キケロ『ラエリウスあるいは友情について』

キケロー著『友情論』

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第一章 ラエリウスの友情論

 卜占官クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ(=前159~88年、117年執政官、ラエリウスの娘婿)は義父のガイウス・ラエリウス(=前186年~?)のことを思い出して楽しそうによく話してくれたが、どの話の中でもラエリウスを賢人とためらわずに呼んだものだ。僕は青年期になると父によってこのスカエウォラのもとに託されて、許される限り出来るだけ彼のそばを離れないようにしていた。そうやって僕は彼が思慮深く語った多くのこと、彼の簡潔で適切な多くの言葉を覚えて、彼の知恵にあやかって知識を高めようと努力したのである。彼が亡くなると僕は神祇官のスカエウォラ(=95年執政官、~82年)の元に移った。この人は我が国ではその才能と高潔さで誰より優れた人だと言っていい。しかし、この人については別の所で話すとして、今は卜占官のスカエウォラに話を戻そう。1

 この人の話はたくさん覚えているが、特に思い出深いのは、僕のほかに彼のごく親しい人たちを前にして、いつものように自宅の半円形の椅子に座って、その頃たまたま世間を賑わしていた話題に及んだ時のことだ。というのは、アッティクスよ、君はプブリウス・スルピキウス氏(=88年護民官、121~88年)とは付き合いが長かったからきっと覚えていると思うが、護民官になった彼と執政官になったクィントゥス・ポンペイウス氏(=88年執政官~88年)が、それまで無二の親友だったのに宿敵になってしまったことを、人々は大いに驚きあるいは悲嘆に暮れたのである。2

 スカエウォラはその話題に及んだ時に、ラエリウスの友情論を僕達に披露してくれた。それは小スキピオ(=前185~129年)が死んだ数日後にラエリウス(=57歳頃)がマルクス・ファンニウスの息子で彼の娘婿だったガイウス・ファンニウス(=前122年執政官)とスカエウォラ(=30歳)の2人に話したものだった。僕はこの対話の内容をよく覚えているので、それをこの本で僕なりのやり方で紹介した。というのは、僕はそれをいわば本人たちがしゃべるままに書いたのである。そのため、「僕は言う」とか「彼は言う」という言葉はあまり入ってこずに、対話がまるで目の前で行なわれているような印象を受けるだろう。3

 アッティクス、君はいつも僕に友情について何か書くように勧めてくれる。実際、このテーマは僕達の友情にも相応しいし、みんなに知ってもらうにも値すると思う。そこで僕は喜んで君の依頼に応じて、多くの人の役にたちたいと思う。しかし、君のために老年について書いた『大カトー』では、最高齢でありながら誰よりも元気なカトー老人(=前234~149年)以上に老年について語るのに相応しい人は見当たらなかったので、僕はカトー氏本人に語らせた。それと同じように、ラエリウスと小スキピオの友情ほど素晴らしいものはなかったと父祖たちから聞いているので、友情について語るのはラエリウスが相応しいと思う。この話をしたのがラエリウスであるのはスカエウォラが覚えていたことでもある。この種の話には昔の人のそれも高名な人が言ったことにしたほうが、どういうわけか話に重みが加わるように思われる。実際、僕自身の自分の書いた『老年について』を読んでいると、時々僕ではなくカトー老人が話していると思えるような気がするほどなのだ。4

 あの本では老人である私が老人であるアッティクスに対して老年について書いたが、この本では親友である私が友人のアッティクスに対して友情について書いた。あの本で語り手となったカトー老人は誰よりも高齢で賢明な人だったが、この本で友情について語るラエリウスも賢明な人(現にそう思われている)で友情の誉高い人である。君は暫くの間僕のことを忘れてラエリウスがしゃべっていると思ってくれたまえ。ファンニウスさんとスカエウォラさんが小スキピオの死後に義父のラエリウスさんのところへ行く。この二人が対話を始めてラエリウスがそれに答える。その話の内容は友情についてだが、これを読めば君は自分のことが語られていることに気づくだろう。5

第二章 賢人ラエリウス

ファンニウス「ラエリウスさん、あなたの言うとおりだ。小スキピオほど傑出して優れた人はいない。だが、みんなの目があなた一人に向けられていることをあなたは忘れてはいけない。彼らはあなただけを賢人と見做してそう呼んでいる。最近までその称号は大カトーに与えられていた。父祖たちの間ではルキウス・アキリウス(前2世紀)が賢人と呼ばれていたことを僕たちは知っている。ところが両者の意味は違っていた。アキリウスは市民法に対する詳しさゆえに、カトー老人は経験の豊かさゆえに、そう言われていた。カトーは元老院でも広場でも多くのことを賢明に予測し決然と行動して鋭く応答すると評判だった。それゆえ、彼は老いてから賢人というあだ名を手に入れたのである。6

「それと違って、あなたはその性格と振る舞い方、それに勤勉さと高い学識によって賢人と呼ばれている。しかも一般大衆ではなく教養のある人がそう呼び習わしている。僕はそんな賢人はギリシアには一人もいないと思う。(このことを厳密に調べる人達によれば、いわゆる七賢人は一人も賢人ではなかった。)例外はアテナイにたった一人いるだけで、その人はアポロンの神託で最高の賢人と言われた人(=ソクラテス)である。人々があなたを賢人だと言うのは、あなたが自分のすべては自分自身の中にあると思い、人間の運命は美徳によって克服できると考えているからだ。そこで、小スキピオの死をあなたがどうやって耐えているか、わたしは聞かれるし、ここにいるスカエウォラ君も尋ねられる。というのは、僕達が先月の七日、いつものようにデキムス・ブルートス(=前180~113)の田舎の家に鳥占いに行ったときに、いつも熱心にその仕事をこなしてきたあなたが欠席したからだ。」7

スカエウォラ「ラエリウスさん、確かにファンニウス君が言ったように僕も多くの人に尋ねられる。しかし、僕は自分が気づいたことを答えている。『あの人は親友である偉大な人の死から受けた悲しみを節度をもって耐えている。あの人が平気だということはありえないし、それはあの人の人間性に反している。あの人が七日に僕達の集まりに参加しなかったのは体調のせいで悲しみのせいではない』と。

ラエリウス「スカエウォラ君、君の言うとおりだ。実際、私が自分の都合であの行事を欠席することはありえない。健康である限りあの行事に私はいつも出席してきた。何があろうと仕事をさぼるようなことは、ちゃんとした人間にはあり得ないと思うからだ。8

「ファンニウス君、君は私が賢人として奉られていると言うが、そんなことを私は頼みもしないし認めるつもりもない。君は親切で言っているのだろうが、私が思うに、大カトーについて君は勘違いしている。というのは、この世に賢人などいないし、それが本当だと思うが、仮に誰かが賢人なら彼こそ賢人である。ほかのことは別にして、彼は息子の死をどうやって耐えたか。私はアエミリウス・パウルスとスルピキウス・ガルスも息子を失くしたことを知っているが、この二人が亡くした息子はまだ幼かったのに対して、大カトーの息子は一人前の大人になっていたのだ。9

「だから君のいうアポロンの神が最高の賢人だといった人をカトー老人より優れていると言わない方がいい。その人は言葉を称賛された人だが、カトーは行動を称賛された人だからだ。一方、この私は今から君たち二人に話すとおりの男だと思ってくれたまえ。10

第三章 スキピオの幸福な人生

「私がスキピオ君を失って動揺していないと言えば、哲人たちは私のことを立派だと言ってくれるだろう。しかし、それでは私は嘘をつくことになる。これから二度と出会わないような友人を失って私は動揺している。私にはあれほどの友人は一人もいなかったと断言できる。しかし、私にはこの悲しみの治療法がないわけではない。何より私には慰めがある。それは多くの人が友人の死を悲しむ際に犯す過ちと私は無縁であることだ。なぜなら、死ぬことでスキピオ君には不幸なことは何一つ起きなかったと私は思うからだ。もし不幸なことが起きたとすればそれは私の身に起きたのである。しかし、自分の不幸を悲しむのは友を愛する人のすることではなく自己を愛する人のすることなのである。

「彼が非常に立派な人生を送ったことを誰が否定するだろうか。彼には思いもよらないことだが、彼がもし不死を望んだのならまだしも、彼は人が望んでよいもので手に入れなかったものが何かあるだろうか。彼は子供の頃に自分に向けられた高い期待を、信じがたい能力によって青年期に早々と乗り越えてしまった。彼は執政官になりたいとは一度も思わなかったが、二度も執政官になった。しかも、一度目は若すぎる年頃になり、二度目は彼には丁度よい年頃だったが国にとっては遅すぎた時期だった。彼はこの国の宿敵たる二つの国を滅ぼして、現在並びに未来の戦争の根を断ち切った。彼のあのやさしい性格、母親への献身、姉妹に対する気前のよさ、自分の身内に対する親切、すべての人に対する公平な姿勢については、何を言うべきだろうか。それは君たちがよく知っていることだ。彼がどれほどこの国にとって大切な人だったかは、葬儀のときの人々の悲しみように現れている。彼が少し長生きしたとしても、それが彼にとってどれだけ役に立ったと言えるだろうか。カトー老人が死の前年に私とスキピオ君に語ったように、老年はけっして重荷ではない。それでも、年老いたスキピオ君は当時のあの活力を維持できまい。11

「彼の人生は幸運と栄光に満ちていたので、あれ以上に付け加えるものは何もなかったのである。急死したことで彼は自分の死を意識することがなかった。彼がどんな死に方をしたかを言うのは難しい。人々がどんな憶測をしているかは君たちも知っているとおりだ。しかし、一つだけ言えることがある。プブリウス・スキピオ君の人生は名声と喜びに満ちた多くの日々に満ちていたが、彼が死の前日元老院が散会して夕方元老たちとローマ国民とラテンの盟友たちに見送られて自宅に帰った日は、彼にとって最も名誉ある日だった。あれほど高い地位にあった彼は、地下の神々のもとではなく天国の神々のもとに到着していると私は思う。12

第四章 魂の不死について

「というのは、最近、魂は肉体とともに消滅して人が死ぬと全て無くなってしまうと言い始めた人達がいるが、私は賛同できない。私には昔の人たちの考え方がなおも有力である。例えば我々の父祖たちは死者を敬虔にお祭りしてきたが、もし死者たちがそのことに何もあずかり知らないと思っていたら、そんなことをするはずがない。また、この国に昔住んでいてマグナグラエキア(今は滅んでしまったが当時は栄えていた)で自分たちの教えを広めていた人達の考え方もそうだし、アポロンの神託で最も賢い人だと言われた人の意見もそうである。この人は多くの場合その時々で意見を変えたが、人の魂は神聖なもので、肉体から抜け出た時には天に帰ることが許される、しかも正しい人ほど速やかに帰れるという考え方を変えることなく言いつづけた。13

「スキピオ君の考えもこれと同じだった。彼は亡くなる数日前に、自分の運命を予感したかのように、ピルスやマニリウスなど大勢の前で(スカエウォラ君、君も僕といっしょに行ったね)、三日間にわたって国家について講演した。その話の最後に彼は夢の中で祖父の大スキピオから聞いた話として、魂の不死について話した。もしそれが事実で、すぐれた人間の魂ほど死によって肉体の牢獄、肉体の拘束から容易く逃がれることができるのなら、スキピオ君ほどたやすく神々の座に行ける人が誰かいると思うだろうか。だから、彼の死を悲しむのは、彼のことを嫉妬することであって彼を愛する人のすることではないと思うのである。逆に、もし仮に最初にあげた説が真実で、魂と肉体が同時に滅んでどんな感覚も残らないなら、死には何も良いことはない代わりに、何も悪いこともないということになる。死んで魂が失われてしまうなら、彼がまだ生まれていない時と同じになってしまう。しかし、彼がこの世に生まれたことは我々の喜びであるし、この国が続く限り、それは我が国の喜びであるだろう。14

「つまり、私がいま言ったように、彼の死は非常に幸福なことだったが、私にとってはそれほどではなかった。というのは、先にこの世にやってきた私が先にこの世から出て行くべきだからである。しかし、私は二人の友情の思い出をこうして楽しめるのだから、スキピオ君と共に過ごした人生を私は幸福だったと言っていいと思う。なぜなら、私は彼と公私の場で苦労を分かち合い、同じ家に暮らし、同じ戦場で戦い、さらにこれこそ友情の真髄であるが、同じ夢と同じ興味と同じ考えを共有していたからである。私はファンニウス君がさっき言った賢人の評判は嬉しくないし、そもそもあんなものは出鱈目だと思う。それより、私達二人の友情の思い出が永遠に残ることの方が私には嬉しい。時代を超えて伝えられてきた友達の組み合わせはわずか三、四例だから尚更だ。その一つとしてスキピオとラエリウスの友情が後世に伝えられたらと思っている。」15

ファンニウス「ラエリウスさん、それはきっとそうなるでしょう。しかし、あなたがせっかく友情について話はじめて、僕たちには充分時間の余裕があるのだから、あなたが他のことを質問された時にいつもするように、友情についてのあなたの考え、あなたの評価、あなたの友情の原則を話してくれるなら、わたしは本当にうれしいし、スカエウォラ君も喜ぶと思う。」

スカエウォラ「もちろん僕もとてもうれしい。僕からもあなたにお願いしようと思っていたが、ファンニウス君に先を越されてしまった。話してくださるなら僕達は二人とも感激です。」16

第五章 友情は善人だけのものである

ラエリウス「このテーマはとてもいいし、ファンニウス君が言ったように、私たちには時間があるんだから、私に自信があれば喜んで話してあげるところだ。だが、私は何者だろう。私にどんな能力があるだろうか。こんなに急に話の題が出されてしゃべるのは、哲学者たちやギリシア人がよくやることだ。こういうことには大変な労力がいるし、少なからぬ訓練が必要だ。だから、友情についての詳しい話は、こういうことを専門にしている人に頼むほうがいいと思う。私が君たちに出来ることは、人間社会のどんなことよりも友情を大切にするように勧めるぐらいのことだ。なぜなら、友情ほど人間の本性にとって相応しいものはないし、人生の順境にあっても逆境にあっても、こんなに大事なものはないからである。17

「ところで、私が第一に言えることは、善人以外には友情はありえないということである。と言っても、私は善人について厳密に規定する哲学者たち(=ストア派)のように友情を狭く言うつもりはない。彼らの説は正しいかもしれないが、あまりみんなのためにはならない。というのは、彼らは賢人以外に善人はないと言っているからである。確かにそうかもしれない。しかし、彼らのいう賢明さとは今までに誰も手に入れていないものである。一方、我々が目指すべきは、頭の中だけで考えたことや理想とされることではなく、日常生活で体験できることである。我々の父祖たちはガイウス・ファブリキウス・ルスキノス(=前282年執政官)やマニウス・クリウス(=前290年執政官)やティベリウス・コルンカニウス(=前280年執政官)を賢人だといったが、さっきの哲学者の基準ではそうは言えなくなってしまう。だから、賢人というこんな不愉快でよく分からない名前は、哲学者たちの専売特許にすればいいだろう。ただし、このローマ人達が善人だったことだけは認めてもらいたい。しかし、彼ら(=ストア派)は決してそうはしないだろう。彼らは賢人以外には善人はないと言っているのだから。18

「しかし我々は持ち前の知恵をつかって行動しよう。そして、自分の誠実と高潔と公平と寛容が認められるように振る舞い、私がいま名を挙げた人達のように、野心も我欲も思いあがりもなく、充分に堅実性を保つ人達、そういう人達こそ、一般にいう善人と呼ぶべきだと私は思う。なぜなら、彼らは良い生き方をするための最善の導き手である『自然』に出来るだけ従っているからである。

「そして、これは明らかなことだと思うのだが、我々は全員の間に絆が生まれるようにできていて、距離が近づくにつれてその絆は強くなるのである。だから、我々は他所者よりも同じ国の人間の方を大切にするし、他人よりも親族の方を重視する。なぜなら、親族の間では自然に親しさが生まれるからだ。しかし、その親しさはまだ充分強固なものではない。この点で友情は親族関係に優っている。なぜなら、親族関係からは親しさがなくなる可能性があるが、友情にはその可能性がないからである。逆に言えば、親しさがなくなれば友達とは呼べなくなるが、親しさがなくても親族関係は続くのである。19

 「友情にどれほど大きな力があるかは、次のことから最もよく理解できる。つまり、自然が結びつける人間のありとある繋がりの中で、それがかたく圧縮されて濃厚なものになって、好意の絆が二人だけかごく少数の人の間にだけ結ばれるのが友情だからである。

第六章 真の友情は何より有益なものである

「というのは、友情とは好意と親密さによって神と人間の世界のあらゆるものについて一致することに他ならないからである。恐らく、知恵を除いて、不滅の神々から与えられたもので人間にとって友情より良い物はないのである。ある人は富を、ある人は健康を、ある人は権力を、ある人は名誉を、多くの人は快楽を友情よりも重視する。この最後のものは野獣にこそふさわしい。その他のものは移ろいやすく不確かなものであり、我々の判断力というよりは運命の気まぐれに依存している。一方、美徳が最高善だという人たちがいる。これは実に立派な考えである。しかし、この美徳こそは友情の生みの親であり、友情を維持するものである。美徳なしに友情はあり得ないのである。20

「しかし、美徳といっても普通の生き方や我々の日常会話から理解すべきで、学者のように大げさな言葉で規定すべきではない。善人にしても、パウルスやカトー、ガルス、スキピオ、ピルスのように、世間でそう思われている人を指すべきである。日常社会は彼らのような人達で充分満足なのであって、実際にどこにも見いだせないような人のことを扱うべきではないのである。21

「そのような善人たちの友情は口では言えないほど大変有益なものである。第一に、エンニウスがいう『生きるに値する』人生とは、友人との互いの好意のなかに休息を見出せるような人生でなければならない。自分自身と話すように何でも話せる相手を持つことほど楽しいことがあるだろうか。成功を自分と同じように喜んでくれる人がいてこそ、成功に大きな喜びが得られるのである。逆境に耐えられるのもそれを自分よりも深刻に受けとめてくれる人がいなければ困難である。人が必要とするものは多いが、それはそれぞれ一つのことに役立つものである。例えば、富は使うことに役立ち、権力は尊敬されることに役立ち、名誉は褒められることに役立ち、快楽は楽しむことに役立ち、健康は痛みを取り除いて肉体の機能を利用することに役立つ。それに対して、友情は非常に多くのものを含んでいる。友情はどんな場合にも有益だし、どんな場面からも締め出されることはない。友情はどんな時にあってもよいもので、邪魔になることは決してない。諺に言う水火の如きも友情ほど多くの場合に有益なものではない(私は平凡でありふれた友情のことを言っているのではない。もちろんその程度の友情でも役立つし楽しいものだが、私がここで言っているのは真の友情、完璧な友情、さっき名前を挙げた数少ない人たちの友情のことである)。なぜなら、友情は幸福をさらに素晴らしいものにするし、不幸を分かちあい共有することでその重荷を軽くするものだからである。22

第七章 友情は人の心の支えだけでなく社会の支えでもある

「さらに、友情は非常に有益なことを沢山含んでいるだけでなく、人に未来への希望を与えて、人の気持ちを元気にして盛り上げてくれる点で、何にもはるかかに優るものである。それどころか、本当の友人を目の前にしたとき、人は言わば自分自身の似姿を見るのである。その結果、真の友人はその場に居なくても居るのと同じであり、足りずして満ち足りており、無力でも力があるし、言いにくいことだが、死んでも生きているのだ。友人たちの深い尊敬と憧れ、友人たちの記憶は死んでも無くなることはない。それゆえに、死んでいった友人を幸福だと思えるし、生き残った友人たちを立派だと思えるのである。

「ところで、もしこの世から好意の結びつきをなくなってしまったら、家も町も立っていることが出来ないし、農地も耕作を続けられないだろう。もしこれが分かりにくいとしても、友情と協調のもつ意味が如何に大きいかは、不和と不一致の結果から理解することが出来るだろう。というのは、どんなしっかりした家もしっかりした国家も、憎しみと不和によって根底から覆されてしまうからである。ここから、友情がどれほど善いものかがわかるはずだ。23

「アグリゲントゥムの学者某(=エンペドクレス)はギリシア語の詩で『この世界と宇宙のなかの動かない物と動く物を結びつけているのが友情であり、引き離しているのが不和である』と唱ったと言われている。

「これは誰でも知っていることだし、事実が証明している。だから、もし友人の危機に共に立ち向かう献身的な行為があったら、誰もがそれを最大の賛辞によって称賛するだろう。最近、私の客人で友人でもあるマルクス・パキュヴィウス(=悲劇詩人220~130)の新しい芝居に対して観客席から大きな歓声が起こった。それはオレステスとピュラデスの二人のどちらがオレステスか王は知らないので、ピュラデスが自分がオレステスだと言って身代わりに殺されようとした時に、オレステスが自分こそオレステスだと本当のことを言った場面である。客はこの作り話に席を立って拍手をした。もしこれが事実だったら彼らはどんな騒ぎをするだろうか。人は自分の出来ないことを他人が成し遂げるのを見て褒めるが、明らかにここに人間の本性が現れているのである。

「以上で友情について私が考えていることを全部話したと思う。まだ何かあったら(きっともっとあるだろうが)それは専門家から聞いてほしい。」24

ファンニウス「僕達はむしろあなたから聞きたいのです。あなたの言う専門家からは何度もお願いして聞きましたし、それは不満ではありません。けれども、あなたの話はレベルが違います。」

スカエウォラ「ファンニウス君、最近スキピオさんの庭で国家について話し合われたときに君が来ていたら、君はそれをもっと強力に主張するだろうよ。その時、この人はピルス(=前136年執政官)の見事な議論に対抗して立派に正義を守ったんだよ。」

ファンニウス「正義の人にとっては、正義を擁護することはいとも容易いことだろうね。」

スカエウォラ「それなら、この人が友情を擁護するのは簡単ではないかな。彼は一貫して変わらない誠実さと信義で友情を守り通したことでとても有名な人なのだから。」25

第八章 友情は利益のためではなく無償のものである

 ラエリウス「強引だなあ。何としても私に話をさせるつもりだね。仕方がないなあ。善いことを勧める婿たちの熱意に応えないのは難しいことだし正しくないからね。

「私は友情についてはよく考えてきたけれど、第一に考えるべき問題は、友情とは貧しさとか無力さのために求めるものなのか、つまり、互いに尽くし合って自分の能力では手に入らないものを相手から受け取ったり与えたりするためのものなのか、それとも、それは友情の一面でしかなく、友情の目的は別のもっと高貴でもっと美しく、もっと人間の本性に深く起因するものではないのかという問題だ。なぜなら、友情と呼ばれるものが生まれるにはまず愛情(amor)があるはずで、それが好意を結び合わせるからである。間に合わせに友達のふりをして相手を持ち上げて得することもあるが、友情には偽りも見せ掛けもなく、そこにあるものは全て真実であり自発的なものなのである。26

「だから、私は友情は貧しさから生まれるものではなく人間の本性から生まれるものだと思う。つまり、友情とはどれだけ得をするか考えることから生まれるものではなく、愛情によって人の心が結びつくことで生まれるものである。

「この無償の愛は動物にも見ることができる。動物は自分から生まれた子供をある時まで愛して、次にその子供から愛されるので、その感情は容易に観察できる。これは人間の場合さらに明らかである。それは第一に、親子の情愛において見られるもので、これはひどい犯罪でもない限り終わらせることは出来ない。次に、性格や習慣のぴったり合う人に出会ったときにも同じ様な愛情が生まれる。これはその人に誠実さと美徳の輝きを見たと思うからである。27

「というのは、美徳ほど愛すべきものはないし、美徳ほど人を好意に誘うものはないからである。なぜなら、一度も会ったことのない人でさえ、その人の美徳と誠実さを知ればなぜか好きになるからである。一度も会ったことがなくても、ガイウス・ファブリキウス・ルスキノスやマニウス・クリウス(=両者既出)のことは、誰もが好意的な気持ちで記憶している。逆に、タルクィニウス・スペルブス(=ローマ最後の王)とスプリウス・カッシウス(=~486年)とスプリウス・マエリウス(=二人は平民の味方をして殺された。~439年)のことは誰もが憎んでいる。私たちはイタリアの支配権をピュロス(=エピロスの王319~272年)とハンニバルという二人の将軍と争ったが、一方は(=ピュロス)その人の誠実さゆえに我々はそれほど敵意を抱かなかいが、他方に対してはその残忍さのためにこの国の国民はいつまでも憎しみを抱き続けるだろう。28

第九章 友情は誠実さから生まれる

「だから、もし誠実さにそれほどの大きな力があって、一度も会ったことがない人でも、いやそれどころか、敵に対しても、その誠実さに好意を感じてしまうのなら、習慣によって親密になる可能性のある人に美徳と誠実さを見たと思うときに心が動かされるとしても、何の不思議なことがあろう。

 「しかしながら、愛情は親切にされ熱意が明らかになり習慣が積み重なってはじめて強固となる。愛情の最初の動きにこれらのことが付け加わることで、すばらしく大きな好意が燃え上がるのである。もし友情が人の無力さから生まれてくるもので、自分が不足しているものを手に入れてくれる人を求めることだと言うなら、それは、言わば友情の出自を卑しく、あまり高貴でないものにして、友情を貧困と窮乏の娘だと言うことになる。もしそうなら、自分の中に何もないと思う人ほど友情に相応しいことになってしまう。それはまったくおかしい。29

「というのは、自分に自信がある人ほど、また美徳と知恵によって守られて、何の不足もなく自分のものは全て自分自身の中にあると思う人ほど、友情を求めて育てることに秀でているからである。だってそうだろう。スキピオ君は僕を必要としたのだろうか。全然そんなことはない。僕も彼を必要とはしなかった。そうではなくて、僕は彼の美徳に惚れて彼のことが好きになり、一方おそらく彼も私の性格が少なからず気に入って僕のことが好きになった。そして交際によって互いの好意が増大したのである。大きな利益が数多く得られたにも関わらず、我々の好意は利益への期待から生まれたのではないのである。30

「というのは、私たちが親切で寛容になるのは、好意を引き出すためではないのと同じように(なぜなら我々は親切を投資するのではなく、自然な気持ちから親切にするからである)、人が友情を求めるのは、利益が得られると思うからではなく、好意の中に友情のすべての満足が含まれているからだと私は考える。31

「家畜のように快楽を全ての判断基準にする人たちはこれとはまったく考えが違うが、それは不思議ではない。というのは、いつもそんな卑しくて情けないことばかり考えている人たちは、高貴なものや素晴らしいもの、神的なものに目を向けることはできないからである。だから、そういう人たちはこの議論からは除外しよう。そして、私たちとしては、誠実さの兆しが現われたときに、愛する気持ちや好意が自然に生まれてくると考えることにしよう。この誠実さを求める人たちが、互いに近づいて行き、好きになった相手の習慣や性格のに喜びを見出して、対等に好意をやり取りするようになり、見返りを求めることなく相手に役立つようになろうと心がける。そしてこれが誠実さの競い合いとなるのだ。こうなれば友情から大きな利益が得られるようにもなるだろう。また友情は無力さからではなく人間の本性から生まれてくるものだということが、さらに重要になり真実味を帯びてくる。なぜなら、友情を結び合わせたのが利益であるなら、利益をやり取りすることで友情は終ってしまうはずだ。ところが、人間の本性は変えることは出来ないから、真の友情は永遠に続くのである。君たちは以上で友情の始まりがわかったね。それとも、これに対して何か言いたいことがあるかな。

ファンニウス「ラエリウスさん、もっと続けてください。年下のスカエウォラ君の代わりに答えさせてもらいますが。」32

スカエウォラ「君の言うとおりだ。もっと聞きましょう。」

第十章 友情が長続きするのは難しい

 ラエリウス「では、すばらしい君たちに、私とスキピオ君の間で友情について話し合ったことを聞いてもらおう。彼は友情が人生の最後の日まで続くこと以上に難しいことはないと言っていた。利益が一致しなくなったり、政治に対する考え方が違ってくることがよくあるからだ。また、人の性格はよく変わる。不幸なことがあると変わるし、年をとると変わると彼は言っていた。彼はこの事の例を子供時代の比喩からとってきた。つまり、子供の強い愛着はしばしば子供服を脱ぐのと同時に終わると言うのである。33

「逆にもし友情が青年期まで続いたとしても、結婚相手の争いや何かのチャンスをめぐる争いでしばしば友情は終わる。二人とも同じ物を手に入れられないからである。しかし、仮にもっと長く友情が続いたとしても、出世競争になると友情はしばしば壊れてしまう。多くの人の場合、友情にとって最大の敵は金銭欲であり、エリートたちの場合は、地位と名誉の争いである。そうなると親友がしばしば宿敵になってしまう。34

「また、友人から何か不正なことを要求されたり、欲望の手先や不正のお先棒担ぎになることを求められた時に、友人たちの間に大きな仲違いが起こるが、それは正しい仲違いである。それを拒否すると、それがいかに正しいことでも、逆らった相手から、友情の掟を破ったといって非難される。逆に、友人に何でも厚かましく要求する人は、そう要求することによって、今度は自分が相手のために何でもすると約束することになってしまう。友人同士のこういう非難の応酬によって、古くからの友情が消え去るだけでなく、永遠の憎しみが生まれるのである。この多くは言わば宿命のように友情をおびやかすので、このすべてを上手くかわしていくには知恵だけでなく幸運が必要だ、と彼は言うのである。35

第十一章 友人の間違った要求には従うべきではない

「だから、君たちがよければ、友情はどこまで続けるべきかを、まず考えてみよう。もしコリオラヌスに友人がいたら、その友人はコリオラヌスと一緒に祖国に対して弓を引くべきだったろうか。王座を要求したカッシウス・ウェケリヌス(=~485年)やマエリウス(=二人とも王座をねらって農民の人気を得ようとしていると告発されて殺された。~439年)を友人は助けるべきだったろうか。36

「国家を悩ましたティベリウス・グラックス(=133年護民官、~133年)がクィントゥス・トゥベロー(=133年護民官)や同年輩の友人たちに見捨てられたのを我々は知っている。しかし、執政官レアナスとルピリウス(=132年)の話し合いに私が立ち会っていたおり、スカエウォラ君、君の家の客人ガイウス・ブロッシウス(=クマエの哲学者)は、自分のことは大目に見てほしいと私の所に懇願に来てそのわけを説明した。彼はティベリウス・グラックスを高く評価していたので、彼の言うことは何でも実行すべきだと思ったいたと言うのだ。その時私は『もし彼が君にカピトリウムに火をつけろと言ってもかね。』と言うと『彼はそんなことを言うわけがないが、仮にそう言ったら僕はそのとおりにする』(=プルターク英雄伝『T・グラックス』20)と言ったのだ。どうだい。何というけしからん話だろう。ところが何と彼はその言葉以上のことをやったんだ。というのは、彼は無謀なティベリウス・グラックスのあとに従うどころか、自分が先に立ったんだよ。つまり彼はグラックスの熱狂的な仲間になるだけでなく自分が指導者になったのだ。そうしてあんな気違い沙汰をやったうえに、新たな尋問が怖くなった彼はアジアに逃げて、敵のもとに身を寄せて、祖国に対する正義の償いをしたのだ。したがって、友人のために間違いを犯しても言い訳にはならない。なぜなら、誠実な人だと思って友情を育てたのに、もし相手が誠実さを捨ててしまったら、友情を続けることは難しいからである。37

「しかし、もし誰もが完璧な知恵の持ち主なら、友人が望むことは何でも許したり、自分が望むことを何でも友人にさせるのが正しいと考えても、何の不都合もないだろう。しかし、我々が話しているのは目の前にいる友人のことであり、我々が目撃したり我々の歴史に残っている人、我々がともに暮らして知っている人々のことである。我々はその中から例を集めるべきだ。しかもその中で知恵に最も近い人を選ぶべきなのである。38

「例えば、パプス・アエミリウスがガイウス・ファブリキウス・ルスキノス(=この二人は283、278年に共に執政官)と友人であり、この二人が二度まで一緒に執政官になり監察官になったことを我々は知っている(これは父祖によって伝えたられてきたことである)。マニウス・クリウスとティトゥス・コルンカニウスは互いに親密で、先の二人とも当時非常に親密だったとも言われている。その彼らのうちの誰かが、信義に反し誓約に反して国家に反逆することを友人に要求したなど考えられないことである。なぜなら、これほどの人たちの場合、もしそんな要求をしても断わらてしまうのは言うまでもないからである。彼らはとてつもなく高潔な人間だったから、そんな要求を受け入れることはそんな要求をするのと同じくらい許されないことなのである。それに対して、ガイウス・カルボ(=前131年護民官~119年)とガイウス・カトー(=大カトーの孫、前114年執政官~109年)はティベリウス・グラックスの要求を受け入れた。彼の弟のガイウス・グラックスもその当時兄の要求を少なくとも受け入れており、今(=前129年)では熱心な追随者ととなっている。39

第十二章 国に反逆するような友情関係は厳罰で対処すべきである

「だから、次のことを友情のルールとして決めようではないか。つまり、友人に恥ずべきことを要求しない、要求されても実行しないと。なぜなら、どの犯罪でもそうだが、国家に反逆したのは友人のためだったと告白しても、そんな恥ずべき言い訳は通らないからである。こんなことを私が言うのは、ファンニウス君とスカエウォラ君、私たちはこの国の差し迫った危機をよく見つめるべき時に来ているからだ。いまこの国は父祖たちの作った伝統から大きく逸脱してしまっているのだ。40

「ティベリウス・グラックスは王座につこうと試みた、いや数ヶ月間実際に王座についていた。ローマ人はこんなことをかつて聞いたことも見たかともないのではないか。この男の死後も友人たちと親族たちがこの男の跡を継いでスキピオ・ナシカ(=ティベリウス・グラックスの死後、国外退去してペルガモンで死去、前183~132年)に何をしたかを、私は涙なしに語ることができない。我々はカルボ(=既出、前131年護民官、秘密投票法、護民官再任法)のことはティベリウス・グラックスの処刑(=前133年)の影響を考えて何とか我慢した。しかし、ガイウス・グラックス(=前123年122年護民官、~121年)が護民官になったらどうなるかは予想したくもない(=この対話をしているのは前129年)。破滅への歩みは徐々に進んでおり、一旦勢いづくと止めることは出来ないのだ。これまでにどんな破滅的な事が起きたかは投票法を見ればいい。最初はガビニウス法(=前139年)、二年後のカッシウス法(=どちらも秘密投票法、137年)だ。いまや民衆が元老院から離れて重要な政策を自分たちの判断で決めていくのが目に見えるような気がする。なぜなら、ますます多くの人たちがどうしたらこんなことを阻止できるかではなく、どうしたら起こせるかを学ぶからである。41

「私がこんな話をするのは何のためかというと、仲間がいなければ誰もこんなことを企てたりはしないということを言いたいからだ。だから良識ある人たちは次のことを自戒しないといけない。つまり、よく知らずに何かの偶然でそんな人間の仲間になったとしても、友情に縛られて国家に大罪を犯す友人から離れられないと思ってはならないということである。一方、犯罪者には刑罰が定められねばならない。またそんな人間の仲間になった者への刑罰は悪事の首謀者より決して軽くすべきではない。例えば、ギリシアではテミストクレスほど名高い人はいないし、彼ほど有能な人はいない。彼はペルシャ戦争の時に将軍としてギリシアを隷属から救ったが、妬まれて追放された。祖国のこの恩知らずな仕打ちに彼は耐えるべきだったがそれが出来ず、コリオラヌスが20年前に我が国に対して行ったのと同じ事をしたのである。しかし、この二人に加担して祖国に反逆した者は一人もいなかった。それで二人とも自害したのである。42

「だから、このような犯罪者との共謀が友情を理由に弁護されることはあってはならないのである。いやそれどころか、このような共謀は極刑によって処罰して、祖国に戦争をしかけるような者に追従するのは、たとえ相手が友人でも許されないことだと思い知らせるべきなのだ。しかし、いまこの国で起こりかけている事を考えると、これが恐らくいつか現実のものとなるだろう。私はこの国の今の有り様も心配だが、私が死んだ後この国がどうなってしまうか心配でならないのだ。43

第十三章 友情には苦しみが伴うものである

「だから、次のことを友情の第一のルールと定めよう。つまり『友人からは正しいことを求めるべきであり、友人のためには正しいことを行うべきである。正しいことをする時には、求められるまで待つべきではないし、常に積極的であって、躊躇すべきではない。忠告は進んで与えるべきだし、よい忠告をしてくれる友人の権威は何よりも大切にすべきである。率直な忠告だけでなく必要なときには厳しい忠告をするために友人としての影響力を行使すべきで、そんな友人の言うことには従うべきである』と。44

「というのは、ギリシアの賢人と言われている人たちは友情について奇妙な意見を持っていたからである(もっとも、彼らは何についても鋭い知能を使って探求している)。つまり、ある人たちは、他人のために自分だけが悩むことにならないように、過度な友情は避けるべきだと言うのである。『人はそれぞれ自分自身のことで手一杯なので、他人のことにあまり深入りするのは厄介だ。友情の束縛はなるべく緩い方がよく、意のままに引き締めたり緩めたりできるのが一番だ。なぜなら、幸福な人生にとって一番大切なことは不安がないこと(=アタラクシア)であって、それが大勢の人の苦労を一人でしょいこんでいては実現出来なくなる』と。45

「(この話題は少し前に短く触れたが)別の人たちは、友情は好意や愛着のためではなく保護や援助のために求めるべきだと、かなり不人情なことを言っているらしい。したがって、精神や肉体の力が弱い人ほど友情を強く求めるべきだということになる。そこから、男よりはか弱い女ほど、裕福な人よりは貧しい人ほどが、幸福だと思われている人よりは不幸な人ほど、友情の保護を求めることになると。46

「なんと、賢い人は素晴らしいことを言うものだ。神々が私たちに与えたもうたもので友情よりも素晴らしいものを何一つないのに、その友情を人生から取り上げようとするのは、この世から太陽を奪うようなものである。彼らの言う『不安がないこと』とは何なのだ。それは見たところは魅力的だが実際には多くの点で拒否すべきものである。なぜなら、厄介なことに巻き込まれないために、立派な事をしなかったり、やり始めてもやめてしまうのはおかしなことだからだ。それどころか、不安を避けることは美徳を避けることなのである。なぜなら、美徳とはそれとは反対のものを憎んで退けることであり、善意が悪意を、節制が不節制を、強さが弱さをしりぞけることだが、その際に心の葛藤が伴うのは当り前のことだからである。公平な人が不正を誰よりも悲しみ、勇者が臆病な事を誰よりも嘆き、節度ある人が恥知らずな事を誰よりも残念に思うことは誰でも知っている。つまり、立派な精神の持ち主が善を喜び悪を嘆くのは当然のことなのである。47

「だから、仮に賢人の心にも何かを嘆く気持ちがあるとしても(賢人の心から人間らしさが根絶されていない限り、この気持ちは必ずある)どういう理由で我々は、友情のために嘆かわしいことにならないように、人生から友情を根こそぎ取り去るべきだとなるのだろうか。もし心の動きを取り去るなら、家畜と人間の違いとは言わなくて
も、人間と木石やその種の物との違いはどこにあるのだろうか。立派な人間になることは鉄のように固い心を持つことだと主張する人たちの言うことには耳を傾けるべきではないのである。多くの場合にそうだが、立派な人間は友人に対してやさしい心をもっていて涙もろかったりするものである。だから、彼は友人の幸福に対しては陽気になるし、友人の不幸には意気消沈するのである。したがって、友人のためにしばしば苦しみを強いられるからといって人生から友情を取り去るべきだとはならないのだ。それは美徳が様々な苦しみと悩みをもたらすからといって退けるべきではないのと同じである。

第十四章 友情が楽しいのは愛情であって利益ではない

「既に述べたように(=32)、美徳の兆しが輝き出て、互いに似た心が近づいて結びついたときに、友情が生まれるのであるが、そのときには必ず好意が生まれる。48

「名誉や栄光や建物や衣服や装飾品など、命のない多くのものに喜びを見出すくせに、美徳を備えていて愛したり愛を返したり出来る人間にそれほど喜びを見出さないことほど馬鹿げたことがあるだろうか。好意に報いることや、熱意や奉仕の交換ほどに楽しいものはないのである。49

「今の話に補足して言うと、何かが何かに強く引き寄せられるといって、似たもの同士が互いに友情へと引き寄せられるほど強いものはないと言っていいのである。つまり善人は善人を愛して引き寄せられるのである。それが血縁関係で結ばれた者のようになるのは疑いなく真実であることは認めていいだろう。人間の本性ほど自分に似たものを貪欲に探し求めるものはないのである。だからこそ、ファンニウス君とスカエウォラ君、善人同士の間には必ず好意が生まれて、それが自然な友情の源となると思うのである。しかし、善人といっても特別な人のことではない。というのは、美徳とは非人情なものではないし、人を遠ざけるものでもなく、お高く止まっているものでもないからである。それはむしろ万人を見守り、人々に幸福をもたらそうと配慮することである。もし美徳が大衆に好かれることを嫌うものなら、そんなことは決してしないだろう。50

「友達は利益を得るためにつくるものだと言う人たちは、友情の絆の最も大事なもの取り去ってしまっていると私は思う。友達がいることの喜びは得をするからではなく愛してくれるからである。友達が自分の為めにしてくれることがうれしいのは、それが愛情を伴う行為だからである。友情はけっして必要のために育むものではない。財力と資力に恵まれて、大きな力となる美徳を備えて、他人の助けを必要としない人ほど、親切で慈悲深い友人となれるである。とはいえ、おそらく友人が全てに満ち足りていることは友人の必須条件ではない。なぜなら、もしスキピオ君が平時も戦時もけっして私の助言や助力を必要としなかったとすれば、私の友情はどこで発揮されただろうか。だから、友情の後に利益が付いて来ることはあっても、利益の後に友情が付いてくるのではないのである。51

第十五章 友情は独裁者には無縁である

「だから、快楽主義者に耳を貸す必要はない。彼らは友情について経験的にも理論的にもよく知らずに議論しているからだ。あらゆる富に溢れ、あらゆる物に囲まれて暮らせたら、誰も愛さず誰にも愛されなくてもいいという人が一体全体どこにいるだろうか。これはまさに独裁者の人生である。それは信頼も愛情もなく、人から変わらず好かれているという確信を持てない人生である。いつも全てが疑いと不安だらけであり、そこに友情の入り込む余地はない。52

「なぜなら、自分が恐れている相手を誰も愛さないし、自分を怖がっている相手を誰も愛さないからである。独裁者はその場だけ愛する振りをされるだけである。よくあることだが、独裁者は失脚した時に、どれほど自分に友人がいないかが分かるのである。追放されたタルクイニウスは「友人の誰が正直で誰が嘘つきだったかが分かった。だがもう私は相手をどちらも厚遇も冷遇も出来ないのだ」と言ったと伝えられている。53

「もっとも、もしあんなに横柄で傲慢な男が友人を持てたとしたら驚きである。タルクイニウスのような性格では真の友人は出来ないが、権力者や大金持ちも本当の友人はなかなか出来ない。幸運の女神は盲目だというが、幸運に恵まれた人間も盲目になることが多い。彼らは偉そうになったり人の言うことを聞かなくなってしまう。また愚かなくせに幸運に恵まれた人間ほど耐えがたいものはない。まえは愛想の良かった人が官職について権力を手にしたり成功したりすると変わってしまったり、昔の友達を遠ざけて新しい友達に乗り換えることなどは、よく見かけることだ。54

「一方、独裁者が巨万の富と権力によって、馬や召使や高級な服や壺など、金で買えるものは何でも手に入るのに、友人を一人も作れないほど馬鹿げたことがあろうか。友人とは言わば人生で最も美しい家具といえるものである。実際、独裁者は何を手に入れても、それは誰のためなのか誰のための骨折りなのか分からないからである。なぜなら、それらの物は全部最後の勝者のものになってしまうからである。それに対して、友人はそれぞれの人間にとって永遠に変わらずに信用できる財産である。だから、仮に幸運の女神から贈られた物を手放さずにすんだとしても、友人から見捨てられた孤独な人生が楽しいはずはないのである。55

「しかし、この話題はここまでにしよう。」

第十六章 友情についての間違った考え方

「つぎに、友情をどう定義すべきか、どんな区切りがあるのか考えてみよう。これについては三つの考え方があるが、私はどれも認めることができない。その第一は、友人のことは自分自身のことのように思うべきだという意見。第二は、友人の好意にはちゃんと負けないように同じだけ報いてやるべきだという意見。第三は、友人の自己評価はちゃんと受け入れて相手を評価してやるべきだという意見である。56

「この三つの考え方はどれも私はまったく賛成できない。第一の意見の、友人のことを自分自身のことのように思うべきだというのは間違っている。というのは、人は友人のためなら、自分のためには決してしないことまで色々するからである。例えば、友人のためなら、つまらない人間に懇願したりするのもそうだし、誰かを辛辣に罵倒したり痛烈に非難したりするのもそうだ。こんなことは自分のためにやればあまり立派なことではないが、友人のためなら非常に立派な行為である。また、立派な人間は自分より友人のほうが得になるようにと、自分の利益を減らして友人に譲ることはよくあるからである。57

「二番目の考え方は、友情とは親切と好意を同じだけやりとりすることだ定義するものだ。これは受け取った物と与えた物が等しくなるように、実にけちけちと友情の貸し借りを計算することである。しかし、本当の友情とはもっと豊かで鷹揚なもので、自分が受け取ったより多く返さないようにと細かく気を使うものではない。というのは、こんなことをしても無駄にならないかとか、やりすぎではないかとか、必要以上に友人に肩入れしていないかと心配すべきではないからである。58

「それに対して三つ目の、友人の自己評価はちゃんと受け入れて相手を評価してやるべきだという定義は最悪である。しかし、友人にも気持ちが落ち込んでいる人もいれば、運命が好転する希望の乏しい人もいる。それなのに、相手の自己評価をそのまま受け入れるのは友達甲斐のないことである。むしろ相手の落胆した気持ちを励まして、相手に希望を与えて前向きになるようにしてやるのが友情だ。

「だから真の友情についてはもっと違う定義を作るべきである。だがその前に、スキピオ君がいつも厳しく批判していた考え方を披露しよう。それは『いつか相手のことが嫌いになるかもしれない思って好きになるべきだ』という考え方である。彼はこれほど友情にとって有害な考え方はないと言う。この考え方は七賢人の一人のビアスのものであるとよく言われているが、とても信じる気になれない。これは卑しい人間で野心家で何でも自分の出世に結び付けるような人の考え方だ、と彼は言うのだ。いつか自分の敵になるかもしれないと思う人の友達になるなんて一体どうして出来るだろうか。そんなことをすれば、相手を倒すきっかけを出来るだけ沢山つかむために、友達が出来るだけ失敗することを望まざるをえなくなる。逆に、友人が立派な行動をした場合やうまくやった場合には、必ずや苦しんだり嘆いたり妬んだりことになる。59

「だから誰の教えか知らないが、こんな教えは友情を破壊するものだ。むしろ、友情を結ぶときにはよく注意して、いつか嫌いになるかもしない相手を好きにならないようにすべきだろう。スキピオ君の考えは、たとえいい友人に恵まれなくても我慢すべき、いつか仲違してやろうなどとと考えるべきではないということだ。60

第十七章 裏切りのない友情はほとんどない

「したがって友情の定義は次のようにすべきだと思う。つまり、性格に問題のない友人同士の間で、互いに自分の考えや願望を例外なく全て共有することである。たとえその願望があまり褒められないことであっても、そこに友人の生命や名声がかかっている場合には、その願望を助けるために多少道を外れることがあってもよい。ただし、大きな不祥事になる場合にはその限りではない。友情にも許せる限度があるからである。しかし、名声は無視すべきではないし、政治の世界では人望があることは大きな武器だと見なされている。それを甘言とへつらいでつなぎとめるのは恥であるが、美徳を発揮することで人気を得ることは拒否すべきではない。61

「ところで、友情についての話は全部スキピオ君のものなので、たびたびスキピオ君に戻るが、彼は世間の人々がどんなことにも注意深くて、ヤギやヒツジを何頭持っているかは言えるのに、友人が何人いるかは言えなかったり、家畜の購入には慎重なのに、友人選びには無頓着で選ぶ基準も持っていないととこぼしていた。

「もちろん、友人には真面目で信頼出来る人を選ぶべきだが、そういう人は非常に少ない。また、いい人かどうかは試さないとなかなか分からないものだ。しかし、付き合わないで試すことはできない。友情が始まる前に、どんな人か判断できないのである。つまり、友情は試すことができないのである。62

「だから賢い人は馬車の手綱を引くようにして、自分の好意の衝動を抑制する。そうして、馬を試してから乗るように、友人の性格をある程度試したうえで友達になるのである。例えば、相手が信頼できる人間かどうかは少しのお金で見分けることが出来る。しかし、少しのお金で裏切らない人でも大金では裏切る人もいる。友情よりもお金を優先するのを潔しとしない人なら見つかるかもしれないが、高い地位や官職や権力や財産よりも友情を優先する人はなかなか見つからない。地位をとるか友情をとるかのジレンマに立たされたときには、誰でも地位を優先するからである。出世の機会を無視するには人間の本性は弱すぎる。だから、友達を裏切って権力を手に入れた人は、仕方がなかったと自らに言い聞かすだけのことである。63

「だから、高い官職に就いたり国政に関与している人たちの間で真の友情を見つけることは難しい。だいたい自分の出世より友人の出世を優先する人がどこにいるだろう。出世は別にしても、人の不幸を共有することは多くの人にとっては非常に困難なことである。そこまで身を落とせる人を見つけることは容易ではない。エンニウスはいみじくも「苦しい時の友こそ真の友」と言ったが、逆に、多くの人は自分が幸福になったら友人を馬鹿にしたり、友人が不幸になったら見捨てたりして、自分が移り気で当てにならない人間であることを晒してしまう。だから、何があっても変わらぬ友情を保てるような人は、極めて稀な人間で殆ど神のような存在だと言わねばならない。64

第十八章 変わらぬ友情には誠実さが必要

「我々がいま問題にしている変わらぬ友情の元になるのは誠実さである。誠実さのない人はまったく当てにならない。その上で、率直で親切で自分と気が合う人、つまり同じ事に感動する人を選ぶのがよい。これらは全て誠実さに関係しているからである。複雑な人、回りくどい人は信用できないし、同じ事に感動しないし同情のない人は、誠実で心変わりのない人であるはずがない。それに付け加えて、人の悪口を言うのが好きな人、人の悪口を信じる人はだめである。これらは全ていま言っている心変わりのなさに関わることである。最初に言ったこと、つまり善人以外には友情はありえないというのは本当なのである。なぜなら善人(それはすなわち賢人と言ってもいい)は友達に対して次の二つのことを守れるからである。それは第一に嘘がないこと、つまり偽りを装わないことである(本心を顔に出して隠さずに怒るのが誠実なのである)。第二に人から聞いた悪口を無視すること、つまり友人を疑わず、友人が裏切っているとは思わないことである。65

「その上に会話の楽しさと優雅な物腰があればよい。これは友達付き合いにとって重要な味付けである。どんな場合にも真面目で真剣なのは大切だが、友達付き合いはもっとくつろいで遠慮がなく楽しいなものであり、愛想良くて親切なものなのである。66

第十九章 友人はいつまでも大切にすべきである

「しかしこれについては少し難しい問題がある。それは、新しい友達が出来てその人が友情の名に値する人である時、老馬より若い馬を可愛がるように、古くからの友達より新しい友達を大切にしてよいかという問題である。しかし、これは相手の人に失礼な迷いである。他の事と違って、友達に飽きることなどあるはずがないからである。古いワインと同じく、友情も古くなるほど魅力を増すものであり、『友情の何たるかを知るには、長年同じ釜の飯を食う必要がある』という格言は真実である。67

「といっても、新しい友情を拒否すべきと言うわけではない。ただしそれは、収穫時にちゃんと実りをもたらす穀物のように、果実を結ぶ見込みがある場合である。その場合でも、昔の友情はそのまま保つべきである。というのは、長年の習慣の力は大きいからである。実際、さっき挙げた馬の例でも、何の障りもなかったら誰でも若くて慣れない馬よりも乗り馴れた馬のほうを大事にする。しかし、このように命のあるものだけでなく命のないものでも習慣の力は強く、長年住んでいる場所なら山や森の中でも同じ場所にいるのが楽しいものである。68

「ところで、友情において何より大切なことは下位者と対等になることである。例えば我々のグループにはスキピオ君のようにずば抜けた功労者がしばしばいる。しかし、スキピオ君はけっしてピルスやルピリウスやムンミウスに対して偉ぶることはなく、自分より位の低い友人に対して対等に付き合っていた。彼の兄のクィントゥス・マクシムス(=前145年執政官)は非常に有能な人だったがスキピオ君と同じ地位ではなかった。しかし、スキピオ君は兄を上位者のように尊重した。また、スキピオ君は友人の全員が彼の助力で出世することを望んでいた。69

「これは誰もが見習うべきことで、人格と知性と幸運に恵まれた人は、それを自分の友人や近親者に分け与えるべきである。もし自分の親の身分が低かったり、近親者が知力や財力で自分より劣る場合には、彼らの財産を増やしたり彼らが出世する力になってやるべきだ。これは芝居の中で、自分の家系や出自を知らずに長いこと奴隷だった人が神や王の息子と分かった時に、自分が長年のあいだ親だと思っていた羊飼いを大切にしつづけるのと似ている。ましてそれが疑いもなく本当の父親である場合にはなおさらである。というのは、卓越した知性や人格によって手に入れたものは、自分の近親者に分け与えれば与えるほど、大きな喜びとなるからである。70

第二十章 友情で相手の邪魔をしてはいけない

「だから、友達や身内の間の親しい交際では、上位にある者は下位の者に合わせるべきだが、逆に下位の者も自分が知性や境遇や地位で仲間より劣っていることを卑下すべきではない。ところで、友人のために骨を折って親切にしてやったと思って、愚痴や不満をいつも言っている人がいるが、親切にしておいて愚痴を言うのは褒められることではない。親切にしてもらった人は忘れてはいけないが、親切にした人はそれを口にすべきではないからである。71

「だから、友達付き合いでは上位の者は自分からへりくだるだけでなく、下位の者を何とかして引き上げようとしてやるべきだ。というのは、自分が軽んじられていると思うと、友達付き合いを面倒がる人がいるからである。これは自分が軽んじられても仕方がないと思っている人によくあることで、そんな風に考えてはいけないと言葉だけでなく行動によって示してやる必要がある。72

「しかし、友人に対する親切は自分の出来る範囲で、しかも相手がその親切に耐えられる範囲ですべきである。いくら優れた人間でも自分の友達全員を最高位につけることは出来ない。スキピオ君はプブリウス・ルピリウスを執政官にすることは出来たが、その弟のルキウス・ルピリウスを執政官にすることは出来なかった。自分が他人に何をしてやれても、それは相手が耐えられることでなければならない。73

「誰を友達にするかを決めるのは、年をとって性格が充分固まってからにした方がいい。例えば自分が子供の頃に狩猟や球技が好きだったとしても、その時の遊び仲間を大人になってからも友達にすべきではない。そのやり方だと子供の頃に仲良くした乳母や家庭教師を誰よりも大切にすることになってしまう。彼らは確かに軽視すべきでないが、もっと別の方法があるはずだ。変わらぬ友情とはそういうものではない。性格が変わると好みも変わるので、そこから付き合いは疎遠になる。善人は悪人の、悪人は善人の友人になることがないのは、両者の性格と好みの隔たりが最も大きく開いているからにほかならない。74

「また、友に対する愛情が過ぎて相手の栄達の機会を邪魔することがよくあるが、それは避けるべきである。また芝居の例で言えば、ネオプトレモスの家庭教師リュコメデスは涙ながらにネオプトレモスの出征を止めようとしたが、もしネオプトレモスが彼の言葉に従っていたらトロイは攻略できなかったろう。大きな仕事が舞い込んできて友人と別れるしかない事はよくあるものだ。それを別れに耐えられないからといって相手の仕事を邪魔するのは、性格の弱い女々しいことであり、まさに友情に相応しい人間のすることではない。75

「要するに、友人に何を求めるのか、友人のどんな求めに従うべきかを、常に考えなければならいのである。

第二十一章 真の友人とは損得抜きの友人である

ところで、友人と別れるときに悲惨な事が起きるのはしばしば避けられないことである(これまでは賢人の友情の話だったがここからは一般人の友情の話になる)。たびたび友人が悪事を犯してその影響が直接あるいは第三者を通じて自分に降りかかってくることがある。そんな友人とは付き合いを減らしていって別れるのがよい。その場合、カトー老人の話では、すっぱり断ち切るよりは、徐々に解消したほうがいい。ただし、耐え難い不正行為が突発した場合には、急いで別れるのが唯一正しい方法である。76

「一方、性格や好みが変わったり、支持政党が違ってくるのはよくあることである(ついさっき言ったように、今は賢人ではなく一般人の友情の話をしている)。その時には、単に友達関係を終わらせるだけで、相手を嫌いになったと思われないようにしないといけない。かつて仲良くしていた相手と喧嘩するほど見苦しいことはない。君たちも知っているように、スキピオ君は僕のためにクィントゥス・ポンペイウス(=既出)との友達付き合いをやめた。また国政についての意見の相違で私の同僚のメテッルス(=前143年執政官)とも袂を分かった。彼は両方共に威厳と節度をもってそうしたが、恨みを買うことはなかった。77

「だから、まずは友人と不和が生じないように努力すべきである。しかし、もし不和が生じたら、友達関係が消滅したと思われるようにすべきで、壊されたと思われてはいけない。つまり、友達関係が深刻な敵対関係に変わらないようにしないといけないのだ。敵対してしまうと悪口や非難や暴言が生まれてくる。しかし、これも耐えられるなら耐えて、あくまで昔の友情に敬意を払うべきである。悪いのは侮辱したほうであって侮辱された方ではないからである。

「要するに、こんな侮辱や災難から身を守るためには、友人として相応しくない人をあせって友人にしないように充分用心するしかないのである。78

「友人として相応しい人とは、友人にされるだけの理由を自分自身に持っている人である。しかし、そんな人はめったにいないし、そもそも何であれ素晴らしいものは稀である。どの分野でも全ての点で完璧なものを見つけるほど難しいことはない。しかし、世間の多くの人たちは善い事とはすなわち得になることだと思っているので、友人を選ぶ時にも家畜の場合と同じく、最も得になると思う人を友人にしたがるのである。79

「だから彼らは、損得抜きの友情、最も美しくて最も自然な友情を知らない。だから、本当の友情にどんな価値があるか、それがどれ程大きいかを知らない。人はそれぞれ自分自身を愛する。それは得をするためではなく、自分自身がいとおしいからである。これと同じ気持ちが友人に移し替えられない限り、真の友人は決して見つからない。真の友人とは、言わばもう一人の自分のことだからである。80

「そして、自己愛は鳥にも魚にも、家畜にも野獣にも見られ(これはあらゆる動物が生まれつき持っている)、次に、同じ種類の動物は互いに求めあって仲間になろうして、それを人間の愛情に似た気持ちで行う。だから、このような事が人間に起こるのは尚更のことである。人は自分自身を愛するだけでなく、他者を求めてその心と自分の心が交じり合って一つになろうとするからである。81

第二十二章 友情は美徳の精華でなければならない

「しかし、多くの人は自分には成れないような人を友人にして、自分が与えられないものを友人から求めようとする。これは、恥知らずとまで言わなくても、間違ったことである。まずは自分自身が善人となってから自分に似た人を求めるのが正しい。そういう場合にこそ、さきに私が言った変わらぬ友情が得られるのである。そんな友情に結ばれた人たちは、ほかの者たちが自分の欲求ばかりを追い求めるのに対して、自分の欲求を制御できるだろう。そうなれば、平等と正義を尊ぶようになって、互いのために何でも出来るようになり、正しいこと、立派なこと以外を互いに求めなくなるのである。また、彼らは互いを大切にして尊敬し合うようになる。友情から尊敬を取り去ることは、友情の最も美しいものを取り去ることになる。82

「だから、友達同士ならどんな欲望でも過ちでも全てが許されると考えるのは間違っている。友情とは自然が与えた美徳の推進力であって悪事の言い訳ではない。人間は一人ぼっちでは高潔に生きるという最高の目標を実現できないが、もう一人の人間と一緒になれば実現できるのである。現在であれ過去であれ未来であれ、そのような友情が人々の間に見出されるなら、それは自然がもたらす最高善に導く最も素晴らしい友情だと見なすべきである。83

「このような友情には、人々が追求すべきもの、すなわち誠実さと名誉と心の平静と喜びがすべて含まれている。これらを持っている人は幸福であり、これらを持たない人は幸福にはなれない。そして幸福こそはもっとも素晴らしいものなのである。だから、もし幸福を手にしたければ、美徳に励まなければならない。美徳がなければ友情も何も望ましいものを手に入れることはできない。美徳をないがしろにしておいて、自分は友達に恵まれていると思っている人は、何か大きな不運に見舞われて友達を試すことを余儀なくされた時に、はじめて自分の過ちに気づくのである。84

「だから、何度も言わせてもらうが、友達になってからあれこれ考えるのではなく、よく考えてから友達になるべきなのである。我々は多くのことをいい加減にしてひどい目に会うが、特に友達作りではひどい目にあうことが多い。あとで考えても遅いのである。これこそ昔の格言に言う「あとの祭り」なのである。というのは、我々はしばしばお互いに長い交際で親交を深めたあとで、急に不都合が出てきて友情を絶つことになるからである。85

第二十三章 人間は孤独では生きられない

「友情というこれほど大切なことに、これほど無頓着でいることはもっと批判されるべきである。なぜなら、友情はこの世の中で誰もが異口同音に役に立つと言っている唯一つのものだからである。美徳でさえ多くの人たちに軽視されて、見栄だとか見せかけだと言われている。財産もまた質素な生活を好んで少しの物で満足する多くの人たちに軽蔑されている。名誉欲に燃える人もいるが、多くの人はこれほど無意味で虚しいものはないといって馬鹿にしている。同様に、ある人にとって素晴らしいものでも、多くの人には意味のないものがほかにもある。ところが、友情だけは全ての人の意見が一人の例外もなく一致している。政治に携わる人も、哲学や科学にいそしむ人も、私的な事業を営む人も、最後に、快楽に全てを委ねる人も皆一致している。つまり、もし幾分でも自由人にふさわしい生き方をしたければ、友達のいない人生は生きるに値しないと。86

「実際、どういうわけか誰の人生にも友情は入り込んでくる。どんな生き方をしても友達付き合いはついてくるのである。

「性格が粗野で人付き合いが嫌いな人、有名なアテネのタイモンのような人でも、自分の胸の中の本音が言える相手を探さないではいられない。その意味は次のような状況を考えると分かるだろう。ある神様が我々を人間社会から連れ去って、どこか人のいない場所に移して、生きていくのに必要なものは何でも豊富に与えるが、人に会う可能性だけを完全に奪い去る。そういう状況に耐えられる鉄のような心をもっている人間がいるだろうか。人は孤独になるとどんな楽しみも味わえなくなるのだ。87

「だから、タレントゥムのアルキュタス(=ピタゴラス派の哲学者、プラトンと同時代の人)がよく言っていたことは本当なのだ。それは我々の父祖たちが若いころに老人たちからよく聞いた話で、「もし人が一人で空に登って宇宙の営みと星の美しさを見ても、その感動は味気ないものだろう。だが、もし誰か話し相手がいたら、その感動は最高の楽しみとなる」というものだ。それほど人間は生まれつき孤独を嫌うものであり、いつも何かの支えを必要としている。そして、その最も優れた支えが親友なのである。

第二十四章 友人の忠告は大切にすべし

「ところが、これほど多くの兆候によって、人間が生まれつき何を求めているかは明らかなのに、どういうわけか我々は目を向けようとしないし耳を貸そうとしないのである。

「ところで、友達付き合いは複雑で、不信感をもったり腹が立ったりすることが多い。賢人はそれをうまく避けたり軽く見たりして我慢することができる。しかし、役に立つ友情、誠実な友情を維持するためには、不快なことでも一つだけは我慢しなければならない。それは、善意で行われた友人の忠告や批判を快く受け入れることである。88

「喜劇『アンドロスの女』の中で私の知人(=テレンティウス)は『友達を作りたかったら調子を合わせておくに限る。本音を言ったら嫌われる』(=68行)と言ったが、なぜかこれは当たっている。本当のことを言って嫌われて友人を失うとすれば、たしかに真実とは困ったものである。一方、何でも相手に合わせて、過ちを見逃して友人が破滅するのを放置するのはもっと困ったことである。真実を拒否して友人のお世辞を信じて過ちに陥る人が一番罪が深い。

「だから、いずれにしろこの問題では、注意深く理性的に行うのが大切である。まず忠告は辛辣にならないように、批判は侮辱的でないようにすべきである。テレンティウスの言葉を使うなら、調子を合わせることの中には親切心が含まれているべきだし、人を悪事に誘うお追従はやめるべきである。お追従は友人にすることではないし、奴隷ならぬ自由人がすることでもない。それは独裁者と暮らす人間の生き方であって、友人と暮らす生き方ではないのである。89

「友人が告げる真実にさえ耳を傾けられないほどに、真実に耳を塞いでいる人には救いがない。いつものことだが、カトー老人の次の言葉は鋭い。「やさしく見える友人より辛辣な敵の方が役に立つことがある。友人は決して真実を言わないが、敵はしばしば本当のことを言うからである。」さらに、奇妙なことには、忠告された人は怒るべきことに怒らず、怒るべきでないことに怒る。というのは、自分の落ち度には腹を立てずに、忠告されたことに腹を立てるからである。本当は、その反対に自分の落ち度を嘆いて忠告を喜ぶべきなのである。90

第二十五章 世辞や追従は友情とは無縁である

「忠告したりされたりすることは真の友情に相応しい。忠告は辛辣にではなく率直に行い、聞く時は怒らずに辛坊強く受け入れるべきである。逆に、追従やお世辞やおべっかほど友情にとっては有害なものはない。こうした行為はどんな言葉で呼ぼうが悪いことである。そんなことをするのは軽薄な偽善者であり、人の意を迎えるためには何でも言う人、本当のことを言う気持ちのない人である。91

「どんな場合でも偽善は悪いことだが(真実に対する判断を狂わせてしまうからである)、特に友情とは相容れないものである。なぜなら、偽善は真実を損なうからである。そして、真実がなければ友情とは呼べなくなってしまう。友情の意義は人々の心を一つにすることである。それなのに、もしそれぞれの人間の心に一貫性がなく、変わりやすく当てにならないなら、どうしてそんなことが出来るだろうか。92

「ところが、人の言うことや顔色や頷きにまで合わせてころころと言うことを変える人ほど当てにならないものはない。

 『旦那が否定すれば、こっちも否定する。旦那が肯定すれば、肯定する。要するに、どんなことにも合わせることにしたのさ。』(『宦官』(252行))

「これもまたテレンティウスの言葉で、食客の台詞である。こんな人を友人にするのは愚かなことだ。93

「しかし、地位も財産も名声もあるのにこの食客に似た人が多い。彼らのおべっかは愚かさに権威が加わるで余計に始末が悪い。94

「真の友人と単なるご機嫌取りを見分けるのは、あらゆる虚偽と真実を見分けるのと同じく、よく注意すれば出来ることである。教養のない人たちが多い民会の聴衆も、信用できない人気取りと、堅実で真面目で尊敬に値する市民との違いは分かるものである。95

「最近ガイウス・カルボは護民官を再選させる法律を提出したときに(=前131年)、どんなお世辞を使って聴衆の耳に忍び込んだことか。反対演説をしたのはスキピオ君と私だった。だが、私のことではなく、スキピオ君のことをもっと話そう。まったく、彼は何と威厳のあったことか、彼の演説は何と重みのあったことか。彼は国民の一員というよりは、国民の指導者と言うべきだった。君たちは居合わせていたし、彼の演説は出版されている。この民衆向けの法律は民衆の投票によって否決された。

「私の話に戻ると、君たちが覚えているように、スキピオ君の兄のクィントゥス・マクシムス(=既出)とルキウス・マンキヌスが執政官の年に(=前145年)、ガイウス・リキニウス・クラッスス(=時の護民官)が提出した祭司を選ぶ法律がどれほど民衆に迎合的だったことか。それは神祗官団の選出権を民衆の手に移そうとするものだった。しかも、この男が初めて広場に向かって民衆に直接話しかけることを始めたのだ。しかし、彼の大衆受けする演説は、私の反対演説と、人々の神々に対する畏怖のためにたやすく敗れたのである。それは、私が執政官(=140年)になる5年前で法務官の時である。この提案は権力の力によってではなく、事の重大さによって否決されたのである。96

第二十六章 巧みな胡麻すり屋には警戒すべし

「偽りや見せかけが最も成功する舞台や演壇の上でさえも、いったん真実が明らかにされた時には、真実は尊重される。そうだとすれば、全てが真実によって吟味される友情の場合には、いったいどうすべきだろうか。それは互いの胸の内を見せ合うことである。さもなければ、本心が分からないので、信用できず、愛しあうことが出来ない。

「もっとも、お世辞がどれほど有害であるにしても、それを聞いて喜ぶ人がいないぎり、誰にも害を与えない。ということは、お世辞屋に耳を貸す人は、自己愛の強い自惚れ屋ということになる。97

「確かに美徳は自己愛の一つである。美徳とは自分自身のことをよく知ることであり、美徳のある人は自分がどれほど愛すべきかを知っているからである。しかし、ここで問題にしているのは美徳ではなく、美徳の評判なのである。そして、多くの人は美徳があることより、そう見えることを望んでいる。お世辞が好きなのはそういう人たちであり、相手の作り話が自分の望みどおりだと、その作り話を自分の美徳の証拠だと思うのである。

「しかし、片方は真実を聞く気はないし、片方はいつでも嘘を言う気でいるような関係は、友情でもなんでもない。あの軍人が自惚れ屋でなかったら、あの喜劇の食客のお世辞は見事だとは思えなかったはずだ。軍人の『花魁はわしに大いに感謝しているのかね?』という質問に対して、食客は『大いに』と答えれば充分だったが、『大変なもんです』と言ったのである。お世辞屋は相手が強調して言って欲しがっていることをいつも大げさに言う。98

「したがって、ご機嫌取りの嘘はそういう嘘を望んでいる人に効果があるということになる。しかし、真面目な人も巧みなお世辞に引っかからないように注意した方がいい。公然たる胡麻すり屋には、よほどの愚か者でないかぎり気づくものだが、巧みにこっそりとご機嫌取りをする人に取り込まれないようにするには、注意していないといけない。というのは、そういう人はしばしば相手と対立しながら機嫌を取るので、簡単には気づかれないからである。つまり喧嘩をするふりをしながら相手の機嫌をとるのである。そして最後に降参して相手に勝たせるのである。こういうインチキな手を使って相手の方が自分よりうわ手だと思えるようにするのだ。しかし、人に騙されることほど屈辱的なことはない。だから、こういう事態を避けるには、尚更警戒していないといけない。

『今日お前はまんまとこのわしをこけにしたな。愚かな年寄りの道化師以上にわしを笑い者にしよった』(カエキリウス『跡継ぎ娘』より)99

「つまり、芝居の中でももっとも愚かな人物は警戒心がなく信じやすい年寄りだということになる。

「ところで、完璧な人間つまり賢人たちの友情から(人間にあり得るような賢さのことを私は言っているのだが)いつのまにか軽薄な友情に話がそれてしまったようだ。だから、最初に戻ってそろそろこの話に決着をつけよう。

第二十七章 スキピオの思い出

「ファンニウス君とスカエウォラ君、私に言わせれば、友情を生み出してそれを維持するのは美徳なのだ。協調性と安定性と一貫性は美徳の中にあるからだ。美徳が外に現れて、それが光を発して、さらに他人の中の同じ光に気づいてそれを見つけた時、美徳はその方に近づいて行き、互いに相手の中にある光を受け入れる。ここから、愛情(アモル)や友情(アミキティア)が燃え上がる(アモルとアミキティアという言葉は両方ともアモーという語からは来ている)。一方、愛する(アモー)とは損得抜きで人を愛することに他ならない。利益はたとえ求めなくても、友情から自然に生まれて来るものである。100

「こうした友情で私(=前188~。140年執政官)は若い頃にアエミリウス・パウルス、大カトーとも、スルピキウス・ガルス、プブリウス・ナシカ(=前227~171年)、スキピオ君の義理の父のティベリウス・グラックス(=グラックス兄弟の父、前217~154年)といった老人たちと親しくなった。この友情は私と小スキピオ、ルキウス・ピルス(=前136年執政官)、プブリウス・ルピリウス(=前132年執政官)、スプリウス・ムンミウスのような同年輩の間ではもっと明らかである。そして今度は老人となった私が若者たちとの友情を楽しんでいる。例えば、君たちがそうだし、クィントゥス・トゥベローがそうだ。プブリウス・ルティリウス(=前105年執政官、158~78年)やアウルス・ウェルギニウスら若者たちとの友情も楽しい。この世の中は世代が次々に交代していくのが定めだから、一緒にスタートを切った同世代の同じ人たちと共にゴールに到達できることが最も望ましい。101

「しかし、人間世界は脆く移ろいやすいものなので、自分が気に入るような相手、自分を気に入ってくれる相手を常に探し求めなければならない。というのは、愛情や好意を取り去ったら、人生の喜びが失われてしまうからである。

「私はスキピオ君を突然失ったけれども、私の心にはスキピオ君は今も生きているし、これからも永遠に生きている。私はあの男の美徳を愛したのであり、その美徳は消えないからである。私は彼の美徳をよく知っている。彼の美徳は私の眼前から離れないだけでなく、後世の人たちの目にも燦然と輝くはずである。希望と勇気をもって何か大きなことを始めようとする人は、必ずや彼の名声と彼の姿を手本として心に留めることだろう。102

「私は運命の手から授かったどんなものも、自分の性格によって手に入れたどんなものも、スキピオ君の友情と比べられるものはない。友人同士の私たちは国政について意見が一致していたし、私生活のことも相談し合ったし、余暇をともに楽しく過ごした。私の知る限り、私はどんな些細な事でも彼の感情を害したことはなかったし、私が聞きたくないことを彼の口からは聞いたこともなかった。私たちは同じ家に住み、同じ食事を分けあった。軍隊にも共に入隊し、外国旅行も共にし、田舎暮らしも共にした。103

「余暇の時間には私たちはいつも人目を離れて二人きりになって何かを学んで過ごした。これらの思い出がもし彼の死と共に失われたなら、あれほど仲の良かった友人を失った寂しさに私は耐えられないだろう。だが、彼といっしょに暮らした日々は消えることはない。むしろそれは私の思い出の中でますます大きくなっている。だだし、それが完全に消えたとしても、私のこの年齢は大きな慰めである。なぜならこの寂しい気持ちが続くのも、もう長くはないからである。それに、どんな大きな苦しみも短い間なら耐えられる。

「以上が私の友情についての考えだ。君たちは、次のように考えるのがいいだろう。美徳は何より大切なものであり、美徳がなければ友情はありえないが、美徳を除けば友情ほど素晴らしいものはないと。」104(終わり)




Translated into Japanese by (c)Tomokazu Hanafusa 2013.11.17-2019.12.17