ウェルギリウス『アエネーイス』(旧岩波版)
P.VERGILI MARONIS AENEIDOS

新字新仮名版


ウェルギリウス『アエネーイス』(旧岩波版)

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第一巻梗概(上11p)

運命はローマを見出させんとトロイの落武者アエネーアースをラティウムに送る。されど女神ユーノーの敵意は長く彼の成功を遷延す。彼およびそのトロイ人らがイタリアを近く目撃するを遠く認めて、彼女は風神アイオロスにまいないし、彼らをほろぼすために嵐をあげしむ。暴風雨。アエネーアースの絶望。トロイの一船すでに沈む、そのとき海神ネプトゥーヌスはユーノーの陰謀を知り暴風をしずむ。難を免れ、リビア(アフリカ)に上陸し、部下を鼓舞す。

アエネーアースの母なる女神ウェヌスは大神ユピテルに愁訴す、ユピテルはアエネーアースがなおイタリアにおいて偉大なるべきことを断言して彼女を慰む。彼の子はアルバを見出し、彼の子の子らはローマを見出すべし。ユーノーはついに怒りをやわらげ、ローマはアウグストゥスのもとに全世界の女皇たるべしとなり。

使神メルクリウスはリビアの女王ディードーにアエネーアースの歓迎を確保するため遣わさる。アエネーアースとその臣アカーテースは、偵察の間、森の中にてニムフに身をよそおいたるウェヌスにあう。彼女は彼らにディードーの事を語る。アエネーアースはこれに応じおのれの受難を嘆く、されどそは半ばにて成功の約束もて止めらる。堅忍持久せよ、さらばすべてよかるべしとなり。

ウェヌスは彼らの眼の前にてニンフより女神に身を変じ、アエネーアースが怨みの言葉をいい出でも得ぬうちに消え失す。

神秘の雲霧に隠され、この主従二人はリビアの都カルタゴに近づく、そはなお建設中なるを見る。彼らは人に知られず城砦に達し、トロイ戦争の幾場景を描ける絵画を見て心を励まさる。

ディードー現われ、威儀を正して着席す。彼女の許に、アエネーアースがすでに難船して死したりと思いたるトロイの隊長ら、嘆願者として出で来たる。

その代表者イーリオネウスは、暴風の事を語り助力を乞う。『もしアエネーアースだにここにあらば!』

雲霧消散す。アエネーアース現わる。ディードーに感謝し、イーリオネウスに会釈す。ディードーはアエネーアースをカルタゴに歓迎し、彼のために饗宴を準備す。

アエネーアースはアカーテースを送りておのが子アスカニウスを呼びよせ、ディードーへの贈り物を持ち来たらしむ。

恋愛の神クピドーは、アスカニウスに身をよそおい、ディードーにアエネーアースへの恋心を吹き込めと、母なるウェヌス女神に説き伏せられて、ディードーの宮殿に贈り物をもたらす。

その間アスカニウスはイダリウムに運び去らる。饗宴は夜を徹す。宴飲の後イオパスは大空の不思議を歌う、ディードーはクピドーに魅せられ、アエネーアースにその冒険の一伍一什(いちごいちじゅう)を語れという。


第一巻

われが歌うは戦さと人、その人ぞ、情け知らぬユーノーのたわみなき怒りにより、天つ神々の力もて、トロイの磯より運命に追われ、陸にも海にも多くのさすらいを重ねしのち、イタリアへ、ラウィニウムの浜辺へよせ来たりし最初の人にぞありける。

彼ついに一つの都を建てて、おのれの故郷の神々をば、ここラティウムに鎮め祭るまでには、多くの戦さの苦しみをもまた耐えしのびけるが、これぞラテン民族、アルバの長老たち、はたいと高きローマの城壁の起源とはなりぬる。(1−一〜七)


あわれ、ムーサよ、われに事のよすがを説き明らかさせたまえ。天つ后(きさき)はいかに心ののぞみをさまたげられたればとて、はた、いかにその怒りに触れたればとて、おどろかるるばかりかく律義なる人を駆りて、かくばかり危うき道をめぐり、かくばかり多くの忍苦にむかわせたる。いかなれば天つ女神の胸にも、かかる激しき瞋恚(しんい)は住みうるものぞ。(1−八〜一一)

そもそも、ここにカルタゴという古き都あり、「テュロス(注)の植民の住みかにして、イタリアおよびティベリスの河口と遠く相対峙し、豊かに富みて、戦さのわざに鋭し。

注 フェニキアの古代都市

伝えいう、女神ユーノーは、サモスをさえ軽くみるばかり、あらゆる国土にまさりて特にこの都をめでたりとぞ。されば女神の武器もここに置かれ、戦車もここに置かれ、運命もしこれを許さば、ここをばあらゆる国民の首都たらしめんことこそ、女神の心のまとにして、ひそかにいだきし大望なりしなれ。

さるに、まことや、聞けばトロイの血統より起こるべき一民族ぞ、他日カルタゴの高塔をうち倒すべく、それよりぞ、ひろく国々を支配し、戦さの庭に勝ちほこる民出で来たりて、ついにカルタゴの破滅となるべく、これ運命の定めたる道なりという。

サートゥルヌスの娘(注1)の一つのおそれはこれ、また一つには、思いぞ出づる懐しのアルゴス(注2)のため、みずから神々を率いて戦いたるさきの日のトロイの戦さ――

注1 サートゥルヌスの娘とはユーノー
注2 アルゴスとはギリシアのこと

その激怒のよすがと激しき悲痛はいまだ心より消えやらで、パリスの審判とおのれの貶されたる美貌に対する侮辱、種族に対する憎悪、はたまたユピテルが強奪したるガニュメーデスに与えられたる不当の栄誉のことなども、この天つ后の胸の奥深くよどみてありけるが――

これらの事によりてもまた心苛立ちつ、ギリシア人と猛きアキッレースとに打ち漏らされたるこのトロイ人の残党を、海上至るところに揺り上げ揺り下ろし、遠くラティウムに近付かしめず、

彼らは運命のまにまにすべての海を、年あまた(七年)漂泊し続けた。じつに、ローマ人がその礎を建つるは、かくばかりむつかしき業(わざ)にぞありける。(1−一二〜三三)

彼らが、シチリアの島影ようやく眼界より薄らぎて、大海のほうにこころよく帆をはりあげ、黄銅の軸先に泡だつ波を切りゆきつつありしころ、

ユーノーは胸の奥ふかく、癒えがたき手傷をいたわりつつ、ひとりごちけるは、『何!わらわがくじかれてわが身の計画を捨つべしとや!トロイの王をイタリアより遠ざけえずとや!

運命がそれをわらわに禁ずるとや!されどわらわよりも身分おとれるパッラス女神すら、オイレウスの子アイアースただひとりの罪と狂暴とをいきどおりて、ギリシアの艦隊を焼きつくし、船人を海底にほうむる力をばもたざりしや?

彼女は、手づから雲の中よりユピテル大神のはやき炎を投げ出し、艦どもを散乱し、海に嵐をまき起して、うちつらぬかれたる胸より炎吐く彼の者を、竜巻の中に巻きあげ、鋭きいわおにこそ突きさしたれ。

さるに、神々の女王、大神ユピテルの妹にして后なるわらわが、年あまた一つの民族と争うことこそ恥かしけれ。かくてもなお人はこのユーノーをうやまい尊び、その祭壇にうやうやしく犠牲をささぐべしや?』(1−三四〜四九)

かく心のうちに瞋恚のほむらをかき立てて、女神は、暴風雲の母国、猛烈なる疾風多き地方なるアイオリアにぞ来たりける。ここにアイオロス王は、広き洞穴のうちにて、いたく身もだえする風、吠えたける嵐などを支配し、鎖と牢獄もて彼らを抑制す。

彼らはいきどおりて、山々に大いなる叫喚を起させつつ、大木戸の周囲を狂いまわる。そのときアイオロスは、権笏(しゃく)を手にして高きやぐらのうえに座し、彼らの激情をならし、激怒をなだむ。

もし彼がかくせざりせば、彼らは必ずその荒々しき飛翔(かけり)のままに、海をも、陸をも、蒼穹をもおのれとともに運びゆき、空を通して巻き去りなんとす。

されどかかる事のあらせじと、大自在の父なる大神(ユピテル)は、彼らを陰鬱なる洞穴に押し込め、そのうえに高き山また山の塊をつみ重ねて、ひとりの王を下しつ。その王は、一定の誓約の範囲ないにて、命令のまにまに、彼らの制御を張りもし、ゆるめもすることを得るなり。

ユーノーはいまやこの王に、ねんごろなる言葉もてかくぞ頼みかけける。(1−五〇〜六四)

『アイオロスよ——げに神々の父、人々の王は、風もて波をあげ波をしずむる力を汝に与えたれば――

いまわらわが憎むところの一族、イーリウムとその敗残の神々とをイタリアに運ばんと、テュレーニアの海を渡るほどに——

汝の風を猛けり立たせよ、艦どもを沈めつくせよ。また人々を吹きはなちて、彼らのしかばねを大海のうえに散らばらせよ。

わらわにつかうる七を倍する数の見る眼も美しき姿のニンフ(妖精)あり、その中にても最も容色すぐれたるデーイオペーアを汝に固くめあわせ、汝のものとせん。

そはこの度の奉仕に対し、彼女の終生をうちまかせ、汝を美しき子らの父たらしめんためなり』(1−六五〜七五)


アイオロスこれに答えて申しけるは、『大后よ、君のつとめはただ御心ののぞみを考え定めたまうことなり。わがつとめはただ君の御おおせにこれ従うことなり。

わがいささかなる領土も君の恵み、わが権笏(しゃく)も、ユピテルの恩寵もまた君の御恵みなり。君はわれに神々の饗宴の一席をあたえたまい、われを雲と嵐の主となしたまえり』(1−七五〜八〇)

かく言いて、かれ、矛(ほこ)を逆さにしてうつろの山の脇腹を突けば、見よ、風はあたかも行進する隊伍のごとく、隙間々々のある限り進み出で、疾風となりて大地を吹きまくりつ、

海のうえに舞いおりて、一時に東風(こち)、南風(はえ)、はやてぞ多き坤(ひつじさる)の風など重なりあい、底の底より隈なく逆巻きかえし、岸辺の方へほうはいたる大波をばころばし寄する。

つづいて起る人の叫喚、帆索(ほづな)のきしめき!

一瞬にして雲はトロイ人の眼より蒼天と日光とを奪い、闇の夜大海のうえに広がる。

上天には雷鳴りわたり、中空には電光絶え間なく、あらゆるものみなこの人々の死の切迫を示さざるなし。

アエネーアースもたちまち身にしみとおる恐怖に、四肢は力を失い、

うめきながら、両手を天にさし伸べ、高くかくぞ叫びける。

『おお、トロイの高き城壁のもと、父祖の目の前にて死なん運命をうけにし人々こそ、いまのわが身に比べては、三倍四倍の幸いなりし!

あわれ、ギリシア人の中にて最も勇敢なりし者よ!テュデウスの子よ!いかなればわれはイーリウムの原に倒れ、汝の右手によりてこの命を断たれざりしぞー—その戦場にては、アイアコスの子孫(アキッレース)の槍の下に、猛きヘクトールもたおれ伏し、巨大なるサルペドンもたおれ伏し、シモイースの流れは、波の下にいと多くの勇士の盾と甲冑と雄々しきしかばねを捕えて巻き去りたるものを』(1−八一〜一〇一),

彼がかかる言葉を投げ出せしとき、北の方より一陣の烈風叫び来たりて、真っ向よりさかしまに帆をうちたたき、波浪を天つ星まであげんとす。

櫂は折れ、舳先(へさき)は揺れまわり、脇腹を波にさらせば、山なす水とうとうとして落ち入り来たる。

水夫は大波の頭に乗るもあり、口を開ける大洋の波間に海の底まで見るもあり。波浪は砂とともに沸きかえる。

また南風三つの船を捕え暗礁に投げかける――

この沖の巌はイタリア人に神壇と呼ばれ、海面とすれすれに巨きく隆起したり。また三つの船は、東風のため大海より浅瀬と砂州とに吹きよせられ、見るも無残や、洲の中に突き進み、砂の山に囲まるる。

リュキア(小アジア)の国人と忠実なるオロンテースを乗せたる船は、アエネーアース自身の眼前にて、逆巻く海に船尾(とも)を真上より襲い打たれ、梶取りは払われて真っ逆さまに船より投げ出され、船体は波浪のために、同じ所を三度くるくると回りて、大海の渦巻にのみ去られぬ。

その後には、ここかしこ広き海原を泳ぐ人々見え、武器、板、トロイ人のたからなど波のまにまに漂う。

いまやイーリオネウスの強き船、いまや勇敢なるアカーテースの船、アバスの乗りし船、年老いたアレーテスの船など、みな嵐のため思うがままに翻弄せられ、すべての船の船腹のつがい目はゆるみ、恐ろしき海水せぎり入りて、所々にさけ目生じて大いなる口を張りぬ。(1−一〇二〜一二三)

かかるとき、ネプトゥーヌスは、大海騒ぎ立ちて荒々しきうなり声をあげ、暴風はなたれて静かなりし水、底の底より押し上げらるるを知り、心いたくわずらわされて、その静かに澄めるかんばせを水のうえに出し、大海の面を見渡しぬ。

彼はアエネーアースの艦隊が、海上くまなく吹き散らさるるを見、トロイ人が、大波と落ち来たる天とに圧倒せらるるを見つ。

またユーノーの奸計も瞋恚も、彼女の兄弟なる彼の眼より逃るる事なかりき。彼は東風と西風とを前に召しよせ、やがてかくぞ語りける。

『汝ら、おこがましくも汝らの眷属について、かく大いなる自負心をいだけるや?あわれ風らよ、いかなれば汝らいま、わがおおせも受けず、大空と地上とを入りまじらしめ、かかる大いなる波浪をあえてあげるや?

かかる不遜なるやからをわれは――されど騒ぎ立つ波をしずめるにしかじ。心せよこれよりのち汝らの違背の罪をつぐなうはさらに大いなる罰をもってすべし。

疾く逃げ行きて、しかと汝らの王に申せ、くじにより海の主権と稜威(注)の三叉もりとを与えられたるは、すなわちわれにして彼にあらず。東風よ、彼は汝ら眷属の住みかなる巨岩をこそ保つべけれ、すなわちアイオロスはその宮殿を主宰し、大木戸いかめしき風牢のうちをこそ支配すべきものなれ』(1−一二四〜一四一)

注 「稜威」は「いつ」と読み神聖なこと

かく言いて、その言葉よりもなお速く、彼は騒ぎ立つ海をしずめ、むらがる雲をかけらせ、太陽をもとに取り戻しぬ。

キューモトエーとトリトンとは力をあわせて、船どもを鋭き岩よりひき下ろし、神はみずからその三叉もりもて船をあげ、広き流砂を押しひらき、潮をやわらげ、軽車のわだちもて高波の頭をならす。

そは、例えば大いなる群衆の中にときどき騒擾の起りて、下々の者らかしましく怒りののしり、たいまつ、こいしなどを飛ばし、あるいは武器に訴えてあれ狂うとき、そのときもしかねてよりたっとき人格と国家に対する奉公とのためとおとばれる人を見れば、たちまち黙し、その側に寄りつどいて傾聴し、その人はまた言葉もて彼らの激情を支配し、彼らの胸をなだむるごとく、

この大君、水の上を見渡し、晴れたる空の下に車をかりて、駒のあがきを導きつつ、前へ前へと軽車の飛ぶにまかせるとき、大海のうなりもことごとくしずまりぬ。(1−一四二〜一五六)

疲れはてたるアエネーアースの家の子らは、最も近き海岸に帆ばしりよらんとつとめ、リビア(=アフリカ)の磯の方に転じぬ。

そこには深き湾に、ひとところ、島がその両側もて防波堤をつくり、これを港の形にととのえ、大海より来たる波はみなここに割れて、くだけて、さざなみとなりてひき去り行くところあり。

(港の二つの入口の、陸地にむかえる島の)両側には、大いなる懸崖と二子の峰と天辺高くそびえ立ち、静かにその峰の下におおわるる湾の水は安らかに、遠く、広し。水の奥には、揺れる森の背景のごとく、参差(しんし=ふぞろい)たる影を引ける暗き杜など覆いかぶさる。

その正面の断崖のすそに、突き出でたる巌のつくりなせる一つの洞穴(ほらあな)ありて、そのうちに清水わき出で、天然の岩よりなれる座席あり、ここは水精(ニンフ)らの好みて来たり遊ぶところなり。波風にうたれ来たりし船も、この湾に入れば鎖もてともづなをつなぐ要なく、錨もその鈎の手もて船をくい止むる要なし。

アエネーアースは、全艦隊のなかより集めえたる七隻の船とともにここに避難し、トロイ人らは陸地恋しきままに夙(と)く船より出でて、あくがるる砂を踏みて、彼らの潮に濡れたる手足を岸辺に伸ばしぬ。

アカーテースはまず、ひうち石よりひばなをうち出し、木の葉に移し、そのまわりに乾ける薪を横たえ、たき付けの中に炎をゆすりて、さと燃えあがらせつ。次に、悲運に疲れたる人々は、波にぬれたる穀物と精穀の道具とを取り出し、取り留めたる穀粒を火に焦がし、石の下にくだかんと、その心構えなどす。(1−一五七〜一七九)

その間にアエネーアースは、峰によじ登り、暴風に打たれたるアンテウス(注)とそのプリュギア風の二櫂列(ふたかいならびの)船は、カピュスは、またとも高き船にカイクスの盾などは見えずやと、海上広く見渡す。

注 アンテウス、カピュス、カイクスはアエネーアースの部下

されど船らしきものは一つだに見えず、ただ見ゆるは、三つの牡鹿の岸辺をあさりゆき、全群の鹿その後に従い、長き列をなして谷間の草を食めるばかりなり。

ここに彼は立ち止り、忠実なるアカーテースが携えいたる弓と早き矢とを手に取りつ。

まず枝さしたる大角生える頭を高くもたげたる先導の鹿を射(う)ち倒し、それより群れを襲い、投矢もて彼らを追いつつ、木の葉しげれる森の中に全群を散らし、

ついにその手を休めたるときは、すでに七つの大鹿を仕留めおりて、その数は船の数と等しかりき。

ここに彼は港にかえり、獲物を一同に分かちあたえぬ。次には、親切なる勇士アケステースがシチリアの海岸にて壺にいれ、彼らと別るるさいに贈りたる酒を分かちあたえぬ。なお彼は、彼らのうち沈む心を引き立てんとてかくぞ語り出でける。(1−一八〇〜一九七)

『おお、友よ――これより先にもわれら災禍にあわざりしにあらず――あわれ、これよりも重き運命を耐えしのびぬる人々よ、神はまたこの度のまがつみにも終わりあらしめたまうべし!

汝らはスキュラの狂らんと深く反響するざん岩とに近付きたることあり、またキュクロプスの巌をもよく知れり。いでや勇気を呼び戻して、悲しき恐怖を払いのけよ。おおかたこれもいつかは思い出の、楽しきいちむかし語りとなりぬべきぞ。

種々の不幸の道を辿り、多くの危難をくぐり抜けて、われらはラティウムに行かんとするなり。

そこにこそ運命はわれらの安息の住みかを指示したれ、そこにこそトロイ人の国をまた起こさしむべき神々の御意なれ。たえよ、人々、幸あるまたの日までつつがなく身を保てよ』(1−一九八〜二〇七)

彼はかく語りぬ。心は重き苦労に悩めども、おもてには希望の色をよそおいて、むね底ふかく危惧の念をおさう。

他の人々は獲物を調理し、食事の設けをなす。肋骨のうえより鹿皮をはぎ去り、肉をあらわし、あるいはそれを細かに刻みて、なおうち震うばかりなるものを串に刺すもあり、あるいは大鍋を磯にすえて火を燃やすもあり。

かくて食物によりて彼らの気力を回復し、草原のうえに身を伸して、古き酒と肥えたる鹿肉とを満喫す。

飲食によりて飢もいやされ、食卓も取り去られたるとき、談話はここにあらぬ友のうえに移りてつきず、彼らなお生きたりと見るべきや、はた、最期の運命を担いて、はや呼べど答えぬ人の数に入りたるや、心もとなく、のぞみと恐れとの間に、とき移るまで語りあくがるる。

そが中にも、律儀なるアエネーアースは、黙しつつ、あるいは勇敢なるオロンテスの、さてはアミュクスの死を、リュクスの悲惨なる運命を、はた勇敢なるギュアスや勇敢なるクロアントスのことをいたく思い悲しめり。(1−二〇八〜二二二)

さて、やがてそれらの事もみな終わりとなりぬるころおい、大空の頂きよりユピテルは、翼を広げて船どもの帆はしる海、うち広がる陸地と磯辺、さては広くわたれる諸民族を見わたしつつ、身は天上の高きにただずみて、眼はリビアの国土にとどまりぬ。

彼が心の中にかく世の中のことを思いめぐらしつつありしおりから、ウェヌスは常ならず悲しげに、涙をその美しき眼にたたえながら、彼にむかいて語りかけけるは、

『永遠に人々と神々との世をしろしめし、電光もて彼らをおじおそれしめたまうわが大君、わが君に対しわがアエネーアースは、かく大いなるいかなる罪を犯したるや?トロイ人はかく大いなるいかなる罪を犯したるや?彼らは多くの災いを受けたるのち、なおイタリアのゆえもて、全世界より追わるるぞかし。

いつかは、歳月の経るままに、彼らよりローマ人起こるべしとは、さなり、彼らより、しかもテウクロスのよみがえりたる血統より、海をも陸をも支配すべき君たち出で来たるべしとは、大君の固きちぎりにおわさざりしや。わが大君よ、いかなる思いかいま、大君をしもかく変らせつる?

この希望ぞ、げに、トロイの落城と悲しき滅亡とを見しときにも、相そむく運命と運命とを思いめぐらしつつ、わらわがただ一つの慰めなりしものを。

かく多くのまがつみもて試めされたる後にも、いまなお同じ運命は彼らに付きまとわるなる。彼らの労苦のはてを、わが大君よ、いかにせさせたまわんとや?

アンテーノールは、ギリシア軍の真ん中より逃れ、イリュリアの内海を縫い、やすらかにリブルニー人らの奥地とティマウス河の水源をよぎりえたり。

このところよりティマウス河は、山々に物すごきうなりを立てつつ、九つの口もて荒海のごとあふれ出で、とどろきわたる大水のしたに野をば埋ずむるなり。

されど彼はここにパタウィウムの都を建てて、トロイ人の住みかとなし、種族の名称をさだめ、トロイの武器を神々にささげつつ、いまや彼は太平を楽しみ、安息をぞ得たる。

しかるにわれら、大君の子孫にして、大君より天のいと高き住まいを約されたる者どもは、いま、船を失ないて――あわれ、言うもたえがたや――ひとりの怒りのため裏切られ、イタリアの岸辺より遠ざけらるる。

これぞ徳のむくいなりとや?大君のわれらを主権にかえしたまうとは、かかる事をいうかや?』(1−二二三〜二五三)

彼女に対してうちほほえみ、かの大空をも晴らし、嵐をもしずむるというなるかんばせもて、娘の唇に接吻しつつ、人と神との父はかく語り出でぬ。

『な恐れそ、キュテーラのむすめ、汝が子らの運命は動くことなし。汝が眼はラウィニウムの都と、その約束の城壁とをなお見るべきなり。かつ汝は偉なる魂もてるアエネーアースを星の空まで高きにあげるべし。わが心は少しも変らず。

この汝が子ぞ――さなり、この悩み汝が心をむしばめば、われこれを物語り、かつはさらに遠く運命の絵巻をくりひろげて、その秘密を漏らさんとす――この汝が子ぞ、イタリアにて一大戦争をなし、猛き国民をうちやぶり、おのれが国民に法典と城壁とを建てはじむべし。

その時までには、三度の夏かのラティウムの統治を見、ルトゥリー人を征服して以来、三度の冬、陣営の中にすごされん。

されど、アスカニウスという彼の子、いまわユールスという別名ある者――さなり、トロイの国権たしかなりし頃はイルスとも呼ばれたる――この子ぞ、めぐる月日の大車の三十歳(みそとせ)の間、その帝国の王位を継がん。しかしてその主権をばラウィニウムの位置より移し、洪大なるいきおいもてアルバ・ロンガを城壁もて固めん。

それよりのち百年を三度くり返すあいだ、絶ゆることなくこの国はヘクトール種族のもとに統治せられ、ついに高貴なる法尼イリアは、マルスによりて双生児をもうくべし。

そののちロムルスは、その乳母なる雌オオカミの黄褐色の毛皮ほこらしげに、帝位につき、ローマの城壁を建てはじめ、その民を自己の名にならいてローマ人と呼ぶべし。

この民にはわれ、その勢力に所と時とをかぎらず、はてしなき領土を与う。否とよ、いまわおのれのおそれのために、海をも陸をも大空をもかき乱すなる無情のユーノーすら、いつしか心を良き方に移して、世界の主、長衣の国民なるローマ人を、われとともにいつくしまん。

天命はかく定まりぬ。春秋の移り行くままに、いつしか、アッサラコス(注)の家ぞ、プティア(注2)および名高きミケ―ネを家来となし、アルゴスをうちしたがえて君臨すべし。

注1 アエネーアースの曽祖父
注2 アキッレースの郷

このたっとき血統よりトロイ人カエサル生まれ出で、この人ぞ偉大なるユールスより名をとれるユリウスにて、太洋をもて帝国の限界とすべく、その光栄は星までも達しなん。

時きたりなば、かの者のことにつき、汝はもはや少しも懸念することなく、東方の獲物を荷積める彼を、天上に歓び向かうべし。彼もまた神として拝されん。

そのとき干戈は止み、粗暴なる時世はやわらぎて、うやまうべきフィデス、ウェスタ、および弟レムスとともにクィリヌス(=ロムルス)は法典を世に布くべし。

戦さの恐ろしき門は、鉄のかんぬきもてすき間もなく閉ざされ、そのうちに不逞のフロール(注)ぞ、ものすごき武具のうえに座しながら、百なす青銅の鎖もて後ろ手にしばられ、血に染みたる唇よりすさまじくうめくべきぞ』(1−二五四〜二九六)

注 狂乱の神

かく語りて彼はマーイアの子(メルクリウス)をあまくだし、新建国カルタゴの国土と塔とをトロイ人によろこび開かしめ、ディードーが運命を悟らずして、彼らをその国よりこばんこと無からしめんとす。彼は羽ばたき疾く大空をこぎ分けて、すみやかにリビアの海岸におりぬ。

彼ただちにその使命をはたしぬれば、カルタゴ人は神の御こころのままに、彼らのかたくななる思慮を捨て、ことに女王ぞまずトロイ人にたいして、おだやかなる心意気とやさしき心づもりとをかたんけける。(1−二九七〜三〇四)

さはれ、律儀なるアエネーアースは、夜もすがらいと多くのことどもを思いめぐらしつつ、いつくしき朝日の光のさすとともに出で行きて、この未知の国土をさぐり、風のために吹きよせられたるはいかなる磯辺なりや、ここに住まうはいかなる者なりや、人かけものか――見渡すかぎり荒野にしあれば――を見さだめ、かつ見聞くことどもを、たち帰りて友に知らせんと心を定めぬ。

船どもはみな樹々とうち震うそのかげとにすき間もなくとり巻かせて、おおいかぶさる森のなか、うつろなる巌のしたに隠しつ。みずからはただひとりアカーテースを伴侶として、幅広きはがねの矢尻つけたる投げやり二つをうち振りつつ、あゆみ出でぬ。

やがて森の真中まであゆみ入りぬるとき、彼の母ぞ彼に出会いける。彼女は、乙女の顔、乙女の姿して、スパルタの少女、または荒駒を乗り疲らし、流れいと速きヘブルス河と競いて走り勝つちょう(=という)、トラキアのハルパルケーのようなる乙女のもつ武器を携えける。

じつに彼女は猟する女のならわしとて、肩よりは軽き弓をつり下げ、髪は風の来て吹き乱すにまかせつつ、膝はあらわにして、なびける衣のひだは集まりて一つのむすびとなりぬ。

男の方より言葉をかくるをも待たず、声高く呼びかけけるは、『やよ、もの聞かん、若人、君たちはわが妹の誰かここらをさまよいあるくを見ざりしや。えびらを負い、まだらある山猫の皮を着たり、もしくは口に泡ふく野猪のあとより、やさけびあげて追いせまりたらし』(1−三〇五〜三二四)

かくいうウェヌスに、ウェヌスの子はかくぞ答えける。

『君がはらからのひとりすら、声にも聞かず、眼にも見ず――さりながら、あわれ乙女よ、君の名を何とか呼ぶべき?そは君のかんばせは現し世のものならず、君の声音は人間のひびきを持たねば。しかと、女神!ポイボスの姉妹か、ニムフの族のひとりか?

いかなる身なりとも、慈愛をかけてわれらの重き悩みを軽からしめよ。かつ、願わくは告げ知らせよ。いかなる天が下、いかなる世界の岸辺に、我らうち上げられたるやを。我ららただここに、風と大波とに駆られ来て、土地のこと、人のこと、何一つも知らずしてさまようなり。祭壇の前には、われらの手もて多くの犠牲をささぐべきぞ』(1−三二五〜三三四)

そのとき、ウェヌス答えて言いけるは、『げに、わらわはさる尊敬を受けるにたる身とも思わず。カルタゴの少女はかくえびらを負い、むかはぎ高く紫長きくつひもを結ぶになれたり。

君の見るはすなわちカルタゴの領土、テュロスの人々、またアゲーノール(ディードーの先祖)の町なり。されど、国はリビアにして、戦さに敗るることを知らぬ族こそ住め。

いま権笏を執るは、兄より逃れ、テュロスの町より来たれるディードーなり。罪悪の物語は長く、その細やかなる曲折(いりわけ)もまたくだくだし。されど事の大筋をかいつまんで物語らんに、

彼女の夫はシュカエウスとて、フェニキア人の中にても最も富める者にして、幸なき彼女にやさしく愛せられぬ。

彼女の父は彼にこのおとめを与え、はじめて夫婦の儀式をあげて彼にそわしむ。さるに、テュロスの主権はこの女の兄ピュグマリオン王の手中にありて、この者ぞ世に儔なく(注)腹黒き者なりける。

注 儔なく(ちゅうなく)は「たぐいなく」

もの狂わしき争い、この二人の間に出で来たりつ。王は、あさましや、神壇の前をも忌みはばからず、黄金の欲に眼くらみ、だましうちにシュカエウスをうち倒し、妹の情愛などはつゆばかりも心にかけず、よこしまにも長き間そのふるまいをば秘し隠して、多くのいつわりの言葉もて、愛慕に悩む人妻にむなしきのぞみを抱かせぬ。

されど、一夜眠れる彼女のもとに、埋葬だにせられである夫の幽魂おとずれ来て、おどろくばかりあおざめたる顔をあげ、むごたらしき祭壇、刃もて貫かれたる胸などありありと指示しつつ、その家の隠されたる罪悪をことごとくあばきぬ。

かくて彼は彼女に疾く逃れて国を立ちのけよといい、その路用の助けにと、土の中よりむかしの財宝を、すなわち何人も知らざりし金銀の塊などを取り出す。

これに動かされてディードーは逃走とその供人(ともびと)の用意などす。このとき、暴虐の王に対する容赦なき憎悪と鋭き恐怖とを感ずる人々つどい来たりつ。たまたま船出の艤装したる船を押さえて、黄金を積み乗せ、かくして貪欲なるピュグマリオンの富は海をこえて運ばれつ、ひとりの女ぞその企ての首領にぞありける。

彼らの渡り来たりしは、君がいま新カルタゴの大いなる城壁と高き砦とを見るところ、ここに彼らははじめ一匹の牡牛の皮もて囲い得るだけの地面を求めたれば、この事に由来してここをビュルサとなん称うる。

されど、いで、御身は誰そ、いかなる所より来たり、いかなる所に行かんとはするや?』(1−三三五〜三七〇)。

彼女のかく問えば、彼は吐息をつき、胸底深く言葉を手繰り出しつつ、答えけるは、

『あわれ女神よ、われもし事の大本に遡りて告げまいらせ、御身またゆるゆるとわれらの嘆きの物語を聞きたまわば、まだそれの終らぬうちに、天は閉じ、夕は日を休らいに送りぬべし。

われらは古きトロイより、さなり、トロイという名は大かた聞き知りたまいなん、かの海この海と持ち運ばれしのち、暴風たまたまわれらをリビアの磯においやりぬ。

われこそは律儀なるアエネーアースなり、われが船の中には仇人の手より救い出せる家神(ペナテス)を積みのせつ、わが誉は天の上まで知らる。われが求むるはわれらの真の祖国イタリアと、いと高きユピテルの大神より出でし血統の民となり。わが惟神(かんながら)の母の御導きのもと、与えられたる運命に従いて、十を二倍する船もてプリュギアの海に乗り出でぬ。

さるに、波と風とにうち毀たれて、残るはわずかに七艘。わが身も知れずうらぶれで、リビアの荒野をさまよい、ヨーロッパにもアジアにも、よるべき方なし』(1−三七〇一三八五)

なおも嘆きの数々をいわんとするをさえぎりて、話半ばにウェヌスはかくぞいい出でける。

『何人と君を知らねど、かくティロスの都に着きたまうを見れば、想うに、想うに、天に在す神らも君の生きの命を憎みたまわじ。

ただひた進みに進みて、女王の宮にいたりたまえ。そはわらわ、救われたる君の友と、風吹き変わりて安らけき港入りして助かりし船どもの消息とを告ぐればなり——

もし我が父母の教えたるト占の道にいつわりなくば。見たまえ!かしこに十二の白島ぞうれしげに行(つら)をなしたる。彼ら一度は上天よりさと落とし来たれるユピテルの使わしめの鳥によりて大空に乱れ散りたれど、また長き列をととのえて、おのれらの下り行く場所を求め、または友のすでに下りたる所を見下ろしつつあるがごとし。

げに、彼らが立ち帰り、羽をすりて戯むれつつ、うち連れて大空に輪をえがき、歌をうたうように、君の船も友なる人々も、同じ喜びもてあるいは港に入り、あるいは帆を巻きあげて港口にぞ近付くべき。いざ、進みたまえ、道の導くままに君のあゆみをまげたまえ!』(1−三八五〜四〇一)

かく言いて、やがて身を翻して立去る彼女の、薔薇色の項きは艶やかに閃き、頭よりは甘露にうるおえる髪、天つ香りを放ち、裳は足の先まで垂れて、踏みゆくあゆみぶりこそ真の女神を示顕したれ。ここに彼はこの少女の自己の母なることを知り、去り行く後を追いて、かくぞ呼びかけける。

『君もまた情けなのものかな。いかなれば君の子をかくしばしばんなしき幻影(まぼろし)もてあざけりたまうや? いかなれば手に手を取りて、いつわりなき言葉を聞きもし言いもすることを許したまわざるや?』

彼はかく彼女をなじり、やがてあゆみを町の方にまげぬ。されどウェヌスは、彼らの進むままに、暗き息吹もて彼らをひき包み、何人も彼らを見もせず、触れもせず、また彼らを支え(注)止め、あるいはその来たることのもとを問いただしなどせぬため、女神にふさわしく、厚き雲の着せ綿もて彼らをうちおおいぬ。

注 さまたげること

彼女みずからは、空を通してパプスに行き、歓喜にあふれつつまたおのれの住所にかえる。その所にはこの女神の神殿あり、その百の祭壇にはシバの薫香蒸し、あざやけき花輪かぐわし。(1−四〇二〜四一七)


さて、彼らは細道の示すがままに道を急ぎぬ。やがてよじ上りし丘は、おおらかに町のうえに横おり伏して、相むかえる塔どもを眼の下に見おろす。

アエネーアースは、近きころまでただ小屋らしきものの散在したりと思わるるところに、大いなる建物のそびえ立つにおどろき、門々のかまえ、かまびすしきものの響き、はた舗石したる大道にもうちおどろく。

テュロス人は、あるいは壁を組み立てて砦を築き、あるいは手もて石をころばし、あるいは住宅の場所をえらび、あるいは築地もて囲いをつくるなど、おのれが自々わき目も振らずいそしみつつあり。

彼らはおきてと奉行とを定め、権威ある会議を設く。ここに港を掘る者あれば、かしこに劇場のいしずえ深くよこたえ、やがて来たらん舞台の高きかざりにせんと、崖より大いなる石の柱を切りだすもあり。

その様あたかも初夏のころ蜜蜂が、照り渡る日光の下にて、花野のなかに彼らの成長したる子らをつれ出で、あるいは流るる蜜をあつめ、蜜房もはちきるばかり甘露を充たし、あるいは巣にかえり来たる者の積荷を受け取り、あるいはまた勇ましく勢ぞろいしてなまけものの一群なる雄蜂どもを木戸よりやらいなどし、労役はすべて灼熱し、蜜はじゃこう草のふくいくたる香を放ちつつ、彼らが孜々としていそしむにさも似たり。

『幸ある人々よ、城壁はすでになりぬ!』とアエネーアースは言い、町の尖塔のほうに眼をむけつ。雲につつまれて――言うも不思議や――人々の真中に入りこみ、人々といりまじれども、何人にも見あらわさるることなし。(1−四一八〜四四〇)

町の中心に陰心地よき木立あり。カルタゴ人は、波と旋風とにうちあげられたるのち、ただちにここにてユーノー女神の指示したまえる記念の品なる霊馬の頭をほり出だしつ、かくてぞこの種族は、いく代のあいだ戦さにも誉れあり、ものにも富むべかりける。

このとしにカルタゴの女ディードーはユーノーのため、ささげ物ゆたかに御稜威(みいつ)いやちこなる、おおみやを建てつつあり。階段のうえには青銅の敷居をしき、梁も青銅の金具もて締め、同じく青銅づくりの扉には枢(とぼそ)きしきしと鳴る。

さて、この木立の中にて彼が思いよらず見出でたることこそ、はじめて彼の恐れをやわらげ、ここにまず彼は心つよくも身の安泰にのぞみをかけ、一度はうちくだかれたる運命にも、さらに確かなる信を持つことをあえてしぬ。

そは女王を待つと暫時宏大なる神殿のもとにたたずみ、物事をつくづくとあなぐり見ながら、いかなる町の繁栄ぞや、工匠のあいきそえる技術ぞや、はた彼らの苦心になれる製作ぞやと、ことごとにうち驚かされつつあるあいだに、ふと眼に入りしは、次第をおうて細かに描きならべられたるイーリウムの合戦の絵、

はや全世界に名高きこの戦争と、アトレウスの子たちと、プリアモスと、およびこの双方に対してはげしく怒れるアキッレースとなり。

彼は立ちどまり、泣きながらいう。『世の中のいかなる所にか、アカーテースよ、いかなる国にか、いま、われらの受難の知れ渡らぬ所ありや? 

見よ、プリアモスを!ここにも徳はそのふさわしきむくいを得たり。涙はその悲運のためにそそがれ、人の世の悲しみは見る者の胸をうつ。恐れをすてよ、われらのこの名声ぞ何らかの救いを汝にもたらさん』(1−四四一〜四六三)

かく言いながら、彼の魂はうつしよのものならぬ絵を飽かずむさぼりながめ、あまたたびためいきつきて、彼の顔は滝のごとき涙に泣きぬるる。

彼の眼にありありと映るは、いかにペルガマの周囲にて戦いつつ、ギリシア人がここにてついえ敗れ、トロイの若武者が追い迫りしか、またかしこにてはいかにトロイ人が打ち負かされ、その後より大鳥毛の前立ちしたるアキッレースが、戦車にてひたひたと押し寄せたるか。

遠からぬところに見えて涙をさそうは、レーソスの雪白の布の天幕なり。そはその寝入りばなに裏切られたるを、返り血さわに(注)浴びたるテュデウスの子ぞ。いたくほふりまわり、レーソスの荒駒をば、そがトロイのまぐさをはみクサントスの水飲むさきに、おのが陣営へと駆りさりぬる。

注 さわには「沢に」で沢山の意味

また他のところには少年トローイロスが、武器を失いて逃れゆく。あわれ彼はアキッレースと戦うにはあまりに力あわぬ敵手なりけり。手綱はなおしかとにぎれども、ただ馬の馳せゆくにまかせて、後ろざまに倒れながら、むなしき戦車に身を取りすがれば、くびと髪の毛とは地面の上をずるずるとひきずられ、逆さになりたる槍は塵土のおもてに刻みをばつけゆく。

そのあいまにはトロイの女たちが、髪もくしけらず、敵意もてるパッラス女神の神殿にまいり、悲しげなる様して願をかけ、双手に胸をうちたたき、女神の御裳(みも)をささぐれど、女神は顔をそむけ、眼はしかと地上を見つめてあり。

アキッレースは、ヘクトールをば三度トロイの城壁の周囲をひき回し、命なきむくろを金に代えて売らんとす。

捕獲物や戦車や、友のしかばねや、また武器なき手を差しのばせるプリアモスの姿など、彼が凝らせる瞳に入りしとき、アエネーアースの胸の奥より、深きうなり声ぞあがり来たる。

彼みずからもまたギリシアの隊長らと混戦するところあり、はた東方の軍隊、色黒きメムノンの武器をもみとめたり。ペンテシレーアは勢い猛く、三日月の盾もてるアマゾンの一隊を指揮し、数千の女軍のなかにあれ狂う。あらわなる胸には黄金の飾り紐をしめ、げに女性の戦士、処女ながらも勇ましく男といどみ戦う。(1−四六四〜四九三)

これらの光景に、トロイ人アエネーアースは驚嘆しつつ、恍惚としてただひたすらに次より次へと瞳を凝らし行くあいだに、女王ディードーは、むらがりよる若人の大いなる一隊をともとし、いわん方なく美しき姿して、神殿のほうにあゆみを運ぶ。

そのありさま、例えばエウロータスの岸辺にそい、またはキュントスの背をつたいて、ディアナが舞踏する一隊の先頭に立ち、そのあとよりは数しれぬ山の精オレアデス、右に左にむらがりゆくとき、かの女神がえびらを肩にかけ、あゆむ姿はあらゆる女神よりもぬき出で、喜びはラトナの黙せる胸にもしみとおるときのかの女神のごとく――

ディードーもかく喜ばしげに、男たちの真中を動きとおりて、おのれの営みと、まさに来たらん王国にぞ心をいたす。

やがて神殿の中央、大まるやねのした、神龕(しんがん)の扉のまえ、武器にとり巻かれ、高く玉座に着席す。

彼女はここに裁決と法律とを人民にはんぷし、また彼らに業務を平等にわりあて、あるいはくじをもて宛ておこないなどす。

そのときアエネーアースはにわかに大群集の中にまじわりて近づき来たるアンテウスやセルゲストゥスや、勇敢なるクロアントスや、さては暗き嵐に吹きちらされ、とおく他国の岸辺に流されたりと思う他のトロイ人を見つ。

彼もおどろけば、アカーテースもうちおどろきて、喜びと恐れぞ身にしみわたる。燃ゆるがごとき熱望もて、手に手を取りあわんと思えど、え知らぬ事情ぞ彼らの心をかき乱すめり。

なお身かくれて、雲の着せ綿に包まれたるまま、友の運命やいかに、船どもはいずこの磯にのこしたるや、何をしに彼らはここに来たりしやなど、子細に見極めんとす。船々よりはおもだつもの出で来たりとおぼしく、女王の恩恵をばねぎ求めつつ、がやがやと神殿のほうへぞ進みゆく。(1−四九四〜五一九)

彼らが神殿に入り、女王のまえにてもの申すべき機会をあたえられしとき、もっとも年たけたるイーリオネウスは、いと落ちつきたる心もて、かくぞ語りはじめける。

『あわれ女王よ、ユピテルより、新しき都を建つることと、ほこり高き国民のうえに正義の統制を施くことをゆるされたまいたる君よ、不幸なるトロイ人、暴風にあらゆる海を吹きただよわされたるわれら、いま、君にねがいたてまつる。われらの船をおそろしき火災より保護せさせたまえ、敬虔なる種族をかばわせたまえ、われらのありさまをさらにとくと見そなわせたまえ。

まこと、われらのここに来たりたるは、剣もて君のリビアの住みかをかすめ、または盗みとりたる獲物を海辺に持ち去らんためにあらず。かかる暴挙はさらにわれらの心になし、また故国をおわれたる者にかかるたのみもさらになし。

海のかなたにギリシア人のヘスペリア(西方)と名によぶ古き国土ありて、武に強く土肥えたり。そこにはオエノトリア人すみしが、いま、風説によれば、その子孫たちは首領の名にちなみて、国をイタリアと呼ぶとなん。

われらそこに向えるに、たちまち嵐なすオリオン波上高く起りてわれらを暗礁に押しよせ、海のわれらをほんろうするがままに、激しき疾風もて遠く大波のなかを、道なき岩のあいだへとまき散らしぬ。その中にてわれらわずかの者のみぞこの岸辺にただよい着ける。

ここに住むはそもそもいかなる種族ぞ?いかなる国なればかく荒らくれたるならわしを許すや?われらをさえぎりて岸にのぼらしめず、戦さをいどみて彼らの国土のふちに足をふませじとす。

君らもし人間とその人間の武器とは軽くみるとも、正邪を忘れぬ神々のことを思いみよ。

われらの王はアエネーアースなり。世に彼よりも正しき者なく、またその忠誠と、戦さと、武器の操縦においても彼にまさる者なかりき。

運命なおこの英雄の命を保たしめ、彼なお天なる息吹にやしなわれて、むざんなるよみの国にたおれ伏さずば、われらは恐れじ、君もまたまず我らにねんごろなるもてなししたることを悔やみたまうこと、よもあらじ。シチリアの地にもまた町あり、耕地あり、かつトロイの血統をひける名高きアケステースあり。

嵐に打たれたる船を岸辺によせ、森にて船板をつくり、櫂をつくりなすことをわれらに許させたまえ。われら友と王とを尋ね出でて、船路をイタリアに向かいうるものならば、よろこんでイタリアとラティウムとを訪ねんため。

されど、もしわれらの救いは断たれ、トロイ人の中の最もよき父よ、リビアの海なんじを捕えてはなたず、いまやユールスに対する希望まったくむなしかりせば、われらすくなくともシチリアの海と、われらがこたびそこより運ばれ来たりしわれらのために用意されたる住地と、アケステース王とにかえり得るため』

イーリオネウスのかく言えば、トロイの人々はもろごえ高くこれをうべないぬ。(1−五二〇〜五六〇)

そのときディードーはうつむきて、言葉みじかく語りけるは、『こころ安かれ、トロイ人、な心をわずらわしそ。わがやみがたき必要と、新付(しんぷ)の領とは、われにかかるふるまいをなさしめ、番兵もて広く国境を守らせではおかず。

されど誰かはアエネーアースの一族のこと、トロイの都のこと、その勇ましきふるまいと雄々しき人々のこと、またかのいと大いなる戦さの炎のことを知らざるべき?

われらカルタゴ人の心はさまでにぶからず、はた太陽もこのカルタゴの都よりさまで遠き方に駒のくびきをかけず。

汝らのねぎ求めたるところ、大ヘスペリアおよびサートゥルヌスの野なりとも、またはエリュクスの国土(シチリア)とアケステース王なりとも、護衞をつけて汝らを安全におくり出し、われの富をもて汝らを助けてん。

しかももし汝ら、われとともにこの国内に住まわんことをねがわば、われが建つる都はすなわちまた汝らのものたるべし。船をひき上げよ、トロイ人にも、カルタゴ人にも、われつゆばかりも差別を置かじ。

ねがわくば汝らの王アエネーアース、同じ風に吹きよせられてここに来たれかし。否(いな)とよ、われ、心すなおなる者どもをあまねく海辺に出しやり、しかして彼アエネーアースが難船して、森のうち、町の中などをさまよわずやと、リビアの国の隅々までとり調ぶることを命ずべし』(1−五六一〜五七八)

これらのことばに心はげまされて、勇敢なるアカーテースも父アエネーアースも、すでに久しく雲をやぶりてあらわれ出でんと心はやりぬ。まずアカーテースよりアエネーアースに語りかけるは、

『女神の子よ、いかなる目的の、いま、君の胸に生まれたるや?見たまうごとくすべてのものみな安全にして、艦隊も友も救われたり。ただひとり欠けたるは、われらみずからの眼にて波の中にのみ込まるるを見し人のみ、その他のことはみな君が母の言葉にたがわず』(1−五七九〜五八五)

彼の言葉の辛うじておわりしとき、とり巻ける雲たちまち分かれて、蒼々たる大空へと消え行き、アエネーアースは立ちあらわれつ。明るき光明の中に、顔も両肩もいと神々しく輝きたり。そは彼の母が、みずからその子にうちなびく毛髪の美しさと、青年の薔薇色のつやと、眼にはこころよき愛の輝きとをあたえたるにより。

その美しさは工匠の手が象牙にくわうる美しさ、または白銀あるいはパロスの大理石を黄金もて鏤飾(ろうしょく)せる美しさに、さも似たりけり。

そのとき彼は女王にむかいて言葉をかけ、何人も思いよらぬに、忽然として話しかけるるは、『君らのたずねたまうわれ、トロイのアエネーアースは、リビアの波より救われて、いま君らのまえにあり。

君ひとりトロイの言いがたき悲しみをあわれみたまう。君こそわれら――ギリシア人に撃ち残され、陸にも海にもすでにあらゆる不幸に疲れはて、窮乏の極みにあるわれらに、

君の都と住みかの幸をわかちたまわんとす。ディードーよ、君にふさわしき感謝をささげるは、われらにもまた広き世界に散在するトロイ人の残党にも、力のおよぶところにあらず。

もし神力なお敬虔の人をよみし、もし正義にいくばくかの威重(注)あらば、神と正義を自覚せる心とは、ふさわしきむくいを君に与えたまえ!いかに幸ある世ぞや、君の出生に会えるは?いかに輝かしき両親ぞや、かかる子を生めるは?

注 「威重」は「いちょう」と読み「重み」のこと。

百川の太洋に走るかぎり、山々の谷間を物影の動くかぎり、また大空に星飼うかぎり、

君の誉れと名と称賛とは永久に続くべし、たとえいかなる国にわれは召さるるとも!』かく言いて彼は、右手にイーリオネウスと、左手にセレストゥスと、それより他の人々、勇敢なるギュアース、クロアントスらと次々に手を握りあいぬ。(1−五八六〜六一二)

カルタゴの人ディードーは、まず見るこの英雄の状貌に、次にはそのかくも大いなる不運にうちおどろきつつ、やがてかくぞ語り出でける。

『いかなる運命の、おんみを、女神より生まれし人よ、かく大いなる危難のはてしなく追いまわすぞや?いかなるあらき力の、かかる荒磯辺(ありそへ)におんみを駆りしぞや?

おんみこそまさしく女神ウェヌスが、プリュギアのシモイースの河波のほとりにて、トロイのアンキーセスに媾いて(注)生める子アエネーアースならん?

注 「媾う」は「めあう」でまぐわうに同じ

さなり、わらわみずからも、テウクロス(テラモンの子)が祖国よりはなたれて、ベルス(フェニキア王)の助けにより新しき王国を求めんとて、シドンに来たれるをよくおぼえたり。そのころわが父ベルスは富めるキュプロスをとり荒らしつつ、勝利者の支配のもとに保ちぬ。

さればそのころよりわらわはトロイの落城のことも、おんみの名も、またギリシアの王たちのことも聞き知りたり。

テウクロスは敵ながらもトロイ人をこの上なくたたえて、みずからもまたトロイ人の古き血統より出でたりなど誇りかに語りし。

いで、若き人々よ、わが家に入りたまえ。

われもまた同じ運命におわれて、さまざまのなやみを経て来たりぬるが、ついにはこの国に身の落ち着きをぞ見出しつべき。

みずから非運を知らぬ身ならねば、不幸なる人々の友たる道もならいぬるぞかし』(1−六一三〜六三〇)

かく物語りて彼女は、ただちにアエネーアースを王宮に案内し、犠牲を神々の殿堂にささげまつるべきよしを命じなどす。

そのあいだに、牡牛二十頭、背あらげなす大豚百頭、母羊とともに肥えたる子羊百頭を、海岸なる彼らの友のところに送らする心づかいもなおざりならず、これはその日の宴飲の料(しろ)にとてなり。

まして宮殿のうちは王公の豪華をひろげ、家の真ん中には饗宴の用意をととのう。

寝椅子をおおうはみごとに刺繍したる高貴の紫、食卓をかざるは多くの銀の皿、黄金の器にちりばめたるは祖先の雄々しき勲功、そは建国の古きはじめよりいと多くの英雄のあとをたどりつつ、彼らの残したる事蹟の長き絵巻なり。(1−六三一〜六四二)

アエネーアースは──父親のわりなき愛情のやみがたさに――迅(と)くアカーテースを船にやりて、アスカニウスにこの消息をつたえ、彼を町に案内させんとす。アスカニウスにぞ、いま、彼のやさしき父親の心づかいはみな集まりたる。

また、イーリウムの破滅のとき取りとどめたる品々を、贈り物にするため持ちきたれと命ず。そは、黄金細工の模様もて手ざわりかたき外套、黄なるアカンサスの笹縁(ささべり)つけたるベール、これらはアルゴスのヘレナの持ちし飾りにて、彼女がトロイへ不法の婚姻のため渡りきたりしとき、ミケーネよりもたらしたるにて、元は母なるレーダが与えたる不思議の賜り物という。

なおプリアモスの長女イリオネがかつて持ちたる権笏、くびにつけたる真珠の首飾り、宝石と黄金の輪を二重に巻きたる冠なども。この使命を果さんと、アカーテースは船の方へ急ぎ行く。(1−六四三〜六五六)

されどキュテーラにある女神は、胸の中になおも新しき計略、新しき意図を思いめぐらす。そはクピドーを顔も姿も変えさせて、美しきアスカニウスの代りに行かせ、贈り物もて女王の心を狂うばかりにあおりたて、情炎を髄の真ん中まで吹き込ませんとするなり。

じつに彼女はこのしかと信じられぬ王家と、二枚舌もつというなるカルタゴ人とを恐れぬ。さらに苛酷なるユーノーのことも彼女の心にいらだたしさを加え、夜とともにおそれもまた濃くたちかえりぬ。されば彼女は羽ある愛の神に、かくぞ語りかけける。

『わが子よ——ただひとりわがたよりとなり、わが大いなる力とたのむ――あわれ、わが子よ、いと高き大御父のテュポエウス殺しの投げやり(注)をもあざ笑う汝にこそ、われ身を寄せて汝が力のはたらきをねぎ求むるになん。

注 稲妻のこと

いかに汝の兄弟アエネーアースが、情け知らぬユーノーの憎しみによりて、大海のうえにただよい、磯より磯をさまよいあるくかは、汝のよく知るところにして、しばしばわれとともにうち嘆きぬ。

彼をいまフェニキアの女ディードーぞ、やさしきことばもてひき留むる。されどユーノーのもてなしのいかなることになりゆくべきや、わがこころ安からず。そはかかる運命の変わり目をあだに見すごす彼女ならねばなり。

さればぞわれ、機先を制し、いつわりの計もて女王をとらえ、恋の炎に彼女をつつまんとす。そはいかなる力も彼女の心をそらしえず、アエネーアースに対する愛情もて、しかとむすび付けられてあらんために。

汝がこれをしとげる手段については、いまわが考えを聞け。われが最も思いをつなぐかの公子は、父のおおせにより、海の波とトロイの火とを逃れたる贈り物の品々をもちて、カルタゴの都にゆかんとこころがまえす。

この子をばわれ、眠りにさそい、高きキュテーラのうえまたはイダリウムの丘なるわが神殿に隠すべし、そは彼がすこしもわが計略を知らず、また仲に立ちてさまたげとなること無からしめんためなり。

汝は技巧もて、ただひとよ、彼の姿をよそおい、汝も少年なるままに、かの少年の常の顔となりてよ。

そは佳肴と美酒とのなかに、歓喜にあふれ、ディードーが汝をひざに引きよせ、しかと抱きしめ、こころよき接吻をなさんとき、汝が隠れたる炎を吹きこみ、まじないの力もて彼女をかどわかさんためぞ』

愛の神はいとしの母のことばにしたがい、羽をとり除けて、楽しげにユールスのあゆみをまねて歩む。

ウェヌスはまたアスカニウスの手足にしずかなる眠りの露をそそぎ、おのれの胸に彼をあやしながら、みずから彼をイダリウムの高き森までかかえあげつ。そこにはマヨラナぞ、その柔かき花片と、心地よき陰のいぶきとをもちて、彼をつつみぬ。(1−六五七〜六九四)

さてクピドーは、母のことばにしたがいアスカニウスと身を変えて、アカーテースの道の案内を喜びつつ、カルタゴ人らへの王者の贈り物をもちて進みゆく。

彼が進みいりしとき、女王はすでに豪華なる天幕のうちにて、黄金の長椅子に身をよこたえつつ、人々の真ん中にあり。

いまわはや父のアエネーアースもトロイの若人たちもみな一つになりて、まろうどらは紫の覆いに身をもたせかけ、

召使は彼らの手に水をそそぎ、かごよりパンを取り出し、けばなめらかにつみたるナプキンなど持ちきたる。

家のうちには五十人の侍女あり、あえものを長き列に並べ、火もて炉(いろり)の神を祭ることに奉仕す。

また別に百人の侍女と、同じ数の同じ年頃の侍童とありて、食物を食卓にのせ、杯をすえなどす。

カルタゴ人もまたこの楽しき大広間に群れをなしてうちつどいつつ、女王の御意により、刺繍したる長椅子にもたれたり。

彼らはアエネーアースの贈り物におどろき、ユールスにおどろき、かつこの神の輝かしきおもざし、よくその人に似せたることばつきにも、またサフラン色のアカンサスを刺繍したる外套にも、ベールにもうちおどろく。

そが中にも、やがて来たらん災禍の宿命負える、不幸なるフェニキアの女で、飽くことを知らず眺むるままに、ますます心ほてりて、この少年にもその贈り物にも、等しくいたく心を動かさるる。

少年はまずアエネーアースにいだかれ、その首に取りすがりて、真の親にはあらぬこの親の愛情を満たさせたるのち、

女王の方に行けば、彼女は眼もて、はた全心もて彼に寄りすがりて、時折その膝のうえに乗せていつくしみぬ。

ディードーはいかに大いなる神のあわれなるわが身に取つきたりとも知らず。彼はまたウェヌスのことを忘れず、少しづつ彼女がシュカエウスのことを忘れ始むるようにし、彼女の長く眠れる魂と、恋に慣れざる心情とを、生々(せいせい)たる熱情もて凌駕せんとぞ試みける。(1−六九五〜七二二)

饗宴にはじめて休息の来たりて、卓上も取り片付けられたるのち、大いなる混酒器を据え、その酒器には花冠をつけたり。

物のざわめきは湧くがごとく宮殿のうちに起り、人の声はいと広き客室になり響き、晃々たる灯火は黄金の格天井より垂れ下り、燃えさかるかがり火は夜の陰をも止めず。

女王は、やおら宝玉と黄金ともて重き杯を呼び、なみなみと生酒(きざけ)を充す―――こはベルスとベルスの家系の人々が用い慣れし品なり。そのとき大広間のうちはひたとしずまり、

『ユピテルよ――主人と客人との作法を定めたまう君といえば――この日をばカルタゴ人およびトロイより出で来たりし人々の喜びの日となしたまえ、またわれらの子孫がこの日を永く記憶することを許させたまえ!

楽しみを与うるバッカスよ、恵み深きユーノーよ、われらに近く居ませよかし。おお、汝らカルタゴ人よ、慇懃にこの集いに誉れをそえよ!』という。

かく言いおわりて彼女は卓上に神酒(みき)をそそぎ、そそぎ終わればまず盃にみずから唇をふれ、

次にはっと挑みてビティアスにそれを与う。彼は泡立つさかづきに口をあて、息もつかず、なみなみとあふるる金杯の底まで傾くれば、次々に他の君たちも飲む。かつて巨匠アトラースの教えをうけたりという髪長きイオパスは、黄金の竪琴を広間に鳴り響かす。

うたえる歌は漂泊の月のこと、日輪の苦悩のこと、人間と獣類はいかにして生じたるかということ、雨と火はいずこより来たりしかということ、

大角星(アルクトゥールス)と雨を呼ぶ牡牛星座(ヒュアデス)と双熊星のこと、

いかなれば冬の太陽はかく心忙(せわ)しく海に沈まんとするや、またいかなる躊躇の長々し夜をば行き過ぎがてに引き留むるやということなど。

歓呼に歓呼を重ねて、カルタゴ人の喝采すれば、トロイ人も劣らずこれに倣う。

さなり、幸なきディードーもまたくさぐさの物語りに長夜の興つきず、恋の杯を深く傾けつつ、プリアモスのこと、ヘクトールのことを多くたずね問うめり、

あるいはまたオーロラの男の子はいかなる鎧を着て来たりしや。はたディオメデスの駒のあり様はいかなりしや、アキッレースはいかに強かりしやなどをも。

『否とよ、いで』と彼女はいう、『わが客人よ、われらに事のはじめより物語りたまえ、ギリシアの裏切りと、味方の不運と、

君みずからの漂泊とを。君がさすらい人となりてあらゆる陸と海とを行きめぐりてより、はや、七つ目の夏といわずや』(1−七二三〜七五六)




第二巻梗概(上53p)

アエネーアースの物語。戦さにうち負けたるギリシア人たちは、木馬をつくり、その中に隊長らまちぶせす。彼らの艦隊はテネドス島に向かい出帆す。トロイ人らは、カピュスとラオコーンのほか、その馬を戦利品と見なして、トロイ市内に容れらる。

トロイの王プリアモスの前に引き出されたるギリシアの間牒シノーンは、ギリシア国に対する憤慨をまことしやかにいつわり述ぶ。トロイ人らは彼に同情し、ギリシア軍の智謀の将ウリクセース(注)が彼に加えたりと彼のいつわり述ぶる不実の物語を信ず。

注 オデュッセウスのラテン語名。

『ギリシア人が退却を企てたるとき』と、シノーンはいう、『しばしば暴風にさまたげられ、神託はただ人間を犠牲とすることによってのみ、彼らの脱出をあがない得ることを予言す』犠牲にえらばれて、シノーンは逃亡したり。彼はおごそかに木馬がパッラス女神へのみつぎ物たるべきことを説く。『それを破壊せよ、さらば汝らは失なわれん。それを城壁のうちに保持せよ、さらば汝らの復讐は確実なるべし』

反間は成功す。ラオコーンの悲惨なる運命は、彼が木馬に加えたる冒涜的攻撃に帰せられ、木馬は、予言する王女カッサンドラの最後の警告にもかかわらず、歓喜をもってトロイ城内に容れらる。

全トロイの眠れる間に、艦隊は立ち返り、シノーンは木馬の中に伏せるギリシア人らをその中より解放す。

かつてトロイ軍の総帥たりしヘクトールの亡霊、アエネーアースの夢にあらわれ、神聖なる祭器と神像とをほうじして逃れよと警告し、しかしてパントオスはシノーンの反間の情報をもたらす。

トロイは燃えつつあり。アエネーアースは救援の決死隊に先頭す。彼およびその追随者は、闇の中にたおれたるギリシア人らと、鎧を取り換う。この計略は味方によりて敵と誤らるるまで成功す。

ギリシア人もり返す。トロイ人散乱す。プリアモスの宮殿において最後の抵抗をなせども、ギリシア軍の大勇士ピュロス(=アキッレースの息子ネオプトレモス)大門に迫り、防御者殺戮せらる。

プリアモスの運命。その首なき死体の目撃は、アエネーアースの考えをおのれの父の危険に導く。わが家の方へと急ぎながら彼は、この戦争の直接の原因なる美しき女ヘレナを見出し、あだをむくいて彼女の命を奪わんと立ちどまりしが、そのときウェヌス女神がなかに立ち、彼の眼を開いて、神々がギリシア軍を助けつつあるありさまを見せしむ。

アエネーアースわが家にかえる。彼の父アンキーセスは固く逃走を拒む。されどついに孫アスカニウスの頭の周囲に円光現われ、ここにおいて彼も前兆を認めこれに従う。逃走。

不意の恐慌のため彼の妻クレウーサ見失わる。アエネーアースはおのれの生命の危険をおかして、市中あまねく彼女を探しつつあり。そのとき彼女の亡霊出現し、立ち去れよと請う。『彼女はトロイの町に死し、イタリアの帝国は彼を待つ』彼女は消ゆ。夜は明く。アエネーアースは、アンキーセスおよび生き残りのトロイ人たちとともに、丘陵地帯にのがる。


第二巻

一座の者みな静まりて、彼らの顔をひたと彼のうえに向けつ。そのときアエネーアースは高き寝椅子よりかくぞ語り始めける。(2−一〜二)

『あわれ后よ、君がここに繰り返せとのたまうは、いかにギリシア人がトロイの権力といたましき国土とをまったく覆せしかを語る、得もいわれぬ悲しき事じつにして、

こはわれが親しく見しいとあわれなる事たるとともに、われみずからもその重要なる部分に加わりたることなり。

よしやいかなるミュルミドネス人、ドロペス人、はた猛きウリクセースのもののふなりとも、かかる物語をするとき涙をおさえ得べしや?

いまつゆけき夜は、はや大空より急ぎ降り、傾く星は人を眠りにさそう。

されど君もしわれらのわざわいを知り、つづめたる言葉もてトロイの最期の苦しみを聞かんといたくのぞみたまわば、たとえわが心は思い出づるだにうちふるい、また悲しみのためたじろくとも、そを物語り始むべし。(2−三〜十三)

『そのころ、戦さに敗れ、運命にうち返されしギリシアの大将らは、多くの歳月もあだに過ぎにしことなれば、パッラスの神わざの助けをたのみ、山なす大きさの馬を作り、その脇腹は樅の桁材もて巧みにうち張りつ。

彼らはこれを安らかなる帰国を祈るため神にささげる物といつわれば、その風説はおしなべて広がりぬ。されど彼らはくじ引きしてのち、ここに選り抜きのもののふをひそかに暗き脇腹の中に入れ、大いなるその空洞と下腹とを、よろいたる武者もてひたと充しぬ。

『さてトロイより見ゆるところにテネドスあり。いと名高き島にして、プリアモスの国権たしかなりしころは富さかえたれど、いまわただ一つの湾にて、安からぬ船がかりの場所に過ぎず。

彼らはここに渡り、荒れたる磯に身を隠す。われらは敵遠くひき去り、追い風に帆をあげてミケーネに向かえりと思う。

されば、トロイは国をあげて長き悲しみより解きはなたれて、門々を押しひらき、人々はゆきてギリシアの陣営、人影なき場所々々、見すてられたる磯辺などを喜々として見る。

ここにはドロペス人、隊伍を立て、ここには激しきアキッレース天幕を張りつ、艦隊の止まりしはこのあたり、彼とわれといつも戦い慣れしはこのあたりなど。

『ある者この、ついにはわれらの命の仇(あだ)となる、処女神ミネルヴァへのささげ物を見てうちおどろき、その馬のいと大いなるを賛嘆す。

さてこの馬を城壁のうちにひき入れ、砦の中に置くべしとまずいい出でたるはテュモイテースなり。これや彼の二心か、はたトロイの運のつきなりしか(注)。

注 テュモイテースはプリアモスを恨んでいた(ツェツェースの『リュコプローン注解』)

されど、カピュスその他の思慮深き人々は、ギリシア人の詭計とおぼしくて、この信じられぬ贈り物を、真っ逆さまに海に投げ込むか、または下積みに炎をかけて焼けという。あるいはまた胎内の空洞を突き貫(ぬ)きて、隠れ場を探れと言うもあり。

『心迷える群集は、あいそむく二つの組にひき裂かれつ。このときなり、自からすべての者の真っ先に立ちて、後より大勢の者どもに従われつつ、ラオコーンの急ぎに急ぎて、砦の高きより走せ下り、はや遠くより呼びかけたるは。

「やよ、あわれなる市民たちよ、狂気ばしなしたるぞ?汝ら敵はまことにひき去りしと思うや、はたギリシア人の贈り物に二心なしと思うや?汝らのウリクセースを知るというはかくばかりの事か?

思うにこの木枠の中にギリシア人のこもり潜むか、またはこの道具はわれらの城壁を攻めん料にして、家々を見下ろし、上より街に襲いかからんとするか、何かは知らず奸計のこもらぬことはよもあらじ。

な、その馬を信じそ、トロイ人らよ。そは何事にまれ、われはギリシア人を信ぜず、彼らが贈り物をもたらすときすらも、彼らを恐るればなり」

かく言いて彼、激しき力をこめて大身の槍を、この獣の横わきへ、枠組もて弓形なせる下腹部にと突き刺しぬ。槍は身ぶるいして突き立ち、馬腹こだますれば、うつろなる洞内はうなりの音を立つる。

もし神慮も不祥ならず、われらの心も迷いに入らざりせば、彼はわれらをせきたて、刃もてギリシア人らの隠れ場所を切り裂かせ、かくてトロイもなおしかと立ち、汝、プリアモスの高き砦もなお続くべかりしものを!(2−一三〜五六)

『見よ、その間にトロイの牧人ら、声高にののしりながら、後ろ手にいましめたる若人を王(プリアモス)のところにひき来たる。

これは彼らの知らぬ者ながら、このたばかりことをしとげて、トロイをギリシア人に開門せんと、深く覚悟を定め、おのれの詭計をしとげるか、または一定(いちじょう)わが命を取らるるか、二みちかけて、彼らの来たる道にみずから進んで身を投げ出したる者なり。

四方より、これを見んと心はやりて、トロイの若者たちは流るるごとくはせ集まり、あい競うてこの生け捕りをあざける。

いで、女王よ、ギリシア人の表裏を知り、この一犯行によりてあらゆる彼らの性質を推しはかりたまえ。

そは、彼、群集の凝視の中に意気沮喪し、武器もうばい取られて立ち、トロイ人の隊伍を見まわしながら、

「あわれ、いかなる国土かいま、いかなる海かいま、われを受けいれん?はた何ものかこのいやはての悲しきわが身に残されたる?ギリシア人の中にはわが身を置くべきところさらになく、かつトロイ人もまたわが敵にして、血なまぐさき死の刑罰をわれに加えんとす」とまことしやかにいいたればなり。

この嘆きを聞きてわれらの心は変わり、凡ての手荒きふるまいはやみつ。われらは彼の心をひき立てて、彼の血統と、もたらしたる消息と、かく捕虜となりてもなお何をか心たのみとするやなど語らしめんとす。

やがて恐怖もややしずまりぬるとき、彼はかくぞ語り始めける。

「王よ、誓ってまことの事の本末を君に告げん、よしやわが身はいかになり行くとも。われはまずこの事を名乗るなり、わが生まれのギリシアなることをこばまじ、また運命の女神が、われ、シノーンを悲惨なる奴と作りたればとて、この意地悪き女神の、われをしも必ず信じがたきいつわり者と作りたまうとは限らじ。

おそらく風聞にても知りておわさん、ベールスの子パラメデスの名とその名高き響きとは。さるにギリシア人は、誣告をもといとして、彼がつねに戦さに反対したりと、罪なき者に恐ろしき罪科をかぶせ、死罪にぞ処しぬる――彼らは彼が世の光より遠ざかりたるいまとなりて、彼のために悲しむなり。

わが父は家の貧しきままに、彼(パラメデス)の血縁につながるわれをば、彼のともとして年わかくより、ここの戦場に送り出したり。

彼が王たる力を揺るぎなく保ち、諸王の集議にも力ありしあいだは、われもまた若干の名と誉れとをわかち担いき。されど彼が、人をあざむくウリクセースの嫉妬により——わが語る事は世によく知られたり——現世を去りたる後は、われは無名と悲嘆の中に迫害の日々を引きずりつつ、心の中に罪なき友の不幸をいきどおる。

かくてわれ、おろかなるかな、ついに沈黙を守りえず、機会だにこれを許し、一旦勝利者として祖国アルゴスにかえりなば、彼のために仇を報いでは措かじと誓う。このことばぞまたわれに対する激しき敵意を惹起しぬる。

このときよりわが破滅への落ち目は始まり、このときよりウリクセースはたえず新しき罪科をもってわれを脅かしつ、このときより人々の間に怪しき風説をまきちらし、おのれが罪過をみずから悟るままに、われを除くべき手段を探し求む。

じつに、彼はしばらくも手をゆるめず、ついにはカルカスを手先に使いて――ああ、されど、いかなればわれはむなしくこの面白からぬ思い出の巻をくりかえすや?またいかなればわれは(この事をもって)君らのひまを盗むべきや?

もし君らにはすべてのギリシア人がただ一色に見え、われのギリシア人なることを聞くばかりにてこと足るものならば。さらばたちどころにわれを罪したまえ、かのイタカ人はこれをねがい、アトレウスの子らは高き値もてそれをあがなうべきぞ」(2−五七〜一〇四)

『そのとき、われらはいまだかかる悪意の深さと、ギリシア人の型のごとき奸計とをえ悟らねば、いやましに彼の破滅の原因をたずね問わまくす。彼は恐怖にうち震えつつ語を続けて、かおにはいつわりの哀情を浮かべつついう。

「ギリシア人らは、トロイをうち捨てて退却せんと計り、長き戦さに疲れて引き払わんことをねがう——かくなし果てなばよかりしものを!されど彼らが出発せんとするとき、激しき海のすさびはしばしば彼らをさまたげ、あらき風は彼らをおびやかす。ことに、楓の梁材もて作りたるこの馬の、ここに立ちにしときよりぞ、暗き雷雲大空に鳴りはためく。されば心の不安にたえず、彼らエウリュピュロスを送り、ポイボスの託宣を乞いし程に、彼は神龕(みずし)よりこの悲惨なる答えをばもたらし帰りぬ。

『ギリシア人らよ、汝らははじめてイーリウムの磯に来たりしとき、斬り殺したる少女の血もて風をしずめたり。汝らまた血もて帰国を求めざるべからず。かつその犠牲はギリシア人の生命もて行われざるべからず』と。

この言葉の人々の耳に入りしとき、運命は何びとにかかる死を定めたるか、アポロンの求むるは誰ぞと、彼らの魂はうちおののき、冷たき戦慄は彼らの骨の髄までしみとおる。

このときイタカ人は、大声にののしりつつ、予言者カルカースをわれらの真中にひき出だし、天意はいかにと責め問う。この術策家の恐ろしき悪計は、すでに多くの人々のわれに予告したるところにして、口にはせねど、来たらんとすることを彼らはよく知りたり。

かの者は五を二倍する日かずのあいだ無言の行を続け、閉じこもりつつ、その言葉もて何びとをも死にひき渡すことはせじと争う。

されどついにイタカ人の怒号に迫られ、(彼との密かなる)申し合わせにしたがいて口を開き、このわれをば祭壇にささげよという。

みな々もこれをうべなう。じつに、おのおのがみずからのうえに降りかからんかと恐れしことも、ただひとりのみじめ人の破滅とし転じぬれば、たやすくそれをゆるし認むるなり。

やがて恐ろしき日は来たり。われを犠牲とする準備はととのえられぬ。塩と混ぜたるひきわり麦も、わがひたいに巻くための頭帯(あたまおび)も。

されど、じつにわれは告白す。われはわが身を死の手よりもぎ放し、いましめの縄を切り、もし彼らが船出するならば、その船出するまでの間をと、浜すげにかくれてよもすがら泥沼のなかに身を横たえいたり。

かくていまわれには古き祖国も、いとしき子らも、なつかしき父親も、相見んいかなるのぞみもなし。

彼ら、おおかたは、わが親や子供の手より、わが逃亡に対する十分のむくいを求め、あわれなる彼らの死をもってわがこの罪過のあがないをせんとすべし。

されば、われらのうえにまします神々により、真理を認知する大御心により、はたなお人の世に残れるいまだはずかしめられざる正義あらばその力により、われは汝に懇願す。かかるむごたらしき苦痛をあわれみたまえ、かかる不当のことに悩む魂をあわれみたまえとこそ」(2−一〇五〜一四四)

『かくてこの涙に対し、われらは彼の命を許して、なおあわれみをも加うる。その男のきびしき手かせ足かせをはずせとまず命じたるは、プリアモスその人にして、彼はやさしき言葉もてかくぞいい出でたる。

「汝いかなる者なるとも——いまよりのちはギリシア人らを世になきものと思い忘れよ――汝はわれらのものたらん。されどわれが汝にたずね問うことにはいつわりなく答うべし。彼らはいかなる目的もてこの大いなる馬を作りたるや?それをまず思いつきたるは誰そ?彼らの目指すところは何?いかなる宗教上の趣意を含むや?またはいかなる戦いの道具なるべき?」

かれは言葉をおわりぬ。ギリシア人の詭計と猾知(かっち)をゆたかにもち合わせたるかの男は、いましめより解かれたる手を星の方にあげていう。

「汝ら永遠の火よ、われは汝らおよび汝らの侵しがたき神性を証人とす。またわれがのがれ来たりし祭壇および呪詛の剣よ、いけにえとしてわれが巻きし聖別の紐よ、われは汝らにかけて誓う、

ここにギリシア人に誓いたる神聖なる忠節を取り消すこともわれにおいて不法ならず、はたギリシア人を憎むことも、彼らが秘めおきしことの何事なるかを暴露することも、みなわれにおいて合法なり。なおまたわれはわが国のおきてのいずれにもとらわるることなし。

王よ、君はただ君の約束を守りたまえ、あわれトロイよ、われが真の消息をつたえ、われ汝に大いなる報いをなし、汝すくわれなば、われに誠実をたもて。

ギリシア人の希望と、そのはじめたる戦争の心だのみとは、ことごとくパッラスの援助にかかれり。されどテュデウスの不敬なる子や、罪悪の発頭(ほっとう=張本人)ウリクセースが、運命をつかさどるパッラスの神像を、聖なる神殿より奪い去らんとくわだて、城砦のうえなる衛兵をきり殺し、聖像を運び去り、血なまぐさき手をもて女神の処女の額の紐にあえて触れたるとき以来、

ギリシア人らの希望は、うたかたの泡と消え、後へ後へとすべり始め、彼らの力はくじけ、女神の心は彼らよりそむき去りぬ。

かつミネルヴァ女神(=パッラス)は、この事のあかしをば、おぼろげならぬしるしもて告げ知らせぬ。

そは、その神像を陣営に置く間もあらせず、みはれる眼よりは輝く炎もえたち、手足には塩辛き汗流れ出で――言うも不思議や——女神みずから、盾とうちふるう槍とをとり持ちながら、三度地面よりおどり上りぬ。

これを見て、ただちにカルカースはいう、彼ら海を横ぎりて退却を始めざるべからず。

しかしてアルゴスより予兆を再びねがい求め、彼らがその反り船に乗せ、海上遠くおのれらとともに運び来たりし神よりの御恵みを、再びここにもたらさずば、ペルガマをギリシアの武器にて落とすことは不可能なりと。

さればこそ、いま彼らが風に浮かびて、故郷のミケーネにかえり行きしは、戦さの手段を講じ、神々を味方にせんとつとめ、再び海をわたりて不意にここを襲わんためなり。

さてかくカルカースはその前兆を解釈し、彼らは彼の忠告にしたがい、パッラス女神の像の代りとして、神威冒涜をつぐなうため、この馬の形をつくり、聖物窃取の罪障をつぐなわんとす。

されどカルカースは彼らに命じて、それが城門より取り込まれず、城壁の中にひき入れられず、なおまた古き信仰の庇護の下にトロイの人民をもまもらぬよう、このものを樫の木枠もていと大きくつくり建て、天にまでも建てあげよという。

彼の言えるには、もし汝らトロイ人の手、ミネルヴァへのみつぎ物(木馬)に害悪を加えなば、激しき破滅――天よ、それをまず彼ら自身のうえに向けたまえ、――プリアモスの王国とプリュギア人のうえに落ち来たるべし、されどもし汝ら(トロイ人)の手により、それが汝らの市中に入ることあらば、アジアは攻められるを待たず、大軍を起してペロプス(=ギリシア)の城壁を襲い、破滅の運命はかえってわれら(ギリシア人)の子孫を待つべしとぞ」

いつわりの誓いを立てるシノーンのかかる欺瞞と猾計(かっけい)とにより、その陳述は信ぜられ、テュデウスの子も、テッサリアのアキッレースも、十年の歳月も、なおまた百千の戦艦も屈服せしめえざりしわれらは、奸計といつわりの涙とのために占領せられぬ。(2−一四五〜一九八)

『そのとき、また別にそれよりも大にしてかつ遥かに恐ろしき光景、あわれに頼りなきわれらの前に現われ、闇にさまよえるわれらの心をおどろかす。

くじによりネプトゥーヌスの司祭と定められたるラオコーンは、仕えなれたる祭壇のほとりにて、大いなる牡牛を斬り殺さんとしてありき。

されど、見よ、テネドスより静かなる海を渡りて――語るにすら身はふるう――二匹の大蛇ぞ巨大なる巻き輪を海上に横たえ、もろともに岸辺へと進み来たる。

彼らの胸は波間に立ち上り、彼らの血なまぐさき頭は巨波のうえにあらわれ、その他の部分はうしろの海上にすそをひき、計り知られぬ長さの背を、うねりの輪に巻きなしつつ曲げ行き、海水打たれて泡とくだけるとき、激しき物音ぞ聞え来たる。やがて彼らは陸に着き、燃ゆるがごとき眼には一面に血と炎とをたたえ、うちふるう舌もてシュッシュッと鳴る口を嘗む。

われらはこれを見て、恐怖のために血の気も失せはてつつ逃げ出す。蛇らはただ一筋にラオコーンのところに行き着きて、まず各々の蛇、彼の二人の子のほそやかなる身体に巻きつき、彼らの周囲をきりきりとまとい、毒牙もて彼らのみじめなる手足を食む。

それより子らを助けんと武器を手にして来たれる彼をとらえ、彼らの大いなる巻輪もて彼をしばりて、彼の胴の中を二重に巻き、また彼らのうろこだつ背もて彼ののどのあたりをふた巻きしたるのち、彼らの頭とそびえ立つ首とを彼のうえ高くさし上げる。

彼は額の飾り紐を凝結したる汚血と黒き毒液とにうちひたし、一方には手もてしばりを解きはなたんともがき、一方には恐ろしき叫喚を天へとうちあげる。

その声はじつに祭壇より逃げ出で、ねらいのはずれたる斧を首よりはずしたる、手負い牛の吼え声にさも似たり。

されど二匹の大蛇は、トロイの城砦なる神殿へとすべり逃げ、苛酷なるミネルヴァの塞宮にすすみ入り、女神の足のした、盾の輪の陰に身を隠す。

そのとき、まことに、いまだかつて感じ知られざりし恐怖、人々のみなおどろきあわてる心の中に忍び入り、ラオコーンは手槍もて、聖なる樫材(木馬)に暴行を加え、その脇腹に冒涜の穂先を突き立てたるが故に、彼ぞまさしくふさわしき罪の報いを受けたるなりという。

彼らは異口同音に馬像を神殿に引き入れ、女神の大御心に祈願せではと叫ぶ。

われら、城壁を裂き、街の防壁を開くに、みな喜びてその仕事にしたがい、木馬の足のしたには小さき滑車を取り付け、首を越して麻の大綱を延ばしなどす。

ゆゆしきからくりは、武器にふくらみて、壁をよじ登る。その周囲には少年や未婚の少女ら、聖なる歌をうたい、喜ばしげにその綱を手に取る。そは登るままにいと高くそびえ立ちて、町の中心へすべりゆくなり。

あわれわれらの国よ!あわれ神々の住みかなるイーリウムよ、トロイ人の戦さに名をはせたるこの要害よ!あたかも門の入口にて、馬は四度立ちどまり、四度武器は胎内より高く鳴りひびく。

されどわれらは何事も考えず、ただ熱狂にめしいのごとくなりて、ただ進みに進み、不祥のあやかしを神聖なる砦のなかに置く。

そのときまたカッサンドラは唇を開き、まさに来たらんとする運命を告げんとす。神命により、トロヤ人にはけっして信ぜられぬ彼女の唇を開きて。

われら不幸なる者どもは、その日ぞわれらの最期なりしものを、それとは知らず街じゅうの神々の社をば、みな花輪もて飾りぬ。(2−一九九〜二四九)

『その間にも、天球はめぐり動き、夜は大海より押しあがり、そのあまねき陰もて、土地をも空をも、はたミュルミドネス(=ギリシア人)の奸計をもみな押しつつみつ。

トロイ人は都をあげて物音も立てず伸びふし、眠りは彼らの疲れたる手足をしかとからんめり。

されど、いま、アルゴスの軍隊は、船をそろえてテネドスより、月も友なる沈黙の中に、案内しりたる磯辺を指して進み来たりつつ、そのときにわかに親船より相図ののろしをうちあげれば、シノーンぞ神々の依怙なる天運にまもられて、密かに松のかんぬきを引きはずし、胎内に閉じこもりたるギリシア人を解きはなつ。

押し開かれし馬は彼らを光の世によみがえらせて、こおどりしながら真っ先かけてうつろの樫材より出で来たるは、テッサンドルスとステネロスの両将、またゆゆしきウリクセース、

垂れたる綱をつたいてすべりくだれば、続くはアカマース、トアース、ペーレウスの子孫ネオプトレモス、名門のマカーオーンとメネラーオス、また奸計の張本人エペーウスの面々。

彼らは眠りと酒とに埋もれたる街々に襲いかかり、番兵をきり殺し、門々(かどかど)を押し開き、すべての仲間を引き入れて、味方同志の軍勢をばみな一つに結びあわせぬ。(2−二五〇〜二六七)

『そは悩みに疲れたる人々の、寝入りばなの時刻にて、神の恵みによりえもいわれぬ安息の忍びよるときなり。

されど、見よ、わが眠りには、いと悲しげなるヘクトールの姿、眼の前にあらわれ出で、滝のごとく涙を流すさまわ、ありし日、戦車にひきずられて、血に染む泥土(でいど)にまみれ黒ずみ、腫れたる足に革ひもを貫かれたるありさまにさも似たり。

あわれ、いかに悲しげなるありさまぞや!ぶんどりたるアキッレースの品々を取りよそおいてかえり来たりしときのヘクトール、はたギリシアの船にトロイのほのおを投げ込みしときのヘクトールと比べては、いかに変わりはてたる面影ぞや!

ひげはよごれ、髪の毛も血にこり固まり、祖国の城壁の周囲にて受けたるあまたの痛手を身につけつつ。われもおのづからうち泣かれて、彼に言葉をかけ、哀傷の言葉を述べしと思う。

「あわれ、トロイの光よ、トロイ人の揺るぎなき希望よ、何物かはかく長く君をかなたにとどめたる。あわれ、われが待ちあこがれたるヘクトールよ、君はいずこより来たりたる?人々は多く倒れ、軍隊も都市もさまざまの悲しき目にあいて、まったく疲れはてたるわれらの、いまいかなる感慨もて君を見ることぞや!いかなるあさましき原因の、君の静かなりし顔かたちをかくはけがしたる?はたいかなればわれ、君にかかる負傷をば認めるぞや?」

かく言えど彼は答えだにせず、またわがむなしき問いに耳もかさず。ただ胸の奥底より深き嘆息を吐きて、

「逃れよ、女神より生まれたる者よ」という。「いで、この炎より免れよ、城壁は敵の手に落ちぬ。トロイは高き絶頂より廃墟に沈みゆくなり。汝は祖国のためにもプリアモスのためにも、汝のつとめを十分につくしたり。もしペルガマが人の手もて守護せられうるものならば、そはわがこの手にてもまた守護せられたらん。

トロイは汝にその儀礼の調度と家庭守護の神々とをまかするなり。これらの神々を取りて汝の運命の伴侶となし、これらの神々のために大いなる都をたずね出でよ。そはあらゆる海をただよいたるのち、ついに汝が建つべきものぞ」

かく言いて彼は、その手もて偉大なるウェスタ女神の神像と、その額の紐と、また奥なる神龕(みずし)より不滅の火とを持ち出だしぬ。(2−二六八〜二九七)

『その間にも町はいたるところ慟哭もてみたさる。わが父アンキーセスの住まいは、やや離れたる場所にありて、樹々うちおおいたれば人眼よりは隠れたれど、物音は次第々々に高くなりて、戦いの威嚇はひたひたと迫り来たる。

われは眠りよりおどろき醒めて、最も高き屋根の頂上によじ登り、しかと足を踏みしめて、耳をそばだてる。

そは、南風のあれ狂うみぎりに、迦具土(かぐつち=稲妻)の立穀物(たちくさ)を襲うとき、はた山河のたぎつ早瀬のあふれて野をあらし、ほほえん作物と牡牛のはたらきとを取り荒らし、森も林もひき倒し進み行くとき、わけ知らぬ牧人が、いわおの高きいただきよりその物音を聞きつけ、おどろきあきれるに似たり。

されど事の真相は明らかとなり、ギリシア人の陰謀はあらわれぬ。すでにデーイポボスの広大なる邸宅は、祝融(=火災)行き渡りて廃墟となる。すでにわが隣のウーカレゴン(トロイの元老)の家も燃えつつあり。

遠くひろくシーゲイオンの海峡は炎もて輝く。高まるは人の叫喚とラッパの響きなり。

気も転倒し、われは武具を取れども、それを身に着けるは十分なる思慮ありてのことならず。わが魂はただ戦いをまじえるため軍隊をよせ集め、友軍とともに砦にはせおもむかんとあせりにあせる。狂暴と激怒とは、われにただあとさきかえりみぬ決意をのみ起こさせて、戦さに倒るることこそ誉れなれと思うばかりなり。(2−二九八〜三一七)

『されど、見よ、ギリシア人の武器より逃れたるパントオス、すなわち砦のうちなるポイボスの司祭オトルュスの子パントオスぞ、手には祭器と敗れたる神々と小さきその孫とを、みずからひきずりつつ、狂うがごとくわが戸口に走り来たる。

「国家の運命はいかに、パントオスよ?われらいずれの城砦を守るべきぞ?」というわがことばの終るか終らぬに、うめきつつ、彼はかくぞ答える。

「トロイの最期の日、免がれぬときは来たりたり。われらトロイ人はかつて世にありき、されどいまわはやなし。イーリウムとトロイ人らの大いなる名声は過去のものなり。無情のユピテルはすべてのものをアルゴスに移しぬ。ギリシア人はこの町に火をはなちて、おのれらの心のままにふるまう。

木馬は矗矗と(ちくちくと=高く)町の真ん中に立ちて、その高きよりよろい武者をはき出す。シノーンはいま勝ちほこりて、傍若無人に炎をひろく投げちらす。あるいは、二重門よりむらがり入る。そはみなおごれるミケーネより来たりし数千の者どもなり。

あるいは手槍いかめしく突き出して、狭き街路をふさぐ者あり。刃きらめく鋭き剣は引き抜かれ、斬り殺さんと構えられたり。城門の真っ先なる番兵らは、かろうじて戦わんとすれど、何抵抗の甲斐あるべき」

オトルュスの子のかかる言葉により、また天意により、われは炎と戦さの庭に運ばれる。そこにわれを呼ぶは、荒れ狂う闘争と、剣げきの響きと、天までも届くけんごうとなり。

味方としてわれに加わり来たるは、リーペウス、戦いに秀でたるエーピュトス――彼らは月光の中に現われきたる――ヒュパニス、デュマースにて、彼らはわが側に加わりけるが、またミュグドンの子若きコロエブスも来たる。

彼はカッサンドラに対する狂恋の炎を燃やし、たまたまそのころトロイに来たりしにて、心狂える許婚の女の忠言には耳をかさず、婿なればプリアモスとプリュギア人を助けたるぞ運のつきなりし。

彼らがやや一隊となりて、戦わんと勇むありさまを見しとき、われはなおもかくいう。

「若人たちよ、むなしく心はやる勇士たちよ、汝らもし大胆なる決死の人にしたがわんと思いさだめなば、われらの運命のいかなるものなるかをこそ知らん。

この国の頼みとしたる神々は、みなそこより離れて、祭壇も神殿も見捨てたり。汝らが救わんと急ぐ都はすでに燃えつつあり。われら死なん。いで戦いの真っただ中に突き進まん。救われる道なしと思うこそ、敗れし者のただ一つの安き道なれ」

かくてぞ若人たちの魂には、狂熱いや増しに加わりつ。

かくて、例えば激しき飢餓に駆られてんこう見ずとなりたるおおかみの、渇けるあごもて待つ子らをあとに残して、暗き夜霧のなかにあさるごとく、われらは武器の真中、敵の真中を通して、おぼろげならぬ死へと押しすすみ、たえず町の中心へと押しすすむ。

暗き夜は、その暗闇の穹窿(おおぞら)もて、われらの周囲にただよう。誰かことばもてその夜の殺戮を、その夜の死を、よく説きうべしや。はた、誰か涙もてその夜のわれらの苦悩と競いうべしや?

多くの歳月を世に君臨しつづけたる、古き都は倒れんとす。命なき人の姿はかず知らず、町々のちまたにも、家々のなかにも、また神々の清浄なる入口にも、いたるところに伸び倒れつつあり。

しかもトロイ人のみ、血潮のつぐないをなせしにあらず。ときどきはうち負けたる者の心にもまた勇気の立ちかえりて、勝ちほこりたるギリシア人も倒る。惨憺たる悲劇はいたるところに演ぜられ、恐慌はいたるところにあり、死はくさぐさの形にてぞあらわる。(2−三一八〜三六九)

『まず、ギリシア人の大群をしたがえて、われらに出会えるはアンドロゲオースなり。知らねばこそ、われらを同じ国人の一隊と思いこみて、かなたよりなれなれしく言葉をかける。

「急げ、ものども、いかなる心怠りかはかく長く汝らを支えとどめたる?他の人々は炎のなかなるペルガマを掠奪し、ぶんどりの品々を運び去るぞかし。汝らはいまようやく大船より出で来たりしや」

かく言いて、彼はたちまち——十分に信頼すべき答えの与えられねば——身の敵中に落ちたることに心づき、うちおどろきて歩みも声もともにやめぬ。

げに、いばらの道を分け行くとき、思わず知らず地上に蛇を踏みたる者が、その蛇の怒りて、淡青きのどをふくらませて立ち向うとき、不意におののきて逃げ行くごとく、それにも似てアドロゲオースも、このありさまにうちおどろきて逃げゆく。

われらは襲いかかり、彼らを武器に取りこめて、いたるところ地の理も知らずあわて迷える彼らをさんざんに斬りまくる。幸運はわれらの最初のはたらきを助けぬ。

かくてコロエブスは、この成功の勇ましさに意気たかぶり、「友よ」と彼はいう、「いでや、運命の安しとさし示す方へまず道を取らん。彼女が吉兆の姿を見するほうへ。

われらの盾を取りかえて、ギリシア人の武具をわれらの身に着けん。奸計とも勇気とも、人は何とも言わば言え。仇に向かうに何かある?彼らはみずから武器をわれに渡すべきぞ」

かく言いて、彼はまずアンドゲオースの房毛植えたるかぶとと、美しく華麗なる盾とを取りよそおい、ギリシア風の剣をば脇腹にまき着ける。

リーペウスもデュマースみずからも、またすべての若人も喜びてこれにならい、銘々新しきぶんどり品もて身を固む。

われらは、神明われらを助けざるも、ギリシア人に入りまじりて進みつつ、夜の闇にまぎれ、あまたたび敵に出会いて戦さを挑み、多くのギリシア人をよみじに送る。

ある者は列をみだして艦のほうに逃げ去り、急ぎ足で頼りの海辺をもとめ、またある者は恥をも知らず恐れまどいて、ふたたび大いなる馬によじ登り、案内知りたる胎内に身をかくす。

ああ、されど、何人も天意にそむきては、何事も天にたよることをえず。

見よ、プリアモスの娘、処女カッサンドラは、髪をふりみだし、ミネルヴァの神殿の奥よりひき出だされて、かよわき手はかせにしばられたれば、燃ゆるがごとき眼、ただ眼もてんなしく大空をにらんばかりなり。

このあり様にコロエブスのたかぶる心の耐えうべきや。彼は決死の覚悟もて敵軍の真中に身を投げ出だす。われらもまた一団となりてそのあとにつづき、密集隊をなして猛襲す。

ここにわれらははじめて、神殿の高き頂きより、わが味方の飛び道具にうちすくめられ、われらの鎧の型と、ギリシア風の羽毛とによりて起こりたる錯誤のために、いとあわれなる同士うちは始まりぬ。

次にギリシア人も、乙女の奪回せられたるを見ていたくいきどおりを発し、うなり声をあげて四方よりむらがり来たりて、われらにはげしく襲いかかる。そはいと猛々しき大アイアースとアトレウスの二人の子ら、ドロペス人の全軍。

例えて言わば、ときありて竜巻たちまち吹き起こり、西風(にし)、南風(はえ)、および東方の馬を喜ぶ東風(こち)など、相反する風どものうち合えば、森はなりはためき、海神ネーレウスは一面に泡だてつつ、彼の三叉もりもて打ち狂い、海水を底の底よりかき乱すがごとし。

われらが闇夜に乗じ、計略もて闇の中に潰走せしめ、全都より放逐(ほうちく)したる者どもも、すべてまたあらわれ来たりて、彼らぞまずわれらの盾と武器の偽まんをば見あらわし、われらの語韻の不調和なる響きをば聞き分ける。

たちまち衆寡のいきおい敵せずなりて、コロエブスはまずペーネレウスの右手にて、戦さの大女神の祭壇のそばにうち倒さるる。リーペウスもまた倒さる。彼ぞトロイ人の中にて最も正しく、かつ最も正義の遵守者なりしものを、天意は、けだし異なりてやありけん。ヒュパニスとデュマースもほろびぬ、同じ国人に突き貫かれて。あわれ、パントオスよ、君がいと大いなる敬虔も、アポロンの髪紐も、倒るる君が盾とはならざりしか。

イーリウムの灰よ、汝、われらの国民の最後の火よ、われは君らを証人としていう。われは君らの破滅にあたり、ギリシア人の剣をも、はた彼らとの合戦の危険をも避けざりしなり。またもし倒るることがわが運命なりしならば、わが手もてわが死をかち得たらん。

われらはそののち心ならずも別れ別れとなり、イーピトゥスとペリアースとはわれとともに来たりしが、その中、イーピトゥスは老齢のおもりを感じはじめ、ペリアースはウリクセースに負わされたる負傷のため、足のあゆみはかどらず。されどわれらは戦陣の響きに呼ばれ、まっしぐらにプリアモスの宮殿のほうへ走りゆく。(2−三七〇〜四三七)

『われらが世にも大いなる戦さを見たるはここのことなり。これに比べなば他の戦さはいずこにもなきに等しとやいわん。またここを措きて倒るる者は全都にひとりもなしとやいわん。

われらは見つ、かくばかり激しき戦さと、屋根を襲わんと突進するギリシア人と、持ち来たりたる動く陣屋もて封鎖せられたる出入口とを。

塀には城のり梯子を取り付け、門に間近く梯子の段を競いのぼり、左手に盾をもちて飛び道具より身をまもり、右手にては城壁の頂きをつかん。

彼らに対しトロイ人は、塔や家々の屋根をむしり取り、最期のときと覚悟したれば、これを矢玉として目前にせまる死より暫時身をばまもらんとす。

やがてはむかし祖先の建てたる、いと高き飾りなる、黄金かぶせたる垂木をころばし落とすもあり、また他の者は剣をぬきて下なる出入口をふさぐもあり、彼らは密集隊をなしてここを守らんとするなり。

われらは勇気をもり返して王の住居を救い、われらの助力もて戦士をたすけ、うち負かされたる人々にあらたなる力を加えんとす。

そこには一つの出入口と隠れ戸と、プリアモスの王宮の各部に通ずるみちと、秘密の裏木戸とあり。こはこの国のなお続きしころ、不幸なるアンドロマケーが、従者も連れずしばしば夫の父母を見舞い、わが子アステュアナクスを祖父のところに連れ来たりし通路なり。

われも、不幸なるトロイ人らが手に手にむなしき飛び道具を投げおろしつつありし、もっとも高き屋根のてっぺんによじ登る。

そこには塔ありて、屋根の縁に立ち、屋根の頂きよりなお空高くそびえ立ちけるが、――この塔よりぞありし日にはトロイも隈なく見え、ギリシア人の艦もその陣営も見渡されたる――

こを、その上の床板とのつぎ目にて、結合の弱きところに鉄の棒を突き入れてこづきまわし、その高き座より引きはなち、前の方へと押し出しぬ。

これを不意に押し落とせば、がらがらと重圧にうちひしぎつつ、遠く広くギリシア人の隊伍のうえにぞ落ちかかる。されど他の者どもは彼らと入りかわり、またその間いかなる種類の飛道具もうちやまず。(2−四三八〜四六八)

『内庭の真正面、門の入口にては、武器と黄銅の鎧とにきらめきつつ、ピュロスぞほこりかに戦う。

そは毒草もてやしなわれたる大蛇の、三冬(注 十、十一、十二月)の寒き間は地下にふくれてこもりたるが、

いまや新しく、からをぬぎ捨て、若々しさに輝きつつ、明るきところに現われ出で、胸を真直に立てて、ぬらめくうろこの身を高く太陽へとくねらせ、口には三叉に分れたる舌をひらひらと吐き出すにさも似たり。

彼とともに、巨人ペリパースとアキッレースの御者にしてよろい持ちなるアウトメドーンと、またスキュロス島(ピュロスの故郷)の若者らの総勢と、みなもろともに王宮にどっと押しよせ、屋根に炎を投げかける。

ピュロスはみずから先頭にまじり、両刃の斧をつかみ、堅固に構えたる入口を押しやぶり、黄銅にて締めたる扉をとぼそより引き抜かんとす。これよりさき彼はすでにとびらの厚き板を切り通して、その丈夫なる槲(かし)の木にさけ目を作り、欠伸する口のようなる大穴をこそ開きたれ。されば王宮のうちは見え渡り、長き広間なども隠れる方なし。

プリアモス王および古えの王たちのいと奥まりたる部屋々々もあからさまにて、ギリシア人たちは第一の入口にトロイのよろい武者の立てるを認めぬ。

されど家のうちはなお呻吟とものあわれなる混雑とに騒ぎ立ちて、丸天井したる屋形の奥深く、女人の泣き声みち渡り、物音のかしましさは天なる黄金の星をも打つめり。

恐れおののく女房たちは、広き王宮の内をさまよい、戸柱をしかとかき抱きて、そのうえに永別の接吻のあとをぞとどむる。

ピュロスは父にうけたる勇猛をもて迫り来たるに、かんぬきも、番兵すらも彼にさからう者なし。戸は連打する破城槌の衝撃のもとによろめき、戸柱はとぼそよりうち離されて地上に倒る。

道は強力(ごうりき)によって開かれ、ギリシア人は荒々しくみだれ入りて、通路を押しやぶり、先立つ者を切り倒し、至る所、兵士のあらぬくまもなし。

じつに障壁を押しやぶりて泡立つ河の流れ出で、道に立つ堤防などをその大波に圧倒し、山のごとく勢いたけく野にあふれ、一面に原を横切りて小屋も家畜も押し流すときすらもかくばかりはげしからじ。

わが眼は親しくみたり、ネオプトレモスが狂気のごとく切りまわるを、また王宮の入口にて働くアトレウスの二人の子をも。われはまたみたり、ヘカベーとその百人の嫁たちと、プリアモスが祭壇の中にて、みずから聖別したる浄火をおのれの血もて汚すことを。

その五十人の花嫁の部屋も、孫をもうける大いなる期待も、異国の黄金とぶんどり品もて堂々と飾りたる戸柱も、みな地におちぬ。猛火のつかさどらぬところは、げに、ギリシア人ぞ主人となりぬる。(2−四六九〜五〇五)

『おおかた君もまたプリアモスの運命いかにと問いたまわん。

敵に占められたる都はたおれ、おのが家の扉はひきぬかれ、奥まりたる部屋の真中まで敵を見たる彼は、老いながらも、年のためうちふるう両肩に、この年月久しく用いざりしよろいをばんなしく引っかけ、何の甲斐なき剣を腰にまとい、一定滅びぬべきにはきわまりぬれど、敵の密集せる隊伍に突き進まんとす。

この宮殿の真中、ひさかたの大空のしたに大いなる神壇あり、その近くにいと年古りたる月桂樹、祭壇のうえにうち傾きつつ、木陰に氏神をいだくようにして立てり。

ここに、ヘカベーとその娘たちは、暗き嵐に吹落されたる鳩のごとく、むなしく祭壇のめぐりに身をすりあわせ、神々の姿に取すがりてぞ座りいたる。

されどヘカベーは、プリアモスが若き日の武具とりよそおうを見ていう。「わがいと幸なき夫よ、いかに物狂わしき覚悟の君を駆りて、かかる武具をばまとわせたる?はた、いず方へか盲目のように進まんとはしたまうや?

時の求めるはかかる援助にあらず、またかかる防御者にあらず。否とよ、よしやわがヘクトールみずからのここにありとてもいかがはせん。

いで、こちらに引きたまえ。この祭壇ぞわれらすべてを守りぬべき。さらずば君もわれらとともに死にたまえや」彼女はかく言いて、老王を身に引き取りて、神聖なる場所にすえぬ。

されど見よ、ピュロスの殺戮の手を逃れて、プリアモスの子のひとりなるポリーテースぞ、矢玉をくぐりぬけ、敵をくぐりぬけ、柱廊の長きに沿いてにげ走り、手傷は負いたれど、むなしき部屋々々をかけぬけ行く。

ピュロスは恐ろしき武器もて、はげしく彼に追い迫る。あわや、あわや、彼をとらえて槍を突きささんばかりなり。

ついに彼は両親の眼と顔の前にあらわれ来たりしとき、倒れ伏して、生命を滝なす血の中にほとばしらす。

これを見てプリアモスは、よしや死の真ん中に横たわりいたればとて、何条わが身をおさえ得べき、声も怒りもおしまずして叫ぶ。

「否、天にかかるふるまいを見守るべきいかなる正義の念にてもあるならば、かかる罪悪に対し、かかる冒涜に対し、神々は汝にふさわしき返礼をなしたまえ。汝に相当する報酬を与えたまえ。まのあたりわれにわが子の死を見せしめ、わが子を殺すありさまを見せしめ、父の眼を汚したるその汝に。

されど汝がいつわりてその人の子というなる勇士アキッレースは、その敵プリアモスに対して汝のごとくにはあらず。かえって哀訴者の権利と信頼とを重んじ、ヘクトールの死体を墳墓にわたし、われをば本国に送還しぬるぞかし」

かく言いてこの翁の弱々しき槍をはなてど、そは敵に手傷をあたうべくもあらず。たちまちからからと鳴る青銅の盾にうち返され、その盾のつまみの頂きより甲斐なくぞ落ちぬる。

彼にむかいてピュロスはいう。「さらば、汝はこの消息を持ちて、ペーレウスの子なるわが父に使いすべし。わが残忍の所業とネオプトレモスの墮落とをしかと彼に語れ。いざ、死ね」

かくいいながら彼は、全身うちおののき、わが子が滝と流せる血潮に滑る老王を、祭壇にさえひきずり行き、左手に彼の髪の毛を巻きつけ、右手にぎらぎらと光る剣を高く抜持ちて、彼の脇腹に柄(つか)も通れとつき刺す。

これぞプリアモスの運のきわめなりし。かかる最期ぞ彼を取り去る運命にして、彼こそはトロイが炎に焦がされ、ペルガマが廃墟となり行くありさまを見し者、あわれ一度は、いと多くの民と国とのうえにアジアの偉大なる帝王として君臨したる者なりし。彼の大いなるむくろは荒磯に横たわり、頭は肩より斬り放たれ、その死骸は何人のものと名も知られず。(2−五〇六〜五五八)

『さて恐ろしき戦慄のはじめてわれを襲いしは、そのときのことなり。われは激しき恐怖にうたれぬ。わが父と同じ年輩なる王の、むごたらしき手傷のもとに命をあえぎ出すを見るにつけ、わがいとしの父の姿ぞ浮かび来たる。またわが見捨てられたるクレウーサのことも、掠奪せられたるわが家も、わが幼きユールスの運命もみな心に浮かび来たる。

われは振り返りて、わが周囲にある人々の数を見定めんとするに、彼らはすべて激しき疲労のためにわれより離れ、まろびて地上に身を投げるもあり、または力つきたる身を炎の中に投ずるもあり。

いまやわれただひとりになりぬと思うとき、テュンダレオスの娘が、ウェスタの神殿に潜み、音も立てず、聖廟の中に身を隠しいるを見い出でたり。あかあかと燃ゆる火は、歩きまわり、かなたこなたとあらゆるものに眼を配るわれに光を投げる。

ペルガマの倒壊のため、トロイ人が彼女に向ける敵意と、ギリシア人の彼女に負わすべき懲罰と、その見捨てたる夫の激怒とを、もの恐ろしくも予想して、トロイにも祖国にも共同の悪魔と見らるる彼女は、身を隠し、いまいましくも祭壇の中にうずくまりつつありけるなり。

そのとき、わが魂に熱火は燃えあがりて、激怒はわれをうながして、倒れるわが祖国のために復讐し、彼女より罪のつぐないを強奪せよという。

「げにこの女が、安穏にまたスパルタと故郷のミケーネとを見得べきや?かくして凱歌をあげ、王后の位を持ち続け、トロイの女の群れとプリュギアの侍女たちとにかしずかれつつ、夫と家と両親と子供らとを見得べきや?

しかも、プリアモスは刃に斬り殺され、トロイは炎に焼かれ、その磯はいくたびの血けむりにうちくもるいまなるをや?

あらず。よしや世に、女を罰するということは何のいちじるしき手柄とも見られず、はた勝ちて少しの高名とはならずとも、われはいまいましきものをこの世より消したることを、それにふさわしき罪科を加えたることをたたえられん。げにわが魂を復讐の火もてみたし、わが同胞の死の灰を満足さするこそこころよけれ」

われかかる事を思いめぐらしつつ、狂い心に押し進まんとするほどに、わがやさしき母ぞ――いまだかつてかくありありと眼に見たることもなき――姿をわれに現わしたる。そは闇を通して全き光に輝き出でて、まごう方なき女神の、美しさも神々しさも、天にまします者らが見なれけん姿をそのままにして、わが右手を取りて引き留め、薔薇なす唇よりかくぞ言葉を言いそえける。

「わが子よ、汝が荒々しき怒りを目覚ますは、いかなる鋭き苦しみなるか?いかなれば汝は心狂えるや?またわらわに向けたる汝が愛情はいずくにか消えゆきたる?

汝は老い疲れたる父アンキーセスをいかなるありさまに置きて来たりしかを省みんとはむしろ思わざるや?汝が妻クレウーサはなお生きたりや、また汝が子アスカニウスも?彼らはみなギリシアの軍人に四方より取り巻かれ、わらわの保護もてそれを支えざりせば、炎は彼らを奪いさり、敵の剣は彼らの血潮にぞ酔いたらん。

汝の非難の的となるべきはテュンダレオスの娘なるラコニアの女のいとわしき美貌にあらず、またパリスにもあらず。神々の、神々の無情こそこの国土をたおし、トロイをてっぺんより地上にうちのめしたれ。

見よ、——わらわいま汝がみつめるとき汝をおおいてその眼をくもらせ、しめりある影もて汝をおおいたるあらゆる雲を取りのけてん。何にまれ汝の親の言い付けをな忘れそ。またその勧告に従うことをなためらいそ――

ここに汝が廃墟となりたる一つの建物と、岩より裂けたる岩と、砂塵にまじわりて渦巻く煙とを見るところ、ネプトゥーヌスは、彼の力強き三叉もりもて持ち上げたる城壁といしずえとを、ゆり動かし、全市をその基礎よりくつがえさんとす。

ここに、何よりいと残忍なるユーノーは、真っ先かけてスカエアの門を占領し、剣をまとい、いきおい猛く彼らの船よりその同盟の軍勢を招かんとす。

見よ、いま、パッラス女神、神光と猛きゴルゴンもて輝きつつ、砦のもっとも高きところに座せり。

大御父(ユピテル)みずからも、ギリシア人に元気と好意ある力とを与え、トロイの軍人に敵対へと、みずから神々を励ましたまう。

急いで逃れよ、わが子よ、もがくことを止めよ。わらわ、いずくまでも御身の影身(かげみ)に添い、安らかに御身の父の門に入らしむべし」

彼女は、ことばを終えて、夜の濃き陰に身をかくしぬ。おそろしき顔ども眼に見えて、敵意ある天つ神々ぞあらわるる。(2−五五九〜六二三)

『そのときイーリウムはことごとく炎のなかにしずみ、ネプトゥーヌスの建てたるトロイは土台よりくつがえさるべうわが心におもわる。

そのありさま、例えば山の頂きにて、杣人(そまびと)らが競いこころに力をこめて、とねりこの古木を刃物もて切りまわり、斧もてつづけ打ちにし、根元より伐りはなたんとするとき、その木はたえずいまにも倒れんとしつつ、ゆらゆらと揺れふるう梢には、木の葉どもおびえさわぎ立ち、ついにはその深手のため次第々々に力つきて、最後の悲鳴をあげ、大岩よりも引き離され、どうとばかりうち倒るるに似たり。

われは城砦より市街へくだり、神の導きにより炎と敵のなかを抜けゆくに、飛び道具もわが身にはすき間を作り、劫火も引きしりぞきぬ。(2−六二四〜六三三)

『かくてわれはやがてわが父の住まいの戸口に、わが住みなれたる家に行きつきたるとき、わが父は、さなり、その人をこそ何よりも先に高き山のうえに連れ去らんとねがい、その人をこそ何よりも先に探し求めたるわが父は、トロイのまったく破れたるいま、おのれの生命を生きのび、国を捨て去ることをがえんぜず。

「いかで、汝ら」と彼はいう、「若々しき血潮に燃え、気力もたくましく、剛毅なる汝らこそ、身をもって逃がるべきなれ。わがことは、もし天にまします神々、わが生きながらえることをよしと見なば、わがためにこの住居をも持ちこたえさせぬべし。

この都のひとたびの破滅を見しだに、そのひとたび奪い取られるを生き残りしだに、あまりあることなり、なおあまりあることなり。いかで、汝、このままの、ただこのままの我がむくろに、最後の言葉をかけて立ち去れよや。

われはわが手もて死なん。敵もあわれみをかけ、来たりてはただわがものをぶんどり行くべし。墳墓のなきなどはささやかなることなり。

神々の父、人の王なる大御神が、雷電の息吹きもてわれを吹きうち、炎もてわれを触れ損ないたるときよりこのかた、すでに長くわれは神々に憎まれ、用もなく年久しく生きながらえぬ」

彼はかかる事どもを語り続けつつ、覚悟をきめて動かず。これに対しわれらは多くの涙をそそぎつ、妻のクレウーサも、アスカニウスも、すべての家族ももろともに、父がその身とともにあらゆるものを破滅し、われらのうえに差迫ったる悲運に、なおも彼の死ちょう重しを加えぬようひたすらにねがい求む。されど彼は聞きいれず、同じ決意もて、同じ場所に止まり居るなり。

われは戦場にはせ返り、悲運の極みにむしろ死をえらばんとぞ願いはそむる。いかなる計画も、いかなる好運も、いまわわれらに許さるべきや。

「父君よ、おんみを後に残して、われ、ここを去り得べしと思いたまうや、しかしてかく恐ろしき言葉はわが父の唇より出でたるや?

この大いなる都より一物をだに残さじというがもし天意にして、かかる目的はしかと父君の心のうちにも決定し、滅び行くトロイに君自身と君の家族とを加うることが、もし君のこころよしとしたまうところならば、かかる死への扉は大きく開かれたり。

ピュロスぞやがてここに来たるべき、プリアモスの流るる血潮も新しく――子を父の眼の前にて、父をば神壇の側にてうち殺したるそのピュロスぞ。

わがやさしの母よ、武器をくぐり、火をくぐり、汝のわれを連れしりぞきたまいしは、わが家の奥の部屋の真っただ中に敵を見、アスカニウスも、わが父も、それに寄り添うクレウーサも、次々に他の者の血潮の中に殺されるを見よとのことなりしか?

武器!ものども、武器を持ち来たれ。最期の日の光こそ敗れし者を招くなれ。われをギリシア人に返せ、われを戦場に再び行きて新しく戦うにまかせよ。げにわれら今日の恨みを報いずして、いかでみな犬死にすべきや」

ただちにわれはまた剣を帯び、左手を盾の取手に当てて差し入れて、家より走り出でんとす。されど、見よ、わが妻は戸口にてわが足にすがり付き、片手にては小さきユールスを父たる私に差し出だして、

「君もし必死の道に出で立ちたまうとならば、われらもまたともにあらゆる憂目に連れ行きたまえ。されどもし君の手練により、手にせる武器にそこばくの望みをかけたまうとならば、まずこの家を守りたまえ。誰のもとに行けとて幼きユールスを、誰に行けとて君の父を、はた誰に行けとて一度は君の妻と呼ばれたるわらわを、捨てたまうや」(2−六三四〜六七八)

『かく泣きさけび、彼女の悲しみもて住まいのうちを充しつつありしとき、にわかに言わん方なく不思議なる神兆ぞ現われたる。

両親の手とその悲しげなる顔の間に、見よ、ユールスの頭の頂きより、軽き一穂の炎、光を注ぎ、触れても害を加えず、炎は彼の巻毛をなめ、こめかみのあたりにちらつくようにぞ見ゆる。

われらはおどろきに打たれ、恐れにふるいおののきて、彼の髪の毛を払い除け、水もてその聖なる火を消さんとす。

されど父アンキーセスは、喜ばしげに眼に星を見上げ、声もろともに手を天の方に差し伸べていう。

「全能のユピテル、もし何らかの祈願が汝を動かし得るものならば、われらを見よ、ただそれのみをわれは願うなり、しかしてもしわれらの敬虔の念がそれに値するものならば、われらに汝の助力を与えよ、あわれ父よ、しかしてこの吉兆を確立せしめよ」

老人のかく言いおわるかおわらぬに、突然左手の方にあたり轟々と雷鳴とどろき渡り、一つの流星大空より暗きを通してすべり落ち、そのおびただしき照明もて後に一道の光の流をひいて走る。

われらはそれが屋根の高き頂きをこえてすべり、その軌道を鮮明に跡つけて、イーダの森に落入るを認めぬ。そのとき、星の軌跡は長き尾をなして輝き渡り、このあたりはすべて硫黄のごとき煙に充さる。

ここにおいてようやくわが父は心より譲歩し、座席より身を起し、神々に祈りをささげつつ聖なる星を礼拝していう。

「いまや、いまや、われをたゆたわする何物もなし。汝に従い、汝がわれを導くところ、いずこまでもともにあるべし。わが国つ神々、わが一族を護りたまえ、わが孫を護りたまえ。

この吉兆も汝ら神たちより来たれるなり、トロイのよりて立つも汝ら神たちの守護によるなり。われもわが心意を譲りて、わが子よ、汝とともに行くことを拒まじ」(2−六七九〜七〇四)

『彼は言葉をおわりぬ。いまや劫火の物音は街を通してますます明らかに聞え来たり、激しき炎は潮をいよいよ近く巻き上げる。

「さらば、いざ、父君よ、わが首によりかかりたまえ、われはわが肩に君を支えてん。かくばかりの労はわれを圧する恐れなし。

われらの運のなり行きはいかなるにもせよ、われら二人は一連の危うきに会い、一つの安きに就かん。幼きユールスはわれとともなるべし。妻は少しく離れてわれらの跡をたどれ。

汝、家の子らはいまわがいう事によくころせよ。町より出で離れたるとき、そこに一つの丘と顧みられぬケレースの古き殿堂とありて、その近くにわれらの祖先の敬神により、多くの歳月の間斧鉞(ふえつ)を加えられざりし古き糸杉あり。

この一つの場所にわれら道を異にして来たるべし。父よ、君はわが国の祭器と家神とを手に取りたまえ。われみずからがそれを取り持つことは、かく激しき争いより、かつ近き殺戮より離れ来たりしいま、流るる水に身を浄むるまでは、一つの罪業なるべし」

かく言いてわれは、彼を負うべきわが広き肩と、彼を支うべき首とを、黄褐色なる獅子の皮もておおい、負うべきものをわが背にぞ受ける。幼きユールスはわが右手に取りすがり、よちよちと父の後を追う。

妻はわれらの後より来たる。われらの通る道はなお暗し。

かくてしばらく前までは矢玉の雨も動かしえず、ひしひしと群がりよるギリシア人も動かしえざりしわれも、いまや心は動揺し、わが伴う者のため、はたわが背負うもののために、等しく危惧しつつ、そよとの風にもうちおどろき、いささかの物音にもすわとばかりにいましめる。(2−七〇五〜七二九)


『かくていま城門に近付き、安全にわが行路を終わりたりと思うとき、不意に多くの人々の足踏み鳴らす音のわが耳にはいるに、父は闇を透かし見て叫ぶ。

「わが子よ、逃げよ、わが子よ、彼らは近々と迫りぬ。われはかがやく盾と、ひらめく刃とを幽(かす)かに身に感ずるなり」

何物とも知らずわれにこころよからぬ神力の、あわてるわれを惑わし、わが分別を奪いたるは、このときのことなりけらし。

しばらくは人少ななる方を急ぎ足で走り、やがて馴れたる道筋よりわかれ道に入りぬるが、あわれ、悲しいかな、わが妻クレウーサは、運命によりわれより奪い去られて、ある場所に立ち止りたるか、道を迷いたるか、または疲れて座り込みたるか、われは知らず。そののち彼女はかつてわが眼にかえり来たらざりき。

われらが古えのケレースの丘とその神聖なる宮とに着くまでは、われは見失いたる彼女のほうを振り返らず、はた彼女のほうに心すら向けざりしなり。ついに一同がこのところに集まりたるとき、彼女ひとり欠けて、伴侶をも子をも夫をも見捨てて消え失せぬ。

そのときわが心狂して、人々の中にも、神々の中にも、われが非難せざりし者ありしや?

またこの都の陷落にあたり、これに勝りて悲惨なるいかなることを見たりしや?

われは、アスカニウスと、わが父アンキーセスと、トロイの神々の像とを味方にゆだね、彼らを奥まりたる谷間に隠し、ただひとり輝く武器を身にまとい、町の方にとって返す。

いかなる危険にてもあらたにこれを迎え、全トロイを再び駆け抜けて、わが命を二度目の危険にさらすことこそわが決心なりしなれ。

まずわれは城壁とそこよりわが町を抜き出でたる門の暗き入口とに立ち返り、わが足跡をたどり返しつつ、闇の中にそれを追い求め、わが眼もてそれを熟視す。

いたるところ恐怖はわが魂を満たし、それとともに静けさそのものもまたわれを恐れしむ。それよりわれは愚かしくも彼女(クレウーサ)があるいはおそらくこなたにさまよい来たりてあらんかと思い、わが家に帰り着きぬ。そこにはすでにギリシア人闖入(ちんにゅう)し、屋敷のうちをくまなく取り占めたり。

一瞬にして呑滅(どんめつ)の火は、風により屋根の頂きまで渦巻き上り、炎はそのうえに立ち舞いて、揺れ動く火先(ほさき)は天までも届かんとす。

われは進みてプリアモスの宮殿と砦とをおとなう。されどすでにいまわむなしき柱廊の中、ユーノーの聖所にて、選ばれたる番士ポイニクスといまいましきウリクセースとぞ、掠奪品を見張りいたる。ここに方々より持ち来たり、積み上げたるは、燃ゆる神殿より奪いたるトロイの財宝、神々の食卓と黄金の重厚なる混酒器、分捕りたる服装などなり。

小供らとうちおののく女房たちとは、長き列をなしてその周囲を取巻きてあり。

じつにわれは闇の中にあえて声を立て、街々をわが叫喚もて充し、やらん方なき悲しみのため、くり返しくり返し再三クレウーサの名をむなしく呼ぶ。

かくてわれ、彼女をたずね、たえず町の家々を気狂いのごとく通り抜けつつありしとき、不幸なるクレウーサその人の影と幻とこそわが眼の前に現われたれ。その姿はわれが見なれたるよりもはるかに大なり。

われはうちおどろき、髪の毛は逆立ち、声はのどにからまる。そのとき、彼女はかくわれに語りかけて、その言葉もてわが心のつらさを取り除かんとす。

「狂うばかりの悲しみもて、かく心のくづおれたまうこと、何かはおんみのためなるべき、わがいとしの夫よ?これらのことはみな天意なくして起りしことならず。また君の同伴者としてクレウーサをここより連れ去ることは君に許されず。なおまた彼、高きオリュンプスの王もそれを許さず。君のさすらいは長かるべく、しかして君は大海をこぎ渡らざるべからず。

「かくて君はエトルリアのティベリス河静かなる波をあげ、人ゆたかなる田園のあいだを流れる西なる国に行くべし。

そこにはほほえん幸運と、領土と、高貴なる花嫁と、君に与えられん。君の愛するクレウーサのために流す涙を払いのけよ。

わらわはミュルミドネス人たち、またはドロペス人たちの心おごれる住まいを見ず。はた行きてギリシア人の女房たちの奴隷とならざるべし。わらわはトロイの女にして、女神ウェヌスの嫁なるものを。

さはれ、神々の大いなる母ぞわらわをこの磯に引き止める。いざさらば、われら二人のあいだの子に君の愛を変わらせなしたまいそ」

かく言いおわりて彼女は、われがうち泣きつつ多くを語らんと願うひまに、われより離れさり、うすき息吹のなかに朧々(ろうろう)となり行きぬ。

そのとき三度われはわが腕を彼女の首のまわりに巻かんとしたれども、三度ともむなしく捕え得で、幻はわが手より逃れ去りぬ。そは軽き風のごとく、凡て消えゆく夢にいとよく似たり。(2−七三〇〜七九四)

『かくてわが友のところに帰りしは、ようやく一夜を過せしときなり。

ここにわれが見出でておどろきたるものは、われと一つにならんと群がり来たりし、あらたなる味方の大衆にして、人妻あり、夫あり、みなくにを立ち去らんと集まりしおとなの、ものあわれなる人々の一群なり。

彼らは海をこえて、われが導く方へ、いずこの地なりとも住みに行かんと心を定め、用意をととのえ、方々よりもろともに出で来たりぬ。

いまや暁の明星はイーダの第一峰のうえにのぼりはじめ、その日の朝をもたらさんとす。ギリシア人は群がりて、門々(かどかど)の出入りを守る。しかしてわれらには救援の望みさらになし。われは運命に身をゆだね、父を抱えあげ、山のほうへと歩みを運ぶ。(2−七九五〜八〇四)




第三巻梗概(上93p)

神託に従い、トロイ人らは船をつくり、トラキアに向かいて出帆す。町を建てんとたずねつつ、彼らはトロイの王子ポリュドーロスの霊に去れよと警告せられ、オルテュギアにアニウスをおとなう。

予言の神アポロンは、もし彼らがトロイ人の「古えの母国」にかえるならば、アエネーアースおよびその子孫は全世界に広がる帝国を得べしと約束す。その母国とはクレタ島なるべしとアンキーセスは説く。

彼らはクレタ島に着く。されどただ困惑するのみ。旱魃と疫病とは都市建設の第二の計画を挫折せしむ。まさにいっそう明瞭なる助言を乞うためアポロンのところに立ち返らんとするにあたり、アエネーアースは、夢に、トロイの家神たちによりて真の母国はイタリアなることを確めらる。アンキーセスは自己の誤りを認め、以前カッサンドラが、トロイ人はおそらくイタリアに移植させらるべしと予言することにより、いかにあざけられたるかを回想す。

ストロパデス島に上陸し、彼らは知らずして怪鳥ハルピュイアを害す。ここにおいてハルピュイアの女王ケラエノーは奇異なる飢餓の予言をなして彼らを威嚇す。恐怖に打たれ、彼らは岸に沿うてアクティウムに航し、ここに彼らの国民的競技を挙行し、ギリシア人を蔑視する記念品を留む。

ブトロトゥム(アルバニア)において彼らは、ピュロスの領土を所有するトロイの王族ヘレノスとその妻アンドロマケーを見出し、しばらく彼らに歓待せられ、贈り物と道案内とをもって出発を見送らる。

デュッラキウムよりの航海とイタリアの最初の瞥見(べっけん=ちょっと見る)。彼らは上陸し、ユーノーをなだめ祭る。それより岸に沿いてついにエトナ山の見ゆる所にいたる。アカエメニデスの救助と、怪物ポリュペーモスよりの避難を説明したるのち、航海も物語もドレパヌムにおけるアンキーセスの死をもって終る。

第三巻

『アジアの王国とプリアモスの罪なき国民とを滅ぼすことが、神々によしと認められ、

光輝あるイーリウムは倒れ、ネプトゥーヌスの建てしちょう全トロイはなお地上にはいぶりつつありしとき、

われらは神々の予言に従い、おちこちのさすらいびととなり、遠き未墾の土地を探すため、故郷より遣らわれつ。

運命はいずこにわれらを伴い行き、われらいずこに定住し得べきやと思い迷い、かくてわれらは、プリュギアのイーダ山の麓、港町アンタンドロスの近くに艦隊を作り、味方の人々をぞ集むる。

とかくして初夏は来たり、わが父アンキーセスは運を天に任せて帆を張れよという。そのとき、われは眼に涙して、故郷の磯と港と、一度はトロイありていまわはや跡形もなくなりにし平原とを見捨てつ。われはかくてわが友、わが子、家神、およびおおいなる神々の像とともに落人として大海に乗り出しぬ。(3-一〜一二)

『やや離れて、軍神の国といえる、広き平野に人多く住める土地あり、トラキア人これを耕せり。かつては猛きリュクルゴス(注)の支配したるところにして、

注 ディオニュソスを拒否したことで有名

トロイの国運さかんなりし頃は、そのふるき友邦として、その家つ神々もまたトロイの家つ神々と友たりき。

われはまずここに船を着けて、曲浦(きょくほ)のほとりに、運命われに幸いせねど仕事に着手し、最初の城壁を造り、わが名に倣いてこの民をアエネアダエと呼びぬ。(3-一三〜一八)

『われはわが始めたる事業の保護者、ディオーネの娘なるわが母ウェヌスその他の神々に犠牲をささげ、大空にいます神々のいや高き王に、磯辺にて白き牡牛を奉る。

たまたま傍らに一つの丘ありて、その頂きにはテンニンカ群がり生い、山グミ繁きとげをいらだたせたり。

われはこれに近付き葉しげきその枝もて祭壇をおおわんとて、地上より緑なす一樹を引き抜かんとす。

そのときわれはいと物恐ろしく、言うだに不思議なる怪異を見たり。

そは根を引きはなちて地面より引き抜かれたる第一の木より、黒き血の雫(しずく)したたり落ち、凝血もて土を汚したればなり。

戦慄はわが手足を痙攣せしめ、寒き血潮は畏怖のために氷らんとす。

われはまた再び第二の樹の柔靱(じゅうじん)なる枝を引き裂きて、隠されたる秘密を底まで探らんとするに、再びまた第二の枝の皮より黒き血ながれ出でたり。

わが心にはさまざまの思い浮び来て、田野の妖精たととゲタェの野の守護神なるグラディーウース主(ぬし)とを拝み、彼らが程よくこの予徴を祝福し直して、凶兆を除かんことを願いぬ。

されどなおさらに気を励まして、第三の幹に手をかけ、膝もて砂土のうえに踏んばりつつありしとき、そのとき――言うべきか、ああ黙すべきか――悲しげなるうなり声、岡の深き底より聞え、物いう言葉わが耳に漂い入る。

「アエネーアースよ、いかなればみじめなる者を引きむしるや。いまぞ墓の中なる者をいたわるべき時なり。汝の浄き手を汚すことをいとえかし。トロイはわれと汝とをよそ人として生めるにあらず、はたこの血潮はただの木の幹より滴るにあらず。

ああ、この無情の土地より逃れよ。この貪婪(どんらん)の磯より去れ。

見よ、われはポリュドーロスなり。ここにわれは突き貫かれ、槍の鉄の播種(はしゅ)われをおおい、その鋭き穂尖(ほさき)こそいまわがうえに生い繁れ」

そのとき、わが心は二つの恐怖のために圧せられ、おどろき呆れるばかりにて、髪の毛は逆立ち、舌は口の上辺にくっ着きて動かず。(3-一九〜四八)

『これぞ過ぐる日、不幸なるプリアモスが、トロイの武器を頼みがたく思いはじめ、かつその都が密なる封鎖もて取り巻かるるを見しころ、トラキア王に育てさせんと、大いなる金塊を添えて彼に托したるポリュドーロスなりける。

トラキア王は、トロイ人の勢力くじけ、運命の神にも見離されたるとき、アガメムノーンの盛運とその戦勝の武器とに味方し、あらゆる公道を破壊したり。

彼はボリュドーロスを殺し、その黄金を強奪す。利欲に対する呪われたる渇望よ、汝なにかは人の心を駆らざる。さてわが恐怖のわが骨をはなれたるとき、われは神々のこの怪異をわが人民の選ばれたる主だつ人々に、ことにわが父に、物語り、彼らの思うところを聞かんとす。

彼らの断ずるところみな等し。罪悪の土地を離れ、けがれたる歓待をあとにし、風にまかせ艦隊をうかべ去れよという。

かくてまずわれらはボリュドーロスのため葬式の儀礼を行う。彼の塚のうえには多くの土を積み上げ、黒色の飾り紐と暗緑色の糸杉をもって喪を表わし、彼の魂のために祭壇を設け、その周囲にはトロイの女ら、この場合にふさわしく髪をほどきて立てり。

われらは温き乳もて泡立つ杯と、聖別の血の器とを供え、彼の魂を墳墓の中にしずめ、声高らかに永訣の最後の言葉もて彼の魂を呼び覚ます。(3-四九〜六八)

『それよりやがて海もたのまれつびょう見え、風も水上に静まり、微風おだやかなるささやきもてわれらを大海に招くやいなや、われらの伴侶(仲間)は船を下ろし、海岸に群がり寄る。

かくてわれら港より帆ばしり出づれば、陸地も町も後ずさりしつ。

海の真中に神聖なる陸地あり、ネーレイデースの母(ドーリス)にも、エーゲ海の神ネプトゥーヌスにももっとも親しくして、

この島(デロス)が浦わ磯辺を浮かび漂いつつありしを、孝心深き弓矢の神(アポロン)こそ、高きミュコノスとギュアロスとにそれを繋ぎ止め、揺るぎなく人も住みつき、風をも物の数とせぬようにしたりけれ。

ここにわれは運ばれ来たる。島はわれら疲れたる船人どもをいと懇ろに安全なる港へと迎え入るる。われらは上陸し、アポロンの町に敬意を致す。

ここの人民の君主にして、ポイボスの司祭を兼ねたるアニウス王は、その額を飾り紐と神聖なる月桂樹もて巻き、われらを出で迎う。彼はアンキーセスを見て、その旧友なることを認めつ。われらはともに歓会の手をつなぎて、彼の家に入る。(3-六九〜八三)

『古代の石もて建てたる神殿を礼拝して、われはいう。「テュムブラの神(アポロン)よ、われらに永住の家郷を与えたまえ、われら疲れたる者に城壁と、子孫と、永遠の都とを与えたまえ。第二のトロイの城砦を保たしめたまえ、ギリシア人と無情のアキッレースより救われたろ残党を助けたまえ。

われら何人に随伴すべきや。われらいずこに行き、いずこにわれらの住まいを定めよと命じたまうや。大君よ、われらに予兆を示し、われらの魂を励ましたまえ」

かくいうわが言葉の終るか終らぬに、たちまちあたり一面に震動すると思われ、入口も、神の月桂樹も、周囲の小丘もことごとく打ち震い、押し開きたろ神殿より三脚台の鳴る音ぞとどろき渡る。

われらは膝を折り、地にひれ伏すに、耳を打つて声あり。「汝ら、ダルダノスの堅忍なる子孫どもよ、汝の始祖よりはじめて汝らを育みたる国、その同じ国土こそ、帰り行く汝らをまた、稔り豊かなる土をもて迎うべけれ。

努めて汝の古えの母を尋ね出だせよや。ここにアエネーアースの家、あらゆる国々に君臨せん、子らの子らもそれより生まるる者どもも」

ポイボスはかく言いぬ。されば不安の裏にも、心に大いなる歓喜生じ来たりつ、みな一同にこの都とは何なるか、ポイボスはわれら漂泊者をいずこに呼び寄せ、いずこに立ち帰れと命ずるぞと尋ね問うる。

そのときわが父の、古人の言い伝えたることをかんがえつつ、語り出でけるは、「聞け、汝隊長らよ、しかして汝の希望を知れ。

大海の真中にクレタとて、大神ユピテルの島あり、そこにイーダ山あり、われらの種族の揺籃の地なり。

彼らは百ばかりの大いなる都市に住み、国土はいと豊饒なり。われ聞き覚えたる事の思い出に誤りなくば、われらの種族の第一のテウクロスは、この所よりはじめてロエテーウム(トロイ)の海岸に渡り、国を建つべきところを選び定めぬ。されどそのときはいまだイーリウムもペルガモンの城塞も建たず、彼らは低き谷間に住み慣れたりき。

さてここクレタにならいてぞ、キュベルス山に守護の母神(キュベレー)も住み、コリュバンテスの用ゆる青銅の鐃鈸(にゅうはちシンバル)、はたイーダの森の名も出で来たりつ。ここよりぞまた神秘教理にたいする誠実なる秘密も来たり、女神の車にくびきかけたる獅子を使うことも出で来たりつる。

いでさらば、天意の導くところに、われら従いゆかん。風をなだめ、クノッソスの国をさしてこそゆかんかな。

そはほど遠き航程にもあらず。ユピテルだに助けたまわば、第三の暁にはわれらの船、クレタの岸辺に停泊すべし」

彼はかく物語り、祭壇のうえにふさわしき夫々の犠牲をささぐ、そはネプトゥーヌスに一匹の牡牛、汝、美しきアポロンに一匹の牡牛、暴風に黒き一匹の子羊、好意ある西風に一匹の白き子羊らなり。(3-八四〜一二〇)


『風聞広く伝わりて言う、将軍イードメネウスは、父祖伝来の国をおわれて去り、クレタの海岸は荒廃し、家々にはわれらの敵なく、彼らの住宅は見捨てられたりと。

われらオルテュギア(デロス)の港より船出し、大海を走り、その峰にはバッカス神の騒宴の行わるというナクソス島、緑のドヌーサ島、オーレアロス島、真白なるパロス島、水上に碁布(きふ)せるキュクラデス諸島の側をよぎりつつ、島々多く散らばれる海峡に沿って進み行く。

水夫の叫声は彼らのさまざまの競いにあがり、

仲間の者たちは、「クレタを、われらの祖先を求めんかな」と相励む。

風は艫(とも)の方よりあらたに吹き起りて行く者を追い、ついにわれらはクレタ人の古えの磯辺に吹き寄せらる。

ここにわれは急ぎに急ぎて、願望の城壁を建て、この都をペルガメアと呼ぶに、人民はその名を喜び合えりしが、われはまた彼らを励まし、各々の家を愛し、彼らの家のために砦を高く築けという。

さていまやわれらの船は、乾ける岸にほとんど引きあげ終わり、若き人々は婚姻と耕作とにいそがわしく、

われは彼らに法と安住の家とを与う。そのとき、たちまち人を取り荒す悲惨なる疫癘、天の毒気を含めるところより、われらの身体に、樹木に、穀物に落ち来たる。しかして死を誘う恐ろしき季節も来たりぬ。

可惜(あたら)しき命を捨つる者もあり、病の中に身体を引きずるもあり。またシリウスは野を焦がして不毛にし、草は乾き、病める作物は食を生ぜず。

わが父はいま一度大海を横切りて、オルテュギアのアポロンの神託へと引き返し、恵み深き御告げを乞い、われらの蓑えたる運命にいかなる終局を与えんとするや、われらの不幸にいずこより援助を見出すべく試みよというや、またいずこにわれらの進路を向くべきやを伺えと言う。(3-一二一〜一四六)

『そは夜、眠は地上にあらゆる生きとし生ける者を捕えたる時なり。わがトロイの焼くる街の火中より救いて、奉じ来たりたる神々の聖なる姿、プリュギアの守護神たち、睡り伏したるわが前に立つとぞ思わるる。壁なる窓を通して、満月の注ぎ入る強き光の中に、いとあからさまに見えつ。

そのとき彼らはかく話しかけて、かかる言葉もてわが危惧をなだめたり。

「汝オルテュギアの島(デロス)に赴かば、アポロンが汝に告げなんものを、彼ここにて汝に啓示するなり。しかして見よ、彼請われざるに、われらを汝の戸に送りぬ。

トロイが焼け滅びたるとき、われら汝と汝の武器とに従い、汝を道の案内者とし、汝の船により波立つ海を押し切りしが、このわれらこそ汝らの子孫を天つ星まであぐべく、はた彼らの都に帝権を付与すべし。汝、偉力ある人々のために偉大なる城壁を作れ、汝の亡命の長き労苦を避くるなかれ。

汝らの住地は変えざるべからず。ここはデロスの神の告げたる海辺にあらず。アポロンはクレタに定住せよと命じたるにあらざるなり。

かなたに一地方あり、ギリシア人はこれをヘスペリアと名付く。そはいと古き国土にて、戦さに強く、土肥えたり。

かつてはオエノトリア人住みたることあり。いま、風聞の伝うるところによれば、その後々の者は彼らの首領の名によりて、イタリアと呼ぶとなん。

これぞわれらが永住すべき家郷(さと)なる、ここよりダルダノスも、われらの種族の創祖イアシウスも出でたり。

急いで立て、喜んでこれらの疑いなき言葉を汝の老父に伝えよ。彼はコリュトス(エトルリア)とアウソニア(イタリア)の国土とを探るべきなり。ユピテルは汝にクレタの野をば拒みたまう」

かかる幻影と神々の言葉とに打ちおどろきつつ――

これは夢にあらず、否、われは面々あいたいし彼らの容貌を、はた飾り紐したる髪の毛を、生々たる顔面を見るごとく思いぬ。わが身体にはそのとき一面に冷たき汗ぞしみたる——

われは寝床より飛び起き、声もろともにあおむけたる手を天の方に差し上げ、炉(いろり)のうえに浄きささげ物をばうちそそぎつ。

この宗教上の服礼をおわり、われは喜びて事の委曲をつくして父に物語る。彼は二重の系統と二つの始祖とを認め、しかしておのれがこの古き国土に係るあらたなる誤解により思い過まりたることを自認す。

かくて彼はいう。「イーリウムの運命により試練せられたる者なるわが子よ、カッサンドラのみひとり未来のこの運命をわれに予言したり。

いま思い出づるは、彼女がわれらの種族のかかる運命を予言し、かつしばしばはヘスペリアのこと、またイタリアのことを告げたることなり。

されどそのときに当り誰かはテウクロスの種族がイタリアの磯辺に来たるべしと思わんや。また予言者カッサンドラが何人をか動かすべき。いまぞわれらはポイボスに従わん。しかして神のいましめに応じ、よりよき道をたどるべし」

彼かく言えば、われらは異口同音に喜んで彼の言葉に従う。われらこの家郷(さと)をもまた打ち捨てて、わずかの者をあとに残しつつ、帆を張りあげ、われらのうつろ船にて大海を走りこえんとす。(3-一四七〜一九一)

われらの船、海に乗り出でて、もはや何の陸地も見えず、あたりはただ大海と空のみとなりにしとき、

わが頭のうえに暗憺たる雨雲、闇と嵐とを伴いて密集し、波は暗黒のしたに翻る。

たちまち、風は水を巻き返し、力ある海、騒ぎ立てば、われらは広き大水のうえに吹き散らされ、揺り動かさるる。

あらし雲は天の光を封じ、湿霧(しつむ)の闇、われらより空を奪い去り、しばしば雲裂け、電光閃く。

われらは航路より押しはなたれ、不知案内の水上をさまよう。パリヌールスすらも大空に昼と夜とを見分くることを得ず。また波濤の中に針路を知らずと言う。

げに暗き狭霧(さぎり)のため、われら心もとなき三日の昼を大海のうえに漂蕩(ひょうとう)したり。同じ数の星なき夜をも。

第四日に到り、はじめて陸地あらわれ、山々遠く眼界に展開し、軽煙の上昇するを見る。

われらは帆を巻き、櫂を漕ぐ。水夫らただちに力を込めて事に従い、泡立つ波を渦巻かせ、緑の海の上を滑り行く。

かくてわれら波浪より救われ、はじめてわれを受入れたるは、ストロパデス(注)の磯なり。ストロパデスとはギリシア名にて、広きイオニアの海にうかぶ島々をいう。

注 ザキュントス島の南、ハルピュイアの住む島

そこには、恐ろしきケラエノーおよびその他のハルピュイアども、ピネウスの家が彼らに閉ざされ、彼らが恐怖のため従前の食卓を見捨てたる日以来、住居せり。

世に彼らよりものすごき怪物ほとんどなく、なおまた彼らより激しき病毒も、神々の怒りも、ステュクスの流れより生じたることなし。

彼らは鳥なれども、処女の顔をなし、彼らの腹の排泄物はいとけがらわしく、手には猛禽の爪を持ち、顔色は飢渇のためつねに青ざめたり。(3-一九二〜二二八)

『われらここに運ばれ、港に入れば、見よ、平原に打ち広がりて、楽しき牡牛の群れと、草のうえに番人なき山羊の群れぞ遊べる。

われらは武器もてこれを襲いうち、神々およびユピテルみずからもこの獲物を分かちたまえと降臨を願い、それより曲浦に沿いて寝椅子を並べ、豊かなる饗宴を催す。

されど、ハルピュイアども、突然山々よりすさまじくわれらのうえに降り来たり、けたたましき音をたてて翼をはばたき、食物をかすめ、いまわしき接触によりてすべてを汚す。そのときいまわしき悪臭にともなう鋭き叫び声ものすごし。

われらは樹木とその参差たる掩影(えんえい)にとり巻かれ、くぼみたる巌のしたの引き込みたる場所に席を移し、再び食卓を装備し、再び祭壇に聖燭を点ず。

されど再び異なりたる天の一角、彼らの見えざる隠れ家より、騒然たる一群飛び来たり、爪ある足もて獲物を舞いまわり、彼らの口もて饗宴を食いあらす。われは仲間に武器を取れよと命ず。われらこの呪のろわれたる一族と戦わざるべからず。

彼らはわが命令に従い、草の内に剣を隠して地面に置き、盾をも埋伏す。

かくて怪物らが降り来たり、曲浦に沿いて叫び声をあげぬるとき、ミーセーノスそのラッパもて、高き懸崖のうえより相図をなす。たちまちわが仲間は襲いかかり、武器もてきたなき海鳥を傷つけんとしつつ、不思議の戦さをぞ試むる。

彼らは、撃たれても羽にそれを受けず、背中もまた傷つかず、疾く飛び去り、高く冲(ひい)り、あとには半ば食いとりたる獲物と、いまいましき臭いの痕とをのこすばかりなり。

されど凶兆の予言者ちょうケラエノーのみひとり高き岩のうえに座し、胸をしぼりてかかる言葉を叫ぶ。

「いかに、ラーオメドーンの子孫らよ、汝らは屠りたる牡牛、殺したる若牛などのためにすら戦うとや。しかして罪なきハルピュイアを故郷より追わんとするとや。

さらばわがこの言葉をよく聴きて、魂の奥深くおさめよ。こは全能の大神ユピテルがポイボスに、しかしてポイボス・アポロンがわれに予言したまいしことにして、狂暴の神々の長なるわれ、いま汝らに告げ知らせんとす。

イタリアは汝らが航海の目的なり。風に祈りて汝らイタリアに到り、港に入ることを許さるべし。

されど運命によって与えられたる都を城壁もて囲うことに至りては、まず呪わしき飢餓のため、またわれらを殺さんとしたる害悪のため、汝らのあご骨もて余儀なく食卓をかじり砕くまでは、決してその事なるべからず」

彼女はかく言いおわり、羽に乗りて森の方へと逃げ去りぬ。そのときわが仲間の血は、不意の恐怖のため冷たくこおる。勇気はくじけ、いまわはや武器も捨てて、彼女が女神にもあれ、恐ろしき汚き鳥にもあれ、誓願と祈念もて赦しを乞えとわれにいう。

父アンキーセスは、磯辺にて手をさしのべながら、天の大御力をねぎ求め、求むる助けの報賽(ぼうさい、御礼参り)に犠牲をおごそかに約束す。

「神々よ、この脅威を払いたまえ、神々よ、この災禍を清めたまえ、好意を垂れ、敬虔なる者どもを救いたまえ」

そののち彼はただちに磯辺よりともづなを解き、帆索(ほづな)を解きゆるめよという。(3-二一九〜二六七)

『風は帆を広く張り、そよ風と梶取とが早き船路を送り進むるままに、われらは泡立つ波の上を運ばる。

やがて大水の真中に、鬱蒼たるザキュントス、ドゥーリキオンとサメー、巌けわしきネーリトスなど見ゆ。

われらはラーエルテースの治むるイタカの岩を避け、無残なるウリクセースを育てたる国を呪う。

やがてまたレウカス山の嵐煙を帯びたる峰巒(ほうらん)眼界に現われ、水夫の恐るるアポロンの宮居も見ゆ。

疲れしままにわれらはここへと帆ばしりて、小さき町(ニコポリス)の港に入る。船首よりは錨を投げ、船尾は磯のうえに引きあげたり。(3-二六八〜二七七)

『かくてわれらついに望みのほかなる国土に着きぬれば、ユピテルにつぐないの犠牲を致し、祭壇に祈願の火をともし、

アクティウムの磯辺においてトロイの競技を挙行す。

わが友らは着物を脱ぎ捨て、滑りやすき油を塗り、すもうの国技に加わる。われらがかく多くのギリシアの都市のそばを安全に通り過ぎ、仇敵の真中をくぐりながら逃げおほせたることは、考うるだにこころよし。

その間に太陽ははや満一年の輪をまどかにし、氷れる冬は激しき北風もて水を荒々しくあおる。

われは偉大なるアバースのかつて手にせる凹形の黄銅の盾を、神殿の入口の門柱に懸けて、わがはたらきをば詩句もて表現す。「この武具をアエネーアースぞ、勝誇りたるギリシア人より奪いて奉納す」と。

それよりわれは、友らに命じ、磯を去り漕ぎ手の席に着かしむ。かれらは熱心に櫂(かい)もて海を打ち、そのおもてを滑りゆく。

やがてパエアーケス人らの住む地の高根も見えずなり、エーペイロス(ギリシア北西部)の磯に添いて航行し、カオニアの港に走りいりて、ブートロートンの険しき町に近づきぬ。(3-二七八〜二九三)

『ここにて、とても信じられぬ風説のわれらの耳をみたす。そはプリアモスの子なるヘレノスがギリシア人の町々の王となり、アイアコスの子孫なるピュロスの妻とその権笏とをともに手に入れたり。すなわちアンドロマケーはいま一度同国の人なる夫に帰したりということなり。

われはうちおどろきつつ、その人に話しかけて、かくも大いなる運命の変転の物語を聞かんと、わが胸は不思議なる熱情に燃ゆ。

われ、艦と海岸とを後にして、港の方より進み行きしが、そのとき、たまたま、町の手前、シモイースになぞらえたる流れのそばなる浄き森にて、アンドロマケーぞおごそかなる周年祭の奉饌(ほうせん)と喪の供物とを、夫の死灰にささげ、ヘクトールの魂をその一つの塚のうえに招きてありぬ。そは緑の芝生にて造りたる空碑よりなり、二つの祭壇(夫と息子)とともに常住の涙の種としも、彼女が亡き夫にささげしものなり。

彼女はわが近付くを見、周囲にトロイの武器を見るやいなや、この大いなる不思議に、われを忘るるばかり打ちおどろき、われを眺めいる中に気を取り失い、生命の温かさは骨肉を見捨て、息絶えて倒れけるが、やや久しくしてついにようやく回復し語り出でけるは、

「君はしもうつつの君のかんばせにて、生ある使いとしてわがもとに来たりしや。あわれ女神より生まれたる者よ、君は生きてあるや。またもし快き生命のともしびの消えたる者ならば、われに告げよ、ヘクトールはいずこにありや」

彼女はかく言いて、涙を滝のごとく流し、泣き声もてあたりを満たす。彼女がかく悲嘆に泣き狂うほどに、われはかろうじして語り出でたるきれぎれの言葉にて、わずかにこれに答え得つ。

「わが生きてあるはまことなり。われは悲しみのあらゆる極みを通してぞわが命をひきずり行く。な疑いそ。汝が見るは幻にあらず。ああ、かくばかりちぎり深かりし妹背の君を失いて、いかなる運命の汝を迎えたる。はた汝に十分ふさわしきいかなる運命の変化の、ヘクトールの妻アンドロマケーを見舞いたるか。汝はピュロスと結婚を続けてあるや」

かおを伏せ、低き声して彼女はいう。

「すべての他の女たちにまさりて、プリアモスのかの処女(ポリュクセナ)のみぞ幸いなりしかな。彼女こそトロイの高き城壁の下なる敵の墓にて、死すべく命ぜられつ。彼女こそいかなる運命のくじ引にも加わらず。はた捕われ人となりて勝ちほこりたる主人のふしどに引き寄せらるることもなかりしぞや。

されどわらわは、祖国の焼き失なわれしのち、さまざまの海を運ばれ渡り奴隷の生の中に、一児をもうけ、驕慢なる若人、アキッレースの子(ピュロス)の無礼を忍びけり。

そののち彼はレーダの血統なるヘルミオネーと、スパルタ風の結婚とを求め、わらわをば奴隷(ヘレノス)に属する奴隷として、ヘレノスに渡したり。

さるに、オレステースぞ、奪われたる妻に対する大いなる愛に燃え立ち、かつはおのれの罪の悪鬼にさいなまれ、油断せるピュロスを待ち伏せし、その父の祭壇のかたわらにて殺害したる。

すなわちネオプトレムスの死により、その王国の一部は当然ヘレノスに渡りぬ。彼はこの平原をカーオニアと名付け、全土をもトロイのカーオーンになぞらえてカーオニアと呼び、ペルガマおよびこのイーリウム城砦を、小山のうえに置きぬ。

されど御身は、いかなる風、いかなる運命のため、船路をここに漂わされたまいしや。またいかなる神の、われらがここにありとも知らぬ御身をわれらの磯に打ち寄せたるや。

御身の子アスカニウスはいかなりしや。彼はなお生きて、息吹しつつありや。

彼こそはトロイの(包囲の始まりしころ、汝が妻のもうけし者なりしか。彼女は死せるが、)

しかし彼の少年は失われぬる母のことを、いまも悔むや。しかして、彼の父なるアエネーアースと伯父なるヘクトールとは、彼をば父祖の武勇と雄々しき魂とにかき立つるや」

かかる言葉を、彼女は涙を流してかきくどき、かつ空しく長き悲嘆を惹起す。そのとき、見よ、プリアモスの子、勇士ヘレノスぞ長き供揃いして、城壁より出で来たる。

彼はみずからと同じ国人を認め、喜びて彼らを宮殿に案内しつつ、しげき涙にて言葉は一言ごとにたえだえとなりぬ。

われは進み行きて、小なるトロイを、大なるものの模型なる第二のペルガマを、クサントゥスの名を負える流れの乾ける河床などを見る。しかしてわれはなつかしさにスカエアの門の柱をかき抱く。他のトロイ人らもまた同時に、おのれが友なるこの町を喜ぶめり。

さて、王は広き通廊にて彼らをもてなす、広間の真中に彼らは、杯より酒を灌祭し、金の大皿に食物をもり、手には大いなる盃を取り持てり。(3-二九四〜三五五)

『日は今日明日と過ぎ、ほどよき風は船出をさそいて、帆布(ほぬの)は風に満ちふくらめり。われは予言者(ヘレノス)に話しかけて、彼にこの疑問を尋ね聞かまくす。

「トロイの子よ、天意の解釈者よ、ポイボスの御意も、三脚台も、クラロスの主(アポロン)の月桂樹をも知り、星辰と、鳥語と、彼らの飛翼の兆候とを解く者よ、

いで語れかし――そは、好き予言はみなわれに、わが全航程を告げ、あらゆる神々はひとしく、わがイタリアに向かい、その遠き国土に到り着かんと努むべきことを、彼らの意志もて勧めたれど、

ただ一つハルピュイアのケラエノーのみぞ、名状しがたき奇怪なる凶兆を予言し、神々の悲惨なる怒りと、けがらわしき飢餓のことをぞ告げたる――

われに語れ、友よ、いかなる危険をわれはまず避くべきか、またいかなる道程をとることによりて、われはかく大いなる苦難に打ち勝ち得べき」

そのとき、ヘレノスはまず正しき方式もて、若き牡牛を犠牲となし、神々の恩恵をねぎ求め、それより彼の聖なる頭の飾り紐を解き、みずからわが手を取り、ポイボスよ、神の偉大なる存在の前に恐れかしこめるわれをば、汝の神殿につれ行き、やがて神がかりせる口を聞きて、この司祭はかくぞ予言したる。(3-三五六ー三七三)

『「女神より生まれたる者よ、汝がわれよりも大いなる予兆のもとに大海を渡ることは、明白なる事じつにして、神々の王も運命をかく定め、事件の変転をかくめぐらしたまう。されば事は序(ついで)を追いてかく起こり来たるなり。

汝がさらに安らかに未知の海をつらぬき通り、ついにはイタリアの港に休息を得んがためには、われは多くの事の中よりわずかばかりをば汝に語り知らさん。

そはその他のことに至りては運命の女神、ヘレノスの知ることを禁じ、サートゥルヌスの娘ユーノーわが言葉をやむればなり。

さて第一に、イタリアのことなるが、汝はいまそれをいと近しと思い、かつ、無知なる者よ、ただちにそのほど近き港に入らんと心がまえすれど、こは道なき道の長手のはるばると、国々遠く汝よりそれを隔ておるなり。

されば汝が安全なる土地に定住の都を建てうるまえ、まず汝は櫂(かい)をシチリアの波にしなわせ、汝の艦隊もてテュレニアの海面を乗り切り、地下界の湖とアエアエアのキルケーの島を通過せざるべからず。

われ、汝にしるしを告げん。心に銘して忘るることなかれ。

汝の心悩める頃おい、淋しき川のほとりにて、大いなる牝豚その一腹の子三十を生みたるのち、——白き母とその乳首に群れがる白き子豚ら地上に休らい、――槲(かし)の木の下に横たわり居るを汝が見出したるときは、

それこそ汝の都を建つる場所なれ。それこそ確かに汝の労苦のいや果ての場所なれ。

またやがて来たらん食卓を食らうという事を恐るるなかれ。運命、道を開き、アポロン汝の祈願の声に応じて汝を助けん。

されどこのあたりの国土、およびわれらの海の潮に洗わるるいと近きイタリアの海岸地方はこれを避けよ。すべてこれらの都市には悪意あるギリシア人住めり。

ここにナーリュクム(コリントス湾)のロクリー人彼らの城壁を建て、リュクトス(クレタ)の人イードメネウス、兵をもってサッレンティーニー人の平原を占む。ここにメリボエア(テッサリア)の将軍ピロクテーテースのかの小都市ペテーリアその城壁のうえに安息す。

しかり、汝が艦隊の海を横切りて進みしのち、錨を下ろし、祭壇を建て、やがて海岸において神々に誓約をはたすとき、汝は緋の外套もて身体を包み、汝の頭髪をおおえ。

そは神々を祭る聖火の中に、敵意ある顔が闖入し、予兆をかき乱さざらんためなり。

宗教上のこの慣例を、汝の仲間たちにも保たしめよ。汝自身もまたそれを守れ。汝の敬虔なる子孫にもこの神聖なる方式をかたく守らしめよ。

されどなお、汝がその地をはなれ、風汝らをシチリアの海辺近く運べるとき、しかして狭きペロールスの海峡(メッシナ)が、汝の眼界に開けはじめしとき、汝は左方の陸地(シチリア島)と左方に横たわる海とを求め行くべし、迂回の道はたとえ長々しくとも、右方の海岸(イタリア本土)と水とはこれを避けよ。

この場所はかつてあらあらしき力とおびただしき震動もて、二つに引き裂かれ、かけ離れたりと人々は語り伝う――長き時間はかく大いなる変化をもひき起こすものぞ——この二つの陸地はいずれも全く打ち続ける一つの土地なりしが、

大海その真中に突き進み、波もてイタリアの海岸をシチリアより切り放ち、磯辺に沿いて引き離されたる野や町の間に、狭き潮となりて流れ込みぬ。

スキュラはその右岸を守り、惨忍なるカリュブディスはその左岸を守る。しかしてカリュブデイスは、うず潮のそこりに、日に三度大波を底なしの淵に吸い込み、再びそれをその度ごとに空中高く吹き上げ、星を水もて打たんとす。

さて、スキュラは暗き隠れ家なる洞穴に身をひそめ、しばしば口を突き出して、船どもを岩のうえに引き寄する。

彼女の上体は人間の顔を持ち、美しき胸して腰までは女なれども、下体は恐ろしきあやかしの姿にて、海豚の尾、狼の腹につながれり。

よしや、日は遅るるとも、シチリアのパキュノスの岬の端をよぎり、大まわりの道を取るこそ、一朝、わびしき洞穴のなかなる妖怪スキュラと、暗青色の猟狗(りょうく)の吠え声反響する岩々を見るよりも、はるかによけれ。

なお、もしわれヘレノスにそくばくの洞察あり、もし予言者に信頼帰属し、もしアポロンわが魂を真実の啓示もてみたすならば、この一事を、神より生まれたる者よ、さなり、他のあらゆることどもを超えて、この一事をわれは予言し、反覆し、再三汝にそれを警告せんとはするなり。

まず第一に、偉大なる女神ユーノーの神性を祈願もて賛美せよ。歓喜の心もて汝の祈誓をユーノーに歌え。権力偉大なる主権者を、哀訴のささげ物もて汝自身のためにかち得よ。かくてぞついに汝は志を得て、シチリアを去りたるのち、イタリアにぞ送らるべき。

さて、この海岸に運ばれ、クマエの町と、神聖なる湖水と、森叫ぶアウェルヌス湖地方に近付きたるとき、

汝は狂える女予言者が、巌窟の深きにありて運命を語り、そのしるしと言葉とを木の葉にたくするを見ん。

いかなる予言にてもこの処女はこれを木葉にしたため、その順序を整え、洞穴の中に閉じこめ残し置くなり。それらはしかとその場所にとどまり、順序を違えず。

されどもし扉のとぼそが回転し、微風それらのうえを吹き、一旦軽き木の葉を乱すことあらば、そののち彼女は巌窟内に飛び散れるこれらの木の葉をとらえ、またはその適当なる位置を回復し、または予言の詩句を連絡するの労を取ることなし。

かかる場合には、人々は答えを得ずして去り、シビラの神殿を憎む。されど、いかに汝の友らは汝を責め、汝の船の帆ばしりて疾く大海に乗り出すことをすすめ、かつよしや追い風に帆布はふくらませえるとも、汝はそこにて費す時間をいたく惜まんがため、

予言者に近付き、彼女みずから予言をなし、かつ進んで声と口とを開くよう、その託宣を哀願することを忘るるなかれ。

彼女は汝にイタリアの国民のこと、来たるべき戦争のこと、および汝がいかなる方法にて、あらゆる労苦を避けまたは忍びうるかを啓示し、汝の祈願に対して幸ある航海を許すべし。

これぞわが声もて汝に忠告し得ることどもなり。ここより、急ぎ行け、しかして偉大なるトロイを、汝の功業によりて大空までも高くあげよ」(3-三七四〜四六二)

『さて予言者は、親しき口調もてこれを言い終わりしとき、次に黄金を彫刻したる象牙の重き贈り物を船に運べと命じ、船底には重厚なる銀の皿、ドドナの大釜、黄金のくさりもて三重に縅(おど)したる胸甲、美しき兜の鉢金と吹き流しの羽毛——これぞネオプトレモスの物の具なり――などを積込む。わが父にもまたふさわしき贈り物あり。

これらに彼はまた馬と案内者とを加う。なお彼はわれらに新しき漕手を補い、わが友らにもまた武器を供給す。

その間にもアンキーセスは、われらを吹き送るべきよき風のあるに、われらの遅滞せんことを恐れ、しばしば艦隊の帆をあげよという。

彼に対し、アポロンの予言者は、多くの敬意を致しながら話しかけて、

「ウェヌスとの高貴なる媾いをだにふさわしと見られ、天意によりて二度までもトロイの滅亡より救われたるアンキーセスよ、見よ、汝の前にイタリアの国土横たわれり。帆をあげてそこに着かんと急ぎたまえ。

されど汝はまず海上に浮かび、近き磯辺(東海岸)を過ぎざるべからず。アポロンの啓示せるイタリアの、その地方は遠し。

いざ行け。汝が子のかしずきによって幸多き者よ。いかなればわれ、なおも物語をつづけ、わが言葉もて、吹きおこる程よき風に汝を後らすべき」と彼はいう。

これに劣らず、アンドロマケーも最後の離別を悲しみながら、黄金の糸もて刺繍したる長衣、またアスカニウスに合うプリュギアの外套などをもたらして、われらを敬愛することその夫に譲らず。

また織機(はた)にて作りたる贈り物を彼(アスカニウス)に積み重ねていう。

「この土産物も受けたまえ、和子よ、これらは御身に対し、わらわの手仕事の記念ともなり、ヘクトールの妻アンドロマケーの変らぬ愛の証拠ともなるべきものぞ。汝が眷属の最後の贈り物をとれ。


あわれわがアステュアナクスのただ一つの生き残れる姿よ。彼の眼、彼の手、彼のかんばせ、みなかくぞありける。さて、彼もいまわ御身と同じ年頃にて、大人となりてぞあるべきに」

われは彼らと別るるとき、涙を流しながら彼らにいう。

「いざさらば、幸ある世を送りたまえ。君たちの運命ははや全く定まりぬ。われらは一つの運命より他の運命へと渡さるる。

君たちははや安息を得て、大海の面を走る要もなく、つねに退却するとも思わるるイタリアの野を尋ぬる要もなし。君たちはいまやこの地に安住してクサントゥス河の模写姿、および君たち自身の手にて、願わくば(原のトロイより)さらによき予兆のしたに造られ、かつギリシア人の力に左右せらることさらに少なきトロイを見る。

われもし一旦ティベリス河およびその岸に沿える野に達し、わが種族に許されたる城壁を見る日来たりなば、

ここにわれらはエーペイロスとイタリアとにおける、同じダルダノスを始祖とし、同じ不幸にあいし相関連せる都市と、相隣れる人民とを将来結合して、彼ら両者を心は同じ一つのトロイとなすべし。この務めはわれらの子孫に残れよかし」(3-四六三〜五〇五)

『われらは程近きケラウニア(エーペイロス)に接近しつつ海上を急ぎぬ。そこよりイタリアへ通う順路あり、こは海を渡りて行くに最も近き航路なり。

そのうちに日はおちいり、山々は夜の影に包まる。われらはくじにより、櫂をまもるべき人々を選びたるのち、水近く望ましき陸地のふところに身を投げ、ここかしこ、乾ける磯にそいて体を休むるに、なごやかなる眠りはわれらの疲れたる手足を元気もてうるおす。

夜の神、「時」に導かれつつ、なおいまだ軌道の中点に達せず。

そのとき、パリヌールスは油断なく寝床より起き上がり、あらゆる風を調べ、耳を傾けて空気の動きをとらえんとす。

彼は大角(たいかく)星(アルクトゥールス)、雨を呼ぶ牡牛星座(ヒュアデス)の群星、双熊星(大熊小熊)など、各星あいともに静寂の空をすべるを見、また黄金にて武装せるオリオーンを注意深く観測す。

すべて自然が穏やかなる空に安定するを見たるとき、彼は船尾より鋭き合図を与え、われらは仮屋を片付け、船出せんとして、はためく帆をば広ぐる。

やがてアウローラ(曙)は星を追いやりて、あからみはじめて、そのときわれらは遠く霧にぼかされたる山々と、イタリアの低き海岸とを見たり。アカーテースぞまずイタリアと叫ぶ。イタリアに、わが友らも喜びの叫び声をあげて挨拶す。

そのときわが父アンキーセスは、大盃を花かづらもて飾り、醇酒(じゅんしゅ)をみたし、高きともに立ちて神々に呼びかくる。

「海と陸地と嵐との司(つかさ)なる神々よ、我々に風なめらかなる道を与え、願わくは順風を吹かしめたまえ」と。

すなわちわれらの祈りたる軟風あらたに吹き起こり、次第に近く港の開くるが見え、ミネルヴァの殿堂ぞ城山のうえに現わるる。

わが友は帆を巻きおさめ、船首を海岸に向けたり。

港は東よりの波浪の力もて弓形にえぐられ、突き出でたる岩どもは潮水の泡もてふりまかる。

湾自体は隠され、そびえ立つ断崖はその双の腕を二つの壁のごとく伸べおろし、殿堂は海岸よりやや奧まりたる所にあり。

われはここに最初の予兆、すなわち広く平原に草を食みつつある、雪のごとく白き四匹の馬を、芝地のうえに見出しぬ。

わが父アンキーセスはいう。「汝未知の陸地よ、戦さをば汝はもたらすなり。馬は戦いのために武装せらるる。さればこの馬の群れは戦いを予示す。

されど、それにもかかわらず、これらの同じ四足の動物はときどき馬車をひき、甘んじてくびきの下にくつわを着くることもつねにあり。されば平和の希望もまた存するなり」

そのときわれらは、いたく喜べるわれらをどの神よりも先に迎え入れたる、武器鳴り響くパッラスの聖なる力に祈る。

かくて、われら、祭壇の前において、プリュギアの外套もて頭を包み、ヘレノスが特に与えたる警告に従い、アルゴスのユーノーのためにささげよと言われたる犠牲をばうやうやしく焼きてたてまつる。

その後は少しも遅滞せず、われらの祈誓の果たさるるやいなや、帆を張りたる帆桁の先端を海に向け、ギリシア人の住まいより、はたわれらの心ゆるされぬ野より逃れ去る。

やがてもし人の噂のまことなりせば、ヘラクレスの創設したりというタレントゥム(ターラント)の湾、かすかに見ゆ。それと相対して立つはラキニウム(クロトネ)の女神の神殿、船人を難破さするスキュラケウム(スキッラーチェ)、カウローニアのそびえ立つ断崖。

次には遠くシチリアのエトナの山ぞ海上に望まるる。そのときわれらは、遠くより大海の非常なるうなりと、波打つ断崖と、大波の岸に砕くる音とを聞く。遠浅には波飛び立ち、砂はうねりに巻きかえさる。

ここにわが父はいう。「これぞ一定かの恐ろしきカリュブデスにして、これらの懸崖、これらの巉巌(ざんがん)をこそ、ヘレノスがわれらに恐ろしと警告したるなれ。身を救え、わが友らよ、調子を合わせて漕ぎに漕げや」

彼らは言わるるままに従いつ、パリヌールスまずそのきしり鳴る舳先(へさき)を、左の方なる海に向けかえ、わが船人どもはみな、櫂と帆とをもて左に転ず。

われら波頭に乗れば天にも昇り、波間に落つればまた奈落の底にも沈まんとす。

三度断崖が岩窟の中に叫び、三度水泡つき出して星の空を浸すを見たり。(3-五〇六〜五六七)

『その間に風も太陽も同時にわれら疲れたる船人を見捨てぬ。

行くべき道を得知らねば、われらキュクロプスの岸辺に漂う。

港は風の通い路から蔽われて、動かずかつ広し、されど近々とエトナの山、恐ろしき破滅の音を立てて鳴りとどろき、

ときどき墨のごとき旋風と赤熱せる余燼(よじん)をともなう暗き煙雲とを高きに投げ出し、炎の球をあげて夜天の星を嘗むる。

またしばしば岩石や引き裂かれたる山の内臓を吐きだしつつ立ちのぼり、うなり声をあげて融けたる岩石を高きに集め、いと深き底より沸き立ちあがる。

伝えいう、電光に焼けこがされたるエンケラドスの体は、この大塊(たいかい)に圧倒せられ、彼のうえに置かれたる大エトナは、その爆発する熔鉱炉より炎を吹き出し、この巨人が疲れたる体側を寝返りするごとに、全シチリアは轟々と打ちふるいて、天は煙におおわるると。

その夜、よもすがらわれらは森の下かげに、奇異なる予兆を忍びたれど、いかなる原因がこの騒音を生ずるかを知らず。

そは星宿も光を与えず、天極も星空もて輝かず、暗き天には一面に雲ありて、陰鬱なる夜はその中に月を隠したればなり。(3-五六八〜五八七)

『次の日はまさに黎明もて始まり、曙の女神は大空より湿めれる陰を取り去りぬ。そのとき不意に森の中より見知らぬ人の、こよなくやせ青ざめ、いぶせき衣をまとい、異様の姿したるが出で来たり、哀訴して手を磯の方に差し出す。

われらは振向きて見るに、そのむさくるしきことはうちおどろかるるばかりにて、ぼうぼうたるひげは垂れ下り、衣服はいばらのとげにて締め合わせたり。されどその他のことにては彼はまさしくギリシア人にて、かつてはその国の武具を着けて、トロイに送られたる者のひとりとぞ見ゆる。

いま、遠くよりトロイ人の服装とトロイの甲冑とを見たるとき、そのあり様におじ恐れて、彼はしばらく身動きもせず突っ立ち、歩みをとめてありけるが、やがて急ぎに急ぎて磯辺の方へ、涙と祈願もて走り寄りぬ。

彼はいう。「星に誓いてわれは君らに乞う。はた上なる神々および天なる光明と霊気に誓いて。

あわれトロイ人たちよ、われを伴い去れ。われをいずれの土地にても連れ行け。ただそれだけにて満足なり。われはみずからギリシアの船艦の一員なりしことを認む。また戦さの時にあたりトロイの家の神々を襲いしことを告白す。

そのためにもし我が罪の害悪のいと大なりとならば、わが身を引き裂きてそれを波のうえにまき散らせ。しかしてわれを深き海に沈めも果てよ。

もし我が身ほろぶべきものならば、人間の手によりてほろぶるこそせめてもの心やりなれ」

彼はかく言いてわれらの膝をかき抱き、おのれが膝のうえにひれ伏しつつ、われらに取りすがる。われらは彼を励まして、彼が何者なるか、いかなる血統より出でたるかを物語らせ、次にはいかなる運命におわれたるかを告白せしめんとす。

わが父アンキーセスは、ためらわず、みずから右手をその若人に貸し、彼の心を即座の誓約もて安んず。(3-五八八〜六一一)

『ついに彼は恐怖を去りて、かく語り出づる。

「われは故郷イタカより出で来たりし者、不運なるウリクセースの従者にして、名はアカエメニデース。わが父アダマストス貧しかりしゆえをもて——ああ貧しき運命に安んぜしならばよかりけん——われはトロイに向けて出征しつ。

ここにてわが友らは、急いで恐ろしき住み家より逃げ出づるなべに(注)、キュクロプスの広き洞窟に、われを忘れて取り残しぬ。

注 「なべに」は「時に」

そは血のかたまりと、血なまぐさい食物の家にして、その内は暗くひろし。彼自身は高くそびえ立ちて、頭は星に達するばかり――神々よ、かかる魔物を世界より取り除きたまえ――

そは見るだに耐えがたく、何人も言語もて彼に話しかくることを得ず。彼は哀れなる者どもの臓腑と黒き血とをもて身を養う。

さきにわれはわが眼にて、彼がわれら一行の中の二人を大いなる手もて引っつかみ、洞穴の真中に身はあお向けにふしながら、彼らを石にたたきつけて打ちくだけば、血のかたまりは跳ねちりて部屋をみたすときの、そのあり様を見たり。われは、彼が黒血したたる手足を噛めば、関節はなお彼の歯の下にて温かに打ちふるうときの、そのあり様を見たり。

されど彼にもその罰報なくには済まず。ウリクセースはかかる事を容赦せず。またこのイタカの君はかかる危うき場合に臨みても、自己を忘れ失うことなし。

されば、彼が肉に飽き血に酔いしれて、うなだるる首を休めんと、汚き血のかたまりと血の酒にまじる肉片を吐き出しつつ、巨大なる姿を伸ばして洞穴の中に横臥するやいなや、われらは偉大なる神々に祈りをささげ、銘々の役割をくじもて定め、いっときに四方より彼の周囲に群がりかかり、銃き武器もて彼の眼をえぐり抜く。

眼は巨大にしてただ一つものすごき額のしたに深くはまり、ギリシアの盾のごとく、また太陽の輝く円盤に似たり。かくてわれらはうれしくもついに友の幽魂のため仇を報いぬ。

されど、逃げよ、汝あわれなる人間よ、逃げよ、しかして早く岸辺より船の纜(ともづな)を切れ。そはおのれの洞穴の中に羊の群れを閉じ込め、彼らの乳房を絞るポリュペーモスのごとく、凄惨巨躯なる他の数百の怪物キュクロプス、この曲折せる磯に沿うていたるところに住み、高き山々の上を徘徊すればなり。

さて、われひとり取り残されてのち三度新月の角は光もて満たされつ、そのあいだわれは森の中にて、野獣のさびしき巣穴と住居の間にわが命をひきずりつつ、遠くの岩より巨大なるキュクロプスを見、彼らの足踏む音や、彼らの声のうなりにうちふるう。

いちご、岩ぐみなどのごとき貧弱なる食物を、小枝はわれに与え、われはまた草を引き抜きて、その根を噛む。

わが四方を見張れる間に、君らの船艦ではじめてこの磯辺に近付きたる。たとえいかなることになり行くとも、それにわが身を打ち任せ、この魔物の族より逃るるをもてわれは満足せん。むしろ君らぞ、いかなる死をもってしても、わがこの命をとれ」(3-六一二〜六五四)

『彼がこのことを語りおわるかおわらぬに、われらは山の頂きに牧人ポリュペーモス自身が、その羊の群れの中にいと大いなる姿してんくむくと動きつつ、よく知れる磯辺の方に行くを見ぬ。そはものすごく、醜く、巨大なるが、もの見る力を奪われたる怪物なり。

手にせる、枝を取り払いたる松にて足場をさぐりつつ、歩みを定むれば、綿毛の羊の群れ、彼のあとに従う。彼らぞ彼のただ一つの楽しみにして、災禍の中のわずかなる慰めなる。

彼、ようやくにして深き波浪に触れ、海上に達したるとき、水もて、えぐり抜かれたる眼より流れ出づる血潮を洗い、歯噛みをなし、うなり声をあげつつ、水を分けて全く海中まで歩み出づるに、かくてもなお彼は彼の丈高き脇腹を濡らさず。

われらは急ぎに急いで、そこより遠く逃げ出だし、助くるにふさわしと思う嘆願者を船に取り乗せ、静かにともづなをたち切り、みな身を前にかがめ、われがちに櫂もて水のおもてを打つ。

彼はその物音を聞き付け、櫂の音のする方に歩みを向くる。されどいかにしても右手もてわれらをつかみ得ず、またわれらを追いてイオニアの波と競い得ぬとき、彼、大いなる叫び声をあぐれば、海とその大波とはことごとく揺れふるい、遠く隔たりたる内地までイタリアの国土は恐れおののき、エトナはその曲折せる穴の中に轟々と鳴りはためく。

これによりてキュクロプスの族は、森の中より、また高き山々よりふるいたち、港に突き進み、海岸にあつまる。

われらはエトナの兄弟らが、天へとその高き頭を持ち上げつつ——恐ろしき集合よ——すごき眼して、なすべきすべも知らず、そこに立つを見たり。

そのあり様をたとえて言わば、ユピテルの高き森、またはディアーナの杜なる、矗々(ちくちく)たる槲(かし)や球果実れる糸杉などの、いと高くそびえ立てるがごとし。

鋭き恐怖はわれらを駆り、急いでつなを解き、順風に帆をみたさんとす。

されどヘレノスの訓諭は、いずれの側に寄りても死をのがるるは危機一髪なる、スキュラとカリュブデスとの間に針路を取らぬようにと、船人をいましめたり。さればわれは後戻りせんと思い定む。

そのとき、見よ、北の風はペロールス岬の海峡より吹き来たりぬ。われら自然の岩々あるパンタギアスの河口と、メガラの湾と、低く横たわるタプソスとを浮かび過ぐるに、

不運なるウリクセースの友アカエメニデースは、かつて彼が漂いし海岸を、再びたどりつつも、かかる場所をぞわれらに指示しける。(3-六五五〜六九一)

『シラクサ湾の前方に広がり、多くの波に洗わるるプレミュリウム岬と相対して、一つの島あり。古人はこの場所をオルテュギアと呼びぬ。

伝説によれば、エリスの河なるアルペウス、海底に隠れ路を作り、ここへと押し進みて、いまわ、アレトゥーサよ、汝の噴泉を通してシチリアの波とまじわるという。

われらはヘレノスの命のごとく、この地の大いなる神々を礼拝し、次に沼沢多きヘロールス(シラクサの南)に沿える肥沃の土地を過ぐ。

そののち、パキーヌス(パキーノ)の高き懸崖と、突き出でたる岩々に接近して帆ばしり過ぎ、遠くに運命がこれを動かすことを禁じたりというカメリーナ、またゲラの平原、およびそこなる激しき河の名によりて呼ばるるゲラの町を望み見る。

その次には険しきアクラガス(アグリジェント)、遠くその大きな城壁を示す。こはそのむかし霊馬(注)を産したるところなり。追風よければ、棕侶の町なるセリーヌス(セリヌンテ)よ、汝をあとにして、暗礁多く危険なるリリュバエウム(マルサラ)の浅瀬を進む。

注 霊馬は名馬のこと。

それよりドレパナ(トラパニ)の港と味気なき海岸とわれを迎う。ここにて、海のいと多くの嵐に追われ来たりしわれは、あわれ、わが父アンキーセスを失いぬ。あらゆる苦労にも危難にもわが慰めなりしものを、ここにて、最もよき父よ、君はその疲れたる子を捨て去りぬ。あわれ、君がかく大いなる数々の危険より救われたるも、ついにあだなることなりしか。

多くの恐ろしき事どもは警告したれど、予言者ヘレノスも、なおまた獰猛なるケラエノーも、この悲しみはわれに予言せざりき。

これぞわが最終の辛苦にして、これぞわが長き船旅の果てなりしか。われ、ここを立ち出でしに、神は君(ディドー)の磯辺にわれを駆りたまいぬ』(3-六九ニ〜七一五)

かく父アエネーアースは、ひとり、多くの熱心なる聴衆を前にして、神々の定めを語り、おのれの航海を告げつ。ついに彼は言葉を止め、ここに結びをつけて、彼の長き物語を終わりぬ。(3-七一六〜七一八)




第四巻梗概(上132p)

女王ディードー、妹アンナにその苦しき胸をうち明く。亡夫シュカエウスへの貞節の誓いなかりせば、彼女は必ずこの恋にうち負けたるならん。

アンナはアエネーアースに懇願し、ディードーはほとんど恋にうち負けて縁結びの神々に犠牲をささぐ、彼女の恋情の増し行く説明。

女神ウェヌスいつわりて、アエネーアースはディードーと結婚し、カルタゴの王たるべしという女神ユーノーの提議承諾す。狩猟のとき、ユーノーは暴風雨を呼び起し、恋人は洞窟に避難し、そこにて婚姻を誓約すべしとなり。計画は完成す。ディードー恋に身をまかす。

「風聞」と言うものの性格描写。この者ひろくその話を伝え、ディードーに恋せる妬み深きイアルバス王をして、その父ユピテル大神に干渉を請願せしむ。ユピテル、使神メルクリウスを使いとしてアエネーアースにその使命を思い起さしむ。アエネーアース、使信をかしこみ、ただちに逃避の準備をなす。

部下は喜び、ディードーは失望す。彼女は彼のとどまらんことを懇願し、彼に去らるるおのれの身のあやうさを数えあぐ。

アエネーアースの冷酷。彼もまたディードーを愛すれども、彼はいかなる犠牲を払いてもなし遂げざるべからざる運命の奴隷なり。

彼に激しき呪いを呼びくだしたるのち、ディードーは気を取り失う。されど彼女を慰めんとする衝動を圧伏しつつ、彼は出発の用意に急ぐ。

ディードー、アンナを使いとしてアエネーアースに最後のねがいを伝う。されど彼は心の懊悩にかかわらず神々に従う。

激しき悲嘆に陥りたるディードーは、アエネーアースの愛の贈り物を残らず焼くという口じつにて火葬壇を作り、魔女を呼ぶ。用意整いて、最後の嘆きを述ぶ。

使神メルクリウス、アエネーアースに警告を繰り返す、アエネーアースただちに出帆す。暁、彼の逃亡明らかとなりて、ディードーはおのれをあざむきたる者を呪いながらおのれの手にたおれ、妹は絶望し、臣民は驚愕す。

第四巻

されど女王は、早くより恋の深き悩みに打たれ、身体の血もてその手傷を養いつつ、隠れたる情火に焼つくされんとす。

あまたたび勇士アエネーアースの真価とその家門の栄誉とは、彼女の胸に立ち返り、彼のかんばせも言葉もしかと心にまつわりて、なやみは手足にも静かなる休らいを与えず。

その次の日の曙は、ポイボスのランプもて世界を照し、しめれる陰影を大空よりぬぐう。そのとき心狂わしき彼女は、同情心深き妹にかくぞ話しかくる。

『わが妹、アンナよ、いかなる夢の、心悩めるわらわを、かく恐れしむるならん?われらの家に入りたる、この新しきまろうどは誰そ?

そのかんばせや態度の気高さよ!そのもののふの精神やいさおしの雄々しさよ!

げにわらわは、彼ぞ神の御裔と思い入りぬ。かく思い入りぬるにはその道理なきにあらず。

卑怯は魂の賎しき生まれつきをあらわすものぞかし。あわれ、彼はいかなる運命の嵐にもまれけるか。またそのいやはてまでいかなる戦さを忍び通しけるかを詳らかに語りけるよ!

もしわらわが最初の恋にあざむかれ、恋人の死によりて全く望みを失いし時よりこのかた、結婚の絆によりて何人にもわが身をあわすることをうべなわじと、心に固く思い定めざりせば、もしわらわが花嫁の新室(にいむろ)と、婚礼のともしびとに全く心倦みてあらざりせば、おそらくわらわこの一つの心弱さに従うことととなりたらん。

さなり、アンナ、まことのことを打ち明くれば、わが不幸なる夫シュカエウス非業の死にあい、家神(ペナテス)わが兄弟のなしたる殺人の血潮にけがされたる以来、ただ彼のみわが感情を揺り動かし、よろめくまでにわが決心を圧倒したる。われ、いまこそさきの日の情炎の痕跡をわが身体に感ずるなれ。

されど、貞操よ、われ汝を破り、汝の掟を軽んずるならば、願うはその前に、大地まずいと深き底まで口を開きてわらわを呑み、または全能の大神電光をもて、闇中(あんちゅう)に、よみじの青白き闇の中に、夜の深淵に、わらわを打ち倒したまえとこそ。

最初にわらわをその身に結びつけたる彼の人(シュカエウス)ぞ、わらわの愛情をみな持ち去りたる。彼、失うことなく、それを墓の下に保ち伝えよかし』

彼女はかく言いて、せきくる涙を胸に充たす。

アンナは答えて言う。『汝が妹には光よりもなおいとしの君よ、若き日をみなひとりみの悲しみに暮らさんとや。またいとし子も恋のつぐないも身にうけんとはしたまわざるや?

死者の灰と魂とが、それに関心を持つと思いたまうや?

さもあらばあれ、リビアにおいても、またこれよりさきテュロスにおいても、いかなる求愛者も悲しめる君をかつて動かすことなく、イアルバースその他武勲に富めるアフリカ出身の諸王たちも、君に軽んじめられたるばかりなりしに、いままた君をかくばかり喜ばすなる恋に対してすら、戦いを挑まんとはしたまうや。

いかなる者どもの国土に君は植民したるかという事も考慮には入らざるや?こなたには戦いに負くるということ知らぬ種族なるガエトゥリ人の町々、はた、不羈なるヌミディア人ら、および危険なるシュルテス、君の周囲を取り巻き、かなたには雨降らぬために荒凉たる地方と、遠く広く荒れ狂うバルケ人あり。

テュロスより起らんとする戦争と、われらの兄弟よりの威嚇とは、また口にする要あらんや。

わらわには、少くとも神々の御導きとユーノーの御恩寵とによりて、イーリウムの艦どもここにただよい着きたりと思わる。

姉上よ、かかる婚姻によりてこの都が、いかに偉大なる都と立ち栄え、いかに偉大なる国土のそれより生ずるかを、君は見たまうべし!トロイ人たちの武力を味方としたらんには、カルタゴの栄光は、いかなる高さまで達すらん!

ただ神々に恩恵を乞いたまえ、適当なる犠牲もて神々をなだめたるのち、冬の荒天と多雨のオリオンとが、海上に荒れ狂い、彼の艦ども傷つき損じ、天候は航海に思わしからぬ間に、ひたすら歓待に専念し、彼らが滞在すべき理由をば織りなしたまえ』(4-一〜五三)

これらの言葉もて彼女は、すでに燃え立ちたる姉の魂を、恋の情炎もてさかんにし、揺らげる心に希望を吹き込み、そのためらいを消し去りぬ。

彼らはまず神殿をおとない、一つ一つの祭壇に恩寵を乞う。立法の神ケレースのため、ポイボスのため、またリュアエウス主(バッカス)のため、就中婚姻の守護神なればユーノーのため、正しく選びたる二歳の牝羊をほふる。

さていと美しきディードーは、みずから右手に大杯を取り持ち、真白なる若き牝牛の角のあいだに神酒を注ぎ、

または神々の大前なる犠牲多き祭壇に歩み寄り、ささげ物もてその日を荘厳にし、あるいはまた犠牲の獣の裂きたる胸を視て、彼らの打ちふるう内臓をしらべなどす。

あわれ、その司祭たちの心のいかにおろかなりしか!恋に狂える彼女には、誓願何の効あらん?神殿何の益あらん?柔かき情炎は絶えず彼女の心髄をむさぼり食み、もの言はぬ負傷は胸のなか深くぞ生くる。

哀れなるディードーの、その情炎を身に感じ、狂い心地に全市をさまようあり様は、たとえば牧人が弓もて牝鹿を追いかけ、クレタの森の中にて、遠くよりその不意を射るに、彼は射ち当てたりとも知らず、羽根ある矢をばそこに止どめたるとき、その射られ牝鹿の、脇腹には命の仇矢をしかと立てたるまま、ディクテの森も細道も逃げ迷うあり様にぞさも似たりける。

いま彼女はアエネーアースを伴いて、町の中心を案内し、カルタゴの富を示し、すでになりたる都を示す。

彼女は、何か語り始めては、ふとなかぞらにて言葉を断ちつ、やがて日も傾くころとなれば、また同じ饗宴を繰り返し、心狂えるようにまたもトロイの苦難を聞かせよと乞い、物語りする彼の雄弁をただ恍惚とまた聴き入るばかり。

そののち、客散じ、月も薄暗く続いて光を隠し、傾く星影の人を眠りに誘うころともなれば、

彼女はひとりむなしき邸内にありてなげき、彼の立ち去りたるあとの寝椅子に身を投げ伏す。

彼女は彼より、はた彼は彼女より遠けれども、彼女は彼を聞き、彼を見、はた得も言われぬ恋情を紛らすよすがともなるやと思い、父親によく似たる面影に魅せられて、逡巡として膝のうえにアスカニウスをぞ愛づる。

されば、建てかけたる塔は工事を止め、若人らはもはや武技を練らず、港を築かず、また戦時の防御をも安全にせず、工事は中止せられ、恐ろしく大いなる城壁も、天まで打ちあげたる機械も、みな休らい止まりぬ。(4-五四〜八九)

ユピテルのいとし妻は、ディードーがかかるいまいましき事に心を奪われ、彼女の名声も、その激しき情欲の前には力なきことを知るや、このサートゥルヌスの子は、ウェヌスにむかいかくぞ語りかけける。

『じつに華やかなる誉れと、大いなる分捕りとをしたまうものかな、御身と御身の子とは。二柱の神々の奸計もてひとりの女を圧伏するときにこそ、御身たちの神威は大にして誉れあるものなれ。

わらわ、御身がわらわの町を恐れ、偉なるカルタゴの家を疑いたまうを、露知らであるにあらず。

されどその果てはいかなるべき、いまわたかかる大いなる争いもて、御身は何を目的としたまうにや?われらんしろ永久の平和と、たしかなる婚姻をととのえばやと思うはいかに。御身ははや心に目指すところをことごとく手中に収めたり。

ディードーは恋に燃え、血脈にわきめぐる熱情をぞ感ずる。いでや、われらこの民を共同のものとし、平等の権威もて治めん。われは彼女がプリュギア生まれの夫(アエネーアース)に仕え、嫁入りの引出物にカルタゴ人らを御身の右手に渡すに任せん』

ウェヌスはユーノーが、イタリアの帝国をリビアの海岸に転ずるため、表面とはいと異なりたる考えもて、かく言い出でたることを早くも悟りぬれば、彼女に対してかくぞ答えける。

『誰かは君のかかる申し出を拒み、または君とすまい争うばかり物狂わしかるべき。ただ君の語りたまうごとく、われらの行ために幸運の伴うことこそ願わしけれ。

されど運命につきわらわが凡て心もとなさに駆らるるは、一つの都にカルタゴ人とトロイより来たりたる人々とを容るることの、ユピテルのおぼしめしにかなうべきやいなや、はたかの君(ユピテル)がこの両国民の混合して同盟の結ばるることを、嘉みしたまうべきやいなやということなり。

君はかの大君の妻にしあれば、君の願いもて大君のおぼしめすことを探るは、身に備われる許されごとになん。いで、先立ちたまえ、わらわ御後ろより従わん』

そのとき后ユーノーはかくぞ答えける。『その事は、わらわ身に引き受けてん。さて心して聴きたまえ。いかにすれば差し迫れることの、いまし遂げらるべきかを、短かき言葉もてわれは告げんとすなり。

アエネーアースと、いと幸なきディードーとは、明日の朝日の昇り始めて、太陽神(ティータン)が世界に光をあらわすころ、ともに森へ狩猟に行かんとす。

そこにて勢子らが忙がわしく立ちはたらき、繁きがしたを取り巻きつつある間に、わらわ、霰をまじえたる黒き雨雲を彼らのうえに注ぎ下ろし、雷もて満天をかき乱さん。

彼らの家来は散り散りとなりて、濃き闇の中に包まるべし。ディードーと彼のトロイの武将とは、一つの洞穴にめぐりあわん。そのとき、わらわそこにありて、御身の承諾だに違背なくば、彼らをしかと媾いもて結びあわせ、彼女を彼のものとなさん。これぞ彼らの婚姻の礼なるべき』

キュテーラの女神は、彼女の言い求むることを、あらがわずみなうべないつつ、その奥なる猾計を見やぶりては、ひそかにぞほほえみける。(4-九〇〜一二八)

そのうちに曙の女神のぼり来て、太洋より離れつ、日の光さし昇れば、選りすぐられたる若人らは、門々より出で行く。

目広網、罠、広き穂先したる狩猟槍、騎馬のマッシューリー人など。なお嗅ぐこと鋭き猟犬の一隊も。

カルタゴの貴族たちは、出入口にて女王を待つほどに、彼女はいまだ室内にたゆたいつ、乗馬は紫と黄金もてきらびやかによそおわれ、張り充ちたる元気もて泡立つくつわを噛む。

ついに多くの供人にまもられながら、出で来たりたる彼女は、刺繍して笹縁(ささべり)とりたるシドンの外套を着たり。

そのえびらは黄金にて、髪も黄金のとめがねにて一束に結び、紫の衣も黄金のしめがねもて束ねたり。

これと等しく、プリュギアの家来たちも、快活なるユールスも、彼女と歩みをともにす。アエネーアースその人は、他のすべての人々に立ちまさりていと美しく、彼女の伴侶としてその一行に加わり、おのれの行列を彼女の行列とあわせぬ。

そは、たとえばアポロンが、み冬のリュキアとクサントゥスの流れとを去りて、母の領なるデーロスをおとない、新たに舞踏を始め、クレタ人もドルュオペス人も、また身を彩りたるアガテュルシー人も、一団となりて祭壇の周囲に宴飲し、

彼みずからはキュントスの山の背を歩み、優美にうちなびく髪をつくろい、しなやかなる花綱もて束ね、黄金もてそれを編みつ、

肩には武器の鏘々と鳴りひびくあり様にも似て、彼にも劣らず軽やかにアエネーアースは歩む。輝やかしさも彼の神に劣らぬばかり、彼の雄々しき顔にぞ照り出でたる。

彼らの一行が高き山を登り、道なき繁みの中に着きたるとき、たちまち野山羊ども岩の額より追い落とされて、山の背を走り下る。他の方角にては、牡鹿ども広き野原を疾走し、一つの集団となり、塵にまみれて群がり逃げ、山より遠ざかり行く。

されど、若きアスカニウスは、谷の中央にて勇める駒に喜びを打ち乗せつつ、時にはこれ、時にはかれと馳せ過ぎて、おのれの祈りの許されて、臆病なる群れの中より、泡吹く野猪も出で来たれよ、茶色の獅子も山より下り来たれよと望む。

その間に、大空は物恐ろしきうなり声をあげてかき乱され始めつ、やがて霰をまじえたる雨嵐吹き起れば、カルタゴの供人も、トロイの若人も、ウェヌスのトロイ人なる孫(アスカニウス)も散々となり、恐れのため野の中をかなたこなたと避難の場所を探す。急流は山よりたぎり落つ。

ディードーとトロイの首領とは、同じ洞穴に来合わせたり。最古の女神なる大地と、花嫁に介添えするユーノーとは標徴(あいず)を与う。雷火と大空とは閃めきて婚姻の証しとなり、ニンフらは山の絶頂に声高く叫ぶ。

この日ぞまず彼女の死のよすがとなり、この日ぞまず彼女の悲しみの源となりぬ。そはディードーは、その日よりのち、もはや見栄にも風聞にも心を動かされず、また秘密の恋をも思わずなりぬればなり。彼女はこれを婚姻と呼び、その名の裏にわが身の罪を蔽い隠しぬ。(4-一二九〜一七ニ)

ただちに「風聞」はリビアの大いなる街々を貫きて走り始じむ。いかなる他の害悪も「風聞」より早きものなし。この者は小やみなき動きによりて栄え、進むことによって力を集む。最初はもの恐れのため小さけれど、やがてに天に高まり地にかっ歩し、雲の中に頭を隠すにいたる。

伝説によれば、親なる大地は神々に対する怒りに激し、コエウスやエンケラドスの末の妹として彼女を生みぬるが、早き足と翼とを持ち、趫捷(きょうしょう)巨大なる恐るべき怪物にして、その身体に生うる羽毛の数だけの、(言うも不思議や)眠らぬ眼をその下にもち、それと同じ数の舌と同じ数のかしましき口と、はた物聴かんと聳えつる同じ数の耳とを持つという。

夜は習々(しゅうしゅう)と音を立て、闇を通して天地のあいだを飛び、甘き眠りにもまぶたを閉じず。昼は高き家屋の頂辺(てっぺん)や塔のうえに止まりて見張りをなし、まことのことを伝うる者ともなれど、いつわれること誤まれることをもしかと把持(はじ)しつつ、大いなる都を脅かす。

この時も彼女は打ち喜びて、種々の噂もて国民を充たし、事実と作為とを等しく繰り返し始めたり。

そはトロイの血統なるアエネーアースの来たりしこと、美しきディードーのその人を夫として一つにならんと努むること、いま彼らはいと長き冬の間を、国のことも打ち忘れ、恥ずべき情欲の奴隷となり、互いに淫蕩の中にたわむれしつつあることなど。

これぞみなこの圧うべき女神の、広く人々の口の端にひろげたるなり。彼女はただちにイアルバース王の所へと進路を転じ、言葉巧みに彼の魂を燃えあがらせ、憤怒をぞ積みかさぬる。(4-一七三〜一九七)

彼、ハムモーンがガラマンテス(リビア)の妖精を強姦して生ませたる子は、その広き領内に、ユピテルのため百の大いなる神殿と百の祭壇とを建て、不滅の火と、神々の永代の番人と、犠牲の血豊かなる土地と、種々の花綱もて華美に飾られたる門とを聖別す。

かくて彼は心狂えるごとく、苦々しき風聞に激し、神壇の前、神々の神威の真中にて手を差し上げ、ユピテルに嘆願し、多くの祈りをささげて言う、

『全能のユピテルよ、マウルーシアの人民ら刺繡したる寝椅子にて宴飲し、いま奉賛のため美酒の初穂を注ぎ奉る。

君これをみそなわすや?父祖よ、思うに君が電光を投げたまうとき、われらが君を恐るるは原因なき事にして、雲の中なる光の閃きは目的もなくわれらの魂を脅かし、ただ徒らに騒がしく咆哮するのみなりや?

ひとりの女のさまよい来て、われらの領地にわずかの値もて土地を買い、小さき町を建てつるが、われらまた農耕のためその女に海岸の地面を与え、その土地の主権を許したるに、彼女われと結婚することを拒絶し、アエネーアースをその国に入れて主人となしぬ。

かのパリスぞいま、その柔弱なる一行とともに、あごと香油塗りたる髪の毛とにプリュギア風の頭帕(ずきん)を巻き、獲物(ディドー)をほしいままに楽しむ。さるにわれらはじつに、君のものなる殿堂にささげ物を持ち来たり、何の用をもなさぬ栄光を守るのみ』

彼がかかる言葉もて訴えつつ、祭壇に取りすがりてありしとき、全能の神は彼の言葉を聞き、眼を高荘なる城壁と彼らの令名を忘れたる恋人らの方とに向けぬ。

それより彼はメルクリウスに呼びかけて、かくぞ命じける、

『いざ行け、わが子よ、ゼピュロスを呼び来たれ。しかして汝の翼に乗りてすべりおり、いま、テュルス人のカルタゴにて時日を空過し、運命によりて彼に許されたる都のことをば心にもかけざるかのトロイの将軍に話しかけよ。すなわちわが仰せごとを疾く空中を通して持ちくだせよかし。

彼の美しき母は、彼かかるべしとはわれと契らざりし。なお彼女が彼を二度までもギリシアの武器より救いしは、かかる目的をもってにはあらず。彼女は彼ぞ主権に富み、戦さに勇猛なるイタリアを治め、テウクロスの古き血統より出でたる種族を持ち伝え、全世界を支配する者たるべしと契りたるなり。

もしかかる大いなる偉業のいかなる光栄も彼を動かさず、その名誉のためにみずからこの労苦を身に引受けてなさんともせぬならば、彼は父ながらその子アスカニウスにローマの城砦をやらじとおしむ者なるか?

彼の計画は何ぞ?はたいかなる期待もて彼は敵意ある人民の間に淹留(えんりゅう)し、彼のイタリアの子孫のことも、ラウィニウムの野辺も心にかけぬにや?彼に帆をあげさせよ。ただそれのみ。これぞわが与うる使命なる』(4-一九八〜二三七)

彼はかく語りぬ。メルクリウスは大君の命に従わんと、急いで用意をなす。彼はまず黄金作りのサンダルを足に結ぶ。こは海上にても陸上にても、吹き払う風のはやさもて、彼を高く翼に乗せてかけらするものなり。

次に彼は杖を取る。これをもって彼は冥府より青ざめたる精霊どもを呼び寄せ、また他の者をば陰鬱なる冥界に下し、人に眠りを与え、人より眠りを奪い、はた死者の眼を開く。

かかる力に信頼して彼は、風を前に駆り、嵐雲を通して飛ぶことをも得るなり。さていま、飛ぶままに、その頂きにて天を支うる苦難のアトラスの峰がしらと、険しき山腹をぞ見出づる。

松おいしげる頭をば、つねに黒雲に取り巻かるるアトラスは、風と雨とにむち打たれ、雪ふりつもりて肩を埋ずめ、なおも急湍(きゅうたん)はこの翁のあごを真っ逆さまに流れくだり、ひげは氷にとざされて逆立ちこわばりぬ。

ここにキュレーネー生まれの者(メルクリウス)は、両のつばさに釣り合いを取りて身をとどめ、それより全力もて矢を射るようにまっしぐらに、海岸をめぐり魚多き巌をめぐり海面に近々と飛びおりる鳥にも似て、海にくだる。

かくしもキュレーネー生まれの者は、母方の祖父(アトラス)のところより来たるままに、陸と大空との間を、リビアの砂浜へと飛び、風のあいだをさく。

彼が翼ある足もて小屋に着くやいなや、アエネーアースが、砦の土台を据えさせ、家々をまた建て続けさするを見出しぬ。

彼のおびたる剣は、黄なる宝石をちりばめ、彼の肩より垂れたる外套は、テュロスの紫の光もて輝きたるが、こは富めるディードーの作りたる贈り物にて、黄金の糸をたてに織りまぜたり。

メルクリウスはただちに彼に話しかけて言う。『汝はいま高きカルタゴの礎を据え、妻のいとしさに華美なる都を建つるなめり?あわれ、みずからの国も運命も忘れ果てけるよ!神々の支配者にして、天地をその神力もて治むる者、親しくわれを輝けるオリンポスより、汝に送りくだし、疾く空中を通してこの命令をば汝に伝えよとぞ仰せたる。

汝の計画する事は何なりや?はたいかなる期待もて汝はいたずらにリビアの国にたゆたうや?よしやかく大いなる偉業の栄誉も、汝を励ます力を持たず、汝自身の名声のために、みずからこの労苦をその身に引受けん覚悟はなくとも、アスカニウスの隆運と、汝の後嗣なるユールスへの希望を思え。イタリアの園とローマの土地とは、権利として彼に属するなるを』

キュレーネー生まれの者は、この言葉を言いたるとき、その言葉はなお唇にある間に、人間の視界を去り、薄き空気の中に遠く遠く、人の眼より消え去りぬ。

されどアエネーアースはこれを見て、失神せんばかり打ちおどろき、言葉も出でず、毛髪は恐怖のために逆立ち、声はのどにふさがりぬ。

彼は、神々のかくも大いなる警告と命令とをかしこみ、身を逃れ、この心地よき国土を見捨てんと熱望す。

あわれ、彼はいかになすべきか?いかに巧みに話しかけて、彼は狂える女王をいまあえてなだめんと試むべきか?いかなる口あけを彼は採るべきか?千々に分かるる心をば、ここに遣りかしこに遣り、かなたこなたに急がせて、絶えずあらゆることにぞ駆けめぐらする。

彼の心かく定まらざるとき、この考慮こそ最もよきと思わるるままに、すなわちムネーステウス、セルゲストゥス、および勇敢なるセレストゥスを招き、ひそかに船出の艤装をなし、一行を磯辺に集め、武器を用意させよ、されど計画をかく変じたる理由は、おぼろげに蔽いおけと命ず。

その一方に彼みずからは、いと善きディードーの何事も知らず、かくばかり深き愛情の断たるべしとは夢にも思わねば、彼女に近付くべき手段と、最もなごやかに彼女に話しかけ得べき時と、いかなる方法がこの目的に都合好きかを見出さんとぞ試むる。一同はまた打ち喜びて、いとすみやかに彼の命令に従い、仰せの通りにせんと急ぎ行く。(4-二三八〜二九五)

されど女王は、彼の心のたくみを早くも推しはかりつ、――誰かは恋する人を欺きうべき――事みな表面は全く安らかに見ゆるにも心を許さず、何人よりも先に、来たるべき暴風を感知しぬ。さる程に例の不信の「風聞」ぞ、艦隊よそおわれ航海の用意もなりぬとの情報を、心狂える彼女のもとにもたらしたる。

ここに彼女が、正気を奪われたるように荒々しくなり、狂乱の炎に責められて街中を駆け回るあり様は、たとえばバッカスの呼び声聞え、三歳に一度の躁宴に興奮させられつつ、夜のキタイローンの大いなる騒音に引寄せらるるテューイアス(バッカスの信者)が、その祭のさまざまの聖なる表象物の示顕(じげん)にふるいたつにさも似たり。

ついに彼女は先手を打ち、かかる言葉もてアエネーアースに語りかくる。

『不信なる人よ、御身はかく大いなる罪をいつわり秘して、無言のままわらわの国を立ち去りうべしと思いしや?

わらわの愛も、御身が一度はわれに与えし手も、悲惨なる死を遂げん運命に陥りぬべきディードーも、御身をここに繋ぎ止めえずや?

なお御身は冬の間に船を仕立て、風の最も怒り狂うとき、急いで大海を渡らんとはするや?

酷なる人よ。思いても見よ、もし御身がほかなる国と未知の家郷を求めんとするにあらで、古きトロイのなお立ちてありたりとて、御身の艦隊はこの荒海の上をトロイに向けて出発すべきや?

されば御身の逃れ去らんとするものはわらわなりや?わらわみずからはみじめなるおのれの身に、いまや他の何物も残さねば、ただわらわのこの涙と、御身みずからの誓いの手により、またわれらの結び合いにより、われらの入りし結婚により、――もしわらわそこばくにても御身によく適うところありしならば、はたわが持つ何物にても御身にいとしきものありしならば、わが沈み行く家をあわれみ、——もしなお祈りの余地あらば、御身の決心を捨てたまえとこそ願うなれ。

リビアの種族や、またヌミディアの首長たちのわれを憎むも、わがテュロス人たちの不満を抱くも、そのよすがはみな御身のためなり。わらわが貞操を失えるも、はたわらわが星の世界まで登り行かんただ一つの道なりし以前の誉れを失えるも、また御身のためなり。

何人に御身は、死のまぎわなるわらわを渡さんとするや?客人よ。この呼び名のみぞいまわ、夫と呼ぶ名に代えて残されたるすべてなる。

いかなればわらわこの世にたゆたうべき?そはわが兄ピュグマリオンの、わが城壁をこぼつまでか?またはガエトゥリ人イアルバースのわれを生け捕りにして連れ去るまでか?

せめてもし御身のここを去る前、わらわ御身によりて子の母となるならば、もしついには君の面影を宿すべき小さきアエネーアースの、わが宮殿の内にて遊ぶならば、わらわ決してわが身を捕われ人とも、はた落魄人とも思わぬものを』

彼女はかく言葉をおわりぬ。されど彼はユピテルの教えを守り、眼も動かさず、つとめて苦痛を胸の中に閉じ込めつ。

やがて簡単に答えて言う。『あわれ女王よ、君が言葉もてあげつらいうる限りの、いと切なる心づかいをわがためになしたまいしことを決して拒まず。かつ我はおのれみずからを記憶する限り、はた命の息のこの手足を支配する限り、エリッサ(ディードー)を記憶することを悔いざるべし。

この事については、必要と思うだけを、手短かに物語りせん。われ、この退去をば密かに押し隠してせんとも思わず、かく推しはかりたまうな――またわれいまだかつて貴家へ婿入りの松明を掲げたることもなければ、あなたと夫婦の姻縁(いんえん)に入りたることもなし。

運命もし自己の選択に従いてわが生を送り、かつおのれの欲するままにわが労苦を鎮むることを許しなば、われはいずこよりもまずトロイの都をわが住居となし、懐しきわが国人の残党の間に交わりたらんものを。かくてプリアモスの高き宮殿もなお立ち残りぬべく、わが手もて再生のペルガマの礎を被征服者のために置きたりしならんに。

されどいまグリューネイアのアポロンは大イタリアへ、リュキアの予言もまたイタリアへ行けと我に命ず。

そこにわが愛あり、そこにわが国あり。もしカルタゴの城砦とリビアの町の光景とが、君フェニキアの女人を魅惑するならば、いかなれば君は(その事を自覚しながらも)トロイ人のイタリアの土地に定住するを妬みたまうや?われらにもまた他国を尋ね求むることは許さるべきなり。

夜が露けき陰をもて大地をおおうごとに、燃ゆる星辰の昇るごとに、わが父アンキセースの悩ましき幻、眠りの中にわれをいましめ、われを恐れしむ。またわが子アスカニウスおよびこの愛する者(アスカニウス)に対するわが罪悪ぞ、われをいましむる。

そはイタリアの主権および運命によりて彼に与えられたるその沃野をば、われこの者を欺きて取得させぬようにすればなり。

さてまたユピテルみずからのつかわしたる神の使いぞ、(われはわれら二人の頭をかけて誓わん)、早き風を通してわれにその命令を伝えたる。われはわが眼もてその神の使いの照り渡りつつこの町に入るを見、この耳もて彼の言葉を聞きたり。

君の嘆きをもて君みずからと我の心の火とをかき立つることを止めたまえ。われがイタリアに行くはみずから好みてなすにあらず』(4-二九六〜三六一)

この物語の間、彼女は眼をかなたこなたにさまよわせ、顔をそらして彼を見、物をも言わず頭より爪先までしげしげと眺めてありけるが、ついに激しき怒りをかくぞ吐き出しける。

『汝の母は女神ならず、またダルダノスは汝の族の祖先ならず。裏切者よー凹凸の巌群れ立つカウカッソス汝を生み、ヒュルカニアの女虎ぞ汝に乳をふくませたる。

いかなればか我はわが感情を蔽うべき?またこれよりも大いなる禍の場合にそなえておのれを抑うべきや?わが泣くとき彼(アエネーアース)は嘆息したるや?彼は眼をそむけしや?彼は心なごみて涙を流し、または恋人をあわれみたるや?

われ第一に何を言わん?また第二には?もはや、もはやいまわ、いと偉大なるユーノーも、サートゥルヌスの子なる大君も、われらのこの事件を公平なる眼もては見たまわず。

世の中にはいずこにも安んじて信頼すべきものなし。荒磯辺に投げ出され、窮乏したる彼をばわが身に引き受け、おろかにもわが国の参与者となしつ。われは彼の失われたる艦隊を救い、彼の一行を死より助けぬ。

ああ!われは激しき怒りの炎に巻き込まるる。いま、予言者アポロンとや、いま、リュキアの予言とや、またいま、ユピテルみずからのつかわしたる、風を通して恐ろしき命令を伝うる神々の使いとや。

まこと、かかる仕業は上なる神々のなすべき勤めなるべく、まこと、かかる労苦は彼らの平和をわずらわすに足ることなるべし。

われは汝をここに留めんとせず。また汝の言うことを反駁せず。行け、風にただよわされて、汝のイタリアを追い求めよ。波路をこえつつ汝の国を探せよ。

われは少くとも、もし正しき神々に力あらば、汝が岩々のあいだに懲罰の杯を飲みほし、しばしばディードーの名を呼ばんことをこそ望め!

よしや身はそこにあらずとも、陰暗(いんあん)なるかがり火もてわれ汝を追わん。しかして冷たき死、わが手足をわが魂より離ち去るとき、わが影は汝のあるところ、いずこまでも汝とともにあらん。

汝は汝の天罰を受くべし、悪しき者よ!われそれを聞かん。その話は地獄の底までもわれに伝わり来たるべし』

かく言いて、彼女は俄然として言葉を断ち、悲しみに打ち悩みて日光を避け、彼の眼より身をひるがえして去り行きつ。

そのあとには恐怖のためにいたくためらいつつ、多くもの言わんとすれど、言葉を出しえぬ彼をぞ残しける。侍女たちは彼女をたすけ起し、生気を失える肢体を大理石の部屋に運び返り、寝椅子のうえに横たう。(4-三六二〜三九一)

さて律儀なるアエネーアースは、あまたたび嘆息をはき、強き愛情のため決心もよろめきがちにて、彼女の悲しみをなだめ、わが身の言葉もて彼女の苦痛を慰めんとは熱望すれど、なお神々の命を遂げ行うことを止めず、再び艦隊を訪う。

そのときトロイ人は各々部署に就き、大船どもを磯のいたるところに沿いてうかべ始めたり。よく瀝青塗りたる竜骨は水に浮かび、人々はひとえに逃げ出しの支度にいそしみ、森より葉つきのままの櫂と、いまだ何の形をもなさぬ材木などを持ち来たる。

彼らの出発の用意と、町の諸方より打ち群れて出で来たるあり様ぞ認めらるる。

そはあたかも冬を心にかけて、蟻どもの穀物の大いなる山をかすめ取り、それをおのれの巣に貯えんとするとき、

その黒き群れは平原を横切りて動き、草場をこえ、狭き道に沿いて獲物を運び、ある者は大量の穀物を彼らの肩もて力の限りおし進め、ある者は行列を程よく続けさせて、遅るる者を叱り励まし、道の長手はかかる仕事にていきいきたるがごとし。

ディードーよ、かかる光景を見しとき、汝の感情やいかなりし、はた砦の高きより、汝が前に長きなぎさ活気に充ち、汝が眼のしたに海面すべて声高きざわめきに騒ぎたつあり様を見しとき、いかなる嘆息をば汝はあげたる?

意地悪き恋よ、恋が人の心に迫りてなさしめぬ何ありや?

ディードーもこれに迫られては、あるいは涙にたより、あるいは哀願にたよりて彼を得むと努力し、身をへりくだりて矜持を恋に譲歩し、いかなる道にもあれ試みずして残し置き、空しく死なんことをぞ恐る。

『アンナよ、御身も見る磯辺の、いたるところにわたりてのいそがしさ。彼らは各方面より集い来たりぬ。すでに帆は風を招き、船人は心祝いに艫を花輪もて飾る。妹よ、わらわはかくばかり大いなる苦痛を予想することを得たるなれば、妹よ、わらわはまたそれを堪え忍ぶことを得べし。

されどあわれなるわれに、アンナよ、この一つをかなえてよ。そは彼の裏切者の、御身ひとりを尊重し、御身には胸底の秘密をさえ打ち明くるに慣れたれば、御身ひとり、かの人へのなごやかなる接近と、その最も適当なる時期とを知ればなり。

行け、妹よ、行きてかの驕慢なる敵にへりくだりて話しかけよ。

わらわはアウリスにてギリシア人と共謀してトロイの種族を亡ぼさんと誓いたる事もなく、また艦隊をペルガマに送りたる事もなく、なおまたアンキーセースの灰や魂をその墓より奪いたる事もなし。

さるをいかなれば彼はわらわの言葉のその頑ななる耳に入ることを拒むや。いずこに彼は突き進まんとはする?彼の幸なき恋人にいとせめてこの最後の好意をば彼より与えさせよ。

そは逃るるに心やすく、よき追風のある日まで待つちょう(=という)ことにこそ。

わらわはもはや彼が裏切りたる以前の結婚を続けよと嘆願せず、また彼が美しきラティウムを思い切り、その国土を振り捨つることを要求せず。

わらわが切に求むるはただの時間なり。ただわが狂い心のしずまりぬべき時間なり。その間にわが運命は、悲しみに打ちくじかれたるわらわに、苦痛の忍ぶべき様をぞ教うべき。これぞわらわが彼に乞う最後の好意なる——汝が姉を哀れと見よ——もし彼がこの事をわれに諾(うべな)わば、わらわはわが身の死をもて十分彼に酬(むく)ゆべきぞ』

かく彼女はひたすらに願い入りつ。かかる嘆きをいと不幸なる妹は、また繰り返して彼に伝う。されど彼はいかなる嘆きの言葉にも心を動かさず、またいかなる呼びかけにも素直に耳をかさず。 

運命、中を隔て、神は勇士の耳の傾かぬようにぞ塞ぎたる。

そはあたかもアルプスの嵐のこなた、かなたより吹き荒れて、年重ねたる力に屈強なる槲(かし)の木を根こそぎにせんと相い競い、ききときしむ音高く、幹をゆり動かすままに、高き木の葉は地面にまき散らさるれども、

樹そのものは巌にしかとまといつき、その頂きを空中高く上ぐると等しく、その根もしかと深く地獄に延ばすがごとく、

この勇士もかなたこなたより絶え間なき懇願に打たれ、その力強き胸に激しき苦痛を感ずれど、彼の決心は微塵だに動かず、涙はただあだに流されぬ。(4-三九二〜四四九)

されば幸なきディードーは、運命に打ちくじかれ、ついには死をねがうようになり、蒼穹(あおぞら)を仰ぎ見るだに物憂しと思う。

彼女のこの意図を実行に進めさせ、光を見捨つるように覚悟を固く定めさせしは、彼女が薫香を焚く祭壇にささげ物を置きしとき、(言うだに恐ろしや)聖水黒くなり、注ぎ出す酒のきたなき血のかたまりと変じたることなり。

彼女は何人にもこの光景を告げず。妹にすら告げざりけり。

また彼女の邸内には、先なる夫(シュカエウス)をまつる大理石の御堂あり、彼女はつねに驚嘆すべき畏敬もてこれに仕え、雪白の羊毛もて作りたる紐帯(ちゅうたい)と、祝祭の青葉飾りの花綱などかけ渡しける。

暗き夜、世界を司る時となり、孤独なるふくろうの、高き所よりしばしば物悲しき墓場の曲を送りつつ、たゆたう叫び声の嘆きに長き尾を引くように思わるるとき、彼女はここより、来たれよと呼ぶ夫の声と言葉とを明らかに聞くと思う。

そのほか、古えの予言者の多くの予言は、恐ろしき声もて彼女の魂をおどろかす。夢の中にては、残酷なるアエネーアースみずから、狂乱する彼女を追い立て、彼女はつねにただひとり取り残され、つねに伴侶(とも)なく果てしなき道を旅するように思われ、また荒野の中にテュロス人を探し回るようにも思わる。

そのあり様はあたかも、ペンテウスが狂気の中に、エウメニデースの群れを見、また二つの太陽と二つのテーバイがその眼界に現わるるを見しごとく、あるいはアガメムノーンの子オレステースが、松明と恐ろしき蛇とを取り持てる母親より逃げ、復讐の悪鬼ら入口にうずくまるとき、舞台の上を追い回はさるるに似たりけり。(4-四五〇〜四七三)

されば彼女は、悲しみに圧倒せられ、狂乱のとりことなり、死なんと心を定めたるとき、その時機と手段とはひとりみずからの心の中に計画しつつ、悲嘆に暮るる妹に話しかくるにも、その目的をばかおの色もて押し隠し、眉に希望のほがらかさをよそおう。

『妹よ、わらわ一つの計画を思い付きたり、御身の姉のために祝せよ。そは彼をわれに取り戻しえずば、恋せるわれを彼より解き放つということなり。

太洋の果て、落日にいと近く、アエティオペース人の遠き国あり。そこに偉なるアトラースその肩のうえに、輝く星をちりばめたる天空を回転す。

その国よりマッシューリー族なるひとりの尼僧来たりて、わらわに謁見したることあり。ヘスペリデスの御堂の司祭にて、蜜汁と眠りとを誘う罌粟(けし)を撒きつつ、竜に美食を饗し、また樹木の神聖なる枝を守る。

彼女はその蠱(まじ)の力により、思うがままにある者の心を心配より解き放ち、また他の者の心には恐ろしき苦痛を負わせ、河の流れを止め、星の道を裏返し、夜は亡き魂をも呼び出すなり。

御身は世界が足のしたに鳴りとどろき、とねりこの樹、山より下るを見ん。

わがいとしの妹よ、わらわが邪法に頼ることを本意とせぬことは、神々と御身のいとしき頭とを証人とせんと思う。

御身ひそかにわが家の内庭なる野天に、火葬の薪の山を作り、その上にかの不信の人が居間に懸け残したる武器と、彼の人のすべての衣服と、わが破滅の舞台なる結婚の寝台とを横たえさせよ。言うもけがらわしき人を思い起さする物みなを、焼き亡ぼすはわらわの喜びにして、尼僧はかくわらわに命じぬ』

かく言いおわりて言葉絶ゆれば、蒼白き色顔面にみなぎる。されどアンナは、姉が不思議なる儀式の裏に死を隠しつつある事を思いもよらず。またかかる激しき狂い心も得さとらず。またシュカエウスの死にしとき起こりしよりも悪しきことあるべしとも懸念せず。されば彼女は請わるるままに準備を整う。(4-四七四〜五〇三)

されど女王は、邸内の奥深く、野天に松材と冬青(そよご)の割り木ともて大いなる火葬の積み薪の組み建てられたるとき、そのうえに花輪を置き、またそのうえに葬(とむらい)の青葉をのせぬ。さて頂上なる寝台のうえには、未来をよく知りて、彼女は彼の衣服、彼の残したる剣、彼の像などを横たう。

その周囲には祭壇を設け、尼僧は髪を解きほどき、声高らかに三百の神々、エレボスとカオスと、三体のヘカテーと三面相なる処女神ディアーナとを呼ぶ。

尼僧はまたアウェルヌス(冥界)の泉より取りたりと托言(ことよ)する水の滴を振り撒き、

月夜に青銅の鎌もて刈り取りたる、黒き毒ある乳汁(ちち)を含む多液の薬草を求め、

また生まれしばかりの若駒の額より、母馬のそれを取らぬ前に切り取りて奪い得たる、媚薬などをぞ求むる。

彼女自身は、潔き手もて神にひき割り麦を捧げまき、祭壇の側に片足の草履を脱ぎ捨て、着たる衣の紐も結ばず、やがて死なんとするさいに、神々と運命を知るちょう星とを証人として呼び下し、次にはいかなる神にもあれ、恋をしてその恋の報いられぬ者を、正しくかつ心にかけて守りたまう神ならば、その神にぞ祈りを捧ぐる。(4-五〇四一五二二)

そは夜なりき、疲れし者の肉体は、世の中なべて静かなる休らいを楽しみ、森も荒波も憩いに沈む。そのとき、星はその円路の中心を転行(てんこう)し、野はすべて穏やかに、獣も彩羽(あやは)もつ鳥類も、広く清き湖水に居住する者も、いばらもって荒れたる田野に住む者も、静けき夜のしたに眠りに入りて、彼らの悲しみをなだめ、彼らの心はわずらいを忘れたり。

されど不幸なるフェニキアの女はしからず。彼女は決して眠りに落ち入らず。また眼にも胸にも夜を取り入れず。彼女の痛苦は倍を加え、彼女の恋は再び燃え立ち騒ぎ、彼女はまた憤怒の強き潮にゆり動かさる。

そのとき彼女はかく思い始めて、なお心の内に思いつけけるは、

『さてわれはいまいかにせん?侮られぬるいま、立ち返りて以前の求婚者たちに愛を求め、ヌミディア人の間にうやうやしく結婚を乞うべきか、すでにしばしば彼らを夫とすることを拒みはしつれども?

またはイーリウムの艦隊のあとを追いて、トロイ人の命ずるままに、絶対の服従をなすべきか?我がかくせんとするは、彼らがかつてわが助けによりて救われたることを喜び、過去のわが行ために対する感謝のなお彼らの胸の中に忘られず養なわれてありと思うがためか?

されど、われはそれを欲するとも、何人かわれをゆるして、憎むべきわが身をほこりある彼らの船に受け容るべき?あわれ、廃れ者よ、汝はラーオメドーンの血統の者(トロイ人)の背信を知らず、またいまだ悟らざるや?

次に来たるは何ぞ?われはただひとりにて、悦び勇める船人に加わって逃ぐべきか?またはテュロス人らと、わが人民の全き力とに取り巻かれて進み、かつてわがシドンの町より辛うじて引きはなし来たりし人々をば、再び海上へと乗り出ださしめ、風に帆をあぐることを命ずべきか?

否、死ね、汝によく相応(ふさ)うように。剣もて汝の悲しみを退けよ。

御身こそ、わが涙に心負けて、御身こそ、妹よ、何人よりも真先になりて、狂い心のわれにこの悪しき重荷を背負わせ、われをば敵にさらしたるなれ。

されどまたわれは、野の獣のごとくめとらずとつがず、非難なく生涯を過ごし、かかる恋の苦悩を避けうべき身にてはあらざりし!

シュカエウスの灰に誓いたるわが信はついに保たれず』

彼女が心の底よりうめき出でたる悲しみはかくぞありける。(4-五二三〜五五三)

アエネーアースは、物みないまや適当に用意も整いぬれば、いざや出発せんと固く心を定めつつ、ともなる高き甲板にて、しばしまどろみてぞありける。

そのとき、前と同じよそおいにて立ち戻りたる神の姿、彼の眠りの中に現われ、声音も顔色もはた黄金色の頭髪も、若々しさに美しき手足も、すべてメルクリウスにそのままなるが、再び彼にかく警告するとぞ思われける。

『女神より生まれし者よ、かかる危うき際にも汝は、なお眠りをむさぼりうるや。心狂える者よ、汝を取り巻く切迫せる危険を悟らず、また西の追風の吹くをも聴き付けざるや?

彼女は死なんと心を定め、胸の中に奸計といまいましき害悪とをたくらみ、憤怒の揺り動かす大波に漂わさる。

いまだ急いで出づる間はあるに、いかなれば汝はまっしぐらにここより逃げ出でざるや?

やがてぞ汝は、海面が群がる船にゆるぎ、汝は、物凄き松明の光、炎々とし、やがてぞ海岸、焔に照り輝くを見ん、もし暁かけて汝この地にたゆたいなば。

いで、遅れを断て。気まぐれにて、つねに変りやすきは女なるぞ』
彼はかく言いて黒き暗の中に消え去りぬ。

そのとき、アエネーアースは思いもかけめ幻影に、いたく打ちおどろかされ、たちまち眠りより身を起し、一行をはげしくせきたてて言う。

『疾く覚めよ、わが武夫どもよ。漕台に就け、疾く帆を張れ。見よ、天の高きより遣わされし神は、急いで逃げ出でよ、早く捩じたる綱を断ち切れよと、再び促すなり。

われら君にしたがう、神々の中の聖なる者よ、よしや君がいかなる者なるも、われら再び喜んで君の命にしたがう。

願わくはわれらとともにありて、君の加護をもてわれらを助け、大空に幸先よき星を送りたまえ』

言いおわりて彼は閃く剣を鞘より引き抜き、大づなを引き抜きたる刀身もて打つ。

ただちに全員みな同じ熱意を感じ、急ぎに急げば、磯辺には人影もなくなり、海面は艦隊に蔽われ、彼らは力の限り水泡を打ちあげつつ、暗き海原の上を走せ行く。(4-五五四〜五八三)

さていまや朝まだき、アウローラがティトーヌスのサフラン色の寝椅子をはなるるままに、世界のうえには、新しき光、雨のごとく注がれ始めぬ。

女王は塔楼より、白みそむる暁の最初の光を見、一様に帆を張りあげてかなたに動き行く艦隊を見、磯にも港にも船人の影だになくなりしを認むるやいなや、再三再四美しき胸を手もて打ちたたき、黄金色の髪の毛をかきむしりつつ言う。

『おお、ユピテル、この男は去り行き、この外(と)つ国人はわが国をば侮りおおすべきや?兵士らのある者たちは疾く武具着けて町の各所より彼を追跡し、他の者どもは船を船渠より引き出さずや?早く行け、急いで松明を持ち来たれ、武器を取れ、櫂を漕げ。

われは何を言いつつありや?われはいずこにありや?いかなる狂い心のわが目的を変えさせたる?不幸なるディードーよ!汝の不義の振る舞いのいまや立ち返りて汝の胸にはげしくこたゆるや?

そは汝の権笏を彼に渡せし時こそかくあるべかりけれ。見よや、一族の家神をおのれとともに運び、その肩に老い衰えたる父をすがらせたりと世の人のいうなる彼、その彼の誠意と節義とを。

われには彼を捕え、彼の身体を片々(へんぺん)に引き裂きて、波のうえに撒きちらす力はなかりしや?われは剣もて彼の一行を斬り殺すことを、否、アスカニウスその者すらも斬り殺して、彼をその父親の食卓の一つの饗応となすことをえざりしや?

されど戦いの勝敗はおそらくあらかじめ占い難かりし。さもあらばあれ、いまわ死を定めたるわれの何人をか恐れん?われは火を彼の陣営に持ち行き、彼の甲板を炎もて充たし、子も親もあらゆる一族も全く滅して、それよりわれとわが手もておのれを亡き人の数に加うることをなすべかりしものを。

あわれ、汝の火もて地上のあらゆる行為を照す太陽よ、汝、このわが恋の苦しみの仲人にして証人なるユーノーよ、夜に入れば町々の四辻に叫び声もて呼びおろさるるヘカテーよ、汝復讐の悪鬼たちよ、また汝死に行くエリッサの守護神たちよ、これらの言葉を受け容れよ。わが禍に対しふさわしき神力を向けよ。

いでわが祈りに耳を傾けよ。そは、もしかの忌々しき奴、必ず港に達し、陸地に浮かび着くべきものにして、ユピテルの運命これを求め、よしやその事はしかと定まりてあるとも、

なおその着ける土地の勇敢なる国人の闘争と武器とに悩まされ、その国土より追われ、ユールスの抱擁よりも引き離され、彼は救いを乞い求めつつ、同じ国人の恥ずかしき死を見るようになしたまえ。

また、彼が不利なる平和の条件に屈服したるとき、その王国も、期待せる生活も楽しみ得ず、時に先立ちて倒れ、葬られずして荒磯に横たわるようになしたまえ。

これぞわが祈りなる、これぞわが血をもてそそぎ出だす最後の言葉なる。

次にカルタゴの人々よ、汝ら憎悪の一念もて、彼の子孫と彼の未来のあらゆる種族とを迫害せよ。それをもてわが死灰へのささげ物となせ。二つの国民の間には何らの愛もあらしめな、同盟もあらしめな。

わが骨より復讐者よ、起て。しかして火と剣ともてトロイの植民を追えかし――現在——未来——いずれの時なりとも、力の与えられん時に。

われは祈る、海岸は海岸と相対峙し、海は海と相対峙し、軍隊は軍隊と相対峙し、いま生くる者も、その子孫も相戦えかし』(4-五八四〜六二九)

彼女はかく言いて、いかにせば最も早く、憎むべきこの世の光をおのれより離ち得べきと、絶え間なく心をあらゆる方にめぐらす。

さてしも手短かなる言葉もて、シュカエウスの乳母―――おのれの乳母は古き故郷にて黒き灰となりてありければ――バルケーに語りかけるは、

『いとしの乳母よ、ここに妹アンナを連れ来たれ。彼女にかく伝えてよ。急ぎ河の水を身にそそぎ、羊とお決まりのやわらげのささげ物とを持ち来たれと。

かくぞ彼女を来させよ。汝みずからは聖なる頭飾りもて額をおおえ。

われが目指すは、ステュクスのユピテルに、われが適当に手を下してあつらえたる犠牲をささげ、わが悲しみを収めて、かのトロイ人を葬る薪の山を火に委ねんとはするなり』

彼女のかく命ずれば、他は老女の熱心さもて急ぎ行くめり。

されどディードーは、身体ことごとく打ち震えつつ、むごたらしき事をせんとする前の気も荒々しくなり、血走る眼をくるくると動かしつつ、痙攣する頬には涙のあとを残し、死の切迫に顔面も青ざめ、

宮殿の内庭の門を走り入り、狂気のように高き薪の山にかけ登り、かかれとてしも請い受けたるものにはあらねど、トロイ人の剣を引き抜く。

ここにトロイ人の衣服と、見慣れたる寝椅子とを見出でたるとき、彼女は涙と思いに暫時ためらいつつ、身を寝椅子のうえに投げ伏して、最後の言葉をぞいうなる。

『運命と神との許せし限り、身に親しかりし汝らくさぐさのかたみどもよ、わがこの魂を受けて、われを悲しみより解きはなてよ。

われはわが生涯を送り、運命の定めたる道をおわりぬ。

さていましもわが堂々たる陰影は地下に過ぎ行かん。

われは光栄ある都を興し、みずから建てたる城壁を見、夫の仇を報い、敵意ある兄弟より償いを強奪しぬ――幸福なりしかな、あわれあまりに幸福なりしかな。ただトロイの船だにわが海岸に来たらざりせば!』

彼女はかく言いて、唇を寝椅子のうえに押しつけつつぞ続くる。

『この仇を報いずしてわれは死す。されどいざ死なんかな、かく、かく闇路に下るこそわが喜びなれ。残酷なるトロイ人に、彼の眼もて大海の上よりこの光景をむさぼり視せしめよ。彼とともにわが死の凶兆を運ばしめよ』

彼女はかく言いおわりぬ。されどなおこれらの言葉の彼女の唇にある内に、従臣らは彼女が刃に伏し、剣は悪血に汚れ、彼女の手も血にまみるるを見たり。

叫喚は高き広間々々にあがり、「風聞」はおどろき慌つる町の中を荒々しくかけ回る。

家々は悲しみと唸りと女の絶叫もて目覚め、空は高き嘆きを反響す。

そはあたかもカルタゴまたは古きテュロスが、敵の侵入によりみなことごとく廃墟となり、猛烈なる炎の、人の高き住家も、神々の殿堂もうず巻き去るにさも似たり。

彼女の妹はこれを聞きていたく打ちおどろき、心も空に急ぎながら、爪もて顔を傷け、拳もて胸を打ち、群衆を押し分けて、死に行く姉にその名を呼びかけつつ、叫びけるは、

『これぞ汝が目的なりしや、姉よ?汝はわれを偽りの計に乗せたるや?汝が命じたる薪の山の、火と祭壇とのわれにもたらせしものはこれなりしや?

あとに取り残されたるわれは何をか最初に嘆くべき?汝は死に行くとき、妹を友とすることをいさぎよしとせざりしや?汝はわれを同じ運命に呼ぶべかりしものを。剣により、同じあえぎぞ、同じ時ぞ、われら二人をかの世に送るべかりしものを。

まことや、われはかく打ちふしたる汝より、情なくも遠ざからんために、この手もてこの薪の山を打ち立てたるや。しかしてわが国の神々を声高く招きたるや?

汝は汝みずからとわれとを殺したり。姉よ、汝の臣民をも、シドンの長老をも、汝の都をもまた。われ、水にて彼女の傷を洗い去らん。もしなお最後の息のほのめきにても残りてあるならば、わが唇もてそれを捕えん』

かく言いて彼女は、高き階段の頂きに登りつき、瀕死の姉のまわりに腕を投げかけ、嘆きの吐息をつきながらわが胸に抱きしめ、黒き汚血をみずからの衣もて急ぎ拭い去らんとぞ努むる。

姉は重きまぶたを上げんとして、また伏せ沈みつ、深く貫きたる傷は彼女の胸の中にうずくめり。

三度起き上がらんと、肘にもたせて身を持ち上ぐれども、三度彼女は寝椅子のうえにころび反り、ゆらめきて定かに物のあいろも見えぬ眼に、天上高き光を求めつつ、そをようやくに見出でたるとき、微かに嘆息をぞつきし。

そのとき、全能のユーノーは、彼女の長き苦痛といたましき臨終とをあわれと見て、もがきにもがく魂と、それにまつわる肢体とを解きほどかんと、オリンポスよりイーリスをくだす。

彼女は天命により、または当然の死によりて滅ぶるにあらずして、悲惨にも定命に先立ち、にわかにに狂恋の炎に身を亡ぼすなれば、

プローセルピナもいまだ彼女の頭より黄なる髪の毛を取らず、彼女の頭はいまだステュクス(冥界)のオルクス(冥府の神)に委ねられず。

されば露けきイーリスは、打ち向かえる太陽の光に、千々に変化する色彩の跡をひきつつ、サフラン色の翼もて大空を通して飛び下り、彼女の枕辺に立ち止りて、

『命令により我この神聖なる髪の毛をディース(冥界の神)に持ち去り、汝を汝の身体より解き放す』

かく言いて、彼女は右手もて髪の毛を切り取れば、一瞬にして体温は逃れ去り、命は風にあせゆきぬ。(4-六三〇〜七〇五)




第五巻梗概(上170p)

アエネーアースは、ディードーの運命を知らず、シチリア島のアケステース王のところに航し去り、父アンキーセスの死の記念日に追弔競技を挙行す。

アンキーセスの霊にみつぎ物を約す。シチリア人とトロイ人と、第一の競技、端艇競漕に集まる。競漕の詳しき叙述。クルエンティウスの祖クロアントス、スキュラ号をもって勝利を占む。次に徒歩競走の叙述あり。エウリュアロス、朋友の詭計により、第一等賞を獲得す。しかして場景は拳闘場に転ず。ここにダレースは練達のエテッルスにうち負かされ、エテッルスはその賞品なる牡牛をたおして、その主エリュクスへのみつぎ物とす。その次に行われたる弓術にては、おどろくべき射撃ののち、アエネーアース第一等賞を神々の寵児としてアケステース王に与う。

この競技の終わるに先立ち、アエネーアースは子アスカニウスとその少年隊を招き、精巧なる調練を行わしむ。これは後日ローマにて「トロイ騎乗」として行わるるものなり。

ユーノー女神はこの競技の行われつつある間に、トロイの艦隊をほろぼさんと計画す。彼女は葬祭に出席せざるトロイの夫人たちに不満を吹き込む。彼女らは船に放火す。アスカニウスその現場に急行す。大神ユピテル雨を降らし、四隻を除き全船隊を救う。

ナウテース、老者と弱者とをアケステースとともにとどめ置かんことを忠告す。アンキーセスの亡霊この忠告に力をそえ、アエネーアースにおのれを下界におとずれよと命ず。出発の用意。アケステースその新たなる臣民を受けいれ、トロイ人らは出で行く。

女神ウェヌスは舵手パリヌールスのいのちに代えて、彼らに安全なる航海を許せと海神ネプトゥーヌスを説き伏す、パリヌールスは溺死す。


第五巻

その間にアエネーアースは、いま不幸なるディードーの葬いの柱の炎もて光り輝く城壁を見返りつつ、しかと目的を違えず、船艦をはや海路の中道まで乗り出し、北風に騒ぎ立つ暗き波を切り進みつつありき。

いかなる原因にてかかる大火の起りたるか、彼らはそれをえ知らねど、強き情熱を踏みにじられしときの激しき苦痛、また狂える女のいかなる事を仕出かすかの知識は、彼らトロイ人たちの心を悲しき予想に引き入るる。

艦隊大海に出で、いまわもはや陸地の目を遮るものもなく、いずこも海、いずこも空となりにしとき、彼の頭の真上に夜と暴風雨とを伴いて暗雲ただよい、波は暗闇のもとに騒ぎ立ちぬ。そのとき舵手(だしゅ)パリヌールスは、高き船尾よりいう。

『ああ!いかなればかかる大雲の空を蔽うや?汝は何を脅かさんとするや、主ネプトゥーヌスよ?』

彼はかく叫び、ただちに帆を縮め、力の限り櫂を漕げよと命じ、風に帆を斜めに転じていう。

『心偉なるアエネーアースよ、よしやユピテル神みずから証人となりて、我に約束したまうとも、我はかかる天気にイタリアに着くことを望みえじ。

風は吹き変わり、我らの進路を横切りて唸り声をあげ、暗き西の方より高まり、空気は濃くこりて雲となる。

我らは風に抗して争う力を持たず。またそれにさからって前進するだにいとむつかし。運命力強ければ、我らこれに服従し、その命ずるままに進路を向けかえん。

思うに君の兄弟エリュクス(ウェヌスの子)の頼もしき海岸も、シチリアの港も、よも遠からじ、もし我にして物覚えよく、以前見たる星を、いままた正しく測り見るならば』

そのとき彼に対し律儀なるアエネーアースは答う。

『我もまた早くより、風のかく振る舞わんことを知り、汝がそれに逆らいて進まんとする事の益なきを見ぬ。

船の針路を転ぜよ。そこにわがトロイ人アケステース(シチリア王)おり、その胸にわが父アンキーセースの骨を抱く土地よりも、いかなる土地かはそれ以上我に取りて懐しかるべき、はた、我が疲れたる船を着けんと、さらにこれにまさりて欲する所やあるべき』

かかる言葉を交わしたるのち、彼ら港に向かいて進むに、西の順風は彼らの帆を充たし、艦船は海上を速やかに運ばれ、ついに彼らは喜ばしくも馴染ある磯辺に着きぬ。(5-一〜三四)

アケステースはまた、なお遠くの方なる山頂より、友の船の来たるを見て打ち驚きつつ、彼らを出迎えんと急ぐ。その装いは投げ槍を携え、リビア産の熊の皮を着けて、素朴にぞ見えたりける。

彼はトロイ人なる母のクリニソスの河神(シチリアの河)と媾いて生みたる者なり。彼、むかしの先祖を忘れず、立返りし彼らを喜び迎え、田野の富をもて悦んで彼らを響応し、友情をこめたる給養をもって、疲れたる船人をば慰むる。(5-三五〜四一)

明るき翌日の朝まだき、星どもの天より追い払われしころ、アエネーアースはあらゆる磯辺より僚友を会合に呼び寄せ、丘の小高き所より語りていう。

『ダルダノスの偉大なる子らよ、神々の高き血統より出でし種族よ、我ら、聖なるわが父の亡き骸と骨とを土に委ね、悲しみの祭壇を献じて以来、月は月の道を走り、歳は一歳の輪を合わせぬ。

さていま、わが思い誤りにあらずんば、つねにわが哀傷の日としてこれを守り、つねにそを尊奉せんとする日近きにあり。かくぞ汝ら神々は欲したまいぬ。

もし我、ガエトゥーリアのシュルテスに流され人となり、またはギリシアの海にて嵐に襲われ、またはミケーネの都にありて、この日を過せばとて、なお我は例年の誓約と荘厳なる法要とを正しく執行し、適当なるみつぎ物を祭壇に積まん。

さるにいま、おのずから我ら父の骨と灰とのある所に来たり、ここに漂い着きて、友の港に入りぬるが、こはたしかに神々の意思と加護となくして、あり得べしとも思われず。

されば、いでや、みなもろともに我らこの楽しき法要の式を挙げん、我ら順風を乞わん、しかしてわが父は、我が都を建てたるのち、彼のため聖別したる殿堂にて、年ごとに我がこの聖式をささぐることを許したまえかし。

トロイより出でしアケステースは、汝らに船ごとに牡牛二頭ずつを贈るという。汝らの饗宴に祖国の家神と主人アケステースの崇拝する家神とを招待せよ。

なお第九日目の朝がその穏やかなる日を人々のために昇らせ、太陽の光もて世界をあらわすとき、我、トロイ人にまず速やかなる船艦の競技を言い渡さん。

しかして徒歩競走に強き者、剛力にてあるいは衆にすぐれてよく槍を投げ、または軽き矢を飛ばす者、あるいは生皮の篭手(こて=グローブ)をかけて拳闘をあえてする者は、みな出席し、かち得たる勝利の賞品を期待すべし。汝らみな凶兆の言葉を避くることに心し、汝らの額を青葉をもって飾れ』(5-四二〜七一)

彼はかく言いて、おのれの額に母ウェヌスの天人花の花輪を巻く。ヘリュムスも、年長けたるアケステースも、少年のアスカニウスも、同じようにすれば、他の若人たちもみな、彼らに倣う。

彼アエネーアースは大群集に伴せられ、そのまっただ中に、数千の人々を引きぐして、会議の庭を離れて、父アンキーセースの塚の方へ赴く。

さて、ここにて彼は醇酒を盛りたる大盃二つ、新しき牛の乳入れたる大盃二つ、犠牲の血入れたる大盃二つを、奠酒(てんしゅ)のため地上に注ぎ、華美なる花を撒きてかくいう。

『君を呼ぶ、かしこき父よ、いま一度君たちを呼ぶ、空しくトロイより救われし我が父の灰よ、魂よ、その陰影(かげ)よ。

天はイタリアと、運命の我らに与えたる野と、いかなる流れかはいまだ知らねど、イタリアのティベリス川とを君とともにたずねることを我に許さざりし』

彼がその言葉をおわりしとき、廟(びょう)の底よりいと大きく滑らかなる蛇すべり出で、静かに墳墓を取り巻き、神壇の間をすべり行き、七つの輪と七つのうねりとを作りてはう。

帯びる青色の斑点は、その背を輝かせ、黄金色の斑点のきらめきは、うろこを火のごとく燃え立たせ、そのあり様を例えなば、雲の中なる虹が、打ち向かえる太陽により、色とりどりに百千のいろどりを投ぐるときのごとし。

この光景を見て、アエネーアースは打ち驚く。かの蛇は長き身を引きずりて、徐々と大盃と磨きたる杯との間を這い、食物を嘗め、何の害もなさずして、ひそひそと再び塚の下深く入り行き、その餌食みたる祭壇をぞ残しぬる。

アエネーアースはこれによって励まされ、すでにそなえ始めたる父へのささげ物をますます新たにす。

彼はこれをこの土地の守護神と考うべきか、はた父に従属する精霊と考うべきかは知らねども、式に従い、二歳の羊二匹と同じ数の豚、および黒き背の若牡牛を犠牲となし、しばしば大盃より酒を注ぎて、偉なるアンキーセースの霊、およびアケローンより解放せられたる諸々の魂を招請す。

なお彼の僚友も各々その分に応じ、快活なる心もてささげ物をなし、それを祭壇に積み重ね、また若き牡牛を犠牲とす。

他の者は列を作りて大釜を据え、草の上に横臥し、串の下には燃え盛る炭火をおこして臓腑を焼く。(5-七ニ〜一〇三)

さて待望長かりし日は来たり、輝く神の駒は、雲なき光もていまや第九の朝を案内し、

競技の噂と名高きアケステースの名とは、近隣の人々を動かしぬ。彼らは快活なる隊󠄁をなして、海岸に群がり来たる、そはアエネーアースの一行を見むとする者どもなるが、あるいはまた競技の人数に加わらんとする者もありけり。

そこにはまず、衆人の目前、見物人の円陣の中央に賞品を置く、神聖なる三脚台、緑葉の輪飾り、勝利者の褒賞となる棕梠の葉、武器、紫染めの衣服、金塊、銀塊など。そのとき、ラッパは岡の中腹より、その曲調によりて競技の開始を報ず。

第一に競うは、全艦隊より選ばれたる四つの船にして、重き櫂を備えたるあり様は、いずれも勝り劣りなし。

ムネーステウスぞ元気なる乗組を率いて、素早きプリスティス(クジラ)号を押し進むる。やがて彼はイタリアのムネーステウスとなり、メムミウス家は彼の名より出でたり。

ギュアースは巨体したるキマエラ号を指揮したるが、その大きさは一都市にも似て、トロイの若者三列の漕手となりて漕ぎ進め、櫂は三層にあがる。

次にはセルギウス家の家名の祖なるセルゲストゥス、大いなるケンタウロス号に乗り、暗緑色のスキュラ号にはクロアントス乗りけるが、じつにこの人よりぞ、ローマのクルエンティウスよ、汝の血統は出でたりける。(5-一〇四〜一二三)

さて海上遠く、泡立つ海岸と相対して一つの岩あり。こは冬の北西の風、星を隠すとき、しばしば潜み隠れて大波に打たるることあれど、

穏やかなる天候のときは音も立てず、静かなる海の上にその平かなる面(おもて)を出し、日光に浴する鴎などにいと悦ばるる所なり。 アエネーアース主(ぬし)は、葉つきの槲(かし)にて作りたる緑のしるし杭を立てて、船人の目標とし、そこより彼らが引き返し、そこにて長き進路を回転すべきことを知らしめんとす。

それより彼らはくじによりて彼らの位置を定め、船長自身は黄金と紫とにて美しく身を装い、艫に立ち、遠くまでぞ輝き見ゆる。

その他の若人たちは、白揚の葉の環をかぶり、裸の肩には、流るる油をそそぎ輝きける。

彼らは腰掛の梁(はり)に座し、腕を櫂に伸し、合図いまやと待ち懸くるに、鼓動する興奮と誉れを望みて緊張する欲情とは、彼らの高鳴る胸を引き締むる。

瀏亮(りょうりょう)たるラッパの声鳴り渡る瞬間、彼らはたちまち出発点よりすべり出で、漕ぎ手の叫び声は空を打ち、海は彼らの胸に引きちじめたる腕にて翻り泡立つ。

彼ら調子を合わせ、波の畝を鋤き起せば、凡て水の面は櫂と三叉の船首とにかき乱されて口を開く。

よしや二頭引きの戦車の競争においても車のかくばかり早く出発点より走り出づることなく、また平原を疾走することなし。

御者もまた、全速力にて駆け行く馬に対し、波打つ手綱をかくばかり振り動かさず、また馬をむち打たんために、前方に身をのしかかることもなし。

そのとき、森はすべて人々の喝采と叫び声とにより、また応援者の興奮とによって反響し、丘に囲まれたる海岸はその響を転ばし、丘はその音に打たれて騒音をまたはね返す。

ギュアースは他の者たちを漕ぎ抜け、混雑と叫喚との間に、先頭となりて波の上を滑り行く。

次にはクロアントスぞ彼に間近く続く、その漕手は立ちまさりたれども、船の重さのために鈍き船足は彼を妨げたり。

これらの後には、およそ相等しき距離を保ちながら、プリスティス号とケンタウロス号と、互いに乗り越して先頭にならんと競う。

あるときはプリスティス号勝つかと見れば、あるときは大いなるケンタウロス号他を負かして乗り越し、あるときは彼ら双方とも一緒に舳先を並べて突き進み、長き竜骨もて塩辛き海水を切る。

さていまや彼らが巌に近付き、しるし杭に達せんとしたるとき、なお競争の先頭に立ち、波の中に勝ち誇りたるギュアースは、大声に船の舵手なるメノエテスに話しかけていう。

『いかなればかく右に寄るぞ?いで、こなたへと方向を変えよ。巌に抱き付くようにして、櫂の刃が左の方に岩をこするにまかせよ。他の船は沖の方を行かしめよ』彼はかく言いぬ。されどメノエテスは暗礁を恐れ、船首を大海の深みの方に向けたり。

『針路を離れていずこへ行かんとするや?岩に向かいて梶を取れ、メノエテス』とギュアースは再び叫びて、彼を元の進路に呼び戻さんと努む。

しかして、見よ!振り返り見れば、クロアントスは背後に差し迫り、岩に近き位置を占めたり。

すなわちクロアントスは、ギュアースの船と唸る巌との間に入り、ギュアースより内側を取り、左手の進路を滑走すれば、たちまち先駆けの船を通り越し、回転の標柱をも後にして、安全なる海上に乗り入りぬ。

そのとき、じつに大いなる激怒は若人の胸に湧き、涙は頬を伝うて流れ、おのれの品格も僚友の安全も打ち忘れ、意気地なきメノエテスを、高き船尾より海中へ真っ逆さまに突き落す。

さてみずから舵手として舵も取り、みずから船長として人々を励ましつつ、舵をば岸に向くる。

メノエテスはまた、ついに辛うじて大海より浮かび出でしとき、すでに年老いかつ濡れたる衣服の滴りにて身も重かりしが、よくやく巌の頂きに登り、乾ける岩に座る。

トロイ人らは、彼の落ちしときに笑い、泳ぐを見ては笑い、塩水を胸より吐くを見てはまた笑う。

ここに二人のしんがり人、セルゲストゥスとムネーステウスの胸に、ひまどるギュアースを追い越さんとの楽しき希望で燃え立ちぬ。

セルゲストゥスまず先頭となりて巌に近付く、されど船の全身の長さまでは勝たず、ただその一部分だけを勝ちたるばかりにて、一部分には敵手プリスティス号、その舳先を押し並べたり。

ムネーステウスは船の真ん中、友らの間を歩みつつ、彼らを励ましていう。

『いで、いで、力の限り櫂を漕げ、ヘクトールの友なりし人々よ。トロイの最期のとき我が伴侶(とも)と選びし人々よ、出だせ、かのガエトゥーリアのシュルテスにて、イオニアの海にて、またマレアの追い波に対して示したる、汝らの力と勇気とを。

我、ムネーステウスは、もはや賞与を狙うにあらず、また勝たんと努力するにもあらず。されど、ああ!——ネプトゥーヌスよ、汝が勝利を与えし者たちの勝たんことをこそ。――我ら最後となりて帰らんは恥辱なるべし。人々よ、ネプトゥーヌスの与うる勝利をかち得よ、しかしてかかるきたなき不面目を防げ』

彼らは全力もて緊張し、櫂に身を入るれば、漕ぎの強さに黄銅の船は打ちふるい、水は船底を滑り走り、やがて彼らの繁き息の喘ぎは、四肢と乾ける口とを打ちふるわし、汗は全身に滝のごとくぞ流るる。

されどむしろ偶然が彼らの熱望したる名誉を、この人々にもたらしぬ。そは、セルゲストゥスが、狂うばかりの熱心もて、船首を内側なる巌の方に押しよせ、危険なる水路に入り込みしに、不幸にも突き出でたる岩棚に打ち当てたればなり。

岩は揺れふるい、櫂は尖れる岩礁を打ちてめりめりと折れ、船首は突き入りて船はそこに吊り下がりぬ。

漕手はたちまち総立ちとなり、立ち止りて大声に叫びつつ、手早く鉄の締金したる竿や、尖れる先端ある棒など突き出し、水に浮かびたる櫂のこわれを拾い上げなどす。(5-一二四〜二〇九)

されどムネーステウスはうち悦び、この幸運に新しき力を得て、速やかに櫂を使いつつ、風を招き岸辺の方に傾ける水を真一文字にかき分けて、大海を走り越ゆる。

そは、例えば一羽の鳩の、おのれの洞穴より不意に驚かされたるとき、――鳩の家といとしき雛とは、人目につかない多孔質の岩場にあり――野の方に飛び出でて、棲家よりは恐れのために音高く羽ばたき去れど、やがて穏やかなる空をすべり、流るるごとくすらりと飛び、翼も多く動かさず、おのが巣に立ちかえるにも似て、

かくムネーステウスは急ぎ、かくプリスティス号は思うがままに飛び、コースの果ての水を切り、かくてその飛躍それ自体が、飛ぶがごとくに船を運び行く。

彼がまず後にしたるは、高き岩礁の上にもがきつつ、浅瀬で空しく援助を呼び、いかにせば折れたる櫂もてよく走り得べきと試むるセルゲストゥスなり。

それより彼は、ギュアースと、船体大いなるキマエラ号とに追い迫る。舵手(メノエテス)なくなりぬれば、キマエラ号は敗れぬ。

いまやクロアントゥスのみぞ、競漕の終りに近く残りいたり。ムネーステウスは彼を追い、全力を出して努力しつつ、彼に押し迫る。

ここに人々の叫びは倍加し、みなもろともに追い行く者を喝采の声をもて激励し、空もこの大いなる騒擾を反響す。

先立てる船の乗組員は、彼らのものなる光栄、彼らのかち得たる名誉をもし保ちえざりせばいかにせんと、いたく恥じて、名誉のためには命も捨てんと思う。

後なる船は、成功に力を付けらる。じつにや心の持ち方ぞ力の源なる。

かくてもしクロアントゥスが、両手を海に差し出し、祈りの言葉を吐き出し、わが誓いを聞こし召せと神々に呼びかけざりせば、彼らはおそらく相匹敵する船首もて決勝点に入り、賞与を等分したるならん。

『大海を司り、いま我が漕ぎ渡る海を所有したまう神々、喜んで我はこの磯辺なる祭壇の広前にて、汝らに白き牡牛をささげん。わが誓いは違えじ、その臓腑をば塩辛き波に投げ込み、流るる酒を注ぎ込まん』

彼はかく言いぬ。しかしてその言葉は深き波の底にて、ネーレイデースにも、海神ポルクスの全隊にも、処女神パノペーにもみな聴かれぬ。

されば長老神ポルトゥヌスは、みずからその強き手もて走る船をなお押し進むれば、船は風よりも、飛ぶ矢よりも早く陸地の方に急ぎ、深き港の中に入る。(5-二一〇〜二四三)

そのときアンキーセースの子は、慣例により一同を呼び集め、伝令に命じて高声にクロアントゥスを優勝者と宣言し、彼の頭を緑の月桂樹の輪をもって飾り、

次には各船への贈り物として、三匹ずつの牡牛と酒とを選ばしめ、また重き銀塊を与えて持ち行かしむ。

船長らにはまた特別の贈り物を付け加う。

優勝者には黄金の刺繍したる外套を与うるに、その縁の周囲にはメリボエアの紫の巾広き帯紐、二重の波形に走り、外套にはその一部に木の葉繁れるイーダにて、早き牡鹿を投げ矢もて、全速力にてはげしく追いかくる、息差し忙しき王子(ガニュメデス)を織り出したり。

他の部分にはユピテルの武器(稲妻)の捧持者たる鷲、疾く飛びて曲がれる足もて彼をイーダ山より天上高く運び去る。

王子の老いたる守護者たちは、むなしく彼らの手を空の方に差し伸べ、猟犬どもの吠ゆる声は天に向かってはげしくぞ見ゆる。

さてその次に第二着の功を立てたる者に、アエネーアースは鎧をば与うる。そは黄金の艶々しきくさりを三重に締め合わせて作り、彼みずからが高きイーリウムのもと、早きシモイースの岸にて勝利を得たるとき、デーモレオスより奪いたるものなるが、船長にはこれを着て、身の飾りにもせよ、戦いの守りにもせよとこそ与えたるなれ。

彼の家来のペーゲウスとサガリスとは、彼らの肩に力をこめつつ、幾重にも編みたるこの品を辛うじて支えたり。

されどそのかみ、ありし日のデーモレオスは、これを着て走りながら、乱れ散るトロイ人をば追いかけたりし。

第三の賞与として彼は、青銅の大釜一対と、銀もて巧みに作り、形象を浮き彫りしたる大杯とを与う。

されば彼らはみないまやかく贈り物を受け、その賜り物を誇りつつ、紫の紐もて彼らの額を結びて立ち去るが見ゆるころ、

多くの努力の後ようやく惨たる巉巌(ざんがん)より離れ、櫂は失い、櫂列のいっそうは全く無用となりたるセルゲストゥス、たよりなきあり様にて、その物笑いの種となれる樓船をぞ運び来たる。

そを例えて言わば、蛇がしばしば大道にて、あるいは黄銅の車輪斜めにその上を過ぎるとき、あるいはまた激しき岩石の打撃もて旅人がそれを半死のさまに打ちくだくとき、

空しく逃れんともがきつつ、一部においてはなお猛々しく眼を輝かし、舌鳴らす首を高くもたげながら、一部は手傷のため不具となり、節ある尾もてあがき、身体の一部を他の上にと相かさぬるとき、われとわが身を引きとどむるごとく、かかる櫂の動作もて船は鈍くぞ動きける。

されどそはやがて帆を巻き上ぐれば、満帆に風をはらみて港に走せ入りぬ。

アエネーアースは、船も助かり、友も海より救われたることをめでたしと思いて、セルゲストゥスにも約束の贈り物を与う。

すなわち彼に与えられたるは、ミネルヴァの技に巧者なる一人の女奴隷にして、生まれはクレタ島の者なるが、名をポロエーと呼び、二人の男の子を胸に抱きてありぬ。(5-二四四〜二八五)

かくてこの競技も終わりぬれば、律儀なるアエネーアースは草原に行く、その平地は四方を曲折せる小丘の森もて取り囲まれ、その丘の間の谷の真ん中に劇場のようなる楕円形の盆地あり。

そこへと英雄は数千人に伴われて赴きけるが、群衆の真ん中となり、一段高き座に着きぬ。

ここに彼は速き徒歩競走にて争わんとする人々の心を褒美もて動かし、賞与の品を提供す。

さればトロイ人もシチリア人も打ち交り、四方より集まり来たりけるが、第一はニーソスとエウリュアロス(アエーネーアスの部下たち)にて、エウリュアロスは青春の姿の美しさもて現われ、ニーソスは少年に対するやさしき愛情もて名高し。

次はプリアモスの貴き血統より出でし公達ディオーレースにて、その後よりはサリウスとパトローンと打ち連れ来たる。一人はアカルナーニア人にて、他はアルカディアの血統を引き、デゲア人なり。

次にあらわれしはシチリアの二人の青年、ヘリュムスとパノペース、ともに森林にて身を鍛え、老いたるアケステースの従者なり。その他にも多けれど名は埋ずもれて聞こえず。

さてそのとき、彼らの真ん中にてアエネーアースはかくいう。『汝ら我がこの言葉をよく心に受け入れ、これに汝らの悦ばしき心を向けよ。

この数に加わる者は一人として、我よりの贈り物なくして立去ることなかるべし。

各人に我は、磨きたる鋼鉄もて輝けるクノッソスの矢二本と、銀の模様彫りたる両刃の斧とを取らせん。

こは各人に平等なる賞典なり。先着の三人は、賞与を受け、彼らの頭を淡緑色のオリーブの花輪もて巻くべし。

すなわち第一着の勝利者は、馬具を飾りたる馬一匹を得ん。第二着の者は、トラーキアの矢を盛りたる、アマーゾーンの箙を得ん。その箙には周囲に幅広き黄金の帯を巻き、締め金は磨きたる宝石をもって止めたり。第三着の者は、このギリシアの兜もて満足して立ち去らざる可からず』

彼がかく言いおわりしとき、彼らは位置に着き、合図を聞くやいなや、たちまちコースに飛び出し、出発点をあとにして嵐雲のごとく走り、同時に眼もて決勝点を測る。

先頭を切るはニーソスにて、他の全ての者よりはるかに先立ちて飛び行き、風よりも雷電の翼よりもなお早し。

彼に次ぎて、されどあわい長く隔たりて、続くはサリウス、その後にまたしばらく間を置きて、第三に走るはエウリュアロス。

エウリュアロスの後に続くはヘリュムスにて、次ぎにヘリュムスに迫りて、見よ、ディオーレースぞ飛び行く。じつに彼の足はヘリュムスの踵をふまんばかりにて、彼の肩に押し付き、なおコースの多く残りてだにあらば、突進して彼を追い越すか、またはいずれを勝ちとも定まらざりしならん。

いまや彼らコースの終りに近く、息切れ切れに決勝点に近付きしが、そのとき不幸にもニーソスは、滑りやすき血に倒れぬ。そはたまたま二三の牡牛の屠殺に際して流れ出でたる血の、地面とその上なる緑の草とを濡らしたればなり。

ここにいまや勝利を前にして意気あがれる若人ニーソスは、踏み付くる地面に足を定め得ず、前のめりに汚なき泥土と犠牲の血の中に倒れぬ。

されど彼はエウリュアロスのことを忘れず、彼に対して抱ける愛をおもう。さればぞ彼は、めらぬらとしたる地面に立上りながら、サリウスの道に身を横たう。サリウスつまずきて、厚き砂に倒れ伏す。エウリュアロスは跳躍し、友の助けによりて優勝者となり、先頭を切りつつ、彼をひいきする喝采と喧騒のうちに走り行く。

次に続くはヘリュムス、しかしていまや第三勝者はディオーレースなり。

このとき、サリウスは大いなる叫びをあげて、大見物席の全群集と、長老たちの前列の席とを充たす、そは詭計によりて彼より奪われたる賞典を、彼に返せと要求するなり。

人々の感情はみなエウリュアロスを支持す。彼にふさわしき涙も、かく美しき姿なれば、ひときわ晴やかに見ゆるその手柄もまた彼を支持する力となる。

ディオーレースも彼を助け、高声に叫ぶ、そは彼も賞与を得ることとなりたれども、もし第一等の賞与がサリウスに返されんには、おのれの得たる最後の賞与も空しかるべければなり。

そのときアエネーアースの主はいう。『汝らの賞与は確かに汝らに留まるべし、若人よ。何人もまた賞与の順序を変うることなし。されど我は我が友みずからの過失ならぬ不運に同情することを許さるべきなり』

かく言いて彼は、尨毛(むくげ)と黄金の爪もて重さ、ガェトゥーリアの獅子の巨大なる毛皮をサリウスに与う。

そのときニーソスはいう。『もしかかる賞与、敗北者に与えられ、汝倒れし者を哀れんとならば、いかなるふさわしき贈り物をニーソスにたまわるべき?その我こそは、もしサリウスを打ち挫きしと同じ悪運が我を打ち挫かざりせば、勲しにおいて当然第一の栄冠を受け得べかりしなり』

かく言いながら彼は、湿めれる泥土に汚れたる顔と手足を示す。いと心よき長老アエネーアースは、彼に対して打ち笑みつつ、人々に盾を持ち来たれと命ず。そはディデュマーオーンの製作にて、ネプトゥーヌスの聖なる扉より、ギリシア人らが取り下ろしたる分捕り品なり。この豪華なる贈り物もて、彼はこの勝れたる若人をたたえぬ。(5-二八六〜三六一)

競技は終わり、贈り物をことごとく与えおわりたるとき、彼はいう。

『さて何人にても胸に勇気と意思とを持つ者は、進み出でて、手に篭手を巻きたる腕を差しあげよ』

彼はかく宣言して、勝負には二つの賞品を提供す、勝者には鍍金したる角を持ち、頭に帯まきたる牡牛一頭、敗者を慰むるには剣一口と高貴なる兜となり。

遅滞なくたちまち大力のダレース顔をあらわし、群集の喝采の中に立ちあがる。

彼こそパリスと闘い慣れし唯一の人にして、彼はまたいと偉なるヘクトールの横たわる墓場にて、巨身の常勝者ブーテスを打ち負かし――この者はみずからベブリュキアのアミュクス王の血統なりと誇りいたり――、黄なる砂の上に、死の苦しみする彼を打ち伸ばしたることあり。

かかるダレースぞ真っ先に、闘いのため高き頭を上げ、広き両肩を示し、腕を交互に突き出して打撃もて空を打つ。

彼の相手となるべき選士を求むれども、かばかりの群集の中よりもあえて彼に近付かんとする者一人もなく、また手に篭手を巻かんとする者もなし。

さればダレースは意気軒昂として、みな勝負より避け控うると思いつつ、アエネーアースの足の前に立ち、少しも遅疑せず、左の手に牡牛の角を捕えていう。

『女神より生まれたる者よ、何人もあえて闘わんとせぬならば、ここに立つことにいかなる果てしのあるべき?いかに長く我はここにたゆたいてあるべきぞ?贈り物を持ち出づるように命じたまえ』

そのときトロイ人たちはみな一斉に喝采の叫びをあげ、その男に約束の賞品を与えよと請う。

ここにアケステースは、緑の芝生の土手の上にて、彼にひたと隣り合わせて座りたるエンテッルスをはげしく責めていう。

『エンテッルスよ、むかしは勇士の中の最も勇敢なりし者よ、その高名もいまわ空しからん。汝はかく豪華なる賞品が、何ら闘いを交えずして持ち去らるるを、かく平然として許さんとするか。

汝が空しく汝の師なりと我らに誇りたる、かの神のごときエリュクスはいずこにありや。全シチリアに拡がりたる汝の名声も、汝の広間に懸けたるかの獲物も、いまいづくにありや?』

彼は答えていう。『恐れに駆られてわが名声と光栄を愛する心とを失えるにあらず。むしろ我が血が鈍重なる老年のために冷たく鈍くなり、わが力が衰えて身体に活気なくなりたればなり。

もし我、むかし持ちたりし若々しさ、さなり、かの大言者のみずからたのみて勝ち誇る若々しさ、もしいまそれだにあらば、我は一つの賞与も、かの美しき牡牛も待たず、名簿に入りたらん。また我は贈り物を少しも心にかけず』

彼はかく言いて、ただちにいと重き一対の篭手を人々の輪の中に投げ込む。これをつけて勇敢なるエリュクスはいつも闘いにのぞみ、腕を強き獣皮もてしばりたり。

これを見て人々の心はみな驚嘆す。そは、その篭手は大いなる牡牛の七枚の皮を合わせ、鉛や鉄を縫い付けて固めたればなり。他の何人よりも驚きたるは、ダレース自身にて、彼は身をしりぞきてその篭手を拒む。

アンキーセースの心広き子は、その重量をひき試み、篭手の大きくよじ曲げたる革紐を彼の手にてあちこちと回しなどす。

そのときこの老人(エンテッルス)は、彼の感慨を吐露していう。

『もし何人かヘラクレスみずからの着けたる武具なる篭手を見、またこの磯辺にてありたる哀れなる闘いを見たる者あらば、いかに思うらん?

これぞ汝の兄弟エリュクスが、むかし着けたる武具にして――汝はいまにてもなおそれが血と飛び散りたる脳漿とにて汚れおるを見ん――これを着けて彼はアルケウスの偉なる孫(ヘラクレス)と対立しぬ。我も、若き血が我に力を与え、妬み深き老年がいまだ両鬢に白髪を撒かざりし間は、これをば用い慣れたり。

されど、もしトロイのダレース、このわが武具を用うることを拒み、律儀なるアエネーアースの判断もしかありて、この闘いをわれに勧めたるアケステースもそれをうべなうならば、我らこの闘いを平等にすべし。我は汝のためにエリュクスの篭手を捨てん――な恐れそ――汝もトロイ風の篭手を取りされ』

彼はかく言いて、肩より二重の外套をなげしりぞけ、彼の手足の大いなる関節も、大きなる骨も、上腕もむき出しにして、闘技場の真ん中に巨人のごとく突き立ちぬ。

そのときかの民の長(おさ)、アンキーセースの子は、同じ大きさの篭手を持ち出し、全く優劣なき武具もて二人の手を巻く。(5-三六二〜四二五)

闘士はただちに銘々つま先にて立ち上りつつ身構えをなし、臆するさまなく腕を空中に差し上ぐ。

彼らはその高き頭を強く後ろに引きて打撃を避け、手と手を入りまじらせて戦いを挑む。

一人は足使いの早さにおいてすぐれ、年の若きをたのみとす。他は巨大なる四肢にて立ちまさりたるも、その膝はこわばりて、身の慄うとき震いよろめき、苦しげに喘ぐ呼吸は巨肢をばうち揺るがする。

闘士が互いに狙う打撃は、多く無効にして、空しく彼らのうつろなる脇腹を打ち続け、または胸に高く鳴り響くもの多し。しばしば彼らの手は、耳やこめかみの周囲にさまよい、彼らの頬は激しき打撃の下にがらがらと鳴ることあり。

エンテッルスはどっしりと同じ位置に、動くことなく立ちて、ただ上体を動かすことと、注意深き眼の働きばかりにて、打撃を避くる。

されどダレースは、戦争の機械もて、そびえ立つ都市を襲う者のごとく、あるいは武装して山上の城砦を包囲する者のごとく、とざまかくざま(あれこれ)近付かんとして、巧みに至るところ地の利を測り、種々の攻法もてその場に押し迫れども、全て効を奏せず。

エンテッルスは突き立ちたるまま、右手を差し出し、一撃を与えんと高く振り上ぐる。他は打ち下ろさるる打撃を早くも予想して、敏捷なる動作もて、身を片脇にすべりよけて、それをかわす。

エンテッルスは力を空しく費し、ひとりでに力負けして、重き者が非常の重さもて、どうと地面に倒れたるあり様は、折々エリュマントゥスまたは高きイーダのもとにて、洞ろな松が根より引き裂かれて不意に倒るるに似たりけり。

そのとき、トロイ人たちも、シチリアの若人たちもともに、彼らの選士に対する熱狂のために立上る。

叫び声は大空までも舞い上り、まずかけ寄りしはアケステースにて、同年の旧友をあわれみて、地面より彼をたすけ起こす。

されどこの勇士は、転倒によりて阻喪せず、落胆せず、新しき力もて戦いにかえり、憤怒は彼の精神をふるい起さしむ。

恥を知ること、自信ある勇気とは、彼の精力を燃え立たしめ、たけり狂うて、あるいは右手にて打撃を倍加し、あるいは左手にて倍加しながら、まっしぐらに逃げ行くダレースを、平場中に追いかけまわす。

そこにはもはや躊躇もなく猶予もなし、打撃は嵐の屋根を打つあられのごとく繁く、打撃に次ぐ打撃をもって、この勇士は両手を使い、繰返し繰返しダレースを打ちに打つ。

そのときアエネーアースの主(ぬし)は、彼の狂暴のなお長く続き進み、激しき怒りのままにエンテッルスの荒れ狂う事を欲せず、ここに闘いを終了し、疲れたるダレースを言葉もて救いなだめていう。

『不幸なる者よ!かくも大いなる何たる狂気の、汝の魂を占めたることぞ?汝はかの力ならぬ力、はた神々の御心も変りしことを感ぜざるや?いざ、神意に従うべし』

彼はかく言いて、その言葉もて闘いを引き分けぬ。さて彼の忠実なる友人たちは、ダレースを船に伴い行くに、彼は弱りたる膝を引きずり、頭を左右にうち揺るがし、口よりはこごりたる血の塊と、血にまじりたる歯とを吐き出す。

彼らは呼ばれて、兜と剣とを受け、勝利の誉れと牡牛とはエンテッルスに残す。そのとき、優勝者はあふるるばかりの得意もて、牡牛を誇りつついう。

『あわれ女神より生まれたる者よ、また汝らトロイ人よ、若かりし日、いかばかりの力をわが身体に持ちたるか、またいかなる死にざまより汝らはダレースを呼び戻して助けたるか、これを知れ』

彼はかく言いて、戦いの賞としてそこに相向かいいたる牡牛の顔に打ちむかいて立ち、彼の右手を引きしりぞけ、打撃のために振り上げ、固き篭手をまさしく両角の間に打ち下ろし、拳を骨に打ち込みて頭脳を打ちくだく。牡牛は身を伏せ、命も絶々に打ちふるえつつ、地面に倒る。

彼はその上にてかくいう。『エリュクスよ、これぞダレースの死の代りに、我が汝に捧ぐるより良き命なる。ここに勝利を得て我は、わが篭手とわが技とを捨つるなり』(5-四二六〜四八四)

これを終わりてただちにアエネーアースは、早き矢を闘わさんと欲する者どもを招き、賞与を提供す。しかして彼みずからの強健なる手もて、セレストゥスの船の帆柱を立ち上げ、一羽の敏き鳩を、帆柱の上につけたる紐にて結びつけ、丈高き帆柱より吊り下げ、彼らの矢先の狙う的とす。

人々は群がり寄る。黄銅の兜は投げ入れらるるくじを受く。しかして喝采の内に、まず出で来たりたるは、ヒュルタコスの子ヒッポコーンのくじなり。彼に次ぐは少し前に船の競漕にて勝利者となりしムネーステウス、すなわち緑のオリーブの輪を冠りたる彼ムネーステウスなり(実際の優勝者はクロアントゥス)。

第三はエウリュティオーンにて、あわれいと名高きパンダロスよ、汝の兄弟なり。汝こそはかつて約定をかきみだせと命ぜられて、第一にギリシア軍の真ん中に矢を射たる者なれ。

アケステースのくじは最後にて、兜の底にとどまりぬ。彼は老いたれども、若人のすなる競技を手づから試みんとぞあえてしたる。

そのとき、射手は強き力もて、銘々出来得る限り彼らの反りたる弓を曲げ、箙より矢を抜く。

しかしてまずヒュルタコスの若き子の矢ぞ、鳴響く弓の弦より、天空を切って唸りつつ、神速に飛び行きけり。そは行き先に達し、むかい立てる帆柱の材にしかと立つ。

帆柱は揺れふるい、驚ける鳥は翼を羽ばたきて恐れ、周囲よりはすべて高き喝采の声響き渡る。

次には鋭きムネーステウス、高きを狙い、弓を引きて立ち、同時に眼と矢とをその方に向くる。されど、不幸なる射手は、矢を鳥その物に当て得ずして、高き帆柱にかかりたる鳥の足を結びたる、結び目と布の紐とを射ち切りたれば、鳩は大空高く黒雲の方に飛び去りぬ。

エウリュティオンは、そのとき早く、かねてより弓を用意し矢を弦にかけたるが、彼の兄弟(パンダロス)に祈り、いま大空の広きをたのしみ翼を羽ばたく鳩を見わたしつつ、黒雲の下にてそを射ちつらぬく。鳩は命を失い、その魂を天なる星の間に残しつつ、落ち来たるまさにその身体に止りたる矢をばともに持ち来たらす。

アケステースは、ただ一人残りて、賞品はなくなりぬ。されど彼は空中高く矢を射ち上げつ。この老武者はその練達と弓の高鳴りとを示しぬ。

そのとき突如として、大いなる予兆となるべき不思議ぞ人々の眼にあらわれたる。一つの恐ろしき結果は、後に至りてその予兆の真実なりし事を示し、かつ畏敬すべき予言者たちは、その事の起りたる後に、その意義を説明したり。

そは矢の飛び行くとき、その矢、雨雲の中に火を捕え、その行く道を炎もてしるし、火の消えたる時は、軽き空気の中に消え失せぬることにして、あたかもしばしば流星が天より落ち、その飛ぶとき一髪の長さの光をあとにひくにも似たりけり。

シチリア人もトロイ人も、心いたく打ち驚きて立ちすくみ、神々に祈りを捧ぐ。偉なるアエネーアースもまた、予兆を拒まず、この光景を見て打ち喜ぶアケステースをかき抱き、豪華なる贈り物を多く彼に与えていう。

『これらの贈り物を取れ、翁よ、そはオリンポスの偉なる王が、この前兆により、汝に特別の報酬をなすべしという彼の意志を示せばなり。

汝はわが老いたる父自身の物なりし贈り物を受くべし、そはくさぐさの物の形を彫刻したる大盃にして、トラーキア王のキッセウスが、かつてわが父アンキーセースに、彼の愛情の記念とし証拠として与えたる大いなる贈り物なり』

かく言いて、緑の月桂樹の輪をもって彼の額を結び、アケステースを他のすべてに優りて、第一の勝利者と宣告す。

心好きエウリュティオンもまた、彼のみ鳩を空の高さより射ち落としたりとはいえ、おのれにまさりてアケステースに与えられたる名誉を嫉むことをせず。

鳩の足の緒を切りたる者(ムネーステウス)はその次なる贈り物もて表彰せられ、飛箭にて帆柱に射ち当てたる者(ヒッポコーン)には、最後の賞品ぞ与えらるる。(5-四八五〜五四四)

 されど競技はいまだ終了せず。アエネーアースはわが子ユールスの守護者にして伴侶なるエーピュトスの子を召しよせ、その忠実なる耳にかく語りていう。

『速やかに行きて、アスカニウスに、はや少年隊の準備なり、馬の調練も整いてあらば、祖父のために一同を連れ来たり、武技を演ずべしと言え』

彼はかく言いて、みずからは長き競技場に入りこみたる全ての人々に、そこより退出して場内を広くすることを命ず。

少年隊は駒を進めて、彼らの父老の前に列を作りつつ、美々しく馬の手綱をさばけば、彼らの行くままに、シチリアの青年もトロイの青年も賞讃し喝采す。

彼らはみな短く刈込みたる木の葉の冠もて、ほどよき型に髪の毛を締めたばね、銘々鋼鉄の切っ先に着けたる山グミの投げ槍二本を持ち、ある者は肩に磨きたるえびらを負い、彼らの胸の上部には、黄金の輪をより合わせて作りたるしなやかなる首飾りを首のうえに渡したり。

そこには騎馬の三隊ありて、その三人の隊長はかなたこなたと動き、各隊長の後には六人ずつ二組の少年したがいたるが、彼らはその分隊により、またいずれも同様なる隊長によって綺羅びやかなり。

少年の第一隊は、意気軒昂として、祖父の名を負える少プリアモスに導かる、ポリーテースよ、彼は汝の貴き子にして、イタリア人を増殖せしむべき運命を負えり。彼を乗せたるは、白き斑点のある二色のトラーキアの駒にして、すねの毛と高くあげたる額とは白く見えぬ。

第二隊の隊長はアテュスなり。ローマのアティア氏族はすなわちこの人より血統を引きたり。小さきアテュス少年は、同じ少年なるユールスに愛されぬ。

最後は容姿すべての人に優りて美しきユールスにて、彼はシドンの駒に乗る。この駒は美しきディードーが、彼女の愛の記念と証拠にとて彼に与えたるなり。他の若人らは、老アケステースのものなるシチリアの駒にまたがる。

トロイ人たちは拍手して、これらのはにかめる少年を歓迎し、彼らを打ち眺めつつ喜び、その中に祖先の面影を認む。

少年らが意気高く、全観衆の前および彼らの親族の眼の前にて、馬上の調練をおわりしとき、エーピュトスの子は、一声の叫びとともに、用意したる者どもに、遠く合図の鞭を鳴らす。

彼らは相等しき二列に別れて馬を進め、次にその三隊󠄁は各々隊を別かちて列を解き、次の合図の与えらるるやいなや、旋回して、平かに構えたる槍もて挑戦す。

それより彼らは二手に分かれて、あらたな行進とその逆向きの行進とを始め、交互に円形運動と円形運動とを織りまぜ、武器もて戦いの擬態をなす。

時には退却して背中を見せ、時には槍を回らして突きかかり、また平和の列を作りてともに行進す。

そのむかし、高きクレタ島なるラビュリントスには、暗き塀もて囲みたる道と、数限りなき通路によるまどわせの奸謀とありて、そこには解きがたき、また後戻りしがたき迷路で、これを辿る者の置きたる目標を混乱させたりとなん伝えらるるごとく、

まずそのごとくトロイ人の子らは、早駆けもて彼らの行進を入り交らせ、戯れに逃走と争闘とを織りなす。

そのあり様はまた、海豚が湿潤なる大海を泳ぎ通るとき、カルパティア海、リビア海を切り分けて、波の中に戯るるに似たり。

操練のこの方法と、これらの競技とは、後日アスカニウスがアルバ・ロンガに城壁をめぐらすとき、彼まずこれを繰返して、おのが少年なりしときトロイの若者とともに稽古したるように、そを行えと古えのラテン人たちにぞ教えたる。

アルバ人はまたこれを彼らの子らに教え、彼らより続きていと偉なるローマ人はこの競技を受け継ぎ、祖先の風習を保つなり。

さればいまも少年らのこの競技はトロイと呼ばれ、その際はトロイ隊と呼ばる。聖なる父(アンキセス)のためには、かくぞいろいろの競技の催されぬる。(5-五四五〜六〇三)

されどここに初めて運勢は変化し、その信はうつろいぬ。

彼らが種々の競技もて、墳墓の側にて儀式を捧げつつありし間に、サートゥルヌスの娘ユーノーは、様々に策謀し、かつ古き苦悩いまだ去りやらず、イーリスを天よりトロイの艦隊に遣り、この使いする者に風をば吹き送る。

かの乙女神は、限りなき色彩を織りなせる虹の道に沿いて急ぎ、何人にも見られず、急ぎの道を走せくだる。

たちまち彼女の眼に入りたるは大いなる群衆にて、海岸を見渡せば、港は淋しく、艦隊は守る人もなし。

遠く離れてさびしき磯辺に、トロイの女たち、他の者たちより離れ、アンキーセースの亡きことを打ち嘆きてあり、みなもろともに打ち泣きつつ、深き海上を眺めて、

『あわれ!かくも多くの海、かくも遠く広き海の、我ら疲れたる者に残されたるぞや!』と彼らはみなもろともにかくいう。

彼らの希うものは故郷にて、海路の苦労を耐ゆることには倦み果てたり。

されば悪戯に慣れざるにしもあらぬイーリスは、彼女らの真中に身を投げて、女神の顔も衣もかなぐり捨て、

トマルスのドリュクルスの老いたる妻ベロエーのごとくなる。彼女にはかつて名高き家柄、大いなる名、多くの子供もありけるなり。

かく姿を変えて、女神はトロイの刀自(主婦)たちと相まじわる。

『哀れなる女たちよ』と彼女はいう、『御身らを、ギリシア人の手は、その故郷の城壁の下にて、戦場の露と消さざりしかば!不幸なる種族(やから)よ、運命はいかなる破滅にあわんとて、汝らを残し置きたるや?

我ら大海を渡り、つねに我らより遠のくイタリアを追い求め、大波にもまれながら、あらゆる海を越え、あらゆる陸地を越え、いと多くのかたくななる岩を越え、いと多くの星を後にして運ばるる間に、トロイの滅亡より第七の夏も、はやその終りに近付きぬ。

ここに汝らの兄弟なるエリュクスの領地あり、ここに主人としてアケステースあり、誰かは我らが城壁を建て、我らの人民に都を与うることを禁ぜむ?

あわれわが国よ、汝ら空しく仇人より救われたるペナーテースよ、いかなる城壁も再びトロイのものと呼ばるることはなかるべきか?我らいずこにも再び、ヘクトールがかつて愛したる河々のごとき新しきクサントスもシモイースも見ざるべきか?

いで、我とともにこの不幸なる船を焼け。そは、我が眠れる間に、予言者カッサンドラの幻、わが手に燃ゆる松明を置くと見えて、彼女の「ここにトロイを求めよ、ここに汝らの家あり」と言いたればなり。

事を実行すべき時はすでに来たりぬ。かかる明らかなる予兆に従うことをためらうなかれ。

見よ、ここにネププトゥーヌスの四つの祭壇あり、神みずから我らに松明と、そを用うべき勇気とを授けたまうなり』

彼女はかく言いて、真先に恐ろしき火を力強く引きつかみ、その手を高くさし上げ、努めて炎を振りまわし、松明を投げかくる。イーリウムの女らの心意は騒ぎ立ち、心臓は打ちおののく。

ここに一群の中にて最も年長け、プリアモス王のいと数多き公子の乳母なりし、名をピュルゴーという者あり。

『刀自たちよ、我らの前なるこの者はベロエーならず、こはドリュクルスのトロイ人なる妻ならず。神々しき美しさの証を見よ、輝ける眼を見よ、また彼女がいかに呼吸し、いかなる容貌と、いかなる声の調子とを持ち、いかなる歩みを踏むかを見よ。

わらわはしばらく前ペロエーと別れてここに来たりぬるが、彼女は気分悪く、おのれのみかかる儀式に居合わせず、アンキーセースに適当なるささげ物をなし得ぬことを悲しみてぞありし』という。

されど女房たちは、はじめの程はただ心迷わされて、彼らのいま居る陸地に対する溺愛と、天意によりて彼らを招く王国(イタリア)との間に遅疑しつつ、邪意ある眼に船どもを見守る。

そのとき女神は、平らかに澄みたる羽もて、空を通してのぼり、雲の下、虹の広き反り橋の上に道を切り行く。

その時じつに、女たちは予兆に打ち驚き、狂気にかられてもろ声の叫びをあげ、家々の炉より火を持ち来たるもあり、またある者は祭壇を掠奪し、木の葉も枝も松明もともに投げ入るるもあり。

ウォルカーヌス(火)は手綱を緩めて、漕座の梁や、櫂や、彩りたる樅製の船尾の間を荒れ狂う。

エウメールスは、船どもの焼くるという知らせを、アンキーセースの墓場と競技場の座席にもたらすほどに、彼らは見回して、銘々みずからの眼にて黒き灰の雲のごとく立ち登るを見る。

中にもまずアスカニウスは、あたかも心勇みて騎士隊の展開を指揮しつつありけるが、そのまままっしぐらに駒を艦船近くの混乱せる屯営に乗りつくるに、息はずませたる護衛らも彼を止め得ず。

彼は叫ぶ。『やよ、これは汝らの不思議なる、いかなる狂い心ぞ?いずこへいま、何を汝らの目的とするぞ。あわれ、いたましきわが国の女たちよ?汝ら敵を、ギリシア人の憎き屯営を焼くにはあらで、おのれみずからの希望を焼くなり。我を見よ、我は汝らのアスカニウスなり』

彼は競技の際それをつけて擬戦を行いたる兜を脱ぎ、彼らの足の前に投げ下ろす。

そのときアエネーアースもトロイ人の一隊もともに急ぎ来たる。

されど女房たちは恐れて、散り散りに、磯辺のあちこちに逃げ去り、森の中に、または見つけ得たる洞穴の中に忍び入る。彼女たちはその企てを後悔し、日を圧い、心変りて再び彼女らの味方を知り、ユーノーの精気は彼らの魂より去り行きぬ。

されどそのために、大火の炎はその不逞の狂暴を止めず、湿りたる樫材の下にては、綱具いぶりて徐々と煙の柱を吐き出し、火は次第にひろがりて竜骨を呑み、破壊は船の全体に進み行き、勇士の力も、炎の上に注ぎかくる水の流れも、みな空し。

そのとき律儀なるアエネーアースは、衣を肩より引き脱ぎ、神の助けを呼びて、手を差し上ぐる。

『全能のユピテル、もしいまだ全てのトロイ人を、最後の一人まで憎みたまわざりせば、もし(示し慣れたまいし)汝の古来の慈悲の、なお人間の苦悩にいかばかりにても関心を持つならば、父よ、艦隊がたちどころに炎より逃るることを許し、トロイ人の力弱き運を破滅より救いたまえ。

さらずば君、もし我それに相当たるならば、君の電光の打撃もて、我を死にまで打ち倒し、ここに君の右手もて我を殺したまえ、これのみ我に残されたる事なる』

彼がこの祈りの言葉を終るか終らぬに、驟雨たちまち降り注ぎ、暗き暴風限りなくあれ狂い、雷のため峨々たる山も、平らかなる原野もともに揺れふるう。

激しき大水は、雨と曇れる南風とのため黒暗々たる満天よりたぎり落ち、船は上より充たされ、半焼けの樫の船板は濡れひたり、ついに火は全く消え、船は四艘を除き、他はみな破滅より救われたり。(5-六〇四〜六九九)

されどアエネーアース主は、この悲しむべき不幸に打たれ、運命を忘れてシチリアの野に定住すべきか、またはイタリアの海岸に達せんと努力すべきか、胸の中はあるいはこなたあるいはかなたと千々の思いに砕くる。

年老いたるナウテースというは、何人にも勝りてトリートンのパッラスの教えを受け、その深き学業のためすぐれたる者なるが――パッラスは、神々の激怒の何を予兆するか、あるいは事件の運命の連鎖は何を要求するかに関し、つねに彼に答えを与えたり――このとき、彼はこれらの言葉もてアエネーアースを慰めていう。

『女神より生まれたる者よ、運命が我らを引き、または我らを引き戻すところ、いずこまでも我ら従い行かん。

何事にても起らば起れ。我らのすべての運命は耐え忍ぶことによって打ち勝たるべきなり。汝はトロイ人アケステースという、神の族なる者を持つ。彼を汝の相談相手となし、その然かあらんを欲せる友を汝に結べよ。

船を失いたるいま、ありあまりたる人々を、はた汝の大いなる事業と運命とに倦みたる人々を彼に委ねよ。

老人と海に疲れたる刀自たちと、また何人にても君とともにありて、心弱く危険を恐るる者たちとを選び出せ。しかして彼ら疲れたる者をして、この土地に彼らの町を持たしめよ。彼らはその町を汝の許しを得たる名によりて、アケスタ(現セゲスタ)と呼ばん』(5-七〇〇〜七一八)

彼は老友のこれらの言葉によりて動かされ、じつにそのとき彼の心意は千々の心配にかき乱されたり。

やがて暗き夜は双馬に引かせたる車を駆りて天の頂きに登りつ。そのとき彼には父アンキーセースの幻影上天より滑りおりて、たちまちかく言うと思われぬ。

『わが子よ、わが命の世にありし間、その当時、我にとりて我が命よりも貴かりし者よ、イーリウムの運命によりて受難する者よ、

ユピテルの仰せにより、我はここに来たりしなり。彼は汝の艦隊より、火災を追い退けたり。しかしていま窮境に陥れる汝をば、天の高きよりあわれみの眼をもて視る。

老ナウテースの与えたる、いと好き忠告にしたがえ。勇ましき心もてる選り抜きの若人を、イタリアに連れ行け。ラティウムにては、強剛にして、生活の粗野なる人民、汝によりて征服せられざる可からず。

されどそれより先に、汝はディースの下界の家に近付き、深きアウェルナを通して我との会見を求めよ。吾が子よ、そは悲しき死の陰なる呪わしのタルタロスも、我を留めず。我は敬虔なる者たちの楽しき会合の中に、エリュシウムに住めばなり。

汝が犠牲として黒き家畜の多くの血を注ぎたるのち、神聖なるシビラはここに汝を導くべし。そのとき汝はあらゆる汝の系統と、いかなる都が汝に与えらるるかを知らん。

いざさらば、湿れる夜は道を半ばまで進み、やがてつれなく昇る朝日は、その喘ぐ駒もてわがうえに息吹くべきぞ』

彼はかく言いて、煙のごとく薄き空気に消え行きぬ。

アエネーアースはいう。『いずこにかかくあわただしく君は行きたまうや?いずこにか君は急ぎたまうや?何人より君は逃れたまうや?はた何者のわが抱擁より君を裂くや』

彼はかく言いて、消えなんとする火と余燼とをかき立て、トロイの神ラールと老いて気高き神ウェスタの内陣とに、清き菓子と乳香を充たしたる香炉とを捧げて、うやうやしく礼拝す。(5-七一九〜七四五)

ただちに彼は僚友たちを、第一にアケステースを呼び迎えて、ユピテルの命令と、彼の懐しき父の教示と、いま彼の心にいかなる考の定まれるかを彼らに告ぐ。

彼らの相談はひまどることなく決定し、なおまたアケステースも彼の提示したることを拒まず。彼らは刀自たちを新しき町に登簿し、あとに留まらんと願う人々とは手を別かつ。その人々は高き栄誉に対し何の熱望をも持たぬ者どもなり。

彼らみずからは船の漕座梁を新しくし、炎のため半焼したる樫の板を元のごとくし、新しき櫂と綱具(つなぐ)とを作る。彼らの人数は少けれど、勇気凛々として戦さに猛し。 

その間にアエネーアースは、鋤もて町の限界を定め、くじもて家々を割当て、これを第二のイーリウムとし、ここを新しきトロイとせよという。

トロイ人アケステースは、その王国を喜び見つ、裁判所を設立し、召集せる議官に法律を付与す。

そののち、星に近くエリュクスの山頂にイーダリウムのウェヌスのため、一社を建立し、しかしてアンキーセースの墓陵には、司祭を指定し、広き清浄の森を植なしぬ。

いまや人民は全て九日間宴飲し、祭壇に捧げ物(けんもつ)を致す。穏やかなる風は波を休らいに伏さしめ、しばしばおとずれ来たる風は、再び彼らを大海に招く。

曲浦に沿いて嘆きの声高く聞え、彼らは夜も日も相抱きて逡巡す。

さてかつては大海の面をさも荒々しと思い、その名をすら耐え難きことに思いたる女たちも男たちも、いまやみずから進んで行かんとし、航路のあらゆる困難を忍ばんとす。

されど彼らを、善良なるアエネーアースは、親切なる言葉もて慰撫し、涙もて族人アケステースに委嘱す。

次に彼は、三頭の去勢牛をエリュクスに、子羊一頭を嵐の神に犠牲とすることを命じ、各船の鎖綱を相継いで解くべきことを命ず。

彼みずからは額に、刈り込みたるオリーブの葉を巻き、一人離れて船首に立ちつつ、手に杯を捧げ持ち、臓腑を塩辛き波に投げ、あふるる酒を注ぐ。

風は後ろより吹き起りて、進み行く彼らを追い、僚友は相競うて海を打ち、その面を滑り行く。(5-七六二〜七七八)

されどウェヌスは、その間も心配に気おされて、ネプトゥーヌスに話しかけ、かかる嘆きを胸の中より訴う。

『ユーノーの激しき怒りと容赦なき心とは、ネプトゥーヌスよ、我をしてあらゆる祈願に身を下さでは措かざらしむ。

そは長き時間も、いかなる敬虔も、彼女を宥めえず、なおまた彼女はユピテルの命令に屈し、あるいは運命に屈し、争いを中止することなし。

彼女の恐ろしき憎悪をもって、プリュギアの国民の中心より、その都を食い尽くし、またトロイの残党をば、あらゆる苦難を通して引きまわすことをもって満足せずして、破滅せるトロイの灰と骨とをなお追いまわす。彼女をして、かかる狂暴のやむべからざる理由を見出さしめよ。

汝はみずからわがために、彼女が近くアフリカの海に、いかなる動乱をにわかにかき起こしたるかの証人たるべし。彼女は空しくアエオルスの嵐にたよりつつ、あらゆる海を空に入り交らせぬ。彼女があえてかく振る舞える国土は汝の領なり!

見よ、意地悪く彼女はまた、トロイの女房たちを狂気に駆り立て、きたなくもトロイ人の船を焼き、船の損失によりて友を異郷に残すことを余儀なくせしめたり。

わらわの祈りはこれのみなり——汝はトロイ人らが安全に波を越えて帆走ることを許せよかし、彼らがラウレントゥムのティベリス川に達することを許せよかし、もし我が祈願の許さるるものにして、もし運命それらの城壁を彼らに与うるものならば』(5-七七九一七九九)

そのとき、サートゥルヌスの子、大海の主は答えていう。

『キュテーラの女神よ、そこより汝が生まれ出でたるわが領に、汝が信頼するは全く正しきことなり。我もまた汝の信頼に相当たるべし。しばしば我は波の狂暴を制し、空と海との大いなる怒りを止どめたり。

なおまた陸地においても――クサントゥスとシモイースとを証人に呼ばん――汝が子アエネーアースに対するわが心配は、決して海上に劣らず。

かの日、そはアキッレースが怯ゆるトロイの一隊を追いて城壁に押し詰め、数千人を殺戮し、死体もて埋まりたる河は悲鳴をあげ、クサントゥスはその行く道を見出し得ず、流れて海にまろび出で得ざりし日、その日アエネーアースは、神々の守りにおいても力量においても相匹敵せざるに、強きペーレウスの子と会いけるを、我はうつろの雲の中に彼を救いぬ。よしやわが手もて建てたればとて、誓いにそむきたるトロイの城壁を、根底よりくつがえれとこそ願いはしつれど。

いまもなお同じ思いは続きて我にあり。されば恐れを去りね。彼は安全に汝が願えるアウェルヌスの港に達すべし。

彼が海にて失い、探せども甲斐なき者ただ一人あらん。一つの命多くのものに代りて贖罪のため失われん』

これらの言葉もて彼が女神の胸を鎮め、彼女を喜ばせたるのち、大神は黄金のくびきに馬をつけ、駒の口に泡立つ轡を噛ませ、手もて全ての手綱をゆるめつ。

神は青の車に乗り、平らかなる海の面を軽く飛び行く。波浪は伏し、起伏する海原はとどろく車軸の下になめらかに横たわり、嵐雲は大空より飛び去る。

そのとき彼の随臣の種々たる姿であらわるる。そは巨大なる鯨、グラウクスの老いたる一隊、イーノーの子パラエモーン、敏捷なるトリートーンら、およびポルクスの全群、

また車の左側にはテティス、メリテー、乙女神パノペーア、ニーサエー、スピーオー、タリーア、キューモドケ―などなり。(5-八〇〇〜八二六)


ここにアエネーアース主の悩める心を、甘き喜悦ぞ入りかわりて宥めける。彼は急ぎ全ての帆柱を押し立て、帆桁に帆を張れよと命ず。

全員力をあわせて展帆索(てんぱんさく)を引き、あるいは左あるいは右の帆に等しく風をはらませ、みなもろともに高き帆桁の端をかなたこなたに転ず。順風は艦隊をば吹き送る。

彼ら全ての先頭に立ちて、パリヌールス密集せる単縦列を導けば、他の者は彼に眼を着けつつ、彼らの航路を取れと命ぜらる。

さていまや露けき夜は天の頂上に達し、水夫たちは固き座席の上にて櫂の側に身を横たえ、静かなる休息に手足をゆるめたり。

そのとき大空の星より軽き眠りの神すべり下り、暗き空気を分け、夜の陰を分かち、パリヌールスよ、汝を探して、罪なき汝に不幸なる眠りをもたらしぬ。

この神、高き船尾に席を占め、ポルバースのごとき姿して、かかる言葉をぞ話しかくる。

『イーアシウスの子パリヌールスよ、海はみずから艦隊を運び、風は定まりて静かに吹き、人はつねに休らうべき時なり。

頭を横たえ、疲れたる眼を労苦より遠ざけよ。我みずからしばらくの間汝に代りて、汝の務をなさん』

彼に対しパリヌールスは、わずかに彼の眼を上げつつ答う。

『汝は我に、穏やかなる海の面のことも、静かなる波のこともよく知らであれというや?汝は我に、かかる魔物を信ぜさせんとするや?いかでかは我、反覆常なき風と天とにアエネーアースを任すべき?あまりにあまたたび澄みたる大空のいつわりに欺かれたる我なれば』

彼はかく言いて、梶に寄りすがり、しかとそれを取り持ちて決して放たず、一心に星を見上げてあり。

そのとき、見よ!神は彼の両のこめかみの上に、レーテーの露もて浸し、ステュギアの力もて眠りを催す木の枝を揺り動かせば、彼の眠るまじとする努力にかかわらず、恍惚として眼は弛みぬ。

さて不意なる眠りのあたかも彼の手足の力を抜きたるとき、睡眠の神はのしかかりて、船尾の破れたる一部および梶とともに、梶取りをば真っ逆さまに、流るる波の中に突き落す。彼はあまたたび彼の友を呼べど空し。

眠りの神は鳥のごとく軽き大気の中に飛び昇りぬ。されど艦隊は変わることなく安全に海面を越え行き、ネプトゥーヌス大神の約束により、何の恐るる事もなく送られ行く。

さていまや前へ前へと推し進められて、船はつねにセイレーンたちの懸崖に近付きつつあり――こはかつては危険にして、多くの人の白骨もて白かりしが、この時は小やみなき海波もて、岩々遠くものすごき唸り声をあげてありき――

この時父アエネーアースは、彼の船が梶取りを失い、心もとなく漂うに気付き、彼みずからの手もてその船を夜の海上に導きつつ、いたくうめき、かつ彼の友の悲運に魂を打たれていう。

『ああ!穏やかなる大空と海とをあまりに信じ過ぎたり、パリヌールスよ、汝は埋葬られで、見も知らぬ磯辺に横たわりてぞあらん』(5-八二七〜八七一)




第六巻梗概(上215p)

クマエに到着し、アエネーアースはシビュラの社にまいり、祈願ののち、神アポロンに「犠牲をささげ、父をおとずれるため下界に入ることを乞う。彼はまず下界の女王プロセルピナ女神のため黄金の枝を折り取り、死したる同僚を埋葬せざるべからず。

ミーセーノスの死と埋葬ののち、アエネーアースは黄金の枝を発見採取す。用意と祈願。出発。地獄の外縁を守る「恐ろしき顔々」。

下界の渡し守カローンの渡し舟と葬られざる死体。パリヌールス寄りきたり、埋葬を懇願す。カローンおよび三頭の犬ケルベロスを過ぎて、彼らは自殺者、幼児、恋愛者らの幻影を見、ディードーの侮蔑を体験す。

ギリシア人やトロイ人の幽霊の中より、デーイポボス選び出され、おのれの身の上を語る。シビュラはタルタロス(奈落)への近接路を取りてアエネーアースを急がせつつ、その道中そこの支配者および恐ろしきことどもについて説明す。

道に彼らはエリュシオン(死後の楽園)に達し、入口に到着す。受福者の幽霊中よりアンキーセスの捜索、父子の再会。アンキーセス、魂の輪回の神秘を説き、巻はローマの未来の偉大をアエネーアースに啓示することをもって終わる。

ローマの英雄は、諸王の時代よりアウグストゥスの時代まで、行列をなして彼の前を通過す。その後、彼は象牙の門を通して出され、カイエータに道をとりて出帆す。

第六巻

彼は涙もてかく語り、艦隊を思うがままに走らしめて、ほどなくクーマエのエウボエアの磯辺に滑り入りぬ。

人は海の方に船の舳先を向け、錨の歯を噛み合わさせ、しかと船を止どめ、湾曲せる竜骨は海岸を縁取る。

若人の群ははやりてイタリアの岸に飛び出で、ある者は火打ち石の石理(きめ)の中に隠されたる炎の種を探り、ある者は野獣の住み家なる繁れる森を走り回り、しかして彼らの見出したる流れを指し示す。

されど律儀なるアエネーアースは、アポロンが高きに君臨する砦の方に向かい、畏(かしこ)きシビラの港より離れたる聖所、膨大なる岩屋をさして行く。彼女にデーロスの予言者ぞ、偉なる心魂(しんこん)を吹き込みて、まさに来たるべき事象を啓示するなり。

やがて彼らはトリウィア(ヘカテー)の神林に入り、アポロンの黄金造りの神殿に達す。

伝説の告ぐる所によれば、ダイダロス、ミーノースの国土より逃るるとき、いと速き翼により、あえて大空に身を委ねつつ、慣れぬ旅路を寒き北地にうかび、ついにカルキスの砦(クーマエ)の上に身軽く止まりぬ。

ここに初めて地上に立ち戻りたれば、あわれポイボスよ、彼は汝に翼の櫂をささげ、大いなる殿堂を建てたりという。

扉の板にはまずアンドロゲオース(注クレタのミノース王の子。既出のアンドロゲオースとは別人)の死を彫刻したり。次には年々罰として彼らの子の七つずつのむくろを仕払うことを命ぜられたるケクロプス人(アテナイ人)あり。あわれなるかな、くじはすでに引かれ、壺はすえられてあり。

反対の側の扉にはクレタの陸地、海より高まりて双対をなす。ここには牡牛に対する人倫にそむける欲情と、ひそかに身を任するパーシパエーと、呪われたる恋愛の記念なるミーノータウロスと称するする混血児、すなわち牛と人間と二重の形の子と描かれてあり。

ここにはまたかのいたく苦心して建てられたる家(ラビュリントス)と、解き難き謎の道と描きあらわさる。

されど、見よ、(迷宮の秘密は解かれたり)そはダイダロスは、王女の深き愛情をあわれみ、テーセウスの暗中摸索する足取りをば、糸によりて導きつつ、みずからその家の詭計と曲折とを明かにしたればなり。

イーカルスよ、汝もまたかかる傑作に大いなる位置を占めたるならん、もし悲哀のそれを許したらんには。

二度彼は金地に汝の墜落を描き出さんとしたれど、二度父の手は力なく垂れたり。

さて彼らの一行わ順を追うて全てをなお詳しく見続けんとしたれど、そのとき、あらかじめ使いに遣りたるアカーテース到着し、彼と共に神ポイボスと女神トリウィアとに仕うる女司祭なるグラウコスの子デーイポベー来たりて、王(アエネーアース)にかくいう。

『今はかかる物を見てあるべき時ならず。一度もくびきに触れたることなき畜群の中より、七匹の牡牛と同じ数の牝牛とを適宜に選び、犠牲に捧ぐるを最もよしとせん』

アエネーアースにかく話しかけたる後、――しかして彼の部下は彼女の命じたる捧げ物をなすに遅滞せず――司祭はトロイ人たちを高き殿堂に招く。(6-一〜四一)

 クーマエの巌の広き側面は、一つの洞穴にまで切り開かれ、そこには一百の広き通路と、一百の出入口と通じ、そこより同じ数の叫び声起る。こはシビラの応答なり。

彼らがその洞穴の敷居に達したるとき、巫女はいう。『汝らの運命を問うべき時なり。神なり!見よ、神なり!』入口の前にて彼女がかく言えるとき、俄然として彼女の容貌も顔色も変化し、毛髪は乱れ、胸は鼓動し、心臓は激情もて荒々しく高まり、彼女の姿はひときわ大きく見え、彼女の声の響きは人間のものとも思われず、そは彼女がいま近々と神霊の息吹きを受けたればなり。

『汝は汝の誓いと祈願とを成すことを遅疑するや。トロイ人アエネーアースよ』と彼女はいう、『汝は遅疑するや?汝が誓願をなさざるうちは、神の出現によって打ち驚ける家は、その大いなる口を開かざるべし』彼女はかく言いて口をつぐむ。氷のごとき戦慄トロイ人らの強健なる骨々に浸みとおり、彼らの長(アエネーアース)は胸の奥底より祈りを絞り出していう。(6-四二〜五五)

『ポイボスよ、つねにトロイの苦闘をあわれみたまう者よ、汝はアイアキデース(アキッレース)の身体に対し、パリスのトロイの投げ鎗と手とを指向けさせたまいたる、君を我が導きとしてこそ、我は大いなる陸地を取巻くいと多くの海を帆走り、マッシューリー族の遠き種族、はたシュルテスを縁どる野にも入り込みたれ。

今ぞついに我ら、つねに逃げ行くイタリアの海岸を捕え得たる。トロイの悲運の我らにつきまとうも、もはやこれまでなれや!かつてはイーリウムをよしと見たまわず、トロイの偉大なる名声を憎みたまいたる男神も女神もみな、今ぞトロイの民を庇いたまうこそ正しけれ。

汝、いと聖き予言者よ、来たるべき運命をあらかじめ知る者よ、われに許せ――我は我が運命に適わざる王国を求むるにあらず――ラーティウムに、トロイ人たちとトロイのさまよえる神々、受難の神霊との休らい鎮まることをこそ願え。

そのとき、我は、ポイボスとトリウィアのため固き大理石の殿堂を建て、ポイボスの名に因みて祭日を定むべし。

また我らの領内に、荘厳なる聖所汝を待たん。そはそこに我、我が人民に汝の告げたる予言と運命の神秘とを納め、汝、恵み深き者よ、汝のために選ばれたる奉仕者を聖別すべければなり。

ただ汝の神託を木の葉に托することなかれ。木の葉は早き風の獲物となり、乱れて飛び散る恐れあり。汝みずからそれを歌え、切に願う』かく彼はその語りをおわりぬ。(6-五六一七六)

されど、女予言者は、いまだポイボスの意志に服せず、偉なる神を彼女の胸より投げ捨てんと努めつつ、洞穴の中にて猛烈にあれ狂う。

されば神はますます彼女の狂える口を引きしめ、彼女の荒き心を押し曲げ、彼の支配によりて彼女を思うようにせんとす。

さて今や、家の一百の広き入口はおのずから開け、女予言者の答えを外気を通して運ぶ。

『ああ、汝ついに海の大いなる危険を終りたる者よ!されど陸上のなお重き危険は残る。ダルダノスの子孫(トロイ人)らはラウィーニウムの領に来たるべし、そこに到着するということに付きてはその心配を汝の胸より取り捨てよ。

されど彼らはまた、みずからが決して来たらざりしことをねがうべし。戦争を、恐ろしき戦争を、しかして多くの流血もて泡立つティベルス河を我は見る。

汝にはなおシモイースとクサントゥスとギリシア人らの陣営とあらざることなし。第二のアキッレースはすでにラティウムのため備われり。その人もまた女神より生まれたる者なり。

しかしてトロイ人を追求するユーノーは、いずくとてもあらざる所なく、その際汝は窮乏して、イタリアのいかなる国民にも、いかなる都市にも、うやうやしく哀れみを乞わではあらざるべし。

トロイ人にとりてかくも大いなる禍いの原因は、この度もまた異国人の花嫁と、異国の結婚とならん。

汝、困難に屈することなかれ。いっそう大胆に運命が汝に許す道を進んで、これを迎え打てよ。汝の安全への最初の道は、汝がゆめ予期せぬことながら、ギリシアの一都市(パッランテーウム)より汝に開かるべきぞ』(6-七七〜九七)

かかる言葉もてクーマエのシビラは、闇黒の中に真理を巻き包みつつ、その社よりかしこき謎を歌い、洞穴より唸りの声を上ぐ。

かくアポロンは狂える彼女に手綱を振り、かつ彼女の胸の下に鞭を加う。彼女の狂気は止み、彼女の狂える口の黙するやいなや、勇士アエネーアースはかく語り始む。

『世に起こるべき艱難のいかなる姿も、処女よ、我において慣れざるものにあらず、はた予期せざるものにもあらず。何事も我あらかじめ心にこれを知り、我みずからあらかじめこれを熟慮したり。

我が願うはただ一事、そは地獄への入口と、アケローンの溢るるとき出で来たる暗き沼地とここにありと言えば、我が懐しの父を見もし、面前に行くべき運命の我に許されよとこそ。

汝、道を教えよ。浄門の錠をはずせ。彼こそはわれが、炎と数千の追い迫る槍とを抜け、この肩に背負いて救い出し、敵の真中より助けたる者なれ。

彼こそは我が旅路の伴侶にして、かよわけれども老年の力と分限とを超え、我とともにあらゆる海の面を犯し、大洋の、はた大空の、あらゆる脅威を堪え忍びたれ。

じつに、うやうやしく汝に伺いを立て、汝の門を訪れよとねんごろに我に命じたるも、また彼なり。

我は祈願す。子と父と共にあわれめ、恵み深き者よ――汝は何事をもなし得べければ。しかしてヘカテーが汝をアウェルヌスの森の司となしたるはただ名のみのことならねば――

もしオルペウスがトラーキアの竪琴とその妙なる音色の糸とを力にして花嫁の魂を呼びよせ得しものならば、

もしポリュデウケースが交互に死することによって兄弟の身をあがない、しばしば冥途を往復したらんには。

われ何ぞテーセウスのことを言わん。また偉なるヘラクレスのことを言わん。わが血統もまた大君ユピテルより出でたり』(6-九八〜一二三)

かかる言葉もて彼が祈りをささげ、祭壇に取りすがりてありしとき、予言者は語り始めぬ。

『あわれ汝、神々の血より生まれ出でし者よ、トロイ人アンキーセースの子よ、アウェルヌスに死してくだることは容易なり、夜も昼も暗きディースの門は開けてあり。

されど汝の歩みを元に返し、上なる空気に歩み出づることは、これぞ一つの難事、これぞ一つの苦闘なり。さりながら神々の子らにして、恵み深きユピテルこれを愛し、または若者の燃ゆるがごとき盛徳(せいとく)天に達したる少数者は、その力を持ちたりき。

その間に横たわれるものは全て森林にして、コーキュトスの河、暗く曲折して流るるままに、これにまつわれり。

されどもし汝の心に、二度ステュクスの湖沼の上に浮かび、二度黒きタルタロスを見んとする程の、深き望みと大いなる熱情とあるならば、しかしてみずから好みて狂えるごとき労苦に身を投ぜんとするならば、それより先に汝がなさざるべからざる務めを知れ。

一本の陰多き木ありて、その木に一つの枝ひそめり、その枝の葉も、しなやかなる小枝も共に黄金にして、地獄のユーノーに捧げられたるものとなん。全森これを隠し、朦朧(もうろう)たる谷に陰これを閉じ込む。

何人といえども、この樹より、黄金の葉を着けたる枝を探り得ざるうちは、世界の隠されたる場所に入ることを許されず。

美しきプローセルピナは、彼女自身への特別の捧げ物として、そのもたらされんことを命じたり。

第一の枝を裂き去りたるとき、他の枝つぎつぎにこれに代りて黄金となり、しかして大枝は同じ金属の葉の繁りを着くべし。

されば汝の眼をもって高く探り、それを見出したるときは、程よく汝の手もてそれを採れ。

運命汝を招くものならば、それはみずから進んでたやすく汝につき来たるべし。しからずんばいかなる力をもってしても、それをば思いのまさにすることを得ず、刃をもっても伐り取ることを得ざるべし。

しかのみならず、汝の友(ミーセーノス)のむくろは命なく横たわりて、(ああ汝はそれを知らず)、汝が神託を伺い、我がしきいにて時を過しつつある間にも、死もて全艦隊をけがしつつあり。

まず彼をその安息の場所に渡し、墓の中に横たわらしめよ。

黒き犠牲を持ち来たれ。それを汝の最初の宥めの捧げ物とせよ。しからば道に汝はステュクスの森と、生ある者の行き得ぬ国とを見るべし』彼女はかく語り、口を閉じて黙しぬ。(6-一二四〜一五五)

アエネーアースは洞穴を去り、眼を凝らし、悲しげなる顔をして、おのれの道を行きながら、心の内には我が知らぬ出来事を思いわずらう。忠実なるアカーテースも、彼に伴して同じ道を行きながら、同じ悲しみを抱きつつ歩む。

彼らは互いに種々の談話を取り交わして、多くの事を語り合うめり。そは予言者の言いたる命なき友とは誰そ、いかなるむくろをや葬るべきなど。

さて彼らが海岸に来たりしとき、彼らはたちまちミーセーノスが、非業の死に命を断ち切られ、乾ける磯に横たわるを見る。

アイオロスの子ミーセーノスなり、ラッパもて兵士を元気づけ、曲調もて戦争の精神を高揚することにかけては、彼にまさる者なかりし。

彼は偉大なるヘクトールの友にして、ヘクトールの傍らにてそのラッパと槍とをもって戦いに加わり、その名あらわれたり。

勝ち誇れるアキッレースが、彼(ヘクトール)の命を奪いたる後は、いと勇敢なるこの戦士は、みずからがトロイ人アエネーアースの友となり、それよりも低き運命を追うことをせず。

されど彼がたまたまうつろのほら貝もて海面を鳴り響かせ、愚かなる者よ、しかして曲調もて神々を競技に挑みつつありしおり、―――この物語に信を置くべくんば―――嫉妬深きトリートーン不意に彼を襲い、岩間に泡立つ波の中に投げ込みたりとぞ。

さればみな彼の周囲に声を上げて慟哭し、律儀なるアエネーアースの嘆きぞ他の何人にもまさりける。彼らは打ち泣きつつも、今ここに遅滞なくシビラの命ずるところを行わんと急ぎ、木の幹もて火葬の薪を積み重ね、天の方高くそれを上げむと競う。

彼らは野獣の潜伏所なる古き森に入る。打ち下ろす斧の下に黒松は倒れ、冬青(そよご)は反響し、秦皮(とねりこ)の材と裂けやすき槲(かし)とはくさびのために引き裂かれ、彼らは山より巨大なる山秦皮(やまとねりこ)をころばし落す。(6-一五六〜一八二)

アエネーアースもまた、かく忙わしき働きの中にありて、みずから先頭に立ち、友を励まし、彼らと等しき道具をとり持つ。彼は果て知らぬ森を打ち眺めつつ、その悲しき心の内にひとりかかる思いをこらし、しかしてふと祈りていう。

『あわれ、かの黄金の枝の、この大森林の中にて、我らにいま樹上に現われよかし。そは、ミーセーノスよ、予言者の汝について告げたることは、あまりにもみな真実なりければ』

彼のかく言いも終らぬに、たまたま二羽の鳩、この戦士の眼前に天上より飛び来たり、緑の地面の上に止りぬ。

ここにこのいと偉なる勇士は、母(ウェヌス)の鳥を見て、打ち喜びて祈る。

『汝ら、いかで、我が道のある限り、我が案内者となれ。しかして豊麗の枝、肥沃の土をおおう森の中に、空中を通して飛び行け。願わくは汝、我が疑わしき運命において我を見捨つることなかれ、我が神ながらの母よ』

彼はかく言いて、彼らがいかなる予兆をもたらすか、いずれの方に進んで飛び行かんとするかを見つつ歩みを止めぬ。

彼らは餌食(えば)みをおわりて、翼を上げ、ただ彼らを追う者の眼が彼らを視界の内に保ちえるだけを進む。

その後、悪臭ただようアウェルヌスの峡谷の口に達したるとき、彼らは疾く上方に舞い上り、明るき空気を通してすべり行き、二羽ともに望ましき場所を選びて樹の頂上にとまりぬるが、そこよりは枝を通して、金色の輝きぞ他のものとは色を異にして明かにほとばしり出でぬる。

そをたとえば、冬寒に、森の中に、その本木より出でしならぬ寄生木(やどりぎ)の、新しき葉もて栄え、黄色の芽もて丸き幹を取り巻くを常とするごとく、

暗き冬青(そよご)の中に金色の葉の姿もかく見え、黄金の箔葉はそよ風にかくぞ鳴りさざめく。

たちまちアエネーアースは、固く幹に着きたる枝をつかみ、力をこめて折り取り、それを持ちて予言者シビラの住居に急ぎ行きぬ。(6-一八三〜二二一)

それと等しく、その間にトロイ人らは、海岸にてミーセーノスのために泣きながら、恩知らぬ灰塵に最後の捧げ物をもたらす。

まず彼らは松薪と槲(かし)の割り木とを用いて、肥えたる大堆積を造り、その横側を暗緑色の葉もて編み囲い、前側に葬式の糸杉を立て、頂上をば輝く武器もて飾る。

ある者はいち早く湯水と火焔のため涌きたぎる大釜とを持ち来たり、冷やかなる死体を洗いて油を塗るに、哀哭の声高くあがるめり。

それより彼らは悲嘆の肢体をば屍架に横たえ、紫の長衣を打ちかくる。そは人のよく見知りたる彼の衣裳なり。ある者は彼らの肩に大いなる棺架(ひつぎ)を担い、悲しき務めをなし、しかして彼らの祖先よりの儀式に従い、彼らの使う松明を棺架の下に顔を背けて持つ。

積み重ねたる香料の捧げ物は燃え、肉の捧げ物も、油のそそぎ終えられし後に、その容器もまた燃ゆ。

灰は沈み、炎は消し去りたるとき、彼らは酒もて残留物とかわける余燼(よじん)とを浸し、コリュナエウスは黄銅の壺もて集めたる骨を蔽う。

彼はまた実りたるオリーブの枝より、軽き露を撒きながら、三度清水を友たちに持ち回り、戦士たちを浄め、永別の言葉を述ぶ。

次に律儀なるアエネーアースは、彼の上に大いなる墓石を置き、この勇士の特別の道具なる櫂とラッパとを置く。そは聳ゆる丘の下にして、彼に倣い今もミーセーノスと呼ばれ、その後代々を通じて永久の名を負えり。(6-二二二〜二三五)

これらの務めの済みたるとき、彼は忙わしくシビラの命令を実行す。

ここに一つの深き洞穴あり、広き口をおおきく張り、嵯峨として岩壁聳立(しょうりつ)し、黒き湖水と森林の暗きとに隠蔽せられ、いかなる鳥もその上を飛び過ぎて身を損なわぬ者なし。かかる恐ろしき蒸発気その黒き腮(あぎと)より迸出(ほうしゅつ)し、蒼穹まで立ち登る。

ゆえにギリシア人はこの場所を呼びてアウェルヌスという。

ここに司祭はまず四頭の背黒牡牛をすえ、額に酒を注ぎ、両角の真中なる頂上の剛毛を抜き、最初の捧げ物として聖火の上に置き、声高く天上と地獄とにて勢力あるヘカテーを呼ぶ。

他の人々は短刀を牛の咽喉に当て、盆に温かき血を受く。アエネーアースみずから、凶暴なる女神(エウメネニデス)の母(ノクス)およびその偉大なる姉妹(テッルス)のため、黒毛なす牝の子羊を、しかして、おおプローセルピナよ、汝のためには子生まぬ牝牛を、剣もて斬り殺す。

その後ステュクスの王のため、夜、祭壇を設け、牡牛の内臓をことごとく炎の上に横たえ、多くのオリーブの油を燃ゆる臓腑の上に注ぐ。

されば、見よ、初日の光の現わるる直前、女神(ヘカテー)の次第に近付き来たるまさに、大地は彼らの足の下に鳴りとどろき、森うちおおう山の背は動揺しはじめ、犬どもの闇の中に吠ゆるが聞ゆ。

『去れ、いざ去りね、汝ら浄められざる者どもよ』と司祭は高く絶叫す。『全神苑の中より引き退けよや。汝は道に登れ。汝の剣を鞘より抜け。アエネーアースよ、今や勇気ぞ、今や固き意気ぞ必要なる』

彼女はかく言いて、狂乱して開きたる洞穴の中に飛び入る。彼は彼女の進むままに、この案内者と歩みを合わせ、少しも躊躇の足を踏まず。(6-二三六〜二六三)

霊の支配を司る神々よ、汝ら沈黙の幽鬼たちよ、しかして夜の中にあまねく音立てぬ領なるカオスとプレゲトーン(冥界の川)よ、我が聞きたる事を言うを許せ。汝らの同意により、地と闇の底深く埋められたることどもをあばくことを我に許せ。(6-二六四〜二六七)

朧々として彼ら暗中を過ぎ、ディースの空しき住所と茫漠たる領域とを通り、寂寞(せきばく)たる夜天(やてん)の下を進み行く。

そはユピテルが闇もて大空を埋ずめ、黒き夜、世界より色彩を奪いたるとき、薄光る心細き月光の下を辿りて、森の中を旅するに似たり。

入口の直前、オルクス(冥府)の腮の開く所、そこに「悲嘆」と「復讐苦」との両者座を構え、青醒めたる「病い」と、喜びなき「老年」と、

「恐怖」と、人を罪に駆る「飢餓」と、見るも恐ろしき姿したる汚なき「欠乏」と、「死」と「労苦」と、

次には死の兄弟なる「眠り」と、心の「悪しき喜び」とあり。入口そのものには死をもたらす「戦い」あり。

しかして「凶暴」の無情の寝室も、蛇のごとき毛髪を血腥き花輪もて編みたる狂女「不和」も住む。

入口の中央には一本の鬱蒼たる楡の樹、小枝と老いたる大枝とを広ぐる。こは大いなる木なるが、流説(るせつ)によれば、偽りの「夢」の棲家にして、そは葉裏ごとに身を密着するという。

なおその所には種々の獣の多くの怪しき物あり。ケンタウロスは入口に彼らの棲宿を作り、二重の形態したるスキュラと、

百手のブリアレウスと、恐ろしき喝声(かっせい)をあぐるレルナの巨獣と、炎を装えるキマエラと、ゴルゴンと、ハルピュイアと、三体を持つ幽霊の姿とあり。

ここにアエネーアースは、たちまち驚き恐れて、忙わしく剣を握り、彼らが近づくままに、抜き放ちたる刃を彼らに向く。

もし彼の賢き友(シビラ)の、彼らが実体なき霊にして、空しき幻影をなして旋回する者なることを、彼に警告せざりせば、おそらく彼は彼らに突進し、いだずらに利剣もて陰影を二つに裂きたらん。(6-二六八〜二九四)

タルタロスのアケローンの水に通ずる道は、ここより始まる。この流れは泥土のためにうち濁り、深淵より渦巻をなして波立ち騒ぎ、コーキュトスにその砂をみな吐き出す。

カローンと言ういと汚なく物凄き渡し守ぞ、この水と河とを守る。彼の顎には刈り込まぬ灰色の毛多く生い、眼はすわりて火の塊のごとく、むさくろしき外套、結びひももて肩より垂れたり。

彼はみずから竿もて小舟を動かし、帆を操り、つねに彼の暗き船もて死人を彼岸に運ぶ。

彼いまや老いたれども、神の老齢はなお新鮮にして力強し。

この所へと全群、岸を指して急ぎつつ突進す。妻あり、夫あり、英雄の死骸あり、少年と未婚の娘と、両親の眼前に火葬堆に横たえられし若人らと。

そは秋冷の始まるとき、森の中にて地に墜つる木の葉のごとく繁く、はた寒き季節に駆られて大海を渡り、常夏の国に行くとき大海の上より陸地に飛び集る鳥の群れのごとく多し。

彼らはみなそこに留まり、真っ先に渡らんことをねがい、かなたの岸への憧れもて彼らの手を差し伸ぶる。

されど無愛想なる船頭は、いまこれをいまかれを容れて、他を遠くに押し退け、水際に近寄せず。アエネーアースは、この騒きをいぶかり、かつは打ち驚きていう。

「いでや語れ、処女よ、流れに群がるは何の意ぞ?また精霊どもは何を求めつつありや?またいかなる差別により、ある者は岸辺を去り行くに、他の者は櫂もて物凄き溜り水を漕ぎ渡るや?」

老いたる女司祭は、簡単に彼にかく答えていう。『天つ神々の真児(まなご)、アンキーセースの子よ、汝が見るはコーキュトスの深き緩流とステュクスの沼にして、神々さえもその神力に誓いては、誓いの言葉を守らぬことを恐るるという。

汝が見るこの全群集は、全て貧困にして葬られざる者どもなり。

かの渡し守はカローン。流れの上に乗せ出ださるる者らは、埋葬せられたるなり。彼は、彼らの骨が安息の場所に横たえらるるより前には、恐ろしき両岸の間を、咆哮する流れを横ぎりて、彼らを渡すことを許されず。

百年の間、彼らはこの岸のほとりを彷徨転々す。されどその後ついに彼ら墓に入れらるれば、渡らんとつねにあこがれたるこの溜り水を再び訪るるなり』

アンキーセースの子はたたずみて、思いにふけりながら、精霊の苦しき運命を心にあわれみつつ、歩みを止めぬ。

そこに彼は、悲愁に充ちかついまだ葬儀をうけざるレウカスピスとリュキア艦隊の船長オロンテースとを見たり。

この二人は、アエネーアースと共にトロイより蕩漾(とうよう)する大海を横ぎり航せしとき、南風のため圧倒せられて、船も乗組員もみなもろともに水中に没したる者どもなり。(6-二九五〜三三六)

見よ、操舵者パリヌールス来たる。こは先つ頃リビアよりの航海にて、星を見守る間に、船尾より落ち、波間に転がり入りたるなり。

アエネーアースは、濃き闇の中にて、悲しみに充ちたる彼を辛うじて認めたるとき、まずかくぞ彼に語りかける。『パリヌールスよ、いずれの神ぞ、汝を我らより奪いて大海の中に沈めたるは?

いかで、我に告げ知らせよ。そは、アポロンは我かつて彼の偽りの言葉を吐く者たることを見ざりしに、汝が決して海上において害を受くることなく、アウソニアの国に達すべしと告げたるこの一つの予言においてのみ彼は我を欺きたればなり。こはじつに彼の約束したる誠実なりや?』

しかるに彼は答えていう。『ポイボスの三脚台は決して汝を欺きしにあらず。アンキーセースの子なる首長よ、なおまた神が我を大海に投じたるにもあらず。

そは我は真っ逆さまに落つるとき、偶然あらき力にて捩(も)ぎ放たれたる梶を、我が身と共に引き落としたればなり。我が名ざされてその司人(もりと)としてしかと握り、船の進路を導きつつありしその梶を。

荒海によりて我は誓う。君の船が梶を奪われ、操縦者を失い、かくばかり波荒れ狂う海に沈みはせずやと思う我が心配ほど大いなる心配を、我が抱きしことはかつて知らざりし。

さて三つの冬の夜を南風水上に激しくすさびつつ、限りなき大海を横切りて我を運ぶ。第四の暁にいたり、波の峰に高くあげられ、辛うじてイタリアを見出し得たり。

徐々として我は陸地の方に泳ぎ行く。やがて我は身の安全をかち得しならん、もし残忍なる種族の、我の濡れたる衣服に圧されながら、かがみたる手もて断崖の鋭き尖りを掴まんと努力しつつありしとき、愚かにも、我を獲物と思い違え、彼らの剣もて我を襲わざりせば。

いま我は波のまにまに漂い、風は磯辺に我を弄ぶ。されば天の楽しき光と上気とにより、汝の父により、また次の生長し行くユールスの前途により、願わくは我をこの禍いより救え、敗るること知らぬ君よ。

あるいはわが死体の上に手づから土をかけ――君はそれをなす力を持てば――しかしてウェリアの港に行け。あるいは今、もし何らかの手段のあるならば、もし君を生みたる女神の、君に何らかの手段を示すならば――そは天意なくして、君がかく恐ろしき流れとステュクスの沼とを渡り越えんとするにあらずと思えば、あわれなる我に右手を借せ。しかして我少くとも死中にて隠かなる安息の場所に休らい得るため、大水を横ぎりて君と共に我を運べ』

彼がかく言いおわりたるとき、女司祭はかく語り始む。

『何によりて汝はかく恐ろしき望みを抱くや、パリヌールスよ。汝は身葬られずして、ステュクスの水とエウメニデスの物凄き流れを見、しかして許されざるに岸辺に近付かんとするや?

神々の定めし運命が、汝の祈りによって変えらるるということを望むなかれ。されどわが言葉を記憶して、汝の苦しき不運の慰めとなせ。

そは近隣の種族ら、彼らの町々を通じて遠く広く、天の凶兆に動かされ、汝の骨をなだめ、一つの塚を立て、しかして塚には適当なる捧げ物をなし、その場所は永くパリヌールスの名を保つべければなり』

この言葉により彼の心配はぬぐい去られ、彼の悲哀はしばらく彼の悲しき心より払わる。彼はおのれの名をになうべき土地のことを思い、心喜べり。(6-三三七〜三八三)

さて彼らは彼らの始めたる旅路を続け進み、河に近づく。渡し守は彼らが沈黙の森を通りて進み来たり、彼らの歩みを岸辺の方に曲ぐるをば、ステュクスの流れより認めしとき、彼らのいまだ物言わぬ内に、かかる言葉もて彼らを迎え、彼らに挑みて言う。

『武装して我らの流れに進む者よ、何人にもあれ、いで汝のいま居る場所より、ただちに汝がここに来たりし理由を言え、かつ汝の歩みを止めよ。こは陰の、眠りの、懶(ものう)き夜の世界なり。ステュクスの舟もて生きたる者を運ぶことは禁ぜらる。

まことにわれ、ヘーラクレースが来たりしとき、彼を、またテーセウスとペイリトオスとを、この湖に浮かばせたるは、彼らが神々より出でて、その力において打ち勝ち難き者なりしとはいえ、我はこれを喜ばざりき。

前者は地獄の門番(ケルベロス)を、王自身の座よりさえも腕ずくにて縛らんと努め、打ちふるうかれをそこよりひきずり行きぬ。また後者は我らの女王(プロセルピナ)をディースの寝室より誘拐せんと試みたり』

これに答えてアポロンの女司祭は簡単にいう。

『ここには何らさる策略なし。汝、心を労することなかれ。なおまた我らの武器は強行を企てず。巨大なる門番は、洞穴中にて不断に咆吼しつつ、血の気なき幽霊らを威嚇せしめよ。貞潔なるプローセルピナは彼女の叔父(プルートー)の家に住まわしめよ。

忠直と武器ともて名高きトロイのアエネーアース、彼の父に会わんとてエレボス(冥界)のいと深き闇にくだるなり。もしかく高き忠直のいかなる姿も、汝を動かす力を持たずというならば、なおこの枝を認めよ』――彼女は衣の内に隠したる枝を現わす―――そのとき、怒りのために激したる彼の心は静まる。

彼女はこれ以上多くもの言わず。彼は多くの歳月を隔てて今また相見たる、運命を告ぐる木の幹より取りたるかしこき捧げ物(プローセルピナへの)に打ち驚きつつ、薄黒き船を陸地に向けて、岸に近付く。

次に彼は、長き腰掛けにずらりと座してありし他の幽霊どもを追い出し、通路を開き、やがて船の中に偉なるアエネーアースを迎え入る。かよわき船はその重さの下に呻吟し、隙間を通して沼の水とくとくと漏れ入る。

されどついに彼は流れを横切り、女司祭と勇士とを、醜き泥土と灰色の浜すげとの上に、安全に上陸させぬ。(6-三八四〜四一六)

巨大なるケルベロスは、河の方より来たる彼らに面する洞穴の中にその膨大なる体躯(からだ)を置き、彼の三重の顎より出づる吠え声もて、その場所をば鳴り響かする。

彼に対して女司祭は、すでに彼の首の蛇らが逆立ち始むるを見、蜜と薬剤入りの小麦ともて作れる催眠の菓子を投げ与う。

彼はその狂えるごとき飢えのため、三つの咽喉を広く開き、差し出されたる塊にぱくりと食い付き、たちまち地上に伏して、物凄き背をだらりとさせ、洞穴の縦も横も一杯となるばかり、その大いなるむくろを伸ばす。

アエネーアースは門番が眠りに埋ずもるる間に通り過ぎ、速やかに返り道なき河水の堤防を去る。(6-四一七〜四二五)


ただちに叫び声聞え、哀音高く、冥府の入口に幼き霊の泣く声々ぞする。彼らは甘き人生を味わうことなく、母の胸より引き離され、暗黒の日、彼らを奪い去り、非業の死に投げ込まれたる者どもなり。その次には冤罪のため死刑となりたる人々居る。

げにこの所は、天運の定めと審判となくしては、決して与えられず。審判官ミーノース壺を振る。彼は黙せる者の会合を召集し、彼らの生涯と彼らの罪科とを調査す。

その次に来たる地区は悲しき一群にて占めたり。彼らは罪なきに手づから自己の死の発動者となり、白日の光を忌みて彼らの生命を投げ捨てたる人々なり。彼らは今、上界の高きがもとにある(=生きている)ためには、いかに貧困と苦闘とを耐え忍ばんと覚悟してあるか!

されど天の法則はこれを禁じ、無慈悲の沼は無歓喜の大水もて彼らを閉じ込め、ステュクスは九度、上界と下界との間を流れて彼らを塞ぐ。(6-四二六〜四三九)

ここより遠からず、四方に広がりつつ「哀傷の野」見ゆ。かかる名もて人々はこれを呼ぶなり。

ここには悲惨なる恋が、その激しき苦痛もて消しつくしぬる人々をば、他とは引き離したる徑ぞ隠し、桃金孃(てんにんか)の森は周囲を蔽う。死に逝きてすら彼らの悲しみは彼らを見捨てざるなり。

ここにて彼は、パエドラとプロクリスと、悲しみに充たされ、惨酷なる我子の手もて負わされたる傷を指さすエリピューレーと、エウアドネーとパーシパエーとを認む。彼らに同伴してラーオダメイア(プロテシラオスの妻)行き、またかつては青年にして、今は女となり、運命によりて再び元の形(女)に還りたるカエネウスも行く。

彼らに打ち交わり、フェニキアの女ディードーは、傷も新たに、大いなる森の中をさまよいつつあり。トロイの勇士は、彼女に近く立ち―――あたかも月の初めに雲を通して月影の登るを見、または見たりと思う者のごとく――薄暗がりの中に彼女のおぼろげなる姿を認むるやいなや、涙をそそぎ、やさしき愛の心もて彼女に話しかけていう。

『幸なきディードーよ、さては汝が身を亡ぼし、剣もて最後の運命を求めしちょう、我が聞きし消息はまことなりしや?

ああ、我ぞ汝が死の因なりしや?星により、上なる神々により、はた何物にまれ地の深きにある信義により、我は誓う、女王よ、我は心ならずも汝の浜辺より引き去りたり。

されど今、我を強いてこの陰の世界を通り、黴もて隠蔽せられたる地方と、夜の深淵とを通りて旅せざるを得ざらしめたる、神々の命令こそ、かの時にもその権威もて我を駆り立てたれ。我は我が別離により汝にかく深き悲しみをもたらさんとは信じ得ざりしなり。

歩みを止めよ、我が眼より身を引き去ることなかれ。汝が逃げ去らんとするは何人ぞや。これぞ運命の定めにより、我の汝と物語る最後の時なる』

彼女は憤りに燃え、鬱々と睨みつけてあれど、かかる言葉もてアエネーアースは彼女の心を宥めんと努力し、彼の眼よりは涙を流す。

彼女は彼より身を反けて、じっと地面を見つめ、あたかも固き火打ち石またはマルペッソスの巌などのように、彼の語り出でたる言葉にては少しも和がず。

ついに彼女は急ぎ去り、敵意を現わして陰多き森に逃げ行けば、そこには彼女の先夫シュカエウス、彼女の悲しみに同情し、彼女の愛に劣らぬ愛情を示す。

されどアエネーアースは、彼女の災厄に心を打たれ、去り行く彼女を涙もて遠く見送り、かつあわれんことを止めず。(6-四四〇〜四七六)

それより彼はなお彼に定められたる旅を行く。やがて彼らは最も遠き野辺に達す。そは淋しき野にて、戦さに名を馳せたる人々の往来するところなり。

ここにテューデウス彼に会い、ここに武器に名高きパルテノパイオスと青醒めたるアドラーストスの姿とあり。

ここにまた戦争にたおれ、地上界にていたく嘆き悲しまるるトロイの人たちあり。彼は彼らすべてを長き列において認め、嘆息す――アンテーノールの三人の子ら、グラウコスとメドーン、テルシロコスと、ケレースの神官なるポリュボエテース、死してもなお戦車に乗り武器を持つイダイオス(プリアモスの御者)など。

右に左に幽魂群れをなして彼を取りまく。彼を一瞥するのみにては飽き足らず、なお長く彼の周囲をさまよい、彼に近寄り来たり、彼のここに来たりし理由を聞かんとす。

されどギリシアの首領ら、またアガメムノーンの軍勢は、この勇士を見、闇を通して鎧の輝くを見るやいなや、限りなき恐慌のため打ちふるう。ある者は往時彼らが船に急ぎし時のごとく、逃げ腰に背を向け、ある者は弱々しき叫び声を上ぐ。上げんとしたる叫び声は、彼らの開ける口を失望せしめぬ。(6-四七七――四九三)

さてここに彼はプリアモスの子デーイポボスを見る。体躯はことごとく切断せられ、顔は無残に切り刻まれ、顔も両手も、はたこめかみよりは両の耳も切り取られ、鼻柱は見るも浅ましき傷もて打ちくじかれたり。

彼はデーイポボスが打ちふるい、恐ろしき禍害(わざわい)のあとを隠さんとするとき、彼を辛うじて見分け、彼の物言うより前、まずよく聞き知られたる声音もて話しかけけるは、

『武勇に強きデーイポボスよ、テウクロスの古き血統より出でし者よ、何人かかくむごたらしき罰を汝にこうむらしめたる?

誰かはかく暴虐に汝を扱うことを許されたる?世の取沙汰には、我らが運の極めの夜、汝はギリシア人の大殺戮にも倦み疲れて、累々とうち重なる屍の中に伏し沈みたりという。

我はその当時汝のためロエテーウムの海岸に空しき塚を立て、大いなる叫び声もて三度汝の霊を呼びぬ。

汝の名と武器とはこの場所を守れども、友よ、我は汝のむくろを見出し得ず。我が去るとき、故郷の土に汝を横たうることを得ざりし』

プリアモスの子は答う。『友よ、君がなすべき事にて落とされたるはなし。君はデーイポボスと、彼の死骸の幻に対するあらゆる義務をつくしたり。

されど我が運命と、スパルタの女の呪わしき奸悪、我をかかる災厄に陥れぬ。これぞ彼女が我に残したる形見なる。

げに我らがたぶらかされし喜びの中に、いかに我らのいやはての夜を過したるかを君は知る。君は必ずやそれをあまりにありありと覚え過ぎてあるべし。

かの忌々しき命取りの馬、一躍してトロイの高き城壁を超え、その胎内に重々しく武装したる軍勢をもたらしたるとき、

彼女は神に仕うる踊りをいつわり真似て、バッカス神を讃うる叫び声をあぐるプリュギアの女たちをば、市中を引き回したり。彼女(ヘレネー)みずからは、彼らの真中にありて、大いなる松明を持ち、砦の高きよりギリシア人を呼び入れぬ。

そのとき、幸なき者なる我は、心配に疲れ、眠りにおさえられ、我が花嫁(ヘレネー)の寝室の内にありき。さて我が横たわりしとき、甘く深き休らい、静かなる死にいとよく似たる休らいぞ、重くわが上によりかかりぬる。

そのひまに、我がすぐれ妻は、家の内よりありとあらゆる武器を取り去り、我が枕上より頼みの剣をも盗み去りつ。

彼女は住居の内にメネラーオスを招き入れて、彼のために我が扉を開く。そは疑いもなく愛人の眼には大いなる贈り物と映りて、彼女の過去の非行の恥辱を拭い去ることを望めばなり。

いかなれば我はながながしく繰り言するや?彼らは室内に闖入す。しかのみならず、罪の煽動者アイオロスの子孫(ウリクセース)もその一隊に加われり。汝神々よ、敬虔なる唇もて、我、復讐を願う。ギリシア人にその暴虐を報いたまえ!

されどいざ、こたびは汝より我に告げよかし。いかなる出来事の、生きたる人なる汝をここに来たらせたる?そは大海をさまようことによって駆られ来たりしや。天の命ずるところなりや。はた何か他の運命の汝を追いて、この太陽なき悲しき住居、不秩序の領を見舞わしめたるや?』(6-四九四〜五三四)

かかる物語を取り交すひまに、アウローラは薔薇色の四頭馬車に乗りて、その空路すでに半天の広がりを通り過ぎぬ。

おそらく彼らは与えられたる全ての時をかかる物語もて費したらん。されど彼の伴侶なるシビラは、いましめて手短かに彼にいう。

『夜は速やかに近付く、アエネーアースよ。我ら泣くことに時を空しく費しつつあり。ここは道の二つに分かるるところなり。右は偉なるディースの城砦の下に通ず。その道に沿いて我らエリュシオンに行く道あり。されど左なるは悪人に罰を課し、彼らを不信者の住みかなるタルタロスへ送る道なり』

デーイポボスは答う。『な怒りそ、偉なる女司祭よ。我は立ち去るべし。我は幽界の人の数なるわが位置を充たし、冥府に返るべし。行けよ、いざ行け、我らの誉れよ。我よりもより好き運命を受けよとこそ』彼はかく言いて、その言葉のいまだ唇の上にあるうちに、歩みの向きを変えぬ。(6-五三五〜五四七)

アエネーアースはにわかに周囲を見回して、左に横たわる岩の下に、いと広き城砦の、三重の塀をめぐらし、滝なす炎の波を打ち上ぐる急流に取り巻かれてあるを見る。こはタルタロスのプレゲトーン(火の川)にて、その水筋には岩どもがらがらと鳴りて転がりくだる。

これと相対して巨大なる門あり。柱は堅き鉄石にて造らる。されば何人の力も、いな、大空に住む族すらも、戦いの器具をもってはこれをこぼつことを得ず。鉄の塔、天上に向かいてそびゆ。しかして席に着けるティーシポネー(エリニュエスのひとり)は、血に染みたる衣をまといつつ、眠ることなく夜も昼も入口を守る。

ここよりは唸き声とむごたらしき笞打ちの響き明らかに聞え、またからからと鳴る鉄枷と、引きずる鎖の音す。アエネーアースは歩みを止め、驚きてかしましき物音に耳をすます。

『こはいかなる罪の姿ぞ?語れ、処女よ。はた彼らはいかなる罰にて苦しめらるるや?高く大空まで上り行くかくも大いなる哀哭の声は何を意味するや?』

そのとき、女司祭はかくぞ語り始めける。『トロイ人たちの名高き大将よ、潔き者は何人にても悪人の敷居を踏むことを得ず。されどヘカテーは、我をアウェルヌスの森の司となしたるとき、みずから我に神罰のことを教え、あらゆる現場を案内したり。

クレタ人ラダマンテュス、この最も峻烈なる国の主(あるじ)たり。しかして罪人を拷問し、その物語を聴き、彼らが上なる世界にては、空しき猾計を悦びつつ、死の間際まで償うことを延したる罪悪の行為を白状せでは措かざらしむ。

ただちに報復者ティーシポネーは、鞭を取りよろいて、罪人らを襲い笞うち、左の手にては恐ろしき蛇どもを彼らに差し出しつつ、彼女の姉妹たちの無惨なる群れをぞ呼び寄する。

その時ついに、擦れ合うとぼその恐ろしき音して、忌々しき扉さと開く。汝見るや、いかなる番人の入口に座し、いかなる姿の敷居を守るかを?

なお猛きヒュドラ、五十の黒く張りたる口を持ちて物凄く、この内に住居したり。次にタルタロスみずから、直下(じかくだ)りに口を開きて、大空の穹窿高く眼路(めじ)のさまよう長さの二倍、暗黒の中へと広がり延ぶ。(6-五四八〜五七九)

『ここに大地の古き種族、ティーターネースの苗族、電光に打ち倒されて、穴の底にうごめきつつあり。

ここに我々はまたアローエウスの二人の子(オートスとエピアルテース)を見たり。そは姿おおきく、手もて大天界を引き裂き、ユピテルを高き領より投げ出ださんとしたる者どもなり。

我はまたサルモーネウス(エーリス王)を見たり。そはユピテルの火とオリンポスの物音とを真似する間に、彼に追いおよびたる厳罰を忍びてあり。

彼、車を四頭の馬に引かせ、松明を打ち振りつつ、ギリシアの国民とエーリス(ペロポネソス)の都の中心とを通り、凱旋のごとく進みて、神に致すがごとき人々の尊敬を、我が身に受けんと求めぬ。

愚かなる者よ!黄銅の車と角質の足持てる駒の足掻(あが)きとをもて、雲と真似がたき電光とを模倣せんとは!

されど万能の父は濃き雷雲の中より彼の投げ矢を投げ出だす。そは松明にあらず。松明の煙る炎にあらず。さと大きく放てば真っ逆さまに彼を打ち倒す。

これと等しくまた万物の母なる大地の子ティテュオスも見ゆる。そのむくろは九反ばかりに一面に伸び広がり、獰猛なる兀鷹(はげたか)、曲がれる嘴(くちばし)もて彼の亡びぬ肝臓と、多くの罪に対すろ責罰(いましめ)を受くるため豊富なる内臓とを食みて、食物をあさりつつ、その胸の中深く住家を作り、新たに生ずる臓腑には、苦痛を与うるに少しの猶予をも許されず。

いかで我、ラピタエ、イクシーオーン、ペイリトオスなどのことを言う要あらんや?彼らの頭上には黒き巌、今にも滑り出でんとし、つねに落ちつつあるにも似てさしかかる。黄金の足は高き祝祭の長椅子に輝き、彼らの眼前に饗宴は王者の贅沢もて広げらる。その側にはフリアエの最年長の者(メガエラたはアーレット)寄りかかりて、彼らの手を飲食にかくることを禁じ、松明を打ち振りつつ飛び上がり、雷のごとき声して叫ぶ。

生ある間彼らの兄弟を憎みし者、父をうちし者、依頼者を詐偽の網にかけし者、見出でたる富を独占して友に分かたざりし者――こは最も大いなる群れをなす者どもなり――姦淫のために斬殺されたる者、国家に対して不敬の武器を振るいし者、主君に対して忠義を破ることを躊躇せざりし者ら、みな密牢(地下牢)の中にて彼らの責罰を待てり。

彼らはいかなる責罰を待ち、はたいかなる姿の苦痛、いかなる運命が彼らを呑み去りしかを尋ね問うことなかれ。ある者は大石を輾(ころ)ばし、ある者は手足を広げて車輪の幅の上に懸かる。

不幸なるテーセウスはそこに座し、かつ永遠にそこに座すべし。プレギュアース(イクシオンの父)は、深き悲嘆の中に全ての者に警告し、高き呼び声もて闇の中に証言す。「我をいましめとして正義を知り、神々を侮るなかれ」と。

ある者は黄金のために国を売り、その上に暴虐の君を置き、金銭のために法を作り、法を廃しぬ。ある者はおのれの娘の寝室に入り、禁制の婚姻をなしぬ。彼ら全て醜悪なる罪業を企つることをあえてし、彼らの敢行する目的を達げたる者どもなり。たとえ我に百の舌と百の口と鋼鉄の声とありとても、言葉もて悪業のあらゆる形を包括し、または責罰のあらゆる名を一掃することを得んや』(6-五八〇〜六二七)

ポイボスの老女司祭は、これらの言葉を述べたる後になお、『されど、いざ、汝の道を急ぎて、企てたる捧げ物をなせ。我ら疾くゆかん。我はキュクロプスの溶炉にて造られたる城砦と、我らと相対して穹窿(ドーム)ある門とを見る。これぞ神々が我らにこの捧げ物をなせと命ずるところなり』

彼女はかく言いおわり、彼らは相並びて陰影多き道を進みつつ、その間に横たわる地面を急ぎ過ぎ、戸口に近付く。アエネーアースは入口に着きて、全身に新しき水を注ぎ、正面の敷居の上に木の枝をぞ懸くる。(6-六二八〜六三六)

ついにこれらの勤めも終り、女神への捧げ物もなし遂げられたるとき、彼らは楽しき場所、幸福なる森の微笑む芝草地、祝福せられたる者の住む所に来たりぬ。

ここにては明るき空、地上の世界よりも豊かに紅(くれない)なす光を野辺に被せ、住民はおのれみずからの太陽とおのれみずからの星とを知る。

ある者は若草萌ゆる角力場にて手足を練習し、技を競い、黄なる砂上に争う。ある者は足もて拍子を取って踊り、小歌をうたう。それと等しく聖なるトラーキァの神官は、うち磨く衣を着け、七つの別々の声調を音楽の拍子に合わせつつ、あるいは指にて、あるいは象牙の撥(ばち)もて曲調を打つ。

ここにテウクロスの古えの子ら、美しき種族、よりよき日に生まれたる勇ましき英雄たち、イールス(トロースの子)、アッサラコス、およびトロイの礎を置きたるダルダノスらあり。

遠くより彼(アエーネーアス)は、英雄たちの幻の武器と戦車とを驚き見る。彼らの槍は地面に突立てられ、馬具を外したる馬どもは、平原の各所に秣(まぐさ)を食みつつあり。彼らが生あるとき、戦車や武器にかけたる喜びと、毛艶よき軍馬を飼うために取りたる注意とは、地下に横たわれる彼らにも、なお昔に劣らず伴なう。

見よ、彼は右に左に、他の人々が馨(かぐわ)しき月桂樹の木立の中に、草に沿いて宴飲し、楽しき頌歌(パエアン)を声を合わせて歌うを見る。そこより上なる世界へと、エリーダノスの溢るる流れ、森を通して渦巻き上るなり。

ここに彼らの祖国のために戦いて傷つきし人々の群れ、生ありし間、聖なる司祭なりし人々、敬虔にしてポイボス神にふさわしき事を語りたる詩人、または彼らの発見したる技芸により人の生活の向上に貢献したる者たち、善行により他人に自己を記憶せしめたる人々。

彼らはみな雪白の頭帯をもって彼らの額を巻けり。彼らがまるく群がり来たれるとき、シビラは彼らに対し、何人よりもまず第一に詩人ムーサイオスにかくぞ話しかけける。そは大いなる群集の彼を中心となし、彼らの上に両肩を聳え立てて立つ彼を見上げ居たればなり。

『言え、祝福せられたる霊たちよ。しかして汝いと優れたる詩人よ。いかなる国、いかなる場所のアンキーセースを居らしむるや?彼のために我らここに来たり。しかしてエレボス(冥界)の大河を渡り越えたるなり』

そのとき彼女に対しこの英雄(ムーサイオス)は言葉短く、かくぞ答えける。『何人にも定まれる住所なし。我らは樹陰多き森に住み、しばしば河岸の自然の寝椅子(草原)に、また小河の新鮮にする牧場に住む。されどもし汝の心の望みのかくあるならば、汝らこの山の背を過ぎ行け。さらばやがて我、汝らをたやすき道に置かん』彼はかく言いて、彼らの前に進み、高き所より日の照り渡る野を指さし、そののち彼らは小山の峰を立ち去りぬ。(6-六三七〜六七八)

されど父アンキーセースは、緑の谷深く思いを凝らして、今は下界に閉じ込められたれどいずれは上なる光明へと過ぎ行きぬべき運命なる霊どもの事を慮りつつ、ふとおのれの国民の全群、その愛する子孫、英雄たちの運命と幸福、彼らの性格と雄々しき行為のことなどを品評してありけり。

されば彼、アエネーアースが彼の方へと草場を横切りて進み来たるを見しとき、熱心に両手を差し出だし、涙は頬を流れ下り、言葉は唇をほとばしり出でて、

『汝はついに来たりしや。父が願ぎ求めたる汝の孝心は、困難なる旅にも打ち勝ちたるや?わが子よ、我は汝の顔をしかと打ち眺め、聞き慣れたる声を聞きもし、答うることも許されてあるや?

げに我、時日を計りつつ、かくあるべしと心の内に信じかつ考えてありしが、わが心づもりは我をば欺かざりけり。

いかなる多くの国々と、いかに大いなる海とを経て運ばれ来たりし汝を、我はよろこび迎うるよ!あわれわが子よ、いかに大いなる危険に悩まされたる汝を!我はリビアの国の、汝に何か危害を加えはせずやといかばかり心づかいをしたりけん!』

彼は答う。『父よ、君の、君の悲しき幻ぞ、いくたび我に現われ、この住所を訪ねでは措かざらしめたる。わが艦隊はテュレニアの海に停泊す。君の右手を握りしむることを許せ、父よ。我が抱擁より身を退けたまうことなかれ』

かく言いつつ、はふり落つる涙に顔をぬらすめり。さて彼は父の首のまわりに彼の腕を投げかけんと、三度試みたれど、三度、幻は空しく掴まれて、軽き風のごとく、翼ある夢のごとく、彼の手より逃がれ去りぬ。(6-六七九〜七〇二)

そのひまいにアエネーアースは、奥まりたる谷間の中に、ひそかなる木立と、さらさらと鳴る叢林と、静かなる住所に沿うて漂い行くレーテーの流れとを見る。

そのほとりには無数の種族と国民と徘徊す。そのありさま、例えば穏やかなる夏の日に、牧場にて蜂どもの種々の色ある花に止まり、真白き百合に群がり、野をあげて唸り声の高く聞ゆるときにも似たり。

アエネーアースは、この思いかけぬ光景に驚かされ、知らざるままに、かなたなる流れは何ぞ、またその岸にかく大いなる群集をなすはいかなる人々ぞとその理由を問う。

ここに父アンキーセースは答えていう。『運命により第二の体躯を得べき魂は、レーテーの川波に沿いて無憂の水と永き忘却とを飲む。

これらの霊魂のことを我みずから汝に告げ、彼らを汝の眼に示し、汝が見出でたるイタリアにて、我と共に汝がますます楽しまんため、この我が子らの系統の目録を読まんことこそわが長く願いたるところなれ』

『おお、我が父よ、ある霊魂のここより上天の光へと昇り行きて、再び鈍重なるむくろの中に返るべしと誰かは思い得べき?幸なき魂どもにも、光に対して何たるかく激しき憧憬はありけるぞや?』

『我親しく汝に告げむ、わが子よ。かつ汝を長く疑いの状態に置かざるべし』とアンキーセースは答う。しかして一つ一つの事実をば順次に説明す。(6-七〇三〜七二三)

『まず、空と大地と、潤える平原(海)と、月の輝やける円球と、ティーターンの星(太陽)とを、中なる生気ぞ養う。天地の四肢に注ぎ込まれたる心意は、その全巨体に運動を与え、大いなる体躯と交わる。

これによりて人と獣との族生じ、翼ある鳥の生命生じ、太洋がその滑らかなる海面の下に産する怪物生ず。

これらの種(たね)には、有害なる体躯のこれを妨げ、地上の肢体と死すべき四肢の彼らの精力を鈍らせざる限り、火のごとき力と、天上の稟性(ひんせい)との存するなり。

これにより彼らは、恐れ、望み、悲しみ、喜び、かつ彼ら、幽闇の中に、暗き牢獄の中に閉じ込められ、天の大気を捕らうることを得ず。

いな、生命がその最後の光と共に彼らを見捨つる時すら、なおあらゆる悪とあらゆる身体上の毒とは、その悲惨なる人間より徹底的に過ぎ去らず。しかして彼らと共に長らく生長したる多くの悪が、驚くべきほど彼らの身体の中深く弥漫(びまん)せる事は必然なり。

かかるがゆえに彼らは罰の試練を受け、過去の失行の償いを払う。すなわち、霊魂のある者は空中高く吊り下げられて、眼に見えぬ風にさらされ、またある者はその汚れたる罪悪を、限りなき大水の下に洗い去られ、あるいは火にて焼きつくさる。

我らは各々自己の幽界の苦行を受け忍び、しかるのち広きエリュシオンを通して送られ——少数の者のみがこの幸福の野を占むるなり――ついに時の全環が巡りおわりぬる時は、長き歳月は彼らの内に生長せし罪汚れを清め去り、空霊的感覚と純光の火とのみを潔くぞ残すなる。

これらの霊魂をすべて、一千年の間時の環の巡りおわりしとき、神、大いなる群集となしてレーテーの河に召したまう。すなわち彼らが過去を忘れ去りて、再び蒼空の下を返り訪れ、悦んで元の身体に還り始むるようにしたまうためなり』(6-七二四〜七五一)

アンキーセースはかく言いて、彼の息子をシビラと共に、集まれる人々の真ん中へ、騒がしき群れへと導き、小丘の上に立ち、そこより彼らすべてを長き列をなさしめ、おのれらの前にて精査するようにし、彼らが彼の方に来たる時その顔貌(かおかたち)をよく見分けんとす。

『いでや我が言葉もて、こののちいかなる栄誉がダルダノスの子孫たちに従い来たるかを、いかなる子孫がイタリアの系統より汝を待ち設けいるかを、しかして我らの名を相継ぐべき高名なる霊を数えあげ、しかして汝に汝の運命を教うべし。

汝が見る彼、穂先なき槍にもたるる若人は、運により上界の光に最も近き位置を保てるなり。彼こそイタリアの血を交えて上界の大気に昇りぬべき最初の者にして、アルバでの名をシルウィウスと言い、汝の最後の子なり。彼こそは時遅く、汝の妻ラーウィーニア老齢の汝のため森の中にて生むべく、みずから王にして、諸王の長となり、その人より我らの一族出で、アルバ・ロンガに君臨すべし。

次に来たるものはトロイ族の誇りなるプロカース、カピュス、ヌミトル、名もて汝を反映する彼シルウィウス・アエネーアース。こは忠直においても武芸においてもいと名高かかるべし、もし一度彼がアルバを支配すべく受け継ぎたらば。

いかに見事なる若人たちのあることぞや!見よ、いかに強き力を示し、額を「市民の槲(かし)」の栄冠もて蔽うかを!

これらの者、汝のためノーメントゥムとガビーとフィデーナエの町を建つべし。これらの者山上にコッラティアの城砦とポーメティアと、カストルム・イヌイと、ボーラとコラとを建設すべし。こはその時に至りて名付けらるべし、今はその地無名なり。

げになおマルス神の子ロームルスは、彼の祖父(ヌミトル)の後継者とならん。彼こそはアッサラコスの血統なる母親イーリアより生まるべし。汝見るや、いかに二重の羽毛冠の彼(ロームルス)の頭に取り付けられて、彼の父(マルス)みずからすでに、大空に住むべき者として、いかに自己の光栄をもって彼を印するかを?

記せよ、わが子よ、彼ロームルスの吉兆の下に、誉れ高きローマは、全世界をその帝国の限りとし、天をその矜侍の限りとし、城壁の内に砦ある七つの丘を共に含み、勇士の子孫により幸福なるべし。

これを例えばベレキュントゥス山の母(キュベレー)が、塔の冠を戴き、神々を生みしことを悦び、すべて神にして、すべて天上に住む者なる百の子孫を抱きて、車にうち乗り、プリュギアの町々を通して練り回るに似たり。(6-七五ニ〜七八七)

『今このほうへ汝の二つの眼を転ぜよ。この一族と汝自身のローマ人とをよく見よや。ここにカエサルと、天の大蒼穹の下に移り行くべき、ユールスのあらゆる子孫とあり。

この男、これぞ汝にしばしば約束せらるるを聞きけんアウグストゥス・カエサルにして、神と崇められし者の子にして、彼ぞかつてサートゥルヌスによって支配せられし野を通じて、ラティウムに第二の黄金時代を建つべく、彼、ガラマンテス(アフリカ)を越え、インドを越え、帝国を広むべし。

そこに星宿の境(獣帯)の外なる国土あり。歳と太陽との通路の外なる国土にして、そこにては天を担うアトラース、その肩の上に火のごとき星をちりばめたる蒼穹を回転す。

彼の来たることを予想し、すでに今カスピアの国土とマエオーティアの土地とは、神々の託宣によって打ち震い、七重となれるナイル河のおののける口は騒ぎ立つ。

げにヘラクレスすら、黄銅の脚を持つ牝鹿を突き貫き、エリュマントス(猪退治)の森に平和をもたらし、レルナ(ヒュドラ退治)を弓もて戦慄はしたれど、かく大いなる地面を通過せず。

なおまたニューサの聳ゆる峰より虎を駆り下ろしつつ、征服者のごとく葡萄の蔓もて作れる手綱にてその車を操縦するリーベル(バッカス)もしからざりき。

しかるに我らなお武勇によりて我らの勢力を拡むることを遅疑するや?あるいは恐怖が我らのイタリアの国土に定住することを禁ずるや?(6-七八八〜八〇七)

『されど聖器を持ち、オリーブの枝もて他とは一際目立ちて見ゆる、かしこなる人を誰とか做す。我はローマ王(第二代ヌマ)の頭髪と白き髯とを見分けたり、この人ぞ弱小なるクレース(サビーニー)と貧土とより、大いなる王権を執るために送られて、法律をもって都市の創設時代を基づけたるなり。

次にトゥッルス(第三代ローマ王)、彼を継ぎて、国の静謐を破り、怠惰になれる戦士とすでに勝利に縁なくなりにし軍隊とを武器に呼びさますべし。大いに高慢なるアンクス(第四代王)、ただちに彼に続くべきが、今この時にもすでに衆望の声をあまりに悦び過ぎて見ゆ。

汝はまたタルクイニーの諸王(第五、六、七代)、および復讐者プルートゥスの強剛なる魂と、彼の回復したる権標(ファスケス)とを見るや?

彼こそ執政官の職権と、容赦なき斧鉞(ふえつ)とを享有する最初の人にして、公明なる自由のため、父ながら、新しき戦いを起こさんと努むる子らを、刑罰に召喚するならん。不幸なる者よ!されど後世の人々はその振る舞いを賞揚せん。国家に対する愛と、名誉に対する無限の熱情は何物にも打ち勝つべし。

なお遠くに、デキーウスたちとドルススたちと斧鉞もて仮借するところなきトルクァトゥスと、旗を持ち返るカミッルスとのあるを見よ。

同じようなる武器にきらめくを汝の見る彼ら(カエサルとポンペイウス)、いま下界の闇の中に埋ずもれてある限り、仲よき魂なれど、あわれ、一旦生の光明に達しなば、彼らいかに猛烈なる戦争を互いになすべきぞ、いかなる合戦と殺戮とを始むべきぞ!

岳父(カエサル)はアルプスの塁(とりで)とモノエクス(モナコ)の城砦より下り来たり、女婿(ポンペイウス)はそれに対し東方の戦隊もて武装せん!

ななしそ、わが子らよ、かかる戦さを汝らの魂に慣れやすきものとななしそ。はた、汝らの勢力を汝らの国の心臓に逆らいてな向けそ。

汝(カエサル)まず汝の寛容を示せ。天より血統を引ける者よ、汝の手より投げ槍を打ち捨てよ。わが血統の者よ!

かしこなる者(ムンミウス)はコリントゥスを征服し、ギリシア人たちの殺戮によって名高くなり、勝利者として戦車を高きカピトーリウムへと駆り行くべし。

また他の者(アエミリウス・パウッルス)はアルゴースとアガメムノーン王のミケーネと、戦さに強きアキッレースの血統なるアイアコスの子孫その者を打ち倒して、トロイの先祖とミネルヴァの冒瀆せられたる神殿のため復讐をなすべし。

偉なるカトーよ、誰かは汝を、あるいはコッススよ、汝らを挙げずして見逃すべき?誰かはグラックスの一族を、はた戦場の二つの雷電にして、カルタゴ滅亡の因となる二人のスキーピオ家の者と、物の蓄えに乏しけれど心強きファブリキウスと、またセッラーヌスよ、耕圃(こうほ)に種を蒔く汝とを述べずして見逃すべき?

いずこにか、物語にて疲れ果てたる我を汝らは急がせんとするぞ、ファビウス家の者たちよ?汝こそ一人の男子にして、遷延することによって我らのために国家を建て直したる、かの有名なるマキシムスなり。

他の者ら(ギリシア人)をして、いと柔かく呼吸する黄銅の像を造らしめよ。我はよくこれを信ず。彼らをして大理石を使用して生きたる面貌(おもざし)を表わさしめよ。彼らはローマ人よりもさらに巧みに訴訟を述ぶべし。また彼らは鞭もて天の運行を指し示し、昇る星を告ぐるならん。

ローマ人よ、汝は権笏もて諸国民を支配することを記憶せよ。この技術こそ汝に属するものならん――しかして平和の法を人民に課し、帰順者を容赦し、驕傲(きょごう)なる者を粉砕することを忘るるなかれ』(6-八〇八〜八五三)

父アンキーセースはかく言いて、なお彼の打ち驚きたる聴者たちに語る。

『見よ、いかにマルケッルスが名誉の捕獲物もて輝きつつ進み、しかして征服者として全ての戦士の上にぬきんづるかを!彼こそは、国内が騒乱に打ち震わさるるとき、ローマの国を磐石の上に置き、馬蹄の下に、カルタゴ人と、新たに戦いを仕掛くるガリア人とを蹂躙すべし。しかして捕獲したる武器を、父クィリーヌス(ロームルス)に、三度目に掲ぐべし』

さてここにアエネーアースは、姿も、輝かしき武器も優れて美しけれど、顔に愉悦の色なく、眼眸(まなざし)を伏せたる若人(アウグストゥスの養子で早死にしたマルケルス)の、この人と共に歩み行くを見たれば、

『誰ぞ父よ、かの歩む勇士にかく伴い行く者は?彼の子かまたはその子孫の大いなる血統より出でし一人か?

彼(マルケルス)の周りには友らの何たるどよめきぞや!彼みずからのいかに気高く見ゆるぞや!されど黒き夜の暗闇は、その悲しげなる陰もて、彼の頭の周囲を包めり』という。

そのとき父アンキーセースは、涙をさとほとばしらして答う。

『わが子よ、汝が国民のかぎりなき悲しみを穿鑿(せんさく)する事なかれ。運命は彼を世の中に現わすべきも、また長く世にあることを許さざるべし。天つ神々よ、もしかかる贈り物の永くローマ族のものとなるならば、ローマはあまりに力強く汝らに思わるるならん。

人々のいかに大いなる呻き声を、かの平原(カンプスマルティウス)はマルスの大いなる町まで送り上ぐべき!またいかに悲しき葬式を汝は見るべき、おおティベリスよ、汝が彼のあらたに建てられたる墓塚のほとりを流れ過ぐるとき!

トロイの血統を引く若人にして、ローマの先祖たちをかく大いなる希望に引き上げし者、他に一人もなく、なおまたロームルスの国土、いかなる他の子においても、かく高くみずからの誇りとする者あらざるべし。

あわれ彼の忠直、あわれ彼の昔ながらの誉れ、はた戦さに負くることなき彼の右手よ!徒歩(かち)立ちにて敵に対して進むときも、泡噛む駒の脇腹に拍車を当つるときも、誰かは武器を手にせる彼に立ち向かいて、咎を受けぬ者やはある。

あわれ幸なき若人よ!もし汝が艱難なる運命を、何とかして通り抜くる事のあり得なば、汝はまた一人の真のマルケッルスたるべきに。我に一握りの百合を与えよ。我、美しき花を撒き、この捧げ物もて少なくとも我が子孫の霊を崇め、何ら甲斐なき義務を果さん』

かくて彼らは、いと広き陰影の平原において、全き地方をあまねく行き巡り、あらゆる物をあなぐり見る。

しかしてアンキーセースが、かかる場景の一々を通して、彼の子を案内し、彼の魂を来たらんとする名誉に対する熱情もて燃やさしめたるとき、次にはこののち彼のなさざる可からざる戦争のことを物語り、ラウレウントゥムの人民のこと、ラティーヌス王の町のこと、はたいかにして彼が一々の困難を回避し、またそれに対抗すべきかを告ぐ。(6-八五四〜八九二)

眠りの門は二つなり。聞くならく、その一つは牛角もて造られ、誠実の幻影はたやすくこれより出づる事を許さる。他の門は白き象牙よりなりて輝く。されどここより下界の神々は、上なる世界に偽りの夢を送るとかや。

かく語りてアンキーセースは彼の子と共にシビラを案内し、彼らを象牙の門より出しやりぬ。アエネーアースは急ぎ船に行き、再び一行と合す。

それより彼は海岸に沿い一直線に、カイエータの港に帆走る。錨は船首より投げ込まれ、船尾は磯の上に着けられぬ。(6-八九三〜九〇一)




第七巻梗概(下5p)

カイエータおよびキルケーイーを過ぎ、アエネーアース、ティベリス河を遡航す。詩人ウェルギリウス低徊(=考えを巡ら)して、ラティウムの古えの統治者を列挙し、アエネーアース来航当時の国の状態を説明す。

王はラティーヌス。神託。彼のひとり娘ラーウィーニアは異国人と結婚し、皇統の母たるべしと予言す。あらたなる兆候と奇跡とはこの予言に力を添う。トロイ人彼らの食卓を食う。彼ら使節をラティウムの都にやる。協議ののちラティーヌスはトロイ人に平和を、しかしてアエネーアースに娘との婚姻を提言す。

 トロイ敵視の女神ユーノーは再び干渉し、自己の援助に悪魔アッレークトーを召喚す。彼女はまず王妃アマータを、次にラーウィーニアとの婚約の勇士トゥルヌスを挑発して平和に反対せしめ、トロイ人とラティウム人との間に堂々たる対戦を惹起す。

そののちユーノーはアッレークトーを退散せしめ、みずから敵味方に戦いを正式に宣言せしむ。イタリアの戦争熱。アエネーアースを倒さんと集まり来たる隊将および国民の目録、その主(おも)なる者はトゥルヌスとカミッラなり。


第七巻

アエネーアースの乳母なる汝もまた、カイエータよ、汝の死によりて、我らの海岸に永遠の名声を与えたり、

しかしていまに至りても、汝の誉れは汝の墓を守り、何たる光栄ぞ、汝の名は西方の大陸(=イタリア)に、汝の骨の鎮まるところを銘す。

されど律儀なるアエネーアースは、最後の礼拝を鄭重にとり行い、墳墓の土丘を盛り上げたるのち、大海静かなる凪(なぎ)となるやいなや、予定の針路を帆ばしり続けて、港を後にす。

夜の近付くままに、風新たに吹き起り、明るき月も彼らの道を照らすことを拒まず、大海はその打ち震う光の下に照り輝く。

まず彼らは、キルケーの国土の岸に沿いて進み行く、ここにては太陽の富める娘、絶え間なき歌唱もて、近づき難き森を充たし、

美々しき客室には、夜に光を与えんと、かぐわしき西洋杉を燃やし、彼女の音高き梭(かい)を、こまかくつむぎたるよこ糸の間に走り通らす。

ここよりまた、その羈絆と争いて、夜深くほゆる怒れる獅子のうなり声判然と聞え、剛毛なす野猪と熊とは、彼らのおりの中に荒れ狂い、大いなる姿の狼もほゆ。

これらはすべて残酷なる女神キルケーが、魔力ある薬草もて人間の姿より変形し、野獣の顔と身体とをかぶせたるなり。

ネプトューヌスは、忠直なるトロイ人たちの、この港に吹き寄せられて、かかる怪しき変化を受くることなく、かつ呪われたる磯辺に上陸することなきために、順風もて彼らの帆を充たし、彼らをして疾く脱がれ去らしめ、仇波(あだなみ)の打ち寄する浅州をば乗り越えさせぬ。(7-一〜二四)

やがて海の面、曙の光にあからみ初め、高き穹窿(きゅうりゅう)にてはサフラン色のアウローラ、彼女の薔薇色の車の中に、照り輝き始む。

そのとき、風はたちまち落ち、空気の動きは全て不意に止り、櫂はのろき水をば徐々と打つ。

ここにアエネーアースは、海より大いなる森を見たり。その間をば快き流れのティベリスぞ、急速なる渦紋をなし、多くの砂にて黄に見えつつ、つと海に流れ入る。その河の岸にも、河床にも、通いなれて、色様々の羽したる鳥ども、そのあたりも上なる空も彼らの歌声もて充たし、森をも飛びまわる。

アエネーアースは、僚友らに命じて進路を転じ、船首を陸の方に向けしめ、陰ある 河の中へと喜んで港入りす。(7-二五〜三六)

いでや、いま、ムーサよ、我を助けたまえ。我、異国の軍が始めてその艦隊をイタリアの磯辺に泊めたるとき、古きラティウムにては、誰々が王者なりしか、時勢はいかなりしか、はたその形勢はいかなりしかと、かつ第一の戦さの発端とを回想せんとす。

汝こそ、女神よ、汝こそ、詩人を教えたまえ。我は恐ろしき戦いを歌わん。戦いの隊伍と、彼らの激情のため恐ろしき殺闘に駆られたる王者らと、エトルリアの軍勢と、武装して勢揃したる全ヘスペリアとを歌わん。出来事のさらに大いなる連続、わが前に現われ、我はさらに大いなる仕事に着手せん。(7-三七〜四五)

ラティーヌス王は、すでにそのとき年老い、彼の静謐なる田園と都市とを、長く平和に治め来たりけり。

伝説の告ぐるところによれば、彼はファウヌスとラウレントゥムの妖精マリーカとの間に出来たる子なりという。ファウヌスの父はピークスなり。彼は、あわれサートゥルヌスよ、父として汝に遡る。すなわち汝ぞこの種族のもっとも早き創祖なる。

ラティーヌスには、天意によりて息子なく、男系を絶てり。彼の男の子は、青春期に達するや、取り去られぬ。

ただ一人の娘のみ、彼の家と、かく大いなる世襲の財産を継ぐ権利とを所有したり。彼女はいまや結婚の年齢に達し、花嫁たるに十分の年頃となりぬ。

大ラティウムより、はたイタリア全土より来たれる求婚者は多し。他のすべての人々に勝りて、彼女の愛を求めたるは、いとも美貌のトゥルヌスにて、古き祖先により身分高く、王后(アマータ)は彼を女婿にせんとする強き欲望もて熱心なりき。

されど神々の兆候は、あまたの恐ろしきこともて、これを妨げたり。

一本の月桂樹の樹、王宮の真中、高き建物に囲まれて、奥まりたるところに生い、その葉において神聖にして、多くの歳月かしこみ傅(いつ)かれぬ。

こは父ラティーヌスが、そこに宮殿を建て始めたるとき、それを見出して、みずからがポイボスに奉献し、これによりて移住民にラウレンテス人という名を与えたりとかや。

言うも不思議なるかな、蜜蜂の大群、大いなるうなり声を立て、澄みたる空を飛び来たり、その梢のもっとも高きところを占め、互いに足を組みかわし、たちまち大いなる群れの、葉しげき枝よりつり下がる。

ただちに予言者は言う、『我ら、明らかに外国の英雄の来たり、軍隊も蜜蜂と同じ地方より同じ土地に来たり、砦の頂きに君臨するを見るべし』と。

なお、ラティーヌスが、聖なる松明もて祭壇の火を燃やし、処女ラウィーニア、父の側に添いて立ちたる時、あな恐ろし、彼女はその長き髪毛もて炎を捕え、髪飾りはことごとく波打つ火に焼かれ、その髪の毛は燃え、宝石をちりばめたる冠は焼け、彼女自身煙に包まれ、黄なる光に巻かれ、宮中にあまねく火をまき散らすごとくぞ見えにける。

これぞ恐ろしき、見るも不思議なる予兆として考えられ、彼ら予言者は言う。淑女自身は誉れと運命とにより有名となるべきも、国民には大いなる戦争を予言するものなりと。

これらの妖奇は王の心をかき乱し、彼は予言を司る父なるファウヌスの託宣の所に参り、高きアルブネアの下なる森にて、神意を伺う。こは森の中にても最も大いなるものにして、その泉は聖なる湧水の音を立て、その暗き陰は恐ろしく有毒なる蒸気を発散す。

イタリアの国民とあらゆるイタリアの国土とが迷いあるとき、応答を求むるはこの森よりなり。

司祭はここに捧げ物をもたらし、沈黙せる夜、屠殺したる羊の毛皮の床に横たわりて、睡眠を願ぎ求むるとき、

司祭は多くの幻影のちらちらと怪しく飛び回るを見、種々の声を耳に聞き、神々と物語を交わし、下界深くアケローンの神々に話しかけなどするをつねとす。

この時、父ラティーヌス自身もまた、神託の応答を得んとここに来たり、適当なる形式もて二歳の毛深き羊百頭を犠牲とし、彼らの皮と敷かれたる柔毛との上に、ひじもて支えて身を横たう。

たちまち一つの声、深き森の中より聞え来たる。『汝の娘をラテン人との婚姻に結ばんと志すことなかれ、我が子孫よ。なおまたすでに用意せられたる結婚を信ずることなかれ。

女婿は外国より来たり、彼はその血統の子らにより、我らの名を星の天までも上げぬべく、その家門の子らは、太陽がその日々の運行において東西両洋を訪るるところ、全てのものが彼らの足下に服し、支配を受くるを見るべし』

静夜に与えられたる父ファウヌスのこの答と警告とを、ラティーヌス自身はその唇の中に隠し置かず。されどその風説は遠く広く飛び、すでにそれをイタリアの諸都市に行き渡らせつ。あたかもその時にぞトロイの若人は、その船を河岸の草深き堤の下に泊めける。(7-四五〜一〇六)

アエネーアースと、頭(かしら)だちたる隊長たちと、美しきユールスとは、丈高き樹枝の下に彼らの手足を休め、彼らの食物を整え、その響応をば、芝土に載せたる大麦の粉の焼菓子の上に置く。

こはユピテル自身の予め告げたるところにして、じつに小麦の生地の上に、田野の果物を積み重ねたるなり。

たまたまここに彼らは他の物をばみな食いつくしつ。されば食物の欠乏は彼らに迫りて、そのわずかなる小麦の焼菓子をも食うようにせしめ、手と物恐れせぬ顎もて、宿命とも言うべき焼菓子の丸きに食い入り、広げられたる部分をも残さず。

『見よ!我らは我らの食卓をも食いつくす』とユールスは言う。それ以上には戯れ言を弄せず。この言葉のはじめて聞かれぬる時ぞ、そは労苦の終わりを示しぬる。しかしてかれの父は疾くそれをこの話、人の口より捕えて、天意に対する恐れに打たれつつ、その言葉を遮る。

ただちに彼はみずから言う、『いや栄えよ、あわれ運命の我に約したる国土よ。しかして汝ら、あわれトロイの忠実なる家神たちよ、いや栄えよ。

ここに我らの家居あり。これぞ我らの国なるぞや。さなり、今こそ思い出づれ、我が父アンキーセース、かくぞ運命の秘密を我に言い遣わしたる、

「子よ、汝、見知らぬ磯辺に吹き寄せられ、食物の乏しき日、飢え汝に迫りて汝の食卓を食ましめん時、その時ぞ汝は心たゆまるるとも、安住の郷をば望み得べし。そこにては汝の手もて最初の家を建て、塁壁もてそを固むることを忘るるなかれ」と。

されば、これこそそのとき予言せられたる飢えの現われたるなれ。これこそ我らを待ちぬる最後のものにして、我らの恐ろしき苦難にいやはてを置かんとするなれ。

いでや我ら、太陽の曙の光楽しく、ここはいかなる国土なるか、いかなる人の住むか、国人の都はいずれにあるかを探らん。この港よりもろもろの方面に行き向かいて探険せん。

いざ、大杯もてユピテルに奠酒せよ。祈りもて父アンキーセースを招け。しかして再び酒杯を食卓の上に置け』

彼はかく言いて、次に緑葉の枝もて髪に花飾りをなし、そこの地主の神と、他の神々に先立ちて大地と、ニンフと、いまだ見知らぬ河の流れとに祈りを捧ぐ。

次に彼は夜と、夜に昇る星と、イーダのユピテル神と、プリュギアの母神と、天上と冥府とにいるおのれの両親とに順次に祈願す。

そのとき全能の父は、三度、雲なき大空の高きより、雷を轟かし、みずから手もて金色の光線に輝く雲を揺り動かし、そを天空に誇示す。

ここにおいてたちまちトロイの軍隊の中に、彼らがその定められたる城壁を創建すべき日の来たりたりという風説ぞ広まりぬる。

相競いて彼らは祝宴を繰り返し、偉なる予兆を喜びて、彼らの盃を据え、花輪もて酒杯の冠頭を飾りなどす。(7-一〇七〜一四七)

次の日の昇り来て、そのいち早き光もて地上を訪るるやいなや、彼らは諸方に向かいて、この国人の都市とその国土と浜辺とを探り、これぞヌミークスの泉の流れ、この河ぞティベリス、ここにぞ勇敢なるラテン人住むと知り得たり。

そのときアンキーセースの子は、各階級より選み出したる一百の説客に命じて、王の豪華なる都城に行かしむ。彼らは全てパッラス女神の樹(オリーブ)の枝の細紐巻けるを手にし、国王への捧げ物を取り持ち、トロイ人への平和なる取り扱いを乞い求めんとするなり。

彼らは少しも遅疑せず、命ぜらるるままに取り急ぎて、足早にぞ進み行く。アエネーアースみずからは、浅き溝もて城壁の地割りをなし、場所々々の礎を置き、陣営の風に倣い、やぐらと築地もて海岸に彼の最初の植民地を取り囲む。

この時すでに若人らは彼らの道をおわり、ラテン人たちの都の塔と高き家々とを見出だして、城壁に近付き行く。

都の前にては、少年と人生の初花なる青年とが馬術を調練し、砂塵の中に馬車を馴らすもあり、また強弓を張らんと試むるもあり、腕にて柔靱なる投げ槍を投げ、競走、拳闘にて相競いいたり。

そのとき一人の使い番の士、駒を乗り出だし、偉なる勇士たちの見慣れぬ服装して来たることを、老王の耳に報ず。王はこれらの勇士たちを、宮中に呼び入るように命じ、みずからは中央に伝来の玉座に着席す。

ラウレントゥムのピークス(ラティヌスの祖父)の王宮なる建物は、堂々と、宏壮に、百の柱もて高く支えられ、城砦の上に立ち、森林と、祖先の宗教的畏敬とによりて荘厳なり。

ここにおいて王たちは笏を受け、束桿を初めて高く捧ぐることが、彼らの神聖なる慣例なりき。

この聖所は彼らのためには元老院議事堂にして、これぞ彼らの聖なる饗宴の大広間、ここに牡羊を屠りてのち、長老たちはいつも長く相並べる食卓に着席し慣れたり。なおまたここに彼らの古えの祖先の像ども、順序を追いつつ、古き縦の材にて彫られてあり。

イタルスと、はじめて葡萄を植えしちょうサビーヌス主――彼は今もなお(その生前と等しく)その像においても、曲りたる刈込みはさみを持つなり――老いたるサートゥルヌス、両額のヤーヌスの姿、および国のため戦いて負傷したる太古の他の諸王たち、玄関に立ちてあり。

その他多くの鎧は、神聖なる柱の上に懸かり、戦争にて分捕りたる戦車、曲りたる戦斧(せんぷ)、兜の羽毛の前立、門の大いなるかんぬき、投げ槍、盾、竜骨より奪い取りたる船首など。

駒の馴らし人なるピークスみずからは、クィリーヌス(ロームルス)の曲れる杖を携え、短かき上衣をまといてそこに座り、左の手には卵形の盾を持ちたり。

彼に、情欲の虜となれるキルケーは婚姻を求め、退けらるるや、彼女の黄金の杖もて彼を打ち、彼女の薬もて彼を島に変え、その翼に種々の色をばまき散らしぬ。

神々のかかる聖所の中にて、祖先の席に座り、ラティーヌスはトロイ人たちを、宮中の彼の御前に召し出だし、彼らが入り来たれるとき、彼はいと落着きたる声もて、まずかくぞ言い出でける。(7-一四八〜一九四)

『語れ、ダルダノスの子孫らよ、――げに我ら、汝らの町と人種とを知らざるにあらず、かつ汝らが海を越え、ここを目指して来たることは、すでにその風聞あり――そも汝らは何をか求むる。いかなる理由あり、はた何の必要ありて、汝らはかくあまたの蒼海を渡り、汝らの艦船をイタリアの海岸にもたらしたるぞ?

汝ら、行路を踏み迷いしためにもせよ、はた暴風に駆られしためにもせよ――船人は大海にていと多くかかる不幸にあうものなり――いま汝らは我らの河の両岸の間に入り来たり、港の中に休らえり。

我らの歓迎を避くることなかれ。また我々ラテン人のいかなる者なるかを知らであることなかれ。我らサートゥルヌスの族(やから)は、何らの強制によらず、また法律によらずして、正しく、すなわち各自の自由の意志により、古えの神の習慣により、直きに処するものなり。

かつまことに我に記憶あり――時のためにその物語はおぼろげになりぬれど――老いたるアウルンキ人たちが、いかにダルダノスの、この野辺より興り出でて、プリュギアのイーダの諸市、および今はサモトラーキアと呼ばるる、トラーキアのサモスに達したるかを物語りつるを。

彼はここより、すなわちコリュトスにあるエトルーリアのその住みかより出でたちぬるが、今は星空の黄金の宮ぞ玉座の上に彼を受けて、彼のために設けられぬる祭壇により、神々の数をぞ加うるなる』(7-一九五〜二二二)(四)

王のかく言えば、その言葉をイーリオネウスはかくぞつぎにける。

『あわれ、ファウヌスの光栄ある子孫なる王よ、暗き嵐が、波浪に悩める我らを駆り、汝の国土に避難せでは措かざらしめたるにもあらず。またある星宿や海岸の我らを欺きて、針路より外らしたるにもあらず。

我らは全て一定の目的と、自由なる心の選択とによりてこの都に来たりぬるなり、東の涯の天より昇り来たる太陽が、かつては地上におけるいと大いなる国と見慣れつる、その我らの国土より追われて。

ユピテル大神より、我が族の源は出づ。ユピテルをトロイの若人は、その祖先として享有す。

ユピテルの尊き血統より出でし我らの王、トロイのアエネーアースは、我らを汝の門に送りつるなり。

いかに大いなる暴風の、情け知らぬミケーネより吹き起こりて、イーダの平原を吹きまくり、いかなる運命に駆られて、ヨーロッパとアジアとの二つの大陸の衝突せしかを、

人は聞きつらん。よしや彼を、逆流する大洋の傍らなる陸地が我らより遠く隔つるとも、はた彼を、焼くがごとき太陽帯の、他の四帯の真中に広がりて、我らより遠く切り放つとも。

我ら、かく多くの大海を通して、かの大水より逃れ出でしのち、我らの国の神々のため、ここにつつましき定住の地と、安全なる海岸と、万民に等しく自由なる水と空気とを得んと願い奉るになん。

我ら、汝の国土の誉れを傷つくる者にあらず。また汝らの名声が我らのために決して小たらしめらるることあらず。またかかる親切なる行ために対し、感謝の忘れらるることあらざるべし。なおまたイタリア人はその土地の懐に、トロイを歓び迎えたることを悔いざるべし。

アエネーアースの運命により、また忠直において、はた戦争と武器とにおいて、何人も経験したる彼の力ある右の腕により、我は誓う。——我ら今、手に紐巻けるオリーブの枝を捧げ持ちて君のところに来たり、祈請の言葉もて懇願すればとて、我らをな侮りたまいそ――多くの人民、多くの種族ぞ、我らの愛を求め、我らと連合せんと願いたる。

されど神々の定めは、その命令もて、我らが努めて君らの国土を尋ねることを迫りぬ。ここよりダルダノスは起り、しかしてアポロン神はここへと我らを呼び返し、力強き命令により、我らがエトルーリアのティベリス河と、ヌミークスの泉の聖なる水とに来たることを促したまう。

なお我らの王は、燃ゆるトロイより救われたる遺物にして、彼の以前の富の記念なる、つつましき贈り物を汝に献ず。

この金杯もて父アンキーセースは、つねに祭壇に神酒(みき)を祭りぬ。またこれはプリアモスが、集められたる人民に、慣習に従いて法典を与えんとするとき着たるものなり。すなわちこの笏と、聖なる冠冕(かんむり)と、イーリウムの娘たちの手にて制作したるこの衣裳と』(7-二一二〜二四八)

イーリオネウスのかく語りける間、ラティーヌスは顔を下に向け、じっとひと所を見つめつつ身動きもせずおのれの場所にとどまり、思い深げなる眼を動かすばかり。

そは刺繍したる紫も、プリアモスの笏もなお、彼の娘の結婚と婚姻の新室(にいむろ)との上に集められたる思いに比べては、いとどしく王の心を動かすに足らず。

かつその胸中に慮るは、古えのファウヌスの予言のことにして、王の密かに思いけるは、『これぞ彼の運命の定めにより、外国より来たり、わが花婿と予言せられ、わが支配の共同者として召されたる者にして、この者より武勇赫々たる子孫生まれ出で、彼らは力によりて全世界を掌握するならん』と。

ついに王は嬉しげに言う。『神々が我らの企図と、神々自からの予兆とを遂げしめたまわんことを!トロイ人よ、我は汝の願いを許すべし。なおまた我は汝の贈り物を軽んぜず。汝ら、ラティーヌスが王たる限り、豊かなる田畑も、トロイの富も汝らに欠けざるべし。

もしアエネーアースの、我を知らんとの願い切にして、主客交歓の関係もて我に結ばれ、同盟の名を得んと熱望するならば、ただアエネーアースをして、親しくここに来たらしめよ。また彼は友の面貌を恐るるの要なし。

王(アエネーアース)の右手を握るれば、我において協約の大部分を仕遂げたるなり。汝ら、今、汝らの王に我が命を帰り伝えよ。

我に一女あり、これを我が同種族の夫に娶(めあ)わすことは、父の廟社よりの託宣も、なおまた天上の多くの兆候も、許さざるところなり。

女婿が異国の磯よりここに来たらんとすることこそ、ラテン人の運命にして、彼はその子孫によりて、我らの名を星にまで高むべしと、予言は告ぐ。

この人こそ運命の定めたる男子なることを、我は信じもし、しかしてもし我が魂の、何らかの真実を予示するならば、かくあれとこそ望みもするなれ』

父(ラティーヌス)はかく言いて、群がる馬の中より、数頭の駒を選らみ出す。彼の高き厩には、三百の毛艶よき馬立ちてあり。

ただちに彼はトロイ人の一同に向かい、馬どもを順次に引き出だせよという。紫と刺繍したる馬覆いとを被せたる駿足の軍馬なり。胸より懸け垂れたる首飾りは金色にて、覆い物もまた金、歯の間に噛むも黄金なり。

ここにあらぬ賓客アエネーアースには、一台の戦車と、戦車の挽き馬二頭とを贈る。そは天馬の血統を引き、鼻よりは炎を吐き、狡猾なるキルケーが、彼女の父(太陽神)に秘して、みずから天馬に引き合わせたる牝馬よりの庶出の子として、育て上げたる族の者どもなり。

ラティーヌスのかかる贈り物と、かかる言葉とにより、アエネーアースの部下の人々は、意気揚々と彼らの馬に打ち乗り、平和のよき消息をぞもたらし帰りける。(7-二四九〜二八五)

されど、見よ!ユピテルの情け知らぬ妻は、イーナコスの町アルゴスよりカルタゴへの帰り道にて、中天に馬車を駆りてありしが、大空の遠方(おちかた)なるシチリアのパキュノスよりさえ、いま喜びに満ちたるアエネーアースと、トロイの艦隊とを見分けぬ。

彼女はいま彼らが家の礎を置き、いま彼らがこの国土に信を懸け、彼らの艦隊を見捨てたることを見る。彼女は鋭き激情に身を占められて立ち止りつ。

やがて頭を振り、胸よりかかる言葉を絞り出す。『おお、我が憎む種族よ、我々の運命に逆らうプリュギアの運命よ!いかにせば彼ら、シーゲイオン(トロイ)の野において滅ぼされ得しや?いかにせば捕虜となりて牢獄に引かれ得しや?いかにせば燃ゆるトロイの火は彼らを焼き得しや?戦陣の隊伍の中を抜け、炎の中を抜け、彼らは逃げ道を見出だしつ。

されど、思うに、我が天つ力はついに疲れ果ててひれ伏さん。我は憎悪を満足さすることなく、手を引かざるべからざらん。

されどげに、我は祖国より追い出されたる彼らを、敵意を抱きて波の上に追及することをあえてし、身をもって海上至る所にこの亡命者らと対抗しぬ。空と海との力は、トロイ人に対してことごとく傾けつくされぬ。

シュルテスやスキュラや、また大いなるカリュブデスは、我がために何の役をなせしとや?彼らは今ティベリス河の、願わしの河床に休らい、大洋のことも、わがことも何ら少しも心に懸けず。

顧みるにマルスはラピタエの巨大なる一族を亡ぼす力を持ち、神々の父みずからは、古きカリュドーンをディアーナ女神の憤怒に任せたり。ラピタエやカリュドーンの、かく大いなる罰に値するいかなる罪を犯したるや?

さるに、ユピテルの正妃なる我の、何事も試みでは措くことを得ざりし我の、あらゆる思案に身を振り向けたる我の、哀れにもアエネーアースによりて打ち負かさるるとは!

いま我が神力の十分強からずんば、いずこにもあれ、この世の中にあるいかなる力にも助けを求むることを遅疑すべからず。我もし天上の神々を嘆願もて我が意に曲げて従わせ得ずんば、地獄の神々を動かさん。

彼をラティウムの国土より遠ざくることの、我に許されず、しかしてラウィーニアが彼の花嫁として、運命により、変えがたき定めとなれることは、さもあらばあれ。さりながら、その日をおくらし、かかる大いなる出来事を遅延せしむるは、我に許さる。

しかして両王の民を絶やさんこともまた、我に許されてあり。彼らの人民のかくも大いなる犠牲によりて、子(アエネーアース)と義父(ラティーヌス)とにその結合を買わしめよ。トロイ人の血とルトゥリー人の流血もて、処女よ、汝は新婦の装いをぞせらるべき。

戦争の女神ベッローナは汝の新婚の付添人として、汝に侍す。なおまた松明を身にはらみて婚姻の炎を生むは、キッセウスの娘(ヘカベー)のみに限らず。否とよ、ウェヌスに対しても、彼女みずからの子孫はそれと同じき者すなわち第二のパリスとなり、しかして葬式の松明は、いま新たに起これるトロイに対しても、再び燃やさるべし』(7-二八六〜三二二)

かかる言葉を吐きおわりて、恐ろしき女神は地上にくだりぬ。彼女は、悲哀を作る女神アッレークトーを、その呪わしき女神たちの住居なる下界の闇より呼び寄す。げにこの女神には、悲惨なる戦さ、怒り、陰謀、有害なる誹謗などは、いと親しきものなり。

父プルートー自身も彼女を忌み、彼女の地獄の姉妹もこの怪物を忌み嫌いぬ。彼女はさまざまの姿に身を変え、その形はいとど恐ろしく、彼女の頭はいと多くの蛇もて、まっ黒くうごめく。

ユーノーは次の言葉もて彼女の心をあおり、かくぞ話しかける。『処女なる夜の娘よ、わがために特にこの働きをなせ、この勤めをば。わが名誉も光栄も弱められて消散せぬために、はたアエネーアースとその一党が、婚姻によりてラティーヌスを籠絡し、あるいはイタリアの国土を占め得ぬために。

汝は同心の兄弟たちを、争闘(あらそい)のため武装させ、憎悪をもって家庭を煩わし、家々に笞と葬儀の松明とを投げ込み得るなり。汝には人を害する数知れぬ名と手段とあり。汝の工夫に富める魂をかきたてよ!平和の盟約を引き裂け。戦いの原因なる誹謗を播(ま)け。若者どもに、時を移さず武器を願わしめ、要求せしめ、それを掴んで起たしめよ』(7-三三三〜三四〇)

アッレークトーはただちにゴルゴンの毒に染められ、まずラティウムへ、ラウレントゥムの王の高き宮殿へと飛び行き、王妃アマータの静かなる門の前に立てり。

彼女はトロイ人たちの到着とトゥルヌスの結婚とに関し、女らしき苦悶と激情とのために燃え、苦しみいたり。

彼女にこの女神は、その黒髪より蛇一つ取って投げかけ、彼女の胸の中へ、いと深き胸の中へとやる。そはこの怪物のために心乱れて、彼女がその家の中なる全てを、かき乱すようにさせんためなり。

蛇は彼女の衣服と滑らかなる胸との間を、全く触るることなくすべり、その蛇らしき息吹を彼女に吹き込みつつ、狂せる女王には知られず。大いなる蛇は、彼女の首の周囲に黄金の首飾りとなり、彼女の長き頭帯のリボンに身を変え、彼女の頭髪に絡まり、ぬめぬめと彼女の手足を這いまわる。

さて毒液が、そのはじめ密かに流るる毒をすべり込ませて、彼女の感情を動かし、彼女の骨に炎を注ぎ込めども、いまだ彼女の魂が胸の中全体に火焔をはらまざる間は、娘およびプリュギアの婚姻のことについて、多くの涙を注ぎつつ、物柔らかなる調子にて、世の常の母らしき態度もて言う。

『さらば、ラウィーニアは、花嫁として家なきトロイ人に渡さるるとや?おお父よ、君は娘をも、また御身みずからをも、憐れと思いたまわずや?またこの母をも憐れとは思いたまわずや。そを、初北風の吹くままに、不信の海賊は打ち捨てて、海に乗り出で、乙女をば運び去りぬべし。

かのプリュギアの牧人は、かくスパルタに忍び入り、レーダの娘ヘレナをトロイの都に運び去らざりしや?

君の神聖なる誓約はいかになりしぞや?君の同族に対する古き心遣いと、君の近親トゥルヌスに対していとしばしば与えたる、右の手とはいかに?

もしラテン人らのため、異国の血統の婿を求め、そは心に定められたることにして、かつ君の父ファウヌスの命令君を制御するならば、げに我は我らの支配権より自由にして離れたるすべての土地を、異国と見なし、しかして神々の御心もこれに等しと信ずるなり。実にトゥルヌスは、その家のいと早き源に遡れば、祖先はイーナコスおよびアクリシオスにして、その祖国はギリシアの中央なるミケーネなり』(7-三四一〜三七二)

かかる言葉もて彼女が、空しくラティーヌスに働きかけんと試みつれど、彼が聴き入れんともせざるを見出でし時、しかして蛇の心狂わしむる害悪の、胸深くすべり入りて、全心に行き渡りぬる時、その時にぞ不幸なる女王は、大いなる幻影に動かされ、あらゆる作法を打ち忘れ、気も狂いて大いなる町を縦横にあばれ回る。

そのあり様は、子供らが空(から)なる前房の四方八方に、大いなる輪を作らせて、その勝負に熱中すなる独楽の、しなうる鞭の下に飛びしきるごとく、独楽は革紐に追われ、その曲り曲れる道を走り、そのことの心得なき少年の群れは、回転する黄楊材(ツゲ)を讃嘆して、上より驚き眺め、打撃はそれにますます新しき速力を与うるごとく――実にこれにも劣らぬ速さもて、女王は町の中心を、好戦の民の中を通してぞ運ばるる。

それのみかは、彼女はバッカス神の乗り移りたる真似して、なお大いなる罪を犯し、なお大いなる狂乱に入らんとて、森へと飛び行き、娘をば木深き山に隠す。そはトロイ人たちより結婚を奪いて、婚姻を延ばさんためなり。

『Evoe、Васche!』と叫びつつ、『汝のみこの少女を受くるに相応わしき者なれ!』と大声によばわりつつ、『じつに汝のためにわが娘は揺らめく酒神杖を携えん。汝をわが娘は舞踏して囲まん。汝のために彼女は聖なる髪を養わん』と言う。

王妃の行為の風聞は飛ぶがごとくに広がる。しかして狂暴もて胸を燃やせる女房たちは、すべて新しき住所を求めんとする同じ熱望にぞただちに駆らるる。彼らは銘々の家を捨て、首をも髪の毛をも風にさらす。また他の者は打ち震う叫び声もて大空を充たし、毛皮の衣服を着、葡萄の葉もて飾りたる杖を携う。

女王みずからは女房たちの真ん中にありて、猛々しく燃ゆる松明を振り上げ、血走り輝く眼をくるくると回しながら、わが娘とトゥルヌスの婚姻の歌をうたい、たちまち涸れ声して叫ぶ。

『見よ、汝らラティウムの母人(ははびと)たちよ、わが言葉を聴け。汝らいずこにありとても、もし汝らの敬虔なる魂の中に、なお不幸なるアマータに対するそこばくの親切心の存するならば、もし母親の権利に対する心遣いの汝らの魂を悩ますものあるならば、汝らの髪の結びひもを解き放ち、我と共に酒神祭を始めよ』

かかる女王をば、アッレークトーは、森の中や野獣の往来する荒地の中を、バッカスの狂暴の刺激もてこなたかなたに引き回す。(7-三七三〜四〇五)

アッレークトーは、女王に狂乱の最初の発作を十分に激しく起こさせ、ラティーヌスの計画も、全家も、くつがえし得たりと見たるとき、この無残なる女神は、ただちに彼女の薄黒き翼もて、ここより大胆なるルトゥリー人(トゥルヌス)の城壁さして飛び昇る。

この都はダナエーが激しき南風により、イタリアへ吹きつけられたる時、アクリシオスの植民のため建てたりという。ここは昔我らの祖先により、アルデアと名付けられつ。アルデアは今もなおその昔の大いなる名を保てど、その昔日の光栄は過ぎ去りぬ。

ここに、暗き真夜中、彼の高き宮殿の中にて、トゥルヌスは深き眠りを楽しみいたり。アッレークトーは恐ろしき面相と、毒悪なる手足を取り捨て、姿を変えて老女の容貌となり、醜き額には皺をたたみ、灰色の髪は頭帯もて結び、オリーブの枝を環となしてその上に着け、身をユーノーとその社殿とに仕うる司祭の老女カリューベに変化して、若人の眼の前に立ち、かかる言葉もて話しかくる。

『トゥルヌスよ、汝はいと多くの苦労をむなしきものにして、汝の笏がトロイの移住者に渡さるるを堪え得るや?王は汝に婚姻を拒み、血によりて得たる嫁資を拒み、異国の人を彼の国土の継承者としてぞ求むる。

いざ往け、嘲罵せられたる者よ、汝の身を忘恩の危険にさらせ。往け、エトルーリアの軍勢を打ち破れ、平和もてラテン人らを守れ。これぞ、穏かなる夜を寝ぬる汝に、サートゥルヌスの全能の娘(ユーノー)みずから、明らかに告げ知らせよと我に命ぜられしことなり。

されば、奮いたち、喜んで武器をとり、若人らに命じて武装して門より出でしめ、美しき河に泊りてあるトロイの隊長らと、その彩色したる船とを焼き捨てよ。

神々の大いなる力ぞかく命ずる。ラティーヌス王みずからも、汝の婚姻を認め、汝が言葉に従うことをうべなわぬならば、その罪科を思い知りぬべく、しかしてついにはトゥルヌスが、武器にかけては、いかなる人なるかを味わしめよ』(7-四〇六——四三四)

 ここにこの若人は、女司祭を嘲りつつ、彼女の言葉にかくぞ答えける。『ティベリスの流れに走り入りたる艦隊の噂は、汝の推量に違わず、我にも知られたり。かかる空しき恐怖もて、我をな脅かしそ。なお高貴なるユーノーは我をば忘れたまわじ。

されど老耄のために打ち負かされ真実を感知する力を失える高齢こそ、刀自よ、汝を空しき心配もてわずらわし、王者たちの武具の騒擾(そうじょう)の中に、虚しき恐怖もて汝予言者を愚弄するになん。

汝のつとめは神々の像と御堂とを守るにあり。戦いと平和とは、戦いをなすべき務めある男子らに任せよ』(7-四三五〜四四四)

かかる言葉を聞きしとき、アッレークトーは憤怒に燃え立ちぬ。若人は語りながらも、不意の戦慄に手足を捕えられ、眼は恐怖のために動かず。この悪鬼はいと多くの蛇もて舌を鳴らさしめつ、現わしたるその姿の巨大さよ。そのとき彼女は炎のごとき眼をくるくると回し、ためらいつつも言うべきなお多くの言葉を探し求むる彼をば、後ろの方に押しやり、その頭髪より二匹の蛇を差し上げ、鞭を鳴らし、狂妄の口よりかくぞ言い添えける。

『見よ!我こそ老耄のために打ち負かされ、真実を感知する力を失える高齢の、我を諸王の武具の間に虚しき恐怖もてもてあそぶ女なれ。これをよく見よ。我は恐ろしき姉妹の住み家より来たりたり。わが手に我は戦さと死とを持つものぞ』

彼女はかく語りて、松明を若人に投げかけ、暗澹たる光を上げていぶる燃え木を、彼の胸の下にぞ指しつくる。

大いなる恐怖に彼の眠りは破られ、全身に吹き出でたる汗は、骨をも手足をも浸すばかりなり。

気も狂乱して彼は武器を叫び求め、寝床に、はた広間の内にみずからの武器を探す。剣に対する愛と、邪悪の戦争狂いと、しかのみならず激怒も彼の魂の中に荒れ狂うめり。

そは、例えば小枝を焚く炎の、ぱちぱちと大いなる音して、煮えたぎる大鍋の腹の下に置かれ、その熱のため水の泡立つとき、内には流水湯気を立てて狂い、泡沫高く揺らぎ、水はもはやその容器の中に留まらず、儂き蒸発の気は空中に飛騰(ひとう)するがごとし。

かくて彼は若人らの隊長たちに、平和を破り、ラティーヌス王のところへ進軍せよと下知し、武器を準備し、イタリアを守り、その国境より敵を退けよと命じ、わが身みずからトロイ人とラテン人との連合に対し、十分なる敵手たるべしという。

彼がこれらの言葉を言いおわり、おのれの誓いを聴けと神に呼びかけたるとき、ルトゥリー人らは、互に相競いて武器にぞ進む。ある者は公子の若々しき姿のいみじき美しさに、ある者はその貴き祖先に、またある者は赫々たる功績を立てたる彼の腕に、動かされたるなり。(7-四四五〜四七四)

トゥルヌスのかく勇敢なる魂もて、ルトゥリー人らの心を充たしつつありし間に、アッレークトーは地獄の翼を搏ちて(羽ばたいて)、トロイ人らの方に急ぎ行く。彼女は新たなる奸計を謀りめぐらしつつ、美しきユールスが、罠を持ち、騎馬の人を伴い、磯辺に野獣を狩りてある場所を探り出す。

ここにコーキュトスの乙女(アッレークトー)は、猟犬に俄然として狂暴性(あらきこころ)を起こさせ、彼らが火のごとくなりて雄鹿を追うために、彼らの鼻をかぎ馴れたる鹿の臭いもて充たす。これぞ戦いの第一の原因にして、彼女はその土地の者どもの魂を戦意もて燃ゆるようにしたるなり。

そこに驚くばかり姿美しく、巨きなる叉角(またづの)持てる一匹の雄鹿あり。こはその母鹿の乳房より引き離され、テュッルスの子なる少年たちと、彼らの父なるテュッルスとによりて飼わる。テュッルスは王家の家畜の番人にして、遠く広き平原の管理を任せられたり。

この鹿は命令に従うことを教えられ、彼らの姉妹シルウィアつねに心にかけ、柔らかなる花綱を角にまとい飾り、毛皮をくしけずり、清き泉に浴みさすることを怠らず。

そは彼女の手に馴れ、また主人の食卓につくことにも慣らされ、たびたび森の中をさまよえども、いかに夜は遅くなりても、みずから進んでなつかしき門にまた帰り来たる。

この鹿、家より遠く離れさまよい、たまたま河の流れをうかび下り、または草深き岸辺に身の熱さを冷やしおりけんところを、猟なすユールスの激しき狩犬どもぞ驚かせし。

アスカニウス自身もまた、高き誉れを愛する心に燃やされて、押し曲げたる弓より矢を射ち放つ。神もまた彼の手の射ち外すことを許したまわで、矢は声高きうなり声を立てて飛び、雄鹿の下腹と脇腹を射ち貫きぬ。

されど獣は傷つけるまま慣れたろ我が家に難を逃れ、うめきつつその棲む小舎に隠れ、全身に血を浴びながら憐れみを乞うもののように、悲鳴の声もてくまなく家の内を充たす。

姉妹シルウィアは、何人よりもまず手もて腕を打ちたたき、助けを求め、強健なる田舎人をぞ呼び集むる。

彼らは、すごき悪鬼(アッレークトー)の淋しき森の中にいまだ隠れ居たりしことなれば、その力にひかれて思いがけなく早く集り来たる。ある者は火にて固めたる棒を持ち、ある者は重く節くれ立ちたる棍棒を取りよろう。彼らには、探るがままに手に当るものみな、怒りのためにその場の武器とはなりつるなり。

その時たまたまテュッルスは、楔(くさび)を打ち込み檞の木を四つに割りてありしが、手斧をつかみて起ち、荒々しく息づきつつ、隊伍をぞ呼び集むる。

されど残忍なる女鬼は、見張りの場所より悪事を行うにいとよき瞬間を捕えぬれば、牧人の家の高き屋根に飛び行き、その屋根の頂きより牧人へ合図の笛を吹き鳴らし、曲りたる角笛もて地獄の声をしらぶる程に、これがため森はただちにことごとく揺れ震え、奥深き林は山彦を返す。

トリウィアの聖なる湖は遠くよりその物音を聞き、硫黄の水もて白き河なせるナールも、ウェリーヌスの源泉もこれを聞き、母らは恐れおののきて幼な子を胸にしかと押しつくる。

その時、いち早く召(めし)に応じて、恐ろしきラッパの合図を与えたる場所に、速くも手に武器をつかみ持ち、健やかなる耕作者ら諸方より馳せ集る。それに劣らず、トロイの若人らもまたアスカニウスを助けんと、陣営の門を押し開いて走り出づる。

彼らは堂々たる戦隊を組みて相闘う。今や彼らは田舎人のすなる闘いのごとく、堅き棍棒や、火もて先端を固く焼きたる杖もて事に当らで、両刃の剣もて戦い、惨憺たる戦さの秋の稔りは、引き抜きたろ剣の穂を広く逆立て、黄銅の武具は日に打たれて輝き、光を雲の上まで投げあぐる。

そのあり様をたとえて言わば、波浪の海上に白き泡を現わし始むるとき、少しづつ海は膨れ、波は次第々々に高く打ち上げ、ついにはいと低き底より大空までも奔騰するがごとし。

ここに戦さの第一列にて、ひょうと風を切る矢のため、テュッルスの長男、若人アルモーぞ倒さるる。手傷を与えたる武器は、彼の咽喉にしかと立ちて、声のしめりある道と、命のやさしき息とを、血もて塞ぎたり。

また多くの者そのあたりに倒る。老いたるガラエソスもまた。こは和議を結ばせんとて、陣列の間に身を投げ出しぬるが倒されたるにて、かつてはイタリアの野にて最も正しく、最も富める者なりき。

鳴きわたる羊の群れ五つ、牛の群れ五つ、日々牧場より彼のもとに帰り行き、一百の鋤もて彼の農場をぞ耕しける。(7-四七五〜五三九)

さて、平野にてこの戦さの闘われ、勝敗いまだ分かちがたかりし頃、魔女は血もて戦争を開始し、最初の闘いを死もて始め、その約束をばよく果たしぬれば、イタリアを去り、天空を通じて道を転じ、勝ち誇りたるもののようにおごれる声もてユーノーに話しかくる。

『見よ、君のために不和は有害なる戦争もて完(まった)くなりぬ。すでにイタリア人の血をトロイ人の上にまき乱らしたることなれば、試みにいま彼らに友情に合し、平和の契約を結べよと命じてみたまえ。それはとても出来ぬことなり。なおこののちも我は、君のおぼし召しだにしかと知れてあらば、すでになしたることに付け加えて、かかる事をぞなすべき。

流言によりて相隣れる町々を戦争に引き入れ、彼らが諸方より援助のため群がり来たるように、彼らの魂を狂暴なるマルスの愛もて燃やさん。我は彼らの野の至るところに武器を振りまくべし』

そのときユーノーは答えて言う。『威嚇と譎詐とはすでにありあまれり。戦いの種は播かれ、彼らは武器もて接戦す。はじめ偶然が彼らの手に与えたる武器を、いま、鮮(あざ)らけき血ぞ汚すなる。かかる恐ろしき結婚と、かかる婚礼の歌とを、やがてウェヌスの気高き子とラティーヌヌ王自身とにて祝えよかし。

さはれ汝がいっそう無法なるわがままもて天空を横行せんことは、偉なる父、オリンポスの支配者、欲したまわざるべし。汝はこの場所を立ち去れ。労苦のいかなる運命にてもなお残りてあるならば、我みずからそを指導すべし』かくサートゥルヌスの娘は語りぬ。

彼女はその蛇もて騒がしき音する翼を上げ、空の上界を見捨てつつ、コーキュトスの住所さして飛ぶ。

ここにイタリアの中心、高き山々の麓に、よく世に知られ、多くの土地において風聞の話題となれる一つの場所あり。アンプサンクトゥスの谷という。森なす山腹は、繁れる木の葉もて暗く、両側よりこれをふさぎ、中央には岩石を越えて咆哮する急湍(たん)、渦紋をなして反響す。

ここに恐ろしき洞穴、すなわち残忍なるディースの出入口現われ、アケローンの流れ出づるままに、大いなる罅隙(かげき)は毒気ある腮(あぎと)を開く。忌まわしき神エリーニュス(アッレークトー)は、その中に姿を隠し、かく悪鬼のみずから隠れぬれば地と天とを安らけくぞなしける。(7-五四〇〜五七一)

その間にも、サートゥルヌスの子なる女王は、この戦いに最後の手を加うることに、少しも熱意を緩めず。牧人らは数をつくして、戦場より都へと駆けつけ、殺されたる者ども、アルモー少年、ガラエソスの血に汚れたる顔などをも運び帰り、神々に哀願し、ラティーヌスに愁訴す。

トゥルヌスそこにありて、トロイ人の殺傷に対する彼らの非難と激情との真っただ中にて、彼らの恐怖をば煽り立てつつ、『トロイ人らこの王国に呼び入れられ、プリュギアの種はラティウムの血と交わり、我らはこの家の門より追い払われんとす』と訴う。

その時、バッカス神によりて狂気のごとくなり、道なき森を踊りながら飛び跳ね行きし母たちの子らぞ――げにアマータの名は力ありければ―――諸方より寄り集り、囂々(ごうごう)と戦さをぞ求むる。

即座に、予兆にも反き、神々の啓示にも反き、天意をも転倒し、異口同音に凄まじき戦さを強請するなり。

彼ら相競いてラティーヌス王の宮殿の周囲に集まる。されど彼は海中の動かぬ岩のごとくに反対す。

それはげに、大暴風の唸りを上げて襲い来たりしとき、そのあたりには崖を水泡もて蔽われたる巌も、空しく四方に反響し、海草は横腹に打ち当たりて洗い戻さるれど、周囲にたけり狂う多くの波の中に、泰然と身を保ちて、動かぬ海中の岩のごとし。

さはれ、彼らの盲目の意図に打ち勝つべきいかなる力も彼に与えられず。かつこれは情け知らぬユーノーの意志に従うて行わるるなれば、人民の父はしばしば神々と声なき天との照覧を呼び求め、

『あわれ、我らは運命によりて難破し、嵐の前に押し流さるるかな!哀れなる人々よ、汝らみずから犠牲の血潮もて、この罪の贖いをなすべし。

トゥルヌスよ、汝を待つは禍いと恐ろしき罰となるべし。しかして次は誓約もて天を崇むべけれど、そはあまりに遅かるべし。

そのゆえは我すでに安息に近く、全く永久の安息の港の入口にありて、ただ幸福なる死のみを受け得ざればなり』という。彼はそれ以上に何事も語らず、身を宮中に閉じこめ、政権も捨て去りぬ。(7-五七二〜六〇〇)

 イタリアのラティウムにては、マルスを動かして初めて戦さに進むとき、

彼らが力もて悲しむべき戦いをせんとする相手が、ゲタエ人(トラキア)にても、ヒュルカニア人にても、アラビア人にても、はたインド人に向かい進軍するにても、朝の国に押し行くにても、はたまたパルティア人よりぶん取られたる旗を取り返すにても、

何にてもあれ一つの習慣ありて、この習慣はその後引き続き神聖なるものとして、アルバの町々これを守り、今日も世界最強なるローマこれを守る。

そこに戦いの双生(ふたご)の軍門あり。人々はかかる名にて呼ぶなり。そは宗教上の畏敬と、猛きマルスに対する恐れともて聖視せらる。百の青銅の閂(かんぬき)と鉄の永遠の力とこれを閉ざし、守衛ヤーヌスもまた入口を去らず。

これらの門は、元老院の議員らが十分戦意を決したるとき、クィリーヌスの着けしごとき礼服をつけ、ガビイー風の帯を巻き、威風堂々たる執政官、手づからきしみ鳴る門を開き、親しく戦さを招けば、その他の若人の群れはこれに従い、黄銅の角笛は鋭き涸れ声を吹き出す。

この習慣に従いて、その日ラティーヌスは、アエネーアースの一行に対し宣戦を布告し、恐ろしき門を押し開らけとぞ強請せられける。

されどこの人民の父は、これに触るることすらも欲せず。忌まわしき務めより転じ避けて、暗闇の中に身を隠しね。

ここにおいて神々の女王、サートゥルヌスの娘は空よりくだり、みずからの手もてたゆたう門を押し、とぼそを回して、鉄の留め金したる戦さの扉をさっと押し開く。

前には激せず動かざりしイタリアも、今はいっせいに燃え立ちて、ある者は徒歩(かちだち)にて平原に進軍せんとし、他の者は丈高き駒に乗り、雲のごとき砂塵に包まれて荒れ狂い、全て武器をぞ呼び求むる。

またある者は脂油(あぶら)もて滑らかなる盾を磨き、光り輝く投げ槍を摩擦し、戦さ斧を砥石にかけて研ぎ、喜んで旗を運び、吹き鳴らす角笛の音を聞く。

五つを数うる大いなる町は、鉄床(かなとこ)を据え、新しき武器を鍛う。有力なる町アーティーナ、堂々たるティーブル(現チボリ)、アルデア、クルーストゥメリー、塔の冠したるアンティナエぞこれ。

彼らは頭を安全に保護するためうつろの兜を作り、柳の枝もて心疣(へそ)ある盾を編む。またある者は黄銅の胸甲や、銀の延べ金を磨いたる脛当てを打ち出すもあり。このためには鋤頭や刈り込み鎌の尊重も、鋤に対するあらゆる愛着もうち忘れられ、炉の中にて祖先の剣を鍛え直す。

今やラッパの合図の音は鳴り響き、戦さのために相印(しるし)となる四角の小板(合言葉)広く行き渡る。ある者は忙がわしく家より兜を取り出だし、他の者は鼻息荒き軍馬を軛に着け、盾を執り、三重により合わせたる金線にて造りたる鎖子鎧(くさりよろい)を着、心たのみの剣を佩(は)きなどす。(7-六〇一〜六四〇)

女神たちよ、いまヘリコーン山を開き、君の歌を目ざまして、いかなる王公の戦さに起ちたるか、いかなる軍列の何人に従いて平野に群がりたるか、いかなる勇士たちによりて、豊かなる国土イタリアが、早きその当時にも栄えたるか、いかなる武器もてこの国の輝きてありしかを語れ。そは、女神どもよ、君たちは物覚えよく、覚えたる事をば再び語り得べければなり。げに我らには風聞の微かなるたよりだにほとんどただよい来ず。(7-六四一〜六四六)

まず戦場に入り込みしは、エトルーリアの磯辺より来たりし、神々の軽蔑者なる猛き武夫(もののふ)メーゼンティウス(エトルーリアの元王)にて、彼は軍隊を武装させつ。彼のそばにはその子ラウススぞ進める。こはラウレントゥムのトゥルヌスその人を除きては並びなき美男なり。馬を調教し、猟に野獣を征服するラウススは、徒(いたずら)にぞアギュッラの町より一千の部下を率い来たりたる。彼は父の主権をいやまさりて受け楽しみぬべき値ある者にて、メーゼンティウスは彼の父たるべきにてはなかりしなり。(7-六四七〜六五四)

彼らの次には美しきヘラクレスより出でたる美しきアウェンティーヌス、芝原を越えて勝利の棕櫚の葉にて著しき戦車と、勝ち誇りたる馬とを現わし来たる。盾には父より受け継ぎたる徽章なる百の蛇と、蛇にて取り巻かれたる水蛇とを現わす。

彼をば、アウェンティーヌスの丘の森にて、女司祭レーア密かに生みて、光明の世にぞ出だしたる。

この女は、ティーリンスの勇士ヘラクレスがゲーリュオン(在スペイン)を斬り殺したる後、ラウレントゥムの野に到り着き、エトルーリアの流れにかのスペイン牛を浴びさせたるあとにて、この神人(ヘラクレス)と媾いたる者なり。

彼の部下は手に手に、戦さのために長き投げ槍と物凄き矛とを持ち、きっさき細りの剣とサビーニー式の小さき投げ槍もて戦う。

大将自身は徒歩にて、白き歯をつけたるまま、恐ろしき剛毛に櫛目も入れざる、獅子の大いなる皮を頭の上にふり被りて揺り動かす。王(アウェンティーヌス)はかかる恐ろしきあり様にて、ヘラクレス風の衣裳を肩にまとい、つねにも王宮に入るなりけり。(7-六五五〜六六九)

その次には双生児の兄弟、ティーブルの城壁と彼らの兄弟ティーブルトゥスの名にちなみて名づけられたる種族をあとに従えて出で発つ。彼らはカーティッルスと鋭きコラースと呼び、アルゴスの若人にて、第一戦列の前へ、いと繁き武器の中を進み来たる。

そのあり様は、例えていわば二人の雲より生れたるケンタウロスの、疾き歩みを取りて、ホモレーと雪のオトリュス(テッサリアの山)とを去り、高き山の頂きより下るに、彼らの突き進むとき、大いなる森もしりぞき、藪も高き音を立ててなびくがごとし。(7-六七〇〜六七七)

なおまたプラエネステ(ラティウムの町)の町の建設者も欠くることなかりき。この王はウォルカーヌスの子として、野の家畜の間に生れ、炉(かまど)の上に見出されたりと、いつの時代にも信ぜらる。彼の名はカエクルスなり。彼には国中のいと広き範囲より、地方の軍団随従す。

そは高きプラエネステに住む人々、ガビイーのユーノーの野、寒きアニオーの流れ、山の小河もて濡れたるヘルニキーの岩の上に生くる者、豊かなるアナーグニアの父アマセーヌス(河神)よ、汝の養う者など。

彼らはみな、鎧や盾や轟き渡る戦車を持つ者にはあらで、大かたは青き鉛の玉を投げ、一部分は投げ槍二筋を手に持ち、頭には兜として狼の皮もて作りたる黄褐色の帽子を被る。彼らが進軍するときは、左足は裸にて、生皮の長靴右足を保護するなり。(7-六七八〜六九〇)

 されど、馬の調教者にて、ネプトゥーヌスの子孫なる、かつ火または刃物にて何人も彼を倒すことあたわざるメッサープス(エトルーリア王)は、長き間安逸に馴れたる国民、戦いに慣れぬ軍隊に、にわかに武器を取れよと命じ、みずからも剣を扱う。

これらはフェスケンニア(エトルーリア)の隊をなし、アエクィー・ファリスキーの軍隊となる。これらはソーラクテの砦とフラーウィーニアの野、キミヌスの山と湖、カペーナの森を保つものなり。

彼らは軍歌に歩調を合わせて進軍し、彼らの王のことを歌う。これを例うれば、しばしば雪白の白鳥が湿雲の中に、餌ばみ場よりの帰るさ、長き首より調子よき音を出すとき、河(カユストロス)とアジアの沼とは彼らの叫び声を反響するに似たり。

なおまた遠方にて彼らの進軍の音を聞ける人は何人も、この武装せる人々の戦列がかく広大なる群衆より混なせられたりとは考えざるべし。ただ空中高く一群の鳥の騒がしくも、沖より磯辺の方へおし寄すると思わんのみ。(7-六九一〜七〇五)

見よ、クラウススぞ、サビーニーの古き血統より出で、堂々たる軍隊を指揮しつつ、彼自身一人にて堂々たる一軍隊に比すべし。この人よりぞいまラティウム中に、クラウディアの種族と家と広まりぬるが、そはサビーニーがローマの範囲に入りて後のことなり。

これと共に、アミテルヌムの大いなる歩兵隊、および古きクイリーテース、エーレートゥム、またオリーブ実る町ムトゥスカの全軍、ノーメントゥムの町およびウェリーヌスの傍らなるローセアの地方に住む人々、テトリクスの恐ろしき岩やセウェールスの山、あるいはカスペリア、フォルリー、ヒメッラの流れに生活する者、ティベリス河とファバリス河の水を飲む者ら、冷たきヌルシアより送られたる人々、ホルタヌムの国の兵員、およびラテン人たち。不幸なる名をもつ流れアッリアがその水路もて分つ人々。

そは猛きオリオンが冬の波路に沈むとき、リビアの静かなる水上に洶湧(きょうゆう)するいと繁き波濤のごとく、また初夏のころ、ヘルムス(リディア)の平原またはリュキアの黄なる畑に茂り立つ麦の穂の、色変ゆる時のごとし。盾は音を立て、大地は踏み轟かす足の下にふるう。(7-七〇六〜七二二)

次にアガメムノーンの子、トロイの名には仇敵なるハラエスス、馬を戦車につけ、トゥルヌスを助けんと、千の猛き部下を率いて、戦場に急ぐ。

これらの者は鶴嘴(つるはし)の鍬もて、葡萄豊かなるマッシカの畑を開墾する者、アウルンキーの長老たちが、その高き丘より送りたる人々、およびその近くのシディキーニーの平地より来たりたる人々、カレースをあとにしたる人々、浅瀬多きウォルトゥルヌス川のそばに住む者たちにて、

彼らと共にサティーキュラの荒き住民もオスキーの一隊も来たる。彼らの武器はよく研ぎたる投げ槍にして、鞣皮(なめしがわ)のしないやすき紐を結ぶは、彼らの習慣なり。彼らの左手は小さき円盾もて守り、接戦にては偃月刀(なぎなた)をぞ用うる。(7-七二三〜七三二)

なおわが詩の中に汝のことを言わで看過すことぞあらざるべし、オエパルスよ。彼こそは、伝説によれば、今は年老いたるテローンが、テーレボアエ族の領土カプレアエ島(現カプリ)を治めつる日に、妖麗セーベーティスに生ませたる男の子なりという。

されど、子は父の領土に満足せで、あたかもその時は遠く広きサッラステースの人民、サルヌス川に潤おさるる平原、ルフラエおよびバトゥルム、またケレムナの野に住む人々、林檎実るアベッラの城壁より見下ろさるる人々をば支配したり。

彼らは、テウトニ風に投げ槍を投ぐることに習熟す。彼らの頭の被り物はコルクの樹より取りたる皮にして、彼らの黄銅製の新月形の小盾は輝き、黄銅製の剣もまた輝けり。(7-七三三〜七四三)

あわれ、ウーフェンスよ、汝をもまた山の中なるネルサエ(都市)ぞ戦場に送りたる。声誉と武勲ともて名高き武夫にして、そのアエクイ族はことに荒々しく、森における不断の狩猟と固き土地とに慣れたり。彼らは武装して地を耕やし、つねに喜んで新しき分捕り品を持ち去り、掠奪によりて生活す。(7-七四四〜七四九)

これらのみならで、マッルウィウムの種族(マルシ族)よりは司祭の来たりけるが、兜には実れるオリーブの飾り葉をつけたり。この者はアルキップス王によりて送られたるにて、いと勇敢なるウンブローという。彼は歌と手との魔法もて、つねに小蛇や毒を吐く水蛇などに眠りを注ぎ、彼らの怒りを和らげ、熟練もて彼らの咬み傷を癒やすに慣れたり。

されど、トロイ人の槍先の傷は、彼にも癒やすべき力なく、眠りに誘う歌声も、マルシの山にて見出だしたる薬草も、彼を助くることを得ざりき。女神アンギティアの森、汝のために泣き、フーキヌス湖の澄み渡れる湖水も、汝のために泣きぬ。(7-七五〇〜七六〇)

ここにまた、ヒッポリュトス(テーセウスの子)のいと美しき子ウィルビウスも戦場に進む。こは彼の母アリーキア(妖精)が、美しく飾りて出しやりたるにて、エーゲリアの森の中、湿潤なる湖畔(アリーキア湖)、ディアーナ女神の豊かに安らけく鎮まります祭壇のあるところにて育てられつるなり。

げに世の中の人々の語り草によれば、かのヒッポリュトスは、おどろく馬に片々に引き裂かれ、継母の譎詐(いつわり)によりて死し、しかもおのれの血をもってわが父の強要すなる償いを満たしたる後、薬草とディアーナの愛とによりて生に呼び戻され、再び穹窿の星を見、上界の空気を呼吸するように立ち返りぬ。

されど全能の父は人間が下なる幽冥界より、生の光へと昇り来たることを憤りしかば、手づから電光もて、かかる効験ある薬と、かかる巧妙なる技術の発明者なるポイボスの子(アスクレピオス)を、ステュクスの水に投げ落しぬ。

されど親切なる女神トリウィアは、ヒッポリュトスを世離れたる里に隠し、彼を妖麗エーゲリアに任せて、森の隠れ家に置く。そこにてはただひとり他人に知られでイタリアの森の中に時を過ごし、名も変えてウィルビウスと呼ばるようにせんとてなり。

かくて今もなお蹄ある馬は、トリウィアの殿堂と聖なる森とより遠ざけらるが、そのゆえは彼ら磯辺にて、海の怪物に驚ろかされて、馬車と若人とを転倒させたればなり。さればとて彼(ヒッポリュトス)の息子は少しもひるまず、火のごとき駒を平原に駆り、戦車にて戦場に突進す。(7-七六一〜七八二)

トゥルヌスみずからは、ひときわ姿すぐれ、武器をとりて最前線の者たちにまじりて忙しく立ち働くに、頭だけ他の者よりも丈高し。

その三つのてっぺん飾りある高き兜には、首よりエトナ山の炎を吐くキマエラを載す。彼女は、血のそそがれて戦さの激しくなればなるほど、ますます恐ろしく毒炎もて荒れ狂う。

されど彼の磨きたる盾は、角を上げたる黄金細工のイーオーをぞ飾りたる。彼女はすでに剛毛にて蔽われ、すでに牝牛となり――こは有名なる題材なり――しかしてそこには、乙女の監視者アルゴスと、浮き彫りしたる壺より河を注ぎ出す父イーナコスとあり。

彼のあとよりは、雲なす歩兵従い、盾もつ軍隊は全平原に群がるるアルゴスの青年も、アウルンキー人の隊伍も、ルトゥリー人と古きシカーニー人も、サークラーニー人の戦隊、丸き塗り盾もつラビークム人も。

ティベリスよ、汝の森を、はたヌミークス川の聖なる岸辺を耕し、また鋤先もてルトゥリーの丘とキルケーの山梁とを開く人々も、アンクスルス・ユピテルと緑の森を喜ぶ女神フェーローニアとが管理する野を耕す人々も、サトゥラの黒き湖の横たわるところ、冷やかなるウーフェンス川が低き谷を通して迂曲しつつ、ついに海に入る地方の人々も。(7-七八三〜八〇二)

これらの人々の後に、ウォルスキー族の中よりカミッラぞ、騎兵の一隊と黄銅にて輝く軍団とを率いて来たる。女戦士、彼女はその女らしき手を、ミネルヴァの糸巻き竿や手籠には馴らさで、かえってこの処女は激しき戦さに耐え、また足の速さもて風を追い越すことをぞ学びし。

彼女、いまだ鎌にかけられぬ穀物のいと高き葉先を飛び越すとも、見よ、やさしき穂はその競いによりて少しも傷つけられず。また海の中にて、うねりふくらむ大波の上に身をもたせて、おのれの道を進み行くに、いと敏捷(すばや)き足は水に濡るることなからん。

家や野より走り来たりたる、あらゆる若人や群がる婦人たちは、彼女の通り行くままに、いかに気高き優美さの、彼女の滑らかなる両肩を紫もて薄くつつむか、いかに緊め金の黄金もて彼女の髪を束ぬるか、いかに彼女みずからリュキアの籠と手槍の尖端を取り着けたる牧者風の桃金孃(てんにんか)の投げ矢とを負いたるかを、魂の驚きのため呆然と口を開きて、ほめたたえ、わき眼もふらず眺めてあり。(7-八〇三~八一七)




第八巻梗概(下55p)

イタリア人の勢揃いとギリシアの勇士ディオメデスへの使節。夢にあらわれたるティベリス河神はアエネーアースを勇気付け、彼をしてエウアンドロスに救援を求めしむ。

アエネーアース、白き牝豚とその一腹の子とを女神ユーノーに犠牲とし、エウアンドロスの町パッランテーウムに着す。すなわちローマのある所なり。アエネーアースとエウアンドロスの会合ならびに饗宴。

怪人カークスの物語と大勇士ヘラクレスの賛美と語られかつ歌わる。

エウアンドロス、アエネーアースにその都市を案内す。

女神ウェヌスは火神ウルカヌスに乞い、その子のため聖なる甲冑を得。

早朝、エウアンドロス進んでアエネーアースを援助することを約束す。彼らの会話は天よりの兆候によりて中断せらる。

アスカニウスを呼びよせ、エトルーリア人に助力を乞うため、それぞれ急使を発す。アエネーアース、その部下およびエウアンドロスの子息パッラース、彼らの成功の祈念をもってエウアンドロスに送り出さる。

ウェヌス、ウルカヌスのつくりたる甲冑を、アエネーアースにもたらし来たる。詩人ウェルギリウス、盾を説明す。そのうえにはローマ上代諸王および将領の苦難と勝利のみならず、またアクティウムにおける東洋と西洋間の最後の闘争およびアウグストゥスの全世界大の帝国も描かれてあり。


第八巻

ラウレントゥムの城砦より、トゥルヌスぞ戦さの合図を高く上げ、ラッパは涸れたる調子もて鳴り響くやいなや、また彼、火のごとくなる駒を進め、武器鏘然と相打つやいなや、たちまち人々の心はかき起されつ、それと同時に全ラティウムは、急ぎに急いで騒がしく同盟し、若人らは狂えるごとく激昂す。

主だちたる隊将メッサープス、ウーフェンスおよび神を嘲る者メーゼンティウスは、諸方より彼らの援軍を寄せ集め、広く田畑よりその農耕の民を奪う。

なおまたウェヌルス(トゥルヌスの部下)は、使節として、偉大なるディオメーデース(イタリアに渡っている)の町(ブルンディシウム等)に送られ、援助を乞わしめられ、かついかにかのトロイ人たちがラティウムに定住せんと努力しつつあるか、いかにアエネーアースが彼の艦隊を率いて到着し、かの敗れたる家神を手引せんと試みつつあるか、しかしていかに運命によって王たるべく命ぜらるると主張しつつあるか、また多くの国人もこのトロイの勇士と結び、彼の名は広くラティウム中に、いかに増大しつつあるかなど、一部始終を物語らしめらる。

アエネーアースが、この企図によって何をうかがえるか、はたもし運命彼に味方するならば、戦争のいかなる結果を収めんと欲するかは、トゥルヌス王よりも、ラティーヌス王よりも、ディオメーデースみずからぞ、より明らかに知るべきということをも。(8-一~一七)

 その時の全ラティウムの状態はかくこそありけれ。さてしもトロイの英雄は、これらの事をみな見たるとき、物思いの大潮に揺り動かされ、今やこなたへ、今やかなたへ、いと疾くも心を分かちやりて、さまざまの方へそを急がせつつあらゆる思慮をぞ回らしける。

これを例えば、黄銅の鉢の中にて、水に映れる太陽上りまたはきらめく月の姿より反射して打ち震う光が、四辺の場所にことごとくちらちらと飛び回り、たちまち高く飛びて、いと高き天井の飾板を打つがごとし。

そは夜なりき。世の中なべて、人ばかりかは鳥類をも獣類をも、疲れたる生物を深き眠りぞ占めぬる。

その時、父アエネーアースは、河の岸、冷たき大空の円屋根の下にて、恐ろしき戦いの思いに心悩まされつつ、身を横たえ、ついに眠の神の手足に忍び入るに任せける。

彼に、土地の守護神ティベリスみずから、翁の姿して、ポプラの木の葉の間に、楽しき流れより立上り来たると思わる。精巧なる麻布の暗く輝く衣この神を包み、その髪毛は陰多き葦もておおわる。この神かくこの勇士に語り始め、彼の煩いをかかる言葉もて取り去りぬ。(8-一八~三五)

『汝、神の族より出で、敵の手よりトロイの都を我らに取り返し、永遠にペルガマを保有する者よ、長くラウレントゥムの土地とラティウムの野辺とより待望せられたる者よ、

『汝のために確実なる家郷ここにあり。彼らより去る事なかれ、また戦いの脅威に恐るることなかれ。天のややに増し行きし狂暴と激怒とはことごとく鎮まりぬ。

『汝がこれを空しき眠りの造りごとと思わぬため、やがで汝の眼の前に、大いなる牝豚、河岸の上なる冬青(そよご)樹の下に横たわるべし、そは白き牝豚にて、三十匹の一腹の子の親なるが、地面に休らい、乳首には白き小豚ども群がりであらん。

『こここそ汝の町を建つべき場所にして、そこに汝の労苦よりの安らかなる休息あるべし。しかして爾後十年の歳月の三返りして巡り来たりぬる時、アスカニウス、輝かしき名の都アルバを建つべし。

『心して聞け、我は確かならぬ予言をなさず。いかなる方法もて、汝がただちになさねばならぬ仕事を、勝目に片付け得るかを簡単に汝に教えん。

『祖先パッラースより血統を引き、彼らの王なるエウアンドロスの伴侶にして、その旗下に随伴せし者どもなるアルカディア人らぞ、この海岸にある場所を選び、丘の上に、彼らの祖先パッラースの名に因み、パッランテーウムと呼ぶ一つの町を建てたり。

『彼らは絶えずラテン民族と戦争をなす。彼らを味方として汝の陣営に結合せよ、しかして彼らと同盟せよ。汝が河を遡るとき、櫂もて逆流を征服し得るよう、我みずから我が岸に沿い、我が流れを遡りて、真っ直ぐに汝を導かん。

『いで、起てよ、女神より生れたる者よ、しかして最初の星の沈み始むるとき、ユーノーに正しく汝の祈りを捧げ、哀願的の誓いをもって彼女の激怒と威圧とを鎮めよ。

『汝が敵を征服し得たるとき、汝は我に尊信を致すべきなり。我こそは、滔々たる流水もて両岸を洗い、豊かなる穀物の野をひらき行くを、汝が見たる彼、天寵を蒙ることいと多き河、濃青のティベリスなれ。ここに我が広大なろ邸地(やしきち)あり。我が源は高く聳ゆる町々よりこそ流れ来たるなれ』(8-三六~六五)

河はかく物語りて、それより彼は深き淵に飛び込み、水底に潜り入れば、夜と眠りとはアエネーアースを見捨てぬ。

彼は起きあがり、天つ日の立ち昇る光を眺めつつ、式に則り手の窪みに河水を汲み取り、大空に向かいかかる言葉をぞ言い出づる。

『ニンフたちよ、汝らより河々の血統の生れ出づるラウレントゥムのニンフたちよ、また汝、聖なる流れを持つ、父なるテイブリスよ、アエネーアースを受け容れて、ついに彼を危険より守れ。

『汝、我らの災厄を憐れんところの汝、淵はいずれの源泉(みなもと)に汝を住まわせ、はたいかなる土地より汝のいと美しく流れ来たるにもせよ、

『イタリアの河々の王者、汝、鹿角(かずの)なす河よ、我はつねに尊信と捧げ物ともて汝を祭るべし。

『ただ願わくは我と共にあれ、しかしてさらにまのあたり汝の意志を確立せよかし!』

彼はかく言いて、艦隊の中より一対の船を選び、船具を整え、同時にその友に武器をも供給す。(8-六六~八〇)

されど、見よ、思いも寄らず、見るも不思議なる予兆こそ現れたれ。真白の牝豚の、その白き一腹の子と同じ色なるが、森の樹の間に休らい、草深き崖の上に、あからさまにぞ見ゆる。

この牝豚をば、忠実なるアエネーアースは、汝へ、偉なるユーノーよ、汝への犠牲に斬り殺し、子らと共に祭壇の前に置く。

ティベリスは、長き夜もすがら、湧き立つ波を鎮め、後ろの方に流れつつ、音立てぬ流れ静かに立ち止りぬれば、水の面はおとなしく滑らかになりて、ただの落ちつきたる池などのごとくなり、櫂は力をこめでもよく動きぬ。

さればいと速く、楽しく、彼らは船路を進め行くめり。瀝青塗れる船の、浅き流れの上を滑れば、水も、かかる光景に馴れざる森も、遠くきらめく戦士の盾や、塗りたる船体の河に浮ぶをば驚き眺むる。

彼らは昼夜漕ぎ進み、流れのいと長き曲折を過ぎ、さまざまの樹陰(こかげ)に入り、緑の森の間に、静かなる水の面を切り行く。

燃ゆる日は、今し天門の中央に登りぬ。その時、彼らは遠くより城壁と、城砦と、まばらに散在する家々の屋根とを見る。これらをば今やローマの偉なる力は、大空までも高く上げぬるが、その当時にありては、エウアンドロスがわずかなる国土として領有するのみなりけり。彼らは速やかに船首を陸地に向け、町の方へと近付き行く。(8-八一~一〇一)

たまたまその日、アルカディア出身の王エウアンドロスは、アムピトリュオーンの偉なる子ヘラクレスおよびギリシアの神々を崇め、町の前なる森にて年々の犠牲を捧げつつありき。彼と共に彼の子パッラースも全ての身分よき若人たちも、はた彼の貧しげなる元老院の議官たちも、この勇士に薫香を捧げつつありて、なお温かなる血は祭壇の側にけぶりてあり。

彼らは、丈高き船が影濃き森の間を滑り寄り、船人の音もなく彼らの櫂を遭ぎ寄するを見て、思い設けぬ光景に打ち驚き、みな彼らの卓を打ち捨てて立ちあがる。

されど大胆なるパッラースは、その人々に命じ、犠牲を捧ぐることを止めさせず、みずから武器を押っ取り、異旅の人に会わんと走り出で、程遠き岡の上より大声にぞ呼びかくる。

『若人よ、いかなる訳ありて汝ら、いまだ知らぬ道を探らでは止まれぬようになりたる?いずかたへ汝ら向かわんとするや?汝らはいかなる国民なりや?いかなる家郷より汝らは来たりつるや?汝らがここにもたらすものは平和なりや、はた戦なりや?』

そのとき父アエネーアースは、高き船尾よりかく語りつつ、平和の使者オリーブの枝をば、手もて差し出す。

『トロイの血統の人々を、しかしてラテン人と敵対する武器を、汝は見る。この人々を、彼らラテン人は驕傲なる戦いを仕向け、その国土より追放したるなり。

『我らはエウアンドロスを見出さんとて来たりぬ。彼にこの消息を伝えよ。しかしてトロイの選抜せる隊長らぞ、同盟の武器を求めて、ここに来たりぬると告げよ』

かくばかり大いなる名によって、パッラースは畏れに打たれ、驚きながらいう。

『歩み出でよ、いざ、いかなる人なりとも。わが父と相対して語れ。我らの賓客としてわが家に入れ』彼は手を差し出して彼を歓迎し、彼の右手を握りしめて、それに取りすがりぬ。彼らは進みて、かの森の中に入り、河をば後にす。(8-一〇二~一二五)

その時、アエネーアースは、やさしき言葉もて王に話しかけていう。『運命が、その人に願えよ、その人にオリーブもて飾りたる枝を差し出せよと、我に命じたる。ギリシア人の血統の中にても最も善き者よ、汝がギリシア人の将軍にして、アルカディア人なりしとて、はた汝が血統もてアトレウスの二人の子と繋がれてあればとて、我はいささかも恐れを感ぜず。

『ただ、我みずからの真価と、神々の神聖なる託宣と、血縁ある祖先と、世界に広がる汝の名とこそは、我を汝と結び、我を進んで運命のままに、ここへと駆りしなれ。

『イーリウムの町の第一の始祖にして、建設者なるダルダノスは、ギリシア人の語り伝うるごとく、アトラースの娘エーレクトラより起り、テウクロス(3-104)の国土(トロイ)に渡りぬ。肩の上に天球を支うるというなる、いとも大いなるアトラースは、エーレクトラを儲けぬるなり。

『汝の父はメルクリウスなり。彼こそは美しきマーイアの孕みて、寒きキュレーネーの頂きにて生みたるなり。さてマーイアは、我らの聞きたる伝説を全く信じ得べくんば、アトラースが、天の星を高く支うるというなる、その同じアトラースが、父として生ませしなり。

『されば我ら両人の血統は、一つの血より分かれたるなり。

『この事実に信頼したればこそ、我は使節を送る事をせず、はた策謀によりまず汝の意志を探らんとも試みず、我みずからの身も、我みずからの頭も、みずから進んで汝の手中に置き、哀訴の姿もて汝の門辺(かどべ)に来たりぬれ。

『汝を迫害する者と同じダウヌス(トゥルヌスの父)の民こそまた、惨酷なる戦争もて我らを攻むるなれ。もし彼らが我々を追放したらんには、彼らは全イタリアを完全に彼らの羅絆の下に置き得るようになり、上にまた下にその岸辺を洗う海の支配者たるに、何の欠くるところもなしと信じいるなり。

『我が友情の誓いを受け容れよ。我に汝の友情の誓いを与えよ。戦さに勇む心我らにあり。勇敢なる魂と、実戦に功を経たる若武者たち我らにあり』(8-一二六~一五一)

アエネーアースはかく語りぬ。他は彼が物言うあいだ脇目も振らず、彼の顔と眼と姿全体とを見守りてあり。

それより言葉少なにかく答えていう。『いかばかり喜びて我は汝を迎え、汝をば認むることぞ、トロイ人の中にて最も勇ましき者よ!いかに我は汝の父、偉なるアンキーセースの言葉と声と面影とを思い浮かばせらるることぞ!

『そはラーオメドーンの子プリアモスが、彼の妹ヘーシオネーの国土を訪れんとて、サラミス(テラモンの国)に来たりしとき、旅を進めてアルカディアの寒き地方を訪れしこと、我が記憶にあり。

『その時、青春は我が双頬を花の顔貌に塗り始めつつありけるが、我は驚嘆してトロイの将軍たちを視、また驚きてラーオメドーンの子その人を見たり。

『されど、誰よりもいと高く歩みぬるはアンキーセースなり。我が心はこの戦士に言葉をかけ、我が右手の中に彼の右手を握りしめんとの、若き熱望もて燃え上りぬ。我は彼に近づき、彼を熱心にペネウス(アルカディア)の城壁の内に案内したり。

『彼は去り行く際に、見事なる箙(えびら)と、リュキアの矢と、金糸を織り込みたる外套と、一対の馬勒の、みな黄金造りなるとを呉れたるが、そはいまパッラースのものとなりてあり。

『されば汝の求むる我が右手は、我がためには古き交友の関係によって結ばる。かつまた明日の曙光が地上にかえり来たるやいなや、我が助力もて汝らを喜びの中に行かせ、軍用の品々もて助くべし。

『その間に、汝らは友としてここに来たりしなれば、好意もて我らと共にこの年毎の犠牲を捧げよ。そを延期するは罪科なり。すなわちいまただちに汝らの盟友の食卓に就きて、知己となるべきなり』(8-一五二~一七四)

 かく言いおわるや、彼は一度取り去りたる食物も盃も、再び並ぶるように命じ、みずから戦士たちを草場の席にならべ、ことにアエネーアースを褥(しとね)と繊毛ある獅子の皮ともて歓迎し、楓の玉座に招待す。

そのとき、急ぎに急ぎて、選ばれたる若人らと祭壇の司祭とは、牡牛の焼肉を持ち来たり、籠の上に美しく作りなしたるケレースの贈り物(パン)を積み重ね、酒をつぐ。

アエネーアースとそのトロイの若き戦士たちは、みな一同に牛の背骨付きの肉の完き長さなると、犠牲の臓腑とをうち食らう。(8-一七五~一八三)

 飢えも鎮まり、食わんとする欲望も充たされたるとき、エウアンドロス王はいう。『空しく、古き神々についての無知なる迷信が、いと力強き者へのこの年々の祭典と、この因襲的の饗宴と、この祭壇とを設けよと、我らに命じたるにあらず。

『わがトロイの賓客たちよ、我らは恐ろしき危険より救われて、事新しく、相応しき礼拝をば設け行うなり。

『さてもまず懸崖に差し出でたるこの巌に眼をとめて、いかに石塊(いしくれ)どものあたり一面にまき散らされ、山の家は荒れ果てて立ち、岩は激しく落ち下りたるかを見よ。

『ここには一つの洞穴ありて、入口は深く奥の方に引き込み、その中には半人のカークス恐ろしき姿して住み、日光も通さぬ場所なりき。

『地面はつねに新しき殺傷になま温く、怖しき血塊の物凄う付きたる数々の人間の顔、大いなる扉の上にとめられて懸りき。

『この怪物の父はウォルカーヌスにて、彼はその口より父の黒き炎を吐き出しつつ、大いなる身体していつも歩き回りき。

『我らばかりかは、他の人々にも、その祈願に応えて、時こそはついに神の援助と出現とをもたらしたれ。

『そは三体を持つゲーリュオンを斬り殺し、分捕り物に意気昂然たる大いなる復讐者ヘラクレスのここに来たり、征服者として巨大なる牛どもを駆り、ここを通過せることにて、牛は谷にもまた河にも一面に広がりぬ。

『されどカークスの心は狂気にとりつかれてありしかば、いかなる罪悪にても奸計にてもあえてなさざるなく、またなさんと企てざることなし。

『彼はよき体駆せる牡牛四頭と、同じ数の特に美しき牝牛とを、彼らを牧せる場所より取り去りぬるが、

『その歩みの真っ直ぐに進むがままに、足跡の残らざるように、尾を持ちて彼らを己が洞穴の方へ引きずり行き、進みたる方とは反対なる足痕をつけて盗み去りたるものを、岩の暗き窪みに深く隠しぬ。

『されば彼らを見出さんとする者にとりて、いかなる痕跡も洞穴へは彼を導かず。

『兎角する内に、アムピトリュオーンの子ヘラクレスが、飽食せる畜群をその牧場より離し、立ち去らんとするままに、牛どもは出でがけに鳴き始め、森はことごとく彼らの叫び声もて充たされつ。物騒がしく彼らは岡を後にし始めたり。

『それに応えて牝牛の一匹はそのとき叫び声を返し、広き洞穴の中にて鳴き声をあげぬ。かく牛どもは閉じこめられてはありつれど、カークスの望みを挫きたるなり。

『ここにヘラクレスの激しき怒りは、その暗黒なる胆囊より燃え上りつ。手には武器を押っ取り、瘤々たる檞の棍棒を持ち、全速力にて、聳え立つ小山の頂きの方へと走り行く。

『その時にこそ、我ら初めてカークスが打ちおののき、困惑せる眼眸(めつき)したるを見たれ。ただちに彼は東風よりも速く逃げ出し、洞穴の中に走り入る。恐怖や足に翼したる。

『彼が身を閉じ込め、結び綱を断ち切り、鉄にてかつ父親の技巧にてそこに吊り下げられたる大いなる巌を落し、その堅固なる門口を閂もて塞ぎ、そを固く締めたるとき、見よ、ティーリンスの勇士は、怒りを心頭に発し、近付き得べきあらゆる道を探しつつ、歯噛みをなし、かなたこなたに眼を転じぬ。

『三度、憤怒に煮えたぎりつつ、アウェンティーヌスの全山を探索し、三度、甲斐なくも石の門を襲い打ち、三度、疲れて谷間に休らわんと座す。

『そこに、洞穴の背の上に高まりて、四面打ち切りたるごとき巌なせる、尖りて固き大岩あり。うち見たるところいと高く聳え立ち、猛鳥などの巣を作るに相応しき所なり。

『この岩、たまたま山の背より垂れかかり、左方なる河へ少し傾きたれば、彼は右より強くそれを押し、その場所より動かして引き放し、いと深き底つ岩根より緩めつ。

『次ににわかに前方に押しやれば、その衝撃の下に大空は反響し、河岸は飛び放れ、驚き騒ぎ立つ水は後の方にぞ流るる。その時、カークスの洞窟は、その大宮殿(きゅうでん)のあり様あからさまに見え渡り、彼の陰多き巣穴根底よりぞ現わるる。

『そはあたかもある力の下に地球が、その底より大口を張り開けて、地獄の住居を露出し、神々に憎まるる幽冥の国を暴露し、限り知られぬ淵穴まで上より見え渡りて、死人どもが光明の進入に驚き慌つるにさも似たり。

『かくてヘラクレスは、盜人の、思い設けぬ光にたちまち捕えられ、岩のうつろに閉じ込められ、この世のものならぬ叫び声もて唸りてあるを、飛道具もて高きより襲い打ち、あらゆる種類の武器を己の助けとし、木の枝、石の大塊などもちて彼を攻む。

『相手の方は、実に今は危険を避くべきいかなる方法も残されてあらねば、いうも不思議や、顎よりもくもくと煙を吐き出し、住居の内を黒白も分かぬ闇に包み、眼よりは前を見る力を奪い、洞穴の内には闇と火とを交え、煙れる夜陰を集む。

『ヘラクレスの魂はいかでかこれを忍ぶべき。みずから一躍してただちに炎の中に身を投げ入るれば、そこには煙いと濃く吹き流れ、大いなる洞穴は黒暗々たる蒸気もて波打つ。

『ここに彼はカークスが闇の中に空しく炎を吹き出したるを引き捕え、己の手足を彼の周囲に巻きつけ、強く抱きしむれば、ついに眼は眼窩より飛び出し、咽喉は血の通路を断たれぬ。

『たちまち扉は引き放たれ、恐ろしき巣穴は暴露せられ、彼の引き去りたる牛と、彼が誓って否認したる盜賊の振る舞いとは、天日の下に置かれ、形も崩れたる死骸となりて、彼は足もて引き摺らるる。

『この半獣の怪物の恐ろしき眼や、その顔貌や、逆毛もて蔽われたる胸や、炎の消えしばかりなる顎を見て、人々の心は飽くことを知らず。

『その時よりぞ崇敬は行われ、子孫は喜んでこの日を守る。祝祭を始めたるはポティーティウスにして、ピーナーリア家ぞヘラクレスの尊崇の守護者なる。彼、森の中にこの祭壇を建て、我らは永久にこれを最大のものと呼び、はたこれぞ永久に最大のものたるべし。

『されば、いで、汝若人たちよ、かくも大いなる功績に対し犠牲を捧ぐるこの祭典に、汝らの髪を青葉もて飾れ。汝らの右手もて盃を差し出せ。我ら一同の神を請じて、誠心こめて酒を捧げよ』

彼エウアンドロスはかく言いおわりぬ。ここにおいて表裏両色あるポプラの葉は、ヘラクレス好みのその葉陰もて彼の髪をおおい(注ポプラはヘラクレスの木である)、葉の飾り紐となりて髪より垂れ下り、聖なる盃は彼の右手に充たされぬ。みな急いで嬉しげに神酒を食卓の上に注ぎ、神を懇請す。(8-一八四~二七九)

その間にも天球は傾き下り、夜は次第に近付く。さて、やがて司祭たちは、ポティーティウスを先頭として、風習に従い毛皮を身に巻き、松明を手に持ちて近付き来たる。

また新しく彼らは祭宴を催し、第二段の勧請の饗物(あえもの)をもたらし、祭壇に供物を盛れる数々の皿を並ぶ。

次に燭火(あかり)を列ねたる祭壇を巡りて歌わんと、マルスの神官サリイぞ近付き行く。彼らの額にもまたポプラの花環を巻きたり。一方には若人の唱歌隊あり、他方には歳長けたる者らあり。彼らは詩歌もてヘラクレスの名声と行為とを歌う。

いかに彼が手もて握りしめて、彼の継母ユーノーが送りたる最初の怪物、すなわち二匹の蛇を縊(くび)り殺したるか、いかに彼はまた戦争にて、名高き都トロイとオエカーリアとを陥れたるか、いかに彼はエウリュステウス王に仕えて、敵意あるユーノーの定めたる運命により、数知れぬ困難なる仕事をしとげたるかなど。

『敗るることを知らぬ者よ、汝こそ雲より生れたる二重体の怪物(ケンタウロス)ヒューラエウスとポルスとを、汝こそクレタの怪物とネメアの岩の下の大獅子とを手づから殺したれ。

『汝の前にステュクスの河水は震えぬ。血みどろの洞に、半ば貪り食いたる骨の上に横たわれる地獄の門番ケルベロスもまた。いかなる姿形も汝を恐れしむるものなし。聳え立つようなる長身もて武器を打ち振るテュポエウスその者すらも。かの沈着なる心は、レルナの蛇がその数知らぬ頭もて汝を取り巻きたるときすら、汝を見捨てず。

『いや栄えよ、ユピテル神の疑いなき子よ、汝神々に栄光として加われる者よ!我らの身と汝への捧げ物とに、眷顧の歩みもて目出度く近づきたまえ』

彼らが歌をもって崇むる振る舞いはかくのごとし。ことに彼らはその歌にカークスの巣窟と、炎の息したる怪物そのものとを加う。森ことごとくそのさやぎを反響し、岡もまたこだまを返す。(8-二八〇~三〇五)

それより、宗教上の儀式も適当に行いおわりぬれば、人々はみな町へと引き返す。王は老いの足も重く、側にアエネーアースと我が子とを伴侶として、歩みながら種々の物語もて道の長きを忘れしむ。

アエネーアースは驚嘆しつつ、いと速く眼をあたりのあらゆるものに走らせ、さまざまの場所に心を引かれ、前期の人々の残したる記念について楽しげに問いもし、また聞きもす。

そのときローマの城壁の創建者エウアンドロス王はいう。

『これらの森にはかつてこの土地の神々ファウヌスたちやニンフなど住みてありき。しかして人の族は樹々の幹と堅き檞の木より生じたり。彼らには生活の規律も文明もなく、いかに牡牛に軛をつけ、富を蓄え、また儲け得たるものを浪費せぬようにすべきかをも知らず。ただ木枝の果実と生活の荒き狩猟とにより彼らの身を養うのみ。

『サートュルヌスぞまず天界のオリンポスより、その主権を奪われたるのち、ユピテルの武力を逃れ、追放者としてここに来たりぬる。

『教養なくただ高き山々に散在したる人民をして、一定の社会を作らしめ、彼らに法律を与え、彼はこの土地がサートゥルニアと呼ばるるよりもラティウムと呼ばるることを欲したるが、その理由は安全にこの地に身を忍び横たえんためなりしとぞ。

『かの伝説にいう黄金時代は、この王のもとにおいて存せしなり。彼は全く太平に国土を統治したるが、ついに次第に頹廃と劣色の時代、戦いに対する熱狂、利得に対する欲望などぞ忍び入りぬる。

『その後アウソニアの一隊とシカーニアの種族など来たり、サートゥルヌスの国もしばしばその名を変えたり。

『それより諸王と巨躯の猛きティベリス王と来たりぬるが、彼に因みて以後我らイタリア人は我らの河をティベリスという名にて呼ぶようになりぬ。アルブラ川はその真の古き名を失えり。

『祖国より追われ、海の際崖(はて)まで探りぬる我を、全能の運命の女神と抗しがたき宿命の女神と、この地にぞ落ち着かせたる。しかしてわが母、ニンフ・カルメンティスの恐ろしき警告と、予言の主なるアポロン神と、我をここに駆りぬ』

その言葉を言いおわるやいなや、ただちに彼は進みて祭壇を示し、またローマ人がカルメンターリスという名にて呼ぶところの門を示す。こは古く運命の予言者ニンフ・カルメンティスに捧げたる尊敬の意にして、この女ぞアエネーアースの子ら偉大なるべく、パッランテーウム有名なるべしと予言したる最初の者なりける。

なお彼は、勇敢なるロームルスが避難所となせし広大なる森を示し、また冷たき巌の下なるルペルカルの洞穴を指示す。こはアルカディアにてリュカエウスのパン と称する仕方にならいてかく呼ぶなり(注ギリシア語リュコスはラテン語でリュプス)。

さらになお進んで彼は聖なるアルギーレートゥムの森を示し、かつみずからその場所を検証して、彼の賓客アルゴスの死を語る。

その後彼はタルペーイアの旧跡カピトーリウムの丘へ案内す。こは今は黄金造りなれども、かつては樹木生いしげりたる一団の藪林(そうりん)なりし。されどその当時においてすらすでにこの場所の畏き聖らかさは、驚きやすき田舎人の心を打ちおののかせ、その当時においてすらすでに彼らは、森や懸崖を見て打ちふるいぬ。

彼はいう、『この森に、木の葉繁れる頂きを持つこの山に、いかなる神なるかは定かならねど、ある神ぞ住める。アルカーディア人らは、ユピテル大神が右手もてあまたたび暗き盾を打ち振り、雷電の雲を動かすとき、彼をここに見たりと信ずるなり。

『そのほか汝は破れたる城壁あるこれら二つの町、および古えの人々の遺跡と記念物とを見ん。この砦は父ヤーヌスによりて建てられ、かの砦はサートゥルヌスが建てしものにて、一つをヤーニクルム、他をサートゥルニアと名付く』

互にかく物語りつつ、彼らは貧しきエウアンドロスの住居に近付き、ローマの公共広場(フォロ・ロマーノ)と贅沢なるカリーナエ地区との今あるあたり一面に鳴く家畜を見る。

彼らが住居に達するやいなや、彼はいう、『これぞ凱旋のヘラクレスが通過したる入口にして、これぞ彼を迎えたる邸宅なる。富を嘲ることをあえてせよ、賓客よ。しかして汝自身また神に相応しかれ。かつ厭うことなく我らの貧しさに近づき来たれ』

かく言いて彼は、偉なるアエネーアースを彼の住居の屋根の下に案内し、敷ける木の葉とリビアの熊の皮との上に彼を憑(よ)らしめぬ。(8-三〇六~三六八)

夜は速やかに来たり、薄黒き翼もて世界を抱きしむる。

されど彼の母なるウェヌス女神は、ことわりなきにあらねど、いたく心恐れして、ラウレントゥムの人たちの脅威と恐ろしき動乱とにいらだちて、ウォルカーヌスに話しかけ、夫の黄金の部屋の中にてかく語り始め、彼女の言葉もて彼に神らしき愛をぞ息吹きかくる。

『ギリシアの王公たちが、予めかく滅亡するように定められたるトロイと、敵の炎に焼け落ちぬべき運命を負える城壁とを、戦いもて荒らしてありし間、わらわはその憐れなる人々のために何の助力をも乞わず。君の熟練と力とにてなる甲冑も乞わねば、いと親しきわが夫よ、汝の労力を空しく費すことをも願わざりき。

『よしやわらわ、プリアモスの子らには深く負うところあり、かつアエネーアースの苦闘のためにはしばしば涙を注ぎぬるとも。

『今やユピテルの命令により、彼はルトゥリー人たちの磯辺に足をとどめたり。されど、今、わらわは嘆願者として来たり。かねてわが敬い思う汝の神性にすがり、母としてその子のため、武器を乞う。汝をネーレウスの娘テティスは、また汝をティートーノスの妻アウローラは、涙もて動かす力を持ちぬ。

『いかなる国民の連合し、いかなる堅砦(けんさい)の門を閉ざして、我と我が人々の滅亡とのため剣を磨きつつあるかを見よ』

彼女は言いおわり、雪のごとき腕を巻きつけ、この女神はためらいがちなるその夫を軽く抱擁してあやなすめり。

彼はたちまち慣れにし情炎を感じ、よく知りたる体温は髄までとおりて、溶けなんとする骨を射ち通す。

そはあたかもきらめく火のほころびの雷電より突然現れて、しばしば赫灼(かくしゃく)たる光もて雷雲を通して射ち出づるごとし。

彼の妻は計略の当たれるを喜び、己の美しき姿を自覚し、心の中にうちうなづく。数において、いつまでも断ち切られぬ愛の鎖もて繋がれたる主ウォルカーヌスはいう。

『いかなればかく遠く汝の請願の理由を探し来たらんとはするぞ?女神よ、汝が我に対する信頼はいずこにか離れ去りぬる?汝の心遣いの、かの時も今と等しかりせば、その時にもまたトロイ人を武装さすること、我らに何の咎ともならざりしならん。また万能の父も運命の神も、トロイの立ち続き、プリアモス王のなお十年を生きながらうることを禁ぜざりしならん。

『さて今、汝戦さをなさんとし、汝が決心のかくありせば、わが技巧について約束し得るあらゆる努力、力、鎌と溶かしたる琥珀金ともて造り得るあらゆる物、炎と鞴(ふいご)の吹き出す風とのあたうかぎりの力――かく嘆願することによって汝がみずからの力を疑うことをやめよ』

彼はかく言いおわりて、熱望せる抱擁をなし、后の膝に打ち臥し、静かなる眠りの手足に忍び入るを喜び求めぬ。(8-三六九〜四〇六)

その後、更けゆく夜もすでに半ばのころ、最初のひとまどろみの睡魔を追い払えるとき―――その頃おい、糸巻竿とかぼそき儲けのわが手業とにて命を支えねばならぬ女の、夫の寝床をも汚点(しみ)なく保ち、幼き子らをも育て得るために、夜をば仕事に付け加え、灰と眠れる火とをかき起し、灯火の光にて少女らを長き仕事に働かする――その女のように、それにも劣らぬ熱心もて、火の主は、その頃、柔らかなる寝床より鍛冶の業の働きにぞ起き出づる。

シチリアの磯とアエオリア・リパレー島に近く、一つの島、煙吐く巌の頂きもて聳え立ち、その下に一つの洞穴、すなわちキュクロプスの炉によりて掘りくぼめられたるエトナ山の深き穴轟き渡り、鉄床の上に強き打撃を加うる音の反響するが聞え、カリュベス人(ポントス)たちの造りしごとき鉄塊(てつくれ)は洞穴の中にて唸りをあげ、炉の中にては炎喘ぎの声を出す。

これぞウォルカーヌスの家にして、その土地はウォルカーニアと呼ばる。ここにぞ天の高きより、そのとき、火の主は降り来たりける。この広き洞穴の中にて、キュクロプスらは鉄を鋳てありし。そは、ブロンテース、ステロペース、ピュラクモーンなど、裸の手足して。

彼らの手には、満天より父なる大神の数知れず地上に投げ下すなる雷電作られてあり。その一部はすでに磨きを終え、他の一部はなおいまだ仕上げられず。

彼らは雹の矢三本、雨雲の矢三つ、赤き火の矢三つ、翼ある南風の矢三つをそれらに加えたり。

いま彼らはその仕事に、恐ろしき火の閃きと物音と畏怖とを、はた追い打つ炎に憤怒とを交う。他の場所にては忙わしく、マルス神のために車と飛行の車輪とを製作す。これはこれらのものをもって、この神が人々を、はた町々を覚醒するためなり。

彼らは相競うて怒れるパッラスの武具なる恐ろしき甲冑(アイギス)を、蛇の鱗と黄金とをもて仕上げつつあり。絡み合える蛇どもと、女神の胸の真ん中に当るところには、頭を断ち切られながら、なお両眼をくるくると回しつつあるゴルゴンそのものとを。

『全て汝らの仕事を片付けよ』と彼はいう、『すでに始めたる仕事は中止せよ、エトナ山のキュクロプスたちよ。しかして我がいうことを心して聞け。勇敢なる英雄のため武器を作らではならぬなり。今こそ汝らの力を、敏捷なる手を、技術のあらゆる修練を用うべき時なれ、遅滞するなかれ』

彼はこれ以上何事も言わず。されど彼らはみなすみやかに仕事に就き、等しく労作を分かつ。小さき川をなして、黄銅と黄金の粗鉱とは流れ、人を傷つくる鋼鉄は、偉大いなる炉中に溶けつつあり。

彼らは大いなる盾を、ただ一つにてラテン人(注アエネアスはトロイ人、トゥルヌスはラテン人)たちのあらゆる投げ矢を受け止むる盾を作り始め、一環の上にまた一環と、七重の厚さに接ぎ合わす。

ある者どもは風強きふいごもて、かたみに風を捕えまた放ち、他の者たちは池水にしゅうしゅうと鳴る黄銅を浸す。洞穴はその据えつけられたる鉄床の下に唸り声を発し、彼らは代る代るいと激しき力もて、調子正しく彼らの腕を上げ、把握の力強き大火箸もて鉱塊(あらがね)を回転す。(8-四〇七〜四五三)

アエオリアの海岸にて、レムノス島の主(ウォルカヌス)これらの仕事にいそしみつつある間に、親しき光と、屋根の下なる鳥の朝の歌とは、エウアンドロスをその低き家より呼び覚ます。

老人は起き上り、身には半袖の衣を着け、足にはエトルーリアの革紐つきたる鞋(くつ)を履き、次に左側より垂れ下りたる豹の皮をひたと引きまとい、脇腹と肩とにはアルカディアの剣を締め着く。

それと同時に一対の護衛者なる彼の犬らも、高き敷居を越えて彼の前に進み、彼らの主人の歩みに伴う。この英主は、彼の言葉とその約束したる助力とを心に留めて、賓客アエネーアースの住居と部屋の方に行くなり。

アエネーアースもまたこれに劣らず、朝はやく出で来たる。前者にはその子パッラース伴いて歩み、後者にはアカーテース伴う。彼らが出会いたる時、手と手とを取り合い、家の客間に座り、ついに今ぞ始め得る人混ぜせぬ対談を楽みける。

王まず語りていう。『トロイ人たちの最も偉なる隊長よ、汝が生き残りてある限り、我はトロイの権勢も領土も、亡びたりとは決して認めざるべし。

『汝のごときかく偉大なる名を迎えて、戦さを助くるには我が力はただにかよわし。我らは、こなたにてはエトルーリアの流れ(ティベリス川)に閉じ込められ、かなたにてはルトゥリー人我らを強迫し、我らの城壁の周囲に武器を鳴り響かす。

『されど我は偉なる国民および有力なる王国の陣営を、汝に結び付けんとす。これぞ思いもかけぬ機会の与えたる安全なる方法にして、汝は運命の要求によりここに来たれるなり。

『ここより遠からずして、古代の岩の上にアギュッラの町建てられ、人多く住めり。そこにはかつて戦争に名を馳せたるリディアの種族、エトルーリアの丘の上にその住みかを定めぬ。

『さてその町の多くの歳月を栄えたるころ、時経るままにメーゼンティウスという王、驕慢なる権勢と残忍なる武力とをもって彼らを支配したり。

『いかで我、恐ろしき虐殺のことを、暴君の無道の行為のことを、物語る要あらんや?神々は、応報の彼みずからの頭上と彼の族の上に落つるように、それを保留したまえ!

『否とよ、彼はいつも死者の身体を生者と合わせ、手は手と、顔は顔と結びつけ――汚らわしき拷問の形や――かくてその悲惨なる抱擁のまま、腐れと血塊とにまみれさせつつ彼らをなぶり殺しに殺す。

『されど彼の臣民は、ついに虐政に倦み果てて、武器を取り上げ、恐ろしく狂暴なる振る舞いすなる彼を、その家もろともに取り囲みぬ。彼らは彼の一味を斬り倒し、火を宮殿の屋根に投げかくる。

『彼は累々たる死屍の中をこそこそと逃げ出だし、ルトゥリー人たちの国土に逃げ込み、その友トゥルヌスの武器もて保護せらる。

『ここにおいて全エトルーリアは正しき憤激に起ち、ただちに戦さを促して、刑罰のため王を渡せと要求す。

『汝、アエネーアースよ、我は汝をもってこの数千の人々の隊長とせん。

『げに全海岸にわたりて彼らの船どもは密集し、怒り罵り、旗を進めんことを求む。されど老いたる占者は運命を告げて、彼らを引き止めつつあり。

『「ああエトルーリアの選ばれたる若人たちよ、古えの勇士たちの華と魂よ、正しき怒りに駆られて敵に進まんとし、メーゼンティウスに当然加うるに相応しき怒りに激する汝らよ、かく偉なる国人を指揮することは、いかなるイタリア人にも許されず。異国の長を選ぶべし」と彼はいう。

『さればエトルーリアの軍隊は、神々の警めを恐れ畏み、この平原に陣営を張りぬ。タルコン(エトルリアの王)みずからは、使節に王冠と笏とを持たせて我に贈り、権章を我が手に引き渡して、陣営に入り、エトルーリアの国土を我が指揮の下に取れよと請う。

『されど血の気の冷えによろめき、過ぎゆく歳月に疲れたる老齢と、今や勇敢なる振る舞いをなすには時過ぎたる力とは、この帝国を我に許さず。

『もし我が倅がサビーニー人たる母のために混血にして、したがってそれにより母の故郷の土地の一部を所有することなかりしならば、我はこの大業を彼に勧めしならん。

『汝、年齢も血統も運命に微笑まれたる者よ、汝、神々の求むる者よ、汝の行路に入れ。トロイ人とイタリア人の最も勇敢なる将軍よ。

『なお我はわが望み、わが慰めなるこのパッラースを汝と結ばしめん。汝の統御のもとに彼をして戦争の、マルス神の難き仕業も堪え忍び、汝の偉業をも観、若年より汝を見習うようにさせん。我は彼に若人より選り抜きたる力ある騎兵二千を与えん。またパッラースはみずからの名においてもこれと同じほどの人数を汝にもたらすべし』(8-四五四〜五一九)

彼がかく語りおわるや、アンキーセースの子アエネーアースと、忠実なるアカーテースとは、彼らの眼をじっと地面に落としつ。もしキュテーラが雲なき大空より予兆を与えざりせば、なお長く多くの困難を彼らの悲しき心に思い悩みいたりしならん。

そのとき忽然として天より射ち出でたる叉状(さじょう)の閃光あり。音響これに伴い、ただちに万物ことごとく崩れんかと思われ、エトルーリアのラッパの響き、空中に鳴り広がるとぞ思われける。

彼ら眼をあげて見るに、再三大いなる物音は爆発し、雲の中にも天の晴れたるあたり、明るき大気を通して武器の赤く輝くを見、打ち合わされて雷のごとき音を立つるを聞く。

他の者は心いたく驚愕してあれど、トロイの英雄はその物音の意味と神なる母の約束とを知る。

そのとき彼はいう、『主人よ、実にかかる不思議のいかなる出来事を世にもたらすかを問いたまうな。我はオリンポスより送られたる予兆によりて招かるるなり。わが神ながらの母は、戦い近づかばこの兆しを送り、我を助くるために、空中を通してウォルカーヌスの造りたる武器をもたらさんとあらかじめ告げぬ。

『ああ、いかに恐ろしき殺戮の、惨めなるラウレントゥムの人々の土地に近付きつつあるか!トゥルヌスよ、いかなる罰を汝は我が手によりて受くべき!おお、父ティベリスよ、汝の流れのもとに、勇士たちのいかに多くの盾と兜と死体を、汝は転ばすべき!彼ら戦さを叫ばば叫べ!なしたる約束を破らば破れ!』(8-五二〇〜五四〇)

彼はかく言いおわりて、高き座席より立ち上り、まずヘラクレスの祭壇に眠りてありし火を新たにかき起し、喜ばしげに昨日祭りたるラールと小ペナーテーヌとに近付く。

エウアンドロスとトロイの若人たちもみな同じように、選びたる牝牛を慣例にしたがいて犠牲に捧ぐ。そののち彼アエーネーアスはここよりわが船の方に歩み行き、再び僚友を訪う。彼らの中より最も勇敢なる者を選び出し、戦争にしたがわせ、他の者は河を帆走り下り、悠々と順なる流れに乗じ、アスカニウスに事件と彼の父の消息とを伝うることとす。

エトルーリアの戦場に進軍するトロイ人には軍馬与えられ、アエネーアスのためにもわざと一頭を選び出してもたらしぬるが、そは鍍金したる爪のきらきらと光る獅子の、朽葉色の毛皮もて全身を包まれたり。(8-五四一〜五五三)

騎兵などが急ぎに急いで、エトルーリアの王エウアンドロスの館の方へ行くという風聞は、小さき町の中にたちまち知れ渡り広く飛び行く。

母親たちは心配のため誓いを重ね、恐怖はその恐るる危険に次第に接近し、今やマルス神の姿はますます大きくぞ現れ来たる。

そのとき父エウアンドロスは、彼の出で行く子の右手を握りしめながら、それに取りすがり、飽かぬ涙に泣き濡れつつ、かくぞ言い出づる。

『あわれユピテルの、過ぎ去りたる歳月を我に返したまい、我を昔の我となしたまえとこそ!そのかみ、我、プラエネステの真下にて敵の先頭を薙ぎ倒し、勝利者として、敵の盾を積み重ねて焼き払い、エルルス王をこの右手もてタルタロスへ送りたるが、

『彼には――いうも恐ろしや――その誕生の時、彼の母フェーローニアが、三つの命と、打ち振うべき三組の武器とを与えたることなれば、彼は三度斬り倒されでは死なず。されど、その日、この右手は彼よりあらゆる命を奪い、また同じように彼の武器をも奪い取りぬ。

『もしユピテルが我に昔の力を返したまいなば、我は今や全く汝の快き抱擁より引き離さるることなかるべし。わが子よ、しかしてメーゼンティウスも決して彼の隣人なるこの長を悔り、剣を揮うてかく多くの野蛮なる殺人を行い、またわが町よりかく多くの市民を掠奪することなかるべし。

『されど、汝ら、天つ神々よ、しかして汝、神々の最も力強き支配者なるユピテルよ、願わくは汝らアルカディアの王を憐みたまえ。この一人の父の祈願を聴きたまえ。

『もし汝らの大御心も、もし運命も、我がためにパッラースを危害より安全ならしめ、もし我再び彼を見、彼と一つになり得る運命もて生き得るならば、我は我が命をば生きながらえよと乞うなり。我はいかなる困難をも堪え忍ばんとするなり。

『されどもし、あわれ運命よ、汝が何か名状し難き災厄もて威嚇するならば、今、ただ今、我は願う。わが憎むべき生命を、わが危惧の実現せざる前に、わが未来に対する予感のなお疑わしき間に、わが唯一の、しかして晩年に儲けたる喜びのいとし子よ、なお我の汝を抱擁してある間に、我が命を断つに任せたまえ。いかなる大不運の消息も我が耳を傷むるなとこそ』

かかる言葉をば父は別離の間際に注ぎ出す。召使いの者どもは、気も遠くなりたる彼を、宮殿の中にぞ担い入る。(8-五五四〜五八四)

さて騎兵の一隊は、押し開いたる門を出で行くに、アエネーアースと忠実なるアカーテースとは先頭の中に、その後にはトロイの他の君たち従い、パッラースみずからは隊列の中央にありて、甲冑と飾れる武具ともて美々しく取り装う。

そのあり様を例えなば、ウェヌス女神が他の星辰にまさりて愛づるというなる暁の明星の、大洋の波に浴みせしとき、天上に彼の聖なる頭を上げ、闇をば融かし去るごとし。

母親らは打ち震えつつ塀の上に立ち、彼女らの眼もて塵雲と黄銅閃めく隊伍とを追う。

彼らはみな十分に武装して、叢林を抜け、いち早く彼らの目的に導く道を進軍す。叫び声は打ち上り、彼らは縦隊をなし、馬蹄は四重の足踏みに崩るる野原を揺り動かす。

カエレの冷たき流れに近く一つの大いなる森あり。古人の尊崇のために遠く広く神聖視せらるる所にして、丘陵ここに谷を作って四面を囲い、その黒き樅の樹の森を取り巻けり。

伝説によれば、ラティウムの国土を昔初めて占領したる古きギリシア人は、野と牧羊の神なるシルウァーヌスに、この森と祭日とを献じたりという。

このカエレより遠からず、タルコンとそのエトルーリア人らは、堅要の地に陣営を構え、高き丘の上には今やその全軍見上げられ、打ち開きたる平野には天幕を建てたり。

こなたへと、父アエネーアースとその戦さのために選ばれたる若者たちは、進軍の道を取り、人々疲れたることなれば、軍馬も自己も休息して英気を養う。(8-五八五〜六〇七)

されど美しき女神ウェヌスは、天上の雲の中ながら、贈り物をもたらして間近にあり。

彼女の子の、こもりたる谷の中、冷たき流れの傍らに、他の人々よりやや離れてあるを見るやいなや、みずから進みて彼の眼の前に現れ出で、かかる言葉もて話しかくる。

『見よ、これこそ我が夫の技巧もて造りたる、我が約束の贈り物なれ。されば、な恐れそ、驕慢なるラウレントゥムの人たちに対しても、獰猛なるトゥルヌスに対しても、あえて挑戦することを』

キュテーラの女神はかく言いて、子の抱擁を求め、彼らの前に立ちてありし檞の木の下に、輝く武器を置きぬ。

彼は女神の贈り物とかく大いなる名誉とを喜びつつ、飽かぬ歓喜もて、一つ一つをつくづくと眺め回す。

心に賞(め)で、手や腕に取り上ぐるに、前立恐ろしく炎吐く兜、命取りの道具なる剣、黄銅の固き胸甲の、色は血のごとく、持ち重りしていと大きく、薄黒き雲の日光を受けて、遠くまで光り輝くようなるもの。

その次には白金黄金の合金と純金とを磨きたる脛当、槍、えも言われぬ構造の盾など。

盾には、予言にも全く通ぜざるにあらず、また未来のことに全く無知にもあらぬ火の君、イタリアの運命とローマの勝利とを細工したり。そこに彼は、アスカニウスより出づる未来の系統の各代と、次々に戦わるべき戦争とを彫刻したるなり。

彼はまたマルスの緑の洞穴に手足を伸ばして横たわる母狼を細工す。彼女の乳頭のほとりには、二人の男の子とりすがりて遊び、恐るる気色もなく彼らの母獣の乳を舐む。彼女は細長き首を後ろに曲げ、彼らを代る代る愛撫し、舌もて彼らの身体をつややかにす。

ここより遠からず、彼は、ローマの都と、キルクス(円形競技場)の大競技の行わるるとき、劇場の群集の中より荒々しく連れ去らるるサビーニーの女たちと、しかしてロームルスの人々と老タティウス王(サビニー王)およびその峻厳なる町クレースとの間にただちに勃発せる、新たなる戦争とを取り入れたり。

その後、同じ王たちは相互の争闘をやめ、武装したるまま手に杯を持ち、ユピテルの祭壇の前に立ち、牝豚を犠牲にして条約を締結す。

そこよりまた遠からず、違いたる方向に迅(と)く突進する戦車は、メットゥスを真二つに裂く――されど、アルバの人メットゥスよ、汝約束を守りなば、かかる事はなかりしならん——しかしてトゥッルスは反逆人の死骸を森を通して引きずり、荊棘は血潮の露にぬれしたたる。

またポルセンナ王は、放逐せられたるタルクィニウス王を受け入るることをローマに命じ、非常なる包囲をもってローマ市を圧迫し、ここにアエネーアースの子孫は自由のために剣を取らんと急ぐ。

コクレス(ホラティウス)はあえて橋を破壊し去り、少女クロエリアは監視を破って流れを泳ぎ渡りしかば、彼ポルセンナは怒れる者に似、威嚇する者に似るを汝は見ん。

次に頂上には、タルペーイアの要塞の守将マンリウス、神殿の前に立ち、高きカピトーリウムを保つ。しかして宮殿は新たにロームルスの茅もて蔽われてあり。ここに一羽の白銀の鵞鳥、黄金を張りたる拱廊を飛び回りながら、ガリア人たちのすでに門前にあることを宣(の)る。

ガリア人は藪林を通じて、近々と迫り来たり。闇に蔽われ、暗夜に乗じ、砦に取りかかる。彼らの打ち靡(なび)く毛髪は金色にして、彼らの衣服も金。彼らは縞ある外套にてきらきらと光り、また彼らの乳白色の首は金の襟もて巻かれたり。銘々の手にはアルプス産の二本の投げ槍を打ち振り、身体は長き盾をもって護る。

次に彼はここに跳躍するサリイと、裸体のルペルキーと、サリイの羊毛製の房ある頭被(かつぎ)と、天より落ちし神盾とを鋳出だしたり。貞潔なる刀自たちの安楽車にて町を過ぎ、祭礼の行列をなして進めるをも。

ここより遠く離して、彼はまたその細工に、タルタロスの地方、ディースの深き入口、犯罪に与えらるる罰、しかしてカティリーナよ、墜落せんとする巌に縛られ、フリアエらの相貌を見て打ち震う汝を、しかして彼らより離れて忠直なる人々を、またこれらの人々の間に法律を賦与するカトーなどを付け加う。

これらの群れの間には波立つ海のごときもの、凡て金色に、遠く広くひろがる。されど青き水、白き飛沫を上げて泡立ち、そのあたり、輝く銀の海豚ら、輪をえがきながら尾をもって大海を疾過し、波浪を劈(つんざ)く。

中央には黄銅もて武装したる艦隊、アクティウムの海戦現われ、レウカスの岬はことごとく戦いの配備もて白熱し、波は黄金もて輝くを見ん。

こなたにはカエサル・アウグストゥス、元老院議員と人民と、家神と大いなる神々と共に、イタリア人を戦争に導きながら、高き船尾に立ちてあり。

彼の喜ばしげなる額は二つの炎を吐き出し、彼の頭には父の星見ゆ。他の部分にては、吉兆の風と神々とによりて、アグリッパ高く船尾に立ちて戦隊を導く。その額は艦首を飾りとしたる冠もて輝きたるが、これぞ実に誇らしき戦さの勲章なる!

またかなたにはアントーニウス、東方および紅海沿岸の国民に打ち勝ち、その蛮人の援軍や種々の軍隊と共に、エジプトと東方の諸国と、また遠く隔たりたるバクトラ(バクトリアの首都)をも身にしたがえつ。なお――あわれ恥辱や――エジプト人の妻も彼にしたがう。

たちまち全ての者合戦に取りかかり、深水の面は橈の長打と三つ尖(さき)の艦首のため痙攣して泡立つ。彼らは沖へと急ぎ行く。そのあり様、島の根より離れたるキュクラデスの大海に浮びてあるか、または高き山の他の山と衝突せんとすると人や見む。かくばかり大きく塔櫓ある船にて、人々は押し進むなり。

手に手に麻屑の火炎と翼ある鋼鉄の投げ矢とを振りまき、ネプトゥーヌスの野辺は未聞の大殺戮に紅なり。

その真ん中にありて、女王は彼女の郷土の楽器もて軍隊をはげます。彼女はなおいまだ背後なる二つの蛇を見出ださず。

種々の奇怪なる形の神々、吠ゆるアヌービス神などは、ローマの神々ネプトゥーヌス、ウェヌス、ミネルヴァらに対して投げ矢を手にす。

鋼鉄にて細工したるマルスは、争闘の中心にあれ狂う。大空より下れる凄惨なるディーラエ(フリアエ)どもも、また裂けたる外套を着たるディスコルディアも、有頂天となりて誇り歩き、ベローナ(戦いの神)は血潮したたる鞭を手にして彼女にしたがう。

アークティウムのアポロンは、この光景を見しとき、天上より彼の弓を引き絞る。そをおじ恐れて、エジプト人、インド人、すべてのアラビア人、シバの人らはみな背を向けて逃出だす。

女王みずからは、その願い求めたる風に帆をひろげ、ますます帆綱を緩めんとするように見ゆ。大殺戮の中に、近付く死に青醒めたる彼女を、火の君は波と西北風とに運ばれ行くように作りたり。

されど、彼女の向かい側には、河神ニールス(ナイル)いと大きなろ体躯して、女王の敗北を打ち嘆き、その曲折をひろく開きて、衣を押しひろげ、打ち負けたる者たちをその暗青色の裾、その流れのひそかなる隠れ場所に招くようなり。

カエサルは、三重の凱旋もてローマの城壁を通り過ぎ、イタリアの神々に永代奉納の捧げ物、すなわち全市を通じて三百の大いなる神殿を献納す。

街々はみな歓喜と、遊技と、叫び声とに騒がし。各神殿には刀自たちの合唱隊ありて、その各々に一つの祭壇を設く。殺されたる牡牛は祭壇の前なる地面に横たわりてあり。

彼みずからは、輝くアポロンの雪白の門に着席して、国民の捧げ物を検閲し、壮大たる扉に程よくそれを置き定む。

征服せられたる人民は長き列をなして来たり、言語のとりどりなるように、衣服の風を武器もとりどりなり。

ここにウォルカヌスは、ヌミディアの種族、腹帯せざるアフリカ人を、またここにレレゲース、カーレース、および弓を負うゲローニー(スキュティア)を描く。

ユーフラテスは今やローマの征服によりさらに隠かなる波を上げて流れ、人寰(じんかん)より最も遠きモリニー人(北ガリア )、両角のレーヌス、馴致し難きダハエ人(カスピ海)、橋を跳ねのくるアラクセーヌ川などもあり。

かかる形象をば、母の贈り物なるウォルカーヌスの盾の全面に、彼は鑑賞す。しかしてかかる事蹟については何も知らねども、彼の肩の上に子孫の名声と幸運とを担いながら、彼らの描かれたる面影を愛でてあり。(8-六〇八〜七三一)




第九巻梗概(下99p)

アエネーアースの不在を女神ユーノーに保証せられ、トゥルヌス、その軍隊をトロイ人に対して導き進む。彼らが塹壕をもって戦線を固むるとき、彼は彼らの船を焼かんとす。

ここにおいて船どもは女神キュベレーによりニンフに変えられ、海にうかんで去る。トゥルヌスの勇、部下を励まし、トロイ人の陣営を包囲す。

ニーソス(ヒュルタコスの子)とエウリュアロスとは、アエネーアースをたずね出し、救援隊を得るために包囲を突破せんと計画し志願す。もし成功すれば多く報いらるる約束もて出発し、彼らはラテン人の陣営を不意に襲撃したるが、かえってみずから逆に奇襲せられてたおる。彼らによって殺されたる者たちは埋葬せられ、彼らの首はトロイ人の陣の前に梟木(きょうぼく)せらる。

エウリュアロスの母の悲嘆。敵の連合軍トロイの陣を襲う。ウェルギリウスその騒擾を説明するため歌神カリオペーを招請す。塔の倒壊と両軍死傷の序曲。アスカニウスの火の洗礼。彼敵手をたおす。パンダロスとビティアースの兄弟、敵に挑んで軍門を開く。ビティアース倒る。パンダロス退却し、付き入りたるトゥルヌスを陣内に閉じ込む。トゥルヌス彼を殺す。しかれども味方を引き入れえざれば、ついにはげしく圧迫せらる。ムネーステウスとセレストゥスを中心としてトロイ人ら盛り返す。トゥルヌスは河に飛び込み、苦みながら泳いでのがる。


第九巻

さて、遠く隔たりたる土地にて、かかる事の行われてありけるひまに、サートゥルヌスの娘ユーノーは、イーリスを勇敢なるトゥルヌスの所へ、使いに天降(あまくだ)す。その時、たまたまトゥルヌスは先祖ピールムヌスの森の中なる、浄き谷間に座りてありけり。

この者に、タウマースの娘イリスは、その薔薇色の口もて、こうぞ話しかくる。『トゥルヌスよ、汝の願いに対し、一柱の神だにあえて約束したまわざりし運勢を、見よ、めぐる月日の小車ぞおのずからもたらしぬる。

『アエネーアースは、都にも、戦友にも、艦隊にも別れ、パラーティウムのエウアンドロスの支配する領地に行きぬ。それにても足らず、彼はコリュトゥスのいと遠き町までも入り込み、そこにて農耕者の群れなるエトルーリア人の隊伍を武装さする。

『いかなればたゆたうぞ?今こそ汝の駒を、汝の戦車を呼び出だす時なれ。遅疑するなかれ。敵陣を打ち驚かし、強襲もてそれを取れ』

彼女はかく言いて、大空の方へと均勢とれる翼に身を托しつつ昇り行きて、雲の下に大いなる弧線を引く。

若き王子はこの女神を認知し、両手を星の方に差し上げ、去り行く彼女をかかる言葉もて追う。

『イーリスよ、天の栄光よ、雲よりの道を地上へ、誰かは我に汝を送り下したる?この倏忽(しゅくこつ=突如)として明朗となりたる天候は、そもいずこよりか来たりたる?天は中心より二つに分かれ、星は天空を逍遥す。武器へと我を呼ぶ汝が何者なるにもせよ、我はかくばかり大いなる予兆に従わん』

かく言いて、彼は河に往き、神々に多くの祈りを捧げつつ、流れの面より水を汲み取り、天に向かいて誓約をぞ積み重ぬる。(9-一〜二四)

さて今や全軍は、開けたる平野に進発す、軍馬に富み、刺繡したる衣服にも、黄金にも富む。

先陣はメッサープスこれを率い、殿(しんがり)をなすはテュッルスの若き子らなり、列の中央に将軍トゥルヌスあり。

あたかも、深きガンゲース(ガンジス)河の、七つの穏(おだ)しき流れもて出で立ちぬるが、やがて音もなく汪洋と流るるごとく、はたニールス(ナイル)河の平原より引き退き、やがてその河床に隠れ入る時、土を肥沃ならしむる水もて流るるごとく、彼らは静かに落着きて進む。

ここにトロイ人らは、遠く黒き塵雲の忽然として団集し、暗闇は平原の上に立ち登るを見る。

敵に面したる堡塁の上より、カイークスぞまず第一に呼ぶ。

『我が国人よ、黒き闇をなして転がり来たるこの塊は何ぞ?迅く剣を持ち来たれ、武器を出せ、城壁に拠(よ)れ、敵ぞ襲い来たる、急げや人々』

高き鯨波(ときのこえ)をあげて、トロイの人々はあらゆる門々より退き入り、城壁を守る。そは武芸にいと秀でたるアエネーアースが、その出発する際に彼らに命じたることの、かくありければなり。

すなわちもし彼のあらざる間に何事か起りたらんには、彼らは戦列を作ることも、また野戦に頼ることも、あえてなすべからず、ただ陣営と保塁もて安全なる城壁とを維持すべしとなり。

されば羞恥と憤怒とは接戦へと彼らを駆れど彼らは門を閉ざし、彼の命令を奉じ、彼らを容るる櫓(やぐら)の中に、武装して敵を待つのみ。

トゥルヌスは、出足鈍き隊列より駈け抜けて馳せたれば、二十騎の精兵を従え、不意に城市の前に出でたり。彼を乗するは白まだらのトラーキアの駒にして、真紅の前立てしたる金の兜は彼の頭をおおう。

『若人どもよ、誰かは我と共に敵陣に一番乗りをなすべき?見よ』と彼は言い、槍を舞わして空中に投げ上ぐる。これぞ乱闘の序曲にして、彼、馬上高く駒を平野へぞ駆け入るる。

彼の戦友らは叫喚あげて彼を迎え、恐ろしく鳴り響く鯨波(ときのこえ)をあげて彼にしたがう。されど彼らはトロイ人らが、公平なる会戦をなすべき平野にあえて進出せず、また武器もて雄々しく戦うことを好まず、ただ陣営の中に固く籠りてあるにぞ、彼らの魂のいかに臆病なるかと驚き呆るる。

トゥルヌスは、心いらだちつ、城壁のまわりをかなたこなたと乗り回して、道なき所に入り込む道を尋ぬめり。

そはあたかも、狼の風雨を忍び、真夜中に羊の欄(おり)に餌を漁りつつ、羊に満ちたる畜舎に対し邪悪のたくらみして、子羊らは安らかに母獣の下に啼きてあるとき、彼は怒り狂い、猛々しくわが手の届かぬ者に向かいて荒れすさび、長き間に力を増したる凶暴なる飢えと、血に渇したる咽喉とは彼をさいなむがごとし。

まずかくぞルトゥリー人にも、彼が城壁と陣営とな睨むままに、怒りはますます熱し来たり、いかなる方法にて進入を企て得べき、いかなる手段にて籠りたるトロイ人を、彼らの塹壕より追い出して、平野に流れ出でさせ得べきと考うるままに、苦悩は彼のたくましき胸の中に燃え上る。

たちまち彼は、周囲を保塁と河の流れとに守られて、陣営の側近く隠されたる艦隊を襲撃せんとし、その命令に驚喜する戦友らに焼き打ちを命じ、みずからの魂も赤熱して、燃え立つ松明もて手を充たす。

そのとき彼らはみな熱心に軍務にいそしみ、トゥルヌスの眼の前にあることに心励まされ、若人たちはみなうち煙る松明を手に手に取る。彼らは近傍の炉を掠め取り、うち煙る松明は薄黒き光をあげ、火の神ウォルカーヌスは輝く塵炎の塊を、星まで渦巻き昇す。(9-二五〜七六)

我に語れ、ムーサたちよ、いかなる神のトロイ人よりかく無残なる火を退けたるか?船よりかかる激しき炎を何人が追い払いたるか?その事件についての信は古きものなり、されどその高き噂はとこしなえなり。

アエネーアースが、はじめプリュギアのイーダにて艦隊を造り、大海を帆走り越えんと用意してありし時にあたり、ベレキュントゥス山の神々の母キュベレーみずから、偉大なるユピテルにかかる言葉もて話しかけたりという。

『わが子よ、汝がいとしき親の、オリンポスに君臨する汝に求むなるこの願いを聴きいれよ。われに多くの歳月馴染みたる松の林あり。そのイーダの山の頂きには聖なる森ありて、黒き松と楓の幹ともて暗く、人々はつねに犠牲をここにもたらしたり。

われはこの木々をば、トロイの公子アエネーアースが艦隊を必要としぬるとき、喜んで彼に与えぬれど、今ぞ悩ましき心配の悲しくもわれを苦むる。このわが危惧を救い、汝がこの親の求むるままに、われにかくばかりの力を持たせ、艦どもをいかなる航海にも砕かれず、嵐にも亡ぼされず。その艦材の我が山の上に育ちぬることの幸を知らしめよ』

彼女に、宇宙の星の動きをも司るというなる彼女の子は答う。

『母よ、いずこに汝は運命を呼ばんとするや?はた汝が祈りもて何を求めんとするや?限りある命の人の手にて造られたる船の、いかで不滅の力を持ち得べき?アエネーアースこそ世に定めなき危険を、安らかに通り得べしとや?いかなる神なればかかる力の許さるべき?

『否とよ、むしろ彼らがその役目を果し、やがてその航海の果てなるイタリアの港に着きたるとき、波浪をしのぎ、トロイの長をラウレントゥムの野に運びたる、いかなる船にもあれ、その船より我は限りある命の性を取り除き、大海の女神となし、あたかもネーレウスの娘ドートーやガラテーアが、胸もて泡立つ海を切り行く姿のごとくならしむべし』

彼はかく言いて、彼の言葉をその兄弟のステュクスの流れにより、真暗き渦紋なして激しく流るるその両岸によりて確かにし、ここに点頭(うなずき)し、その点頭によりてオリンポスをことごとく打ち震わしめぬ。(9-七七〜一〇六)

さてここにその約束の日は来たり、運命の女神たちは定めの時をぞ満しける。そはトゥルヌスの加えんとする害悪に対し、神々の母が、その聖なる船どもより、松明を取り除くようになしたる時なり。

この時、まず不思議なる光、彼らの眼前に輝き、大いなる雲、東の果てより大空を漂い渡るが見え、イーダの合唱隊も現れつつ、そのあとより恐ろしき声、空中を通して天より落ち、トロイ人の軍勢とルトゥリー人の軍勢とに充ち渡りぬ。

『わが船を護らんとて、トロイ人たちよ、な急ぎそ。手に武器を取るべき要もなし。トゥルヌスには、このわが聖なる松の木を焼くことを許さるるより先に、海を焼くことをこそ許されん。こころのままに行け、汝らは海の女神として行け。これぞ神々の母の意志なる』

さなり、見よ!たちまち船は銘々その大索を岸より断ち切り、海豚のごとくその舳先を水中に潜らせ、水の深みに分け入りぬ。そこよりは——驚くべき不思議よ——先に磯辺にありし黄銅の舳先と同じ数の、乙女の顔浮び来たり、海上を徘徊す。(9-一〇七〜一二二)

ルトゥリー人たちは、いたく心を打ち驚かされ、メッサープスすら、その馬の恐れぬるままに、激しき怯えに打たれつ。ティベリス河もまた低く唸りながら立ち淀みて、その流れを海より呼び戻すらし。されど大胆なるトゥルヌスは自信を失わず、かつ彼は言葉もて彼らの魂を高揚し、かつ彼は部下を叱咤す。

『この不吉なる前兆は、トロイ人らに向かうものなるぞ。ユピテルみずから、彼らより、彼らの慣れにし助け(=船)を奪えるなり。彼らはその船を失うにルトゥリー人の武器をも火をも待つ要なし。されば海はトロイ人に閉ざされて、彼らには何ら逃走の望みなし。

『世界の半分は彼らに失われたり。しかも陸地は我らの手にあり。イタリアの国民がかくも無数に、彼らに対して武器を取る。よしやプリュギア人らが、神々の託宣をば己の味方と誇るとも、我はその神々の不吉なる神託を恐れじ。

『トロイ人らが、豊かなるイタリアの野に上陸したる事だけにて、運命とウェヌス女神とには、十分に報いられたり。しかるに我はまた、わが婚約の妻をば奪われぬれば、剣もてこの呪われたる種族を、全く滅ぼすべき運命の我にあるなり。

『汝らトロイ人の与うるかの苦痛(=女を取られた恨み)は、アトレウスの子らのみに感ぜらるるにあらず。はた武器を取り上ぐることを許されたるは、ミケーネのみならず。ああ!されど破滅は一度にて足ると人は言わん。されど我は言わん、否、むしろ罪を犯すことは一度にて足ると。ただ彼らはいまほとんどあらゆる女性を憎むことを知るべきなり。

『彼らにはただ死より僅かなる隔てとなる中間の塁壁に対する信頼と、塹壕による落城の日延べとが、勇気をぞ与うるなる。しかも彼らは、ネプトゥーヌス神の手によりて建てられたるトロイの城壁の、炎の中に沈み行くを見ざりしや?

『いでや、わが精兵らよ、汝ら誰か武器もて城壁を切り崩し、我と共におびゆる敵の陣営に乗りいらんとはする?かかるトロイ人らに立ち向かうに、ウォルカーヌスの武器も千艘の船も我に要なし。

『エトルーリア人たちもみなただちに彼らと結ばしめよ。この度の戦いには彼らは夜の闇も、はた番兵の砦の頂きにて斬り殺され、卑怯にもパッラディウムの盗み去らるることも、恐るる要なし。なおまた我らは身を馬の暗き腹中に隠すことをせじ。

『真っ昼間、公然と、彼らの城壁を火もて囲まんと我は心を定めたり。彼らは、ヘクトルのために第十年目までも支えられたる弱きギリシア人やその若人たちが彼らの相手ならぬことを思い知るべし。

『はや今日の昼間は大かた過ぎ去りしことなれば、わが勇士たちよ、すでにかち得たる成功の後、今日の残れる時の間、汝らの身体を休養し、次の戦さの準備されつつあるを期待せよ』

その間に番兵もて門々を封鎖し、火もて城壁を取り巻くことぞ、メッサープスに命ぜらるる。

七を倍にしたるルトゥリー人たち、兵をもって城壁を監視するために選ばる。しかも彼らの各々には、猩々緋(しょうじょうひ=深紅)の兜の前立と、金の甲にてきらきらと輝く、百人ずつの若武者従えり。

彼らはかなたこなたと巡視をなし、互に交代し、芝生の上に身を伸ばして、快げに杯を挙げ、黄銅の大盃より長飲す。あたりには火の光ぞ燃え盛り、夜を徹して寝もやらず、時は警戒と遊楽の中に過ごされ行く。(9-一二三〜一六七) かかることどもを、トロイ人らは城塁の上より見下ろし、武器もて高き塁壁を固めつつ、また危惧しながら門々をよく調べ、橋と堡塁とを結び付けなどす。

武器は彼らの手に取られてあり。油断なく指図するは、ムネーステウスと心鋭きセレーストゥスなり。彼らこそ父アエネーアースが、もし一旦危急の彼らを要する場合には、若人の指揮者たり、事態の支配者たれと指定したる者どもなれ。城壁に沿いて全軍は、くじによりて危険を分担しつつ、見張りをなし、代わるがわる進んで銘々にかかる務めを果す。(9-一六八〜一七五)

門を守るニーソスは、ヒュルタコスの子にて、まさしく武器の雄なり。この者は女猟人なるイーダ(ニーソスの母)が、アエネーアースの供に遣わしたる者にて、投げ槍にも軽き矢にも鋭し。

彼の側には僚友エウリュアロスあり。彼よりも美しき者、アエネーアースの部下の中になく、またトロイの武具着けたる者の中にもなし。いまだ少年にして、その剃刀を当てたることなき頬には、今やいち早き青春ぞ芽生えたる。

一つの愛をこの二人は感じ合い、もろともに合戦へと突進す。その夜もまた彼らは番に立ち、共に一つの門を守りぬ。

ニーソスはいう。『エウリュアロスよ、神々が人間の魂にこの熱情を吹き込むなるか、あるいは人各々に己の強き熱情が神となるものなるか?わが魂は戦さかまたは何か大いなる計画を立つることをこやみもなく我に勧め、静かなる休らいに絶えて満足せず。

『これらのルトゥリー人たちが、現在の形勢にいかなる自信を持つかは、汝も知る。彼らの火はまばらにして、みずからは眠りと酒とに埋ずもりて横たわり、あたりは全て物音もせず。されば今わが思案することを、すなわちいかなる考えの今わが心に湧き上るかを聞け。

『アエネーアースを呼び戻せよ、彼に情報をもたらすために人を遣れとは、平民も元老も一同の熱心に要求するところなり。もし彼ら、われが汝のために要求する報酬を約束するならば——されど我みずからには、その振る舞いに伴う名声にて十分なり——我行かん。我にはそこなる土丘の下にパッランテーウムの城壁と堡塁とへの道を見出し得べしとぞ思わるる』

大いなる名誉心に駆らるエウリュアロスは、打ち驚きつつ、ただちに心激しき友にこうぞ話しかくる。

『我を、さらば、汝はかくばかりの冒険に、汝の同行者とすることを避くるにや、ニーソスよ?われ、汝をただ一人にてかかる危険に赴かしめ得べしとなすや?

『わが父、戦さに物馴れたるオペルテースが、ギリシアの脅威とトロイの苦難の中にて、我を養い訓(おし)えたるは左にあらず。なおまたわが貴きアエネーアースとその究極の運命とにしたがいて以来、汝の僚友としての行為もしからず。

『ここには実に、生命を侮る魂のあるありて、そは汝が熱望するがごとき名誉をば、生命をもって安く買い得ると信ずるなり』

ニーソスは答えていう。『われまことに汝に対してかかる恐れを抱きたるにあらず。またかくなすべきにあらず、決してしからず。わが言うことの確かなるごとく、しかく確かに、偉なるユピテル神にても、いかなる神々にても、わが企つることを好意ある眼もて見そなわす神が、我を勝ちて汝のもとに帰らしめたまえとこそ。

『されどもしあるものが––いかに多くの危難のかかる冒険に伴うかを汝は知る!——機会にもあれ神にもあれ、もしあるものが我をさかしまなる方へ引きたぐりて行くならば、我は汝を生き残りてあれとぞ願う。汝の年齢こそ我にまさりて生くるにふさはしけれ。

『わがしかばねを戦場より奪い、またはそれを買い戻して、土に収むる者のあれかし。もしまた我らの例の運命が、それ程のことは許さずとも、少くとも見出ださぬ死体にも葬送の儀式を備え、墓石を建つるほどのことは許せよとこそ。

『願わくは我をして、汝の幸なき母の大いなる悲しみの種とならしむるなかれ。彼女は、若人よ、多くの母親たちの中にてただ一人あえて汝に付き添い、シチリアの偉なるアケステースの城壁をも眼中に置かざりし者ぞ』

されど他は言う、『汝、空しく無益たる理由を織りなすのみ。わが決心は今や少しも退転することなし。いでや急がん』ただちに彼は番兵を起し、番兵らは彼と交代し、その役目を守る。彼みずからは、持ち場を去り、ニーソスの僚友として同行し、彼らの王アエネーアースを尋ねんとす。(9-一七六〜三二三) 全世界の他の生きとし生ける者は、眠りによりて心労を緩め、その心は労苦を忘れてあり。されどトロイ人たちの主だちたる人々、選ばれたる若人の一団は、いかにせばよけん。何人をばいま使者としてアエネーアースの所に遣るべきと、国家の重大事件について会議す。

彼らは長き槍に凭(もた)れ、盾を手にし、真ん中にある広場に立てり。その時ニーソスとエウリュアロスとはもろともに、忙わしくかつ敏捷にそこに入ることの許しを請う。

用件は重要にして、しばらく会議を延ばすべきほどのことなりと、彼らは言うなり。ユールス、まずこのあわただしき若人たちを迎え、ニーソスに命じて語らしむ。

ここにおいてヒュルタコスの子ニーソスは言う。『聞けよ、いで、偏よらぬ心もて。汝らアエネーアースの部下の人々よ、なおまた我らの申し出づることを、我らの年齢によりて判断することなかれ。

『ルトゥリー人は眠りと酒とに正体なく音も立てず。われらはみずから我らの密かなる計画に適する場所を見つけたるが、そは海に最も近き門の傍らの、二股道のところに開けてあり。

『そこには夜番の篝火の絶え間ありて、黒き煙、天へと立ちのぼる。もし汝ら、我らにアエネーアースとパッランテーウムの城塁とを見出すため、運命を試みることを許すならば、やがて汝らは、大殺戮をなしたるのち獲物を積みて、我らが帰り来たるを見ん。

『なおまた我らは旅するとき、道を失うことは決してなかるべし。そは我らが暗き谷間に狩りするとき、町の端々を見、かつ河をばことごとく探検したればなり』

その時、年齢も重ね、思慮も熟したるアレーテスはいう。『トロイを永遠に守らせたまう我が国の神々よ、汝らはついにテウクロスの民を全く滅ぼし去らんとはしたまわじ。さらずば、いかでこの若者たちの、かく勇敢なる心、かく思い定めたる胸をば我らに与えたまうべき』

かく言いて彼は、二人の肩と右手とを抱き、顔と頬とを涙に濡らしぬ。彼は続けていう、

『いかなる償いが、いかなるふさわしき報酬が、勇士たちよ、汝らのかかる徳行に対して致さるべきかを我は考え得んか?まず第一には神々と汝らの良心が、汝らに最も立派なる償いを与えん。次には忠直なるアエネーアースと、かく大いなる功績を決して忘るることなき歳若きアスカニウスとぞ、ただちに汝らにその報酬を与うべし』

『否とよ、その安穏の希望はことごとくかかりて、我が父の帰還にあるなる我は、汝らに』とアスカニウスはアレーテスの言葉を継ぐ、『ニーソスよ、我は偉なるペナーテース神と、アッサラコスのラール神と、古きウェスタの神殿とによりて、汝らに切望するなり。いかなる我が運命をも、いかなる我が信頼をも、我はことごとくこれを汝らの膝に置く。

汝らわが父を呼び返して、彼を再び我に見せしめよ。彼をだにここに取り戻しなば、悲しむべきことさらになし。

『我は汝らに純銀にて造り、模様を浮き彫りしたる一対の杯を与うべし。こはわが父がアリスバ(小アジアの町)を征服したる日に取りたるものなり。また三脚台一対、黄金二大タレント、シドンの女ディードーの贈り物なる古き大杯をも。

『されどもしイタリアを占領し、征服者として王笏を手に収め、分捕品をくじにて定むるごときことしも我らに起らんには、汝もすでに見たる、トゥルヌスの乗馬、彼の着たる黄金造りの鎧、その馬、盾も、猩々緋の兜の前立ても、みなくじ引きより取り除けて、ニーソスよ、はや汝の褒賞たるべし。

『なおわが父は汝に、六を倍したる数の選り抜きの美女と、捕虜と、その銘々の所有する品物と、これに加えてラティーヌス王みずからの領土とを汝に与うべし。

『汝を、実に尊敬すべき少年よ、いと近き隔たりもてわが年ばえを追う汝を、今すらも我は全心をもて抱擁し、いかなる危難にも、我が戦友として伴わんとぞ思う。わがなす事にして、汝なくして何らの誉れも求めらることあらざるべし。平和の時にもあれ、戦いの時にもあれ、我は行いにも言葉にも、この上なき忠誠を汝に対して持たんとぞ思う』

この人に、エウリュアロスはかく答えいう。『いつの日とてもかく勇ましき企てに、我の相応しからぬを証することなかるべし。ただ運命の幸いして、逆(さかしま)ならぬことをこそ願え。

『されど、あらゆる賜物にまさりて、我は汝に一つの恩寵をぞねがう。我に一人の母あり、古きプリアモスの族なり。幸なくも、彼女はイーリウムの土地にとどまらで、我と共に去り、偉なるアケステース王の町にもまたとどまらず。

『この度の冒険がいかなるものにてもあれ、我はこの冒険を母に知らせず、われは母に告別せずして彼女を残さん——夜と汝の右の手と、わが証人たれ——こはわが母の涙を見るに得堪えぬゆえなることの。

『されど願わくは汝、わが頼りなき者を慰め、わが後に残す者を助けよ。あわれ、この願いを汝にかけ得させよかし。さらばわれ一層大いなる勇気もて、いかなる危険にも赴かんとぞ思う』

彼らの魂は揺り動かされ、ダルダノスの子孫らは涙をそそぐ。なかんずく美しきユールスぞ何人にもまさりて泣き、かつその魂はおのれみずからの父に対して保てる愛の回想によりてぞ動かさるる。その時彼は言う。

『汝の大いなる企てに相応しきものは、すべて確かに期待せよ。汝の母はわが母たるべく、ただクレウーサという名を持たぬばかりなるべし。そはかかる子を持つ者に対しては少からぬ感謝のあるべければなり。

『この行為の結果がいかになるとも、わが父がいつもそれにかけて誓いなれたる、このわが頭にかけて我は誓う。汝が成功して帰りたるとき、汝にいま我が約束するものはみな、そのまま汝の母と汝の族とに適用せらるべし』

彼は涙ながらにかく言い、同時に肩より黄金を被せたる剣を取る。そはクレタ人リュカーオーンの驚くべき熟練もて細工したものにして、象牙の鞘に合うように作りなしたり。

ムネーステウスはニーソスに、毛深き獅子より取りたる毛皮を与う。忠実なるアレーテスは彼と兜を交換す。ただちに彼らは武装を整えて進発す。彼らが出で行くままに、首領たちの全団体は、若きも老いたるも祈願もて城門まで見送る。

なお美しきユールスは、歳にも優りて雄々しき魂と、大人らしき思慮とを持ちたれば、彼の父親にもたらすべき多くの伝言をなす。されど風はそれをみな吹き散らし、いかにも空しく雲に付するばかりなり。(9-二二四〜三一三)

彼らは進んで塹壕を過ぎ、夜陰を通して恐ろしき陣営の方へと進み行く。彼らはみずから打ち死にするより先に、敵の多くの者どもに破滅を与うる者とならんとするなり。

彼らの見たるは眠りと酒との中に入り乱れて、草原の上に伸びたる人々の身体、海岸に棒を真っすぐに立てたる戦車、その輓き綱と車輪の間なる兵士、武器と酒杯などの、ことごとく混雜して横たわれるあり様なり。

ヒュルタコスの子ニーソスはまずかくいう。『エウリュアロスよ、我らは右手もて勇ましき振る舞いをなさざるべからず。今や機会わ我らを招く。ここに我らの道あり。汝は背後より敵軍の襲わぬよう、番士となりて遠く見張れ。我はここらをことごとく無人の里となし、その大道にて汝を導かん』

彼はかく言いて、声を止めつ。ただちに傲れるラムネースを剣もて襲い打つ。彼はその時たまたま高き寝台の掛布の上に身を持ち上げ、胸一杯の眠りを息吹き出しつつあり。

みずから王にしてトゥルヌス王にも寵愛せらるるト師なるが、禍をばト占によりてみずから避くることをば得ざりけり。

この者の傍らにて、武器の間になおざりに打ち臥したるその三人の家来と、レムスの鎧持ちと、馬の間に見出だせる戦車の御者とを襲い、彼らの垂れたる首を剣もて斬る。

次に彼らの主人の頭を切り落し、胴は血潮もて喘ぎ鳴るままに任す。地面と彼らの寝床とは黒き血もて温かに濡れひたりたり。なお進んで彼は、ラミュルスとラムスと、また若きセルラーヌスをも斬り殺す。

セルラーヌスは面貌いと美し、その夜はことに勝負事に耽りけるが、おびただしき神(=酒)に手足をおさえられて眠りける。もし彼にして夜もすがら勝負事を続け、夜の明くるまでもそれを延ばしたらんには、仕合わせなりけんものを。

あたかも飢えたる獅子の、狂えるごとき空腹に迫られ、豊けき羊の欄(おり)を騒がし、弱き、恐怖のために声も得出ださぬ羊の群れを引き倒して食らいつつ、血まみれなる顎もて荒れ回るごとく、エウリュアロスの行いたる殺傷も決してこれに劣らず。

彼もまた満身火のごとく、陣営をあばれ通り、手あたり次第に名も知らぬ大群集に襲いかかる。ファードゥスに、へルベーススに、ロエトゥスに、アバリスに、何も予想せざる彼らに。

ロエトゥスは目覚めてあり、この事をみな見たるままに、恐れて大いなる混酒器の後ろに身を避くる。彼の立ち上らんとしたるとき、トロイ人は近々とその剣を彼の胸に刺し埋ずめ、多くの血潮に染まりたるそれを再び引き抜く。

彼は血潮の流れに紅なる命を注ぎ出し、死にゆくままに血と交りたる酒を噴き出だす。勝利者エウリュアロスは熱心に、その密かなる仕業をぞ進め行く。

さて今や彼はメッサープスの一党の方へ近付くに、そこらには消えかかりたる火の、衰え行くが見え、程よく繋がれたる馬どもは、草を食みつつあり。

その時、ニーソスは簡単に言うー–そは己らが余りに血に渇し、逸り過ぎたることを感じたればなり––『我ら控えん、進退に不利なる暁も近づきたれば。罰ははや十分なり。道は敵の中を通して造られたり』

倒されたる人々の銀製の多くの武具を、彼らは後に残す。大杯も、美しき毛氈(もうせん)などもまた。

エウリュアロスはラムネースのものなる馬飾りと、黄金の鋲打ちたる革帯とを取り去る。これらの賜物は、いと富みたるカエディクスが、かつてティーブル(現チボリ)のレムルスに贈りたるにて、彼らは一度も出会わねども、友情もて結び付けられてありしなり。

レムルスは死に臨み、それを彼の孫に残しぬ。彼の死後、ルトゥリー人らは、戦争によりてこれを手に入れたり。今やエウリュアロスは、これらの武器を奪い取り、彼の雄々しき肩に着けれども、その甲斐ぞなき。

その後彼はメッサープスの兜を着る。こは被るに軽く、羽毛の飾りしたり。彼らは陣営を出で、安全と思わるる場所まで逃げ延びんとぞ努むる。(三一四––三六六) その間に、ラティーヌスの町より送り出されたる騎兵たちは、他の軍勢が戦列をなして平原に止まる間に進み来たり、トゥルヌス王への返答をもたらさんとす。人数は三百にして、全て盾を持ち、ウォルケーンスを彼らの隊長とす。

さて今や彼らは陣営に近付き、城壁の下に来たりし時、遠くよりこの二人の者の、進路を少しく左に曲ぐるを見る。しかしてその兜ぞほの明るき夜の陰に、はしなくもエウリュアロスを裏切り、月の光を受けてきらきらと輝きたる。

そはただごととは見過されず、隊伍よりウォルケーンスは叫ぶ。『止まれ、汝ら。何のために旅をばするぞ?何者なれば武器を持つぞ!いずこにか行かんとする?』彼らは一言の答えもせず、ただ急いで森に逃れ、夜にたよらんとす。

騎兵たちは四方の案内知りたる間道に、つと身を投じ、番兵の輪を作りて各出口を守る。

そこに一つの森あり、広く、灌木と暗き檞と参差として、一面に荊棘(いばら)生い繁り、山路は隠され、ただかしこここ狭き歩道ぞ、光りて見ゆる。

枝の暗さと捕獲物の重さとは、エウリュアロスを妨げ、恐怖は彼を道の正しき方向より踏み迷わしむ。

ニーソスは身を逃れ、今や遠き慮りもなく、敵をも、後日アルバの名によりアルバヌスと呼ばるる場所をも打ち越えて、我が身は安らかなりけり。その当時にはラティーヌス王、そこに高き厩(うまや)を持てり。

彼が立ち止り、そこにあらぬ友を空しく振り返りし刹那、彼はいう。『不幸なるエウリュアロスよ、いずれの場所にか我は汝を残したる?はたわれは再び迷いやすき森の錯綜したる道を後戻りして、汝を見出すために、いずれの方に行くべき?』

彼はただちに自己の足跡を、心を留めてたどり見つつ、立ち帰らんとし、黙せる森の繁みの中をさまよう。

彼は馬の嘶きを聞き、騒がしき物音を聞き、追跡者の合図を聞く。そはただわずかなる時の間なり。一の絶叫彼の耳に入り、彼はエウリュアロスを見る。

今や立場にも夜にる裏切られて、力を失い、努めつくせども何の甲斐なき彼をば、一団の人々たちまち立ち騒ざ、引き捕え行くなり。

彼は何をかなすべき?いかなる力もて、いかなる武器もて、彼はこの若人を救い出ださんとあえてすべき?彼は必死を極めて敵の真ん中に突進し、多くの手傷を受け、即座に貴き死を求むべきか?

腕を後ろに引き、忙わしく槍を振り回しながら、彼は天上高き月を仰ぎ、声をあげてかくぞ祈る。『汝、女神よ、汝みずから来たりて我らの困苦を助けよ。汝、諸星の栄光、汝ラートーナの娘なる森の守護神よ、

もしわがためにわが父ヒュルタコスの、汝の祭壇に捧げ物をもたらしたるならば、もしかつて我みずからが、狩猟により捧げ物を増やせしならば、またはそれをば汝の神殿に掛け、汝の聖なる屋根に結び付けたることあるならば、それに対する恵みとして、我をしてこの一団を擾乱せしめよ、しかして空中を通してわが投げ槍を導け』

彼はかく言いて、全身の力を込めて槍を投ぐ。槍は飛び出でて、夜の闇をつんざき、あちら向きなるスルモーの背に立ち、そこにてぽきりと折れ、木の柄は裂けたれど、穂先は胸を抜きとおる。

彼は胸より熱き血の流れをそそぎ出しつつ、冷たく伏しまろび、その脇腹をば、深く引きたる啜り泣きのように打ち震わす。

彼らは驚きて四方を見回す。これに励まされて、見よ!再び彼は耳の上より、第二の投げ槍を構う。

彼らが心迷いてある間に、槍はぶんと唸りてタグースの両方のこめかみを貫き、血に温もりつつ、射ち通したる脳髄に固く立ち止る。

ウォルケーンスは激しく荒れ狂えど、いずこにも投げ槍を射ち出だしたる者は見当らず。されば怒れるままにいずこに復讐心を向くべしとも知らず。彼はいう、

『汝こそ、されど、汝の温かき血もて、二人に対する罪の償いを我になすべきなり』ただちに彼は剣を抜き放ち、エウリュアロスめがけて駈け向かう。げに、その時、ニーソスはいたく打ち驚き、心狂いて叫ぶ。彼ははやこの上暗きところに身を隠してあることも、またかかる恐ろしき苦悩に耐ゆることもなし得ず。

『我ぞ!我ぞ!その事をなしたる我ここにあり。我に汝の剣を向けよ、ルトゥリー人たちよ、あらゆる罪は我にこそあれ。その者は何事もなさんとせず、またなし得ざりし。われはこの上天を、また照覽する諸星を証人に呼ぶ。彼のただ一つの過ちは、不幸なる友をあまりに愛したることにこそあれ』

彼はかく言いぬ。されどすでにウォルケーンスが力を籠めて突き立てたる剣は、彼の友の脇腹を刺し貫き、その美しき胸を裂く。エウリュアロスは倒れ死し、血は彼の美しき四肢の上を流れ、彼の首は垂れ沈み、肩の上にもたれかかる。

あたかも艶なる花の、鋤に切り倒されて衰え萎む時のごとく、はた罌粟の花の、たまたま雨の重さにおされ、力なき首もて頭を垂るる時のごとし。

されどニーソスは人々の真ん中に突進す。多くの人の中にも彼はただウォルケーンスのみを狙う。ウォルケーンス一人のみに、彼の心はかかれるなり。

敵は彼の周囲にひしひしと集り、かなたこなたに彼を押し戻す。彼は少しも劣らぬ熱情もて押し進み、閃く剣を振り回して、ついにそれを打ち叫ぶウォルケーンスの口の中に、正面より刺し埋ずめ、みずから死につつ、敵の命を奪う。

その時、彼は我が身を命なき友の上に投げかけ、多くの手傷に刺し貫かれて、ついにそのまま静かなる死にぞ休らい入りぬる。(三六七ー–四四五)

あわれ幸あるこの二人よ!もしわが歌のいくばくにても力あるものならば、アエネーアース家が、カピトーリウムの動かぬ巌の側に住み、ローマの父が王権を保つ限り、いかなる日も汝らを時代の記憶より奪うことあらざるべし。(9-四四六〜四四九)

打ち勝ちたるルトゥリー人たちは、掠奪と分捕りとの主なれど、また嘆きの主にして、死せるウォルケーンスを陣営にぞ持ち帰りける。

陣営においてもラムネースの死を見出で、また隊将たちのセルラーヌスもヌマも同じように斬り殺されてありし時、彼らの嘆きはこれに劣らず。

大いなる人々の群れ彼らの死体と、半死の人々と、新たなる殺傷によってなお温かき場所と、泡立つ血に満ちたる小川とに押し寄す。

彼らは互に分捕りの品々を示し、メッサープスの輝かしき兜を、はたかく大いなる労苦もて取り戻したる馬飾りを認知ぞすなる。(9-四五〇〜四五八)

いまアウローラは朝早く、夫ティートーヌスのサフラン色の寝床を去り、新しき光を地上に撒きはじめつつあり。

いま、太陽は光線を注ぎ出だし、いま、世界は昼の光にあらわさる。その時、トゥルヌスは、みずからも武具を取り装い、部下の人々も武器もて起たせ、各隊長をして銘々の黄銅の鎧着たる一隊を、戦いへと押し進めしめつつ、種々なる話もて部下の怒りを刺戟す。

彼らは——見るも無残や——エウリュアロスとニーソスとの首をば、差し上げたる槍に付け、大声に叫びつつ従い行くなり。

アエネーアースの健児らは、城壁の左側において、彼らの陣列を敵に面するようにす、右側は河にて取り巻かれたれば。彼らは心憂えつつ大いなる塹壕を保ち、高き矢倉に立ちけるが、

その時しも敵は、槍に着けたる二人の僚友の顔を、その幸なき友達にはあまりによく知られたる、かつは黒き血の塊に浸れる顔を、揺り動かしつつ来たりけり。(9-四五九〜四七三)

その間にも翼ある風聞は、恐慌に打たれたる町を通して羽ばたきつつ、情報もて急ぎゆき、エウリュアロスの母の耳へもいち早く入るめり。その時たちまち生の暖かさは悲惨なる親の骨肉より去り、梭は彼女の手より落ち、彼女の織糸は解く。

彼女は悲嘆の中に飛び立ち、心も狂わしく、髪を振り乱し、女のけたたましき叫び声をあげ、城壁と最前列へと突進す。

戦士たちのことも、危険のことも、投矢のことも思わずして。やがて慟哭もて天をも充たさんとす。

『かくぞ汝をわれの見るべしとや、エウリュアロスよ?汝は、わが老年のいやはての慰めなりし汝は、汝(な)が母を味気なく見放ちぬべき心を持ちぬるや、情知らぬ子よ?汝がかかる危難にやらるるとき、みじめなる親は最後の別れの言葉だに取り交わすことを許されざりしや?

あわれ汝は、異郷にて、ラティウムの犬や鳥の餌食に晒されて横たわる!なおまた汝(な)が母なる我の、夜も日も、急ぎに急いで汝がために織り、かつ織り布のあやに老のこころをまぎらせし、経帷子にて汝をおおい、汝の葬儀を営みもせず、汝の眼を閉じさせもせず、また汝の傷を洗いもせずして。

いずこへと我は汝にしたがい行くべき?はたいかなる土地の、いま汝の手足と、引き裂かれたる肢体と、切り刻まれたるしかばねとを保つべき?これぞ汝がその身より我に持ちかえる全てなるや?これぞ陸を越え海を越えてここまで我が追い行きしものなるや?

『我を刺し貫け、ルトゥリー人たちよ。もし汝らに人の心のあるならば、われに汝の投げ槍をみな放てよ。我をまず剣もて斬り殺せ。

さらずば、汝、神々の大御父よ、我を憐れみ、汝の電光もて、この憎むべき頭をばタルタロスの下にやりたまえ。その他の道にてはこのみじめなる命の綱を断ち難きに』

この慟哭は人々の精神を揺り動かし、悲しきうめき声すべての人々に起こり、彼らの力は挫け、戦うべき元気もなし。

彼女がかく悲嘆にかきくれてある時、イーリオネウスと涙に泣きぬれたるユールスとの命令にて、イーダエウスとアクトールとは彼女をとらえ、彼らの手の間に置きて家の中にかつぎ行く。(9-四七三〜五〇二)

されどラッパは遠くより、その瀏亮と響く黄銅もて、恐ろしき音を鳴り渡らせ、叫喚これにつづき、大空も反響をかえす。

ウォルスキー人(ラティウム勢)たちは、均しく盾の蔽いをならべて急ぎ進み、塹壕を埋め、城塁を引き崩さんとはするなり。

ある者は接近すべき路を探し、しかしてトロイ人の隊列の手薄にして、戦士の輪が人によりて充たされざることの明かなる場所に、梯子をかけて城壁をよじ登らんと努む。

これに対しトロイ人たちは、トロイにおける長き戦争にて城壁を防御するには慣れたる事なれば、あらゆる種類の飛び道具を投げかけ、強健なる棒をもって敵を押し落す。

彼らはまた恐ろしき重さの岩をも転ばし落す。そは盾などをかつぎ連れたる戦列を、いずこか打ち破らんと望みてなるが、しかも一方の攻撃者は、隙間なく差しかけたる盾の下にて、あらゆる損害を甘んじて忍ばんとす。

されど彼らは長く支え得ず。そは密集したる戦士の群れの押し寄せたる所に、トロイ人らが大きな岩塊をころばし、彼らの真上に押し落したればなり。岩は広くルトゥリー人たちを倒し、盾の屋根をば打ち破る。

勇敢なるルトゥリー人たちは、これ以上、盾に掩護されて戦いを継続せんとせず、飛び道具もてトロイ人を城塁より追い退けんと努力す。

他の方面にては、見るも恐ろしきメーゼンティウスがエトルーリアの松の木を振り回し、ふすべり燃ゆる松明を投げ込む。

その間に、ネプトゥーヌス神の子にして、駒を乗り馴らすメッサープスは、城塁を引き崩し、それに攀じ上るべき梯子を呼び求む。(9-五〇三〜五二四)

汝、ムーサ・カッリオペーよ、汝らに我は願う、いかなる大殺戮を、いかなる破壊を、トゥルヌスが剣もて、その時そこに行いたるか、各々の戦士が何人(なんびと)を黄泉(よみじ)に送りたるか、そを歌う我に心を添え、しかして我と共に戦さの大いなる巻物をひらけ。そは、貴き女神たちよ、君たちはよくその事をそらんじ、記憶をたどりてその事を語り得ればなり。(9-五二五〜五二九)

そこに一つの塔立てり。人々の眼のうえ高く聳え、曳き橋高うして、敵を防ぐによき位置を占めたり。これをば全てのイタリア人たち、全力をつくして強襲し、彼らの手段の力の限りもて、引き倒さんとぞ努むる。

トロイ人たちはこれに対抗し、石もて防ぎ、密集して立ち、銃眼より投げ槍を放つ。

トゥルヌス、第一に燃えさかる松明を投げ、火炎をその側面にしかと付くれば、火はいたく風に煽られ、壁板に燃えつき、すでに梁にすがりて燃えうつる。

内部なる人々は慌て恐れつ、空しく災禍より逃れんとあせる。彼らが一団となりて、毒炎のかからぬ場所に退き行かんとするとき、見よ!突然塔はその重さの下に打ち倒れ、空はことごとく大いなる破壊の音もて反響す。

大いなる物の塊は後ろより落ちかかり、己の武器に刺し貫かるるもあり、または堅き材木にて胸を抜き通さるるもあり、彼らは半死の状態にて地上に落ち来たる。

辛うじてへレーノルとリュクス(トロイ方)とのみ免れたり。彼らの中にて、へレーノルはいまだ青春の年ばえにて、こはマエオニア(リディア)の王に、その女奴隷なるリキュムニアという者の、ひそかに儲けたる子なるが、母は彼に父の禁ぜし武装をさせ、トロイにおくりし者なり。

彼はただ一振りの剣もて軽くよろおい、紋章なき盾には名誉もなし。いま彼は、数千のトゥルヌスの部下の中に己自身を見出だし、こなたにもかなたにもラテンの軍隊の差し迫れるを見たるとき、

あたかも猟人たちの厚き環列に閉じこめられたる野獣の、投げ矢に逆らいてましぐらに荒れ狂い、運命をよく知りて死にまで身を投げ出し、ひととびに猟人の槍の上に乗りかかるごとく、

それのごとくにこの若人も必死を期して敵の真ん中に突進し、武器の最も繁く見ゆるところに向かい行く。

されど遥かに足速きリュクスは、敵の間を、武器の間を、逃げのびて城壁に行き着き、今や手もて高き壁のてっぺんをつかみ、戦友の右手を握らんと努力す。

彼をば、トゥルヌスは投げ槍を手にし、足を飛ばして追いかけ、勝ち誇りてかくぞ冷笑する。『愚かなる者よ、汝は我が手より逃れ得べしと思うや!』ただちに彼は壁にぶらさがりたる敵を捕え、壁の大いなる一部と共に引き落す。

そのあり様、例えば野兎や雪白の姿したる白鳥を、ユピテル神の武器の捧持者(鷲)が、曲りたる爪もて高く持ち上ぐるがごとく、または母羊のあまたたび啼きて求め探すなる子羊を、マルスの狼が羊の欄より奪うがごとし。

鯨波(ときのこえ)は四方にあがり、彼らは攻め登りて、粗朶(そだ)もて堀を埋め、ある者は胸墻(胸壁)に燃ゆる松明を投げ上ぐる。

イーリオネウスは、おびただしき山の破片なる大岩を投げ下ろし、松明を手にして門に近づきつつあるルーケティウスを倒す。リゲルはエーマティオーンを、アシーラースはコリュナエウスを殺す。

リゲルは投げ槍に、アシーラースは人眼を避けて遠くより飛ばす矢に巧みなりき。カエネウスはオルテュギウスをたおす。トゥルヌスは勝利者カエネウスをたおす。なおトゥルヌスはイテュス、クロニウス、ディオクシップス、プロモルス、サガリス、および塔の頂上を防ぎいたるイーダースを殺す。

カピュスはプリーウェルヌスを殺す。その時まずテミッラースの槍は軽く彼をかすりぬれば、彼は愚かにも盾をおきて傷口に手を当てたるに、羽根付けたる矢の飛び来たり、手は左の脇腹に射ち留められ、内に射ち込みたる簇(やじり)は、生命の息をつく肺臓をば必死の負傷もて砕きぬ。

アルケーンス(トロイ方)の子は美々しき鎧着て立てり。彼は外套を針もて刺繡したるが、スペインの深紅色にて目映(まばゆ)きばかりに輝き、美しき容姿したり。この者は捧げ物豊かに安らけく鎮まるパリークスの祭壇のあるなる、シューマエトゥムの流れに近き母の森にて育ちたるを、父アルケーンスの送りつるなり。

メーゼンティウスはみずから槍を捨て去り、三度頭のまわりに、撚り糸もてひょうひょうと鳴る投放器を振りまわし、溶けかけたる鉛丸(なまりだま)もて敵の頭蓋骨の中央を割り開き、彼をば広き砂上に長々と伸ばしぬ。(9-五三〇〜五八九)。

これまではただ走り逃ぐる獣らを驚かすばかりに慣れたるアスカニウスも、この時初めてその速き矢を戦さに向け、彼の手もてレムルスと仇名(あだな)する勇敢なるヌマーヌスを倒したりとぞ。

これは近き頃トゥルヌスの妹を花嫁としたる者なり。彼はここに語るに値すること、値せぬことをわめきつつ、新しく得たる権勢に胸を膨らませながら、最前列の前に歩み出で、騒がしくののしりてみずからを偉大なる人物と誇示せんとす。

『再度捕虜となりたるプリュギア人らよ、またも囲まれて城壁の内に閉じこめられ、城塁にて死を遮るを恥ずかしとは思わずや?

『見よ、彼らぞ戦さにより我らの乙女を求むるという者どもなる!いかなる神の、またはいかなる狂気の、汝らをイタリアへ駆りたるや?ここにはアトレウスの子らも、また言葉さかしきウリクセースもあらず。

『我らは生れながら強健なる種族にて、生児(うぶこ)をばただちに河に連れ行き、恐ろしく冷たき水にて彼らを丈夫にするなり。我らの少年は狩猟のため夜も眠らず、森を駈け悩まし、馬を馴らし、弓矢を射るは、彼らの遊戯なり。

『次に我らの青年は労苦に堪え、欠乏に馴らされ、鍬をもって土を征服し、戦さをもって町を震憾す。

『生涯のいずれの時期にも鉄の使用に離れず(?)、槍を裏返して軍馬の背を突く。鈍き老年も我らの魂の力を弱めず。はた我らの元気を変ぜず。

『我らは半白の髪を兜もて抑え、つねに新たに取りたる分捕り品を運び来たり、その獲物にて生活するは我らの喜びなり。

汝らは、胴衣をサフラン色に染め、けばけばしき紫の刺繡を施し、心に親しむは怠惰、楽しみとするは舞踏に耽ること、汝の襦袢には袖あり、汝の頭帕にはリボンあり。

ああ、汝らはまことにプリュギアの婦女子にして、プリュギアの男子にすらあらず。高きディンデュムス山を遍歴せよ。そこにては常連なる汝らのため、管笛(くだぶえ)は二重の音を立つるなり。イーダエアの母(キュベレー)の羯鼓(かっこ=タンバリン)とべレキュンティア式の笛こそ汝らを呼ぶなれ。武器は男児に渡して、鉄の使用より身をしりぞけよや』(9-五九〇〜六二〇)

彼がかく大言を吐き、恐ろしき侮辱を言いかけてありしとき、アスカニウスは彼を忍ぶべくもあらず。彼の方にうち向かい、馬の毛の弦糸に矢を当てて、両腕を差し伸しつつ、足をしかと踏みしめ立ちけるが、まず祈願者としてユピテル神に誓い祈りける。

『あわれ全能の神ユピテルよ、我が胆太き企てを守りたまえ。我は手ずから神殿に厳(いつく)しき捧げ物をもたらし、祭壇の前には、すでに角もて突き、足もて砂をかき乱し始めたる、真白にして母にも劣らず丈高き閹牛(去勢牛)の、角には黄金着せたるを奉るべし』

大父神は彼の祈りを聴き、大空の晴れたる所より左方に雷を轟かしたまわば、それと同時に命取りの弓は高鳴り、胸まで引かれたる矢は恐ろしき唸りをあげて飛び行き、レムルスの頭を貫き、鉄の簇もてこめかみの凹みを貫きとおす。

『いざ、傲慢なる語もて武勇を嘲れよ。二度捕虜となりたるプリュギア人らは、この答えをばルトゥリー人らに送り返すなり』

アスカミウスはこれ以上何も言わず、トロイ人らは叫喚もて彼の言葉を継ぎ、歓喜のどよめき高く、彼らの元気を天までも打ちあぐる。

その時、長髪を打ちなびかするアポロン神は、たまたま雲の上に座し、高き空の領よりイタリアの戦線と町とを見下ろしてありけるが、かかる言葉もて勝ちたるユールスに話しかくる。

『わが子よ、汝のこの若々しき勇気もて進め、これぞ天への道なる。あわれ神々の子にして、神々の親となる者よ、運命によりてまさに来たるべき全ての戦さの、アッサラコスの族の下に、平和に鎮めらるるは、まことにその正しきに叶えり。トロイは汝を容るるに足らず』

かく言い終わるやいなや彼は、高き大空より降り、そよ吹く風を分け、アスカニウスの所へと飛び行く。その時彼は容貌を老いたるブーテースのものに変ず。

この者ははじめトロイ人アンキーセースの鎧持ちにして、かつ宮門の忠実なる番人なりしが、後にはアスカニウスの父より、従者としてその子に与えられたる者なり。アポロンは、声も、顔色も、白き髪の毛も、激しく鳴る武器も、みなことごとくこの老人に似せつつ進み行き、かかる言葉もて、熱せるユールスに話しかくる。

『アエネーアースの子よ、汝みずからは傷つくことなく、汝の矢もてヌマーヌスが倒れしことに満足せよ。偉なるアポロンは、最初の功名としてこれを汝に許しつ。彼みずからの得意の武器を汝に妬まず。この外は、少年よ、戦いを慎むべし』

アポロンはかく説き始めて、たちまち言葉を切り、人眼を去りて、人間の視界より遠く遠く、薄き空中に消え入りぬ。

トロイの隊長たちは、この神を、その天つ矢を知り、去り行くままにがらがらと鳴る箙の音を聞く。

かくて人々は、ポイボス神の言葉と出現とにいましめられて、戦わんと切望するアスカニウスをば引きとめつ。彼らみずからはまた戦闘に立ち返り、彼らの命をあからさまなる戦いの危険に曝す。

叫喚は堡塁の線に沿い全城壁に起り、彼らは強弓を曲げ、投放器を回す。投げ矢は全地に散乱し、盾やうつろの兜は、打ち当つるごとに反響をかえし、勢い猛き戦さぞ進み行く。

その激しさは、驟雨多き小山羊星の季節の頃、激しき雨、西より来て地面を打ちたたくことのごとく、その繁さはユピテル神が、南風もて物凄く、水上に暴風雨を巻き起こし、大空にうつろの雲を引きちぎるとき、雨雲の多くの雹を伴いて海上に急転直下するに似たりけり。(9-六二一〜六七一)

イーダのアルカーノルの子らにて、森のイアイラがユピテルの神苑にて養育し、彼らの国の樅の木や丘のように丈高き若人なるパンダロスとビティアース(トロイ方)とは、彼らの武器を信じたれば、隊長の命令にて彼らに任せられたる門を押し開き、みずから進みて城壁の内へと敵を差し招かんとす。

彼らは鉄をもって鎧おい、高き頭をば兜の前立てもて打ち震わせつ。門の内側に塔のごとく左右に分れ立つ、そのあり様は、二本の高き檞の木の、パドゥス河の岸ともいえ、快きアテシス河の側ともいえ、清き流れの傍らに聳え立ち、参差たる梢を大空に高め、その聳立(しょうりつ)する冠の頂きもてうなずくごとし。

ルトゥリー人らは、入口の広く開くるを見るやいなや、どっと突入せんとしけるが、ただちにクェルケーンス(ルトゥリー方)と武器美しきアクィークルス、大胆不敵のトマルス、武勇のハエモーンなど、あるいは全隊と共に潰走し、または門の入口にて彼らの命を失う。

その時、彼らの憤怒は、悲痛なる心の中に次第々々に激しくなり募る。やがてトロイ人らも同じ場所に群がり来たり、激しき接戦して、なお遠くまで進み出でんとす。(9-六七ニ〜六九〇)

大将トゥルヌスは、他の場所にて荒れ狂い、敵を搔き乱してありしが、敵は新しき大殺戮に興奮し門押し開きぬという注進来たる。彼はたちまちこなたなる目論見を打ち捨て、荒き怒りに燃え立ちつつ、トロイの門へ、驕れる兄弟へと突進す。

かくてまず彼の投げたる槍もて、テーバエ(ミュシア)の女なる母により、身分よきサルペードーンの庶子と生れたるアンティパテースを打ちたおす。そは彼ぞ第一に彼の行手に出で会いたればなり。

イタリアの山グミの槍は、うちなびく空気を通して飛び、彼の食道を打ち貫き、奥深く胸の中に入りぬ。口を開きたる黒き血まみれの傷は、泡立つ血の流れを吐き出しつ。鉄の簇は突き貫かれたる肺の臓に温めらる。

それよりメロプスとエリュマースを、次にアピドヌスを、彼の手もてたおす。その次には、眼輝き魂不敵なるビティアースをたおす。そは投げ槍をもってにはあらず——彼は尋常の投げ槍にては倒されずーーされど振り回されたる火槍の、雷電のように放たれたるが、高く唸り来たりて打ち当たれば、二重の牛皮も、二重の金鱗を重ねたる頼み甲斐ある鎧もたまらず、彼の巨大なる手足はよろめきて打ち倒れ、地面は呻吟の声をあげ、大いなる盾は彼の上に轟く。

そを例えて言わば、バイアエのエウボエアの磯にて、先に人々が大塊にて作り、海中に投げ込みたる石の柱の、時に倒るるごとく。その柱石は前方へ傾きて破壊のあとを引き、海底深く突き入りて、深く沈み、

海は攪乱し、黒き砂は打ち上げられ、そのとき高きプロキュタ島は物音に震動し、ユピテル神の命令にて、テュポエウスの上に置かれたる柔らかならぬ褥なるイーナリメー島もまた震うがごとし。(9-六九一〜七一六)

ここにおいて軍神マルスは、ラテン人たちに新しき元気と力とを与え、彼らの胸の内に鋭き刺戟を呼び起しぬれど、トロイ人たちには逃走と黒き恐怖とを送る。

今や合戦の機会の与えられたることなれば、彼らは四方より群がり寄り、軍神は銘々の魂にぞ乗り移る。

パンダロスは彼の兄弟が身体を伸ばして横たわるを見、彼らの運命の現状を知り、いかなる不運が事のなり行きを支配するかを知るやいなや、幅広き肩もて門扉を押しながら、とぼそにて引き回し、扉を回転し、多くの戦友らを城塁外に閉め出し、激しき戦さの中に残す。

されど己自身と共に味方の他の人々をも閉じ込め、走り込む者をも受け入るる。愚なる者よ!彼はルトゥリー人たちの王(トゥルヌス)が、軍隊の中に交りて闖入するを知らず、猛虎を群羊の中に入るるごとく、彼をば我が手にて町の中にぞ閉じ込めたる。

ただちに常ならぬ光、この戦士トゥルヌスの眼より輝き出で、彼の武具は恐ろしく鳴りがらめき、彼の血紅の兜の前立ては頭の上に打ち震い、彼の盾よりは閃めく光を射ち出だす。

アエネーアースの部下は、たちまち打ちおどろき、この憎むべき顔と大いなる手足とを認む。されど大いなるパンダロスは、前方に飛び出し、兄弟の死に対する怒りに燃えながらかくいう。

『ここはアマータが嫁資とせる王宮にあらず。またアルデア(ルトゥリーの首都)がその真ん中に汝トゥルヌスをその国の城壁もて囲む所にあらず。汝が見るは敵の陣営なり。ここよりいかにしても汝は逃げ出し得じ』

彼に対し微笑みながら、トゥルヌスは平静なる心もて答う。『かかれ、もし汝の心に勇気らしきもののあるならば、勝負せよ。汝はいかにここにもまた一人のアキッレースを見出したるかを、プリアモスに語るならん』

彼はかく言いぬ。相手は全力を奮い、節くれだちて荒皮付きたる無骨なる彼の槍を投ぐ。空気はそれを受け、サートゥルヌスの娘なるるユーノー女神は、惹起しぬべき損傷を外らし、槍は門扉にしかと立つ。

『されど、わが右手が力もて扱う武器を、汝は逃れざるべし。この剣を持ち、この手傷を負わする者は、汝と等しからざる故に』

トゥルヌスはかく言いて、剣を高く差し上げ、伸びあがり、鋼の刃もて両こめかみの間なる額の真ん中を、若き頬かけて大きく切り割る。

切られて倒るる音高く、大地は巨大なる重さに揺れ震う。死に行く彼は、地面に潰れたる手足と脳髄にまみれたる武具とを打ち伸ばし、その頭は真二つに切り裂かれ、こなたとかなたと両肩の上にうなだれたり。

トロイ人らは恐れおののきてかなたこなたに散る。もしこの勝利者に、わが手もて門を破り、味方を門内に引き入るる思案のただちに起りたらんには、その日ぞ戦争にも国民にも最後の日となりしならん。

されど、激怒と狂えるごとき血の渇望とは、彼を駆りて敵に向かわしむ。

彼はまずバレリスを、次にギューゲースを襲い、彼の膝の関節を断ちて追い捕えつ。彼らの槍を奪いて逃げ行く彼らの背に投げつくる。ユーノーぞ彼に力と勇気とを与えたる。

彼はなおこれらの人々にハリュスを死の僚友として付け加え、またペゲウスをも、その盾を打ち貫きて。それより、何も知らず城壁の上にいて、戦いを挑みつつあるアルカドルス、ハリウス、ノエーモーン、プリュタニスらをも斬り殺す。

リュンケウスが彼をむかえ撃たんとして、僚友たちを呼ぶを、トゥルヌスは城塁の右手より剣を打ち揮りて襲えば、彼の頭は接戦の第一打にうち落され、兜と共に遠くにぞ横たわる。

次に彼は、矢に手もて油を塗り、簇に毒を装う技術にかけては、その右に出づる者なき、野獣の撲滅者と言わるるアミュクスをたおす。またアエオルスの子クリューティウス、およびムーサ女神たちに親しきクレーテウスも殺す。クレーテウスはムーサ女神たちの伴侶にして、その心はつねに歌と琴とに親しみ、和諧の音を糸の上に調べ、つねに軍馬を、武器を、勇士を、戦争を歌いたり。(9-七一七〜七七七)

ついにトロイの隊長らは、部下の大殺戮を聞き、ムネーステウスや戦さに敏きセレストゥスなど、みな一つに集りて、彼らの戦友が逃げ散り、城壁内には敵人のあるを見る。

さればムネーステウスはいう。『次にはいずこへ、あわれいずこへ汝ら逃げんと思うや?これより外にいかなる他の城壁、いかなる他の堡塁の汝らにあるや?我が国の人々よ、ただ一人の、しかも汝らの石垣の内に閉じ込められたる敵の、町中一杯にかかる狼藉をしながら、何の報復をも受けであるべきや?

『彼は我が青年中の最もよき者たちを、かく多く死の陰に送るべきや?汝らの不幸なる国を、汝らの昔よりの神々を、また偉なるアエネーアースを、汝らは哀みもせず、恥辱も感ぜざるや、臆病者どもよ?』

かかる非難の言葉により、彼らは心を燃やし、元気を固め、密集隊を作りて立ち止まる。トゥルヌスは少しずつ戦さより繰り退き、河の方へ、河水にて取り巻かれたる場所の方へと行く。これにてトロイ人たちはますます元気づき、大いなる叫び声して彼を圧迫し、隊伍を呼び集む。

そはあたかも一匹の荒獅子を、人の群れが武器を差し向けて圧迫するに、野獣は恐れながら物凄く猛々しく睨みつつ後ずさりし、しかしてその怒りも勇気も彼に逃げ出すことをゆるさねど、またいかに心に望めばとて投げ槍と猟人との中に突進することもなし得ぬごとし。

トゥルヌスもそのごとく、ためらいつつも急ぐともなく後退し、魂は怒りにぞ煮えたぎる。

否、その間にすら彼は二度敵の中心に突き入り二度彼らの軍隊を潰走させ、城壁に沿うて逃げさせたり。

されど全隊伍すみやかに陣営より彼一人を目がけて進み来たり、なおまたサートゥルヌスの娘ユーノー女神も、あえて彼らに対して戦うべき力を彼に与えず。そは大神ユピテルが、天上界のイーリスをして、もしトゥルヌスがトロイ人の高き城壁より引きしりぞかざらんには、穏便には済ますまじき命令を彼の妹にもたらすように、彼女を天降らしめたればなり。

さればこの若武者は、盾まれ剣まれ、今迄のごとく彼らに対抗することを得ず。かくて四方より彼に投げらるる投げ槍の雨に圧倒せらる。

小止みもなくがらがらと、彼の凹めるこめかみの回りに兜は鳴り、石もてその堅き黄銅は引き裂かれ、前立ては頭より打ち落され、盾も打撃に堪えず。

トロイ人らと、電光のごときムネーステウス自身は、槍もて攻撃を倍加す。そのとき彼の全身に汗滲み出で、暗黒なる流れをなして落ち下り、呼吸する力もなく、苦痛の喘ぎは彼の疲れたる身体を震わす。

さればその時ついに真っ逆様に飛びて、彼は甲胄を着たるまま河の中にぞ身を投ぐる。河はその黄なる流れもて、彼の来たるを受け迎え、静かなる水の上に載せ、血を洗い落して、ついにその僚友に悦ばしくも彼を送り返しぬ。(9-七七八〜八一八)



第十巻梗概(下145p)

諸神会議。女神ウェヌスはトロイ人のために、女神ユーノーはラテン人のために弁護す。大神ユピテルは仲に立ち、裁決を運命にまかす。

トロイ陣営包囲の継続。その間にアエネーアースは、そのアルカディアおよびエトルリアの同盟軍と、ティベリス河をくだりつつあり。アエネーアースの味方の名簿。

彼はやがてニンフによりアスカニウスがいかなる危険に立つかを警告せらる。陣営の見ゆる所に来たり、苦しみながら部下を上陸せしむ。河畔に起こる激戦。その大立て者はパッラースとラウスス(メーゼンティウスの子)。

パッラースは一騎うちにてトゥルヌスのためたおさる。アエネーアースは復讐のため少しも容赦せず、殺戮また殺戮するほどに、ついに女神ユーノーは大神ユピテルより、もし彼女がしばらくにてもトゥルヌスを救わんとするならば、ただちに手段を講ぜざるべからずと戒告せられ、彼女は戦場にくだりゆき、一つの幻影をアエネーアースの姿によそおいつくり、それをトゥルヌスの前に逃げ走らしめ、トゥルヌスを船に誘惑し、その船にて彼は不思議にも遠く父ダウヌスの町に送らるるようにす。

メーゼンティウス、指揮をとる。されど嘆賞すべき勇気のふるまいののち、アエネーアースに傷つけらる。メーゼンティウスは退却し、その子ラウススは彼の後退をかばう間にたおさる。ここにおいてメーゼンティウスはかろうじて馬に乗り、返り来たって息子の仇を取らんとつとむれども、かいなき死におもむく。アエネーアースはメーゼンティウスに勝ちほこる。


第十巻

その間に全能のオリンポスの宮殿は広く開かれ、神々の父にして人々の王なる者は、その星の玉座に会議を召集し、ここより彼は高きに座してあらゆる国土を、トロイ人たちの陣営を、はたラテン種族を監視するなり。

彼らは両開きの折戸ある広間に着席し、王みずからかくぞ語り始むる。『汝ら天の偉なる住民どもよ、いで、いかなれば汝らの決心は翻りて、汝らの抵触(=衝突)しやすき心もて、かくも激しく相争うや?

『我はイタリアがトロイと戦にて相まみゆることを禁じたり。わが命令に従わぬこの不和は何ぞ?いかなる恐怖の、あるいはこの者たちを、あるいはかの者たちをして、武器を取り上げ、剣の争いを挑発せしめたる?

やがて猛きカルタゴが、ローマの城砦に大いなる破壊を投じ、アルプスの関門に道を切り開くとき、正しき戦いのとき来たるべし。汝らそれを促進することなかれ。その時に至り憎悪もて相争い、その時に至り急いで戦いに馳するは支障なからん。今は事を穏便ならしめ、我らが合意したる協定に、喜んで賛同すべきなり』(10-一~一五)

ユピテルの述べしこれらの言葉の数は少なけれど、黄金のウェヌスの答えし言葉の数は少なからず。

『あわれ大御父よ、人間と事物との永遠の主権者よ、今、わらわが哀願し得べき他のいかなるもののあるべきや?汝はルトゥリー人たちがいかに意気あがり、いかにトゥルヌスがその戦車にてめざましく軍隊の真中を乗り通し、勝ち戦さに傲り膨らみつつ、荒れまわるかを見る?

『打ち繞(めぐ)らしたる城壁ももはやトロイ人を守らず。否とよ、彼らの城門の中にても、彼らの城壁の石垣の上にても、彼らはいま入り乱れて戦い、塹濠を血の洪水もてただよわす。

『アエネーアースはこれを知らず。彼はそこに在らざるなり。ああ、汝は彼らがその封鎖より解き放たるることを決して許さざるや?見よ! ようやく再生したるままのトロイの城壁を敵は再び威嚇す。そのほかにも今また一軍隊あり。

『再びテウケルの子らに対し、アエトーリア人たちの町アルピー(南イタリア)より、テューデウスの子ディオメデスは立ちあがる。げに、わらわにはなお一度傷つけらるることの残りてあり。かつ汝の子なるわらわの、人の子より攻め打たるることを待ち設けねばならずと思う。

『もしまことに汝の許しなくして、汝の天意に背き、トロイ人たちがイタリアを求め行きしとならば、彼らをしてその罪を贖わしめ、汝の援助もて彼らを救うことをせぬようにこころせよ。されどもし彼らが、上なる神々、下なる神々の与えたるいと多くの神託の導きに従いたるに過ぎざりせば、なにゆえに誰人かいま汝の意志を覆し得るか?なにゆえに誰人かいま新しき運命を打ち建て得るか?

『いかで我は、エリュクスの磯にて焼き払われたる彼らの艦隊のことを、いかで我は、暴風の王アイオロスとアイオリア島より吹き起こりたる狂風のことを、はた雲を通して急行せるイーリスのことを繰り返すの要あらんや?

『今また彼女は地下界を搔き乱し——宇宙のこの部分にはいまだ手を着けたる者なし——、しかして不意に下界に放たれたるアッレークトーは、イタリア人たちの町々の真ん中を通して、バッカスの信徒のごとく荒れ狂う。

『帝国については、わらわはもはや思い煩わず、その希望をば運命の好き間に我も抱きたれど。君が勝利者たらしめんと思いたまう者をして勝たしめたまえ。

『もし世の中に、君の情け知らぬ妻が、トロイ人に許さむと思う国の一つだになくば、父よ、亡びたるイーリウムの燻(くすぶ)りてある廃墟によりて汝に願う。アスカニウスを武具より遠きかなたへ安らかに送ることを許させたまえ。せめてとの孫をば生き残らしめたまえ。

『実にアエネーアースは、不知案内の海に漂い、運命の導くままの道を辿(たど)らしむるもよし。ただこのわが孫はわらわに救わせ、恐ろしき戦さより彼をひそかに取り出でさせたまえ。

『アマトゥースはわが物なり、高きパプスも、高きキュテーラも、イーダリアの家郷も。彼に武器を捨てさせ、そこにて彼の歳月を名もなく過ごさせよ。

『カルタゴに命じ、大いなる権力もてイタリアを支配させよ。イタリアよりは何ものもカルタゴの町々を妨げざるべし。あわれ、彼(アエネーアース)が戦争の害毒より免れ、ギリシア人の火災の中を逃がれ通り、トロイ人たちがラティウムと新たに創むべきペルガマとを尋ねしとき、彼が海上に、はた広き陸地に、いと多くの危険をなめたりとて、そは何の幸ならん?

『彼らの国の最後の灰の真中に、かつ一度はそこにトロイありし土の上に、身を鎮め置くこそまさりたらずや?願わくは悲惨なる人々にクサントスとシモイスとを返し与えたまえ。あわれ父よ、テウクロスの子孫(トロイ人)らに再びトロイ(イリウム)の不幸を通り過ぐることを許させたまえ』

その時、貴きユーノーは大いなる怒りに燃え、かく答えていう。『いかなれば汝は、わが深き沈黙を破り、わが隠れたる苦悩を言葉によりて現わすことを、我に強うるや?

いかなる神の、あるいは人の、アエネーアースを戦さに従事させ、またはラティーヌス王の仇敵として身を投げ出すように迫りたるや?

汝は言う、彼は運命の権威の下に、カッサンドラの狂気的予言に駆られて、イタリアに航したりと。それもよからん。彼に、陣営を去り、はた彼の生命を風に任するようにわらわが忠告したりというや?軍の統率を、城壁を、一少年に任せ置きて、みずからはエトルーリア人たちと同盟を求め、あるいは平和なる国民を搔き乱せよとわらわが励したりとや?いかなる神の、またはいかなる情け知らぬ我が力の、彼をこの禍いに駆りたりとや?すべてこの事について、ユーノーはいずこに、はた雲より送り降されたるイーリスはいずこにありしや?

イタリア人たちが、再生したるばかりのトロイを、炎をもって取り巻き、またピールムヌスを祖父とし、女神ウェニーリアを母とするトゥルヌスが、己の祖国に定住することは、思うに、腹立たしきことなり。

トロイ人たちが暗澹たる炬火をもってラテン人たちを襲い、他人のものなる土地を占有し、そこより利得を運び去ること、とはいかにぞや?

彼らが義父母を選み定め、許嫁ある処女を彼女の両親の胸より盜み去り、手にオリーブの枝を持ちて平和を求めながら、船に武器を推し立つること、こはいかにぞや?

汝はアエネーアースをギリシア人たちの手より引き抜くことも、人間の代りに霧や空なる大気をつかますることもなし得るなり。また汝は船を同じ数の妖精に変化することもなし得るなり。

しかるにわらわが他方にてルトゥリー人たちに何らかの助力を与うれば、許すべからずというや?

『アエネーアースは何も知らで遠くに居り、さなり、彼をば何も知らで遠くに居らしめよ。汝にはパプスとイーダリウムあり、高きキュテーラあり。さらばいかなる理由ありて汝は、戦争に充ち充ちたる町を、はた人々の荒き魂をそそのかすや?汝のプリュギアのよろめく国を全く覆さんとわらわ努めたりとや?

いかに、わらわなりしや?または 不幸なるトロイ人たちをギリシア人らの道に投げ出したる彼の者(ウェヌス)なるや?ヨーロッパとアジアとが武器もて立ち上り、掠奪の行為もて平和の盟約を破りし理由はいかに?

トロイの姦夫は、わらわが手引きにてスバルタを攻略し、わらわが彼に武器を供給し、または欲情によりて戦いを燃え上らせたりと や?

その頃こそは汝が愛する者たちのためにおそれつつしむべかりしなれ。しかるに遅きに過る今となりて、汝はわらわに対し正しからぬ争いを持ちあげ、空しき悪口雑言をば投げかくる』(10-一六~九五)

ユーノーはかく訴えぬ。しかしてすべて天にいます者らは、小声にていずれかの側に同意すめり。そを例えて言わば、高まり来たる風の、いまだ森の中に閉じこめられながら、吹きすさみて、船人に近付く暴風を知らする、定かならぬ唸りを転展するがごとし。

その時、優越せる力もて世界を支配すなる全能の父は、話し始めぬ。彼の話す時、神々の高き家はうち黙し、地は礎より打ち震い、高き穹窿もまた音なく、西風も吹き鎮まり、大海も滑らかにその面を静む。

彼はいう、『いでや、この我が言葉を汝らの魂に受け入れ、そを深く心にとどめよ。イタリア人たちがトロイ人たちと盟約を結ぶことはほとんど許されず。はた汝らの争いはいつを果てしともなきをもって、各々の人に今日いかなる運のあらんとも、はたいかなる望みを各々の身に抱きてあるにもせよ、

しかしてトロイ人らの陣営が包囲せられてあるは、イタリア人らに都合好き運命のためなるにもせよ、またはトロイ人の不幸なる過失と、凶兆なる神託のためなるにもせよ、トロイ人たると、ルトゥリー人たるとを問わず、我々は彼らの間に少しの差別を置かざるべし。

なおまた我はルトゥリー人らを彼らの運命より寛恕せず。各人の企ては銘々に尽労(ほねおり)とその結果とをもたらすべし。ユピテルはあらゆるものに対し同様なる王者なり。運命は彼らの行くベき道を見出すべきなり』

彼の兄弟のステュクス河かけて、暗き早瀬をなし黒き炎の奔流する河岸かけて、大御父はその誓詞の確めに打ちうなずき、そのうなずきもて全オリンポスを打ち震わしぬ。

かくて会議は終りぬ。その時、黄金の玉座よりユピテルは立ち上り、彼を真ん中にして天にいます者らは、その宮居へと彼に随い行く。(10-九六~一一七)

その間にルトゥリー人らはトロイの戦士を斬り殺し、城壁を炎もて取り巻かむと、各門に群がり寄る。

されどアエネーアースの部下の軍勢は、包囲せられ、塞柵の中に押し込められ、逃走の希望さらになし。哀なる人々はたよりもなく高き塔の上に立ち、しかして疎らなる圈をなして城壁に環列す。

インブラススの子アーシウス、ヒケターオンの子テュモエテース、アッサラコス家の二人、カストルと共に年老いたるテュンブリスなど、これらの人々第一線に立つ。彼らにはサルペードーンの二人の兄弟なるクラルスとタエモーンとが、リュキアの山より随伴しぬ。

リュルネーススのアークモーンは、父なるクリュティウスにも、兄弟なるメネステウスにも劣らず偉大にして、山の小さからぬ一片とも見ゆる大石をば、全身の力を傾倒して担う。

ある者は投げ槍もて、ある者は石もて、防戦これつとめ、火を準備し、矢を弦に当つるに忙がし。

彼らの真中に、見よ!ウェヌスの当然なる心尽しの者、ダルダニアの少年(アスカニウス)ぞ、その頭を露わす。そはあたかも頸や頭を飾らんと黄金に鏤められたる宝石の輝くごとく、はた技巧もて黄楊やオーリクスの黒檀(テレビン)に嵌められたる象牙の輝くに似たり。

彼の毛髪は房々と乳白色の頸に垂れ、柔軟なる黄金の環それを結び束ねたり。

イスマルス(トロイ方)よ、心健気なる兵士たちは、汝が傷を負わせ、矢を毒もて装うを見たり。汝マエオニアの家より出で、身分よき者よ、そこには豊かなる野ありて、農人これを耕し、パクトールス河黄金の流もてこれを灌漑す。

ムネステウスもまたそこに立てり。彼はトゥルヌスを城壁より打ち退けてかち得たる誉れにより、いと高く名声をあげぬ。カピュスもまたそこにあり、彼よりぞカムパーニアの都市(カプア)はその名を導きぬる。(10-一一八~一四五)

かくて彼らは互に激しき戦さをなす。その間アエネーアースは真夜中の水上を渡りつつあり。

そは彼がエウアンドロスの許より来たり、エトルーリア人たちの陣営に入り込み、王(タルコン)のところに行き、王に己の名と種族と、みずから何を求め、また何をもたらせしか、いかなる軍隊をメーゼンティウスが彼自身のために用意しつつあるかを物語り、トゥルヌスの乱暴なる意思を告げ、人の世の事にはほとんど信を置き難きことを警告し、それらに彼の願いを交うるに、そを聞き終るや否や、タルコンはすみやかに軍隊を結集し、彼と盟約を結びつ。

ここにおいて運命の命ずるごとく行為せるリディアの種族は、神々の命に従い、身を外国の指揮者に任せ、船へと乗り込みぬればなり。

さて真先に立つはアエネーアースの船にして、その船首にはプリュギアの獅子の飾をなし、その上にはイーダ山の姿見ゆ。こは亡命のトロイ人たちにはいと悦ばしきものなり。

ここに偉なるアエネーアース座し、心の内に戦さの様々なる出来事を思い回らす。彼の左に近くパッラース座し、時に星辰のこと、暗き夜の道のことを問い、また首将が陸に海に経来たりたることどもを問う。(10-一四六~一六二)

女神たちよ、いまへリコーンを開き、汝の歌を目さまして、この時いかなる隊伍のエトルーリアの磯よりアエネーアースに伴い、彼の船を武装し、大海を渡りぬるかを語れ。(10-一六三~一六五)

マッシクス真っ先に立ち、黄銅の虎もて海を切り開く。彼は一千の青年の隊を率いたるが、こはクルーシウムの城壁とコサの町とより出発したるにて、彼らの武器は矢、肩の上なる軽き箙、必殺の弓なり。

彼らと共に面貌いかめしきアバースあり。彼の全軍は美々しき武装もて輝き、彼の船の艫は金色のアポロンの像もて光る。

戦いに馴れたる六百の若人を、彼の故郷ポプローニアは、彼に与えたり。しかしてカリュベスの無尽蔵の鉱山にて豊かなる島イルウァは、三百人を送りぬ。

第三に来たるはアシーラース、彼は人間と神々との間の解釈者にして、犠牲獣の内臓の筋も、蒼穹の星も、鳥の啼き音も、雷電の予兆の火もみな彼にしたがう。密集隊をなせる千人の戦士を、槍を逆毛立てさせて急ぎ進まする。

これらの者にを、エトルーリアの地に建てられたる町なれど、その起源はアルペーウス河辺(ギリシア)より出でたるピーサぞ、彼に従い行けと命じたる。

次に来たるはいと美しきアステュルにて、その軍馬と多彩なる鎧とは彼の誇りなり。なお三百人、列をふくらます。そはみなアステュルに従わむとする一つの心を抱けど、本拠はカエレなるもあり、ミニオ河の野に住めるもあり、古きピュルギーなるもあり、不健康なるグラウィスカエなるもあり。(10-一六六~一八四)

なお我は、リグレース人たちの戦さにいと勇敢なる将軍キニュルスよ、汝を見過ごさざるべし。なおまた従者少なきクパーウォよ、汝も。

その兜よりは白鳥の羽根こそ立ちたれ。恋は汝らのまがつみにて、この飾りは汝の父親の姿より来たれるものなり。

そは世の人の語り草にも、かの父キュクヌスはその愛するパエトーンへの悲みにより、彼の姉妹の身を変えたるポプラの木の葉の中に入り、その葉陰に歌い、彼の悲しき恋をば歌にまぎらす間に、年老いて白髪の代りに白き柔かき羽毛を受け、地上を去り、白鳥となりて歌をうたいつつ星へと高く飛び登りぬ。

彼の子は艦隊にて、同じ年輩なる戦士の一隊に随伴しつつ、櫂もて巨大なるケンタウロスを推し進む。ケンタウロスは、海水を威嚇し、波頭高く大磐石もて海を圧し、長き竜骨もて大海を切る。(10-一八五~一九七)

彼オクヌスもまたその祖国の海岸より一軍を起す。こは予言女マントー(ニンフ)とトゥースクス河の子にして、この者ぞ、マントゥアよ、汝に城壁と母の名とを与えたる。

マントゥアは祖先に富めるも、彼らは皆がら一つの種族にはあらず。マントゥアには三種族ありて、各種族に四つの人民あり。これらの中にては、マントゥアが首長にて、その力はトゥースクス(エトルリア)の血より引かれたり。

ここよりまた、メーゼンティウスは五百の戦士を己にそむきて武装させたり。これらの人々を、ベーナークス(湖)を父とし、灰色の葦もて掩われたるミンキウス(川)ぞ、敵意あるその船艦にて海上へと導き出す。

彼らの首領なるアウレステスは、重々しく船を進め、櫂に合わせて立ちあがりつつ、百なす櫂もて波を打てば、水はその輝くおもてを翻さるるときに泡立つめり。

巨大にして、その貝殼もて緑の海を威嚇するようなるトリートーン(号)ぞ彼をば運びぬるが、その泳ぐときに現わす毛髪ぼうぼうたる前面は、腰までは人間なれど、下腹よりは鯨となる。泡立つ巨波は怪奇なる胸の下を音して流る。

かく多くの選ばれたる大将ら、トロイの味方せんとて三十艘の船に取り乗り、黄銅の竜骨にて塩からき水の平野を切り開き行くなり。(10-一九八~二一四)

さて今や日は空の支配を譲り、親切なるポイベーはその夜遊(やゆう)の車にて、オリンポスの真ん中を通りつつあり。

アエネーアースは、心労ぞ彼の四肢に休息を拒みたれば、座してみずから梶を取り、帆を操る。

そこに、見よ!彼の進路の真ん中に、かつては彼の同伴者なりし者の一隊ぞ彼に出会う。そはニンフたちにして、親切なる女神キュベーベーが、海神たるべくかつ船より変じてニンフたるべく、命じたるものなり。

彼らは一列になりて泳ぎ、波を切りつつあり。その数はかつて黄銅の船首の磯辺に並びたると同じ数なり。彼らは遠くより彼らの以前の王を認め、舞踏の輪を作るようにして彼を取り巻く。

彼らの中にて最も口利きと見ゆるキューモドケーアぞ、船尾に従い、右手もて船を捕え、みずからは背を水上にあげ、左の手もて静かなる波の上を梶取り行きつ。

やがて彼女は何も知らぬ彼にかくぞ話しかくる。『君は眠らでおわするや。神々の末アエネーアースよ?眠らでいたまえ、帆綱を緩めたまえ。我らはかつてその聖なる頂きより伐り出だされたるイーダの松にして、今は海のニンフ、一度は君の船艦なりし。

『不信なるルトゥリー人(トゥルヌス)の、剣と火とをもって我らを激しく攻めつるとき、我らは不本意ながら碇綱(いかりづな)を断ち切り、海上に君を尋ぬるなり。神々の母は、憐みて我らにこの姿を与え、我ら女神となりて波の下にその生涯を送ることとはなしぬ。

『されど少年アスカニウスは、投げ矢と戦意とに燃ゆるラテン人たちとの真ん中に、城壁と塹濠とに閉じ込められてあり。アルカディアの騎兵隊(エウアンドロス軍)は、勇敢なるエトルーリア人と結合し、いまごろはすでに指定せられたる場所を保つ。彼らを陣営の中なる者どもと結合させざるため、彼らに対して真ん中に軍勢を入るるは、トゥルヌスの固き決心なり。

『いざ立ちたまえ、曙の来たると共に真っ先立ちて味方を武器に呼び起し、君の盾を取りたまえ。そは炎の主の手ずから君に与えたる、敗るるということ知らぬ物にて、縁をば黄金にて巻きたる盾なり。君、我が言葉を空しきものと思いたまわずば、明日の朝の光ぞ、殺されたるルトゥリー人たちの屍の大いなる山を見すべき』

彼女はかく語りぬ、しかして船推す術に明るき彼女は、立ち退くなえに右手にて丈高き船を推し遣る。船は投げ槍よりも、はた風と速さを競う矢よりも早く水上を飛ぶ。かくて他の船もまた道を急ぐ。

アンキーセースの子なるトロイ人は、みずからその理由は知らず打ち驚けど、吉兆に元気づきぬ。その時天穹を見上げ、簡略に祈りていう。『イーダにいます、神々の親切なる母(キュベレー)よ、ディンデュマ(山)を、塔の聳え立つ町々を、轡に縳りたる一対の獅子を愛する者よ、汝は今やわがために戦闘の指導者となりたまえ。汝は正しくこの吉兆を急いで果たしたまえ。しかして女神よ、プリュギア人たちを汝の援助もて恵み深く助けたまえ』

彼の祈願はこれのみ。その内にも日は回転し、今や遍満する光明もて急ぎ昇りつ、闇をば追い退ぞけぬ。彼はまず同僚に宣言して、その旗幟に従い、彼らの精神を合戦に適応し、戦争の準備をせよという。

さて今や彼はトロイ人と己の陣営とを、高き船尾に立ちて見出し、ただちに左手もて彼の燃ゆるがごとき盾を差し上ぐ。ダルダノスの子孫らは、城壁よりときの声を天へと上ぐ。新しき希望は、彼らの憤激を燃え上らしめ、彼らは手もて投げ矢を射ち出だす。

そのあり様はあたかも、暗き雲の下にてストリューモンの鶴が、悦びの徴候の声を放ち、さわがしく空中を飛び過ぎ、喜ばしき声して南風を避くるに似たり。

されどルトゥリー人の王と、イタリアの大将たちには、はじめこれらの事どもは不思議に思われけるが、ついに見回せば艦船の海岸へと向かいつつ、海は一面に艦隊を浮かべて推し寄するをぞ認めける。

アエネーアースの頭には兜の前立て燃え、羽毛飾りのてっ辺よりは炎吹き出で、盾の黄金製の中心部は巨多の火をぞ吐き出だす。

そのあり様を例えて言わば、晴れたる夜空に、時として血紅の慧星の赤く禍々しく輝くごとく、またはシーリウス星の炎熱の、人間に渴きと病気とを持ち来たし、凶兆の光もて空を愁殺するに似たり。(10-二一五~二七五)

されど、それにも拘らず、大胆なるトゥルヌスは、敵より先に海岸を占め、寄り来たる者らを陸地より迫い払わんとの自信を失わず。みずから進みて言葉もて戦友の魂を高揚し、はた譴責す。

『汝らの祈りて待ち望みたる者は来たり。右手にて敵を破れ。勇敢なる男の子たちぞ、その手には軍神そのものをこそやどすなれ。いでや、各々己が妻と家とを想い出でよ。いでや、父祖の光栄たる偉業を呼び戻せ。我ら徒らに敵の攻撃を待つことをせず。彼らがいまだ隊伍を乱し、上陸したる者たちにその第一歩がよろめくところを、進んで波打ち際に迎え打たん。運命は大胆なる者をたすく』

彼はかく言いながら、心の中に敵を攻め討つには誰々を従え、包囲したる防壁は誰々に任せおくべきかを思い回らす。(10-二七六~二八六)

その間にアエネーアースは、彼の僚友らを高き船より歩道板によって上陸せしむ。多くの者は力弱れる海の引き退がる時を待ち、飛び下りて身体を浅瀬に任す。他の者は櫂を飛び竿に用いて上陸するもあり。

タルコンは浅瀬の憂いもなく、また砕け波の唸り声も聞こえず、海水が陸に打ち当たることなく高まるうねりもて岸へとすべり寄る所を尋ね出でつ。

たちまち舳先をここに向け、僚友たちに請い求む。『いでや、選ばれたる一隊の人々よ、強健なる櫂を力漕せよ。船を持ち上げて推し進めよ、船首もてこの敵意ある陸地を劈(つんざ)き、竜骨をして己のために溝を作らしめよ。我はまたただ一度陸地に達することを得んには、かかる船掛かり(停泊)にて我が船を破ることを憾みとせず』

タルコンがかく言いおわりし後、僚友たちは起ちて滑らかなる櫂を取り、彼らの泡立てる船をラティウムの磯の上に駆り、ついに舳先は乾ける陸地に着き、竜骨もみな損傷なく定着す。

されど、タルコンよ、汝の船のみは然(しか)らざりし。そは汝の船は浅瀬の危き砂洲に乗り上げ、長き間こころもとなくそこにて動揺し、波と争い悩みけるうち、ついに打ち破れ、乗組員を水の真中に投げ出だし、折れたる櫂の破片や、うかべる角材などその人々を苦しめ、引き行く波は同時に彼らの足を引きさらいぬ。(10-二八七~三〇七)

そぞろなるたゆたいはトゥルヌスを引き止むることなし。激しく彼はその全軍をトロイ人めがけて急がせ、彼らに対して海岸に配列す。

ラッパは戦いの合図を鳴り響かす。最初にこの野人の軍隊を攻撃したるはアエネーアースなり。これぞ戦さの吉兆なりけらし。彼はテーローンを倒してラテン人らを潰走せしめぬ。この者は人々の中にて最も高く、彼をめがけてみずから進み来たれる者なり。アエネーアースが剣もて彼の黄銅の胸甲と鱗のごとく黄金を張りたる肌着とを刺し通すままに、脇腹ぞあらわに露わるる。

次に彼はリカースを打つ。この者はその死したる母の子宮よりもぎ放たれ、ポイボスよ、汝に捧げられし者なり。されど彼がいまだ幼かりし時、刃物の危険より免れたるはそも何の益(やく)かありし。

やがで彼(アエネーアース)は、棍棒もて敵の隊伍を薙ぎ倒しつつありし頑強なるキッセウスと巨大なるギュアースとを倒して死に至らしむ。

ヘラクレスの武器も、彼らの頑丈なる腕も、彼らの父メラムプースも、少しも彼らを助けず。このメラムプースは、地上が勇士に苦難多き労役を課しつつありし時代、ヘラクレスの伴侶なりし者なり。

見よ、パルスが大言壮語してありしとき、アエネーアースは槍を投げ、彼の叫べる口に突き立つる。

不幸なるキュードンよ、汝もまた、汝の最後の喜びなりし、頰に黄金色の綿毛生えはじめたるクリュティウスを追い求むる間に、トロイの大将の右手にかかりて打ち倒され、汝がつねに求めし少年に対する恋も忘れ果て、憐れにも横たわりしならん、もしポルクスの子にして、数は七人なる兄弟の密集せる一隊が、アエネーアースに出会わざりしならば。

彼らは七本の槍を投げぬるが、その中いく本かは空しく彼の兜と盾とより跳ね返り、いく本かは彼の身体をかすらんとするを、優しきウェヌス女神ぞ側にそらしぬる。

アエネーアースは忠実なるアカーテスにいう。『我に投げ槍を渡せ。必ず我が右手は一本もルトゥリー人たちに対し空には投げじ。これらはトロイの野にてギリシア人の身体を貫きたる投げ槍なり』

かく言いて、大身の槍を掴みてさと投ぐれば、そは飛び行きて、マエオーン†の盾の黄銅を打ち貫き、胸と共に胸甲を裂き開く。

彼の兄弟アルカーノル来たりて彼を助け、倒るる同胞を右手もて支うるに、槍は速やかに彼の腕を貫きて突き進み、血に染まりながらもなお前方へと飛び行けば、死に行く右の腕は腱によりて肩より垂れ下る。

その時ヌミトルは、その槍を兄弟の身体より引き手繰りアエネーアースを狙う。されど彼を突き貫くことは叶わず、偉なるアカーテッの腰部を擦りぬ。

ここにクレース(サビニー)のクラウスス(ラテン方)は、その若々しき力を恃みとして走り来たり、強く放てる強靭なる槍もて、ドリュオプス(トロイ方)の顎の真下を遠くより打ち破る。

かくて彼は咽喉を突き通され、何か物言える彼の声も命も同時に失われつ、額もて土を打ち、口よりは凝血を吐き出す。

またボレアース神の古き血統より出でし三人のトラーキア人、および父のイーダースと祖国のイスマラとが送りたる三人をば、様々の運命の中に、彼ぞ斬り殺す。

ハラエススもアウルンカの軍隊も走り来たり、ネプトゥーヌスの子にして、馬に名高きメッサープスも援助に来たる。

今やこなたが、今やかなたが、互に相手を押返さんと努力し、イタリアの真の入口にて争闘は荒れ狂う。そはあたかも広き大空にて相逆らう風の、その狂暴もその勢力も相匹敵せるが抗争し、彼ら(風)も、雲も、海も一歩も讓らず。争闘は長き間勝負を分かたず、あらゆるものの相反して立つときのごとし。

かくぞトロイ人たちの隊伍とラテン人たちの隊伍とは相会戦し、足は足と、人は人とぞ繁く入り交りぬる。(10-三〇八~三六一)

されど戦場の他の場所、奔流の石を転ばし退ぞけ、叢林を岸より裂き離したるあたりにては、パッラースぞ、徒歩の戦さに馴れざるアルカディア人らが、追い来たるラテン人らの前に逃げ行くを見るとき——荒くれたる地面の、おそらくは、彼らが馬より離るることを余儀なくしたるものならん——、これぞ逆境に残されたるただ一つのたよりなる、あるいは嘆願をもて、あるいは苦言をもて、彼らの勇気を励ます。

『汝らいずこにか走らんとする、友らよ?汝らにより、汝らの勇ましき振る舞いにより、汝らの大将エウアンドロスの名により、汝らの得たる勝利により、今やわが父の名声と競い得んずる我みずからの希望により、汝らに告ぐ、足の早さにたよるなかれ、剣によりて敵の中に道を切り開け。

『敵の者どもの、かのいと繁き塊りの推し寄するところにぞ、汝らの尊き祖国は、汝らとパッラースとの行くを求むる。我らをいたく悩ますは、神の力にあらず、我ら人間が人間の敵によって圧せらるるなり。我らにも彼らだけの命の数も手の数もあり。

『見よ! 大海は大いなる水の垣根もて我らを閉じこめ、逃がるべき陸地ははや残されず。我ら海を求めんとするや、はたトロイの陣営を求めんとするや?』彼はかく叫び、敵の繁き隊伍の真中へと突入す。

第一に彼に出会いたるは、悪運に誘われたるラグスなり。彼が重き石を引き扛(あ)ぐるところを、パッラースの投げたる槍の、背の真ん中、脊椎より肋骨の分かるるところを突き貫(ぬ)けば、槍は彼の骨深く止まる。

ヒスボーは、上よりパッラースに襲いかかることを望みたれど及ばず。そは彼が友の惨たらしき死に怒り狂い、我を忘れて飛びかかりし時は早、パッラースは彼を待ち設けて、剣を彼の膨らむ肺臓深くぞ刺し埋ずめたる。

次に彼はステニウスを襲い、ロエトゥス(マルシ族の王)の古き血統より出でたるアンケモルスをも襲う。こはあえて彼の継母の閨房を犯したる者なり。

ダウクスのいとよく相似たる子にして、親族の者たちにさへ区別出来ず、両親にすら楽しき取り違え(の種)となりしラーリーデースとテュムベルよ、この双生児よ、汝らもまたルトゥリー人の郊野に倒れぬ。

されど今やパッラースは汝らに惨たらしき区別を付けたり。そはテュムベルよ、汝の頭はエウアンドロスの剣にて打ち落され、ラーリーデースよ、汝の右手は切り去られ、その手は主なる汝を尋ね、指は命の名残りに打ち震い、剣を掴まむとす。

アルカディア人らは、彼のいさめに奮ひ起ちつ、この勇士の栄(はえ)ある振る舞いを打ち視まもり、怒りと恥の入り交りたる感情もて、敵に対して武器を取る。

その時パッラースは、戦車にて逃げ行くロエテウスを突貫く。この事はイールスに取りて時を延ばし、それだけの猶予となりぬ。ぞはパッラースが遠くより彼のしたたかなる槍もて狙いしはイールスなりしが、ロエテウスぞ、いとすぐれたるテウトラースよ、汝および汝の兄弟テュレスより逃去りつつ、中間に飛出で、その槍を己が身に受けて、戦車より転がり落ち、半死の踵もでルトゥリー人たちの野を打つ。例えて言はど、夏の日に風願わしく吹起るとき、牧人森の随所に火を放てば、たちまちその間のものは火炎に製はれ、山一面にウォルカーヌスの恐ろしき火の海の、山野を掩うて伸行くまュに、牧人は誇らかに座して、勝誇りたるようなる大火を見下ろすごとく、かくぞ、パッラースよ、汝の戦友たちの勇魂はみな一つに結合し、汝をぞ援くる。されど戦に心鋭きハーラェスス、敵に対して驀地に進み、身をば盾もて蔽う。彼はラードーン、ベレース、デーモドクスを斬殺し、輝く剣もて、ストリューモニウスが彼の喉をめがけて挙げたる右手を打ち落し、岩もてトアースの顔を打ち、血塗れの腦と交りたる骨を撒乱す。彼の父は、彼に来たるべき運命を避けしめんとて、ハーラエススを森の中に隠したり、されど老人が死によりて老の眼を閉じたるとき、運命はその手をこの若人にかけ、エウアンドル、の武器にぞ捧げける。パッラースはこの者を狙い、まず祈りていう。『父ディブルスよ、我が構えて投ぐるこの槍に、好運を、強きハーラェスの胸を突通すことを許せ。汝が樫は、その男より取りたる獲物なる、武器を保つべし』神はこの祈を聽きぬ。ハーラエススがイマーオーンを守る間に、との不幸なる男は、その防御なき胸をアルカディアの投げ槍に曝す。されど戦のいと強き者の一人なるラウススは、この勇士のかくも重大なる死によりて、軍隊の士気の沮喪することを容さず、彼はまずアバースとて、戦の障壁とも防備ともなり、彼に逆らふ者を斬殺す。アルカディア人らも倒され、エトルーリア人らも倒され、しかしてああギリシア人に殺されざりし者たちよ、汝らもまた倒さる。かく隊伍は相匹敵する大将と力とにて会戦す。後軍繁く陣列に推寄せたれば、人の群押合ひて、武器る手も動かされず。一面にてはパッラース熱心に前進し、他面にてはこれに逆らいてラウスス前進す。彼らは共に姿美しく、その年延も大差なし。されど運命は彼らが再び故郷に帰ることを許さず。さはれ偉大なるオリンポスの主は、彼らが互に相闘ふことを許したまわず、艦てその孰れよりも大いなる敵の手に倒れぬべき、彼らみずからの運命ぞ彼らを待設けぬる。(10-三六ニ~四三八)

その間にトゥルヌスの親切なる姉妹は、ラウススの援助に赴けよと彼に警告し、彼は快速なる戦車もて戦列の真中を切り進む。彼はその僚友たちを見し時にいう、『今や汝らが戦いより身を避くべき時なり。我独りパッラースに対し行かむ、パッラースは我独りの者ぞ、彼の親のみずからここにありてこの戦いを見なばと思う』彼のかく云へば、僚友らは命ぜられたるごとく平野より引き退く。されどルトゥリー人たちの退くとき、若人は彼の傲然たる命令に驚きながら、つくづくと驚嘆してトゥルヌスを視、その巨大なる姿を見まわし、厳しき顔して遠くよりすべてを探り見る。しかしてこの王者の言葉に応ずるにこの言葉をもってす。『て我は敵の将軍より獲物を取りたることにより、しからずんば栄ある死によれ、称讃せらるへならん。我が父はいずれの運命にも心の覺悟あり。威嚇を止めよ』彼はかく言いて、平野の真中に進む。アルカディア人たちは血も冷え、心臓の中に凝結す(るようなり)。トッルヌスは戦車より飛下り、徒歩立にて接戦せむと身構す。あたかも獅子が四方を脾睨する丘の上より、平原遠く争闘の覺悟して立つ牡牛を見るとき、その方へと飛び来たるごとく、トゥルヌスの容貌も、その来たる時、かくぞありける。パッラースは彼がその第 投げ槍の屆く範囲内に来たりしと思うとき、よしや力は匹敵せずとも、もし或運の彼の肩険を助くることもやと、先に歩み出で、高天を仰いでかくいう。『我が父の(会て汝に示したる)款待により、また汝が外来の人として着席したる食卓により、我は汝に祈る、アルキーデースよ、我が大いなる企を助けよ。トゥルヌスをしてその半死の際に、我が彼より血に染まりたる武器を奪ふを見せしめよ、かつ彼の死に往く眼に我を征服者として忍ばしめよ』アルキーデースは、この若人の声を聞き、の心中深く唸声を嚥下し、詮方なき涙を注ぎ出す。その時父は、やさしき言葉もて彼の子に話しかけていう。『人には銘々定められたる日の来たるものぞ。あらゆる人間には、生命は束の間にしに逝きて返らず、されど行蹟によつて名誉を擴むるは、勇気の仕業なり。トロイの高き城壁の下には、神々の子のいかに多く倒れたることぞ、さなり、彼らと共に我が子サルペードーンもまた倒れぬ。トゥルヌスすら彼自身の運命に差し招かれ、定められたる生命の限りに達したり』父はかく言いて、眼をルトゥリー人たちの野より反くる。されどパッラースは大いなる力もて槍を投げ、閃めく剣をうつろの鞘より引抜く。槍は飛び、肩を守る甲胄の頂の高きところに突当り、その盾の緣を貫きて道を造り、ついにトゥルヌスの大いなる身体をも擦る。その時トゥルヌスは、鋭き鋼鉄の尖を付けたる樫の末の槍を、長き間打ち振りてパッラースへ放ちながら、かくいう。『見よ、我が槍のなおしも貫くや否やを』彼は言いおわりつ、槍先は打ち震えつつ、いと多くの鉄板と、いと多くの銅板と、また牛皮もて幾重にも巻被える盾の真中を打ち貫き、胸甲の防御をも、彼の強大なる胸をも難なく抜き通る。彼は空しく温き投げ槍を傷より引抜かむとするに、同じ一つの通ひ路よりぞ血も命も従い出づる。彼は傷を下にして倒れ彼の鎧は彼の上にがらがらと鳴り、死に行く彼は血に染まりたる口もて敵国の土を噛む。トゥルヌスは彼の上に立ちはだかりていう、『アルカディア人たちよ、よく心に留めて我がこれ等の言葉をエゥアンドルスに伝えよ、彼が当然受くべきようにして、我はパッラースを彼に返すなり。墳墓のいかなる名誉なりとも、葬式のいかなる慰藉なりとも、我はおほらかに許し与う。アエネーアースを款待したることは、実に彼には高くも値したるかな』彼はかく言いおわりて、左足もて命なき躯を踏みにじり、恐ろしき罪悪の物語を象嵌したる、いと重き帯皮を奪い取る。(その物語とは)婚礼の夜、若人の一隊のきたなく殺されて、血に華燭の部屋をただよわすというにて、その光景をエッリュトウスの子クロヌスが、多くの黄金を用るて浮き彫りにしたり。これを分捕りて、トッルメスは今や得意となり、雀躍す。人の心は宿命とその当に来たるべき運命とを知らず、はた盛栄によりて驕傲に誘われたるとき、中庸の限界を保つを知らず。トゥルヌスにも、パッラースに決して手を触れざりしことを、大いなる値を支払ひても買はむと欲する時と、はたこれらの戦利品とそれを獲たる日とを呪ふ時と、来たるべし。されどパッラースの僚友たちは群がり来たり、多くの悲叫と啼涙ともて、彼を盾に載せて担い返る、ああ! 汝の親の許に帰らんとする大いなる悲痛と大いなる光栄よ。これぞ汝を初めて戦いに送りし日、その同じ日こそ汝を奪い去りたれ。されど汝は戦場にルトゥリー人たちの屍の大いなる山をぞ残しつる。(10-四三九~五〇九)

さて今やアエネーアースの所に急ぎ行くは、もはや大いなる不幸の風聞のみならで、味方が全減せむばかりになり居り、今ぞ彼が敗北するトロイ人の援助に赴くべき大切の時なることを告ぐる、さらに確なる使者なり。彼は、トゥルヌスよ、新しき殺戮もて意気揚れる汝を捜しつつ、剣もて手近き敵を悉く薙ぎ倒し、荒狂いながら、双の下に広き通路を軍隊の真中に作る。パッラースのことも、エウアンドロスのことも、あらゆる光景はありありと彼の眼前に浮び来たるなり、彼が旅人としてかの時初めて近付きし食卓も、差し出されたる友愛の右手も。その時彼はスールモーの四人の子なる若者と、ウーフェンスが育てたるそれと同数の者とを生捕にし、(パルラーメの)冥途の魂に犧牲として捧げ、これらの捕虜の血をとむらいの積薪の炎の上に注がむとす。それより彼は遠くマグスに狙いをつけて、敵意ある槍を放つ。マグスは巧妙にその下を走り、震動する槍は彼を飛越す。彼はアエネーアースの膝を抱いて、哀訴してかくいう。『汝の父の死霊にかけ、立派に成人しつムあるユールスの将来にかけ、我は汝に哀願す、我が息子と我が父とのためにわが命を助けよ。我に宏壮なる家あり、浮彫したる銀の地中深く埋蔵せる数タレントあり、また加工しまたは加工せざる大金塊あり。かかる者にトロイの勝敗はかかはらず、はた(かかる渺たる)一つの命の、戦さに大いなる差し違を生ずることなし』彼のかく言えば、アエネーアースは彼にかくぞ答えていう。『汝の言う金銀の多くのタレントのごときは、汝の子らのためにこれを保て。汝が申し出でたる戦の取引は、トゥルヌスのパッラースを斬り殺したる時、すでにその時彼ぞまず破算したる。我が父アンキーセースの魂もかく感じ、ユールスもかく感ずるなり』彼はかく言いて、左手にて嘆願者の兜を持ち、哀願せる者の首を後方に曲げ、柄までも剣を刺込む。ここより遠からぬととろにハエモーンの子あり、ポイボスとトリウィアの司祭にして、その頭帯は聖なる紐もてこめかみの周囲を飾り、全身は衣裳と豪華なる甲胄に輝きて見ゆ。アエネーアースこの司祭に出会い、彼を平野にて追跡し、倒るるところをその上に立ちふさがりて彼を殺し、広大なる死の陰をもって彼を包む。分捕りたる武具は、セレーストゥスこれを肩にして、グラーディーウス王よ、汝のために戦利品として持帰る。その時、ウォルカーヌスの血統より出でたるカェクルスとマルスィーの山より来たりたるウムブローと、(敵の)除伍を增援す。ダルダヌスの子孫は、彼らに対しても荒狂う。彼は剣もてアンクスルの左手と彼の盾の全円を打ち落す––アンクスルは予て大言壮語し、言語には力を伴ふと信じ、魂を恐らく天までも高揚し、かつ白髪と長き歳月とをすでに約束したる者なりし。タルクィトゥスはきらびやかなる甲胄に身を固め、意気傲然と彼を迎え、荒狂ふ者の行手に身を投出す、これはニンフなるドリュオペーが、森のファゥヌスに媾いて生みたる子なり。アエネーアースは槍を繰引き、それにて彼の胸甲と厚き盾とを差し貫きて一つにし、その(進退の)自由を得させず。それより空しく哀訴し多くの繰言を並べむとする、彼の頭を地面に打ち付け、温かなる躯を蹴飛ばし、その上より容赦せぬ心もてかくぞ浴びせかくる。『今こそそこに横たはれ、汝恐るべき者よ、汝のいとよき母は汝を地に葬らじ、はた汝の四肢を祖先の墓碑の中に入るることをせじ。汝は猛禽の餌食として残さるべし、または波、潮の中に沈める汝を淘運び、饑るたる魚汝の傷を嘗むべし』ただちに彼はトゥルヌスの先陣なるアンタエウスとルーカースとを追ふ、また勇敢なるヌマ、黄髪のカメルスをも。このカメルスというはイタリア人の中にて最も土地に富みたる者にして、嘗ては黙せるアミュークラエの王たりし、心偉大なるウォルケーンスの子なり。アエガエオーンには、百の腕と百の手とありて、彼がユピテルの電光に対し、五十の盾をもって音たて騒ぎ、五十の剣を抜放ちたる時、その五十の口と五十の胸とよりは火炎燃えたちたりと人はいうなる、そのアエガエオーンのありしごとく、かくぞアエネーアースも、彼の剣の鋩の血もて温まるまへに、勝誇りて野辺一面に荒狂う。見よ、次にはニーバエウスの四頭立の馬車と彼の敵対せる胸とに向かいて、彼は進み行く。軍馬は遠くよりこの主将の潤歩し来たるを見、その恐ろしく憤れるあり様を見し時、恐怖のために方向を転じ、後の方に突進して馭者を投出し、車を急に磯辺の方に引離し行く。その間にルーカグスと彼の兄弟リゲルとは、二頭の白き軍馬に牽かせたる戦車もて、敵の真中に駆入る。リゲルは手綱もて軍馬を旋回し、激しきルーカグスは、その抜放ちたる剣を車輪のごとく振回す。アエネーアースはかく猛烈に荒れ狂ふ彼らを見て、何條少しも躊躇ふべき、たちまち彼らに突進し、槍を突付け、いと偉大にぞ現れたる。彼に対してリゲルはいう、『汝がここに見るは、ディオメーデースの軍馬に非ず、またアキッレースの戦車に非ず、またトロイの平原にも非ず、今この地において汝の戦いも汝の命も、終りをば与えられむ』かかる言葉の、心あはつるリゲルより(口幅)広くぞ飛出づる。されどこれに答うる言葉を、トロイの勇士は用意せむともせず、唯敵に対して槍を放つ。ルーカグスはあたかも鞭打たんとする動作のように、前方に乗出し、武器もて駒を責め、左足を前に伸ばして闘の身構えをするとき、その時槍は(飛来たりて)彼の輝く盾の最も下なる緣を抜通り、彼の左の鼠蹊を貫く。彼は戦車より打ち落され、死のもがきにて平原に転がる。彼に、忠直なるアェネーアースは痛烈なる叱責の言葉をかけていう。『ルーカグスよ、汝の馬の逃げ足の緩やかさが、汝の戦車を裏切りたるにも、はた敵の空しき人影の彼らを逃走らせたるにもあらず。汝はみずから馬車上り飛下り、汝の二匹の馬を捨てたり』彼はかく言いて、二匹の馬を捕う。不幸なる兄弟も同じ戦車より落ちたる後、彼は武器なき手を差し伸していう。『トロイの英雄よ、汝により、汝をかくる子として生みたる汝の両親により、願うはこの命を助け、祈願する者をあわれめ』なお多くの言葉を添へで嘆願する者に、アエネーアースはいう、『今し汝はかかる言葉を吐かざりしぞ。死ね。兄弟は兄弟を見捨つるなかれ』その時剣もて彼の生命の宿なるその胸を切開く。さながら奔端や暗き嵐のごとく荒狂いつつ、トロイの将軍はかかる大殺戮を野の上一面に行う。道に少年アスカニウスおよび空しく包囲せられたる若人たちも、陣営を後にして突出す。(10-五一〇~六〇五)

その間にユピテルは、まずユーノーに話しかけていう。『あわれ汝、我が妹たると同時に、わがいとしき妻よ、実に御身の想ふように、ウェヌスぞ、–御身の判断はたしかに過またざりき、––トロイの力を支持すなる、これらの人々には、誠は戦いに猛々しき手もなく、雄々しくしで危きに耐へ得る勇気もなし』これに対しユーノーは温順に答えていう、『我がいと美しの夫よ、いかなれば心病みつ、君の言葉の厳しきを恐る、わらわを悩ましたまふや?もしわが愛に、それがかつて持ち、(また今も)当然持ちぬべき力のありなむには、全能のユピテルよ、君はわらわにこの恩寵を拒みたまわざるべきものを、すなわちわらわがトゥルヌスを戦いより引き退かせ、彼の父ダウヌスのところに安らかに置くことを得たりしならんものを。いで彼を死なせさせたまえ、彼の忠直なる血もて、トロイ人らに対し罰の贖いを支払わしめたまえ。さりながら、彼はその名を我々(天つ神)より興し伝え、ピールムヌスは彼には四代の祖先なり、しかして彼はしばしば寬大なる手と多くの献物とをもって、汝の殿堂を富ましめたり』彼女に対し天界オリンポスの王は、簡単にかく答う。『もし早逝の運命を負える若人のために、差し迫れる運命の猶予と延期とが汝によつて嘆願せられ、御身の我がこの事をかく処理するを欲するならば、トゥルヌスを逃走によりて救い、彼を切迫せる死より助けよ。かくばかりの寛恕はあるもよからん。されどもし御身の哀願の底になお何等かの請願の隠され居て、戦争全体の変更せられ得るものと思うならば、御身は唯空しき望みを胸に抱くなり』ユーノーはたちまち涙を流して答う、『されど君の言葉にて拒みたまふものを、君の心もて許したまひ、しかして命は安全にトゥルヌスに止まらばいかに?今や悲しき最期ぞとの罪なき若人を待つなる。もししからずば我は真実については全く盲目とや言はむ。願わくは、あわれ、寧ろわらわが空なる物怖れの弄びものとなり居るにてあれかし、しかして力ある我が君の、君の決意をより良き方へ向換へたまえかし』彼女は、かく言いおわりしとき、身は雲に取り巻かれ、空中を通して暴風を駆りつつ、ただちに高き大空より、トロイの戦線とラッンントゥムの陣営に真直に飛行く。その時この女神は、空虚の雲もて全く力なき薄き幻影をアエネーアースの姿––見るも不思議なる形状––に作り、トロイの武器もて飾り、盾と、その神々しき頭なる兜の羽飾とを模做し、空なる言葉を付与し、思想なき訳を与え、この英雄の歩むようなる歩態をなさしむ。こは死後に飛歩くと人の言うなる姿のごときもの、はた眠れる感覺を欺く夢のごときものなり。されどこの幻影は戦の前線に出でて喜んで奮闘し、武器を振回して大まさに挑戦し、嘲笑もて彼を挑発す。トゥルヌスはこれを撃たんと突進し、遠くより槍を鳴らして放つ。影像は背を向けて逃走す。その時げにトゥルヌスは、アエネーアースが向を換へて敗北したりと思い、心は興奮し、空虚なる希望を満喫し、『いずこに逃る、や、アエネーアースよ?汝の許婚の床を捨つるなかれ。この右手にて、波濤を越えて求めたる、国土ぞ汝に与えられむ』かかることを叫びつつ彼は追跡し、抜放てる剣を振回す、彼は風が彼の喜を乗せ行くことを知らず。たまたまそこに一つの船ありて、差し出したる下船梯子と乗船橋とにて高き岩端と結ばれけるが、その船はオシーニウス王のクルースィウムの海岸より乗り来たりたるなり。逃げ行くアエネーアースのおののく幻影はこなたへ(急ぎ)、この隠れ場所に駈せ込む。トゥルヌスもこれに劣らず早く追ひかけて、あらゆる障害物を打ち越え、高き橋を飛越う。彼が船首に足をかくるや否や、ユーノーは綱を断ち切り、引離されたる船を、引返す大波の上に速やかに乗せ去る。されど(真の)アエネーアースは、その間に在らずなりにし敵を戦へと挑みかけて呼び、彼の多くの戦士に出会いて、彼らを冥途へと送る。その時空しき幻影はもはや隠れ場所を求めずして、高く飛び黒き雲に薄れ行く、その間に渦巻く潮はトゥルヌスを遠く海上に乗せ出す。彼は(岸の方を)見返りて、これにいかなるわけの有りとも知らず、命の助かりたるを有難しとも思わず、群と共に手を合わせて大空へ差し上げ、『全能の父よ、汝は我をかかる罪悪に穢さる」に相応しき者と思うや、しかして我がかかる責罰を蒙るは汝の意思なりや?我はいずこに運ばるるや?我はいづれより来たりしや?いかなる逃走の我を、はたいかなる(臆病)者として我を、(戦列より)運び返いつかまたラウレシティウムの城壁と陣営とを見るべき?我と我が武器に従いたるるや?勇敢なる人々の一隊はいかになるべき?–恥づかしや–惨たらしき死の腮に我が残したる人々の全ては?今も我に、(戦場に)散乱して見ゆる彼らは、死に行く唸り声の聞ゆる彼らは?我らはいかにすべき?はたいかなる土か我がために今(我を吞むほど)十分深くその口を開かむとはする?あわれ風よ、汝ら寧ろ我を憐れめ、崖に岩に、––われトゥルススは全心を挙げて汝に願う––この船を打ち当てよ、しかしていかなるルトゥリー人たちも、また我の隠れ場を知る風聞も、そこまでは我を追わざる、流砂の情知らぬ浅瀬にそれを騙入れよ』かく言いながら、彼の心の中はかなたこなたに動搖す、かかる汚辱に心狂いて、剣の切尖を身に埋め、凄き双を肋骨に差し通すべきか、または波の真中に身を投げ、泳いで曲浦に辿りつき、再び取つて返し、トロイ人と戦ふべきかなど、さまざまに思い迷う。三度彼はその孰れもの道を試みた·れど、三度いと偉なるユーノーは彼を控制し、心にこの若人を憐み、彼を止めぬ。彼は大海を切りつム、都合よき波と潮とににり行き、父ダウヌスの古き町にぞ運ばるる。(10-六〇六~六八八)

されどその間にユピテルの警告により、火のごときメーゼンティウスは、トゥルヌスに代りて戦争に加はり、勝ほこりたるトロイ人たちを襲う。テュッレーニアの隊伍は急ぎ集り来たり、ただ一·入に対して全ての憎悪を集中し、との独りにぞ彼らの驟雨のごとき投げ槍を投ぐる。彼はあたかも広大なる海に突出で、風の狂暴に括抗し、大海に曝されながら、みずからは微動だにせず、天と海とのあらゅる力も脅威も耐忍ぶ巌のごとく(毅然として立ち)、ドリカーオーンの子ベブルスを地面に倒し、それと共にラタグスと逃足速きパルムスとを(倒す)。ラタグスをば、彼が逃ぐるより先に、岩と山の巨大なる断片とをもって、前面より口も顔も打ちつぶし、パルムスをば腿筋を断ちて戦ふ力なく地面に転がるに任せ、その鎧は肩にかくるように、前立ある兜は頭を飾るように、ラウススに与う。次に彼はプリュギア人エウアンテース、およびパリスと同年輩にして、彼の僚友たりしミマースを斬殺す。全く同じ夜に、デアーノーはミマースを彼の父アミュークスのために生み、キッセウスの娘なる女王は、炬火を孕みて、パリスを生みぬ。パリスは死してその郷国に横たわり、ラウレンティアの海岸は、名も知られざるミマースを止む。さて警へば松生ひ茂るウェスルスに多年の間護られ、または年久しくラウレンティアの沼澤に守られて、蘆葦茂れる森に肥えたる野猪の、嚙みつく獵犬に高き丘の上上り追下ろされ、罠に陷り、進退谷まりて猛く荒狂い、背中の毛を逆立つる時、(それを見る)何人も怒る勇気も、はた近々と側に寄る勇気もなく、たぐ遠くより投げ槍をもって、またはあぶなげなき関の声をあげて襲うに、大胆なる野獣は、恐る、態なく牙を噛み、四方に向かいて身構し、背中より槍を振落す。まづこうぞ、メーゼンティウスに対する彼らの怒は正しくとも、彼らの中の何人にも剣を抜いてあえて彼に出合う勇気はなく、遠くより投げ槍もて、騒がしき叫声もて、彼らは彼に挑戦す。コリュトゥスの土地よりアークローンは来たりぬ、彼はギリシア人なり、彼は結婚をおわる前亡命者として逃れたるなり。メーゼンティウスは、彼が羽毛飾と許婚の人に織られたる紫の長袍とを着け、美々しく(装いて)軍中深く進入せるを見しとき、あたかも饑るたる獅子の、狂へるごとき食欲に誘われ、しばしば喬木の林をさまよひ歩くとき、もしたまたま疾く走る小鹿や、大角持てる牡鹿を見れば、彼は恐ろしく口を張開けて打ち喜び、鬣を立て、獲物の臓腑の上に俯向きて離れず、汚き血は彼の貪婪なる口を浸すごとく、こうぞ意気盛なるメーゼンティウスも、敵の群がるところに突進す。不幸なるアークローンは打ち倒され、死に行くままに踵もて黒き土を打ち、汚血を折れたる武器にまみらす。彼は逃走りつ、あるオローデースを切り殺すことも、または槍を投げて対手の思いも寄らさる傷を負わすことも屑とせず。彼は正面より彼に向って進み、騙し討ちならず、勇ましき戦さによつて彼に立ちまさり、男と男として相闘う。その時彼は倒れたる戦士を踏みにじり、槍によりかかりて言う。『人々よ、戦のなおざりならぬ大物なる、えらきオローデースもたおれたるぞ』彼に続きて味方は高く凱歌を揚ぐ。死に行く者は息も絶々に、『汝、何者にもあれ、勝利者よ、汝に仇を報いでは措かじ、また汝は長く得意なることを得じ、(我と)等しき最期の汝をも待ちて、やがて汝も同じ野辺に横たわるべきぞ』という。彼に対し激怒を交えたる微笑もて、メーゼンティウスは答う。『いでや死ね、我につきては神々の父、人々の王ぞ、しかと定むるならん』彼はかく言いて彼の身体より槍先を引く。この時柔ならぬ休息と、鉄のごとき眠と、彼の眼を閉ざし、その眼球は永遠の夜(闇)に閉じこめらる。カェディクスはアルカトウスを殺す、サークラトールはヒュダスペースを、ラポーはパルテニウスと頑強なるオルセースとを、メースサーブスはクロニウスとリュカーオーンの子エリカェテースとを殺す、前者は手網なき馬の詳買のため地面に横たわりたるところを、後者は徒歩立なるを(殺したるなり%。リュギアのアルギスは徒歩にて前線に出で居たるが、彼をば己の祖父の勇気を継承せるワレルスぞ倒す。なおサ(一九)リウスはトロニウスを殖し、槍と遠矢にかけて名高きネアルケースはサリウスをたおす。(10-六八九~七五四)

今や禍い多きマルスは、いずれの側にも悲と相互の死とを平等に分つ。勝つ者敗くる者、等しく斬殺し、等しくたおる、この者どももかの者たちも逃走ることを知らず。神々はユピテルの宮居に在りて、両軍の空しき憤激を憐み、人間にかく大いなる労苦の有ることを嘆く。こなたよりはウェヌス、かなたよりはサートゥルヌスの娘ユーノー看守りてあり。物凄きティーシポネーは数千人の中に荒狂う。その時メーゼンティウスは大身の槍を振り回しながら、荒々しく野を潤歩す。あたかも巨大なるオリーオーンが、大海の真中にみずから道を作りながら、深き水を徒渉するとき、なお大波の上に肩を現わすごとく、または彼が山の頂より古き秦皮の樹を運び下ろしながら、足は土に着け、頭は大空の雲に包まるるごとく、かかる姿してぞメーゼンティウスは、巨大なる武器を持ちて進みける。他方にてアエネーアースは、遠くより彼を縱列の中に見つけたれば、行きて彼と立会わむと心構す。メーゼンティウスは少しも怯まず、彼の天晴なる敵を待ち設けつつ堂堂と立居たり。それより投げ槍によき程の距離を目測していう。『いで、我に取りては神とたのむわが右の手と、わが振回すこの投げ槍と、彼ら今我を助けよかし。ラウススよ、海賊アエネーアースの身より奪い取りたる甲胄を着せて、汝自身を戦勝の記念となすべきぞ』彼はかく言いて、遠くより唸りを立つる槍を投ぐ。それは飛び、盾に当りて逸れ、遠くより貴きアントーレースの脇腹と腸 との間を貫く。アントーレースはヘルクレースの友にして、アルゴスより来たり、エウアンドルスと結びてイタリアの町に定住したる者なり。この不幸なる男は、他人を狙いたる武器に打ち倒されつ、天を見上げて、死に行く際に愛するアルゴスをぞ思い出づる。その時忠直なるアエネーアース、彼の槍を投ぐ。槍は三重の黄銅にて造りたるき窿の円盾を貫き、折り重ねたる麻布を貫き、三枚の牡牛の皮にて編みたる細工を貫き、彼の腿根低く立つ、されど力尽きてそれより深くは入らず。アエネーアースは、デュッレーニア人の血を見て打ち喜び、腰より剣を抜き、狼狽したる敵に激しく迫り行く。ラウススはこの光景を見し時、いとしき父に対する愛情にて深く呻吟し、涙は彼の頬を流れ下る。(10-七五五~七九〇)

ここに我は、もしある将来の世のかくも偉大なる行為を信ずるならば、汝の悲惨なる運命の不幸と、汝の貴き行為とを物語るべし、げに我は、記憶せらるべき若人よ、汝を黙して看過することをなさじ。さて彼は足を引き摺りながら、たよりなく進退も妨げられつ、退きて、盾に留りたる敵の槍を曳きずり行く。若者はたちまち進み出で、乱闘の中に入り変り、アエネーアースが伸びあがり、右手もて(メーゼンティウスに)一撃を加えむとしたるとき、その剣の双の下に来たり、彼をひまどらせて打擊を妨げつ。彼の味方は高く関の声を上げてその後に続く。その間に父は子の盾に守られて引き退き、彼らは投げ槍を投げ、飛道具もて遠くより敵を掻き乱す。アエネーアースは、苛立ちながら、盾にかばわれて立ち止る。例えばもしたまたま驟雨の雹を伴って降来たりなば、その雨の地上に降りしきる間、あらゆる農耕の人は野より逃げ、旅人は河岸の下や、高き岩の穹形なせる窟の、安全なる場所に隠れ居て、天つ日再び立還りなば、残りの日をそれぞれの仕事に使わんと望むごとく、かくぞアエネーアースも四方より投げ槍に圧倒せられながら、雷霆の終熄するまで戦いの嵐を支え、ラウススを叱責し、ラウススを威嚇していう。『汝は死に直面していずこに突進せんとし、汝の力には大いに過ぐることをあえてするや(?) 汝の孝心が汝を欺きて用心を忘れしむるなり』されど彼はそれがために少しも熱狂したる努力を緩めず。やがてトロイの大将の激怒はますます高潮し、運命の女神はラウススのためその(生命の)最後の糸を紡ぐ。そは、アエネーアースはその強き剣を、との若人の身体の真中徹して突き貫き、その全長を刺埋めたればなり。剣の鋩は威嚇する若人の軽き武具なる盾を抜け、彼の母が打ち伸したる黄金の糸もて織りたる上衣を抜け、血は彼の胸を充たしつ。その時命は悲しくも空中を通じて下なる冥界に引退き、彼の躯を去行きぬ。されどアエネーアースは、死に行く者の顔面と相貌––不思議に蒼白なる顔––とを見しとき、彼は哀憐を感じて深く呻吟し、己の右手を差し伸し、己自身の孝行の姿ぞその心に触れぬる。『今や汝に何を、いとおしの子よ、との汝の見事なる振る舞いのため、を保て、我は汝をその祖先の魂と灰とに還すなり、もしかかる事が幾何にても汝の欲することならば。憐なる者よ、汝はこのこともてせめて汝の悲しき死を慰むべきなり、すなわち汝は偉なるを励まし、死者を地面より起せば、風俗に従つて梳られたるその髪の毛は、血に汚れてあり。(10-七九一~八三二)

その間に父はティベリス河の流れにて、走り行く水に負傷の血を止め、樹の幹に背を倚せて(111)忠直なるアエネーアースは、かく尊き魂に相応しき何を与うべきぞ?汝が愛でたる汝の武器アエネーアースの右手によりて倒れたるなり』彼はみずから率先して(ラウススの)ためらう僚友たち身体を休む。(少しく)隔りて、樹の枝に黄銅の兜かかり、彼の重き武器は空しく草の上に横たわる。彼の周囲には選り抜きの若者ら立ち、彼自身は弱く、息ざし忙しく、首を垂れ、梳れる髯は胸に垂下る。彼はあまたたびラウススのことを尋ね、我が子を呼戻さんとしばしば使者を遣り、憂慮する父の命令を伝えしむ。されど命なきラウススは、うち泣く僚友により盾に乗せて運ばれ来たる、偉なる戦士なれども大いなる傷に打ち負かされて。禍を予感する父の心は、遠く離れてもすでに人々の哀傷の意味を悟りつ。彼は多くの塵もて半白の毛髪を搔き乱し、両手を天に差し伸し、死骸にしがみつきていう。『わが子よ、我はしも、我が身代りに立たんと、我が子が敵の右手を支うるを忍ぶほど、そもや命のいとほしさに占められたるや?汝の死によりて我な生き、汝のこれらの傷によりて、われ、汝の父は助けられたるや?あわれ、今ぞついにみじめなる我に死こそ不幸なりけれ。今こそ傷は深く入りぬれ。さなり、我が子よ、我は憎まれて祖先の玉座よりも王笏よりも追われ、わが罪によりて汝の名をば穢したり。我は我が国と我が臣民の嫌悪とに対し、罰をぞ負いたる。いかなる形の死によりても、我が罪ある命を渡す可かりしなり。今我は生きて在り、なおいまだ人々と光とに別れず、されど我はそれらを後にせむとぞ思う』彼はかく言いつつ、弱りたる腿の上に身を起す、しかして重傷の苦痛は彼の動きを遲々たらしむるも、なお意気は衰えず、馬を牽けよという。これぞ彼にとりては誉れともなり慰めともなりしものにて、との馬にてぞ彼は戦毎に勝来たりしなり。彼は打ち嘆くとも見ゆるこの動物に話しかけ、かくぞ始むる。『ラウススよ、もし我ら死すべき者に、何か永しという事の有るならば、永くぞ我らは生きぬるぞ。今日、汝は勝利者として、血腥き分捕品とアエネーアースの首とを持帰り、我と共にラウススの復讐者たるべし、もしまたいかなる力も道を開くことを得ずば、我と共に汝も死すべし。そは、我がいと勇ましき駒よ、我は汝が見知らぬ人の命令に従い、あるいはトロイ人を主人とすることを、屑しとせじと信ずればなり』彼はかく言いて、彼の背に乗せられ、そこに彼は馴れたる手足を置き、両手には鋭く尖りたる槍を取持ち、頭には黄銅の兜輝き、馬の毛の前立蓬々たり。かくて速やかに馬を駆りて敵の真中に向ふに、彼の一つの心の申には、大いなる恥辱と、悲哀に入交りたる狂怒とぞ波打つ。その時彼は三度高声にアエネーアースを呼ぶ。アエネーアースはその際を聞知り、悦んで祈る。『かくぞ神々のかの大御父が、かくぞ天なるアポロンが、それをこそ許させたまえ。いで汝戦を始めよや』彼はこれのみ言いて、槍を構えて彼に向かい進み行く。されど彼はいう、『いと残忍なる者よ、我より子を奪いたる今、何ぞ汝は我を嚇さんとはする?汝が我を殺し得る唯一の道はこれなりき。我らは死を恐れず、我らはいかなる神にも容赦せず。止めよ。我はまさに死せむとする者として来たれるなり、しかして我はまず汝にこの贈物を持来たれるなり』彼はかく言いて、敵に対して(洗づ)槍を投げ、次に一本また一本と、彼が馬にて大いなる輪を描きて乗りまわすまま放つに、(盾の)黄金の浮彫の飾は、その槍をみな受止めつ。彼は手もて槍を投げながら、三度、毅然として立つアエネーアースを回りて、左に輪を描きて馬を乗りまわす。三度、トロイの英雄は彼の靑銅の被い物の上に(槍の)林を立てたるまま、我が身と共に回転す。ついにかく長く時の遷るに倦み、盾より多くの投げ槍を抜くに倦み、対等ならぬ闘に従事することに困じ果てたるとき、幾多の考慮を費したる後、彼は進み出でて、槍をば軍馬の窪みたる両のこめかみの間にぞ投ぐる。馬は真直に立揚ム踵もて空を蹴り、みずから投出されたる乗人の土に倒れて打ち重なり、頭を前に垂し、その脱臼せる肩骨もて彼の上に横たわる。トロイ人たちもラテン人たちも叫喚を挙げて大空を爆焼す。アエネーアースは飛来たり、剣を鞘より引抜き、彼の上に突立ちてかく言う。『火のごときメーゼシティウスは今いずこに在りや、彼の魂の激しき元気は?』それに答えて、テュルレーニア人は空の方を見上げつ、天の微風を吸入れ、意識を回復せしとき、かく言う。『にがにがしき优人よ、いかなれば汝はかく我を非難し、死をもって威嚇するや?我を殺すは罪ならず、また我はかかれとてしも戦いに来たりしにあらず、はた我がラウススは(その死によりて)我がために汝とかかる契約は結ばざりしなり。もし打ち敗かされたる敵に示さるべき幾何の情にても汝に在るならば、その情にたよりて我はこの一事を哀願す、我が亡骸の土に蔽わるることを許せ、我は我が国人の激しき憎悪の我を取巻くを知る。願わくは汝彼らのとの激怒を防除し、我を我が子の墓に伴侶とし渡せ』彼はかく言いおわり、自若として喉に剣を受け、吹出づる血潮もて己が武具の上に命をぞ注ぎ出しぬる。(10-八三三~九〇八)

第十一巻梗概(下201p)

アエネーアースはメーゼンティウスの武具もて戦勝記念の飾りを建て、涙と哀哭ともてパッラースの死体をエウアンドロスに送る。

死者埋葬のための休戦はラテン人によって申し出られ、トロイ人の大義への同情は、ドランケースにその代言者を見出す。

エウアンドロスの悲哀、トロイ人、ラテン人らの葬式。トゥルヌスの使節、ディオメデスの都市よりかえり、彼がアエネーアースを賞賛し、服従を忠告したることを報告す。

熱心なる討議これに次ぎ、ラティーヌス王平和の条件を暗示す。ドランケースはトゥルヌスに反対して毒舌を浴びせ、トゥルヌスはこれに答えて、アエネーアースと一騎うちをなす覚悟をもって抗議し、しかしてやがて敵の攻撃せまりぬという誤報によりて与えられたる機会をとらえ、議会を解散す。

ラテン人たちの母も処女も女神パッラスに供物と祈祷とをささぐ。トゥルヌス、戦さのために武装す。女勇士カミッラとメッサープス、ラテン軍の騎馬隊を指揮す。

トゥルヌス、まちぶせをはかる。女神ディアーナ、カミッラのことを物語り、ニンフのひとりオービスに、もし彼女殺されなば復讐をなすべしと命ず。オービス、ラティーヌスの都市の前にて戦いを見まもる。カミッラのふるまいと死との記述。彼女の殺害者アッルンス、オービスに殺さる。ラテン人らの潰走、トゥルヌスはその情報を聞き、まちぶせを放棄し、町に急ぐ、アエネーアースただちにそのあとを追う。


第十二巻梗概(下253p)

トゥルヌスはいまや、一騎うちにてアエネーアースとたたかうという約束を履行せざるべからざることを覚悟し、ラティーヌス王の説にも王妃アマータの説にも服することをうべなわず、挑戦状を送り、双方準備をなす。矢来作られ、観衆あつまる。

女神ユーノーはニンフなるユートゥルナにその兄トゥルヌスを助けよと警告す。決闘の条件が誓言葉と犠牲とをもって批准せられたるのち、ユートゥルナは仮装して、時宜をえたる前兆をもって、集まりたるラテン人のひとりを誘惑し、休戦条約をやぶり、トロイ人を殺さしむ。

アエネーアース、その部下の復讐を制せんとつとむる間に負傷す。騒擾は一般化す。トゥルヌス、トロイ人の間に殺到す。

アエネーアース不思議に快癒し、まずトゥルヌスのみを追跡す――トゥルヌスはユートゥルナに連れ去らる。されどやがてアエネーアースは怒りにまかせ無差別に殺戮し、ついにウェヌスの忠告により町を攻撃す。

アマータはトゥルヌス死したりと信じ自殺す。トゥルヌスの眼開く。町の外壁が燃ゆるを見て立ちかえり、アエネーアースと会戦せんとの覚悟を宣言す。アエネーアースその挑戦を歓迎し、前方に突進す。

すべての眼は二人のうえに釘付けとなる。そのときトゥルヌスの剣折れる。いま一度彼は逃走し、アエネーアースは追跡す。ユートゥルナ、トゥルヌスに他の剣を与う、ウェヌス、アエネーアースに彼の槍を返す。

大神ユピテルとその妃なる女神ユーノーの会話。トゥルヌスは死せざるべからず。

アエネーアースはラウィーニアと結婚し、王たるべし。されど新しき国民はラティウムの古き儀式と名称とを保ち、トロイ人ならずしてラテン人と呼ばれざるべからずとなり。

ユーノーこれに従い、ユピテルはユートゥルナに戒告して戦場を去らしむ。トゥルヌスは、われとわが身のままならずして、最後の超人的努力ののち、打ち倒さる。アエネーアース彼の生命をほとんど助けんと思う、そのときパッラースよりの分捕り品を彼の肩のうえに見て、彼を殺す。





2025.3~TomokazuHanafusa/メール  ホーム



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