ウェルギリウス『アエネーイス』(旧岩波版)
P. VERGILI MARONIS AENEIDOS LIBER PRIMVS
新字新仮名版
ウェルギリウス『アエネーイス』(旧岩波版)
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第一巻梗概(上11p)
運命はローマを見出させんとトロイの落武者アエネーアスをラティウムに送る。されど女神ユーノーの敵意は長く彼の成功を遷延す。彼およびそのトロイ人らがイタリアを近く目撃するを遠く認めて、彼女は風神アイオロスにまいないし、彼らをほろぼすために嵐をあげしむ。暴風雨。アエネーアスの絶望。トロイの一船すでに沈む、そのとき海神ネプトゥーヌスはユーノーの陰謀を知り暴風をしずむ。難を免れ、リビア(アフリカ)に上陸し、部下を鼓舞す。
アエネーアスの母なる女神ウェヌスは大神ユーピテルに愁訴す、ユーピテルはアエネーアスがなおイタリアにおいて偉大なるべきことを断言して彼女を慰む。彼の子はアルバを見出し、彼の子の子らはローマを見出すべし。ユーノーはついに怒りをやわらげ、ローマはアウグストゥスのもとに全世界の女皇たるべしとなり。
使神メルクリウスはリビアの女王ディードーにアエネーアスの歓迎を確保するため遣わさる。アエネーアスとその臣アカーテスは、偵察の間、森の中にてニムフに身をよそおいたるウェヌスにあう。彼女は彼らにディードーの事を語る。アエネーアスはこれに応じおのれの受難を嘆く、されどそは半ばにて成功の約束もて止めらる。堅忍持久せよ、さらばすべてよかるべしとなり。
ウェヌスは彼らの眼の前にてニンフより女神に身を変じ、アエネーアスが怨みの言葉をいい出でも得ぬうちに消え失す。
神秘の雲霧に隠され、この主従二人はリビアの都カルタゴに近づく、そはなお建設中なるを見る。彼らは人に知られず城砦に達し、トロイ戦争の幾場景を描ける絵画を見て心を励まさる。
ディードー現われ、威儀を正して着席す。彼女の許に、アエネーアスがすでに難船して死したりと想いたるトロイの隊長ら、嘆願者として出で来たる。
その代表者イーリオネウスは、暴風の事を語り助力を乞う。『もしアエネーアスだにここに在らば!』
雲霧消散す。アエネーアス現わる。ディードーに感謝し、イーリオネウスに会釈す。ディードーはアエネーアスをカルタゴに歓迎し、彼のために饗宴を準備す。
アエネーアスはアカーテスを送りておのが子アスカニウスを呼びよせ、ディードーへの贈り物を持ち来らしむ。
恋愛の神クピドーは、アスカニウスに身をよそおい、ディードーにアエネーアスへの恋心を吹き込めと、母なるウェヌス女神に説き伏せられて、ディードーの宮殿に贈り物をもたらす。
その間アスカニウスはイダリウムに運び去らる。饗宴は夜を徹す。宴飲の後イオパスは大空の不思議を歌う、ディードーはクピドーに魅せられ、アエネーアスにその冒険の一伍一什(いちごいちじゅう)を語れという。
第一巻
われが歌うは戦さと人、その人ぞ、情け知らぬユーノーのたわみなき怒りにより、天つ神々の力もて、トロイの磯より運命におわれ、陸にも海にも多くのさすらいを重ねしのち、イタリアへ、ラウィニウムの浜辺へよせ来たりし最初の人にぞありける。
彼ついに一つの都を建てて、おのれの故郷の神々をば、ここラティウムにしずめ祭るまでには、多くの戦さの苦しみをもまた耐えしのびけるが、これぞラテン民族、アルバの長老たち、はたいと高きローマの城壁の起源とはなりぬる。(1−一〜七)
あわれ、ムーサよ、われに事のよすがを説き明かさせたまえ。天つ后(きさき)はいかに心ののぞみをさまたげられたればとて、はた、いかにその怒りに触れたればとて、おどろかるるばかりかく律義なる人を駆りて、かくばかり危うき道をめぐり、かくばかり多くの忍苦にむかわせたる。いかなれば天つ女神の胸にも、かかるはげしき瞋恚(しんい)は住みうるものぞ。(1−八〜一一)
そもそも、ここにカルタゴという古き都あり、テュロス(注)植民の住みかにして、イタリアおよびティベリスの河口と遠く相対峙し、ゆたかに富みて、戦さの業(わざ)に鋭し。
注 フェニキアの古代都市
伝えいう、女神ユーノーは、サモスをさえ軽くみるばかり、あらゆる国土にまさりて特にこの都をめでたりとぞ。されば女神の武器もここに置かれ、戦車もここに置かれ、運命もしこれを許さば、ここをばあらゆる国民の首都たらしめんことこそ、女神の心のまとにして、ひそかにいだきし大望なりしなれ。
さるに、まことや、聞けばトロイの血統より起こるべき一民族ぞ、他日カルタゴの高塔をうち倒すべく、それよりぞ、ひろく国々を支配し、戦さの庭に勝ちほこる民出で来たりて、ついにカルタゴの破滅となるべく、これ運命の定めたる道なりという。
サトゥルヌスの娘(注1)の一つのおそれはこれ、また一つには、想いぞ出づる懐しのアルゴス(注2)のため、みずから神々を率いて戦いたるさきの日のトロイの戦さ――
注1 サトゥルヌスの娘とはユーノー
注2 アルゴスとはギリシアのこと
その激怒のよすがとはげしき悲痛はいまだ心より消えやらで、パリスの審判とおのれのけなされたる美貌に対する侮辱、種族に対する憎悪、はたまたユーピテルが強奪したるガニュメデスに与えられたる不当の栄誉のことなども、この天つ后の胸の奥深くよどみてありけるが――
これらの事によりてもまた心いらだちて、ギリシア人と猛(たけ)きアキレスとに撃ちもらされたるこのトロイ人の残党を、海上いたるところにゆり上げゆり下ろし、遠くラティウムに近づかしめず。彼らは運命のまにまに凡ての海を、年あまた漂泊し続けた。じつに、ローマ人がそのいしずえを建つるは、かくばかりむつかしき業にぞありける。(1−一二〜三三)
彼らが、シチリアの島影ようやく眼界より薄らぎて、大海のほうにこころよく帆をはりあげ、黄銅の軸先に泡だつ波を切りゆきつつありしころ、ユーノーは胸の奥ふかく、癒えがたき手傷をいたわりつつ、ひとりごちけるは、
『何!わらわがくじかれてわが身の計画を捨つべしとや!トロイの王をイタリアより遠ざけえずとや!運命がそれをわらわに禁ずるとや!されどわらわよりも身分おとれるパッラス女神すら、オイレウスの子アイアースただひとりの罪と狂暴とをいきどおりて、ギリシアの艦隊を焼きつくし、船人を海底にほうむる力をばもたざりしや?
彼女は、手づから雲の中よりユーピテル大神のはやき炎を投げ出し、艦どもを散乱し、海に嵐をまき起して、うちつらぬかれたる胸より炎吐く彼の者を、竜巻の中に巻きあげ、鋭きいわおにこそ突きさしたれ。
さるに、神々の女王、大神ユーピテルの妹にして后なるわらわが、年あまた一つの民族と争うことこそ恥かしけれ。かくてもなお人はこのユーノーをうやまい尊び、その祭壇にうやうやしく犠牲をささぐべしや?』(1−三四〜四九)
かく心のうちに瞋恚のほむらをかき立てて、女神は、暴風雲の母国、猛烈なる疾風多き地方なるアイオリアにぞ来たりける。ここにアイオロス王は、広き洞穴のうちにて、いたく身もだえする風、吠えたける嵐などを支配し、鎖と牢獄もて彼らを抑制す。
彼らはいきどおりて、山々に大いなる叫喚を起させつつ、大木戸の周囲を狂いまわる。そのときアイオロスは、権笏(しゃく)を手にして高きやぐらのうえに坐し、彼らの激情をならし、激怒をなだむ。もし彼がかくせざりせば、彼らは必ずその荒々しきかけりのままに、海をも、陸をも、蒼穹をもおのれとともに運びゆき、空を通して巻きさりなんとす。
されどかかる事のあらせじと、大自在の父なる大神(ユーピテル)は、彼らを陰鬱なる洞穴に押し込め、そのうえに高き山また山の塊をつみ重ねて、ひとりの王を下しつ。その王は、一定の誓約の範囲ないにて、命令のまにまに、彼らの制御を張りもし、弛めもすることを得るなり。ユーノーはいまやこの王に、ねんごろなる言葉もてかくぞたのみかけける。(1−五〇〜六四)
『アイオロスよ——げに神々の父、人々の王は、風もて波をあげ波をしずむる力を汝に与えたれば――いまわらわが憎むところの一族、イリウムとその敗残の神々とをイタリアに運ばんと、テュレーニアの海を渡るほどに——汝の風を猛り立たせよ、艦どもを沈めつくせよ、また人々を吹き放ちて、彼らのしかばねを大海のうえに散らばらせよ。
わらわにつかうる七を倍する数の見る眼も美しき姿のニンフ(妖精)あり、その中にても最も容色すぐれたるデーイオペーアを汝に固くめとわせ、汝のものとせん。そはこの度の奉仕に対し、彼女の終生をうちまかせ、汝を美しき子らの父たらしめんためなり』(1−六五〜七五)
アイオロスこれに答えて申しけるは、『大后よ、君のつとめはただ御心ののぞみを考え定めたまうことなり。わがつとめはただ君の御おおせにこれ従うことなり。わがいささかなる領土も君の恵み、わが権笏(しゃく)も、ユーピテルの恩寵もまた君の御恵みなり。君はわれに神々の饗宴の一席をあたえたまい、われを雲と嵐の主となしたまえり』(1−七五〜八〇)
かく言いて、かれ、矛(ほこ)を逆さにしてうつろの山の脇腹を突けば、見よ、風はあたかも行進する隊伍のごとく、隙間々々のある限り進み出で、疾風となりて大地を吹きまくりて、海のうえに舞いおりて、一時に東風(こち)、南風(はえ)、はやてぞ多き坤(ひつじさる)の風など重なりあい、底の底より隈なく逆巻きかえし、岸辺の方へほうはいたる大浪をばころばしよする。
つづいて起る人の叫喚、帆索(ほづな)のきしめき!一瞬にして雲はトロイ人の眼より蒼天と日光とを奪い、闇の夜大海のうえに広がる。
上天には雷鳴りわたり、中空には電光絶え間なく、あらゆるものみなこの人々の死の切迫を示さざるなし。アエネーアスもたちまち身にしみとおる恐怖に、四肢は力を失い、うめきながら、両手を天にさし伸べ、高くかくぞ叫びける。
『おお、トロイの高き城壁のもと、父祖の目の前にて死なん運命をうけにし人々こそ、いまのわが身に比べては、三倍四倍の幸いなりし!あわれ、ギリシア人の中にて最も勇敢なりし者よ!テュデウスの子よ!いかなればわれはイリウムの原に倒れ、汝の右手によりてこの命を断たれざりしぞー—その戦場にては、アイアコスの子孫の槍の下に、猛きヘクトールもたおれ伏し、巨大なるサルペドンもたおれ伏し、シモイスの流れは、波の下にいと多くの勇士の盾と甲冑と雄々しきしかばねを捕えて巻き去りたるものを』(1−八一〜一〇一),
彼がかかる言葉を投げ出せしとき、北の方より一陣の烈風叫び来たりて、真っ向よりさかしまに帆をうちたたき、波浪を天つ星まであげんとす。
櫂は折れ、舳先は揺れめぐり、脇腹を波にさらせば、山なす水とうとうとして落ち入り来たる。
水夫は大浪の頭に乗るもあり、口を開ける大洋の波間に海の底まで見るもあり。波浪は砂とともに沸きかえる。
また南風三つの船を捕え暗礁に投げかける――この沖の巌はイタリア人に神壇と呼ばれ、海面とすれすれに巨きく隆起したり。また三つの船は、東風のため大海より浅瀬と砂州とに吹きよせられ、見るも無残や、洲の中に突き進み、砂の山に囲まるる。
リュキア(小アジア)の国人と忠実なるオロンテースを乗せたる船は、アエネーアス自身の眼前にて、逆巻く海に船尾(とも)を真上より襲い打たれ、梶取りは払われて真っ逆さまに船より投げ出され、船体は波浪のために、同じ所を三度くるくると回りて、大海の渦巻にのみ去られぬ。
その後には、ここかしこ広き海原を泳ぐ人々見え、武器、板、トロイ人の財物など波のまにまに漂う。いまやイーリオネウスの強き船、いまや勇敢なるアカーテスの船、アバスの乗りし船、年老いたアレーテスの船など、みな嵐のため思うがままに翻弄せられ、すべての船の船腹の番(つが)い目はゆるみ、恐ろしき海水せぎり入りて、所々に裂目生じて大いなる口を張りぬ。(1−一〇二〜一二三)
かかるとき、ネプトゥーヌスは、大海騒ぎ立ちて荒々しきうなり声をあげ、暴風はなたれて静かなりし水、底の底より押し上げらるるを知り、心いたくわずらわされて、その静かに澄めるかんばせを水のうえに出し、大海の面を見渡しぬ。
彼はアエネーアスの艦隊が、海上くまなく吹き散らさるるを見、トロイヤ人が、大浪と落ち来たる天とに圧倒せらるるを見つ。
またユーノーの奸計も瞋恚も、彼女の兄弟なる彼の眼より逃るる事なかりき。彼は東風と西風とを前に召しよせ、やがてかくぞ語りける。
『汝ら、おこがましくも汝らの眷属について、かく大いなる自負心をいだけるや?あわれ風らよ、いかなれば汝らいま、わがおおせも受けず、大空と地上とを入りまじらしめ、かかる大いなる波浪をあえてあげるや?
かかる不遜なるやからをわれは――されど騒ぎ立つ波をしずめるにしかじ。心せよこれよりのち汝らの違背の罪をつぐなうはさらに大いなる罰をもってすべし。
疾く逃げ行きて、しかと汝らの王に申せ、くじにより海の主権と稜威(注)の三叉もりとを与えられたるは、すなわちわれにして彼にあらず。東風よ、彼は汝ら眷属の住みかなる巨岩をこそ保つべけれ、すなわちアイオロスはその宮殿を主宰し、大木戸いかめしき風牢のうちをこそ支配すべきものなれ』(1−一二四〜一四一)
注 「稜威」は「いつ」と読み神聖なこと
かく言いて、その言葉よりもなお速く、彼は騒ぎ立つ海をしずめ、むらがる雲をかけらせ、太陽をもとに取り戻しぬ。
キューモトエーとトリトンとは力をあわせて、船どもを鋭き岩よりひき下ろし、神はみずからその三叉もりもて船をあげ、広き流砂を押しひらき、潮をやわらげ、軽車のわだちもて高浪の頭をならす。
そは、例えば大いなる群衆の中にときどき騒擾の起りて、下々の者らかしましく怒りののしり、たいまつ、こいしなどを飛ばし、あるいは武器に訴えてあれ狂うとき、そのときもしかねてよりたっとき人格と国家に対する奉公とのためとおとばれる人を見れば、たちまち黙し、その側に寄りつどいて傾聴し、その人はまた言葉もて彼らの激情を支配し、彼らの胸をなだむるごとく、
この大君、水の上を見渡し、晴れたる空の下に車をかりて、駒のあがきを導きつつ、前へ前へと軽車の飛ぶにまかせるとき、大海のうなりもことごとくしずまりぬ。(1−一四二〜一五六)
疲れはてたるアエネーアスの家の子らは、最も近き海岸に帆ばしりよらんとつとめ、リビア(=アフリカ)の磯の方に転じぬ。
そこには深き湾に、ひとところ、島がその両側もて防波堤をつくり、これを港の形にととのえ、大海より来たる波はみなここに割れて、くだけて、さざなみとなりてひき去り行くところあり。
(港の二つの入口の、陸地にむかえる島の)両側には、大いなる懸崖と二子の峰と天辺高くそびえ立ち、静かにその峰の下におおわるる湾の水は安らかに、遠く、広し。水の奥には、揺れる森の背景のごとく、参差(しんし=ふぞろい)たる影を引ける暗き杜など覆いかぶさる。
その正面の断崖のすそに、突き出でたる巌のつくりなせる一つの洞穴(ほらあな)ありて、そのうちに清水わき出で、天然の岩よりなれる座席あり、ここは水精(ニンフ)らの好みて来たり遊ぶところなり。波風にうたれ来し船も、この湾に入れば鎖もてともづなをつなぐ要なく、錨もその鈎の手もて船をくい止むる要なし。
アエネーアスは、全艦隊のなかより集めえたる七隻の船とともにここに避難し、トロイ人らは陸地恋しきままに夙(と)く船より出でて、あくがるる砂を踏みて、彼らの潮に濡れたる手足を岸辺に伸ばしぬ。
アカーテスはまず、ひうち石よりひばなをうち出し、木の葉に移し、そのまわりに乾ける薪を横たえ、たき付けの中に炎をゆすりて、さと燃えあがらせつ。次に、悲運に疲れたる人々は、波にぬれたる穀物と精穀の道具とを取り出し、取り留めたる穀粒を火に焦がし、石の下にくだかんと、その心構えなどす。(1−一五七〜一七九)
その間にアエネーアスは、峰によじ登り、暴風に打たれたるアンテウス(注)とそのプリュギア風の二橈列(ふたかいならびの)船は、カピュスは、またとも高き船にカイクスの盾などは見えずやと、海上広く見渡す。
注 アンテウス、カピュス、カイクスはアエネーアスの部下
されど船らしきものは一つだに見えず、ただ見ゆるは、三つの牡鹿の岸辺をあさりゆき、全群の鹿その後に従い、長き列をなして谷間の草を食めるばかりなり。
ここに彼は立ち止り、忠実なるアカーテスが携えいたる弓とはやき矢とを手に取りつ。
まず枝さしたる大角生える頭を高くもたげたる先導の鹿を射倒し、それより群を襲い、投矢もて彼らを追いつつ、木の葉しげれる森の中に全群を散らし、
ついにその手を休めたるときは、すでに七つの大鹿を仕留めおりて、その数は船の数と等しかりき。
ここに彼は港にかえり、獲物を一同に分かちあたえぬ。次には、親切なる勇士アケステースがシチリアの海岸にて壺にいれ、彼らと別るるさいに贈りたる酒を分かちあたえぬ。なお彼は、彼らのうち沈む心を引き立てんとてかくぞ語り出でける。(1−一八〇〜一九七)
『おお、友よ――これより先にもわれら災禍にあわざりしにあらず――あわれ、これよりも重き運命を耐えしのびぬる人々よ、神はまたこの度のまがつみにも終わりあらしめたまうべし!
汝らはスキュラの狂らんと深く反響するざん岩とに近付きたることあり、またキュクロプスの巌をもよく知れり。いでや勇気を呼び戻して、悲しき恐怖を払いのけよ。おおかたこれもいつかは想い出の、楽しきいち昔語りとなりぬべきぞ。
種々の不幸の道を辿り、多くの危難をくぐり抜けて、われらはラティウムに行かんとするなり。
そこにこそ運命はわれらの安息の住みかを指示したれ、そこにこそトロイ人の国をまた起こさしむべき神々の御意なれ。たえよ、人々、幸あるまたの日までつつがなく身を保てよ』(1−一九八〜二〇七)
彼はかく語りぬ。心は重き苦労になやめども、おもてには希望の色をよそおいて、むね底ふかく危惧の念をおさう。
他の人々は獲物を調理し、食事の設けをなす。肋骨のうえより鹿皮をはぎ去り、肉をあらわし、あるいはそれを細かに刻みて、なおうち震うばかりなるものを串に刺すもあり、あるいは大鍋を磯にすえて火を燃やすもあり。
かくて食物によりて彼らの気力を回復し、草原のうえに身を伸して、古き酒と肥えたる鹿肉とを満喫す。
飲食によりて飢もいやされ、食卓も取り去られたるとき、談話はここにあらぬ友のうえに移りてつきず、彼らなお生きたりと見るべきや、はた、最期の運命を担いて、はや呼べど答えぬ人の数に入りたるや、心もとなく、のぞみと恐れとの間に、とき移るまで語りあくがるる。
そが中にも、律儀なるアエネーアスは、黙しつつ、あるいは勇敢なるオロンテスの、さてはアミュクスの死を、リュクスの悲惨なる運命を、はた勇敢なるギュアスや勇敢なるクロアントスのことをいたく思い悲しめり。(1−二〇八〜二二二)
さて、やがてそれらの事もみな終わりとなりぬるころおい、大空の頂きよりユーピテルは、翼を広げて船どもの帆はしる海、うち広がる陸地と磯辺、さては広くわたれる諸民族を見わたしつつ、身は天上の高きにただずみて、眼はリビアの国土にとどまりぬ。
彼が心の中にかく世の中のことを思いめぐらしつつありしおりから、ウェヌスは常ならず悲しげに、涙をその美しき眼にたたえながら、彼にむかいて語りかけけるは、
『永遠に人々と神々との世をしろしめし、電光もて彼らをおじおそれしめたまうわが大君、わが君に対しわがアエネーアスは、かく大いなるいかなる罪を犯したるや?トロイ人はかく大いなるいかなる罪を犯したるや?彼らは多くの災いを受けたるのち、なおイタリアのゆえもて、全世界より追わるるぞかし。
いつかは、歳月の経るままに、彼らよりローマ人起こるべしとは、さなり、彼らより、しかもテウクロスのよみがえりたる血統より、海をも陸をも支配すべき君たち出で来たるべしとは、大君の固きちぎりにおわさざりしや。わが大君よ、いかなる想いかいま、大君をしもかく変らせつる?
この希望ぞ、げに、トロイの落城と悲しき滅亡とを見しときにも、相そむく運命と運命とを思いめぐらしつつ、わらわがただ一つの慰めなりしものを。
かく多くのまがつみもて試めされたる後にも、いまなお同じ運命は彼らに付きまとわるなる。彼らの労苦のはてを、わが大君よ、いかにせさせたまわんとや?
アンテーノルは、ギリシア軍の真中より逃れ、イリュリアの内海を縫い、やすらかにリブルニー人らの奥地とティマウス河の水源をよぎりえたり。このところよりティマウス河は、山々に物すごきうなりを立てつつ、九つの口もて荒海のごとあふれ出で、とどろきわたる大水のしたに野をば埋ずむるなり。
されど彼はここにパタウィウムの都を建てて、トロイ人の住みかとなし、種族の名称をさだめ、トロイの武器を神々にささげつつ、いまや彼は太平を楽しみ、安息をぞ得たる。
しかるにわれら、大君の子孫にして、大君より天のいと高き住まいを約されたる者どもは、いま、船を失ないて――あわれ、言うもたえがたや――ひとりの怒りのため裏切られ、イタリアの岸辺より遠ざけらるる。これぞ徳のむくいなりとや?大君のわれらを主権にかえしたまうとは、かかる事をいうかや?』(1−二二三〜二五三)
彼女に対してうちほほえみ、かの大空をも晴らし、嵐をもしずむるというなるかんばせもて、娘の唇に接吻しつつ、人と神との父はかく語り出でぬ。
『な恐れそ、キュテラのむすめ、汝が子らの運命は動くことなし。汝が眼はラウィニウムの都と、その約束の城壁とをなお見るべきなり。かつ汝は偉なる魂もてるアエネーアスを星の空まで高きにあげるべし。わが心は少しも変らず。
この汝が子ぞ――さなり、この悩み汝が心を蝕めば、われこれを物語り、かつはさらに遠く運命の絵巻を繰り展(ひろ)げて、その秘密を漏らさんとす――この汝が子ぞ、イタリアにて一大戦争をなし、猛き国民をうちやぶり、おのれが国民に法典と城壁とを建て創(はじ)むべし。
そのときまでには、三度の夏、彼のラティウムの統治を見、ルトゥリー人を征服して以来、三度の冬、陣営の中にすごされん。
されど、アスカニウスという彼の子、いまはユールスという別名ある者――さなり、トロイの国権たしかなりしころはイルスとも呼ばれたる――この子ぞ、めぐる月日の大車のみそとせの間、その帝国の王位を継がん。しかしてその主権をばラウィニウムの位置より移し、洪大なるいきおいもてアルバ・ロンガを城壁もて固めん。
それよりのち百年を三度くり返すあいだ、絶ゆることなくこの国はヘクトール種族のもとに統治せられ、ついに高貴なる法尼イリアは、マルスによりて双生児をもうくべし。
そののちロムルスは、その乳母なる雌オオカミの黄褐色の毛皮ほこらしげに、帝位につき、ローマの城壁を建てはじめ、その民を自己の名にならいてローマ人と呼ぶべし。
この民にはわれ、その勢力に所と時とをかぎらず、はてしなき領土を与う。否とよ、いまはおのれのおそれのために、海をも陸をも大空をもかき乱すなる、無情のユーノーすら、いつしか心を良き方に移して、世界の主、長衣の国民なるローマ人を、われとともにいつくしまん。
天命はかく定まりぬ。春秋の移り行くままに、いつしか、アッサラクス(注)の家ぞ、プティア(注2)および名高きミケ―ネを家来となし、アルゴスをうちしたがえて君臨すべし。
注1 アエネーアスの曽祖父
注2 アキレスの郷
このたっとき血統よりトロイ人カエサル生れ出で、この人ぞ偉大なるユールスより名をとれるユリウスにて、太洋をもて帝国の限界とすべく、その光栄は星までも達しなん。
時きたりなば、かの者のことにつき、汝はもはや少しも懸念することなく、東方の獲物を荷積める彼を、天上に歓びむかうべし。彼もまた神として拝されん。
そのとき干戈は止み、粗暴なる時世はやわらぎて、うやまうべきフィデス、ウェスタ、および弟レムスとともにクィリヌス(=ロムルス)は法典を世に布くべし。
戦さの恐ろしき門は、鉄のかんぬきもてすき間もなく閉ざされ、そのうちに不逞のフロール(注)ぞ、ものすごき武具のうえに坐しながら、百なす青銅の鎖もて後ろ手にしばられ、血に染みたる唇よりすさまじくうめくべきぞ』(1−二五四〜二九六)
注 狂乱の神
かく語りて彼はマイアの子(メルクリウス)をあまくだし、新建国カルタゴの国土と塔とをトロイ人によろこび開かしめ、ディードーが運命を悟らずして、彼らをその国よりこばむこと無からしめんとす。彼は羽ばたき疾く大空をこぎ分けて、すみやかにリビアの海岸におりぬ。
彼ただちにその使命をはたしぬれば、カルタゴ人は神の御こころのままに、彼らのかたくななる思慮を捨て、ことに女王ぞまずトロイ人にたいして、おだやかなる心意気とやさしき心づもりとをかたむけける。(1−二九七〜三〇四)
さはれ、律儀なるアエネーアスは、夜もすがらいと多くのことどもを思いめぐらしつつ、いつくしき朝日の光のさすとともに出で行きて、この未知の国士をさぐり、風のために吹きよせられたるはいかなる磯辺なりや、ここに住まうはいかなる者なりや、人かけものか――見渡すかぎり荒野にしあれば――を見さだめ、かつ見聞くことどもを、たち帰りて友に知らせんと心を定めぬ。
船どもはみな樹々とうち震うそのかげとにすき間もなくとり巻かせて、おおいかぶさる森のなか、うつろなる巌のしたに隠しつ。みずからはただひとりアカーテスを伴侶として、幅広きはがねの矢尻つけたる投げやり二つをうち振りつつ、あゆみ出でぬ。
やがて森の真中まであゆみ入りぬるとき、彼の母ぞ彼に出会いける。彼女は、乙女の顔、乙女の姿して、スパルタの少女、または荒駒を乗り疲らし、流れいと速きヘブルス河と競いて走り勝つちょう(=という)、トラキアのハルパルケーのようなる乙女のもつ武器を携えける。
じつに彼女は猟する女のならわしとて、肩よりは軽き弓をつり下げ、髪は風の来て吹き乱すにまかせつつ、膝はあらわにして、なびける衣のひだは集まりて一つのむすびとなりぬ。
男の方よりことばをかけるをも待たず、声高くよびかけけるは、『やよ、もの聞かん、若人、君たちはわが妹の誰かここらをさまよいあるくを見ざりしや、えびらを負い、まだらある山猫の皮を着たり、もしくは口に泡ふく野猪のあとより、やさけびあげて追いせまりたらし』(1−三〇五〜三二四)
かくいうウェヌスに、ウェヌスの子はかくぞ答えける。
『君がはらからのひとりすら、声にも聞かず、眼にも見ず――さりながら、あわれ乙女よ、君の名を何とか呼ぶべき?そは君のかんばせはうつしよのものならず、君の声音は人間のひびきを持たねば。しかと、女神!ポイボスの姉妹か、ニムフの族のひとりか?
いかなる身なりとも、慈愛をかけてわれらの重き悩みを軽からしめよ、かつ、ねがわくは告げ知らせよ、いかなる天が下、いかなる世界の岸辺に、われらうちあげられたるやを。われらただここに、風と大浪とに駆られ来て、土地のこと、人のこと、何一つも知らずしてさまようなり。祭壇の前には、われらの手もて多くの犠牲をささぐべきぞ』(1−三二五〜三三四)
そのとき、ウェヌス答えて言いけるは、『げに、わらわはさる尊敬を受けるにたる身とも思わず。カルタゴの少女はかくえびらを負い、むかはぎ高く紫長きくつひもを結ぶになれたり。
君の見るはすなわちカルタゴの領土、テュロスの人々、またアゲノールの町なり、されど、国はリビアにして、戦さに敗るることを知らぬ族こそ住め。
いま権笏を執るは、兄より逃れ、テュロスの町より来たれるディードーなり。罪悪の物語は長く、その細やかなる曲折(いりわけ)もまたくだくだし。されど事の大筋をかいつまんで物語らんに、
彼女の夫はシュカエウスとて、フェニキア人の中にても最も富める者にして、幸なき彼女にやさしく愛せられぬ。
彼女の父は彼にこのおとめを与え、はじめて夫婦の儀式をあげて彼にそわしむ。さるに、テュロスの主権はこの女の兄ピュグマリオン王の手中にありて、この者ぞ世に儔なく(注)腹黒き者なりける。
注 儔なく(ちゅうなく)は「たぐいなく」
もの狂わしき争い、この二人の間に出で来たりつ。王は、あさましや、神壇の前をも忌みはばからず、黄金の欲に眼くらみ、だましうちにシュカエウスをうち倒し、妹の情愛などはつゆばかりも心にかけず、よこしまにも長き間そのふるまいをば秘し隠して、多くのいつわりの言葉もて、愛慕に悩む人妻にむなしきのぞみを抱かせぬ。
されど、一夜眠れる彼女のもとに、埋葬だにせられである夫の幽魂おとずれ来て、おどろくばかりあおざめたる顔をあげ、むごたらしき祭壇、刃もて貫かれたる胸などありありと指示しつつ、その家の隠されたる罪悪をことごとくあばきぬ。
かくて彼は彼女に疾く逃れてくにを立ちのけよといい、その路用の助けにと、土の中より昔の財宝を、すなわち何人も知らざりし金銀の塊などを取り出す。
これに動かされてディードーは逃走とその供人(ともびと)の用意などす。このとき、暴虐の王に対する容赦なき憎悪と鋭き恐怖とを感ずる人々つどい来たりつ。たまたま船出の艤装したる船を押さえて、黄金を積み乗せ、かくして貪欲なるピュグマリオンの富は海をこえて運ばれつ、ひとりの女ぞその企ての首領にぞありける。
彼らの渡り来しは、君がいま新カルタゴの大いなる城壁と高き砦とを見るところ、ここに彼らははじめ一匹の牡牛の皮もて囲い得るだけの地面を求めたれば、この事に由来してここをビュルサとなん称うる。
されど、いで、御身は誰そ、いかなる所より来たり、いかなる所に行かんとはするや?』(1−三三五〜三七〇)。
彼女のかく問えば、彼は吐息をつき、胸底深く言葉を手繰り出しつつ、答えけるは、
『あわれ女神よ、われもし事の大本に遡りて告げまいらせ、御身またゆるゆるとわれらの嘆きの物語を聞きたまわば、まだそれの終らぬうちに、天は閉じ、夕は日を休らいに送りぬべし。
われらは古きトロイより、さなり、トロイという名は大かた聞き知りたまいなん、かの海この海と持ち運ばれしのち、暴風たまたまわれらをリビアの磯においやりぬ。
われこそは律儀なるアエネーアスなり、われが船の中には仇人の手より救い出せる家神(ペナテス)を積みのせつ、わが誉は天の上まで知らる。われが求むるはわれらの真の祖国イタリアと、いと高きユーピテルの大神より出でし血統の民となり。わが惟神(かんながら)の母の御導きのもと、与えられたる運命に従いて、十を二倍する船もてプリュギアの海に乗り出でぬ。
さるに、波と風とにうち毀たれて、残るはわずかに七艘。わが身も知れずうらぶれで、リビアの荒野をさまよい、ヨーロッパにもアジアにも、よるべき方なし』(1−三七〇一三八五)
なおも嘆きの数々をいわんとするをさえぎりて、話半ばにウェヌスはかくぞいい出でける。
『何人と君を知らねど、かくティロスの都に着きたまうを見れば、想うに、想うに、天に在す神らも君の生きの命を憎みたまわじ。
ただひた進みに進みて、女王の宮にいたりたまえ。そはわらわ、救われたる君の友と、風吹き変わりて安らけき港入りして助かりし船どもの消息とを告ぐればなり——
もしわが父母の教えたるト占の道にいつわりなくば。見たまえ!かしこに十二の白島ぞうれしげに行(つら)をなしたる。彼ら一度は上天よりさと落し来れるユーピテルの使はしめの鳥によりて大空に乱れ散りたれど、また長き列をととのえて、おのれらの下り行く場所を求め、または友のすでに下りたる所を見下ろしつつあるがごとし。
げに、彼らが立ち帰り、羽をすりて戯むれつつ、うち連れて大空に輪をえがき、歌をうたうように、君の船も友なる人々も、同じ喜びもてあるいは港に入り、あるいは帆を巻きあげて港口にぞ近付くべき。いざ、進みたまえ、道の導くままに君のあゆみをまげたまえ!』(1−三八五〜四〇一)
かく言いて、やがて身を翻して立去る彼女の、薔薇色の項きは艶やかに閃き、頭よりは甘露にうるおえる髪、天つ香りを放ち、裳は足の先まで垂れて、踏みゆくあゆみぶりこそ真の女神を示顕したれ。ここに彼はこの少女の自己の母なることを知り、去り行く後を追いて、かくぞ呼びかけける。
『君もまた情けなのものかな。いかなれば君の子をかくしばしばむなしき幻影(まぼろし)もてあざけりたまうや? いかなれば手に手を取りて、いつわりなき言葉を聞きもし言いもすることを許したまわざるや?』
彼はかく彼女をなじり、やがてあゆみを町の方にまげぬ。されどウェヌスは、彼らの進むままに、暗き息吹もて彼らをひき包み、何人も彼らを見もせず、触れもせず、また彼らを支え(注)止め、あるいはその来たることのもとを問いただしなどせぬため、女神にふさわしく、厚き雲の着せ綿もて彼らをうちおおいぬ。
注 さまたげること
彼女みずからは、空を通してパプスに行き、歓喜にあふれつつまたおのれの住所にかえる。その所にはこの女神の神殿あり、その百の祭壇にはシバの薫香蒸し、あざらけき花輪かぐわし。(1−四〇二〜四一七)
さて、彼らは細道の示すがままに道を急ぎぬ。やがてよじ上りし丘は、おおらかに町のうえに横おり伏して、相むかえる塔どもを眼の下に見おろす。
アエネーアスは、近きころまでただ小屋らしきものの散在したりと思わるるところに、大いなる建物のそびえ立つにおどろき、門々のかまえ、かまびすしきものの響き、はた舗石したる大道にもうちおどろく。
テュロス人は、あるいは壁を組み立てて砦を築き、あるいは手もて石をころばし、あるいは住宅の場所をえらび、あるいは築地もて囲いをつくるなど、おのれが自々わき目も振らずいそしみつつあり。
彼らはおきてと奉行とを定め、権威ある会議を設く。ここに港を掘る者あれば、かしこに劇場のいしずえ深くよこたえ、やがて来たらん舞台の高きかざりにせんと、崖より大いなる石の柱を切りだすもあり。
その様あたかも初夏のころ蜜蜂が、照り渡る日光のしたにて、花野のなかに彼らの成長したる子らをつれ出で、あるいは流るる蜜をあつめ、蜜房もはちきるばかり甘露を充たし、あるいは巣にかえり来たる者の積荷を受け取り、あるいはまた勇ましく勢ぞろいしてなまけものの一群なる雄蜂どもを木戸よりやらいなどし、労役はすべて灼熱し、蜜はじゃこう草のふくいくたる香を放ちつつ、彼らが孜々としていそしむにさも似たり。
『幸ある人々よ、城壁はすでになりぬ!』とアエネーアスは言い、町の尖塔のほうに眼をむけつ。雲につつまれて――いうも不思議や――人々の真中にはいりこみ、人々といりまじれども、何人にも見あらわさるることなし。(1−四一八〜四四〇)
町の中心に陰心地よき木立あり。カルタゴ人は、波と旋風とにうちあげられたるのち、ただちにここにてユーノー女神の指示したまえる記念の品なる霊馬の頭をほり出しつ、かくてぞこの種族は、いく代のあいだ戦さにも誉れあり、ものにも富むべかりける。
このとしにカルタゴの女ディードーはユーノーのため、ささげ物ゆたかに御稜威(みいつ)いやちこなる、おおみやを建てつつあり。階段のうえには青銅の敷居をしき、梁も青銅の金具もて締め、同じく青銅づくりの扉にはとぼそきしきしと鳴る。
さて、この木立の中にて彼が思いよらず見出でたることこそ、はじめて彼の恐れをやわらげ、ここにまず彼は心つよくも身の安泰にのぞみをかけ、一度はうちくだかれたる運命にも、さらに確かなる信を持つことをあえてしぬ。
そは女王を待つと暫時宏大なる神殿のもとにたたずみ、物事をつくづくとあなぐり見ながら、いかなる町の繁栄ぞや、工匠のあいきそえる技術ぞや、はた彼らの苦心になれる製作ぞやと、ことごとにうち驚かされつつあるあいだに、ふと眼に入りしは、次第をおうて細かに描きならべられたるイリウムの合戦の絵、
はや全世界に名高きこの戦争と、アトレウスの子たちと、プリアモスと、およびこの双方に対してはげしく怒れるアキレスとなり。
彼は立ちどまり、泣きながらいう。『世の中のいかなる所にか、アカーテスよ、いかなる国にか、いま、われらの受難の知れわたらぬところありや?
見よ、プリアモスを!ここにも徳はそのふさわしきむくいを得たり。涙はその悲運のためにそそがれ、人の世の悲しみは見る者の胸をうつ。恐れをすてよ、われらのこの名声ぞ何らかの救いを汝にもたらさん』(1−四四一〜四六三)
かく言いながら、彼の魂はうつしよのものならぬ絵を飽かずむさぼりながめ、あまたたびためいきつきて、彼の顔は滝のごとき涙に泣きぬるる。
彼の眼にありありとうつるは、いかにペルガマの周囲にて戦いつつ、ギリシア人がここにてついえ敗れ、トロイの若武者が追いせまりしか、またかしこにてはいかにトロイ人がうち負かされ、そのあとより大鳥毛の前立ちしたるアキレスが、戦車にてひたひたと押しよせたるか。
遠からぬところに見えて涙をさそうは、レーソスの雪白の布の天幕なり。そはその寝入りばなに裏切られたるを、返り血さわに(注)浴びたるテュデウスの子ぞ。いたくほふりまわり、レーソスの荒駒をば、そがトロイのまぐさをはみクサントスの水飲むさきに、おのが陣営へと駆りさりぬる。
注 さわには「沢に」で沢山の意味
また他のところには少年トロイロスが、武器を失いて逃れゆく。あわれ彼はアキレスと戦うにはあまりに力あわぬ敵手なりけり。手綱はなおしかとにぎれども、ただ馬の馳せゆくにまかせて、後ろざまに倒れながら、むなしき戦車に身を取りすがれば、くびと髪の毛とは地面の上をずるずるとひきずられ、逆さになりたる槍は塵土のおもてに刻みをばつけゆく。
そのあいまにはトロイの女たちが、髪もくしけらず、敵意もてるパッラス女神の神殿にまいり、悲しげなる様して願をかけ、双手に胸をうちたたき、女神の御裳(みも)をささぐれど、女神は顔をそむけ、眼はしかと地上を見つめてあり。
アキレスは、ヘクトールをば三度トロイの城壁の周囲をひき回し、命なきむくろを金に代えて売らんとす。
捕獲物や戦車や、友のしかばねや、また武器なき手を差しのばせるプリアモスの姿など、彼が凝らせる瞳に入りしとき、アエネーアスの胸の奥より、深きうなり声ぞあがり来たる。
彼みずからもまたギリシアの隊長らと混戦するところあり、はた東方の軍隊、色黒きメムノンの武器をもみとめたり。ペンテシレーアは勢い猛く、三日月の盾もてるアマゾンの一隊を指揮し、数千の女軍のなかにあれ狂う。あらわなる胸には黄金の飾り紐をしめ、げに女性の戦士、処女ながらも勇ましく男といどみ戦う。(1−四六四〜四九三)
これらの光景に、トロイ人アエネーアスは驚嘆しつつ、恍惚としてただひたすらに次より次へと瞳を凝らし行くあいだに、女王ディードーは、むらがりよる若人の大いなる一隊をともとし、いわん方なく美しき姿して、神殿のほうにあゆみを運ぶ。
そのありさま、例えばエウロータスの岸辺にそい、またはキュントスの背をつたいて、ディアナが舞踏する一隊の先頭に立ち、そのあとよりは数しれぬ山の精オレアデス、右に左にむらがりゆくとき、かの女神がえびらを肩にかけ、あゆむ姿はあらゆる女神よりもぬき出で、喜びはラトナの黙せる胸にもしみとおるときのかの女神のごとく――
ディードーもかく喜ばしげに、男たちの真中を動きとおりて、おのれの営みと、まさに来らん王国にぞ心をいたす。
やがて神殿の中央、大まるやねのした、神龕(しんがん)の扉のまえ、武器にとり巻かれ、高く玉座に着席す。
彼女はここに裁決と法律とを人民にはんぷし、また彼らに業務を平等にわりあて、あるいはくじをもて宛ておこないなどす。
そのときアエネーアスはにわかに大群集の中にまじわりて近づき来たるアンテウスやセルゲストゥスや、勇敢なるクロアントスや、さては暗き嵐に吹きちらされ、とおく他国の岸辺に流されたりと思う他のトロイ人を見つ。
彼もおどろけば、アカーテスもうちおどろきて、喜びと恐れぞ身にしみわたる。燃ゆるがごとき熱望もて、手に手を取りあわんと思えど、え知らぬ事情ぞ彼らの心をかき乱すめり。
なお身かくれて、雲の着せ綿に包まれたるまま、友の運命やいかに、船どもはいずこの磯にのこしたるや、何をしに彼らはここに来たりしやなど、子細に見極めんとす。船々よりはおもだつもの出で来たりとおぼしく、女王の恩恵をばねぎ求めつつ、がやがやと神殿のほうへぞ進みゆく。(1−四九四〜五一九)
彼らが神殿にはいり、女王のまえにてもの申すべき機会をあたえられしとき、もっとも年たけたるイーリオネウスは、いと落つきたる心もて、かくぞ語りはじめける。
『あわれ女王よ、ユーピテルより、新しき都を建つることと、ほこり高き国民のうえに正義の統制を施くことをゆるされたまいたる君よ、不幸なるトロイ人、暴風にあらゆる海を吹きただよわされたるわれら、いま、君にねがいたてまつる。われらの船をおそろしき火災より保護せさせたまえ、敬虔なる種族をかばわせたまえ、われらのありさまをさらにとくと見そなわせたまえ。
まこと、われらのここに来たりたるは、剣もて君のリビアの住みかをかすめ、または盗みとりたる獲物を海辺に持ち去らんためにあらず。かかる暴挙はさらにわれらの心になし、また故国をおわれたる者にかかるたのみもさらになし。
海のかなたにギリシア人のヘスペリア(西方)と名によぶ古き国土ありて、武に強く土肥えたり。そこにはオエノトリア人すみしが、いま、風説によれば、その子孫たちは首領の名にちなみて、国をイタリアと呼ぶとなん。
われらそこに向えるに、たちまち嵐なすオリオン波上高く起りてわれらを暗礁に押しよせ、海のわれらをほんろうするがままに、はげしき疾風もて遠く大波のなかを、道なき岩のあいだへとまき散らしぬ。その中にてわれらわずかの者のみぞこの岸辺にただよい着ける。
ここに住むはそもそもいかなる種族ぞ?いかなる国なればかく荒らくれたるならわしを許すや?われらをさえぎりて岸にのぼらしめず、戦さをいどみて彼らの国土のふちに足をふませじとす。
君らもし人間とその人間の武器とは軽くみるとも、正邪を忘れぬ神々のことを思いみよ。
われらの王はアエネーアスなり。世に彼よりも正しき者なく、またその忠誠と、戦さと、武器の操縦においても彼にまさる者なかりき。
運命なおこの英雄の命を保たしめ、彼なお天なる息吹にやしなわれて、むざんなるよみの国にたおれ伏さずば、われらは恐れじ、君もまたまず我らにねんごろなるもてなししたることを悔やみたまうこと、よもあらじ。シチリアの地にもまた町あり、耕地あり、かつトロイの血統をひける名高きアケステースあり。
嵐に打たれたる船を岸辺によせ、森にて船板をつくり、櫂をつくりなすことをわれらに許させたまえ。われら友と王とを尋ね出でて、船路をイタリアに向かいうるものならば、よろこんでイタリアとラティウムとを訪ねんため。
されど、もしわれらの救いは断たれ、トロイ人の中の最もよき父よ、リビアの海なんじを捕えてはなたず、いまやユールスに対する希望まったくむなしかりせば、われらすくなくともシチリアの海と、われらがこたびそこより運ばれ来しわれらのために用意されたる住地と、アケステース王とにかえり得るため』
イーリオネウスのかく云えば、トロイの人々はもろごえ高くこれをうべないぬ。(1−五二〇〜五六〇)
そのときディードーはうつむきて、言葉みじかく語りけるは、『こころ安かれ、トロイ人、な心をわずらわしそ。わがやみがたき必要と、新付(しんぷ)の領とは、われにかかるふるまいをなさしめ、番兵もて広く国境を守らせではおかず。
されど誰かはアエネーアスの一族のこと、トロイの都のこと、その勇ましきふるまいと雄々しき人々のこと、またかのいと大いなる戦さの炎のことを知らざるべき?
われらカルタゴ人の心はさまでにぶからず、はた太陽もこのカルタゴの都よりさまで遠き方に駒のくびきをかけず。
汝らのねぎ求めたるところ、大ヘスペリアおよびサトゥルヌスの野なりとも、またはエリュクスの国土(シチリア)とアケステース王なりとも、護衞をつけて汝らを安全におくり出し、われの富をもて汝らを助けてん。
しかももし汝ら、われとともにこの国内に住まわんことをねがわば、われが建つる都はすなわちまた汝らのものたるべし。船をひき上げよ、トロイ人にも、カルタゴ人にも、われつゆばかりも差別を置かじ。
ねがわくば汝らの王アエネーアス、同じ風に吹きよせられてここに来たれかし。否(いな)とよ、われ、心すなおなる者どもをあまねく海辺に出しやり、しかして彼アエネーアスが難船して、森のうち、町の中などをさまよわずやと、リビアの国の隅々までとり調ぶることを命ずべし』(1−五六一〜五七八)
これらのことばに心はげまされて、勇敢なるアカーテスも父アエネーアスも、すでに久しく雲をやぶりてあらわれ出でんと心はやりぬ。まずアカーテスよりアエネーアスに語りかけるは、
『女神の子よ、いかなる目的の、いま、君の胸に生まれたるや?見たまうごとくすべてのものみな安全にして、艦隊も友も救われたり。ただひとり欠けたるは、われらみずからの眼にて波の中にのみ込まるるを見し人のみ、その他のことはみな君が母の言葉にたがわず』(1−五七九〜五八五)
彼の言葉の辛うじておわりしとき、とり巻ける雲たちまち分かれて、蒼々たる大空へと消え行き、アエネーアスは立ちあらわれつ。明るき光明の中に、顔も両肩もいと神々しく輝きたり。そは彼の母が、みずからその子にうちなびく毛髪の美しさと、青年の薔薇色のつやと、眼にはこころよき愛の輝きとをあたえたるにより。
その美しさは工匠の手が象牙にくわうる美しさ、または白銀あるいはパロスの大理石を黄金もて鏤飾(ろうしょく)せる美しさに、さも似たりけり。
そのとき彼は女王にむかいて言葉をかけ、何人も思いよらぬに、忽然として話しかけるるは、『君らのたずねたまうわれ、トロイのアエネーアスは、リビアの波より救われて、いま君らのまえにあり。
君ひとりトロイの言いがたき悲しみを憐れみたまう。君こそわれら――ギリシア人に撃ち残され、陸にも海にもすでにあらゆる不幸に疲れはて、窮乏の極みにあるわれらに、君の都と住みかの幸をわかちたまわんとす。ディードーよ、君にふさわしき感謝をささげるは、われらにもまた広き世界に散在するトロイ人の残党にも、力の及ぶところにあらず。
もし神力なお敬虔の人をよみし、もし正義にいくばくかの威重(注)あらば、神と正義を自覚せる心とは、ふさわしきむくいを君に与えたまえ!いかに幸ある世ぞや、君の出生に会えるは?いかに輝かしき両親ぞや、かかる子を生めるは?
注 「威重」は「いちょう」と読み「重み」のこと。
百川の太洋に走るかぎり、山々の谷間を物影の動くかぎり、また大空に星飼うかぎり、君の誉れと名と称賛とは永久に続くべし、たとえいかなる国にわれは召さるるとも!』
かく言いて彼は、右手にイーリオネウスと、左手にセレストゥスと、それより他の人々、勇敢なるギュアス、クロアントスらと次々に手を握りあいぬ。(1−五八六〜六一二)
カルタゴの人ディードーは、まず見るこの英雄の状貌に、次にはそのかくも大いなる不運にうちおどろきつつ、やがてかくぞ語り出でける。
『いかなる運命の、おんみを、女神より生れし人よ、かく大いなる危難のはてしなく追いまわすぞや?いかなるあらき力の、かかる荒磯辺(ありそへ)におんみを駆りしぞや?
おんみこそまさしく女神ウェヌスが、プリュギアのシモイスの河波のほとりにて、トロイのアンキーセスにめあいて(注)生める子アエネーアスならん?
注 めあうは媾うでまぐわうに同じ
さなり、わらわみずからも、テウクロスが祖国よりはなたれて、ベルスの助けにより新しき王国を求めんとて、シドンに来たれるをよくおぼえたり。そのころわが父ベルスは富めるキュプロスをとり荒らしつつ、勝利者の支配のもとに保ちぬ。
さればそのころよりわらわはトロイの落城のことも、おんみの名も、またギリシアの王たちのことも聞き知りたり。
テウクロスは敵ながらもトロイ人をこの上なくたたえて、みずからもまたトロイ人の古き血統より出でたりなど誇りかに語りし。
いで、若き人々よ、わが家にはいりたまえ。われもまた同じ運命におわれて、さまざまのなやみを経て来たりぬるが、ついにはこの国に身の落着きをぞ見出しつべき。
みずから非運を知らぬ身ならねば、不幸なる人々の友たる道もならいぬるぞかし』(1−六一三〜六三〇)
かく物語りて彼女は、ただちにアエネーアスを王宮に案内し、犠牲を神々の殿堂にささげまつるべきよしを命じなどす。
そのあいだに、牡牛二十頭、背あらげなす大豚百頭、母羊とともに肥えたる子羊百頭を、海岸なる彼らの友のところに送らする心づかいもなおざりならず、これはその日の宴飲の料(しろ)にとてなり。
まして宮殿のうちは王公の豪華をひろげ、家の真ん中には饗宴の用意をととのう。
寝椅子(注)をおおうはみごとに刺繍したる高貴の紫、食卓をかざるは多くの銀の皿、黄金の器にちりばめたるは祖先の雄々しき勲功、そは建国の古きはじめよりいと多くの英雄のあとをたどりつつ、彼らの残したる事蹟の長き絵巻なり。(1−六三一〜六四二)
注 寝椅子とは寝椅子のこと。
アエネーアスは──父親のわりなき愛情のやみがたさに――迅(と)くアカーテスを船にやりて、アスカニウスにこの消息をつたえ、彼を町に案内させんとす。アスカニウスにぞ、いま、彼のやさしき父親の心づかいはみな集まりたる。
また、イリウムの破滅のとき取りとどめたる品々を、贈り物にするため持ちきたれと命ず。そは、黄金細工の模様もて手ざわりかたき外套、黄なるアカンサスの笹縁(ささべり)つけたるベール、これらはアルゴスのヘレナの持ちし飾りにて、彼女がトロイへ不法の婚姻のため渡りきたりしとき、ミケーネよりもたらしたるにて、元は母なるレーダが与えたる不思議の賜り物という。
なおプリアモスの長女イリオネがかつて持ちたる権笏、くびにつけたる真珠の首飾り、宝石と黄金の環を二重に巻きたる冠なども。この使命を果さんと、アカーテスは船の方へ急ぎ行く。(1−六四三〜六五六)
されどキュテラにある女神は、胸の中になおも新しき計略、新しき意図を思いめぐらす。そはクピドーを顔も姿も変えさせて、美しきアスカニウスの代りに行かせ、贈り物もて女王の心を狂うばかりにあおりたて、情炎を髄の真ん中まで吹き込ませんとするなり。
じつに彼女はこのしかと信じられぬ王家と、二枚舌もつというなるカルタゴ人とを恐れぬ。さらに苛酷なるユーノーのことも彼女の心にいらだたしさを加え、夜とともにおそれもまた濃くたちかえりぬ。されば彼女は羽ある愛の神に、かくぞ語りかけける。
『わが子よ——ただひとりわがたよりとなり、わが大いなる力とたのむ――あわれ、わが子よ、いと高き大御父のテュポエウス殺しの投げやり(注)をもあざ笑う汝にこそ、われ身を寄せて汝が力のはたらきをねぎ求むるになん。
注 稲妻のこと
いかに汝の兄弟アエネーアスが、情け知らぬユーノーの憎しみによりて、大海のうえにただよい、磯より磯をさまよいあるくかは、汝のよく知るところにして、しばしばわれとともにうち嘆きぬ。
彼をいまフェニキアの女ディードーぞ、やさしきことばもてひき留むる。されどユーノーのもてなしのいかなることになりゆくべきや、わがこころ安からず。そはかかる運命の変わり目をあだに見すごす彼女ならねばなり。
さればぞわれ、機先を制し、いつわりの計もて女王をとらえ、恋の炎に彼女をつつまんとす。そはいかなる力も彼女の心をそらしえず、アエネーアスに対する愛情もて、しかとむすび付けられてあらんために。
汝がこれをしとげる手段については、いまわが考えを聞け。われが最も思いをつなぐかの公子は、父のおおせにより、海の波とトロイの火とを逃れたる贈り物の品々をもちて、カルタゴの都にゆかんとこころがまえす。
この子をばわれ、眠りにさそい、高きキュテラのうえまたはイダリウムの丘なるわが神殿に隠すべし、そは彼がすこしもわが計略を知らず、また仲に立ちてさまたげとなること無からしめんためなり。
汝は技巧もて、ただひとよ、彼の姿をよそおい、汝も少年なるままに、かの少年の常の顔となりてよ。
そは佳肴と美酒とのなかに、歓喜にあふれ、ディードーが汝をひざに引きよせ、しかと抱きしめ、こころよき接吻をなさんとき、汝が隠れたる炎を吹きこみ、まじないの力もて彼女をかどわかさんためぞ』
愛の神はいとしの母のことばにしたがい、羽をとり除けて、楽しげにユールスのあゆみをまねて歩む。
ウェヌスはまたアスカニウスの手足にしずかなる眠りの露をそそぎ、おのれの胸に彼をあやしながら、みずから彼をイダリウムの高き森までかかえあげつ。そこにはマヨラナぞ、その柔かき花片と、心地よき陰のいぶきとをもちて、彼をつつみぬ。(1−六五七〜六九四)
さてクピドーは、母のことばにしたがい(アスカニウスと身を変えて、アカーテスの道の案内を喜びつつ、カルタゴ人らへの王者の贈り物をもちて進みゆく。
彼が進みいりしとき、女王はすでに豪華なる天幕のうちにて、黄金の長椅子に身をよこたえつつ、人々の真ん中にあり。
いまははや父のアエネーアスもトロイの若人たちもみな一つになりて、まろうどらは紫の覆いに身をもたせかけ、召使は彼らの手に水をそそぎ、かごよりパンを取り出し、けばなめらかにつみたるナプキンなど持ちきたる。
家のうちには五十人の侍女あり、あえものを長き列に並べ、火もて炉の神を祭ることに奉仕す。
また別に百人の侍女と、同じ数の同じ年頃の侍童とありて、食物を食卓にのせ、杯を据えなどす。
カルタゴ人もまたこの楽しき大広間に群をなしてうちつどいつつ、女王の御意により、刺繍したる長椅子にもたれたり。
彼らはアエネーアスの贈り物におどろき、ユールスにおどろき、かつこの神の輝かしき面貌、よくその人に似せたることばつきにも、またサフラン色のアカンサスを刺繍したる外套にも、ベールにもうちおどろく。
そが中にも、やがて来ん災禍の宿命負える、不幸なるフェニキアの女で、飽くことを知らず眺むるままに、ますます心ほてりて、この少年にもその贈り物にも、等しくいたく心を動かさるる。
少年はまずアエネーアスにいだかれ、その首に取りすがりて、真の親にはあらぬこの親の愛情を満たさせたるのち、女王の方に行けば、彼女は眼もて、はた全心もて彼によりすがりて、時折その膝のうえに乗せていつくしみぬ。
ディードーはいかに大いなる神のあわれなるわが身に取つきたりとも知らず。彼はまたアキーダリウスの母(ウェヌス)のことを忘れず、少しづつ彼女がシュカエウスのことを忘れ始むるようにし、彼女の長く眠れる魂と、恋に慣れざる心情とを、生々(せいせい)たる熱情もて凌駕せんとぞ試みける。(1−六九五〜七二二)
饗宴にはじめて休息の来たりて、卓上も取り片付けられたるのち、大いなる混酒器を据え、その酒器には花冠をつけたり。
もののざわめきは湧くがごとく宮殿のうちに起り、人の声はいと広き客室になり響き、晃々たる燈火は黄金の格天井より垂れ下り、燃えさかるかがり火は夜の陰をも止めず。
女王は、やおら宝玉と黄金ともて重き杯を呼び、なみなみと生酒(きざけ)を充す―――こはベルスとベルスの家系の人々が用い慣れし品なり。そのとき大広間のうちはひたとしずまり、
『ユーピテルよ――主人と客人との作法を定めたまう君といえば――この日をばカルタゴ人およびトロイより出で来し人々の喜びの日となしたまえ、またわれらの子孫がこの日を永く記憶することを許させたまえ!
楽しみを与うるバッカスよ、恵み深きユーノーよ、われらに近く居ませよかし。おお、汝らカルタゴ人よ、慇懃にこの集いに誉れをそえよ!』という。
かく言いおわりて彼女は卓上に神酒(みき)をそそぎ、そそぎ終わればまず盃にみずから唇をふれ、
次にはっと挑みてビティアスにそれを与う。彼は泡立つ盃に口を当て、息もつかず、なみなみとあふるる金杯の底まで傾むくれば、次々に他の君たちも飲む。かつて巨匠アトラスの教えをうけたりという髪長きイオパスは、黄金の竪琴を広間に鳴り響かす。
うたえる歌は漂泊の月のこと、日輪の苦悩のこと、人間と獣類はいかにして生じたるかということ、雨と火はいずこより来たりしかということ、
大角星(アルクトゥールス)と雨を呼ぶ牡牛星座(ヒュアデス)と双熊星のこと、
いかなれば冬の太陽はかく心せわしく海に沈まんとするや、またいかなる躊躇の長々し夜をば行き過ぎがてにひき留むるやということなど。
歓呼に歓呼を重ねて、カルタゴ人の喝采すれば、トロイ人も劣らずこれに倣う。
さなり、幸なきディードーもまたくさぐさの物語りに長夜の興つきず、恋の杯を深く傾けつつ、プリアモスのこと、ヘクトールのことを多くたずね問うめり、
あるいはまたオーロラの男の子はいかなる鎧を着て来しや。はたディオメデスの駒のあり様はいかなりしや、アキレスはいかに強かりしやなどをも。
『否とよ、いで』と彼女はいう、『わが客人よ、われらに事のはじめより物語りたまえ、ギリシアの裏切りと、味方の不運と、君みずからの漂泊とを。君がさすらい人となりてあらゆる陸と海とを行きめぐりてより、はや、七つ目の夏といわずや』(1−七二三〜七五六)
第二巻梗概(上53p)
アエネーアスの物語。戦さにうち負けたるギリシア人たちは、木馬をつくり、その中に隊長らまちぶせす。彼らの艦隊はテネドス島に向い出帆す。トロイ人らは、カピュスとラオコーンのほか、その馬を戦利品と見なして、トロイ市内に容れらる。
トロイの王プリアモスの前に引き出されたるギリシアの間牒シノーンは、ギリシア国に対する憤慨をまことしやかにいつわり述ぶ。トロイ人らは彼に同情し、ギリシア軍の智謀の将ウリクセース(注)が彼に加えたりと彼のいつわり述ぶる不実の物語を信ず。
注 オデュッセウスのラテン語名。
『ギリシア人が退却を企てたるとき』と、シノーンはいう、『しばしば暴風にさまたげられ、神託はただ人間を犠牲とすることによってのみ、彼らの脱出をあがない得ることを予言す』犠牲にえらばれて、シノーンは逃亡したり。彼はおごそかに木馬がパッラス女神へのみつぎ物たるべきことを説く。『それを破壊せよ、さらば汝らは失なわれん。それを城壁のうちに保持せよ、さらば汝らの復讐は確実なるべし』
反間は成功す。ラオコーンの悲惨なる運命は、彼が木馬に加えたる冒涜的攻撃に帰せられ、木馬は、予言する王女カッサンドラの最後の警告にもかかわらず、歓喜をもってトロイ城内に容れらる。
全トロイの眠れる間に、艦隊は立ち返り、シノーンは木馬の中に伏せるギリシア人らをその中より解放す。
かつてトロイ軍の総帥たりしヘクトールの亡霊、アエネーアスの夢にあらわれ、神聖なる祭器と神像とをほうじして逃れよと警告し、しかしてパントゥスはシノーンの反間の情報をもたらす。
トロイは燃えつつあり。アエネーアスは救援の決死隊に先頭す。彼およびその追随者は、闇の中にたおれたるギリシア人らと、鎧を取り換う。この計略は味方によりて敵と誤らるるまで成功す。
ギリシア人もり返す。トロイ人散乱す。プリアモスの宮殿において最後の抵抗をなせども、ギリシア軍の大勇士ピュロス(=アキレスの息子ネオプトレモス)大門に迫り、防御者殺戮せらる。
プリアモスの運命。その首なき死体の目撃は、アエネーアスの考えをおのれの父の危険に導く。わが家の方へと急ぎながら彼は、この戦争の直接の原因なる美しき女ヘレナを見出し、あだをむくいて彼女の命を奪わんと立ちどまりしが、そのときウェヌス女神がなかに立ち、彼の眼を開いて、神々がギリシア軍を助けつつあるありさまを見せしむ。
アエネーアスわが家にかえる。彼の父アンキーセスは固く逃走を拒む。されどついに孫アスカニウスの頭の周囲に円光現われ、ここにおいて彼も前兆を認めこれに従う。逃走。
不意の恐慌のため彼の妻クレウーサ見失わる。アエネーアスはおのれの生命の危険をおかして、市中あまねく彼女を探しつつあり。そのとき彼女の亡霊出現し、立ち去れよと請う。『彼女はトロイの町に死し、イタリアの帝国は彼を待つ』彼女は消ゆ。夜は明く。アエネーアスは、アンキーセスおよび生き残りのトロイ人たちとともに、丘陵地帯にのがる。
第二巻
一座の者みな静まりて、彼らの顔をひたと彼のうえに向けつ。そのときアエネーアスは高き寝椅子よりかくぞ語り始めける。(2−一〜二)
『あわれ后よ、君がここに繰り返せとのたまうは、いかにギリシア人がトロイの権力といたましき国土とをまったく覆せしかを語る、得もいわれぬ悲しき事実にして、
こはわれが親しく見しいと憐れなる事たるとともに、われみずからもその重要なる部分に加わりたることなり。
よしやいかなるミュルミドネス人、ドロペス人、はた猛きウリクセースのもののふなりとも、かかる物語をするとき涙をおさえ得べしや?
いまつゆけき夜は、はや大空より急ぎ降り、傾く星は人を眠りにさそう。
されど君もしわれらのわざわいを知り、つづめたる言葉もてトロイの最期の苦しみを聞かんといたくのぞみたまわば、たとえわが心は思い出づるだにうちふるい、また悲しみのためたじろくとも、そを物語り始むべし。(2−三〜十三)
『そのころ、戦さに敗れ、運命にうち返されしギリシアの大将らは、多くの歳月もあだに過ぎにしことなれば、パッラスの神わざの助けをたのみ、山なす大きさの馬を作り、その脇腹は樅の桁材もて巧みにうち張りつ。
彼らはこれを安らかなる帰国を祈るため神にささげる物といつわれば、その風説はおしなべて広がりぬ。されど彼らはくじ引きしてのち、ここに選り抜きのもののふをひそかに暗き脇腹の中に入れ、大いなるその空洞と下腹とを、よろいたる武者もてひたと充しぬ。
『さてトロイより見ゆるところにテネドスあり。いと名高き島にして、プリアモスの国権たしかなりしころは富さかえたれど、いまはただ一つの湾にて、安からぬ船がかりの場所に過ぎず。
彼らはここに渡り、荒れたる磯に身を隠す。われらは敵遠くひき去り、追い風に帆をあげてミケーネに向かえりと思う。
されば、トロイは国をあげて長き悲しみより解きはなたれて、門々を押しひらき、人々はゆきてギリシアの陣営、人影なき場所々々、見すてられたる磯辺などを喜々として見る。
ここにはドロペス人、隊伍を立て、ここにははげしきアキレス天幕を張りつ、艦隊の止まりしはこのあたり、彼とわれといつも戦い慣れしはこのあたりなど。
『ある者この、ついにはわれらの命の仇(あだ)となる、処女神ミネルヴァへのささげ物を見てうちおどろき、その馬のいと大いなるを賛嘆す。
さてこの馬を城壁のうちにひき入れ、砦の中に置くべしとまずいい出でたるはテュモイテースなり。これや彼の二心か、はたトロイの運のつきなりしか(注)。
注 テュモイテースはプリアモスを恨んでいた(ツェツェースの『リュコプローン注解』)
されど、カピュスその他の思慮深き人々は、ギリシア人の詭計とおぼしくて、この信じられぬ贈り物を、真っ逆さまに海に投げ込むか、または下積みに炎をかけて焼けという。あるいはまた胎内の空洞を突き貫きて、隠れ場を探れというもあり。
『心迷える群集は、あいそむく二つの組にひき裂かれつ。このときなり、自からすべての者の真っ先に立ちて、後より大勢の者どもに従われつつ、ラオコーンの急ぎに急ぎて、砦の高きより走せ下り、はや遠くより呼びかけたるは。
「やよ、あわれなる市民たちよ、狂気ばしなしたるぞ?汝ら敵はまことにひき去りしと思うや、はたギリシア人の贈り物に二心なしと思うや?汝らのウリクセースを知るというはかくばかりの事か?
思うにこの木枠の中にギリシア人のこもり潜むか、またはこの道具はわれらの城壁を攻めん料にして、家々を見下ろし、上より街に襲いかからんとするか、何かは知らず奸計のこもらぬことはよもあらじ。
な、その馬を信じそ、トロイ人らよ。そは何事にまれ、われはギリシア人を信ぜず、彼らが贈り物をもたらすときすらも、彼らを恐るればなり」
かく言いて彼、はげしき力をこめて大身の槍を、この獣の横わきへ、枠組もて弓形なせる下腹部にと突き刺しぬ。槍は身ぶるいして突き立ち、馬腹こだますれば、うつろなる洞内はうなりの音を立つる。
もし神慮も不祥ならず、われらの心も迷いに入らざりせば、彼はわれらをせきたて、刃もてギリシア人らの隠れ場所を切り裂かせ、かくてトロイもなおしかと立ち、汝、プリアモスの高き砦もなお続くべかりしものを!(2−一三〜五六)
『見よ、その間にトロイの牧人ら、声高にののしりながら、後ろ手にいましめたる若人を王(プリアモス)のところにひき来たる。
これは彼らの知らぬ者ながら、このたばかりことをしとげて、トロイをギリシア人に開門せんと、深く覚悟を定め、おのれの詭計をしとげるか、または一定(いちじょう)わが命を取らるるか、二みちかけて、彼らの来たる道にみずから進んで身を投げ出したる者なり。
四方より、これを見んと心はやりて、トロイの若者たちは流るるごとくはせ集まり、あい競うてこの生け捕りをあざける。
いで、女王よ、ギリシア人の表裏を知り、この一犯行によりてあらゆる彼らの性質を推しはかりたまえ。
そは、彼、群集の凝視の中に意気沮喪し、武器もうばい取られて立ち、トロイ人の隊伍を見まわしながら、
「あわれ、いかなる国土かいま、いかなる海かいま、われを受けいれん?はた何ものかこのいやはての悲しきわが身に残されたる?ギリシア人の中にはわが身を置くべきところさらになく、かつトロイ人もまたわが敵にして、血なまぐさき死の刑罰をわれに加えんとす」とまことしやかにいいたればなり。
この嘆きを聞きてわれらの心は変わり、凡ての手荒きふるまいはやみつ。われらは彼の心をひき立てて、彼の血統と、もたらしたる消息と、かく捕虜となりてもなお何をか心たのみとするやなど語らしめんとす。
やがて恐怖もややしずまりぬるとき、彼はかくぞ語り始めける。
「王よ、誓ってまことの事の本末を君に告げん、よしやわが身はいかになり行くとも。われはまずこの事を名乗るなり、わが生まれのギリシアなることをこばまじ、また運命の女神が、われ、シノーンを悲惨なる奴と作りたればとて、この意地悪き女神の、われをしも必ず信じがたきいつわり者と作りたまうとは限らじ。
恐らく風聞にても知りておわさん、ベールスの子パラメデスの名とその名高き響きとは。さるにギリシア人は、誣告をもといとして、彼がつねに戦さに反対したりと、罪なき者に恐ろしき罪科をかぶせ、死罪にぞ処しぬる――彼らは彼が世の光より遠ざかりたるいまとなりて、彼のために悲しむなり。
わが父は家の貧しきままに、彼(パラメデス)の血縁につながるわれをば、彼のともとして年わかくより、ここの戦場に送り出したり。
彼が王たる力を揺るぎなく保ち、諸王の集議にも力ありしあいだは、われもまた若干の名と誉れとをわかち担いき。されど彼が、人をあざむくウリクセースの嫉妬により——わが語る事は世によく知られたり——現世を去りたる後は、われは無名と悲嘆の中に迫害の日々を引きずりつつ、心の中に罪なき友の不幸をいきどおる。
かくてわれ、おろかなるかな、ついに沈黙を守りえず、機会だにこれを許し、一旦勝利者として祖国アルゴスにかえりなば、彼のために仇を報いでは措かじと誓う。このことばぞまたわれに対するはげしき敵意を惹起しぬる。
このときよりわが破滅への落ち目は始まり、このときよりウリクセースはたえず新しき罪科をもってわれを脅かしつ、このときより人々の間に怪しき風説をまきちらし、おのれが罪過をみずから悟るままに、われを除くべき手段を探し求む。
じつに、彼はしばらくも手をゆるめず、ついにはカルカスを手先に使いて――ああ、されど、いかなればわれはむなしくこの面白からぬ想い出の巻をくりかえすや?またいかなればわれは(この事をもって)君らのひまを盗むべきや?
もし君らにはすべてのギリシア人がただ一色に見え、われのギリシア人なることを聞くばかりにてこと足るものならば。さらばたちどころにわれを罪したまえ、かのイタカ人はこれをねがい、アトレウスの子らは高き値もてそれをあがなうべきぞ」(2−五七〜一〇四)
『そのとき、われらはいまだかかる悪意の深さと、ギリシア人の型のごとき奸計とをえ悟らねば、いやましに彼の破滅の原因をたずね問わまくす。彼は恐怖にうち震えつつ語を続けて、かおにはいつわりの哀情を浮べつついう。
「ギリシア人らは、トロイをうち捨てて退却せんと計り、長き戦さに疲れて引き払わんことをねがう——かくなし果てなばよかりしものを!されど彼らが出発せんとするとき、はげしき海のすさびはしばしば彼らをさまたげ、あらき風は彼らをおびやかす。ことに、楓の梁材もて作りたるこの馬の、ここに立ちにしときよりぞ、暗き雷雲大空に鳴りはためく。されば心の不安にたえず、彼らエウリュピュロスを送り、ポイボスの託宣を乞いし程に、彼は神龕(みずし)よりこの悲惨なる答えをばもたらし帰りぬ。
『ギリシア人らよ、汝らははじめてイリウムの磯に来たりしとき、斬り殺したる少女の血もて風をしずめたり。汝らまた血もて帰国を求めざるべからず。かつその犠牲はギリシア人の生命もて行われざるべからず』と。
この言葉の人々の耳に入りしとき、運命は何びとにかかる死を定めたるか、アポロンの求むるは誰ぞと、彼らの魂はうちおののき、冷たき戦慄は彼らの骨の髄までしみとおる。
このときイタカ人は、大声にののしりつつ、予言者カルカースをわれらの真中にひき出だし、天意はいかにと責め問う。この術策家の恐ろしき悪計は、すでに多くの人々のわれに予告したるところにして、口にはせねど、来たらんとすることを彼らはよく知りたり。
かの者は五を二倍する日かずのあいだ無言の行を続け、閉じこもりつつ、その言葉もて何びとをも死にひき渡すことはせじと争う。
されどついにイタカ人の怒号に迫られ、(彼との密かなる)申し合せにしたがいて口を開き、このわれをば祭壇にささげよという。
皆々もこれをうべなう。じつに、おのおのがみずからのうえに降りかからんかと恐れしことも、ただひとりのみじめ人の破滅とし転じぬれば、たやすくそれをゆるし認むるなり。
やがて恐ろしき日は来たり。われを犠牲とする準備はととのえられぬ。塩と混ぜたるひきわり麦も、わがひたいに巻くための頭帯(あたまおび)も。
されど、じつにわれは告白す。われはわが身を死の手よりもぎ放し、いましめの縄を切り、もし彼らが船出するならば、その船出するまでの間をと、浜すげにかくれてよもすがら泥沼のなかに身を横たえいたり。
かくていまわれには古き祖国も、いとしき子らも、なつかしき父親も、相見んいかなるのぞみもなし。
彼ら、おおかたは、わが親や子供の手より、わが逃亡に対する十分のむくいを求め、あわれなる彼らの死をもってわがこの罪過のあがないをせんとすべし。
されば、われらのうえにまします神々により、真理を認知する大御心により、はたなお人の世に残れるいまだはずかしめられざる正義あらばその力により、われは汝に懇願す。かかるむごたらしき苦痛をあわれみたまえ、かかる不当のことになやむ魂をあわれみたまえとこそ」(2−一〇五〜一四四)
『かくてこの涙に対し、われらは彼の命を許して、なおあわれみをも加うる。その男のきびしき手かせ足かせをはずせとまず命じたるは、プリアモスその人にして、彼はやさしき言葉もてかくぞいい出でたる。
「汝いかなる者なるとも——いまよりのちはギリシア人らを世になきものと思い忘れよ――汝はわれらのものたらん。されどわれが汝にたずね問うことにはいつわりなく答うべし。彼らはいかなる目的もてこの大いなる馬を作りたるや?それをまず思いつきたるは誰そ?彼らの目指すところは何?いかなる宗教上の趣意を含むや?またはいかなる戦いの道具なるべき?」
かれは言葉をおわりぬ。ギリシア人の詭計と猾知(かっち)をゆたかにもち合せたるかの男は、いましめより解かれたる手を星の方にあげていう。
「汝ら永遠の火よ、われは汝らおよび汝らの侵しがたき神性を証人とす。またわれがのがれ来たりし祭壇および呪詛の剣よ、いけにえとしてわれが巻きし聖別の紐よ、われは汝らにかけて誓う、
ここにギリシア人に誓いたる神聖なる忠節を取り消すこともわれにおいて不法ならず、はたギリシア人を憎むことも、彼らが秘めおきしことの何事なるかを曝露することも、みなわれにおいて合法なり。なおまたわれはわが国のおきての何れにもとらわるることなし。
王よ、君はただ君の約束を守りたまえ、あわれトロイよ、われが真の消息をつたえ、われ汝に大いなる報いをなし、汝すくわれなば、われに誠実をたもて。
ギリシア人の希望と、そのはじめたる戦争の心だのみとは、ことごとくパッラスの援助にかかれり。されどテュデウスの不敬なる子や、罪悪の発頭(ほっとう=張本人)ウリクセースが、運命をつかさどるパッラスの神像を、聖なる神殿より奪い去らんとくわだて、城砦のうえなる衛兵をきり殺し、聖像を運び去り、血なまぐさき手をもて女神の処女額紐(ひたいひも)にあえて触れたるとき以来、ギリシア人らの希望は、うたかたの泡と消え、後へ後へとすべり始め、彼らの力はくじけ、女神の心は彼らよりそむき去りぬ。
かつミネルヴァ女神(=パッラス)は、この事のあかしをば、おぼろげならぬしるしもて告げ知らせぬ。
そは、その神像を陣営に置く間もあらせず、みはれる眼よりは輝く炎もえたち、手足には塩辛き汗流れ出で――いうも不思議や——女神みずから、盾とうちふるう槍とをとり持ちながら、三度地面よりおどり上りぬ。
これを見て、ただちにカルカースはいう、彼ら海を横ぎりて退却を始めざるべからず。
しかしてアルゴスより予兆を再びねがい求め、彼らがその反り船に乗せ、海上遠くおのれらとともに運び来たりし神よりの御恵みを、再びここにもたらさずば、ペルガマをギリシアの武器にて落とすことは不可能なりと。
さればこそ、いま彼らが風に浮かびて、故郷のミケーネにかえり行きしは、戦さの手段を講じ、神々を味方にせんとつとめ、再び海をわたりて不意にここを襲わんためなり。
さてかくカルカースはその前兆を解釈し、彼らは彼の忠告にしたがい、パッラス女神の像の代りとして、神威冒涜をつぐなうため、この馬の形をつくり、聖物窃取の罪障をつぐなわんとす。
されどカルカースは彼らに命じて、それが城門より取り込まれず、城壁の中にひき入れられず、なおまた古き信仰の庇護の下にトロイの人民をもまもらぬよう、このものを樫の木枠もていと大きくつくり建て、天にまでも建てあげよという。
彼の云えるには、もし汝らトロイ人の手、ミネルヴァへのみつぎ物(木馬)に害悪を加えなば、はげしき破滅――天よ、それをまず彼ら自身のうえに向けたまえ、――プリアモスの王国とプリュギア人のうえに落ち来たるべし、されどもし汝ら(トロイ人)の手により、それが汝らの市中に入ることあらば、アジアは攻められるを待たず、大軍を起してペロプス(=ギリシア)の城壁を襲い、破滅の運命はかえってわれら(ギリシア人)の子孫を待つべしとぞ」
いつわりの誓いを立てるシノーンのかかる欺瞞と猾計とにより、その陳述は信ぜられ、テュデウスの子も、テッサリアのアキレスも、十年の歳月も、なおまた百千の戦艦も屈服せしめえざりしわれらは、奸計といつわりの涙とのために占領せられぬ。(2−一四五〜一九八)
『そのとき、また別にそれよりも大いにしてかつ遥かに恐ろしき光景、あわれに頼りなきわれらの前に現われ、闇にさまよえるわれらの心をおどろかす。
くじによりネプトゥーヌスの司祭と定められたるラオコーンは、仕えなれたる祭壇のほとりにて、大いなる牡牛を斬り殺さんとしてありき。
されど、見よ、テネドスより静かなる海を渡りて――語るにすら身はふるう――二匹の大蛇ぞ巨大なる巻き輪を海上に横たえ、もろともに岸辺へと進み来たる。
彼らの胸は波間に立ち上り、彼らの血なまぐさき頭は巨浪のうえにあらわれ、その他の部分はうしろの海上にすそをひき、計り知られぬ長さの背を、うねりの輪に巻きなしつつ曲げ行き、海水打たれて泡とくだけるとき、はげしき物音ぞ聞え来たる。やがて彼らは陸に着き、燃ゆるがごとき眼には一面に血と炎とをたたえ、うちふるう舌もてシュッシュッと鳴る口を嘗む。
われらはこれを見て、恐怖のために血の気も失せはてつつ逃げ出す。蛇らはただ一筋にラオコーンのところに行き着きて、まず各々の蛇、彼の二人の子のほそやかなる身体に巻きつき、彼らの周囲をきりきりとまとい、毒牙もて彼らのみじめなる手足を食む。
それより子らを助けんと武器を手にして来たれる彼をとらえ、彼らの大いなる巻輪もて彼をしばりて、彼の胴の中を二重に巻き、また彼らの鱗だつ背もて彼ののどのあたりをふた巻きしたるのち、彼らの頭とそびえ立つ首とを彼のうえ高くさし上げる。
彼は額の飾り紐を凝結したる汚血と黒き毒液とにうちひたし、一方には手もてしばりを解きはなたんともがき、一方には恐ろしき叫喚を天へとうちあげる。
その声はじつに祭壇より逃げ出で、ねらいのはずれたる斧を首よりはずしたる、手負い牛の吼え声にさも似たり。
されど二匹の大蛇は、トロイの城砦なる神殿へとすべり逃げ、苛酷なるミネルヴァの塞宮にすすみ入り、女神の足のした、盾の輪の陰に身を隠す。
そのとき、まことに、いまだかつて感じ知られざりし恐怖、人々のみなおどろきあわてる心の中に忍び入り、ラオコーンは手槍もて、聖なる樫材(木馬)に暴行を加え、その脇腹に冒涜の穂先を突き立てたるが故に、彼ぞまさしくふさわしき罪の報いを受けたるなりという。
彼らは異口同音に馬像を神殿に引き入れ、女神の大御心に祈願せではと叫ぶ。
われら、城壁を裂き、街の防壁を開くに、みな喜びてその仕事にしたがい、木馬の足のしたには小さき滑車を取り付け、首を越して麻の大綱を延ばしなどす。
ゆゆしきからくりは、武器にふくらみて、壁をよじ登る。その周囲には少年や未婚の少女ら、聖なる歌をうたい、喜ばしげにその綱を手に取る。そは登るままにいと高くそびえ立ちて、町の中心へすべりゆくなり。
あわれわれらの国よ!あわれ神々の住みかなるイリウムよ、トロイ人の戦さに名をはせたるこの要害よ!あたかも門の入口にて、馬は四度立ちどまり、四度武器は胎内より高く鳴りひびく。
されどわれらは何事も考えず、ただ熱狂にめしいのごとくなりて、ただ進みに進み、不祥のあやかしを神聖なる砦のなかに置く。
そのときまたカッサンドラは唇を開き、まさに来たらんとする運命を告げんとす。神命により、トロヤ人にはけっして信ぜられぬ彼女の唇を開きて。
われら不幸なる者どもは、その日ぞわれらの最期なりしものを、それとは知らず街じゅうの神々の社をば、みな花環もて飾りぬ。(2−一九九〜二四九)
『その間にも、天球はめぐり動き、夜は大海より押しあがり、そのあまねき陰もて、土地をも空をも、はたミュルミドネス(=ギリシア人)の奸計をもみな押しつつみつ。
トロイ人は都をあげて物音も立てず伸びふし、眠りは彼らの疲れたる手足をしかとからんめり。
されど、いま、アルゴスの軍隊は、船をそろえてテネドスより、月も友なる沈黙の中に、案内しりたる磯辺を指して進み来つつ、そのときにわかに親船より相図ののろしをうちあげれば、シノーンぞ神々の依怙なる天運にまもられて、密かに松のかんぬきを引きはずし、胎内に閉じこもりたるギリシア人を解きはなつ。
押し開かれし馬は彼らを光の世によみがえらせて、こおどりしながら真っ先かけてうつろの樫材より出で来たるは、テッサンドルスとステネロスの両将、またゆゆしきウリクセース、
垂れたる綱をつたいてすべりくだれば、続くはアカマース、トアース、ペーレウスの子孫ネオプトレモス、名門のマカーオーンとメネラーオス、また奸計の張本人エペーウスの面々。
彼らは眠りと酒とに埋もれたる街々に襲いかかり、番兵をきり殺し、門々(かどかど)を押し開き、すべての仲間を引き入れて、味方同志の軍勢をばみな一つに結びあわせぬ。(2−二五〇〜二六七)
『そは悩みに疲れたる人々の、寝入りばなの時刻にて、神の恵みによりえもいわれぬ安息の忍びよるときなり。
されど、見よ、わが眠りには、いと悲しげなるヘクトールの姿、眼の前にあらわれ出で、滝のごとく涙を流すさまは、ありし日、戦車にひきずられて、血に染む泥土(でいど)にまみれ黒ずみ、腫れたる足に革ひもを貫かれたるありさまにさも似たり。
あわれ、いかに悲しげなるありさまぞや!ぶんどりたるアキレスの品々を取りよそおいてかえり来たりしときのヘクトール、はたギリシアの船にトロイのほのおを投げ込みしときのヘクトールと比べては、いかに変わりはてたる面影ぞや!
ひげはよごれ、髪の毛も血にこり固まり、祖国の城壁の周囲にて受けたるあまたの痛手を身につけつつ。われもおのづからうち泣かれて、彼に言葉をかけ、哀傷の言葉を述べしと思う。
「あわれ、ダルダニアの光よ、トロイの揺るぎなき希望よ、何物かはかく長く君をかなたにとどめたる。あわれ、われが待ちあこがれたるヘクトールよ、君はいずこより来たりたる?人々は多く倒れ、軍隊も都市もさまざまの悲しき目にあいて、まったく疲れはてたるわれらの、いまいかなる感慨もて君を見ることぞや!いかなるあさましき原因の、君の静かなりし顔かたちをかくはけがしたる?はたいかなればわれ、君にかかる負傷をば認めるぞや?」
かく云えど彼は答えだにせず、またわがむなしき問いに耳もかさず。ただ胸の奥底より深き嘆息を吐きて、
「逃れよ、女神より生まれたる者よ」という。「いで、この炎より免れよ、城壁は敵の手に落ちぬ。トロイは高き絶頂より廃墟に沈みゆくなり。汝は祖国のためにもプリアモスのためにも、汝のつとめを十分につくしたり。もしペルガマが人の手もて守護せられうるものならば、そはわがこの手にてもまた守護せられたらん。
トロイは汝にその儀礼の調度と家庭守護の神々とをまかするなり。これらの神々を取りて汝の運命の伴侶となし、これらの神々のために大いなる都をたずね出でよ。そはあらゆる海をただよいたるのち、ついに汝が建つべきものぞ」
かく言いて彼は、その手もて偉大なるウェスタ女神の神像と、その額の紐と、また奥なる神龕(みずし)より不滅の火とを持ち出だしぬ。(2−二六八〜二九七)
『その間にも町はいたるところ慟哭もてみたさる。わが父アンキーセスの住まいは、やや離れたる場所にありて、樹々うちおおいたれば人眼よりは隠れたれど、物音は次第々々に高くなりて、戦いの威嚇はひたひたと迫り来たる。
われは眠りよりおどろき醒めて、最も高き屋根の頂上によじ登り、しかと足を踏みしめて、耳をそばだてる。
そは、南風のあれ狂うみぎりに、迦具土(かぐつち=稲妻)の立穀物(たちくさ)を襲うとき、はた山河のたぎつ早瀬のあふれて野をあらし、ほほえん作物と牡牛のはたらきとを取り荒らし、森も林もひき倒し進み行くとき、わけ知らぬ牧人が、いわおの高きいただきよりその物音を聞きつけ、おどろきあきれるに似たり。
されど事の真相は明らかとなり、ギリシア人の陰謀はあらわれぬ。すでにデーイポボスの広大なる邸宅は、祝融(=火災)行き渡りて廃墟となる。すでにわが隣のウーカレゴンの家も燃えつつあり。
遠くひろくシゲーウムの海峡は炎もて輝く。高まるは人の叫喚とラッパの響きなり。
気も転倒し、われは武具を取れども、それを身に着けるは十分なる思慮ありてのことならず。わが魂はただ戦いをまじえるため軍隊をよせ集め、友軍とともに砦にはせおもむかんとあせりにあせる。狂暴と激怒とは、われにただあとさきかえりみぬ決意をのみ起こさせて、戦さに倒るることこそ誉れなれと思うばかりなり。(2−二九八〜三一七)
『されど、見よ、ギリシア人の武器より逃れたるパントゥス、すなわち砦のうちなるポイボスの司祭オトルュスの子パントゥスぞ、手には祭器と敗れたる神々と小さきその孫とを、みずからひきずりつつ、狂うがごとくわが戸口に走り来たる。
「国家の運命はいかに、パントゥスよ?われらいずれの城砦を守るべきぞ?」というわがことばの終るか終らぬに、うめきつつ、彼はかくぞ答える。
「トロイの最期の日、免がれぬときは来たりたり。われらトロイ人はかつて世にありき、されどいまははやなし。イリウムとトロイ人らの大いなる名声は過去のものなり。無情のユーピテルはすべてのものをアルゴスに移しぬ。ギリシア人はこの町に火をはなちて、おのれらの心のままにふるまう。
木馬は矗矗と(ちくちくと=高く)町の真ん中に立ちて、その高きよりよろい武者をはき出す。シノーンはいま勝ちほこりて、傍若無人に炎をひろく投げちらす。あるいは、二重門よりむらがり入る。そはみなおごれるミケーネより来たりし数千の者どもなり。
あるいは手槍いかめしく突き出して、狭き街路をふさぐ者あり。刃きらめく鋭き剣は引き抜かれ、斬り殺さんと構えられたり。城門の真っ先なる番兵らは、かろうじて戦わんとすれど、何抵抗の甲斐あるべき」
オトルュスの子のかかる言葉により、また天意により、われは炎と戦さの庭に運ばれる。そこにわれを呼ぶは、荒れ狂う闘争と、剣げきの響きと、天までも届くけんごうとなり。
味方としてわれに加わり来たるは、リーペウス、戦いに秀でたるエーピュトゥス――彼らは月光の中に現われきたる――ヒュパニス、デュマースにて、彼らはわが側に加わりけるが、またミュグドンの子若きコロエブスも来たる。
彼はカッサンドラに対する狂恋の炎を燃やし、たまたまそのころトロイに来たりしにて、心狂える許婚の女の忠言には耳をかさず、婿なればプリアモスとプリュギア人を助けたるぞ運のつきなりし。
彼らがやや一隊となりて、戦わんと勇むありさまを見しとき、われはなおもかくいう。
「若人たちよ、むなしく心はやる勇士たちよ、汝らもし大胆なる決死の人にしたがわんと思いさだめなば、われらの運命のいかなるものなるかをこそ知らん。
この国の頼みとしたる神々は、みなそこより離れて、祭壇も神殿も見捨てたり。汝らが救わんと急ぐ都はすでに燃えつつあり。われら死なん。いで戦いの真っただ中に突き進まん。救われる道なしと思うこそ、敗れし者のただ一つの安き道なれ」
かくてぞ若人たちの魂には、狂熱いや増しに加わりつ。
かくて、例えばはげしき飢餓に駆られてんこう見ずとなりたるおおかみの、渇けるあごもて待つ子らをあとに残して、暗き夜霧のなかにあさるごとく、われらは武器の真中、敵の真中を通して、おぼろげならぬ死へと押しすすみ、たえず町の中心へと押しすすむ。
暗き夜は、その暗闇のおおぞらもて、われらの周囲にただよう。誰かことばもてその夜の殺戮を、その夜の死を、よく説きうべしや。はた、誰か涙もてその夜のわれらの苦悩と競いうべしや?
多くの歳月を世に君臨しつづけたる、古き都は倒れんとす。命なき人の姿はかず知らず、町々のちまたにも、家々のなかにも、また神々の清浄なる入口にも、いたるところに伸び倒れつつあり。
しかもトロイ人のみ、血潮のつぐないをなせしにあらず。ときどきはうち負けたる者の心にもまた勇気の立ちかえりて、勝ちほこりたるギリシア人も倒る。惨憺たる悲劇はいたるところに演ぜられ、恐慌はいたるところにあり、死はくさぐさの形にてぞあらわる。(2−三一八〜三六九)
『まず、ギリシア人の大群をしたがえて、われらに出会えるはアンドロゲオースなり。知らねばこそ、われらを同じ国人の一隊と思いこみて、かなたよりなれなれしく言葉をかける。
「急げ、ものども、いかなる心怠りかはかく長く汝らを支えとどめたる?他の人々は炎のなかなるペルガマを掠奪し、ぶんどりの品々を運び去るぞかし。汝らはいまようやく大船より出で来たりしや」
かく言いて、彼はたちまち——十分に信頼すべき答えの与えられねば——身の敵中に落ちたることに心づき、うちおどろきて歩みも声もともにやめぬ。
げに、いばらの道を分け行くとき、思わず知らず地上に蛇を踏みたる者が、その蛇の怒りて、淡青きのどをふくらませて立ち向うとき、不意におののきて逃げ行くごとく、それにも似てアドロゲオースも、このありさまにうちおどろきて逃げゆく。
われらは襲いかかり、彼らを武器に取りこめて、いたるところ地の理も知らずあわて迷える彼らをさんざんに斬りまくる。幸運はわれらの最初のはたらきを助けぬ。
かくてコロエブスは、この成功の勇ましさに意気たかぶり、「友よ」と彼はいう、「いでや、運命の安しとさし示す方へまず道を取らん。彼女が吉兆の姿を見するほうへ。
われらの盾を取りかえて、ギリシア人の武具をわれらの身に着けん。奸計とも勇気とも、人は何ともいわば云え。仇に向かうに何かある?彼らはみずから武器をわれに渡すべきぞ」
かく言いて、彼はまずアンドゲオースの房毛植えたるかぶとと、美しく華麗なる盾とを取りよそおい、ギリシア風の剣をば脇腹にまき着ける。
リーペウスもデュマースみずからも、またすべての若人も喜びてこれにならい、銘々新しきぶんどり品もて身を固む。
われらは、神明われらを助けざるも、ギリシア人に入りまじりて進みつつ、夜の闇にまぎれ、あまたたび敵に出会いて戦さを挑み、多くのギリシア人をよみじに送る。
ある者は列をみだして艦のほうに逃げ去り、急ぎ足で頼りの海辺をもとめ、またある者は恥をも知らず恐れまどいて、ふたたび大いなる馬によじ登り、案内知りたる胎内に身をかくす。
ああ、されど、何人も天意にそむきては、何事も天にたよることをえず。
見よ、プリアモスの娘、処女カッサンドラは、髪をふりみだし、ミネルヴァの神殿の奥よりひき出だされて、かよわき手はかせにしばられたれば、燃ゆるがごとき眼、ただ眼もてんなしく大空をにらんばかりなり。
このあり様にコロエブスのたかぶる心の耐えうべきや。彼は決死の覚悟もて敵軍の真中に身を投げ出だす。われらもまた一団となりてそのあとにつづき、密集隊をなして猛襲す。
ここにわれらははじめて、神殿の高き頂きより、わが味方の飛び道具にうちすくめられ、われらの鎧の型と、ギリシア風の羽毛とによりて起こりたる錯誤のために、いと憐れなる同士うちは始まりぬ。
次にギリシア人も、乙女の奪回せられたるを見ていたくいきどおりを発し、うなり声をあげて四方よりむらがり来たりて、われらにはげしく襲いかかる。そはいと猛々しき大アイアースとアトレウスの二人の子ら、ドロペス人の全軍。
例えて云わば、ときありて竜巻たちまち吹き起こり、西風(にし)、南風(はえ)、および東方の馬を喜ぶ東風(こち)など、相反する風どものうち合えば、森はなりはためき、海神ネーレウスは一面に泡だてつつ、彼の三叉もりもて打ち狂い、海水を底の底よりかき乱すがごとし。
われらが闇夜に乗じ、計略もて闇の中に潰走せしめ、全都より放逐(ほうちく)したる者どもも、すべてまたあらわれ来たりて、彼らぞまずわれらの盾と武器の偽まんをば見あらわし、われらの語韻の不調和なる響きをば聞き分ける。
たちまち衆寡のいきおい敵せずなりて、コロエブスはまずペーネレウスの右手にて、戦さの大女神の祭壇のそばにうち倒さるる。リーペウスもまた倒さる。彼ぞトロイ人の中にて最も正しく、かつ最も正義の遵守者なりしものを、天意は、けだし異なりてやありけん。ヒュパニスとデュマースもほろびぬ、同じ国人に突きつらぬかれて。あわれ、パントゥスよ、君がいと大いなる敬虔も、アポロンの髪紐も、倒るる君が盾とはならざりしか。
イリウムの灰よ、汝、われらの国民の最後の火よ、われは君らを証人としていう。われは君らの破滅にあたり、ギリシア人の剣をも、はた彼らとの合戦の危険をも避けざりしなり。またもし倒るることがわが運命なりしならば、わが手もてわが死をかち得たらん。
われらはそののち心ならずも別れ別れとなり、イーピトゥスとペリアースとはわれとともに来たりしが、その中、イーピトゥスは老齢のおもりを感じはじめ、ペリアースはウリクセースに負わされたる負傷のため、足のあゆみはかどらず。されどわれらは戦陣の響きに呼ばれ、まっしぐらにプリアモスの宮殿のほうへ走りゆく。(2−三七〇〜四三七)
『われらが世にも大いなる戦さを見たるはここのことなり。これに比べなば他の戦さはいずこにも無きに等しとやいわん。またここを措きて倒るる者は全都にひとりもなしとやいわん。
われらは見つ、かくばかりはげしき戦さと、屋根を襲わんと突進するギリシア人と、持ち来たりたる動く陣屋もて封鎖せられたる出入口とを。
塀には城のり梯子を取り付け、門に間近く梯子の段を競いのぼり、左手に盾をもちて飛び道具より身をまもり、右手にては城壁の頂きをつかん。
彼らに対しトロイ人は、塔や家々の屋根をむしり取り、最期のときと覚悟したれば、これを矢玉として目前にせまる死より暫時身をばまもらんとす。
やがては昔祖先の建てたる、いと高き飾りなる、黄金かぶせたる垂木をころばし落とすもあり、また他の者は剣をぬきて下なる出入口をふさぐもあり、彼らは密集隊をなしてここを守らんとするなり。
われらは勇気をもり返して王の住居を救い、われらの助力もて戦士をたすけ、うち負かされたる人々にあらたなる力を加えんとす。
そこには一つの出入口と隠れ戸と、プリアモスの王宮の各部に通ずるみちと、秘密の裏木戸とあり。こはこの国のなお続きしころ、不幸なるアンドロマケーが、従者も連れずしばしば夫の父母を見舞い、わが子アステュアナクスを祖父のところに連れ来たりし通路なり。
われも、不幸なるトロイ人らが手に手にむなしき飛び道具を投げおろしつつありし、もっとも高き屋根のてっぺんによじ登る。
そこには塔ありて、屋根の縁に立ち、屋根の頂きよりなお空高くそびえ立ちけるが、――この塔よりぞありし日にはトロイも隈なく見え、ギリシア人の艦もその陣営も見渡されたる――
こを、その上の床板とのつぎ目にて、結合の弱きところに鉄の棒を突き入れてこづきまはし、その高き座より引きはなち、前の方へと押し出しぬ。
これを不意に押し落とせば、がらがらと重圧にうちひしぎつつ、遠く広くギリシア人の隊伍のうえにぞ落ちかかる。されど他の者どもは彼らと入りかわり、またその間いかなる種類の飛道具もうちやまず。(2−四三八〜四六八)
『内庭の真正面、門の入口にては、武器と黄銅の鎧とにきらめきつつ、ピュロスぞほこりかに戦う。
そは毒草もてやしなわれたる大蛇の、三冬(注 十、十一、十二月)の寒き間は地下にふくれてこもりたるが、
いまや新しく、からをぬぎ捨て、若々しさに輝きつつ、明るきところに現われ出で、胸を真直に立てて、ぬらめくうろこの身を高く太陽へとくねらせ、口には三叉に分れたる舌をひらひらと吐き出すにさも似たり。
彼とともに、巨人ペリパースとアキレスの御者にしてよろい持ちなるアウトメドーンと、またスキュロス島(ピュロスの故郷)の若者らの総勢と、みなもろともに王宮にどっと押しよせ、屋根に炎を投げかける。
ピュロスはみずから先頭にまじり、両刃の斧をつかみ、堅固に構えたる入口を押しやぶり、黄銅にて締めたる扉をとぼそより引き抜かんとす。これよりさき彼はすでにとびらの厚き板を切り通して、その丈夫なる樫の木にさけ目を作り、欠伸する口のようなる大穴をこそ開きたれ。されば王宮のうちは見え渡り、長き広間なども隠れる方なし。
プリアモス王および古えの王たちのいと奥まりたる部屋々々もあからさまにて、ギリシア人たちは第一の入口にトロイのよろい武者の立てるを認めぬ。
されど家のうちはなお呻吟とものあわれなる混雑とに騒ぎ立ちて、円天井したる屋形の奥深く、女人の泣き声みち渡り、物音のかしましさは天なる黄金の星をも打つめり。
恐れおののく女房たちは、広き王宮の内をさまよい、戸柱をしかとかき抱きて、そのうえに永別の接吻のあとをぞとどむる。
ピュロスは父にうけたる勇猛をもて迫り来たるに、かんぬきも、番兵すらも彼にさからう者なし。戸は連打する破城槌の衝撃のもとによろめき、戸柱はとぼそよりうち離されて地上に倒る。
道は強力(ごうりき)によって開かれ、ギリシア人は荒々しくみだれ入りて、通路を押しやぶり、先立つ者を切り倒し、至る所、兵士のあらぬくまもなし。
じつに障壁を押しやぶりて泡立つ河の流れ出で、道に立つ堤防などをその大波に圧倒し、山のごとく勢いたけく野にあふれ、一面に原を横切りて小屋も家畜も押し流すときすらもかくばかりはげしからじ。
わが眼は親しくみたり、ネオプトレモスが狂気のごとく切りまわるを、また王宮の入口にて働くアトレウスの二人の子をも。われはまたみたり、ヘカベーとその百人の嫁たちと、プリアモスが祭壇の中にて、みずから聖別したる浄火をおのれの血もて汚すことを。
その五十人の花嫁の部屋も、孫をもうける大いなる期待も、異国の黄金とぶんどり品もて堂々と飾りたる戸柱も、みな地におちぬ。猛火のつかさどらぬところは、げに、ギリシア人ぞ主人となりぬる。(2−四六九〜五〇五)
『おおかた君もまたプリアモスの運命いかにと問いたまわん。
敵に占められたる都はたおれ、おのが家の扉はひきぬかれ、奥まりたる部屋の真中まで敵を見たる彼は、老いながらも、年のためうちふるう両肩に、この年月久しく用いざりしよろいをばむなしく引っかけ、何の甲斐なき剣を腰にまとい、一定滅びぬべきにはきわまりぬれど、敵の密集せる隊伍に突き進まんとす。
この宮殿の真中、ひさかたの大空のしたに大いなる神壇あり、その近くにいと年古りたる月桂樹、祭壇のうえにうち傾きつつ、木陰に氏神をいだくようにして立てり。
ここに、ヘカベーとその娘たちは、暗き嵐に吹落されたる鳩のごとく、むなしく祭壇のめぐりに身をすりあわせ、神々の姿に取すがりてぞ坐りいたる。
されどヘカベーは、プリアモスが若き日の武具とりよそおうを見ていう。「わがいと幸なき夫よ、いかに物狂わしき覚悟の君を駆りて、かかる武具をばまとわせたる?はた、いず方へか盲目のように進まんとはしたまうや?
時の求めるはかかる援助にあらず、またかかる防御者にあらず。否とよ、よしやわがヘクトールみずからのここにありとてもいかがはせん。
いで、こちらに引きたまえ。この祭壇ぞわれらすべてを守りぬべき。さらずば君もわれらとともに死にたまえや」彼女はかく言いて、老王を身に引き取りて、神聖なる場所にすえぬ。
されど見よ、ピュロスの殺戮の手を逃れて、プリアモスの子のひとりなるポリーテースぞ、矢玉をくぐりぬけ、敵をくぐりぬけ、柱廊の長きに沿いてにげ走り、手傷は負いたれど、むなしき部屋々々をかけぬけ行く。
ピュロスは恐ろしき武器もて、はげしく彼に追い迫る。あわや、あわや、彼をとらえて槍を突きささんばかりなり。
ついに彼は両親の眼と顔の前にあらわれ来たりしとき、倒れ伏して、生命を滝なす血の中にほとばしらす。
これを見てプリアモスは、よしや死の真ん中に横たわりいたればとて、何条わが身をおさえ得べき、声も怒りもおしまずして叫ぶ。
「否、天にかかるふるまいを見守るべきいかなる正義の念にてもあるならば、かかる罪悪に対し、かかる冒涜に対し、神々は汝にふさわしき返礼をなしたまえ。汝に相当する報酬を与えたまえ。まのあたりわれにわが子の死を見せしめ、わが子を殺すありさまを見せしめ、父の眼を汚したるその汝に。
されど汝がいつわりてその人の子というなる勇士アキレスは、その敵プリアモスに対して汝のごとくにはあらず。かえって哀訴者の権利と信頼とを重んじ、ヘクトールの死体を墳墓にわたし、われをば本国に送還しぬるぞかし」
かく言いてこの翁の弱々しき槍をはなてど、そは敵に手傷をあたうべくもあらず。たちまちからからと鳴る青銅の盾にうち返され、その盾のつまみの頂きより甲斐なくぞ落ちぬる。
彼にむかいてピュロスはいう。「さらば、汝はこの消息を持ちて、ペーレウスの子なるわが父に使いすべし。わが残忍の所業とネオプトレモスの墮落とをしかと彼に語れ。いざ、死ね」
かくいいながら彼は、全身うちおののき、わが子が滝と流せる血汐に滑る老王を、祭壇にさえひきずり行き、左手に彼の髪の毛を巻きつけ、右手にぎらぎらと光る剣を高く抜持ちて、彼の脇腹に柄(つか)も通れとつき刺す。
これぞプリアモスの運のきわめなりし。かかる最期ぞ彼を取り去る運命にして、彼こそはトロイが炎に焦がされ、ペルガマが廃墟となり行くありさまを見し者、あわれ一度は、いと多くの民と国とのうえにアジアの偉大なる帝王として君臨したる者なりし。彼の大いなるむくろは荒磯に横たわり、頭は肩より斬り放たれ、その死骸は何人のものと名も知られず。(2−五〇六〜五五八)
『さて恐ろしき戦慄のはじめてわれを襲いしは、そのときのことなり。われははげしき恐怖にうたれぬ。わが父と同じ年輩なる王の、むごたらしき手傷のもとに命をあえぎ出すを見るにつけ、わがいとしの父の姿ぞ浮び来たる。またわが見捨てられたるクレウーサのことも、掠奪せられたるわが家も、わが幼きユールスの運命もみな心に浮び来たる。
われは振り返りて、わが周囲にある人々の数を見定めんとするに、彼らはすべてはげしき疲労のためにわれより離れ、まろびて地上に身を投げるもあり、または力つきたる身を炎の中に投ずるもあり。
いまやわれただひとりになりぬと思うとき、テュンダレオスの娘が、ウェスタの神殿に潜み、音も立てず、聖廟の中に身を隠しいるを見い出でたり。あかあかと燃ゆる火は、歩きまわり、かなたこなたとあらゆるものに眼を配るわれに光を投げる。
ペルガマの倒壊のため、トロイ人が彼女に向ける敵意と、ギリシア人の彼女に負わすべき懲罰と、その見捨てたる夫の激怒とを、もの恐ろしくも予想して、トロイにも祖国にも共同の悪魔と見らるる彼女は、身を隠し、いまいましくも祭壇の中にうずくまりつつありけるなり。
そのとき、わが魂に熱火は燃えあがりて、激怒はわれをうながして、倒れるわが祖国のために復讐し、彼女より罪のつぐないを強奪せよという。
「げにこの女が、安穏にまたスパルタと故郷のミケーネとを見得べきや?かくして凱歌をあげ、王后の位を持ち続け、トロイの女の群とプリュギアの侍女たちとにかしずかれつつ、夫と家と両親と子供らとを見得べきや?
しかも、プリアモスは刃に斬り殺され、トロイは炎に焼かれ、その磯はいくたびの血けむりにうちくもるいまなるをや?
あらず。よしや世に、女を罰するということは何のいちじるしき手柄とも見られず、はた勝ちて少しの高名とはならずとも、われはいまいましきものをこの世より消したることを、それにふさわしき罪科を加えたることをたたえられん。げにわが魂を復讐の火もてみたし、わが同胞の死の灰を満足さするこそこころよけれ」
われかかる事を思いめぐらしつつ、狂い心に押し進まんとするほどに、わがやさしき母ぞ――いまだかつてかくありありと眼に見たることもなき――姿をわれに現わしたる。そは闇を通して全き光に輝き出でて、まごう方なき女神の、美しさも神々しさも、天にまします者らが見なれけん姿をそのままにして、わが右手を取りて引き留め、薔薇なす唇よりかくぞ言葉を言いそえける。
「わが子よ、汝が荒々しき怒りを目覚ますは、いかなる鋭き苦しみなるか?いかなれば汝は心狂えるや?またわらわに向けたる汝が愛情はいずくにか消えゆきたる?
汝は老い疲れたる父アンキーセスをいかなるありさまに置きて来たりしかを省みんとはむしろ思わざるや?汝が妻クレウーサはなお生きたりや、また汝が子アスカニウスも?彼らはみなギリシアの軍人に四方より取り巻かれ、わらわの保護もてそれを支えざりせば、炎は彼らを奪いさり、敵の剣は彼らの血汐にぞ酔いたらん。
汝の非難の的となるべきはテュンダレオスの娘なるラコニアの女のいとわしき美貌にあらず、またパリスにもあらず。神々の、神々の無情こそこの国土をたおし、トロイをてっぺんより地上にうちのめしたれ。
見よ、——わらわいま汝がみつめるとき汝をおおいてその眼をくもらせ、しめりある影もて汝をおおいたるあらゆる雲を取りのけてん。何にまれ汝の親の言い付けをな忘れそ。またその勧告に従うことをなためらいそ――
ここに汝が廃墟となりたる一つの建物と、岩より裂けたる岩と、砂塵にまじわりて渦巻く煙とを見るところ、ネプトゥーヌスは、彼の力強き三叉もりもて持ち上げたる城壁といしずえとを、ゆり動かし、全市をその基礎よりくつがえさんとす。
ここに、何よりいと残忍なるユーノーは、真っ先かけてスカエアの門を占領し、剣をまとい、いきおい猛く彼らの船よりその同盟の軍勢を招かんとす。
見よ、いま、パッラス女神、神光と猛きゴルゴーもて輝きつつ、砦のもっとも高きところに坐せり。
大御父(ユーピテル)みずからも、ギリシア人に元気と好意ある力とを与え、トロイの軍人に敵対へと、みずから神々を励ましたまう。
急いで逃れよ、わが子よ、もがくことを止めよ。わらわ、いずくまでも御身の影身(かげみ)に添い、安らかに御身の父の門に入らしむべし」
彼女は、ことばを終えて、夜の濃き陰に身をかくしぬ。おそろしき顔ども眼に見えて、敵意ある天つ神々ぞあらわるる。(2−五五九〜六二三)
『そのときイリウムはことごとく炎のなかにしずみ、ネプトゥーヌスの建てたるトロイは土台よりくつがえさるべうわが心におもわる。
そのありさま、例えば山の頂きにて、杣人(そまびと)らが競いこころに力をこめて、とねりこの古木を刃物もて切りまわり、斧もてつづけ打ちにし、根元より伐りはなたんとするとき、その木はたえずいまにも倒れんとしつつ、ゆらゆらと揺れふるう梢には、木の葉どもおびえさわぎ立ち、ついにはその深手のため次第々々に力つきて、最後の悲鳴をあげ、大岩よりも引き離され、どうとばかりうち倒るるに似たり。
われは城砦より市街へくだり、神の導きにより炎と敵のなかを抜けゆくに、飛び道具もわが身にはすき間を作り、劫火も引きしりぞきぬ。(2−六二四〜六三三)
『かくてわれはやがてわが父の住まいの戸口に、わが住みなれたる家に行きつきたるとき、わが父は、さなり、その人をこそ何よりも先に高き山のうえに連れ去らんとねがい、その人をこそ何よりも先に探し求めたるわが父は、トロイのまったく破れたるいま、おのれの生命を生きのび、国を捨て去ることをがえんぜず。
「いかで、汝ら」と彼はいう、「若々しき血汐に燃え、気力もたくましく、剛毅なる汝らこそ、身をもって逃がるべきなれ。わがことは、もし天にまします神々、わが生きながらえることをよしと見なば、わがためにこの住居をも持ちこたえさせぬべし。
この都のひとたびの破滅を見しだに、そのひとたび奪い取られるを生き残りしだに、あまりあることなり、なおあまりあることなり。いかで、汝、このままの、ただこのままのわがむくろに、最後の言葉をかけて立ち去れよや。
われはわが手もて死なん。敵も憐れみをかけ、来たりてはただわがものをぶんどり行くべし。墳墓のなきなどはささやかなることなり。
神々の父、人の王なる大御神が、雷電の息吹きもてわれを吹きうち、炎もてわれを触れ損ないたるときよりこのかた、すでに長くわれは神々に憎まれ、用もなく年久しく生きながらえぬ」
彼はかかる事どもを語り続けつつ、覚悟をきめて動かず。これに対しわれらは多くの涙をそそぎつ、妻のクレウーサも、アスカニウスも、すべての家族ももろともに、父がその身とともにあらゆるものを破滅し、われらのうえに差迫ったる悲運に、なおも彼の死てう重しを加えぬようひたすらにねがい求む。されど彼は聞きいれず、同じ決意もて、同じ場所に止まり居るなり。
われは戦場にはせ返り、悲運の極みにむしろ死をえらばんとぞ願いはそむる。いかなる計画も、いかなる好運も、いまはわれらに許さるべきや。
「父君よ、おんみを後に残して、われ、ここを去り得べしと思いたまうや、しかしてかく恐ろしき言葉はわが父の唇より出でたるや?
この大いなる都より一物をだに残さじというがもし天意にして、かかる目的はしかと父君の心のうちにも決定し、滅び行くトロイに君自身と君の家族とを加うることが、もし君のこころよしとしたまうところならば、かかる死への扉は大きく開かれたり。
ピュロスぞやがてここに来たるべき、プリアモスの流るる血汐も新しく――子を父の眼の前にて、父をば神壇の側にてうち殺したるそのピュロスぞ。
わがやさしの母よ、武器をくぐり、火をくぐり、汝のわれを連れしりぞきたまいしは、わが家の奥の部屋の真っただ中に敵を見、アスカニウスも、わが父も、それに寄り添うクレウーサも、次々に他の者の血汐の中に殺されるを見よとのことなりしか?
武器!ものども、武器を持ち来たれ。最期の日の光こそ敗れし者を招くなれ。われをギリシア人に返せ、われを戦場に再び行きて新しく戦うにまかせよ。げにわれら今日の恨みを報いずして、いかでみな犬死にすべきや」
ただちにわれはまた剣を帯び、左手を盾の取手に当てて差し入れて、家より走り出でんとす。されど、見よ、わが妻は戸口にてわが足にすがり付き、片手にては小さきユールスを父たる私に差し出だして、
「君もし必死の道に出で立ちたまうとならば、われらもまたともにあらゆる憂目に連れ行きたまえ。されどもし君の手練により、手にせる武器にそこばくの望みをかけたまうとならば、まずこの家を守りたまえ。誰のもとに行けとて幼きユールスを、誰に行けとて君の父を、はた誰に行けとて一度は君の妻と呼ばれたるわらわを、捨てたまうや」(2−六三四〜六七八)
『かく泣きさけび、彼女の悲しみもて住まいのうちを充しつつありしとき、にわかに云わん方なく不思議なる神兆ぞ現われたる。
両親の手とその悲しげなる顔の間に、見よ、ユールスの頭の頂きより、軽き一穂の炎、光を注ぎ、触れても害を加えず、炎は彼の巻毛をなめ、こめかみのあたりにちらつくようにぞ見ゆる。
われらはおどろきに打たれ、恐れにふるいおののきて、彼の髪の毛を払い除け、水もてその聖なる火を消さんとす。
されど父アンキーセスは、喜ばしげに眼に星を見上げ、声もろともに手を天の方に差し伸べていう。
「全能のユーピテル、もし何らかの祈願が汝を動かし得るものならば、われらを見よ、ただそれのみをわれは願うなり、しかしてもしわれらの敬虔の念がそれに値するものならば、われらに汝の助力を与えよ、あわれ父よ、しかしてこの吉兆を確立せしめよ」
老人のかく言いおわるかおわらぬに、突然左手の方にあたり轟々と雷鳴とどろき渡り、一つの流星大空より暗きを通してすべり落ち、そのおびただしき照明もて後に一道の光の流をひいて走る。
われらはそれが屋根の高き頂きをこえてすべり、その軌道を鮮明に跡つけて、イーダの森に落入るを認めぬ。そのとき、星の軌跡は長き尾をなして輝き渡り、このあたりはすべて硫黄のごとき煙に充さる。
ここにおいてようやくわが父は心より譲歩し、座席より身を起し、神々に祈りをささげつつ聖なる星を礼拝していう。
「いまや、いまや、われをたゆたわする何物もなし。汝に従い、汝がわれを導くところ、いずこまでもともにあるべし。わが国つ神々、わが一族を護りたまえ、わが孫を護りたまえ。
この吉兆も汝ら神たちより来たれるなり、トロイのよりて立つも汝ら神たちの守護によるなり。われもわが心意を譲りて、わが子よ、汝とともに行くことを拒まじ」(2−六七九〜七〇四)
『彼は言葉をおわりぬ。いまや劫火の物音は街を通して益々明かに聞え来たり、はげしき炎は潮をいよいよ近く巻き上げる。
「さらば、いざ、父君よ、わが首によりかかりたまえ、われはわが肩に君を支えてん。かくばかりの労はわれを圧する恐れなし。
われらの運のなり行きはいかなるにもせよ、われら二人は一連の危うきに会い、一つの安きに就かん。幼きユールスはわれとともなるべし。妻は少しく離れてわれらの跡をたどれ。
汝、家の子らはいまわがいう事によくころせよ。町より出で離れたるとき、そこに一つの丘と顧みられぬケレースの古き殿堂とありて、その近くにわれらの祖先の敬神により、多くの歳月の間斧鉞(ふえつ)を加えられざりし古き糸杉あり。
この一つの場所にわれら道を異にして来たるべし。父よ、君はわが国の祭器と家神とを手に取りたまえ。われみずからがそれを取り持つことは、かくはげしき争いより、かつ近き殺戮より離れ来しいま、流るる水に身を浄むるまでは、一つの罪業なるべし」
かく言いてわれは、彼を負うべきわが広き肩と、彼を支うべき首とを、黄褐色なる獅子の皮もておおい、負うべきものをわが背にぞ受ける。幼きユールスはわが右手に取りすがり、よちよちと父の後を追う。
妻はわれらの後より来たる。われらの通る道はなお暗し。
かくてしばらく前までは矢玉の雨も動かしえず、ひしひしと群がりよるギリシア人も動かしえざりしわれも、いまや心は動揺し、わが伴う者のため、はたわが背負うもののために、等しく危惧しつつ、そよとの風にもうちおどろき、些かの物音にもすわとばかりにいましめる。(2−七〇五〜七二九)
『かくていま城門に近付き、安全にわが行路を終わりたりと思うとき、不意に多くの人々の足踏み鳴らす音のわが耳にはいるに、父は闇を透かし見て叫ぶ。
「わが子よ、逃げよ、わが子よ、彼らは近々と迫りぬ。われはかがやく盾と、ひらめく刃とを幽(かす)かに身に感ずるなり」
何物とも知らずわれにこころよからぬ神力の、あわてるわれを惑わし、わが分別を奪いたるは、このときのことなりけらし。
しばらくは人少ななる方を急ぎ足で走り、やがて馴れたる道筋よりわかれ道に入りぬるが、あわれ、悲しいかな、わが妻クレウーサは、運命によりわれより奪い去られて、ある場所に立ち止りたるか、道を迷いたるか、または疲れて坐り込みたるか、われは知らず。そののち彼女はかつてわが眼にかえり来たらざりき。
われらが古えのケレースの丘とその神聖なる宮とに着くまでは、われは見失いたる彼女のほうを振り返らず、はた彼女のほうに心すら向けざりしなり。ついに一同がこのところに集まりたるとき、彼女ひとり欠けて、伴侶をも子をも夫をも見捨てて消え失せぬ。
そのときわが心狂して、人々の中にも、神々の中にも、われが非難せざりし者ありしや?
またこの都の陷落にあたり、これに勝りて悲惨なるいかなることを見たりしや?
われは、アスカニウスと、わが父アンキーセスと、トロイの神々の像とを味方にゆだね、彼らを奥まりたる谷間に隠し、ただひとり輝く武器を身にまとい、町の方にとって返す。
いかなる危険にてもあらたにこれを迎え、全トロイを再び駆け抜けて、わが命を二度目の危険にさらすことこそわが決心なりしなれ。
まずわれは城壁とそこよりわが町を抜き出でたる門の暗き入口とに立ち返り、わが足跡をたどり返しつつ、闇の中にそれを追い求め、わが眼もてそれを熟視す。
いたるところ恐怖はわが魂を満たし、それとともに静けさそのものもまたわれを恐れしむ。それよりわれは愚かしくも彼女(クレウーサ)があるいは恐らくこなたにさまよい来たりてあらんかと思い、わが家に帰り着きぬ。そこにはすでにギリシア人闖入(ちんにゅう)し、屋敷のうちをくまなく取り占めたり。
一瞬にして呑滅(どんめつ)の火は、風により屋根の頂きまで渦巻き上り、炎はそのうえに立ち舞いて、揺れ動く火先(ほさき)は天までも届かんとす。
われは進みてプリアモスの宮殿と砦とをおとなう。されどすでにいまはむなしき柱廊の中、ユーノーの聖所にて、選ばれたる番士ポイニクスといまいましきウリクセースとぞ、掠奪品を見張りいたる。ここに方々より持ち来たり、積み上げたるは、燃ゆる神殿より奪いたるトロイの財宝、神々の食卓と黄金の重厚なる混酒器、ぶん取りたる服装などなり。
小供らとうちおののく女房たちとは、長き列をなしてその周囲を取巻きてあり。
じつにわれは闇の中にあえて声を立て、街々をわが叫喚もて充し、やらん方なき悲しみのため、くり返しくり返し再三クレウーサの名をむなしく呼ぶ。
かくてわれ、彼女をたずね、たえず町の家々を気狂いのごとく通り抜けつつありしとき、不幸なるクレウーサその人の影と幻とこそわが眼の前に現われたれ。その姿はわれが見なれたるよりもはるかに大いなり。
われはうちおどろき、髪の毛は逆立ち、声はのどにからまる。そのとき、彼女はかくわれに語りかけて、その言葉もてわが心のつらさを取り除かんとす。
「狂うばかりの悲しみもて、かく心のくづおれたまうこと、何かはおんみのためなるべき、わがいとしの夫よ?これらのことはみな天意なくして起りしことならず。また君の同伴者としてクレウーサをここより連れ去ることは君に許されず。なおまた彼、高きオリュンプスの王もそれを許さず。君のさすらいは長かるべく、しかして君は大海をこぎ渡らざるべからず。
「かくて君はリュディア(=エトルリア)のティブリス河静かなる波をあげ、人ゆたかなる田園のあいだを流れる西なる国に行くべし。
そこにはほほえむ幸運と、領土と、高貴なる花嫁と、君に与えられん。君の愛するクレウーサのために流す涙を払いのけよ。
わらわはミュルミドネス人たち、またはドロペス人たちの心おごれる住まいを見ず。はた行きてギリシア人の女房たちの奴隷とならざるべし。わらわはトロイの女にして、女神ウェヌスの嫁なるものを。
さはれ、神々の大いなる母ぞわらわをこの磯に引き止める。いざさらば、われら二人のあいだの子に君の愛を変わらせなしたまいそ」
かく言いおわりて彼女は、われがうち泣きつつ多くを語らんと願うひまに、われより離れさり、うすき息吹のなかに朧々(ろうろう)となり行きぬ。
そのとき三度われはわが腕を彼女の首のまはりに巻かんとしたれども、三度ともむなしく捕え得で、幻はわが手より逃れ去りぬ。そは軽き風のごとく、凡て消えゆく夢にいとよく似たり。(2−七三〇〜七九四)
『かくてわが友のところに帰りしは、ようやく一夜を過せしときなり。
ここにわれが見出でておどろきたるものは、われと一つにならんと群がり来し、あらたなる味方の大衆にして、人妻あり、夫あり、みなくにを立ち去らんと集まりしおとなの、ものあわれなる人々の一群なり。
彼らは海をこえて、われが導く方へ、いずこの地なりとも住みに行かんと心を定め、用意をととのえ、方々よりもろともに出で来たりぬ。
いまや暁の明星はイーダの第一峰のうえにのぼりはじめ、その日の朝をもたらさんとす。ギリシア人は群がりて、門々(かどかど)の出入りを守る。しかしてわれらには救援の望みさらになし。われは運命に身をゆだね、父を抱えあげ、山のほうへと歩みを運ぶ。(2−七九五〜八〇四)
第三巻梗概(上93p)
神託に従い、トロイ人らは船をつくり、トラキアに向いて出帆す。町を建てんとたずねつつ、彼らはトロイの王子ポリュドーロスの霊に去れよと警告せられ、オルテュギアにアニウスをおとなう。
予言の神アポロンは、もし彼らがトロイ人の「古えの母国」にかえるならば、アエネーアスおよびその子孫は全世界に広がる帝国を得べしと約束す。その母国とはクレタ島なるべしとアンキーセスは説く。
彼らはクレタ島に着く。されどただ困惑するのみ。旱魃と疫病とは都市建設の第二の計画を挫折せしむ。まさに一層明瞭なる助言を乞うためアポロンのところに立ち返らんとするにあたり、アエネーアスは、夢に、トロイの家神たちによりて真の母国はイタリアなることを確めらる。アンキーセスは自己の誤りを認め、以前カッサンドラが、トロイ人は恐らくイタリアに移植させらるべしと予言することにより、いかにあざけられたるかを回想す。
ストロパデス島に上陸し、彼らは知らずして怪鳥ハルピュイアを害す。ここにおいてハルピュイアの女王ケラエノーは奇異なる飢餓の予言をなして彼らを威嚇す。恐怖に打たれ、彼らは岸に沿うてアクティウムに航し、ここに彼らの国民的競技を挙行し、ギリシア人を蔑視する記念品を留む。
ブトロトゥム(アルバニア)において彼らは、ピュロスの領土を所有するトロイの王族ヘレノスとその妻アンドロマケーを見出し、しばらく彼らに歓待せられ、贈り物と道案内とをもって出発を見送らる。
デュッラキウムよりの航海とイタリアの最初の瞥見(べっけん=ちょっと見る)。彼らは上陸し、ユーノーをなだめ祭る。それより岸に沿いてついにエトナ山の見ゆる所にいたる。アカエメニデスの救助と、怪物ポリュペーモスよりの避難を説明したるのち、航海も物語もドレパヌムにおけるアンキーセスの死をもって終る。
第三巻
『アジアの王国とプリアモスの罪なき国民とを滅ぼすことが、神々によしと認められ、
光輝あるイリウムは倒れ、ネプトゥーヌスの建てしてう全トロイはなお地上にはいぶりつつありしとき、
われらは神々の予言に従い、おちこちのさすらいびととなり、遠き未墾の土地を探すため、故郷より遣らわれつ。
運命はいずこにわれらを伴い行き、われらいずこに定住し得べきやと思い迷い、かくてわれらは、プリュギアのイーダ山の麓、港町アンタンドロスの近くに艦隊を作り、味方の人々をぞ集むる。
とかくして初夏は来たり、わが父アンキーセスは運を天に任せて帆を張れよという。
そのとき、われは眼に涙して、故郷の磯と港と、一度はトロイありていまははや跡形もなくなりにし平原とを見捨てつ。われはかくてわが友、わが子、家神、およびおおいなる神々の像とともに落人として大海に乗り出しぬ。(3-一〜一二)
『やや離れて、軍神の国といえる、広き平野に人多く住める土地あり、トラキア人これを耕せり。かつては猛きリュクルゴス(注)の支配したるところにして、トロイの国運さかんなりし頃は、そのふるき友邦として、その家つ神々もまたトロイの家つ神々と友たりき。
注 ディオニュソスを拒否したことで有名
われはまずここに船を着けて、曲浦(きょくほ)のほとりに、運命われに幸いせねど仕事に着手し、最初の城壁を造り、わが名に倣いてこの民をアエネアダエと呼びぬ。(3-一三〜一八)
『われはわが始めたる事業の保護者、ディオーネの娘なるわが母ウェヌスその他の神々に犠牲をささげ、大空にいます神々のいや高き王に、磯辺にて白き牡牛を奉る。
たまたま傍らに一つの丘ありて、その頂きには桃金鎮(テンニンカ)群がり生い、山茱萸(グミ)繁きとげをいらだたせたり。
われはこれに近付き葉しげきその枝もて祭壇をおおわんとて、地上より緑なす一樹を引き抜かんとす。
そのときわれはいと物恐ろしく、言うだに不思議なる怪異を見たり。
そは根を引きはなちて地面より引き抜かれたる第一の木より、黒き血の雫(しずく)したたり落ち、凝血もて土を汚したればなり。
戦慄はわが手足を痙攣せしめ、寒き血汐は畏怖のために氷らんとす。
われはまた再び第二の樹の柔靱(じゅうじん)なる枝を引き裂きて、隠されたる秘密を底まで探らんとするに、再びまた第二の枝の皮より黒き血ながれ出でたり。
わが心にはさまざまの想い浮び来て、田野の妖精たちとゲタエの野の守護神なるグラディーウース主とを拝み、彼らが程よくこの予兆を祝福し直して、凶兆を除かんことを願いぬ。
されどなおさらに気を励まして、第三の幹に手をかけ、膝もて砂土のうえに踏んばりつつありしとき、そのとき――言うべきか、ああ黙すべきか――悲しげなるうなり声、岡の深き底より聞え、物いう言葉わが耳に漂い入る。
「アエネーアスよ、いかなればみじめなる者を引きむしるや。いまぞ墓の中なる者をいたわるべき時なり。汝の浄き手を汚すことをいとえかし。トロイはわれと汝とをよそ人として生めるにあらず、はたこの血汐はただの木の幹より滴るにあらず。
ああ、この無情の土地より逃れよ。この貪婪(どんらん)の磯より去れ。
見よ、われはポリュドーロスなり。ここにわれは突きぬかれ、槍の鉄の播種(はしゅ)われをおおい、その鋭き穂尖(ほさき)こそいまわがうえに生い繁れ」
そのとき、わが心は二つの恐怖のために圧せられ、おどろき呆れるばかりにて、髪の毛は逆立ち、舌は口の上辺にくっ着きて動かず。(3-一九〜四八)
『これぞ過ぐる日、不幸なるプリアモスが、トロイの武器を頼みがたく思いはじめ、かつその都が密なる封鎖もて取り巻かるるを見し頃、トラキア王に育てさせんと、大いなる金塊を添えて彼に托したるポリュドーロスなりける。
トラキア王は、トロイ人の勢力くじけ、運命の神にも見離されたるとき、アガメムノーンの盛運とその戦勝の武器とに味方し、あらゆる公道を破壊したり。
彼はボリュドーロスを殺し、その黄金を強奪す。利欲に対する呪われたる渇望よ、汝なにかは人の心を駆らざる。さてわが恐怖のわが骨をはなれたるとき、われは神々のこの怪異をわが人民の選ばれたる首だつ人々に、ことにわが父に、物語り、彼らの思うところを聞かんとす。
彼らの断ずるところみな等し。罪悪の土地を離れ、けがれたる歓待を後にし、風に任せ艦隊をうかべ去れよという。
かくてまずわれらはボリュドーロスのため葬式の儀礼を行う。彼の塚のうえには多くの土を積み上げ、黒色の飾り紐と暗緑色の糸杉をもって喪を表わし、彼の魂のために祭壇を設け、その周囲にはトロイの女ら、この場合にふさわしく髪をほどきて立てり。
われらは温き乳もて泡立つ杯と、聖別の血の器とを供え、彼の魂を墳墓の中にしずめ、声高らかに永訣の最後の言葉もて彼の魂を呼び覚ます。(3-四九〜六八)
『それよりやがて海もたのまれつべう見え、風も水上に静まり、微風おだやかなるささやきもてわれらを大海に招くやいなや、われらの伴侶(仲間)は船を下ろし、海岸に群がり寄る。
かくてわれら港より帆ばしり出づれば、陸地も町も後ずさりしつ。
海の真中に神聖なる陸地あり、ネーレイデースの母にも、エーゲ海の神ネプトゥーヌスにも最も親しくして、
この島(デロス)が浦わ磯辺を浮び漂いつつありしを、孝心深き弓矢の神(アポロン)こそ、高きミュコノスとギュアロスとにそれを繋ぎ止め、揺るぎなく人も住みつき、風をも物の数とせぬようにしたりけれ。
ここにわれは運ばれ来たる。島はわれら疲れたる船人どもをいと懇ろに安全なる港へと迎え入るる。われらは上陸し、アポロンの町に敬意を致す。
ここの人民の君主にして、ポイボスの司祭を兼ねたるアニウス王は、その額を飾り紐と神聖なる月桂樹もて巻き、われらを出で迎う。彼はアンキーセスを見て、その旧友なることを認めつ。われらはともに歓会の手をつなぎて、彼の家に入る。(3-六九〜八三)
『古代の石もて建てたる神殿を礼拝して、われはいう。「テュムブラの神(アポロン)よ、われらに永住の家郷を与えたまえ、われら疲れたる者に城壁と、子孫と、永遠の都とを与えたまえ。第二のトロイの城砦を保たしめたまえ、ギリシア人と無情のアキレスより救われたろ残党を助けたまえ。われら何人に随伴すべきや。われら何処に行き、何処にわれらの住まいを定めよと命じたまうや。大君よ、われらに予兆を示し、われらの魂を励ましたまえ」
かくいうわが言葉の終るか終らぬに、たちまちあたり一面に震動すると思われ、入口も、神の月桂樹も、周囲の小丘もことごとく打ち震い、押し開きたろ神殿より三脚台の鳴る音ぞ轟き渡る。
われらは膝を折り、地にひれ伏すに、耳を打つて声あり。「汝ら、ダルダノスの堅忍なる子孫どもよ、汝の始祖よりはじめて汝らを育みたる国、その同じ国土こそ、帰り行く汝らをまた、稔り豊かなる土をもて迎うべけれ。
つとめて汝の古えの母を尋ね出だせよや。ここにアエネーアスの家、あらゆる国々に君臨せん、子らの子らもそれより生るる者どもも」
ポイボスはかく言いぬ。されば不安の裏にも、心に大いなる歓喜生じ来つ、みな一同にこの都とは何なるか、ポイボスはわれら漂泊者を何処に呼び寄せ、何処に立ち帰れと命ずるぞと尋ね問うる。
そのときわが父の、古人の言伝えたることをかんがえつつ、語り出でけるは、
「聞け、汝隊長らよ、しかして汝の希望を知れ。
大海の真中にクレタとて、大神ユーピテルの島あり、そこにイーダ山あり、われらの種族の揺籃の地なり。
彼らは百ばかりの大いなる都市に住み、国士はいと豊饒なり。われ聞き覚えたる事の想い出に誤りなくば、われらの種族の第一のテウクロスは、この所よりはじめてロエテウム(トロイ)の海岸に渡り、国を建つべきところを選び定めぬ。されどそのときはいまだイリウムもペルガモンの城塞も建たず、彼らは低き谷間に住み慣れたりき。
さてここにならいてぞ、キュベルス山に守護の母神も住み、コリュバンテスの用ゆる青銅の鐃鈸(にゅうはちシンバル)、はたイーダの森の名も出で来たりつ。ここよりぞまた神秘教理にたいする誠実なる秘密も来たり、女神の車にくびきかけたる獅子を使うことも出で来たりつる。
いでさらば、天意の導くところに、われら従いゆかん。風をなだめ、クノッソスの国をさしてこそゆかんかな。
そはほど遠き航程にもあらず。ユーピテルだに助けたまわば、第三の暁にはわれらの船、クレタの岸辺に停泊すべし」
彼はかく物語り、祭壇のうえにふさわしき夫々の犠牲をささぐ、そはネプトゥーヌスに一匹の牡牛、汝、美しきアポロンに一匹の牡牛、暴風に黒き一匹の子羊、好意ある西風に一匹の白き子羊らなり。(3-八四〜一二〇)
『風聞広く伝わりて言う、将軍イードメネウスは、父祖伝来の国をおわれて去り、クレタの海岸は荒廃し、家々にはわれらの敵なく、彼らの住宅は見捨てられたりと。
われらオルテュギア(デロス)の港より船出し、大海を走り、その峰にはバッカス神の騒宴の行わるというナクソス島、緑のドヌーサ島、オーレアロス島、真白なるパロス島、水上に碁布(きふ)せるキュクラデス諸島の側をよぎりつつ、島々多く散らばれる海峡に沿って進み行く。
水夫の叫声は彼らのさまざまの競いにあがり、
仲間の者たちは、「クレタを、われらの祖先を求めんかな」と相励む。
風は艫(とも)の方よりあらたに吹き起りて行く者を追い、ついにわれらはクレタ人の古えの磯辺に吹き寄せらる。
ここにわれは急ぎに急ぎて、願望の城壁を建て、この都をペルガメアと呼ぶに、人民はその名を喜び合えりしが、われはまた彼らを励まし、各々の家を愛し、彼らの家のために砦を高く築けという。
さていまやわれらの船は、乾ける岸にほとんど引きあげ終わり、若き人々は婚姻と耕作とにいそがわしく、
われは彼らに法と安住の家とを与う。そのとき、たちまち人を取り荒す悲惨なる疫癘、天の毒気を含めるところより、われらの身体に、樹木に、穀物に落ち来たる。しかして死を誘う恐ろしき季節も来たりぬ。
可惜(あたら)しき命を捨つる者もあり、病の中に身体を引きずるもあり。またシリウスは野を焦がして不毛にし、草は乾き、病める作物は食を生ぜず。
わが父はいま一度大海を横切りて、オルテュギアのアポロンの神託へと引き返し、恵み深き御告げを乞い、われらの蓑えたる運命にいかなる終局を与えんとするや、われらの不幸に何処より援助を見出すべく試みよというや、また何処にわれらの進路を向くべきやを伺えと言う。(3-一二一〜一四六)
『そは夜、眠は地上にあらゆる生きとし生ける者を捕えたる時なり。わがトロイの焼くる街の火中より救いて、奉じ来たりたる神々の聖なる姿、プリュギアの守護神たち、睡り伏したるわが前に立つとぞ思わるる。壁なる窓を通して、満月の注ぎ入る強き光の中に、いとあからさまに見えつ。
そのとき彼らはかく話しかけて、かかる言葉もてわが危惧をなだめたり。
「汝オルテュギアの島(デロス)に赴かば、アポロンが汝に告げなんものを、彼ここにて汝に啓示するなり。しかして見よ、彼請われざるに、われらを汝の戸に送りぬ。
トロイが焼け滅びたるとき、われら汝と汝の武器とに従い、汝を道の案内者とし、汝の船により波立つ海を押し切りしが、このわれらこそ汝らの子孫を天つ星まであぐべく、はた彼らの都に帝権を付与すべし。汝、偉力ある人々のために偉大なる城壁を作れ、汝の亡命の長き労苦を避くるなかれ。
汝らの住地は変えざるべからず。ここはデロスの神の告げたる海辺にあらず。アポロンはクレタに定住せよと命じたるにあらざるなり。
かなたに一地方あり、ギリシア人はこれをヘスペリアと名付く。そはいと古き国土にて、戦さに強く、土肥えたり。
かつてはオエノトリア人住みたることあり。いま、風聞の伝うるところによれば、その後々の者は彼らの首領の名によりて、イタリアと呼ぶとなん。
これぞわれらが永住すべき家郷(さと)なる、ここよりダルダノスも、われらの種族の創祖イアシウスも出でたり。
急いで立て、喜んでこれらの疑いなき言葉を汝の老父に伝えよ。彼はコリュトゥス(エトルリア)とアウソニア(イタリア)の国土とを探るべきなり。ユーピテルは汝にクレタの野をば拒みたまう」
かかる幻影と神々の言葉とに打ちおどろきつつ――
これは夢にあらず、否、われは面々あいたいし彼らの容貌を、はた飾り紐したる髪の毛を、生々たる顔面を見るごとく思いぬ。わが身体にはそのとき一面に冷たき汗ぞしみたる——
われは寝床より飛び起き、声もろともにあおむけたる手を天の方に差し上げ、炉(いろり)のうえに浄きささげ物をばうちそそぎつ。
この宗教上の服礼をおわり、われは喜びて事の委曲をつくして父に物語る。彼は二重の系統と二つの始祖とを認め、しかしておのれがこの古き国士に係るあらたなる誤解により思い過まりたることを自認す。
かくて彼はいう。「イリウムの運命により試練せられたる者なる吾子よ、カッサンドラのみひとり未来のこの運命をわれに予言したり。
いま思い出づるは、彼女がわれらの種族のかかる運命を予言し、かつしばしばはヘスペリアのこと、またイタリアのことを告げたることなり。
されどそのときに当り誰かはテウクロスの種族がヘスペリアの磯辺に来たるべしと思わんや。また予言者カッサンドラが何人をか動かすべき。いまぞわれらはポイボスに従わん。しかして神のいましめに応じ、よりよき道をたどるべし」
彼かく云えば、われらは異口同音に喜んで彼の言葉に従う。われらこの家郷(さと)をもまた打ち捨てて、わずかの者をあとに残しつつ、帆を張りあげ、われらのうつろ船にて大海を走りこえんとす。(3-一四七〜一九一)
われらの船、海に乗り出でて、もはや何の陸地も見えず、あたりはただ大海と空のみとなりにしとき、
わが頭のうえに暗憺たる雨雲、闇と嵐とを伴いて密集し、波は暗黒のしたに翻る。
たちまち、風は水を巻き返し、力ある海、騒ぎ立てば、われらは広き大水のうえに吹き散らされ、揺り動かさるる。
あらし雲は天の光を封じ、湿霧(しつむ)の闇、われらより空を奪い去り、しばしば雲裂け、電光閃く。
われらは航路より押しはなたれ、不知案内の水上をさまよう。パリヌールスすらも大空に昼と夜とを見分くることを得ず。また波濤の中に針路を知らずと言う。
げに暗き狭霧(さぎり)のため、われら心もとなき三日の昼を大海のうえに漂蕩(ひょうとう)したり。同じ数の星なき夜をも。
第四日に到り、はじめて陸地あらわれ、山々遠く眼界に展開し、軽煙の上昇するを見る。
われらは帆を巻き、櫂を漕ぐ。水夫らただちに力を込めて事に従い、泡立つ波を渦巻かせ、緑の海の上を滑り行く。
かくてわれら波浪より救われ、はじめてわれを受入れたるは、ストロパデス(注)の磯なり。ストロパデスとはギリシア名にて、広きイオニアの海にうかぶ島々をいう。
注 ザキュントス島の南、ハルピュイアの住む島
そこには、恐ろしきケラエノーおよびその他のハルピュイアども、ピネウスの家が彼らに閉ざされ、彼らが恐怖のため従前の食卓を見捨てたる日以来、住居せり。
世に彼らよりものすごき怪物ほとんどなく、なおまた彼らよりはげしき病毒も、神々の怒りも、ステュクスの流れより生じたることなし。
彼らは鳥なれども、処女の顔をなし、彼らの腹の排泄物はいとけがらわしく、手には猛禽の爪を持ち、顔色は飢渇のためつねに青ざめたり。(3-一九二〜二二八)
『われらここに運ばれ、港に入れば、見よ、平原に打ち広がりて、楽しき牡牛の群と、草のうえに番人なき山羊の群ぞ遊べる。
われらは武器もてこれを襲いうち、神々およびユーピテルみずからもこの獲物を分かちたまえと降臨を願い、それより曲浦に沿いて寝椅子を並べ、豊かなる饗宴を催す。
されど、ハルピュイアども、突然山々よりすさまじくわれらのうえに降り来たり、けたたましき音をたてて翼をはばたき、食物をかすめ、いまわしき接触によりてすべてを汚す。そのときいまわしき悪臭にともなう鋭き叫び声ものすごし。
われらは樹木とその参差たる掩影(えんえい)にとり巻かれ、くぼみたる巌のしたの引き込みたる場所に席を移し、再び食卓を装備し、再び祭壇に聖燭を点ず。
されど再び異なりたる天の一角、彼らの見えざる隠れ家より、騒然たる一群飛び来たり、爪ある足もて獲物を舞いまわり、彼らの口もて饗宴を食いあらす。われは仲間に武器を取れよと命ず。われらこの呪のろわれたる一族と戦わざるべからず。
彼らはわが命令に従い、草の内に剣を隠して地面に置き、盾をも埋伏す。
かくて怪物らが降り来たり、曲浦に沿いて叫び声をあげぬるとき、ミセノスそのラッパもて、高き懸崖の上より相図をなす。たちまちわが仲間は襲いかかり、武器もてきたなき海鳥を傷つけんとしつつ、不思議の戦さをぞ試むる。
彼らは、撃たれても羽にそれを受けず、背中もまた傷つかず、疾く飛び去り、高く冲(ひい)り、あとには半ば食いとりたる獲物と、いまいましき臭いの痕とをのこすばかりなり。
されど凶兆の予言者てうケラエノーのみひとり高き岩のうえに座し、胸をしぼりてかかる言葉を叫ぶ。
「いかに、ラーオメドーンの子孫らよ、汝らは屠りたる牡牛、殺したる若牛などのためにすら戦うとや。しかして罪なきハルピュイアを故郷より追わんとするとや。
さらばわがこの言葉をよく聴きて、魂の奥深くおさめよ。こは全能の大神ユーピテルがポイボスに、しかしてポイボス・アポロンがわれに予言したまいしことにして、狂暴の神々の長なるわれ、いま汝らに告げ知らせんとす。
イタリアは汝らが航海の目的なり。風に祈りて汝らイタリアに到り、港に入ることを許さるべし。
されど運命によって与えられたる都を城壁もて囲うことに至りては、まず呪わしき飢餓のため、またわれらを殺さんとしたる害悪のため、汝らのあご骨もて余儀なく食卓をかじり砕くまでは、決してその事なるべからず」
彼女はかく言いおわり、羽に乗りて森の方へと逃げ去りぬ。そのときわが仲間の血は、不意の恐怖のため冷たくこおる。勇気はくじけ、いまははや武器も捨てて、彼女が女神にもあれ、恐ろしき汚き鳥にもあれ、誓願と祈念もて赦しを乞えとわれにいう。
父アンキーセスは、磯辺にて手をさしのべながら、天の大御力をねぎ求め、求むる助けの報賽(ぼうさい、御礼参り)に犠牲をおごそかに約束す。
「神々よ、この脅威を払いたまえ、神々よ、この災禍を清めたまえ、好意を垂れ、敬虔なる者どもを救いたまえ」
そののち彼はただちに磯辺よりともづなを解き、帆索(ほづな)を解きゆるめよという。(3-二一九〜二六七)
『風は帆を広く張り、そよ風と梶取とが早き船路を送り進むるままに、われらは泡立つ波の上を運ばる。
やがて大水の真中に、鬱蒼たるザキュントス、ドゥーリキオンとサメー、巌けわしきネーリトスなど見ゆ。
われらはラーエルテースの治むるイタカの岩を避け、無残なるウリクセースを育てたる国を呪う。
やがてまたレウカス山の嵐煙を帯びたる峰巒(ほうらん)眼界に現われ、水夫の恐るるアポロンの宮居も見ゆ。
疲れしままにわれらはここへと帆ばしりて、小さき町(ニコポリス)の港に入る。船首よりは錨を投げ、船尾は磯のうえに引きあげたり。(3-二六八〜二七七)
『かくてわれらついに望みのほかなる国土に着きぬれば、ユーピテルにつぐないの犠牲を致し、祭壇に祈願の火をともし、
アクティウムの磯辺においてトロイの競技を挙行す。
わが友らは着物を脱ぎ捨て、滑りやすき油を塗り、すもうの国技に加わる。われらがかく多くのギリシアの都市のそばを安全に通り過ぎ、仇敵の真中をくぐりながら逃げおほせたることは、考うるだにこころよし。
その間に太陽ははや満一年の環をまどかにし、氷れる冬ははげしき北風もて水を荒々しくあおる。
われは偉大なるアバースのかつて手にせる凹形の黄銅の盾を、神殿の入口の門柱に懸けて、わがはたらきをば詩句もて表現す。「この武具をアエネーアスぞ、勝誇りたるギリシア人より奪いて奉納す」と。
それよりわれは、友らに命じ、磯を去り漕ぎ手の席に着かしむ。かれらは熱心に橈(かい)もて海を打ち、そのおもてを滑りゆく。
やがてパエアーケス人らの住む地の高根も見えずなり、エーペイロス(ギリシア北西部)の磯に添いて航行し、カオニアの港に走りいりて、ブートロートンの険しき町に近づきぬ。(3-二七八〜二九三)
『ここにて、とても信じられぬ風説のわれらの耳をみたす。そはプリアモスの子なるヘレノスがギリシア人の町々の王となり、アイアコスの子孫なるピュロスの妻とその権笏とをともに手に入れたり。すなわちアンドロマケーはいま一度同国の人なる夫に帰したりということなり。
われはうちおどろきつつ、その人に話しかけて、かくも大いなる運命の変転の物語を聞かんと、わが胸は不思議なる熱情に燃ゆ。
われ、艦と海岸とを後にして、港の方より進み行きしが、そのとき、たまたま、町の手前、シモイスになぞらえたる流れのそばなる浄き森にて、アンドロマケーぞおごそかなる周年祭の奉饌(ほうせん)と喪の供物とを、夫の死灰にささげ、ヘクトールの魂をその一つの塚のうえに招きてありぬ。そは緑の芝生にて造りたる空碑よりなり、二つの祭壇(夫と息子)とともに常住の涙の種としも、彼女が亡き夫にささげしものなり。
彼女はわが近付くを見、周囲にトロイの武器を見るやいなや、この大いなる不思議に、われを忘るるばかり打ちおどろき、われを眺めいる中に気を取り失い、生命の温かさは骨肉を見捨て、息絶えて倒れけるが、やや久しくしてついにようやく回復し語り出でけるは、
「君はしもうつつの君のかんばせにて、生ある使いとしてわがもとに来たりしや。あわれ女神より生れたる者よ、君は生きてあるや。またもし快き生命のともしびの消えたる者ならば、われに告げよ、ヘクトールは何処にありや」
彼女はかく言いて、涙を滝のごとく流し、泣き声もてあたりを満たす。彼女がかく悲嘆に泣き狂うほどに、われはかろうじして語り出でたるきれぎれの言葉にて、わずかにこれに答え得つ。
「わが生きてあるはまことなり。われは悲しみのあらゆる極みを通してぞわが命をひきずり行く。な疑いそ。汝が見るは幻にあらず。ああ、かくばかりちぎり深かりし妹背の君を失いて、いかなる運命の汝を迎えたる。はた汝に十分ふさわしきいかなる運命の変化の、ヘクトールの妻アンドロマケーを見舞いたるか。汝はピュロスと結婚を続けてあるや」
かおを伏せ、低き声して彼女はいう。
「すべての他の女たちにまさりて、プリアモスのかの処女(ポリュクセナ)のみぞ幸いなりしかな。彼女こそトロイの高き城壁の下なる敵の墓にて、死すべく命ぜられつ。彼女こそいかなる運命のくじ引にも加わらず。はた捕われ人となりて勝ちほこりたる主人のふしどに引き寄せらるることもなかりしぞや。
されどわらわは、祖国の焼き失なわれしのち、さまざまの海を運ばれ渡り奴隷の生の中に、一児をもうけ、驕慢なる若人、アキレスの子(ピュロス)の無礼を忍びけり。
そののち彼はレーダの血統なるヘルミオネーと、スパルタ風の結婚とを求め、わらわをば奴隷(ヘレノス)に属する奴隷として、ヘレノスに渡したり。
さるに、オレステースぞ、奪われたる妻に対する大いなる愛に燃え立ち、かつはおのれの罪の悪鬼にさいなまれ、油断せるピュロスを待ち伏せし、その父の祭壇のかたわらにて殺害したる。
すなわちネオプトレムスの死により、その王国の一部は当然ヘレノスに渡りぬ。彼はこの平原をカーオニアと名付け、全土をもトロイのカーオーンになぞらえてカーオニアと呼び、ペルガマおよびこのイリウム城砦を、小山のうえに置きぬ。
されど御身は、いかなる風、いかなる運命のため、船路をここに漂わされたまいしや。またいかなる神の、われらがここにありとも知らぬ御身をわれらの磯に打ち寄せたるや。
御身の子アスカニウスはいかなりしや。彼はなお生きて、息吹しつつありや。
彼こそはトロイの(包囲の始まりし頃、汝が妻のもうけし者なりしか。彼女は死せるが、)
しかし彼の少年は失われぬる母のことを、いまも悔むや。しかして、彼の父なるアエネーアスと伯父なるヘクトールとは、彼をば父祖の武勇と雄々しき魂とにかき立つるや」
かかる言葉を、彼女は涙を流してかきくどき、かつ空しく長き悲嘆を惹起す。そのとき、見よ、プリアモスの子、勇士ヘレノスぞ長き供揃いして、城壁より出で来たる。
彼はみずからと同じ国人を認め、喜びて彼らを宮殿に案内しつつ、しげき涙にて言葉は一言ごとにたえだえとなりぬ。
われは進み行きて、小なるトロイを、大いなるものの模型なる第二のペルガマを、クサントゥスの名を負える流れの乾ける河床などを見る。しかしてわれはなつかしさにスカエアの門の柱をかき抱く。他のトロイ人らもまた同時に、おのれが友なるこの町を喜ぶめり。
さて、王は広き通廊にて彼らをもてなす、広間の真中に彼らは、杯より酒を灌祭し、金の大皿に食物をもり、手には大いなる盃を取り持てり。(3-二九四〜三五五)
『日は今日明日と過ぎ、ほどよき風は船出をさそいて、帆布(ほぬの)は風に満ちふくらめり。われは予言者(ヘレノス)に話しかけて、彼にこの疑問を尋ね聞かまくす。
「トロイの子よ、天意の解釈者よ、ポイボスの御意も、三脚台も、クラロスの主(アポロン)の月桂樹をも知り、星辰と、鳥語と、彼らの飛翼の兆候とを解く者よ、
いで語れかし――そは、好き予言はみなわれに、わが全航程を告げ、あらゆる神々はひとしく、わがイタリアに向い、その遠き国土に到り着かんと努むべきことを、彼らの意志もて勧めたれど、
ただ一つハルピュイアのケラエノーのみぞ、名状しがたき奇怪なる凶兆を予言し、神々の悲惨なる怒りと、けがらわしき飢餓のことをぞ告げたる――
われに語れ、友よ、いかなる危険をわれはまず避くべきか、またいかなる道程をとることによりて、われはかく大いなる苦難に打ち勝ち得べき」
そのとき、ヘレノスはまず正しき方式もて、若き牡牛を犠牲となし、神々の恩恵をねぎ求め、それより彼の聖なる頭の飾り紐を解き、みずからわが手を取り、ポイボスよ、神の偉大なる存在の前に恐れかしこめるわれをば、汝の神殿につれ行き、やがて神がかりせる口を聞きて、この司祭はかくぞ予言したる。(3-三五六ー三七三)
『「女神より生れたる者よ、汝がわれよりも大いなる予兆のもとに大海を渡ることは、明白なる事実にして、神々の王も運命をかく定め、事件の変転をかくめぐらしたまう。されば事は序(ついで)を追いてかく起こり来たるなり。
汝がさらに安らかに未知の海をつらぬき通り、ついにはイタリアの港に休息を得んがためには、われは多くの事の中よりわずかばかりをば汝に語り知らさん。
そはその他のことに至りては運命の女神、ヘレノスの知ることを禁じ、サートゥルヌスの娘ユーノーわが言葉をやむればなり。
さて第一に、イタリアのことなるが、汝はいまそれをいと近しと思い、かつ、無知なる者よ、ただちにそのほど近き港に入らんと心がまえすれど、こは道なき道の長手のはるばると、国々遠く汝よりそれを隔ておるなり。
されば汝が安全なる土地に定住の都を建てうるまえ、まず汝は橈(かい)をシチリアの波にしなわせ、汝の艦隊もてテュレニアの海面を乗り切り、地下界の湖とアエアエアのキルケーの島を通過せざるべからず。
われ、汝にしるしを告げん。心に銘して忘るることなかれ。
汝の心なやめる頃おい、淋しき川のほとりにて、大いなる牝豚その一腹の子三十を生みたるのち、——白き母とその乳首に群がる白き子豚ら地上に休らい、――かしわの木の下に横たわり居るを汝が見出したるときは、
それこそ汝の都を建つる場所なれ。それこそ確かに汝の労苦のいや果ての場所なれ。
またやがて来ん食卓を食らうという事を恐るるなかれ。運命、道を開き、アポロン汝の祈願の声に応じて汝を助けん。
されどこのあたりの国士、およびわれらの海の潮に洗わるるいと近きイタリアの海岸地方はこれを避けよ。すべてこれらの都市には悪意あるギリシア人住めり。
ここにナーリュクム(コリントス湾)のロクリー人彼らの城壁を建て、リュクトス(クレタ)の人イードメネウス、兵をもってサッレンティーニー人の平原を占む。ここにメリボエア(テッサリア)の将軍ピロクテーテースのかの小都市ペテーリアその城壁のうえに安息す。
しかり、汝が艦隊の海を横切りて進みしのち、錨を下ろし、祭壇を建て、やがて海岸において神々に誓約をはたすとき、汝は緋の外套もて身体を包み、汝の頭髪をおおえ。
そは神々を祭る聖火の中に、敵意ある顔が闖入し、予兆をかき乱さざらんためなり。
宗教上のこの慣例を、汝の仲間たちにも保たしめよ。汝自身もまたそれを守れ。汝の敬虔なる子孫にもこの神聖なる方式をかたく守らしめよ。
されどなお、汝がその地をはなれ、風汝らをシチリアの海辺近く運べるとき、しかして狭きペロールスの海峡(メッシナ)が、汝の眼界に開けはじめしとき、汝は左方の陸地(シチリア島)と左方に横たわる海とを求め行くべし、迂回の道はたとえ長々しくとも、右方の海岸(イタリア本土)と水とはこれを避けよ。
この場所はかつてあらあらしき力とおびただしき震動もて、二つに引き裂かれ、かけ離れたりと人々は語り伝う――長き時間はかく大いなる変化をもひき起こすものぞ——この二つの陸地は何れも全く打ち続ける一つの土地なりしが、
大海その真中に突き進み、波もてイタリアの海岸をシチリアより切り放ち、磯辺に沿いて引き離されたる野や町の間に、狭き潮となりて流れ込みぬ。
スキュラはその右岸を守り、惨忍なるカリュブディスはその左岸を守る。しかしてカリュブデイスは、うず潮のそこりに、日に三度大波を底なしの淵に吸い込み、再びそれをその度ごとに空中高く吹き上げ、星を水もて打たんとす。
さて、スキュラは暗き隠れ家なる洞穴に身をひそめ、しばしば口を突き出して、船どもを岩のうえに引き寄する。
彼女の上体は人間の顔を持ち、美しき胸して腰までは女なれども、下体は恐ろしきあやかしの姿にて、海豚の尾、狼の腹につながれり。
よしや、日は遅るるとも、シチリアのパキュノスの岬の端をよぎり、大まわりの道を取るこそ、一朝、わびしき洞穴のなかなる妖怪スキュラと、暗青色の猟狗(りょうく)の吠え声反響する岩々を見るよりも、はるかによけれ。
なお、もしわれヘレノスにそくばくの洞察あり、もし予言者に信頼帰属し、もしアポロンわが魂を真実の啓示もてみたすならば、この一事を、神より生れたる者よ、さなり、他のあらゆることどもを超えて、この一事をわれは予言し、反覆し、再三汝にそれを警告せんとはするなり。
まず第一に、偉大なる女神ユーノーの神性を祈願もて賛美せよ。歓喜の心もて汝の祈誓をユーノーに歌え。権力偉大なる主権者を、哀訴のささげ物もて汝自身のためにかち得よ。かくてぞついに汝は志を得て、シチリアを去りたるのち、イタリアにぞ送らるべき。
さて、この海岸に運ばれ、クマエの町と、神聖なる湖水と、森叫ぶアウェルヌス湖地方に近付きたるとき、
汝は狂える女予言者が、巌窟の深きにありて運命を語り、そのしるしと言葉とを木の葉にたくするを見ん。
いかなる予言にてもこの処女はこれを木葉にしたため、その順序を整え、洞穴の中に閉じこめ残し置くなり。それらはしかとその場所にとどまり、順序を違えず。
されどもし扉のとぼそが回転し、微風それらのうえを吹き、一旦軽き木の葉を乱すことあらば、そののち彼女は巌窟内に飛び散れるこれらの木の葉をとらえ、またはその適当なる位置を回復し、または予言の詩句を連絡するの労を取ることなし。
かかる場合には、人々は答えを得ずして去り、シビラの神殿を憎む。されど、いかに汝の友らは汝を責め、汝の船の帆ばしりて疾く大海に乗り出すことをすすめ、かつよしや追い風に帆布はふくらませえるとも、汝はそこにて費す時間をいたく惜まんがため、
予言者に近付き、彼女みずから予言をなし、かつ進んで声と口とを開くよう、その託宣を哀願することを忘るるなかれ。
彼女は汝にイタリアの国民のこと、来たるべき戦争のこと、および汝がいかなる方法にて、あらゆる労苦を避けまたは忍びうるかを啓示し、汝の祈願に対して幸ある航海を許すべし。
これぞわが声もて汝に忠告し得ることどもなり。ここより、急ぎ行け、しかして偉大なるトロイを、汝の功業によりて大空までも高くあげよ」(3-三七四〜四六二)
『さて予言者は、親しき口調もてこれを言い終わりしとき、次に黄金を彫刻したる象牙の重き贈り物を船に運べと命じ、船底には重厚なる銀の皿、ドドナの大釜、黄金のくさりもて三重におどしたる胸甲、美しき兜の鉢金と吹き流しの羽毛——これぞネオプトレモスの物の具なり――などを積込む。わが父にもまたふさわしき贈り物あり。
これらに彼はまた馬と案内者とを加う。なお彼はわれらに新しき漕手を補い、わが友らにもまた武器を供給す。
その間にもアンキーセスは、われらを吹き送るべきよき風のあるに、われらの遅滞せんことを恐れ、しばしば艦隊の帆をあげよという。
彼に対し、アポロンの予言者は、多くの敬意を致しながら話しかけて、
「ウェヌスとの高貴なるめあいをだにふさわしと見られ、天意によりて二度までもトロイの滅亡より救われたるアンキーセスよ、見よ、汝の前にイタリアの国土横たわれり。帆をあげてそこに着かんと急ぎたまえ。
されど汝はまず海上に浮び、近き磯辺(東海岸)を過ぎざるべからず。アポロンの啓示せるイタリアの、その地方は遠し。
いざ行け。汝が子のかしずきによって幸多き者よ。いかなればわれ、なおも物語をつづけ、わが言葉もて、吹きおこる程よき風に汝を後らすべき」と彼はいう。
これに劣らず、アンドロマケーも最後の離別を悲しみながら、黄金の糸もて刺繍したる長衣、またアスカニウスに合うプリュギアの外套などをもたらして、われらを敬愛することその夫に譲らず。
また織機(はた)にて作りたる贈り物を彼(アスカニウス)に積み重ねていう。
「この土産物も受けたまえ、和子よ、これらは御身に対し、わらわの手仕事の記念ともなり、ヘクトールの妻アンドロマケーの変らぬ愛の証拠ともなるべきものぞ。汝が眷属の最後の贈り物をとれ。
あわれわがアステュアナクスのただ一つの生き残れる姿よ。彼の眼、彼の手、彼のかんばせ、みなかくぞありける。さて、彼もいまは御身と同じ年頃にて、大人となりてぞあるべきに」
われは彼らと別るるとき、涙を流しながら彼らにいう。
「いざさらば、幸ある世を送りたまえ。君たちの運命ははや全く定まりぬ。われらは一つの運命より他の運命へと渡さるる。
君たちははや安息を得て、大海の面を走る要もなく、つねに退却するとも思わるるイタリアの野を尋ぬる要もなし。君たちはいまやこの地に安住してクサントゥス河の模写姿、および君たち自身の手にて、願わくば(原のトロイより)さらによき予兆のしたに造られ、かつギリシア人の力に左右せらることさらに少なきトロイを見る。
われもし一旦ティブリス河およびその岸に沿える野に達し、わが種族に許されたる城壁を見る日来たりなば、
ここにわれらはエーペイロスとイタリアとにおける、同じダルダノスを始祖とし、同じ不幸にあいし相関連せる都市と、相隣れる人民とを将来結合して、彼ら両者を心は同じ一つのトロイとなすべし。この務めはわれらの子孫に残れよかし」(3-四六三〜五〇五)
『われらは程近きケラウニア(エーペイロス)に接近しつつ海上を急ぎぬ。そこよりイタリアへ通う順路あり、こは海を渡りて行くに最も近き航路なり。
そのうちに日はおちいり、山々は夜の影に包まる。われらはくじにより、櫂をまもるべき人々を選びたるのち、水近く望ましき陸地のふところに身を投げ、ここかしこ、乾ける磯にそいて体を休むるに、なごやかなる眠りはわれらの疲れたる手足を元気もてうるおす。
夜の神、「時」に導かれつつ、なおいまだ軌道の中点に達せず。
そのとき、パリヌールスは油断なく寝床より起き上がり、あらゆる風を調べ、耳を傾けて空気の動きをとらえんとす。
彼は大角(たいかく)星(アルクトゥールス)、雨を呼ぶ牡牛星座(ヒュアデス)の群星、双熊星(大熊小熊)など、各星あいともに静寂の空をすべるを見、また黄金にて武装せるオリオーンを注意深く観測す。
すべて自然が穏やかなる空に安定するを見たるとき、彼は船尾より鋭き合図を与え、われらは仮屋を片付け、船出せんとして、はためく帆をば広ぐる。
やがてアウローラ(曙)は星を追いやりて、あからみはじめて、そのときわれらは遠く霧にぼかされたる山々と、イタリアの低き海岸とを見たり。アカーテスぞまずイタリアと叫ぶ。イタリアに、わが友らも喜びの叫び声をあげて挨拶す。
そのときわが父アンキーセスは、大盃を花かづらもて飾り、醇酒をみたし、高きともに立ちて神々に呼びかくる。
「海と陸地と嵐との司(つかさ)なる神々よ、我々に風なめらかなる道を与え、願わくは順風を吹かしめたまえ」と。
すなわちわれらの祈りたる軟風あらたに吹き起こり、次第に近く港の開くるが見え、ミネルヴァの殿堂ぞ城山のうえに現わるる。
わが友は帆を巻きおさめ、船首を海岸に向けたり。
港は東よりの波浪の力もて弓形にえぐられ、突き出でたる岩どもは潮水の泡もてふりまかる。
湾自体は隠され、そびえ立つ断崖はその双の腕を二つの壁のごとく伸べおろし、殿堂は海岸よりやや奧まりたる所にあり。
われはここに最初の予兆、すなわち広く平原に草を食みつつある、雪のごとく白き四匹の馬を、芝地のうえに見出しぬ。
わが父アンキーセスはいう。「汝未知の陸地よ、戦さをば汝はもたらすなり。馬は戦いのために武装せらるる。さればこの馬の群は戦いを予示す。
されど、それにもかかわらず、これらの同じ四足の動物はときどき馬車をひき、甘んじてくびきの下にくつわを着くることもつねにあり。されば平和の希望もまた存するなり」
そのときわれらは、いたく喜べるわれらをどの神よりも先に迎え入れたる、武器鳴り響くパッラスの聖なる力に祈る。
かくて、われら、祭壇の前において、プリュギアの外套もて頭を包み、ヘレノスが特に与えたる警告に従い、アルゴスのユーノーのためにささげよと云われたる犠牲をばうやうやしく焼きてたてまつる。
その後は少しも遅滞せず、われらの祈誓の果たさるるやいなや、帆を張りたる帆桁の先端を海に向け、ギリシア人の住まいより、はたわれらの心ゆるされぬ野より逃れ去る。
やがてもし人の噂のまことなりせば、ヘラクレスの創設したりというタレントゥム(ターラント)の湾、かすかに見ゆ。それと相対して立つはラキニウム(クロトネ)の女神の神殿、船人を難破さするスキュラケウム(スキッラーチェ)、カウローニアのそびえ立つ断崖。
次には遠くシチリアのエトナの山ぞ海上に望まるる。そのときわれらは、遠くより大海の非常なるうなりと、波打つ断崖と、大波の岸に砕くる音とを聞く。遠浅には波飛び立ち、砂はうねりに巻きかえさる。
ここにわが父はいう。「これぞ一定かの恐ろしきカリュブデスにして、これらの懸崖、これらの巉巌(ざんがん)をこそ、ヘレノスがわれらに恐ろしと警告したるなれ。身を救え、わが友らよ、調子を合せて漕ぎに漕げや」
彼らは言わるるままに従いつ、パリヌールスまずそのきしり鳴る舳先(へさき)を、左の方なる海に向けかえ、わが船人どもはみな、櫂と帆とをもて左に転ず。
われら波頭に乗れば天にも昇り、波間に落つればまた奈落の底にも沈まんとす。
三度断崖が岩窟の中に叫び、三度水泡つき出して星の空を浸すを見たり。(3-五〇六〜五六七)
『その間に風も太陽も同時にわれら疲れたる船人を見捨てぬ。
行くべき道を得知らねば、われらキュクロプスの岸辺に漂う。
港は風の通い路から蔽われて、動かずかつ広し、されど近々とエトナの山、恐ろしき破滅の音を立てて鳴りとどろき、
ときどき墨のごとき旋風と赤熱せる余燼(よじん)をともなう暗き煙雲とを高きに投げ出し、炎の球をあげて夜天の星を嘗むる。
またしばしば岩石や引き裂かれたる山の内臓を吐きだしつつ立ちのぼり、うなり声をあげて融けたる岩石を高きに集め、いと深き底より沸き立ちあがる。
伝えいう、電光に焼けこがされたるエンケラドスの体は、この大塊(たいかい)に圧倒せられ、彼のうえに置かれたる大エトナは、その爆発する熔鉱炉より炎を吹き出し、この巨人が疲れたる体側を寝返りするごとに、全シチリアは轟々と打ちふるいて、天は煙におおわるると。
その夜、よもすがらわれらは森の下かげに、奇異なる予兆を忍びたれど、いかなる原因がこの騒音を生ずるかを知らず。
そは星宿も光を与えず、天極も星空もて輝かず、暗き天には一面に雲ありて、陰鬱なる夜はその中に月を隠したればなり。(3-五六八〜五八七)
『次の日はまさに黎明もて始まり、曙の女神は大空より湿めれる陰を取り去りぬ。そのとき不意に森の中より見知らぬ人の、こよなくやせ青ざめ、いぶせき衣をまとい、異様の姿したるが出で来たり、哀訴して手を磯の方に差し出す。
われらは振向きて見るに、そのむさくるしきことはうちおどろかるるばかりにて、ぼうぼうたるひげは垂れ下り、衣服はいばらのとげにて締め合わせたり。されどその他のことにては彼はまさしくギリシア人にて、かつてはその国の武具を着けて、トロイに送られたる者のひとりとぞ見ゆる。
いま、遠くよりトロイ人の服装とトロイの甲冑とを見たるとき、そのあり様におじ恐れて、彼はしばらく身動きもせず突っ立ち、歩みをとめてありけるが、やがて急ぎに急ぎて磯辺の方へ、涙と祈願もて走り寄りぬ。
彼はいう。「星に誓いてわれは君らに乞う。はた上なる神々および天なる光明と霊気に誓いて。
あわれトロイ人たちよ、われを伴い去れ。われを何れの土地にても連れ行け。ただそれだけにて満足なり。われはみずからギリシアの船艦の一員なりしことを認む。また戦さの時にあたりトロイの家の神々を襲いしことを告白す。
そのためにもしわが罪の害悪のいと大いなりとならば、わが身を引き裂きてそれを波のうえにまき散らせ。しかしてわれを深き海に沈めも果てよ。
もしわが身ほろぶべきものならば、人間の手によりてほろぶるこそせめてもの心やりなれ」
彼はかく言いてわれらの膝をかき抱き、おのれが膝のうえにひれ伏しつつ、われらに取りすがる。われらは彼を励まして、彼が何者なるか、いかなる血統より出でたるかを物語らせ、次にはいかなる運命におわれたるかを告白せしめんとす。
わが父アンキーセスは、ためらわず、みずから右手をその若人に貸し、彼の心を即座の誓約もて安んず。(3-五八八〜六一一)
『ついに彼は恐怖を去りて、かく語り出づる。
「われは故郷イタカより出で来し者、不運なるウリクセースの従者にして、名はアカエメニデース。わが父アダマストス貧しかりしゆえをもて——ああ貧しき運命に安んぜしならばよかりけん——われはトロイに向けて出征しつ。
ここにてわが友らは、急いで恐ろしき住み家より逃げ出づるなべに(注)、キュクロプスの広き洞窟に、われを忘れて取り残しぬ。
注 「なべに」は「時に」
そは血のかたまりと、血なまぐさい食物の家にして、その内は暗くひろし。彼自身は高くそびえ立ちて、頭は星に達するばかり――神々よ、かかる魔物を世界より取り除きたまえ――
そは見るだに耐えがたく、何人も言語もて彼に話しかくることを得ず。彼は哀れなる者どもの臓腑と黒き血とをもて身を養う。
さきにわれはわが眼にて、彼がわれら一行の中の二人を大いなる手もて引っつかみ、洞穴の真中に身はあお向けにふしながら、彼らを石にたたきつけて打ちくだけば、血のかたまりは跳ねちりて部屋をみたすときの、そのあり様を見たり。われは、彼が黒血したたる手足を噛めば、関節はなお彼の歯の下にて温かに打ちふるうときの、そのあり様を見たり。
されど彼にもその罰報なくには済まず。ウリクセースはかかる事を容赦せず。またこのイタカの君はかかる危うき場合に臨みても、自己を忘れ失うことなし。
されば、彼が肉に飽き血に酔いしれて、うなだるる首を休めんと、汚き血のかたまりと血の酒にまじる肉片を吐き出しつつ、巨大なる姿を伸ばして洞穴の中に横臥するやいなや、われらは偉大なる神々に祈りをささげ、銘々の役割をくじもて定め、いっときに四方より彼の周囲に群がりかかり、銃き武器もて彼の眼をえぐり抜く。
眼は巨大にしてただ一つものすごき額のしたに深くはまり、ギリシアの盾のごとく、また太陽の輝く円盤に似たり。かくてわれらはうれしくもついに友の幽魂のため仇を報いぬ。
されど、逃げよ、汝あわれなる人間よ、逃げよ、しかして早く岸辺より船の纜(ともづな)を切れ。そはおのれの洞穴の中に羊の群を閉じ込め、彼らの乳房を絞るポリュペーモスのごとく、凄惨巨躯なる他の数百の怪物キュクロプス、この曲折せる磯に沿うていたるところに住み、高き山々の上を徘徊すればなり。
さて、われひとり取り残されてのち三度新月の角は光もて満たされつ、そのあいだわれは森の中にて、野獣のさびしき巣穴と住居の間にわが命をひきずりつつ、遠くの岩より巨大なるキュクロープスを見、彼らの足踏む音や、彼らの声のうなりにうちふるう。
いちご、岩ぐみなどのごとき貧弱なる食物を、小枝はわれに与え、われはまた草を引き抜きて、その根を噛む。
わが四方を見張れる間に、君らの船艦ではじめてこの磯辺に近付きたる。たとえいかなることになり行くとも、それにわが身を打ち任せ、この魔物の族より逃るるをもてわれは満足せん。むしろ君らぞ、いかなる死をもってしても、わがこの命をとれ」(3-六一二〜六五四)
『彼がこのことを語りおわるかおわらぬに、われらは山の頂きに牧人ポリュペーモス自身が、その羊の群の中にいと大いなる姿してむくむくと動きつつ、よく知れる磯辺の方に行くを見ぬ。そはものすごく、醜く、巨大なるが、もの見る力を奪われたる怪物なり。
手にせる、枝を取り払いたる松にて足場をさぐりつつ、歩みを定むれば、綿毛の羊の群、彼のあとに従う。彼らぞ彼のただ一つの楽しみにして、災禍の中のわずかなる慰めなる。
彼、ようやくにして深き波浪に触れ、海上に達したるとき、水もて、えぐり抜かれたる眼より流れ出づる血汐を洗い、歯噛みをなし、うなり声をあげつつ、水を分けて全く海中まで歩み出づるに、かくてもなお彼は彼の丈高き脇腹を濡らさず。
われらは急ぎに急いで、そこより遠く逃げ出だし、助くるにふさわしと思う嘆願者を船に取り乗せ、静かにともづなをたち切り、みな身を前にかがめ、われがちに櫂もて水のおもてを打つ。
彼はその物音を聞き付け、櫂の音のする方に歩みを向くる。されどいかにしても右手もてわれらをつかみ得ず、またわれらを追いてイオニアの波と競い得ぬとき、彼、大いなる叫び声をあぐれば、海とその大波とはことごとく揺れふるい、遠く隔りたる内地までイタリアの国土は恐れおののき、エトナはその曲折せる穴の中に轟々と鳴りはためく。
これによりてキュクロープスの族は、森の中より、また高き山々よりふるいたち、港に突き進み、海岸にあつまる。
われらはエトナの兄弟らが、天へとその高き頭を持ち上げつつ——恐ろしき集合よ——すごき眼して、なすべきすべも知らず、そこに立つを見たり。
そのあり様をたとえて言わば、ユーピテルの高き森、またはディアーナの杜なる、矗々(ちくちく)たるかしわや球果実れる糸杉などの、いと高くそびえ立てるがごとし。
鋭き恐怖はわれらを駆り、急いでつなを解き、順風に帆をみたさんとす。
されどヘレノスの訓諭は、いずれの側に寄りても死をのがるるは危機一髪なる、スキュラとカリュブデスとの間に針路を取らぬようにと、 船人をいましめたり。さればわれは後戻りせんと思い定む。
そのとき、見よ、北の風はペロールス岬の海峡より吹き来たりぬ。われら自然の岩々あるパンタギアスの河口と、メガラの湾と、低く横たわるタプソスとを浮かび過ぐるに、
不運なるウリクセースの友アカエメニデースは、かつて彼が漂いし海岸を、 再びたどりつつも、かかる場所をぞわれらに指示しける。(3-六五五〜六九一)
『シラクサ湾の前方に広がり、多くの波に洗わるるプレミュリウム岬と相対して、一つの島あり。古人はこの場所をオルテュギアと呼びぬ。
伝説によれば、エリスの河なるアルペウス、海底に隠れ路を作り、ここへと押し進みて、いまは、アレトゥーサよ、汝の噴泉を通してシチリアの波とまじわるという。
われらはヘレノスの命のごとく、この地の大いなる神々を礼拝し、次に沼沢多きヘロールス(シラクサの南)に沿える肥沃の土地を過ぐ。
そののち、パキーヌス(パキーノ)の高き懸崖と、突き出でたる岩々に接近して帆ばしり過ぎ、遠くに運命がこれを動かすことを禁じたりというカメリーナ、またゲラの平原、およびそこなる激しき河の名によりて呼ばるるゲラの町を望み見る。
その次には険しきアクラガス(アグリジェント)、遠くその大きな城壁を示す。こはその昔霊馬(注)を産したるところなり。追風よければ、棕侶の町なるセリーヌス(セリヌンテ)よ、汝をあとにして、暗礁多く危険なるリリュバエウム(マルサラ)の浅瀬を進む。
注 霊馬は名馬のこと。
それよりドレパナ(トラパニ)の港と味気なき海岸とわれを迎う。ここにて、海のいと多くの嵐に追われ来しわれは、あわれ、わが父アンキーセスを失いぬ。あらゆる苦労にも危難にもわが慰めなりしものを、ここにて、最もよき父よ、君はその疲れたる子を捨て去りぬ。あわれ、君がかく大いなる数々の危険より救われたるも、ついにあだなることなりしか。
多くの恐ろしき事どもは警告したれど、予言者ヘレノスも、なおまた獰猛なるケラエノーも、この悲しみはわれに予言せざりき。
これぞわが最終の辛苦にして、これぞわが長き船旅の果てなりしか。われ、ここを立ち出でしに、神は君(ディドー)の磯辺にわれを駆りたまいぬ』(3-六九ニ〜七一五)
かく父アエネーアスは、ひとり、多くの熱心なる聴衆を前にして、神々の定めを語り、おのれの航海を告げつ。ついに彼は言葉を止め、ここに結びをつけて、彼の長き物語を終わりぬ。(3-七一六〜七一八)
第四巻梗概(上132p)
女王ディードー、妹アンナにその苦しき胸をうち明く。亡夫シュカエウスへの貞節の誓いなかりせば、彼女は必ずこの恋にうち負けたるならん。
アンナはアエネーアスに懇願し、ディードーはほとんど恋にうち負けて縁結びの神々に犠牲をささぐ、彼女の恋情の増し行く説明。
女神ウェヌスいつわりて、アエネーアスはディードーと結婚し、カルタゴの王たるべしという女神ユーノーの提議承諾す。狩猟のとき、ユーノーは暴風雨を呼び起し、恋人は洞窟に避難し、そこにて婚姻を誓約すべしとなり。計画は完成す。ディードー恋に身をまかす。
「風聞」というものの性格描写。この者ひろくその話を伝え、ディードーに恋せる妬み深きイアルバス王をして、その父ユーピテル大神に干渉を請願せしむ。ユーピテル、使神メルクリウスを使いとしてアエネーアスにその使命を想い起さしむ。アエネーアス、使信をかしこみ、ただちに逃避の準備をなす。
部下は喜び、ディードーは失望す。彼女は彼のとどまらんことを懇願し、彼に去らるるおのれの身のあやうさを数えあぐ。
アエネーアスの冷酷。彼もまたディードーを愛すれども、彼はいかなる犠牲を払いてもなし遂げざるべからざる運命の奴隷なり。
彼にはげしき呪いを呼びくだしたるのち、ディードーは気を取り失う。されど彼女を慰めんとする衝動を圧伏しつつ、彼は出発の用意に急ぐ。
ディードー、アンナを使いとしてアエネーアスに最後のねがいを伝う。されど彼は心の懊悩にかかわらず神々に従う。
はげしき悲嘆に陥りたるディードーは、アエネーアスの愛の贈り物を残らず焼くという口実にて火葬壇を作り、魔女を呼ぶ。用意整いて、最後の嘆きを述ぶ。
使神メルクリウス、アエネーアスに警告を繰り返す、アエネーアスただちに出帆す。暁、彼の逃亡明らかとなりて、ディードーはおのれをあざむきたる者を呪いながらおのれの手にたおれ、妹は絶望し、臣民は驚愕す。
第四巻
されど女王は、早くより恋の深き悩みに打たれ、身体の血もてその手傷を養いつつ、隠れたる情火に焼つくされんとす。
あまたたび勇士アエネーアスの真価とその家門の栄誉とは、彼女の胸に立ち返り、彼のかんばせも言葉もしかと心にまつわりて、なやみは手足にも静かなる休らいを与えず。
その次の日の曙は、ポイボスのランプもて世界を照し、しめれる陰影を大空よりぬぐう。そのとき心狂わしき彼女は、同情心深き妹にかくぞ話しかくる。
『わが妹、アンナよ、いかなる夢の、心悩めるわらわを、かく恐れしむるならん?われらの家に入りたる、この新しきまろうどは誰そ?
そのかんばせや態度の気高さよ!そのもののふの精神やいさおしの雄々しさよ!
げにわらわは、彼ぞ神の御裔と思い入りぬ。かく思い入りぬるにはその道理なきにあらず。
卑怯は魂の賎しき生れつきをあらわすものぞかし。あわれ、彼はいかなる運命の嵐にもまれけるか。またそのいやはてまでいかなる戦さを忍び通しけるかを詳らかに語りけるよ!
もしわらわが最初の恋にあざむかれ、恋人の死によりて全く望みを失いし時よりこのかた、結婚の絆によりて何人にもわが身をあわすることをうべなわじと、心に固く思い定めざりせば、もしわらわが花嫁の新室(にいむろ)と、婚礼のともしびとに全く心倦みてあらざりせば、恐らくわらわこの一つの心弱さに従うことととなりたらん。
さなり、アンナ、まことのことを打ち明くれば、わが不幸なる夫シュカエウス非業の死にあい、家神(ペナテス)わが兄弟のなしたる殺人の血汐にけがされたる以来、ただ彼のみわが感情を揺り動かし、よろめくまでにわが決心を圧倒したる。われ、いまこそさきの日の情炎の痕跡をわが身体に感ずるなれ。
されど、貞操よ、われ汝を破り、汝の掟を軽んずるならば、願うはその前に、大地まずいと深き底まで口を開きてわらわを呑み、または全能の大神電光をもて、闇中(あんちゅう)に、よみじの蒼白き闇の中に、夜の深淵に、わらわを打ち倒したまえとこそ。
最初にわらわをその身に結びつけたる彼の人(シュカエウス)ぞ、わらわの愛情をみな持ち去りたる。彼、失うことなく、それを墓の下に保ち伝えよかし』
彼女はかく言いて、せきくる涙を胸に充たす。
アンナは答えて言う。『汝が妹には光よりもなおいとしの君よ、若き日をみなひとりみの悲しみに暮らさんとや。またいとし子も恋のつぐないも身にうけんとはしたまわざるや?
死者の灰と魂とが、それに関心を持つと思いたまうや?
さもあらばあれ、リビアにおいても、またこれよりさきテュロスにおいても、いかなる求愛者も悲しめる君をかつて動かすことなく、イアルバースその他武勲に富めるアフリカ出身の諸王たちも、君に軽んじめられたるばかりなりしに、いままた君をかくばかり喜ばすなる恋に対してすら、戦いを挑まんとはしたまうや。
いかなる者どもの国土に君は植民したるかという事も考慮には入らざるや?こなたには戦いに負くるということ知らぬ種族なるガエトゥリ人の町々、はた、不羈なるヌミディア人ら、および危険なるシュルティス、君の周囲を取り巻き、かなたには雨降らぬために荒凉たる地方と、遠く広く荒れ狂うバルケ人あり。
テュロスより起らんとする戦争と、われらの兄弟よりの威嚇とは、また口にする要あらんや。
わらわには、少くとも神々の御導きとユーノーの御恩寵とによりて、イリウムの艦どもここにただよい着きたりと思わる。
姉上よ、かかる婚姻によりてこの都が、いかに偉大なる都と立ち栄え、いかに偉大なる国土のそれより生ずるかを、君は見たまうべし!トロイ人たちの武力を味方としたらんには、カルタゴの栄光は、いかなる高さまで達すらん!
ただ神々に恩恵を乞いたまえ、適当なる犠牲もて神々をなだめたるのち、冬の荒天と多雨のオリオンとが、海上に荒れ狂い、彼の艦ども傷つき損じ、天候は航海に思わしからぬ間に、ひたすら歓待に専念し、彼らが滞在すべき理由をば織りなしたまえ』(4-一〜五三)
これらの言葉もて彼女は、すでに燃え立ちたる姉の魂を、恋の情炎もてさかんにし、揺らげる心に希望を吹き込み、そのためらいを消し去りぬ。
彼らはまず神殿をおとない、一つ一つの祭壇に恩寵を乞う。立法の神ケレースのため、ポイボスのため、またリュアエウス主(バッカス)のため、就中婚姻の守護神なればユーノーのため、正しく選びたる二歳の牝羊をほふる。
さていと美しきディードーは、みずから右手に大杯を取り持ち、真白なる若き牝牛の角のあいだに神酒を注ぎ、
または神々の大前なる犠牲多き祭壇に歩み寄り、ささげ物もてその日を荘厳にし、あるいはまた犠牲の獣の裂きたる胸を視て、彼らの打ちふるう内臓をしらべなどす。
あわれ、その司祭たちの心のいかにおろかなりしか!恋に狂える彼女には、誓願何の効あらん?神殿何の益あらん?柔かき情炎は絶えず彼女の心髄をむさぼり食み、もの言はぬ負傷は胸のなか深くぞ生くる。
哀れなるディードーの、その情炎を身に感じ、狂い心地に全市をさまようあり様は、たとえば牧人が弓もて牝鹿を追いかけ、クレータの森の中にて、遠くよりその不意を射るに、彼は射当てたりとも知らず、羽根ある箭(や)をばそこに止めたるとき、その射られ牝鹿の、脇腹には命の仇矢をしかと立てたるまま、ディクテの森も細道も逃げ迷うあり様にぞさも似たりける。
いま彼女はアエネーアスを伴いて、町の中心を案内し、カルタゴの富を示し、すでになりたる都を示す。
彼女は、何か語り始めては、ふとなかぞらにて言葉を断ちつ、やがて日も傾くころとなれば、また同じ饗宴を繰り返し、心狂えるようにまたもトロイの苦難を聞かせよと乞い、物語りする彼の雄弁をただ恍惚とまた聴き入るばかり。
その後、客散じ、月も薄暗く続いて光を隠し、傾く星影の人を眠りに誘うころともなれば、
彼女はひとりむなしき邸内にありてなげき、彼の立ち去りたるあとの寝椅子に身を投げ伏す。
彼女は彼より、はた彼は彼女より遠けれども、彼女は彼を聞き、彼を見、はた得も言われぬ恋情を紛らすよすがともなるやと思い、父親によく似たる面影に魅せられて、逡巡として膝のうえにアスカニウスをぞ愛づる。
されば、建てかけたる塔は工事を止め、若人らはもはや武技を練らず、港を築かず、また戦時の防御をも安全にせず、工事は中止せられ、恐ろしく大いなる城壁も、天まで打ちあげたる機械も、みな休らい止まりぬ。(4-五四〜八九)
ユーピテルのいとし妻は、ディードーがかかるいまいましき事に心を奪われ、彼女の名声も、その激しき情欲の前には力なきことを知るや、このサートゥルヌスの子は、ウェヌスにむかいかくぞ語りかけける。
『じつに華やかなる誉れと、大いなるぶん取りとをしたまうものかな、御身と御身の子とは。二柱の神々の奸計もてひとりの女を圧伏するときにこそ、御身たちの神威は大にして誉れあるものなれ。
わらわ、御身がわらわの町を恐れ、偉なるカルタゴの家を疑いたまうを、露知らであるにあらず。
されどその果てはいかなるべき、いまはたかかる大いなる争いもて、御身は何を目的としたまうにや?われらむしろ永久の平和と、たしかなる婚姻をととのえばやと思うはいかに。御身ははや心に目指すところをことごとく手中に収めたり。
ディードーは恋に燃え、血脈にわきめぐる熱情をぞ感ずる。いでや、われらこの民を共同のものとし、平等の権威もて治めん。われは彼女がプリュギア生れの夫(アエネーアス)に仕え、嫁入りの引出物にカルタゴ人らを御身の右手に渡すに任せん』
ウェヌスはユーノーが、イタリアの帝国をリビアの海岸に転ずるため、表面とはいと異なりたる考えもて、かく言い出でたることを早くも悟りぬれば、彼女に対してかくぞ答えける。
『誰かは君のかかる申し出を拒み、または君とすまい争うばかり物狂わしかるべき。ただ君の語りたまうごとく、われらの行為に幸運の伴うことこそ願わしけれ。
されど運命につき妾が凡て心もとなさに駆らるるは、一つの都にカルタゴ人とトロイより来たりたる人々とを容るることの、ユーピテルのおぼしめしにかなうべきやいなや、はたかの君(ユーピテル)がこの両国民の混合して同盟の結ばるることを、嘉みしたまうべきやいなやということなり。
君はかの大君の妻にしあれば、君の願いもて大君のおぼしめすことを探るは、身に備われる許されごとになん。いで、先立ちたまえ、わらわ御後ろより従わん』
そのとき后ユーノーはかくぞ答えける。
『その事は、わらわ身に引き受けてん。さて心して聴きたまえ。いかにすれば差し迫れることの、いまし遂げらるべきかを、短かき言葉もてわれは告げんとすなり。
アエネーアスと、いと幸なきディードーとは、明日の朝日の昇り始めて、世界に光をあらわすころ、ともに森へ狩猟に行かんとす。
そこにて勢子らが忙がわしく立ちはたらき、繁きがしたを取り巻きつつある間に、わらわ、霰をまじえたる黒き雨雲を彼らのうえに注ぎ下ろし、雷もて満天をかき乱さん。
彼らの家来は散り散りとなりて、濃き闇の中に包まるべし。ディードーと彼のトロイの武将とは、一つの洞穴にめぐりあわん。そのとき、わらわそこにありて、御身の承諾だに違背なくば、彼らをしかとめあいもて結びあわせ、彼女を彼のものとなさん。これぞ彼らの婚姻の礼なるべき』
キュテーラの女神は、彼女の言い求むることを、あらがわずみなうべないつつ、その奥なる猾計を見やぶりては、ひそかにぞほほえみける。(4-九〇〜一二八)
そのうちに曙の女神のぼり来て、太洋より離れつ、日の光さし昇れば、選りすぐられたる若人らは、門々より出で行く。
目広網、罠、広き穂先したる狩猟槍、騎馬のマッシューリー人など。なお嗅ぐこと鋭き猟犬の一隊も。
カルタゴの貴族たちは、出入口にて女王を待つほどに、彼女はいまだ室内にたゆたいつ、乗馬は紫と黄金もてきらびやかによそおわれ、張り充ちたる元気もて泡立つくつわを噛む。
ついに多くの供人にまもられながら、出で来たりたる彼女は、刺繍して笹縁(ささべり)とりたるシドンの外套を着たり。
そのえびらは黄金にて、髪も黄金のとめがねにて一束に結び、紫の衣も黄金のしめがねもて束ねたり。
これと等しく、プリュギアの家来たちも、快活なるユールスも、彼女と歩みをともにす。アエネーアスその人は、他のすべての人々に立ちまさりていと美しく、彼女の伴侶としてその一行に加わり、おのれの行列を彼女の行列とあわせぬ。
そは、たとえばアポロンが、み冬のリュキアとクサントゥスの流れとを去りて、母の領なるデーロスをおとない、新たに舞踏を始め、クレタ人もドルュオペス人も、また身を彩りたるアガテュルシー人も、一団となりて祭壇の周囲に宴飲し、
彼みずからはキュントスの山の背を歩み、優美にうちなびく髪をつくろい、しなやかなる花綱もて束ね、黄金もてそれを編みつ、
肩には武器の鏘々と鳴りひびくあり様にも似て、彼にも劣らず軽やかにアエネーアスは歩む。輝やかしさも彼の神に劣らぬばかり、彼の雄々しき顔にぞ照り出でたる。
彼らの一行が高き山を登り、道なき繁みの中に着きたるとき、たちまち野山羊ども岩の額より追い落とされて、山の背を走り下る。他の方角にては、牡鹿ども広き野原を疾走し、一つの集団となり、塵にまみれて群らがり逃げ、山より遠ざかり行く。
されど、若きアスカニウスは、谷の中央にて勇める駒に喜びを打ち乗せつつ、時にはこれ、時にはかれと馳せ過ぎて、おのれの祈りの許されて、臆病なる群の中より、泡吹く野猪も出で来たれよ、茶色の獅子も山より下り来たれよと望む。
その間に、大空は物恐ろしきうなり声をあげてかき乱され始めつ、やがて霰をまじえたる雨嵐吹き起れば、カルタゴの供人も、トロイの若人も、ウェヌスのダルダニア人なる孫(アスカニウス)も散々となり、恐れのため野の中をかなたこなたと避難の場所を探す。急流は山よりたぎり落つ。
ディードーとトロイの首領とは、同じ洞穴に来合わせたり。最古の女神なる大地と、花嫁に介添えするユーノーとは標徴(あいず)を与う。雷火と大空とは閃めきて婚姻の証となり、ニンフらは山の絶頂に声高く叫ぶ。
この日ぞまず彼女の死のよすがとなり、この日ぞまず彼女の悲しみの源となりぬ。そはディードーは、その日よりのち、もはや見栄にも風聞にも心を動かされず、また秘密の恋をも思わずなりぬればなり。彼女はこれを婚姻と呼び、その名の裏にわが身の罪を蔽い隠しぬ。(4-一二九〜一七ニ)
ただちに「風聞」はリビアの大いなるまちまちを貫きて走り始じむ。いかなる他の害悪も「風聞」より早きものなし。この者は小やみなき動きによりて栄え、進むことによって力を集む。最初はもの恐れのため小さけれど、やがてに天に高まり地にかっ歩し、雲の中に頭を隠すにいたる。
伝説によれば、親なる大地は神々に対する怒りに激し、コエウスやエンケラドスの末の妹として彼女を生みぬるが、早き足と翼とを持ち、趫捷(きょうしょう)巨大なる恐るべき怪物にして、その身体に生うる羽毛の数だけの、(言うも不思議や)眠らぬ眼をその下にもち、それと同じ数の舌と同じ数のかしましき口と、はた物聴かんと聳えつる同じ数の耳とを持つという。
夜は習々(しゅうしゅう)と音を立て、闇を通して天地のあいだを飛び、甘き眠りにもまぶたを閉じず。昼は高き家屋の頂辺や塔のうえに止まりて見張りをなし、まことのことを伝うる者ともなれど、いつわれること誤まれることをもしかと把持(はじ)しつつ、大いなる都を脅かす。
この時も彼女は打ち喜びて、種々の噂もて国民を充たし、事実と作為とを等しく繰り返し始めたり。
そはトロイの血統なるアエネーアスの来たりしこと、美しきディードーのその人を夫として一つにならんと努むること、いま彼らはいと長き冬の間を、国のことも打ち忘れ、恥ずべき情欲の奴隷となり、互に淫蕩の中にたわむれしつつあることなど。
これぞみなこの厭うべき女神の、広く人々の口の端にひろげたるなり。彼女はただちにイアルバース王の所へと進路を転じ、言葉巧みに彼の魂を燃えあがらせ、憤怒をぞ積みかさぬる。(4-一七三〜一九七)
彼、ハムモーンがガラマンテス(リビア)の妖精を強姦して生ませたる子は、その広き領内に、ユーピテルのため百の大いなる神殿と百の祭壇とを建て、不滅の火と、神々の永代の番人と、犠牲の血豊かなる土地と、種々の花綱もて華美に飾られたる門とを聖別す。
かくて彼は心狂えるごとく、苦々しき風聞に激し、神壇の前、神々の神威の真中にて手を差し上げ、ユーピテルに嘆願し、多くの祈りをささげて言う、
『全能のユーピテルよ、マウルーシアの人民ら刺繡したる寝椅子にて宴飲し、いま奉賛のため美酒の初穂を注ぎ奉る。
君これをみそなわすや?父祖よ、思うに君が電光を投げたまうとき、われらが君を恐るるは原因なき事にして、雲の中なる光の閃きは目的もなくわれらの魂を脅かし、ただ徒らに騒がしく咆哮するのみなりや?
ひとりの女のさまよい来て、われらの領地にわずかの値もて土地を買い、小さき町を建てつるが、われらまた農耕のためその女に海岸の地面を与え、その土地の主権を許したるに、彼女われと結婚することを拒絶し、アエネーアスをその国に入れて主人となしぬ。
かのパリスぞいま、その柔弱なる一行とともに、あごと香油塗りたる髪の毛とにプリュギア風の頭帕(ずきん)を巻き、獲物(ディドー)をほしいままに楽しむ。さるにわれらはじつに、君のものなる殿堂にささげ物を持ち来たり、何の用をもなさぬ栄光を守るのみ』
彼がかかる言葉もて訴えつつ、祭壇に取りすがりてありしとき、全能の神は彼の言葉を聞き、眼を高荘なる城壁と彼らの令名を忘れたる恋人らの方とに向けぬ。
それより彼はメルクリウスに呼びかけて、かくぞ命じける、
『いざ行け、吾子よ、ゼピュロスを呼び来たれ。しかして汝の翼に乗りてすべりおり、いま、テュルス人のカルタゴにて時日を空過し、運命によりて彼に許されたる都のことをば心にもかけざるかのトロイの将軍に話しかけよ。すなわちわが仰せごとを疾く空中を通して持ちくだせよかし。
彼の美しき母は、彼かかるべしとはわれと契らざりし。なお彼女が彼を二度までもギリシアの武器より救いしは、かかる目的をもってにはあらず。彼女は彼ぞ主権に富み、戦さに勇猛なるイタリアを治め、テウクロスの古き血統より出でたる種族を持ち伝え、全世界を支配する者たるべしと契りたるなり。
もしかかる大いなる偉業のいかなる光栄も彼を動かさず、その名誉のためにみずからこの労苦を身に引受けてなさんともせぬならば、彼は父ながらその子アスカニウスにローマの城砦をやらじとおしむ者なるか?
彼の計画は何ぞ?はたいかなる期待もて彼は敵意ある人民の間に淹留(えんりゅう)し、彼のイタリアの子孫のことも、ラウィニウムの野辺も心にかけぬにや?彼に帆をあげさせよ。ただそれのみ。これぞわが与うる使命なる』(4-一九八〜二三七)
彼はかく語りぬ。メルクリウスは大君の命に従わんと、急いで用意をなす。彼はまず黄金作りのサンダルを足に結ぶ。こは海上にても陸上にても、吹き払う風のはやさもて、彼を高く翼に乗せてかけらするものなり。
次に彼は杖を取る。これをもって彼は冥府より青ざめたる精霊どもを呼び寄せ、また他の者をば陰鬱なる冥界に下し、人に眠りを与え、人より眠りを奪い、はた死者の眼を開く。
かかる力に信頼して彼は、風を前に駆り、嵐雲を通して飛ぶことをも得るなり。さていま、飛ぶままに、その頂きにて天を支うる苦難のアトラスの峰がしらと、険しき山腹をぞ見出づる。
松おいしげる頭をば、つねに黒雲に取り巻かるるアトラスは、風と雨とにむち打たれ、雪ふりつもりて肩を埋ずめ、なおも急湍(きゅうたん)はこの翁のあごを真っ逆さまに流れくだり、ひげは氷にとざされて逆立ちこわばりぬ。
ここにキュレネー生れの者(メルクリウス)は、両のつばさに釣り合いを取りて身をとどめ、それより全力もて矢を射るようにまっしぐらに、海岸をめぐり魚多き巌をめぐり海面に近々と飛びおりる鳥にも似て、海にくだる。
かくしもキュレネー生れの者は、母方の祖父(アトラス)のところより来たるままに、陸と大空との間を、リビアの砂浜へと飛び、風のあいだをさく。
彼が翼ある足もて小屋に着くやいなや、アエネーアスが、砦の土台を据えさせ、家々をまた建て続けさするを見出しぬ。
彼のおびたる剣は、黄なる宝石をちりばめ、彼の肩より垂れたる外套は、テュロスの紫の光もて耀きたるが、こは富めるディードーの作りたる贈物にて、黄金の糸をたてに織りまぜたり。
メルクリウスはただちに彼に話しかけて言う。『汝はいま高きカルタゴの礎を据え、妻のいとしさに華美なる都を建つるなめり?あわれ、みずからの国も運命も忘れ果てけるよ!神々の支配者にして、天地をその神力もて治むる者、親しくわれを輝けるオリンポスより、汝に送りくだし、疾く空中を通してこの命令をば汝に伝えよとぞ仰せたる。
汝の計画する事は何なりや?はたいかなる期待もて汝はいたずらにリビアの国にたゆたうや?よしやかく大いなる偉業の栄誉も、汝を励ます力を持たず、汝自身の名声のために、みずからこの労苦をその身に引受けん覚悟はなくとも、アスカニウスの隆運と、汝の後嗣なるユールスへの希望を思え。イタリアの園とローマの土地とは、権利として彼に属するなるを』
キュレネー生れの者は、この言葉を言いたるとき、その言葉はなお唇にある間に、人間の視界を去り、薄き空気の中に遠く遠く、人の眼より消え去りぬ。
されどアエネーアスはこれを見て、失神せんばかり打ちおどろき、言葉も出でず、毛髪は恐怖のために逆立ち、声はのどにふさがりぬ。
彼は、神々のかくも大いなる警告と命令とをかしこみ、身を逃れ、この心地よき国土を見捨てんと熱望す。
あわれ、彼はいかになすべきか?いかに巧みに話しかけて、彼は狂える女王をいまあえてなだめんと試むべきか?いかなる口あけを彼は採るべきか?千々に分かるる心をば、ここに遣りかしこに遣り、かなたこなたに急がせて、絶えずあらゆることにぞ駆けめぐらする。
彼の心かく定まらざるとき、この考慮こそ最もよきと思わるるままに、すなわちムネーステウス、セルゲストゥス、および勇敢なるセレストゥスを招き、ひそかに船出の艤装をなし、一行を磯辺に集め、武器を用意させよ、されど計画をかく変じたる理由は、おぼろげに蔽いおけと命ず。
その一方に彼みずからは、いと善きディードーの何事も知らず、かくばかり深き愛情の断たるべしとは夢にも思わねば、彼女に近付くべき手段と、最もなごやかに彼女に話しかけ得べき時と、いかなる方法がこの目的に都合好きかを見出さんとぞ試むる。一同はまた打ち喜びて、いとすみやかに彼の命令に従い、仰せの通りにせんと急ぎ行く。(4-二三八〜二九五)
されど女王は、彼の心のたくみを早くも推しはかりつ、――誰かは恋する人を欺きうべき――事みな表面は全く安らかに見ゆるにも心を許さず、何人よりも先に、来たるべき暴風を感知しぬ。さる程に例の不信の「風聞」ぞ、艦隊よそおわれ航海の用意もなりぬとの情報を、心狂える彼女のもとにもたらしたる。
ここに彼女が、正気を奪われたるように荒々しくなり、狂乱の炎に責められて街中を駆け回るあり様は、たとえばバッカスの呼び声聞え、三歳に一度の躁宴に興奮させられつつ、夜のキタイローンの大いなる騒音に引寄せらるるテューイアス(バッカスの信者)が、その祭のさまざまの聖なる表象物の示顕(じげん)にふるいたつにさも似たり。
ついに彼女は先手を打ち、かかる言葉もてアエネーアスに語りかくる。
『不信なる人よ、御身はかく大いなる罪をいつわり秘して、無言のままわらわの国を立ち去りうべしと思いしや?
わらわの愛も、御身が一度はわれに与えし手も、悲惨なる死を遂げん運命に陥りぬべきディードーも、御身をここに繋ぎ止めえずや?
なお御身は冬の間に船を仕立て、風の最も怒り狂うとき、急いで大海を渡らんとはするや?
酷なる人よ。思いても見よ、もし御身がほかなる国と未知の家郷を求めんとするにあらで、古きトロイのなお立ちてありたりとて、御身の艦隊はこの荒海の上をトロイに向けて出発すべきや?
されば御身の逃れ去らんとするものはわらわなりや?わらわみずからはみじめなるおのれの身に、いまや他の何物も残さねば、ただわらわのこの涙と、御身みずからの誓いの手により、またわれらの結び合いにより、われらの入りし結婚により、――もしわらわそこばくにても御身によく適うところありしならば、はたわが持つ何物にても御身にいとしきものありしならば、わが沈み行く家を憐れみ、——もしなお祈りの余地あらば、御身の決心を捨てたまえとこそ願うなれ。
リビアの種族や、またヌミディアの首長たちのわれを憎むも、わがテュロス人たちの不満を抱くも、そのよすがはみな御身のためなり。わらわが貞操を失えるも、はたわらわが星の世界まで登り行かんただ一つの道なりし以前の誉れを失えるも、また御身のためなり。
何人に御身は、死のまぎわなるわらわを渡さんとするや?客人よ。この呼び名のみぞいまは、夫と呼ぶ名に代えて残されたるすべてなる。
いかなればわらわこの世にたゆたうべき?そはわが兄ピュグマリオンの、わが城壁をこぼつまでか?またはガエトゥリ人イアルバースのわれを生け捕りにして連れ去るまでか?
せめてもし御身のここを去る前、わらわ御身によりて子の母となるならば、もしついには君の面影を宿すべき小さきアエネーアスの、わが宮殿の内にて遊ぶならば、わらわ決してわが身を捕われ人とも、はた落魄人とも思わぬものを』
彼女はかく言葉をおわりぬ。されど彼はユーピテルの教えを守り、眼も動かさず、つとめて苦痛を胸の中に閉じ込めつ。
やがて簡単に答えて言う。『あわれ女王よ、君が言葉もてあげつらいうる限りの、いと切なる心づかいをわがためになしたまいしことを決して拒まず。かつ我はおのれみずからを記憶する限り、はた命の息のこの手足を支配する限り、エリッサ(ディードー)を記憶することを悔いざるべし。
この事については、必要と思うだけを、手短かに物語りせん。われ、この退去をば密かに押し隠してせんとも思わず、かく推しはかりたまうな――またわれいまだかつて貴家へ婿入りの松明を掲げたることもなければ、あなたと夫婦の姻縁(いんえん)に入りたることもなし。
運命もし自己の選択に従いてわが生を送り、かつおのれの欲するままにわが労苦を鎮むることを許しなば、われはいずこよりもまずトロイの都をわが住居となし、懐しきわが国人の残党の間に交わりたらんものを。かくてプリアモスの高き宮殿もなお立ち残りぬべく、わが手もて再生のペルガマの礎を被征服者のために置きたりしならんに。
されどいまグリューネイアのアポロンは大イタリアへ、リュキアの予言もまたイタリアへ行けと我に命ず。
そこにわが愛あり、そこにわが国あり。もしカルタゴの城砦とリビアの町の光景とが、君フェニキアの女人を魅惑するならば、いかなれば君は(その事を自覚しながらも)トロイ人のイタリアの土地に定住するを妬みたまうや?われらにもまた他国を尋ね求むることは許さるべきなり。
夜が露けき陰をもて大地をおおうごとに、燃ゆる星辰の昇るごとに、わが父アンキセースの悩ましき幻、眠りの中にわれをいましめ、われを恐れしむ。またわが子アスカニウスおよびこの愛する者(アスカニウス)に対するわが罪悪ぞ、われをいましむる。
そはイタリアの主権および運命によりて彼に与えられたるその沃野をば、われこの者を欺きて取得させぬようにすればなり。
さてまたユーピテルみずからのつかわしたる神の使いぞ、(われはわれら二人の頭をかけて誓わん)、疾き風を通してわれにその命令を伝えたる。われはわが眼もてその神の使いの照り渡りつつこの町に入るを見、この耳もて彼の言葉を聞きたり。
君の嘆きをもて君みずからと我の心の火とをかき立つることを止めたまえ。われがイタリアに行くはみずから好みてなすにあらず』(4-ニ九六〜三六一)
この物語の間、彼女は眼をかなたこなたにさまよわせ、顔をそらして彼を見、物をも言わず頭より爪先までしげしげと眺めてありけるが、ついにはげしき怒りをかくぞ吐き出しける。
『汝の母は女神ならず、またダルダヌスは汝の族の祖先ならず。裏切者よー凹凸の巌群れ立つカウカッソス汝を生み、ヒュルカニアの女虎ぞ汝に乳をふくませたる。
いかなればか我はわが感情を蔽うべき?またこれよりも大いなる禍の場合にそなえておのれを抑うべきや?わが泣くとき彼(アエネーアス)は嘆息したるや?彼は眼をそむけしや?彼は心なごみて涙を流し、または恋人を憐れみたるや?
われ第一に何を言わん?また第二には?もはや、もはやいまは、いと偉大なるユーノーも、サートゥルヌスの子なる大君も、われらのこの事件を公平なる眼もては見たまわず。
世の中にはいずこにも安んじて信頼すべきものなし。荒磯辺に投げ出され、窮乏したる彼をばわが身に引き受け、おろかにもわが国の参与者となしつ。われは彼の失われたる艦隊を救い、彼の一行を死より助けぬ。
ああ!われははげしき怒りの炎に巻き込まるる。いま、予言者アポロンとや、いま、リュキアの予言とや、またいま、ユーピテルみずからのつかわしたる、風を通して恐ろしき命令を伝うる神々の使いとや。
まこと、かかる仕業は上なる神々のなすべき勤めなるべく、まこと、かかる労苦は彼らの平和をわずらわすに足ることなるべし。
われは汝をここに留めんとせず。また汝の言うことを反駁せず。行け、風にただよわされて、汝のイタリアを追い求めよ。波路をこえつつ汝の国を探せよ。
われは少くとも、もし正しき神々に力あらば、汝が岩々のあいだに懲罰の杯を飲みほし、しばしばディードーの名を呼ばんことをこそ望め!
よしや身はそこに在らずとも、陰暗(いんあん)なるかがり火もてわれ汝を追わん。しかして冷たき死、わが手足をわが魂より離ち去るとき、わが影は汝の在るところ、いずこまでも汝とともに在らん。
汝は汝の天罰を受くべし、悪しき者よ!われそれを聞かん。その話は地獄の底までもわれに伝わり来たるべし』
かく言いて、彼女は俄然として言葉を断ち、悲しみに打ち悩みて日光を避け、彼の眼より身をひるがえして去り行きつ。
そのあとには恐怖のためにいたくためらいつつ、多くもの言わんとすれど、言葉を出しえぬ彼をぞ残しける。侍女たちは彼女をたすけ起し、生気を失える肢体を大理石の部屋に運び返り、寝椅子のうえに横たう。(4-三六二〜三九一)
さて律儀なるアエネーアスは、あまたたび嘆息をはき、強き愛情のため決心もよろめきがちにて、彼女の悲しみをなだめ、わが身の言葉もて彼女の苦痛を慰めんとは熱望すれど、なお神々の命を遂げ行うことを止めず、再び艦隊を訪う。
そのときトロイ人は各々部署に就き、大船どもを磯のいたるところに沿いてうかべ始めたり。よく瀝青塗りたる竜骨は水に浮び、人々はひとえに逃げ出しの支度にいそしみ、森より葉つきのままの櫂と、いまだ何の形をもなさぬ材木などを持ち来たる。
彼らの出発の用意と、町の諸方より打ち群れて出で来たるあり様ぞ認めらるる。
そはあたかも冬を心にかけて、蟻どもの穀物の大いなる山をかすめ取り、それをおのれの巣に貯えんとするとき、
その黒き群は平原を横切りて動き、草場をこえ、狭き道に沿いて獲物を運び、ある者は大量の穀物を彼らの肩もて力の限りおし進め、ある者は行列を程よく続けさせて、遅るる者を叱り励まし、道の長手はかかる仕事にて生々たるが如し。
ディードーよ、かかる光景を見しとき、汝の感情やいかなりし、はた砦の高きより、汝が前に長きなぎさ活気に充ち、汝が眼のしたに海面すべて声高きざわめきに騒ぎたつあり様を見しとき、いかなる嘆息をば汝はあげたる?
意地悪き恋よ、恋が人の心に迫りてなさしめぬ何ありや?
ディードーもこれに迫られては、あるいは涙にたより、あるいは哀願にたよりて彼を得むと努力し、身をへりくだりて矜持を恋に譲歩し、いかなる道にもあれ試みずして残し置き、空しく死なんことをぞ恐る。
『アンナよ、御身も見る磯辺の、いたるところにわたりてのいそがしさ。彼らは各方面より集い来たりぬ。すでに帆は風を招き、船人は心祝いに艫を花輪もて飾る。妹よ、わらわはかくばかり大いなる苦痛を予想することを得たるなれば、妹よ、わらわはまたそれを堪え忍ぶことを得べし。
されど憐れなるわれに、アンナよ、この一つをかなえてよ。そは彼の裏切者の、御身ひとりを尊重し、御身には胸底の秘密をさえ打ち明くるに慣れたれば、御身ひとり、かの人へのなごやかなる接近と、その最も適当なる時期とを知ればなり。
行け、妹よ、行きてかの驕慢なる敵にへりくだりて話しかけよ。
わらわはアウリスにてギリシア人と共謀してトロイの種族を亡ぼさんと誓いたる事もなく、また艦隊をペルガマに送りたる事もなく、なおまたアンキーセースの灰や魂をその墓より奪いたる事もなし。
さるをいかなれば彼はわらわの言葉のその頑ななる耳に入ることを拒むや。いずこに彼は突き進まんとはする?彼の幸なき恋人にいとせめてこの最後の好意をば彼より与えさせよ。
そは逃るるに心やすく、よき追風のある日まで待つちょう(=という)ことにこそ。
わらわはもはや彼が裏切りたる以前の結婚を続けよと嘆願せず、また彼が美しきラティウムを思い切り、その国土を振り捨つることを要求せず。
わらわが切に求むるはただの時間なり。ただわが狂い心のしずまりぬべき時間なり。その間にわが運命は、悲しみに打ちくじかれたるわらわに、苦痛の忍ぶべき様をぞ教うべき。これぞわらわが彼に乞う最後の好意なる——汝が姉を哀れと見よ——もし彼がこの事をわれに諾(うべな)わば、わらわはわが身の死をもて十分彼に酬(むく)ゆべきぞ』
かく彼女はひたすらに願い入りつ。かかる嘆きをいと不幸なる妹は、また繰り返して彼に伝う。されど彼はいかなる嘆きの言葉にも心を動かさず、またいかなる呼びかけにも素直に耳をかさず。
運命、中を隔て、神は勇士の耳の傾かぬようにぞ塞ぎたる。
そはあたかもアルプスの嵐のこなた、かなたより吹き荒れて、年重ねたる力に屈強なるかしわの木を根こそぎにせんと相い競い、ききときしむ音高く、幹をゆり動かすままに、高き木の葉は地面にまき散らさるれども、
樹そのものは巌にしかとまといつき、その頂きを空中高く上ぐると等しく、その根もしかと深く地獄に延ばすがごとく、
この勇士もかなたこなたより絶え間なき懇願に打たれ、その力強き胸にはげしき苦痛を感ずれど、彼の決心は微塵だに動かず、涙はただあだに流されぬ。(4-三九二〜四四九)
されば幸なきディードーは、運命に打ちくじかれ、ついには死をねがうようになり、あおぞらを仰ぎ見るだに物憂しと思う。
彼女のこの意図を実行に進めさせ、光を見捨つるように覚悟を固く定めさせしは、彼女が薫香を焚く祭壇にささげ物を置きしとき、(言うだに恐ろしや)聖水黒くなり、注ぎ出す酒のきたなき血のかたまりと変じたることなり。
彼女は何人にもこの光景を告げず。妹にすら告げざりけり。
また彼女の邸内には、先なる夫(シュカエウス)をまつる大理石の御堂あり、彼女はつねに驚嘆すべき畏敬もてこれに仕え、雪白の羊毛もて作りたる紐帯(ちゅうたい)と、祝祭の青葉飾りの花綱などかけ渡しける。
暗き夜、世界を司る時となり、孤独なるふくろうの、高き所よりしばしば物悲しき墓場の曲を送りつつ、たゆたう叫び声の嘆きに長き尾を引くように思わるるとき、彼女はここより、来たれよと呼ぶ夫の声と言葉とを明かに聞くと思う。
そのほか、古えの予言者の多くの予言は、恐ろしき声もて彼女の魂をおどろかす。夢の中にては、残酷なるアエネーアスみずから、狂乱する彼女を追い立て、彼女は常にただひとり取り残され、常に伴侶(とも)なく果てしなき道を旅するように思われ、また荒野の中にテュロス人を探し回るようにも思わる。
そのあり様はあたかも、ペンテウスが狂気の中に、エウメニデースの群を見、また二つの太陽と二つのテーバイがその眼界に現わるるを見しごとく、あるいはアガメムノーンの子オレステースが、松明と恐ろしき蛇とを取り持てる母親より逃げ、復讐の悪鬼ら入口にうずくまるとき、舞台の上を追い回はさるるに似たりけり。(4-四五〇〜四七三)
されば彼女は、悲しみに圧倒せられ、狂乱のとりことなり、死なんと心を定めたるとき、その時機と手段とはひとりみずからの心の中に計画しつつ、悲嘆に暮るる妹に話しかくるにも、その目的をばかおの色もて押し隠し、眉に希望のほがらかさをよそおう。
『妹よ、わらわ一つの計画を思い付きたり、御身の姉のために祝せよ。そは彼をわれに取り戻しえずば、恋せるわれを彼より解き放つということなり。
太洋の果て、落日にいと近く、アエティオペース人の遠き国あり。そこに偉なるアトラースその肩のうえに、輝く星をちりばめたる天空を回転す。
その国よりマッシリー族なるひとりの尼僧来たりて、わらわに謁見したることあり。ヘスペリデスの御堂の司祭にて、蜜汁と眠りとを誘う罌粟(けし)を撒きつつ、竜に美食を饗し、また樹木の神聖なる枝を守る。
彼女はその蠱(まじ)の力により、思うがままにある者の心を心配より解き放ち、また他の者の心には恐ろしき苦痛を負わせ、河の流れを止め、星の道を裏返し、夜は亡き魂をも呼び出すなり。
御身は世界が足のしたに鳴りとどろき、トネリコの樹、山より下るを見ん。
我がいとしの妹よ、妾が邪法に頼ることを本意とせぬことは、神々と御身のいとしき頭とを証人とせんと思う。
御身ひそかにわが家の内庭なる野天に、火葬の薪の山を作り、その上にかの不信の人が居間に懸け残したる武器と、彼の人のすべての衣服と、わが破滅の舞台なる結婚の寝台とを横たえさせよ。言うもけがらわしき人を思い起さする物みなを、焼き亡ぼすはわらわの喜びにして、尼僧はかくわらわに命じぬ』
かく言いおわりて言葉絶ゆれば、蒼白き色顔面にみなぎる。されどアンナは、姉が不思議なる儀式の裏に死を隠しつつある事を思いもよらず。またかかるはげしき狂い心も得さとらず。またシュカエウスの死にしとき起こりしよりも悪しきことあるべしとも懸念せず。されば彼女は請わるるままに準備を整う。(4-四七四〜五〇三)
されど女王は、邸内の奥深く、野天に松材と冬青(そよご)の割り木ともて大いなる火葬の積み薪の組み建てられたるとき、そのうえに花輪を置き、またそのうえに葬(とむらい)の青葉をのせぬ。さて頂上なる寝台のうえには、未来をよく知りて、彼女は彼の衣服、彼の残したる剣、彼の像などを横たう。
その周囲には祭壇を設け、尼僧は髪を解きほどき、声高らかに三百の神々、エレブスとカオスと、三体のヘカテーと三面相なる処女神ディアーナとを呼ぶ。
尼僧はまたアウェルヌス(冥界)の泉より取りたりと托言(ことよ)する水の滴を振り撒き、
月夜に青銅の鎌もて刈り取りたる、黒き毒ある乳汁(ちち)を含む多液の薬草を求め、
また生れしばかりの若駒の額より、母馬のそれを取らぬ前に切り取りて奪い得たる、媚薬などをぞ求むる。
彼女自身は、潔き手もて神にひき割り麦を捧げまき、祭壇の側に片足の草履を脱ぎ捨て、着たる衣の紐も結ばず、やがて死なんとするさいに、神々と運命を知るちょう星とを証人として呼び下し、次にはいかなる神にもあれ、恋をしてその恋の報いられぬ者を、正しくかつ心にかけて守りたまう神ならば、その神にぞ祈りを捧ぐる。(4-五〇四一五二二)
そは夜なりき、疲れし者の肉体は、世の中なべて静かなる休らいを楽しみ、森も荒波も憩いに沈む。そのとき、星はその円路の中心を転行(てんこう)し、野はすべて穏かに、獣も彩羽(あやは)もつ鳥類も、広く清き湖水に居住する者も、いばら以て荒れたる田野に住む者も、静けき夜のしたに眠りに入りて、彼らの悲しみをなだめ、彼らの心はわずらいを忘れたり。
されど不幸なるフェニキアの女は然らず。彼女は決して眠りに落ち入らず。また眼にも胸にも夜を取り入れず。彼女の痛苦は倍を加え、彼女の恋は再び燃え立ち騒ぎ、彼女はまた憤怒の強き潮にゆり動かさる。
そのとき彼女はかく思い始めて、なお心の内に思いつけけるは、
『さてわれはいまいかにせん?侮られぬるいま、立ち返りて以前の求婚者たちに愛を求め、ヌミディア人の間にうやうやしく結婚を乞うべきか、すでにしばしば彼らを夫とすることを拒みはしつれども?
またはイリウムの艦隊のあとを追いて、トロイ人の命ずるままに、絶対の服従をなすべきか?我がかくせんとするは、彼らがかつてわが助けによりて救われたることを喜び、過去のわが行為に対する感謝のなお彼らの胸の中に忘られず養なわれてありと思うがためか?
されど、われはそれを欲するとも、何人かわれをゆるして、憎むべきわが身をほこりある彼らの船に受け容るべき?あわれ、廃れ者よ、汝はラーオメドーンの血統の者の背信を知らず、またいまだ悟らざるや?
次に来たるは何ぞ?われはただひとりにて、悦び勇める船人に加わって逃ぐべきか?またはテュロス人らと、わが人民の全き力とに取り巻かれて進み、かつてわがシドンの町より辛うじて引きはなし来たりし人々をば、再び海上へと乗り出ださしめ、風に帆をあぐることを命ずべきか?
否、死ね、汝によく相応(ふさ)うように。剣もて汝の悲しみを退けよ。
御身こそ、わが涙に心負けて、御身こそ、妹よ、何人よりも真先になりて、狂い心のわれにこの悪しき重荷を背負わせ、われをば敵にさらしたるなれ。
されどまたわれは、野の獣のごとくめとらずとつがず、非難なく生涯を過ごし、かかる恋の苦悩を避けうべき身にてはあらざりし!
シュカエウスの灰に誓いたるわが信はついに保たれず』
彼女が心の底よりうめき出でたる悲しみはかくぞありける。(4-五二三〜五五三)
アエネーアスは、物みないまや適当に用意も整いぬれば、いざや出発せんと固く心を定めつつ、ともなる高き甲板にて、しばしまどろみてぞありける。
そのとき、前と同じよそおいにて立ち戻りたる神の姿、彼の眠りの中に現われ、声音も顔色もはた黄金色の頭髪も、若々しさに美しき手足も、すべてメルクリウスにそのままなるが、再び彼にかく警告するとぞ思われける。
『女神より生れし者よ、かかる危うき際にも汝は、なお眠りをむさぼりうるや。心狂える者よ、汝を取り巻く切迫せる危険を悟らず、また西の追風の吹くをも聴き付けざるや?
彼女は死なんと心を定め、胸の中に奸計といまいましき害悪とをたくらみ、憤怒の揺り動かす大波に漂わさる。
いまだ急いで出づる間はあるに、いかなれば汝はまっしぐらにここより逃げ出でざるや?
やがてぞ汝は、海面が群がる船にゆるぎ、汝は、物凄き松明の光、炎々とし、やがてぞ海岸、焰に照り輝くを見ん、もし曉かけて汝この地にたゆたいなば。
いで、遅れを断て。気まぐれにて、常に変りやすきは女なるぞ』
彼はかく言いて黒き暗の中に消え去りぬ。
そのとき、アエネーアスは思いもかけめ幻影に、いたく打ちおどろかされ、たちまち眠りより身を起し、一行をはげしくせきたてて言う。
『疾く覚めよ、わが武夫どもよ。漕台に就け、疾く帆を張れ。見よ、天の高きより遣わされし神は、急いで逃げ出でよ、早く捩じたる綱を断ち切れよと、再び促すなり。
われら君にしたがう、神々の中の聖なる者よ、よしや君がいかなる者なるも、われら再び喜んで君の命にしたがう。
願くはわれらとともにありて、君の加護をもてわれらを助け、大空に幸先よき星を送りたまえ』
言いおわりて彼は閃く剣を鞘より引き抜き、大づなを引き抜きたる刀身もて打つ。
ただちに全員みな同じ熱意を感じ、急ぎに急げば、磯辺には人影もなくなり、海面は艦隊に蔽われ、彼らは力の限り水泡を打ちあげつつ、暗き海原の上を走せ行く。(4-五五四〜五八三)
さていまや朝まだき、アウローラがティトーヌスのサフラン色の寝椅子をはなるるままに、世界のうえには、新しき光、雨のごとく注がれ始めぬ。
女王は塔楼より、白みそむる暁の最初の光を見、一様に帆を張りあげてかなたに動き行く艦隊を見、磯にも港にも船人の影だになくなりしを認むるやいなや、再三再四美しき胸を手もて打ちたたき、黄金色の髪の毛を掻きむしりつつ言う。
『おお、ユーピテル、この男は去り行き、この外(と)つ国人はわが国をば侮りおおすべきや?兵士らのある者たちは疾く武具着けて町の各所より彼を追跡し、他の者どもは船を船渠より引き出さずや?早く行け、急いで松明を持ち来れ、武器を取れ、櫂を漕げ。
われは何を言いつつありや?われはいずこにありや?いかなる狂い心のわが目的を変えさせたる?不幸なるディードーよ!汝の不義の振る舞いのいまや立ち返りて汝の胸にはげしくこたゆるや?
そは汝の権笏を彼に渡せし時こそかくあるべかりけれ。見よや、一族の家神をおのれとともに運び、その肩に老い衰えたる父をすがらせたりと世の人のいうなる彼、その彼の誠意と節義とを。
われには彼を捕え、彼の身体を片々(へんぺん)に引き裂きて、波のうえに撒きちらす力はなかりしや?われは剣もて彼の一行を斬り殺すことを、否、アスカニウスその者すらも斬り殺して、彼をその父親の食卓の一つの饗応となすことをえざりしや?
されど戦いの勝敗は恐らくあらかじめ占い難かりし。さもあらばあれ、いまは死を定めたるわれの何人をか怖れん?われは火を彼の陣営に持ち行き、彼の甲板を炎もて充たし、子も親もあらゆる一族も全く滅して、それよりわれとわが手もておのれを亡き人の数に加うることをなすべかりしものを。
あわれ、汝の火もて地上のあらゆる行為を照す太陽よ、汝、このわが恋の苦しみの仲人にして証人なるユーノーよ、夜に入れば町々の四辻に叫び声もて呼びおろさるるヘカテーよ、汝復讐の悪鬼たちよ、また汝死に行くエリッサの守護神たちよ、これらの言葉を受け容れよ。わが禍に対しふさわしき神力を向けよ。
いでわが祈りに耳を傾けよ。そは、もしかの忌々しき奴、必ず港に達し、陸地に浮び着くべきものにして、ユーピテルの運命これを求め、よしやその事はしかと定まりてあるとも、
なおその着ける土地の勇敢なる国人の闘争と武器とに悩まされ、その国土より追われ、ユールスの抱擁よりも引き離され、彼は救いを乞い求めつつ、同じ国人の恥ずかしき死を見るようになしたまえ。
また、彼が不利なる平和の条件に屈服したるとき、その王国も、期待せる生活も楽しみ得ず、時に先立ちて倒れ、葬られずして荒磯に横たわるようになしたまえ。
これぞわが祈りなる、これぞわが血をもてそそぎ出だす最後の言葉なる。
次にカルタゴの人々よ、汝ら憎悪の一念もて、彼の子孫と彼の未来のあらゆる種族とを迫害せよ。それをもてわが死灰へのささげ物となせ。二つの国民の間には何らの愛もあらしめな、同盟もあらしめな。
わが骨より復讐者よ、起て。しかして火と剣ともてトロイの植民を追えかし――現在——未来——何れの時なりとも、力の与えられん時に。
われは祈る、海岸は海岸と相対峙し、海は海と相対峙し、軍隊は軍隊と相対峙し、いま生くる者も、その子孫も相戦えかし』(4-五八四〜六二九)
彼女はかく言いて、いかにせば最も早く、憎むべきこの世の光をおのれより離ち得べきと、絶え間なく心をあらゆる方にめぐらす。
さてしも手短かなる言葉もて、シュカエウスの乳母―――おのれの乳母は古き故郷にて黒き灰となりてありければ――バルケーに語りかけるは、
『いとしの乳母よ、ここに妹アンナを連れ来たれ。彼女にかく伝えてよ。急ぎ河の水を身にそそぎ、羊とお決まりのやわらげのささげ物とを持ち来れと。
かくぞ彼女を来させよ。汝みずからは聖なる頭飾りもて額をおおえ。
われが目指すは、ストュクスのユーピテルに、われが適当に手を下してあつらえたる犠牲をささげ、わが悲しみを収めて、かのトロイ人を葬る薪の山を火に委ねんとはするなり』
彼女のかく命ずれば、他は老女の熱心さもて急ぎ行くめり。
されどディードーは、身体ことごとく打ち震えつつ、むごたらしき事をせんとする前の気も荒々しくなり、血走る眼をくるくると動かしつつ、痙攣する頬には涙のあとを残し、死の切迫に顔面も青ざめ、
宮殿の内庭の門を走り入り、狂気のように高き薪の山にかけ登り、かかれとてしも請い受けたるものにはあらねど、トロイ人の剣を引き抜く。
ここにトロイ人の衣服と、見慣れたる寝椅子とを見出でたるとき、彼女は涙と想いに暫時ためらいつつ、身を寝椅子のうえに投げ伏して、最後の言葉をぞ言うなる。
『運命と神との許せし限り、身に親しかりし汝らくさぐさのかたみどもよ、わがこの魂を受けて、われを悲しみより解きはなてよ。
われはわが生涯を送り、運命の定めたる道をおわりぬ。
さていましもわが堂々たる陰影は地下に過ぎ行かん。
われは光栄ある都を興し、みずから建てたる城壁を見、夫の仇を報い、敵意ある兄弟より償いを強奪しぬ――幸福なりしかな、あわれ余りに幸福なりしかな。ただトロイの船だにわが海岸に来たらざりせば!』
彼女はかく言いて、唇を寝椅子のうえに押しつけつつぞ続くる。
『この仇を報いずしてわれは死す。されどいざ死なんかな、かく、かく闇路に下るこそわが喜びなれ。残酷なるトロイ人に、彼の眼もて大海の上よりこの光景をむさぼり視せしめよ。彼とともにわが死の凶兆を運ばしめよ』
彼女はかく言いおわりぬ。されどなおこれらの言葉の彼女の唇にある内に、従臣らは彼女が刃に伏し、剣は悪血に汚れ、彼女の手も血にまみるるを見たり。
叫喚は高き広間々々にあがり、「風聞」はおどろき慌つる町の中を荒々しくかけ回る。
家々は悲しみと唸りと女の絶叫もて目覚め、空は高き嘆きを反響す。
そはあたかもカルタゴまたは古きテュロスが、敵の侵入によりみなことごとく廃墟となり、猛烈なる炎の、人の高き住家も、神々の殿堂もうず巻き去るにさも似たり。
彼女の妹はこれを聞きていたく打ちおどろき、心も空に急ぎながら、爪もて顔を傷け、拳もて胸を打ち、群衆を押し分けて、死に行く姉にその名を呼びかけつつ、叫びけるは、
『これぞ汝が目的なりしや、姉よ?汝はわれを偽りの計に乗せたるや?汝が命じたる薪の山の、火と祭壇とのわれにもたらせしものはこれなりしや?
あとに取り残されたるわれは何をか最初に嘆くべき?汝は死に行くとき、妹を友とすることをいさぎよしとせざりしや?汝はわれを同じ運命に呼ぶべかりしものを。剣により、同じあえぎぞ、同じ時ぞ、われら二人をかの世に送るべかりしものを。
まことや、われはかく打ちふしたる汝より、情なくも遠ざからんために、この手もてこの薪の山を打ち立てたるや。しかしてわが国の神々を声高く招きたるや?
汝は汝みずからとわれとを殺したり。姉よ、汝の臣民をも、シドンの長老をも、汝の都をもまた。われ、水にて彼女の傷を洗い去らん。もしなお最後の息のほのめきにても残りてあるならば、わが唇もてそれを捕えん』
かく言いて彼女は、高き階段の頂きに登りつき、瀕死の姉のまわりに腕を投げかけ、嘆きの吐息をつきながらわが胸に抱きしめ、黒き汚血をみずからの衣もて急ぎ拭い去らんとぞ努むる。
姉は重きまぶたを上げんとして、また伏せ沈みつ、深く貫きたる傷は彼女の胸の中にうずくめり。
三度起き上がらんと、肘にもたせて身を持ち上ぐれども、三度彼女は寝椅子のうえにころび反り、ゆらめきて定かに物のあいろも見えぬ眼に、天上高き光を求めつつ、そをようやくに見出でたるとき、微かに嘆息をぞつきし。
そのとき、全能のユーノーは、彼女の長き苦痛といたましき臨終とを憐れと見て、もがきにもがく魂と、それにまつわる肢体とを解きほどかんと、オリンポスよりイーリスをくだす。
彼女は天命により、または当然の死によりて滅ぶるにあらずして、悲惨にも定命に先立ち、にわかにに狂恋の炎に身を亡ぼすなれば、
プローセルピナもいまだ彼女の頭より黄なる髪の毛を取らず、彼女の頭はいまだステュクス(冥界)のオルクス(冥府の神)に委ねられず。
されば露けきイーリスは、打ち向かえる太陽の光に、千々に変化する色彩の跡をひきつつ、サフラン色の翼もて大空を通して飛び下り、彼女の枕辺に立ち止りて、
『命令により我この神聖なる髪の毛をディース(冥界の神)に持ち去り、汝を汝の身体より解き放す』
かく言いて、彼女は右手もて髪の毛を切り取れば、一瞬にして体温は逃れ去り、命は風にあせゆきぬ。(4-六三〇〜七〇五)
第五巻梗概(上170p)
アエネーアスは、ディードーの運命を知らず、シチリア島のアケステース王のところに航し去り、父アンキーセスの死の記念日に追弔競技を挙行す。
アンキーセスの霊にみつぎ物を約す。シチリア人とトロイ人と、第一の競技、端艇競漕に集まる。競漕の詳しき叙述。クルエンティウスの組クロアントス、「スキュラ」をもって勝利を占む。次に徒歩競走の叙述あり。エウリュアロス、朋友の詭計により、第一等賞を獲得す。しかして場景は拳闘場に転ず。ここにダレースは練達のエテッルスにうち負かされ、エテッルスはその賞品なる牡牛をたおして、その主エリュクスへのみつぎ物とす。その次に行われたる弓術にては、おどろくべき射撃ののち、アエネーアス第一等賞を神々の寵児としてアケステース王に与う。
この競技の終わるに先立ち、アエネーアスは子アスカニウスとその少年隊を招き、精巧なる調練を行わしむ。これは後日ローマにて「トロイ騎乗」として行わるるものなり。
ユーノー女神はこの競技の行われつつある間に、トロイの艦隊をほろぼさんと計画す。彼女は葬祭に出席せざるトロイの夫人たちに不満を吹き込む。彼女らは船に放火す。アスカニウスその現場に急行す。大神ユーピテル雨を降らし、四隻を除き全船隊を救う。
ナウテース、老者と弱者とをアケステースとともにとどめ置かんことを忠告す。アンキーセスの亡霊この忠告に力をそえ、アエネーアスにおのれを下界におとずれよと命ず。出発の用意。アケステースその新たなる臣民を受けいれ、トロイ人らは出で行く。
女神ウェヌスは舵手パリヌールスのいのちに代えて、彼らに安全なる航海を許せと海神ネプトゥーヌスを説き伏す、パリヌールスは溺死す。
第六巻梗概(上215p)
クマエに到着し、アエネーアスはシビュラの社にまいり、祈願ののち、神アポロンに「犠牲をささげ、父をおとずれるため下界に入ることを乞う。彼はまず下界の女王プロセルピナ女神のため黄金の枝を折り取り、死したる同僚を埋葬せざるべからず。
ミセヌスの死と埋葬ののち、アエネーアスは黄金の枝を発見採取す。用意と祈願。出発。地獄の外縁を守る「恐ろしき顔々」。
下界の渡し守カローンの渡し舟と葬られざる死体。パリヌールス寄りきたり、埋葬を懇願す。カローンおよび三頭の犬ケルベルスを過ぎて、彼らは自殺者、幼児、恋愛者らの幻影を見、ディードーの侮蔑を体験す。
ギリシア人やトロイ人の幽霊の中より、デーイポボス選び出され、おのれの身の上を語る。シビュラはタルタロス(奈落)への近接路を取りてアエネーアスを急がせつつ、その途中そこの支配者および恐ろしきことどもについて説明す。
道に彼らはエリュシオン(死後の楽園)に達し、入口に到着す。受福者の幽霊中よりアンキーセスの捜索、父子の再会。アンキーセス、魂の輪回の神秘を説き、巻はローマの未来の偉大をアエネーアスに啓示することをもって終わる。
ローマの英雄は、諸王の時代よりアウグストゥスの時代まで、行列をなして彼の前を通過す。その後、彼は象牙の門を通して出され、カイエータに道をとりて出帆す。
第七巻梗概(下5p)
カイエータおよびキルケーイーを過ぎ、アエネーアス、ティベリス河を遡航す。詩人ウェルギリウス低徊(=考えを巡ら)して、ラティウムの古えの統治者を列挙し、アエネーアス来航当時の国の状態を説明す。
王はラティーヌス。神託。彼のひとり娘ラウィーニアは異国人と結婚し、皇統の母たしべしと予言す。あらたなる兆候と奇蹟とはこの予言に力を添う。トロイ人彼らの食卓を食う。彼ら使節をラティウムの都にやる。協議ののちラティーヌスはトロイ人に平和を、しかしてアエネーアスに娘との婚姻を提言す。
トロイ敵視の女神ユーノーは再び干渉し、自己の援助に悪魔アレークトーを召喚す。彼女はまず王妃アマータを、次にラウィーニアとの婚約の勇士トゥルヌスを挑発して平和に反対せしめ、トロイ人とラティウム人との間に堂々たる対戦を惹起す。
そののちユーノーはアレークトーを退散せしめ、みずから敵味方に戦いを正式に宣言せしむ。イタリアの戦争熱。アエネーアスをたおさんと集まりきたる隊将および国民の目録、そのおもなる者はトゥルヌスとカミッラなり。
第八巻梗概(下55p)
イタリア人の勢揃いとギリシアの勇士ディオメデスへの使節。夢にあらわれたるティベルス河神はアエネーアスを勇気付け、彼をしてエウアンドロスに救援を求めしむ。
アエネーアス、白き牝豚とその一腹の子とを女神ユーノーに犠牲とし、エウアンドロスの町パッランテーウムに着す。すなわちローマのある所なり。アエネーアスとエウアンドロスの会合ならびに饗宴。
怪人カークスの物語と大勇士ヘラクレスの賛美と語られかつ歌わる。
エウアンドロス、アエネーアスにその都市を案内す。
女神ウェヌスは火神ウルカヌスに乞い、その子のため聖なる甲冑を得。
早朝、エウアンドロス進んでアエネーアスを援助することを約束す。彼らの会話は天よりの兆候によりて中断せらる。
アスカニウスを呼びよせ、エトルリア人に助力を乞うため、それぞれ急使を発す。アエネーアス、その部下およびエウアンドロスの子息パッラス、彼らの成功の祈念をもってエウアンドロスに送り出さる。
ウェヌス、ウルカヌスのつくりたる甲冑を、アエネーアスにもたらし来たる。詩人ウェルギリウス、盾を説明す。そのうえにはローマ上代諸王および将領の苦難と勝利のみならず、またアクティウムにおける東洋と西洋間の最後の闘争およびアウグストゥスの全世界大の帝国も描かれてあり。
第九巻梗概(下99p)
アエネーアスの不在を女神ユーノーに保証せられ、トゥルヌス、その軍隊をトロイ人に対して導き進む。彼らが塹壕をもって戦線を固むるとき、彼は彼らの船を焼かんとす。
ここにおいて船どもは女神キュベレーによりニンフに変えられ、海にうかんで去る。トゥルヌスの勇、部下を励まし、トロイ人の陣営を包囲す。
ニーソス(ヒュルタコスの子)とエウリュアロスとは、アエネーアスをたずね出し、救援隊を得るために包囲を突破せんと計画し志願す。もし成功すれば多く報いらるる約束もて出発し、彼らはラテン人の陣営を不意に襲撃したるが、かえってみずから逆に奇襲せられてたおる。彼らによって殺されたる者たちは埋葬せられ、彼らの首はトロイ人の陣の前に梟木(きょうぼく)せらる。
エウリュアロスの母の悲嘆。敵の連合軍トロイの陣を襲う。ウェルギリウスその騒擾を説明するため歌神カリオペーを招請す。塔の倒壊と両軍死傷の序曲。アスカニウスの火の洗礼。彼敵手をたおす。パンダロスとビティアースの兄弟、敵に挑んで軍門を開く。ビティアース倒る。パンダロス退却し、付き入りたるトゥルヌスを陣内に閉じ込む。トゥルヌス彼を殺す、しかれども味方を引き入れえざれば、ついにはげしく圧迫せらる。ムネステウスとセレストゥスを中心としてトロイ人らもり返す。トゥルヌスは河に飛び込み、苦みながら泳いでのがる。
第十巻梗概(下145p)
諸神会議。女神ウェヌスはトロイ人のために、女神ユーノーはラテン人のために弁護す。大神ユーピテルは仲に立ち、裁決を運命にまかす。
トロイ陣営包囲の継続。その間にアエネーアスは、そのアルカディアおよびエトルリアの同盟軍と、ティベルス河をくだりつつあり。アエネーアスの味方の名簿。
彼はやがてニンフによりアスカニウスがいかなる危険に立つかを警告せらる。陣営の見ゆる所に来たり、苦しみながら部下を上陸せしむ。河畔に起こる激戦。その大立て者はパッラスとラウスス(メーゼンティウスの子)。
パッラスは一騎うちにてトゥルヌスのためたおさる。アエネーアスは復讐のため少しも容赦せず、殺戮また殺戮するほどに、ついに女神ユーノーは大神ユーピテルより、もし彼女がしばらくにてもトゥルヌスを救わんとするならば、ただちに手段を講ぜざるべからずと戒告せられ、彼女は戦場にくだりゆき、一つの幻影をアエネーアスの姿によそおいつくり、それをトゥルヌスの前に逃げ走らしめ、トゥルヌスを船に誘惑し、その船にて彼は不思議にも遠く父ダウヌスの町に送らるるようにす。
メーゼンティウス、指揮をとる。されど嘆賞すべき勇気のふるまいののち、アエネーアスに傷つけらる。メーゼンティウスは退却し、その子ラウススは彼の後退をかばう間にたおさる。ここにおいてメーゼンティウスはかろうじて馬に乗り、返り来たって息子の仇を取らんとつとむれども、かいなき死におもむく。アエネーアスはメーゼンティウスに勝ちほこる。
第十一巻梗概(下201p)
アエネーアスはメーゼンティウスの武具もて戦勝記念の飾りを建て、涙と哀哭ともてパッラスの死体をエウアンドロスに送る。
死者埋葬のための休戦はラテン人によって申し出られ、トロイ人の大義への同情は、ドランケースにその代言者を見出す。
エウアンドロスの悲哀、トロイ人、ラテン人らの葬式。トゥルヌスの使節、ディオメデスの都市よりかえり、彼がアエネーアスを賞賛し、服従を忠告したることを報告す。
熱心なる討議これに次ぎ、ラティーヌス王平和の条件を暗示す。ドランケースはトゥルヌスに反対して毒舌を浴びせ、トゥルヌスはこれに答えて、アエネーアスと一騎うちをなす覚悟をもって抗議し、しかしてやがて敵の攻撃せまりぬという誤報によりて与えられたる機会をとらえ、議会を解散す。
ラテン人たちの母も処女も女神パッラスに供物と祈祷とをささぐ。トゥルヌス、戦さのために武装す。女勇士カミッラとメッサープス、ラテン軍の騎馬隊を指揮す。
トゥルヌス、まちぶせをはかる。女神ディアーナ、カミッラのことを物語り、ニンフのひとりオービスに、もし彼女殺されなば復讐をなすべしと命ず。オービス、ラティーヌスの都市の前にて戦いを見まもる。カミッラのふるまいと死との記述。彼女の殺害者アッルンス、オービスに殺さる。ラテン人らの潰走、トゥルヌスはその情報を聞き、まちぶせを放棄し、町に急ぐ、アエネーアスただちにそのあとを追う。
第十二巻梗概(下253p)
トゥルヌスはいまや、一騎うちにてアエネーアスとたたかうという約束を履行せざるべからざることを覚悟し、ラティーヌス王の説にも王妃アマータの説にも服することをうべなわず、挑戦状を送り、双方準備をなす。矢来作られ、観衆あつまる。
女神ユーノーはニンフなるユートゥルナにその兄トゥルヌスを助けよと警告す。決闘の条件が誓言葉と犠牲とをもって批准せられたるのち、ユートゥルナは仮装して、時宜をえたる前兆をもって、集まりたるラテン人のひとりを誘惑し、休戦条約をやぶり、トロイ人を殺さしむ。
アエネーアス、その部下の復讐を制せんとつとむる間に負傷す。騒擾は一般化す。トゥルヌス、トロイ人の間に殺到す。
アエネーアス不思議に快癒し、まずトゥルヌスのみを追跡す――トゥルヌスはユートゥルナに連れ去らる。されどやがてアエネーアスは怒りにまかせ無差別に殺戮し、ついにウェヌスの忠告により町を攻撃す。
アマータはトゥルヌス死したりと信じ自殺す。トゥルヌスの眼開く。町の外壁が燃ゆるを見て立ちかえり、アエネーアスと会戦せんとの覚悟を宣言す。アエネーアスその挑戦を歓迎し、前方に突進す。
すべての眼は二人のうえに釘付けとなる。そのときトゥルヌスの剣折れる。いま一度彼は逃走し、アエネーアスは追跡す。ユートゥルナ、トゥルヌスに他の剣を与う、ウェヌス、アエネーアスに彼の槍を返す。
大神ユーピテルとその妃なる女神ユーノーの会話。トゥルヌスは死せざるべからず。
アエネーアスはラウィーニアと結婚し、王たるべし。されど新しき国民はラティウムの古き儀式と名称とを保ち、トロイ人ならずしてラテン人と呼ばれざるべからずとなり。
ユーノーこれに従い、ユーピテルはユートゥルナに戒告して戦場を去らしむ。トゥルヌスは、われとわが身のままならずして、最後の超人的努力ののち、打ち倒さる。アエネーアス彼の生命をほとんど助けんと思う、そのときパッラスよりのぶん取り品を彼の肩のうえに見て、彼を殺す。
2025.3~ Tomokazu Hanafusa / メール
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