尉翁 千歳 三番叟

〈初日〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。/\。 日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。 千歳「絶えずとうたり常にとうたり。千歳之舞。 千歳「処千代までおはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 千歳「鶴と亀との齢にて。 処は久しく栄え給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経る。

地「萬代こそ経れ。ありうとうとうとう。千歳之舞。 翁「総角やとんどや。 地「尋ばかりやとんどや。翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。翁「松やさき。 翁や先に生れけん。 いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。 万歳楽と諷ふたり。又万代の池の亀は。 甲に三極を備へたり。渚の砂。 索々として朝の日の色を朗じ。瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。 そやいづくの翁とうとう。翁「そよや。翁之舞。翁「千秋万歳の。 歓の舞なれば。一舞まはう万歳楽。 地「万歳楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。

。 〈二日目〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。 千歳「千歳ましませ千歳ましませ。松の梢に。地「鶴や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。 千歳「鶴や住むなり鶴や住むなり。 千歳「君が千歳を経ん事も。天つ乙女の羽衣よ。 千歳ましませ松の梢に。地「鶴や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。 翁「総角やとんどや。地「尋ばかりやとんどや。 翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。翁「松や先。翁や先に生れけん。

いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。 万歳楽と諷ふたり。又万代の池の亀は。 甲に三極を備へたり。渚の砂。さく/\として朝の日の色を朗じ。瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。 そや何くの翁とうとう。翁「そよや。翁之舞。 翁「千秋万歳の。歓の舞なれば。 一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈三日目〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。

地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「万歳ましませ。 万歳ましませ巌が上に。地「亀や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。 千歳「亀や住むなり亀や住むなり。千歳「君が万代経ん事も。

天つ乙女の羽衣よ。 万代ましませ巌が上に。地「亀や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。翁「総角やとんどや。 地「尋ばかりやとんどや。 翁「座して居たれども。地「参らうれんげりやとんどや。

翁「松や先。翁や先に生れけん。 いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。万歳楽と諷ふたり。 又万代の池の亀は。甲に三極を備へたり。 渚の砂。索々として。朝の日の色を朗じ。 瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。 そやいづくの翁とうとう。翁「そよや。翁の舞。翁「千秋万歳の。 歓の舞なれば。一舞まはう万歳楽。 地「万歳楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈四日目〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「所千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。

地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。 鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。 千歳「絶えずとうたり。常にとうたり。千歳之舞。 千歳「君の千歳。 を経ん事も天つ乙女の羽衣よ鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。千歳之舞。 翁「総角やとんどや。地「尋ばかりやとんどや。 翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。翁「千早振。神のひこさの昔より。 久しかれとぞ祝ひ。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。 万歳楽と歌うたり。又万代の池の亀は。 甲に三極を備へたり。渚の砂。 索々として朝の日の色を朗じ。瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。

地「あれはなぞの翁ども。そや何くの翁とうとう。 翁「そよや。翁之舞。翁「千秋万歳の。 歓の舞なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。 翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈法会舞〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。 鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。千歳「絶えずとうたり。 常にとうたり。千歳之舞。 千歳「処千代までおはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 千歳「鶴と亀との齢にて。

処は久しく栄え給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経る。 地「万代こそ経れ。 ありうとうとうとう。千歳之舞。翁「総角やとんどや。 地「尋ばかりやとんどや。翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。 翁「松や先。翁や先に生れけん。 いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。万歳楽を歌ふたり。 又万代の池の亀は。甲に三極を備へたり。 渚の砂。索々として朝の日の色を朗じ。 瀧の水。冷々として夜の月鮮かに浮んだり。 天下泰平国土安穏。今日の御祈祷なり。 在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。そやいづくの翁とう/\。 翁「そよや。翁之舞。 翁「万歳の亀これにあり。千年の松庭にあり。 誠にめでたき例には。石をぞ引くべかりける。 地「君が代は。翁「千秋万歳の。歓の舞なれば。 一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。翁「万歳楽。

地「万歳楽。 。 〈十二月の往来〉。翁二人「とう/\たらり/\らたらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁左「所千代までおはしませ。 地「我等も千秋候はん。翁右「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁二人「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。 鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりやりうとうとうとう。 千歳「絶えずとうたり。常にとうたり。 千歳「所千代までおはしませ。地「我等も千秋候はん。 千歳「鶴と亀との齢にて。 処は久しく栄え給ふべしや。 鶴は千代経る君は如何経る。地「万代こそ経れ。ありうとうとう。 翁左「総角やとんどや。

地「尋ばかりやとんどや。翁右「やあ座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。 左詞「やゝ尉殿に申すべき事の候。 右詞「そもやそも何条事にて候ふぞ。 左「かゝるめでたきみぎんには十二月の往来こそめでたう候へ。 右「それこそ尤もめでたう候へ。 左「正月の松の風。右「八絃の琴を調べたり。 左「二月の霞は。右「天つ処女の羽衣よ。 左「三月の桃の花。右「三千年も猶さかふる。 左「四月の橘は。右「常世の国もかはらじ。 左「五月の菖蒲草。右「大御殿に葺きたり。 左「六月の氷は。右「僊のつたへなりける。 左「七月の梶の葉は。右「幸をもとむる種とかや。 左「八月の月はそも。 右「尽きせぬ秋と照すなり。左「九月の菊の花。 右「老いせぬ薬なるかも。左「十月の竜胆草は。 右「うち日さすなへゑまはし。左「十一月の梅の花。 右「新嘗まつる心葉。左「十二月のみ雪は。 右「豊年しらす祥瑞。左「やあ千歳々々。

右「ちとせの千歳。左「やあ万歳々々。 右「よろづよの万歳。地「御たゝはします。御貢の御宝。 かぞへてまゐらん。翁ども。 地「あれは何所の翁ども。そやいづくの翁とうとう。 翁二人「そよや。二人「千秋万歳の。 祝の舞なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。 翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈父尉延命冠者〉父尉「あれはなぞの小冠者ぞや。 地「釈迦牟尼仏の小冠者ぞや。生れし所は〓{トウ}利天。 父尉「育つ所は鼻が。地「そのましまさば。 とくしてましませ。 父の尉親子と共につれて御祈祷申さん。 父尉「一天雲治まつて日月の影明し。 雨うるほし風穏かに吹いて。時に随つて旱魃。水損の恐更になし。 人は家々に楽の声絶ゆる事なく。 徳は四海にあまり。悦は日々に増し。 上は五徳の歌を諷ひ舞ひ遊ぶ。そよや悦に。

又悦を重ぬれば。ともに嬉しく。 地「物見ざりけりありうとう/\ 阿蘇宮神主友成 従者二人 住吉明神

ワキワキツレ二人、真ノ次第「今を始の旅衣。/\。 日もゆく末ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは九州肥後の国。 阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。われいまだ都を見ず候ふほどに。 此度思ひ立ち都に上り候。 又よき序なれば。 播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。道行三人「旅衣。末はる%\の都路を。 /\。けふ思ひ立つ浦の波。 舟路のどけき春風の。幾日来ぬらん跡末も。 いさ白雲のはる%\と。さしも思ひし播磨潟。 高砂の浦に着きにけり。/\。 シテツレ二人、真の一セイ「高砂の。松の春風吹き暮れて。 尾上の鐘も響くなり。

ツレ二ノ句「波は霞の磯がくれ。二人「音こそ潮の満干なれ。 シテサシ「誰。 をかも知る人にせん高砂の。 松も昔の友ならで。 。 過ぎ来し世世はしら雪の。 。積り/\て老の鶴の。 塒に残る有明の。 春の霜夜の起居にも。 。 松風をのみ聞き馴れて。 心を友と。菅筵の。

思を述ぶるばかりなり。 下歌「おとづれは松にこと問ふ浦風の。 おち葉衣の袖そへて木蔭の塵を掻かうよ。/\。 上歌「所は高砂の。/\。尾上の松も年ふりて。 老の波もよりくるや。 木の下蔭の落葉かくなるまで命ながらへて。 猶いつまでか生の松。それも久しき名所かな。/\。

ワキ詞「里人を相待つところに。 老人夫婦きたれり。 いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「高砂の松とは何れの木を申し候ふぞ。 シテ「唯今木蔭を清め候ふこそ高砂の松にて候へ。 ワキ「高砂住の江の松に相生の名あり。 当所と住吉とは国を隔てたるに。 何とて相生の松とは申し候ふぞ。シテ「仰の如く古今の序に。 高砂住の江の松も。 相生のやうに覚えとありさりながら。此尉は津の国住吉の者。 是なる姥こそ当所の人なれ。 知る事あらば申さ給へ。 ワキ「ふしぎや見れば老人の。夫婦一所にありながら。 遠き住の江高砂の。浦山国を隔てゝ住むと。 いふはいかなる事やらん。 ツレ「うたての仰候ふふ心づかひの。妹背の道は遠からず。 ふ心づかひの。妹背の道は遠からず。 シテ「まづ案じても御覧ぜよ。

シテツレ「高砂住の江の。 松。 は非情のものだにも。 相生の名はあるぞかし。 。 ましてや生ある。 人として年久しくも住吉より。 。 通ひ馴れたる尉と姥は。 松もろともに。 此年まで。 相生の夫婦となるものを。 。 ワキ「いはれを聞。 けばおもしろや。さて/\さきに聞えつる。 。 相生の松の物語を。 所に言ひ置く謂はなきか。

シテ詞「昔の人の申しゝは。 これはめでたき世のためしなり。 ツレ「高砂といふは上代の。万葉集の古の義。 シテ「住吉と申すは。いま此御代に住み給ふ延喜の御事。 ツレ「松とは尽きぬ言の葉の。 シテ「栄は古今相同じと。シテツレ二人「御代を崇むる喩なり。 ワキ「よく/\聞けばありがたや。 今こそ不審はるの日の。シテ「光和らぐ西の海の。 ワキ「かしこは住の江。シテ「こゝは高砂。 ワキ「松も色そひ。シテ「春も。 ワキ「のどかに地上歌「四海波静かにて。 国も治まる時つ風。枝を鳴らさぬ御代なれや。 逢ひに相生の。松こそめでたかりけれ。 げにや仰ぎても。言も愚やかゝる世に。 住める民とて豊なる。君の恵ぞ有難き。/\。 。ワキ詞「なほ/\高砂の松のめでたきいはれ。委しく御物語り候へ。 地クリ「それ草木心なしとは申せども花実の時をたがへず。 陽春の徳を具へて。南枝花始めて開く。

シテサシ「然れども此松は。 そのけしき長へにして花葉時を分かず。 地「四つの時至りても。一千年の色雪のうちに深く。 または松花の色十廻とも云へり。 シテ「かゝるたよりを松が枝の。地「言の葉草の露の玉。 心を磨く種となりて。 シテ「生きとし生ける。もの毎に。地「敷島の陰に。 よるとかや。 クセ「然るに。長能が言葉にも。 有情非情のその声みな歌にもるゝ事なし。 草木土砂。風声水音まで万物のこもる心あり。 春の林の。東風に動き秋の虫の。 北露に鳴くもみな。和歌の姿ならずや。 中にも此松は。万木に勝れて。 十八公のよそほひ。千秋の緑を為して。古今の色を見ず。 始皇の御爵に。 あづかるほどの木なりとて異国にも。 本朝にも万民これを賞翫す。シテ「高砂の。尾上の鐘の音すなり。 地「暁かけて。霜はおけども松が枝の。

葉色は同じ深緑立ちよる蔭の朝夕に。 かけども落葉の尽きせぬは。 真なり松の葉。 の散り失せずして色はなほまさきのかづら長き世の。 たとへなりける常磐木の中にも名は高砂の。 末代のためしにも相生の松ぞめでたき。 ロンギ地「げに名を得たる松が枝の。/\。 老木の昔あらはして。 その名を名のり給へや。シテツレ二人「今は何をかつゝむべき。 これは高砂住の江の。相生の松の精。 夫婦と現じ来りたり。 地「ふしぎやさては名所の。松の奇特を現して。 シテツレ二人「草木心なけれども。地「かしこき代とて。 シテツレ二人「土も木も。地「わが大君の国なれば。 いつまでも君が代に。 住吉にまづ行きてあれにて。待ち申さんと。 ゆふ波の汀なる海人の。小舟に打ち乗りて。 追風にまかせつつ。 沖の方に出でにけりや沖の方にいでにけり。中入間「

。 ワキ歌(三人)待謡「高砂や。此浦舟に帆をあげて。 /\。月もろともに出で汐の。 波の淡路の島影や。 遠く鳴尾の沖すぎてはや住の江に着きにけり。 はや住の江につきにけり。 後シテ出端「われ見ても久しくなりぬ住吉の。 岸の姫松幾世経ぬらん。 睦ましと君は知らずや瑞籬の。久しき世々の神かぐら。 夜の鼓の拍子を揃へて。すゞしめ給へ。 宮つこたち。地「西の海。 檍が原の波間より。シテ「あらはれ出でし。神松の。 春なれや。残の雪の浅香潟。 地「玉藻刈るなる岸陰の。シテ「松根によつて腰をすれば。 地「千年の翠。手に満てり。 シテ「梅花を折つて頭にさせば。 地「二月の雪衣に落つ。神舞「。 ロンギ地「ありがたやの影向や。/\。 月すみよしの神遊。御影を拝むあらたさよ。 シテ「げにさま%\の舞姫の。

声も澄むなり住の江の。松影も映るなる。 青海波とはこれやらん。地「神と君との道すぐに。 都の春に行くべくは。 シテ「それぞ還城楽の舞。地「さて万歳の。シテ「小忌衣。

地「さす腕には。悪魔を払ひ。をさむる手には。 寿福を抱き。千秋楽は民を撫で。 万歳楽には命を延ぶ。 相生の松風颯々の声ぞたのしむ。/\ 官人 従者 老人 高良明神 同従者

ワキ、ワキツレ二人次第「御代も栄ゆく男山。/\。 名高き神に参らん。 ワキ詞「抑是は後宇多の院に仕へ奉る臣下なり。 扨も頃は二月初卯八幡の御神事なり。郢曲のみぎんなれば。 陪従の参詣仕れとの宣旨を蒙り。 唯今八幡山に参詣仕り候。道行三人「四つの海。 波しづかなる時なれや。/\。 八洲の雲もをさまりて。げに九重の道すがら。 往来の旅もゆたかにて。廻る日影も南なる。 八幡山にも着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。八幡山に着きて候。

心静かに神拝を申さうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一セイ「神祭る。 日も如月の今日とてや。のどけき春の。景色かな。 ツレ二ノ句「花の都の空なれや。二人「雲もをさまり。 風もなし。 シテサシ「君が代は千代に八千代にさゞれ石の。いはほとなりて苔のむす。 二人「松の葉色も常磐山。緑の空ものどかにて。 。 君安全に民あつく関の戸ざしもさゝざりき。本よりも君を守りの神国に。 わきて誓も澄める夜の。月かげろふの石清水。 絶えぬ流の末までも。

生けるを放つ大悲の光。げにありがたき。時世かな。 下歌「神と君と道すぐに歩を。 はこぶこの山の。上歌「松高き。 枝もつらなる鳩の嶺。/\。曇らぬ御代は久方の。 月の桂の。男山げにもさやけき影に来て。 君万歳と祈るなる。神に歩を。 運ぶなり神に歩を運ぶなり。 ワキ詞「今日は当社の御神事とて。 参詣の人々多き中に。 これなる翁錦の袋に入れて持ちたるは弓と見えたり。 そも何くより参詣の人ぞ。 シテ「これは当社に年久しく仕へ申し。君安全と祈り申す者なり。 又これに持ちたるは桑の弓なり。 身の及びなければいまだ奏聞申さず。 唯今御参詣を待ち得申し。君へ捧物にて候。 ワキ「ありがたし/\。先々めでたき題目なり。 さて其弓を奏せよとは。 私に思ひよりけるか。もしまた当社の御託宣か。 分きていはれを申すべし。

シテ詞「これは御言葉ともおぼえぬものかな。 今日御参詣を待ち得申し。桑の弓をさゝげ申す事。 即ち是こそ神慮なれ。 ツレ「其上聞けば千早ぶるシテツレ二人「神の御代には桑の弓。 蓬の矢にて世を治めしも。 直なる御代のためしなれ。よく/\奏し給へとよ。 ワキ「げにげにこれは泰平の。 御代のしるしは顕れたり。詞「まづ其弓を取り出し。 神前にて拝み申さばや。シテ詞「いや/\弓を取り出しては。何の御用のあるべきぞ。 ツレ「昔唐周の代を。治めし国のためしには。 シテ「弓箭を包み干戈を納めし例を以て。 ツレ「弓を袋に入れ。 シテ「剣を箱に納むるこそ。ツレ「泰平の御代のしるしなれ。 ツレシテ二人「それは周の代これは本朝。 名にも扶桑の国を引けば。地歌「桑の弓。 取るや蓬の八幡山。/\。 誓の海もゆたかにて。君は船。 臣は瑞穂の国々も残りなく靡く草木の。

恵も色もあらたなる御神託ぞめでたき。神託ぞめでたかりける。 。 ワキ詞「桑の弓蓬の矢にて世を治めし謂なほ/\申し候へ。クリ地「そも/\弓箭を以て世を治めし始と謂つぱ。 人皇の御代始まりても。即ち当社の御神力なり。 シテサシ「然るに神功皇后。 三韓を鎮め給ひしより。地「同じく応神天皇の御聖運。 御在位も久し国富み民も。豊に治まる天が下。 今に絶えせぬ御調とかや。 クセ「上雲上の月卿より。下万民に至るまで。 楽の声尽きもせず。然りとは申せども。 君を守りの御めぐみなほも深き故により。 欽明天皇の御宇かとよ。豊前の国。宇佐の郡。 蓮台寺の麓に。八幡宮とあらはれ。 八重旗雲をしるべにて。洛陽の。南の山高み。 曇らぬ御代を守らんとて。 石清水いさぎよき。霊社と現じ給へり。 されば神功皇后も。異国退治の御為に。 九州四王寺の峯に於て七箇日の御神拝。

ためしも今は久方の。天の岩戸の神遊。 群れ居て歌ふや榊葉の。青和幣白和幣とり%\なりし神霊を。シテ「うつすや神代の跡すぐに。 地「今も道ある政事あまねしや神籬の。 をかたまの木の枝に。 金の鈴を結びつけて千早ぶる神遊。 七日七夜の御神拝誠に天も納受し。地神も感応の海山。 治まる御代に立ち帰り。国土を守り給ふなる。 八幡三所の神託ぞめでたかりける。 ロンギ地「げにや誓も影高き。/\。 このきさらぎの神祭。 かゝる神慮ぞありがたき。シテ「ありがたき。 千代の御声をまつ風の。更け行く月の夜神楽を。 奏して君を祈らん。地「祈る願も瑞籬の。 久しき代より仕へてき。 シテ「我は誠は代々を経て。地「今此年になるまでも。 シテ「生けるを放つ。地「高良の神とは我なるが。 此御代を守らんと。唯今こゝに来りたり。 八。 幡大菩薩の御神託ぞ疑ふなとてかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「都に帰り神勅を。/\。 悉く奏しあげぐしと。 いへばお山も音楽の聞えて異香薫ずなり。 げにあらたなる奇特かな/\。 後シテ出端「もとよりも人の国より我が国。 他の人よりも我が人と。誓の末も明らけき。 真如実相の槻弓の。八百万代に至るまで。 動かず絶えず君守る。 高良の神とは我が事なり。地「如月の。 初卯の神楽おもしろや。シテ「謡へや謡へ日影さすまで。 地「袖の白木綿返す%\も。千代の声々。

うたふとかや。神舞「。 ロンギ地「げにや末世といひながら。/\。 神の威光はいやまして。 かくあらたなる御影向。拝むぞ尊かりける。 シテ「君を守りの御恵。本より定ある上に。 殊に此君の神徳。天下一統と守るなり。 地「げにげに神代今の代の。 しるしの箱の明らかに。シテ「此山上に宮居せし。地「神の昔は。 シテ「久方の。地「月の桂の男山。 さやけき影は所から。 畜類鳥類鳩吹く松の風までも皆神体とあらはれ。 げに頼もしき神。 慮示現大菩薩八幡の神託ぞ豊なりける神託ぞ豊なりける 官人 従者 樵夫 樵夫 大伴黒主の神

ワキ、ワキツレ二人次第「道ある御代の花見月。/\。 都の山ぞ長閑けき。

ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても江州志賀の山桜。

今を盛なる由承り及び候ふ程に。唯今志賀の山路へと急ぎ候。 道行三人「春の色。たな引く雲の朝ぼらけ。 /\。 長閑けき風の音羽山今朝越え来ればこれぞこの。名におふ志賀の山越や。 湖遠き。眺かな/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。江州志賀の山に着きて候。 暫く此処に候ひて花を眺めうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一セイ「さゝ波や。 志賀の都の名を留めて。昔ながらの山桜。 ツレ二ノ句「春に馴れてや心なき。二人「身にも情の。 残るらん。シテサシ「山路に日暮れぬ樵歌牧笛の声。 二人「人間万事様々の。 世を渡り行く身の有様。物毎に遮る眼の前。 光の陰をや送るらん。 下歌「余りに山を遠く来て雲又跡を立ちへだて。上歌「入りつる方の白波の。 /\。谷の川音。 雨とのみ聞えて松の風もなし。実にや誤つて半日の客たりしも。 今身の上に。 知られたり今身の上に知られたり。

。 ワキ詞「不思議やなこれなる山賎を見れば。重かるべき薪に猶花の枝を折り添へ。 休む処の花の蔭なり。 これは心有りて休むか。唯薪の重さに休み候ふか。 シテ詞「仰畏つて承り候ひぬ。 先薪に花を折る事は。道のべの便の桜折り添へて。 薪や重き春の山人と。歌人も御不審有りし上。 今更何とか答へ申さん。 ツレ「又奥深き山路なれば。松も桧原も多けれども。 取り分き花の蔭に休むを。 シテ詞「唯薪の重さに休むかとの。仰は面目なきよなう。 。

シテツレ二人「さりながら彼の黒主が歌のごとく。其様賎しき山賎の。 薪を負ひて花の蔭に。休む姿は実にも又。 其身に応ぜぬ振舞なり。許し給へや上臈達。 ワキ「こは如何に優るをも羨まざれ。 劣るをも賎しむなとの。 古人の掟は誠なりけり優しくも。古歌の喩の心を以て。 今の返答申したり。シテ「いや/\古歌の喩とやらんも。さら/\知らぬ身なれども。 賎しき身にも思ひよりて。ワキ「彼大伴の黒主が。 心を寄する老の波。 シテ「和歌のうらわの藻塩草。ワキ「かく喩へ置く世語の。 シテ「それは黒主。ワキ「これは誠に。 シテ「さまの賎しき。ワキ「山賎の。 地「身にも応ぜぬ事なれど。許させ給へ都人。 とてもの思ひ出に花の蔭に休まん。 実にや今までも。筆を残して貫之が。 言葉の玉のおのづから。古今の道とかや。/\。 クリ地「夫れ賢かつし時代を尋ぬるに。 延喜の聖代の古。

国を恵み民を撫でて万機の政を。治め給ふ。 シテサシ「しかればその御時に至つて。和歌の道盛んにして。 古今の詠歌を選び。地「二聖六歌仙を始として。 其外の人々は。 野辺の葛のはひひろごり。林の茂き木の葉の露の。 色に染み行く歌人の心は花になるとかや。 シテ「実に埋木の人知れぬ。 地「ことわざまでの情とかや。クセ「そも/\。難波津浅香山の。 影見えし山の井の。浅くは誰か思草の。 露往き霜来る色なれや。浜の真砂より。 数多き言の葉の。心の花の色香までも。 妙なりや敷島の道ある御代の翫。 然れば三十一文字の。神も守護し給ひて。 無見頂相の如来も。感応垂れ給へば。 君も安全に。万民時を楽みて。 都鄙円満の雲の下四海八洲の外までも。 波の声万歳の響は。長閑けかりけり。 シテ「今天皇の御代久に。地「万の政の。道直ぐに渡る日の。 東南に雲をさまり。西北に風静かにて。

言葉の林栄ゆくや花も常磐の山松の。 巷。 にうたふ声までもこれ和歌の詠に漏るべしや。天地を動かし鬼神も。 感をなすとかや。 ロンギ地「実にや異なる山賎の。/\家路いづくの末ならん。 ゆかしき心なるべし。シテ「今は何をか包むべき。 その古は大伴の。黒主といはれしが。 時代とて此山の。神とも人や見るらん。 地「そも此山の神ぞとは。不思議やさては大伴の。 シテ「それは黒主の家の名の。地「大伴か。 シテ「我はたゞ。 地「薪負ふ友もなくて独り。 山路の花の蔭に長休みしつる恥ずかしやと。夕の雲に立ち隠れて志賀の。 宮路に帰りけり志賀の宮路に帰りけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「いざ今日は。 春の山辺にまじりなん。/\。暮れなばなげの花の蔭。 月に詠じて天の原。時の調子に移り来る。 舞歌の声こそ。

あらたなれ舞歌の声こそあらたなれ。 後シテ出端「雪ならば幾度袖を払はまし。 花の吹雪の志賀の山。越えても同じ花園の。 里も春めく近江の海の。 志賀辛崎の松風まで。千声の春の。長閑けさよ。 一セイ「海越に。見えてぞ向ふ鏡山。 地「年経ぬる身は老が身の。シテ「それは老が身。 これは志賀の。地「神の白木綿かけまくも。 忝しや神楽の舞。神舞「。 ロンギ地「不思議なりつる山人の。/\。 薪の斧の永き日も。 残る和光のあらたさよ。シテ「実に惜むべし君が代の。 長閑けき色や春の花の。塵に交はる雪ならば。 踏む跡までも心せよ。 地「実に心して春の風。声も添ふなり御神楽の。 シテ「小忌の衣の色はへて。地「花は梢の白和幣。 シテ「松は立枝の。地「青和幣。かくるやかへるや。 梓弓春の。 山辺を越え来れば道も去りあへず散る花の。

雲の羽袖を返しつゝ紅の御袴の。そばを取り。

拍子を揃へて神かぐら実に面白き。奏かなげに面白き奏かな 伊弉諾尊(前ハ老人) 臣下

ワキ(三人)次第「治まる国の始もや。/\淡路の神代なるらん。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 偖もわれ宿願の子細あるにより。 住吉玉津島に参詣仕りて候。又よきついでなれば。 これより淡路の国に渡り。 神代の古跡をも一見せばやと存じ候。道行三人「紀の海や。 波吹上の浦風に。/\。跡遠ざかる沖つ舟。 潮路程なく移り来て。よそに霞し島かげや。 淡路潟にも着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや淡路の国に着きて候。此処の人を待ち。 神代の古跡を尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「神の代の。 跡を残して海山ののどけき波の淡路潟。

ツレ二ノ句「種を収めし国なれば。二人「苗代水もゆたかなり。 シテサシ「それ陰陽の神代より。今人界に至るまで。 二人「山河草木国土は皆。 神の恵に作り田の。 雨つちくれを潤して千里万里の外までも。皆楽める時とかや。 歌「頃しも今は。 長閑なる心の池のいひがたき春のけしきも様々に。 春の田を人に任せてわれは唯。/\。花に心の憧るゝ。 盛りにひかれて苗代の水に心の種蒔きて。 散れば此処もや桜田の。 雪をもかへすけしきかな/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる翁に尋ぬべき事ああり。おことの風情を観るに。 小田をかへしながら水口に幣帛を立て。 誠に信心の気色なり。

いかさまこれは御神田にて候ふか。 シテさん候春の田を作らんとては、よろづ祝ぶ事の候ふ程に。 あの水口に斎串とて五十の幣帛を立て。 神を祭り候。然ればある歌に。 谷水をせく水口に斎串たて。苗代小田の種まきにけり。 詞「其上此御田は。 当社二の宮の御供田にて御座候程に。 殊には内外清浄にて御田を作り候ふよ。 ワキ「偖は当社二の宮にてましまさば。 国の一の宮はいづくにてましますぞや。 若し楪葉の権現にて御座候ふやらん。 シテ「畏れながら悪しく御心得候ふものかな。 当社は二の宮にてましませばとて。国中一二の次第にあらず。 ツレ「御覧候へ当社の神達。 二柱の社の御殿なれば。シテ詞「二つの宮居を其侭にて。 二の宮と崇め奉るなり。 シテツレ「これはすなわち伊弉諾伊弉冊の尊二柱の。 神代のまゝに宮居したまふ。淡路の国の。 神は一きう宮居は二つの。

二の宮と崇め申すなり。ワキ「よく/\聞けばありがたや。偖々かゝる国土の種を。 普く受くる御恩徳。唯此神の誓よなう。 シテ詞「事新しき御諚かな。国土世界や万物の。 出生あまねき御神徳。唯これ当社の誓なり。 ツレ「然れば開けし天地の。 伊弉諾と書いては。シテ詞「種蒔くと読み。 ツレ「伊弉冊と書いては。シテ詞「種を収む。 ツレ「これ目前の御誓なり。シテ「其上神代は遠からず。 ツレ「今目の前にも。シテ「御覧せよ。 地上歌「種を蒔き。種を収めて苗代の。/\。 水うらゝにて春雨の。 あめより降れる種蒔きて。 国土もゆたかに千里栄ふる富草の村早稲の秋になるならば。 種を収めん神徳。 あらありがたの誓やなありがたの神の誓やな。 。 ワキ詞「猶々当社の神秘ねんごろに御物がたり候へ。クリ地「それ天地開闢の昔より。 混沌未分やうやく分れて。

清く明らかなるは天となり。 おもく濁れるは地となれり。シテサシ「然れば天に五行の神まします。 木火土金水これなり。 地「既に陰陽相分かれて。木火土の精伊弉諾となり。 金水の精こりかたまつて伊弉冊と顕る。 シテ「然れども。 まだ世界ともならざりし先を伊弉諾といひ。 地「国土治まり万物出生する所を伊弉冊と申す。 すなはち此淡路の国を始とせり。 クセ「さればにや二柱の御神の・〓{オノ}馭盧島と申すも此一島の事かとよ。 凡そ此島始めて。大八島の国を作り。 紀の国伊勢志摩日向並に。 四つの海岸を作りいだし。日神月神蛭子盞烏と申すは。 地神五代の始にて。皆此島に御出現。 中にも皇孫は。日向の国に。天降り給ひて。 地神第四の火々出見の。 皇子を御誕生げにありがたき代々とかや。 シテ「天下をたもち給ふ事。地「すべて八十三万。 六千八百余歳なり。かゝるめでたき皇子達に。

御代をゆづりはの権現と。 現れおはします。 伊弉諾伊弉冊の神代も唯今の国土なるべし。 ロンギ上「げに神の代の道直に。/\。 今。 も妙なる秋津洲の君の御影ぞありがたき。シテ「御影ぞと。夕日隠の雲の端に。 たなびく天の浮橋の。古を現して。 御客人を慰めん。地「そも浮橋の古と。 聞くはいかなる言の葉の。 シテ「其神歌は烏羽玉の。我が黒髪も。地「乱れずに。 結び定めよ小夜の手枕の歌の種蒔きし。 神とも今は白波の。淡路山を浮橋にて天の。 戸を渡り失せにけり/\。中入。 ワキ上歌三人「げに今とても神の代の。/\。 御末はあらたなりけりと。 いへば虚空に夜神楽の。月に聞えて光さす。 気色ぞあらたなりけるや気色ぞあらたなりける。 。 後シテ出端「わたづみのかざしに挿せる白玉の。波もて結へる淡路島。

月春の夜も長閑なる。翠の空も澄み渡る。 天の浮橋の上にして。八島の国を求めえし。 伊弉諾の神とは我が事なり。 治まるや国常立の始より。地「七つ五つの神の代の。 シテ「御末は今に。君の代より。 地「和光守護神の扶桑の御国に。風は吹けども山は動ぜす。 神舞ロンギ上「げにありがたき御誓。/\。 そも/\天の浮橋の。 其御出所はさるにても。いかなる所なるらん。

シテ「ふりさげし。鉾の滴露こりて。 一島となりしを。 淡路よと見つけし此処ぞ浮橋の下ならん。 地「げに此島のありさま東西は海漫漫として。シテ「南北に雲峯を列ね。 地「宮殿にかゝる浮橋を。 シテ「立ち渡り舞ふ雲の袖。地「さすは御鉾の手風なり引くは。 潮の時つ風治まるは波の芦原の。 国富み民もゆたかに万歳をうたふ松の声。 千秋の秋津洲。をさまる国ぞ久しき/\ 雄略天皇の臣下 従者 老人 興玉の神

ワキ、ワキツレ二人次第「山も内外の神詣。/\。 二見の浦を尋ねむ。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 我此度伊勢大神宮に参り。 内外の宮めぐり殊には内外清浄の信心私なく候。 又これより二見の浦石の鏡をも一見せばやと存じ候。

道行三人「いすゞ川清き流の深緑。/\。 蔭も百枝の松風の。治まる木々の色までも。 神の恵み野御蔭かと。処からなる心地して。 眺たへなる景色かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 二見の浦に着きて候。 これなる小田を見れば。

みてぐらをたて剰さへ渇仰の気色見えて候。里人に尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一セイ「露ながら。 水かけ草の種取りて。手玉も揺ぐ。袂かな。 ツレ二ノ句「おりたつ田子の数そふや。二人「御裳濯川の。 水ならん。シテサシ「有難や神のよつぎは久方の。 天のむらわせ種とりて。 二人「今人の世に至るまで。四つの時日は曇なくて。 千代万世の末かけて。流す田面の早苗とる。 田子のもすその色はへて。袂ゆたかに。 楽むなり。下歌「種を蒔き種を収めし神代より。 上歌「草も木も我が大君の国なれば。/\。 いづくも同じ神と君。 隔なき世に住まふ身の誰か恵の外ならん。 実にや八島の外までも。波静かにて吹く風も。 枝を鳴らさぬ天地の。神の威徳はありがたや。/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「これなる小田を見れば。 田水豊なるになほ川水をまかせ入れ <19a>。 渇仰の気色見えたり。不審にこそ候へ。 シテ「さん候これは神の御田にて候。 またこの川は御裳濯川とて。 田水は豊なれ。 ども神水をまかせ入れ五十の水口にみてぐらを立て。 神徳長久の恵を仰ぐ祭事にて候。 ワキ「扨此御裳濯川はいつの代よりの名にて候ふぞ。 シテ「さん候人皇十一台垂仁天皇の皇女御名は倭姫の御子。 忝。 くも御神鏡をいたゞき国々を巡り給ひしに。当国にてはあの二見の浦より。 此川路について上り給ひしに。 御裳の裾よごれたりしを。 此川にてすゝぎ給ひしによつて。御裳濯川とは申すなり。 ツレ「其時田作の翁のありしが。 神の御鎮座になるべき所やあると御尋ありしに。 シテ詞「彼の翁申すやう。此川上に三十八万歳の間。 此山を守護し奉る者の候。 御道知べ申さん。 とてしだつ岩根をしきて参らすると云へり。其時の田作の翁は。

今の興玉の神是なり。ツレ「其時尋ね入り給ひしによつて。 山をば神路山といひ。 シテ詞「川をば神路川といひて。ツレ「流久しくすめる世の。 ツレシテ二人「天長地久嘉辰月令の。 御影濁らぬ御裳濯川の。神徳深き水田なれば。 神に任せて作るなり。 ワキ「謂を聞けばありがたや。さて/\今の名にしおふ。 其御裳裾を濯ぎ給ひし。 在所はとりわき何処の程ぞ。シテ詞「さればさきにも申しゝ如く。 御裳濯川と名づけし事。 とりわき此瀬の辺なれば。神が瀬とこゝを申すなり。 ワキ「あら面白や神が瀬とは。 神風とこそ聞き馴れしに。 シテ詞「されば常には神風や。伊勢と申すも神の誓。 ツレ「又此川には神が瀬とて。 神の渡瀬のある故に神路川とも申すなり。シテ「然れば歌人の。 シテツレ二人「言の葉にも。地「山の辺の。 三井を見がへり神が瀬の。/\。伊勢の乙女ら。 。

あひみつるかなと詠みしも此倭姫の古を詠み奉る心なり。千早振。 神路の山の村雨は種を蒔くなる神の代の。 久しきうるほひに天のをしねの天の下。 広き恵に逢ふことも。唯神徳にあらずや。 有難の神の誓やなあらありがたの誓や。 ワキ「なほなほ神慮のこさず御物語り候へ。 シテ「懇に申上げうずるにて候。 地クリ「かたじけなの御事や我等迷の凡夫として。 神徳王地の恵をうくる。仰ぎてもなほ余あり。 シテサシ「それ人は天下の神物なり。 かるが故に正直をもつて本とす。 地「日月は四州を照すとおへども。 分きては唯正直の頭に宿り給ふ。 シテ「然れば二所そうべうの御心を知らんとおもはゞ。 地「正直をもつて。本とすべし。クセ「然るにおほん神。 地神の為に皇孫を。あし原中つ国に。 下し奉らんとて。 三種の神宝をみづから授け給ひしに。其三種にも取り分きて。 八咫の鏡は殊になほ。

御影を写しつゝ御身を放ち給はず。其鏡の如くに。 万形をうつしながらしかも。一物を貯へず。 しんしやうを清めて正直を授け給へり。 さればいきとしいけるもの。日月の恩徳に。 あづからざるものなきものを。 これもつて当宮の御神徳にてあらざるや。 シテ「然れば神代の昔より。今人の世に至るまで。 sンと句はあきらかに。 垂仁天皇の御宇かとよ。 しだつ岩根に宮居して、皇大神となり給ふ。これまさに本覚の。 和光にまじる塵の世を。守らんための御誓。 仏も同じ御心の。 しじやう真如の月よみの神とも示現し給へり。 ロンギ地「実にありがたや神道の。/\。 曇らぬ末を受けて知る人の心ぞありがたき。 二人「一河の流汲みて知る。今日しもこゝに都人。 君と神とは隔なき御物語申すなり。 地「そも老人は誰なれば。分きて委しくしらゆふの。 二人「かゝる御代ぞと仰ぎみる。地「天津空ねの。

二人「郭公。 地「一声鳴くもをりからに神の。告ぞとゆふしでの。 田長と見えつるが我興玉の神よとて。 御裳濯川の渡瀬なる。神が瀬をうち渡りて。 跡も波に入りにけり/\。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「げに今とても神の代の。/\。 誓はつきぬしるしとて。神と君との御恵。 まことなりとはありがたや/\。 後シテ出端「君が代はつきじとぞ思ふ神風や。御裳濯川のすまん限は。 守るべし/\。百王守護の神明として。 和光普きすべらぎの数。 すべら世までも守の神。興玉の神とは我が事なり。 地「やたまがきの。内外の宮居。声みちて。 シテ「月よみの宮居。照りまさる。地「いさぎよき。

影や鏡の宮所。シテ「空すむ雲も。 あさぐまや。地「潮干の石と現れしも。 済度方便の。影なわすれそ。/\。 ちはやぶるなり。ゆ立の袖。神舞。シテワカ「神風や。 伊勢の浜荻をりしきて。 地「旅寝やすらんあらき浜辺に/\。シテ「清き渚の玉の数々。 地「光も天照す。 シテ「天の岩戸の昔をうつす。地「榊葉の神歌。 シテ「千早の袖や御裳濯川の。地「波のしらにぎて。 シテ「水の青にぎて。取々様々の神遊鏡の宮居。 あさづまの潮時に沖より見えて白浪の。 沖より見えて白浪の。 又立返り二見の浜松の。ちよの影ある。神と君こそ。 久しけれ 賀茂の神職 従者二人 事代主命

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「関の戸さゝで。秋津洲や。/\。

道ある御代ぞめでたき。

ワキ詞「そも/\こ。 れは都賀茂の明神に仕へ申す神職の者なり。又和州葛城の明神は。 当社御一体の御事なれども。 いまだ参詣申さず候ふ程にに。唯今和州葛城の明神に参詣仕り候。 三人道行「四方の国。治まる雲の果までも。 /\。君の御影はあきらけき。 天つ日影の山の端に。斯かる時世は曇なき。 峯もそなたか葛城の。 賀茂の宮居に着きにけり。/\。シテツレ二人真ノ一声「葛城の。 賀茂の神垣時を得て。咲く卯の花の白和幣。 ツレ二ノ句「鳴さぬ枝も夏木立。 二人「茂をさめて風もなし。シテサシ「これは当国葛城や。 賀茂の社中を清め申す者なり。 二人「有難や頃は卯月の始とて。賀茂の御生の時すでに。 夏も来にけり小忌衣の。 袖白妙の木綿畳幣とり%\の神祭。御代を護の道直に。 万歳の末を祈るなり。下歌「いざ/\庭を清めん。/\。上歌「固よりも。 塵に交はる神慮。/\。和光の影はいやましに。

栄え行くなり国々も。 豊に照らす日の本や。千里万里も治まれる。 誓の海はありがたや。/\。 ワキ詞「いかにこれなる老人。 これは当社はじめて参詣の者なり。 このあたりは皆故ある名所なるべし。 眺の名所を教へ候へ。シテ「さん候。此葛城の賀茂の宮居。 都の賀茂と御一体の御事なれば。 都の人こそ知し召さるべけれ。 その上龍田初瀬の紅葉をば。 見ねども歌人の知し召すなれば。われ等が申すに及ばず。 唯君万歳の御護と。当社に祈り申すならでは。 又他事も候はず。 あらめでたの御神拝やな。ワキ詞「げにげに翁の申す如く。 我等本社賀茂の社頭にありながら。 当社の事を尋ぬるは。今更なるべき事ならずや。 シテ「畏れながらこの御尋こそ。 少し不審に候へとよ。賀茂の本社と申さん事。 忝くも開闢この方の影向の始。

まづ葛城の賀茂なれば。 この宮居こそ取り分きて。賀茂の本社と申すべけれ。 ワキ「げにげにこれは理なり。まづ/\最初の影向は。この葛城の賀茂の神。 シテ「その後天下平安城に。現れ給ふ賀茂の神山。 ワキ「其神の名を糺すの竹の。 シテ「御代も治まり七つの道も。ワキ「なほ末すぐに。 シテ「曇なき。上歌「余所までも。 名は葛城の賀茂の神。/\。御代を守りの御威光。 普ねしや/\四海の波も治まりて。 国富み民も豊なる。御影ぞ貴かりける。/\。 クリ「それ君は舟臣は水。 水よく船を浮べつゝ。臣よく君を仰ぐとかや。 シテサシ「然れば王城の鎮守として。 誠に以て御名高き。地「その水上は山陰の。 賀茂の御手洗いさぎよき。流の末は久方の。 あめつちくれお動かさず。安く楽しむ時とかや。 シテ「有難しともなか/\に。 地「言葉をもつても述べがたし。クセ「然るに葛城や。

高間の山と申すは。金剛の峯として。 胎金両部のその一法を現し。 神も影向なるとかや。西天仏在世よりは。 東北の霊峯これ。大和の金剛山。 三国不二の峯として。御代の宝の。山とも是を名づけたり。 そも/\葛城の。 賀茂の神垣隔なく王城の鎮守と現れ。百王守護の神山や。 賀茂の祭とて。忝くも大君の。 清涼殿や長階の。出御も絶えぬ年々に。 卯月のその日のとり%\の御遊なるとかや。 シテ「千早振る。賀茂の御生や夏引の。 地「糸毛の花車廻る日の。 けふに葵の二葉より我が。 しめ結ひし姫小松の千代をかけて水鳥の。鴨の羽色やしもとゆふ。 葛城も同じ神山の。 一体分身の御代を譲り給ふなり。この御代を譲り給ふなり。 ロンギ「げに葛城の神の代の。/\。 その道すぐに夕霜の翁はさても誰やらん。 シテ「誰ともいはん翁さび。

人なとがめそ我こそは。 事代主の翁とて御代を護り申すなり。地「そもや事代主と聞く。 其名は如何に。シテ「音高し。 地「事代主と申すこそ。葛城の神の名なれいざや。 神体を現し。旅宿をあがめ申さんとて。 葛城や高。 間山の嶺の雲にかけりて天の戸に入らせ給ひけり。/\。中入間「。 ワキ三人待歌「心も共に澄む月の。/\。 光さやけき夜神楽の。御声も同じ松の風。 更け行く空ぞ静かなる/\。 後シテ出端「あら有難のをりからやな。 われ劫初よりこの山に住んで。 王城を護り御代を崇め。天下泰平の宝の山。 葛城の神と現れて。唯今こゝに来りけり。 あら面白の夜遊やな。地「標結ふ。 葛城山に降る雪は。シテ「間なく時なくおもほゆるかな。 地「それはみ冬の深雪の空。 シテ「これは卯月。卯の花の。地「雪を廻らす舞の袖。 古き大和舞。拍子を揃へて面白や。

神舞ロンギ「あら有難やありがたや。 天下泰平楽とは。いかなる舞の事やらん。 シテ「怨敵の難を遁れて。上下万民舞ひ遊ぶ。 地「さて万秋楽と申すは。 シテ「兜率天の楽にて見仏菩薩舞ひ給ふ。 地「春立つ空の舞には。シテ「春鴬囀を舞ふべし。 地「秋来る空の舞には。シテ「秋風楽を舞ふとかや。 地「舞に颯々といふ声は。 楽々と響くなり。いつもその声尽きせぬは。 このみぎんなるべしやな。万歳の四方の国。 道ある御代ぞめでたき。/\ 官人 従者 老人 松尾明神

ワキ、ワキツレ二人次第「四方の山風静かにて。/\。 梢の秋ぞ久しき。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても西山松の尾の明神は。霊神にて御座候へども。 朝に暇なき身なれば。 いまだ参詣申さず候ふ間。此度君の御暇を申し。 唯今松の尾の明神に参詣仕り候。 道行三人「嵯峨の山御幸絶えにし芹川の。/\。 千代の古道跡ふりて。 行方正しき天雲の大井の入江霧こめて。上は嵐の山風の。 声も通ひて松の尾の。神の宮居に着きにけり/\。 シテツレ一声「秋風の。声吹き添へて松の尾の。 神さび渡る。気色かな。 シテサシ「有難や和光同塵の斎垣の内には。 年を迎へて般若の真文を講じ。

二人「又利生方便の社の前にて。日を逐うて如在の霊殿を仰ぐ。 神明の納受疑なく。 摂取の願望各成就円満の霊地。今にはじめぬ神拝なれども。 まことに貴き。社内かな。 下歌「時しも今は長月の紅葉も四方の気色にて。 上歌「春見しは花の都の雲霞。/\。 立つや日数も移り来て。 今ぞ時なる秋の空曇らぬ月の都路に。ゆきゝも繁る諸人の。 秋ゆたかなる心かな/\。 。 ワキ詞「如何にこれなる老人に尋ぬべき事の候。シテ「老人とは此方の事にて候ふか。 まづ御姿を見奉れば。 此あたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 都より御参詣にて御座候ふか。 ワキ「実によく見てあるものかな。都より始めて当社参詣の者なり。

山の姿神館の面白さに眺め居て候。 当社の御謂委しく申し候へ。 シテ「さん候此山林は。皆神の御敷地なり。 誠に御代千秋の君が住む。都は間近き神前にて。 ツレ「むかふ梅津の秋の葉は。河水に浮ぶ綾錦。 シテ詞「織りかく雲も小倉山。 しぐるゝ頃の朝な/\。ワキ「昨日は薄きもみぢ葉の。 シテ「今日は濃染の色深き。 ワキ「西紅の峯つゞき。シテ「さながら四方の。 二人「錦なれども。 地「松の尾の山の梢の秋ならで。/\。唯時雨のみ年経るや。霜の後。 雪の冬木になるまでも。 時しらぬ常磐木の。いく久し神松の。 落葉ばかりは塵の世に。交はる誓頼もしや。/\。 地クリ「それ天は陽を以て徳とし。 地は陰を以て。用とす。 シテサシ「然れば神は人天百王の守護神として。 地「本地寂光の都を出で給ひ。此閻浮提に示現し。 五衰の睡を無上正覚の月に覚まし <24a>。 シテ「国土豊に民厚かれと。地「安全を守りおはします。 クセ「和光同塵は。結縁の御はじめ。 実に目前にあらたなり。仏は又常住。 不滅の相を現し有無中道を離れて。 人を済度の方便これ以て同じ悲願なり。 神といひ仏といひ唯これ。水波の隔にて。 本地垂迹と現れ三世了達の智恵を以て。 現当二世界までの道を照らし給へり。 さればにや此社。いづくともいひながら。 殊に所も九重の。雲井の西の山の端を。 照らすや光も夕月の。空さへて嵐山の。 峯には実相の声満ちて。聞法の便のみ。 大井の波の音までも。常楽我浄の結縁をなす心なり。 シテ「梅津桂の色々に。 地「日も茜さす紫野。北野平野や賀茂貴船。 祇園林の秋の風稲荷の山のもみぢ葉の。 青かりし恵も様々に。誓のイロハ変れども。 此神は分きて世の。

月常住の地をしめ王城を守る神徳の。久しき国に跡垂れて。 慈尊三会の暁を。松の尾の神垣変らぬ色ぞ久しき。 ロンギ地「実にた誓の秋久に。/\。 代々を守りの御神徳。なほ行く末ぞ頼もしき。 シテツレ二人「時しも今日の御神拝。 有難しとも木綿四手の。神の夜神楽めん/\に神をすゞしめ申さん。 地「さては時しも夜神楽の声も普き数々に。 シテツレ二人「すはや照り添ふ夕月の。地「庭燎の光。シテツレ二人「榊葉を。 地「うたふ乙女の袖はえて。 花の裳裾も色々に。 紅葉をかざし松の尾の神の告を都人夜神楽を拝み給へとよ。 夜神楽を拝み給へとよ。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「実に今とても神の代の。/\。 誓は尽きぬしるしとて。 神と君との御恵まことなりけり有難や/\。 後シテ出端「それ千秋の松が枝には。 万歳の緑常磐には。御代を守りの御影山。 君安全に民栄え。

五日の風も枝を鳴らさぬ松の尾の神とは我が事なり。地「八乙女の。 袖もかざしの玉かづら。 シテ「かけてぞ祈る玉松の。 地「光も塵や露も白縫の鈴も颯颯の。舞の袂は、おもしろや。神舞。 ロンギ地「秋の夜神楽声澄みて。/\。 神さびわたる深更の朱の光は有難や。 シテ「庭燎の影も明らけき。榊葉うたふ妙文の。 。 こや松の尾の神風ふけ行く秋ぞ惜しまるる。地「実に惜しむべし/\。 今宵の時も逢ひにあふ。 シテ「月の光も照り添ふや。地「朱の玉垣。シテ「玉の扉。 地「さし引く袖の露かけて。光も散るなり小忌衣。 立ち舞ふ花も白妙の。 雪をめぐらし千早ふる。神ぞ久しき松の尾の。 おのづから長き夜の神楽ぞめでたかりける/\ 藤原俊家 従者 里の女 従者 佐保山神 ワキ、ワキツレ三人、次第「立つ旅衣春とてや。/\。 心ものとげかるらん。 ワキ詞「抑これは藤原の俊家とは我が事なり。 さても和州春日の明神は。氏の神にて御座候ふ程に。 この春君に御暇を申し。 唯今春日の明神に参詣仕り候。 道行四人「天の戸の明け行く空の朝日影。/\。 霞を分けて白雲の衣雁こし方を。よそに南の都路や。 春日の里に着きにけり/\。 ワキ詞「さても我春日に参詣申し。四方の景色を眺むる所に。 あの佐保。 山の上に当つて見え候ふは雲にて候ふやらん。 ワキツレ「いやこれはたゞ衣を干したる様に見えて候。 ワキ「とにかくに不審に存じ候ふ程に。近く見ばやと思ひ候。 皆々佐保山に上り候ヘ。シテツレ真ノ一声「日にみがき。 風に晒せる玉衣の。春の日影も。 匂ふなり。ツレ二ノ句「佐保山姫の雲の袖。 ニ人「緑もなびく。景色かな。 ニ人サシ「おもしろや名所はさま%\多けれども。 分けて誓も影高き天の児屋根の神代より。 誓の末も明らけき。月に照りそふ春の日の。 御影を四方に春日山広き恵のありがたさよ。 殊更に時もあひあふ春の日の。 東を知るも鹿島野や緑も同じ若草の。 山は南の都の空。曇らぬ神の。時代かな。 下歌「こゝはとりわき佐保山の。其山姫の衣ほす。 袖白妙の露かけて。 上歌「玉葛来る年の緒の春毎に。/\。霞の衣緯薄き。 糸の乱も天つ日ののとけき色に染めなして。 猶白衣のうらゝなる。空や雲間に匂ふらん/\。 ワキ詞「我佐保山に登りて見れば。 女性数多来り給ひ。 これなる衣を晒せるけしき見えたり。そも御身は此佐保山に住む人か。 。 シテ「さん候これは此佐保山のあたりに住む女にて候。又これなる衣は処から。 よしありてさらせる衣なり。 立ちよりてよく/\御覧候へ。ワキ「実に/\これなる衣をよりて見れば。 銀色かゝやき異香薫じ。誠に妙なる白衣の。よく/\見れば縫目もなし。 さてこれは何と申す衣にて候ふぞ。シテ「げによく御覧じ咎めて候。 これは人間の織衣にあらずある歌に。 裁ち縫はぬ衣きし人もなきものを。 詞「何山姫の布さらすらんと。 かやうに詠みしも此衣なり。 ツレ「もとより山に住み人の。人間の交はりなき故に。 かゝる衣も世の常ならず。シテ「その上仙人の衣をば。 二人「裁つこともなく縫ふ事も。 なき世のためしは稀にだに。いさ白衣の羽袖の色。 妙なりと御覧候へとよ。 ワキ「実に裁ち縫はぬ衣の事。詞「仙人の衣と聞きしなり。 さては仙境にや入りぬらん。 然らば御身も仙女やらん。 シテ「いや仙境まではなけれども。処は佐保の山辺なれば。 もし佐保姫とや申すべき。 ワキ「不思議やさては佐保姫の。霞の衣とよみたれば。 此裁ち縫はぬ薄衣ももしは霞の衣やらん。 二人「いや裁ち縫はぬ衣ほせばとて。 ワキ「さては霞の衣かとは。 二人「あら謂なの御言葉や。 地「裁ち縫はぬ衣ほせばとて佐保姫の。/\。袖も緑の糸はえて。 縫ふ事はなくとも。霞の衣ならば。 裁つことはなどかなかるべき。 これは裁ちもせす縫ひもせず。まして糸もて織る事も。 嵐になびく羽衣の。 袖も褄もにほやかにうら。 らなる日に晒すなりうらゝなる日にや晒さん。 地クリ「夫れ天地開闢の昔より。 山海草木に至るまで。万物悉く成仏して。 皆霊験の神所たり。 シテサシ「とりわき四季を司どる事。地「まづ春を守る神といつぱ。 此山姫の神徳として。草木森羅万象まで。 御影の緑満ち満てり。 シテ「然れば処の名にしおふ。地「佐保の山河の恵深く。 千秋万徳の春を得て。佐保山姫と。現れ給ふ。 クセ「たが為の錦なればか秋霧の。 佐保。 の山辺を立ち隠すらんとながめけるも此山の。妙なる秋のけしきなり。 かやうに治まれる四つの時いく年々を送りけん。 花の春。紅葉の秋の夕時雨。 古きを守るためしまでも。 あふぐや青によし奈良の代々ぞ久しき。殊更此山は。 春の日影もよそならで。慈悲万行の神徳の。 弘き誓の海山も皆安全の国とかや。シテ「そも/\芦原の国つ神。地「代々に普き誓にも。 御名はことに久方の。天の児屋根の其かみ。 。 此秋津洲の主として皇孫をいつき給ひしより。八島に治まる時つ風。 四海に畳む波の声万歳を呼ばふ三笠山。 御影もさすや河竹の。 佐保の山辺の春の色万山ものどかなりけり。 ロンギ地「実にや誓ものどかなる。/\。 。 佐保の山姫あらたなる言葉をかけすうれしさよ。シテ「暫く待たせ給ふべし。 とても山路のおついでに。 佐保山の神祭月の夜遊をはじめん。 地「月の夜遊と聞くよりも。東の嶺に光さし。 シテ「南を見れば春日野の。地「三笠の森に花降りて。 シテ「ここにたなびく。地「山の名の。 さをなぐるまの夢の夜の。程を待たせ給へやと。 夕。 霞の衣手に立ち隠れつゝ失せにけり立ち隠れ失せにけるとかや。中入間「。 ワキ、ワキツレ三人歌待謡「佐保山の柞の緑かたしきて。 /\。こゝに仮寝の枕より。 音楽聞え花降りて。月春の夜ぞ有難き/\。 後シテ出端「春日野の飛火の野守出でて見よ。 影さす月の三笠山。うき雲かゝる藤山の。 若紫の名にしおふ。 木々の梢ものどかなる。春の日影ののどけさよ。地「二月の。 初申なれや。春日山。シテ「峯どよむまで。 。 いたゞきまつれや佐保姫の袖もかざしの玉かづら。地「かけてぞ祈る春日野の。 シテ「若草の山。水屋の御影。 地「みどりもめぐみもたちたつ雲の。羽袖をかへすや。 山かづら。真ノ序ノ舞「。 ロンギ地「神楽の鼓春を得て。/\。 月の夜声も澄み渡る心をのぶる有難や。 シテ「こや佐保姫の小夜神楽。時の鼓の数々に。 神歌の一節佐保の歌とや云ひてまし。 地「それは遊女のうたふなる。 声も妙なり天乙女。シテ「天の探女が古を。 地「思ひ出づるや。シテ「久方の。 地「月の御舟の水馴棹山姫の袖。 かへす霞の薄衣裁ち縫はねども白糸の。来る春なれや永き日に。 雨つちくれを動かさで。 世を守るさよ姫の。めでたき例なるべしや。 めでたき例なるべし 雄略天皇勅使 従者二人 老人(父) 養老山神 男(子) ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「風も静かに楢の葉の。/\。 鳴らさぬ枝ぞのどけき。 ワキ詞「抑これは雄略天皇に仕ヘ奉る臣下なり。 さても濃川本巣の郡に。 不思議なる泉出でくる由を奏聞す。急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。 唯今濃州本巣の郡(こほり)へと急ぎ候。 道行三人「治まるや。国富み民も豊にて。/\。 四方に道ある関の戸の。秋津島根や天ざかる。 鄙の境に名を聞きし。美濃の中道ほどなく。 養老の滝に着きにけり養老の滝に着きにけり。 シテ、ツレ二人真ノ一声「年を経し。 みのゝ御山の松蔭に。なほ澄む水の緑かな。 ツレ二ノ句「通ひなれたる老の坂。二人「行事(ゆくこと)安き心かな。 シテサシ「故人眠早く覚めて。夢は六十の花に過ぎ。 シテツレ二人「心は茅店(ぼうてん)の月にうそぶき。 身は板橋の霜に漂ひ。白頭の雪は積れども。 老を養ふ。滝川の。水や心を。清むらん。 下歌「奥山の。深谷の下のためしかや。 流を汲むと。よも絶えじ流を汲むと。よも絶えじ。 上歌「長生(ちやうせい)の家にこそ。/\。老せぬ門はあるなるに。 これも年ふる山住の。千世のためしを。 松蔭の岩井の水は薬にて。老を延べたる心こそ。 なほ行く末も。久しけれなほ行く末も久しけれ。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ詞「此方(こなた)の事にて候ふか。何事にて候ふぞ。 ワキ詞「おことは聞き及びたる親子の者か。 シテ詞「さん候これこそ。親子の者にて候へ。 ワキ詞「これは帝よりの勅使にてあるぞとよ。 シテ「ありがたや雲井遥に見そなはす。我が大君の詔を。 賎しき身として今承る事のありがたさよ。これこそ親子の民にて候へ。 ワキ詞「さてもこの本巣の郡に。不思議なる泉出でくる由を奏聞す。 急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。これまで勅使を下さるゝなり。 先々(まづまづ)養老と名づけ初めし。謂を委しく申すべし。 シテ詞「さん候これに候ふはこの尉が子にて候ふが。 朝夕は山に入り薪を採り。我らをはごくみ候ふ所に。 ある時山路(さんろ)の疲にや。この水を何となく掬(むし)びて飲めば。 世のつねならず心も涼しく疲も助かり。ツレ「さながら仙家の薬の水も。 かくやと思ひ知られつゝ。 やがて家路に汲み運び。父母にこれをあたふれば。 シテ詞「飲む心よりいつしかに、やがて老をも忘水の。 ツレ「朝寝の床も起き憂からず。 シテツレ二人「夜の寝ざめもさびしからで。 勇む心は真清水の。絶えずも老を養ふ故に。養老の滝とは申すなり。 ワキ「げに/\聞けばありがたや。さて/\今の薬の水。 この滝川の内にても。とりわき在所のあるやらん。 シテ詞「御覧候へこの滝壺の。少し此方の岩間より。出でくる水の泉なり。 ワキ「さてはこれかと立ちより見れば。実に潔き山の井の。 シテ「底すみわたるさゞれ石の。巌となりて苔のむす。 ワキ「千代に八千代のためしまでも。シテ「まのあたりなる薬の水。 ワキ「誠に老を。シテ「養ふなり。地歌「老をだに養はゞ。 まして盛の人の身に。薬とならばいつまでも。 御寿命も尽きまじき。泉ぞめでたかりける。実にや玉水の。 水上すめる御代ぞとて流の末の我らまで。豊にすめる。 嬉しさよ豊にすめる嬉しさよ。 地クリ「実にや尋ねても蓬が島の遠き世に。 今のためしも生薬(いくくすり)。水また水はよも尽きじ。 シテサシ「夫れ行く川の流れは絶えずして。しかも本の水にはあらず。 地「流に浮ぶうたかたは。かつ消えかつ結んで。久しく澄める色とかや。 シテ「殊にげに是はためしも夏山の。地「下行く水の薬となる。 奇瑞を誰か。習ひ見し。 下歌「いざや水を結ばんいざ/\水を結ばん。 上歌「甕(もたい)の竹葉は。/\。かげや緑を重ぬらん。 その外籬(まがき)の荻花は林葉(りんよう)の秋を。汲むなりや。 晋の七賢が楽。劉伯倫が翫(もてあそび)。只この水に残れり。 汲めや汲め御薬を。君の為に捧げん。曲水に浮ぶ鸚鵡は石にさはりて遅くとも。 手にまづ取りて。夜もすがら馴れて月を。汲まうよや馴れて月を汲まうよ。 ロンギ地「山路の奥の水にては何れの人か養ひし。 シテ「彭祖が菊の水。したゞる露の養に。仙徳を受けしより。 七百歳を経る事も薬の水と聞くものを。 地「げにや薬と菊の水。その養の露のまに。 シテ「千年を経るや天地(あめつち)の。 地「ひらけし種の草木まで。シテ「花咲き実なることはり。 地「その折々といひながら。シテ「唯これ雨露(うろ)のめぐみにて。 地「養ひ得ては。花の父母たる雨露(あめつゆ)の。 翁も養はれて。此水に馴衣(なれごろも)の。袖ひぢて結ぶ手の。 影さへ見ゆる山の井の。実にも薬と思ふより。 老の姿も若水と見るこそ嬉しかりけれ。 ワキ詞「実にありがたき薬の水。急ぎ帰りて我が君に。奏聞せんこそ嬉しけれ。 シテ詞「翁もかゝる御(おん)めぐみ広き御影を尊めば。 ワキ「勅使も重ねて感涙して。かゝる奇特に遇ふ事よと。 地歌「いひもあへねば不思議やな。/\。天より光かゞやきて。滝の響も声すみて。 音楽聞え花降りぬ。これ唯事と。思はれずこれ唯事と思はれず。 来序中入間「。 後シテ出端「ありがたや治まる御代の習とて。山河草木おだやかに。 五日(ごじつ)の風や十日(じうじつ)の。天が下照る日の光。 曇はあらじ玉水の。薬の泉はよも尽きじ。あらありがたの奇瑞やな。 地「これとても誓は同じ法の水。尽せぬ御代を守るなる。 シテ「我はこの山山神(やまさんじん)の宮居。 地「又は楊柳観音菩薩。シテ「神といひ。地「仏といひ。 シテ「唯これ水波の隔にて。地「衆生済度の方便の声。 シテ「峯の嵐や。谷の水音滔々と。 地「拍子を揃へて音楽の響。滝つ心を澄ましつゝ。 諸天来去の。影向(やうがう)かな。神舞「。 シテワカ「松蔭に。千代をうつせる。緑かな。 地「さもいさぎよき山の井の水。山の井の水山の井の。 シテ「水滔々として。波悠々たり。治まる御代の。君は船。 地「君は船。臣は水。水よく船を。浮べ/\て。 臣よく君をあふぐ御代とて幾久しさも尽せじや尽せじ。君に引かるゝ玉水の。 上(かみ)澄む時は。下も濁らぬ滝津の水の。浮き立つ波の。返す%\も。 よき御代なれや。よき御代なれや。万歳(ばんぜい)の道に帰りなん。/\ 勅使 従者 天つ神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「四方の雲霧収まりて。 四方の雲霧収まりて。のどけき日影仰がん。

ワキ詞「これは当今に仕へ奉る臣下なり。 。

さても今度御即位の大典ましますにより。奉告の宣旨を蒙り。 唯今平安神宮へと参向仕り候。急ぎ候ふ程に。 これは早神宮に着きて候。 サシ「有難や宇内に国は多けれど。類まれなる神国の。 豊葦原の秋津洲。天人和合三才の。 徳具はりて天雲の。向伏す限り谷蟆の。 さわたる極大君の。御稜威の光普くて。 五日の風も十日の。雨も時節を違へず。 地「悠紀主基の。御田も穂に穂をさかせつゝ。/\。 天の漿に類ふべき。 黒酒白酒も数々の甕に溢るゝばかりなり。百官卿相雲客も。 千代に八千代と寿ぎて。 五節の舞や種々の。いとも妙なる音楽に。 感涙肝に銘じける。事の由をも神前に。聞え上げんと。 伏し拝む聞え上げんと伏し拝む。 ワキ詞「われこの宮居に詣でつゝ。 奉告の式こと終り。心を澄ます。折しもあれ。 地「不思議や社壇の方よりも。 不思議や社壇の方よりも。

異香薫じて瑞雲たなびき微妙の音楽聞え来て。天津少女の舞の袖。 返す返すも。おもしろや。天女舞「。 玉もゆらゝに少女子が。 玉もゆらゝに少女子が。羅綾の袂をひるがへし。 五節の舞の手。とり%\に。 天津風さへこゝしばし。雲の通路ふきとぢて。 少女の姿とゞむらん。神々もこれを愛でけるにや。 御殿俄に震動して。玉の階踏み轟かし。 神体出現。ましませり。 シテ「あら有難の神国やな。天地開けし初より。 八百万の神達守護し給へば。戎狄蛮夷の恐なく。 万民その堵に安んぜり。 ツレ「わきて明治聖帝の御代に至り。 開国進取の国是を定め。 治に居て乱を忘れ給はず。シテ「忠実勇武の民を養ひ。 知能徳器の成就をすゝめ。 ツレ「天壌無窮の皇運を。扶翼せよとの御志。 シテ「されば今上皇帝も。ツレ「父帝の遺詔を紹がせ給ひて。 シテ「允文允武八紘に。

ツレ「国威を発揚し給ふこと。シテ「鏡にかけて。見るごとし。 地「この聖徳を称へんと。 天が下なる蒼生も。思ひ/\に心をつくし。 君が千歳をことほげば。天の御神も万歳楽に。 雲の端袖をひるがへし。舞ひたまふ。神舞。 シテワカ「君が代は。千代に八千代に。 さざれいしの。地「巌となりて苔のむす。 巌となりて苔のむす。 幾久しとも尽せじな尽せじ。右近の橘左近の桜も。 いやましに栄え。恵の露に。霑ふ菊も。 今を盛と咲き匂ひ。 鳳凰も御園の梧竹に下り。丹頂の鶴は。汀に遊べば。 図負へる亀も。川を出でて。 庭上に参向申しつつ迦陵頻伽も御空に翔り。 霓裳羽衣の曲をなせば。山河草木。 国土豊に四海の波も。四方の国々も。靡く御代こそ。 めでたけれ 神霊の従属(男) 武内の神(前ハ老人) 鹿島神蔵 ワキ三人次第「御影を仰ぐこの君の。/\。 四方こそ静なりけれ。 ワキ詞「抑これは鹿島の神職筑波の何某とは我が事なり。 偖も此度都にのぼり。 洛陽の寺社残なく拝み廻りて候。 又今日は南祭の由承り候ふ間。八幡に参詣申さばやと存じ候。 道行三人「曇なき。都の山の朝ぼらけ。/\。 気色もさぞな木幡山。伏見の里も遠からぬ。 島羽の細道うち過ぎて。 淀の継橋かけまくも。忝しや神祭る。 八幡の里に着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや八幡の里に著きて候。 心静かに社参申さうずるにて候。 シテ、ツレ二人真ノ一声「うろくづの。 生けるを放つ川波に。月も動くや秋の水。 ツレ二ノ句「夕山松の風までも。二人「神のめぐみの。 声やらん。シテサシ「それ国を治め人を教へ。 善を賞し悪を去ること。 直なる御代のためしなり。二人「かるが故に知れるはいよ/\万徳を得。無知は又恵に適ひ。 おのづから積善の余慶殊に満ち。 善悪の影響のごとし。かゝる御影の道広き。 誓の海のうろくづの。生きとし生ける物として。 豊なる世に住まふ事。偏に当社の御利生なり。 。下歌「仕へて年も千早ぶる神のまに/\詣で来て。此御代に。照る槻弓の八幡山。 /\。宮路のあとは久方の。 雨つちくれを湿して枝を鳴さぬ松の風。 千代の声のみいや増しに。戴きまつる社かな/\。 ワキ詞「いかに是なる翁に尋ぬべき事の候。 。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「けふは八幡の御神事とて。 皆々清浄の儀式の姿なるに。 翁に限り生きたる魚を持ち。 真に殺生の業不審にこそ候へ。シテ「けに/\御不審は御理。 さてさて今日の御神事をば。 なにとか知し召されて候ふぞ。 ワキ「さん候これは遠国より始めて参詣申して候ふ程に。 委しき事をば知らず候。 いで此御神事をば放生会とかや申すよなう。 シテ「さればこそ放生会とは。生けるを放つ祭ぞかし。 御覧候へ此魚は。生きたる魚をそのまゝにて。 ツレ「放生川に放さん為なり。 知らぬ事をな宣ひそ。シテ「其上古人の文を聞くに。 シテツレ二人「方便の殺生だに。 菩薩の万行には超ゆると云ふ。 ましてやこれは生けるを放せば。魚は逃れわれは又。 かへつて誓の網に漏れぬ。神の恵を仰ぐなり。 ワキ「げにありがたき御事かな。さて/\生けるを放つなる。其御いはれは何事ぞ。 ツレ「異国退治の御時に。 多くの敵を亡ぼし給ひし。幾生の善根のその為に。 放生の御願をおこし給ふ。 ワキ「いはれを聞けばありがたや。さて/\生けるを放つなる。 川は何れの程やらん。 シテ詞「御覧候へこの小河の。水の濁も神徳の。 ワキ「誓は清き石清水の。シテ「末は一つぞ此川の。 ワキ「岸に臨みて。シテ「水桶に。地「取り入るゝ。 此うろくづを放さんと。/\。 裳裾も同じ袖ひぢて。掬ぶやみづから水桶を。 水底に沈むれば。 魚は悦び鰭ふるや水を穿ちて岸陰の。 潭荷葉動くこれ魚の遊ぶ有様の。 げにも生けるを放つなる御誓あらたなりけり。 。 ワキ詞「尚々当社の御事懇に御物語り候へ。地「そも/\当社と申すは欽明天皇の昔より。一百余歳の代々を経て。 此山に移りおはします。 シテサシ「然るに宗廟の神として。地「御代を守り国家を助け。 文武二つの道広く。九重続く八幡山。 神にも御名は八つの文字。 シテ「それ諸仏出世の本来空。地「真性不生の道を示し。 八正道を顕し人仏不二の。御心にて。 正直のかうべに宿り給ふ。クセ「人の国より我が国。 他の人よりも我が人と。誓はせ給ふ御恵。 。 げにありがたやわれら如きのあさましき。迷を照し給はんの。 其御誓願まのあたり。行教和尚の御法の袖に影うつる。 花の都を守らんと。南の山にすむ月の。 光も三つの衣手に映り給へり。 さればにや宗廟の。跡明かに君が代の。 すぐなる道を顕し。国富み民の竃まで。 にぎはふ鄙の貢舟四海の波も静なり。 シテ「利益諸衆生の御誓。地「二世安楽の。 神徳は猶栄ゆくや。男山にし松立てる。 梢も草も吹く風は。皆実相の響にて。峯の山神楽。 其外里神楽。懺悔の心夢覚め。 夜声もいとゞ神さびて。月かげろふの石清水の。 浅からぬ誓かな。げに浅からぬ誓かな。 ロンギ地「不思議なりとよ老人よ。/\。 かほど委しく木綿しでの。 神の告かやありがたや。シテ「代々につかへし古も。 二百余歳の春秋を。 地「送り迎へて神徳を受けし身の齢武内の神は我なりと。 名のりもあへず男山。 鳩の杖にすがりて山上さして上りけり/\。 ワキ、三人上歌待謡「猶照せ。代々に変らぬ男山。/\。 仰ぐ嶺より月影の。 さやかに出でて隈もなく。声澄み上る気色かな/\。 後シテ出端「ありがたや百王守護の日の光。 ゆたかに照らす天が下。幾万代の秋ならん。 和光の影も年を経て。神と君とに仕への臣。 武内と申す老人なり。 地「末社は各々出現して。けふ待ち得たる放生の。 神の御幸を早むれば。シテ「御前飛び去る鳩の嶺。 地「山下に連なる神拝の社人。 シテ「小忌の衣の袖を連ね。地「千早ふるなり。 あま乙女。シテ「久方の。月の桂の男山。 地「さやけき影は処から。 真ノ序ノ舞ロンギ地「さては神代も和歌を上げ。/\。 舞をまひけるめでたさよ。シテ「なか/\小忌の御衣をめし。おの/\舞をまひ給ふ。地「さらば四季の和歌を上げ。 其品かへて舞ひ給へ。 シテ「春は霞の和歌を上げて。喜春楽を舞はうよ。 地「さて又夏にかかりては。いかなる舞をまひ給ふ。 シテ「かたへ涼しき川水に。 浮みて見ゆる盃の。傾盃楽を舞はうよ。 地「始めて長き夜も更くる。風の音に驚くは。 誰が踏む舞の拍子ぞ。シテ「秋来ぬと。 目にはさやかに見えずとも秋風楽を舞はうよ。 地「日数も積る雪の夜は。 シテ「回雪の袖を翻し。地「さて百敷の舞には。 シテ「大宮人のかざすなる。地「桜。シテ「橘。 地「もろともに。 花の冠をかたぶけてやうこくよりも立ち廻り。北庭楽を舞ふとかや。 さのみは何と語るべき。詞の花も時を得て。 。 其風猶も盛にて鬼も神も納受する和歌の道こそめでたけれ/\ 梅津某 従者二人 老人 梅男 老松の霊 ワキ、ワキツレ二人次第「げに治まれる四方の国。/\。 関の戸さゝで通はん。ワキ詞「そも/\是は都の西。梅津の何某とは我が事なり。 われ北野を信じ。常に歩を運び候ふ所に。 ある夜の霊夢に。 我を信ぜば筑紫安楽寺に参詣申せと。 あらたなる御霊夢を蒙りて候ふ間。たゞ今九州に下向仕り候。 道行三人「何事も。心にかなふ此時の。/\。 ためしもありや日の本の。 国豊なる秋津洲の。波も音なき四つの海。 高麗唐も残なき。御調の道の末こゝに。 安楽寺にも着きにけり/\。 シテ、ツレ真ノ一声「梅の花笠。春も来て。 縫ふてふ鳥の。梢かな。 ツレ二ノ句「松の葉色も時めきて。二人「十返ふかき。緑かな。 シテサシ「風を逐つてひそかに開く。年の葉守の松の戸に。 二人「春を迎へて忽ちに。 うるほふ四方の草木まで。神の恵に靡くかと。 春めきわたる盛かな。 下歌「歩を運ぶ宮寺の光のどけき春の日に。上歌「松が根の。 岩間をつたふ苔莚。/\。 敷島の道までもげに末ありや此山の。天ぎる雪の古枝をも。 惜まるゝ花盛。手折りやすると守る梅の。 花垣いざや囲はん梅の花垣をかこはん。 。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「聞き及びたる飛梅とは何れの木を申し候ふぞ。 ツレ「あら事も愚や我等はたゞ。 紅梅殿とこそあがめ申し候へ。ワキ「げに/\紅梅殿とも申すべきぞや。忝くも御詠歌により。 今神木となり給へば。 あがめても猶あきたらずこそ候へ。シテ詞「さて此方なる松をば。 何とか御覧じ分けられて候ふぞ。 ワキ「げにげにこれも垣結びまはし御注連を引き。 誠に妙なる神木と見えたり。 いかさまこれは老松の。シテ詞「遅くも心得給ふ物かな。 シテツレ「紅梅殿は御覧ずらん。 色も若木の花守までも。花やかなるに引きかへて。 地歌「守る我さへに老が身の。 影ふるびたる待つ人の。翁さびしき木のもとを。 老松と御覧ぜぬ神慮もいかゞ恐ろしや。 。 ワキ詞「猶々当社のいはれ委しく御物語り候へ。シテサシ「まづ社壇の体を拝み奉れば。 北に峨々たる青山あり。 地「朧月松閣の中に映じ。南に寂々たる瓊門あり。 斜日竹竿のもとに透けり。 シテ「左に火焔の輪塔あり。地「翠帳紅閨の粧昔を忘れず。 右に古寺の旧跡めり。 晨鐘夕梵の響絶ゆることなし。クセ「けにや心なき。 草木なりと申せども。かゝる浮世の理をば。 知るべし/\諸木の中に松梅は。 殊に天神の。 御自愛にて紅梅殿も老松も皆末社と現じ給へり。されば此二つの木は。 我が朝よりもなほ。漢家に徳を現し。 唐の帝の御時は。 国に文学盛んなれば花の色を増し。匂常より優りたり。 文学すたれば匂もなく。其色も深からず。 さてこそ文を好む木なりけりとて梅をば。 好文木とは附けられたれ。さて松を。 大夫といふ事は。秦の始皇の御狩の時。 天俄にかき曇り大雨頻りに降りしかば。帝雨を。 凌がんと小松の蔭に寄り給ふ。 此松俄に大木となり。枝を垂れ葉をならべ。 木の間透間を塞ぎて。 其雨を漏らさゞりしかば。 帝大夫といふ爵を贈り給ひしより松を大夫と申すなり。 シテ「かやうに名高き松梅の。地「花も千代までの。 行く末久に御垣守。守るべし/\や神はこゝも同じ名の。天満つ空も紅の。 花も松ももろともに。 (注)万代の春とかや千代万代の春とかや。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「嬉しきかなやいざさらば。 /\。此松蔭に旅居して。 風も嘯く寅の時。神の告をも待ちて見ん/\。 後シテ出端「如何に紅梅殿。今夜の客人をば。 何とか慰め給ふべき。 地「げにめづらかに春も立ち。シテ「梅も色そひ。 地「松とても。シテ「名こそ老木の若緑。 地「空すみ渡る神々楽。シテ「歌を歌ひ。舞をまひ。 地「舞楽を備ふる宮寺の。声も満ちたる。 有難や。真ノ序ノ舞「。 シテワカ「さす松の。地「さす枝の。 梢は若木の花の袖。シテ「これは老木の神松の。 地「是は老木の神松の千代に八千代に。 さゞれ石の。巌となりて。苔のむすまで。 シテ「苔のむすまで松竹。亀鶴の。 地「齢をさづくる此君の。 行く末護れと我が神託の。告を知らする。松風も梅も。 久しき春こそ。めでたけれ。 。 (注)原文は。 「神さびて失せにけりあと神さびて失せにけり。 」とありしを。 徳川氏の松平姓を憚りて諷ひかへたるものなり 白楽天 従者 漁翁 住吉明神 半開ロワキ「抑これは。唐の太子の賓客。 白楽天とは我が事なり。 詞「扨も是より東に当つて国あり。名を日本と名づく。 急ぎ彼の上に渡り。 日本の智恵を計れとの宣旨に任せ。唯今海路に赴き候。 ワキ、ワキツレ二人次第「舟漕ぎ出でて日の本の。/\。 其方の国を尋ねん。道行三人「東海の。波路遥に行く舟の。 /\。跡に入日の影残る。 雲の旗手の天つ空。月また出づる其方より。 山見えそめて程もなく。日本の地にも着きにけり。 /\。ワキ詞「海路を経て急ぎ候ふ程に。 是ははや日本の地に着きて候。 暫く此処に碇をおろし。 日本のやうを眺めばやと存じ候。 シテツレ真ノ一セイ「不知火の。筑紫の海の朝ばらけ。 月のみのこる。けしきかな。 シテ「巨水漫漫として碧浪天を浸し。 二人「越を辞せし范蠡が。扁舟に棹をうつすなる。 五湖の煙の波の上。かくやと思ひ知られたり。 あらおもしろの海上やな。下歌「松浦潟。 西に山なき有明の。上歌「月の入る。 雲も浮むや沖つ舟。/\。 互にかゝる朝まだき。海は其方か唐土の。 船路の旅も遠からで。一夜泊と聞くからに。月も程なき。 名残かな/\月も程なき名残かな。 ワキ詞「我万里の波濤を凌ぎ。 日本の地にも着きぬ。是に小船一艘浮めり。 見れば漁翁なり。如何にあれなるは日本の者か。 シテ「さん候是は日本の漁翁にて候。 御身は唐の白楽天にてましますな。 ワキ「不思議や。始めて此土に渡りたるを。 白楽天と見る事は。何の故にてあるやらん。 ツレ「其身は漢土の人なれども。 名は先立つて日本に聞ゆ。隠なければ申すなり。 ワキ「たとひ其名は聞ゆるとも。 それぞとやがて見知る事。 あるべき事とも思はれず。シテツレ二人「日本の智恵を計らんとて。 楽天来り給ふべきとの。 聞えは普き日の本に。西を眺めて沖の方より。 船だに見ゆれば人毎に。すはやそれぞと心づくしに。 地歌「今や/\と松浦舟。/\。沖より。 見えて隠なき。唐土舟の唐人を。 楽天と見ることは何か空目なるべき。 むつかしや言さやぐ。 唐人なれば御詞をもとても聞きも知らばこそ。 あらよしな釣竿の暇をしや。釣垂れん暇をしや釣たれん。 。ワキ詞「なほ/\尋ぬべき事あり舟を近づけ候へ。如何に漁翁。 さて此頃日本には何事を翫ぶぞ。シテ「さて唐土には何事を。 翫び給ひ候ふぞ。 ワキ「唐には詩を作つて遊ぶよ。 シテ詞「日本には歌をよみて人の心を慰め候。ワキ「そも歌とは如何に。 シテ「それ天竺の霊文を唐土の詩賦とし。 唐土の詩賦を以て我が朝の歌とす。 されば三国を和らげ来るを以て。 大きに和ぐと書いて大和歌と読めり。 しろし召されて候へども。 翁が心を御覧ぜんため候ふな。ワキ「いや其儀にてはなし。 いでさらば目前の景色を詩に作つて聞かせう。 青苔衣をおびて巌の肩にかゝり。 白雲帯に似て山の腰をめぐる。心得たるか漁翁。 シテ「青苔とは青き苔の。 巌の肩にかゝれるが衣に似たるとかや。 白雲帯に似て山の腰をめぐる。おもしろし/\。 日本の歌もたゞこれさふらふよ。 苔衣着たる巌はさもなくて。 衣着ぬ山の帯をするかな。 ワキ「不思議やなその身は賎しき漁翁なるが。かく心ある詠歌を連ぬる。 其身は如何なる人やらん。 シテ「人がましやな名もなき者なり。されども歌を詠む事は。 人間のみに限るべからす。 生きとし生ける物毎に。歌をよまぬは無きものを。 ワキ「そもや生きとし生ける物とは。 さては鳥類畜類までも。 シテ「和歌を詠ずるその例。ワキ「和国に於て。シテ「証歌多し。 地歌「花に鳴く鴬。水に住める蛙まで。 唐土は知らず日本には。 歌をよみ候ふぞ翁も。大和歌をばかたの如くよむなり。 クセ「そも/\鴬の。 歌をよみたる証歌には。孝謙天皇の御宇かとよ。大和の国。 高天の寺に住む人の。しきねんの春の頃。 軒端の梅に鴬の。来りて鳴く声を聞けば。 初陽毎朝来。不遭還本栖と鳴く。 文字に写してこれを見れば。三十一文字の。 詠歌の詞なりけり。シテ「初春の。 あした毎には来れども。地「あはでぞ帰る。 もとのすみかにと聞えつる鴬の声を初として。 その外鳥類畜類の。 人にたぐへて歌をよむ。例は多くめりそ海の。 浜の真砂の数数に。 生きとし生ける物何れも歌をよむなり。 ロンギ地「実にや和国の風俗の/\。 心有りける蜑人の。実にありがたき習かな。 シテ「とても和国の翫。 和歌を詠じて舞歌の曲。そのいろ/\を顕さん。 地「そもや舞楽の遊とは。 その役々は誰ならん。シテ「誰なくとても御覧ぜよ。 我だにあらば此舞楽の。 地「鼓は波の音笛は竜の吟ずる声。 舞人は此尉が老の波の上に立つて。青海に浮みつゝ。 海青楽を舞ふべしや。シテ「芦原の。 地「国も動かじ万代までに。来序中入間「。後シテ「山影の。 うつるか水の青き海の。地「波の鼓の。海青楽。 真ノ序ノ舞「。シテワカ「西の海。 檍が原の波間より。地「現れ出でし住吉の神。 住吉の神住吉の。シテ「現れ出でし住吉の。 地「住吉の神のカのあらん程は。よも日本をば。 従へさせ給はじ。速に浦の波。 立ち帰り給ヘ楽天。 地「住吉現じ給へば/\。 伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。 安芸の厳島の明神は。 娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。 八大竜王は。八りんの曲を奏し。 空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。 手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。 漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。 実に有難や。 神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき 鶴亀(謡ナシ) 皇帝 大臣 シテサシ真ノ来序「夫青陽の春になれば。 四季の節会の事始。地「不老門にて日月の。 光を天子の叡覧にて。シテ「百官卿相に至るまで。 袖を連ね踵を接いで。 地「其数一億百余人。シテ「拝をすゝむる万戸の声。 地「一同に拝する其音は。シテ「天に響きて。地「夥し。 上歌「庭の砂は金銀の。/\。玉を連ねて敷妙(しきたへ)の。 五百重{いおえ}の錦や瑠璃の枢{とぼそ}。 硨磲{しやこ}の行桁瑠璃(めのう)の階{はし}。 池の汀の鶴亀は。 蓬莱山もよそならず。君の恵ぞありがたき/\。 ワキ詞「いかに奏聞申すべき事の候。 毎年の嘉例のごとく。鶴亀を舞はせられ。 其後月宮殿にて舞楽を奏せられうずるにて候。 シテ詞「ともかくも計らひ候へ。 地「亀は万年の齢を経。鶴も千代をや。 かさぬらん。子方二人中ノ舞「。 上歌「千代のためしの数々に。/\。 何を引かまし姫小松の。緑の亀も。 舞ひ遊べば。丹頂の鶴も。一千年の。 齢を君に。授け奉り。庭上に参向申しければ。 君も御感の余りにや。舞楽を奏して舞ひ給ふ。 月宮殿の白衣の袂。月宮殿の白衣の袂の いろ/\妙なる。花の袖。秋は時雨の紅葉の羽袖(はそで)。 冬は冴えゆく雪の袂(たもと)を。翻へす衣も薄紫の。 雲の上人の舞楽の声々に霓裳羽衣(げいしやううい)の曲をなせば。 山河草木国土豊に。千代万代と舞ひ給へば。 官人駕輿丁(かよちやう)御輿(みこし)を早め。 君の齢も長生殿に。/\。還御なるこそ。めでたけれ 西王母(前ハ男) 東方朔(前ハ老人) 帝王 侍臣 ワキサシ真ノ来序「面白や四時移り易くして。 春過ぎ夏暮れ今ははや。初秋の七日七夕の。 星の祭を急ぐなり。 ツレ「帝の御殿は承華殿。ワキ「さながら花の袖を連ぬ。 ワキツレ「七宝の台金銀の床に。君を始め奉り。 ワキ「官軍おの/\。ワキツレ「並み居つゝ。 上歌地「御遊をなして種々の。/\。 楽尽きぬその気色。音に聞く喜見城も。 これにはいかで勝るべき。唯これ君の御威光。 広き恵はありがたや/\。 シテ、ツレ二人真ノ一声「治まれる。 御代の光に数ならぬ。身までも安き。住まひかな。 ツレ二ノ句「恵も広き此君の。二人「御影を頼む。 ばかりなり。シテ「それ賢王の御代のしるし。 五日の風や十日の雨。 二人「湿ふ四方の草木まで。靡き随ふ。この時に。 生れあふ身は頼もしや。下歌「時しもけふは七夕の。 逢ふ瀬を急ぐ頃なれや。上歌「秋来ぬと。 目に見ぬ空はおのづから。/\。 音かへて吹く風の。袖も涼しきタまぐれ。 靡く稲葉の色までも。 千年の秋のはじめかな/\。 シテ詞「如何に奏聞申すべきことの候。 ワキツレ「奏聞申さんとはいかなるものぞ。 。 シテ「これは此国の傍に住むものにて候ふが。 申し上げたき子細の候ひて参内申して候。ワキツレ「さらば此方へ参り候ヘ。 。 シテ「これは此国の傍に住む者にて候ふが。 めでたき瑞相の御座候ひて参りて候。 此程三足の青鳥御殿の上を飛び廻り候。これ西王母が寵愛の鳥にて候。 即ち西王母此君へ参礼申すべし。 此事奏聞申さん為に参りて候。 ワキ「かゝるめでたき事こそ候はね。 尚々仙人の謂懇に物語り候へ。 クリ「それ仙郷といつぱ。 人間に交はらず。松の葉をすき苔を身に着て。 年は経れども楽尽きず。飛行自在の通を得る。 シテサシ「忝くも悉達太子は。 仙人に仕へおはしまし。地「採果汲水年を経て。 終に成道し給ひて。大聖世尊となり給ふ。 クセ「然るに仙人のその数。限も知らぬ中にも。 西王母と聞えしは。 西方極楽無量寿仏の化現なれば。 はかりなき命の仙人となるぞめでたき。されば園生に植うる桃の。 。 三千年に一度花咲き実なる此木の仙薬となるぞ不思議なる。 シテ「今は包まじわれこそは。 地「其名も世々に隠なき東方朔と聞えしは。此老翁が事なり。 君桃実をきこしめさば。御寿命長遠に。 御身も息災なるべし。 急ぎ王母を伴なひ重ねて参内申さんと庭上を立つて帰る波の。 声ばかり残りつゝ。 形は雲に入りにけり形は雲に入りにけり。来序中入。 後シテ出端「抑これは。 仙郷に入つて年久しき。東方朔とは我が事なり。 さてもれれ西王母が桃実を度々服せし其故に。 寿命既に九千歳におよべり。 彼の桃実を君にさゝげ申さんとの誓あり。 いかにやいかに西王母。とく/\参内申すべし。 地「不思議や西の。空よりも。/\。 白雲一村下ると見えしが。三足の青鳥。 翅をならべて。飛び廻り。姿も妙なる王母の出立。 光も輝く衣冠を着し。 斑竜に乗じで顕れ給ふ。まのあたりなる。奇特かな。 後ツレ「王母は庭上に歩み出て。 地「王母は庭上に歩み出でて。 かの桃実を捧げ持つて。上覧に備ヘ。奉れば。帝王御感の。 余にや。糸竹の調。数を尽し。皆一同に。 奏で給ふ。舞楽の秘曲は面白や。 上「舞楽も漸う時過ぎて。/\。 夕陽西に。傾きければ。おの/\君に。 御暇申し。帰らんとせしに。帝王名残を。 惜み給ひ。かさねて参内申すべしと。 宣旨を蒙り二人は伴出でけるが。 王母は斑竜。 にゆらりと打ち乗り遥の雲路に攀ぢ上り。遥の雲路に攀ぢ上つて。又天上にぞ。帰りける 勅使 従者 漁翁 漁夫 白髭明神 天女 竜神 ワキ、ワキツレニ人次第「君と神との道直に。/\。 治まる国ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 扨も江州白髭の明神は。霊神にて御座候。 君此程不思議の御霊夢の御告ましますにより。 急ぎ参詣申せとの宣旨を蒙り。唯今白髭の明神に。 勅使に参詣仕り候。 道行三人「九重の空も長閑けき春の色。/\。霞む行くへは。 花園の志賀の山越うち過ぎて。 真野の入江の道すがら。鳰の浦風さえかへり。 立ち寄る波も白髭の。 宮居にはやく着きにけり/\。 シテ、ツレ二人真ノ一声「釣のいとなみ。いつまでか。 隙も波間に。明け暮れん。 ツレ二ノ句「棹さしなるる海士小舟。 二人「渡り兼ねたる浮世かな。シテ「風帰帆を送る万里の程。 江天渺渺として水光平かなり。 二人「舟子は解くこれ明朝の雨。 おもしろや頃しも今は春の空。霞の衣ほころびて。 峯白妙に咲く花の。嵐も匂ふ。日影かな。 下歌「賎しき海士の心まで。 春こそ長閑けかりけれ。上歌「花誘ふ比良の山風吹きにけり。 /\。漕ぎ行く舟のあと見ゆる。 鳰の浦曲もはる%\と。かすみ渡りて天つ雁。 かへる越路の山までも。 眺に続く気色かな/\。 ワキ詞「いかにこれなる翁。 汝は此浦の者か。シテ詞「さん候此浦の漁夫にて候ふが。 朝な/\沖に出で釣を垂れ候。 まづ御姿を見奉れば。 このあたりには見馴れ申さね御事なり。 もし都よりの御参詣にて御座候ふか。 ワキ「実によく見てあるものかな。これは当今に仕へ奉る臣下なるが。 。 君此程不思議の御霊夢の御告ましますにより。勅使に参詣申して候。 シテ「有難や君としてだにかほどまで。 敬ひ給ふ御神の。御威光の程こそ有難けれ。 シテツレ二人「賎しき海人の此身までも。直なる御代に。 あふみの梅の。深き恵を頼むなり。 ワキ「実に誰とても君を仰ぎ。神を敬ふ心あらば。 などか恵に預からざらん。 シテ「殊更こゝは。ワキ「処から。地歌「瑞垣の。 年も経にけり白髭の。/\。神の誓は今とても。 変らざりけり。実に有難や頼もしや。 我は心もなみ小舟。釣の翁の身ながらも。 安く楽む此時に。生れあふ身は。 有難や生れあふ身は有難や。 地クリ「夫れこの国の起家々に伝る所。 おの/\別にして。其説よち/\なりといへども。暫く記する所の一義に依らば。 天地既に分つて後。 第九の減劫人寿二万歳の時。 シテサシ「迦葉世尊西天に出世し給ふ時。地「大聖釈奠其授記を得て。 都率天に住し給ひしが。シテ「我八相成道の後。 。 遺教流布の地いづれの所にか有るべきとて。 地「此南瞻部州を普く飛行して御覧じけるに。漫々とある大海の上に。 一切衆生悉有仏性如来。常住無有変易の波の声。 一葉の芦に凝り固まつて。 一つの島となる。今の大宮権現の。橋殿なり。 クセ「其後人寿。百歳の時。 悉達と生れ給ひて。八十年の春の頃。 頭北面西右脇臥抜提の波と消え給ふ。されども仏は。 常住不滅法界の。妙体なれば昔。 芦の葉の島となりし中つ国を御覧ずるに時は鵜草。 葺不合の。 尊の御代なれば仏法の妙事人知らず。こゝに比叡山の麓さゝ波や。 志賀の浦の辺に釣を垂るゝ老翁あり。 釈尊かれに向つて。翁もし。 此地の主たらば此山を我に与へよ。仏法結界の。 地となすべしと宣へば。翁答へて申すやう。 我人寿。六十歳の始より。 此山の主として。此湖の七度まで。 芦原になりしをも。正に見たりし翁なり。但この地。 結界となるならば。 釣する所失せぬべしと深く惜み申せば。釈尊力なく。 今は寂光土に。帰らんとし給へば。 シテ「時に東方より。地「浄瑠璃世界の主薬師。 忽然と出で給ひて。善きかなや。釈尊此地を弘め。 給はん事よ我人寿二万歳の昔より。 此処の主たれど。老翁いまだ我を知らず。 なんぞ此山を惜み申すべきはや。 開闢し給へ我も此山の主となつて。 共に後五百歳の。仏法を守るべしと。 堅く誓約し給ひて。二仏東西に去り給ふ。其時の翁も。 今の白髭の神とかや。 ワキ詞「不思議なりとよか程まで。 妙なる神秘を語る翁の。 其名は如何におぼつかな。シテ「今は何をか包むべき。 其古も釣を垂れし翁なるが。 勅使を慰め申さんとて。唯今こゝに来りたり。 殊更今宵は天灯竜灯。神前に来現の時節なれば。 暫く待たせ給ふべしと。 地歌「夕の雲も立ち騒ぎ。/\。 汀に落ちくる風の音老の波もよりくる。釣の翁と見えつるが。 我白髭の神ぞとて玉の。 扉を押し開き杜壇。 に入らせ給ひけり社壇に入らせ給ひけり。来序中入間「。 地出端「八乙女の。返す袂の色々に。 宜禰が鼓も声すみて。 神さび渡れるをりからかな。 後シテ「神は人の敬ふによつて威を増す。 ましてやこれは勅の使。 仰ぎてもなほ余あり。地歌「不思議や社壇の内よりも。 /\。誠に妙なる御声を出し。 扉もおのづから。朱の玉垣かゝやき渡る。 白髭の。神の御姿。現れたり。 ワキ「あら有難の御事や。 かゝる奇特に逢ふ事も。唯これ君の御蔭ぞと。 感涙袖を湿せり。シテ「いざ/\さらば夜もすがら。舞楽の曲を奏しつゝ。 勅使を慰め申さんと。地歌「神楽催馬楽とり%\に。/\。 糸竹の役々秘曲を尽し。 拍子を揃へて夜遊の舞楽は有難や。 シテ「面白や此舞楽。地「面白や此舞楽の。 鼓は自ら。磯打つ波の声。 松風は琴を調べ。心耳を澄ますをりからに。 天つ御空の雲井かゝやき渡り。 湖水の面鳴動するは天灯竜灯の来現かや。出端にて天女出でゝ早苗にて竜神出づ。 地歌「天地の両灯現れて。/\。 神前に供ふる御灯の光。 山河草木かゝやき渡り。日夜の勝劣見えざりけり。竜神舞働。 シテ「かくて夜もはや明方の。 地「かくて夜もはや明方になれば。 各神前に御暇申し。帰れば明神も御声をあげて。 善哉善哉と。 感じ給へば天女は天路に又立ち帰れば。竜神は湖水の。 上に翔つて波を返し。 雲を穿ちて大地に別れて飛び去り行けば。明け行く空も。白髭の。 明け行く空も白髭の神風。治まる御代とぞ。 なりにける 竜神 宮人 天女 杵築天神(前ハ宮老人) 臣下 ワキ三人次第「誓あまたの神祭。/\。 出雲の国を尋ねん。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても出雲の国に於て。今月は神有月とて諸神影向なり。 御神事様々のよし承り及び候ふ程に。 此度参詣仕り候。道行「朝立つや。 旅の衣の遥遥と。/\。ゆくへ時雨るゝ雲霧の。 山又山を越え過ぎて。 神有月を名にしおふ。出雲の国に着きにけり。/\。 シテツレ二人真ノ一声「八雲立つ。 出雲八重垣妻こめし。宮路にはこぶ歩かな。 ツレ二ノ句「尾上の松の梢まで。二人「神風さそふ声ならん。 シテ「実にや濁世の人間と。 生れ来ぬれど誓ある。二人「神に事ふる身にしあれば。 洩れぬ恵にかゝり来て。 心のまゝの春秋を。送り迎へて。 年月の尽きせぬ代々を頼むなり。下歌「いざや歩を運ばん。 /\。 上歌「いづくにか神の宿らぬ蔭ならん。/\。嶺もをの上も松杉も。 山河海村野田残る方なく神のます。 御影を受けて。隔なき。宮人多き往来かな/\。 ワキ詞「われ出雲の国大社に参り。 案内を窺ふ所に。宮人数多来れり。 いかに方々に申すべき事の侯。 シテ「これは此あたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 いづくよりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「さん候是は朝に隙なき身なれども。 当国に於て今月は神有月とて。 諸神残らず影向の地と承り及びて候へば。この度君に御暇を申し。 遥々参詣申したり。 ツレ「げにありがたや神と君との。 ワキ「隔なき世のしるしとて。シテ「歩を運ぶ此神の。ワキ「恵普き。 シテ「月影も。地「神の世を。 思ひ出雲の宮柱/\。太敷き立ちて敷島の。 大和島根まで。動かぬ国ぞ久しき。げにや。 紅も。深くなりゆく梢より。 時雨れて渡る深山辺の。里も冬立つ気色かな/\。 ワキ詞「不知案内の事にて候へば。 当社の神秘委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\出雲の国大社は。三十八社を。 勧請の地なり。 シテ「然るに五人の王子おはします。 地「第一は阿受岐の大明神と現れ給ふ。山王権現これなり。 シテ「第二にはみなとの大明神。 地「九州宗像の明神と現れ給ふ。第三は伊奈佐の。速玉の神。 常陸鹿島の。明神とかや。 クセ「第四には鳥屋の大明神。信濃の諏訪の明神と。 即ち現じおはします。 第五には出雲路の大明神。伊予の三島の明神と。現れ給ふ御誓。 げに曇なき長月や。 月の晦日にとりわきて。シテ「住吉一処は影向なる。 地「残の神々は。 十月一日の寅の時に悉く影向なり。様々いろ/\の神遊。 今も絶えせぬこの宮居。語るもなか/\愚なる誓なるべし。ロンギ「げにありがたき物語。/\。 末世ながらも隔なき。 神の威光ぞあらたなる。シテ「なか/\なれや年々に。 けふの今宵の神遊。地「その役々も。 シテ「数々に。地「あらぶる神たちの舞歌の袖。 引くや御注連の名はたれと。 白木綿かくる玉垣に。立ちよると見えつるが。 神の告ぞと言ひ捨てゝ。社壇に入りにけり。 社壇の内に入りにけり。来序中入。 天女出端上(謡掛)「時雨るゝ空も雲晴れて。 月も輝く玉の御殿に。光を添ふる気色かな。 後ツレ「われはこれ。 出雲の御崎に跡を垂れ。仏法王法を守の神。 本地十羅刹女の化現なり。地「容顔美麗の女体の神。/\。 光も輝く玉の笄。かざしも匂ふ。 袂を返す。夜遊の舞楽は。おもしろや。天女舞。 上「げに類なき舞の袖。/\。 靡くや雲の絶間より諸神は残らず現れ給ひ。 舞楽。 を奏し神前に飛行しはやとく姿を現し給へと。夕の月も。雲晴れて。尤も朱の。 玉垣輝き。神体現れ。おはします。 ロンギ「げにや尊き御相好。/\。 まのあたりなる神徳を。受くるも君の恵かな。 シテ「とても夜遊の神祭。 委しくいざや現し。かの客人を慰めん。 地「さて神楽の役々は。地「住吉鹿島。地「諏訪熱田。 其他三千世界の諸神はこゝに影向なり。 とりどりの小忌の袖。返す%\も面白や。 地「舞楽も今は時過ぎて。/\。 更け行く空も。時雨るゝ雲の。沖より颶風。 吹き立つ波は。海竜王の出現かや。 早笛竜神「抑これは。海竜王とは我がことなり。 詞さても毎年竜宮より。 黄金の箱に小竜を入れ。神前に捧げ申すなり。 地「竜神即ち現れて。/\。波を払ひ潮を退け。 汀に上り御箱をすゑおき。神前を拝し。 渇仰せり。その時竜神御箱の蓋を。忽ち開き。 小竜を取り出し。即ち神前に捧げ申し。 海陸共に。治まる御代の。 げにありがたき。めぐみかな。舞働。 シテ「四海安全に国治まり。 地「四海安全に国治まつて。五穀成就。 福寿円満にいよ/\君を守るべしと。 木綿四手の数々神々とり%\に御前を払ひ。 神あげのみ山に上らせ給へば。 竜神平地に波浪を起し。逆巻く潮に引かれゆけば。 諸神は虚空に遍満しつゝ。げにあらたなる。 神は社内。げにあらたなる神は社内。 竜神は海中に入りにけり 勅使 従者 老人 老女 源太夫の神 橘姫 ワキ、ワキツレ二人次第「曇なき名の日の本や。/\。 熱田の宮に参らん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕ヘ奉る臣下なり。 さても尾州熱田の明神は霊神にて御座候ふ間。 急ぎ参詣申せとの宣旨を蒙り。 唯今熱田の明神へ参詣仕り候。 道行三人「何事も道ある御代の旅とてや。/\。 関の戸さゝで逢坂の山を都の名残にて。末も東の道遠き。 行くへなれども程もなく。 国々過ぎてこれぞ此。熱田の宮に着きにけり/\。 シテツレ真ノ一声「朝清め。落葉を掃ふ程ならし。 風をも松の。木蔭かな。 ツレ二ノ句「神の御前の瑞籬の。二人「久しき代より仕ヘ来ぬ。 サシシテ「これは当社に年ひさしき。 夫婦の者にて候ふなり。 二人「それ千早振る神の職事。さま%\なりと申せども。 こゝは処も浦さびて。眺の末は海山の。 雲と波とに移り行く。気色ぞかはる明暮に。 馴。 れても通ふ心とて折々毎にめづらしさよ。もとよりも誓の海の底ひなく。 深き教の彼の国に。安く至らん法の御舟。 仏の道もよそならぬ。神の恵を頼むなり。 。 下歌「歩を運び年月を送り迎へて老が身の。上歌「夙に起き夜半に寝覚め仕へてぞ。 /\。ながらへ来ぬる春秋の。 月に馴れ花に添ふ心も老と身はなりて。 誠を致す志。実に神感も頼もしや/\。 ワキ詞「我暁天より星を戴き。 宮中を拝する所に。 これなる老人夫婦神前を清め御垣を囲ふ気色見えたり。 御身は宮づこにてましますか。 シテ「さん候これは当社の宮づこにて候。 分きては御垣守にて候ふ程に古りたる処をかこひ。 時々は庭を情め信心を致し候。 ワキ「実に/\有難う候。 大方神前に於て御垣を囲ひ申さるゝ事と云ひながら。 先は大内の御垣守とこそ申すべけれ。 分きて当社の御垣を囲ふ謂の候ふやらん。 シテ「御不審は御理にて候。 忝くも当社と申すは。 出雲の大社と御一体の御事ぞかし。ツレ「然るに往時素盞嗚の尊。 出雲の団に至り給ひ。御宮造ありし時。 シテツレ二人「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに。 八重垣作る其八重垣を。 こゝにも由緒はあるものを。不審な為させ給ひそとよ。 ワキ「謂を聞けばありがたや。 さては出雲と御一体。和光垂跡の御事なるか。 なほなほ謂を語り給へ。 シテ詞「景行第三の皇子日本武の尊と申しゝは。 東夷を平らげ国家を鎮め。終にはこゝに地を占め給ふ。 ツレ「これ素盞嗚の御再来。 衆生済度の方便にて。シテ「或は人の代。シテツレ二人「或は又。 地「神の代を思ひ出雲の宮柱。/\。 立ち添ふ雲も八重垣の。 こゝも隔は名も異に。誓は様々変れども。 一体分身の御神所。一心に仰ぎ給へや。 時は三伏の夏の日の熱田の宮路浦伝ひ。近く鳴海の磯の波。 松風の声寝覚の里。聞くにも心涼しく。 老の身も夏や忘るらん/\。 ワキ詞「猶々当社の謂委しく申し候へ。 シテ「懇に申し上げうずるにて候。 地クリ「それ和光同塵の御垂跡。何れ以て疎かならねど。 威光を四方に現し給ふは。これ八剱の神徳なり。 サシシテ「然れば景行第三の皇子。御名は日本武の尊。 地「地神五代には天照太神の兄。 素盞嗚の尊。出雲の国に跡を垂れ。 暫く宮居し給へり。 シテ「こゝに簸の川上に涕哭する声あり。地「尊至りて見給へば。 老人夫婦が中に。乙女を抱き泣き居たり。 これを如何にと尋ぬるに。 クセ「老人答へて申すやう。我は手摩乳脚摩乳。 娘を稲田姫といふ者にて候ふが。 大蛇の生贄を悲しむなりと申せば。 然らば其処を我に得させよその難を遁すべしと宣へば。 喜悦の心妙にして尊に姫を奉る。 シテ「やがて大蛇を従ヘ。 地「其尾にありし剱を村雲の剱と名づけしこそ八剱の宮の御事よ。 されば簸上の明神は其時の稲田姫なり。 父の老翁名をかへて源太夫の神と現れ。 東海道の旅人を守らんと誓ひ給へり。 ワキ詞「実にありがたき神秘の教。 唯人ならず覚えたり。御名を名乗り給ふべし。 シテ「今や何をか包むべき。 簸の川上に現れし。ツレ「我は手摩乳。シテ「脚摩乳。 ツレ「夫婦これまで。シテツレ二人「現れたり。 地「常ならじ御身は勅諚の使なる故に。 仰ぐべし神とても。人の敬深ければ。 守らん為に来りたり。こゝにては源太夫の。 神ぞと名乗り捨てゝ。 行く方見えずなりぬ行方知らずなりにけり。 来序中人間ツレ出羽「我はこれ。 真如実相の無漏を出でて。有為の濁塵に光を交へ。 結縁の衆生擁護の神。橘姫とは我が事なり。 シテ「我はまた無縁の衆生を利益せんとて。 東海道を日夜に守る。 源太夫の神とは我が事なり。地「あら有難や。 ワキ「実に有難き御影向。 感涙肝に銘じつつ。心空なるばかりなり。 ツレ詞「とても姿を現さば。いざや舞楽の曲を尽し。 かの客人に見せ申さん。シテ「実に/\これもいはれたり。さて役々は。ツレ「糸竹の。 シテ「中に異なる太鼓の役。 ツレ「即ち御身。シテ「源太夫が。ツレ「嘉例もさぞな。 シテ「思ひ出づる。地「昔も打ちたる。 太鼓の御役。今も妙なる秘曲を添へて。 撥も数ある楽拍子。今打ち寄るも。 波の調面白やな有難や。 楽シテ「面白の遊楽や。地「面白の遊楽や。 時しもあれや月も照り添ひ。 松風も涼しくて神さび渡れる折柄に。 およそ人間の業なりとも感応などか無かるべき。 ましてや神仙の事業なれば。 実にも妙なる御代のしるし。治世の声は安楽にて。 琴瑟は玉殿に。 せうくわていしやう官商上り下る時に声。綾をなす舞歌の曲。 程時移るかと。早明方になりぬれば。 都に帰るは勅の使。 さてこそ名残の還城楽さてこそ名残の還城楽の鼓の声や二十五声の。 五。 更の一点より夜は白々とぞ明けにける夜は白々とぞ明けにける 勅使 従者 老人 天女(謡ナシ) 三返リ翁 龍神(謡ナシ)

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「賢き君の勅を受け。/\。 東の旅に急がん。ワキ詞「そも/\これは延喜の聖主に仕へ奉る臣下なり。 さても信濃の国木曽の郡に。 寝覚の床とて在所あり。かの所に三返の翁と申す者。

寿命め。 でたき薬を与ふる由君聞し召し及ばせ給ひ。急ぎ見て参れとの宣旨を蒙り。 唯今信濃の国寝覚の里へと急ぎ候。 道行三人「思ひ立つ。空に重なる雲の袖。/\。 靡きて帰る雁がねも。山又山を越え過ぎて。

行けば程なき旅衣。木曽の御坂も近づくや。 嵐に更くる夜半の空。寝覚の床は。 これかとよ/\。ワキ詞「急ぎ候ふ間。 これははや寝覚の床に着きて候。 この處にてかの翁を尋ぬうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一声「信濃路や。 木曽の御坂の春風に。行方も知らぬ。花ぞ散る。 ツレ二ノ句「霞こめたる谷の戸に。 二人「世を鴬の声しげし。シテサシ「所から春立つ山路分け過ぎて。 二人「採るや薪の尾上の鐘。 朧々と聞き馴れて。たどるや老の坂ならん。 上歌「立ち上る。木曽の麻衣袖しをり。/\。 賎が家居の業なれば。 かけ路の橋も馴れ/\て。幾重かさなる白雪の。 解けて落ち来る谷川の。水も岩根や。 伝ふらん/\。 。 ワキ詞「如何にこれなる老翁に尋ぬべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。

見奉れば此あたりにては見馴れ申さぬ御姿なり。 もし都よりの御下向にて候ふか。 ワキ「実によく見てあるものかな。 これは延喜の聖主に仕へ奉る臣下なるが。この所に三返の翁と申す者。 寿命。 めでたき薬を与ふる由君聞し召し及ばせ給ひ。急ぎ見て参れとの宣旨なり。 かの老翁が私宅を教へ候へ。 シテ「さては勅使にて御座候ふぞや。あら有難や候。 総じてこの三返の翁と申すは。 生所もあらず出所もなく。 ツレ「唯おのづから其まゝにて。寝覚の枕松が根を。 シテ「宿とさだむる翁なれば。定めてこゝに来るべし。 ワキ「実に/\是はいはれたりと。 岩根の枕寝覚の床に。シテ「暫く御待ち候へとよ。 ワキ「暫し休らふ。シテ「其うちに。 地「日も夕暮に程もなく。/\。 なるや弥生の空なれば。月も朧に差し出でて。 山の端白き松の風。枝を鳴らさぬ木の下に。 暫し休らふ。旅居かな/\。

。なほ/\寝覚の床の謂委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\この寝覚の床と申すは。 役の行者暫く御座をなし給ひて。観念の。眠を覚まし給ふ。 シテサシ「然るに彼の三返の老翁は。 生所も知らず出所もなく。地「唯おのづから忽然と。 現れ出でて寝覚の床に。千年を送るそのうちに。 寿命めでたき薬を服し。 三度若やぐ故により。三返の翁と名づけたり。 クセ「ある時翁申すやう。〓{羽に廾}養射術を伝へて。 其名を雲の上にあげ。されば愛染明王は。 定の弓慧の矢にて。悪魔を従へ給ふなり。 我は又御薬の。威徳を以て大君の。 代を治めんと思ふぞと。 勅使に申し上げければ。 勅使喜悦の色をなし汝如何にと宣へば。シテ「今は何をか包むべき。 地「我この所に年経たる。 三返の翁なるが目前に来りたり。勅使暫く待ち給へ。 夕月の夜もすがら。舞楽を奏し見せ申し。

又御薬を与へんと。いふかと見れば老翁は。 岩陰。 に寄ると見えて行方知らずなりにけり行方も知らず失せにけり。来序中入間「。 ツレ天女出下リ羽地「天つ風。/\。 雲の通路吹きとぢよ。乙女の衣色々に。 糸竹も音を添へて。波の皷声澄むや。 海青楽を奏しけり。天女舞「。 後シテ「そも/\これは。医王仏の化現。 無病息災の方便のため。 三返の翁仮に現れ出でたるなり。地「その時老翁〓{新字源:2799。 かんぬき}を開き。/\。青天はるかに見渡しければ。 シテ「東南に雲晴れ。西北の風も。 吹き納まつて。地「花降り異香音楽の響。 舞楽の数々乙女の袂。返す%\も面白や。 楽地「夜遊の舞楽も時過ぎて。/\。 有明方の。月も落ちくる折からに。 不思議や川波はげしく荒れて。 二龍の姿は現れたり。龍神二人出早笛地「両龍王は川波に浮み。 /\。かの御薬を。奉ぐる気色。

汀に座してぞ見えたりける。 シテ「老翁悦の思をなして。老翁悦の思をなして。 かの客人の。御慰に。 神通自在の秘術をあらはして夜遊の戯。なし給ふ。 龍神働シテ「かくて時移り頃去れば。 地「かくて時移り頃去れば。かの御薬を。君に捧げ。

勅使に与へてこれまでなりと。 木曽の桟ゆらりと打ち渡り。帰り給へば。 龍神も東西に飛行の翔り。 波に戯むれ巌に上れば夜も白々と。明方の空に。夜も白々と。 明方の空に。夢の寝覚は。覚めにけり 勅使 従者 海女 海女 気多明神 八尋玉殿の神

ワキ、ワキツレ次第「御影曇らで君守る。/\。 神の宮居に参らん。ワキ詞「そも/\これは当今につかへ奉る臣下なり。 さても能州気多の明神は。霊験無双の神にて御座候。 御神事の数々多き中に。 霜月初午の御祭礼の儀式。君聞し召し及ばせ給ひ。 急ぎ見え参れとの宣旨を蒙り。 唯今能州に下向仕り候。

道行三人「思ひ立つ其方の空も北時雨。/\。 降り来る嶺やあらち山雪の木の芽の山越えて。越の長浜遥々と。 行方につゞく松原の。 影見えそめて程もなく一の宮にも着きにけり。 一の宮にも着きにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程にこれははや。 能州一の宮に着きて候。 あら笑止や俄に雪の降り来りて候。 これなる松原に立ち寄り雪を晴らさばやと存じ候。

シテツレ三人一声「降る雪の。簑代衣袖さえて。 春待ちわぶる。心かな。 シテ「冬立つ波の音までも。四人「浦さびまさる。夕かな。 シテサシ「それ国々所々に。 神所垂跡多けれども。殊更御影を仰ぐなる。 四人「此神垣の松の葉の。千代万代の末かけて。 運ぶ歩もつもる雪の。ふかき恵を。頼むなり。 。 下歌「我は賎しき海士の子のよその見る目も如何ならん。 上歌「誰とても隔はあらじ神慮。/\。 交はる塵の浮世にも安く楽む身の程を。 思ひかへせば勇ある此神祭急ぐなり此神祭急ぐなり。 。 ワキ詞「いかにこれなる人々に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「これ程深き雪の中に。 しかも女性の御身として。 かやうに歩を運び給ふ事不審にこそ候へ。 シテ「さん候これは此浦里に住む女にて候ふが。 霜月初午の御祭礼の儀式。殊更神秘多ければ。

取り分き歩を運び候。 これは此あたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 もし都よりの御参詣にて白ふやらん。 ワキ「実によく見てあるものかな。 是は当今に仕へ奉る臣下にて候ふが。 今月初午の御祭礼の儀式。君聞し召し及ばせ給ひ。 急ぎ見て参れとの宣旨を蒙り。勅使に下向申して候。 シテ「さては遥々の御志。返す%\も有難うこそ候へ。 ワキ「さらば御神事の謂委しく御物語り候へ。 シテ「これ猶秘する事なれば。 あからさまには申し難しさりながら。 当国ゆのがうと申す処より荒鵜を取りて贄に供ふ。 かの鵜みづから贄に備はり。放せばやがて飛び去る事。 これ第一の奇特なり。 ワキ「これは不思議の御事かな。さては鳥類畜類までも。 シテ「贄に備はる神の誓。 ワキ「雲井を翔る翅までも。心なしとはいひがたし。 シテ「ましてやいはん人として。ワキ「頼をかけよ。

シテ「かけまくも。 地「かたじけなしや神の代の。尽きぬ御恵。 ひとへの仰ぎ給へや。 地クリ「そも/\当社の地形を見るに。 西は蒼海漫々たり。北には青山あり。 亀鶴蓬莱山と名づく。一つの巌窟あり。 七星常住の仙境なり。シテサシ「然るに此神は。 垂跡年久しといへども。 利物の風あらたなり。地「日本第三の社壇。 正一位勲一等気多不思議智満大菩薩と号し。 無仏世界度衆生。今世後世能引導の。 誓を顕しおはします。クセ「然るに其昔。 神功皇后の勅を受け。干満。 両顆の名珠を海底に沈め忽ちに。新羅百済の凶族を。 皆悉く亡ぼして。 天下安全に国土も豊なりけり。そのかみ。垂仁天皇の御宇かとよ。 。 大入杵の神王を祭主と定め此神を勧請し奉りけり。 シテ「然れば代々の帝までも地「神徳を仰ぎ給ひ。社禄を贈り礼典。

隙なくあがめ給ふとか。 されば一度も神前に。歩を運ぶ輩は。 息災延命の徳を得二世の願も満つ月の。 影あきらかに曇なき。 当宮の御恵仰ぎても余りあるべし。 ワキ詞「不思議なりとよ方々は。 そも誰なればかほどまで。神秘を残さず語り給ふ。 其名は如何におぼつかな。 シテ「今は何をか包むべき。我此所に年を経て。 有縁の衆生を守るなる。 地「神とやいはん恥かしや。/\。御身は。勅の使なれば。 言葉をかはすぞと。 夕の月の光とともに朱の。 玉垣に隠れけり玉垣の内に隠れけり。中入間「。 ツレ一声出端「昔は大入杵の神王と号し。 今は此地に跡を垂れ。八尋玉殿の神とは。 我が事なり。地「則ち御影を現して。 即御影を現し給ひて勅使に参拝の膝を屈し。 其後御殿に上らせ給ひ。手づから扉を開き。

給へば。誠に妙なる相好荘厳赫奕として。 現れ給ふ。有難や。 シテ「如何に八尋玉殿の神。 いざもろともい舞楽を奏し。かの客人を慰めん。 ツレ「実に客人は勅の使。 さらば舞楽をなすべしと。弦管の役をすゝむれば。 シテ「誠に勅の使ぞと。聞くにつけても思ひ出づる。 地「其古の神祭。/\。 安倍の貞任勅使として。万歳楽を舞ひし事。 唯今の勅の使に。思ひ出づるも面白や。 楽シテ「更け過ぐる夜神楽の。 地「更け過ぐる夜神楽の。月も傾く空なれや。 丑三つも時至れば。神前に供ふる生贄の。 真鳥もこゝに。現れたり。

早笛「空飛ぶ鳥も地に落ちて。/\。 神慮に従ふその有様まのあたりなる奇特かな。 シテ「此鳥少しも驚かず。 地「此鳥少しも驚かず。諸人の中を静かに歩み出で。 階を上り。神前に羽を垂れ伏しけるが。 又立ち帰り庭上に下れば神体ともに。 立ち出給ひ。汝よく聞け此度贄に。 供はる結縁に鳥類の身を転じ。仏果に至れと。 宣命をふくめ給ひければ。 八尋立ち寄りかの鳥を抱き。 海上に向ひて放ち給へば此鳥悦び羽風を立てゝ。雲井に翔り。 飛び廻り/\。遥の沖に飛び去りぬ。 実に有難き和光の神徳。 実にありがたき神徳を見せて。神は上らせ給ひけり 太宰府の僧 従僧 海女老人 火天 傅大士

ワキ、ワキツレ、二人次第「東に残る法の道。/\。

迷はぬ教頼まん。

ワキ詞「これは筑前太宰府に居住の僧にて候。我若年の昔より。 仏法修行の志淺からず候へども。 いまだ都を見ず候ふ程に。洛陽の自社に参り。 殊には北野の天満天神は。 当社御一体の御事なれば。参詣申さんと唯今思ひ立ちて候。 道行三人「筑紫船。法のためにと思ひ立つ。 /\。雲路につゞく天の原。 出づる日影の程もなく。難波の浦に着きしかば。 こ。 れよりやがて旅衣/日も重なれば程もなく。都に早く。 着きにけり都に早く着きにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 都に着きて候。これより北野に参らばやと思ひ候。 サシ「ありがたや釈迦一代の蔵経を。 大唐よりも渡しつゝ。 末世の衆生済度のために。輪蔵に納め結縁の。 手に触れ縁を結ばせんとの。御神の誓ぞ有難き。 南無や傅大士普建普成。現受無比楽後生清浄土。 ツレ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 御身は筑前の宰府より来り給ひて候ふか。

ワキ「不思議やな都始めて一見の者を。 宰府の者とは何とて見知り給ふらん。 ツレ「あら愚の仰やな。 其方はしろしめされずとも我は朝夕白雲の。 迷はぬ法の友人なれば。などかは知らで候ふべき。 ワキ「これは不思議の御事かな。さて/\かやうに承る。御身は如何なる人やらん。 ツレ「今は何をか包むべき。 五千余巻の御経を。昼夜に守護し奉る。 十二天のその中に。火天これまで来りたり。 ワキ「そも火天とはまのあたり。 天部を拝み申す事よと。感涙肝に銘じつゝ。 現とも更に弁へず。ツレ「此方も御身の貴さに。 ワキ「随喜渇仰。ツレ「さま%\に。 地歌「説き置きし。御法の花の色々に。/\。 教は多き道ながら。悟は一つぞ胸の月。 曇らじや三界唯一心の外ならじ。処は北の宮居。 北辰は動かず。天満つ星の廻るなる。 輪蔵を開きて。静かに拝み給へや。

ワキ詞「あら有難の御事や。五千余巻の御経を。 一夜に拝ませおはしませ。 ツレ「五千余巻の御経を。一夜に御僧の拝まんとは。 おふけなき御事なれどもさりながら。 御身父母の胎内を出でしより此方。 五戒を乱さず慈愛を發し。仏道修行し給ふ事。 地「其功既に。年久し。 ツレサシ「然るに此御経に於て。大唐よりも渡されし。 地「傅大士普建普成とて。其身は俗体なりといへども。 此三人の如何なれば。 かの御経に値遇の縁。深き心の。隙もなく。昼夜に経を。 守護し給ふ。クセ「其後日本に。 渡りし法の舟の内。波路遥に漕がれ来し。 心筑紫の果よりも。仏法東漸の。 都の北の宮寺に。ツレ「納め給ひし昔より。 地「今末の世とはいひながら。 類稀なる上人の結縁の利益仰ぎつゝ。衆生を済度し給へ。 我も姿を改めて。 必ずこゝに来りつゝ行道の利益。

なさんといふかと見えて失せにけり。云ふかと見えて失せにけり。来序中入間「。 ワキ「月は隈なき後夜の鐘。 声澄み渡るをりふしに。地「不思議や異香薫じつゝ。 音楽聞え紫雲たなびく絶間より。 花降り下るぞあらたなる。 地「いひもあへねば妙経の。/\。 守護神の御厨子の扉は忽ち四方へひらけて。傅大士二童子現れたり。 シテ「釈迦一代の。御法の御箱。 地「釈迦一代の御法の御箱をかの上人に。 悉く与えんと。普健普成の。二童子に持たせ。 上人の御前にさし置き給へば。 シテ「傅大士座を立つて。地「傅大士座を立つて。 竹杖にすがり。膝をかゞめて。上人を礼し。 かの御経を。読誦し給へば善哉なれや。 善哉なれと。夜遊を奏して舞ひ給ふ。 楽地「いづれも妙なる舞の袖。/\。 月も照り添ふ雲間より。 天部の姿は隠れもなく。天降るこそ。有難けれ。 後ツレ早笛「そも/\これは。

釈迦一代の蔵経の守護神。十二天のその中に。 火天の姿を現すなり。地「火天忽ち天降り。/\。 程なく目前に現れ出でて。上人に向ひ。 即ち結縁の。行道の利益。 めぐらし給へと各立ち寄り。上人を誘なひ。 輪蔵に御手をかけまくも忝しと。 互に推し廻り。廻り廻るや日月の光。曇らぬ御法の。 あらたさよ。舞働「。 ツレ「これはこれ妙経の守護神なれば。

地「これはこれ妙経の守護神なれば。 夜の間に転経の儀式を顕し。 上人悉く披見の其後各御箱をとり%\に。 遥の神前に運び給ふ。傅大士伴なひ。 神前に積み置きいよ/\当社。当寺の仏法。 繁昌の霊地を崇め給へと上人に教へ。 天部。 は雲居に上らせ給へば、七宝荘厳の瑠璃の座の上に。 傅大士二人の童子を伴なひ/\。帰り給ふぞ。ありがたき 従僧 天女 白太夫

ワキ、ワキツレ、二人次第「善き光ぞと名を聞や。/\。 仏の御寺なるらん。 ワキ詞「かやうに候ふ者は。相模の国の田代と申す所に。 尊性と申す者にて候。 われ善光寺の如来に一七日参籠申して候へば。

あらたに御霊夢を蒙りて候ふ程に。 これより河内の国土師寺へ参らばやと思ひ候。道行「捨てゝはや。 久しかりつる世の中を。/\。 また思ひ立つ旅衣。 昨日の山を後に見てなほ行く方は白雲の。海も見えたる西の空。

夕日がくれの霧間より。流もこれや河内なる。 土師の里にも着きにけり。/\。 シテツレ二人真の一セイ「長月の。色も梢の秋を得て。 照るや紅葉の土師の里。 シテ二ノ句「なほ晴れ残る音とてや。 二人「松風ひとりしぐるらん。シテ「これに出でたる老人は。 此里の名も土師寺の。仏神に仕へ申す者なり。 二人「有難や利生は様々多けれども。 わきて誓もかげ高き。天満神の宮寺に。 歩を運ぶ御値遇。げに身を知れば心なき。 われらがためはたのもしや。 下歌「いざや歩を運ばん/\。上歌「神さぶる。 松は十かへり千代の秋。/\。 霜を重ねて下草の。 露の身ながらながらへて神に仕へ奉る。宮路久しき瑞籬の。ふかき誓は。 有難や/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる宮人に申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。

ワキ「これは善光寺の如来の御夢想により。遥々当寺に参りて候。 寺中の。 人に逢ひ孟子御夢想の様を語り申し度く候。 シテ「不思議なる事を承り候ふものかな。 まづ御夢想の様をこの老人に御物語り候へ。 某。 承つて寺中の。 人々へひろめ申し候ふべし。 。 ワキ「あら嬉しや候。 さらば委。 しく申し候ふべし。 寺中の人々。 に御ひろめ候へ。 シテ「心得申し候。 ワキ「これ。 は相模の国田代と申す所に尊性と申す聖にて候ふが。 われ念仏往生の志あるにより。 此度信濃の国善光寺へ参り。

一七日参籠申す所に。如来見ず子御厨子の御戸を開き。 香の衣に香の袈裟をかけ給ひたる老僧の。 あらたなる御声にて。 汝念仏往生の志誠に懇なり。然らば五幾内河内の国土師寺は。 天神の御在所なり。 かの所に神明を始め奉り。七社の神々を勧請申されたり。 又天神は一切衆生現当二世のため。

五部の大乗経を書き供養して埋まれたり。 その軸より木槵{ゲン}患樹の木生ひ出でたり。 そ。 の木の実を取り珠数として念仏百万遍申さば。往生疑あるまじきと承つて。 夢覚めぬ。なんぼう有難き御夢想候ふぞ。 シテ「かゝる有難き御事こそ候はね。 やがて寺中の人々にふれ申し候ふべし。 まづ。 唯今仰せられ候ふ木槵樹を見せ申し候ふべし。此方へ御出で候へ。 ワキ「さらばやがて御供申し候ふべし。 シテ「是に神明を初め奉り七社の神々を斎ひ申され候。 またこれなるは天神にて御座候。 あれに見えたるこそ唯今御物語り候。 木槵にて候。よく/\御拝み候へ。 ワキ「有難や神も仏も同一体とは申せども。 天神同意の御結縁今始めて承り候。 ツレ「うたての聖の仰やな。今に始めぬ天神の。 弥陀一体の御値遇。 天神と申すにその御本地。救世観音にてましまさずや。

ワキ「げに/\これは理なり。昔在霊山名法華。 シテ「今在西方名阿弥陀。 ワキ「娑婆示現観世音。シテ「三世利益同一体。 ワキ「その外神や。シテ「仏とは。 地上歌「たゞこれ水波の隔にて。神仏一如なる寺の名の。 道あきらかに曇らぬ神の宮寺ぞ貴き。 有難し有難し。げに神力も仏説も。 同じ和光の影に来て拝むぞたつとかりける/\。 クリ「それ仏の昔神の今。 後五の時代に至るまで。 神も濁世に応じ給ひて暫く西都に移り給ふ。 シテサシ切迄囃子「如月下の五日にして。京を出でさせ給ひつゝ。 地「この土師の里に旅宿あつて。さま%\の御神物をとゞめ。 末代値遇の御結縁今に絶ゆることなし。 シテ「かくても留まらぬ道のべの。地「草葉の露もしをるゝばかり。 クセ「君が住む。宿の梢をゆく/\も。 隠るゝまでに。 かへりみぞするとの御詠さこそと知るぞ忝き。

さてもいつしかに。ならはせ給はぬ旅の空。 名におふ心筑紫として天ざかる鄙の国に。 住まはせ給ひしかば。あたりは都府楼の瓦。 観音寺の鐘の声朝暮に響く折々は。 都の春秋を思し召しいでぬ時はなし。 シテ「家を離れて三四月。地「落つる涙は百千行。 万事は皆夢の如し。より/\彼蒼を期すといふ。其御心の至にや。 昨日は北欠に悲びを被ぶる士たり。 けふは西都に恥じを清むる屍たりと。御神感あらたに。 生きての恨死しての悦。 あまねしや天満陽感ぞめでたかりける。 ロンギ「げに有難や草も木も。/\。 みな成仏の木の実まで。玉を連ぬる光かな。 シテ「枯れたる木だにも。 誓の花は咲くぞかし。ましてや面前木槵樹。 花咲き実なるなる。梢の色もあらたにて。 シテ「法を称ふる理を。地「思の玉の。

シテ「おのづから。地「あの梢の木の実こそ。 この珠数の御法なれ。必ず授け申さんとて。 帰ると見れば立ち止りて。われは天神の御使。 名をば誰とか白太夫の神と申す翁草の。 。 霜曇りしてげりや霜曇りに失せにけり。中入来序間。 出端天女出「久方の。天の岩戸の神遊。 今思出もおもしろや。 地「舞楽の役々とりどりに。/\。琵琶琴和琴。笛竹の。 夜は更け行けども缶の役者。 などや遅きぞ白太夫。急いで出でよと待ちやまふ。 後シテ出端、イロエ吹「月もかゝやく宮寺の。 常の燈火明々たり。後ツレ天女「如何に白太夫の神。 七社の御前に韓神催馬楽。 うたふや缶笏拍子の。役とは知らずや白太夫。 シテ詞「仰は重く候へども。既に名にだに白太夫が。 星霜積る老いが身の。役をば許し給ふべし。 天女「いやとよその役定まりたり。 急いで役をなすべきなり。

シテ詞「さては辞すとも叶ふまじ。さてその役は。 天女「韓神催馬楽。シテ「庭火の影や。天女「朱の玉垣。 地「かゝやけるその中に。 白太夫が小忌の袖より。取るや笏拍子とう/\と。 打つも寄るも老の浪の。 雪の白太夫が缶の。笏拍子おもしろや。楽。 シテ「唯今かなづる舞歌の曲。 地「唯今かなづる舞歌の曲。七徳双調七拍子膝を。 屈して仏を敬ひさす腕には。魔縁を払ひ。

をさむる手には寿福を招き。 千秋楽には民を養ひ万歳楽には命を延ぶる。 法の筵を敷妙の。枕は袂。上は尊き。 木槵樹の梢に翔りて降るや一味の雨風を。 そゝぎて枝々より。 木の実をふるひ落してかの尊性に与へつゝ。 これこそ念の玉をつらぬく。数は百八煩悩の。 数は百八煩悩をかたどる珠数の。 道明寺の鐘鼓に神楽の夢はさめにけり 大臣 従者二人 王仁 木花開耶姫

ワキ、ワキツレ二人、次第「山も霞みて浦の春。/\。 波風静かなりけり。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。われ三熊野を信じ。 毎年年ごもり仕り候。此度は所願成就し。 年帰る春にもなり候へば。 唯今都に下向仕り候。道行三人「春立つや。

実にも長閑けき風和の。/\。浜の真砂も吹上の。 浦伝ひして行く程に。早くも紀路の関越えて。 是も都か津の国の。 難波の里に着きにけり/\。 シテツレ二人真の一セイ「君が代の長柄の橋も造るなり。 難波の春も。幾久し。

ツレ二ノ句「雪にも梅の冬籠り。二人「今は春べの気色かな。 シテサシ「それ天長く地久しくして。 神代の風長閑に傳はり。二人「皇の畏き御代の道広く。 国を恵み民を撫でて。 四方に治まる八洲の波静かに照らす日の本の。 影ゆたかなる時とかや。下歌「春日野に若菜摘みつゝ。 万代を。上歌「祝ふなる。心ぞしるき曇なき。 /\。天つ日嗣の御調物。 運ぶ巷や都路の直なる御代を仰がんと。 関の戸さゝで千里まで。普く照らす。日影かな。 普く照らす日影かな。 。 ワキ詞「如何にこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「不思議やな諸木こそ多き中に。是なる梅の木蔭を立ち去らずして。 蔭を清め賞翫を給ふ事不審なり。 もし此梅は名木にて候ふか。 シテ「御姿を見奉れば。都の人にて御座候ふが。 此難波の浦に於て。色殊なる梅花を御覧じて。

名木かとのお尋は御心なきやうにこそ候へ。 ツレ「それ大方の春の花。 木々の盛は多けれども。花の中にも始なれば。 梅花を花の兄ともいへり。 シテ詞「その上梅の名所々々。 国々。 処は多けれども。 六義の始のそへ歌にも。 難。 波の梅こそ詠まれたり。 ツレ「御。 代も開けし栄花といひ。 シテ「あ。 まねき花の佳例といひ。 二人「と。 にかくにも津の国の。 こや都路の難波津に。名を得て咲くやこの花を。 名木かとのお尋は。 ことあたらしき御諚かな。ワキ詞「実に/\難波の梅の事。

名木やらんと尋ねしは。 愚なりける問事かな。然れば歌にも難波津に。 咲くやこの花冬ごもり。今は春べと咲くやこの。 花の春冬かけてよめる。 歌の心は如何なるぞ。シテ「それこそ帝をそへ歌の。 心詞は顕れたれ。難波の御子は皇子ながら。 未だ位に即き給はねば。

冬咲く梅の花の如し。ワキ「御即位ありて難波の君の。 位に備はり給ひし時は。 シテ詞「今こそ時の花の如く。ワキ「天下の春をしろしめせば。 シテ「今は春べと咲くやこの。 ワキ「花の盛は大鷦鷯の。シテ「帝を花にそへ歌の。 ワキ「風もをさまり。シテ「立つ波も。 地歌「難波津に。咲くやこの花冬ごもり。 /\。今は春べに匂ひ来て。 吹けども梅の風。枝を鳴らさぬ御代とかや。 実にや津の国の。なにはの事に至るまで。 豊なる世の例こそ。実に道広き。 治なれげに道広き治なれ。 地クリ「抑難波津の歌は帝の御はじめ。 又安積山の詞は。采女の土器。とり%\なり。 シテサシ「昔唐国の尭舜の御代にも越えつべし。地「万機の政おだやかにして。 慈悲の波四海に普く。治めざるに平かなり。 シテ「君君たれば。臣もまた。 地「水よく船を。浮かむとかや。クセ「高き屋に。

登りて見れば煙立つ。民のかまどは。 賑ひにけりと。叡慮にかけまくも。 かたじけなくぞ聞えける。然れば此君の。 代々にためしを引く事も。実に有難き詔。 国々に普く。三年の御調ゆるされし。 其年月も極まれば。浜の真砂の数積りて。 雪は豊年の御調物。ゆるす故にはなか/\いやましに運ぶ御宝の。千秋万歳の。 千箱の玉を奉る。シテ「然れば普き御心の。 地「いつくしみ深うして。 八洲の外まで波もなく。広き御恵。筑波山の陰よりも。 茂き御影は大君の。国なれば土も木も。 栄えさかふる津の国の。 難波の梅の名にしおふ。 匂も四方に普く一花ひらくれば天下皆。春なれや万代の。 なほ安全ぞめでたき。 ロンギ地「実に万代の春の花。/\。 栄久しき難波津の昔語ぞおもしろき。 シテ「実に名にしおふ難波津に。 鳥の一声をりしもに。鳴く鴬の春の曲春鴬囀を奏せん。 地「不思議や御身誰なれば。 かく心ある花の曲。舞楽を奏し給ふべき。 ツレ「我は知らずや此梅の。春年々の花の精。 地「今一人の老人は。 シテ「今ぞ顕す難波津に。 地「咲くやこの花と詠じつゝ位をすゝめ申せし百済国の王仁なれや。 今も此花に戯れ。百囀の声立て春の鴬の舞の曲。 夜もすがら。慰め申すべしや。 下臥して待ち給へ花の下ぶしに待ち給へ。中入間「。 ワキ(三人)歌待謡「見て暮す。 花の下臥更くる夜の。/\。月影ともに静かなる。 けしきに染みて音楽の。 花に聞ゆる不思議さよ花に聞ゆる不思議さよ。 後シテ出端「誰かいひし春の色は。 東より来るといへども。南枝花始めて開く。 こゝは所も西の海に。向ふ難波の春の夜の。 月雪もすむ浦の波。夜の舞楽はおもしろや。 夢ばし覚まし。給ふなよ。

後ツレ「これは難波の浦に年を経て。 開くる代々の恵を受くる。木花咲耶姫の神霊なり。 シテ「我は又百済国より此国に渡り。 君を崇め国を守る。王仁と云つし。相人なり。 地「むかし。仁徳の御宇には。 御代の鏡の影をうつし。 シテ「治まる御代の栄花をなしゝも。地「この花の匂。 シテ「又は開くる言の葉の緑。地「難波の事か法ならぬ。 遊び戯れ。いろ/\の舞楽。おもしろや。 天女舞「。ツレワカ「梅が枝に。来居る鴬。 春かけて。シテ「鳴けども雪は。古き鼓の。 苔むして。打ち鳴らす。/\。 人もなければ。君が代に。地「懸けし鼓も。 シテ「鐘も響き。地「浦は潮の。シテ「波の声々。 地「入江の松風。シテ「むら芦の葉音。 地「いづれを聞も悦の。諫鼓苔むし難波の鳥も。 驚かぬ御代なり。有難や。神舞「。 ロンギ地「あらおもしろの音楽や。

時の子にかたどりて。春鴬囀の楽をば。 シテ「春風ともろともに。 花を散らしてどうど打つ。地「春風楽は如何にや。 シテ「秋の風もろともに。波を響かしどうど打つ。 地「万歳楽は。シテ「よろづ打つ。 地「青海波とは青海の。シテ「波立て打つは。

採桑老。地「抜頭の曲は。シテ「かへり打つ。 地「入日を招き帰す手に。/\。 今の太鼓は波なれば。 よりては打ち返りては打ち。此音楽に引かれつゝ。 聖人御代にまた出で。 天下を守り治むる万歳楽ぞめでたき万歳楽ぞめでたき 昭明王の臣下 従者 海人の母 海人 富士の山神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「大和唐土吹く風の。/\。 音や雲路に通ふらん。 ワキ詞「是は唐土昭明王に仕へ奉るせうけいと申す士卒なり。 我日本に渡り。此土の有様を見るに。 山海草木土壌までも。 さながら仙境かと見えて誠に神国の姿を顕せり。 昔唐土の方士と云つし者。日本に渡り。 駿河国富士山に到り。不死の薬を求めし例あり。 我も其遺跡を尋ねん為。唯今駿河国富士山に赴き候。

道行三人「唐土の空は雲居に隔て来て。/\。 東の国に至りても。 なほ東路の末遠き海山かけてはる%\と。日数を重ねて行く程に。 名にのみ聞きし富士の根や。 裾野にはやく着きにけり。/\。 ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。これは早。 富士の裾野に着きて候。御覧候へ。 唐土にて聞き及びしよりも。 猶いやまさりて目を驚かしたる山の景色にて候ふものかな。

又あれを見れば海人とおぼしき女性の数多来り候。 か。 の者を相待ち事の子細をも尋ねばやと存じ候。シテツレ二人、次第「砂長ずる山川や。/\。 富士の鳴沢なるらん。 シテサシ「朝日さす高根のみ雪空晴れて。野は夕立の富士颪。 三人「雲もおり立つ田子の浦に。 舟さしとめて蜑少女の。 通ひ馴れたる磯の浪のよるべ何処に定むらん。実に心無き海士なれども。 処からとて面白さよ。 下歌「松風の音信のみに身を知るやすむ芦の屋の窓の雨。 上歌「うち寄する駿河の海は名のみにて。 /\。波静かなる朝和に。 雲はうき島が原なれど風は夏野の深緑。 湖水に映る雪までも。妙なる山の御影かな/\。 ワキ詞「い。 かにこれなる人々に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「昔の唐土の方士といつし者。 此富士山に登り。 不死の薬を求め得たる例あり。其遺跡をば知り給へりや。

シテ「実に/\さる事のありしなり。 昔鴬のかひご化して少女となりしを。 時の帝皇女に召されしに。 時至りけるか天に上り給ひし時。 形見の鏡に不死薬を添へて置き給ひしを。後日に富士の獄にして。 其薬を焼きしより。富士の烟は立ちしなり。 ツレ二人「然れば本号は不死山なりしを。 郡の名に寄せて。 三人「富士の山とは申すなり。是蓬莱の。仙境たり。 ワキ詞「扨は此山仙境なるべし。先目前の有様にも。 今は六月上旬なるに。雪まだ見えて白妙なり。 これはいかなる事やらん。 シテ詞「さればこそ我が朝にても。不審多し。 然れば日本の歌仙の歌に。 時しらぬ山はふじのねいつとてか。かのこ斑に雪の降るらん。 是三伏の夏の歌なり。ワキ「実に/\見聞くに謂あり。時にあたりてみな月なるに。 さながら富士は雪山なれば。 時知らぬとは理かな。シテ詞「殊更今の眺の景色。

浪も揺がぬ四つの時。 ワキ「暑き空にも雪見えて。シテ「さながら一季に。ワキ「夏。 シテ「冬を。地「三保の松原田子の浦。/\。 何れもあをみな月なるに。 高嶺は白き富士の雪を。実にも時知らぬ。 山と詠みしも理や。げにや天地の。 開けし時代神さびて。高く貴き駿河の富士。 実に妙なる山とかや/\。 地クリ「抑この富士山と申すは。月氏七道の大山。 天竺より飛来る故に。則ち新山となづけたり。 シテサシ「頂上は八葉にして。内に満池をたゝへたり。 地「神仙人化の境界として。 四季折々を一時に顕し。天地陰陽の通道として。 希代の瑞験。他に異なり。 クセ「凡そ富士の嶺は。年に高さやまさるらん。 消えぬが上に。つもる雪の。見ればこと山の。 高嶺たかねを伝ひ来て。 富士の裾野にかゝる雲の上は晴れて青山たり。 いづくより降るやらん雲より上の白雪は。

然れば此山は仙境かくれ里の。 人間に異なる其瑞験も目のあたり。竹林の王妃として。 皇女に備はりて。鏡に経し薬をそへつゝ。 別るゝ天の羽衣の。雲路に立帰つて。 神となり給へり。シテ「帝其後かくや姫の。 教に従ひて。富士の高嶺の上にして。 不死の薬を焼き給へば。 煙は万天に立ちのぼつて雲霞。逆風に薫じつゝ。 日月星宿もさながら。あらぬ光をなすとかや。 さてこそ唐土の方士も。 此山に上り不死薬を。求め得て帰るなり。 これわが朝の名のみかは。 西天唐土扶桑にも双ぶ山なしと名を得たる。富士山の粧。 誠に上なかりけり。 ワキ詞「富士山の謂は承り候ひぬ。さて/\あれに見えたる山はいかなる山と申すやらん。 シテ「あれは愛鷹山とて富士に並べる高山にて。 金胎両部を顕せり。これ愛鷹の神前なり。 ワキ「さてさて浅間大菩薩とは。

取り分き何れの神やらん。シテ詞「あう?浅間大菩薩とは。 さのみは何といふ女の姿。 地「恥かしやいつかさて。/\。其神体を顕して。 誰にか見えけん神の名を。さのみに現さば浅間の。 あさまにやなりけん。 ふしの薬は与ふべし。暫くこゝに待てしばし。 芝山の雪となつて。 立ち上る富士の根行方しらずなりにけり行方しらずなりにけり。来序中入間「。 地「かゝりければ富士の御嶽の雲晴れて。 金色の光天地にみちて。明方の空は。 明々たり。後シテ出端「抑これは。 富士山に住んで悪魔を払い国土を守る。 日の御子とは我が事なり。詞「こゝに漢朝の勅使此処に来り。 不死の薬を求む。其志深き故。 不老不死の仙薬を。則ち彼に。与ふべしと。 地「神詫新たに聞えしかば。/\。 虚空に音楽聞えつゝ。姿も妙なるかくや姫の。 薬を勅使に与え給ふ。ありがたや。天女舞「。 地「簫笛琴箜篌孤雲の御声。/\。

誠なるかな富士浅間の唯今の影向。 実にも妙なる有様かな。 楽「それ我が朝は粟散遍里の小国なれども。/\。 霊神威光を顕し給ひ。悪魔を退け衆生を守る。 中に異なる富士の御嶽は。金胎両部の形を顕し。 まのあたりなる。仙境なれば。 不老不死の薬を求め。勅使は二神に御暇申し。 漢朝さして帰りければ。かくや姫は。 紫雲に乗じて富士の高嶺に上らせ給ひ。 内院に入らせおはしませば。なほ照りそふや。 日の御子の。姿は雲居によぢ上り。 姿は雲居によぢのぼつて。 虚空にあがらせ給ひけり 勅使 従者 男漁夫 漁翁 弁財天女 童子(諷ナシ) 五頭龍王

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「治まるをりを江の島や。/\。 動かぬ国ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは欽明天皇に仕へ奉る臣下なり。 扨も相模の国江野といふ浦に。 去んぬる卯月十日あまりに。不思議の奇瑞様々あつて。 海上に一つの島湧出す。 則ち江野に名ぞらへて是を江の島と号す。 島の雲上に天女顕れ給ふ。これ弁財天影向の地にて。 福寿円満の霊地なれば。 急ぎ見て参れとの勅に任せ。唯今東海道の下向仕り候。 道行三人「東路も。そなたの空に行く雲の。 /\。影も涼しき鳰の海。 遥けき旅を駿河なる。富士の高嶺の月影も。 幾山々のうつりこし。相模の国に着きにけり。

/\。ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。 これははや相模の国江の島に着きて候。 こ。 の浦の者を相待ち事の由をも窺はゞやと存じ候。 シテツレ二人、真ノ一声「島つ鳥。浮海松涼し波の上。 有明残るあさぼらけ。 ツレ二ノ句「波もて立つや夏衣。二人「うらぶれ渡る沖つ風。 シテ「それ江の島は崑崙の奇を移し。 五丈の垣重なほとけれども。二人「蓬莱海の勢を伝へたる。 三壺の形あらたなり。秦皇徐市を疑はゞ。 驪山塚の春の風。 なほさりがてらに渡らめや。漢帝斉少を用ひずは。 覇陵原の秋の月。心凄くは澄まざらまし。 誠に人間の妙奇仙境の秘跡なり。歌「一度も。

歩を運ぶともがらは。三千界の内にまづ。 無量福の宝を得。一期生の後に早く。 不退転の位に至る。かゝる誓の海山も。 なほ万代の末かけて。靡き従ふ此国の。 尽きせぬ御代は有難や尽きせぬ御代は有難や。 ワキ詞「我江の島にあがり。 山海の致景を眺め。事の由を窺ふ所に。 海人あまた来れり。いかに翁。おことはこの浦の者か。 シテ「さん候この浦の者にて候ふが。 毎日この島にあがり。 山上山下岩窟社々を清め申す者にて候。 さて御身はいづくよりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「これは欽明天皇に仕へ奉る臣下なるが。 この島湧出の由聞し召され。 事の子細を悉く尋ね見て参れとの宣旨にまかせ。 是まで勅使を下さるゝなり。委しく子細を申し候へ。 。 シテ「さてはかたじけなくも帝よりの勅使にてましますぞや。そも/\この島は欽明天皇十三年。

卯月十二日戌の刻より同じく二十三日辰の刻に至るまで。 江野南海湖水港の口に雲霞暗く蔽ひて。 天水氛〓{気の中に温のつくり:ふんうん}たり。 大地震動する事十日にあまれり。とばかりありて天女雲上に現れ。 童子左右に侍り。諸々の天衆龍神水火雷電。 山神鬼魅夜叉羅刹雲上より盤石を下し。 海底より塊砂を噴き出す。 ツレ「〓{かい}々たる雷の光。せいくを万天の間に飛ばし。 シテ詞「霹靂帛を裂くが如し。 波浪金を涌かすに似たり。ツレ「宕巌多く浮べ出し。 夜叉鬼神島を作る。 シテ詞「或は銅杵を持つて打ち砕き。 ツレ「或は鉄杖を持つて裂き破る。 シテ詞「又は二つの岩を押し合はせ。ツレ「又は一つの石を峙てたり。 シテ詞「とり%\に島を造り給へば。 梵天帝釈四大天王。上界の天人下界の龍神。 ツレ「残らずこゝに現れ給ひ。 二人「おのおのこれを衛護し給ふ。其後靄雲収まりて。 海上に一つの島を成せり。

すなはち江野になどらへて。江野原島とこれを申すなり。 ワキ「謂を聞けばありがたや。 則ちこれは明君の。 すぐなる御代のしるしをみせて。かゝる奇特を拝む事よと。いよ/\御影を仰ぐなり。 詞「さてこの島は天部の影向又は如何なる御神の。 鎮守と現れ給ふらん。シテ詞「中々の事この島に。 おのおの諸神まします中にも。 龍の口の明神は。天部と夫婦の御神にて。 衆生済度の御方便。あがめてもなほ余りあり。 ワキ「げに有難やかくばかり。深き恵の海山も。 なほ万歳を呼ばふなる。 シテ「声か松吹く風の音の。ワキ「涼しき巌い寄る波も。 シテ「治まる国のしるしを見せて。 ワキ「豊に住める。シテ「この時を。地上歌「万代の。 始と今日を祈りおき。 始と今日を祈りおきて。今行く末も此島の。 誓は尽きぬ無量億の。楽の数々を。 受けつぐ国ぞ久しき。善神は一切の福を授け。

悪神は万里の禍を払ふ浦風も。 天部の誓なるとかや。頼めなほ隔なき。 真如の玉も雲らじ。 ワキ詞「猶々江の島に於てめでたき子細様々あるべし。残さず申し候へ。 地クリ「そも/\江の島と云つぱ。 そのめぐれる事三十余町。 その高き事数十余丈なり。シテサシ「水は山の影をふくみ。 山は水の心に任せたり。地「〓{せん}中の砂清浅たり。 白雲の破るゝ所に。 洞門開けて翆屏あらはれたり。 岩窓の奥遥かに入つて峨々たる巌の間より。落ちくる水は西天の。 無熱池の池水なるとかや。 シテ「禅定無漏の仙人は。地「この地を占めて栖とし。 弥陀有縁の教主は。この島に来つて生を導く。 シテ「二世安楽のこの島に。 地「誰か頼をかけざるべき。クセ「こゝに又古。 武蔵相模の境に。 鎌倉海月の間に深沢といふ湖あり。かの湖に大蛇住めり。 其身一つにして。その頭五つあり。

隆準の鼻胡髯の腮。眼に。 白日をつなぬき身に黒雲をまつへり。然れば神武天皇より。 垂仁天皇の御宇までは。十一代の帝祚を経。 七百余歳の年祀を経て国中に満ちて人を取る。 シテ「景行天皇の御宇に至り。 地「龍悪いよいよ盛んなれば。 人皆石窟に隠れ住み涕哭の声限なし。時に天部は龍に向ひ。 汝。 が悪心を翻し殺生をとゞめこの国の守護神とならば夫婦の語をわれなすべしと。 。 堅く誓約し給へば龍王もこれに応じつつ。 今より殺害をとゞめて善心を思ひ龍の口の明神となり給ひ。 国土を守護し給ふなり。 ロンギ「はや時移る夕雲の。/\。 かゝる神秘も大方の。浦人いかで木綿四手の。 神の告かや有難や。シテ「なか/\なれや大君の。みことかしこみ勅に今ぞ。 応ずるしるしを現さん。 夜すがらこゝに待ち給へ。地「勅に応ぜんしるしとは。

そも老人は誰やらん。 シテ「誰とはさても愚なり。我は五頭龍。地「今は又。 天部の夫婦。 の神となりし龍の口の明神とは老人を見るべし。 今宵の月に天部の御姿我が姿をも。現すべしと夕波に。 立ちまぎれつゝ失せ給ふこそあらたなれ。来序中入間「。 ワキ「岐伯が絶技をさきに揚げ。 張儀が英声を後に馳す。これ聡明勇進弁財天の。 地「無量無辺不可思議の功徳を。 様々現しおはします。 ツレ天女、出端「月も照り添ふ如意の宝珠の。光を誰か仰がざる。 地「仰げなほ。/\。意の如しと聞く時は。 天女「今この君のそれと御影にあひにあふ。 地「卞和が玉もなにならず。 かの如意宝珠を君に捧げんと光も輝く御殿の扉。 左右に開けて十五童子。天部の御姿現れたり。 地「衆生済度のその御方便。 衆生済度のその御方便も。まづ福寿円満の願をかなへ。 。

現寿無比楽後生清浄土曇らぬ宝珠を君に捧げんと勅使にこれを授け給ひ。 舞楽を奏し。拍子を揃へ。 羽袖をかへして舞ひ給ふ。天女楽、地「天人聖衆菩薩の舞も。/\。 かくやと思ひ白波の。 立ち来る沖に雲くらがつて。疾風吹きたて逆巻く潮は。 五頭龍王の。出現かや。 後シテ早笛「われ昔は深沢の池に住んで。 五頭龍王と現れ。今は国土の守護神となる。 龍の口の明神なり。 地「聞きしに変らぬ因位の形。/\。シテ「頭は五頭龍。 地「胡髯の腮。眼に白日をつなぬき。 その身に黒雲をまつへり。 苔むす松も野べ伏す巌の。 峨々たる上にぞあらはれたる。シテ働「。 シテ「神仏水波の隔てなり。 地「神仏水波の隔なれば。同一体の。利益もさま%\の弁財天部は威光を現し。 明神諸共に百千劫の。齢を守らんと約諾堅き。 岩間を伝ひ。涼とるてふ緑の海に。

飛行し給へば磯うつ波も龍の口の。 明神忽ち威を。 振ひ雲を吹き嵐にかゞやく眼の光は天地。 に満ち満てりその時天部は童子を伴ひ紫雲の上に。

現れ給へば明神立ち来る黒雲に乗じ。光を放つて島根を廻り。 めぐりめぐるや暫しが程は。とり%\姿を雲中に。現しとり%\姿を雲中に現すも実に有り難き影向かな 室の明神の神職 里の女 別雷の神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「清き水上尋ねてや。/\。 賀茂の宮居に参らん。 ワキ詞「抑これは播州室の明神に仕へ申す神職の者なり。 さても都。 の賀茂と当社室の明神とは御一体にて御座候へども。 いまだ参詣申さず候ふ程に。此度思ひ立ち都の賀茂へと急ぎ候。 道行三人「播州潟。室のとぼその曙に。/\。 立つ旅衣色染むる飾磨の徒路行く舟も。 上る雲居や久方の。月の都の山陰の。 賀茂の宮居に着きにけり/\。 シテツレ二人、真ノ一声「御手洗や。清き心に澄む水の。

賀茂の河原に出づるなり。 ツレ二ノ句「直にたのまば人の世も。二人「神ぞ糺の道ならん。 シテサシ「半ゆく空水無月の影更けて。 秋程もなみ御秡川。二人「風も涼しき夕波に。 心も澄める水桶の。 もちがほならぬ身にしあれど。命の程は千早振る。神に歩を。 運ぶ身の。宮居曇らぬ。心かな。 下歌「頼む誓は此神によるべの。水を汲まうよ。 上歌「御手洗の。声も涼しき夏陰や。/\。 糺の森の梢より。 初音ふり行く時鳥なほ過ぎがてに行きやらで。

今一通り村雨の。雲もかげろふ夕づく日。 夏なき水の川隈汲まずとも影は。 疎からじ汲まずとも影はうとからじ。 。 ワキ詞「いかにこれなる水汲む女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「これはこのあたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 何処よりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「実によく御覧じ候ふものかな。 これは播州室の明神の神職の者にて候ふが。 始めて当社に参りて候。先々これなる川辺を見れば。 新しく壇を築き。白木綿に白羽の矢を立て。 剰へ渇仰の気色見えたり。 こはそも何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さては室の明神よりの御参詣にて候ふぞや。 またこれなる御矢は。 当社の御神体とも御神物とも。唯此御矢の御事なり。 あからさまなる御事なりとも。渇仰申させ給ひ候へ。 ワキ「実に有難き御事かな。さて/\当社の神秘に於て。さま%\あるべき其内に。

詞「分きてこの矢の御謂。 委しく語り給ふべし。シテ詞「総じて神の御事を。あざ/\しく申さねども。あら/\一義を顕すべし。むかし此賀茂の里に。 秦の氏女と云ひし人。 朝な夕な此川辺に出でて水を汲み神に手向けけるに。 ある時川上より白羽の矢ひとつ流れ来り。 此水桶にとまりしを。取りて帰り菴の軒に挿す。 主思はず懐胎し男子を生めり。 此子三歳と申しゝ時。人々円居して父はと問へば。 此矢をさして向ひしに。 此矢すなはち鳴雷となり。天に上り神となる。 別雷の神これなり。ツレ「其母御子も神となりて。 賀茂三所の神所とかや。 シテ「さやうに申せば憚りの。 誠の神秘は愚なる。シテツレ二人「身に弁は如何にとも。 いさしら真弓。やたけの人の。 治めん御代を告げるしら羽の。八百万代の。 末までも。弓筆に残す。心なり。

ワキ「よく/\聞けば有難や。さて/\其矢は上る代の。 今末の代にあたらぬ矢までも。 御神体なる謂は如何に。 シテ「実によく不審し給へども。隔はあらじ何事も。 ワキ「心からにて澄むも濁るも。 シテ「同じ流れのさまざまに。ワキ「賀茂の川瀬も変る名の。 シテ「下は白川。ワキ「上は賀茂河。 シテ「又其うちにも。ワキ「変る名の。地歌「石川や。 瀬見の小河の清ければ。/\。 月も流を尋ねてぞ。澄むも濁るも同じ江の。 浅からぬ心もて。何疑のあるべき。年の矢の。 早くも過ぐる光陰惜みても帰らぬはもとの水。 流はよも尽きじ絶えせぬぞ手向なりける。 下歌「いざ/\水を汲まうよ/\。 ロンギ地「汲むや心もいさぎよき。 賀茂の川瀬の水上は。如何なる所なるらん。 シテ「何処とか。岩根松が根凌ぎ来る。 瀧つ流は白玉の。音ある水や貴船川。 地「水も無く見えし大井河。

それは紅葉の雨と降る。シテ「嵐の底の。 戸無瀬なる波も名にや流るらん。地「清瀧川の水汲まば。 高嶺の深雪解けぬべき。 シテ「朝日待ち居て汲まうよ。地「汲まぬ音羽の瀧波は。 シテ「受けて頭の雪とのみ。 地「戴く桶もシテ「身の上と。地「誰も知れ老いらくの。 。 暮るゝも同じ程なさ今日の日も夢の現ぞと。うつろふ影は有りながら。 濁なくぞ水むすぶの神の慮。 汲まうよ神の御慮汲まうよ。 ワキ詞「実に有難き御事かな。 かやうに委しく語り給ふ。 御身は如何なる人やらん。シテ詞「誰とは今は愚なり。 汝知らずや神慮の趣き。迎へ給はゞ君を守りの。 此神徳を告げ知らしめんと。現れ出でて。 地「恥かしや我が姿。恥かしや我が姿の。 。 真をあらはさばあさましやなあさまにやなりなん。よし名ばかりはしら真弓の。 やごとなき神ぞかしと。

木綿四手に立ち紛れて神がくれになりにけりや。 神がくれになりにけり。来序中入間「。 後ツレ出端「あら有難のをりからやな。 我此宮居に地をしめて。法界無縁の衆生をだに。 一子とおぼし見そなはす。 御祖の神徳仰ぐべしやな。曇らぬ御代を。守るなり。 地「守るべし守るべしやな。 君の恵も今此時。ツレ「時至るなり時至る。 地「感応あらば影向微妙の。 相好荘厳まのあたりに。有難や。天女舞「。 地歌「加茂の山並御手洗の影。/\。 映り映ろふ緑の袖を。水に浸して。凉{すゞみ}とる。 凉とる。裳裾をうるほすをりからに。 山河草木動揺して。 まのあたりなる別雷の。神体来現し給へり。 後シテ早笛「我はこれ。王城を守る君臣の道。 別雷の神なり。 地「或は諸天善神となつて。虚空に飛行し。 シテ「又は国土を垂跡の方便。地「和光同塵結縁の姿。

あら有難の。御事やな。舞働「。 シテ「風雨随時の御空の雲居。地「風雨随時の御空の雲居。 シテ「別雷の雲霧を穿ち。 地「光稲妻の稲葉の露にも。シテ「宿る程だに鳴雷の。 地「雨を起して降りくる足音は。シテ「ほろ/\。 。地「ほろ/\とゞろ/\と踏みとゞろかす。鳴神の鼓の。

時も至れば五穀成就も国土を守護し。治まる時には此神徳と。 威光を顕しおはしまして。御祖の神は。 糺の盛に。飛び去り/\入らせ給へばなほ立ち添ふや雲霧を。別雷の。 神も天路に攀ぢ上り。神も天路に攀ぢ上つて。 虚空に上らせ給ひけり 延喜の帝の臣下 従者 漁翁 龍神 弁財天

ワキ、ワキツレ二人、次第「竹に生るゝ鴬の。/\竹生島詣いそがん。ワキ詞「そも/\これは延喜の聖代に仕へ奉る臣下なり。 さても江州竹生島の明神は。霊神にて御座候ふ間。 この度君に御暇を申し。 唯今竹生島に参詣仕り候。道行三人「四の宮や。 河原の宮居末はやき。/\。名も走井の水の月。 曇らぬ御代に。逢坂の関の宮居を伏し拝み。

山越ちかき志賀の里。 鳰の浦にも着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふほどに。 鳰の浦に着きて候。あれを見れば釣舟の来り候。 暫く相待ち便船を乞はゞやと存じ候。 。 シテサシ一声「おもしろや頃は弥生のなかばなれば。波もうらゝに海のおも。 ツレ「霞みわたれる朝ぼらけ。 シテ「のどかに通ふ舟の道。ツレシテ二人「憂きわざとなき。心かな。

シテサシ「これはこの浦里に住みなれて。 あけ暮運ぶ鱗の。数をつくして身ひとつを。 助けやせんとわび人の。隙も波間に。 明けくれて。世を渡るこそ。ものうけれ。 下歌「よし/\同じ業ながら。 世にこえたりなこの海の。名所多き数々に。/\。 浦山かけて眺むれば。志賀の都。 花園昔ながらの山桜。真野の入江の船よばひ。 いざさしよせて言問はん/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる船に便船申さうなう。シテ詞「これは渡船にてもなし。 御覧候へ釣船にて候ふよ。 ワキ「こなたも釣船と見て候へばこそ便船とは申せ。 これは竹生島にはじめて参詣の者なり。 誓の船に乗るべきなり。 シテ詞「げにこの処は霊地にて。歩を運び給ふ人を。 とかく申さば御心にも違ひ。又は神慮もはかりがたし。 ツレ「さらばお船を参らせん。 ワキ「うれしやさては迎の舟。法の力とおぼえたり。

シテ詞「けふは殊更のどかにて。 心にかゝる風もなし。地下歌「名こそさゝ波や。 志賀の浦にお立あるは都人かいたはしや。 お舟にめされて浦々を眺め給へや。 上歌「処は海の上。/\。国は近江の江に近き。 山々の春なれや花はさながら白雪の。 降るか残るか時しらぬ。 山は都の富士なれにや。なほさえかへる春の日に。 比良の嶺おろし吹くとても。 沖こぐ船はよも尽きじ。旅のならひの思はずも。 雲井のよそにに見し人も。 同じ船に馴衣浦を隔てゝ行くほどに。竹生島も見えたりや。 シテ「緑樹かげ沈んで。 地「魚樹にのぼるけしきあり。月海上に浮んでは兎も波を走るか。 おもしろの島の景色や。 シテ詞「舟が着いて候ふ御上り候へ。 。 ワキ詞「あらうれしや軅て神前へ参り候ふべし。 シテ「この尉が御道しるべ申さうずるにて候。これこそ弁財天にて候へ。

よくよく御祈念候へ。 ワキ「承り及びたるよりもいやまさりて有りがたう候。 不思議やな此島は。女人禁制とこそ承りて候ふに。 あれなる女人は何とて参られて候ふぞ。 シテ「それは知らぬ人の申しごとにて候。 忝くも此島は。久成如来の御再誕なれば。 殊に女人こそ参るべけれ。 ツレ「なうそれまでもなきものを。 地「弁財天は女体にて。/\。その神徳もあらたなる。 天女と現じおはしませば。 女人とて隔なしただ知らぬ人の言葉なり。 クセ「かゝる悲願を起して。 正覚年久し獅子通王の古より。利生更に怠らず。シテ「げに%\かほど疑も。地「荒磯じまの松蔭を。 たよりによするあま小舟。 われは人間にあらずとて。社壇の。扉をおし開き。 御殿に入らせ給ひければ。翁も水中に。 入るかと見しが白波の立ち返りわれは此海の。 あるじぞと言ひすてゝまた。

波に入らせ給ひけり。来序中入間「。 地出端「御殿しきりに鳴動して。 日月光り輝きて。山の端出づるごとくにて。 現れ給ふぞかたじけなき。後ヅレ「そも/\これは。 此島に住んで神を敬ひ国を守る。 弁財天とは。わが事なり。 地「その時虚空に音楽聞え。/\。花ふりくだる。春の夜の。 月にかゝやく乙女の袂。かへす%\も。 おもしろや。天女舞「。 地「夜遊の舞楽も時すぎて。/\。 月すみわたる。湖づらに。 波風しきりに鳴動して。下界の龍神。現れたり。

早笛「龍神湖上に出現して。/\。 光も輝く金銀珠玉をかのまれ人に。捧ぐるけしき。 ありがたかりける。奇特かな。 シテ「もとより衆生済度の誓。地「もとより衆生済度の誓。 様様なれば。あるひは天女の形を現じ。 有縁の衆生の諸願をかなへ。 または下界の龍神となつて。国土を鎮め。誓を現し。 天女は宮中に入らせ給へば。 龍神はすなはち湖水に飛行して。波を蹴立て。 水を返して天地に群がる大蛇のかたち。 天地に群がる大蛇のかたちは。 龍宮に飛んでぞ。入りにける 官人 従者 老人 氷室の神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「八洲も同じ大君の。/\。 御影の春ぞ長閑けき。ワキ詞「そも/\これは亀山の院に仕へ奉る臣下なり。

我此度丹後の久世の戸に参り。既に下向道なれば。 これより若狭路にかゝり。 津田の入江青葉後瀬の山をも一見し。

それより都に帰らばやと存じ候。道行三人「花の名の。 白玉椿八千代経て。/\。緑にかへる空なれや。 春の後瀬の山続く。 青葉の木蔭分け過ぎて。雲路の末の程もなく。 都に近き丹波路や。氷室山にも着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 丹波の国氷室山に着きて候。此処の人を待ち。 氷室の謂をも委しく尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人、真ノ一声「氷室守。春も末なる山陰や。 花の雪をも。集むらん。 ツレ二ノ句「深山に立てる松蔭や。冬の気色を残すらん。 シテサシ「夫れは常磐の色添へて。緑に続く氷室山の。 谷風はまだ音さへて。 氷に残る水音の雨も静かに雪落ちて。 実に豊年を見する御代の。御調の道も直なるべし。 下歌「国土豊に栄ゆくや千年の山も近かりき。 上歌「変わぬや。氷室の山の深緑。/\。 春の気色は有りながら。此谷陰は。

去年のまゝ深冬の雪を集め置き。霜の翁の年々に。 氷室の御調まもるなり/\。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべきことの候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「おことはこの氷室守にて有るか。 シテ「さん候氷室守にて候。 ワキ「さても年々に奉ぐる氷の物の供御。 拝みは奉れども在所を見る事は今始めなり。 さてさて如何なる構により。 春夏まで氷の消えざる謂委しく申し候へ。 シテ「昔御狩の荒野に。一村の森の下庵ありしに。 頃は水無月半なるに。寒風御衣の袂に移りて。 さながら冬野の御幸の如し。 怪しみ給ひ御覧すれば。 一人老翁雪氷を屋の内にたたへたり。かの翁申すやう。 夫れ仙家には紫雪紅雪とて薬の雪あり。 翁もかくのごとしとて。氷を供御に備へしより。 氷の物の供御始りて候。 ワキ「謂を聞けば面白や。さて/\氷室の在所々々。

上代よりも国々に。 あまた替はりて有りしよなう。シテ詞「先は仁徳天皇の御宇に。 大和の国闘鶏の氷室より。 供へ初めにし氷の物なり。ツレ「又其後は山陰の。 雪も霰もさえ続く。便の風をまつが崎。 シテ詞「北山陰も氷室なりしを。 ツレ「又此国に所を移して。深谷にさえけく谷風寒気も。 シテ「便ありとて今までも。 末代長久の氷の供御のため。丹波の国桑田の郡に。 氷室を定め申すなり。ワキ「実に/\翁の申す如く。 山も処も木深き蔭の。 日影もさゝぬ深谷なれば。春夏までも雪氷の。 消えぬも又は理なり。 シテ詞「いや処によりて氷の消えぬと承るは。君の威光も無きに似たり。 ワキ「唯よの常の雪氷は。 シテ詞「一夜の間にも年越ゆれば。 ワキ「春立つ風には消ゆるものを。シテ「されば歌にも。 ワキ「貫之が。地「袖ひぢて。掬びし水の氷れるを。 /\。春立つ今日の。

風や解くらんとよみたれば。夜の間に来る。 春にだに氷は消ゆる習なり。ましてや。 春過ぎ夏たけて。早水無月になるまでも。 消えぬ雪の薄氷。供御の力にあらでは。 如何でか残る。雪ならんいかでか残る雪ならん。 地クリ「夫れ天地人の三才にも。 君を以て主とし。山海万物の出生。 即ち王地の恩徳なり。シテサシ「皇図長く固く。 帝道遥に盛んなり。地「仏日光ます/\にして。 法輪常に転ぜり。シテ「陽徳をりを。違へずして。 地「雨露霜雪の。時を得たり。 クセ「夏の日に。なるまで消えぬ冬氷。春立つ風や。 よぎて吹くらん。実に妙なれや。 万物時に有りながら。君の恵の色添へて。 都の外の北山に。つぐや葉山の枝茂み。 此面彼面の下水に。集むる雪の氷室山。 土も木も大君の。御影にいかで洩るべき。 実に我ながら身の業の。 浮世の数に有りながら。御調にも取り別きて。

なほ天照らす氷の物や。他にも異なる捧物。 叡感以て甚だしき。玉体を拝するも。 深雪を運ぶ故とかや。シテ「然れば年立つ初春の。 地「初子の今日の玉箒。 手に取るからにゆらぐ玉の。翁さびたる山陰の。 去年のまゝにて降り続く。雪のしづくをかき集めて。 木の下水にかき入れて。 氷を重ね雪を積みて。 待ち居れば春過ぎてはや夏山になりぬれば。いとゞ氷室の構へして。 立ち去る事も夏陰の。水にも住める氷室守。 夏衣なれども袖さゆる。気色なりけり。 ロンギ地「実に妙なりや氷の物の。/\。 御調の道もすぐにある都にいざや帰らん。 シテ「暫く待たせ給ふべし。 とても山路の御序に。今宵の氷調。 供ふる祭御覧ぜよ。地「そもや氷調の祭とは。 如何なる事にあるやらん。 シテ「人こと知らね此山の。山神木神の。氷室を守護し奉り。 毎夜に神事有るなりと。

地「言ひもあへねば山くれて。 寒風松声に声立て時ならぬ雪は降り落ち。 山河草木おしなべて氷を敷きて瑠璃壇に。なると思へば氷室守の。 。 薄氷を踏むと見えて室の内に入りにけり氷室の。内に入りにけり。来序中入間「。 地、出端「楽に引かれて古鳥蘇の。舞の袖こそ。 ゆるぐなれ。天女舞。後ツレ「変らぬや。 氷室の山の。深緑。地「雪を廻らす舞の袖かな。 後シテ「曇なき。御代の光も天照らす。 氷室の御調。供ふなり。地「供へよや。 /\。さも潔き。水底の砂。 シテ「長じては又。巌の陰より。 地「山河も震動し天地も動きて。寒風しきりに。肝をつゞめて。 紅蓮大紅蓮の。 氷を戴く氷室の神体さえ燿きてぞ顕れたる。 シテ「谷風水辺冴え凍りて。 地「谷風水辺冴え凍りて。シテ「月も燿く氷の面。 地「万境をうつす。鏡の如く。 シテ「晴嵐梢を吹き払つて。地「蔭も木深き谷の戸に。

シテ「雪はしぶき。地「霰は横ぎりて。 岩もる水もさゞれ石の。 深井の氷に閉ぢ付けらるゝを。引き放し/\。 浮び出でたる氷室の神風。あら寒や。冷やかや。舞働「。 シテ「賢き君の。御調なれや。 地「賢き君の。御調なれや。波を治むるも氷。 水を鎮むるも氷の日に添へ月に行き。 年を待ちたる氷の物の供。供へ給へや。 供へ給へと采女の舞の。雪を廻らす小忌衣の。 袂に添へて。薄氷を。碎くな/\。 解かすな解かすなと氷室の神は。氷を守護し。 日影を隔て。寒水をそゝぎ。 清風を吹かして。花の都へ雪を分け。 雲を凌ぎて北山の。すはや都も見えたり/\急げや急げ。氷の物を。供ふる所も愛宕の郡。 捧ぐる供御も。日の本の君に。御調物こそ。 めでたけれ 天女(前ハ海女) 龍神 隼友神職

ワキ三人次第「隼友の神祭。/\つきせぬ御代ぞめでたき。 ワキ詞「抑これは長門の国隼友の明神に仕へ申す神職の者なり。 さても。当社に於て御祭さま%\御座候ふ中にも。十二月晦日の御神事をば。 和布刈の御神事と申し候。今夜寅の時に至つて。 龍神潮を守護し。 浪四方に退いて平々たり。其時神主海中に入つて。 水底の和布を刈り神前に供へ申し候。 殊に当年は不思議の奇瑞御座候ふ間。いよ/\信心を致し。御神事を執り行はゞやと存じ候。 有難や今日隼友の神の祭。 年の極の御祭と言つぱ。又新たまの年の始を。 祝ふ心は君が為。上歌三人「春の野に出でて摘む若菜。/\。 生ひゆく末のほどもなく。 年は暮るれど緑なる和布刈のけふの神祭。

心をいたしさまざまに。君の恵を祈るなり/\。 シテツレ二人真ノ一声「天地の。開けし御代に久方の。 神と君との。御影かな。 ツレ二ノ句「けふに廻るも隼友の。二人「共に暮れ行く。年なれや。 。 シテサシ「ありがたやそれ秋津洲んおうちに於て。神所の御祭さまざまなれども。 二人「此隼友の神祭。 世界わたづみ隔なくて。蘊藻の礼奠感応の。 海松藻浮藻の花も咲く波をかざしの手向草。 塵に交はる神慮。誓に漏るゝ方もなし。 下歌「歩を運ふ此神に。いざ結縁をなさうよ。 上歌「処は速鞆の。/\。ゆきゝの舟も楫を絶え。 数々の捧げ物海士のしわざに至るまで。 かひあるべしや志。 それこそ花の手向なれ/\。 ワキ「不思議やな夕影過ぐる神の御前に。

手向を捧ぐる人影は。 そもやいかなる人やらん。ツレ「これは賎しきあま少女の。 数にはあらぬうき身なるば。 手向を捧ぐるばかりなり。 シテ詞「われは又年経て住める此浦の。漁翁の罪を恐るゝ故。 賎しき者はき身を。浮べんために候ふなり。 ワキ「なか/\なれや魚類までも。 誓に漏れぬ此浦の。シテ「海士の漁火焦るとも。 シテツレ二人「和光の影は曇なく。地「明かなれや天地の。 開けし神代の如くにて。 すなほなるべき人心。 いやましの瑞験現れにけるぞありがたき。上歌「海原や。博多の海も程近く。 /\。汐引島も見渡る。速鞆の友千鳥。 沖の鴎の群れ立つや。春秋の。 雲居の雁も留め得ぬ。誰が玉章の。 門司の関守と詠みし心もことわりや/\。 クリ「それ地神第四の御代火々出見の尊。 豊玉姫と契をなし。 海陸の隔なかりしに。シテサシ「その御産の時豊玉姫。

尊に向ひ宣はく。地「産期に於て我が姿を。 敢へて見給ふ事なかれと。御約諾の。詔。 互に堅く誓給ふ。クセ「然れども時至り。 さ。 すがに御気色いぶかしく思しけるかとよ。かいまみさせ給ひしを。 いとあさましと恨みかこち。 長く海路の通をたち隠す波の玉の御子を。捨てつゝ豊玉姫は。 龍宮に入り給ふ。其後潮さしひきの。 朝暮の時はありながら。 人畜類の生を背き。境をさかりにき。 シテ「然れば神代の昔より。地「此隼友の神祭。 神慮普き誓なれや。上は非想の雲の上。 下は下界の龍神まで。渇仰の心中。真に深き蒼海を。 陸地になして此国の。長門の通隔もなき。 海蔵の御宝も。心の如くなるべし。 ロンギ「げにや心の如くにて。/\。 此結縁もさま%\の。人の願のなかるべき。 ツレ「今は何をか包むべき。 我が住む方は久方の。地「天つ少女の雲の袖。

シテ「かざしの花の手向草。地「色こそ変れ。 シテ「わたづみの。 地「花は波路の底よりも。龍宮の捧げ物。天地とともに渇仰の。 天つ少女は雲にのれば。 翁は老の波に。 隠れ入り給ひけりや隠れ入らせ給ひけり。来序中入。 天女出端、地「汀に神幸なり給へば。/\。 虚空に音楽。松風に和して。皎月照らし。 異香薫ずる龍女は波もかざしの袖を。 かへすも立ち舞ふ。袖かな。天女舞。 後ツレ「さる程に/\。 地「和布刈の時到り。虎嘯くや風速鞆の。 龍吟ずれば雲起り雨となり。潮も光り。鳴動して。 沖より龍神現れたり。早笛、上「龍神即ち現れて。

/\。シテ「和布刈の処の水底を穿ち。 地「払ふや潮背に。こゆるぎの磯菜摘む。 シテ「めざし濡すな。沖に居れ波。 地「沖に居れ波と夕汐を退け。 屏風を立てたる如くに分れて。海底の砂は平々たり。舞働。 ワキ「神主松明。振り立てゝ。 地「神主松明振り立てゝ。御鎌を持つて岩間を伝ひ。 。 伝ひ下つて半町ばかりの海底の和布を刈り。帰り給へば程なく跡に。 潮さし満ちてもとの如く。荒海となつて波白妙の。 わたづみ和田の原。天を浸し。 雲の浪煙の波風海上に収まれば。波風海上に。 収まれば蛇体は。龍宮に飛んでぞ。入りにける 大臣 従者 天女 瀧祭の神

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「大和にも織る唐錦。/\。

龍田の神に参らん。

ワキ詞「そも/\是は当今に仕へ奉る臣下なり。 さても和州龍田の明神は。霊神にて御座候ふ程に。 この度君に御暇を申し。唯今龍田に参詣仕り候。 道行三人「国々の。末は七つの都路を。/\。 夜深く出でて淀舟や立つ旅衣遥々と。 なほ雲遠き山城の。井手の下紐末かけし。 跡も昔に奈良坂や。 龍田の山に着きにけり。/\。 シテツレ二人、真ノ一声「龍田川。錦織り掛く神無月。 色づく秋の梢かな。 ツレ二ノ句「紅葉の色も時めきて。二人「錦を張れる気色かな。 シテ「これは当社龍田の里に。 住みて久しき者なるが。二人「農職ながら昔より。 神前に仕へ奉り。名におふ龍田の神垣や。 宮路を通ひいつとなく。頼む願も浅からず。 恵を千代と祈るなり。 下歌「頃は長月廿日あまり。紅葉も徒らに。唯闇の夜の錦なり。 上歌「神南備の。御室の岸や崩るらん。 /\。龍田の川の水の色は。

濁るとも隔てじな塵に交はる神慮。 直に御影ももみぢ葉の。こゝは常磐の色はへて。 誓も絶えぬ瀧祭。戴く神の手向かな。/\。 。 ワキ詞「如何にこれなる火の光について尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「是は此処始めて一見の者なり。 宝山への道しるべして給はり候へ。シテ「易き間の御事。 これこそ夜祭に参る者にて候へ。 御道しるべ申し候ふべし。此方へ御出で候へ。 ワキ「あら嬉しややがて参らうずるにて候。 シテ「なう/\これこそ宝山にて候へ。 。 ワキ「承り及びたるより神さび殊勝にこそ候へ。 又日本第一の宝の御矛を納めしは。この御山の事にて候ふか。 シテ「中々の事この処の御事にて候。 ワキ「さらばこの山の謂を御物語り候へ。 シテ「委しく語つて聞かせ申し候ふべし。 。

地クリ「そも/\瀧祭の御神とは即ち当社の御事なり。昔天祖の詔。 末明らかなるみ国とかや。 シテサシ「こゝに第七代に当つて現れ給ふを。伊弉諾伊弉冊と号す。 地「時に国常立伊弉諾に託して宣はく。 豊芦原千百五種の国あり。汝よく知るべしとて。 則ち天の御矛を授け給ふ。 クセ「伊弉諾伊弉冊は。天祖の御教。 すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。 二神たゝずみ給ひて。この御矛を海中に。 さしおろし給ひしより。御矛を改めて。 天の逆矛と名づけそめ。国富み民を治め得て。 二神の始より。今の代までの宝なり。 その後国土治まりて。御世平かになりしかば。 瀧祭の明神。この御矛を預かりて。 所もあまねしや。この御山に納めて。 宝の山と号すなり。シテ「そも/\御矛の主たりし。 地「名もいさぎよき瀧祭の。 神の社はいづくぞと。問へば名を得し龍田山。 紅葉の八葉も。則ち矛の刄先より。

照らす日影や紅の光さしおろす矛の露。 天地すなほなる事も。こここそ宝身は知らず。 国の宝の山高み。よく/\礼し給へや。 ロンギ「げにや龍田の神の名の。/\。 宝の御矛同じくは。所を分きて見せ給へ。 シテ「むつかしの旅人や。 影恥かしき龍田山の。 もみぢ衣の千早ぶる神の祭早めんと。地「颯々の鈴の声。 ていとうと打つ波の。鼓も同じ瀧祭の。神は我なりと。 木綿四手を靡かし。榊葉をうたひ夜に入りて。 月の夜声も速に入ると見えて。 失せにけり分け入ると見えて失せにけり。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「御山の。柞の紅葉かたしきて。 /\。こゝに仮寝の枕より。 音楽聞え花降りて。異香薫ずる。不思議さよ。/\。 出端、天女出、地「楽にひかれて古鳥蘇の。 舞の袖こそゆるぐなれ。天女ノ舞「。 後シテ「そも/\是は。 天の御矛を守護し奉る。瀧祭の神。和光に出でて龍田の神。

地「或は天つ御空の御矛。 シテ「又は宝山倶利伽羅御嶽。地「戴きまつれや。 シテ「驚かし奉れや瀧祭。地「拍手響く山の雲霧。 晴行く日の。 光の如くに天の御矛は現れたり。 。シテ祝詞「そも/\大日本国といつぱ神国たり。神は本覚真如の都を出でて。 和光同塵の御形。尤も仏法流布の国たるべしやな。 有難や。地「南無や帰命頂礼。 大日覚王如来、シテ「昔伊弉諾伊弉冊の尊。 此矛を携へて。天の浮橋を踏み渡り給ひ。 地「則ち御矛をさしおろし給ひ。青海原を。 かき分け/\探り給へば。 矛のしたゞり凝り固まつて国となれり。 シテ「まづ淡路島。地「紀の国伊勢島筑紫四国。

総じて八つの国となつて。大八洲の国と名付け。 天地人の三才となる事も。 此矛の徳なりあら有難や。働「。シテ「さて国々は荒島なれば。 地「さて国々は荒島なれば。 さながら嶮しき芦原なりしを。矛の手風。 疾風となつて。芦原を薙ぎ払ひ。引き捨て置けば。 山となりぬ。足引の山といひ。 土はさながら岩が根なりしを。 矛の刄先にあたり砕ば。平かなるをあらがねの土といひ。 そのほか東西南北十方を治め。 悪魔を退け豊芦原の。国治まりて。 御矛を守の倶利伽羅明王。この宝山に納め奉り。 毎日めぐるや日の本の。宝の山に龍田の神は。 /\。御矛を守りの身体なり 大臣 従者二人 男(漁夫) 漁翁 天女 龍神

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「風も涼しき旅衣。/\。 朝立つ。道ぞ遥けき。ワキ詞「ども/\是は当今。 に仕へ奉る臣下なり、偖も丹後の久世の戸は神代の古跡にて。 かたじけなくも天竺五台山の文珠を勧請の地なり。 殊に林鐘なかば彼の会式にて御座候ふ程に。 唯今参詣仕り候。道行三人「丹波路の。 末遥々と思ひ立つ。/\。 旅の衣の日も幾日生野の道も程遠き。まだ踏みも見ぬ橋立や。 早久世の戸に着きにけり。/\。 ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。 是ははや九世の戸に着きて候。 都にて承り及びて候ふよりも。天の橋立遥々と。 真に妙なる眺にて候。尚々心静かに眺めばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「浦風も涼しさ添へて追風とや。 波路遥に出づるない。 ツレ二ノ句「蜑の海松藻もいさみある。二人「眺妙なる気色かな。 シテサシ「所から曇らぬ空も与謝の海の。 天の橋立遥々と。

二人「影踏む道に行きかふ人も。今日の祭の時をへて。 夏水無月のなかば行く。舟の渡りの。ひまもなき。 貴賎群集ぞ有難き。 下歌「世渡る業はをしめどもいざや歩を運ばん。 上歌「神の代の。昔語を思出の。/\。 月日曇らぬ天つ神。地神二代を数へ来て。 こゝ九世の戸の名も高き。大聖文珠を勧請の。 御影あらたに捧ぐなる。 法の灯曇なく、照す誓は頼もしや/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「これは都より始めて参詣の者なり。 まづこの所を久世の戸と名づけ初めにしその謂を。 委しく語り給ふべし。シテ「われらは賎しき漁人なれば。 いかでか語り申すべきさりながら。 まづ久世の戸と名づけし事。 忝くも天神七代地神二代の御神。この国に天降り。 こゝにて天竺五台山の。文珠を勧進し給へば。

天の七代地の二代を。 これ九世の戸と名づけしなり。ツレ「されば菩薩の像体も。 これ帝釈の御作とかや。 シテ詞「其後龍宮に入り給ひ。法を弘めて程もなく。 又この島に上り給ふ。 ツレ「すなはち獅子の渡とて。今に絶えせぬ跡とめて。 シテ詞「龍神御灯を捧ぐれば。 ツレ「天より天人あまくだり。シテツレ二人「天の灯龍神の御灯。 此松が枝に光をまらべ。渇仰の時節今宵なり。 有難かりける時節なり。 ワキ「さては神代の昔より。 今に絶えせぬこの松に捧ぐる御灯をまのあたり。拝まん事ぞ有難き。 シテ「なか/\の事御覧ぜよ。 出でくる月も曇なき。地「天の橋立光添ふ。/\。 都の人も浦人も。語れば思ふ事なくて。 四方の眺も面白や。松風も音しげく。 立ちくる波も白妙の。 月澄み昇る気色かな。/\。 クリ「それ地神二代の御神。

始めてこゝに天降り。末世の衆生済度のために。 霊像を勧請し給へり。 シテサシ「されば此地開闢の昔。地「はや神国とあらかねの。 きゝうの祭しな%\の。 衆生済度の方便生死の相をたすけんとて。 シテ「三世覚母大聖文珠を。地「この島に安置し給ひけり。 クセ「この橋立を造らんと。 約諾ありしその頃は。神の代いまだ遠からず。 雲霧虚空に充ち/\て。常闇の如くなりしかば。 おの/\神火をともして。 日夜に土を運びて同じく松を植ゑ給ふ。 其灯のあまりを彼処に置かせ給ひしより。 日置の島とて。これも故ある神所なり。 シテ「かくて神々集まりて。 地「天竺五台屋mあの文珠を勧請し給へば。上は有頂の雲を分け。 下は下界の龍神。音楽種々の花降り。 御灯を捧げ奉る。 その影向のありさま語るも愚なりけり。 ロンギ「げに有難き神の代の。/\。

昔語も今の世に。残る灯曇なき。 御影を松の木陰かな。シテ「短夜の。 空も更けゆく浦風の。音を静めて待ち給へ。 必ず御灯現れん。地「不思議やさてもかくばかり。 委しく語る浦人の。その名をなのり給へや。 シテ「今は何をかつゝむべき。 われは知らずや此寺の。地「大聖文珠の御前なる。 さいしやう老人はわれなり。 御身信心清浄の。心を感じ来りたりと。 いひ捨てゝ其姿。松の木陰に失せにけり。来序中入間「。 ツレ天女出端「久方の。雲井に渡る橋立は。 天つ御空の御橋かな。 地「月も更けゆく天の原。/\。紫雲〓{たなび}き異香薫じ。 天の少女の雲の羽袖。光も妙なる御灯を捧げ。 松の梢に天降り。天降る。 かゝりければ龍宮より捧ぐる御灯の光。 海上に浮かんで見えたる粧。あらたなりける出現かな。 後シテ早笛「本光あまねき灯の。 龍宮の内裏を照らすなり。地「空には実月灯明仏。

/\。シテ「又下界には龍神の灯火。 地「潮に揺られ浮き沈めども。 光はいとゞかゞやきあがりて。 天地の両灯一つになり合ひ。久世の戸の明け方明々たり。働「。 シテ「固より龍神は飛行自在に。 地「固より龍神は飛行自在に。 通力遍満の奇特を見せんと。平地に波瀾を起しつゝ。 海山虚空に飛びかけつて。 嵐を蹴立て雨を起。して吹き曇り/\震動すれども御灯の光は。明かに。なほ澄み昇るや。 天つ少女。 の姿も雲井に入らせ給へば又龍神は波を蹴立て。逆巻く潮の廻ると共に。/\。 引かれて波にぞ入りにける 建御雷神 神霊 天女 奉幣使 従者。

ワキ、ワキツレ二人、次第「動かぬ御代の例とて。/\。 鹿島の宮に参らん。 ワキ詞「抑是は当今の詔によりて。鹿島の宮に詣づる奉幣使なり。 さるによりて旅の衣手取粧ひ。 唯今常陸の国へと急ぎ候。 道行三人「行末も踏みなたがへそあきつしま。/\。 日本の国をかなめにて。正しき道を行く程に。 高天の原に着きにけり。高天の原につきにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや高天の原に着きて候。暫し此処に休らひて。 四方の景色を眺めうずるにて候。 ワキツレ「然るべう候。シテツレ真ノ一声「霰ふり。 鹿島の宮居神さびて。尊かりけることゝかや。 ツレ二ノ句「天の浮橋かけまくも。 二人「かしこき御代は此神の。功とこそ人も知れ。

上歌「沼の尾の池の玉水神代より。/\。 絶えぬは深き誓にて。 それのみならず年経ても濁らぬ御代を仰ぎつゝ。今を昔といふ世までも。 この御神の尊め。 治まるや豊あし原の中津国。つのぐむ芦の末葉まで。 恵の露は押しなべて。かゝる大御代ぞ類なき。 かゝる大御代ぞ類なき。 ワキ詞「いかにこれなる人々に申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか。何事にて候ふぞ。 ワキ「人々は此辺の者にてわたり候ふか。 シテ「さん。 候この辺に住居する夫婦の海人にて候ふが。日毎に此御神に詣で候へば。 また今日も参らばやと存じ。 この処に来りて候。まづ御姿を見奉れば。 このあたりにては見なれ申さぬ御事なり。

そもいづくよりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「これは当今より奉幣使を命ぜられ。 初めて此地に下り候ふが。余りに眺よきまゝに。 暫し此処に休ひ申し候。 偖この浦は何と申し候ふぞ。シテ「これこそ高天の浦と申し候へ。 。 ワキ「さては余所に見て袖や濡れなんと詠みしもこの処なり。音に聞えし高天の浦。 なみならぬ浜の眺かな。 又あなたに見ゆる山は何と申し候ふぞ。 シテ「あれこそ三笠山と申し候へ。ワキ「三笠山。 さしてゆくべき霰ふり。鹿島の宮も程近う候な。 シテ「さん候程近うこそ候へ。 ワキ「程近ければ急ぐべきにもあらず。 まづ鹿島とは何故に申し候ふ名やらん。 シテ「さん候鹿島とは鹿の棲む故の名とも申し。 ツレ「又は神の鎮まる島ゆゑに。 神島といふを省きし事とかや。 ワキ「謂をきけば面白や。 扨天にては鹿島の宮といひ。

シテ「地にては豊鹿島の宮と名づくるは。ワキ「鹿の群れ居る。 シテツレ二人「島なればなり。 地「夏野ゆく牡鹿の角の束の間も。/\。恵はもれぬ秋津洲は。 皆この神の。いさをしにあるなれば。 昔よりかく宮柱。ふとしく立てゝ万代も。 仰ぐかしまの神ぞかし/\。 ワキ詞「猶々此辺に。 於て神の功の伝はりたるを委しく承り度く候。 シテ「承り及びたる所を申し上げうずるにて候。 語「抑皇孫日子穂の邇々杵の尊天降り給へる時。 豊芦原の水穂の国は。五月蠅なる荒振国津神おほければ。 平定給はんとて。高皇産霊の尊。 天照大御神の勅もて。 思兼の神八百万の神等議り択みて。天の穂日の神を遣はされしに。 大国主の神に媚び給ひて。 三年が間復命申さず。ツレ「又天若彦を降しつるが。 是も心の悪しければ。 シテ「下照姫を娶りつつ。此国を得んと思ひはかりて。 八年が間かへりごと申さず。

さるによりて天照大御神。 いづれの神をつかはさば速に言迎せんと宣へば。 八百万の神等神議り給ひて。建御雷の男の神ぞと申すにより。 天の島ぶねの神を副へて下し給ふに。 御稜威を振ひ悉く。荒振る夷を・帰服{まつろは}しめ。 皇孫の尊を安らかに天降し給へるは。 皆この神の功なり。ワキ「よく/\聞けばありがたや。恵は海のそこひなく。 シテ「深きは神の処にて。ワキ「国も豊に。シテワキ二人「民栄え。 地「安国と治まる御代は久方の。 天も静かにあらかねの地も動かず鹿島野や。 桧原杉原常磐なる。君の栄を仰ぐなり/\。 地クリ「抑日本の国の道といつぱ。 君と臣との礼を尽し。父母を敬ひ子を愛でて。 天地初めて開くるより。八百万世の末迄も。 君を尊み民を撫でて。 天に二の日なきが如く。四方の海の外にては。 かゝる国こそなかりけれ。シテサシ「故に日本の国は。 文武二道を盛んにして。正道を守り異端をさけ。

地「乱るゝ世にも治を思ひ。 治まる世にも乱を忘れず。此大国に生れくる人は。 上下男女の差別なく。 恩を報じて夷を防ぐを予めすといへり。 シテ「唯神徳を仰ぐとて。地「わがなす業を怠りて。 弘安四年の神風をたのみとせず。 クセ「然れば大国は。 扶桑の御名を負ひぬれば。弓箭の道をはげむべく。 治まりて世は安国となりぬるも。 鹿島の神の恵とかや。梓弓春の海辺はのどかにて。 名さへ高天の浦波の音も静かに打向ふ。 夏見の山の松も桧も。緑の色に茂り合ひて。 枝も鳴さず秋来れば。千種の花の色々に。 眺も尽きずあられ降り鹿島の景色面白や。 シテ「世の中に。何はあれども春の海。 地「秋の山辺にますものぞ。 渚の千鳥打群れて。通ふが如く大神に。 歩みを運ぶ人々の。目にも定かに恵ある。 世の風の色は民草の。靡けるのみか大日本。

たけひの国は久方の。月さへもまたすみよからんと。 見ゆるばかりの御国かな。ほの%\と日もはや登るいざさらば。/\。 長物語よしなや。まづ神に詣で給へ我も。 導き申さんと。立つかとすれば潮霧に。 行方見えずなりにけり/\。中入間「。 ワキ「これははや社壇にて候ふ程に。 神拝申さうずるにて候。かけまくもかしこき神の広前に。 詔を述ぶるとて。青和幣白和幣。 種々の物を奉り。 おろがみて?申さく君安らかに国栄え。夷等を平和し。取伝へたる梓弓。 八百万代の春秋津島。治め給ひて此原の。 緑色添ふ若松の。 常磐に堅磐に茂し御代を。守り給へと畏み/\も申す。 神拝もすみて候ふ間。急ぎ都へ上らばやと存じ候。 不思議や夫婦の老人の。 言葉を聞けば神の功昔を今に。見んよしもがな。 後ツレ、出羽「あらありがたや妾は是。 神宮の沢の亀卜をもて。ものいみと定まりければ。

心も身をも清くして。此御神に仕ふるなり。 今日は正月七日の夜にて。御戸開の神事なれば。 去歳の幣を取下して新に納め奉らん。 地「をさむべし/\。 神御慮に叶ひたれば。いかでか受納なかるべき。 ツレ「受納あれ。地「受納あるらん心も潔く。 身も清々に五百千の人に勝れければ。 いかでか入納なかるべき。天女舞「。 地「あらたなりける幣帛を持ちて。/\。 神の御前に参らすれば。神も物忌の清き心を感じ給ひて。 昔の功を見せ給へと。 御戸をひらくに頻に宮殿鳴動するは。此御神のいでますかや。 早笛「。シテ「抑これは。天照太神の詔を以て。 〓{ふつ}の御霊を賜り天降り来る。

建御雷の神なり。地「神の御稜威は四方国に広く。 剣の光は天地に輝き。 シテ「利を名づけてふつといふ。地「利は常磐に異る事なく。 〓は夷の胆をひやして。鹿島の宮に。 おはします。舞働「。 シテ「布都の霊の剣を持つて。地「布都の御霊の剱を持つて。 秋津洲の中。国々のあらぶる夷を追儺ひ/\石根木根立青水沫。草の片葉も言止めて。 八島の国を悉く平らげ。 皇孫の尊を天降し敬ひ。青人くさを恵み給ひて。 ゆく末までもやす国と。 納め給へるしるしをたてゝ。堅くぞ契る要石の。 堅くぞ契る要石の。動かぬ御代こそ。目出度けれ 勅使 臣下 花守の姥 花守の尉 子守の明神 勝手の明神 蔵王権現

ワキ、ワキツレ二人 次第「吉野の花の種とりし。/\。 嵐の山に急がん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても和州吉野の千本の桜は。 聞しめし及ばれたる名花なれども。遠満十里の外なれば。 花見の御幸かなひ給はず。 さるにより千本の桜を嵐山にうつしおかれて候ふ間。 此春の花を見て参れとの宣旨を蒙り。 唯今嵐山へと急ぎ候。道行三人「都には。げにも嵐の山桜。 /\。千本の種はこれぞとて。 尋ねて今ぞ三吉野の。花は雲かと眺めける。 その歌人の名残ぞと。 よそ目になれば猶しもの。眺妙なるけしきかな。/\。 詞急ぎ候ふ程に。これははや嵐山に着きて候。 心静かに花を眺めうずるにて候。 シテツレ二人真の一声「花守の。住むや嵐の山桜。 雲も上なき梢かな。 ツレ二ノ句「千本に咲ける種なれや。二人「春も久しきけしきかな。 シテ「これはこの嵐山の花を守る。

夫婦の者にて候ふなり。二人「それ遠満の外なれば。 花見の御幸なきまゝに。 名におふ吉野の山桜。千本の花の種とりて。 この嵐山に植ゑおかれ。後の世までの例とかや。 これとても君の恵かな。 下歌「げに頼もしや御影山治まる御代の春の空。 上歌「さも妙なれや九重の。/\。内外に通ふ花車。 轅も西にめぐる日の影ゆく雲の嵐山。 戸無瀬に落つる白波も。 散るかと見ゆる花の瀧。盛久しき気色かな/\。 ワキ詞「不思議やなこれなる老人を見れば。 花に向ひ渇仰の気色見えたり。 おことはいかなり人やらん。 シテ「さん候これは嵐山の花守にて候。又嵐山の千本の桜は。 皆神木にて候ふ程に。 花に向ひ渇仰申し候。ワキ「そも嵐山の千本の桜の。 神木たるべき謂はいかに。 シテ「げに御不審は御理。名におふ吉野の千本の桜を。 移しおかれしその故に。人こそ知らね折々は。

木守勝手の神ともに。 この花に影向なるものを。 ワキ「げにやさしもこそ厭ふ憂き名の嵐山。詞とりわき花の名所とは。 何とて定め置きけるぞ。 シテ「それこそなほも神慮なれ。名におふ花の奇特をも。 顕さんとの御恵。 シテツレ二人「げに頼もしや御影山。靡き治まる三吉野の。 神風あらばおのづから。名こそ嵐の山なりとも。 地下歌「花はよも散らじ。 風にも勝手木守とて。夫婦の神はわれぞかし。 音たかや嵐山。人にな知らせ給ひそ。 地上歌「笙の岩屋の松風は。/\。 実相の花盛。開くる法の声立てゝ今は嵐の山桜。 菜摘の川の水清く。 真如の月の澄める世に。五濁の濁ありとても。 ながれは大堰川その水上はよも尽きじ。いざ/\花を守らうよ/\。春の風は空に満ちて。 /\。庭前の木を切るとも。 神風にて吹きかへさば妄想の雲も晴れぬべし。

千本の山桜のどけき嵐の山風は。 吹くとも枝は鳴らさじ。この日もすでに呉竹の。 夜の間を待たせ給ふべし。 明日も三吉野の山桜。立ちくる雲にうち乗りて。 夕陽残る西山や。南の方に行きにけり/\。 中入来序間。 下り羽ツレ出「三吉野の。/\。 千本の花の種植ゑて。 嵐山あらたなる神あそびぞめでたき此神あそびぞめでたき。後ツレ二人「いろ/\の。地「いろ/\の。花こそまじれ白雪の。 子守勝手の。恵なれや松の色。 ツレ二人「青根が峯こゝに。地「青根が峯こゝに。 小倉山も見えたり。向は嵯峨の原。 下は大堰川の。岩根に波かゝる亀山も見えたり。 万代と。/\。囃せ/\神あそび。 千早ぶる。天女舞。 地「神楽の鼓声澄みて。/\。 羅綾の袂を。 ひるがへし飄す舞楽の秘曲も度重なりて。感応肝に銘ずるをりから。

不思議や南の方より吹きくる風の。 異香薫じて瑞雲たなびき。金色の光輝きわたるは。 蔵王権現の来現かや。 後シテ早笛「和光利物の御姿。/\。 シテ「我本覚の都を出でて。分段同居の塵に交はり。 地「金胎両部の一足をひつさげ。 シテ「悪業の衆生の苦患を助け。 地「さて又虚空に御手を上げては。

シテ「忽ち苦海の煩悩を払ひ。 地「悪魔降伏の青蓮のまなじりに。光明を放つて国土を照らし。 衆生を守る誓を顕し。子守勝手蔵王権現。 同体異名の姿を見せて。おの/\嵐の山に攀ぢのぼり。花に戯れ梢にかけつて。 さながらこゝも金の峰の。光も輝く千本の桜。 光も輝く千本の桜の。 栄ゆく春こそ久しけれ 勅使 従者 老人 天太玉命。

ワキ、ワキツレ二人、次第「風も静かに楢の葉の。/\。 鳴さぬ枝ぞ長閑けき。 地「抑これは桓武天皇に仕へ奉る臣下なり。 さても山城の国愛宕郡に。平の都を立て置き給ひ。 国土安全の砌なり。同じく当国伏見の里に。 大宮造あるべきとの勅諚を蒙り。 唯今伏見に下向の仕り候。

ワキサシ「それ久方の神代より。天地ひらけし国の起。 天の瓊矛の直なるや。名も二柱の神こゝに。 八洲の国を作り置き。皇代なれや大君の。 御影のどけき。時とかや。 上歌「青丹よし楢の葉守の神慮。/\。末暗からぬ都路の。 直なるべきか菅原や伏見の里の宮造。 大内山の陰高き。雲の上なる玉殿の。

月も光や磨くらん/\。 シテサシ「あら貴の御造や。 聞くも名高き雲の垣。霞の軒も玉簾。 かゝる時代に逢ふ事よと。命うれしき長生の。 あつぱれ老の思出や。 ワキ詞「不思議やな参詣の人々多き中に。 けしたる宜禰御幸の先に進むぞや。 そも御身はいづくより参詣の人ぞ。 シテ「これは伊勢の国あこぎが浦に住む者なるが。 当社伏見の大宮造。 天も納受し地もうるほふ。王法を尊み来りたり。 ワキ「そも王法を尊むとは。いかなる望のあるやらん。 シテ詞「そもかゝる身の望とは。 そら恐しや此年まで。命すなほに愁もなく。 上直なれば下までも。豊に治まるこの国の。 。 地下歌「千代をこめたる竹の杖伏見はこれか宮所。参りて拝むこそ。 朝恩を知れる心なれ。上歌「春は花山の木を伐れば。 /\。袂にかゝる白雪。

深き井桁を切るなるは。欄井の釣瓶縄。 又泰山の山下水その巌石を切石。 ロンギ地「車を作る椎の木。/\。 シテ「船を作する揚柳。地「木の間になさん槻の木。 シテ「それは秋立つ桐の木。 地「君に齢をゆづり葉や。シテ「千年の松は伐るまじ。 地「名は春の木の枝ながら。 花はなど榊葉。これは神の宿木。恐あり伐るまじ。 シテ詞「あら不思議や。 天より金札の降り下りて候。 すなはち金色の文字すわれり読み上げ給へ。ワキ「げに/\天より金札の降り下りて候ふぞや。 取りあげ読みて見れば何々。そも/\我が国は。 真如法身の玉垣の。内に住めるや御裳濯川の。 流絶えせず守らんために。 伏見に住まんと誓をなす。シテ詞「さてこの伏見とは。 何とか知し召されて候ふぞ。 ワキ「事も愚や伏見の宮居。この御社の事なるべし。 シテ詞「あら愚や伏見とは。総じて日本の名なり。

伊奘諾伊奘册の尊。天の磐座の苔筵に。 臥して見出したりし国なれば。 伏見とはこの秋津洲の名なるべし。 地「人知らぬ事なりこの国も伏見里の名も。 伏し見る夢とも現とも。分かぬ光の中よりも。 金の札をおつ取つて。かき消すやうに失せけるが。 しばし虚空に声ありて。 シテ「これは伊勢大神宮の御つかはしめ。天津太玉の神なり。 詞「なほしも我を拝まんと思はゞ。 重ねて宮居を作り崇むべしと。 地「迦陵頻伽の声ばかり。虚空に残り。 雲となり雨となるや雷の。光の中に入りにけり/\。中入間「。 地「楽に引かれて古鳥蘇の。 舞の袖こそゆるくなれ。 後シテ「守るべし。我が国なれば皇の。 万代いつと。限らまし。 地「限らじな限らじな。栄ゆく御代を守りのしるし。 シテ「ただ重くせよ。神と君。 地「重くすべしや。

重くすべしや扉も金の御札の神体光もあらたに見え給ふ。 地「四海を治めし御姿。/\。 シテ「あらたに見よや君守る。 地「八百万代のしるしなれや。シテ「悪魔降伏の真如のつき弓。 さて又次にはさばへなす。 荒ふる神も祓のひもろぎその神託は数々に。 左も右も神力の。悪魔を射払ひ清をなすも。 金胎両部の。形なり。

働シテ「とても治まる国なれば。 地「とても治まる国なれば。 中々なれや君は船、臣。 は瑞穂の国も豊に治まる代なれば東夷西戎。南蛮北狄の恐なければ。 弓をはづし。剣を収め。 君もすなほに民を守りの御札は宮に。 納まり給へば影さしおろす玉簾。影さしおろす玉簾の。 ゆるがぬ御代とぞなりにける 勅使 従者 童子(天の探女) 龍神。

ワキ、ワキツレ二人次第「げに治まれる四方の国。/\。 関の戸さゝで通はん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても我が君賢王にましますにより。 吹く風枝を鳴らさず民戸ざしをさゝず。 誠にめでたき御代にて候。さる間摂州住吉の浦に。 始めて浜の市を立て。

高麗唐土の宝を買ひとるべしとの宣旨に任せ。 唯今津の国住吉の浦に下向仕り候。道行三人「何事も。 心に叶ふ此時の。/\。 ためしもありや日の本の。 国豊なる秋津洲の波も音なき四つの海。高麗唐土も残なき。 御調の道の末ここに。津守の浦に着きにけり/\。 シテ真ノ一琴「松風も。のどかに立つや住吉の。

市の巷港出づるなり。 シテサシ「それ遠満十里の外なれども。こゝは処も住吉の。 神と君とは隔なき。誓ぞ深き瑞籬の。 久しき世々の例とて。こゝに御幸を深緑。 松にたぐへて千代までも正しき君の御旅居。 いづくも同じ日の本の。 もれぬ恵ぞ有難き。下歌「いざ/\市に出汐の月面白き松の風。 上歌「伊勢島や汐干に拾ふたま/\も。/\。待ちえにけりな此御代に。 鸚鵡の玉鬘かゝる時しも生れ来て。 民豊なる楽を何に譬へん秋津洲や。 高麗唐土も隔なき。宝の市に出でうよ/\。 ワキ詞「不思議やなこれなる市人を見れば。 姿は唐人なるが。声は大和詞なり。 又銀盤に玉をすゑて持ちたり。 そも御身はいかなる人ぞ。 シテ「さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。 又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。余りにめでたき御代なれば。 龍女が宝珠とも思し召され候へ。

詞「これは君に捧物にて候。ワキ「ありがたし/\。 それ治まれる御代の験には。 賢人も山より出で。聖人も君に仕ふと云へり。 然れば御身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。 委しく奏聞申すべし。 シテ「あらむつかしと問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。 宝珠の外に其名は無し。 これも津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。 ワキ「心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意宝珠を。 我が君にさゝげ奉るか。 シテ「運ぶ宝や高麗百済。ワキ「唐船も西の海。 シテ「檍が原の波間より。ワキ「現れ出でし住吉の。 シテ「神も守りの。ワキ「道すぐに。 地「こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。 目のあたりあらたなる。君の光ぞめでたき。 ロンギ地「千代までと菊売る市の数々に。 /\。四方の門辺に人さわぐ。 住吉の浜の市宝の数を買ふとかや。 シテ「春の夜の一時の。千金をなすとても。

喩はあらじ住吉の。松風値なき金銀珠玉いかばかり。 地「千顆万顆の玉衣の。浦ぞ津守の宮柱。 シテ「立つ市館かず/\に。 地「籬もつゞく片そぎの。シテ「みとしろ錦綾衣。 地「頃も秋たつ夕月の。影に向ふや淡路潟。 シテ「絵島が磯は斜にて。 地「松の隙行く捨小舟。シテ「寄るか。地「出づるか。 シテ「住吉の。 地「岸うつ浪は茫々たり松吹く風は切々として。蜜語かくやらん。 その四つの緒の音を留めし潯陽の江と申すとも。 これにはよもまさじ面白の浦の景色や。 シテ詞「又岩船のより来り候。 ワキ「そも岩船のより来るとは。 御身は如何なる人やらん。シテ「げに旅人はよも知らじ。 天も納受喜見城の。宝を君に捧げ申さんと。 天の岩船雲の波に。高麗唐土の宝の御船を。 唯今こゝに寄すべきなり。 地「今は何をか包むべき。其岩舟を漕ぎよせし。 天の探女は我ぞかし。

飛びかける天の岩船尋ねてぞ。秋津島根は宮柱住吉の松の緑の空の。 嵐とともに失せにけり/\。来序中入間「。 地「久方の。天の探女が岩船を。 とめし神代の。幾久し。 後シテ早笛「我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。 龍神なり。地「或は神代の嘉例をうつし。 シテ「又は治まる御代に出でて。 地「宝の御。 船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。働「。地「宝をよする波の鼓。 拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。 シテ「引けや岩船。地「天の探女か。 シテ「波の腰鼓。 地「ていたうの拍子を打つなり。 やさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。 おすや唐艪の/\潮の満ちくる浪に乗つて。 八。 大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。 長居もめでたき住吉の岸に。 宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。

運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。 山の如くに津守の浦に。

君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける 彦火々出見尊 豊玉姫 玉依姫 海神 天女 半開ロワキサシ「それ天地ひらけ始まりしより。 天神七代地神四代に至り。 火々出見尊とは我が事なり。詞「さても兄火闌降命の。 釣針を。 かりそめながら海辺に釣を垂れしに。かの釣針を魚に取られぬ。 此由を兄尊に申せども。 唯もとの針を返せと宣ふ間。 剣をくづし針に作りて返すといへども。なほもとの鈎を責る。 さらば海中に入り。かの釣針を尋ねんと思ひ立ちて候。 わたつみのそことも知らぬ塩土男の。 翁の教に従ひて。無目籠の猛き心。 歌「直なる道を行く如く。/\。 波路遥に隔て来てこゝぞ名におふわたつみの。 都と知れば水もなく。 広き真砂に着きにけり/\。 詞「さても我塩土男の翁が教に従ひ。わたつみの都に入りぬ。 これに瑠璃の瓦を敷ける衡門あり。 門前に玉の井あり。 この井の有様銀色かゝやき世の常ならず。又ゆつの桂の木あり。 木の下に立ち寄り。 暫く事のよしをも窺はゞやと思ひ候。 シテツレ二人真ノ一声「はかりなき。齢を延ぶる明暮の。 長き月日の。光かな。 ツレ二ノ句「いとなむ業も手ずさみに。二人「掬ぶも清き。水ならん。 シテサシ「濁なき心の水の泉まで。 老いせぬ齢を汲みて知る。二人「薬の水の故なれや。 老いせぬ門に出で入るや。 月日曇らぬ久方の天にもますや此国の。行末遠き。 住居かな。下歌「くり返す玉の釣瓶の掛縄の。 上歌「ながき命を汲みて知る。/\。 心の底も曇なき。月の桂の。 光添ふ枝を連ねてもろともに。朝夕なるゝ玉の井の。 深き契は。頼もしや深き契は頼もしや。 ワキ詞「我玉の井の辺にたゝずむ所に。 その様けだかき女性二人来り。 玉の釣瓶を持ち水を汲む気色見えたり。 言葉をかけんも如何なれば。 これなる桂の木陰に立ちより。身を隠しつゝ佇みたり。 シテ「人ありとだにしら露の。玉の釣瓶を沈めんと。 玉の井に立ち寄り底を見れば。 桂の木蔭に人見えたり。 これは如何なる人やらん。ワキ「忍ぶ姿も現れて。 あさまになりぬさりながら。なべてならざる御姿。 いかなる人にてましますぞ。 シテ「あら恥かしや我が姿の。見えける事も我ながら。 忘るゝ程の御気色。 形も殊にみやびやかなり。唯人ならず見奉る。 御名を名乗りおはしませ。ワキ詞「今は何をか包むべき。 我は天孫地神四代。 火々出見尊とは我が事なり。ツレ「あら有難や天の御神の。 御孫の尊を目のあたり。 見奉るぞ不思議なる。シテ詞「いやさればこそ始より。 天孫の光隠れなし。さてこれまでの臨幸は。 そも何事の故やらん。 ワキ「実に御不審は御理。我釣針を魚に取られ。 遥々これまで尋ね来る。こゝをば何処と申すやらん。 委しく語り給ふべし。 シテ詞「知しめさねば御理。これは龍宮わたつみの宮。 ワキ「かく言の葉をかはし給ふ。二人の御名は。 シテ「豊玉姫。ツレ「我は妹の玉依姫。 地「互に連枝の名乗して。 つゝましながら御神の。みやびやかなるに。 早打ち解けて木綿四手の。 神にぞ靡く大幣の引く手あまたの。心かな引く手あまたの心かな。 シテ詞「いかに申し上げ候。 うちつけなる御事なれども。やがて父母に逢はせ奉り。 かの釣針をも尋ぬべし。 御心安く思し召され候へ。ワキ「さらばやがて伴ひ申し。 宮中へ参り給ふべし。 地クリ「忝くも天の御神の御孫。 わたつみの都にいたり給ふ事。有難かりける。 御影かな。シテサシ「然れば高垣姫垣調ほり。 地「高殿屋照りかゝやき。 雲の八重畳を敷き。尊を請じ入れ奉り。シテ「父母の神。 いつきかしづき。 地「臨幸の意趣を語り給ふ。クセ「我兄の釣針を。 かりそめながら波間行く。魚に取られて無き由を。 歎き給へどその針に。 あらずは取らじととにかくに。せうとを痛めさま%\に。 猛き心の如何ならんと。 語り給へば父の神御心安く思し召せ。 まづ釣針を尋ねつゝ御国に帰し申すべし。シテ「なほ兄の怒あらば。 地「潮満潮干の。 二つの玉を尊に奉りなば御心に。任せて国も久方の。 天より降る御神の。 外祖となりて豊姫もたゞならぬ姿有明の。月日程なく三年を送り給へり。 ワキ詞「かくて三年になりぬれば。 我が国に帰り上るべし。海路の案内いかならん。 シテ「御心安く思し召せ。 綿津見の宮主伴ひて。海中の乗物様々あり。 地「大鰐に乗じはやてを吹かせ。 陸地に送りつけ申さん。其程は待たせおはしませ。来序中入間「。 後ツレ二人出端「光散る。潮満玉のおのづから。 くもらぬ御影。仰ぐなり。地「各玉を。 捧げつゝ。各玉を捧げつゝ。 豊姫玉依二人の姫宮。金銀碗裏に玉を供へ。尊に捧げ。 奉り。かの釣針を。待ち給ふ。 綿津見の宮主。持参せよ。大〓{大漢和:22529。 べし}後シテ「まうとの君の命に随ひ。綿津見の宮主釣針を尋ねて。 天孫の御前に。奉る。 地「潮満潮干二つの玉を。/\。 釣針に取り添へ捧げ申し。舞楽を奏し。豊姫玉依。 袖をかへして。舞ひ給ふ。天女舞「。 地「いつれも妙なる舞の袖。/\。 玉のかんざし桂の黛。月も照り添ふ花の姿。 雪を廻らす。袂かな。 シテ「わたづみの宮主。舞働。 地「姿は老龍の。雲に蟠り。かせ杖にすがり。 左右に返す。袂も花やかに。足踏はとう/\と。 拍子をそろへて時移れば。尊は御座を。 立ち給ひ。帰り給へば袂にすがり。 わたづみの乗物を奉らんと五丈の鰐に。 乗せ奉り。二人の姫に。玉を持たせ。 龍王立ち来る。波を払ひ。潮を蹴立て。 遥に送りつけ奉り。遥に送りつけ奉りて。 又龍宮にぞ帰りける 周穆王 臣下 女(ナシニモ) 西王母 侍女(謡ナシ)

ワキサシ真ノ来序「有難や三皇五帝の昔より。 今この御代にいたるまで。 かゝる聖主のためしはなし。地「その御威光は日のごとく。 ワキツレ「その御心は海のごとくに。 地「豊に広き御恵。ワキ「天に輝き地に満ちて。 上歌「北辰の共ずる数々の。/\。 満天に廻る星の如く。百官卿相雲客や。 千戸万戸の旗を靡かし。鉾を横たへ。

四方の門べにむらがりて。市をなし。金銀珠玉。 光を交へ。 光明赫奕として日夜の勝劣見えざりけり。かゝるためしは喜見城。 その楽も如何ならん。/\。 シテツレ二人一セイ「桃李ものいはず。 下おのづから市をなし。貴賎交はり。隙もなし。 シテ「面白や四季折々の時をえて。 草木国土おのづから。二人「皆これ真如の花の色香。

妙なる法の三つの心。 うるほふ時や至りけん。三千年に咲く。花心の。 をり知る春の。かざしとかや。 下歌「いざや君に捧げん。いざ/\君にさゝげん。 上歌「すめらぎの。その御心は普くて。/\。 隙行く駒の法の道。 千里の外までうへもなき道に至りて明らけき。霊山会場の法の場。 広き教の実ある。君々たれば誰とても。 勇ある世の。心かな/\。 シテ詞「いかに奏聞申すべき事の候。 ワキ「奏聞とはいかなる者ぞ。 シテ「これは三千年に花咲き実なる桃花なるが。 今此御代にいたり花咲く事。 たゞこの君の御威徳なれば。仰ぎて捧げ参らせ候。 ワキ「そも三。 千年に花咲くとはいかさま是は聞き及びし。その西王母が園の桃か。 シテ「なかなかにそれとも今はものいはじ。 ワキ「さればこそそれぞことさら名におふ花の。 シテ「桃李ものいはず。

ワキ「春いくばくの年月を。シテ「送り迎へて。 ワキ「この春は。上歌「三千年に。 なるてふ桃の今年より。/\。花咲く春にあふ事も。 たゞこれ君の四方の恵。 あつき国土の千々の種桃花の色ぞ妙なる。 ロンギ「さては不思議や久方の。 天つ少女のまのあたり。姿を見るぞ不思議なる。 シテ「疑の。心なおきそ露の間に。 やどるか袖の月の影。雲の上までその恵。 あまねき色にうつりきぬ。 地「移ろふものは世の中の。人の心の花ならぬ。 シテ「身は天上の。地「楽に。 明けぬ暮れぬと送り迎ふ年は経れど限もなき。 身の程も隔なく。真はわれこそ西王母の。 分身よまづ帰りて花の身をもあらはさんと。 天にぞ上りける天にぞ上り給ひける。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「糸竹呂律の声々に。/\。 しらべをなして音楽の。声すみわたる天つ風。 雲の通路。心せよ。/\。下リ羽後シテ出地「面白や。

かゝる天仙理王の。来臨なれば。数々の。 孔雀鳳凰迦陵頻伽。飛び廻り声々に。 立ち。 舞ふや袖の羽風天つ空の衣ならん天の衣なるらん。後シテ「いろ/\の捧げもの。 。地「いろ/\の捧げものの中に妙に見えたるは西王母のその姿。 光庭宇をかゞやかし。黄錦の御衣を着し。 シテ「剣を腰にさげ。地「剣を腰にさげ。真〓{糸+嬰}の冠を着。 。

玉觴に盛れる桃を侍女が手より取りかはし。シテ「君に捧ぐる桃実の。 地「花の盃取りあへず。中ノ舞「。 地「花も酔へるや盃の。/\。 手まづさへぎる曲水の宴かや御溝の水に。 戯れ戯るゝ。たをやめの。 袖も裳裾もたなびきたなびく。雲の花鳥。 春風に和しつゝ雲路にうつれば王母も伴ひ攀じのぼる。 王母も伴ひ上るや天路の。 行方も知らずぞ。なりにける 官人 従者二人 里の女 里の女 呉織の霊 漢織の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「道の道たる時とてや。/\。 国国豊なるらん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 我此間は摂州住吉に参詣申して候。又これより浦づたひし。 西の宮にまゐらばやと存じ候。 道行三人「住の江や。のどけき浪の浅香潟。/\。

玉藻。 刈るなる海士人の道もすぐなる難波がた。ゆくへの浦も名を得たる。 呉服の里に着きにけり/\。 シテツレ二人真ノ一声「くれはとり。綾の衣の浦里に。 年経て住むや。あま乙女。 ツレ二ノ句「立ちよる浪もしら糸の。二人「機織り添ふる。

音しげし。シテサシ「これは津の国呉服の里に。 住みて久しき二人の者。 二人「我この国にありながら。身は唐土の名にしおふ。 女工の昔を思ひ出づる。月の入るさや西の海。 。 波路はるかに来し方の身は唐土の年を経て。こゝに呉服の。里までも。 身に知られたる。名所かな。 下歌「これもかしこき御代のため送り迎へし機物の。 上歌「大和にも。織る唐衣のいとなみを。/\。 今しきしまの道かけて。 言の葉草の花までもあらはしぎぬの色そへて。 心をくだく紫の。 袖も妙なるかざしかな袖も妙なるかざしかな。 ワキ詞「さても我此松原に来て見れば。 やごとなき女性二人あり。一人は機を織り。 今一人は糸を取り引き。 互に常の里人とは見え給はず。 そも方々はいかなる人ぞ。二人「はづかしや里ばなれなる松蔭の。 うしほも曇る夕月の。

影にまぎれて浦波の声にたぐへて機物の。 音きこえじと思ひしに。知られけるかや恥かしや。 ワキ「何をか包み給ふらん。 其身は常の里人ならで。詞「此松蔭に隠れ居て。 機織り給ふは不審なり。いかさま名のり給ふべし。 シテ詞「これは応神天皇の御宇に。 めでたき御衣を織りそめし。 呉織漢織と申しゝ二人の者。今又めでたき御代なれば。 現に現れ来りたり。 ワキ「不思議の事を聞くものかな。それは昔の君が代に。 唐国よりも渡されし。 詞「綾織二人の人なるが。今現在に現れ給ふは。 何といひたる事やらん。 シテ詞「はやくも心得給ふものかな。まづ此里を呉服の里と。 名づけそめしも何故ぞ。我此処にありし故なり。 ツレ「又あやはとりとは機物の。 糸を取り引く工ゆゑ。綾の紋をなす故に。 あやはとりとは申すなり。 シテ詞「くれはとりとは機物の。糸引く木をばくれはと云へば。

呉服取る手によそへつゝ。 くれはとりとは申すなり。 ツレ「されば二人の名によせて。シテ「くれはとり。 ツレ「あやとは申し伝へたり。 二人「然ればわれらは唐人なれば。やまと詞は知らねども。 シテ「くれはとりあやに。恋しくありしかば。 二村山とよみし歌も。二人を思ふ心なり。 地歌「くれはとり。怪しめ給ふ旅人の。/\。 御目の程はさすがげに。名にしおふ都人の。 所から唐人とわれらを御覧ぜらるゝは。 実にかしこしや善き君に。仕ふる人か。 ありがたや仕ふる人かありがたや。 地クリ「それ綾と云つぱ。 もろこし呉郡の地より織りそめて。女工の長き営なり。 。 シテサシ「然るに神功皇后の三韓を従へ給ひしより。地「和国異朝の道広く。 人の国まで靡く世の。我が日の本はのどかなる。 御。 代の光はあまねくて国富み民ゆたかなり。シテ「東南雲。収まりて。

地「西北に風静かなり。クセ「応神天皇の御宇かとよ。 呉国の勅使此国に。始めて来り給ひしに。 綾女糸女の女婦を添へ。万里の。 滄波を凌ぎ来て西日影のこりなく。 呉服の里に休らひ連日に立つる機物の。 錦を折々の綾の御衣を奉る。勅使奏覧ありしかば。 叡感殊に甚だし。それより名づけつゝ。 袞龍の御衣の紋。 いとなみも名たかき山鳩色を移しつゝ。気色だつなり雲鳥の。 羽。 ぶさをたゝむ綾となすいともかしこかりけり。 シテ「然れば万代に絶えせぬ御調なるべしと。 地「御定ありしより呉服の文字をやはらげて。 呉織漢織と名づけさせ給へば年を迎へて色をなす。 綾の錦の唐衣。かへす%\も君が袖。 古きためしを引く糸のかゝる御代ぞめでたき。 ロンギ地「これにつけても此君の。/\。 めでたきためし有明の。 夜すがら機を織り給へ。シテツレ二人「いざ/\さらば機物の。

錦を織りて我が君の。御調に備へ申さん。 地「げにや御調の数々に。錦の色は。 シテツレ二人「小車の。 地「丑三つの時過ぎ暁の空を待ち給へ。姿をかへて来らん。 さらばといひて呉織。漢織は帰れども。 鶏はまた鳴かずや夜長なりと待ち給へ。 夜ながくとても待ち給へ。中入間「。 ワキ歌「うれしきかなやいささらば。/\。 此松蔭に旅居して。風も嘯く寅の時。 神の告をも待ちて見ん/\。 後シテ出端「君が代は天の羽衣まれにきて。 撫づとも盡きぬ巌ならなん。 千代に八千代を松の葉の。散り失せずして色はなほ。 正木のかづら長き代の。 ためしに引くや綾の紋雲らざりける。時とかや。地「此君の。 かしこき世ぞと夕浪に。声立て添ふる。 機の音。シテ「錦を織る機物の内に。 相思の字をあらはし。衣うつ砧の上に。怨別の声。 松の風。又は磯うつ浪の音。

地「しきりにひまなき機物の。 シテ「取るや呉服の手繰の糸。地「我が取るはあやは。 シテ「踏木の足音。地「きりはたりちやう。 シテ「きりはたり。ちやう/\と。 地「悪魔も恐るる。声なれや。げに織姫の。 かざしの袖。中ノ舞「。 地「思ひ出でたり七夕の。/\。たま/\逢へる旅人の。夢の精霊妙幢菩薩も。 影向なりたる夜もすがら夜もすがら。 宝の綾を織り立て織り立て。我が君に捧物。 御代のためしの二人の織姫。 呉服あやはのとり%\に。くれはあやはのとり%\の御調物そなふる御代こそ。めでたけれ 鹿島明神の神主 従者二人 女二人又は四人 桜葉の神

ワキ、ワキツレ二人次第「四方の山風のどかなる。/\雲井の春ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは鹿島の神職何某とは我が事なり。 われ此度都に上り。 洛陽の名花残なく一見仕りて候。また北野右近の馬場の花。 今をさかりなるよし承り候ふ間。 今日は右近の馬場の花を眺めばやと存じ候。 道行三人「雲の行く。そなたやしるべ桜狩。/\。 雨は降りきぬ同じくは。 ぬるとも花の蔭ならばいざや宿らん松かげの。 ゆくへも見ゆる梢より。北野の森もちかづくや。 右近の馬場に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早右近の馬場に着きて候。 あれを見れば花見の人々と見えて。 車をならべ輿を続け。まことおもしろう候。

暫く休らひ花を眺めばやと存じ候。 シテサシ一声「春風桃李花の開くる時。 人の心も花やかに。あくがれ出づる都の空。 げにのどかなる時とかや。シテツレ「見渡せば。 柳桜をこきまぜて。錦をかざる。花車。 シテ「くる春ごとにさそはるゝ。 シテツレ「心もながき。気色かな。 地下歌「花見車の八重一重。見えて桜の色々に。 上歌「ひをりせし。右近の馬場の木のまより。/\。 影も匂ふや朝日寺の。 春の光も天満てる神の御幸のあとふりて。 松も木高き梅がえの。立枝も見えて紅の。 初花車めぐる日の。轅や北につゞくらん。/\。 ワキ「のどかなる頃は弥生の花見とて。 右近の馬場の並木の桜の。

かげふむ道に休らへば。シテ「げにや遥に人家を見て。 花あれば則ち入るなれば。 木蔭に車を立てよせけり。ワキ詞「向を見れば女車の。 処からなる昔語。思ひぞいつる右近の馬場の。 ひをりの日にはあらねども。 見ずもあらず。見もせぬ人の恋しくは。 詞「あやなく今日や眺めくらさん。 これ業平の此処にて。女車をよみし歌。 今更思ひ出でられたり。シテ「あらおもしろの口ずさみや。 右近の馬場のひとりの日。 詞「向に立てる女車の。処からなる昔語。 恥かしながら今はまた我が身の上に業平の。 何かあやなく分きていはん。 思のみこそしるべなりしを。 ワキ「左様にながめし言の葉の。其旧跡もこゝなれば。 今またかやうに言問ふ人も。 いつ馴れもせぬ人なれども。シテ「たゞ花故に北野の森にて。 ワキ「言葉をかはせば。シテ「見ずもあらず。 地「見もせぬ人や花の友。/\。

知るも知らぬも花の蔭に。相宿して諸人の。 いつしか馴れて花車の。榻立てゝ木のもとに。 下り居ていざや眺めん。 げにや花の下に帰らん事を忘るゝは。 美景によりて花心。馴れ/\そめて眺めんいざ/\馴れて眺めん。百千鳥。花になれゆくあだし身は。 。 はかなき程に羨まれて上の空の心なれや上の空の心なれ。 ロンギ地「げに名にしおふ神垣や。 北野の春も時めける。神の名所のかず/\に。 シテ「眺むれば。都の空のはる%\と。 霞み渡るや北の宮居。御覧ぜよ時をえて。 花桜葉の宮所。地「花の濃染の色分けて。 紅梅殿や老松の。 シテ「緑より明けそめて。一夜松も見えたり。 地「日影の空も茜さす。シテ「紫野行。しめ野ゆき。 地「野守は。見ずや君が袖。 古き御幸の見物とて。 車も立つや御輿岡これぞ此神の御旅居の。

右近の馬場わたり神幸ぞ尊かりける。 ワキ詞「あらありがたの御事や。 かくしも委しく語り給ふ。社々の御本地を。なほ/\教へおはしませ。 シテ詞「まことは我は此神の。末社とあらはれ君が代を。 守の神と思ふべし。ワキ「よく/\聞けば有難や。 。守の神とはさて/\いづれの霊神にて。かやうにあらはれ給ふらん。 シテ詞「あら恥かしや神ぞとは。 あさまには何と岩代の。地「待つこと有りや有明の。/\。 月も曇らぬ久方の。天照神にては。 桜の宮と現れ。こゝに北野の桜葉の。 神とゆ。 ふべの空晴れて月の夜神楽を待ち給へと花に隠れ。 失せにけりや花に隠れ失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「げに今とても神の代の。/\。 誓は尽きぬしるしとて。 神と君との御恵誠なりけり有難や/\。 後シテ出端「天皇の賢き御代を守るなる。

右近の馬場の春を得て。花上苑に明かにして。 軽軒九陌の塵に交はる神慮。 和光の影も曇なき。君の威光も影高く。 花もゆるがず治まる風も。のどかなる代の。めでたさよ。 地「曇なき。天照神の恵を受けては。 桜の宮居とあらはれ給ひ。 シテ「こゝに北野の。神の宮居に。 地「花桜葉の神とあらはれ。曇らぬ威光を顕衣の。 袖もかざしの。花盛。中ノ舞「。 地「月も照りそふ花の袖。/\。 雪をめぐ。 らす神かぐらの手の舞足ぶみ拍子をそろへ。声すみわたる。雲の棧。花に戯れ。 枝にむすぼほれかざしも花の。糸桜。 シテ「治まる都の花盛。 地「治まる都の花盛。東南西北も音せぬ浪の。 花も色添ふ北野の春の。御池の水に。御影をうつし。 うつしうつろふ。 桜衣の裏吹きかへす梢にあがり。枝に木伝ふ花鳥の。 とぶさにかけり。雲に伝ひ。遥に上るや雲の羽風。

遥に上るや雲の羽風に神は上らせ給ひけり 天細女命(謡ナシ) 手力雄命(謡ナシ) 天照大神(前ハ老翁) 勅使

ワキ三人次第「治めしまゝに世を守る。/\。 伊勢の宮居にまゐらん。 ワキ詞「抑これは大炊の帝に仕へ奉る臣下なり。 偖も我が君伊勢大神宮を信じ給ひ。 数の御宝を捧げ給ふ。其勅を蒙り。唯今伊勢参宮仕り候。 道行三人「風は上なる松本や。/\。 雲雀落ち来る粟津野の。草の茂みを分け越えて。 瀬田の長橋打ち渡り野路篠原の草枕。 夢も一夜の旅寝かな/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや勢州斎宮に着きて候。 今夜は節分にて。 此処に絵馬を掛くると申し候ふ間。今夜は此処に逗留し。 絵馬を掛くる者を見ばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「あらたまの。春に心を若草の。

神も久しき恵かな。 ツレ二ノ句「霞も雲も立つ春を。二人「去年とやいはん年のくれ。 シテサシ「それ馬を華山の野に放ち。 牛を桃林に繋ぐこと。二人「皆聖人の諺かな。 それは賢き世の習。時に引かれて四方の海の。 浜の真砂を数へても君が千年のある数を。 たとへても猶ありがたや。 下歌「千早ぶる神代を聞けば久方の。 上歌「天つ日嗣の代々古りて。/\。 人皇末代の子孫までありし恵を受け継ぎて。 治まる御代のわれらまで。 及ばぬ君を仰ぎつゝ夜昼つかへ奉る。/\。 。 ワキ詞「いかに是なる人々に尋ぬべき事の候。

シテ「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「今夜は此処に絵馬を掛くると申し候ふは真にて候ふか。 シテ「さん候即ちわれらが絵馬を掛け候ふよ。 ワキ「それは何の謂に依つて掛けられ候ふぞ。 。 シテ「是は唯一切衆生の愚痴無智なるを象り。馬の毛により明年の日を相し。 又雨滋き年をも心得べき為にて候。 ワキ「偖々今夜はいかなる絵馬を掛け。 明年の日を相し給ふ。ツレ「誓は何れも等しけれども。 詞「先雨露の恵を受け。 民の心も勇みあるよみぢの黒の絵馬を掛け。 国土豊になすべきなり。シテ詞「暫く候。 耕作の道の直なるをこそ。神慮も悦び給ふべけれ。 まづ此尉が絵馬を掛け。 民を悦ばせばやと思ひ候。ツレ「さやうに謂を宣はゞ。 こなたも更に劣るまじ。 詞「力をも入れずして。天地を動かし目に見ぬ鬼神の。 猛き心を和ぐる。歌は八雲をさきとして。 天ぎる雪のなべてふる。

これらはいかで嫌ふべき。シテ詞「かくしも互に争はゞ。 隙行く駒の道行かじ。 いざや二つの絵馬を掛けて万民楽しむ世とならん。 ツレ「げにいはれたり此程は。 一つ掛けたる絵馬なれども。シテ「今年始めて二つ掛けて。 雨をも降らし。ツレ「日をも待ちて。 シテ「人民快楽の。ツレ「御めぐみを。 地「かけまくも忝なや。これをぞ頼む神垣に。 絵馬は掛けたりや。国土豊になさうよ。 上歌「賀茂の御あれのひをりの日。/\。 是を物見に御随身。色めく紙の四手つけて。 駆けならべたる駒くらべ。 掛けてやさしく聞えしは。松風の上の藤波。 尾上の花に吹き添へて。たなびく白雲。 又掛けて色をますな。 クセ「僧正遍昭は。 歌のさまは得たれども。まこと少し喩へば。 絵にかける遊女の姿にめでて徒らに。 心を動かす。

は浅緑糸よりかけて繋ぐ駒は二道掛けてなか/\恨みしは。恋路のそら情。 逢ふさへ夢の手枕。 シテ「忍ぶ今宵のあらはれて。地「詞をかはす此上は。 何をか包むべきわれらは伊勢の二柱。 夫婦と現じ立ち出づる。 信ずべし信ぜば疑波の川竹の。夜も明けゆかば内外にて。 待ち得て。 まみえ申さんと夜半にまぎれて失せにけり/\。来序中入。 出端地(謡掛)「雲は万里に収まりて。 月読の明神の。御影の尊容を照らし。出で給ふ。 後シテ「われは日本秋津島の大頭領。 地神五代の祖。天照大神。 地「和光利物の御裳濯川の。水を蹴立つる波の如し。 されども誓は虚空に満ち来る五色の雲も。 輝き出づる。日神の御姿。ありがたや。 シテ「処は斎宮の名に古りし。 地「処は斎宮の名に古りし神墻しどろに木綿四手の。 あらはに神体現れ給ふ。ありがたや。神舞。 シテ「昔。天の岩戸に閉ぢ籠りて。

地「天の岩戸に閉ぢ籠りて。 悪神を懲らしめ奉らんとて日月二つの御影を隠し。 常闇の世のさていつまでか。 荒ぶる神々これを歎きていかにも御心取るや榊葉の。青和幣。 。白和幣色々さま%\に歌ふ神楽の韓神催馬楽。千早ぶる。天女神楽力神急舞。 シテ「面白や。 地「おもて白やと覚えず岩戸を少し開いて。感じ給へば。 いつまで。 岩戸を手力雄の尊は引き開け御衣の袂にすがれり。引き連れ現れ出で給ふ有様。 又珍しき神遊の。面白かりしを。 思しめし忘れず。高天の原に神とゞまつて。 天地二度開け治まり国土も豊に月日の光。 長閑けき春こそ久しけれ 北条時政 従者 女人 弁財天

ワキ、ワキツレ次第「八百万代を治むなる。/\。 弓矢の家ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは北条の四郎時政にて候。 我弓矢の家に生るゝといへども。 いまだ旗の紋定まらず候ふ程に。 江の島の弁財天に此事を祈り申さん為。唯今参詣仕り候。 サシ「それ弓矢は天地陰陽をかたどり。七徳五行の姿なり。 ワキツレ「されば神農の作りし桑の弓。 怨敵破戒を滅ぼして。 ワキ「国家の為となすとかや。ワキワキツレ「又は仏法王法の。/\静か。 なる国となる事も一張の弓の勢月心にあり。これぞ真如のつき弓の。 悪魔もいかで恐れざる/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早江の島に着きて候。まづ/\社壇に参らばやと存し?候。

シテ詞呼掛「なう/\時政に申すべき事の候。 ワキ「不思議やな人家も見えぬ方よりも。 女性一人現れて。我が名をさして宣ふは。 何といひたる事やらん。 シテ「愚の仰せ候ふや。年月歩を運びつゝ。 信心深き其故に。望をかなへ申さんため。 これまで現れ来りたり。 ワキ「そもや望を叶へんとは。如何なる人にてましますぞ。 シテ詞「い。 や我が名をば名乗らずとも御身信の志深く。ワキ「神を敬ふ恵にて。 シテ「国も豊に。シテワキ二人「民栄え。 地「治まれる御代のしるしも今更に。/\。 見えて栄ふる芦原の。 国なれや降る雨も時をたがへぬ此君の。千年をかけて御注連縄。 永くも代代を守るなり/\。

ロンギ地「実にや誓の数々に。 御代を守りの御告とは如何なる人におはします。 シテ「今は何をか包むべき。 我此島に跡を垂れ。地「潮の落つる暁は。 沖の鴎に心そへ。汀の千鳥鳴く田鶴も。 和光の影のかず/\に。 かき集めたる藻塩草夜の汀を待ち給へ。のぞみを叶へ申さんと。 いふかと見えて其まゝ。 社壇に入らせ給ひけり/\。来序中入間「。 地出端「御殿しきりに鳴動して。 日月光り雲晴れて。山の端出づる如くにて。 現れ給ふ有難さよ。 後シテ「我はこれ。 此島を守護し衆生を助くる。胎蔵界の弁財天とは我が事なり。 地「晴れたる空に旗さしの。 名も久方の月の桂も手に取るばかり。 弓矢の家を守りの証ぞと。時政に旗をたび給ひ。 数々の童子。神楽の役々月も照り添ふ花の姿。 雲を廻らす。袂かな。シテ「謹上。

地「再拝。神楽「。 地「かくて夜遊も時過ぎて。/\。 我世の中にあらん程。 たとひ四敵の寄せ来るとも。 此旗をさし上げば我神通の身と現じて。六通三明の剣を引つ提げ。

無明懺悔の敵を払はゞ。 其身も息災安穏なるべし唯信心を致すべしと。 あらたに神託なし給ひ。天女は御殿の扉を開きて。 御帳の内にぞ。入り給ふ 勅使 従者

ワキ、ワキツレ二人次第「光のどけの日の本や。/\。 内外の宮に参らん。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 扨も我が君伊勢大神を信じ給ひ。急ぎ参詣仕れとの宣旨を蒙り。 唯今勢州の旅に赴き候。 道行三人「春立つや矢走の浦の朝霞。/\。たな引く末を水海や。 。 影もときはにみえわたる鏡の峯をよそに見て。松の嵐も鈴鹿川。 関の戸さゝでこれぞこの。伊勢の宮居に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。

伊勢の宮居に着きて候。心静かに神拝申さうずるにて候。 シテツレ二人一セイ「治まれる。神代の恵も神風や。 伊勢の宮居に出づるなり。 ツレ二ノ句「曇らぬ夜半の星までも。シテツレ二人「和光に余る。 影ならん。シテサシ「有難や五十鈴の清き宮柱。 太しく立ちて秋津洲の。 シテツレ二人「神の御稜威は異国に。仰ぎてもなほ余りあり。 卑しき賎の身にしありとも心を磨くに。隔はなし。 下歌「神さぶる伊勢の内外の宮柱。 上歌「たてし誓にふた心。/\。

あらずは末は栄えなん。 皇太神の御慮に叶はんとしも思ひなば。唯正直を本として。 仰ぎて仕へ申せとよ/\。 ワキ詞「いかに是なる宮人に申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「是は当今に仕へ奉る臣下なるが。勅使に参詣仕りあるぞとよ。 シテ「何と勅使にて御座候ふとや。 ワキ「なか/\の事。シテ「唯今の御参宮返す%\も御めでたうこそ候へ。 ワキ「急ぎ祝詞を参らせ候へ。シテ「畏つて候。謹上再拝。 高天の原に神集りまして。 天の岩戸をおし開き。 天の八重雲をいづの千分にちわきて聞しめせ。 抑天長地久上直なれば下までも。安く楽しむ御恵。 仰ぎ願はくば秡殿?の神。八百万の神等聞し召し給へと。 恐みこと申し候。地「実に有難や此神の。/\。 深き恵の道広く。 万物も出生し四海の浪も静かにて。実に君は船臣は水。 水よく船を浮ぶなる。此日の本は有難き/\。

地クリ「それ神の御孫の末長く。 君臣親子夫婦兄弟。ともに礼儀をなすとかや。 シテサシ「中にも人は天地の恵を受け。 地「父母の身を分け生れ来て。 赤子の身より哀憐の情によるとて人となる。 シテ「されども君の恵ずば。一時の命も保ちえじ。 地「これぞ神君父母の重恩。詞に尽し。 がたかるなり。 クセ「日月は六合を照らせども真は正真の。頭を照らす印を。水晶の玉の中に。 御影をうつし給へり。其如く人の身も。 。 清浄心の頭を深く天照らす皇太神の御神事はありがたや。君に仕へて義を守り。 己を尽し身を研き忠臣に仕へ申すべし。 孝行の其道。多き中にも父母の。 我が子は心に。信の深きものなれば。 いかなる遠国にひとりありとても行末の。 心にかゝる事なしと楽をなさせ申すを先とする。 シテ「友と交はり信ありて。 地「私の意趣を以て。身を捨つる事なかれ。

たとひ我とは不和なりとも。君の為によき人をば。 徳を挙げて褒むべし。此理を弁へば。 夫婦兄弟朋友。子孫家人に至るまで。 五常の道に叶ひなん。 これ本立ちて道成る印とこそは見えにけれ。 ワキ詞「実にありがたき物語。心に染みて覚えたり。 また時刻も来りてある間。 急ぎ神楽を参らせ候へ。シテ「畏つて候。いかに申し候。 急ぎ神楽を参らせ候へ。ツレ「心得申して候。物着。 「さる程に時移り。

地「さる程に時移り宜禰が鼓も数到りて月も雲も白妙の。 袖を返して神かぐら。ツレ「千早振る。 神楽、ツレ「五日の風や十日の。地「雨も潤ふ。 獅子の舞地獅子「かくて明行く山風に。 物着「かくて明け行く山風に。波の鼓も声うち添へて。 幾万代の舞ひおさむれば。 星月神灯白み。 渡るや東の空に五色の雲も輝き出づる。 日神の御姿照らし給へば夜も明け行くや内外の宮居。/\の。 栄行く春こそ久しけれ 旅僧 従僧二人 花守の童子 坂上田村麿

ワキ、ワキツレ二人次第「鄙の都路隔て来て。/\。 九重の春に急がん。 ワキ詞「これは東国方より出でたる僧侶にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。此春思ひ立ちて候。道行三人「頃もはや。 弥生なかばの春の空。/\。 影ものかど?に廻る日の。霞むそなたや音羽山。 瀧の響も静かなる。清水寺に着きにけり。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 是は都清水寺とかや申すげに候。是なる桜の盛とみえて候。 人を待ちて委しく尋ねばやと思ひ候。 シテ一セイ「おのづから。 春の手向となりにけり。地主権現の。花ざかり。 サシ「それ花の名所多しといへども。 大悲の光色添ふ故か。この寺の地主の桜にしくはなし。

さればにや大慈大悲の春の花。 十悪の里に芳しく。三十三身の秋の月。五濁の水に。 影清し。下歌「千早振。 神の御庭の雪なれや。上歌「白妙に雲も霞も埋れて。/\。 いづれ。桜の梢ぞと。 見渡せば八重一重げに九重の春の空。四方の山なみ自ら。 時ぞとみゆる気色かな。/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「見申せばうつくしき玉箒を持ち。木蔭を清め候ふは。 若し花守にて御入り候ふか。 シテ「さん候これはこの地主権現に仕へ申す者なり。 いつも花の頃は木蔭を清め候ふほどに。

花守とや申さん又宮つことや申すべき。 いづれによしある者と御覧候へ。ワキ「げに/\よしありげに見えて候。まづ/\当寺の御来歴。委しく語り給ふべし。 シテ詞「そも/\当寺清水寺と申すは。 大同二年の御草創。坂上の田村丸の御願なり。 昔大和の国子島寺といふ所に。 賢心といへる沙門。 正身の観世音を拝まんと誓ひしに。 ある時木津川の川上より金色の光さしゝを。 尋ね上つて見れば一人の老翁あり。かの翁語つていはく。 我はこれ行叡居士といへり。汝一人の檀那を待ち。 大伽藍を建立すべしとて。 東をさして飛び去りぬ。されば行叡居士といつぱ。 これ観音薩埵の御再誕。又檀那を待てとありしは。 これ坂の上の田村丸。地上歌「今もその。 名に流れたる清水の。/\。 深き誓も数々に。千手の。御手のとり%\様々の誓普くて国土万民を漏らさじの。

大悲の影ぞありがたき。げにや安楽世界より。 今この娑婆に示現して。我らが為の観世音。 仰ぐも愚かなるべしや。/\。 ワキ詞「近頃おもしろき人に参り逢ひて候ふものかな。 又見え渡りたるは皆名所にてぞ候ふらん。 御教へ候へ。シテ詞「さん候皆名所にて候。 御尋ね候へ教へ申し疏lふべし。 ワキ「まづ南に当つて塔婆の見えて候ふは。 いかなる所にて候ふぞ。 シテ「あれこそ歌の中山清閑寺。今熊野まで見えて候へ。 ワキ「ま。 た北に当つて入相の聞え候ふはいかなる御寺にて候ふぞ。 シテ「あれは上見ぬ鷲の尾の寺。や。 御覧候へ音羽の山の嶺よりも出でたる月の輝きて。 この地主の桜に映る景色。まづ/\これこそ御覧い事なれ。 ワキ「げに/\これこそ暇惜しけれ。 こと心なき春の一時。シテ「げに惜むべし。 ワキ「惜むべしや。シテワキ二人「春宵一刻価千金。 花に清香。月に影。シテ「げに千金にも。

かへしとは。今此時かや。地「あら/\面白の地主の花の景色やな。 桜の木の間に漏る月の。雪もふる夜嵐の。 誘ふ花とつれて散るや心なるらん。 クセ「さぞな名にしおふ。花の都の春の空。 げに時めける。 粧青楊?の影緑にて。風邪のどかなる。 。 音羽の瀧の白糸の。 くり返しかへ。 しても面白やありがたやな。 地主権現の。 花の色も異なり。 シテ「たゞ頼め。 標茅が原のさしも草。 地「我世の中に。あらんかぎりはの御誓願。 濁らじものを清水の。緑もさすや青柳の。 げにも枯れたる木なりとも。 花桜木の粧いづくの春もおしなめて。

のどけき影は有明の。天も花に酔へりや。面白の春べや。 あら面白の春べや。 ロンギ地「げにやけしきを見るからに。 たゞ人ならぬ粧のその名いかなる人やらん。 シテ「いかにとも。いさやその名も白雪の。 跡を惜まば此寺に帰る方を御覧ぜよ。 地「帰るやいづくあしがきの。 ま近きほどか遠近の。シテ「たづきも知らぬ山中に。 地「おぼつかなくも。

思ひ給はゞわが行く方を見よやとて。地主権現の御前より。 下るかと見えしが。 くだりはせで坂の上の田村堂の軒もるや。 月のむら戸を押しあけて。 内に入らせ給ひけり内陣に入らせ給ひけり。中入間「。 ワキ三人歌待謡「夜もすがら。 ちるや桜の蔭に居て。/\。花も妙なる法の場。 迷はぬ月の夜と共に。此御経を。 読誦するこの御経を読誦する。 後シテ一声「あら有難の御経や?な。 清水寺の瀧つ波。真]一河の流を汲んで。 他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。 是ぞ則ち大慈大悲の、観音擁護の結縁たり。 ワキ「ふしぎやな花の光にかゝやきて。 男体の人の見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。シテ「今は何をかつゝむべき。 人皇五十一代。平城天皇の御宇に有りし。 坂上の田村丸。 地「東夷を平げ悪魔を鎮め。天下泰平の忠勤たりしも。

即ち当時の仏力なり。サシ「燃るに君の宣旨には。 勢州鈴鹿の悪魔を鎮め。 都鄙安全になすべしとの。仰によつて軍兵を調へ。 既に赴く時節に至りて。此観音の仏前に参り。 祈念を致し立願せしに。 シテ「不思議の瑞験あらたなれば。 地「歓喜微笑の頼を含んで。急ぎ凶徒に。打つ立ちけり。 クセ「普天の下。 卒?土の内いづく王地にあらざるや。やがて名にしおふ。 関の戸さゝで逢坂の。山を越ゆれば浦波の。 粟津の森やかげろふの。 石山寺を伏し拝み是も清水の一仏と。頼はあひに近江路や。 勢田の長橋ふみならし駒も足なみ勇むらん。 シテ「すでに伊勢路の山近く。 地「弓馬の道もさきかけんと。勝つ色みせたる梅が枝の。 花も紅葉も色めきて。 猛き心はあらがねの。土も木もわが大君の神国に。 もとより観音の御誓仏力といひ神力も。 なほ数数にますらをが。

待つとは知らでさを鹿の。鈴鹿の禊せし世々までも。 思へば嘉例なるべし。 さるほどに山河を動かす鬼神の声。天に響き地に満ちて。 万木青山動揺せり。カケリ「。 シテ詞「いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。 千方といひし逆臣に仕へし鬼も。 王位を背く天罰にて。 千方を捨つれば忽ち亡び失せしぞかし。ましてやま近き鈴鹿耶麻。 地「ふりさけ見れば伊勢の海。/\。 阿濃の松原むらだち来つて。鬼神は。 黒雲鉄火をふらしつゝ。数千騎に身を変じて山の。 如くに見えたる所に。 シテ「あれを見よ不思議やな。地「あれを見よ不思議やな。 味方の軍兵の旗の上に。千手観音の。 光をはなつて虚空に飛行し。千の御手ごとに。 大悲の弓には。知恵の矢をはめて。 一度放せば千の矢先。雨霰とふりかゝつて。 鬼神の上に乱れ落つれば。こと%\く矢。

先にかゝつて鬼神は残らず討たれにけり。ありがたし/\や。誠に呪詛。 諸毒薬念彼。

観音の力をあはせてすなはち還着於本人すなはち還着於本人の。 敵は亡びにけりこれ。観音の仏力なり 従僧 漁翁 漁夫 源義経の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「月も南の海原や。/\。八島の。 浦を尋ねん。 ワキ詞「これは都方より出でたる僧にて候。 我いまだ四国を見ず候ふほどに。 此度思ひたち西国行脚とこゝろざし候。道行三人「春霞。浮き立つ浪の沖つ舟。 /\。入日の雲も影そひて。 其方の空と行くほどに。はる%\なりし舟路へて。 八島の浦に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早讃岐の国八島の浦に着きて候。日の暮れて候へば。 これなる塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。 。 シテサシ一声「おもしろや月海上に浮んでは波濤夜火に似たり。

ツレ「漁翁夜西岸にそうて宿す。 二人「あかつき湘水を汲んで楚竹を焚くも。今に知られて芦火のかげ。 ほの見えそむるものすごさよ。 シテ「月の出汐の沖つ波。ツレ「霞の小舟。漕がれ来て。 シテ「海士の。よびこゑ。二人「里ちかし。 シテサシ「一葉万里の舟の道。 唯一帆の風に任す。ツレ「夕の空の雲の浪。 二人「月のゆくへに立ち消えて。霞に浮ぶ松原の。 影は緑にうつろひて。 海岸そことも知らぬ火の。筑紫の海にやつゞくらん。 下歌「こゝ。は八島の浦づたひ海士の家居もかず/\に。上歌「釣のいとまも波の上。/\。 かすみわたりて沖ゆくや。海士の小船の。

仄々と。見えて残る夕ぐれ。 浦風までものどかなる。春や心をさそふらん/\。 シテ詞「まづ/\塩屋に帰り休まうずるにて候。 ワキ詞「塩屋の主かへりて候。 立ちこえ宿を借らばやと思ひ候。 いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。 ツレ「誰にてわたり候ふぞ。ワキ「諸国一見の僧にて候。 一夜の宿を御かし候へ。ツレ「暫く御待ち候へ。 主に其由申し候ふべし。いかに申し候。 諸国一見の僧の。一夜の御宿とおほせ候。 シテ「やすきほどの御事なれども。 あまりに見ぐるしく候ふほどに。 御宿は叶ふまじき由申し候へ。 ツレ「御宿の事を申して候へば。余りに見ぐるしく候ふほどに。 叶ふまじき由おほせ候。ワキ「いや/\見ぐるしきは苦しからず候。 殊にこれは都方の者にて。 此浦はじめて一見のことにて候ふが。日の暮れて候へば。 ひらに一夜とかさねて御申し候へ。

ツレ「心得申し候。唯今の由申して候へば。 旅人は都の人にて御入り候ふが。 日のくれて候へば。ひらに一夜と重ねて仰せ候。 シテ「何旅人は都の人と申すか。ツレ「さん候。 シテ「げに痛はしき御事かな。 さらば御宿を貸し申さん。 ツレ「もとより住みかも芦の屋の。シテ「たゞ草枕とおぼしめせ。 ツレ「しかも今宵は照りもせず。 シテ「曇りもはてぬ春の夜の。シテツレ二人「朧月夜に。 しく物もなき海士の苫。 地「八島に立てる高松の。苔の筵は痛はしや。 地歌「さて慰は浦の名の。/\。 群れゐる田鶴を御らんぜよ。などか雲居に帰らざらん。 旅人の故郷も。都と聞けばなつかしや。 我等。 ももとはとてやがて涙にむせびけりやがて涙にむせびけり。 ワキ詞「いかに申し候。 何とやらん似合はぬ所望にて候へども。 古此処は源平の合戦の巷と承りて候。

よもすがら語つて御聞かせ候へ。 シテ詞「やすき間の事かたつて聞かせ申し候ふべし。 語「いで其頃は元暦元年三月十八日の事なりしに。 平家は海のおもて一町ばかり舟を浮べ。 源氏は此汀にうち出で給ふ。大将軍の御出立には。 赤地の錦の直垂に。紫裾濃の御着背長。 鎧ふんばり鞍かさにつゝ立ち上り。 一院の御使。源氏の大将検非違使五位の尉。 源の義経と名のり給ひし御骨がら。 あつぱれ大将やと見えし。 今のやうに思ひ出でられて候。ツレ「其時平家の方よりも。 言葉戦こと終り。兵船一艘漕ぎよせて。 波打際に下り立つて。 詞「陸の敵を待ちかけしに。 シテ「源氏の方にも続く兵五十騎ばかり。中にも三保の谷の四郎と名のつて。 真先かけて見えし所に。 ツレ「平家の方にも悪十兵衛景清と名のり。 三保の谷を目懸け戦ひしに。 シテ詞「彼の三保の谷は其時に。太刀打ち折つて力なく。

すこし汀に引き退きしに。 ツレ「景清追つかけ三保の谷が。シテ詞「着たる兜の錏をつかんで。 ツレ「うしろへ引けば三保の谷も。 シテ「身を遁れんと前へ引く。 ツレ「互にえいやと。シテ「引く力に。地「鉢付の板より。 引きちぎつて。 左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官。 御馬を汀にうちよせ給へば。 佐藤継信能登殿の矢先にかかつて馬より下に。どうど落つれば。 舟には菊王も討たれければ。 共にあはれと思ぼしけるか舟は沖へ陸は陣に。 相引に引く汐のあとは鬨の声たえて。 磯の浪松風ばかりの音さびしくぞなりにける。 ロンギ地「不思議なるとよ海士人の。 あまり委しき物語。其名を名のり給へや。 シテ「我が名を何と夕浪の。引くや夜汐も朝倉や。 。 木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし。地「げにや言葉を聞くからに。 其名ゆかしき老人の。シテ「昔を語る小忌衣。

地「頃しも今は。シテ「春の夜の。 地「潮の落つる暁ならば修羅の時になるべし其時は。 。 我が名や名のらんたとひ名のらずとも名のるとも。 義経の浮世の夢ばし覚まし給ふなよ夢ばしさまし給ふなよ。中入間「。 ワキ詞「ふしぎや今の老人の。 其名をたづねし答にも。よしつねの世の夢心。 さまさで待てと聞えつる。 歌待謡「声も更け行く浦風の。/\。松が根枕そばだてゝ。 思をのぶる苔筵。 かさねて夢を待ちゐたり/\。後シテ一声「落花枝にかへらず。 破鏡ふたたび照らさず。 然れどもなほ妄執の瞋恚とて。鬼神魂魄の境界にかへり。 我と此身を苦しめて。修羅の巷によりくる波の。 浅からざりし。業因かな。 ワキ「ふしぎやな早暁にもなるやらんと。 思ふ寝覚の枕より。 甲冑を帯し見え給ふは。もし判官にてましますか。 シテ詞「我義経の幽霊なるが。

瞋恚に引かるゝ妄執にて。なほ西海の浪にたゞよひ。 生死の海に沈淪せり。 ワキ「おろかやな心からこそ生死の。海とも見ゆれ真如の月の。 シテ「春の夜なれど曇なき。 心も澄める今宵の空。ワキ「昔を今に思ひいづる。 シテ「舟と陸との合戦の道。ワキ「所からとて。 シテ「忘れえぬ。地歌「武士の。 八島にいるや槻弓の。/\。もとの身ながら又こゝに。 弓箭の道は迷はぬに。迷ひけるぞや。 生死の。海山を離れやらで。 帰る八島の恨めしや。とにかく執心の。 残りの海の深きよに。夢物語申すなり夢物語申すなり。 地クリ「忘れぬものを閻浮の故郷に。 去つて久しき年波の。夜の夢路に通ひきて。 修羅道の有様あらはすなり。 シテサシ「思ひぞいづる昔の春。地「月も今宵にさえかへり。 地「本の渚はこゝなれや。 源平互に矢先をそろへ。 舟を組み駒をならべて打ち入れ。

/\足なみにくつばみを浸して攻め戦ふ。シテ詞「其時何とかしたりけん。 判官弓を取り落し。浪にゆられて流れしに。 地「其をりしもは引く汐にて。 遥に遠く流れゆくを。シテ詞「敵に弓を取られじと。 駒を浪間におよがせて。 敵船ちかくなりし程に。地「敵はこれを見しよりも。 船をよせ熊手にかけて。 既にあやふく見え給ひしに。シテ詞「されども熊手を切りはらひ。 終に弓を取り返し。 もとの渚にうちあがれば。地「其時兼房申すやう。 くちをしの御振舞やな。渡辺にて景時が申しゝも。 これにてこそ候へ。 たとひ千金を延べた。 る御弓なりとも御命には換へ給ふべきかと。涙を流し申しければ。 判官これを聞しめし。いやとよ弓を惜むにあらず。 クセ「義経源平に。弓矢を取つて私なし。 然れども。佳名は未だ半ならず。されば此弓を。 敵に取られ義経は。 小兵なりといはれんは。無念の次第なるべし。

よしそれ故に討たれんは。力なし義経が。 蓮の極と思ふべし。 さらずは敵に渡さじとて浪に引かるゝ弓取の。名は末代にあらずやと。 語り給へば兼房さて其外の。 人までも皆感涙をながしけり。シテ「知者は惑はず。 地「勇者は恐れずの。やたけ心の梓弓。 敵には取り伝へじと。惜むは名のため惜まぬは。 一命なれば。身を捨てゝこそ後記にも。 佳名を留むべき弓筆の跡なるべけれ。 シテ「又修羅道の鬨の声。地「矢叫びの音。 震動せり。カケリ「。 シテ詞「今日の修羅の敵は誰そ。なに能登の守教経とや。 あらものものしや。手なみは知りぬ。 思ひぞいづる壇の浦の。地「其船軍今は早。/\。 閻浮にかへる生死の。海山一同に。 震動して。舟よりは。鬨の声。 シテ「陸には波の楯。地「月に白むは。シテ「剣の光。 地「潮に映るは。シテ「兜の。星の影。 地「水や空空ゆくもまた雲の波の。

打ち合ひ刺し違ふる。船軍の懸引。 浮き沈むとせし程に春の夜の浪より明けて。 敵と見えしは群れゐる鴎。鬨の声と。聞えしは。

浦風なりけり高松の浦風なりけり。 高松の朝嵐とぞなりにける 旅僧 従者 梶原景季

ワキ、ワキツレ二人次第「春を心のしるべにて。/\。 憂からぬ旅に出でうよ。 ワキ詞「これは西国方より出でたる僧にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。 此度都に上り洛陽一見と志し候。道行三人「旅心。筑紫の海の船出して。/\。 。 八重の潮路を遥々と分けこし方の雲の波。煙も見えし松原の。 里の名問へば須磨の浦。生田の川に着きにけり/\。 シテ次第「来る年の矢の生田川。 流れて早き月日かな。サシ「飛花落葉の無常は又。 常住不滅の栄をなし。一色一香の縁生は。 無非中道の眼に応ず。

人間個々円成の観念。なほ以て至り難し。 あら定めなの身命やな。下歌「人間有為?の転変は。 眼子の中に現れて。上歌「閻浮に帰る妄執の。 /\。その生死の海なれや。 生田の川の幾世まで夜の巷に迷ふらん。 よしとても。 身の行方定ありとても終には夢の直路に帰らん夢の直路に帰らん。 ワキ詞「いかに申すべき事の候。 これなる梅は名木にて候ふか。 シテ「さん候これは箙の梅と申し候。 ワキ「あらおもしろや箙の梅とは。いつの世よりの名木にて候ふぞ。 シテ「いや名木ほどの事は候はねども。

ただわたくしに申しならはしたる異名にて候。ワキ「よし/\わたくしに名づけたる異名なりとも。委しく御物語り候へ。 シテ詞「そも/\この生田の森は。 平家十万余騎の大手なりしに。 源氏の方に梶原平三景時。同じき源太景季。 色殊なる梅花の有りしを。一枝折つて箙にさす。 此花則ち笠印となりて。景色あらはに著く。 功名人に勝れしかば。 景季かへつて此花を礼し。 則ち八幡の神木と敬せしよりこのかた。名将の古跡の花なればとて。 箙の梅とは申すなり。 ワキ「実にや名将の古跡と云ひ名木と云ひ。名残つきせぬ年々に。 シテ詞「ふるはほどなき春雨の。 ふるきに帰る名を聞けば。 ワキ「その景季の盛なりし。シテ「若木の花のしらま弓。 ワキ「箙の梅の。シテ「今までも。地上歌「名をとめし。 主は花の景季の。/\。 末の世かけて生田川の。身を捨てゝこそ。

名は久しけれものゝふの。 やたけ心の花にひく弓筆の名こそ妙なれや弓筆の名こそ妙なれ。 クリ「さるほどに平家は去年播磨の室山。 備中の水島二箇度の合戦に打ち勝つて。 山陽道南海道。 合はせて十四箇国のつはもの。 都合十万余騎。 津の国一の谷にぞ籠りける。 シテサシ「東は生田の森。 西は一の谷をかぎつて。 そのあひ三里が程は充ち満ちたり。 地「浦浦には数千艘の船をうかべ。 陸には赤旗いくらも立てならべ。春風になびき天に翻るありさま。 猛火雲を焼くかと見えたり。 シテ「総じてこの城の。前は海後は山。

地「左は須磨右は明石の。とよりかくより。行きかふ舟の。 ともねの千鳥の声々なり。 クセ「時しもきさらぎ上旬の空のことなれば。 須磨の若木の桜もまだ咲きかぬる薄雪のさえかへる浪こゝともに。 生田のおのづからさかりを得て。 かつ色見する梅が枝一花開けては天下の春よと。 軍の門出を祝ふ心の花もさきかけぬ。さるほどに味方の勢。

六万余騎を二手に分けて。 範頼義経の大手からめての。海山かけて須磨の浦。 四方をかこみて押し寄する。 シテ「魚鱗鶴翼もかくばかり。 地「後の山松に群れゐるは。残りの雪の白妙に。 ねぐらをたゝぬまなづるの。 つばさをつらぬるそのけしき。雲にたぐへておびたゞし。 浦には海人さま%\の。 漁父の船かげかず見えて。いさりたく火もかげろふや。 あらしも波も須磨のうら野にも山にも漕ぎ寄する。兵船はさながら。 天の鳥船もかくやらん。 ロンギ「はや夕ばえの梅の花。 月になりゆくかり枕。一夜の宿をかし給へ。 シテ「われはやどりも白雪の。 花の主と思し召さばしたぶしに待ち給へ。 地「花の主と思へとは。御身いかなる人やらん。 シテ「今は何をか包むべき。 われはこの世になき影の。地「跡訪はれんといふ草の。

シテ「その景季が幽霊なり。 地「御身他生の縁ありて。一樹の蔭の花の縁に。 鴬宿梅の木のもとに。 宿らせ給へわれはまた世を鴬の。 塒はこの花よとて失せにけりこの花よとてぞ失せにける。中入間「。 ワキ上歌三人待謡切迄囃子「うば玉の。夜の衣を返しつゝ。/\。 更け行くまゝに生田川水音も澄む夜もすがら。花の木蔭に臥しにけり/\。 後シテ一声「魂は陽に帰り。魄は陰に残る。 執心却来の修羅の妄執去つて生田の名にしおへり。 地「血は涿鹿{たくろく}の河となり。 シテ「紅波楯を流しつゝ。地「白刄骨を砕く苦。 月をも日をも。手に取る影かや。 長夜のやみ/\と眼もくらみ。心も乱るゝ。 修羅道の苦御覧ぜよ。 。 ワキ「不思議やなそのさまいまだ若武者の。胡〓{やなぐひ:竹冠に録}に 梅花の枝をさし。 さも華やかに見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。シテ「今は何をか包むべき。

これは源太景季。他生の縁の一樹の蔭に。 夢中の対面向顔をなす。御身貴き人なれば。 法味を得んと魄霊の。魂にうつりて来りたり。 跡とひ給へといはんとすれば。 カケリ「又嗔恚の敵の責。あれ御覧ぜよ御聖。 ワキ「げにげに見れば恐ろしや。 剣は雨と降りかゝつて。シテ「天地をかへす如くにて。 ワキ「山も震動。シテ「海も鳴り。ワキ「雷火も乱れ。 シテ「悪風の。 地「紅焔の旗を靡かし紅焔の旗を靡かして。閻浮に帰る生田河の。 浪をたて水をかへし。山里海川も。 皆修羅道の巷となりぬ。是はいかにあさましや。 シテ「暫く心を静めて見れば。 地「心を静めて見れば。所は生田なりけり。 時も昔の春の。梅の花さかりなり。 一枝手折りて箙にさせば。もとより窈窕たる若武者に。 相逢ふ若木の花かづら。 かくれば箙の花も源太も我さきかけんさきかけんとの。 心の花も梅も。散りかゝつて面白や。

敵のつはものこれを見て。 あつぱれ敵よ遁がすなとて。 八騎が中にとりこめらるれば。シテ「兜も打ち落されて。 地「大童の姿となつて。シテ「郎等三騎に後をあはせ。 地「向ふ者をば。シテ「拝み打ち。地「又めぐり合へば。 シテ「車斬。

地「蜘蛛手かく縄十文字。 鶴翼飛行の秘術を尽すと見えつるうちに。夢覚めて。しら/\と夜も明くれば。是までなりや旅人よ。 いとま申して花は根に。 鳥は古巣に帰る夢の鳥は古巣に帰るなり。よく/\弔ひて給び給へ 旅僧 従僧 老樵夫 薩摩守平忠度の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「花をも憂しと捨つる身の。 /\。月にも雲は・厭{いと}はじ。 ワキ詞「これは・俊成{しゆんぜい}の・御内{みうち}に在りし者にて候。 扨も・俊成{としなり}なくなり給ひて後。かやうの・姿{すがた}となりて候。 又・西国{さいこく}を見ずに候ふ程に。 ・此度{このたび}思ひ立ち・西国行脚{さいこくあんぎゃ}と志し候。 ・城南{せいなん}の離宮に赴き都をへだつる・山崎{やまざき}や。 ・関戸{せきど}の・宿{しゆく}は名のみして。・泊{とま}りも果てぬ旅の・習{ならひ}。 憂き身はいつも・交{まじはり}の。塵の・浮世{うきよ}の・芥川{あくたがは}。

・猪名{ゐな}の・小篠{をざき}を分け過ぎて。 下歌三人「月も・宿{やど}かる・昆陽{こや}の池・水底{みなそこ・清く澄みなして。 上歌「・芦{あし}の・葉分{はわけ}の風の音{おと}。/\。聞かじとするに憂き事の。 捨つる身までも。 ・有馬山{ありまやま}・隠{かく}れかねたる世の中の。憂きに心はあだ夢の。 覚むる枕に鐘ほとき。・難波{なには}は跡に・鳴尾潟{なるをがた}・沖浪{おきなみ}遠き。 ・小舟{をぶね}かな沖浪遠き小舟かな。 シテサシ一声「・実{げ}に世を渡る・習{ならひ}とて。 かく憂き業にもこりずまの。

汲まぬ時だに・塩木{しほき}を運べば。・乾{ほ}せども・隙{ひま}は・馴衣{なれごろも}の。 浦山かけて須磨の海。一セイ「・海人{あま}の・呼聲{よびごえ}ひまなきに。 しばなく・千鳥{ちどり}・音{ね}ぞ遠き。 サシ「抑この・須磨{すま}の浦と申すは。・淋{さび}しき故に其名を・得{う}る。 わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に。 もしほたれつゝわぶと答へよ。 実にや・漁{いさり}の・海人{あま}・小舟{をふね}。藻塩の・煙{けぶり}松の風。 いづれか・淋{さび}しからずと云ふ事なき。 詞「又此須磨の山陰に・一木{ひとき}の桜の候。 これはある人の・亡{な}き跡のしるしの木なり。殊更時しも春の花。 ・手向{たむけ}の為に・逆縁{ぎやくえん}ながら。 ・足引{あしびき}の山より帰る折ごとに。・薪{たきゞ}に花を折りそへて。 ・手向{たむけ}をなして帰らん手向けをなして歸らん。 ワキ詞「いかにこれなる・老人{らうじん}。 おことは此・山賎{やまがつ}にてましますか。 シテ詞「さん・候{ざふらふ}此浦の海人にて候。 ワキ「・海人{あま}ならば浦にこそ住むべきに。山ある・方{かた}に通はんをば。 ・山人{やまびと}とこそいふべけれ。 シテ詞「そも・蜑人{あまびと}の汲む・汐{しほ}をば。焼かで其まゝ置き候ふべきか。

ワキ「・実{げ}に/\これは・理{ことわり}なり。 ・藻塩{もしほ}たくなる・夕煙{ゆふけぶり}。シテ「絶間を遅しと塩木とる。 ワキ「道こそかはれ里ばなれの。 シテ「・人音{ひとおと}・稀{まれ}に須磨の浦。ワキ「近き・後{うしろ}の山里に。 シテ「柴といふ物の候へば。 地「柴といふ物の候へば。塩木の為に通ひ來る。 シテ「余りに・愚{おろか}なる。・御僧{おそう}・御諚{ごじょう}かなやな。 地「実にや須磨の浦・余{よ}の所にやかはるらん。 それ花につらきは・嶺{みね}の嵐や山おろしの。 音をこそ・厭{いと}ひしに。 須磨の・若木{わかき}の桜は海少しだにも隔てねば。 通ふ浦風に山の桜も散る物を。ワキ詞「如何に・尉殿{じょうどの}。 ・早{はや}日の暮れて候へば・一夜{いちや}の宿を・御{おん}かし候へ。 シテ詞「う。 たてなや此花の蔭ほどの・御宿{おやど}の候ふべきか。ワキ「・実{げ}に/\これは花の・宿{やど}なれどもさりながら。誰を・主{あるじ}と定むべき。 シテ「行き暮れて・木{こ}の・下蔭{したかげ}を宿とせば。 花や・今宵{こよひ}の・主{あるじ}ならましと。・詠{なが}めし人は此苔の下。 痛はしや我等が様なる海人だにも。

常は立ち寄り・弔{とぶら}ひ申すに。 御僧達はなど・逆縁{ぎやくえん}ながら。・弔{とぶら}ひ給はぬ。 ・愚{おろか}にまします人々かな。 ワキ詞「行き暮れて・木{こ}の・下蔭{したかげ}を宿とせば。花や今宵の・主{あるじ}ならましと。 ・詠{なが}めし人は・薩摩{さつま}の・守{かみ}。シテ詞「・忠度{たゞのり}と申しゝ人は。 此・一{いち}の・谷{たに}の・合戦{かつせん}に討たれぬ。 ゆかりの人の植ゑ置きたる。しるしの木にて候ふなり。 ワキ「こはそも不思議の・値遇{ちぐ}の縁。 さしもさばかり・俊成{としなり}の。 シテ「・和歌{わか}の友とて浅からぬ。ワキ「・宿{やど}は・今宵{こよひ}の。シテ「・主{あるじ}は人。 地「名も・忠度{たゞのり}の声聞きて。花の・台{うてな}に座し給へ。 シテ「有難や今よりは。 かく・弔{とぶらひ}の声聞きて・仏果{ぶつくわ}を得んぞ嬉しき。 地「不思議や今の老人の。・手向{たむけ}の声を身に受けて。 喜ぶ・気色{けしき}見えたるは何の故にてあるやらん。 シテ「・御僧{おそう}に・弔{と}はれ申さんとて。 これまで・来{きた}れりと。地「・夕{ゆふべ}の花の蔭に寝て。 夢の告をも待ち給へ。 ・都{みやこ}へ・言{こと}づて申さんとて花。

の蔭に・宿木{やどりぎ}の行くかた知らずなりにけり行く方知らずなりにけり。中人間。 ワキ詞「・先々{まづ/\}・都{みやこ}に帰りつゝ。 ・定家{ていか}に・此事{このこと}・申{まを}さんと。三人待謠「・夕月{ゆふづき}早くかげろふの。/\。 おのが友よぶ・村千鳥{むらちどり}の。 跡見えぬ・磯山{いそやま}の・夜{よる}の花に旅寝して。浦風までも心して。 春に聞けばや音すごき。須磨の・関屋{せきや}の。 ・旅寝{たびね}かな須磨の・関屋{せきや}の旅寝かな。 後シテ一声「恥かしや亡き跡に。 ・姿{すがた}を帰す夢のうち。・覺{さ}むる心は・古{いにしへ}に。迷ふ・雨夜{あまや}の物語。 。 申すさんために・魂魄{こんぱく}にうつりかわりて・来{きた}りたり。さなぎだに・妄執{まうしふ}多き娑婆なるに。 ・何中々{なになかなか}の・千載集{せんざいしふ}の。 歌の・品{しな}には入りたれども。・勅勘{ちよくかん}の身の悲しさは。 よみ・人{びと}知らずと書かれし事。・妄執{まうしふ}の中の第一なり。 されども。それを・撰{せん}じ給ひし。 ・俊成{としなり}さへ空しくなり給へば。 御身は・御内{みうち}にありし人なれば。今の・定家{ていか}・君{きみ}に申し。 然るべくは・作者{さくしや}をつけてたび給へと。 ・夢物語{ゆめものがたり}申すに。須磨の浦風も心せよ。 地クリ「実にや・和歌{わか}の家に生れ。 その道を嗜み。 ・敷島{しきしま}のかげに依つし事・人倫{じんりん}に於て専らなり。ワキサシ「中にも・此{この}・忠度{たゞのり}は。 文武二道を受け給いて・世上{せじやう}に・眼{まなこ・高し。地「そも/\・後白河{ごしらかは}の院の・御宇{ぎよお}に。・千載集{せんざいしふ}を撰はる。 ・五条{ごでう}の三位俊成の卿。承つてこれを・撰{せん}ず。 下歌「年は・寿永{じゆえい}の秋の頃。 ・都{みやこ}を出でし時なれば。上歌「さも・忙{いそがは}しかりし身の。/\。 心の花か・蘭菊{らんぎく}の。・狐川{きつねがは}より引き返し。 ・俊成{としなり}の家に行き歌の・望{のぞみ}を嘆きしに。 ・望{のぞみ}足りぬれば。又・弓箭{きゆうせん}にたづさはりて。 ・西海{せいかい}の波の上。暫しと頼む須磨の浦。 ・源氏{げんじ}の住み・所{どころ}。 ・平家{へいけ}の為はよしなしと知らざりけるぞはかなき。 地「さる程に・一{いち}の・谷{たに}の・合戦{かつせん}。 今はかうよと見えし程に。 皆々舟に取り乗つて・海上{かいしやう}に浮ぶ。シテ詞「・我{われ}も船に乗らんとて。 ・汀{みぎは}の・方{かた}に打ち出でしに。・後{うしろ}を見れば。 ・武蔵{むさし}の国の・住人{ぢうにん}に。・岡部{をかべ}の六弥太・忠澄{たゞすみ}と名のつて。

・六{ろく}・七騎{ろくしちき}にて追つかけたり。 これこそ望む所よと思ひ。・駒{こま}の・手綱{たづな}を引つかへせば。 ・六弥太{ろくやた}やがてむづと組み。 ・両馬{りやうば}が・間{あひ}にどうど落ち。・彼{か}の・六弥太{ろくやた}を取つておさへ。 既に・刀{かたな}に手をかけしに。 地「・六弥太{ろくやた}が・郎等{らうどう}・御後{おんうしろ}より立ちまはり。・上{うへ}にまします・忠度{たゞのり}の。 右の・腕{かひな}を打ち落せば。 左の・御手{おんて}にて六弥太。 を取つて投げのけ今は叶はじと思し召して。そこのき給へ人々よ。 ・西{にし}拝まんと・宣{のたま}ひて。 光明偏照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣ひし。・御聲{おんこゑ}の下よりも。 痛はしやあへなくも。・六弥太{ろくやた}・太刀{たち}を抜き持ち。 つひに・御首{おんくび}を打ち落す。 シテ「六彌太{ろくやた}。心に思ふやう。 地「痛はしや・彼{か}の人の。・御{おん}死骸を見奉れば。

其年もまだしき。・長月頃{ながづきごろ}の・薄曇{うすぐもり}。 降りみ降らずみ・定{さだめ}なき。・時雨{しぐれ}ぞ通ふ・村紅葉{むらもみぢ}の。 ・錦{にしき}の直垂はたゞ世の常によもあらじ。 いかさまこれは・公逹{きんだち}の。・御中{おんなか}にこそあるらめと。 ・御名{おんな}ゆかしき所に。箙を見れば不思議やな。 ・短冊{たんざく}を附けられたり。 見れば・旅宿{りよしゆく}の題をすゑ。行き暮れて。・木{こ}の・下蔭{したかげ}を宿とせば。 カケリ「。シテ「花や今宵の。・主{あるじ}ならまし。 ・忠度{たゞのり}と書かれたり。 地「さては・疑{うたがひ}あらしの音に聞えし・薩摩{さつま}の・守{かみ}にてますぞ痛はしき。 キリ地「・御身{おんみ}此花の。 蔭に立ち寄り給ひしを。 かく・物語{ものがた}り・申{まを}さんとて日を・暮{く}らしとどめしなり。今は・疑{うたがひ}よもあらじ。 花は・根{ね}に帰るなり。・我{わ}が跡とひてたび給へ。 ・木陰{こかげ}を・旅{たび}の・宿{やど}とせば。花こそ・主{あるじ}なりけれ。 藤原俊成 平忠度 岡部六弥太 俊成従者

ワキ詞「かように候ふ者は。 ・武蔵{むさし}の・国{くに}の・住人{ぢうにん}。・岡部{をかべ}の・六弥太忠澄{ろくやたたゞすみ}にて候。 さても・今度{こんど}・西海{さいかい}の・合戦{かせん}に。・薩摩{さつま}の・守{かみ}忠度をば。 ・某{それがし}が手にかけ失ひ申して候。 ・御最期{ごさいご}の後・尻籠{しこ}を見奉れば。・短冊{たんざく}の御座候。又承り候へば。 五・条{でう}の・三品{さんゐ}・俊成卿{しゅんぜいぎゃう}と。 和歌の御知遇の由申し候ふ・間{あひだ}。此・短冊{たんざく}を持ちて参り。 俊成卿の・御目{おんめ}に書けばやと存じ候。 いかに・案内{あんない}申し候。トモ「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「・岡部{をかべ}の・六弥太忠澄{ろくやたたゞずみ}が参りたる・由{よし}・御{おん}申し候へ。 トモ「心得申し候。いかに申し上げ候。 ツレ「何事にてあるぞ。 トモ「・岡部{をかべ}の・六弥太忠澄{ろくやたたゞずみ}の・伺候{しこう}申されて候。 ツレ「こなたへと申し候へ。トモ「畏つて候。 こなたへ・御参{おんまゐ}り候へ。ワキ「心得申し候。ツレ「いかに・忠澄{たゞずみ}。 扨唯今何の為に来り給ひて候ふぞ。 ワキ「さん・候{ざふらふ}唯今参る事・余{よ}の儀にあらず。 ・西海{さいかい}・の合戦{かせん}に・薩摩{さつま}の・守{かみ}・忠度{たゞのり}をば。 某が手にかけ失ひ申して候。

御最期の・後{のち}・尻籠{しこ}を見候へば。・短冊{たんざく}の御座候。承り候へば。 ・忠度{たゞのり}とは浅からぬ和歌の・御値遇{おんちぐう}の由承り候ふ間。 ・御目{おんめ}にかけばやと存じ。 唯今持ちて参りて候。ツレ「こなたへ賜り候へ。 げにや・弓馬{きうば}の道ならねど。 いつしか世に名を残し置き給ふ事の・哀{あはれ}さよ。詞「なに/\・旅宿{りよしゆく}の花と云ふ・題{だい}にて。 行き暮れて・木{こ}の・下蔭{したかげ}を宿とせば。花や・今宵{こよひ}の・主{あるじ}ならまし。 地上歌「いたはしや・忠度{たゞのり}は。/\。 ・破戒無慙{はかいむざん}の罪を恐れ。・仁儀礼智信{じんぎれいちしん}。 五つの道も正しくて。・歌道{かだう}に・達者{たつしや}たり弓矢に。 名を揚げ給へば。・文武二道{ぶんぶにだう}の忠度の。 船をえて・彼{か}の・岸{きし}の。・台{うてな}にいたり給へや/\。 シテサシ「・前途{ぜんと}・程{ほど}遠し。 ・思{おもひ}を・雁山{がんざん}の・夕{ゆふべ}の雲に馳す。八重の・潮路{しほぢ}に沈みし身なれども。 ・猶{なほ}・九重{こゝのへ}の春にひかれ。 ・共{とも}にながめし花の色。我が・面影{おもかげ}や見えつらん。 ・命{いのち}たゞ心にかなふものならば。・何{なに}か・別{わかれ}の。 ・物憂{ものう}かるべき。詞「いかに俊成卿。

・忠度{たゞのり}こそこれまで参りて候へ。 ツレ「不思議や・夢現{ゆめうつゝ}とも分かざるに。・薩摩{さつま}の・守{かみ}の・御姿{おんすがた}。 現れ給ふ不思議さよ。シテ詞「さても・千載集{せんざいしふ}に。 一首の歌を入れさせ給ふ。御志は嬉しけれども。 ・読人{よみびと}知らずと書かれしこと。 心にかゝり候。ツレ「尤もそれはさることなれども。 。 詞「・朝敵{てうてき}の・御名{おんな}を・現{あらは}さんは世のはゞかりなり。よしや此歌あるならば。 ・御名{おんな}は隠れもあらじ。・御心安{おんこゝろやす}く思しめせ。 シテ「われもさこそとしら雪の。 古き世までも歌あらば。ツレ「其名もさすが・武蔵鐙{むさしあぶみ}。 ・隠{かくれ}はあらじわれ・人{ひと}の。シテ「情の末も・深見草{ふかみぐさ}。 ツレ「引くや・詠歌{えいか}も心ある。 シテ「・故郷{こきやう}の花といふ題にて。地「さゝ・波{なみ}や。 ・志賀{しが}の都は荒れにしを。志賀の都は荒れにしを。 昔ながらの。・山桜{やまざくら}かなと。 詠みしも永き世の。ほまれをのこす・詠歌{えいか}かな。 げにや・憂{うき}・世{よ}は・電光{でんくわう}。・胡蝶{こてう}の夢の・戯{たはぶれ}に。 ・謡{うた}へや舞へや・津{つ}の・国{くに}の。なにはの事も忠度なり。

疑はせ給ふなわれ疑はせ給ふな。 ツレサシ「・凡{およ}そ歌には・六義{ろくぎ}あり。 これ・六道{ろくだう}の巷に詠じ。地「・千早振{ちはやぶる}神代の歌は。 ・文字{もじ}の・数{かず}も・定{さだめ}なし。シテ「・其後{そののち}・天照大神{あまてるおほんがみ}の・御兄{おんこのかみ}。 地「・素盞鳴尊{そさのをのみこと}より。 ・三十一字{みそひともじ}に定め置きて。・末世末代{まつせまつだい}の。ためしとかや。 クセ「其ゆゑ。素盞鳴尊の。 女と住み給はんとて。・出雲{いづも}の国に居まして。 ・大宮作{おほみやづくり}せし所に。・八色雲{やいろぐも}の立つをご覧じて尊の。 一首の・御詠{ごえい}かくばかり。 ・八雲{やくも}立つ出雲八重垣妻ごめに。・八重垣{やへがき}つくる。その・八重垣{やへがき}をと。 。 ・神詠{しんえい}もかたじけなや今の世のためしなるべし。さてもわれ須磨の浦に。 ・旅寝{たびね}して眺めやる。明石の浦の・朝霧{あさぎり}と。 詠みしも思ひ知られたり。 シテ「・人丸{ひとまる}・世{よ}に亡くなりて。地「歌の事とゞまりぬと。 ・紀{き}の・貫之{つらゆき}も・躬恒{みつね}もかくこそ。書き置きしかども。 松の葉の散り失せず。・真折{まさき}のかづら。 永く・伝{つた}はり鳥の跡あらん其ほどは。

よも・尽{つき}せじな敷島の。歌には神も・納受{なふじゆ}の。・男女{なんにょ}。 ・夫婦{ふうふ}の・媒{なかだち}とも此歌の情なるべし。 あら・名残惜{なごりを}しの。夜すがらやな。カケリ「。 ツレ「不思議や見れば・忠度{たゞのり}の。 けしき変りて・気疎{けうと}き有様。 こはそもいかなる事やらん。シテ詞「あれ御覧ぜよ・修羅王{しゆらわう}の。 ・梵天{ぼんでん}に攻め・上{のぼ}るを。・帝釈{たいしやく}出で逢ひ・修羅王{しゆらわう}を。 もとの・下界{げかい}に追つ・下{くだ}す。 地「すは・敵陣{てきぢん}は乱れ合ひ。/\。・喚{をめ}き・叫{さけ}べば・忠度{たゞのり}も。 嗔恚の焔は・荒磯{あらいそ}の。波の・打物{うちもの}・抜{ぬ}いて。 切つてかゝれば・敵人{てきじん}は。 ・矛{ほこ}を揃へてかゝり給へば。 ・忠度{たゞのり}・相向{あひむか}つて打ち払へば其まゝ見えず。・敵{かたき}を失ひあきれて立てば。天よりは。

・火車{くわしや}降りかゝり。 地より・鉄刀{てつたう}足を貫き立つも立たれず居るも居られぬ。 ・修羅王{しゆらわう}の・責{せめ}。こはいかにあさましや。 シテ「やゝあつてさゝ波や。地「やゝあつてさゝ波や。 ・志賀{しが}の都はあれにしを。昔ながらの。 山桜かなと。・梵天{ぼんでん}感じ給ひしより。 ・剣{つるぎ}の・責{せめ}を・免{まぬか}れて。暗やみとなりしかば。 ・灯火{ともしび}を・背{そむ}けては。共に憐む深夜の月。 花を踏んでは同じく惜しむ。・少年{せうねん}の春の夜も。 はや・白々{しら/\}と明けわたれば。 ありつる姿は消え/\と。ありつる・姿{すがた}は・鶏籠{けいろう}の山。 。 ・木隠{こがく}れて失せにけりあと・木隠{こがく}れて失せにけり 仁和寺僧僧都行慶 平経政

ワキ僧詞「是は・仁和寺{にんわじ}・御室{おむろ}に仕へ申す。 ・僧都{そうづ}・行慶{ぎやうけい}にて候。

さても・平家{へいけ}の・一門{いちもん}・但馬{たじま}の・守{かみ}・経政{つねまさ}は。いまだ・童形{どうぎやう}の時より。 ・君{きみ}・御寵愛{ごちようあい}なのめならず候。

然るに・今度{こんど}・西海{さいかい}の・合戦{かせん}に討たれ給ひて候。 又・青山{せいざん}と申す・御琵琶{おんびは}は。・経政{つねまさ}・存生{ぞんじやう}の時より・預{あづ}け・下{くだ}されて候。 ・彼{か}の・御琵琶{おんびは}を仏前に据ゑ置き。 ・管絃講{くわんげんかう}にて・弔{とぶら}ひ申せとの御事にて候ふ程に。 ・役者{やくしや}を集め候。げにや・一樹{いちじゆ}の蔭に宿り。 ・一河{いちが}の・流{ながれ}を・汲{く}む事も。皆是・他生{たしやう}の・縁{えん}ぞかし。 ましてや多年の・御値遇{おんちぐう}。 ・恵{めぐめ}を深くかけまくも。忝くも・宮中{きうちう}にて。 ・法事{ほふじ}をなして夜もすがら。・平{たひら}の経政・成等正覚{じやうとうしやうがく}と。 ・弔{とぶら}ひ給ふ有難さよ。地上歌「ことに又。 ・彼{か}の・青山{せいざん}と云ふ琵琶を。 /\。・亡者{まうじや}の為に・手向{たむ}けつゝ。 同じく・糸竹{いとたけ}の。声も・仏事{ぶつじ}をなしそへて。 。・日々夜々{にち/\やゝ}の・法{のり}の・門{かど}貴賎の道もあまねしや/\。シテサシ「・風{かぜ}・枯木{こぼく}を吹けば・晴天{はれてん}の雨。 月・平沙{へいさ}を照らせば夏の夜の。 霜の・起居{おきゐ}も安からで。・仮{かり}に見えつる草の蔭。 露の身ながら消え残る。・妄執{まうしふ}の・縁{えん}こそつたなけれ。 ワキ「不思議やなはや・深更{しんかう}になるまゝに。 ・夜{よる}の・灯火{ともしび}・幽{かすか}なる。光の内に人影の。

あるかなきかに見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「われ・経政{つねまさ}が・幽霊{いうれい}なるが。・御弔{おんとぶらひ}の有難さに。 是まで現れ参りたり。ワキ「そも・経政{つねまさ}の幽霊と。 答ふる・方{かた}を見んとすれば。 。又消え%\と・形{かたち}もなくて。 シテ「声は・幽{かすか}に絶え残つて。 。 ワキ「まさしく見えつる人影の。 シテ「あるかと見れば。 ワキ「又見えもせで。 シテ「あるか。 ワキ「なきかに。 シテ「かげろふの。 上歌地「幻の。常なき身とて・経政{つねまさ}の。/\。 もとの・浮世{うきよ}に帰り来て。 それとは名のれどもその・主{ぬし}の。・形{かたち}は見えぬ・妄執{まうしふ}の。 ・生{しやう}をこそ隔つれどもわれは人を見る物を。

げにや・呉竹{くれたけ}の。・筧{かけひ}の水はかはるとも。 すみあかざりし・宮{みや}のうち。まぼろしに参りたり。 ・夢幻{ゆめまぼろし}に参りたり。 。 ワキ詞「不思議やな・経政{つねまさ}の幽霊かたちは消え声は残つて。 なほも・詞{ことば}をかはしけるぞや。よし夢なりとも・現{うつゝ}なりとも。 ・法事{ほふじ}の・功力{くりき}成就して。・亡者{まうじや}に詞を・交{かは}す事よ。 あら不思議の事やな。

シテ詞「われ・若年{じやくねん}の昔より・宮{みや}の内に参り。・世上{せじやう}に・面{おもて}をさらす事も。 ・偏{ひとへ}に君の・御恩徳{ごおんどく}なり。 中にも・手向{たむ}け下さるる。・青山{せいざん}の・御{おん}琵琶。 ・娑婆{しやば}にての・御許{ごゆる}されを蒙り。常に手馴れし四つの・緒{を}に。 地下歌「今もひかるゝ心故。聞きしに似たる・撥音{はちおと}の。 これぞまさしく・妙音{めうおん}の。・誓{ちかひ}なるべし。 地上歌「さればかの・経政{つねまさ}は。/\。 未だ・若年{じやくねん}の昔より。外には・仁義礼智信{じんぎれいちしん}の。 ・五常{ごじやう}を守りつゝ。内には・又{また}・花鳥風月{くわてうふうげつ}。 ・詩歌{しいか}管絃を・専{もつぱ}らとし。 ・春秋{はるあき}を・松蔭{まつかげ}の草の・露{つゆ}水のあはれ世の心にもるゝ。花もなし/\。 ワキ詞「・亡者{まうじや}のためには何よりも。 ・娑婆{しやば}にて・手馴{てな}れし・青山{せいざん}の琵琶。おの/\・楽器{がくき}を・調{とゝの}へて。・糸竹{いとたけ}の・手向{たむけ}を進むれば。 シテ詞「・亡者{まうじや}も立ち寄り・灯火{ともしび}の影に。 人には見えぬものながら。・手向{たむけ}の琵琶を・調{しら}ぶれば。 ワキ「時しも頃は・夜半楽{やはんらく}。 ・眠{ぬぶり}を覚ますをりふしに。シテ詞「不思議や晴れたる空かき曇り。 俄に降りくる雨の音。

ワキ「・頻{しきり}に・草木{くさき}を払ひつゝ。時の・調子{てうし}もいかならん。 シテ「いや雨にてはなかりけり。 あれ・御覧{ごらん}ぜよ雲の・端{は}の。地「月に・双{ならび}の岡の松の。 ・葉風{はかぜ}は吹き落ちて。・村雨{むらさめ}の如く音づれたり。 面白やをりからなりけり。・大絃{だいげん}は〓{口へんに曹}々(そう/\)として。 ・村雨{むらさめ}の如しさて。・小絃{せうげん}は切々(せつ/\)として。 ・私語{さゝめごと}に異ならず。クセ「・第一{だいいち}・第二{だいに}の・絃{げん}は。 索索として秋の風。松を払つて・疎韻{そゐん}落つ。 第三第四の・絃{げん}は。冷々として・夜{よる}の鶴の。 子を思つて・籠{こ}の内になく。鶏も心して。 ・夜遊{やいう}の・別{わかれ}とゞめよ。 シテ「一声の・鳳管{ほうくわん}は。地「・秋{あき}・秦嶺{しんれい}の雲を動かせば。 ・鳳凰{ほうわう}もこれにめでて。・梧竹{きりたけ}に飛び・下{くだ}りて。 ・翅{つばさ}を連ねて舞ひ遊べば。・律呂{りつりよ}の声々に。・心{こゝろ}・声{こゑ}に発す。 ・声{こゑ}・文{あや}をなす事も。昔を返す・舞{まひ}の・袖{そで}。 ・衣笠山{きぬがさやま}も近かりき。 おもしろの・夜遊{やいう}やあらおもしろの・夜遊{やいう}やな。 あらなごり惜しの夜遊やな。カケリ「。 。

シテ詞「あら・恨{うら}めしやたま/\・閻浮{えんぶ}の夜遊に帰り。心をのぶる折節に。 また・嗔恚{しんい}の・発{おこ}る・恨{うら}めしや。 ワキ「さきに見えつる・人影{ひとかげ}の。なほあらはるゝは・経政{つねまさ}か。 シテ「あら恥かしや・我{わ}が姿。 はや人々に見えけるぞや。あの・灯火{ともしび}を消し給へとよ。 地「・灯火{ともしび}を・背{そむ}けては。/\。 ともにあはれむ・深夜{しんや}の月をも。手に取るや・帝釈{たいしやく}・修羅{しゆら}の。 ・戦{たゝかひ}は火を・散{ちら}して。・嗔恚{しんい}の・猛火{みやうくわ}は雨となつて。 身にかゝれば。払ふ・剣{つるぎ}は他を・悩{なやま}し。 我と身を切る。 ・紅波{こうは}はかへつて・猛火{みやうくわ}となれば。身を焼く・苦患{くげん}。恥かしや。 人には見えじものを。あの・灯火{ともしび}を消さんとて。 その身は・愚人{ぐにん}・夏{なつ}の虫の。 火を消さんと飛び入りて。・嵐{あらし}とともに・灯火{ともしび}を吹き消して。 くらまぎれより。・魄霊{はくれい}は。 失せにけり・魄霊{はくれい}の影は失せにけり 従僧 漁翁 若女 平通盛 小宰相局

。 ワキ詞「是は阿波の鳴門に・一夏{いちげ}を送る僧にて候。扨も此浦は。 平家の一門はて給ひたる処なれば痛はしく存じ。 毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。 唯今も出でて弔ひ申さばやと思ひ候。歌「磯山に。 暫し岩根のまつ程に。/\。 誰が夜舟とは白波に。楫音ばかり鳴門の。浦静かなる。 今宵かな。ワキワキツレ「浦静かなる今宵かな。 ツレ一聲サシ「すは・遠山寺{とほやまでら}の鐘の聲。 この磯辺近く聞え候。シテ「入相ごさめれ急が給へ。 ツレ「程なく暮るゝ日の数かな。 シテ「昨日過ぎ。ツレ「今日と暮れ。 シテ「明日またかくこそ有るべけれ。 ツレ「されども老に頼まぬは。シテ「身のゆくすゑの日数なり。 シテツレ二人「いつまで世をばわたづみの。

あまりに隙も波小舟。 ツレ「何を頼に老の身の。シテ「命のために。二人「使ふべき。 地歌「憂きながら。心のすこし慰むは。 /\。月の出汐の海士小舟。 さも面白き浦の秋の景色かな。処は夕浪の。 鳴門の沖に雲つゞく。 淡路の島や離れ得ぬ浮世の業ぞ悲しき浮世の業ぞ悲しき。 シテサシ「暗濤月を埋んで清光なし。 ツレ「舟に焚く海士の篝火更け過ぎて。 二人「苫よりくゞる夜の雨の。 芦間に通ふ風ならでは。音する物も波枕に。 夢か現か御経の声の。嵐につれて聞ゆるぞや。 ・楫音{かぢおと}を静め唐櫓を抑へて。聴聞せばやと思ひ候。 ワキ「誰そや此鳴門の沖に音するは。 シテ「泊定めぬ海士の釣舟候ふよ。

ワキ「さもあらば思ふ子細あり。この磯近く寄せ給へ。 シテ「仰に随ひさし寄せ見れば。 ワキ「二人の僧は巖の上。シテ「漁の舟は岸の陰。 ワキ「芦火の影を仮初に。 御経を開き読誦する。シテ「有難や漁する。 業は芦火と思ひしに。ワキ「善き燈火に。シテ「鳴門の海の。 。 シテワキ二人「弘誓深如海歴劫不思議の機縁によりて。五十展転の随喜功徳品。 地下歌「実にありがたやこの経の。 面ぞくらき浦風も。芦火の影を吹き立てゝ。 聴聞するぞありがたき。上歌「竜女変成と聞く時は。 /\。姥も頼もしや祖父はいふに及ばす。 。 願も三つの車の芦火は清く明かすべしなほ/\お経。遊ばせなほ/\お経あそばせ。ワキ詞「あら嬉しや候。 火の光にて心静に御経を読み奉りて候。 先々此浦は。平家の一門果て給ひたる処なれば。 毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。 。

取り分き如何なる人此浦にて果て給ひて候ふぞ委しく御物語り候へ。 シテ詞「仰の如く或は討たれ。 又は海にも沈み給ひて候。中にも小宰相の局こそ。や。 もろともに御物語り候へ。 ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。 海士の小船に乗りうつり。 月に棹さす時もあり。 シテサシ「こゝだにも都の遠き須磨の浦。二人「思はぬ敵に落されて。 実に名を惜む武士の。おのころ島や淡路潟。 阿波の鳴門に着きにけり。 ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。 二人「いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。 通盛は討たれぬ。 誰を頼みてながらふべき。此海に沈まんとて。主従泣く/\手を取り組み舟端に臨み。 ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ。 地下歌「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮ぶらん。 上歌「西はと問へば月の入る。/\。 其方も見えず大方の。

春の夜や霞むらん涙もともに曇るらん。乳母泣く/\取り付きて。此時の物思君一人に限らず。 思し召し止り給へと・御衣{おんきぬ}の袖に取り付くを。 。 振り切り海に入ると見て老人も同じ満汐の。底の水屑となりにけり/\。 ワキワキツレ歌「此八軸の誓にて。/\。 一人も洩らさじの。方便品を読誦する。 ワキ「如我昔所願。 後シテ出端「今者已満足。ワキ「化一切衆生。 シテ「皆令入仏道の。地「通盛夫婦。 御経に引かれて。立ち帰る波の。 シテ「あら有難の。御法やな。 ワキ「不思議やなさも艶めける御姿の。 波に浮びて見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 ツレ「名ばかりはまだ消え果てぬあだ波の。阿波の鳴門に沈み果てし。 小宰相の局の幽霊なり。 ワキ「今一人は甲胃を帯し。兵具いみじく見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。

シテ「これは生田の森の合戦に於て。名を天下に掲げ。 武将たつし誉を。越前の三位通盛。 昔を語らん其為に。 これまで現れ出でたるなり。地サシ「そも/\此一の谷と申すに。 前は海。上は険しき鵯越。 まことに鳥ならでは翔り難く獣も。 足を立つべき地にあらず。 シテ「唯幾度も追手の陣を心もとなきぞとて。地「・宗徒{むねと}の一門さし遣はさる。 通盛も其随一たりしが。 忍んで我が陣に帰り。小宰相の局に向ひ。クセ「既に軍。 明日にきはまりぬ。 痛はしや御身は通盛ならで此うちに頼むべき人なし。 我ともかくもなるならば。都に帰り忘れずは。 亡き跡弔ひてたび給へ。 名残をしみの御盃。通盛酌を取り。指す盃の宵の間も。 転寝なりし睦言は。たとえば唐土の。 項羽高祖の攻を受け。数行虞氏が。 涙も是にはいかで増るべき。燈火暗うして。 月の光にさし向ひ。語り慰む所に。

シテ「舎弟の能登の守。地「早甲胃をよろひつゝ。 通盛は何くにぞ。など遅なはり給ふぞと。 呼ばはりし其声の。 あら恥かしや能登の守。我が弟といひながら。 他人より猶恥かしや。暇申してさらばとて。 行くも行かれぬ一の谷の。所から須磨の山の。 後髪ぞ引かるゝ。カケリ「。 。 シテ詞「さる程に合戦も半なりしかば。 但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ。 ワキ「さて薩摩の守忠度の果はいかに。シテ「岡部の六弥太。 詞「忠澄と組んで討たれしかば。

あつぱれ通盛も名ある侍もがな。討死せんと待つ所に。 すはあれを見よ好き敵に。 地「近江の国の住人に。/\。 木村の源吾重章が鞭を上げて駈け来る。通盛少しも騒がず。 抜き設けたる太刀なれば。兜の。 真向ちやうと打ち返す。 太刀にてさし違へ共に修羅道の苦を受くる。憐を垂れ給ひ。よく弔ひてたび給へ。 キリ地「読誦の声を聞く時は。/\。 悪鬼心を和らげ。忍辱慈悲の姿にて。 菩薩もこゝに来迎す。成仏得脱の。 身となり行くぞ有難き/\ 旅僧 舟人 今井四郎兼平の霊

ワキ次第「始めて旅を信濃路や。/\。 木曽の行方を尋ねん。 詞「これは木曽の山家より出でたる僧にて候。さても木曽殿は。 江。

州粟津が原にて果て給ひたる由承り及びび候ふ程に。 かの御跡を弔ひ申さばやと思ひ。唯今粟津が原へと急ぎ候。 道行「信濃路や。木曽の梯名にしおふ。/\。 其跡とふや道のべの草の蔭野の仮枕。

夜を重ねつゝ日を添へて。 行けばほどなく近江路や。矢橋の浦に着きにけり/\。 シテ一セイ「世のわざの。 憂きを身に積む柴舟や。焚かぬ先より。漕がるらん。 ワキ詞「なう/\其船に便船申さうなう。 シテ詞「是は山田矢橋の渡舟にてもなし。 御覧候へ柴積みたる船にて候ふ程に。 便船は叶ひ候ふまじ。 ワキ「此方も柴舟と見申して候へども。折節渡に舟もなし。 出家の事にて候へば別の御利益に。 舟を渡してたび給へ。シテ「実にも/\出家の御身なれば。 詞「余の人にはかはり給ふべし。 実に御経にも如渡得船。 ワキ「船待ち得たる旅行の暮。シテ「かゝるをりにも近江の海の。 二人「矢橋をわたる船ならば。 それは旅人の渡舟なり。地歌「是は又。 浮世を渡る柴舟の。/\。干されぬ袖も水馴棹の。 見馴れぬ人なれど。法の人にてましませば。 。

船をばいかで惜むべきとく/\召され候へとく/\召され候へ。 ワキ詞「如何に船頭殿に申すべき事の候。 見え渡りたる浦山は皆名所にてぞ候ふらん。御教へ候へ。 シテ詞「さん候皆名所にて候。 御尋ね候へ教へ申し候ふべし。 ワキ「まづ向ひに当つて大山の見えて候ふは比叡山候ふか。 シテ「さん候あれこそ比叡山にて候へ。 麓に山王二十一社。茂りたる峯は八王子。 戸津坂本の人家まで残なく見えて候。 ワキ「さてあの比叡山は。 王城より艮に当つて候ふよなう。シテ「なか/\の事それ我が山は。王城の鬼門を守り。 悪魔を払ふのみならず。一仏乗の嶺と申すは。 伝へ聞く鷲の御山を象れり。 又天台山と号するは。震旦の四明の洞をうつせり。 。 詞「伝教大師桓武天皇と御心を一つにして。延暦年中の御草創。 我が立つ杣と詠じ給ひし。 根本中堂の山上まで残なく見えて候。

ワキ「さて/\大宮の御在所橋殿とやらんも。 あの坂本のうちにて候ふか。シテ「さん候麓に当つて。 少し木深き影の見えて候ふこそ。 大宮の御在所橋殿にて御入り候へ。 ワキ「有難や一切衆生悉有仏性如来と聞く時は。 我等が身までも頼もしうこそ候へ。 シテ「仰の如く仏衆生通ずる身なれば。 御僧も我も隔はあらじ。一仏乗の。 ワキ「峰には遮那の梢をならべ。シテ「麓に止観の海をたゝへ。 ワキ「又戒定恵の三学を見せ。 シテ「三塔と名づけ。ワキ「人は又。地「一念三千の。 機を顕して。 三千人の衆徒を置き円融の法も曇なき。月の横川も見えたりや。 さて又麓はさゝ波や。志賀辛崎の一つ松。 七社の神輿の御幸の梢なるべし。 さゝ波の水馴棹こがれ行く程に。遠かりし。 向の浦波の。 粟津の森は近くなりてあとは遠き細波の。昔ながらの山桜は青葉にて。 面影も夏山の移り行くや青海の。

柴舟のしばしばも。 暇ぞ惜しき細波の寄せよ寄せよ磯ぎはの。粟津に早く着きにけり/\。 ワキ歌待謡「露を片敷く草筵。/\。 日も暮れ夜にもなりしかば。 粟津の原のあはれ世の。亡きかげいざや。 弔はんなきかげいざや弔はん。 後シテ一声「白刃骨を砕く苦。眼晴を破り。 紅波楯を流す粧。簗杭に残花を乱す。 一セイ「雲水の。粟津の原の朝風に。 地「鬨つくり添ふ。声々に。シテ「修羅の巷は騒がしや。 ワキ「不思議やな粟津の原の草枕に。 甲冑を帯し見え給ふは。 如何なる人にてましますぞ。シテ「愚と尋ね給ふものかな。 御身是まで来り給ふも。 我なき跡をとはん為の。御志にてましまさずや。 兼平これまで参りたり。 ワキ「今井の四郎兼平は。今は此世に亡き人なり。 さては夢にて有るやらん。 シテ詞「いや今見る夢のみか。現にもはや水馴棹の。

舟にて見みえし物語。早くも忘れ給へりや。 ワキ「そもや舟にて見みえしとは。 矢橋の浦の渡守の。シテ詞「其舟人こそ兼平が。 現に見みえし姿なれ。ワキ「さればこそ始より。 様ある人と見えつるが。扨は昨日の舟人は。 シテ「舟人にも非ず。ワキ「漁夫にも。 シテ「あらぬ。地歌「武士の。矢橋の浦の渡守。 矢橋の浦の渡守と。見えしは我ぞかし。 同じくは此舟を。御法の舟に引きかへて。 我を又かの岸に。渡してたばせ給へや。 地クリ「実にや有為生死の巷。 来つて去る事早し。老少もつて前後不同。夢幻泡影。 いづれならん。 シテサシ「唯これ槿花一日の栄。地「弓馬の家にすむ月の。 わづかに残る兵の。七騎となりて木曽殿は。 此近江路に下り給ふ。 シテ「兼平瀬田より参りあひて。地「又三百余騎になりぬ。 シテ「其後合戦度々にて。又主従二騎に討ちなさる。 地「今は力なし。あの松原に落ち行きて。

御腹召され候へと。兼平すゝめ申せば。 心細くも主従二騎。 粟津の松原さして落ち給ふ。クセ「兼平申すやう。後より御敵。 大勢にて追つかけたり。防矢仕らんとて。 駒の手綱を返せば。 木曽殿御諚ありけるは。多くの。敵を遁れしも。 汝一所にならばやの。 所存ありつる故ぞとて同じくかへし給へば。兼平又申すやう。 こは口惜しき御諚かな。さすがに木曽殿の。 人手にかゝり給はん事。末代の御恥辱。 唯御自害あるべし。 今井もやがて参らんとの。兼平に諫められ。 又引つ返し落ち給ふ。さて其後に木曽殿は。 心細くも唯一騎。粟津の原のあなたなる。 松原さして落ち給ふ。シテ「頃は正月の末つ方。 地「春めきながら冴えかへり。比叡の山風の。 雲行く空もくれはとり。あやしや通路の。 すゑ白雪の薄氷。深田に馬をかけ落し。 引けども上らず打てども行かぬ望月の。

。 駒の頭も見えばこそこは何とならん身の果。せん方もなくあきれはて。 此まゝ自害せばやとて。刀に。手を掛け給ひしが。 さるにても兼平が。 行方如何にと遠方の跡を見返り給へば。シテ「何処より来りけん。 地「今ぞ命は槻弓の。 矢一つ来つて内兜にからりといる。痛手にてましませば。 たまりもあへず馬上より。 をちこちの土となる。所はこゝぞ我よりも。 主君の御跡を。先弔ひてたび給へ。 ロンギ地「実に痛はしき物語。兼平の御最期は。 何とかならせ給ひける。シテ「兼平はかくぞとも。 知らで戦ふ其隙にも。御最期の御供を。 心にかくるばかりなり。 地「扨其後に思はずも。敵の方に声立てゝ。 シテ「木曽殿討たれ給ひぬと。 地「呼ばはる声を聞きしより。シテ「今は何をか期すべきと。 地「思ひ定めて兼平は。シテ「是を最期の広言と。 地「鐙ふんばり。シテ「大音上げ木曽殿の。

御内に今井の四郎。地「兼平と。 名乗りかけて。大勢に。割つて入れば。 もとより。一騎当千の。秘術を顕し大勢を。 粟津の汀に追つつめて磯打つ波の。 まくり切り。蜘蛛手十文字に。打ち破り。

かけ通つて。其後。自害の手本よとて。 太刀をくはへつゝ逆さまに落ちて。 貫かれ失せにけり。 兼平が最期の仕儀目を驚かす有様なり目を驚かす有様 平知章(前ハ里男)

ワキ次第「春を心のしるべにて。/\。 ・憂{う}からぬ旅に・出{い}でうよ。 詞「これは・西国方{さいこくがた}より出でたる僧にて候。 われいまだ都を見ず候ふ程に。唯今思ひたち・都{みやこ}・一見{いつけん}と志し候。 道行「旅衣。八重の潮路をはる%\と。 /\。猶末ありと行く波の。 雲をも分くる沖つ船。われも浮世の道出でて。 いづくともなき・海際{うみぎわ}や。 浦なる関に着きにけり。/\。 詞「さてもわれ鄙の国よりはるばると。これなる磯辺に来て見れば。

新しき卒都婆を立ておきたり。 亡き人の追善と思しくて。・要文{えうもん}さま%\書記し。 ・物故{もつこ}平知章と書かれたり。 ・知章{ともあきら}とは平家の御一門の・御中{おんなか}にては。 誰にてかましますらん。あら痛はしや候。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ぞ。 。 ワキ「是は遠国より上りたる僧にて候ふが。これなる卒都婆を見れば。 物故平知章と書かれて候。 御一門の御中にて候ふやらんと痛はしく存じ。

一遍の念仏を廻向申して候。シテ「げに/\遠国の人にてましませば。知ろしめさぬは・御理{おんことわり}。 知章とは相国の三男新中納言知盛の・御子{おんこ}にて候。 二月七日の・合戦{かせん}に。 此一の谷にて討たれさせ給ひて候。 されば其日も今日にあたりたれば。 ・縁{ゆかり}の人の立てたる卒都婆にて候。時もこそあれ御僧の。 今日しもこゝに来り給ひ。廻向し給ふありがたさよ。 一樹の蔭一河の流。これ又他生の縁なるべし。 よく/\弔ひ給ひ候へ。ワキ「げに/\仰のごとく。他生の縁のあればこそ。 かりそめながらこゝに来て。 シテ「無縁の利益をなす事よと。 ワキ「思の玉の数繰りて。シテ「弔ふ事よさなきだに。 シテワキ二人「一見卒都婆・永離三悪道{やうりさんあくだう}。・何凉造立者{がきやうざうりふしや}。 必生安楽国。物故平知章・成等正覚{じやうとうしやうがく}。 地下歌「昨日は人の上。けふはわれをも知らぬ身の。 しかも弓馬の・家人{かじん}ならば。 ・法{のり}にひかれつつ。仏果に至り給へや。

上歌「唯一念の功力だに。/\三悪の罪は消えぬべし。 まして・妙{たえ}にも説く法の。 道のほとりの亡き跡を逆縁もなどかなかるべき/\。 。 ワキ詞「さて知盛の御最期は何とかならせ給ひて候ふぞ。シテ詞「さん候知盛は。 あれに見えたる釣舟のほどなりし。 遥の沖の御座船に。 追ひつき助かり給ひて候。 ワキ「さてあれまでは小船に召されて候ふか。シテ「いや・馬上{ばしやう}にて候ひし。 其頃・井上黒{いのうへぐろ}とて屈竟の名馬たりしが。 二十余町の海の面を。やす/\と泳ぎ渡り。 ・主{ぬし}を助けし馬なり。 されども船中に処なかりし間。乗する人もなくして。 又・本{もと}の汀に泳ぎ上り。 此馬主の・別{わかれ}を慕ふかと思しくて。沖の方に向ひ・高嘶{たかいなゝき}し。 ・足掻{あしがき}してぞ立つたりける。 畜類も心ありけるよと。見る人哀を催しけり。 地「・越鳥南枝{ゑつてうなんし}に。 巣をかけ・胡馬北風{こばほくふう}にいばえしも・旧郷{きゅうごう}を忍ぶ故なりとか。胡馬は北風を慕ひ <120 b>。 此馬は西に行く船の。・纜{ともづな}に繋がれても。 行かばやと思ふ心なり。 ロンギ上「さる程に。 日もはや暮れて須磨の浦。海人の磯屋に・宿{やどり}して。 逆縁ながら弔はん。シテ「げにありがたやわれとても。 よそ人ならず一門の。 ・内外{うちと}にかよふ夕月の後の世の闇をとひ給へ。 地「そも一門の内ぞとは。御身いかなる人やらん。 シテ「今は何をかつゝみ・井{い}の。 ・水隠{みがく}れて住むあはれ世に。地「亡き跡の名は。シテ「白真弓の。 地「帰る方を見れば。須磨の里にも野山にも。 行かで汀のかたをなみ。 芦辺をさしてゆく・田鶴{たづ}の。浮きぬ沈むと見えしまゝに。 ・後影{うしろかげ}も失せにけりや後影も失せにけり。中入。 ワキ上歌待謡「夕波千鳥友寝して。/\。 処も須磨の浦づたひ。野山の風もさえかへり。 心も墨の衣手に。此御経を読誦する/\。 後シテ一声「あらありがたの御弔やな。 われ修羅道の苦の。隙なき中にかくばかり。

・魄霊{はくれい}にひかれて来りたり。浮むべき。 波こゝもとや須磨の浦。 地「海少しある通路の。シテ「・後{うしろ}の山風上野のあらし。 地「草木国土有情非情も。悉皆成仏の。 かの岸の海際に。浮み出でたるありがたさよ。 。 ワキ「不思議やなさもなまめきたる若武者の。波に浮みて見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「誰とはなどや愚なり。御弔のありがたさに。 知章これまで参りたり。ワキ「さては平家の公達を。 まのあたりに見奉る事よと。昔にかへる浦波の。 シテ「・浮織物{うきおりもの}の直垂に。つま・匂{にほひ}の鎧着て。 ワキ「さも・華{はな}かなる・御{おん}姿。シテ「処もさぞな。 ワキ「須磨の浦に。 地上歌「朧なる雁の姿や月の影。/\。うつす絵島の島隠れ。 行く船を。惜しとぞ思ふ我が父に。 別れし船影の跡白波も懐しや。よしとても・終{つい}に我が。 。 憂き身を捨てゝ西海の藻屑となりし浦の浪。重ねて・弔{と}ひてたび給へ。/\。

。 ワキ詞「さらば其時の有様委しく御物語り候へ。 地クリ「さても其時のありさま語るにつけて憂き名のみ。竜田の山の紅葉葉の。 くれなゐ靡く旗のあし。散り%\になる気色かな。シテサシ「主上二位殿をはじめ奉り。 その外大臣殿父子。 地「一門皆々船に取り乗り。海上に浮むよそほひ。 唯・滄波{さうは}のうねに浮き沈む水鳥の如し。 シテ「其中にも親にて候ふ新中納言。われ知章監物太郎。 主従三騎に討ちなされ。 地「御座船をうかがひ此汀にうち出でたりしに。 ・敵手{かたきて}しげくかゝりし間。 又ひつかへし打ちあふ程に。知章監物太郎。 主従こゝにて討死する。シテ「その隙に知盛は。 地「二十余町の沖に見えたる。大臣殿の御船まで。 馬を泳がせ追ひついて。御船に乗りうつり。 かひなき御命助かり給ふ。 クセ「知盛其時に。おほいどのゝ御前にて。 涙を流し宣はく。

武蔵の守も討たれぬ監物太郎頼賢も。あの汀にて討たるゝを。 見すてゝこれまでまゐる事。面目もなき次第なり。 いかなれば。子は親のため。 命を惜まぬ心ぞや。いかなる親なれば。 子の討たるゝを。見捨てけん。命は惜しきものなりとて。 。さめ%\と泣き給へばよその袖も濡れにけり。おほいどのも宣はく。 武蔵の守はもとよりも。 心も剛にしてよき大将と見しぞとて。御子清宗の方を。 見やりて御涙を。流し給へば船の・中{うち}に。 連れる人々も。鎧の袖をぬらしけり。 シテ「武蔵の守知章は。地「生年二八の春なれば。 清宗も同年にて。 ともに若葉の・磯馴松{そなれまつ}千代を重ねて栄ゆくや。累葉枝を連ねつゝ。 一門かどをならべしも。 今年のけふはいかなれば。処も須磨の山桜。 若木は散りぬ埋木の。 浮きてたゞよふ船人となりゆく果ぞかなしき。ロンギ上「げに痛はしき物語。 同じくは御最期を。懺悔に語り給へや。

。 シテ「げにや最期{さいご}の有様を慙愧懺悔にあらはし修羅道の苦患免れん。 地「げに修羅道の苦の。その一念も最期より。 シテ「聞きつるまゝの敵にて。 地「すはや寄せくる。シテ「浦の波。地「団扇の旗児玉党か。 物々しと云ふまゝに。 監物太郎が放つ矢に。敵の旗さしの。 首の骨のぶかに射させて真逆さまにどうと落つれば。 シテ「主人とおぼしき武者。 地「主人とおぼしき武者の新中納言を目にかけて。 駈けよせて討つ所を。親を討たせじと。 知章かけ塞がつて。むずと組んで。 どうと落ち。取つて押さへて首かき切つて。 起きあがる処を又。敵の郎等落ち合ひて。 知章が首をとれば。 終にこゝにて討たれつつ。其まゝ修羅の。業に沈むを。 思はざるに御僧の。とぶらひはありがたや。 是ぞ真の法の友よ。これぞまことの知章が。 跡とひてたび給へ。亡き跡を弔ひてたび給へ 旅僧 老人 源三位頼政

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此程は都に候ひて。洛陽の寺社残なく拝み。 廻りて候。 又これより南都に参らばやと思ひ候。道行「天雲の。稲荷の社伏し拝み。 /\。なほ行くすゑは深草や。 木幡の関を今越えて。伏見の沢田見え渡る。 水の水上たづねきて。宇治の里にも。 着きにけり宇治の里にも着きにけり。狂言シカ%\「。 。 ワキ詞「げにや遠国にて聞き及びにし宇治の里。詞「山の姿川のながれ。 遠の里橋の景色。見所おほき名所かな。 詞「あはれ里人来り候へかし。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ詞「是は此所はじめて一見の者にて候。 この宇治の里に於て。

名所旧跡残なく御教へ候へ。シテ「所には住み候へども。 いやしき宇治の里人なれば。 名所とも旧跡とも。いさ白波の宇治の川に。 舟と橋とは有りながら。渡りかねたる世の中に。 住むばかりなる名所旧跡。 何とか答へ申すべき。 ワキ詞「いや左様には承り候へども。勧学院の雀は蒙求を囀るといへり。 。 処の人にてましませば御心にくうこそ候へ。先喜撰法師が住みける庵は。 いづくの程にて候ふぞ。 シテ「さればこそ大事の事を御尋ねあれ。喜撰法師が庵は。 我が庵は都の巽しかぞ住む。 詞「世を宇治山と人はいふなり。人はいふなりとこそ。 主だにも申し候へ。尉は知らず候。 。

ワキ詞「又あれに一村の里の見えて候ふは槙の島候ふか。 シテ「さん候槙の島とも申し。又宇治の河島とも申すなり。 ワキ「是に見えたる小島が崎は。 シテ「名に橘の小島が崎。ワキ「向に見えたる寺は。 いかさま恵心の僧都の。 御法を説きし寺候ふな。シテ「なう/\旅人。あれ御覧ぜよ。 歌「名にも似ず。月こそ出づれ朝日山。 地「月こそ出づれ朝日山。 山吹の瀬に影見えて。雪さし下す島小舟。山も川も。 お。 ぼろおぼろとして是非をわかぬ景色かな。げにや名にしおふ。 都に近き宇治の里聞きしにまさる名所かな/\。 シテ詞「いかに申し候。 此所に平等院と申す御寺の候ふを御覧ぜられて候ふか。 ワキ詞「不知案内の事にて候ふ程に。 いまだ見ず候御をしへ候へ。 シテ「此方へ御出で候へ。これこそ平等院にて候へ。 また是なるは釣殿と申して。 おもしろき所にて候よく/\御覧候へ。

ワキ「げに/\おもしろき所にて候。 またこれなる芝を見れば。扇の如く取り残されて候ふは。 何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さん候此芝について物語の候。 語つて聞かせ申し候べし。昔この処に宮軍ありしに。 源三位頼政合戦に打ち負け給ひ。 この処に扇を敷き自害し果て給ひぬ。 されば名将の古跡なればとて。 扇のなりに取り残して。今に扇の芝と申し候。 ワキ「痛はしやさしも文武に名を得し人なれども。 跡は草露の道の辺となつて。 行人征馬の行くへの如し。あら痛はしや候。 シテ詞「げによく御弔ひ候ふものかな。 しかも其宮軍の月も日も今日に当りて候ふは如何に。 。 ワキ「何と其宮軍の月も日も今日当りたると候ふや。 シテ「かやうに申せば我ながら。よそにはあらず旅人の。 草の枕の露の世に。姿見えんと来りたり。 現とな思ひ給ひそとよ。地歌「夢の浮世の中宿の。

/\。宇治の橋守年を経て。 老の波も打ち渡す遠方人に。 物申す我頼政が幽霊と名のりもあへず。 失せにけり名のりもあへず失せにけり。 。 ワキ詞「さては頼政の幽霊かりに現れ。 。 我に言葉をかはしけるぞや。 いざや御跡弔はんと。 。 歌「思ひよるべの浪枕。/\。 汀も近。 し此庭の扇の芝を片敷きて。 夢の契を。 待たうよ夢の契を待たうよ。 後シテ一声「血は琢鹿の河となつて。 紅波楯を流し。白刃骨を砕く。 世を宇治川の網代の波。あら閻浮恋しや。伊勢武者は。 皆緋縅の鎧着て。宇治の網代に。

かゝりけるかな。うたかたの。 あはれはかなき世の中に。地「蝸牛の角の。争も。 シテ「はかなかりける。心かな。詞「あら尊の御事や。 なほ/\御経読み給へ。  ワキ「不思議やな法体の身にて甲胃を帯し。 御経読めと承るは。いかさま聞きつる源三位の。 その幽霊にてましますか。

シテ詞「げにや紅は園生に植ゑても隠なし。 名のらぬさきに。詞「頼政と御覧ずるこそ恥かしけれ。 たゞ/\御経読み給へ。 ワキ「御心やすく思し召せ。五十展転の功力だに。 成仏まさに疑なし。ましてやこれは直道に。 シテ「弔ひなせる法の力。 ワキ「あひにあひたり所の名も。シテ「平等院の庭の面。 ワキ「思ひ出でたり。シテ「仏在世に。 地歌「仏の説きし法の場。/\。 こゝぞ平等大慧の。功力に頼政が。 仏果を得んぞありがたき。 シテ「今はなにをかつゝむべき。 これは源三位頼政。執心の波に浮き沈む。 因果の有様あらはすなり。地「抑治承の夏の頃。 よしなき御謀叛を勧め申し。 名も高倉の宮の内。 雲居のよそに有明の月の都を忍び出でて。シテ「憂き時しもに。近江路や。 地「三井寺さして落ち給ふ。 クセ「さるほどに。平家は時をめぐらさず。

数万騎の兵を。関の東に遣はすと。 聞くや音羽の山つゞく。山科の里近き。木幡の関を。 よそに見て。 こゝぞ憂き世の旅心宇治の河橋打ち渡り。大和路さして急ぎしに。 シテ「寺と宇治との間にて。 地「関路の駒の隙もなく。 宮は六度まで御落馬にて煩はせ給ひけり。 これは先の夜御寝ならざる故なりとて。平等院にして。 暫く御座を構へつゝ宇治橋の中の間。引きはなし。 下は河波。上に立つも。 共に白旗を靡かしてよする敵を待ち居たり。 シテ詞語「さる程に源平の兵。 宇治川の南北の岸に打ちのぞみ。閧の声矢叫の音。 波に。 たぐへておびたゝし橋の行桁をへだてて戦ふ。味方には筒井の浄妙。 詞「一来法師。敵味方の目を驚かす。 かくて平家の大勢。橋は引いたり水は高し。 さすが難所の大河なれば。 詞「左右なう渡すべきやうも無かつし処に。

田原の又太郎忠綱と名のつて。詞「宇治川の先陣我なりと。 名のりもあへず三百余騎。 地「くつばみを揃へ河水に。少しもためらはず。 群れゐる群鳥の翅を並ぶる羽音もかくやと。 白波に。ざつ/\と。打ち入れて。 浮きぬ沈みぬ渡しけり。シテ「忠綱。兵を。 下知していはく。地「水の逆巻く所をば。 岩ありと知るべし。弱き馬をば下手に立てゝ。 強きに水を。防がせよ。 流れん武者には弓弭を取らせ。互に力を合はすべしと。 唯一人の。下知に依つて。 さばかりの大河なれども一騎も流れず此方の岸に。 をめいてあがれば味方の勢は。 我ながら踏みもためず。半町ばかり。 覚えずしさつて。切先を揃へて。 こゝを最期と戦うたり。さる程に入り乱れ。我も/\と戦へば。シテ「頼政が頼みつる。 地「兄弟の者も討たれけば。 シテ「今は何をか期すべきと。地「唯一筋に老武者の。

シテ「是までと思ひて。地「是までと思ひて。 平等院の庭の面。是なる芝の上に。扇を打ち敷き。 鎧ぬぎ捨て座を組みて。刀を抜きながら。 さすが名を得し其身とて。シテ「埋木の。 花さく事もなかりしに。

身のなるはてはあはれなりけり。地「跡弔ひ給へ御僧よ。 かりそめながらこれとても。 他生の種の縁にいま。扇の芝の草の蔭に。 帰るとて失せにけり立ち帰るとて失せにけり 従僧二人 老人 斉藤別当実盛

狂言口開ワキ「それ西方は十万億土。 遠く生るゝ道ながら。こゝも己心{こしん}の弥陀の国。 貴賎群集の称名の声。 ツレ「日々{にちにち}夜々の法の場。ワキ「げにも誠に摂取不捨の。 ツレ「ちかひに誰か。ワキ「残るべき。 三人「独なほ。仏の御名を尋ね見ん。/\。 おのおの帰る法の場。 知るも知らぬも心ひく誓の網に漏るべきや。知る人も。 知らぬ人をも渡さばや。かの国へ行く法の船浮むも安き道とかや。 浮むも安き道とかや。

シテサシ「笙歌{せいか}遥に聞ゆ孤雲の上。 聖衆{しやうじゆ}来迎す落日の前。 あら尊や今日も又紫雲の立つて候ふぞや。詞「鐘の音念仏{ねぶつ}の声の聞え候。 さては聴聞も今なるべし。 さなきだに立居くるしき老の波の。 よりもつかずは法の場に。よそながらもや聴聞せん。 一念称名の声の内には。摂取の光明曇らねども。 老眼の通路なほ以て明かならず。 よしよし少しは遅くとも。 こゝを去る事遠かるまじや。南無阿弥陀仏。

ワキ詞「いかに翁。 さても毎日の称名に怠る事なし。されば志の者と見る所に。 おことの姿余人の見る事なし。 誰に向つて何事を申すぞと皆人不審しあへり。 今日はおことの名をなのり候へ。 シテ詞「これは思ひもよらぬ仰かな。 もとより所は天ざかる。 鄙人なれば人がましやな名もあらばこそ名告{なのり}もせめ。只上人の御下向。 ひとへに弥陀の来迎なれば。 かしこうぞ長生して。此称名の時節にあふ事。 盲亀{まうき}の浮木{ふぼく}優曇華{うどんげ}の花侍ち得たる心地して。 老いの幸身に越え。悦の涙袂に余る。 されば此身ながら。安楽国に生るゝかと。 無比の歓喜をなす所に。 輪廻妄執の閻浮の名を。又あらためて名のらん事。 口惜しうこそ候へとよ。ワキ「げに/\翁の申す所ことわり至極せりさりながら。 ひとつは懺悔の廻心{ゑしん}ともなるべし。 たゞおことが名を名のり候へ。

シテ「さては名のらでは叶ひ候ふまじか。 ワキ「中々のこと急いで名のり候へ。 シテ「さらば御前なる人をのけられ候へ。 近う参りて名のり候ふべし。 ワキ「もとより翁の姿余人の見る事はなけれども。 所望ならば人をばのくべし。近うよりて名のり候へ。 シテ「昔長井の斎藤別当実盛は。 この篠原の合戦{かせん}に討たれぬ。 聞しめし及ばれてこそ候ふらめ。 ワキ「それは平家の侍弓取つての名将。その軍物語は無益。 唯おことの名を名のり候へ。 シテ「いやさればこそその実盛は。 此御前なる池水にて鬢髭{びんひげ}をも洗はれしとなり。 さればその執心残りけるか。 今も此あたりの人には幻の如く見ゆると申し候。 ワキ「さて今も人に見え候ふか。 シテ「深山木(みやまぎ)のその梢とは見えざりし。桜は花に顕れたる。 老木をそれと御覧ぜよ。ワキ「不思議やさては実盛の。 昔を聞きつる物語。

人の上ぞと思ひしに。身の上なりける不思議さよ。 詞「扨はおことは実盛の。その幽霊にてましますか。 シテ「われ実盛が幽霊なるが。 魂{こん}は冥途にありながら。魄{はく}は此の世にとゞまりて。 ワキ「なほ執心の閻浮の世に。 シテ詞「二百余歳の程は経(ふ)れども。 ワキ「浮みもやらで篠原の。シテ「池のあだ波夜となく。 ワキ「昼とも分かで心の闇の。シテ「夢ともなく。 ワキ「現ともなき。シテ「思をのみ。 歌「篠原の。草葉の霜の翁さび。 地「草葉の霜の翁さび。人な咎めそ仮初に。 あらはれ出たる実盛が。名を洩し給ふなよ。 亡き世語{よがたり}も恥かしとて。御前を立ち去りて。 行くかと見れば篠原の池の辺にて姿は幻となりて。失せにけり幻となりて失せにけり。中入間「。 ワキ「いざや別時{べちじ}の称名にて。 かの幽霊を弔はんと。ワキワキツレ二人待謡「篠原の。 池のほとりの法の水。/\。深くぞ頼む称名の。

声すみわたる弔の。 初夜より後夜(ごや)に至るまで。心も西へ行く月の光と共に曇なき。 鐘を鳴らして夜もすがら。 ワキ「南無阿弥陀仏なむあみだぶ。 後シテ出端「極楽世界に行きぬれば。 長く苦界を越え過ぎて。輪廻の故郷隔たりぬ。 歓喜{くわんぎ}の心いくばくぞや。処は不退の所。 命は無量寿仏となう。頼もしや。 念々相続する人は。地「念々ごとに。往生す。 シテ「南無と言つぱ。地「即ち是帰命。 シテ「阿弥陀と言つぱ。地「その行この義を以ての故に。 シテ「必ず。往生を得べしとなり。 地「ありがたや。 ワキ「不思議やな白{しら}みあひたる池の面に。 幽{かすか}に浮み寄る者を。 見ればありつる翁なるが。甲冑を帯する不思議さよ。 シテ「埋木の人知れぬ身と沈めども。 心の池の言ひがたき。修羅の苦患の数々を。 浮めてたばせ給へとよ。

ワキ「これほどに目のあたりなる姿言葉を。 余人は更に見も聞きもせで。シテ詞「唯上人のみ明らかに。 ワキ「見るや姿も残の雪の。 シテ「鬢髭白き老武者なれども。ワキ「その出立は花やかなる。 シテ「粧殊に曇なき。ワキ「月の光。 シテ「ともし火の影。地「闇{くら}からぬ。夜の錦の直垂に。 /\。萌黄匂の鎧着て。黄金作の太刀刀。 今の身にては。それとても。何か宝の。 池の蓮{はちす}の台{うてな}こそ宝なるべけれ。 げにや疑はぬ。法の教は朽ちもせぬ。 黄金の言葉多くせば。などかは至らざるべき/\。 シテクリ「それ一念弥陀仏即滅無量罪{りやうざい}。 地「すなはち廻向発願心{ほつぐわんしん}。心を残す。事なかれ。 シテ「時いたつて今宵逢ひ難き御法を受け。地「慚愧懺悔{ざんぎさんげ}の物語。 なほも昔を忘れかねて。忍ぶに似たる篠原の。 草の陰野の露と消えし有様語り申すべし。 シテ詞語「さても。篠原の合戦破れしかば。 源氏の方に手塚の太郎光盛。

木曽殿の御前に参りて申すやう。 光盛こそ奇異の曲者と組んで首取つて候へ。 大将かと見ればつゞく勢もなし。 又侍かと思へば錦の直垂を着たり。名のれ/\と責むれども終{つひ}に名のらず。声は坂東声{はんどうごゑ}にて候ふと申す。 木曽殿天晴。 長井の斎藤別当実盛にてやあるらん。然らば鬢髭の白髪たるべきが。 黒きこそ不審なれ。 樋口の次郎は見知りたるらんとて召されしかば。 樋口参り唯一目見て。涙をはら/\と流いて。 あな無残やな。斎藤別当にて候ひけるぞや。 実盛常に申しゝは。六十に余つて軍をせば。 若殿原と争ひて。 先をかけんも大人気なし。 又老武者とて人々にあなづられんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め。 若やぎ討死すべきよし。常々申し候ひしが。 誠に染めて候。洗はせて御覧候へと。 申しもあへず首を待ち。 地「御前を立つてあたりなる。この池波の岸に臨みて。

水の緑も影うつる。柳の糸の枝たれて。 歌「気晴れては。風新柳{しんりう}の髪を梳{けづ}り。 氷消えては。波旧苔{きうたい}の。髭を洗ひて見れば。 墨は流れ落ちてもとの。白髪となりにけり。 げに名を惜む弓取は。 誰もかくこそあるべけれや。あらやさしやとて。 皆感涙をぞ流しける。 クセ「又実盛が。錦の直垂を着る事。 私ならぬ望なり。実盛。都を出でし時。 宗盛公に申すやう。故郷へは錦を着て。 帰るといへる本文{ほんもん}あり。実盛生国{しやうごく}は。 越前の者にて候ひしが。近年。 御領に附けられて。武蔵の長井に居住仕り候ひき。 此度北国に。罷り下だりて候はゞ。定めて。 討死仕るべし。 老後の思出これに過ぎじ御免あれと望みしかば。 赤地の錦の直垂を下し賜はりぬ。 シテ「然れば古歌にももみぢ葉を。地「分けつゝ行けば錦着て。 家に帰ると。

人や見るらんと詠みしもこの本文の心なり。されば古の。朱買臣{しゆばいしん}は。 錦の袂を会稽山に翻へし。 今の実盛は名を北国の巷に揚げ。 かくれなかりし弓取の。名は末代に有明の。 月の夜すがら懺悔物語申さん。 ロンギ地「げにや懺悔の物語。 心の水の底清く。濁を残し給ふなよ。 シテ「その執心の修羅の道。廻り/\てまたこゝに。 木曽と組まんとたくみしを。 手塚めに隔てられし。無念は今にあり。 地「つゞく兵誰誰と。名のる中にも先{まづ}すゝむ。 シテ「手塚の太郎光盛。地「郎等は主{しう}を討たせじと。 シテ「かけ隔たりて実盛と。 地「押し並べて組む所を。シテ「あつぱれ。 おのれは日本一の。剛の者と。くんでうずよとて。 鞍の。前輪に押しつけて。首かき切つて。 捨てゝんげり。地「其後手塚の太郎。 実盛が弓手(ゆんで)にまはりて。草摺を畳みあげて。 二刀{ふたかたな}さす所をむずと組んで二疋が間(あい)に。

どうと落ちけるが。 シテ「老武者の悲しさは。地「軍には為疲{しつか}れたり。風にちゞめる。 枯木{こぼく}の力も折れて。手塚が下に。 なる所を。郎等は落ちあひて。

終に首をば掻き落とされて。篠原の。土となつて。 影も形もなき跡の影も形も南無阿弥陀仏。 弔ひてたび給へ跡弔ひてたび給へ 淡三郎津 清経の妻 左中将平清経の霊

ワキ次第「八重の汐路の浦の浪。 八重の汐路の浦波九重にいいざや帰らん。 詞「是は左中将清経の御内に仕え申す。 淡津の三郎と申す者にて候。さても頼み奉り候ふ清経は。 過ぎにし筑紫の軍に打ち負け給ひ。 都へはとても帰らぬ道芝の。 雑兵の手にかゝらんよりはと思し召しけるか。 豊前の国柳が浦の沖にして。 更け行く月の夜船より身を投げ空しく為り給ひて候。 又船中を見奉れば。 御形見に鬢の髪を残し置かれて候ふ間。かひなき命助かり。

御形見を持ち唯今都へ上り候。道行「此程は。 鄙の住居に馴れ/\て。/\。たま/\帰る故郷の。昔の春に引きかへて。 今は物うき秋暮れてはや時雨ふる旅衣。 しをるる袖の身のはてを忍び/\に。 上りけり忍び忍び/\に上りけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 是は早都に着きて候。如何に案内申し候。 筑紫より淡津の三郎がまゐりて候それ/\御申し候へ。 ツレ「何淡津の三郎と申すか。 人までもなし此方へ来り候へ。

さて只今は何の為の御使にてあるぞ。 ワキ「さん候面目もなき御使に参りて候。 ツレ「面目もなき御使とは。若し御遁世にてあるか。 ワキ「いや御遁世にても御座なく候。 ツレ「過ぎにし筑紫の軍にも。 御つゝがなきとこそ聞きつるに。 ワキ「さん候過ぎにし筑紫の軍にも御つゝが御座なく候ひしが。 清経心に思し召すやうは。 都へはとても帰らぬ道芝の。 雑兵のてにかゝらんよりはと思し召されけるか。豊前の国柳が浦の沖にして。 更け行く月の夜船より。 身を投げ空しくなり給ひて候。 ツレ「なに身を投げ空しくなり給ひたるとや。 恨めしやせめて討たれもしは又。病の床の露とも消えなば。 力なしとも思ふべきに。 我と身を投げ給ふ事。偽なりつるかねことかな。 実に恨みてもそのかひの。 なき世となるこそ悲しけれ。 地歌「何事もはかなかりける世の中の。上歌「此程は。人目をつゝむ我宿の。

/\。垣ほの薄吹く風の。 声をも立てず忍音に泣くのみなりし身なれども。 今は誰をか憚の。有明月の夜たゞとも。 何か忍ばん時鳥名をも隠さで。 鳴く音かな名をもかくさで鳴く音かな。 ワキ詞「又船中を見奉れば。 御形見に鬢の髪を残し置かれて候。 是を御覧じて御心を慰められ候へ。 ツレ「是は中将殿の黒髪かや。見れば目もくれ心消え。 猶も思のまさるぞや。見る度に心尽しの髪なれば。 うさにぞかへす本の社にと。 地歌「手向けかへして夜もすがら。涙と共に思寝の。 夢になりとも見え給へと。 寝られぬにかたぶくる。枕や恋を。 知らすらん枕や恋を知らすらん。 シテサシ「聖人に夢なし。誰あつて現と見る。 眼裏に塵あつて三界すぼく。 心頭無事にして一生ひろし。実にや憂しと見し夢。 つらしと思ふも幻の。

いづれ跡ある雲水の。行くも。帰るも閻浮の故郷に。 たどる心の。はかなさよ。 転寝に恋しき人を見てしより。夢てふものは。 頼み初めてき。如何にいにしへ人。 清経こそ参りて候へ。 ツレ「不思議やなまどろむ枕に見え給ふは。実に清経にてましませども。 正しく身を投げ給へるが。 夢ならで如何で見ゆべきぞ。よし夢なりとも御姿を。 見みえ給ふぞ有難き。 さりながら命を待たで我と身を。捨てさせ給ふ御事は。 偽なりけるかねことなれば。唯恨めしう候。 シテ「さやうに人をも恨み給はゞ。 我も恨は有明の。 詞「見よとて贈りし形見をば。何しに返させ給ふらん。 ツレ「いやとよ形見を返すとは。思ひあまりし言の葉の。 見る度に心づくしの髪なれば。 シテ詞「うさにぞかへすもとの社にと。 さしも贈りし黒髪を。あかずは留むべき形見ぞかし。 ツレ「愚と心得給へるや。

慰とての形見なれども。見れば思の乱髪。 シテ「わきて贈りしかひもなく。 形見をかへすはこなたの恨。ツレ「われは捨てにし命の恨。 シテ「互にかこち。ツレ「かこたるゝ。 シテ「形見ぞつらき。ツレ「黒髪の。 地歌「恨をさへに言ひそへて。/\。 くねる涙の手枕を。 ならべて二人が逢ふ夜なれど恨むれば独寝の。ふし%\なるぞ悲しき。 実にや形見こそ。中々憂けれこれなくは。 忘るゝ事もありなんと思ふもぬらす。 袂かな思ふもぬらす袂かな。 。 シテ詞「古の事ども語つて聞かせ申し候ふべし。今は恨を御晴れ候へ。 シテ「さても九州山鹿の城へも。 敵よせ来ると聞きし程に。取る物も取りあへず夜もすがら。 高瀬舟に取り乗つて。 豊前の国柳といふ所に着く。地「実にや所も名を得たる。 浦は並木の柳蔭。いと仮初の皇居を定む。 。

シテ「それより宇佐八幡に御参詣あるべしとて。地「神馬七疋。其外金銀種々の捧物。 即ち奉幣のためなるべし。 ツレ「かやうに申せば猶も身の。 恨に似たる事なれども。さすがに未だ君まします。 御代のさかひや一門の。 果をも見ずして徒らに。御身一人を捨てし事。 誠によしなき事ならずや。シテ「実に/\是は御理さりながら。頼みなき世のしるしの告。 語り申さん聞き給へ。地「そも/\宇佐八幡に参籠し。さま%\祈誓怠らず。 数の頼みをかけまくも。 忝くも御戸帳の錦の内よりあらたなる。 御声を出してかくばかり。シテ「世の中の。宇佐には神も。 なきものを。何祈るらん。心づくしに。 地「さりともと。思ふ心も。虫の音も。 弱りはてぬる。秋の暮かな。シテ「さては。 仏神三宝も。地「捨てはて給ふと心細くて。 一門は。 気を失ひ力を落して足弱車のすご/\と。

還幸なし奉るあはれなりし有様。クセ「かゝりける所に。 長門の国へも敵むかふと聞きしかば。 また船に取り乗りていづくともなくおし出す。 心の内ぞあはれなる。実にや世の中の。 うつる夢こそ誠なれ。 保元の春の花寿永の英気の紅葉とて。散々になり浮ぶ。 一葉の船なれや。柳が浦の秋風の。 追手がほなる跡の波白鷺の群れ居る松見れば。 源氏の旗をなびかす多勢かと肝を消す。 こゝに清経は。心にこめて思ふやう。 さるにても八幡の。 御託宣あらたに心魂に残ることわり。誠正直の。頭にやどり給ふかと。 唯一筋に思ひ取り。シテ「あぢきなや。 とても消ゆべき露の身を。 地「なほ置き顔に浮草の。 波に誘はれ船に漂ひていつまでか。憂き目を水鳥の。 沈みはてんと思ひ切り。 人には言はで岩代の待つ事ありや暁の。 月に嘯く気色にて船の舳板に立ち上り。腰よりやうでう抜き出し。

音も速に吹き鳴らし今様を歌ひ朗詠し。 来し。 方行く末をかゞみて終にはいつかあだ波の。帰らぬは古止らぬは心づくしよ。 此世とても旅ぞかし。 あら思ひ残さずやと。 よそ眼にはひたふる狂人と人や見るらん。 よし人は何とも見る眼を仮の夜の空。 西に傾ぶく月を見ればいざや我もつれんと。南無阿弥陀仏弥陀如来。 迎へさせ給へと。唯一声を最期にて。 舟よりかつぱと落汐の。 底の水屑と沈みゆくうき身の果てぞ悲しき。 ツレ「聞くに心もくれはとり、憂き音に沈む涙の雨の。 恨めしかりける契かな。 シテ「いふならく。奈落も同じ。 うたかたの。あはれは誰も。かはらざりけり。 キリ「さて修羅道に。をちこちの。 地「さて修羅道にをちこちの。たづきは敵。 雨は矢先。土は清剣山は鉄城。 雲の旗手をついて。驕慢の。剣をそろへ。

邪見の眼の光。愛欲貪一通玄道場。無明も法性も。 乱るゝ敵。打つは波。引くは潮。 西海四海の因果を見せて。是までなりや。

誠は最期の十念乱れぬ御法の船に。 頼みしままに。 疑もなく実にも心は清経がげにも心は。清経が仏果を得しこそ有難けれ 清凉寺の僧 従僧 青墓長者の女 侍女 従者 大夫進源朝長

。 ワキ詞「これは嵯峨清凉寺より出でたる僧にて候。さても此度平治の乱に。 義朝都を御ひらき候。中にも大夫進朝長は。 美。 濃の国青墓の宿にて自害し果て給ひたる由承り候。 我等も朝長の御ゆかりの者にて候ふほどに。急ぎ彼の所に下り。 御跡をも弔ひ申さんと思ひ立ちて候。 道行三人「近江路や。瀬田の長橋うちわたり。/\。 なほ行くすゑは鏡山。 老曽の森を打ち過ぎて。末に伊吹の山風の。 不破の関路を過ぎ行き青墓の宿に。 着きにけり青墓の宿に着きにけり。

シテツレ二人次第「花の跡訪ふ松風や。/\。 雪にも恨みなるらん。 シテサシ「これは青墓の長者にて候。三人「それ草の露水の泡。 はかなき心のたぐひにも。哀をしるは習なるに。 これは殊更思はずも。 人の嘆を身のうへに。かゝる涙の雨とのみ。 しをるゝ袖の花薄。穂に出すべき言の葉も。 なくばかりなる。ありさまかな。 下歌「光の陰を惜めども。月日の数は程ふりて。 上歌「雪の中。春は来にけりうぐひすの。/\。 氷れる涙今は早。 解けても寝ざれば夢にだに御面影の見えもせで。

痛はしかりし有様を思ひ出づるも。 あさましや思ひ出づるもあさましや。 。 シテ詞「ふしぎやなこの御墓所へ我ならでは。七日々々に参り。 御跡弔ふ者もなきに。旅人と見えさせ給ふ御僧の。 涙を流し懇に弔ひ給ふは。 如何なる人にてましますぞ。 ワキ詞「さん候これは朝長の御ゆかりの者にて候ふが。 御跡弔ひ申さんためこれまで参りて候。 シテ「御ゆかりとはなつかしや。 さて朝長の御ため如何なる人にてましますぞ。 ワキ「これは朝長の御めのと。何某と申す者にて候ひしが。 さる事有りて御暇たまはり。 はや十箇年に余り。かやうの姿となりて候。 とくにも罷り下り。 御跡弔ひ申したくは候ひつれども。怨敵のゆかりをば。 出家の身をも許さねば。抖〓{ソウ:大漢和12912}行脚に身をやつし。 忍びて下向仕りて候。 シテ「さては取り分きたる御なじみ。さこそは思し召すらめ。

わらはも一夜の御宿に。 あへなく自害し果て給へば。 たゞ身のなげきの如くにて。かやうに弔ひ参らせ候。 ワキ「実に痛はしや我とても。もと主従の御契。 是も三世の御値遇。 シテ「わらはも一樹の蔭の宿。他生の縁と聞く時は。 実にこれとても二世の契の。 ワキ「今日しも互にこゝにきて。シテ「弔ふ我も。ワキ「朝長も。 地歌「死の縁の。処も逢ひに青墓の。/\。 跡のしるしか草の蔭の。 青野が原は名のみして古葉のみの春草は。 さながら秋の浅茅原。荻の焼原の跡までも。

げに北〓{ホウ:大漢和39282}の夕煙一片の。雲となり消えし空は色も。 形も。 なき跡ぞあはれなりけるなき跡ぞあはれなりける。 ワキ詞「いかに申し候。 朝長の御最期の有様委しく語つて御聞かせ候へ。 シテ語「申すにつけて痛はしや。 暮れし年の八日の夜に入りて。門を荒けなく敲く音す。 誰なるらんと尋ねしに。 鎌田殿と仰せられしほどに門を開かすれば。 武具したる人四五人内に入り給ふ。義朝御親子。 鎌田金王丸とやらん。わらはを頼みおぼしめす。 明けなば川船にめされ。 野間の内海へ御落あるべきとなり。又朝長は。 都大崩にて膝の口を射させ。 とかく煩ひ給ひしが。夜更け人静まつて後。 朝長の御声にて。 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声のたまふ。鎌田殿まゐり。 こはいかに朝長の御自害候ふと申させ候へば。 義朝驚き御覧ずれば。はや御肌衣も紅に染みて。

目もあてられぬ有様なり。其時義朝。 何とて自害しけるぞと仰せられしかば。 朝長息の下より。 さん候都大崩にて膝の口を射させ。既に難儀に候ひしを。 馬にかゝりこれまでは参り候へども。 今は一足も引かれ候はず。 路次にて捨てられ申すならば。犬死すべく候。唯返す%\御先途をも見届け申さで。 かやうになりゆき候ふ事。さこそいひかひなき者と。 おぼしめされ候はんずれども。 道にて敵に逢ふならば。雑兵の手にかゝらん事。 あまりに口惜しう候へば。 是にてお暇たまはらんと。地「これを最期のお言葉にて。 こときれさせ給へば。 義朝正清とりつきて。嘆かせ給ふ御有様は。 よその見る目も哀れさをいつか忘れん。 歌「悲しきかなや。形をもとむれば。 苔底が朽骨見ゆるもの今は更になし。さてその声を尋ぬれば。 。

草径が亡骨となつて答ふるものも更になし。三世十方の。 仏陀の聖衆もあはれむ心あるならば。 亡魂幽霊もさこそうれしと思ふべき。 地下歌「かくて夕陽影うつる。/\。 雲たえだえに行く空の。青野が原の露分けて。 かの旅人を伴ひ青墓の宿に。 帰りけり青墓の宿に帰りけり。 シテ詞「御僧に申し候。 見ぐるしく候へども。暫くこれに御逗留候ひて。 朝長の御跡を御心しづかに弔ひ参らせられ候へ。 ワキ詞「誠に御志有難う候。 暫くこれに候ふべし。シテ「誰かある罷り出でて。 御僧に宮仕へ申し候へ。中入間「。 ワキ「さても幽霊朝長の。仏事はさま%\おほけれども。 ワキツレ「とりわき亡者の尊み給ひし。ワキ「観音懺法読みたてまつり。 三人待謡「声満つや。法の山風月ふけて。/\。 光やはらぐ春の夜の。眠を覚ます〓{ハツ:大漢和40271}鼓。 時も移るや後夜の鐘。

音澄みわたるをりからの。御法の夜声感涙も。 浮ぶばかりの。気色かな浮ぶばかりの気色かな。 後シテ出端「あらありがたの懺法やな。 昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。 娑婆示現観世音。三世利益同一体。まことなるかな。 誠なるかな。頼もしや。 きけば妙なる法の御声。地「吾今三点。 シテ「楊枝浄水唯願薩〓{タ:大漢和05190}と。地「心耳を澄ませる。 玉文の瑞諷。感応肝に銘ずるをりから。 シテ「あら尊の弔やな。 ワキ「ふしぎやな観音懺法声すみて。 灯の影幽なるに。まさしく見れば朝長の。 影の如くに見え給ふは。若し/\夢か幻か。 シテ「もとより夢幻の仮の世なり。 その疑を止め給ひて。なほ/\御法を講じ給へ。ワキ「げに/\かやうにま見え給ふも。偏に法の力ぞと。念の珠の数くりて。 シテ「声を力にたよりくるは。 ワキ「まことの姿か。シテ「幻かと。ワキ「見えつ。

シテ「かくれつ。ワキ「面影の。地歌「あはれとも。 いはゞ形や消えなまし。/\。 消えずはいかで灯を。 背くなよ朝長を共にあはれみて。深夜の。 月も影そひて光陰を惜み給へや。げにや時人を。 待たぬ浮世のならひなり。唯何事もうち捨てゝ。 御法を説かせ給へや。/\。 シテクリ「それ朝に紅顔あつて。 世路にほこるといへども。 地「夕には白骨となつて郊原に。朽ちぬ。シテサシ「昔は源平左右にして。 朝家を守護し奉り。 地「御代を治め国家を鎮めて。万機の政すなほなりしに。 保元平治の世の乱。いかなる時か来りけん。 シテ「思はざりにし。弓馬の騒。 地「ひとへに時節到来なり。 クセ「さる程に嫡子悪源太義平は。石山寺に籠りしを。 多勢に無勢かなはねば。 力なく生捕られて終に誅せられにけり。三男。 兵衛の佐をば弥平兵。

衛が手にわたりこれも都へぞ捕られける。父義朝はこれよりも。 野間の内海に落ちゆき長田を頼み給へども。頼む。 木。のもとに雨もりてやみ/\と討たれ給ひぬ。 いかなれば長田は云ひかひなくて主君をば。討ち奉るぞや。 如何なれば此宿の。あるじはしかも女人のかひ%\しくも。頼まれて一夜の情のみか。 かやうに跡までも。御弔になる事は。 シテ「そも/\いつの世の契ぞや。 地「一切の男子をば。生々の父と頼み。 万の女人を生々の母と思へとは今身の上に知られたり。 さながら親子の如くに。 御嘆あれば弔も。誠に深き志。請け。 よろこび申すなり。 朝長の後生をも御心やすくおぼしめせ。 ロンギ地「げに頼むべき一乗の。 功力ながらになどされば。いまだ瞋恚の甲冑の。 御有様ぞいたはしき。シテ「梓弓。 もとの身ながら玉きはる。

魂は善所におもむけども。魄は。 修羅道に残つてしばし苦を受くるなり。地「そも/\修羅の苦患とは。いかなる敵に合竹の。 シテ「此世にて見しありさまの。地「源平両家。 シテ「入り乱るゝ。地「旗は白雲紅葉の。 散りまじり戦ふに。運の。極の悲しさは。 大崩にて朝長が。膝の口を。 のぶかに射させて馬の。太腹に。射つけらるれば。 馬は頻に跳ねあがれば。鐙をこして。 下り立たんと。すれども難儀の手なれば。 一足も。ひかれざりしを。乗替に。 かきのせられて。憂き近江路を。 しのぎ来て此の青墓に下りしが。 雑兵の手にかゝらんよりはと思ひさだめて。腹一文字に。 かき切つて。其まゝに。修羅道にをちこちの。 土となりぬる青野が原の。亡き跡とひて。 たびたまへ亡き跡を。弔ひてたび給へ 里女

ワキ次第「行けば・深山{みやま}も・麻裳{あさも}よい。/\。 ・木曽路{きそぢ}の旅に出でうよ。 ワキ詞「これは木曽の・山家{やまが}より出でたる僧にて候。 われ未だ都を見ず候ふ程に。此・度{たび}思ひ立ち都に・上{のぼ}り候。 道行「・旅衣{たびごろも}。木曽の・御坂{みさか}を遥々と。/\。 思ひ立つ日も・美濃{みの}・尾張{をはり}。 定めぬ宿の暮ごとに。夜を重ねつゝ日を添へて。 行けば程なく・近江路{あふみぢ}や・鳰{にほ}の海とは。これかとよ。 /\。詞「急ぎ候ふ程に。 ・江州{がうしう}・粟津{あはづ}の・原{はら}とやらんに着きて候。 此・所{ところ}に暫く休らはばやと思ひ候。 シテサシ会釈「・面白{おもしろ}や・鳰{にほ}の・浦波{うらなみ}静かなる。・粟津{あはづ}の・原{はら}の・松蔭{まつかげ}に。 ・神{かみ}を・斎{いは}ふやまつりごと。げに・神感{しんかん}も頼もしや。 ワキ詞「不思議やなこれなる・女性{によしやう}の神に参り。 涙を流し給ふ事。返す/\も不審にこそ候へ。

シテ「・御僧{おんそう}はみづからが事を仰せ候ふか。 。 ワキ「さん・候{ざふらふ}・神{かみ}に参り涙を流し給ふ事を・不審{ふしん}申して候。 シテ「おろかと不審し給ふや。伝へ聞く・行教和尚{ぎようけうくわしやう}は。 ・宇佐八幡{うさはちまん}に詣で給ひ・一首{いつしゆ}の歌に曰く。 何事のおはしますとは知らねども。 ・詞「忝{かたじけな}さに涙こぼるゝと。かやうに・詠{えい}じ給ひしかば。 神も・哀{あはれ}とや・思{おぼ}し召されけん。 ・御衣{おんころも}の袂に・御影{みかげ}をうつし。 それより・都{みやこ}・男山{をとこやま}に・誓{ちかひ}を示し給ひ。・国土安全{こくどあんぜん}を守り給ふ。 ワキ「やさしやな・女性{によしやう}なれどもこの・里{さと}の。都に近き・住居{すまひ}とて。 名にしおひたるやさしさよ。シテ詞「さて/\・御僧{おそう}の住み給ふ。・在所{ざいしよ}はいづくの国やらん。 。

ワキ「これは・信濃{しなの}の・国{くに}・木曽{きそ}の・山家{やまが}の者にて候。シテ「木曽の山家の人ならば。 ・粟津{あはづ}が原の・神{かみ}の・御名{おんな}を。 問はずは如何で知り給ふべき。これこそ・御身{おんみ}の住み給ふ。 ・木曽{きそ}・義仲{よしなか}の・御在所{おんざいしよ}。同じく神と・斎{いは}はれ給ふ。 ・拝{をが}み給へや・旅人{たびゝと}よ。 ワキ「不思議やさては義仲の。神とあらはれこの処に。 ゐまし給ふは・有難{ありがた}さよと。 ・神前{しんぜん}に向ひ手を合はせ。地上歌「・古{いにしえ}の。これこそ君よ名は今も。 /\。・有明月{ありあけづき}の・義仲{よしなか}の。 ・仏{ほとけ}と現じ神となり。世を守り給へる・誓{ちかひ}ぞ。 ・有難{ありがた}かりける。・旅人{たびゝと}も・一樹{いちじゆ}の蔭。 ・他生{たしやう}の・縁{えん}とおぼしめし。 この松が根に・旅居{たびゐ}し夜もすがら・経{きやう}を・読誦{どくじゆ}して。・五衰{ごすゐ}を。・慰{なぐさ}め給ふべし。 有難き・値遇{ちぐう}かなげに有難き・値偶{ちぐう}かな。 さるほどに暮れて行く日も山の・端{は}に。 ・入相{いりあひ}の鐘の音の。・浦回{うらわ}の波に響きつゝ。 いづれも物凄き・折節{をりふし}に。われも・亡者{まうじや}も来りたり。 その名をいづれとも。 知らずはこの・里人{さとびと}に。

問はせ給へと・夕暮{ゆふぐれ}の草のはつかに入りにけり/\。中入間「。 ワキ上歌待謡「露をかたしく・草枕{くさまくら}。/\。 日も暮れ夜にもなりしかば。 ・粟津{あはづ}が原のあはれ・世{よ}の。・亡影{なきかげ}いざや。・弔{とぶら}はん/\。 後シテ一声「・落花{らくくわ}空しきを知る。 ・流水{りうすい}・心無{こゝろな}うしておのづから。すめる心はたらちねの。 地「・罪{つみ}も・報{むくい}も・因果{いんぐわ}の・苦{くるしみ}。 今は浮まん・御法{みのり}の・功力{くりき}に・草木国土{さうもくこくど}も・成仏{じやうぶつ}なれば。 ・況{いはん}や・生{しやう}ある・直道{ぢきだう}の・弔{とぶらひ}。かれこれ・何{いづ}れも頼もしや。 頼もしやあら有難や。 ワキ「不思議やな・粟津{あはづ}が原の・草枕{くさまくら}を。 見れば有りつる・女性{によしやう}なるが。 ・甲胄{かつちう}を・帯{たい}する不思議さよ。シテ詞「なか/\に・巴{ともゑ}といひし・女武者{をんなむしや}。・女{をんな}とて・御最後{ごさいご}に。 召し具せざりしそのうらみ。ワキ「・執心{しふしん}残つて今までも。 シテ「・君辺{くんべん}に仕へ申せども。 ワキ「怨み(うらみ)は猶も。シテ「・荒磯海{ありそうみ}の。地「・粟津{あはづ}の・汀{みぎは}にて。 波の・討死{うちじに}・末{すゑ}までも。・御供{おんども}申すべかりしを。 ・女{をんな}とて・御最後{ごさいご}に。

捨てられ参らせし恨めしや。身は恩のため。・命{めい}は義による・理{ことわり}。 誰か・白真弓取{しらまゆみとり}の身の。 ・最後{さいご}に臨んで・功名{こうめい}を。惜まぬ者やある。 。 クセ「さても・義仲{よしなか}の。 ・信濃{しなの}を出でさせ給ひしは。 。 ・五万余騎{ごまんよき}の・御勢{おんせい}・〓{くつばみ}をならべ攻め上る。 ・礪波山{となみやま}。 や・倶利伽羅志保{くりからしほ}。 の・合戦{かせん}に於ても。 ・分補功名{ぶんどりこうみやう}のその・数{かず}。 誰に・面{おもて}。 を越され・誰{たれ}に・劣{おと}る・振舞{ふるまひ}の。 なき・世語{よがたり}に。 名ををし思ふ心かな。 シテ「されども・時刻{じこく}の到来。 地「・運{うん}・槻弓{つきゆみ}の引く・方{かた}も。・渚{なぎさ}に寄する・粟津野{あはづの}の。

草の・露霜{つゆしも}と消え給ふ。所はこゝぞお・僧達{そうたち}。 ・同所{どうしよ}の人なれば・順縁{じゆえん}に・弔{と}はせ給へや。 ロンギ「さて此・原{はら}の・合戦{かせん}にて。討たれ給ひし・義仲{よしなか}の。 ・最後{さいご}を語りおはしませ。 シテ「頃は・睦月{むつき}の空なれば。

地「雪はむら・消{きえ}に残るをたゞかよひぢと汀をさして。 ・駒{こま}をしるべに落ち給ふが。・薄氷{うすごほり}の・深田{ふかだ}に駆けこみ。 ・弓手{ゆんで}。 も・馬手{めて}も・鐙{あぶみ}は沈んでおりたゝん・便{たより}もなくて。・手綱{たづな}にすがつて・鞭{むち}を打てども。 引。 く・方{かた}もなぎさの浜なり・前後{ぜんご}を・忘{ほう}じて控へ給へり。こは如何に浅ましや。 かゝりし・所{ところ}にみづから駆けよせて見奉れば。 ・重手{おもで}はおひ給ひぬ・乗替{のりかへ}に召させ参らせ。 この・松原{まつばら}に・御供{おんとも}し。はや・御自害{おんじがい}候へ。 ・巴{ともゑ}も・供{とも}と申せば。その・時{とき}・義仲{よしなか}の仰には。 汝は女なり。しのぶ・便{たより}もあるべし。 これなる・守小袖{まもりこそで}を。・木曽{きそ}に届けよこの・旨{むね}を。 ・背{そむ}かば・主従三世{しうじうさんぜ}の・契{ちぎり}絶えはて。 ながく・不興{ふきよう}とのたまへば。・巴{ともゑ}はともかくも。 涙にむせぶばかりなり。 かくて・御前{ごぜん}を立ち上り。 見れば・敵{かたき}の・大勢{おほぜい}あれは・巴{ともゑ}か・女武者{をんなむしや}。 ・余{あま}すな漏らすなと。・敵手{かたきて}・繁{しげ}くかゝれば。 今は引くとも・遁{のが}るまじ。いで・一軍{ひといくさ}・嬉{うれ}しやと。

・巴{ともゑ}・少{すこ}しも・騒{さわ}がすわざと・敵{かたき}を近くなさんと。 ・薙刀{なぎなた}引きそばめ。 少し怒るゝ・気色{けしき}なれば、・敵{かたき}は得たりと。切つてかゝれば。 ・薙刀{なぎなた}・柄{え}・長{なが}くおつ取りのべて。・四方{しほう}を払ふ・八方払{はつぱうばらひ}。 ・一所{いつしよ}に・当{あた}る・木{こ}の・葉返{はがへ}し。 ・嵐{あらし}も落つるや花の・瀧波{たきなみ}・枕{まくら}をたゝんで戦ひければ。皆・一方{いつぽう}に。 切り立てられて跡も・遥{はるか}に見えざりけり。/\。 シテ「今はこれまでなりと。 地「立ち帰り・我{わ}が君を。見たてまつればいたはしや。 はや・御自害{おんじがい}候ひて。 この・松{まつ}が・根{ね}に伏し給ひ・御枕{おんまくら}のほどに・御小袖{おんこそで}。

・肌{はだ}の・守{まもり}を置き給ふを。・巴{ともゑ}泣く/\賜はりて。 ・死骸{しがい}に・御暇{おんいとま}申しつゝ。行けども悲しや行きやらぬ。 君の・名残{なごり}を如何にせん。 とは思へどもくれぐれの。・御遺言{ごゆゐごん}の悲しさに。 ・粟津{あはづ}の・汀{みぎは}に立ちより。・上帯{うはおび}切り。 ・物{もの}の・具{ぐ}・心{こゝろ}静かに・脱{ぬ}ぎ置き。・梨打烏帽子{なしうちゑぼし}同じく。 かしこに・脱{ぬ}ぎ捨て。・御小袖{おんこそで}を引きかづき。 その・際{きは}までの・佩添{はきそ}への。・小太刀{こだち}を・衣{きぬ}に引き・隠{かく}し。 処はこゝぞ・近江{あふみ}なる。 ・信楽笠{しがらきがさ}を・木曽{きそ}の・里{さと}に。 ・涙{なみだ}と・巴{ともゑ}はたヾひとり落ち行きしうしろめたさの・執心{しふしん}を・弔{と}ひてたび給へ/\ 蓮生上人 草刈男 同上 平敦盛の霊

ワキ次第「夢の世なれば驚きて。/\。 捨つるや現なるらん。詞「これは武蔵の国の住 人。熊谷の次郎直実出家し。蓮生{れんせい}と申す

法師にて候。さても敦盛を手に懸け申し し事。余りに御痛はしく候ふ程に。かや うの姿となりて候。又これより一の谷に

下り。敦盛の御菩提を弔ひ申さばやと思 ひ候。道行「九重の。雲井を出でて行く月 の。/\。南に廻る小車の淀山崎を打ち 過ぎて。昆陽{こや}の池水生田川波こゝもと や須磨の浦一の谷にも着きにけり一の谷 にも着きにけり。詞「急ぎ候ふ程に。津の 国一の谷にも着きて候。誠に昔の有様今の やうに思ひ出でられて候。又あの上野に 当つて笛の音の聞え候。此人を相待ち。 此あたりの事ども委しく尋ねばやと思 ひ候。 シテツレ次第「草刈笛の声添へて。/\吹くこそ 野風なりけれ。シテサシ「かの岡に草刈る男野{をのこの} を分けて。帰るさになる夕まぐれ。二人「家 路もさぞな須磨の海。すこしが程の通路{かよひぢ} に。山に入り浦に出づる。憂き身の業こそ 物うけれ。下歌「問はゞこそひとりわぶと も答へまし。上歌「須磨の浦。もしほ誰とも 知られなば。/\。我にも友のあるべき

に。余りになればわび人の親しきだにも 疎くして。住めばとばかり思ふにぞ憂き にまかせて過すなり憂きにまかせて過す なり。 ワキ詞「如何に是なる草刈達に尋ね申すべ き事の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「唯今の笛はかた%\の 中に吹き給ひて候ふか。シテ「さん候我 等が中に吹きて候。ワキ「あらやさしや其 身にも応ぜぬわざ。返す%\もやさしう こそ候へ。シテ「其身にも応ぜぬ業と承れ ども。夫れ優るをも羨まざれ。劣るをも 賎しむなとこそ見えて候へ。其上樵歌牧 笛{せうかぼくてき}とて。シテツレ「草刈の笛樵{ふえきこり}の歌は。歌人の 詠にも作りおかれて。世に聞えたる笛竹 の。不審を為させ給ひそとよ。ワキ「実に 実にこれは理なり。さて/\樵歌牧笛と は。シテ「草刈の笛。ワキ「樵の歌の。シテ「憂 き世を渡る一節を。ワキ「歌ふも。シテ「舞

ふも。ワキ「吹くも。シテ「遊ぶも。地歌「身 の業の。好ける心に寄竹の。/\。小枝{さえだ} 蝉折{せみをり}さま%\に。笛の名は多けれども。 草刈の 吹く笛ならばこれも名は。青葉の 笛と思し召せ。住吉の汀ならば高麗笛に やあるべき。これは須磨の塩木の海人の 焼{た}きさしと思しめせ海人焼きさしと思 しめせ。ワキ詞「ふしぎやな。余の草刈達は皆々帰り 給ふに。御身一人とゞまり給ふ事。何の 故にて有るやらん。シテ「何の故とか夕波 の。声を力に来りたり。十念授けおはし ませ。ワキ「やすき事十念をば授け申すべ し。それにつけてもおことは誰{た}そ。シテ「誠 は我は敦盛の。ゆかりの者にて候ふなり。 ワキ「ゆかりと聞けばなつかしやと。掌 を合はせて南無阿弥陀仏。シテワキ二人「若我{にやくが}成 仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。地「捨て させ給ふなよ。一声だにも足りぬべきに

毎日毎夜の御弔。あら有難や我が名をば。 申さずとても明暮に。向ひて回向{ゑかう}し給へ る。其名は我と言ひ捨てゝ姿も見えず。失 せにけり姿も見えず失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「これに付けても弔の。/\。法 事をなして夜もすがら。念仏申し敦盛の。 菩提をなほも弔はん/\。 後シテ一声「淡路潟かよふ千鳥の声きけば。寝覚 も須磨の。関守は誰そ。如何に蓮生。敦 盛こそ参りて候へ。ワキ「不思議やな鳧鐘{ふしよう} を鳴らし法事をなして。まどろむ隙もな き所に。敦盛の来り給ふぞや。さては夢 にて有るやらん。シテ詞「何しに夢 にて有るべきぞ。現の因果を晴らさん為に。これ まであらはれ来りたり。ワキ「うたてやな 一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らさん 称名の。法事を絶えせず弔ふ功力{くりき}に。 何の因果は荒磯{ありそ}海の。シテ「深き罪をも訪 ひ浮べ。ワキ「身は成仏の得脱の縁。シテ「こ

れ又他生の功力なれば。ワキ「日頃は敵。 シテ「今は又。ワキ「誠に法の。シテ「友なり けり。地「これかや悪人の友を振り捨て て。善人の敵を招けとは。御身の事か有 難や。有難し/\。とても懺悔の物語夜 すがらいざや。申さん夜すがらいざや申 さん。 地クリ「夫れ春の花の樹頭に上るは。上求菩 提の機をすゝめ。秋の月の水底{すゐてい}に沈むは。 下化{げけ}衆生の。形を見す。シテサシ「然るに一門 門を並べ。累葉枝を連ねし粧。地「誠に槿 花{きんくわ}一日の栄に同じ。善を勧むる教には。逢 ふ事かたき石の火の。光の間ぞと思はざ りし身の習はしこそはかなけれ。シテ「上 に在つては。下を悩まし。地「富んでは驕 を。知らざるなり。クセ「然るに平家。世を 取つて二十余年。誠に一昔の。過ぐるは 夢の中なれや。寿永の秋の葉の。四方の 嵐に誘はれ散々になる一葉の。舟に浮き 波に臥して夢にだにも帰らず。籠鳥の雲 を恋ひ。帰雁列{つら}を乱るなる。空定なき旅 衣。日も重なりて年月の。立ち帰る春 の頃此一の谷に籠りてしばしはこゝに須 磨の浦。シテ「うしろの山風吹き落ちて。 地「野もさえかへる海ぎはに。舟のよると なく昼となき。千鳥の声も我が袖も。波 にしをるゝ磯枕。海人の苫屋に共寝して 須磨人にのみ磯馴{そなれ}松の。立つるや夕煙柴 と云ふもの折り敷きて。思を須磨の山 里の。かゝる処に住居して。須磨人にな りはつる一門の果ぞかなしき。 シテ詞「さても二月六日の夜にもなりしか ば。親にて候ふ経盛我等を集め。今様を うたひ舞ひ遊びしに。ワキ「さては其夜の 御遊なりけり。城の内にさもおもしろき 笛の音の。寄手の陣まで聞えしは。シテ「そ れこそさしも敦盛が。最期まで持ちし笛 竹の。ワキ「音も一節をうたひ遊ぶ。シテ「今

様朗詠。ワキ「声々に。地「拍子を揃へ声を あげ。中ノ舞「。 シテ「さる程に。御舟をはじめて。地「一門 皆々船に浮めば。乗りおくれじと。汀に うちよれば。御座舟も兵船も遥にのび給 ふ。シテ「せんかた波に駒をひかへ。あ きれはてたる有様なり。かゝりける所に。 地「うしろより。熊谷の次郎直実。のがさ じと。追つ懸けたり敦盛も。馬引き返し。

波の打物ぬいて。二打三打は打つとぞ見 えしが馬の上にて引つ組んで。波打際に。 落ち重なつて。終に。討たれて失せし身 の。因果は廻りあひたり敵はこれぞと討 たんとするに。仇をば恩にて。法師の念 仏して弔はるれば。終には共に。生るべ き同じ蓮の蓮生法師。敵にては無かりけ り跡弔ひてたび給へ跡弔ひてたびたまへ 敦盛遺子 平敦盛 法然上人の従者

。 ワキ詞「これは黒谷法然上人に仕へ申す者にて候。又これにわたり候ふ人は。 或る時上人賀茂へ御参詣御下向の時。 さがり松の下に二歳ばかりなる男子の美しきを。 。 手箱の蓋に入れ尋常に拵へ捨ておきて候ふを。

上人不便に思しめされ抱かせ御帰候ひて。色々育て給ひ候ふ程に。 はや十歳に御余り候。 父母のなき事を嘆き給ひ候ふ程に。 説法の後此事を御物語り候へば。聴衆の内より若き女性の走り出で。 我が子にて候ふ由仰せ候ふを。 密に御尋ね候へば。

一年一の谷にて討たれ給ひし敦盛の御子にておはしまし候。 此事を聞き給ひて。 夢になりとも父の姿を見せて賜はり候へと。 賀茂の明神へ祈誓有るべき由仰せられ候ひて。一七日詣で給ひ。 今日は早満参にて候ふ程に。 同道申し賀茂の明神へ。参詣申し候。 これは早賀茂の明神にて御座候。よく/\御祈誓候らへ。 子方サシ「ありがたや処からなる御社の。 あけの玉垣神さびて。心も澄める御手洗の。 ふかき恵を頼むなり。 下歌「夢になりともたらちねの其面影を見せ給へ。かくばかり。 祈る心の末遂げば。/\。 恵になどか洩るべきと。誓糺の神ともに。 願ひ適へおはしませ/\。 子方詞「あら不思議や。少し・睡眠{すゐめん}のうちに。 あらたに御霊夢を蒙りて候。 ワキ「あらめでたやな御霊夢のやうを御物語り候へ。 子方「あの御宝殿のうちよりも。 あらたなる御声にて。

汝夢になりとも父を見んと思はゞ。 これより津の国生田の森へ下れと。あらたに霊夢を蒙りて候。 ワキ「是は不思議なる事にて候ふものかな。 黒谷へ御帰あるまでもなく候。 これより生田の森へ御供申し候ふべし。 軈て思しめし立ち候へ。道行「山陰の。 賀茂の宮居を立ちいでて。/\。急ぐ行方は山崎や。 霧立ち渡る水無瀬川。風も身にしむ旅衣。 秋は来にけりきのふだに。 訪はんと思ひし津の国の。生田の森に着きにけり/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 これは早津の国生田の森にて候。森の気色川の流。 都にて。 承り及びたるにもいや勝りて面白き名所にて候。 あれに見えたる野辺は生田の小野にてもや候ふらん。 立ち寄り眺めばやと思ひ候。こゝかしこを眺め候ふ程に。 はや日の暮れて候ふはいかに。 あれに灯。 火の影の見えて候ふは人家にてありげに候。立ち寄り宿を借らばやと思ひ候。

シテサシ「五薀もとよりこれ皆空。 何によつて平生此身を愛せん。 躯を守る幽魂は夜月に飛び。屍を失ふぐ魄は秋風に嘯く。 あら心すごのをりからやな。 。 ワキ「不思議やなこ。 れなる草の庵の内に。 さも花やかなる若武者の。 甲冑。 を帯し見え給ふぞや。 これはいかなる事やらん。 。 シテ「愚の人の心やな。 詞「面々これまで来り給ふも。 わ。 れに対面のためならずや。恥かしながら古の。 敦盛が幽霊来りたり。 子方「なう敦盛とは我が父かと。身にも覚えず走りより。 地「袂にすがりたえこがれ。/\。

なく音に立つる鴬の。逢ふ事の嬉しさも。 憂き身にあまるばかりなり。かくは思へど頼まれぬ。 夢の契を。現に返すよしもがな。 シテサシ「無慙やな忘れ形見の撫子の。 花やかなるべき身なれども。衰へはつる墨染の。 袂を見るこそ哀なれ。 さても御身孝行の心深き故。賀茂の明神に歩を運び。 夢になりとも我が父の。

姿を見せてたび給へと祈誓申す。明神憐みおはしまし。 閻王に仰せつかはさる。閻王仰を承り。 暫の暇を賜はるなり。 親子の契も今を限なるべし。 地「更け行く月の夜もすがら昔をいざや語らん。クセ「然るに平家の。 栄花を極めしその始。 花鳥風月の戯詩歌管絃の様々に。春秋を送り迎へしに。 いかなるをりか来りけん。 木曽のかけはし懸けてだに。思はぬ。敵に落されて。 主上を始め奉り一門の人も悉く。 花の都を立ち出で西海の空に赴きぬ。 習はぬ旅の道すがら。山を越え海を渡り。暫は天ざかる。 鄙の住まひの身なりしに。 又立ち帰る浦波の。須磨の山路や一の谷。 生田の森に着きしかば。こゝは都も程近しと。 一門の人々も喜をなしゝをりふしに。 シテ「範頼義経のその勢。地「雲や霞の如くにて。 。 しばらく戦ふといへども平家は運も槻弓の。弥猛心も弱々と。

皆散々になりはてて。哀も深き生田川の。 身を捨てし物語。語るぞよしなかりける。 シテ「嬉しやな夢の契の仮初ながら。 親子鸚鵡の袖ふれて。 地「名残つきせぬ心かな。中ノ舞「。 シテ詞「あれに見えたるはいかなる者ぞ。 なに閻王よりの御使とや。 片時の暇とありつるに。今までの遅参心得ずと。 閻王怒らせ給ふぞと。 地「言ふかと見れば不思議やな。/\。黒雲俄に立ち来り。 ・猛火{みやうか}を放ち。剣を降して。 其数知らざる修羅の敵。天地を響かし満ち/\たり。 シテ「物物しあけくれに。地「馴れつる修羅の。 敵ぞかしと。太刀真向に。さしかざし。 ここやかしこに走り廻り。 火花を散して戦ひしが。暫くありて黒雲も。 次第に立ち去り修羅の敵も忽ち消え失せて。 月。 澄み渡りて明々たる暁の空とぞなりたりける。シテ「恥かしや子ながらも。

地「かく苦をみる事よ。 急ぎ帰りてなき跡をねんごろに弔ひてたび給へと。泣く/\袂を引き別れ。立ち去る姿はかげろふの。 。 小野の浅茅の露霜と形は消えて失せにけり/\ 旅僧 里の女 六条御息所の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此ほどは都に候ひて。 洛陽の名所旧跡残なく一見仕りて候。 また秋も末になり候へば。嵯峨野の・方{かた}ゆかしく候ふ間。 立ちこえ一見せばやと思ひ候。 これなる森を人に尋ねて候へば。 野の宮の旧跡とかや申し候ふほどに。 逆縁ながら一見せばやと思ひ候。われ此森に来て見れば。 ・黒木{くろぎ}の鳥居小柴垣。昔にかはらぬ有様なり。 こはそも何といひたる事やらん。よし/\かゝる時節に参りあひて。 拝み申すぞありがたき。下歌「伊勢の神垣隔なく。 ・法{のり}の教の道すぐに。 こゝに尋ねて宮所心も澄める。夕かな心も澄める夕かな。

シテ次第「花に馴れ来し野の宮の。/\。 秋。 より後は如何ならん。 サシ「をりしも。 あれ物のさみしき秋暮れて。 なほしをりゆく袖の露。 。 身を砕くなる夕まぐれ。 心の色はおのづから。 ・千草{ちぐさ}の花にうつろひて。 。 衰ふる身のならひかな。 下歌「人こそ知らね今日ごとに昔の跡に立ち帰り。 上歌「野の宮の。森の・木枯{こがらし}秋ふけて。/\。

身にしむ色の消えかへり。 思へば・古{いにしえ}を何と忍ぶの草衣。 来てしもあらぬ仮の世に。行き帰るこそ。 恨なれゆきかへるこそ恨なれ。 ワキ詞「われ此森の陰に居て古を思ひ。 心を澄ますをりふし。 いとなまめける・女性{によしやう}一人忽然と来り給ふは。 いかなる人にてましますぞ。

シテ詞「いかなる者ぞと問はせ給ふ。そなたをこそ問ひ参らすべけれ。 是は古・斎宮{さいぐう}に立たせ給ひし人の。 仮に移ります野の宮なり。 然れども其後は此事絶えぬれども。長月七日の今日は又。 昔を思ふ年々に。人こそ知らね宮所を清め。 御神事をなす所に。 行方も知らぬ御事なるが。来り給ふははゞかりあり。とく/\帰り給へとよ。ワキ詞「いや/\これは苦しからぬ。身の行末も定なき。 世を捨人の数なるべし。さて/\こゝは・旧{ふ}りにし跡を今日毎に。昔を思ひ給ふ。 いはれはいかなる事やらん。 シテ詞「光源氏この処に詣で給ひしは。 長月七日の日けふに当れり。其時いさゝか持ち給ひし榊の枝を。 ・忌垣{いがき}の内にさし置き給へば。 ・御息所{みやすどころ}とりあへず。 神垣はしるしの杉もなきものを。詞「いかにまがへて折れる榊ぞと。 よみ給ひしも今日ぞかし。 ワキ「げに面白き言の葉の。今持ち給ふ榊の枝も。

昔にかはらぬ色よなう。 シテ詞「昔にかはらぬ色ぞとは。榊のみこそ常磐の陰の。 ワキ「森の・下道{したみち}秋暮れて。シテ「・紅葉{もみぢ}かつ散り。 ワキ「・浅茅{あさぢ}が原も。歌地「うらがれの。 草葉に荒るる野の宮の/\。 跡なつかしきこゝにしも。其長月の・七日{なぬか}の日も。 今日にめぐり来にけり。 ものはかなしや小柴垣いとか。 りそめの・御住居{おんすまい}今も・火焼{ひたき}屋のかすかなる。 光は我が・思{おもい}内にある色や外に見えつらん。あらさ・び{ミ}し宮所あらさびし此宮所。 。ワキ「なほ/\御息所のいはれ懇に御物語り候へ。クリ地「そも/\此御息所と申すは。桐壺の帝の・御弟{おんおとゝ}。 ・前坊{ぜんぼう}と申し奉りしが。 時めく花の色香まで妹背の心浅からざりしに。 シテサシ「・会者定離{えしやぢやうり}のならひもとよりも。地「驚くべしや夢の世と。 程なくおくれ給ひけり。 シテ「さてしもあらぬ身の露の。地「光源氏のわりなくも忍び/\に行き通ふ。シテ「心の末の。などやらん。

地「また絶々の中なりしに。 クセ「つらきものには。さすがに思ひ果て給はず。 遥けき野の宮に。分け入り給ふ御心。 いと物あはれなりけりや。 秋の花みな衰へて。虫の声もかれ%\に松吹く風の響までも。 さびしき道すがら秋の哀しみも果なし。かくて君こゝに。詣でさせ給ひつゝ。 情をかけて様々の。言葉の露も。 色々の御心の内ぞあはれなる。 シテ「其後桂の御祓。地「・白木綿{しらゆふ}かけて川波の。 身は浮草のよるべなき心の水に誘はれて。 ゆくへも鈴鹿川・八十瀬{やそせ}の波にぬれ/\ず。 伊勢まで誰か思はんの。 言の葉は添ひゆく事もためしなきものを。親と子の。 多気の都路に赴きし心こそ。恨なりけれ。 ロンギ地「げにやいはれを聞くからに。 唯人ならぬ御気色。其名を名のり給へや。 シテ「名のりても。 かひなき身とてはづかしの。もりてやよそに知られまし。

よ。 しさらば其名もなき身とぞ問はせ給へや。地「なき身と聞けば不思議やな。 さては此世をはかなくも。 シテ「去りて久しき跡の名の。地「御息所は。シテ「我なりと。 地「夕暮の秋の風。森の・木{こ}の間の・夕月夜{ゆうづくよ}。 影かすかなる木の下の。黒木の。 鳥居の。 ・二柱{ふたばしら}に立ちかくれて失せにけり跡たちかくれ失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「かたしくや。森の木蔭の苔衣。 /\。同じ色なる草むしろ。 思を述べて夜もすがら。かの御跡を。 弔ふとかやかの御跡を弔ふとかや。 後シテ一声「野の宮の。秋の千草の。花車。 われも昔に。めぐり来にけり。 ワキ「ふしぎやな月の光も幽かなる。 車の音の近づく方を。見れば・網代{あじろ}の・下{した}すだれ。 思ひかけざる有様なり。いかさま疑ふ所もなく。 御息所にてましますか。 さもあれ如何なる車やらん。

シテ詞「いかなる車と問はせ給へば。思ひ出でたりその昔。 シテカカル「加茂の祭の車・争主{あらそひぬし}は誰とも・白露{しらつゆ}の。 ワキ「所せきまで立てならぶる。シテ「物見車のさま%/\に殊に時めく葵の上の。 ワキ「・御車{おんぐるま}とて人を払ひ。立ちさわぎたる其中に。 シテ「身は。 ・小車{おぐるま}の遣る方もなしと答へて立て置きたる。ワキ「車の前後に。 シテ「ばつと寄りて。 地歌「人々・轅{ながえ}に取り付きつゝ人だまひの奥に。 押しやられて物見車の力もなき身の程ぞ思ひ知られたる。 よしや思へば何事も・報{むくい}の罪によも洩れじ。 身はなほ牛の。小車のめぐり/\来ていつまでぞ妄執を晴し給へや妄執を晴し給へや。 シテ「昔を思ふ。花の袖。地「月にと返す。

気色かな。序ノ舞「。シテ「野の宮の。月も昔や。 思ふらん。 地「影さびしくも森の下露森の下露。シテ「身の置き処も。あはれ昔の。 地「庭のたゝずまひ。 シテ「よそにぞかはる。地「気色も仮なる。シテ「小柴垣。 地「露うちはらひ。訪はれし我も其人も。 唯夢の世とふりゆく跡なるに・誰{たれ」松虫の・音{ね}は。 りん/\として風茫々たる。 野の宮の夜すがら。なつかしや。破ノ舞「。 地「こゝはもとより忝くも。神風や。 伊勢の・内外{うちと}の鳥居に出で入る姿は・生死{しやうぢ}の道を。神は受けずや。 思ふらんと。 また車にうち乗りて火宅の・門{かど}をや。出でぬらん火宅の門 旅僧 里の女 紀有常の女井筒姫

ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。 我この程は南都七堂{しちだう}に参りて候。

又これより初瀬に参らばやと存じ候。 これなる寺を人に尋ねて候へば。

在原寺{ありはらでら}とかや申し候ふ程に。立ちより一見せばやと思ひ候。 さては此在原寺は。いにしへ業平紀の有常の息女。夫婦住み給ひし石上{いそのかみ}なるべし。 風ふけば沖つ白浪たつ田山と詠{えい}じけんも。此処{このところ}にての事なるべし。 下歌「昔語の跡とへば。その業平の友とせし。紀の有常の常なき世。妹背をかけて弔らはん/\。 シテ次第「暁ごとの閼伽{あか}の水。月も心や澄ますらん。 サシ「さなきだに物の淋しき秋の夜の。人目まれなる古寺の。 庭の松風更け過ぎて。月も傾く軒端の草。忘れて過ぎし古を。 忍ぶ顔にていつまでか待つ事なくてながらへん。 げに何事も思ひ出の。人には残る世の中かな。 下歌「唯いつとなく一筋に頼む仏の御手{みて}の糸導きたまへ法の声。 上歌「迷をも。照らさせ給ふ御誓。/\。 げにもと見えて有明の。ゆくへは西の山なれど。

ながめは四方{よも}の秋の空。松の声のみ聞ゆれども。嵐はいづくとも。 定なき世の夢心。何の音にか覚めてまし。/\。 ワキ詞「我この寺に休{やす}らひ。心を澄ますをりふし。 いとなまめける女性{によしやう}。庭の板井をむすび上げ花水とし。 これなる塚に回向{えかう}の気色見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「是は此あたりのに住む者なり。この寺の本願在原の業平は。 世に名を留{と}めし人なり。されば其跡のしるしもこれなる塚の陰やらん。 妾{わらは}も委しくは知らず候へども。花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候。

ワキ「げに/\業平の御事は。世に名を留めし人なりさりながら。 今は遥に遠き世の。昔語の跡なるを。しかも女性の御身として。 かやうに弔ひ給ふ事。その在原の業平に。いかさま故ある御身やらん。 シテ「故ある身かと問はせ給ふ。その業平はその時だにも。 昔男{むかしをとこ}といはれし身の。ましてや今は遠き世に。 故もゆかりもあるべからず。

ワキ「もつとも仰はさる事なれども。こゝは昔の旧跡にて。 シテ「主こそ遠く業平の。ワキ「あとは残りてさすがにいまだ。 シテ「聞えは朽ちぬ世語{よがたり}を。ワキ「語れば今も。 シテ「昔男の。地歌「名ばかりは。在原寺の跡旧{あとふ}りて。/\。 松も老いたる塚の草。これこそそれよ亡き跡の。 一叢{ひとむら}ずすきの穂に出づるはいつの名残なるらん。 草茫々{ばう/\}として露深々と古塚{ふるつか}の。真なるかな古の。 跡なつかしき景色かな/\。 ワキ詞「なほ/\業平の御事委しく御物語り候へ。 地クリ「昔在原の中将。年経{としへ}てこゝにいその上{かみ}。 ふりにし里も花の春。月の秋とて。住み給ひしに。 シテサシ「其頃は紀の有常が娘と契り。妹背の心浅からざりしに。 地「又河内の国高安{たかやす}の里に。知る人ありて二道{ふたみち}に。 忍びて通ひ給ひしに。シテ「風ふけば沖つ白波立田山。 地「夜半{よは}には君がひとり行くらんとおぼつか波の夜の道。

ゆくへを思ふ心遂げてよその契りはかれ%\なり。 シテ「げに情知る。うたかたの。 地「あはれを述べしも理なり。クセ「昔この国に。住む人の有りけるが。 宿をならべて門の前。井筒によりてうなゐ子の。友達かたらひて。 互に影を水鏡。面をならべ袖を懸け。心の水も底ひなく。うつる月日も重なりて。 おとなしく恥ぢがはしく。たがひに今はなりにけり。其後{そののち}かのまめ男。 言葉の露の玉章{たまづさ}の。心の花も色そひて。 シテ「筒井筒。井筒に懸けしまろが丈。地「生{お}ひにけらしな。 妹見ざる間にと詠みて贈りける程に。その時女もくらべこし振分髪も肩過ぎぬ。 君ならずして。誰かあぐべきと互に詠みし故なれや。筒井筒の女とも。 聞えしは有常が。娘の旧{ふる}き名なるべし。 ロンギ地「げにや旧{ふ}りにし物語。聞けば妙{たへ}なる有様の。 あやしや名のりおはしませ。シテ「誠は我は恋衣{こひごろも}。

紀の有常が娘とも。いさ白波の立田山夜半{よは}にまぎれて来りたり。 地「ふしぎやさては立田山。色にぞ出づるもみぢ葉の。 シテ「紀の有常が娘とも。地「又は井筒の女とも。 シテ「恥かしながら我なりと。地「いふや注連縄{しめなは}の長き夜を。 契りし年は筒井筒。井筒の陰に隠れけり井筒の陰にかくれけり。中入間「。 ワキ歌待謡「更けゆくや。在原寺の夜の月。/\。 昔を返す衣手に。夢待ちそへて仮枕。苔の莚{むしろ}に。 臥しにけり苔のむしろに臥しにけり。 後シテ一声「あだなりと名にこそ立てれ桜花。年に稀なる人も待ちけり。 かやうに詠みしも我なれば。人待つ女ともいはれしなり。我筒井筒の昔より。 真弓槻弓{つきゆみ}年を経て。今は亡き世に業平の。形見の直衣。 身に触れて。恥かしや。昔男に移舞{うつりまひ}。地「雪をめぐらす。花の袖。 序ノ舞「。 シテワカ[こゝに来て。昔ぞかへす。在原の。地「寺井{てらゐ}に澄める。

月ぞさやけき。月ぞさやけき。 シテ「月やあらぬ。春や昔と詠{なが}めしも。いつの頃ぞや。筒井筒。 地「つゝゐづつ。井筒にかけし。シテ「まろがたけ。 地「生ひにけらしな。シテ「老いにけるぞや。 地「さながら見みえし昔男の。冠直衣{かぶりなほし}は。

女とも見えず。男なりけり。業平の面影。 シテ「見ればなつかしや。地「我ながらなつかしや。 亡婦魄霊{ばうふはくれい}の姿はしぼめる花の。 色なうて匂。残りて在原の寺の鐘もほの%\と。 明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も。 破れて覚めにけり夢は破れ明けにけり 旅僧 従者 梅の精

ワキ、ワキツレ二人次第「年立ちかへる春なれや。/\花の都に急がん。 ワキ詞「これは東国方より出でたる僧にて候。 我いまだ都を見ず候ふほどに。この春思ひ立ち都に上り候。 道行三人「春立や。霞の関を今朝越えて。/\。 果はありけり武蔵野を分け暮らしつゝ跡遠き。山また山の雲を経て。 都の空も近づくや。旅までのどけかるらん/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。

これははや都に着きて候。又これなる梅を見候へば。 今を盛と見えて候。 いかさま名のなき事は候ふまじ。此辺の人に尋ねばやと思ひ候。 狂言シカ%\「。 ワキ詞「扨は此梅は和泉式部と申し候ふぞや。暫く眺めばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 其梅を人に御尋ね候へば。 何と教へ参らせて候ふぞ。ワキ詞「さん候人に尋ねて候へば。 和泉式部とこそ教へ候ひつれ。

シテ「いやさやうには云ふべからず。梅の名は好文木。 又は鶯宿梅などとこそ申すべけれ。 知らぬ人の申せばとて用ひ給ふべからず。 此寺いまだ上東門院の御時。 和泉式部此梅を植ゑおき。軒端の梅と名づけつゝ。 目がれせず眺め給ひしとなり。 かほどに妙なる花の縁に。御経をも読誦し給はゞ。 逆縁の御利益ともなるべきなり。 詞「これこそ和泉式部の植ゑ給ひし軒端の梅にて候へ。 ワキ「さては和泉式部の植ゑ給ひし軒端の梅にて候ひけるぞや。 又あの方丈は。和泉式部の御休所にて候ふか。 シテ「なか/\の事和泉式部の臥処なりしを。 造も替へずそのまゝにて。今に絶えせぬ眺ぞかし。 ワキ「ふしぎやさても古の。名を残しおく形見とて。 シテ「花も主を慕ふかと。年々色香もいやましに。 ワキ「さもみやびたる御気色。シテ「なほもむかしを。 ワキ「思ふかと。

地歌「年月をふるき軒端の梅の花。古き軒端の梅の花。 主を知れば久方の。天ぎる雪のなべて世に。 聞えたる名残かや。和泉式部の花心。 ロンギ地「げにや古を。聞くにつけても思出の。 春や昔の春ならぬ我が身ひとりぞ心なき。シテ「ひとりとも。 いさしら雪の古事を。誰に問はまし道芝の。 露の世になけれども。此花に住むものを。 地「そも此花に住むぞとは。とぶさに散るか花鳥の。 シテ「同じ道にと帰るさの。 地「先だつあとか。シテ「花の蔭に。 地「やすらふと見えしまゝに。 我こそ花の主よとゆふぐれなゐの花の蔭に。 木がくれて見えざりき木がくれて見えずなりにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「終夜(よもすがら)。軒端の梅の蔭に居て。 /\。花も妙なる法の道。 迷はぬ月の夜と共に。此御経を読誦する/\。 後シテ一声「あらありがたの御経やな。あらありがたの御経やな。

たゞいま読誦し給ふは譬喩品(ひゆほん)よなう。 詞「思ひ出でたり閻浮のありさま。此寺いまだ上東門院の御時。 御堂の関白この門前を通り給ひしが。 御車の内にて法華経の譬喩品を高らかに読み給ひしを。 式部この門の内にて聞き。 門の外(ほか)法の車の音きけば。我も火宅を。 出でにけるかなと。かやうによみし事。 今のをりから思ひ出でられて候ふぞや。 ワキ詞「げに/\此歌は。和泉式部の詠歌ぞと。 田舎(でんしや)まで聞き及びしなり。 詞「さては詠歌の心の如く。火宅をばはや出で給へりや。 シテ詞「なか/\の事火宅は出でぬさりながら。詠みおく歌舞の菩薩と成りて。 ワキ「なほこの寺に澄む月の。 シテ「出づるは火宅。ワキ「今ぞ。シテ「すでに。

地歌「三界無安の内を去りて三つの。 車にのりの道。すはや火宅の門を今ぞ。 和泉式部は成等正覚を得るぞ有難き。 地クリ「それ和歌といつぱ。法身説法の妙文たり。 たま/\後世に知らるゝ者はただ。和歌の友なりと。 貫之もこれを書きたるなり。 シテサシ「かるが故に天地を動かし鬼神を感ぜしむる事業(ことわざ)。

地「神明仏陀の冥感に至る。殊に時ある花の都。 雲居の春の空までものどけき心を種として。 天道にかなふ。詠吟たり。クセ「所は九重の。 東北の霊地にて。王城の鬼門を守りつゝ。 悪魔を払ふ雲水の。水上は山陰の賀茂川や末白河の波風も。 いさぎよき響は常楽の縁をなすとかや。庭には。池水をたゝへつゝ。 鳥は宿す池中の樹僧は敲く月下の門。出で入る人跡かず/\の。 袖をつらね裳裾を染めて。色めく有様はげに/\花の都なり。 シテ「見仏聞法のかず/\。地「順逆の縁はいやましに。 日夜朝暮に怠らず九夏三伏の夏たけて秋来にけりと驚かす。 澗底(かんてい)の松の風一声の秋を催して。 上求菩提の機を見せ池水に映る月影は。下化衆生の相を得たり。 東北陰陽の時節もげにと知られたり。春の夜の。序ノ舞「。 シテワカ「春の夜の。闇はあやなし梅の花。地「色こそ見えね。

香やは隠るゝ香やは隠るゝ。/\。シテ「げにや色に染み。 香にめでし昔を。地「よしなや今更に。 思ひ出づれば我ながらなつかしく。 恋しき涙を遠近人に。洩らさんも恥かし。 いとま申さん。シテ「これまでぞ花は根に。 地「今はこれまでぞ花は根に。

鳥は旧巣に帰るぞとて。方丈のともし火を。 火宅とや。なほ人は見ん。 こゝこそ花の台に和泉式部が臥所(ふしど)よとて。 方丈の室に入ると見えし夢はさめにけり。見し夢はさめて失せにけり 藤原某 従者 梅の精

。 ワキ詞「これは五条わたりに住居する藤原の何某にて候。 さてもわれ未だ難波津を見ず候ふ程に。此度一見せばやと思ひ候。 サシ「津の国の難波の春のゆかしさに。 けふ思ひ立つ旅衣。 三人「日影長閑けき都の空。霞隔たる山崎や。 関戸の宿も名のみにて。戸さゝぬ御代は行きかふ人の。 姿さへげにゆたけしや。 下歌「こゝは何処ぞ旧年の。 木の葉も積る芥川しばしながらの旅心。上歌「芦の若葉のなごはしみ。

芦の若葉のなごはしみ。 風も音せでよる波の。響はさすが聞きて恋ふ。 難波の浦のうららなる。 春の景色を今ぞ見ん春の景色を今ぞ見ん。 ワキ詞「面白や難波の浦の春の景色。里は花咲き匂満ち。 遠の山々うち霞み。青海原は白波の。 八重折る上に蜑小船。行きかふさまは古の。 家持の卿の詠まで思ひ出でられて候。 桜花今盛なり難波の海。 おしてる宮にきこし召すなへ。

詞「今は花いまだ含みて梅の盛にて候。 シテ呼掛「なう/\今の歌をば。 など誠のままに吟じさせ給ひ候はぬぞ。 ワキ「不思議やなかの歌は。万葉集にありつるを。 ただそのまゝに口ずさみしに。 誤ありや覚束な。 シテ「尤も今の草子にはさなんめれど。 この歌は家持の卿いまだ兵部の輔なりし時。公事にてこの国にませし程。 二月の十まり三日詠み給へり。 さて三月の三日に。 ふゝめりし花の始に来しわれや。詞「散りなん後に都へ行かんと。 春の始都を出でて。 今暫しますべきにかくよみ給ひしかば。かの二月の中の三日は。 梅の花こそ盛ならめ。 その上おしてる宮にきこし召すなへとは。 大鷦鷯の天皇の御位に即かせ給ひし事なれば。かた%\いかで桜の歌なるべき。 ワキ「げに理なり古き書には。文字の違のやゝあれば。 よくわきまへて見るべかりけり。

詞「さてさてかくまで分き給ふ。 御身はいかなる人やらん。シテ「いや誰とても理の。 まにまに聞し召さんには。 その人の名は不用ならん。まづ/\さきの御言葉の末に。 花いまだ含みて梅の盛と宣ひき。 梅の盛は花ならずや。 ワキ「まことにこれも誤なり。何の花をもそれのみにては。 花とのみよめど異花と。 ならべていふに桜をのみ。花といふなる古言は。 いかでその跡荒磯海。 シテ「浜の真砂はよみぬとも。歌の言葉の数々は。 ワキ「人の心を種として。詠み出づるなるものからに。 シテ「よも尽きせじなさりながら。 地歌「うらやすの。安き神代の伝とて。 安き神代の伝とて。まうけでよみ出づる歌の道。 直なればこそ鬼神をも。 和しむくなれいかでさる。浮める古歌のあるべき。 ロンギ地「聞けばいよ/\著き。歌の理木綿四手の。 神の示かありがたや。シテ「神かとは。

うたてはかなき天少女。 たゞ夕風に難波江の。あしやよしやもわきまへで。 そよと聞えし恥かしや。 地「今はさのみな包み井の。深き心の底ひなく。 聞かまくほしや。シテ「さもあらば。 地「この木の本に下臥して。 待たせ給はゞ夜もすがら月の影もさし出でて。 朧ながらも慰めんと梅の。 蔭に入ると見えて跡も見えずなりにけり。跡をも見せずなりにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「春の夜の。 月待ちがての枕さへ。月待ちがての枕さへ。 取りあへずまく衣手に。移るその香は隠なき。 闇にもしるき。木蔭かな闇にも。梅の木蔭かな。 後シテ一声「月うつる難波の海の。夜の波。 心もゆたに面白や。 いかに客人この夜らは。空もいとよう晴れわたり。 月の光も昼なして。花の姿もあらはならん。 人にな洩らし給ひそとよ。 ワキ「こはいかにありし女の顔ばせながら。錦の衣玉鬘(縵)。

かかる姿は木の花の。 精とも今はおもほえず。シテ詞「しろし召さねば御理。 固より梅の精なれば。たゞその折に従ひて。 定まる姿もあらぬ上。 舞をかなでて慰めんと。かくは顕れ来りたり。 ワキ「まづまつかしこしさりながら。 かたへに人の影もなし。琴笛鼓は誰やせん。 シテ詞「天にます神のおきての風のまに。 松の小枝は琴を調め。ワキ「汀の芦は。シテ「笛を吹き。 ワキ「岸打つ波は。シテ「覆槽の音。 地「おのづからなるものゝ音は。 神さぶるこの浦の。昔を返す袖ならめ。地クリ「そも/\神代のならはし。草を賎み木を貴む。 その木の中にかばかりの。 形色香の花なければ。梅花をよみして。木の花といへり。 シテサシ「さて梅の名はさる花の。 咲き出るのみかうるはしき。 地「薬の実さへ結びつつ。木の肌妙に木立まで。 異木に勝れくはしければ。シテ「うまてふ言を。

通はせて。地「梅のその名をゆりたるなり。 クセ「その上神事の。 御先に立たす宮人に。とらするも本はこの。 ずはえに限る事なりき。又御仏の御教にも。 行にはかならず梅のずはえをとれよとぞ。天皇の。 大儀の御場にも。主殿の舎人等が。 梅のずはえを捧げつゝ。紫の蓋の。 頭に仕ん奉れるは。御先を払ふよしにして。 やがて神代のつたへなり。シテ「初春の。 七日の豊の明には。地「舞の台の飾らひに。 梅と柳を立てらるゝ。 さて木綿花は古にもてはやせしもこの花を。 とこしへに見まほしく。思ひて作りそめにけん。 又毎年の大嘗に。したがふ小忌の人達も。 昔の髻華の心ばせ。木の花の木を冠の。 巾子に添へ立て久方の。天の日陰のかづら垂。 黒酒白酒の神酒たうべ。 千代万代も限らじと。謡ひ舞ふその袖を。 うつしていざや奏でん。月もおしてる。難波の浦。序ノ舞「。 シテワカ「鴬の。声ものどけき。春かぜに。 地「梅の匂や。 天に満つらん天に満つらん。天に満つらん。シテ「ゆたけしや。 難波のことか大君の。 地「恵に洩れねば草木まで。時をり/\を。違へずして。 花咲き実を結び。シテ「人民もたゞ安らかに。 地「人民もたゞ安らかに。 明くれば暮るゝくるれば明け方の東の山の端。 匂ひそめて。霞ながらに明け行くまにまに。 緑の空に。たなびく白雲は。 天つ少女の天つ猪領巾。撫づとも/\尽きせぬ巌も。 わが君が代のたとしへに足らじな。 たゞ幾久に天地の。たゞ幾久に。 天地の共に栄えまさなん。めでたさよ 旅僧 従僧 里の女 仏御前の霊

ワキワキツレ二人次第「よそは梢の秋深き。/\雪の・白山{しらやま}尋ねん。 ワキ詞「これは・都方{みやこがた}より出でたる僧にて候。 ・我{われ}未だ・白山禅定{しらやまぜんぢやう}せず候ふ程に。此秋思ひ立ち・白山禅定{しらやまぜんぢやう}と志して候。 道行三人「・遥々{はる/\}と。・越{こし}の・白山{しらやま}知らざりし。/\。 ・其方{そなた}の雲も・天照{あまて}らす。 神の・柞{はゝそ}の紅葉ばの。・誓{ちかひ}の色もいや高き・峯々{みね/\}早く・廻{めぐ}り来て。 参詣するぞ有難き参詣するぞありがたき。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早・加賀{かゞ}の・国{くに}の仏の原とやらん申し候。 日の暮れて候ふ程に。これなる・草堂{さうだう}に立ち寄り。 ・一夜{いちや}を明かさばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる・御僧{おんそう}。 何とて其・草堂{さうだう}には・御{おん}泊り候ふぞ。 ワキ「不思議やな道もなく里もなき方より。 ・女性{によしやう}・一人{いちにん}来りつゝ。我に言葉をかけ給ふは。

如何なる人にてましますぞ。 シテ「これは此仏の原に住む女にて候。時もこそあれ今宵しも。 この・草堂{さうだう}に御・泊{とまり}こそ。 有難き機縁にてましませ。今日は思ふ日に当れり。 ・御経{おんきやう}を読み仏事をなしてたび給へ。 さなきだに・五障三従{ごしやうさんじう}の此身なれば。 ・迷{まよひ}の雲も晴れ難き。心の水の。・濁{にごり}を澄まして。 涼しき道に・引導{いんだう}し給へ。 ワキ詞「・御経{おんきやう}を読み仏事をなせと承る。これこそ出家の・望{のぞみ}なれ。 さて/\・弔{とぶら}ひ申すべき。 ・亡者{まうじや}は誰にてましますぞ。 シテ「さらば其名を・顕{あらは}すべし。いにしへ・仏御前{ほとけごぜん}と申しゝ・白拍子{しらびやうし}は。 此国より出でし人なり。 都に上り・舞女{ぶぢよ}のほまれ世に勝れたまひしが。 ・後{のち}には・故郷{こきやう}なればとて此国に帰り。 終りにこゝにて空しくなる。跡のしるしも此・草堂{さうだう}の。

露と消えにし其跡なり。 ワキ「不思議やさては・古{いにしへ}の。其名に聞えし・仏{ほとけ}御前の。 亡き跡までも名を・留{と}めて。 シテ詞「仏の原といふ・名所{などころ}も。昔をとゞむる名残なれば。 ワキ「今・弔{とぶら}ふも・疑{うたがひ}なき。・成仏{じやぶつ}の縁ある其人の。 シテ「名も頼もしや・一仏成道{いちぶつじやうだう}。ワキ「・観見法界{くわんけんほふかい}。 シテ「・草木国土{さうもくこくど}。 。 二人「・悉皆成仏{しつかいじやうぶつ}と聞く時は。地歌「仏の原の・草木{くさき}まで。/\。 皆成仏は疑はず。有難やをりからの。 野もせにすだく。 虫の音までも・声仏事{こゑぶつじ}をやなしぬらん。・山風{やまかぜ}も・夜嵐{よあらし}も。 声澄み渡る此原の草木も心。 あるやらん草木も心あるやらん。 。ワキ詞「なほ/\・仏{ほとけ}御前の・御事{おんこと}・委{くは}しく・御物{おんもの}語り候へ。 クリ地「昔・平相国{へいしやうこく}の御時。 ・妓王妓女{ぎわうぎぢよほ}・仏刀自{とけとじ}とて。 ・温顔{おんがん}・舞曲{ぶきよく}花めきて世上に名を得し・遊女{いうぢよ}有りしに。 シテサシ「はじめは妓王を召し置かれて。 ・遊舞{いうぶ}の寵愛甚しくて。地「・色香{いろか}を飾る・玉衣{たまぎぬ}の。

袖の白露おきふしの。・御簾{ぎよれん}の・中{うち}を立ち去らで。 さながら・宮女{きうぢよ}の如くなりしに。 シテ「思はざるにをりを得て。地「・仏{ほとけ}御前を召されしより。 。 ・御心{おんこゝろ}うつりていつしかに妓王は・出{いだ}され参らせて。シテ「世を秋風の。音・更{ふ}けて。 地「涙の雨も。をやみもせず。 クセ「・実{げ}にや思ふ事。叶わねばこそ浮世なれ。 我は本より・優色{いうしよく}の。花・一時{いつとき}の・盛{さかり}なれば。 散るを・何{なに}と恨みんや。 嵐は吹けども松はもとより常盤なり。いつ歎き。 いつ驚かん浮世ぞと。思へばかゝるをりふしの。 来るこそ・教{をしへ}なれ。しかも・迷{まよひ}を照らすなる。 シテ「・弥陀{みだ}の・御国{みくに}も・其方{そなた}ぞと。 地「・頼{たのみ}をかけて・西山{にしやま}や。 浮世の嵯峨の奥深き草の・庵{いほり}の・隠家{かくれが}の隠れて住むと思ひしに。 ・思{おもひ}の外なる仏御前の。様を変へ来りたり。 。 こはそもさるにてもかく捨つる身となりぬれど。猶も御身の恨めしさの。 ・執心{しふしん}は残るにそもかゝる心持つ人かや。

今こそ誠の。仏にてましませとて。 ・妓王{ぎわう}は・手{て}を合はせ感涙を流すばかりなり。 ロンギ地「・昔語{むかしがたり}はさて置きぬ。 さて今跡を・弔{と}ひ給ふ。御身如何なる人やらん。 シテ「・我{われ}は誰とか・岩代{いはしろ}の。 松の葉結ぶ露の身の。・行方{ゆくへ}を何と問ひ給ふ。 地「行方いづくとしら雪の。跡を見よとは此原の。 シテ「草の庵はこゝなれや。 地「露の身を置く。シテ「・草堂{さうだう}の。 地「・主{あるじ}は・仏{ほとけ}よといひ捨てゝ。立ち去る影は・草衣{くさごろも}。 尾花が袖の露。 分け・草堂{さうだう}の・内{うち}に入りにけり草堂の内に入りにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「松風寒き此原の。/\。 草の。 仮寝のとことはに・御法{みのり}をなして夜もすがら。・彼{か}の・跡{あと}・弔{と}ふぞ有難き/\。 後シテ一声「あら有難の・御経{おんきやう}やな。 ・早{はや}・明方{あけがた}にもなるやらん。遠寺の鐘も・幽{かすか}に響き。 月落ちかゝる山かづらの。 嵐烈しき仮寝の床に。夢ばし覚まし給ふなよ。

ワキ「不思議やな仏の原の草枕に。 遊女の影の見え給ふは。いかさま聞きつる・仏{ほとけ}御前の。 幽霊にぞましますらん。 シテ詞「恥かしながら・古{いにしへ}の。仏といはれし名を・便{たより}にて。 ・輪廻{りんゑ}の姿も歌舞をなす。 ワキ「極楽世界の・御法{みのり}の声。シテ「仏事をなすや。ワキ「此原の。 シテ「仏の舞の。・妙{たへ}なる袖。 地「草木も・靡{なび}く。気色かな。序ノ舞「。 シテワカ「ひとりなほ。仏の・御名{みな}を。 尋ね見ん。地「おの/\帰る。・法{のり}の・場人{にはびと}。 ・法{のり}の・場人{にはびと}の。シテ「・法{のり}の教も。幾程の世ぞや。 地「・前仏{ぜんぶつ}は過ぎぬ。 シテ「・後仏{ごぶつ}はいまだなり。地「夢の・中間{ちうげん}は。シテ「此世の内ぞや。 地「鐘も響き。シテ「鳥も・音{ね}を鳴く。 地「・夜半{よは}の内なる・夢幻{ゆめまぼろし}の。・一睡{いつすゐ}の・内{うち}ぞ。 仏も有るまじ。まして人間も。 シテ「嵐吹く・雲水{くもみづ}の。シテ「嵐吹く・雲水{くもみづ}の。 ・天{てん}に浮べる波の。一滴の露の・始{はじめ}をば。 何とかかへす舞の袖・一歩{いつぽ}。挙げざる先をこそ。

仏の舞と。

はいふべけれとうたひ捨てゝ失せにけりやうたひ捨てゝ失せにけり 旅僧 従僧 里の女 采女の霊

ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。 我此程は都に候ひて。 洛陽の寺社残りなく拝み廻りて候。 又これより南都に参らばやと思ひ候。サシ「頃は弥生の十日余り。 花の都を旅立ちて。まだ夜をこめて東雲の。 道行三人「影ともに。我も都を下り月。/\。 残る朝の朝霞。深草山の末つゞく。 木幡の関を今朝越えて。宇治の中宿井出の里。 過ぐれば。これぞ奈良坂や。 春日の里に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 春日の里に着きて候。心静かに社参申さばやと思ひ候。 。シテ次第「宮路正しき春日の/\寺にもいざや参らん。 サシ「更闌け夜静かにして。四所明神の宝前に。耿々たる灯も。

世を背けたる影かとて。 共に憐む深夜の月。朧々と杉の木の間を洩りくれば。 神の御心にも。如く物なくや思すらん。 下歌「月に散る花の陰行く宮めぐり。 上歌「運ぶ歩の数よりも。/\。 積もる桜の雪の庭。又色添へて紫の。 花を垂れたる藤の門。明くるを春の。 景色かな明くるを春の景色かな。

。 ワキ詞「如何に是なる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「見申せばこれ程茂りたる森林に。 重ねて木を植え給ふ事不審にこそ候へ。 シテさては当社始めてご参詣の人にて御入り候ふか。 ワキ「さん候始めてこの処に参りて候。 当社の謂詳しく御物語り候へ。シテ詞「そも/\当社と申すは。神護景雲二年に。河内の国平岡より。 この春日山本宮の峰に影向ならせ給ふ。 さればこの山。もとは端山の陰浅く。 木陰一つもなかりしを。陰頼まんと藤原や。 氏人よりて植えし木の。もとより恵深き故。 程なくかやうに太山となる。 然れば当社の御誓にも。人の参詣はうれしけれども。 。 木葉の一葉も裳裾に着きてや去りぬべきと。惜しみ給ふも何故ぞ。 人の煩茂き木の。陰深けれと今も皆。 諸願成就を植え置くなり。

されば慈悲万行の日の影は。三笠の山に長閑にて。 五重唯識の月の光は。春日の里に隈もなし。 地歌「陰頼みおはしませ。 唯かりそめに植うるとも。草木国土成仏の。 神木と思し召しあだなにな思ひたまひそ。 上歌「あらかねのその始め。/\。治まる国は久方の。 あめはゝこぎの緑より。花開け香残りて。 仏法流布の種久し。昔は霊鷲山にして。 妙法華経を説き給ふ。 今は衆生を度せんとて大明神と現れこの山に住み給へば。 鷲の高嶺とも。三笠の山を御覧ぜよ。 さて菩提樹の木陰とも。 盛りなる藤咲きて松にも花を春日山。 長閑けき陰は霊山の浄土の春に。劣らめや浄土の春に劣らめや。 シテ詞「如何に申し候。 猿沢の池とて隠れなき名地の候ふを御覧ぜられて候ふか。 。 ワキ詞「承り及びたる名地にて候御教へ候へ。シテ「此方へ御出で候へ。 これこそ猿沢の池にて候へ。又思ふ子細の候へば。

。 この池の辺にて御経を読み仏事をなして賜り候へ。 ワキ「やすき間の事仏事をばなしと申すべし。 さて誰と志して廻向申し候ふべき。 シテ「これは昔采女と申しゝ人。 この池に身を投げ空しくなりしなり。されば天の帝の御歌に。 吾妹子が寝ぐたれ髪の猿沢の。 詞「池の玉藻と見るぞ悲しきと。よめる歌の心をば。 知ろし召され候はずや。ワキ「実に/\此歌は承り及びたるやうに候。委しく御物語り候へ。 シテ語「昔天の帝の御時に。 一人の采女有りしが。采女とは君に仕へし上童なり。 始めは叡慮浅からざりしが。 程なく御心変りしを。及ばず乍ら君を恨み参らせて。 此池に身を投げ空しくなりしなり。 ワキ「実に実に我も聞き及びしは。 帝あはれと思し召し。この猿沢に御幸なつて。 シテ詞「采女が死骸を叡覧あれば。 ワキ「さしもさばかり美しかりし。

シテ「翡翠のかんざし嬋娟の鬢。ワキ「桂の黛。シテ「丹花の唇。 ワキ「柔和の姿引きかへて。 シテワキ二人「池の藻屑に乱れ浮くを。君もあはれと思い召して。 地歌「わぎもこが。 寝ぐたれ髪を猿沢の/\。池の玉藻と。見るぞ悲しきと。 叡慮に懸けし御情。 かたじけなやな下として。君を恨みしはかなさは。 たとへば及びなき水の月取る猿沢の。 生ける身と思すかや我は采女の幽霊とて。 池水に入りにけり池水の。底に入りにけり。中入間「。 ワキ三人歌待謡「池の波。夜の汀に座をなして。 /\。仮に見えつる幻の。 采女の衣の色色に。弔ふ法ぞまことなる/\。 後シテ一声「有難や妙なる法を得るなるも。 心の水と聞くものを。 さわがしくとも教へあらば。浮かぶ心の猿沢の。 池の蓮の台に坐せん。よく/\弔ひ給へとよ。 ワキ「不思議やな池の汀に現れ給ふは。 采女と聞きつる人やらん。

シテ詞「恥かしながら古の。采女が姿を現すなり。 仏果を得しめおはしませ。 ワキ「もとよりも人々同じ仏性なり。なに疑も波の上。 シテ「水の底なる鱗や。ワキ「及至草木国土まで。 シテ「悉皆成仏。ワキ「疑なし。 地「ましてや。人間に於てをや。 竜女が如く我もはや。 変成男子なり采女とな思ひ給ひそ。しかも所は補陀洛の。 南の岸にいたりたり。 これぞ南方無垢世界生れん事も。頼もしや生まれけん事も頼もしや。 。 地クリ「実にや古に奈良の都の代々を経て。 神と君との道すぐに国家を守る誓とかや。シテサシ「しかれば君に仕人。 その品品の多き中に。地「わきて采女の花衣の。 裏紫の心を砕き。君辺に仕へ奉る。 シテ「されば世上にその名を広め。 地「情内にこもり言葉外に顕るゝためし。 世以て類多かりけり。クセ「葛城の王。 勅に従ひ陸奥の。忍ぶもぢずり誰も皆。

こ。 ともおろそかなりとて設けなどしたりけれど。 なほしもなどやらん王の心解けざりしに。 采女なりける女の土器取りし言の葉の露の情に心解け叡感以て甚し。 さらば浅香山。影さへ見ゆる山の井の。 浅くは人を思ふかの。心の花開け。 風もをさまり雲静かに。安全をなすとかや。 シテ「然れば采女の戯の。 地「色音に移る花鳥の。とぶさに及ぶ雲の袖。 影も廻るや杯の。御遊の御酒の折々も。 采女の衣の色添へて。大宮人の小忌衣。 桜をかざす朝より。 今日も呉織声の綾をなす舞歌の曲。拍子を揃へ。袂を翻へして。 遊楽快然たる采女の衣ぞ妙なる。 取り分き忘れめや曲水の宴の有りし時。 御土器度々廻り。有明の月更けて。山時鳥。

誘ひ顔なるに叡慮を受けて遊楽の。 月に鳴け。序の舞「。 シテワカ「月に鳴け。同じ雲井の時鳥。 地「天つ空音の。万代までに。シテ「万代と。 限らじものを。天衣。無づとも尽きぬ。 巌ならなん。松の葉の。地「松の葉の。 散り失せずして。正木のかづら長く伝はり。 鳥の跡絶えず。天地おだやかに。 国土安穏に。四海波。静かなり。 ジテ「猿沢の池の面。地「猿沢の池の面に。 水滔々として波又。悠々たりとかや。 石根に雲起つて雨はそうようを打つなり。 遊楽の夜すがらこれ。采女の、戯と思すなよ。 讃仏乗の。因縁なる物を。 よく弔はせ給へやとて又波に。 入りにけり又波の底に入りにけり 里の女 芭蕉の精

ワキ詞「これは唐土楚国の傍。 小水と申す所に山居する僧にて候。 さても我法華持経の身なれば。 日夜朝暮彼の御経を読み奉り候。殊更今は秋の半。 月の夕すがら怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。 この山中に我ならで。 又住む人もなく候に。夜な/\読経の折節。 庵室のあたりに人の音なひ聞え候。 今夜も来りて候はゞ。 如何なる者ぞと名を尋ねばやとおもひ候。サシ「既に夕陽西にうつり。 山峡の陰冷ましくして。鳥の声幽に物凄き。 歌「夕の空もほの%\と。/\。 月になり行く山陰の。寂莫とある柴の戸に。 此御経を。読誦する此御経を読誦する。 シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。/\。 あだにや風の破るらん。 サシ「風破窓を射て灯きえ易く。 月疎屋を穿ちて夢なり難き。秋の夜すがら所から。 物すさましき山陰に。住むとも誰か白露の。

ふり行く末ぞ哀なる。 下歌「あはれ馴るゝも山賊の友こそ。岩木なりけれ。上歌「見ぬ色の。 深きや法の花心。/\。 染めずはいかゞ徒に。 其唐衣の。 錦にも衣の珠はよも掛けじ。 草の袂。 も露涙移るも過ぐる年月は。 廻り廻。 れどうたかたの哀。 れ昔の秋もなしあはれ昔の秋もなし。 。 ワキ詞「さても我読誦の声怠らず。 夢。 現とも分からざるに。 女人の月に見え給ふは。 如何なる人にてましますぞ。 シテ「これは此あたりに住む者なるが。 さも逢ひ難き御法を得。花を捧げ礼をなし。

結縁をなすばかりなり。とても姿を見え参らすれば。 何をか今は憚の。言の葉草の庵の内を。 露の間なりと法の為は。 結縁に貸させ給へよと。ワキ詞「実に/\法の結縁は。 誠に妙なる御事なれどもさりながら。 なべてならざる女人の御身に。

いかで御宿を参らすべき。 シテ詞「其御心得はさる事なれども。よそ人ならず我もまた。 住家はこゝぞ小水の。ワキ「同じ流を汲むとだに。 知らぬ他生の縁による。シテ「一樹の陰の。 ワキ「庵の内は。地歌「惜まじな。 月も仮寝の宿。/\。軒も垣ほも古寺の。愁は。 崖寺のふるに破れ。魂は山行の。 深きに痛ましむ月の影も凄ましや。誰かいひし。 蘭省の花の時。錦帳の下とは。 廬山の雨の夜草庵の中ぞ思はるゝ。 ワキ詞「余りに御志深ければ。 御経読誦の程内へ御入り候へ。 シテ「さらば内へ参り候ふべし。 あら有難や此御経を聴聞申せば。我等如きの女人。 非情草木の類までも頼もしうこそ候へ。 ワキ「実によく御聴聞候ふものかな。 たゞ一念随喜の信心なれば。一切の非情草木の類までも。 何の疑の候ふべき。 シテ「さては殊更有難や。さて/\草木成仏の。

謂晴をなほも示し給へ。ワキ「薬草喩品現れて。 草木国土有情非情も。皆これ諸法実相の。 シテ「峰の嵐や。ワキ「谷の水音。 二人「仏事をなすや寺井の底の。心も澄めるをりからに。 地歌「灯を背けて向ふ月の下。/\。 共に憐む深き夜の。心を知るも法の人の。 教のまゝなる心こそ。思の家ながら。 火宅を出づる道なれや。されば柳は緑。 花は紅と知る事も。 唯其まゝの色香の草木も。成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし。 ロンギ地「不思議やさても愚なる。 女人と見るにかくばかり。 法の理白糸の解くばかりなる心かな。シテ「なか/\に。 何疑か有明の。末に闇路をはるけずは。 。 今逢ひ難き法を得る身とはいかゞ思はん。地「実に逢ひ難き法に逢ひ。 受け難き身の人界を。 シテ「受くる身ぞとやおほすらん。地「恥かしや帰るさの。 道さやかにも照る月の。

影はさながら庭の面の雪の中の芭蕉の。 いつはれる姿の真を見えば如何ならんと。思へば鐘の声。 諸行無常となりにけり/\。中入間「。 ワキ詞「さては雪の中の芭蕉の。 偽れる姿と聞こえしは。疑もなき芭蕉の女と。 現れけるこそ不思議なれ。 歌待謡「たゞこれ法の奇特ぞと。/\。 思へばいとゞ夜もすがら。月も妙なる法の場。風の芭蕉や。 つたふらん風の芭蕉や伝ふらん。 後シテ一声「あら物すごの庭の面やな。/\。 有難や妙なる法の教には。 逢ふ事まれなる優曇華の。花待ち得たる芭蕉葉の。 御法の雨も豊かなる。露の恵を受くる身の。 人衣の姿。御覧ぜよ。かばかりは。 うつり来ぬれど花もなき。地「芭蕉の露の。 旧りまさる。シテ「庭のもせ山陰のみぞ。 ワキ「寝られねば枕ともなき松が根の。 現れ出づる姿を見れば。 ありつる女人の顔ばせなり。

さもあれ御身はいかなる人ぞ。シテ詞「いや人とは恥かしや。 誠は我は非情の精。芭蕉の女と現れたり。 ワキ「そもや芭蕉の女ぞとは。 何の縁にかかかる女体の。身をば受けさせ給ふらん。 シテ詞「その御不審は御あやまり。 何か定は荒金の。ワキ「土も草木も天より下る。 シテ「雨露の恵を受けながら。 ワキ「我とは知らぬ有情非情も。 シテ「おのづからなる姿となりて。ワキ「さも愚かなる。 シテ「女とて。地歌「さなきだに。 あだなるに芭蕉の。女の衣は薄色の。花染ならぬに袖の。 ほころびも恥かしや。 。 地クリ「それ非情草木といつぱ誠は無相真如の体。一塵法界の心地の上に。 雨露霜雪の形を見ず。 サシシテ「然るに一枝の花を捧げ。地「御法の色をあらはすや。 一花開けて四万の春。 長閑けき空の日影を得て揚梅桃李数々の。シテ「色香に染める。 心まで。地「諸法実相。隔もなし。

クセ「水に近き楼台は。 まづ月を得るなり陽に向へる花木は又。春に逢ふ事易きなる。 其理も様々の。実に目の前に面白やな。 春過ぎ夏たけ秋来る風の音信は。 庭の荻原先そよぎそよかゝる秋と知らすなり。 身は古寺の軒の草。忍とすれど古も。 花は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。 もろくも落つる露の身は。置き所なき虫の音の。 蓬がもとの心の。秋とてもなどか変らん。 シテ「よしや思へば定なき。 地「世は芭蕉葉の夢の中に。 牡鹿の鳴く音は聞きながら。驚きあへぬ人心。 思ひいるさの山はあれど。

唯月ひとり伴なひ馴ぬる秋の風の音。起き臥し茂き小笹原。 しのに物思ひ立ち舞ふ袖。暫しいざやかへさん。 シテ「今宵は月も。白妙の。地「氷の衣。 霜の袴。序ノ舞「。シテワカ「霜の経。露の緯こそ。 弱からし。地「草の。袂も。シテ「久方の。 地「久方の。天つ少女の羽衣なれや。 シテ「これも芭蕉の羽袖をかへし。 地「かへす袂も芭蕉の扇の。風茫々と物すごき古寺の。 庭の浅茅生。女郎花刈萓。 面影うつろふ露の間に。山おろし松の風。吹き払ひ/\。 花も千草もちり%\。に。 花も千草もちり%\になれば。 芭蕉は破れて残りけり 峯雄 里の男 花の精

ワキ次第「色香もさぞな深草の/\。 野辺の桜を尋ねん。 ワキ詞「これは旧院に仕へ申しゝ。峯雄がなれる果にて候。

誠や良峯も御別を悲しみ。比叡山に頓世と聞き。 。 一人に限らぬ思の色深草山に分け入りて。古院の常に叡覧ありし <161a>。 花をもせめて眺めばやと思ひ候。 下歌「都出づれば日も既に。竹田の里はこれやらん。 上歌「一夜伏見の夢にだに/\。 思ひ絶えにし別路。 の末こそ知らね深草の花は昔や慕ふらん/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。深草に着きて候。 我この陵に来て見れば。 人跡絶えたる木の下は。なほ深草の花の色。 誰と咎むる気色もなし。詞「何となく思ひ連ねて候。 深草の野辺の桜し心あらば。 この春ばかり墨染に咲け。詞「この歌を短冊に写し。 枝につけて帰らばやと思ひ候。 。シテ詞「なう/\あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。シテ「今の詠歌の有難さに。 これまで現れ参りたり。 ワキ「不思議やな花を眺むる友かと見ればさはなくて。 今の詠歌の有難きとは。 いかなる人にてましますぞ。シテ詞「この花なくはいかにして。

かゝる詠歌のましますべき。 唯今手向の言の葉にも。 深草の野辺の桜し心あらば。此春ばかり墨染に。 地「咲けとは今は恨めしや。/\。浮世の春のあだ桜。 風吹かぬ間もあるべきか。 あぢきなの習やな。我も浮世を捨衣。 君がためなる薫物の。沈香ながら切髪の。 ながらへはてぬ世の中に。 様かへてたび給へ我が様かへてたび給へ。 ワキ詞「さて何故の御発心にて候ふぞ。シテ「これは御詠歌故候ふよ。 ワキ「そも詠歌故とは候。 シテ「唯今の御詠歌に。此春ばかりと遊ばしたる。 此春ばかりを引きのけて。 此春よりはと詠じ給はゞ。なほ行末も久方の。 尽きぬ逢瀬の言葉を添へて。 地「花はこれまで青柳の。暇申してさらばとて。 立つかと見れば薄霞。 木の間の月の影暗く花曇して失せにけり花曇して失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては此花の精現れて。

我に詞をかはしけるぞや。 いざや成道なすべしと。説くや御法の言の葉は。/\。 深草野辺の草衣。 かたしく袖もうば玉の墨の衣の旅寝かな墨の衣の旅寝かな。 後シテ一声「あら有難の御経やな。/\。 クリ「草木国土悉皆成仏。 地「実に頼もしやこの文は。中陰経の妙文。 シテ「尊や我こそ草木国土に色香を見せて花の名の。 地「深草野辺の墨染桜。これ見給へや。御僧よ。 シテサシ「それ桜は諸木にすぐれ。 水を生ずる徳あり。 地「これに依つて火難の恐をなす事なし。されば帝都を花洛と号し。 陽花殿月花門。 左近の桜に至るまで禁中に移し置かれたり。 シテ「主上此木に向はせ給ふ。地「これに依つて玉簾に。 木向といふ紋を。現すなり。 クセ「かほどめでたき花の徳。誰かは仰がざるべき。 中にもこの桜は。旧院の御愛木。 花の新に開けし日は。

初陽潤ふ御顔も歓ばせおはしまし鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる御気色。 無常の嵐吹き来り。花より先に散り給ふ。 心なき草木も。歎の色に出でざらん。 此春ばかり墨染に咲けとの詠は恥かしや。 シテ「皆人は。花の衣になりぬなり。 地「苔の袂やせめてなど。 かわかざらめや雨と降り。 嵐にだにも誘はれて日数をめぐるあだ桜。うき世の春の隠家と。 墨染衣衣更着の。仏の縁を受けつぎて。

草木も成仏の。御法ぞ嬉しかりける。深草の。 舞シテ「深草の野辺の桜し。心あらば。 地「此春より墨染に咲け。/\/\。 シテ「花の袂も風吹かぬほどぞ。地「雨にも誘はれ。 シテ「露にもしをれ。地「契少なき花衣。 墨染桜こずゑに残る霞も雲も明けゆく空に。 。 霞も雲も明けゆく空に松風ばかりや音すらん 女の亡霊 日蓮上人 ワキサシ「凡そ方便現涅槃。 星霜二千二百余廻。後五百歳中いま少し。 広宣流布の時を待ちて。妙法しゆとう繁昌の日。 めでたかるべき。時節かな。 地下歌「寂寞無人声読誦この経典の窓の内。 上歌「一念三千の花薫じ。/\。我爾時為現清浄。 光明身の床の上に。一心三観の月満てり。

衆生の遊楽も今こゝに。身延山の風水も。 読誦の声添へて自然の露地なりけり。 シテ次第「松吹く風も法の声。/\。 聞くやいかにと音すらん。 サシ「面白や四方の梢も秋ふけて。野辺の千草もさま%\に。 錦を彩る白露の。おのが姿をそのまゝに。 もみぢに置けばくれなゐなり。

下歌「われ。 もこの身をこのまゝに成仏の法ぞ頼もしき。上歌「いとけなき身の母にあひ。 母に逢ひ。飢ゑたる者の食を求め。 はだかなる者の衣を得たるごとくなり。 如渡得船の海の面。さゝでそのまゝ至るべき。 さを投ぐる間も急げ人。 御法に後るなよ御法に後れ給ふな。 ワキ詞「われ心観の窓に向ひ。 御経読誦のをりごとに。御身一時も怠る事なし。 実に心ざしの人と見えたり。 そもいづくより来れる人ぞ。 シテ「これはこの山の遥の麓に。草結びする女なるが。 かく上人のこの処に。いたり給ふは上行菩薩の。 御再誕ぞと忝くて。かゝる妙なる御法には。 値ふことかたき女人の身の。 今待ち得たる法の場に。いかでか怠り候ふべき。 ワキ詞「げに/\これは理なり。 されども遥の麓より。時を違へぬ御参詣。 猶しも思へば不審なり。御身はこの世になき人な。

委しく語り給ふべし。 シテ詞「早くも心得給ひたり。これはこの世に亡き者なるが。 さもありがたき上人の。御法に知遇の度。 重なりて。苦患を免かれ今は早。 妙覚無為に至るべき。妙法蓮華経の功徳。 不可思議なるかな妙なるかな。いよ/\仏果を。授け給へ。 地「妙なる御法の花の縁。深きまよひも忽ちに。 変成男子われなりと。正覚の跡を追ひ。 竜女にいかで劣らん。上歌「か程妙なる御事を。 知らで過ぎにしいにしへの。 身を知れば先だたぬ。悔の八千たび悲しきは。 流るゝ喜の汗涙。身の毛もよだちてさてもわれ。 かかる御法に逢ふ事よと。 上人の御前に涕泣するぞ哀なる。 クリ「げにや恩愛愛執の涙は四大海より深し。 聞法随喜の其為には。一滴もおとすことなし。 シテサシ「ありがたや衆罪如霜露恵日の光に。 消えて即身成仏たり。地「かの調達が五逆の因に。

沈みはてにし阿鼻の苦。 終に法義の台に変ず。シテ「況や受持し読誦せんをや。 地「たゞ一時も結縁せば。それこそ即ち。 仏心なれ。クセ「帰命妙法蓮華経。 一部八巻四七品。文々こと%\く神力を示しのべ給ふ。濁乱の衆生なれば。 此経はたもちがたし。暫くもたもつ者は。 我則歓喜して。諸仏もしかなりと一乗の。 妙文なるものを。深着虚妄法。 堅受不可捨ぞ悲しき。シテ「始め華厳の御法より。 地「般若に及ぶ四十余年。 未顕真実の方便成仏のまことあらはれて妙法蓮華経ぞかし。 正直捨方便無上の道にいたるべし。 げにありがたや此経に。値ふ事難き優曇華の。 花待ちえたり嬉しの今の機縁や。 シテ「おもしろや。妙なる法の華の袖。 地「夕日や連れて。めぐるらん。序ノ舞「。 シテ「報謝の舞の袖の上に。 地「紫雲たなびき光さし。千草にすだく虫の音までも。

妙法蓮華の。となへかな。 地上歌「げにありがたき法の道。末暗からぬ燈の。 永き闇路を照らしつゝ。三つの絆もこと%\く。 得脱成仏の御法なり。 げにありがたや頼もしや。シテ「御法の御声も時過ぎて。

地「御法の御声も時過ぎて。すでに此日も入相の。 鐘響き月出でて。げにも妙なる法の場。 身延の山の風の音。 水の御声もおのづから諸法実相と響きつゝ。 草木国土皆成仏の霊地なりけり成仏の霊地なりけり 女(夕顔の精)

。 ワキ詞「これは都紫野雲林院に住居する僧にて候。 さてもわれ一夏の間花を立て候。はや安居も過方になり候へば。 色よき花を集め。 花の供養を執り行はばやと存じ候。敬つて白す立花供養の事。 右非情草木たりといへども。 此花広林に開けたり。豈心なしといはんや。 なかんづく泥を出でし蓮。一乗妙典の題目たり。 この結縁に引かれ。草木国土悉皆成仏道。 シテ「手に取ればたぶさに穢る立てながら。 三世の仏に花奉る。

ワキ詞「不思議やな今までは。草花りよようとして見えつる中に。 。 白き花のおのれ独り笑の眉を開けたるは。いかなる花を立てけるぞ。 シテ「愚の御僧の仰やな。たそがれ時のをりなるに。 などかはそれと御覧ぜざる。 さりながら。 名は人めきて賎しき垣ほにかゝりたれば。知しめさぬば理なり。 これは夕顔の花にて候。ワキ「げに/\さぞと夕顔の。花の主はいかなる人ぞ。 シテ「名のらずと終には知しめさるべし。 われはこの花の蔭より参りたり。

ワキ「さては此世に亡き人の。花の供養に逢はんためか。 それにつけても名のり給へ。 シテ「名はありながら亡き跡に。なりし昔の物語。 ワキ「何某の院にも。シテ「常はさむらふ真には。 地「五条あたりと夕顔の。/\。 空目せしまに夢となり。 面影ばかり亡き跡の立花の蔭に隠れけり/\。中入。 ワキ「ありし教に従つて。 五条あたりに来て見れば。げにも昔の座所。 さながらやどりも夕顔の。瓢箪しば/\空し。 草顔淵が巷に滋し。後シテ一声「藜〓深く鎖せり。 夕陽のざんせい新に窓を穿つて去る。 地「しうたんの泉の声。 シテ「雨原憲が樞を湿す。下歌地「さらでも袖を湿すは。 廬山の雪の曙。窓東に向ふ朗月は。/\。 琴榻にあたり。しう上の秋の山。 物凄の気色や。 ロンギ「げに物凄き風の音。 簀戸の竹垣ありし世の。夢の姿を見せ給へ。

菩提をふかくとむらはん。シテ「山の端の。 心も知らで行く月は。上の空にて絶えし跡の。 又いつか逢ふべき。地「山賎の。 垣は荒るときをり/\は。シテ「哀をかけよ撫子の。 地「花の姿をまみえなば。 シテ「跡訪ふべきか。地「なか/\に。 シテ「さらばと思ひ夕顔の。地「草の半蔀おし上げて。 立ち出づる御姿見るに涙の留まらず。 クセ「其頃源氏の中将と聞えしは。 此夕顔の草枕。たゞ仮臥の夜もすがら。 隣を聞けば三吉野や。御嶽精進の御声にて。 南無当来導師。弥勒仏とぞ称へける。 今。 も尊き御供養に其時の思ひ出でられてそぞろに濡るゝ袂かな。 猶それよりも忘れぬは。源氏この宿を。 見初め給ひし夕つ方。惟光を招きよせ。 あの花折れと宣へば。 白き扇のつまいたうこがしたりしに。此花を折りて参らする。 シテ「源氏つく%\と御覧じて。

地「うち渡す遠方人に問ふとても。それ某花と答へずば。 終に知らでもあるべきに。 逢ひに扇を手に触るゝ。契の程の嬉しさ。 折々尋ねよるならば。定めぬ海士の此宿の。 主を誰と白浪の。よるべの末を頼まんと。 一首を詠じおはします。折りてこそ。 序ノ舞シテワキ二人「折りてこそそれかとも見め。 地「たそがれに。地「ほの%\見えし。

花の夕顔。/\。/\。 シテ「終の宿は知らせ申しつ。地「常にはとむらひ。 シテ「おはしませと。地「木綿付の鳥の音。 シテ「鐘も頻に。地「告げ渡る東雲。 あさまにもなりぬべし。 明けぬ先にと夕顔の宿明けぬ先にと夕顔のやどりの。 また半蔀の内に入りて其まゝ夢とぞ。なりにける 旅僧 従僧 里の女 夕顔の上

。 ワキ次第「これは豊後の国より出でたる僧にて候。 さても松浦箱崎の誓も勝れたるとは申せども。 なほも名高き男山に参らんと思ひ。此程都に上りて候。 今日もまた立ち出で仏閣に参らばやとおもひ候。 サシ「たづね見る都に近き名所は。 まづ名も高く聞えける。雲の林の夕日影。 うつろふ方は秋草の。花紫の野を分けて。

三人歌「賀茂の御社伏し拝み。/\。 糾の森も打ち過ぎて帰る宿は。在原の。 月やあらぬとかこちける。 五条あたりのあばら屋の。主も知らぬ処まで。 尋ね訪ひてぞ暮しける/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早五条あたりにてありげに候。不思議やなあの屋づまより。 女の歌を吟ずる声の聞え候。

暫く相待ち尋ねばやと思ひ候。 シテ、アシラヒ出「山の端の。心も知らで。 行く月は。うはの空にて。影や絶えなん。 巫山の空は忽ちに。陽台のもとに消えやすく。 湘江の雨はしば/\も。 楚畔の竹を染むるとかや。 サシ「こゝは又もとより所も名も得たる古き軒端の忍草。 しのぶかたがた多き宿を。紫式部が筆の跡に。 たゞ何某の院とばかり。 書き置きし世は隔たれど。見しも聞きしも執心の。 色をも香をも捨てざりし。下歌「涙の雨は後の世の。 さはりとなれば今もなほ。 上歌「つれなくも。通ふ心の浮雲を。/\。 払ふ嵐の。 風の間に真如の月も晴れよとぞ空しき空に。仰ぐなる空しき空に仰ぐなる。 。 ワキ詞「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「さてこゝをば何くと申し候ふぞ。

シテ「これこそ何某の院にて候へ。ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。 名の上の唯かりそめの言の葉やらん。 又。 それを其名に定めしやらん承りたくこそ候へ。シテ「さればこそ始より。 むつかしげなる旅人と見えたれ。 紫式部が筆の跡に。唯何某の院とかきて。 其名をさだかにあらはさず。 然れどもこゝは旧りにし融の大臣。住み給ひし所なるを。 其世をへだてゝ光君。また夕顔の露の世に。 上なき思を見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。 それもさながら苔むせる。 河原の院と御覧ぜよ。ワキ「うれしやさては昔より。 名におふ処を見る事よ。 詞「我等も豊後の国の者。その玉葛のゆかりとも。 なして今又夕顔の。露きえ給ひし世語を。 かたり給へや御跡を。及びなき身も弔はん。 シテクリ「そも/\ひかる源氏の物語。 言葉幽艶をもとゝして。 理浅きに似たりといへども。

地「心菩提心をすゝめて義殊に深し。誰かは仮にも語りつたへん。 シテサシ「中にも此夕顔の巻は。 殊にすぐれてあはれなる。地「情の道も浅からず。 契り給ひて六条の。御息所に通ひ給ふ。 よすがによりし中宿に。シテ「唯休らひの玉鉾の。 地「便に。立てし御車なり。 クセ「ものゝあやめも見ぬあたりの。 小家がちなる軒のつまに。咲きかゝりたる花の名も。 えならず見えし夕顔の。をり過さじとあだ人の。 心の色は白露の。情おきける言の葉の。 末をあはれと尋ね見し。 閨の扇の色ことにたがひに秋の契とは。なさゞりし東雲の。 道の迷の言の葉も。此世はかくばかり。 はかなかりける・蜉蝣{ひをむし}の。 命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れはてゝ。 宵の間過ぐる故郷の松のひゞきも恐ろしく。 シテ「風にまたゝく灯の。 地「消ゆると思ふ心地して。あたりを見ればうば玉の。 闇の現の人もなく如何にせんとか思川。

うたかた人は息消えて。帰らぬ。 水の泡とのみ。散りはてし夕顔の。 花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。 有りつる女も掻消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「いざさらば夜もすがら。/\。 月見がてらに明かしつゝ。法華読誦の声たえず。 弔ふ法ぞ誠なる/\。 。 後シテサシ一声「さなきだに女は五障の罪ふかきに。聞くも気疎きものゝけの。 人うしなひし有様を。あらはす今の夢人の。 跡よく弔ひ給へとよ。 ワキ「不思議やさては宵の間の。山の端出でし月影の。 ほの見えそめし夕顔の。末葉の露の消えやすき。 本の雫の世語を。かけて顕し給へるか。 シテ「見たまへこゝもおのづから。 気疎き秋の野らとなりて。 ワキ「池は水草に埋もれて。古りたる松の陰暗く。 シテ「又鳴き。

騒ぐ鳥の枯声身にしみわたるをりからを。ワキ「さも物すごく思ひ給ひし。 シテ「心の水は濁江に。 ひかれてかゝる身となれども。優婆塞が。行ふ道をしるべにて。 地「来ん世も深き。 契絶えすな契絶えすな。序の舞「。 シテ「御僧の今の。弔を受けて。 地「御僧の今の。弔を受けて。かず/\うれしやと。シテ「夕顔のゑみの眉。

地「開くる法華の。シテ「花房も。 地「変成男子の願のままに。解脱の衣の。袖ながら今宵は。 何を包まんと言ふかと思へば。音羽山。 嶺の松風かよひ来て。明けわたる横雲の。 迷もなしや。東雲の道より。 法の出づるぞと。明けぐれ?の空かけて。 雲のまぎれに。失せにけり 旅僧 雪の精。

ワキ次第「末の松山はる%\と。/\。 行方やいづくなるらん。 詞「これは諸国一見の僧にて候。我此ほどは奥州に候ひしが。 。 又思い立ち津の国天王寺へ参らばやと思ひ候。 道行「墨染の衣ほすてふ日も出でて。/\。そなたの雲も天ざかる。 鄙に馴れゆく旅の空。 野に伏し山を分け過ぎて。

これぞ名におふ津の国や野田の渡に着きにけり野田の渡に着きにけり。 地「急ぎ候ふほどに。 これは早野田の里とかや申し候。あら笑止や。 晴れたる空俄に曇り雪ふり。東西を弁へず候。 暫く此処にて雪を晴らさばやと思ひ候。 シテ「あら面白の雪の中やな。/\。 暁梁王の園に入れば。雪群山に満てり。 夜〓公が樓に上れば。月千里に明らかなり。

我も真如の月出でて。 妄執の雪消えなん法の。恵日の光を頼むなり。 ワキ「不思議やなこれなる雪の中よりも。 女性一人現れ給ふは。いかなる人にてましますぞ。 シテ「誰とはいかで白雪の。 唯おのづから現れたり。 ワキ「我とは知らぬ白雪とは。さてはおとこは雪の精か。 シテ詞「いやさればこそ我が姿。 知らぬ迷を晴らし給へ。ワキ「さては不思議や雪の女に。 言葉をかはすも唯これ法の。 功力を疑ひ給はずして。とく/\成道なり給へ。 シテ「あらありがたの御事や。妙なる一乗妙典を。 うたがふ心は荒金の。 地「地に落ち身は消えて。 古事のみを思草仏の縁を結べかし。クセ「我とはいさや白雪の。 積る思はいやましに。有明さむみ夜半の月。 シテ「峯の雪。汀の氷ふみ分けて。地「君にぞ迷ふ。 道は迷はじな津の国の。 野田の川波高瀬漕ぐ袖の柵ひぢまさり。

岩にせかるゝ沖つ船。やる方もなき我が心。 浮べ給へや御僧と。 月にひるがへす花衣実に廻雪の袖ならん。 シテ「朝ほらけ。野田の川霧。 あさぼらけ。序の舞「絶え%\に。

地「あらはれわたる。シテ「姿もさすが白雪の。 地「姿のさすが白雪の。峯の横雲。 シテ「立ちのぼる東雲も。 地「明けなば恥かし暇申して帰る山路の梢にかゝるや雪の花。/\。 又消え。きえとぞなりにける 方士 楊貴妃

ワキ次第「我がまだ知らぬ東雲の。/\。 道を何処と尋ねん。 詞「是は唐土玄宗皇帝に仕へ申す方士にて候。 扨も我が君政正しくまします中に。 色を重んじ艶を専とし給ふにより。 容色無双の美人を得給ふ。 楊家の娘たるに因つて其名を楊貴妃と号す。然れどもさる子細あつて。 馬嵬が原にて失ひ申して候。 余りに帝歎かせ給ひ。 急ぎ魂魄の在所を尋ねて参れとの宣旨に任せ。 上碧落下黄泉まで尋ね申せども。更に魂魄の在所を知らず候。

茲に未だ蓬莱宮に至らず候ふ程に。 此度蓬莱宮にと急ぎ候。道行「尋ね行く。 幻もがなつてにても。/\。魂の在所は其処としも。 波路を分けて行く船の仄に見えし島山の。 草の仮寝の枕ゆふ。 常世の国に着きにけり。/\。詞「急ぎ候ふ程に。  蓬莱宮に着きて候。 この処にて委しく尋ねばやと存じ候。狂言シカ/\「。 ワキ「有りし教に随つて蓬莱宮に来て見れば。 空殿盤々として更に辺際もなく。 荘厳巍々としてさながら七宝をちりばめたり。漢宮万里の粧。

長生驪山のありさまも。 これにはさらになぞらふべからず。あら美しの所やな。 詞「又教の如く宮中を見れば。 太真殿と額の打たれたる宮あり。まづこの所に徘徊し。 事の由をもうかゞはゞやと存じ候。 シテ「昔は驪山の春の園に。 共に眺めし花の色。移れば変る習とて。 今は蓬莱の秋の洞に。独り眺むる月影も。 濡るゝ顔なる袂かな。あら恋しの古やな。 ワキ「唐の天子の勅の使。 方士これまで参りたり。玉妃は内にましますか。 シテ「なに唐帝の使とは。 何しにこゝに来れるぞと。九華の帳を押しのけて。 玉の簾をかかげつゝ。ワキ「立ち出で給ふ御姿。 シテ「雲の鬢づら。ワキ「花の顔ばせ。 寂寞たる御眼のうちに。涙を浮べさせたまへば。 地「梨花一枝。雨を帯びたる粧の。/\。 太液の芙蓉の紅。未央の柳の緑も。 これにはいかで優るべき。

実にや六宮の粉黛の顔色の無きも。 理や顔色のなきも理や。 ワキ詞「如何に申し上げ候。 さても后宮世にまし/\し時だにも。 朝政は怠り給ひぬ。 況んやかくならせ給ひて後。 。 唯ひたすらの御歎に。 今は御命も危。 く見えさせ給ひて候。 然れば宣旨に。 任せ是まで尋ね参り。 御姿を見奉る事。 唯これ君の御。 志浅からざりし故と思へば。 いよいよ御痛はしうこそ候へ。シテ詞「実に/\汝が申す如く。今はかひなき身の露の。 有るにもあらぬ魂のありかを。 これまで尋ね給ふ事。御情には似たれども。

訪ふにつらさのまさり草。 枯々ならば中々の。便の風は恨めしや。 又今更の恋慕の涙。旧里を思ふ魂を消す。 ワキ「さてしも有るべき事ならねば。 急ぎ帰りて奏聞せん。 詞「さりながら御形見の物をたび給へ。 シテ「これこそありし形見よとて。玉の釵とり出でて。 方士に与へ給びければ。

ワキ詞「いやとよこれは世の中に。たぐひ有るべき物なれば。 いかでか信じ給ふべき。御身と君と人知れず。 契り給ひし言の葉あらば。 それをしるしに申すべし。シテ詞「実に/\これも理なり。思ひぞ出づる我も又。 その初秋の七日の夜。二星に誓ひし事の葉にも。 地「天に在らば願はくば。比翼の鳥とならん。 地に在らば願はくは。 連理の枝とならんと誓ひし言を。密に伝へよや。 私語なれども今洩れ初むる涙かな。 地歌「されども世の中の。/\。 流転生死のならひとて。その身は馬嵬に留まり魂は。 仙宮に至りつゝ。 比翼も友を恋ひ独り翅をかたしき。連理の枝朽ちて。 忽ち色を変ずとも。同じ心の行くへならば。 終の逢ふ瀬を頼むぞと語り給へや。 ワキロンギ「さらばといひて出舟の。 伴ひ申し帰るさと。 思はゞ嬉しさのなほ如何ならんその心。シテ「我は又。

なになか/\に三重の帯。廻り逢はんも知らぬ身に。 よしさらば暫し待て。有りし夜遊をなすべし。 地「実にや驪山の宮の内。 月の夜遊の羽衣の曲。 シテ「そのかざしにて舞ひしとて。地「又取りかざし。シテ「さす袖の。 地次第「そよや霓裳羽衣の曲。 そよや霓裳羽衣の曲そゞろに。濡るゝ袂かな。物着「。 シテ「何事も夢幻のたはぶれや。 地「あはれ胡蝶の舞ならん。イロヱ「。 シテクリ「それ過去遠々の昔を思へば。 いつを衆生の始と知らず。地「未来永々の流転。 更に生死の終もなし。 シテサシ「然るに二十五有の内。何れか生者必滅の理に洩れん。 地「先天上の五衰より。 須弥の四州のさま%\に。北州の千年つひに朽ちぬ。 シテ「いはんや老少。不定の境。 地「歎の中の歎とかや。シテ「我もそのかみは。 上界の諸仙たるが。往昔のちなみありて。 仮に人界に生れ来て。楊家の。

深窓に養はれ。いまた知る人なかりしに。 君聞し召されつゝ。急ぎ召しいだし。 后宮に定め置き給ひ。 偕老同穴のかたらひも縁尽きぬれば徒らに。又この島にたゞ一人。 帰り来りて澄む水の。 あはれはかなき身の露の。たまさかに逢ひ見たり。 静かに語れ憂き昔。シテ「さるにても。 思ひ出づれば恨ある。地「その文月の七日の夜。 君とか。 はせし睦言の比翼連理の言の葉も枯々になる私語の。笹の一夜の契だに。 名残は思ふ習なるに。 ましてや年月馴れて程経る世の中に。さらぬ別のなかりせば。 千。 代も人には添ひてましよしそれとても遁れ得ぬ。会者定離ぞと聞く時は。 逢ふこそ別なりけれ。地「羽衣の曲。序ノ舞「。 シテ「羽衣の曲。稀にぞ返す。乙女子が。 地「袖打ち振れる。心しるしや。/\。 シテ「恋しき昔の物語。 地「恋しき昔の物語。尽くさば月日も移り舞の。

しるしの釵又賜はりて。暇申してさらばとて。 勅使は都に帰りければ。シテ「さるにても/\。 。

地「君にはこの世逢ひ見ん事も蓬が島つ鳥。 浮世なれども恋しや昔はかなや別の。常世の台に。 伏し沈みてぞ留まりける 旅僧 従僧 里の女 江口の君 遊女

ワキワキツレ二人次第「月は昔の友ならば。/\。 世の外いづくならまし。 ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。 我いまだ津の国天王寺に参らず候ふ程に。 此度思ひ立ち天王寺に参らばやと思ひ候。道行三人「都をば。 まだ夕深きに旅立ちて。/\。淀の川舟行末は。 鵜殿の芦のほの見えし。松の煙の浪よする。 江口の里に着きにけり/\。狂言シカ%\「。 ワキサシ「さ。 てはこれなるは江口の君の旧跡かや。 痛はしや其身は土中に埋むといへども。名はとゞまりて今までも。 昔語りの旧跡を。今見る事のあはれさよ。 詞「実にや西行法師此処にて。

一夜の宿を借りけるに。主の心なかりしかば。 世の中を厭ふまでこそ難からめ。 詞「仮の宿を惜む君かなと詠じけんも。 此処にての事なるべし。あら痛はしや候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 今の歌をば何と思ひよりて口ずさみ給ひ候ふぞ。 。 ワキ詞「不思議やな人家も見えぬ方よりも。女性一人来たりつゝ。 今の詠歌の口ずさみを。如何にと問はせ給ふ事。 そも何故に尋ね給ふぞ。 シテ「忘れて年を経し物を。又思ひ染む言の葉の。 草の蔭野の露の世を。厭ふまでこそ難からめ。 仮の宿を惜むとの。

其言の葉も恥かしければ。さのみは惜み参らせざりし。 其理をも申さん為に。 これまで現れ出でたるなり。 ワキ詞「心得ず仮の宿を惜む君かなと。西行法師が詠ぜし跡を。 唯何となく弔ふ所に。 さのみは惜まざりにしと。ことわり給ふ御身はさて。 如何なる人にてましますぞ。 シテ詞「いやさればこそ惜まぬよしの御返事を。 申しゝ歌をば何とてか。詠じもせさせ給はざるらん。 ワキ「実に其返歌の言の葉は世を厭ふ。 シテ「人とし聞けば仮の宿に。 詞「心とむなと思ふばかりぞ。心とむなと捨人を。 諌め申せば女の宿に。 とめ参らせぬも理ならずや。 ワキ「実に理なり西行も仮の宿を捨人といひ。 シテ詞「此方も名におふ色好の。家にはさしも埋木の。 人知れぬ事のみ多き宿に。 ワキ「心とむなと詠じ給ふは。シテ「捨人を思ふ心なるを。 ワキ「唯惜むとの。シテ「言の葉は。地上歌「惜むこそ。

惜しまぬ仮の宿なるを。/\。 などや惜むと夕波の。返らぬ古は今とても。 捨人の世語に。心な留め給ひそ。 ロンギ地「実にやうき世の物がたり。 聞けば姿もたそがれに。 かげろふ人は如何ならん。シテ「黄昏に。たゝずむ影はほの%\と。見え隠れなる川隈に。 江口の流の君とや見えんはづかしや。 地「さては疑あら磯の。波と消えにし跡なれや。 シテ「仮に住み来し我が宿の。 地「梅の立枝や見えつらん。ワキ「思の外に。 地「君が来ませるや。一樹の蔭にや宿りけん。 または一河の流の水。汲みても知し召されよや。 江口の君の幽霊ぞと声ばかりして。 失せにけり。声ばかりして失せにけり。中入間「。 。 ワキ詞「さては江口の君の幽霊仮に現れ。我に言葉をかはしけるぞや。 いざ弔ひて浮めんと。 歌三人待謡「言ひもあへねば不思議やな。/\。月澄み渡る河水に。

遊女のうたふ舟遊。 月に見えたる不思議さよ月に見えたる不思議さよ。 地歌一声「川舟を。とめて逢瀬の波枕。/\。 浮世の夢を見習はしの。 驚かぬ身のはかなさよ。 佐用姫が松浦潟。 かたしく。 袖の涙の唐土船の名残なり。 また宇治の橋姫も。 訪は。 んともせぬ人を待つも。 身の上とあはれなり。 よしや吉野の。 よしや吉。 野の花も雪も雲も。 波もあはれ世にあはゞや。 ワキ「ふしぎやな月澄み渡る水の面に。 遊女のあまたうたふ謡。 色めきあへる人影は。そも誰人の舟やらん。

後シテ「何此舟を誰が舟とは。恥かしながら古の。 江口の君の川逍遥の月の夜舟を御覧ぜよ。 ワキ「そもや江口の遊女とは。 それは去りにし古の。シテ詞「いや古とは。 御覧ぜよ月は昔にかはらめや。 ツレ女二人「我等もかやうに見え来るを。いにしへ人とは現なや。 シテ詞「よし/\何とか宣ふとも。 ツレ二人「いはじや聞かじ。シテ「むつかしや。

シテツレ三人「秋の水。みなぎり落ちて。去る舟の。 シテ「月もかげさす。棹の歌。 地「うたへや歌へうたかたの。あはれ昔の恋しさを今も。 遊女の舟遊。世を渡る一節を歌ひて。 いざや遊ばん。 クリ地「夫れ十二因縁の流転は車の場に廻るが如し。 シテ「鳥の林に遊ぶに似たり。地「前生又前生。 シテ「曽て生々の前を知らず。地「来世なほ来世。 更に世々の終をわきまふる事なし。 シテサシ「或は人中天上の善果を受くといへども。 地「顛倒迷妄して未だ解脱の種を植ゑず。 シテ「或は三途八難の悪趣に堕して。 地「患にさへられて既に発心のなかだちを失ふ。 シテ「然。るに我等たま/\受けがたき人身を受けたりといへども。地「罪業深き身と生れ。 殊にためし少なき河竹の流の女となる。 前の世の報まで。 思ひやるこそ悲しけれ。 クセ「紅花の春の朝。

紅錦繍の山粧なすと見えしも。 夕の風に誘はれ紅葉の秋の夕。黄纐纈の林。 色を含むといへども朝の霜にうつろふ。 松風羅月に言葉をかはす賓客も。去つて来る事なし。 翠帳紅閨に。 枕をならべし妹背もいつのまにかは隔つらん。凡そ心なき草木。 情ある人倫いづれ哀を遁るべき。 かくは思ひ知りながら。 シテ「ある時は色に染み貪着の思浅からず。地「又ある時は。 声を聞き愛執の。 心いと深き心に思ひ口に言ふ妄舌の縁となるものを。 実にや皆人は六塵の境に迷ひ六根の罪を作る事も。見る事聞く事に。 迷ふ心なるべし。地「おもしろや。序ノ舞「。 シテワカ「実相無漏の大海に。

五塵六欲の風は。吹かねども。地「随縁真如の波の。 立たぬ日もなし/\。 シテ「波の立居も何故ぞ。仮なる宿に。心とむる故。 地「心とめずはうき世もあらじ。シテ「人をも慕はじ。 地「待つ暮もなく。シテ「別路も嵐吹く。 地「花よ紅葉よ。月雪のふることも。 あらよしなや。シテ「思へば仮の宿。 地「思へば仮の宿に。心とむなと人をだに。 諌めし我なり。これまでなりや帰るとて。 。 すなはち普賢菩薩と現はれ舟は白象となりつゝ。 光とともに白妙の白雲に打ち乗りて西の空に。 行き給ふ有難くぞ覚ゆる有難くこそは覚ゆれ 旅僧 従僧 里の女 式子内親王の霊

。ワキ、ワキツレ二人次第「山より出づる北時雨/\行方や定なかるらん。

ワキ詞「これは北国方より出でたる僧にて候。 我いまだ都を見ず候ふ程に。この度思ひ立ち都に上り候。

道行三人「冬立つや。旅の衣の朝まだき。/\。 雲も行きかふ・遠近{をちこち}の。 山又山を越え過ぎて。・紅葉{もみぢ}に残るながめまで。 花の都に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早都千本のあたりにて有りげに候。 暫く此あたりに休らはゞやと思ひ候。 面白や頃は神無月十日余。木々の梢も冬枯れて。 枝に残の紅葉の色。所々の有様までも。 都の景色は一しほの。眺ことなる夕かな。 あら笑止や。俄に時雨が降り来りて候。 これに由有りげなる・宿{やどり}の候。 立寄り時雨を晴らさばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\御僧。 何しに其宿へは立ち寄らせ給ひ候ふぞ。 。 ワキ詞「唯今の時雨を晴らさんために立ち寄りてこそ候へ。 シテ「それは時雨の・亭{ちん}とてよしある所なり。 其心をも知し召して立ち寄らせ給ふかと。

思へばかやうに申すなり。ワキ「・実{げ}に/\これなる額を見れば。時雨の亭と書かれたり。 折柄面白うこそ候へ。 これは如何なる人の建て置かれたる所にて候ふぞ。 シテ「これは藤原の・定家{さだいへ}の卿の建て置き給へる所なり。 都の内とは申しながら。 心すごく時雨ものあはれなればとて此亭を建て置き。 時雨の頃の年々は。 こゝにて歌をも詠じ給ひしとなり。古跡といひ折柄といひ。 其心をも知し召して。 逆縁の・法{のり}をも説き給ひて。彼御菩堤を御弔ひあれと。 勧め参らせん其ために。これまで現れ来りたり。 。 ワキ詞「さては藤原の定家の卿の建て置き給へる所かや。さて/\時雨をとゞむる宿の。歌はいづれの言の葉やらん。 シテ「いやいづれとも・定{さだめ}なき。 時雨の頃の年々なれば。 分きてそれとは申し難しさりながら。 時雨時を知るといふ心を。・偽{いつわり}のなき世なりけり神無月。

詞「・誰{た}が誠よりしぐれそめけん。 此言がきに私の家にてと書かれたれば。 もし此歌をや申すべき。 ワキ「実にあはれなる言の葉かな。さしも時雨はいつはりの。 なき世に残る跡ながら。 シテ「人はあだなる・古事{ふるごと}を。語れば今も仮の世に。 ワキ「他生の縁は朽ちもせぬ。これぞ一樹の蔭の宿。 シテ「一河の流を汲みてだに。 ワキ「心を知れと。シテ「折りからに。地歌「今降るも。 宿は昔の時雨にて。/\。 心澄みにし其人の。あはれを知るも夢の世の。 実に定なや定家の。軒端の夕時雨。 古きに帰る涙かな。庭も・籬{まがき}もそれとなく。 ・荒{あれ}のみ増さる・叢{くさむら}の。 露の宿も枯々に物すごき夕なりけりもの凄き夕なりけり。 シテ詞「今日は志す日にて候ふ程に。 ・墓所{むしよ}へ参り候ふ御参り候へかし。 ワキ詞「それこそ出家の望にて候へ。 やがて参らうずるにて候。

シテ「なう/\是なる石塔御覧候へ。 ワキ「不思議やなこれなる石塔を見れば。 。 星霜ふりたるに蔦葛はひまとひ形も見えず候。 是は如何なる人のしるしにて候ふぞ。シテ「これは式子内親王の御墓にて候。 又此かづらをば・定家{ていか}葛と申し候。 ワキ「あら面白や定家葛とは。 如何やうなる謂にて候ふぞ御物語り候へ。 シテ「式子内親王始めは賀茂の・斎の院{いつきのみや}に備はり給ひしが。 程なく下り居させ給ひしを。 定家の卿忍び忍びの御契浅らず。 その・後{のち}式子内親王程なく空しくなり給ひしに。 定家の執心葛となつて御墓にはひ纏ひ。 互の苦み離れやらず。共に邪淫の妄執を。 御経を読み弔ひ給はゞ。なほ/\語り参らせ候はん。 地クリ「忘れぬものを古の。 心の奥の・信夫{しのぶ}山。忍びて通ふ道芝の露の。 ・世語{よがたり}よしぞなき。

シテサシ「今は玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば。 地「忍ぶる事の弱るなる。心の秋の・花薄{はなずすき}。 穂に出でそめし契とて又枯々の中となりて。シテ「昔は物を。 思はざりし。地「後の心ぞ。はてしもなき。 クセ「あはれ知れ。 霜より霜に朽ち果てて。世々に奮りにし山藍の。 袖の涙の身の昔。憂き恋せじと御祓せし。 賀茂の斎の院にしも。備はり給ふ身なれども。 神や受けずもなりにけん。 人の契の色に出でけるぞ悲しき。 包むとすれどあだし世の。あだなる中の名は洩れて。 よその聞えは大方の。空恐ろしき日の光。 雲の・通路{かよひぢ}絶え果てゝ。乙女の姿とゞめ得ぬ。 心ぞつらきもろともに。 シテ「実にや嘆くとも。恋ふとも逢はん道やなき。 地「君かづらきの嶺の雲と。詠じけん心まで。 思へばかゝる執心の。定家葛と身はなりて。 此御跡にいつとなく。 離れもやらで蔦紅葉の。色こがれまとはり。

・荊{おどろ}の髪もむすぼほれ。 露霜に消えかへる妄執を助け給へや。 ロンギ地「古りにし事を聞くからに。 今日も程なくくれはとり。 怪しや御身誰やらん。シテ「誰とても。 亡き身の果は・浅茅生{あさぢふ}の。霜に朽ちにし名ばかりは。 残りても猶よしぞなき。地「よしや草葉の忍ぶとも。 色には出でよ其名をも。シテ「今は包まじ。 地「此上は。我こそ式子内親王。 これまで見え来れども。 誠の姿はかげろふの石に残す形だに。 それとも見えず蔦葛苦。 みを助け給へといふかとみ見えて失せにけり。いふかと見えて失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「夕も過ぐる月影に。/\。 松風吹きてもの凄き草の蔭なる露の身を。 思ひの玉の数々に。弔ふ縁は有り難や/\。 後シテ「夢かとよ闇の。現の。宇津の山。 月にもたどる。蔦の細道。 昔は・松風蘿月{しようふうらげつ}に詞をかはし。翠帳紅閨に枕をならべ。

地「さま%\なりし情の末。 シテ「花も紅葉もちり%\に。地「・朝{あした}の雲。 シテ「夕の雨と。地「古事も今の身も。夢も現も。幻も。 共に無常の世となりて跡も残らず。 何なか/\の草の蔭。さらば・葎{むぐら}の・宿{やど}ならで。 外はつれなき定家かづら。 これ見給へや御僧。 ワキ「あら痛はしの御有様やなあら痛はしや。仏平等説如一味雨。 随衆生性所受不同。 シテ「御覧ぜよ身は仇波の・起居{たちゐ}だに。 亡き跡までも・苦{くるしみ}の。 定家葛に身を閉ぢられて。かゝる苦隙なき所に。有難や。 唯今読誦し給ふは薬草喩品よなう。 ワキ「中々なれや此妙典に。 洩るゝ草木のあらざれば。執心のかづらをかけ離れて。 仏道ならせ給ふべし。シテ「あら有難や。 シテ詞「実にも/\。これぞ妙なる法の教。 ワキ「・普{あまね}き露の恵を受けて。シテ「二つもなく。 ワキ「三つもなき。

地「一味の御法の雨のしたゞり皆湿ひて。草木国土。 悉皆成仏の機を得ぬれば。定家葛もかゝる涙も。 ほろ/\と解けひろごれば。よろ/\と足弱車の火宅を。出でたる有難さよ。 此報恩にいざさらば。有りし雲居の花の袖。 昔を今に返すなる。其舞姫の・小忌衣{をみごろも}。 シテ「おもなの舞の。地「有様やな。序ノ舞「。 シテワカ「おもなの舞の。有様やな。 地「おもなや面はゆの。有様やな。

シテ「・本{もと}より此身は。地「月の顔ばせも。シテ「曇りがちに。 地「桂の黛も。シテ「落ちぶるゝ涙の。 地「露と消えてもつたなや蔦の葉の。 ・葛城{かづらき}の神姿。恥しやよしなや。夜の契の。 。 夢の・中{うち}にと有りつる所に帰るは葛の葉の。元の如く。はひ・纏{まと}はるゝや定家葛。 はひ纏はるゝや定家葛の。 儚なくも形は・埋{うづも}れて。失せにけり 狩野介宗茂 千手 平重衡

ワキ詞「これは鎌倉どのゝ・御内{みうち}に。 ・狩野介{かのゝすけ}・宗茂{むねもち}にて候。 さても相国の御子・重衡{しげひら}の卿は。 此たび一の谷の・合戦{かせん}に生捕られ給ひ候ふを。・某{それがし}預り申して候。 朝敵の御事とは申しながら。 頼朝いたはしく思し召され。よく痛はり申せとの御事にて。 昨日も・千手{せんじゆ}の前を遣はされて候。

かの千手の前と申すは。・手越{てごし}の・長{ちやう}が娘にて候ふが。 ・優{いう}にやさしく候ふとて。 おん身近く召し使はれ候ふを遣はされ候ふ事。 まことに有難き御志にて御座候。 今日はまた雨中御つれ%\。 酒を勧め申さばやと存じ候。 。

シテ次第「琴の・音{ね}添へて訪るゝ/\これや東屋なるらん。 サシ「それ春の花の樹頭に栄え。秋の月の水底に沈むも。 世のはかなさの有様を。見てもあはれや重衡の。 その古は雲の上。 かけても知らぬ身のゆくへ波に漂ひ舟に浮き。さらばよるべの。 よそならで。有りしにかへる。有様かな。 下歌「都にだにも。 留めぬ御涙なるを痛はしや。上歌「・陸奥{みちのく}の。 しのぶに堪へぬ雨の音。/\。降りすさみたるをりしもは。 。思の露もちり%\に心の花もしを/\と。しをるゝ袖の色までも。 今日のゆふべの。 たぐひかな今日のゆふべのたぐひかな。 シテ詞「いかに案内申し候はん。 ワキ詞「誰にてわたり候ふぞ。 シテ「千手の前が参りたるよし。それ/\御申し候へ。 ワキ「暫く御待ち候へ。 御機嫌を以て申さうずるにて候。 ツレサシ「身はこれ・槿花{きんくわ}一日の栄。

命は・蜉蝣{ふいう}の定なきに似たり。 心は蘇武が胡国に捕はれ。岩窟の内に籠められて。 ・君辺{くんべん}を忘れぬ志。それは・やうり{衛律/揚李}が・謀{はかりこと}にて。 敵を亡ぼし旧里に帰る。 我はいつとなく敵陣に籠められて。・縲絏{るゐせつ}の責を受くる。 知らず今日もや限ならん。 あら定なや・候{ざふろふ}。 ワキ詞「いかに申し上げ候。 千手の御参にて候。 ツレ詞「唯今は何のためにて候ふぞ。よし/\何事にてもあれ。 今日の対面は叶ふまじきと申し候へ。 ワキ詞「畏つて候。いかに申し候。 御参の由申して候へば。何と思し召し候ふやらん。 今日の。 御対面は叶ふまじきよし仰せ出されて候。シテ詞「これも私にあらず。 頼朝よりの御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。 此由かさねて御申し候へ。 ワキ詞「御諚の趣申して候へば。これも私にあらず。 頼朝よりの御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。

よし/\御憚はさる事なれども。 ワキ「たゞこなたへと請ずれば。 シテ「その時千手立ちよりて。 地歌「妻戸をきりゝと押し開く。御簾の追風にほひ来る。花の都人に。 恥かしながら見みえん。 げにや・東{あづま}のはてしまで。人の心の奥深き。 その情こそ都なれ。花の春紅葉の秋。 誰が思出となりぬらん。 ツレ詞「いかに千手の前。 昨日あからさまに申しつる。 出家の御暇の事聞かまほしうこそ候へ。 シテ詞「さん候其由申して候へば。朝敵の御事なるを私として。 出家を許し申さん事。 思ひも寄らずとこそ候ひつれ。わらはも御心のうち。 おしはかり参らせて。いかほど・細々{こま%\}と申して候へども。かひなき出家の・御望{おんのぞみ}。 痛はしうこそ候へ。 ツレ「口惜しや・我{われ}一谷にて如何にもなるべき身の生捕られ。 今は東のはてまでも。かやうに・面{おもて}をさらす事。

・前世{ぜんぜ}の報といひながら。又思はずも父命により。 仏像を亡ぼし人寿を断ちし。 現当の罪の果すこと。 前業よりなほ恥かしうこそ候へ。シテ「げに/\是は・御理{おんことわり}さりながら。かゝる・例{ためし}は・古今{いにしへいま}に。 多き習と聞くものを。独とな嘆き給ひそとよ。 ツレ「げによく慰め給へども。 たぐひはあらじ憂き身の果。シテ「昨日は都の花と栄え。 ツレ「今日は東の春に来て。 ツテ「移り変れる。ツレ「身の程を。地歌「思へたゞ。 世は空蝉の唐衣。/\。 着つゝ馴れにし妻しある。都の雲居を立ち離れ。はる%\来ぬる。旅をしぞ思ふ・衰{おとろへ}の。 憂き身のはてぞ悲しき。水ゆく川の八橋や。 蜘蛛手に物を思へとは。 かけぬ情の中々に馴。 るゝや恨なるらん馴るゝや恨なるならん。 ワキ「今日の雨中の夕の空。御つれ%\を慰めんと。

・樽{そん}を抱きて参りつゝ既に酒宴を始めんとす。 シテ「千手も此よし見るよりも。御酌に立ちて重衡の。 御前にこそ参りけれ。ツレ「今はいつしか憚の。 心ならずに思はずも。手まづ遮る盃の。 心一つに思ふ・思{おもひ}。ワキ「それ/\いかに何にても。御肴にと勧むれば。 シテ「その時千手とりあへず。羅綺の・重衣{ちようい}たる。 情なき事を機婦に妬む。 シテ、ワキ、ツレ三人「只今詠じたまふ朗詠は。忝くも北野の・御作{ごさく}。 此詩を詠ぜば聞く人までも。 守るべしとの御誓なり。 ツレ「さりながら重衡は今生の望なし。 三人「たゞ来世の便こそ聞かまほしけれと宣へば。シテ「わらは仰を承り。 十悪といふとも・引摂{いんぜふ}すと。 地「朗詠してぞ。奏でける。イロヱ「。 シテクリ「さてもかの重衡は。 相国の末の御子とは申せども。 地「・兄弟{けいてい}にも勝れ一門にも越えて。・父母{ぶも}の寵愛。かぎりなし。 シテサシ「されども時うつり。平家の運命こと%\く。

地「月の夜すがら声たてゝ。 鳴くや牡鹿の津の国の。 生田の河に身を捨てゝ防ぎ戦ふと申せども。 シテ「森の下風木の葉の露。地「落されけるこそあはれなれ。 クセ「いまは梓弓。よし力なし重衡も。 引かんとするにいづかたも。 網を置きたる如くにて。遁れかねたる淀鯉の。 生捕られつゝ有りて憂き。 身をうろくづの其ままに。沈みは果てずして。 名をこそ流せ川越の。重房が手に渡り心の・外{ほか}の都入。 シテ「げにや世の中は。 地「定めなきかな神無月。時雨降りおく奈良坂や。 衆徒の手に渡りなば。 とにもかくにも果てはせで。また鎌倉に渡さるゝ。 こゝは何処ぞ八橋の。雲居の都。いつか又。 三河の国や遠江。足柄箱根うち過ぎて。 明けもやすらん星月夜。鎌倉山に入りしかば。 憂き限ぞと思ひしに。 馴るればこゝも・忍音{しのびね}にあはれ昔を・思妻{おもひづま}の。

灯暗うしては・数行{すかう}虞氏が涙の。雨さへしきる夜の空。 シテ「四面に楚歌の声の内。 地「何とか返す舞の袖。 思の色にや出でぬらん涙を添へて廻らすも。雪の・古枝{ふるえ}の枯れてだに花咲く。 千手の袖ならば。重ねていざや返さん。 地「忘れめや。序ノ舞「。 シテワカ「一樹の蔭や。一河の水。地「皆これ他生の縁といふ。 白拍子をぞ謡ひける。 ツレ「その時重衡興に乗じ。地「その時重衡興に乗じ。 琵琶を引きよせ弾じ給へばまた玉琴の。・緒合{をあはせ}に。 シテ「合はせて聞けば。 地「峰の松風通ひ来にけり。琴を枕の短夜のうたゝ寝。 夢も程なく。東雲もほの%\と。 明けわたる空の。シテ「あさまにやなりぬべき。 地「あさまにやなりなんと。 酒宴を止め給ふ御心のうちぞいたはしき。 地「かくて重衡勅により。/\。 また都にとありしかば。 ・武士{ものゝふ}守護し出で給へば。シテ「千手も泣く/\立ち出で。

地「なに中々の憂き契。はやきぬ%\に。 引き離るゝ袖と袖とのつゆ涙。

げに重衡の有様目もあてられぬ。 気色かな目もあてられぬ気色かな 勝手明神の神職 菜摘の女 静か御前の霊

。 ワキ詞「これは三吉野・勝手{かつて}の御前に仕へ申す者にて候。 扨も当社におき・御神事{ごじんじ}さま%\御座候ふ中にも。 正月七日は菜。 摘川より若菜を摘ませ神前に供へ申し候。・今日{こんにち}に相当りて候ふ程に。 女どもに申し付け。菜摘川へ遣はさばやと存じ候。 。とう/\女どもに菜摘川へ出でよしと申し候へ。 ツレ一セイ「見渡せば。松の葉白き吉野山。 幾世つもりし。雪ならん。 サシ「深山には松の雪だに消えなくに。 都は野辺の若菜摘む。頃にも今や。なりぬらん。 思ひやるこそゆかしけれ。

上歌「・木{こ}の芽はる・雨{さめ}降るとても。/\。なほ消え難きこの野辺の。 。 雪の下なる若葉をば今・幾日{いくか}有りて摘まゝし。春立つと。 云ふばかりにや三吉野の山の霞みて・白雪{しらゆき}の消えし跡こそ。 道となれ消えし跡こそ道となれ。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる人に申すべき事の候。ツレ詞「如何なる人にて候ふぞ。 。 シテ「三吉野へ御帰り候はゞ・言伝{ことづて}申し候はん。ツレ「何事にて候ふぞ。 シテ「三吉野にては社家の人。 其外の人々にも言伝申し候。 あまりに・妾{わらは}が罪業の程悲しく候へば。 一日・経{きゃう}かいて我が跡・弔{と}ひてたび給へと。よく/\仰せ候へ。

ツレ「あら恐ろしの事を仰せ候ふや。事伝をば申すべし。 さりながら御名をば誰と申すべきぞ。 シテ「まづ/\此由仰せ候ひて。 もしも疑ふ人あらば。其時妾おことにつきて。 委しく名をば名乗るべし。 かまへてよくよく届け給へと。 地下歌「ゆふ風迷ふあだ雲の。 憂き水茎の跡かき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ツレ詞「かゝる恐ろしき事こそ候はね。 急ぎ帰り此由を申さばやと思い候。 いかに申し候。唯今帰りて候。 ワキ詞「何とて遅く帰りたるぞ。 ツレ「不思議なる事の候ひて遅く帰りて候。 ワキ「さていかやうなる事ぞ。ツレ「菜摘川の・辺{ほとり}にて。 ・何処{いづく}ともなく女の来り候ひて。 あまりに罪業の程悲しく候へば。 一日経書いて跡・弔{とぶら}ひて賜はれと。三吉野の人。 取り分け社家の人々に申せとは候ひつれども。

誠しからず候ふ程に。申さじとは思へども。 なに誠しからずとや。 うたてやなさしも頼みしかひもなく誠しからずとや。 唯よそにてこそ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。 近。 く来ぬれば雲と見し。 桜は花に現はるゝものを。 あ。 ら恨めしの疑やな。 ワキ「言語道断。 。 不思議なる事の候ふものかな。 狂気。 して候ふは如何に。 さて如何やう。 なる人の・憑{つ}き添ひたるぞ名を名乗り給へ。 跡をば懇に弔ひて参らせ候ふべし。 ツレ「何をか包み参らせ候ふべき。 ・判官殿{ほうぐわんどの}に仕え申せし者なり。ワキ「判官殿の・御内{みうち}の人は多き中にも。

。 殊に衣川の・御{お}最期まで・御{おん}供申したりし十郎権頭。ツレ「兼房は判官殿の御死骸。 心静かに取りをさめ。 腹切り焔に飛んで入り。殊にあはれなりし忠の者。 されどもそれには。なきものを。 誠は我は女なりしが。此山までは御供申し。 こゝにて捨てられ参らせて。絶えぬ思の涙の袖。 地「つゝましながら我名をば。

しづかに申さん恥かしや。 ワキ詞「さては静御前にてましますかや。 静にて渡り候はゞ。 かくれなき舞の上手にて有りしかば。舞をまうて御見せ候へ。 跡をば懇に弔ひ申し候ふべし。 ツレ「我が着し舞の装束をば。 勝手の御前に納めしなり。ワキ「さて舞の衣裳は何色ぞ。 ツレ「袴は・精好{せいがう}。ワキ「水干は。 ツレ「世を秋の野の花づくし。 ワキ詞「これは不思議の事なりとて。宝蔵を開き見れば。実に/\疑ふ所もなく舞の衣装の候。 これを召されてとく/\御舞ひ候へ。 物着「静御前の舞を御舞ひ有るぞ。皆々寄りて御覧候へ。 ツレ「実に恥かしや我ながら。 昔忘れぬ心とて。ワキ「さもなつかしく思出の。 ツレ「時も来にけり。ワキ「静の舞。 ツレ「今三吉野の川の名の。後シテ「菜摘の女と。思ふなよ。 地「川淀近き山陰の。香もなつかしき。 袂かな。

シテツレ二人「さても義経兇徒に準ぜられ。既に討手向ふと聞えしかば。 小船に取り乗り。 渡辺神崎より押し渡らんとせしに。海路心に任せず難風吹いて。 もとの地に着きし事。天命かと思えば。 科なかりしも。 地「科有りけるかと身を恨むるばかりなり。 クセ「さる程に。次第々々に道せばき。 御身となりて此山に。分け入り給ふ頃は春。 所は三吉野の。花に宿かる・下臥{したぶし}も。 長閑ならざる夜嵐に。寝もせぬ夢と花も散り。 。 まことに一栄一落まのあたりなる浮世とて又此山を落ちて行く。 シテツレ二人「昔清見原の天皇。地「大友の皇子に襲はれて。 彼の山に踏み迷い。雪の木陰を。 頼み給ひける桜木の宮。神の宮滝。・西河{にしかう}の滝。 我こそ落ち行け落ちても波はかえるなり。 さるにても三吉野の。頼む木陰の花の雪。 雨もたまらぬ奥山の音さわがしき春の夜の。 月は朧にて。なほ足引の。

山深み分け迷ひ行く有様は。 シテツレ二人「唐土の・祚国{さこく}は花に身を捨てゝ。 地「・遊子残月{いうしざんげつ}に行きしも今身の上にしら雲の。 花を摘んでは同じく惜む少年の。春も夜も。静かならで。 さわがしき三吉野の。山風に散る花までも。 追手の声やらんと。 跡をのみよし野の奥深く。急ぐ山路かな。 地「それのみならず憂かりしは。 頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。 とくとくと有りしかば。心も解けぬ舞の袖。 返す%\も恨めしく。昔恋しき時の和歌。 シテツレ二人「賎やしづ。序ノ舞「賎やしづ。 賎の苧環。繰り返し。地「昔を今に。 なすよしもがな。シテツレ二人「思いかへせば古も。 地「思いかえせば古も。 恋しくもなし憂き事の。今も恨の衣川。身こそは沈め。 名をばしづめぬ。シテツレ二人「武士の。 地「物毎。 に浮世のならひなればと思ふばかりぞ山桜。雪に吹きなす。花の松風静が跡を。

弔ひ給へ静が跡を・弔{と}ひ給へ 風の精(前ハ里女) 旅僧

ワキ三人次第「思ひやるさへ遥かなる。/\。 東の旅に出でうよ。 ワキ詞「これは洛陽の辺より出でたる僧にて候。 われいまだ東国を見ず候ふ程に。 此秋思ひ立ち陸奥の果までも修行せばやと思ひ候。道行三人「逢坂の。 関の杉むら過ぎがてに。/\。 行くへも遠き湖の。舟路を渡り山を越え。 幾夜な幾夜なの草枕。 明け行く空も星月夜鎌倉山を越え過ぎて。 六浦の里に着きにけり/\。 ワキ詞「千里の行も一歩より起るとかや。 遥々と思ひ候へども。 日を重ねて急ぎ候ふ程に。 これははや相模の国六浦の里に着きて候。

此渡をして安房の清澄へ参らうずるにて候。 又あれによしありげなる寺の候ふを人に問へば。 六浦の称名寺とかや申し候ふ程に。 立ちより一見せばやと思ひ候。なう/\御覧候へ。 山々の紅葉今を盛と見えて。 さながら錦を晒せる如くにて候。 都にも斯様の紅葉の候ふべきか。 又これなる本堂の庭に楓の候ふが。木立余の木に勝れ。 唯夏木立の如くにて一葉も紅葉せず候。 いかさまいはれのなき事は候ふまじ。 人来りて候はゞ尋ねばやと思ひ候。 シテ呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。 。 ワキ「さん候これは都より始めて此処一見の者にて候ふが。

山々の紅葉今を盛と見えて候ふに。 これなる楓の一葉も紅葉せず候ふ程に。不審をなし候。 シテ「げによく御覧じとがめて候。 いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申しゝ人。 紅葉を見んとて此処に来り給ひし時。 山々の紅葉いまだなりしに。 この木一本に限り紅葉色深くたぐひなかりしかば。 為相の卿とりあへず。いかにして此一本にしぐれけん。 。 詞「山にさきたつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉を停めて候。 ワキ「面白の御詠歌やな。 われ数ならぬ身なれども。手向のためにかくばかり。 古りはつる此一本の跡を見て。 袖の時雨ぞ山にさきだつ。 シテ詞「あらありがたの御手向やな。 いよいよ此木の面目にてこそ候へ。 ワキ「さてさてさきに為相の卿の御詠歌より。 今に紅葉を停めたる。 いはれはいかなる事やらん。シテ「げに御不審は御理。

さきの詠歌に預かりし時。此木心に思ふやう。 かゝる東の山里の。 人も通はぬ古寺の庭に。われ先だちて紅葉せずは。 いかで妙なる御詠歌にも預かるべき。 功成り名遂げて身退くは。 詞「これ天の道なりといふ古き言葉を深く信じ。 今に紅葉を停めつつ。唯常磐木の如くなり。 ワキ「これは不思議の御事かな。此木の心をかほどまで。 しろしめしたる御身はさて。 いかなる人にてましますぞ。 シテ「今は何をか包むべき。われは此木の精なるが。 御僧たつとくまします故に。唯今現れ来りたり。 今宵はこゝに旅居して。 夜もすがら御法を説き給はゞ。重ねて姿を見え申さんと。 地「夕の空も冷ましく。この古寺の庭の面。 霧の籬の露深き。千ぐさの花をかき分けて。 行くへも知らずなりにけり/\。 ワキ三人上歌待謡「処から心に適ふ称名の。/\。 。

御法の声も松風もはや更け過ぐる秋の夜の。 月澄み渡る庭のおも寝られんものか面白や。/\。 後シテサシ一声「あらありがたの御弔やな。 妙なる値遇の縁に引かれて。 二度こゝに来りたり。夢ばしさまし給ふなよ。 ワキ「不思議やな月澄み渡る庭の面に。 ありつる女人とおぼしくて。 影の如くに見え給ふぞや。草木国土悉皆成仏の。 この妙文を疑ひ給はで。猶々昔を語り給へ。 シテクリ「それ四季をり/\の草木。 己々の時を得て。地「花葉さま%\のその姿を。 心なしとは誰かいふ。 シテ「それ青陽の春の初。地「色香妙なる梅が枝の。 かつ咲きそめて諸人の心や春になりぬらん。 シテ「又は桜の花盛。 地「唯雲とのみ三吉野の。千本の花に如くはなし。 クセ「月日経て。移ればかはる眺かな。 桜は散りし庭の面に。咲きつゞく卯の花の。 垣根や雪にまがふらん。

時移り夏暮れ秋も半になりぬれば。空定なきむら時雨。 昨日は薄きもみぢ葉も。露時雨もる山は。 下葉残らぬ色とかや。シテ「さるにても。 東の奥の山里に。 地「あからさまなる都人の。 哀も深き言の葉の露の情に引かれつつ。姿をまみえ数々に。 言葉をかはす値遇の縁。深き御法を授けつゝ。 仏果を得しめ給へや。 シテ「更け行く月の、夜遊をなし。 地「色なき袖をや。返さまし。序ノ舞「。シテワカ「秋の夜の。 千夜を一夜に。重ねても。地「詞残りて。 鳥や鳴かまし。 シテ「八声の鳥も。かず/\に。 地「八声の鳥も。かず/\に。鐘も聞ゆる。 シテ「明方の空の。地「処は六浦の浦風山風。 吹きしをり吹きしをり散るもみぢ葉の。 月に照り添ひてからくれなゐの庭の面。 明けなば恥かし。暇申して。 帰る山路に行くかと思へば木の間の月の。/\。

かげろふ姿と。なりにけり 里の女 藤の精 旅僧

ワキ次第「山又山を遥々と。/\。 越路の旅に出でうよ。 詞「これは都方より出でたる僧にて候。われ此程は加賀の国に候ひて。 こゝかしこの名所を一見仕りて候。 又これより善光寺へ参らばやと思ひ候。 道行「雪消ゆる。白山風も長閑にて。/\。 日影長江の里も過ぎ。 さゝぬ刀奈美の関越えて。青葉に見ゆる紅葉川。 そなたとばかり白雲の。 氷見の江行けば名に聞きし。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦にも着きにけり。 。 ワキ詞「これははや越中の国多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦とかやに着きて候。 此所は藤の名所と承り及びたるに。 真にあれなる藤の今を盛と見えて候。立寄り見候ふべし。

げに面白く咲きて候。 おのが波に同じ末葉のしをれけり。藤咲く多〓{ゴ 大漢和 24671}のうらめしの身ぞ。 詞「古事の思ひ出でられて候。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる旅人に申すべき事の候。 ワキ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「これは多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦とて藤の名所なり古き歌に。 たごの浦や汀の藤の咲きしより。波の花さへ色に出でつゝ。 詞「かやうの歌をも詠じ給はで。 おのが。 浪に同じ末葉のしをれけりなど口ずさび給ふは。あら心なの旅人やな。 ワキ「思ひよらずや人ありとも。 知らで吟ぜし古歌ながら。シテ「花のためにはいかならん。 ワキ「同じ末葉のしをれぬる。

シテ「怨みならずや怨めしや。かの縄麻呂の歌に。 地上歌「多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦。底さへ匂ふ藤波を。 藤波を。かざして行かん。 見ぬ人のためと詠みたりし。此花を心なく。 詠じ給ふはうらめしや。げにや思へば咲く花の。 色。 をも香をも知る人ぞ知ると詠みしもことわりや知ると詠みしもことわりや。 ロンギ地「不思議やさてもかくばかり。 其白露のふる事を語り給ふは誰やらん。 シテ「われを誰とか夕日影。紫匂ふ花鬘。 心にかけてたび給へ。 地「心に懸けて思へとは。梢にかゝる藤波の。 シテ「多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回に。地「名にしおふ花の精なりと。 夕雲の足早み。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦風うち靡き。 花の波。 立つもとに寄るかと見せて失せにけり寄るかと見えて失せにけり。中入「。 ワキ上歌待謡「霞む夜の。 月は出でてもうば玉の。/\。よるべ定めぬ浮れ鳥。 鳴く音も法の声添へて。花の跡訪ふ春の風。

声物凄き波枕。仮寝の夢や覚すらん/\。 後シテ一声「いかなれば虚しき。空に。 散る花の。あだなる色に。迷ひそめけん。 ワキ「不思議やな夜も更け過ぐる月影に。 あらはれ出づる姿を見れば。 ありつる女人の顔ばせなり。いかさま疑ふ所もなく。 花の精にてましますか。 シテ「恥かしながら花の精。妙なる御法の一味の雨に。 開くる花の笑みの眉。 これまで現れ出でたるなり。ワキ「あらありがたやさりながら。 かくしも詞をかはす事。 何の故にてあるやらん。シテ「意性化身自在不滅の。 縁に引かれて夜もすがら。 歌舞をなさんと参りたり。ワキ「げにやもとより狂言綺語も。 シテ「讃仏乗の因縁。わき「隔はあらじ。 シテ「紫も。地「ゆかりの色も縁ならめ。 ゆかりの色も縁ならめと。 教の外なる法までも。今こそ悟の開くる。 心の花なれや。されば非情の草も木も。

成仏こゝに荒礒海深きは法の道ぞかし/\。 クリ「げにや春を送るに。 舟車を動かす事を用ひず。たゞ残鴬と落花とに。別る。 シテサシ「紫藤の露のもとに残る花の色。 。 地「げに面白や水の面に。 月の霞める春もはや。 紫。 匂ふ花葛かゝる致景は又世にも。 。 シテ「奈〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回も。程近く。 地「眺につゞく。 景色かな。 クセ「なつかしき。 色のゆかりと思ふにも。 心にかゝる藤波の。夜昼わかで徒らに。 送り迎ふる年月の。春の花散りて青葉に。 夏たちばなの匂ふにぞ。 見ぬ世の人もしのばるれ。桐の葉落ちて秋来ぬと。

しるくも月の影澄むや。浦吹く風に小夜更けて。 暁と白浪。立ち騒ぐ群千鳥。 友よぶ声や霜雪に。冬の気色の知らるらん。 シテ「かやうに移ろふ四つの時。 ことわりなれや夏かけて。盛久しき藤波の。 花に立ち添ふ朝霞。 暮れゆく春のかたみぞと。惜む心も紫の。深く頼を松が枝に。 かゝる契りぞたのもしき。

シテ「面白や。序ノ舞「。ワキ「面白や。 ゆたに吹くなる。春かぜに。 地「誘はれつゝも。千代を唱ふる千代を唱ふる。/\。 シテ「松に懸りて咲く藤の。 地「薄紫の雲の羽袖を返す舞姫。 シテ「歌へや歌へ折る柳落つる梅。地「あるひは花の。

シテ「藤生野も。 地「隔てぬ色も匂も深海松の。英遠の浜風。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回に吹き。 寄すも音さゆる。波も文どる舞の袂。 月に翻す。影も映るや紫の。/\。 曙に薫りて。たなびく霞に。入りにけり 旅僧 杜若の精

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此間は都に候ひて。 洛陽の名所旧跡のこりなく一見仕りて候。 又これより東国行脚と心ざし候。道行「夕々の仮枕。/\。 宿はあまたにかはれども。 同じ憂き寝の美濃尾張。三河の国に着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ間。 程なう三河の国に着きて候。 又これなる沢辺に杜若の今を盛と見えて候。立ちより眺めばやと思ひ候。

げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花の色。かほよ花とも申すやらん。あら美しの杜若やな。 シテ詞呼掛「なう/\御僧。何しにその沢には休らひ給ひ候ふぞ。 ワキ詞「これは諸国一見の者にて候ふが。杜若のおもしろさに眺め居て候。さてこゝをばいづくと申し候ふぞ。 シテ「これこそ三河の国八橋とて。

杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。 色も一しほ濃紫のなべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。 取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人(りよじん)やな。 ワキ詞「げにげに三河の国八橋の杜若は。古歌にもよまれけるとなり。 いづれの歌人の言の葉やらん承りたくこそ候へ。 シテ「伊勢物語にいはく。こゝを八橋といひけるは。水行く川の蜘蛛手なれば。橋を八つ渡せるなり。其沢に杜若のいと面白く咲き乱れたるを。ある人かきつばたといふ五文字を句の上(かみ)に置きて。旅の心をよめと言ひければ。唐衣着つゝなれにし妻しあれば。はる%\来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原の業平の。此杜若をよみし歌なり。 ワキ「あら面白やさてはこの。東(あづま)のはての国々までも。業平は下り給ひけるか。 シテ詞「こと新しき問事かな。此八橋のこゝのみか。

猶しも。心の奥ふかき名所々々の道すがら。 ワキ「国々ところは多けれども。とりわき心の末かけて。シテ「思ひわたりし八橋の。 ワキ「三河の沢の杜若。シテ「はる%\きぬる旅をしぞ。 ワキ「思の色を世に残して。シテ「主は昔になり平なれども。 ワキ「かたみの花は。シテ「今こゝに。 地歌「在原の。跡な隔てそ杜若。/\。沢辺の水の浅からず。 契りし人も八橋の蜘蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。 昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。心かなやがて馴れぬる心かな。 シテ詞「いかに申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。シテ「見ぐるしく候へども。 わらはが庵にて一夜を御明し候へ。 ワキ「あらうれしややがて参り候ふべし。物着「。 シテ「なう/\此冠唐衣御覧候へ。ワキ「不思議やな賎しき賎の臥処より。色もかゝやく衣(きぬ)を着。透額の冠を着し。

これを見よと承る。こはそも如何なる事にて候ふぞ。 シテ「これこそ此歌によまれたる唐衣。高子の后の御衣(ぎよい)にて候へ。又此冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。かたみの冠唐衣。身に添へ持ちて候(さむら)ふなり。 ワキ「冠唐衣は先々置きぬ。さて/\御身は如何なる人ぞ。 シテ「誠は我は杜若の精なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。よみしも女の杜若に。なりし謂の言葉なり。又業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌(うた)の言の葉までも。皆法身(ほつしん)説法の妙文なれば。草木までも露の恵の。仏果の縁を弔ふなり。 ワキ「これは末世の奇特かな。正しき非情の草木に。言葉をかはす法の声。 シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。 シテ「仮の衆生となり平の。ワキ「本地寂光の都を出でて。 シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。

地次第「はるばる来ぬる唐ころも。/\。着つゝや舞を奏(かな)づらん。シテ「別れこし。跡の恨の唐衣。地「袖を都に。返さばや。イロエ「。 シテクリ「そも/\この物語はいかなる人の何事によつて。地「思の露の信夫山。忍びて通ふ道芝の。始もなく終もなし。 シテサシ「昔男初冠(ういかむり)して奈良の京。春日の里に知るよしして狩にいにけり。 地「仁明天皇の御宇かとよ。いともかしこき勅をうけて。大内山の春がすみ。立つや弥生の初めつかた。春日の祭の勅使として透額(すきびたい)の冠を許さる。シテ「君の恵の深き故。地「殿上にての元服の事。当時その例(れい)稀なる故に。初冠とは申すとかや。 クセ「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住所(すみどころ)求むとて。東の方に行く雲の。伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いとどしく過ぎにし方の恋しきに。

羨ましくも。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕気色。 シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に立つ煙。地「遠近人の。見やはとがめぬと。口ずさみ猶はる%\の旅衣三河の国に着きしかば。こゝぞ名にある八橋の。沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻しあるやと思ひぞ出づる都人。然るに此物語。その品おほき事ながら。とりわき此八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人々のかず/\に。名をかへ品をかへて。人待つ女物病み玉すだれの。光も。乱れて飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋風吹くと。仮にあらはれ衆生済度の我ぞとは知るや否や世の人の。 シテ「暗きに行かぬ有明の。地「光普き月やあらぬ。春や昔の春ならぬ我が身ひとつは。もとの身にして。本覚真如の身を分け陰陽の神といはれしも。唯業平の事ぞかし。

斯様に。申す物がたり疑はせ給ふな旅人。遥々来ぬる唐衣。着つゝや舞をかなづらん。 シテ「花前に蝶まふ。紛々なる雪。地「柳上(りゆうしよう)に鶯飛ぶ片々たる金。序ノ舞「。 シテ「植ゑ置きし。昔の宿の。かきつばた。地「色ばかりこそ昔なりけれ。/\色ばかりこそ。シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。匂うつる。菖蒲の鬘の。地「色はいづれ。似たりや似たり。杜若花菖蒲(はなあやめ)。梢に鳴くは。シテ「蝉の唐衣の。地「袖白妙の卯の花の雪の。夜も白々と。明くる東雲の浅紫の。杜若の。花も悟の。心開けて。すはや今こそ草木国土。すはや今こそ。草木国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。失せにけれ。 従者 老人 在原業平の霊

。ワキワキツレ二人次第「花にうつろふ嶺の雲/\かゝるや。心なるらん。 ワキ詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居する者にて候。 さても大原野の花。 今を盛なる由承り及び候ふ間。若き人々を伴ひ申し。 唯今大原山へと急ぎ候。 サシ「おもしろやいづくはあれど処から。花も都の名にし負へる。 大原山の花桜。 三人歌「今を盛とゆふ花の。/\。手向の袖もひとしほに。 色そふ春の時を得て。 神もまじはる塵の世の。花や心に。 まかすらん花や心にまかすらん。 シテ一セイ「しをりして。 花をかざしの袖ながら。老木の柴と。人や見ん。 年ふれば齢は老いぬしかはあれど。 花をし見れば物思ひも。なしとよみしも身の上に。 今白雪を戴くまで。 光にあたる春の日の。長閑けき御代の時なれや。 歌「散りもせず。咲きも残らぬ花ざかり。/\。 四方の景色も一しほに。 にほひ満ち色にそふ。情の道にさそはるゝ。老な厭ひそ。 花心。老な厭ひそ花心。 ワキ詞「ふしぎやな貴賎群衆の其中に。 ことに年たけたる老人花の枝をかざし。 さも花やかに見え給ふは。 そも何くより来り給ふぞ。シテ「思ひよらずや貴賎の中に。 わきて言葉をかけ給ふは。 さも心なき山賎の。身にも応ぜぬ花ずきぞと。 お笑ひあるか人々よ。 姿こそ山のかせきに似たりとも。心は花にならばこそ。

なさばならめや心からに。 地「をかしとこそは御覧ずらめ。よしやこの身は埋木の。朽ちは。 果てし無や心の。 色も香も知る人ぞ知らずな問はせ給ひそ。 ワキ詞「あら面白のたはぶれやな。 よも誠には腹立て給はじ。 いかさま故ある心言葉の。奥床しきを語り給へ。 シテ詞「何と語らん花盛。いふに及ばぬけしきをば。 いかゞは思ひ給ふらん。 ワキ「げに/\妙なる梢の色。 うつろふかげも大原や。 シテ詞「小塩の山の小松が原より。煙る霞の遠山桜。 ワキ「里は軒端の家ざくら。シテ「匂ふや窓の梅も咲き。 ワキ「あかねさす日も紅の。シテ「霞か。 ワキ「雲か。シテ「八重。ワキ「九重の。地歌「都辺は。 なべて錦となりにけり。/\。 桜を織らぬ人し無き。花衣着にけりな。 時も日も月もやよひ。あひにあう眺かな。 げにや大原や。小塩の山も今日こそは神代も思ひ。

知られけれ。神代も思ひ知られけれ。 。 ワキ詞「かゝる面白き人に参りあひて候ふものかな。 此まゝ御供申し花をも眺めうずるにて候。又唯今の言葉のすゑに。 大原や小塩の山も今日こそは。 詞「神代の事も思ひ出づらめ。今処から面白う候。 これはいかなる人の御詠歌にて候ふぞ。 シテ詞「事あたらしき問事かな。 この大原野の行幸に。在原の業平供奉し給ひし時。 忝くも后の御事を思ひいでて。 神代の事とはよみしとなり。 申すにつけて我ながら。空恐ろしや天地の。 神の御代より人の身の。妹背の道は浅からぬ。 地歌「名残をしほの山深み。/\。 のぼりての世の物語。かたるも昔男。 あはれ旧りぬる身の程歎きても。 かひなかりけり歎きてもかひぞなかりける。 ロンギ地「げに山賎のさもしげに。 しばふるひとと見ゆるにも。心ありける姿かな。

シテ「心知らればとても身の。 姿に恥ぢぬ花の友に馴れてさらばまじらん。 地「まじれやまじれ老人の。心若木の花の枝。 シテ「老隠るやとかざさん。 地「かざしの袖を引き引かれ。 このもかのもの蔭ごとに。シテ「貴賎の花見。地「輿車の。 花の轅をかざしつれて。 よろぼひさぞらひとりどりにめぐる盃の。 天も花にや酔へるらん紅うづむ夕霞。 かげろふ人の面影ありと見えつゝ。 失せにけりありと見えつゝ失せにけり。中入間「。 ワキ詞「ふしぎや今の老人の。

唯人ならず見えつるが。さては小塩の神代の古跡。 和光の影に業平の。 花に映じて衆生済度の。姿現はし給ふぞと。 三人歌待謡「思の露もたまさかの。/\。光を見るも花心。 妙なる法の道のべに。 なほも奇特を待ち居たり/\。 後シテ一セイ「月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 我が身ぞ本の。身も知らじ。 ワキ「ふしぎやな今までは。立つとも知らぬ花見車の。 やごとなき人の御有様。 これは如何なる事やらん。シテ「げにや及ばぬ雲の上。 花の姿はよも知らじ。 詞「ありし神代の物語。姿現すばかりなり。 ワキ「あら有難の御事や。他生の縁は朽ちもせで。 シテ「契りし人も様々に。ワキ「思ひぞいづる。 シテ「花も今。地歌「今日来ずは。 あすは雪とぞ降りなまし。/\。消えずはありと。 花と見ましやと詠ぜしに。 今はさながら花も雪も。

皆白雲の上人の桜かざしの袖ふれて花見車。 くるゝより月の花よ待たうよ。 地クリ「それ春宵一刻値千金。 花に清香月に影。惜まるべきは唯此時なり。 シテサシ「思ふ事いはで唯にや止みぬべき。 地「我にひとしき人しなければ。 とは思へども人しれぬ。 心の色はおのづから思内より言の葉の。露しな%\に洩れけるぞや。 クセ「春日野の。若紫のすり衣。 しのぶの乱。限知らずとも詠ぜしに。 陸奥のしのぶもぢずり誰故乱れんと思ふ。 我ならなくにと。 よみしも紫の色に染み香にめでしなり。または唐衣。 着つゝ馴れにしつましあれば。はる%\きぬる。 旅をしぞ思ふ心の奥までは。 いさ白雲のくだり月の都なれや東山。 これもまたあづまの。はてしなの人の心や。 シテ「むさし野は。今日はな焼きそ。若草の。 地「妻もこもれり我もまたこもる心は大原や。

小塩につゞく通路の。ゆくへはおなじ恋草の。 忘れめや今も名は昔男ぞと人もいふ。 シテ「昔かな。序ノ舞「。ワカ「昔かな。 花も処も。月も春。地「ありし御幸を。 シテ「花も忘れじ。地「花も忘れぬ。

シテ「心やをしほの。地「山風ふき乱れ。散らせや散らせ。 散りまよふ木のもとながら。まどろめば。 。 桜に結べる夢かうつゝか世人定めよ夢か現か世人定めよ。寝てか覚めてか。 春の夜の月。曙の花にや。残るらん 芦屋公光 従者 老人 在原業平の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「藤咲く松も紫の。/\。 雲の林を尋ねん。 ワキ詞「これは津の国芦屋の里に。公光と申す者にて候。 我幼かりし頃よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ所に。 。 ある夜不思議なる霊夢を蒙りて候ふ程に。唯今都に上らばやと存じ候。 サシ「花の新に開くる日初陽潤へり。 鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる春の夜の。 月の都にいそぐなり。 下歌「芦屋の里を立ち出でて。我は東に赴けば。名残の月の西の海。

汐のひる子の浦とほし/\。 上歌「松蔭に。煙をかづく尼が崎。/\。 暮れて見えたる漁火のあたりを問へば難波津に。 咲くや木の花冬ごもり。今は現に都路の。 遠かりし。 ほどは桜にまぎれある雲の林に着きにけり雲の林につきにけり。 。 ワキ「遥に人家を見て花あれば則ち入るなればと。木蔭に立ち寄り花を折れば。 シテ詞「誰そやう花折るは。 今日は朝の霞消えしまゝに。夕の空は春の夜の。

殊に長閑に眺めやる。嵐の山は名にこそ聞け。 真の風は吹かぬに。 詞「花を散らすは鶯の。羽風に落つるか松の響か人か。 それかあらぬか木の下風か。 あら心もとなと散らしつる花や。詞「や。 さればこそ人の候。落花狼藉の人そこのき給へ。 ワキ「それ花は乞ふも盗むも心有り。 とても散るべき花な惜み給ひそ。 シテ「とても散るべき花なれども。花に憂きは嵐。 それも花ばかりをこそ散らせ。 おことは枝ながら手折れば。風よりもなほ憂き人よ。 ワキ「何とて素性法師は。 見てのみや人に語らん桜花。 手毎に折りて家土産にせんとは詠みけるぞ。シテ「さやうによむも有り。 又ある歌に。 春風は花のあたりをよぎて吹け。心づからやうつろふと見ん。 実にや春の夜の一時を千金に替へじとは。 花に清香月に影。千顆万顆の玉よりも。 宝と思ふ此花を。折らせ申す事は候ふまじ。

ワキ「実に/\これは御理。 花物いはぬ色なれば。人にて花を恋衣。 シテ詞「軽漾激して影唇を動かせば。我は申さずとも。 ワキ「花も惜しきと。シテ「いひつべし。 。 地歌「実に枝を惜むため又は春の手折るは。見ぬ人の為。 惜むも乞ふも情あり。二つの色の争ひ柳桜をこきまぜて。 都ぞ春の。錦なる都ぞ春の錦なる。 シテ詞「いかに旅人。 御身は何方より来り給ふぞ。ワキ詞「これは津の国芦屋の里に。 公光と申す者にて候ふが。 我幼かりし頃よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ所に。 ある夜の夢に。とある花の蔭よりも。 紅の袴召されたる女性。束帯給へる男。 伊勢物語の草紙を持ちたゝずみ給ふを。 あたりにありつる翁に問へば。 あれこそ伊勢物語の根本。在中将業平。 女性は二条の后。処は都北山陰。 紫の雲の林と語ると見て夢覚めぬ。

余りにあらたなる事にて候ふ程に。これまで参りて候。 シテ「さては御身の心を感じつゝ。 伊勢物語を授けんとなり。今宵はこゝに臥し給ひ。 別れし夢を待ち給へ。 ワキ「嬉しやさらば木の本に。袖を片敷き臥して見ん。 シテ詞「其花衣を重ねつゝ。又寝の夢を待ち給はゞ。 などか験のなかるべき。 ワキ「かやうに委しく教へ給ふ。 御身は如何なる人やらん。シテ詞「其様年の古びやう。 昔男となど知らぬ。 ワキ「さては業平にてましますか。シテ「いや。 地歌「我が名を何とゆふばえの。/\。 花をし思ふ心故木隠れの月に現はれぬ。 誠に昔を恋衣一枝の花の蔭に寝て。我が有様を見給はゞ。 其時不審を晴らさんと。 ゆふべの空の一霞思ほえずこそなりにけれおもほえずこそなりにけれ。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「いざさらば。 木蔭の月に臥して見ん。/\。暮れなばなげの花衣。 袖をかたしき臥しにけり/\。

後シテ一声「月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 我が身ひとつは。もとの身にして。 ワキ「不思議やな雲の上人にほやかに。 花にうつろひ現れ給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「今は何をか包むべき。昔男の古を。 語らん為に来りたり。 ワキ「さらば夢中に伊勢物語の其品々を語り給へ。シテ詞「いで/\さらば語らんと。花の嵐も声添へて。ワキ「其品々を。 シテ「語りけり。 クリ「抑この物語は。 いかなる人の何事によつて。地「思の露を染めけるぞと。 言ひけん事も。理なり。 シテサシ「まづは弘徽殿の細殿に。人目を深く忍び。 地「心の下簾の徒然と人はたゝずめば。 我も花に心を染みて。共にあくがれ立ち出づる。 クセ「二月や。まだ宵なれど月は入り。 我等は出づる恋路かな。抑日の本の。 中に名所と云ふ事は。

我が大内にあり彼の遍昭が連ねし。 花の散り積る芥川を打ち渡り。思ひ知らずも迷ひ行く。 かづける衣は紅葉襲。緋の袴踏みしだき。 誘ひ出づるやまめ男。紫の。一本ゆひの藤袴。 しをるゝ裾をかい取つて。シテ「信濃路や。 地「園原しげる木賊色の。 狩衣の袂を冠の巾子にうちかづき。 忍び出づるや二月の。黄昏月も早入りて。いとゞ朧夜に。 降るは春雨か。落つるは涙かと。 袖打ち払ひ裾を取り。しを/\すご/\と。 たどり/\も迷ひ行く。

シテ「思ひ出でたり夜遊の曲。 地「返す真袖を。月や知る。序ノ舞「。 キリ「夜遊の舞楽も時移れば。/\。名残の月も。山藍の羽袖。 かへすや夢の黄楊の枕。此物語。 語るとも尽きじ。シテ「松の葉の散り失せず。 地「松の葉散り失せず。末の世までも。 情知る。言の葉草のかりそめに。 かく現はせる古の。伊勢物語。 かたる夜もす。 がら覚むる夢となりにけりや覚むる夢となりにけり 一遍上人 従僧 里の女 和泉式部の霊。

ワキ、ワキツレ二人、次第「教の道も一声の。/\。 御法を四方に弘めん。 ワキ詞「これは念仏の行者一遍と申す聖にて候。 我此度三熊野に参り。一七日参籠申し。

  証誠殿に通夜申して候へば。あらたに霊夢を蒙りて候。 六十万人決定往生の御札を。 普く国土に弘めよとの霊夢にまかせ。 まづ都へと志して候。道行三人「弥陀頼む。

願も三つの御山を。/\。 今日立ち出づる旅衣紀の関守が手束弓。出で入る日数重なりて。 時もこそあれ春の頃。 花の都に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早都誓願寺に着きて候。 告にまかせて札を弘めばやと思ひ候。有難や実に仏法の力とて。 貴賎群集の色々に。袖を連ね踵をついで。 知るも知らぬもおしなべて。 念仏三昧の道場に。出で入る人の有難さよ。 シテサシ「処は名におふ洛陽の。 花の衣の今更に。心は空にすみぞめの。 ワキ「夕の鐘の声々に。称名の御法。シテ「鳧鐘の響。 ワキ「聴衆の人音。シテ「軒の松風。 ワキ「おのれ/\と。シテ「かはれども。 地歌「弥陀頼む。心は誰も一声の。/\。 うちに生るゝ蓮葉の。 濁にしまぬ心もて何疑の有るべき。 有難や此教洩らさぬ誓目のあたり。   受け悦ぶや上人の御札をいざや保たん御札をいざやたもたん。 シテ詞「如何に上人に申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。 シテ「この御札を見奉れば。六十万人決定往生とあり。 。 扨々六十万人より外は往生に漏れ候ふべきやらん。返す%\も不審にこそ候へ。 ワキ「実によく御不審候ふものかな。 これは三熊野の御夢想に四句の文有り。 其四句の文の上の字を取りて。 証文のために書きつけたり。 たゞ決定往生南無阿弥陀仏と。此文ばかり御頼み候へ。 シテ「さて/\四句の文とやらんは。 如何なる事にて有るやらん。愚痴の我等に示し給へ。 ワキ詞「いで/\語つて聞かせ申さん。 六字名号一遍法。十界依正一遍体。 万行離念一遍証。人中上々妙好華。 此四句の文の上の字なれば。 六十万人とは書きたるなり。シテ詞「今こそ不審春の夜の。 闇をも照らす弥陀の教。

ワキ「光明遍照十方世界に。漏るゝ方なき御法なるを。 僅かに六十万人と。人数をいかで定むべき。 シテ「さてはうれしや心得たり。 此御札の六十万人。その人数をばうち捨てゝ。 ワキ「決定往生南無阿弥陀仏と。 シテ「唯一筋に念ずならば。 ワキ「それこそ即ち決定する。シテワキ二人「往生なれや何事も。 皆うち捨てゝ南無阿弥陀仏と。地歌「称ふれば。 仏も我もなかりけり。/\。 南無阿弥陀仏の声ばかり。至誠心深心廻向。 発願の鉦の声耳に染みて有難や。 誠に妙なる此教。十声一声数分かで。 悟をも迷をも迎へ給ふぞ有難き。さる程に。 夕陽雲にうつろひて。 西にかげろふ夕月の寄るの念仏を急がん夜念仏をいざや急がん。 口ンギ地「早更け行くや夜念仏の。 聴衆の眠覚まさんと。鉦うち鳴らし念仏す。 シテ「有難や五障の雲のかゝる身を。 助け給はゞ此世より。 二世安楽の国に早生れ行かんぞ嬉しき。 地「実に安楽の国なれや。安く生るゝ蓮葉の台の縁ぞ誠なる。 シテ「有難や。/\。 さぞな始めて弥陀の国。涼しき道ぞ頼もしき。 地「頼ぞまこと此教。或は利益無量罪。 シテ「又は余経の後の世も。地「弥陀一教と。 シテ「聞くものを。地「有難や/\。八万緒聖教。 皆是阿弥陀仏なるべし。 この御本尊も上人も唯同じ御誓願寺ぞと。 仏と上人を一体に拝み申すなり。 シテ詞「いかに申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「誓願寺と打ちたる額を除け。上人の御手跡にて。 六字の名号になして賜はり候へ。 ワキ「これは不思議なる事を承り候ふものかな。 昔より誓願寺と打ちたる額をのけ。 六字の名号になすべき事。思ひもよらぬ事にて候。 シテ「いやこれも御本尊の御告と思し召せ。 ワキ「そも御本尊の御告とは。 御身はいづくに住む人ぞ。 シテ「わらはが住家はあの石塔にて候。ワキ「不思議やなあの石塔は。 和泉式部の御墓とこそ聞きつるに。 御住家とは不審なり。 シテ詞「さのみな不審し給ひそよ。我も昔は此寺に。 値遇の有れば澄む水の。春にも秋や通ふらし。 地「結ぶ泉の自が。名を流さんも恥かしや。 よしそれとても上人よ。我が偽は亡き跡に。 和泉式部は我ぞとて。石塔の石の火の。 光と共に失せにけり/\。中入間「。 。 ワキ詞「仏説に任せ誓願寺と打ちたる額を除け。六字の名号を書きつけて。 仏前に移し奉れば。 三人待謡「不思議や異香薫じつつ。/\。 花降り下り音楽の声する事のあらたさよ。これにつけても称名の。 心一つを頼みつゝ。鉦打ち鳴らし同音に。 ワキ「南無阿弥陀仏弥陀如来。 後シテサシ、出端「あら有難の額の名号やな。 末世の衆生済度のため。仏の御名を顕して。

仏前に移す有難さよ。 我も仮なる夢の世に。和泉式部といはれし身の。 仏果を得るや極楽の歌舞の菩薩となりたるなり。 二十五の。地「菩薩聖衆の御法には。 紫雲たなびく夕日影。シテ「常の灯。影清く。 地「さながらこゝぞ極楽世界に。 生れけるかと有難さよ。 。地クリ「そも/\当寺誓願寺と申し奉るは。天智天皇の御願。 御本尊は慈悲万行の大菩薩。春日の明神の御作とかや。 シテサシ「神と云ひ仏と云ひ。 唯これ水波の隔なり。地「然るに和光の影広く。 一体分身現れて衆生済度の御本尊たり。 シテ「されば毎日一度は。 地「西方浄土に通ひ給ひて。来迎引摂の。誓を現しおはします。 クセ「笙歌。遥に聞ゆ。 孤雲の上なれや。聖衆来迎す。落日の前とかや。 昔在霊山の御名は法華一仏。 今西方の弥陀如来。慈眼視衆生現れて。

娑婆示現観世音。 三世利益同一体有難や我等がための悲願なり。シテ「若我成仏の。 光を受くる世の人の。地「我が力には行き難き。 御法の御舟の水馴棹さゝでも渡る彼の岸に。 至り至りて楽を極むる国の道なれや。 十悪八邪の迷の雲も空晴れ。 真如の月の西方も。こゝを去ること遠からず。 唯心の浄土とは此誓願寺を拝むなり。 シテ「歌舞の菩薩も。さま%\の。地「仏事をなせる。 心かな。序ノ舞「。シテ「ひとりなほ。 仏の御名を。尋ね見ん。地「各帰る法の場人。 法の場人法の場人の。 シテ「実にも妙なる称名の数々。地「虚空に響くは。 シテ「音楽の声。地「異香薫じて。シテ「花降る雪の。 地「袖をかへすや返す%\も。 貴き上人の。利益かなと。菩薩聖衆は。面々に。 御堂に打てる。六字の額を。皆一同に。 礼し給ふは。あらたなりける。奇瑞かな 漁夫白竜 漁夫 天女 ワキ、ワキツレ二人一セイ「風早の。 三穂の浦回(うらわ)をこぐ舟の。浦人さわぐ。浪路かな。 ワキサシ「これは三保の松原に。白竜と申す漁夫(ぎよふ)にて候。 三人「万里の好山に雲忽ちにおこり。 一楼の明月に雨はじめて晴れり。 げにのどかなる時しもや。春のけしき松原の。 浪立ちつゞく朝霞。月ものこりの天の原。 及びなき身のながめにも。 心そらなるけしきかな。 下歌「わすれめや山路をわけて清見がた。はるかに三保の松原に。 たちつれいざや。通はんたちつれいざや通はん。 上歌「風向ふ。雲の浮浪たつと見て。/\。 釣せで人やかへるらん。 待てしばし春ならば吹くものどけき朝風の。 松は常磐の声ぞかし。浪は音なき朝なぎに。 釣人おほき。小舟かな釣人多き小舟かな。 ワキ詞「われ三保の松原にあがり。 浦の景色を眺むる所に。 虚空に花降り音楽聞え。霊香四方(よも)に薫ず。 これ唯事と思はぬ所に。これなる松に美しき衣かゝれり。 寄りて見れば色香妙にして常の衣にあらず。 いかさま取りて帰り古き人にも見せ。家の宝となさばやと存じ候。 シテ詞呼掛「なうその衣はこなたのにて候。 何しにめされ候ふぞ。 ワキ「これは拾ひたる衣にて候ふ程に取りて帰り候ふよ。 シテ「それは天人の羽衣とて。 たやすく人間にあたふべき物にあらず。 本のごとくに置き給へ。 ワキ「そも此衣の御ぬしとは。さては天人にてましますかや。 さもあらば末世(ばつせ)の奇特にとゞめおき。 国の宝となすべきなり。 衣をかへす事あるまじ。 シテ「かなしやな羽衣なくては飛行(ひぎやう)の道も絶え。 天上にかへらんことも叶ふまじ。さりとては返したび給へ。 ワキ「此御詞を聞くよりも。いよ/\白竜力を得。 詞「本より此身は心なき。 天の羽衣とりかくし。かなふまじとて立ちのけば。 シテ「今はさながら天人も。 羽根なき鳥の如くにて。あがらんとすれば衣なし。 ワキ「地にまた住めば下界なり。 シテ「とやあらんかくやあらんと悲しめど。 ワキ「白竜衣をかへさねば。シテ「力及ばず。 ワキ「せんかたも。地「涙の露の玉鬘。 かざしの花もしを/\と。 天人の五衰も目のまへに見えてあさましや。 シテ「天の原。ふりさけみれば。霞たつ。 雲路まどひて。ゆくへ知らずも。 地下歌「住み馴れし 空にいつしかゆく雲のうらやましきけしきかな。 上歌「迦陵頻伽(かりようびんが)のなれなれし。/\。声今さらにわづかなる。 鴈{かりがね}のかへりゆく天路を聞けばなつかしや。千鳥鴎の沖つ浪。 ゆくか帰るか春。 風の空に吹くま。 でなつかしや空。 に吹くまでなつかしや。 ワキ詞「いかに申し候。 御姿を見たてまつれば。 あまりに御痛はしく候ふ程に。 衣をかへし申さうずるにて候。 シテ。 「あらうれしやこなたへ給はり候へ。ワキ「しばらく。 承り及びたる天人の舞楽。 たゞ今こゝにて奏し給はゞ。ころもをかへし申すべし。 シテ「嬉しやさては天上にかへらん事をえたり。此悦にとてもさらば。 人間の御遊(ぎよゆう)のかたみの舞。月宮をめぐらす舞曲あり。 たゞ今こゝにて奏しつゝ。 世のうき人に伝ふべしさりながら。 衣なくては叶ふまじ。さりとては先かへし給へ。 ワキ「いや此衣をかへしなば。 舞曲をなさで其ままに。天にやあがり給ふべき。 シテ「いや疑は人間にあり。天に偽なきものを。 ワキ「あら恥かしやさらばとて。 羽衣を返しあたふれば。シテ「少女は衣を着しつゝ。 霓裳羽衣(げいしやううい)の曲をなし。 ワキ「天の羽衣風に和し。シテ「雨に湿(うるほ)ふ花の袖。 ワキ「一曲をかなで。シテ「舞ふとかや。 地次第「東遊(あづまあそび)の駿河舞。/\此時や始めなるらん。 地クリ「それ久堅の天(あめ)といつぱ。 二神(にじん)出世の古。十方世界を定めしに。 空は限もなければとて。久方の空とは。 名づけたり。シテサシ「しかるに月宮殿のありさま。 玉斧(ぎよくふ)の修理(しゆり)とこしなへにして。 地「白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。 一月(いちげつ)夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。 シテ「我もかずある天乙女。 地「月の桂の身を分けて仮に東の。駿河舞。 世に伝へたる。曲とかや。クセ「春霞。 たなびきにけり久かたの。月の桂も花やさく。 げに花かづら色めくは春のしるしかや。 おもしろや天(あめ)ならで。こゝも妙なり天津風。 雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿。 しばし留りて。此松原の。春の色を三保が崎。 月清見潟富士の雪いづれや春のあけぼの。 たぐひ浪も松風ものどかなる浦のありさま。そのうへ天地は。何を隔てん玉垣の。 内外の神の御末にて。 月も曇らぬ日の本や。シテ「君が代は。天の羽衣まれに来て。 地「撫づとも尽きぬ巌ぞと。 聞くも妙なり東歌。声そへてかず/\の。 笙笛琴箜篌孤雲の外に満ち/\て。 落日の紅は蘇命路(そめいろ)の山をうつして。緑は浪に浮島が。 払ふ嵐に花ふりて。 げに雪をめぐらす白雲(はくうん)の袖ぞ妙なる。 シテ「南無帰命月天子本地大勢至。地「東遊の舞の曲。序ノ舞「。 シテワカ「あるひは。天つ御空の緑の衣。 地「又は春立つ霞の衣。 シテ「色香も妙なり乙女の裳(もすそ)。地「左右左(さいうさ)。左右颯々の。 花をかざしの天の羽袖。 なびくもかへすも舞の袖。 破ノ舞キリ地「東遊のかず/\に。/\。 その名も月の色人は。三五夜中(やちゆう)の空に又。 満月真如の影となり。御願円満国土成就。 七宝充満の宝を降らし。国土にこれを。 ほどこし給ふさるほどに。時移つて。 天の羽衣。浦風にたなびきたなびく。 三保の松原浮島が雲の。愛鷹山(あしたかやま)や富士の高嶺。 かすかになりて。天つ御空の。 霞にまぎれて。失せにけり 旅僧 従僧 里の女 落葉宮の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「月を都のしるべにて。/\。 越路の秋に出でうよ。 ワキ詞「これは北国方より出でたる僧にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち都に上り候。 サシ「万里にして人南に去り。三春の雁北に飛ぶ。 三人歌「花は唯越路の春やまさるらん。 /\。 都の空を別れ来し名残を今も音にたてゝ。月にも急ぐかり衣。 はるけき旅の行方かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ間。 。 これは早都のほとりにて小野とかや申すげに候。あら笑止と立ち重りたる霧や候。 。 唯今の景色にて古き事の思ひ出でたるぞや。荻原や軒端の露にそぼちつゝ。 八重立つ露をわけぞ行くべき。シテ詞呼掛「なう/\。 御僧今の歌をば何と思ひよりて詠じさせ給ふぞ。 ワキ「これは始めて都に上る者にて候ふが。まだふみ馴れぬ道のべに。 いとゞ八重立つ夕霧を。 分けん方なき哀さに。

古事の思ひ出でられて何となく口ずさみ候ふよ。シテ「是は古。 夕霧の大臣と聞えし人の。此処にて詠ぜし歌なり。 其心を。 も知し召して口ずさみ給ふかと思へば尋ね申すなり。 ワキ「いやそれ迄は知らねども。唯秋霧のわけま憂きに。 よそへて思ひ出でたるなり。 シテ「扨は心をば知らせ給はざるか。 いたはしやゆかん都の伝とても。まだ程遠き夕霧に。 いかでかまがはせ給ふべき。詞「草の扉はいぶせくとも。 一夜を明させ給ふべし。 ワキ「実にありがたき御事かな。さらば御共申さんと。 シテ「そことも知らぬ小野の細道。 ワキ「末もつゞかぬ。シテ「かたへの野べを。 地「入方に成り行く秋の夕日影。/\。 空の気色も冷じく。 日ぐらしの声さへしきる山のべは。 をぐらき心地のみ心ぼそき夕かな。我が住む方の庵とて。 帰り馴れずば旅人の。いかでか分けん道ならん/\。 ワキ詞「今夜の御宿ありがたう候。

さて/\。 先の詠歌につき夕霧とやらんの此処へ御出有りたる由聞え候。 扨この小野にはいか様なる人の住み給ひし処にて候ふぞ。 。 シテ「此処には一条の御息所の御物の気にて暫く住ませ給ひしに。 同じく御息女落葉の宮も。 母御にうちそひ住ませ給ひて候。ワキ「あら面白や落葉の宮とは。 いかやうなる御名にて候ぞ御物語り候へ。 シテ「さなきだに女の身は。 五障三従の罪深きに。世を背かんの心の本意も。 叶はぬ其身の昔語。 語りて聞かせ申すべし。跡よく弔ひ給ひ給へ。 地クリ「抑此落葉の宮と申すは。光源氏の御兄。 朱雀院女二の宮。一条の御息所の。御息女なり。 シテサシ「其頃柏木の右衛門の督と申しゝ人。 地「をりしも春の暮つかた。 風吹かずかしこき日影を興じつゝ。 故ある木立の花盛。わづかなる四本の蔭に乱れつゝ。 いどみ争ふ鞠の数。

暮れ行く庭を思はずも手飼の猫のまとはりし。 シテ「こすの外もれし面影の。 地「身にそふきづなとなりたるなり。 クセ「恋の奴となりはつる思やのべんとばかりに。ゆかりの露を結びしに。 契の中は身に染まで。 もとより染みにし方こそなほ茂り行く草の名の。 慰めがたきをばすてにて。 もろかづら落葉を何に拾ひけん。 名はむつましくかざしなれども。 かくいひし言の葉の我が名にあふぞ悲しき。 其後をりを得て思の末はなよ竹の。一夜結びし手枕を。 かはすほどなききぬ%\の。袖にあまれる白露の。 おきて行く空も知られぬ明暮に。 いづくの露のかゝる袖の。思の色をさすがとや。 人のあはれの露かけて。 シテ「明暮の空に浮身は消えなゝん。 地「夢なりけりと見てもせめて。 慰むべくといふ声を聞き捨て出でし魂は我を離れてさながらに。 人にとまれるこゝちして。

うつし心も涙のみ。其身をせめて絶えし人に。 我が身はかなき契こそ消えしにまさるつらさなれ。 ロンギ地「昔語の言の葉の。 おくゆかしきを同じくは心に残し給ふなよ。 シテ「世語を語ればいとゞ古に。 又立ち帰る袖の浪の。 あはれはかなき身の果能々弔ひてたび給へ。地「思ひよらずや其跡を。 弔ふべき御身誰ならん。 シテ「恥かしながらこの上は。地「わが名をいはん。 シテ「夕霧の。地「迷を晴らしおはしませ。 我も音をなく雲居の雁寒み吹く風の。 誘ふとばかり失せにけり/\。中入間「。 ワキ詞「唯今見えし夢人は。たゞ人ならず思ひしに。 扨は古の夕霧に迷の心を残し。 我に言葉をかはしけるか。いざや御跡弔はんと。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「とくや御法の花のひも。/\。 ながき闇路も終に今は。 若生人天中受勝妙楽。若在仏前蓮花化生。 シテ一声「あら有難の。御経やな。/\。

ありし世を思ひも出でじ今は早。妙なる御法の値遇の縁に。 玉磬の声は管絃を奏する事を思ひ。 衲衣の僧は綺羅の人にかはりたり。いよ/\仏果を授け給へ。 ワキ「ふしぎやな千種の露の色々に。錦を連ぬる花の袖。 そこはかとなき面影は。ありし一夜の主やらん。 シテ「御弔のありがたさに。 恥かしながら古の。草の蔭なる魄霊の。 これまで現れ参りたり。詞「思ひ出でたり此処にて。 なにがしの律師貴き御声をあげて。 陀羅尼読みたりし事。 唯今のやうに思はるゝぞや。阿檀陀意。檀陀婆帝。地「檀陀婆帝。 序ノ舞「。シテ「得聞是陀羅尼者。当智普賢。 神通之力。地「若但書写。是人命終。 当生〓{新字源:2391。たう}利天。是時八万四千の天女。 伎楽の声声。有難や。破ノ舞「。 シテ「嵐に従ふ木々の落葉。/\は。簫瑟を含み。 シテ「石にそゝぐ。地「飛泉の声は。 シテ「雅琴の翫ぶ。伎楽の遊。

地「御法の御声あひにあひたり。虫の音鹿の音。 滝つ響も一つに乱るる。小野の千草の。

露に立ちそふ野分の風に。錦をかざりし梢の紅葉。/\は。 木蔭の落葉と。朽ちにけり 遊行上人 従僧 老人 柳の精

ワキ、ワキツレ二人次第「帰るさ知らぬ旅衣。/\。 法に心や急ぐらん。 ワキ詞「これは諸国遊行の聖にて候。我一遍上人の教を受け。 遊行の利益を六十余州に弘め。 六十万人決定往生の御札を。普く衆生にあたへ候。 此程は上総の国に候ひしが。 これより奥へと志し候。道行三人「秋津州の。 国々めぐる法の道。/\。まよはぬ月も光添ふ。 心の奥を白河の。関路と聞けば秋風も。 立つ夕霧の何くにか今宵は宿をかり衣。 日も夕暮に。 なりにけり日も夕暮になりにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 音にきゝし白河の関をも過ぎぬ。

又これに数多の道の見えて候。広き方へゆかばやと思ひ候。 。シテ詞呼掛「なう/\遊行上人の御供の人に申すべき事の候。 ワキ詞「遊行の聖とは札の御所望にて候ふか。 老足なりともいま少し急ぎたまへ。 シテ「有難や御札をも賜はり候ふべし。まづ先年遊行の御下向の時も。 古道とて昔の街道を御通り候ひしなり。 されば昔の道を教へ申さんとて。 はるばるこれまで参りたり。 ワキ「不思議やさては先の遊行も。此道ならぬ古道を。 通りし事の有りしよなう。 シテ「昔は此道なくして。あれに見えたる一村の。 森のこなたの川岸を。御通りありし街道なり。

其上朽木の柳とて名木あり。 かゝる尊き上人の。御法の声は草木までも。 成仏の縁ある結縁たり。 地「こなたへいらせたまへとて。老いたる馬にはあらねども。 道しるべ申すなり。いそがせたまへ旅人。 上歌「げにさぞな処から。/\。 人跡たえて荒れはつる。葎蓬生刈萱も。 乱れあひたる浅茅生や袖に朽ちにし秋の霜。 露分衣来て見れば。昔を残す古塚に。 朽木の柳枝さびて。 影踏む道は末もなく風のみ渡る。けしきかな風のみ渡るけしきかな。 シテ詞「これこそ昔の街道にて候へ。 又こ。 れなる古塚の上なるこそ朽木の柳にて候よく/\御覧候へ。 ワキ詞「さては此塚の上なるが名木の柳にて候ひけるぞや。 げに川岸も水絶えて。川そひ柳朽ち残る。 老木はそれとも見えわかず。 蔦葛のみ這ひかゝり。青苔梢を埋む有様。 誠に星霜年旧りたり。

詞「さていつの世よりの名木やらん。くはしく語り給ふべし。 シテ「昔の人の申しおきしは。 鳥羽の院の北面。佐藤兵衛憲清出家し。 西行と聞えし歌人。此国に下り給ひしが。 頃は水無月半なるに。此川岸の木のもとに。 暫し立ちより給ひつゝ。 一首を詠じ給ひしなり。ワキ「謂を聞けば面白や。さて/\西行上人の。 詠歌はいづれの言の葉やらん。シテ詞「六時不断の御勤の。 隙なき内にも此集をば。御覧じけるか新古今に。 地歌「道のべに。清水流るゝ柳蔭。/\。 しばしとてこそ立ちどまり。 涼みとる言の葉の。末の世々までも。 残る老木はなつかしや。かくて老人上人の。 御十念を賜はり御前を立つと見えつるが。 朽木の柳の古塚に寄るかと見えて失せにけり。 寄るかと見えて失せにけり。中入間「。 シテ詞「不思議やさては朽木の柳の。 われに詞をかはしけるよと。

三人待謡「念の珠の数数に。/\。 御法をなして称名の声打ち添ふる初夜の鐘。 月も曇らぬ夜もすがら。露をかたしく。 袂かな露をかたしく袂かな。 シテサシ出端「〓{ゲン 17186}水羅紋海燕かえる。 柳条恨をひいて荊台にいたる。徒らに。 朽木の柳時を得て。地「今ぞ御法に合竹の。 シテ「直にみちびく。弥陀の教。 地「衆生称念必得往生の。功力にひかれて草木までも。 仏果に至る。老木の柳の。 髪も乱るゝ白髪の老人。忽然と現れ出でたる烏帽子も。 柳さびたる有様なり。 ワキ「不思議やなさも古塚の草深き。 朽木の柳の木の本より。 其様怪したる老人の。烏帽子狩衣を着しつゝ。 現れ給ふは不審なり。シテ詞「何をか不審し給ふらん。 はや我が姿は現し衣の。 日も夕暮の道しるべせし。其老人にて候ふなり。 ワキ「さては昔の道しるべせし。

人は朽木の柳の精。シテ「御法の教なかりせば。 非情無心の草木の。台に到る事あらじ。 ワキ「中々なりや一念十念。 シテ「唯一声のうちに生るゝ。ワキ「弥陀の教を。 シテ「身に受けて。地「此界一人念仏名。西方便有一蓮生。 但使一生常不退。此花。 帰つてこゝにむかひ。上品上生に。到らん事ぞ嬉しき。 シテ「釋迦すでに滅し。 弥勒いまだ生ぜず。弥陀の悲願を頼まずは。 いかで仏果にいたるべき。 地クリ「南無や灑濁帰命頂礼本願偽ましまさず。 超世の悲願に身を任せて。他力の舟にのりの道。 シテサシ「すなわち彼岸に到らん事。 一葉の舟の力ならずや。地「彼の黄帝の貨狄が心。 聞くや秋吹く風の音に。散りくる柳の一葉の上に。 蜘蛛の乗りてさゝがにの。 糸引き渡る姿より。 巧み出せる舟の道これも柳の徳ならずや。シテ「其外玄宗華清宮にも。 地「宮前の楊柳寺前の花とて。

眺絶えせぬ名木たり。クセ「そのかみ洛陽や。 清水寺の古。五色に見えし滝浪を。 尋ねのぼりし水上に。金色の光さす。 朽木の柳忽ちに。楊柳観音とあらわれ。 今に絶えせぬあと留めて。利生あらたなる。 歩をはこぶ霊地なり。されば都の花盛。 大宮人の御遊にも。蹴鞠の庭の面。 四本の木蔭枝たれて。暮に数ある沓の音。 シテ「柳桜をこきまぜて。地「錦をかざる諸人の。 。 花やかなるや小簾の隙洩りくる風の匂より。手飼の虎の引綱も。 ながき思にならの葉の。其柏木の及びなき。 恋路もよしなしや。これは老いたる柳色の。 狩衣も風折も。風にたゞよふ足もとの。 弱きもよしや老木の柳気力なうして弱々と。 立ち舞ふも夢人を。現と見るぞはかなき。 シテ「教嬉しき法の道。地「迷はぬ月に。 つれてゆかん。序ノ舞「。 シテ「青柳に。鴬伝ふ。羽風の舞。

地「柳花苑とぞ。思ほえにける。 シテ「柳の曲も歌舞の菩薩の。舞の袂をかへす%\も。 上人の御法を受け。よろこぶ報謝の舞も。 これまでなりと。名残の涙の。 地「玉にも貫ける。春の柳の。シテ「暇申さんと。 木綿附の鳥も鳴き。地「別の曲には。 シテ「柳条を綰ぬ。地「手折るは青柳の。 シテ「姿もたをやかに。地「結ぶは老木の。

シテ「枝もすくなく。地「今年ばかりの。 風や厭はんと。たゞよふ足もとも。よろ/\よわ/\と。倒れ臥柳仮寝の床の。 草の枕の一夜の契も他生の縁ある上人の御法。 西吹く秋の風打ち払ひ。露も木の葉も。散り%\に。露も木の葉も。散り%\になり果てて。残る朽木と。なりにけり 西行上人 花見の人々 寺男 桜の精

。ワキツレ三人次第「頃待ち得たる桜狩。/\。 山路の春に急がん。ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。 下京{しもぎやう}辺に住居{すまひ}仕る者にて候。 さても我{われ}春になり候へば。こゝかしこの花をながめ。 さながら山野に日を送り候。 昨日は東山地主{ぢしゆ}の桜を一見仕りて候。 今日はまた西山西行の庵室の花。

盛なるよし承り及び候ふ程に。花見の人々を伴ひ。 唯今西山西行の庵室へと急ぎ候。道行三人「百千鳥。 囀る春は物毎に。/\。 あらたまりゆく日数経て。頃も弥生の。空なれや。 やよ留まりて花の友。知るも知らぬも諸共に。 誰も花なる。心かな誰も花なる心かな。 ワキツレ詞「急ぎ候ふ程に。

これははや西行の庵室に着きて候。暫く皆々御待ち候へ。 某案内を申さうずるにて候。いかに案内申し候。 狂言「誰にて渡り候ふぞ。 ワキツレ「さん候これは都方の者にて候ふが。 此御庵室の花。盛なる由承り及び。 遥々これまで参りて候。そと御見せ候へ。 狂言「易き間の御事にて候へども。 禁制にて候さりながら。遥々御出の事にて候ほどに。 御機嫌を見てそと申して見うずるにて候。暫く御待ち候へ。 男「心得申し候。 ワキサシ「夫れ春の花は上求{じやうぐ}本来の梢にあらはれ。 秋の月下化冥暗{げけめいあん}の水に宿る。 誰か知る行く水に。三伏の夏もなく。 澗底{かんてい}の松の風。一声の秋を催す事。 草木国土。おのづから。見仏聞法の。結縁たり。 詞「さりながら四つの時にも勝れたるは花実の折なるべし。あら面白や候。 狂言「日本一の御機嫌にて候やがて申さう。如何に申し候。

都より此御庭の花を見たき由申して。これ迄みな/\御出でにて候。 ワキ詞「何と都よりと申して。 此庵室の花をながめん為に。 これまで皆々来り給ふと申すか。狂言「さん候。 ワキ「およそ洛陽の花盛。何処もと云ひながら。 西行が庵室の花。 花も一木{ひとき}我も独と見るものを。 花ゆゑありかを知られん事いかゞなれども。これまで遥々来れる志を。 見せではいかが帰すべき。 あの柴垣の戸を開き内へ入れ候へ。狂言「畏つて候。 いかに方々へ申し候。 よき御機嫌に申して候へば。見せ申せとの御事にて候ふほどに。 いそいで此方へ御出で候へ。 ワキツレ「心得申し候。 ワキツレ三人「桜花咲きにけらしな足びきの。 山のかひより見えしまゝ。 此木の本に立ち寄れば。 ワキ「我は又心ことなる花の本に。 飛花落葉を観じつゝ独り心を澄ますところに。ワキツレ「貴賎群集の色々に。

心の花も盛にて。 ワキ「昔の春にかへる有様。ワキツレ「かくれ所の山といへども。 ワキ「さながら花の。ワキツレ「都なれば。 地歌「捨人も。花には何と隠家の。/\。 処は嵯峨の奥なれども。 春に訪はれて山までも浮世の嵯峨になるものを。 実にや捨てゝだに。 此世の外はなきものを何くか終の。住家なる何くか終の住家なる。 ワキ詞「いかに面々。 是まで遥々来り給ふ志。返す%\も優しうこそ候へさりながら。 捨てゝ住む世の友とては。 花独なる木の本に。身には待たれぬ花の友。 少し心の外なれば。 花見んと群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜の。とがには有りける。 地「あたら桜の蔭暮れて。 月になる夜の木の本に。家路忘れて諸共に。 今宵は花の下臥して。夜と共にながめ明かさん。 シテ「埋木の人知れぬ身と沈めども。 心の花は残りけるぞや。

花見んと群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜の。 とがには有りける。 ワキ「不思議やな朽ちたる花の空木{うつほぎ}より。白髪の老人現れて。 詞「西行が歌を詠ずる有様。さも不思議なる仁体なり。 シテ「これは夢中の翁なるが。 いまの詠歌の心をなほも。たづねん為に来りたり。 ワキ「そもや夢中の翁とは。 夢に来れる人なるべし。詞「それにつきても唯今の。 詠歌の心を尋ねんとは。 歌に不審の有るやらん。シテ「いや上人の御歌に。 何か不審の有るべきなれども。 群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜のとがにはありける。 詞「さて桜のとがは何やらん。 ワキ「いやこれは唯憂世を厭ふ山住なるに。 貴賎群集の厭はしき。心を少し詠ずるなり。 シテ「おそれながら此御意こそ。 少し不審に候へとよ。憂世と見るも山と見るも。 唯其人の心にあり。 非情無心の草木の。 花に憂世のとがはあらじ。

ワキ「実に/\これは理なり。さて/\かやうに理をなす。おん身は如何さま花木の精か。 シテ「誠は花の精なるが。 此身もともに老木の桜の。ワキ「花、物いはぬ草木なれども。 シテ「とがなき謂を木綿花{いふばな}の。 ワキ「影、唇を。シテ「動かすなり。 地「恥かしや老木の。花も少なく枝朽ちてあたら桜の。 とがのなき由を申し開く花の。 精にて候ふなり。およそ心なき草木も。 花実の折は忘れめや。 草木国土皆成仏の御法なるべし。 シテ詞「有難や上人の御値遇に引かれて。恵の露普く。 花檻前{かんぜん}に笑んで声いまだ聞かず。鳥林下に鳴いて涙尽き難し。 地クリ「夫れ朝に落花を踏んで相。伴なつて出づ。 夕には飛鳥に随つて一時にかへる。シテサシ「九重に咲けども花の八重桜。 地「幾代の春を重ぬらん。 シテ「然るに花の名高きは。地「まづ初花を急ぐなる。 近衛殿の糸桜。クセ「見渡せば。

柳桜をこき交ぜて。都は春の錦。燦爛たり。 千本{ちもと}の桜を植ゑ置き其色を。所の名に見する。 千本の花盛。雲路や雪に残るらん。 毘沙門堂の花盛。 四王天の栄花もこれにはいかで勝るべき。上なる黒谷。下河原。 むかし遍昭僧正の。シテ「憂世を厭ひし華頂山。 地「鷲の御山の花の色。枯れにし。 鶴の林まで思ひ知られてあはれなり。 清水寺の地主の花、松吹く風の音羽山。 こゝはまた嵐山。戸無瀬に落つる。 滝つ波までも。花は大堰川{おほゐがは}。井堰に。 雪やかゝるらん。 シテ「すはや数添ふ時の鼓。 地「後夜の鐘の音。響きぞ添ふ。 シテ詞「あら名残惜の夜遊やな。をしむべし/\。得難きは時。 逢ひ難きは友なるべし。 春宵一刻価千金。花に清香、月に影。春の夜の。序ノ舞「。 ワカ「花の影より。明け初めて。 地「鐘をも待たぬ別こそあれ。別こそあれ。/\。

シテ「待てしばし待てしばし夜はまだ深きぞ。地「白むは花の影なりけり。 よそはまだ小倉の山陰にのこる夜桜の。花の枕の。 シテ「夢は覚めにけり。

地「夢は覚めにけり嵐も雪も散り敷くや。 花を踏んでは同じく惜む少年の。春の夜は明けにけりや。 翁さびて跡もなし翁さびて跡もなし。 羽黒山の山伏 同行の山伏 賎の女 葛城の神。

{注

「澗」は、本来は{さんずい+門+月}}ワキ、ワキツレ二人、次第「神の昔の跡とめて。/\。 かづらき山に参らん。 ワキ詞「これは出羽の羽黒山より出でたる山伏にて候。 我此度大峯葛城に参らばやと存じ候。道行三人「篠懸の。 袖の朝霜おきふしの。/\。 岩根の枕松が根の。やどりもしげき嶺つゞき。 山又山を分けこえて。ゆけば程なく大和路や。 葛城山につきにけり/\。 ワキ詞「いそぎ候ふ間。 ほどなく葛城山に着きて候。あら笑止や。 また雪のふり来りて候。

これなる木蔭に立ちよらばやと思ひ候。 。シテ詞、呼掛「なう/\あれなる山伏は何方へ御通り候ふぞ。ワキ詞「此方の事にて候ふか。 御身はいかなる人やらん。 シテ「これは此葛城山に住む女にて候。 柴採る道のかへるさに。踏み馴れたる通路をさへ。 雪のふゞきにかきくれて。 家路もさだかにわきまへぬに。ましてや知らぬ旅人の。 末いづくにか雪の山路に。 迷ひ給ふはいたはしや。詞「見苦しく候へども。 わらはが庵にて一夜を御あかし候へ。

ワキ「うれしくも仰せ候ふものかな。 今にはじめぬ此山の度々峯入して。 通ひなれたる山路なれども。 今の吹雪に前後を忘じて候ふに。御志ありがたうこそ候へ。 さて御宿はいづくぞや。 シテ「この岨づたひのあなたなる。谷の下庵見苦しくとも。 程ふる雪の晴間まで。御身を休め給ふべし。 ワキ「さらば御供申さんと。 夕の山の常陰より。シテ「さらでも険しき岨づたひを。 ワキ「道しるべする山人の。 シテワキ二人「笠はおもし呉山の雪。靴は香ばし楚地の花。 地歌「肩上の笠には。/\。 無影の月をかたぶけ。 擔頭の柴には不香の花を手折りつゝ。帰る姿や山人の。 笠も薪も埋もれて。雪こそくだれ谷の道をたどり/\帰。 りきて柴の庵に着きにけり柴の庵につきにけり。 ワキ詞「あらうれしや候。 今の雪に前後を忘じて候ふ所に。

こよひの御宿かへすがへすも有難うこそ候へ。 シテ詞「あまりに夜寒に候ふほどに。 これなる標を解きみだし。火に焼きてあて参らせ候ふべし。 ワキ「あらおもしろや標とは。 此木の名にて候ふか。 シテ「うたてやな此葛城山の雪の内に。結ひあつめたる木々の梢を。 標。 と知し召されぬは御心なきやうにこそ候へ。ワキ「あらおもしろやさてはこの。 標といふ木は葛城山に。 由緒ある木にて候ふよなう。 シテ「申すにや及ぶ古き歌の言葉ぞかし。標を結ひたる葛なるを。 この葛城山の名に寄せたり。 これ大和舞の歌といへり。ワキ「げに/\古き大和舞の歌の昔を思ひでの。シテ「をりから雪も。 ワキ「降るものを。 地歌「標結ふ葛城山に降る雪は。/\。間なく時なく。 おもほゆるかなとよむ歌の。 言の葉そへて大和舞の袖の雪も古き世の。よそにのみ。 見し白雲。

や高間山の峯の柴屋の夕煙松が枝そへて。焼かうよ松が枝そへてたかうよ。 クセ「葛城や。木の間に光る稲妻は。 山伏の打つ。火かとこそ見れ。 実にや世の中は。電光朝露石の火の。 光の間ぞと思へただ。 わが身のなげ。 きをも取り添へて。 思ひ真柴を焼かうよ。シテ「捨人の。 。 苔の衣の色ふかく。 地「法に心は墨染の。 袖もさながら白妙の。 雪にや。 色をそみかくたの。 篠懸もさえまさる。 標をあつめ柴をたき寒風をふせぐ葛城の。 山伏の名にし負ふ。 かたしく袖の枕して身を休め給へや御身を休め給へや。 。

ワキ詞「あらうれしや篠懸を乾して候ふぞや。いそぎ後夜の勤を始めばやと思ひ候。 シテ「御勤とは有難や。 我に悩める心あり。 御勤のついでに祈り加持して賜はり候へ。ワキ「そも御身に悩む事ありとは。 何といひたる事やらん。 シテ「さなきだに女は五障の罪ふかきに。 法の咎の咒詛を負ひ。この山の名にしおふ。 葛かずらにて身を縛めて。なほ三熱の苦あり。

此身を助けてたび給へ。 ワキ「そも神ならで三熱の。苦といふ事あるべきか。 シテ「はづかしながら古の。 法の岩橋かけざりし。其とがめとて明王の。 策にて身をいましめて。今に苦絶えぬ身なり。 ワキ「これはふしぎの御事かな。 さては昔の葛城の。神の苦尽きがたき。 シテ「石は一つの身体として。 ワキ「蔦かずらのみかかる巌の。 シテ「撫づとも尽きじ葛の葉。ワキ「はひ広ごりて。シテ「露に置かれ。 霜に責められ起きふしの。 立居もおもき岩戸のうち。地歌「明くるわびしき葛城の。 。 神に五衰の苦あり祈り加持してたび給へと。岩橋のすゑ絶えて。 神がくれにぞなりにける。/\。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「岩橋の。苔の衣の袖そへて。 /\。法の筵のとことはに。 法味をなして夜もすがら。かの葛城の神慮。 夜の行声すみて。一心敬礼。

後シテ、出端「われ葛城の夜もすがら。 和光の影にあらはれて。 五衰の眠を無上正覚の月にさまし。法性真如の宝の山に。 法味に引かれて来りたり。よく/\勤めおはしませ。 ワキ「ふしぎやな峨々たる山の常陰より。 女体の神とおぼしくて。 玉のかんざし玉かづらの。なほ懸けそへて蔦かずらの。 はひまとはるゝ小忌衣。 シテ「これ見たまへや明王の。 策はかかる身をいましめて。ワキ「なほ三熱の神慮。 シテ「年経る雪や。ワキ「標ゆふ。地「葛城山の岩橋の。 夜なれど月雪の。さもいちじるき身体の。

みぐるしき顔ばせの神姿ははづかしや。 よしや吉野の山かずら。 かけて通へや岩橋の。高天の原はこれなれや。 神楽歌はじめて大和舞いざや奏でん。 シテ「ふる雪の。標木綿花の。白和幣。 序ノ舞地「高天の原の岩戸の舞。/\。 天のかぐ山も向に見えたり。月白く雪白く。 いづれも白妙の。けしきなれども。 名に負ふかづらきの。神の顔がたち。 面なやおもはゆや。恥かしやあさましや。 あさまにもなりぬべし。あけぬ先にと葛城の。 /\夜の。岩戸にぞ入り給ふ。 岩戸のうちに入りたまふ 旅僧 従僧 巫女 <後シテ>龍田姫。

ワキ、ワキツレ二人、次第「教の道も秋津国。/\。 数ある法を納めん。

ワキ詞「これは六十余州に御経を納むる聖にて候。 我此程は南都に候ひて。霊仏霊社残なく拝み廻りて候。

又これより龍田越にかゝり。 河内の国へと急ぎ候。道行三人「ふるき名の。 奈良の都を立ち出でて。/\。 有明残る雲間の西の大寺をよそに見て。早暮れ過ぎし秋篠や。 外山の紅葉名に残る。龍田の川に。 着きにけり龍田の川に着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早龍田川に着きて候。 此川を渡り明神に参らばやと思ひ候。 。 シテ詞呼掛「なうその川な渡り給ひそ申すべき事の候。ワキ詞「不思議やな。此川を渡り。 龍田の明神に参り候ふ所に。 何とて其川な渡りそとは承り候ふぞ。 シテ「さればこそ神に参り給ふも。 神慮に合はんためならずや。心もなくて渡り給はゞ。 神と人との中や絶えなん。よく/\案じて渡り給へ。ワキ詞「実に今思ひ出したり。 龍田川もみぢ乱れて流るめり。 渡らば錦なかや絶えなんとの。古歌の心をおもへとや。 シテ「なか/\の事この歌は。

紅葉の水に散り浮きて。錦を張れる如くなれば。 渡らば錦中や絶えなんとなり。 それにつきなほ/\深き心もあり。 紅葉と申すは当社の神体。神の畏もあるべければと。 いましめ給ふ心もあり。ワキ「実に/\それはさる事なれども。紅葉の頃も時過ぎて。 川の面も薄氷にて。 立つ波までも見えぬなり。許させ給へ渡りて行かん。 シテ詞「いや/\なほも御科あり。 氷にもまた中絶えんとの。その戒もあるものを。 ワキ「不思議や紅葉の錦ならで。 氷にもまた中絶えんとの。いはれは如何なる事やらん。 シテ「紅葉の歌は帝の御製。 又その後家隆の歌に。龍田川紅葉を閉づる薄氷。 詞「わたらばそれも中や絶えなんと。 重ねてかやうに詠みたれば。 必ず紅葉に限るべからず。地歌「氷にも。中絶ゆる名の龍田川。 /\。錦織りかく神無月の。 冬川になるまでも。紅葉をとづる薄氷を。

情なや中絶えて。渡らん人は心なや。 さなきだに危きは薄氷をふむ理のたとへも今に。 知られたりたとへも今に知られたり。 。 ワキ詞「御身はいかなる人にて渡り候ふぞ。シテ詞「これは巫にて候。 明神へ御参り候はゞ御道しるべ申し候ふべし。 ワキ「あら嬉しや御共申し。 宮めぐり申さうずるにて候。 。 シテ「これこそ龍田の明神にて御入り候へ。よく/\御拝み候へ。 ワキ「不思議やな頃は霜降月なれば。 木々の梢も冬枯れて。景色淋しき社頭の御垣に。 盛なる紅葉一本見えたり。 これは御神木にて候ふか。 シテ「さん候当国三輪の明神の神木は杉なり。当社は紅色を愛で給ふにより。 紅葉を神木と崇め参らせ候。 ワキ「ありがたや我国々を廻り。 今日は又この御神に参る事の有難さよ。和光同塵は結縁の始。 八相成道は利物の終。地下歌「下紅葉。

塵に交はる神慮。和光の影の色添えて。 我等を守りたまへや。地上歌「殊更に此度は。 /\。幣取りあへぬをりなるに。 心して吹け嵐。紅葉を幣の神慮。 神さび心も澄み渡る。龍田の嶺はほのかにて。 川音もなほ冴え増さる夕暮。 いざ宮めぐり始めんとて。名におふ龍田山。 同じかざしの榊葉を。とり%\に乙女子が。 裳裾をはへて袖をかざし。運ぶ歩の数々に。 度重なると見る程に。 不思議やな今まではたゞ巫と見えつるが。 我はまことはこの神の。龍田姫は我なりと。 名乗りもあへず御身より。 光を放ちて紅の袖を打ちかづき。社壇の。 扉を押し開き御殿に入らせ給ひけり御殿に入らせ給ひけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「神の御前に通夜をして。/\。 ありつる告を待たんとて。 袖をかたしき臥しにけり。/\。 後シテ、出端「神は非礼を受け給はず。

水上清しや龍田の川。地「御殿しきりに鳴動して。 宜禰が鼓も声々に。シテ「有明の月。 燈の光。地「和光同塵おのづから。光も朱の。 玉垣かゝやきて。 あらたに御神体あらはれたり。 シテ「我劫初よりこのかた。 この秋津州に地をしめて。御代を守りの御鉾を守護し。 紅葉の色も八葉の葉。 即ち鉾の刃先なるべし。剣の験僧の法味引かれて。 夜半に神燈。明かなり。 地クリ「そも/\瀧祭の御神とは。 即ち当社の御事なり。シテ「昔天祖の詔。 地「末明かなる御国とかや。 シテサシ「然れば当国宝山に至り。地「天地治まる御代のためし。 民安全に豊なるも。偏に当社の御故なり。 シテ「梢の秋の。四方の色。 地「千秋の御影。目前たり。クセ「年毎に。 もみぢ葉流る龍田川。港や秋の泊なる。山も動せず。 海辺も波静かにて。

たのしみのみの秋の色。名こそ龍田の山風も静かなりけり。 然れば世々の歌人も。 心を染めてもみぢ葉の。龍田の山の麻霞。 春は紅葉にあらねども。たゞ好色にめで給へば。 今朝よりは。龍田の桜色ぞ濃き。夕日や花の。 時雨なるらんと。よみしも紅に心を。 染めし栄歌なり。 シテ「神なびの御室の岸やくづるらん。地「龍田の川の。 水は濁るとも和光の影は明けき。 真如の月はなほ照るや。龍田川紅葉乱れし跡なれや。 古は錦のみ。今は氷の下紅葉。 あら美しや色々の。紅葉重ねの薄氷。渡らば。 紅葉も氷も。 重ねてなか絶ゆべしやいかで今は渡らん。 シテ「さる程に夜神楽の。 地「さる程に夜神楽の。時移り事去りて。 宜禰が鼓も数至りて月も霜も白和幣。 振り上げて声澄むや。シテ「謹上。地「再拝。神楽「。 シテ「久堅の。月も落ち来る。瀧祭。

地「波の。龍田の。シテ「神の御前に。 地「神の御前に。散るはもみじ葉。シテ「即ち神の幣。 地「龍田の山風の。時雨降る音は。 シテ「颯颯の鈴の声。地「立つや川波は。 シテ「それぞ白木綿。地「神風松風。

吹き乱れ吹き乱れ。もみぢ葉散り飛ぶ木綿附鳥の。 御祓も幣も。翻へる小忌衣。 謹上再拝再拝再拝と。山河草木。国土治まりて。 神は上らせ。給ひけり 玄賓僧都 里の女 三輪明神

ワキ詞「これは。 和州三輪の山陰に住居する玄賓と申す沙門にて候。 さても此程い。 づくともなく女性一人毎日樒閼伽の水を汲みて来り候。今日も来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ次第「三輪の山本道もなし。/\。 檜原の奥をたづねん。 サシ「実にや老少不定とて。世の中々に身は残り。 幾春秋をか送りけん。あさましや成す事なくて徒らに。 憂き年月を三輪の里に。 住居する女にて。

 候。詞「又此北山陰に玄賓僧都とて。 貴き人の御入り候ふ程に。 いつも樒閼伽の水を汲みて参らせ候。 今日もまた参らばやと思ひ候。 ワキ「山頭には夜孤輪の月を戴き。 洞口には朝一片の雲を吐く。 山田もるそほづの身こそ悲しけれ。秋はてぬれば。 訪ふ人もなし。 シテ詞「いかに此庵室のうちへ案内申し候はん。 ワキ「案内申さんとはいつも来れる人か。

シテ「山影門に入つて推せども出でず。 ワキ「月光地に敷いて掃へども又生ず。二人「鳥声とこしなへにして。 老生と静かなる山居。 地下歌「柴の編戸を押し開き。かくしも尋ね切樒。 罪を助けてたび給へ。上歌「秋寒き窓の内。/\。 軒の松風うちしぐれ。木の葉かきしく庭の面。 門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も苔に。 聞えて静かなる此山住ぞ淋しき。 シテ詞「いかに上人に申すべき事の候。 秋も夜寒になり候へば。御衣を一重たまはり候へ。 。 ワキ詞「易き間の事この衣を参らせ候ふべし。シテ「あらありがたや候。 さらば御暇申し候はん。ワキ「暫く。さて/\御身は何くに住む人ぞ。シテ「妾が住家は三輪の里。 山本近き処なり。その上我が庵は。 三輪の山本恋しくはとは詠みたれども。 何しに我をば訪ひ給ふべき。 なほも不審に思し召さば。訪ひ来ませ。 地「杉立てる門をしるしにて。尋ね給へと言ひ捨てゝ。

かき消すごとくに失せにけり。中入間「。 ワキ詞「この草庵を立ち出でて。/\。 行けば程なく三輪の里。 近きあたりが山陰の。松はしるしもなかりけり。 杉村ばから。 り立つなる神垣はいづくなるらん神垣はいづくなるらん。 。 ワキ「不思議やなこれなる杉の二本を見れば。 ありつる女人に与へつる衣の懸かりたるぞや。 詞「寄りて見れば衣の褄に金色の文字すわれり。読みて見れば歌なり。 三つの輪は清く浄きぞ唐衣。 くると思ふな。取ると思はじ。 後シテ「千早振る。神も願のあるゆゑに。 人の値遇に。逢ふぞうれしき。 ワキ「不思議やなこれなる杉の木蔭より。 妙なる御声の聞えさせ給ふぞや。 願はくは末世の衆生の願をかなへ。 御姿をまみえおはしませと。念願深き感涙に。 墨の衣を濡らすぞや。シテ「恥かしながら我が姿。

上人にまみえ申すべし。罪を助けてたび給へ。 ワキ「いや罪科は人間にあり。 これは妙なる神道の。シテ「衆生済度の方便なるを。 ワキ「暫し迷の。シテ「人心や。 地歌「女姿と三輪の神。/\。〓{チハヤ}掛帯引きかへて。 唯祝子が着すなる。烏帽子狩衣。 もすその上に掛け。 御影あらたに見え給ふかたいけなの御事や。 。 地クリ「それ神代の昔物語は末代の衆生のため。済度方便の事業。 品々もつて世の為なり。シテサシ「中にもこの敷島は。 人敬つて神力増す。地「五濁の塵に交はり。 しばし。 心は足引の大和の国に年久しき夫婦の者あり。八千代をこめし玉椿。 変らぬ色を頼みけるに。クセ「されどもこの人。 夜は来れども昼見えず。ある夜の睦言に。 御身いかなる故により。 かく年月を送る身の。 昼をば何と烏羽玉の夜ならで通ひ給はぬはいと不審多き事なり。

唯同じくはとこしなへに。 契をこむべしとありしかば。彼の人答へいふやう。 実にも姿は羽束師の。漏りてよそにや知られなん。 今より後は通ふまじ。 契も今宵ばかりなりと。懇に語れば。さすが別の悲しさに。 帰る処を知らんとて。苧環に針をつけ。 裳裾にこれを閉ぢつけて。 跡をひかへて慕ひ行く。シテ「まだ青柳の糸長く。 地「結ぶや早玉の。おのが力にさゝがにの。 糸くり返し行く程に。この山本の神垣や。 杉の下枝に留りたり。 こはそもあさましや契りし人の姿か其糸の三わけ残りしより。 。 三輪のしるしの過ぎし世を語るにつけて恥かしや。 ロンギ地「実に有難き御相好。 聞くにつけても法の道なほしも頼む心かな。 シテ「とても神代の物語。 くはしくいざや現し彼の上人を慰めん。地「先は岩戸のさおの初。 隠れし神を出さんとて。八百万の神遊。

是ぞ神楽の始なる。シテ「千早振る。神楽「。 ワカ「天の岩戸を。引き立てゝ。 地「神は跡なく入り給へば。常闇の世と。早なりぬ。 シテ「八百万の神たち。 岩戸の前にてこれを歎き。神楽を奏して舞ひ給へば。 地「天照大神其時に岩戸を少し開き給へば。 又常闇の雲晴れて。日月光り輝けば。

人の面白々と見ゆる。シテ「面白やと神の御声の。 地「妙なる始の。物語。 キリ地「思へば伊勢と三輪の神。/\。 一体分身の御事今更何と岩倉や。その関の戸の夜も明け。 かく有難き夢の告。 覚むるや名残なるらん/\ 大臣 神子。

。 ワキ詞「抑も是は当今に仕へ奉る臣下なり。 さても我が君あらたなる霊夢を蒙り給ひ。 千疋の巻絹を三熊野に納め申せとの宣旨に任せ。国々より巻絹を集め候。 さる間都より参るべき巻絹遅なはり候。 参りて候はゞ神前に納めばやと存じ候。 ツレ次第「今を始の旅ごろも。/\。 紀の路にいざや急がん。

サシ「都の手ぶりなりとても。旅は心の安かるべきか。 殊更これは王土の命。重荷をかくる南の国。 聞くだに遠き千里の浜辺。 山は苔路のさかしきを。いつかは越えん。旅の道。 休らふ間も無き心かな。下歌「これとても。 君の恵によも洩れじ。上歌「麻裳よい。 紀の関越えて遥々と。/\。 山また山をそことしも。分けつゝ行けばこれぞこの。

今ぞ始めて三熊野の。 御山に早く着きにけり。/\。詞「急ぎ候ふ程に。 三熊野に着きて候。 先々音無の天神へ参らばやと思ひ候。や。冬梅のにほひの聞え候。 いづくにか候ふらん。げにこれなる梅にて候。 この梅を見て何となく思ひ連ねて候。 南無天満天神。 心中の願を叶へて給はり候へと。地「神に祈の言の葉を。 心の内に手向けつゝ。急ぎ参りて。 先づ君に仕へ申さん。 ツレ詞「いかに案内申し候。 都より巻絹を持ちて参りて候。 ワキ「何とて遅なはりたるぞ。その為に日数を定め参るなかに。 汝一人おろかなる。 地上歌「その身の科はのがれじと。/\。やがて縛めあらけなき。 苦を見せて目のあたり。 罪の報を知らせけり/\。 。シテ詞「なう/\ その下人をば何とて縛め給ふぞ。その者はきのふ音無の天神にて。

。 一首の歌をよみわれに手向けし者なれば。納受あれば神慮。少し涼しき三熱の。 苦を免るそれのみか。人倫心なし。 詞「その縄解けとこそ。 解けや手櫛のみだれ髪。地「解けや手櫛の乱れ髪の。 神は受けずや御注連の縄の。 引き立て解かんとこの手を見れば。心強くも岩代の松の。 何とか結びし。なさけなや。 ワキ詞「これはさて何と申したる御事にて候ふぞ。 シテ詞「この者は音無の天神にて。 一首の歌を詠みわれに手向けし者なれば。とく/\縄を解き給へ。 ワキ「これは不思議なる事を承り候ふ物かな。 かほど賎しき者の歌など詠むべき事思もよらず。 いかさまにも疑はしき神慮かと存じ候ふよ。 シテ「なほも神慮を偽とや。 さあらば彼の者きのふ我に手向けし言の葉の。 上の句をかれに問ひ給へ。我また下の句をばつゞくべし。 ワキ「この上はとかく申すに及ばず。

いかに汝真に歌を詠みたらば。 その上の句を申すべし。男「今は憚り申すに及ばず。 かの音無の山陰に。さも美しき冬梅の。 色殊なりしを何となく。 心も染みてかくばかり。音無にかつ咲きそむる梅の花。 。 シテ「匂はざりせば誰か知るべきと。 。 詠みしは疑なきものを。 地「もとより正直捨方便の誓。 曇らぬ神慮。 すぐ。 なる故にかくばかり。 納受あれば今ははや。疑はせ給はで歌人を。 宥させ給ふべし。または心中に隠し歌も。 神の通力と知るなれば。げに疑のあだ心。 打ち解けこの縄を。とく/\許し給へや。 。

クリ「それ神は人の敬ふによつて威を増し。人は神の加護によれり。 シテサシ「されば楽む世に逢ふ事。 これ又総持の義によれり。地「言葉少うして理を含み。 三難耳絶えて寂念閑静の床の上には。 眠はるかに眼を去る。クセ「これによつて。 本有の霊光忽ちに照らし自性の月。 漸く雲をさまれり。一首を詠ずれば。 よろづの悪念を遠ざかり。 天を得れば清く地を得れば安しあらかじめ。

唯有一実相唯一金剛とは説かずや。シテ「されば天竺の。 シテ「婆羅門僧正は。行基菩薩の御手を取り。 霊山の。 釈迦の御もとに契りて真如朽ちせず逢ひ見つと詠歌あれば御返歌に。 伽毘羅衛に契りし事のかひありて。 文殊の御顔を。拝むなりと互に。 仏々を現すも和歌の徳にあらずや。 又神は出雲八重垣片そぎ。 の寒き世のためしいはずとも伝へ聞きつべし。 神のしめゆふ糸桜の風の解けとぞ思はるゝ。 。 ワキ詞「さあらば祝詞を参らせられ候ひて。神を上げ申され候へ。シテ「謹上再拝。 そも/\当山は。法性国の巽。 金剛山の霊光。この地に飛んで霊地となり。 今の大峰これなり。 地「されば御嶽は金剛界の曼荼羅。シテ「華蔵世界。熊野は胎蔵界。 地「密厳浄土有難や。神舞「。 地「不思議や祝詞の神子物狂。 不思議や祝詞の神子物狂のさもあらたなる。

飛行をいだして。神がたりするこそ。 恐ろしけれ。シテ「証誠殿は。阿弥陀如来。 地「十悪を導き。シテ「五逆をあはれむ。 地「中の御前は。シテ「薬師如来。地「薬となつて。 シテ「二世を助く。地「一万文殊。 シテ「三世の覚母たり。地「十万普賢。シテ「満山護法。

地「数数の神々。かの覡につくも髪の。 御幣も乱れて。空に飛ぶ鳥の。翔り/\て地に又踊り。数珠を揉み袖を振り。 高足下足の。舞の手をつくし。これまでなりや。 神はあがらせ給ふと云ひ捨つる。 声の内より狂覚めて又本性にぞ。なりにける 静御前 佐藤忠信 衆徒

ワキ詞「これは都道者にて候。 衆会の御座敷とも存ぜず候御免あらうずるにて候。 狂言「さては都人にて候ふか。 判官殿の御行くへをば何と申し候ふぞ。 ワキ「上は御一体なれば。 終には御中直らせ給ふべきよし申し候。 狂言「さていかやうにて御落ありたると申し候。 ワキ「十二騎とこそ承つて候へ。 狂言「十二騎ならば追つかけ討ちとめ申さう。ワキ「暫く。

十二騎と申すとも。余の勢百騎二百騎にも向ふべし。 かやうに申すは都の者。 当山を信じ参る上は。いかにも御寺も宿坊も。 難なくおはしませかしと。 思へばかやうに申すなり。此上はともかくも。 地上歌「御はからひぞ吉野山。/\。よしなき申しごと。 洩れ聞えなば判官の。 後のとがめも恐ろしや御暇申し候はん/\。 シテ、アシラヒ出「さても静は忠信が。

その契約を違へじと。舞の装束ひきつくろひ。 忠信遅しと待ち居たり。 ワキ詞「これは都道者にて候ふが。法楽の舞の由承り。 下向道を忘れて候。はや/\舞を始め給ふべし。 シテ「都の人と聞けばなつかしや。 判官御道せばきこと。世上の聞いかなるぞ。 都人こそ知るべけれ。 ワキ詞「終には御中直らせ給ふべしと。 聞くより人々先非を悔いて。皆々恐れ申すなり。 シテ「偖は嬉しや委しくも。知らせ給ふか都人。 ワキ詞「あまりに事延び時移りぬ。心得給へ舞の袖。 シテ「げになう語多き者は品すくなし。 かやうにわれら言の葉過ぎば。なか/\人も怪みて。もしもそれとか三吉野の。 かつて知らすな。 一セイ静かに囃せや静が舞に。地「衆徒も時刻や移すらん。 シテ「神こそ納受ましますらめ。 地「げにこの御代も静がまひ。 シテサシ「しかるにかの判官は。

神道を重んじ朝家を敬ひ。 地「ひとへに忠勤を抽んでて。 私の心さらになし。 シテ「人は讒し申すとも。 地「神は正直の頭に宿り給ふなれば。静が舞の袖に。 暫くうつりおはしまし。我が君を守り給へと。 祈るぞあはれなりける。クセ「そも/\景時が。 その讒言の水上を。思へば渡辺や。 流るゝ水に満潮の。逆櫓立てんと浮舟の。 梶原が申しごと。よも順義には候はじ。 されば義経はすぐに修めし三吉野の。 神の誓の真あらば。頼朝も聞しめし。直され・義経{ぎけい}。 ふせつの勅を受け。洛陽の西南は。 これ分国となるべし。さあらば当山の。 衆徒悉く参洛し。帰依渇仰の御袖に。 恵をいだ。 き給ふべしあなかしこ不忠なし給ふな御科は候はじ。シテ「たゞし衆徒中に。 ひとり憤深うして。 地「進みて追つかけ給ふとも。その名きこゆる人々を。 討ちとどめ申さんは。片岡増尾鷲の尾さて。

忠信はならびなき。精兵ぞよ人々に。 防矢射られ給ふなと。語ればげには衆徒中に。 進む人こそなかりけれ。 シテ「賎や賎。序ノ舞(又ハ中ノ舞)「。 ワキ「賎やしづ賎の苧環繰り返し。地「むかしを今に。 なすよしもがな。あまりに舞の。面白さに。 時刻を移して。進まぬもありけり。 又は判官の武勇に恐れてよし義経をば。 おとし申せと詮議を加ふる。衆徒もありけり。 さるほどに時移つて。主君も今は忠信が。 はかりごとにて難なくはるかに。 落し申しつ。 心しづかに願成就して都へとてこそ。帰りけれ 随身(能ニテハ二人) 惟光 源氏の君 侍女(能ニテハ三人) 明石の上 住吉神主

ワキ詞「これは摂州住吉の神主。 菊園の何某にて候。 さても此頃都において誉ならび無き光源氏。さる宿願の子細あつて。 当社御参詣と仰せ出され候ふ程に。 社人どもを召し出し社内をも清め。 其心得をなすべき由申しつけばやと存じ候。 惟光立衆一声「小車の。轅も続く都路の。 直に治まる時世かな。 惟光サシ「抑これは誉世に超え威光曇らぬ。光源氏にておはします。 さても此君頼をかけし。 住吉の神に所願を満てんと。惟光立衆「けふ思ひ立つ旅衣。 薄き日影も白鳥の。鳥羽の恋塚秋の山。 過ぐればいとゞ都の月の。 面影隔つる山崎や。関戸の宿も移り来ぬ。

下歌「払はぬ塵の芥川。猪名の笹原分け過ぎて。 上歌「見渡せば。薄霧まがふそなたより。/\。 ほの見えそむる村紅葉。 これや交野に狩り暮れて春見し花のそれならん。 猶行先は渡辺や。大江の岸による波も。 音立ち変へて住吉の。 浦曲になるも程ぞなき。/\。 。源氏サシ「聞きしに超えていよ/\ありがたき。神の誓も潔き。浦曲の浪の瑞籬の。 久しき御代を守り給へ。地上歌「日の本の。 神の誓はおしなべて。/\。和光同塵は。 結縁の御始。 八相成道は利物のはてしなきまで国富み。 民を憐む御心を誰かは仰がざるべき/\。

ワキ詞「唯今の御参詣めでたう候。 惟光「さあらば祝詞を参らせられ候へ。 ワキ「いでいで祝詞を申さんと。 神主御幣を捧げつつ。すでに祝詞を申しけり。謹上再拝。 敬つて白す神慮をすゞしめの神楽。 八人の八乙女。五人の神楽をのこ。 颯々の鈴の音。丁々の鼓の声々に。 諷ふ榊葉の神歌。幾久方の天地開闢。泰平諸人快楽。 福寿円満に守らしめ給へや。 抑立つる所の。諸願成就皆令満足。有難や。 地上歌「来し方の。御願に猶もうち添へて。/\。 さもありがたき神慮の。 納受もかくやと感涙肝に銘じけり。いよ/\悦の御盃。 神主に賜びければ。 をりふし御供に河原の。大臣の御例とて。内より賜はれる。 童随身其時に。お酌に立ちて慰の。 今様朗詠す。 随身「一樹の蔭や一河の水。 地「皆これ他生の縁といふ。白拍子をぞ奏でける。掛リ、中ノ舞「。

随身「われ見ても。久しくなりぬ。 すみよしの。地「岸の姫松幾代経ぬらん。 地上歌「千代万代の舞の袂。/\。いよ/\廻る盃の。有明になる沖つ舟の。ほの%\明くる住吉の。浦より遠の淡路島。 あはれはてなきながめかな/\。 シテ、ツレ三人一声「明石潟。月待つ方に行く舟の。 波しづかなる浦伝ひ。上歌「舟出せし。 後の山の山颪。/\。関吹き越えて行く程に。 。 須磨の浦わもいつしかに跡の名残もおしてるや。 難波入江に寄するなる。波はさながら白雪の。 津守の浦に着きにけり/\。 。 ツレ女「松原の深緑なる木蔭より。 花紅葉を散らせる如くなる。色の衣々数々に。 のゝしりて詣づる人影は。 いかなる人にてあるやらん。 惟光「これは都に光君。

過ぎにし須磨の御願はたしに。詣で給ふといさ知らぬ。 人もありける不思議さよ。 シテ「あら恥かしや光君と。聞くより胸うち騒ぎつゝ。 いとゞ心も上の空の。 惟光「月日こそあれけふこの頃。詣で来んとは。シテ「白露の。 地上歌「玉襷。かけも離れぬ宿世とは。 /\。思ひながらもなか/\に。 此ありさまをよその見る目も恥かしや。 さりとては浦浪の。帰らば中空に。 ならんも憂しやよしさらば。難波の潟に舟とめて。

祓だに白波の。入江に舟をさし寄する。 ロンギ「不思議やな。ありし明石の浦浪の。 立ちも帰らぬ面影の。 それかあらぬか舟かげの。信夫もじずり誰やらん。 シテ「誰ぞとは。よそに調の中の緒の。 其音違はず逢ひ見んの。頼めを早く住吉の。 岸に生ふてふ草ならん。源氏「忘草。々々。 生ふとだに聞く物ならば。 其かね言もあらじかし。地「実になほざりに頼めおく。 その一言も今ははや。 源氏「ありし契の縁あらば。地「やがての逢瀬も程あらじの。 心は互に。変らぬ影も盃の。 度重なれば惟光も。惟光「傅御酌をとり%\の。 地「酔に引かるゝ戯の舞。 面はゆながらもうつりまひ。中ノ舞(序ノ舞ニモ)「。 シテ「身をづくし。 恋ふるしるしにこゝまでも。地「めぐり逢ひける。縁は深しな。 シテ「数ならで。難波の事もかひなきに。 何みをづくし思ひ初めけん。

互の心を夕汐満ちきて。 地「入江の田鶴も声をしまぬほど。 哀なるをりから。 人目もつゝまず逢ひ見まほしくは。思へども。 はや漕ぎ離れて。 行く袖の露けさも。昔に似たる旅衣。 田蓑の島も。遠ざかるまゝに。 名残もうしの車にめされて。 のぼれば下るや稲舟の。 舟影もほの%\と明石の浦曲の舟をし思ひの。

別かな 旅僧 松風 村雨

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我いまだ西国を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち西国行脚と志して候。 あら嬉しや急ぎ候ふ程に。 これははや津の国須磨の浦とかや申し候。 又これなる磯辺を見れば。

様ありげなる松の候。 いかさま謂のなき事は候ふまじ。 このあたりの人に尋ねばやと思ひ候。 ワキ「さては此松は。いにしへ松風村雨とて。 二人(ににん)の海人の旧跡かや。

痛はしや其身は土中(どちゆう)に埋(うづ)もれぬれども。 名は残る世のしるしとて。変らぬ色の松一木(ひとき)。 緑の秋を残す事のあはれさよ。 詞「かやうに経念仏してとぶらひ候へば。 実(げ)に秋の日のならひとてほどなう暮れて候。 あの山本の里まで程遠く候ふほどに。 これなる海人の塩屋に立ち寄り。 一夜を明かさばやと思ひ候。 シテツレ二人真ノ一声「汐汲車。わづかなる。 うき世にめぐる。儚(はかな)さよ。 ツレ二ノ句「波こゝもとや須磨のうら。 二人「月さへぬらす。袂かな。 シテサシ「心づくしの秋風に。 海はすこし遠けれども。かの行平の中納言。 二人「関吹き越ゆると詠(なが)めたまふ。 浦曲(うらわ)の波の夜々は。実に音近き海人の家。 里離れなる通路(かよひぢ)の月より外は友もなし。 シテ「実にや浮世の業ながら。殊につたなき海人(蜑)小舟の。 二人「わたりかねたる夢の世に。住むとや云はんうたかたの。

汐汲車よるべなき。身は蜑人(あまびと)の。 袖(そで)ともに。思を乾(ほ)さぬ。心かな。 地下歌「かくばかり経がたく見ゆる世の中に。 うらやましくも。澄む月の出汐をいざや。 汲まうよ出汐をいざや汲まうよ。 上歌「かげはづかしき我が姿。/\。 忍車(しのびぐるま)を引く汐の跡に残れる。 溜水(ためみず)いつまで澄みは果つべき。 野中の草の露ならば。日影に消えも失すべきに これは磯辺に寄藻(よりも)かく。 海人の捨草(すてぐさ)いたづらに朽ち増(まさ)りゆく。 袂かな朽ちまさりゆく袂かな。 。 シテサシ「おもしろや馴れても須磨のゆふま暮。海人の呼声幽(かすか)にて。 二人「沖にちひさきいさり舟の。影幽なる月の顔。雁の姿や友千鳥。 野分汐風いづれも実に。かゝる所の秋なりけり。あら心すごの夜すがらやな。 シテ「いざ/\汐を汲まんとて。 汀(みぎは)に満干(みちひ)の汐衣の。 ツレ「袖を結んで肩に掛け。 シテ「汐汲むためとは思へども。

ツレ「よしそれとても。シテ「女車(おんなぐるま)。 地「寄せては帰るかたをなみ。/\。芦辺の。 田鶴(たづ)こそは立ちさわげ四方の嵐も。 音添へて夜寒(よさむ)なにと過ごさん。更け行く月こそさやかなれ。 汲むは影なれや。焼く塩煙り心せよ。 さのみなど海士(あま)人の憂き秋のみを過さん。 松島や小島の海人の月にだに。 影を汲むこそ心あれ影を汲むこそ心あれ。 ロンギ地「運ぶは遠き。陸奥(みちのく)のその名や千賀の塩竈。 シテ「賎が塩木を運びしは阿漕(あこぎ)が浦に引く汐。 地「その伊勢の。海の二見の浦二度(ふたたび)世にも出でばや。 シテ「松の村立ち霞(かす)む日に汐路や。遠く鳴海潟。

地「それは鳴海潟こゝは鳴尾の松蔭に。月こそさはれ芦の屋。 シテ「灘の汐汲む憂き身ぞと人にや。誰も黄楊(つげ)の櫛。 地「さしくる汐を汲み分けて。見れば月こそ桶にあれ。 シテ「これにも月の入りたるや。 地「うれしやこれも月あり。シテ「月は一つ。 地「影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて。 憂しともおもはぬ汐路かなや。 ワキ詞「塩屋の主の帰りて候。宿を借らばやと思ひ候。 いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。 ツレ詞「誰にて渡り候ふぞ。ワキ「これは諸国一見の僧にて候。 一夜の宿を御貸し候へ。ツレ「暫く御待ち候へ。 主(あるじ)にその由(よし)申し候ふべし。いかに申し候。 旅人の御入り候ふが。一夜のお宿と仰せ候。 シテ詞「余りに見苦しき塩屋にて候ふ程に。御宿は叶ふまじきと申し候へ。 ツレ「主に其由申して候へば。塩屋の内見苦しく候ふ程に。 御宿は叶ふまじき由仰せ候。 ワキ「いや/\見苦しきは苦しからず候。出家の事にて候へば。 平(ひら)に一夜を明かさせて賜はり候へと重ねて御申し候へ。 ツレ「いや叶ひ候ふまじ。シテ「暫く。月の夜影に見奉れば世を捨人。 よし/\かゝる海人の家。松の木柱に竹の垣。夜寒さこそと思へども。 芦火にあたりてお泊りあれと申し候へ。

ツレ詞「此方(こなた)へ御入り候へ。 ワキ「あらうれしやさらば、かう参らうずるにて候。 。 シテ詞「始より御宿参らせたく候ひつれども。余りに見苦しく候ふ程に。 さて否と申して候。ワキ「御志有難う候。出家と申し旅といひ。 泊りはつべき身ならねば。何(いづ)くを宿と定むべき。 其上此須磨の浦に心あらん人は。わざともわびてこそ住むべけれ。 わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に。 詞「藻塩たれつゝわぶと答へよと。行平も詠じ給ひしとなり。 又あの磯辺に一木の松の候ふを。人に尋ねて候へば。 松風村雨二人の海士の旧跡とかや申し候ふ程に。 逆縁ながら弔ひてこそ通り候ひつれ。あら不思議や。 松風村雨の事を申して候へば。二人ともに御愁傷候。 これは何と申したる事にて候ふぞ。 シテツレ二人「実にや思ひ内にあれば。色外(ほか)にあらはれさぶらふぞや。

わくらはに問ふ人あらばの御物語。余りになつかしう候ひて。 なほ執心の閻浮(えんぷ)の涙。ふたゝび袖をぬらしさぶらふ。 ワキ詞「なほ執心の閻浮の涙とは。今は此世に亡き人の詞なり。 又。 わくらはの歌もなつかしいなどと承り候。かた%\不審に候へば。 二人ともに名を御名告り候へ。 二人「恥かしや申さんとすればわくらはに。言問ふ人もなき跡の。 世にしほじみてこりずまの。恨めしかりける心かな。 クドキ「此上は何をか、さのみつゝむべき。これは過ぎつる夕暮に。 あの松蔭の苔の下。亡き跡訪(と)はれ参らせつる。 松風村雨二人の女の幽霊これまで来りたり。さても行平三年が程。 御つれ%\の御船あそび。月に心は須磨の浦。夜汐を運ぶ海人乙女に。 おとゞひ選ばれ参らせつゝ。をりにふれたる名なれやとて。 松風村雨と召されしより。月にも馴るゝ須磨の海人の。 シテ「塩焼衣。色替へて。

二人「縑{カトリ}の衣(きぬ)の。空焼(そらだき)なり。 シテ「かくて三年も過ぎ行けば。行平都にのぼりたまひ。 ツレ「幾程なくて世を早う。去り給ひぬと聞きしより。 シテ「あら恋しやさるにても。又いつの世の音信(おとづれ)を。 地「松風も村雨も。袖のみぬれてよしなやな。 身にも及ばぬ恋をさへ。須磨の余りに罪深し、跡弔ひてたび給へ。 地歌「恋草の。露も思も乱れつゝ/\。 心狂気(きやうき)に馴れ衣(ごろも)の。巳(み)の日の。 祓(はらい)や木綿四手の。神の助も波の上。 あはれに消えし。憂き身なり。 クセ「あはれ古を。思ひ出づればなつかしや。 行平の中納言三年はこゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。 此程(このほど)の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し置き給へども。 これを見る度に。弥益(いやまし)の思草葉末に結ぶ露の間も。 忘らればこそあぢきなや。形見こそ今はあだなれこれなくは。 忘るゝ隙もありなんと。よみしも理やなほ思こそ深けれ。

シテ「宵々に。脱ぎて我が寝る狩衣。 地「かけてぞ頼む同じ世に。住むかひあらばこそ忘形見もよしなしと。 捨てゝも置かれず取れば面影に立ち増り。起き臥しわかで枕より。 後(あと)より恋の責め来れば。せんかた涙に伏し沈む事ぞ悲しき。 シテ「三瀬河絶えぬ。涙の憂き瀬にも。乱るゝ恋の。淵はありけり。 あらうれしやあれに行平の御立ちあるが。松風と召されさむらふぞ やいで参らう。 ツレ「あさましやその御心故にこそ。執心の罪にも沈み給へ。 娑婆にての妄執をなほ。忘れ給はぬぞや。あれは松にてこそ候へ。 行平は御入りもさむらはぬものを。 シテ「うたての人の言事や。あの松こそは行平よ。たとひ暫しは別るゝとも。 まつとし聞かば帰りこんと。連ね給ひし言の葉はいかに。 ツレ「実になう忘れてさむらふぞや。

たとひ暫しは別るゝとも。待たば来んとの言の葉を。 シテ「こなたは忘れず松風の立ち帰りこん御音信(おとづれ)。 ツレ「終(つい)にも聞かば村雨の。袖しばしこそぬるゝとも。 シテ「まつに変らで帰りこば。ツレ「あら頼もしの。 シテ「御歌や。地「立ち別れ。中ノ舞「。 シテワカ「いなばの山の峰に生ふる。松とし聞かば。 今帰り来ん。それはいなばの遠山松。 地「これはなつかし君こゝに。須磨の浦曲の松の行平。 立ち帰りこば我も木蔭に。いざ立ち寄りて。磯馴松(そなれまつ)の。 なつかしや。破ノ舞「。 キリ地「松に吹き来る風も狂じて。須磨の高波はげしき夜すがら。 妄執(まうしふ)の夢に見ゆるなり。我が跡弔ひてたび給へ。 暇(いとま)申して。帰る波の音の。須磨の浦かけて吹くや後の山おろし。 関路の鳥も声々に夢も。跡なく夜も明けて村雨と聞きしも。 今朝見れば松風ばかりや残るらん松風ばかりや残るらん 平宗盛 従者 朝顔 熊野

ワキ詞「これは平の宗盛なり。さても遠江 の国池田の宿の長をば熊野と申し候。久 しく都にとゞめおきて候ふが。老母のい たはりとて度々暇を乞ひ候へども。この 春ばかりの花見の友とおもひ留めおきて 候。いかに誰かある。ワキツレ詞「御前に候。 ワキ「熊野きたりてあらば此方{こなた}へ申し 候へ。ワキツレ「畏つて候。ツレ次第「夢の間惜し き春なれや。/\。咲く頃花を尋ねん。 サシ「これは遠江の国池田の宿。長者の御 内につかへ申す。朝顔と申す女にて候。 詞「さても熊野久しく都に御入り候ふ が。此程老母の御いたはりとて。度々人 を御のぼせ候へども。更に御くだりもな く候ふ程に。此度は朝顔が御むかへにの

ぼり候。道行「此程の。旅の衣の日もそひ て。/\。幾夕暮の宿ならん。夢も数そ ふ仮枕。明かし暮らして程もなく。都に 早く着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて 候。これなる御内が熊野の御入り候ふ所 にてありげに候。まづ/\案内を申さば やと思ひ候。いかに案内申し候。池田の 宿より朝顔が参りて候それ/\おん申し 候へ。シテ、サシアシラヒ出「草木は雨露のめぐみ。養 ひ得ては花の父母たり。況んや人間に於てをや。 あら御心もとなや何とか御入 り候ふらん。ツレ詞「池田の宿より朝顔がま ゐりて候。シテ詞「なに朝顔と申すか。あら めづらしや。さて御いたはりは何と御入

りあるぞ。ツレ「以ての外に御入り候。こ れに御文の候御覧候へ。シテ「あらうれし や先々御文を見うずるにて候。あら笑止や。 此御文のやうも頼みずくなう見えて 候。ツレ「左様に御入り候。シテ「此上は朝 顔をも連れて参り。又此文をも御目にか けて御暇を申さうずるにてあるぞこなた へ来り候へ。誰か渡り候。ワキツレ「誰にて渡 り候ふぞ。や。熊野の御まゐりにて候。 シテ「わらはが参りたる由御申し候へ。 ワキツレ「心得申し候。いかに申し上げ候。 熊野の御まゐりにて候。ワキ「こなた へ来れと申し候へ。ワキツレ「畏つて候。 こなたへ御参り候へ。シテ「いかに申し上 げ候。老母のいたはり以ての外に候ふと て。此度は朝顔に文をのぼせて候。便な う候へどもそと見参に入れ候ふべし。 ワキ「なにと故郷よりの文と候ふや。見る までもなしそれにて高らかに読み候へ。

シテ文ノ段「甘泉殿の春の夜の夢。心を砕く端 となり。驪山宮の秋の夜の月終なきにし もあらず。末世一代教主の如来も。生死の 掟をば遁れ給はず。過ぎにし二月の頃申 しゝ如く。何とやらん此春は。年ふりま さる朽木桜。今年ばかりの花をだに。待 ちもやせじと心弱き。老の鴬逢ふ事も。 涙に咽ぶばかりなり。たゞ然るべくはよ きやうに申し。しばしの御暇を賜はり て。今一度まみえおはしませ。さなきだ に親子は一世のなかなるに。同じ世にだ に添ひ給はずは。孝行にもはづれ給ふべ し。唯かへす%\も命の内に今一度。見 まゐらせたくこそ候へとよ。老いぬれば さらぬ。別のありといへば。いよ/\見 まくほしき君かなと。古事までも思出の 涙ながら書きとゞむ。地歌「そも此歌と申 すは。/\。在原の業平の。其身は朝に 隙なきを。長岡に住み給ふ老母の詠める

歌なり。さてこそ業平も。さらぬ別のな くもがな。千代もと祈る子の為とよみし 事こそ。あはれなれ詠みし事こそあはれ なれ。 シテ「今はかやうに候へば。御暇を賜は り。東に下り候ふべし。ワキ詞「老母の痛は りはさる事なれどもさりながら。この春 ばかりの花見の友。いかでか見すて給ふ べき。シテ「御ことばをかへせば恐なれど も。花は春あらば今に限るべからず。こ れはあだなる玉の緒の。永き別となりや せん。たゞ御暇を賜はり候へ。ワキ「いや いや左様に心よわき。身に任せてはかな ふまじ。いかにも心を慰めの。花見の車 同車にて。ともに心を慰まんと。地歌「牛 飼車寄せよとて。/\。これも思の家の 内。はや御出と勧むれど。心は先に行きか ぬる。足弱車の力なき花見なりけり。 シテ「名も清き。水のまに/\とめくれ

ば。地「河は音羽の。山桜。シテ「東路と ても東山せめて。其方{そなた}のなつかしや。

サシ地「春前{しゆんぜん}に雨あつて花の開くる事早 し。秋後に霜なうして落葉遅し。山外に山 有つて山尽きず。路中に道多うして道きは まりなし。シテ「山青く山白くして雲来 去す。地「人楽み人愁ふ。これみな世上の 有様なり。下歌「誰か言ひし春の色。げに 長閑なる東山。上歌「四条五条の橋の上。 /\。老若男女貴賎都鄙。色めく花衣袖 を連ねて行末の。雲かと見えて八重一重。 さく九重の花ざかり名に負ふ春の。けし きかな名におふ春のけしきかな。 ロンギ地「河原おもてを過ぎゆけば。急ぐ 心の程もなく。車大路や六波羅の。地蔵 堂よと伏し拝む。シテ「観音も同座あり。 闡提{せんだい}救世の。方便あらたにたらちねを守 り給へや。地「げにや守の末すぐに。 たのむ命は白玉の。愛宕{おたぎ}の寺も打ち過ぎぬ。 六道の辻とかや。シテ「実に恐ろしや此道 は。冥途に通ふなるものを。心細鳥辺山。

地「煙の末も薄霞む。声も旅雁のよこたは る。シテ「北斗の星の曇なき。地「御法の花 も開くなる。シテ「経書堂{きやうかくだう}はこれかとよ。 地「其たらちねを尋ぬなる。子安の塔を 過ぎ行けば。シテ「春の隙行く駒の道。地「は や程もなくこれぞこの。シテ「車宿。地「馬 留{とゞめ}。こゝより花車。おりゐの衣播磨潟飾 磨の徒歩路清水の。仏の御前に。念誦し て母の祈誓を申さん。 ワキ詞「いかに誰かある。ワキツレ「御前に候。 ワキ「熊野はいづくにあるぞ。トモ「いまだ 御堂に御座候。ワキ「何とて遅なはりたる ぞ急いでこなたへと申し候へ。ワキツレ「畏 つて候。いかに朝顔に申し候。はや花の 本の御酒宴の始まりて候。急いで御まゐ りあれとの御事にて候。其由仰せられ候 へ。ワキツレ「心得申し候。いかに申し候。は や花の本の御酒宴の始まりて候。急いで 御まゐりあれとの御事にて候。シテ「何と

。 早御酒宴の始まりたると申すか。ワキツレ「さ ん候。シテ「さらば参らうずるにて候。 シテ「なう/\皆々近う御参り候へ。あら 面白の花や候。今を盛と見えて候ふに。 何とて御当座などをもあそばされ候はぬ ぞ。クリ「実にや思ひ内にあれば。色外に 現る。地「よしやよしなき世のならひ。歎 きてもまた余あり。シテサシ「花前に蝶舞ふ 紛々たる雪。地「柳上に鴬飛ぶ片々たる 金。花は流水に随つて香の来る事疾{と}し。鐘 は寒雲を隔てゝ声の至る事遅し。クセ「清 水寺の鐘の声。祇園精舎をあらはし。諸 行無常の声やらん。地主権現の花の色。 娑羅双樹のことわりなり。生者必滅の世 のならひ。実にためしある粧。仏ももと は捨てし世の。半は雲に上見えぬ。鷲の 御山の名を残す。寺は桂の橋柱。立ち出 でて峯の雲。花やあらぬ初桜の祇園林下 河原。シテ「南を遥に眺むれば。地「大悲擁

護{おうご}の薄霞。熊野権現の移ります御名も同 じ今熊野。稲荷の山の薄紅葉の。青かり し葉の秋また花の春は清水の。唯たのめ 頼もしき春も千々の花盛。シテ「山の名の。 音羽嵐の花の雪。地「深き情を。人や知る。 シテ詞「妾御酌にまゐり候ふべし。ワキ詞「い かに熊野。一さし舞ひ候へ。地「深き情を。 人や知る。中ノ舞。 シテ詞「なう/\俄に村雨のして花の散り 候ふは如何に。ワキ詞「げに/\村雨の降り 来つて花を散らし候ふよ。シテ「あら心な の村雨やな春雨の。地「降るは涙か。降るは 涙か桜花。散るを惜まぬ。人やある。 イロエ、ワキ詞「由ありげなる言葉の種取上げ 見れば。いかにせん。都の春も惜しけれど。 シテ「なれし東の花や散るらん。ワキ詞「げに 道理なりあはれなり。早々暇とらするぞ 東に下り候へ。シテ「何御いとまと候ふや。 ワキ詞「中々の事とく/\下り給ふべし。

シテ「あら嬉しや尊やな。これ観音の御利 生なり。これまでなりや嬉しやな。地「是 までなりや嬉しやな。かくて都に御供せ ば。またもや御意のかはるべき。たゞ此 まゝに御いとまと。木綿附{ゆうつけ}の鳥が鳴く東

路さして行く道の。やがて休らふ逢坂の。 関の戸ざしも心して。明け行く跡の山見 えて。花を見すつる雁{かりがね}のそれは越路我は また。東に帰る名残かな/\。 帝王 紀貫之 小野小町 大伴黒主 凡河内躬恒 壬生忠岑 官女二人 同従者

ワキ詞「これは大伴の黒主にて候。 さても明日内裏にて御歌合あるべしとて。 黒主があひてには小野の小町を御定め候。 小町と申すは歌の上手にて。 更にあひてにはかなひがたく候ふ程に。 あすの歌を定めて吟ぜぬ事は候ふまじ。 かの私宅へ忍び入り。歌を聞かばやと存じ候。 シテサシアシラヒ出「それ歌の源を尋ぬるに。 聖徳太子は救世の大仙。 片岡山の製をろせいに弘め給ふ。

詞「さても明日内裏にて御歌合あるべきとて。 小町があひてに黒主を御定め候ひて。 水辺の草といふ題を賜はりたり。 面白や水辺の草といふ題に浮みて候ふはいかに。 蒔かなくに何を種とて浮草の。波のうね/\生ひ茂るらん。 此歌をやがて短冊にうつし候はん。シテ中入「。 ワキ「いかにたゞ今の歌を聞いてあるか。 狂言「さん候承つて候。 ワキ「何と聞いてあるぞ。狂言「蒔かなくに何を種とて瓜蔓の。 畠のうねをまろびあるくらん。

ワキ「いやさやうにてはなきぞ。 道の道たるは常の道にはあらず。知れるを以て道とす。 不得心なることにて候へども。 唯今の歌を万葉の草子にうつし。帝へ古歌と訴へ申し。 明日の御歌合に勝たばやと存じ候。 貫之、黒主、立衆、次第「めでたき御代の歌合。/\。 詠じて君を仰がん。サシ「時しも頃は卯月半。 清涼殿の御会なれば。 花やかにこそ見えたりけれ。 貫之「かくて人丸赤人の御詠を懸け。貫之、黒主、立衆「各々よみたる短冊を。 われもわれもと取り出し。 御詠の前にぞ置きたりける。貫之「さて御前の人々には。 貫之、黒主、立衆「小町を始め河内の躬恒紀の貫之。 貫之「右衛門の府生壬生の忠岑。 一同「ひだりみぎりに着座して。 貫之「既に詠をぞ始めける。ほの%\と明石の浦の朝霧に。 島隠れ行く舟をしぞ思ふ。 地「げに島隠れ入る月の。/\。淡路の絵島国なれや。 はじめて歌の遊こそ。心和ぐ道となれ。

その歌人の名所も。皆庭上に並み居つゝ。 君の宣旨を待ち居たり。/\。 王詞「いかに貫之。貫之「御前に候。 王「始より小町が相手には黒主を定めたり。 まづまづ小町が歌を読み上げ候へ。 貫之「畏つて候。水辺の草。 蒔かなくに何を種とて浮草の。波のうね/\生ひ茂るらん。 王「面白とよみたる歌や。 此歌に優るはよもあらじ。皆々詠じ候へ。貫之「畏つて候。 ワキ「暫く候。これは古歌にて候。 王「何と古歌と申すか。ワキ「さん候。 王「いかに小町。何とて古歌をば申すぞ。 シテ「恥かしの勅諚やな。先代の昔はそも知らず。 既に衣通姫此道のすたらん事を歎き。 和歌の浦曲に跡を垂れ給ひ。 玉津島の明神より此方。皆此道をたしなむなり。 それに今の歌を古歌と仰せ候ふは。 古今万葉の勅撰にて候ふか。 又は家の集にてあるやらん。作者は誰にてましますぞ。

委しく仰せ候へ。 ワキ詞「仰の如く其証歌分明ならではいかでか奏し申すべき。 草子は万葉題は夏。水辺の草とは見えたれども。 読人しらずとかきたれば。 作者は誰とも存ぜぬなり。シテ「それ万葉は奈良の御宇。 撰者は橘の諸兄。歌の数は七千首に及んで。 皆わらはが知らぬ歌はさむらはず。 万葉。 といふ草子に数多の本の候ふかおぼつかなうこそ候へ。ワキ「げに/\それはさる事なれどもさりながら。 御身は衣通姫の流なれば。憐む歌にて強からねば。 古歌を盗むは道理なり。 シテ「さては御事は古の猿丸太夫のながれ。 それは猿猴の名をもつて。我が名をよそに立てんとや。 正しくそれは古歌ならず。 ワキ「花の蔭行く山賎の。シテ「その様賎しき身ならねば。 何とて古歌とは見るべきぞ。 ワキ「さて詞をたゞさで誤りしは。 富士のなるさの大将や。四病八病三代八部同じ文字。

シテ「もじもかほどの誤は。ワキ「昔も今も。 シテ「ありぬべし。地「不思議や上古も末代も。 三十一字のそのうちに。 一字もかはらで詠みたる歌。これ万葉の歌ならば。 和歌の不思議と思ふべし。 さらば証歌をいだせとの。宣旨度々下りしかば。 初は立春の題なれば。花も尽きぬと引き開く。 夏は涼しき浮草の。これこそ今の歌なりとて。 既に読まんとさし上ぐれば。 我が身に当らぬ歌人さへ。胸に苦しき手を置けり。 。 ましてや小町が心のうち、唯轟きの橋うち渡りて。危き心は隙もなし。 シテ「恨めしや此道の。 大祖柿の本のまうちぎみも。 小町をば捨てはて給ふか恨めしやな。クドキ「此歌古歌なりとて。 左右の大臣其外の。局々の女房たちも。 小町ひとりを見給へば。夢に夢見る心地して。 さだかならざる心かな。 此草子を取り上げ見れば。行の次第もしどろにて。

文字の墨つき違ひたり。 いかさま小町ひとり詠ぜしを黒主立ち聞きし。 帝へ古歌と訴へ申さんために。 此万葉に入筆したるとおぼえたり。余りに恥かしうさむらへば。 清き流を掬び上げ。 此草子を洗はゞやと思ひ候。貫之詞「小町はさやうに申せども。 もし又さなき物ならば。 青丹衣の風情たるべし。シテ「とに角に思ひ廻せども。 やるかたもなき悲しさに。地「泣く/\立つてすご/\と。帰る道すがら。 人目さがなや恥かしや。 貫之詞「小町暫く御待ち候へ。其由奏聞申さうずるにて候。 如何に奏聞申し候。小町申し候ふは。 唯今の万葉の草子をよく/\見候へば。 行の次第もしどろにて。文字の墨付も違ひて候ふ程に。 草子を洗ひて見たき由申し候。 王「げにげに小町が申す如く。 さらば洗ひて見よと申し候へ。貫之「畏つて候。 如何に小町勅諚にてあるぞ。急いで草子を洗ひ候へ。

シテ「綸言なればうれしくて。 落つる涙の玉だすき。結んで肩にうちかけて。 既に草子を洗はんと。 地次第「和歌の浦曲の藻汐草。/\。波寄せかけて洗はん。 シテ「天の川瀬に洗ひしは。 地「秋の七日の衣なり。シテ「花色衣の袂には。 地「梅のにほひや。まじるらん。ロンギ地「かりがねの。 翅は文字の数なれど。 跡さだめねばあらはれず。頴川に耳を洗ひしは。 シテ「濁れる世をすましけり。 地「旧台の鬚を洗ひしは。シテ「川原に解くる薄氷。 地「春の歌を洗ひては。霞の袖を解かうよ。 シテ「冬の歌を洗へば/\。地「袂も寒き水鳥の。 上毛の霜に洗はん/\。 恋の歌の文字なれば。忍ぐさの墨消え。 シテ「涙は袖に降りくれて。忍草も乱るゝ。忘れ草も乱るゝ。 地「釈教の歌の数々は。 シテ「蓮の糸ぞ乱るる。地「神祇の歌は榊葉の。 シテ「庭火に袖ぞ乾ける。地「時雨にぬれて洗ひしは。

シテ「紅葉の錦なりけり。地「住吉の。/\。 久し。 き松を洗ひては岸に寄する白波をさつとかけて洗はん。洗ひ/\て取り上げて見れば不思議やこはいかに。数々の其歌の。 作者も題も文字の形も。 少しも乱るゝ事もなく。入筆なれば浮草の。 文字は一字も。残らで消えにけり。ありがたや/\。 出雲住吉玉津島。 人丸赤人の御恵かと伏し拝み。喜びて龍顔に差上げたりや。 ワキ詞「よく/\物を案ずるに。 かほどの恥辱よもあらじ。自害をせんとまかり立つ。 シテ地「なう/\暫く。此身皆以て。 其名ひとりに残るならば。 何かは和歌の友ならん。道を嗜む志。 誰もかうこそあるべけれ。王詞「いかに黒主。ワキ「御前に候。 。 王「道を嗜む者は誰もかうこそあるべけれ。苦しからぬ事座敷へ直り候へ。 ワキ「これ又時の面目なれば。 宣旨をいかで背くべき。黒主御前に畏る。

サシ「げに有難きみぎんかな。 小町黒主遺恨なく。小町に舞を奏させよ。おの/\立ちより花の打衣。 風折烏帽子をきせ申し。笏拍子をうち座敷を静め。 シテ「春来つては。遍くこれ桃花の水。 地「石に障りて遅く来れり。 シテ「手まづさへぎる花の一枝。地「もゝ色の絹や。重ぬらん。 シテ「霞たつ。中ノ舞「。ワカ「霞たてば。

遠山になる。朝ぼらけ。地「日影に見ゆる。 松は千代まで松は千代まで四海の波も。 四方の国々も。民の戸ざしも。 さゝぬ御代こそ。尭舜の嘉例なれ。大和歌の起は。 あらがねの土にして。素盞鳴尊の。 守り給へる神国なれば。花の都の春も長閑に。 /\。和歌の道こそ。めでたけれ 山姫 里人

ワキ次第「ながめもつきぬ四つの時。/\。 山又山を尋ねん。 詞「これは此あたりに住居する者にて候。 さても四季折々の眺にも。とりわき春の花盛。 言葉も尽きぬ景色にて候ふ程に。 山めぐりせばやと存じ候。道行「四方の山霞は春のしるしとて。 /\。

のどかに通うふ風までもよぎて吹くらん桜咲く。梢はそれとしら雲の。 花にめがれぬ心かな/\。急ぎ候ふ程に。 春の山辺に着きて候。 暫く此花の蔭に休まばやと存じ候。 シテ、アシラヒ出「あかで見る心を花の心とや。したへばなれも。 したひ顔なる。 ワキ「不思議やなこれなる山の木蔭より。女性の声のきこゆるは。

いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「今は何をか包むべき。此山姫の現れて。 春夏かけて一年の。梢の色に我も亦。 暫し心を慰むなり。さて旅人は何を御眺め候ぞ。 ワキ「さん候四季折々の眺といへども。 取りわき春の花盛。言葉も尽きぬ頃なれば。 しばし木蔭に休らひて。 咲き添ふ花を眺むるなり。シテ「実に心ある旅人の。 四季の眺の其中にも。春は霞に馴れきつゝ。 声ものどかに聞ゆなり。 地「黄鳥の声なかりせばゆききえぬ/\。山里いかに。 春を知るらんと詠みしも。 のどけき春の心なり。花に馴れぬる人心。 神も納受の道なれや。しばし休みて此花を眺め給へや。 。 ワキ詞「とてものことに四季の眺の有様委しく御物語り候へ。 シテクリ「夫れ四季折々の眺といつぱ。 地「其歌人の言の葉に。泄るゝ事なき例とかや。 シテサシ「然れば四季のをり/\にも。

眺ことなる例あり。地「春は霞のひまよりも。 遊ぶいとゆふ青柳の。 いとうちはえて緑添ふ。野辺の景色はのどかなる。 シテ「秋は草葉の虫の音も。 地「聞けば心の。友なりけり。 クセ「春たつや谷の戸出づる黄鳥の。 声長閑なる山風も。吹くか軒端の梅が香も。 いつしか霞む里までも。 匂ふやにほやかに咲ける沢辺の杜若。 水の流を隔てゝも色むつましやゆかりある。藤の浪よる池水の。 岸に馴れぬる蛙の鳴き交ふ声も心あれ。 シテ「卯の花の垣根にしのぶ時鳥。 地「なく音そらなる五月山の。

暗き夜半にも蛍飛ぶ影も星とや見えぬらん。 神山の岩根に生ふる葵ぐさ。取る手を結ぶ泉川の。 夏くれて秋風の。身にしむ頃になりぬらん。 秋風の。中ノ舞「。シテ「秋風の。 吹くや千草に乱れてぞ。地「野辺の虫の音こゝに聞くらん。 こゝにきくらん/\。 シテ「露の情ぞ牡鹿鳴くなる。地「露の情ぞ牡鹿鳴くなる。 常磐の山の秋の夕暮。 シテ「月もすめるや霜夜の池に。地「浮寝しつらん鴛鴦の。 上毛の雪をうち払ふ。白波の。 よるかと思へば東雲の空の。 よるかと思へばしのゝめの空の。明け行く春こそ久しけれ 瀬尾太郎 仏御前 祇王

ワキ詞「これは入道大相国に仕へ申す。 瀬尾の太郎何某にて候。

さても浄海掌に天下を治め給ひ。栄花の・央{なかば}にて御座候。 こゝに祇王御前と申す遊女。 唯かりそめに浄海の御目に懸かり給ひしが。 御寵愛ならびなし。 日夜朝暮の御酒宴申しはかりなく候。又加賀の国より仏御前と申して。 これも白拍子にて候ふが。 浄海の御目に。 懸かりたき由を申し出仕申され候へども。浄海の御諚には。 いかなる神なりとも仏なりとも。 祇王があらん程は御対面叶ふまじき由仰せ候ふ所に。 祇王の御申には。 いづれも流を立つるは同じ事にて候へば。 御対面なくては叶ふまじき由たつて御申し候ひて。 此四五日は出仕をとどめ給ひて候。 さる間今日御対面あるべき由仰せ出され候ふ間。 この由祇王御前に申さばやと存じ候。いかに案内申し候。 浄海の御諚にて。 祇王御前も仏御前も御まゐりあれとの御事にて。 瀬尾の太郎が参りて候。いかに祇王御前。 何とて此間は御出仕もなく候ふぞ。 ツレ詞「唯今参り候ふ事も。仏御前の訴訟故候ふよ。 ワキ「あら今めかしの御事や候。既に御申により。 仏御前の御参の上は候。いかに仏御前。 唯今の御出仕めでたう候。 シテ「申すにつけて憚おほく。 御心の中も恥かしやさりながら。 申さで過ぎばいとどしく。願の糸の色見えぬ。 闇の錦のたとへても。身のはて如何になりぬらん。 同じかざしの花鬘。かゝる恨は。 身ひとりかや。 下歌「さしも名高き御事の人をえらばせ給ふかや。 上歌「我が方の越の山風吹くたびに。/\。高嶺に残る天雲の。 隠るゝ空も憂き旅の何に心の急がれん。 都人。いかにと問はゞ山高み。 晴れぬ思にかきくれて。唯言の葉も泣く露の。 それならで故郷の人目にかゝる事あらじ。 ワキ詞「いかに仏御前。 あらおもしろの御述懐や候。又御諚には。 御前にてそと御舞あれとの御事にて候。 シテ「仰に随ひ立ち上り。まづ悦の和歌の声。 いで祇王御前同じくは。相曲舞に立ち給へ。 ツレ「妾はいつもの舞の袖。事ふりぬれば人々も。 目がれて興やなからまし。シテ「実に/\さぞと夕顔の。花の狩衣烏帽子を着。 袖めづらかに出で立たん。 ワキ「実におもしろや舞人の。衣裳を飾らば今ひとしほ。 地「有明月の影ともに。/\。 面つれなき心とは我だに知れば恥かしや。 思は朝まだき。花の衣裳を飾らんと。 二人伴ひ立ち出づる/\。 ツレ「うれしやな今ぞ願は陸奥の。 今日を待ち得て舞人の。なまめき立てる女郎花。 後シテ「女姿に立烏帽子。 ツレ「折から花の狩衣に。シテ「袖を連ねて。ツレ「立ち出づる。 二人一セイ「よろづ代を。治めし君が例には。 地「巷にうたふ。和歌の声。中ノ舞「。 二人クリ「それ金谷の春の花は。一衰の色を見せ。 地「姑蘇台の秋の月は涅槃の雲に隠れぬ。 二人サシ「一去不来の名残送離累別の袂。

地「いづれの日を経てか・乾{ほ}す事を得ん。 誰あつて終日をかたらはんや。 あはれなりける。クセ「世の中の夢現。 昨日にかはり今日にさめ幻の夢も幾度ぞ。 我等賎しくも。遊女の道を踏みそめし。 心はかなき色好みの。家桜花しぼみ。 たゞ埋木の人知れぬ。世の交や芦垣の。まめなる所とて。 初花薄露重み。 穂に出でがたき身なるべし。こゝに平相国。清盛の朝臣とて。 今の世の武将たり。誰かは恐れざるべき。 金玉玉殿に。美女の数を集めては。 漢宮四台もこれにはいかで勝るべき。 中に祇王は好色の。その名にめでて参殿の。 始よりも色深く比翼連理の其契。 天長く地久し漆膠の約と聞えしに。 二人「時に仏と号しては。地「一人の遊女あり。 名にしおふ。仏神の御感応か人心うつれば。 変る習故か彼に心掛帯の。引きかへて舞の袖。 実におもしろく花やかに。 見るこそやがて思草。言の葉もなか/\。 恥かしき余なりけり。 ワキ詞「いかに申し候。 いづれも御舞面白く思し召され候。 然れども祇王御前は御休み候ひて。 仏御前一人舞はせ申され候へとの御事に候。 ツレ「妾はこれにありてもよしなし。まづ/\家路に帰り候はん。ワキ「いや/\さやうに仰せられ候ひては。御機嫌もいかゞにて候。 暫くこれに御座候へいかに仏御前。 浄海の御諚には。 仏御前一人御まひあれとの御事にて候。シテ「いや祇王御前の御舞なくは。 妾ひとりは舞ひ候ふまじ。

ワキ「御意にて候ふ程に。 急いで御まひあらうずるにて候。 シテ「羅綺の重衣たる情なき事を機婦に妬む。いつしか人の心も煩はし。 さりとては。 地「さりとては心に任せぬ此身の習。仏はもとより舞の上手。 和歌をあげては袂を返し。返してはうたふ。 声もかすむや春風の。 花を散らすや舞の袖返す%\も。おもしろや。破ノ舞「。 シテ「人は何とも花田の帯の。地「人は何とも花田の帯の。 引きかへ心は変るとも。 祇王御前心にかけ給ふな。わが名は仏神かけて。 深き。 契の中ぞとはよしなや聞かじともろともに空言なくこそ。契りけれ 天女 都人。

ワキ三人次第「花の雲路をしるべにて。/\。 吉野の奥を尋ねん <232c>。 ワキ「これは都方に住居する者にて候。偖もわれ春になり候へば。 こゝ彼処の花を一見仕り候。

中にも千本の桜を年々に眺め候。此千本の桜は。 三吉野の種取りし花と承り及び候ふ間。 若き人々をも伴ひ。此度は和州に下向仕り候。 道行三人「この春は。殊に桜の花心/\。 色香に染むや深緑。 糸捻かけて青柳の露も乱るゝ春雨の。夜ふりけるか花色の。 朝じめりして気色立つ。 吉野の山に着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 是は早吉野の山に着きて候。 御覧候へ嶺も尾上も花にて候。尚々奥深く分入らばやと思ひ候。 。シテ呼掛「なう/\ あれなる人々は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ「さん候これは都の者にて候ふが。此三吉野の花を承り及び。 始めて此山にわけ入りて候。 又見申せばやごとなき御姿なるが。この山中に入らせ給ふは。 いかなる人にてわたり候ふぞ。 シテ「これは此あたりに住む者なるが。 春立つ山に日を送り。さながら花を友として。 山野に暮らすばかりなり。

ワキ「げに/\花の友人は。他生の縁といひながら。 われらも同じ其心。シテ「処も山路の。ワキ「友なれや。 地上歌「見もせぬ人や花の友。/\。 知るも知らぬも花の蔭に。合やどりして諸人の。 いつしか馴れて花衣の。 袖ふれて木の下に立ちよりいざや眺めん。 げにや花のもとに。帰らん事を忘るゝは。 美景によりて花心。馴れ/\初めて眺めんいざ/\馴れて眺めん。 ワキ詞「いかに申すべき事の候。 かやうに家路を忘れ花を眺め給ふ事いよ/\不審にこそ候へ。 シテ「げに御不審は御理。今は何をか包むべき。 真はわれは天人なるが。花に引かれて来りたり。 今宵はこゝに旅居して。 信心を致し給ふならば。その古の五節の舞。 小忌の衣の羽袖を返し。月の夜遊を見せ申さん。 暫くこゝに待ち給へと。 地上歌「夕ばえ匂ふ花の蔭。/\。月の夜遊を待ち給へ。 少女の姿現して。必ずこゝに来らんと。

迦陵。 頻伽の声ばかり雲に残りて失せにけり/\。来序中入「。 ワキ「不思議や虚空に音楽聞え。 異香薫じて花降れり。 地「これ治まれる御代とかや。上歌「云ひもあへねば雲の上。/\。 琵琶琴和琴笙篳篥。鉦鼓羯鼓や糸竹の。 声澄み渡る春風の。 天つ少女の羽袖を返し。花に戯れ舞ふとかや。中ノ舞「。 地「少女は幾度君が代を。/\。 撫でし巌もつきせぬや。春の花の。梢に舞ひ遊び。 飛び上り飛び下る。げにも上なき君の恵。 治まる国の天つ風。 雲の通ひ路吹き閉づるや。少女の姿。留まる春の。 霞もたなびく三吉野の。山桜うつろふと見えしが。 又咲く花の。雲に乗り。/\て行くへも知らずぞ。なりにける 胡蝶の精(前ハ里女) 旅僧

ワキ次第「春たつ空の旅衣。/\日も長閑なる山路かな。 ワキ詞「これは和州三吉野の奥に山居の僧にて候。 われ名所には住み候へども。未だ花の都を見ず候ふ程に。 此春思ひ立ち都に上り。 洛陽の名所旧跡をも一見せばやと思ひ候。 道行三人「三吉野の高嶺のみ雪まだ冴えて。/\。 花遅げなる春風の吹きくる象の山越えて。 霞むそなたや三笠山茂き梢も楢の葉の。 広き御影の通すぐに花の都に着きにけり。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ間。程なう都に着きて候。 此処を人に尋ねて候へば。 一条大宮とやらん申し候。 心静かに一見せばやと思ひ候。又これなる処を見れば。 由ありげなる古宮の。軒の檜皮も苔むして。

昔しのぶの忘草。誠に由ある処なり。 詞「又車寄の辺なる。柴垣の隙より見れば。 御階のもとに色殊なる梅花の今を盛と見えて候。 立ち寄り眺めばやと思ひ候。 。シテ呼掛「なう/\御僧はいづくと思し召して。この梅を眺め候ふぞ。 ワキ「不思議やな人ありとも見えぬ屋づまより。 女性一人来り給ひ。我に詞をかけ給ふぞや。 偖ここをばいづくと申候ふぞ。 シテ「さては始めたる御事にてましますかや。まづ/\御身はいづくより来り給へる人なるぞ。 。 ワキ「これは和州三吉野の奥に山居の者にて候ふが。始めて都に上りて候。 シテ「さればこそ見慣れ申さぬ御事なり。 こゝは又昔より故ある古宮にて。

大内も程近く処からなる此梅を。雲の上人春ごとに。 詩歌管弦の御遊を催し。 眺たえせぬ花の色。心とゞめて御覧ぜよ。 ワキ「あら面白や処から。由ある花の名所を。 今見る事の嬉しさよ。詞「さて/\御身はいかなる人ぞ。御名をなのり給ふべし。 シテ「名所の人にてましませば。 そなたの名こそ聞かまほしけれ。 ワキ「名所には住めども心なき。身は山賎の年を経て。 シテ「住む家桜いろ変へて。これは都の花盛。 ワキ「心をとめて。シテ「色深き。上歌地「梅が香に。 昔を問へば春の月。/\。 答へぬ影も我が袖に。 移る匂も年を経る古宮の軒端苔むして。昔恋しき我が名をば。 何と明石の浦に住む。 海士の子なれば宿をだに定なき身や恥ずかしや/\。 ワキ詞「猶々この宮のいはれ。 又御身の名をも委しく御物語り候へ。 シテ「さのみつつむもなか/\に。

人がましくや思し召されんさりながら。 真はわれは人間にあらず。われ草木の花に心を染め。 梢に遊ぶ身にしあれども。深き望のある身なり。 などやらん昔より。 梅花に縁なき事を歎き来る春ごとに悲の。涙の色も。紅の。 梅花に縁なき此身なり。 地クリ「げにや色に染み。 花に馴れ行くあだし身は。はかなきものを花に飛ぶ。 胡蝶の夢の。戯なり。 シテサシ「されば春夏秋を経て。地「草木の花に戯るゝ。 胡蝶と生れて花にのみ。契を結ぶ身にしあれども。 梅花に縁なき身を歎き。 姿を変へて御僧に詞を交し奉り。シテ「妙なる法の。蓮葉の。 地「花の台を。頼むなり。 クセ「伝へ聞く唐土の。荘子があだに見し夢の。 胡蝶の姿現なき浮世の中ぞあはれなる。 定なき世と言ひながら。官位も影高き。 光源氏の古も。胡蝶の舞人いろ/\の。 御舟に飾る金銀の。瓶にさす山吹の。

襲の衣を懸け給ふ。シテ「花園の。 胡蝶をさへや下草に。地「秋まつ虫は。 疎く見るらんと詠めこし。昔語を夕暮の。 月もさし入る宮のうち。人目稀なる木の下に。 宿らせ給へ我が姿。夢に必ず見ゆべしと。 夕。 の空に消えて夢のごとくなりにけり夢の如くになりにけり。中入「。 ワキ三人上歌待謡「あだし世の。 夢待つ春のうたゝ寝に。/\。頼むかひなき契ぞと。 思ひながらも法の声。立つるや花の下臥に。 衣かたしく木蔭かな/\。 。 後シテサシ一声「ありがたやこの妙典の功力に引かれ。有情非情も隔なく。 仏果に至る花の色。深き恨を晴しつゝ。 梅花に戯れ匂に交はる。胡蝶の精魂あらはれたり。 ワキ「有明の月も照り添ふ花の上に。 さも美しき胡蝶の姿の。 あらはれ給ふはありつる人か。シテ詞「人とはいかで夕暮に。 かはす詞の花の色。隔てぬ梅に飛び翔りて。

胡蝶にも。誘はれなまし。心ありて。 地「八重山吹も隔てぬ梅の。 花に飛びかふ胡蝶の舞の。袂も匂ふ。気色かな。中ノ舞「。 上「四季をり/\の花盛。/\。 梢のこゝろをかけまくも。かしこき宮の所から。 しめの内野の程近く。 野花黄鳥春風を領じ。花前に蝶舞ふ紛々たる。 雪をめぐらす舞の袖。返す%\も。おもしろや。 シテ「春夏秋の花も尽きて。 打「春夏秋の花も尽きて。霜を帯びたる白菊の。 花折り残す。枝をめぐり。廻り廻るや小車の。 法に引かれて仏果に至る。 胡蝶も歌舞も菩薩の舞の。姿を残すや春の夜の。 明け行く雲に。羽根うちかはし。 明け行く雲に。羽根うちかはして。 霞に紛れて失せにけり 帝王 蔵人 大臣

ワキ、ワキツレ一セイ「久方の。月の郡の明らけき。 光も君の。恵かな。 ワキ、ツレ、サシ「それ明君の御代のしるし。万機の政すなほにして。 四季をり/\の御遊までも。 捨て給はざる叡慮とかや。ツレ「まづ青陽の春にならば。 ワキツレ「処々の花のみゆき。 ツレ「秋に時雨の紅葉狩。 ワキツレ「日数も積る雪見の行幸ツレ「寒暑時を違へされば。 ワキツレ「御遊のをりも。ツレ「時を得て。 ワキワキツレ上歌「今は夏ぞと夕涼。/\。松の此方の道芝を。 誰踏。 みならし通ふらんこれは妙なるみゆきとて。小車の。 直なる道を廻らすも同じ雲居や大内や。神泉苑に着きにけり/\。 。 ツレサシ「面白や孤島峙つて波悠々たるよそほひ。誠に湖水の浪の上。

三千世界は眼の前に盡きぬ。 。 十二因縁は心の裏に空し。 げに面白き景色がな。 地「鷺の居る。 池の汀は松ふりて。/\。 都にも似ぬ。 住居。 はおのづからげに。 めづらかに面白や。 或は詩歌の舟を浮め。 又は糸竹の。聲あやをなす曲水の。 手まづ遮る盃も浮むなり。 あら面白の池水やなあら面白の池水やな。 ツレ「いかに誰かある。ワキツレ「御前に候。

ツレ「あの洲崎の鷺をりから面白う候。 誰にても取りて参れと申し候へ。 ワキツレ「畏つて候。いかに蔵人。 あの洲崎の鷺をりから面白うおぼしめされ候ふ間。 取りて参らせよとの宣旨にて候。 ワキ「宣旨畏つて承り候さりながら。かれは鳥類飛行の翅。 いかゞはせんと休らへば。 ワキツレ「よしやいづくも普天の下。

卒土のうちは王地ぞと。ワキ「思ふ心を便にて。 ワキツレ「次第々々に。ワキ「芦間の蔭に。 地「狙ひより狙ひよりて。岩間のかげより取らんとすれば。 この鷺驚き羽風を立てゝ。 ぱつとあがれば力なく。手を空しうして。 仰ぎつゝ走り行きて。汝よ聞け勅諚ぞや。勅諚ぞと。 呼ばはりかくれば。此鷺立ち帰つて。 本の方に飛び下り。羽を垂れ地に伏せば。 抱きとり叡覧に入れ。げに忝き王威の恵。 ありがたや頼もしやとて。皆人感じけり。 げにや仏法王法の。かしこき時の例とて。 飛ぶ鳥までも地に落ちて。 叡慮に適ふありがたや。/\。猶々君の御恵。 仰ぐ心もいやましに。御酒を勧めて諸人の。 舞楽を奏し面々に。きぎの蔵人。 召し出され様々の。御感のあまり爵を賜び。 ともになさるゝ五位の鷺。 さも嬉しげに立ち舞ふや。シテ「洲崎の鷺の。羽を垂れて。 地「松も磯馴るゝけしきかな。

舞シテ「畏き恵は君朝の。 地「畏き恵は君朝の。四海に翔る翅まで。靡かぬ方も。 なかりければ。まして鳥類畜類も。 王威の恩徳逃れぬ身ぞとて。勅に従ふ此鷺は。 。

神妙々々放せや放せと重ねて宣旨を下されければ。げにかたじけなき宣命を。 ふくめて。放せばこの鷺。 心嬉しく飛びあがり。心嬉しく飛びあがりて。 行くへも知らずぞなりにける 安居院の法印 従僧 里の女 紫式部の霊。

ワキ、ワキツレ二人、次第「衣も同じ苔の道。/\。 石山寺に参らん。 ワキ詞「これは安居院の法印にて候。我石山の観世音を信じ。 常に歩を運び候。今日もまた参らばやと思ひ候。 道行三人「時も名も。花の都を立ち出でて。 /\。嵐につるゝ夕波の。 白河表過ぎ行けば。音羽の瀧をよそに見て。 関の此方の朝霞。されども残る有明の。 影も。 あなたに鳰の海実に面白き景色かなげに面白き景色かな。

下歌「さゝ波や志賀唐崎の一つ松。 塩焼かねども浦の波立つこそ水の。煙なれ立つこそ水の煙なれ。 。シテ詞呼掛「なう/\安居院の法印に申すべき事の候。 ワキ詞「法印とは此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。シテ「我石山に籠り。 源氏六十帖を書き記し。 亡き跡までの筆のすさび。 詞「名の形見とはなりたれども。 かの源氏に終に供養をせざりし科により。浮ぶ事なく候へば。 然るべくは石山にて。源氏の供養をのべ。

我が跡弔ひてたび給へと。此事申さんとて。 これまで参りて候。 ワキ詞「これは思もよらぬ事を承り候ふものかな。 さりながら易き間の事供養をばのべ候ふべし。 さて誰と志して廻向申し候べき。 シテ「まづ石山に参りつゝ。源氏の供養をのべ給はゞ。 其時我も現れて。共に源氏を弔ふべし。 ワキ「嬉しやそれこそ奇特なれ。 いで源氏を書きしは。 シテ「恥かしや此身は浮世の土となれども。ワキ「名をば埋まぬ苔の下。 シテ「石山寺に立つ雲の。 ワキ「紫式部にてましますな。シテ「恥かしや。色に出づるか紫の。 地「色に出づるか紫の。 雲も其方か夕日影。 さしてそれとも名のり得ずかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ「さて石山に参りつゝ。 念願の勤事終り。 夜も更方の金の声心も澄めるをりふしに。ワキツレ「ありつる源氏の物語。

誠しからぬ事なれども。 ワキ「供養をのべて紫式部の。ワキツレ「菩提を深く。 ワキ「弔ふべきなり。 ワキ、ツレ二人 歌待謡「とは思へどもあだし世の。/\。夢にうつろふ紫の。 色ある花も一時の。あだにも消えし古の。 光源氏の物語。 聞くにつけてもそのまこと頼少なき。心かな頼少なき心かな。 後シテ一声「松風も。散れば形見となるものを。 思ひし山の下紅葉。 地「名も紫の色に出でて。シテ「見えん姿は。恥かしや。 ワキ「かくて夜も深更になり。鳥の声をさまり。 心すごきをりふし。詞「灯の影を見れば。 さも美しき女性。紫の薄衣のそばを取り。 影の如くに見え給ふは。夢か現か覚束な。 シテ「うつろひやすき花色の。 襲の衣の下こがれ。紫の色こそ見えね枯野の萩。 もとのあらまし末通らば。 名乗らずとしろし召されずや。 ワキ「紫の色には出でずとあらましの。言葉の末とは心得ぬ。

紫式部にてましますか。 シテ「恥かしながらわが姿。ワキ「その面影は昨日見し。 シテ「姿に今もかはらねば。ワキ「互に心を。 シテ「おきもせず。地「寝もせで明かす此夜半の。 月も心せよ。石山寺の鐘の声。 夢をも誘ふ風の前。消えしはそれか灯の光源氏の。 跡とはん光源氏の跡とはん。 シテ「あら有難の御事や。 何をか布施に参らせ候ふべき。 ワキ詞「いや布施などとは思もよらず候。とてもこの世は夢の中。 昔に返す舞の袖。唯今舞うて見せ給へ。 シテ詞「恥かしながらさりとては。 仰をばいかで背くべき。いで/\さらば舞はんとて。ワキ「もとより其名も紫の。 シテ「色珍らしき薄衣の。 ワキ「日もくれなゐの扇を持ち。シテ「恥かしながら弱々と。 ワキ「あはれ胡蝶の。シテ「一遊び。 地次第「夢の中なる舞の袖。/\。現に返す由もがな。 シテ「花染衣の色襲。地「紫匂ふ。袂かな。イロエ「。

シテクリ「それ無常といつぱ。 目の前なれども形もなし。地「一生夢の如し。 誰あつて百年を送る。槿花一日唯おなじ。 シテサシ「こゝに数ならぬ紫式部。頼をかけて石山寺。 悲願を頼み籠り居て。此物語を筆に任す。 。 地「されども終に供養をせざりし科により。妄執の雲も晴れ難し。 シテ「今逢ひ難き縁に向つて。地「心中の所願を発し。 一つの巻物に写し。無明の眠を覚ます。 南無や光源氏の幽霊成等正覚。 クセ「抑桐壷の。 夕の煙すみやかに法性の空に至り。 箒木の夜の言の葉は終に覚樹の花散りぬ。空蝉の。空しき此世を厭ひては。 夕顔の。露の命を観じ。 若紫の雲のむかへ末摘花の台に座せば。紅葉の賀の秋の。 落葉もよしや唯。たま/\。 仏意に逢ひながら。榊葉のさして往生を願ふべし。 シテ「花散る里に住むとても。 地「愛別離苦の理まぬかれ難き道とかや。

唯すべからくは。生死流浪の須磨の浦を出でて。 四智円明の。明石の浦に澪標。 いつまでもありなん。唯蓬生の宿ながら。 菩提の道を願ふべし。松風の吹くとても。 業障の薄雲は。晴るゝ事更になし。 秋の風消えずして。紫磨忍辱の藤袴。上品蓮台に。 心を懸けて誠ある。七宝荘厳の。 真木柱の本に行かん。梅が枝の。匂に移る我が心。 藤の裏葉におく霜の。 其玉鬘かけしばし朝顔の光頼まれず。シテ「朝には栴檀の。 蔭に宿木名も高き。地「官位を。 東屋の内に籠めて。 楽栄を浮舟に喩ふべしとかやこれも蜻蛉の身なるべし。 夢の浮橋を打ち渡り。身の来迎を願ふべし。 南無や西方弥陀如来。

狂言綺語を振り捨てゝ紫式部が後の世を。助け給へともろともに。 鐘打ち鳴らして廻向も既に終りぬ。 ロンギ地「実に面白や舞人の。 名残今はと鳴く鳥の。夢をも返す袂かな。 シテ「光源氏の御跡を。弔ふ法の力にて。我も生れん。 蓮の花の宴は頼もしや。 地「実にや朝は秋の光。シテ「夕には影もなし。 地「朝顔の露稲妻の影。何れかあだならぬ。 定なの浮世や。 キリ「よく/\物を案ずるに。/\。 紫式部と申すはかの石山の観世音。 仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。 これも思へば夢の世と。 人に知らせん御方便げに有難き誓ひかな。思へば夢の浮橋も。 夢の間の言葉なり/\ 万里小路中納言 官人 供奉 建礼門院 阿波内侍 大納言局 後白河法皇

。 官人詞「これは後白河院に仕へ奉る臣下なり。扨も此度先帝二位殿を始め奉り。 平家の一門長門の国早鞆の沖にして。 ことごとく果て給ひて候。 女院も御身を投げさせ給ひ候ふを取り上げ奉り。 かひなき御命たすかりおはしまし候。 三河の守範頼九郎太夫の判官義経兄弟供奉し申し。 三種の神宝事故なく都に納まり給ひ候。 。 さるほどに女院は都にうつらせ給ふべかりしを。先帝安徳天皇の御菩提。 ならびに二位殿の御跡御弔のため。 大原の寂光院に浮世をいとひ御座候ふを。 法皇御幸をなされ。 御訪あるべきとの勅諚にて候ふ間。 御幸の山路をも申しつけばやと存じ候。いかに誰かある。 大原へ御幸あるべきなれば。 行幸の道をもつくりその清を仕り候へ。 。 シテサシ「山里はもののさびしき事こそあれ。世の憂きよりは中々に。

シテ、内侍、局三人「住みよかりける柴の枢。都の方の音信は。 間遠に結へる笆垣や憂き節繁き竹柱。 立居につけて物思へど。 人目なきこそ安かりけれ。 下歌「折々に心なけれど訪ふものは。上歌「賎が妻木の斧の音。/\。 梢の嵐猿の声。 これらの音ならでは。 正木の。 かづら青つゞら来る人稀になりはてゝ。 草顔淵が巷に。 繁き思の行方とて。 雨原。 憲が枢とも湿ふ袖の。 涙かなうるほふ袖の涙かな。 。 シテ詞「いかに大納言の局。後の山に上り樒を摘み候ふべし。 局詞「わらはも御供申し。 妻木蕨を折り供御にそなへ申し候ふべし。 シテ「譬へは便なきことなれども。

悉達太子は浄飯王の都を出で。檀特山の嶮しき道を凌ぎ。 菜摘み水汲み薪。地「とり%\様々に難行し仙人に仕へさせ給ひて。 終に成道なるとかや。我も仏の為なれば。御花筐取り%\。 なほ山深く入り給ふなほ山深く入り給ふ。中入間「。 ワキ、ワキツレ一セイ「九重の花の名残を尋ねてや。 青葉を慕ふ。山路かな。 次第「分けゆく露もふかみ草。/\。大原の御幸急がん。

ワキ詞「行幸をはやめ申し候ふ間。 大原に入御候。かくて大原に行幸なつて。 寂光院の有様を見わたせば。 露むすぶ庭の夏草しげりあひて。青柳糸を乱しつゝ。 池の浮草波にゆられて。 錦を曝すかと疑はる。岸の山吹咲き乱れ。 八重立つ雲の絶間より。山時鳥の一声も。君の御幸を。 待ち顔なり。 法皇「法皇池の汀を叡覧あつて。池水に。汀の桜ちりしきて。 波の花こそ。盛なりけり。地歌「旧りにける。 岩のひまより落ちくる。/\。 水の音さへよしありて。緑蘿の垣翠黛の山。 絵にかくとも。筆にも及びがたし。 一宇の御堂あり。甍破れては霧不断の香を焼き。 〓{新字源2799:とぼそ}落ちては月もまた。 常住の灯をかゝぐ。 とはかゝる所かものすごやかゝる所かものすごや。 。 ワキ詞「これなるこそ女院の御庵室にてありげに候。軒には蔦朝顔はひかゝり。

藜〓{大漢和32248:でう}深く鎖せり。あら物すごの気色やな。 詞「いかにこの庵室の内へ案内申し候。 内侍詞「誰にてわたり候ふぞ。 ワキ「これは万里の小路の中納言にて候。 内侍「それはさて人目まれなる山中へは。 何とて御わたり候ふぞ。 ワキ「さん候女院の御住居御訪のために。法皇これまで御幸にて候。 。 内侍「女院は上の山へ花つみに御いでにて。今は御留守にて候。 ワキ「御幸のよし申して候へば。 女院は上の山へ花つみに御いでにて。今は御留守のよし候。 暫くこの処に御座をなされ。 御かへりを御待あらうずるにて候。 法皇「やあいかにあの尼前。 汝はいかなる者ぞ。内侍「げに/\御見忘は御ことわり。これは信西が娘。 阿波の内侍がなれる果にてさぶらふ。 かくあさましき姿ながら。明日をも知らぬこの身なれば。 恨とは更に思はずさぶらふ。

法皇詞「女院はいづくに御渡り候ふぞ。 阿波内侍「上の山へ花つみに御いでにて候。法皇「さて御供には。 内侍「大納言の局。 今少し待たせおはしまし候へ。やがて御帰にて候ふべし。 。 サシシテ「昨日もすぎ今日もむなしく暮れなんとす。明日をも知らぬ此身ながら。 唯先帝の御面影。 忘るゝ隙はよもあらじ。極重悪人無他方便。 唯称弥陀得生極楽。主上を始め奉り。 二位殿一門の人々成等正覚。南無阿弥陀仏。詞「や。 庵室のあたりに人音の聞え候。 大納言局「暫くこれに御休み候へ。 。 内侍「唯今こそあの岨づたひを女院の御帰にて候。法皇「さていづれが女院。 大納言の局はいづれぞ。 内侍「花筐臂に懸けさせ給ふは。女院にてわたらせ給ふ。 妻木に蕨折りそへたるは。大納言の局なり。 詞「いかに法皇の御幸にて候。 シテ「なかなかになほ妄執の閻浮の身を。

忘れもやらでうき名をまた漏せば漏るゝ涙の色。 袖の気色もつゝましや。 地下歌「とは思へども法の人同じ道にと頼むなり。 上歌「一念の窓の前。一念の窓の前に。 摂取の光明を期しつゝ十念の柴の枢には。 聖衆の来迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。 古に帰るかとなほ思出の涙かな。 げにや君こゝに叡慮のめぐみ末かけて。 あはれもさぞな大原や。芹生(せりよう)の里の細道。 朧の清水月ならで。御影や今に残るらん。 ロンギ地「さてや御幸(ごかう)のをりしもは。 いかなる時節なるらん。シテ「春過ぎ夏もはや。 北祭のをりなれば。青葉にまじる夏木立春の名残ぞをしまるゝ。 地「遠山にかゝる白雲は。シテ「散りにし花のかたみかや。 地「夏草のしげみが原のそことなく。分け入り給ふ道の末。 シテ「こゝとてや。/\。げに寂光の静かなる。 光の陰を惜めただ。地「光の影も明らけき。

玉松が枝(え)に咲き添ふや。シテ「池の藤波夏かけて。 地「これも御幸(みゆき)を。シテ「待ちがほに。 地「青葉がくれの遅桜初花よりもめづらかに。 なかなか様(やう)かはる有様をあはれと。叡慮にかけまくも。 かたじけなしやこの御幸(みゆき)。 柴の枢(とぼそ)のしばしがほどもあるべき住居なるべしや。 あるべき住居なるべし。 シテ「思はずも。深山の奥の。住まひして。 雲居の月をよそに見んとは。 かやうに思ひ出でしに。此山里までの御幸。 かへすがへすも有難うこそ候へ。 法皇詞「さいつ頃ある人の申せしは。 女院は六道の有様まさに御覧じけるとかや。 仏。 菩薩の位ならでは見給ふ事なきに不審にこそ候へ。 シテ「勅諚はさる御事なれども。つら/\我が身を案じ見るに。 クリ「それ身を観ずれば岸の額に根を。 離れたる草。 地「命を論ずれば、江のほとりに繋がざる舟。シテサシ「されば天上の楽も

。 身に白露の玉かづら。 地「ながらへ果てぬ年月も。つひに五衰のおとろへの。 シテ「消えもやられぬ。命のうちに。 地「六道のちまたに。迷ひしなり。クセ「まづ一門。 西海の波に浮き沈み。 よるべも知られぬ船の中。海に臨めども。潮なれば飲水せず。 餓鬼道の如くなり。又ある時は。 汀の波の荒磯に。 打ちかへすかの心地して船こぞりつゝ泣き叫ぶ。 声は叫喚の罪人もかくやあさましや。シテ「陸の争ある時は。 地「これぞ誠に目の前の。 修羅道の戦あら恐ろしや数々の。駒の蹄の音聞けば。 畜生道の有様を。見聞くも同じ人道の。 苦となりはつる憂き身の果てぞ悲しき。 法皇詞「げに有難き事どもかな。 先帝の御最期の有様。 何とか渡り候ひつる御物語り候へ。 シテ語「恥かしながら語つて聞かせ申し候ふべし。 其時の有様申すにつけて恨めしや。長門の国早鞆とやらんにて。

筑。 紫へ一先落ちゆくべきと一門申し合ひしに。緒方の三郎が心がはりせしほどに。 薩摩潟へや落さんと申しゝをりふし。 上り汐にさへられ。今はかうよと見えしに。 能登の守教経は。 安芸の太郎兄弟を左右の脇に挟み。 最期の供せよとて海中に飛んで入る。新中納言知盛は。 詞「沖なる船の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。 乳母子の家長が弓と弓とを取りかはし。 其まゝ海に入りにけり。 其時二位殿鈍色の二つ衣に。練袴のそば高く挟んで。 我が身は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。 主上の御供申さんと。 安徳天皇の御手を取り舷に臨む。 いづくへ行くぞと勅諚ありしに。此国と申すに逆臣多く。 かくあさましき処なり。極楽世界と申して。 。 めでたき所の此波の下にさむらふなれば。御幸なし奉らんと。泣く/\奏し給へば。さては心得たりとて。

東に向はせ給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて。 地「又。 十念の御為に西に向はせおはしまし。シテ「今ぞ知る。地「御裳濯川の流には。 波の底にも都ありとはと。 これを最期の御製にて。千尋の底に入り給ふ自も。 つづいて沈みしを。 源氏の武士とりあげてかひなき命ながらへ。二度。

龍顔に逢ひ奉り。不覚の涙に袖をしほるぞ恥かしき。 。 地「いつまでも御名残はいかで尽きぬべき。はや還幸とすゝむれば。/\。 御輿を早め遥々と。寂光院を出で給へば。 シテ「女院は柴の戸に。 地「暫しが程は見送。 らせ給ひて御庵室に入り給ふ御庵室に入り給ふ 関寺の住僧 従僧 老後の小野小町 稚児

ワキ、ワキツレ二人次第「待ち得て今ぞ秋に逢ふ。/\星の祭を急がん。 ワキ詞「これは江州関寺の住僧にて候。今日は七月七日にて候ふ程に。 七夕の祭を取り行ひ候。 又この山陰に老女の庵を結びて候ふが。 歌道を極めたる由申し候ふ程に。幼き人を伴ひ申し。 かの老女の物語をも承らばやと存じ候。 ワキ、ツレサシ「颯々たる涼風と衰鬢と。

一時にきたる初秋の。七日の夕に早なりぬ。 ワキ「今日七夕の手向とて。 糸竹呂律の色々に。ツレ「ことを尽して。ワキ「敷島の。 ワキ、ワキツレ二人歌「道を願の糸はへて。/\。 織るや錦のはた薄。 花をも添へて秋草の露の玉琴かき鳴らす。松風までも折からの。 手向に叶ふ。夕かな手向に叶ふ夕かな。 。

シテサシ「朝に一鉢を得ざれども求むるに能はず。草衣夕の肌を隠さゞれども。 おぎぬふに便あり。 花は雨の過ぐるによつて紅まさにおびたり。 柳は風に欺かれて緑漸く垂れり。人更に若き事なし。 終には老の鶯の。百囀の春は来れども。 昔に帰る秋はなし。あら来し方恋しや/\。 ワキ詞「いかに老女に申すべき事の候。 これは関寺に住む者にて候。 此寺の児達歌を御稽古にて候ふが。 老女の御事を聞き給ひ。歌をよむべき様をも問ひ申し。 又御物語をも承らん為に。 児達もこれまで御いでにて候。 シテ「これは思も寄らぬ事を承り候ふものかな。 埋木の人知れぬ事となり。花薄穂に出すべきにしもあらず。 心を種として言葉の花色香に染まば。 などか其風を得ざらん。 優しくも幼き人の御心に好き給ふものかな。 ワキ「先々普く人の翫び候ふは。難波津の歌を以て。 。

手習ふ人の始にもすべきよし聞え候ふよなう。シテ「それ歌は神代より。 始まれども。文字の数定まらずして。 事の心分き難かりけらし。今人の代となりて。 めで。 たかりし世継をよみ治めし詠歌なればとて。難波津の歌を翫び候。 ワキ「又浅香山の歌は。王の御心を和らげし故に。 これまためでたき詠歌よなう。 シテ「実によく心得給ひたり。此二歌を父母として。 ワキ「手習ふ人の始となりて。 シテ詞「高き賎しき人をも分かず。 ワキ「都鄙遠国の鄙人や。シテ「我等如きの庶人までも。 ワキ「好ける心に。シテ「近江の海の。地「さゝ波や。 浜の真砂は尽くるとも。/\。 よむ言の葉はよも尽きじ。青柳の糸絶えず。 松の葉の散失せぬ。種は心と思召せ。 仮令時移り事去るとも。此歌の文字あらば。 鳥の跡も尽きせじや鳥の跡も尽きせじ。 ワキ詞「有難う候。 古き歌人の言葉多しといへども。女の歌は稀なるに。

老女の御事例少なうこそ候へ。 我が背子が来べき宵なりさゝがにの。 蜘蛛の振舞かねてしるしも。これも女の歌候ふか。 シテ「これは古衣通姫の御歌なり。 衣通姫とは允恭天皇の后にてまします。 形の如く我等もその流をこそ学び候へ。 ワキ「さては衣通姫の流を学び給ふかや。 近年聞えたる小野の小町こそ。衣通姫の流とは承れ。 わびぬれば身を浮草の根を絶えて。 誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ。 シテ「これは小町の歌候ふな。 シテ「これは大江の惟章が心がはりせし程に。世の中物うかりしに。 。 詞「文屋の康秀が三河の守になりて下りし時。田舎にて心をも慰めよかしと。 我を誘ひし程によみし歌なり。 忘れて年を経しものを。 聞けば涙のふる事の又思はるゝ悲しさよ。 ワキ「不思議やなわびぬればの歌は。我よみたりしと承る。 又衣通姫の流と聞えつるも小町なり。

実に年月を考ふるに。老女は百に及ぶといへば。 たとひ小町の存ふるとも。 いまだこの世に在るべきなれば。今は疑ふ所もなく。 御身は小町の果ぞとよ。 さのみな包み給ひそとよ。シテ「いや小町とは恥かしや。 色見えでとこそよみしものを。 地歌「移ろふものは世の中の。人の心の花や見ゆる。 恥かしやわびぬれば。 身を浮草の根を絶えて。誘ふ水あらば今も。 いなんとぞ思ふ恥かしや。 地クリ「実にや包めども。 袖に溜らぬ白玉は。人を見ぬ目の涙の雨。 古事のみを思草の。花しをれたる身の果まで。 なに白露の名残ならん。 シテサシ「思ひつゝ寝ればや人の見えつらん。 地「よみしも今は身の上に。存へ来ぬる年月を。 送り迎へて春秋の。 露行き霜来つて草葉変じ虫の音も枯れたり。シテ「生命既に限となつて。地「唯。 槿花一日の。栄に同じ。クセ「あるは無く。

無きは数添ふ世の中に。あはれいづれの。 日まで歎かんと。詠ぜし事も我ながら。 いつまで草の花散じ。 葉落ちても残りけるは露の命なりけるぞ。恋しの昔や。 忍ばしの古の身やと。思ひし時だにも。 また古事になり行く身の。せめて今は又。 初の老ぞ恋しき。あはれ実に古は。 一夜泊りし宿までも。玳瑁を飾り。 垣に金花を懸け。戸には水精を連ねつゝ。 鸞輿属車の玉衣の色を飾りて敷妙の。枕づく。 妻屋の内にしては。 花の錦の褥の起き臥しなりし身なれども。 今は埴生のこや玉を敷きし床ならん。シテ「関寺の鐘の声。 地「諸。 行無常と聞くなれども老耳には益もなし。逢坂の山風の。 是生滅法の理をも得ばこそ。飛花落葉のをり/\は。 好ける道とて草の戸に。 硯を馴らしつゝ筆を染めて藻塩草。 書くや言の葉の枯々に哀なる様にて強からず

。 強からぬは女の歌なれば。いとゞしく老の身の。 弱り行く果ぞ悲しき。子方詞「いかに申し候。 七夕の祭遅なはり候。老女をもともなひ御申し候へ。 ワキ「いかに老女。 七夕の祭を御いであつて御覧候へ。シテ「いや/\老女の事は憚にて候ふほどに。思も寄らず候。 ワキ「何の苦しう候ふべき。 唯々御出で候へとよ。地歌「七夕の。織る糸竹の手向草。 幾年経てかかげろふの。小野の小町の。 百年に及ぶや天つ星合の。 雲の上人に馴れ馴れし。袖も今は麻衣の。 浅ましや痛はしや目もあてられぬ有様。 とても今宵は七夕の。/\。手向の数も色々の。 或は糸竹に懸けて廻す盃の。雪を受けたる。 童舞の袖ぞ面白き。星祭るなり呉竹の。 シテ「代々を経て住む。行末の。 地「幾久しさぞ。万歳楽。子方舞「。 シテ詞「あら面白の唯今の舞の袖やな。 むかし豊の明の五節の舞姫の袖をこそ五度返しゝが。

これは又七夕の手向の袖ならば。 七返にてやあるべき。 詞「狂人走れば不狂人も走るとかや。今の童舞の袖に引かれて。 狂人こそ走り候へ。百年は。序ノ舞「。 シテワカ「百年は。花に宿りし。胡蝶の舞。 地「哀なり/\。老木の花の枝。 シテ「さす袖も手忘れ。地「裳も足弱く。 シテ「たゞよふ波の。地「立舞ふ袂は翻せども。 昔に返す袖はあらばこそ。

シテ「あら恋しの古やな。地「さる程に初秋の短夜。 はや明方の関寺の鐘。シテ「鳥もしきりに。 地「告げ渡る東雲の。あさまにもならば。 シテ「羽束師の森の。 地「はづかしの森の木がくれもよもあらじ。 暇申して帰るとて杖にすがりてよろ/\と。本の藁屋に帰りけり。 。 百年の姥と聞えしは小町が果の名なりけり小町が果の名なりけり 大納言行家 小野小町

。 ワキ詞「これは陽成院に仕へ奉る新大納言行家にて候。 扨も我が君敷島の道に御心を懸けられ。 普く歌を撰ぜられ候へども。叡慮に叶ふ歌なし。 こゝに出羽の国小野の良実が娘に小野の小町。 彼はならびなき歌の上手にて候ふが。

今は百年の姥となつて。 関寺辺に在る由聞し召し及ばれ。帝より御憐の御歌を下され候。 その返歌により。 重ねて題を下すべきとの宣旨に任せ。 唯今関寺辺小野の小町が方へと急ぎ候。 シテ一セイ「身は一人。我は誰をか松坂や。

四の宮河原四つの辻。いつ又六つの。 巷ならん。 サシ「むかしは芙蓉の花たりし身なれども。今は藜〓{大漢和32248:でう}の草となる。 顔ばせは憔悴と衰へ。膚は凍梨の梨の如し。 杖つくならでは力もなし。 人を恨み身をかこち。泣いつ笑うつやすからねば。 物狂と人は言ふ。歌「さりとては。 捨てぬ命の身に添ひて。/\。面影につくも髪。 かゝらざりせばかゝらじと。 昔を恋ふる忍寝の。夢は寝覚の長き夜を。 飽きてはてたりな我が心/\。 ワキ詞「いかにこれなるは小町にてあるか。 シテ「見奉れば雲の上人にてましますか。 小町と承り候ふかや何事にて候ふぞ。 ワキ「され此程はいづくを住家と定めけるぞ。 シテ「誰留むるとはなけれども。唯関寺辺(へん)に日数を送り候。 ワキ「実に/\関寺は。さすがに都遠からで。閑居には面白き処なり。 シテ「前には牛馬の通路(かよひぢ)あつて。

貴きも行き賎しきも過ぐ。 ワキ「後には霊験の山高うして。シテ「しかも道もなく。 ワキ「春は。シテ「春霞。地歌「立出で見れば深山辺の。 /\。梢にかゝる白雲は。花かと見えて面白や。松風も匂ひ。 枕に花散りて。それとばかりに白雲の色香おもしろきけしきかな。 北に出づれば湖の志賀辛崎の一つ松は。身の類なるものを。 東に向へばありがたや。石山の観世音瀬田の長橋は狂人の。 つれなき命のかゝるためしなるべし。 シテ詞「かくて都の恋しき時は。柴の庵に暫し留むべき友もなければ。 便(たより)梨の杖にすがり。都路に出でてものを乞ふ。 詞「乞ひ得ぬ時は涙の関寺に帰り候。 ワキ「いかに小町。さて今も歌をよみ候ふべきか。 シテ「我いにしへ百家(ももか)仙洞の交たりし時こそ。 事によそへて歌をもよみしが。今は花薄(はなすすき)穂に出で初めて。

霜のかゝれる有様にて。浮世にながらふるばかりにて候。 ワキ「実に尤も道理なり。帝より御憐の御歌を下されて候。これ/\見候へ。 シテ「何と帝より御憐の御歌を下されたると候ふや。あらありがたや候。 老眼と申し文字もさだかに見え分かず候。それにて遊ばされ候へ。 ワキ「さらば聞き候へ。 シテ「いかにも高らかに遊ばされ候へ。 ワキ「雲の上は。シテ「雲の上は。ワキ「雲の上は。 ありし昔にかはらねど。見し玉だれの。内やゆかしき。 シテ詞「あら面白の御歌や候。悲しやな古き流を汲んで。 水上を正すとすれど歌よむべしとも思はれず。 詞「又申さぬ時は恐なり。所詮この返歌を唯一字にて申さう。 ワキ詞「不思議の事を申す者かな。それ歌は三十一字を連ねてだに。 心の足らぬ歌もあるに。一字の返歌と申す事。これも狂気の故やらん。 シテ詞「いやぞといふ文字こそ返歌なれ。

ワキ「ぞといふ文字とはさていかに。 シテ「さらば帝の御歌を。詠吟せさせ給ふべし。 ワキ「不審ながらも指し上げて。雲の上はありし昔にかはらねど。 見し玉だれの。内やゆかしき。 シテ詞「さればこそ内やゆかしきを引きのけて。内ぞゆかしきとよむ時は。 小町がよみたる返歌なり。 ワキ「さて古もかゝるためしのあるやらん。 シテ「なう鸚鵡返といふことは。地歌「この歌の様を申すなり。 帝の御歌をばひ参らせてよむ時は天の恐もいかならん。 和歌の道ならば神もゆるしおはしませ。貴からずして。 高位に交はるといふこと。たゞ和歌の徳とかや/\。 地クリ「それ歌の様をたづぬるに。 長歌短歌旋頭(せんどう)歌。折句誹諧混本歌(こんぼんか)鸚鵡返。 廻文歌なり。 シテサシ「なかんづく鸚鵡返といふこと。唐土に一つの鳥あり。 地「その名を鸚鵡といへり。人のいふ言葉を受けて。

即ちおのが囀(さへづり)とす。何ぞといへば何ぞと答ふ。 鸚鵡の鳥の如くに。歌の返歌も。かくの如くなれば。 鸚鵡がへしとは申すなり。クセ「実にや歌の様。 語るにつけ古のなほ思はるゝはかなさよ。 されば来し方の。代々の集(あつめ)の歌人の。 その多くある中に。今の小町は妙なる花の色好み。 歌の様さへ。女にて唯弱々とよむとこそ家々の。 書伝にも記し置き給へり。 シテ「和歌の六義を尋ねしにも。 地「小町が歌をこそ唯事歌(ことうた)のためしに。 引くのみか我ながら。美人の形も世に勝れ。余情の花と作られ。 桃花雨を帯び。柳髪風にたをやかなり。 紫笋はなほ動きほこり梨花は名のみなりしかど。 今憔悴と落ちぶれて。身体疲瘁する小町ぞ。あはれなりける。 ワキ詞「いかに小町。業平玉津島にての法楽の舞をまなび候へ。 シテ詞「さても業平玉津島に参り給ふと聞えしかば。

我も同じく参らんと。都をばまだ夜をこめて稲荷山。葛葉の里も浦近く。 和歌吹上にさしかかり。地「玉津島に参りつゝ。/\。 業平の舞の袖。思ひ廻らす信夫摺(しのぶずり)木賊色(とくさいろ)の狩衣に。 大紋の袴の稜(そば)を取り。風折烏帽子召されつゝ。シテ「和光の光玉津島。 地「廻らす袖や。波がへり。序ノ舞「。 シテ「和歌の浦に。汐満ち来れば。かたを浪の。 地「芦辺をさして。田鶴鳴き渡る鳴き渡る。シテ「立つ名もよしなや忍音の

。 地「立つ名もよしなや忍音の。月には愛でじ。 シテ「これぞこの。地「積れば人の。シテ「老となるものを。 地「かほどに早き光の陰の。時人を待たぬ。習とは白波の。 シテ「あら恋しの昔やな。地「かくてこの日も暮れて行くまゝに。 さらばと云ひて。行家都に帰りければ。 シテ「小町も今は。これまでなりと。 地「杖にすがりてよろ/\と。立ち別れ行く袖の涙。 立ち別れ行く袖の涙も関寺の。柴の菴に。帰りけり 岩戸山の僧 老女 桧垣嫗の霊

。 ワキ詞「これは肥後の国岩戸と申す山に居住の僧にて候。さても此岩戸の観世音は。 霊験殊勝の御事なれば。 暫く参籠し処の致景を見るに。 南西は海雲漫々として万古心の内なり。人稀にして慰多く。

致景あつて郷里を去る。 誠に住むべき霊地とと思ひて。三年が間は居住仕つて候。 詞「ここに又百にも及ぶらんとおぼしき老女。 毎日閼伽の水を汲みて来り候。 今日も来りて候はゞ。

いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ次第「影白河の水汲めば。/\。 月も袂や濡らすらん。 サシ「それ籠鳥は雲を恋ひ。帰雁は友をしのぶ。 人間もまたこれ同じ。貧家には親知少なく。 賎しきには故人疎し。老悴衰へ形もなく。 露命きはまつて霜葉に似たり。 下歌「流るゝ水のあはれ世のその理を汲みて知る。 上歌「こゝは処も白河の。/\。水さへ深き其罪を。 浮びやすると捨人に。値遇を運ぶ足引の。 山下庵に着きにけり。 山下庵に着きにけり。 詞「いつもの如く今日もまた御水あげて参りて候。ワキ「毎日老女の歩返す%\も痛はしうこそ候へ。 シテ「せめてはかやうの事にてこそ。 少しの罪をも遁るべけれ。亡からん跡を。弔ひ給ひ候へ。 。 詞「明けなば又参り候ふべし御暇申し候はん。ワキ「暫く。 御身の名を名乗り給へ。シテ「何と名を名乗れと候ふや。

ワキ「なか/\の事。 シテ「これは思もよらぬ仰かな。かの後撰集の歌に。 年ふれば我が黒髪も白河の。 詞「みつはぐむまで老いにけるかなと。詠みしもわらはが歌なり。 昔筑前の太宰府に。 庵に桧垣しつらひて住みし白拍子。 後には衰へて此白河の辺に住みしなり。ワキ「実にさる事を聞きしなり。 その白河の庵のあたりを。 藤原の興範通りし時。 シテ「水やあると乞はせ給ひし程に。その水汲みて参らするとて。 ワキ「みづはくむとは。シテ「よみしなり。 地「そもみづはくむと申すは。/\。 唯白河の水にはなし。 老いて屈める姿をばみつはぐむと申すなり。そのしるしをも見給はゞ。 かの白河の辺にて。 我が跡弔ひてたび給へと夕まぐれして。 失せにけり夕まぐれして失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては古の桧垣の女仮に現れ。 我に言葉をかはしけるぞや。

一つは末世の奇特ぞと。思ひながらも尋ね行けば。 歌「不思議や早く日も暮れて。/\。 河霧深く立ちこもる。陰に庵の燈の。 ほのかに見ゆる。 不思議さよほのかに見ゆる不思議さよ。 後シテ「あら有難の弔やな。/\。 風緑野に収つて煙条直し。 雲岸頭に定まつて月桂円なり。朝に紅顔あつて。 世路に楽むといへども。 地「夕には白骨となつて郊原に朽ちぬ。シテ「有為の有様。 地「無常のまこと。シテ「誰か生死の理を論ぜざる。 地「いつを限る習ぞや。 老少といつぱ分別なし。変るを以て期とせり誰か必滅を。 期せざらん誰かはこれを期せざらん。 。 ワキ「不思議やな声を聞けばありつる人なり。同じくは姿を現し給ふべし。 御跡とひて参らせん。 シテ「さらば姿を現して。御僧の御法を受くべきなり。 人にな現し給ひそとよ。

ワキ「なか/\に人に現す事あるまじ。早々姿を見え給へ。 シテ「涙曇りの顔ばせは。 それとも見えぬ衰を。誰白河のみつはぐむ。 老の姿ぞ恥かしき。ワキ「あら痛はしの御有様やな。 今も執心の水を汲み。 輪廻の姿見え給ふぞや。早々浮び給へ。 シテ詞「我古は舞女の誉世に勝れ。その罪深き故により。 今も苦をみつ瀬河に。熱鉄の桶を荷ひ。 猛火の釣瓶を提げて此水を汲む。 其水湯となつて我が身を焼く事隙もなけれども。 詞「此程は御僧の値遇に引かれて。 釣瓶はあれども猛火はなし。 ワキ「さらば因果の水を汲み。其執心を振り捨てゝ。とく/\浮び給ふべし。シテ詞「いで/\さらば御僧のため。このかけ水を汲み乾さば。 罪もや浅くなるべきと。 ワキ「思も深き小夜衣の。袂の露の玉だすき。 シテ「影白河の月の夜に。ワキ「底澄む水を。 シテ「いざ汲まん。地次第「釣瓶の水に影落ちて。

袂を月や上るらん。 地クリ「それ残星の鼎には北渓の水を汲み。 後夜の炉には南嶺の。柴を焚く。 シテサシ「それ氷は水より出でて水よりも寒く。 地「青き事藍より出でて藍より深し。 もとの憂き身の報ならば。今の苦去りもせで。 シテ「いや増さりぬる思の色。 地「紅の涙に身を焦がす。 クセ「釣瓶の懸縄繰り返し憂き古も。紅花の春のあした黄葉の秋の。 夕暮も一日の夢と早なりぬ。 紅顔の粧舞女のほまれもいとせめて。 さも美しき紅顔の。翡翠のかづら花しをれ。 桂の眉も霜降りて。水にうつる面影老衰。 影沈んで。緑に見えし黒髪は土水の藻屑塵芥。 変りける。身の有様ぞ悲しき。 実にやありし世を。思ひ出づればなつかしや。 其白河の波かけし。シテ「藤原の興範の。 。 地「そのいにしへの白拍子いま一節とありしかば。昔の花の袖今更色も麻衣。

短き袖を返し得ぬ心ぞつらき陸奥の。 けふの細布胸合はず。 何とか白拍子その面影のあるべき。よし/\それとても。 昔手馴れし舞なれば。舞はでも今は叶ふまじと。 シテ「興範しきりに宣へば。 地「浅ましながら麻の袖。露うち払ひ舞ひ出す。 シテ「桧垣の女の。地「身の果を。 序ノ舞「。 シテ「水掬ぶ。釣瓶の縄の釣瓶の縄の。 繰り返し。地「昔に帰れ白河の波。 白河の波白河の。シテ「水のあはれを知る故に。 これまで現れ出でたるなり。 地「運ぶ芦田鶴の。ねをこそ絶ゆれ浮草の。 水は運びて。 参らする罪を浮べてたび給へ罪を浮べてたび給へ 旅僧(又ハ男) 里の女 老女の霊

ワキ次第「月の名近き秋なれや。/\姨捨山を尋ねん。詞「かやうに候ふ者は。 都方に住居仕る者にて候。 我未だ更科の月を見ず候ふほどに。 此秋思ひ立ち姨捨山へと急ぎ候。道行「此程の。しばし旅居の仮枕。 /\。また立ちいづる中宿の。 明かし暮らして行く程に。こゝぞ名におふ更科や。 姨捨山に着きにけり/\。 詞「さても我姨捨山に来て見れば。 嶺平らかにして万里の空も隔なく。千里に隈なく月の夜。 さこそと思ひやられて候。 いかさま此処に休らひ。今宵の月を眺めばやと思ひ候。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる旅人は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ詞「さん候これは都の者にて候ふが。はじめてこの処に来りて候。

さて/\御身はいづくに住む人ぞ。 シテ「これはこの更科の里に住む者にて候。 今日は名におふ秋の半。 暮るゝを急ぐ月の名の。殊に照り添ふ天の原。 くまなき四方の景色かな。 いかに今宵の月の面白からんずらん。 ワキ「さては更科の人にてましますかや。さて/\古姨捨の。 在所はいづくの程にて候ふぞ。 シテ「姨捨山のなき跡と。問はせ給ふは心得ぬ。 我が心慰めかねつ更科や。 詞「姨捨山に照る月を見てと。詠ぜし人の跡ならば。 これに木高き桂の木の。蔭こそ昔の姨捨の。 其なき跡にて候へとよ。 ワキ「さては此木の蔭にして。捨て置かれにし人の跡の。 シテ詞「其まま土中に埋草。かりなる世とて今は早。

ワキ「昔語になりし人の。 なほ執心や残りけん。シテ「なき跡までも何とやらん。 ワキ「もの凄じき此原の。 シテ「風も身にしむ。ワキ「秋の心。地歌「今とても。 慰めかねつ更科や。/\。姨捨山の夕暮に。 松も桂もまじる木の。 緑も残りて秋の葉のはや色づくか一重山。薄霧も立ちわたり。 風冷まじく雲尽きてさびしき山の。 けしきかな。さびしき山のけしきかな。 シテ詞「旅人はいづくより来り給ふぞ。 ワキ「されば以前も申すごとく。 都の者にて候ふが。更科の月を承り及び。 始めてこの処に来りて候ふよ。 シテ「さては都の人にてましますかや。 さあらば妾も月と共に。現れ出でて旅人の。 夜遊を慰め申すべし。ワキ「そもや夜遊を慰めんとは。 御身はいかなる人やらん。 シテ「誠は我は更科の者。ワキ「さていまは又いづ方に。 シテ「住家といはんは此山の。

ワキ「名にしおひたる。シテ「姨捨の。 地歌「それといはんも恥かしや。/\。 その古も捨てられて。只一人此山に。 澄む月の名の秋毎に執心の闇を晴らさんと。 今宵現れ出でたりと。 夕陰の木の本にかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ待謡「夕陰過ぐる月影の。/\。 はや出で初めて面白や万里の空も隈なくて。 いづくの秋も隔なき。 心もすみて夜もすがら。三五夜中の新月の色。 二千里の外の古人の心。 後シテ一声「あら面白のをりからやな。 あら面白のをりからや。 明けば又秋の半も過ぎぬべし。今宵の月の惜しきのみかは。 さなきだに秋待ちかねてたぐひなき。 名を望月の見しだにも。 おぼえぬ程に隈もなき姨捨山の秋の月。余りに堪へぬ心とや。 昔とだにも思はぬぞや。

ワキ「不思議やなはや更けすぐる月の夜に。 白衣の女人現れ給ふは。夢か現か覚束な。 シテ詞「夢とはなどや夕暮に。 現れ出でし老の姿。恥しながら来りたり。 ワキ「何をか包み給ふらん。もとより処も姨捨の。 シテ「山は老女が住処の。 ワキ「昔に帰る秋の夜の。シテ「月の友人円居して。 ワキ「草を敷き。シテ「花に起き臥す袖の露の。 二人「さも色々の夜遊の人に。 いつ馴れそめてうつゝなや。 地歌「盛ふけたる女郎花の。/\。草衣しをたれて。 昔だに捨てられしほどの身を知らで。 又姨捨の山に出でて。面を更科の。 月に見ゆるも恥かしや。よしや何事も夢の世の。なか/\いはじ思はじや。 思草花にめで月に染みて遊ばん。 地クリ「実にや興にひかれて来り。 興尽きて帰りしも。今のをりかと知られたる。 今宵の空の気色かな。

シテサシ「然るに月の名所。いづくはあれど更科や。 地「姨捨山の曇なき。一輪満てる清光の影。 団々として海〓{新字源2030:けう}を離る。シテ「しかれば諸仏の御誓。 。 地「いづれ勝劣なけれども超世の悲願あまねき影。弥陀光明に。如くはなし。 クセ「さるほどに。三光西に行くことは。 衆生をして西方に。 すゝめ入れんが為とかや。月はかの如来の右の脇士として。 有縁を殊に導き。 重き罪を軽んずる天上の力を得る故に。大勢至とは号すとか。 天冠の間に。花の光かゝやき。 玉の台の数数に。他方の浄土をあらはす。 玉珠楼の風の音糸竹の調とり%\に。 心ひかるゝ方もあり。蓮色々に咲きまじる。 宝の池の辺に。立つや並木の花散りて。 芬芳しきりに乱れたり。 シテ「迦陵頻伽のたぐひなき。地「声をたぐへてもろともに。 孔雀鸚鵡の。同じく囀る鳥のおのづから。 光も影もおしなべて。

至らぬ隈もなければ無辺光とは名づけたり。然れども雲月の。 ある時は影満ち。又ある時は影闕くる。 有為転変の。世の中の定のなきを示すなり。 シテ「昔恋しき夜遊の袖。序ノ舞「。 シテワカ「我が心なぐさめかねつ。更科や。 地「姨捨山に照る月を見て照る月を見て。シテ「月に馴れ。 花に戯るゝ秋草の。露の間に。 地「露の間に。なか/\何しにあらはれて。 胡蝶の遊。シテ「戯るゝ舞の袖。地「返せや返せ。

シテ「昔の秋を。 地「思ひ出でたる妄執の心。やる方もなき。今宵の秋風。 身にしみじみと。恋しきは昔。 しのばしきは閻浮の。秋よ友よと。思ひ居れば。 夜も既にしら/\とはやあさまにもなりぬれば。 我も見えず旅人も帰るあとに。 シテ「ひとり捨てられて老女が。 地「昔こそあらめ今も又姨捨山とぞなりにける。 姨捨山とぞなりにける 千満の母 稚児千満 三井寺住僧 従僧 狂女(千満の母)

シテサシ「南無や大慈大慈の観世音さしも草。 さしもかしこき誓の末。 一称一念なほ頼あり。ましてやこの程日を送り。 夜を重ねたる頼の末。 などかそのかひなからんと。思ふ心ぞあはれなる。 下歌「憐れみ給へ思ひ子の。行末なにとなりぬらん/\。 上歌「枯れたる木にだにも。/\。 花咲くべくはおのづから。 いまだ若木のみどり子に。再びなどか。 逢はざらん再びなどか逢はざらん。詞「あら有難や候。 少し睡眠{すいめん}の内に。 あらたなる霊夢を蒙りて候ふは如何に。妾を何時も訪ひ慰むる人の候。 あはれ来り候へかし語らばやと思い候。 狂言シカ%\「。シテ詞「唯今少し睡眠の内に。

新たなる御霊夢を蒙りて候。 我が子に逢はんと思はゞ。 三井寺へ参れと新たに御霊夢を蒙りて候。狂言シカ%\「。 シテ詞「あら嬉しと御合はせ候ふものかな。 告に任せて三井寺とやらんへ参り候ふべし。中入「。 ワキ、ワキツレ三人次第「秋も半の暮待ちて。/\。 月に心や急ぐらん。 ワキ詞「これは江州園城寺の住僧にて候。又是に渡り候ふ幼き人は。 愚僧を頼む由仰せ候ふ間。 力なく師弟の契約をなし申して候。 又今夜は八月十五夜名月にて候ふ程に。幼き人を伴い申し。 。 皆々講堂の庭に出でて月を眺めばやと存じ候。 四人上歌「類なき。名を望月の今宵とて。 /\。夕を急ぐ人心。

知るも知らぬも諸共に。雲を厭ふやかねてより。 月の名頼む。日影かな月の名頼む日影かな。 後シテ一声「雪ならば幾度袖を払はまし。 花の吹雪と詠じけん志賀の山越うち過ぎて。 眺の末は湖の。鳰(にほ)照る比叡の山高み。 上見ぬ鷲の御山(おやま)とやらんを。 今目の前に拝む事よ。あら有難の御事や。 詞「かやうに心あり顔なれども。我は物に狂ふよなう。 いや我ながら理なり。あの鳥類や畜類だにも。 親子の哀は知るぞかし。ましてや人の親として。 いとほし悲しと育てつる。 一セイ「子の行方(ゆくへ)をも白糸の。地「乱心や狂ふらん。 カケリシテ「都の秋を捨てゝ行かば。地「月見ぬ里に。 住みや習へるとさこそ人の笑はめ。よし花も紅葉も。 月も雪も故郷に。我が子のあるならば。 田舎も住みよかるべし。いざ故郷に帰らんいざ故郷に帰らん。 帰ればさゝ波や志賀辛崎の一つ松。緑子の類ならば。

松風に言問はん。松風も。今は厭はじ桜咲く。 春ならば花園の。里をも早く杉間吹く。 風冷ましき秋の水の。 三井寺に着きにけり三井寺に早く着きにけり。 ワキ「桂は実る三五の暮。名高き月にあこがれて。 庭の木陰に休らへば。シテ「実に/\今宵は三五夜中の新月の色。 二千里の外の故人の心。水の面に照る月なみを数ふれば。 秋も最中夜も半。所からさへ面白や。 地歌「月は山。風ぞ時雨に鳰の海。/\。 波も粟津の森見えて。 海越しの幽(かすか)に向ふ影なれど月はますみの鏡山。 山田矢走(やばせ)の渡舟の夜は通ふ人なくとも。 月の誘はゞおのづから。 船もこがれて出づらん舟人もこがれ出づらん。狂言シカ%\。 シテ詞「面白の鐘の音やな。 我が故郷にては清見寺の鐘をこそ常に聞き馴れしに。 是は又さゝ波や。三井の古寺鐘はあれど。 詞「昔に帰る声は聞えず。

誠や此鐘は秀郷とやらんの龍宮より。 取りて帰りし鐘なれば。龍女が成仏の縁に任せて。 妾も鐘を撞くべきなり。 地次第「影はさながら霜夜にて。/\。月にや鐘はさえぬらん。 ワキ詞「やあ/\暫く。 狂人の身にて何とて鐘をば撞くぞ急いで退き候へ。 シテ詞「夜庾公(よるゆこう)が楼に登りしも。 月に詠ぜし鐘の音なり許さしめ。 ワキ「それは心有る古人の言葉。狂人の身として鐘撞くべきこと。 思も寄らぬ事にてあるぞとよ。 シテ「今宵の月に鐘撞くこと。狂人とてな厭ひ給ひそ或る詩に曰く。 団々として海嬌を離れ。冉々として雲衢を出づ。 此後句なかりしかば。明月に向かつて心を澄まいて。 今宵一輪満てり。清光何れのところにか無からんと。 詞「此句を設けて余りの嬉しさに心乱れ。高楼に登つて鐘を撞く。 人々如何にと咎めしに。これは詩狂と答ふ。 かほどの聖人なりしだに。月には乱るゝ心有り。

鏡ノ段「ましてや拙なき狂女なれば。 地「許し給へや人々よ。煩悩の。夢を覚ますや。 法の声も静かに先(まづ)初夜の鐘を撞く時は。 シテ「諸行無常と響くなり。地「後夜の鐘を撞く時は。 シテ「是生滅法と響くなり。地「晨朝の響は。 シテ「生滅滅(しやうめつめつに)已。地「入相は。シテ「寂滅。 地「為楽と響きて菩提の道の鐘の声。月も数添ひて。 百八煩悩の眠りの。驚く夢の夜の迷も。 はや盡きたりや後夜の鐘に。我も五障の雲晴れて。 真如の月の影を眺め居りて明かさん。 地クリ「夫れ長楽の鐘の声は。花の外に盡きぬ。 シテ「また龍池(りやうち)の柳の色は。地「雨の内に深し。 シテサシ「其外こゝにも世々の人。言葉の林の兼ねて聞く。 地「名も高砂の尾上の鐘。暁かけて秋の霜。 曇るか月もこもりくの初瀬も遠し難波寺。 シテ「名所多き。鐘の音。地「盡きぬや法の声ならん。 クセ「山寺の。

春の夕暮れ来てみれば入相の鐘に。花ぞ散りける。 実に惜めどもなど夢の春と暮れぬらん。そのほか暁の。 妹背を惜むきぬ%\の。 恨を添ふる行方にも枕の鐘や響くらん。 また待つ宵に。更け行く鐘の声聞けば。 明かぬ別(わかれ)の鳥は。物かはと詠ぜしも。 恋路の便の音信(おとづれ)の声と聞くものを。又は老いらくの。 寝覚程ふる古を。今思ひ寝の夢だにも。 涙心のさびしさに。此鐘のつく%\と。 思ひを盡す暁をいつの時にかくらべまし。 シテ「月落ち鳥鳴いて。地「霜天に満ちて。 冷ましく江村の漁火もほのかに。半夜の鐘の響は。客の船にや。 通ふらん蓬窓(ほうそう)雨したゞりて馴れし汐路の楫(かぢ)枕。 浮寝ぞ変るこの海は。波風も静かにて。 秋の夜すがら。月すむ三井寺の。鐘ぞさやけき。 子詞「如何に申すべき事の候。ワキ詞「何事にて候ふぞ。 子「これなる物狂の国里を問うて賜はり候へ。

ワキ「これは思もよらぬことを承り候ものかな。 さりながら易き間の事尋ねて参らせうずるにて候。 如何にこれなる狂女。おことの国里は何くの者にてあるぞ。 シテ「これは駿河の国清見が関の者にて候。 子「何なう清見が関の者と申し候ふか。 シテ詞「あら不思議や。今の物仰せられつるは。 正しく我が子の千満(せんみつ)殿ごさめれ。あら珍しや候。 ワキ「暫く。是なる狂女は粗忽なる事を申すものかな。 さればこそ物狂にて候。 シテ「なうこれは物には狂はぬものを。物に狂ふも別故。 逢ふ時は何しに狂ひ候ふべき。是は正しき我が子にて候。 ツレ「さればこそ我が子と申すが筋なき事と申し候。 急いで退(の)き給へ。 子「あら悲しやさのみな御打ち候ひそ。ワキ「言語道断。 早色に出で給ひて候。此上はまつすぐに御名乗り候へ。 子「今は何をか包むべき。我は駿河の国。 清見が関の者なりしが。

人商人(ひとあきびと)の手に渡り。今此寺に在りながら。 母上我を尋ね給ひて。かやうに狂ひ出で給ふとは。 夢にも我は知らぬなり。 シテ「又妾も物に狂ふ事。あの兒に別れし故なれば。 たまたま逢ひ見る嬉しさのまゝ。 やがて母よと名のる事。我が子の面伏(おもてぶせ)なれど。 子故に迷ふ親の身は。恥も人目も思はれず。 ロンギ地「あら痛はしの御事や。よそ目も時によるものを。 逢ふを喜び給ふべし。シテ「嬉しながらも衰ふる。 姿はさすがはづかしの。漏りて余れる涙かな。

地「実に逢ひ難き親と子の。縁は盡きせぬ契とて。 シテ「日こそ多きに今宵しも。地「此三井寺に廻り来て。 シテ「親子に逢ふは。地「何故ぞ。 此鐘の声立てゝ物狂のあるぞとて御咎ありしゆゑなれば。 常の契には。別の鐘と厭ひしに。親子のための契には。 鐘故に逢ふ夜なり嬉しき。鐘の声かな。 キリ地「かくて伴ひ立ち帰り。/\。 親子の契盡きせずも。 富貴の家となりにけり。実に有難き考行の。 威徳ぞめでたかりける威徳ぞ。めでたかりける 人商人 磯部寺の住僧 従僧 里人 桜子の母 桜子

男詞「かやうに候ものは。 東国方の人商。 人にて候。我久しく京に候ひしが。此度。 は筑紫日向に罷り下りて候。又昨日の暮。

程に幼き人を買ひ取りて候。彼の人申さ。 れ候ふは。此文と身の代とを。桜の馬場の。 西にて桜子の母と尋ねて。確に届けよと。 仰せ候程に。唯今桜子の母の方へと急。

ぎ候。此あたりにてにてありけに候。先々案。 内を申さばやと存じ候。いかに案内申し。 候。桜子の母の渡り候ふか。シテ詞「誰にて。 渡り候ふぞ。男「さん候桜子の御方より。 御文の候。又此代物をたしかに届け申せ。 と仰せ候ふ程に。是まで持ちて参りて候。。 かまひてたしかに届け申すにて候。。 シテ「あら思ひよらずや。先々文を見うずるに。て候。文「さても/\この年月の御有様。。 見るも余りの悲しさに。詞「人商人に身を。 売りて東の方へ下り候。なう其子は売る。 まじき子にて候ふものを。や。あら悲し。 や。早今の人も行方知らずなりて候ふは。 いかに。これを出離の縁として。御様を。も変へ給ふべし。唯返す/\も御名残こ。 そ惜しう候へ。地下歌「名残をしくは何しに。 か添はで母には別るらん。上歌「独り伏屋。の草の戸の。/\。明かし暮らして。憂。 き時も子を見ればこそ慰むに。さりとて。

は我が頼む。神も木花咲耶姫の。御氏子なるものを桜子留めてたび給へ。 さなぎだに住みうかれたる故郷の。 今は何にか明暮を。堪へて住むべき身ならねば。 我が子の行くへ尋ねんと。泣く/\迷ひ出でて行く/\。 。ワキワキツレ二人次第「頃待ち得たる桜狩/\山路の春に急がん。 ワキ詞「これは常陸の国磯部寺の住僧にて候。 又これに渡り候ふ幼き人は。 何くとも知らず愚僧を頼む由仰せ候ふ程に。師弟の契約をなし申して候ふ。 又此辺に桜川とて花の名所の候。 今を盛のよし申し候ふ程に。幼き人を伴ひ。 たゞ今桜川へと急ぎ候ふ。歌三人「筑波山。 此面彼面の花盛。/\。雲の林の影茂き。 緑の空もうつろうふや松の葉色も春めきて。 嵐も浮ぶ花の波。桜川にも着きにけり/\。 ワキツレ詞「いかに申し候ふ。 何とて遅く御出で候ふぞ待ち申して候。 ワキ詞「さん候皆々御伴申し候ふ程に。さて遅なはりて候。

あら見事や候。花は今を盛と見えて候。 。ワキツレ「なか/\のこと花は今が盛にて候。又こゝに面白き事の候。 女物狂の候ふが。美しきすくひ網を持ちて。 桜川に流るゝ花をすくひ候ふが。 けしからず面白う狂ひ候。これに暫く御座候ひて。 此物狂を幼き人にも見せ参らせられ候へ。 ワキ「さらば其物狂を此方へ召され候へ。 ワキツレ「心得申し候。やあ/\かの物狂に。いつもの如くすくひ網を持ちて。 此方へ来れと申し候へ。 後シテ一声「いかにあれなる道行人。 桜川には花の散り候ふか。 詞「何散方になりたるとや。悲しやなさなきだに。 行く事やすき春の水の。流るゝ花をや誘ふらん。 花散れる水のまに/\とめくれば。 山にも春はなくなりにけりと聞く時は。 少しなりとも休らはゞ。花にや疎く雪の色。桜花。 桜花。カケリ「散りにし風の名残には。

地「水なき空に。波ぞ立つ。 シテ「おもひも深き花の雪。地「散るは涙の。川やらん。 シテサシ「これに出でたる物狂の。 故郷は筑紫日向の者。さも思子を失ひて。 思ひ乱るゝ心筑紫の。海山越えて箱崎の。 波立ち出でて須磨の浦。 又は駿河の海過ぎて常陸とかやまで下り来ぬ。 実にや親子の道ならずは。はるけき旅を。如何にせん。 詞「こゝに又名に流れたる桜川とて。 さも面白き名所あり。別れし子の名も桜子なれば。 形見といひ折柄といひ。 名もなつかしき桜川に。地下歌「散り浮く花の雪を汲みて。自ら。 花衣の春の。形見残さん。上歌「花鳥の。 立ちわかれつゝ親と子の。/\。 行くへも知らで天ざかる。鄙の長路に衰へば。 。 たとひ逢ふとも親と子の面忘れせば如何ならん。うたてや暫しこそ。 冬ごもりして見えずとも。 今は春べなるものを我が。

子の花はなど咲かぬ我が子の花など咲かぬ。 ワキ詞「此物狂の事にて有りげに候。 立ち寄りて尋ねばやと思ひ候。 いかにこれなる狂女。おことの国里は何くの人ぞ。 シテ詞「これは遥の筑紫の者にて候。 。 ワキ「それは何とてかやうに狂乱とはなりたるぞ。 シテ「さん候唯一人ある忘形見の緑子に生きて離れて候ふ程に。 思が乱れて候。ワキ「あら痛はしや候。 又見申せば美しきすくひ網を持ち。 流るゝ花をすくひ。 あまつさへ渇仰の気色見え給ひて候ふは。何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さん候我が故郷の御神をば。 木花咲耶姫と申して。御神体は桜木にて御入り候。 されば別れし我が子も其御氏子なれば。 桜子と名づけ育てしかば。 神の御名も咲耶姫。尋ぬる子の名も桜子にて。 又此川も桜川の。名も懐しき。花の塵を。 あだにもせじと思ふなり。

ワキ「謂を聞けば面白や。実に何事も縁は有りけり。 さばかり遠き筑紫より。此東路の桜川まで。 下り給ふも縁よなう。 シテ詞「先此川の名におふ事。遠きにつきての名誉あり。 彼の貫之が歌はいかに。ワキ「実に/\昔の貫之も。 遥けき花の都より。 シテ「いまだ見もせぬ常陸の国に。ワキ「名も桜川。 シテ「有りと聞きて。地歌「常よりも。 春べになれば桜川。/\。波の花こそ。 間もなく寄すらめ。 とよみたれば花の雪も貫之もふるき名のみ残る世の。桜川。 瀬々の白波しけければ。霞うながす信太の浮島の浮かべ/\水の花げにおもしろき。 河瀬かなげに面白き河瀬かな。 ワキ詞「いかに申し候。 此物狂は面白う狂ふと仰せ候ふが。 今日は何とて狂い候はぬぞ。男「さん候狂はする様が候。 桜。 川に花の散ると申し候へば狂い候ふ程に。狂はせて御目にかけうするにて候。

ワキ「急いで。御狂はせ候へ。 ワキツレ「心得申し候。あら笑止や。 俄かに山颪のして桜川に花の散り候ふよ。 シテ「よしなき事を夕山風の。奥なる花を誘ふごさめれ。 流れぬさきに花すくはん。ワキ「実に/\見れば山おろしの。木々の梢に吹き落ちて。 シテ「花のみかさは白妙の。 ワキ「波かと見れば上より散る。シテ「桜か。ワキ「雪か。 シテ「波か。ワキ「花かと。シテ「浮き立つ雲の。 ワキ「河風に。地次第「散ればぞ波も桜川。 /\。流るゝ花をすくはん。 シテ「花の下に。帰らんことを忘れ水の。 地「雪を受けたる。花の袖。イロエ「。 シテクリ「それ水流花落ちて春。 とこしなへにあり。 地「月すさましく風高うして鶴かへらず。シテサシ「岸花紅に水を照らし。 洞樹緑に風を含む。 地「山花開けて錦に似たり。澗水たゝへて藍の如し。 シテ「面白や思はずこゝに浮れ来て。

地「名もなつかしみ桜川の。一樹の陰一河の流。 汲みて知る名も所から。合ひにあひなば桜子の。 これ又他生の縁なるべし。 クセ「実にや年を経て。花の鏡となる水は。 散りかゝるをや。曇るといふらん。 まこと散りぬれば。後は芥になる花と。 思ひ知る身もさていかに。 われも夢なるを花のみと見るぞはかなき。されば梢より。 あだに散りぬる花なれば。 落ちても水のあはれとはいさ白波の花にのみ。 馴れしも今は先だたぬ悔の八千度百千鳥。 花に馴れ行くあだし身は。はかなき程に羨まれて。 霞を憐れみ露を悲しめる心なり。 シテ「さるにても。名にのみ聞きて遥々と。 地「思ひ渡りし桜川の。波かけて常陸帯の。 かごとばかりに散る花を。 あだになさじと水をせき雪をたゝへて浮波の。 花の柵かけまくも。かたじけなしやこれとでも。 木花耶姫の御神木の花なれば。

風もよぎて吹き水も影を濁すなと。 袂を浸し裳裾をしをらかして。花によるべの。 水せきとめて。桜川になさうよ。シテ「あたら桜の。 地「あたら桜の。とがは散るぞ恨みなる。 花も憂し風もつらし。散れば誘ふ。 シテ「誘へば散る花かづら。 地「かけてのみ眺めしは。シテ「なほ青柳の糸桜。 地「霞の間には。シテ「樺桜。地「雲と見しは。 シテ「みよし野の。地「みよし野の。/\。 川淀滝つ波の。花をすくはゞ若し。 国栖魚やかからまし。又は桜魚と。 聞くもなつかしや。いづれも白妙の。花も桜も。 雪も波もみながらに。すくひ集め持ちたれども。 これは木々の花誠は我が尋ぬる。 桜子ぞ恋しき我が桜子ぞこひしき。 ロンギ地「いかにやいかに狂人の。

言の葉聞けば不思議やな。 若しも筑紫の人やらん。シテ「今までは。 誰ともいさや知らぬ火の。 筑紫人かと宣ふは何の御為に問ひ給ふ。地「何をか今は包むべき。 親子の契朽ちもせぬ。花桜子ぞ御覧ぜよ。 シテ「桜子と。/\。聞けば夢かと見もわかず。 いづれ我が子なるらん。 地「三年の日数程ふりて。別も遠き親と子の。 シテ「もとの姿はかはれども。 地「さすが見馴れし面だてを。シテ「よく/\見れば地「桜子の。 花の顔ばせの。子は子なりけり鶯の。 逢ふ時も泣く音こそうれしき涙なりにけれ。 キリ地「かくて伴ひ立ちかへり。/\。 母をも助け様変へて。 仏果の縁となりにけり。二世安楽の縁深き。 親子の道ぞありがたき/\ 小太郎 善光寺の住僧 花若 母(後ハ狂女)。

ワキ次第「夢路も添ひて故郷に。/\。 帰るや現なるらん。 詞「これは越後の国柏崎殿の御内(みうち)に。小太郎と申す者にて候。 さても頼み奉りし人は。訴訟の事候ひて。 在鎌倉にて御座候ひしが。 唯かりそめに風の心地と仰せ候ひて。 程なく空しくなり給ひて候。又御子息花若殿も。 同じく在鎌倉にて御座候ひしが。 父御の御別を歎き給ひ。何処ともなく御遁世にて候。 さる間花若殿の御文に。 御形見の品々を取りそへ。たゞ今故郷柏崎へと急ぎ候。 道行「乾しぬべき。 日影も袖やぬらすらん。/\今行く道は雪の下。 一通り降る村時雨。山の内をも過ぎ行けば。 袖さえまさる旅衣。碓氷の峠うち過ぎて。 越後に早く。 着きにけり越後に早く着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。 故郷柏崎に着きて候。

まづ/\案内を申さうするにて候。いかに申し候。 鎌倉より小太郎がまゐりて候それ/\御申し候へ。 シテ詞「なに小太郎とは。もし殿の御帰ありたるか。 あらめづらしや何とて物をば申さぬぞ。 ワキ「さん候これまでは参りて候へども。 何と申し上ぐべきやらん。 更に思ひも弁へず候。シテ「あら心もとなや。 物をば申さでさめ%\と泣くは。 さて花若が方に何事かある。 ワキ「さん候花若殿は御遁世にて御座候。 シテ「何と花若殿が遁世したるとは。さては父の叱りけるか。 など追手をばかけざりしぞ。 ワキ「いやさやうにも御座なく候。 様々の御形見の物を持ちて参りて候。シテ「何さま%\の形見とは。 さては花若が父の空しくなりたるな。 此程はそなたの風もなつかしく。 便もうれしかりつるに。形見を届くる音信(おとづれ)は。 中々聞きても恨めしきぞや。 たゞ仮初に立ち出でて。やがてと言ひし其主(ぬし)は。

地「昔語に早なりて形見を見るぞ涙なる。 シテロンギ「さてや最期の折節は。 いかなる事か宣ひし。委しく語り。 おはしませせめては聞いて慰まん。 ワキ「唯故郷の御事を。おぼつかなく思し召し。 御最期までも人知れずひそかに御諚(ごじやう)ありしなり。 シテ「実にやさこそはおはすらめ。 三年(みとせ)離れて其後は。 我も御名残いつの世にかは忘るべき。ワキ「御ことわりと思へども。 歎をとゞめおはしまし形見を御覧候へ。シテ「実にや歎きても。 かひなき世ぞと思へば。 地「形見を見るからにすゝむ涙はせきあへず。 ワキ詞「花若殿の御文の候。 これを御覧候へ。シテ文「さても/\父御前。 労(いた)はりつかせ給ひ。程なく空しくなり給へば。 心の中(うち)の悲しさは。唯おぼしめしやらせ給へ。 我も帰りて御ありさま。 見参らせたくは候へども。思ひ立ちぬる修行の道。

もしや止められ申さんと。思ふ心を便にて。 心づよくも出づるなり。 命つれなく候はば。三年が内には参るべし。 様々の形見を御覧じて。御心を慰みおはしませと。 書いたる文の恨めしや。 地下歌「なからん父が名残には。子ほどの形見あるべきか。 上歌「父が別は如何なれば。/\。 悲しみ修行に出づる身の。などや生きてある。 母に姿を見みえんと。 思ふ心のなかるらん。恨めしの我が子や。うき時は。 恨みながらもさりとては。我が子の行方安穏に。 守らせ給へ神仏と祈る心ぞ。 あはれなる祈る心ぞあはれなる。 僧詞「かように候ふ者は。 信濃の国善光寺の住僧にて候。又これに渡候ふ人は。 いづくとも知らず愚僧を頼むよし仰せ候ふ程に。 師弟の契約をなし此ほど出家させ申して候。 さる間毎日如来堂へ判ひ申し候。今日も又参らばやと思ひ候。

後シテ詞一声「これなる童どもは何を笑ふぞ。 何者に狂ふがをかしいとや。 うたてやな心あらん人は。訪(とむら)ひてこそたぶべけれ。 それをいかにといふに。 夫(つま)には死して別れ。唯ひとり忘れ形見とも思ふべき。 子の行方をも白糸の。 地「乱れ心や狂ふらん。カケリ「。 シテサシ「実にや人の身のあだなりけりと。 誰かいひけん空言や。 又思には死なれざりけりと。詠みしもことわりや。 今身の上に知られたり。 これもひとへに夫や子の。故と思へば恨めしや。 地下歌「うき身は何と楢の葉の柏崎をば狂ひ出で。 上歌「越後の国府(こう)に着きしかば。/\。 人目も分かぬ我が姿。いつまで草のいつまでと。 知らぬ心は麻衣。うらはる%\と行くほどに。松風遠くさびしきは。 常磐の里の夕かや。我にたぐへてあはれなるは此里。

子故に身をこがしゝは野辺の木島の里とかや。降れどもつもらぬ淡雪の。 浅野といふはこれかとよ。桐の花咲く井の上の。 山を東に見なして。西に向へば善光寺。 生身(しやうじん)の弥陀如来。わが狂乱はさておきぬ。 死して別れし妻を導きおはしませ。 ワキツ詞「いかに狂女。 御堂の内陣へは叶ふまじきぞ急いで出で候へ。 シテ詞「極重悪人無他方便。 唯称弥陀得生極楽とこそ見えたれ。 ワキツレ「これは不思議の物狂かな。そもさやうの事をば誰が教へけるぞ。 シテ「教へはもとより弥陀如来の。 御誓にてはましまさずや。唯心の浄土と聞く時は。 此善光寺の如来堂の。内陣こそは極楽の。 九品上生の台なるに。 女人の参るまじきとの御制戒とはそもされば。 如来の仰せありけるか。よし人々は何ともいへ。 声こそしるべ南無阿弥陀仏。地「頼もしや。 頼もしや。シテ「釈迦は遣り。 地「弥陀は導く一筋に。こゝを去ること遠からず。

是ぞ西方極楽の上品上正の内陣にいざや参らん。光明遍照十方の。 誓ぞしるきこの寺の。常の灯影頼む。 夜念仏申せ人々よ。夜念仏いざや申さん。 シテ詞「いかに申し候。 如来へ参らせ物の候。此烏帽子直垂は。 別れし夫の形見なれども。 形見こそ今はあだなれこれなくは。忘るゝひまもあらましものをと。 詠みしも思ひ知られたり。 これを如来に参らせて。夫の後生善所をも。 祈らばやと思ひ候。 物着あらいとほしやこの烏帽子直垂の主は。 よろづ何事につきても闇からず。弓は三物とやらんを射そろへ。 歌連歌の道も達者なりし上。 又酒盛などのをりふしは。 いで人々に乱舞まうて見せんとて。鎧直垂とりいだし。 衣紋うつくしく着ないて。へりぬり取つて打ちかづき。 手拍子人に囃させて。扇おつ取り。 鳴るは滝の水。

クリ地「それ一念称名の声の内には。 摂取の光明を待ち。聖衆来迎の雲の上には。 シテ「九品蓮台の。花散りて。 地「異香満ち/\て人に薫じ白虹地に満ちて。列なれり。 シテサシ「つら/\世間の幻相を観ずるに飛花落葉の風の前には。 有為の転変をさとり。 地「電光石火の影の中には生死の去来を見ること。 始めて驚くべきにはあらねども。幾夜の夢とまとはりし。 仮の親子の今をだに。 添ひ果てもせぬ道芝の露の憂き身の置き所。 シテ「誰に問はまし。旅の道。 地「これも憂き世のならひかや。クセ「悲の涙。 眼(まなこ)にさへぎり思の煙胸に満つ。つら/\これを案ずるに。 三界に流転してなほ人間の妄執の。 晴れがたき雲の端(は)の月の御影や明らけき。 真如平等の台に至らんとだにも歎かずして。 煩悩の絆に結ぼほれぬるぞ悲しき。 罪障の山高く。生死の海深し。

如何にとしてか此生に。此身を浮べんと。 実に歎けども人間の。身三口四意三(じんさんくしいさん)の。 十の道多かりき。シテ「されば始の御法にも。 地「三界一心なり。 心外無別法(しんげむべつほふ)心仏及衆生(しんぶつぎしゆじやう)と聞く時は。 是三無差別(ざさんむしやべつ)なに疑のあるべきや。 己身(こしん)の弥陀如来唯心の浄土なるべくは。 尋ぬべからず此寺の御池の蓮(はちす)の得ん事をなどか知らざらん。 唯願はくは影たのむ。声を力の助船。黄金の岸に至るべし。 そも/\楽を極むなる。 教あまたにうまれ行く。道さま%\の品なれや。 宝の池の水。功徳池(くどくち)の浜の真砂。かず/\の玉の床(とこ)。 台も品々の楽をきはめ量(はかり)なき命の仏なるべしや。 若我(にやくが)成仏十方の世界なるべし。 シテ「本願あやまり給はずは。地「今の我等が願はしき。 夫の行方をしら雲のたなびく山や西の空の。かの国に迎へつゝ。 一つ浄土の縁となし望を叶へ給ふべしと。称名も鉦の音も。

暁かけて灯(ともしび)の。善き光ぞと仰ぐなりや。 南無帰命弥陀尊(みだそん)願をかなへ給へや。 ロンギ地「今は何をつゝむべき。 これこそ御子花若と。いふにもすゝむ涙かな。 シテ「我が子ぞと。聞けば余りに堪へかぬる。 夢かとばかり思ひ子のいづれぞさても不思議やな。 地「ともにそれとは思へども。かはる姿は墨染の。 シテ「見しにもあらぬ面忘れ。地「母の姿もうつゝなき。 シテ「狂人といひ。地「衰といひ。互ひにあきれてありながら。 よく/\見れば。園原や伏屋に生ふる箒木の。 ありとは見えて逢はぬとこそ。聞きし物を今ははや。疑もなき。 その母や子に逢ふこそ嬉しかりけれ逢ふこそ嬉しかりけれ。 男(又ハ僧ニモ) 百万の子 百万

ワキ次第「竹馬にいざやのりの道/\。 誠の友を尋ねん。 詞「これは和州三芳野の者にて候。又これに渡り候ふ幼き人は。 南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。 此頃は嵯峨の大念仏にて候ふ程に。 此幼き人をつれ申し。 念仏に参らばやと存じ候。狂言シカ%\「。 シテ詞「あら悪の念仏の拍子や候。わらは音頭を取り候ふべし。

南無阿弥陀仏。地「南無阿弥陀仏。 シテ「南無阿弥陀仏。地「南無阿弥陀仏。シテ「弥陀頼む。 地「人は雨夜の月なれや。 雲晴れねども西へゆく。シテ「阿弥陀仏やなまうだと。 地「誰かは頼まざる誰か頼まざるべき。 シテ「これかや春の物狂。地「乱心か恋草の。 シテ「力車に七くるま。 地「積むとも尽きじ。シテ「重くとも。

ひけやえいさらえいさと。地「一度に頼む弥陀の力。 頼めやたのめ。南無阿弥陀仏。 地歌「げにや世々ごとの。 親子の道にまとはりて。/\。 なほ子の闇を晴れやらぬ。シテ「朧月の薄曇。 地「わづかに住める世になほ三界の首枷かや。 牛の車のとこ。 とはに何くをさして引かるらんえいさらえいさ。シテ「輓けや/\此車。 地「物見なり/\。シテ「げに百万が姿は。 地「本よりながき黒髪を。シテ「荊棘のごとく乱して。 地「旧りたる烏帽子引きかづき。 シテ「又眉根黒き乱墨。地「うつし心か村烏。 シテ「憂かれと人は。添ひもせで。 地「思はぬ人を尋ぬれば。シテ「親子のちぎり麻衣。 地「肩を結んで裾にさげ。 シテ「すそを結びて肩にかけ。地「筵片。シテ「菅薦の。 地「みだれ心ながら南無阿弥陀仏と。 信心をいたすも我が子に逢はんためなり。 シテ「南無や大聖釈迦如来。

我が子に逢はせ狂気をとゞめ。安穏に守らせ給ひ候へ。 子詞「いかに申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。子「これなる物狂いをよく/\見候へば。故郷の母にて御入り候。 恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。 。 ワキ「これは思いひもよらぬ事を承り候ふものかな。 やがて問うて参らせうずるにて候。いかにこれなる狂女。 おことの国里はいづくの者ぞ。 シテ「これは奈良の都に百万と申す者にて候。 ワキ「それは何故かやうに狂人とはなりたるぞ。 シテ「夫には死して別れ。 只一人ある忘形見のみどり子に生きて離れて候ふ程に。思が乱れて候。 。 ワキ「さて今も子といふ者のあらば嬉しかるべきか。 シテ「仰までもなしそれ故にこそ乱髪の。遠近人に面をさらすも。 もしも我が子に廻りや逢ふと。 車に法の声立てゝ。念仏申し身を砕き。 我が子に逢はんと祈るなり。

ワキ「げに痛はしき御事かな。誠信心私なくは。 かほど群衆の其中に。などかは廻り逢はざらん。 シテ詞「うれしき人の言葉かな。 それにつきても身を砕き。法楽の舞を舞ふべきなり。 囃し。 てたべや人々よ。 忝なくもこの御仏も。 。 羅〓{ゴ:文字鏡067442}為長子と説き給へば。 。 地次第「我が子。 に鸚鵡の袖なれや。 親子鸚。 鵡の袖なれや。 百万が舞を見給へ。 シテ「百や万の舞の袖。我が子の行方。 祈るなり。イロエ「。 シテクリ「げにやおもんみれば。 何くとても住めば都。地「住まぬ時には故郷もなし。

此世はそも何くの程ぞや。 シテサシ「牛羊径街にかへり。鳥雀枝の深きに集まる。 地「げに世の中はあだ浪の。 よるべは何く雲水の。 身の果いかに楢の葉の梢の露の故郷に。シテ「憂き年月を送りしに。 地「さしも二世とかけし中の。契の末は花かづら。 。 結びもとめぬあだ夢の永き別れとなり果てて。シテ「比目の枕。敷波の。

地「あはれはかなき。契かな。 クセ「奈良坂の。児の手柏の二面。 兎にも角にも侫人の。なき跡の涙越す。 袖の柵隙なきに。思重なる年波の。 流るゝ月の影惜しき。 西の大寺の柳蔭みどり子のゆくへ白露の。 起き別れていづちとも知らず失せにけり。一方ならぬ思草。 葉末の露も青によし。 奈良の都を立ち出でて。かへり三笠山。 佐保の川をうち渡りて。山城に井出の里玉水は名のみして。 影うつす面影浅ましき姿なりけり。 かくて月日を送る身の。羊の歩隙の駒。 足にまかせて行く程に。都の西と聞えつる。 嵯峨野の寺に参りつゝ。 四方の景色を眺むれば。シテ「花の浮木の亀山や。 地「雲に流るゝ大井河。誠に浮世の嵯峨なれや。 盛過ぎ行く山桜嵐の風。 松の尾小倉の里の夕霞。立ちこそ続け小忌の袖。 かざしぞ多き花衣。

貴賎群衆する此寺の法ぞ尊き。かれよりもこれよりも。 唯此寺ぞ有難き。忝なくもかゝる身に。 申すは恐なれども。二仏の中間我等ごときの迷ある。 道明らめんあるじとて。 毘首羯磨が作りし赤栴檀の。尊容やがて神力を現じて。 天竺震旦我が朝三国に渡り。 有難くも此寺に現じ給へり。 シテ「安居の御法と申すも。地「御母摩耶夫人の。 孝養の御為なれば。仏も御母を。かなしび給ふ道ぞかし。 。 況んや人間の身としてなどかは母を悲しまぬと。子を恨み身をかこち。 感歎し。 てぞ祈りける親子鸚鵡の袖なれや百万が舞を見給へ。地「あら我が子。恋しや。立廻「。 シテ「これほど多き人の中に。 などや我が子の無きやらん。あら。我が子恋しや。 我が子給べなう南無釈迦牟尼仏と。

地「狂人ながらも子にもや逢ふと信心はなきを。 南無阿弥陀仏。 南無釈迦牟尼仏南無阿弥陀仏と。心ならずも逆縁ながら。 誓に逢はせて。たび給へ。 ワキ「余りに見るもいたはしや。 これこそおことの尋ぬる子よ。よく/\寄りて見給へとよ。シテ「心強や。 とくにも名乗り給ふならば。 かやうに恥をばさらさじものを。あら恨めし。とは思へども。 地「たま/\逢ふは優曇華の。 花待ち得たり夢か現か幻か。 キリ地「よく/\物を案ずるに。/\。 かの御本尊はもとよりも。 衆生のための父なれば。母もろともに廻り逢ふ。 法の力ぞ有難き。願も三つの車路を。 都に帰る嬉しさよ/\ 旅僧 従僧 里の女 玉葛内侍

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此程は南都に候ひて。 霊仏霊社残なく拝みめぐりて候。 またこれより初瀬詣と志して候。道行三人「楢の葉の。 名におふ宮の古事を。/\。思ひつゞけて行末は。 石上寺ふしをがみ。法のしるしや三輪の杉。 山本ゆけば程もなく。初瀬河にも。 着きにけり初瀬川にも着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。初瀬川に着きて候。 心静かに参詣申さうずるにて候。 シテ一セイ「程もなき。舟の泊りや初瀬川。 のぼりかねたる。けしきかな。 舟人も誰を恋うとか大島の。 うらかなしげに声たてて。こがれ来にける古の。 果しもいさや白浪の。よるべいづくぞ心の月の。 御舟はそこと。果しもなし。 歌「唯われひとり水馴棹。雫も袖の色にのみ。 上歌「暮れてゆく。秋の涙か村時雨。/\。 ふる川野辺のさびしくも。

人や見るらん身の程もなほ浮舟の楫を絶え。綱手かなしき。 類かな。綱手かなしき類かな。 ワキ詞「ふしぎやなこの川は山川の。 さも浅くしてしかも漲る岩間つたひを。 ちひ。 さき舟に棹をさ。 す人を見れば女なり。 そも。 御身はいかな。 る人にてましますぞ。 シテ詞「これは此初。 瀬寺に詣でくる者なり。 又。 この川は所から。 名に流れたる海士小舟。初瀬の川とよみおける。 その河の辺の江にしあるに。 不審ななさせ給ひそとよ。 ワキ詞「あらおもしろの言葉やな。げに蜑小舟初瀬とは。

古きながめの言葉なるべしさりながら。 又その類も浪小舟。さして謂れのあるやらん。 シテ「いや何事のそれよりも。 先御らんぜよ折柄に。地歌「ほの見えて。 色づく木々の初瀬山。/\。風もうつろふ薄雲に。 日影も匂ふ一しほの。さぞな景色もかく川の。 浦わの眺までげに。たぐひなや面白や。 川音きこえて里つゞき。

奥もの深き谷の戸に。つらなる軒を絶々の霧間に残す。 夕かな霧間に残す夕かな。 かくて御堂に参りつゝ。/\。補陀落山も目のあたり。 四方の眺も妙なるや。 紅葉の色に常磐木。 の二本杉に着きにけり二本杉に着きにけり。 。 シテ詞「これこそ二本の杉にて候へよくよく御覧候へ。 ワキ詞「さては二本の杉にて候ひけるぞや。二本の杉の立所を尋ねずは。 詞古川の辺に君を見ましやとは。 何とよまれたる古歌にて候ふぞ。 シテ「是は光る源氏のいにしへ。 玉葛の内侍この初瀬に詣で給ひしを。 右近とかや見奉りてよみし歌なり。 共にあはれと思しめして御あとをよく弔ひ給ひ候へ。 。 地クリ「げにや有りし世をなほ夕顔の露の身の。消えにしあとはなか/\に何なでしこの形見も憂し。 シテサシ「あはれ思ひの玉葛。かけてもいさや知らざりし。

地「心尽し木の間の月。 雲井のよそにいつしかと。鄙の住居の憂きのみか。 さてしもたえてあるべき身を。 シテ「猶しをりつる人心の。地「あらき浪風立ち隔て。 クセ「た。 よりとなれば早舟に乗りおくれじと松浦がた。唐土船を慕ひしに。 心ぞかはる我はたゞ。浮島を。 漕ぎ離れても行く方や何く泊りと白波に。響の灘も過ぎ。 思ひに障る方もなし。かくて都の内とても。 われは浮きたる舟のうち。 なほや憂き目を水鳥の陸にまどへる。 心地してたづきも知らぬ身の程を。思ひ歎きて行き悩む。 足曳の大和路や。唐土までも聞ゆなる。 初瀬の寺に詣でつゝ。シテ「年も経ぬ。 祈る契は初瀬山。 地「尾上の鐘のよそにのみ。思ひ絶えにし古の。 人に二度ふた本の。杉の立所を尋ねずは。 古川のべと眺めける。今日の逢ふせも。 同じ身を思へば法の衣の。玉ならば玉葛。

迷を照らし給へや。 ロンギ地「げに古き世の物語。 聞けば涙もこもり江に。こもれる水のあはれかな。 シテ「あはれとも思は初めよ初瀬川。 早くも知るや浅からぬ。 地「縁にひかるゝシテ「心とて。地「たゞ頼むぞよ法の人。 弔ひ給へ我こそは。 涙の露の玉の名と名の。 りもやらずなりにけり名のりもやらずなりにけり。中入間「。 。 ワキ詞「さては玉葛の内侍かりに現れ給ひけるぞや。たとひ業因おもくとも。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「照らさざらめや日の光。/\。 大慈大悲の誓ひある。法の灯明かに。 亡き影いざや。 とぶらはん亡き影いざや弔はん。 後シテ一声「恋ひわたる身はそれならで。玉葛。 いかなる筋を。尋ねきぬらん。尋ねても。 法の教に逢はんとの。心ひかるゝ一筋に。 其まゝならで玉葛の。

乱るゝ色は恥ずかしや。つくも髪。カケリ「。地「つくも髪。 我や恋ふらし面影に。 地「立つやあだなる塵の身は。シテ「はらへど/\執心の。 地「ながき闇路や。シテ「黒髪の。 地「飽かぬやいつの寝乱髪。シテ「むすぼほれゆく思かな。 地「げに妄執の雲霧の。/\。 迷もよしや憂かりける。人を初背の山颪。 はげしく落ちて。露も涙もちり%\に秋の葉の身も。朽ち果てね恨めしや。

シテ「うらみは人をも世をも。 地「うらみは人をも世をも。思ひ思はじ唯身ひとつの。 報の罪。やかず/\の憂き名に立ちしも懺悔の有様。あるひは湧きかへり。 岩もる水の思にむせび。あるひは焦るゝや。 身よりいづる。玉とみるまで包めども。 蛍に乱れつる。影もよしなやはづかしやと。 此妄執をひるがへす。心は真如の玉かづら。 /\。長き夢路はさめにけり 旅僧 里の女 浮舟の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此程は初瀬に候ひしが。 これより都に上らばやと思ひ候。道行「初瀬山。 夕越え暮れし宿もはや/\。檜原の外に三輪の山。 しるしの杉も。 立ち別れ嵐とともにならの葉の。暫し休らふ程もなく。 狛の渡や足早み。宇治の里にも着きにけり/\。

詞「急ぎ候ふ程に。 これは早宇治の里に着きて候。 暫く休らひ名所をも眺めばやと思ひ候。 シテサシ一セイ「柴積船の寄る波も。 なほたづきなき。憂き身かな。 二ノ句「憂きは心の科ぞとて。たが世をかこつ。方もなし。 住みはてぬ住家は宇治の橋ばしら。

起居苦しき思ひ草。葉末の露を憂き身にて。 老い行く末も白真弓。もとの心を歎くなり。 下歌「とにかくに定なき世の影たのむ。 上歌「月日も受けよ行末の。/\。 ��に祈のかなひなば。頼をかけて御注連縄。 長くや世をも。祈らまし長くや世をも祈らまし。 。 ワキ詞「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「此宇治の里に於て。 古。 いかなる人の住み給ひて候ふぞ委しく御物語り候へ。シテ「処には住み候へども。 賎しき身にて候へば。 委しき事をも知らず候さりながら。古この処には。 浮舟とやらんの住み給ひしとなり。 同じ女の身なれども。 数にもあらぬ憂き身なれば。いかでかさまでは知り候ふべき。 ワキ詞「実に光源氏の物語。 なほ世に絶えぬ言の葉の。 それさへ添へて聞かまほしきに。心に残し給ふなよ。

シテ詞「むつかしの事を問ひ給ふや。 里の名を聞かじといひし人もこそあれ。 さのみは何を問ひ給ふぞ。地歌「さなきだに古の。 /\。恋しかるべき橘の。 小島が崎を。 見渡せば河より遠の夕煙立つ河風に行く雲の。あとより雪の色添へて。 山は鏡をかけまくも。 賢き世々にありながらなほ身を宇治と。 思はめやなほ身を宇治と思はめや。 。ワキ詞「なほ/\浮舟の御事委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\この物語と申すに。其品々も妙にして。事の心広ければ。 拾ひて云はん。言の葉の。 シテサシ「玉の数にもあらぬ身の。 そむきし世をやあらはすべき。地「まづ此里に古は。 人々あまた住み給ひける類ながら。 取り分き此浮舟は薫中将のかりそめに。 すゑ給ひし名なり。クセ「人がらもなつかしく。 心ざまよし有りておほとかに過し給ひしを。

物いひ。さがなき世の人の。 ほのめかし聞えしを。色深き心にて。 兵部卿の宮なん忍びて尋ねおはせしに。 織り縫ふ業のいとまなき。宵の人目も悲しくて。 垣間見しつゝ。 おはせしもいと不便なりし業なれや。其夜にさても山住の。 めづらかなりし有様の。心にしみて有明の。 月澄み昇る程なるに。シテ「水の面もくもりなく。 地「船さしとめし行方とて。 汀の氷踏み分けて。 道は迷はずとありしも浅からぬ御契なり。 一方は長閑にて訪はぬ程経る思さへ。晴れぬながめとありしにも。 涙の雨や��さりけん。とにかくに思ひわび。 此世になくもならばやと。 歎きし末はは。 かなくて終に跡無くなりにけり終に跡なくなりにけり。 ワキ詞「浮舟の御事は委しく承りぬ。 さてさて御身は何処に住む人ぞ。 シテ「これは此処にかりに通ひものするなり。

妾が住家は小野の者。都のつてに訪ひ給へ。 ワキ「あら不思議や。 何とやらん事たがひたるやうに候。 さて小野にては誰とか尋ね申すべき。シテ「隠はあらじ大比叡の。 杉のしるしはなけれども。 横川の水の住む方を。比叡坂と尋ね給ふべし。 地歌「なほ物の気の身に添ひて。 悩む事なんある身なり法力を頼み給ひつゝ。 あれにて待ち申さんと。 浮き立つ雲の跡もな。 く行く方知らずなりにけり行く方知らずなりにけり。中入間「。 ワキ詞「かくて小野には来れども。 いづくを宿と定むべき。 歌「処の名さへ小野なれば。/\。草の枕は理や。 今宵はこゝに経を読み。かの御跡を。 弔ふとかやかの御跡を弔ふとかや。 後シテ一声「亡き影の絶えぬも同じ。涙川。 よるべ定めぬ浮舟の。法の力を頼むなり。 あさましきや本より我は浮舟の。

よる方わかでたゞよふ世に。 憂き名洩れんと思ひわび。此世になくもならばやと。 明暮思ひ煩ひて。人皆寝たりしに。 妻戸を放ち出でたれば。風烈しう河波荒う聞こえしに。 知らぬ男の寄り来つゝ。 誘ひ行くと思ひしより。心も空になりはてゝ。 カケリ「あふさきるさの事もなく。 地「我かの気色もあさましや。 シテ「あさましやあさましやな橘の。地「小島の色は変らじを。 シテ「此浮舟ぞ。よるべ知られぬ。 地「大慈大悲の理は。/\ 。 世に広けれど殊に我が。心一つに怠らず。 明けては出づる日の影を。絶えぬ光と仰ぎつゝ。

暮れては闇に。 迷ふべき後の世かけて��みしに。シテ「��みし。まゝの観音の慈悲。 地「��みしまゝの。観音の慈悲。 初瀬の便に横川の僧都に。見付けられつゝ。 小野に伴ひ。祈り加持して物の気のけしも。 夢の世になほ。苦は大比叡や。 横川の杉の。古き事ども。夢に現れ。 見え給ひ。今此聖も。同じ便に弔ひ受けんと。 思ひしに。思のまゝに。執心晴れて。 都卒に生まるゝ。 うれしきといふかと思へば明け立つ横川。 いふかと思へば明け立つ横川の。 杉の嵐や残るらん杉の嵐もや残るらん 良忍上人 里の女 桂子 桜子

ワキ次第「法の心も三つの名の。/\。 大和路いざや尋ねん。 詞「これは大原の良忍聖にて候。我融通念仏を国土に弘め候。

此度は大和路にかゝり。 念仏をも弘めばとや思ひ候。 道行「住みなれし大原の里を立ち出でて。/\。

なほ行末は深草山木幡の闇をうち過ぎて。 宇治の中宿井出の里。すぐればこれぞ足引や。 大和の国に着きにけり/\。詞「急ぎ候ふ間。 ほどなう大和の国に着きて候。 此処に三山と申して名所のある由承り及びて候。 此あたりの人に尋ねばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 なにと御尋ね候ふとも。 これを知りたる人は少なかるべし。総じてこの山は。 万葉第一に出されたる三山の一つなり。 耳無山ともみなし山とも。語るによりて妄執の。 よしある昔の物語。閻浮にかへる里人の。 耳無山の池水に。沈みし人の昔がたり。 よくよく問はせ給へとよ。ワキ詞「げに/\万葉集に曰く。大和の国に三山あり。 香山は夫畝傍耳無山は女なり。 これに依つて三つにあらそふと書けり。 此謂を委しく御物語り候へ。 シテ「まづ南に見えたるは香山。西に見えたるは畝傍山。

此耳無までは三つの山。一男二女の山ともいへり。 ワキ詞「さてかく山を夫とは。 何しに定め置きけるぞ。 シテ「それはあの香久山に住みける人。畝傍耳無二つの里に。 二人の女に契をこめて。 二道かけて通ひしなり。ワキ「さてうねみ山の女の名をば。 シテ詞「桜子ときこえし色このみ。 ワキ「耳無山の女の名をば。 シテ詞「桂子といはれし遊女なり。ワキ「さて争は。 シテ「花や緑。ワキ詞「契の色は。シテ「隔もなく。 地「一つの世に二道かけて三山の。 名を聞くだにも久方の。天の香久山いつしかに。 語るもよそならず。わが耳無やうねみ山。 争ひかねて池水に。 捨てし桂の身の果を弔ひ給へ上人よ弔ひ給へ上人よ。 。ワキ詞「なほ/\三山の謂委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\大和の国三山の物語。世も古にならの葉や。 かしはでの公成といふ人あり。

シテサシ「又其頃桂子桜子とて。二人の遊女ありしに。 地「彼のかしはでの公成に。 。 契をこめて玉手箱。 二道かくるさゝがにの。 い。 と浅からぬ思夫の。 月の夜まぜ。 に行き通ふ住家。 はうねみ耳無山。 シテ「里も二つの采女のきぬ。 地「花よ月よと。 争ひしに。 シテ「男うつろふ花心。 。 かの桜子に靡き移りて。 耳無の。 里へは来ざりけり。 地「其時桂子恨みわび。 さては我には変る世の夢も暫しの桜子に心を染めて此方をば。 シテ「忘れ忍ぶの軒の草。

地「はや枯れ%\になりぬるぞや。クセ「桂子思ふやう。 もとよりも頼まれぬ。 二道なればそのまゝに有り果つべしと思ひきや。其うへ何事も。 時に随ふ世の習。 ことさら春の頃なれば。 盛なる桜子にうつる人をば恨むまじ我は花なき桂子の。身を知れば春ながら。 秋にならんも理や。 さるほどに起きもせず。寝もせで夜半を明かしては。 春のものとて長雨降る。夕暮に立ちいでて。 入相もつく%\と。南は香久山や。 西はうねみの山に咲く。さくら子の里見れば。 よそめも花やかに。羨ましくぞ覚ゆる。 。 シテ「生きてよも明日まで人のつらからじ。地「この夕暮を限ぞと。 思ひ定めて耳無山の池水の。 淵にのぞみて影うつる名も月の桂の緑の髪もさながらに。 池の玉藻のぬれ衣。身を投げ空しくなり果てゝ。 此世には早みなし山。 其名をあはれみて。

跡弔はせ給へやシテ詞「いかに申すべき事の候。 妾をも名帳に入れて賜はり候へ。 ワキ詞「やすき間の事。さて御名を承り候ふべし。 シテ「名をば桂子と遊ばし候へ。 ワキなに桂子と申し候ふや。シテ「よし/\名をば申すま唯十念授け給へ。ワキ「げに/\さのみは問ひがたしと。 掌を合はせて南無阿弥陀仏。シテ詞「南無阿弥陀仏。 二人「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。 地「これまでなりや名帳の。 名は桂子と書き給へそれより外に我が名をば。 いくたび問はせ給ふとも。 言はじや聞かじ耳無の。 生けるものにはあらずとて池水。 の底に入りにけり池水の底に入りにけり。中入間「。 ワキ歌、待謡「耳無の池の玉藻のぬれ衣。/\。 恨もこゝに有明のその名も月の桂子の。 なき跡いざや弔はん/\ <ツレ「なう上人。此みゝなしの山嵐に。吹。

きさそはれて来りたり。これ/\助けたび給へ。詞我はあのうねみ山に住む。 桜子といはれし女なるが。 風の狂ずる心乱に。かやうに狂ひさぶらふなり。 さりとては上人よ。因果の花につき祟る。 嵐をのけてたび給へ。 後シテ「あら羨ましの桜子や。又花の春になるよなう。 詞忘れて年を経しものを。見よかし顔に桜子の。 花のよそ目も妬ましや。一声「光散る。 月の桂も花ぞかし。地「たれ桜子に。移るらん。 カケリ「。ツレ「盛とて。光を埋む花心。 地争ひかねて桂子が。シテ「恨ぞまさる。 桜子の。地「花も散りなば青葉ぞかし。 シテ「などや桂をへだつらん。 ツレ「恥かしやなほ妄執は有明の。侭きぬ恨を御前にて。 懺悔の姿を現すなり。 シテ詞「あれ御らんぜよ桜子の。よそめにあまる花心。 ことわり過ぐる景色かな。 ツレ「もとより時ある春の花。咲くは僻事なきものを。

シテ詞「花ものいはずと聞きつるに。 など言の葉を聞かすらん。 ツレ「春いくばくの身にしあれば。影唇を動かすなり。 シテ「さて花は散りても。ツレ「又も咲かん。 シテ「春は年々。ツレ「頃は。シテ「弥生に。 地「又花の咲くぞや。/\。 見ればよそめも妬ましき。花のうはなり打たんとて。 桂の立枝を折り持ちて。みゝなしの山風。 さて懲りやさて懲りや。 あらよそめを松風春風も。吹き寄せて/\。 雪と散れ桜子。雲となれ桜子。花は根に帰れ。

われも人知れず妬さも妬し後妻を。 打ち散らし打ち散らす。 中に打てども去らぬは家の。 犬ざくら花に伏して吠え叫び悩み乱るゝ花心。そねみの病となりし。 因果の焔の緋ざくら子。 さて懲りやさて懲りやあらよそめをかしや。 因果の報はこれまでなり。花の春一時の。 恨を晴れて速に。有明桜光そふ。 月の桂子もろともに。西に生るゝ一声の。 御法を受くるなりあと弔いてたび給へ 関清次の妻 松浦某 従者

ワキ詞「これは九州松浦の何某にて候。 偖も某召使ひ候ふ関の清次と申す者。 他郷の者と口論し。念なう敵をば討つて候。 さりながら科人の事にて候ふ間。 牢者させて候。彼の者大剛のものにて候ふ間。 番の事かたく申しつけばやと存じ候。

いかに誰かある。狂言シカ%\「。 ワキ「彼の者大剛の者にてある間。 番の事かたく仕り候へ。狂言シカ%\「。 。 ワキ「何と清次が牢より抜けたると申すか。言語道断の事。 さてこそ以前よりかたく申しつけてあるに。

さやうに油断仕りてあるぞ。さて彼の者の子はなきか。 狂言シカ%\「。ワキ「妻はなきか。狂言シカ%\「。 。 ワキ「さあらば急いでその女を連れて来り候へ。狂言シカ%\「。 シテ「科人を召し篭められ候ふ上は。 女までの御罪科は余りに御情なうこそ候へ。 ワキ「いかに女。さても汝が夫の清次。 今夜牢を破り失せぬ。 夫婦の事なれば知らぬ事はあるまじ。まつすぐに申し候へ。 シテ「もとより賎しき者なれば。 我が身の助かり候ふをこそ喜び候ふべけれ。 妾にはかくとも申さず候ふほどに。 夢にも知らず候。ワキ「いや/\何と申すとも知らぬ事はあるまじ。まず/\落居のあらんほど。夫の代に牢者させ。 其在処をたゞさんと。上歌地「今の女を引き立てゝ。/\。 いそぎ牢者になすべしと。 さもあらげなき人心。情けなしとは思へども。 殺害の科を逃れ得ぬ。報のほどぞ無残なる/\。

狂言シカ%\「。 ワキ詞「やあいかに汝は女に向ひ何事を致すぞ。 その野者げなるに由つて清次をも牢より逃がいてあるぞ。 所詮いまよりは鼓をかけて。 一時づつ時を打つて番を仕り候へ。狂言シカ%\「。 シテサシ「げにや思うちにあれば。 色はほかにぞ見えつらん。つゝめども。 袖にたまらぬ白玉は。人を見ぬ目の涙かな。 狂言シカジカ「。ワキ「これは誠にてあるか。狂言シカ%\「。 。 ワキ「あら不便や立ち越え見うずるにて候。やあいかに女。 何ゆゑ狂気するぞとうけたまはる。人の心の花ならば。 風の狂ずるゆゑもあるべし。 いはんや偕老同穴と。契りし夫も行くへ知らで。 のこる身までも道せばき。なほ安らかぬ牢の。 おもひの闇のせんかたなさに。 物に狂ふは僻事か。ワキ詞「げに/\夫のわかれ牢者のおもひ。一方ならぬ身のなげきに。

。 物に狂ふは理なりさりながらいづくに夫の在処を。知らせばやがて呼びつとて。 汝は牢より出すべしまつすぐに申し候へ。 。 シテ「これは。 仰ともおぼ。 えぬものかな。 たとひ。 夫の在処を。 知りたればとて。 あら。 はし夫を失ふべきか。 。 其上夫の在処を。 夢う。 つゝにも知らぬものを。 ワキ「優しき女の言事やと。 詞「手づから牢の戸を開き。はやこれまでぞとく出でよ。 シテ「御心ざしはありがたけれども。

夫に代れる此身なれば。 此牢の内をば出づまじや。これこそ形見よなつかしや。 地「無慙や我が夫の。身に代りたる牢のうち。 出。 つまじや雨の夜の尽きぬ名残ぞ悲しき西楼に月落ちて。 花のあひだも添い果てぬ。契ぞ薄き灯の。残りてころがるゝ。

影はづかしき我が身かな。 。 ワキ詞「言語道断。かゝる優しき事こそ候。 はね。此上は夫婦ともに助くるぞとく出。 て候へ。シテ「かほどに情けましまさば。始。 よりかく憂き目を見せ給ふべきか。さる。 にても我が夫はいづくにあるらん。なう。 心が乱れさむらふぞや。一セイ乱るゝは。柳。 の髪か春雨の。地「涙にむせぶ心かな。イロエ「。シテ詞「なう/\これなる鼓は何のた。 めに懸けられて候ふぞ。。 ワキ「あれこそ時守の時を知る相図の鼓。よ。シテ「面白し/\。異国ぬもさるため。 しあり。かやうに鼓を懸けて時を守りし。 こともあり。其心を得て古き歌に。時守。 の打ちます鼓声きけば。時にはなりぬ。。 君は遅くて。地「遅くも君が来んまでぞ。カケリ「。 シテ詞「なう此鼓を打つて心が慰みた。 う候。ワキ「易き間の事いかようにも打つ。

て慰め候へ。。 シテ「鼓の声も音にたてゝ。地「なく鷲の青。 葉の竹。シテ「湘浦の浦や娥皇女英。地「諌。 鼓苔むす此鼓。シテ「うつゝもなやなつ。かしや。地上歌「鼓の声も時ふりて/\。。 日も西山に傾けば。夜の空も近づく六つ。 の鼓打たうよ。五つの鼓は偽の。契あだ。 なる妻琴の。ひき離れいづくにか。我がご。とく忍びねのやはら/\打たうよや。や。はら/\打たうよ。四つの鼓は世の中に。/\。恋といふ事も。 恨といふ事もなきならひならば。ひとり物は思はじ。 シテ「九つの。地「こゝのつの。 夜半にもなりたるや。あら恋し我が夫の。 面影に立ちたり。嬉しやせめてげに。 身がはりに立ちてこそは。二世のかひもあるべけれ。 此牢出づる事あらじ。なつかしの此牢や。 あらなつかしの此牢。 ワキ詞「此上は諏訪八幡も御知見あれ。 夫婦ともに助くるぞはやとく出で候へ。

ワキ「げに此うへははさればとて。 御偽はよもあらじ。真は夫の在処。 筑前の宰府に知る人あれば。 そなたへ行きてや候ふらん。ワキ「いしくも隠さず申したり。 詞しかも今年は我が親の。十三に当りたれば。 科ありとても助舟の。 シテ「松浦の川や西の海。ワキ「彼の国近き。シテ「極楽の。 地「弥陀誓願の誓かや。科を助くる憐の。 あらありがたやの御慈悲や。 やがて時日を移さず/\。かくれし夫を尋ねつゝ。 もとの如くに帰りゐて。結ぶ契の末久に。 松浦の川や二世の縁。 げにありがたき心かな/\ 粉河の某 祇王 祇王の父 従者 ワキ詞「是は紀州粉河の。何某にて候。 扨も某隣郷の何某と口論し。 生捕分捕数を知らず候。 其中に未だ若き者を一人篭舎させ。処の者に預け番を守らせ候ふ所に。 過ぎし夜囚人を逃して候ふ間。 彼の番の者を又篭舎させて候。 弥番の事固く申し付けばやと存じ候。いかに確かある。 狂言シカ%\「。篭の番を固く仕かり候へ。 又囚人の所縁などとて。尋ね来り候ふとも。 対面は固く禁制にてあるぞその由。心得候へ。 シテトモ次第「旅立つ雲の朝もよひ。 旅立つ雲の朝もよひ。糸巳の路にいざや急がん。 。 シテサシ「これは此程都に住む祇王と申す女にて候。我遊女の道を嗜み。 色香に移る花鳥の。声の綾織る機薄の。 糸珍らかに初月の雲井にも名を残す身の。 花の都の住居かな。 詞「また鄙の住居に年寄りたる父を持ちて候ふが。 篭舎とやらん聞こえ候ふほどに。老いの親とてさなぎだに。 別の近き世の中に。いかなる罪にてか沈み給はん。 急ぎ下りて今一目。 見参らせばやと思ひつつ。 シテトモ二人下歌「春の霞と立出でて都の月の夜深きに淀の渡りに立出づる。 上歌「散りにし花の山風の。/\。うどのゝ芦の露分けて。 。 旅衣禁野の雪をたどり行く交野の御野の桜狩。雨はふり来ぬ同じくは。 濡るとも陰に宿らん濡るとも陰に宿らん。 月住みよしや西の海。/\。 遥に見えて沖津波互にかゝる夕雲の。和泉の国に着きしかば。 信太の森の葛の葉も。まだき下萌は春草の。 野山を分けて紀の国や。 粉河の里に着きにけり/\。 シテ詞「やう/\急ぎ候ふ程に。これははや粉河の里に着きて候。 こ。 の処にて父御の御行方を尋ね候へトモ「畏まつて候。いかにこの内へ案内申し候。 狂言シカ%\「。是に渡り候ふ人は。 都にかくれなき祇王と申す白拍子にてわたり候ふが。 父御に対面のため御下にて候。 よきやう。 に御申あつて引合はされてたまはり候へ。狂言シカ%\心得申して候。狂言シカ%\「。 その由申して候へば。かう/\御通あれとの御事にて候。 ワキ「某に対面と仰せ候ふ人は何所に渡り候ふぞ。 シテ「恥かしながら妾にて候。ワキ「最前も申す如く。 総。 じて囚人の所縁に対面は固く禁制にて候へども。祇王御前の御事は。 天下に隠れもなき舞の上手にて候ふほどに。 舞を舞うて御見せ候はゞ。 大法を破つて父御に引合はせ申さうずるにて候。 シテ「何と妾に舞をまへと候ふや。ワキ「なか/\の事。 シテ「悲しやな親子の中の対面なるに。 まはじといはゞ逢ふ事叶はじ。 父に逢はせて給はらば。其後舞を舞ひ候はん。 ワキ「仰尤にて候。 さあらば先々引合はせ申さうずるにて候。 その後舞をまうて御見せ候へ。いかに誰かある。 この人を篭舎の者に。引き合はせ候へ。狂言シカ%\「。 ツレ「篭鳥雲を乞ひ帰雁は友を失ふ心。 それは鳥類にこそ聞け。 人間に於てかくばかり。故郷を去り友を忍びて。 唯前生の因果を思ふのみなり。 南無や大慈大悲の観世音。 福寿海無量の誓のまゝに、善所に迎へとりたまへ。 シテ詞「いかに父御前。祇王こそこれまで参りて候へ。 かゝる御有様を見参らすれば。 目もくれ心乱れ侍ふ。ツレ「あらふしぎや。 御身は何とてこれまで来りたるぞ。 シテ「さん候父御の御祈の為。 このほど清水に篭りて候へば。何事やらん父御前は科を蒙り。 篭舎とやらん聞え候ふ程に。 かちはだしにて是まで参りて候。 扨御科は何事にて候ふぞ。ツレ「実に/\不審尤なり。 委しく語つて聞せ候ふべし聞き候へ。 シテ「さらば御物語り候へ。 ツレ「扨も当国に合戦あつて。 敵味方打ちうたるゝ事数を知らず。其中に生捕の者を此篭に入れ置かれ。 処の者に預け番を守らせられ候ふ所に。 某番に当り候ふ時。 囚人を見れば未だ若き人なり。然も此度の本人にてもあらず。 痛はしや人の上だに悲しきに。 さこそは親の歎き給ふらんと。思へば人を助くるは。 側ち菩薩の行なれば。 たとひ我等は罪にあふとも。助けばやと思ふ一念に。 篭を開き夜にまぎれ落す。 されば囚人を失ひたる科のがれ難く。 かく浅ましき有様なり。殊更けふの夕べとやらん。 命の限と聞えし所に。嬉しくも来り給ふものかな。 無き跡と云ひ最期と云ひ。 余り便もなかりつるに。御身の来り給を見て。 二世安楽の思なりさりながら。 不覚の涙こぼれ候。 シテ詞「扨は人を助け給ふ御科ならば。却つて御悦にやなり候ふべき。 慈眼視衆生の力を頼み。 観世音を念じ給ふべし。ツレ「実に/\それはさる事なれども。今は命も惜しからず。 唯願はしきは後生菩提。シテ「実に/\これも御身の為には。御理とは思へども。 我ばかりなる親子の中。 ツレ「此一世こそ限なるを。 シテ「此世をだにもそひ果てもせで。ツレ詞「せめては生老病死の中。 シテ「病苦をも受けず。 ツレ詞「死をもまたで。シテツレ二人「剣の下に死なん事。 いかなる前世の報ぞや。 地「逃れ得ぬ報を我に老の身の。/\。又この後は何の世の。 親子となりて生るべき。これにつけても。 唯今の親と子の。一世の縁ぞ限なる。 さりとては我が頼む。大慈大悲の観世音。 後の世助けおはしませ/\。 ワキ詞「いかに祇王御前。をりふしこれに烏帽子の候。 これを着てとう/\舞を御舞ひ候へ。 シテ「さん候父の有様を見るにつけて。 涙にかきくれ更に舞ふべき便なし。 然るべくは御免し候へ。 ワキ「不思議の事を仰せ候ふものかな。扨は我等を御たばかり候ふな。 ツレ「いかに祇王何事を申すぞ。 ワキ「いや最前これなる女性。 おことに対面ありたき由仰せられし程に。 承り及びたる一曲をも見申さん為に。 大法を破り囚人に対面させて候ふ所に。 対面あつて後舞を舞はうずる由仰せられ候ひて。 今は舞ふまじき由仰せ候おことは何と思ひ候ふぞ。 ツレ「尤もの御理にて候。いかに祇王。 何とて辞し申すぞ。元来この一曲は。 父が教へし事なれば。けふのいまはの光陰にも。 歌舞の菩薩の妙文たるべし。 早々諷ひ給ふべし。 シテ「此上はとかく申すによしぞなき。舞はずは我が身の科と云ひ。 又は父御の仰なれば。 涙をおさへ心をしづめ。ツレ詞「父も昔を思ひ出の。 涙ながらに拍子をすゝめ。 シテ「曲を出して呂律の一つの。 ツレ「悲の声もろともに。シテ「これぞ限の親子の中。 ツレ「名残を見せて。シテ「花の袖。 地次第「雪を廻らす袂より。 雪をめぐらす袂より涙の雨や増さるらん。物着シテ「何事も。 世の有様の夢なれや。地「現なき今の。 気色かな。 イロエクリ「実にや終に行く道とは予て知りながら。昨日今日とは白雲の。 朝にたち。夕に消ゆる。 シテサシ「電光朝露石の火の。地「光の内外に遊ぶなる。 胡蝶の舞の花の袖。散り方になる親と子の。 何か諷ひて。奏づらん。 クセ「実にや世の中に。独とゞまる者あらば。若し我かはと。 身をや頼まんと詠ぜしも。 実に理や我ながら。唯今別るべき。父男の無き跡に。 残らん事も幾程の。世は空蝉の唐衣。 うすき契は親と子の。 一世に限る夢の中を。思へたゞ朝顔の日影待つ間の花盛。 シテ「いつまでか長柄の橋のながらへて。 地「かゝる憂世を渡らんと。 思ふにつけても。恨めしきは命なり。 実にや世に住めば。憂きこそ増されみよし野の。 岩のかげ道。踏みならし行く水の。あはれ/\なる父の事ぞ悲しき。つら/\。 無常を観ずるに。飛花落葉の風の前。 風月延年の遊楽も。狂言綺語の一てん。 讃沸乗の因縁迄。 津の国の難波の事か法ならぬ遊び戯れ数々の。シテ「声沸事をなしてこそ。 地「親の行くべき終の道。 暗き闇をも灯。 の光の影も明らけき真如安楽の彼の国に。迎へ給へとさながらに。 歌舞の菩薩の光陰と。懇に念願し。 これまでなりやいまは早。烏帽子直垂脱ぎ捨てゝ。 。さめ%\と泣き居たり又さめ%\と泣き居たり。 シテ詞「あら悲しや妾を失ひ父を助けて給はり候へ。 ワキ「筋なき事を申すものかな。たとひ男子の身なりとも。 人の命に代るべからず。 然しも女性の御身として。思もよらぬことにて候。 ツレ「いかに祇王何事を歎くぞ。 父が最期を進むべきに。徒に歎くことあるべからず。 これなる珠数は黒谷の。 法然上人より給はりたる御珠数。これをおことに与ふるなり。 父が跡をも弔の。念仏申し給ふべし。 シテ「又これなる御経は。此程父の御為に。 身を離さず読みたる御経なり。 種々諸悪趣の誓のまゝに。必ず成仏なり給はゞ。 同じ蓮に参り逢ふべしと。 地「珠数とお経を取りかはし。南無や大悲の観世音。 慈悲の眼の光にて臨終を守り給へや。 ワキ「余りに時刻も移り行けば。 彼の老人の首討たんと。 太刀振り上ぐればこはいかに。御経の光眼にふさがり。 取り落としたる太刀を見れば。 二つに折れて段々となる。シテツレ二人「父も祇王もこれを見て。 命終らん事をも分かず。 唯茫然と呆れ居たり。ワキ「いや/\何をか疑ふべき。 唯今読みつる御経の文。 取り上げて見れば疑なく。シテツレ二人「或遭王難苦。 ワキ「臨刑欲寿終。シテツレ二人「念彼観音力。ワキ「刀寿。 三人「段段壌。地「実にありがたや此文は。 王難に遭ふとても剣段々に折れなんの。 経文は疑はず。あらありがたの御経や。 此上は老人よ。/\。早助くるぞ帰れとの。 御免されに興かれば。 祇王は父を引き立てゝ悦の道に帰りけり。 実に頼みても頼むべきは。 これ観音の誓なりこれ観音の誓なり 渡守 旅人 梅若丸の母 梅若丸の幽霊。

。 これは武蔵の国隅田川の渡守にて候。 今日は舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候。又此在所にさる子細有つて。 大念仏を申す事の候ふ間。 僧俗を嫌はす人数を集め候。其由皆々心得候へ。 ワキツレ「末も東の旅衣。/\。日も遥々の心かな。 かやうに侯ふ者は。都の者にて候。 我東に知る人の候ふ程に。

後の者を尋ねて唯今まかり下り候。道行「雲霞。 あと遠山に越えなして。/\。 いく関々の道すがら。国々過ぎて行く程に。 こゝぞ名におふ隅田川。渡に早く着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。 これは早隅田川の渡にて候。又あれを見れば舟が出で候。 急ぎ乗らばやと存じ候。 如何に船頭殿舟に乗らうずるにて候。

ワキ詞「なか/\の事めされ候へ。先々御出候後の。 けしからず物騒に候ふは何事にて侯ふぞ。 男「さん候。都より女物狂の下り候ふが。 是非もなく面白う狂ひ候ふを見候ふよ。 ワキ「さやうに候はゞ。暫く舟を留めて。 彼の物狂を待たうずるにて候。 。 シテサシ一声「実にや人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。 今こそ思ひしら雪の。道行人に言づてゝ。 行方を何と尋ぬらん。聞くや如何に。 上の空なる風だにも。地「松に音する。習あり。カケリ「。 シテ「真葛が原の露の世に。 地「身を恨みてや。明け暮れん。 シテサシ「これは都北白河に。年経て住める女なるが。 思はざる外に独子を。人商人に誘はれて。 行方を聞けば逢坂の。関の東の国遠き。 東とかやに下りぬと聞くより心乱れつゝ。 そなたとばかり。思子の。跡を重ねて。 迷ふなり。

地下歌「千里を行くも親心子を忘れぬと聞くものを。 上歌「もとより契仮なる一つ世の。/\。其中をだに添ひもせで。 こゝやかしこに親と子の。 四鳥の別これなれや。尋ぬる心の果ならん。 武蔵の国と下総の中にある隅田川にも。 着きにけり隅田川にも着きにけり。 。シテ詞「なう/\我をも舟に乗せて賜はり候へ。 ワキ詞「お事は何くよりも何方へ下る人ぞ。 シテ「これは都より人を尋ねて下る者にて候。ワキ「都の人といひ狂人といひ。 面白う狂うて見せ候へ。 狂はずは此舟には乗せまじいぞとよ。 シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば。 日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。かたの如く都の者を。 舟に乗るなと承るは。隅田川の渡守とも。 覚えぬ事な宣ひそよ。ワキ詞「実に/\都の人とて。名にし負ひたる優しさよ。 シテ「なう其詞はこなたも耳に留るものを。 彼の業平も此渡にて。名にしおはゞ。

いざ言問はん都鳥。 我が思ふ人は有りやなしやと。詞 なう舟人。 あれに白き鳥の見えたるは。都にては見馴れぬ鳥なり。 あれをば何と申し候ふぞ。 ワキ「あれこそ沖の鴎候ふよ。 シテ「うたてやな浦にては千鳥とも云へ鴎とも云へ。 など此隅田川にて白き鳥をば。都鳥とは答へ給はぬ。 ワキ「実に/\誤り申したり。 名所には住めども心なくて。都鳥とは答へ申さで。 シテ「沖の鴎とゆふ波の。 ワキ「昔にかへる業平も。 シテ「有りや無しやと言問ひしも。ワキ「都の人を思妻。 シテ「わらはも東に思子の。ゆくへを問ふは同じ心の。 ワキ「妻をしのび。シテ「子を尋ぬるも。 ワキ「思は同じ。シテ「恋路なれば。 地歌「我もまた。いざ言問はん都鳥。/\。 我が思子は東路に。有りやなしやと。 問へども/\答へぬはうたて都鳥。 鄙の鳥とやいひてまし。実にや舟ぎほふ。

堀江の川のみなぎはに。来居つゝ鳴くは都鳥。 それは難波江これは又隅田川の東まで。 思へば限なく。遠くも来ぬるものかな。 さりとては渡守。舟こぞりて狭くとも。 乗。 せさせ給へ渡守さりとては乗せてたび給へ。 ワキ「かゝるやさしき狂女こそ候はね。急いで舟に乗り候へ。 この渡は大事の渡にて候。 かまひて静かに召され候へ。 男詞「なうあの向の柳の本に。 人のおほく集まりで候ふは何事にて候ふぞ。 ワキ詞「さん候あれは大念仏にて候。 それにきてあはれなる物語の候。 この舟の向へ着。 き候はん程に語つて聞かせ申さうずるにて候。語 さても去年三月十五目。 しかも今日に相当て候。人商人の都より。 年。 の程十二三ばかりなる幼き者を買ひとりて奥へ下り候ふが。此幼き者。 いまだ習はぬ旅の疲にや。以ての外に遺例し。

今は一足も引かれずとて。 此川岸にひれふし候ふを。 なんぼう世には情なき者の候ふぞ。此幼き者をば其まゝ路次に捨てゝ。 商人は奥へ下つて候。さる間此辺の人々。 此幼き者の姿を見候ふに。 よし有りげに見え候ふ程に。さま%\に痛はりて候へども。前世の事にてもや候ひけん。 たんだ弱りに弱り。既に末期と見えし時。 おことはいづく如何なる人ぞと。 父の名字をも国をも尋ねて候へば。我は都北白河に。 。 吉田の何某と申しゝ人の唯ひとり子にて候ふが。 父には後れ母ばかりに添ひ参らせ候ひしを。人商人にかどはされて。 かやうになり行き候。 郡の人の足手影もなつかしう候へば。此道の辺に築き籠めて。 。 しるしに柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し。 念仏四五返称へつひに事終つて候。 なんぼうあはれなる物語にて候ふぞ。

見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候。 逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ。 よしなき長物語に舟が着いて候。とう/\御上り候へ。 ワキツレ「いかさま今日は此所に逗留仕り候ひて。 逆縁ながら念仏を申さうずるにて候。 ワキ「いかにこれなる狂女。 何とて船よりは下りぬぞ急いで上り候へ。 あらやさしや。 今の物語を聞き候ひて落涙し候ふよ。なう急いで身より上り候へ。 シテ「なう舟人。今の物語はいつの事にて候ふぞ。 ワキ「去年三月今日の事にて候。 シテ「さて其児の年は。ワキ「十二歳。 シテ「主の名はワキ「梅若丸。シテ「父の名字は。 ワキ「吉田の何某。 シテ「さて其後は親とても尋ねず。ワキ「親類とても尋ねこず。 シテ「まして母とても尋ねぬよなう。 ワキ「思もよらぬこと。シテ「なう親類とても親とても。 尋ねぬこそ理なれ。其幼き者こそ。 此物狂が尋ぬる子にては候へとよ。

なうこれは夢かやあらあさましや候。 ワキ詞「言語道断の事にて候ふものかな。 今まではよその事とこそ存じて候へ。 さては御身の子にて候ひけるぞあら痛はしや候。 かの人の墓所を見せ申し候ふベし。 こなたへ御出で候へ。 。 シテ「今まではさりとも逢はんを頼みにこそ。知らぬ東に下りたるに。 今は此世になき跡の。しるしばかりを見る事よ。 さても無慙や死の緑とて。 生所を去つて東のはての。道の辺の土となりて。 春の草のみ生ひ茂りたる。 此下にこそ有るらめや。「さりとては人々此土を。 かへして今一度。 此世の姿を母に見せさせ給へや。歌「残りても。 かひ有るべきは空しくて。/\。有るはかひなき帚木の。 見えつ隠れつ面影の。定めなき世の習。 人間憂の花盛。無常の嵐音添ひ。 生死長夜の月の影不定の。雲おほへり実に目の前の。 憂き世かなげに目の前の憂き世かな。 。 ワキ詞「今は何と御歎き候ひてもかひなき事。たゞ念仏を御申し候ひて。 後世を御弔ひ候へ。既に月出で河風も。 はや更け過ぐる夜念仏の。時節なればと面々に。 鉦鼓を鳴らし勧むれば。 シテ「母は余りの悲しさに。念仏をさへ申さすして。 唯ひれふして泣き居たり。 ワキ詞「うたてやな余の人多くましますとも。 母の弔ひ給はんをこそ。亡者も喜び給ふべけれと。 鉦鼓を母に参らすれば。 シテ「我が子の為と聞けばげに。此身も鳧鐘を取り上げて。 ワキ歎をとゞめ声澄むや。 シテ「月の夜念仏もろともに。ワキ「心は西へと一すぢに。 シテワキ二人「南無や西方極楽世界。 三十六万億。同号同名阿弥陀仏。 地「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。 南無阿弥陀仏シテ「隅田河原の。波風も。 声立て添へて。

地「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。シテ「名にしおはゞ都鳥も音を添へて。 。 地、子方「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。 。シテ「なう/\今の念仏の中に、正しくわが子の声の聞え侯よ。 此塚の内にてありげに候ふよ。 ワキ「我等もさやうに聞きて候。所詮此方の念仏をば止め候ふべし。 母御一人御申し候へ。 シテ「今一声こそ聞かまほしけれ。南無阿弥陀仏。 子方「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と。 地「声の内より。幻に見えければ。 シテ「あれは我が子か。子方「母にてましますかと。 地「互に手に。手を取りかはせば又消え/\となり行けば。いよ/\思はます鏡。面影も幻も。 見えつ隠れつする程に東雲の空も。 ほのぼのと明け行けば跡絶えて。 我が子と見えしは塚の上の。草茫々として唯。 しるし。 ばかりの浅茅が原と、なるこそあはれなりけれなるこそあはれなりけれ 延喜帝の臣下 従者 蝉丸 逆髪

ワキ、ワキツレ二人、次第「定めなき世のなか/\に。/\憂きことや頼なるらん。 ワキ「これは延喜第四の御子。蝉丸の宮にておはします。 三人「実にや何事も報有りける浮世かな。 前世の戒行いみじくて。 今皇子とはなり給へども。襁褓のうちよりなどやらん。 両眼盲ひまし/\て。 蒼天に月日の光なく。暗夜に灯。暗うして。五更の雨も。 止む事なし。 ワキ「明かし暮らさせ給ふ所に。帝如何なる叡慮やらん。 三人「密かに具足し奉り。逢坂山に捨て置き申し。 御髪をおろし奉れとの。 綸言出でてかへらねば。御痛はしさは限なけれども。 勅諚なれば力なく。

下歌「足弱車忍路を雲井のよそに廻らして。上歌「しのゝめの。 空も名残の都路を。/\。 今日出で初めて又いつか。帰らん事も片糸の。 よるべなき身の行方。さなきだに世の中は。 浮木の亀の年を経て。盲亀の闇路たどり行く。 迷の雲も立ちのぼる逢坂山に。 着きにけり逢坂山に着きにけり。 ツレ詞「いかに清貫。ワキ詞「御前に候。 ツレ「さて我をば此山に捨て置くべきか。 ワキ「さん候宣旨にて候程に。 これまでは御供申して候へども。 何くに捨て置き申すべきやらん。さるにても我が君は。 堯舜より此方。 国を治め民を憐れむ御事なるに。

かやうの叡慮は何と申したる御事やらん。 かゝる思もよらぬことは候はじ。ツレ詞「あら愚の清貫が言ひ事やな。 本より盲目の身と生るゝ事。 前世の戒行拙き故なり。されば父帝も。 山野に捨てさせ給ふ事。御情なきには似たれども。 此世にて過去の業障を果し。 後の世を助けんとの御謀。これこそ誠の親の慈悲よ。 あら歎くまじの勅諚やな。 ワキ詞「宣旨にて候ふ程に。御髪をおろし奉り候。 ツレ詞「これは何と云ひたる事ぞ。 ワキ「是は御出家とてめでたき御事にて渡らせ給ひ候。物着「。 ツレ「実にやかうくわんもとひを切り。 半だんに枕すと。唐土の西施が申しけるも。 かやうの姿にてありけるぞや。 ワキ「此御有様にては。 中々盗人の恐も有るべければ。 御衣を賜はつて簑と云ふ物を参らせ上げ候。 ツレ「これは雨による田簑の島とよみ置きつる。簑と云ふ物か。 ワキ詞「又雨露の御為なれば。同じく笠を参らする <285a>。 。 ツレ「これは御侍御笠と申せとよみ置きつる。笠と云ふ物よなう。 ワキ詞「又此杖は御道しるべ。御手に持たせ給ふべし。 ツレ「実に/\是も突くからに。 千年の坂をも越えなんと。彼の遍照がよみし杖か。 ワキ「それは千年の坂行く杖。 ツレ「こゝは所も逢坂山の。 ワキ「関の戸ざしの藁屋の竹の。ツレ「杖柱とも頼みつる。 ワキ「父帝には。ツレ「捨てられて。 地「かゝる憂き世に逢坂の。知るも知らぬもこれ見よや。 延喜の皇子の成り行く果ぞ悲しき。 行人征馬の数々。上り下りの旅衣。 袖をしをりて村雨の振り捨て難き。 名残かな振り捨てがたき名残かな。 さりとてはいつを限に有明の。尽きぬ涙を押さへつゝ。 早帰るさになりぬれば。皇子は跡に唯独。 御身に添ふ物とては。 琵琶を抱きて杖を。 持ち臥し転びてぞ泣き給ふ臥しまろびてぞ泣きたまふ <285b>。 シテ、サシ一声「これは延喜第三の御子。 逆髪とは我が事なり。我皇子とは生るれども。 いつの因果の故やらん。詞「心より/\狂乱して。 辺土遠郷の狂人となつて。 。 翠の髪は空さま。 に生い上つて撫。 づれども下らず。 詞「いかにあ。 れなる童どもは何を笑ふぞ。 何。 我が髪の逆さま。 なるがをかしいとや。実に/\。 逆さまなる事はをかしいよな。 さては我が髪よりも。 汝等が身にて我を笑ふこそ逆さまなれ。詞「面白し/\。 是等は皆人間目前の境界なり <285c>。 夫れ花の種は地に埋もつて千林の梢に上り。 月の影は天にかゝつて万水の底に沈む。 是等をば皆何れが順と見逆なりと言はん。 我は皇子なれども。庶民に下り。 髪は身上より生ひ上つて星霜を戴く。 これ皆順逆の二つなり。面白や <286a>。 カケリ「柳の髪をも風は梳るに。地「風にも解かれず。 シテ「手にも分けられず。 地「かなぐり捨つるみての袂。シテ「抜頭の舞かやあさましや。 地歌「花の都を立出でて。/\。 憂き音に鳴くか鴨河や。末しら河を打ち渡り。 粟田口にも着きしかば今は誰をか松坂や。 関の此方と思ひしに。 跡になるや音羽山の名残惜しの都や。松虫鈴虫きり%\すの。 鳴くや夕陰の山科の里人も咎むなよ。狂女なれど心は清滝川と知るべし。 シテ「逢坂の。関の清水に影見えて。 地「今や引くらん望月の。駒の歩も近づくか。 水も走井の影見れば。我ながら浅ましや。 髪は蓬を戴き黛も乱れ黒みて。 実に逆髪の影映る。 水を鏡とゆふ波の現なの我が姿や。 ツレ、サシ「第一第二の絃は索々として秋の風。松を払つて疎韻落つ。 第三第四の宮は。我蝉丸が調べも四つの。 をりからなりける村雨かな <286b>。 あら心凄の夜すがらやな。世の中は。 とにもかくにも有りぬべし。宮も藁屋も果てしなければ。 。 シテ「不思議やなこれなる藁屋の内よりも。撥音けだかき琵琶の音聞ゆ。 そもこれ程の賎が家にも。 かゝる調べのありけるよと。思ふにつけてなどやらん。 世になつかしき心地して。 藁屋の雨の足音もせで。ひそかに立ちより聞き居たり。 ツレ「誰そや此藁屋の外面に音するは。 此程をり/\訪はれつる。 博雅の三位にてましますか。シテ詞「近づき声をよく/\聞けば。弟の宮の声なりけり。 なう逆髪こそ参りたれ。蝉丸は内にましますか。 ツレ「何逆髪とは姉宮かと。 驚き藁屋の戸を明くれば。シテ「さも浅ましき御有様。 ツレ「互に手に手を取りかはし。 シテ「弟の宮か。ツレ「姉宮かと。 地「共に御名をゆふ付の。鳥も音を鳴く逢坂の。 せきあへぬ御涙。互に袖やしをるらん <286c>。 。 地クリ「夫れ栴檀は二葉より香ばしといへり。ましてや一樹の宿として。 風橘の香を留めて。花も連なる。枝とかや。 シテ、サシ「遠くは浄蔵浄眼早離速離。 近くは又応神天皇の御子。 地「難波の皇子菟道の御子と。互に即位謙譲の御志。 皆これ連理の情とかや。 シテ「さりながらこゝは兄弟の宿とも。 地「思はざりしに藁屋の内の。 一曲なくはかくぞともいかで調の四つの緒に。シテ「引かれてこゝに。 よるべの水の。地「浅からざりし契かな。 クセ「世は末世に及ぶとても。 日月は地に落ちぬ。習とこそ思ひしに。 我等如何なれば。わうじを出でてかくばかり。 人臣にだに交はらで。 雲居の空をも迷ひ来て都鄙遠境の狂人路頭山林の賎となつて。 辺土旅人の憐をたのむばかりなり。 さるにても昨日までは。玉楼金殿の。 床を磨きて玉衣の <287a>。 袖引きかへて今日は又かゝる所の臥所とて。竹の柱に竹の垣軒も〓{$11728 トボソ。 扉・枢のこと}もまばらなる。藁屋の床に藁の窓。 敷く物とても藁莚。 これぞ古の錦の褥なるべし。ツレ「たま/\こと訪ふものとては。 地「峯に木伝ふ猿の声。 袖を湿ほす村雨の。音にたぐへて琵琶の音を。 弾き鳴らし弾き鳴らし。我が音をも泣く涙の。 雨だにも音せぬ藁屋の軒のひま%\に。 時時月は漏りながら。 目に見る事の叶はねば。月にも疎く雨をだに。 聞かぬ藁屋の起臥を。思ひやられて痛はしや。 ロンギ、シテ「これまでなりやいつまでも。 名残は更に尽きすまじ。暇申して蝉丸。 ツレ「一樹の蔭の宿とて。 それだに有るにまして実に。兄弟の宮の御わかれ。 とまるを思ひやり給へ。シテ「実に痛はしや我ながら。 行くは慰む方もあり。 留まるをさこそとゆふ雲の。立ちやすらひて泣き居たり。 ツレ「鳴くや関路の夕烏 <287b>。 浮かれ心は烏羽玉の。シテ「我が黒髪の飽かで行く。 ツレ「別路とめよ逢坂の。 シテ「関の杉村過ぎ行けば。ツレ「人声遠くなるまゝに。 シテ「藁屋の軒に。ツレ「たゝずみて <287c>。 地「互にさらばよ常には訪はせ給へと。 幽かに声。 のする程聞き送りかへり見おきて泣く泣く別れ。おはします泣く/\別れおはします 供奉の官人 従者 御使 照日前 侍女 継体天皇

。 前ワキツレ詞「是は越前の国味真野と申す所に御座候ふ。 大跡部の皇子に仕へ申す者にて候。さても都より御使あつて。 武烈天皇の御代を。 あぢまのゝ皇子に御ゆづりあり。御迎の人々まかり下り御供申し。 今朝とく御上洛にて候。 さる間此程御寵愛あつて召しつかはれて候ふ。 照日の前と申す御方。此程御暇にて御里に御座候ふが。 かの御方へ俄の御上洛につき。 御玉章と。

朝毎に御手に馴れし御花筐を参らせられ候ふを。 某に持ちて参れとの御事にて候ふ程に。只今照日の御里へと急ぎ候。 あらうれしやこれへ御出で候ふよ。 これにて申し候ふべし。いかに申し候。 シテ「何事にて候ふぞ。 前ワキツレ「我が君は都より御迎下れり。御位に即かせ給ひ。 今朝とく御上にて候。又これなる御文と御花筐とを。 たしかに参らせよとの御事にて候。 これこれ御覧候へ。 シテ「さては我が君御位に即かせ給ひ。

都への御上返す%\も御めでたうこそ候へととよさりながら。 この年月の御名残。いつの世にかは忘るべき。 あら御名残をしや。 詞「されども思召し忘れずして。 御玉章を残し置かせ給ふ事の有難さよ。急ぎ見まゐらせ候はん。 シテ(交)「我応神天皇の孫苗を継ぎながら。 帝位を履む身にあらざれども。 天照大神の神孫なれば。毎日に伊勢を拝し奉りし。 その神感の至にや。 群臣の選にいだされて。いざはなれゆく雲の上。 めぐりあふべき月影を。秋の頼みに残すなり。 頼めたゞ袖ふれ。馴れし月影の。 しばし雲居に隔ありとも。と。 地下歌「書き置きたまふ水茎の跡にのこるぞ悲しき。 上歌「君と住む。程だにありし山里に。/\。 ひとり残りて有明の。つれなき春もすぎま吹く。 松の嵐もいつしかに。 花の跡とてなつかしき御花筐玉章をいだきて里に。 帰りけり抱きて里に帰りけり。

ワキワキツレ二人次第「君の恵も高照す。/\。 紅葉の行幸はやめん。ワキサシ「忝くも此君は。 応神天皇五代の御末。 大跡辺の皇子と申ししが。当年御即位をさまりて。 継体天皇と申すなり。 ワキツレ「されば治まる御代の御影。 日の本の名もあひにあふ。 ワキ「大和の国や玉穂の都に。ワキツレ「今宮造り。ワキ「あらたなり。 ワキワキツレ二人歌「萬代の。恵も久し富草の。/\。 種も栄ゆく秋の空。 露も時雨も時めきて。四方に色添ふ初紅葉。 松も千歳緑にて。常磐の秋に廻りあふ。 行幸の車早めん/\。 後シテ一声「いかにあれなる旅人。 都への道教へて給べ。詞「何物狂とや。 物狂も思ふ心のあればこそ問へ。 など情けなく教へ給はぬぞや。ツレ「よしなう人は教へずとも。 都への道しるべこそ候へ。 あれ御覧候へ雁の渡り候。シテ詞「何雁の渡るとや。

げに今思ひだしたり。秋にはいつも雁の。 南へ渡る天つ空。 ツレ「空言あらじ君が住む。都とやらんも其方なれば。 シテ詞「声をしるべの便の友と。 ツレ「我も田面の雁こそ。つれて越路のしるべなれ。 シテ「其上名におふ蘇武が旅雁シテ、ツレニ人 一セイ「玉章を。 つけし南の都路に。地「我をも共に。 連れて行け。カケリ シテ「宿かりがねの旅衣。 地「飛びたつばかりの。心かな。 シテサシ「君が住む越の白山知らねども。 行きてや見まし足引の。 二人「大和は何方かしら雲の。高間の山のよそにのみ。 見てや止みなん及びなき。雲居はいづく御影山。 日の本なれや大和なる。 玉穂の都に急ぐなり。地下歌「こゝは近江の海なれや。 みづからよしなくも。およばぬ恋に浮舟の。 上歌「こがれゆく。旅をしのぶの摺衣。 /\。涙も色か黒髪の。 あかざりし別路の跡に心は浮れ来て。

鹿の起臥堪へかねて。なほ通ひゆく秋草の。 野暮れ山暮れ露分けて。玉穂の宮に着きにけり。/\。 ワキ「時しも頃は長月や。 まだき時雨の色うすき。紅葉の御幸の道の辺に。 非形をいましめ面々に。行幸の御先を清めけり。 シテ「さなぎだに都に慣れぬ鄙人の。 女と云ひ狂人と云ひ。 シテツレ二人「さこそ心は楢の葉の。風も乱るゝ露霜の。 行幸の先に進みけり。 ワキ「不思議やな其さま人にかはりたる。狂女と見えて見苦しやとて。 官人立ちより払ひけり。 詞「そこのき候へ。 ツレ「あら悲しや君の御花筐を打ち落されて候ふは如何に。 シテ「何と君の御花筐を打ち落とされたるとや。 あら忌はしの事や候。ワキ「いかに狂女。 持ちたる花籠を君の御花筐とて渇仰するは。 そも君とは誰が事を申すぞ。 シテ「事新しき問事かな。此君ならで日の本に。 又異君のましますべきか。

ツレ「我らは女の狂人なれば。白地と思し召さるゝか。 忝なくもこの君は。應神天皇五代の御孫。 過ぎし頃まで北国の。あぢまのと申す山里に。 シテ詞「大跡辺の皇子と申しゝが。 ツレ「今は此国玉穂の都に。 シテ「継体の君と申すとかや。 ツレ「さればかほどにめでたき君の。シテ「御花筐な恐れもなさで。 ツレ「打ち落し給ふ人々こそ。 シテ「我よりもなほ物狂よ。地「恐しや。/\。 世は末世に及ぶといへど。日月は地に落ちず。 まだ散りもせぬ花筐を。 荒けなや荒金の土に落し給はゞ。天の咎も忽ちに。 罰あたり給ひて。わが如くなる狂気して。 ともの物狂と。 言はれさせ給ふな人に言はれさせ給ふな。シテ「かやうに申せば。 地「かやうに申せばたゞ現なき花筐の。 か言とやおぼすらん。この君いまだ其頃は。 皇子の御身なれど。 朝ごとの御勤に花を手向け礼拝し。南無や天照皇太神宮天長地久と。

称へさせ給ひつゝ。 御手を合させ給ひし御面影は身に添ひて。 忘形見までもおなつかしや恋しや。シテ「陸奥の。 安積の沼の花がつみ。地「かつ見し人を恋草の。 忍ぶもぢずり誰故ぞ乱心は君のため。 ここに来てだに隔ある月の都は名のみして。 袖にも移されず。又手にも取られず。 唯徒に水の月を望む猿の如くにて。 叫び伏して泣き居たり/\。 ワキ詩「いかに狂女。 宣旨にてあるぞ御車近う参りて。 いかにも面白う狂うて舞ひ遊び候へ。 叡覧あるべきとの御事にてあるぞ。急いで狂ひ候へ。 シテ「うれしやさては及びなき。御影を拝みや申すべき。 いざや狂はんもろともに。 シテツレ二人一セイ「御幸に狂ふ囃子こそ。地「御先を払ふ。 袂なれ。イロエ「。 シテサシ「かたじけなき御たとへなれども。 いかなれば漢王は。

地「李夫人御別を歎き給ひ。朝政神さびて。 夜のおとゞも徒に。唯思の涙御衣の。袂をぬらす。 シテ「また李夫人は紅色の。 地「花のよそほひ衰へて。しをるゝ露の床の上。 塵の鏡の影を恥ぢて。 終に帝に見え給はずして去り給ふ。クセ「帝深く。歎かせ給ひつゝ。 。 其御かたちを甘泉殿の壁にうつし我も畫図に立ち添ひて。明暮歎き給ひけり。 されどもなか/\。御思は増されども。 物いひかはす事なきを。深く歎き給へば。 李少と申す太子の。幼なくましますが。 父帝に奏し給ふやう。 シテ「李夫人は本はこれ。地「上界の嬖妾。 くわすゐこくの仙女なり。一旦人間に。 生まるゝとは申せども終に本の仙宮に帰りぬ。 泰山府君に申さく。李夫人の面影を。 しばらくこゝに招くべしとて。九華帳の中にして。 反魂香を焚き給ふ。夜ふけ人しづまり。 風すさましく。

月秋なるにそれかと思ふ面影の。有るか無きかにかげろへば。 なほいやましの思草。葉末に結ぶ白露の。 手にも溜らでほどもなく唯徒に消えぬれば。 漂渺悠揚としては又。尋ぬべき方なし。 シテ「悲しさのあまりに。 地「李夫人の住みなれし。甘泉殿を立ち去らず。 空しき床を打ち払ひ。古き衾。古き枕。 ひとり袂をかたくし。 ワキ詞「宣旨にてあるぞ。 その花筐を参らせあげ候へ。 シテ「余りのことに胸ふさがり。心空なる花筐を。 恥ずかしながら参らする。ワキ「帝はこれを叡覧あつて。 疑もなき田舎にて。御手に馴れし御花筐。 詞「同じく留め置き給ひし。 御玉章の恨を忘れ。狂気を止めよ本の如く。 召し使はんとの宣旨なり。 シテ「けにありがたや御めぐみ。直なる御代に帰るしるしも。 思へば保ちし筐の徳。 ワキ「かれこれともに時に逢ふ。シテ「花の筐の名を留めて。

ワキ「恋しき人の手馴れし物を。 シテ「かたみと名づけそめし事。ワキ「此時よりぞ。 して「はじまりける。 他「有難やかくばかり。情の末をしら露の。 惠に洩れぬ花筐の。 御かごとましまさぬ君の御心ぞありがたき。 キリ地「御遊も既に時過ぎて。/\。 今は還幸なし奉らんと。供奉の人々。 御車やりつゞけ。もみぢ葉散り飛ぶ御先を払ひ。 払ふや袂も山風に。 さそはれゆくや玉穂の都。さそはれゆくや玉穂の都に。 盡きせぬ契ぞ有難き 中将姫 中将姫従者 乳母侍従 横佩豊成 従者三四人 乳母侍従

ワキツレ「かやうに候ふ者は。 奈良の都横佩の右大臣豊成公に仕へ申す者にて候。 扨も姫君を一人御持ち候ふを。 さる人の讒奏により。大和紀の国の境なる。 雲雀山にて失ひ申せとの仰にて候ふ程に。 これまで御供申して候へども。 いかにして失ひ申すべきと存じ。 柴の庵を結びとかくいたはり申し候。さる程に侍従と申す乳母。 春は木々の花を手折り。 秋は草花を取りて里に出で。往来の人にこれを代なし。 かの姫君を過し申し候。 今日も侍従を呼び出し。里へ下さばやと存じ候。 いかに申すべき事の候。シテ「何事にて候ふぞ。 ワキツレ「けふも又里へ御出で候へ。 シテ「さらば姫君に御暇を申し候ふべし。

ワキツレ「やがて御暇を申し里へ御出で候へ。 シテ「いかに申すべき事の候。 今日も里へ出でてやがて帰り候ふべし。 子方サシ「げにや寒竃に煙絶えて。春の日いとゞ暮し難う。 シテ「弊室に灯消えて。秋の夜なほ長し。 家貧にしては親知少く。賎しき身には故人疎し。 親しきだにも疎くなれば。 下歌詞「よそ人はいかで訪ふべき。 上歌「さなきだにせばき世に。/\。 陰れ住む身の山深みさらば心のありもせで。 たゞ道せばき埋草露いつまでの身ならまし/\。 かくて煙も絶え%\の。/\。光の陰も惜しき間に。 よその情を頼まんと。 草の枢を引きたてて。又里へこそ出でにけれ/\。 ワキ次第立衆「傾く峰の雲雀山。/\。

上るや雲路なるらん。 ワキ詞「これは横佩の右大臣豊成とは我が事なり。 ワキ立衆「それ狩場は四季の遊にて。時をりふしの興を増す。 上歌「梓の真弓春くれば。/\。 霞む外山の桜狩。雨は降り来ぬ同じくは。 濡るとも花の。木蔭に宿らん。 さて又月は夜を残す。 雪にはあくる交野の御野禁野につゞく天の川。空にぞ雁の。声は居る/\。 シテサシ一声「さつき待つ花橘の香をかげば。 昔の人の袖の香ぞする。 詞「げにや昔も君のため。故ある果を集めつゝ。 常世の国まで行きしぞかし。われも主君の御為に。 色ある花を手折りつゝ。 葉末に結ぶ露の御身を。残しやすると思草。いろ/\の。 上翔「頃をえて。咲く卯の花の杜若。 地「紫染むる山ぐさの。 シテ「色香にめでて花召され候へ。地「月は見ん。 月には見えじながらへて。/\。 憂き世を廻る影もはづか。

しの森の下草咲きにけり花ながら刈りて売らうよ。日頃へて。 待つ日はきかず時鳥。匂求めて尋ねくる。 花橘や召さるる/\。 トモ詞「いかに尋ね申すべき事の候。 其花をば何の為に持ち給ひて候ふぞ。 シテ詞「さ。 ん候これは故ある人に参らせん為に持ちて候。 何れにても候へ色香にめでて召され候へ。 花檻前に笑んで声いまだ聞かず。鳥林下に鳴いて涙つきがたし。 げにも尽きぬは花の種。いろ/\なれや紅は。いづれ深百合深見草。 御心よせに召され候へとよ。 トモ「げに面白き売物かな。さてその花を売る事は。 分きて謂のあるやらん。 シテ「あらむつかしとお尋あるや。召されまじくはお心ぞとよ。 同「いろ/\の。/\。人の心は白露の。 枝に霜は置くともなほ常磐なれや橘の。 目ざましぐさの戯。 そなたの身には何事も包む事はなくとも。

こし方なれや古。 をも忍ぶ草を召されよや忍ぶ草を召されよ。シテ「麻裳よい。同「麻裳よい。 紀の関守が手束弓。 いるさか帰るさかいづれにてもましませ。 などや花は召されぬあ。 ら花すかずの人々や花すかぬひとぞをかしき。 。 トモ詞「さらばこの花を買ひ取り候ふべし。 又御身のこし方を懇に御物語り候へ。シテ「春霞。立つを見捨てゝ行く雁は。 地「花なき里に住みや習へると。 心そらなる疑かな。 シテサシ「款冬あやまつて暮春の風に綻び。 同「又躑躅は夜遊の人の折をえて。驚く春の夢のうち。 胡蝶の遊び色香にめでしも皆これ心の花ならずや。 シテ「実に面白き遊花の友。 同「春の心や惜しむらん。 クセ「思へ桜色に。 染めし袂の惜しければ。衣更へ憂き。けふにぞありける。 それのみかいつしかに。春を隔つる杜若。

いつから衣はる%\の。 面影残るかほよ鳥の。 鳴きうつる声まで身の上に聞く哀さよ。かくてぞ花にめで。鳥を羨む人心。 思ひの露も深見草の。しげみの花衣。 野を分け山に出で入れども。 さらに人は白玉の。 思はうちにあれど色になどやあらはれぬ。シテ「さるにても。 馴れしまゝにていつしかに。同「今は昔に奈良坂や。 児の手柏の二面。とにもかくにも故郷の。 よそめになりて葛城や。 高間の山の嶺続き。 こゝに紀の路の境なる雲雀山に隠れ居て。霞の網にかゝり。 目路もなき谷かげの。鵙の草ぐきならぬ身の。 露に置かれ雨にうたれ。 かくても消えやらぬ御身の果ぞ痛はしき。遠近の。シテ「遠近の。 同「たづきも知らぬ。山中に。 おぼつかなくも。呼子鳥の。雲雀山にや。 待ち給ふらん。いざや帰らん。/\。中ノ舞「。 。

ワキ詞「やあ如何に御事はめのとの侍従にてはなきか。豊成をば見忘れてあるか。 。 さても我が姫よしなき者の讒奏により失ひしかども。 科なき由を聞き後悔すれども適はず。まことや御事が計として。 この雲雀山の谷陰に。 柴の庵を結び隠し。 置きたるとは聞きしかども真しからぬ所に。今おことを見てこそさてはと思へ。 姫はいづくにあるぞ包まず申し候へ。 シテ「これは仰とも覚えぬものかな。 人のかごとをお用ひありて。 失ひ給ひし中将姫の。何しにこの世にましますべき。 いかに御尋ありとても。 詞「今は御身も夏草の。茂に交る姫百合の。 知られぬ御身なり。何をか尋ね給ふらん。 ワキ詞「げに/\それはさる事なれども。 先非を悔ゆる父が心。 涙の色にも見ゆらんものを。はやあり所を申すべし。 シテ「まことさやうに思しめすか。ワキ「なか/\諸天氏の神も。正に照覧あるべきなり。

シテ「さらばこなたへ御いであれと。 そことも知らぬ雲雀山の。 草木をわけて谷陰の。栞を道に足引の。 地「山ふところの空木に。草をむすび草を敷きて。 四鳥の塒に親と子の。思はず帰り逢ひながら。 互に見忘れて。たゞ泣くのみの心。

げにや世の中は。定なきこそ定なれ。 夢ならば覚めぬまに。はやとく/\とありしかば。 乳母御手を引き立てゝ。 お輿に乗せ参らせて。御悦の帰るさに。 奈良の都の八重桜咲きかへる道ぞめでたき/\ 上京の男

。ワキ次第「昨日入りにし三吉野の/\北の山路に帰らん。 詞「これは上京邊に住居する者にて候。これに渡り候ふ幼き人は。 母御を行方なく失ひ給ひ御歎き候ふほどに。 我等御供申し御祈の為。 昨日三吉野に参詣申し。只今都へ上り候。 道行「一夜寝てまた立ち帰る旅衣。/\。 昨日過ぎにし道芝の露も草葉も五月雨の。 山水そへて行く末の。岸田の早苗みどりにて。

波も淵瀬の名にしおふ。 飛鳥川にも着きにけり/\。詞「急ぎ候ふ程に。 これは早飛鳥川に着きて候。 向を見れば笛鼓を鳴らし田歌を謡ひ候。暫く御眺め候へ。 シテツレ二人一声「飛鳥川。岸田の早苗とり%\の。袖も緑の。 景色かな。ツレ二人「山郭公声添へて。 三人「謡ふ田歌も。なほ繁し。 シテサシ「種蒔きし其神の代ぞ久方の。天のむら早稲種継ぎて。 三人「今人の代の末までも。

恵の国は治りて。我等ごときの民までも。 地儀のかまへは豊なり。然れば神と君が代の。 廣き御影の。有難さよ。 下歌「天の川苗代水にせき下せ。上歌「天くだります事ならば。 /\。神ぞ知るらん世の例。 雨も豊に木の音も。長閑き空の飛鳥風。 都もこゝに遠けれどあまさがる鄙の国までも。 もれぬ誓は有難や/\。 シテ詞「暫く休らひて田を植ゑうずるにて候。 ワキ「面白や頃は五月の初つかた。四方の梢も深みどり。 景色をそへて小田の早苗。 取り持つ人の裳を浸し。袖をぬらせる有様は。 げにをりをりの目前なり。 詞「又これなる河の水出でて。もとの渡瀬も定かならねど。 昨日渡りしそのまゝに。川瀬を尋ね渡り行けば。 シテ「なう旅人こゝは渡瀬に候はず。 今少し上を渡り給へ。 ワキ「何上を渡れと候ふや。シテ「なか/\の事幾程もなし。 あれに見えたるみをじるしを。

しるべに渡り給ふべし。ワキ「ふしぎや昨日三吉野へ。 参りし時は此渡瀬。扨は渡瀬のけふ變り。 上をば渡り候ふやらん。 シテ「此川の��の昨日けふ。變りたるとの御不番は。 名をば何とかしろしめすらん。 ワキ「いやこの川は飛鳥川にては候はぬか。 ツレ「飛鳥川ぞしろしめして。 きのふの淵は今日の��に。變ると豫て知し召さぬは。 御心なき仰かな。 シテ「夜の間の雨に水まさり。殊更けふは流洲の。 渡瀬は定めなきものを。ワキ「實に隠なき此川の。 分きて淵瀬の定まらぬ。謂は如何なる事やらん。 シテ詞「いやそれは唯山川の。 末の流の石多く。淵瀬の常に変る事を。 言ひ習はせる心なり。ツレ「されば歌にも。 シテ「世の中は。地「何か常なる飛鳥川。/\。 昨日の淵は今日の瀬に。 なるや夜の間の五月雨に。みかさまさりて濁りたる。 水の心も知らずして。

左右なう渡り給ふなよ/\。地クリ「それ春過ぎ夏たけて。 秋も又暮れぬべし。冬にならんも。幾程ぞ。 シテサシ「五月雨に物思ひをれば郭公。 地「夜深く鳴きていづち行くらんと。 詠みし心も今更に。身に白糸のよるとなく。 昼ともわかで仇し世のいつまでとてか存へん。 シテ「思へばあはれ胡蝶の夢に。 地「遊ぶぞけふの。現なる。 クセ「御田やもり今日は五月になりにけり。急げや早苗。 老いもこそすれ。實にや五月雨の。 晴れぬ日数もふり行くに。あすとないひそ飛鳥川の。 水田のあさみどり立ち連れいざや植ゑうよ。 抑幾何の田を作ればか郭公。 四手の田長を。朝な/\よぶと。詠ぜしも誠なり。 四手の山田の時過ぎて。 此土に来り声立てゝ。程時過ぐる世の中の。 数をしる故に時の鳥とは申すなり。 シテ「五月山梢を高み時鳥。鳴く音空なる恋やする。 我も。

恋しきみどり子の行方も知らで足引の山路に迷ひ里に出でて。 国々浦々めぐる日の。つもる三年の春過ぎて。 夏もはや五月雨の。ふり分髪の玉葛。 かゝる業はいつか身に。馴衣袖ひちていざ/\早苗とらうよ。面白や。中ノ舞「。シテ「面白や。 雁寒み。くれし田を。地「又時鳥早苗とる。 /\。五月の玉の波を散らすは。 シテ「手玉もゆらの湊田の早苗。 地「さすや潮をもまじる早苗は。シテ「住吉の岸田。 地「入江に任せしは。シテ「難波田のふし水。 地「都邊に植ゑしは。シテ「伏見田鳥羽田の。 地「こ。 れは都に近きたをやめの袖吹き返す飛鳥風。心も乱るゝ青柳のみどり子恋しや。 なつかしや。 今迄は行方も知らぬ賎の女の。/\。 不思議や見れば母上か友若ここに夾りたり。 シテ「我が子ぞと聞けば夢かと夕暮の。 それかあらぬか夢ならばさめての後はいかならん。地「よく/\見ればみづからが。尋ぬる母や。シテ「友若に。

地「あふの松原の。/\。 尽きぬあふ瀬や飛鳥川。深き契の親と子に

。 二度逢ふぞ嬉しき/\ 野上宿の長 花子 花子 吉田少将 従者

狂言「かやうに候ふ者は。美農の国野上の 宿の長にて候。さても我花子と申す上臈 を持ち参らせて候ふが。過ぎにし春の頃 都より。吉田の少将殿とやらん申す人の。 東へ御下り候ふが。此宿に御泊り候ひて。 かの花子と深き御契の候ひけるが。扇を とりかへて御下り候ひしより。花子扇に 眺め入り閨より外に出づる事なく候ふほ どに。かの人を呼びいだし追ひいださば やと思ひ候。いかに花子。今日よりして これには叶ひ候ふまじ。とく/\何方へ も御いで候へ。シテ「げにやもとよりも定 なき世といひながら。うきふししげき

河竹の。流の身こそ悲しけれ。地下歌「わ け迷ふ。行方も知らでぬれ衣。上歌「野上 の里を立ちいでて。/\。近江路なれど 憂き人に。別れしよりの袖の露そのまゝ 消えぬ身ぞつらきそのまゝ消えぬ身ぞつらき。 ワキワキツレ二人次第「帰るぞ名残富士の嶺{ね}の。/\。 ゆきて都にかたらん。ワキ詞「是は吉田の少 将とはわが事なり。さてもわれ過ぎにし 春の頃東(あづま)に下り。はや秋にもなり候へば。 只今都に上り候。道行三人「都をば。霞と共に 立ちいでて。/\。しばし程ふる秋風の。 音白河の関路より。また立ち帰る旅衣。

浦山過ぎて美濃の国。野上の里に着きにけり/\。 ワキ詞「いかに誰かある。急ぐ間これはは や美濃の国野上の宿にて候。此処に花子 といひし女に契りし事あり。いまだ此処(ところ) にあるか尋ねて来り候へ。ワキツレ詞「畏つて 候。花子の事を尋ね申して候へば。長(ちやう)と 不和なる事の候ひて。今は此処には御入 りなき由申し候。ワキ「さては定なき事な がら。もし其花子帰りきたる事あらば。 都へついでの時は申し上せ候へとかたく 申しつけ候へ。急ぐ間ほどなく都に着き て候。われ宿願の子細あれば。是(これ)より 直に糺へ参らうずるにて候。皆々参り候へ。 後シテ一声「春日野の雪間を分けて生ひ出でく る。草のはつかに見えし君かも。詞「よし なき人に馴衣の。日は重ね月はゆけども。 世を秋風の便ならでは。ゆかりを知らす

る人もなし。詞「夕暮の雲の旗手に物を思 ひ。うはの空にあくがれ出でて。詞「身を 徒になすことを。神や仏も憐みて。思ふ ことをかなへ給へ。それ足柄箱根玉津島。 貴船や三輪の明神は。夫婦男女のかたひらを。 守らんと誓ひおはします。此神神に祈誓せば。 などか験のなかるべき。謹上。再拝。恋すてふ。 我が名はまだき立ちにけり。 地「人知れずこそ。思ひそめしか。カケリ「。 シテ「あら恨めしの人心(ひとごころ)や。 サシ「げにや祈りつゝ。御手洗(みたらし)川に恋せじと。 誰かいひけん空言や。されば人心。誠すくなき濁江

の。澄{す}まで頼まば神とても受け給はぬは 理や。とにもかくにも人知れぬ。思の露の。 地下歌「置き所いづくならまし身の行方。 上歌「心だに。誠の道にかなひなば。/\。 祈らずとても。神や守らんわれらまで。 真如の月は曇らじを。知らで程へし人心。 衣の玉はありながら。恨ありやともすれば猶同じ世と。 祈るなりなほ同じ世と祈るなり。

ワキツレ詞「いかに狂女。なにとて今日は狂は ぬぞ面白う狂ひ候へ。シテ「うたてやなあ れ御覧ぜよ今までは。ゆるがぬ梢と見え つれども。風の誘へば一葉(ひとは)も散るなり。 たま/\心すぐなるを。狂へと仰ある人々こそ。 風狂じたる秋の葉の。心もともに乱れ恋の。 あら悲しや狂へとな仰ありさむらひそよ。 ワキツレ詞「さて例の班女の扇は候。 シテ「うつゝなや我が名を班女と呼び給ふぞや。 よし/\それも憂き人の。かたみの扇手にふれて。 うちおき難き袖の露。ふる事までも思ひぞ出づる。 班女が閨のうちには秋の扇の色。楚王の台{うてな}の 上には夜の琴{きん}の声。 地「夢はつる。扇と秋の白露と。いづれか先に起臥の床。 冷{すさま}じや独寝の。さみしき枕して閨の月をながめん。 クリ「月重山{つきちようざん}に隠れぬれば。扇を挙げてこれを喩へ。

シテ「花琴上に散りぬれば。地「雪をあつめて。春を惜しむ。 シテサシ「夕の嵐朝{あした}の雲。いづれか思の妻ならぬ。 地「さびしき夜半の鐘の音。鶏籠{けいろう}の山に響きつつ。 明けなんとして別を催し。シテ「せめて閨もる月だにも。 地「しばし枕に残らずして。又独寝になりぬるぞや。 翠帳紅閨{すいちやうこうけい}に。枕ならぶる床{ゆか}の上。 なれし衾の夜すがらも同穴の跡夢もなし。よしそれも同じ世の。 命のみをさりともと。いつまで草の露の間も。 比翼連理のかたらひ其驪山宮の私語{さゝめごと}も。 誰か聞き伝へて今の世まで漏らすらん。さるにても我が夫(つま)の。 秋より前に必ずと。夕の数は重なれど。あだし言葉の人心。 頼めて来ぬ夜は積もれども。欄干に立ちつくして。 そなたの空よとながむれば。 夕暮の秋風嵐山颪{やまおろし}野分もあの松をこそは音づるれ。 我待つ人よりの音づれをいつ聞かまし。

シテ「せめてもの。形見の扇手にふれて。 地「風の便と思へども。夏もはや杉の窓の。 秋風冷(ひやや)かに吹き落ちて団雪の。扇も雪なれば。 名を聞くもすさましくて。秋風怨あり。 よしや思へば是もげに逢ふは別れなるべし。 其報なれば今さら。世をも人をも恨むまじ 唯思はれぬ身の程を。思ひつゞけて独居(ひとりゐ)の。 班女が閨ぞさみしき。地「絵にかける。中ノ舞「。 シテワカ「月をかくして懐に。持ちたる扇。 地「とる袖も三重がさね。シテ「其色衣(いろぎぬ)の。 地「夫(つま)のかねこと。シテ「かならずと夕暮の。 月日もかさなり。地「秋風は吹けども。荻の葉の。 シテ「そよとの便も聞かで。地「鹿の音虫の音も。 かれ%\の契。あらよしなや。シテ「かたみの扇より。 地「かたみの扇より。猶裏表あるものは人心なりけるぞや。 扇とはそらごとや逢はでぞ恋は添ふものを逢はでぞ恋はそふものを。

ワキ詞「いかに誰かある。 あの狂女が持ちたる扇見たきよし申し候へ。 ワキツレ「いかに狂女。あの御輿(おこし)の内より。 狂女の持ちたる扇御覧じたきとの御事にて候まゐらせられ候へ。 シテ「是は人のかたみなれば。身を離さでもちたる扇なれども。 かたみこそ今はあだなれ是なくは。忘るゝ隙もあらましものをと。 思へどもさすがまた。そふ心地するをり/\は。 扇とる間も惜しきものを。人に見する事あらじ。 ロンギ地「こなたにも。忘れがたみの言の葉を。 磐手{いはで}の森の下躑躅。色に出でずはそれぞとも。 見てこそ知らめこの扇。 シテ「見てはさて。何の為ぞと夕暮の。月を出せる扇の絵の。 かくばかり問ひ給ふは。何のお為なるらん。 地「何ともよしや白露の。草の野上の旅寝せし契の秋は如何ならん。 シテ「野上とは。野上とは東路の。

末の松山。波こえて。帰らざりし人やらん。 地「末の松山たつ波の。何か恨みん契りおく。 シテ「かたみの扇そなたにも。地「身に添へ持ちしこの扇。 シテ「輿のうちより。地「取り出せば。をりふし黄暮(たそがれ)に。

ほの%\見れば夕顔の。花を書きたる扇なり。此上は惟光(これみつ)に。 紙燭めして。ありつる扇。御覧ぜよ互に。それぞと知られ白雪の。 扇の妻のかたみこそ妹背の中の。情なれ。妹背の中の情なれ 狂女(男の妻)

ワキ次第「帰るうれしき都路に。/\。 雲居ぞのどけかりける。 詞「これは都方の者にて候。我東国一見のため罷り下り。 こゝかしこに月日を送り。早三年になりて候。 又都の事もゆかしく候ふ程に。 此度都へ上らばやと存じ候。 道行「雁の花を見捨つる名残まで。/\。故郷思ふ旅心。 憂きだに急ぐ我が方は。さすがに花の都にて。 海山かはる隔にも。思ふ心の道の辺の。 便の桜夏かけて。

ながめ短きあたら夜の。 花の都に着きにけり花の都に着きにけり。 シテサシ「面白や今日は卯月のとり%\に。 千早振るその神山の葵草。 かけて頼むや其恵。色めきつゞく人並に。 あらぬ身までも急ぎ来て。一セイ「今日かざす。 葵や露の玉葛。地「かづらも同じ。かざしかな。 カケリ「。シテ「かざす袂の色までも。 地「思ある身と人や見ん。 シテサシ「面白や花の都の春過ぎて。又其時のをりからも。

地「類はあらじ此神の。誓糺の道すがら。 人やりならぬ心々の。 様々見えて袖をつらね裳裾を染めて行きかふ人の。 道去りあへぬ物思ふ。 地下歌「我のみぞなほ忘られぬその恨。上歌「人の心は花染の。/\。 うつろひ易き頃も過ぎ。山陰の。 賀茂の川波糺の森の緑も夏木立。涼しき色は花なれや。 忘れめや葵を草に引き結び。 仮寝の野辺の。露の曙。面影匂ふ涙の。 ためしなれ。 や恋路の身はかはるまじなあぢきなや身はかはるまじあぢきなや。 ワキ詞「いかにこれなる狂女。 今日は当社の御神事なり。 心を静めて結縁をなし候へ。シテ「これは仰せとも覚えぬものかな。 これも狂もよく思へば聖と言えり。 其上神は知し召すらん。 正直捨方便の御恵。塵に交はる和光の影は。 狂言綺語も隔あらじ。あらおろかの仰や候。 ワキ「実に此言葉は恥かしや。

讃仏乗の心ならば。なにはの事も愚ならじ。 しかもこれなる御社は。 当社に取りても異なる垂跡。舞歌を手向けて乱れ心の。 望を祈り給ふべし。 シテ詞「そも此社は取り分きて。舞歌を納受ある事の。 其御謂は何事ぞ。ワキ「これこそさしも実方の。 宮居給ひし粧の。臨時の舞を妙なる姿を。 水にうつし御手洗の。其縁ある世を渡る。 橋本の宮居と申すとかや。 シテ「あら有難やと夕波に。ワキ「今立ち寄りて。 シテ「影を見れば。 地「現なや見しにもあらぬ面影の。/\。衰へ果つる粧は。 及ばぬ昔のそれのみか。身にも顔ばせの名残さへ。 涙のおちぶるゝこそ悲しき。 今は逢ふともなか/\に。それともいさや白露の。 命ぞ恨めしき命ぞ恨みなりける。 。 ワキ詞「これなる者を如何なる者ぞと存じて候へば。某が語らひたる女にて候。 今は人目もさすがに候ふ間。

さあらぬ体にもてなし。 人間を待ちて名乗らばやと存じ候。いかに狂女。此社にて舞をまひ。 思ふ事を祈るならば。 神もや納受あるべきぞと。 シテ「風折烏帽子かりに着て。ワキ「手向の舞を。シテ「まふとかや。 地次第「またぬぎかへて夏衣。/\。 花の袖をやかへすらん。シテ「山藍に。 摺れる衣の色添へて。地「神も御影や。 移り舞。イロエ「。 シテサシ「実にや往昔に祈りし事は忘れじを。 地「あはれはかけよ賀茂の川波。 立ち帰り来て年月の誓を頼む逢瀬の末。 シテ「憐垂れて玉簾。地「かゝる気色を。守り給へ。 クセ「我も其。しでに涙ぞかゝりにき。 又いつかもと。想ひ出でしまゝ。 涙ながらに立ち別れて。都にも心とめじ。 東路の末遠く。 聞けば其名もなつかしみ思ひ乱れし信夫摺。 誰ゆゑぞ如何にとかこたんとする人もなし。鄙の長路におちぶれて。

尋ぬるかひも泣く/\。 其面影の見えざれば。猶行く方の覚束なく。 三河に渡す。 八橋の蜘蛛手に物を思ふ身は何処をそこと知らねども。岸辺に波を掛川。 小夜の中山なか/\に。 命の内は白雲の又越ゆべしと思ひきや。シテ「花紫の藤枝の。 。 地「幾春かけて匂ふらん馴れにし旅の友だにも。心岡部の宿とかや。 蔦の細道分け過ぎて。 着馴衣を宇津の山現や夢になりぬらん。見聞くにつけて憂き思。 なほこりずまの心とて。 又帰りくる都路の思の色や春の日の。光の影も一しほの。 シテ「柳桜をこきまぜて。 地「錦をさらす縦緯の。 霞の衣の匂やかに立ち舞ふ袖も梅が香の。花やかなりし春過ぎて。 夏もはや北祭。今日また花の都人。 行きかふ袖の色々に。 貴賎群集の粧もひるがへす袂なりけり。地「月にめで。中ノ舞「。 シテ「月にめで。花を詠めし。古の。

地「跡はこゝにぞ在原なる。シテ「其業平の。 結縁の衆生に。地「契り結ぶの。 シテ「神とや岩本の。 地「もとの身なれど仮の世に出でて。月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 春ならぬ思へば我も。シテ「唯いつとなく。 地「唯いつとなく。そことも涙のみ。 思ひ居りて。 我が身一つの憂き世の中ぞ悲しき。 ロンギ地「初より見れば正しくそれぞとは思へど人目つゝましや。 シテ「人目をも我は思はぬ身の行方。心迷の怪しくも。

さすがにそれぞと知るけしき。 恥かしければ言ひあへず。地「よしや互に白真弓。 帰る家路は住み馴れし。 シテ「五条あたりの夕顔の。地「露の宿は。 シテ「心あてに。地「それかあらぬかの。 空目もあらじあらたなる。神の誓を仰ぎつゝ。 さらぬやうにて引き別れて。 この河島の行末は。 逢ふ瀬の道になりにけり逢ふ瀬の道になりにけり 契りし女(狂女) 契りし男

。 ワキ詞「これは下京辺に住まひするものにて候。 われさる子細あつて播磨の国に下り。久しく室の津に逗留の間。 相馴れし女の候ふに都に上りなば。 必ず迎へ妻となすべき由堅く契約申して候。

されば此程室の津へ迎へを遣わし候所に。 かの女居候はぬ由申し候ふ間。 今は尋ぬべき様もなく候。 又今日は夏越の祓にて候ふ程に。賀茂の明神に参詣申し。 かの逢瀬をも願はゞやと存じ候。

。 狂言「これは此あたりに住居仕る者にて候。今日は水無月祓にて候程に。 糺へ参らばやと存じ候。 ワキ「なう是なる人は糺へ御参り候ふか。某も御供申し候ふべし。 。 狂言「見申せば都の人にてありげに候ふが。不知案内なるやうに仰せ候ふよ。 ワキ「仰の如く都の者にて候へども。 久し。 く田舎に候ひて罷り上り候ふ故斯様に申し候。狂言「げに/\左様の事も候ふべし。 さらば御供申し候はん。 ワキ「此頃都にはいかやうなる珍しき事か候。 狂言「御存の如く都は広き事にて候ふ程に。 種々珍しき事も多く候。 先此御手洗に参りて面白き事の候。ワキ「いかやうなる事の候ふぞ。 狂言「若き女物狂の候ふが。 巫のやうなる有様にて。水無月祓の輪を持ち。 人々に茅の輪の謂を申してくゞらせ候ふが。 是非もなく面白う舞ひ遊び候。 これを見せ申し候ふべし。

ワキ「さらば其物狂を見うずるにて候。 狂言「何かと物語申して参り候ふ程に。はや糺へ参りて候。 御覧候へ殊の外群集にて候。 かの物狂を待ちて見せ申し候ふべし。 シテサシ一声「行く水に数かくよりも儚きは。 思はぬ人を思妻の。跡を慕ひて上り瀬の。 清き流や中賀茂の。御手洗川に集うふ君。 今日の夏越の祓して。 此輪越えさせ給へとよ。恥ずかしや人は何とも白波の。 地「木綿しで掛くる。御祓川。 シテ「恋路をただす神ならば。 地「などか逢瀬のなかるべき。 シテサシ「げにや数ならぬ。 身にもたとへ在原の。跡は昔に業平の。此川波に恋せじと。 かけし御祓も大幣の。 ひくて数多の人心頼むかひなきかねことかな。 とは思へども我は又。うきねに明かす水鳥の。 。 地下歌「賀茂の河原に御祓して逢瀬をいざや祈らん。夏と秋。行きかふ空の通路は。/\。

かたへ涼しき風ぞ吹く。 御手洗川は濁るとも。すみてます賀茂の宮。 誓糺の神ならば。頼をかけて憂き人に。 廻り逢ふべ。 き小車の賀茂の河原に着きにけり賀茂の河原に着きにけり。 狂言「唯今申す女物狂はこれにて候。 詞。 をかけ輪のいはれを申しさせて聞しめされ候へ。ワキ「承り候。 さらば詞をかけて謂を聞かばやと思い候。 いかにこれなる狂女。見れば茅にて作りたる輪を持ちて。 人々に越えよと承り候。 夏越の祓のいはれこそ聞きたう候へ。 シテ「わらはは狂人なれども。 祓の謂を申して聞かせまゐらせ候ふべし。 ワキ「さらばねんごろに語られ候へ。 シテ「忝くも天照太神皇孫を。 芦原の中つ国の御主と定め給はんとありしに。 荒ぶる神は飛び満ちて。 蛍火の如くなりしを。事代主の神なごめ払ひ給ひしこそ。

今日の夏越の始なれ。さらば古き歌に。 さばへなす荒ぶる神もおしなめて。 今日はなごしの祓なるなん。 詞「さてさばへなすとは夏の蝿の飛び騒ぐが如くに。 障をなす神をいへり。かゝる畏き祓へとも。 思ひ給はで世の人の。 ワキ「祓をもせず輪をも越えず。 シテ「越ゆればやがて輪廻を免る。ワキ「すはや五障の雲霧も。 シテ「今みなつきぬ。ワキ「時を得て。 地「水無月の。/\。夏越の祓する人は。 千年の命。延ぶとこそ聞け。 輪は越えたり御祓の。この輪をば越えたり。 真如の月の輪のいはれを知らで人を笑ひそよ。 もし悪し。 き友あらば祓い除けて交へじ身に祓ひのけて交へじ。 輪越えさせ給へやこの輪越えさせ給へや。名をえてこゝぞ賀茂の宮。 名をえてこゝぞ賀茂の宮に。 参らせ給はば御祓川の浪よりも。 この輪をまづ越えて。身を清めおはしませ。千早振る。

神のいがきも越えつべし。もと来し方の。 道を尋ねて。 迷ふ事はなくとも異方な通ひ給ひそ。 今日は夏越の輪をこえてまゐり給へや。シテ「神山の。二葉の葵年ふりて。 地「雲こそかゝれ木綿鬘の。 神代今の代おしなめて。 けふはなごしの祓ひなごめ静めて。心ぞ清き御祓川の。浪の白和幣。 麻の葉の青和幣。いづれも流し捨て衣の。 身を清め心すぐに。 本性になりすまして。 いざや神にまゐらんこの賀茂の神にまゐらん。 ワキ詞「いかに申し候。 この烏帽子を召されて。 面白う舞うて御見せあれと人々の御所望にて候。物着「。 シテ「げにや臨時の祭には。かざしの花を賜はるとかや。 妾も烏帽子を打ち着つゝ。神の御前に狂はまし。 賀茂川の。後瀬静かに後も逢はん。 詞「妹にはわれよ今ならずともと聞く時は。 祈る願も頼もしや。

ワキ「げに濁なきこの神の。御心なれや賀茂の川。 シテ「今この水に影をうつす。舞の袖こそ種々の。 ワキ「心を種の手向草。シテ「さるにても。 よそには何と。御祓川。中ノ舞「。ワカ「御祓川。 水も緑の。山かけの。地「賀茂の宮居の。 御手洗川に。映る面影/\。 シテ「あさましや。本より狂気の我が身なれば。 地「見しにもあらず。おのづから。 映る姿は恥かしや。歯根も眉も。乱髪の。 賀茂の社へすご/\と。歩みよるべの水のあや。 くれはとりくれ%\と。 倒れ伏してぞ泣き居たる。 ロンギ地「不思議やさては別れにし。 その妻琴のひきかへて。衰ふる身ぞ痛はしき。 シテ「声はその。人と思へどわれながら。 現なき身の心ゆゑ。 たゞ夢としも思ひかね。胸うち騒ぐばかりなり。 地「げにや思へば影頼む。恵普き室の戸に。 シテ「立つ神垣も隔なき。地「御名もかはらぬ。

シテ「賀茂の宮居。 地「実にまことありがたや。誓ひは同じ名にしおふ。 室君の操を知るもたゞこれ。

糺の御神の御恵なりと同じく。 二たび伏し拝みて妹背うち連れ帰りけり妹背うち連れ帰りけり 室君 室明神(謡ナシ) 神職 下人

。 ワキ詞「これは播州室の明神に仕へ申す神職の者にて候。 さても天下泰平のをりふしなれば。室君たちを船に載せ。 囃し物をして神前にまゐる御神事の候。 今此時もめでたき御代なれば。 急ぎ御神事を執りおこなはゞやと存じ候。 いかに誰かある。狂言シカ%\「急ぎ室君たちに神前へ御参りあれと申し候へ。狂言シカ%\「。 ツレ「室の海。地「室の海。 波ものどけき春の夜の。 月のみふねに棹さして霞む空はおもしろやな霞む空はおもしろや。 ツレ「梅が香の。

地「梅が香の磯山遠く匂ふ夜は。 出船も心ひく花ぞ綱手なりける此花ぞ綱手なりける。狂言シカ%\「。 ワキ詞「近頃めでたき御事にて候。 又悉く棹を御さし候ふ程に。棹の歌を御謡ひ候へ。 ツレ(三人)「棹の歌。うたふ浮世の一節を。 地「謡ふ浮世の一節を。 夕波千鳥声そへて。友呼びかはすあま乙女。 恨ぞまさる室君の。行く船や慕ふらん。 朝妻船とやらんはそれは近江のうみなれや。 われも尋ね/\て。恋しき人に近江の。 うみ山も隔たるや。 あぢきなき浮舟の棹の歌を謡はん水馴棹の歌うたはん。

クセ「裁ち縫はぬ。衣きし人もなきものを。何山姫の。 布晒すらん佐保の山風のどかにて。 日影も匂ふ天地の。開けしもさしおろす。 棹のしたゞりなるとかや。 ツレ「然れば春過ぎ夏たけて。地「秋すでに暮れゆくや。 時雨の雲の重なりて。嶺白妙に降り積る。 越路の雪の深さをも。 知るやしるしの棹立てゝ。豊年月の行く末を。 はかるも棹の歌うたひていざや遊ばん。 ワキ詞「いかに申し候。 かゝるめでたきをりふしに。そと御神楽を参らせられ候へ。 。 ツレ「さらば御神楽をまゐらせうずるにて候。こゝとても。室山陰の神垣の。 地「加茂の宮居は。有難や。神楽「。ツレ「月影の。 地「月影の。 更け行くまゝに風をさまれば。不思議や異香薫じつゝ。 和光の垂迹韋提希夫人の。姿を現しおはします。中ノ舞「。 地「玉のかんざし羅綾の袂。/\。 風にたなびく瑞雲に乗じ。

処は室の海なれや。山は上りて上求菩提の機をすゝめ。 海は下りて下化衆生の。 相を現し五濁の水は。実相無漏の大海となつて。 花ふり異香薫じつゝ。相好真に。肝に銘じ。

感涙袖を霑せば。はや明け行くや春の夜の。 はや明方の雲に乗りて。 虚空にあがらせ給ひけり 姫君 鳥の霊 内の女夕霧

。 狂言「これは住吉の神主殿の姫君の御めのとにて候。 養君の御寵愛の鶏の御座候ふが。 余りに美しう雪の様に白う候ふとて。初雪と名づけられ。 自ら預り飼ひ育て申し候ふが。 以前より隙入り申し候ふまゝ。餌をかひ申さず候。 餌をかひ申さうずると思ひ候。とゝ/\あら不思議や。 。 いづかたへ行きて候ふやらん見え申さず候。とゝ/\/\。 シテ「何と初雪が空しくなりたると申すか。 こはいかにさしも手なれし初雪の。

跡をも見せでそのまゝに。消えぬる事の悲しさよ。 さればこそ過ぎにし夜半に見し夢の。 心にかゝる事のありしも。 扨は此鳥の上にてありけるぞや。あら無慙の事やな。 地下歌「現とも夢とも更におもほえず。 上歌「かくばかり驚くべきにあらねども。/\。 思ひかけざる歎故。胸の火は焦れて袂の乾く隙もなし。 今はかたみもあらばこそ。 書き置く文字の。 姿まで鳥の跡とてなつかしや鳥の跡とてなつかしや。クセ「むざんやな此鳥の。 かひごを出でて程ふれば。

其かたち妙にして。 色はさながら雪なればやがて初雪と名づけつゝ。影身の如くなれ/\しに。 恋路にはあらねども別の鳥となりにけり。 シテ「今は思ふにかひぞなき。 地「歎をとゞめてひとへに。心をひるがへし。 弥陀の誓を頼みつゝ。とぶらふならば此鳥も。 などかは極楽の台の縁とならざらん。 シテ「いかに夕霧のあるか。 扨も初雪が不便さはいかに。 今は歎くとも此鳥の帰る事はあるまじ。 此あたりの上臈たちを集め。一七日とぢ籠り。 この鳥の跡を弔はばやと思ふはいかに。狂言シカ%\「。 ツレ「実にありがたき弔の。/\。 心もすめるをりからに。鳬鐘をならし声々に。 南無阿弥陀仏弥陀如来。地「あれ/\見よや不思議やな。/\。半天の雲かと見えつるが。 雲にはあらで。さも白妙の初雪の。 翅をたれて。飛び来り。姫君に向ひ。 さもなつかしげに立ち舞ふ姿実にあはれなる。

気色かな。中ノ舞「。 シテ「この念仏の功力にひかれて。忽ち極楽の台にいたり。 八功徳池の汀に遊び。鳬雁鴛鴦に翅をならべ。 七重宝樹の梢にかけり。楽更に。

尽きせぬ身なりとゆふつけ鳥の。 羽風をたてて。しばしが程は飛びめぐり。/\て。 行方もしらずなりにける 同伴者 女郎花の精 白菊の精 牡丹の精 菊の精

ワキ、ワキツレ二人次第「野沢いく重の山かけて。/\。 千草の花を尋ねん。 ワキ詞「これは都方に住居する者にて候。扨も洛陽に於て。 遊楽のけいえんつきせぬ中に。 殊に此頃弄び候ふは花の会にて候。 今日は伏見の深草にわけ入り。草花を尋ねばやと思ひ候。 サシ「面白やげに一年の詠にも。 皆草木の花に知る。三人「名残を思ふ心の末。 山路いく野に行きかふ空の。こや九重の情なる。 。 下歌「立入る空も遠近のはや秋深き夕しぐれ。上歌「濡れつゝも鶉なくなる深草や。

/\。 誰を忍ぶの浅茅原実に住み捨てし故郷の。野となりてしも露繁き。 草のはつかに暮れ残る。 伏見の沢田水白く薄霧迷ふ夕かな。薄霧迷ふ夕かな。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に伏見の里に着きて候。 やがて草花を尋ねばやと存じ候。ワキツレ「尤もにて候。 シテ呼掛「なう/\あれなる人々。 見奉れば都の人と見えさせ給ふが。 草花を召され候ふは。いかさまこのほど弄び給ふ。 花の下草を尋ね給ふやらん。 ワキ「げによく御覧ぜられて候。さやうの為に人を誘ひ。

唯今こゝに来りたり。処の人にてましまさば。 。 花のあるべき処をも委しく教へてたび給へ。シテ「先此伏見の菊の花は。 翁草とて名草なり。その外多き草花なれば。 此方へいらせ給へとて。 ワキ「人の心も花染の。ワキ「移ろふ姿も色深き。 シテ「日も紅の。ワキ「山陰に。 地「それぞとばかり心あて。/\。 折らばや折らん初霜のおきまどはせる白菊の。 花も色そふ夕暮になほ露しげき野分かな。 なほ露しげき野分かな。シテ詞「いかに申し候。 此花どもを召され候はゞ。先女郎花を手折り給へ。 ワキ「これは不思議の仰かな。 処の名草白菊をこそ。先々折るべき理なり。 女郎花を手折らんとは。思もよらぬ御事なり。 シテ「よし/\承引し給はずば。 女郎花にちぐの花を語らひ。夢中にま見え花軍を。 始めて白菊打ち散し。 恨の程をはらさんと。地「くねる姿は女郎花。/\。

かりに現れ来りたり。 今宵の月に待ち給へと夕暮の花の蔭に。 立寄りて失せにけり立寄ると見えて失せにけり。中入間「。 シテ牡丹シロアカ菊一セイ「思出づる。 身は深草の秋の露散るともよしや。吉野山。カケリ「。牡丹「扨も草花の大将に。 牡丹は情も深み草。 浅からざりし花の名の。真先かけて咲き乱れ。 地「扨其外の草花の精。/\。四季折々の時を得て。 数。 をつくせる花のかほ乱れあひたる花軍風に漂ふ有様かな。其時ませの中よりも。 /\。姿もかゝやく天つ星。 照り輝ける光のうちに白髪の老人現れたり。 シテ「抑これは。伏見の翁草とて。 幾年経たる白菊なり。地「げにも心は若草の。/\。 位を争ふ花軍。理なれども翁に許し。 互の軍止めつべしと。 夕日もかゝやく久方の。雲間の星の光を添へて菊の盃。 とりどりなり。中ノ舞「花の和睦をなし給ひ。 /\。

勇み喜ぶ草花の心千代の例は山人の。折る袖にほふ菊の露。 花鳥の戯翁はよわ/\と立ち上り。 伏見の竹の直なる御代に。千種の花をおし分けて。

千種の花をおし分けて朝の。 露より此夜はあけにけり 官人 従者 富士の妻 富士の女

。 ワキ詞「これは萩原の院に仕へ奉る臣下なり。 さても内裏に七日の管絃の御座候ふにより。天王寺より浅間と申す楽人。 こ。 れはならびなき太鼓の上手にて候ふを召し上せられ。太鼓の役を仕り候ふ所に。 又住吉より富士と申す楽人。 これも劣らぬ太鼓の上手にて候ふが。 管絃の役を望み罷り上りて候。此由きこしめされ。 富士浅間いづれも面白き名なり。 さりながら古き歌に。 信濃なる浅間の嶽も燃ゆるといへば。 詞「富士の煙のかひや無からんと聞く時は。名こそ上なき富士なりとも。

。 あつぱれ浅間は増さうずるものをと勅諚ありしにより。 重ねて富士と申す者もなく候。さる程に浅間此由を聞き。 にくき富士が振舞かなとて。 かの宿所に押しよせ。あへなく富士を討つて候。 まことに不便の次第にて候。 定めて富士が縁の無きことは候ふまじ。もし尋ね来りて候はゞ。 形見を遣はさばやと存じ候。 シテ子方二人次第「雲の上なほ遥なる。/\富士の行方をたづねん。 シテ「これは津の国住吉の楽人。富士と申す人の妻や子にて候。 。

さても内裏に七日の管絃のましますにより。天王寺より楽人めされ参る由を聞き。 妾が夫も太鼓の役。 二人「世に隠無ければ。望み申さん其ために。 都へのぼりし夜の間の夢。心にかゝる月の雨。 下歌「身を知る袖の涙かと。 明かしかねたる夜もすがら。上歌「寝られぬまゝに思ひ立つ。 /\。雲井やそなた故郷は。 跡なれや住吉の松の隙より眺むれば。 月落ちかゝる山城もはや近づけば笠をぬぎ。 八幡に祈りかけ帯の。むすぶ契の夢ならで。 うつつに逢ふや男山。 都にはやく着きにけり都にはやく着きにけり。 シテ詞「急ぎ候ふ程に。都に着きて候。 。 此処にて富士の御行方を尋ねばやと存じ候。いかに案内申し候。狂言シカ%\「。 シテ「これは富士がゆかりの者にて候。 富士に引き合はせられて賜はり候へ。狂言シカ%\「。 。 ワキ詞「富士がゆかりと申すはいづくにあるぞ。シテ「これに候。

ワキ「さてこれは富士がため何にてあるぞ。 女「恥かしながら妻や子にて候。 ワキ「なう富士は討たれて候ふよ。 シテ「何と富士は討たれたると候ふや。ワキ「なか/\の事富士は浅間に討たれて候。 シテ「さればこそ思ひ合せし夢の占。重ねて問はゞなか/\に。 浅間に討たれ情なく。 地「さしも名高き富士はなど。煙とはなりぬらん。 今は歎くに其かひもなき跡に残る思子を。 見るからにいとゞ猶すゝむ涙はせきあへず。 。 ワキ詞「今は歎きてもかひなき事にてあるぞ。是こそ富士が舞の装束候ふよ。 それ人の歎には。形見に過ぎたる事あらじ。 これを見て心を慰め候へ。 シテ「今までは行方も知らぬ都人の。 妾を田舎の者と思し召して。偽り給ふと思ひしに。 誠にしるき鳥甲。月日もかはらぬ狩衣の。 疑ふ所もあらばこそ。 痛はしやかの人出で給ひし時。みづから申すやう。

天王寺の楽人は召にて上りたり。 御身は勅諚なきに。押して参れば下として。 上を計るに似たるべし。 其うへ御身は当社地給の楽人にて。明神に仕へ申す上は。 何の望のあるべきぞと申しゝを。 知らぬ顔にて出で給ひし。 地下歌「その面影は身に添へど。 まことの主は亡きあとの忘形見ぞよしなき。上歌「かねてより。 かくあるべきと思ひなば。/\。秋猴が手を出し。 斑狼が涙にても留むべきものを今更に。 神ならぬ身を恨みかこち。 歎くぞあはれなる歎くぞあはれなりける。物着「。 シテ詞「あら恨めしやいかに姫。 あれに夫の敵の候ふぞやいざ討たう。 子方「あれは太鼓にてこそ候へ。 思のあまりに御心乱れ。筋なき事を仰せ候ふぞや。 あら浅ましや候。シテ詞「うたての人のいひ言や。 あかで別れし我が夫の。 失せにし事も太鼓故。たゞ恨めしきは太鼓なり。

夫の敵よいざ打たう。子方「げに理なり父御前に。 別れし事も太鼓故。 さあらば親の敵ぞかし。打ちて恨を晴らすべし。 シテ「妾がためには夫の敵。 いざやねらはんもろともに。子方「男の姿狩衣に。 物の具なれや鳥甲。シテ「恨の敵討ちをさめ。 子方「鼓を苔に。シテ「埋まんとて。 地「寄するや鬨の声立てゝ。秋の風より。すさまじや。 シテ「打てや/\と攻鼓。 地「あらさてこりの。泣く音やな。 地歌「なほも思へば腹たちや。/\。 怪したる姿に引きかへて。心言葉も及ばれぬ。 富士が幽霊来ると見えて。 よしなの恨や。もどかしと太鼓討ちたるや。楽「。 シテ「持ちたる撥をば剣と定め。 地「持ちたる撥をば剣と定め。瞋恚の焔は太鼓の烽火の。 天にあがれば雲の上人。 誠の富士颪に絶えず揉まれて裾野の桜。 四方へばつと散るかと見えて。花衣さす手も引く手も。

伶人の舞なれば。太鼓の役は。 本より聞ゆる。名の下空しからず。 たぐひなやなつかしや。 ロンギ地「げにや女人の悪心は。 煩悩の雲晴れて五常楽を打ち給へ。 シテ「修羅の太鼓は打ちやみぬ。此君の御命。 千秋楽と打たうよ。地「さてまた千代や万代と。 民も栄えて安穏に。シテ「太平楽を打たうよ。 地「日も既に傾きぬ。/\。 山の端をながめやりて招きかへす舞の手の。

うれしや今こそは。思ふ敵は打ちたれ。 打たれて音をや出すらん。我には晴るゝ胸の煙。 。 富士が恨を晴らせば涙こそ上なかりけれ。 キリ「これまでなりや人々よ。/\。 暇申してさらばと。伶人の姿鳥甲。 皆ぬぎすてゝ我が心。乱笠乱髪。 かゝる思は忘れじと。 また立ちかへり太鼓こそ憂き人の形見なりけれと。 見置きてぞ帰りける後見置きてぞ帰りける 身延山の沙門 従僧 富士の妻の霊

ワキ、ワキツレ次第「捨てゝも廻る世の中は。/\。 心の隔なりけり。 ワキ詞「是は甲斐の国身延山より出でたる沙門にて候。 我縁の衆生を済度せんと。多年の望にて候ふ程に。 此度思ひ立ち廻国に赴き候。

ワキ、ワキツレ道行「何処にも住みは果つべき雲水の。/\。 身は果知らぬ旅の空。月日程なく移り来て。 処を問へば世を厭ふ。 我が衣手や住の江の里。 にも早く着きにけり里にも早く着きにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。

これは早津の国住吉に着きて候。あら笑止や。 俄に村雨の降り候。 これなる庵に宿を借らばやと思ひ候。いかに此屋の内へ案内申し候。 。 シテサシ「実にや松風草壁の宿に通ふといへども。正木の葛来る人もなく。 心も澄めるをりふしに。こととふ人は誰やらん。 ワキ詞「これは無縁の沙門にて候。 一夜の宿を御借し候へ。シテ詞「実に/\出家の御事。一宿は利益なるべけれども。 さながら傾く軒の草。埴生の小家のいぶせくて。 何と御身を置かるべき。ワキ「よし/\内はいぶせくとも。 降りくる雨に立ち寄る方なし。唯さりとては借し給へ。 シテ「実にや雨降り日もくれ竹の。 一夜を明かさせ給へとて。地下歌「はや此方へと夕露の。 葎の宿はうれたくとも。 袖をかたしきて御泊あれや旅人。 上歌「西北に雲起りて。/\。東南に来る雨の脚。 早くも吹き晴れて月にならん嬉しや。

処は住吉の松吹く風も心して旅人の夢を。 覚ますなよ旅人の夢を覚ますなよ。 ワキ詞「いかに主に申すべき事の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 ワキ「これに飾りたる太鼓。 同じく舞の衣裳の候ふ不審にこそ候へ。 シテ「実によく御不審候ふものかな。これは人の形見にて候。 これにつきあはれなる物語の候。 語つて聞かせ申し候ふべし。ワキ「さらば御物語候へ。 シテ語「昔当国天王寺に。 浅間といひし伶人あり。 同じく此住吉にも富士と申す伶人ありしが。其頃内裏に管絃の役を争ひ。 互に都に上りしに。 富士此役を賜はるによつて。浅間安からずに思ひ。 富士をあやまつて討たせぬ。 その後富士が妻夫の別を悲み。 常は太鼓を打つて慰み候ひしが。それも終に空しくなりて候。 逆縁ながら弔ひて給はり候へ。 ワキ「かやうに委しく承り候ふは。その古の富士が妻の。

ゆかりの人にてましますか。 シテ「いやとよそれは遥かの古。思ふも遠き世語の。 ゆかりといふ事あるべからず。 ワキ「さらば何とて此物語。深き思の色に出でて。 涙を流し給ふぞや。 シテ詞「なういづれも女は思深し。殊に恋慕の涙に沈むを。 などかあはれと御覧ぜざらん。 ワキ「なほも不審は残るなり。形見の太鼓形見の衣。 こゝには残し給ふらん。 シテ「主は昔になり行けども。太鼓は朽ちず苔むして。 ワキ「鳥驚かぬ。シテ「此御代に。 地歌「住むもかひなき池水の。/\。 忘れて年を経しものを。又立帰る執心を。 助け給へといひ捨てて。かき消す如くに失せにけり。中入間「。 ワキサシ「それ仏法はさま%\なりと申せども。 法華はこれ最第一。 ワキツレ「三世の諸仏の出世の本懐。衆生成仏の直道なり。 ワキ「中んづく女人成仏疑あるべからず。 ワキ、ワキツレ二人「一者不得作梵天王。

二者帝釈三者魔王。四者転輪聖王。 五者仏身云何女身。地「即得成仏何疑かありそ海の。 深き執心を。晴らして浮び給へや。 或は若有聞法者。/\。無一不成仏と説き。 一度。 此経を聞く人成仏せずといふ事なし。唯頼め頼もしや。 弔ふ燈の影よりも。化したる人の来りたり。 夢か現か見たりともなき姿かな。 ワキ「不思議やな見れば女性の姿なるが。 舞の衣裳を着し。さながら夫の姿なり。 詞「さてはありつる富士が妻の。 其幽霊にてましますか。 シテ「実にや碧玉の寒き芦。錐嚢に脱すとは。 今身の上に知られさぶらふぞや。 クドキ「さりながら妙なる法の受持に逢はゞ。変成男子の姿とは。 などや御覧じ給はぬぞ。 然らば御弔の力にて。 地「憂かりし身の昔を懺悔に語り申さん。さるにても我ながら。よしなき。 恋路に侵されて。長く悪趣に堕しけるよ。

さればにや。女心の乱髪。 ゆひかひなくも恋衣の。夫の。 形見を戴き此狩衣を着しつゝ。常には打ちし此太鼓の。 寝もせず。起きもせず涙。しきたへの枕上に。 残る執心を晴らしつゝ。仏所に至るべし。 うれしの今の教や。 シテ「思ひ出でたる一念の。地「起るは。 病となりつゝ継がざるはこれ薬なりと。古人の教なれば。 思はじ/\恋忘草も住吉の。 岸に生ふてふ花なれば。手折りやせまし我心。 契麻衣の片思執心を助け給へや。 ロンギ地「実に面白や同じくは。 懺悔の舞をかなでて愛着の心を捨て給へ。 シテ「いざ/\さらば妄執の。雲霧を払ふ夜の。 月も半なり夜半楽をかなでん。 地「心も共に住吉の。松の隙よりながむれば。 シテ「波もて結へる淡路潟。地「沖も静に青海の。 シテ「青海波の波返し。 地「かへすや袖の折を得て。軒端の梅に鴬の。

シテ「来鳴くや花の越天楽。地「うたへやうたへ。 シテ「梅が枝。地「梅が枝にこそ。 鴬は巣をくへ。風吹かば如何にせん花に宿る鴬。 楽「。シテ「面白や鴬の。地「面白や鴬の。 声に誘引せられて花の蔭に来りたり。 我も御法に引き誘はれて。/\。今目前に。 。 立ち舞ふ舞の袖これこそ女の夫を恋ふる。想夫恋の。楽の鼓。うつゝなの我が。 有様やな。シテ「思へば古を。 地「思へば古を。語るはなほも執心ぞと。 申せば月も入り音楽の音は。松風にたぐへて。 あ。 りし姿は明けぐれに面影ばかりや残るらん面影ばかりや残るらん 花若 日暮殿の妻 日暮殿 佐近尉 日暮従者

ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。 九州薩摩の国日暮殿の御内に。左近尉と申す者にて候。 偖も此日暮の里と申すは。 前には大河流れ。末は湖水につゞけり。 この湖より群鳥上つて。浦向の田を食み候ふ間。 毎年鳥追舟をかざり。田づらの鳥を追はせ候。 又頼み奉る日暮殿は。 御訴訟の事あるにより御在京にて候ふが。 其御留守に北の御方と。花若殿と申す幼き人の御座候。 あまりに鳥追はせうずる者もなく候ふ間。 花若殿を雇ひ申し。 田づらの鳥を追はせ申さばやと存じ候。いかに案内申し候。 左近の尉が参りて候。 シテ「左近の尉とは何のために唯今来り給ふぞ。 ワキツレ「さん候殿はこの秋の頃御下向あるべき由申し候。

シテ「いかに花若が嬉しう候ふらん。 ワキツレ「又唯今参る事余の儀にあらず。 当年某がふねに。更に鳥追はせうずる者なく候へば。 。 花若殿御出あつて鳥を追うて御遊び候へかし。左様の事申さんために参りて候。 。 シテ「何と花若に田づらの鳥を追へと申すか。花若は稚けれども。 左近の尉がためには主にてはなきか。 主に鳥追へなどと申すは。 かゝる左近の尉ほど情なき者こそなけれ。 ワキツレ「何と左近の尉は情なき者と仰せ候ふか。 まづ御心を静めて聞しめされ候へ。人の御留守などと申すは。 五十日百日。 乃至一年半年をこそ御留守とは申せ。既に十箇年の余。 扶持し申したる左近の尉が情なき者にて候ふか。

所詮ことば多き者は品少なしにて候ふ程に。 花若殿御出あつて鳥追ひなくば。 この家をあけて何方へも御出で候へ。 シテ「げにげに申す処理にて候。 花若が事は稚く候へば。 みづから出でて鳥を追ひ候ふべし。 ワキツレ「それこそ思ひもよらぬ事にて候へ。 花若殿の御事は稚き御事にて御座候へば。苦しからざる御事にて候。 上臈の。 御身にて御出あるべきなどと仰せ候ふは。 某が名を御立て候はんずるために仰せ候ふか。 シテ「さらば花若一人は心許なく候へば。 二人ともに立ち出で鳥を追ひ候ふべし。 ワキツレ「それはともかくも御計にて候ふべし。 さらば明日舟を浮めて待ち申さうずるにて候。 。 シテ「げにや花若ほど果報なき者よもあらじ。さしも祝ひて月の春の。 花若と傅くかひもなく。落ちぶれ果ててあさましや。 。

下歌地「賎が鳴子田引きつれて鳥追舟に乗らんとて。上歌「共に涙の露しげき。/\。 稲葉の鳥を立てんとて。 人も訪はざる柴の戸を。親子伴ひ立ち出づる。/\。中入「。 ワキ次第「秋も憂からぬ古里に。/\。 帰る心ぞ嬉しき。 詞「これは九州日暮の何某にて候。偖も某自訴の事あるにより。 十箇年に余り在京仕り候ふ所に。 自訴悉く安堵し喜悦の眉を開き。 唯今本国に罷り下り候。いかに誰かある。狂言シカ%\「。 あなたに当つて笛鼓の音の聞え候ふは。 何事にてあるぞ尋ねて来り候へ。狂言シカ%\「。 げにげにさる事あり。 九州にては此鳥追舟こそ一つの見事にて候へ。 此舟を待ちて見ばやと存じ候。 ワキツレサシ一声「面白や昨日の早苗いつのまに。 稲葉もそよぐ秋風に。 田面の鳥を追ふとかや。後シテ子方二人「我等は心うき鳥の。 下安からぬ思の数。 ワキツレ「群れゐる鳥を立てんとて。身を捨舟に羯鼓を打ち。

シテ子方二人「或は水田に庵を作り。 シテ「又は小舟に鳴子をかけ。シテ、子方、ワキツレ、三人一セイ「ひきつるゝ。 湊の舟の落汐に。地「浮き立つ鳥や。騒ぐらん。 シテ「鳥も驚く夢の世に。 地「われらが業こそ。うつゝなき。上歌「げにや夢の世の。 何か喩にならざらん。/\。 身はうたかたの水鳥の。浮寝定めぬ波枕。 うち靡く秋の田の。 穂波につれて浮き沈み面白の鳥の風情や。此頃は。猶秋雨の晴間なき。 水陰草に舟よせて。われらも年に一夜妻。 逢ひもやすると天の川。 上の空なる頼かな/\。 シテサシ「さるにても殿は此秋の頃。 下り給ふべきなどと申しつれども。 それもはや詞のみにて打ち過ぎぬれば。 後々とてもたのみなし。 たゞ花若が果報のなきこそうたてしう候へ。 子方「げにや落花心あり人心なし。たとひ父こそ訴訟のならひ。 此方のこと思ひながら。

永々在京し給ふとも。左近の尉情ある者ならば。 みづからが名をも朽たし。 母御に思をかけ申す事よもあらじ。あはれ父御に此恨を。 語り申し候はゞや。 シテ「たとひ訴訟はかなはずとも。父もろともに添ふならば。 かくあさましき事よもあらじ。 地「いつまでか。かゝるうきめを水鳥の。 はかなく袖を濡すべき。 ワキツレ詞「これはさて何事を御歎き候ふぞ。 歎くことあらば我が家に帰りて御歎き候へ。 御覧候へ余の田の鳥は皆立ちて候ふが。 左近の尉が田の鳥は未だ立たず候。 何の為雇ひ申して候ふぞ。 子方「悲しやな家人にだにも恐るれば。身の果さらに白露の。 シテ「晩稲の小田も刈りしほに。 色づく秋の群鳥を。子方「をふの浦舟漕ぎつれて。 シテ「思ひ/\の囃子物。子方「あれ/\見よや。シテ「よその舟にも。地「打つ鼓。 /\。空に鳴子の群雀。

追ふ声を立て添へさて。 いつも太鼓は鼕々と風の打つや夕波の。花若よ悲しくとも。追へや/\水鳥。いとせめて。恋しき時は烏羽玉の。 よるの衣をうちかへし。 夢にも見るやとて。 まどろめばよしなや夜寒の砧打つとかや。シテ「恨は日々に増れども。 地「恨は日々に増れども。哀とだにもいふ人の。 涙の数そへて。思ひ乱れて我が心。 しどろもどろになる鼓の。 篠なき拍子とも人や聞くらん恥かしや。 シテ「家を離れて三五の月の。地「隈なき影とても。 待ち恨みとことはに。心の闇はまだ晴れず。 シテ「すは/\群鳥の。地「すは/\群鳥の。稲葉の雲に立ち去りぬ。 又いつかあふ坂の。木綿附鳥か別の声。 鼓太鼓打ち連れて猶もいざや追はうよ。 ワキツレ「あら嬉しや今こそ某が田の鳥は皆立つて候へ。 まづ/\御休み候へ。 ワキ「鳥追舟に眺め入りて。

故郷に帰るべき事を忘れて候。舟ども多き中に。 羯鼓鳴子を飾りたる舟面白う候。 此舟を近づけ見ばやと存じ候。 いかにあれに羯鼓鳴子飾りたる舟を近う寄せよ。 ワキツレ「あら不思議や。此あたりにおいて。 左近の尉が舟。 あれ寄せよなどと云はうずる者こそ思ひもよらね。これは旅人にてありげに候。 あつぱれ存外なる者かな。 ワキ「あの舟よせよとこそ。ワキツレ「これはなか/\不審なりとて。漕ぎ浮べたる鳥追舟。 さし近づけてよく/\見れば。 これは日暮殿にて御座候ふか。ワキ「あら珍らしや左近の尉。 あれなるは汝が子にてあるか。 子方「いやこれは日暮殿の子にて候。 ワキ「さてあれなるは汝が母か。 子「さん候母御にて御入り候。 ワキ「それは何とて賎しき業をば致すぞ。子「父は在京とて。 また音信も候はず。頼みたる左近の尉。 此秋の田の群鳥を追へ。さなくば親子もろともに。

我が家の住まひかなふまじと。 いふ言の葉の恐ろしさに。身をすて舟に羯鼓を打ち。 ならはぬ業を汐干の浪。 あさましき身となりて候。ワキ詞「言語道断の事。 それ弓取の子は胎内にてねぎことを聞き。 七歳にて親の敵を討つとこそ見えたれ。 況んや汝十歳に余り。 さこそ無念にありつらんな。 唯これと申すも某が永々在京の故なれば。一しほ面目なうこそ候へ。 唯今。 左近の尉を討つて捨てうずるにてあるぞ。此方へ来り候へ。いかに左近の尉。 おのれは不得心なる者かな。 汝をめのとに附け置く上は。さこそ煩もありつらん。 いかさま国に下るならば。 如何やうなる恩賞をもなどと。 都にてあらましのかひもなく。結句主を追つ下げて。 下人に使ふべき謂ばしあるか。 何とて物をば云はぬぞ。シテ「めのとの科もさむらはず。 唯久々に捨ておきたる。

花若が父の科ぞとよ。あやまつて仙家に入りて。 半日の客たりといへども。故郷に帰つて纔に。 七世の孫にあへるとこそ。承りて候へとよ。 況んや十箇年の月日あり/\て。 けふしもかゝる憂き業を。 みゝえ申すは不祥なり。地「唯願はくは此程の。 恨をわれら申すまじ。左近の尉が身の科を。

親子に免しおはしませ。ワキ「此上は。 いなとはいかゞ稲莚の。 地「小田守も秋過ぎぬはやはやゆるす左近の尉。 キリ「さて其後にかの人は。/\。家を花若つぎ桜。 若木の里にかくれなき。 五常正しき弓取の末こそ久しかりけれ。末こそ久しかりけれ 直井の左衛門 直井の後妻 直井の子月若 直井の従者 直井の前妻 月若の姉

ワキ詞「これは越後の国の住人。 直井の左衛門何某にて候。 さても某妻を持ちて候ふを。かりそめながら離別して。 あたり近き長松と申す所に置きて候。 かの者二人の子を持つ。 姉をば長松の母に添へ置き。弟月若をば某一跡相続のために。 此屋の内に置きて候。かやうに候ふ所に。 又新しき妻をかたらひて候。

某此間宿願の事候ひて。 あたり近き所に参籠仕り候ふ間。 月若が事を委しく申し置かばやと存じ候。如何に渡り候ふか。 狂言女「何事にて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今呼び出し申すこと余の儀にあらず。 某はさる宿願の子細候ひて。 二三日の間物詣仕り候。其留守の内月若をよく/\いたはりて賜はり候へ。

又此国は雪深き所にて候。降り積り候へば四壁の竹の損じ候。 。 殊に此程は何とやらん雪気になりて候ふ間。自然雪降り候はば。 召し使ひ候ふ者どもに仰せ付けられ候ひて。 あたりの竹の雪を払はせられ候へ。 狂言「何と御物詣と候ふや。めでたうやがて御下向候へ。 又竹の雪の事は心得申し候。 又月若殿の事よく/\労はれ仰せられ候。 あら今めかしや候。 何方への御留守にてもよく労はらぬ事の候ふか。 ワキ「いや幼き者の事にて候ふ程にかやうに申し候。 さらばやがて下向申さうずるにて候。 狂言女「如何に月若。 父御は物詣とて御出で候。御留守の間に月若をよく/\労はれと仰せ置かれて候。 是は今めかしき事を仰せ候。 いかさまおことは殿へ妾が悪くあたるなどと告口をしてあるな。 あらにくや/\腹立や。 子方「実に世の中に月若程。

果報なき者よもあらじ。 あけくれ思を信濃なる秩父の山。秋はてぬれば柞の森の。 頼む方なくなり果てぬ。たゞ長松におはします。 母と姉御に暇を乞ひ。 何方へも行かばやと思ひ候。 シテサシ「此程は松吹く風も淋しくて。 伴なふ物は月の影。人も訪ひこぬ隠れがの。 柴の〓{新字源2799:とぼそ}の明暮は。いつまで誰を長松の。 緑子故の住居かな。 子方詞「如何に申し候。月若が参りて候。 シテ「何月若と申すか。 あらうれしと来りたるや。人数多連れて来りたるか。 子「いやひとり参りて候。 シテ「あら心もとなや。早日の暮れてあるに。 何とてひとりは来りたるぞ。 子方「さん候唯今参る事は継母御の。シテ詞「あゝ暫く。 名のらずはいかゞそれとも夕暮の。面影変る。 月若かな。あはれや実に我が添ひたりし時は。 さこそもてなしかしづきしに梓弓。

やがていつしか引きかへて。 身に着る衣は唯鶉の。所々もつゞかねば。 何とも更にゆふしでの肩にもかゝるべくもなし。 花こそ綻びたるをば愛すれ。 芭蕉葉こそ破れたるは風情なれ。 地下歌「いづくに風のたまりつゝ。寒さを防ぎけるらん。 上歌「短夜の夢かや見れば驚くは。/\。 山田の鹿の如くなる臥所荒れ立つ草むらに。 尋ねて来る志。親子ならでは。 かくあらじ親子ならではかくあらじ。 狂言女「あら不思議や。 月若が見え候はぬぞや。如何に誰かある。狂言男「御前に候。 狂言女「月若は何処へ行きてあるぞ。 狂言男「更に存ぜず候。狂言女「いや/\推量して候。 先にちと言ひごとをしてあれば心にかけて。 例の長松の母の方へ告口しに行きてあるな。あら憎や。 只今父御の。 御帰あつて召すと申して連れて来り候へ。男「畏つて候。如何に申し候。

殿の御帰あつて月若殿を召され候。 急いで御帰り候へ。 シテ詞「何父御の召され候ふとや。あら悲しやたま/\来りたるものを。 さりながら召にて候はばとく参りて。 又此程に来りて母を慰め候へ。 男「如何に申し候。 月若殿を御供申して参りて候。狂言女「如何に月若。 さればこそ又長松に行きて告口してあるな。 父の仰せ置かれて候。 雪降らば四壁の竹の雪を払はせよと仰せ候ふが。 事の外雪降りて候ふ程に。急いで竹の雪を払ひ候へ。 物を脱ぎ小袖一つにて払ひ候へ。 子方「さりとては払はでかくてあるならば。 地「払はでかくてあるならば。我のみならず。 母上も姉御前も思は。長松の風。 身にしむばかり更くる夜の。雪寒うして払ひかね。 帰らんとすれば門をさす。 明けよとたゝけど音もせず。あら寒や堪へがたや。 月若たすけよ。実にや無常のあらき風。

憂き身ばかりつらきかなと。 思ふかひなき。 月若は終に空しくなりにけり終にむなしくなりにけり。 狂言男「何と申すぞ。 月若殿雪に埋もれて空しくなり給ひたると申すか。 あら痛はしの御事や候。 さこそ長松に御座候ふ母御の御歎き候はんずらん。 やがて此由を長松に申し候ふべし。いかに申し候。 月若殿竹の雪に埋もれて空しく御なり候。 シテヒメ二人「実に/\生を受くる類。 誰か別を悲まざる。されば大聖釈尊も。羅〓{大漢和:23523。 ご}為長子と説き。 また西方極楽の教主法蔵比丘は。御子の太子を悲み。 鹿野苑に迷はせ給ふとこそ承りて候へとよ。 況んや人間に於てをや。誰かは子を思はざる。 。シテ、ヒメ二人次第「ふるに思の積る雪/\消えし我が子を尋ねん。シテ一声「子を思ふ。 身を白雪の振舞は。地「ふるにかへらぬ。心かな。 シテ「花は根に。鳥は古巣にかへれども。

ヒメ「我は再び此道に。 シテヒメ二人「帰らん事も片糸の。一筋にたゞ思ひきり。 忘れて年を降る雪の。積の恨深ければ。 行く水に数ならぬ。身は有明の月若が。 たゞかきくれて五障の雲の隙よりも。 あくがれ出づるはかなさよ。 シテ「上なき思は富士の嶺の。 シテヒメ二人「かくれぬ雪ともあらはれなば。 地「恥かしや何処へやり身は小車の我が姿。地「習はぬ業を菅蓑は。/\。 寒風もたまらず。いつを呉山にあらねども。 。 笠の雪の重さよ老の白髪となりやせん戴く雪を払はん先づ笠の雪を払はん。 シテサシ「暁梁王の園に入らざれども。 雪群山に満ち。ヒメ「夜〓{大漢和:9398。 いう}公が樓に登らねども。月千里に明らかなり。 シテヒメ二人「悲しや見渡せば。こゝは湘浦の浦かとよ。 斑に見ゆる雪の竹。涙や色に染むべき。 ヒメ「彼の唐土の孟宗は。 親のため雪中に入り笋を設く。シテ「今我は引きかへて。

地「子の別路を悲みて。竹の雪をかきのくる。 我が子の死骸あらば孟宗にはかはりたり。 うれしからずの雪の中や。 思の多き年月も。はや呉竹の窓の雪夜学の人の燈も。 はらはゞやがて消えやせん。 谷を隔つる山鳥の。 尾を履む峯の竹には虎や住むらん恐ろしや。 世を鴬の声立て煙は竹を白雪のあかしといへば須磨の浦の。 海士の焼くなる塩やらん。 ロンギ地「空に知られて木の下に。 吹きたてて降る雪は狼藉か。落花か。 シテ「花は泣く/\雪をかけば。 ヒメ「姉は父御を恨みて人しれぬ涙せきあへず。 地「すはや死骸の見えたるは。シテ「如何に月若母上よ。 ヒメ「姉こそ我と。地「呼べども叫べども。 答ふる声のなどなきぞ。消えよと思ふ。 。 雪は積りて月若が別を何にたとへなん別を何にたとへなん。 ワキ詞「此間諸願成就して。

唯今下向仕り候。あら不思議や。某が四壁の内に。 人の泣声の聞え候ふはいかに。 あら心もとなや候。や。さればこそいかに姫。 これは何と申したる事ぞ。 ヒメ「さん候月若長松へ来り給ひしを。 父御の召とて帰りて候へば。もとより衣は一重なり。 寒風に責められて空しくなりて候ふを。 。 情ある人の長松へ此由かくと申し候ふ程に。母上これまで御出でにて候。 いづれも親にてましませども。 母御はこれほど悲み給ふに。 父御前は子をば思ひ給はぬぞや。継母御をば恨むまじ。 唯父御こそ恨めしう候へ。 。 ワキ詞「いや某は月若に竹の雪を払へと。申したる事はゆめ/\なき事にて候ふぞとよ。定めて人の教戒にてぞ候ふらん。 これと申すもとにかくに。 唯某が科にてこそ候へ。あら面目なや候。

シテ「身を梁の燕のならひ。 すみねたき事を聞きながら。さまをも今までかへざるは。 彼を思ふ故なるに。そも継母はいかなれば。 此月若をば殺しけん。 よその歎は一旦の思。唯憂き身ひとりの歎ぞかし。 命惜しとも思はれず。 ワキ「身は白雪と消えばやなん。 地「理や面目なや思はぬ外の歎かな。地「二人の親の悲の。/\。 不思議なるあはれみにや。虚空に声ありて。 竹林の七賢竹ゆゑ消ゆるみどり子を。 又二度かへすなりと。告げ給ふ御声より。 月若いきかへり喜は日々に添ふ。 キリ地「かくて親子にあひ竹の。/\。 世を故郷をあらためて。 仏法流布の寺となし。仏種の縁となりにけり。 二世安楽の縁深き。親子の道ぞ有難き/\ 梅千世 女(梅千世の母) 左近尉 宰府の神主 従者二人 天満天神

シテ子方二人次第「忘れは草の名にあれど。/\。 忍ぶは人の面影。 シテサシ「これは一条今出川に住む女にて候。げにや徒なる契とて。 心をさへに筑紫人の。 袖触れそめし憂き中の。 疎くなりぬる身の果はとにもかくにもあらばあれ。 この子が為に父を尋ねて。 下歌「馴れも馴れぬに遠旅の心は子にや迷ふらん。筑紫とは。 西ぞとばかり聞きしより。/\。 月の入るさをしるべにて。 行方も知らぬ旅衣野山幾重か重ぬらん。かゝる思を菅の根の。 長門の関路ほどもなく。香椎博多を打ち過ぎて。 宰府に早く着きにけり。/\。 シテ詞「あら嬉しや急ぎ候ふ程に。 宰府とやらんに着きて候。

まづこの所にて宿を借らうずるにて候。此方へ来り候へ。 如何にこの屋の内へ案内申し候。 ワキツレ左近尉「誰にて渡り候ふぞ。 シテ「これは都方の者にて候。一夜の宿を御貸し候へ。 ワキツレ「心得申し候。これは女性旅人にて候ふ程に。 奥の間に置き申さうずるにて候。 此方へ御入り候へ。シテ「いかに申し候。 この所に宰府の神主殿と申す人の渡り候ふか。 ワキツレ「なか/\の事この在所の主にて御座候。 われらもその御内の者にて候。 シテ「都より文をことづかりて候。 神主殿へ参らせられてたまはり候へかし。 ワキツレ「易き御事にて候。やがて届けて参らせうずるにて候。 シテ「あら嬉しや候。 さらば此文を参らせ候。御返事を取りてたまはり候へ。

ワキツレ「心得申し候。誰か渡り候。狂言シカ%\「さん候。 神主殿へ申し上ぐべき子細あつて参りて候。狂言シカ%\「それは恐れがましく候。 。狂言シカ%\「都より女性旅人の我等が宿に御泊り候ふが。 この文を神主殿へ参らせよと申され候。狂言シカ%\「畏つて候。狂言シカ%\「言語道断。 さやうの御事をば存ぜず候ふほどに止め置きて候。 さらばやがて追ひ出し申さうずるにて候。狂言シカ%\「いかに旅人へ申し候。 唯今の文を神主殿へ御目にかけて候へば。 やがて御返事を賜はりて候。急いで御覧候へ。 シテ「あら嬉しと早く御届け候ふ物かな。 さらばやがて御返事を見うずるにて候。 文「御下りめづらしく候へども。男の身なりとも。 遥々の遠国にひとりは下りがたし。 いかさま。

珍しき人にさそはれて御下かと思ひ候へば。対面申す事はあるまじく候。 これは梅千世が方へ申し候。 本よりこの身は不肖なれば。親ありとも思ふべからず。 はや/\都に帰り給へ。 あらつれなやつれなと書かれたり。 これは夢かやあらあさましや候。 子方詞「いかに母上。 いたくな御嘆き候ひそ。梅千代かくて候へば。 御心安く思し召せ。シテ「げに子ながらも恥かしや。 父が心の変ることを。 身の上になげくと思ふかや。御身を父に見せ。 一跡をも継がせばやと思ひてこそ。 遥々伴なひ下りたるに。孤となすべき事の悲しさよ。 子「よしなうそれも力なし。 今さら何と歎くべき。上歌詞「筑紫人。空言すると聞きつるに。 /\。頼みけるこそなか/\に。 はかなかりける心かな。かきくらす。 心の闇のひたすらに。夢現なき道のべの。 便と頼む木蔭さへ。今は亡き身となるべしと。

思ふに付きて独子を。 残し置くべき悲しさよ。/\。 ワキツレ詞「いかに申し候。 御痛はしう候へども。 神主殿よりこの所には置き申すなとの御事にて候ふ間。 急いでこの屋を出でていづ方へも御出あらうずるにて候。 シテ「いかに梅千代。 子方「何事にて候ふぞ。 シテ「このまゝ都に上らん事も人目さすがに候へば。あれなる庵室に立ち越え。 様変へばやと思ふなり。 おことは是に待ち給へ。子方「いや/\母の御けしき心もとなく候ふ程に。離れ申す事は候ふまじ。 シテ「うたてやな父こそかはり給ふとも。 母が心のかはるべきか。たゞ/\御事はこの所にて。母が帰さを待ち給へ。 子方「母の仰を真と思ひ。 さらばとくとく帰り給へ。 シテ「母は今こそかぎりなれと。下やすからぬ思の色。 ゆきもやられぬ袖の別。子方「引き止められて。

シテ「親心の。地「思ひわづらふ母が身の。/\。 亡き跡いかゞと。 別れえぬ今の憂き身かな。とにかくに。 帰らんまでは待ち給へと。 夕顔の空目して藍染川に身を投ぐる藍染川に身を投ぐる。中入「。 ワキツレ詞「何と申すぞ。 藍染川に人の身を投げたると申すか。 いかやうなる者ぞ立ち越え見ばやと存じ候。や。言語道断。 いかなる者ぞと存じて候へば。 某が所に泊りたる女性にて候ふはいかに。 なう梅千世殿母御の身を投げ給ひて候ふぞ。 急いで御覧候へ。子方「なう母上。 恨めしの御有様やな。母御のかくてましませばこそ。 頼もしく思ひ候ひつるに。 これは夢かやあさましや。 悲しやな知らぬ筑紫の果に来て。父母さへに捨子となる。 みづからは誰を頼むべき。 下歌地「末の露本の雫もよしやよし。われとても。 ながらへ果てじ身をすてゝ。母に追ひつき申さんと。

藍染川に歩み行く/\。 ワキツレ詞「暫く。 これは勿体なき御はたらきにて候。おこと身を投げ給ひては。 さて母御の御跡を誰か弔ひ申すべき。 たゞ思し召し止まり給ひ候へ。 これは母御の遊ばされたる文にて候。 御形見によく御持ち候へ。かゝる痛はしき事こそ候はね。 ワキ「これは宰府の神主にて候。 われこの間は他所に候ひて。唯今罷り帰り候。 あら不思議や。 あの藍染川に人の多く集まりて候ふは何事にて候ふらん。や。 推量申して候。 某他所に候ふ間に網を引かすると存じ候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。 ワキ「あの藍染川に人の多く集まりてあるは。網をばし引くか。 殺生禁断の所にてあるに。 急いで皆々あがれと申し付け候へ。トモ「畏つて候。やあ/\神主殿の御出にてあるぞ。網をばし引くか。 殺生禁断の所にてあるぞ。

いそいで皆々あがり候へ。 何と人の身を投げたると申すか。や。左近の尉にて渡り候ふか。 是へ神主殿の御出にて候。 急ぎ御まゐりあつて。この謂を御申し候へ。 ワキツレ「心得申し候。トモ「いかに申し上げ候。 網にてはなく候。人の身を投げたる由申し候。 あれに左近の尉が候ひて。 謂を申し上げうずるとてこれへ参りて候。 ワキ「いかに左近の尉。 身を投げたると申すはいかやうなる者ぞ。 左近「さん候都より女性の人を尋ねて下り候ふが。 逢はぬを恨みて身を投げたる由申し候。ワキ「言語道断。 都よりはる%\下りたるに。 逢はぬは不得心なる者にてあるよな。 あれなる幼き者はいかやうなる者にてあるぞ。 左近「あれは彼の者の子にて候。 ワキ「手に持ちたるは文にてあるか。左近「さん候文にて候。 。 ワキ「そと見たきよし申して取りて来り候へ。ワキツレ「畏つて候。

なうその文をそと人の御覧ぜられたき由仰せ候。賜はり候へ。 子方「いや是は母御の御形見にて候ふ程に。 参らせ候ふまじ。 ワキツレ「そと御覧じてやがて返し申されうずるにて候。 こなたへ賜はり候へ。文を取りて参りて候。 ワキ文「これは梅千世が方へ書き置き候。 憂き身はもとより捨妻の。きぬ%\なれば恨もなし。いかに情知らずとも。 子にしれぬ親の候ふべきか。 いひがひなくは出家になし。扶持したまはゞ草の蔭にて。 守の神となるべきなり。 大内にありし時は梅壷の侍従。一条今出川の御留主。 当所の御名は知らねども。御在京の御時は。 中務頼澄宰府の神主。や。 言語道断の次第にて候ふものかな。 今まではよその事とこそ存じて候ふに。 かゝる不思議なる事こそ候はね。 あの幼き者をこなたへ連れて来り候へ。ワキツレ「畏つて候。いかに申し候。 神主殿のもの仰せられうずると仰せ候。

此方へ御出で候へ。 ワキ「あら不便の者や。さて真の父にあひたくはなきか。 子方「かほどに情ましまさば。 父に逢はせてたび給へ。ワキ「げに/\これは理なりと。名告らんとすれば涙にむせび。 子方「目もくれ心。ワキ「月影に。 地「それと見えねど梅千世が。顔も姿も馴れし母に。 たがはぬ面影の。 これこそ父よむざんやな。さこそ便も歎の。 力を添へてゆふつけの。 取りつき髪かき撫でよそめ思はぬ気色かな。 ワキ詞「いかに左近の尉。 余りに彼の者不便に候ふ程に。 そと見うずると思ふはいかに。ワキツレ「御意尤もにて候さりながら。 御姿にては如何にて御座候。ワキ「げに/\汝が申す如く。 総じて死人を見る事はなけれども。 彼の者の心中余りに不便にある間。 苦しからぬ事そと一目見うずるにてあるぞ。

死骸のあたりなる人をのけ候へ。ワキツレ「畏つて候。やあ/\神主殿御出あるぞ。皆々のき候へ。 ワキ「いかに申し候。 さても御下夢にも知らず候。 梅千世が事は某一跡を譲り世にたてうずるにて候。 又御跡をも懇に弔うて参らせ候ふべし。 かまへてわれを恨み給ふなと。いへどもいへども。 クセ地「いへども平生の顔色は。 草葉の色にことならず。芳態あらたに眠りて。 眼蓋を開く事なし。嬋娟の黒髪は。 乱れて草根にまとはり。婉転たる黛は。 消え失せて面影の亡き身の果ぞ悲しき。 ワキ「紅顔空に消えて。地「華麗を失へり。 飛揚の。 魂いづくにかひとり赴く有様あはれむべし累々たる古墳のほとり。 顔色終に消え失せて。郊原に朽ち果てゝ。 思や跡に残るらん。ワキ詞「いかに左近の尉。 かの者の心中あまりに不便にある間。 臨時の。

幣帛を捧げ肝胆を砕きかの者の命を二度蘇生させばやと思ふはいかに。 ワキツレ「げにげにこれは尤もにて候。 ワキ「さらば祝詞を参らせうずるにて候。ワキツレ「然るべう候。 ワキ「神主御幣をおつ取つて。 神前に参り跪き。既に祝詞を申しけり。謹上再拝。 我此道場如帝珠。十方三宝影現中。 我身敬礼三宝前。頭面接足帰命礼。 南無天満天神。広く旧里を去つて。 遍ねく幕下を兼ねたり。明才衆に超え。明智世に勝れ。 西海の西都に安楽寺の地を点じて。 春秋をまねく。地「や本地覚王如来。 寂光の都を出でて。この太宰府に住み給ふ。 後シテ出端「たゞ頼め標茅が原のさしも草。 われ世のなかにあらん限は。 地「御殿しきりに鳴動して。 あらはれ給ふぞかたじけなき。地上歌「昨日は北闕に。/\悲を蒙る身なれども。 けふは西都によみがへさんと。生きて恨み死して悦ぶ。有難の誓や。 シテ「そも/\当社と申すは。

地「そも/\当社と申すは。法性の都を出でて。 分段同居の境に入つしよりこのかた。 冥々とある苦海に沈み。菩提涅槃に至らず。 こゝに宿因内に通じて。

受けがたき人身を受け。智識。外に助け逢ひ難き。 誓の春に。また逢ふ事も。 たゞこれ当社の神恩。 ぞとよろこびの祝詞を奉り悦の祝詞を奉れば。神は上らせ給ひけり 高野の僧(為世) 為世の子姉弟 子方の母

。 ワキ詞「これは高野山より出でたる僧にて候。我古は津の国水無瀬の里に。 為世といはれし者にて候ふが。 さる子細候ひて元結切り。かやうの姿と罷りなりて候。 次第に故郷もなつかしう候ふ程に。 唯今思ひ立ち水無瀬の里へと急ぎ候。 これははや故郷水無瀬の里に着きて候。 此処に暫く休まばやと思ひ候。 姉弟二人一声「花散りし。嵐も寒き秋風に。 もろき柞の森の露。消えても残る。命かな。 姉「これは津の国水無瀬の里に。

為世の卿といはれし人の。二人の子にて候ふなり。 二人「さても我が父後の世の。 為世は遁世し給ひて。母も我等も捨小舟の。 水無瀬の川の小夜千鳥。 共音に鳴きて過ごせしに。母さへ空しくなり給ひて。 我等おととひ花水を手向のために立ち出づる。 かほどまで便なき身を我が父の。/\。 捨。 て置き給ふ思ひ子の恋ひ悲しめるあはれさよ。人は帰らで見る夢の。 別れ留まる物ならば。現に逢はん由もがな/\。 。

ワキ詞「不思議やなこれなる幼き者を見れば。古の某が子にて候。 さらぬ様にて過ぎ行かばやと思ひ候。 弟「いかに姉上。聖の御通り候御留め候へ。 姉「実によく仰せ候御とゞめ候へ。 二人「いかに御聖聞し召せ。往来の利益の御為ならば。 我等が母の空しき跡。 弔ひてたばせ給へなう。 ワキ詞「無慙やな父とも知らでおとゝひは。利益をなさんと往来の。 僧を供養し給ふぞや。さらば留まり申すべし。 二人「嬉しや今日は母上の。 空しき跡の其日なり。御経読みてたび給へ。 ワキ詞「それこそ易き御事なれと。 落つる涙を押さへつゝ。御経を読まんと志せば。 二人「我等が母の亡き跡を。弔ひ給ふ御聖を。 ワキ「父とも知らで。二人「今は又。 地「よそのあはれに言ひなして。/\。 さらば留まりて。跡を弔ひ申さん。 二人「嬉しの今の仰やと。 おとゝひ共に喜べば。地「見れば昔にかはりたる。

庭の桂木窓の梅。主忘れぬしるしぞと。 匂を留めて吹く風の。洩る月影も冷まじや。 見苦しけれど此方へと。 御僧を請じ入れければ。ワキ「千度百度親子ぞと。 地「名乗らばやとは思へども。輪廻の業の目を塞ぎ。 念仏申し撫子の。弔ふ法の結縁に。 正覚ならせ給へや/\。 ワキ「南無幽霊成等正覚。 シテ一声「念仏衆生無量寿如来。ワキ「一代教主釈迦牟尼法号。 シテ「来迎引摂。地「あら有難や。 ワキ「更闌け夜静かに帳門開かざるに。 影の如くに見え給ふは。 此世には亡き古人の。姿現し給へるか。 シテ「恥かしやなほも輪廻に帰り来て。 見え参らするは憚なれども。親と名乗らで情なく。 よそがましげにおはします。 恨み申しに参りたり。ワキ「尤もそれはさる事なれども。 捨つる浮世の身を恥ぢて。 親と名乗らぬばかりなり。

シテ詞「なう包むも事によるものをと。亡者は子供の手を取りて。 ワキ「草の枕の夜の宿。 シテ「夢に相逢ふ親と子の。姉弟「袂にすがれば。 ワキ「ともかくも。地「争ひかねて捨人は。 いとゞ心の迷ひ子に。親と名乗らんは。 よその人目もいかならん。シテ「羨ましや父も子も。 地「同じ浮世の身にあれば。 逢瀬の便もあるぞかし。 我は冥途に帰りなばいつ又夢にも逢ふべき。 地「緑子は三界の。/\。 首かせに繋がれて。娑婆にも行かれず冥途にも。 帰りかねて悲しやな。苦は受くれども。

忘るゝ隙なきは。娑婆に残る妄執愛着。 恋慕の妨ぐる。心の鬼の身を責めて。 烏羽玉の黒髪を。 手に繰りからまき提げ引きすゑ。 左右に引き分つて立つも立たれず居るも居られぬ因果の車の廻り来て。 問へども何かは答ふべき。叫べとも叶はず。 シテ「されどもかやうの弔に。 地「されどもかやうの弔に。 今こそ親子に鸚鵡の袖を振り切りがたき糸竹の。 紫雲たなびき音楽聞え。 紫雲たなびき音楽聞えて成。 仏するこそありがたけれ成仏するぞ有難き 侍女夕霧 芦屋某の妻(後ハ其幽霊) 芦屋某

ワキ詞「これは九州芦屋の何某にて候。 われ自訴の事あるにより在京仕りて候。 かりそめの在京と存じ候へども。

当年三とせになりて候。 余りに故郷の事心もとなく候ふ程に。 召使ひ候ふ夕霧と申す女を下さばやと思ひ候。いかに夕霧。

余りに古里心もとなく候ふ程に。 おことを下し候ふべし。 此年の暮には必ず下るべき由心得て申し候へ。 ツレ「さらばやがて下り候ふべし。 必ず此年の暮には御下りあらうずるにて候。道行「此程の。 旅の衣の日も添ひて。/\。幾夕暮の宿ならん。 夢も数そふ仮枕。明し暮して程もなく。 芦屋の里に着きにけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。芦屋の里に着きて候。 やがて案内を申さうずるにて候。いかに誰か御入り候。 都より夕霧が参りたるよし御申し候へ。 シテサシ、アシラヒ出「それ鴛鴦の衾の下には。 立ち去る思を悲しみ。比目の枕の上には。 波を隔つる愁あり。ましてや深き妹背の中。 同じ世をだに忍草。 われは忘れぬ音を泣きて。袖に余れる涙の雨の。 晴間稀なる心かな。 。ツレ詞「夕霧が参りたる由それ/\御申し候へ。シテ「何夕霧と申すか。

人までもあるまじ此方へ来り候へ。 いかに夕霧珍しながら怨めしや。 人こそ変り果て給ふとも。風の行方の便にも。 などや音信なかりけるぞ。 ツレ「さん候とくにも参りたくは候ひつれども。 御宮づかひの隙もなくて。心より外に三年まで。 都にこそは候ひしか。 シテ「何都住まひを心の外とや。思ひやれげには都の花盛。 慰多きをり/\にだに。憂きは心の習ぞかし。 下歌「鄙の住まひに秋の暮。 人目も草も枯れ%\の。 契も絶えはてぬ何を頼まん身のゆくへ。上歌「三年の秋の夢ならば。 /\。憂きはそのまゝ覚めもせで。 おもひでは身に残り昔は変り跡もなし。 げにや偽の。なき世なりせばいかばかり。 人の言の葉嬉しからん。愚の心やな。 愚なりけるたのみかな。 シテ詞「あら不思議や。 何やらんあなたに当つて物音の聞え候。

あれは何にて候ふぞ。ツレ詞「あれは里人の砧打つ音にて候。 シテ「げにや我が身の憂きまゝに。 古事の思ひ出でられ候ふぞや。 唐土に蘇武といひし人。胡国とやらんに捨て置かれしに。 古里に留め置きし妻や子。 夜寒の寝覚を思ひけり。高楼に登つて砧をうつ。 志の末通りけるか。 万里の外なる蘇武が旅寝に。古里の砧聞えしとなり。 わらはも思や慰むと。とても寂しき呉服。 あやの衣を砧にうちて。心を慰まばやと思ひ候。 。 ツレ詞「いや砧などは賎しき者の業にてこそ候へ。 さりながら御心慰めんためにて候はゞ。砧をこしらへて参らせ候ふべし。 シテ「いざ/\砧うたんとて。 馴れて臥ゐの床の上。ツレ「涙かたしく小莚に。 シテ「思をのぶる便ぞと。 ツレ「夕霧立ちより諸共に。シテ「怨の砧。ツレ「うつとかや。 地次第「衣に落つる松の声。 衣に落ちて松の声夜寒を風や知らすらん。

シテ「音信の。稀なる中の秋風に。 地「憂きを知らする。夕かな。シテ「遠里人も眺むらん。 地「誰が世と月は。よも問はじ。 シテ「面白のをりからや。頃しも秋の夕つ方。 地「牡鹿の声も心凄く。見ぬ山里を送り来て。 梢はいづれ一葉散る。 空冷まじき月影の軒の忍にうつろひて。シテ「露の玉簾。 かゝる身の。地「思をのぶる。 夜すがらかな。宮漏高く立ちて。風北にめぐり。 シテ「隣砧緩く急にして月西に流る。 地「蘇武が旅寝は北の国。これは東の空なれば。 西より来る秋の風の。 吹き送れと間遠の衣擣たうよ。上「古里の。 軒端の松も心せよ。おのが枝々に。嵐の音を残すなよ。 今の砧の声添へて。 君がそなたに吹けや風。余りに吹きて松風よ。我が心。 通ひて人に見ゆならば。 その夢を破るな破れ。 て後は此衣たれか来ても訪ふべき来て訪ふならばいつまでも。

衣は裁ちもかへなん。夏衣薄き契はいまはしや。 君が命は長き夜の。 月にはとても寝られぬにいざいざ衣うたうよ。かの七夕の契には。 一夜ばかりの狩衣。天の河波立ち隔て。 逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露涙。 二つの袖やしをるらん。水蔭草ならば。 波うち寄せようたかた。 シテ「文月七日の暁や。地「八月九月。げに正に長き夜。 千声万声の憂きを人に知らせばや。 月の色風の気色。影に置く霜までも。 心凄きをりふしに。砧の音夜嵐悲の声虫の音。 交りて落つる露涙。ほろ/\はら/\はらと。いづれ砧の音やらん。 ツレ詞「いかに申し候。 都より人の参りて候ふが。 此年の暮にも御下あるまじきにて候。 クドキシテ「怨めしやせめては年の暮をこそ。偽ながらも待ちつるに。 さては早真に変り果て給ふぞや。 地「思はじと思ふ心も弱るかな。声も枯野の虫の音の。

乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。 病の床に伏し沈み。 遂に空しくなりにけり/\。中入「。 。 ワキ詞「無慙やな三とせ過ぎぬる事を怨み。引きわかれにし妻琴の。 つひの別となりけるぞや。上歌待謡「さきだたぬ。 悔の八千度百夜草。悔の八千度百夜草の。 蔭よりも二度。帰りくる道と聞くからに。 梓の弓の末弭に。 詞をかはすあはれさよ/\。 後シテ出端「三瀬川沈み。果てにし。 うたかたの。哀はかなき身の行くへかな。 標梅花の光を並べては。娑婆の春をあらはし。 地「跡のしるべの燈火は。 シテ「真如の秋の。月を見する。 さりながらわれは邪婬の業深き。思の煙の立居だに。 やすからざりし報の罪の。乱るゝ心のいとせめて。 獄卒阿防羅刹の。笞の数の隙もなく。 うてや/\と。報の砧。怨めしかりける。

因果の妄執。地「因果の妄執の思の涙。 砧にかゝれば。涙はかへつて。 火焔となつて。胸の煙の焔にむせべば。 叫べど声が出でばこそ。砧も音なく。 松風も聞えず。呵責の声のみ。恐ろしや。 上歌「羊のあゆみ隙の駒。/\。 うつりゆくなる六つの道。 因果の小車の火宅の門を出でざれば。廻り廻れども。 生死の海は離るまじやあぢきなの憂世や。 シテ「怨は葛の葉の。地「怨は葛の葉の。 かへりかねて執心の面影の。 はづかしや思ひ夫の。二世と契りてもなほ。 末の松山千代までと。かけし頼はあだ波の。 あらよしなや空言や。そもかゝる人の心か。

シテ「烏てふ。おほをそ鳥も心して。 地「うつし人とは誰かいふ。草木も時を知り。 鳥獣も心あるや。 げにまことたとへつる。蘇武は旅雁に文をつけ。 万里の南国に至りしも。契の深き志。 浅からざりしゆゑぞかし。 君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも。 夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや。 キリ「法華読誦の力にて。/\。 幽霊まさに成仏の。道明かになりにけり。 これも思へばかりそめに。うちし砧の声のうち。 開くる法の華心。 菩提の種となりにけり/\ 旅僧 従僧 里の女 うなゐ乙女の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「ひなの長路の旅衣。

/\都にいざや急がん。

ワキ詞「これは西国方より出でたる僧にて候。 我いまだ都を見ず候ふ程に。唯今都に上り候。 道行三人「旅衣八重の塩路の浦伝ひ。/\。 舟にても行く旅の道海山かけてはる%\と。 明し暮して行く程に。名にのみ聞きし津の国の。 生田の里に着きにけり/\。シテツレ一セイ「若菜摘む。 生田の小野の朝風に。なほ冴え返る袂かな。 ツレ二ノ句「木の芽も春も淡雪に。 シテツレ「杜の下草。なほ寒し。 シテサシ「深山には松の雪だに消えなくに。ツレ「都は野辺の若菜摘む。 頃にも今やなりぬらん。 思ひやるこそ床しけれ。 シテ「こゝはまたもとより所もあまざかる。ツレ「ひな人なれば自ら。 うきも命のいく田の海の。 身の限にてうきわざの。春としもなき小野に出でて。 下歌「若菜摘む。 いく里人の跡ならん雪間あまたに野は成りぬ。 上歌「道なしとてもふみ分けて。/\。野沢の若菜けふつまん。 。

雪間を待つならば若菜も若しや老いもせん。 嵐吹く森の木蔭小野の雪もなほ冴えて。 春としも七草の生田の若菜摘まうよ生田の若菜摘まうよ。 ワキ詞「いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候。 生田とは此あたりを申し候ふか。 ツレ「生田と知し召したる上は。御尋までも候ふまじ。 シテ「処処の有様にも。 などかは御覧じ知らざらん。詞「先は生田の名にしおふ。 これに故有る林をば。生田の森と知し召さずや。 ツレ「また今渡り給へるは。 名に流れたる生田川。シテ「水の緑も春浅き。 雪間の若菜摘む野べに。 ツレ「すくなき草の原ならば。小野とはなどやしろしめされぬぞ。 シテツレ「三吉野志賀の山桜。 立田初瀬の紅葉をば。歌人の家に知るなれば。 処に住める者なればとて。生田の森とも林とも。 知らぬ事をな宣ひそよ。 ワキ「実に目前の処々。森を始めて海川の。 霞み渡れる小野の景色。詞「実にも生田の名にしおへる。

さて求塚とは何処ぞや。 シテ「求塚とは名には聞けども。真はいづくの程やらん。 わらはも更に知らぬなり。ツレ「なう/\旅人よしなき事をな宣ひそ。 わらはも若菜を摘む暇。 シテ「御。 身もいそぎの旅なるに。 何し。 に休らひ給ふらん。 ツレ「されば古き歌にも。 。 地下歌「旅人の道。 さまたげに摘む物は。 生田の小。 野の若菜なりよ。 しなや何を問ひ給ふ。上歌「春日野の。 飛火の野守出でてみよ。/\。若菜つまんも程あらじ。 其如く旅人も。 急がせ給ふ都を今幾日ありて御覧ぜん。

君が為春の野に出でて若菜つむ。衣手寒し消え残る。 雪ながら摘まうよ淡雪ながら摘まうよ。 沢辺なるひこりは薄く残れども。 水の深芹かき分けて青緑色ながらいさや摘まうよ。 色ながらいさや摘まうよ。 ロンギ地「まだ初春の若菜にはさのみに種はいかならん。 シテ「春立ちて朝の原の雪見れば。まだ古年の心地して。 。

ことし生は少なしふるはの若菜つまうよ。地「古葉なれどもさすがまた。 年若草の種なれや。心せよ春の野辺。 シテ「春の野に/\。菫つみにと来し人の。 若菜の名や摘みし。 地「げにやゆかりの名をとめて。妹背の橋も中絶えし。 シテ「佐野の茎立わか立ちて。地「緑の色も名にぞそむ。 シテ「長安の薺。地「からなづな。 白み草も有明の。 雪に紛れて摘みかぬるまで春寒き。小野の朝風また森の下枝松たれて。 何れを春とは白波の。河風邪までも冴返り。 吹かるゝ袂もなほ寒し。 摘み残して帰らんわかな摘みのこし帰らん。 ワキ詞「不思議やな若菜つむ女性は。皆々帰り給ふに。 何とて御身一人残り給ふぞ。 シテ詞「さきに御尋ね候求塚を教へ申し候はん。 ワキ「それこそ望にて候御教へ候へ。 シテ「こなたへ御入り候へ。これこそ求塚にて候へ。 ワキ「さて求塚とは。 何と申したる謂にて候ふぞ。委しく御物語り候へ。

シテ「さらば語つて聞せ申し候ふべし。 昔此処にうなゐ乙女のありしに。 又その頃さゝだ男ちぬのますらをと申しゝ者。 かのうなゐに心をかけ。同じ日の同じ時に。 わりなき思の玉章を贈る。彼の女思ふやう。 一人になびかば一人の恨深かるべしと。 左右なうなび?く事もなかりしが。 あの生田川の水鳥をさへ。二人の矢さきもろともに。 一つの翅に中りしかば。 其時わらは思ふやう。無慙やなさしも契は深緑。 水鳥までも我ゆゑに。さこそ命はをし鳥の。 つがひ去りにしあはれさよ。 住みわびつ我が身捨てゝん津の国の。 生田の川は名のみなりけりと。地「これを最期の詞にて。/\。 此河波に沈みしを。 取り上げて此塚の土中に籠め納めしに。 二人の男は此塚に求め来りつゝ。 いつまで生田川流るゝ水に夕汐の。さし違へて空しくなれば。 それさへ我が科に。

なる身を助け給へとて塚。 の中に入りにけり塚の中にぞ入りにける。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「一夜臥す牡鹿の角の塚の草。/\蔭より見えし亡魂を。 弔ふ法の声たてゝ。南無幽霊成等正覚。 出離生死頓証菩提。 後シテ「あう〓{口へんに廣}野人稀なり野人稀なり。わが古墳ならで又何者ぞ。 骸を争ふ猛獣は。去つて又残る。 塚を守る飛魄は松風に飛び。 電光朝露なほ以て眼にあり。古墳多くは少年の人。 生田の名にも似ぬ命。 地「去つて久しき故郷の人の。シテ「御法の声は有難や。 地「あら閻浮恋しや。 地「されば人一日一夜をふるにだに。/\。八億四千の思あり。況んや。 我等は。去りにし跡も久方の。 天の御門の御代より。 今は後の堀川の御宇にあはゞ我も二たび世にも帰れかし。 いつまで草の蔭。 苔の下には埋れんさらば埋れも果てずして。 苦は身をやく火宅の住家御覧ぜよ火宅の住家御覧ぜよ。

ワキ「わら痛はしの御有様やな。一念ひるがへせば。 無量の罪をも遁るべし。 種々諸悪地獄鬼畜生。生老病苦以漸悉令滅。 はやはや浮び給へ。シテ「ありがたや。 この苦の隙なきに。御法の声の耳にふれて。 大焦熱の煙の中に。晴間の少し見ゆるぞや。 ありがたや。詞「恐ろしやお事は誰そ。 何さゝだ男の亡心とや。 偖此方なるはちぬのますらを。左右の手を取つて。来れ/\と責むれども。三界火宅の住家をば。 何と力に出づべきぞ。 又恐ろしや飛魄飛び去る目の前に。来るを見れば鴛鴦の。 鉄鳥となつて黒鉄の。嘴足剣の如くなるが。 首をつゝき髄を喰ふ。 こはそも妾がなせる科かや。恨めしや。 詞「なう御僧此苦をば。何とか助け給ふべき。 ワキ「実に苦の時来ると。云ひもあへねば塚の上に。 火焔一群飛び覆ひて。 シテ「光は飛魄の鬼と成つて。

ワキ「笞をふり上げ追立つれば。シテ「行かんとすれば前は海。 ワキ「後は火焔。シテ「左も。ワキ「右も。 シテ「水火の責に詰められて。ワキ「せん方なくて。 シテ「火宅の柱に。 地「すがりつき取りつけば。柱は則ち火焔と成つて。 火の柱を抱くぞとよあらあつや。 堪へがたや五体はおき火の。黒煙と成りたるぞや。 シテ「而して起上れば。地「而して起上れば。 獄卒は笞を当てゝ。追立つればたゞよひ出でて。 八大地獄の数々苦を尽し御前にて。 懺悔の有様見せ申さん先等活黒縄衆合。

叫喚大叫喚。炎熱極熱無間の底に。 足上頭下と落つる間は。三年三月の苦果てゝ。 少し苦患の隙かと思へば。鬼も去り。 火焔も消えて。くら闇となりぬれば。 今は火宅に帰らんと。 ありつる住家はいづくぞと。闇さは闇しあなたを尋ね。 こなたを求塚。いづくやらんと求め/\辿り行けば。求め得たりや求塚の。 草の蔭野の露消えて草のかげ野の露きえ/\と。 亡者のかたちは失せにけり/\ 小野小町 高野山僧 従僧

ワキ、ワキツレ次第「山は浅きに隠家の。/\深きや心なるらん。 詞「これは高野山より出でたる僧にて候。 我このたび都に上らばやと思ひ候。サシ「それ前仏は既に去り。

後仏はいまだ世に出でず。 ワキ、ワキツレ「夢の中間に生れ来て。何を現と思ふべき。たま/\受け難き人身を受け。 逢ひ難き如来の仏教に逢ひ奉る事。これぞ悟の種なると。

。 思ふ心もひとへなる墨の衣に身をなして。上歌「生れぬさきの身を知れば。/\。 憐むべき親もなし。 親のなければ我が為に。心に留むる子もなし。 千里を行くも遠からず。 野に臥し山に泊る身のこれぞ誠の。栖なるこれぞ誠の栖なる。 。シテ次第「身は浮草をさそふ水/\なきこそ悲しかりけれ。 サシ「あはれやげにいにしへは。驕慢もつとも甚だしう。 翡翠の釵は婀娜とたをやかにして。 楊柳の春の風に靡くが如し。また鴬舌の囀は。 露を含める糸萩の。 かごとばかりに散りそむる花よりもなほ珍しや。 今は民間賎の目にさへ穢なまれ。諸人に恥をさらし。 嬉しからぬ月日身に積つて。 百年の姥となりて候。 下歌「都は人目つゝましやもしもそれかと夕まぐれ。 上歌「月もろともに出でて行く。/\。雲居百敷や。 大内山の山守も。

かゝる憂き身はよも咎めじ木隠れてよしなや。鳥羽の恋塚秋の山。 月の桂の川瀬舟。漕ぎゆく人は誰やらん/\。 シテ詞「あまりに苦しう候ふほどに。 これ。 なる朽木に腰を懸けて休まばやと思ひ候。 ワキ詞「なうはや日の暮れて候道を急がうずるにて候。や。 これなる乞食の腰かけたるは。正しく卒都婆にて候。 教化してのけうずるにて候。 いかにこれなる乞丐人。おことの腰かけたるは。 かたじ。 けなくも仏体色相の卒都婆にては無きか。そこ立ちのきて余の所に休み候へ。 。 シテ「仏体色相のかたじけなきとは宣へども。是ほどに文字も見えず。 刻める像もなしたゞ朽木とこそ見えたれ。 ワキ「たとひ深山の朽木なりとも。 花咲きし木はかくれもなし。 詞「いはんや仏体に刻める木。などかしるしのなかるべき。 シテ「我も賎しき埋木なれども。 心の花のまだ有れば。手向になどかならざらん。

詞「さて仏体たるべき謂は如何に。 ワキツレ「それ卒都婆は金剛薩〓{た:土へんに垂}。 かりに出化して三摩耶形を行ひ給ふ。 シテ詞「行ひなせる形は如何に。ワキ「地水火風空。 シテ「五大五輪は人の体。何しに隔あるべきぞ。 ワキツレ「形はそれに違はずとも。心功徳はかはるべし。 シテ詞「さて卒都婆の功徳は如何に。 ワキ「一見卒都婆永離三悪道。 シテ「一念発起菩提心。それも如何でか劣るべき。 ワキツレ「菩提心あらばなど浮世をば厭はぬぞ。 シテ「姿が世をも厭はゞこそ心こそ厭へ。 ワキ「心なき身なればこそ。 仏体をば知らざるらめ。 シテ詞「仏体と知ればこそ卒都婆には近づきたれ。 ツレ「さらばなど礼をばなさで敷きたるぞ。 シテ「とても臥したる此卒都婆。我も休むは苦しいか。 ワキ「それは順縁にはづれたり。 シテ詞「逆縁なりと浮むべし。ツレ「提婆が悪も。シテ詞「観音の慈悲。 ワキ「槃特が愚痴も。シテ詞「文殊の智恵。

ツレ「悪と云ふも。シテ「善なり。 ワキ「煩悩といふも。ツレ「菩提なり。ツレ「菩提もと。 シテ「植木にあらず。ワキ「明鏡また。 シテ「台に無し。地「げに。 本来一物なき時は仏も衆生も隔なし。 もとより愚痴の凡夫を。救はん為の方便の。 深き誓の願なれば。逆縁なりと浮むべしと。 ねんごろに申せば。誠に悟れる。非人なりとて。 僧は頭を地につけて。三度礼し給へば。 シテ「我は此時力を得。 なほ戯の歌をよむ。極楽の内ならばこそ悪しからめ。 そとは何かは苦しかるべき。 地「むつかしの僧の。教化や/\。 。 ワキ詞「さておことは如何なる人ぞ名を御名のり候へ。 シテ詞「恥かしながら名を名のり候ふべし。これは出羽の郡司。 小野の良実が娘。 小野の小町がなれる果にてさむらふなり。 ワキワキツレ二人「いたはしやな小町は。さもいにしへは優女にて。

花のかたち輝き。桂の黛青うして。 白粉を絶えさず。 羅綾の衣多うして桂殿の間に余りしぞかし。シテ「歌をよみ詩を作り。 地「酔をすゝむる盃は。漢月袖に静かなり。 ま。 こと優なる有様のいつ其ほどに引きかへて。地歌「頭には。霜蓬を戴き。 嬋妍たりし両鬢も。 膚にかしげて墨乱れ宛転たりし双峨も遠山の色を失ふ。百年に。 一年足らぬつくも髪。 かゝる思は有明の影恥かしき我が身かな。 。 ロンギ地「首に懸けたる袋には如何なる物を入れたるぞ。 シテ「今日も命は知らねども。明日の飢を助けんと。 粟豆の餉を袋に入れて持ちたるよ。 地「うしろに負へる袋には。シテ「垢膩の垢づける衣あり。 地「臂にかけたるあじかには。 白黒の慈姑あり。地「破れ蓑。シテ「破れ笠。 地「面ばかりは隠さねば。シテ「まして霜雪雨露。

。 地「涙をだにも抑ふべき袂も袖もあらばこそ。今は路頭にさそらひ。 往来の人に物を乞ふ。乞ひ得ぬ時は悪心。 また狂乱の心つきて。声かはりけしからず。 シテ「なう物給べなう御僧なう。 ワキ詞「何事ぞ。シテ詞「小町がもとへ通はうよなう。 ワキ「おことこそ小町よ。 何とて現なき事をば申すぞ。シテ「いや小町といふ人は。 あまりに色が深うて。 あなたの玉章こなたの文。かきくれて降る五月雨の。 空言なりとも。一度の返事もなうて。 いま百年になるが報うて。 あら人恋しやあら人恋しや。ワキ「人恋しいとは。 さてお。 ことには如何なる者のつきそひてあるぞ。 シテ「小町に心を懸けし人は多き中にも。殊に思深草の四位の少将の。 地「恨の数のめぐり来て車の榻に通はん。 日は何時ぞ夕暮。月こそ友よ通路の。 関守はありとも留まるまじや出で立たん。 シテ「浄衣の袴かいとつて。

地「浄衣の袴かいとつて。 立烏帽子を風折り狩衣の袖をうちかづいて。人目忍ぶの通路の。 月にも行く暗にも行く。雨の夜も風の夜も。 木の葉の時雨雪深し。シテ「軒の玉水。 とく/\と。地「行きては帰り。 かへりては行き一夜二夜三夜四夜。七夜八夜九夜。 豊の明の節会にも。逢はでぞ通ふ鶏の。 時をもかへず暁の。 榻のはしがき百夜までと通ひいて。九十九夜になりたり。

シテ「あら苦し目まひや。 地「胸苦しやと悲しみて。一夜を待たで死したりし。 深草の少将の。その怨念がつき添ひて。 かやうに物には狂はするぞや。 キリ「これにつけても後の世を。 願ふぞ誠なりける。砂を塔と重ねて。 黄金の膚こまやかに。花を仏に手向けつゝ。 悟の道に入らうよ。/\ 旅僧 老人 小野頼風の霊 頼風の妻の霊

。 ワキ詞「これは九州松浦潟より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。 此秋思ひ立ち都に上り候。道行「住み馴れし。 松浦の里を立ち出でて。/\。 末不知火の筑紫潟いつしか後に遠ざかる。 旅の道こそ。遥なれ旅の道こそ遥なれ。

詞「急ぎ候ふ程に。 是ははや津の国山崎とかや申し候。向ひに拝まれさせ給ふは。 石清水八幡宮にて御座候。 我が国の宇佐の宮と御一体なれば。参らばやと思ひ候。 又こ。 れなる野辺に女郎花の今を盛と咲き乱れて候。立ち寄り眺めばやと存じ候。

ワキ「さても男山麓の野辺に来て見れば。 千草の花盛にして。 色を飾り露を含みて。虫の音までも心有り顔なり。 野草花を帯びて蜀錦を連ね。 桂林雨を払つて松風を調ぶ。詞「此男山の女郎花は。 古歌にもよまれたる名草なり。 これも一つは家土産なれば。花一本を手折らんと。 此女郎花の辺に立ち寄れば。 シテ詞呼掛「なう其花な折り給ひそ。花の色は蒸せる粟の如し。 俗呼ばつて女郎とす。 戯に名を聞いてだに偕老を契るといへり。 ましてやこれは男山の。名を得て咲ける女郎花の。 多かる花に取り分きて。 など情なく手折り給ふ。あら心なの旅人やな。 ワキ詞「さて御身は如何なる人にてましませば。 これほど咲き乱れたる女郎花をば惜み給ふぞ。 シテ「惜み申すこそ理なれ。 此野辺の花守にて候。 ワキ「たとひ花守にてもましませ。御覧候へ出家の身なれば。

仏に手向と思し召し。一本御ゆるし候へかし。 シテ「実に/\出家の御身なれば。 仏に手向と思ふべけれど。 彼の菅原の神木にも折らで手向けよと。其外古き歌にも。 折り取らば手ぶさに穢る立てながら。 詞「三世の仏に花奉るなどと候へば。 ことさら出家の御身にこそ。 なほしも惜み給ふべけれ。ワキ「さやうに古き歌を引かば。 何とて僧正遍昭は。 名にめでて折れるばかりぞ女郎花とはよみ給ひけるぞ。 シテ「い。 やさればこそ我落ちにきと人に語るなと。深く忍ぶの摺衣の。 女郎と契る草の枕を。並べしまでは疑なければ。 其御喩を引き給はゞ。出家の身にては御誤。 ワキ「かやうに聞けば戯ながら。 色香にめづる花心。詞「兎角申すによしぞなき。 暇申して帰るとて。 もと来し道に行き過ぐる。 シテ「あうやさしくも所の古歌をば知し召したり。

女郎花憂しと見つゝぞ行き過ぐる。男山にし立てりと思へば。 地下歌「優しの旅人や。花は主ある女郎花。 よし知る人の名にめでて。 免し申すなり一本折らせたまへや。 上歌「なまめき立てる女郎花。/\。 うしろめたくや思ふらん。 女郎と書ける花の名に誰偕老を契りけん。彼の邯鄲の仮枕。 夢は五十のあはれ世のためしもまこと。 なるべしやためしもまことなるべしや。 ワキ詞「此野辺の女郎花に眺め入りて。 未だ八幡宮に参らず候。 シテ「この尉こそ山上する者にて候へ。 八幡への御道しるべ申し候ふべし此方へ御入り候へ。 ワキ「聞。 きしに越えて尊く有難かりける霊地かな。シテ「山下の人家軒をならべ。 二人「和光の塵もにごり江の。 河水にうかぶ鱗は。 実にも生けるを放つかと深き誓もあらたにて。恵ぞ繁き男山。 栄行く道の有難さよ。地下歌「頃は八月半の日。

神の御幸なる御旅所を伏し拝み。上歌「久方の。 月の桂の男山。/\。さやけき影は処から。 。 紅葉も照り添ひて日もかげろふの石清水。苔の衣も妙なりや。 三つの袂に影うつる。しるしの箱を納むなる。 法の神宮寺有難かりし霊地かな。巌松聳つて。 山聳え谷廻りて諸木枝を連ねたり。 鳩の嶺越し来て見れば。 三千世界もよそならず千里も同じ月の夜の。 朱の玉垣みとしろの。錦かけまくも。 かたじけなしと伏し拝む。 。 シテ詞「これこそ石清水八幡宮にて御座候へよく/\御拝み候へ。 はや日の暮れて候へば御暇申し候ふべし。ワキ「なう/\女郎花と申す事は。 此男山につきたる謂にて候ふか。シテ「あら何ともなや。 さきに女郎花の古歌を引いて。 戯を申し候ふも徒事にて候。女郎花と申すこそ。 男山につきたる謂にて候へ。

又此山の麓。 に男塚女塚とて候ふを見せ申し候ふべし。此方へ御入り候へ。これなるは男塚。 又此方なるは女塚。 此男塚女塚について女郎花の謂も候。 是は夫婦の人の土中にて候。 ワキ「さて其夫婦の人の国は何処。苗字は如何なる人やらん。 シテ「女は都の人。男は此八幡山に。 小野の頼風と申しゝ人。地歌「恥かしや古を。 語るもさすがなり。申さねば又亡き跡を。 誰が稀にも弔の。便を思ひ頼風の。 更け行く月に木隠れて夢の如くに。 失せにけり夢の如くに失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「一夜臥す。男鹿の角の塚の草。 /\蔭より見えし亡魂を。 弔ふ法の声立てゝ。南無幽霊出離生死頓生菩提。 後シテ出端「おう曠{新字源3398くわう}野人稀なり。 我が古墳ならで又何者ぞ。ツレ「骸を争ふ猛獣は。 禁ずるに能はず。シテ「なつかしや。 聞けば昔の秋の風。ツレ「うら紫が葛の葉の。

シテ「かへらば連れよ。妹背の波。 地「消えにし魂の。女郎花。花の夫婦は現れたり。 あら有難の。御法やな。 ワキ「影の如くに亡魂の。 現れ給ふ不思議さよ。ツレ「妾は都に住みし者。 彼の頼風に契をこめしに。 シテ詞「少し契のさはりある。人まを誠と思ひけるか。 ツレ「女心のはかなさは。都を独りあくがれ出でて。 猶も恨の思深き。放生川に身を投ぐる。 シテ詞「頼風これを聞きつけて。 驚きさわぎ行き見れば。あへなき死骸ばかりなり。 ツレ「泣く/\死骸を取り上げて。 此山本の土中にこめしに。 シテ詞「其塚より女郎花一本生ひ出でたり。頼風心に思ふやう。 さては我が妻の。女郎花になりけるよと。 なほ花色もなつかしく。 草の袂も我が袖も。露触れそめて立ち寄れば。 此花恨みたる気色にて。夫の寄れば靡き退き又。 立ち退けばもとの如し。

地「こゝによつて貫之も。 男山の昔を思つて女郎花の一時を。 くねると書きし水茎の跡の世までもなつかしや。 クセ「頼風其時に。 彼のあはれさを思ひ取り。無慙やな我故に。 よしなき水の泡と消えて徒らなる身となるも。 ひとへに我が科ぞかし。 如かじうき世に住まぬまでと同じ道にならんとて。 シテ「つゞいて此川に身を投げて。 地「ともに土中に籠めしより女塚に対して。 又男山と申すなり其塚はこれ。主は我幻ながら来りたり。 跡弔ひてたび給へ/\。 地「あら閻浮。恋しや。カケリ「。 キリ地「邪淫の悪鬼は身を責めて。/\。其念力の。 道も嶮しき剣の山の。上に恋しき。 人は見えたり嬉しやとて。行き上れば。 剣は身を通し磐石は骨を砕く。 こはそも如何に恐ろしや。剣の枝の。撓むまで。 いかなる罪の。なれる果ぞや。

よしなかりける花の一時を。くねるも夢ぞ女郎花。 露の台や花の縁に。

浮めてたび給へ罪を浮めてたび給へ 小野小町 深草四位少将

。 ワキ詞「これは・八瀬{やせ}の・山里{やまざと}に・一夏{いちげ}を送る僧にて候。こゝに・何処{いづく}とも知らず・女性{によしやう}・一人{いちにん}。 ・毎日{まいにち}・木{こ}の・実{み}・妻木{つまぎ}を持ちて来り候。 ・今日{けふ}も来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 ツレ次第「拾ふ・妻木{つまぎ}も・焚物{たきもの}の。/\匂はぬ。 袖ぞかなしき。 ツレ「これは・市原野{いちはらの}のあたりに住む女にて候。 詞「さても・八瀬{やせ}の・山里{やまざと}に。・貴{たつと}き人の・御入{おんい}り候ふ程に。 いつも・木{こ}の・実{み}・妻木{つまぎ}を持ちて参り候。 ・今日{けふ}もまた参らばやと思ひ候。如何に申し候。 又こそ参りて候へ。 ワキ詞「いつも来れる人か。

今日{けふ}は・木{こ}の・実{み}の・数々{かず/\}・御物語{おんものがた}り候へ。 ツレ「拾ふ・木{こ}の・実{み}は何々ぞ。 地「拾ふ・木{こ}の・実{み}は何々ぞ。ツレ「・古{いにしへ}見馴れし。 車に似たるは嵐にもろき・落椎{おちじひ}。 地「・歌人{かじん}の家の・木{こ}の・実{み}には。ツレ「・人丸{ひとまる}の・垣穂{かきほ}の・柿{かき}。山の・辺{べ}の・笹栗{さゝぐり}。 地「窓の梅。ツレ「・園{その}の桃。 地「花の名にある桜・麻{あさ}の。 ・苧生{をふ}のうら・梨{なし}なほもあり・擽{いちひ}かしひまてばしひ。・大小{だいせう}・柑子{かんじ}・金柑{きんかん}。 あはれ昔の恋しきは・花橘{はなたちばな}の。・一枝{ひとえだ}花橘の一枝。 ワキ詞「・木{こ}の・実{み}の数々は承りぬ。さて/\・御身{おんみ}は如何なる人ぞ名を・御名{おんな}のり候へ。 ツレ「恥かしや・己{おの}が名を。 地「をのとはいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひたる・市原野辺{いちはらのべ}に住む・姥{うば}ぞ。

跡とひ給へ・御僧{おんそう}とてかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。 ワキ詞「かゝる不思議なる事こそ候はね。 唯今の女の名を委しく尋ねて候へば。 をのとはいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひたる。 ・市原野{いちはらの}に住む姥と申しかき消すやうに失せて候。 こゝに思ひ合はする事の候。 或る人・市原野{いちはらの}を通りしに。・薄一村{すゝきひとむら}・生{お}ひたる蔭よりも。 ・秋風{あきかぜ}の吹くにつけてもあなめあなめ。 ・小野{をの}とはいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひけりとあり。 これ・小野{をの}の・小町{こまち}の歌なり。 さては疑ふ所もなく唯今の・女性{によしやう}は。 小野の小町の・幽霊{いうれい}と思ひ候ふ程に。かの・市原野{いちはらの}に行き。 小町の跡を・弔{とぶら}はゞやと思ひ候。 歌待謡「この・草庵{さうあん}を立ち出でて。/\。 なほ草深く露しげき・市原野辺{いちはらのべ}に尋ね行き。・座具{ざぐ}を・展{の}べ・香{かう}を・焼{た}き。 ・南無幽霊成等正覚{なむいうれいじやうとうしやうがく}。・出離生死頓生菩提{しゆつりしやうじとんしやうぼだい}。 ツレ一声「うれしの・御僧{おそう}の・弔{とぶらひ}やな。 同じくは・戒{かい}授け給へ・御僧{おそう}。

シテ「いや叶ふまじ・戒{かい}授け給はゞ。恨み申すべし。 ・早{はや}帰り給へ・御僧{おんそう}。ツレ「こは如何にたま/\かゝる・法{のり}に逢へば。なほその・苦患{くげん}を見せんとや。 シテ「・二人{ふたり}見るだに悲しきに。 ・御身{おんみ}・一人{いちにん}・仏道{ぶつだう}ならば・我{わ}が思。重きが上{うへ}の・小夜衣{さよごろも}。 重ねて憂き目を・三瀬川{みつせがは}に。 沈みはてなば・御僧{おそう}の。授け給へるかひも有るまじ。 早帰り給へや。・御僧達{おそうたち}。 地歌「なほもその身は迷ふとも。/\。 ・戒力{かいりき}に引かれば。などか・仏道{ぶつだう}ならざらん・唯{たゞ}。 共に・戒{かい}を受け給へ。 ツレ「人の心は・白雲{しらくも}の。・我{われ}は曇らじ心の月。 出でて・御僧{おそう}に・弔{と}はれんと・薄{すゝき}おし分け出でければ。 シテ「包めど我も穂に出でて。/\。・尾花{おばな}。 招かば・留{と}まれかし。 ツレ「思は山のかせきにて。招くと更に・留{と}まるまじ。 シテ「さらば・煩悩{ぼんのう}の。犬となつて。打たるゝと。 離れじ。ツレ「恐ろしの姿や。シテ「袂を取つて。 引きとむる。ツレ「引かるゝ袖も。

シテ「ひかふる。地「我が袂も。共に涙の露。 ・深草{ふかくさ}の・少将{せうしやう}。 。 ワキ詞「さては・小野{をの}の・小町{こまち}・四位{しゐ}の少将にてましますかや。とてもの事に車の・榻{しぢ}に。 ・百夜{もゝよ}通ひし所をまなうで・御見{おんみ}せ候へ。 ツレ「もとより我は・白雲{しらくも}の。 かゝる・迷{まよひ}の有りけるとは。 シテ詞「思ひもよらぬ車の・榻{しぢ}に。・百夜{もゝよ}通へと・偽{いつは}りしを。まことと思ひ。 詞「・暁毎{あかつきごと}に忍び車の榻に行けば。 ツレ「車の物見もつゝましや。 姿を変へよといひしかば。シテ詞「・輿車{こしぐるま}はいふに及ばず。 ツレ「いつか・思{おもひ}は。 地「・山城{やましろ}の・木幡{こはた}の・里{さと}に馬は有れども。シテ「君をおもへば・徒歩跣足{かちはだし}。 ツレ「さてその姿は。シテ「・笠{かさ}に・蓑{みの}。 ツレ「身の・浮世{うきよ}とや竹の・杖{つゑ}。 シテ詞「月には行くも暗からず。ツレ「さて雪には。 シテ「袖を打ち払ひ。ツレ「さて雨の・夜{よ}は。 シテ「目に見えぬ。・鬼一口{おにひとくち}も恐ろしや。ツレ「たま/\曇らぬ時だにも。シテ「身・一人{ひとり}に・降{ふ}る。

涙の雨か。イロエ「。シテ「あら・暗{くら}の・夜{よ}や。 ツレ「・夕暮{ゆふぐれ}は。・一方{ひとかた}ならぬ。・思{おもひ}かな。シテ「夕暮は何と。 地「・一方{ひとかた}ならぬ・思{おもひ}かな。 シテ「月は待つらん。月をば待つらん。我をば待たじ。 ・空言{そらごと}や。地「・暁{あかつき}は。/\。数々多き。思かな。 シテ「我が為ならば。地「鳥もよし鳴け。 ・鐘{かね}も・唯{ただ}・鳴{な}れ。 ・夜{よ}も明けよ唯・一人寝{ひとりね}ならば。 ・辛{つら}からじ。シテ「かやうに心を。尽{つく}し尽して。 地「かやうに心を尽し尽して。・榻{しぢ}の数々。 よみて見たれば。・九十九夜{くじふくよ}なり。 今は・一夜{ひとよ}ようれしやとて。待つ日になりぬ。 急ぎて行かん。姿は如何に。 シテ「笠も・見苦{みぐる}し。地「・風折烏帽子{かざをりゑぼし}。 シテ「・蓑{みの}をも・脱{ぬ}ぎ捨て。地「・花摺衣{はなすりごろも}の。シテ「・色重{いろがさね}。地「・裏紫{うらむらさき}の。 シテ「・藤袴{ふぢばかま}。地「待つらんものを。 シテ「あら急がしや。すは・早{はや}・今日{けふ}も。地「・紅{くれなゐ}の・狩衣{かりぎぬ}の。 ・衣紋{えもん}けたかく引きつくろひ。 ・飲酒{おんじゆ}は如何に。月の・盃{さかづき}なりとても。 ・戒{いましめ}ならば・保{たも}たんと。唯一念の・悟{さとり}にて。

多くの罪を・滅{めつ}して小野の小町も少将も。

共に・仏道{ぶつだう}成りにけり/\ 旅僧 女の霊 男の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 此間は北国に候ひて。 霊仏霊社残りなく拝み廻りて候。 余りに雪深くなり行き候ふ程に。是より若狭路にかゝり。 都へ上らばやと存じ候。道行「冬枯の。梢淋しき越の山。 /\。分け行く末は白雲の。 八重の塩路もほの%\と木の間に見ゆる若狭路の。 煙るそなたやうらみ坂。松風寒き磯山に。 里とひかぬる夕かな。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。 これは早若狭の国気山とかやに着て候。あら笑止や。俄に雪の降り来りて候。 あの松原の人宿に。 立寄り雪を晴さばやと思ひ候。ツレ詞呼掛「なう/\御僧。 何とて其宿には立寄り給ひ候ふぞ。

ワキ「不思議や降る雪に行きかふ里人も見えず。 木深き松原の蔭よりも。女性一人来り給ひ。 我に言葉をかけ給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 ツレ「これは此あたりに住む者にて候。 そなたをこそ誰とは問ひ申すべけれ。これは恋の松原とて由ある処なり。 。 たゞかりそめの一樹の蔭とおぼしめさば。御こゝろなきやうにこそ候へ。 ワキ「偖は故ある処にて候ひけるぞや。 又何ゆゑ恋の松原とは申し候ふぞ。 ツレ「むかし此処に住みし人忍妻に契り。 此松原に待てといひしかば。其言葉を違へじと。 夜更くるまで帰らざりしに。 浦風烈しくふゞきて。俄に積もる白雪の。

跡ふみ分くべき道もなく。松もをれふす木がくれに。 埋れ果てゝ空しくなる。 さも浅ましき邪淫の妄執。ともにあはれと思し召して。 跡よく弔ひ給へとよ。 地「夕の空もすさまじき。恋の松原の。験の石も苔むして。 あれのみまさる草の蔭。 隠はあらじ今ははや。名のらずとても白雲の。 跡とはせ給へとて。 夢の如くになりにけり/\。中入間「。 ワキ待謡「沖つ波。声うちそふる松原の。/\。 蔭にかたしく草衣かりに見えつる幻の。 。 妹背をかけて夜と共に彼の亡き跡を弔ふとかや彼の亡き跡を弔ふとかや。 ツレ一セイ「嬉しの今の御弔やな。 五障の雲の空晴れて。恵日の光くもりなき。 天上に到らんありがたさよ。 シテ「我はなほ浮みもやらぬ苦海の底に。 沈まば人をもともに沈めて。重き苦患を見せ申さん。 御経をも読誦し給ふべからず。

ツレ「浅ましやたまたまのがるゝ牛頭馬頭の。 責をばいかでなほも身の。妄執多き言の葉を。 我は聞かじと立ちのけば。 シテ「あら情なや御覧ぜよ。今降る雪も古の空。 おもひ掛けたる唐土の。ツレ「山陰の雪にあくがれしは。 シテ「子猷が興に乗ぜし舟。ツレ「〓橋{ハキョウ。 新字源:4544}の雪に駒とめしは。 シテ詞「・こけう{鄭綮:ていけい}といへる詩人とかや。ツレ「それは心ある古人ぞかし。 シテ「我はそれには引きかへて。胸をやく。 カケリ「。胸をやく。煙は空に富士の根の。 地「雪も思も積る根の。何なか/\に。 つれなき色を松ばの雪の。 消えなばきえなん惜しからぬ此身の。命や。 なほ執心はつきぬ世の。/\。因果の程もしら雪の。 。 つもると見えしは罪障の山と現れごく縄しゆがうや。べうどうの衆生となつて。 紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢつけられて。 苦を三瀬河の。波風もあら寒や。 シテ「古の妄執も。地「古の妄執も。

思ひ出でたりあの松原の。寒風は頻に吹き落ち。 シテ「笠もたまらぬ身の代衣。地「かきくれふるや。 シテ「白雪の袖をはらひ。地「行くも。 行かれず。シテ「帰るさも。地「涙にくれ果てゝ。 中有にさまよふ身なるとも。 妙なる仏果の縁にひかれて。〓{新字源:2391。

たう}利都卒の天上に生れ生るゝ妹背の中の。罪業は雪と消え。 胸の蓮も開くる花の。 台に到るありがたさよと。いふかときけば明方の。 磯うつ浪や松風の。 磯うつ波や松風の声にまぎれて失せにけり 旅僧 猟師の霊 猟師の妻 猟師の千代童

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我いまだ陸奥外の浜を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち外の浜一見と志して候。 またよきついでにて候ふ程に。 立山禅定申さばやと存じ候。急ぎ候ふ程に。 これは息山に着きて候。心静かに一見せばやと思ひ候。 さても我此立山に来て見れば。 まのあたりなる地獄の有様。 見ても恐れぬ人の心は。鬼神よりなほ恐ろしや。

山路に分つちまたの数。多くは悪趣の険路ぞと。 涙もさらにとゞめ得ぬ。 慙愧の心時過ぎて山下にこそは下りけれ/\。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧に申すべき事の候。ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「陸奥へ御下り候はゞ言伝申し候ふべし。 外の浜にては猟師にて候ふ者の。 去年の秋身まかりて候。 其妻や子の宿を御尋ね候ひて。

それに候ふ簑笠手向けてくれよと仰せ候へ。 ワキ「これは思もよらぬ事を承り候ふものかな。 届け申すべき事はやすきほどの御事にて候さりながら。 上の空に申してはやはか御承引候ふべき。 。 シテ「実に確かなるしるしなくてはかひああるまじ。や。思ひ出でたり有りし世の。 今はの時まで此尉が。 木曽の麻衣の袖を解きて。地「これをしるしにと。 涙を添へて旅衣。/\。立ち別れ行く其跡は。 雲や煙の立山の。 木の芽も萌ゆる遥々と客僧は奥へ下れば。亡者は泣く/\見送り。 て行く方知らずなりにけり行く方知らずなりにけり。中入間「。 。 ツレ「実にやもとよりも定なき世の習ぞと。思ひながらも夢の世の。 あだに契りし恩愛の。別の後の忘れ形見。 それさへ深き悲しびの。母が思を如何にせん。 ワキ詞「いかに此屋の内へ案内申し候はん。 ツレ「誰にて渡り候ふぞ。

ワキ「これは諸国一見の僧にて候ふが。 立山禅定申し候ふ所に。其様すさまじき老人の有りしが。 陸奥へ下らば言伝すべし。 外の浜にては猟師にて候ふ者の。去年の秋身罷りて候。 其妻子の宿を尋ねて。 それに候ふ簑笠手けてくれよと仰せ候ふ程に。 上の空に。 申してはやはか御承引候ふべきと申して候へば。 其解き召されたる麻衣の袖を解きて賜はりて候ふ程に。 これまで持ちて参りて候。 若し思し召し合はする事の候ふか。ツレ「これは夢かやあさましや。 四手の田長のなき人の。上聞きあへぬ涙かな。 。 詞「さりながら余りに心もとなき御事なれば。いざや形見を簑代衣。 まどほに織れる藤袴。ワキ「頃も久しき形見ながら。 ツレ「今取りいだし。ワキ「よく見れば。 地歌「疑も。夏立つ今日の薄衣。/\。 一重なれども合はすれば。 袖ありけるぞあらなつかしの形見や。

やがて其まゝ弔の。御法を重ね数々の。 中に亡者の望むなる。簑笠をこそ手向けけれ/\。 ワキ「南無幽霊出離生死頓証菩提。 後シテ一声「陸奥の。外の浜なる。呼子鳥。 鳴くなる声は。うとふやすかた。 一見卒塔婆永離三悪道。此文の如くば。 たとひ拝し申したりとも。永く三悪道をば遁るべし。 如何にいはんや此身の為。 造立供養に預からんをや。たとひ紅蓮大紅蓮なりとも。 名号智火には消えぬべし。 焦熱大焦熱なりとも。法水には勝たじ。 さりながら此身は重き罪科の。心はいつかやすかたの。 鳥獣を殺しゝ。 地下歌「衆罪如霜露恵日の日に照らし給へ御僧侶。 地上歌「所は陸奥の。/\。 奥に海ある松原の下枝に交じる汐芦の。 末引きしをる浦里の籬が島の苫屋形。 囲ふとすれどまばらにて。 月のためには外の浜心ありける。住居かなこゝろありける住居かな。

ツレ「あれはとも言はゞ形や消えなんと。 親子手に手を取り組みて。 泣くばかりなる有様かな。 シテ「あはれや実にいにしへは。さしも契りし妻や子も。 今はうとふの音に泣きて。 やすかたの鳥の安からずや。何しに殺しけん。 我が子のいとほしき如くにこそ。鳥獣も思ふらめと。 千代童が髪をかき撫でて。 あらなつかしやと言はんとすれば。地歌「横障の。 雲の隔か悲しやな。/\。今まで見えし姫小松の。 はかなや何処に。木隠笠ぞ津の国の。 和田の笠松や箕面の瀧津波も我が袖に。 立。 つや卒塔婆のそとは誰簑笠ぞ隔なりけるや。松島や。 小島の苫屋内ゆかし我は外の浜千鳥。 音に立てゝ泣くより外の事ぞなき。 地クリ「往時渺茫としてすべて夢に似たり。 旧遊零落して半。泉に帰す。 シテサシ「とても渡世をいとなまば。

士農工商の家にも生れず。 地「又は琴碁書画をたしなむ身ともならず。 シテ「たゞ明けても暮れても殺生をいとなみ。 地「遅々たる春の日も所作足らねば時を失ひ。 秋の夜長し夜長けれども。漁火白うして眠る事なし。 シテ「九夏の天も。暑を忘れ。 地「玄冬の朝も寒からず。 クセ「鹿を逐ふ猟師は。 山を見ずといふ事あり。身の苦しさも悲しさも。 忘れ草の追鳥高縄をさし引く汐の。 末の松山風荒れて。袖に波こす沖の石。 または干潟とて。海ごしなりし里までも。 千賀の塩竃身を焦がす。 報をも忘れける事業をなしゝ悔しさを。そも/\善知鳥。 やすかたのとり%\に。品かはりたる殺生の。 シテ「中に無慙やな此鳥の。 地「愚かなるかな筑波嶺の。 木々の梢にも羽を敷き波の浮巣をもかけよかし。平砂に子を生みて落雁の。 はかなや親は隠すと。

すれどうとふと呼ばれて。 子はやすかたと答へけりさてぞ取られやすかた。シテ「うとふ。カケリ「。 地「親は空にて血の涙を。/\。 降らせば濡れじと菅簑や。笠を傾けこゝかしこの。 便を求めて隠笠。隠簑にもあらざれば。 なほ降りかゝる。血の涙に。 目も紅に染み渡るは。紅葉の橋の。鵲か。 地「娑婆にては。 善知鳥やすかたと見えしも。/\。冥途にしては。 怪鳥となり罪人を追つ立て鉄の。嘴を鳴らし。 羽をたゝき銅の爪を。磨ぎ立てゝは。 眼を。 つかんで肉を叫ばんとすれども猛火の煙にむせんで声を。 あげ得ぬは鴛鴦を殺しし科やらん。遁げんとすれば。 立ち得ぬは。羽抜鳥の報か。 シテ「うとふは却つて鷹となり。地「我は雉とぞなりたりける。 遁れがた野の狩場の吹雪に。空も恐ろし。 地を走る。犬鷹に責められて。 あら心うとふやすかた。やすき隙なき身の苦を。

助けてたべや。御僧助けてたべや。

御僧といふかと思へば失せにけり 旅僧(又男ニテモ) 漁翁 阿漕の霊

ワキ次第「心尽の秋風に。/\。木の間の。 月ぞ少なき。 詞「是は九州日向の国の者にて候。 我いまだ伊勢太神宮に参らず候ふ程に。唯今思ひ立ちて候。 道行「日に向ふ。国の浦舟漕ぎ出でて。/\。 八重の汐路をはる%\と。分けこし波の淡路潟。 通ふ千鳥の声聞きて。 旅の寝覚を須磨の浦。関の戸ともに明け暮れて。 阿漕が浦に着きにけり。/\。詞「急ぎ候ふ程に。 。 これははや伊勢の国安濃の郡とやらん申し候。暫く人を相待ち。 処の名所をも尋ねばやと思ひ候。 シテ一セイ「波ならで。乾す隙もなき海士衣。 身の秋いつと。限らまし。

サシ「夫れ世をわたる習。我一人に限らなねども。 せめては職を営む田夫ともならず。 かくあさましき殺生の家に生れ。 明暮物の命を殺す事の悲しさよ。 詞「つたなかりける殺生かなとは思へども。浮世の業にて候ふ程に。 今日も又釣に出でて候。 ワキ詞「いかにこれなる尉殿に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「伊勢の国にとりても。 此浦をば如何なる所と申し候ふぞ。 シテ「さん候此処をば阿漕が浦と申し候。 ワキ「さては承り及びたる阿漕が浦にて候ひけるぞや。 古き歌に。伊勢の海阿漕が浦に引く網も。 詞「度重なれば現れにけり。

かやうによまれし浦なるぞや。あら面白や候。 シテ詞「あらやさしの旅人や。 処の和歌なればなどかは知らで候ふべき。 かの六帖の歌に。逢ふことも阿漕が浦に引く網も。 詞「度重なれば現れやせん。 かやうによまれし蜑人なれば。 さも心なき伊勢をの海士の。見る目も軽き身なればとて。 賎しみ給ひ候ふなよ。 ワキ「実にや名所旧跡に。馴れて年経ば心なき。 シテ「海士の焼く藻の夕煙。 ワキ「身を焼くべきにはあらねども。シテ「住めば処による波の。 ワキ「音もかはるか。シテ「聞き給へ。 地歌「物の名も。処によりてかはりけり。/\。 難波の芦の浦風も。 こゝには伊勢の浜荻の音をかへて聞き給へ。藻塩焼く。 煙も今は絶えにけり。月見んとての。 海士のしわざにと。ゆるされ申す海士衣。 敷島により来く人並に如何で漏るべき。 。

ワキ詞「此浦を阿漕が浦と申す謂御物語り候へ。 シテ詞「総じて此浦を阿漕が浦と申すは。伊勢太神宮御降臨より以来。 御膳調進の網を引く処なり。 されば神の御誓によるにや。 海辺のうろくづこの処に多く集まるによつて。浮世を渡るあたりの蜑人。 此処にすなどりを望むといへども。 神前の恐あるにより。 堅くいましめてこれを許さぬ処に。阿漕といふ蜑人。 業に望む心の悲しさは。夜々忍びて網を引く。 しばしは人も知らざりしに。 度重なれば現れて。阿漕を縛め処をもかへず。 此浦の沖に沈めけり。 さなきだに伊勢をの海士の罪ふかき。身を苦の海の面。 重ねておもき罪科を。受くるや冥土の道までも。 地「娑婆にての名にしおふ。 今も阿漕が恨めしや。呵責の責も隙なくて。 苦も度かさなる罪弔はせ給へや。 クセ「恥かしや古を。語るお余り実に。 阿漕が浮名もらす身の。なき世がたりのいろ/\に。

錦木の数積り。千束の契忍ぶ身の。 阿漕がたとへ浮名立つ。憲清と聞えし其歌人の。 忍妻阿漕々々といひけんも。責一人に。 度重なるぞ恋しき。 ロンギ地「不思議やさては幽霊の。 幻ながら現れて。執心の浦波の。 あはれなりける値遇かな。シテ「一樹の宿をも。 他生の縁と聞くものを。御身も前の世の。 値遇をすこし松蔭に。うらぶれ給へ墨衣。 地「日も夕暮の塩煙。 立ち添ふ方や漁火の。シテ「影もほのかに見え初めて。 地「海辺も晴るゝ村霧に。シテ「すはや手繰の。 地「網の綱。繰り返し/\浮きぬ沈むと見しよりも。俄にはやて吹き。 海面暗くかき暮れて。 敷波も立ち添ひ漁の燈消え失せて。 こはそも如何にと叫ぶ声の波に聞えしばかりにて跡はかもなく。 失せにけりあとはかもなく失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「いざ弔はん数々の。/\。

法の中にも一乗の。妙なる花のひもときて。 苔の衣の玉ならば。終に光は。 暗からじ終に光は暗からじ。 後シテ出端「海士刈る。 藻に住む虫のわれからと。音をこそ泣かめ。世をば恨みじ。 今宵は少し波あれて。 御膳の贄の網はまだ引かれぬよなう。 詞「よき隙なりと夕月なれば。宵よりやがて入汐の。 道をかへ人目を。忍び/\に引く網の。沖にも。 磯にも船は見えず。唯我のみぞあごの海。 阿漕が塩木こりもせで。 地「なほ執心の網置かん。イロエ「。シテ「伊勢の海。 清き渚のたまたまも。地「弔ふこそたより法の声。 シテ「耳には聞けども。なほ心には。 地「唯罪をのみ持網の。波ははへつて。 猛火となるぞや。あら熱や。堪へがたや。 丑三つ過ぐる夜の夢。/\。 見よや因果のめぐり来る。火車に業つむ数苦しめて。目の前の。 地獄も誠なり実に。恐ろしのけしきや。

地「思ふも恨めし古の。 地「思ふも恨めし古の。娑婆の名を得し。阿漕が此浦に。 なほ執心の。 心引く網の手馴れしうろくづ今はかへつて。悪魚毒蛇となつて。 紅蓮大紅蓮の氷に身をいため。骨を砕けば。

叫ぶ息は。焦熱大焦熱。焔けぶり。 雲霧。立居に隙もなき。冥土の責も。 度かさなる阿漕が浦の。罪科を。 助け給へや旅人よ。助け給へや旅人とて。 また波に入りにけりまた波の底へ入りにけり 佐々木三郎盛綱 従者 漁夫の母 漁夫の霊。

ワキ、ワキツレ二人、次第「春の湊の行末や/\藤戸の。 渡なるらん。 ワキ詞「是は佐々木の三郎盛綱にて候。 さても今度藤戸の先陣を仕りし御恩賞に。児島を賜はつて候。 今日は日もよく候ふほどに。唯今入部仕り候。 道行三人「秋津洲の。波静かなる島廻/\。 。 松吹く風も長閑にて、実に春めける朝ぼらけ。船も道ある浦づたひ。 藤戸に早く着きにけり/\。ワキ詞「如何に誰かある。 ワキツレ「御前に候。

ワキ「皆々訴訟あらんずる者は罷り出でよと申し候へ。 ワキツレ「畏つて候。如何に皆々たしかに聞き候へ。 この浦の御主佐々木殿の御入部にてあるぞ。 。 何事も訴訟あらん者は罷り出でて申し候へ。 シテ一セイ「老の波。越えて藤戸の明暮に。 昔の春の。帰れかし。 ワキ「不思議やなこれなる女の。 訴訟ありげに某を見てさめざめと泣くは何事にてあるぞ。 シテ「海士の刈る藻に住む虫の我からと。

音をこそ泣かめ世をば実に。何か恨みんもとよりも。 因果の廻る小車の。やたけの人の罪科は。 皆報ぞといひながら。 我が子ながらも余り実に。科も例も波の底に。 沈め給ひし御情なさ。申すにつけて便なけれども。 御前に参りて候ふなり。 ワキ詞「何と我子波に沈めし恨とは更に心得ず。 シテ「さてなう我が子を波に沈め給ひしことは候。 ワキ「あゝ音高し何と/\。 シテ「なう猶も人は知らじとなう。 中々にその有様を現して。跡をも弔ひ又は世に。 生き残りたる母が身をも。訪ひ慰めてたび給はゞ。 少しは恨も晴るべきに。 地下歌「いつまでとてかしのぶ山。忍ぶかひなき世の人の。 。 あつかひ草も茂きものを何と隠し給ふらん。上歌「住み果てぬ。 此世は仮の宿なるを。/\。親子とて何やらん。 幻に生れ来て。別るれば悲の。 思は世々を引く。絆となつて苦の。

海に沈め給ひ。 しをせめては弔はせ給へや跡弔はせ給へや。 ワキ詞「言語道断。 かゝる不便なる事こそ候はね。今は何をか包むべき。 其時の有様語つて聞かせ候ふべし。 近う寄つて聞き候へ。 語 さても去年三月二十五日の夜に入りて。浦の男を一人近づけ。 此海を馬にて渡すべき処やあると尋ねしに。 彼の者申すやう。さん候河瀬の様なる所の候。 月頭には東にあり。 月の末には西にあると申す。即ち八幡大菩薩の御告と思ひ。 家の子若党にも深く隠し。 彼の者と唯二人夜に紛れ忍び出で。 此海の浅みを見置きて帰りしが。盛綱心に思ふやう。 いやいや下郎は筋なき者にて。 又もや人に語らんと思ひ。不便には存じしかども。 取つて引き寄せ二刀さし。 其まゝ海に沈めて帰りしが。 さては汝が子にてありけるよな。よし/\何事も前世の事と思ひ。

今は恨を晴れ候ヘ。 シテ「さてなう我が子を沈め給ひし。 在所は取り分き何処の程にて候ふぞ。 ワキ「あれに見えたる浮洲の岩の。少し此方の水の深みに。 死骸を深く隠しゝなり。シテ「さては人の申しゝも。 少しも違はざりけり。 あの辺ぞとゆふ波の。ワキ「夜の事にて有りし程に。 人は知らじと思ひしに。 シテ「やがて隠はなき跡を。ワキ「深く隠すと思へども。 シテ「好事門を出でず。地「悪事千里を行けども。 子をば忘れぬ親なるに。失はれ参らせし。 子はそも何の報ぞ。 クセ「実にや人の親の。 心は闇にあらねど。 も子を思ふ道に迷ふとは今こそ思ひ知られたれ。もとよりも定なき。 世の理はまのあたり。老少。不定の境なれば。 若きを先立てゝ。つれなく残る老鶴の。 眠の中なれや。夢とぞ思ふ親と子の。 二十余の年並かりそめに立ち離れしをも。

待ち遠に思ひしに。 又いつの世に逢ふべき。シテ「世に住めば。 憂き節繁き河竹の地「杖柱とも頼みつる。 海士の此世を去りぬれば。 今は何にか命の露を懸けてまし。 ありがひも有らばこそとてもの憂き身なるものを。 亡き子と同じ道になして給ばせ給へと。人目も知らず臥し転び。 我が子返させ給へやと。 現なき有様を見るこそあはれなりけれ。 ワキ詞「あら不便や候。 今は恨みてもかひなき事にてあるぞ。彼の者の跡をも弔ひ。 又妻子をも世に立てうずるにてあるぞ。 まづ我が屋に帰り候へ。いかに誰かある。 余りに彼の者不便に候ふ程に。さま%\の弔をなし。 また今の母をも世に立てうずるにてあるぞ。 そのよし申し付け候ヘ。中入狂言シカ%\ワキ、ワキツレ二人、歌「さま%\に。 弔ふ法の声立てて。/\。波に浮寝のよるとなく。

昼とも分かぬ弔の。般若の船の。おのづから。 其纜をとく法の。心を静め声を上げ。 ワキ「一切有情。殺害三界不堕悪趣。 後シテ、サシ一声「憂しや思ひ出でじ。 忘れんと思ふ心こそ。忘れぬよりは思なれ。 さるにても身はあだ波の定なくとも。 科によるべの水にこそ。濁る心の罪あらば。 重き罪科も有るべきに。よしなかりける。 海路のしるべ。思へば三途の。瀬踏なり。 ワキ「不思議やな早明方の水上より。 怪したる人の見えたるは。 彼の亡者もや見ゆらんと。奇異の思をなしければ。 シテ詞「御弔は有難けれども。恨は尽きぬ妄執を。 申さん為に来りたり。 ワキ「何と恨をゆふ月の。その夜に帰る浦波の。 シテ詞「藤戸の渡教へよとの。仰もおもき岩波の。 河瀬のやうなる浅みの通を。 ワキ「教へしまゝに渡りしかば。 シテ「弓矢の御名を揚ぐるのみか。ワキ「昔より今に至るまで。

馬に海を渡す事。シテ「稀代の例なればとて。 ワキ「此島を御恩に賜はる程の。 シテ「御よろこびも我故なれば。 ワキ「いかなる恩をも。シテ「給ぶべきに。地「思の外に一命を。 召されし事は馬にて。海を渡すよりも。 これぞ稀代の例なる。 さるにても忘れがたや。あれなる。 浮洲の岩の上に我を連れて行く水の。氷の如くなる刃を抜いて。 胸のあたりを刺し通し。 刺し通さるれば肝魂も、消え/\と。なる所を。 其まま海に押し入れられて。

千尋の底に沈みしに。シテ「をりふし引く汐に。 地「をりふし引く汐に。 引かれて行く波の浮きぬ沈みぬ埋木の岩の。はざまに。 流れかゝつて。藤戸の水底の。悪竜の。 水神となつて恨を為さんと思ひしに。思はざるに。 御弔の。御法の御船に法を得て。 即ち弘誓の。船に浮べば。水馴棹。 さし引きて行く程に。 生死の海を渡りて願のまゝに。やす/\と。彼の岸に。いたり/\て。 彼の岸にいたり/\て。 成仏得脱の身となりぬ成仏の。身とぞなりにける 亡者(前〓里人) 酒売

。 ワキ詞「これは津の国阿部野のあたりに住居する者にて候。 われ此阿部野の市に出でて酒を売り候ふ所に。 いづくとも知らず若き男の数多来り酒を飲み。

帰るさには酒宴をなして帰り候。 何とやらん不審に候ふ間。今日も来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと存じ候。 シテ(四人)次第「もとの秋をも松虫の。/\。

音にもや友をしのぶらん。 シテサシ「秋の風更けゆくまゝに長月の。有明寒き朝風に。 四人「袖ふれつゞく市人の。 伴なひ出づる道のべの。草葉の露も深緑。 立ちつれ行くやいろ/\の。簔代衣日も出て。 阿部の市路に出づるなり。 下歌「遠里ながら程近きこや住の江の裏伝。上歌「汐風も。 吹くや岸野の秋の草。/\。 松も響きて沖つ浪。聞えて声々友さそふ。 此市人の数々に。我も行き人も行く。 阿部野の原は面白や。/\。 。 ワキ「伝へ聞く白楽天が酒功賛を作りし琴詩酒の友。今も知られて市館に。 樽をすゑ盃を並べて。 寄り来る人を待ち居たり。詞「いかに人々酒めされ候へ。 シテ「我が宿は菊売る市にあらねども。 詞「四方の門べに人さわぐと。 よみしも古人の心なるべし。いかに人々面々に。 〓酒を酌みてもてなし給へ。

ワキ「又彼の人の来れるぞや。詞「けふはいつより酒を湛へ。 遊楽遊舞の和歌を詠じ。人の心を慰め給へ。 早くな帰り給ひそとよ。 シテ「何我を早くな帰りそよと。ワキ「なか/\の事暮過ぐるとも。月をも見捨て給ふなよ。 シテ「仰までもなし何とてか。 この酒友をば見捨つべき。古き詠にも花のもとに。 ワキ「帰らん事を忘るゝは。 シテ「美景に因ると作りたり。シテワキ二人「樽の前に醉を勧めては。 これ春の風とも云へり。地「今は秋の風。 暖め酒の身を知れば。 薬と菊の花のもとに。帰らん事を忘れいざや御酒を愛せん。 たとひ暮るゝとも。/\。 夜遊の友に馴衣の。袂に受けたる月影の。 移ろふ花の顔ばせの。 盃に向へば色も猶まさりぐさ。千年の秋をも限らじや。 松虫の音も盡きじ。いつまで草のいつまでも。 変らぬ友こそは買ひ得たる市の宝なれ/\。 ワキ詞「いかに申し候。唯今の詞の末に。

松虫の音に友を偲ぶと承り候ふは。 いかなる謂れにて候ふぞ。 シテ「さん候それに付いて物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。 ワキ「さらば御物語り候へ。 シテ語「昔此阿部野の松原を。 ある人二人連れて通りしに。 をりふし松虫の声おもしろく聞えしかば。一人の友人。 彼の虫の音を慕へ行きしに。今一人の友人。 やゝ久しく待てども帰らざりし程に。 心もとなく思ひ尋ね行き見れば。 かのもの草露に臥して空しくなる。死なば一所とこそ思ひしに。 。 こはそも何といひたる事ぞとて、泣き悲めどかひぞなき。地「其まゝ。 土中に埋木の人知れぬとこそ思ひしに。 朽ちもせで松虫の。 音に友をしのぶ名の世にもれけるぞ悲しき。上歌「今も其。 友をしのびて松虫の。/\。音に誘はれて市人の。 身を変へてなき跡の。亡霊こゝに来りたり。 恥かしやこれまでなり。

立ちすがりたる市人の。 人影に隠れて阿部野のかたに帰りけり/\。 ロンギ地「不思議やさては此世にも。 亡き影すこし残しつゝ。此ほどの友人の。 名残を暫しとめ給へ。シテ「をりふし秋の暮。 松虫も鳴くものを。我をや待つ声ならん。 地「そも心なき虫の音の。 われを待つ声ぞとは。真しかならぬ詞かな。シテ「虫の音も。 /\。 しのぶ友をば待てばこそ言の葉にもかゝらるめ。地「われかと行きて。 いざ弔は。 んと思しめすか人々ありがたや是ぞ真の友を。しのぶぞよ松虫の音に。 伴ひて帰りけり虫の音につれて帰りける。 中入ワキ上歌待謡「松風寒き此原の。/\。 草の假寝のことはに御法をなして夜もすがら。 彼の跡とふぞありがたき/\。 後シテサシ一声「あらありがたの御弔やな。

秋霜にかるゝ虫の音聞けば。 閻浮の秋に帰る心。猶郊原に朽ち残る。 魂霊これまで来りたり。嬉しく弔ひ給ふものかな。 ワキ「はや夕陰も深緑。草の花色露深き。 其方を見れば人影の。 幽に見ゆるはありつる人か。シテ詞「なか/\なれやもとよりの。昔の友を猶しのぶ。 虫の音ともに現れて。手向を受くる草衣の。 ワキ「浦は難波の里も近き。シテ「阿部の市人馴れ/\て。ワキ「とぶらふ人も。 シテ「訪はるゝわれも。ワキ「いにしへ今こそ。 シテ「変れども。上歌地「古里に。住みしは同じ難波人。 住みしは同じ難波人。 芦火焼く屋も市屋形も。 変わらぬ契をしのぶぐさの忘れえぬ友ぞかしあら。なつかしの心や。 クリ「忘れて年を経しものを。 また古に帰るなみの。 難波のことのよしあしもけに隔なき友とかや。 シテ「あしたに落花を踏んで相伴うつて出づ。地「夕べには。

飛鳥に従つて一時に帰る。 シテ「然らば花鳥遊楽の瓊莚。地「風月の友に誘はれて。 春の山べや秋の野の草葉にすだく虫までも。 聞けば心の。友ならずや。 クセ「一樹の蔭の宿も他生の緑を聞くものを。 一河の流汲みて知るその心浅からめや。 奥山の深谷のしたの菊の水。汲めども。 汲めどもよも盡きじ。 流水の盃は手先づ遮れる心なり。 されば廬山の古虎渓を去らぬ室の戸の。その戒をやぶりしも。 志を浅からぬ。 思の露の玉水のけいせきを出でし道とかや。シテ「それは賢きいにしへの。 地「世もたけ心さえて。 道ある友人のかずかず。 積善の余慶家々に普く広き道とかや。 今は濁世の人間ことに拙なきわれらにて。心もうつろふや菊をたゝへ竹葉の。 。 世は皆醉へりさらばわれひとり醒めもせで。萬木みな紅葉せり。唯松虫の独音に。 友を待ち詠をなして。

舞ひかなで遊ばん。シテ「盃の。雪を廻らす花のそで。 〓鐘早舞ワキ「おもしろや。千草にすだく。 虫の音の。地「機織るおとの。 シテ「きりはたりちやう。地「きりはたりちやう。 つゞり刺せてふ蛬蜩。いろ/\の色音のなかに。わきて我がしのぶ松虫の声。

りんりん/\/\として。夜の声冥々たり。 すはや難波の鐘の明方の。 あさまにもなりぬべしさらばよ友人なごりの袖を。 招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。 草茫茫たるあしたの原に。/\。 虫の音ばかりや。残るらん虫の音ばかりや残るらん 旅僧 従僧 男の霊 女の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「実にや聞きても忍山。/\。 其通路を尋ねん。 ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我いまだ東国を見ず候ふ程に。 。 此度思ひ立ち陸奥の果までも修行せばやと思ひ候。道行三人「何処にも。 こゝろとめじと行く雲の/\。 旗手も見えて夕暮の空もかさなる旅衣。おくはそなたか陸奥の。 けふの里にも着きにけり/\。 シテツレ二人次第「けふの細布をり/\の。

けふの細布をり/\の錦木や。名立なるらん。 シテサシ「陸奥のしのぶもじずり誰ゆゑに。 みだれそめにし我からと。 シテツレ二人「藻に住む虫の音に泣きて。壁生草のいつかさて。 思を乾さん衣手の。森の下露起きもせず。 寝。 もせで夜半を明かしては春のながめも如何ならん。あさましや。 そも幾程の身にしあれば。なほ待つ事の有り顔にて。 思。

はぬ人を思ひ寝の夢か現か寝てか覚めてか。是や恋慕のならひなる。下歌「徒らに。 過ぐる心は多けれど。身になす事は涙川。 流れて早き。 月日かな流れて早き月日かな。上歌「実にや流れては。 妹背の中の川と聞く。/\。吉野の山は何処ぞや。 ここは又。 心の奥か陸奥のけふの都の名にしおふ。細布の色こそ変れ錦木の。 千度百夜いたづらに。悔しき頼なりけるぞ。 悔しき頼なりけり。 ワキ詞「不思議やなこれなる市人と見れば。 夫婦と思しくて。女性の持ち給ひたるは。 鳥の羽にて織りたる布と見えたり。 又男。 の持ちたるは美しく色どり飾りたる木なり。何れも/\不思議なる売物かな。 これは何と申したる物にて候ふぞ。 ツレ「これは細布とて機ばり狭き布なり。 シテ「これは錦木とて色どり飾れる木なり。 いづれも当所の名物なり。これ/\召され候へ。

ワキ「実に/\錦木細布の事は承り及びたる名物なり。 さて何故の名物にて候ふやらん。ツレ「うたての仰候ふや。 名におふ錦木細布の。 其かひもなくよそまでは。聞きも及ばせ給はぬよなう。 シテ詞「いや/\それも御理。 其道々に縁なき事をば。何とてしろしめさるべき。 シテツレ二人「見奉れば世を捨人の。恋慕の道に染む。 この錦木の細布の。 しろしめさぬは理なり。ワキ「あら面白の返答やな。さて/\錦木細布とは。 恋路によりたる謂よなう。シテ詞「なか/\の事三年まで。 立て置く数の錦木を。 日毎に立てゝ千束ともよみ。ツレ「又細布は機ばりせばくて。 さながら身をも隠さねば。 胸合ひがたき恋ともよみて。シテ「恨にも寄せ。 ツレ「名をも立てゝ。シテ「逢はぬを種と。 ツレ「よむ歌の。地歌「錦木は。 立てながらこそ朽ちにけり。/\。けふの細布。 胸合はじとやとさしもよみし細布の。

機ばりもなき身にして。歌物語恥かしや。 実にや名のみは岩代の。 松の言の葉取り置き夕日の影も錦木の。宿にいざや帰らん/\。 ワキ詞「猶々錦木細布の謂御物語候へ。 シテ「昔より此処の習にて。 男女の媒には此錦木を作り。 女の家の門に立つるしるしの木なれば。 美しく色どり飾りて之を錦木と云ふ。 さる程に逢ふべき男の錦木をば取り入れ。 逢ふまじきをば取り入れねば。 或は百夜三年までも立てしによつて千束ともよめり。 又此山陰に錦塚とて候。 これこそ三年まで錦木立てたりし人の古墳なれば。 取り置く錦木の数ともに塚に築きこめて。是を錦塚と申し候。 ワキ「さらば其錦塚を見て。 故郷の物語にし候ふべし。教へて賜はり候へ。 シテ「あういで/\さらば教へ申さん。 ツレ「此方へ入らせ給へとて。 二人「夫婦の者は先に立ち。彼の旅人を伴ひつゝ。

地「けふの細道分け暮らして錦塚は何処ぞ。彼の岡に。 草刈る男心して。人の通路明らかに。 教へよや道芝の。 露をば誰に問はまし真如の玉は何処ぞや。求めたくぞ覚ゆる。 シテ「秋寒げなる夕まぐれ。 地「嵐木枯村時雨。露分けかねて足引の。 山の常陰も物さび松桂に鳴く梟蘭菊の花に隠るなる。 狐住むなる塚の草。 もみぢ葉染めて錦塚は。是ぞと言ひ捨てゝ。 塚の内にぞ入りにける。夫婦は塚に入りにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「男鹿の角の束の間も。/\。 寝られんものか秋風の。 松の下臥夜もすがら。声仏事をやなしぬらん/\。 ツレ出端「いかに御僧。一樹一河の流を汲むも。 他生の縁ぞと聞くものを。 ましてや値遇のあればこそ。かく宿する草の枕の。 夢ばし覚まし給ふなよ。 あら貴の御法やな。後シテ「あら有難の御弔やな。 二世とかねたる契だにも。

さしも三年の日数つもる。此錦木の逢ひ難き。 法の値遇の有難さよ。いで/\姿を見え申さん。 今こそは。色に出でなん錦木の。 地「三年は過ぎぬいにしへの。シテ「夢又夢に。 今宵三年の値遇に。今ぞ帰るなれと。 地「尾花が本の思草の。蔭より見えたる塚の幻に。 現れ出づるを御覧ぜよ。 シテ「いふならく。奈落の底に。入りぬれば。 刹利も首陀も。変らざりけりかはらざりけり。 あら恥かしや。 ワキ「不思議やなさも古塚と見えつるが。 内はかゞやく燈の。 影明らかなる人家の内に。機物を立て錦木を積みて。 昔をあらはす粧なり。これは夢かや現かや。 ツレ「かきくらす心の闇にまどひにき。 夢現とは世人定めよ。 シテ詞「実にや昔に業平も。世人定めよといひしものを。 夢現とは旅人こそ。よく/\知し召さるべけれ。 ワキ「よし夢なりとも現なりとも。

はやはや昔を現して。夜すがら我に見せ給へ。 シテ「いで/\。詞「昔を現さんと。 夕影草の月の夜に。ツレ「女は塚のうちに入りて。 秋の心も細布の。 機物を立てゝ機を織れば。シテ詞「夫は錦木を取り持ちて。 さしたる門をたゝけども。 ツレ「内より答ふる事もなく。ひそかに音する物とては。 シテ「機物の音。ツレ「秋の虫の音。 シテ「聞けば夜声も。ツレ「きり。シテ「はたり。 ツレ「ちやう。シテ「ちやう。 地歌「きりはたりちやう/\。きりはたりちやう/\。 機織松虫きり%\す。つゞりさせよと鳴く虫の。 衣の為かなわびそおのが住む野の。 千種の糸の。細布織りて取らせん。 地クリ「実にや陸奥のけふの郡の習とて。 処からなる事業の。世に類なき有様かな。 シテサシ「申しつるだにはゞかりなるに。 なほも昔を顕せとの。 地「御僧の仰に従ひて。織る細布や錦木の。

千度百夜を経るとても此執心はよも尽きじ。 シテ「然れども今逢ひ難き縁によりて。 地「妙なる一乗妙典の。功力を得んと懺悔の姿。 夢中になほも。現すなり。 クセ「夫は錦木を運べば女は内に細布の。 。 機織る虫の音に立てゝ問ふまでこそなけれども。互に内外のあるぞとは。 知られ知らるゝ中垣の。草の戸ざしは其まゝにて。 。夜はすでに明けければすご/\と立ち帰りぬ。さる程に。思の数も積り来て。 錦木は色朽ちてさながら苔に埋木の。 人知れぬ身ならばかくて思もとまるべきに。 錦木は朽つれども。 名は立ち添ひて逢ふ事は。涙も色に出でけるや。 恋の染木とも。此錦木をよみしなり。シテ「思ひきや。 榻のはしがきかきつめて。 地「百夜も同じ丸寝せんと。よみしだにあるものを。 せめては一年待つのみか。 二年あまり有り/\て早陸奥の今日までも。

年紅の錦木は。千度になれば徒らに。 我も門辺に立ち居り錦木と共に朽ちぬべき。 袖の涙のたまさかにも。などや見みえ給はぬぞ。 さていつか三年は満ちぬ。 あらつれなつれなや。 地「錦木は。シテ「千束になりぬ。 今こそは。地「人に知られぬ。閨の内見め。 シテ「うれしやな。今宵鸚鵡の盃の。 地「雪を廻らす。舞の袖かな/\。男舞「。シテ「舞をまひ。

地「舞をまひ。歌をうたふも妹背の媒。 立つるは錦木。シテ「織るは細布の。 地「とり。どりさま%\の夜遊の盃にうつりて有明の。影恥かしや/\。 あさまにやなりなん。覚めぬさきこそ夢人なるもの。 覚めなば錦木も細布も。夢も破れて。 松風颯々たる。 朝の原の野中の塚とぞなりにける 山伏 同行山伏 男の霊 女の霊

。ワキ次第「山又山の行く末や/\雲路のしるべなるならん。 ワキ詞「これは三熊野より出でたる客僧にて候。 我未だ松島平泉を見ず候ふ程に。 此春思ひ立ち松島平泉へと急ぎ候。道行三人「幾瀬渡りの野洲の川。/\。 かの七夕の契待つ。年に一夜はあだ夢の。

。 醒が井の宿を過ぎ、膽吹おろしの音にのみ。月の霞むや美濃尾張。老を知れとの。 心かな老を知れとの心かな。 ワキ詞「急ぎ候ふ間。 これは早上野の国佐野と申す所に着きて候。 此處にて宿を借らばやと存じ候。

シテ二人ツレ一声「法に依る。道ぞと作る船橋は。 後の世かくる。たのみかな。 シテサシ「往事渺茫として何事も。身残す夢の浮橋に。 。 二人「なほ数添へて船ぎほふ堀江の川の水際に。寄るべ定めぬあだ波の。 浮世に帰る六つの道。遁れかねたる。心かな。 。下歌「恋しきものを古の跡はる%\と思ひやる。上歌「前の世の。 報のまゝに生れ来て。/\。心にかけばとても身の。 生死の海を渡るべき。船橋を作らばや。 二河。 の流はありながら科は十の道多し誠の橋を渡さばや誠の橋を渡さばや。 シテ詞「いかに客僧。 橋の勧に入りて御とほり候へ。 ワキ詞「見申せば俗體の身として。橋興立の志。返す%\もやさしうこそ候へ。 シテ「これは仰とも覚えぬものかな。かならず出家にあらねばとて。 志のあるまじきにても候はず。 まづ勧に入りて御通り候へ。

ワキ「勧には参り候ふべし。 さて此橋はいつの御字より渡されたる橋にて候ふぞ。シテ「萬葉集の歌に。 東路の佐野の船橋取りはなしと。 よめる歌の心をば知し召し候はずや。 ツレ「いやさように申せば恥かしや。身の古も浅間山。 シテ詞「漕がれ沈みし此河の。 二人「さのみは申さじさなきだに。苦おほき三瀬川に。 浮ぶ便の船橋を。渡してたばせ給へとよ。 ワキ詞「げに/\親しさくればの物語。 さては〓りにし船橋の。主を助けん其ためか。 シテ詞「殊更これは山伏の。 橋をば渡し給ふべし。ワキ「そも山伏の身なればとて。 取り分け橋を渡すべきか。 シテ詞「さのみな争ひ給ひそよと。役の優婆塞葛城や。 祈りし久米路の橋は如何に。 ツレ「たとふべき身にあらねども。我も女の葛城の神。 。 シテ詞「一言葉にて止むまじや、唯幾度も岩橋の。ツレ「など御心にかけ給はぬ。 二人「さりながらよそにて聞くも葛城や。

夜造るなる岩橋ならば。 渡らん事もかたかるべし。地下歌「これは長き春の日の。 長閑けき船橋に。さして柱も入るまじや。 徒らに朽ち果てんを造りたまへ山伏。 上歌「處はおなじ名の。/\。佐野の渡の夕暮に。 袖打ち拂ひて御通あるかの篠懸の。 頃も春なり河風の。花吹き渡せ船橋の。 法に往来の道作り給へ山伏。 峯々廻り給ふとも。渡を通らでは。 いづくへ行かせ給ふべき。 ワキ詞「さて/\萬葉集の歌に。 東路の佐野の船橋取り放し。 又鳥は無しと二流によまれたるは。何と申したる謂にて候ふぞ。 シテ詞「さん候それについて物語の候。 語つて聞かせ申し候ふべし。 語「昔此所に住みける者。忍妻にあこがれ。 處は川を隔てたれば。 此船橋を道として夜な夜な通ひけるに。二親此事を深厭ひ。 橋の板を取り放す。

それをば夢にも知らずして。かけて頼みし橋の上より。 かつぱと落ちて空しくなる。 妄執と云ひ因果と云ひ其まゝ三途に沈みはてゝ。 紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢられて。 地「浮ぶ世もなき苦の。 海こそ有らめ川橋や磐石に押され苦を受くる。 クセ「さらば沈みも果てずして。 魂は身を責むる。心の鬼となりかはり。 なほ恋草の言茂く。 邪婬の思に焦がれ行く船橋も古き物語。 誠は身の上なり我が跡弔ひてたび給へ。シテ「夕日漸く傾きて。 地「霞の空もかきくらし。雲となり雨となる。 中有の道も近づくか。 橋と見えしも中絶えぬ。こゝは正しく東路の。 佐野の船橋とりはなし。鐘こそ響け夕暮の空も別に。 なりにけり空も別になりにけり。 中入間ワキ二人、ワキツレ歌待謡「ふりにし跡を改めて。/\。 三寶加持の行に