ドゥニ・ディドロ「自然法」

ドゥニ・ディドロ「自然法」
「百科全書」項目




Denis Diderot “ Droit naturel ”
Article de l’Encyclopédie
(1751-1765)


「自然法」(道徳)。この言葉は日常的に使われているので、そんなことはよく知っていると心のなかで思わない人はいるまい。この気持ちは哲学者もそうでない人も同じだろう。ただ違うのは、「法とは何か」と問われたときにとる態度である。普通の人は哲学用語も思想も知らないので、「君の胸に聞き給え」と言ってあとは黙ってしまうだろう。いっぽう、哲学者は同じところをぐるぐる回る循環論法に陥って黙って考え込んでしまうか、この問に定義を持ち出して片付けたと思うと、それと同じくらい解決し難い次の問に投げ込まれるだろう。

つまり「法とは正義の基礎であって、正義の第一原因である」と哲学者が答えると、「しかし、正義とは何だ」と問われる。哲学者は「それは各人にその人のものを返す義務のことだ」と答えると、「全てが万人のものであり、おそらく義務の明確な概念がまだ存在しない自然状態では、何がある人のものであって他の人のものではないと言えるだろうか。全ては他人のものであると認めており、他人には何も要求しない人には、他人に対してどんな義務があるのか」と問われるのだ。ここで哲学者は気付き始める。道徳のあらゆる概念のうちで、自然法の概念はもっとも重要でもっとも定義するのが難しい問題であることに。そこで、我々としては、自然法の概念に対していつも提示される最大の困難を解決できるようないくつかの原則を明確にできたなら、それでこの項目に対して十分な仕事をしたと思ってよい。そのためには、この問題をはじめから問い直して、明白なこと以外は語らず、すくなくとも良識あるすべての人を満足させる明瞭さ、道徳の問題にも可能な明瞭さをもって論じる必要がある。

1 もし人に自由がなく、とっさの決断あるいは不決断が魂の外側の肉体的なものから生まれてくる場合には、彼の選択は精神による純粋な行為はでなく、精神の素朴な能力の行為でもないことは明らかである。そこにあるのは善意であれ悪意であれ、本能的なものであるかもしれず、いずれにせよ理性的なものではないだろう。そこには道徳的な善も悪もない、正も不正もない、義務も権利もない。付言すれば、ここから、つねに自由でありつづけることがどれほど大切であるかが分かる。しかし、それは自発的であることの重要性ではない。この二つはしばしば混同されがちであるが。

2 我々はけんかばかりして不安定で哀れな暮らしを送っている。我々は皆さまざまな感情とさまざまな欲望をもっており、幸福になることを望んでいるからである。しかも、悪い人間は感情的になって、いつ何時でも、自分にされたくないことを他人にしたくなる。それは心の底では彼が言い渡している判決であって、それを避けることは出来ない。彼は自分の悪意を知っていて、それが自分にあることを認めざるをえない。あるいは、自分にあると思っているのと同じ権利が誰にもあると認めざるをえない。

3 しかしながら、自分の激しい感情にさいなまれて、それを満たさないかぎり人生が重荷になっているこの人を誰が批判できよう。彼は他人の人生を自由にする権利を手に入れるために、自分の人生を彼らのために捨てると言うのである。もし彼がひるまず次のようなことを言ったら、我々はそれにどう答えるだろう。「わたしは世の中にやっかいなトラブルばかり起こしていると思う。しかし、わたしが幸福になるためには他人を不幸にするしかないんだ。しかも、自分自身にとってはわたし以上に大切な人間はいない。このいまわしい依怙贔屓については誰もわたしを批判すべきではない。これは自由意志でしていることではないからだ。これは自然の声なのである。自然がわたしのために話しかける時わたしにはその声がもっともよく聞こえてくるのだ。しかしながら、この声が同じ激しさで聞こえるのはわたしの心の中だけだろうか。皆さん、わたしは皆さんに問いかけている。もし罰を受けず人知れずに出来るなら、死に際になって人類の大部分を犠牲にして生き延びようとしないような人が皆さんの中にいるだろうか」彼はさらに続けるだろう。「わたしは公明正大で誠実な人間だ。もしわたしの幸福のためにわたしに邪魔な存在を全部排除しなければならないなら、わたしが邪魔な人は誰でもわたしを排除することができなければならない。わたしの理性はそう望んでいるし、わたしはそれに従う。わたしは他人の犠牲になりたくないのに、他人にわたしの犠牲になるよう要求するほどわたしは悪人ではないのだ」

4 そこでわたしがまず第一に気付くのは、善人も悪人も認めるものが一つあるということである。それは人は単なる動物であるだけでなく理性を働かす動物である以上は、人は皆どんなことにでも理性を働かすべきだということである。そして、そこに当面の問題に対する真実を見つけ出す方法がある。真実を探求することを拒否する人は人間性を捨てた人であり、ほかの人たちから残忍な獣として扱われるのである。さらに、真実がいったん見つかったのに、それに従うことを拒否する人は誰であれ非常識な人か不道徳な悪人なのである。

5 では、さっきの乱暴な屁理屈家を黙らせる前に何と答えたらよいだろうか。彼の言い分のすべては、はたして彼は他人の生き死にに対する権利を手に入れたら自分の命を他人のために捨てるのか、それを知ることに帰着する。というのは、彼は単に幸福になりたいだけでなく、公平でもありたいからだ。そして、公平であることで悪人の評判を自分から遠ざけたいからだ。さもなければ、そんな人には答えてやることなく黙らせるべきだろう。そこで我々は彼に次のことを指摘するだろう。それは、彼が捨てるものが完全に彼のもので自分の好きに扱えるものであり、彼が他人に提示する条件が彼らにとって有利なものである時でさえも、それを彼らに受け取らせる正当な権利は彼にはないことであり、また、生きたいと言う人間にも死にたいと言う人間と同じ理性があり、死にたいと言う人に命は一つしかなく、それを捨てることで彼は無数の命を自由にしようとしており、この交換は、たとえこの地球上に彼ともう一人の悪人しかいない場合でも、とても公平とは言えないことであり、自分が望むことを他人にも望ませようとするのは馬鹿げており、彼が同胞に命をさらさせたい危険は、彼が進んで自分の命をさらしたい危険と釣り合っているかは不明であり、彼が危険にさらしていいと思うものの価値が、彼がわたしに危険にさらさせようとしているものの価値と不釣り合いでないかも不明なことである。自然法の問題は彼が思うよりははるかに複雑であり、彼は自分で裁判官と原告を兼ねており、彼の法廷にはこの問題に対する十分な能力がないということである。

6 しかしながら、もし善悪の本質ついて判断する権利が個人にないとするなら、我々はこの重大な問いをどこで行うべきだろうか。それは人類に対してである。この判断をする権利は人類のみに属しているのである。なぜなら、人類が持つ熱意のただ一つの目的は万人の幸福だからである。個人の意見は信用できない。それは善意であったり悪意であったりするからである。しかし、人類の総意(volonté générale)は常に善意である。しかも、人類の総意はけっして間違うことがないし、将来も間違うことはないのである。もし動物たちも我々人類とほとんど同類であり、もし動物と人類の間に確かな意思疎通の手段があり、もし動物たちがその感情と思いをわたしたちにはっきりと伝えることができるのなら、つまり、全体会議の中で動物たちが投票できるのなら、彼らをその会議に招集すべきだろう。そうなれば、自然法の問題はもはや人類のもとで討議されることはなくなり、動物界のもとで討議されることになる。しかし、動物たちは我々とは超えがたい不変の仕切りによって分離されている。だから、人類の尊厳から発生して人類の尊厳を構成する、人類に特有の知識と考え方をここでは問題にしよう。

7 個人が自分はどこまで人類であり、どこまで市民であり、どこまで被支配者でり、どこまで父であり、どこまで子供であるか、自分はいつ生きいつ死ぬべきかを知るために、問いかけるべき相手は人類の総意なのである。人類のすべての義務の範囲を決めるのは人類の総意なのである。君は全人類によって認められた全てに対して最も神聖な自然権を持つのである。君の思想と欲望の本質について君に明らかにするのは全人類なのである。君が思い描くことの全て、君の考えることの全ては、それが全体の利益、共通の利益にかなっているかぎり、良きものであり、偉大であり、高貴であり、崇高なのである。これこそ君たちの種である人類にとって最も大切なことであり、君とその同胞の幸福のために全同胞に対して君が是非とも必要とするものである。それは君が全同胞と利益が一致することであり、また全同胞が君と利益が一致することなのである。それは、君が人類から逸脱しているか人類の中に留まっているかを、君に教えるだろう。したがって、君はその利益の一致をけっして見失ってはならない。この一致がなくなるとき、君の知性のなかの善の概念、正義の概念、人間性の概念、道徳の概念が揺らぐのを見るだろう。君は常にこう言わねばならない。「わたしは人類に属している。わたしが持っている真に譲渡できない自然権は人類の自然権にほかならない」と。

8 しかし、君は問うだろう、どこにこの人類の総意は隠れているのか、どこでこの人類の総意に相談したらいいのかと。それはあらゆる文明国にある成文法の原則の中にあり、原始的で未開の民族の社会的活動の中にあり、人類の敵同士の暗黙の協定の中にあり、憤りと恨みの感情の中にある。この二つの感情は、社会的な規範や公的な復讐の欠如を補完するために動物たちにまで自然が与えると思われる感情である。

9 したがって、君は以上のことの全てについて注意深く考えをめぐらすなら、次のことを認めるだろう。一、人類の総意ではなく個別の声にしか耳を貸さない人は人類の敵である。二、人類の総意は、各個人においては知性が感情の沈黙した中で各人が自分の同胞から要求できること、及び同胞が自分から要求する権利があることに関して判断する純粋な行為である。三、人類の総意と共通の欲望についてのこの考え方が、同じ社会の中の個人と個人、個人とそれが属する社会、彼が属する社会と他の社会の間の互いの行動の規則となるのである。四、総意に従うことがあらゆる社会の絆となるのであり、それは犯罪集団においても例外ではない。やんぬるかな!道徳とはかくも美しいものなので、盗賊たちもその像を彼らの洞窟の奥に置いて崇めるのである。五、法は一人の人のためではなく全ての人のために作るべきである。さもなければ、その孤独な存在は、第5段落で我々が黙らせた乱暴な屁理屈家に似てくるだろう。六、個別の意見と人類の総意の二つの意見のうちで人類の総意はけっして誤ることはないのであるから、人類の幸福のために立法権が属すべきはどちらなのかを知るのは難しいことではない。自分の個別の意見が人類の総意の権威と無謬性を兼ね備えている崇高な人間に対してどれほど尊敬がはらわれるべきかは、容易に分かることである。七、たとえ人類の概念が永遠の流転の中にいると考えるとしても、自然法の本質は変わることがない。というのは、自然法は常に人類の総意および全人類に共通の欲望に関わっているからである。八、公平さと正義の関係は原因と結果の関係と同じである。あるいは、正義は明白な公平性以外の何物でもありえない。九、最後に、この結論はどれも理性を働かす人にとっては明白なものである。そして理性の働きを望まない人は人間性を捨てた人であり、自然に反した存在として扱われるべきである(項目終わり)。


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