(2) ナポリ近郊、海沿いの町。キケロはここに別荘を持っていた。
(3) ティトウス・ポンポニウス・アッティクス。前110-32年。幼少からの友。キケロとウァロとの仲を取り持とうとしたのはアッティクスである。
(4) マルクス・テレンティウス・ウァロ。前116-27年。アッティクスのすすめにもかかわらず、キケロは本書をウァロに棒げることには慎重であった。前45年、アッティクスに宛てた手紙の中でキケロは言う。13・25「君の責任でウァロに書物を渡してくれるよう頼んだことで、そんなに君が驚ろいている理由は何なのか。今でもためらっているのなら、教えてくれ。これほどよくできた作品はない。ウァロに届けたいと思う。ウァロが望んでいるのならなおさらだ。けれどもウァロは、君も知るとおり、<怖ろしい人で、時として咎なき人を咎めかねない(『イリアス』第XI巻654行)>のだ。」
(5) 『トクスクルム談義』I・3・6「自分の考えを整理することも、明瞭にすることもできず、読者をたのしませ引きよせることもできないのに、書き物に記すとは、時間と書物を節度なく濫用する者のやること。」
(6) 前47―45年に執筆され、43年キケロの死ぬ前に公刊されたウァロの著作『ラテン語』には「ことばの起源に関する教えについてキケロに宛てた」との副題がそえられている。
(7) ルキウス・スクリボニウス・リボ。グナエウス・ポンペイウスの子セクストゥス・ポンペイウスの義父。かつてポンペイウスを執政官に擁立するにあたって画策した者の一人。友人への手紙 I・1・3。『アカデミカ』執筆の前年キケロとともにクマエに来ている。同上、VII・4。
(8) 本書15節参照。
(9) ガイウス・アマフィニウス。キケロより年長の同時代人。エピクロスの哲学をラテン語で紹介した著作は広く読まれた。『トウスクルム談義』VI・3・6「アマフィニウスの書が公けになって多くの人々が感動し、その説く教えに賛同した。理解がきわめて容易であったということもあるし、快楽の魅力に引かれたということもあるし、さらには他によい書がなかったので、ちょうどあったその書を手にしたということもある。」
(10) 不詳。この箇所以外に資料はない。アマフィニウスと同類の人物とキケロが考えていることは確かである。『トウスクルム談義』IV・3・7「アマフィニウスの後、同じ立場に立つ多くの人々が多数の書物を著し、イタリア全体を征服した。
(11) 弁証学、ディアレクティカ。弁論学、レトリカ。ディオゲネス・ラエルティオスは論理学を弁証学と弁論学に区分する考えがストア派内部にあったことを報告している(VII・41)。ここでキケロが用いている語によって説明するなら、弁証学は論ずるための知識であり、弁論学は話すための知識である。
(12)キケロは、エピクロスが弁証学を軽んじ、卑近なことば使いをしたと考える(『目的について』II・6・18。II・4・12。)
(13) アリストテレス『形而上学』I・4。「動がどこからどのようにして存在するものに具ることになるのか、原子論者たちも他の人々と同じように、気付かぬままであった」キケロ『宿命について』20、21参照。
(14) ストア派の創始者。前335-263頃。
(15) 次のようなエピクロスのことばが伝えられている。「味覚による快、性愛による快、美しい音声や形による快を取り去るなら、いったい何を善と考えればよいのか、私としては見当もつかない(ディオゲネス・ラエルティオス、X・6)。
(16))プラトン『ティマイオス』47B「神々から死すべきものどもに贈られたもので、哲学ほど大きな善はなかったし、またないであろう。
(17) ルキウス・アエリウス・スティロ。前154-90年頃。『ブルトゥス』56・205で次のように言われている。「彼はあらゆる方面に卓越し、ローマの騎士階級でもとくに栄ある家柄の人で、しかもギリシア、ラテンの書いずれにも学識深く、ローマの歴史に関しては、人間の発明したことも行なったことも、そして昔の記録にも通じていた。その知識を、才能学識ともにすぐれた友ウァロは本人から直接受け取るとともに自分でも増し加え、量、内実ともにアエリウスをしのぐ書として公けにしたのである。」
(18) ガダラのメニッポス。前三世紀前半。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、キュニコス派の人で、「その書は笑いに満たされている(VI・8・99)」という。もっともその「笑い」はたんなる軽口によるものではなく、哲学的問題の軽妙な表現によるものであったらしい。
(19) 前47年完成し、全四十一巻から成るウァロの最大の著作であるが現存しない。アウグスティヌスによれば、前半二十五巻では人事が、後半十六巻では神事が扱かわれていた(『神の国』VI・3)。
(20) クィントウス・エンニウス。前239-169年。
(21) マルクス・パクゥイウス。前220-130年頃。エンニウスの甥。『ニプトラ』の中でオデュセウスが受けた傷を耐える場面を取り上げ、キケロはそのものごとに動じない態度の表現ゆえに、パクゥイウスはソポクレスよりすぐれていると論じている(『トウスクルム談義』II・21・49)。
(22) ルキウス・アッティウス(又は、アッキウス)。前170-90年頃。キケロも知っていた(『ブルトゥス』107)。
(23) ヒュペレイデス。前389-322年頃。アテナイの弁論家。
(24) デモステネス。前384-322年。アテナイの弁論家。
(25) 前45年の二月、愛する娘トゥリアが死んでいる。
(26) マルクス・ユニウス・ブルトゥス。前85-42年。カエサルを殺したことで有名なブルトゥス。キケロは『目的について』、『神々の本性について』、『トゥスクルム談義』、『ブルトゥス』を彼に捧げている。
(27) アスカロンのアンティオコス。前120年頃生。前79-78年、アカデミアの学頭。キケロはそのもとで六ヶ月を過した(『ブルトゥス』90・306)。アリストンはその後を継いで学頭となった。キケロはアリストンを「ぼくの友人にして客人」と呼んでいる(『ブルトゥス』97・332)。
(28) アンティオコスはカルネアデス、フィロンに反対し、プラトンのアカデミアに戻ることを主張した。
(29) ラリッサのフィロン。前160-80年頃。『ブルトゥス』90・306 「アカデミアの学頭フィロンがミトリダテス戦争のためアテナイの有力者と共に祖国を逃れてローマに来たとき(前88年)、ぼくは哲学にすっかり夢中になってしまった。」
(30) 作用するもの」「作用されるもの」という二つの原因により、世界を説明しようとしたのはストア派であると言われる。たしかに次のような証言が見出される。「万物の根源は二つ、作用するものと作用されるものとであるというのが彼らの考えである。作用されるものとはいかなる性質も持たないもの、質料であり、作用するものとは質料に内在するロゴス、神である。一(ディオゲネス・ラエルティオス、VII・134)ストア派の成立は前三世紀半ば、アンティオコスの時代より約一世紀遡る。したがって、「作用するもの」「作用されるもの一という二つの原因により世界を説明したとされるアカデミア派は、実はすでにストア派の影響を受けたアカデミア派であり、キケロが考えているように、そしてまたおそらくはアンティオコスが考えていたであろうように、ストア派以前のアカデミア派ではないとも考えられる。このような立場から見るなら、ウアロの口を通してキケロの説明する古アカデミア派、すなわちストア派以前のアカデミア派の学説は、古アカデミア派を知る資料としては信頼できないことになろう。しかし果たしてそうであろうか。ストア派が成立した頃のギリシア哲学を直接伝える資料は現存しない。したがってこの問題について軽卒に断言することはできない。しかし、「作用するもの」「作用されるもの」という二つの原因を措定することはストア派の独創というより、ストア派の成立した時代のギリシア哲学の共通理解であり、ストア派もこの共通理解をそのまま受け入れていると推定することも可能である。「作用するもの」「作用されるもの」という区分はプラトンにすでに認められる。たとえば、『ピレボス』26E-27A。この箇所でプラトン自身は「作用されるもの」を「原因」であるとは認めていない。しかしアリストテレスはプラトン哲学について次のように言っている。「プラトンは(四つの)原因のうち二つだけを使った。すなわち、〈何であるか〉という意味での原因と、質料という意味での原因である。」(『形而上学』第I巻6章988a1-10)さらにまた、アリストテレスの四原因もそれを具体的なものとして考えるならば、目的因、形相因、作用因は一つの「もの」に還元される。したがって、アリストテレスとプラトンを共に理解するための共通項として、「作用するもの」「作用されるもの」という対が一般に用いられたと推定することは十分に可能である。ここでキケロが用いているのも、そのような理解の共通項としての「作用するもの」「作用されるもの」である。
(31) プラトンは万有を区分し、イデア、感覚により捉えられるものに次いで場を挙げる。「三番目には場、常にあって滅びることなく、生成するものすべてに居所を与え、そのもの自体は感覚されることなく、真正ならぬ推論によって触れることができるのみで信ずる対象にさえならないのであるが、しかし<あるものはすべてどこかにあるのでなければならない>とか、<天にも地にもないようなものは、そもそもありはしないのだ>とか言うとき、ぼくたちは夢ごこちにもそちらに目を向けているのだ。」(『ティマイオス』52A-B) 質料を場の意味に解している点でアンティオコスはプラトンに近い。しかしそのような場が、感覚によって捉えられるものを構成しているという考えはプラトンのものではない。
(32) 質料と力とは現実に存在しているものというより、現実に存在しているものの一種の構成要素とでも呼ぶべきものである。現実に存在しているものは質料と力とから成っているが、質料なしの力、力なしの質料といったものは現実には存在しない。質料、力は、現実に存在しているものの現実性の根拠として存在している。さらにまた、「構成要素」という表現も厳密には正しくない。現実に存在しているもののそれぞれが、それぞれの「質料」それぞれの「力」を有しているわけではない。質料、力はいずれも、個々のものが有する「質料的構成要素」「力的構成要素」を宇宙的規模で統一的に捉えたものである。ディオゲネス・ラエルティオスはアレクサンドリアのポタモン(前一世紀頃)の説を紹介して言う。「万物の根元は質料と作用するもの、性質と場所であるとした。すなわち、〈そこから〉〈それによって〉、〈どのような〉〈そこにおいて〉。」(I・21) ポタモンの真意は不明であるが、ここで二つずつ対にされた根源は、その内前二つが宇宙的規模での質料と力、後二者は個々のものにおける「力的構成要素」と「質料的構成要素」を告げていると解釈することができよう。
(33) 「根源」と訳した語initiaがギリシア語アルケの訳であるとすれば、キケロはアルケと元素(ストイケイア=エレメンタ)とを区別していないことになる。アリストテレスにおいては物体のアルケが元素と呼ばれていた。
(34) アリストテレス『気象論』IV・2 378b10-13「元素の原因として四つのものが確定し、これらの組合せによって四つの元素が存在するということになった。内二つは作用するもの、すなわち熱と冷であり、他の二つは作用されるもの、乾と湿である。」『生成消滅論』II・2-4によれば、元素とその原因との関係は次のようである。
熱 | 乾 | 火 |
熱 | 湿 | 空気 |
冷 | 湿 | 水 |
冷 | 乾 | 土 |
(35) アリストテレスは『天界論』I・3で、天体の永遠性から天体を構成する元素の永遠性を導き、それは生成消滅する四元素とは別の元素であろうと推定している。そしてまた、古来アイテルと呼ばれてきたのはこの元素が充満した場所であろうと述べている。しかしながら、ここでキケロが紹介しているような見解は、現存するアリストテレスの著作以外のところに見出される。『トゥスクルム談義』I・10・22「アリストテレスは、すべてそこから生ずる周知四つの根源を認めたうえで、精神を構成している第五のものがあると考えた。考えること、配慮すること、学ぶこと、教えること、何かを発見し記憶すること、さらに愛すること、憎むこと、欲すること、怖れること、怒ること、喜ぶことなどは、四元素のいずれにも具わっていないと考えて第五のものを付け加え、名がなかったので精神にあたるものをエンデレケイア(=連続体。エンテレケイア=完全現実態との混同か。)と新らしい名で呼んだ。連続した永遠の運動という意味であろう。」
(36) 「ストア派、エピクロス派は、場所と場とは違うと考えた。場所はその一部は物体に占められているが、また一部は占められていないからである。」(ガレノス『哲学史』31 ed.Diels )ここでキケロはアカデミア派と他派との区別を意識していると考えられる。アカデミア派は、物体に占められていない場(所)というものを認めないことにより、場と場所との区別を回避したとされているのである。
(37) 「知る」ということが成立するためには、知の対象に何らかの同一性が具わっていなければならない。ところが感覚認識の対象はいかなる同一性も具えていない。したがって感覚認識は対象にあたるものがない認識、「認識しているもの」だけがあって「認識されているもの」がない認識であることになる。このような認識を憶測と呼ぶのである。
(38) ディオゲネス・ラエルティオス、V・36「アテノドロスが『ペリパトス派』第VIII巻に記しているところによれば、テオプラストスはエペソスの人で、毛織物縮充師の息子である。最初、祖国のアルキッポスに学び、次いでプラトンに学んだ後、アリストテレスのもとに移った。アリストテレスがカルキスに退いた後学校を引き継いだのは第114回オリンピア祭年のときである。」 テオプラストスは前322年から二十数年間にわたってリュケイオンの学頭を務めた。
(39) ディオゲネス・ラエルティオス、V・58「彼(テオプラストス)から学校を受け継いだのはランプサコスの人、アルケシラオスの子ストラトンであった。・・・・きわめて有名な人で自然学者として名を馳せたがそれは自然研究についてなら誰からも細心の注意を払って学んだためである。・・・アポロドロスが『年代記』に記しているところによれば、第123回オリンピア祭年(前288-284年)に学頭となり、一八年間にわたって学校を統卒した。」 キケロ『神々の本性について』I・13・35「また彼(テオプラストス)の弟子で、自然学者と呼ばれるストラトンの説にも耳をかすべきではない。神的力は全体として自然に内在し、生み育て衰えさせる原因ではあるが、知覚も姿も一切持っていないと考えているからだ。」
(40) ディオゲネス・ラエルティオス、IV・1「プラトンの後を継いだのはエウリュメドンの子、アテナイ人スペウシッポスで、ミュリヌウス区出身、プラトンの妹(あるいは姉)ポトネの子である。第108回オリンピア祭年(前348-343)から八年間、学頭であった。
(41) ディオゲネス・ラエルティオス、IV・6「クセノクラテス、カルケドンの人、アガテノルの子。青年の時からプラトンに学び、シケリアにも同行した。」IV・14「スペウシッポスの後を継ぎ、二五年間学校を統卒した。第110回オリンピア祭年の二年目(前339/338年)、リュシマキデスがアルコンの年からである。」
(42) ディオゲネス・ラエルティオス、IV・16「ポレモンはピロストラトスの子、オイア区出身のアテナイ人であった。・・・・第116回オリンピア祭年(前316-312年)クセノクラテスから学校を引き継いだ。」
(43) ディオゲネス・ラエルティオス、IV・21「クラテス・アテナイ人、父はアンティゲネス、トゥリア区出身、ポレモンの弟子にして愛人。ポレモンから学校を引き継いだ。」
(44) ディオゲネス・ラエルティオス、IV・24「ソロイの人クラントルは祖国でも注目されていたが、アテナイに移り、ポレモンと共にクセノクラテスに学んだ。」IV・27「ポレモンやクラテスより先に亡くなった。」
(45) ディオゲネス・ラエルティオス、IV・28「アルケシラオス(=アルケシラス)、セウテスの子、〈あるいはアポロドロス『年代記』第III巻によればスキュテスの子〉、アイオリスのピタネ出身。中期アカデミアの創始者で、反対の論が成立することを理由に断言を控えた最初の人である。」IV・45「アポロドロスが『年代記』で述べているところによれば、第128回オリンピア祭年(前268-264年)のとき盛年であった。
(46) キケロ『目的について』II・14・45「誠実(honestum)ということは、あらゆる効用を離れ、またいかなる報酬、成果をともなわないとしても、それ自体により賞讃されるのが正当であるようなものということだ。」honestumという語自体、「賞讃に値する」というニュアンスを含む。IV・18・48 「すべての善は賞讃に値する。すべての賞讃に値することは誠実である。したがってすべての善は誠実である。」 ゼノンはこの推論の、大前提をピュロンとアリストンから、小前提をポレモンから受け継いだとキケロは考えている。
(47) 『目的について』IV・8・20 健康、苦痛のない状態、目をはじめとする感覚器宮の完全性などは、その反対の状態との間に選択の余地がないから、善ではなく「優先的なもの」であり、そのようなものを具えた生は「求めるべき」生ではなく「選ぶべき」生である、というゼノンの説が反駁されている。キケロが用語の相違にすぎないと言うのはこのようなゼノンの区別である。
(48) 『目的について』III・6・20「それ自体が自然本性にかなっているか、あるいは結果として自然本性にかなったことをもたらすようなことは、価値を認めるべきことであり、価値(これをaxiaと呼んでいる)を認めるにふさわしい、これと反対のことは価値を認めるべきでないことである、と彼ら(ストア派)は言う。このように自然本性にかなったことはそれ自体のゆえに選ぶべきこと、反対のことは斥けるべきことであるという原則を確立するとき、第一の務め(kathekonのことだ)は自分を自然な状態に保つことであり、第二の務めは自然本性にかなったことを保ち、反対のことは斥けること・・・」 務めofficiumを中間的なものとする主張は、徳はそれを具えているだけで善いという主張と連動している。価値を認めるべきはことがらそのものresであって、その活用ususではないからである。
(49) ゼノンは「捉えられうるもの」を次のように定義した。「その由来する対象から、その由来しない対象からではありえないようなものとして刻印され形成された表象が、捉えられうるものである。」(『アカデミカ前書』6・18)〈表象〉visumとは「魂の内に形成されたかたどり」(アルニム『古ストア断片集』I・59)である。したがって、何らかの対象を正しく知っていると認められるため、すなわち捉えていると認められるためには、魂の内に形成されたかたどりが、まさしくその対象によって形成されたかたどりでなければならない。ではいかにして、かたどりの由来の正しさを確認することができるであろうか。もし対象の認識とは別に、その対象からの由来を確認する認識といったものを想定するなら果しない循環に陥るであろう。そこでゼノンは、正しさを保証する何かを認識は含んでいると考えた。それがキケロの言う標識notaである。正しい認識はその正しさを告げる標識を具えている。したがって、他の認識により正しさを確認される必要はなく、自明であると言うのである。キケロによれば、アルケシラスの懐疑論の出発点もここにある。アルケシラスも「捉えられうるもの」についてのゼノンの定義を認めた。しかしゼノンが認識の正しさを保証する標識を具えた認識すなわち自明な認識の存在することを認め、それを学的探求の基礎としたのに対し、アルケシラスはそのような自明の認識の存在を認めなかった。そして、通常自明とみなされている認識の自明性を否定するために、様々な逆理(パラドクス)が考案された。たとえば、「多」と「少」との区別は一見すると自明である。ただ一粒の麦は誰でも「少ない」と認めるであろう。しかしそこに一粒づつ加えながらそのつど「多いか少ないか」と問い続けてゆくなら、いつかは答えに窮するか、あるいはただ一粒のゆえに「多くなった」と認めざるを得ないであろう。また、「もし君が自分はうそをついていると言いそれで本当のことを言っているなら(すなわち事実としてうそをついているなら)、君はうそをついている。しかるに君はうそをついている。したがって君はうそをついている」という推論が正しいか正しくないかは決定できない。この一例をもってしても通常確実と見なされている推論形式「もしAならばAである。しかるにAである。したがってAである」の確実性を疑うには十分である。等々
(50) 『目的について』IV・4・8「倫理学以外の部門に関して、ゼノンは先人の説に従った。多少の稚拙はあったにしても。『トゥスクルム談義』V・11・32で「キケロ」にむかって次のように言われている。「最近あなたの『目的について』を読みました。そこでカトを反駁しているあなたの意図は、私も同感ですが、ゼノンとペリパトス派の間には用語の目新しさを別にすれば何の相違もないと示すことであるように見受けられます。」『神々の本性について』I・7・16参照。哲学は基本的に同一であるという見解は、キケロの著作に見るかぎり、時代の見解というよりキケロの独自性であり、学派の哲学ではなく哲学そのものを受容しようという意図のキケロ的発現である。
(51) 写本はここで中断している。