セネカ『人生の短さについて』(新字)

これは樋口勝彦氏の訳を
新字新仮名にし漢字を現代風
にしたものである

対訳版

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一 1. パウリーヌスよ、短い寿命に生まれついているからと言って-また、我々に宛てがわれた時の期間がいかにも急速に、いかにも素早く流れ去り、そのために、ほんの少数の人を除けば、他の者は生活(ウィータ)を始めようと用意する時には、既に生命が尽きてしまうくらいだと言っては、死すべき人間の大部分は自然の意地悪さをかこつ。

世人の考えでは「一般的な」この不幸を嘆息するのは、大衆や、思慮のない俗衆のみにとどまらない。この心情は著名な人々の嘆きをさえ、呼びおこしている。

2. 医師のうちで最も偉大なる人(ヒッポクラテース)のあの有名な叫び「人生は短く、学芸は、永し」も由るところはこれである。また、アリストテレースが自然を相手に抗論し「自然は動物どもに人間の五世代分ないし十世代分もの寿命を与えて甘やかしておきながら、多くの目的、また偉大なる目的のために生まれた人間に対しては、それよりはるかに短い期限しか定められていない」との、賢明なる人としては決してふさわしくない訴え方をしているのも、これに由る。

3. 我々の持っている時間は短くはない、ただ我々は多くを浪費するに過ぎない。生命は充分永い。そして、全体を立派に使用するならば、きわめて偉大な事業を完成するのに、充分与えられている。しかしこれが贅沢や不注意のうちに流れ散る場合には、また立派な目的のために費やされることがない場合には、結局、究極的な必然性に強制されて、我々は悟らざる得ない、−−これまで流失するのに気づかずにいた生命が、既に流れ去ってしまったということを。

4. 正にその通りである。我々が短い生命を受けているのではなく、我々がこれを短くしているのであり、我々は生命の貧困者ではなくして、生命の浪費者なのである。例えば、巨額な、王者にふさはしい富でも、悪い所有者に渡った場合には、寸刻の間に飛散されてしまうが、いかに乏しい額でも、立派な保管者に委託された場合には、使い方によって増加するように、我々の生命も立派に調整する者にとっては、大いに伸張する。



二 1. 何で我々に自然をかこつ理由があろうか? 自然は親切に振舞ってくれた。生命は使い方を知れば、永い。飽くことを知らない貪欲に捕られている者もある。余計な労苦を重ねて、多忙な気苦労に捕えられている者もある。酒びたしになっている者もあり、怠惰のためにぼうっとしている者もある。他人の考えに左右されて絶えず浮動する野心のために、疲れ切っている者もあれば、貿易で一攫千金の欲に駆られ、ひと儲けの希望を抱いて、あらゆる土地、あらゆる海を引きずり回されている者もある。

ある者は戦争を欲し、あるいは他人の危険に緊張し、あるいは自身の危険に心痛して、常に苦しめられている。身分の上の者に、報いられることもないのに、取り入っては、自発的奴隷奉仕に憔悴している者もある。

2. 多くは、他人の運命のために努力し、自分の運命を嘆くことに終始している。大多数の者は、何ら確実なるものを追求することなく、移り気な且つおのれに不満な、動揺常なき軽薄さのために、新しい計画新しい計画へと投げこまれてしまう。

ある者には進路を選ぶべき定見が全然なく、ただ怠惰に過ごし、あくびをしている間に運命に捕えられ、詩人のうち最も偉大なる詩人が、神託のような言い方で言った言葉「我々が真に生活するは、生命のうち短い部分のみ」こそ真理だと疑えないほどである。実に、その他の残りの部分はすべて生命ではなくして、時に過ぎない。

3. 諸悪が四方八方から攻め囲み、眼をあげることも、真理を見究めようと眼を高くあげることも許さないばかりか、肉欲に溺れさせ、これに固着せしめた上、圧迫を加える。人々は決しておのれに立ち帰ることを許されない。いつか偶然にも休息を得る機会があったとしても、例えば、風のないだ後で、動揺の残る深い海のように、彼らは振り投げられ、自分の肉欲から解放された閑暇を得ることは決してない。

4. 持っている悪が皆に知れ渡っている人々のことを私が言っているのだ、と君は思うか?人々が寄り集って来る、幸福な境涯にある人々に眼をとめてみたまえ。彼らは自分の幸福に窒息させられている。富を重荷に感じている人がいかに多いことであろう!雄弁のために、才能を誇示するために、日々の苦慮に血を出している人が、いかに多いことだろう!連続的な快楽のために、蒼ざめている人がいかに多いか!被保護者たちの群にとり巻かれて、少しも自由の持てない人がいかに多いことだろう!

要するに、最低の者から最高の者に至るまで、ざっと見回してみたまえ。法律顧問をする者もあり、証人に立つ者もあり、訴訟を起す者もあり、弁護する者もあれば、裁定する者もあるが、おのれ自身のために権利を主張する者は一人としてない。それぞれ互いに他の者のために消耗しあっている。

名前を記憶されている人々のことを究めてみたまえ。彼らが著名になったのは、かくの如き働きが知られたためである。ある者は他の者のために、また他の者は別の他の者のために尽くしていて、誰一人としておのれ自身の主人である者はない。

5. 次に、ある人々の狂気の限りをつくした怒りがある。すなわち、長上の者に依頼したいと思うのに、応ずる暇がないと言われたとて、長上者の横柄に不平を鳴らす。

誰れか、おのれ自身のために尽す暇のないのに、ひとの傲慢の声を聞こうとする者があるだろうか? さて、その人の方は、傲慢な顔つきを以てしても、とにかくいつかは君を−−君がいかなる人であろうと−− 省みてくれたこともあり、君の言葉に耳を寄せてくれたこともあり、君を身近かに迎えてくれたこともあるであろうが、

しかし、君の方は、君自身を見つめ、君自身の言うことを聞いてやったことは、かつてないであろう。だから、このような義務が誰にでもあると思うという法はない。なぜならば、君がこの義務を果たす時があったとすれば、君はひとに対して果たしたいとは思わなかったことであり、かと言って、君自身に対しては果たすことが不可能だったのだから。



三 1. 過去に輝かしくひらめいた才能が、すべてこの一点に意見の一致を見ているとはいえ、人間精神のかくの如き暗愚はいかに驚くも、充分驚きを尽すことはないであろう。

誰でも自分の地所を人に占められて、黙っている者はない。境界に関する些細な争いが起きても、石や武器を取り上げるが、自分の生命を他人が侵害するのは、これを黙認している。いやそれどころか、自分の生命を所有するかも知れない者を、自分の方から引き寄せさえする。

おのれの金銭を分けてやりたがる者は一人も見受けられないが、生命の方だと、誰でもみな実に多くの人々に分け与えている。財産を守ることには締り屋であるのに、時間の浪費の問題になると、たちまち極めてだらしない浪費家となる−−これに限って貪欲になるのが名誉であるべき唯一のものの場合に。

2. だから、多数の老人のうち、誰か一人を捕まえてみたい。「見受けますところ、あなたは人間の寿命の終極に達したようだ。あなたには百歳、あるいはそれ以上の歳がせまっている。

「では、あなたの生涯の総勘定をしてみて下さい。あなたの時間のうち、どれほどを債権者が奪い去ったか、どれほどを情婦が、どれほどを保護者が、どれほどを被保護者が、どれほどを夫婦喧嘩が、どれほどを奴隷の処罰が、どれほどを公務上の市中の奔走が奪い去ったかを、計算してみて下さい。

「病気−−これも我々自ら招いたものであるが−−も、また使用することなくうち捨てられた時間も加算して下さい。あなたが数えあげる歳月よりは、少ない歲月しか、あなたは持っていないことに気がつくことでしょう。

3. 「記憶をたどって、あなた自身に聞いてみて下さい。いつあなたは御自分の意図に確信を抱いていたことがあったか、 一日があなたの決心した通りに過ぎた日が幾日あったか、いつあなた自身を自由に駆使する時があったか、あなたの顔が本来の形を保っていた時がいつあったか、いつ精神が落ち着ききっていたか、

「かくも永い生涯の間にあなたの完成した仕事は一体何であったか、あなたがいかほど失っているのか気づかないでいるうちに、あなたの生命を奪い去った者がいかに多いか、空虚な悲嘆とか、愚かな喜びとか、飽くなき貪欲とか、誘惑的な会話とかなどに奪われた時間がどれほどであったか、あなたの時間のうち、あなたに残されたものがいかに僅少であるかを。あなたには分かって来るであろう、あなたは未だ、時機に達しないうちに死んで行くのだ、ということが」と。

4. すると、その原因には何があるであろうか? 諸君は、いつまでも生きながらえられるかのような心算で生きている。諸君自身の弱さを決して思い浮べてみることがない。いままでにいかほどの時間が過ぎ去ったかを注視することもしない。

誰か人のために、ないしは何かのことのために宛てがうその一日は、ともすれば、これが最後の日となるかも知れないのに、あたかも充満しきって溢れ出るほどあるものの中からでも出すように、浪費している。死すべき人間として、諸君はあらゆるものを恐れる。不死の神々の如く、あらゆるものを渇望する。

5. 大部分の人々が、こう言うのを君は聞くであろう「五十歲になったら引退して、閑暇の生活にはいろう。六十歳になったら、公職を退こう」と。では聞くが、生命が未だ永く続くといういかなる保証が得られるのか?

君が企画する通りに事が運ぶよう誰が許してくれるのか? 君自身のために生命の残部をあてがうということは、言いかえれば、他の何事にもあてることのできない時間だけを、英知の研鑽のために振り当てるということは、恥ずべきことではないか。我々が生きていることを罷めなければならない時に至って、初めて生き始めようとするのは、いかにも遅きに失することではないか!

健全なる企図を、五十歲までも、六十歲までも延ばしておくとは−−少数の者のみしか達する者のない年齢の時機から、真の生活を始めようと欲するとは−−人間の何と愚かな健忘症であろう!



四 1. 最も権力のある、また高い位置に登った人々から漏らされる声で、閑暇の生活を憧れ、これを称え、自身の持ついかなる幸福よりもまさると言っているのを、君は知るであろう。往々、彼らは、無事にできることならば、おのれの占めている高い位置から下りたがる。幸運は、外部から作用してうち壊そうとする因子が絶無であっても、それ自体の内から崩壊するものだからである。

2. 神(故)アウグストゥスは、誰よりも厚く神々に愛された人であるが、休息を念願し、国事より身を引くことを常に希望してやまなかった。すべて彼の談話の帰するところは、「閑暇を望む」というこの一事にあった。いつかは自分独りの生活を始めようというこの、むなしいがしかし楽しい慰安をもって彼は自身の労苦を慰めていた。

3. 元老院に宛てたある書簡の中で、彼の休息が尊厳を失うことなく、また以前の彼の名誉に反することのなきことを期すると約束しているが、その中に私は次のような句を見つけた。

「しかし、このようなことは、約束よりも実現されてこそ立派なことと言える。とはいえ、最も渇望する時間が得られたらという念願は、私を駆って、その実現の喜びがなかなかはかどらない以上は、せめてその言葉からでも多少の楽しさを持たせてくれるほどである」と。

4. 閑暇こそ彼にとってかくも大きな念願とされ、そのために、これが事実上得られない以上は、空想によってでも、まず得ようとさえしたほどであった。万事が自分一人の意志に左右されていることを意識し、人々の運命も、諸民族の運命も握っていた彼には、彼の偉大な位置を脱け出すその日を考えることが、最も楽しいことであった。

5. 全世界に輝き渡っていたあのような幸福も、いかに多大な汗をしぼったものか、いかに多くの人知れぬ苦慮をかくしているものか、を彼はつぶさに経験して知っていた。

まず市民に対し、次に同僚に対し、最後には血族に対し、武器に訴えて決着せざるを得なくなり、彼は海に陸に血を流した。マケドニア、スィキリア島、アェギュブトゥス、スュリア、アジア、およびほとんどあらゆる国々を彼は転戦し、ローマ人の殺戮に疲れた兵を、外戦に向けた。

アルプス地方を平定し、もろもろの敵を征服し、うち混えて一様に平和とローマの主権の下に服せしめていた間にも−−殊にレーヌス(=ライン河)、エウプラーテース河、ダーヌウィクス河を越えたかなたへ国境を伸ばしていた間ですら、ローマ市内においては、ムレーナとか、カエピオーとか、レーピドゥスとか、エグナートゥスとか、その他の人々の剣先は彼を刺さんものと磨かれていたものであった。

6. これらの人々の陰謀を逃れるか逃れないうちに、彼の娘(ユーリア)とか、またこの娘とまるで誓約にでも結ばれたかのように、堅く密通関係で結ばれたあのように多数の貴族の青年たちとか。さてはパウルスとか、アントーニウスと結んで、またも脅威となった恐るべき女(クレオパートラ)などが、すでに衰えた年齢の彼を脅かした。

これらの腫物を、体の一部もろともに切り取ってしまっても、また別の腫物が発生して来るばかりであった。例えば、多量の血液のために鈍重になった肉体のように、絶えず別の部分に破綻をおこしていた。

だから、彼は閑暇の生活を憧れた。これを希求することにより、これを空想することによって、彼の労苦は慰められていたのである。人々の念願をかなえてやれる権力のあった彼の念願は、実にかくの如き念願であった。



五 1. マールクス・キケローはカティリーナやクローディウスなどの如き、またボンペーイウスやクラッススなどの人々––一方は明白な敵であり、一方は裏切りやすい味方であった人々−−の間に投げこまれ、国家とともに揉みに揉まれ、順境にも安らかならず、逆境にも耐え難く、ついにうち倒されるに至ったが、国家の破滅に陥るのをくいとめようとしていたころ、いかにしばしば彼の執政官在任を−−彼が自慢するのも故なしとはしないが、彼自身限りなく自画自讚しているその執政官在任を−−呪っていることであろう!

2. 父の方のポンペーイウスが敗れ、その子のポンペーイウスの方が未だヒスパーニアにおいて敗残兵をたて直しているころ、アッティクスに宛てたさる書簡の中で、キケローはいかに涙っぽい声をあげていることだろう!

「僕がここでどんな日を送っているか、と君は聞くのか?」彼はいっている「僕は好きなトゥスクルムの別荘で、愚図々々している。まあ、半自由民さ」と。次に、彼はその他のことをつけ加えて、以前の歳月を嘆き、現在について不平を鳴らし、将来を絶望している。

3. 自分は半自由民だ、とキケローはいった。しかし、ヘルクレースにかけて、決して賢者はかくも卑屈な名を名乗ることはしないであろう。常に完全にして堅実なる自由を持ち、束縛を受けず、おのれ自身を支配し、他の人々より高くぬきん出ているからには、賢者は決して半自由民とはならない。なぜならば、運命を克服している者を、克服することのできるものは何ものもないのだから。



六 1. 俊敏で活動的なるリーウィウス・ドゥルーススは、全イータリアの莫大なる群衆の支持を受け、グラックス兄弟の悪政策たる新法律を計画した時、その政策の結果の見通しがつかず、その政策を実施することもできず、さりとて一旦始めたのをうち捨てることも自由にならなかった時、彼の生涯のそもそもの始めから彼の生活の不安定であったことを呪った上、おのれ独りに限って、少年時代の頃からでさえ、休日というものがかつて一度もなかった、といったと伝えられる。

事実、彼は未だ後見人のついていた頃から、すなわち未だ幼児服を着ていた頃から、大胆にも裁判官たちに被告を贔屓させようと企てたり、法廷で勢力をふるうこと極めて華々しく、ためにある幾つかの裁判を彼は強引に勝ちとったほどであった。

2. かくも早熟の才能の野心は、どこまでも突進しないではいなかった。かくも早熟な大胆不敵さが、私的にも公的にも、甚だしい不幸な結果に陥ることは分かりきったことであろう。

だから、少年時代よりかつて一度も休日がなかったとの彼の嘆きは遅すぎた −− 少年時代から世を騒がし、法廷で持てあまし者であった彼には。

彼は自殺したのではあるまいかと論議されるが、そのわけは、急に股間に受けた傷のために斃れ、彼の死が故意のものだと疑う者もあり、不時の死でないことを疑う者は一人もないからである。

3. 他人の眼には幸福の極にあると思われていて、その実自分の過ごした永年の行為すべてを嫌悪し、おのれを責める偽らざる証言を自ら行っているような人々を、未だこれ以上挙げてみても余分なことであろう。

しかし、かくの如き嘆きを発(はな)っても、彼らは他人を改心させもせず、おのれ自身を改心させてもいない。なぜならば、言葉こそ吐いても、その気持は再びもとの惰性に戻って行くからである。

4. ヘルクレースにかけて、諸君の生命の如きは、よしんば千歳以上を越えたところで、きわめて狭小なるものに縮小されてしまうであろう。君たちの悪習がひと時代でも、ひと呑みにするだろうから。

本質的には流れ去るものではあるが、理性によって長引かすことのできるこの寿命も、速かに諸君を捨てて逃げ去るは必定である。なぜならば、諸君はこれをつかもうともせず、ひき留めもせず、万物のうち最も速力の早いものたる「時」を遅らせようとはせず、ただあたかも余分なるもの、取り戻し得るものででもあるかのように、流れ行くままに任せているからである。



七 1. ところが、まず第一にこういう人々をも挙げよう、すなわち、酒と肉欲のためにしか時を費やさない人々である。

実に、これほど恥ずベき繁忙に追われている者はない。他の者は、名誉という空疎な幻影に捕られている者があっても、その誤りはまだしもみばえのする誤り方である。

君は私に、貪欲な者とか、怒りっぽい人とか、あるいは正当でない嫌悪にとらわれる人とか、ないしは不正な戦争に没頭する者を、数え挙げてくれてもいい、これらの者は皆罪を犯しても、まだ男らしい犯し方の人たちである。

口腹や肉欲に耽溺している者の醜行は、不名誉なものである。

2. かかる人々の費やす時間をすべて考究してみたまえ。いかに長時間を彼らは勘定のために費やすか、いかに長時間を陰謀をめぐらすために、いかに長時間を恐怖のために、また人に取り入るために、また人から機嫌を取り結ばれるために、また自分の保証やひとの保証のために、また酒宴のために−−これは今では既に義務とさえなっている−−費やされるかを見てみたまえ。おのれの禍、ないしおのれの幸福が、彼らに息つく暇さえ許さないことが分かるであろう。

3. 要するに、これはあらゆる人々の間に意見の一致を見ているところであるが、繁忙なる人々には何事も立派になし遂げることが不可能だということである。雄弁術にしても、学芸にしても、そうである。精神が散漫になっていて、何ものをも深く受け入れることなく、いわば一緒くたに詰めこまれてもみな吐き出してしまうからである。

繁忙な人々にとっては、真に生きるということは、何よりも最も省られないことであり、また、これを知ることは何よりも困難なことである。

他の学芸には、世にその師匠があり、しかも多いこれらの師匠から子供たちは学芸を深く習得し、子供でもそれを教えることができるほどになるかのように見える。

真に生きるということは、全生命をかけて学ばねばならぬことである。そして、恐らくさらに奇異に感ずるかも知れないが、全生命をかけて学ばねばならぬことは死ぬことである。

4. 極めて偉大な人々で、富とか、公職とか、快楽などを放棄し、一切の障碍を捨て去った上、生涯の終局まで、生きることを知ろうとの、ただこの一事のみを目的とした人々は多い。

がしかし、それでもこれらの人々のうち大部分は、未だ知り得ずと告白して人生を去っている。いわんや、さきに挙げたような人々が、生きることを知りようはずがない。

5. 私の言うことを信じて欲しい。偉大なる人、すなわち、人間のもろもろの誤りを超越して、ぬきんでている人のなすことは、自分の時間を少しも奪われることを許さない、ということである。

したがって、得られる限りの時間を一切おのれ自身のために費やした人であるが故に、かかる人の生命は極めて永いものだということになる。

したがって、無駄な、怠惰な時間は少しもなく、他人のために左右される時間も少しもない。というわけは、かかる人は自身時問の最も吝嗇(りんしょく)な持主として、おのれの時間と交換するに価するものは、世に全くないことを知っていた人だからである。

だから、かかる人にとっては、時間は充分あったわけである。これに反して、自分の生命を多分に公衆のために奪われてしまった人々にとっては、時間が不足したとしてもこれは当然なことである。

6. かかる人々がいつまでも自己の損失に気づかずにいると考える理由はない。世間的の大きな幸福が重荷となっている人々の大部分は、被保護者たちの群にかこまれたり、あるいは被保護者たちの訴訟事件に活躍し、あるいはその他名誉とされる煩わしさに巻きこまれては、時折「おれには生活ができないのか?」と叫ぶのを聞くことがあるであろう。

7. いや、生活ができないと言う法はない。君を側へひき寄せようとする人は、みな君にとっては、君を君自身からひき離そうとする人にほかならない。

被告訴者がいかに多くの日数を君から奪い去っているか?公職選挙立候補者がいかに多くの日を君から奪ったか? 多くの遺産継承者の葬送(のべおくり)に疲れ切るほど長生きした老婆が、いかに多くの日を君から奪ったか?遺産継承者に指定されるのを狙っている者たちの貪欲を刺戟するために、仮病を使っている者が、いかに多くの日を君から奪い去ったか?諸君を友情のために迎えるのではなく、扈従者(こじゅうしゃ)にしようとして迎える権勢家の友人はいかに多くの日を君から奪ったか? おい、君の生活の日々の帳尻をあはせてみたまえ、そして再吟味してみたまえ。ほんの僅かな残りしかないのが分かるであろう。

8. 高官護衛官の持つファスケースを渇望していたくせに、一旦この望みを達すると、やめたくなり、たちまちこう言う者がある「この一年はいつ終るんだ?」と。

法務官に就任し演技を開催する役目の籤(くじ)に当りたいと熱望していたのに、さて演技を開催する段になると、「おれは、いつこんな役目から免れられるんだ?」と言う者もある。

演説家として、フォルム中の大御所として引張り凧の人気を得、莫大な聴衆をもって、声の聞きとれないほど遠くまで、一面に満たして、「いつになったら、こんな仕事を延ばして休めるんだ?」と言う者もある。誰しもみな自分の生涯を急ぎ、未来への憧憬と、現在を厭う念とに苦しまない者はない。

9. これに反して、すべての時間をかき集め、己れ自身のために活用し、毎日の日々を、これが最後の日だとして処理する者は、明日を望むこともなく、明日を恐れることもない。いかなる時間でもかかる人には新しい快楽を与え得ないからである。彼には、すべてが知りつくされ、すべてが飽きるほどに受け入れられてしまっている。他の点では、幸運が気の赴くままに処理してくれるかも知れないが、生命は彼にとって既に安全の域にある。かかる生命には、加えることも不可能であり、いささかも減らすことはできない。また、加え得るとしても、例えば、既に飽食し満腹しきった者に、幾らかの食物を与えるようなもので、欲しくなくともなお受け取るに過ぎない。

10. 故に、白髪やしわがあるからといって、人が永生きしたと考える法はない。かかる人は永生きしたというのではなくして、ただ永い間「在った」に過ぎない。なぜと言えば、烈しい暴風に、港を出るや否や捕えられ、あちらこちらと引き回され、方々から荒れ狂う風の変り方によって、同じ航路を円形に追い立てられた人を称して、長い航海をしたとは考えられないであろう?彼は長い航海をした者ではない、長い間打ち流された者である。



八 1. ある人々は人から時間を求める、また求められる側の人は極めて唯々として、これを与えているのを見て、私はいつも不思議にたえない。この両者はいずれも、時間を要するその目的の方のみを考えているのであって、時間そのものの方は、実に、いずれの側でも考えていない。あたかも、何でもないものの如くに求められ、何でもないものの如くに与えられている。これ、何よりも最も貴重なるものを、もてあそぶことである。時が具体的なるものでないが故に、また眼に見えないが故に、彼らには気づかないでしまう。それ故、最も安価なるものと評価され、いやそれどころか、これには全然価値がないとされている。

2. 人々が最も貴重なるものとして受取るのは、年金とか、執政官などからの給与であり、これらを得るためには、己れの労苦も、努力も、勤勉をも賃貸しする。時を重んずる者は、一人としてない。人々は時を、いわば無料のものででもあるかのように、贅沢すぎた使い方をする。しかるに、その同じ彼らでも、病気にかかった場合を見てみたまえ。死の危険が近づくと、医師の膝にすがるではないか!もし極刑の懸念がある場合には、生きんがために全財産をなげうってもかまわない気になるではないか!彼らの場合の、心持ちの矛盾は、かくも甚だしいものである。

3. 各人の過ごし来たった歳月の総数を明示することが可能であるように、もし未来の歳月の数も明示することができるとしたならば、残りが少ししかないということを知る者は、いかに狼狽することであろう!いかにそれを惜しむことであろう!ところで、確実なるものは、いかに少くとも、分け与えることは容易であるが、いつ尽き果てるか分らないものは、いよいよ一層注意深く保つべきである。

4. ところで、彼らが時のいかに貴重なものであるかを知らないのだと君が考える理由はない。彼らはよく、最も深く愛する人々に向って、おのれの歳の一部を与えてもかまわない、と言うのが常である。事実彼らは与える、しかもその意義を理解しない。彼らの与え方は、受ける側の者にとって、決して増加することにはならず、しかも自分の方は減少する結果となるような与え方である。しかるに、彼らは、自分ののを減らすという、この事実さえ知っていない。それ故、眼に見えない損失という損害は、彼らにとって我慢できるのだ。

5. 誰一人として、歳月を取り戻す者はあるまいし、歲月を再び君に返してくれる者もないであろう。寿命は出発した道を進み、その走路を後戻りすることも、留まることもないであろう。少しも騒ぎたてることもなけば、その速力の早いことを少しも警告してくれることもない。ただ沈黙のうちに流れ、王者の支配を以てするも、公衆の喝采を以てするも、永く延びることはない。そもそもの最初の日から、放たれた通りに走り行き、いかなる所でも寄り道することもなく、どこででも決して立ちどまることもないであろう。結局、どうなるか? 君が繁忙でいるうちに、生命は急ぎ去る。やがて、死は近づく−−望もうが、望むまいが、我々には死ぬ暇は必ずあるべきはずである。



九 1. ある人々−−私の言うのは、思慮深きを自負している人々を指すのであるが−−の考え方ほど、愚を極めたものはあり得まい。彼らは、よりよき生活を営み得んとするために、ますます多用な繁忙に陥る。彼らは生活(=生命)を始めようとするのに、生命の消費を以てする!彼らは自分の考慮を遠く将来へ向って、うちたてようとする。ところで、延引は生命の最大なる浪費にほかならない。延引は来る日来る日を奪い、将来を約束しつつ、現在を盗み去る。真の生活を営むのに、最も大きな障碍は期待である。期待は明日を頼り、今日を失う。運命の手中にあるところのものを、あれこれと処分することであり、現にいま手中に握っているところのものを失うことである。君はどこを見ているのか?いずれの方向を目ざして進むのか? 将来やって来るかも知れないものは、すべて不確実の中に在る。今、ただちに生きたまえ。

2. 見よ、最も偉大なる詩人は叫んでいる。あたかも神の口によって示唆されたかの如く、健全性のある詩をうたっているではないか。

哀れなる人間にとりて、およそ人生の最もよき日は、

まっ先にぞ逃ぐるなる、

と。「何だって愚図々々しているのか!」詩人の言うところはこうである「なぜ、怠けているのだ? 君がその日をつかまなければ、日は逃げてしまうぞ」と。いや、捕まえたとしても、やはり逃げ去るであろう。だから、時の早さと競うには、時の速かな使用を以てせねばならぬ−−ちょうど、急速に流れ、いつまでも流れ続けはしない奔流からは、素早く水をくまねばならないように。

3. この詩人が最もよき「時代」とは言わずして、最もよき「日」と言っているのは、果てしなく延引することを叱責せんとする目的からもまた言っている、極めて巧みな表現なのである。時がかくも急速に流れ去る中に、何だって君は安んじて愚図々々し、君の歳月の連続を永々と引き延ばそうとはするのか、君の貪欲な心にとって、その方がいかによいと思われたとしても? 詩人は君に向って「日」のことを、この現に逃げ去りつつある日のことを言っているのだ。

4. だから、およそ最もよき日はまっ先に哀れな人間から逃げ去って行く。というのは、とりもなおさず、繁忙に追われている人々から逃げ去って行くのだということに、疑問の余地はないではないか。

彼ら繁忙なる人々が、迂闊に、また無用意のうちに達する老年期が、彼らの未だ幼稚極まる精神を驚倒させる。その準備が全然できていないからである。彼らは突然、思いがけなく老年期に落ち込んでしまう。老齢が日々近づいて来るのに、彼らは気づかずにいたからである。

5. 例えば、談話とか、読書とか、何か深い考え事に耽ることは、旅をする者の気をそらし、目的地に近づいたことを感づかないうちに到着してしまうように、この絶え間ない且つ急速極まる人生の旅も、我々は目ざめている時も、眠っている時も、同じ歩調で進んでいるのであるが、繁忙な人々には、終末に至らないとはっきり分らない。



一〇 1. 私の説き出した問題を幾つかに区分し、幾つかの論証に分けようという気を起せば、「繁忙なる人々の生命は極めて短いものだ」という点を証する証左は、無数に私の念頭に浮かんで来ることであろう。いわゆる椅子にかけた学園の哲学者の一人ではなく、真の、また昔ながらの哲学者の一人であるファビアヌスは、いつもこう言っていた。「かかる心持ちの人々に対抗して闘うには、鋭い言葉などを弄すべきではなく、真向から攻撃して行かねばならぬ。微々たる怪我ぐらいでなく、突進することによって、敵の鋭鋒を避けねばならない。嘲弄は何の役にも立たないと思う。嘲笑すべきではない。粉砕しなければならない」と。彼らに対して、その誤りを責めるには、彼らを単に慨嘆してやるべきではなく、彼らに教え訓してやらねばならぬ。

2. 時は三つに分けられる。かつて「あった」ところの過去、いま「ある」ところの現在、やがて「あるであろう」ところの未来とである。このうち、いま我々が過ごしつつある現在は短く、我々が過ごそうとする未来は不確実であり、我々が過ごし来った過去は確実なるものである。というわけは、過去は運命がこれを支配する力を失ってしまったものであり、いかなる人の思う通りにも戻すことのできないものだからである。

3. 繁忙なる人々は、この過去を失う者である。なぜならば、彼らには過去の事をふり返ってみる暇がないからであり、よしんばもしその余裕があったとしても後悔にたえないことを追想することは、不快なことだからである。

したがって、彼らは悪い過ごし方をした過去に心を向けることを嫌う。また、目前の快楽という一種の誘惑のために忘れられてはいても、思いかえせば再び明かに現われて来るところの、悪行を犯した過去を再びなめてみようとする気にはなれない。決して見落すことのない、おのれの良心の検閲のもとに、すべての過去を過ごした人でない限り、喜んで過去をふりかえろうとする者はない。

4. 野心に駆られ、多くの野望を抱いたことのある者、傲慢に人を軽蔑したことのある者、無法に勝ちを制したことのある者、奸策をもって瞞着したことのある者、貪欲に物を奪ったことのある者、だらしなく浪費したことのある者は必ずや自分の記憶を恐れるに違いない。これに反して、我々の時間の中では、この過去の部分こそ、神聖な、特別なる部分であり、人間のあらゆる災害を超越し、運命の支配の埒外にあるものであり、貧困といえども、恐怖といえども、病気の発作といえども、これを乱すことなく、これこそ動揺を受けることも、奪い去られることも不可能なるものである。これこそ、その人の永遠にして、ゆるぎない所有である。

一日一日が、それも寸刻の続く一日一日が現在である。ところで、過ぎ去った時の一日一日は、諸君が命ずれば、すべてその場に現われて来るし、君の意のままに、見つめることも、とどめ置くことも、自由自在になるであろう。繁忙な人々には、これをする余裕がない。

5. 安穏にして平静なる精神には、おのれの生涯のあらゆる部分に亘って、駈け回ることが可能であるが、繁忙なる人々の精神は、いわばくびきにかけられているようなもので、首を曲げることも、ふりかえることもできない。だから、彼らの生命は深い底へ消えて行く。例えば、水瓶のようにいかに多量を入れても、下にこれを受けて保つものがなければ、何の益にもならないと同様、いかに多くの時が与えられても、下で受けて保つ場所がなく、こわれて穴のあいた精神から漏れてしまう場合には、何にも得るところがない。

6. 現在の時は極めて短いものである。実に、ある人々にとっては、無きに等しく思われているほどである。そのわけは、絶えず走っていて飛び去り、まっしぐらに流れ去って行くからである。未だ来ないうちに、早くも存在しなくなる。止まることを許さないのは、不休の間断ない運行が決して同じ軌道に留まることのない宇宙や星群と異なるところがない。であるから、繁忙なる人々に関係のあるのは現在の時間のみである。それは捕まえることができないほど短く、しかもそれが、色々な方面に気の散っている彼らからは、色々な方面に奪い去られて行く。



一一 1. 要するに、彼らの生き方は決して永く生きる所以でない、ということを知りたいとは思わないか?見たまえ、いかに彼らは永生きしたがるかを。もうろくした老人たちは、僅かな年数でも加えられんことを祈念する。自分の年を若く偽ろうとする。これは嘘によっておのれ自身にへつらうことであり、おのれ自身を偽って喜んでいるのは、おのれの宿命をも同時に欺こううとするのと異なるところがない。やがてしかし、死すべき人間性の弱さに思い当る時が来ると、彼らはいかに恐れおののいて死んで行くことだろう−−生命から出て行くという態度ではなく、あたかも生命から引きさらわれてでも行くかのように!

彼らは、自分が真に生きなかったのは、いかにも愚かであったとわめきたて、もしもかかる病気から、脱れ出られたあかつきには、今度こそ閑暇の生活を始めようと叫ぶが、その頃には、これまで持てなかったところのものを得ようとしても徒労に終るということ、また、あらゆる労苦も一切無駄に帰するということを、思うばかりである。

2. これに反して、あらゆる雑事から遠ざかって生命を費やす人々にとっては、生命が広大でないという法はない。その生命は少しも他人のものとはならず、いささかもあちらこちらの人にふりまかれることもなく、そのうちから少しでも運命に渡されることもなく、不注意のために消失することもなく、鷹揚に人に与えて失くすこともなければ、余分なものも全然ない。全部がいわば収益をもたらすものである。したがって、いかに少なかろうとも、豊かに流れ、それ故、いつ最後の日が来ようと、賢者は確固たる足どりをもって、ちゅうちょするところなく死に向って行く。



一二 1. 君は恐らく聞くかも知れない、一体いかなる人々を称して繁忙だというのかと。夜になってついに中へ入れられた番犬に、公会堂から追い立てられるような人々とか、よく見受けられるように、自分につき従う多数の被保護者たちの群の中に、偉そうにもまれているような人々とか、あるいは、ひとにつき従う群にまじって、被保護者として軽蔑されながら、押しもまれている人々とか、公務のために自宅から呼び立てられ、人の戸を叩き歩かなければならない人々とか、卑しいやがて破綻を招くにきまっている利得のために、法務官の槍に忙しがっているような人々−−私がこのような人々ばかりを繁忙な者と呼ぶと思ってくれては困る。

2. ある人々の閑暇は繁忙な閑暇である。別荘にいても、臥台の上に横たわっていても、孤独の真中にいても、あらゆるものから遠ざかっていようとも、おのれ自身にとって、自ら煩わしものとなっているからである。かかる人々の生活は閑暇の生活とはいうべきでなく、実は、怠惰な繁忙というべきものである。

少数の人々の気違いじみた騒ぎの前に、貴重品とされているコリント合金製品を、不安に充ちた入念さをもって並べ立てたり、緑青のふいた銅片に、一日の大部分を費やしたりするような者を指して、君は閑暇の人と呼ぶだろうか? 相撲場−−おお、恥ずかしい限りだ!全くローマ風でない悪弊に、我々は浮身をやつしている!−−に座って、若者どもの相撲をしているところを見物している者を閑暇ある人と呼ぶであろうか? 自家所有の馬車馬の群を、 同じ年頃、同じ色合いの馬を揃え組み合わせて悦に入っているような者を? 手に入れたての新しい力士を養育しているような者を?

3. どうであろう? 理髪師の店で、昨夜のうちに伸びた毛が少しでもあれば、それを刈らせながら、あるいは一本々々の毛について相談を始めたり、あるいはほつれた髪を直し、あるいは足りない毛をあっちこっちと額になすりつけたりして、長時間を過ごしている人々を、君は閑暇のある人と呼ぶだろうか?

理髪師が女の髪の場合のように丹念にやらず、男の髪を刈るような、ややぞんざいな刈り方でもすると、彼らの怒りはどうであろう!自分の前髪が少しでも切り落されでもすれば、また少しでも列からほつれでもすれば、また、全部がうまく縮れないことにでもなれば、彼らはいかに怒ることだろう!このような人々の中には、国家が乱れようとも、自分の髪の乱れるよりはましだと思わない者が、一人でもいるだろうか?

自分の頭の装飾の方が頭の健全性よりも、大切に思わない者が一人だっているだろうか? みな、精神的に立派であるよりも、髪の方が小綺麗になっている方を望んでいる。君はかくの如き人々を称して、櫛と鏡との間に忙殺されている者だ、と言わないだろうか?

4. 歌を作ったり、聞いたり、学んだりすることに熱中して、正しい声の出し方を、自然が最も率直に作ってくれているのに、これをゆがめて、この上もなくだらしない韻律の曲りくねった声にしたり、何か念頭に浮ぶ歌の調子をとって絶えず指を動かしたり、また、真面目な用件で呼ばれても、あるいは時とすると悲痛な用件で呼ばれた時ですら、口の中で歌の節をつぶやき聞かしているような人々は、どうであろうか? かくの如き人々の持つのは、閑暇ではなくして、怠惰な繁忙にほかならない。

5. ヘルクレースにかけて、これらの人々の酒宴も、私は閑暇の時聞とはみなしたくない。銀製の器物を出すのに、彼らはいかに心を悩ますか、美しい給仕奴隷たちの着物の裾のからげ方に、いかに苦慮するか、料理奴隷から豚がどんな風に料理して出されるか、美少年奴隷たちが合図を受けるといかに素早く御用に走り回るか、鳥料理がいかに手際よく整然たる細片に切り分けられるか、不幸な少年奴隷たちは泥酔者の吐いた物をいかに注意深くぬぐい取るか、などということに彼らがいかに気をもんでいるかが私には見えるからである。このような馬鹿げたことから、通人だとか優雅だとかの評判を得ようと汲々とし、ついには酒を飲むにも物を食べるにも必ず派手な気取り方をしないではいられないほどに、生活のあらゆる隅々にまでその悪弊がつきまとうようになる。

6. 次のような人々も、私は閑暇の人の仲間には数えたくない、すなわち、椅子輿や輿であちらこちら乗り回し、これを怠ることは許されないことででもあるかのように、その乗り回す時間を一定させている人々だとか、係りの者を定めておいて、その者に、入浴すべき時間が来た、水浴の時間が来た、食事の時間が来た、といちいち注意させているような人々などで、これらの人々は贅沢な精神の、余りにも度外れな倦怠のために柔弱になり、はては自分が空腹なのかどうかさえも自分では判別がつかないくらいになっている。

7. お上品な人々−−人間の生活や習慣を忘れることを、もしお上品と呼ぶべきだとすれば−−のうちのある者が、聞くところによれば、浴場から奴隷たちの手で持ち揚げられ、輿に乗せられた時「おれはもう座っているのか?」と聞いたという。かくの如き、自分が座っているのかどうかさえも知らない男が、自分は生きているのかどうかを、目が見えるのかどうかを、暇であるのかどうかを、知っていると考えられるであろうか? もしこの男がそれを知らないとしたら、それとも、もし知らない風をよそおったのだとしたら、どちらの方をより深く哀れんでいいのか、たやすくは言えないであろう。

8. なるほど、彼らは多くの事を忘れっぽい、がしかし、多くのことを忘れる風をもまたよそおう。ある種の悪弊は、いわば栄華の証左ででもあるかのように、彼らを喜ばすものとなっている。自分の行っていることを知っているのは、極めて下賤な軽蔑され切った人のすることとみなされている。見たまえ、黙劇役者たちは贅沢を嘲笑するために、色々多くのしぐさを真似て見せるではないか。ヘルクレースにかけて、確かに黙劇役者たちの真似て見せることも、黙劇役者たちの見落していることに比べればはるかに少く、この悪い方面にかけてのみ巧みな今のこの時代には、信じ難い悪習が実に多く発達を遂げ、ためにいまや黙劇役者の注意が足りないと責めることができるくらいである。

贅沢に没入すること深く、そのために、自分が座っているのかどうかをさえ、人に聞かねばならぬほどの人間があろうとは!

9. だから、かくの如き者は閑暇のある者ではない。このような者には別の名を与うべきである。病者なのだ。いや、むしろ死人である。おのれの閑暇を自覚している者こそ、閑暇の生活者である。しかるに、自分の体の状態を知るのに、人の指示を必要とするような、かかる半死半生の男が、いかで時間を支配する主人になり得ようか?



一三 1. 将棋とか毬投げとか、あるいは日光浴で体を焦すことに、生命を費やされてしまうような人々を、一々挙げていては際限がない。煩わしいことを多く伴う快楽にふけっている者は、閑暇のある人ではない。

無用な文学の研究にとらわれている人々について言えば、彼らは忙しい思いをしながら、何もなすところがないということは、誰一人として疑う者がないであろう。いまではローマ人の間にも、このたぐいの人々はなかなか多い。

2. ウリクセースの持っていた漕ぎ手の数は幾人であったかとか、「イーリアス」と「オデュッセイア」とはいずれがさきに書かれたかとか、なおまた、この二作品は同一人の作者の手になるものかどうかとか、その他この種の問題で、黙っていれば、知っていて黙っているのが楽しくなく、かといって公表すれば、うるさい奴だと思われこそすれ、学者だとは思われないような事がらを詮索することは、かつてギリシャ人の間にはびこった病弊であった。

3. ところが見よ、余計なことを知ろうとするこの無益な研究がローマ人の間にも侵入するに至ったではないか。

この数日前にも私は、ある人がローマの将軍たちのうちで、何とかをしたのは誰それが最初であるとかを云々しているのを聞いた。海戦で勝利を得た最初の者はドゥイーリウスだとか、凱旋式に初めて象をひいて来たのはクーリウス・デンタートゥスだ、とか言う。かようなことがらは真の名誉にはならないことだとはいえ、それでもまだいまもって、大体ローマ市民の業績の模範とはなる。

かような知識は、役に立つものではないが、それでも、空疎な事ながらも魅力をもって我々をひきつける知識である。

4. ローマ人に船へ乗ることを初めて教えたのは誰であったかなどという問題を詮索する人々をも、我々は大目に見てやることにしよう。それはクラウディウスであったという。

古人の間では、多くの板をつぎ合わせることをカウデックス caudex と呼ばれ、公の法規標板がコーデックス codex と言われるのはこれに由来し、またティベリス河で荷を運ぶ船を、いまでも古風な言い方ではコーディカリア codicaria と呼ばれるのも、これに由来しているのであるが、この故に彼がカウデックス caudex と呼ばれたのがクラウディウスになまったのだと言う。

5. また、ワレリウス・コルウィーヌス(メッサーラ)が初めてスィキリア島の町メッサーナを破った者であり、ワレリア族の者のうちで、彼が初めてその占領した町の名から彼に与えられた名をもってメッサーナと称されたのが、世間でその文字を少しなまってメッサーラと呼ばれるようになったのだ、などということもなるほど意義がないことではないとしよう。

6. 競技場(キルクス)で幾頭かの獅子を放して見せたのはルーキウス・スルラが最初で、彼はまたべつに獅子をつないだままで演技に出して、ボックス王から派遣された投槍兵たちにこれを殺させて見せた、などということを人が詮索するのを、君は大目に見てやれるであろうか? なるほど、これも大目に見てやれないこともないかも知れない。だが、競技場で十八頭の象を用いる戦争を行わせ、戦闘に擬して凶悪な罪人たちをこれに向かわせた最初の人は、ポンペーイウスであった、などということは詮索したところで何の益にもならないことではないか。

ポンペーイウスは国家の首領であり、伝えるところによれば、昔の首領たちのうちでは際立って心の善良な人だったといわれるが、その彼が新しい方法で人間を殺す−−世の記憶から没し得ざる−−演技の一種を案出したと言うのだ。

かかる演技では、登場者たちは死ぬまでたたかうのか? それでも充分でない。惨殺されるのか? それでも充分でない。実に、巨大な動物の群に圧しつぶされるのだ!

7. かようなことは、忘れ去られるに越したことはない、そうすれば、後の世の権力者は誰一人として、この非人道的なやり方を学ぶ者はなく、これを羨む者も出て来ないであろうから。

おお、栄華の極みというものは、我々人間の心に何と大きな暗黒を投ずることよ!ボンペーイウスが、あのように多くの不幸な人間の群を、他国の空の下に生まれた野獣の下に投じた時、また象対人間というかくも不釣合いな生き物の間に戦闘を行わせた時、また、やがてはそれ以上の血を自ら流さざるを得なくされようとしていたローマ国民の眼前で、多量の血を流させて見せた時、彼は自然を征服したと信じた。しかし、その彼が後日アレクサンドリーアの不信に裏切られ、結局奴隷のために刺し殺される羽目に陥ったが、その時こそついに彼の「偉大なる」という尊称も空虚な誇りに過ぎなかったことが分かったのだ。

8. ところで、私が脱線したもとのところへ戻ることにして、これと同じ問題に、ある人々が無駄な努力を傾けていることを示すとさきに言った、例の男の述べるところでは、メテッルスはスィキリア島においてポエニ人を征服した後、凱旋するに際して、彼の戦車の前に捕獲した象百二十頭を連れて来たとかで、これはローマ人中彼一人だとのことである。

聖域空地の拡張は、古人の間の習慣では、イータリア半島以外の領土を加えた場合には決して行われず、ただイータリア内の地域がローマの支配下に加えられた場合のみに限られていたものであったが、この聖域空地を拡張した最後の者はスルラであったと言う。

このような知識は、次のようなことに比べれば、まだしも為になることである。すなわち、さきに言った例の男の主張するところでは、アウェソティーヌス丘が聖域空地の外になっているのは平民党が別れてここへ来たためか、ないしは、レムスがこの地で鳥卜を行った時、鳥どもが吉相を示さなかったがためか、その二つの理由のうちの一つによるのだとか、その他、なお嘘に充ちた、でなければ嘘に似た無数の事がらがあるが、これらは何の役にも立たない知識である。

9. すなわち、彼らはこのようなことをすべて正直に信じ切っているのだということは認めるとしても、また、彼らは真実だと保証して文に綴ってはいるとしても、それにしても、かような知識によって、人生上の誤りを減らしてもらえる者が誰かあろうか? かような知識によって、貪欲の心を抑えつけてもらえる者があるだろうか? 勇気づけてもらえる者が、正しい者にしてもらえる者が、自由にしてもらえる者が、あるだろうか? 私の親しいファビアーヌスがしばしば言っていたことであるが、かような事に縛られるくらいならば、むしろ学問に全然たずさわらない方がましではないかと疑わざるを得ない、と。



一四 1. あらゆる人々のうちで、英知(=哲学)のために時を費やす者のみ、独り閑暇のある人である。真に生きているのは、かかる人だけである。単におのれの寿命を立派に守っているからだと言うだけではない。あらゆる時代を、おのれの年に加えている者である。彼らの以前に過ぎた一切の過去の年はことごとく彼らの所得となる。

我々が甚だしい忘恩の徒ならばいざ知らず、そうでない限り、神聖な諸思想の最も卓越せるかの創始者たちは、我々のために生まれて来た人々となり、かつ我々のために生活をあらかじめ用意してくれた人々となる。ひとの労力のお蔭で、暗黒から光明の中へ掘り出された最も美なる世界へ我々は導かれる。我々がいかなる時代へ向かおうとも妨げられることはない。我々はいかなる時代へも入れてもらえる。

人間的脆弱性から成り立っている狭小な境地を、大いなる精神をもって抜け出たいと望むならば、我々が逍遥できる時間は多量にある。

2. ソークラテースと論じ合うこともできる。カルネアデースと懐疑にふけることもできよう。エピクーロスとともに安心を得ることも、ストアー派の人々とともに人間性を克服することも、犬儒派の人々とともにこれを解脱することもできる。自然が我々にいかなる時代との交遊にもはいることを許してくれる以上、我々はこの短くはかなく過ぎ去る時を脱して、計り知れない宏大な、永遠なる、また我々より優れたる人々と共有する過去の世界へ全精神をもって没入しないではいられないであろう。

3. 公務のために駆け回っている人々、自他をともに騒がしている人々が、甚だしい狂気沙汰をふるまったところで、また日々あらゆる人々の敷居を歩き回り、開いている戸口は一軒といえども見のがさないとしたところで、また極めて遠く離ればなれにある家々を歩き回って、収益のあがる挨拶をして歩いたところで、一体幾人の人に面会してもらえることだろうか−−かくも広い、またかくも雑多な欲に心を奪われているこの都の中で?

4. 眠っていたり、贅沢に耽っていたり、不親切な心から、人を遠ざけている者が何と多いことだろう! 待たせて散々じらしたあげく、急用をよそおって、すり抜けてしまう者がいかに多いことだろう!

挨拶に来ている被保護者たちのいっぱいつめかけている客間へ通るのを避けて、秘密の裏口からこっそり抜け出てしまう者がいかに多いことだろう−−だます方が、待ちぼうけを食わすよりは親切だ、とでも言うかのように! 他人の眠っているのを待つために、自分の眠りを破って早朝から挨拶に来る不幸な人たちに対して、昨日の深酒にねぼけ、重い頭でいて、名指し奴隷に何千回もささやかれてようやくのみ込んだ名前を呼んで、挨拶に答えるのに、傲慢きわまるあくびを以てする者が、いかに多いことだろう!

5. ゼーノーンとかピュータゴラースとか、デーモクリトスとか、そのほか学問の大家たちを、アリストテレースとか、テオプラストスとかを、日々最も親しい友としようと望む者こそ、これ真の任務に時を過ごす者だと言ってさしつかえあるまい。これらの哲学者たちは、一人として諸君に会う暇がないと言う者はないであろう。近づく者には、必ず前より幸福にしてかえし、より親愛の情を抱かしてかえすであろう。いかなる人にも決して空手で、自分の元を去らせはしないであろう。彼らは夜と言わず、昼と言わず、あらゆる人間が面接できる。



一五 1. これら哲学者たちのうち、誰一人として君に死を強制する者はない。彼らはみな、死に方を教えてくれるであろう。彼らのうち誰一人として君の年を消耗する者はなく、それどころか、彼ら自身の年を君に与えてくれるであろう。彼らのうち誰の言葉にも危険な言葉はなく、誰と親しく交っても死罪をこうむるうれいはなく、彼らのうち誰を尊敬しようと費用のかかることはない。彼らからは何でも君の望むものが受け取れるであろうし、君の思う存分多くを汲み取るのを、彼らが妨げることもないであろう。

2. 彼らの元に身を寄せてその被保護者となる者には、何たる幸福が、何たる素晴らしい老境が待っていることであろう! 最も小さな問題にも、最も重大なる間題にも、相談にのってくれる相手を得るであろう。自身の身の上について日々智慧を借りることのできる相手を、侮辱を伴うことなく真実を言ってくれる相手を、阿諛のない褒め方をしてくれる相手を、模範として自分をそれに似せようと思う相手を得るであろう。

3. 我々がいかなる両親を持つ運に当たるかは、これ我々の力ではいかんともなし得ないことで、両親は運命によって各人に与えられたものだとは、我々の常に言うところであるが、しかし我々はこれら哲人たちの誰の子にも意のままに勝手に生まれることができる。

彼ら哲人たちは才能の最も優れた人々から成り立つ家庭をなしている。その一員に加えてもらいたいと思う家庭をどれでも選びたまえ。その養子にしてもらうにも、名前のみにとどまらず、その財産をもまたうけつぐようになるであろう−−卑ししくけちけち守る必要のない財産を、多くの人に分け与えれば与えるほど、益々多くなって行く財産を。

4. 彼らは君に、永遠性に達する道を教えてくれ、君を引き上げて、誰も投げ落されることのない、高い所へ登らしめてくれるであろう。これこそ死すべき人生を延ばす唯一の、いや不死性に向う唯一の方法である。

名誉とか、記念碑とか、野心が法令を発して命じたり、労作を課して建造せしめたものは何ものに限らず、たちまちのうちに崩壊してしまうであろう。何ものといえども永く時代を経ることによって、破壊されないものはない、位置を移されないものはない。

これに反して、英知(=哲学)によって神聖化されたるものは、いかなる時代とても、これを害することはできない。いかなる時代とても、これを砕くことはできない、減少させることもできない。後に続く時代が、またさらにその先の時代が、絶えず幾ばくかの尊敬を集め加えて行くことであろう。

なぜならば、身近かに在るものには嫉妬が向けられるものであるが、遠くに在るものに対しては、遠いほど率直に我々は驚き入るものだからである。

5. 故に賢者の生命は宏大に伸展する。賢者以外の者を封じこめているその限界も、賢者を封じこめることはない。人類のもろもろの掟から解放される者は、独り賢者のみである。あらゆる世代はみな、賢者に仕えること、神に仕えるが如くである。時が幾らかでも経過したら? 賢者は過去を追憶をもって抱擁する。現在は? 賢者はこれを活用する。未来は? 賢者はこれを予知する。過去、現在、未来のあらゆる時がただ一つのものに結集して、賢者の生命を永続的なものにする。



一六 1. 過去を忘れ、現在を無視し、将来を危惧する人々の生命は、最も短く、最も悩み多いものである。彼らが最後の時にたち至った時には、何らなすところなくして、かくも永い間あくせく過ごしてしまったことを悟るが、かわいそうにも、もう間にあわない。

2. また、彼らが時々死を望むことがあるからという理由をもって、彼らが永い生涯を送っているのだと考えてはならない。無分別が彼らに不安定な心持を抱かせ、彼らが恐れとしていることに突入しようとする心持を起こさせては、彼らを悩ますのである。

3. 彼らは往々、死を恐れるが故にという正にその理由のために死を願うではないか。彼らがしばしば一日を永く感ずることがあるからとて、また、宴に招かれる約束の時の来るまで、時間のたつのが遅くてたまらないと嘆くことがあるからとて、このことをもって人が永い生き方をすると考える証左とはならない。なぜならば、もし彼らに屈託がないような時があるとすれば、暇の中にとり残されて焦慮し、その暇を用いるすべも、引さ延ばす方法も、彼らは知らないからである。

だから彼らは何らかの屈託を探し求め、その間にはさまる時間はすべて重苦しいものに思う。ヘルクレースにかけて、まったく、これはちょうど剣闘士の競技開催日が公表された時とか、そのほか何か見物なり娛楽なりの期日を待ちこがれる時と同様で、その時までの間の日日(ひにち)が飛び去ってくれればいいのにと念ずる。

4. 彼らにとっては、すべて希望していることはいつまでも愚図ついているように見えるのだ。そのくせ、彼らの大切に思うその時は、短くかつ急速に走り去るものであり、彼ら自身の咎ゆえに、いよいよ一層短いものにされてしまう。彼らはそれからそれと別なものに飛び移っていて、一つの欲望にとどまっていることができないからである。

彼らにとって、日は決して永くはない、厭わしいものにほかならない。ところがこれに反して、娼婦の抱擁や酒に費やす夜は、いかに短く思うことであろうか!

5. ユーピテルは肉欲の快楽におぼれて、夜の長さを倍加したのだと考え、作り話をもって人間の種々な誤りを助長させている詩人たちの狂気沙汰もまた、由来するところはこれである。我々の悪弊の責任者に神々をおしつけ、神格者に許されている放埒を、我々の病弊の模範とすることは、我々の悪弊を焚きつけることに異ならないではないか。かくも高価にあがなった夜が、彼らにとって極めて短いものに感じないということがあるだろうか? 彼らは、夜を期待することによって昼を失い、夜明けを気づかって夜を失っている。



一七 1. 彼らの快楽そのものですら、落着きのないもので、種々なる危惧のために不安心なる怏楽であるが、その上、ことに歓喜の絶頂に達した時の彼らに、これが「いつまで続くことだろうか?」という不安な考えが襲って来る。王者たちがおのれの権力に泣いたとか、おのれの大きなこの幸運にも喜ぶことなく、やがていつかは来るべき幸運の終末におびえたなどということは、この心持に由来するものである。

2. ペルシア人の王(クセルクセース)が、広大なる原一面に軍隊を集め、軍隊を人数では呑みこめず、分量で測ってようやく理解し得た時、かくも莫大な数の青年のうちに、一人として百歳を生きのびる者はないのかと、傲慢きわまる彼にして、さめざめと涙を流した。ところで、これら青年たちの運命を左右することになったのは、さめざめと泣いたその彼自身であり、やがて彼は青年たちのある者を海で、ある者を陸で、ある者を戦闘で、ある者を敗走で失い、百歳までは生きのぶまいとあやぶんだその兵たちを、僅かな短期間内にことごとく失うに至った。

3. 彼らの喜びさえもまた、不安定なるものだというのは、一体なぜであろうか? そのわけは、彼らの喜びが堅固な基礎の上に立っていないばかりか、そのよって生ずる同じ空疎さに動揺させられるからである。彼らが身を起こし、人の上に君臨するその喜びさえ決して純粋なものではない以上、彼ら自身の自認によってすら不幸だとする「時」は、一体いかなる「時」だと考えられるか?

4. 大きな幸運ほど、幸運は不安に充ちたものであり、幸運は最良の幸運ほど、信頼を置くことができないものである。幸運を維持するためには、別の幸運が必要となり、実現に成功した念願のためには、また新たなる祈願をたてなければならない。なぜならば、すべて偶然によって起きたものは、一切不安定なるものであるからであり、また高くのぼったものほど、転落の機が多いものだからである。

さらに、亡び行かんとする物は、誰にも喜びをもたらすものではない。したがって、所有するがためにいよいよ大きな労苦を要するものを、大いなる労苦をもって得ようとする人々の生涯は極めて短いものであるばかりでなく、最も悲惨な生涯であるのは必定だ。

5. 彼らは欲するところを達せんと、営々として努め、一旦達すれば、これを維持するのに小心翼々としている。その間に、もはや再び戻ることのない「時」を全然計算に入れない。新しい繁忙が古い繁忙に代り、希望は希望をかきたて、野心は野心をかきおこす。種々なる不幸の終息を求めることをせず、不幸の素因が変えられて行くに過ぎない。

我々の名誉が我々を苦しめてはいないであろうか? ひとの名誉のために、さらに一層多くの時間が奪われて行く。公職への候補者に立って苦労することを、やめたことがあるであろうか? それをやめたとしても、次にはひとの立候補のために苦労し始める。我々は、人を告訴するの煩わしさを捨てたことがあるであろうか? それを捨てたとすると、今度は裁判官になって裁判するの煩わしさを背負いこむ。裁判官をやめる者があるとする。彼は裁判長になっている。賃銀を受けて、ひとの財産の管理をして老いこんでしまう者もあるとする。彼はそれをやめた後は自分の財産のために心を乱される。

6. マリウスは軍職から解放されたであろうか? 軍を退いた後、執政官職が彼を多忙にすることになった。クィーンティウスを独裁官職を急いで務め了したであろうか? 彼は鋤を手にしている時に、呼び戻されることになった。スキーピオーは、まだあのような大事業にたずさわる資格のない頃、ポエニー人を打つ羽目にたち至った。ハンニバルを征服した者として、またスュリアの王アンティオクスの征服者として、執政官職の華々しい遂行者として、兄弟の保証人として、彼は、若し彼自身によって延引されなかったならば、ユーピテルと席を並べさせられるに至ったかも知れなかった。ところが、市民の紛争は、救い主たる彼を困惑せしめ、彼が青年時代より神々に匹敵する名誉を軽視して来た末、やや、老境に入って、頑固に亡命の野望を達するの喜びを味うに至ったではないか。

心の動揺の原因は、幸運による原因であろうと、不運にもとづく原因であろうと、絶えることがない。人生は繁忙の中をおし進められて行くことであろう。閑暇は決して得られることなく、ただ常に念願されて行くにとどまろう。



一八 1. であるから、最も親愛なるパウリーヌスよ、君は俗衆から無理にも身を引きたまえ。そして、年齢の割合に不相応なほど、もまれ通して来た君は、ついに静穏な港に退くことにしてくれたまえ。

考えてみたまえ、君はいかに多くの荒波をかぶって来たかを。一方においては私生活の上で、君が忍んだ暴風がいかに多かったか、また他方いかに多くの公的生活の暴風を、君の身に受けて来たかを。君の徳性は、苦難に充ち、休息のない実例の中に、もはや充分発揮された。君の徳性が閑暇に在っていかなる働きをするか、君これを試みてみたまえ。

君の生涯の大部分は−−たしかに良き部分は−−国家のために捧げられた。君の「時」の幾分かを、君自身のためにもまた用いてくれたまえ。

2. かと言って、私は君を怠惰な、無為な閑地にはいれとさそう者ではない。君の中にある活動的な性質のすべてを、眠りに、また俗衆の好む快楽に、没入せしめよと言うものではない。かくの如きことは、決して休息ではない。

君がいままで活発に働いて来たすべての仕事に比べて、さらにいっそう偉大なる仕事のあることを知るであろう−−君は退いて、心を安らかに、これに従事してくれたまえ。

3. 君といえば、実に全世界の利益をはかり、その慎み深いこと、ひとの利益をはかる場合に劣らず、勤勉なること、君自身の利をはかると等しく、良心的なること、公共の利をはかるのと異ならない。公職に在っては、憎しみを避けることはなかなか困難であるが、君はその公職に在って人の愛をかち得ている。

とはいえ、私の言うことを信じてくれたまえ。公共の穀物の総勘定よりは、おのれ自身の生活の総勘定を知ることの方が、ましなことだ。

4. 最も偉大なる事業にたえ得る君のその旺盛な精神力を公職から−−なるほど、名誉にはなるが、幸福なる生活に対しては少しも適当でない公職から−−取り戻したまえ。

そして熟考してみたまえ、君がうら若い青年時代から、高級な学芸のあらゆる教養を修めて、活動して来たのは、莫大なる量の穀物を立派に委任されるのが目的ではなかったはずだと。かかる任務より、はるかに偉大な高邁な前途を、君は約束していたではないか。

真価の試験ずみの人物も、労苦にみちた仕事にたえる人物も、不足しているわけではない。荷を運ぶには、のろまな駄馬の方が、立派な駿馬より、はるかに適当している。生まれつき駿足な馬に、重い荷を負わせる者があるだろうか?

5. さらになお、考えてみたまえ、君の仕事が人間の口腹に関することである場合、このような難事に君が身を投ずることは、いかに煩わしい限りのものであるかということを。飢えたる大衆は理屈を受けつけはしない。公平さを以てしても、なだめられることなく、いかなる懇願を以てしても、気を変えることはない。

最近、ガーイウス・カエサル・カリグラが死去したあの数日間のことであるが−−死者に感覚が少しでも残っているとすれば、彼はローマ市民が生き残り、まだ七日ないし八日分もの食料が残っていたことを知って、これをひどくくやしがったことであろう−−彼が船をもって海を陸つづきにし、帝国の権力をもてあそんでいた間、船の徴発から、海運の輸送が途絶えたために、籠城者にとってさえ最悪の事態、すなわち食料の不足がローマの都におこった。

異国の、無鉄砲な、とほうもなく傲慢な王(クセルクセース)の真似が、ほとんど破滅、飢餓、および飢餓につきものの全般的混乱とを伴いかけたことがあった。

6. 公共食料の管理をゆだねられていた人々の、その当時の心持はいかばかりであったろう? −−投石を、剣を、焼き打ちを、ガーイウス・カリグラの気まぐれな極刑を忍ばねばならなくなるかもしれないのだから。

彼らは極端な仮面をかぶって、腹の底にひそむ大変な災いの憂いを、ひた隠しにしていたものであったが、それは至極もっともな道理である。何も知らない病人の看護には、注意を要することがある。すなわち多くの病者にとって、自分の病気を知ることが死を来らす原因となった例があるということである。



一九 1. 君は私の説く、より静穏な、より安全な、より偉大なる仕事に引きこみたまえ。穀物が運送人たちの不正や不注意のために損耗を受けることなく倉庫に搬入されるようにとか、湿気を受けて腐ったり、温気(うんき)をおびることのないようにとか、分量と目方とが一致するようにとか、などということに心を砕くことと、神の本質とはいかなるものか、神の喜びは、生活状態は、形体はいかなるものか、いかなる運命が君の魂を待っているか、我々が肉体から解放された後、自然は我々をどこへ置こうとするのか、この世界の最も重いものはすべて、これを世界の中心に支え、軽いものは上に浮かし、火は最上部に置き、星群は星群独自の変化をたどって登らしめるところのものは一体何であるか。その他、巨大なる神秘に充ちた事がらを知らんとする神聖にして崇高なる問題に向うのと、君は果してこの問に差がないと考えるであろうか?

2. 君としては、地を捨てて、これらのものに目を向けたいと思わないのか。いま、血の温かいうちに、旺盛なる精神をもって、より偉大なるものの方に向って進まなければならない。この種の生活においては多くの高度の学芸が君を待っている。すなわち徳性を愛する念、徳性の発揮、諸欲の忘却、生きることと死ぬこととを知ること、深い休息が。

3. すべて繁忙なる人々の生活態度は悲惨なものであるが、とりわけ悲惨の極は、おのれ自身の繁忙でなく他人の繁忙のために齷齪(あくせく)し、眠るにも他人の眠りに応じて眠り、歩くにも他人の歩調に合わせて歩き、何事よりも最も自由なるべき愛と憎しみをも、他人に命令されている人々の生活態度である。

かかる人々が、自分の人生がいかに短いものであるかを知りたいと望むならば、彼らに思わしめるがいい、彼らの人生の極めて一少部分しか彼ら自身の生活になっていないのだ、ということを。



二〇 1. だから、人が時に高官服を着用しているのを見た時、また人が広場で雄弁家の名声を高めているのを見た時、君は羨んではならない。かかることは、人生の損失を犠牲にして得られるものである。執政官になって、その在任したたった一年を、自分の名前をもって数えてもらうために、彼らは自分の一生のすべての年々(としどし)を費やしてしまうのだ。

野心の絶頂まで登りきらないうちに、奮闘の最初において、生命に見捨てられてしまう者もある。無数の不名誉な行為の中を這い登って、最高の名誉に達するや、自分は墓上の碑銘のために齷齪して来たのか、との悲惨な考えにおそわれる者もある。

極度の高齢を、青年ででもあるかのように、種々新しい希望に打ち込み、大それた無謀な計画の中途に、弱りこんで老齢が尽きてしまう者もある。

2. 醜いのは、法廷に立ち、ろくに知りもしない訴訟者のために弁をふるい、年老いた身で無智な聴衆の喝采を博そうとしている最中に、息を引きとるような人である。

恥ずベきは、努力よりさきに生活に疲れ、自分の公務の中途でたおれてしまう人である。恥ずベきは、勘定を受取っている最中に死亡し、待ちくたびれている遺産相続人にあざ笑われるような人だ。

3. 私のふと思い浮んだ一例はここに省くにはしのびない。セクストゥス・トゥランニウスは勤勉を発揮しとおした老人であったが、九十歲を越えて、ガーイウス·カエサル・カリグラから一方的に官職を退けられたので、彼は家族に命じ、自分を寝台に横たえさせ、ちょうど死亡した者のように、家族に取りかこませ、悲嘆にくれさせた。家中の者がこの老主人にお暇の出たことを嘆き、彼の労務が再び彼に戻されるまで、悲嘆をやめなかった。

繁忙の身で死ぬことが、かほどまでにも望ましいのであろうか?

4. これと同じ心持が、大概の人々にある。人々には労務を欲する念が、労務にたえる能力以上に存続するものである。

彼らが肉体の弱さと闘い、老齢を重苦しく考える理由は外でもない、老齢のためにのけ者にされるからである。法律も五十歳から上は兵に取らないし、六十歳以上では、元老院議員にも召集することはない。人々はおのれ自身から閑暇を得ることの方が、法律から閑暇を得るよりも困難である。

5. ところで、人々が暇を奪ったり、奪われたりしている間は、また互いに休息を破り合っている間は、また互いに不幸になりあっている間は、人生は何の収穫もあげず、何の快楽も得ず、何らの精神的進歩も得ることがない。

眼前に死を見ている人は誰一人としてない。遠くに望みを馳せない者はない。ある人々の如きは、一生およびもつかぬ先のことをさえとり計らっている−−巨大につみあげた墓を、公共建造物の寄与を、火葬堆に捧げる贈物を、豪華な葬式の行列を。しかし、ヘルクレースにかけて、かかる人々の葬儀は、きわめて短命で死んだ者の場合のように、たいまつや蝋燭をともして夜分行うべきものである。

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