プルターク英雄伝『カエサル』
(潮文庫版)
筑摩書房版を参考に固有名詞を英語読みから現行ローマ字読みに改め、改造社版を参考に若干修正を加えた。
プルターク英雄伝(潮文庫版、鶴見祐輔訳)
カエサル
1 スッラがローマの天下を取ったとき(82年)、彼はカエサルをしてその妻、前共和国独裁者故シンナの娘コルネリアを捨てさせようと欲した、しかしあらゆる甘言も威嚇もついに効を奏しなかったので、腹いせにコルネリアの持参財産を没収した。カエサルにたいするスッラの敵意の原因は、カエサルとマリウスとの親戚関係にあった。というのは、老マリウスがカエサルの父の姉のユリアを妻として、その間にカエサルの第一の従兄弟たる小マリウスをあげたからである。
しかし、殺すべき者がしかく多く、なすべき仕事がしかく多端であった最初の間、スッラの方ではカエサルを閑却していたが、カエサルはなかなか神妙に控えているようすもなく、まだ一介の少年の身であるにかかわらず、祭官職の候補者として世間に打って出る結果であった。それでもスッラはなお公然たる反対を示さずただカエサルが排斥せらるるように策を講じたにすぎなかったが、しかしあるときいよいよカエサルを殺すべきかいなかの評議の際に、誰かが、眇たる(=幼い)小児の生殺多くスッラの心を労するにたらないと論じたとき、彼は、この少年のうちにマリウスが一人ならずひそんでいることをみない者は無智であると答えた。
カエサルはこの言葉を伝え聞いていちはやく身を隠した。そうしてサビニ人の国にいて転々その在家を変えつつかなりの間踪跡をくらましていたが、ついにある夜、健康上の理由よりある家から他へ移ろうとしているところを、かねて亡命者召捕りのためこのあたりに網を張っていたスッラの手の者につかまった。カエサルは二タラントの賄賂をもって隊長コルネリウスを説き伏せ、首尾よく見逃がさるるやいなや海に乗りだして小アジアの西北にあるビシニアに渡った。
そこで国王ニコメデスのもとにしばらく身を寄せていたが(81年)、やがて帰国の途につきパルマクサ島の近くにさしかかったとき。そのころ巨船の大艦隊と無数の輸舸(ゆか)とをもっていたるところの海上を荒らしまわっていた海賊のなかの一隊に捕えられた。
2 はじめこの一味が身代金として二十タラントの金を要求すると、カエサルは彼らを、自分たちの捕虜の値打ちを識らないやつらと笑って、自分のほうから五十タラントを与えようと約束した。そうしてこの金策に周囲の者どもを方々へさしむけたので最後にはただ友人一人、従卒二人とだけで世界のもっとも獰悪(どうあく)なキリキア人のなかに取り残されてしまった。しかもカエサルは眼中彼らなく、睡(ねむ)ろうと思うときには彼らのところへ従卒をやって、物音をたてるなと命令した。こうして三十八日間、彼はあたかも海賊どもが番人ではなく護衛ででもあったかのように、腹一杯の自由さをもって彼らの運動や遊戯に加わって遊んでいた。またときどき詩や演説草稿を書いて彼らを聴衆とした。そうしてそれを讃めそやさない者を面と向かって盲目、野蛮人とどなりつけ、ときには冗談に、そのようなやつは絞罪に処するぞといったりした。海賊どもはこれがかえってはなはだしく気に入った。そうして彼らはカエサルの無遠慮な物言いを一種の単純さと子供らしいふざけ好きとによるものだと思いこんだ。
やがて身代金がミレトスから届くやいなや彼はさっそくそれを支払って釈放せられた。そうしてミレトス港において数隻の船に水夫を乗組ませて海賊退治に乗り出し、なおかの島に碇泊していた海賊に不意討ちをかけてその大部分を捕獲した。そこで彼らの金は戦利品として獲得し、人間はペルガモンの牢に打ち込んでおいて彼は当時アジアの総督であり、かねてまたこれらの者の刑罰を定める職掌のプラエトル(裁判官)でもあったユンクスに申告した。ユンクスは、おびただしい額の金に眼をひかれたので、捕虜をいかに処分すべきかはおってとくと考慮しようと答えた。そこでカエサルはただちに彼のもとを辞してペルガモンに引き返し、海賊どもを引き出して磔刑に処することを命じた。それは彼が彼らの手中にあったときしばしばこれをもって脅かし、彼らは彼がまじめにそう考えているとは夢にも思わなかった処置であった。
3 かかる折から、スッラの勢望しだいに傾かんとしていたので、カエサルの友人らはしきりに彼にたいしてローマに還ることを勧めてきた。しかし彼はロドス島に行ってモロンの息アポロニウスの門に入った(75年)。アポロニオスは当時聞こえたる修辞学者で、傑物のほまれ高く、キケロもその門弟の一人であったのである。
カエサルは由来大政治家兼雄弁家となるべき十分の素質をもっていた。またこの方面においてその天才を切瑳すべく相当に苦心を積んだので、優に第二位を主張するにたるものがあったと称せられている。彼はこれ以上を狙わなかった。むしろ武人と政客との間において第一位たらんことを選び、したがって渾身の注意を、後半ローマ帝国を彼が建設するに至りたるかの諸々の遠征と計略とに注いだので、彼はその天稟よりすれば当然到達したにちがいないと思わるる雄弁の高さにはついに達しなかったのである。彼自身もまたもとよりこれを承知していた。カトーにたいするキケロの誄頌(るいしょう)への応酬においてカエサルは、彼の読者が、一介の武弁の平淡なる談義と、優秀なる才能に加えて、生涯の精進努力を傾けた雄弁家の広長舌とを比較することなからんことを望むといっている。
4 ローマに還ると彼は、マケドニアの領主ドラベラの失政を告訴した(77年)。そうしてこれを立証するために、ギリシアの多くの都市から代表者が続々と乗り込んできた。しかし結局ドラベラは無罪の宣告を受けた。そうしてカエサルは、このたびギリシア人から受けた支持に酬いんがため、彼らがガイウス・アントニウスの曲事をマケドニアの裁判官マルクス・ルクルスに訴え出た公事において大いに彼らを援助した(76年)。この訴訟においてカエサルの舌鋒あたるべからざるものがあったので、アントニウスは苦しまぎれに、ギリシアではとうていギリシア人を対手(あいて)として公平なる裁きを受けることができないという口実のもとに、ローマの法廷に愬(うった)えることを余儀なくせられた。
ローマにおける弁論において、彼の雄弁は多大なる信用と人気とを博したが、それに劣らず世間の歓心を彼の一身に蒐(あつ)めたものは、その人好きのする言語動作のなかに年齢から考えてとうてい期待しえない一種の機転と思慮とを示していたことであった。
そうして、彼がわが家の門戸を広く人に開放したことや、彼がひんぴんとして盛大に人々を招いたことや、彼の生活ぶりの豪奢であったことなどが、著々(ちゃくちゃく)として彼の政治的勢力を造り、かつ増大していった。彼の敵は最初のうちは、その生長を蔑視し、金の切れめが縁の断れめとたちまち衰えるとたかをくくっていたところが、その間彼の人気は蔚然(うつぜん)として民衆の間に生長繁栄していった。彼の勢力がついに確立して、また動かすべからざるにいたり、そうして、いまや公然と全形勢を一変せしめんとする傾きを示すにおよんで、彼らは、いかに微々たる著手もたえずこれを繰り返してゆくうちにはいちじるしいものとなり、最初に危険を軽蔑することは、やがてこれをして不可抗ならしむる所以であることを暁(さと)ったが、それはすでに後の祭であった。まっさきに政治にたいするカエサルの野心にたいしてなんらかの疑いをいだいた者はキケロであった。そうして優れた水先案内が海のもっともほほえんでいる間に暴風雨を感づくと同様に、この上機嫌と愛嬌との仮装を通してこの男の策士肌を看(み)ぬいた。そうしてカエサルのなしたこと、企てたことのいっさいのなかに、絶対的権力をめざす野心を看破(かんぱ)していたが、しかし、「彼の髪があのようにきれいに梳かされているのを見、彼が一本の指をもってそれを整えるようすを眺めるとき、ローマの天下をひっくりかえすという大望がこのような人間の頭に浮かぼうとは夢にも想像することはできない」といった。ただしこの事についてはなおのちに詳述する。
5 カエサルにたいする民衆の好意について彼が得た第一の証拠は、彼らの投票によって軍隊におけるトリブヌスの地位を贏(か)ちえ(73年)、しかもガイウス・ポピリウスよりも高い点数をもって当選したことである。第二の、そうしていっそう明瞭なる民衆の人気の例は、彼が公会場の壇上に現われ、叔母にして老マリウスの妻であったユリアのためにすばらしい追悼演説を公然とやってのけたことである(69年)。この叔母の葬儀の際に彼は大胆不敵にもマリウス夫婦の肖像を持ち出した。政権がスッラの手に帰して以来、マリウスの一党は国家の敵と宣言せられていたので、何人もこれをかつぎ出すことをあえてしなかったのであった。そこで居合わせた二、三の者がカエサルにたいして罵声(ばせい)をあげかけんとするや、群衆はたちまちカエサルびいきの喊声(かんせい)と拍手とをもってこれに応酬し、いわばカエサルは、しかく永い間ローマの都から喪(うしな)われていたマリウスの名誉をいまふたたび墓の底より喚び起こしたような者であるとして彼らの驚喜と満足を現わした。
由来ローマにおいては、相当の老齢に達した刀自(とじ=婦人)にたいして追悼演説を行なう習慣となっていたが、若い婦人にたいしては、カエサルが自身の妻についてはじめてこれを敢行するまでただの一度も先例がなかったことであった。この一事もまた彼のために人気をもたらした。そうしてこの愛情の公示は、非常な優しさと親切心のある男と彼を思わせてさらに民衆の好感を増した。
妻の葬儀を了えたのち、彼は裁判官(プラエトル)の一人ウェトゥスのもとに財務官(クアエストル)としてスペインに赴任した(69年)。彼は爾来(じらい)常にウェトゥスを尊敬し、後年彼自身が裁判官になったときには(62)、ウェトゥスの息を彼の財務官に抜擢した。任満ちたのち、カエサルは三人目の妻ポンペイア(スッラの孫)をめとった(67年)。最初の妻コルネリアとの間に一女があったが彼はこれを後年、大ポンペイウスに妻(めあ)わせた。
彼はそのはなはだしい濫費のためまだなんらの公職を得なかった間に早くも千三百タラントの負債を生じた。そうして多くの人々に、この巨費によって人気を買うということは、堅実な財宝と、一時的なはかない報償にすぎないにきまっているものとを取り換えることであると考えていた。しかしながらその実カエサルはものの数にもたらない安値をもって最大の価値ある物を買いつつあったのである。アッピア道路改修監督官に任命せられたとき(67年)、彼は公費のほかに自分の財布から莫大な金を投げ出した。また造営官の職についてローマの建物、市場および興行物の取締官となったときには(65年)、無数の剣闘士(グラディエーター)を召し抱えて民衆の観覧に供した、試合の番数は三百二十番と記せられた。そうして劇場における遊覧や、行列や公けの饗宴における気前よさと豪奢とによって、彼以前に行なわれたあらゆる催しをして顔色なからしめたので、誰も彼もカエサルのこうした寛闊(かんかつ)伊達(だて)に報いんがため狂奔して彼のために新たなる官職や新たなる名誉を物色してこれ日も足らなかったほどに、彼はローマの民心を一手におさめてしまったのである。
6 当時ローマには二党派があった、一はスッラを頭目とするものではなはだ強大であり、他はマリウス派であって総崩れの見るかげもなきものであった。そこでカエサルは後者を復活せしめてこれを彼自身のものとする計画を立てた。この目的のため彼は、造営官(65年)として与えた盛大な遊覧の催物によって民衆の評判の絶頂にあったとき、手に戦利品を握ったマリウスの像と勝利の女神ニケの像とを作らせ、夜中ひそかにカピトルの丘に運ばせておいた。
翌朝誰ともなく技巧をこらしたこれらの像が金色まばゆくそびえたち、その上にキンブリー人を打ち破ったマリウスの戦功を彼らに想起せしむべき銘が高く掲げられているのを見たとき、彼らはこれを立てた者の大胆不敵に驚いた、またそれがはたして何者であったかを推測することも困難ではなかった。この噂はたちまち拡がって大衆はわれさきにかけつけた。ある者は、かくのごとくすでに元老院の法律と命令とをもって埋没せられたこれらの名誉をよみがえらせることは、現在の政府の基礎にたいする公然たる謀叛の企てである。カエサルが、日ごろから手なずけておいた民衆の気分を測量し、彼らがはたして彼の着想を容忍するほど従順であるかいなか、またはたしておとなしく彼の新機軸に服従するであろうかいなかをためしてみようとしてこれをあえてしたのであると叫んだ。一方マリウスの一党は元気づいた。そうして彼らの数がいかに多いものであるかが急にわかった。いかにおびただしいマリウス党群衆が鬨(とき)の声をあげつつカピトルの丘に殺到したかはとうてい信じがたいほどであった。多くの者はマリウスの姿を見て歓呼した。そうしてカエサルはほかの誰よりも真にマリウスにふさわしき唯一の近親者として礼讃せられた。
そこで元老院がにわかに招集せられ、当時もっとも有名なるローマ人の一人であったカトゥルス・ルタティウスが起ってカエサルを攻撃し、いまやカエサルは国家をくつがえさんがために地雷を埋むることをやめ、公々然と砲列を布きつつあり、という有名な句をもってその演説を結んだ。しかしながらカエサルが自己のために弁疏(べんそ)して元老院を満足せしめたとき、カエサルの崇拝者ははなはだ勇気づけられた。そうして、彼らは、いやしくも民衆の好意をもってすれば彼は遠からずして元老院の全部に打ち勝ち、共和国中の第一人者となるにちがいないがゆえにいかなる人にたいしても彼自身の意図をひるがえさないようにとせつに勧告した。
7 あたかもこのとき、最高神祇官メテルスが没した(63年)。そうして最高の名声を有しかつ元老院に偉大なる勢力を擁していたカトゥルスとイサウリクスとの二人がこの職にたいする競争者であった。しかるにカエサルはしりぞいて譲ることを肯(かえ)んぜず、彼らと対抗する一候補として名乗りを上げた。各派の形勢が相伯仲するがごとく見えたので、なかんずく喪(うしな)うべき名誉をもっとも多くもっていただけに、結果にたいしてまたもっとも憂慮(きづか)ったカトゥルスは、人を遣わし巨額の金の提供をもってカエサルを買収させようとした。しかしながら彼の返答はこの競争を継続するためにそれ以上の金を借り入るる用意がある、というのであった。
いよいよ選挙の当日、カエサルの母が涙を浮かべて彼を門口に送り出したとき、彼女を抱きながら「母上、きょうこそあなたは最高神祇官か追放人かのいずれかになる私をごらんになるのです」といった、かくて激戦ののちに投票が行なわれてカエサルはみごとに勝った。そうして元老院や貴族の間に、彼が向後(きょうこう)あらゆる種類の暴慢へ民衆をまくしかけはしないかという大恐慌を惹き起こした。
そうしてピソーとカトゥルスとは、さきにカティリナの謀反に関係してカエサルがみずから俎上(そじょう)に上がったような絶好の機会を政府に与えたとき、むざむざカエサルを逸せしめたという廉(かど)でキケロを誹難(ひなん)した。その経緯というのは次のごとくである。当時カティリナは、単に政界の現状を変更するにとどまらず、ローマ全帝国を一挙に覆滅し、いっさいを混乱せしめんとする底意であったが、彼にたいする証拠がなお不完全であって、彼の究極の目的がいまだ十分に露顕しなかったうちにいちはやく風を喰って逃れてしまった。しかしながらカティリナは、レントゥルスとケテグスとの両人をローマの都に留めて彼の陰謀の代わりをさせておいた。そうしてこの両人がはたしてカエサルより秘密の奨励と援助とを得ていたかいなかは不明であった。ただ確実であったことは、彼らが元老院において十分に有罪を確認せられたことのみであった。そうして執政官キケロが彼らをいかに処罰すべきかについて元老院の衆議を徴したとき、カエサルの前に弁論した者はことごとく、彼らの死刑を主張した。しかしながらカエサルは起ってかねて用意しておいた演説を試み、両人のごとき門閥と地位とを有する者の生命を、いまだ公平なる裁判をまたずして奪い去ることは、これにたいする絶対の必要のないかぎり、先例もなく正義にも反する所以である。これに反して両人をとりあえずキケロ自身の選択するしかるべきイタリアの都市に、不日カティリナが成敗せらるるまで監禁しておくならば、元老院はそれから平和到来後、ゆっくりと最善の措置を講ずることができるであろう、と論じた。
8 カエサルのこの議論はきわめて人道的なる外観を呈したのみならず、カエサルはこれを行なうるに滔々たる雄弁をもってしたのでたちまち満座を魅了し、ひとりカエサルより後に起った者がこの議論に雷同したのみならず、さきに反対意見を述べた者すら、彼の意見に賛成し、最後にカトゥルスとカトーとが演説する順番となった。両者は熱烈にカエサルの説を駁し、とくにカトーはその演説中においてカエサル自身にたいする嫌疑を暗示し、強硬なる意見を持して下らなかったので、両罪人は刑の執行を受けんがために引き渡された。そこでカエサルが元老院より退出しかかったとき、当時キケロの護衛を勤めていた多くの壮士が抜刀(ぬきみ)をさげてカエサルに襲いかかった。しかしクリオがその長袍(ガウン)をカエサルにかぶせてわずかに彼を拉(らっ)し去り、そうしてキケロ自身は壮士どもが、彼の旨を受けようと仰ぎ見たとき、民衆をはばかってか、あるいは殺害を不義非法と考えたかは知らず、カエサルを殺すなという合図を与えたと伝えられている。
かりにこれを事実とするならば余は、なにゆえにキケロが執政官在職時代について書いたその著書の中に片言隻語(へんげんせきご)のこれに及ぶものなかりしかを異(あや)しむ者である。しかし彼は後日にいたり、あたかも民衆にたいする畏怖よりして、カエサルを成敗すべきこの好機をむなしく逸したとして非難せられたのである。いかにも当時民衆はカエサルの身辺についていちじるしき懸念を示していた。そうしてその後まもなくカエサルがわが身にかかる嫌疑を釈明するために元老院におもむいたとき、院内において囂々(ごうごう)たる罵声が彼にたいして起こり、これがためその散会がやや平常よりも遅るるや、民衆はなだれを打って押し寄せ、カエサルの釈放を要求しつつこれを包囲した。
この形勢を見たカトーは、つねに先棒となって民衆に火をたきつけ、かつあらゆる希望をカエサルにかけているのは貧民であるがゆえに、彼らの間になんらかの運動が勃発(ぼっぱつ)せんことをはなはだしく憂慮し、元老院に説
いて、毎月彼らに穀物の施与を行なわしめた。この応急策は、共和国に年額七百五十万ドラクマの特別支出を課するものではあったが、当面の恐怖の大なる原因を除き、かねてカエサルの勢力を殺ぐことには十二分に成功した。けだし当時カエサルはまさに裁判官(プラエトル)に任ぜられるばかりの段取りとなっておったから、この官職によって、いっそう恐るべき者となったにちがいないからであった。
9 しかしながらかの裁判官(プラエトル)在職中にはなんらの騒擾(そうじょう)もなかった。ただ彼は自身の家庭においてこのうえもない不幸に逢着(ほうちゃく)した。プブリウス・クローディウスは、名門の出であり、富と雄弁とふたつながら抜群であったが、同時にその放蕩と臆面(おくめん)なさとにおいてもまた、当時もっとも名うての道楽者の誰にもひけをとらない人間であった。これがカエサルの妻ポンペイアに懸想し、彼女も憎らからず思っていた。しかしポンペイアの居間には厳重なる見張りがついており、とくにカエサルの母親の思慮深いアウレリアが二六時中ポンペイアの周居にいたので、逢引(あいびき)ははなはだ危険であり困難であった。
元来ローマ人は一体の女神を有し、これを「ボナ」と呼んでいる。それはギリシア人が「ギュナイケイア」と称する女神と同一の者である。この女神を彼らの固有の者と主張するフリュギア人は、彼らの王ミダスの母はこれであるといっており、ローマ人は、これを森の精(ニンフ)ドリュアスの一にしてファウヌスの妻となった者であると称する。ギリシア人の主張するところによれば、女神は酒神バッカスの母であって、その名を誦(とな)うることは禁物である。バッカスの母であるところから、この女神の祭典を行なう婦人は、葡萄の枝をもって幕舎をおおい、かつ伝説に従って一匹の神蛇が女神の脇立となっている。祭典が執行せられている間は、男子たるものはいっさい禁制で、式場に列することはおろか、同じ屋根の下にいることすら法度である。そうしてオルフェウス密教の祭式に行なわるるものと全然同じさまの神聖なる勤行が、婦人みずからの手で営まれる。祭日になれば、執政官(コンスル)または裁判官(プラエトル)たるその家の亭主、および彼とともにいっさいの男性は家を引き払ってしまう。そこで主婦が家を引き受けて万事をとりしきり、そうして祭式は夜中に執行せられ、婦人たちは見張りをしながら水入らずに嬉遊(きゆう)し、あらゆる種類の音楽を奏しながら夜を徹する。
10 あたかもポンペイアがこの祭典を執行しつつあったとき、自分にはまだ髯(ひげ)がなく、たしかに人目にかからずに通りうると考えついたクローディウスは、歌姫の紛装飾物を着け、若い娘の姿態を作りながらやって来た。すべての戸があいていたので彼はかねて一味となっている腰元の案内で別条なく引き入れられた。腰元はさっそくポンペイアにこの趣を報ずるために駆けだしたが、なかなか引き返してこなかったので、これを待っているクローディウスは少し不安を感じだしたままその場を去ってなおも燈光(あかり)を避けつつも家中の部屋部屋を通りぬけてゆくうちに、とうとう大奥方アウレリアの侍女の一人にばったりでくわした。侍女は女同士のつねのごとく両人で遊ぼうと誘いかけた。クローディウスがこれを聴きいれなかったので、侍女はやにわに彼を引き出して、何者でどこより来たかと詰め寄った。クローディウスはこの腰元の本名もまたハブラというのであるとは知らず、自分は奥方付きの腰元ハブラ殿を待っているのだと答えたが、その声音がたちまち彼の正体をあらわしてしまった。そこで件の侍女は悲鳴をあげながら、煌々と燈(あかり)の輝いている一座に駆けこみ、男を見つけたとわめきたてた。一座の婦人たちはいずれもおびえ恐れた。アウレリアはすぐさますべての宝物を隠して祭式を中止し、戸口戸口を固めさせたうえ、灯(ひ)をさげて曲者を探しまわった。そうしてクローディウスはさきに手引きをした腰元の局(つぼね)にひそんでいたところを捕らえられた。婦人たちは日ごろから彼を見しっていた。そうしてさっそくこれをおい出し、その夜銘々帰宅するとともに、一伍一什(いちぶしじゅう)を良人に話した。あくる朝にはもう、なんたる罰あたりの所行をクローディウスがあえてしたことであろう、相手の人たちにたいする罪人としてばかりではなく、社会一般と、諸々の神々にたいする罪人としていかなる処罰を受けることが当然であろうかという取り沙汰で府内一円が満たされてしまった。
そこで護民官(トリブヌス)の一人は神聖なる祭式を冒瀆(ぼうとく)したるものとして彼の罪を鳴らし(61年)、また重立った元老院議員の数人は提携して、彼が無数の恐るべき罪悪のほか、ルクルスに嫁している現在の妹と畜生道におちていると声明した。しかしながら民衆はこうした貴族の聯合(れんごう)にたいして反抗の気勢をあげ、クローディウスを擁護した。これは裁判官どもにたいしクローディウスにとっては非常な利益であった。裁判官どもは畏縮(いしゅく)してしまい群衆の怒りを買うことをはばかったからである。カエサルはただちにポンペイアを離別した。しかしクローディウスにたいする証人として喚問せられたとき、彼はクローディウスを告訴すべき理由を一つももっていないと言いきった。これがいかにも矛盾に見えたので、告発者は、さらばなにゆえに妻を去ったかと問うた。カエサルは答えた。「余は妻に疑いのかかることをすらいさぎよしとしなかったのである」と。ある者はカエサルが本心からこういったのであるといい、ある者は、クローディウスの助命に夢中になっていた民衆の機嫌とりのためであったともいっている。とにかくクローディウスはあやうく助かった。裁判官の大半は、本人を有罪として民衆より危害をこうむることのないように、さりとてこれを放免して貴族仲間の不機嫌を買うこともないように読みにくくわかりにくい意見書をさし出したからである。
11 裁判官の任期が終わってカエサルは、スペインの代官となった。しかしながらその債権者どもとの間にはなはだしい悶着を生じ、彼らはカエサルが出発しようとしているところへ押しかけて梃(てこ)でも動く景色なく急迫執拗に督促した。これがカエサルをしてクラッススの懐に飛び込ましむる因縁となったのである。クラッススは当時ローマ随一の富豪であったが、ポンペイウスにたいする反抗を持ちこたえんがためにカエサルの血気の勇と熱とが必要であった。そこで彼は、カエサルにとってなかんずく苦手であり、もはや一刻も猶予ができないとわめきたてていた貸手を納得させることを引き受け、八百三十タラントの巨額をわが手から支払うことを約束したので、カエサルはようやく自由の身となって代官領におもむくことができた。
旅行の途次、アルプスを越えてたまたま、その日の烟(けむり)も立てかねるわずかばかりの住民をもった蛮人の一寒村を通り過ぎたとき、彼の従者たちが冗談半分に、ここでも猟官運動や、他人を追い越そうとする競争や、頭株(あたまかぶ)連中の間の敵視などがあるかしら、と互いに問答するのを聞いたカエサルは、まじめに答えた。「余一個の見(けん)よりすれば、ローマにおいて第二位に落ちんよりは、むしろ這個(しゃこ=ここ)の徒輩中たりとも第一人者たるを望まん」と。またあるときスペインにおいて事務の余暇にアレクサンドロスの歴史を読んでいたカエサルは、しばらく沈思を続けていたが、やがて声を放って泣きだした。属僚たちが驚いてその理由を尋ねた。「御身たちはそう思わぬか」とカエサルはいった。「アレクサンドロスは身どもの年ごろには、あれほど多くの国々を征服していた。しかるに身どもはその間になに一つこの世に残ろうほどの仕事をいたしておらぬと想えば、泣くべき理由は十分にある」と。
12 彼がスペインに到着するやいなやその活躍はめざましく、数日を出でずして、従来すでにあった歩兵二十箇聯隊(1コホルトは一軍団の10分の1)に加うるに新規の十箇聯隊を編成した。この軍勢をひきいて彼はガラエキ人とルシタニ人とを攻めてこれを征服し、さらに進んで大洋に達して従来いまだローマ人に服従しなかった幾多の集落を攻略した。その武事において顕著なる成功を収めたと同様に、彼はまた治においても成功した。彼は多くの州の間の和解を確立したほかに、債務者と債権者との間の争議を除き去ることにも苦心した。すなわち債権者は債務者の三分の二を領収し、残る三分の一はこれを債務者自身の処分にまかせ、かくして全債務が最後に完済せらるるにいたるべきことを命じた。この措置は彼をして嘖々(さくさく)たる好評のうちに任地を去ることを得せしめた。彼は自己を富まし、部下の将士を富まし、そうして彼らから「インペラトール」の尊称を捧げられた。
13 ローマには一の法律があって、何人にもせよ凱旋(がいせん)式の名誉をになわんことを希(ねが)う者は、府外にとどまって許可を得なければならないことになっている。また他の一の法律には、執政官の候補者として起つ者は、自身現場に現われなければならないことが規定せられている。カエサルが帰ってきたのはあたかも執政官選挙のときであった。したがってこの両法律の板ばさみとなった彼は、元老院に使いを遣わして、彼が選挙の場所に欠席することを余儀なくせられているがゆえに、友人たちによって執政官(コンスル)選挙に競走を試みたいむねを請願せしめた。カトーは法律を後楯(うしろだて)として最初のうちはカエサルの請求に反対していたが、その後カエサルが元老院の大勢を左右して自己の要求に応諾を与えしむることを得たことを察知し、時間延長をもって決議を妨ぐるの策を案出し、終日を長演説で空費した。そこでカエサルは、凱旋式を断念するのほかなしとさとった。そうして執政官職を追求した。
ローマにはいり真に表面に立って活動を始めたが、このとき彼が画策した一箇の国策によってカトーを除く万人がみごと瞞着(まんちゃく)せられた。それは当時ローマにおいてもっとも勢力のあったクラッススとポンペイウスとを和解せしむることであった。二人の間には多年の確執があった。この確執をカエサルはみごと取りのぞいた。そうしてこの手段により両雄の合併した勢力によって自己を強化し、かくしてどこから眺めても一片の親切と好意とより出でたものとよりほかの外観は兎(う)の毛ほどもないこの行為の被覆(おおい)のもとに、彼は結果において政府の革命を達成したのであった。なんとなれば、数次の内乱の原因となったものは、世人のたいていが想像するがごとくポンペイウスとカエサルとの不和にあったのではなく、まず彼らが結合して、最初は貴族政治を顚覆(てんぷく)せんがために陰謀をめぐらしその後各自の私利のために争ったことに存したからである。同盟の結果いかなる事態が出来(しゅったい)すべきかを幾度も予言したカトーは、その当時には、ひねくれた、おせっかいな男という評判、最後には、賢明な、しかし失敗した忠告者という名声を博した。
14 かくてカエサルは、クラッススとポンペイウスとの勢力によって二重の支援を受けつつ執政官に任ぜられ、カルプルニウス・ビブルスと同時にその任官の公布を受けた(59年)。執政官(コンスル)の印綬を受くると同時にカエサルが提出した法案は、執政官よりもむしろ平民の進出する護民官中のもっとも大胆なる者が出すほうが柄に合っていると思わるるようなものであった。それは単に平民を喜ばしめんがために植民市の開拓や土地の分割を提議する法案であったからである。案の定元老院議員中もっとも優秀にして令名ある人たちが猛烈に反対した。そこでカエサルは、多年何物にもましてこうしたまことしやかな口実を切望していたので、彼は大音声をはりあげ、人民の支持を求むることを余儀なくせらるることが、どれほど彼として不本意なことであるか、またいかに元老院の侮辱的な、辛辣な挙措が向後(きょうこう)一に民衆に加担しその利益のために一身を捧ぐること以外の途(みち)を彼のために残していないかを絶叫した。そうしてただちに元老院より駆け出して民衆の前に立ち現われ、クラッススとポンペイウスとを左右に控えて、彼が先に提出した法案に賛成するかいなかを民衆に問いかけた。もちろん三人は民衆の同意を得たので、次にカエサルは、剣をもって彼に反対せんとする者どもにたいして彼を援助せんことを民衆に望んだ。民衆は一議に及ばずこれを約束した。そうしてポンペイウスは、彼らの剣に応酬するに余は剣と楯とをもってするであろうとつけたした。貴族たちは、こうした言葉をもって、カエサル自身の威厳にもふさわしくなく、また元老院の当然受くべき尊敬にも副(そ)わず、むしろ小児の空(から)気負いか狂人の憤激にほかならないとして非常に怒りたった。しかし民衆はもとより大恐悦であった。かくてポンペイウスをいっそうしっかりと薬籠中のものとなさんがため、カエサルはかねてセルウィリウス・カエピオーに与える約束であった娘ユリアをポンペイウスの許婚(いいなずけ)とし、セルウィリウスには、これもまた、すでにスッラの息ファウストゥスの間に約束のできていたポンペイウスの娘(ポンペイア)を与うることにして納得せしめた。その後まもなくカエサルは、ピソーの娘カルプルニアをめとり、そうしてピソーをして翌年度の執政官に当選せしめた(58年)。カトーはこれにたいして猛然たる攻撃の声をあげ、政治の節操が婚姻によって売買せられ、彼らの一味が婦人の手段によって互いに推輓(すいばん)しつつ、軍隊といわず、直属州といわず、はたまたその他の地位といわず、その指揮を壟断(ろうだん)することはとうてい座視するに堪えないと抗議した。
カエサルの相役ビブルスは、カエサルの法案に反対することの無益でしかも彼自身がカトーと同様に公会場で民衆のために殺さるる危険に瀕(ひん)していることをみてとって、私邸に蟄居(ちっきょ)したままその任期の残部を空過(くうか)せしめた。ポンペイウスはカエサルの娘と結婚するやいなや、ただちに公会場を部下の兵士をもって満たし、人民を応援して例の新法律を通過せしめ、そうしてカエサルのためには、アルプス両側のガリア地方全部とイリュリクムとを併せた一帯の土地の総督たる地位と五年間にわたる四箇軍団の指揮権とを確保した。
カトーはこれらの処置にたいして反対を試みたが、たちまち捕縛せられ、カエサルによって牢(ろう)へ引きたてられた。カエサルはカトーがかならず護民官に訴えるであろうと期待していたが、さはなくて彼の一言も出さずに曳(ひ)かれてゆく姿や、ひとり貴族が義憤を示したのみならず、民衆もまたカトーの志操にたいする敬意よりして、無言にしおれかえった面持ちをもって彼の後に従ってゆくありさまを見たときに、彼自身から内密に護民官の一人にカトーを救うことを懇嘱(こんしょく)した。
その他の元老院議員連にいたってはきわめて少数の者が出席したのみで、他は癇癪を起こして全然不参した。それゆえに元老院議員の一人で非常な高齢であったコンシディウスがあるときカエサルに向かって、議員たちが集まらないのは彼の兵士におそれをなしているからであると率直に言ってのけたことがあった。そこでカエサルは、「さらばなにゆえに貴殿は皆々と同じ懸念よりしてとじこもってはござらぬか」と尋ねた。これにたいしてコンシディウスは、老年が恐怖にたいする彼の護衛であり、いくばくもなき余命に用心の必要もないと答えた。
ただし、カエサルの執政官在職中に行なわれたもっとも不面目なことは、彼の妻の貞操をあやうからしめんとし、かつ神聖なる宵祭(よいまつり)をふみにじったと同じクローディウスのために護民官を獲(え)ることを援助した一事であった。彼はキケロの没落を実現するために選任せられた者である。そうしてカエサルは、両人が力を協(あわ)せてキケロを圧倒してイタリアから追放してしまうまでは、目下の軍隊駐屯の地に向けてローマの都を出発しなかった。
15 以上吾人は、ガリア戦争以前のカエサルの活動の跡をたどった。ガリア戦争以後、カエサルは新たなる進路につき、新たなる生活と活動の舞台とに立ち入ったかの観がある。そうして爾来彼が戦った幾多の戦争と、ガリアを征服した幾多の遠征との時期は、古往今来軍隊を引卒したもっとも偉大な、もっとも尊敬された将帥の何者にたいしても秋毫(しゅうごう)の遜色なき武士であり将軍であることを示した。けだしこれを上にして、ファビウス家の両星、メテルス家の諸豪、両スキピオら、または同時代人またはすこしく先輩であった、スッラ、マリウス、ルクルスはいうまでもなく、当時軍上手の名声大いに達いたと称するも過言ではないポンペイウスと比較しても、吾人はカエサルの戦場の駆引(かけひ)きが彼らのすべてを凌駕(りょうが)したことを見いだすであろう。一人にはカエサルは彼が戦った国土の艱難(かんなん)という点において打ち勝ったといいうるであろう。一人には彼が攻略した領域の広袤(こうぼう)において同日の談ではないと称することを妨げないであろう。ある者にたいしては彼が克服した敵の数と強さとにおいてまさり、ある者には、彼が粗獷(そこう)にして反復常なき多くの蛮族集落を悦服(えっぷく)帰順せしめた点において、他の者には彼が征服した者にたいする人道と慈愛とにおいて、さらに他の者には部下の将士にたいする恩恵と温情とにおいて、そうして全部には一様に、彼が戦った戦闘の数と彼が殺した敵の数とにおいてまさっていると断言することができる。けだしカエサルは、ガリア地方における大小の征戦において満十年を費やさざる間に、強襲してこれをとり、三百の国を徇(したが)え、前後を通じて彼の矢面に立った敵の総勢と註せらるる三百万人のうち、百万人を殺し、百万人を捕虜としたのである。
16 カエサルが部下の将卒の好意と忠勤とを一身に蒐(あつ)めたことは、他の征戦にあっては尋常一様の兵卒にすぎざりし者も、事いやしくもカエサルの栄誉にかかわる場合には、天魔鬼神も面(おもて)を向けがたき勇気をもっていかなる危険にも驀進(ばくしん)したことに徴(ちょう)して明らかである。アキリウスもその一人であった。マルセイユ沖の海戦において彼は剣をもって手を斬り落とされたが、左手にはなお楯を離さずこれをふるって群がる敵の顔を叩き伏せ叩き伏せてことごとく追い散らしついに船を乗り取った。
また他にカッシウス・スカエウァは、デュラキウム(現アルバニアのデュラス)付近の内戦の時、一眼は矢をもっで射抜かれ、肩は投げ槍をもって劈(さ)かれ腿にも同じく投げ槍の深手を負い、その楯に投箭(や)をこうむること百三十条であったので、敵に向かって降参するがごとくに呼びかけた。そうして二人の敵が駆け寄るや彼はやにわに剣をもって一人の肩を斬り落とし、一人の顔を斬りつけてこれを追い払った。そこへ駆けつけた戦友に助けられて彼は引き上げた。
またブリテンにおいて先手に進んだ数人の士官がはからずも満々たる沼に踏みこんだところをにわかに敵に襲われた。すると一人の雑兵は、カエサルが立ち留まって眺めている面前で敵のまんなかにおどりこみめざましい働きぶりを示したのち仕官たちを救って敵を撃ちはらった。しかし自身はとうとう水中に落ちいったので千辛万苦してあるいは泳ぎあるいは徒渉(かちわたり)して沼を横切ったが、その途中に楯を失った。カエサルはじめ士官たちはこれを見て感嘆しつつ歓呼の声をあげて彼を迎えんがために駆けよった。しかるに件(くだん)の兵士は悄然(しょうぜん)として眼に涙を湛(たた)えながらカエサルの脚下にひざまずき、楯を失ったことにたいしてカエサルの寛宥(ゆるし)を哀願した。
また内戦下のあるときアフリカでスキピオがカエサル方の一隻の船を奪ったが、その船には近ごろ財務官に任ぜられたグラニウス・ペトロという者が乗っていた。スキピオは他の乗組員を自由な鹵獲(ろかく)物として部下に与えたが、ただペトロには一命を助けることがしかるべしと考えた。しかしながらペトロは、カエサルの兵士の習慣は、情を与うることであって受けることではないと言いはなちざまみずから刃(やいば)に伏した。
17 こうした名誉の欣求と勲功にたいする熱情とを彼ら士卒に吹きこみ、彼らの心中に育成した者はカエサル自身であった。彼は金銭や名誉をおしみなく分配することによって、彼が戦争から富を蓄積したのは彼自身の贅沢のため、もしくは私(わたくし)の快楽を満足せしめんがためではけっしてなく、彼が受け入れたものは、ことごとく武勇の報酬と奨励によって積み立てられた公共基金にほかならないということ、ならびに彼は勲功ある士卒に与えたものをことごとく彼自身の富の増加と考えているということを示した。加うるに彼はいまだかつて、危険に会して進んでわが身をこれにさらさなかったこと、艱難に臨んでひとりこれをまぬかれんことを希(ねが)ったことは一度もなかった。危険にたいする彼の軽視を将士はさまでに怪しまなかった。彼らはカエサルが声誉を熱望することのいかにはなはだしいかを知っていたからである。しかしながら、彼が、あらゆる点より見て明らかに天禀(てんびん)の体力以上に幾多の困苦に耐えおおせた強情我慢ははなはだしく将士を驚かした。元来彼は痩躯(そうく)、肌膚(きふ)軟弱にして白皙(はくせき)、頭脳にも病気があり、かてて加えて、コルドバにおいてはじめて彼を襲ったと伝えられている癲癇(てんかん)までも背負っていた。しかしながら彼は体格の弱さをもって安逸を求むる口実とせず、むしろ戦争をもってその病患にたいする最善の医薬として利用した。そうしてその間、不撓不屈の旅行、粗食、たびたびの野営、不断の劇働等によって病気と闘い、あらゆる攻撃に対して身体を鍛錬した。
彼はその休息をすら活動の追求に利用せんがためたいていは車上または輿(こし)中に睡った。日中はかくのごとくにして、途(みち)すがら彼が口授することを筆記する役目の一人の従者を傍におき、抜刀をさげた一人の兵士を後に従えて諸所の要塞、兵舎および野営を巡視した。彼の車行は驚くべき速力であって、彼がはじめてローマを出発したとき、わずかに八日間にしてローヌ河に達した。
また少年時代より馬術の達人であって、両手を背中で結び合わせて鞍にまたがり全速力をもって馬を飛ばすほどのことは彼にとって尋常茶飯事であった。そうしてこの戦争中彼は、馬上から書信を口授し、または同時に二人、時としてはオッピウスの伝うるがごとくそれ以上の祐筆(ゆうひつ)に指図を与うることができるように熟練を積んだ。また彼は、事務の輻輳(ふくそう)や都市の広さのため、急を要する事件についてみずから会見すべき時間がないとき、暗号によって幕僚と通信する手段を案出した元祖であると称せられている。
彼がいかに食膳に無頓着であったかは次の例からうかがい知ることができる。ウァレリウス・レオがミラノで彼を晩餐に請じたとき、その食卓に供せられたアスパラガスに食料油ではなく、塗身用の香油が濺(か)けられてあった。カエサルは平気でこれを平らげ、とがめだてをする幕僚を叱りつけた。「ほしくなったから」彼はいった、「食ったまでのことじゃ。しかし他人の作法の欠点をとがめる者は、自身もそれだけの欠点があることを示している」と。
またあるとき、途上暴風雨に逢って貧しい農夫の小屋に追いこまれたが、そこにはわずかに一人が膝をいれうるにすぎない一室があるばかりであるのを見た彼は、一同に向かって、名誉の地位は偉人に、必要なる調度は弱者に与えらるることが当然であると告げ、したがって病気に悩んでいたオッピウス一人は家のなかに泊まり、彼を始めとしてその他の者はことごとく戸口の側の軒下に睡るべしと命令した。
18 ガリアにおける彼の第一戦は、ヘルウェティ人およびティグリ二人を敵に取ったものであった。彼らはまず彼ら自身の都邑十二と四百の村落とを焼き棄てたうえ、当年のキムブリ族およびテウトニ族の故智にならって、ガリアのなか、ローマの属州に含まれた区域を通って進撃する気配を示した。彼らは慓悍(ひょうかん)なこと後者に劣らず、数においてもほぼ相等しく、総人口三十万、うち戦士十九万と註せられた。カエサルは親分(?)ティグリニ軍にあたらず、麾下の将ラビエヌスが彼の指揮に従い、アラル河の付近に邀撃(ようげき)して一挙にこれを掃蕩(そうとう)した。一方ヘルウェティア軍はカエサルの虚を衝き、彼が同累(どうるい)のある都市に向かって軍を進めつつあった途中を要(よう=邀)して不意に襲撃した。しかしながら彼は巧みに退却して堅固なる陣地につき、人馬の検閲整頓しおわったところへ、彼の馬車が曳かれてきた。これを見てカエサルは、「おっつけ勝軍となったときに追撃用に馬を使おう、しかしいまは無用、ただまっしぐらに敵にかかれ」といって、徒歩で突撃した。長い激戦の末に彼は敵の主力を戦場より駆逐した。しかしもっとも困難な仕事は敵の戦車隊および防塞の攻撃であって、ここでは男子が奮戦したのみではなく女子供までもずたずたに切り倒さるるまで防戦したので、戦闘は夜半にいたってようやく終わった。この戦闘はそれ自体としても十分にはなばなしいものであったが、カエサルはなおいっそう輝かしい措置をもって錦上に華を添えた。それは戦場から逃れた蛮人をことごとく一団とし、その数十万を超えた者を、彼らがさきに抛棄した国土や焼却てた都市に復帰せしめたことである。けだしゲルマン人がこの国土の無人の境となっている間に殺到してこれを占領することを憂えたからであった。
19 彼の第二戦は、ゲルマン族にたいして、ガリア人を防禦せんがための戦争であった。先年カエサルはローマにおいてゲルマン人の王アリオウィストゥスをしてローマの友邦たることを承認せしめた。しかしながら彼らゲルマン族は、カエサルの統治下にある諸民族にとってはなはだ迷感なる隣人であった。そうして機会さえあればすぐに現在の協定をほごにしてガリアを占領すべく押し寄せるであろうということはきわめて明らかであった。
しかしながら部下の将校連、なかんずく、彼とともにする征戦を彼ら自身の道楽や利益のために手段に転ぜしめようという希望をもって彼に随ってきた、若い貴族の将校どもが情懦弱(だじゃく)でものの役にたたないのを見て、彼は一同を呼び集め、彼らが元来気の進まないのを押して戦争の危険を冒すよりは、むしろいまのうちに退散するほうがよい、自分はただ第十軍団のみをひきいて蛮族を進撃する。ゲルマン人がいかに恐るべき敵であるとしても自分は彼らが往年のキンブリ人以上に手剛いとは思っていない。はたまた敵をして彼を当年のマリウスに劣る大将と思わせるがごとき気遣いもない、と申し渡した。これを聞いた第十軍団は、彼らの感激と感謝との意をカエサルに伝えんがため数人の代表者を派遣し、爾余(じよ)の諸軍団は彼らの将校連を非難し、非常な勇気と熱心とをもって彼に随った。そうして長駆数日ののち敵を距(へだた)ることわずかに二百スタディオンの地点に達して陣を張った。
この直押(ひたおし)によってアリオヴィストゥスの勇気はすくなからずくじかれた。なんとなれば、彼はいまだかつてローマ人がゲルマン人にたいして攻撃に出でようとは思いもかけたことがなく、たとい彼ら自身の人民を防衛するためにさえローマ人がゲルマン人に向かって抵抗をあえてすることは万々(ばんばん)ないとたかをくくっていただけに、いっそうカエサルのふるまいに胆(きも)を消し、彼の軍勢が不意の恐怖に襲われたことを認めたからである。さらに彼らはその巫女どもの予言によってその心は一段と沮喪(そそう)した。これらの巫女は河の渦巻を観察し、流れの曲がり方や水音から吉凶の兆候をうかがって未来を言い当てる者であるが、このとき彼らは次の新月の出現まで構えて合戦に及ぶべからずと警告した。この諜報を得、そうして敵がなるほど動く気配もないのを見たカエサルは、座して敵の時期を待つよりは、彼らがこうした懸念に囚われている間に攻撃を敢行することが有利であると考えた。そこで彼は敵の要塞や彼らが陣を布いている丘に近づいてさんざんにじらしたので、敵はとうとう腹立ちまぎれ猛然として山を下って攻めかかってきた。しかしカエサルは大勝を占め、長駆追撃四百スタディオンにしてライン河に達したが、その間の途は戦利品と屍体とをもって埋まった。アリオウィストゥスは打ち洩らされた小勢をひきいてかろうじてラインを渡った。このときの討死には八万に及んだと称せられている。
20 この役ののち、カエサルはセクアニ族の国における冬営に軍隊を止め(58年)、自分はローマにおける事務を執らんがため、ガリアのなか、ポー河の沿岸に横たわって彼の属州の一部をなしていた地方におもむいた。けだしルビコン河がアルプスの手前のガリアとイタリアの爾余の地域とを分かっているからである。彼はここに腰をすえてさかんに民心の収攬(しゅうらん)につとめたが、その間陸続として彼のもとにつめかけた者は、かならずその要求の容れらるることに満悦した。なんとなれば、カエサルはすべての者に満遍なく、好意の現在の約束を与え、さらに将来にたいする希望をつながせて帰すことを怠らなかったからである。しかもガリア戦争の終始を通じて、ポンペイウスは、いかにカエサルが一方にはローマの武器を使用して彼の幾多の戦勝を成しとげ、また他方これらの戦勝が、彼にもたらした財宝をもってローマ人を籠絡し、その歓心を把握しつつあったか毫(ごう)も看取しなかった。
しかしながらすべてのガリア種族を通じてもっとも強大であり、全国土を三分してその一を占めていたベルギー族が革命を起こし、幾万の軍勢を糾合したと聞くや、カエサルはただちに蹶起(けっき)して疾駆(しっく)かの地におもむき、彼の味方なるガリア人を劫掠(ごうりゃく)しつつあったベルギー人を襲撃してたちまち敵の最大にしてもっとも密着した集落を撃破して潰走(かいそう)せしめた。彼らは数こそおびただしかったが、きわめて微弱なる抵抗を試みたにすぎなかったからである。そうして沼も深い河も累々たる死屍のためにローマ人が徒歩して渡ることができるくらいであった。
謀叛(むほん)を起こした集落のうち、海浜によっていた者はことごとく一戦に及ばずして帰服したので、カエサルは、それらの地方におけるすべての種族中もっとも猖獗(しょうけつ)にして好戦的なるネルウィ族にたいして軍を進めた。ネルウィ族は、はてしもなき森林をもっておおわれた国土に住む蛮族であって、このとき彼らの子供らや財産を遠く深森(しんしん)中に隠匿(いんとく)した上、カエサルがその陣屋を構えつつあった最中、備えなきを見すまして六万の一隊をもって襲いかかった。彼らは見る見るうちにカエサルの騎兵を撃破し、第十二および第七の両軍団を押し包んでその将校を鏖殺(おうさつ)した。
もしカエサルが落ちたる楯を拾い上げこれをかざして味方を押し分けまっしぐらに敵に駆け向かわなかったならば、そうして第十軍団がカエサル危うしと見て陣地の丘よりなだれ下り敵の列を押し破って彼を救わなかったならば、たしかに一人のローマ人も生還しなかったろう。しかしながらいまやカエサルの勇猛果敢に見ならった彼らは、世の諺(ことわざ)に言う人間業とも覚えぬ武者ぶりをもって戦った。しかも必死となって踏みとどまり敵を戦場から追い払うことは、彼らが死力をつくしてとうていできなかったので、刃向かう敵をことごとく斬り倒すほかはなかった。それゆえに六万人のうち生き残った者は五百、彼らの長老四百人のうち免れたるは三人を出でなかったと伝えられている。
21 ローマの元老院がこの報道に接したとき、彼らは、神々にたいする犠牲と祭典とを厳格に十五日間にわたって執行することに決議した。これは古往今来いかなる祝捷(しゅくしょう)の際に執行せられたよりも長い期間である。かくのごとく多数の国民の連合反乱によってローマがいかに大きな危険にさらされたかということを彼らはいまさらながら痛切に感じた。そうしてカエサルにたいする民衆の愛敬は彼がなしとげた功績に一段の光を添えた。
かくて彼はガリアにおける万端の事件を解決してしまったので、いよいよローマにおいてなしとげんと日ごろ計画していたことを実行するために帰ってきた。そうしてポー河畔に冬を過ごした(57年)。猟官運動者はことごとくカエサルの援助を利用した。そうして民衆を籠絡しその投票を買収するための資金を彼に仰いだ。そうしてこれに酬いんがため彼らが当選したときにはカエサルの勢力を増進せんがために全力を傾倒した。さらに人目をそばだたしめたことは、ポンペイウス、クラッスス、サルディニア総督アッピウス、スペイン代官ネポスなどを筆頭として、ローマにおけるもっとも著名な、もっとも有力な人々が束となってルカに彼を訪れたことであった。それがためルカには一時に百二十人の警蹕(けいひつ)役(リクトール)と二百人以上の元老院議員が目白押しに押し合っていたほどであった。
ここでの熟議の結果、ポンペイウスとクラッススとが次年度に執政官として再選せらるべきこと、カエサルにたいして新たに軍資を供給すべきこと、ならびにカエサルの指導権はさらに五か年間延長せらるべきことが決定せられた。
いやしくも思慮あるすべての者の眼には、さきにカエサルより莫大の金をもらっていたその当の連中が、あたかもカエサルが手もと不如意ででもあったかのように元老院に勧めてさらに手当を与えさせたということは奇怪至極のことであった。いうまでもなく彼らがこの措置を可決したのは、その実、勧説よりも強制によるものであり、彼らはわが所行にたいして満腔(まんこう)の悲痛を感じつつも余儀なくこれに盲従したのであった。カトーが居合わせなかったのは、彼らが適時に彼をキュプロスに派遣して邪魔物を除いておいたからである。しかしながらカトーの熱心なる私淑者であったファオニウスは、いかに躍起となって反対してもその甲斐なきをみてとって、議院から飛び出し、民衆に向かってこれらの措置の不当を絶叫した。しかしながらある者はクラッススとポンペイウスとにたいする畏敬から、しかし大多数の者は、彼らの希望一にその人につながったカエサルの意を迎えんがために、ファオニウスを蔑視してその言に耳をかす者すらなかった。
22 やがてカエサルは、ガリアに残した軍隊に帰ったとき、その国が由々しき戦禍に陥っていることを見いだした。それはゲルマン族の二大強国、一をウシピー、一をテンテリと称する種族がガリアを征略するためにラインを押し渡ってきたのである。
この種族との戦争についてはカエサルみずからその「戦塵録(せんじんろく)」中に次のごとく記している。このとき蛮人は和を議すると称して使者を送り、そうして談判の最中に不意に進軍中のカエサルを襲った。この策略によって彼らは八百の兵をもって不意に打たれたカエサルの騎兵五千を潰滅せしめた。その後敵は、ふたたびこの奸計を繰り返すために他の使節を送ってきたが、カエサルはこれを監禁しておいて、ただちに兵を進めて蛮人を討った。けだし彼はいったん番(つが)えた約束をしかくむざんにほごにするごとき奴輩(どはい)を対手(あいて)にまじめに徳義を守ることは、単に愚直にすぎないと考えたからであった。
しかしながらラテンの史家タヌシウスの伝うるところによれば、この戦捷(せんしよう)に対して元老院が祝賀式と感謝祭とを布令したとき、カトーはその意見として、カエサルはよろしく蛮人の手に引き渡すべきである。しからざればカエサルの背信はローマの国家に罪名を負わしめるであろう。これに反してカエサルを敵に引き渡すことは、背信の呪いをその発頭人たる彼に転嫁する所以であり、これによって国家のこうむらんとする汚名をそそぐことができると述べた。
さきにライン河を渡った蛮人のうち殺された者四十万、わずかに逃れた者はゲルマン族の一たるスガンブリ人に庇護せられた。カエサルはこの機会を掴んでゲルマン族を進攻すべき口実とした。それは同時に、軍隊をひきいてラインを渡った最初の武将たる名誉を博せんとする野心に出たものである。彼はそこに橋をかけようとしたが、河幅ははなはだ広く、加うるにあたかもその地点は激流滔々(とうとう)として逆巻き、樹幹木材の類を流し来たり彼の架橋の基礎を震撼した。しかしながら彼は渡河地点の上流の河底に無数の大材を打ち込んで流木を喰い止め、次に河越しに繋索を張り渡してみごとに架橋を竣工(しゅんこう)した。見る者これをもって僅々(きんきん)十日間の工事なりとはとうてい信じえなかった。
23 彼の軍隊のライン渡河の際には、彼はなんらの抵抗に会わなかった。ゲルマンの全土を通じて、もっとも好戦的種族であったスウェウィ族すらその財産をまとめて深く密林中の谿間(けいかん)に逃げ込んでしまった。そこで彼は敵の国土を焼き払い、ローマの利益を擁護した種族どもには推奨の言葉を与えたのち、ゲルマン国土にとどまること十八日にしてガリアに帰った。
しかしながら彼のブリテン遠征こそ彼の勇気のもっともいちじるしい証拠であった。けだし彼は堂々たる水師を西の大洋に浮かべた者、もしくは戦争のために軍隊をひきいて大西洋の浪を踏んだ者の先頭第一であったからである。古来この島国の広袤(こうぼう)については、いろいろに言い伝えられ、それがためその存在が歴史家間の議論の種子となっていた。そうして多くの史家はそれがはたして単なる名称、単なる架空譚(たん)ではないであろうか、現実の土地でないのではなかろうかとすら疑っていた。それほどに前人未踏の境に闖入(ちんにゅう)することによって、カエサルはローマ帝国を既知の世界のかなたまで拡げたと称せらるることを妨げない。
彼はその島と真正面に向かい合っているガリアの一地点より二度までかの地に押し渡った。そうして数次の戦闘においていたずらに禍害を敵に与えたにとどまり彼自身にとっては獲るところはなはだすくなかった。けだし島民ははなはだ貧しく鹵獲に値する何物をももっていなかったからである。カエサルはとうてい期したるがごとき結果をこの戦争に見ることはできないと見極めたので、島王より人質をとり朝貢(ちょうこう)を課することをもって満足して島を去った。
ガリアに到着すると彼はローマにおける友人たちから、彼の娘ユリアがポンペイウスの胤(たね)を生み落とした産褥(さんじょく)で世を去った旨を報じた数通の書翰が、まさに海を越えて彼のもとに送られようとしていたことを見いだした。カエサルもポンペイウスもともに彼女の死を痛恨した。彼らの友人たちもまた、これまで病めるローマ共和国をして、かろうじて平和を保たしめていた聯盟がここに破れたと信じて、二人に劣らず心を傷めた。それは産児もまた数日ならずして母の跡を追ったからであった。民衆は護民官連の反対にかかわらず、ユリアの亡骸を「マルスの原」に運んだ。そうして彼女の葬式がそこで営まれ、遺骨はいまもなおそこに埋まっている。
24 カエサルの軍隊はその数がおびただしく増加したので、やむをえずこれを諸処の兵営に分割して冬営せしめ、彼自身はいつものごとくイタリアへおもむいた(54年)。しかるに彼の不在中にガリア全土にわたって、叛徒がいっせいに蜂起し、大軍が国中を横行し、所在のローマ兵営を襲い、各地の要塞をのっとろうと企てた。叛徒のうち、アブリオリクスの指揮に属する最大最強の一隊は、コッタおよびティトリクスの二将をその部下の兵士とともに鏖殺し、同時に六万と註する一隊はクィントゥス・キケロの麾下の軍団を包囲した。ローマ兵はことごとく負傷し、人力以上の防戦に疲労困憊してしまったので、敵の強襲によってあわや全滅せんとする危機にのぞんでいた。
遠くイタリアにあってこの注進を受けたカエサルは、即座に七千の兵を糾合してキケロの救援に急いだ。寄せ手は早くもこれを知って、かかる一握りにもたらぬ小勢を蹴散らすことはなんの造作もないことと安心しきってカエサルを邀撃するために出てきた。カエサルは敵の増長をますます募らせんがため戦闘を避けるがごとく見せかけてなおも退却を続け、最後に寡をもって衆にあたるに究竟(くっきょう)の地形をもった場所を見いだしてそこに陣地を構えた。そうして兵士に令して敵に仕掛けることを厳禁し、怯気を見せて味方にたいする敵の軽悔をいやがうえにも高めるように、ますます塁を高くし、陣門の柵を構えることを命じた。案の定、敵は秩序も隊列もなく悔りきって押し寄せた。と見てカエサルはやにわに切って出たので敵はおびただしい討死にを出して敗亡した。
25 この勝利は一挙にしてガリアのこれらの地方における暴動を鎮定した。そうしてカエサルは冬季の間に国中を巡検し、周到たる用意をもってあらゆる暴動再発にたいする警戒手段を講じた(54年)。すなわちさきに喪(うしな)った兵員を填補(てんぽ)せんがために新たに三軍団が彼の手もとに到着した。うち二軍団はポンペイウスがわが麾下のうちより割いてカエサルに提供したものである。他の一軍団はポー河沿岸のガリア地方より新規に募集したものであった。
しかしながらまもなく、これらの剽悍なる国民中のもっとも有力なる人々によって久しい以前からひそかにまきちらされていた戦争の種子が遽然(きょぜん)として芽をふいた。それは、四方より糾合せられた年少気鋭なる精兵の数、これを維持せんがために蓄積せられた莫大なる資金、各都市の武装の強さ、ならびにこの戦争が行なわれた国土の艱難、これらのいずれより見てもこの地方にかつてあった最大にしてもっとも危険なる戦争になった。
しかも冬であったので、河は氷結し、森林は雪に埋もれ、平地は洪水に浸された。それゆえにある部分には道路が積雪の底に埋没し、他の部分には沼や河の氾濫があらゆる種類の交通をおぼつかなくした。すべてのこれらの障碍は、叛徒にたいして一指をだに染むることがカエサルにとってとうてい不可能であるかと思わせた。それでアルウェルニ人およびカルニティニ人を筆頭として多くの集落がいっせいに反旗をひるがえし、その戦闘における最高指揮権を握った者はウェルゲントリクスであった。彼の父は、往年この国における絶対権力を覬覦(きゆ)したという嫌疑のもとにガリア人に殺された者であった。
26 ウェルゲントリクスは全軍を数国に分け、それぞれ麾下の勇将を配してこれを指揮せしめ、遠きはアラル(ソーヌ)河沿岸の諸地にいたるまで四隣の国土を併呑した。そうして当時カエサルがローマにおいて反対を受けつつあるとの情報を耳にしたので、ガリア全部を戦争の渦中にまきこもうと画策した。もし彼がもうすこしおそく、カエサルが内乱に忙殺せられたときにこの挙に出でたならば、イタリアは当年キンブリ人の入寇の際に見たるがごとき恐慌におちいったにちがいない。しかしながら、戦争においてあらゆる物を適当に利用すること、なかんずく適切なる戦機を掴むことの才能において絶倫の天分を恵まれていたカエサルは、反乱の報に接するやいなや即座に往途と同一の路を引き返してきた(52年)。そうしてかくのごとき凛冽(りんれつ)たる季節にも疾風迅雷(じんらい)のごとく行軍するその勢いによって蛮人どもに、いま彼らをめがけて殺到しつつある軍隊が真に無数の精兵であるという感を与えた。けだし、彼よりの信書をもたらした使者もしくは早打ち(=急使)が到着したといってもおそらく何人も信をおかなかったであろうとおぼしき日数のうちに、誰あろう彼自身がその全軍をひきい、国土を劫掠し、堡塁を踏みくだき、都市を徇(したが)え、款(かん)を通ずる者を撫恤(ぶじゅつ)しつつさっそうとして眼前に現われたからである。
しかるに最後に、これまでローマ人にたいして同胞の誼(ぎ)を装い、ローマ人より多大の尊敬をうけていたアエドゥイ族が、彼に対して反抗を声明し叛徒と結んだので、彼の全軍の意気はすくなからず沮喪した。そこでカエサルは、そこより移動して、日ごろ彼と友好ありかつガリアの他の諸集落に対しイタリアの前面における牆壁(しょうへき)のごとくに横たわっていたセクアニ人の領土に達せんと欲してリンゴネス族の国を横断した。
そこを狙って襲来(しゅうらい)した敵は、雲霞(うんか)の大軍をもって彼をとりこめたが、彼もまた勇奮してこれに応戦し、惨憺(さんたん)たる流血ののち全線にわたって完全なる勝利を制した。ただ最初の間は、彼の旗色がやや悪かったように見える。そうしてアルウェルニ族はカエサルより奪ったと称する一口の短剣をさる神殿にかけて諸君に示している。後日カエサルはみずからこれを見て微笑していた。そうして幕僚がこれを取りかえすべきことを慫慂(しょうよう)したとき、いまではすでに聖化していると言ってこれを許さなかった。
27 この敗滅ののち、戦場を逃れた敵の大部隊はその王を奉じてアレシアと称する都市に逃げ込んだ。カエサルはただちにこれを包囲したが、その城壁の高さとこれを守る者の数とはこれをして難攻不落を誇らしむるにたるものであった。そうして左右の間に城壁の外側から彼は、想像にも言語にも及ばない大なる危険に襲われた。というのは、ガリアの各国より募集せられた十二分に武装された選り抜きの軍勢がアレシア城の救援に殺到した。その数は三十万、加うるに城内の兵もまた十七万を下らなかったからである。かくてこの両軍の間に挟まれたカエサルは、もしこの二手が一手に合したならば彼にとって万事休すると看てとって、二重の墙壁を造り、一は城に向け一は後詰(うしろづめ)の勢いに備えて必死の防戦を試みるほかはなかった。彼がアレシア城外において遭遇した危険は、幾多の点において当然彼に多大の名誉をもたらし、彼の武勇と機略とについて、過去のいずれの戦闘よりもいっそう大なる実例を示すべき機会を彼に与えた。人々は、いかにして彼が城外の大軍に応接してこれを撃破しつつ、しかもこれを城内の敵にみじんも感づかせないことができたかをあやしみ、さらに、それよりもなおいっそう、城に面する墙壁を守っていたローマ兵自身すら全然これを風馬牛(ふうばぎゅう)であったことを不可思議と考えている。それもそのはずであった。彼らすら、城内にあってそこからはるかにローマ軍が金銀をちりばめた多数の楯や血に染まった胸甲やその他すべてガリア風に作られた大盃、天幕(テント)の類をおのが陣営に運び込むありさまを眺めた男子の叫び、女人の悲嘆の声を聞くまでは、夢にも味方の勝利を知らなかったのである。とにかく、かくのごとくすみやかにかくのごとき大軍が、その大部分をその場に討たれて、幽霊のごとく夢のごとくあとかたもなく消えてしまった。
アレシアの城兵は自分にもカエサルにもさんざん骨折りをかけた末ついに降服した。そうして戦争の前後を通じてその主動力であったウェルゲントリクスは、重宝無二の大鎧を着け、乗馬を飾りたてて城門を乗り出し、カエサルが床几に腰かけている周囲に輪乗りをかけたのち、馬より降りて鎧を脱ぎ捨て、最後に凱旋式の用に留めおかれるために曳きたてらるるまで静かにカエサルの脚下に控えていた。
28 カエサルがポンペイウス打倒の決心を固めたことは一日のゆえでなかったと同様に、ポンペイウスもまた同一の理由よりしてカエサル打倒を決心していた。これまで二人を平和に保ったのはクラッススをはばかったためであった。しかるにそのクラッススがすでにパルティアにおいて一命をおとしてしまった以上、もし彼らの一人がローマにおける第一人者ならんことを欲するならば、他の一人を倒しだにすれば事たりた。また彼が自己の破滅を防がんことを欲するならば、その摂るる者にたいして先手を打ってしまうことのほか他の策がなかった。
ポンペイウスは自分が引き揚げた者を引き下ろすことはなんの造作もないことと考え、最近までカエサルを軽視していたので、こうした畏怖に囚われたのは、それほど久しい以前からではなかった。これに反してカエサルは当初より彼のすべての競争対手(あいて)にたいして、この計画を胸裡に蔵していた。そうして手取りの(=巧みな)力士のごとく勝負の土俵から退いてひそかに準備をしていたのである。ガリア戦争を稽古場として彼はたちまちその手兵を強化し、幾多の偉功によって彼自身の栄誉を高めた。したがっていまではポンペイウスと先を争うに不足のない者と世間から許さるるにいたった。さらに彼は、ポンペイウス自身と時代とローマの悪政とが彼に与えたあらゆる利益を利用した。
実に当時のローマは腐敗の極にあって、官職にたいする候補者は公然と金を与えて恥ずる色もなく民衆を買収し、民衆は買収金を受け取れば、その買い手を助けるために単に投票のみをもって争わず、さらに、弓、刀、石投げをもって争った。こうして幾度となく選挙場をその現場において殺された人々の血に染めたのち、彼らローマ市民はローマを完全なる無政府状態におちいらしめ、針路を定むる舵手なき船のごとく右往左往するにいたらしめたのである。かかる事態を見て多少でも物のわかった人々は、かような乱暴狼籍の無秩序と狂気との行末が共和制の倒壊、君主制の出現に終わることは火を睹(み)るより明らかであり、もし君主制よりもいっそう悪い事に終わらなかったならば、幸いとしなければならないと考えていたが、なかには公然と、この政界腐敗は君主制によるのほか療治の途はなく、しかりとすればこの療治はよろしくこれをもっとも温良なる医師の手より受けなければならないと大胆に声明する者もすくなくなかった。
温良なる医師とはポンペイウスを指すものであって、彼は口先にこそこれを辞退するがごとく見せかけていたが、その実天下晴れての独裁官(ディクタトール)たらんがためにあらゆる努力を傾倒していたのであった。彼の底意をみてとったカトーは元老院に説いて、ポンペイウスを単独執政官となすことを承諾せしめた。それは、より多く合法的なる一種の君主制を提供して、ポンペイウスの独裁官たるの要求を差し控えさせうると考えたからである(52年)。元老院はこれを承諾したのみならず、さらにポンペイウスの両属州統治権の継続を決議した。ポンペイウスは、スペインおよび全アフリカの総督をかねていたが、副官をして統治にあたらしめ、国庫より年額一千タラントの支出を得て麾下の軍隊を擁してローマにいたのである。
29 ここにおいてカエサルもまた腹心をローマに遣わして執政官の職、ならびに自己の総督任期延長を請求した。ポンペイウスははじめの間は黙して動かなかった。しかしながらマルケルスとレントゥルスとはこれに反対した。彼らはこれまで常にカエサルを憎んでいたので、いまや適否を問わず、いやしくもこの面目をつぶしカエサルを侮辱するにたると思しきことはあますところなくこれをあえてした。たとえば彼らはカエサルが最近ガリアにおいて開拓した植民市の一たる新コムムの人民よりローマ市民の特権を剥奪したるがごとき、またマルケルスは当時執政官であったが、新コムム市の元老院議員の一人がたまたまローマに滞在していた者に笞刑を加え、これは彼がローマの市民でないということを示すために、この標(しるし)を背中につけたのであるといい聞かせ、そうして彼が帰国したならばこれをカエサルに見せつけよと命じたごとき、これである。
マルケルスが執政官をやめたのち、カエサルは多年ガリアにあって蓄積した金をあらゆる公人の間に濁水(だくすい)のごとくまきちらしはじめ、護民官クリオを借金の山より救い出し、時の執政官パウルス(50年)に千五百タラントを贈り、パウルスはこれをもって公会場(フォルム)に隣接した敷地に、古き「フルウィアの裁判所」と称せられていたものに代わるべき堂々たる裁判所(バシリカ)を建てた。
ポンペイウスはカエサルが着々として準備を進めるさまにびっくりして、自身およびその腹心の勢力によりカエサルを罷免せしめてこれに代わるべき後継者を物色すべく公然運動を開始するとともに、使いを遣わしてさきにガリアにおける戦争遂行のため彼よりカエサルに貸した兵士の返還を請求せしめた。カエサルは一議に及ばず彼らを返し、かつ各兵に二百五十ドラクマずつを贈った。しかるに兵士を引率して帰国した将校はローマ市民の間に、カエサルに関するはなはだ不公正かつ不利なる評判を弘め、ポンペイウスにたいしてはいろいろといいかげんなお世辞をならべて機嫌をとった。カエサル部下の将士はことごとくポンペイウスを景慕(けいぼ)している、そうしてポンペイウスのローマにおける仕事は、ある者の嫉妬や政治の混乱のために多少迷惑をこうむっているとはいえ、なおかの地ガリアの軍隊は一に指揮をポンペイウスに仰いでいる。それゆえに、もしかれらが一朝イタリアに踏み入らば、即座にポンペイウスの味方と名のりをあげるであろう。彼らはことごとくカエサルのいつ果つべくもなき遠征に倦(う)んじ果て、君主制にたいする野心を疑っているといった調子であった。
これよりポンペイウスはまったく得意となりきり、なんら危険を畏るる要なしとしていっさいの戦闘準備を閑却し、カエサルが歯牙にもかけなかった単なる演説と投票とより以外に彼にたいしてなんらの手段をも講じなかった。伝うるがごとくんば、カエサルからローマに遣わされた一人の部将が、ある日元老院の議事堂の前に立っていたとき、誰かが元老院はこれ以上カエサルに総督の任期延長を許可しないであろうと告げた。すると彼は刀(かたな)の把(つか)を丁(ちょう)とたたいて「しかしこれが許すはず」と答えた。
30 しかしながらカエサルが提出した要求は、およそ考えうる公正のもっとも美わしき色彩を有するものであった。なんとなれば彼の提議は、自分はその武器を放棄しよう、ポンペイウスもよろしく同一の挙に出ずるべきである。そうして両人ともにまったく丸腰の私人となり、各人の功労にたいする報償はこれを公衆の与うるにまとう、というのであったからである。それゆえに、カエサルの武力を奪わんことを提議し、しかして同時にポンペイウスにはその保持しつつあるいっさいの権力を把握せしめおかんことを提議したる者は、まぎれもなく一方のために専制を確立しつつ、他を目してこれにたいする野心をいだくとなしその罪を鳴らす者にほかならなかった。クリオがカエサルの名において民衆にこの提議をなしたとき、彼は雷のごとき喝采(かっさい)を受け、ある者は彼をめがけて花冠を投げ、あたかも勝ち力士にたいするがごとく、花鬘(はなかつら)をかぶらせて彼を送った。その後護民官の一人であったアントニウス(50年)がこの事件に関してカエサルから送られた書簡を持ち出し、両執政官レントゥルス(49年)とマルケルスとがあらゆる手段をつくして反対したのを押し切って読み上げた。しかしながらポンペイウスの岳父スキピオは元老院において、もしカエサルが一定期限内に裁兵(さいへい)しなかったならばこれを敵と票決すべしと提議した。そうして両執政官が、議場に向かって、ポンペイウスをしてその軍隊を解散せしむるの可否、ならびにカエサルをしてその軍隊を解散せしむるの可否を問うたとき、第一問にたいしてこれを可とした者はほとんどなく、第二問にたいしてこれを否とした者がほとんどなかった。しかしながらアントニウスがふたたび、ポンペイウス、カエサルの両人をしてともに指揮官の印綬を解かしむべくと提議したときには、きわめて少数の者をのぞいて全員これに賛成した。スキピオはこれにたいしてはなはだしく憤激し、執政官レントゥルスは、盗賊にたいしてわれらの要するものは武器であって投票ではないと怒号した。これがため元老院は当分休会し、議員らはこの不一致にたいする遺憾の徴(しるし)として喪服を着けて現われた。
31 その後カエサルから来た他の数通の書翰は、従来よりもなおいっそう穏当なるものであった。すなわち彼は、爾余いっさいのものを投げ出して、ただアルプスの手前のガリア地方、イリュリクムの両属州、ならびに二箇軍団の兵力を留保するのみで、次回の執政官選挙における候補に立つときをまつべしと申し出たのである。この時、最近キリキアからローマに帰っていた雄弁家キケロは両人の確執を調停せんとつとめ、ポンペイウスを緩和したので、ポンペイウスも他のすべての条件に異存がなくなったが、ただカエサルに兵力を擁せしむることには依然として難色があった。最後にキケロはカエサルの幕僚にたいして説得を試み、カエサルをして上記の両属州とわずかに六千の兵士とをもって満足せしめ、これによって紛争を一掃しようとした。そしてポンペイウスはこれに譲歩する意向を示したが、執政レントゥルスは依然として耳を傾けず、カエサル贔屓きのアントニウスとクリオとにあらゆる侮辱を加えて元老院よりこれを放逐した(49年)。これによってレントゥルスは、およそ存在しうる絶好にして、また即座に利用して兵士を激昂せしめうるごとき口実をカエサルに与えた。すなわちカエサルがかくのごとき声名と権威とを有する両人が、傭(やとい)馬車に乗り奴隷に変装して逃亡することを余儀なくせしめられたことを兵士に示して彼らの憤激をそそったのである。事実両人はローマを脱出するときかくのごとく変装していたからである。
32 当時カエサルの周囲にあった兵力は三万の騎兵と五千の歩兵とにすぎなかった。これは残余の部隊はことごとくアルプスのかなたに留められていたからであり、この部隊はすわといえば命令一下、将校に引率されてカエサルの後を追うこととなっていた。しかしながら彼はこう考えた。日ごろ樹てていた計画への第一運動は目下のところ、大なる兵力を必要としない。要はこの第一歩を突然に敢行し、かくしてその大胆さをもって敵を驚駭せしむることであると。けだし彼らの意表に出でてこれを周章狼狽せしむることは困難でないが、わが準備を彼らに感づかせ彼らを警戒せしめたるのち、これ
を十分に征服することは容易でないとさとったからである。そこで彼は部将その他の士官たちを召集して、一同ただ剣を抜き連れたのみで、その他なんらの武器をも持たずに、ガリアの一大都市であったアルミヌム(リミニ)に押し寄せ、できるかぎり騒擾と流血とをすくなくしてこれを占領せよと命令した。
彼はこの一隊の指揮をホルテンシウスに一任し、自身は終日公衆にまじり、彼の面前に行なわれた剣闘士の試合の見物人となって時を送っていた。夕方になって彼は型のごとくみだしなみをすましたのち、客間に現われ、晩餐に招待しておいた人々としばしの間歓談していたが、やがてあたりが薄暗くなりかけたとき、彼は食卓から起って一同に中座の無礼を謝し彼がまもなく帰ってくるまでそのまま在席せんことを請い、もっとも親密なる数人の友人たちには前もって彼と同伴すること、ただし各自別々の途を取るべきことを打ち合わせておいてでかけた。
そうして貸し馬車の一に飛び乗ると最初は別の途を走らせていたがまもなく転じてアルミヌムに向かった。彼が、アルプス手前のガリアと爾余のイタリアとの分界線であるルビコン河に差しかかったとき、胸中にいろいろな考えが働きはじめた。彼はいまあぶない綱を渡りかけていた。そうして彼がまさにわが身をそのまっただなかに投げ込もうとしていた乾坤一擲の仕事を想起したとき、彼の心緒(しんちょ)は麻のごとく乱れた。彼は馬車に停止を命じてひとり瞑想した。さすがの彼も黙として、とつおいつ決しかねた。彼の考えが、一生を通じてもっとも動揺したのはこのときであった。やがて彼は周囲にいた友人たち(そのなかには、アシニウス・ポリオも加わっていた)とも、このことについて評議し、彼がこの河を渡ることがはたしてどれほどの災難を人類にもたらすべきか。
これについてどんな話柄が後世に伝わるべきかを考慮していたが、ついに感激に駆らるる者のごとく、彼はいっさいの打算を放擲し、前途を天運にまかせ、そうして危険な大胆な企てにあえてする者がつねに口にする諺(ことわざ)に仮して、「骰子(さいころ)は投げられた」と叫びつつ河を渡った。いったん渡ってしまうと彼はあらんかぎりの速力をもって進んだ。そうしてまだ夜の明けないうちにアリミヌムに着いてたちまちこれを攻略した。河を渡るの前夜彼は、彼自身の母と不自然に親しむ不祥な夢にうなされたと伝えられている。
33 アルミヌムひとたび占領せらるるや、いわば、陸と海との上にいっせいに戦争を乱入せしめる広い門が八文字に押し開かれたのだ。そうして属州の境界とともに法律の限界も蹂(ふ)み躙(にじ)られたのだ。また誰一人として、いつもの天災地変の際のごとく、単に老弱男女が周章狼狽してイタリアの一の町から他の町へ避難しつつあったとは考えず、都市そのものがその土地から抜け出して救いを求めんがために右往左往するがごとくに考えたであろう。
ローマの都は、付近のあらゆる地方より逃げ込む民衆の合流のためにいわば洪水に氾濫せられた。役人ももはやこれを治めることができず、雄弁家の弁舌もこれを鎮めることができなかった。それは自身の暴風雨めいた騒動のために難破する船に似ていた。もっとも激しい反対感情と衝動とがいたるところに露出した。変化のきたらんとするを歓ぶ者もその感情を胸に畳み込んでおくような神妙な者は一人もなく、かくのごとき大都市においてはつねに避けがたいように、彼らが往来で反対派の慌てふためいた、意気銷沈した者に出会うたびごとに、事変に対する彼らの確信を無遠慮に言い表わして喧嘩を売った。ポンペイウスは彼自身としても十分に狼狽していたが、それよりもいっそう彼を困惑煩悶せしめたものは囂々(ごうごう)たる世間の取沙汰であった。ある者は彼自身と政府にたいしてカエサルに武力を与えたがためにこんにちの窮地に陥ったのは当然であるといい、ある者はさきにカエサルがあれほど十分なる譲歩をなし、あれほど和解のために妥当なる提議を申し入れたにかかわらず、執政官レントゥルスのカエサルを暴慢無礼に取り扱うにまかせたことを責めていっせいにポンペイウスを攻撃の目標とした。ファオニウス(21節)は彼に向かっていわゆる「一投足」を催促した。それはかつてポンペイウスが元老院において、彼はよく一投足にしてイタリアの全土に兵士を充満せしむるべきがゆえに、議員らは戦争の準備について秋毫も心を労することなからんことを望むと大言壮語したからであった。
当時ポンペイウスはなお依然としてカエサルよりも多くの兵力を擁していた。不幸にして彼は独自の見(けん)に従って行動することができなかった。あたかも敵が目の前に迫って傍若無人にふるまっているかのごとき虚報と風声鶴唳(かくれい)とにたえずかき乱されて彼はもろくも腰が砕けた。そうして有象無象の悲鳴が彼を拉し去るにまかせてしまった。彼は一の布告を発してローマの都がいまや無政府状態にまかせられていることを声明し、元老院はよろしく彼と行をともにすべく、国家と自由とよりも圧制を愛する者以外は残留すべからずという意味の命令を出だしてローマを落ちた。
34 両執政官(コンスル)は、慣例の犠牲献祭をすら忘れてたちまち逃亡した。元老院議員らも、さながら他人の物を盗みでもするような慌てかたで銘々の家財を運びながら執政官の後を追った。かつては大いにカエサルの言い分に共鳴していた者どもも、世間恐慌の騒ぎに自分自身の感情を滅却し、なんの利益の見込みもないのにただ一般の潮流に押し流された。宛として(=さながら)舵手に見捨てられ、運命の導くがままに行くえの岩に乗り上げるにまかせられた船のごとく、蹌踉として騒乱に揺り動かさるる大都の姿は、惨として見るに堪えないものがあった。しかも人々は、かくも悲しむべき境涯に堕したるにかかわらず、彼らの流離の地もなおポンペイウスあるのゆえをもって彼らの郷土と思いなし、住み慣れたローマをあたかもそれがカエサルの陣営であったかのように捨て去った。かつてはカエサルのもっとも近き腹心の一であり、その副官であり、そうしてガリアの諸戦役にはカエサルの麾下にあって転戦したラビエヌスすら今は彼を捨ててポンペイウスにはしった。カエサルはラビエヌスの財産調度のいっさいを彼に送り届けたのち、ドミティウスが三十箇連隊の兵を擁して固めていたコルフィニウムの城を取り詰めた。ドミティウスは防戦を持続するの望みなきことをさとり、近習のなかにいた一人の医師に毒薬を請い受け、これを服用して死を待った。しかるにまもなくカエサルが捕虜となった者にたいして極度の寛仁を示したことを聞いて自己の不幸を悲しみ、決心の早計を悔いた。しかるに医師は、彼が服(の)んだのはその実睡り薬であって毒薬ではなかったことを告げて安心させた。これを聴いて大いに喜んだ彼は急に寝床から飛び起きてさっそくカエサルの軍門に駆けつけて降(こう)を乞い、味方たるべしとの誓約を捧げた。しかし彼は後日ふたたびポンペイウスに奔(はし)った。この消息が伝わったとき、ローマにあった人々は大いに安堵した、そうしていったん逃げた者もまた帰ってきた。
35 カエサルはドミティウスの兵を部下に加えた。これは彼がすべての城市において、ポンペイウスの軍に編入せられていた者を見いだしたときの恒例であった。かくしていまでは十二分に強く敵を怖れしむるにたるだけの兵力を擁するにいたったので進んでポンペイウス自身に向かった。しかしポンペイウスはふみとどまってカエサルに応接するの意気なく、あらかじめ一隊の勢いをつけて両執政官をデュラキウムに送りおき、みずからはブルンディシウム(イタリア南端かかと側)に奔った。まもなくカエサルの近づくを聞いて彼は海に浮かんだ。なおこれはポンペイウス伝のなかにいっそう詳説することとする。
カエサルはただちにこれを追おうと思ったが舟楫(しゅうしゅう)の便(べん)がなかったのでひとまずローマに引き返した。すなわちカエサルは一人の血をも流すことなく六十日の間に全イタリアの天下をとったのである。彼がローマに帰ってみると市中は予想したよりもはるかに平穏であり、多くの元老院議員も居合わせたので、彼は慇懃鄭重(いんぎんていちょう)に彼らに挨拶し、和解のために任意の適当なる妥協条件をもたらして使いをポンペイウスに送らんことを彼らに懇請した。しかしながらあるいは彼らがポンペイウスを見捨ててローマに帰ったところからポンペイウスの思惑をはばかったためか、あるいはカエサルの言葉はその本心より出でたものではなく、単に彼が巧言令色を弄するを利益と考えて言ったのであると揣摩(しま)したためかは知らず、何人もカエサルの発議を承引する者がなかった。
その後、カエサルが国庫より金を引き出そうとしたとき、護民官メテルスが法律を引用してこれを阻止しようとした。するとカエサルは、この世は時には武器、時には法律が支配するのだと、答え、「もし余の所存が君の気に入らないならば、このところを去れ、戦争は言論の自由を許さない。余が武器を収めて平和を結んだ暁には、また帰りきたって、思うままの議論をするがよろしい。しかもこれを」と彼は付け加えた。「君にくどくどと言って聞かせることからして、余の正当な権利の減殺なのだ。なぜといおうか、そもそも君にせよ、その他の何者にせよ、かつて余に反対を示したほどの者どもでいま余の権力のもとにある者は、余が思うがままに取り扱いうるのだ」。メテルスにこう言い捨てて彼は金庫の戸口に行った。そうして鍵が見あたらなかったので、鍛冶を呼び寄せてこれをこじあけさせた。メテルスがまたもこれをさえぎり、そうして誰かがメテルスに声援したので、カエサルは急に一段と声を高めて、もし重ねてじゃまだてすると命はないぞときめつけ、「よいか」と彼はいった「心得ておけ。余には口を動かすよりは手を動かすほうがよほど勝手がよいのだぞ」。この一言にメテルスは震え上がって引き下った、そうして爾来カエサルが戦争のための必要なる資金を得んがために与えたすべての命令が迅速に行なわれるようになった。
36 ついでカエサルは、まずポンペイウスの両部将アフラニウスとウァロを粉韲(ふんさい)し、彼らの支配する軍隊および諸属州をわが手に収むる決意をもってスペインに進軍しつつあった。かくして背後に敵を残さなくなればいっそう意を安んじてポンペイウスに立ち向かうことができるからであった。この征行中彼の一身は幾度となく伏兵に襲われ、軍隊は糧食の欠乏によって危難に瀕した。しかしながら彼は毫も屈せず、あるいは敵を追跡し、あるいはこれを挑発して戦闘に誘い、あるいは城塞によって食いとめつつ、ついにみずから主力をひきいて敵の陣営および兵士を奪った。ただ大将分の者のみが逃れてポンペイウスのもとに奔(はし)った。
37 カエサルがローマに帰ったとき、彼の岳父ピソーが、ポンペイウスのもとに使いを遣わして和を議せしめんことを彼に勧めた(49年)。しかしながらイサウリクスは、カエサルの意に迎合せんがためこれに反対した。その後元老院によって独裁官(ディクタトール)に推挙せられたので、彼はすべての亡命者を喚び返し、そうしてスッラのもとに迫害せられた者の市民としての権利を子供たちに継がしめた。彼は負債にたいする利子の若干部分を減免する法令によって多くの債務者を救済し、その他多くはなかったがこれに類する措置を行なった。そうして十一日間にして独裁官の職を辞し、セルウィリウス・イサウリクスと相ならんで執政官の称号を帯びたうえで、ふたたび戦争に急いだ。
彼の行軍は非常なる速さであったため、軍の大部分はあとにとり残され、彼に続いたのはわずかにすぐり抜いた騎兵六百と五軍団のみであった。これをひきいて彼が海に乗りだしたときは、あたかも冬のさなか、一月の初め(アテナイ暦のポセイデオン月にあたる)であった(48年)。そうしてイオニア海を過ぎ、オリクムとアポロニアとの両市を取り、ついでにさきに行軍中に取り残した士率(しそつ)を呼び寄せんがため船をブルンディシウムに送った。
彼らはかの行軍の途中すでに身体の気力が衰え、かつかかる大小無数の戦闘に倦みはてていたので、知らず識らずカエサルにたいする苦情をもらし合った。「いったい、いつになったら、そうしてどこに着いたらこのカエサルという男はわれわれを休ませてくれるのだろう。われわれをむやみに方々引っぱりまわし、われわれがすれきる気遣いのない者のようにこき使い、骨折りということの感じが一つもないのだ。鉄ですら叩きぬけば摩滅(まめ)ってしまうのだ。こう永く使われては、このおれたちの楯や胸甲だって相当に気の毒だと思ってやらなくてはならぬ。もしほかの物では駄目としても、おれたちのこの創(きず)、これでもって、あの男は、自分の下知に従っているおれたちが、不死身ではない人身、世間なみの人間同様、痛さも辛さも十分身にこたえる生身だということを感づくはずなのだ。神様にしてからが冬の季節を押さえつけたり、時節時節の嵐をくいとめたりはできないのだ。それをあの男は、敵を追うのではなく、まるで敵に追っかけられてでもいるようにただ闇雲(やみくも)に突き進んでいる」こうしたことをいいあいながら彼らはしごくのんきにブルンディシウムの方へ行軍した。
しかし彼らがそこへたどり着いて、カエサルがすでに一足さきに立ち去ったのを見て、彼らの心持ちは一変し、大将にたいする反逆者としてみずからを責め、またかようにのろのろと行軍したのは不都合であると将校たちにくってかかった。そうしてエピルスの方の海を見渡す丘に上がって、彼らをカエサルのもとへ運ぶ船がもしや見えはしないかと見張っていた。
38 一方、カエサルはその間にアポロニアにとどまっていた。しかし敵と一戦に及ぶにたるほどの手勢は手もとになく、ブルンディシウムからの軍隊は容易に到着しないので、彼はさしあたりいかなる措置をとるべきかについてはなはだ困惑した。そうしてついにもっとも危険なる実験をやってみることを決心した。彼は何人も知らないうちに十二挺櫓(ちょうろ)の船に乗り込み、折りしも海上は敵の兵船をもっておおわれていたにもかかわらずその間を乗り切ってブルンディシウムに渡ろうとした。彼は夜陰に乗じ奴隷の姿に身をやつして船に乗った。そうして氏も素姓もない平凡(ただ)の人のように船底にねころんでいた。船はアオオス河を海に向かって漕ぎ下ったが、そこは毎朝陸から軟風が吹いてきては海の浪を追いやるため河口はいつも平穏であった。しかるにこの夜は海の方から烈風が吹きつのって陸よりの風を圧倒したために、河が海の差し潮と波の抵抗とに衝突するところは狂瀾怒濤がさかまいた。そうして潮流が打ち返されて水がはげしく盛り上がるためにとうてい船をやることができないので、船頭は水夫に上手回(うわてまわ)しに舳(みよし)を転じて還ることを命じた。カエサルはそれと見て姿を表わし、思いがけなく彼を見てびっくりしている船頭の手をとっていった。「やれ、兄弟、びくびくするな。お前たちはカエサルとカエサルの運命とをお前たちの船に積んでいるのだぞ」。水夫たちはこれを聞いて嵐を忘れた。そうしてあらんかぎりの力を槽に打ち込んで無二無三に河を下(くだ)ろうとした。しかし結局それも甲斐なく、とかくのうちに船には滝のように水が打ち込んでくるので、いよいよ河口までたどりついたときの危険さはますますはなはだしくなった。それを見てカエサルもはなはだ不本意ながら船頭に引き返すことを許した。彼が陸に上ったとき士卒は一団となって彼をとりまき、彼の所行の無鉄砲を責め、かつ彼が彼らのみの助(すけ)をもってしては敵に勝つことおぼつかなしと見ての心づかいか、あたかも手もとにいた者の力を信用しないかのように、遠く離れている者どものために命を粗末に取扱うと憤慨した。
39 やがてアントニウスが軍勢をひきいてブルンディシウムから着到したので、カエサルはこれに勢いを得ていよいよポンペイウスに軍をしかけようと勇みたった。しかしポンペイウスの陣営がきわめて地の利を得たうえに、水陸からおびただしき軍需の供給を受けえたに反し、カエサル方は最初の間、供給はなはだ乏しく、いくばくもなく兵糧軍需まったく窮乏して非常なる危機におちいり、士卒は余儀なくある草の根を掘りだしこれを牛乳にまぜて飢(うえ)をしのぐほかはなくなった。ときどき彼らはこの根をもってパンに似た物を造り、敵の前哨に近寄ってこれを投げ込みながら、大地にこの根が生えるかぎりポンペイウスの囲みはとかないぞとはやしたてた。しかしながらポンペイウスは、あらんかぎりの注意を払ってこのパンと言葉とが士卒にとどかないように務めた。というのは、ポンペイウス方の士卒は敵の慓悍(ひようかん)と頑強とにおそれをなして意気沮喪し、敵を野獣のごとくに思っていたからである。
こうしてポンペイウスの外堡(がいほう)の周囲にはつねにこぜりあいが繰り返され、そうしてたいていはカエサル方の旗色がよかったがただ一回のみは反対に、カエサルの軍はさんざんに駆け散らされ、カエサルもほとんどその本陣を喪いかけた。この時にはポンペイウスの猛然たる攻撃に味方は一人として踏みこたえる者はなかった。塹壕(ざんごう)は屍体をもって埋められ、敵に追われて逃げ帰った己が堡塁(ほうるい)や胸壁の上に折り重なって倒れた者は数知れなかった。カエサルは浮き足立って逃げくる味方の士卒をさえぎって踏みとどまらせようとしたがとうてい力に及ばなかった。そうして彼が軍旗を手もとに集めようとしたとき、旗手がこれを投げ出したので、敵に奪われたものは三十二旒(りゅう)に及んだ。カエサル自身もまたその乱軍にほとんど命を失いかけてあやうく逃れた。というのは、彼の兵卒の一人で身の丈すぐれた屈強な男が、彼のかたわらを逃げてゆくので、彼はこれをつかまえて踏みとどまらせ、もう一度敵に向かわせようとした。ところがそいつは身に迫る危難に血迷ったか、やにわに刀を振りかぶって、あわやカエサルに斬りつけようとした間一髪、カエサルの楯持(たてもち)がさっとその腕を切り落した。このときのカエサルの運命は真に風前の燈(あかり)であって、ポンペイウスが用心にすぎてか不運のためか、この偉大なる成功に画竜点睛の用意を忘れ、破れた敵を陣営に追い込むとともに引き上げたとき、カエサルはその後ろ姿を見送りながら幕僚に向かっていった。「もし敵が勝つ術を知った大将を戴(いただ)いていたならば、こんにちこそ勝利は敵のものであったろうものを」。
幕舎に帰った彼は睡らんとして身を横たえた。しかし懊悩(おうのう)と沈吟(ちんぎん)とのうちに煢煢(けいけい=孤独)としていまだかつてなきみじめな一夜を明かし、ようやく彼が戦(いくさ)をやることのはなはだ誤りであったという結論に達した。眼前にマケドニアおよびテッサリアの沃野と幾多の殷賑なる都市を控えながら、彼はその方向に戦を進むることを閑却し、彼が敵がかくのごとき強力なる水師を擁している海岸に跼蹐(きょくせき=うずくまる)して便々(べんべん)として日を送ったのは、実際において彼の武力をもって敵を包囲するというよりは、むしろ軍需の窮乏によって包囲せられたと称すべきものであった。かくのごとくその現に逢着した困難と危険とを回想して茫然自失する気を取り直しつつ彼は陣営を撤(てっ=撤収)し、ポンペイウスが現在のごとく海上より軍需供給の利益なしに戦うことを余儀なくせらるる平地の合戦に彼をおびき出すか、しからずんば、スキピオの孤立無援に乗じて一挙これを屠(ほふ)り去るか、二者のうちその一を失うことはないと希望しつつ、マケドニアにたむろしたスキピオに向かって追撃の意を決した。
40 これを見たポンペイウスの将卒は、さてこそカエサル敗軍に気をくじかれて逃げだしたと合点して、急ぎ追討ちをかけようとの意気に燃え立った。しかしながらポンペイウスは、一戦に運命を賭することを恐れた。そうして味方は、よしや戦陣いかに長引くともこれにたいして必要なる軍需の供給に事を欠かないことを承知していたので、もはや長く続きえないこと必定と見えたカエサル軍の英気をじりじりと疲れはて使いきらずにしくはないと考えた。
というのは、いかにもカエサルの将卒のうちとりわけて精鋭なる部隊は、場数覚えた剛の者であり、これまであらゆる戦場の駆引きに無敵の勇気を示したことは事実であるが陣中に老いた彼らの筋骨は、労苦に堪うることまたもとのごとくならず、その勇気もまた体力とともに衰えたので、ひんぴんとして野営を変え、数知れぬ塁を攻め、長い夜警を張りつつ所在転(うたて)に戦する日ごとの行軍に、ようやく瘏痡(とほ)困憊(こんぱい)の色を示したからである。それのみならず、不規律なる食事のために生じた悪疫が、カエサルの軍中に流行しているという風評が伝わっていた。そうしてもっとも重大なる急所は、カエサルが軍資と糧食とに欠乏していたことであった。したがって彼は日ならずして自滅することは必定であったからである。
41 こうした種々なる理由より、ポンペイウスはカエサルと雌雄を決する所存がなかった。しかしながらこれに感謝した者は、同胞の生命がこれによって救わるると予想して喜悦したカトー、ただ一人のほかはなかった。カトーは最近の戦争に倒れたカエサル方の千を数える屍体を見て、面をそむけ涙を流したからである。しかしながらその他の者はことごとくポンペイウスが逡巡して戦を欲しないことを非難し、あたかも彼がその王者のごとき権威に眷恋(けんれん)して多くの将帥が彼に侍し、彼の幕舎に伺候するありさまに恐悦している者のごとく、「アガメムノン」とか「諸王の王」とかいう綽名(あだな)を冠(かむ)らせて彼を刺戟しようとした。
カトーの思うことを直言してはばからないやり口を真似たファオニウスは、ポンペイウスの大将慾に累せられて、一同今年はトゥスクルムのいちじくを食べそこねなければならない、とはなはだしく愚痴をこぼした。また近ごろスペインより帰ってきて、かの国における戦争の不首尾のため、賄賂によって軍隊を売ったという嫌疑に困じはてていたアフラニウスは、なぜに味方はこの土地買男を追撃しないのかと不審がった。ポンペイウスもこうした雑言によって心ならずも戦争をしかけることを余儀なくせられて、カエサルの後を追って進軍した。
カエサルは先ごろの敗戦以来はなはだしく名声を損じたため、いたるところの国が彼に軍需の供給を渋ったので、行軍に非常なる困難をなめた。しかしながらテッサリアの一市ゴムフィーを攻略したのちは、彼はひとり軍需品のみならず、また思いがけない良薬をも見いだした。というのは、この町において彼らはおびただしい葡萄酒を手に入れて思うがままにこれを飲んだ。そうして酒の機嫌で酒神(バッカス)祭のように踊り狂いつつ、行軍したので、知らず識らず疫病を振り落とし、彼らの体質が回復して見違える姿になったからである。
42 かくて両軍がファルサリアに入り、ともに陣を布いて対峙したとき、ポンペイウスの意向はふたたび旧道に反(かえ)り、特にいろいろな凶兆やその見た一場の夢などのためにいっそう戦争回避に傾いた。しかしながら彼の周囲の者どもは勝利を信じきっていた。そうしてドミティウス、スピンテルおよびスキピオの徒は、すでに勝利を得たかのように誰がカエサルの後をついで最高神祇官に任ぜるるかについて青筋立てて争った。そうして戦争が終わるやいなや銘々その職に就きうることと安心して、使者をローマに差し立て執政官や裁判官の住居として恥ずかしからぬ邸宅を物色せしめた者もすくなくなかった。なかにも甲冑美しく颯爽として馬にまたがる騎兵が戦争を望んではやりたったのは、手飼いの駿馬とわれながらあっぱれなる武者ぶりと、とりわけ敵味方の衆寡(しゅうか)の勢とによってみずから高く値踏していたからである。すなわちカエサル方の一千騎にたいして味方は五千騎であった。加うるに歩兵の懸絶(けんぜつ)もまたこれに劣らず、ポンペイウス軍の四万五千にたいしてカエサル軍は二万二千にすぎなかった。
43 カエサルは士卒を集め、クィントゥス・コルニフィキウスが二個軍団をひきいておっつけ着到のはずであり、また別に十五聯隊の勢がカレーヌスのもとにメガラとアテナイとに駐屯している旨を告げたのち、これらの新手の合するまで静止する所存かただしは彼らのみにて一戦に及ぶことを望むかを士卒に問いただした。彼らはいっせいに、このうえ味方を待たず、片時も早く戦争となるようしかるべき策に出でんとカエサルに向かって叫んだ。
カエサルは、軍勢の祓除(ばつじょ=おはらい)のために犠牲祭を行なったとき、第一の犠牲の倒れたありさまをみた占師は、三日のうちにカエサルが運命を決する合戦に及ぶであろうと告げた。カエサルが、犠牲の内臓に吉事を予言する何物かがあったかいなかと尋ねると、「その儀は」と占師が答えた、「ご自身がもっともよく答ええらるるはずでござる。と申すは、諸神のお告げは、現在の事態に大変動がくるということでござりまする。さればもしただいまのお身の上を仕合わせとおぼしめすならば、凶事のお覚悟が肝腎、もしまたただいまが不仕合わせとならば吉事の生ずることと心得てしかるべしと存ずる」戦争の前夜カエサルが夜半に陣中見廻りをなしつつあったとき、中天に煌々として燃える一団の光があって、それがカエサルの方の陣の方へ飛ぶと見るうちにたちまちポンペイウスの陣に落ちた。またカエサルの兵士が払暁(ふつぎょう)に歩哨(ほしょう)の交代にきたとき彼らは敵の陣中にあわただしい混雑を認めた。しかしながらカエサルはこの日戦闘を期待せず、スコトゥッサに進軍する意向のもとに陣払いしようとした。
44 しかるに幕舎がまさにとりおろされんとしたとたん、物見の兵が馬を飛ばして彼のもとにかけつけ、敵がしかける気配を示したことを注進した。この注進を得たカエサルは大いに喜び、諸神に祈禱を捧げたのち、軍を三手に分けて戦列を整えた。中軍にはドミティウス・カルウィヌスを配し、左翼はアントニウスこれを指揮し、そうしてカエサルは第十軍団の先頭にたって戦う決心のもとにみずから右翼の指揮にあたった。しかしながら彼は、敵の騎兵が彼に向かって攻勢の構えに出たのを見たとき、そのめざましき陣容と数とに心安からず覚えたので、密令を発し後陣より六箇聯隊を呼び寄せてわが手に合わせ、これを右翼の後陣に据え、敵の騎兵が押してきた場合にいかに応援すべきかを訓令しておいた。
敵の方ではポンペイウスが右翼、ドミティウスが左翼、そうしてポンペイウスの岳父スキピオが中軍を指揮した。騎兵の全力が左翼に集められたのは、敵の右翼をとりこめて、総帥みずから指揮にあたった部分をつき崩さんとする方寸に出たものであった。けだし彼らは、かくのごとき強力なる騎兵の突撃にあってはいかなる歩兵の密集部隊といえどもとうていその勢いに抗しうるほど堅固ではなく、必定粉砕せらるるほかはないと考えたのである。
こうして両軍が戦闘開始との合図を発しようとしたとき、ポンペイウスは先頭にあった歩兵に、あくまで足場を固守して、隊伍を乱すことなく敵が投げ槍の矢頃に入るまで、静かに敵の最初の攻撃を受け身に持ちこたえることを命令した。この点においてもまたカエサルはポンペイウスの将略(しょうりゃく)で批難している。謂(おも)えらく、由来勝敗の決は最初の一合(いちごう)にあり、最初の一合はこれをやるに一種の勢いと突進の気合とを持ってすれば、爾後の打撃に重量と力とを加え、士卒の精神に火を点じて烈々たる焔(ほのお)を燃えたたせる。そうしてこの焔を全線の競り合いが煽(あお)って極度の熱を発せしめ敵を燬(や)きつくさずんばやまない。好漢ポンペイウスおしむらくはこの消息を識らないと。
かくてカエサルはいままさに部隊を動かして進撃に移ろうとしたとき、中隊長の一人でたのもしい古武士が部下を励まして必死の奮闘をうながしているのを見て、その名を呼んでいった。「見込みはどうじゃ、ガイウス・クラッスティヌス、勝利を期すべき理由があるか」。クラッスティヌスはその手をさしのべて大音に叫んだ、「味方のみごとな勝ちは疑いがござらぬ、して拙者は命があっても無(の)うてもきっと御感(ぎょかん)にあずかる働きをお目にかけまする」。こう言い捨てた彼は随(したが)う百二十人の部下の先頭に立って敵に切り込んだ。そうして第一戦を打ち破り、当たるを幸いと敵をなぎ倒しつつなお進んでゆくうちに、その口からぐざと通って頸窩(くびわ=首の前のくぼみ)に突き抜けた刀傷(とうしょう)を受けて仰(あお)のけざまにひっくりかえった。
45 歩兵がかく主力戦に火花を散らしていた間に、側面にはポンペイウス軍の騎兵が自信をもって堂々と寄せてきた。そうして戦列を広く展開してカエサルの右翼を取りまく勢いを示した。しかし、この時早くかの時遅く(=それと同時に)、カエサルの後陣に控えた聯隊が突き進んで敵を迎えた。しかし矢頃を計って遠くより投げ槍を飛ばすこともなく、また短兵相接するときの常例のごとく腿や脛を打つということもなく、ただ敵の顔のみをねらい打った。これはいまだかつて戦場と手傷との味を知らず、若盛り、器量盛りの長髪をなびかせてくるような若武者どもはかならず顔への打撃をもっとも怖れ、目前の危険とのちのちまでの創痕(きずあと)とを恐れてあくまで踏みとどまる気遣いはないと察してカエサルがかねて味方に言い含めておいたからである。いったん浮き足たつやたちまち彼らは後面(うしろ)を見せて敗亡(はいぼう)し、もっとも見苦しく万事を破潰(はかい)してしまった。なんとなれば彼らを追い払った味方の兵は一挙に敵の歩兵を迂回して背後からうちかかりこれを粉砕したからである。
軍の他の一翼を指揮していたポンペイウスは、その騎兵が打ち破られて遁走するありさまを見たとき、茫然自失し、わが身が「大ポンペイウス」であったことも忘れ、あたかも神力をもって五官六根を奪われた者のごとく一語を発せず幕舎に退(しりぞ)いた。そうしてそこに坐ったままただ成行きにまかせていたが、そのうちに全軍は潰滅し、敵は幕舎の前面に築かれた塁壁の下に姿を表わして、これを防ぐために配備せられた味方の兵とそのところで激しい短兵戦を演じた。この時はじめて彼はふたたび人心地になったように見えた。そうして伝うるところによれば、ただ一言「なんと、本営までもとな」と叫んだまま、大将の具足をかなぐり捨て、逃ぐるにもっとも都合よしと覚えた衣裳にかえて忍び出た。その後彼がいかなる運命に際会したか、いかにしてエジプトに敗残の身を託し、いかにして暗殺せられたかの顛末は、彼自身の伝記に譲ろう。
46 カエサルは、ポンペイウスの本営を検分せんがために乗り込んで、敵があるいは死し、あるいは息もたえだえに地上に算を乱しているありさまを見て、呻くがごとくにいった。「かくなることを彼らは願ったのじゃ。余をこの絶対の羽目に押しつめたのは彼らじゃ。かくいうガイウス・カエサルとて、もしおのが軍隊を投げ出していたならば、過去大小無数の戦功の甲斐もなく、一世に指弾され浮かばれぬ目に遭うたにちがいないのじゃ」。ポリオの説には、このときのカエサルの言葉はラテン語であったのをのちにギリシア語に書きかえたのであると、そうしてこの陣営奪取の際に殺された者の多くは僕奴(ぼくど)であって、武士の陣歿(じんぼつ)は六千を超えなかったと付け加えている。カエサルは捕虜とした歩兵の大部分をわが部下の軍団に編入し、身分ある者の多くに赦免を与えたが、そのなかにはのちにカエサルを殺したブルートゥスも居た。ブルートゥスは戦争が終わった当時ただちにその姿を示さなかったので、カエサルははなはだしくその身上を気遣った。そうして彼が無事に生き残っているのを見たときも同じくはなはだ喜んだと伝えられている。
47 この勝利の前兆を示した奇瑞(きずい)は多かったが、なかんずく吾人に伝わっているもっとも不可思議なるものは、トラレスの町に起ったものであった。そこの勝利の女神ニケの神殿にカエサルの彫像が立っていた。彫像を載せていたところの地面は元来堅く、そこに敷きつめた舗装の石はいうまでもなくいっそう硬かった。しかるにこの象の台座のそばから一株の棕櫚がすくすく延びだしたということである。またパドヴァの市に住んでいたガイウス・コルネリウスという者は日ごろ占卜(うらない)の達人であったが、あたかもかの戦争の行なわれた当日、偶然なんらかの占トの観測を行ないつつあった。しかるにリウィウスがその書中に伝うるところによれば、この神占者は戦闘の時刻を指摘してあたりにいた人々に、戦闘が今方(まさ)に開始せられ両軍相接したと告げた。彼が三度目に兆候を窺(うかが)ったとき、あたかも霊感に打たれた者のごとくにおどりあがって叫んだ、「カエサルよ、卿(きょう)克(か)てり」。そばにあった者は驚いた。しかし彼はかぶっていた花冠を脱いで、事実が彼の神占術の証拠を示すまで二度とこれをいただかないと誓った。リウィウスは固くこれを真実と断言している。
48 カエサルは戦勝記念としてテッサリア人に自由を与えたのち、ポンペイウスの追跡に出で立った。彼がアジアに来たとき、寓話集の編者テオポンポスの労を多としてその郷国たるクニドスの人民に自由市民権を与え、またアジア洲のすべての人民にたいしてその貢賦の三分の一を免除した。
やがてアレクサンドリアに到着してポンペイウスがすでに暗殺せられたと聞いたときには、彼はポンペイウスの首級を献じたテオドトスに面をそむけてこれを見ず、ただポンペイウスの印璽(いんじ)を受け取って涙を流した。ポンペイウスの幕僚にしてこの地方を漂泊する間にエジプトの王に捕えられた者どもを彼は釈放した。そうして彼自身の好意を彼らに示した。ローマにある友人にあてた書翰のなかに彼は、このたびの勝利が彼に与えた最大にして最美なる愉快は、さきに彼にたいして戈(ほこ)をとった同胞の命を続々と救いうることであると書いた。
エジプトにおけるカエサルの戦争についてはある者はそれが危険と不名誉とを兼ね、全然無用の物であって、もっぱらカエサルのクレオパトラにたいする執着を動機としたにすぎないとけなしつけている、他の者はエジプト王の廷臣ら、なかんずく宦官ポティノスを責めている。ポティノスは当時出頭(しゅっとう)第一の寵臣(ちょうしん)であり、最近ポンペイウスを殺した者も彼であって、さきにクレオパトラを追い、いままたひそかにカエサルの破滅をたくらんでいた(これを避けんがためカエサルは爾来一身の安泰を計り、長夜の宴を辞柄(じへい=口実)として徹宵(てっしょう)起きていることにした)が、またカエサルに対し言語と行為との双方において堪えがたき侮辱をあえてした。
たとえば、カエサルの士卒が補給を受けた穀物はかびがはえて不衛生を極めたものであったが、ポティノスは、他人の費用で養われている以上彼ら士卒はこれをもって満足しなければならないと公言した。彼はまた命じて国王の食卓にもっぱら木製および土製の皿を用いさせ、カエサルが貸金の未払分を口実として金銀の皿は全部これを運び去ったといった。貸金云々のいきさつというのは、現エジプト王の父が、カエサルに一千七百五十万金の債務を負うていた。カエサルはこれよりさき右のうち千万だけを残し、他を王の数児のために棒引きにしたが、この時にいたり、軍隊の維持のために件の一千万金を請求することを至当と考えた。しかるにポティノスは、これにたいして、カエサルにはもっと重要なる仕事があるはずであるからまずその方をかたづけてくるがよかろう。金は追ってお礼をいって払ってやろうといった。するとカエサルも、自分の仕事にエジプト人から知恵や指図を借りるに及ぼうかと答えた。そうしてその後まもなくひそかに人を遣わしてクレオパトラを配所より迎えた。
49 クレオパトラは小舟に乗り、腹心の家来のうちシチリア人アポロドロス一人を召具して夕闇にまぎれて王宮に近きあたりに上陸した。彼女はいかにして人目にふれず宮中に入るべきかと途方に暮れていたが、やがて一計を案じ寝台の蒲団にもぐりこみて縦に身を伏せ、アポロドロスは寝具を結びあげてこれを背負ってなにげなきさまに宮門を通り抜け、カエサルの居間に持ち込んだ。
カエサルはまず彼女のこの大胆なる機転を見て敬服し、次には彼女の社交ぶりの魅力に征服せられたので、彼女とその兄弟たる現王との間に斡旋し、彼女が国王と共同でエジプトを支配することを条件として和解を成立せしめた。この和解を祝うために一場の賀宴が催されたが、日ごろカエサルの理髪役として仕えていた奴隷で、その人なみ勝(すぐ)れた臆病さが彼をして何事につけても詮索癖を発揮せしめ、忙しくたちまわって早耳にいろいろな事を聞きこんでくることに妙を得た男が、ふと国王の軍隊の将校アキッラスと例の宦官ポティノスとがこの賀宴の席上、カエサルにたいするかねての陰謀を実行しようとしていることを発見した。
カエサルはその諜報にもとづき饗宴の行なわるる大広間に衛兵を伏せてポティノスを成敗した。アキッラスは軍隊へ逃げこみ、カエサルにたいして兵をあげたが、かくのごとき強大なる都城と盛大なる軍隊にたいして僅少なる手兵をもってあたるのであるから、この戦争はカエサルにとって、容易ならざる困難であった。彼が逢着した最初の困難は、敵が水道を絶ったために生じた水の欠乏であった。第二は、敵が海上よりの交通を遮断しようとつとめたので、カエサルは余儀なく彼自身の船隊に火を放ってこの危険を除いたことであった。このとき火は船渠(せんきょ)を焼いたのち、さらに燃えひろがってついにかの大書庫を灰燼(かいじん)に帰せしめた。第三に、ファロス付近の戦闘において彼は味方の苦戦を助けんがため突堤から一隻の小舟へ飛び乗ったところをエジプト兵が四方から迫ったので彼は身を海中におどらしかろうじて泳ぎ去った。歴史の伝うるところによれば、このときカエサルは一束の草稿を手にたずさえていたが、敵の投箭(なげや)がたえまなく飛びくるがため、幾度となく、頭を水中に没してこれを避けることを余儀なくせられたにかかわらず、あくまでこの草稿を離さず差上げて濡れることを防いだ。彼の小舟はその間にたちまち沈んでしまった。
とかくのうちに国王もついにアキッラス一味に加担したので、カエサルは討ってことごとくこれを征服した。この戦闘には多くの死者を出し国王自身の行方もついに知れなくなった。そこでカエサルはクレオパトラをエジプト国王として後に残しシリアに向かって出で立った。クレオパトラはその後まもなくカエサルの胤(たね)なる男の子をあげた。アレクサンドリア人は父の名にちなんでこれをカエサリオンと呼んだ。
50 カエサルはシリアより転じてアジアにはいったが、ここで彼は、部将ドミティウスが、ミトリダテスの子ファルナケスに破られわずかの手兵をひきいてポントスから逃げ出したこと、ならびにファルナケスはあくまでも勝ちに乗じて、すでにビトゥニアとカッパドキアとを収めたにかかわらず、さらに小アルメニアに向かって食指を動かし、あまつさえその地方の諸王侯を煽動して叛旗をひるがえさしめんとしつつある由を聞いた。
カエサルはただちに三箇軍団をひきいてこれに向かいゼラの付近においてこれを撃ち、ファルナケスをポントスより追いかつ彼の軍隊を完全に鏖滅(おうめつ)した(47年)。彼がローマにある一友人マティウスにこの戦役を報じたとき、その迅速さを表現せんがために、三語、「来たり、見たり、勝ちたり」を用いた。この三語はラテン語において全然同一の韻を有し、簡潔を表わすにきわめて適当なる調子を伝うるものである。
51 そこより彼はイタリアに渡ってローマに帰ったが、それは彼が二度目に独裁官(ディクタトール)に選ばれた年の末であった。ただしこの職は従来いまだかつて満一か年の間と続いたことはなかった。したがって翌年(46年)には彼は執行官に任ぜられた。このころ彼は、若干の兵士が暴動を起こしさきに裁判官(プラエトル)であったコスコニアスおよびガルバを殺したことにたいし、単に兵士たちを「戦友」と呼ばずに「市民」と呼びかけただけの仕置きにとどめ、しかものちにいたって暴動者の各自に一千ドラクマずつ、ならびにイタリアにおける一区画の地を与えたという理由で悪声をこうむった。
また彼は部下の将ドラベラの豪奢(ごうしゃ)、マティウスの貪慾、アントニウスの放蕩、コルニフィキウスの贅沢等のためにも世間から非難せられた。コルニフィキウスのごときはポンペイウスの旧邸をなお十分に壮大でないとしてこれをとりこわして建て直した。これらのことがすべてはなはだしくローマ人を不快ならしめた。しかしながらカエサルは、独自の政策を実行する必要より、彼らの性格を知悉(ちしつ)しかつこれを批難していたにかかわらず、物の役に立つべきこれらの人々に倚頼(いらい)することを余儀なくせられた。
52 ファルサリアの役後、カトーとスキピオとはアフリカに奔(はし)り、そこでカエサル多年の敵ヌミディア王ユバの援助を得てあなどりがたき軍勢を糾合したので、カエサルはこれを討伐することを決心した。そこで彼は冬至のころシチリアに渡ったが(47年)、将士の心中より同所に永く滞留する希望を抹消し去らんがためことさらに海岸に宿営した、そうして順風のいたるやいなや三千の歩兵と僅少(きんしょう)の騎兵とをひきいて海に乗り出した。さて彼らを上陸せしめたのち、彼は爾来の大部隊についてやや懸念することがあったのでひそかに単身帰航したが、海上において彼らに邂逅したので、これを先発部隊と同一の陣営に入らしめた。このとき彼は、敵がアフリカにおいてはスキピオの一族はかならず勝利を制する、という古来の託宣にたよりきって安心しているという情報に接した。しかるに彼の軍中に、それ以外にはなんの取柄もなく物の数にもはいらない男であったが、とにかくスキピオ・アフリカヌス門の出でスキピオ・サルティオ(サルウィト)という者がいた。この男をカエサルは(それが敵軍の総帥スキピオをからかってやろうという洒落(しゃれ)か、あるいはまたまじめに吉兆を味方に転ぜしめようという肚(はら)であったかは断言のかぎりでないが)やむなく戦った数次の合戦にあたかも大将であるかのごとく諸隊の先頭に押し立てた。カエサルがもっぱら敵の仕掛けを待ってこっちより攻撃に出でえなかったのは、海草を採り十分に洗って塩気を去り、これをすこしばかりの草を混じてやや味をよくしたものを馬の飼糧にすることを余儀なくせられたほどに、兵員の食料にも馬匹の糧秣(りょうまつ)にもはなはだしく窮乏していたからである。ヌミディア人は大部隊を作りかつ十二分に馬を揃えていやしくもカエサルのおもむくところかならず襲来してあたりの国土を支配した。あるときカエサルの騎兵隊は休暇を得たので、一人のアフリカ人の踊りを見物して楽しんでいた。このアフリカ人は踊りながら同時に巧みに笛を吹き鳴らした。騎兵らがいずれも馬を下り、そうしてこれを数人の男の児に預けて芸にみとれているところへ、忽然敵が現われて彼らを囲み数人を殺し残る者を追うて味方の陣営のなかへなだれこんだ。そうしてもしカエサルとアシニウス・ポリオが援助に駆けつけて味方の逃げ足をくいとめなかったならば、この戦争はこのときをもって終わりを告げたにちがいなかった。またある時の戦いにも敵の旗色がよかったが、このときカエサルは逃げ出す一人の旗手の襟髪をとってむりに背後にねじ向けながら「見ろ、敵の方へ行く道はこっちだ」といったと伝えられている。
53 この成功に幸先よしと意気すこぶるあがったスキピオは、決戦に出ずる決心を固めた。そこでアフラニウスとユバとをほど遠からぬところに二隊となってとどまらしめ、みずからタプソスに向かってそこの湖水のほとりに、一は作戦の中心ともなりまた退却の際の足だまりとなるように、砦をもって陣営を築いた。
スキピオがこの作業に没頭している間に、カエサルは人間業とも覚えざる速さをもって無数の密林と人跡通しがたしと想像せられていた一国土とを通り抜け、敵の一隊を鏖殺し、他の一隊を正面より攻撃した。この両部隊を撃破したのち、彼はその会機と好運の潮(うしお)とに乗じて、最初の一寄(き)をもって、アフラニウスの陣をのっとり、息もつかせずヌミディア人の陣を襲い、その王ユバが身をもってのがれたあとを思うがままに荒涼した。かくして同じ日の数刻の間に三箇所の敵陣を奪い、味方の討ち死にわずかに五十にして敵を殺すこと五万と註せられた。この戦闘についてある史家は以上のごとく伝えている。ほかの説によれば、カエサルは当日の戦闘に加わらなかった。それは彼が軍隊を戦闘隊形に編成しつつあった途端に、いつもの病気に襲われた。彼はいち早く発作の近づくことをさとって、それがあまりにはなはだしく彼の感覚を悩乱(のうらん)せしめないうちに、すでにその影響のもとに五体が震えだしたと感づくや、ただちに近傍の砦に引き上げて休息した。この合戦ののちに捕えられた執政官(コンスル)級および裁判官(プラエトル)級の者のうち、ある者はカエサルこれを殺し、ある者は先を潜(くぐ)って自殺した。
54 これよりさき、カトーはウティカの防備の任についた。したがって右の戦役に加わらなかった。カエサルは疾駆(しっく)ウティカに向かって彼を生擒(いけどり)せんと欲した。そうしてカトーが自尽(しじん)したとの情報を受けたとき彼ははなはだ不機嫌であった。ただしそれがいかなる理由に出たかは定説がない。ただ彼が「カトーよ、君が君の命を救うの名誉を余に吝(おし)んだごとく、余は君の死を君に与うることを吝まなければならない」といったことは確実である。しかしながらカトーの死後カエサルがカトーにたいして書いた議論は、とうていカエサルの彼にたいする好意、もしくはカエサルが彼にたいして和解する意向があったことの有力なる証拠をもって目しえないものである。けだし彼の追憶にたいしてしかく刻峻(こくしゅん)であったカエサルが彼の生命にたいして惻隠(そくいん)することがいかにして可能であろうか?
しかしながらまた一方彼がキケロ、ブルートゥスその他戈(ほこ)を彼に擬したる者にたいする寛恕にかんがみて、カエサルの書はカトーにたいする敵意に出でたるよりもむしろ自家の弁疏を目的としたるもの多きによることが立証せられうるかもしれない。シキケロはカトーに関する頌詞を書いて彼の名をこれに冠した。かくのごとき巨匠がかくのごとき好題目について筆を行なった文章はかならず万人の手にあるべきこと疑いをいれなかった。敵にたいする誄頌(るいしょう)は畢竟みずからにたいする誹謗にほかならずとなしたカエサルにとってこれは平気に見すごしうることではなかった。したがって彼は、その著『排カトー』においていやしくもカトーに貶誹(けち)をつけんがために謂(い)いうることを捃摭(くんせき)網羅して剰(あま)さんことをこれおそれたにすぎない。この二篇の文章は、カトーおよびカエサルその人と同様に各々別々の讃美者を有する。
55 ローマに帰ったとき、カエサルは民衆に向かっては彼の勝利をはなやかに吹聴することに如才はなかった。曰く彼は年々公共のために、二十万「アッティカ・メディムノス」の穀物と、三百万リトラのオリーブ油とを提供しうる国土を征服したと。ついで彼は、エジプト、ポントスおよびアフリカの戦勝にたいする三つの凱旋式を行なったが、そのうち最後の者は、これをスキピオにたいする勝利のためではなく、ユバ王にたいする者であると声明した。このときユバ王の小さい息子が凱旋式に引きまわされたが、すべて捕虜として古今随一の幸福な者であった。なんとなれば、これがため彼はヌミディアの一蛮童であったのが後日、ギリシアのもっとも博学なる歴史家の班に伍する(=仲間入りする)にいたったからである(=ユバ二世となる)。
凱旋式後カエサルは大いに将卒の功を論じ賞を行ない、また饗宴と遊観とをもって民衆を待遇した。彼は二万二千脚の食卓が列ねられた宴会において全民衆を一度に饗応した。また死亡後すでに年を経た愛女ユリアの栄誉のためと称してへ剣闘士および海戦遊びの見世物を興行した。これらの観覧が終わったのち人口調査が行なわれたが、それは三十二万より十五万に減退していた。イタリアの爾余の部分および在外属州がこうむった禍害をほかにして、内乱はローマのみにおいてもかくのごとき損害をたくましゅうした。
56 かくてカエサルは第四回目に執政官に選ばれた。そうしてポンペイウスの息子たちを討伐せんがためスペインにはいった。彼らは若年ながらおびただしき軍勢を集め、かつこれを指揮するあっぱれの勇気と機略とを現わしてカエサルを極度の危険におちいらしめた。このときの大戦は厶ンダの城市付近に行なわれたが、カエサルは味方がはなはだしく押されてささえかねたありさまをながめ隊伍の間を駆けまわり、カエサルを小冠者どもの手に渡すを不面目と思わぬかと大音に思った。結局かろうじてあらんかぎりの力をつくして敵を撃退してその三万人を屠(ほふ)ったが、彼もまたそのもっとも精鋭なる部下千人を失った。戦場より引き上げたとき彼は幕僚に向かって、これまで数知れぬ戦争は勝利を得んがためであったが、今日はじめて命を得んがために戦ったと語った。この戦争は、酒神(バッカス)祭の日、あたかも四年前にポンペイウスが戦陣に打ち立った当日であった。ポンペイウスの季子(すえこ)は逃れた。しかしながら数日後ディディウスが長子の首級をカエサルのもとにもたらした。
これがカエサルの戦争の打ち上げであった。彼がこの勝利を祝賀した凱旋式はローマ人をこのうえもなく不愉快ならしめた。けだし彼は外国の将軍ないし蛮人の王を克服したのではなく、末路蕭条(しょうじょう)たりといえどもローマのもっとも偉大なる人の一人たりし者の子息と一族とを殲滅(せんめつ)したのであったからであり、したがって彼自身が国家の騒乱を祝賀する行列の先頭に立って練りまわり、ただそれが絶対に必要であったということ以外、神と人とにたいして弁解の辞柄なき事柄に手柄顔の満悦を示すことははなはだ穏当でなかったからである。加うるに彼は外敵の場合は知らず、同胞を対手としての戦争の勝利を報道せんがために書翰または使者を送ったことはいまだかつてなく、かかる戦争より名誉を期待するよりはむしろこれを恥とした者のごとく見えていたからである。
57 それにもかかわらず国人は、いっさいを彼の運命に譲歩し、羈絆に忍従して、ひとえに単独人の統治が、かくのごとき紛々たる内乱と災禍とののちに、彼らに息をつくべき暇を与えるであろうという希望のもとに、カエサルを終身独裁官とした。これこそまぎれもなき専制であった。彼の権力がひとり絶対的であるのみならず、また永久的であるがゆえである。
キケロは元老院にたいしてまっさきに提議した。カエサルに栄誉を与うることはこれをさまたげない、ただし通常の人間的節制の限界を越えないと、どうにかこうにかいわれうる程度にとどむることを要すると。しかしながらその他の連中は、どうしたら一番賞められるかと先を争いつつ、彼らがカエサルにたてまつった称号の誇大さと法外さとによって、カエサルをもっとも恬淡(てんたん)温良なる種類の人々の目にすら不快に映らしめたほどに、栄誉を過度に高くしてしまった。事ここにいたらしめたのは、彼の追従者と同様に彼の敵の力その半(なか)ばにいる(=加担した)と称せられている。カエサルの不評判は彼にたいして乗ずべき隙(すき)を彼らに与えた。そうして彼らがカエサルにたいしてなすべきいかなる企図をも理由づけうると考えられた。なんとなれば、内乱が終息して以来、これ以外にカエサルを不評にすべき方法がなかったからである。
そうしてローマ人が、カエサルのその戦勝を利用すること極めて温藉(おんしゃ)であったことにたいする感謝の表徴として、一神殿を女神「慈悲」のために開基したことも十分に理由があったほど、カエサルは寛厚の長者であった。なんとなれば彼は彼に敵対した者を単に赦(ゆる)したのみならず、そのある者にはいろいろな栄職を与えなどした。ともに裁判官(プラエトル)となったブルートゥスとカッシウスのごときなかんづくそのもっともなる者であった(44年)。またポンペイウスの像が仆(たお)されているのを見て彼はこれを起こさせた。これにたいしてキケロもまたいった。ポンペイウスの像を引き起こすはカエサルが自己の像を安固ならしむる所以であると。彼の友人が随身(ずいじん)兵仗(へいじょう)を具せんことを彼に勧め、また多くの者が進んでこの任にあたらんことを申し出たとき、カエサルはこれを聴かずして、「居常(きょじょう)死を恐れつつ生きんよりは一度(ひとたび)死するにしかず」と答えた。彼は民衆の愛情をもって最善にしてもっとも安全なる護衛であると認めていた。そうしてふたたび公開饗宴と穀物の接待とを行なった。また士卒の労をねぎらって諸所に植民地を開発した。なかんずくいちじるしい者はカルタゴとコリントであった。この両地は以前同時に破壊せられたごとく(146年)、いまはまたいっせいに復興せられた。
58 地位高き人々にたいしては、彼は、あるいは将来の執政官(コンスル)または裁判官(プラエトル)の職を約束し、あるいは他の官職または名誉をもってこれを慰めた。そうしてすべての人にたいしては、彼が万遍なき好意をもって支配せんとする翼々たる誠意を示すことによって恩恵の希望をつながしめた。たとえばマキシ厶スが執政任期満了前一日にして死亡したとき(45年末)、彼はその残余の一日にたいしてカニニウス・レヴィルスを執政官としたるがごとき、これであった。そうして多くの人がこの新執政に慣例の挨拶と敬意とを払わんがためにでかけたとき、「さあ急いでいこう」とキケロがいった「さもないと、われわれがゆかないうちに退職するかもしれないぞ」
カエサルは偉業をなすために生まれた。そうして彼は名誉を熱愛した。彼が遂行した多くの功業は、その成ったのちにも彼をして悠々晏居(あんきょ)、過去の労苦の果実を刈り入れしむべき誘因とならずして、さらに前進一歩せしむる刺戟と激励とになった。そうして彼の胸のうちにより偉大なる事業を想い、あたかも現在の栄光すでに銷却(しゃうきゃく)したるがごとくさらに新たなる栄光を切望する心を湧かしめた。それは事実において自己との必死の闘争であった。すなわち、他人に克たんと慾するごとく、いかにして自己の将来によって自己の過去の功業に打ち克つべきかの闘争であったのである。
こうした思想の跡をおって彼はパルティア人にたいする征戦の意を決し、これを克服しうれば、ヒュルカニアを通過し、そこより裏海(りかい=カスピ海)に沿うてコーカサス山脈に出で、進んでポントス(黒海)を迂回してついにスキュティアにいたり、ついでゲルマニアに隣接する諸国とゲルマニアそれ自身とを席捲し、さらにガリアをよぎってイタリアに帰り、かくして彼が胸裡に描いた大帝国の全圏を完(まった)からしめ、四方の境をことごとく大洋に濱(ひん)せしめんとした。
この目的にたいして準備をなしつつある間に、彼はコリントの都の立つ地峡を開鑿(かいさく)することを計画し、アニエヌスを使命してこれを監督せしめた。またティベル河を疎水(そすい)し、深き運河によって直接にこれをローマよりキルカエウムに導き、タラキナの付近において海に注がしめ、かくしてそこにローマに通商するすべての商人のために安全かつ容易なる通路を出現せしめんことを計画した。彼はこのほかポメティヌムおよびセティア付近のすべての沼沢を排水上沮洳(そじょ)を転じて数万の人民をして耕作に従事せしむるにたる土地をなさんことを計画し、進んで、ローマにもっとも近き海岸に多くの大提防を築きて海水の陸地浸入を防ぎ、オスティアの海岸において舟航(しゅうこう)を危険ならしめた暗礁および浅瀬を浚渫(しゅんせつ)して、そこに輻輳(ふくそう)すべき数多(あまた)の船舶を碇泊(ていはく)せしむる港埠(こうふ)を造ることを企てた。これらの事業は計画にとどまって実現をみなかった。
59 ただ歳時の不斉を匡正(きょうせい)せんことを目的とした彼の暦法改正は、ひとり偉大なる科学的妙想(みょうそう)をもって設計せられたるにとどまらず、また完成せられかつはなはだ有益なるものとなった。けだしローマ人が彼らの月々の運行を年の進行と一致せしむるにたる一定の期則を識らず、したがって彼らの祝祭日や犠牲奉献の神聖なる日が徐々に移動して、ついには最初に意図せられたところと正反対なる季節に執行せらるるがごとき奇観を呈したのは、ひとり上代において然(しか)りしのみならず、カエサルの当時においてすら人々は太陽年を計算する方法を解しなかったからである。ただ神官たちが歳時を指名することができた。そうして彼らは勝手になんらの予告もなく閏余(じゅんよ)の月を挿入し、これに「メルケドニウス」の名を冠した。伝説的七王の第二代ヌマがこの月を挿入した最初の人であった。しかしながら彼の便法もまたきわめて情けないものであって、年の周期の循環中に生じたすべての錯誤を矯正するには、はなはだしく不十分であったことは、吾人の同王の伝記中に述べたごとくである(「ヌマ」18)。
カエサルは、当時のもっとも優秀なる哲学者と数学者とを召し、かくて彼の前に提出せられた多くの体系を取捨して暦を正すべきいっそう正確なる新しき方法を形作った。ローマ人はこんにちにいたるまでこれを使用しており、周期の不均斉によって惹起せらるる錯誤を避くることにおいていかなる国民よりも成功しているようである。しかもこのことすら、憎悪の眼をもってカエサルの地位を膽望(せんぼう=怨望)し、彼の権力によって圧迫せらるるがごとく感じた者には、反感をそそった。雄弁家キケロは、彼と一座の誰かが、何心なく、翌朝琴座の星が顕わるるであろうといったときに答えて、「さよう、布令にしたがってのう」とあたかもこれすら強制の一例であるかのごとき口ぶりでいった。
60 しかしながら、もっとも明白にしてかつもっとも致命的たる憎悪を彼が買ったのは、王たらんとする彼の念願からであった。これこそはじめて民衆に彼と争うべき機会を与え、かねてより彼のの内密の敵であった者にとってもっとも好都合なる辞柄となったものであった。カエサルにこの称号を与えんことを希った者どもは、神憑(かみがかり)巫女(シビュラ)の讖文(しんもん)帳に、ローマ人は、王の指揮のもとに戦うときはじめてパルティア人を克服すべく、それまではおぼつかなしと予言せられてあったと吹聴した。そうしてある日カエサルがアルバよりローマに帰りくる途上、何者かが思いきって王の名をもって挨拶した。しかしながらカエサルは民衆がこれを忌むことをみてとったので、彼自身はこれを悦ばない者のごとく怫然として彼の名は「カエサル」であって「王」ではないといった。それがために一行は沈黙してしまい、彼ははなはだ喜悦満足の面持ではなく行きすぎた。
またあるとき、元老院がなんらか大袈裟なる名誉表彰を彼に与えたとき、彼はたまたま公会場のロストラ(演壇)に坐ったままこの教書を受けたが、両執政官および多くの裁判官が元老院の総員を引き具して彼に伺候したにかかわらず、彼はこの大官貴紳たちがあたかも名もなき平民であるかのごとくふるまって座を起たず、そうして彼らに向かって、彼の名誉はへらしてもらいたい、増してもらうことは迷惑であるといった。この取扱いは、ひとり元老院を慍(おこ)らしめたのみならず、元老院にたいする侮辱はとりも直さず共和国全体に等しく反映すると考えたかのごとく、平民もまたこれを憤(いきどお)った。それゆえにその場にいなくともさしつかえなかった者はことごとく不快なる色を示しつつ立ち去ってしまった。
カエサルは彼がなした失策に心着いたので、ただちに帰郷した。そうして彼の咽喉をむき出しつつ左右の者に向かって、誰でもよい一思いにここをやっつけてくれないかといった。しかしながら後(のち)にいたって彼は、坐っていたことの弁疏(いいわけ)としてあたかも当時病気の発作に悩まされていたことを持ち出し、これに襲われた者が、起立して多く物を言っていると心気朦朧として、たちまち眩暈(めまい)を生じ、痙攣(けいれん)におちいってまったく理性を失うのだといった。しかしながらこれは真実ではなかった。なんとなれば、あの時もし彼の友人というよりはむしろ佞人(ねいじん)の一人であったコルネリウス・バルブスが彼を引き止めなかったならば、彼はたしかに元老院議員たちにたいして進んで起立したにちがいない。バルブスはいった。「あなたは、誰あろうカエサルだということを忘れてはいけません。あなたの真価にふさわしい名誉を要求しなさい」
61 彼は護民官などに侮辱を与えたというのでまたもや新たなる憤激の種子をまいた。このころあたかもかの「ルペルカリア」の祭が執行せられた。この祭は、ある史家の説によれば、元来古代の牧畜者仲間の祭であり、アルカディア地方の「リュカイア」祭と一脈相通ずるところがあるものであった。祭の当日には多くの貴族の若殿原や役人たちが、上着を脱ぎ襦袢姿となって町中を駆けまわり出会う者をおもしろ半分革の鞭でうって歩くのである。すると多くの婦人が、そのなかにはもっとも身分のある上臈(じょうろう)たちもまじって、往来にたちふさがり、あたかも学校で男の子が先生に向かってするように手をさしのべて鞭を受けるのである。これは妊婦ならば安産、石婦(せきふ)ならば子宝ができるという信念からであった。
このときカエサルは凱旋の装束をまとい公会場の演壇に腰かけて儀式を見物していた。アントニウスは執政官であったから、作法のごとく往来を駆けまわる者にまじっていた。そうして彼が公会場に達し、観衆が途を開いて彼を通したとき、彼は月桂樹をまいた王冠(ディアデマ)をカエサルに捧げた。これにたいして歓呼が起こったが、しかしそれはかねてこの目的のためにそこへ配置せられた少数の者の発したかすかなものであった。しかるにカエサルがこれを退けたときには満場の喝采が起こった。二度目の捧呈(ほうてい)にたいしても、きわめて少数の者が喝采し、二度目の拒絶にたいしてはふたたびすべての人々が喝采した。カエサルはこれは駄目だとみてとったので、起ち上がって王冠をキャピトリウムの神殿に持ち去ることを命じた。
その後諸方にあるカエサルの像の頭に何者かが王冠をいただかせておいたのが発見せられた。護民官のうち、フラヴィウスとマリュルスとの二人がさっそく駆けつけて王冠をとりはずした。そうして最初にカエサルを王と呼びかけた者を召捕って牢に送った。民衆は歓呼の声をあげて二人にしたがい二人をブルートゥスの名をもって呼ばわった。それは昔国士ブルートゥスがはじめて王位の歴世継承を廃し、これまで一人の手におかれた権力を元老院と人民との手に移したからであった。カエサルはこれをいきどおることはなはだしく、真にマリュルスとフラヴィウスとを免黜(めんちゅつ)した。そうして両人にたいする彼の断罪意見を述べるときに、彼らを幾度も「ブルートゥスら」「キュメー人」(=愚か者)と呼んで、同時に民衆を揶揄嘲弄した。
62 このことが、民心をマルクス・ブルートゥスに帰せしむるゆえんとなった。マルクス・ブルートゥスは父系において、かの国士ブルートゥスの後裔、母系においてこれまた名門セルウィリウス家の苗孫(びょうそん)と信ぜられていたうえに、カトーの甥にしてかつ女婿であった。しかしながら彼が従来カエサルより受けた尊敬と優遇とが、彼自身としては懐(いだ)いていたにちがいない、新王政打倒の熱望の刃先を鈍らした。なんとなればブルートゥスは、ファルサリアにおけるポンペイウスの敗北ののち彼自身が赦免せられ、また彼の請により友人をも同様の恩典を浴せしめたのみならず、またカエサルが特別の信頼をつないだ者の一人であったからである。しかも当時彼は同年度のもっとと名誉ある裁判官(プラエトル)の現職にあり四年後には競争者カッシウスを抜いて執政官に任命せらるることに内定していた。この詮考(せんこう)について質問せられたとき、カエサルは、カッシウスの方がなる理由が多いのであるが、おれはブルートゥスを棄ててはおけないと答えたと伝えられている。さらに後日、カエサルにたいする陰謀がすでに熟したころ、ある者がカエサルにたいしてブルートゥスの嫌疑を耳打ちしたとき、彼はこれを聴き容るる気色もなく、手を己(おの)が身体に加えて訴人を諭した。「ブルートゥスは、このわしの皮膚(寿命)を待っているはずじゃ」。けだしブルートゥスはその徳によりて政治をになうにたるの材であるけれども、これを得んがために陋劣忘恩をあえてすることはけっしてないであろうと諷(ふう)したのである。
革新を希い、ブルートゥスをもってこれを実現すべき唯一の者、ないしすくなくとももっとも適当なる者と認めたる人々も、あからさまにこれを彼に打ち出すことをあえてしなかった。ただ紙片に「足下は睡っているぞ、ブルートゥス」とか「卿はもはやブルートゥスにあらず」とかいったような文句を書き、これをブルートゥスが常に腰かけて訟えを聴く役所の椅子のあたりに夜間まきちらしておくのがせいぜいであった。カッシウスがブルートゥスの名聞(みょうもん)心これによってやや擡頭(たいとう)したことをみてとったとき、吾人がブルートゥス伝のなかに記したるごとく、ある理由よりカエサルにたいして私怨をいだいていた彼は、いつもにもまして熱心にブルートゥスを焚きつけた。
カエサルもまた彼を疑惑しないではなかった。そうしてあるとき幕僚に向かっていった、「諸君はカッシウスが何を狙っていると思うか。余は彼を好まない。彼の蒼白い顔はどうだ」。そうしてアントニウスとドラベラが彼にたいして謀計をもっているむねを告げられたとき、カエサルは、こうした肥太(ふと)ったぜいたくな連中は恐ろしくない、恐ろしいのは蒼白い痩(や)せこけた手合であるといって暗にカッシウスとブルートゥスとをほのめかした。
63 しかしながら運命はどうみても、意外といわんよりは不可避であるがごとく見える。この異変の起こるすこし前、種々なる不可思議の前兆や幻象が顕われたと称せられている。天空の光、夜中に聞こえた物音、公会場に巣食った野鳥といったような類は、かくのごとき大事において多く注目するに足らない。
哲学者ストラボン(=歴史書も書いた)は、火をもって灼熱せられたかと見える多くの人が相争う姿を宙に見たこと、あるいは兵士の奴隷の手からおびただしく火がほとばしったので、観た者は本人がやけどをしたにちがいないと思ったところ、のちにいたり痕(あと)一つなかったこと等を記している。またカエサルが犠牲を捧げたとき、犠牲の獣の心臓がなかった。生きとし生ける者が心臓なくして命をつなぐことはとうてい不可能なるがゆえに、これは大凶兆であった。
さらに一人の占者が三月の十五日にはなんらかの凶変にたいする用心しかるべしと警告した。この日がきたときカエサルが元老院登庁の途中、同伴の占者に逢って、からかいながら、「今日は三月の十五日だな」といった。すると占者はおちつきはらって、「御意。十五日はまいりましたが、まだその日はすんでおりませぬ」と答えた。このことは当時多くの人々が評判したことであると伝えられている。
暗殺の前日、彼はマルクス・レピドゥスとともに晩餐をとったが、平生の習慣のごとく食卓に寝そべりながら数通の書類に署名しつつあった。そのとき、いかなる種類の死がもっともよいかということが一座の問題になった。すると彼は即座に何人もまだ一語をも発しえなかった前に「とっさの死」といった。かくてその夜カエサルが妻とともにベッドにあったとき、家中の戸や窓が一度に開いた。彼はこの物音と部屋にさしこんだ月の光りに驚いてベッドの上に坐り直した。すると月明りによってカルプルニア(59年結婚)が熟睡していることを認めたが、しかし夢のなかでなにかはっきりしない言葉と漠然たる呻き声とを発するのを聞いた。彼女はこのとき、寸裂せられたカエサルの身体を両腕に抱えて悲嘆しているところを夢に見たのであった。一説に、彼女の夢はそういうのではなく、リウィウスの伝うるがごとく元老院が装飾と威容とを添えんがためさきにカエサルの邸の上に築かしめた破風屋根が崩れ落つるところを夢に見た。それが彼女の泣き声と叫び声との原因であった、と伝えている。夜が明けたとき、彼女は、カエサルに向かってかなうことならば外出を見合わせ、元老院を他日に延期するよう、そうしてもし彼女の夢をとるにたりないとするならば、彼女が犠性式を行なうなりその他の占術によって彼の運命の伺いを立てることを許してくれるならば仕合わせであると懇願した。また彼自身も多少の疑いと恐れとをいだかないではなかった。それはいまだかつて女らしい迷信を示したことのなかったカルプルニアがこの日にかぎってこうした慌てたさまを見せたからであった。そこへ神官たちから、幾頭も犠牲を屠ってみたが、依然としてことごとく不吉の兆しであった趣の報告があったので、彼は元老院を散会せしめんがためアントニウスを遣わそうと決心した。
64 そのとき、日ごろカエサルが第二の相続者と定めたほどに信頼をかけていた者であったにかかわらず、例のもう一人のブルートゥスとカッシウスの陰謀にくみしていたデキムス・ブルートゥス、また綽名をもってアルビヌスとも呼ばれた者が、もしカエサルが元老院会議を他日に繰延べたならばその間に一件が暴露しないものでもないという気遣いから、ここを先途と占術師を悪口嘲弄(ちょうろう)し、一方カエサルに向かっては、元老院が彼自身の命令によって集会しており、しかも満場一致をもって彼をイタリア以外のすべての属州の王と定め、彼がイタリア以外のいたるところに海上と陸上とを問わず王冠を戴くことを得べき旨を宣言しようとまちかまえている矢先に、かくては彼が元老院議員たちに侮蔑を与えたと喚きたつべき絶好なる機会を彼らに与うるものである、いまもし誰かが使者となって元老院におもむき、一同今日のところは解散すべし、他日カルプルニア夫人がなんらかの機会に吉夢を得たならばそのときあらためて集合すべしと彼らに伝えたならば、カエサルの敵はそもそもなんというであろうか。あるいはまた彼の味方がカエサルの政治はけっして専恣(せんし)ではない、圧制的ではないと弁護しようと企てても、何人が辛抱してこれに耳を傾けようか。ただしもし彼があくまで今日を不吉の日であると考えるほどに確信をもっているならば、よろしくみずから登院し、自身の口より延期を宣することが、当然の礼儀であると責めたてた。ブルートゥスはこういいながらカエサルの手をとってむりに引き立てていった。彼がなお戸口から遠くはゆかなかったとき、他の何びとかの奴隷がカエサルに近づこうとしてあせったが、カエサルの周囲をひしひしととりまいた群集のためにどうしてもその意を果たしえなかったので、彼は思案を変えてカエサルの邸内に入り、カルプルニアに目通りして、殿に申し上ぐべき一大事があるゆえ、なにとぞご帰館まで邸内においていただきたいと歎願した。
65 クニドスの産アルテミドロスは、ギリシア流論理学の教師の一人であり、これがためにブルートゥスおよびその親友たちときわめてじっこんの間柄であったので、かねて一味の秘密を聞きおよんでいたが、この日カエサルに伝えなければならないことを箇条書とした小さな紙片をカエサルに渡した。彼はカエサルがいつも、いかなる書類を受取ってもただちにかたわらに控えている用人にこれを手渡すことを承知していた。それゆえにこのとき彼はとくにできるかぎりカエサルに近寄りながら、「カエサル殿、ただ一人で至急それをお読みなされい。御身に関する一大事がそれにしたためてござる」と叫んだ。カエサルはこれを受けとって幾度もこれを読もうとしたが、そのつど彼に話しかける群衆に妨げられた。しかしながら彼は元老院に到着するまでなおもこの紙片を手から離さなかった。ある人は、カエサルにこの覚書を与えたのは別人であって、アルテミドロスは終始群衆に押しへだてられてついにカエサルに近づくことができなかったといっている。
66 すべてこれらのことは偶然の機会によって生ずることがありうるであろう。ただいかにしても偶然とおぼしからざることは、この暗殺の舞台と化した、この日元老院の集会が催された場所が、ポンペイウスの像が立っていた場所と同一であり、かつポンペイウスがこれを建てて彼の劇場とともに、公共の使用に贈呈した楼閣であった一事である。これ明らかになんらかの超自然的勢力がこの行動を指導し、これをかの特殊なる場所に移らしめたものとより以外には考えられなかった。カッシウスはまさに行動に移らんとした一瞬前、彼が平生エピクロスの教義に傾いていたにかかわらず、ポンペイウスの像を仰いで無言のうちに、彼の冥助を懇請したといわれている。けだしこの一大事の場合と目前生死の危険とがあらゆる推理の埒外に彼を拉し去り、その当面の刹那一種の霊感をもって彼を満たしたのである。カエサルにたいして不動の忠実をいだきかつ膂力(りょりょく=腕力)すぐれたアントニウスは、ブルートゥス・アルビヌスが胸に一物あっての長い談話によってこれを院外にひきとめておいた。カエサルがはいったとき議員はいっせいに起立して敬意を表し、そうしてブルートゥスの加担者の数人が彼の椅子を一周して背後に立ち、他の数人は、ティルリウス・キンベルが追放中なるその兄弟のために提出した請願に、彼らもまた懇願せんとするという口実のもとにカエサルが着席するまでそのあとからついてきた。着席するやカエサルは一同の請願を拒絶し、彼らがなおも強要してやまなかったのでその執拗にたいしてはげしく叱責しはじめた。そのとたんにティルリウスが両手をもってカエサルの礼袍(トガ)をつかみ力まかせにこれをカエサルの頭からもぎ取ったのが総立ちの合図であった。カスカがカエサルの頭に初太刀をつけたが、かかる大胆なる所行の先鞭(せんべん)におそらくはおちつきを失ったものか傷は一命に及ばないのみならず深手でもなかった。それゆえカエサルはさっそくにふりむいて短剣をつかんだ。そうして二人は同時に叫んだ。斬りつけられた方はラテン語で「卑怯なカスカ、こりゃ何事だ」、斬りつけた方はギリシア語で兄弟にむかって「弟頼む、助太刀」。
この最初の襲撃にたいし、陰謀にあずからなかった者どもはあっと驚いた。そうしてその見たことにたいする彼らの恐怖と狼狽とがあまりに大きかったので腰を抜かし、逃げ出しもせずカエサルを救おうともせず、口さえきけなかった。しかしながらかねて手はずを整えてきた者は抜き放った短剣をかざしつつ四方からカエサルをおっとりかこんだ。どちらをふり向いてもカエサルは斬りつけられた。彼らの剣がわが顔や眼に付きつけられた。宛(さなが)ら罠にかかった野獣のごとく四方を取り巻かれていた。それは一味の間に銘々がかならず一太刀着けて、彼の血を啜(すす)ろうという申し合わせがあったからだ。それゆえに、ブルートゥスも腿の着け根をひと突きした。ある説には、カエサルは体をかわして太刀先を避け、助けを呼びつつも他の者と渡り合っていたがブルートゥスが鞘(さや)を払ったと見るや、彼は袍(うわぎ)をもって顔をおおった。そうして偶然かまたは暗殺者のためにその方へ突きやられたのか、ポンペイウスの像の台座を鮮血に染めつつその脚元に倒れて敵のなすがままに身をまかせた。それゆえにさながらポンペイウス自身が、いまその脚元に殪(たお)れておびただしい手創のために息を引き取った怨敵にたいする仇討ちの総大将であったかのようにみえた。カエサルの受けた創は二十三箇所と称せられた。一味のうちにも、いっせいに一人をめがけて突きかかっている間に同志打ちの手傷を負った者もすくなくなかった。
67 カエサルを仕留めたとき、ブルートゥスはその行動の理由を述べんがために進み出た。しかしながら議員たちは耳に入るる景色もなく先を争って四方の戸口から逃げだした。そうして民衆をはなはだしき恐慌と狼狽とに満たしたので、民衆はあるいは家を閉め、あるいは勘定場も店舗も忘れて飛び出した。惨劇を見るために現場へ駆けつける者あり、見て引き返す者あり、あらゆる人間があらゆる大路小路を走りまわっていた。
カエサルのもっとも忠実なる二人の友アントニウスとレピドゥスとはひそかに逃れて、ある知己(ちき)の家に身をひそめた。ブルートゥスとその一味とはなおその行為の興奮からさめやらず、一団となって元老院の議事堂より抜身のままカピトル大廟をさして、逃げ隠れんとする気色はみじんもなく、自信と安心との意気にあふれつつ行進した。そうして道すがらゆきずりの民衆には、銘々の自由を回復せよと呼びかけ、多少なりとも著名の人々に逢えば引き留めて問いつ答えつした。そうしてこれらのなかのある者は行列に加わり、あたかも彼らが一味徒党であり、この大事業の名誉をわかつことを得る者のごとき面持ちで一同とともに練っていった。ガイウス・オクタヴィウスとレントゥルス・スピンテルとがその好適例であって、いずれも後日アントニウスと少カエサルとの手に落ちてこの時の虚栄心のために存分に思い知らされた。そうして誰あって彼らがこの挙に与(あずか)ったことは信じなかったがゆえに、彼らが希った名誉も、その代価として払った命もふたつながら玉無しにした。なんとなれば彼らを成敗した人々は、彼らにたいして事実に復讐すると考えず、ただその見下げた了見に復讐するとはっきり断わったからである。
翌日ブルートゥスは一同とともにカピトルから下山し民衆に向かって一場の演説を試みたが、民衆は歓喜をも憤激をも現わさずに傾聴し、その沈黙によって彼らがカエサルには同情を、ブルートゥスには尊敬を払っていることを示した。元老院は過ぎたことに対して大赦令を発しすべての党派を和解せしめんとして腐心した。彼らはカエサルが神として崇拝せらるべきこと、カエサルが政権に立った間に発したる法令はいかに些細なる者といえども取り消さるべからざることを命令した。また同時にブルートゥスとその一党とには各属州の支配権その他の重要なる地位を与えた。それゆえにすべての民衆は、これにて万事めでたく落着し、もっとも幸福なる処置ができたと考えていた。
68 しかしながらカエサルの遺言状が開かれて、彼がローマ市民の各個に莫大なる遺産を贈ったことが判明したとき、かつカエサルの五体が多くの創に切りさいなまれたまま市場をかつぎまわされるありさまを目撃したとき、群集はもはや静粛と秩序とを保つことができなくなって長椅子、格子、テーブルの山を積み上げ、それに屍体を乗せ火をかけて荼毘にふした。ついで彼らのある者は積木のなかより燃えさしの薪を取り出し、陰謀組の家を焼打ちしようといって駆け出し、ほかの者は、彼らを見つけしだいに寸断しようとあって市中をくまなく走り廻った。しかし一味の者はいち早く巧みに姿を隠していたため一人として、見つかった者もなかった。
カエサルの友人にキンナという者があったが前夜不思議な夢を見た。カエサルが彼を晩餐に招じた。そうして彼が辞退して逡巡しているのを無理に手をとって引っ張ると見て眼がさめた。カエサルの屍体が市場において火葬にせられているということを聞いた彼は、前夜の夢からある不吉の予感をいだいていたのみならず、あたかも熱病に悩んでいたのに、それより押して起き上がり、カエサルの冥福を祈らんがため市場におもむいた。そこに居合わせた群衆の一人が他の一人に向かってこの男が何者であるかと尋ね、そうしてその名を聞いたのでさらにこれを隣の者に話した。するとたちまちそれがカエサルの暗殺者の一人であるという風にまことしやかに一面に伝わってしまった。事実、陰謀者のなかにキンナと呼ぶ者があったからである。そうして群衆はそれとこれとをはき違えて、やにわにこれを引っとらえてあっというまにずたずたに切り殺した。ブルートゥスとカッシウスとはこれに恐れをなし、数日のうちにローマから落ちのびた。彼らがその後いかなることをなし、いかに苦艱(くかん)をなめたかは、ブルートゥスの伝に譲ろう。
69 カエサルは享年五十六、ポンペイウスの死に後るること四年を超えなかった。彼がその全生涯を通じ、かばかりの険難(けんのん)を冒して追求したる帝国と権力とを彼はついに達成した。しかもこれより収穫したる果実は、空名と怨恨の種たる栄光とにほかならなかった。しかしながら生前カエサルに付き添うていた偉大なる守護神は、死後もなお彼を見捨てずしてその暗殺の復讐者となり、いやしくもこれに関与したるほどの者は海陬(かいすう)地角(ちかく)をきわめてこれに追いすがり、事実においてこれにたずさわった者はもとより、謀議によって寸分たりともこれを助成したる者といえども、のがすところなくことごとくこれをひっ捕えた。
もっともいちじるしい人間的奇遇(きぐう)ともいうべきは、カッシウスの身の上に起こった事件である。彼が後年フィリッピの役に敗れたとき、彼はかつてカエサルに擬したる剣をもって自刃した。もっともいちじるしい超自然的なる現象は、カエサルの死後七夜にわたり陸離たる光芒をはなってのちはじめて消えた彗星と、同年を通じ、その昇るとき毫も平常の光輝を示すことなく、かつ弱いかすかな熱を与うるに止まり、その輪がつねに青白く鈍かった朦朧たる太陽とであった。空気はこれを開きこれを稀薄ならしむべき強き光線をかいたために常にじめじめと重く濁っていた。これがため果実は適当に成熟せず、いまだ十分に形をなさないうちに熱の不足よりしてしおれ落ちた。しかしながら何物にもまして、この暗殺が諸神諸天の悦ぶところでなかったことを示したのは、ブルートゥスに現われた幻影(まぼろし)であった。その譚(ものがたり)はこうである。
ブルートゥスがその軍隊をヘレスボントスのアジア側なるアビュドスより対岸の大陸に渡しつつあったとき、ある夜例のごとくその幕舎のうちに身を横たえていたが、睡らずして越しかた行く末を考えていた。由来彼は古今の将帥を通じて睡眠もっともすくなく、覚醒を続け、休息を要せずして勤労する最大の精力を有したと伝えられている。このとき彼はふと幕舎の戸口に物音を聞いた。そうしてそなたに眼を移すと、まさに消えんとしていた燈(ひ)の光で恐ろしい姿を見た。人間の形であるが身の丈世のつねならずものすごい形相(ぎょうそう)であった。彼は最初すこしく恐怖を覚えたが、しかしその霊異(れいい)が彼にたいして何事をもなさず、何事をも言わず、ただ黙々として彼のベッドのそばにたたずんでいるのを見て、其方は何者かと問うた。幽霊が応じた、「なんじの禍神(まがつみ)なり。なんじはフィリッピにてわれを見るべし」。ブルートゥスは敢然として答えた。「よし、相見(あいまみ)えん」。幻像(げんぞう)はたちまち消えた。そののち時いたって彼はアントニウスとカエサルとにたいし、フィリップの付近に軍を進めた。最初の矢合わせには彼が勝って敵を撃破しカエサルの営(えい)を劫掠した。第ニの戦争の前夜、かの幽霊がふたたび彼に現われたが一言をも発しなかった。ブルートゥスはただちに運命の迫ったことをさとり、その日の合戦にはその身をあらゆる危険にさらした。しかしながら彼は戦闘では死ななかった。味方いよいよ敗軍とみると、彼はとある巌(いわお)の頂きに登り、胸押しひろげて佩刀(はいとう)を擬し、伝うるがごとくんば、一人の幕僚の手を借り力を合わせてこれを突き立て、最期をとげた。
2024.6.15 Tomokazu Hanafusa
鶴見祐輔訳プルターク英雄伝 第5巻(改造社) - 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1237782/1/7…
世界古典文学全集 第23巻 (プルタルコス)(筑摩書房) - 国立国会図書館デジタルコレクション
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