなともいかがなれば、「なべて世にだにもれ候はずは」とばかりにて、ひきたてぬ。御かへりののち、時すぎぬれば、御前へまゐりたるに、「扇のつかひはいかに」とて笑はせおはしますをこそ、例の心あるよしの御つかひなりけると知り侍りしか。


六二 嵯峨殿の祝宴

 弘安四年十月、作者法輪寺に籠る。後深草・亀山両院、大宮院の御病気見舞に嵯峨殿へ御幸。作者召されて出仕。大宮院の御病が軽いので御喜びの祝膳、第一夜は後深草院、第二夜は亀山院が設けなされた。第一夜の酒宴の後、両院の寝所について亀山院の行動を記した部分は明解を得ない。作者はかかる煩わしい宮仕えをのがれ得ない浮世の習わしを嘆く。
 両院還御の後、作者は大宮院の許に止る。そこへ東二条院から大宮院に当てて作者に対する嫉妬の手紙が来る。作者は四条大宮の乳母の家に行く。
 神無月の頃になりぬれば、なべて時雨(しぐれ)がちなる空のけしきも、袖のなみだにあらそひて、よろづ、つねの年々よりも、心ぼそさもあぢきなければ、まことならぬははの嵯峨にすまひたるがもとへまかりて、法輪(ほふりん)にこもりて侍れば、あらしの山の紅葉も、うき世をはらふ風にさそはれて、大井川の瀬々に浪よる錦とおぼゆるにも、いにしへのことも、おほやけ・わたくし忘れがたき中に、後嵯峨の院の宸筆(しんぴつ)の御経(おきやう)のをり、面々のすがた、ささげ物などまで、かずかず思ひいでられて、うらやましくもかへる波かなと、おぼゆるに、ただここもとになく鹿のねは、たがもろごゑにかと悲しくて、

   我が身こそいつもなみだのひまなきに
      何をしのびて鹿のなくらん

いつよりも物がなしき夕ぐれに、ゆゑある殿上人のまゐるあり。たれならんとみれば、楊梅(やまもも)の中将兼行なり。つぼねのわたりに立ちよりて案内すれば、いつよりも思ひよらぬ心ちするに、「にはかに大宮院こころよからぬ御事とて、けさよりこの御所へ御幸(ごかう)ありけるほどに、さとを御たづねありけるが、これにとて、又仰せらるるぞ。女房も御参りなくて、にはかに御幸あり。宿願(しゆくぐわん)ならば、又こもるべし。まづまゐれ」といふ御つかひなり。こもりて五日になる日なれば、いま二日はてぬも心やましけれども、車をさへたまはせたるうヘ、嵯峨に候ふを御たのみにて人もまゐらせたまはぬよし、中将物がたりすれば、とかく申すべき事ならねば、やがて大井殿の御所へまゐりたれば、みな人々さとへいでなんどして、はかばかしき人も候(さぶら)はざりつるうへ、これにあるを御たのみにて、両院御同車にてなりつるほどに人もなし。御車(おくるま)のしりに、西園寺の大納言まゐられたりけるなり。大御所より、ただいまぞ供御(くご)まゐるほどなり。
 女院御なやみ、御あしのけにて、いたくの御事なければ、めでたき御事とて、両院御よろこびの事あるべしとて、まづ一院の御(ご)ぶん、春宮大夫うけたまはる。だみゑかきたるわりご十合(じふがう)に、供御(くご)、みさかなを入れて、面々の御前(おまへ)に置かる。つぎつぎもこの定(ぢやう)なり。これにて三こんまゐりてのち、まかりいだして、また白き供御(くご)、そののち色々の御さかなにて九こんまゐる。大宮の院の御かたへ、こうばい・むらさき、はらはねりぬきにて琵琶、そめ物にてこと作りてまゐる。新院の御かたへ、はうきやうのだいを作りて、むらさきをまきて、いろいろのむらごのそめ物を、四方に作りて、まぼりのをにて、さげて、かねにして、ぢんのつかにすいしやうを入れて、ばちにしてまゐる。女房たちのなかへ、檀紙(だんし)百、そめ物などにて、やうやうの作り物をして置かれ、男(をとこ)のなかにもしりがい、いろかはとかや、積み置きなどして、おびたたしき御事にて、夜もすがら御あそびあり。例の御酌(おんしやく)にめされてまゐる。
 一院御琵琶、新院御ふえ、洞院こと、大宮の院の姫宮御こと、春宮大夫琵琶、公衡しやうのふえ、兼行ひちりき。夜ふけゆくままに、嵐の山の松風、雲井にひびくおとすごきに、浄金剛院(じやうこんがうゐん)のかね、ここもとにきこゆるをりふし、一院、「都府楼は、おのづから」とかやおほせいだされたりしに、よろづの事みなつきて、おもしろくあはれなるに、女院の御かたより、「ただいまの御さかづきはいづくに候ふぞ」とたづね申されたるに、新院の御前(おまへ)に候ふよし申されたれば、この御こゑにてまゐるべきよし御けしきあれば、新院は、かしこまりて候ひ給ふを、一院、御さかづきと御銚子とをもちて、もやのみすの中に入り給ひて、一ど申させ給ひてのち、「嘉辰令月(かしんれいぐゑつ)、歓無極(くわんぶきよく)」と、うちいでたまひしに、新院、御こゑくはへ給ひしを、「老いのあやにく申し侍らん。我、濁世末(ぢよくせすゑ)の代(よ)に生れたるは悲しみなりといへども、かたじけなく、后妃(こうひ)の位にそなはりて、両上皇の父母(ふも)として二代の国母たり。よはひ、すでに六旬(りくじゆん)にあまり、この世にのこる所なし。ただ九品(くほん)のうへなき位をのぞむばかりなるに、こよひの御楽(おんがく)は、上品蓮台(じやうぼんれんだい)のあかつきのがくもかくやとおぼえ、今の御こゑは、迦陵頻伽(かりようびんが)の御こゑもこれにはすぎ侍らじと思ふに、おなじくは今様を一ぺんうけたまはりて、いま一度きこし召すべし」と申されて、新院をもうちへ申さる。春宮大夫御簾(みす)のきはへめされて、小几帳ひきよせて、御簾(みす)、はんにあげらる。

   あはれにわすれず身にしむは、
   しのびしをりをり待ちしよひ、
   たのめしことのはもろともに、
   ふたり有明の月のかげ、
   おもへばいとこそかなしけれ

両上皇うたひたまひしに、にる物なくおもしろし。はてはゑひなきにや、ふるき世々の御物語など出できて、みなうちしほれつつたち給ふに、大井殿の御所へ参らせおはします。御おくりとて新院御幸なり。春宮大夫は心ちをかんじてまかりいでぬ。わかき殿上人二三人は御ともにていらせおはします。「いと御人すくなに侍るに、御宿直(おんとのゐ)つかうまつるべし」とて、二所御よるになる。ただ一人候へば、「御あしにまゐれ」などうけたまはるも、むつかしけれども、たれにゆづるべしともおぼえねば候ふに、「この両所の御そばに寝させさせたまへ」と、しきりに新院申さる。「ただしは所せき身のほどにて候ふとて、さとに候ふを、にはかに、人もなしとて、まゐりて候ふに、召しいでて候へば、あたりもくるしげに候ふ。かからざらむをりは」など申さるれども、「御そばにて候はんずれば、あやまち候はじ。女三の御かたをだに御ゆるされあるに、なぞしもこれにかぎり候ふべき。我が身はいづれにても、御心にかかり候はんをばと、申しおき侍りし。そのちかひもかひなく」など申させ給ふに、をりふし、按察(あぜち)の二品(にほん)のもとに、御わたりありしさきの斎宮へ、「いらせ給ふべし」など申し、宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや、御そばに候へと仰せらるるともなく、いたくゑひすぐさせ給ひたるほどに、御よるになりぬ。御まへにも、さしたる人もなければ、ほかへはいかがとて、御びやうぶ、うしろに、ぐしありきなどせさせ給ふも、つゆ知りたまはぬぞあさましきや。あけがたちかくなれば、御そばへ返り入らせ給ひて、おどろかしきこえ給ふにぞ、はじめておどろきたまひぬる。「御いきもなさに、御そへぶしも逃げにけり」など申させたまへば、「ただいままで、ここに侍りつ」など申さるるも、中々おそろしけれど、犯(をか)せる罪もそれとなければ、たのみをかけて侍るに、とかくの御さたもなくて、また夕がたになれば、けふは新院の御ぶんとて、景房が御ことしたり。きのふ西園寺の御ざしやうに、けふ景房が御所の御だいくわんながら、ならびまゐらせたる、さつしやうがらわろしなど、人々つぶやき申すもありしかども、御ことはうちまかせたる、しきのく御、九献(くこん)などつねの事なり。女院の御かたへ、そめ物にていはをつくりて、ちはんに水のもんをして、沈(ぢん)の船に丁子を積みてまゐらす。一院へ、しろがねのやないばこに、沈(ぢん)の御まくらをすゑてまゐる。女房たちのなかに、いと・わたにて、山・たきのけしきなどしてまゐらす。男たちの中ヘ、色かわ・そめ物にてかきつくりて、まゐらせなどしたるに、「ことに一人この御かたに候(さぶら)ふに」などおほせられたりけるにや、からあや・むらさきむらご、十づつを、五十四帖の草子につくりて、源氏の名をかきてたびたり。御さかもりは、よべにみなことどもつきて、こよひはさしたることなくてはてぬ。春宮の大夫は、風の気とて、けふはすしなし。「わざとならんかし、まことに」などさたあり。こよひも桟敷殿(さじきどの)に、両院御わたりありて、供御(くご)もこれにてまゐる。御陪膳(ごはいぜん)両方をつとむ。夜もひとところに御よるになる。御そへぶしに候ふも、などやらん、むつかしくおぼゆれども、のがるる所なくて宮づかひゐたるも、いまさら、うき世のならひも思ひしられ侍り。
 かくて還御なれば、これは法輪の宿願ものこりて侍るうへ、いまは身もむつかしきほどなればと申して、とどまりてさとへいでんとするに、両院御幸、おなじやうに還御あり。一院には春宮大夫、新院には洞院の大納言ぞ、のちのちにまゐり給ふ。ひしひしとして、還御なりぬる御あともさびしきに、「けふはこれに候へかし」と、大宮の院の御気色(みけしき)あれば、この御所に候ふに、東二条院よりとて御ふみあり。何ともおもひわかぬほどに、女院御覧ぜられてのち、「とは何事ぞ、うつつなや」とおほせごとあり。何事ならむとたづね申せば、「『その身をこれにて、女院もてなして、ろけんのけしきありて、御遊さまざまの御事どもあるときくこそ、うらやましけれ。ふりぬる身なりとも、おぼしめしはなつまじき御こととこそ思ひまゐらするに』と、返す返す申されたり」とて、わらはせたまふもむつかしければ、四条大宮なるめのとがもとへいでぬ。


六三 京極殿の御局

 作者が里住みしている四条大宮のめのとの家の近くに有明の月の稚児の家があり、有明の月はそこに来て作者としばしば密会する。二人の関係が世の噂にのぼる。そこで後深草院は、自ら京極局と見せかけて、或夜ひそかに作者を訪ね、「そなたの出産を我が児として披露することができなくなったから、ちょうど或女房が死産したのを披露させずにおいた、そなたの産した児をそちらへやって、そなたのを死産と披露せよ」と計られる。作者は院の心づかいを有難く思うものの、いつまでこの親切が続くであろうかと心細く思う。
 いつしか有明の御文あり。程ちかき所に、御あひていするちごのもとへいらせ給ひて、それへしのびつつまゐりなどするも、たびかさなれば、人のものいひさがなさは、やうやう天のしたのあつかひぐさになるときくもあさましけれど、「身のいたづらにならんもいかがせむ。さらば片山里のしばの庵のすみかにこそ」など仰せられつつ、かよひありき給ふぞいとあさましき。
 かかる程に、神無月のすゑになれば、つねよりも心ちもなやましくわづらはしければ、心ぼそくかなしきに、御所よりの御さたにて、兵部卿そのさたしたるも、露の我が身のおき所、いかがと思ひたるに、いといたうふくるほどに、しのびたる車のおとして門(かど)たたく。富の小路殿(こうぢどの)より、京極殿の御つぼねの御わたりぞといふ。いと心えぬ心地すれど、あけたるに、網代車(あじろぐるま)に、いたうやつしつついらせおはしましたり。思ひよらぬことなれば、あさましくあきれたる心地するに、「さしていふべきことありて」とて、こまやかにかたらひ給ひつつ、「さてもこの有明のこと、世にかくれなくこそなりぬれ。我がぬれぎぬさへ、さまざまをかしきふしにとりなさるるときくが、よによしなくおぼゆる時に、このほど、ことかたに、こころもとなかりつる人がり、こよひなくて生れたるときくを、あなかまとて、いまだ、さなきよしにてあるぞ。ただいまも、これよりいできたらむを、あれへやりて、ここのをなきになせ。さてそこの名は、すこし人の物いひぐさも、しづまらんずる。すさまじく、きくことのわびしさに、かくはからひたるぞ」とて、あけゆく鳥のこゑにおどろかされて返り給ひぬるも、あさからぬ御心ざしはうれしき物から、むかし物がたりめきて、よそにきかんちぎりも、うかりしふしの、ただにてもなくて、たびかさなるちぎりも悲しくおもひゐたるに、いつしか文あり。「こよひのしきは、めづらかなりつるも忘れがたくて」とこまやかにて、

   あれにけるむぐらの宿の板びさし
      さすがはなれぬ心地こそすれ

とあるも、いつまでと心ぼそくて、

   あはれとてとはるることもいつまでと
      おもへばかなし庭のよもぎふ


六四 男児出生

 弘安四年十一月六日、作者は四条大宮のめのとの家で出産する。有明の月も来ている。作者は昨夜の院の仰せを有明に語り、共に嘆きながら、生児を知らぬ所へ渡してやる。
 このくれには、有明の光もちかきほどときけども、そのけにや、ひるより心ちも例ならねば思ひたたぬに、ふけすぎてのちおはしたるも、思ひよらずあさましけれど、心しるどち二三人よりほかはたちまじる人もなくて入れたてまつりたるに、よべのおもむきを申せば、「とても身にそふべきにはあらねども、ここさへいぶせからむこそくちをしけれ。かからぬためしも、世に多きものを」とて、いとくちをしとおぼしたれども、「御はからひのまへは、いかがはせむ」などいふほどに、あけ行く鐘とともに、をのこごにてさへおはするを、なにの人かたとも見えわかず、かはゆげなるを膝にすゑて、「むかしの契あさからでこそかかるらめ」など涙もせきあへず、おとなに物をいふやうにくどき給ふほどに、夜もはしたなくあけ行けば、なごりをのこしていでたまひぬ。
 この人をば、おほせのままにわたしたてまつりて、ここには何のさたもなければ、露きえ給ひにけるにこそなどいひて、後(のち)はいたく世のさたもけしからざりし物いひもとどまりぬるは、おぼしよらぬくまなき御心ざしは、おほやけ、わたくし、ありがたき御ことなり。御心しる人のもとより、さたしおくることども、いかにもかくれなくやと、いとわびし。


六五 鴛鴦といふ鳥

 出産は十一月六日であったが、有明の月はその後しきりに作者をおとずれ、特に十三日の夜には、自分の死を予感したような心細い物語をして、もし死んだらいま一度この世に生まれ出て、そなたと契りを結びたい、その為に書写の大乗経は供養を遂げず、死んでもあの世へ持って行くため、暫く竜宮の宝蔵に預けて置く(火葬の薪に加えて焼く)などという。その夜、有明の月は自分が鴛鴦になって作者の身の内に飛びこんだ夢を見る。これはその夜妊娠したことの夢知らせであった。
〔備考〕出産後わずか七日で妊娠という事は珍しい例ではあるが、これを産科医に質したところ、在り得ることだという。
 十一月六日のことなりしに、あまりになるほどに、御おとづれのうちしきるも、そらおそろしきに、十三日の夜ふくるほどに例のたち入り給ふ。「さるも、なべて世の中つつましきに、をととしより春日の御神木(おんさかき)、京にわたらせ給ふが、このほど御帰座あるべしとひしめくに、いかなることにか、かたはらやみといふことはやりて、いくほどの日かずもへだてず、人々かくるるときくが、ことに身にちかき無常どもをきけば、いつか我が身もなき人かずにと心ぼそきままに思ひたちつる」とて、つねよりも心ぼそくあぢきなきさまにいひちぎりつつ、「かたちは世々にかはるとも、あひ見ることだにたえせずは、いかなる上品上生のうてなにも、共に住まずは物うかるべきに、いかなるわらやのとこなりとも、もろともにだにあらばと思ふ」など、よもすがらまどろまず語らひあかし給ふほどに、明けすぎにけり。いでたまふべき所さへ、かきねつづきのあるじがかたざまに、人目しげければ、つつむにつけたる御ありさまもしるかるべければ、けふはとどまり給ひぬる、そらおそろしけれども、心しるちご一人よりほかはしらぬを、我が宿所にても、いかがきこえなすらんと思ふも胸さわがしけれども、ぬしはさしもおぼされぬぞ、言(こと)の葉(は)なき心地する。
 けふは、ひぐらしのどかに、「うかりし有明のわかれより、にはかに雲がくれぬとききしにも、かこつかたなかりしままに、五部の大乗経を手づから書きて、おのづからみづぐきのあとを、一まきに一文字(ひともじ)づつをくはへて書きたるは、かならず下界(げかい)にて、いま一度(いちど)ちぎりをむすばんの大願なり。いとうたてある心なり。この経、書写(しよしや)は終りたる、供養(くやう)をとげぬは、このたび一つ所にうまれて供養をせむとなり。竜宮の宝蔵にあづけたてまつらば、二百余巻(よくわん)の経、かならずこのたびのむまれに供養(くやう)をのぶべきなり。されば、われ北邙(ほくばう)の露ときえなんのちのけぶりに、この経をたきぎに積みぐせんと思ふなり」などおほせらるる、よしなき妄念(まうねん)もむつかしく、「ただ一つ仏のはちすの縁をこそ」と申せば、「いさや、なほこの道のなごりをしきにより、いま一度(いちど)、人間に生(しやう)を受けばやと思ひさだめ、世のならひ、いかにもならば、むなしき空にたちのぼらんけぶりも、なほあたりはさらじ」など、まめやかに、かはゆきほどに仰せられて、うちおどろきて、あせおびたたしくたりたまふを、「いかに」と申せば、「我が身が、をしといふ鳥となりて、御身のうちへ入ると思ひつるが、かくあせのおびたたしくたるは、あながちなるおもひに、我がたましひや袖の中とどまりけん」などおほせられて、「けふさへいかが」とて、たちいで給ふに、月の入るさの山のはに、横雲しらみつつ、東の山は、ほのぼのとあくるほどなり。あけ行くかねにねをそへて、かへり給ひぬるなごり、いつよりものこりおほきに、ちかきほどより、かのちごして、また文あり。

   あくがるる我がたましひはとどめおきぬ
      何の残りて物おもふらん

いつよりも、かなしさもあはれさもおき所なくて、

   物おもふなみだの色をくらべばや
      げにたが袖かしほれまさると

心にきと思ひつづくるままなるなり。


六六 煙の末

 有明の月の発病から死に至るまでの事。死後、有明の稚児が作者を訪うて遺言を伝え、悲しい物語をする事。後深草院から弔問の和歌があり、御返事をした事。年末になって里に籠もっているが、院から今までの様な烈しいお召しもないので、御情が薄くなってゆくように思われ、進んで出仕する気になれない事。有明の月の文を、うら返して法花経を書いて年を送った事。
 以上で今年が終る。今年を弘安八年から逆算して弘安四年と仮定したが、有明の月が性助法親王ならば、今年は弘安五年でなければならない。要するに巻三の年立ては、弘安八年以外は確実でない。
 やがてその日に御所へいらせ給ふとききしほどに、十八日よりにや、世の中はやりたるかたはらやみのけ、おはしますとて、くすしめさるるなどききしほどに、しだいに御わづらはしなど申すを、ききまゐらせしほどに、思ふかたなき心ちするに、廿一日にや文あり。「この世にてたいめんありしを、かぎりとも思はざりしに、かかるやまひにとりこめられて、はかなくなりなんいのちよりも、おもひ置く事どもこそ罪ふかけれ。見しむば玉の夢も、いかなる事にか」と書き書きておくに、
 
   身はかくておもひきえなむ煙だに
      そなたの空になびきだにせば

とあるを見る心ち、いかでかおろかならむ。げにありしあかつきをかぎりにやと思ふもかなしければ、

   おもひきえむ煙の末をそれとだに
      ながらへばこそ跡をだにみめ

事しげき御中はなかなかにやとて、思ふほどの言(こと)の葉(は)もさながらのこし侍りしも、さすがにこれをかぎりとは思はざりしほどに、十一月廿五日にや、はかなくなり給ひぬとききしは、夢に夢みるよりもなほたどられ、すべてなにといふべきかたもなきぞ、我ながら罪ふかき。
 見はてぬ夢とかこちたまひし、かなしさのこるとありしおもかげより、うちはじめ、うかりしままのわかれなりせば、かくは物は思はざらましと思ふに、こよひしも、村雨うちそそぎて、雲のけしきさへただならねば、なべて雲井もあはれに悲し。そなたの空にとありし御水くきは、むなしく箱の底にのこり、ありしままの御うつりがは、ただ手枕になごり多くおぼゆれば、ま事の道に入りても、つねのねがひなればと思ふさへ、人の物いひもおそろしければ、なき御かげのあとまでも、よしなき名にやとどめたまはんと思へば、それさへかなはぬぞくちをしき。
 あけはなるるほどに、かのちご来たりときくも、夢の心ちして、みづからいそぎいでてきけば、枯野の直垂(ひたたれ)の、雉子をぬひたりしが、なえなえとなりたるに、よもすがら露にしほれたるたもともしるくて、なくなく語る事どもぞ、げにふでのうみにもわたりがたく、詞にもあまる心ちし侍る。かの「悲しさのこる」とありし夜、着かへたまひし小袖を、こまかにたたみたまひて、いつもねんじゆのゆかに置かれたりけるを、廿四日の夕になりて、はだに着るとて、「つひのけぶりにも、かくながらなせ」と仰せられつるぞ、いはむかたなく悲しく侍る。「まゐらせよとて候ひし」とて、さかきをまきたる大きなる文箱(ふみばこ)一つあり。御ふみとおぼしき物あり。とりのあとのやうにて文字(もじ)形(かた)もなし。「一夜の」とぞ、はじめある。「この世ながらにては」など心あてに見つづくれども、それとなきをみるにぞ、おなじみをにもながれいでぬべく侍りし。
 
   うきしづみみつせ川にもあふせあらば
      身をすててもやたづねゆかまし

などおもひつづくるは、なほも心のありけるにや。かのはこの中は、つつみたるかねを、一はた入れられたりけるなり。さても御かたみの御小袖を、さながら灰(はひ)になされし、また五部の大乗経を、たきぎにつみぐせられし事など、かずかず語りつつ、直垂(ひたたれ)の左右(さう)のたもとを、かわくまもなくなきぬらしつつ出でしうしろを見るも、かきくらす心ちしていと悲し。
 御所さまにも、事におろかならぬ御中なりつれば、御なげきもなほざりならぬ御事なるべし、さても、心のうちにいかにとて、文あるも、なかなか物おもひにぞ侍りし。
 「おもかげもなごりもさこそのこるらめ雲がくれぬる有明の月。うきは世のならひながら、事さらなる御心ざしも、ふかかりつる御なげきも、をしけれ」などありしも、なかなかなにと申すべき事のはもなければ、
 
   かずならぬ身のうき事もおもかげも
      一かたにやは有明の月

とばかり申し侍りしやらむ。
 心も事ばも及ばぬ心ちして、なみだにくれてあかしくらし侍りしほどに、事しは春のゆくへもしらで年のくれにもなりぬ。御つかひは、たえせず「などまゐらぬに」などばかりにて、さきざきのやうに、きときとといふ御つかひもなし。なにとやらむ、このほどより、事に仰せらるるふしはなけれど、色かはりゆく御事にやとおぼゆるも、我がとがならぬあやまりも、たびかさなれば、御事わりにおぼえて、まゐりも、すすまれず、けふあすばかりの年のくれにつけても、年も我が身もと、いと悲し。ありし文どもをかへして、法華経を書きゐたるも、讃仏乗(さんぶつじよう)の縁とはおほせられざりし事の罪のふかさもかなしく案(あん)ぜられて年もかへりぬ。


六七 永き闇路

 弘安五年正月十五日、東山の聖の許で有明の月の四十九日の諷誦を捧げる、二月十五日同じく諷誦。この間は東山に籠もる。明日は都へと思う前夜、有明の月に抱きつかれた夢を見て病気になり、翌日都へ入ろうとして清水の西の橋で、前夜の夢の人が車に飛びこんだと思うと失神し、めのとの家に落ちついて静養する。三月も半ばを過ぎると妊娠の兆候が明らかになる。去年十一月十三日の夜、有明の月と交会した後は、男に接した事はないから明らかにその胤と知る。
 あらたまる年ともいはぬ袖のなみだに浮き沈みつつ、正月十五日にや、御四十九日なりしかば、事さらたのみたるひじりのもとへまかりて、布薩(ふさつ)のついでに、かの御心ざしありしかねを、すこしとりわけて、諷誦(ふじゆ)の御布施(おふせ)にたてまつりし包紙(つつみかみ)に、
 
   このたびはまつ暁のしるべせよ
      さてもたえぬる契なりとも

能舌(のうぜつ)のきこえあるひじりなればにや、事さらきく所ありしも、袖のひまなき中に、まだあり明のふるごとぞ、事に耳にたち侍りし。
 つくづくとこもりゐて、きさらぎの十五日にもなりぬ。釈尊(しやくそん)円寂(ゑんじゃく)のむかしも、けふはじめたる事ならねども、我が物思ふをりからは、事に悲しくて、このほどは例のひじりのむろに、法花講讃(ほけかうさん)、彼岸よりつづきて、二七日あるをりふしもうれしくて、日々に諷誦(ふじゆ)をまゐらせつるも、たれとしあらはすべきならねば、「忘れぬちぎり」とばかり書きつづくるにつけてもいと悲し。けふ、講讃(かうさん)も結願(けちぐわん)なれば、例の諷誦(ふじゆ)のおくに、
 
   月を待つあかつきまでのはるかさに
      いまは入る日の影ぞかなしき

東山(ひんがしやま)のすまひのほどにも、かきたえ御おとづれもなければ、さればよと心ぼそくて、あすはみやこのかたへなど思ふに、よろづすごきやうにて、しざのかういしいしにて、ひじりたちも、よもすがら寝であかす夜なれば、聴聞所(ちやうもんどころ)に袖かたしきてまどろみたるあかつき、ありしに変らぬおもかげにて、「うき世のゆめはながきやみぢぞ」とて、いだきつきたまふと見て、おびただしく大事に病(や)みいだしつつ、心ちもなきほどなれば、ひじりのかたより、「けふは、これにても心みよかし」とあれども、車などしたためたるも、わづらわしければ都へかへるに、清水(きよみづ)の橋の、西の橋のほどにて、夢のおもかげ、うつつに、車のうちにぞいらせたまひたる心ちして絶え入りにけり。そばなる人、とかく見たすけて、めのとが宿所(しゆくしょ)へまかりぬるより、水をだに見入れず、かぎりのさまにて、やよひのそらも、なかばすぐる程になれば、ただにもあらぬさまなり。ありしあかつきよりのちは、心きよく、目を見かはしたる人だになければ、うたがふべきかたもなき事なりけりと、うかりける契ながら、人しれぬ契もなつかしき心ちして、いつしか、心もとなくゆかしきぞ、あながちなるや。


六八 父をしらぬ子

 四月十日頃、後深草院から特にお召しがあったけれど、気分がすぐれない折であったから、病気のよしを申して不参していると、院から「老人には逢いたくないというのだね」という恨みの文が来た。作者はそれを有明の月の事を思いつづけている事と思っていると、そうではなく、亀山院と親しくしていると疑っていられるのだと知った。そこで作者は、妊娠の状態が人目に立たぬうちにと思って、五月初めに急ぎ出仕し、六月頃まで御所にいたが、何となく居にくいので縁者の死に事よせて退出した。そして東山辺の縁者の許に隠り、八月二十日頃、ひそかに出産する。男児であった。我が身が二歳で母を失ったことを思うと、この児が父を知らぬ事が憐れに思われ、四十日余り自ら世話をしたが、十月初めから御所に参って今年も暮れた。
 卯月の中の十日頃にや、さしたる事とて召しあるも、かたがた身もはばからはしく、ものうければ、かかるやまひにとりこめられたるよし申したる御返事に、
 「おもかげをさのみもいかが恋ひわたるうき世を出でし有明の月。一かたならぬ袖のいとまなさもおしはかりて、ふりぬる身には」など承はるも、ただ一すぢに有明の御事を、かくおもひたるも心づきなしにやなどおもひたる程に、さにはあらで、亀山院の御位の頃、めのとにて侍りし者、六位にまゐりて、やがて御すべりに、叙爵(じよしやく)して大夫の将監(しやうげん)といふもの伺候したるが、みちしばして、よるひるたぐひなき御心ざしにて、この御所さまの事は、かけはなれ行くべきあらましなりと申さるる事どもありけり。いかでかしらん、心ちもひまあれば、いとどはばかりなき程にとおもひたちて、五月のはじめつかたまゐりたれば、なにとやらん、仰せらるる事もなく、又さして例に変りたる事はなけれども、心のうちばかりは、ものうきやうにて、あけくるるもあぢきなけれども、みな月の頃まで候ひしほどに、ゆかりある人のかくれにしはばかりに事よせて、まかりいでぬ。
 このたびのありさまは、事にしのびたきままに、東山の辺(へん)に、ゆかりある人のもとにこもりゐたれども、とりわきとめくる人もなく、身をかへたる心ちせしほどに、八月廿日の頃、そのけしきありしかども、さきのたびまでは、しのぶとすれども、事とふ人もありしに、峰の鹿のねを友として、あかしくらすばかりにてあれども、事なく、をのこにてあるをみるにも、いかでかあはれならざらむ。をしといふ鳥になると見つるとききし夢のままなるも、げにいかなる事にかと悲しく、我が身こそ、二つにて母にわかれ、おもかげをだにもしらぬ事を悲しむに、これはまた、父に、腹の中にてさきだてぬるこそ、いかばかりか思はんなどおもひつづけて、かたはらさらず置きたるに、をりふし、乳(ち)などもちたる人だになしとて、たづねかねつつ我がそばにふせたるさへあはれなるに、この寝たる下の、いたうぬれにければ、いたはしく、いかかりていだきのけて、我が寝たるかたにふせしにこそ、げにふかかりける心ざしも、はじめておもひしられしか。しばしも手をはなたん事はなごりをしくて、四十日あまりにや、みづからもてあつかひ侍りしに、山崎といふ所より、さりぬべき人をかたらひよせてのちも、ただゆかをならべてふせ侍りしかば、いとど御所さまのまじろひも物うき心ちして、冬にもなりぬるを、「さのみもいかに」と召しあれば、神無月のはじめつかたより、又さし出でつつ年もかへりぬ。


六九 道のほだし

 弘安六年正月元日から二月にかけての記。後深草院の心が隔てあるように思われて心細い。遠ざかった西園寺実兼だけは、絶えず親切に世話をしてくれる。二月、両院が嵯峨殿で彼岸の説法会を聴聞せられ、作者もそこに出仕し、清涼寺に参って菩提を弔う。有明の後を追うて身を投げたいとも思うが、父を知らぬ嬰児に心引かれて、それも叶わなぬ。
 今年は元三(ぐわんさん)に候ふにつけても、あはれなる事のみかずしらず。なに事を、あしとも、うけたまはる事はなけれども、なにとやらむ御こころのへだてある心ちすれば、世の中もいとど物うく、心ぼそきに、今は昔ともいひぬべき人のみぞ。恨はすゑもとて、たえず事とふ人にてはありける。
 きさらぎの頃は、彼岸の御説法、両院、嵯峨殿の御所にてあるにも、こぞの御おもかげ身をはなれず。あぢきなきままには、生身二伝の釈迦を申せば、「ゆいか一人のちかひあやまたず、まよひたまふらむみちのしるべしたまへ」とのみぞおもひつづけ侍りし。
 
   恋ひしのぶ袖のなみだや大井川
      あふせありせば身をやすてまし

とにかくに思ふもあじきなく、世のみうらめしければ、そこのみくづとなりやしなましとおもひつつ、なにとなき、ふるほうごなど、とりしたたむる程に、さても二葉なるみどりごの行くすゑを、我さへすてなば、たれかあはれをかけむと思ふにぞ、道のほだしはこれにやとおもひつづけられて、おもかげも、いつしか恋しく侍りし。

   たづぬべき人もなぎさにおひそめし
      松はいかなる契なるらん


七〇 御所退出

 弘安六年三月頃から年末までの記。去年生まれた嬰児が智慧づき初めた事。秋の初めに祖父隆親から手紙が来て、「局を整理し、御所を引上げてこちらへ出て来い」との事。事情が分からぬので院にうかがったけれど御返事がない。三位殿を初め上臈女房や雪の曙などに聞いて見るが分からない。再び院にうかがうと、甚だ不機嫌な御様子で、「見たくもない」といって座を立ってしまわれた。作者は突き落された悲しみを胸に抱いて隆親の家に行き、初めて事情が分かる。この段は作者の境遇が一転する所である。  御所退出の後は、むしろ心も晴れやかになったが、さすがに淋しい。十一月末から年来の宿願であった祇園千日ごもりを始める。
 還御ののち、あからさまにいでて見侍れば、事の外に、おとなびれて、物がたり、ゑみ、わらひみなどするを見るにも、あはれなる事のみ多ければ、なかなかなる心ちして、まゐり侍りつつ、秋のはじめになるに、四条兵部卿のもとより、「つぼねなど、あからさまならずしたためて出でよ。よさり、むかへにやるべし」という文あり。心えずおぼえて、御所へもちてまゐりて、「かく申して候ふ。なに事ぞ」と申せば、ともかくも御返事なし。なにとある事ともおぼえで、玄輝門院(げんきもんゐん)、三位殿と申す御頃の事にや、「なにとある事どもの候ふやらん、かく候ふを、御所にて案内(あんない)し候へども、御返事候はぬ」と申せば、「我もしらず」とてあり。さればとて、出でじといふべきにあらねば、出でなんとするしたためをするに、四つといひけるなが月の頃よりまゐりそめて、時々のさとゐのほどだに、心もとなくおぼえつる御所のうち、けふやかぎりと思へば、よろづの草木も目とどまらぬもなく、なみだにくれて侍るに、をりふし、うらみ人のまゐるおとして、「下のほどか」といはるるも、あはれに悲しければ、ちとさしいでたるに、なきぬらしたる袖の色も、よそにしるかりけるにや、「いかなる事ぞ」などたづねらるるも、問ふにつらさとかやおぼえて、物もいはれねば、けさの文とりいでて、「これが心ぼそくて」とばかりにて、こなたへいれて、なきゐたるに、さればなにとしたる事ぞと、たれも心えず、おとなしき女房たちなども、とぶらひおほせらるれども、しりたりける事がなきままには、ただなくよりほかの事もなくてくれ行けば、御所さまの御けしきなればこそかかるらめに、又さしいでむもおそれある心ちすれども、いまより後はいかにしてかと思へば、いまは限りの御おもかげも、今一たび見まゐらせむと思ふばかりに、まよひいでて、御まへにまゐりたれば、御まへには、公卿(くぎやう)二三人ばかりして、なにとなき御物がたりのほどなり。ねりうすものの生絹(すずし)のきぬに、すすきにつづらを青きいとにてぬひ物にしたるに、赤色のからぎぬを着たりしに、きと御覧じおこせて、「こよひは、いかに。御いでか」と仰せごとあり。なにと申すべき言(こと)の葉(は)なくて候ふに、「くる山人のたよりには、おとづれんとにや。あをつづらこそ嬉(うれ)しくもなけれ」とばかり御くちずさみつつ、女院の御かたへなりぬるにや、たたせおはしましぬるは、いかでか御うらめしくもおもひまゐらせざらむ。いかばかりおぼしめす事なりとも、へだてあらじとこそ、あまたの年々(としどし)ちぎりたまひしに、などしもかかるらんと思へば、時の間に世になき身になりなばやと、心ひとつに思ふかひなくて、車さへ待ちつけたれば、これよりいづかたへも行きかくればやと思へども、事がらもゆかしくて、二条町の兵部卿の宿所(すくしよ)へ行きぬ。みづから対面して、「いつとなき老(おい)のやまひと思ふ。このほどになりては、事にわづらはしく、たのみなければ、御身のやう、故大納言もなければ、心ぐるしく、善勝寺ほどのものだになくなりて、さらでも心ぐるしきに、東二条の院より、かくおほせられたるを、しひて候はんも、はばかりありぬべきなり」とて、文をとり出でたまひたるを見れば、「院の御かた、ほうこうして、この御かたをば無きがしろにふるまふが本意(ほい)なくおぼしめさるるに、すみやかに、それをよび出だしておけ。故典侍大(こすけだい)もなければ、そこにはからふべき人なれば」など、御みづから、さまざまに書かせたまひたる文なり。ま事に、此のうへをしひて候ふべきにしもあらずなど。
 中々、出でてのちは、おもひなぐさむよしはすれども、まさに長き夜のねざめは、千声万声(せんせいばんせい)のきぬたの音も、我が手枕(たまくら)に事とふかと悲しく、雲井をわたるかりのなみだも、物おもふ宿の萩のうは葉をたづねけるかとあやまたれ、あかしくらして、年のすゑにもなれば、おくりむかふるいとなみも、なにのいさみに、すべきにしあらねば、年頃の宿願(しゆくぐわん)にて、祇園(ぎをん)の社(やしろ)に、千日こもるべきにてあるを、よろづにさはり多くて籠ざりつるを、おもひたちて、十一月の二日、はじめの卯の日にて、八幡宮(はちまんぐう)御神楽なるに、まづまゐりたるに、神に心をとよみける人もおもひいでられて、
 
   いつもただ神にたのみをゆふだすき
      かくるかひなき身をぞうらむる

七日の参籠(さんろう)はてぬれば、やがて祇園にまゐりぬ。いまはこの世には、のこるおもひあるべきにあらねば、「三界(さんがい)の家を出でて解脱(げだつ)の門(かど)に入れたまへ」と申すに、事しは有明の三年(みとせ)にあたり給へば、東山のひじりのもとにて、七日法花講讃を、五しゆのきやうに行(おこな)はせたてまつるに、ひるは聴聞(ちやうもん)にまゐり、夜は祇園へまゐりなどして、結願(けちぐわん)には、露きえ給ひし日なれば、事さら、うちそゆるかねも、なみだもよほす心ちして、

   をりをりのかねのひびきに音をそへて
      なにとうき世になほのこるらん


七一 千日ごもり

 この段は、初めに「年もかへりぬれば」とあり、末に「今年も暮れぬ」とあるから。この一段で弘安七年を全部含めている。  嬰児が走り歩くようになった事。亡祖父隆親が懐かしく思い出される事。昔祇園社に植えた桜が生いついた事。去年の末から始めた千日ごもりがこの一年つづいていたのである。
 ありしあかご、ひきかくしたるも、つつましながら、物おもひのなぐさめにもとて、年もかへりぬれば、はしりありき、物いひなどして、なにのうさも、つらさも、しらぬもいと悲し。
 さても兵部卿さへ、うかりし秋の露にきえにしかば、あはれもなどか深からざらむなりしを、おもひあへざりし世のつらさをなげくひまなさにおもひわかざりしにや、すがのねのながきひぐらし、まぎるる事なき行ひのついでにおもひつづくれば、母のなごりには、ひとりとどまりしになど、いまぞあはれにおぼゆるは、心のとまるにやとおぼゆる。
 やうやうの神垣(かみがき)の花ども、さかりに見ゆるに、文永のころ、天王の御歌とて、
 
   神がきに千本のさくら花さかば
      うゑおく人の身もさかえなむ

といふ示顕(じげん)ありとて、祇園の社(しや)に、おびただしく木どもうゆる事ありしに、ま事に、神の托(たく)し給ふ事にてもあり、又我が身も、神恩(しんおん)をかうぶるべき身ならば、枝にも根にもよるべきかはとおもひて、檀那院(だんなゐん)の公与僧正、阿弥陀院の別当にておはするに、しん源法印といふは、大納言の子にて申しかよはし侍るに、かの御堂(みだう)の桜の枝を一つこひて、きさらぎの初午(はつむま)の日、執行権長吏(しゆぎやうごんちやうり)、法印(はうゐん)ゑんやうに、紅梅(こうばい)のひとへもん、うすぎぬ、祝詞(のと)のふせにたびて、のと申させて、東の経所(きやうしよ)のまへに、ささげ侍りしに、はなだのうすやうのふだにて、かの枝につけ侍りし、

   ねなくとも色にはいでよさくら花
      ちぎる心は神ぞしるらん

この枝おひつきて、花さきたるを見るにも、心のすゑはむなしからじと頼もしきに、千部の経をはじめて読み侍るに、さのみつぼねばかりは、さしあひ、なにかのためも、はばかりあれば、宝塔院(はうたうゐん)のうしろに、二つある庵室(あんじち)の、ひんがしなるを点(てん)じて籠りつつ、事しもくれぬ。


七二 打出の人数

 弘安八年正月の末、大宮院にすすめられて北山准后九十の賀に出仕した事。この段は先ず賀の前日、二月二十九日の記である。
 又の年のむつきのすゑに、大宮の院より文あり。「准后(すごう)の九十の御賀の事、此の春おもひいそぐ。さとずみもはるかになりぬるを、なにか苦しからむ。うちいでの人かずにと思ふ。准后(すごう)の御かたに候へ」とおほせあり。「さるべき御事にては候へども、御所さまあしざまなる御けしきにて、さとずみし、いかがに、なにのうれしさにか、うちいでのみぎりに、まゐり侍るべき」と申さるるに、「すべてくるしかるまじきうへ、准后(すごう)の御事は、事さらをさなくより、故大納言(こだいなごん)の典侍(すけ)といひ、その身といひ、子に事ならざりし事なれば、かかるいちごの御大事見さたせん、なにかは」など、御みづからさまざまうけ給はるを、さのみ申すも事ありがほなれば、まゐるべきよし申しぬ。
 こもりの日かずは四百日にあまるを、かへりまゐらんほどは代願(だいぐわん)を候はせて、西園寺のうけたまはりにて車などたまはせたれば、今は山がつになりはてたる心ちして、はればれしさも、そぞろはしながら、紅梅の三つぎぬに、さくらもよぎのうすぎぬかさねて、まゐりてみれば、おもひつるもしるく、はればれしげなり。両院、東二条院、遊義門院いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせたまひけるなるべし。新陽明門院も、しのびて御幸(ごかう)あり。きさらぎのつごもりの事なるべしとて、廿九日行幸・行啓あり。まづ行幸、丑(うし)三つばかりになる。もんのまへに御輿(みこし)をすゑて、神(かん)づかさ、ぬさをたてまつり、うたのつかさ、楽(がく)をそうす。院司(ゐんし)左衛門督まゐりて、此のよしを申してのち、御輿(みこし)を中門へよす。二条の三位中将、中門のうちより剣璽(けんじ)の役つとむべきに、春宮行啓、まず門の下まで筵道(えんだう)をしく。まうけの御所、奉行(ぶぎやう)顕家、関白・左大将・三位中将などまゐりまうく。傅(ふ)の大臣(おとど)、御車にまゐらる。


七三 准后九十の御賀

 准后九十賀の当日、弘安八年二月三十日の記である。主催者は大宮院、場所は北山の西園寺邸。まず式場の設備を記し、次に主賓である准后の身分および准后と作者との血縁関係を記す。作者は准后方の女房として出仕するはずになっていたが、大宮院が考えなおされて御自分方の女房中に加えられた事を記し、更に式の進行の次第を記す。
 式は准后の息災を仏に祈願し、長寿を祝福して音楽を奏する法会である。
 その日になりぬれば、御所のしつらひ、みなみおもてのもや三げん、中にあたりて、北の御すにそへて、仏台をたてて、釈迦如来の像一幅(いつぷく)かけらる。その前に香華(かうげ)のつくゑをたつ。左右に燈台をたてたり。前に高座(かうざ)を置く。その南に礼盤(らいばん)あり。同じ間(ま)の南のすのこに机をたてて、そのうへに御経箱二合おかる。寿命経(ずみやうきやう)・法花経入れらる。御願文(ごぐわんもん)、草(さう)、茂範(もちのり)、清書、関白殿ときこえしやらむ。もやの柱ごとに、幡(はた)、華鬘(けまん)をかけらる。もやの西の一(いち)の間(ま)に、御簾(みす)の中に、繧繝(うげん)二畳(にでう)のうへに、からにしきのしとねをしきて、内(うち)の御座(ぎよざ)とす。おなじ御座(ぎよざ)の北に、大文(だいもん)二畳(にでう)をしきて一院の御座、二の間に、おなじたたみをしきて新院の御座、そのひんがしの間に屏風(びやうぶ)をたてて大宮の院の御座、みなみおもての御簾(みす)に几帳(きちやう)のかたびらいだして、一院の女房さぶらふところを、よそに見侍りし、あはれすくなからんや。おなじき西のひさしに、屏風をたてて、うげん二畳しきて、そのうへに東京(とうぎやう)の錦のしとねをしきて准后(ずごう)の御座なり。
 かの准后ときこゆるは、西園寺の太政大臣実氏公のいへ、大宮院・東二条院御母、一院・新院御祖母、内・春宮御曾祖母(おんそうそぼ)なれば、世こぞりてもてなし奉るもことわりなり。俗姓(ぞくしやう)は鷲の尾の大納言隆房の孫、隆衡の卿のむすめなれば、母かたは離れぬゆかりにおはしますうへ、ことさらをさなくより、母にて侍りし者も、これにて生ひたち、我が身もそのなごりかはらざりしかば、召しいださるるに、けなりにてはいかがとて、大宮院御沙汰(おんさた)にて、むらさきの匂ひにて准后(すごう)の御かたに候ふべきかと定めありしを、なほいかがとおぼしめしけむ、大宮の御かたに候ふべきとて、紅梅のにほひまさりたるひとへ、くれなゐのうちぎぬ、赤色のからぎぬ、大宮院の女房は、みな侍りしに、西園寺の沙汰にて、うゑこうばいのむめがさね八つ、こきひとへ、うら山吹のうはぎ、青色のからぎぬ、くれなゐのうちき、だみ物おきなど、心ことにしたるをぞたまはりて候ひしかども、さやはおもひしと、よろづあぢきなき程にぞ侍りし。
 ことはじまりぬるにや、両院、春宮、両女院、今出川の院・姫宮、春宮の大夫うちつづく。誦経(じゆきやう)のかねのひびきも、ことさらにきこえき。机よりひんがしには、関白、左大臣、右大臣、花山院大納言、土御門の大納言、源大納言、大炊(おほひ)の御門(みかど)の大納言、右大将、春宮大夫・程なく座をたつ。右大将、三条中納言、花山院中納言、家ぶぎやうの院司左衛門督、はしより西に、四条前大納言、春宮権大夫、権大納言、四条宰相、右衛門督などぞ候ひし。
 主上御引直衣(おんひきなほし)、すずしの御はかま、一院御直衣、あをにほひの御さしぬき、新院御直衣、あやの御さしぬき、春宮御直衣、うきおり物のむらさきの御さしぬきなり。みな、みすの内におはします。左右大将、右衛門督、弓をもち、矢をおひたり。楽人(がくにん)舞人(まひびと)、鳥向楽(てうかうらく)を奏す。一けいろう、さきだつらむ。左右ほこをふる。こののち、壱越調(いちこつてう)の調子をふきて、楽人舞人、しゆそう、しゆゑの所へむかひて、左右にわかれてまゐる。中門をいりて舞台(ぶたい)の左右を過ぎて、階(はし)の間よりのぼりて座につく。講師、法印憲実(けんじち)、読師(とくし)、僧正守助(しゆうじよ)、呪願(じゆぐわん)、僧正座にのぼりぬれば、堂達(だうたつ)、磬(けい)をうつ。堂童子、しげつね、あきのり、仲兼(なかかぬ)・顕世・兼仲・ちかうぢなど、左右にわけて候ふ。唄子(ばいし)、こゑいでてのち、堂童子、花かごをわかつ。楽人、しんがてうを奏して散華行道(さんげぎやうだう)一ぺん、楽人けいろう御前(ごぜん)にひざまづく。一は久助(ひさすけ)なり。院司為かた禄をとる。のちにつくゑをしりぞけて、舞をそうす。
 けしきばかりうちそそぐ春の雨、糸をひいたるほどなるを、いとふけしきもなく、このもかのもに、なみゐたるありさま、いつまでぐさのあぢきなく見わたさる。左、まんざいらく、がくびやうし、かてん・りようわう。右、ちきう・えんぎらく・なそり。二の物にて、多久助(おほのひさすけ)、ちよくろのてとかや舞ふ。このほど右のおとど、座をたちて、左の舞人近康(ちかやす)を召して、勧賞(けんじやう)仰せらる。受けたまはりて、ふたたび拝みたてまつるべきに、右の舞人久助、楽人政秋同じく勧賞をうけたまはる。政秋、笙(しやう)のふえをもちながら起きふすさま、つきづきしなど御沙汰あり。
 講師、座をおりて、楽人、楽(がく)をそうす。そののち、御布施(おふせ)をひかる。頭中将公敦(きんあつ)、左中将為兼(ためかぬ)、少将やすなかなど、わきあけに平胡※(ひらやなぐひ)を負へり。もとほしに革緒のたち、おほくは細太刀(ほそだち)なりしに。
 衆僧どもまかりいづるほどに、廻忽(くわいこつ)・長慶子を奏して楽人(がくにん)・舞人(まひびと)まかりいづ。大宮、東二条、准后の御ぜんまゐる。准后(じゆごう)の陪膳(はいぜん)四条宰相、やくそう左衛門督なり。


七四 今日の春日

 式の翌日、三月一日の記で、御祝の饗膳、音楽、祝歌の披露、御鞠の興が行われた事。
 次の日は、やよひのついたちなり。内・春宮・両院、御ぜんまゐる。舞台(ぶたい)とりのけて、もやの四めんに壁代(かべしろ)をかけたる、西のすみに御屏風をたてて、中の間に、繧繝(うげん)二畳(にでう)しきて、からにしきのしとねをしきて、おほやけの御座、両院の御座、もやにまうけたり。東(ひんがし)の対(たい)一間(ひとま)にうげんをしきて、東京(とうぎやう)のにしきのしとねをしきて、春宮の御座とみえたり。内・両院、御簾(ぎよれん)、関白殿、春宮には傅(ふ)のおとど遅参(ちさん)にて、大夫(だいぶ)御簾(ぎよれん)に参りたまふなりけり。主上つねの御直衣(おんなほし)、くれなゐのうち御ぞ、わたいれていださる。一院、かたおり物のうす色御さしぬき、新院、うきおり物の御直衣(おんなほし)、おなじ御さしぬき、これも紅のうち御ぞ、わたいりたるをいださる。春宮、ふせんりようの御指貫、うち御ぞ、綿いらぬをいださる。御ぜんまゐる。うちの御方、陪膳(はいぜん)花山院大納言、役送(やくそう)四条宰相・三条の宰相中将、一院、陪膳(はいぜん)、大炊御門の大納言、新院、春宮大夫。春宮、三条宰相中将。春宮のやくそう隆良、さくらのなほし、うす色のきぬ、おなじ指ぬき、くれなゐのひとへ、つぼ・おいかけまでも、けふをはれとみゆ。
 御ぜんはててのち御遊、うちの御ふえ、かていといふ御ふえ、はこに入れて、忠世まゐる。関白とりて、御前(ごぜん)に置かる。春宮御琵琶、玄象(げんじやう)なり。権亮(ごんのすけ)親定持ちてまゐるを、大夫御まへに置かる。臣下のふえのはこ、べちにあり。しやう、土御門の大納言、しやう、左衛門督。ひちりき、兼行。わごん、大炊御門の大納言。こと、左大将。びわ、春宮大夫、権大納言。ひやうし、徳大寺の大納言、洞院三位中将。こと、宗冬。つけうた、宗冬。
   りよの歌 あなたふと・むしろだ
   がく   鳥(とり)の破(は)  急、律(りつ)青柳(あをやなぎ)
まんざいらく、これにて侍りしやらむ。三台(さんだい)の急(きふ)。
 御遊(ぎよいう)はてぬれば和歌の御会(おんくわい)あり。六位殿上人、ぶんだい、ゑんざを置く。下臈より懐紙(くわいし)を置く。為道、もとほしの袍に革緒のたち、つぼなり。弓にくわいしをとりぐして、のぼりて、ぶんだいに置く。のこりの殿上人のをば取り集めて、信輔(のぶすけ)ぶんだいに置く。為道よりさきに、春宮権大進顕家、春宮の御ゑんざを、ぶんだいの東にしきて、披講(ひかう)のほど御座ありし、ふるきためしも今めかしくぞ人々申し侍りし。公卿、関白・左右大臣・儀同三司・兵部卿・前藤大納言・花山院大納言・右大将・土御門大納言・春宮大夫・大炊御門の大納言・徳大寺大納言・前藤中納言・三条中納言・花山院中納言・左衛門督・四条宰相・右兵衛督・九条侍従三位とぞきこえし。みな公卿(くぎやう)直衣(なほし)なる中に、右大将通もとおもて黄、ぎよりようの山ぶきのきぬをいだして太刀(たち)をはきたり。笏(しやく)に懐紙(くわいし)をもちぐしたり。此のほかのようの公卿は、弓に矢を負へり。花山院中納言講師を召す。公敦(きんあつ)まゐる。読師(どくし)、左のおとどに仰せらるる、故障(こしやう)にて右大臣まゐり給ふ。兵部卿、藤中納言など召しにてまゐる。権中納言の局のうた、くれなゐのうすやうに書きて簾中(れんちゆう)よりいださるるに、新院、
「雅忠卿むすめの歌はなど見え候はぬぞ」と申されけるに、「いたはりなどにて候ふやらん。すんしうて」と御返事ある。「など歌をだにまゐらせぬぞ」と春宮大夫いはるれば、「東二条院より、歌ばし召さるなと、准后(ずごう)へ申されけるよし、うけたまはりし」など申して、

   かねてより数にもれぬとききしかば
      思ひもよらぬ和歌のうら波

などぞ心ひとつに思ひつづけて侍りし。
 うち・新院の御歌(おんうた)は、殿下たまはりたまふ。春宮のは、なほ臣下のつらにて、おなじ講師よみたてまつる。うち・院のをば、左衛門督読師(とくし)、殿下たびたび講ぜらる。披講(ひかう)はてぬれば、まづ春宮いらせたまふ。そのほども公卿ろくあり。うちの御製(ぎよせい)は殿(との)かき給ひける。〔今の大覚寺の法皇の御事なり〕
 先朝(せんてう)仙院(せんゐん)、従一位藤原のあそん貞子(ていし)九十のよはひを賀するうた

   行末をなほながきよとよするかな
      やよひにうつるけふの春日に

新院の御歌(おんうた)は、内大臣(うちのおとど)かき給ふ。はしがきおなじさまながら、貞子(ていし)の二字をとどめらる。

   ももとせといまやなくらむ鶯の
      ここのかへりの君が春へて

春宮のは左大将書きたまふ。
   春の日北山の第(てい)にて、行幸するに侍りて、従一位藤原のあそん、九十の算(さん)を賀して制に応ずる歌
とて、尚、上のもじをそへられたるは古きためしにや。

   かぎりなきよはひはいまは九(ここの)そぢ
      なほ千世とほき春にもあるかな

このほかのをば、べちにしるし置く。さても春宮の大夫の、

   よよのあとになほ立ちのぼる老のなみ
      よりけん年はけふのためかも

まことに、おもしろきよし、おほやけ・わたくし申しけるとかや。実氏のおとどの、一切経の供養のをりの御会に、後嵯峨(ごさが)の院(ゐん)、「花も我が身もけふさかりかも」とあそばし、おとどの「我が宿々のちよのかざしに」とよまれたりしは、ことわりにおもしろくきこえしにおとらずなど沙汰ありしにや。
 こののち、御まりとて、色々の袖をいだせる、内、春宮、新院、関白殿、内のおとどより、思ひ思ひの御すがた、見どころおほかりき。鳥羽(とば)の院(ゐん)、建仁の頃のためしとて、新院御あげまりなり。御まりはてぬれば、行幸はこよひ還御なり。あかずおぼしめさるる御たびなれども、春のつかさめしあるべしとて、いそがるるとぞきこえ侍りし。


七五 妙音院の音楽

 九十の賀の後の御遊、三月二日の記で、妙音堂における音楽会の事。
 またの日は、行幸還御ののちなれば、ようのすがたもいとなく、うちとけたるさまなり。午の時ばかりに、北殿より西園寺へ筵道をしく。両院御烏帽子(おんえぼし)直衣(なほし)、春宮御直衣(おんなほし)にくくりあげさせおはします。堂々御巡礼(ごじゆんれい)ありて、妙音堂に御まゐりあり。けふの御(み)ゆきを待ちがほなる花の、ただ一木みゆるも、ほかの散りなんのちとは、たれかをしへけんとゆかしきに、御遊あるべしとてひしめけば、きぬかづきにまじりつつ、人々あまたまゐるに、たれもさそはれつつ見まゐらすれば、両院・春宮うちにわたらせ給ひ、ひさしに、ふえ、花山院大納言、しやう、左衛門督、ひちりき、兼行、びは、春宮の御かた。大夫、こと。太鼓(たいこ)、具顕、羯鼓(かこ)、範藤。調子盤渉調(ばんしきてう)にて、さいしやうらう・そがふ、三のてふはきう、はくちう・千秋らく。兼行、「花上苑にあきらかなり」と詠ず。ことさら物のねととのほりておもしろきに、二へんをはりてのち、「なさけなきことを機婦(きふ)にねたむ」と一院詠ぜさせおはしましたるに、新院・東宮御こゑくはへたるは、なべてにやはきこえん。楽(がく)をはりぬれば、還御あるも、あかず御なごり多くぞ人々申し侍りし。


七六 舟中の連歌

 前段と同じく三月二日の記。昼の妙音堂の音楽に引き続いて、夕刻舟中で音楽の遊びが催され、後深草院が、心の進まぬ作者を強いて舟中に召された事。後深草院・亀山院・東宮・東宮大夫実兼・源具顕・作者の六人、舟中にて連歌の事。
 何となく世の中の花やかに面白きを見るにつけても、かきくらす心の中は、さしいでつらむもくやしき心ちして、妙音堂の御こゑ、なごりかなしきままに、御まりなどきこゆれども、さしもいでぬに、隆良、文とて持ちきたり。所たがへにやといへども、しひてたまはすれば、あけたるに、
 「かきたえてあかれやすると心みにつもる月日をなどかうらみぬ。なほわすれられぬは、かなふまじきにや。とし月のいぶせさも、こよひこそ」などあり。御返事には、

   かくて世にありときかるる身のうさを
      うらみてのみぞ年はへにける

とばかり申したりしに、御まりはてて、酉のをはりばかりに、うちやすみてゐたる所へ、ふといらせおはします。「ただ今御ふねにめさるるに、まゐれ」とおほせらるるに、なにのいさましさにかとおもひて、たちもあがらぬを、「ただけなるにて」とて、はかまの腰ゆひなにかさせたまふも、いつより又かくもなり行く御心にかと、ふたとせの御うらめしさの、なぐさむとはあらねども、さのみすまひ申すべきにあらねば、なみだのおつるをうちはらひてさしいでたるに、くれかかるほどに、釣殿より御ふねにめさる。まづ春宮の御かた、女房大納言殿、右衛門督殿、かうのないし殿、これらは物の具なり。小さき御ふねに両院めさるるに、これは三ぎぬに、うすぎぬ、からぎぬばかりにてまゐる。東宮の御ふねにめしうつる。管弦の具入れらる。ちひさきふねに公卿たち、はしぶねにつけられたり。笛、花山院大納言、笙、左衛門。ひちりき、兼行。びわ、春宮の御かた。こと、女房衛門督殿。太鼓、具顕。かこ、大夫。
 あかずおぼしめされつる妙院堂のひるの調子をうつされて、盤渉調(ばんしきてう)なれば、蘇香の五の帖、りんだい、せいがいは、ちくりんらく、ゑてんらくなど、いく返りといふかずしらず。兼行、「山又山」とうちいだしたるに、「変態繽粉(へんたいひんぷん)たり」と両院のつけたまひしかば、水のしたにも耳おどろく物やとまでおぼえ侍りし、
 釣殿とほくこぎいでて見れば、旧苔(きうたい)とし経たる松の、枝さしかはしたるありさま、庭の池水いふべくもあらず。漫々たる海のうへにこぎ出でたらむ心ちして、「二千里の外に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、
 
   「くものなみけぶりのなみをわけてけり
管弦にこそ誓ひありとて心強からめ。これをばつけよ」とあてられしも、うるさながら、

   行くすゑ遠き君が御代とて(作者)
春宮大夫
   むかしにも猶たちこえてみつぎ物
具顕
   くもらぬかげも神のまにまに
春宮の御かた
   九そぢになほもかさぬるおいのなみ
新院
   たちゐくるしきよのならひかな

   うき事を心ひとつにしのぶれば(作者)

 「と申され候ふ心の中のおもひは、我ぞしり侍る」とて富(とみ)の小路殿(こうぢどの)の御所、
   たえずなみだに有明の月
   
「この有明のしさい、おぼつかなく」など御沙汰あり。


七七 うき身はいつも

 九十の賀の名残の御遊も全部終った三月二日の夕刻から夜にかけての記。さまざまの事が雑然と並べてあるが、それを通じて、世に望みを失った作者のさびしい心境がうかがわれる。
 くれぬれば行啓(ぎやうけい)にまゐわたる掃部寮(かもんれう)、所々にたてあかしして、還御いそがしたてまつるけしきみゆるも、やうかはりておもしろし。程なく釣殿に御ふねつけぬれば、おりさせおはしますも、あかぬ御事どもなりけん。からきうきねのとこにうきしづみたる身のおもひは、よそにもおしはかられぬべきを、やすのかはらにもあらねばにや、事とふかたのなきぞ悲しき。
 ま事や、けふのひるは東宮の御かたより、たちはききよかげ、ふたあゐ、うち、上下、松に藤ぬひたり。うちふるまひ、おいかけのかかりもよしありなど沙汰ありし。
 うちへ御つかひまゐらせられしにちがひて、内裏(だいり)よりは、頭(とう)の大蔵卿忠世まゐりたりとぞきこえし。このたび御贈物(おんおくりもの)は、うちの御かたへ御琵琶、春宮へ和琴(わごん)ときこえしやらむ。勧賞(けんじやう)どもあるべしとて、一院御給(ごきふ)、としさだ四位正下、東宮、これすけ五位正下。春宮の大夫の琵琶の賞は為道にゆづりて四位の従上など、あまたきこえ侍りしかども、さのみはしるすおよばず。行啓も還御なりぬれば、大かたしめやかに、なごりおほかるに、西園寺のかたざまへ御幸なるとて、たびたび御つかひあれども、うき身はいつもとおぼえて、さしいでむ空なき心ちして侍るも、あはれなる心の中ならむかし。





問はず語り 巻四


七八 鏡の宿

 前巻との間に三年の空白がある。正応二年二月二十余日京都を出発して鎌倉に向い、まず第一日、鏡の宿に泊る。今年が正応二年であった事は、将軍惟康親王上洛の年(八六段)であった事によって知られる。作者三十二歳。
 きさらぎの廿日あまりの月とともに都をいで侍れば、なにとなく、すてはてにしすみかながらも、又と思ふべき世のならひかはと思ふより、袖の涙もいまさら、宿る月さへぬるる顔にやとまでおぼゆるに、我ながら心よわくおぼえつつ、逢坂の関ときけば、宮もわらやもはてしなくと、ながめすぐしけん蝉丸のすみかも、あとだにもなく、関の清水にやどる我がおもかげは、いでたつあしもとよりうちはじめ、ならはぬ旅のよそほひ、いとあはれにて、やすらはるるに、いとさかりと見ゆる桜の、ただ一木あるも、これさへ見すてがたきに、ゐなか人と見ゆるが、馬のうへ四五人、きたなげならぬが、またこの花のもとにやすらふも、おなじ心にやとおぼえて、

   ゆく人の心をとむるさくらかな
      花やせきもりあふさかの山

など思ひつづけて、鏡の宿(しゆく)といふ所にもつきぬ。くるるほどなれば、遊女ども、ちぎりもとめてありくさま、うかりける世のならひかなとおぼえていと悲し。
 あけ行く鐘のおとにすすめられて、いでたつも、あはれに悲しきに、

   たちよりてみるともしらじかがみ山
      心のうちにのこる面影


七九 赤坂の遊女

 鏡の宿から数日を経て赤坂の宿に泊る。やどの遊女と和歌の贈答をする。
 やうやう日かずふるほどに、美濃の国赤坂の宿(しゆく)といふ所につきぬ。ならはぬ旅の日かずも、さすがかさなれば、くるしくもわびしければ、これに今日はとどまりぬるに、やどのあるじに、若き遊女おとといあり。琴・琵琶などひきてなさけあるさまなれば、むかし思ひいでらる心ちして、くこんなどとらせて遊ばするに、二人ある遊女の姉とおぼしきが、いみじく物おもふさまにて、琵琶のばちにてまぎらかせども、なみだがちなるも、身のたぐひにおぼえて目とどまるに、これもまた、すみぞめの色にはあらぬ袖のなみだを、あやしく思ひけるにや、さかづきすゑたる小折敷(こをしき)に書きてさしおこせたる、

   おもひたつ心はなにの色ぞとも
      富士のけぶりのすゑぞゆかしき

いと思はずに、なさけある心ちして、

   ふじのねは恋をするがの山なれば
      おもひありとぞ煙たつらん

なれぬるなごりは、これまでも、ひきすてがたき心ちしながら、さのみあるべきならねば又たちいでぬ。


八〇 八橋・熱田

 八橋で業平の昔をしのび、熱田の社では亡き父の思い出に袖をしぼり、又遠ざかる都の空を眺めて後深草院の面影を慕うのであるが、折から匂う桜の花の、はかない盛りを思うにつけても、短い恋が思われる。こうして作者は熱田の社をかえり見ながら東をさして下って行く。
 さて八橋から熱田へつづけた道順は逆である。後年の思い出を記したのだから、記憶の誤かも知れないが、しかし作者は道中案内記を書くのが目的でないから、道順など、それほど気にとめず、所々で詠んだ歌を中心にして、その所々の思い出を書き留めたもの、これを記憶の誤などと取りあげるべきではなかろう。
 八橋といふ所につきたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ、とももなき心ちして、

   我はなほくもでに物を思へども
      その八橋はあとだにもなし

尾張の国熱田のやしろにまゐりぬ。御垣(みかき)ををがむより、故大納言のしる国にて、このやしろには、我がいのりのためとて、八月の御祭には、かならず神馬をたてまつるつかひをたてられしに、最期(さいご)のやまひのをり、神馬をまゐらせられしに、すずしのきぬを一つそへてまゐらせしに、萱津(かやつ)の宿(しゆく)といふ所にて、にはかにこの馬死ににけり。おどろきて、在庁(ざいちやう)が中より、馬はたづねてまゐらせたりけると聞きしも、神はうけぬいのりなりけりとおぼえしことまで、かずかず思ひいでられて、あはれさも悲しさも、やるかたなき心ちして、この御やしろに今宵(こよひ)はとどまりぬ。都をいでしことは、きさらぎの廿日あまりなりしかども、さすがならはぬ道なれば、心はすすめども、はかもゆかで、やよひのはじめになりぬ。ゆふづくよ、はなやかにさしいでて、都の空もひとつながめに思ひいでられて、いまさらなる御おもかげもたちそふ心ちするに、御垣(みかき)のうちの桜は、けふさかりとみせがほなるも、たがため匂ふ木すゑなるらんとおぼえて、

   春の色もやよひの空になるみがた
      いまいくほどか花もすぎむら

やしろの前なる杉の木に札(ふだ)にてうたせ侍りき。思ふ心ありしかば、これに七日こもりて、又たちいで侍りしかば、鳴海(なるみ)のしほひがたを、はるばる行きつつぞ、やしろをかへりみれば、かすみのまよりほの見えたるあけの玉垣神さびて、昔を思ふ涙はしのびがたくて、

   神はなほあはれをかけよみしめなは
      ひきたがへたるうき身なりとも


八一 清見が関・浮島

 清見が席・浮島が原を通過した記であるが、途中の名所宇津の山に気がつかず通り過ぎ、浮島が原に来て気がつき、そのことを歌に詠んでいる。文章は伊勢物語や西行の旅の情趣を心に置いて書かれている。
 清見が関を月にこえゆくにも、思ふことのみ多かる心のうち、こしかたゆくさきたどられて、あはれにかなし。みなしろたへに見えわたりたる浜のまさごのかずよりも、思ふことのみ限りなきに、富士のすそ、浮島が原にゆきつつ、たかねには、なほ雪ふかく見ゆれば、五月のころだにも、かのこまだらには残りけるにと、ことわりに見やらるるにも、あとなき身の思ひぞ、つもるかひなかりける。煙もいまは絶えはてて見えねば、風にもなにかなびくべきとおぼゆ。さても宇津の山をこえしにも、つたかへでも見えざりしほどに、それとだに知らず、思ひわかざりしを、ここにて聞けば、はやすぎにけり。

   ことの葉もしげしとききしつたはいづら
      ゆめにだに見ずうつの山こえ


八二 三島の社

 三島神社に奉幣し、そこに通夜して、なかむし・浜の一万・はれな舞などの神事を見る。
 伊豆の国三島のやしろにまゐりたれば、奉幣(ほうへい)の儀式は熊野まゐりにたがはず、なかむしなどしたるありさまも、いとかうがうしげなり。故頼朝の大将、しはじめられたりける浜の一万とかやとて、故ある女房の、壺装束(つぼしやうぞく)にて行きかへるが、苦しげなるを見るにも、我ばかり物おもふ人にはあらじとぞおぼえし。月はよひすぐるほどに待たれて出づるころなれば、みじか夜の空も、かねて物うきに、神楽とて、をとめごが舞の手づかひも見なれぬさまなり。ちはやとて、あこめのやうなる物を着て、はれなまひとて、三四人たちて、入りちがひて舞ふさまも興ありておもしろければ、よもすがらゐあかして、とりのねにもよほされて出で侍りき。


八三 江の島

 三月二十日すぎの一夜、江の島の岩屋に住む山伏の所に泊る。この山伏は修行に年を経た者と思われるが、もとは都の者であったらしく、作者から扇を贈られて、昔の友に逢った気がすると喜ぶ。ここに供とする者の笈から扇を出して与えたとあるから、作者が従者をつれていた事が知られるが、これ以後の長い旅において、作者が供をつれていたと思われる記事はない。
 廿日あまりのほどに江の島といふ所へ着きぬ。所のさまおもしろしとも、なかなか言(こと)の葉(は)ぞなき。漫々たる海のうへに離れたる島に、岩屋どもいくらもあるにとまる。これは千手(せんじゆ)のいはやといふとて、薫修練行(くんじゆれんぎやう)も年たけたりと見ゆる山ぶし一人、おこなひてあり。きりのまがき、たけのあみど、おろそかなる物から艶(えん)なるすまひなるが、とかく山ぶしけいめいして、所につけたるかひつ物などとりいでたる、こなたよりも、ともとする人の笈(おひ)のなかより、都のつととて、あふぎなどとらすれば、「かやうのすまひには都のかたもことづてなければ、風のたよりにも見ず侍るを、こよひなむ昔の友にあひたる」などいふも、さこそと思ふ。ことはなにとなく、みな人もしづまりぬ。夜もふけぬれども、はるばるきぬる旅ごろも、思ひかさぬるこけむしろは、夢をむすぶほどもまどろまれず。人にはいはぬしのびねも、たもとをうるほし侍りて、岩屋のあらはにたちいでて見れば、雲のなみ、煙のなみも見えわかず。夜の雲をさまりつきぬれば、月もゆくかたなきにや、空すみのぼりて、まことに二千里のほかまで、たづね来にけりとおぼゆるに、うしろの山にや、猿(さる)のこゑのきこゆるも、はらわたをたつ心ちして、心のうちの物がなしさも、ただいまはじめたるやうに思ひつづけられて、ひとり思ひ、ひとりなげく涙をも、ほすたよりにやと、都のほかまでたづねこしに、世のうき事はしのび来にけりと悲しくて、

   杉のいほ松のはしらにしのすだれ
      うき世の中をかけはなればや


八四 鎌倉到着

 鎌倉に到着。極楽寺に参り、僧の動作が都風であるのに好意をよせる。しかし化粧坂から見おろした町の有様は、袋の中の生活のように思われて、都に生活した作者には、ごみごみしたものに感じられた。
 由比の浜の大鳥居から遙かに八幡宮を拝して、我が家の氏神であり、かつて父の薨去した翌年(文永十年)の正月に男山八幡に参拝し、父の生所を示して戴きたいと祈誓した時の事を回想して無量の感慨に打たれる。
 次いで八幡宮に参り、その地形が男山に比べて遙かに海の眺められる事に好意を持つ。
 あくれば鎌倉へいるに、極楽寺といふ寺へまゐりてみれば、僧のふるまひ都にたがはず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂(けはひざか)といふ山をこえて鎌倉のかたを見れば、東山(ひんがしやま)にて京を見るにはひきたがへて、きざはしなどのやうに、重々(ぢうぢう)に、ふくろの中に物を入れたるやうにすまひたる、あな物わびしと、やうやうみえて、心とどまりぬべき心ちもせず。由比(ゆひ)の浜といふ所へ出でてみれば、大きなる鳥居あり。若宮の御やしろ、はるかに見え給へば、他(た)の氏(うぢ)よりはとかや、ちかひ給ふなるに、ちぎりありてこそ、さるべき家にと生れけめに、いかなるむくいならんと思ふほどに、まことや、父の生所(しやうじよ)を祈誓(きせい)申したりしをり、「今生(こんじやう)の果報(くわはう)にかゆる」と、うけたまはりしかば、うらみ申すにてはなけれども、「そでをひろげんをも、なげくべからず。またをののこまちも、そとほりひめがながれといへども、あじかをひじにかけ、みのをこしにまきても、身のはてはありしかども我ばかり物おもふ」とや書き置きしなど思ひつづけても、まづ御やしろへまゐりぬ。所のさまは男山のけしきよりも、海見はるかしたるは見どころありともいひぬべし。大名ども浄衣などにはあらで、いろいろのひたたれにてまゐりつるもやう変りたり。


八五 小町殿

 小町殿と音信を通じ世話になる。善光寺へ行く予定であったが、先達に頼んだ人も自分も病気をしたので中止となる。八月十五日、小町殿から、都の放生会を思い出されるでしょうと言われて歌を贈答する。次いで鎌倉八幡宮の放生会を見る。
 かくて、荏柄(えがら)、二階堂、大御堂(おほみだう)などいふ所ども拝みつつ、大倉(おほくら)の谷(やつ)といふ所に小町殿とて将軍に候ふは、土御門の定実(さださね)のゆかりなれば、ふみつかはしたりしかば、「いと思ひよらず」といひつつ、「我がもとヘ」とてありしかども、中々むつかしくて、ちかきほどに宿(やど)をとりて侍りしかば、「たよりなくや」など、さまざまとぶらひおこせたるに、道のほどの苦しさも、しばしいたはるほどに、善光寺のせんだちに頼みたる人、卯月のすゑつかたより大事にやまひみいだして前後(ぜんご)をしらず、あさましともいふばかりなきほどに、すこしおこたるにやと見ゆるほどに、我が身又うちふしぬ。ふたりになりぬれば、人も「いかなることにか」といへども、「ことさらなることにてはなし。ならはぬ旅のくるしさに持病(じびやう)のおこりたるなり」とて、くすしなどは申ししかども、いまはといふほどなれば、心ぼそさもいはんかたなし。さほどなきやまひにだにも、風のけ、はなたりといへども、すこしもわづらはしく二三日にもすぎぬれば、陰陽(おんやう)医道(いだう)のもるるはなく、家につたへたるたから、世にきこえある名馬まで、霊社霊仏にたてまつる。南嶺(なんれい)のたちばな、玄圃(げんぽ)のなし、我がためにとのみこそさわがれしに、やまひのゆかにふして、あまた日かずはつもれども、神にもいのらず、ほとけにも申さず、なにをくひ、なにを用ゐるべき沙汰にもおよばで、ただうちふしたるままにて、あかしくらすありさま、生(しやう)をかへたる心ちすれども、いのちは限りある物なれば、みなづきのころよりは、心ちもおこたりぬれども、なほ物まゐり思ひたつほどの心ちはせで、ただよひありきて、月日むなしくすぐしつつ八月にもなりぬ。十五日のあした、小町殿のもとより、「けふは都の放生会(はうじやうゑ)の日にて侍る。いかが思ひいづる」と申したりしかば、

   おもひいづるかひこそなけれ石清水
      おなじながれのすゑもなき身は

返し、

   ただたのめ心のしめのひくかたに
      神もあはれはさこそかくらめ

また鎌倉の新八幡(やはた)の放生会といふ事あれば、ことのありさまもゆかしくて、たちいでて見れば、将軍御出仕(ごしゆつし)のありさま、所につけては、これもゆゆしげなり。大名どもみな狩衣にて出仕したる、直垂(ひたたれ)きたるたちはきとやらんなど、思ひ思ひのすがたども、めづらしきに、赤橋(あかはし)といふ所より、将軍、車よりおりさせおはしますをり、公卿(くぎやう)、殿上人せうせう御供(おとも)したるありさまぞ、あまりに、いやしげにも、物わびしげにも侍りし。平左衛門入道と申す者が嫡子(ちやくし)平二郎左衛門が、将軍の侍所(さぶらいどころ)の所司(しよし)とて参りしありさまなどは、物にくらべば、関白などの御ふるまひと見えき。ゆゆしかりしことなり。やぶさめ、いしいしのまつりごとの作法(さはふ)ありさまは、見てもなにかはせむとおぼえしかば、帰りはべりにき。


八六 惟康親王上洛

 将軍惟康親王が職を奪われ、罪人の取扱いを受けて京都へ送還せられる事件を目撃した事を記す。惟康親王罷職の名目は、親王に異図ありという事になっているが、実は鎌倉における御家人勢力と得宗勢力の軋轢が、京都における持明院統(後深草統)と大覚寺統(亀山統)の対立激化にからみ合った結果、惟康親王はその犠牲になられたものであると思われる。御家人とは頼朝の事業を助けた有力な武士たちで頼朝以来幕府に勢力を有した人々、得宗(トクソウ)とは執権北条氏の一族およびその近臣たちである。御家人と得宗の反目は遂に鎌倉幕府滅亡の要因ともなったのであるが、惟康親王は御家人の尊崇を受けていられたので、これが禍したのである。又一方京都では立太子問題で、後深草・亀山両院の間で不和が生じていたが、作者が鎌倉へ下った年、正応二年四月、西園寺実兼は幕府と結んで、二十一日立太子定めの儀を行い、二十一日に伏見天皇第一皇子胤仁親王を東宮とした。失意の亀山院は九月七日に御出家、そしてその十四日に惟康親王の罷職となるのである。代って将軍になられる久明親王は後深草院の皇子であるから、つまり皇統が持明院統に確定した時期に将軍職も同統にという公武合体政策が惟康親王罷職という事件を起したものと思われる。
 惟康親王は将軍邸を追放せられ、佐介の谷の某所に五日間ほど御滞在、いよいよ都へ御出発の時刻は深夜の丑の刻と定められた。折からひどい風雨であった。惟康親王の御父宗尊親王は後深草院の兄で皇族として尊貴な御身であり、その御子である惟康親王は、特に御生母が藤原氏中でも執柄家の出であるから、世の尊敬が厚かった。ただ父親王が歌人であって名歌をのこしていられるのに、惟康親王に、それが欠けているのは惜しい。
 さるほどに、いくほどの日かずもへだたらぬに、鎌倉に事いでくべしとささやく。たがうへならむといふほどに、将軍都へのぼり給ふべしといふほどこそあれ、ただいま御所を出で給ふといふを見れば、いとあやしげなる張輿(はりこし)を、対の屋のつまへよす。丹後の二郎判官(はうぐわん)といひしやらん、奉行して渡したてまつる所ヘ、相模の守のつかひとて、平二郎左衛門いできたり。そののち、先例なりとて、御輿さかさまによすべしといふ。又ここには、いまだ御輿だに召さぬさきに、寝殿には、小舎人(ことねり)といふ者のいやしげなるが、わらうづはきながら、上へのぼりて、御簾(みす)ひきおとしなどするも、いと目もあてられず。
 さるほどに、御輿(みこし)出でさせ給ひぬれば、めんめんに女房たちは、輿(こし)などいふこともなく、物をうちかづくまでもなく、「御所はいづくへいらせおはしましぬるぞ」などいひて、泣く泣くいづるもあり。大名など心よせあると見ゆるは、若党(わかたう)など具せさせて、暮れゆくほどに、送りたてまつるにやとみゆるもあり。思ひ思ひ心々にわかれ行くありさまは、いはんかたなし。
 佐介(さすけ)の谷(やつ)といふ所へ、まづおはしまして、五日ばかりにて京へ御のぼりなれば、御出(おんい)でのありさまも見まゐらせたくて、その御あたりちかき所に、をしてのしやうでんと申す霊仏おはしますへまゐりて聞きまゐらすれば、御たち、丑の時と時をとられたるとて、すでにたたせおはしますをりふし、よひより降る雨、ことさら、そのほどとなりては、おびたたしく、風ふきそへて、物などわたるにやとおぼゆるさまなるに、時たがへじとて、出だしまゐらするに、御輿(みこし)をむしろといふ物にてつつみたり。あさましく目もあてられぬ御やうなり。御輿よせて、召しぬとおぼゆれども、なにかとて、又、にはにかきすゑまゐらせて、ほどふれば、御鼻かみ給ふ。いとしのびたる物から、たびたびきこゆるにぞ、御袖の涙もおしはかられ侍りし。
 さても将軍と申すも、ゑびすなどが、おのれと世をうちとりて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。後(のち)の嵯峨の天皇の第二の皇子、申すべきにや、後深草のみかどには、御年とやらん月とやらん御まさりにて、まづいでき給ひにしかば、十善のあるじにもなりたまはば、これも位をもつぎ給ふべき御身なりしかども、はは准后(じゆごう)の御ことゆゑ、かなはでやみ給ひしを、将軍にてくだり給ひしかども、ただ人にてはおはしまさで、中務の親王と申し侍りしぞかし。その御あとなれば、申すにやおよぶ、なにとなき御思ひばらなど申すこともあれども、藤門執柄(とうもんしつぺい)のながれよりも出で給ひき。いづかたにつけてか、すこしもいるがせなるべき御ことにはおはします、と思ひつづくるにも、まづさきたつ物は涙なりけり。

   いすず川おなじながれをわすれずは
      いかにあはれと神もみるらん

御道のほども、さこそ露けき御ことにて侍らめとおしはかられたてまつりしに、御歌などいふことの一つもきこえざりしぞ、前将軍の、「北野の雪のあさぼらけ」などあそばされたりし御あとにと、いとくちをしかりし。


八七 新将軍下向

 作者は小町殿に頼まれ、平入道の妻の衣服裁縫のことについて入道の邸に趣く。また執権貞時の依頼で新将軍邸のしつらいを見分する。
 正応二年十月二十五日、新将軍久明親王鎌倉到着の有様。三日目に執権貞時の山の内邸へ御成りの事。それらの盛儀を見るにつけ、昔の御所生活が思い出され、あわれを感じた事。
 かかるほどに、後深草の院の皇子、将軍にくだり給ふべしとて、御所造りあらため、ことさらはなやかに、世の中、大名七人、御むかへにまゐるとききしなかに、平左衛門入道が二郎、飯沼(いひぬま)の判官(はうぐわん)、いまだ使(つかひ)の宣旨もかうぶらで、新左衛門と申し候ふが、その中にのぼるほどに、「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」とて、足柄山(あしがらやま)とかやいふ所へ越え行くときこえしをぞ、みな人あまりなることとは申し侍りし。
 御下りちかくなるとて、世の中ひしめくさま、ことありがほなるに、いま二三日になりて、あしたとく、小町殿よりとてふみあり。なに事かとて見るに、「思ひかけぬことなれども、平入道が御ぜん、御かたといふがもとへ、東二条院より五(いつつ)ぎぬをくだしつかはされたるが、調(てう)ぜられたるままにて、ぬひなどもせられぬを、申しあはせんとて、さりがたく申すに、出家のならひくるしからじ、そのうへたれともしるまじ、ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたび、かなふまじきよしを申ししかども、はては相模の守のふみなどいふ物さへとりそへて、なにかといはれしうヘ、これにては、なにとも見沙汰する心ちにてあるに、やすかりぬべきことゆゑ、なにかといはれんもむつかしくて、まかりぬ。
 相模の守の宿所(すくしよ)のうちにや、すみどのとかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひはつねのことなり。これは、金銀金玉(こんごんきんぎよく)をちりばめ、光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)をみがいてとは、これにやとおぼえ、解脱(げだつ)の瓔珞(やうらく)にはあらねども、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、几帳のかたびら、ひき物まで、目もかがやき、あたりも光るさまなり。御かたとかや出でたり。地は薄青(うすあを)に、むらさきの濃きうすき糸にて、もみじを大きなる木におりうかしたる唐織物(からおりもの)の二(ふたつ)ぎぬに、白き裳を着たり。みめことがら、ほこりかに、たけたかくおほきなり。かくいみじとみゆるほどに、入道、あなたより、はしりきて、そでみじかなるしろきひたたれすがたにて、なれがほに添ひゐたりしぞ、やつるる心ちし侍りし。
 御所よりのきぬとて取りいだしたるを見れば、すはうのにほひの、うちへまさりたる五(いつつ)ぎぬに、あをきひとへかさなりたり。うへは、地は、うすうすとあかむらさきに、こきむらさき、あをきかうしとを、かたみがはりにおられたるを、さまざまにとりちがへてたちぬひぬ。かさなりはうちへまさりたるを、うへへまさらせたれば、うへはしろく、二番はこきむらさきなどにて、いとめづらかなり。「などかくは」といへば、「御服所(ごふくしよ)の人々も御ひまなしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、かさなりばかりは、とりなほさせなどするほどに、守(かう)の殿(との)より使(つかひ)あり。「将軍の御所の御しつらひ、とさまの事は日記にて、男たち沙汰しまゐらするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよといはれたる」とは、なにごとぞとむつかしけれども、行きかかるほどにては、にくいけしていふべきならねば参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて、おほやけびたる御ことどもなり。御しつらひのこと、ただいまとかく下知しいふべきことなければ、御厨子のたて所、所がら御きぬのかけやう、かくやあるべきなどにて帰りぬ。
 すでに将軍御着きの日になりぬれば、若宮小路は、所もなくたちかさなりたり。御せきむかへの人々、はや先陣はすすみたりとて、二三十、四五十騎、ゆゆしげにてすぐるほどに、はやこれへとて、召次(めしつぎ)などていなるすがたにひたたれきたる者、小舎人(ことねり)とぞいふなる二十人ばかりはしりたり。そののち大名ども、思ひ思ひのひたたれに、うちむれうちむれ、五六丁にもつづきぬとおぼえて過ぎぬるのち、をみなへしの浮織物(うきおりもの)の御下ぎぬにやめして、御輿の御すだれあげられたり。のちに飯沼の新左衛門、とくさの狩衣にて供奉(ぐぶ)したり、ゆゆしかりしことどもなり。御所には、当国司、足利より、みなさるべき人々は布衣(ほうい)なり。御馬引かれなどする儀式めでたく見ゆ。三日にあたる日は、山の内といふ相模殿(さがみどの)の山荘(さんさう)へ御入りなどとて、めでたくきこゆることどもを見きくにも、雲井のむかしの御ことも思ひいでられて、あはれなり。


八八 武蔵野の冬

 正応二年、年末の記。飯沼の判官に招かれて歌会に列した事。川越の後家の尼の住む小川口の家に身を寄せ、武蔵野の淋しい生活に旅愁を感じ、母の顔も知らぬ我が身の薄命、過ぎ去った院の寵愛など思いつづけて涙に沈み、尼君に述懐の歌を贈る。
 やうやう年のくれにもなりゆけば、ことしは善光寺(ぜんくわうじ)のあらましもかなはでやみぬと、くちをしきに、小町殿の 〔これよりのこりをば、かたなにてやられてし、おぼつかなう。いかなる事にてかとゆかしくて〕 のぼるにのみおぼえてすぎ行くに、飯沼の新左衛門は歌をもよみ、すき者といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふものをつかひにて、たびたびよびて、つぎ歌などすべきよし、ねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりもなさけあるさまにて、たびたびよりあひて、連歌・歌などよみて遊び侍りしほどに、しはすになりて、川越の入道と申す者の跡なるあまの、武蔵の国小川口(こかはぐち)といふ所へくだる。あれより、年かへらば善光寺へまゐるべしといふも、たよりうれしき心ちして、まかりしかば、雪ふりつもりて、わけゆく道もみえぬに、鎌倉より二日にまかりつきぬ。かやうの、物へだたりたるありさま、まへには入間川(いるまがは)とかや流れたる、むかへには岩淵の宿(しゆく)といひて、遊女どものすみかあり。山といふ物は、この国内(くにうち)には見えず。はるばるとある武蔵野の茅(かや)が下をれ、霜がれはててあり。なかを分けすぎたるすまひ思ひやる。都のへだたり行くすまひ、悲しさもあはれさも、とりかさねたる年のくれなり。
 つらつらいにしへをかへりみれば、二さいのとし母にはわかれければ、そのおもかげも知らず。やうやう人となりて、四つになりしながつき廿日(はつか)あまりにや、仙洞(せんとう)に知られたてまつりて、御簡(おふだ)のれちにつらなりてよりこのかた、かたじけなく君の善言(ぜんげん)をうけたまはりて、身をたつるはかりごとをも知り、朝恩をもかふりて、あまたの年月をへしかば、一門の光ともなりもやすると、心のうちのあらましも、などか思ひよらざるべきなれども、すてて無為にいるならひ、さだまれる世のことわりなれば、妻子珍宝王位(さいしちんぱうわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうしゆじふずゐしや)、おもひすてにしうき世ぞかしと思へども、なれこし宮のうちも恋しく、をり々の御なさけも忘られたてまつらねば、ことのたよりには、まづ、こととふ袖の涙のみぞ色ふかく侍る。雪さへかきくらしふりつもれば、眺(なが)めのすゑさへ、道たえはつる心ちして眺めゐたるに、あるじの尼君がかたより、「雪のうちいかに」と申したりしかば、

   おもひやれうきことつもるしら雪の
      あとなき庭にきえかへる身を

問ふにつらさの涙もろさも、人目あやしければ、しのびて又としもかへりぬ。


八九 善光寺

 正応三年二月十余日に、おおぜいの同行と小川口を出発して善光寺に詣で、一同の帰る時、一人とどまり、高岡の石見入道と知り合いになり、秋まで善光寺に滞在した事。
 のきばの梅に木つたふ鶯のねにおどろかされても、あひみかへらざるうらみしのびがたく、昔をおもふ涙は、あらたまる年ともいはず、ふる物なり。きさらぎの十日あまりのほどにや、善光寺へ思ひたつ。碓氷坂(うすひざか)、木曾のかけぢのまろきばし、げにふみみるからに、あやふげなるわたりなり。道のほどの名所なども、やすらひ見たかりしかども、大ぜいにひき具せられて、ことしげかりしかば、なにとなくすぎにしを、思ひのほかにむつかしければ、宿願(しゆくぐわん)の心ざしありて、しばしこもるべきよしをいひつつ、かへさにはとどまりぬ。ひとりとどめ置くことを心ぐるしがり、いひしかば、「中有(ちうう)の旅(たび)の空(そら)には、たれかともなふべき。生(しやう)ぜしをりも一人きたりき、去りてゆかんをりも、又しかなり。あひあふ者はかならずわかれ、生ずる者は、死(しに)かならずいたる。桃花(たうくわ)よそほひいみじといへども、つひには根にかへる。紅葉(こうえふ)は千(ち)しほの色をつくして盛(さかり)ありといへども、風をまちて秋の色ひさしからず。なごりをしたふは一旦(いつたん)のなさけなり」などいひて、一人とどまりぬ。
 所のさまは、眺望(てうばう)などはなけれども、生身(しやうじん)の如来とききまゐらすれば、たのもしくおぼえて、百万べんの念仏など申して、あかしくらすほどに、高岡の石見(いわみ)の入道といふ者あり。いとなさけある者にて、歌つねによみ、管弦(くわんげん)などしてあそぶとて、かたへなる修行者あまにさそはれて、まかりたりしかば、まことにゆゑあるすまひ、辺土分際(ぶんざい)にはすぎたり。かれといひ、これといひて、なぐさむたよりもあれば、秋まではとどまりぬ。


九〇 武蔵野の秋

 正応三年秋八月、武蔵野の秋を探る。八月十五夜、浅草観音堂に参籠。隅田川・堀兼の井を訪ね、鎌倉に帰る。
 八月のはじめつかたにもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれ、と思ひて、武蔵の国へかへりて、浅草と申す堂あり、十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野のなかをはるばるとわけゆくに、はぎ、をみなへし、をぎ、すすきよりほかは、またまじる物もなく、これが高さは、馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや、わけゆけども尽きもせず、ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあれ、はるばる一通(ひととほ)りは、こしかたゆくすゑ野原なり。観音堂は、ちとひきあがりて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに、草の原よりいづる月かげと思ひいづれば、こよひは十五夜なりけり。雲のうへの御あそびも思ひやらるるに、御かたみの御衣は、如法経のをり、御布施に大菩薩にまゐらせて、いまここにありとはおぼえねども、鳳闕(ほうけつ)の雲のうへ忘れたてまつらざれば、余香(よきやう)をば拝する心ざしも、ふかきにかはらずぞおぼえし。草の原よりいでし月かげ、ふけ行くままにすみのぼり、葉ずゑにむすぶ白露は、玉かと見ゆる心ちして、

   雲のうへにみしも中々月ゆゑの
      身の思ひではこよひなりけり

涙にうかぶ心ちして、

   くまもなき月になりゆくながめにも
      なほおもかげは忘れやはする

あけぬれば、さのみ野原にやどるべきならねばかへりぬ。
 さても、隅田川原ちかきほどにやと思ふも、いと大きなる橋の、きよみづ、ぎをんの橋のていなるをわたるに、きたなげなき男、二人あひたり。「このわたりに隅田川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、「これなんその川なり。この橋をば、すだのはしと申し侍る。むかしは橋なくて渡しぶねにて人をわたしけるも、わづらはしくとて橋いできて侍る。隅田川(すみだがは)などは、やさしきことに申し置きけるにや、しづがことわざには、すだがはのはしとぞ申し侍る。この川のむかへをば、むかしはみよしののさとと申しけるが、しづがかりほす稲と申す物に実のいらぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名をたづねききて、ことわりなりけりとて、よしだのさとと名をあらためられてのち、稲うるはしく実もいり侍る」など語れば、業平の中将、都鳥にこととひけるも思ひいでられて、鳥だに見えねば、

   たづねこしかひこそなけれすみだ川
      すみけんとりのあとだにもなし

川ぎりこめて、こしかたゆくさきも見えず、なみだにくれてゆくをりふし、くもゐはるかに鳴くかりがねのこゑも、をり知りがほにおぼえ侍りて、

   旅の空なみだにくれて行く袖を
      こととふかりのこゑぞかなしき

堀兼の井は跡もなくて、ただ枯れたる木の一つのこりたるばかりなり。これより奥さままでも行きたけれども、恋路のすゑにはなほ関守(せきもり)も許しがたき世なれば、よしや中々と思ひかへして、又都のかたへかへりのぼりなんと思ひて、鎌倉へかへりぬ。


九一 なみだ川

 正応三年九月十余日。帰京のため鎌倉を出発する前夜、飯沼の左衛門の尉が訪ねて来て、終夜継歌をした事。
 とかくすぐるほどに、なが月の十日余りのほどに、都へ返りのぼらんとするほどに、さきになれたる人々、めんめんになごりをしみなどせし中に、あかつきとてのくれかた、飯沼の左衛門の尉、さまざまの物ども用意して、いま一度(いちど)つぎ歌すべしとてきたり。なさけもなほざりならずおぼえしかば、よもすがら歌よみなどするに、「なみだ川と申す川は、いづくに侍るぞ」といふことを、さきのたび、たづね申ししかども、知らぬよし申して侍りしを、よもすがらあそびて、「あけばまことにたち給ふやは」といへば、「とまるべきみちならず」といひしかば、かへるとて、さかづきすゑたる折敷(をしき)に書きつけて行く。

   我が袖にありけるものを涙川
      しばしとまれといはぬちぎりに

返しつかはしやするなど思ふほどに、又たちかへり、たびのころもなどたまはせて、

   きてだにも身をばはなつなたび衣
      さこそよそなる契りなりとも

鎌倉のほどは、常にかやうによりあふとて、あやしく「いかなる契などぞ」と申す人もあるなど聞きしも、とりそへ思ひいでられて、返しに、

   ほさざりしそのぬれ衣もいまはいとど
      恋ひん涙にくちぬべきかな

都をいそぐとしはなけれども、さてしもとどまるべきならねば、朝日とともに、あけすぎてこそたち侍りしか。


九二 帰京

 九月十余日に鎌倉を立って、月末、京都に到着。途中、さやの中山で西行の歌を思うて詠歌。熱田社で写経をしようと思ったが、大宮司が、とかく故障を申すので着手せぬうちに病にかかったので、そのまま帰京した事。
 めんめんにしゆくじゆくヘ、しだいに輿にて送りなどして、ほどなく小夜(さや)の中山(なかやま)にいたりぬ。西行が、「いのちなりけり」とよみける思ひいでられて、

   こえゆくもくるしかりけりいのちありと
      又とはましやさやのなか山

 熱田の宮にまゐりぬ。通夜(つや)したるほどに、修行者どもの侍る、「大神宮より」と申す。「ちかく侍るか」といへば、津島のわたりといふわたりをしてまゐるよし申せば、いとうれしくてまゐらんと思ふほどに、宿願(しゆくぐわん)にて侍れば、まづこのやしろにて華厳経ののこり、いま三十巻(くわん)を書きはてまゐらせんと思ひて、なにとなく鎌倉にてちと人のたびたりし旅衣(たびごろも)など、みなとりあつめて、又これにて、経をはじむべき心ちせしほどに、熱田の大宮司とかやいふ者、わづらはしく、とかく申すことどもありて、かなふまじかりしほどに、とかくためらひしほどに、例の大事にやまひおこり、わびしくて、なにのつとめも、かなひがたければ、都へ返りのぼりぬ。


九三 和光同塵

 九月の末に都に帰ったが、何となく落ちつかず、むしろ煩わしい気がしたので、十月末頃奈良の方へ出かける。春日神社に参籠して真喜僧正(実は林懐僧都)の説話を思い浮べる。この説話は春日権現霊験記第十巻、及び漸入仏道集に大略次の如きものである。
 一条院の御時に興福寺の別当真喜僧正の弟子に林懐僧都という人があった。春日社に参詣して、自分の到達した法味を心静かに捧げていると、折から宮人が鼓を鳴らし鈴を振り、我が念誦を妨げたので、心のうちに誓った事は、我もし立身して、興福寺の別当とならば、社頭の音楽を停止しようと。その後林懐は興福寺別当となった。そこで春日社の音楽を停めたところ、夢に春日明神が現れ給うて、ひどく林懐をお叱りになった。林懐は恐縮して、もとの如く音楽を奏する事にした。  これによると「問はず語り」は林懐と真喜を取りちがえて居るのである。
 十月のすゑにや、都にちとたちかくれたるも、中々むつかしければ、奈良のかたは藤の末葉にあらねばとて、いたくまゐらざりしかども、都とほからぬも、遠きみちにくたびれたるをりからはよしなど思ひてまゐりぬ。たれを知るといふこともなければ、ただ一人まゐりて、まづ大宮を拝みたてまつれば、二階の楼門のけいき、四社、いらかをならべ給ふさま、いとたふとく、みねのあらしのはげしきにも、煩悩(ぼんなう)のねぶりを、おどろかすかときこえ、ふもとに流るる水のおと、生死(しやうじ)のあかをすすがるらんなど思ひつづけられて、また若宮へまゐりたれば、をとめごがすがたも、よしありて見ゆ。夕日は御殿の上にさして、みねのこずゑにうつろひたるに、若きみこ二人、御あひにて、たびたびする気色なり。こよひは若宮のめんだうの通夜して聞けば、夜もすがら、めんめんに物かぞふるにも、狂言綺語(きやうげんきぎよ)をたよりとして導き給はんの御心ざしふかくて、和光のちりにまじはり給ひける御心、いまさら申すべきにあらねども、いとたのもしきに、「喜多院住侶(きたゐんぢゆうりよ)林懐僧正の弟子(でし)真喜僧正とかやの、鼓(つづみ)の音、すずのこゑに、行(おこなひ)をまぎらかされて、「我もし六宗の長官ともなるならば、つづみの音、すずのこゑ長くきかじ」と誓ひて、宿願相違なく寺務(じむ)をせられけるに、いつしか思ひしことなれば、拝殿の神楽を長くとどめられにけり。あけのたまがきも物さびしく、きねはなげきもふかけれども、神慮(しんりよ)にまかせてすぎけるに、僧正、「今生(こんじやう)の望(のぞ)みは残る所なし。薫修正念(くんじゆしやうねん)こそ今は望む所なれ」とて、又こもり給ひつつ、我が得る所の法味を心のままに手向けしに、明神、ゆめのうちにあらはれて、「法性(ほつしやう)の山をうごかして、生死(しやうじ)のちりに身をすて、むちのなんしの後生菩提をあはれみ思ふ所に、つづみのこゑ、すずのおとをとどめて、結縁(けちえん)を遠ざからしむるうらみ、やるかたもなければ、汝が法味を我うけず」と示し給ひけるにより、いかなる訴訟(そしやう)なげきにも、これをとどむることなしと申すをきくにも、いよいよたのもしく尊くこそおぼえ侍りしか。


九四 菊の籬

 法華寺を訪ねて、藤原冬忠公の女で今は尼となっている寂円坊と人生を語り合い、自分もこういう所に暫く住んでみようと思ったが、思いかえして興福寺へ引きかえす途中、春日神社の神官中臣祐家の家の前を通り、籬の菊に歌を結びつけたのが縁で、暫くそこに滞在する。
 あけぬれば、法花寺へたづね行きたるに、冬忠のおとどの女、寂円房と申して一のむろといふ所に住まるるにあひて、生死無常(しやうじむじやう)のなさけなきことわりなど申して、しばしかやうの寺にも住まひぬべきかと思へども、心のどかに学問などしてありぬべき身の思ひとも、我ながらおぼえねば、ただいつとなき心のやみにさそはれいでて、また奈良の寺へゆくほどに、春日の正のあづかり、祐家(すけいへ)といふ者が家に行きぬ。たれがもととも知らですぎ行くに、むねかどのゆゑゆゑしきが見ゆれば、堂などにやと思ひて、たち入りたるに、さにてはなくて、よしある人のすまひとみゆ。庭に菊のまがき、ゆゑあるさまして、うつろひたるにほひも、ここのへにかはる色ありともみえぬに、若き男一二人いできて、「いづくより通る人ぞ」などいふに、「都のかたより」といへば、「かたはらいたき菊のまがきも、めはづかしく」などいふもよしありて、「祐家(すけいへ)が子、權のあづかり祐永(すけなが)などぞ、この男はいふなる。祐敏(すけとし)美濃の權の守おとといなり。

   ここのへのほかにうつろふ身にしあれば
      都はよそにきくのしら露

と、ふだに書きて菊につけて出でぬるを、見つけにけるにや、人をはしらかして、やうやうに呼びかへして、さまざまもてなしなどして、「しばしやすみてこそ」などいへば、れいの、これにも又とどまりぬ。


九五 当麻の曼荼羅

 聖徳太子にゆかりの深い、中宮寺・当麻寺・磯長の太子綾などを巡拝する。中宮寺では、昔院の御所で顔見知りの信如坊が寺主である。信如坊は作者を忘れている様子だから、あえて名乗りはしなかったが、親切にもてなされて暫く滞在する。当麻寺は、そこに伝わる蓮糸の曼荼羅が名高い。作者はその由来をここに記している。太子綾では折もよくその寺で如法経書写が行われていた。ちょうどよい所へ参り合わせて仏縁を結ぶことのできたのが嬉しく、小袖を一つ布施して帰る。
 中宮寺といふ寺は聖徳太子の御旧蹟、そのきさきの御願(ごぐわん)などきくもゆかしくて参りぬ。長老は、信如房(しんによぼう)とて、むかし御所さまにては見し人なれども、年のつもるにや、いたく見知りたるともなければ名のるにもおよばで、ただかりそめなるやうにてよりしかども、いかに思ひてやらん、いとほしくあたられしかば、またしばしこもりぬ。
 法隆寺より当麻(たいま)へ参りたれば、横佩(よこはき)大臣(おとど)のむすめ、生身(しやうじん)の如来を拝みまゐらせんとちかひてけるに、あま一人きたりて、「十たんのはすのくきをたまはりて、極楽の荘厳(しやうごん)織りて見せまゐらせん」とて、乞ひて、糸をひきて、染の井戸の水にすすげば、このいと五色(ごしき)にそまりけるをぞ、したためたる所へ、女房一人きたりて、あぶらをこひつつ、亥の時より寅の時に織りいだしてかへり給ふを、坊主(ぼうず)、『さても、いかにしてか又あひたてまつるべき』といふに、

   往昔迦葉説法所(わうじやくかせふせつぽふしよ) 今来法基作佛事(こんらいほふきさくぶつし) 卿懇西方故我来(きやうこんさいはうこがらい) 一入是場永離苦(いちじゆぜぢやうえうりく)

とて西方(さいはう)をさしてとびさり給ひぬと書きつたへたるも、ありがたくたふとし。
 太子の御墓は、石のたたずまひも、まことに、さるみささぎとおぼえて心とどまる。をりふし、如法経(によほふきやう)を行ふも、結縁(けちえん)うれしくて、小袖を一つまゐらせて帰り侍りぬ。


九六 めぐりあひ

 この段から一〇四段までの九段はすべて正応四年中の事である。その内容を表示すれば、
 (1) 八幡で後深草院にめぐり逢った事。(本段)
 (2) 熱田神宮に通夜している時、社殿が炎上した事。(九七段)
 (3) 伊勢に行き外宮を参拝し、その宮人たちと和歌の交りを結ぶ。(九八・九九段)
 (4) 内宮を参拝し、その宮人たちと和歌の交りを結ぶ。(一〇〇段)
 (5) 二見の浦に遊ぶ。(一〇一段)
 (6) 伊勢の祭主にゆかりある得選「照る月」という者が、作者が二見に滞在している事を院に申しあげたので、院から、今一度逢いたいとの御文が来る。(一〇二段)
 (7) 伊勢から帰り、熱田で写経の宿願を遂げる。(一〇三・一〇四段)
 右の通りであるが、この記述の順序には史実と一致せぬところがある。即ち熱田社炎上は正応四年二月二日で、後深草院八幡御幸は四月廿六日から七日間であった。これは続史愚抄に記すところであり、二月二日以前に院が八幡へ御幸される暇はなかった。それ故前掲の (1) (2) は逆にしなければ史実に合わない。思うに、作者は先年から周遊していた奈良を引上げ、四月末に京都へ帰る途中八幡で院にめぐり逢い、京都へ帰ると直ぐ熱田へ行って見たが、去る二月炎上した跡が生々しい状態で、写経などできそうもないから、津島の渡りをして伊勢に行き大神宮を参拝する。伊勢には一個月ほど居たであろう。伊勢に居る事を聞かれた院は、今一度会いたいとの御文をつかわされたが、作者は御返事を差しあげただけで、心は動かさなかった。その後伊勢を引上げ、熱田で写経をとげ、京に帰る。これが事実であろう。
 ところがここには、「二月の頃にや、都へ帰りのぼるついでに八幡に参りぬ」と書いてある。これでは八幡で院に邂逅したのが二月であるという事になる。しかし史実では院の八幡行幸は前記の如く四月末である。思うに「二月の頃にや」は次段に書く熱田炎上が二月の大事件であったので、それに引かれたのであろう。しかも作者はこの事件を目撃したかの如く記して文に生彩あらしめようとの創作意識から、実際には四月末院に邂逅した直後熱田に参って、なまなましい焼跡を見、炎上当時の話を聞かされ、それを実見の如くに書いたものであろう。事実として、昨年から奈良にいた作者が、奈良から帰途、四月末に八幡へ立寄ったのだから、二月に熱田にいたはずはない。
 かやうにしつつ年もかへりぬ。二月のころにや、都へかへりのぼるついでに八幡へ参りぬ。奈良より八幡へは道のほど遠くて、日のいるほどにまゐりつきて、猪(ゐ)の鼻(はな)をのぼりて宝前(はうぜん)へまゐるに、石見(いはみ)の国の者とて、ひきうどの参るを行きつれて、「いかなる宿縁(しゆくえん)にてかかるかたは人(びと)となりけんなど思ひ知らずや」といひつつゆくに、馬場殿の御所あきたり。検校(けんげう)などが、こもりたるをりも、「あけばかならず御幸(ごかう)」など言ひきかする人も、道の程にてもなかりつれば、思ひもよりまゐらせで過ぎ行くほどに、楼門をのぼる所へ、召次(めしつぎ)などにやとおぼゆる者いできて、「馬場殿の御所へまゐれ」といふ。「たれかわたらせ給ふぞ。たれと知りて、さることをうけたまはるべきことおぼえず。あのひきうどなどがことか」といへば、「さも候はず、まがふべきことならず、おことにて候ふ。をととひより、富小路殿(とみのこうぢどの)の一院、御幸にて候ふ」といふ。ともかくも物も申されず。年月は心のうちに忘るる御ことはなかりしかども、一とせ、今はと思ひすてしをり、京極殿のつぼねより参りたりしをこそ、この世のかぎりとは思ひしに、こけのたもと、こけのころも、しも雪あられにしほれはてたる身のありさまは、たれかは見しらんと思ひつるに、たれか見知りけんなど思ひて、なほ御所よりの御こととは思ひよりまゐらせで、女房たちの中に、あやしと見る人などのありて、ひがめにやとて問はるるにこそなど案じゐたるほどに、北面の下臈一人、はしりて、とくといふなり。なにとのがるべきやうもなければ、北のはしなる御妻戸(おんつまど)の縁(えん)に候へば、「中々人の見るも目だたし、うちへいれ」とおほせある御こゑは、さすが昔ながらに変らせおはしまさねば、こはいかなりつることぞと思ふより、むねつぶれて、すこしもうごかれぬを、「とくとく」とうけたまはれば、中々にてまゐりぬ。
 「ゆゆしく見わすられぬにて、年月へだたりぬれども忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などよりはじめて、むかしいまの事ども、うつりかはる世のならひ、あぢきなくおぼしめさるるなど、さまざまうけたまはりしほどに、寝ぬにあけゆくみじかよは、ほどなくあけゆく空になれば、「御こもりのほどは、かならずこもりて、又も心しづかに」などうけたまはりて、たち給ふとて、御はだにめされたる御小袖を三つぬがせおはしまして、「人しれぬかたみぞ、身をはなつなよ」とて賜はせし心のうちは、こしかた行くすゑのことも、来ん世のやみも、よろづ思ひわすれて、かなしさもあはれさも、なにと申しやるかたなきに、はしたなくあけぬれば、「さらばよ」とて、ひきたてさせおはしましぬる御なごりは、御あとなつかしく、にほひちかきほどの御うつりがも、すみぞめのたもとにとどまりぬる心ちして、人目あやしく目だたしければ、御かたみの御小袖、をすみぞめのころものしたにかさぬるも、びんなくかなしきものから、

   かさねしもむかしになりぬ恋衣
      いまは涙にすみぞめの袖

むなしく残る御おもかげを、袖のなみだにのこしてたち侍るも、夢に夢みる心ちして、けふばかりも候ひて、いま一(ひと)たびも、のどかなる御ついでもやなど思ひまゐらせながら、うきおもかげも、おもひよらずながらは、ちからなき身のあやまりともおぼしめされぬべし。あまりにうちつけにとどまりて、又の御言(おんこと)の葉(は)をまちまゐらせがほならんも、思ふ所なきにもなりぬべしなど、心に心をいましめて、都へいづる心の中、さながらおしはかるべし。
 御宮めぐりをまれ、いま一(ひと)たびよそながら見まゐらせんと思ひて、すみぞめのたもとは、御覧じもぞつけらるると思ひて、たまはりたりし御小袖を上に着て、女房の中にまじりて見まゐらするに、御裘代(おんきうたい)のすがたも、昔にはかはりたるも、あはれにおぼえさせおはしますに、きざはし、のぼらせおはしますとては、資高(すけたか)の中納言、侍従の宰相と申ししころにや、御手をひきまゐらせていらせおはします。「おなじたもとなつかしく」など、さまざまうけたまはりて、いはけなかりし世のことまで、かずかずおほせありつるさへ、さながら耳のそこにとどまり、御おもかげは袖のなみだにやどりて、御山を出で侍りて都へと北へはうちむけども、我がたましひは、さながら御山にとどまりぬる心ちしてかへりぬ。


九七 熱田宮炎上

 この段を二節に分けて見る。前節は作者が熱田社に通夜していた夜半頃、社殿が炎上した事。後節は焼け残った御記文に記されてあった熱田神宮縁起のあらましを聞き書きしたもの。この後節の文章はまぎらわしいから、次の事を心において読むがよい。「 」の中は御記文のあらまし、その中の『 』は天照大神の霊が倭姫命(やまとひめのみこと)にのりうつって仰せられた言葉である。
 さてこの段は前段の〔大意〕で考証した如く作為的なもので、二月に熱田へ行って炎上を実見した記ではなく、四月末に八幡で院に邂逅した後熱田へ行って炎上の跡を見たのを、実見の如くに記したものである。
 さても都にとどまるべきならねば、こぞ思ひたちし宿願(しゆくぐわん)をも、はたしやすると、こころみに、また熱田の宮へまゐりつつ通夜をしたりし夜中ばかりに、御殿のうへに火もえあがりたり。宮人さわぎののしるさま、おしはかるべし。神火なれば凡夫(ぼんぷ)のけつべきことならざりけるにや、時のほどにむなしきけぶりとたちのぼり給ふに、あけゆけば、むなしき灰を、つくりかへしまゐらせんとて、たくみどもまゐる。大宮司、祝詞(のと)の師(し)など申す者どもまゐりたるに、あけずの御殿とて、神代のむかし、みづからつくりこもり給ひける御殿の、いしずゑのそばに、大物(だいもつ)ども、なほ燃ゆる炎(ほのほ)の、そばなるいしずゑにある漆(うるし)なるはこの、おもて一尺ばかり、長さ四尺ばかりなる、そへたちたり。みな人、不思議のおもひをなして見まゐらするに、祝詞(のと)の師(し)といふは、神にことさら御むつまじくみやづかふ者なりといふがまゐりて、とりあげたてまつりて、そばをちとあけまゐらせて見まゐらするに、赤地の錦のふくろに入らせ給ひたりとおぼゆるは、御つるぎなるらむと申して、八剣宮(はちけんぐう)の御やしろをひらきて納めたてまつる。
 さても不思議なりしことには、「この御神は景行天皇即位(しよくゐ)十年、むまれましましけるに、あづまのゑびすを降伏(かうふく)のために、勅(ちよく)をうけたまはりてくだり給ひけるに、伊勢大神宮にまかり申しに参り給ひけるに、『さきのむまれ、そさのをのみことたりし時、出雲の国にて八(や)またのをろちの尾のなかよりとりいでて、我にあたへしつるぎなり。不思議のふくろあり、これをかたきのためにせめられて、いのちかぎりと思はんをり、あけてみるべし』とて給ひしを、駿河の国、みかりのにして、野火の難にあふ時に、はき給ふつるぎ、おのれとぬけて、御あたりの草をきりすつ。そのをり、錦のふくろなる火うちにて火をうちいで給ひしかば、ほのほ、あだのかたへおほひ、まなこを暗がして、ここにてほろびぬ。そのゆゑ、この野を燒津野(やきつの)ともいひき。御つるぎをば草薙のつるぎと申すなり」といふ御記文(ごきもん)のやけのこり給ひたるを、ちと聞きまゐらせしこそ、見しむばたまの夢の言葉、おもひあはせられて、不思議にも尊くもおぼえ侍りしか。


九八 外宮参拝

 熱田の写経を一先ず断念して伊勢に渡り、まず最初に外宮に参拝する。
 かかるさわぎのほどなれば、経沙汰(きやうざた)もいよいよきげんあしき心ちして、津島のわたりといふことをして、大神宮にまゐりぬ。卯月の初めつかたの事なれば、なにとなく青みわたりたる木すゑも、やうかはりておもしろし。まづ新宮にまゐりたれば、山田の原の杉のむらだち、ほととぎすのはつねを待たんたよりも、ここをせにせんと、かたらひまほしげなり。
 神だちといふ所に、一・二の禰宜(ねぎ)より宮人ども祇候したる、すみぞめのたもとは憚りあることと聞けば、いづくにていかにと參るべきこととも知らねば、「二の御鳥居三には所といふへんまでは苦しからじ」といふ。
 所のさま、いと神々(かうがう)しげなり。館(たち)のへんにたたずみたるに、男二三人、宮人とおぼしくて出できて、「いづくよりぞ」とたづぬ。「都のかたより結縁(けちえん)しにまゐりたる」といへば、「うちまかせては、その御すがたは、はばかり申せども、くたびれ給ひたる気色も、神もゆるし給ふらん」とて、うちへ入れて、やうやうにもてなして、「しるべしたてまつるべし。宮のうちへは、かなふまじければ、よそより」などいふ。
 千枝(ちえだ)の杉の下、御池(おいけ)のはたまでまゐりて、宮人、はらへかうがうしくして、ぬさをさして出づるにも、心のうちのにごりふかさは、かかるはらへにも清くはいかがと、あさまし。
 かへさには、そのわたりちかき小家をかりてやどるに、「さてもなさけありて、しるべさへしつる人、たれならん」と聞けば、三の禰宜、行忠(ゆきただ)といふ者なり。これは館(たち)のあるじなり。しるべしつるは、当時の一の禰宜の二郎、七郎大夫常良(つねよし)といふ」など語り申せば、さまざまのなさけも忘れがたくて、

   おしなべてちりにまじはるすゑとてや
      こけのたもとになさけかくらん

ゆふしでのきれに書きて、さかきの枝につけてつかはし侍りしかば、

   かげやどす山田の杉のすゑ葉さへ
      人をもわかぬちかひとをしれ


九九 法楽舎

 外宮に七日籠って経を読み仏道修行をしようと思って滞在する。その間に宮人たちと和歌・連歌の交りを結ぶ。別れに臨んで宮人度会常良と贈答する。
 この段の文章はやや複雑であるが、外宮に「七日こもりて生死の一大事をも祈誓申さん」と思ったのは作者の初めからの考えなのである。ただし外宮では経を読むことは宮の中ではなく、宮から離れた法楽舎という所と定められているので、毎日そこで読経し、夜は近くの観音堂に泊めてもらった。その七日間、仏道修行の傍ら、宮人たちと和歌・連歌の交りを結んだのも情あるここちがした、というのである。
 これにまづ七日こもりて、生死(しやうじ)の一大事をも祈誓(きせい)申さんと思ひて侍るほど、めんめんに宮人ども歌よみておこせ、連歌いしいしにて明かしくらすも、なさけある心ちするに、うちまかせてのやしろなどのやうに、経をよむことは宮の中にてはなくて、法楽舎(ほうらくしや)といひて、宮のうちより四五丁のきたる所なれば、日ぐらし念誦(ねんじゆ)などして、暮るるほどに、それちかく、観音堂と申して、あまのおこなひたる所へまかりて、やどをかれば、かなはじとかたく申して、なさけなく追ひ出で侍りしかば、

   世をいとふおなしたもとのすみぞめを
      いかなる色と思ひすつらん

前なる南天竹(なんてんちく)の枝を折りて、しでに書きて、つかはし侍りしかば、返しなどはせで、やどをかして、それより知る人になりて侍りき。七日もすぎぬれば、内宮へまゐらんとするに、はじめの先達(せんだち)せし常良(つねよし)、

   いまぞ思ふみち行く人はなれぬるも
      くやしかりけるわかのうら浪

返しには、

   なにか思ふみち行き人にあらずとも
      とまりはつべき世のならひかは


一〇〇 内宮参拝

 内宮に参拝して七日間こもる。二の禰宜荒木田延成の後家から、わざわざ手紙があり、和歌の贈答をする。内宮を拝むにつけて、おのずから後深草院のことが思われ、玉体安穏を祈る。それにつけても、片時も院を忘れることのできない自分が、あわれに思われる。一の禰宜荒木田尚良と和歌を贈答する。
 内宮には、ことさらすきものどももありて、かかる人の外宮にこもりたると聞きて、いつか内宮の神拝(しんぱい)に參るべきなど待たると聞くも、そぞろはしけれども、さてあるべきならねば参りぬ。岡田といふ所にやどりて侍るとなりに、ゆゑある女房のすみかあり。いつしか、わかきめのわらは、ふみを持ちて来たり。

   なにとなく都ときけばなつかしみ
      そぞろに袖を又ぬらすかな

二のねぎ延成(のぶなり)が後家といふ者なりけり。「かまへて、みづから申さん」など書きたる、返事には、

   わすられぬむかしをとへばかなしさも
      こたへやるべきことの葉ぞなき

またれて出づるみじかよの、月なきほどに、宮中へまゐるに、これもはばかるすがたなれば、みもすそ川のかは上より御殿(ごてん)を拝みたてまつれば、やへさかきも、ことしげくたちかさね、瑞垣(みづがき)玉垣、とほくへだたりたる心ちするに、この御やしろの千木(ちぎ)は、上一人(かみいちにん)をまぼらんとて、うへへそがれたるときけば、なにとなく玉体安穏(ぎよくたいあんのん)と申されぬるぞ、我ながらいとあはれなる。

   おもひそめし心の色のかはらねば
      千代とぞ君を猶いのりつる

神風すごく音(おと)づれて、みもすそ川のながれも、のどかなるに、かみぢの山を、わけ出づる月かげ、ここに光をますらんとおぼえて、我が国のほかまで思ひやらるる心ちして侍る。
 神拝(しんぱい)ことゆゑなくとげて、下向(げかう)し侍るとて、神館(かんだち)の前を通るに、一(いち)のねぎ、尚良(ひさよし)がたち、ことさらに月さしいでてすごく見ゆるに、みなおろしこめて侍りしかば、「外宮をば月宮と申すが」とて、

   月をなどほかのひかりとへだつらん
      さこそあさ日のかげにすむとも

さかきの枝に、しでに書きてむすびつけて、神館(かんだち)の縁(えん)に置かせて帰り侍りしかば、あけて見けるにや、宿所(しゆくしよ)へ又、さかきにつけて、

   すむ月をいかがへだてんまきの戸を
      あけぬはおいのねぶりなりけり


一〇一 二見の浦

 二見の浦歴覧の事。小朝熊宮の伝説の事。
 これにも七日こもりて出で侍るに、「さても二見の浦はいづくのほどにか。御神、心をとどめ給ひけるも、なつかしく」など申すに、しるべ給ふべきよし申して、宗信(むねのぶ)神主(かんぬし)といふ者をつけたり。具してゆくに、清きなぎさ、まきゑの松、いかづちの蹴裂(けさ)き給ひける石など見るより、佐美(さみ)の明神と申すやしろは、なぎさにおはします。それより舟にのりて、答志(たふし)のしま、御饌(ごせん)の島、通るしまなど見に行く。御饌(ごせん)のしまとは、みるの多くおゆるを、この宮の禰宜まゐりてつみて、御神の御饌(ごせん)そなふる所なり。通るしまとは、うへに家(や)のむねのやうなる石、うつろにおほひたるなか、うみにて、舟をさしとほすなり。海漫々(かいまんまん)たる気色(けしき)、いと見どころ多く侍りき。
 まことや、小朝熊の宮と申すは、かがみつくりの明神の、天照大神(てんせうだいじん)の御すがたをうつされたりける御鏡を、人がぬすみたてまつりてとかや、ふちにしづめ置きまゐらせけるを、とりたてまつりて宝前に納めたてまつりければ、「我、苦海(くかい)のいろくづを、すくはんと思ふ願(ぐわん)あり」とて、みづから宝前より出でて岩の上に現はれまします。岩のそばに桜の木一ぽんあり。高潮(たかしほ)満つをりは、この木のこずゑにやどり、さらぬをりは岩の上におはしますと申せば、あまねき御ちかひもたのもしくおぼえ給へて、一二日、のどかにまゐるべき心ちして、しほあひといふ所に、大宮司(おおみやづかさ)といふ者の宿所(しゆくしよ)にやどをかる。いとなさけあるさまに、ありよき心ちして又これにも二三日ふるほどに、「二見の浦は月の夜こそおもしろく侍れ」とて、女房さまもひきぐしてまかりぬ。まことに心とどまりて、おもしろくも、あはれにも、いはんかたなきに、夜もすがらなぎさにてあそびて、明くればかへり侍るとて、

   わすれじな清きなぎさにすむ月の
      あけゆく空にのこる面かげ


一〇二 得選照る月

 伊勢出身の得選照る月という者が、作者が二見にいる事をどうして知ったのか、後深草院のお耳に入れた。すると院から「院の御所にゆかりのある女房から」という名儀で作者に文を遣わされた。作者は和歌を以てお返事する。
 照る月といふ得選(とくせん)は、伊勢の祭主(さいしゆ)がゆかりあるに、なにとして、この浦にあるとはきこえけるにか、「院の御所に、ゆかりある女房のもとより」とてふみあり。思はずに不思議なる心ちしながらあけて見れば、「二見の浦の月になれて、雲井のおもかげは忘れはてにけるにや、思ひよらざりし御物がたりも、いま一たび」など、こまやかに御気色あるよし、申されしを、見し心のうち、我ながら、いかばかりともわきがたくこそ。御返しには、

   おもへただなれし雲井の夜半の月
      ほかにすむにもわすれやはする


一〇三 かへる浪路

 熱田神宮も火災後の整理がついたであろうと思われるので、いよいよ写経の願を果しに行こうと思う。それで二見から一先ず外宮に帰り、暇乞いの参拝をして歌を捧げる。明日は出発というところへ、内宮の禰宜尚良から惜別の歌が送られ、更にその夜半ごろ、土産の絹と歌が贈られて来た。
 作者は早朝の船に乗るため、前夜大湊に行き、賤しい者の家に一宿して身の落魄を述懐する。その朝外宮の禰宜常良から歌が贈られ、返歌をする。
 さのみあるべきならねば、外宮へかへりまゐりて、いまは世の中もしづまりぬれば、経(きやう)の願(ぐわん)をもはたしに、熱田の宮へ、かへりまゐらんとするに、御なごりも惜しければ、宮中に侍りて、

   ありはてん身の行くすゑのしるべせよ
      うき世の中をわたらひの宮

あかつき、たたんとする所へ、内宮の一の禰宜尚良(ひさよし)がもとより、「このほどのなごり、思ひいでられ侍る。九月の御さいゑに、かならずまゐれ」などいひたりしも、なさけありしかば、

   ゆくすゑもひさしかるべき君が代に
      又かへりこんなが月のころ

心のうちのいはひは、人しり侍らじ。「君をも我をも祝はれたる返りごとは、いかが申さざるべき」とて、夜中ばかりに、きぬを二(ふた)まきつつみて、「伊勢しまの土産(どさん)なり」とて、

   神かきにまつもひさしきちぎりかな
      千とせの秋のなが月の頃

そのあかつきの、出潮のふねにのりに、よひより大湊(おほみなと)といふ所へまかりて、いやしき浦人が塩屋のそばに旅寝したるにも、「鵜のゐる岩のはざま、くじらのよるいそなりと、思ふ人だにちぎりあらば」とこそ、ふるきことの葉にもいひおきたるに、こはなにごとの身のゆくへぞ、まつとても又、うき思ひのなぐさむにもあらず、こえゆく山のすゑにも、あふさかもなし、など思ひつづけて、また出でんとするあかつき、夜ふかく、外宮の宮人常良(つねよし)がもとより、本宮へつくべきたよりぶみを、とりわすれたる、つかはすとて、

   たちかへるなみぢときけば袖ぬれて
      よそになるみのうらのなぞうき

返し、

   かねてよりよそになるみのちぎりなれど
      かへるなみにはぬるる袖かな


一〇四 熱田の写経

 熱田で宿願の写経を果し京都に帰る。
 熱田の宮には、造營のいしいしとて事しげかりけれども、宿願(しゆくぐわん)の、さのみほどふるもほいなければ、また道場したためなどして、華厳経の残り三十巻を、これにて書きたてまつりて供養し侍りしに、導師なども、はかばかしからぬ田舎法師なれば、なにのあやめしるべきにもあらねども、十羅刹(じふらせつ)の法楽なれば、さまざま供養して、また京へのぼり侍りぬ。


一〇五 なみだこととふ暁

 伏見の御所に召されて一夜院と語り明かした事。前段を正応四年と見たので。ここに「又の年の九月の頃」とあるから、この段は正応五年のわけであるが、五年九月九日には後深草院の生母大宮院の崩御があったから、後深草院が作者を伏見に召される事は考えられぬ。おそらくこれは永仁元年(正応六年)のことで、前段とすぐ続くのではあるまい。ただしこの辺の年立については、前々段から疑問があり、決定しかねる。
 さても、思ひかけざりし男山の御ついでは、この世のほかまで忘れたてまつるべしともおぼえぬに、ひとつゆかりある人して、たびたびふるきすみかをも御たづねあれども、なにと思ひたつべきにてもなければ、あはれにかたじけなくおぼえさせおはしませども、むなしく月日をかさねて、又の年のなが月のころにもなりぬ。
 伏見の御所に御わたりのついで、大かたも御心しづかにて、人知るべき便宜(びんぎ)ならぬよしを、たびたびいはるれば、思ひそめまゐらせし心わろさは、げにとや思ひけん、しのびつつ、しもの御所の御あたり近くまゐりぬ。しるべせし人いできて案内するも、ことさらびたる心ちしてをかしけれども、出御(しゆつぎよ)まちまゐらするほど、九体堂(くたいだう)のかうらんに、いでて見わたせば、世を宇治河の川浪も、袖のみなとによる心ちして、「浪ばかりこそよると見えしか」と、いひけんふるごとまで、思ひつづくるに、初夜すぐるほどに出でさせおはしましたり。くまなき月のかげに、見しにもあらぬ御おもかげは、うつるもくもる心ちして、いまだ二葉にて、あけくれ御ひざのもとにありし昔より、いまはと思ひはてし世のことまで、かずかずうけたまはりいづるも、我がふるごとながら、などかあはれもふかからざらん。「うき世のなかに住まんかぎりは、さすがにうれふることのみこそあるらんに、などやかくとも、いはで月日をすぐす」などうけたまはるにも、かくて世にふるうらみのほかは、なにごとか思ひ侍らん。そのなげき、この思ひは、たれにうれへてか慰むべきと思へども、申しあらはすべき言(こと)の葉(は)ならねば、つくづくとうけたまはりゐたるに、音羽の山の鹿のねは、涙をすすめがほにきこえ、即成院(そくじやうゐん)のあかつきの鐘は、あけ行く空を知らせがほなり。

   鹿のねに又うちそへてかねのおとの
      涙こととふあか月の空

心のうちばかりにてやみ侍りぬ。


一〇六 御心の色

 前段では、伏見の御所で終夜院と語り明かした事を述べた。この段では、まず、夜も明けたので退出したことを言って、改めて筆を起し、昨夜の物語の主要な一節を取上げて細かに記す。ここに記された対話は、いかにも劇的で、院の作者に対する現世的愛着と、作者の院に対する永遠の思慕とがうかがわれる。
 さても、夜もはしたなくあけ侍りしかば、なみだは袖にのこり、御おもかげは、さながら心のそこにのこしていで侍りしに、「さても、この世ながらのほど、かやうの月かげは、おのづからのたよりには必ずと思ふに、はるかに竜華(りゆうげ)のあかつきとたのむるは、いかなる心のうちのちかひぞ。又あづま・もろこしまでたづね行くも、おのこは常のならひなり、女はさはり多くて、さやうの修行かなはずとこそきけ。いかなる者に、ちぎりをむすびてうき世を厭ふ友としけるぞ。ひとりたづねては、さりともいかがあらん。なみだがは袖にありと知り、菊のまがきを三笠の山にたづね、なが月の空を、みもすそ川にたのめけるも、みなこれ、ただかりそめの言(こと)の葉(は)にはあらじ。ふかくたのめ、ひさしくちぎるよすがありけむ。そのほか、又かやうの所々、具しありく人も無きにしもあらじ」など、ねんごろに御たづねありしかば、「ここのへの霞のうちを出でて、八重たつ霧にふみまよひしよりこのかた、三界無安猶如火宅(さんがいむあんゆによくわたく)、一夜とどまるべき身にしあらねども、欲知過去因(よくちくわこいん)つたなければ、かかるうき身を思ひしる。ひとたびたえにしちぎり、二たびむすぶべきにあらず。石清水(いはしみづ)のながれより出づといへども、今生(こんじやう)の果報たのむ所なしといひながら、あづまへくだり、はじめにも、まづ社壇を拝したてまつりしは八幡大菩薩のみなり。ちかくは心のうちの所願(しよぐわん)を思ひ、とほくは滅罪生善(めつざいしやうぜん)を祈誓す。正直のいただきをば照し給ふ御ちかひ、これあらたなり。ひんがしは武蔵の国隅田川をかぎりにたづね見しかども、一夜のちぎりをも結びたること侍らば、本地弥陀三尊の本願にもれて、ながく無間(むげん)のそこにしづみ侍るべし。みもすそ川の清きながれをたづね見て、もし又、心をとどむるちぎりあらば、つたへきく胎金両部(たいこんりやうぶ)の教主(けうしゆ)も、そのばち、あらたに侍らん。三笠の山の秋の菊おもひをのぶるたよりなり。もし又、奈良坂よりみなみに、ちぎりをむすび、たのみたる人ありて、春日のやしろへも参り出でば、四所大明神の擁護(おうご)にもれて、むなしく三途(さんづ)の八難苦をうけん。幼少のむかしは、二歳にして、母はわにわかれて、おもかげを知らざるうらみを悲しみ、十五歳にして父をさきだてしのちは、その心ざしをしのび、恋慕懐旧(れんぼくわいきう)の涙はいまだ袂(たもと)をうるほし侍る中に、わづかに、いとけなく侍りし心は、かたじけなう御(おん)まなじりをめぐらして、れんみんの心ざしふかくましましき。その御かげにかくされて、ちちははにわかれしうらみも、をさをさなぐさみ侍りき。やうやう人となりて、はじめて恩言(おんげん)をうけたまはりしかば、いかでか、これをおもく思ひたてまつらざるべき。つたなき心のおろかなるは畜生なり。それなほ四恩をばおもくし侍る。いはむや人倫の身として、いかでか御なさけを忘れたてまつるべき。いはけなかりし昔は、月日のひかりにもすぎて、かたじけなく、さかりになりしいにしへは、ちちははのむつびよりも、なつかしくおぼえましましき。思はざるほかにわかれたてまつりて、いたづらに多くの年月を送りむかふるにも、御(み)ゆき臨幸(りんかう)に参りあふをりをりは、いにしへを思ふ涙も袂(たもと)をうるほし、叙位除目(じよゐぢもく)を聞きて、他の家の繁昌、朋輩の昇進を聞くたびに、心をいたましめずといふ事なければ、さやうの妄念(まうねん)しづまれば、涙をすすむるもよしなく侍るゆゑえ、思ひをもやさまし侍るとて、あちこちさまよひ侍れば、ある時は僧坊にとどまり、ある時は男の中にまじはる。三十一字の言(こと)の葉(は)をのべ、なさけをしたふ所には、あまたの夜をかさね、日かずをかさねて侍れば、あやしみ申す人、都にも田舎(ゐなか)にもそのかず侍りしかども、修行者(しゆぎやうじや)と言ひ、ぼろぼろなど申すふぜいの者に行きあひなどして、心のほかなるちぎりを結ぶためしも侍るとかや聞けども、さるべきちぎりもなきにや、いたづらにひとりかたしき侍るなり。都のうちにもかかるちぎりも侍らば、かさぬる袖も二つにならば、さゆる霜夜の山かぜも、ふせぎ侍るべきに、それも又、さやうの友も侍らねば、待つらんと思ふ人しなきにつけては、花のもとにていたづらに日をくらし、もみじの秋は、野もせの虫の霜にかれゆくこゑを、わが身のうへと悲しみつつ、むなしき野べに草を枕としてあかす夜な夜なあり」など申せば、「修行のをりの事どもは、心きよく、千々のやしろにちかひぬるが、都のことには、ちかひがなきは、ふるきちぎりのなかにも、あらためたるがあるにこそ」と、又うけたまはる。「ながらへじとこそ思ひ侍れども、いまだ四(よ)そぢにだにみち侍らねば、行くすゑは知り侍らず。けふの月日のただいままでは、ふるきにも、あたらしきにも、さやうの事侍らず。もしいつはりにても申し侍らば、我がたのむ一乗法花の転読(てんどく)二千日におよび、如法写経のつとめ、みづから筆をとりてあまたたび、これさながら三途(さんづ)の津とぞとなりて、のぞむ所むなしく、なほし、竜花(りゆうげ)の雲のあかつきの空を見ずして、生涯(しやうがい)無間(むげん)のすみか消えせぬ身となり侍るべし」と申すをり、いかがおぼしめしけむ、しばし物もおほせらるることもなくて、ややありて、「なににも、人の思ひしむる心はよしなきものなり。まことに、ははにおくれ、ちちにわかれにしのちは、我のみはぐくむべき心ちせしに、ことのちがひもてゆきしことも、げにあさかりけるちぎりにこそと思ふに、かくまでふかく思ひそめけるを知らずがほにてすぐしけるを、大菩薩、知らせそめ給ひにけるにこそ御山にてしも見いでけめ」など仰せあるほどに、西にかたぶく月は、山のはをかけている。ひんがしに出づる朝日かげは、やうやう、ひかり、さしいづるまでになりにけり。ことやうなるすがたも、なべてつつましければ、いそぎ出で侍りしにも、「かならず近きほどに今一度(いまいちど)よ」とうけたまはりし御こゑ、あらざらん道のしるべにやとおぼえて帰り侍りしに、還御(くわんぎよ)ののち、思ひかけぬあたりより御たづねありて、まことしき御とぶらひ、おぼしめしよりける、いとかたじけなし。思ひかけぬ御言(おんこと)の葉(は)にかかるだに、露の御なさけもいかでかうれしからざらん。いはんや、まことしくおぼしめしよりける御心の色、人しるべきことならぬさへ、置き所なくぞおぼえ侍りし。むかしより、なにごとも、うちたえて、人目にもこはいかになど、おぼゆる御もてなしもなく、これこそなどいふべき思ひいでは侍らざりしかども、御心ひとつには、なにとやらん、あはれはかかる御気のせさせおはしましたりしぞかしなど、すぎにしかたも、今さらにて、なにとなく忘れがたくぞ侍る。


一〇七 笠置寺

 これで巻四は終るのであるが、巻五の初めは乾元元年(一二九三)と見たから、この段は、その八年間のある年に旅をした記である。その年をいつと知る事はできないが、「かくて年を経るほどに」とあるから、前段以後数年を経ての事と推測される。ただし起筆と同時に本文が脱落しているので一切不明である。脱落の理由も不明である。原本では巻四の第三十七枚目の紙のウラ三行まで書いて、しかもその行を満たさずにぽつりと切れ、そこに何の注記もない。あたかも巻四の書写を受持った人が、ここまで写して来て、ちょっと一服という形でそのままになっている。
 かくて年をふるほどに、さても二見の浦は、御神もふたたびみそなはしてこそ、ふたみとも申すなれば、いま一度(いちど)まゐりもし、又、生死(しやうじ)のことをも祈誓(きせい)し申さむと思ひたちて、奈良より、いかほと申す所より、まかり侍りしに、まづ、かさおき寺と申す所をすぎ行





問はず語り 巻五


一〇八 須磨・明石・鞆の津

 厳島参拝を思い立って都を出で、瀬戸内海を舟で行く。須磨に泊り、明石を経て鞆の津に泊る。その地の遊女が世を捨てて草庵生活をしているのが羨ましく、そこに一日二日滞在し、別れを惜しんでまた舟に乗る。
 さてこの旅は何年の事であったか。後に記される東二条院崩御(嘉元二年一月)、後深草院崩御(同年七月)から逆算して乾元元年九月と推定しておく。
 さても安芸(あき)の国厳島(いつくしま)のやしろは、高倉の先帝(せんてい)も御幸(みゆき)し給ひけるあとのしらなみもゆかしくて思ひたち侍りしに、例の鳥羽(とば)より船にのりつつ、河尻(かはじり)より海のに乗りうつれば、浪のうへのすまひも心ぼそきに、ここは須磨の浦ときけば、行平の中納言、もしほたれつつわびけるすまひも、いづくのほどにかと、吹き越す風にも問はまほし。
 なが月のはじめのことなれば、霜がれの草むらに、なきつくしたる虫の声、たえだえきこえて、岸にふねつけて泊りぬるに、千声万声(せんせいばんせい)の砧(きぬた)のおとは、夜寒(よさむ)の里にやとおとづれて、浪の枕をそばだてて聞くもかなしきころなり。明石の浦の朝霧に、島がくれゆくふねどもも、いかなるかたへとあはれなり。光源氏(ひかるげんじ)の、月毛の駒にかこちけむ心のうちまで、のこるかたなくおしはかられて、とかく漕ぎゆくほどに、備後(びんご)の国鞆(とも)といふ所にいたりぬ。なにとなく賑(にぎ)ははしきやどと見ゆるに、たいかしまとて、はなれたる小島あり。遊女の世をのがれて、いほりならべてすまひたる所なり。さしもにごりふかく、六つの道にめぐるべきいとなみをのみする家に生れて、衣裳に薫物(たきもの)しては、まづ語らひふかからむことを思ひ、わが黒髮をなでても、たが手枕(てまくら)にかみだれんと思ひ、暮るれば契(ちぎり)をまち、明くればなごりをしたひなどしてこそ過ぎこしに、思ひすてて籠りゐたるも、ありがたくおぼえて、「つとめにはなにごとかする。いかなるたよりにか発心せし」など申せば、ある尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者(ちやうじや)なり。あまた傾城(けいせい)を置きて、めんめんのかほばせをいとなみ、道行人(みちゆきびと)をたのみて、とどまるをよろこび、漕ぎゆくをなげく。まだ知らざる人にむかひても、千秋万歳を契り、花のもと露のなさけに酔ひをすすめなどして、いそぢにあまり侍りしほどに、宿縁(しゆくえん)やもよほしけん、有為(うゐ)のねぶりひとたびさめて、二たびふるさとへかへらず。此の島にゆきて、朝な朝な花をつみにこの山にのぼるわざをして、三世(みよ)の仏(ほとけ)にたむけたてまつる」など言ふもうらやまし。これに一二日とどまりて、又こぎいでしかば、遊女どもなごりをしみて、「いつほどにか都へこぎかへるべき」などいへば、「いさや、これやかぎりの」などおぼえて、

   いさやそのいくよあかしのとまりとも
      かねてはえこそおもひさだめね


一〇九 厳島参籠

 厳島神社に参拝して、九月十二日の試楽、十四日の大法会を見る。厳島の神の本体は阿弥陀如来であると聞くにつけ、弥陀の本願に乗じて救われたいと願うのであるが、心中に濁りをもちながら願っている自分が、自分ながらもどかしく思われる。
 かの島につきぬ。漫々たる波の上に、鳥居はるかにそばだち、百八十間の廻廊(くわいらう)、さながら浦の上にたちたれば、おびたたしく船どもも、この廊につけたり。大法会(だいほふゑ)あるべきとて、内侍といふ者、めんめんになどすめり。九月十二日、試楽(しがく)とて、廻廊めく海のうへに舞台(ぶたい)をたてて、御前の廊よりのぼる。内侍八人、みな色々の小袖に白き湯巻(ゆまき)をきたり。うちまかせての楽どもなり。唐の玄宗の楊貴妃が奏しける霓裳羽衣(げいしやううい)の舞のすがたとかや、聞くもなつかし。
 会の日は、左右の舞、青く赤き錦の装束、菩薩のすがたにことならず。天冠をして、かんざしをさせる、これや楊妃(やうひ)のすがたならむと見えたる。くれゆくままに楽の声まさり、秋風楽(しうふうらく)、ことさらに耳にたちておぼえ侍りき。くるるほどに、はてしかば、多くつどひたりし人、みな家々にかへりぬ。御前(おんまへ)も物さびしくなりぬ。通夜したる人もせうせう見ゆ。十三夜の月、御殿のうしろの深山より出づる気色、宝前(はうぜん)の中より出でたまふに似たり。御殿(ごてん)の下まで潮(しほ)さしのぼりて、空にすむ月の影、又水の底にもやどるかと疑はる。法性有漏(ほつしやううろ)の大海に、随縁真如(ずゐえんしんによ)の風をしのぎて住まひはじめ給ひける御心ざしもたのもしく、本地(ほんぢ)阿弥陀如来と申せば、光明遍照(くわうみやうへんぜう)、十方世界(じつぱうせかい)、念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)、摂取不捨(せつしゆふしや)、もらさずみちびき給へと思ふにも、にごりなきこころの中ならば如何(いか)にと、われながらもどかしくぞおぼゆる。


一一〇 足摺の観音

 この段の内容は足摺観音の伝説が主となっている。この伝説を記すきっかけとして、まず船中で知り合った女に、我が家に立ち寄れと誘われ、自分はこれから足摺へ行きたいのだから、その帰途にと約束する。そして足摺への紀行は何も記さず、伝説だけを記しているので、果して足摺へ行ったのか、希望だけで実行しなかったのかは確実でない。しかし以下、佐東の祇園社・白峰・松山などの巡歴を書いているから、それも紀行文として順路の光景などを詳しく記したものでなく、ただ事がらを羅列したものであるから、足摺旅行もその例であろう。
 これにはいくほどの逗留もなくて、上り侍りし船のうちに、よしある女あり。「我は備後の国、和知(わち)といふ所の者にて侍る。宿願(しゆくぐわん)によりて、これへまゐりて候ひつる。すまひも御覧ぜよかし」などさそへども、「土佐の蹉跎(あしずり)の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへまゐるなり。かへさにたづね申さん」と契りぬ。
 かの岬には、堂ひとつあり。本尊は観音におはします。へだてもなく、また坊主(ぼうず)もなし。ただ、修行者、ゆきかかる人のみ集まりて、上(うへ)もなく下(した)もなし。いかなるやうぞといへば、昔一人の僧ありき。この所に、おこなひてゐたりき。小法師一人つかひき。かの小法師、慈悲をさきとする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人来て、時(とき)・非時(ひじ)を食ふ。小法師、かならず我がぶんをわけてくはす。坊主いさめていはく、「一度二度にあらず。さのみ、かく、すべからず」といふ。又あしたの刻限(こくげん)に来たり。「心ざしは、かく思へども、坊主しかり給ふ。これより後は、なおはしそ。いまばかりぞよ」とて、また分けてくはす。いまの小法師いはく、「此のほどのなさけ忘れがたし。さらば我がすみかへいざ給へ。見に」といふ。小法師、かたらはれてゆく。坊主あやしくて、しのびて見送るに、岬にいたりぬ。一葉の船に棹(さを)さして南をさしてゆく。坊主泣く泣く、「われをすてて、いづくへゆくぞ」といふ。小法師、「補陀落世界(ふだらくせかい)へまかりぬ」と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、船の艫舳(ともへ)に立ちたり。心うく悲しくて、なくなくあしずりをしたりけるより、あしずりのみさきといふなり。岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく帰りぬ。それより、へだつる心あるによりてこそ、かかるうきことあれとて、かやうにすまひたり、といふ。三十三身の垂戒化現(すゐかいけげん)、これにやといとたのもし。


一一一 松山・白峰

 安芸のさとと(佐東か)の社に一夜泊り、次に讃岐の松山で写経した事を記す。厳島では九月十四日の大法会を見、その後、さととへ行って一泊し、そこから松山へ渡り、松山では九月末に写経をしていた。そして次段には十一月末に京への船の便宜あるに乗ったとある。十月・十一月の二個月は記事がない。この間に足摺の旅行があったのではなかろうか。
 安芸のさととの社は牛頭天王(ごづてんわう)と申せば、祇園の御こと思ひ出でられさせおはしまして、なつかしくて、これには一夜とどまりて、のどかに、たむけをもし侍りき。
 讃岐(さぬき)の白峰(しろみね)、松山などは、崇徳院の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、とふべきゆかりもあれば、こぎよせておりぬ。松山の法花堂は、如法おこなふけいき見ゆれば、沈み給ふともなどかとたのもしげなり。「かからむ後は」と、西行がよみけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそむまれけめ」と、あそばされけるいにしへの御ことまで、あはれに思ひいでまゐらせしにつけても、

   物おもふ身のうきことを思ひ出でば
      苔の下にもあはれとはみよ

 さても五部の大乗経の宿願(しゅくぐわん)、のこりおほく侍るを、この国にて又すこし書きまゐらせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに、ちいさき庵室をたづねいだして、道場にさだめ、懺法(せんぽふ)、正懺悔(しやうさんげ)などはじむ。長月のすゑのことなれば、虫のねもよわりはてて、なにを伴なふべしともおぼえず。三時の懺法(せんぽふ)を読みて、「慙愧懺悔六根罪障(ざんぎざんげろくこんざいしやう)」と唱へても、まづわすられぬ御言(おんこと)の葉(は)は、心の底にのこりつつ、さても、いまだをさなかりしころ、琵琶の曲を習ひたてまつりしに、給はりたりし御ばちを、四(よつ)の緒(を)をば思ひきりにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、

   手になれし昔のかげはのこらねど
      かたみとみればぬるる袖かな

 このたびは、大集経四十巻を、二十巻かきたてまつりて、松山に奉納したてまつる。経の程の事は、とかく、この国のしる人に言ひなどしぬ。供養には、一とせ御形見ぞとて、三つ給はりたりし御衣、一つは熱田の宮の経の時、しゆ行の布施にまゐらせぬ。このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて、布施にたてまつりしにつけても、

   月出でん暁までの形見ぞと
      などおなじくは契らざりけむ

御はだなりしは、いかならむ世までもと思ひて残しおきたてまつるも、罪ふかき心ならむかし。


一一二 備後の国和知

 帰京の船に乗ったが、海が荒れたので、先般、船中で知り合った備後の国の女の家を訪ねる。そこは地方の豪家であったが主人は情を解せぬ荒くれ者であった。折から、この主人の伯父である広沢与三入道が熊野詣でのついでに立寄る。
 とかくするほどに、霜月のすゑになりにけり。京への船の便宜(びんぎ)あるも何となくうれしくて行くほどに、波風荒く雪あられしげくて、船も行きやらず、きもをのみつぶすもあぢきなくて、備後の国といふ所をたづぬるに、ここにとどまりたる岸より程近くきけば下りぬ。船のうちなりし女房、書きつけてたびたりし所をたづぬるに、ほど近く尋ねあひたり。何となくうれしくて、二三日ふるほどに、あるじがありさまを見れば、日ごとに男女(をとこをんな)を四五人具しもてきて、うちさいなむありさま、目もあてられず。こはいかにと思ふ程に、鷹狩とかやとて、鳥ども多くころしあつむ。狩(かり)とてししもてくるめり。おほかた、悪行深重(あくごふしんぢゆう)なる者なり。をりふし、鎌倉にある親しきものとて、広沢(ひろさわ)の与三(よさう)入道(にふだう)といふ者、熊野まゐりのついでに下るとて、家の中(うち)さわぎ、村郡(むらこほり)のいとなみなり。絹障子(きぬしやうじ)を張りて、絵をかきたがりし時に、なにと思ひわくこともなく、「絵の具だにあらば、かきなまし」と申したりしかば、鞆(とも)といふ所にありとて取りにはしらかす。よにくやしけれども力なし。持てきたれば書きぬ。よろこびて、「いまはこれにおちとどまり給へ」などいふも、をかしくきくほどに、この入道とかや来たり。大かた、何とかなどもてなすに、障子の絵を見て、「田舎(ゐなか)にあるべしともおぼえぬふでなり。いかなる人のかきたるぞ」といふに、「これにおはしますなり」といへば、「さだめて歌などよみ給ふらん。修行のならひ、さこそあれ。見参(げざん)にいらん」などいふもむつかしくて、熊野まゐりときけば、「のどかに、このたびの下向に」など、いひまぎらかしてたちぬ。


一一三 江田の里

 作者が最初に訪ねたのは和知の家であったが、その家の主人の兄が江田に住んでいる。作者は江田へ招かれてそこに滞在することになった。和知の主人がそれを怒って大事件になり、作者の身が危険になった。そこへ熊野から広沢入道が下向して来た。作者が入道に逢って見ると、それは先年鎌倉滞在中、連歌の席に一座した者であった。奇遇というべきであるが、作者はこれによって難をのがれることができた。
 このついでに、女房二三人きたり。江田(えだ)といふ所に、此のあるじの兄のあるが、むすめよするなどありとて、「あなたさまをも御覧ぜよ」「絵のうつくしき」などいへば、このすまひも、あまりにむつかしく、都へは、この雪に叶はじといへば、年のうちもありぬべくやとて、何となく行きたるに、この和知のあるじ、思ふにもすぎてはらだちて、「我、としごろの下人を逃したりつるを、厳島にて見つけてあるを、また江田へかどはれたるなり。うちころさむ」などひしめく。こはなにごとぞと思へども、「物おぼえぬ者は、さるちうようにもこそあれ。なはたらきそ」などいふ。
 この江田といふ所は、若きむすめどもあまたありて、なさけあるさまなれば、何となく、心とどまるまではなけれども、さきのすまひよりは心のぶる心ちするに、いかなることぞと、いとあさましきに、熊野まゐりしつる入道、かへさに又下りたり。これに、かかる不思議ありて、我が下人をとられたるよし、わが兄を訴(うた)へけり。此の入道はこれらがをぢながら、所の地頭とかやいふものなり。「とは、なにごとぞ。心えぬ下人沙汰(げにんざた)かな。いかなる人ぞ。物まゐりなどすることは常の事なり。都にいかなる人にておはすらん。はづかしく、かやうになさけなくいふらんことよ」など言ふときくほどに、これへ又くだるとてひしめく。このあるじ、ことのやういひて、「よしなき物まゐり人ゆゑに、兄弟(おととい)なかたがひぬ」といふをききて、「いと不思議なることなり」といひて、「備中の国へ人をつけて送れ」などいふもありがたければ、見参(げざん)して事のやうかたれば、「能(のう)はあだなるかたもありけり。御能(ごのう)ゆゑに、ほしく思ひまゐらせて申しけるにこそ」といひて、連歌し、続歌(つぎうた)などよみてあそぶほどに、よくよく見れば、鎌倉にて飯沼の左衞門が連歌にありし者なり。その事いひいだして、ことさらあさましがりなどして、井田(ゐた)といふ所へ帰りぬ。雪いとふりて、竹簀垣(たけすがき)といふ物したる所のさまも、ならはぬ心ちして、

   世をいとふならひながらもたけすがき
      うきふしぶしはふゆぞかなしき


一一四 広沢の入道

 乾元元年は備後の江田で年を越し、翌嘉元元年二月の末に江田を立って帰京の途につく。出発に当り広沢の与三入道と和歌を贈答し、都に着いたのは三月中の事と思われる。この段の末に「修行も物うくなり侍りて、なかすみして、時々侍り」とある文章は不明瞭であるが、「旅行もいやけがさして、じっと都に落ちつき、時々ちょっと出かけるくらいであった」の意に解しておく。
 年もかへりぬれば、やうやう都のかたへ思ひたたむとするに、余寒なほはげしく、船もいかがと面々に申せば、心もとなく、かくゐたるに、きさらぎの末にもなりぬれば、このほどと思ひたつよしききて、この入道、井田といふ所より来て、続歌(つぎうた)などよみて、帰るとて、はなむけなど、さまざまの心ざしをさへしたり。これは、小町殿のもとにおはします中務宮の姫宮の御めのとなるゆゑに、さやうのあたりをも思ひけるにやとぞ、おぼえ侍りし。
 これより、備中荏原(えはら)といふ所へまかりたれば、さかりと見ゆる桜あり。一枝をりて、おくりの者につけて、広沢の入道につかはし侍りし、

   かすみこそたちへだつともさくら花
      かぜのつてにはおもひおこせよ

二日の道を、わざと人してかへしたり。

   花のみかわするるまなきことの葉を
      心は行きてかたらざりけり

 吉備津宮は都のかたなれば参りたるに、御殿のしつらひも社(やしろ)などはおぼえず、やうかはりたる宮ばらていに几帳などの見ゆるぞめづらしき。日もながく、風をさまりたる頃なれば、ほどなく都へかへり侍りぬ。
 さても不思議なりしことはありしぞかし。この入道くだりあはざらましかば、いかなるめにかあはまし。主(しう)にてなしといふとも、たれか方人(かたうど)もせまし。さるほどには何とかあらましと思ふより、修行も物うくなり侍りて、なかすみして、時々侍る。


一一五 東二条院崩御

 嘉元二年一月、東二条院の崩御を聞き、富小路御所に集まる人々の中に混って御様子をうかがう。遊義門院の御悲嘆が特に作者の心を打つ。
 前段で作者は、旅行も物うくなり、しばらく落ちつく事にしたと書いているが、どこに落ちついたのか明らかでない。この段で「都の方の事を聞くほどに」とあり、「折ふし近き都の住まひに侍れば」とあるから、京に近い所にいたのであろう。
 都のかたのことなど聞く程に、むつきのはじめつかたにや、東二条院、御なやみといふ。いかなる御ことにかと、人しれずおぼつかなく思ひまゐらすれども、こととふべきかたもなければ、よそにうけたまはるほどに、いまはかなふまじき御ことになりて御所をいでさせおはしますよし、うけたまはりしかば、無常はつねのならひなれども、すみなれさせおはしましつる御すみかをさへ出でさせおはしますこそ、いかなる御事なるらんと、十善のゆかにならびましまして、あさまつりごとをも助けたてまつり、夜はともに世ををさめたまひし御身なれば、今はの御こともかはるまじき御事かとこそ思ひまゐらするに、などやなど、御おぼつかなく覚えさせおはしましし程に、はや、御事きれさせ給ひぬとてひしめく。
 をりふし近き都の住まひに侍れば、何となく御所(ごしよ)さまの御様(おんやう)も御ゆかしくて、見まゐらせにまゐりたれば、まづ遊義門院、御幸(ごかう)なるべしとて、北面の下臈一二人、御車さしよす。今出川の右のおとども候ひ給ひけるが、御出でなどいひあひたるに、遊義門院、御幸(ごかう)まづいそがるるとて、御車よすると見まゐらすれば、又まづしばしとて、ひきのけてかへり入らせおはしますかとおぼゆること、二三度になれば、今はの御すがた、又はいつかと、御名残(おんなごり)をしくおぼしめさるる程もあはれに悲しく覚えさせおはしまして、あまた、物見る人どももあれば、御くるま近くまゐりて、うけたまはれば、「すでに召されぬと思ふほどに、又たちかへらせおはしましぬるにや」ときこゆ。召されて後も、ためしなき御心まどひ、よその袂もところせきほどにきこえさせおはしませば、心あるも心なきも袂をしぼらぬ人なし。
 みやみや、わたらせおはしまししかども、みなさきだちまゐらさせおはしまして、ただ御一所わたらせおはしまししかば、かたみの御心ざし、さこそと思ひやりまゐらするも、しるく見えさせおはしまししこそ、かずならぬ身の思ひにもくらべられさせおはします心ちし侍りしか。
 いまはの御幸(ごかう)を見まゐらするにも、昔ながらの身ならましかば、いかばかりかなど覚えさせおはしまして、

   さてもかくかずならぬ身はながらへて
      いまはと見つる夢ぞかなしき


一一六 後深草法皇御悩

 東二条院の崩御を悲しんでいるうちに同じ年の六月、後深草法皇御病気の噂が伝わり、次第に御重態との事。心配のあまり八幡に籠って武内の社の御千度を踏んで法皇の延命を祈る。
 御葬送(ごそうそう)は伏見殿の御所とて、法皇の御方も、遊義門院の御方も入らせおはしましぬとうけたまはれば、御なげきもさこそとおしはかりまゐらせしかども、つたへし風も跡たえはてて後は、何として申し出づべきかたもなければ、むなしく心になげきて明かしくらし侍りしほどに、同じ年水無月(みなづき)のころにや、法皇、御なやみときこゆ。御おこり心ちなど申せば、人しれず、いまや、おちさせおはしましぬと、うけたまはると思ふほどに、御わづらはしうならせおはしますとて、閻魔天供(えんまてんく)とかや行はるるなど、うけたまはりしかば、ことがらもゆかしくて、まゐりて、うけたまはりしかども、たれに事とひ申すべきやうもなければ、むなしくかへり侍るとて、

   夢ならでいかでかしらんかくばかり
      われのみ袖にかくる涙を

御日(おんひ)おこりにならせたまふ、いしいしと申す、御大事いでくべきなど申すをきくに、思ひやるかたもなく、いま一たび、この世ながらの御面影(おんおもかげ)を見まゐらせずなりなんことの悲しさなど思ひよる。あまりに悲しくて、七月一日より八幡(やはた)に籠りて武内(たけうち)の御千度(おせんど)をして、このたび、べちの御事なからんことを申すに、五日の夢に、日しよくといひて、あらはへいでじといふ、〔本のまま。ここより紙をきられて候。おぼつかなし。紙のきれたる所よりうつす。〕


一一七 西園寺邸訪問

 西園寺邸に実兼を訪ねて面会を得ず。空しく帰る帰途、北野神社・平野神社に御身代りにならん事を祈る。再び西園寺邸を訪なう。今回は面会を得、院参の方策を授けられて帰る。
 ……めす。又御やまひの御様(おんやう)もうけたまはるなど思ひつづけて、西園寺へまかりて、「むかし御所さまに侍りし者なり。ちと見参(げざん)にいり侍らん」と案内すれば、墨染の袂をきらふにや、きと申し入るる人もなし。せめての事に、ふみを書きて持ちたりしを、「見参(げざん)に入れよ」といふだにも、きとは取りあぐる人もなし。夜ふくる程になりて、春王といふさぶらひ、一人出で来て、ふみとりあげぬ。年のつもりにや、きともおぼえ侍らず。「あさてばかり、かならずたちよれ」と仰せらる。なにとなくうれしくて、十日の夜、またたちよりたれば、「法皇御なやみ、すでにておはしますとて、京へ出で給ひぬ」といへば、いまさらなる心ちもかきくらす心ちして、右近の馬場をすぎゆくとても、北野(きたの)・平野(ひらの)をふしをがみても、「わが命に転じかへ給へ」とぞ申し侍りし。この願もし成就して、我もし露ときえなば、御(ご)ゆゑかくなりぬとも知られたてまつるまじきこそなど、あはれに思ひつづけられて、

   君ゆゑにわれさきだたばおのづから
      夢には見えよ跡のしらつゆ

ひるは日ぐらし思ひくらし、夜は夜もすがらなげきあかす程に、十四日夜、又北山へ思ひたちて侍れば、こよひは入道殿出であひ給ひたる。むかしの事なにくれおほせられて、「御なやみのさま、むげに頼みなくおはします」など語り給ふをきけば、いかでかおろかに覚えさせたまはむ。いま一度(いちど)、いかがしてとや申すと思ひては、まゐりたりつれども、何とあるべしともおぼえず侍るに、おほせられ出だしたりしこと、かたりて、「まゐれかし」と、いはるるにつけても、袖の涙も人目あやしければ、たちかへり侍れば、鳥辺野(とりべの)のむなしき跡とふ人、内野には所もなく行きちがふさま、いつかわが身もとあはれなり。

   あだしのの草葉の露の跡とふと
      行きかふ人もあはれいつまで


一一八 後深草法皇崩御

 七月十五日の夜、実兼をたよって院の御所に参り、わずかに院にお目にかかる。十六日のひるころ崩御。その夜、両六波羅の武士たちが御弔いに参る。作者は終夜庭にいて、月を眺めて悲しみ明かす。
 十五夜、二条京極よりまゐりて、入道殿をたづね申して、夢のやうに見まゐらする。十六日のひるつかたにや、はや御こときれ給ひぬといふ。思ひまうけたりつる心ちながら、今はと聞きはてまゐらせぬる心ちは、かこつかたなく、かなしさも、あはれさも、思ひやるかたなくて、御所へまゐりたれば、かたへには、御修法の壇(だん)こぼちて出づるかたもあり。あなたこなたに人は行きちがへども、しめじめと、ことさら音もなく、南殿(なんでん)の灯籠(とうろ)も消たれにけり。春宮(とうぐう)の行啓は、いまだあかきほどにや、二条殿へなりぬれば、しだいに人の気はいもなくなりゆくに、初夜すぐる程に、六波羅、御とぶらひに参りたり。北は富小路おもてに、人の家の軒に松明(たいまつ)ともさせて並(な)みゐたり。南は京極おもての篝(かがり)の前に、床子(しやうじ)に尻(しり)かけて、手のもの二行にならみゐたるさまなど、なほゆゆしく侍りき。
 夜もやうやうふけゆけども、かへらむ空もおぼえねば、むなしき庭にひとりゐて、むかしを思ひつづくれば、をりをりの御面影(おんおもかげ)ただいまのここちして、何と申しつくすべき言(こと)の葉(は)もなく悲しくて、月を見れば、さやかにすみのぼりて見えしかば、

   くまもなき月さへつらきこよひかな
      くもらばいかにうれしからまし

釈尊入滅のむかしは、日月も光をうしなひ、心なき鳥獣(とりけだもの)までも、うれへたる色にしづみけるにと、げにすずろに、月にむかふながめさへ、つらくおぼえしこそ、われながら、せめての事と、思ひしられ侍りしか。


一一九 むなしき煙

 七月十七日、終日御所にたたずみ、遠くからでも御棺を拝みたく思うたが叶わず、夜に入って御出棺、はだしで御葬送のあとを追い、遂に追いおくれて、夜明けがた、遙かに火葬の煙を拝す。十八日、伏見の御所に参り、遊義門院の御悲嘆を思いやりながらも、お目にかかるつてはなく、そのまま帰る。
 夜もあけぬれば、たちかへりても、なほのどまるべき心ちもせねば、平中納言のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、ゆかりある女房を知りたる事侍りしをたづねゆきて、「御棺(おくわん)を、遠(とほ)なりとも、いま一度(いちど)みせ給へ」と申ししかども、かなひがたきよし申ししかば、思ひやるかたなくて、いかなるひまにても、さりぬべきことやと思ふ。こころみに、女房のきぬをかづきて、日くらし御所にたたずめども、かなはぬに、すでに、御格子(みかうし)まゐる程になりて、御棺(おくわん)のいらせ給ひしやらん、御簾(みす)のとほりより、やはらたたずみよりて、火の光ばかり、さにやとおぼえさせおはしまししも、目もくれ心もまどひて侍りしほどに、ことなりぬとて、御車よせまゐらせて、すでに出でさせおはしますに、持明院殿の御所、門(もん)まで出でさせおはしまして、かへりいらせおはしますとて、御直衣(おんなほし)の御袖にて、御涙を払はせおはしましし御気色、さこそと悲しく見まゐらせて、やがて京極おもてより出でて、御車のしりにまゐるに、ひぐらし御所に候ひつるが、事なりぬとて御車のよりしに、あわてて、はきたりし物も、いづ方へかゆきぬらん、はだしにて、はしりおりたるままにて参りしほどに、五条京極を西へやりまはすに、大路(おほぢ)にたてたりしたけに御車をやりかけて、御車のすだれ、かたかたおちぬべしとて、御車副(みくるまぞひ)のぼりて、なほしまゐらするほど、つくづくと見れば、山科の中将入道そばにたたれたり。すみぞめの袖もしぼるばかりなる気色、さこそと悲し。ここよりやとまる、ここよりやとまると思へども、立ち帰るべき心ちもせねば、しだいにまゐるほどに、物ははかず、足はいたくて、やはらづつゆく程に、みな人には追ひおくれぬ。藤の森といふほどにや、男ひとりあひたるに、「御幸さきだたせおはしましぬるにか」といへば、「稲荷の御まへをば御通りあるまじき程に、いづかたへとやらん、まはらせおはしましてしやらん。こなたは人も候ふまじ。夜ははや寅になりぬ。いかにしてゆき給ふべきぞ。いづくへゆき給ふ人ぞ。あやまちすな、送らん」といふ。むなしく帰らんことの悲しさに、なくなく、ひとりなほまゐる程に、夜のあけしほどにや、ことはてて、むなしきけぶりのすゑばかりを見まゐらせし心の中、今まで世にながらふべしとや思ひけん。伏見殿の御所さまを見まゐらすれば、この春、女院の御かた御かくれのをりは、二御方(ふたおんかた)こそ御わたりありしに、このたびは女院の御かたばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかと、おしはかりまゐらするにも、

   露消えし後のみゆきのかなしさに
      むかしにかへるわがたもとかな

かたらふべきとぐちもさしこめて、いかにといふべきかたもなし。さのみ、まよふべきにもあらねば、その夕がたかへり侍りぬ。


一二〇 天王寺参籠

 遊義門院が素服を召された事を聞くにつけても、昔後嵯峨院崩御の時の自分が思い出されてたまらなく悲しいので、心をまぎらそうと、天王寺に参る。そこでは又、遊義門院の御悲しみが思い出される。
 御素服(おんそふく)めさるるよし、うけたまはりしかば、むかしながらならましかばいかにふかくそめまし、後嵯峨院御かくれのをりは、御所に奉公せしころなりしうへ、故大納言おもふやうありてとて、御素服の中に申しいれしを、「いまだをさなきに、大かたのはえなき色にてあれかし」などまで、うけたまはりしに、そのやがて八月に、わたくしの色を着て侍りしなど、かずかず思ひ出でられて、

   墨染の袖はそむべき色ぞなき
      おもひはひとつおもひなれども

 かこつかたなき思ひのなぐさめにもやとて天王寺へ参りぬ。釈迦如来転法輪処など聞くもなつかしくおぼえて、のどかに経をも読みて、しばしは、まぎるるかたなくて候はんなど思ひて、ひとり思ひつづくるも悲しきにつけても、女院の御かたの御思ひ、おしはかりたてまつりて、

   春きせしかすみの袖に秋ぎりの
      たちかさぬらん色ぞかなしき


一二一 御四十九日

 御四十九日に伏見の御所に参る。伏見上皇もおいでになっていると聞いて、上皇がまだ東宮であられた昔の事などが思い出される。
 後深草院の御病中、御身代りに立ちたいと祈願したのに叶わなかった。それにつけて、三井寺の証空の昔話が思い出され、定業は神仏の力も叶わぬものと思いつづけながら伏見の御所から帰る。
 父の死が秋であったのに、また院の崩御が同じく秋であるにつけても、冥途の御旅が思いやられる。
 御四十九日も近くなりぬれば、また都にかへりのぼりつつ、その日は、伏見の御所にまゐるに、御仏事はじまりつつ、おほく聴聞せし中に、わればかりなる心のうちはあらじとおぼゆるにも悲し。ことはてぬれば、めんめんの御布施どものやうも、けふとぢめぬる心ちして、いと悲しきに、ころしも長月のはじめにや、露も涙も、さこそあらそふ御事なるらめと、御簾(みす)のうちも悲しきに、持明院の御所、このたびは又おなじ御所とうけたまはるも、春宮にたち給ひて、角殿(すみどの)の御所に御わたりのころまでは見たてまつりし古(いに)しへも、とにかくに、あはれに、かなしきことのみ色そひて、「秋しもなどか」と、おほやけ、わたくし、おぼえさせ給ひて、かずならぬ身なりともと、さしもおもひ侍りしことのかなはで、いままで浮世(うきよ)にとどまりて、七つの七日(なぬか)にあひまゐらする、われながら、いとつれなくて、三井寺の常住院の不動は、智興内供(ちこうないぐ)が限りのやまひには、証空阿闍梨(しやうくうあざり)といひけるが、「主坊(しゆぼう)恩おもし、かずならぬ身なりとも」といひつつ、晴明(せいめい)にまつりかへられければ、明王(みやうわう)、命(いのち)にかはりて、「汝は師にかはる、われは行者(ぎやうじや)に代らん」とて、智興もやまひやみ証空も命(いのち)のびけるに、君の御恩、主坊(しゆぼう)の恩よりも深(ふか)かりき。申しうけし心ざしなどしも、むなしかりけん。苦(く)の衆生(しゆじやう)にかはらんために、御名(おんな)を八幡大菩薩と号すとこそ申しつたへたれ。かずならぬ身にはよるべからず。御心ざしの、なほざりなるにもあらざりしに、まことの定業(ぢやうごふ)は、いかなることも、かなはぬ御事なりけり、など思ひつづけて、かへりて侍りしかども、つゆまどろまれざりしかば、

   かなしさのたぐひとぞきく虫のねも
      おいのねざめの長月の頃

 ふるきをしのぶ涙はかたしく袖にもあまりて、父の大納言身まかりしことも、秋のつゆにあらそひ侍りき、かかる御あはれも又秋のきりとたちのぼらせ給ひしかば、なべて雲井もあはれにて、雨とやなり給ひけむ、雲とやなり給ひけん、いとおぼつかなき御たびなりしか。

   いづかたの雲ぢぞとだに尋ねゆく
      などまぼろしのなき世なるらん


一二二 母の形見

 大集経書写の費用を弁ずるため、まず母の形見の手箱を売る。
 さても大集経、いま二十巻、いまだ書きたてまつらぬを、いかがして、この御百日の中にと思へども、身のうへの衣なければ、これをぬぐにもおよばず、命をつぐばかりのこと、もたざれば、これをさりてとも思ひたたず、思ふばかりなく、なげきゐたるに、我が二人の親のかたみにもつ、母におくれけるをり、「これにとらせよ」とて、平手箱(ひらてばこ)の、鴛鴦の丸(まる)をまきて、具足金(ぐぞくがね)まで同じもんにてし入れたりしと、又梨地(なしぢ)にせんきひしを高蒔(たかまき)にまきたるすずりぶたの、中には嘉辰令月(かしんれいげつ)と、手づから故大納言の文字(もじ)を書きて、かねにてほらせたりし硯となり。一期(いちご)はつくるとも、これをば、失はじと思ひ、いまはの煙にも共(とも)にこそと思ひて、修行に出でたつをりも、心ぐるしきみどり子を跡にのこす心ちして人にあづけ、かへりては、まづとりよせて、二人の親に逢ふ心ちして、手箱は、四十六年の年をへだて、硯は三十三年の年月をおくる。名残いかでかおろかなるべきを、つくづくと案じつづくるに、人の身に命にすぎたるたから何かはあるべきを、君の御ためにはすつべきよしを思ひき。いはんや有漏(うろ)のたから、つたゆべき子もなきに似たり。我が宿願(しゆくぐわん)成就せましかば、むなしくこの形見は人の家のたからとなるべかりき。しかじ、三宝に供養して君の御菩提にも回向し、二親のためにもなど思ひなりて、これをとり出でて見るに、年月なれし名残は、物言ひ笑ふことなかりしかども、いかでか、かなしからざらむ。をりふし、あづまのかたへよすがさだめてゆく人、かかる物をたづぬとて、三宝の御あはれみにや、思ふほどよりも、いと多くに、人とらむといふ、思ひたちぬる宿願(しゆくぐわん)、成就しぬる事はうれしけれども、手箱をつかはすとて、

   ふたおやの形見と見つる玉くしげ
      けふわかれゆくことぞかなしき


一二三 大集経たてまつ納

 この段には欠文があり、精しく解し得ないが、大集経の残り二十巻を東山双林寺のあたりで書写し、これを春日神社本宮の峰に納めた事が主文である。
 九月十五日より東山(ひんがしやま)双林寺(さうりんじ)といふあたりにて、懺法(せんぽふ)をはじむ。さきの二十巻の大集経まで、〔以下脱落ト思ハル〕
 をりをりも昔をしのび今をこふる思ひ、忘れまゐらせざりしに、今は一すぢに過去聖霊成等正覚(くわこしやうりやうじやうとうしやうかく)とのみ、ねてもさめても申さるるこそ、宿縁もあはれに、われながらおぼえ侍りしか。清水山(きよみづやま)の鹿のねは、わが身の友と聞きなされ、まがきの虫の声々は、涙こととふと悲しくて、後夜(ごや)の懺法(せんぽふ)に、夜ふかくおきて侍れば、東よりいづる月影の西にかたぶくほどになりにけり。てらでらの後夜(ごや)も行ひはてにけるとおぼゆるに、双林寺のみねに、ただひとり行ひゐたるひじりの念仏のこゑすごくきこえて、

   いかにしてしでの山路を尋ねみむ
      もしなきたまのかげやとまると

かのひじりやとひて、れうし水むかへさせに横川(よかは)へつかはすに、東坂本(ひんがしさかもと)へゆきて、我は日吉(ひよし)へまゐりしかば、むばにて侍りしものは、この御社にて神恩をかうぶりけるとて、つねにまゐりしに具せられては、〔ここより又かたなにてきりてとられ侯。返す返すおぼつかなし。〕
いかなる人にかなど申されしを聞くにもあはれはすくなからんや。深草の御墓へ奉納したてまつらむも、人目あやしければ、ことさら、御心ざしふかかりし御事、思ひいでられて、春日の御社へまゐりて、本宮のみねに納めたてまつりしにも、嶺の鹿のねも、ことさらをりしりがほにきこえ侍りて、

   みねの鹿野原のむしの声までも
      おなじ涙の友とこそきけ


一二四 父の三十三回忌

 嘉元二年、父の三十三回忌を営む。(父の忌日は八月の三日であるから、103段後深草院七七忌――九月五日――の前に置くべきであるが、文章の構成上ここに置いたのであろう)
 このたびの勅撰、新後撰集に亡父の歌が採られなかったことを悲しむ。亡父が夢にあらわれて歌道に精進せよと激励する。
 さても、故大納言身まかりて今年(ことし)は三十三年になり侍りしかば、かたのごとく仏事などいとなみて、れいのひじりのもとへつかはしし諷誦(ふじゆ)に、

   つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ
      十(とを)づつみつに三つあまるまで

神楽岡(かぐらをか)といふ所にて、けぶりとなりし跡を、たづねて、まかりたりしかば、旧苔(きうたい)露深(つゆふか)く道をうづみたる木の葉が下を分けすぎたれば、石の卒塔婆(そとば)、形見がほにのこりたるもいとかなしきに、さてもこのたびの勅撰には、もれ給ひけるこそかなしけれ。我(われ)世にあらましかば、などか申しいれざらむ。続古今よりこのかた、代々の作者(さくしや)なりき。また我が身のむかしを思ふにも、竹園(ちくゑん)八代の古風、むなしくたえなむずるにやと、かなしく、最期終焉(さいごしゆうえん)の言葉など、かずかず思ひつづけて、

   ふりにけるなこそをしけれ和歌の浦に
      身はいたづらにあまのすて舟

かやうにくどき申して帰りたりし夜、むかしながらのすがた、我(われ)もいにしへのここちにて、あひむかひて、このうらみをのぶるに、「祖父久我の大相国は『落葉がうへのつゆの色づく』言葉をのべ、我(われ)は、『おのが越路も春のほかかは』と、いひしより代々の作者(さくしや)なり。外祖父兵部卿隆親は、鷲の尾の臨幸(りんかう)に、『けふこそ花の色はそへつれ』と詠み給ひき。いづかたにつけても、すてらるべき身ならず。具平親王よりこのかた家ひさしくなるといへども、わかのうらなみたえせず」などいひて、たちざまに、

   なほもただかきとめてみよ藻塩草
      人をもわかずなさけあるよに

とうちながめて、たちのきぬとおもひて、うちおどろきしかば、むなしきおもかげは、袖のなみだにのこり、言の葉は、なほ夢のまくらにとどまる。


一二五 人丸御影供

 人丸の墓に七日間通夜して夢想を蒙る。それは嘉元二年十月頃の事であろうが月日は不明。嘉元三年三月八日、人丸御影供を行う。
 これよりことさらこの道をたしなむ心もふかくなりつつ、このついでに、人丸のはかに七日まゐりて、七日といふ夜、通夜(つや)して侍りしに、

   契りありて竹の末葉にかけし名の
      むなしきふしにさてのこれとや

このとき一人の老翁、夢にしめし給ふ事ありき。この面影をうつしとどめ、このことの葉を記し置く。人丸講(ひとまろかう)の式(しき)と名づく。
 先師の心にかなふ所あらば、この宿願成就せん、宿願成就せば、この式を用ゐて、かのうつしとどむる御影(みえい)のまへにしておこなふべしとおもひて、はこの底に入れて、むなしくすぐし侍るに、又のとしの三月八日、この御影(みえい)を供養して、御影供(みえいぐ)といふ事をとりおこなふ。


一二六 父のかたみ

 嘉元三年五月、後深草院の一周忌の近づくにつけ、大乗経五部の写経の残り二部を思い立ち、その費用に当てるため、父の形見の硯を売る。
 かくて五月のころにもなりしかば、故御所(こごしよ)の御(おん)はてのほどにもなりぬれば、五部の大乗経の宿願すでに三部は果(はた)しとげぬ。今二部になりぬ。あすをまつべき世にもあらず。二つの形見を一つ供養したてまつりて、父のを残しても、なにかはせむ。いく世のこしても、中有(ちうう)のたびに伴なふべきことならずなど思ひよりて、又これをつかはすとて思ふ、ただの人の物になさむよりも、わがあたりへや申さましと思ひしかども、よくよく案ずれば、心の中の祈請(きせい)、その心ざしをば人しらで、世にすむちからつきはてて、今はなき跡のかたみまで、あすか河にながしすつるにやと思はれんことも、よしなしとおもひしほどに、をりふし、筑紫(つくし)のしよきやうといふ者が、鎌倉より筑紫(つくし)へくだるとて、京に侍りしが、聞きつたへて、とり侍りしかば、母の形見はあづまへくだり、ちちのは、にしの海をさしてまかりしぞ、いとかなしく侍りし。

   するすみは涙のうみに入りぬとも
      ながれむすゑにあふせあらせよ

などおもひつづけて、つかはし侍りき。


一二七 御一周忌

 嘉元三年五月に大品般若経の写経を始め、これを聖徳太子の御墓に参納して七月の初めに帰京。七月十六日、後深草院の御墓に参り、更に伏見の御所で行われた御一周忌に参る。
 さてかの経を、五月の十日あまりのころより思ひたち侍るに、このたびは、河内のくに、太子(たいし)の御墓(おんはか)近き所に、ちとたち入りぬべき所ありしにて、また、大品般若経(だいぼんはんにやきやう)廿巻を書き侍りて、御墓へ奉納し侍りき。七月のはじめには、みやこへかへりのぼりぬ。御(おん)はての日にもなりぬれば、深草の御はかへまゐりて、伏見殿の御所へまゐりたれば、御仏事はじまりたり。しやくせんの僧正、御導師にて、院の御かたの御仏事あり。むかしの御手をひるがへして御身づからあそばされける御経といふことをききたてまつりしにも、ひとつ御思ひにやと、かたじけなきことの、おぼえさせおはしまして、いとかなし。つぎに遊義門院の御布施(おんふせ)とて、憲基法印(けんきほふゐん)の弟、御導師にて、それも御手のうらにと、きこえし御経こそ、あまたの御事の中に、みみにたち侍りしか。かなしさも今日(けふ)とぢむべき心ちして、さしもあつく侍りし日影も、いと苦しからずおぼえて、むなしき庭にのこりゐて候ひしかども、御仏事はてしかば、還御(くわんぎよ)いしいしとひしめき侍りしかば、たれにかこつべき心ちもせで、

   いつとなく乾くまもなき袂かな
      涙もけふをはてとこそきけ

持明院の御所、新院、御聴聞所(みちやうもんどころ)にわたらせおはします、御透影(おんすきかげ)見えさせおはしまししに、持明院殿は、御色(おんいろ)の御直衣ことに黒く見えさせおはしまししも、今日(けふ)をかぎりにやと悲しくおぼえ給へて。又、院御幸ならせおはしまして一つ御聴聞所(みちやうもんどころ)へいらせおはしますを見まゐらするにも、御あとまで、御栄えひさしく、ゆゆしかりける御事かなとおぼえさせおはします。


一二八 亀山院御悩

 嘉元三年七月二十一日亀山法皇御病気重きにより嵯峨殿へ御幸。作者は般若経の残り二十巻を書写のため九月十日頃熊野に出立。
 この程よりや、又法皇御なやみといふ事あり。さのみ、うちつづかせおはしますべきにもあらず。御悩(ごなう)は常のことなれば、これをかぎりと思ひまゐらすべきにもあらぬに、かなふまじき御ことに侍るとて、すでに嵯峨殿の御幸と聞ゆ。こぞ、ことしの御あはれ、いかなる御事にかと、およばぬ御ことながら、あはれにおぼえさせおはします。
 般若経の残り廿巻を今年かきをはるべき宿願、年ごろ熊野にてと思ひ侍りしが、いたく水こほらぬさきにと思ひたちて、なが月の十日頃に熊野へたち侍りしにも、御所の御ことは、いまだおなじさまに承(うけたまは)るも、つひにいかがきこえさせおはしまさむなどは思ひまゐらせしかども、こぞの御あはればかりは嘆かれさせおはしまさざりしぞ、うたてき愛別(あいべち)なるや。


一二九 那智の写経

 九月二十余日の頃、那智の御山で写経をする。写経も終りに近づいた頃、夢を見る。亡き父が傍にいて夢の中の事を一々説明してくれる。夢には去年崩御せられた後深草院、現存の遊義門院が姿を現わされなさって作者に好意を御示しになる。夢想の扇が枕に残っている。帰京して亀山院の崩御を聞く。やがて年が改まり嘉元四年(徳治元年)となる。
 例(れい)のよひあかつきの垢離(こり)の水をせむ方便になずらへて、那智の御山にて、この経をかく。なが月の廿日あまりのことなれば、みねのあらしも、ややはげしく、滝のおとも涙あらそふ心ちして、あはれをつくしたるに、

   物おもふ袖の涙をいくしほと
      せめてはよそに人のとへかし

かたみののこりをつくして、しやうゑ、いしいしと営(いとな)む心ざしを、権現も納受し給ひにけるにや、写経の日かずも残りすくなくなりしかば、御山をいづべきほども近くなりぬれば、御名残もをしくて、夜もすがら拝みなどまゐらせて、うちまどろみたるあかつきがたのゆめに、故大納言のそばにありけるが、「出御(しゆつぎよ)のなかば」と告ぐ。見まゐらすれば、鳥襷(とりだすき)を、浮織物(うきおりもの)に織りたる柿の御衣をめして、右のかたへちとかたぶかせおはしましたるさまにて、我は左のかたなる御簾よりいでて向ひまゐらせたる。証誠殿(しようじやうでん)の御社に入りたまひて、御簾(みす)をすこしあげさせおはしまして、うちゑみて、よに御心よげなる御さまなり。又「遊義門院の御方も出でさせおはしましたるぞ」と告げらる。見まゐらすれば、白き御はかまに、御小袖ばかりにて、西(にし)の御前(ごぜん)と申すやしろの中に、御簾(みす)それも半(はん)にあげて、白き衣(きぬ)二つ、うらうへよりとりいでさせおはしまして、「二人のおやのかたみを、うらうヘヘやりし心ざし、しのびがたくおぼしめす、とりあはせて賜ぶぞ」とおほせあるを、賜はりて、本座にかへりて、父大納言にむかひて、「十善のゆかをふみましましながら、いかなる御宿縁(ごしゆくえん)にて、御不具(おんかたは)はわたらせおはしますぞ」と申す。「あの御不具(おんかたは)は、いませおはしましたる下に御腫物(はれもの)あり。この腫物(はれもの)といふは、われらがやうなる無知の衆生を、多くしりへ持たせ給ひて、これをあはれみ、はぐくみおぼしめす故なり。またくわが御あやまりなし」と言はる。また見やりまゐらせたれば、なほおなじさまに、心よき御顔にて、「ちかくまゐれ」とおぼしめしたるさまなり。たちて御殿のまへにひざまづく。白き箸(はし)のやうに、もとは白々(しろじろ)とけづりて、すゑには竹柏(なぎ)の葉、二つづつある枝を、二つ取りそろへて賜はるとおもひて、うちおどろきたれば、如意輪堂(によいりんだう)の懺法(せんぽふ)始まる。何となくそばをさぐりたれば、白き扇の、檜(ひ)の木(き)の骨(ほね)なる一本あり。夏などにてもなきに、いと不思議に、ありがたくおぼえて、とりて道場に置く。このよしを語るに、那智の御山の師、備後(びんご)の律師(りし)かくたうといふもの、「扇(あふぎ)は、千手(せんじゆ)の御体(おんたい)といふやうなり、かならず利生(りしやう)あるべし」といふ。夢の御おもかげも、さむるたもとに残りて、写経、をはり侍りしかば、ことさら残しもちまゐらせたりつる御衣(おんぞ)、いつまでかはと思ひまゐらせて、御布施(ふせ)に、泣く泣くとりいで侍りしに、

   あまたとしなれしかたみのさよ衣
      けふをかぎりとみるぞかなしき

那智の御山に、みな納めつつ帰り侍りしに、

   夢さむる枕に残る有明に
      涙ともなふたきのおとかな

かの夢の枕なりし扇を、いまは御かたみともと、なぐさめてかへり侍りぬるに、はや法皇崩御なりにけるよし、うけたまはりしかば、うちつづかせおはしましぬる世の、御あはれも、有為(うゐ)無常(むじやう)の、なさけなきならひと申しながら、こころうく侍りて、我のみ消(け)たぬむなしきけぶりは、立ちさるかたなきに、年もかへりぬ。


一三〇 大菩薩の御心ざし

 徳治元年三月初旬、奈良から京都へ上る途中、石清水八幡宮に参拝して遊義門院の御幸にめぐりあう。文中の記事によれば、作者は三月七日に八幡宮に通夜、翌八日、門院は八幡宮に奉幣し更に狩尾神社に御参拝あり、作者はその折、門院からお言葉をかけられて感泣し、翌九日門院京都へ還御と聞き、女房兵衛佐を介して門院に桜を献じ、帰京せば直ちに御所へ参らんと申す。九日門院還御。作者はなお三日間参籠し、十二日頃帰京して兵衛佐に歌を贈る。
 やよひはじめつかた、いつも年のはじめには、まゐりならひたるも忘られねば八幡(やはた)にまゐりぬ。むつきのころより奈良に侍りしが上(のぼ)るたよりなかりしかば、御幸とも誰かはしらん。れいの猪(ゐ)の鼻(はな)よりまゐれば、馬場殿あきたるにも、すぎにしことおもひいでられて、宝前(ほうぜん)を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。「いづれの御幸にか」と、たづねききまゐらすれば、遊義門院の御幸といふ。いとあはれに、まゐりあひまゐらせぬる御契(おんちぎり)も、こぞみし夢の御面影(おんおもかげ)さへ思ひいでまゐらせて、こよひは通夜して、あしたも、いまだよに、(によ)くわんめきたる女ばうの、おとなしきが所作するあり。たれならんとあひしらふ。得選(とくせん)おとらぬといふ者なり。いとあはれにて、何となく御所さまの事、たづねきけば、「みな昔の人はなくなりはてて、わかき人々のみ」といへば、いかにしてか、たれともしられたてまつらんとて、御宮めぐりばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせんとて、したためにだにも宿(やど)へも行かぬに、「ことありぬ」といへば、かたかたにしのびつつ、よに御輿(みこし)のさまけだかくて宝前(はうぜん)へ入らせおはします。御幣(ごへい)のやくを、西園寺の春宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ)つとめらるるにも、太上入道殿の左衛門督(さゑもんのかみ)など申しし頃のおもかげも通ひ給ふ心ちして、それさへあはれなるに、けふは八日とて、狩尾(とがのを)へ如法(によほふ)御参りといふ。あじろこし二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られたてまつらん、よそながらも、ちと御姿(おんすがた)をもや見まゐらすると思ひてまゐるに、又かちよりまゐるわかき人二三人ゆきつれたる。御やしろに参りたれば、さにやとおぼえさせおはします御うしろを見まゐらするより、袖の涙はつつまれず、たちのくべき心ちもせで侍るに、御所作、はてぬるにや、たたせおはしまして、「いづくよりまゐりたるものぞ」と仰(おほ)せあれば、すぎにしむかしより語り申さまほしけれども、「奈良のかたよりにて候ふ」と申す。「法花寺よりか」など仰(おほ)せあれども、なみだのみこぼるるも、あやしとやおぼしめされんと思ひて、言葉すくなにてたち帰り侍らんとするも、なほ悲しくおぼえて候(さぶら)ふに、すでに還御(くわんぎよ)なる。御なごりもせんかたなきに、おりさせおはします所のたかきとて、えおりさせおはしまさざりしついでにて、「肩をふませおはしましておりさせおはしませ」とて、御そばちかくまゐりたるを、あやしげに御覧(ごらん)ぜられしかば、「いまだ御幼(おんおさ)なく侍りし昔は馴れつかうまつりしに、御覧(ごらん)じわすれにけるにや」と申しいでしかば、いとど涙も所せく侍りしかば、御所さまにも、ねんごろに御たづねありて、「今はつねに申せ」など仰(おほ)せありしかば、見し夢も思ひあはせられ、すぎにし御所(ごしよ)にまゐりあひまゐらせしもこの御社ぞかしと思ひいづれば、かくれたる信(しん)のむなしからぬをよろこびても、ただ心をしる物は涙ばかりなり。かちなる女房の中に、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)といふ人なり。つぎの日、還御(くわんぎよ)とて、その夜は、御神楽・御てあそび、さまざまありしに、くるるほどに、桜の枝を折りて、兵衛佐のもとへ、「この花ちらさむさきに、都の御所へたづね申すべし」と申して、つとめては、還御(くわんぎよ)よりさきに、いで侍るべき心ちせしを、かかるみゆきにまゐり会ふも、大菩薩の御心ざしなりと思ひしかば、よろこびも申さんなど思ひて、三日とどまりて、御やしろに候(さぶら)ひてのち京へのぼりて、御ふみをまゐらすとて、「さても花はいかがなりぬらん」とて、

   花はさてもあだにやかぜのさそひけむ
      契りし程の日かずならねば

御返し、

   その花はかぜにもいかがさそはせん
      契りしほどはへだてゆくとも


一三一 かたみの面影

 後深草院の御三周忌が近づき遊義門院は伏見の御所に御幸なされた。七月十五日早朝、作者は深草の法花堂に参り、新しく描かれた後深草院の御映像を拝む。その夜、御映像は伏見の御所に移され給う。
 そののち、いぶせからぬほどに申しうけたまはりけるも、昔ながらの心ちするに、七月のはじめのころより、すぎにし御所の御三(おんみ)めぐりにならせおはしますとて、伏見の御所にわたらせおはしませば、何となく、御あはれもうけたまはりたく、いまは残る御形見もなければ、書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、ことしはかなはぬも心うければ、御所の御あたり近く候(さぶら)ひて、よそながらも見まゐらせんなど候ひしに、十五日のつとめては、深草の法花堂へまゐりたるに、御影(みえい)の新しく作られさせおはしますとて、すゑまゐらせたるを拝みまゐらするにも、いかでか浅くおぼえさせおはしまさむ、袖の涙もつつみあへぬさまなりしを、供僧(ぐそう)などにや、ならびたる人々、あやしくおもひけるにや、「ちかくよりて、みたてまつれ」といふもうれしくて、まゐりてをがみまゐらするにつけても、涙の残りはなほありけりとおぼえて、

   露消えしのちのかたみのおもかげに
      又あらたまる袖の露かな

十五日の月、いとくまなきに、兵衛佐のつぼねにたち入りて、むかしいまのこと思ひつづくるも、なほあかぬ心ちして、たちいでて、みやうじやう院どののかたざまに、たたずむほどに、「すでにいらせおはします」などいふを、何事ぞと思ふほどに、けさ深草の御所にて見まゐらせつる御影(みえい)入らせおはしますなりけり。案(あん)とかやいふ物にすゑまゐらせて、召次(めしつぎ)めきたるもの四人して、かきまゐらせたり。仏師にや、墨染のころもきたるもの奉行して二人あり。又あづかり一人、御所侍(さぶらひ)一二人ばかりにてつき、かみおほひまゐらせて入らせおはしましたるさま、夢のここちして侍りき。十善万乗(じふぜんばんじよう)のあるじとして、百官にいつかれましましける昔はおぼえずしてすぎぬ。太上天皇の尊号をかうぶりましましてのち、つかへたてまつりしいにしへをおもへば、しのびたる御ありきと申すにも、御車寄せの公卿、供奉(ぐぶ)の殿上人などはありしぞかしと思ふにも、まして、いかなる道に独り迷ひおはしますらんなど思ひやりたてまつるも、今はじめたるさまに悲しくおぼえ侍るに、つとめて、万里(まで)の小路(こうぢ)の大納言師重のもとより、「ちかきほどにこそ、よべの御あはれいかがききし」と申したりし返事に、

   虫のねも月も一つにかなしさの
      残るくまなき夜半の面かげ


一三二 御三周忌法要

 徳治元年七月十六日、後深草院御三周忌が伏見の御所で営まれ、伏見上皇はかねてから御幸になっている。上皇は十六日夕還御。作者はしばらく御所近いところにとどまり、久我前内大臣と和歌の贈答をする。
 追記として遊義門院に扇を献上した事を記す。
 十六日には御仏事とて、法花の讃嘆(さんだん)とかやとて、釈迦・多宝二仏、ひとつ蓮台におはします。御堂(みだう)いしいし御供養あり。かねてより、院御幸もならせおはしまして、ことにきびしく、庭もうへも雑人(ざふにん)はらはれしかば、墨染のたもとは、ことにいやと、いさめらるるも悲しけれど、とかくうかがひて、あまだりの石のへんにて聴聞(ちやうもん)するにも、むかしながらの身ならましかばと、いとひすてし古(いに)しへさへ恋しきに、御願文(ごぐわんもん)終るより、懺法(せんぽふ)すでに終るまで、すべて涙はえとどめ侍らざりしかば、そばに、ことよろしき僧の侍りしが、「いかなる人にて、かくまでなげき給ふぞ」と申ししも、なき御かげの跡までも、はばかりある心ちして、「おやにて侍りしものにおくれて、このほど忌(いみ)あきて侍るほどに、ことにあはれにおもひまゐらせて」など申しなして、たちのき侍りぬ。
 御幸の還御(くわんぎよ)は、こよひならせおはしましぬ。御所さまも御人すくなに、しめやかに見えさせおはしまししも、そぞろにものかなしくおぼえて、かへらん空も覚え侍らねば、御所ちかき程になほやすみてゐたるに、久我のさきのおとどは、同じ草葉(くさば)のゆかりなるも、わすれがたき心ちして、時々申しかよひ侍るに、ふみつかはしたりしついでに、かれより、

   都だに秋のけしきはしらるるを
      いくよふしみの有明の月

問ふにつらさのあはれも、しのびがたくおぼえて、

   秋をへてすぎにしみよもふしみ山
      またあはれそふ有明のそら

又たちかへり、

   さぞなげに昔をいまと忍ぶらむ
      ふしみのさとの秋のあはれに

まことや、十五日は、もし僧などにたびたき御ことやとて、あふぎをまゐらせし包み紙に、

   おもひきや君が三とせの秋の露
      まだひぬ袖にかけん物とは


一三三 結び

 「問はず語り」全五巻を結ぶ文である。作者はここに、「問はず語り」が書かれたのは、自分の思いを空しく散らしてしまうに忍びず、せめて書き纏めて見たい情にせまられて書いたのだ。もとより形見として後の世に遺そうなどとは思わない、と言っている。その思いというのは、後深草院に対する思慕の情と、それにまつわる数奇な愛欲関係の体験、それから生じた我が身の沈淪、引いては久我家の没落を嘆く思いが一つ、いま一つは巻四以下の諸国修行の思いである。
 深草の御(み)かどは、御かくれの後、かこつべき御事どもも、あとたえはてたる心ちして侍りしに、こぞの三月八日、人丸の御影供(みえいぐ)をつとめたりしに、ことしのおなじ月日、御幸にまゐりあひたるもふしぎに、見しむば玉の御面影(おんおもかげ)も現(うつつ)におもひあはせられて、さても宿願のゆく末、いかがなりゆかんとおぼつかなく、年月(としつき)の心(こころ)の信(しん)も、さすがむなしからずやとおもひつづけて、身のありさまをひとりおもひゐたるも、あかずおぼえ侍るうへ、修行の心ざしも、西行が修行のしき、うらやましくおぼえてこそおもひたちしかば、そのおもひをむなしくなさじばかりに、かやうのいたづらごとを、つづけ置き侍るこそ。のちのかたみとまではおぼえ侍らぬ。
     〔本云。ここより又かたなして、きられて候。おぼつかなういかなることにかとおぼえて候〕




完   


底本
 問はず語り  玉井 幸助・校訂
 
   岩波文庫 1968年8月16日 第1刷発行
        1979年4月20日 第13刷発行

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