「一般意志」が誤訳であることについて



『社会契約論』の第二巻第七章でルソーは、プラトンが『政治家』のなかで王を家畜を飼う飼育員にたとえて定義していることを紹介してから、「偉大な国王がまれな存在であるというのが本当なら」と続けている。これはプラトンの言葉で『政治家』301eに、女王蜂のような生まれついての王はいないと言っているところに該当する。

これは『社会契約論』第三巻第六章「君主政」のなかで、「もしプラトンのいうように生まれついての王はまれであるなら」でも繰り返されている(この出典をプラトンの『国家』であるとするルソーの原注 In Civili=ギリシア語でπολιτεία、は間違いで『政治家』である)。

ルソーは『社会契約論』をプラトンの『政治家』を読みながら書いたと考えても間違いではないだろう。すると『社会契約論』のキーワードとして重視されて日本では一般意志と訳されている volonté généraleも『政治家』の中に出てくるのではないかと想像しても悪くないだろう。そして調べてみると実際にプラトンの古い仏訳の中にこの言葉 volonté générale も出てくるのである。

それは、 ヴィクトル・クザンの訳
である。そこを訳すと、

「優れた政治家は、volonté généraleによろうとよるまいと、法律によろうとよるまいと、金持ちであろうと貧乏であろうと、技術によって支配しなければならない」

ここでvolonté généraleは全員の意志と訳すことができるが、これは被支配者の意向ということである。

これはステファヌスの頁番号293a以下に該当する。

しかしながら、プラトンのギリシア語原典を見ると、
ἐάντε ἑκόντων ἄντ᾽ ἀκόντων( ラテン語訳ではsive volentibus seu nolentibus )で、

被支配者が望むと望まざるとにかかわらず

という意味でしかない。これはすぐ後の医者について書いている場合と同じで、医者がどの技術を使うかは患者の意志とは無関係であるべきだと言っているのと同じ文脈である。

ここにあるプラトン『政治家』のこれより後の仏訳ではもっと原文どおりに「好き嫌いに関わらず」とか「被支配者の同意のあるなしによらず」とか訳されており、その方が正しい。

ルソーはこの古い訳で使われた曖昧な言い方であるvolonté généraleと同じ言葉を使って、国政にとってはこれこそが大切なのだとして、プラトンの主張をひっくり返したのである。

もちろんこの訳はルソーよりあとの時代のものなので、ルソーがこれを読んだはずはない。逆にこの仏訳者クザンがルソーの信奉者で、volonté généraleをここで使った可能性もある。

しかし、想像をたくましくすると、ヴィクトル・クザンはもっと古い仏訳、ルソーが読んだ仏訳にこの言い方が使われているのを見て、それをそのまま引き継いだのかもしれない。

しかしながら、いずれにしても、volonté généraleはたかだか「国民の意向」を意味するに過ぎないことは明らかだろう。

日本では、「ルソーは人民の意志を持ち寄ることで、人民の利益になる合意を見出し合い、それを一般意志として社会を統治しなければならないとして、人民主権の概念を確立した」とよく言われている。しかし、そのようなことは『社会契約論』のなかには書かれていない。

「ルソーの理想は人民主権による共和制国家です」と書いているホームページもある。

だが、『社会契約論』にはそもそも「人民主権」という言葉は出てこないのだ。

主権はsouverain、人民はpeupleだが、
souverain du peuple
peuple souverain
souveraineté populaire
のどれも出てこないのである。

また共和制という話も出てこない。共和国という言葉は出てくるが人民主権の国という意味ではなく、法の支配の国という意味である。

ルソーは人民の支配する民主制以外は認めないとも言っていない。それどころか、volonté générale、国民の意向に添う限り独裁も排除していないのである(第四巻六章独裁について)。

これを誰が「一般意志」と最初に訳したのかは不明だが、すでに昭和初期の平林初之輔は当然のようにこの言葉を採用している。

そしてこの言葉に人民主権という過大な意味を与えて、『社会契約論』の誤解を広めるのに一役買ったというわけである。

以上のように、この「一般意志」という訳語も『社会契約論』の翻訳書に多く見られる誤訳の一つでしかないのである。