ヘロドトス『歴史』(前田滋訳)




ヘロドトス『歴史』(前田滋訳)全

これは前田滋氏のネット上の訳を一本にして
巻と節番号を付けて、固有名詞を
統一したものである
この訳の段落分けはテキストの節番号に対応している
1
   序説

1-5  アジアとヨーロッパの抗争の始まり
6-94  リディア史
7-25   リディア古代史(ギュゲスよりクロイソスへ)
26-94   クロイソス
26-33    クロイソスとソロン
34-45    クロイソスとアドラトス
46-55    クロイソスと神託
56-70    クロイソスとギリシア(アテナイ、スパルタ)
71-94    クロイソスとキュロスの抗争

95-216 ペルシア史
95-122  メディア史とキュロスの生い立ち
123-140  ペルシアのメディアからの離反と覇権掌握
141-176  キュロスによる小アジア征服
141-151   小アジアのギリシア各都市
152-161   リディアの反乱とその鎮圧
162-176   ハルパゴスによる小アジア征服
177-200  キュロスによるバビロン征服
177-187    バビロンの都市
188-191    バビロン占領
192-200    バビロンの地誌、習俗
201-216  キュロスによるマッサゲタイ遠征
201-204    マッサゲタイの地理
205-215    キュロスによる征討、その最期
216      マッサゲタイの習俗


2
01   カンビュセスによるエジプト遠征の発案
02-182 エジプト
02-34  エジプト地誌
04-18   下エジプト
19-34   ナイル河
35-98  エジプトの習俗
35-37   宗教
38-76   聖獣
77-98   生活様式
099-182 エジプト史
099-123  初代から五代目の王
124-136  ピラミッド時代の諸王
137-151  エチオピア人によるエジプト支配
        十二人の王ー迷宮
151-161  プサンメティコスの統治とその後継者
162-182  アマシス王


3
1-6   カンビュセスのエジプト攻略
7-30  エチオピアとアンモンへの遠征とその挫折
31-38  カンビュセスの乱心
39-60  スパルタとサモス島のポリクラテスの抗争
61-87  マゴス僧によるペルシア王位略奪-カンビュセスの死
       -七人の決起-ダリウスの即位
88-160  ダリウスによる統治
88-117    徴税区(サトラペイア)
118-128   インタプレネスとオロイテス
129-138   デモケデス
139-149   サモス攻略-シュロソン
150-160   バビロンの反乱と鎮圧


4
1-144 スキタイ(黒海北岸地帯;ウクライナ~ルーマニア)
1-4    ダリウスによるスキタイ遠征への動機
5-15    スキタイ史
16-36   スキタイ北方の民族
37-45   世界の地誌
46-58   スキタイの河川
59-82   スキタイの風俗、習慣
83-144   ダリウスの遠征失敗:黒海西岸~北岸の地理と民族
145-205 リビア(北アフリカ)の歴史と地誌
145-156   リビア史
157-167   キュレネ植民
168-199   リビアの民族
200-205   バルケ攻略


5
1-27   メガバゾスとオタネスによるにトラキアとマケドニア攻略
28-38   イオニアの反乱
39-54   スパルタの情勢ークレオメネスとドリエオス
55-96   ペイシストラトス死後のギリシア史
97-102   アリスタゴラスとギリシア人のアジア侵略
103-126   イオニア諸都市の蜂起とペルシア軍による鎮圧


6
1-30   ヒスティアイオス-逃亡から死まで
31-42  ペルシアによるエーゲ海諸島、
       ヘレスポントス沿岸諸都市の攻略
43-45  マルドニオス(ペルシア)によるギリシア本土攻撃
46-50  タソスの降伏
51-93  二人のスパルタ王:クレオメネスとデマラトス
94-102  ペルシア遠征軍、諸島を経てマラトンへ
102-131 マラトンの戦い(第一次ペルシア戦役)
132-140 ミルティアデス

7
1-4   ダリウスの死
5-19  ペルシアの御前会議;クセルクセスと重臣アルタバノス
20-25  ペルシア;アトスの運河開墾
26-53  ペルシア軍出発;サルディスからヘレスボントスへ
54-100 ペルシア軍;ヘレスポントスを渡ってドリスコスへ
        陸海軍の各部隊紹介
101-137 クセルクセス、デマラトスに接見後
        トラキア、マケドニア、テルマ、ペネオス河口へ
138-171 ギリシアの同盟交渉
172-200 ペルシア軍、テッサリアに進撃
201-239 テルモピュレー(熱き門)の戦い

8
1-23   アルテミシオンの海戦
24-39  ペルシア陸軍の進撃
40-49  サラミスにおけるギリシア海軍
50-55  アテナイ陥落
56-96  サラミスの海戦
97-125  ペルシア軍の敗走
126-144 マルドニオスの対アテナイ交渉


9
1-18   マルドニオス、アッティカ侵入後ボイオティアに退却
19-40  両軍の陣営配置
41-89  プラタイアの戦い--ペルシア軍の敗走
90-107  ミカーレの戦い
108-113 クセルクセスの乱心(人格崩壊)
114-122 アテナイ軍によるセストス攻略


第一巻

これはハリカルナッソスのヘロドトスが著した探究の書である。本書において、人々の営為の記憶が時のかなたに葬り去られぬよう、 また時にはギリシア人が、時には異邦人が成し遂げた、偉大で驚嘆すべき幾多の偉業の栄光が失せぬよう、なかんづく両者の角逐の原因が忘れ去られぬよう、書きしるすものである。


[1.1] 歴史に詳しいペルシア人によれば、そもそもはフェニキア人が、いさかいの原因だという。彼らの伝えるところでは、この人々は紅海(1)から我らの海にやって来て各地に定住し、今現在も占拠している。そして民族を挙げて長距離航海に従事するようになった。彼らはエジプトやアッシリアの物産を各地に運びながら、アルゴスにやって来た。ここは当時あらゆる意味において現在ギリシア人(*)と呼ばれている人々の間では重要視されていた地である。

(1)現在の紅海ではなく、ペルシア湾とその近隣の海域

(*)本書では、「Hellas」または「Hellene」と表記されている例が多いが、現在の日本では「ギリシア」、「ギリシア人」の方が一般に親炙しているので、こちらを用いることにする。

ある時フェニキア人たちがアルゴスに来て積み荷を売っていたのだが、到着してから五、六日後、すなわち物産がほとんど売り切れた頃に大勢の女たちが海岸にやって来た。その中には王女も混じっており、この王女はペルシア人やギリシア人の呼び方ではイオという名で、イナクス王の娘だった。

女たちが船尾に群がって好みのものを品定めしていると、フェニキ人たちが互いに声を掛け合いながら、彼女たちに襲いかかってきた。ほとんどの女たちは逃げおおせたが、イオと幾人かの女が捕らえられて船に拉致され、エジプトへ連れ去られてしまった。

[1.2] ギリシア人の伝承とは異なり、ペルシア人は、このようにしてイオはエジプトに来たと伝えているが、これが数々の災禍の、そもそもの始まりだったとペルシア人は言っている。そのあと彼らが言うには、その名はわからないが、数人のギリシア人がフェニキアのテュロスにやって来て王の娘を拐かし、ヨーロッパに連れ帰ったという。そのギリシア人というのはクレタ人だと思われるが、ともかくも、これで先の悪事のお返しとしたはずだった。ところが、このあと、ギリシア人が二度目の悪逆を働いたという。

それはこういうことだ。あるとき、ギリシア人がコルキスのアイアに軍船でやって来て、ファシス河(2)に入り、ほかの任務をやり終えたあと、王女メデアを奪って連れ去ったのだ。

(2)アルゴー船隊員による伝説上の航海

そこでコルキス王は使者をギリシアに送り、王女略奪に対する賠償と、王女の返還を要求した。しかしギリシア人側は、蛮族が王女イオの略奪に対してアルゴスに賠償を支払っていない以上、これに対する賠償を蛮族に支払うつもりはないと返答した。

[1.3] そして、次の世代になり、(トロイ王)プリアモスの子アレクサンドロス(パリス)はこのことを聞き、かつてギリシアが賠償しなかったので、自分が悪辣なことをしても賠償させられることはないだろうと考え、ギリシアから自分の妻となる女を力づくで略奪しようと考えたと、ペルシア人は伝えている

こうしてアレクサンドロスはヘレネを連れ去ったのだが、当然のことギリシア人はすぐさま使者を送り、ヘレネの返還と略奪に対する賠償を要求することを決めた。ところが、その要求を突きつけると、アレクサンドロスはメデアの略奪の件を持ち出し、ギリシア人は要求されても賠償もしなければ、人も返さないくせに、自分たちへの賠償は要求するのか、と抗弁した。

[1.4] この時点では、双方が女を連れ去っただけのことだった。しかしこのあと、蛮族がヨーロッパに侵攻するより先に、ギリシア人がアジアに遠征を始めたのであるから、ギリシア側に大きな非があると、ペルシア人は主張している。

さてペルシア人の観点では、力づくで女を略奪することは、よろしくない行ないではあるが、略奪に対して報復することに執心するのは愚劣なことだという。そして略奪されてもそれを斟酌しないことが賢明な態度であると考えている。なぜと言うに、拐かされる女自身にその気がなければ、決して連れ去られることはないはずだ、と言うのだ。

さらにペルシア人が言うには、アジアの人々は女が力づくで連れ去られたとしても全く意に介さないが、ギリシア人は一人のスパルタ女(ヘレネ)のために大軍を編成してアジアに侵攻し、プリアモスの領土(トロイ)を荒らしまわったという。

それ以後、自分たちはギリシア民族を敵と見なすようになったと、ペルシア人は言っている。つまり、アジアやその地に住んでいる民族はペルシア人が支配しているが、ヨーロッパおよびギリシアの民族は自分たちとは別個だと考えている。

[1.5] ペルシア側に伝わっている事の起こりは右の通りで、ペルシアとギリシアの反目のそもそもの発端は、イリオン(トロイ)の攻防戦にあるとペルシア人は考えている。

ところが、イオに関しては、フェニキア人はペルシア人の言い分に異を唱え、次のように言っている。すなわち、イオは無理矢理エジプトに連れて来られたのではなく、彼女がアルゴスにいたとき、件の船長とわりない仲となって身ごもったが、両親に恥じてそのことを打ち明けられず、事の露見を怖れて、みずからの意思でフェニキア人に従って出帆したのだという。

以上が、ペルシア人とフェニキア人の伝える話である。私としては、どちらに関しても、あれこれ論じるつもりはない。しかし、最初にギリシア人に悪行を働いた人物を、私の知る範囲内で指摘したあと、人の住みなす都市の大小を問わず、それらについて話を進めて行きたいと思う。

かつては大国だったが今は小国となっている例は数知れず、また以前小国だった国が、今は大国となっている例もあまたある。同じ地で人の繁栄が継続することは決してないとわかっているゆえ、わたしはその両方を同列に論じるつもりだ。

[1.6] さて、クロイソスはアリアテスの子で、生まれはリディア、そしてシリアとパフラゴニアの間を南から北へ流れ、いわゆる黒海へ注いでいるハリス河の西側に住む全民族を統率している僭主だった。

このクロイソスは、我らの知る限り、一部のギリシア人を支配下におき、そこから貢税を徴収し、またそのほかのギリシア人と友好関係を築いた最初の異邦人だった。すなわち、支配したのはイオニア人、アエオリア人、ドーリア人で、友好を築いたのはスパルタ人とであった。

クロイソスの統治以前は、ギリシアはその全土が自由だった。クロイソスの前時代にキンメリア人がイオニアに遠征しているが、それはギリシアの国々を征服することが目的ではなく、単に襲撃と略奪のためだった。

[1.7] ヘラクレス(3)の末裔が掌握していた統治権が、メルムナス家というクロイソスの一族に移ったいきさつは、次のとおりである。

(3)ヘラクレスの末裔というのは、ギリシア人がアジア的太陽神とみていたヘラクレス神の末裔のことと思われる

ここにカンダウレス、すなわちギリシア人がミルシロスと呼んでいる人物はサルディスの僭主だった。かれはヘラクレスの子アルカイオスの末裔だった。アルカイオス、ベロス、ニノスに続くアグロンが、サルディスにおけるヘラクレス一族の初代王で、ミルソスの子カンダウレスが最後の王だった。

アグロン以前に、この国を統治していたのはアテュスの子リドスの末裔たちで、リディア地方の名はリドスに由来している。それ以前はマイオニアと呼ばれていた。

ヘラクレスとイアルダノスの女奴隷を始祖とするヘラクレス一族は、神託によってリドスの子孫から統治権を譲り受け、二十二代、五百五年にわたり、ミルソスの子カンダウレスに至るまで主権を保持していた。

[1.8] このカンダウレスは自分の妃を寵愛するあまり、彼女ほど美しい女性は世界にはいないと思い込んでいた。そのカンダウレスには、ダスキュロスの子でギュゲスという、近衛兵の中で特に気に入っている者がおり、この者には特に重要な秘密までも委ねるほどだったが、この者にも、自分の妃が美しいことをむやみに自慢していた。

その後しばらくしてから、カンダウレスは、悲運な定めでもあったものか、ギュゲスに向かって次のようなことを語った。

「ギュゲスよ、お主は予の妃の美しさについてワシが言うことを信じておらんようだな。耳は目ほどに信をおかれぬものだ。そこでじゃ、わが妃の裸の姿を見せてやろう」

これに対してギュゲスは大声で云った。
「殿、なんというあられもないことを仰せらるるか。お妃さまの裸を見よとは!女というものは衣服を脱ぐとともに、その節操もかなぐり捨てるものにございますぞ」

「その上、古来、知恵を学ぶべき数々の格言が伝えられております。そのひとつに、次のような言葉がござる。身の程を知れ、と。そしてみどもは、お妃さまが全ての婦人の中で、一等お美しいことを信じておりますゆえ、そのような無体なことを命じられませぬよう、切にお願いいたしまする」

[1.9] こう言ってギュゲスは拒んだ。なにか不吉なことが身に降りかかるのではないかと怖れたからである。しかしカンダウレスはなおも云った。

「しっかりしろギュゲス、ワシがお主を試しているのではないかと懸念するにはおよばぬぞ、またわが妻からの危害を怖れることも無用じゃ。妻には決してわからぬように、手はずを調えるつもりじゃからに」

「お主をわれらの寝室に連れて行くゆえ、開けた扉の陰に潜んでおれ。ワシが寝室に入れば妻も続いて入ってくる。部屋の入り口近くに椅子があって、妻は衣服を一枚ずつ脱いで、そこにおくはずだ。そこでお主は悠々と眺める、というわけだ」

「そのあと椅子から寝台に向かうとき、妻はお主に背を向けるから、妻に気づかれぬよう扉から出てゆくがよい」

[1.10] かくてギュゲスは拒みきれず、承知した。そこで就寝の時刻となった頃を見はからい、カンダウレスはギュゲスを寝室に連れて行った。まもなく妃が続いてきて衣類を脱いでそばにおき、かれに背を向けて寝台に向かった。その姿をギュゲスは眺め、部屋から忍び出た。

しかしその時、妃はかれをちらりと認め、夫が何をしたのか悟ったものの、恥ずかしさのあまり叫ぶこともできず、また夫に報復するつもりだったゆえ、素知らぬふりをしていた。

リディア人やほとんどの異邦人は、男であっても裸体を見られることを大きな恥辱としていたのである。

[1.11] 妃は、さしあたり平静をよそおい、おとなしくしていたが、夜が明けるやいなや、一等忠実と思われる家僕たちを使ってギュゲスを呼びに行かせた。ギュゲスは、妃が何も知らないものと思い、また呼び出されて付き添うのはいつものことだったので、今回も呼び出しに応じた。

ギュゲスがやって来ると、妃は次のように語った。
「ギュゲスよ、お前の目の前には二つの道がある。そのどちらを進むか選ぶがよい。それは、カンダウレスを亡き者にし、わらわと共にリディアの覇権を手中におさめる道か、以後カンダウレスの命令に従わず、見てはならぬものを見ずにすませるように、いまここでただちに自害する道か、どちらかじゃ」

「ということは、お前たちのうち、どちらかが死なねばならぬのじゃ。この騒動の張本人である王か、慣わしを非道に破り、わらわの裸を見たお前のどちらかじゃ」

これを耳にしたギュゲスは、しばし呆然と立ち尽くし、やがて、そのようなことを選べなどと、無理じいせぬよう、妃に懇願した。

しかし、妃の翻意がかなわぬことと悟り、自分の主を弑逆(しぎゃく)するか、わが身が抹殺されるかという悲惨な事態が、真実我が身に降りかかってくることが何としても避けられぬと看て取ると、ギュゲスは自分が生きながらえる方を選んだ。そして訊ねた。

「みどもの意に反し、わが主を殺めるよう無理じいなさるからには、いかようにして主を殺めるのか、その手はずをお聞かせ願いたいものにござる」

これに妃は答える。
「王がわらわの裸を見させた同じ場所から忍び入るがよい。寝込みを襲うのじゃ」

[1.12] このように手はずを調えてやがて夜になり(ギュゲスは解放してもらえず、またギュゲスかカンダウレスかどちらかが死ぬしか術は全くなかったゆえ)、ギュゲスは夫人について寝室に入った。そこで妃はギュゲスに短剣を与え、以前と同じ扉のうしろにかれを潜ませた。

やがてカンダウレスが寝込んだ頃、ギュゲスは忍び出て王を弑逆(しぎゃく)した。かくてかれは王の妃と覇権を手中に収めた。このギュゲスのことは、その同時代人であるパロス人のアルキロコスが、その韻律詩の中で述べている

[1.13] こうしてギュゲスは覇権を握ったのだが、それを確かなものにしたのは、デルフォイの神託だった。リディアの住民が、カンダウレスの受けた仕打ちに怒って武装蜂起したときのことだった。ギュゲス一派とほかの住民が、次のような意見で一致したのだ。すなわち、神託がギュゲスをリディアの王として認めるなら、かれを王とし、そうでなければ、王権をヘラクレス一族に返還させるというものだった。

神託の結果はギュゲスの王権を認めたので、かれが王位についた。ただし、デルフォイの巫女は、ヘラクレス一族はギュゲスの五代あとの子孫に報復を加えるだろうという予言もつけ加えていたが、リディア国民も歴代の王たちも、その予言が的中するまでは一顧だにしなかった。

[1.14] こうしてメルムナダイ一族はヘラクレス家から覇権を奪取したが、そのとき、ギュゲスは少なからぬ量の品々をデルフォイに奉納している。そしてデルフォイにある銀の奉納品はほとんどが、かれのものだった。それら銀製品の他にも、おびただしい量の黄金も奉納しているが、中でも言挙げすべきは六つの黄金製大杯である。

これら奉納品の総重量は三十タラントン(4)になったが、それらはコリントの宝物庫(5)に納められた。とはいえ、実のところ、その宝物庫はコリント人のものではなく、エエティオンの子キプセロスの所有するものだった。このギュゲスは、われらの知る限りでは、ゴルディアスの子でミダスというフリギア王の後では、デルフォイに奉納品を納めた最初の異邦人となった。

(4)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)
(5)ギリシア諸国の多くが、デルフォイ神殿に特別な奉納の財宝を委託していた。

このミダスも奉納品を納めているのだが、それは判定を下す際に座る見事な玉座だった。これはギュゲスの納めた大杯と同じ場所におかれている。ギュゲスが奉納した金銀は、その奉納者の名にちなみ、デルフォイ人から「ギギアン」と呼ばれている。

王位についたギュゲスは、他の王と同じく、ただちにミレトスやスミルナに侵攻したり、コロフォンの街を征服したりしている。しかし三十八年にわたる在位中には、他にさしたる事業もなさなかったので、彼について語るのは、これまでとしておく。

[1.15] さて次に、ギュゲスの後を継いだ息子アルデュスに話を移すことにしよう。アルデュスはプリエネを征服し、ミレトスの領内に侵攻している。またサルディスの僭主だったときには、遊牧民族のスキタイ人によって祖国を追われたキンメリア人がアジアに侵攻し、それによってアクロポリスを除くサルディス全土を征服されている。

[1.16] アルデュスは四十九年間王位についたあと息子のサデュアテュスに王位を譲ったが、これは在位十二年だった。そのあとを継いだのがアルヤテスである。

アルヤテスは、ダイオセスの血を引くキュアクサレスとその麾下のメディア人と戦い、キンメリア人をアジアから追放し、かつコロフォンの植民地であるスミルナを征服し、クラゾメナイを侵略したりしている。ところが、ここから引き上げたのは、みずから望んだからではなく、大惨敗を喫したことによる。かれが在位中になした事業の中で、次の事柄が特筆すべきこととして挙げられる。

[1.17] かれは、父が始めたミレトス人との戦いを続けていたが、次のようにしてミレトスを包囲攻略している。かれは、作物が実った頃を見はからい、笛や竪琴、大小の横笛を鳴らしながら進軍し、侵略したのだ。

そしてミレトス人の領土に侵入すると、山野の住民の家屋を焼き払ったり、破壊することなく、危害も加えなかった。ただし木々や作物を荒らしまわったあと、帰って行くのを常とした。

それは、ミレトス人が制海権を握っているので、アルヤテスの軍が彼らの街を包囲しても無駄だったからである。リディア人が建造物を破壊しなかった理由は次のとおりである。ミレトス人が作物を植え、農地を耕作するためには住む家が必要である。そしてアルヤテスの軍が侵入して荒廃させるための、労苦の実りがなければならないからだった。

[1.18] かくしてアルヤテスは十一年間というもの、戦いに明け暮れたが、この間、ミレトス人は二つの大敗北を喫している。そのひとつは、その領土にあるリメネイオンの戦いであり、もうひとつはマイアンドロス平原での戦いである。

この十一年間のうち六年間は、アルデュスの子サデュアテュスがまだリディアの王位についていたが、そもそもミレトスの領土に侵略を繰り返していたのは、このサデュアテュスだった。その戦争を始めたのはかれで、続く五年間戦いを続けたのがサデュアテュスの子アルヤテスだった。先に私が云ったように、このアルヤテスはその父から戦いを引き継ぎ、精力的にそれを実行したのである。

この間、ミレトス人のために戦の負担を軽くする手をさしのべるイオニア人は、キオス人を除き、ひとりもいなかった。キオス人は、かつて自分たちが受けた支援と同等のものを、お返しとしてミレトス人に支援した。以前ミレトス人はキオス人がエリトリア人と戦ったとき、キオスを援助していたからだった。

[1.19] 戦いが十二年目に入り、あるときリディア軍が作物を焼き払おうとして火をつけると、それが強風にあおられ、アセソスのアテナ(6)と呼ばれているアテナの神殿に火がまわり、神殿が灰燼に帰したのだった。

(6)ミレトス近郊の小村

その時は、これが気に留められることはなかったが、軍がサルディスに引き上げると、アルヤテスが病に倒れた。そしてその病が常ならず長引いたので、誰かの勧めによるものか、みずからの意思によるものか、かれはデルフォイに神託を求め、自分の病について神のお告げを請うた。

ところが託宣使がデルフォイに到着すると、デルフォイの巫女は、彼らが焼き払ったミレトス領内のアセソスのアテナ神殿を再建するまでは、神託を下さない、と告げたのである。

[1.20] 右のことは私がデルフォイ人から聞いたことであるが、ミレトス人は次のようなこともつけ加えている。すなわち、キプセロスの子ペリアンドロスは、その当時ミレトスの僭主トラシボロスとごく親しい仲だったが、アルヤテスに下された神託の内容を知ると、使いを送ってトラシボロスにそれを知らせた。前もって警告し、友人に事態に備えることができるようにしたのだ。ミレトス人は、このように伝えている

[1.21] さて、デルフォイの神託を受け取ったアルヤテスは、神殿を再建する期間の休戦を、トラシボロスとミレトス人に提案すべく、ただちに使者をミレトスに送った。そして使者はミレトスに向かったが、事前に警告を受けていたトラシボロスは、アルヤテスの意図がわかっていたので、次のような策を練った。

かれは、自分自身のものも含め、個人の蓄えている町中の食糧をすべて市場に集めさせ、合図をしたら飲めや歌えのお祭り騒ぎを起こすように命じたのである。

[1.22] トラシボロスは、サルディスから使者がやって来たとき、食糧が山積みされ、市民がお祭り騒ぎをしているのを彼らが眼にし、それをアルヤテスに報告させるように仕向けたのだ。

かくて事態はその通りに推移した。使者は、その騒ぎをつぶさに見、リディア人から託された伝言をトラシボロスに伝えたあとサルディスに帰って行った。そして私の知る限り、このことが和議の成立する唯一の理由となった。

というのも、アルヤテスは、ミレトスが極度の飢饉で、住民は絶体絶命の窮地に陥っていると予想していたが、使者がミレトスから戻ると、自分の予想と全く逆のことを聞かされたのだった。

やがてリディアとミレトスは戦をやめ、友好と同盟を結ぶ協定を結んだ。そしてアルヤテスはアセソスにアテナ神殿を一社のみならず二社建立し、結果、その病も癒えた。以上が、アルヤテスとトラシボロスおよびミレトス人との戦いのいきさつである。

[1.23] さて神託の内容をトラシボロスにもらしたペリアンドロスは、キプセロスの子で、コリントの僭主だった。コリント人の伝えるところでは、そしてまたレスボス人もそれと同じことを伝えているが、ペリアンドロスの生涯で世にも珍しいできごとが起きている。それは、レスボス島メティムナの人アリオンが、イルカに乗せられ、タイナロン岬に連れて行かれたことである。このアリオンというのは、その当時右に出る者なしと謳われた竪琴奏者で、我らの知る限り、酒神讃歌(7)を創始して命名し、のちにはコリントでそれを教えるようになった人物である。

(7)酒神讃歌(dithyramb;ディシラム)というのは、ディオニソス神を礼賛する舞踊音楽の一種。

[1.24] さらにコリント人の伝えるところによれば、アリオンはペリアンドロスの下で人生の大半を過ごしたが、あるときイタリアとシシリー島への航海旅行をして、多額の金銀を稼いでからコリントへ戻りたいと考えたという。

コリント人以外は信用するに足りないので、かれはコリント人の船を雇い、タラス(8)から出航した。ところが船が海上に出ると、船員たちはアリオンを海に突き落とし、持ち金を奪い取ろうと企てた。そしてこれに気づいたアリオンは、金は出すから命は取ってくれるなと懇願した。

(8)タレントム

しかし船員たちはこれを聞き入れず、陸地で埋葬されたければみずから命を絶て、さもなくばすぐに海に飛び込め、と迫った。

彼らの気持ちが固く、窮地に陥ったアリオンは、せめて後甲板で盛装して朗唱させてくれるよう、頼んだ。そして、歌い終われば自決すると約束した。

船員たちは、この世で一番の歌手の歌を聴けると思って喜び、船尾から上甲板に移動してきた。アリオンはというと、歌手としての完全盛装をして竪琴を携え、後甲板に立って祝祭歌(9)を歌いあげ、歌い終わると、その完全盛装のまま海に身を投げた。

(9)アポロの栄光を讃える讃歌で、高調子で歌われ、また巷間よく流布していた。

かくて船員たちはコリントへ回航していったが、先の話の通り、イルカがアリオンを背中に乗せ、タイナロン岬へと運んでいったのだった。そこで陸に上がってから、盛装のままでアリオンはコリントへ向かった。そしてコリントに到着すると、事のいきさつをすべて説明した。

ペリアンドロスはこれを疑い、アリオンに監視をつけてどこへも行かせず、船員たちが帰ってくるのを待った。そして彼らが戻ると呼び出し、アリオンはどうしているかと訊ねた。彼らが、アリオンは無事にイタリアに到着し、タラスで別れたときも元気にしていたと返答すると、すかさずアリオンが、船から飛び降りたときの衣装のままで、彼らの前に現われた。船員たちは驚き、自分たちの語ったことが嘘だと証明されたことを、もはや否定できずにいた。

以上が、コリント人とレスボス人の語っていることで、タイナロン岬には、アリオンの奉納による、イルカの背に乗っている人を象(かたど)った、青銅製の小さな碑が残されている。

[1.25] さてリディア人アルヤテスはミレトスとの戦を終結したあと、五十七年間君臨してその生涯を終えた。

アルヤテスは病の癒えたあと、鉄の台座に接合された銀の大杯をデルフォイに奉納し、それは一族の中では二番目のことだった。この大杯は、デルフォイの奉納品の中でも特に見応えのあるもので、キオスのグラウコスの作品だった。かれは鉄を溶接する方法を見出した、ただ一人の人物である。

[1.26] アルヤテスの死後、息子のクロイソスが三十五才(10)で王位についた。そして最初に攻撃したギリシア人がエフェソス人だった。

(10)クロイソスが王位についたのは、おそらくB.C.560年。

クロイソスに包囲されたエフェソス人は、自分たちの街を女神アルテミスに捧げることにした。彼らは、包囲されている古代都市の城壁と、そこから七スタディア(千三百米)離れている女神の神殿とを綱で結びつけたのだ。

先に云ったように、彼らが、クロイソスから最初に攻撃された人々だったが、その後クロイソスはイオニアとアイオリアの諸都市に、さまざまな言いがかりをつけて戦を仕掛けている。重大な口実が見つかったときには、それを足がかりとし、それ以外の場合には些細なことを口実にした。

[1.27] クロイソスは、アジア大陸に居住しているギリシア人をことごとく征服し、従えたのちに、軍船を建造して島嶼に侵攻することを目論んだ。

ところが、軍船建造を準備しているさなか、プリエネ人のビアス、あるいはミテリーネ人のピッタコスどちらかが(二通りの言い伝えがある)、サルディスにやって来たとき、ギリシアに何か変ったことはないかとクロイソスに訊かれ、次のように返答したことから、軍船建造が中止されたという。

「殿に申し上げまする。島嶼人たちは殿に刃向おうとしてサルディスに進攻するつもりで一千頭の馬を購おうとしておりますぞ」

クロイソスは、男の言うことが嘘いつわりではないと思い、こう返答した。
「神よ、島嶼人たちを馬の背に乗せ、リディアまで攻めて来させたまえ!」

そこで相手が返した。
「殿、島嶼人らを馬に乗せたまま捕らえようと気を逸らせておられるげに見え申すが、それももっともなことにござる。しかしながら、彼らと一戦を交えるつもりで船を建造していることを島嶼人が知ったとき、殿が本土に住むギリシア人を征服した報復に、海上でリディア人を捕らえる気になるということは、お考えなられませぬか?」

クロイソスはこの返答を聞き、男の言うことが理にかない、また自分のことを気遣っていることで大いに気を良くし、船の建造を中止した。かくてクロイソスは島嶼に住むイオニア人と友好関係を築くことにした。

[1.28] その後、時が流れ、クロイソスはハリス河以西のほとんど全ての住民を征服した。すなわちキリキアとリキアを除き、その他全ての民族を自分の支配下においた。征服した民族は、リディア人、フリギア人、ミシア人、マリアンデノイ人、カリベス人、パフラゴニア人、トラキア系のテュノイ人とビティニア人、およびカリア人、イオニア人、ドーリア人、アイオリス人、パンフィリア人である。

[1.29] これらの民族がクロイソスによって征服され、リディアに併合されてからというもの、その当時生存していたギリシアの賢者たちがみな、さまざまな手段で隆盛を誇るサルディスにやって来るようになった。その中には、アテナイ人のソロンも来ていた。かれは、アテナイ人の要請によって法を制定したのち、自身の言うように、世界を視察するとして十年間の外遊の途中だった。実のところ、かれは、自身の制定した法が廃されないようにするために船出したのであった。

それというのも、アテナイ人はソロンの制定した法を十年間は遵守するという厳粛な宣誓に拘束されていて、それを廃することができなかったからである。

[1.30] 右のような事情と、世の中を見て回るために、ソロンはエジプトのアマシス王のもとを訪れ、そのあとサルディスにいるクロイソスのもとへやって来たのだった。ソロンが来ると、クロイソスは宮殿に招待してもてなし、三、四日後には、従者に命じて自分の財宝を見せてまわらせ、従者たちは名高く神聖な財宝を残らず見せた。

ソロンが財宝を全て見てまわり、充分に堪能した頃を見はからい、クロイソスはかれに訊ねた。

「アテナイの客人、貴殿の知力と、貴殿が叡智を求め、いかに多くの国々を行脚しているかという噂は山ほど聞いておる。さてそこでじゃ、今わが輩は、貴殿が見てきた中で、一等幸運な人物を訊ねてみたいという気がしておるのだがどうだ?」

クロイソスは、自分がそれに当てはまると信じて問い質したのだが、ソロンはへつらうことなく誠実に答えた。
「殿、それはアテナイのテロスでござる」

クロイソスはソロンの返答に驚き、鋭く聞き返した。
「テロスが一等幸福とはいかなる判断によるのか?」

ソロンが答える。
「テロスは繁華な都市の出身で、子供たちはみな優秀にして高潔にござる。そしてその子供たちすべてに子が生まれ、それらすべてが無事に育つのを、かれは見ております。われらの基準からいえば、かれの人生は裕福で、その死もはなはだしく栄光に輝いてござった」

「アテナイ人がエレウシスで隣国人と戦っていたとき、テロスが加勢にきて敵を敗走させたあと、立派に討ち死にしております。アテナイ人は、かれが倒れた場所に公費で遺体を埋葬し、大いなる栄誉を与えたのでござる」

[1.31] テロスが大いに幸福だったことをソロンが語ると、クロイソスは腹立たしく思い、その次は自分が挙げられるだろうと期待に胸を膨らませながら、次に幸福なのは誰かと訊ねた。ソロンの答えは「クレオビスとビトン」だった。(*)

(*)この問答は、浪曲「石松三十石舟」にそっくりだ。

「彼らはアルゴス人にて、暮らしに困らぬほどの充分な富を所有し、頑健な体躯を備えておりました。ゆえに両名ともに運動競技で賞を獲得したこともあり、これには次のような話が伝わっております。アルゴスで女神ヘラの祭りが催されたときのこと、この二人の母親をどうしても牛車で神殿に連れて行かねばならなかったことがありました。ところが、雄牛の群れが平原から時間通りに戻って来なかったため、この若者たちは、時間に追われてやむなく、母親を牛車に乗せ、くびきを自分の肩にかけて牛車を曳き、神殿まで四十五スタディア(八キロ)の道のりを進んで行ったのでござる」

「このような行ないで群衆の注目を浴びたあと、二人は大変見事な人生の終焉を迎えたのであります。そしてこのことにより、人は生きながらえるよりは死を迎える方が良いことを、神は示されました。アルゴスの男たちは二人の若者の周りに立ち、その強靱な体力を褒めたたえ、女たちは、このような子供たちを産んだ母親を褒めたたえたのであります」

「母親はといえば、息子たちの並外れた行ないと人々の賞讃を目にして感極まって喜び、神像の前に立ち、自分に大いなる栄誉をもたらしてくれたクレオビスとビトンの息子たちに対して、人間のために授けうる最高のものを与え給うよう、女神に祈願したのであります」

「その祈願が終わると人々は生贄を捧げ、祝宴を開きました。件の若者たちは神殿の中で横たわって眠りにつき、再び起き上がることがなかった由にござる。すなわち二人に死が訪れたのであります。アルゴス人は彼らの彫像を作り、この上なく秀でた男としてデルフォイの地に捧げたのであります」

[1.32] ソロンはこの二人を二番目に幸せな人物にあげたが、クロイソスは苛立ちを露わにして口を開いた。

「アテナイの客人よ、では聞くが、われらが一般人にも劣ると見なすほど、われらの幸せを無視するつもりであるか?」

ソロンが返答する。
「クロイソス殿、貴殿は人間界について訊ねられたのだが、神というものは、なべてわれらに嫉妬深く、面倒を起こすものであることを、みどもは承知しており申す」

「長い時の経過の中では、見たくない多くのことどもが見えるようになります。また同じく煩わしきことも見えてくるものにござる。みどもは人生七十年とみております」

「七十年は、閏月(11)を除けば二万五千二百日になります。そして季節がめぐり来るごとく一年おきに閏月が来るなら、七十年の間に三十五回の閏月が入ります。そしてこれにて千五十日が加算されます」

(11)閏月は、太陽の運行と暦を対応させるために定期的に挿入される暦月のこと。ここでは、ヘロドトスは一年の平均日数を三百七十五日としている。

「そうすると七十年は二万六千二百五十日となり、このうちのどの日をとっても、同じことが起きるという日はござりませぬ。それゆえクロイソス王よ、人間というもの、なべて偶然の生き物なのでござる」

「みどもの見るところ、貴殿は大いなる富を所有なされ、多くの人民の王であられるが、貴殿がその人生を存分に終えられるまでは、みどもは貴殿の問いかけに答えることはできませぬ。富める者が、たまたまその人生を十全に全うしているのでなければ、日々の糧を得るのに汲々としている者より幸福であるとは限りませぬ。多くの富める者が不幸なこともあり、普通の者が幸福である例も多くありますぞ」

「裕福でありながらも不幸な者が、幸福な者を上回る利点は二つのことしかござりませぬ。富める者は目一杯食欲を満たすことができることと、身に降りかかる大きな災難に耐えることができること、この二つが他者よりも有利な点にござる。一方で幸福な者が、裕福ながらも不幸な者を上回る事柄はいくらもござる。幸福な人間は災難に耐えることも食欲を満たすこともできませぬが、その幸運が、これらを遠ざけるのでござる。それゆえ不具になることや病気とは無縁で、災難に遭うこともなく、申し分のない子供や美しい容姿に恵まれるのでござる」

「これら全てに加え、この者が見事な生を全うするならば、その者こそ貴殿が探しておられる果報者と呼ぶにふさわしい者にござる。ただしその者が死を迎える前から幸福と呼ぶのはふさわしいことではなく、幸運と呼ぶべきかと」

「神ならぬ人の身では、これら全てを一時に兼ね備えることは不可能と申すもの。あたかも全てを自足できる地がないのと同じことにござる。もちろんほとんどの物を持っているのが申し分ないのでありますが、それぞれの国はある物があってもほかの物はないのであります。これと同じく、全てを自足できる人間などいないのであって、誰しもある物を持っていても、ほかの物は持っていないのでござる」

「これらほとんどの物を備えて生を終えた者こそ、みどもの考えでは、殿、幸福者という名にふさわしいのでござる。神は多数の人々に幸運を約束し給うものの、その後において根こそぎそれを引っ繰りかえされることがあるゆえ、あらゆる事柄がいかなる結末を迎えたかを検分せねばならぬのでござる」(*)

(*)以上を要するに「人の幸、不幸は棺の蓋を閉めるまではわからない」ということだ。これしきのことをいうのに四節分の文字を費やすとは、まあごくろうである。丁寧と云えば丁寧だが、くどいと云えば、くどい。西洋人の文には、えてしてこういうところがある。小生、生まれもってのイラチ(せっかち)ゆえ、かくなる文を読むとイライラするのだ。「かいつまんで云え!」と云いたい。なお、唐の大詩人杜甫(七百十二~七百七十)の作「君不見簡蘇渓(君見ずや蘇渓に簡す)」にもこれと全く同じことが書かれている。いわく「大夫棺を蓋いて事始めて定まる」と。こちらの方がヘロドトスよりも千二百年ほど後になるが、東洋人が書くと表現はきわめて簡潔になるという例だ。(渓のサンズイは行人偏)

[1.33] このようなソロンの語りは、クロイソスの意に染まなかったので、かれはソロンを歯牙にもかけず、引き下がらせた。そして目前の幸運を無視し、万事の結末を見るべきと説くなど、ソロンという男は大馬鹿者だと見なした。

[1.34] ところがソロンが去ったあと、神の強烈な報復がクロイソスに降りかかることになった。察するに、クロイソスはほかの誰よりも神の祝福を受けていると、自分で思い込んでいたためであろう。その直後、かれは、自分の息子に災難が降りかかろうとしている夢を見、それが正夢となったのである。

クロイソスには二人の息子があり、一人は聾唖による不具者であったが、もう一人はアテュスといい、同年代の誰よりも全ての点で、はるかに秀でていた。クロイソスが見た夢というのは、このアテュスが槍に射されて落命するというものだった。

クロイソスは目覚めてからこの夢に恐懼し、考えを巡らした結果、まずその息子に嫁を娶らせ、アテュスがリディア軍の指揮に精通しているにも拘わらず、決して出陣させず、投げ槍や手槍などの戦闘用武器を男部屋から自分の倉庫(12)に移させて積み上げ、吊り下げたままで息子の上に落下しないようにした

(12)または「女部屋」

[1.35] そしてクロイソスが息子の結婚のために忙しくしていたところ、フリギアの王家に属す一人の男が、ひどくみすぼらしい形(なり)で、汚れた手をしてサルディスにやって来た。この男はクロイソスの屋敷を訪れると、祖国の習慣通りに身を清めたいと願ったので、王はその通りにかれを清めてやった。

リディアの清めの作法はギリシアと同じであったので、クロイソスは慣習通りにその男を清めてやり、そしてどこからやって来たか、何者かを問い質した。

「さて、お主は何者で、フリギアのどこからやって来て、このような哀訴をすることになったのか?またお主が殺めた男あるいは女は何者であるか?」

その男が答える。
「殿に申し上げまする。私はミダスの息子ゴルディアスの子で、アドラストスと申します。私は誤って兄弟を殺めてしまい、父によって全てを奪われ、追放され、ここへやって来たのであります」

クロイソスが答えて曰く。
「お主の一族は全てがわが輩の友である。従って、お主もここへ来たからにはわが友である。なに気兼ねなく、わが屋敷に留まるがよい。お主の不運のことは、できるだけ気にかけぬようにするが身のためになろう」

[1.36] かくてアドラストスはクロイソスの屋敷に住まうことになった。ちょうどその頃、巨大な野生イノシシがミシアのオリンポス山に出現し、山から降りてきてミシアの畑を荒らしまわっていた。ミシア人たちは何度もそのイノシシを退治しに行ったが、なんの成果もあがらず、逆に彼ら自身が傷つくのが落ちだった。

ついに彼らはクロイソスに使者を送り、次のような伝言を託した。
「殿に申し上げまする。巨大な野生のイノシシがわれらの地に現れ、畑を荒らしております。あらゆる手立てもむなしく、我らこの野獣の屠殺に失敗しております。そこで、我らの地からこの野獣を駆逐するために、殿の若君と選び抜かれた青年たち、犬どもを我らとともに送り出してくださることをお願い申し上げます」

彼らはこのような依頼をしたのだが、クロイソスは夢の予言を忘れていなかったので、次のように返答した。

「わが輩の息子のことは二度と口にするでないぞ。わしは息子を行かせるつもりはない。かれは結婚したばかりで今はそれにかかり切りじゃ。しかし選り抜きのリディア人たちと狩人全員には、お主たちにできる限り手を貸し、かの野獣を国から追い払うよう言い含めて送り出してやろう」

[1.37] このようにクロイソスは返答し、ミシア人たちは納得した。ところがその時クロイソスの息子がやって来て、ミシア人の頼み事やクロイソスが息子を助太刀に出さないと答えたことを耳にして曰く。

「父上、戦に出かけ、高名を追い求めて手にすることは、かつては我らにとってきわめて立派で高貴なことと考えておりました。ところが今、父上は私をその両方ともに遠ざけておられます。私が臆病であるとも気概に欠けているとも見ておられぬにも拘わらずです。私はどのような顔をして公設広場に出入りすればよろしいのでしょうか?」

「国の人々は私のことを、また私の新妻をなんと見るでしょう?妻は、ともに暮らす男のことをどんな人間とみるでしょう?どうか私を狩りに行かせて下さい。さもなくば、ここに留まることが私にとって良策であるという理由をお聞かせ願います」

[1.38] クロイソス曰く、
「息子よ、ワシがそのようにしたのは、お前が臆病だとみたからでも、お前に何か不適当なことがあるとみたからではないのだ。ただ、夢枕に立った幻が、お前のことを槍で刺されて短命に終わるとワシに告げたのだ」

「その夢のゆえに、お前の婚儀を急ぎ、当面の遠征に出すこともせず、お前を警護しつづけ、ワシの目の黒いうちにお前が命を落とすことのないようにしたのだ。お前はワシのたった一人の息子だからな。もう一人の息子は不具であるゆえ、ワシにはいないも同然なのだ」

[1.39] 若者が答えて曰く、
「父上、そのような夢を見られたとて私を護衛することについては、誰も異を唱えることはできませぬが、父上が気づいておられないことや、その夢を誤解なさっておられる理由を申し上げてもよろしかろうと存じます」

「夢の中で、私が鉄の槍に射されて死ぬと云われたと仰いますが、イノシシに手がありましょうや?それが、父上の懸念される鉄の槍を持つと仰るか?夢のお告げで私がイノシシの牙やそれに類似の物によって命を落とすというなら、父上のなさることは間違ってはおられぬでしょう。ところがそうではなく、槍で刺されるというのですからね。我らが立ち向かうのは人間ではありませんので、私を行かせてくだされ」

[1.40] クロイソスが答える。
「息子よ、かの夢に関するお前の解釈で、ワシは幾分安心したわ。お前に安心させられたゆえ考えを変え、お前が狩りに行くことを許すことにする」

[1.41] このようにクロイソスは云ったあと、フリギア人のアドラストスを呼びにやり、かの男が現れると次のように語った。
「アドラストスよ、お主がひどい不運に見舞われていたとき、それを咎めもせず、お主の汚れを清めてやったのは誰あらん、このワシだ。そしてお主を受け入れ、費えを負担し、ずっと屋敷に住まわせているのもわが輩だ」

「今度はお主がワシにお返しをする番だ。そこで、お主にはわが息子が狩りに出かけている間の護衛を頼みたいのだ。途中で追い剥ぎにあって危害を被らぬよう、気をつけてほしいのじゃ」

「それとは別に、お主にしても、名声を勝ち取る場所へ出てゆくべきだろう。それこそ、お主の父の息子にふさわしいことではないか。そのような強靱な体躯を持っておることでもあるしな」

[1.42] アドラストスが答えて曰く、
「殿、通常ならば、私はそのような活躍の場には出ようとしないでありましょう。私のような不運な目にあった者が、幸福な境遇にあるご子息の仲間に加わるべきではありませぬ。そのようにしたいと願っていても、種々の理由から差し控えることになりましょう」

「しかし今は殿が熱心に説いておられることでもありますし、私としてもお返しに有益な働きをせねばならないこともありますゆえ、殿の御意に沿わねばなりますまい。そこで、仰せの通りにいたしましょう。警護せよと申しつけられたご子息については、護衛の者が可能な限りお守りいたしますゆえ、殿のもとへ無事にご帰還なされましょう」

[1.43] このようにアドラストスは返答し、選り抜きの若者たちと犬の群れとともに出立した。そしてオリンポス山に到着すると、くだんの野獣を探し出して発見し、円陣を組んで槍を投げつけた。

ところが、人を殺め、その汚れを清めてもらった異国人アドラストスの投げた槍がイノシシからそれてゆき、クロイソスの息子を射貫いてしまったのだ。

かくてアテュスは槍で射貫かれ、夢の予言通りとなった。そして一人の男がこの変事をクロイソスに知らせるためにサルディスに急行し、狩りの顛末と息子の死を告げた。

[1.44] 息子の死を知らされたクロイソスは衝撃を受け、息子をあやめたのが誰あろう、自身が血の汚れを祓ってやった人物であることから、なおいっそう慟哭の声をあげた。ひどくおぞましいこの災難に見舞われて、クロイソスはゼウスの名を三通りの名で呼んだ。すなわち浄化の神ゼウス、団欒の神ゼウス、友誼の神ゼウスである。最初の名を呼んだのは、客人が自分にどんな災悪を行なったかを神に知らせたかったからだった。二番目の名を呼んだのは、客人を自分の邸内にとめおき、思いがけずも自分の息子を殺めた人間を持てなしたからである。そして三番目の名を呼んだのは、護衛役として送り出した者が、最悪の敵対者であることがわかったからである。

[1.45] まもなくリディア人たちが遺体を運んできたが、そのうしろには殺めた当人がつき従っていた。かれは遺体の前に立ち、以前の不運を嘆き、その上、自分の身の汚れを祓ってくれた人を破滅させてしまい、自分は生きるに値しないといい、両手を差し出して遺体の上に重ねて自分を殺してくれと告げてクロイソスに自分の身を委ねた。

これを聞いたクロイソスは、深い悲しみに打ちひしがれつつも、アドラストスを哀れに思い、語った。
「客人よ、汝自身が己に死を宣告したからには、処罰は受け取ったぞ。だが、こたびの災いの源は、お主が不本意にも手を下したことを横におくとして、お主にあるのではないぞ。それは神々のひとりにあり、その神がはるか以前、ワシに語っていたことなのじゃ」

そうしてクロイソスは自分の息子をねんごろに埋葬した。ミダスを祖父に持ち、ゴルディアスを父に持つアドラストスは、血を分けた兄弟を殺し、わが身の汚れを清めてくれた人を破滅させたのだが、自分の知る人々の中で、わが身が一等不運だったことを悟り、人々が墳墓から去って邪魔する者がいなくなると、その墓のそばで自害した

[1.46] 息子を失ったあと、クロイソスは二年間というもの、悲しみに打ちひしがれていた。しかしその後、カムビュセスの子キュロスがキュアクサレスの子アステュアゲスの覇権を打ち破ってペルシア人の力が増すにおよび、クロイソスは悲嘆から立ち直り、できることならペルシア人の勢力が強大になる前に、その芽を摘んでおこうと考えた。

かくの如く決心したあと、ただちにクロイソスはギリシアとリビアの神託に伺いを立てるべく、デルフォイ、ポキスのアバイ、ドドナにそれぞれ別の使者を送った。そのほかアンフィアラウスやトロフォニウス(13)、ミレトスのブランキダイ家(*)にも、別々の使者を送った。

(13)伝説上の英雄を祀る神殿。

(*)ミレトスにあるディデュマ神殿の神官を務める家系。

以上はクロイソスが派遣したギリシアの神託所であるが、そのほか、リビアのアメン神殿にも別の神託使を派遣した。このようにして神託使を派遣したわけは、神託のもたらす情報を検分するためで、その内容が正しいことがわかれば、再び神託使を送り、ペルシアに遠征すべきかどうかを訊ねるつもりだった。

[1.47] これらの神殿を試すために派遣したリディア人には、次のような指示が与えられた。すなわちサルディスを出発してからの日数を数え、ちょうど百日目にアルヤテスの子クロイソスが何をしているかを神託にたずね、神託の答えるままに記録して自分のもとへ持ち帰れ、というものだった。

ほかの神託所が何と答えたか、誰も伝えていないが、ひとりデルフォイだけは、リディア人の使いが神託を求め、託された質問をしようとして神殿会堂に入るやいなや、ピティアと称する巫女が、六脚韻文によって次のように告げた。

  われは砂粒の数、海の広さを知りへり。
  またわれは聾唖の考えを解し、声なき者の声も聞こゆ
  大釜にて羊肉とともに煮らる、
  強き甲羅をもつ亀の匂い、わが知覚に到来す
  その下には青銅が敷かれ、その上にも青銅をいただきぬ

[1.48] リディア人の使者たちは右のお告げを書き留め、サルディスに戻って行った。また、ほかのさまざまな場所に送られていた使者たちも、それぞれの神託を持ち帰ってきた。クロイソスは、それら全てを開き、書かれている内容を検分した。全く意に沿わないものがある中で、デルフォイの神託を読むと、それがクロイソスのしていたことと一致していたので、デルフォイが唯一まことの神域であると理解し、崇め奉りつつ納得した。

というのも、神託使を送り出した後、クロイソスは当て推量の的中しないようなことを考え、それを予定の日に実行したのである。すなわち、亀と羊を切り分け、それらを青銅の大釜で煮、同じく青銅の蓋をかぶせたのだった。

[1.49] デルフォイからクロイソスへの神託の回答は右の通りだった。アンフィアラウスからの神託については、リディア人の使いが神殿の慣行に従って神託を受け取っているが、記録が残されていないので、その内容を話せない。ただ、クロイソスは、この神託もまた真実を語っていると信じている、とだけ言っておく。

[1.50] このあと、クロイソスはデルフォイの神の歓心を買うために夥しい生贄を捧げた。生贄にふさわしいあらゆる種類の動物三千頭を捧げたり、薪を高く積み上げ、金や銀で装飾された寝椅子、金杯、外套、短衣などをその上に積み上げて燃やした。このようにして、さらなる神の力添えを期待したのである。そのほか全てのリディア人にも、それぞれができる範囲で生贄を捧げるよう、命じた。

生贄を捧げ終わった後、クロイソスは莫大な量の貯蔵金を溶解し、インゴットに成型させた。その大きさは、縦が六パルム(*)、横三パルム、高さは一パルムあった。このインゴットの数は百十七本に及んだ。それらのうち四本は純金で、ひとつの重さが二タラントン(*)半あった。そのほかのものは金と銀の合金でそれぞれ二タラントンの重さがあった。

(*)パルム=掌尺;十八~二十五センチメートル
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

このほか、純金製の獅子像も造らせたが、その重さは十タラントンに達した。デルフォイの神殿が焼け落ちたときには、この獅子像も台座のインゴットから落下している。これは現在コリントの宝物庫に収蔵されているが、重量が六タラントン半になっている。三タラントン半が溶けてしまったのだ。

[1.51] 右の供物ができ上がると、クロイソスは金と銀の巨大な二つの大盃の献上物とともに、デルフォイに送り出した。その大盃は神殿の入り口に安置され、金の大盃は右側に、銀の大盃は左側におかれた。

神殿が焼けたとき、これらの大盃も場所を移され、重さが八タラントン半と十二ミナ(14)に達する金杯はクラゾメナイの宝物庫に、銀の大盃は神殿の前庭の隅に安置されている。この大盃は容量が六百アンフォラ(*)ある。容量がわかっているのは、テオパニア祭という神を迎える祭礼時(15)に、デルフォイ人がこれを混酒器として用いたからである。

(14)1mina=およそ十五トロイ・オンス(四百六十五グラム)
(*)1amphora=十九~三十九リットル
(15)Theophania:神の彫像が開示されるデルフォイの祭礼

デルフォイ人は、この大盃を造ったのはサモスのテオドロスだと言っているが、これには私も同意する。というのも、この作品は決して凡庸な作ではないと見るからである。このほかクロイソスは四杯の銀製壺を送り出したが、これらはコリントの宝物庫に安置されている。また金と銀の二杯の聖水杯も献納している。金の聖水杯には「ラケダイモン人がこれを捧ぐ」と刻まれているが、これは誤りである。

これもまたクロイソスの献納品である。この献辞は、私もその名を知る、あるデルフォイ人がスパルタ人の歓心を買うために仕組んだことである。しかし、その名はここでは云わないでおく。手から水をしたたらせている少年像は、たしかにスパルタ人の献納によるものだが、聖水杯はどちらもスパルタ人が献納したものではない。

クロイソスが送った右の献納品のほかにも、多くの雑多な品々が献納された。中でも、銀製の丸い水盤の数々や、デルフォイ人がクロイソス専用のパン焼き職人ではないかと推測している高さ五フィートの女性像などがある。これに加えてクロイソスの妃の首飾りや帯も奉納された。

[1.52] 以上がデルフォイに送られた献納品の数々である。アンフィアラウスへは、この英雄の武勇と悲運を聞いていたこともあって、全て黄金からなる盾と槍を献納した。槍は、その穂先も軸も全て黄金で造られていた。これら二つの献納品は、私の時代まで、テーベのイスメニオス・アポロ神殿(*)に伝えられていた。

(*)古代テーベのイスメノス河畔にあるアポロ神殿

[1.53] 献納品を持って、これらの神殿に遣わされたリディア人たちは、クロイソスから、ペルシアに進軍するべきか、はたまた同盟軍を追加すべきか否かを神託に問うよう、命じられていた。

さて、使いのリディア人たちがそれぞれの場所に到着し、供物を献納すると、次のようは言辞をもって神託を問うた。

「リディアおよびその他の国々の王であるクロイソスは、この地がこの世で唯一、神意を託せるところであると考え、神知に値するものとして、かくの如き貢ぎ物を捧げる次第にござる。そしてクロイソスは、ペルシアに軍を差し向けるべきか否か、また同盟軍を募るべきかどうかを問うております」

使者は右のように言上したが、クロイソスに下された二つの神託は同じだった。すなわち、クロイソスがペルシアに進軍するなら、かの偉大な帝国を滅ぼすであろう、というものだった。これに加えて神託は、最強のギリシア国を探し、その国々を味方につけることも助言していた。

[1.54] その神託がクロイソスのもとへ持ち帰られ、その内容を知ると、かれは大いに喜んだ。キュロスの王国を滅ぼすことができると思ったクロイソスは、再びピュト(*)へ使者を送り、そこの住民の数を調べ、それぞれに二スタテル(16)金貨を贈与した。

(*)Pytho:デルフォイの古名
(16)stater:古代ギリシアの共通金貨。およそ23シリング(≒\170)

デルフォイの人々は、これに対する返報として、クロイソスおよび全リディア人に神託請願の最優先権、全ての税免除、祝祭時の主賓席、希望者に対する終世のデルフォイ市民権を与えた。

[1.55] デルフォイ人たちに贈与を捧げたのち、クロイソスは、神託で真実の回答を得ていたこともあり、それをあくまでも利用するつもりで、三度目の神託を求めた。訊ねた内容は、自分の王権が永続するかどうか、だった。デルフォイの巫女が下した託宣は次の通り。

  メディア人がラバを王に戴くならば、
  しかる時、足やわきリディア人よ、
  留まることなく、小石多きヘルメス河に沿うて逃れよ
  臆病者たること、恥ずべきにあらず

[1.56] 右の言葉を聞いたクロイソスは大いに喜んだ。それは、ラバが人間を差しおいてメディアの王になることなど決してないと思ったからで、それゆえ、自分や子孫は、決してその帝国を失うことはないとも思い至ったからである。そしてそのあとは、友好を結ぶべき最強のギリシアの国はどこか、慎重に調べた

調査の結果、ドーリス族の中ではスパルタが、イオニア族の中ではアテナイが卓越していることがわかった。イオニア族とドーリス族は古代からの先住民族で、前者はペラスゴイ族で、後者はヘラス族である。ペラスゴイ族は居住地を離れることはなかったが、ヘラス族はたびたび移住し、しかも遠隔地に移動している。

例えば、デウカリオン王(17)の時代にはピティオティスの地に住み、ヘレンの子ドロスの時代にはオッサ山とオリンポス山の麓のヒスティアイオティスという地に住んでいた。そしてカドモス族によって、この地を追われた後にはピンドスに定住し、マケドニア族と呼ばれていた。そして再びドリオピアに移住し、最終的にドリオピアからペロポネソスに移住し、ドーリス族と呼ばれるに至っている。(18)

(17)ギリシア神話では、デウカリオン(Deucalion)と妻のピュラー(Pyrrha)は、Zeusの起こした大洪水を生き残り、新しい人類の祖先となったとされる。

(18)ここで挙げられている地名は、すべてギリシアの北部にある。

[1.57] ペラスゴイ族がどんな言語を話していたか、確かなことは云えない。ただ、ティレニア(19)の北方にあるクレストンに定住しているペラスゴイ人---彼らはその昔、今現在ドーリア人と呼ばれている人々の隣接地に住んでいたが、その当時はテッサリアと呼ばれていた国に住んでいた---

(19)この地がエトルリア(イタリア半島中部)であるとするなら、クレストンはコルトナ(Cortona)となる。しかしこれは疑わしい。

およびヘレスポントス地方のプラキアやスキラケに到来してアテナイ人と共に居住していたペラスゴイ人、さらに、そのほかの都市群に住み、かつてはペラスゴイ人と呼ばれていて、そのあと別名で呼ばれるようになった人々の例から判断するに、このペラスゴイ人はギリシア語と異なる言語を話していたかもしれない。

全ペラスゴイ族の言語がこのようであるなら、ペラスゴイ族の血を引くアッティカ族は、ヘラスに併呑されたときに、その言語を変えたことになる。というのも、クレストンやプラキアの住民は、隣接地域の住民とは異なる共通の言葉を話しているからで、これによって、彼らが移住したときにも、その言語形態を保存していることは明らかである。

[1.58] 他方、ヘラス族は当初から同じ言語を用いていたことは確かであると、私は考えている。ただ、ペラスゴイ族から別れた時には少人数だったものが、多数の民族を取りこんで大きくなったのは、ペラスゴイ人を含め、多数の異民族の合流があったからである。これに対して非ギリシア語系のペラスゴイ族は、強大化したことはないと考えている。

[1.59] 以上の民族の中で、その当時ヒポクラテスの子ペイシストラトスが独裁者として君臨していたアテナイが、内紛によって党派に分裂していることをクロイソスは探りだした。このヒポクラテスは、オリンピアの試合を観戦していたときはまだ一市民だったが、そのとき、驚嘆すべき出来事に遭遇している。それはこの男が生贄を捧げていたときのこと、そばにあった、肉と水で満たされた大釜が火にかけられていないのに、煮えたぎり、あふれ出したのである。

偶然そこに居合わせたスパルタ人のキモンがその奇跡を目にして、ヒポクラテスに忠告するに、嫁を娶って子をもうけぬこと、万一既婚であったなら離縁し、息子がいるなら勘当すべしとした。

しかしヒポクラテスはキロンの忠告に従わず、そのあとに生まれたのがペイシストラトスだった。この者こそ、アルクメオンの子メガクレス率いるアテナイの海岸派と、アリストライデスの子リクルゴス率いる平原派が反目しあっていたときに、第三の党派を組織して覇権を手中にしようと目論んだ人物だった。ペイシストラトスは支持者たちを集め、高地派と称して次のような策を練った。

この男は自分自身と所有するラバを傷つけ、馬車を広場に乗り入れ、田舎に向かっている途中で、かれを殺めようとした(と自身では言う)敵から逃れてきた、と言い放ったのである。自分はかつてメガラと対峙したときには司令官としてニセアの港を攻略したり、そのほか大なる武功を立てて名声を馳せた者であるから、自分に護衛をつけて欲しいと市民に懇願したのだ。

アテナイの市民たちはこの話を真に受け、市民の中から護衛を選抜したが、ペイシストラトスは彼らに木の棒を持たせたので、槍持ちではなく棒持ちとしたことになる。

そしてペイシストラトスはこの者たちを率いて決起し、アクロポリスを占領し、アテナイ市民を支配下においたのである。ただし既存の官職を乱したり、法律を改変したりせず、これまで通りの制度に従って巧みに国を統治した。

[1.60] ところが間もなく、メガクレス一派とリクルゴス一派が気脈を通じてペイシストラトスを追放してしまった。結局ペイシストラトスは最初にアテナイを支配したものの、主権を固めぬうちにアテナイを失ったのである。そして今、共に協力してかれを追放した敵対勢力が、再び反目し合う事態となってしまった。

この派閥闘争に困じたメガクレスはペイシストラトスに使者を送り、ペイシストラトスに自分の娘を娶らせて覇権を与えると伝えた。

このメガクレスの条件を良しとして、ペイシストラトスはその提案を受け入れるところとなったので、一同はペイシストラトスを呼び戻す算段を練ったのだが、その方策というのが、私の考えでは途方もなく馬鹿げたものだった。というのも古来ギリシア民族は、他民族に比べてはるかに賢明で、間抜けな愚行を冒さないとされていたのだが、そのギリシア民族の中でも特に抜け目ないと評判のアテナイ人を欺くためにひねり出された方策というのが何とも一風変わったものだった。

さてパイアニア地区(20)に、名をピュアといい、背丈はあと三ダクテュロス(*1)足せば四ペーキス(*2)に達するほどに上背がある、美貌の女がいた。この女に完全武装させるととも最大限に威厳のある振る舞い方を教え、戦車に騎乗させた。そして先触れを走らせ、それに続いて街に乗り込ませた。そして街に入ると、先触れたちは指示されたとおりに声を上げた。

(20)アッティカ地方の一地域
(*1)daktulos=指、ここでは指腹の長さ=約一・八センチメートル
(*2)pechys=cubit=およそ四十八センチメートル

「アテナイの人々よ、ペイシストラトスを温かく迎え入れなさるがよい。女神アテナ様ご自身が誰よりも彼の者を重んじられ、ご自身のアクロポリスに連れ戻そうとなさっておいでであるぞ」

先触れの者たちは、このように触れ回った。そうすると、アテナ様がペイシストラトスを連れ戻されるという噂がたちまち国中に広まり、その女を正真正銘の女神と信じ込んだ街の人々は、このありふれた女を崇め奉り、ペイシストラトスを迎え入れたのだった。

[1.61] こうして国の支配権を取り戻したペイシストラトスは、メガクレスの申し出に従って娘を娶った。ところがこの男にはすでに若年の息子たちがおり、それにメガクレス系のアルクメオン族は呪われていると云われていたこともあって、ペイシストラトスは新妻に自分の子供を産ませるつもりはなかった。そこでペイシストラトスは新妻とは常ならぬ接し方をした。

初めのうち、新妻はそのことを隠していたが、母親に問い質されたものであろうか、やがて母にそのことを打ち明け、母は夫であるメガクレスに告げた。メガクレスはペイシストラトスに侮辱されたと激怒し、怒りにまかせて反メガクレス派と手を組むに至った。我が身に向けられた陰謀を察知したペイシストラトスは、いち早く国を抜け出してエレトリアに逃れ、そこで息子たちと善後策を講じた。

統治権を奪還すべきだ、というヒッピアスの考えが他を圧倒したこともあり、一党は、かれらに何らかの恩義を感じている全ての都市から支援金を募りはじめた。その結果、多くの都市が多額の支援金を拠出したが、中でもテーベは他のどの都市よりも多くを拠出した。

その後、手短に云えば一党の帰還の手はずが整った。ペロポネソスからアルゴスの傭兵が到着し、加えてナクソスからは、リグダミスという男が異常な熱意を持って軍資金を携え、手勢を率いて自ら参加して来たのである。

[1.62] そして一党はエレトリアを出立してから十年後に祖国に帰還した。かれらがアッティカに戻り、最初に占領したのはマラトンの街だった。そこに宿営していると、アテナイ市街から同志たちが馳せ参じてくるし、ほかの地方からも多くの者たちが合流してきた。この者たちは自由より独裁を良しとする者たちだった。かくて一同がここに会した。

ペイシストラトスが資金を集めたのちマラトンを占拠している間、アテナイの街に残っていた市民たちは、そのことを意に介していなかったが、一党がマラトンからアテナイに向けて進軍したことを知ると、迎撃態勢を取った。

アテナイ軍は全軍あげて帰還勢に立ち向かった。ペイシストラトスの軍勢はマラトンからアテナイに向けて進んで行く途中、パレネ・アテナ神殿に到着したときに敵に遭遇し、それと対峙する形で陣を張った。

この時、アルカナイアのアンフィリトスという予言者が神意を受けてペイシストラトスに面会し、次のような六歩格詩による神託を告げている。

  網は打たれ、拡げられた
  月明かりのもと、
  マグロの魚群は跳びはねるぞよ

[1.63] 神に憑依されたアンフィリトスはこのように告げたが、ペイシストラトスはこの意味するところを理解し、お告げを受け入れると宣言し、軍を敵に向けて進めた。その時、アテナイでは朝食時で、食後のダイス遊びをする者もいれば、うたた寝する者もいた。ペイシストラトスの軍はそこを襲い、アテナイ軍を潰走させた。

ペイシストラトスは潰走したアテナイ軍が散り散りになったままで再び集結しないよう、極めて巧妙な策を採った。すなわち、自分の息子たちに騎馬で逃走兵たちを追いかけさせ、それに追いつくや、案ずることなく自宅に戻れ、と云わせたのである。

[1.64] アテナイ兵たちはこの指示に従ったので、ペイシストラトスは三たびアテナイを手中におさめたことになる。そして屈強の護衛部隊とアテナイやストリモン河流域の地区から徴集した資金によって、その覇権を確固たるものにした。その上で、ペイシストラトスは直前の戦において街を離れず残留していたアテナイ人たちから息子を人質に取り、かれらをナクソス島に移した。

ペイシストラトスはすでにナクソスを攻略済みで、リグミダスに統治させていたのである。さらにペイシストラトスは神託に従ってデロス島の浄化を行なった。それは次のようになされた。神殿から見える範囲で地中に埋葬されている遺体を掘り出し、島の別の場所に移動させたのである。

こうしてペイシストラトスはアテナイの君主となったのだが、アテナイ人の中には戦闘で命を落とした者もあり、アルクメオン一族と共に祖国を後に亡命した者もいる。

[1.65] クロイソスがさぐり出した当時のアテナイの状況はこのようなものだったが、スパルタの方は、多大な危機を乗り越え、戦でテゲアを凌駕していることがわかった。レオンとヘゲシクレスという二人の王がスパルタを統治していた頃には、ほかの戦ではことごとく勝利していた中で、唯一テゲアに対してだけは苦杯を喫していたのだが。

それまでは、スパルタはギリシア中でほとんど最悪の統治状態で、そのうえ諸外国との交わりを断っていたのだが、このあと述べるようにして見事な統治状態へと変革を成しとげたのである。それは、スパルタ人の中で声望高いリクルゴスという人物が神託を求めてデルフォイを訪れた時のことだった。神殿の広間に入るや否や巫女が六歩格詩を唱えて宣告した。

  汝、わが豊穣なる神殿に来たりしか、リクルゴス
  汝、ゼウスおよびオリンポスに住まう、すべての神々に愛でられし者よ
  汝を人と宣すべきか神と宣すべきか、如何にすべきや
  されば、神と見なそう、リクルゴスよ

その時、巫女はこの男に、今スパルタで使われている憲法を託宣したとも伝えられているが、スパルタ人たちは、リクルゴスがその甥でスパルタ王たるレオボトスの後見人についていた時、クレタ島からそれを持ち帰ったのだと伝えている。

後見人の位置につくや、かれはあらゆる法律を改変し、新しい法律を厳格に施行した。その後は軍事関連の諸事項を確定した。すなわち宣誓隊(*1)、三十人隊(Triecad;トリアカス)、共同の食事などの制度を確立した。また監督官(エフェロス)(*2)や長老会の制度も制定した。

(*1)エノモティア(ἐνωμοτία=enomotia):スパルタ軍におけるファランクス(密集陣形)の最小単位で、36人からなる。ファランクスに参加する時には宣誓が義務づけられていた。
(*2)ephors;スパルタにおける王の権力を監視する官職。五人の有力市民が一年交代で勤める。

[1.66] このようにしてスパルタは悪法を改めて適切なものに変えたのだが、リクルゴスが亡くなった時には彼のために聖廟を建て、今も深く尊崇している。そして肥沃な土地と少なからぬ住民のおかげで、日をおかずスパルタは隆盛し、繁栄するに至った。しかし彼らは安穏とした生活に安住しようとせず、アルカディア人より力があると確信していたこともあって、アルカディア全土の攻略を思い立ち、それについてデルフォイの神託を求めたのである。巫女は六歩格詩で次のように託宣を唱えた。

  汝らアルカディアを所望するか?
  だいそれたことよ。われは許さぬぞ
  アルカディアには樫の実を食す屈強な男子多くして
  汝らを阻むであろう
  われは物惜しみするにあらず
  テゲアを与え下すゆえ、舞い踊り、
  足もて踏みならすがよい
  また沃野もあたえようぞ、綱にて測るべし

この託宣を知らされたスパルタ人たちは、ほかのアルカディアには目もくれず、不確かな神託を信じて足枷を用意し、テゲアに進攻した。彼らはテゲア人を奴隷にするつもりであったのだが、戦には負けてしまったのである。

捕らえられた者たちは、自らが用意した足枷に繋がれ、テゲアの田畑を綱(21)で測量し、耕作させられることになった。捕虜たちが繋がれた足枷は、アテナ・アレアの神殿に今なお吊されて保存されている。

(21)耕作のために田畑を区割りしたという意味。

[1.67] 今までの合戦ではスパルタはテゲアに負け続けていたが、クロイソスの時代に、アナクサンドリデスとアリスソンというスパルタの王がスパルタを統治するに及んで、テゲアに対して優位に立つようになった。事の次第は次のごとし。

テゲアに負け続けている時、スパルタはデルフォイに使者を送り、テゲアとの戦に勝利するためには、どの神に救いを求めればよいか、伺いを立てた。巫女はアガメムノンの息子オレステスの遺骨を持ち帰るべしという託宣を下した。

ところがスパルタ人たちはオレステスの墓を見つけられなかったので、再びデルフォイに神託(22)を求め、その墓がどこにあるか、伺いを立てた。巫女は例によって六歩格詩で返答した。

(22)「τὴν ἐς θεόν = tin es theon」は「ἐπειρησομένους = epeirisomenous」から「τὴν θεὸν ὁδόν. τὴν ἔνθεον=tin theon odon. tin entheon = The Inspired One」と説明されるが、安易な修正である。すべてのMSSは「ἐς θεόν = es theon」としている。

  アルカディアの平かなる草原に、テゲアなる街あり
  かの地には強き必然によりて、二つの風吹きおり
  一撃すれば一撃し、災禍に災禍を重ぬる
  命芽吹く大地に、アガメムノンが息子埋もれり
  かの者を持ち帰らば、汝テゲアの主となろう

これを聞いたスパルタ人たちは、あちこち探し回ったものの、遺骨を見つけ出すには至らなかった。ところがついに「善行者」と呼ばれている者たちのひとりで、リカスというスパルタ人が見つけ出した。善行者というのは騎士を退役した者の中から最年長者を対象にして年ごとに五名選出される。この者たちは騎士を退役する年にスパルタ国家からあちこちに派遣され、絶え間なく巡回する義務を負っている。

[1.68] 幸運と巧妙なコツとによって、テゲアに眠っている墳墓を見つけ出したのは、この善行者と呼ばれる者たちのひとりであるリカスという人物だった。その当時、テゲアには自由に往来できたので、リカスは鍛治屋の店に入って鍛治屋の作業に驚嘆しながら、鉄を鍛えているのを見物していた。

すると鍛治屋はリカスが感心しているのに気づき、仕事の手を休めて話しかけた。
「ラコニアの客人、鍛冶仕事に感心しておられるようじゃが、ワシが見た物を目にすると、きっとびっくりなさるじゃろうよ」

「というのも、ここの中庭に井戸を作ろうと思って地面を掘り返していたら、差し渡し七キュービット(45Cm×7=315Cm)の長さの棺桶を掘り当てたのさ。今時の人間より背丈のある男がいるはずがないと思ってよ、棺を開けて見たところが、遺体は棺とちょうど同じ背丈だったというわけだ。ワシァそれを測って埋め戻しておいたんだ」
このように鍛冶屋は見たことを語った。リカスは聞いたことに思いをめぐらせ、それは託宣に云われたオレステスだろうと思った。

鍛冶屋にある二つの鞴(ふいご)は二つの風だとリカスは気づき、槌と金床は一撃とそれへの反撃であるし、鉄は人類に災いをもたらすために見出されたものだと見なすと、熱して鍛えられる鉄は災禍に次ぐ災禍である。

このように推量したリカスはスパルタに戻り、国の人々に全てを打ち明けた。ところがスパルタは、あらぬ罪をきせてリカスを追放してしまったのである。そしてテゲアに舞い戻ったリカスは我が身の不運を鍛冶屋に打ち明け、そこの中庭を借り受けようとしたが、鍛冶屋は首を縦に振らなかった。

しかしついにリカスは鍛冶屋を説得し、そこに住まいを作り上げた。そして墓を掘り返して骨を集めると、それを携えてスパルタへ戻って行った。これを境にして、スパルタとテゲアが干戈を交えるたびに、スパルタが卓越して優位を保つようになったのである。かくして今やペロポネソスの大部分はスパルタに隷従する次第となったのだ。

[1.69] 右の次第を知ったクロイソスは同盟を結ぶために、使者に贈答の品々を持たせ、その際の口上を指示してスパルタに送った。そして使者はスパルタにやって来て次のように言上した。

「リディアそのほかの国々の王、クロイソスは次の声明を託して我らをここへ使わされた。『スパルタの人々よ、神は我にギリシア人を友とせよと宣告なされた。そこで、貴殿らがギリシア世界において主導者であると見なし、ここに神かけて二心なく、貴国と友好、同盟を結ぶことを提案する次第である。』」

クロイソスは使者を通して右のことを提示したが、クロイソスに下された神託をスパルタ人はすでに聞き知っていたこともあり、リディア人たちを歓迎し、友好と同盟の誓約を交わした。実のところ、この王からは、それ以前に恩恵を受けていたことがあったのだ。

と言うのも、スパルタ人は、現在ラコニアのトルナクス山(23)に設置されているアポロの彫像製作のための黄金を入手するためにサルディスに使者を送ったことがあるのだが、その際、使者が黄金を購入したいと申し出た時、クロイソスは無償でそれを提供したことがあったのだ。

(23)スパルタの北東方向にある山。ユーロタス渓谷(Eurotas valley)を臨む。

[1.70] 右の事情もあり、加えてほかのギリシア人を差しおいてスパルタと交誼を結びたいとクロイソスが提案したことを良しとして、スパルタは同盟を受け入れた。そしてクロイソスが望んだ時にはいつでもそれに応じる用意があることを宣言し、その上、外側にさまざまな模様を彫り込んだ容量三百アンフォラ(*)もの青銅製の大盃を造り、それをクロイソスへの返礼のつもりで送り届けた。

(*)1 amphora=約三十四リットル

しかしこの大盃はサルディスに届くことはなかった。その理由には二つの説がある。その一つはスパルタ人によるもので、サルディスに向かう途中のサモス近辺に至った時、それを知ったサモス人が襲撃し、軍船で運び去った、という説。

一方サモス人の言うには、その大盃を運んでいたスパルタ人たちの到着があまりに遅かったため、サルディスがすでに陥落し、クロイソスも囚われの身となっていたため、サモスで数人の市民に売り払われ、それがヘラの神殿に奉納されたという。おそらく大盃を売った者たちはスパルタに帰還してから、大盃はサモス人たちに略奪されたと言い訳をしたものであろう。以上が大盃にまつわる話である。

[1.71] 一方、クロイソスは神託の意味を誤解し、キュロスとペルシアの勢力を殺ごうとしてカッパドキアに進攻した。

そしてペルシア進攻の準備中に、以前から賢者として評されているリディア人が、クロイソスに次のような進言をしたものである。そしてこの進言により、リディア人たちの中で、この者は賢者としての名声を一層高めたのだった(その賢者の名はサンダニスという)。
「殿に申し上げまする。あなた様は、今出陣の準備をなさっておられますが、その相手は、革のズボンを履き、また全身を革の衣装でまとい、不毛の地ゆえ、好きなだけ食することもできず、手に入るだけを食する者たちでありますぞ」

「その上、飲むのは葡萄酒にあらずして水にござる。イチジクも実らず、美味なる物など、ひとつとしてありませぬ。そこで、あなた様がかの者たちを征服なされたとして、一体何を得られましょうや? 相手は何も持ち合わせておりませぬぞ。一方で、あなた様が制圧されたなら、どれほどの財物を失われるか、お考えなされませ。彼奴らが一旦我らの恵みを味わえば、しっかりそれに食らいつき、何者も引き離せぬでありましょう」

「というわけで、私自身は、ペルシアがリディアを攻める気にならぬように配慮なされた神々に感謝しておる次第にございます」
このようにサンダニスは言上したが、この言説はクロイソスを説得するには至らなかった。実のところ、リディアを征服する以前、ペルシアには豪華なもの、立派なものなどなかったのである。

[1.72] 現在、ギリシア人はカッパドキア人のことをシリア人と呼んでいるが、このシリア人はペルシアが支配する以前はメディアに属しており、この当時はキュロスに属していた。

というのも、メディアとリディアの国境をなしているのはハリス河で、この河はアルメニアの山塊に端を発し、まずキリキアを通過し、その後はマティエニの国を右に、フリギアの国を左に見てその間を流れている。その後は北に流れ、カッパドキアすなわちシリアを右にし、パプラゴニアを左に別けている

かくてハリス河は、キプロスに面する海から黒海に至るまで、アジアの下半分を全て切り取る形となる。そしてここが、この地域全体の頸部になっている。その行程は、身軽な形(なり)ならば五日で踏破できる(24)。

(24)ここでいうシリアはアジアの西半分を指す。キプロスの海から黒海にいたる狭隘部の幅に関しては、後の史家たちも指摘しているように、ヘロドトスは明らかに大きな誤解をしている。狭隘部の実際の距離は直線で約二百八十マイルあり、五日より遥かに長い行程である。

[1.73] クロイソスがカッパドキアに出兵した理由は、次のことにある。すなわち、自国の領土を拡げたいと欲したこと。そして次が主な理由なのだが、例の神託を信じていたが故にキュロスに対してアステュアゲスの仇を討ちたいためだった。カンビュセスの子キュロスはアステュアゲスを制圧し、支配下においていたのだった。

キュアクサレスの子アステュアゲスはメディアの王だったが、クロイソスの義兄弟でもあった。そのいきさつは次のとおりだ。

遊牧民スキタイの一部族が他部族との諍いの末、メディア領内に逃れてきた。その当時、メディアを統治していたのはデイオケスの孫でファラオルテスの子キュアクサレスだったが、この王は当初、彼らが王の慈悲にすがる哀願者ということで手厚く遇し、またこの者たちを高く評価していたので、国の少年たちを彼らに委ね、その言語と弓術を学ばせた。

時が過ぎ、スキタイ人たちは狩りに行くことを常とし、いくばくかの獲物を持ち帰っていたのだが、あるとき獲物がなく手ぶらで帰ったことがあった。この時キュアクサレスは彼らを手荒く扱い、侮蔑した(このことから、キュアクサレスが怒りっぽい性分であることがわかった)。

スキタイ人たちは、キュアクサレスから不当に扱われたと思い、生徒の中からひとりの少年を殺して切り刻み、いつも獣を料理しているように料理し、これを狩りの獲物であると言ってキュアクサレスに送り届けることを画策した。その後は直ちにサルディスにいるサデュアテスの子アリアテスのもとへ逃走すると決め、それを実行したのである。

キュアクサレスと客人たちは少年の肉を晩餐に食し、スキタイ人たちは計画通り、アリアテスの庇護を求めて逃走した。

[1.74] このあと、アリアテスはキュアクサレスのスキタイ人引き渡しの要請を拒否したため、リディアとメディアは五年間の戦争に突入した。その間、時にはリディアが勝ち、時にはメディアが勝ちなどして勝敗は所を変えた。そしてある時には夜戦もこなした。

この両国は互角の戦いを続けていたが、六年目に入った時のこと、ある合戦の最中に突然昼が夜に変わったことがある。これは、ミレトスのターレスがイオニア人に対して日中の光が失われる年を予言していたことである(25)。

(25)史実上および天文学知見から、この日食はB.C.585年5月28日のことと特定されている。アリアテスの統治中にはもう一度日食があり、それはB.C.610年9月30日に起きている。しかしこれは小アジア全体に発生したものではないようだ。プリニウスの説ではこの現象はローマ建国から170年後に発生したとしている。ターレスの没年は、それよりずっと後のB.C.548年である。

リディア軍とメディア軍は、昼が夜に変わったのに気づくと戦いを止め、両者ともに和平を強く願った。両国の和睦を仲介したのはキリキアのシエンネシスとバビロンのラビネトスだった。

この二人は両国間に宣誓協約と相互の婚姻を提言した。そしてアリアテスの娘アリエニスをキュアクサレスの息子アステュアゲスに嫁がせることとした。というのも、強固な結束がなければ協約というものはその力を維持できないからである。

これらの民族は、ギリシア人と同じように誓約をするのであるが、さらに腕の皮膚を切り、互いに血をすすり合うのである。

[1.75] さてキュロスは自分の母方の祖父に当たるアステュアゲスを制圧し、支配したのだが、その理由については後に説明することにする。

このようなキュロスの行ないに疑義を抱いたクロイソスは、ペルシアに軍を差し向けるべきかどうか、その神託を求めるために使者を立てた。そして当てにならぬ神託が下されても、それを自分の都合のよいように解して自軍をペルシア領内に進攻させた。

そしてハリス河に達した時、軍を渡河させたのだが、それには当時すでにあった橋を利用したというのが私の考えである。ところが大方のギリシア人は、河を渡れたのはミレトスのターレスのお陰だと信じている。

それはこういうことである。先に指摘した橋は、その当時は存在しなかったので、クロイソスは自軍を渡河させる方法がわからず困惑していたところ、陣中にいたターレスが軍勢の左を流れていた河を、次の方法で右側へも流れるようにつけ替えたというのである。

陣営の上流にある地点から半円形の深い堀を掘削し、流れをその堀に誘導し、陣営の後方にも通すようにしたのである。そして河の流れを二つに分けたので、どちらの流れも徒歩で渡れるようになったという。

そして元の流れはすっかり干上がってしまった、と言う者さえいる。しかし私はこの話を信じない。というのも、この場合、帰りはどうやって河を渡ったのだろう?

[1.76] クロイソスは麾下の軍とともに河を渡り、カッパドキアのプテリアという地点に到着した。このプテリアという地域はシノプという街と黒海を結ぶ線上にあって、この地域では最も堅固な場所なのだが。クロイソスはこの場所に陣を構え、シリア人たちの田畑を荒らしてまわった。

その上、プテリア人を捕らえて奴隷とし、その周辺の地域もことごとく制圧した。また何の危害ももたらさないシリア人を、その祖国から追い払ってしまった。キュロスの側もクロイソスに対峙すべく自軍を調え、進軍途上にいる住民を残らず集めながら軍を進めた。

またキュロスは、進軍を始める前にイオニア各地に使者を送り、彼らをクロイソスから引き離す工作をしていたが、イオニア人たちはその誘いには乗らなかった。そしてキュロスが到着し、クロイソスに対峙して陣を張ると、プテリアの地で両軍が対決する運びとなった。

戦いは激しく、双方とも多数の兵士が斃れ、日暮れになっても勝敗は決しなかった。

[1.77] 両軍の戦いはかくの如くだったが、クロイソスは自分の軍勢がキュロス軍よりも遥かに劣っていたことに不満で、翌日なってキュロスが再び戦を仕掛けてこないと見るや、サルディスに向けて帰って行った。

クロイソスの心算ではエジプトとの協定にもとづき、その救援を目論んでいた。というのも、スパルタとの協定を結ぶよりも前にエジプト王アマシスと協定を結んでいたからである。またバビロニアにも救援を求めるつもりだった。クロイソスはこの国とも協定を結んでいて、その当時の王はラビネトスだった。

そしてスパルタには所定の日時に参集するよう要請した。クロイソスの心づもりでは、これらすべての軍勢を集め、さらに自分の軍を集め、冬が終わるのを待ち、春の始まりとともにペルシアに向けて進軍することにしていた。

このような意向を胸にし、サルディスに戻るやいなやクロイソスはすべての同盟国に使者を送り、五ヶ月後にサルディスに集結するよう、通知した。またペルシアと戦った麾下の傭兵たちは全員解雇した。互角に競り合う戦をこなした後で、キュロスがサルディスに進攻してくるとは少しも考えなかったからである。

[1.78] クロイソスはこのように考えをめぐらしていたが、ちょうどその頃、市外のあたり一帯が蛇で溢れかえるという事件が起きた。そして放牧されている馬群は草を喰むのを止め、その蛇を貪り尽くしてしまったのである。これを見たクロイソスは、これは何かの予兆だと思ったのだが、事実はその通りだったのである。

そこでかれはすぐさま占いを事とするテルメシア人の街(26)へ使いを送り、この出来事の意味を問わせた。しかし使者が街についてテルメソス人から予兆に関する意味を告げられ、それをクロイソスのもとへ届けようとしたのだが、そのことは適わなかったのである。というのも、使者がサルディスに帰りつく前に、クロイソスは囚われの身となっていたからである。

(26)小アジアの街リキアにおけるアポロの神官職。

しかしテルメソス人の解釈は次のとおりだった。すなわちクロイソスの国には異国の軍隊が攻撃を仕掛けつつあること、さらには、ひとたび到来すれば国の住民を隷属させるだろう。この場合、蛇は大地の子孫で、馬は外敵とみなされる。これがテルメソス人の回答だったが、彼らはそのとき、未だサルディスやその王自身の運命を知りもしなかった。彼らが回答したとき、クロイソスはすでに囚われの身となっていたのである。

[1.79] クロイソスがプテリアの戦いから撤収したとき、キュロスは、クロイソスが麾下の軍を解散するつもりであることを知り、リディア人の力が再び集結する前に、サルディスに対して迅速に進軍することが時宜にかなっていると考えた。

そう決心すると、かれはすぐに実行に移した。かれが軍をリディアに進軍させると、このことは自ずとクロイソスに伝わった。すべてがクロイソスの予想に反していることがわかり、クロイソスは大いに困り果てたものの、かれはリディア軍を率いて戦いに臨んだ。

当時のアジアでは、リディア人ほど勇敢で好戦的な国はなかった。かれらは騎馬で長い槍を繰り出して戦い、馬を操るのに長けていた。

[1.80] 両軍はサルディス前方の広く開けた平原で激突した。ヒュロス河やその他の河はここを横断し、エルムスと呼ばれる最大の河に激しく流れ込んでいる(この河は神聖な山から母なるディンディメネ(27)に流れ、ポカイアの街に近い海に注ぎ込んでいる)。

(27)フリギア人とリディア人の女神シベレのこと。

この時、リディア人による戦列を見たキュロスは、自軍の騎兵隊に危惧を抱き、ハルパゴスというメディア人の案によって次のような策をとった。まず軍に従って食料と荷物を運んでいるすべてのラクダを集め、その荷物を降ろさせ、騎兵の装備をまとった兵士を乗せた。そして、その一隊をクロイソスの騎兵隊に向けて自陣の前面に配した。次にラクダの後方に歩兵を従わせ、そのうしろにすべての騎兵を配した。

全軍の配置が完了すると、キュロスは、刃向かうリディア人は容赦なく打ち倒してよいが、クロイソスだけは捕らえる際に抵抗しても殺してはならぬと命じた。

キュロスはこのように命じた。ところでキュロスがラクダ隊を騎兵隊に向かわせたのには理由がある。それは馬がラクダを怖がり、それを目にしても匂いを嗅いでも我慢できないことにあった。すなわち、クロイソスが大いに頼みとしているリディア人騎兵隊を役立たずにすることが、かれの目論見だった。

さて戦闘が始まると、馬群はラクダの匂いを嗅ぎ、その姿を目にするやいなや潰走してしまったので、クロイソスの望みは絶たれた。

それでも、事態に気づいたリディア兵は臆病風を吹かすことなく、馬から飛び降り、歩兵となってペルシア兵と戦った。両軍ともに多くの兵士が斃れたが、ついにリディア軍は敗走し、その城塞の中へ押しやられ、ペルシア軍によって包囲される事態に至った。

[1.81] かくしてリディア軍は包囲されたのだが、クロイソスは包囲戦は長期にわたるものと予想し、再び同盟国へ使者を送った。以前に派遣した使者は、五ヶ月後にサルディスに集合することを要請するものだったが、このたびはクロイソスが包囲されたため、可能な限り速やかに援軍を派遣するよう、依頼するものであった。

[1.82] クロイソスはスパルタを筆頭としてその他の同盟国に使者を送った。ところがちょうどその時期、スパルタ自身はティレアという地域をめぐり、アルゴスとの抗争の真っ最中だった。

というのも、この地域はアルゴスの領地だったが、スパルタはここを切り取り、自国の領土としていたためである。マレア岬に至るまでの西方全土は、本土のみならずキテラその他の諸島も含め、アルゴス領だった。

アルゴスは略奪から領地を守ろうとして出陣したが、相手との交渉の結果、双方から三百人を出して戦い、勝った側が領地を獲得する、ということになった。そして残りの軍は合戦場に残ることなく、双方ともに自国に引き上げることとした。それは、もし現場に残っていたなら、自軍が負けそうになった時、助太刀するかもしれないからである。

このように同意した後、両軍は撤退し、双方から選ばれた兵士が戦った。そして双方ともに優劣つけがたい結果となった。結果、六百名中三名だけが生き残り、それはアルゴス側はアルケナーとクロミオス、スパルタ側はオスリアデスだった。日没時に生き残っていたのはこの三名だけだった。

二人のアルゴス兵は自分たちが勝利したものと信じ、自国に帰って行った。一方のスパルタ兵オスリアデスはアルゴス兵の遺体から武器を奪って自分の陣営に持ち帰り、自身の部署に留まっていた。そしてその翌日には両軍が結果を確かめにやって来た。

しばらくの間、双方が勝利を主張し合っていた。アルゴスは自分たちの方が生き残った人数が多いと主張し、スパルタはアルゴス兵が敗走し、自国の兵は戦場に留まって斃れた敵兵から武器を奪い取ったと主張した。とうとう論争のあげく戦闘が始まった。双方とも多数の兵士が斃れたものの、スパルタが勝利した。このあと、アルゴス人は以前は長髪にする習わしだったものを頭髪を剃り上げ、またティレアを再び取り戻すまでは男子には頭髪を伸ばすことを禁じ、女子には黄金の装身具を纏うことを禁じるという、呪いを込めた戒律を定めた、

かたやスパルタは、右と全く逆の掟を作り、それまでは長髪の習わしがなかったものを、これ以後は髪を伸ばすことにした。そして三百人のうち、ただひとり生き残ったオスリアデスは、仲間の全員が討ち死にしたのに自分ひとりがスパルタに帰ることを恥じ、ティレアで自害したと伝えられている。

[1.83] 攻囲されているクロイソスのために、スパルタの援軍を要請する使者がサルディスからやって来たのは、このような事態が起こったあとだった。それでもかれらは使者の口上を聞くや、援軍派遣の準備を始めた。そして準備を調え、出航しようとしている間際に、次の報せが来て、リディアの守りが破られ、クロイソスが捕らわれてしまったことを知った。そして大いに慚愧し、出陣を断念した。

[1.84] サルディス陥落の状況は次のとおりである。クロイソスを攻囲すること十四日が過ぎたとき、キュロスは自軍の部隊にそれぞれ騎士を送り、城壁上に一番乗りした者に褒賞を与えると布告した。

これによってキュロス軍は猛攻をみせたが、攻城は不調に終わった。ただ、ほかの兵士がすべて攻撃を止めている中で、マルドス族(28)のヒロエアデスという兵士が、攻撃される怖れのない場所と見なされていたため、番兵の配置されていない城塞の箇所からよじ登ろうとした。

(28)ペルシアの遊牧民族

というのも、アクロポリスのこの場所は切り立った崖になっており、ここが攻撃されるとは思いもよらなかったからである。それゆえ、ずっと以前、サルディス王だったメレスが、側女の産んだ獅子を連れ回した時も、この場所だけは無視したのだった。この獅子を、城壁に沿って連れ回しておけば、サルディスは決して攻略されないとテレメッソス人が宣していたのだが。その時、メレスは攻め込まれるかもしれない城壁の箇所すべてに獅子を連れ回したのだが、この場所は省略したのだ。ここは切り立った崖になっているため、攻め込まれることはないと思っていたからである。そして、その場所はトモロス山に面する側にあった。

さてその前日、マルドスのヒロエアデスは、ひとりのリディア兵が件の崖から自分の兜を転がり落とし、それを拾って戻るのを目撃していた。そしてこの男はそれを記憶に留めていたのだ。

そのことがあったので、かれはその崖をよじ登ったところ、ほかのペルシア兵たちもこの兵士について登ってきた。大勢の兵がよじ登り、かくしてサルディスは陥落し、全市が略奪の憂き目に遭ったのである。

[1.85] さてクロイソスの身の上はどうなったか。以前に語ったように、彼には、ただ唖というだけで、ほかの面では全く申し分ない息子がいた。そして全盛期にはその息子にはできる限りのことをしてやった。さまざま手をつくしてみた中でも、息子のために神託を願ってデルフォイへも使者をたてたこともある。それに対する巫女の返答は次のような内容だった。

  リディアなる多くの民の王にして
  いと愚かなるクロイソスよ
  汝が王宮にて、汝の子の、もの言うを願う繁き祈りを
  耳にするを欲するなかれ
  これまで通り、唖のままであるが
  そなたにとっては良きことじゃ
  その子が初めて声を発する日が
  呪われた日となるであろうゆえ

すなわち城塞の陥落に際して、クロイソスと知らずに、あるペルシア兵がかれを殺そうと殺到してきた。クロイソスはその兵士が迫り来るのを目にしたが、切迫した危難を気にも留めることはなかった。討たれ殺されることなど、どうでもよくなっていたのだ。

ところが、この唖の息子はペルシア兵が迫り来るのを見るや、恐怖と悲嘆のあまり突如声を発し、
「おい、クロイソスを殺すな!」
と叫んだのである。これが最初に発した言葉だった。それ以後、この息子は一生涯話す力を獲得したのであった。

[1.86] かくしてペルシアはサルディスを陥し、クロイソスを捕らえた。かれは十四年にわたってサルディスに君臨したのち、十四日間にわたって攻囲され、神託の通りその帝国は崩壊した。そしてかれはキュロスのもとへ移送された。

キュロスは薪の山を積み上げさせ、その天辺に、枷にかけたクロイソスと十四人のリディア人の息子たちを登らせた。キュロスの意図するところは、勝利の初穂として何らかの神へクロイソスを生贄にすることだったかもしれず、あるいはまた願掛けかもしれず、クロイソスが信心深いことを聞いていたため、どこかの神がクロイソスを生きたまま焚刑に処せられるの救い出すのを見届けるために、かれを薪の山の頂上に配したのかもしれない。

さて薪の頂上に立ったクロイソスは、かくの如き悲惨な立場に至ったにもかかわらず、ソロンが神の啓示によって語った、人間誰しも生ある限り幸福になるとは限らず、という言葉を思い浮かべた。そして深く溜息をつき、長い沈黙のあと「ソロン」と三度叫んだ。

キュロスはこれを耳にし、クロイソスが呼びかけたのは誰かと通訳に問わせた。通訳がクロイソスに近寄って訊ねたが、かれは沈黙したままだった。やがて強く返答を促されてついに口を開いた。
「その人こそ、すべての国王に訓戒を諭してくれるなら、万金を積んでも惜しくないと思っておる人物じゃ」
通訳たちはクロイソスの語ったことを判じかね、それはどういう意味かと再び訊ねた。

しつこく繰り返し問い質すのに根負けして、かれは次のように語った。アテナイ人のソロンが最初に到来したとき、かれの財物を一通り見て回ったあとで、ソロンはそれを見下すかの如き言説を吐露したこと。またクロイソスの身の行く末はソロンの予言したとおりになったこと。そしてソロンはクロイソス個人のことよりもむしろ人間全般に関することを語り、格別、自分が幸福だと自認している人間のことを論じたのだということを語った。そうこうしているうちにも薪に火がつけられ、その端から火の手が上がってきた。

さて、通訳連からこれを聞いたキュロスは気が変わり、一個の人間たるおのれが、幸運に恵まれた別の人間を火にあぶろうとしていることに思い至った。その上かれは復讐されることを恐れており、人の世の常ならぬことにも思いを馳せた。そして燃えさかる火をできるだけ早く消し、クロイソスとその息子たちを連れ戻すように命じたが、兵たちの努力にもかかわらず、彼らは火を消し止められなかった。

[1.87] その後リディア人が伝えるところでは、クロイソスはキュロスの気が変わったことに気づき、誰もが火を消そうとしているが、それをできずにいるのを見て、アポロ神の名を大声で呼び、かつて自分がアポロに神意にかなう捧げものをしたことがあるなら、救いの手をさしのべ、この窮状から自分を解放してもらいたいと叫んだ。

かくの如くクロイソスが涙ながらに神に願いをかけたところ、それまでは晴れ渡って無風だった空に突如として雲がわき上がり、激しい雨をともなう嵐となった。そして薪の山の火が消えた。これを見たキュロスは、クロイソスが神を敬う一門の人物であることに気づき、薪の山からかれを降ろさせ、そして訊ねた。
「クロイソスよ、わが国と友好を結ぶことなく兵を進め、敵対するように唆したは、一体誰じゃ?」
クロイソスが返答する。
「殿にとっては幸運となり、それがしには不運をもたらしたは正にそれがしの所業にござる。ただ、それがしに戦をうながし、今の事態を引き起こしたはギリシアの神にござる。平穏を捨て、戦を選ぶような馬鹿者がどこにおりましょう。平時であれば子が親を見送るところ、戦時となれば親が子を弔うことになりまする。しかしながら、こうなることはおそらく神意に沿うことでありましょう」

[1.88] クロイソスがこのように語ると、キュロスはかれを解き放ち、自分の側近くに座らせ、極めて丁重に応接した。そして王ならびに居並ぶ者たちすべてはクロイソスに感嘆のまなざしを向けていたが、クロイソス自身は沈黙し、深く考え込んでいた。

やがてかれは頭(こうべ)をめぐらし、ペルシア人がリディアの街を略奪しているのを見て、声を発した。
「殿に申す。それがし、我が心中をいま吐露せねばなりませぬか、それとも沈黙を守るべきでありましょうや?」
キュロスが、何なりと話すように促すと、クロイソスはこう訊ねた。
「あれに群れ集う者たちは、何をせわしなく立ち働いているのでありましょうや?」
キュロスが言うに、
「あれはお主の街を略奪し、そちの財宝を掠め取っているのじゃ」
クロイソスが返して言う。
「否、あれはそれがしの街でも宝物でもござらぬ。あれはもはや私の所有する物ではござらぬゆえに。彼らが略奪しているのは殿の財宝にござるぞ」

[1.89] キュロスはクロイソスの語ったことが気にかかったのて、人払いをしてから、いま現在の状況で気づいたことは何かとかれに問い質した。リディアの王が返答する。

「みどもが殿の虜囚となったは神々の思し召しによるものゆえ、気づいたことがあれば、それを殿に申し上げるは当然のこと。そもそも、ペルシア人は生来粗暴で貧しいゆえに、彼らの略奪を放置し、莫大な富を手中にさせると、最も多くの富を手にした輩が王に向けて謀反を起こすやもしれませぬぞ。みどもの言説が尤もと思し召さるなら、次のようになさるがよろしかろうと存ずる」

「すなわち、すべての城門に親衛隊の兵を張りつけなされ。そして城外に財宝を持ち出す者がいたら、これは十分の一税としてゼウスの神に捧げねばならぬのだ、といってそれを取り上げさせるのじゃ。このように云わせておけば、彼らがつかみ取った財宝を力ずくで取り上げたとて殿が恨まれることはないはず。それどころか殿の行ないが正道に則っていると納得し、喜んで財宝を差し出すでありましょう」

[1.90] これを聞いたキュロスは時宜にかなう助言を得たと大いに喜び、クロイソスを高く賞賛した。そして護衛の槍兵たちに向けてかれの助言通りに下命した。そして云った。
「クロイソスよ、お主の言行はまさに王者の風格である。そこで、お主の望むことを何なりとわが輩に申してみよ」

クロイソスが言う。
「殿、みどもがかつて格別に敬っておったギリシアの神へ、我が身につけられているこの枷を送り届け、これが申し分なく神に仕えた者を欺くやり方であるかと問い質すことをお許し下さるなら、これに勝る喜びはありませぬ」
かくのごとき要望をするとは、神にどんな不満があるのじゃ?というキュロスの問いにクロイソスが答える。

かれは自分が抱いていた野望や、神託の返答、とりわけ奉納品の数々、そして如何にしてペルシアへの出兵を神託によって誘導されたかを、繰り返しキュロスに語った。こうして再び、神を詰問することの許可を求めた。これに対してキュロスが笑って答える。
「もちろん、許すとしよう。またほかに頼み事があるなら、何なりと申すがよい」

これを聞いたクロイソスは、デルフォイにリディア人を使わし、自分の枷を神殿の入り口におかせ、キュロスの勢力を壊滅できるとクロイソスを唆し、その末の初穂がこんな物だと枷を示しながら、かれにペルシア攻撃を唆したことを恥と思わないのか、と神に詰問するよう命じた。その上、感謝の義理を欠くことがギリシアの神々の常道なのか、と詰問させた。

[1.91] リディア人の使者がデルフォイに到着し、指示されたとおりのことを伝えると、巫女は次のように返答したという。

「定められた宿命というものは神とても逃れられぬもの。クロイソスは五代前の先祖の罪を償ったのじゃ。その先祖というのは、ヘラクレス家の近衛兵でありながら、ある女の策略に加担して主君を弑逆(しぎゃく)し、身の程知らずにも君主の地位についたのじゃ。

そしてサルディスの悲運はクロイソス自身にではなく、その息子たちの代に降りかかるようにというのが、ロキシアス神(デルフォイにおけるアポロン神の称号)の思し召しなのだ。その宿命はクロイソスといえども逃れることはできなかった。

ただし、神々が許される限りのことは、神はその意志を遂げられ、クロイソスに好意を示された。すなわちサルディスの陥落を三年のあいだ先延べになされたのだ。そのあと、かれは虜囚となったが、それは定められた時よりも遥かに後年だということに、クロイソスは気づかねばならぬぞ。さらにロキシアス神はクロイソスを火あぶりからも救い出されたではないか。

神託についてもクロイソスは非を鳴らしておるが、それは的外れというもの。ロキシアス神は、ペルシアに進軍すれば、大帝国を破壊することになると、前もってかれに宣告なされていたはずだ。それゆえ、綿密に計画を立てるつもりであったなら、神はクロイソスの帝国とキュロスの帝国のどちらのことを示されたのかを、使いを立てて問い質すべきだった。ところが、かれはその言葉を理解せず、問い返しもしなかったのあるから、おのれ自身を責めるべきなのじゃ。

クロイソスが最後の神託を依頼し、ロキシアス神がロバに関して返答したときにも、この者はわかっておらなんだ。ロバとはすなわちキュロスのこと。この者の両親は異なる種族の出で、母は高貴な出自、父は卑賤の出自である。母はメディア王アステュアゲスの娘、父は臣下のメディア人だった。どう見ても下賤の者が主家の娘を娶ったのじゃ」

以上が、リディア人の使者に対する巫女の返事だった。使者たちはこれをサルディスに持ち帰り、クロイソスに報告した。それを聞いたクロイソスは、非は神にあるのではなく、自分にあることを認めた。クロイソスによる統治のいきさつと、イオニア地方が最初に征服された事情は以上のとおりだ。

[1.92] ギリシアにおけるクロイソスの奉納品は、私が以前語ったものだけでなく、夥しい数にのぼる。ボイオティアのテーベには、イスメニアのアポロに献納した黄金の鼎があり、エフェソス(29)には黄金の牛像と柱の大部分、デルフォイのプロナイア神殿には黄金の盾(30)。これらすべては私の時代まで残っていたが、そのほかの奉納品は失われてしまった。

(29)エフェソスの神殿はおそらくアリアテスの時代に発掘され、ペルシア戦役の時代まで完了しなかったと思われる。
(30)アテナイ・プロナイア神殿(神殿前)はアポロ神殿の外部にある。

またミレトスのブランキダイへの奉納品は、聞くところによると、デルフォイの奉納品と同じ重量だったということだ。そしてデルフォイとアンフィラオスの神殿への奉納品はクロイソス自身のもので、それは父から受け継いだ財宝の初穂としてのものだった。それ以外のものはクロイソスが王位につく前、パンタレオンがリディアの王権を獲得するように加勢した、敵対派閥から得た財宝だ。

このパンタレオンというのはアリアテスの息子で、クロイソスの異母兄弟にあたる。クロイソス自身はアリアテスがカリア人の女に産ませた子であるが、パンタレオンはイオニア人の母から生まれている

クロイソスが父のあとを継いで王位につくと、自分に向けて陰謀を企てた男を梳毛器にかけてひき殺し、そしてその男の財産を没収し、それまでにかれが誓っていたとおり、以前示していた神殿に、それらを奉納した。クロイソスの奉納品についてはこれで充分だろう。

[1.93] リディアには、トモロス山から産出される砂金を除けば、他国に比べて語るに足るほどの驚嘆すべき事柄は多くない。

ただし、エジプトとバビロンを別にすると、リディアにはあらゆる建造物のうちで最も大きいものが一つある。クロイソスの父アリアテスの墓がそれで、その土台は巨大な石でできており、残りの部分は盛り土でできている。これを造営したのは商人や職人、春をひさぐ若い娘たちだった。

その墓の天辺には、私の時代まで五本の境界標石が残っていたが、それには各々の集団が成し遂げた作業量が刻まれていた。そして算定してみると娼婦たちの仕事量が最も多かったのである。

リディアでは、庶民の娘たちは皆、結婚相手が見つかるまで春を売って持参金を蓄えていたのだ。

なお、この墓の周囲は千二百五十メートルで、幅はおよそ四百メートルである。そして墓のすぐ近くには広い湖があり、リディア人の言うには決して涸れることがないそうで、名をギガイエという。この墓の話はこれで終えておこう。

[1.94] 若い娘たちに売春させることを除けば、リディア人の風習はギリシアのそれとほぼ同じである。我らが知る限り、金貨、銀貨を最初に鋳造したのは彼らだし、小売業を最初に始めたのも彼らだ。

彼ら自身のいうところでは、今のリディアやギリシアで行なわれている遊戯は彼らが考え出したという。それはまた彼らがティレニアに植民した頃に考案されたという。これについては次のようは話が残っている。

マネスの子アテュスの統治時代、リディア全土に大飢饉が起きたことがある。しばらくの間、リディア人はそれを堪え忍んだが、やがてそれが終息しないとみるや、各人各様の気晴らし策を考え出した。その時サイコロ遊びや骨ダイス遊び、ボール遊びなどさまざまな遊戯が考案された。ただしチェスだけは自分たちが考案したものではないと彼らは言っている。

そして、飢えを紛らすために、一日おきに終日、考案した遊びにふけった。そうすることで食糧を求めずに済むようにし、次の日には遊戯をやめて食物を摂るようにした。このようにしてかれらは十八年間過ごしたという。

しかし飢饉はいっこうにやむ気配なく、かえって激しさを増すばかりだった。ついに王は国民を二つの集団に分け、国に残る集団と国外移住の集団を籤で決めることにした。そして国内残留組は王自身が率い、移住組は息子のテルセノスに統率させた。

国外移住の籤を引いた組はスミルナに下ってそこで舟を建造し、積み込めるだけの家財道具を舟に積み込み、生計と土地を求めて船出した。幾多の土地を次から次に漂泊したのち、最後にウムブリア(31)の地にたどり着き、そこに都市を建設し、それ以後ここに住み着いている。

(31)イタリア北部から中央部の地域。ローマ史におけるウンブリアの名は不滅である。

彼らはリディア人という呼び名を捨て、自分たちをこの地に率いてきた王子の名を取ってテルセニア人と呼ぶようにしたという。ともかくも、かくしてリディア人はペルシア人に隷属されられたのである

[1.95] さてこれ以後は、クロイソスの力を撥ね返したキュロスの人となりについて、そしてペルシア人が如何にしてアジアを支配していったかに話を進めることにする。キュロスの事績については、ほかに三通りの話を提供することもできるのだが、ここではキュロスの話を誇張せずに真実を語りたいと欲するペルシア人たちの話に従うことにする。

アッシリア人が五百二十年にわたって上アジアを支配したのち、初めて刃向かったのがメディア人である(32)。この事実は、アッシリア人に対して自由を求めて戦う勇気が彼らにあることを示しているように思われる。彼らは奴隷の身分から抜け出し、自由を勝ち取った。その後、ほかの隷属民族もメディア人に続いて同じように行動した。

(32)B.C.1229~B.C.709;デイオケスの統治が始まるまで。

[1.96] こうして大陸全土が独立したが、つぎのような事情で再び僭主支配の状態に戻ってしまった。メディア人の中にファラオルテスの息子で、名をデイオケスという才知に長けた男がいた。

デイオケスは覇権獲得に執心していたゆえ、それを手中におさめようと画策した。メディア人は多くの部落に別れて住んでいたのだが、かれはその部落では著名な男だった。そしてこれまで以上に絶え間なく熱心に正義を公言し、実践し始めた。その当時、メディア全土はひどい無法状態で、正義には不正義が立ち向かってくることを知っていたものの、デイオケスは、あえてこのようにしたのだった。すると、同じ部落のメディア人はかれの振る舞いを見て、この男を裁判官に選出したのである。かれは主権を狙っていたので、誠実かつ公正に振る舞った。

このような行ないによって、かれは同郷人から少なからぬ賞讃を浴び、その挙句、ほかの部落の者たちも、これまで不当な判決に辛酸をなめさせられていたこともあり、デイオケスのみが正しい裁きをする人物であるという噂を聞きつけるや、頻々と喜び勇んでデイオケスの許へ駆けつけ、裁きを受けるようになった。そして遂にデイオケスの他には誰にも裁きを受けに行かなくなったという。

[1.97] 公正な裁きがなされることを聞きつけた者たちが増えるばかりだったので、デイオケスは、いまや全てが自分の肩にかかっていると判じきった。そこで、自分の仕事を投げ出して朝から晩までまわりの人間のもめ事を裁くことに何の利益もないゆえ、これまでの裁判官の椅子を捨て、これ以上裁きを下すことは止める、と公言した。

これによって街では略奪や無法事件が大幅に増えた。そこでメディア人たちは現状について寄り合って談合し、と言っても主に話をしたのはデイオケス一派の者たちだったであろうが、つぎのように話した。

「この地ではこれまで通りの生活はできないので、我らの中から王を立てようではないか。そうすれば国はうまく治まり、無法行為によって街が荒れ果てることもなく、自分の仕事に邁進できるだろう」このような言説により、彼らは王制を取ることに自ら納得した。

[1.98] すぐさま、誰を王にするかということになったが、皆が皆デイオケスを声高に推して賞賛するので、結局はかれを王にすることで決着がついた。

そこでデイオケスは、王に相応しい宮殿を建設することと、親衛隊をもって王の権威を強化することを要求した。メディア人はその通りに実行し、かれの指定した場所に壮大で強固な宮殿を建設し、全メディア人の中から護衛の兵士を選抜させた。

そして王権を手中にするや、デイオケスはメディア人に強制して街をひとつ造らせ、ほかのどの街よりも注力させるように仕向けた。これもまたメディア人は受け入れたので、かれは巨大で強固な城壁を造営したが、それは環状の中にまた環状の壁を重ねるもので、これは現在エクバタナ城(33)と呼ばれている。

(33)現イラン、ハマダーン(Hamadan)。Rawlinsonの訳注を参照

この城塞は、それぞれの環状壁がすぐ外側の環状壁よりも、胸壁の高さだけ高くなるように設計されている。平地にある丘に造営したことが多少は手伝っているだろうが、主に意図的に造営されたものである。

環状壁は全部で七重になっており、最も内側には宮殿と宝物殿がある。最も長い城壁はアテナイの街の外周にほぼ匹敵する(34)。そして一番目の胸壁は白、二番目が黒、三番目は深紅、四番目は青、五番目は赤という風に彩られている。残り二つの胸壁にはそれぞれ銀箔、金箔が施されている。

(34)およそ八マイル:ツキジデス・歴史二-三の注釈による。ただし異論あり。

[1.99] デイオケスは我が身を守るために自分の宮殿のまわりにこれらの城壁を築造したが、庶民は城壁の外に住むよう命じた。そして全ての城壁が完成したところで、真っ先に次のごとき法制を定めた。すなわち、王の面前へは何人たりとも参内してはならぬ、何事も従者を通して行なう、王の姿は誰にも見られてはならぬ、これに加えて王の面前で笑い声をあげたり、唾をはくことは不躾な行為とみなす、などである。

このようなことは全て、彼とともに成長し、家柄も同じ程度に高貴で、男らしさでも劣らぬ同年齢の者たちが、自分を見て、その足下をすくい、謀反の陰謀を企むことのないようにするための深慮遠謀で、姿を見られることがなければ、自分は別種の人間であると信じ込ませるためであった(35)。

(35)あるいは彼ら自身とは異なると思わせるためかもしれない。

[1.100] このような諸制度を定めて王権を固めたのち、かれは厳然とした態度で正義を貫いた。また訴えは書面で提出させ、それを判定したのちに、送り返すようにした。

法律上の判定はこのような方法をとったが、それ以外の案件については次のようにして裁いた。すなわち自分の全領土にわたって密偵や監視人を放っておき、無法な行ないをしている者がいるのを聞くと、その者を連れてこさせ、それぞれの不法行為にふさわしい罰を与えた。

[1.101] デイオケスはメディア人のみを統合し、支配したのだが、その民族の中には、ブサイ、パレタケニ、ストルカテス、アリザントイ、ブデオイ、マゴイなどの部族がある。メディアにはこれだけ多くの部族がある。

[1.102] デイオケスにはファラオルテスという息子がいたが、五十三年(36)の統治後にデイオケスが死ぬと、この息子が王位を継承した。王位を継承したのち、かれはメディアだけの支配に飽き足らず、まず最初に兵を進めたのがペルシアで、これを最初に征服したのもメディアだった。

(36)デイオケスの死はB.C.656

ファラオルテスはこれら二つの強力な民族を従え、アジアの民族を次々に征服してゆき、ついにはアッシリアに進軍した。ここにアッシリア人というのはニネヴェに居住する者たちのことであるが、かつてはアジア全土を支配していた。しかし今では同盟国が離反し、孤立している。とはいえ、この国そのものは繁栄しているのだが。ファラオルテスはアッシリアに兵を進めたものの、自身とその兵のほとんどは戦死してしまった。在位してから二十二年後のことだった。

[1.103] ファラオルテスのあとを継いだのは、息子のキュアクサレスだが、かれは父祖よりもはるかに武勇に勝っていたという。かれはアジアの兵を部隊ごとに編成した最初の人物で、軍を槍兵、弓兵、騎兵に別けた。それまではすべてが無秩序に混在していた。

かのいくさの最中、昼が夜になったときにもリディアと戦っていたのも、この王だったし、ハリス河を越えて全アジアを統一したのも、この王だった。

かれは支配下の全軍を糾合し、ニネヴェにむけて出陣し、父の仇討ちを果たすとともに、この街を攻略しようとした。そしてアッシリア軍を破り、ニネヴェの街を攻囲しているとき、スキタイの大軍が襲いかかってきたのである。スキタイ軍の大将はプロトティエスの子でマディエスという王だった。彼らはキンメリア人をヨーロッパから駆逐し、アジアに侵入してきたもので、逃げるキンメリア人を追ってメディアの国にやって来たのだった(37)。

(37)これと同じ話が第四巻の最初の方にある。スキタイ人はコーカサス山脈の北斜面に沿って東進し、下りきった地点とカスピ海との間で南に転進している。ところがこの物語では、ヘロドトスの地理は理解困難である。「サスピレス人」がアルメニアに居住している。

[1.104] マイオティス湖(38)からファシス河(現リオニ河)畔にあるコルキスの国までは、軽装の旅人ならば三十日の行程である。コルキスからメディアまでは指呼の間で、その間にはただひとつの民族、すなわちサスピレス人が住んでいるが、この国を過ぎればメディアである。

(38)現在のアゾフ海

しかしスキタイ入はこの経路で侵入したのではなく、脇にそれてコーカサス山を右に見ながら、さらに上方の遥かに長い道を進んだ。メディア人はこの地でスキタイ入と会戦したのだが、彼らは戦いに敗れた末に支配権を奪われ、その結果スキタイ人がアジア全土を支配することとなった。

[1.105] この地から彼らはエジプトに向けて進軍した。そしてシリアの一部であるパレスチナに駐留していたとき、エジプト王プサンメティコスが彼らと会見し、贈り物と嘆願を以て彼らにこれ以上進軍しないようにと説得した。

そこで彼らは引き返し、シリアのアスカロンの街まで来たとき、スキタイ人のほとんどは通過するのみで損害を及ぼさなかったが、少数の者が後に残り、アフロディテ・ウラニア(39)の神殿を略奪したのである。

(39)東方諸国からはさまざまな呼称で崇拝される偉大な女神(天と地の母)。アッシリアではミリッタ、フェニキアではアスタルテ、ギリシアでは天空のアフロディテあるいは単に天と呼ばれる。

私の調べたところでは、この神殿はなべての女神の神殿のうち最古のもので、キプロスの寺院については、キプロス自身が言うように、これはその地の神殿に由来している。そしてシリアの神殿もシリアのこの地から出たフェニキア人が建立したものである。

アスカロンの神殿を荒したスキタイ人とその末裔は、子々孫々にわたって女神から神罰を受け、「おんな病」に苦しめられた。スキタイ人も、彼らの病は右のことが原因だとしており、スキタイの国を訪れた者なら、この者たちが「エナレエス(雌雄同体)」(40)と呼んでいる病にかかっている者たちの実状を目にすることができる、と言っている。

(40)病気の詳細は不明。生殖能力の欠損と考えられている。第四巻六十七節には、「ἐναρής = enaris;エナリス」すなわち「ἀνδρόγονος;androgonos;両性具有」とある。青木巌氏は、男性の女性化(いわゆるゲイ、オカマ)あるいは勃起不能ではなかろうかと推察している。

[1.106] スキタイ人のアジア支配は二十八年続いたが、横暴で傲慢な統治のゆえにアジア全土は荒廃に帰してしまった。彼らは住民から貢税を取り立てるだけでなく、その領土を駆けめぐり、領民の財産を没収したのである。

そこでキュアクサレスとメディア人はスキタイ人を饗宴に招き、泥酔させたのち、そのほとんどを血祭りに上げたのである。かくしてメディア人は覇権も以前の領土も取り返した。そのうえ、ニネヴェも制服し(このいきさつは別の歴史で後に述べるつもりだ)(*)、バビロン地方を除く全アッシリアを支配した。

(*)述べるとすれば第三巻の終末あたりだろうが、この約束は果たされていない

[1.107] その後、キュアクサレスはスキタイを支配した期間を含め、在位四十年で没し、あとは息子のアステュアゲスが覇権を継いだ。アステアアゲスには娘がいて、名をマンダネという。あるときこの王は娘が放尿する夢を見たが、それは街中に溢れ、さらにはアジア全土に氾濫する夢だった。かれはマゴスにいる夢判断を専らとする者たちにこの夢のことを伝え、その返事を聞くや、恐れおののいてしまった。

その当時マンダネは婚期をむかえていたこともあり、またその夢を怖れるあまり、自分の家柄に釣り合うメディア人から婿を選ぶことはせず、家柄もよく、温厚な性格で知られたカンビュセスという名のペルシア人に娘を嫁がせた。この人物は中流のメディア人よりは遥かに低い地位にあると見ていたからである。

[1.108] ところがマンダネがカンビュセスに嫁いだ最初の年に、アステュアゲスは再び夢をみた。この娘の陰部から一本の葡萄の樹が生えてきて、その樹がアジア全土を覆い尽くすという夢である。

かれはその夢を夢判断者たちに伝えてから、妊娠中の娘をペルシアから呼び戻し、生まれてくる子を抹殺するつもりで、帰郷した娘を監視させた。というのも、マゴスの夢判断者たちが、この夢の意味を読み解き、娘の子がやがてはかれに代わって王になるだろうと告げたからであった。

このような事態になることを阻止するために、アステュアゲスはキュロスが生まれると、自分の血筋につながっていて、メディア人の中でも特に忠実な下僕で、かつ自分のことはすべて任せていたハルパゴスという男を呼びつけて云った。

「ハルパゴスよ、これから命じる仕事はしくじってはならぬぞ。またワシを軽んじたり、ほかの誰ぞに義理立てして自が身を滅ぼすことのないようにせよ。そこでじゃ、マンダネの産んだ子を取り上げてお前の家に連れてゆき、亡き者にするのじゃ。そのあとはお前の思うままに埋めておけ」

ハルパゴスは答えて、
「殿、みどもはかつて殿のご不興を買ったことなど、決してないはずにござります。また今後とも殿に対しては粗相なきよう心がけております。されば、殿の御意とあらば、遺漏なきようにことを果たすことが、みどもの勤めと心得ております」

[1.109] このようにハルパゴスは返答し、死に装束をまとった乳飲み子を受け取ったあと、涙ながらに自分の家に帰っていった。家に帰りつくと、アステュアゲスに命じられた話を妻にすべて語り聞かせた。

「それで?」と妻が言う。
「あなたはどうなさるつもり?」
ハルパゴスが言う。
「ワシはアステュアゲスの指示に従うつもりはない。たとえ王が正気を失われ、今以上に乱心なされたとしても、王の計画に従うつもりなどなく、かような人殺しに手を貸すつもりはない。

ワシがこの御子を殺したくない理由はいろいろあるが、まずこの御子が自分と血が繋がっていること、またアステュアゲスが高齢であるのに嫡男がいないということもある。かりに王が没した場合、王が今ワシに殺させようとしている御子の生母である姫君に王位が移ることになったなら、ワシにはこの上ない危難しか残らないではないか。わが身の保全のためには、この御子には死んでもらわねばならぬが、手を下すのはアステュアゲス自身の臣下であって、ワシの配下の者ではない」

[1.110] このように言うと、ハルパゴスはすぐさまアステュアゲス配下の牛飼いのひとりに使いを送った。この男は、とくに野獣が多く出没する山で牛を放牧していることがわかっていて、このことはかれの目的に一等かなっていたのだ。その男の名はミトラダテスといい、その妻は夫と同じく卑賤の出だった。妻の名はギリシア語ではキノといい、メディア語ではスパコという。スパコはメディア語で犬のことを指す。

この牛飼が牛を放牧していたのはエクバタナの北方で、黒海に向かう山の麓だった。メディアの国はどこも平坦だが、サスピレス族の国(41)に接しているこの地のみは、とくに地面が高いうえに多くの山に囲まれ、深い森におおわれている。

(41)メディアの北西部。現在のアゼルバイジャン

そしてこの牛飼いが呼び出しに応じて馳せ参じると、ハルパゴスは云った。
「アステュアゲス様はお前に、この赤子ができるだけ早く息を引き取るように、一等荒れ果てた山中に捨ててこいと命じておられる。その上、万一お前がこの子を殺さず、とにかく死を免れるようなことになるなら、お前を極刑に処すと伝えるよう、そしてこの子が捨てられたかどうか確認するよう、ワシに命じられたのじゃ」

[1.111] この話を聞いた牛飼いは赤子を受け取り、もと来た道をたどって自分の家に帰ってきた。ところが、この男の女房も、今日か明日かと出産を間近に控えており、神のなせる業であろうか、その牛飼いが街へ出かけている間に出産していたのだった。この夫婦はお互いを心配しており、亭主は女房の出産を心配しつつ、女房はなぜハルパゴスが思いもかけず亭主を呼び出したのか、不審に思っていたのである。

さて牛飼いが女房のもとへ戻り、思いもかけない姿で女房の前に現れると、その女房はびっくりし、連れ合いが話し出す前に、ハルパゴスが、なぜしつこく亭主を呼びつけたかを訊ねた。
「なあ、お前」と牛飼いが言う。
「街に行ったところが、見なんだらよかったと思うようなことや、ご主人様にとっては起きねばよかったと思うようなことを見たり聞いたりしてしまったぞい。

というのもな、ハルパゴス様のお屋敷中が嘆き悲しむ声に溢れかえっていて、入ってみるとすぐ眼に飛び込んできたのが、黄金と刺繍で飾られた産着を着せられた赤子が寝かされていて、それがもだえながら泣き叫んでいる光景じゃった。ハルパゴス様はワシが来たのを見ると、こう仰せられた。早々に赤子を連れてゆき、どこよりも野獣が多く出没する山の中に、この子を捨ててこいと。そしてこれをワシに命じられたのはアステュアゲス様だということで、万一言いつけに叛いたときの脅し文句をさんざん聞かされたわい。

そんなことでワシは赤子を受け取って連れ帰ったのじゃが、この子はてっきりどこかの召使の子だろうと思っておったよ。この子が誰の子だなんて想像もつかなかったもんでな。とはいうものの、赤子が黄金とみごとな産着をまとっているのを目にし、ハルパゴス様の屋敷で、大声で泣いているのを耳にして驚きはしたがのう。

だがすぐに事情がすっかりわかったぞ。ワシを街から連れ出し、赤子を腕の中に渡してくれた召使いが、道中で話してくれたわい。つまるところ、この子はアステュアゲス王の姫君であるマンダネ様と、キュロス様の子カンビュセス様との間にお生まれになった御子で、この子を殺せと命じられたのはアステュアゲス様だということじゃ。ほれ、それがこの子じゃ」

[1.112] こう言って牛飼いは覆いを取って赤子を見せた。ところが、元気で可愛い赤子を見ると、女房は泣きながら亭主の膝にすがりつき、何としてもこの子を捨てないでほしいと頼んだ。しかし牛飼いはほかにやりようはない、と答えた。というのも、ハルパゴスは密偵を使って事の次第を見届けさせるに違いないし、万一命令に叛くと、自分には悲惨な死が待っているはずだというのだった。

亭主を説得できないことがわかると、女房はこう云った。
「この子を捨てないように言っても聴いてくれないし、子供を捨てたことを見せなきゃいけないんだったら、こうなさいよ。私も子供を産んだけれど、死産だったんだよ。

だからこの死んだ子を連れていって捨てるがいいよ。アステュアゲス様のお姫様の御子は、私らの子として育てようじゃないか。そうすればお前さんがご主人様たちの言いつけに叛いたことを知られずに済むし、この私らのやり方も悪くないと思うよ。だって、死んだ子は王子として葬ってもらえるし、生きてる子は死なずに済むのだからね」

[1.113] 牛飼いは、女房の言うことが今の自分の窮地から抜け出すのに飛びきりの妙案だと考え、すぐさま女房の言うとおりに実行した。殺すつもりで連れてきた赤子を女房にわたし、死産で生まれた自分の子を、もう一人の子を入れていた箱に収めた。そして先の赤子が身につけていた煌びやかな衣装をその子に着せ、山中の一等ひと気のない場所に捨てた。

赤子を捨ててから三日目に、牛飼いは自分の手先のひとりに捨てた赤子を見張らせておいてから街へ出かけ、ハルパゴスの屋敷へゆき、赤子の死骸はいつでもお目にかけられます、と云った。

ハルパゴスは、一等信用している護衛の者を送り出し、彼らに死骸を確認させたのち、牛飼の子を埋葬させた。こうして牛飼の子は葬られたが、のちにキュロスと名づけられる赤子は、牛飼の女房が手元において育てた。ただ、赤子の名はキュロスではなく、別の名で呼んでいた。

[1.114] さてこの子が十才になったとき、ひょんなことから、その素性が明らかになった。あるとき、その子は牛飼いたちが住んでいる村の道で、同じ年頃の子供たちと遊んでいた。そして遊びの中で、牛飼いの子となっているこの子を自分たちの王に選んだのである。

そしてその子は、子供たちの中から王宮を建てる者、自分の護衛をする者、ひとりは王の目となる者、また別の者には伝令、という風にそれぞれに役目を定めた。

ところで、少年たちの中にメディアでは名士のアルテムバレスという人物の子もいたが、この子がキュロスの指示に従わなかったことから、ほかの子供たちにその少年を捕らえて連れて来させ、鞭で打って手荒く折檻した。

そのあと、折檻された少年は、ひどい目に遭わされたことに腹を立て、解き放たれるとすぐさま街にいる父のもとへ帰り、キュロスから受けた仕打ちを細々訴えた。もちろん未だキュロスという名ではなかったので、その名では呼ばず、アステュアゲスの家来である牛飼いの息子と呼んだのであるが。

アルテムバレスは激怒し、すぐさまアステュアゲスのもとへ息子を連れて行き、ひどいことが起きましたと云いつつ、
「申し上げます。殿の奴隷の牛飼いの息子から、このような乱暴を受けました」
と言って、息子の両肩をむき出しにした。

[1.115] 話を聞き、子供を見たアステュアゲスは、アルテムバレスの身分を考慮し、その少年に罰を与えてやろうと考え、使いをやってその牛飼いと息子を呼びつけた。二人がやって来ると、アステュアゲスはキュロスを見つめながら云った。

「お前か?かような卑しき身分の子でありながら、ワシの重臣の息子に手をかけたのは」
キュロスは答える。
「殿様、僕がこの子にしたことは間違ってはいません。この子も一緒にいた村の少年たちは、遊んでいるときに僕を王に指名したのです。僕がだれよりも王にふさわしいと、みんなが考えたからです。

ほかの子供たちは指図したことをやりとげたのに、この子は言うことを聴かず、僕のことを無視しているので、とうとう罰を受けたのです。でも、このために僕が何かの罰を受けねばならないのでしたら、何とでもなさって下さい」

[1.116] 少年の話を聞いているうちに、アステュアゲスは気がついたようだ。少年の顔つきが自分に似ているようだし、その返答の仕方が卑賤の身分に似つかわしくないことに。そして子供を捨てた時期と、その少年の年齢が一致することに。

このことに驚いたアステュアゲスは少しのあいだ言葉を失っていたが、何とか気を取り直して云った。それはアルテムバレスを引き下がらせ、牛飼いひとりだけにして問い質すためだったが。

「アルテムバレスよ、お前とその息子が気の済むように始末をつけてやろう」
こう言ってアルテムバレスを追い出し、キュロスは配下の者に命じて奥へ連れてゆかせた。そして牛飼いひとりが残ると、あの子をどこでもらったのか、誰から受け取ったのかと、この男を問い詰めた。

牛飼いは、キュロスは自分の息子で、母親もまだ連れ添っていますと返答した。するとアステュアゲスは、痛い目にあいたくなくばワシのいうことを聴け、と云いつつ、護衛兵にこの男を取り押さえるよう合図した。

拷問にかけられるという恐怖心から、牛飼いはついに事情を洗いざらい白状してしまった。事の発端からありのままをすべて話し、最後には土下座して、どうかお許し下されと、懇願した。

[1.117] 牛飼いが真実を告白したあと、アステュアゲスはこの男のことには関心がなくなったが、ハルパゴスには強い怒りをつのらせ、護衛の者に命じてかれを連れて来させた。

ハルパゴスが参上すると、アステュアゲスは問いかけた。
「ハルパゴスよ、ワシがお前にあずけた娘の息子は、一体どういう風に始末したのじゃ?」
ハルパゴスは、牛飼いがそこにいるのを認めると、真実が明るみに出て罪に問われないように、嘘はつかずにおこうと心に決め、こう云った。

「殿、あの赤子を受け取ったあと、みどもは如何ようにすれば、殿の御意にかなうか、はたまた殿の言いつけに叛くことなく、姫君からも殿からも人殺しと名指しされずにすむかを考えましてございます。

そしてこうすることにしました。みどもはここにおります牛飼いを呼びつけ、この赤子の命を絶つよう命じられたのは殿であるといって、御子をあずけました。そのように命じられたのは殿であるゆえ、これは真実でございましょう。それからこの男には、ひと気のない山中に御子をおき去りにし、息を引き取るまで見張っておれと命じました。そして、万一命じられたことをしくじると、ありとあらゆる罰が待ち受けておるぞと脅しつけておきました。

それで、この者が命じられた通りに役目を果たし、御子が亡くなられたあとで、一等信用できる配下の宦官数人に命じてそれを確かめに行かせ、埋葬させました。これが事の顛末にございます。殿、かような次第で御子は息を引き取られたのでございます」

[1.118] ハルパゴスが嘘を交えず話すと、アステュアゲスは、かれのしたことに怒りを感じながらも、それを隠し、まずは牛飼いから聞いた話を寸分違わずハルパゴスに繰り返し、その次に、子供は生きていて、事の次第はまことに結構なことだと締めくくった。

「と言うのもな」と、アステュアゲスは言う。
「ワシもこの子に向けた仕打ちに大いに心を痛めておったし、娘とも不仲となり、心穏やかでなかったのじゃ。かようなめでたい結末を迎えたのであるゆえ、お前の息子を新しくやって来たこの子のところへ寄越し(この栄誉を帰すべき神々に、子供を救って下された礼として生贄を捧げるつもりであるから)、ワシのところへ食事をしに来るがよい」

[1.119] これを聞いたハルパゴスは王にひれ伏し、自分の失策がよい結果をもたらし、なおかつ幸運の兆しとして王の晩餐に招かれたことに大喜びし、自分の屋敷に帰っていった。

屋敷に帰り着くと、かれは十三才くらいのひとり息子に、アステュアゲスの宮殿に参上し、王の命じられることは何であれ従うように言いつけて送り出し、そして有頂天になって事の次第をすべて妻に語った。

そしてハルパゴスの息子が参上すると、アステュアゲスはこの子の喉をかき切って殺し、手足をバラバラに切り裂き、その肉を煮たり焼いたりして料理し、いつでも食べられるように準備を調えた。

晩餐の時間になり、ハルパゴスやほかの招待客がやって来ると、アステュアゲスとほかの者たちには羊肉の料理が供されたが、ハルパゴスには息子の頭と手足を除いた部位の肉料理が供された。頭と手足は籐籠の中に入れ、覆いをかけて別においてあった。

やがてハルパゴスが満腹になったと思われる頃合いになって、アステュアゲスは彼に問いかけた。
「食事は気に入ったか?ハルパゴス」
「大変結構でございました」
とハルパゴスが返答すると、かねて命じられていた者たちが、籠に入れて覆いをかけた息子の頭と両手、両足を運んで来てハルパゴスの前に立ち、覆いを取ってお好きなものをお召し上がり下さい、と云った。

云われるままにハルパゴスが覆いを取ってみると、そこには息子の死骸の残りが入っているのを認めたが、かれは驚く様子もなく、落ち着き払っていた。アステュアゲスが、何の獣の肉を食べたかわかるかと訊くと、ハルパゴスはわかっておりますと答え、殿のなさることは何であれ、みどもの喜びと致すところにございます、と返答した。このようにかれは言上し、残った肉を携えて自分の屋敷に帰っていった。残った遺骸を全部まとめて埋葬するつもりだったと思われる。

[1.120] アステュアゲスはハルパゴスにかくの如き罰を与えたが、キュロスの扱いをどうすべきかと考えをめぐらし、先に語ったように、かれの夢を読み解いたマゴスの夢判断人を呼びよせた。彼らが到着すると、かつての夢をどのように読み解いたのであったかと訊ねた。すると彼らは以前の内容と同じ答えを返し、御子がご存命で、お亡くなりになっていないのであれば、必ずや王になられるはず、と語った。

そこでアステュアゲスは云った。
「その子は生きておるぞ、死んではおらぬ。その子が田舎に住んでおったとき、村の小僧たちがあの子を王に指名したのじゃ。そこであの坊主はまことの王がなすべきことをそつなく果たしたというぞ。それぞれに護衛兵、番兵、伝令などその他諸々の役目を定め、統率したらしい。お前たちは、このことを何と考える?」

「御子が生きておられ、」とマゴスの者たちは言う。
「作為なしに王となられたのであるならば、この件に関しては心配無用にございます。心安らかになされませ。御子は二度と王にはなられますまい。我らの予言もしばしば些細な結末に終わることがございます。また夢の中のことも、取るに足りない結果になるものでございますゆえ」

これに対してアステュアゲスは言う。
「ワシも全く同感じゃ。あの子が王と呼ばれたことで夢が実現したのであるから、もはやあの子を怖れる道理はないと考えておる。とは言うものの、ワシの一家にとってもお前たちにとっても、どうすれば一等安全であろうか、よくよく考えて教えてくれぬか」

そこでマゴス人たちが答える。
「殿、我らもまた殿のご統治が安泰であることを強く願っております。さもなくば王位はこの国から離れ、ペルシア人であるあの子に渡り、そうなりますれば我らメディア人は奴隷となりはて、異民族としてペルシア人からは一顧もされぬようになりましょう。しかし同胞である殿が王位についておられる限り、我らも支配者の席を占めることができますし、殿から大いなる栄誉を頂戴できるというものにございます。

それゆえ、我らは何としても殿の御身と王位のことに意を尽くさねばなりませぬ。只今におきましても、何であれ憂慮すべきことに気づきましたなら、すべて殿に申し上げるつもりでおります。しかし夢は些細な結末に終わりましたので、我らも胸をなで下ろしておりますし、殿におかれましても心安らかになされませ。ただし、かの御子は殿の目の届かぬペルシアへ、すなわち両親の元へやっておしまいになされませ」

[1.121] これに気をよくしたアステュアゲスは、キュロスを呼んでこう云った。
「坊主よ、下らぬ夢のおかげでお前にはすまぬことをしてしまった。しかしお前は運良く生き延びておる。そこでな、心安んじてペルシアへゆくがよい。お前には介添人をつけてやろう。向こうに着いたらわかるが、お前の両親は、ミトラダテスやその女房とはずいぶん様子が違うぞ」

[1.122] こう言ってアステュアゲスはキュロスを送り出した。こうしてキュロスがカムビュセスの屋敷に帰り着くと、かれの両親は、わが子は生まれた直後に死んだものと思っていたことでもあり、その身元を知って大喜びでかれを屋敷に迎え入れた。そしてどのようにして命が助かったのかと訊ねた。

そこでキュロスが語るには、今まで何も知らず、違う風に思い込んでいたが、ここへ来る途中、自分の不運な身の上について一部始終を教えられた。すなわち自分はアステュアゲス配下の牛飼いの子だと思っていたが、旅の途中で介添人からすべてを聞いたという。

また自分を育ててくれたのは牛飼いの女房だと話し、この女のことを褒めること尋常ではなく、話はキノのことに終始した。この名を耳にした両親は、自分たちの息子が生き延びた話を一層神がかりの如くペルシア人に印象づけようとして、キュロスは牝犬(キノ)に育てられたという話を広めた。この伝説の始まりはここにある。

[1.123] やがてキュロスは成長し、仲間うちでも人並みすぐれて男らしく、敬愛される人物となった。その頃、ハルパゴスはアステュアゲスに復讐することを目論み、キュロスを味方につけるつもりで贈答の品を届けた。自分のような一個人がアステュアゲスに刃向かうことなど、できぬ相談だとみていたからである。そしてキュロスの成長をみていて、かれの不運も自分自身のそれとよく似ていると思い、この男と手を組もうとしたのだ。

またこれ以前に、ハルパゴスは次のような手はずを整えていた。それは、アステュアゲスの統治がメディア国民に対して過酷だったので、メディア人の主立った者たちそれぞれと連絡をとり、アステュアゲスを王位から降ろし、キュロスを王につけようと説得していた。

こうして準備を調えておいてから、ハルパゴスは自分の意中をキュロスに打ち明けようとしたのだが、相手はペルシアに住んでいるうえ、街道には監視の目が光っている。これでは連絡の取りようがないとみたハルパゴスは、次のような手段に出た。

野ウサギを一羽用意し、毛はむしらずそのままにして、注意深くその腹を裂き、腹の中に自分の計画を記した紙片を入れた。そしてウサギの腹を縫い合わせてから、自分の配下のうち一等信頼のおける者を猟師に化けさせ、網の中にウサギを入れて持たせ、ペルシアに送り出した。そしてその使いの者には、誰もいないところで手ずから兎の腹を開けてもらいたいと、直接話すように命じておいた。

[1.124] 事はうまく運び、キュロスが野ウサギを受け取って腹を裂き、中に入っていた紙切れを見つけ、取り出して読んでみると、そこにはこう書いてあった。

「カンビュセスのご令息さまへ。貴殿には神々のご加護がおありです(さもなくば、そのような幸運はあり得ぬことでしょう)。そこで、貴殿を亡き者にしようとしたアステュアゲスに復讐をなされませ。

かの王の思惑どおりに事が運んでおれば、貴殿はこの世の人ではなく、ところが神々のご加護とみどもの力によって、そなた様は生きておいでです。貴殿の身に起きたこと、またみどもが貴殿の命を絶たず、牛飼いにあずけたため、アステュアゲスからどのような仕打ちを受けたかも、ずっと以前にご承知のことと推察いたしおります。そこでもし、みどもの企てに賛同してくださるおつもりでしたなら、貴殿はいま現在アステュアゲスが治めている全ての国を統べることになりましょう。ペルシア人民を説き伏せて叛逆させ、メディアに出陣なされませ。

その場合、みどもあるいは誰かほかのメディア人の重臣が貴殿に向けての討伐軍司令官に任されたとしても、ご懸念には及びませぬ。なぜと申すに、彼らはアステュアゲスに叛き、貴殿に味方してこの王を斃すつもりになっておるからにござる。準備は万端ととのっておりますゆえ、みどもの申すとおりに、速やかに事を起こして頂きたい」

[1.125] これを読んだキュロスは、ペルシア人たちを謀反に向けて説得する最もうまいやり方を思案した。そして考え抜いた末に一等適切なやり方を思いつき、それを実行に移した。

まずキュロスは自分に有利となる筋書きを書面に書いておき、ペルシア人たちを集めておいて、その書面を開いて読み上げ、アステュアゲスが自分をペルシア軍の司令官に任命したと宣言した。そして演説を続けた。
「さてペルシア人諸君、予はここに命ずる。各々鎌を持って集まれ」

このようにキュロスは布告したが、ペルシアには多くの部族があり、キュロスが召集してメディアに対する謀反を説いたのはパサルガダイ、マラピオイ、マスピオイの三部族である。ほかのペルシア人は、どの部族もこれらの部族に従属していた。これらのうちパサルガダイの地位が最も高く、この部族にはアカイメニダイ(アケメネス)族も含まれ、ここからはペルセウス家の諸王が輩出している。

その他の部族としては、パンテアライオイ、デルシアイオイ、ゲルマニオイなどがあり、これらはすべて農耕民であるが、ほかのダオイ、マルドイ、ドロフィコイ、サガルティオイなどはすべて遊牧民である。

[1.126] さてペルシア人たちが指示されたとおり鎌を持って集合すると、キュロスは、ペルシア領内にある十八(三千六百メートル)から二十ファーロング(四千メートル)四方の茨だらけの荒れ地を一日で開墾せよと命じた。

そしてペルシア人たちがその作業を完了すると、その翌日には、風呂に入ってから集合せよとキュロスは命じた。そしてその間にキュロスは、父親の所有する山羊、羊、牛をひと処に集めて屠殺し、そのほか酒や飛びきりの珍味なども揃え、ペルシア人一同をもてなす用意を調えた。

翌日ペルシア人たちが集まると、キュロスは草地に座らせて饗応した。食事か終ると、キュロスは、昨日の仕事と今日の気晴らしとでは、どちらが好ましいと思うか、と訊ねた。

彼らは、昨日と今日とでは大違いです、昨日は苦しいことばかりでしたが、今日は良いことばかりです、と答えた。そこで、その言葉をとらえてキュロスは自分の企てをすべて打明け、つぎのように語った。

「これが諸君の現状なのだ、ペルシア人諸君。私のいうとおりにすれば、奴隷のような苦役とは一切無縁で、このような好ましいことやほかの果報もごまんと堪能できるだろう。しかし私について来なければ、昨日のような苦役をいつまでも続けることになるぞ。

だから、わが輩の言うとおりに行動を起こし、自由を勝ち取るのだ。わが輩は神意によって、この事業に着手するため、この世に生まれてきたと思っている。また諸君は合戦においてもほかのあらゆる点においても、メディア人に劣ることはないと、わが輩は信じている。以上すべては嘘いつわりのなきことゆえ、速やかにアステュアゲスに向けて叛旗を翻せ!」

[1.127] ずっと以前からペルシア人はメディア人の支配に不満を抱いていたゆえ、いま指導者が現れたことで、彼らは喜び勇んで自由を勝ち取るために立ち上がった。ところがキュロスがこの行動を起こしたことを知ると、アステュアゲスは使者を送ってキュロスを呼びよせた。そこでかれは使者に対して、我はアステュアゲスが思っているよりも早く彼の面前に現われるだろうと、報告しておくように云った。

これを聞いたアステュアゲスは全メディア軍に武装を命じ、神意によって気が動転していたのか、ハルパゴスに下した仕打ちのことはすっかり忘れ、あろうことかこの男を司令官に任じたのである。

そしてメディア軍が出陣し、ペルシア軍と会戦すると、謀反に加わっていないメディア軍は戦ったが、一部は相手側に脱走し、その他大勢は故意に戦を放棄し、逃走してしまった。

[1.128] メディア軍が惨敗した報に接するや、アステュアゲスは、
「キュロス奴、喜ぶには早いぞ!」
と罵ったかと思うと、次にはキュロスを解き放せと進言したマゴスの夢解き人たちを串刺しの刑に処した。それから街に残っている者たちに、老いも若きも武器を持たせた。そしてこの者たちを率いてペルシア軍と戦ったが敗北を喫し、自身は捕らえられ、麾下のメディア軍も失ってしまった・

[1.129] アステュアゲスが捕らわれると、ハルパゴスがやって来て得意げに罵り、辛辣な嘲笑を数々あびせた中でも、アステュアゲスがハルパゴスの息子の肉をかれに供したあの晩餐のことを持ち出したあと、国王から奴隷の身になった気分はどうだ、と問いかけた。

するとアステュアゲスはハルパゴスをじっとにらみつけて問いかけた。
「キュロスのやったことは、自分のお陰だと思っているのか?」
ハルパゴス曰く、
「そうとも、わが輩の手柄だ、手紙を書いたのはわが輩だから、この企てを成功させたのは当然ながらワシだ」
「すると」とアステュアゲスが言う。
「おまえはこの世でこの上なく愚かでかつ不義理なヤツだ。愚かというのはな、このたびの事変が実際にお前の力で成し遂げられたとしたら、自分が王になれたはずなのに、それを他人に譲ったからで、不義理というのは、あの晩餐のことを怨みに思ったあげく、メディア人を奴隷にしたからだ。

またお前が王位につかないのであるなら、ペルシア人ではなく、ほかのメディア人が王位につくのが正当なやり方だ。その結果、お前は罪なきメディア人を支配者から奴隷の身に落とし、奴隷だったペルシア人を支配者にさせたのだ」

[1.130] かくて三十五年の在位を経てアステュアゲスは王位を失い、その過酷な統治が原因でメディアはペルシアの膝元に屈する仕儀となった。メディアによるハリス河の上部(東)地域にあたるアジア全土の支配は、スキタイ人の支配期間も含め、百二十八年(42)に及んだ

(42)B.C.687~B.C.559:スキタイによる支配期間はB.C.634~B.C.606

しかしその後、このたびの行ないを悔いたメディア人はダリウス(43)に叛旗を翻しているが、戦には敗れてしまい、再び隷従の身となってしまった。ただし、これはのちの話で、いまはアステュアゲスの時代の話であって、キュロス率いるペルシア人がメディアに叛逆し、これ以後はアジアを牛耳るに至ったのである。結局、キュロスはアステュアゲスに何の危害も加えず、これが死ぬまで自分の宮殿に住まわせた。

(43)B.C.520:この事件はベヒストン碑文(The Behistun Inscription)に象形文字で記載されている。

以上が、キュロスの誕生と成長、王位につくまでの話である。そののち、これまでに述べたごとく、云われなき不当な侵略を仕掛けてきたクロイソスを打ち破り、これによってキュロスはアジア全土の覇者となったのである。

[1.131] さて、ペルシア人の風習として私が知っているのは、次のようなものである。彼らは偶像、神殿、祭壇を設営する風習を持たず、そのようなことは愚か者のなせることと考えている。これは思うに、ギリシア人と違って、神は人間と同様な存在であるとは信じていないためである。

ただ、彼らは天空全体をゼウスと呼び習わし、山の最も高い頂に生贄を捧げるのを常としている。また太陽、月、大地、火、水にも捧げ物を祀る風習がある。

その始まりから、彼らが祀っているのはこれらのものだけだが、のちになってからアフロディテ・ウラニア(44)も祀るようになった。これはアッシリア人やアラビア人から学んだのである。なお、アフロディテのことを言うに、アッシリア人はミュリッタ、アラビア人はアリラット、ペルシア人はミトラと呼んでいる。

(44)本巻百五節の注を参照

[1.132] 先に挙げた神々に生贄を捧げるとき、彼らは次のようなやり方で臨む。彼らは祭壇をつくらず、灯もともさない。酒を供えたり音曲を奏でることをしない。花輪、大麦料理も供しない。どこかの神に貢ぎ物を捧げたいときには、生贄に供する獣を広場に連れてゆき、多くの場合、銀梅花の枝で造った冠をかぶり、その神の名を唱える。

そして祈りを捧げるとき、自分ひとりだけの幸福を願うことは規範にはずれるとされているので、祭主は国王とペルシア国民全体の幸福を願うのである。これは自分もその中の一員であるという考えによっている。そのあとは生贄の肉を細かく切り刻んで煮、それをできるだけ柔らかい草、普通はクローバー(シロツメクサ)を敷きつめた上に残らずのせる。

こうした準備が調えば、マゴス人がやって来てペルシア人の伝説である神々の発祥由来を説く神統記を朗唱する。なににせよ、生贄の儀式はマゴス人がいなければ行なわれない。そのあとしばらくたってから、祭主は肉を持ち帰り、思い通りに利用する。

[1.133] ペルシア人が一等大切にしている日は、自身の誕生日である。この日には、ほかの日以上に多くの、かつあり余るほどの食事を用意するのを当然のことと考えている。富裕者は、牛、馬、ラクダ、ロバなどを丸焼きにして食卓に供するが、貧者は小型の家畜を用いる。

ペルシア人の主食は少量だが、デザートは多く、何度も供される。ギリシア人はデザートをそれほど多く摂らないので、食後も腹を空かせているとペルシア人が言っているのは、このためである。ペルシアと同じく多くのデザートが出てくるなら、ギリシア人も食べ続けるだろうと彼らは言う。

またペルシア人は酒を好むこと尋常ではないが、人前での嘔吐や放尿は禁忌とされている。それから、彼らはよほど重要な案件を、酒を飲みながら談合する習わしがある。

その話し合いで賛同を得たことは、その翌日に、会合を開いた屋敷の主が、皆がしらふの時にもう一度提起し、その時にも賛成となれば、その案件は成立し、そうでなければ廃案にする。また前もってしらふで議論したことは、酒の席でもう一度採決する。

[1.134] 彼らが路上で行きあった場合、お互いが同じ身分かどうかを見分けるのは簡単だ。対等な身分なら、話しかけずに口づけする。一方が低い身分なら頬で接吻する。身分差が甚だしいときには卑賤の者が相手の足下に土下座して平伏する。

彼らは自分自身を一等大切にするが、その次に尊重するのはごく近間に隣り合う国の人々で、その次は次に近い隣国人という風に距離に応じて尊重の程度を下げてゆき、自国から最も遠い国に住む人々は最も軽く扱う。それは、自分たちが全ての点で、この世でとびきり秀いでた民族であり、ほかの民族は距離に応じてその長所が減じてゆき、最も遠いところの民族は最も劣っていると考えているからである。

メディアによる統治時代は、ペルシア人が他国を尊重する際の規範を、さまざまな国々が互いに統治するためにも使用された。すなわちメディア人が全体を支配しているが、彼らは最も近くに住む民族を統治し、この民族がその隣の民族を、そしてまたその民族がその隣の民族を支配する、という統治の仕方である。これはペルシア人が他民族を尊重するのと同じやり方で、それぞれの民族の支配権や統治権は、距離に応じて段階をつけていたためである。(45)

(45)このことは、属国が遠く離れるほど、メディアによる統治が直接的ではなくなることを意味していると思われる。ペルシア人が、帝国の場所からの距離に応じて属国の尊重の度合いを下げてゆくのと同じ原理である。

[1.135] ペルシア人は、どの民族よりも外国の風習を好んで取り入れる。メディアの衣装が、自分たちのものよりきれいだと言ってはそれを身につけるし、戦にはエジプトから来た革の胸当てを用いる。また贅沢な享楽は手当たり次第に習い覚え、あらゆる方面に及んでいる。美少年趣味もギリシア人から教わっている。それぞれが大勢の正妻を娶り、それでも懲りずに畜妾すること多数に及ぶ。

[1.136] ペルシアにおいては、戦場での武勇の次に男の美徳とされているのは、多くの息子を持つことである。最も多くの息子をもつ男には年ごとに国王から褒賞が下される。力の強さは数多きことと彼らは考えているためである。

子弟の教育は五才から二十才まで行なわれるが、教えることは三つだけである。乗馬、弓術、誠実であることがそれだ。男児は五才になるまで、父親と顔を合わせることはなく、女たちに囲まれて暮らす。その理由は、養育中に子供が死んだとき、父親が悲嘆に暮れないようにするためである。

[1.137] かような風習を私は賞賛するものであるが、次のような風習もまた賞賛に値する。国王といえども一度きりの過失で人を死刑に処せられないこと、およびペルシア人全般も、唯一度の過ちをもって自分の下僕に癒やしがたい危害を与えることはないこと。家臣の非行が、その働きよりも多くかつ大きいと見極めるまでは、怒りを爆発させない、などである。

ペルシア人の言うには、自分の父や母を殺めた者は誰ひとりいない。そのようなことがあったとしても、よくよく調べてみれば、その者は養子であるか不義密通によって生まれた子であることがわかるはずだという。つまり息子が実の親を殺めることなどあり得ないと彼らは言うのである。

[1.138] また、やっていけないことは、口にしてもいけないとされている。そして嘘をつくことは最も恥ずべきことで、その次が金を借りることだという。その理由はいろいろあるが、特にあげているのが、借金すると、どうしても嘘をつくようになるからだ、と彼らはいう。癩病(ハンセン病)や白癩病(*)にかかった市民は街に入ることはせず、ほかの人たちと交わることもしない。彼らの説では、太陽に対して何らかの罪を犯した罰として、このような病気にかかるのだという。

(*)white sickness:軽度の癩

異邦人がこの病気に罹ったときには、多くの国では国外に退去させられるし、白い鳩でさえも同じ理由で追い払われる。また彼らはことのほか河を崇拝しており、これに放尿したり、唾を吐く、手を洗うなどの行為はしないし、他人にもこのような行為をさせない。

[1.139] 彼らの間ではしばしば見受けられることで、彼ら自身は気づいていなくて、我らが気づいていることがある。それはペルシア人の名前が本人の身体の特徴や身分の高さを示しているのだが、その語尾が、すべて同じ文字で終わっていることである。ドーリア人のいうサン、イオニア人の場合はシグマという文字がそれである。調べてみればわかってもらえると思うが、ペルシア人の名前は、あるものはそうでなく、またあるものは別の文字ということはなく、ことごとくが、この文字(S)で終わっている。

[1.140] 右のようなことは私自身の知識をもとに断言できることだが、これ以外に、表立ってはいないが密かに伝えられていることに、死者の取り扱いに関することがある。ペルシア人の遺骸は鳥や犬にによって損壊させてから埋葬するという。

マゴス人はこれを公然と行なっているので、これがマゴス人のやり方であるとは断言できる。しかしペルシア人は死体に蝋を塗って土中に埋葬する。マゴス人はほかの者と違っているが、エジプトの司祭とも異なっている。

というのは、エジプトの司祭は生贄に捧げる生き物は別として、いかなる生物も殺さないことを戒律としているが、マゴス人は人と犬以外ならなんでも、蟻であれ蛇であれ、爬虫類や鳥類でも自ら手を下して殺し、しかもそれを誇りに思っているのである。かような風習は太古からのものであるので、これはこれとしておき(46)、話を戻そう。

(46)あるいは「原初からの風習ゆえ、そのままにしておく」=「この風習は太古からのものと理解しておこう」

[1.141] リディアがペルシアに征服されると、イオニア人とアイオリス人はただちにサルディスにいるキュロスに使者を送り、クロイソスに隷従していたときと同じ条件でキュロスに従いたいと提案した。それを聞いたキュロスは次のごとき寓話を話して聞かせた。その昔ひとりの笛吹きが海中に魚の群れがいるのを見、笛を吹けば魚が陸に上がってくるのでは、と思って笛を吹いた。

ところが期待したとおりにならなかったので、笛吹きは網を投げて大量の魚を捕らえた。そして魚が跳びはねるのを見て云った。

「踊るのはやめろ。俺が笛を吹いたときにはお前たちは出てきて踊ろうとしなかったくせに」

何ゆえにキュロスがイオニア人とアイオリス人にこんな寓話を聞かせたかというと、以前キュロスがイオニア人に使者を送り、クロイソスに叛逆を促したときにはそれを拒絶したのに、征服が決着したあとからキュロスに従う意向を示したからだった。

怒りに駆られてキュロスはこう返答したのだが、これがイオニア人の街々に知れ渡ると、彼らはそれぞれの街に城壁をめぐらして防備を堅め、ミレトス人をのぞくすべてのイオニア人がパニオニオン(47)に集結した。ミレトスが参加しなかったのは、ここだけはキュロスが リディアと同じ条件で協定を結んでいたからである。ほかのイオニア人は自身の名義でもって、助けを求める使者をスパルタに送ることを決めた。

(47)本巻百四十八節

[1.142] パニオニオンを所有していたこれらのイオニア人は、我らの知っているどんな人々よりも、この上なく風光明媚な地に自分たちの街を作っていた。

イオニア以北であれ以南であれ、また東方または西方であれ、イオニアと同じ産物を実らせることはない。前者は寒気と湿気に見舞われ、後者は高温と乾燥に見舞われるからである。

彼らの言語は同じではなく、四つの方言に別れている。最南端に位置するのがミレトスで、それに続いてミウスとプリエネがある。これらはカリア地方に含まれ、同じ方言を用いている。

リディア地方にある街には、エフェソス、コロフォン、レベドス、テオス、クラゾメナイ、フォカイアがあり、これらの街では、先に挙げた三都市とは全く異なる共通の方言を用いている。

イオニア地方にはほかにも三つの街があるが、そのうちの二都市は島にあるサモスとキオスで、もう一つの街エリトライは大陸にある。キオスとエリトライは同じ方言だが、サモスは彼ら独自の方言を用いている。以上が四つの方言である。

[1.143] さて、これらイオニア諸都市のうち、ミレトスだけはペルシアと協定を結んでいたので安全だった。また島嶼の都市も脅威を感じることはなかった。それはフェニキア人はいまだペルシアに服従していなかったことと、ペルシア人自身も海の民ではなかったからだ。

また、これらのイオニア人がほかのイオニア人と別個になっていたのは、ほかでもない単にギリシア民族全体が当時は無力で、アテナイを除き、その中でもイオニア人が最も力が弱く、かつ最も軽んじられていたためである。

それゆえ、アテナイ人もほかのイオニア人も、イオニア人と呼ばれることをよしとせず、その名を避けていたが、今でも多くのイオニア人はこの名を恥じているように思われる。

ところが、前に述べた十二の街はこの名に誇りを抱き、彼らだけの聖地を定め、これをパニオニオンと称していた。そしてほかのイオニア人にはこの聖地を利用させないことを決議した。もっとも、スミルナを除き、これを利用したいと申し出た街はなかったのだが。

[1.144] このやり方は、今は五都市、以前は六都市と呼ばれていたドーリス人と同じで、彼らは近隣の、どのドーリス都市の住人もトリオピオン神殿に足を踏み入れさせないようにしており、しかも同じ仲間の間でさえ、神殿に関する戒律を破った者に対しては門を閉ざしている。

こういう話がある。はるかな昔、トリオピオン・アポロの競技では、青銅製の鼎(かなえ)が賞品だったが、勝者はそれを神殿から持ち帰ることは許されず、神に奉納することになっていた。

ところが、ハリカルナッソスのアガシクレスという者が優勝したとき、この規律を破って鼎を自分の家に持ち帰り、家の壁に釘でとめて吊したことがあった。この違反に対し、五都市すなわちリンドス、イアリソス、カミロス、コス、クニドスは六番目の都市であるハリカルナッソスに対して参詣を禁じたのである。これがハリカルナッソスに対する懲罰だった。

[1.145] イオニア人が十二都市協定を作り、それ以外の都市の参加を認めなかった理由として、私の考えでは、彼らを追い払ったアカイア人が十二地区に別れていたように、彼らがペロポネソスに居住してた頃も十二地区があったためだと思う。つまりシキオンに最も近いところにペレネがあり、それにつづいてアイゲイラとアイガイ、このアイガイは水の涸れることのないクラティス河があり、イタリアにもこの名に由来する河がある。それからブラ、またイオニア人がアカイア人との戦に敗れて逃げ込んだヘリケ。アイギオン、リペス、パトレエス、ファレス、そして大河パイロスを擁するオレノス。デュメおよび唯一内陸の街であるトリタイエエス。以上がイオニア人の十二地区であったが、現在ではアカイアとなっている。

[1.146] 右の理由により、イオニア人も十二の地区を建設したのであって、ほかに理由はない。これをもって、彼らがほかのイオニア人よりも血筋がよいとか、秀でているなどと言うのは馬鹿げている。彼らのうち少なからざる者たちがエウボイアのアバンテス人であり、その名前からしてイオニア人ではなく、またオルコメノスのミニアイ人の血も彼らに混じっているし、ほかにカドモス人、ドリオプス人、彼らの国から別れたポキス人、モロシア人、アルカディアのペラスゴイ人、エピダウロスのドーリア人などなど、多くの種族が混じり合っている。

彼らのうち、アテナイの公会堂に出自をもち、イオニア人中で最も高貴な血筋を誇る者たちも、移住する際に妻を連れて行かず、彼らによって両親の命を奪われたカリアの女を娶ったのだ。

両親を殺されたことで、これらの女たちは、食事に際して夫と同席せず、その名も呼ばないという掟を作り、それを自分の娘にも伝えたのである。なぜと言うに、この男たちが、父や夫や息子を殺害したのちに自分たちを妻としたからだ。これはミレトスで実際に起きたことである。

[1.147] また彼らのうち一部の者はヒッポロコスの子グラウコスの血を引くリキア人を王にいただき、ほかの一部はメラントスの子コドロスの末裔であるピュロスのカウコネス人を王とし、またその両方から王を選ぶ者もいた。そして、ほかのイオニア人よりも彼らはその名に愛着をもっているゆえ、彼らを正統な血筋のイオニア人であるとしておいてもよいだろう。

しかし、アテナイ出身でアパトリアの祭り(48)を祝う者はみなイオニア人なのである。エフェソスとコロフォンの住民のほかは、どのイオニア人もみなこの祭りを行なっている。アパトリアの祭りをしないのはこの二つの街だけで、彼らのいうには、ある殺人事件をその理由にしている

(48)アテナイおよびほとんどのイオニア諸都市で開かれる祭り。各民族または一族の構成員により、三日にわたって行なわれる。最終日には新生児が民族団の一員として正式に登録される。毎年ピアネプシオン月(十月末から十一月初頭)に開かれる。

[1.148] パニオニオンはミカーレ山の北斜面に位置する聖地で、イオニア人の合意によってヘリケのポセイドンに捧げられた地である。ミカーレは陸地からサモス島に向かって西方に走る岬である。イオニア人はそれぞれの街からこの地に集まり、自ら名づけたパニオニオンの祭りを祝うのを常としていた。

イオニアの祭りだけにとどまらず、ギリシア全土の祭りが同じ文字で終わっているのは、ペルシア人の名前が同じ文字(S)で終わるのと同じことである。

[1.149] 以上がイオニア人の諸都市で。アイオリス人の都市には次のものがある。プリコス(49)とも呼ばれるキュメ、レリサイ、ネオン・テイコス、テムノス、キラ、ノティオン、アイギロエッサ、ピタネ、アイガイアイ、ミリナ、グリネイアである(50)。これらの都市は古くからアイオリスにある街である。数が十一であるのは、その一つであったスミルナの街がイオニア人によって切り離されてしまったからで、かつては大陸のアイオリス人の都市としては十二あったのだ。これらアイオリス人が街を築いた地はイオニア人の地より肥沃だったが、気候はそれほどよくなかった。

(49)アイオリスにあるプリキオン山に由来しているようだ。アイオリス人がアジアに移住する前は、この近くに居住していた。

(50)これらの都市はスミルナからペルガモン間の海岸またはその近くにある。ただしアイギロエッサの正確な場所は不明。

[1.150] アイオリス人がスミルナを失ったいきさつは次のとおりだ。コロフォンの内乱で国を追われた一団をアイオリス人が街に受け入れたことがある。その後、コロフォンの亡命者たちはスミルナ市民が城壁の外でディオニソスの祭りを行なっているのを待ちかまえていて、城門を閉め、街を占領したのである。

全アイオリス人が救援に駆けつけ、その結果協定が成立した。アイオリス人はイオニア人から家財を返還してもらうが、街を放棄することとなった。それが実行されたあと、アイオリスの十一都市はスミルナの住民を分担して受け入れ、それぞれの街で市民権を与えた。

[1.151] 以上が陸地にあるアイオリスの都市群だが、イダの山中にある都市はこれらの都市とは別である。

島嶼の都市としては、レスボス島に五都市ある。ただし、六番目としてアリスバがあったが、ここの住民は同じ血筋のメティムナ人によって奴隷に落とされている。それからテネドス島にもひとつの都市があり、いわゆる「百島」(51)にもひとつ都市がある。

(51)レスボス島と陸地との間にある小島の群れ

レスボスとテネドスの者たちは、イオニア諸島の住民と同じくペルシアに対する恐怖はなかったが、ほかのアイオリスの街々は合議の結果、イオニア人の指示に従うことを決めた。

[1.152] さて、イオニア人とアイオリス人が送り出した使者がスパルタに到着すると(事は速やかになされた)、彼らの中からピテルモスというポキス人を代表者に指名し、話をさせることにした。そしてこの男は紫の衣で身を包み、それはできる限り多くのスパルタ人が話を聞きに来ることを目論んでいたからだったが、毅然と立って自国の住民に救援を求めるための、長い演説をおこなった。

ところがスパルタ人はそれを聴きいれることはなく、イオニアへの救援を拒んだ。かくて使者たちは引き返したが、スパルタは使者を追い返しはしたものの、私が思うに、キュロスとイオニアの状況を探らせるため、五十櫂船で人を派遣した。

この者たちはポカイアに到着すると、仲間のうちで最も信望厚いラクリネスという男をサルディスに送った。それは、キュロスがギリシア領内の街を侵略するなら、スパルタが黙ってはいないぞ、というスパルタの決意をキュロスに宣告するためであった。

[1.153] 右のことを使者がキュロスに宣言すると、キュロスは、その場にいたギリシア人たちに向かって問い質した。かような宣告をするスパルタ人というのはそもそも何者で、その数はどれくらいいるのかと。その返事を聞いてから、キュロスはスパルタの使者に向かって云った。

「街の真ん中に広場を作って集まり、心にもない誓いを立てて互いを欺きあうような連中を、ワシはこれまで怖れたことなどないわ!もしワシの命が長らえるなら、イオニア人の不幸を話の種にせず、やつら自身の不幸を舌の上にのるようにしてやるぞ!」

キュロスの右のような蔑みの言葉は、ギリシア人が広場で物産の売り買いをしていることによるもので、ギリシア人全体に向かって放ったものである。ペルシア人自身は広場を用いる習慣を持たず、そもそも市場というものが全くないのだ。

やがてキュロスは、タバロスというペルシア人にサルディスをまかせ、クロイソスその他リディア人たちの黄金はリディア人のパクティエスに預けて保管させ、自身はクロイソスを伴ってエクバタナへ出陣した。さしあたってイオニアのことなど眼中になかったのである。

というのも、バクトリア人、サカイ人、エジプト人をはじめとして、依然バビロンがキュロスの心配の種であったためで、自分自身はこれらの国に軍を進め、イオニアには別の将軍を派遣するつもりだったのだ。

[1.154] ところがキュロスがサルディスをあとにして出陣するや、パクティエスは、リディア人をしてタバロスとキュロスに叛逆させ、自分は沿岸部に下って、サルディスにあったすべての黄金を元手にして兵士を募り、また沿岸地域の住民にむけて自分の軍に加わるよう説得した。かくてパクティエスはサルディスに向けて進軍し、タバロスをアクロポリスに追い込み、これを包囲した。

[1.155] 遠征途中でキュロスがこのことを知ると、クロイソスに向けて語った。

「このたびの騒動は、どこに落ち着くと思うかね、クロイソスよ。リディア人はこのワシにとってもほかの者たちにとっても、いつももめ事を起こし、決しておとなしくしていることはないように思う。こうなると、奴らを奴隷にしてしまうのが最もよい策ではないかという気がしておる。ワシは、父親を殺してその子供は生かしておくのと同じことをしたようだ。

これと同じように、リディア人にとっては父以上の存在であるお主を捕らえて連れ去り、リディア人自身にその街をまかせて来たのだ。それゆえ奴らが叛いたことに今更ながら驚いているのじゃ」

このようにキュロスは自分の考えを話したが、クロイソスは、キュロスがサルディスを灰燼に帰してしまうのではないかと怖れてこう返答した。

「殿、仰せのとおりでござる。とは申せ、どうかお怒りを鎮めなされませ。そして先の謀反またこたびの騒動におきましても何らの罪なき古き都を廃墟になさることは、どうかお止めくだされませ。先の謀反はそれがしに責めがあり、その罰はこの頭に受けております。殿がサルディスをお預けになったパクティエスの件につきましては、あやつが悪いわけで、当人が罰を受けるべきでござる。

しかしリディア人は許してやっていただきたい。そのためにも、再び謀反を起こしたり、殿に楯突くそぶりを見せることのないよう、次のような布告をなされませ。まず使いの者を差し向けられて、武器の所持を禁止し、それから上着の中には肌着をつけること、膝までの長靴を履くことを命じ、子供たちには竪琴やハープの演奏、小売業などを教えるようにお命じなされ。そうなされば、殿、彼らは見る間に男子変じて女子となりますゆえ、謀反を企てる怖れもなくなりましょう」

[1.156] クロイソスがこのような策を持ち出したのは、ともかくリディア人が奴隷に売り飛ばされるよりも、こちらの方がまだましだと考えたからで、よほど理にかなった理由を示さなければ、キュロスの気持ちを変えることはできないことがわかっていたからである。また、たとえリディア人がこのたびの危機を免れたとしても、いずれはペルシアに叛逆して破滅に至るだろうことを怖れたからであった。

キュロスはクロイソスの助言を喜んでその怒りを鎮め、その献策のとおりにしようと云った。そしてマザレスというメディア人を呼びつけ、クロイソスの提言のままリディア人に布告すること、さらにリディア軍に加わってサルディスを攻撃した者たちはすべて奴隷に売ること、またパクティエスはなんとしても生け捕りにして自分のもとへ連れて帰れと命じた。

[1.157] 遠征途上で右の命令を下したキュロスは、さらにペルシアに向けて進軍を続けた。一方のパクティエスは自分に向けた討伐軍が迫っていることを知ると、怖れをなして(アイオリス沿岸の)キュメへ逃亡してしまった。

メディア人マザレスは、キュロスの軍勢のうちから預った一部の手兵を率いてサルディスに向かったが、パクテュエス一党がもはやサルディスにいないことを知ると、真っ先にリディア人に強制してキュロスの命令を実行させた。キュロスのこの命令より、リディア人の生活様式はすべて変わってしまった。

そのあとマザレスはキュメに使者を送り、パクティエスの引き渡しを要求した。そこでキュメ人は、どう対処するべきかをブランキダイの神の神意に委ねることに決定した。というのもブランキダイには、古くに創設された神託所があり、全イオニア人やアイオリス人が、いつもここの神託を求める風習があったからである。その場所は、ミレトス領内のパノルモス港から上手に入ったところにある。

[1.158] さてキュメ人はブランキダイヘ神託使を送り、パクティエスについてどのような処置をくだせば神意にかなうだろうかと訊ねた。神託の返答は、パクティエスをペルシア人に引き渡すべしという内容だった。

この神託がキュメに戻されると、彼らはパクティエスを引き渡そうとした。ところが大方がそのつもりになっている中で、街中で名声の高いヘラクレイデスの子アリストディコスという者が、それをしないようキュメ人を制止した。かれは神託を信じず、神託使が嘘をついていると考えたからである。結局パクティエスの処置について再び神託を求めて、別の神託使が派遣されたが、その中にはアリストディコスも加わっていた。

[1.159] 一同がブランキダイに着くと、アリストディコスが一同を代表して次のように神託を求めて訊ねた。

「神よ、リディア人のパクティエスなる者が、ペルシア人の手によって横死させられるのを逃れようとして、われらのところへ庇護を求めて参りました。ペルシア人はかれを引き渡せと、われらキュメ人に要求しております。

われらはペルシアの勢力を恐れてはおりますが、われらとしてはどちらにすべきか、神意をはっきりとお示しいただくまでは敢えて決断せず、庇護を求めてきた者の引き渡しを決行せずにいたのでございます」

アリストディコスがこのように訊ねると、神は再び同じ託宣を返した。すなわちパクティエスはペルシア人に引き渡すべきだというのだった。

これに対してアリストディコスは、ある目的をもって次のような行動にでた。かれは神殿の周囲をまわりながら、そのあたりに巣を作っている雀その他の鳥類を手当たり次第、すべて捕まえてしまったのである。かれがそんなことをしていると、神殿の奥からアリストディコスを呼ぶ声が聞こえ、こう云った(と伝えられている)。

「不敬きわまる者よ、何ゆえにさような不埒を働くか?わが窮鳥を汝は奪わんとするか?」
するとアリストディコスは待ってましたとばかりに云った。
「神よ、御身は窮鳥をお助けになりながら、キュメ人にはその窮鳥を引き渡せと命じられまするか?」
すると神がまた返答した。
「しかり、あの者どもにはそうせよと命じた。それはな、不敬なる働きによりて汝らが早々に滅せば、こののち汝ら、庇護を求め来し者の引き渡しにつき、神託を求めに二度とは来れまい」

[1.160] 戻ってきた神託を聞いたキュメ人は、パクティエスを引き渡して国が滅ぶのも避けたいし、さりとて自国に留めおいて攻囲されるのも真っ平ごめんというわけで、かれを(レスボス島の)ミティレネに逃がした。

そのミティレネは、マザレスからパクテュエス引き渡しの要求が伝えられると、いくばくかの対価と引き替えに引き渡すつもりで、その準備をはじめた。その額がどれほどであったか、はっきりしたことは云えない。なぜというに、その取引は結局成立しなかったからである。

それは、ミティレネがこのような画策をしているのをキュメ人が察知するにおよび、彼らは船をレスボスにやってパクティエスを(キオス島の)キオスに送ったからである。しかしそこでパクティエスは、アテナ・ポリウコス神殿(国家鎮護のアテナ)に逃げ込んだところをキオス人によって引きずり出され、マザレスに引き渡されてしまった。

キオスはその代償として、ミシア地方にあってレスボス島の対岸にあるアタルネウスを譲りうけた。かくてペルシア人はパクティエスを受け取り、キュロスに差し出すつもりで監視下においた。

なお、かなりな長期間にわたり、キオスでは、どの神の祭においても、捧げものとしてアタルネウス産の大麦粉を用いる者は誰一人おらず、また供物の焼菓子にも、この地から産する穀物を用いる者はひとりもいなかった。そしてこの土地から産するものはすべて、あらゆる捧げもの儀式から遠ざけられていた。

[1.161] さてキオス人がパクティエスを引き渡したのち、マザレスはタバロスの攻囲に加担した者たちを討伐し、プリエネ人を奴隷にするとともに、マイアンドロス平野一帯を走り回って自分の軍隊に略奪させ、マグネシアも同じように攻略した。しかしこの直後にマザレスは病死してしまった。

[1.162] その死後、マザレスと同じくメディア人のハルパゴスが後任の司令官としてこの地に着任した。この男こそ、かつてメディア王アステュアゲスが無法な晩餐で饗応し、またキュロスが王権を勝ち取る手助けをした人物である。

まさにこの男がこのたびキュロスから司令官に任命されたのだ。そしてイオニアに着任するや、土木工作によって諸都市を攻略していった。すなわち敵を城壁内に追いつめておき、その城壁の前に土塁を築いて、その街を攻略したのである。

[1.163] ハルパゴスがイオニアで最初に攻略したのはポカイアだった。このボカイア人というのは、ギリシア人としては一等早くから遠洋航海にのりだしていて、アドリア海、ティルセニア、イベリア、タルセッソス(52)などを発見したのも彼らである。

(52)現在のスペイン・アンダルシア地方(イベリア半島)、グアダルキビール河(Guadalquivir)下流域の谷にある。後にはガデス(Gades、Cadiz)と呼ばれたが、ヘロドトスはガデイラ(Gadira)と呼んでいる(第四巻八節)。

彼らは航海においては丸形の貨物船ではなく五十櫂船を用いた。そして彼らがタルセッソスにたどりつくと、その地の王アルガントニオスと親交を深めたが、この王はタルセッソスに君臨すること八十年、百二十歳(53)までの生を全うしている。

(53)明らかにギリシア一般の伝統である。アナクレオン(B.C.582頃~B.C.485頃;古代ギリシアの抒情詩人)は言う。「われは....豊かなタルセッソスの国を百と五十年も支配したいと思わない」(Fr.8)

さてポカイア人はこの王とたいそう親密になったので、王は彼らにイオニアを去り、この国のどこにでも好みの場所に住むようにすすめたほどだったが、そのあとポカイア人を説得できないことがわかり、またメディアの勢力がいかに増大しているかを彼らから聞いた王は、街に城壁を築くがよいと言って彼らに黄金を与えた。

王は実に気前よく黄金を与えたとみえて、城壁の周囲は数スタディオンという程度の長さにおさまらず、しかも全てが巨大な石を用い、それらをぴったり組み合わせて築かれている。

[1.164] このようにしてポカイア人の城壁は築き上げられたが、ハルパゴスは街に軍を向けポカイアを包囲すると、ある条件を提示した。それは、ポカイア側が城壁の一部を取り壊し、家屋を一軒献上するなら、それで充分だというものだった。

しかしポカイア人は奴隷という言葉に憤激し、協議に一日の猶予を求め、その上で返事すると返答し、なおかつ自分たちが協議中は、軍を城壁から退けてもらいたいと要請した。ハルパゴスは、ポカイア人が何をするつもりであるか十分承知しているが、それでも協議は許すと返答した。

そしてハルパゴスが軍を城壁から遠ざけている間に、ポカイア人は五十櫂船を海に浮かべ、女子供と貨財全てをそれに載せ、青銅製や大理石製のものおよび絵画類をのぞき、神殿の彫像やそのほか全ての奉納品を積み込み、最後に自分たちも乗り込んで、キオスに向けて出帆した。こうしてペルシア軍は、無人のポカイアを占領したのだった。

[1.165] ポカイア人はオイヌサイ(54)という一群の小島をキオス人から買おうとしたが、キオス人はそれに応じなかった。というのも、ここが商業地となれば、キオス人の島が通商活動から遠ざけられるのを心配したからだった。そこで彼らはキュルノス(55)へ向かうことにした。それは、これより二十年前、神託の命によってポカイア人がキュルノスにアラリアという町を建設していたからである。

(54)キオス島と陸地の間にある
(55)コルシカ島

このときアルガントニオスは、もうこの世の人ではなかった。出航するにあたり、彼らはまずポカイアに向けて船を進め、ハルパゴスに命じられてこの街を防備していたペルシアの守備兵を殺戮し、これを成し遂げたあと、こんどは仲間内で残留しようとする者がいたため、この者たちに恐ろしい呪いをかけた。

また呪いをかけるだけに留まらず、鉄の塊を海中に投じ、この鉄塊か再び姿を見せるまではポカイアに戻ることはないと誓ったのだった。しかしキュルノスに向けて出発したところ、半数以上の市民が街や住みなれた祖国を懐かしみ、嘆き悲しむ心に打ち負けて、誓いを破ってポカイアヘ船を戻していった。そして誓いを守った者だけがオイヌサイから出帆していった。

[1.166] こうして彼らはキュルノスヘ着くと、それより先に移住していた者たちと共に同じ場所で五年間住み、神殿も造営した。しかし彼らはあたり構わず近隣を荒らし、略奪してまわったので、ティルセニア人とカルタゴ人とが協定を結び、それぞれ六十隻の船でポカイア人の攻撃に向かった。

ポカイア人も六十隻の船に兵員を乗り込ませ、サルディニア海と呼ばれる海で敵を迎え撃った。海戦の結果、ポカイア人が勝利したが、それはいわゆるカドメイア的な勝利(56)で、四十隻の船をうしない、残りの二十隻も船首の衝角がゆがんでしまい、使いものにならなくなった。

(56)オイディプスの息子で、カドモスの子孫であるポリニケスとエテオクレスは、テーベの所有を争って戦い、互いに殺し合った。このことからカドモスの勝利とは、勝者と敗者が同じように苦しむことを意味する。

そこでポカイア人はアラリアヘ船を戻し、女子供、そのほか船に積める限りの貨財をまとめ、キュルノスを捨ててレギオンヘ向かった。

[1.167] 使用に耐えなくなった船の乗組員については、カルタゴ人とティルセニア人が籤で分配したが、ティルセニアのアギラ人(57)は遙かに多くの捕虜を引き受けた。その彼らは捕虜を街の外に連れ出して石打ちの刑で死に至らしめた。ところがそのあと、石打ちの刑に処せられたポカイア人が埋葬されている場所を通ったものは、ヒツジ、荷役獣、人間を問わず、あらゆるものの手足が曲がり麻痺するようになった

(57)のちのエトルリア(イタリア)の街カエレ(ローマの近く)。”ティルセニアのアギラ人”という句はSteinによる補足である。

そこでアギラ人は罪を償いたいと思い、デルフォイに使者を送ったところ、巫女はその託宣を語って示した。これか今日でもアギラ人が行なっている行事で、彼らはポカイア人を盛大に讃えるために、神の儀式を執り行ない、運動競技や騎馬競技を催している。

捕虜となったポカイア人はこのような最期を遂げた。しかしレギオンに逃れた者たちは、この地を去ってオイノトリア地方(58)に移り、今日ヒエレ(59)と呼ばれる街を手に入れた。

(58)オイノトリアは南イタリアに当たる。古代ローマのルカニア地方とブルティウム地方。
(59)のちのエレアまたはヴェリア。

この街を作ったわけは、デルフォイの巫女が彼らにキュルノスを建造せよと託宣を下したのは、英雄キュルノスの神殿のことであって島のキュルノスではない、ということを、あるポセイドニア人から教えられたからだった。以上、イオニアの街ポカイアのたどった行く末は、このようなことだった。

[1.168] テオス人もポカイア人と同じことをやった。ハルパゴスが土塁戦術でテオスの城塞都市を攻め落とすと、彼らは全員が船に乗り込んで海路トラキアに向かった。そしてそこにアブデラの街を作り上げた。この街はこれ以前にティメシオスというクラゾメナイ人によって建設されたところだが、かれはこれによって何も得るところなく、結局はトラキア人に追い払われてしまった。しかしアブデラのテオス人は、ティメシオスのことを今でも英雄として崇めている。

[1.169] 隷従を嫌って祖国を捨てたのは、この二つの都市だけで、残りのイオニア人はミレトスを除き、すべての都市が亡命者たちと同様にハルパゴスに立ち向かい、いずれも果敢に振る舞って祖国のために戦ったものの、結局は戦いに敗れて街を占領されてしまった。それでも彼らは祖国にとどまり、ペルシアに隷従することとなった。ただ、ミレトスだけは前にも述べたようにキュロスと協定を結んでいたので攻撃されることはなかった。

こうしてイオニアは再び隷属させられたのだが、ハルパゴスが陸地のイオニア諸都市を征服すると、島嶼に住むイオニア人たちも、同じ憂き目に遭うことを怖れ、自らキュロスに降伏した。

[1.170] こうして悲惨な状況に陥ったにもかかわらず、イオニア人がパニオニオンに集まっている時、聞くところでは、プリエネ人ビアスがイオニア人にとってきわめて有益な助言を与えたという。イオニア人がその助言に従っていたら、彼らはギリシア中でどこにも負けない繁栄を謳歌することができただろう。

ビアスが助言したのは、イオニア人が一団となってサルディニア島ヘ向けて出帆し、ここに全イオニア人の都市を一つ建設するということだった。そうして世界最大の島に居をかまえて近隣の住民に君臨すれば、隷従から免れて繁栄を得るだろうが、イオニアに残留すれば自由を手にする望みはないだろう、とビアスは云ったのだ。

プリエネ人ビアスがこの助言を与えたのは、イオニアが没落したあとだったが、イオニアの破綻以前に、フェニキア人の血を引くミレトス人タレスが示した方策もまた有益なものだった。かれの策というのは、イオニアの中央に位置するテオスに単一の行政庁を設ける。ただしほかの都市はそのまま居住を続け、単なる行政区とみなす、というものだった。ビアスとタレスがイオニア人に与えた助言は以上だ。

[1.171] さてハルパゴスはイオニアを平定したあと、イオニア人とアイオリス人とを従えて、カリア人、カウノス人およびリキア人の制圧に向けて遠征を開始した。

これらの民族のうちカリア人は、島嶼から陸地に渡ってきた者たちである。彼らは、古くはレレゲス人と呼ばれた島嶼人で、ミノス王(クレタの王)の支配下にあった。しかし彼らは、私が風説をできる限りさかのぼって調べてみても、貢物を全く納めず、ミノス王の要請があれば、その都度船の乗員を供給していた。

ミノスは広大な領地を治め、戦では勝利に恵まれていたゆえ、その当時はカリア人も、あらゆる民族のうちでこの上なく名を馳せていたものだった。

また彼らは、のちにギリシア人も用いるようになった三つの発明を行なっている。すなわち兜のてっぺんに羽飾リをつけること、盾に紋章をつけること、盾に把手をつけることである。これらは彼らが最初に始めたことである。それまでは盾に把手はなく、誰もが革帯を首から左肩にまわし、それにのせて持ち歩いていたのだ。(60)

(60)これがホメロスの叙事詩イリアスに書かれている「人体保護盾」の用い方である。盾は手で持ち運ぶのではなく、左肩から右腋窩にまわした帯に吊すようにして支える。こうすることによって胸または背中を護る。

それからはるかのちに、カリア人はドリス人とイオニア人によって島嶼から追われ、大陸へ移ってきた。以上が、カリア人についてクレタ人の伝えるところだが、カリア人自身はこの説には同意しておらず、自分たちは土着の大陸人で、今の名前は昔からのものだと信じている。

その証拠として彼らが指摘するのが、ミラサにあるカリア・ゼウスという古い神殿で、この神殿にはミシア人とリディア人がともにカリア人と兄弟関係にあるということで参詣を許されている。彼らが言うにはリドスとミソスがカルの兄弟だというのだ。カリア人と同じ言語を用いる者であっても別の民族の場合には、参詣することは許されていない。

[1.172] カウノス人は土着民だと私は思っているが、彼ら自身はクレタの出身だといっている。その言語はカリア人のそれに似通っていて、あるいはカリア人がカウノス族に近いのかもしれないのだが、私にはどちらとも云えない。だがその風習はほかの民族とも、カリア人とも、大いに異なっている。たとえばカウノス人の最高の喜びとなっているのは、男女子供を問わず、同じ年頃の者同士や親しい者同士が寄り合って酒盛りをすることである。

そしてまた彼らは、異国の神々のための神殿を建立したものの、あとになって気が変わり、父祖の神々だけを祭ることに決めると、成年に達しているカウノス人男子は全員が一団となって武装し、槍を空に向けて突き上げつつ、異国の神々を追放するのだと叫びながら、カリンダとの国境まで行進したことがある。以上がカウノス人の習俗である。

[1.173] さてリキア人は、元をたどればクレタの出である。古代のクレタ島は、全島これ異邦人の領有となっていた。

クレタではエウロパの子サルペドンとミノスが王位を争っていた。そしてミノスがその争いに勝ち、サルペドンとその一味を追放した。追い出された一党はアジアのミリアス地方にまでやって来た。ここは現在リキア人の住む地であるが、昔のミリアスであって、ミリアス人はその当時はソリモイ人と呼ばれていた。

サルペドンによる統治の間、ここの住民はテルミライ人と呼ばれていた。この名は彼らがクレタから持ってきたもので、近隣の住民は今なおリキア人をその名で呼んでいる。ところがパンディオンの子でリコスという男もアテナイからやって来ており、かれもまた兄弟のアイゲウスに追われた身で、テルミライの国にいるサルペドンのもとへ来ていた。やがて彼らはリコスの名からリキア人と呼ばれるようになった。

彼らの習俗は一部はクレタ風、一部はカリア風である。ただし、一つだけ彼ら独自の風習をもっており、これはほかのどんな民族にもないものである。すなわちリキア人は、父方でなく母方の名を名乗るのである。

ある人が、傍にいる者から何者かと訊ねられると、その者は母方の血筋をさかのぼって挙げてゆき、その血統に連なる母の子であると名乗るのだ。また市民権をもつ女が奴隷と結婚した場合、生まれた子供は正しい血統をもつものと見なされるが、男の市民では、それが彼らの中でこの上なき著名人であったとしても、異邦人の妻あるいは妾に生ませた子供には、市民権は与えられないのである。

[1.174] さてカリア人だけでなく、この地に住むギリシア人も、すべてがめざましい働きもせず、ハルパゴスに征服されてしまった。

この地方の住民のなかには、スパルタから移住してきたクニドス人もいた。彼らの領地は、ババッソス半島から延びている海沿いの地域で、トリオピオンと呼ばれている。そして、そこはわずかな部分を除き、海に囲まれている。

それは、北はケラモス湾、南はシュメ島とロードス島の海が迫っているためである。そこでクニドス人は、ハルパゴスがイオニア征服にかかっている間に自分たちの領土を島にしようとして、五スタディア(180m×5=900m)ほどの狭隘部に運河を掘り始めた。クニドス領と陸地の間には、運河を掘ろうとした地峡があったので、クニドスの全領土が地峡より海側に隔てられることになる。

さて多くのクニドス人がこの作業に取りかかったが、作業員が岩石を砕くとき、さまざまな身体の部分、なかでも特に眼を損傷する事故が不自然なほどに多く生じた。そこでクニドス人はデルフォイに神託使を送り、作業を阻害している原因を訊ねさせた。

そしてクニドス人が言うところでは、巫女は三歩格詩によって次のように答えたという。

  地峡には、城壁も塹壕も造ることはならぬ
  ゼウスに思し召しあらば
  汝らに島を下されたはずじゃによって

巫女からこの託宣を下されたクニドス人は、堀の掘削作業を中止し、ハルパゴスが軍を率いて来ると、抵抗もせずに降伏してしまった。

[1.175] さてハリカルナッソス上手の奥地にはペダサ人が住んでいる。ここでは、彼らあるいは近隣の住民になにか凶事が起るときには、アテナ神の巫女に長いあご髭が生える。そしてこのようなことが三度も起きていた。カリア地方の住民のうち、短時間とはいえハルパゴスに抵抗を続けたのは、ここの住民だけで、彼らはリデという山を堡塁で補強して敵将を大いに悩ましたのだった。

[1.176] そのペダサ人もやがては征服されたが、ハルパゴスが軍をクサントス平野に進めると、リキア人がやって来てこれを迎え撃ち、少ない兵力にもかかわらず果敢に戦ったものの、むなしく破れ市内に追い詰められた。そして彼らは妻子、貨財、使用人をアクロポリスに集め、ここに火を放ってすべてを焼き払った。

その後、彼らは互いに決死の誓いを交わして出撃し、結果クサントスの男たちは全滅したのである。

今日リキア入と自称しているクサントスの住民は、八十家族を除き、その大多数が異国からの移住者である。この八十家族は、その当時たまたま街を離れていたため生き残ったのだ。かくてハルパゴスはクサントスを占領し、同じようなやり方でカウノスも攻略し、カウノス人も大筋においてリキア人の例にならったのであった。

[1.177] さてハルパゴスが下アジアを荒らしまわっているとき、キュロス自身は上アジアの諸民族を根こそぎ平定していった。その大部分については語らずにおくが、キュロスが最も手こずり、また最も語るに足る事だけを話してみよう。

[1.178] 大陸のあらゆる民族を征服したキュロスは、次にアッシリアの攻略に向かった。アッシリアには、ほかにも大きな街が数あるが、最も名高くまた最も堅固のはバビロンで、ここはニノス(61)が灰燼に帰したあと、王宮の所在地となっていた。そして今から話すのは、このバビロンのことである。

(61)B.C.606にニノヴェ(Nineveh)と改名。

バビロンは広大な平野の中にあり、一辺が百二十スタディア(*)の正方形になっている。従って町の全周は四百八十スタディア(八十七粁)である。これがバビロンの街の大きさである。この街はまた、われらの知るいかなる街よりも、比類なきほどに整備計画された街である。

(*)百二十スタディア=[1.0] 18Km×120=[1.21] 6Km

まず満々と水を湛えた深く広い濠が街の周囲に掘られ、城壁は幅五十王制キュービット(約[1.2] 6m)、高さ二百王制キュービット(約[1.5] 2m)に築かれている。ここで王制キュービットというのは、通常のキュービットよりも三指幅だけ長い(62)。

(62)一般的なキュービット(cubit)は[1.18] 25インチ、王制キュービットは[1.20] 5インチ。

[1.179] それから、濠を掘った時に出た土が何に使用されたか、また城壁がどのようにして築造されたかを、これから語らねばならない。彼らは濠を掘るのと同時に、掘り出された土を煉瓦状に成型し、それが山盛りになると窯で焼いたのである。

[1.179] そのあとはモルタルの代わりに熱したアスファルトを用い、煉瓦の三十段目ごとには、その隙間に編んだ芦を詰め込み、このようにしてまず濠の壁を築き、その次に城壁そのものを同じ方法で造りあげた。

城壁の上には、両側の縁にそって一階建ての舎屋を向き合うように建てたが、その舎屋のあいだは四頭立ての戦車が通り抜けるだけの余地があった。また四方を囲っている城壁には門が百箇所あり、これらは全て青銅製で、門柱も上の横木も同様に造られていた。

バビロンから八日の旅程の場所に、イス(63)という名の別の街がある。ここにはあまり大きくはない河があり、その名も同じくイスという。この河はユーフラテス河に注いでおり、その水源からは水とともにアスファルトの塊りが大量に出土する。そしてこのアスファルトが、バビロンの城壁のために運ばれたのである。

(63)近代のヒット(Hit)あるいはアイト(Ait)。ユーフラテス河が 沖積平野に流れ込む場所にある。

[1.180] バビロンの城壁はこのようにして築造されたが、街はユーフラテス河によって二分されている。この河はアルメニアから発し、広くて深く、流れも速く、紅海に注いでいる。

さて城壁の角はどちら側も、その河に向かって下っており、そこから折り返して河の土堤にそって焼煉瓦の壁が続いている。

街そのものは三階建て、四階建ての家屋がびっしり軒を連ねていて、それを横切る道路やそれに交叉して河に向かう道は、そのほかのものも含め、すべて真っ直ぐに延びている。

河に向かう道の突き当たりには、河沿いの城壁に、それぞれの通りのための城門がつけられている。すなわちそれぞれの通りにひとつの城門がある。それらの城門も青銅製で、この城門が河に通じているのだ。

[1.181] この城壁は街にとっては外鎧というべきもので、その内側にもう一つ壁が張りめぐらされている。この壁は外壁とほぼ同じ堅固さを備えているが、幅は狭い。

一方の街の中央には王宮が造営されており、その周りは高く強固な壁で囲われている。もう一方の街の中央にはゼウス・ベロス神殿(64)が設営されていて、これは私の時代に至っても、まだ残っている。この神殿は一辺が二スタディア(三百六十メートル)の正方形で、それぞれに青銅の門を備えている。

(64)ベル神(Bel)またはバアル神(Baal)のこと。アッシリアの最高神。

また神殿の中央には、縦横ともに長さ一スタディア(百八十メートル)の堅牢な塔が築造されている。この塔の上には第二の塔が立ち、さらにその上にも、というふうにして八層まで続いている。

ここを昇る通路は、すべての塔の外側に螺旋状につけられている。その半ばには踊り場があり、休憩のための腰掛がおいてある。昇る者はこれに腰かけて一休みするのだ。

最上部の塔には大神殿がある。この中には、立派な覆いをかけた大きな寝椅子があり、その横には黄金の卓がおいてある。しかし神像はおかれていないし、ここに寝泊まりするのは土着の女が一人だけで、それ以外は誰も泊らない。この神の司祭を務めるカルデア人の伝えるところでは、その女は、すべての女たちの中から、その神によって選ばれた者であるという。(*)

(*)この部分が、有名な「バベルの塔」に関する記述であるようだ。

[1.182] 同じカルデア人が言うには、その神はしょっちゅう神殿に来て、寝椅子で休息するということだが、こんなこと、私は信じない。ただ、エジプト人もテーベで同じことがあるといっている。

テーベのゼウス神殿(65)でも女がひとり参籠するのだが、エジプトでもバビロンでも、これらの女は異性とは決して情交しないといわれている。またリキアのパタラでも、指名されたときだけ、神(66)の巫女が、同じことをする。ただし、ここの神託所は常設されているわけではないので、開設されている間だけ、巫女は神殿に籠もって夜を過ごすことになっている。

(65)アメン神:第二巻四十二節
(66)アポロ神

[1.183] バビロンには下にも別の神殿があり、ここには黄金製の大卓のかたわらに、これも黄金の巨大なゼウス坐像が安置され、その足台も椅子も黄金製である。カルデア人の言うところでは、これらは合計八百タラントン(*)の黄金が用いられている。

(*)およそ二十トン~三十トン

この神殿の外には黄金の祭壇が設けられている。さらにもう一つの大きな祭壇があり、ここには成長した家畜の群れが供えられる。黄金の祭壇には、幼い家畜しか供えてはならないことになっており、カルデア人は、毎年の神の祭礼の時に、この大祭壇に千タラントン(二十六トン~三十七トン)もの乳香を捧げている。キュロスの時代においても、この神殿の中には十二キュービット(五百四十糎)もある純金の像が、まだ安置されていた。

私はそれを見たわけではないので、カルデア人の言うところをここに伝えておく。ヒスタスペスの子ダリウスは、この像を奪おうとしていたが、あえて行動に移さなかった。ところがダリウスの子クセルクセスは、像を動かすことを止めに入った司祭を殺し、これを手に入れたのである。この神殿の装飾は以上のとおりだが、そのほか個人の奉納品が多数ある。

[1.184] さてバビロンの城壁や神殿の建造に関わった多数の支配者(彼らについてはアッシリア史の中で述べるつもりだ)の中には、女性が二人いる。このうち、最初の女性は次の女性よりも五世代前の人で、名をセミラミスといった。バビロンの平野に堤防を築くという、実にみごとな工事をやりとげたのは、まさにこの女王なのである。それまではユーフラテス河が氾濫すると、大平原が海のようになっていたのである。

[1.185] 二番目の女王はニトクリスといい、先の女王よりも聡明だった。彼女は、私がこれから述べようとしている数々の記念すべき事績を残しただけでなく、メディア王国がその勢力を留まるところなく拡大してゆき、多くの都市が次々に攻略され、中でもニノヴェまでもが征服されるのをみて、全力でもって防衛策を練ったのである。

先ず、以前は市街の中央を貫いてまっすぐ流れていたユーフラテス河を、街の上流地点に運河をいくつも掘ってその流れを迂回させ、アッシリアにある村落を三度も通過するようにした。ユーフラテス河が三度も通過する村の名はアルデリカという。今日でも我々の海(エーゲ海)からバビロンヘ旅する者は、ユーフラテス河を下る時に、三日のあいだに都合三度、毎日一度はこの同じ村を通らねばならないのだ。

このような工事をすませてから、次に女王は河の両岸に、巨大かつ長大で驚嘆すべき堤防を築いた。

その後、彼女はバビロンのはるか上流に、湖といえるほど大きな池を掘らせた。この池は河に近いところで河に平行して掘られ、その深さはどの場所でも地下水がわき出るまで掘り下げた。またその周囲は四百二十スタディア(七十六粁)にもなった。そして池の掘削によって掘り出した土を利用して河の両岸に堤防を築いた。

そして池の掘削を終えると、石を持ってきて池の全周に岸壁を築いた。

河を迂回させることと池を掘って沼地としたことの目的は、河筋を幾度も曲げることで、その流れをゆるやかにしてその力を殺ぐことと、バビロンヘの航路を曲がりくねらせ、そのあとすぐに湖を遠く迂回せねばならぬようにするためだった。

この工事の行なわれた場所は、メディアからの入国路で、しかもその最短路に当っているところで、メディア人が自国民に紛れて入国し、彼女の国情に精通するのを防ぐためだった。

[1.186] このようにして女王は深い壕を掘って自国の防備を固めたが、この工事によって追加の工事も生まれた。そもそも女王の街は、その中央を河が流れ、そのため街が二つの地区に分割されている。そのため、彼女より以前の支配者の時代には、一方の地区から他方へ行くときには、いつも船に乗って河を渡らねばならなかった。これは思うに、さぞ厄介なことだったろう。ところが女王はこれも解決したのである。それは、湖といえるほどに大きな池を掘ったとき、この工事に絡めて、自らの統治の記念となる、もう一つの事績を残したのである。

彼女は非常に長大な岩石を切り出させ、その岩石の数が調い、池の掘削が完了したところで、河の流れを据り終えた場所に流れ込むように誘導した。すると池に水が満ちてゆくのに伴って、もとの河は干上がっていった。そうしておいてから、街中を流れる河の両岸と、小門から河に通じている降り口を、城壁の煉瓦と同じやり方で作った焼き煉瓦で固めた。それからまた、街のほぼ中央部に、掘り出しておいた岩石を、鉄と鉛で繋ぎ合わせて橋をかけた。

橋には昼の間だけ方形に削った木材を渡し、バビロン人が渡れるようにした。ただしこの木材は夜には撤去し、両地区の住民が夜の間に橋を渡って互いに盗みを働かないようにした。

湖のように掘削した池が河の水で満たされ、橋も完成すると、女王ニトクリスは、ユーフラテス河を湖からまた元の流れに戻した。このようにして、掘った場所は女王の計画通りに沼となって所期の目的を達成し、市民のための橋も出来上ったというわけである。

[1.187] この女王はまた次のような詭計も企んでいる。彼女は、街で最も往来の激しい門の最上部に、自分の墓を作らせたのである。そして墓には次のような布告文を彫り込ませた。

「われに続くバビロンの王にして、財貨に窮する者あらば、この墓を開き、欲するままに財貨取らせん。しかれども要なきままに開くべからず。そは身に災禍降りかかるべし」

この墓は、ダリウスに覇権が下るまでは手つかずのまま残されていた。かれは、この門を通り抜けることができないばかりか、財宝が納められていて、しかも手招きするが如き文言まで書かれているのに、その財宝をとらぬことも、全く筋の通らぬことだと考えた。

かれがこの門を使用しなかった訳は、この門を通れば、自分の頭上に死骸がかぶさるからだった。

そして墓を開けてみると、そこに財宝はなく、あったのは死骸と次の文言だけだった。
「汝、おのが富に飽き足らず、しかも強欲なる恥知らずにあらざれば、死人(しにびと)の憩いまどろみおる棺をば、開くことなかりしものを」
この女王は、かくの如き(諧謔に富む)人物であったと伝えられている。

[1.188] さてキュロスが軍を差し向けたのは、女王ニトクリスの息子で、かれは父ラビネトスの名とアッシリアの覇権を父から受け継いでいた。

ペルシア大王が出征するときには、自国から充分な食糧と家畜を用意してゆくのを常としていた。水も、スサを流れているコアスペス河の水を携えてゆく。大王はこの河の水しか飲まないのだ。

このコアスペス(67)の水を沸かして銀の壺に容れ、それを無数のラバ牽き四輪車で運び、いつでも、どこへでも、大王につき従うのである。

(67)現カルケ(Kerkha)

[1.189] キュロスはバビロン(68)を目指して進撃したが、その途中でギュンデス河に至った。この河は、マティエネの山中から発し、ダルダニア国を通り、別の河であるティグリスに合流する。このティグリスはさらにオピス国を通って紅海に注いでいる。さてそこで、船で渡るべきこの河を、キュロスが渡ろうとしている刹那、一頭の白い神馬が、無謀にも河に駆け込んで渡ろうとしたが、馬は流れに呑みこまれ、押し流されてしまった。

(68)現ディアラ(Diala)

このような暴虐を働いた河に対して、キュロスは強くいきどおり、これ以後は、女でも膝を濡らすことなく易々と渡れるほどに流れを弱めてやるぞ、と威嚇した。

河を脅しつけたあと、キュロスはバビロンヘの進撃を中止し、その軍勢を二手に分け、河の両岸にそれぞれ百八本の運河を、あらゆる方角に向けて掘るべく線を引き、その線に沿って部隊を配置し、開墾を命じた。

圧倒的な大人数が取りかかったため、確かに工事は完了したが、これを終えるまで、彼らはこの地でひと夏を丸々費してしまった。

[1.190] こうして河を三百六十(*)の運河に分割し、ギュンデス河への復讐を果たしたあと、翌年の春早々に、キュロスはバビロンに向けて進軍を開始した。バビロン軍は出撃してキュロスを待ち受け、キュロスが街の近くに迫ってきたところで戦いを挑んだが、空しく敗れて街中へ追い込まれてしまった。

(*)白馬が太陽神の神馬とみなされていたので、一年の日数だけ支流をつくった;青木巌氏、松平千秋氏ら、先訳の注釈。

ところがバビロンには、かなり長い年月にわたって耐えられるほどの兵糧が蓄えられていた。なぜなら、キュロスという人物は、じっとしていられない性格であることを、彼らはよく知っていたし、またキュロスがあらゆる民族を手当たり次第に攻撃しているのを見ていたので、籠城することは全く意に介さなかった。一方のキュロスは長い時が経過しても作戦が全く捗らないので、途方に暮れていた。

[1.191] 困り果てているキュロスに誰かが献策したのか、あるいはかれ自身が方策を見出したのか、キュロスは次のような作戦をとった。

まず軍の主力を、河が街に流れ込む場所に配置し、また別の部隊を街の背後で河が街から流れ出るあたりにも配置した。そして河が徒渉できるようになれば、そこから街へ突入せよと命じておいた。このように部隊を配置して命令を下しておき、キュロス自身は非戦闘部隊とともに退却していった。

そして例の池にたどり着くや、かつてバビロンの女王が河にやったことを、もう一度繰返し行なった。すなわち河の流れを運河に通して沼になっている湖に導いて河の水を退かせ、歩いて渡れるようにしたのである。

河の水が退いたあと、その作戦のために配置されていたペルシア兵は、その太股の中ほどの深さにまで浅くなったユーフラテス河を渡ってバビロン市内に突入した。

バビロン側が、このようなキュロスの行動について前もって探知しているか、気づいていたなら、ペルシア兵が街に侵入するのは、そのままにしておき、そのあとで徹底的に殲滅できただろう。というのは河に通じている小門を全て閉鎖し、河の両岸に沿っている城壁の上に兵を配置すれば、魚を簗(やな)にかけるがごとく、敵兵を捕捉できるからだ。

しかし実際にはペルシア軍の侵入は、全く寝耳に水だった。地元の住人の話では、街が広大なため、街の外縁部が敵の手に落ちているというのに、中心部の住民はそのことを知らず、たまたまその日は祝祭日だったこともあり、変事の発生をはっきり報されるまで、その時刻は歌舞音曲にふけっている最中だった。こうしてバビロンは、この時はじめて陥落したのであった。

[1.192] バビロンの国力がいかに壮大であるかは、いろいろな事例を挙げていまから説明するつもりだが、特に次の例によっても、そのことが知れる。大王とその麾下の軍勢を養うために、大王支配下の全領土が区画分割されている。そして通常の貢税のほか、一年十二ヵ月のうち四ヵ月分は、バビロンの地域が王のための食糧を献じ、残りの八ヵ月分をバビロン以外の全アジア地域が負担するのだ。

ということは、アッシリアの国力は全アジアの三分の一に相当する。またこの帝国の執政符-ペルシア入が言うところのサトラペア(総督府)は、すべての総督府の中で最強の力を持っていた。その証拠に、大王からこの地区を任されて統治しているアトラバゾスの子トリタンタイクメスのもとへは、毎日一アルタベを下らない銀の貢ぎがある。

ここでアルタベというのは、ペルシアの量目で、一アッティカ・メディムノスよりも三アッティカ・コイニクス多い容積である(69)。またここには軍馬のほか、トリタンタイクメスの私有になる種馬が八百頭、繁殖用の牝馬が一万六千頭いた。すると、種馬一頭が二十頭の牝馬と交尾することになる。

(69)一アッティカ・メディムノス=およそ十二ガロン(五十四リットル)=四十八コイニクス

さらに夥しい数のインド犬が飼育されていて、平野にある四つの大きな部落が、ほかのすべての貢税を免除される代りに、犬の飼料を供出させられていた。かくの如く、バビロンの支配者の富は莫大なものだった。

[1.193] アッシリアでは雨が少ないが、このことが穀類の根を育てるもとになっている。しかし作物を成熟させ、穀物を豊かにするのは河からの灌漑である。エジプトでは河の水が自然に田畑に流れ込んでいるが、ここアッシリアでは、人の手と振り天秤(70)によって水を田畑に灌漑している。

(70)跳ね釣瓶。ナイルを旅した者はよく知っている。支柱に腕のついた籠を取りつけて回転させる。

というのはエジプトと同じく、バビロンはその全土が多数の運河で仕切られているからだ。その中でも最大の運河は航行さえできる。それは冬の日の出の方角(東南)に向かって流れていて、ユーフラテス河からもう一つの河、すなわちティグリス河に注いでいる。そしてニノス(ニネヴエ)があるのはティグリスの沿岸である。われらの知る限り、この地方は穀類の産出に関しては群を抜いて肥沃な土地柄である。

しかし、イチジク、葡萄、オリーブなど、穀物以外の果樹の栽培は、試みることすらされない。ただ、この地ではデメテル女神の恵みである穀類の収穫は豊富で、ほとんどの地域で収極量が(播種量の)二百倍、最も実りのよい時なら、三百倍に達する。ここでは小麦や大麦の葉幅は、優に四ダクティロス(四指幅)にもなる。

粟や胡麻に関しても、どれくらいの高さに成長するか、知ってはいるが、ここでは云わないでおく。穀類について今話したことは、バビロンヘ行ったことのない人には、とうてい信じてもらえないことが、私にはよくわかっているからである。彼らはオリーブ油を用いることはなく、胡麻(71)から採った油しか用いない。また平野全体にナツメヤシが生えており、そのほとんどが実を結び、この実から食物や酒や蜜が作られている。

(71)胡麻油はアジアでは現在もよく使われている。

アッシリア人はこの樹をイチジクの樹と同じように栽培している、特にギリシア人のいう雄椰子の実をナツメヤシに括りつけ、蜂が実にもぐり込み、それを成熟させることで実が落ちないようにしている。雄椰子は冬いちじくと同じで、その実の中に蜂を宿しているからである。

[1.194] ではこれから、市邑それ自体の次に、私がこの国に関して最も驚嘆すべきことと思っていることがらを述べよう。この国では、河を航行してバビロンに行く船はすべて円形で、革で作られている。

彼らはアッシリアの上手に住むアルメニア人の国で船を作る。まず柳の木を切って船の骨組を作り、その外側に船倉を作る要領で獣皮を張り巡らせる。その際、船尾を広めたり船首を狭めたりせず、盾のように円形に作る。そして船内に藁を敷きつめ、積荷を満載して河を下ってゆく。河を下る積荷は、ほとんどが酒を詰めた椰子材の酒樽である。

船は、二人の男が立ったままで水かきを用いて操る。一人が水かきを手前へ引くと、もう一人は向うへ押し出す。船の大きさはさまざまで、小さいものもあれば非常に大型のもある。最大のものになると、五千タラントン(72)の荷を積める。どの船にも生きたロバを一頭乗せている。大きい船なら数頭乗せている。

(72)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

船がバビロンに着き、荷を降ろすと、彼らは船の骨組と藁を全て競売にかけて処分し、獣皮はロバの背に積んでアルメニアヘ持ち帰るのだ。

それは、河の流れが速いため、河を遡って帰るのは不可能だからで、またそれゆえにこそ、木材で船を作るのではなく、獣皮を用いるのである。そしてロバを牽いてアルメニアヘ帰り着くと、また同じやり方で別の船を作るのである。

[1.195] 彼らの船は右のとおりである。衣服に関しては、先ず足まで届く長い麻の肌衣を身につける。そしてその上にもう一枚毛の下着をまとい、その上から白い上衣を羽織る。靴は、この国特有のものを用いるが、ボイオティア人の履くサンダル靴によく似ている。髪は長く伸ばして細紐で結び、全身に香油を塗る。

また各人が印章と手作りの杖をもっている。そして杖にはリンゴやバラ、ユリ、鷲など、さまざまな図案が彫られている。図案のない杖は特たないのが、その風習である。ともかくも、彼らの身につけるものは、かようなものである。

[1.196] では、彼らの習俗について話をすすめよう。その中で最も理にかなっていると我々が感心するのは、次のような風習であるが、このような風習はイリリアのエネトイ人にもあると聞いている。すなわち、部落ごとに毎年一回、嫁入りの年頃になった娘を全員ひとつ処に集め、その周りを大勢の男たちがとり囲むのだ。

そして係の役人が娘を一人ずつ立たせて売り出すのである。最初に一等器量のよい娘から始め、この娘が高値で売れると、次に二番目に器量のよい娘を売り出す。こうやって娘たちは結婚のために売られるのだ。結婚したいと思っているアッシリアの富裕な男たちは、一番の美人を求めて互いに値をせり上げることになる。しかし庶民階級で結婚を望む者は、容姿の優れていることなど求めず、持参金つきの醜女(しこめ)を手に入れるのだ。

係の役人が一等美貌の娘たちを売り終ると、今度は最も容姿の優れない娘や不具の娘を呼び出し、最少額の持参金とともにこの娘を娶ろうとする男を募り、競りにかけるのである。そして娘は最少額を示した者に落ちる。ところがその金は、美貌の娘たちが競りで得た金で支払われるのであるから、美人娘が不器量な娘や不具の娘に持参金をもたせて嫁入りさせることになる。

そしてこの国の男は、自分の娘といえども、自分の気に入った相手に娘を嫁がせることは許されておらず、また娘を買った男も、その娘を確実に妻とすることの保証人を立てた上でなければ、娘を連れてゆくことは許されていないのである。

当人同士がうまくゆかないときには、男が持参金を返す習いだった。また他の部落からきた者でも、望めば娘を買うことができた。

これが彼らの最も秀逸な風習だったが、今では存続していない。近頃彼らは別の方法を考え出し、それを行なっている。そのようにしたのは、娘たちか不当な扱いを受けたり、他の町へ連れ去られたりするのを防ぐためだった。というのも、ペルシア人に占領されて悲惨な目に遭わされ、貧窮に陥ってしまったので、庶民階級はみな生きる術を失い、娘たちに売春をさせているからである。

[1.197] さて彼らの習俗で次に秀逸なものを挙げてみる。ここでは医者がいないので、病人は街の広場へ連れて行かれる。そこで通りがかった人が、その病人と同じような病気を患ったことがあるか、または似たような症状を見たことがある場合には、病人のそばに行って病気について助言し、励ますのである。そして自分自身が病気から回復したやり方や、他の人が回復したのを見たやり方を教えるのだ。そして何人といえども、病気について話もせず、訊ねることもせずに通り過ぎることは許されないのである。

[1.198] この国では、葬儀の際、死者を蜂蜜に漬けて埋葬する。葬儀の次第はエジプトのそれとよく似ている。またバビロンの男は妻と交わったあと、必ず香を焚きしめ、そのそばに坐る。妻も向かい合って鎮座する。そして夜明けとともに身体を洗うのだが、体を洗うまでは、いかなる容器にも触れない。なおアラビア人もこれと同じことをしている。

[1.199] バビロン人の風習の中で最も下品で恥ずべきものは、この国の女が誰でも一生に一度はアフロディテ神殿の境内に坐り、見知らぬ男と情を交わさねばならぬという習わしである。金持ちで誇り高く、ほかの女人たちと交流することを嫌う多くの女たちは、天蓋つきの二頭立て馬車で神殿に乗りつけ、大勢の侍女を従えて立っている。

しかし大方の女は、アフロディテの神域の中で、頭に紐を冠のように巻いて坐っている。そこには途方もなく大勢の女たちが出入りする。そしてまっすぐな通路が、女たちの間を縫ってあらゆる方向に通じていて、男たちは、この通路をとおりながら女を物色するのだ。

女が場所を決めて座ると、見知らぬ男が銀貨を女の膝に投げ、神殿の外でその男と交わらぬ限り、家に帰れないことになっている。そして硬貨を投げた男は、「ミリッタ神の御名のもと、そなたを指名する」とだけ云えばよいのだ。ここでミリッタ神というのはアッシリアにおけるアフロディテの名である。

金額の多寡は問われない。女は決して拒むことをしないからである。この金は投げられることによって神聖なものになるので、突き返すことは神の掟に触れるからである。女は最初に銀貨を投げた男に従い、決して拒むことはない。男と交われば、女は女神への神聖な務めを果たしたことになるので、家へ帰るが、そののちは、どんなに大金を積んでも、その女をものにすることはないだろう。

容姿に優れた女はすぐに自由の身となるが、器量の悪い女は務めを果たせないので、永い間待ち続けなければならない。中には三年も四年も居残る女もいる。キプロスでも、幾ヶ所かにこれと似た風習がある。

[1.200] 以上がバビロン人の風習である。なおこの国には魚のほかには何も食べない部族が三つある。彼らは魚を獲ると日に干して乾燥させ、それをすり鉢に投入し、すりこぎですり潰したあと、モスリンの布で漉す。そのあとは、好みに応じて、こねて柔らかいケーキのようにして食べたり、あるいは焼いてパンのようにして食べる。

[1.201] キュロスはこの民族も征服すると、今度はマッサゲタイ人も支配したくなった。この民族は多くの人口を抱え、勇猛で、住んでいるところは東のかなたで陽の昇る方向、アラクセス河を越えたあたりで、イッセドネス人に対峙していると云われている。またこの民族は、スキタイ人だと言う人もいる。

[1.202] アラクセス河はイストロス河(ドナウ河)より大きいと言う人もいるし、また小さいと言う人もいる。この河の中にはレスボス島ほどの大きさの島が多数あると云われており、その島の住民は、夏のあいだはあらゆる種類の根を掘り起こして食糧とし、熟した木の実は食糧として貯え、冬になるとそれを食べていると云われている。

彼らが見つけた木の中には、次のような効果をもたらす実のなるものがあると云われている。大勢が集まって火をおこし、それを囲んで車座となり、この実を火の中に投げ込れる。すると、火中に投げ入れられた実が焼け焦げる匂いによって、ギリシア人がブドウ酒に酔うようにして、彼らはその匂いに陶酔するのだ。投げ込まれる実の数が増えるにつれて彼らの酔いも増し、ついには立ち上って踊り歌いだすという。彼らの生活のありさまは、このようなものだと伝えられている。

アラクセス河(73)は、キュロスが三百六十の支流に分けたギュンデス河と同じく、マティエネ人の国にその源を発していて、四十の河口から注ぎ出ている。その中の一つをのぞき、すべて沼地や湿地に注いでいる。この沼沢地には、生魚を食べ、アザラシの皮を日常の衣服に用いている人間が住んでいるという。

(73)本節におけるアラクセス河は、その流れの説明から察するに現在のアラス河(Aras)と思われる。ところが本巻二百五節において、キュロスの王国とマッサゲタイ国の間にこの河が流れていることになっているので、アラクセス河はアラル海に注ぐオクスー河(Oxusまたはjihon) またはヤクサルテス河(JaxartesまたはSihon)であるはずだ。これに関する詳しい論考は、ローリングソンによる訳書第一巻の付録を参照されたい。

アラクセス河の残りひとつの河口は、何ものにも妨げられることなくカスピ海に注いでいる。このカスピ海はそこだけで孤立した海で、他の海と繋がっていない。というのは、ギリシア人が航海しているすべての海も、彼らがアトランティスと呼んでいる「ヘラクレスの柱」(*)を越えた先の海も、また紅海も、すべてが一つにつながっているからである。

(*)ジブラルタル海峡の入口にある岬につけられた古代の地名。

[1.203] つまりカスピ海は分離独立している海で、長さは櫂による船で十五日、幅は一番広いところで八日の旅程である。この海の西側には、ほかのどこよりも大きく高いコーカサス山脈が続いている。コーカサスの山中には多種多様の民族が住んでいて、その大部分が野生の木の実を食糧にしている。

またここには、ある種の葉を繁らせる木がある。この葉をすり潰して水に溶かし、それを用いて衣類に模様を描くと、洗ってもはげ落ちず、はじめから織り込んだように羊毛に染みこんではげないという。また伝え聞くところでは、男女の交わりは家畜同然で、公然と行なわれるそうだ。

[1.204] このいわゆるカスピ海の西方にはコーカサス山脈が聳えているが、陽の昇る東方には、見渡すかぎり果てしなく拡がる大平原が続いている。この大平原のほとんどを占めるのが、キュロスが遠征を企てたマッサゲタイ族なのである。

キュロスをこの遠征に駆り立てた強力な動機は数々あった。第一には彼の出生、すなわち自分は並の人間ではないという信念と、次にこれまでの合戦における数々の勝利だった。キュロスが軍を進めると、いかなる民族もその手から逃れることができなかったのである。

[1.205] その当時、マッサゲタイは、夫に先立たれたトミリスという女王が統治していた。キュロスは、女王を自分の妻に迎えたいという偽りの申し出を使者に持たせて女王に求婚した。しかしトミリスは、キュロスが欲しがっている自分ではなくて、マッサゲタイの王位であることがわかっていたので、彼の要望を拒んだ。

キュロスは策略が不首尾に終わるや、アラクセス河に向けて進軍し、公然とマッサゲタイ攻撃の準備をはじめた。まず軍勢が河を渡れるように船橋を組み、台船の上に櫓(やぐら)を築かせた。

[1.206] この作業を進めているキュロスの許へトミリスは使者を送り、次のように告げた。

「メディア王に申す。只今せいておられる仕事はおやめなされ。それをやり遂げることが御身のためになるかどうかを、そなたはわかっておられぬ。そのようなことはやめて、ご自分の領土を治め、われらがその民草を統治するのを、じっと見ていていただきたい。

しかし万一そなたがこの忠告を喜ばれず、平和を守ることより他のどんなことでも実行するお考えなら、そしてまたマッサゲタイの勇猛さを試してみたいと強くお望みならば、河に橋を架けるという今の工作は中止なされて、我らが河から三日の旅程を退いたあとで、河を渡ってわが国に入られよ。あるいは、われらを貴国内で迎え撃つことをお望みならば、そなたも我らと同じように軍を退かれよ」

これを聞いたキュロスは、ペルシア軍の重臣たちを召集し、集まったところでその問題を示し、どちらをとるべきかを協議した。重臣たちは全員揃ってトミリスとその軍を自国に迎え撃つべしと進言した。

[1.207] この時、その場に居あわせたリディア人のクロイソスは、この説に異を唱え、反対の意見を述べた。

「殿、以前にも申し上げたとおり、みどもはゼウスの御心によって殿のもとへ参った者にござる。それゆえ、王家をおびやかすと見た災禍は、全力でこれを払いのける所存にござる。みどもに降りかかった災難は辛くはありましたが、よい教訓になっております。

さてもし殿が御自身およびご麾下の軍隊ともども、不死身であるとお考えであるなら、みどもの意見など申し上げるには及ばぬものと存じまする。しかしながら、殿みずからも、また殿が率いておられる者どもも、みな人間であることを弁えておいでならば、知っていただかねばならぬことがござる。まず人の世は車輪のようなもので、くるくる廻りつつ、同じ者が永遠に栄えるということは許されておらぬのでござる。

さて只今の問題に関し、みどもはここにおられるお歴々とは反対の考えをもっております。もし敵を国内に入れるとすると、次のような危険がござる。すなわち万一敗れたとすると、殿は全帝国をも失われることになりましょう。なぜというに、勝ったマッサゲタイが引き返すことはあり得ず、必ずや殿の領土に攻め寄せることが明らかでありますゆえに。

また殿が勝利をおさめられたとしても、彼らの国に侵入し、マッサゲタイを撃破して逃げるのを追うことに較べれば、その戦果は雲泥の差にござる。さすれば、さきに申し上げたことと逆になり、敵を打ち負かしたあとは、トミリスの本拠めざして進軍なさればよろしいかと。

また、ただいま申し上げたことは別として、カンビュセスの子キュロスともあろう者が、ひとりの女ごときに屈して退却するなどは、恥辱であるのみならず、許されることではありませぬ。そこでみどもの考えでは、河を渡って敵の退いたところまで進み、次のようにして敵を制するように努めるべきかと存じます。

聞くところでは、マッサゲタイ人はペルシアの結構な品々を知らず、大層ぜいたくな料理も味わったことがないと申します。そこでこういう者どものために、ヒツジやヤギなどの肉をたっぷり切り刻み、それを料理して、我らの陣地で宴に供してやるのです。加えて生(き)のぶどう酒を入れた壷も、あらゆる種類の食物も惜しまず用意するのでござる。

そうしておいて、軍勢の中で最も戦力の弱い部隊だけを残し、ほかの者たちは河まで再び退くのです。みどもの判断に誤りなくば、マッサゲタイ人がこの盛りだくさんの馳走を見れば、必ずやそれにかぶりつくでありましょう。そのあとは、我らが大仕事を成し遂げる番にござる」

[1.208] こうして意見の対立を見たが、キュロスは最初の説を捨ててクロイソスの説を採り、自分の方が河を渡って攻撃に向かうゆえ、そちらは退くようにと、トミリスに通告した。そこでトミリスはまえに約束したとおり軍を退けた。キュロスは、王位を継がせるつもりのわが子カンビュセスにクロイソスを預け、マッサゲタイ征討の渡河作戦が不首尾に終わったとしても、クロイソスを敬い、手厚く面倒を見るようにと厳しく申し渡した。こう命じておいて二人をペルシアヘ帰し、自分は麾下の軍勢とともに河を渡っていった。

[1.209] キュロスがアラクセス河を渡りきり、夜になってマッサゲタイの国で寝ていると、かれは次のような夢を見た。ヒスタスペスの長男が両肩に翼をつけて現われ、一方の翼でアジアを、もう一方の翼でヨーロッパを覆い隠したのである。

アルサメスの子ヒスタスペスは、アカイメネス家の出だが、かれの長男がダリウスで、その当時は二十歳前後、まだ出陣年齢に達しないというので、ペルシアに残されていた。

目を覚ましたキュロスは、この夢についてじっと考え込んでいた。そしてこの夢が捨て置けぬことのように思われたので、ヒスタスペスを呼び、人払いをして云った。

「ヒスタスペス、お前の伜がワシとワシの王権に陰謀をめぐらしておることがわかったぞ。どうしてそれがはっきりわかったか、話してやろう。

神々はワシのことを気にかけていて下さり、ワシの身に起こらんとすることは、何事によらず前もってお示し下さるのだ。実は昨夜、ワシは夢を見たのだ。お前の長男が肩に翼を生やし、一方の翼でアジアを、もう一方でヨーロッパを覆い隠すという夢を。

この夢よりすれば、かれがワシに陰謀をめぐらしていると考えるほかはない。さればお主は急ぎペルシアヘ帰り、ワシがこの国を従えたのちに帰国したとき、この件につき尋問するゆえ、ワシのもとへ連れてくるように手配をしておけ」

[1.210] キュロスは、ダリウスが自分に陰謀を企てていると思ってこう云ったのだが、実は神がキュロスに示されたのは、かれがこの地で最期を遂げ、ダリウスが王位を受け継ぐということだった。

そこでヒスタスペスはこう返答した。
「殿、ペルシアに生まれた人間で、殿に陰謀を企む者などおりませぬぞ!いるとすれば、その者が一刻も速く絶え果てることを祈るばかりにござる。われらペルシア人が奴隷の身から解き放たれたのも、また隷従する立場からあらゆる民族の支配者となったのも、みな殿のお蔭にござる。みどもの伜が殿に向かって革命を企らんでおると夢のお告げがありせば、倅めを差し出しますゆえ、お気の済むようにお裁きなされませ」

このように返答し、ヒスタスペスは、キュロスのために息子ダリウスを監視すべく、アラクセス河を渡ってペルシアヘ出立した。

[1.211] さてキュロスはアラクセス河から一日の行程を前進し、クロイソスの策に従って行動を開始した。準備を終え、非力要員を残してキュロスとその主要部隊がアラクセス河まで退くと、マッサゲタイの軍勢は、その三分の一の勢力でキュロス軍の残留部隊を攻撃し、抵抗するペルシア人を殺戮した。そしてそこに並べられていた宴の料理を認めると、敵を殲滅したあと、坐りこんでもりもり食べ始めた。そして腹一杯食べかつ飲んで眠ってしまった。

そこヘペルシア軍が襲いかかり、その多数を斃したが、それ以上に多くを捕虜にした。その中にはマッサゲタイ人の将軍で、トミリス女王の息子のスパルガピセスもいた。

[1.212] 自軍と息子の身に起った顛末を知ると、トミリスは使者をキュロスのもとへ送り、次のように伝えさせた。

「血に飢えたるキュロスへ告ぐ。これしきのことで思い上るでない。この戦など、何ら誇るべきものにあらず。汝らペルシア人でも腹に満たせば凶暴となり、身体に廻りめぐれば悪しき言葉が口にのぼりくるブドウの実、かような毒をもってわが息子を欺き、戦わずして、勝ちをおさめたのであるゆえにな。

さてわが言葉をありがたき忠告として聴くがよい。マッサゲタイ軍の三分の一にも悪逆を働いた汝ではあるが、罰を受けぬうちにわらわの息子を返し、この国を去れ。汝しかせざれば、マッサゲタイ族の主たる陽の神に誓っていう。汝、血に飽くなきを血に飽かしめん」

[1.213] この口上を聞いてもキュロスは全く意に介さなかった。一方で女王トミリスの息子スパルガピセスは、酔いから醒めて自分のおかれている悲惨な状態を覚ると、縛めを解いてほしいとキュロスに頼み、それが容れられ縛めを解かれ、手が使えるようになると、間髪を入れず自決して果てた。

[1.214] こうしてスパルガピセスは最期をとげたが、一方のトミリスはキュロスが自分の言辞を聞き入れぬと見ると、麾下の全兵力を集めてキュロスに立ち向かった。この合戦こそは、私の見るところ、かつて異邦人同士が戦った合戦のなかで、最も熾烈なものだった。聞くところでは、戦いの経過は次のようであった。

最初、両軍は離れたところから互いに弓矢で応戦していたが、やがて矢が尽きると、槍と剣をもって突撃し混戦となった。戦いは長時間にわたったが、双方ともに退くことはなかったという。しかし最後にはマッサゲタイ軍が勝ちを制した。

ペルシア軍の大部分はここで討ち死にし、キュロス自身も戦死してしまった。その在位年数は三十年に一年缺けるものだった。

トミリスは革袋に人血を満たし、ペルシアの戦死者の中にキュロスの遺骸を探しまわった。そして見つけだすとその首を革袋の中へ落とし込み、遺骸を傷めつけながら次の言葉を投げかけた。

「わらわは生き永らえ、いくさではお前を打ち負かしたとはいうものの、結局は、奸計によってわが子をお前にとられた、わらわの負けじゃ。さあ脅しつけたとおり、お前を血で満たしてやろう」

キュロスの最期については数多くの話が伝えられているが、ここで話したことが、もっとも信頼できると私は思っている。

[1.215] マッサゲタイ人の服装や生活様式は、スキタイ人のそれとよく似ている。彼らには騎兵も歩兵もある(二つに別けているので)。また弓兵、槍兵もあり、戦闘用の斧を携えるのが、彼らの習わしである。また彼らはすべてにおいて黄金と青銅を用いる。槍の穂先、鏃、戦斧(せんぷ)には青銅を用い、兜、腰帯、胴巻きなどの装飾には黄金を用いる。

馬についても同様で、馬の胸当ては青銅製だが、馬勒(ばろく)、馬銜(はみ)、額飾りは黄金製である。鉄と銀は全く用いない。この国では金と青銅は豊富に産出するが、鉄と銀の産出は全くないからだ。

[1.216] さてこの国の風習について話そう。男は各自が妻を娶るが、妻たちはすべての男が共有する。ギリシア人はそれをスキタイ人の風習であるというが、そうではなくて、それはマッサゲタイ人の風習なのだ。マッサゲタイの男が、ある女に懸想すると、その女が寝泊まりしている馬車の前に自分の箙(えびら)を吊し、大っぴらにその女と交わるのである。

彼らは人生の年齢に制限をもうけているわけではないが、非常な高齢に達した者があると、親類縁者が残らず集まり、その男を殺し、それとともに家畜も屠り、その肉を煮て饗宴をはるのだ。これが最も幸せな死に方だと彼らは思っている。

一方、病死した者は食べずに地中に埋め、殺されるまで生きのびられなかったのは不幸なことだったと、悲しみ嘆くのだ。

彼らは農耕は全くせず、家畜と魚を食料にしている。魚はアラクセス河から豊かに採れる。また乳を飲用にしている。

彼らが神として崇拝するのは太陽だけで、馬を生贄に供える。馬を供える理由は、神々の中で最も俊足の神には、生けるものの中で最も足の速いものを供えるという考えによる。

第二巻

[2.1] キュロス亡きあと、王位を継いだのはカンビュセスである。カンビュセスはキュロスの子で、母はパルナスペスの娘カッサンダネである。カッサンダネがキュロスを残して先立つと、キュロスは深く嘆き悲しみ、その支配下の全ての者たちにも喪に服するように布告した。

カンビュセスは、この婦人とキュロスとの息子だが、イオニア人とアイオリス人については、父から受け継いだ奴隷とみなしていたゆえ、エジプト遠征に際しては、支配下にあったほかの地域からの人員とともに、支配下のギリシア人も随行させた。

[2.2] さてエジプトでは、プサンメティコスが王になるまでは(1)、自分たちが、この地上で最古の民族だと信じていた。ところがプサンメティコスが即位し、どの民族が最古であるかを知りたく思ってからは、プリギア人が自分たちよりも古い民族であり、自分たちはそれ以外の民族よりは古いと信じるようになった。

(1)おそらくB.C.664

プサンメティコスは、人類最古の民族を探り出す方法がどうしてもわからず、ついに次のような方法を考え出した。すなわち庶民階級を親とする新生児を二人選び出し、これをひとりの羊飼いに預け、羊の群と一緒に育てさせた。そして、子供にはひと言も言葉を聞かせないように、また子供は人里離れた小屋に二人だけで寝かせておき、時々はヤギを連れていってその乳を飲ませ、そのほか然るべき世話もするように指示を与えた。

プサンメティコスがこんなことを行ない、かつまたこんな命令を下したのは、赤子が意味のない幼児語を発する時期を脱したとき、最初にどんな言葉を口にするかを知りたいと思ったからである。そしてかれの思いは遂げられたのだった。羊飼いが言いつけ通りにして二年たったある日のこと、小屋の扉を開けて中へ入ると、二人の子供は両手を差しのべながら男に駆けよって抱きつき、「ベコス」と叫んだのである(*)。
(*)Godrayその他の訳者は、原文 「τὰ παιδία ἀμφότερα προσπίπτοντα "βεκός" ἐφώνεον ὀρέγοντα τὰς χεῖρας.」を、
「both children ran to him stretching out their hands and calling “Bekos!”」のように、
「二人の子供は両手を差し伸べて彼のところへ駈けより、"ベコス"と叫んだ」となっているが、花房友一氏のご指摘により、表記の通りに変更した。多謝!

初めてこの言葉を聞いたとき、羊飼いはそのことを黙っていたが、たびたび小屋へゆき、気をつけていると、常に同じ言葉を聞くようになった。そこで羊飼いはこのことを王に報告し、命令によって赤子を王のもとへ連れていった。プサンメティコス自身がその言葉を聞くと、「ベコス」という言葉はどこの国の言葉かを調べさせた。そしてその言葉はプリギア人の言葉で、パンを意味する言葉だとわかったのである。

以上のことから、エジプト人は、プリギア人の方が自分たちよりも古い民族であることを認めるようになったのである。私は、この話をメンフィスのヘパイストス(2)の司祭たちから聞いた。ただギリシア人は、バカバカしい話を多く伝えていて、例えばプサンメティコスは舌を切った女たちにその赤子を育てさせた、というような話もある。

(2)エジプトのプタ神(Ptah)

[2.3] 子供を養育させた話については、メンフィスでヘパイストス(3)の司祭たちと話し合ったとき、ほかの話もさまざま聞いている。そして私は、テーベやヘリオポリスの街の司祭たちが、メンフィスの司祭の話と同じこと話すのかどうかを知りたいと思い、まさにその目的のために、これらの街へも行ってみた。というのも、ヘリオポリスの住民は、エジプトの歴史については最も詳しいといわれているからだ。

(3)エジプトのプタ神(Ptah);注釈(2)と全く同じ

ただ、私は、聞き知った話の中で、その名をあげることを別として、神に関することは語らないでおく。神々に関することは、誰でも同じように知っていると思っているからである。それゆえ、私が神に関することを述べるのは、話の都合上、やむを得ない場合に限られる。

[2.4] ところが人間界のことに関しては、司祭たちはみな一様に次のように言っている。すなわち一年というものを最初に考え出したのはエジプト人であり、その一年を、季節をとおして十二に分割したのもエジプト人であると。彼らの話では、これは星の観察によって発見したという。私の考えでは、暦の計算に関してはエジプト人の方がギリシア人よりも正確である。なぜというに、ギリシア人は季節に合わせて一年おきに閏月を一度加えるが、エジプトでは十二ヶ月をそれぞれ三十日とし、さらに毎年五日をそれに追加している。このようにして季節の循環が暦に一致するようにしているのだ。

また彼らの言うには、十二神の呼び名(4)を定めたのもエジプト人が最初で、ギリシア人はあとからそれを踏襲したという。さらに祭壇、神像、神殿を神々にふりあてること、石に図案を刻むことも、自分たちが最初に始めたことだと言っている。これらのほとんどについて、司祭たちは私に実例を示してみせた。

(4)「十二神」に関しては極めて曖昧。エジプトの位階で上から八(または九)だけが明らかであるに過ぎない。また第二階級には十二神がある。本巻四十三節、ローリンソン訳、第二巻の付録・第三章の論評を参照されたし。

彼らの言い伝えによると、エジプト初代の人間王はミンといった。この王の時代には、テーベ州(5)を除き、エジプト全土が沼沢地だった。すなわち河口からナイルを遡航すること七日のところにあるモエリス湖(6)の北方にあたる全領土が、水面下にあったという。

(5)上エジプトの南部
(6)現在のファイユーム(Fayyum);ナイル河西方にある。

[2.5] エジプトの国土に関する彼らの話は、嘘ではないと私は思う。というのは、たとえ以前に聞いたことがなくとも、常識を持ち合わせていれば、すぐにわかることであるゆえ。今日ギリシア人が船で到着するエジプトは、土砂の堆積によって河からエジプトの民に贈られたものである(*)。それに加えて、モエリス湖の上流(南方)へ遡航すること三日におよぶ地域もまた、ほかの地域と同じ性質をもつ。ただ、司祭たちの話にはこの地域のことは出てこなかったが。

(*)いわゆる「エジプトはナイルの賜」

以上が、エジプトの国土の状態である。そして先ず第一に、船でエジプトに近づき、陸地に一日の航程の距離だけ離れた場所で測深線をおろしてみると、十一ファゾム(*二十米)の深さから泥土が上がってくるのがわかるだろう。これは、このあたりまで陸から土砂が流れ来ていることを示している。

(*)1ファゾム(fathom):主に海で用いる長さの単位でおよそ百八十三糎

[2.6] そして第二に、エジプトの海岸線の長さは六十スコイノス(7)(六百六十粁)で、エジプトの海岸線がプリンテイネ湾からカシオス山麓のセルボニス湖のあいだと定義するなら、その間の距離が六十スコイノスということである。

(7)「綱」という意味。一スコイノスは六十スタディア(十一粁)

これは、国土が狭い場合には土地をファゾムで計測し、それより広い場合にはスタディアで、さらに広い国土の場合にはパラサングスで、極めて広大な領土である場合にはスコイノスで測ることになっている。

ここでいうパラサングスは三十スタディアに相当し、スコイノスはエジプトの尺度で、一スコイノスは六十スタディア(十一粁)である。従つてエジプトの海岸線の長さは、三千六百スタディア(六百六十粁)となる。

(*)一スタディア=百八十米

[2.7] エジプトの海岸線から内睦に進みヘリオポリスまでの間は、広くて平坦で、水の多い湿地帯だ。海岸から河上に向かってヘリオポリスに至る行程は、アテナイの十二神の祭壇からピサにあるオリンピア・ゼウス神殿までの行程とほぼ同じである。

計算すると、これら二つの距離の違いはわずかで、その差は十五スタディア(三粁)を越えないことがわかる。というのは、千五百スタディアというのは、ちょうど海岸からヘリオポリスまでの距離で、アテナイからピサまでの旅程は、これより十五スタディア少ないからである。

[2.8] ヘリオポリスを越えてさらに河上に進んだ地域では、エジプトの国土は狭くなる。一方では南北に走るアラビアの山脈に接していて、これは南に延びて、いわゆる「紅海」に達している。この山中には石切場があり、メンフィスのピラミッドを建造する石はここで切り出されていた。先に話したように山脈はここで行き止まりとなっている。私が調べたところ、山脈の東西の幅は、最大でニカ月の旅程であり、東端の地域では乳香が産するという。以上が山脈のようすである。

さてリビア側には岩石の多い別の山脈が聳えており、この山中には砂に覆われたピラミッドが幾つか残されている。これはアラビアの山脈と同じく南に向かって走っている。

そしてヘリオポリスより上手では、エジプトの国土はそれほど広くなく(8)、ナイルを遡ること四日の旅程の地域は、エジプトの国土は狭い。先にあげた二つの山脈にはさまれた地域は平坦だが、その最も狭い場所では、アラビアの山脈からいわゆるリビア山脈に至る距離は、二百スタディア(三十六粁)を越えないようだ。しかしそこを越えると、エジプトは再び広くなる。以上が、この国の地勢である。

(8)ナイル渓谷の多くはエジプトの領域外にある。この文は「エジプトにとってそれほど遠くない」、すなわち国土の広さに比べてそれほど離れていない、という意味に取れる。

[2.9] ヘリオポリスからテーベまではナイルを遡航すること九日の旅程で、この距離は四千八百六十スタディア(八百七十五粁)となり、スコイノス単位になおせば八十一スコイノスである。

以上が、エジプトの外縁の全てだ。海岸線の長さが三千六百スタディア、海岸からテーベに至る内陸の距離は、六千百二十スタディア(一万一千粁)。そしてテーベから、いわゆるエレパンティネという街までの距離は千八百スタディア(三百二十四粁)である。

[2.10] いま私があげた国土の大部分は、土砂の堆積によって後からエジプトにもたらされたものであると、司祭たちが語っているが、私自身もまたその通りだと考える。というのは、先に述べたメンフィスより上手の二つの山脈に挟まれた地域は、私の見るところ、かつては海の入江であったはずで、イリオンやテウトラニア、エフェソスなどの周辺地帯やマイアンドロス河流域の平野などに似ている。ただそれは、これら小さな地域を巨大な地域に当てはめて比較しての話ではあるが。

というのも、土砂によってこれらの地域を形成した河のどれひとつとして、ナイルにある五つの河口のうち、どれと比べてみても、それに匹敵する規模のものはないからである。

ナイルほど大きくはないが、それでも大規模な沖積作用を現している河はほかにもある。それらの河の名をいくつかあげることもできるが、中でも特に言挙げすべきはアケロオス河だ。この河はアカルナニア地方を流れて海に注いでいるが、すでにエキナデス群島の半ばを陸地とつなげてしまっている。

[2.11] さてエジプトからそれほど遠くないアラビアには、いわゆる「紅海」(9)から陸地に延びている湾がある。その長さと幅は次のとおりである。

(9)「いわゆる紅海」はアラブ南東の海。くだんの湾は、この紅海から陸地に延びている。おそらくナイル・デルタもかつては湾だっただろう。そしてそこには、エジプトに向かって延びていて、互いの先端部がそれほど遠くない二つの湾があったはずだ。

その長さは、湾の最奥部から大海に出るまで、櫂船で四十日の航海を要し、その幅は、湾の最も広いところで半日の航程である。この湾内では毎日潮の満ち干がある。

今のエジプトも、かつてはこれに似た別の湾だったと、私は考えている。この湾は北の海からエチオピアの方へ延びていて、他方の、これから私が説明するつもりのアラビア湾の方は、南からシリアに向つて延びている。これら二つの湾は陸地に向かって延びて接近し、最後はわずかな陸地で隔てられていた。

ナイルの流れがアラビア湾に流れ込んでいたのであれば、二万年の間というもの、この河によってアラビア湾が土砂で堆積することがないと云えるだろうか?実のところ、土砂で埋まるのは一万年でも十分だと私は思っている。私の生れる以前の時代に、これよりもずっと大きい湾が、これほど巨大で活動的な河によって、その土砂で埋まることなどないと云えるだろうか?

[2.12] エジプトに関して、このように話す人を私は信じているし、また私自身もまったくその通りだと思っている。というのも、エジプトが隣接地域よりも海へ突き出ていることや、山の中に貝類が露出していること、ピラミッドが腐食されるほどに、地表に塩の結晶がしみ出ていることなどを私自身が見ているからだ。

エジプトにおける唯一の砂山はメンフィス上流域(南)にしかない。さらにその土質は隣接のアラビア、リビア、またシリアとも違っている(シリア人はアラビアの沿海地域に住んでいる)。エジプトの土質は黒くて脆く、ナイルがエチオピアから運んできた沖積土から出来上がっているようだ。

ところがリビアの土質は赤くて幾分砂が含まれていて、アラビアとシリアのそれは粘土と石でできていることがわかっている。

[2.13] エジプトに関して司祭たちが私に話してくれたつぎのことも、この国土に関する有力な証拠だ。それによればモエリス王の時代には、河の水かさが八キュービット(三百六十糎)まであがると、エジプトのメンフィスより下流域(10)は氾濫したという。私がこのことを司祭たちから聞いた時、モエリスが亡くなってからまだ九百年は経過していなかった。ところが現在では少なくとも十五ないし十六キュービット(七米)まで水かさが上がらないと、河は氾濫しない。

(10)この言説は正しいと思われるが、モエリスはヘロドトスよりも九百年以上前の王だったはず。ナイルの低地が八キュービット上昇するのに九百年は短か過ぎる。

私の考えでは、モエリス湖より下流域、特にいわゆるナイルのデルタ地帯に住むこジプト人は、その陸地がこのまま同じ割合で隆起し続け、同じように面積を増してゆくなら、ナイルはもはやこの土地で氾濫しなくなるので、かつて彼らがギリシア人に向けて語ったのと同じ苦境を、彼ら自身がいずれは永久に経験することになるだろう。

というのは、ギリシアでは、その全国土が雨によって潤され、エジプトのように河の水によっていないことを知ったエジプト人が、ギリシア人はいつか頼りにしていたものから肩すかしを食らい、悲惨な飢饉に見舞われるだろう、といったことがあるからだ。すなわち神がギリシアに雨を与えず、干魃という苦難を下されるなら、彼らにはゼウスから水を賜わる以外、それを手に入れる手段がないので、ギリシア人は飢饉に打ち負かされるだろうという。

[2.14] ギリシア人に向けたエジプト人のこの予言は至極真っ当である。ではエジプト人の事情を述べてみよう。以前話したように、メンフィスの下流域が---隆起しつつあるのはこの地域であるから---これまでと同じ割合で隆起し続けるなら、ここに雨も降らず、農地への河の氾濫も起きないことになり、この地域に住むエジプト人が飢餓に苦しむことは必定だろう。

もちろん現在のところ、この地域以外のエジプト人や、その他の地域の全住民に比べ、この地城に住むエジプト人は、きわめて少ない労働で生活している。鋤(すき)や鍬(くわ)で田を起したり、他の地域の農民が収穫を得るためにこなしている農作業は全く必要ない。河が勝手に水かさを増して農地に水を供給し、また再び引いてゆくのである。そこで農民おのおのが種子をまき、畑にブタを入れて種子を踏みつけさせると、あとは収穫を待つだけとなる。そしてブタを使つて穀物を脱穀し、倉に収めるのだ。

[2.15] さてイオニア人の考えに従えば、デルタ地帯のみがエジプトだという。すなわち海岸線は、いわゆるペルセウスの監視塔からペルシオンの塩田に至るまでで、この間の距離は四十スコイノス(四十四粁)である。そして海岸から奥地へは、ケルカソロス(11)までとしている。ここでナイルは分岐し、ペルシオンとカノボスに向って流れている。これ以外のエジプトの地は、リビア領かアラビア領の一部であると、彼らは言う。しかしこの考えに従うなら、かつてエジプト人は国土を持っていなかったことになる。

(11)デルタ地帯の南端で、ナイルが二つの大きな支流に別れる場所。カイロのそれほど下流ではない。

これまで見てきたとおり、エジプト人みずからも云い、私自身もそう考えているのだが、このデルタ地帯は沖積地で、いわば近年になって形成されたものである。エジプト人がかつては国土をもたなかったなら、自分たちが世界で最初の民族だと言うことなどは馬鹿げたことだし、幼児が最初にどんな言語をしゃべるのかを調べる必要もなかったはずだ。

私の考えでは、むしろエジプト人は、イオニア人が言うところのデルタ地帯と同時に発生したのではなく、人類が生まれた時からずっと存在していたはずだ。そして国土が増大するにつれて、多くの人々はそのまま後に残ったが、下流に移動していった者たちも多かった。なお古くはテーベがエジプトと呼ばれていて、その周囲は六千百二十スタディア(一万一千粁)だった。

[2.16] さて右の事柄に関する我らの見解が正しいなら、イオニア人のエジプトに関する言説は誤りということになる。仮にイオニア人の説が正しいとするなら、イオニア人その他のギリシア人たちは正しい計算ができないことが明らかである。というのは彼らは世界全体をヨーロッパ、アジア、リビアの三つに別けているが、エジプトのデルタがアジアにもリビアにも属さないとするなら、これを四番目に加えねばならないからだ。

彼らの説によれば、ナイルはアジアとリビアを隔てているのではなく、この河はデルタの先端部で別れているので、デルタはアジアとリビアの中間に存在していることになる。

[2.17] ここで我らはイオニア人の説を捨てることにする。そしてこの件に関する我々の見解は次のとおりである。ちようどキリキアとアッシリアが、キリキア人とアッシリア人の住む国を指しているのと同じく、エジプトとはエジプト人の住む地城全体のことであり、当然のことだが、アジアとリビアの境界はエジプトの国境のほかには考えられない。

ギリシア人一般の考えに従うなら、瀑布(カタラクト)とエレパンテイネの街(12)を起点とするエジプト全土は二つに分けられ、一方はリビア、他方はアジアに属していることになる。

(12)シュエネ(アスワン)対岸の島

すなわちナイルは瀑布を起点としてエジプトを二つに区切って海に注いでいる。そしてケルカソロスの街までは一本の流れで、この街を過ぎてから三つに分れる。

三本のうち一本はペルシオン河ロと呼ばれていて東へ流れている。二本目は西に向かってカノボス河ロと呼ばれている。ただ、ナイルには真っ直ぐに流れる支流があり、これは下流に向かってデルタの先端に達すると、デルタの真中を通って海に注いでいる。この流れは最大でまた最も有名なもので、セベンニュテス河ロと呼ばれている。

セベンニュテス河ロに向かう水路には、そこから分れて海に入る二つの河ロがあり、一つはサイス河ロ、もう一つはメンデシオン河ロという。またボルビティノン河口とブコリコン河口は自然にできたものではなく、掘削されたものである。

[2.18] エジプトの広さが右に述べたとおりだとする私の見解が正しいことは、アンモンの神託も証明している。ただし私が調査してこの神託を知ったのは、エジプトに関する私の見解がすでに確定したあとだったが。

リビアに隣接するマレアとアピスの住民は、自分たちはエジプト人ではなくリビア人であると見なしていて、牝牛の肉を食べてはならぬという宗教上の戒律を不服に思い、アンモン神殿に使者を送り、自分たちとエジプト人との間には共通するところは全くないことを申告した。彼らの説では、自分たちはデルタの外に住み、生活様式もデルタの中の人々とは異なるゆえ、食物に禁忌をもうけないでほしいというのだ。

しかしアンモンの神はそれを許さず、こう返答なされた。ナイルによって水の恵みを受けている土地は全てエジプトであり、エレパンティネの街の下流域に住み、この河の水を飲むものはすべてエジプト人である、と。これが、彼らに下された神託だった。

[2.19] ナイルが水嵩を増して溢れると、デルタ地帯だけでなく、いわゆるリビアやアラビアも水没する。そのとき、双方とも堤防から二日の旅程の距離にわたって水に浸かり、時にはそれ以上のこともあり、またそれ以下の範囲ですむこともある。この河の性質に関しては、司祭たちからも他の誰からも、どんな知見も得られなかった。

それでも私が彼らからぜひとも聞きたいと思っていたことは、ナイルが夏至から百日間にわたって水嵩を増して氾濫し、この日数を過ぎれば水位を下げ、再び夏至が来るまで冬のあいだずっと水位を下げたままでいる理由だった。

ナイルがあらゆる河と違って逆の性質を示すのは、この河のどんな力によるものか、私はエジプト人に訊ねまわってみたが、これに関しては誰ひとり情報を持っていなかった。このほかにも、ほかの河ならどこでも吹く河風(13)が、ナイルに吹かない理由も知りたく思って訊ねてみた。

(13)河それ自体からの風ではなく、おそらく低地を上昇する定常的な気流のことだろう。

[2.20] しかし幾人かのギリシア人は、知恵のあるところを見せたく思ってか、ナイルについて三つの説を示した。しかしそのうちの二つは、その内容を示すだけにしておき、論じるつもりはない。

その一つの説は、ナイルの氾濫する原因は季節風(14)で、これがナイルの海へ注ぎ込むのを妨げるのだという。しかし季節風が吹かないことがしばしばあるにもかかわらず、以前と同じようにナイルは溢れている。

(14)夏に地中海から吹く北西の風。

さらにまた、季節風が原因なら、この風に逆らって流れる河も、ナイルと同じ現象を起こさねばならない。その上、これらの河はナイルよりも小さく、流れも弱いので、より一層大きな現象を起こすはずだ。しかしシリアにもリビアにも多くの河があるが、ナイルのような現象を起こす河はない。

[2.21] 二番目の説は、いま話したものよりさら理屈の通らぬ説で、とても信じがたいものだ。これによれば、ナイルは陸地全体をめぐり流れている大洋から流れ来ているので、このような現象を起こすというのだ。

[2.22] 第三の説は一番もつともらしいが、実は最も誤りが多く、ほかの説以上に正しくないものである。それによればナイルは雪解け水が流れ出したものであるという。しかしナイルはリビアから流れ出てエチオピアの中央を通りぬけ、エジプトに流れ来ている河である。

そもそもナイルが酷熱の地から発して、大方はそれより涼しい地域に流入してることを考えると、どうすれば雪解け水から河が発し得よう?実際、このような現象を理性的に判断できる者にとっては、ナイルが雪から発していることがありそうもないことに対する第一の、また強力な証拠が、リビアとエチオピアから吹いてくる風が熱いということだ。

第二に、この国では雨も降らず霜も降りないが、雪が降れば五日以内に 雨が降るはずだから(15)、この国に雪が降るなら雨も降るはずだ。第三に、この国の人間は暑熱のために色黒ということである。

(15)この言説に対する確たる根拠はないようだ。

またトビやツバメは一年中この地に留まって去ってゆこうとしない。鶴は冬のスキタイ地方から毎年この地に飛来し、冬を過ごしている。従つてナイルが流れている地域やその水源地に少しでも雪が降るなら、その必然のことわりとして、このような現象を見ることはないはずである。

[2.23] 大洋に関する説は、奇説というべきものであるゆえ、反論する必要もない。私は大洋という河を知らないし、恐らくはホメロスやそれ以前の詩人が、このような言葉を考え出して自分の詩に詠み込んだものと考えている。

[2.24] さて提示されたこれらの見解に異を唱えたからには、曖昧模糊としたこの問題について私自身の考えを示さねばならない。すなわちナイルが夏になると氾濫する原因について私はこう考える。

太陽は、冬のあいだは嵐のために通常の軌道から逸れ、リビアの内陸部の上を通過する。最も簡単に言うなら、これで全ては云い尽くされている。というのはこの神が最も近くに来て上から照りつける国が、水の涸れること激しく、またその地域の河が干上がるのが当然であるゆえ。

[2.25] これをもう少し詳しく説明すると次のようになる。太陽が通過するリビア内陸部における太陽の作用はどうかというと、この地域の大気は常に澄み切っていて、気候は温暖で、冷たい風は吹かないので、太陽は夏に中天を通るときと同じ作用を及ぼす。

すなわち太陽は自分の方へ水分を引きよせ、そうしておいてから今度は内陸部に追いやるのだが、それを風がとらえて拡散し、溶解する。そして予想されるとおり、その地方から吹く南風と南西の風が、ほかのどの風よりも多くの雨を含んでいる。

しかし太陽は、毎年ナイルから吸い上げた水を、全て放出してしまうのではなく、自分の近くにもいくらかは残していると、私は考えている。そして冬の寒さがゆるむと、太陽はまた中天へ戻り、そのあとも同じようにあらゆる河から水を引き寄せるのだ。

そして、その国は雨を受けて河は急流となり、大量の雨水によって増水し、氾濫する。しかし夏の間は雨が降らないうえに太陽によって水が吸い上げられ、河の水位は下がる。

ところがナイルは雨水が流れ込まず、またナイルだけが冬のあいだ太陽に水分を吸い取られるので、本来の水位である夏に比べて、水位ははるかに低くなる。すなわち夏には他のすべての河と同じく、ナイルも水を吸い取られるが、冬にはナイルのみが水を奪われるのだ。それゆえ、この現象の原因は太陽にあると、私は考えている。

[2.26] これは私の考えだが、これらの地域の空気が乾燥する原因も同じく太陽で、太陽がその通り道を焦がしてゆくからだ。そのためにリビア内陸部は常夏の状態である。

ただし、季節の配置が逆転し、南風と夏が北風と冬の配置に代わり、いま南風吹くところに北風が吹くとすると、太陽は冬と北風によって中天から追い出され、現在リビアの上を通過している場所からヨーロッパの内陸部を通過するようになるだろう。そうなると、私の考えるところでは、ヨーロッパ全土の上を通過する太陽の軌道において、現在ナイルに及ぼしている作用と同じものをイストロス河(ドナウ河)に及ぼすに違いない。

[2.27] またなぜナイルに微風が吹かないのか。これに関する私の見解はこうだ。微風というものは酷熱の地から吹くものではなく、常に酷寒の地から吹くものであるから。

[2.28] 以上、ここまで話したことはその通りで、太古からのことである。ナイルの水源に関しては、エジプト人、リビア人、ギリシア人を問わず、私と意見を交わした人々の中で、その水源を知っていると明言した人は誰もいなかった。ただエジプトのサイスの街のアテナイ宝物殿の書記が唯一の例外で、この男も確たる情報を持っているとは云ったものの、私には冗談のように聞こえた。その話の内容はこうだ。

テーベにあるシェエネとエレパンティネのあいだには、鋭く尖った山頂を持つ二つの山があって、そのひとつをクロピィ、もうひとつをモピィという。ナイルは、この二つの山の間から湧き出す底なしの水源から発していて、その半分は北のエジプトへ、他の半分は南のエチオピアへ流れているという。

この書記が言うには、エジプト王プサンメティコスが、この水源が底なしかどうかを調べさせたという。この王は数干尋もある織り綱を水源におろしてみたが、底まで達しなかったそうだ。

私が考えるに、この書記が真実を話しているとするなら、それは、水流が山腹に突進して激しい渦と上昇流が発生し、降ろされた測深線が底まで届かないことを示しているのだろう。

[2.29] これ以外は、誰からも何一つ聞き出せなかった。しかしできる限り調査を広げるとともに、エレパンティネの街まで足を運んでこの身をもって確認し、またこれより遠いところは伝聞によってわかったことは次のとおりである。

エレパンティネより先の奥地へ進むと大地は急峻となる。ここからは牛につけるように船の両側に綱をつけ、人力でこれを牽いてゆかねばならない。綱が切れると、船は流れにさらわれていってしまう。

この区間は船で四日の旅程だが、ナイルはマイアンドロス河のごとく曲がりくねる。右のようなやり方で船を進めねばならぬ流域の距離は十二スコイノス(百三十粁)である。そのあとは大地は平坦になり、河中にタコムプソという名の島がある。

エレパンティネより上流の地域にはエチオピア人が住んでいるが、この島の半分はエチオピア人、他の半分はエジプト人である。またこの島の近くには大きな湖があり、その周辺にはエチオピアの遊牧民が住んでいる。ここを過ぎると、この湖に注ぎ込んでいるナイルの流れに入る。

ここからは船を降り、河に沿って四十日間歩いて進まねばならない。なぜなら、このあたりは鋭く尖った岩が流れに突き出ていて、また多くの暗礁もあり、これらを避けて船を進めるのは無理なのだ。

いま云ったように四十日かけてこの地区を踏破すれば、再び船に乗って十二日間の船旅でメロエという大きな街にいたるが、これがエチオピアの首都である。

この街の住民はゼウスとデオニソス(16)のみを崇め、またこの二神を大いに崇拝しているので、ゼウスの神託所も造営されている。神が神託を下して戦いを命ずれば、彼らはいつでも、どこへでも軍を進めるのである。(17)

(16)アメンとオシリスを意味するギリシア語。
(17)この節におけるヘロドトスの記述はほとんどが曖昧で信頼できない。アスワン・ダムとアスワンの間を旅してみればわかるが、エレパンティネから上流の記述は正しい。しかし、もちろん、ダムの建設によって状況は完全に変わっている。

[2.30] エレパンティネからエチオピア人の首都までに要したのと同じ日数を、この街から船で進むと「脱走兵の国」へ着く。「脱走兵の国」というのはアスマクというのだが、これをギリシア語でいえば「王の左手に立つ者」となる。

エジプトの武士階級だった二十四万の者たちが、かつて王に叛いてエチオピアに走ったことがある。その原因はこうだ。プサンメティコスの統治下、エチオピアに対してエレパンティネに守備隊がおかれ、アラビアとアッシリアに対してはペルシオンのダプナイに配置され、リビアに対してはマレアに守備隊が配置された。そして今でもプサンメティコスの時代と同じ場所に、ペルシアは守備隊を配置し、エレパンティネとダプナイでペルシア兵が警備に当っている。

さてエジプトの守備兵たちは三年間警備していたが、一人としで交替の者がこなかった。そこで合議の末に全員が一致協力し、プサンメティコスに叛き、エチオピアに走ったのである。

これを知ったプサンメティコスは彼らを追いかけ、追いつくと、長々と説得の言葉をくりだし、妻子や父祖の神を捨てるようなことは考え直すように諫めた。すると話の途中で、そのうちのひとりが自分の陰部を指さし、これさえあれば何処であれ、女房子供はもてると云ったそうだ。

そこで彼らがエチオピアに到着すると、自分たちの身の上をエチオピア王に委ねた。王は彼らの帰属に報いるため、この者たちに命じて自分に反目しているエチオピア人を追放させ、その土地に住まわせた。そしてエチオピア人はエジプト人と交流することによってその風習を覚え、行儀作法が以前よりもよくなったという。

[2.31] 以上の通り、ナイルの流域はエジプト国内を含め、陸路、水路による四ヶ月の旅程の範囲まではわかっている。エレパンティネから「脱走兵の国」に至るまでに要する旅程を計算すると、かなりな月数にのぼる。この河は西方、太陽の没する方角から流れきているが、これより遠いところについては、誰ひとり確かなことは知らない。その向こうの地域は暑熱による荒廃地であるゆえ。

[2.32] しかし、私はキュレネ人の幾人かから次のような話を聞いた。それによると、彼らがアンモンの神託所へ行ったとき、アンモン王エテアルコスと面談したことがあり、その時さまざまな話題から話はナイルにおよび、誰もその水源を知らないことを話した。するとエテアルコスが、かつて自分を訪ねてきたナサモン人のことを語ってくれたという。

このナサモン人というのはリビア人で、シュルティス(*)とその少し東にかけて住んでいる民族である。そこで到来したナサモン入たちにエテアルコスが訊ねるに、リビア砂漠について何か新しい話題があるかと訊くと、彼らは次のような話をした。

(*)リビア北部海岸にある大砂州地帯。

彼らの国の有力者たちの子弟の中に、気位高く乱暴な若者の一群がいて、この者たちが成人すると無謀な冒険をさまざま計画したのだが、その中で、仲間内からクジで五人を選び、リビアの砂漢地帯を探険し、これまで最も遠くを見てきた者たち以上に、さらに遠くを探れるかどうか、やってみることになった。

エジプトからリビアの末端であるソロエイス岬に至るまでの全域にわたるリビア北部の海岸一帯には、リビア人とリビア系の多数の部族が往んでいる。ただ、ギリシア人とフェニキア人が住んでいる地域もある。しかし海と海岸地帯の部落を越えると、リビアは野獣の横行する地帯となる。そして野獣地帯を越えた先は、すべてが水のない荒涼たる砂漠だ。

さて仲開から送り出された若者たちは、水と食糧を十分に用意し、人の住む地域を通りすぎて野獣地帯に達し、これを越えて砂漠を西に向かって進んだ。

その後、何日もかけて広大な砂漠地帯を抜けると、彼らは平地に樹木が生えているのを目にした。近づいて木になっている果実をとろうとしたとき、並の背丈に満たない小人たちがやって来て彼らを捕らえ、連れ去った。ナサモン人は小人たちの言葉が判らないし、連行している者たちもナサモン人の言葉がわからないのだ。

小人たちは広大な沼沢地帯を通り抜けて、ある街までナサモン人を連行したが、この街の住民は、皆がナサモン人を連行した者たちと同じような背丈で色が黒かった。この街の近くには大きな河が西から東に流れていて、その河にはワニがいたという。

[2.33] アンモン王エテアルコスの語った話はこれで充分だと思うが、ひとつだけ追加すると、キュレネ人が言うには、例のナサモン人たちは無事に帰国し、あの国の人々はみなが魔法使いだったと語ったそうだ。

例の街の近くを流れていた河がナイルであるとは、エテアルコスの推察だが、その考えを裏打ちする理由は充分にある。ナイルはリビアに発し、その中央を貫流しているからだ。私が眼に見えることから未知のことを推測してみると、ナイルはイストロス河(ドナウ河)と同じ位の距離に、その源があると思っている。(18)

(18)「ek ton ison metron」これは曖昧な表現である。ヘロドトスの言っていることは、ナイルはまず西から東へ流れ、その後北へ流れを変える。ドナウもまず西から東へ流れ、その後北から南へ流れる(とヘロドトスは言う)。それゆえ、片方はアフリカで、もう一方はヨーロッパで同じように大陸を横断している、ということだ

というのも、イストロス河は、ケルト人の国であるピレネの街から発し、ヨーロッパの真中を流れているからだ。ケルト人は「ヘラクレスの柱」(*1)を越えたところに住み、ヨーロツパの最西端に住むキネシオイ人(*2)と国境を接している民族である。イストロス河はヨーロッパ全土を貫流し、最後にイストリア(*3)で黒海に注いでいるが、そのイストりアはミレトスからの移民が住んでいる。

(*1)ジブラルタル海峡の入口にある岬につけられた古代の地名
(*2)イベリア半島南西部に居住
(*3)現在のブルガリア、ドブルジャ地方のイステレ

[2.34] イストロス河は人の住んでいる地域を流れているので多くのことがわかっているが、ナイル河は無人の荒野であるリビアを流れているため、誰もその水源を知らない。この河の流域について私が調べ得たことはこれですべて話した。要するにナイルはエジプトに流れ込んでいるのであって、エジプトはキリキア山脈の一端あたりに相対している。

そしてここから黒海のシノペまでは、軽装の旅人なら真っ直ぐ進んで五日の行程である。そしてシノペはイストロスが海に注ぐ河口に相対している。かくて私が思うに、リビアを貫流しているナイルは、イストロス河の経路に等しいのである。ナイル河についてはこれにて充分話した。(*)

(*)ヘロドトスの時代にはエチオピアから南方の地理は知られていなかったようだ。さすがにアスワンあたりからビクトリア湖(白ナイル)、およびタナ湖(青ナイル)までは遠すぎるようだ。現代の知見から言うと、ヘロドトスのナイル水源に関する説明はピントはずれの感が強い

[2.35] ただエジプトに関してはこれから詳しく話すつもりだが、それはこの国には、ほかのどんな国も及ばないほどの驚嘆すべき事物があり、また筆舌に尽くしがたい建造物が、ほかのどんな国よりも多くあちこちにあるからだ。だからエジプトについては、これまで以上に詳しく述べるつもりだ。

エジプトは特有の気候で、またほかのどんな河とも性質の異なる河があるゆえか、ほとんどの他の人類とは正反対の風俗や戒律がある。たとえば女が市場へ行って商いをし、男は家にいて機織りをする。その機織りも、ほかの国では横糸を下から上へ押し上げるのに対し、エジプト人は上から下へ押しつけるのだ。

ここでは男たちが頭に荷物をのせて運び、女は肩にのせて運んでいる。また女は立って放尿し、男はしゃがんで用を足す。排便は屋内ですませるが、食事は外の路上ですませる。必要であっても見苦しいことは人目につかないようするが、見られても構わないことは隠す必要はないと、彼らは言う。

男神、女神を問わず、女の聖職者は一人もいない。男女の神ともにその司祭には男がつくことになっている。両親の扶養に関しては、息子にその意志がなければ強制されないが、娘はその意志がなくても扶養せねばならないとされている。

[2.36] ほかの国では、司祭は髪を伸ばしているものだが、エジプトの司祭は髪を剃り落す。また服喪の際には、他国では死者の近親者は頭を剃るが、エジプト人は普段は頭を剃っているのに、死者が出ると頭髪と顎髭を伸び放題にする。

またエジプト人は住処の中に家畜をいれて生活する唯一の民族である。そしてほかの全ての国では小麦と大麦とを食糧にしているのに対し、エジプトではこれらを食べるこは大変な恥辱とされている(*)。彼らは、マイズ(maize)とも呼ばれるスペルト小麦を食糧にしている。

(*)本巻七十八節を参照。古代エジプト人の食していた穀物については異論のあるところだろう。大麦はビールにして飲んでいたという説が専らである。これに関しては次のサイトが詳しい。エ ジ プ トに お け る農 耕 ・家 畜 の 起 源

エジプト人はパン生地を足でこね、泥や肥やしは手で扱う。また他国は知らず、エジプト人とその風習を学んだ者だけが、割礼を行なっている。そして男は着物を二枚重ねて着用し、女が着るのは一枚だけである。

他国では船の帆を操る綱とそれを通す環を、船の外側にくくりつけるが、エジプト人は内側にくくる。ギリシア人は文宇を書いたり計算をするのに左から右へ書くが、エジプト人は反対方向に書く。それでもエジプト人は、自分たちは右に向かって書き、ギリシア人は左に向かって書くのだと言う。エジプト人は二種類の文字を用いていて、一つは神聖文字、一つは民衆文字と呼ばれている。(19)

(19)実際には三種ある。ヒエログリフ(神聖文字)、ヒエラティック(ヒエログリフから派生)、そして民衆文字(ヒエラティックを簡略化したもの)である。ローリンソン訳、第二巻、付録第五章の論評を参照されたし

[2.37] エジプト人は、ほかのどの民族よりも計り知れぬほどに信仰心の厚い民族で、次のような風習がある。彼らは青銅製のカップを飲用にしているが、これを毎日洗っている。これは一部の者だけがするのではなく、全ての人が行なっている。

そして常に洗ったばかりの麻の衣服を着るよう、特に気をつけている。彼らは陰部を清潔にするため、割礼を行なっているが、これは見栄えよりも清潔を優先するためである。司祭は一日おきに全身の毛を剃るが、これは神に仕える者としてシラミその他の不浄なものが体に着くのを防ぐためである。

司祭は、麻の衣服とパピルス製(20)のサンダルしか身につけない。ほかの種類の衣服や履き物は許されていないのだ。そして昼夜各二回ずつ冷水浴をする。これ以外にも彼らの宗教上の戒律は、言ってみれば数え切れないほどある。

(20)パピルスについては本巻九十二節を参照

他方で、司祭たちが受け取る恩恵も数多くある。彼らは自分自身の私有になるものを消費する必要が全くない。供え物の食物は調理されて与えられるし、牛やガチョウの肉も各自に毎日たっぷり運ばれる。その上、酒も配給される。ただ彼らは魚肉を食べることは許されていない。

エジプト人は豆類を栽培することはない。自然に成長したものでも、生でも料理しても食べることはない。司祭たちはそれを見ようともしない。豆類は不浄であると考えているからだ。それぞれの神に仕える司祭は一人ではなく大勢いて、その内の一人が司祭長を務めている。そして司祭が死亡すると、その息子が父の後を継ぐことになっている。

[2.38] 彼らは牡牛をエパポス(21)に従うものと信じていて、そのため、次のようにしてそれ吟味する。一本でも黒い毛が見つかると、その牛は不浄とみなされる。

(21)ギリシアのアピス神またはハピ神のこと。メンフィスの牡牛神。 MairのOppian (L.C.L.) Cyn. II. 86, の注を参照

この検査は、司祭の一人が任命されて執り行なう。牛を立たせたり臥せさせたりして調べ、また舌を引っ張り出したり、あとで話すような規定の特徴(22)がないことを確かめる。また、尻尾の毛も、自然に生えているかどうか調べる。

(22)第三巻二十八節

以上すべての点に問題がなければ、角にパピルスを巻きつけてその証とし、さらにそれに封印用の土を塗りつけ、それに円環で型をつけ、そのあとで牡牛を連れてゆく。司祭が認めていない牡牛を生贄にした者は死罪に処せられる。これが牡牛を認定するやり方である。つぎは生贄の儀式について話そう。

[2.39] 標識のつけられた牡牛は、生贄の祭壇に連れて行ってから火を焚き、牡牛に酒をふりかける。そして神の名を呼びながら牡牛の喉をかき切ってこれを屠り、その首を刎ねるのである。

生贄の牛はその皮を剥ぎ、切り落した頭部には呪いの言葉を充分にかけてから運び去る。ギリシア人が商いをしている市場があるところでは、その頭を市場へ持っていって売り払うが、ギリシア人のいないところでは河へうち捨てられる。

牛の頭にかける呪いというのは、生贄を捧げる者たち、またはエジプト全体に起きる凶事があるなら、この頭にふりかかるようにと祈るのである。

生賛に供される獣の頭部の扱い方や酒の注ぎ方は、すべてのエジプト人がどの生贄儀式においても同じように行なっている慣習である。そのため、エジプトでは牛に限らず動物の頭部を食べる者は一人もいない。

[2.40] 生贄のはらわたを取り出して焼くときのやり方は、それぞれの生贄儀式によつて異なる。ここで、彼らが最高の女神と崇めている神と、その神を讃えるエジプト最大の祭について話しておこう。

牡牛の皮をはぎ、呪いの言葉をかけあとは、はらわたの胃の部分を取り出し、小腸その他の内臓と脂身は体内に残し、四肢、尻尾、肩、首を切り離す。

そのあとは、残っている牛の胴体に清潔なパン、ハチミツ、乾しブドウ、イチジク、乳香、没薬(もつやく)その他の香料を詰め、大量のオリーブ油をかけて焼きあげる。

生贄儀式の前に、彼らは断食する。そして生贄を焼いているあいだに、自分の身体を打って哀悼の意をあらわす。哀悼式が終わると、残っている生贄で宴を開くのである。

[2.41] エジプト人のすべてが生贄に供するのは汚れのない牡牛と子牛だが、牝牛はイシスの聖獣であるので、これを生贄にすることはしない。

イシスの神像は、牛の角を生やした女像で、これはギリシアの彫像イオと全く同じである。牝牛は、すべての動物の中でも飛びぬけて神聖なものとして、エジプト人のすべてが崇めている。

そのため、エジプト人は男女ともにギリシア人には接吻しない。またギリシア人の持っているナイフや焼串、釜は使おうとせず、ギリシアのナイフで切ったものなら、清浄な牛の肉でも口にしない。

死んだ家畜は次のようにして葬る。牝牛は河に投げ捨て、牡牛は街の郊外に埋めるが、片方または両方の角を見えるようにしておき、その印にする。死骸が腐って一定の時期が来ると、プロソピティスという島からそれぞれの街へ小舟がやって来る。

この島はナイル・デルタの中にあって周囲が九スコイノスである。この島には多くの街があるが、そのなかのアタルベキス(23)という街から牛骨を集める舟が出される。この街には飛びきり神聖なアフロディテ(*)の神殿がある。

(23)アトル神またはハトホル神に由来する名称。イシス神を崇めている。
(*)エジプトのハトホル神

この街からは大勢の人があちこちの街へ出かけて骨を掘り出し、それを運びだして一ヶ所に葬る。他の家畜が死んだときも、牛と同じようにして葬る。このようにすることは規律で定められていて、家畜を解体処理することは許されていない。

[2.42] テーベのゼウス神殿を崇める人々、つまりテーベの街の人々は、生贄にはヤギを捧げ、ヒツジには手を触れない。

というのは、すべてのエジプト人が同じ神々を崇拝するというわけではないからである。ただ、イシスと、ディオニソスのことだと云われているオシリスは例外で、この神々だけはすべてのエジプト人が同じように崇拝している。メンデスで神殿を持っている人々すなわちメンデス(24)の街の住民たちは、オヒツジを生贄に捧げるが、ヤギには手を触れない。

(24)ビンデッドのギリシア語表現。ナイル・デルタにある街。オヒツジの形象でオシリス神が崇拝されている。メンデスがオシリスのことであるのは明らか。

テーベの住民や、彼らにならってヒツジを用いない者たちは、その慣習の理由を次のように言っている。ヘラクレス(25)がゼウスの姿を見たいと強く望んでいたが、ゼウスは自分の姿を見られたくなかった。それでもヘラクレスがしつこく懇願するので、ゼウスはあることを思いついた。

(25)ギリシア人はエジプトのシュー神(Shu)をヘラクレスとしている。 あるいはテーベのコンスー・ネフェルホテップ(Chonsu-Neferhotep)。

ゼウスはオヒツジの皮を剥いで、その皮を被り、頭を切り取ってそれをヘラクレスに見せ、自分の姿としたという。エジプト人がゼウスの神像をオヒツジの頭にするのは、これに由来する。この風習はエジプト人からアンモン人にも伝わっている。アンモン人はエジプトやエチオピアからの移民で、その言語も両国語による合成語である。

彼らがアンモン人と名乗るのは、このことに発していると私は思っている。エジプト人はゼウスのことをアモンと呼んでいるからだ。このように、テーベ人はオヒツジを神聖な獣とみなしているので、これを生贄には用いることはしない。

しかし、年に一日、ゼウスの祭礼では、一頭のオヒツジを屠つて皮を剥ぎ、かつてゼウスがしたようにゼウスの神像に皮を被せておき、ヘラクレスの神像をゼウスの神像の近くに持ってくる。そうしておいて、この神殿にいる者たち全員が、自分の身を打ってオヒツジの死を悼み、そのあとで死骸を神聖な墓地に葬るのである。

[2.43] ヘラクレスに関しては、かれが十二神のひとりであるという話を聞いている。しかしギリシア人の知っているもうひとりのヘラクレスについては、エジプトのどこへ行っても何も聞くことができなかった。

実のところ、ヘラクレスの名はギリシアからエジプトに来たものではなく、エジプトからギリシアへもたらされ、そしてギリシア人はアムピトリオンの子にヘラクレスの名をつけたのだという多くの証拠を、私は握っている。ヘラクレスの両親であるアムピトリオンとアルクメネが、ともにエジプト人の血筋をひいていることや(26)、エジプト人はポセイドンとディオスクロイの名を知らず、従ってこれらの神がエジプトの神々のなかに入っていないことが、その証拠になるだろう。

(26)ペルセウスの孫を例として、エジプト人の起源については本巻九十二節を参照

それにしても、彼らが、どんな神であれその名をギリシア人から受け継いだものなら、少なくともこの神々の名だけは記憶に留めているはずなのだ。それから、その当時すでにエジプト人が航海に携わっていて、しかもギリシア人もその一部が海に出ていたというのが私の予想であり考えなのだが、そうであるならエジプト人は、ヘラクレスよりもまずこれらの神々の名を十分知っているはずなのである。

しかしヘラクレスはエジプトでは非常に古い神だ。エジプト人自身が言うには、ヘラクレスを含む十二神が八神から変わったのは、アマシス王が統治する一万七千年前なのだ。

[2.44] なおまた、私はこの件に関して正確な情報を知りたく思い、フェニキアのテユロスまで海を渡ったことがある。ここにヘラクレス(27)の神殿があると聞いたからである。

(27)テュロスのメルカート神

そこには、数多くの高価な奉納品が納められている神殿があるのを私は見たが、それらの奉納品に加えて二本の柱があり、ひとつは精錬された黄金製で、もうひとつは夜でも輝くほどの巨大なエメラルド製だった。司祭たちとの面談の中で、私は神殿が建立されてからどれほどになるかを訊ねた。

そして、彼らのいうことはギリシア人の言い伝えと符合しないことがわかった。司祭たちの話では、この神殿はテュロスの街が最初にできたときに建立され、それは二千三百年前になる、というのだ。

私はテュロスでもう一つの、いわゆるタソスのヘラクレス神殿も見てみた。私はタソスへ行ったが、そこにはフェニキア人が建立したヘラクレスの神殿があった。このフェニキア人はヨーロッパを探索するために航海を続け、この地に植民したのだ。それはギリシアでアムピトリオンの子ヘラクレスが生れる五世代も前のことだった。

こうして私が調べた結果、ヘラクレスが古代の神であることがはっきりした。そしてギリシア人が二種のヘラクレス神殿を建立し、一方は不死の神としてオリンポスと称して生贄を捧げ、他方は死の世界の神人(28)として奉納品を捧げるという習わしをつくりあげたことはほとんど正しいことだと、私は思う。

(28)ホメロスのオデッセイア、第十一章六百一節に、二身のヘラクレスが記されている。幻身(εἴδωλον=eídolon)は死の世界にいる。ただし「かれ自身」は天空の神々とともに不死身である。

[2.45] ギリシア人はほかに多くの浅はかな話を伝えているが、ヘラクレスに関する次の話もバカバカしいものだ。それは、ヘラクレスがエジプトヘ行ったとき、エジプト人がかれをゼウスの生贄にしようとして、頭に冠をかぶらせ、行列を組んで連れて行ったという。ヘラクレスはしばらくはおとなしく従っていたが、祭壇上で生贄の儀式が始まるや、力づくであらがい、エジプト人をすべて殺してしまったという。

このような物語を伝えているところから、ギリシア人はエシプト人の性格にも慣習にも全く無智であると私は思っている。汚れのないブタや牡牛、子牛を別として、それにガチョウ以外に、家畜でさえ生贄にすることを禁じられているエジプト人が、どうして人間を生贄にすることができるだろう?

さらには、ギリシア人の言うごとく、人間としてのヘラクレスただひとりで、どうすれば無数の人間を殺すことができようか?そして、このようにさまざま語りつつあるわが身には、神々からも神人からも恩寵のあらんことを!

[2.46] 先に話したが、エジプト人が雌雄を問わずヤギを生贄に用いない理由はこうだ。メンデスの住民はパン神を八神の中に数えているが、彼らは、この八神は十二神よりも古い神だと言っている。

さて彼らがパン神の像を描いたり彫像にしたりするときには、ギリシア人と同じようにヤギの頭とその四肢を持つ姿にする。ただしかし、彼らは、それがこの神の現実の姿であると考えているわけではなく、他の神々と同じような姿であると考えている。ではなぜパン神をこのような姿に描くのか、ということについては私は話したくない。

いずれにせよメンデスの住民は、ヤギはすべて神聖なものと見なし、それも雄ヤギの方をメスよりも崇めている。そしてヤギ飼いは特別に尊敬されている。中でも一頭の雄ヤギが特に神聖なものとされ、これが死ぬとメンデス地区すべてこぞって盛大な弔いを出すのである。

なおエジプト語では雄ヤギとパンのことをメンデスという。私の時代になってからのことだが、この地区で奇怪なできごとがあった。雄ヤギがある女と、公然と交わったのである。このことは広く世間に知れ渡った。

[2.47] エジプトではブタは汚れた獣とされている。まず、エジプト人は路上でブタに触れると、真っ先に河へゆき、服を着たままですっかり身体を水に漬ける。二番目には、生まれながらのエジプト人であってもブタの飼育人だけが、エジプトのどの神殿にも詣でることが許されていない。またブタ飼い人には誰も娘を嫁にやろうとせず、そこから嫁をもらおうとしない。それゆえブタ飼い人たちは同業者の間で結婚することになる。

エジプトではブタを神への生贄として捧げてはならないとされているが、例外は月の神とディオニソスで、この二神には同じ時、すなわち同じ満月の日にブタを生贄に捧げ、その肉を食べる。ほかの祭礼ではブタを忌み嫌うのに、この祭礼だけなぜブタを生贄にするのか、その理由に関する伝承がエジプト人にはあって、私はそれを知っているけれども、ここで話すのはふさわしくないだろう。

月の神にブタを捧げる儀式は次のように行なわれる。ブタを屠ったあと、その尻尾の端と脾臓と大網膜(内臓を包む膜)を並べ、腹部のまわりにある脂肪をすべて使ってそれらを包み、火で炙る。残りの肉は生贄行なわれる満月の日に食べるのだが、そのあと、ほかの日には食べない。貧しくて家計が苦しい者は、粉をこねてブタの形にしてこれを焼き、生贄にしている。

[2.48] ディオニソスの場合には、その祭の前夜に、各自の家の前で子ブタを屠って捧げ、その子ブタは、それを売ったブタ飼い人に渡して持ち帰らせる。

これを除けば、エジプトのディオニソス祭はギリシアのそれとほとんど同じである。ただしギリシアのような歌舞音曲はない。そして男根像の代わりに、エジプト人は糸で操る長さ一キュービットほど(四十五糎)の人形を用いている。その男根は身体のほかの部分と同じくらいの大きさで上下に動くようになっていて、この人形を女たちが持ち、笛を先頭にして、その後に女たちがディオニソスの讃歌を歌いながら続くのである。こうして村々をまわってゆくのだ。

男根がそれほどの大きさで、また身体のその部分だけが動く理由については、ひとつの聖説が伝えられている。

[2.49] さてアミテオンの子メランプス(*)は右の生贄儀式のことを知らなかったのではなく、むしろこれを熟知していたと私は思っている。それというのも、メランプスこそディオニソスの名や、その生贄儀式、男根像の行列のやり方を初めてギリシア人に伝えた人物だからだ。ただ、メランプスは、正確に云えば、これらを全て理解した上で教えたのではなく、かれの後に連なる賢者たちがさらに詳しく教えたのである。しかしディオニソスを讃えるため、男根像を捧げて行列することをギリシア人に教えたのはメランプスであり、現在行なわれているギリシア人の行事も、かれの教えに基づくものである。

(*)ギリシア神話最古の予言者

私の考えでは、メランプスは有能な人物で、予言術を会得し、またエジプトで習得した数多くのことに加えて、ディオニソスの行事もほとんど変えることなくギリシアに紹介している。私は、エジプトで行なわれる神の行事とギリシアで行なわれる行事が、偶然の一致であるなどと言うつもりはない。もし偶然の一致であるなら、これらの行事はギリシア風の特徴をもっているはずだし、近年になってから始まったわけがないのである。

とはいえ私は、エジプト人がこの行事を含め、その他の風習をギリシア人から学んだと言うつもりもない。メランプスはディオニソスの行事を、主にテュロス人のカドモスや、彼に従ってフェニキアから今日ボイオティアと呼ばれる地方にやって来た者たちから学んだものと、私は考えている。

[2.50] 実のところ、ほとんどすべての神の名はエジプトからギリシアヘ来ている。ギリシアの神々が異国の地からやって来ているということは、私が調べて確かめた。それも主にエジプトからの伝来であると私は確信している。

ポセイドンとディオスクロイだけは例外であることは、すでに話したが、ほかにもヘラ、ヘスティア、テミス、カリテス、ネレイデスなどを除き、これ以外の神の名は昔からエジプトにあった。私はエジプト人自身が言っていることを、ここで話しているに過ぎないのだが。エジプト人がその名を知らないと言う神々は、ポセイドンを除き、ペラスゴイ人(*)の命名によるものだろう。そしてポセイドンという神は、彼らがリビア人から教わったのである。

(*)ペラスゴイ人については第一巻五十六節以下を参照

というのも、最初からポセイドンという名の神をもっていて崇めている民族は、リビア人のほかにはないからだ。なお、エジプト人には神人を祀る慣習はない。

[2.51] 右の風習に加えて、ほかの風習についてもこれから話すつもりだが、それらもエジプトからギリシアに伝来している。しかし勃起した男根をもつヘルメス像はこの限りではなく、これはギリシアではアテナイ人が最初にペラスゴイ人から学び、アテナイから他の地域に広まったものである。

というのは、アテナイ人はすでにギリシア人として数えられてが、そこへペラスゴイ人がアテナイの地にやって来てともに居住するようになった。そのため、ペラスゴイ人もギリシア人と認められるようになったのだ。サモトラケ人がペラスゴイ人から教わったカベイロイの密議(*)に入信している者ならばだれでも、私の話している意味がわかるだろう。

(*)ギリシア神話に登場する鍛冶と農耕・豊穣の神々

アテナイにやって来てともに居住するようになったペラスゴイ人は、その前にサモトラケに住んでいたので、サモトラケ人は彼らからその儀式を伝授されたのだ。

こうしてギリシアではアテナイ人がはじめて男根の勃起したヘルメス像をペラスゴイ人から学んで作ったのだ。これについてはペラスゴイ人にある聖説が伝えられているが、それはサモトラケの秘儀の中で説かれている。

[2.52] その昔、ペラスゴイ人は生贄儀式全般において、神々に名前や称号をつけずに祈願していた。それは、彼らが神の名など耳にしたことがなかったためだ。これは私がドドネで聞き知ったことだ。そして彼らがそれらを神と呼ぶようになったのは、神(29)が万物を秩序立て、またすべてを配分していることによっている。

(29)「t θεός(god)」は「配分者」を語源とし、θεσμός(rule),τίθημι(law),etc.につながる。

その後、長い年月をかけて彼らはエジプトから伝来した神々の名を学んだ。ただディオニイソスだけは、ずっと後になってからその名を知ることになる。やがてペラスゴイ人は神の名についてドドネの神託を求めることにした。この神託所はギリシアで最古のもので、しかも当時はそこにしかなかったからである。

そしてペラスゴイ人が異国の神の名を用いるべきかどうかの神託を、ドドネ(*)において求めたところ、使用せよという託宜が下った。それ以後彼らは生贄儀式において神の名を用いるようになった。その後、ギリシア人がペラスゴイ人から神々の名をうけついだのである。

(*)ギリシア西北端のエペイロス地方にある

[2.53] ところが、それぞれの神がどこから来たのか、またすべての神がずっと以前から存在していたのか、さらにはどういう姿をしているのかなど、言うならば、彼らは昨日、一昨日までご存じなかったのである。

ヘシオドスやホメロスが活躍していたのは、私より四百年以上前には遡らないと私は思っているが、神々の系譜をギリシア人に教え、その称号を定め、また階層と権能を定め、姿形を描いたのが、この二人なのである。

この人たちよりも前の時代といわれている詩人たちも、私の考えでは、この二人より後の時代の人々である。なおここで話したことの前半は、ドドネの巫女たちの語ったことで、後半のヘシオドスとホメロスに関することは、私自身の説である。

[2.54] ところで、ギリシアとリビアの神託所について、エジプト人が次の話を伝えている。テーベにあるゼウス神殿の司祭たちが私に話してくれたことによると、二人の巫女がフェニキア人によってテーベから連れ去られ、一人はリビアヘ、もう一人はギリシアヘ売られたことを聞き知ったと、彼らは言っている。そしてこの女たちが、この二つの国で最初に神託所を設営したと、彼らは伝えている。

どうしてそのように詳しいことがわかったのかと私が訊ねると、司祭たちは答えていわく、テーベの人々はこの女たちを徹底的に探しまわったがとうとう発見できなかった。しかし後になってから、いましがた話した事情を知ったということだ。

[2.55] 以上、テーベの司祭たちから私が聞いた話である。次にドドネの巫女たちが話したことを続けよう。二羽の黒鳩がエジプトのテーベから飛んで来て、一羽はリビアヘ、もう一羽はドドネに来たのだそうだ。

ドドネの鳩は樫の木にとまると、ヒトの言葉を話し、この地にゼウスの神託所を開くべし、というお告げを下した。ドドネの人々は、このお告げは神の下されたものであると解釈し、お告げのとおりに神託所を設けたという。なおリビアヘ行った鳩は、アンモンの神託所を開くようリビア人に告げたと、巫女たちは言っている。これもまたゼウスの神託所である。

以上が、ドドネの巫女たちの話である。その巫女たちの最年長者はプロメネイアといい、その次がティマレテ、最年少者はニカンドラという名だった。そしてドドネの神殿に仕えているほかの人たちも、巫女たちと同じことを話していた。

[2.56] しかしこれに関する私の考えはこうである。もし本当にフェニキア人が巫女を連れ去り、一人をリビアヘ、もう一人をギリシアヘ売り払ったのであるなら、ギリシアヘ売られた女は、いまはギリシアといわれているが、以前はペラスギアと呼ばれていた地で、テスプロトイ人(*)の住む地に売られたのだと、私は考えている。

(*)ドドネの近くに住んでいた最古の民族

そしてその女はその地で奴隷の身分のまま、その地に生えていた樫の木の下にゼウスの神殿を建てたのだろう。かつてテーベのゼウス神殿に仕えていたゆえに、やって来た地でその神殿を思い起こすのは、もっともなことである。

その後、ギリシア語を覚えてから女は神託をはじめたのだろう。またその女の姉妹もリビアに売られ、売ったのはその女を売ったのと同じフェニキア人だと語ったものかと思われる。

[2.57] またこれは私の憶測だが、この女たちのことをドドネ人が「鳩」と云ったのは、彼女たちが聞き覚えのない変な言葉をしゃべったことから、ドドネ人には鳥のさえずりのように聞こえたためではないか。

その後、女の言うことが理解できるようになったので、鳩が人間の言葉を話したと彼らは云ったのだろう。女が異国語を話している限り、それは鳥のさえずりのようにしか、彼らには聞こえなかったのだ。さもなくば、どうして鳩が人語を発し得よう?またその鳩が黒色だったというのは、女がエジプト人だという意味である(30)。

(30)この解説は正鵠を射ていると思われる。しかし「鳩」というのは単なるシンボルで、デメテルやアルテミスの巫女たちは「ミツバチ」と表現することもある

エジプトのテーベでの神託様式とドドネの様式は、似たようなものである。さらに、生贄を用いて占うやり方もエジプトからの伝来である。

[2.58] また例大祭(*)や行列様式、典礼様式などもエジプト人が最初にやりだしたことである。そしてギリシア人が彼らからそれらを学んだのだ。その証拠として私が考えているのは、エジプトにおける諸々の儀式は太古から行なわれていることが明らかなのに、ギリシアのそれは最近始まったということである。

(*)Panegyris:英訳文では「solemn assembly」。青木巌氏は「国民祭」としている。

[2.59] エジプト人が例大祭を行なうのは年に一度だけではなく、何度も行なう。それらを代表し、最も熱狂して祝うのがブバスティス(31)の街で開かれるアルテミス祭で、これに次ぐものがブシリスの街のイシス祭である。この街はナイル・デルタの真ん中にあり、そこにイシスの壮大な神殿がある。なお、イシスはギリシア語ではデメテルとなる。

(31)ブバスティスはナイル・デルタの「パシPasht」の街にある。ネコの頭をもつパシ女神(ヘロドトスはこれをアルテミスとしている)が祀られている。

三番目に大規模な例大祭はサイスのアテナ祭、四番目はヘリオポリスの太陽祭、五番目はブトのレト祭、六番目はパプレミスのアレス祭だ。

[2.60] 人々がブバスティスの街に集まるときには、舟で河沿いに行くのだが、どの舟にも男女の別なく、とてつもなく多くの人々が乗船している。カスタネットをガラガラ鳴らす女がいるかと思えば、旅のあいだずっと笛を吹いている者もいる。そのほかの者たちは、男も女も手拍子で歌っている。

船旅の途中でどこかほかの街に近づくと、船を岸につけて、乗船者はこんなことをする。一部の女たちは先に言ったようなことを続けているが、ほかの女たちは大声で街の女たちをひやかしたり、一部は踊ったり、一部は立ち上って服の裾をたくしあげたりする。彼らは河沿いの街を通過するたびに、こんなことをするのだ。

ブバスティスの街につくと、彼らは盛大な生贄儀式をささげて祭を祝うのだが、この祭で消費される酒の量は、一年の残りの期間に消費される合計量より多い。土地の者たちが言うには、この祭に集まる男女の数は子供を除き、毎年七十万人に達するという。

[2.61] ブバスティスの祭のようすは右のとおりで、ブシリスにおけるイシスの祭のようすは、以前に話した(*)。生贄儀式が終わると、無数の男女がこぞって自分の体を打って嘆き悲しむのだが、誰のために嘆き悲しむのかということは、宗教上のはばかりがあるので、話せない。

(*)本巻四十節を参照

エジプトに住んでいるカリア人は、これ以上のことをする。彼らはナイフで自分の額を傷つけることまでするが、このことからして、彼らが異国人でエジプト人でないことがわかる。

[2.62] サイスの生贄儀式にやって来る者たちはみな、夜になると家々のまわりの戸外で無数のランプに灯をともす。そのランプは塩と油を満たした平皿で、そこに燈心を浮かべ、これを一晩中燃やすのだ。そしてこの祭は「燈明祭Lychnocaia」(*)と呼ばれている。

(*)英訳文では「Feast of Lamps」。青木巌氏の訳では「点燈祭」となっている。

この祭に参加しないエジプト人は、生贄式の夜には必ずランプに灯をともす。であるからサイスに限らず、エジプト全土にわたって灯がともされることになる。なぜこの夜に灯をともして祝うかという理由については、聖説話が伝えられている。

[2.63] 人々がヘリオポリスとブトに行く場合には、ただ生贄をささげるだけである。パプレミスでは、ほかの所と同じように生贄をささげる儀式を行なうが、日没近くになると、数人の司祭が神像のまわりで舞い踊り、その他大勢の司祭は棍棒を手にして神殿の入ロに立つ。そのほか、祈願に来た千人以上もの男たちが、同じく棍棒を持って一団となり、司祭たちに対峙するのだ。

金箔を張った小さな木の祠に納められた神像は、祭の前日に別の聖所に移しておく。そして神像に仕える数人の司祭が、祠に納めた神像を載せた四輪車を曳いてくると、神殿の扉の横にいるほかの司祭たちが、それを境内に入れまいとする。すると祈願者の一団は神に加勢して司祭たちに打ちかかり、司祭たちもこれに対して身を守る。

そこで棍棒による激しい打ち合いが始まり、互いに頭を叩き合うので、怪我して死人が大勢出るように思うのだが、エジプト人の言うには、死人は一人も出ないそうだ。

土着の者たちの話では、この祭が風習となったのは次のような出来事がきっかけだという。この神殿にはアレスの母が住んでいるのだが、アレス自身は母と離れて育てられたのだった。そして成人してから母に会いたと思って訪ねてきたところ、母親の召使たちはそれまでアレスに会ったことかなかったので、戸外に押しとどめて中へ入れようとしなかった。そこでアレスは別の街から男衆を連れてきて召使たちを手ひどくいためつけ、神殿の中にいる母のところへ入っていったという。このことから、アレスの祭ではこのような乱闘をすることが風習になったと土地の者は言っている(32)。

(32)ヘロドトスの言うエジプトの神アレスが何を指すのか不明。ギリシアのパピルスには「アレス」はエジプトの神アンフル(Anhur)であると記されている。ただし「シューShu」や「ヘラクレス」との区別は不確か。

[2.64] さらに、神殿内では女と交わらぬことや、女に触れたときには身を清めてからでないと神殿内に入らないという戒律を定めたのも、エジプト人が最初である。というのはエジプト人とギリシア人を除けば、ほとんどすべての民族がこれに関して無頓着で、人もほかのどんな動物も同じだと考えているからだ。

獣も鳥も神殿や聖域内で交尾するのを見受けるので、これが神の不興をかうのなら、獣もそんなことはしないはずだと、彼らは言うのだ。これがほかの民族が自分たちの行ないに対する言い訳であるが、こんなこと、私は認めない。

[2.65] 以上のことも含め、ほかの全てのことに関して、エジプト人は宗教儀式に関して、極めて厳格に戒律を守っているが、次のこともその一例である。

エジプトはリビアに隣接しているが、この国にはそれほど多くの野獣はいない。その中であるものは家畜の一部にされるが、そうでないものもある。そしてこの国の獣はすべてが神聖なものとされている。なぜ動物がすべて神聖なものとされているか、その理由を言うなら、神に関する事柄に触れねばならないのだが、これは私が格別に避けたいと思っていることなのだ。この話題は、これまで必要なときだけにしか取り上げていない。

さてしかし、動物の扱いに関する風習について話すことにしよう。エジプトでは、動物の種類それぞれについて、男女の飼育係が任命されることになっていて、この役は息子が父親のあとを継ぐことになっている。

それぞれの街の住民が祈願する場合、その動物が献身している神に祈りを捧げる(*)。一方で自分の子供の頭髪を、すべてまたは半分、あるいは三分の一剃り上げ、剃り取った髪を秤にかけ、それを銀の重さで量る。そしてその分量だけの銀を女の飼育人に与える。飼育人はその銀で魚を買って動物のエサにするのだ。動物の食糧はこのようにして賄われる。

(*)Steinはここに、子供の病気平癒祈願の文が抜け落ちていると推定している;松平千秋氏による注。

これらの動物を故意に殺したりすると、死罪となる。誤って殺した場合は、司祭が命じたどんな罰でも受けねばならない。ただし、イビス(*)や鷹を殺した場合には、故意であろうとなかろうと、死罪に問われる。

(*)ibis=トキまたはコウノトリのことか?本巻七十六節を参照

[2.66] エジプトには家畜が多いが、猫に次のようなことがなければ、もっと多くなるだろう。メス猫が子を産むと、オス猫を受け入れようとしなくなり、オス猫は交尾したくてもできなくなる。

そこでオス猫は、メス猫から子猫を盗んで連れ去り、殺してしまう。ただし、殺すだけで食べてしまうわけではない。子を奪われた母ネコはさらに子を欲しがってオス猫のもとへ寄ってくる。猫というものは子供を可愛がる動物なのだ。

火事が起きると、猫は大変奇妙な行ないにおよぶ。エジプト人は消火することよりも猫を気づかい、間を開けて立ち並び、猫を見張る。それでも猫は人の間をすり抜けたり飛び越えたりして、火の中に飛び込むのだ。

こんなことが起ると、エジプト人はひどく嘆き悲しんでこれを弔う。また、猫が自然死した場合には、その家の家族はみな眉だけを剃る。犬が死んだときには頭と全身の毛を剃る。

[2.67] 死んだ猫はブバスティスの街の霊廟へ運び、ここでミイラにして埋葬する。犬は飼い主の街の墓地へ埋葬する。イクネブモン(エジプトマングース)も犬と同じように葬る。トガリネズミと鷹はブトの街へ、イビスはヘルモポリスヘ運んで葬る。

この国には熊はほとんどいない。狼は狐よりやや大きいが、これらの獣は死んでいた場所に埋葬する。

[2.68] ワニの性質は次のとおりだ。これは陸と水中の両方に棲む四足獣だが、冬の四ヶ月間というもの、何も食べない。陸で産卵、孵化し、一日の大半は乾いた陸で過すが、夜は河の中にいる。夜は大気や露よりも水の方が温かいからだ。

われらの知るすべての生物の内で、これほど小さく生まれ、これほど大きく成長する例はほかにない。その卵はガチョウの卵よりさほど大きくはなく、孵化したばかりのワニも卵に応じた大きさだが、それが成長すると十七キュービット(七百七十糎)あるいはそれ以上にもなる。

ワニの目はブタのような目をしていて、歯はその身体の大きさ相応の大きさで、長い牙のようである。またワニは唯一舌のない動物だ。これは下顎を動かさず、上顎を下顎に向けて動かすという、動物の中でも珍しい例だ。

そして強靱な鈎爪をもち、背中は突き抜けそうにないウロコ状の皮になっている。水中では目が見えないが、空中ではとても鋭敏な目をしている。水の中で生活しているので、ロの中いっぱいにヒルが棲みついている。ほかの鳥や獣はワニを避けるが、ナイルチドリ(trochilus;33)だけは例外で、ワニの役に立っているので、これと仲がよい。

(33)あるいは爪のような翼を持つエジプトタゲリ、またはシロクロゲリ(Hoplopterus armatus=Vanellus armatus)。

それというのも、ワニが岸辺に上がってロをあけると(ワニはいつもは西風に向かってロをあけるのだが)、ナイルチドリはそのロの中に入ってヒルを食べてしまう。ワニはこの労を多とし、この鳥には危害を加えない。

[2.69] 一部のエジプト人はワニを神聖視しているが、一方で目の敵にしている人もいる。テーベやモエリス湖周辺の住民は、ワニをきわめて神聖なものとしている。

この地の人たちはワニを一頭飼育し、飼い馴らしている。その耳にはガラスや黄金で造られた飾りをつけ、前肢には足輪をはめ、決められたとおりの飼料を与え、そのうえ生き餌まで与え、生きているあいだはこの上なく気をつかって飼育する。死ぬとミイラにして聖廟に埋葬する。

ところがエレパンティネ周辺の住民はワニを神聖なものとせず、これを食用にさえする。エジプト人はワニのことをクロコダイルとはいわず、カンプサ(khampsae)という。クロコダイルというのはイオニア人がつけた名で、イオニア人は、ワニが自分たちの国にある石壁の隙間に棲んでいるトカゲ(crocodile)に似ているところから、そのような名をつけたのだ(34)。

(34)「κροκόδειλος=crocodile」はイオニア語でトカゲを指す。より一般的な「σαύρα.=lizard またはσαῦρος=savros. χάμψα=champsa」という名は、エジプト語では「em-suh」となる。アラビア語では「timsah」。これはem-suhに女性接頭辞をつけた語である。

[2.70] ワニを捕まえる方法にはいろいろあるが、話すに価する最上のものと思っているやり方を書いておこう。

まずブタの背肉を針につけて河の中ほどに流し込み、一方で子ブタとともに河岸に立ち、この子ブタを叩く。するとワニはブタの鳴き声を聞き、その声の方へやって来る。そこでワニはブタの背肉に出くわすのでこれを呑み込む。そして皆で糸を引き寄せるのだ。ワニを陸に引き上げると、まず最初にワニの両眼を泥で塗りつぶす。こうしておけばその後の処理は非常に簡単だが、これを怠ると大変めんどうなことになる。

[2.71] カバはパプレミス地区では神聖なものとされているが、ほかの地ではそんなことはない。その姿形といえば、四足獣で、牛と同じくヒヅメが二つに割れている。鼻は平べったく、馬のようなたてがみをもち、牙のような歯が見えていて、尻尾も声も馬に似ている。大きさは、最も大きな牛ほどだ。その外皮は非常に厚く、乾かすと槍の柄に利用できる。

[2.72] カワウソも河に見受けられ、エジプト人はこれも神聖なものとしている。レピドトス(lepidotos)(*)という魚とウナギも神聖なものとしている。これらの魚類と鳥の中ではエジプトガチョウ(Chenalopex)(35)がナイルの神聖物とされている。

(*)英訳語はscale-fish=ウロコ魚
(35)別名「ナイルガチョウ;Nile-goose」、エジプトガチョウ(Chenalopex Aegyptica)

[2.73] さてこれとは別の聖鳥がいて、その名もフェニックス(ポイニクス)という。私自身はその姿を絵で見ただけで、実物は見たことがない。というのも、この鳥がエジプトに飛来することはまれで、ヘリオポリスの住民の話では、五百年に一度だけやって来るという。

そしてフェニックスがやって来るのは父鳥が死んだ時だと云われている。その絵が実際の大きさと姿で描かれているとするなら、羽毛は一部が金色、一部が赤で、その姿と大きさは鷲に最もよく似ている。

彼らが伝えているこの鳥の行動は、私には信じられない。すなわちこの鳥は父鳥の遺骸を没薬(もつやく)で塗りこめ、それをアラビアからヘリオス神殿(太陽神殿)に運び、ここに葬るのだ。

どのようにして運ぶかだが、まず自分が遅べる程度の重さの没薬を卵の形に作り、それを試しに持ち上げてみる。その試みを終えると、卵をくり抜いて父鳥の遺骸を入れ、あけた穴は、さらなる没薬で塞ぐ。そうすると父鳥を入れた重さははじめの重さと同じになる(と彼らは言う)。このようにしてフェニックスは父鳥を塗り籍めてエジプトのヘリオス神殿へ運ぶのだ。この鳥はこんなことをするとエジプト人は伝えている。

[2.74] テーベの近くには神聖な蛇がいるが、これは人間には無害で、形は小さく、頭のてっぺんに二本の角が生えている。この蛇が死ぬと、ゼウス神殿に葬る。この蛇はゼウスの聖獣といわれているからである。

[2.75] ブトの街からそれほど離れていないアラビアの地へは、私は、翼のある蛇について調ベに行ったことがある。到着して目に入ったのが、数えきれないほどの蛇の骨と背骨だった。背骨を積み上げた山がいくつもあり、山は大小こきまぜ、さらに小さいものまで、さまざまだった

背骨の散らばっている場所は、山間の峡谷が広大な平野に拡がるところで、この平野はエジプト平野に連なっている。

翼をもつ蛇は、春の早い時期にアラビアからエジプトに飛んでくるが、イビスという鳥が国の入ロで立ち向かって蛇の行く手を阻み、殺してしまうという。

この功績によって、エジプト人はイビスを大いに崇拝していると、アラビア人は言っているが、エジプト人自身も、イビスを崇める理由として同じことを認めている。

[2.76] さてそのイビスの姿形である。これは全身真っ黒で、脚は鶴のそれだが、クチバシは鋭く曲がっていて、大きさはクイナほどである。これが蛇と戦うイビスの外見である。

ところがイビスは二種類(36)いて、人間に懐いている方のイビスは、頭から首にかけては羽がなく、頭と首、翼の尖端、尻尾の先は真っ黒で、これ以外は白い羽に覆われている。ただし脚とクチバシは別種のイビスに似ている。

(36)ハゲトキ(Geronticus Calvus) と 聖イビス(Ibis Aethiopica)。

先に話した蛇は水蛇に似ているが、翼には羽毛がなく、コウモリの翼にとてもよく似ている。

神聖な動物については、これで存分に話した。

[2.77] さてエジプト人そのものの中でも、農業地の人々は、ほかのどんな人々よりも過去の記憶を保存することにこの上なく熱心で、私が訊ねまわったどんな人たちよりも歴史に詳しい。

そんな彼らの生活様式はといえば、健康のために月に一度、三日続けて嘔吐剤と下剤を用いて体内を浄化する。人の病気はすべて口にする食物が原因だと、彼らは思っているからだ。

こんなことをしなくとも、エジプト人はリビア人の次に、全人類の中で最も健康なのだが。私の考えでは、その理由として気候が一年中変わらないことが考えられる。何かが変わること、とくに季節の変動が病気の主な原因となるからだ。

彼らはマイズ(maize)というスペルト小麦を粗挽きにして、いわゆるキレスティス(37)という円錐形のパンをつくって食している。酒は大麦から作る。この国にはブドウがないからだ。魚は日干しにしてそのまま食べる。または塩漬けにして保存する。

(37)円錐形に捻ったパン。

ウズラ、カモ、小鳥のたぐいは塩漬けにしてそのまま食べる、そのほかの鳥類、魚類は、聖獣と見なされるものを除き、炙ったり煮たりして食べる。

[2.78] 裕福な者たちが催す宴会では、それが終わる頃に、一ないし二キューピッドの大きさで、人の遺骸を正確に彫った木製の像を、ひとりの男が棺に入れて運び込む。これを同席者ひとりずつに見せてまわり、こんなことを言う。
「飲んで楽しみながら、これをご覧あれ。死んだら、あなたもこんな状態になられるのですぞ」
これが彼らの饗宴の席における習わしである。

[2.79] 彼らは父祖伝来の風習を守り続けていて、新しいことをしようとしない。注目すべき風習がいろいろある中で、このようなものがある。リノスの歌(38)というのがあり、これはフェニキアやキプロスそのほかの地でも歌われているものだが、民族によって独自の名前がつけられている。

(38)夭折した若者のための挽歌(初夏の消滅を表象するものといわれている)。Thammuz, Atys, Hylas,またはLinusと称される。セム語の反復句「アイ・リノ(ai lenu)」すなわち「哀れな我らよ(alas for us)」がギリシア語の「αἴλινος=ailino」となり、リノスとなった

この歌はギリシア人がリノスとして歌っているものと偶然にも同じだが、こうしてみるとエジプトには驚かされることが多くあって、これもそのひとつだ。一体エジプト人は、どこからこのリノスという名をもってきたのだろうか?エジプトではリノスというのはマネロス(39)と呼ばれているのだが、彼らがこの歌を昔から歌ってるのは明らかなのだ。

(39)マネロスというのはおそらく「ma-n-hra=come back to us(我らのもとへ戻れ)」という反復句に由来するのだろう。

エジプト人が話してくれたことによると、マネロスはエジプト初代王のただ一人の子で、若くして亡くなっている。そこでエジプト人はこの子に敬意を払ってこの挽歌を歌い、彼らが言うには、この歌がエジプトの最初にして唯一の歌になったのだという。

[2.80] エジプト人が、ギリシア人---といってもスパルタ人に限るのだが---と同じくしている風習がもうひとつある。それは若者が年長者に出会ったときには道をゆずり、また年長者が近づくと席を立つことだ。

しかし次のことはギリシア人と異なっている。彼らが路上で出会ったときには、互いに挨拶をするのではなく、手を膝までさげてお辞儀をすることである。

[2.81] 彼らは脚のまわりに縁飾りのついたカラシリスという麻の肌着をつけ、その上に白いウールの外套をまとっている。しかしウールの衣服は神殿内へは持ち込まず、埋葬するときも身に着けさせない。これは宗教上の禁忌である。

このことは、いわゆるオルペウス教やバッコス教--実はこれらはエジプト起源である--またピタゴラス派の戒律と同じである。これらの宗派の儀式に参列する者は、ウールの衣服をつけて埋葬することを禁じられている。このことについては聖伝説が残されている。

[2.82] エジプト人の始めた風習には、ほかに次のようなことがある。それぞれの月や日には帰属する神が決められている。またその人が生まれた日によって、どのような人生をたどり、どのように人生を終え、どのような人間になるかが決まると考えている。そしてギリシアの詩人たちが、これを利用しているのだ。

また彼らが見つけた予兆の数々は、ほかの全ての民族の発見したものよりも多い。エジプト人は驚異的なことが起きると、その結果を記録しておくのだ。そして似たようなことが再び起きたときには、同じ結果がもたらされると彼らは考えている。

[2.83] 彼らの神託術については、これは人間があつかうものではなく、いくつかの神に帰属するものとしている。すなわち彼らの国には、ヘラクレス、アポロン、アテナ、アルテミス、アレス、ゼウスなどの神託所があるが、その中でも最も崇拝されているのが、ブトにあるレトの神託所である。しかし神託のやり方は一様ではなく、いくつかの方法がある。

[2.84] 彼らの医術は専門化している。それぞれの医者はひとつの病気だけを扱い、ほかは診ない。それゆえ国中に医者が溢れていて、眼医者、頭の医者、歯医者、内蔵の医者、訳の分からない病気の医者などがいる。

[2.85] 彼らの死者の葬儀や埋葬はこうだ。著名人が死ぬと、その家の女たちは全員が顔や頭に泥を塗りつける。そして遺体を屋敷に残したまま、街中を練り歩いて哀悼の意を示すのだ。そのとき、腰には帯を締めて胸をさらけだし、自分の身体を打ち続ける。また死者の縁者の女たちもみな、これに同行することになっている。

男たちも同様に衣を帯で締めて肌脱ぎにし、自分の身体を叩いて嘆き悲しむ。そのあとは、ミイラにする場所へ遺体を運び込む。

[2.86] そしてミイラ造りを専門の職とし、その技術もつ職人がいる。遺体が運び込まれると、本物のごとく絵具で色づけした木製の見本を、運んできた者たちにみせる。最も完全な手法のものは、その名を口にするのもはばかられる、ある人物の処理法だと説明し、二番目のものとしては、これよりも完成度が落ちるが値段も安いというものをみせる。そして三番目には最も値段の安いものをみせる。これらの見本をみせながら、職人は、遺体を持ち込んできた人たちに、どのやり方を希望するかを確認する。

金額が決まると依頼人たちは帰ってゆき、職人は仕事場に残って遺体の処理にとりかかる。最も完璧な処理法というのはこうだ。

まず脳に薬液を注入するとともに、鉄製の鈎を鼻からとおして脳をかきだす。次に鋭いエチオピア石のナイフで脇腹を切り裂いて内蔵をすべて取りだし、そこへヤシ油を注いだり、すり潰した香料を使って腹部を清める。

そのあと、すりつぶした純粋な没薬や桂皮、それに乳香をのぞくほかの香料を腹部に詰めてから、縫い合わせる。そうしてからこれをソーダに潰けて七十目間密閉しておく。ただしこの期間を超える密閉は許されていない。

七十日が過ぎれば遺体を洗い、上質の麻布でつくった包帯で全身を巻いてくるみ、その上に、エジプト人が膠の代わりによく利用しているゴムを塗りこむ。

こうしてミイラは近親者に引き渡される。彼らはミイラを納める人型の木箱を造ってミイラを納め、閉じた棺を墓室内の壁にまっすぐ立てかけて安置する。

[2.87] 以上、最も高価なミイラ調製法である(40)。高額な費用を避けて中級のものを希望する人たちのためには、次のように調製する。

(40)τοὺς τὰ πολυτελέστατα, sc. βουλομένους.=tous ta polytelestata, sc. voulomenou

ミイラ職人は、杉の油を注入器に満たし、これを遺体の腹部に充満するまで注入する。このとき腹部を切開して内蔵を取りだすことはしない。油は肛門から注入し、外に漏れないように栓をしておく。規定の日数だけソーダに漬けておき、期日がくれば先に注入していた杉油を腹から排出させる。

この油は、腸やその他の内臓を溶かし、ともに対外に排出させるのに大きな効力がある。一方で肉はソーダで溶かされるので、あとには骨と皮しか残らない。これがすむと、それ以上何も手を加えず、ミイラ職人は遺体を返す。

[2.88] 三番目のミイラ調製法で、貧しい死人の場合には次のようにする。下剤を用いて腹の中を洗浄してから七十日間ソーダに漬け、そのあと遺体を持って帰らせる。

[2.89] 高貴な夫人や、すぐれて美貌で評判の女性が亡くなったときには、すぐにはミイラ調製には出さず、死後三日目または四日目になってからミイラ職人にあずける。

このようにするのは、ミイラ職人がこれらの女性を犯すのを防ぐためである。事実、亡くなったばかりの女性の遺体をある職人が犯し、それを同業者に告発されて捕らえられたという話がある。

[2.90] エジプト人であれ異国人であれ、ワニにさらわれるか河に流されて死んだときには、死体が岸に上がった街の者たちが、どんなことをしてでも、その遺体をできるかぎり見栄えよくミイラにし、聖廟に葬らねばならないとされている。

このとき、近親者、知人の別なく、誰も死体に触れることは許されない。このような遺体は人間以上のなにか別のものと見なされ、ナイルの司祭たちが手ずからそれを葬ることになっている。

[2.91] エジプト人はギリシアの風習を受け入れようとしない。一般にこれはギリシアに限らず、すべての異国の風習に対して、そうなのだ。そしてほとんどのエジプト人はこの規範を守っているが、ただここにテーベ州のネアポリス近くにケンミスという大きな街がある。

この街には、ダナエの息子ペルセウスを祀る方形の廟が、ヤシの木立の中にある。この廟の参道門は巨大な石でできていて、入り口の前にも巨大な石作りの立像が二基立っている。この廟の境内に神殿があり、そこにペルセウスの立像が安置してある。

このケンミスの街の住民が伝えるところでは、ペルセウスはこの地、またこの神殿内に姿を現すことがしばしばで、かれの履いていた二キュービット(九十糎)もの大きさのサンダルが時々発見されるという。そしてこのサンダルが現われると、エジプト全土が繁栄するという(*)。

(*)「サンダルが残されていて、これがひっくり返るとエジプト全土が繁栄する」とも読める。

これが彼らの伝承話だが、ペルセウスを讃えて彼らが行なっていることがまさにギリシア風なのだ。すなわち彼らは祝祭としてあらゆる種目の運動競技を催し、家畜や衣服、皮革を賞品にしている。

なぜペルセウスが彼らの前だけに現われ、またなぜ彼らがほかのエジプト人に似ず競技会を催すのか、という私の問いかけに彼らが答えていわく。ペルセウスはもともとはケンミスの生まれだといった。つまりダナオスとリュンケウスはケンミス市民だったが、彼らはこの街からギリシアヘ渡っていったのだと返答した。そして、この二人からペルセウスに至るまでの系譜を話してくれた。

またペルセウスがエジプトに渡ってきたのは、ギリシア人の言い伝えどおりの理由によるものだった。すなわちリビアからゴルゴーン(*)の首を持ってくることだったが、その時ペルセウスはこの街を訪れ、一族の者たちすべてに挨拶し、この街の名は、エジプトに来る前に、母親から聞いてすでに知っていたと語ったそうだ。そして休育競技を催すのも、かれの要望によるものだと彼らは伝えている。

(*)ギリシア神話に登場する怪物ゴルゴーン三姉妹の末娘メドゥーサ(Medousa)のこと。

[2.92] 以上すべては沼沢地帯より上流地域に住むエジプト人の風習である。沼沢地帯の住民の風習もほかのエジプト人のそれと同じで、とくに一夫一婦制もギリシア人と同じである。そのうえ、食料を無駄にしない方法を工夫している。

ナイルが氾濫し、平野が水に浸かると、エジプト人がロータスと呼んでいるユリがびっしりと水中に発生する。これを集めて天日に干し、その中にあるケシの実に似た種をすり潰してパンを作る。

ロータスの根も食用になり、これは丸くてリンゴほどの大きさで、甘い。

ナイルには別種のユリも生えているが、これはバラに似ていて、根から別に伸びている茎になる実である。形はハチの巣によく似ている。実の中にはオリーブの核ほどの大きさで、食用になる種が多数入っていて、これは生のまま、または乾燥させて食べる。

パピルスは毎年生える。それを沼から採り、上の部分は切り取って他の用途に用い、その下の一キュービットほどの長さの部分は食べたり売ったりする。パピルスを特においしく食べたいと思う人は、赤くなるまで熱した天火(オーブン)で焼いて食べる。また魚しか食べない人たちもいる。彼らは魚を採るとはらわたを抜き、干物にして食べる。

[2.93] ナイルには群れる習性のある魚はほとんどいない。このような魚は湖に棲息しているものだが、その生態は次のようだ。この種の魚は産卵期になると群をなして海へ泳ぎ出す。オス魚が白子を出しながら先を泳いで行くと、あとに続くメス魚がそれを呑みこんで受精する。

海でメス魚が孕むと、すべての魚は元のねぐらを目指して河を上る。しかし先頭を行くのはオスではなく、メスが先導役となる。メス魚は先にオスのしていたことと同じことをする。つまりメス魚は粟粒ほどの大きさの卵を少しずつ放出し、あとに続くオス魚がそれを捕食する。この粟粒状のものすなわち卵が魚に成長するのだ。

そして呑みこまれずに生き残った卵が魚に成長する。海に向かっているときの魚を捕らえてみると、頭部の左側に擦り傷があるのだが、河を上ってゆく魚には右側に傷がある。

この現象が起きる理由は、海へ下るときも河を遡るときも、魚は河の左岸に沿い、できるだけ岸に近いところをかすめながら泳ぐからだ。これは河の流れで道に迷わないようにするためかと思われる。

ナイルが氾濫しはじめると、最初に河ぞいの窪地や湿地帯が水につかる。河から水があふれ出てくると、すぐに水が満ち、そして瞬時にして小魚があふれかえる。

この小魚がどこからやって来るのか、私にはわかるような気がする。つまり前の年にナイルの水が引く時に、泥の中に卵を生んだ魚は最後の水とともに去って行く。そして次の年に再び水が満ちると、ただちにこの卵から魚が孵化するのだ。以上、魚の話である。

[2.94] 沼沢地に住むエジプト人は、エジプト語でキキというトウゴマの実から採った油を利用する。これはギリシアでは野生植物だが、エジプト人は河や湖のほとりに種をまく。

エジプトで栽培されたものは無数の実をつけるが、悪臭がある。彼らはこの実を集め、すり潰して搾ったり、火で炙ってから煮こんだりして実から出る油を集める。この油は油気が強く、オリーブオイルに劣らぬほど燈油に適しているが、堪えがたい臭気がある。

[2.95] おびただしい数の蚊に対してエジプト人がとっている対策は次のとおりだ。沼沢地帯より上流の住民は、塔にのぼって眠る。蚊は風に妨げられ、高いところまで飛べないからである。

一方、沼沢地の住民は塔の代わりに別の方法を用いている。ここでは誰もが投網を持っていて、昼間はそれで魚をとり、夜は自分の寝床の周りにこの網を張りめぐらし、その中へ這い入って眠るのである。

上着や布にくるまつて寝ると、蚊はその上から刺すが、網の場合には、これを通して剌すようなことはまずありえない。

[2.96] 貨物を運ぶ船はアカシア材(41)で造られている。アカシアはその形がキュレネ産のロータスによく似ていて、この木の樹液がゴムになる。このアカシアから長さ二キュービット(九十糎)の板を切り出し、これを煉瓦のように並べて船を造る(42)。

(41)Mimosa Niloticaミモザ・ニロティカ;これは今でもエジプトで船材に利用されている。
(42)つまり、レンガが互いに直接重なるのではなく、交互に接合するように配置する。

この二キュービットの板を並べておき、その間に木釘を差し込んで接合する。そのあとは船板を交叉するように横桁(よこげた)を張る。このとき肋材は用いない。板の継目は内側からパピルスを詰めてふさぐ。

舵は一つで、これは竜骨にあけた穴に通す。帆柱はアカシア材、帆はパピルスを用いる。この種の船は強い風が吹かないかぎり、河の上流に向かって航行できないので、岸から牽いてゆくが、下流に向かって行くときには次のように操作する。

御柳の木をアシのゴザで繋ぎあわせて筏をつくり、およそニタラントン(五十~八十瓩)の重さの石に穴をあけておく。筏は綱で船の前部に結びつけて流し、石はこれも綱で船の後部に結びつける。

筏は流れに乗って速く進み、バリス(この種の船の名称)を引張ってゆく。後方の石は河底を引きずられることで、船の進路を真直ぐに保つ働きをする。この種の船は実に多く用いられていて、あるものは数千タラントンもの貨物を運んでいる。

[2.97] ナイルが大地に氾濫すると、市街だけが水の上に残り、それはまさにエーゲ海に浮ぶ島嶼のようである。すなわち街並みだけが屹立し、エジプト全土は一面の海となる。この状態になると、人々はいつものように河に沿って移動することはせず、平野の真中を突っ切って行く。

たとえばナウクラティスからメンフィスヘ船で航行するときには、船はピラミッドのすぐ近くを通る。ただこれは通常の航路ではなく(43)、普通はデルタの頂点とケルカソロスの街を通ってゆく。海からきてカノボスの街を経由し、平野を通ってナウクラティスヘ航行するときには、アンティラと「アルカンドロスの街」という街を通る経路をたどることになる。

(43)この文は曖昧。ある人は「この航路はそうではなく」と解している。そして「ὁ ἐωθώς = o eothós」が「οὗτος = oútos」の後ろから缺落しているのだろうと推測している

[2.98] アンティラの街はある意味で名のあるところで、この街は歴代エジプト支配者の妃に履物料として与えられる特別な領地になっている。これはエジプトがペルシアの支配下に人ってからのことだ。

もう一つの街の名は、ダナオスの娘婿アルカンドロスー父はピティオス、祖父はアカイオスーから来ていると私は思っている。この街が「アルカンドロスの街」と呼ばれているからだ。アルカンドロスという人物がほかにいたかもしれないが、どちらにしてもこれはエジプト人の名ではない。

[2.99] 以上、これまで私が話したことはすべて私自身が見たこと、判断したこと、調べたことであるが、これ以後は、エジプトの歴史について私がこの眼で確かめたこともいくらか交えつつ、聞き取ったことをそのまま書き留めてゆくことにする。

司祭たちが語るには、エジプト初代の王はミンといい、堤防を築いてメンフィスをナイルから守ったのはこの王が最初だという。この河はその全長にわたってリビア側の砂質の山脈のふもと近くを流れていたが、ミンはメンフィス南方およそ百スタディア(十八粁)の上流部で河の屈曲部に堤防を築いて元の流れを涸らし、流れを誘導して山と山の間を流れるようにしたという。

この屈曲部はいまでもペルシア人によって厳重に管理されていて、流れを保つために毎年補強されている。ナイルが堤防を破壊してそこから氾濫を起こすと、メンフィス全市が洪水の危機に陥るからである

こうして初代王ミンは河を堰き止めたあとの土地を乾燥地に変え、真っ先にここに街を造ったのだが、これが今日メンフィスと呼ばれている街で(メンフィスもエジプトの狭隘部にある)、さらに街の外側の北部と西部に(東にはナイルが接して流れている)ナイルから水をひいて湖を掘ってつくった。そして次にこの街にヘパイストスの神殿を建立したが、これは宏壯で最も注目に値するものである。

[2.100] ミンのあとには三百三十人の王が続いたが、司祭たちはパピルスの巻物をひもとき、その名を列挙してくれた。その長い世代のうち、エチオピア人の王は十八人で、一人だけ地元生まれの女がいて、ほかはすべてエジプト人の男である。

女王の名は、あのバビロンの女王と同じくニトクリスといった。彼らがいうには、彼女の兄弟はエジプト王だったが、臣下の者たちがかれを弑逆し、王位をニトクリスに与えた。ところが披女は、大勢のエジプト人をだまして殺し、兄弟の仇を討ったという。

彼女は広大な地下室を造り、その完成式を行なうふりをし、内心では全く別のことを企らんでいた。彼女は、兄弟の殺害を共謀し、これに最も深く関わったエジプト人たちを盛大な宴席に招き、その最中に、密かに造っておいた大きな水路から河の水を客の上に流し込んだという。

この女王に関する司祭たちの話はこれですべてである。ただ、これを終えたあと、報復から逃れるために、女王は灰の充満している部屋にその身を投じたという。

[2.101] その他の諸王のについては、目立った業績や活躍をした者はいないと司祭たちは語った。ただ例外として歴代最後の王モエリスの名をあげた。

モエリスの名は、ヘパイストスの神殿北面の楼門を建立したことで記憶せられ、また湖を開削し(この湖の周囲が何スタディアもの長大さであるかは後に示す)、その湖の中にピラミッドも建てた。ピラミッドの大きさについては、この湖について語るときに取り上げるつもりである。以上がモエリスの業績だが、ほかの王は誰ひとりなんの業績も残していないという。

[2.102] それゆえ残る王たちのことはさておき、そのあと王位についたセソストリス(44)ついて話すことにしよう。

(44)ラムセス二世のこと。ギリシア人はセソストリスと呼ぶ。紀元前十四世紀に王位にあったと伝えられている。

司祭たちの話では、この王は始めて船体の長い艦隊(45)を率いてアラビア湾を出航し、紅海沿岸の住民を征服したあと、さらに船が航行できなくなる浅瀬の海域にまで到達したという。

(45)戦艦のこと

その後も司祭たちの話は続き、そこからエジプトに帰還すると、王は大軍を編成して大陸に進出し、その進路にあたる民族を手当たり次第に征服した。

自由のために戦う勇敢な民族に遭遇するたびに、この王はその国に記念碑を建て、その碑には自身の名と祖国の名、そしていかにして自分の力によってこの国を征服したかを刻み込んだのである。

しかし抵抗もなくやすやすと占領した国には、勇敢に戦った民族の場合と同様の碑文を刻んだ上、さらに女陰の形を彫り込ませた。それによってこの民族が臆病だったことを示したのだ。

[2.103] かくのごとくしてかれは大陸中を進軍し、ついにはアジアからヨーロッパにまで至り、スキタイ人やトラキア人も征服した。私が思うに、これはエジプト軍が最も遠くまで遠征した例である。いうのは彼らの国内では例の記念碑が建っているのを実見できるが、それを越えると記念碑など全く見当たらないからである。

彼はそこから国に引き返したが、パシス河に達したとき、私には正確なことは云えないのだが、セソストリス王は軍の一部をさいてその地に入植させたようだ。あるいは一部の兵たちが王の放浪に厭気がさし、パシス河畔に住みついたのかもしれない。

[2.104] というのも、他人から聞く前から私は知っていたので言うのだが、コルキス人は明らかにエジプト人である。この考えを思いつくと、私は双方の国びとたちに問い質してみたところ、コルキス人はエジプト人のことをよく覚えているが、エジプト人はコルキス人ほどには彼らのことを覚えていないことがわかった。

エジプト人は、コルキス人はセソストリスの遠征軍の一部だと思っていると云った。私がそのように推定した根拠の一部は、コルキス人が色黒で、縮れ毛だということにある。しかしほかにもこのような人種がいることゆえ、これだけでは何の証明にもならないのだが、それよりもさらに有力な根拠になると私が考えていることは、コルキス人とエジプト人とエチオピア人だけが昔から割礼を行なっていることである。

フェニキア人とパレスティナのシリア人は、この風習をエジプト人から学んだことを認めているし、テルモドン河畔やパルテニオス河畔に住むシリア人、それに彼らの隣接地に住んでいるマクロネス人は、近年になってから、この風習をコルキス人から学んだと言っている。結局、割礼をしているのはこれらの民族だけで、そのやり方もエジプト人のそれと全く同じなのだ。

エジプト人とエチオピア人については、どちらが他から学んだのか、私には何とも云えない。この風習は明らかに非常に古くから行なわれているからである。エジプトと交通していることによって、ほかの国がその風習を学んだということは、次の事実が確かな証拠になると私は考えている。つまりギリシアと交流のあるフェニキア人は、この風習についてはエジプト人を見習うことをせず、子供たちに割礼をしない。

[2.105] コルキス人がエジプト人に似ている点をもう少し話しておこう。それはこの人々とエジプト人だけが亜麻を同じ方法で栽培していることである。またそのすべての生活様式も言語も互いに似ている。なおギリシア人の言う亜麻には名前が二つあり、コルキス産の亜麻をサルディニア亜麻(46)、エジプト産をエジプト亜麻と呼んでいる。

(46)コルキス産の亜麻とサルディニアを結びつける根拠はないようだ。(Σαρδωνικόν=Sardonikon は当然サルディニアとなるが)コルキスという発音がサルディニアという発音と似ていたのかもしれない。

[2.106] エジプト王セソストリスがいろいろな国に建てた記念碑は、もはやそのほとんどを眼にすることがない。しかしシリアのパレスティナ地区で、私自身はその幾本かを確認した。それには先ほど話した碑文や女陰が刻まれていた。

またイオニアにも、岩に刻まれたこの人物の像(47)が二つある。ひとつはエフェソスからフォカイアに向かう途中に、もうひとつはサルディスからスミルナに向かう途中にある。

(47)これら二体の像はエフェソスからスミルナに向かう古代街道の近くにあるカラベルで発見されている。しかしその姿はエジプト人のそれではない。

双方の場所とも、像の高さは四キュービット半(二米)ほどで、右手には槍を、左手には弓をもち、その他の装備もエジプト様式やエチオピア様式である。

そして片方の肩からもう一方の肩にかけて、胸にはエジプトのヒエログリフ(神聖文字)で次のごとく文字が刻まれている・
「われこそは、この地をわが双肩によりて得たり」
しかしこの人物が誰か、どこから来たのかは記されていない。ほかの場所の像にはしるされているのだが。これらの像を見た人の一部は、これをメムノン(*)の像だと推測しているが、彼らは真実から遠く隔たっている。

(*)ホメロスのオデッセイア(第四歌百八十八節、第六歌五百二十二節)に登場するエチオピア王。トロイの応援に駆けつけた。

[2.107] 司祭たちの語るところによると、このエジプト人セソストリスが、征服した国々で捕らえた多くの住民を従えて帰国の途中、ペルシオンのダプナイに着いたときのことだった。エジプトの統治をまかせていたかれの弟が、かれとその息子たちを饗宴に招き、その屋敷のまわりに薪を積み上げ、火を放ったのである。

これに気づいたセソストリスは、連れてきていた妻にすぐ相談した。すると妻は、六人いる息子のうち二人を火の上にねかせ、燃えている火の上を渡る橋にすれば、自分たちは二人の身体の上を歩いて脱出できるだろうと云った。セソストリスはその通り実行したので、二人の息子は焼死したが、残りの息子は父とともに生き延び、助かったという。

[2.108] エジプトに帰ったセソストリスは弟に報復したのち、征服地から連れ帰った大勢の捕虜を次のように使役した。

この王の統治下で、多数の巨石をヘパイストス神殿までひいて運んだのは、このときの捕虜たちだった。また現在エジプトにある運河はすべて捕虜たちを使って開墾したものである。その結果、はからずもこれまでは全土が馬や荷車の通行に適していたのが、これ以後まったく適さなくなってしまったのである。

このあとエジプトは、平坦な国土であるのに馬や荷車を使用できなくなってしまった。それは、あらゆる方向に走る無数の運河のためである。

この王が国中に運河を縦横に走らせた理由はこうだ。ナイルの流域からはずれた奥地の住民は、氾濫のあと水がひくたびに、いつも水が不足し、井戸からくんだ塩気の強い水を飲むしか法がなかったからである。エジプトに運河が縦横に走っているのは、このためである。

[2.109] 司祭たちの話によると、この王はすべてのエジプト人に同じ面積の方形の土地を与え、これによって年貢を納める義務を課し、国の歳入とした。

河によって所有地の一部を失ったときには、王のもとへ出頭し、事情を報告することになっていた。すると王は人を送ってそれを確かめ、そのうえ失われた土地の広さを測らせ、それ以後は最初に決められた税に応じて年貢を納めさせた。

幾何学はこのようにして見いだされ、その後ギリシアヘ渡ったものと、私は考えている。というのも、ギリシア人は土地の測量術やポロスやグノーモン(gnomon)という日時計、一日を十二分割すること(*)などをエジプト人からではなく、バビロン人から学んでいるのだから。

(*)ここでいう「一日」は日の出から日没までのことだろう。

[2.110] またセソストリスはエチオピアをも支配した、ただひとりのエジプト王だった。かれは自分の名声を記念するために、ヘパイストス神殿の前に、自分と妃の姿を模した、三十キュービット(十四米)もの二体の石像と、四人の息子のために、それぞれ二十ミュービット(九米)の石像を残している。

その後ずいぶんたってから、ペルシア人ダリウス王がこの像の前に自分の像を建てようとしたが、ヘパイストスの司祭は、ダリウスにはエジプト人セソストリスに匹敵するほどの業績がないといって、それを許さなかった。その司祭の言では、セソストリスはダリウスに劣らぬほど多数の民族を征服したうえに、スキタイ人をも従えたのだが、ダリウスはスキタイを征服できなかったのだ。

それゆえ、セソストリスの業績に及ばないダリウスが、その人の像の前に自分の像を建てるべきではないというのだった。ダリウスは司祭のいうことを諒解したという。

[2.111] セソストリスの歿後、司祭たちの言ではその子ペロス(48)が王位をついだという。この王は軍を率いる遠征は行なわなかったが、次のようなことで盲目になったといわれている。ある年ナイルが、その水位が十八キュービット(八米)にもなる、かつてないほどのひどい氾濫をおこし、水が耕地に押しよせ、強い風に吹かれて水面は荒れ狂った。

(48)プトレマイオス朝時代の歴史家で司祭のマネト(Manetho)の残した歴代王のリストにはこの名がない。おそらくペロスというのは名称ではなく、ファラオを意味する称号だろう。

言い伝えによると、この時この王は無謀にも槍を手にとると、逆巻く流れの真ん中にこれを投げ込んだという。その直後、かれは眼の病にかかり盲目になってしまったのだ。こうして盲目のまま十年が過ぎ、十一年目となったとき、ブトの街からひとつの神託が届いた。それにはかれの処罰が終わったことと、夫のほかには男を知らない女の尿で眼を洗えば、再び見えるようになるだろうと告げられていた。

そこでポロスはまず自分の妃でためしてみたが、依然として見えないままだったので、次々と多くの女をためしていった。そしてついに見えるようになった王は、視力がもどった女を別として、これまでためしてきた女たちを、今日「赤土(エリトラボロス)」と呼ばれている街に集め、女たち全員を街とともに焼き払ったという。

そして視力の回復に効のあった女は、自分の妃としてむかえ入れた。盲目から解放されたのち、彼は名の知れた神殿に軒並み多くの奉納品を献じたが、中でも語るに足るものは、太陽神(ヘリオス)の神殿へ奉納した、見事な二体の石造オベリスクである。これは各々が百キュービット(四十五米)の高さで、幅は八キュービット(四米)、ともに一つの岩石で作られている。

[2.112] 伝承によると、ペロスの後を継いだのはメンフィスの出身で、ギリシア語ではプロテウスという名の人物だった。そこでメンフィスには、ヘパイストス神殿の南方に、プロテウスを祀る派手な造りのよく調えられた神殿がある。そしてこの神域のまわりにはテュロスから来たフェニキア人が住んでいて、この地一帯が「テュロス人陣営」と呼ばれている。

さてこのプロテウスの神域の中に、「異国のアフロディテ」と呼ばれている神殿がある。私の推測では、これはティンダロスの娘ヘレネを祀る神殿である。その理由のひとつは、ヘレネがプロテウスとともに住んでいたという伝承を聞いていたことと、ひとつには、この神殿に「異国の」という名がつけられていることだ。ほかのアフロディテ神殿で、この名を冠せられたものは、ひとつとしてないのだ。

[2.113] 私が司祭たちに訊ねたところ、彼らはヘレネの物語(*)を語ってくれた。アレクサンドロス(パリス)はスパルタからヘレネを連れ去り母国(トロイ)に向かって船出したが、エ-ゲ海で船は暴風に見舞われ、エジプトの海へ流されてしまった。そして風が吹きやまぬまま、エジプトのナイルの河口で今日カノボス河口と呼ばれている場所に漂着した。ここはタリケイアの街の近くである。

(*)ヘレネの夫は伝説上のスパルタ王メネラオス

この海岸にはヘラクレスの神殿があり、これはまだ残っている。この神殿は、誰の奴隷であろうと、ここへ逃げ込み、その身を神に捧げる証の神聖な焼き印をつけてもらえば、その者に触れることは許されなくなるのだ。この風習は太古から今日にいたるまで、変わることなくずっと続いている。

アレクサンドロスの従者たちの一部は、この神殿の慣習を知るとかれのもとから逃げ出し、この神の庇護をもとめてその身を投じた。そしてアレキサンドロスに鉄槌を下そうとしてかれを告発した。従者たちはヘレネに関することや、メネラオスに対する悪業などを一部始終語った。そして神殿の司祭たちばかりでなく、この河口の警備長官であるトニスという男にも、この話を聞かせたのだった。

[2.114] この話を聴いたトニスは、メンフィスのプロテウスのもとへ急使を送って次のように報告させた。

「当地にトロイ族の異国人がやって来ております。この者はギリシアにおいて不遜なる行ないに及んだ節があります。それは自分を宴に招いてくれたあるじを欺してその妻をかどわかし、あまつさえ莫大な財宝を掠め取って来る途中、風に流されて殿の国へ到来した次第であります。さればこの者、なんら手をかけず出航させましょうか、または所持品を没収いたしましょうか?」

プロテウスは次のように伝えさせた。
「何者か知らぬが、自分をもてなしてくれた者に不埒を働くとは。その者を捕らえて予のもとへ連れて参れ。そやつが何と言うか聴いてやろうではないか」

[2.115] これを聞いたトニスはアレクサンドロスを捕えてその船団を抑留し、この男とヘレネ、その財宝、嘆願者たちをともにメンフィスヘ送った。

一同が到着すると、プロテウスはアレクサンドロスに対して、汝は何者でどこから出航してきたのかと訊ねた。アレクサンドロスは自分の家系を語り、次に母国の名も告げ、どこから出航してきたかを語った。

そこでプロテウスはどこでヘレネを手に入れたのかを訊ねたが、アレクサンドロスが曖昧なことをいって本当のことを云わずにいると、歎願者たちが反論し、かれの悪事を洗いざらい話した。

結局プロテウスは次のような決定を彼らに下した。
「風に流され、わが国に漂着した異国の者は決して殺さぬと、予が心に決めておらなんだとしたら、予はかのギリシア人に代って汝を罰したことであろう、この極悪人めが。お主は歓待されたことを棚に上げ、この上なき不埒な行ないを働いておる。接待主の妻を掠め取りおって。

なおそれに飽きることなく、女とともに出奔しおった。いや女ばかりでなく、饗応主の屋敷から財宝をも奪ってくるとは。

そこでじゃ、予は異国の者をあやめぬと決めておるが、この女と財宝はお主に持って行かせることは許さぬ。これらは、お主をもてなしたギリシア人が来て、持ち帰りたいというまで予が預かっておく。お主とその船員どもは三日のうちにわが国を去り、他国を目指すよう言い渡しておく。これに従わざれば、敵と見なすぞ」

[2.116] 司祭たちは、ヘレネがプロテウスのもとへ来たいきさつを右のごとく話してくれた。私が思うには、ホメロスもこの物語を知っていたことだろう。しかしこの物語は、かれが用いたほかの物語ほどには叙事詩に適さなかったので、これを使わなかったものの、同時にこの話を知っていたことは明らかにしている。

それはかのイリアスの一節においてアレクサンドロスの放浪を語り、そしてヘレネとともに進路からはずれてさまざまな地を漂泊したことを述べ、中でもフェニキアのシドンヘ行ったことを語っているが、ほかのどの部分においても、それを訂正してはいないからだ。

このことは、「ディオメデスの武勲」の一節に述べられていて、以下がその詩文である。

 あでやかなる刺繍(*)の晴れ着、これにあり。
  こはそも、シドンのおなご衆の作にて
  神のごときアレクサンドロスその人が
  大海原を渡りてシドンより伴ひし、おなごどもなり。
  そは、高貴なる血筋のヘレネをば連れ帰る船旅途上のことなり。
   イリアス第六巻;二百八十九~二百九十二行

(*)「色とりどりの」としている訳者もある。

ホメロスはオデッセイアにおいても、これに触れている。

  ゼウスの息女(ヘレネ)は、かくのごと効能あらたかなる妙薬を
  携えておりしが、これはトンの妻女にしてエジプト女なる
  ポリダムナから与えられしものなり。
  かの国の豊穣なる大地は薬草を産することいとあまたにして、
  混ずれば良薬となるもの多しといえども、毒薬となるものも多し。
   オデッセイア第四巻;二百二十七行~二百三十行

そしてメネラオスもテレマコスに向かってこう語っている。

  一刻も早い帰国を欲する吾輩を、
  神々は依然エジプトに留めおきめさりぬ。
  牛百頭の生贄を神々に捧げ祀ることを怠りしゆえに。
  オデッセイア第四巻;三百五十一~三百五十二行

これらの詩文から、アレクサンドロスがエジプトに放浪したことをホメロスが知っていたことは明らかである。シリアはエジプトと境をなしていて、シドンの街のフェニキア人はシリアに住んでいるのだから。

[2.117] これらの詩文と文節から、叙事詩「キュプリア」(*)がホメロスの作ではなく、ほかの誰かの作であることは全く明らかである。キュプリアでは、アレクサンドロスはヘレネとともにスパルタを出帆し、追い風と波静かな海のおかげで三日目にイリオン(トロイ)ヘ着いたとしているが、イリアスでは、かれはヘレネを連れて進路をはずれて漂流したとされているからだ。ホメロスとキュプリア叙事詩のことはこれまでとしよう。

(*)トロイ戦争を描いた「叙事詩環」の最初に位置するもの。トロイ戦争の発端と初期の状況を描いていて、「イリアス」はこの後に続く。ただし、作られたのは明らかに「イリアス」の方が早い。作者についてはスタノシスそのほかの人物が推定されている。

[2.118] イリオンで起きた事績に関するギリシアの伝承が偽りかどうかを私が問い質したところ、そのことについてはメネラオスその人から聞き取って知っていると彼らは返答し、次のように話してくれた。

ヘレネが略奪されたあと、メネラオスに加勢したギリシアの大軍がトロイの国に至り、その地に上陸し陣を構えると、イリオンの城に使者を送ったが、メネラオス自身もそれに同行した。

使者の一行が城内に入ると、彼らはヘレネの返却およびアレクサンドロスがメネラオスから略奪した財宝の返還と悪業に対する賠償とを要求した。しかしこの時のトロイ人の返答は、その時以来宣誓したりしなかったりしたのと同じ陳述だった。すなわちヘレネも、彼らが訴えている財宝も保持しておらず、それらはすべてエジプトにあると返答したのである。それゆえ、彼らは、エジプト王プロテウスのもとにあるものに対して賠償することは全くできないと云ったのだ。

ところがギリシア側はトロイ人に愚弄されたものと見なし、トロイを攻囲して征服した。そして城壁を突破したものの、ヘレネの姿は見当たらず、以前と同じ話を聞かされたので、ギリシア人はさきの話を信じることとなり、メネラオスをプロテウスのもとへ送りだしたのである。

[2.119] エジプトに着いたメネラオスは、河をさかのぼってメンフィスへゆき、事態の真相を話したところ、盛大なもてなしを受け、無傷のヘレネと、その上自分のものだった財宝も返してもらった。

これほどの待遇を受けたメネラオスではあるが、かれはエジプト人に対して不埒な罪を犯したのである。当人が出帆しようとしたところ、悪天候によって足止めされ、これが何度も続いたので、非道にも土地の子供二人を捕らえて生贄としたのだ。

この行為が知れわたると、かれは憎まれ追跡されることとなり、自分の船団とともにリビア目指して一目散に逃走した。しかしそこからさらにどこへ向かったか、エジプト人は話せなかった。司祭たちが話してくれたことは、これまでの話の一部は調べてわかったことで、自国内で起ったことに関しては確実なことだという。

[2.120] エジプト人司祭たちはこのように話してくれたが、ヘレネに関する話の内容は、私自身も同じ考えだ。その理由はこうだ。ヘレネがイリオンに滞在していたなら、アレクサンドロスが納得しようがしまいが、ヘレネはギリシアに引き渡されたはずだ。

なぜなら、プリアモスや彼の周辺の者たちも、アレクサンドロスをヘレネと同居させるために、わが身、わが子、自分の国まで危機にさらそうとするほど正気を失っていたとは考えられないからである。

たとえ最初に彼らがその考えでいたとしても、ギリシア軍との戦のたびに多くのトロイ人が斃れるばかりか、ー叙事詩を信じて言うならープリアモス自身の息子たちも、二人と云わず三人あるいはそれ以上が戦のたびに討ち死にすることになれば、私が考えるに、結局は、たとえヘレネがプリアモスの妻であったとしても、差し迫った危機を乗り越えるために、これをギリシアに返したはずだ。

そのうえ、アレクサンドロスが王位継承者であれば、プリアモスはすでに老いていたことでもあるし、かれが実権を握っていたかもしれないが、実際にはそうではなく、アレクサンドロスより年長で人物も優れているヘクトルが、プリアモス亡きあとはその王位を継ぐことになっていたのである。また、この弟が原因で、とりわけヘクトル自身や全てのトロイ人に大きな危難が降りかかろうとしているときに、かれが弟の悪事を黙って見逃すはずがないのである。

とはいえヘレネがそこにいない以上、彼らがこれを返すことはあり得ず、しかも真実を語ったにもかかわらずギリシア人は信じようとしなかった。ここで私の信じるところを言うなら、トロイ人の壊滅をもたらされた神の力が、大罪には大罰をもって返すという神の摂理を、これによって全人類に明らかに示され給うたのである。これが私の考えで、ここに述べておく。

[2.121] 彼らの話では、プロテウスのあとに王位についたのはランプシニトスだった。彼の名が残る遺跡はヘパイストス神殿の西の楼門だが、かれはこの楼門の前に高さ二十五キュービット(十一米)の二つの像を建てた。エジプト人は北側の像を「夏」、南側のものを「冬」と呼んでいる。そして「夏」と呼んでいる像には礼拝し、鄭重に扱っているが、「冬」と呼んでいる像に対する扱いはこれと全く逆である。

121A. 彼らの言うには、この王は莫大な量の銀を所有し、あとに続くどの王も、それを凌ぐことも、近づくこともできないほどだった。王はこの財宝を安全に保管するために石室を築いた。それは一方の壁が屋敷の外壁となっていた。ところがその作業をした職人が、抜け目なくも壁の石をひとつ、一人か二人で動かせるように細工したのである。

石室が完成すると王は財宝をここにおさめた。そして時が過ぎ、その職人が息を引き取る間際のこと、二人の息子を呼びよせ、彼らが安逸に暮らせるように準備したことを、すなわち王の宝物殿を建てる際に施しておいた細工のことを話した。そして石の動かし方をしっかり説明してから、その位置を教え、これを心に刻み込んでおけば、王の財宝は思い通りになるだろうと話した。

その職人が死ぬと、息子たちはさっそく仕事にとりかかった。夜にまぎれて王宮に忍び入り、建物の中の石を難なく探り当てて取りはずし、多くの財宝を盗み出したのである。

121B.そして王がたまたま蔵を開けてみると、宝の容器がいくつかなくなっているのがわかってびっくりした。しかし部屋の封印は破られておらず、蔵もしっかり閉じられているので、誰の仕業かはわからなかった。ところが二度目三度目と蔵を開けるたびに財宝が減っているので(盗賊は盗みをやめなかった)、かれはワナをいくつも作らせ、これを宝の容器のまわりに仕掛けたのである。

盗賊たちは以前のようにやって来て、一人が蔵の中に忍び入り、容器に近づくとたちまちワナにかかってしまった。かれは、自分が厄介なことになっているのがわかると、すぐに兄弟を呼んで事情を説明し、中に入って自分の首を切り落とせと告げた。さもないと顔を見られて身元がばれ、お前も破滅する怖れがあるというのだった。云われた兄弟は、もうひとりの言うことがもっともなことと思い、促されるままに兄弟の首をはね、石を元どおりにすると、その首を持って家へ帰った。

121C.その夜が明けて王が蔵に人ってみると、ワナには首のない盗賊の死骸がかかっているのに蔵には異常がなく、出入りした痕跡もないのを見て驚いた。困惑した王は、盗賊の死骸を壁に吊して見張りをつけ、死体を見て嘆き悲しむ者がいれば、その者を捕らえて自分のもとへ連れてこいと命じた。

吊された死骸を見た盗賊の母はひどく悲しみ、胸に一物かかえる態で、生き残った息子に云った。すなわち何とか工夫をこらして兄弟の死体をおろし、それを自分のもとへ持って帰るように言いつけたのだ。そしてもし言いつけに従わないのなら、自分が王のもとへゆき、息子が財宝を持っていることを訴え出るとおどした。

121D.生き残った息子を激しく責め立てる母親に対し、その息子は言葉をつくしてはみたものの、母親の気持ちを変えることができず、とうとう次のような企みを思いついた。牽き具をつけた数頭のロバを用意し、これに酒を満たした革袋をいくつものせ、ロバを牽いて出かけた。そして死体を見張っている番人の近くまでくると、数個の革袋の口を縛っている紐を引っ張ってゆるめた。

酒が流れ出すと、男はどのロバを最初にかたづけたらよいか迷う態で、自分の頭を叩きながら大声をあげた。一方で番人たちは酒がふんだんにこぼれ出るのを見るや、しめたとばかりに器を持ってきて流れ出る酒を受けようとして路に走り出た。

男は怒ったふりをして一同に悪態をついていたが、番人たちがなだめると、気持ちが落ち着き怒りも収まったように装い、最後にはロバを道端に牽いてゆき、牽き具を元通りにした。

そのあと、さらに話をしているうちに冗談をいって男を笑わせる者も出てきたところを見計らい、男は酒袋の一つを番人たちに与えた。彼らは早速その場に腰をおろして飲もうとしたが、その男にも、ここにとどまって一緒に飲もうといった。当然のこと男はそれに応じてそこに腰をすえた。

飲んでいるうちに、彼らは男に親しげに話しかけるようになり、そこで男はさらにもうひとつの革袋を差し出した。たらふく酒を飲んだ番人たちは酔いつぶれ、眠気に負けて飲んでいたその場所で眠り込んでしまった。

夜も更けていたので、男は兄弟の死体をおろしておき、番人たちを侮辱するために、ひとり残らずその右頬の髭を剃ってしまい、死体をロバにのせて家へ牽いて帰つた。こうして男は母に命じられたことを果したのである。

121E.盗賊の死体が盗まれたという報告をうけた王は怒りをつのらせ、このような企らみを実行したのが何者であるか、何としても見つけだしたいという思いに駆られ、次のようなことをしたと彼らは言うのだが、これは私にはとうてい信じられないことだ。

なんと王は自分の娘を女郎屋に送り、来る客を全て受け入れ、床につく前に、これまでの人生で一等巧妙でしかも一等悪辣なことは何だったか聞き出し、例の盗みのことを話す者がいれば、その男を捕らえて逃がさぬようにせよと言い含めたのだ。

娘は父の言いつけどおりにしていたが、盗賊の側では、この女がなぜそんなことをしているのかを知ると、王の策略を出し抜いてやろう思って次のようなことをした。

男は真新しい死体の片腕を肩から切り落し、これを上着の下に隠し持って王女のもとへ向かった。そして他の者たちと同じことを問われると、一等非道な行ないは王の宝蔵でワナにかかった兄弟の首をはねたことで、一等巧妙な話といえば、番人どもを酔わせて吊るされていた兄弟の死骸をおろしたことだと話した。

それを聞いた王女が男をつかまえようとしたが、盗賊は暗闇の中で死骸の腕を女の方へ差し出したので、王女は男の腕をつかんだものと思いこみ、その腕をしっかり握って放さずにいた。ところが盗賊はその腕を女に突き放して出入り口から去って行ったという。

121F.このことも王の耳に入ると、王はその男の巧妙なことと大胆不敵に驚嘆し、とうとう全て街へ布告を送り、盗賊本人が王のもとへ出頭すれば罪をゆるし、莫大な褒賞を与えることを約定した。

盗賊がその布告を信じて王のもとに伺候すると、ランプシニトスはかれを大いに賞賛し、誰にも劣らぬこの上なき知恵者であるとして、かの王女を妻に与えたという。そして王が言うには、エジプト人はあらゆる民族のなかで最も優秀であるが、この男はそのエジプト人の中でも飛び抜けて智に長けているという。

[2.122] 彼らの話では、その後この王はギリシア人がハデスと言っている地下の冥府へ生き身のまま降りてゆき、ここでデメテルとサイコロ遊びをし、勝ち負けを繰り返したのち、この女神から黄金のハンカチをもらって帰ってきたという。

ランプシニトスの冥府への行き帰りが発端となって、彼らが言うにはエジプトで祭が催されるようになったという。彼らが今でもこの祭りを祝っていることは私も知ってはいるが、その祝いの起源が果してこのことなのかどうか、私には云えない。

祭の当日には、司祭たちは衣を一枚織り上げ、そして司祭のうちのひとりを細帯で目をふさぎ、その衣を着せてデメテル神殿に通じる道まで連れて行き、自分たちは引き上げる。細帯で目隠しをされた司祭は、ここから二頭のオオカミ(49)に導かれて街から二十スタディア(四粁)離れたデメテル神殿へゆき、またオオカミに連れられて神殿から再び同じとことろへ帰ってくると、彼らは言うのである。

(49)オオカミはエジプトの遺跡にある死者の守護神アビヌスを表している

[2.123] このようなエジプト人の話は、信じられると思う人はこれを受け入れればよい。私としては、各地の人々から聞いた話を、そのまま書きしるすことが、この歴史譚全体を通しての基本姿勢であることをわかっておいてもらいたいと思うものである。

さてエジプト人のいうところでは、デメテルとディオニソス(50)が冥府の支配者であるという。また次の教義を唱えたのもエジプト人が最初だという。すなわち人間の霊魂は不滅で、肉体が亡びると霊魂は次に生れてくる他の生き物に入るという説である。そして霊魂は陸、海、空のあらゆる生物を一巡すると、再び生れくる人間の体内に入るが、それが完了するには三千年かかるという。

(50)イシスとオシリス

ずっと以前にもあるいはずっと後になってからも、この教義があたかも自分の考え出した説であるかのように唱えているギリシア人がいる。私はその者たちの名を知っているが、ここには書かないでおく。

124ランプシニトス王の時代までは、エジプトは全体によく統治され、国は大いに栄えたが、そのあとに王となったケオプス(クフ)は、国民をきわめて悲惨な状態に陥れた、と司祭たちは語った。かれは初めにすべての神殿を閉鎖して誰も生贄を捧げられないようにし、次いでエジプト国民全員を自分のために強制的に働かさせたという。

かれは、ある者にはアラビア山中の石切場から石をナイルまで運搬する労役を命じ、またある者には船で運ばれて河を渡ってきた石を受け取り、いわゆるリビア山脈まで牽いて行く課役を命じた。

国民は常に十万人ごとに三ヶ月交替で労役に服した。そして十年間というもの、国民は石を牽いて行くための道路普請に携わった。私が思うに、この労役はピラミッド(51)建設にくらべてさほど軽いとはいえない労働である。

(51)クフ王の大ピラミッド

その道は全長二十五スタディア(四千五百米)、幅十オルギュイア(十八米)、高さは最も高いところで八オルギュイア(十四米)あり、敷石は磨かれ、さまざまの動物の形が彫られている。そしてこの十年間には道路建設のほか、ピラミッドの立つ丘の中腹に地下室も造らせた。これは王が自身の玄室として造らせたもので、ここにナイルから水路をのばし、周囲に水を満たした。

ピラミツド自体の建設には二十年を要した(*1)。ピラミッドの底は正方形で、一辺の長さは八プレトロン(二百四十米)、高さもこれと同じで(*2)、すべてが磨かれた石できっちり合わせて造られている。またどの石も三十フィートを下る長さのものはない。

(*1)二千十三年に発見された、ピラミッド建造に関わった監督官であるメレルの日誌から推定されるところでは、このピラミッドの建造期間は二十六年~二十七年らしい。
(*2)正確な大きさは、底辺が各二百三十米、高さ百四十七米の四角錐。

[2.125] このピラミツドは階段状の構造物によって建造される。これはクロッサイ(胸壁)とも、ボミデス(祭壇)とも呼ばれている。最初にこの階段を完成させてから、短い木材を梃子にして(*1)残りの石を揚げるのだ(52)(*2)。

(*1)Godleyは「梃子(lever)」と訳しているが、ほかの三名の英訳者はいずれも「短い木材で造った装置(machine)」としている。松平、青木両氏ともにこれを「起重機」としているが、具体的な形状はわからない。
(52)すなわち石を階段状に積み上げ、そのあとでピラミッドを滑らかな斜面にするのである。ケオプス(クフ)、ケフラン(カフラー)、ミケリノス(メンカフラー)が建造したピラミッドはカイロの近くのギザにある
(*2)クフ王のピラミッドが建造されたのは紀元前二千五百年頃。ヘロドトスの時代から二千年ほど前になる。

まず石を地面から階段の一段目に揚げる。そこに石が揚げられると、一段目に備えつけられている梃子を用いて次の段に石を揚げる。

それぞれの階段には梃子が備えられていたようだが、あるいは梃子は一台だけで簡単に移動できるもので、順に階段を移動させたのかもしれない。二通りの方法が伝えられているので、そのままをここに述べておく。(*)

(*)現在では、傾斜路上を滑らせて積み上げる方法が有力視されている。

ピラミッドは、最初に頂点を完成し、つづく下の部分を仕上げるという手順を踏み、最後に一等下の底部を完成させた。

ピラミッドには(53)エジプト文字で、大根、玉葱、ニンニクを労働者にどれほど支給したか書かれている。通訳がその文字を読んで聞かせてくれたが、一千六百タラントンの銀が支払われたということは確かに聞いた。

(53)「ピラミッドの中には」とも読める。

もしそのとおりだとすると、作業に用いた鉄や、労働者の食物や衣服に要した費用はどれほどの金額になったことだろう。さきほど話した築造年月と、石を切り出して運び、地下の水路を掘り進むにも、長い年月が費やされたと推察されることも考慮すれば。

[2.126] ケオプスは金に窮するあまり悪逆非道に走り、自分の娘を女郎屋に送り、金を稼がせるようなことまでした。その額については彼らは何も言ってくれなかったが。娘は父が指示した額の金を工面したが、自分自身のためにも記念となるものを残したいと思い、やって来る客それぞれに、自分のために建設用の石をひとつ寄贈してほしいと頼んだという。

彼らの話では、大ピラミツドの前面にある三つのピラミッドのうち、中央のものは、この石が使われているという。このピラミツドの各辺の長さは一プレトロン半(四十五米)である。

[2.127] エジプト人が言うには、ケオプスの統治は五十年続き(*)、かれの死後はその弟ケフラン(カフラー)が王位を継いだが、この王も何から何までケオプス流だった。ピラミツドも造つたが、それは兄のものより小さい。これは私が自分で測って確かめた。

(*)現在の有力説では,クフ王の在位期間は二十七年前後。

このピラミッドには地下の玄室もなく、ほかのミラミッドに見られるナイルからの水路もなく、従って彼らの言うケオプス本人の眠る島を取り巻くような掘割りもない。

またこのピラミッドはほかのピラミッドと同じ規模で建造されているが、高さは四十フィート低い。そして大ピラミッドの近くにあるが、その最下層には色とりどりのエチオピア石が配置されている。この二つのピラミッドはともに百フィートほどの高さの丘の上にある。ケフランの統治は五十六年だったと彼らは云った。

[2.128] かくて彼らはこの百六年間をかえりみて、この期間のエジプトはひどく悲惨な状態で、神殿もこの長い年月にわたって閉鎖され、ついぞ開くことはなかったと言っている。エジプト人は、この二人の王を忌み嫌うあまり、この王たちの名前を口にしたがらない。ピラミッドを呼ぶときも、その当時この地で牧畜を営んでいたピリティスという牧童の名で呼んでいる(54)。

(54)ヘロドトスは、『遊牧民(ヒクソス』による支配を物語るときに用いている。ヒクソスはB.C.二千百年~一千六百年頃、下エジプトに居住していた。

[2.129] 次のエジプト王は、と彼らが言うには、ケフランの子ミケリノス(メンカフラー)だが、この王は父の行ないを良しとせず、閉鎖されていた神殿を開き、悲惨をきわめていた国民を解放して生業につかせ、生贄の神事も許した。またあらゆる王の中で最も公正な裁きを下したという。

このような行ないによって、エジプトの全支配者のうちで、かれが最も高く賞賛されている。その裁定が公正であったことだけでなく、判定の結果に納得しない者には、ミケリノスは自分の資産から、その者の損失を補ったという。

麾下の臣民に対して仁慈深く、またそれを心がけていたミケリノスだが、そのようなかれに不幸がふりかることとなった。最初の不幸は、家族の中でたったひとりの子である娘が死んだことだった。この悲運に深くうちひしがれたミケリノスは、とびきり豪華に娘を葬いたいと思い、金箔を貼った木製の牛を作り、それを中空にして、そこへ娘の遺体をおさめたという。

[2.130] この牛は地中に埋められることなく、サイスの街にある王宮内の、見事に飾られた部屋に安置され、私の時代でもまだ見ることができた。その前面には日ごとあらゆる種類の香が焚かれ、そばには毎晩夜を徹して燈明が灯された。

この牛の入っている部屋に近い別室には、ミケリノスの側室たちの像が据えられているとサイスの司祭たちが語っている。実際、そこにはおよそ二十体の巨大な木製の女の裸体像が据えられている。その名を教えられたものは別として、誰が誰とはその名を示すことができない。

[2.131] ところがこの牛と巨大な木像については、ある人は次のような話を伝えている。ミケリノスは自分の娘に魅せられたあげく、無理矢理に犯してしまったというのだ。

彼らが言うには、その後娘は悲歎のあまり首をくくり、ミケリノスは娘をこの牛の中に葬ったのだが、娘の母親は、娘を父の手に渡した侍女たちの腕を切り落したという。そのため、彼女らの像は、生きていたときと同じ状態になっているのだという。

しかしこの話は、ことに木造の腕に関してはバカげていると私は思う。実のところ、像から腕が抜け落ちたのは老朽化によるものだと、私はこの眼で見て確かめているし、私の時代においても、その腕は像の足もとに転がっているのが見えていた。

[2.132] この牛は紫の布で覆われているが、頭と首だけは見えていて、これには分厚い黄金がかぶせられている。また角の間には太陽に似せた黄金の球体が載せられている。

牛は立たずにひざまづき、大きさは生きている大きな牛ほどである。この牛は、エジプト人が神を哀悼する儀式のとき、毎年一度安置室から引き出される。ただ、私はこのような場合、神の名前(*)を口にするのを控えることにしているので、悪しからず。

(*)オシリス

このようにその牛は外に持ち出されるのだが、彼らが言うには、王女が息を引き取る間際、一年に一度は太陽を拝ませてくれるよう、父のミケリノスに頼んだからだという(55)。

(55)牛を崇拝するのは明らかにイシス崇拝である。これはニルの名でサイスに祀られている。

[2.133] 娘の悲運に続き、次のことがこの王にふりかかった。それはブトの街から届いた神託で、王の寿命はあと六年で、七年目には死を迎えるという内容だった。

王はこれに憤慨し、神を非難する伝言を持たせて神託所へ使者を送った。それには、自分の父と叔父は神殿を閉鎖して神々を軽んじ、その上人々を破滅に追いやったにもかかわらず長命だった。ところが神を深く敬う自分がかくも早く死を迎えねばならないというのは理不尽だといったのだ。

すると第二の神託が届き、彼の人生が早く閉じるのは、まさにそれが原因だというのだった。つまりエジプトは百五十年にわたって辛酸をなめるべきであったのに、かれはその運命に逆行するふるまいをしたというのであった。かれの前の二人の王はそのことをわかっていたが、かれはそれを理解していなかったという。

これを聞いたミケリノスは自分の命運は定まったものと観念した。そこで王はあまたの燭台を作らせ、日が暮れるとこれに火を灯し、夜を日についで酒と歓楽に耽り、また沼沢地から森林地帯にいたるまで、享楽に適した場所があれば、どこであれ徘徊してまわった。

なぜかれがこんなことをしたかというと、夜を昼に変えることで六年という余命を十二年に延ばし、神託が偽りであることを証明するためだった

[2.134] この王もピラミツドを残したが、父のものよりもはるかに小さく、底部の正方形の一辺が二百八十フィートで、半分はエチオピア石で造られている。ところでギリシア人の中には、このピラミッドは娼婦のロドピスが建造したという者があるが、彼らは間違っている。

実際、ロピドスが何者であるかを知らずに、彼らがこのようなことを言っていることは、私にははっきりしていて、知っていたなら、勘定できないほど巨額の資金を費やしたピラミッドの建造が、彼女の事績であるというはずがないのだ。またロドピスがその名を馳せたのはアマシス王の時代であって、ミケリノスの時代ではないことを知らないのもはっきりしている。

ロドピスは、ピラミッドを残した王たちの時代より遥か後年、トラキア生まれの人物で、ヘパイストポリスの子イアドモンというサモス人の奴隷女だった。そしてかの寓話作家イソップとは朋輩の間柄だった。イソップもイアドモンの奴隷だったことは確かで、これは次のことから明々白々である。

すなわちデルフォイ人が神託に従ってイソップ殺害の補償金の受取人を募る布告を数多く発したとき、誰も出頭しない中で、ただ一人出頭したのは、イアドモンの孫で名も同じイアドモンだったということから、イソップもまたイアドモンの奴隷だったことは明らかだ。

[2.135] ロドピスはサモス人のクサンテスに連れられてエジプトヘ来ると、春を売って身すぎしていたが、ミティレネ人のカラクソスという人物に大金でもって身受けされた。このカラクソスはスカマンドロニモスの子で、かの詩人サッポーの兄弟である。

自由の身となつたロドピスはなおエジプトに住んでいたが、その魅惑を売り物にして大金を稼いだ。しかしその資産は、そのようなロドピスにとって充分すぎるほどであったろうが、あのピラミッドの建設費用をまかなうほどの額にはおよばなかっただろう。

いま現在でも、彼女の資産の十分の一がどれほどのものか、見たいと思えば誰でも見ることができるのだが、(そこから推定すると)彼女が莫大な富を持っていたとは云えない。なぜならロドピスは自身の記念物をギリシアに残そうと思い、ほかの誰も思いつかず、誰も神殿に奉納したことがないものを造らせ、これを自分の記念物としてデルフォイに奉納したのである。

ロドピスは自分の資産の一割を割き、牛を焼く鉄串をできるだけ多く作らせ、これをデルフォイに送った。この鉄串は現在でも本殿正面のキオス人が奉納した祭壇の後ろに山積みにされている。

ナウクラティスの遊女たちは格別に性的魅力に富んでいたようで、いま話題にしている女も、ギリシア人なら誰でもその名を知っているほど有名である。また後にアルキディケという遊女がギリシア全土でその名を歌われることになったが、ロドピスに並ぶほど名を馳せたとはいえない。

カラクソスはロドピスを自由の身にしたあと、ミティレネに帰ったが、サッポーはその詩の中でかれのことを手ひどく面罵している。ともかく、ロドピスについて語るのはこれまでとする。

[2.136] 司祭たちの話では、ミケリノスの後にエジプト王になったのはアシュキスである。この王はヘパイストス神殿の東の楼門を築いたが、この楼門は他のどれよりも格別美しく、壮大である。いずれの楼門もさまざまな造形の彫刻と多数の装飾が施されているが、この楼門はほかのものをはるかに凌駕している。

この王の治世中のこと、金のめぐりが極度に悪化したため、エジプト人は父親の遺体(ミイラ)を担保にして借金できるという法律が公布されたと彼らは語った。さらに追加の法律が制定され、それによれば貸し手は借り手の墓全体の権利を有するとされ、借り手が借金を返さないときには、本人が死亡したときには父祖の墓といわず、他のどんな墓にも埋葬してもらえず、そのうえ死亡した家族も墓に埋葬することを許されないという。

さらにこの王は自分の前に即位していたエジプト王たちを凌ぎたいと思い、煉瓦で造ったピラミッドを自らの記念物として残し、それに次の碑文を石に刻んだという。

 石のピラミッドより小さきとて吾を侮るなかれ。
 予があれらに勝ること、ゼウスが他の神々に勝ることに等し。
 泥中に棒を突き、付着せし泥をかき集め煉瓦となし、
 かくして吾を築きしものなれば。

以上が、この王の事蹟だった。

[2.137] アシュキスの次に王位についたのはアニシスという盲人で、同じ名前の街の出身だった。この王の時代にエチオピア王サバコスが大軍を率いてエジプトに侵攻してきた(56)。

(56)プトレマイオス朝の司祭マネト(Manetho)の残した歴代王のリストでは、三人のエチオピア人王が第二十五王朝をなしていた。サバコス、セビコス、タルコス(旧約聖書ではタハルカ)の三名である。

そこで盲目の王は沼沢地帯へ避難したが、エチオピア人王は五十年間エジプトを支配した。この年月の間にサバコス王は次の業績を残している。

かれはエジプト人の犯罪者を死罪にすることは決して行なわず、罪の重さに応じて判決を下し、各々の罪人が生まれ育った街のために堤防に土を積み上げることを命じた。こうして街々は以前より地面が高くなった。

初めて堤防を築いたのは、セソストリス王(ラムセス二世)の時代に運河を開墾した者たちだったが、エチオピア王の統治下で再び街々が高くなったのだ。

私の考えでは、エジプトには土を盛って高くなった街がほかにもあるが、ブバスティスの街は中でも抜きん出ていて、ここにはこの上なく注目に値するブバスティス神殿もある。この神殿よりも大きくまた多くの費用をかけた神殿が他にもあるが、この神殿ほど見る者をして喜びを感じさせるものはない。なお、ブバスティスというのはギリシア語ではアルテミスとなる。

[2.138] この女神の神殿の造りは次の通りだ。入ロを別として、すべて島の上にある。ナイルから二本の水路が交叉することなく、それぞれの周りをめぐって神段の入ロに達している。水路の幅はそれぞれ百フィートあり、木陰に覆われている。

楼門は十ファゾム(十八米)の高さで、六キュービット(二百七十糎)の高さの素晴らしい彫刻で飾られている。この街のまわり全域からは、神殿の中央部まで見渡すことができる。というのも、街の地盤は盛り土によって高くなっているが、神殿は造営当時のままの地盤なので、上から眺めることができるのだ。

そして神殿は彫刻を施した石塀で囲われていて、その内側では巨木の木立が、女神像を安置している壮大な聖堂のまわりに繁っている。神殿は正方形で、一辺が一スタディア(百八十米)である。

入ロに向かっておよそ三スタディア(五百四十米)の間は敷石が並び、この道は市場を抜けて東に走っている。道幅はおよそ四プレトロン(百二十米)である。道の両側には天にも届くごとき大木がそびえ、これはヘルメスの神殿に通じている。これがブバスティス神殿のありさまである。

[2.139] さて彼らの言うには、エチオピア王がエジプトから引き揚げたのは次の事情による。夢に一人の男が王の枕もとヘ立ち現れ、エジプト中の司祭たちを全て集めて、その者たちを真っ二つに切断せよと告げたので、王はこの国から飛ぶように退散したという。

王が言うには、自分が見た夢は、自分に神を冒涜させ、神または人間が自分に罰を下そうとするために神が示されたものと思ったという。自分はそんなことを実行するつもりはないが、神託の告げるところでは自分のエジプト統治期間も満了したことでもあるし、自分はエジプトを去る、と云ったそうである。

それは、かれがまだエチオピアにいた頃、その国の人々が伺いを立てた神託の告げるところでは、この王はエジプトを五十年間統治する運命にあるとされていたのだ。このことを思えば、このときにちょうどその期間が完了したことでもあるし、夢に見たことが気にもなっていたので、サバコスは自らエジプトをあとにしたのである。

[2.140] さてエチオピア王が引き揚げると、盲目の王が沼沢地から戻ってきたと彼らは語った。かれは灰と土を盛って造った島で五十年間すごしたのである。エチオピア人たちの目をかすめてかれに食糧を届けたエジプト人たちに、灰も一緒に届けるように王が頼んだのだという。

この島はアミルタイオスの時代に至るまで、誰も発見できなかった。これ以前の諸王は、七百年以上もの間、この島を見つけ出せなかったのである。この島の名はエルボといい、四辺は各辺が同じ十スタディア(一千八百米)であった。

[2.141] その次の王はヘパイストスの司祭で、名をセトスといった。この王はエジプト人戦士たちを無用なものと軽視して見下すばかりか、彼らの名誉を傷つけることまでした。それはこれまでの諸王がそれぞれの戦士たちに特別に与えていた十二アルラ(五百四十米四方)の土地を取り上げたのだ。

やがてサナカリボス王(57)がアラビア人とシリア人の大軍を率いてエジプトに来攻したが、エジプト人戦士たちはこれに応戦することを拒んだのである。

(57)センナケリブのこと。この王によるユダ王国のヒゼキヤ王攻撃は、エジプト進軍のときに行なわれた。ユダとイスラエルの王の歴史を記している二冊の旧約聖書うちの第二:第十八節を参照。

困惑した司祭は神殿内の聖堂に入って神像に向かい、自分に降りかかろうとしている苦難を悲痛な調子で歎き訴えた。嘆いているうち、いつしか眠り込んでしまった司祭は、神がかたわらに現われ、援軍を送ってやるゆえ、アラビア軍に立ち向かうも悲惨な目には遭わぬだろうと勇気づけてくれたように見えたのだった。

この夢を信じた王は、彼に従う気のあるエジプト人を率い、エジプトへの進入ロとなっているペルシオンに陣を構えた。かれにつき従った戦士はひとりもおらず、ついてきたのは商人や職人、それに市場の労働者たちだった。

敵軍がこの地にやって来ると、夜になって野ネズミの大群が敵陣に群がり、その矢筒や弓、さらに盾の取っ手まで囓り尽くしてしまった。そして翌日の戦では丸腰のまま逃走する羽目になり、多くが戦死した(58)。

(58)このくだりは、エルサレムでのアッシリア撃滅に関するヘロドトス流のヘブライ人危難譚だ。ギリシアではネズミは疫病の象徴である。イリアスでは、疫病を起こし、またそれ終結させたのはアポロ・スミンテウス(ネズミの神)である。ネズミが疫病を運ぶというのは昔から知られている。

現在ヘパイストスの神殿にはセトス王の石造が立っているが、その手には一匹の鼠がのっている。そしてこれには次の銘文が刻まれている。

 吾を見て神を怖れ敬うべし

[2.142] ここまでの記録はエジプト人と司祭たちが語ったことである。彼らが私に語ったところでは、初代王の時代から最後の王であるヘパイストスの司祭まで三百四十一代にわたり、従ってその間、司祭長と王とが同じ人数だけいたことになる。

ここで、三世代が百年に等しいので、三百世代では一万年である。この三百世代に加え、残り四十一世代が千三百四十年となる。

すると合計は一万一千三百四十年になるが、彼らの言うには、この間神が人間の姿となって王についた例はないという。またそれ以前にも後にも、その他のエジプト王の場合にも一度もなかったという。

また彼らの語るところでは、この年月の間に、太陽がそれまでと逆方向から、すなわちいま日の沈んでいるところから昇ったことが二度あり、またいま日の昇っているところから日が沈んだことが二度あるという。しかしそのとき、エジプトでは何ら変わったことは起きず、また河や大地からの収穫、病気や死に関することまで、変わったことは何も起きなかったという。

[2.143] かつて史家のヘカタイオス(59)はテーベで自身の系譜をさかのぼり、自分は十六代前に神につながっていると語った。ところがゼウスの司祭たちがかれに対して行なったのと同じことを、私も体験したが、私は自分の家系をたどったわけではない。

(59)ヘカタイオスはペルシア戦争の直後に歿している

彼らは私を神殿内の壮大な広間にみちびき、巨大な木像の数々を見せ、その総数を数えたが、その数は彼らが前に云ったとおりのものだった。というのも、歴代の司祭長はそこに自分の像を生前から安置しているからである。

司祭たちは木像をひとつずつ指さして数え、いずれも父の後を継いでいることを示してくれた。彼らは一等最近に歿した司祭長の像からさかのぼって、すべての像を順にたどっていった。

こうしてヘカタイオスが自分の家系を過去にたどってゆき、十六代目の先祖が神だと主張したとき、司祭たちも自分たちの流儀で系譜をたどり、神から人が生れたというヘカタイオスの説はとうてい認められないといった。彼らは三百四十五体の像を順にたどり、そのどれもがいかなる祖先の神や神人ともつながらないこと、そしてそれぞれの像は「ピロミス」から生まれた「ピロミス」であると明言した。このピロミスというのはギリシア語では「普通の人(*)」という意味である。

(*)英文は「good man」だが、これを「善良な人」とか「立派な人」とすると文脈とかみ合わないので「普通の人」とした。

[2.144] こうして彼らは、そこに立っているすべての像が普通の人で、神と似ても似つかぬものであることを示した。

これらの男たちより以前、と彼らが言うのだが、エジプトの支配者たちは神であり、人間とともに居住した神はだれもいない。そしてこれらの神々のうちでひとりが、その時々に強権をもっていたという。神々のうちで最後にエジプト王となったのはオシリスの子オロスで、ギリシアではアポロと呼んでいる。この神がテュポン(60)を倒し、エジプトにおける最後の神としての王となった。なおオシリスはギリシア語でディオニソスという。

(60)テュポンはエジプトの怪物で破壊の神。

[2.145] ギリシアでは、ヘラクレスとディオニソスとパンが最も新しい神とされているが、エジプトではパン(61)がこのうちで最も古い神とされていて、一等古いとされている八神の中に入っている。ヘラクレスは、いわゆる十二神という第二世代に属している。そしてディオニソスは十二神に次ぐ第三世代に含まれる。

(61)エジプトのケム(Khem)

ヘラクレスからアマシスにいたるまで年数がどれほどであるかは、エジプト人による伝承をすでに私が話した。パンはそれよりもはるかに長い年月存在していたと伝えられていて、ディオニソスからアマシスに至る年数が一等短く、エジプト人はこの期間を一万五千年としている。

彼らはつねに年数を数え、これを年代ごとに記録しているので、この数字はすべて確かであると言っている。

そしてカドモスの娘セメレから生れたといわれる息子のディオニソスは、私の時代をさかのぼることおよそ千年で、アルクメネの息子ヘラクレスはおよそ九百年前、ペネロペの息子パン(ギリシア人の伝説によると、パンはペネロペとヘルメスの子とされている)は私の時代よりおよそ八百年前で、トロイ戦争のあとになる。

[2.146] パンとディオニソスに関するふたつの説については、信用できると思う方に従えばよいだろう。これに対する私の見解はすでに明らかにしている。ただ、セメレの息子ディオニソスやペネロペの息子パンも、アムピトリオンの息子ヘラクレスと同様、ギリシアで名を知られ、そこで老いたのであれば、ヘラクレスと同じく彼らもまた人間で、古代の神々の名前であるパンとディオニソスの名をつけられたのかもしれない。

しかしギリシアの伝説では、ディオニソスが生れた直後、ゼウスはかれを自分の太股に縫い込み、エジプトを越えてエチオピアのニーサに運んだという。またパンが生れたあとのことについてはギリシア人は何も知らない。従ってギリシア人がこのふたりの神を知ったのは、ほかのすべての神々を知った後であることが明らかだと私は考えている。そしてギリシア人は、この二神の生まれを、彼らがその名を知った時代にあわせているのである。

[2.147] 以上、これまではエジプト人自身が伝えるところを記録した。これ以後はエジプト人も認めている異国人の伝えることを話すことにする。くわえて私自身がこの眼で見たことも話すつもりだ。

ヘパイストスの司祭が王となってからは、エジプト人は自由の身となった。しかし彼らは王という存在なくしては生きてゆけない民族だったので、彼らはエジプトを十二の区画に分割し、十二人の王をたてたのである。

これらの王は互いに婚姻関係を結び、親密な友好関係を築き、お互いに侵略することなく、他国より以上のものを求めないという協定を結んでいた。

彼らがこのような協定を結び、これを厳格に守った理由は次のことによる。つまり彼らがその区域で王についた直後、神託がおりて告げるには、彼らのうちヘパイストス神殿において青銅の盃を用いて献酒する者が、エジプト全土の王となるであろうということだった。その当時、王たちはエジプトのどの神殿へも、こぞって参拝する習わしだった。

[2.148] さらに彼らは自分たちの名を残す記念物を共同で築くことを決め、モエリス湖のやや上手で、俗にいう「ワニの街」の近くに迷宮(ラビリンス)(62)を建設した。私はみずからこの迷宮を見たが、それは言葉では言い表せないほどのものだった(63)。

(62)この「迷宮」は一群の馬蹄形をしていた。ハワラ(サイス)のピラミッドの近くにあったと推定される。
(63)「ἤδη(ídi=already )」を、「λόγου μέζω(lógou mézo=for example )」とともに「ἦ δή(í dí)」と解した。

ギリシア人が造り上げた城壁そのほかの建造物をすべて寄せ集めたとしても、この迷宮ほどには、要した労力、費用はとてもおよばないだろう。とはいえ、エフェソスやサモスの神殿が注目に値するのは言うまでもないことだが。

ピラミツドもまた言語に絶するもので、それぞれがギリシアの巨大建造物を多数合せたものに匹敵するが、迷宮は、そのピラミッドさえも凌駕している。

迷宮には屋根つきの中庭が十二あり、六つが北向き、六つが南向きで、それぞれ一対となって出入ロでつながっていて、すべてが同じ外壁で囲まれている。各部屋は地下とその上の部屋との二層になっていて部屋数は各層に千五百、上下合わせて三千ある。

私たちはみずから地上の部屋をひとわたり見てきたので、見たままを述べるのだが、地下室のことは話に聞いたことを報告するしかない。というのは管理しているエジプト人が、地下にはこの迷宮を造営した王たちと聖なるワニを埋葬している部屋があるといって、どうしてもそれを見せようとしなかったからである。

というわけで地下の部屋については聞きとったことを述べるにとどめるが、上の部屋は我ら自身が見ていて、それらは人が造ったとは思えぬほどのできばえだった。部屋を出て回廊へ、そこから見事な装飾の中庭に進み、その向こうの部屋へ、またその部屋から柱廊へ、柱廊からほかの部屋へ、そこから再び別の部屋へと進んで行くと、不思議な無限の世界を感じたものだった。

これらの建物の屋根は、すべて塀と同じ石でできていて、塀には模様が刻まれ、中庭は、隙間なくびっしり合わせられた白い石の柱でまわりを囲まれている。迷宮の終端の角ちかくには、高さ四十ファゾム(七十米)のピラミツドが立っていて、これには巨大な彫刻がいくつも刻まれている。またこれに通じる地下の通路も作られていた。

[2.149] 以上が迷宮のありさまであるが、これ以上に驚異なのは、迷宮の近くにあるモエリス湖である。この湖の周囲は三干六百スタディアあるいは六十スコイノス(六百四十八粁)で、エジプトの海岸線と同じ長さである。湖は南北に延びており、最も深いところの水深は五十ファゾム(九十二米)である。

この湖は、人の手で掘削されたものであることを湖自体が物語っている。なぜというに、湖のほぼ中央に二基のピラミツドが立っているのだが、どちらも水面上の高さが五十ファゾム(九十米)で、水面下も同じく五十ファゾムあり、ふたつともその天辺に、玉座に坐つた巨大な石造がすえられている。

かくしてこれらピラミッドの高さは百ファゾム(百八十米)となる。百ファゾムは一ファーロング(六百フィート)で、一ファゾムは六フィートまたは四キュービットに相当し、一フィートは四スパン、一キュービットは六スパンである。

湖の水は、この地方が極度な乾燥地帯であるため、天然の湧き水ではなく、ナイルから引いた水路によるものである。六ヶ月間は水が湖に流れこみ、残りの六ヶ月間は河へ戻ってゆく。

流れ出る六ヶ月間というもの、一日の漁穫の収穫は銀一タラントン(二十六~三十七瓩)となり、これは国庫におさめられるが、水が湖に流入する期間は、それが一日につき二十ムナ(*)になる。

(*)一ムナは三分の一タラントン

[2.150] 土地の者たちの話では、この湖の水は西方の内陸に向けてメンフィス上流にある山脈の下を流れ、リビアのシルティスに注いでいるという。

この湖を掘ったときの土がどこにも認められなかったので、不思議に思った私は湖のすぐ近くに住んでいる者たちに、掘り出した土はどこにあるのかと訊ねてみた。すると彼らは土を運んで行った場所を話してくれたが、それを聞いて私はすぐに納得した。というのも、アッシリアのニノヴェでもこれと同じようなことを聞いたことがあったのだ。

ニノヴェ王サルダナパロスは莫大な財宝を地下の宝物庫に納めていたが、あるとき盗賊が盗み出すことを企んだ。彼らは自分の家から王宮までの道筋を調べて地下道を掘ったのだが、掘り出した土は、夜になってからニノヴェに流れているティグリス河に運んで捨て、ついにその企てをやり遂げたのであった。

エジプトの湖を掘ったときもこれと同じことを聞かされたのだが、ただ夜の間にやったか昼間にやったかが違うだけである。掘り出した土をエジプト人がナイルヘ運ぶと、当然ながら土は河に巻き込まれ、流されて散らされる、というわけである。かくのごとくに、この湖は開墾されたといわれている。

[2.151] さて十二人の王は律儀に協定を守っていたが、あるとき彼らがヘパイストス神殿において生贄を捧げることがあった。祭礼の最後の日に献洒をすることになり、いつも彼らが使っている黄金の盃を司祭長がもってきたところ、数を間違え、十二人いるところへ十一個しかもってこなかった。

十二人の最後にいたプサンメティコスは、盃がないので青銅の兜を脱いでそれを捧げ、それを用いて献酒を行なった。王たちは誰もが常に兜をかぶっているのだが、この時も皆がかぶっていた。

プサンメティコスはなんの下心もなく兜を利用したのだが、ほかの王たちは、かれのふるまいを胸の内で憶測し、かつは前に下された神託、すなわち青銅の盃をもって献酒をした者がエジプト全土の王となるという予言を思い起こした。しかし、調べによってプサンメティコスには何の意図もないことがわかったので、かれに死罪を課すべきにあらずと考え、かれからその権力のほとんどを剥奪してうえで沼沢地へと追放し、その地以外のエジプト地方との交渉を禁じることを決めた。

[2.152] このプサンメティコスは以前にも、父のネコスを殺害したエチオピア王サバコスから逃れ、シリアに亡命したことがあった。その後エチオピア王が例の夢を見てエジプトを去ると、サイス地区のエジプト人はかれをシリアから連れ戻したのだった。

かくしてプサンメティコスが王位についたのが二度目となったのだが、今度は兜の件で、十一人の王によって沼沢地へ追放されてしまったのであった。

ここにおいてプサンメティコスは、他の王たちから不当に扱われたものと考えていたので、自分を追放した者たちに報復するつもりでいた。そこでかれは、エジプトで一等信用できる神託が下されるブトの街のレトの託宜所へ使者を送った。下された神託には、青銅の男たちが海より出ずるとき、復讐は遂げらる、とあった。

プサンメティコスは、青銅の人間が自分を助けにくるなど、全く信じていなかった。ところがまもなく、略奪を目論んで船出してきたイオニア人とカリア人の一行がエジプトの海岸に漂着したのであった。このとき、かれらは青銅製の武具をまとって上陸してきたのだが、それを見たひとりのエジプト人が沼沢地を目指し、プサンメティコスにこのことを知らせた。この男はかつて武装した男たちを見たことがなかったこともあり、青銅の男たちが海から来て平地を荒らしまわっていると報告したのだ。

神託が実現したことを覚ったプサンメティコスは、イオニア人とカリア人と親しくつきあいを深め、自分に加勢するなら多大な褒賞を与えることを約束した。そして彼らを説得したあとは、これらの同盟軍とエジプト人志願兵を率いて十一人の王たちを倒したのだった。

[2.153] エジプト全土を支配したプサンメティコスは、メンフィスのヘパイストス神殿の南楼門を築造し、またこれに正対する場所に、聖牛アピス(*)のための中庭を築いた。これはアピスが現われたとき、これにエサを与え養生させる場所としたものである。この中庭は周囲に柱廊がめぐらされ、これには多くの模様が刻まれている。屋根を支えているのは、高さが十二キュービット(五百五十糎)の巨像の列である。ここでアピスとはギリシア語でエパポスのことである。

(*)本巻三十八節

[2.154] プサンメティコスを支援したイオニア人とカリア人のために、王は住む地所を与えたが、これは「陣屋」と呼ばれた。この地所はナイルを中にはさんで向かいあっている。これだけでなく、王は約束していた褒賞もすべて与えたのだった。

さらに王はエジプト人の子弟を彼らにあずけてギリシア語を学ばせた。この時にギリシア語を学んだ者たちの子孫が、現在のエジプト人通訳なのである。

イオニア人とカリア人は長い期間にわたってこの地に住んだが、この地はナイルのいわゆるペルシオン河口にあり、ブバスティスの街のやや下流の海辺にある。それからずいぶんあとになって、アマシス王は彼らをこの地から移してメンフィスへ移住させ、エジプト人をさしおいて自分の護衛隊とした。

我らギリシア人が、プサンメティコス以後の世代におけるエジプトでのあらゆる出来事を正確に知りえているのは、エジプトへのこれら移住者たちとの交流のおかげなのである。

異国人としてエジプトに定住した異国人はこの者たちが最初で、彼らがその地を立ち去った跡地には、船を揚げる装置(64)や住居跡が私の時代まで残っていた。以上、プサンメティコスがエジプトを手中におさめたいきさつである。

(64)船を岸に引き上げるための巻き上げ機だろう

[2.155] エジプトにある神託所のことは、これまでもしばしば話題にしていたが、改めて述べるに値すると思うので、これについて話してみよう。ここでいうエジプトの神託所というのはレトの神殿のことで、海からナイルをさかのぼって行った先のセベンニュテス河口にある大きな街にある。

この神託所がある街の名は、前にも話したことがあるブトだ。ブトにはアポロンとアルテミスの神殿もあるが、神託所のあるレトの神殿はそれ自体がかなり宏大で、その楼門の高さは十ファゾム(十八米)ある。

ここで見たもののうち、私が最も驚嘆したものをぜひ話しておきたい。それはレトの聖城内にある社殿で、ここの壁は縦、横ともに一枚の岩盤でできていて、どの壁面も幅と高さが同じで、それぞれ四十キュービット(十八米)ある。そして社殿の屋根には別の一枚石がのっていて、これが幅四キュービット(二米)の廂になっている。

[2.156] レトの神殿の中で見たもののうち、一等感嘆したのはこの社殿だったが、これに次いで驚嘆したのはケンミス(*)と呼ばれる島である。

(*)本巻九十一節

これはブトの神殿ちかくにある広く深い湖の中にあり、エジプト人はこれを浮島だといっている。私はその島が浮いているところも移動しているのも見ていないので、その島が本当に浮いているのだろうかと首をかしげたものだった。

ところでこの島にはアポロンの宏大な神殿があり、ここには三つの祭壇が設けられている。また多くの椰子の木が繁っていて、そのほかにも実のなる木、ならない木をとりまぜてさまざまに繁っている。

以下は、ケンミスが浮いている理由をエジプト人が語ったことである。それによれば、この島はもともと浮いてはいなかったという。そしてエジプト最古の八神のひとりで、自分の神託所のあるブトに往んでいたレトが、イシスからアポロンを預かったのだが、例のテュポン(*)がオシリスの子を捕まえようとして世界中を探してこの地に来たとき、いま現在浮島といわれているこの島にアポロンを隠してかくまったというのだ。

(*)本巻百四十四節を参照

彼らの言うには、アポロンとアルテミスはディオニソス(オシリス)とイシスの子で、レトはこの二人の乳母で、かつは守護者だったという。なお、エジプト語でアポロンはオロス、デメテルはイシス、アルテミスはブバスティスである。

エウポリオンの子アイスキュロスが、アルテミスをデメテルの娘だとしたのは、かれ以前の詩人が云わなかったことで、この考えの出どころは以上の伝説以外には考えられない。この島が浮島になったのは、かくのごとき理由よると彼らは伝えている。

[2.157] プサンメティコスがエジプトに君臨したのは五十四年だったが、そのうちの二十九年間をシリアの大都市であるアゾトスの攻囲に費やし、ついにこれを征服した。我々の知る限り、このアゾトスは、ほかのどの都市よりも長期にわたる攻城に耐えた街である。

[2.158] プサンメティコスにはネコスという息子がいて、かれが次のエジプト王となった。「紅海」に通じる運河(65)を造り始めたのがこの王で、のちにペルシア人ダリウスがこれを完成させたのである。この運河の長さは、航行すること四日におよび、幅は二隻の三段櫂船が並んで航行するのに充分なほどに掘削されている。

(65)この運河はテル・バスタ(ブバスティス)の近くから発し、スエズに至っているようだ。ダリウスによる建造を記録した碑が、その近くで発見されている

水はナイルから引き、ブバスティスの街のやや上流地点から発し、アラビアの街パトモスのそばを通って「紅海」に達している。掘り始めたのはアラビアに近接するエジプト平野だったが、この平野のすぐ近くには石切場のある山脈が走っていて、この山脈はメンフィスに達している。

運河はこの山脈のふもとに沿つて西から東へ長く延びていて、そのあとは峡谷に入り、そして山地から出ると南へ走り、アラビア湾に達している。

ところで、北の海から南の海、いわゆる「紅海」へ至る最短経路は、エジプトとシリアの境にあるカシオス山からアラビア湾に至る経路である。この距離はちょうど千スタディア(百八十粁)である。

これが最短距離だが、運河はいたる所で曲がりくねっているので、これよりはるかに長い。ネコスの統治下で運河の開墾中に死んだエジプト人は十二万人に達した。しかしネコスは、このエ事が異国人のためのお膳立て仕事だという神託が下されたことで、開墾をやめてしまつた。エジプト人は、異なる言語を話す者は、すべて異国人と呼んでいる。

[2.159] 運河の開墾を中止したネコスは、次に戦の準備に意を注ぎ、三段櫂船を建造したが、その一部は北の海のため、そのほかは紅海のためにアラビア湾で建造された。その巻き上げ機は今でも見られる。

ネコスはこれらの船を必要に応じて用いたが、陸軍はマグドロス(66)でシリア軍と戦ってこれを破り、その合戦のあと、シリアの大都市カディティス(67)を領有した。

(66)マグドロスは旧約聖書に出てくるミグドル
(67)ガザ

ネコスはこの時の勝利に際して、身につけていた装束をミレトスのブランキダイへ送り、アポロンに奉納した。ネコスは十六年在位したのちに歿したが、その息子のプサンミスが王位を継いだ。

[2.160] このプサンミスがエジプト王の時代に、エリスから使節団がやってきたことがある。エリス人たちは、自分たちが開催しているオリンピア競技が、この世にたぐいまれなきほどの公明正大をもって運営していることを誇りに思っていて、世界中で最も聡明な民族であるエジプト人といえども、これ以上立派に実行できないだろうと考えていた。

エジプトにやってきたエリス人たちが訪問の目的を告げると、プサンミスはエジプトで一等聡明と評される者たちを召集した。集まったエジプト人たちは、エリス人から競技の運営法を細大もらさず聴き取った。すべてを説明し終えたエリス人たちは、エジプト人により公正なやり方の思案があるなら、それを学ぶためにやってきたのだと語った。

エジプト人たちは合議したのち、エリス人も競技に参加するのかと訊ねた。すると彼らは、その通りと返答し、自分たちも含め、すべてのギリシア人は、肴望すれば誰でも競技に参加できるのだと答えた。

するとエジプト人は、そのような規則があるなら、完全な公平さを缺く、と語った。「なぜというに、競技において同国人をえこひいきせず、他国人に不利を与えないという保証はないからである。お手前方が真実公平な規則を作りたいと望み、そのためにエジプトにきたのであるなら、競技は他国人のみの参加とし、エリス人の参加を認めるべきではない」これが、エジプト人がエリス人に向けた勧告だった。

[2.161] プサンミスのエジプト統治はわずか六年で、エチオピアに侵攻した直後に歿したが、その子アプリエス(68)が王位を継いだ。

(68)アプリエスは旧約聖書ではホフラ。推定在位B.C.589~B.C.570。テュロスとシドンを攻撃したという記述は、ユダヤ史と食い違っている(エレミア書二十七節、エゼキエル書十七節)。

曾祖父のプサンメティコスを別として、かれは諸代の王のうちで一等繁栄した人物で、二十五年間の在位中に軍をシドンに送ってこれを攻め、テュロスと海戦を行なった。

ところが運命は災いをかれの身にもたらし、その原因については、ここで簡単に触れておくが、詳しくはこの歴史譚におけるリビア史(*)の中で述べることにする。

(*)第四巻百五十九節

それは、アプリエスがキュレネに大軍を送ったものの大敗を喫したときのことだった。エジプト人たちは、その責めを王にきせ、謀反を起したのである。彼らの考えでは、アプリエスは兵士たちを死地に追いやるとわかっていながら、あえて出兵したのであり、自分たちが破滅することで、王は残りのエジプト人をより一層安寧に統治できるだろうと思っていた、というのだった。これに憤激した帰還兵士たちと戦死者の身寄りの者たちが、公然と叛旗を翻したのだ。

[2.162] これを知ったアプリエスは、彼らを説得するためにアマシスを送り出した。アマシスは反乱エジプト人のもとへゆき、蜂起を思いとどまるよう熱心に説いていた。ところがその時、一人のエジプト兵がかれの背後にまわり、これは王の証だと云いながら、その頭に兜をかぶらせたのだ。

このことがアマシスにとって不快でなかったことは、その後のかれの行動から明らかである。というのも、エジプト人叛逆者によって王に推されたアマシスは、ただちにアプリエスに向けて進軍する準備を調えたからである。

これを聞いたアプリエスは側近のパタルベミスなる者をアマシスに差し向け、かの叛逆者を生け捕りにして自分のもとへ連れてこいと命じた。パタルベミスが到着してアマシスに出頭するよう要請していると、そのとき馬上にいたアマシスは、尻を浮かして放屁し、これをアプリエスのところへ持ち帰れと使者に告げた。

このような応対にもめげず、なおパタルベミスは王のお召しに従い出頭すべきであると説得に努めたが、アマシスはそれに答えて曰く、このことは以前から準備していたことで、そのうちほかの者たちも引き連れて自分も出頭するつもりであるゆえ、アプリエスは吾輩を非難するには当たらない、といった。

これを聞いたパタルベミスは、アマシスの真意を読み取り、覚悟も定まっていることを見て取ると、事態を一刻も早く王に知らせるべく、急ぎ帰途についた。かれがアマシスを連れずに現われたのを見たアプリエスは、ふかく考えることもせず怒りのあまりに、かれの耳と鼻をそぎ落とさせてしまった。

ここに至って王を支持していた他のエジプト人たちも、自分たちの間で一等名高い人物が、かくも非道な仕打ちを加えられたのを見るや、間髪を入れず離反して敵方に走り、アマシスに身を投じたのであった。

[2.163] またこのことを知ったアプリエスは、異国人の傭兵部隊を武装させてエジプト人部隊に向けて出陣させた。かれはカリア人とイオニア人の護衛部隊三万を抱えていて、サイスの街に宏大で見事な王宮をもっていた。

かくしてアプリエス軍はエジプト人部隊に向けて出陣し、一方のアマシス軍は外人部隊を目指して進軍した。両軍はモメンピスの街で遭遇し、いよいよ勝敗を決することとなった。

[2.164] ところでエジプト人には七つの階級があり、司祭、戦士、牛飼、豚飼、商人、通訳、航海士がそれである。階級は以上の通りだが、その名称はその職業にちなんでつけられている。

戦士階級はカラシリエスとヘルモトビエスと呼ばれており、次の地区の出身者で構成されている。これはエジプト全土が地区に分けられているからである。

[2.165] ヘルモトビエス地区を構成してのは、ブシジス区、サイス区、ケンミス区、パプレミス州、プロソピテイスと呼ばれる島とナトの半分である。ヘルモトビエスはこれらの区の出身である。ヘルモトビエスの人数は、最も多いときで十六万に達する。彼らはほかのどんな仕事も習得せず、軍事にのみ携わるのである。

[2.166] カラシリエス地区には、テーベ区、ブバスティス区、アプティス区、タニス区、メンデス区、セベンニユテス区、アトリビス区、パルバイトス区、トムイス区、オヌピス区、アニティス区、ミエクポリス区が含まれる。最後のミエクポリス区は、ブバスティスの街に相対する島にある。

以上がカラシリエスの区で、ここは最も多いときでその数二十五万に達する。彼らもまた、どんな職につくこともなく、軍事を世襲している。

[2.167] さて、ギリシア人がエジプト人から、かくのごとき慣習を学んだのかどうか、私は確かな判断を下すことができない。なぜというに、トラキア人、スキタイ人、ペルシア人、リディア人、それにほとんどすべての異国人が、職業技術を習得する者たちとその子孫を、ほかの市民より軽んじ、また職人仕事についていない者、特に軍事に専念する者を高く崇拝しているのを、私は知っているからである。

しかしながら、ギリシア人はすべてこのような慣習を学んでいて、とくにスパルタ人がこれに当てはまる。職人を下にみることが最も少ないのはコリント人である。

[2.168] エジプトでは、司祭を除き戦士階級だけの特典があり、それぞれに無税で十二アルラ(五百四十米四方)の土地が割当てられている。一アルラは百エジプト・キュービット平方の面積で、エジプト・ペキユスはサモス・ペキユスと同じである。この土地が全員に割り当てられたのだが、同じ人間が耕作したのではなく、順番に耕筰した(69)。

(69)つまり十二アルラの土地は、年ごとに新規の小作人が耕筰したのだ。(この文は、ほかの訳文にはない)

これは彼ら全員に与えられた特権だが、順次交代で二度は受けられない特典もある。それはカラシリエスとヘルモトビエスから千人ずつが一年間だけ王の親衛隊につくのである。そしてこれらの隊員には、特典の土地のほかに、日当として一人につき炒った穀物五ムナ(二瓩)、牛肉ニムナ(八百グラム)、酒四アリステル(一リットル)が支給された。以上が親衛隊それぞれに与えられた。

[2.169] さて外人傭兵部隊を従えたアプリエスと、エジプト全軍を率いるアマシスは、モメンフィスの街で会して干戈を交えた。外人部隊はよく戦ったが、圧倒的に少ない軍勢だったゆえ、敗北を喫した。

彼らの言い伝えでは、アプリエスは、神といえども自分を王位から退けることはできないと、固く信じていた。そしていま、かれは合戦に敗れて囚われの身となってサイスの街の、かつては自分のものでいまはアマシスのものとなった王宮へ送られた。

アプリエスはこの王宮でしばらく幽閉され、アマシスもかれを厚遇した。しかしエジプト人から、自分たちにとっても自分たちの王にとっても最も忌むべき人間を生かしておくのは正義にもとるという抗議がでるや、アマシスはアプリエスをエジプト人に引き渡した。エジプト人たちはかれを絞め殺したのち、先祖の墓所に葬った。

この墓所はアテナ神殿の境内にあり、神殿入り口の左手の、正殿のすぐ近くにある。サイスの人々は、その地区出身の王はすべてこの神殿内に葬っている。

アマシスの墓は、アプリエスとその祖先の墓よりも正殿から遠いとはいうものの、やはりこの神殿の境内にある。この墓は巨大な石の柱廊で、ヤシの木を模した柱や華美をきわめた装飾が施されている。柱廊の内部には両開きの扉があり、その内側に棺が安置されている。

[2.170] サイスにはまた、その名を言挙げするにはあまりに不遜な人物(*)の墓所もある。それはアテナ神殿内の正殿のうしろで塀に接するようにして、端から端まである。

(*)オシリスのこと

さらにその構内には巨石を用いたオベリスクがいくつか立っていて、近くには石で縁取りをして飾られた真円の池もある。私が見たところ、この池はデロスのいわゆる「丸池」と同じくらいの大きさだった。

[2.171] この池では、神の受難劇が夜に上演される。この儀式をエジプト人は秘儀と称している。これに関して、私はより詳しい次第を知ってはいるが、ここでは沈黙を守ることにしておく。

ギリシア人がテスモポリア(70)と称しているデメテルの密儀についても、神への敬いをおかさぬように、許されることだけを述べ、それ以上のことは口をつぐむことにする。

(70)デメテルとその娘ペルセポネを祭るアテナイの女だけの祭りで、秋に開かれる。

この密儀をエジプトからペラスゴイの女たちに伝えたのは、ダナオスの娘たちだった。しかしペロポネソスの住民がドリス人に逐われたあとは、この儀式もほろび、ペロポネソスの住民のうちで逐われることなく国にとどまったアルカデイア人だけが、この密儀を保存していたのだ。

[2.172] アプリエスをしりぞけたあとはアマシスが王位についたが、かれはサイス区のシウプと言う街に生まれている。

はじめの頃エジプト人は、アマシスが平民の出で、高貴な家柄の出でなかったことから、かれをさげすみ、見くだしていた。しかしやがてアマシスは、尊大に走ることなく賢明な方法で国民の心をつかんだのである。

かれの持つ無数の財宝の中に、黄金の足桶があった。アマシスやそのまわりの者は、いつもこの桶で足を洗っていたのだが、アマシスはこの桶を鋳つぶして神像を作らせ、街のなかで一等目につく場所にこれを据え置かせた。するとエジプト人たちは足繁くこの神像に詣で、これを大いに崇め奉ったのである。

街の者たちの振る舞いを知ったアマシスは、エジプト人を呼び集め、語りかけた。神像は足桶から作ったもので、以前はエジプト人がその中に嘔吐、放尿し、足を洗ったりしていたが、今は諸君が大いに崇めているのだと。

そして続けて言うに、自分も以前は平民だったため、この足桶のように見られていたが、今はお前たちの王なのであるから、自分に礼を尽くし、敬意を払うべしと説いたのである。こうしてアマシスはエジプト国民の人心をつかみ、彼らが臣従することを納得させたのである。

[2.173] 次に、かれが日常をどのように過ごしていたかを話そう。午前中、市場に人が溢れる頃までは、持ち込まれた仕事をテキパキこなすが、そのあとは酒を飲みながら気のおけない仲間たちとふざけちらし、だらだら戯れて時を過ごすのだった。

王に親しい者たちは、このことを気にして忠告した。

「殿、軽率なる悪ふざけにふけっておられるのは、立派な振る舞いとはいえませぬぞ。御身はいかにも名高いお方ゆえ、荘厳なる玉座にて終日威厳をただして政務なさるべきでござる。さればこそエジプト国民も偉人に治められているという自覚を持ち、殿の評判も良くなることでござりましょう。しかし現今のふるまいは、王たる身にふさわしくござりませぬ」

アマシスはこう返答した。
「弓を使うときには弦を張らねばならぬが、使い終われば緩めるものじゃ。弦を強く張ったままだと切れてしまうからな。切れると必要なときに使い物にならなくなるぞ。

人もまた同じことじゃ。常に生真面目に仕事を続け、一時たりともくつろがずにいると、知らぬうちに気が狂ったり、痴呆になったりするものじゃ。ワシはこのことを充分承知しておるゆえ、生活の中で両方の時間を使い分けておるのじゃ」
これが、友人たちへの返答だった。

[2.174] アマシスは、一市民だった頃から、酒好きでまたふざけることが好きで、決して謹厳実直な人物ではなかった。酒や享楽のために金に窮すると、盗みをしてまわったという。盗んだ物を隠しもっていると云われて、かれがそれを否定すると、被害者たちは手近にある神託所へかれを突きだしたものだった。そして神託によって罪を宣告されることもあったが、神託のおかげで罪を免れることもあった。

そして王位についたアマシスは、盗みの罪を問わなかった神々の神殿の世話をすることはなく、維持管理のための寄進もせず、生贄を捧げることもしなかった。神託に嘘いつわりのある神々は崇めるに足りずというのだった。しかしかれに罪を宣告した神々に対しては、これこそまことの神であり、正しい神託を下すものとして、丁重に遇したという。

[2.175] アマシスは、サイスのアテナ神殿(71)に、その高さ、規模ともに他に類を見ないほどの宏大な、素晴らしい楼門を造営した。また使用された石垣の大きさと質たるや、どんな楼門もおよばぬものであった。これに加えて数基の巨大な像と、人間の頭をいただく巨大なスフインクス(72)を奉納し、修理用として数々の巨石を運び込ませた。

(71)ニルのことだろう。デメテルともされる。本巻百三十二節の注を参照
(72)カルナックには神殿の参道に二基のスフィンクスがある

この巨石の一部はメンフィスの石切場から運ばれてきたものであるが、最大のものはエレパンティネ(73)の街から船で二十日かけてサイスまで運ばれている。

(73)アスワンの対岸にある島。アスワンの石切場は太古より名高い。

しかし私が最も素晴らしいと思ったのは、エレパンティネの街から運んできた、一枚岩からなる社殿である。これは二千人の人夫が三年かけて運んだものである。そして人夫はすべて航海士の者たちだった。この社殿の外側の長さは二十一キュービット(九百五十糎)、幅は十四キュービット(六米)、高さは八キュービット(三百六十糎)である。

この一枚岩の社殿の外形寸法はこの通りだが、内側の長さは十八キュービットと一ピュゴン(八百五十糎)(*)、幅は十二キュービット(五百四十糎)、高さは五キュービット(二百三十糎)である。そしてこの社殿は神殿の入ロ近くに安置されていた。

(*)一ピュゴン=二十ダクティロス=三十七糎

なぜこれを神殿の中へ曳き入れなかったのか、言い伝えでは、この社殿を曳いている途中、この仕事があまりに長く時間がかかって疲労困憊した人夫頭が大声で溜息をついたところ、これを心配したアマシスが、それ以上曳いて行くことをやめさせたということだ。別の伝承では、社殿を梃子で持ち上げていた人夫のひとりが、それにおしつぶされてしまったので、神殿の中へ曳き入れるのを中止したともいう。

[2.176] これに加えてアマシスは、これ以外の著名な神殿すべてに目を見張るほどの規模の建造物を献じたのみならず、メンフィスのヘパイストス神殿の前に据えられている、とてつもなく大きな仰臥巨像も奉納している。そしてその長さは七十五フィートである。この像と同じ台座には、その両側に同じ石で造られた巨像が二基立っていて、ともに高さは二十フィートある。

このメンフィスの像と大きさも同じで、同じく仰臥した石像がサイスにもある。メンフィスに、宏壮でこの上なく見事なイシスの神殿を建造したのもアマシスだった。

[2.177] アマシスの統治下で、エジプトはこれまでになく繁栄したといわれている。それは、ナイルが大地に繁栄をもたらし、大地が人々に繁栄をもたらしたのである。国内での人の住む街の数は二万に達したという。

またアマシスは、エジプト人それぞれが毎年自分の生業を地区の長官に申告することを義務づける法律を制定した。そしてその申告を怠ったり、実際の職業を申告しなかった場合には死罪に処す、というものだった。アテナイのソロンはこの法律をエジプトから手に入れ、アテナイ人に向けて制定したが、彼らはこれを完全無缺の法律であるとして、ずっと守り続けている。

[2.178] アマシスはギリシアを贔屓するようになり、一部のギリシア人に示した好意のほかに加え、エジプトにやって来たギリシア人にはナウクラティスの街に住むことを許した。またここに定住するつもりのない旅行者には、彼らの崇める神々の祭壇や聖域を築くための土地を与えた。

それらの中で最も大きく、最も有名かつ最も参詣者の多い聖域といえば、ヘレニオンと呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の街ではキオス、テオス、ポカイア、クラゾメナイの諸都市、ドーリス系ではロードス、クニドス、ハリカルナッソス、パセリスの諸都市、アイオリス系としては唯一ミティレネの街だった。

この聖城は右の諸都市が管理していて、貿易取引所の監督官もこれらの街から任命されていた。従ってほかの街がこれに加わっているとしても、なんの権利もないのに、それらしい顔をしているだけなのである。ただアイギナ人は彼ら独自のゼウス神殿を建立していて、サモス人はヘラの神殿を、ミレトス人はアポロンの神殿を独自に建立している。

[2.179] かつてはナウクラティスがエジプト唯一の貿易港だった。それゆえ、ナイルのほかの河口に到着すると、故意にきたのではないことを宣誓せねばならず、そのあとは船をカノボス河口まで移動させねばならなかった。逆風によって回航できない場合には、積荷を艀に移してデルタを迂廻し、ナウクラティスまで運ばねばならなかった。このような特権を、ナウクラティスは与えられていたのである。

[2.180] 現在デルフォイにある神殿の築造に際して、隣保同盟(アンピクティオン)(*)が三百タラントンで請け負わせたとき、以前の神殿は失火で焼失したのだったが、デルフォイ人が費用の四分の一を負担することになった。

(*)ある特定の神殿もしくは聖域を共同で維持管理するために近隣の都市国家で結ばれた同盟のこと。デルフォイのアポロ神殿の同盟が有名

そこでデルフォ人はあちこちの街をめぐって寄付を募ったが、そのときにエジプトから得た寄附が最も多額となった。それというのも、アマシスが千タラントンもの収斂土(74)を与え、エジプト在住のギリシア人は二十ムナを寄附したからである。

(74)明礬(みょうばん)のことだろう。

[2.181] アマシスはキュレネ人と友好同盟を結び、あまつさえその地から妃を迎えようとした。それは、ギリシア人の妻を持ちたい思ったからなのか、あるいはキュレネ人との友好のためなのか、わからないが。

そこでラディケという女を妻としたが、この女はアルケシラオスの子バットスの娘であるとも、キュレネの重鎮クリストブロスの娘であるともいわれている。ところがアマシスが妻と床につくと、情を交わすことができないのだった。ほかの女とでは欲するままに交わりを結ぶことができたというのに。これが何度も繰り返されるので、アマシスは妻のラディケに云った。

「この女め、お前はわしに呪い(*)をかけたな。さればお前には、どんな女も経験したことのないような惨めな死に方をさせてやる」

(*)「薬」としている訳者もいる。

そんなことはしていないとラディケは否定したが、アマシスの気が静まることがないので、アフロディテに願をかけ、その夜アマシスが自分と交わることができれば、それで救われるので、神像をキュレネに送って奉納することを誓ったのである。そうやってラディケが祈った直後、アマシスは彼女と交わることができた。その後はアマシスが彼女のもとへやってくるたびに情を交わせるようになったので、以来かれは妻を大いに可愛がったという。

ラディケは女神への願かけの誓いを果たすために神像を造らせてキュレネに送った。この神像は私の時代まで保存されていて、キュレネの街の外へ顔を向けて立っていた。その後カンビュセスがエジプトを征服し、ラディケの素性を知ると、彼女を無傷のままキュレネへ送り帰したという。

[2.182] さてアマシスはギリシアにもかずかずの奉納品を献じたが、キュレネには黄金をはりつけたアテナ像と自身の肖像画を、リンドスのアテナには石の神像二体と見事な麻の胸甲を、サモスのヘラには自身の木像を二体奉納した。この木像は、私の時代に至るも、大神殿の扉のうしろにまだ立っていた。

アマシスがサモスに奉納したのは、アイアケスの子ポリクラテス(75)との友好関係によるものだったが、リンドスに奉納したのは友好によるものではなく、リンドスのアテナ神殿が、アイギプトスの息子たちから逃れてこの地に上陸したダナオスの娘たちによって建立されたという言い伝えがあったからである。以上、アマシスによる奉納品のかずかずである。また、キプロスを征服し、これを朝貢させた最初の人物が、誰あろうアマシスだった。

(75)ポリクラテスの統治はB.C.532頃に始まる。アマシスとの友好関係については第三巻三十九節を参照。

第三巻

[3.1] さてこのアマシスに向けて、キュロスの子カンビュセスが支配下の他民族のみならずイオニアとアイオリスのギリシア人をも従えて征討(1)に向った理由は次のことにある。それは、アマシスにふかい怨みを抱いていた、あるエジプト人の勧めに従って、カンビュセスが使者を送ってアマシスの娘をもらい受けようとしたのが始まりだった。そのエジプト人は、かつてキュロスがエジプトで一番の目医者をアマシスに求めた折に、エジプト全土の医者の中から選びだされ、その妻や子からも引き離され、はるばるペルシアまで送られたことがあったのだ。

(1)B.C.525年

アマシスを恨んでいたこのエジプト人は、アマシスの娘を求めるようにカンビュセスをそそのかしたのだが、そうなれば娘を差し出した場合にはアマシスは嘆き悲しむだろうし、拒むめばカンビュセスの怒りを招くだろうともくろんだのである。アマシスはペルシアの力に怯えて困惑し、娘を与えることも、拒むこともできずにいた。カンビュセスが娘を正妻しようとしているのではなく、側室にするつもりであることがわかっていたからである。

これを考えあぐねた末に、アマシスはこうした。先王アプリエスの娘で、この一族でただ一人生き残っていた、実に背が高く美しいニテティスという娘がいた。アマシスはこの娘を衣装や黄金で飾りたて、自分の娘としてカンビュセスのもとへ送ったのである。

ところがしばらく後に、カンビュセスがアマシスの娘よ、と呼びかけながら彼女を抱きよせようとしたとき、娘が云った。

「殿様、あなた様はアマシスに馬鹿にされていることがおわかりになっておられませぬ。あの男は私を美しく着飾らせ、自分の娘として殿様のもとへ私を送り込んだのですが、実は私はあの男がエジプト人とともに謀反を起し、命を奪ったアプリエスの娘なのでございます」

この言葉によって悪だくみが露見したことでキュロスの子カンビュセスは激怒し、エジプト征討に向わせたのだった。ペルシア人はこのように伝えている。

[3.2] ところがエジプト人のいうには、カンビュセスはこのアプリエスの娘から生れているので、自分たちと同族だという。そしてアマシスに娘を要求したのはキュロスで、カンビュセスではないというのだ。

しかし彼らの言っていることは間違っている。誰もがペルシアの慣習については知っているので、エジプト人も知っているはずなのだが、そもそも嫡出子がいるのに庶子が王位につくという慣習はペルシアにはないこと、二番目に、カンビュセスがアカイメニダイ家のパルナスペスの娘カッサンダネの息子で、エジプト女の子ではないことを彼らが知らないはずがないのだ。彼らは話をねじ曲げ、自分たちがキュロスの王家と縁続きであるような振りをしているのだ。これが事の真相である。

[3.3] また次のような話も、私には信じられないのだが、伝わっている。あるペルシア婦人がキュロスの妻妾たちのもとへ訪れたとき、カッサンダネのかたわらに背も高く眉目麗しい子供たちがいるのを見ると、感に堪えぬ風でとびきりの褒め言葉を発したのだった。そこでキュロスの妃カッサンダネがいうには、

「私がこんな風な子供たちの母であるのに、キュロスは私に恥をかかせ、エジプトから新しく来た女を寵愛しているのですよ」

カッサンダネはニテティスヘの反感からこういったのだが、そのとき彼女の一番年長の息子カンビュセスがいった。

「では母上、僕が大人になったらエジプトをひっくり返してやりましょう」

これをいったとき、かれは十歳くらいだったが、そこにいた女たちは驚嘆した。そしてかれはこのことを忘れずにいて、成人し王位につくやエジプトへ軍を向けた、というのである。

[3.4] この出陣には、次のような偶発事態もきっかけになっていた。それはこういうことだ。アマシスの傭兵の中に、ハリカルナッソス生まれで知恵も力もある、パネスという兵士がいた。

この男がアマシスに何らかの恨みを抱いていて、カンビュセスに面談したいと思ってエジプトから船で逃げ出したのである。この男は傭兵隊の幹部で、エジプトの事情に詳しいたことでもあるゆえ、アマシスはかれを捕らえようと躍起になり、最も信頼できる宦官を三段櫂船に乗せて逃亡した男を追わせた。そして宦官はリキアでパネスを捕らえたが、エジプトに連れ帰ることはかなわなかった。パネスの知恵が宦官よりもはるかに勝っていたからである。

パネスは番兵に酒を飲ませて泥酔させ、ペルシアヘ逃れたのだ。ちょうどそのとき、カンビュセスはエジプト出陣の準備にかかっていたときで、水のない沙漠地帯をいかにして越えるか迷っていたのだった。そこでパネスは、アマシスに関する情報を教え、いかに進軍すべきかも進言した。すなわちアラビア王に使者を送り、安全に通行できるよう頼むことを助言したのだ。

[3.5] 実のところ、エジプトへの進入路は、この道しか知られていなかったのである。フェニキアからカディティスの街境(2)に至るまでの地城は、いわゆるパレスティナ・シリア人の占有地なのだ。

(2)ガザのことだろう。

私の見た限りでは、カディティスはサルディスに比べてさほど小さくない街だが、ここからイエニソスに至る間の沿岸の交易地はアラビア王の領土である。そしてイエニソスからセルボニス湖の間は再びシリア領となり、この湖に沿つてカシオン岬が海に突き出ている。

このセルボニス湖にはテュポンが埋められていたという伝説があるが(3)、ここからはエジプト領となる。イエニソスの街とカシオス山、セルボニス湖の間は三日の行程を要する広い地域だが、また極度に乾ききった地帯でもある。

(3)ギリシア神話では、熱風と火山による作用はテュポンによるとされている。このテュポンはゼウスによって天空から落とされ、熱い火山地帯の地下に埋められた。そしてテュポンはエジプトの神となり、セルボニス湖に埋められたという伝説ができた。

[3.6] さてここで、船でエジプトにゆくほとんどの人が気づかない、あることを話してみよう。エジプトには一年に二度、酒を満たした甕(かめ)がギリシア全土のほかフェニキアからも運び込まれている。ところが空になった酒の甕が、この国のどこを探してもひとつとして見つからないのである。

では空の甕は一体どうなったのかと人は言うかもしれない。これについても説明しよう。それぞれの地区の長官は、自分の管轄する地区からすべての土甕を集めてメンフィスヘ運ぶことになっていて、次にメンフィス市民はこれに水を満たしてシリアの砂漠地帯へ運ぶことになっているのだ。つまりエジプトに運ばれた土甕は、空になるとシリアヘ運ばれ、すでにそこに運ばれていた甕と合流するのである。

[3.7] ペルシア人はエジプトを占領したあと、ただちにいま説明した方法で水を供給し、その通過路を確保したのである。

ところがその当時は水を用意できていなかったので、カンビュセスは例のハリカルナッソス出身の傭兵の話を聞くや、アラビヤに使者を送り、互いに誓約を取り交わして道中の安全を依頼し、これを確保したのであった。

[3.8] さてアラビア人以上に盟約を尊重する民族はほかにいない。彼らが盟約を結ぶ方法はこうである。盟約を交そうとする二者の間にひとりの男が立ち、両者の掌の親指のあたりを鋭い石で切り、双方の上着の糸をを引き抜き、この糸に血を吸わせ、両人の間におかれている七つの石にその血を塗りつける。このとき、ディオニソスと天空のアフロディテ(ウラニア)の名を唱えるのである。

これが終わったあと、盟約を交した者は、異国人または同国人の相手を自分の友人たちに紹介するのだが、紹介された友人たちは自身もこの盟約を尊重する義務を負うことになっている。

彼らが信じているのはディオニソスと天空のアフロディテ(ウラニア)だけで、それゆえか髪の刈り方もディオニソス風にしているのだと言って、髪を丸く刈り、こめかみの毛を剃っている。彼らはディオニソスのことをオロタルトといい、ウラニアのことをアリラトと呼んでいる(4)。

(4)ムーバーズ(Movers)によれば、オロタルトは「火の神orath el」で、アリラトはhelelの女神で「朝の星」である。単純にいえばアリラトは女神となる。

[3.9] さてカンビュスからの使者に盟約の誓いを行なったアラビア王は、次のような方策をとった。すなわちラクダ皮の袋に水を満たし、手持ちのすべてラクダの背にのせ、これを砂漠地帯まで率いてゆき、カンビュセスの軍がやって来るのを待っていたのである。

右は伝えられている説のうちで最も信用できるものを述べたが、伝えられているからには、あまり信用できない説も述べておかねばならない。

アラビアにコリスという大河があり、これはいわゆる紅海に注いでいる。アラビア王は、牛皮その他の獣皮を縫い合せて作った水導管を、この河から砂漠地帯まで設置し、これを用いて水を送った。そして砂漠地帯には巨大な水槽を掘らせて水を受け、これをしたという。

この河から砂漠地帯までは十二日間の旅程であるが、かれは三本の水導管によって三ヶ所に水を送ったと伝えられている。

[3.10] さてアマシスの息子プサンメニトスは、ナイルのペルシオン河ロで陣を張り、カンビュセスを待ち構えていた。

というのはカンビュセスがエジプトに出陣したとき、アマシスはすでに生きておらず、四十四年間の統治ののち、この世を去っていた。その統治中、別段大した難事もおきず、死後はミイラにされ、神域内に作った自身の慕所に葬られた。

かれの息子プサンメニトスのエジプト統治中に、とてつもなく異常な出来事が起きたのである。すなわちエジプトのテーベに雨が降ったのである。テーベの住民のいうところでは、これ以前にも、私の時代に至るまでも、テーベには雨が降らなかったというのに。実際、上エジプトは雨の降らない所なのである。ただ、この時テーベ(5)に降った雨は霧雨だったのだが。

(5)現在のテーベ(ルクソール)は時に少量の雨が降る;ただし極めて少量で極まれ。

[3.11] さてペルシア軍は砂漠地帯を通過し、エジプト軍の近くに陣を構え、合戦に備えた。一方のギリシア人とカリア人からなるエジプト傭兵部隊は、異国の軍隊をエジプト攻撃に導いたパネスに怒りを募らせ、この男を懲らしめようと、次のことを図った。

パネスは、幾人かの息子をエジプトに残していたが、彼らはこの息子たちを父親が見える陣営内に連れてきた。そして両軍の陣地の中間に混酒器をすえ、息子を一人ずつ引き出しては混酒器の上で咽喉を切り裂いたのだ。

息子たちを残らず殺戮し終えたあと、傭兵たちは混酒器の中へ酒と水を注ぎ、これを飲み干してから合戦に向った。戦いは激戦となり、両軍ともに多数の死者を出したが、ついにエジプト軍が敗走するに至った。

[3.12] ここで私は、土地の住民に教えられ、合戦場で奇妙な光景を目にした。この合戦の死者の遺骨が、ペルシア人とエジプト人それぞれ別の場所に散らばっていたのだが、ペルシア人の頭蓋骨は非常にもろく、小石を投げつけるだけで穴があくほどなのに、エジプト人の頭蓋骨は石で叩いてもわれないほどに硬いのである。

土地の者が言うには、それを聞いて私もすぐに納得したのだが、次のごとき説明をしてくれた。つまりエジプト人は子供の頃から頭髪を剃っていて、頭蓋骨が陽にさらされて厚くなるのだと言っている。エジプト人の頭が禿げないのも同じ理由からである。世界中でエジプトほど禿げ頭が少ない国はない。

彼らの頭蓋骨が硬い理由はこんなことだが、ペルシア人の頭蓋骨がもろいのは、彼らはティアラというフェルト帽をかぶり、生涯にわたって頭を陽に当てないからである。これが事の真相である。また私はパプレミスにおいてペルシア人の頭蓋骨も見たことがある。彼らはダリウスの子アカイメネスに率いられてリビア人イナロスと戦い、これに討たれた兵士たちの遺骨だったが、その頭蓋骨も同じことだった。

[3.13] 戦に敗れたエジプト軍は、てんでんばらばらに潰走した。そしてメンフィスに立て籠もったので、カンビュセスはペルシア人の使者をミティレネの船に乗せて上流へ送り、降伏の勧告に向わせた。

ところが船がメンフィスにやって来ると、エジプト軍は城塞から一挙に打って出、船を破壊し、船にのっていた者たちの身体を、肉屋が獣を解体するようにしてバラバラにし、これを城の中に運び込んだ。

その後エジプト軍は包囲攻撃を受けたが、しばらくのちに降伏した。エジプトに隣接するリビア人はエジプトの状況を見てこれを怖れ、戦わずして降伏し、みずから朝見の礼を取り、さらに貢ぎ物を献上した。キュレネ人とバルカ人もリビア人にならって同じ行勣をとった。

カンビュセスは、リビア人の贈物は万福の好意でこれを受け取ったが、キュレネ人から届けられたものは、私が思うに、銀五百ムナのみだったので、その額の少なさが気に入らなかったと思われるが、みずからの手でつかんでは兵士たちにばらまいてしまった。

[3.14] メンフィスの城塞を占領して十日後、カンビュセスは、王位についてまだ六ヶ月のエジプト王プサンメニトスをはずかしめるつもりで、ほかのエジプト人たちとともに、街の外に引きすえ、次のことをして彼の胆力を試した。

すなわち、王の娘に奴隷の身なりをさせて水差しを持たせ、水汲みにやらせた。またエジプトの上層部の娘から選び出した者たちにも王女と同じ身なりをさせ、これに同行させた。

娘たちが泣いたり嘆いたりしながら父親のそばを通り過ぎると、父親たちは全員が、娘がひどい扱いをうけているのを見て、泣いたり嘆いたりしてそれに答えたが、ひとりプサンメニトスだけは自身のまなこで全ての事態をみつめると、うなだれるのみだった。

水汲みの娘たちが通り過ぎたあと、カンビュセスは、王の息子と同じ年齢のエジプト人を二干人、かれとともに連れて来させた。彼らは首に縄をかけられ、口には轡(くつわ)をかまされていた。

彼らは、メンフィスで船とともに殺戮されたミティレネ人たちの報復をするために連行されてきたのだ。王室の判官たちが、殺されたミティレネ人ひとりにつき、高貴なエジプト人十人の死をもって償わせるべしと判定したからだった。

前を通り過ぎる者たちの姿を目にしたプサンメニトスは、息子が死にゆくのを悟ったが、まわりのエジプト人たちがみな嘆きつつ涙を流しているというのに、かれだけは娘を見たときと同じ態度を取っていた。

この者たちも通り過ぎたあと、かつては王の取り巻きのひとりで、壮年を過ぎて全ての資産をなくし、乞食が持つような物しか持たず、兵士たちに物乞いをしている男が、たまたま街の外にすえられていたアマシスの子プサンメニトスほかのエジプト人たちの前を通りすぎたのである。この男を目にしたプサンメニトスは、頭を叩きつつその男の名を呼び、大声あげて泣き出したのであった。

ところでプサンメニトスには番兵がつけられていて、彼らは行列が通るたびにプサンメニトスの反応を細大もらさずカンビュセスに報告していた。プサンメニトスの態度を不思議に思ったカンビュセスは、伝令を送り、かれに訊ねさせた゜

「プサンメニトスよ、主君カンビュセスは問うておられる。娘が虐待され、息子が死にゆくを見ても、泣き声も上げす歎きもしなかったというに、カンビュセスが他の者から報されたところでは、そなたとは何の血縁もない乞食に向けて、あのような態度を取ったのは、なにゆえであるか?」

このように伝令が問い質すと、プサンメニトスが返答して曰く、

「キュロスの息よ、わが一族の不幸は、涙を流して嘆くにはあまりにも悲惨すぎるものにござる。しかしわが友人の不幸には涙を流さずにはおられませぬ。莫大な富や繁栄をうしない、老境にさしかかるというのに乞食にまで転落した、あの男には」

伝令がこの返答をカンビュセスに報告すると、そこに居並ぶ者たちはみな天晴れな答えだと頷いた。

そしてエジプト人の伝えるところでは、たまたまカンビュセスに同行していたクロイソスも、これを聞いて涙を流したという。同席していたペルシア人たちも涙を流し、カンビュセス自身も哀れをもよおし、プサンメニトスの息子を処刑される者の中からはずすことと、プサンメニトス自身も街の外から自分のもとへ連れてこさせるように命じた。

[3.15] ところが、使いの者たちが息子のところへゆくと、息子は真っ先に処刑されていて、すでに命を絶たれたあとだった。そこで彼らはベプサンメニトスをその場から連れ出してカンビュセスのもとへ届けた。その後かれは何の危害も加えられずに、カンビュセスのもとで余生を送ることになった。

そしてもしかれが余計なことに手出ししないことを自覚していたなら、再びエジプトの統治を任されただろう。というのも、ペルシア人は王家の嫡流を尊重する傾向があり、たとえ他国の王家がペルシアに敵対したとしても、その嫡子に覇権を返還しているからである。

このような慣習を彼らが持っていたことは、多くの例が物語っている。特に、イナロスの子タンニラスに、その父の覇権を返したことと、アミルタイオスの子パウシリスにもその例がある。この男もまた父の王権を返されたのである。しかもイナロスやアミルタイオス(6)以上にペルシアに害を与えた者は、かつてなかったというのに。

(6)ペルシア支配に対するエジプト人イナロスとアミルタイオスの謀反はB.C.460からB.C.555まで続いた。

ところがプサンメニトスは悪事を企み、その報いを受けたのだった。すなわちエジプト人の反乱の黒幕だったことが発覚し、これがカンビュセスの耳に入るや、プサンメニトスは牡牛の生血(7)をあおり、死を遂げたのだ。これがプサンメニトスの最期だった。

(7)血液が凝固して窒息すると考えられていた。

[3.16] さてカンビュセスは、ある目的があってメンフィスからサイスへ移動し、実際それを実行した。かれはアマシスの宮殿に入ると棺部屋からアマシスの遺体を運び出させた。運び出しが終わると、次にその遺体を鞭打ち、毛髪を引き抜き、刺し棒で突くなど、あらゆる方法で侮辱の限りをつくした。

しかし遺体はミイラになっていて、傷つけられても損なわれることはなく、バラバラになることもなかったので、取りかかっていた者たちが疲れ切ってしまった。そこでカンビュセスは遺体を焼けと命じた。ペルシア人は火を神と崇めているので、この命令は神を冒涜するものだった。

遺体を焼くなどということは、両国の慣習にはないことで、ペルシアでは今述べた理由で、人間の遺体を神に捧げることはよくないこととされている。一方エジプトでは、火は生ける野獣とみなされていて、捕まえたものをむさぼり、満腹すると喰ったものとともに死に絶えると信じられている。

それゆえ彼らの慣習には、死骸を野獣に与えるということは絶対にない。遺体をミイラにするのはそのためで、埋葬された遺体が虫に喰われるのを防ぐためである。かくしてカンビュセスが命じたことはいずれの国の慣習にもそむくことなのだった。

ところがエジプト人の話では、この仕打ちを受けたのはアマシスではなく、かれと同じ背格好の別のエジプト人で、ペルシア人はこの男をアマシスだと思いこみ、これを虐待していたのだという。

彼らの話では、アマシスは、神託によって自分の死後、みずからの亡骸に起るであろうことをあらかじめ知っていて、その災いを避けるため、鞭打の刑で死んだ男の遺体を自分の棺部屋の戸ロに近いところに葬らせた。そして自分の亡骸は、息子に命じて棺部屋の最も奥まった場所に安置させたという。

しかし私の考えでは、アマシスが棺部屋のことや男のことを命じたなどということは全くの絵空事で、エジプト人は何の根拠もなしにみずからの尊厳を保つために、こんな作り話をでっち上げているのだ。

[3.17] このあとカンビュセスは三つの遠征を計画した。すなわちカルケドニア人(8)、アンモン人、リビアの南の海辺に住むエチオピアの「長命族」(9)に対する遠征である。

(8)カルタゴ人のこと
(9)本巻二十三節

思案の末にかれが決めたことは、カルタゴには海軍を、アンモンには陸上部隊の一部を派遣することだった。そしてエチオピアヘは先ずスパイを送り、そこの王に贈物を届けるというロ実のもと、エチオピアにあると伝えられる「太陽の卓」なるものが真実あるかどうかを見届けさせ、そのほかのこともいろいろ探らせようとした。

[3.18] この「太陽の卓」(10)は、次のようなものだと伝えられている。街を出たところに草原があり、ここにあらゆる種類の四足獣の肉を煮たものが所狭しとおかれている。これは、街公認の係員が夜のあいだに肉を草原に配置しているのだ。そして昼のあいだは誰でも欲しければ行って好きなだけ食べる。この肉は、土地の往民の言うところでは、大地によって常にもたらされる産物なのである。これが太陽の卓に関する話である。

(10)この話は死者への捧げもの、またはこの地域が豊穣の地であることを示しているのだろう。ホメロスには、神々がエチオピア人と饗応したという寓話がある。

[3.19] ところでカンビュセスは、スパイを送ることに決めると、エチオピア語を解するイクティオパゴイ人をエレパンティネの街から呼び寄せた。

使者がこの者たちを呼びに行っている間に、カンビュセスは船団をカルタゴに向けて出航させようとした。しかしフェニキア人たちは出航したくないと云った。彼らのいうには、自分たちは堅い誓約に縛られていて、みずからの血筋に繋がる者たちに向けて出航することは神意にそむくことだというのである。フェニキア人が嫌がっているなら、残りの軍では軍勢が不足することになる。

かくしてカルタゴはペルシアに隷属することを免れたのである。というのも、フェニキア人はみずから進んでペルシアに臣従してきた民族であることや、ペルシアの全艦隊はフェニキア人に大きく依存していることもあって、カンビュセスはフェニキア人に無理強いすることは避けたいと考えたからである。また、キプロス人も進んでペルシアに服従し、エジプト遠征に加わっていた。

[3.20] カンビュセスの呼び出しに応じてイクティオパゴイ人がエレパンティネから到着すると、かれはエチオピアでの口上を彼らに指示し、紫の外套や黄金でできた螺旋状の首飾りと腕輪、雪花石膏で造った香油壺、椰子酒用の瓶などの贈物をもたせて、エチオピアヘ送りだした。カンビュセスが使いを送ったエチオピア人というのは、どの民族よりも背が高く、容姿も美しい民族だといわれている。

彼らの慣習はほかの民族と異なる点が多いといわれているが、なかでも王を決めるやり方はほかの民族と違って独特である。国中で最も背が高く、かつその背丈に応じた力強さを備えている者を、王にふさわしいと考えているのである。

[3.21] さてイクティオパゴイ人一同がこの国へ着くと、その国王に贈物を献上し、口上を述べた。

「ペルシア王カンビュセスは、貴殿と親交を深め、かつは同盟締結を望んでおり、そのためにわれらを遣わされてござる。これなる献上品は、われらが王みずからが愛用しておる品々でござる」

しかしエチオピア王は彼らがスパイとしてやって来たことを見抜き、こういった。

「ペルシア王は予と親交を深めることに重きをおいて、そなたらに進物を託したのではなかろう。またそなたらはわが国情を探るために来たのであるゆえ、真実を語っておらぬ。であるから、かの男も正義漢とはいえぬな。かの男が正義の士であるなら、自分の領土のほか、むやみに領土を望むことはせぬはずであろうし、何ら危害を加えておらぬ民を隷従させるようなことはしなかったはずである。そこでじゃ、この弓をあの男に届け、こう言ってやれ。

『エチオピア王はペルシア王に勧告する。ペルシア人がこの大弓を、予と同じように易々と引けるようになったのち、われらに優る大軍をもってこのエチオピア長命族を攻めるべし。しかしそれまでは、エチオピアの子らに他国の領土を望む気持ちを起さぬようにし給う神々に感謝せよ。』

とな」

[3.22] こう言ってエチオピア王は弓をゆるめ、それを使者たちに与えた。それから紫の外套を手に取り、これは何か、またどのように造るのかを訊ねた。イクティオパゴイ人が色のことや染色のやり方について偽りのないように説明したところが、王は、ペルシア人は人間も衣装もまがいものだといった。

王は次に首飾りと腕輪などの螺旋状の黄金の品について訊ねたので、イクティオパゴイ人がそれらの使用法を説明すると、王は笑いだし、それを足枷だと思っていたので、我らの国にはこんな物よりもっと強靱な鎖があるといった。

三番目にかれは香油について訊ね、使者がその製法と使用法を話すと、王は外套について語ったのと同じことを繰り返して口にした。ところが酒のことが話題になり、その製法を訊ねた王は、この飲み物が大変気に入り、お前たちの王は何を食べているのかと重ねて訊ねた。またペルシア人は最も長くてどれほど生きるのかとも訊ねた。

使者は王が食しているのはパンであると答え、小麦がどのように育つかを説明し、またペルシアの最高年齢は八十年であるといった。するとエチオピア王がいうには、糞のごとき汚らしい物(11)を食していては寿命が短いのも道理である。この飲み物で心気を養わねば、ペルシア人はそれだけの年も生きることはできまいと、イクティオパゴイ人に酒を指さしながらいった。酒に関してはエチオピア人よりもペルシア人の方が進んでいると王はいったのだ。

(11)下肥によって育つ穀物のこと。

[3.23] そのあと、イクティオパゴイ人がエチオピア人の寿命や食餌について質問すると、王は、自分たちの多くは百二十歳に達し、これを越える者もいることや、茹で肉を喰い、乳を飲んでいると答えた。

スパイたちが年齢の話に驚いていると、王は彼らをある泉に案内したのだが、ここで沐浴すると、油に浸かったように肌が艶やかになり、泉はスミレの芳香を発していたという。

水はとても軽い、とスパイたちはいうのだが、これに浮くものは何もないほどで、木でさえも、木より軽いものも浮くことはなく、あらゆる物が水底に沈むといった。その水が真実彼らの言うとおりのものであるなら、この水を常用していることで彼らが長命なのかもしれない。

その後、王は泉をあとにして彼らを牢獄に案内したが、ここではすべての囚人が黄金製の足枷をつけられていた。エチオペアでは青銅が最も希少で高価なのである。牢獄を見たあと、スパイたちはいわゆる太陽の卓も見物した。

[3.24] 太陽の卓を見たあと、最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これは次に説明するように、雪花石膏(ヒュアロス=水晶?)で造られる。

彼らは遺体を乾燥させるのだが、これはエジプト式そのほかの方法で行なう。そのあと、これを石膏で堅め、その上に死者の生前の姿そっくりな絵を描く。

それから中をくりぬいた柱状の雪花石膏の中に遺体をおさめる。雪花石膏は豊富に採掘され、細工しやすいものである。石柱におさめられた遺体は石材を通して透きとおって見え、悪臭はなく、不快をもよおすこともない。そして生前そのままの如く遺体の隅々まではっきり見える。

この石柱は、死者に最も近い親族の者が自分の邸に安置し、初物や生贄を捧げる。そして一年後には柱を運び出し、街の周囲に立てるのである。

[3.25] すべてを見終えてスパイたちは帰って行った。そして報告を一部始終聞いたカンビュセスは怒りをつのらせ、すぐさまエチオピアに向けて出陣したが、それは兵站を準備する命令もなく、地の果てに軍を進めようとしている覚悟もなく、行なわれた。

カンビュセスは正気を失い発狂したようになって、イクテユオパゴイ人の報告を聞くや否や、ギリシア人部隊にはその場に待機させ、全陸軍を率いて出陣したのである。

進軍してテーベに着いたとき、かれは自軍から五万を引き抜き、この部隊には、アンモン人を服従させ、ゼウスの神託所を焼き払うことを命じた。そしてみずからは残りの部隊を率いてエチオピアヘ向った。

ところが軍が行程の五分の一も進まぬうちに、準備していた食糧は底をつき始め、食糧がなくなったあとは貨物輸送用の動物も食べ、それも尽きようとしていた。

もしカンビュセスがこれに気づき、方針を変えて軍を引き返していたなら、最初に失策を冒したとはいうものの、かれは賢明な人物だっただろう。しかしかれはこの事態を考慮せず、そのまま前進したのであった。

兵士たちは地面から手に入るものがある間は、草を食べて命をつないでいたが、砂漠地帯にやって来ると、恐ろしいことをやってのける者が出てきた。それは、十人でくじ引きしてひとりを選び、その人間を食べたのである。

これを聞いたカンビュセスは、軍が共食いを起こすことを恐れ、エチオピア遠征を中止してテーベに引き返した。そのときには多数の兵士を失っていた。そしてテーベからメンフィスに下り、ギリシア人部隊には出航させ、帰国させた。

[3.26] エチオピア遠征の次第はかくのごとくだった。一方、アンモンに進軍した者たちは道案内を伴ってテーベを出発した。そしてオアシスの街(12)に到着したことはわかっている。このオアシスの街はアイスクリオニア族というサモス人が住んでいて、テーベから砂漢を越えて七日の行程のところにある。この場所はギリシア語では祝福の島と呼ばれている。

(12)オアシスは単に樹木の生育している場所のことをいうが、ヘロドトスは固有名詞として使っている。これは彼が言うように、テーベから七日の行程にあるハルガの「大オアシス」のことである。

分遣隊がここまでやって来たことは伝えられている。それ以後のことについては、アンモン人自身および彼らから聞いた者以外、誰も知らない。この部隊はアンモンに到着していないし、引き返してもいないのである。

アンモン人の言うことはこうだ。ペルシア軍はオアシスの街を発って砂漠の向こうのアンモンに向ったが、アンモンとオアシスの中間あたりで、朝食の最中に猛烈な南風に見舞われ、これが大量の砂を運んできて彼らを生き埋めにしてしまい、見えなくなってしまったのだという。これが、アンモン人の伝えるところである。

[3.27] さてカンビュセスがメンフィスに帰り着いたころ、ギリシア人がエポパスと称している聖牛アピス(13)がエジプトに出現した。アピスが出現するとエジプト人は早速一番の晴れ着を着て祝祭を開いた。

(13)第二巻三十八節

このようなエジプト人の振る舞いを見たカンビュセスは、彼らが自分の失敗を喜んでいると思い込み、メンフィスの役人たちを呼びよせた。役人たちが出頭すると王は、以前に自分がメンフィスにいた時、彼らはこのようなことはしなかったのに、軍の多くを失って帰ってきたときに合わせてこんなことするのはなぜかと訊ねた。

役人たちが返答するに、久しい期間をあけぬと現れない神がいま現れたことや、この神が現われると、エジプト人は国をあげて狂喜し、祝祭を開催することを説明した。これに対してカンビュセスは役人が偽りを申し立てているといい、虚言を弄したとして彼らを死罪に処したのである。

[3.28] 役人たちを死刑に処したあと、カンビュセスは次に司祭たちを自分の前に呼び出した。司祭たちが役人と同じ答え返すと、王は、人に馴れた神がエジプトに来ているかどうか、自分が確かめてやると云い、司祭たちにアピスを連れてくるよう命じた。

そうして司祭たちは牛を連れにいった。さてこのアピスあるいはエパポスというのは、二度目は妊娠できない牝牛から生れた仔牛のことである。エジプト人の伝えるところでは、その牝牛は天空からの光によって妊娠し、アピスが生まれるというのである。

アピスと呼ばれるこの仔牛には次のような特徴がある。これは黒牛だが、眉間には四角の白い斑点があり、背中には鷲に似た斑点があり、尻尾の毛は二重になっていて、舌の上にはカブト虫ようなものがある。

[3.29] 司祭たちがアピスを連れてくると、いくぶん狂気じみているカンビュセスは、短剣を引き抜くと、アピスの腹を突き刺そうとしたが、狙いがはずれて太股を刺してしまった。そこで笑いながら、この王は司祭たちに向って云った。

「お粗末なヤツめ。お前たちの神は、肉も血もあり、刃物で切られて反応するのか?エジプト人には、このような神がふさわしいだろう。だがお前たち、予を笑いものにしたお前たちは、無事では済まさぬぞ」

こう言ってかれは係りの者に命じて司祭たちを鞭打の刑に処し、また祭を祝っているエジプト人を見つけたときには、誰彼なしに殺せと命じた。

こうしてエジプト人の祭は終わり、司祭たちは処罰され、太股を切られたアピスは神殿の中で横たわり、死にかけていた。やがてアピスはその傷のために死んだが、司祭たちはカンビュセスに知れないようにして、これを埋葬した。

[3.30] エジプト人のいうには、この邪悪な所業が報いとなって、その直後にカンビュセスは発狂したという。もっともそれ以前から、かれは正気ではなかったのだが。かれの最初の悪業は、同じ父母から生まれた実弟のスメルディスを死に追いやったことで、カンビュセスは嫉妬心から弟をエジプトからペルシアヘ送り返したのだったが、その理由は先にイクティオパゴイ人がエチオピアから持ち帰った弓を、ほかのペルシア人が誰ひとり引くことができなかったのを、スメルディスだけがニダクテュロスほど(四糎)引けたからだった。

さてスメルディスがペルシアに去った後、カンビュセスは寝ている間に夢を見た。それは、ペルシアから使いがきて、スメルディスが王の玉座に坐り、その頭が天に触れている、と知らせる夢だった。

カンビュセスは弟が自分を亡き者にして王位につくのではないかと疑って自分の身を案じ、弟を殺害するべく、一等信頼できるプレクサスペスというペルシア人を本国へ送った。そしてこの男はスサヘ上ってスメルディスを殺したのだが、ある者は狩に誘い出して殺したとも云い、またある者は紅海(14)へ連れ出して溺死させたとも伝えている。

(14)紅海(Ἀράβιος κόλπος = Aravios kolpos;アラビア湾)ではなく、おそらくペルシア湾である。ヘロドトスはペルシアとアラビア間の湾を知らなかったことがわかっている。

[3.31] これがカンビュセスの悪業の数々の最初だと云われている。そして第二は、エジプトについてきた妹をあやめたことで、彼女はカンビュセスの妻でもあり、またおなじ両親から生まれた妹でもあった。

かれが妹と結婚したやり方はこうである。ペルシアではそれまで、自分の姉妹と結婚するという習慣は全くなかった。ところがカンピユセスは自分の姉妹の一人に恋心を抱き、この妹を妻にしたいと思ったのだが、それはペルシアのしきたりに叛することなので、王室の法官(15)を呼び、姉妹を妻にすることを認める法律がないかと、下問した。

(15)七人いた:エステル記第一章十四節を参照。

ここで、王室法官というのは、ペルシア人の中から選ばれた者たちで、死ぬまで、あるいは何らかの不正が露見するまで、その職についている。彼らはペルシア国内の訴訟を裁き、国の法律を解釈し、あらゆることが彼らに委ねられているのである。

この諮問に対して法官たちは、当たり障りなく、わが身の安全を図る抜け目ない返答をした。すなわち兄弟と姉妹の婚姻を認める法律は見いだせないが、ぺルシア王は、望むことは何ごとであれ許されるという法律があると返答した。

法官たちはカンビュセスを怖れ、以上のごとく法を破りはしなかったものの、法を守ることで自身の死を免れるために、姉妹との婚姻を望む者に都合のよい別の法を見つけ出したのである。

かくてカンビュセスは望みの女と結婚したのだが、その後間もなく、また別の姉妹を妻にした。カンビュセスについてエジプトにゆき、殺されたのは、このうち若い方の妻である。

[3.32] この女の死については、スメルディスの場合と同じく二通りの話が伝わっている。ギリシア人の説では、ある時カンビュセスがこの女の見ている前で、子どものライオンを仔犬と闘わせたのだが、仔犬が負けそうになったとき、その兄弟犬が革紐をひき千切って助太刀し、二頭の犬が仔ライオンに勝った。

カンビュセスはこの光景を見て喜んだが、そばにいた女はすすり泣いた。それに気づいたカンビュセスが、泣いた理由を女に訊ねると、女は、仔犬が兄弟犬を助けたのを見て、スメルディスのことを思い起こし、かれには報復を遂げてくれる者がいないことを思って泣いたのだと云った。

ギリシア人の話では、こう云ったことで彼女はカンビュセスに殺されたという。しかしエジプト人の話では、二人が食卓についているとき、その女がレタスを持ってその葉をむしりとり、夫に向って、葉があるのとないのとでは、どちらが見栄えがよいかと訊ねた。かれが「葉のあるほうだ」と答えると、妻はそれに答えて、

「でもあなたはキュロス一家をこのレタスと同じように丸裸にしておしまいになりましたわね」と云った。

これに怒ったカンビュセスは身重の妻に飛びかかり、そのために女は流産し、命を落としたという。

[3.33] カンビュセスが自身の家族に向けた気違沙汰の行ないは、このようなことだったが、その元となったことが果してアピスのことだったのか、あるいは人間に降りかかるさまざまなもめ事の果てだったのであろうか。実のところ、カンビュセスは生れつき神聖病(16)と呼ばれている重い病気を持っていたと云われている。それゆえ、身体が重い病気にかかっているなら心もまた病むことは、あり得ないことではない。

(16)癲癇

[3.34] そのほか、かれがペルシア人に行なった理不尽な悪業を話してみよう。かれが特に重用しているプレクサスペスという人物に向けて、次のことを云ったと伝えられている。このプレクサスペスは奏者番を勤めており、息子はカンビュセスの酌取小姓だった。さてカンビュセスがプレクサスペスに云ったこととは、

「プレクサスペスよ、ペルシア人は予をどのような人間だと思っておろうか、また予のことをどんな風に話しておるかのう」
「されば、」とプレクサスペスが答える。
「ほかのすべてのことでは国民はお上を大いに褒めたたえておりますが、ただ御酒(ごしゅ)が過ぎるのではないかと申しております」

かくのことくプレクサスペスがペルシア人のことを報告したところ、王は怒りを露わにして云った。
「なに?予が酒に溺れて狂乱し、乱心しておるとペルシア国民が噂しておるのだな。それではやつらが以前言っておったことも偽りだったことになるな」

それというのも、これ以前に幾人かのペルシア人がクロイソスとともに王と同席していたとき、カンビュセスが、父キュロスと比べて自分をどのような人間だと思うかを訊ねたことがあった。同席の者たちが答えるに、
「カンビュセスはキュロスよりも優れている。なぜと言うに、かれはキュロスの領土をすべて掌握し、それに加えてエジプトと海をも手に入れたのであるから」と答えた。

ペルシア人たちはこう云ったが、居合せたクロイソスはこの判断に不満で、カンビュセスに向ってこう云った。
「キュロスの御子よ、みどもの見るところ、貴殿はまだ父上と肩を並べるには至っておられぬように存ずる。なんとなれば、父上は貴殿という跡継ぎを残されましたが、貴殿はまだ貴殿のごとき御子息をお持ちではありませぬゆえに」
この言葉はカンビュセスを喜ばせ、かれはクロイソスの判断を褒めそやしたという。

[3.35] カンビュセスはこの時のことを思い出して怒り、プレクサスペスに向って言うには、
「ペルシア人どもの言うことが真実か、それともそのようなことを口にしている彼らの方が狂つているのか、わからせてやろう。そこの戸口に立っておるお前の伜のことだ。もし予があの倅の心臓を射抜いたなら、ペルシア人どもの言うことが間違っている証じゃ。射損じたときには下々の言うことが真実で、予の気が狂っていると言うがよい」

こう云いながら、王は弓を引きしぼって少年を射た。そして倒れた少年の身体を切り開いて傷口を調べさせ、矢が心臓を射貫いていることがわかると、カンビュセスは大喜びして笑い、少年の父親に向って云った。

「プレクサスペスよ、予が正気で、国民が狂っておることが、これではっきりしたであろう。世界中でこれほどまでに的を正確に射貫く男を見たことがあるか、言ってみろ」

カンビュセスの気が狂っていることに気づいたプレクサスペスは、自身に降りかかる災いを怖れてこう返答したという。
「神といえどもこれほど見事に射られることはないものと存じます」

カンビュセスの振る舞いはかくの如くだった。また別のときには、国内で一番高貴な者に匹敵する地位のペルシア人十二人を些細な罪で捕らえ、逆さ吊りにして生き埋めにしたこともあった。

[3.36] このような王の振舞いに対して、リディア人のクロイソスは王に諌言すべきと考え、こう云った。

「殿、何事につけ、血気にはやり激情に身をまかせられてはなりませぬぞ。どうか自制、自重なされませ。分別こそは賢明なることであり、先見の明は賢者の証にござる。しかしながら殿は些細な咎によってご自身の臣民を殺め、年端のゆかぬ少年の生命まで奪っておられます。

かくなることがたび重なれば、ペルシア国民はやがて殿に謀反を企てることにもなりましょう。そしてみどものことを申せば、殿の父上キュロス様から早くに、よかれと思うことは何なりと忠告し、助言するよう、切に頼まれておったからにござる」
クロイソスは善意から、このように忠告したのだが、カンビュセスはこう返答した。

「汝、ずうずうしくも予に忠告するとは大変結構なことよ。お主は自分の国をうまく治め、またわが父にはご立派な助言をしてくれた。すなわちマッサゲタイ人がアラクセス河を渡ってわが国に攻め来たったとき、こちらから河を渡って奴らを攻めるがよいとな。その結果、お主は国の統治を誤り、お主を信用したキュロスも破滅してしまった。もう勘弁ならぬ。予は長い間お主を処分する機会を待っておったのじゃ」

こう云いながらカンビュセスは弓をつかんでクロイソスを射殺そうとしたが、クロイソスはすばやく部屋の外へ走って逃げ出した。射抜き損じたカンビュセスは、かれを捕らえて殺せと従者たちに命じた。

ところが王の気質を心得ていた従者たちはクロイソスをかくまっておいた。カンビュセスが後悔してクロイソスを求めるようになったときには、かれを表に出し、命を救ったことによる恩賞を得るつもりだったし、またもし王が後悔せず、クロイソスを元に戻す気を起こさないのであれば、その時にはそのリディア人を殺すつもりだったのである。

実際、間をおくこともなくカンビュセスはクロイソスを慕うようになった。このことに気づいた従者たちは、クロイソスが生きていることをかれに告げた。するとカンビュセスは、それは嬉しく思うが、クロイソスを生かしておいた者どもは処罰はまぬがれぬ、死罪に処すと云い、その言葉どおりに実行したのであった。

[3.37] カンビュセスはかくのごとき狂気の振る舞いをペルシア人や同盟国民に対して数多く行なった。たとえばメンフィスに滞在中においても、古い墓をあばいて死骸を検分するなどということも行なっている。

またかれはヘパイストスの神殿に入り、そこに安置されている神像を愚弄したりしている。それは、このヘパイストスの神像が、フェニキア人が使用している三段櫂船の船首に備えつけられているパタイコイ(17)というフェニキアの神によく似ていたからである。パタイコイの像を見たことのない人のために説明すると、それは小人に似ている像である。

(17)ギリシア人がフェニキアのパタイコイ(Πατάικος = Pataikos)というのはエジプトのプタ神のことで、これをギリシア人はヘパイストスといい、小人の姿をしている。

カンビュセスは、司祭以外の者は立入ることが禁止されているカベイロイの聖廟にも入り込み、その神像を痛烈に嘲ったあげく、焼き払うということまでしている。このカベイロイの像もヘパイストスの像に似ていて、それはヘパイストスの子であると云われている。

[3.38] さてそこで、どうみてもカンビュセスは極度に錯乱していたことが明らかだと私は考える。そうでなければ、信仰や慣習を愚弄することなど、誰も決してしないからである。実際、全ての国の習慣のなかで、どの国のものが一番かと訊いてみると、どの国の人々でも、考えた末に返ってくる答えが、自分の国の習慣だと言うに違いない。かくてそれぞれ自国の習俗が断然最良だと確信しているのだ。

だとすれば、宗教や習俗をあざけり、嘲笑するなどということは、狂人でもなければ考えられぬことである。誰でもが習俗についてこのような信念をもっていることは、さまざまな例から指摘できるが、そのひとつの証拠となる例をここにあげてみよう。

それはダリウスが王位にあったときのことである。国に来ていた幾人かのギリシア人を呼び出し、かれは諮問した。どれほどの金をもらえば父親の死肉を食う気になるかと。そこで彼らは、いくら金を積まれても、そのようなことはしないと返答したのである。

するとダリウスは、次にカラティアイ人(18)という、両親の肉を食う習慣をもつインドの部族を呼んで諮問した。このとき、先のギリシア人を立ち会わせ、通訳を通して話の内容がわかるようにしておいた。そしてどれほどの金をもらえば死んだ父親を火葬にする気になるかと訊ねた。するとカラティアイ人たちは大声をあげ、そのような忌まわしきことを言ってくれるなと口々に叫んだのである。習俗というものは、このように根強いもので、ピンダロスの詩に、慣習こそ万物の王なり(19)、とあるのは全く正しいと私は考える。

(18)本巻九十九節;パダイオイ人を参照
(19)「νόμος ὁ πάντων βασιλεὺς θνατῶν τε καὶ ἀθανάτων= nomos o panton vasilefs thnaton te kai athanaton」プラトン作ゴルギアス(対話篇)中にある、ピンダロスの未知の作から引用。

[3.39] さてカンビュセスがエジプトに遠征しているとき、スパルタもサモスに侵攻し、反乱を起こしてサモスを支配していたアイアケスの子ポリクラテスを攻めた(20)。

(20)おそらくB.C.532

サモス統治の初期には国は三つに分けられ、兄弟のパンタグノトスとシュロソンとでそれぞれ統治していたのだが、その後かれはその一人を殺し、年下のシュロソンを国外に追放し、サモス全島の君主となったのである。そしてエジプト王アマシスと盟約を結び、互いに贈物を交換していた。

このあと、時をおかずしてポリクラテスの勢威は大きくなり、イオニアその他ギリシア世界にその名が知れ渡るようになった。それというのも、かれの軍事作戦はすべて成功したからである。かれは五十櫂船を百隻、弓兵一干を擁し、所かまわず略奪していった。

ポリクラテスが言うには、何も奪わずにいるよりも、奪ったものを返してやる方が、より以上に感謝されるものだと。かれは数多くの島を征服し、陸地でも多くの街を占領したが、そのうち特に注目すべきは、ミレトスのために全軍をあげて支援にきたレスボス軍を海戦で打ち負かしたことである。サモスの城壁全体をめぐる壕を掘ったのは、この戦いで捕虜となった者たちだった。

[3.40] こうなると、アマシスもポリクラテスの大いなる幸運に気づくようになり、そしてその隆盛がますます大きくなってゆくのをみて、次のような書簡を書いてサモスへ送った。

「アマシスよりポリクラテス殿へ一筆参らせ候。盟友の事業の成功を耳にすることは嬉しきことにござる。とは申せ貴殿のあまりなご成功は小生の懸念するところにござる。かく申すのも、神々の嫉妬深きことを小生は知っておりまするゆえに。そこで、わが身も含め、小生が気に留めおかれおる人々については、万事に成功をおさめることよりも、成功としくじりをないまぜて人生を送るのが望ましいと存ずる次第にござる。

と申すのも、幸運を持ちつづけた者で、悲惨な最期をとげなかった例を、これまで小生は誰からも聞いたことがないゆえにござる。さればどうか小生の忠告を容れられ、貴殿のご成功に関して次のことをなさるがよろしかろうと存ずる。

すなわち、貴殿が何よりも大切に思い、失えばこの上なく悔やまれるものは何かをよくよくお考えの上、その品を決して再び人々の目にふれることのなきよう捨て去るのがよろしかろうと存ずる。そしてこれ以後も、成功としくじりがないまぜになることがないようであれば、小生の助言を実行なされて事態の修復を試みなさるがよろしかろうと存ずる次第にござる」

[3.41] これを読んだポリクラテスは、アマシスの助言を良しとし、失えば一等心乱れる財宝は何かと考えをめぐらし、次の結論に至った。すなわち サモスのテレクレスの子テオドロスの作で、自分が指にはめている黄金の台にはめられたエメラルド製の印璽だった。

この指輪を捨て去る決心をすると、ポリクラテスは五十櫂船を用意させて船員とともに乗り組み、出帆を命じた。そして島から遠く離れたところで指輪を抜き取り、船上にいる全員の見ている前でこれを勢いよく海に投げ捨てた。そのあとは船を戻して屋敷へ帰り、失ったものを惜しんで悲嘆に暮れていた。

[3.42] ところがそれから五、六日目にたまたま次のようなことが起こった。ひとりの猟師が見栄えのよい大きな魚を捕まえ、これをポリクラテスに献上しようと考えた。そこでこの漁師は魚を持って王宮の門前へ行き、王に拝謁したい旨を告げ、それが許されると、その魚を献じていうには、

「王様に申し上げます。私はその日暮らしの一漁師でございますが、この魚をとりましたとき、これは市場へ持ってゆくよりも、王様と王様のご権勢にふさわしいと考え、ここに持参し献上いたす次第にございます」

ポリクラテスは漁師の言葉に喜び、「お前はまことに良いことをしてくれた」と言葉を返し、「お前の言葉にも献上品にも、重ねて礼を言うぞ。しからば予の晩餐にお前を招いてやろう」
漁師はこの栄誉を誇りに思って家へ帰っていったが、そのいっぽうで、召使いたちが魚を開いてみると、その腹中にポリクラテスの指輪があるのを見つけたのである。

指輪を見つけて取りだすと、彼らは喜び勇んでただちにポリクラテスのもとへ持参して王に渡し、それを見つけたいきさつを語った。このようなことは神の意志によるものとポリクラテスは考え、自分のしたこと、そして自分に起きたことの一部始終を書き留めてエジプトヘ送り届けた。

[3.43] ポリクラテスの書簡を読んだアマシスは、誰も人の運命を変えることはできないことを悟り、ポリクラテスが投げ捨てたものさえも見つけ出すというほどの幸運が続くのを知って、かれは最後には地獄を見るに違いないと見極めたものである。

そしてかれはサモスに使者を送り、盟約を破棄することを宣告した。それは、ポリクラテスが恐ろしくもひどい災難に見舞われたとき、その盟友のために、自分がひどい悲しみに襲われずにすむことを慮ったからである。

[3.44] さて、スパルタ人が戦を仕掛けたのは、全てに勝利をおさめている、このボリクラテスだった。この遠征は、のちにクレタ島のキドニアに植民したサモス人の要請によるものだった。ちょうどその頃、キュロスの子カンビュセスはエジプト遠征に向けて軍を調えており、ポリクラテスはサモス人には知られぬようにして使者をカンビュセスへ送り、サモスにも使者を送り、援軍の要請をしてほしいと提案したのだった。

これの伝言を聞いたカンビュセスは、喜び勇んでエジプト遠征のための海軍を求める要請を使者にもたせてポリクラテスに送った。そこでポリクラテスは、自分に謀反を企てている疑いの最も強い者たちを選び、四十隻の三段櫂船に載せて送り出し、カンビュセスには彼らを再び帰国させぬように依頼しておいたのだった。

[3.45] ところが派遣されたサモス軍はエジプトには到着せず、航海の途中カルパトスまできたときに、仲間内で話し合った結果、それ以上船を進めないことに決めた、という説が伝えられている。そして別の説では、彼らはエジプトには達したが、監禁から逃れ、脱走したともいわれている。

彼らがサモスに帰航してきたところ、ポリクラテスは船を出して迎え撃ったが帰国組が勝利をおさめ、島に上陸した。しかし陸での戦には敗れたので、彼らはスパルタに向けて出航したのである。

ほかに、エジプトからの帰国者たちがポリクラテスを破ったという説も伝えられているが、これは私には本当とは思えない。彼ら自身にポリクラテスを上回る力があったなら、スパルタに援軍を求める必要はなかったはずである。そのうえ多勢の傭兵や自前の弓兵を擁しているポリクラテスが、帰国してきた少数のサモス人に敗れるというのは、どう考えても理屈に合わないことであるゆえ。

ポリクラテスは配下のサモス市民の妻子を集め、船をおさめる倉庫に監禁し、万一市民たちが帰国したサモス人に寝返ったときには、船の倉庫もろとも女子供を焼き殺すつもりでいたのだ。

[3.46] ポリクラテスによって追放されたサモス人たちがスパルタに着くと、執政官たちの前に連れて行かれたが、そこで彼らは切迫している窮状を長々と述べたてた。すると最初の接見のときに、執政官が答えるに、話の始めのところは忘れてしまった、終わりの部分は理解できなかったと云った。

このあと二度目の接見に際して、サモス人たちは袋を持参し、何も云わず、ただ「袋にいれる粉がない」とだけ云った。これに対してスパルタ人は、「袋」( 21)は余計だと答えた。それでも彼らはサモス人の支援を決定したのだった。

(21)スパルタ人の云いたいことは「θύλακος = pocket」という言葉は不要で、「ἀλφίτων δέεται =alfiton deetai」と言うだけで充分ということだ。

[3.47] そういうことでスパルタは準備を整え、サモスに向けて出兵した。このことは、サモス人の言うには、かつてスパルタがメッセニアと戦ったとき、サモス人が船隊を派遣してスパルタを支援した恩に報いるためだった。ただしスパルタ人の言うには、スパルタの出征はサモス人の要請によるものではなく、かつてスパルタ人がクロイソスのもとへ運ぼうとしていた混酒器と、エジプト王アマシスがスパルタに贈った胸甲が、サモス人によって略奪されたことに報復するためだった。

この胸甲は、混酒器が略奪される一年前にサモス人によって略奪されたもので、麻の生地に、木綿糸による数多くの刺繍と黄金で装飾がほどこされているものだった。

驚くべきことに、これには三百六十本の極めて細い糸を撚り合わせた織り糸が使われていることである。にもかかわらず、その一本一本がはっきり見えるのだ。アマシスは、これと同種のものをリンドスのアテナにも奉納している。

[3.48] サモス遠征に向けては、コリント人も一層熱心に協力した。というのはこの遠征の時代より一世代前、混酒器が略奪されたのとほぼ同じ頃に、サモス人はコリント人に対しても悪辣な行為を働いていたからだった。

そもそもはキプセロスの子ペリアンドロスが、コルキュラの上流階級の子弟三百人を宦官にするために、サルディスのアリアテスのもとへ送ったことにある。その少年たちを引率していたコリント人がサモスに着いたとき、少年たちがサルディスヘ送られる理由を聞き知ったサモス人たちが、アルテミスの聖域に逃げ込むように少年たちに教えたのだ。

そして彼らはその哀願者たちを聖域から連れ出すことを許さなかった。 そこでコリント人は少年たちを食糧攻めにしようとしたが、これには祭りを催してサモス人が対抗した。この祭りはいまでもその当時と同じようにサモスで開かれているものである。すなわち少年たちが庇護を求めている間は、夜になると少年少女の舞踊を催し、彼らに胡麻と蜂蜜入りの菓子を持参させるという慣例をもうけた。これはコルキュラの少年たちに奪い取らせ、もって彼らの食糧にさせるためであった。

この行事は、少年たちを監視していたコリント人たちが彼らを残して立ち去るまで続けられた。その後、彼らはサモス人によってコルキュラヘ戻された。

[3.49] ペリアンドロスの死後、コリント人とコルキュラ人とが友好関係にあったなら、この事件を理由にしてコリント人がサモス遠征に加担することもなかっただろう。しかしその島(コルキュラ)に植民地がつくられてからこの方、両国は同族でありながら互いに叛目しあっていたのである。このような事情から、コリント人はサモス人に対して遺恨を抱いていたのであった。

ペリアンドロスがコルキュラの上流階級の少年たちを選びだし、宦官にするためにサルディスヘ送ろうとしたのは、コルキュラに復讐するためだった。それというのも、コルキュラ人の方が先に彼に対してひどい悪事を働いていたからである。

[3.50] ペリアンドロスが妻のメリッサを殺めたあと、この変事に加えてさらに別の惨事がかれにふりかかってきた。すなわちペリアンドロスにはメリッサとのあいだに二人の息子があり、一人は十七才、もう一人は十八才だった。

ある時彼らの母方の祖父で、エピダウロスの支配者プロクレスがこの二人を呼びよせ、自分の娘の息子たちであるゆえ当然のこと、ねんごろにもてなした。そして彼らが帰国するときに、プロクレスは彼ら送り出しながら次のように話しかけた。

「お前たちの母親を殺したのは誰だか知っているか?」

兄はこの言葉を全く気にかけなかったが、リコプロンという名の弟は、このおぞましい話に衝撃を受け、コリントに帰ってからは、母親を殺した張本人の父に自分から話かけることなく、父の話しかけには返事もせず、また問いかけにも答えようともしなかった。そこでペリアンドロスは怒りを募らせ、とうとう息子を邸から追い出してしまった。

[3.51] この息子を追放したあと、ペリアンドロスは年長の息子に、祖父が彼らに話したことを聞いてみた。しかし息子は、プロクレスが親身になって接してくれたことは話したが、別れに際して祖父が話したことは全く気にしていなかったので、口には出さなかった。しかしペリアンドロスは、祖父が何か云ったに違いないといい、しつこく問い詰めた。

そこで息子もようやく思い出し、それを父に告げた。そして事情がわかったペリアンドロスは、弱気なところをみせまいとして年少の息子を住まわせていた者のところに伝言を送り、その息子を家におくことを禁じた。

そこから出された息子が別の家に行こうとすると、ペリアンドロスが息子を受け入れた者をことごとく脅かし、締め出すように命令したことで、そこからも追い出されるという始末だった。こうして息子は追い出されると次々に別の知人宅へ行った。それでも、ペリアンドロスの息子ということで、友人たちは怖れつつも彼を家に入れたのだった。

[3.52] ついにペリアンドロスは布告を発し、息子を家にかくまったり、話しかけたりした者は、決められた額の罰金をアポロンに奉納すべしとした。

この布告が知れ渡ったあとは、誰ひとり息子に話しかけたり、家に入れようとしなくなった。息子は息子で、禁止されていることを犯すことが正しいことだとも考えなかったので、野宿することも厭わなかった。

四日目になり、腹をすかせ、身体も汚れたままの息子を見たペリアンドロスは憐れみを覚え、怒りが静まったのか息子に近づいて云った。

「息子よ、一体お前はどちらがいいのだ?今のような生き方か、それとも父に従い、ワシがいま握っている王位と富とを継ぐ方か。

ワシの息子すなわち、この栄えあるコリントの王子でありながら、このワシに寸分たりともしてはならぬこと、すなわちワシに叛抗して腹を立て、放浪者の生活を選びおってからに。と言うのもな、お前がワシに疑いの目を向けたことで何か不幸なことが起きたとしたなら、それはワシに関わる不幸で、ワシが受け止めるべきものなのだ。それはワシがしでかしたことゆえにな。

そこでじゃ、憐れみをかけられるよりは、羨まれる方がはるかにましなことだと肝に命じ、また親や自分より強い者に対して腹を立てることが、どんなに酷いことであるかをわきまえ、家へ帰ってこい」

このように言って、ペリアンドロスは息子の怒りを鎮めようとしたが、リコプロンは父にはひと言も答えず、ただ自分と話をしたからには父はアポロに罰金を払うべきだと云った。ペリアンドロスは息子の片意地をほぐすことも、抑えることできないことを見切り、かれを自分の眼の届かぬところに追いやろうとして、自分の支配下にあったコルキュラ島へ向けて、船で息子を送り出した。

息子を送り出したあと、このようなもめ事を大いに呪ったペリアンドロスは、その元になった岳父プロクレスに向けて軍を進めてエピダウロスを落とし、プロクレスを拘束した。

[3.53] 時は流れ、ペリアンドロスも盛りを過ぎ、もはや政務を取り仕切る力のないことがわかってきたので、コルキュラに使いを送り、リコプロンを呼び戻して君主につかせようとした。それというのも、年長の息子は知恵おくれのため、その任に堪えないことが明らかだったからである。

しかしリコプロンはこの話に対してもあえて返答しなかった。それでもペリアンドロスはこの若者にこだわり、次善策として自分の娘である息子の姉を使いに送った。姉の言うことなら耳をかすだろうと考えたからだった。そして姉が到着して説得した。

「リコプロンや、お前は国に帰って父の王位や資産を受け継ぐよりも、それが他人のものになり、また資産が奪われることになった方がよいというのかい?さあ、家へ帰るのです。そしてわが身をとがめ立てするようなこともやめなさい。

自尊心などというものは災いの元ですよ。災いを別の災いで癒してはなりません。多くの人は正義よりも道理を優先しています。また母の権利を追い求めた挙げ句、父の権利を失う人も多くいるのです。権力というものはうつろいやすいもので、多くの人がこれを欲しがっています。父も今は年老いて盛りを過ぎています。ですからお前が受け取るべきお宝を他人に渡してはなりません」

このようにして姉は父の指示通りに語りかけた。それでもリコプロンは父が生きていることがわかっているあいだは、決してコリントヘは帰らないと言い張った。

この返答を姉が持ち帰ると、ペリアンドロスは三度目の使者を送り、自分がコルキュラに移る代りにリコプロンがコリントに帰って王位を継ぐようにと、伝えさせた。

そして息子がこの提案を受け入れたので、ペリアンドロスはコルキュラヘ、リコプロンはコリントヘ旅立つ支度をしていた。ところがこのことを知ったコルキュラ人は、ペリアンドロスが自国にやって来るのを阻止するために、この若者を殺害したのである。このような事情により、ペリアンドロスはコルキュラ人に報復することをもくろんだのである。

[3.54] スパルタは大軍でおしよせ、サモスを包囲した。彼らは城壁にとりつき、街の外側の海辺に立つ城楼に侵入したが、ポリクラテス自身が大軍をもって迎え撃ち、彼らを撃退した。

傭兵とサモス兵たちは丘の尾根に聳える城楼から出撃したが、スパルタ軍の攻撃に耐えたのはわずかの時間で、退却して逃げ出したが、スパルタ軍に追いつかれて殲滅してしまった。

[3.55] この日、その場所にいたスパルタ軍の全兵士が、アルキアスやリコパスのごとき働きをしていたなら、サモスは陥落していただろう。このアルキアスとリコパスというのは、ただ二人して敗走するサモス人の群れとともに城壁内に突入したのだが、退路を絶たれてサモス市内で討ち死にしたのだった。

私はかれの出身地区ピタナ(22)において、アルキアスの孫でサミオスの子になる同名のアルキアスに会ったことがある。かれは、その盟友の中でもサモス人を第一に尊敬していて、父の名がサミオスと名づけられたのは、父のアルキアスがサモスにおいて武勇を立てて討死したことによるのだと話してくれた。またかれがサモス人を尊敬するのは、サモス人が祖父を国葬してくれたからだと語ってくれた。

(22)スパルタの一地区。ヘロドトスはアッティカ方言で「δῆμος = dimos」と呼んでいるが、ペロポネソス方言では「κώμα = coma」となる。

[3.56] スパルタ軍のサモス攻城は四十日におよんだが、うまく攻略できなかったのでぺロポネソスヘ引き上げていった。

ここにバカげた説が流布していて、それによれば、ポリクラテスは鉛の硬貨に金箔を貼って土地の通貨に似せたものを多量に造らせ、これをスパルタ軍に与えて軍を退かせたというのである。ともかくも、これはスパルタのドーリス族がアジアに遠征した最初の例であった(23)。

(23)これは最初にあらず。ラコニアの定住者たちによる遠征が最初で、この国のアカイア族がトロイ戦争に加担したことが最初である。

[3.57] スパルタ軍がサモスの攻撃をあきらめると、ポリクラテスの討伐にやって来たサモス人たちもシプノスに向けて海路去って行った。

それは彼らが資金に困っていたからで、その当時シプノス人は殷賑をきわめており、その島に金と銀の鉱山があったため、島嶼の中でも一等富裕だったのである。そして鉱山の収益の十分の一を費してデルフォイに献納した宝物殿は、この上なく見事なものだった。そして彼らは毎年の収入を自分たちで分け合っていた。

彼らが宝物殿を築造したとき、自分たちのいま現在の繁栄が永く続くかどうか、神託に問うた。下された巫女の託宜は次の通りだった。

  シプノスの公会堂が白くなり、
  市場の眉も白くなるとき、
  その時こそ明敏なる者、要り用となれり。
  木の軍勢と紅の使者とを警戒すべく。

しかしその当時、シプノスの市場と公会堂はパロス産の大理石で装飾が施されていたのでる。

[3.58] 託宣が下されたときも、サモス人がやって来たときでも、彼らはこの託宜の意味がわからなかった。そしてサモス人たちはシプノスに近づくや、ただちに船団のなかの一隻に使節をのせ、街へ行かせた。

その昔、船はすべて朱に(24)塗られていた。巫女が木の軍勢と紅の使者を警戒せよとシプノス人に注意を促したのは、まさにこの時のことを言っていたのだ。

(24)「ιλτοπάρῃοι = miltoparioi=船首が赤く塗られている船」はホメロスにおける船の別称。

使節一同は十タラントンの借金をシプノス人に願い出たが、シプノス人がそれを拒むと、サモス人はシプノスの領地を荒らしまわった。

これを知ったシプノス人は、ただちに排撃に向ったものの合戦に敗れ、多数の兵士がサモス人によって街の外におき去りにされてしまった。その後、サモス人は彼らから百タラントンを徴発する次第となった。

[3.59] そしてサモス人はヘルミオネ人からペレポネソスに近いヒドレアという島を一つ買い取った。彼らはこの島の管理をトロイゼン人に任せ、みずからはクレタ島のキドニアに住みついた。とはいえこれが目的で船出したわけではなく、ザキントス人を島から追い出すのが目的だったのである。

サモス人はここに五年留まって繁栄をきわめ、現在キドニアにあるいくつかの聖廟や女神ディクティナの聖廟を建立した。

しかし六年目になって、アイギナ人とクレタ島人とが海戦によってサモス人を撃破して支配した。そして彼らはサモスの艦船から、猪をかたどった船首を切りとり、アイギナのアテナ神殿にこれを奉納した。

アイギナ人がこのような行動を取ったのは、サモス人に対して恨みを抱いていたからである。それはアンピクラテスがサモス王だった頃、彼らが船を出してアイギナを攻撃し、住民に多大な損害を与え、彼らもまた傷ついたことがあったのである。これがそもそもの発端だった。

[3.60] さて私がかくも長きにわたってサモス人のことを語ってきたのは、彼らがギリシア世界の中で右に並ぶもののないほどの偉大な事業を三つも成し遂げているからである。その最初のものは、百五十ファゾム(二千七百米)の高さがある山の両端から穿ったトンネルである。

トンネルの長さは七スタデイア(一千三百米)で(25)、高さと幅はそれぞれ八フイート(二百四十糎)である。このトンネル全体には深さ二十 キュービット(九米)、幅三フィート(九十糎)の水路が掘られていて、この水路によって豊富な水源からの水を導き、サモスの街まで水管によって流している。

(25)この工事の遺跡からは、トンネルの長さは三百三十米しかないことがわかっている。

この工事を監督した技師はナウストロホスの子エウパリノスというメガラ人だった。これが三大事業の一つである。二番目は、港を取り巻いて海に築かれた防波堤で、深さは二十ファゾム(三十六米)、全長はニスタディア(三百六十米)以上に達する。

サモス人の成し遂げた三番目の事業というのは、我らの知っている神殿の中でも最大のものである。最初の建造技師はピレスの子ロイコスというサモス人だった。私がサモス人について長すぎるほどに詳しく話をしたのは、彼らがこのような大事業をやり遂げたからである。

[3.61] さてキュロスの子カンビュセスが依然としてエジプトにとどまり、正気を失ってしまったあと、二人のマゴス僧(*)兄弟がかれに叛旗を翻した(26)。そのうちの一人は、カンビュセスが王家の管理をまかせて国に残していた人物だった。この男は、スメルディスの死が公表されていないためにそれを知る者がほとんどおらず、多くの者がかれはまだ生きていると信じていることがわかり、謀反を起こしたのである。

(*)夢占いをするペルシア僧
(26)この話は本巻三十八節の繰り返しである。

そこでこのマゴス僧は王位を奪うための計画をたてた。かれには兄弟がひとりいて、これが今いった反乱の共謀者だった。この男はその容貌が、カンビュセスが殺害したキュロスの子スメルディスにそっくりで、のみならずその名も同じスメルディスといった。

このマゴス僧パティゼイテスは、自分が万事うまくとりはからってやるといって弟を説き伏せ、かれを連れていって玉座に坐らせた。そうしておいて全国に使者を送り、特にエジプトヘ送った使者には、軍隊に対して今後はカンビュセスではなくキュロスの子スメルディスの命に従うべきことを通達させた。

[3.62] かくてこの布告は津々浦々に伝えられた。エジプトに派遣された使者たちは、カンビュセスとその軍がシリアのアクバタナにいることを知るや、そこにゆくと全軍の前に立ってマゴス僧から命ぜられた伝言を通告した。

使者の語るところを聞いたカンビュセスは、その言葉を真実だと察するとともに、スメルディス暗殺のために送り出したプレクサスペスがその任を果たさず、自分を裏切ったものと考えた。かれはプレクサスペスを睨みつけて云った。

「プレクサスペス、ワシがお前に命じたことの結果がこういうことなのか?」

「いいえ」、とプレクサスペスが答えていう。
「弟君スメルディス様が殿に謀反を起されたというのは、偽りにござりまする。あのお方が事の大小を問わず殿に諍いを起こすことなどできるはずがございません。この私めが自ら殿のご命令を果し、この手であの方を葬ったのでありますゆえ。

かりに死人でも謀反を起せるのであれば、かのメディア人アステュアゲスも謀反を起こすことに思いを致さねばなりませぬ。しかしながら物事が以前通りに運ぶものであるなら、スメルディス様が殿に危害を加えることなど断じてござりませぬ。そこで私が考えますには、あの使者を追いかけて連れ戻し、スメルディスへ臣従せよとの通告を持ってきたのは誰の指示によるのかを問いただすべきかと存じまする」

[3.63] プレクサスペスの言葉にカンビュセスも同意し、すぐさま使者が呼び戻された。戻ってきた使者にプレクサスペスは訊いた。

「やい、お前の伝言はキュロスの子スメルディス様からのものだと云いおったな。では訊くが、無事に帰りたいと思うなら、正直に返答するがよい。スメルディス様がお前の目の前でじきじきに指図なさったのか、それとも従者がお前に命じたのか、どちらだ?」

「カンビュセス王がエジプト遠征に出陣なされて以来、」
と使者が答える。
「みどもはキュロスの御子スメルディス様のお姿を一度も見かけたことはありませぬ。この布告を申しつけられたのは、カンビユセス様がお邸の差配に任せられたマゴス僧で、このことをあなた方に伝えるよう命ぜられたのは、キュロスの御子スメルディス様だと云われました」

使者が真実をありのままに答えると、カンビュセスが云った。
「プレクサスペス、お主は命じられたことを忠実に果したようだな。ゆえにお主に対する疑いは晴れたぞ。しかしながら、スメルディスの名を騙ってワシに刃向かうことのできるペルシア人とは、一体何者であろうな?」

プレクサスペスがいう。
「殿、みどもにはこの件の真相がわかったかと存じまする。謀反を起したのは、殿がお屋敷の執事に命じられたマゴス僧のパティゼイテスで、もう一人は奴の弟スメルディスかと存じまする」

[3.64] スメルディスの名を聞いたそのとき、その言葉と夢の意味する真相を悟ったカンビュセスは衝撃を受けた。それは、スメルディスが玉座に坐り、その頭が天に触れたと告げた夢のことだった。

そして無闇に弟を殺したことに気づいたカンビュセスは、スメルディスのことを思って激しく嘆き悲しんだ。そして涙を流したあと、また自分のあれこれの不幸を思って悲嘆にくれたあとは、ただちにスサにいるマゴス僧を討伐しようとして馬にとび乗った。

ところが馬にとび乗ったそのとき、剣の鞘袋がはずれ落ち、剥き出しになった刃がかれの太股を突き通してしまった。それはかつてエジプトの神アピスを傷つけたのと同じ箇所だった。そしてその傷が命取りになるものと見切ったカンビュセスは、今いる街の名を訊ねた。

彼らはアクバタナだと答えた。実はそれ以前に、かれはアクバタナで人生の最期を迎えるというブドの街からの予言を聞いていたのだった。カンビュセスは自分の本拠であるメディアのアクバタナで年老いてから生を終えるものと思っていたが、予言が示していたのは、実はシリアのアクバタナだったことになる。

カンビュセスは街の名を訊ねてそれを知り、傷の痛みとマゴスによる不運との衝撃によって正気を取り戻し、予言の示すところを悟ってつぶやいた。
「キュロスの子カンビュセスは、この地で最期を迎えるのだな」

[3.65] この時、かれはそれ以上のことは云わなかったが、その後およそ二十日のち、従軍していたペルシア人の重臣を集めて次のことを語った。

「ペルシアの者どもよ、予はいま、これまでひた隠しにしていたことをお主らに明かさねばならぬ。実は予がエジプトにいたとき、見ねばよかったと思う夢を見たのだ。その夢というのは、国からの使いがきて、スメルディスが玉座に坐り、その頭が天に触れたとわしに告げた夢であった。

予は弟に王位を奪われはせぬかと怖れ、分別もなく性急にすぎる行動をとったのだ。起こるべきことから逃れる力は、人間の本性には備わっておらぬものだ。このことを忘れ、わしはプレクサスペスをやってスメルディスを殺害させたのじゃ。スメルディスを抹殺するという悪業を果たしたあとは、別の人間が謀反を起こすやもしれぬとは露ほど思わず、枕を高くして過してきたのだ。

ところが予は事態をすっかり誤解しておった。その要もないのに弟を殺し、にもかかわらず王位を奪われてしまった。夢の中で神があらかじめ予に警告を下された謀反というのは、マゴスのスメルディスのことだったのじゃ。

そのようなわけで予はこんなことを仕出かしてしまったのだ。であるから、キュロスの子スメルディスはもはやこの世の者ではないと承知しておくがよい。そしていまお主らの王国を支配しているのは、かのマゴス僧たち、一人は予が邸の管理を任せて国に残してきた者、いま一人はその弟のスメルディスじや。

マゴス僧たちからこうむった恥辱を、予に代わって誰よりもまず報復すべき人間が、最も近い肉親の手によって不名誉な死を遂げてしまったのだ。その者がもはやこの世にいないからには、次になすべき最善の策を、ペルシア人諸君、死に臨んで予は諸君に望みを託さねばならないのだ。

王家の神々の名においてお主らすべてに、いや、特にここに居並ぶアカイメネス家一門の者たちに託しておく。王権を再びメディア人どもの手に渡してはならぬぞ。万一にも、あ奴らが謀略をもって王権を手中にしたなら、お主らもまた謀略によって王権を奪い返すのじゃ。力をもって覇権を奪取したなら、全力をふり絞って取り返せ。

お主ら、かくするなれば、予はお主らがとわに自由のまま、大地は実り、女も家畜も子孫に恵まれ栄えるよう、念じるばかりじゃ。もし王権を取り返さず、その試みすらしないというなら、いま予がお主らに祈ったことを真逆のことを祈り、さらにまたすべてのペルシア人がその最期において予と同じ末路をたどるよう、念じることにする」
このように語ったカンビュセスは、わが身にふりかかった不運を嘆き悲しみ、滂沱(ぼうだ)の涙を流した。

[3.66] 王が涙を流すのを見ていたペルシア人たちも、着ていた衣服を引き裂きながら、いつ果てるともなく泣き叫んだ。

その後、骨が腐りはじめ、ふと股も急速に化膿し、これがもとでキュロスの子カンビュセスは在位七年五ヵ月でこの世を去った。そして子孫はというと男女いずれも残さなかった。

しかしその場に居合せたペルシア人たちは、マゴス僧らが政権を掌握しているとは全く信じられず、スメルディスが死んだと偽ることで、カンビュセスはペルシア全国民をスメルディスに対して叛目させようとしたのだと考えていた。

[3.67] それゆえ彼らは、王位についたのはキュロスの子スメルディスだと信じていた。それというのもプレクサスペスがスメルディスの殺害を強く否定していたからで、カンビュセスが死んだ今となっては、キュロスの息子をわが手で殺したと公言することは、プレクサスペス自身の身が危ういことだったからである。

かくてカンビュセスの死後、かのマゴス僧は自分と同名のキュロスの子スメルディスのふりをし、誰に気遣うこともなく七ヶ月間は君臨した。この七ヶ月というのは、カンビユセスの在位期間が八年を満たすに不足した期間だった。

この間、かれは臣民にあまねく慈悲を施したこともあり、その死にあたっては、ペルシア人を除くアジア人は皆がその死を惜しんだ。というのも、かれは支配下の各民族に使者を送り、三年間の兵役と納税を免除する布告を発していたからであった。

[3.68] この布告は、かれが統治を始めたときに発せられていたのだが、その八ヶ月後には次のようないきさつから正体がばれてしまうこととなった。

ここにパルナスペスの子でオタネスという者がいた。この男はペルシア人の中では右に並ぶ者のないほどに高貴な血筋に生まれ、また抜きんでて裕福だった。

このオタネスは、あのマゴスがキュロスの子スメルディスではないのではないかと疑い、その実体に気づいた最初の人物だった。このことに感づいた理由は、マゴスが決してアクロポリスの城から外に出ようとしないことと、ペルシアの要人には誰にも会おうとしないことだった。このような疑念を抱いたオタネスは次のような行動にでた。

実はカンビュセスはオタネスの娘パイデュメを妃に娶っていたが、かのマゴスはこのパイデユメも含め、カンビュセスのほかのすべての妻とともに暮らしていた。そこでオタネスはこの娘のところへ使いを送り、娘の横に寝ている男が果してキュロスの子スメルディスなのか、それとも別の人間なのかを問い質した。

娘は、わからない、と返事をよこした。というのも自分はキュロスの子スメルディスを一度も見たことがないので、横に寝ている人物が誰であるかもわからない、というのだった。そこでオタネスは再び使いをやり、次のことを伝えた。

「おまえがキュロスの子スメルディスを見たことがないというなら、アトッサ(*)を見つけて、お前も彼女もともに暮らしている男が誰であるかを訊ねるがよい。あの女なら自分の兄弟であるゆえわかるはずだ」

(*)キュロスの娘で、兄カンビュセスの妃になっていた。

これに対する娘の返事はこうだった。
「私はアトッサと話をすることができません。それに王室の他の女たちの誰とも会うことができません。あの人が誰かは知りませんが、王位につくとすぐに私たちを引き離し、別々の場所に住まわせたのですから」

[3.69] これを聞いたオタネスは、いよいよ事の真相がわかってきた。そして三たび使いをやって次のことを伝えた。
「娘よ、高貴な血筋に生まれたからには、父の命ずるどんな危難にも立ち向かわねばならぬぞ。あの男がキュロスの子スメルディスにあらずして、ワシの想定している人物であるなら、お前と褥(しとね)をともにし、ペルシアの王位についている男をそのままにしておくわけにはいかぬのじゃ。

そこでじゃ、お前と一緒にあの男が床につき、眠ったのを見届けたならば、男の耳に触れてみよ。耳があるなら、その男はキュロスの子スメルディスであるとみなしてよい。耳がなければマゴス僧のスメルディスじゃ」

パイデュメは使いの者を通して次のごとく返事をよこした。そのようなことをすると大きな危険を冒すことになります。かの男に耳がないとして、それを探っていることが露見したときには必ずや私は殺されるでしょうが、それでも私はやってみます、と。

パイデユメはこのように父に約束したのだが、実はマゴス僧スメルディスの耳は、カンビュセスの子キュロスが王位に就いていたとき、ある重大な過失のために切り落とされていたのだ。

こうしてオタネスの娘パイデユメは父との約束を実行することになった。ペルシアでは夫人たちは順繰りに夫のもとへ行くことになっていたので、その順番がまわってきて床についたとき、マゴス僧が熟睡したと見るや、パイデユメは男の耳をさぐった。そして苦もなく耳がないことがわかったので、夜が明けるやいなや使いを出して父にそのことを知らせた。

[3.70] オタネスは、ペルシアで最も信用できると考えている最高位のふたりの人物、すなわちアスパティネスとゴブリアスを呼びよせ、事の次第を一部始終語った。実はこの二人もそのようなことではないかと疑っていたので、オタネスの話を信用したのであった。

そこで彼らはそれぞれが最も信頼しているペルシア人をひとりずつ仲間に引き入れることにした。オタネスはインタプレネスを、ゴブリアスはメガビゾスを、アスパティネスはヒルダネスを一党に加えることにした(27)。

(27)ベヒストン碑文(ダリウスが自分の帝国に起きた反乱を鎮圧したのち、ベヒストンに設けた三種の言語による碑文)には、ビンダパナ、ウタナ、ガウバルウワ、ビダルナ、バガブクサ、アルドゥマニスの名が書かれている。ただし、最後の名前だけはヘロドトスの挙げた名前と一致しない。

仲間が六人になったとき、ペルシアの総督ヒスタスペスを父にもつダリウスがスサにやって来た。そこでこの六名はダリウスも一党に加えた。

[3.71] この七名は一堂に会して同志の誓いを立て、評議をおこなった。そして意見を述べる順番がダリウスにまわってきたとき、かれはいった。

「吾輩は、キュロスの息子スメルディスが死亡し、マゴスが王になりすましていることがわかっているのは自分だけだと思っていた。それゆえにこそ、かのマゴスを誅殺するために急ぎやって来たのだ。しかし知っていたのは我ひとりではなく諸君も同様であるとわかったからには、我らはためらうことなく早急に事を起こすべきだ」

これに答えてオタネスはいう。
「ヒスタスペスの息子殿よ、そこもとは立派な父をお持ちだが、そこもとも父御に劣らぬ御仁とお見受けする。しかしこたびの計画は考えなしに急いで起こすのではなく、より慎重になすべきでござる。事を起こすにはもっと同志を増やさねばならぬゆえにな」

ダリウスが答える。
「ご同席の方々よ、あなた方がオタネスのいうやり方に従われるなら、諸君には悲惨な死が待っているものと心得られよ。そのようなことをすれば、自分ひとりだけの利益をもくろんでマゴスに注進する者が出てくるであろうゆえにな。

このことは諸君だけで決行するべきだった。しかし諸君は多人数を募ることに賛成し、私にもそれを打明けたのであるから、今日にも決行しようではないか。もし今日という日を逃すというのであれば、ほかの誰よりも先に吾輩が諸君のことをマゴスに漏らすつもりだ」

[3.72] ダリウスの気迫を見てオタネスが返答する。
「そこもとは決行を先送りすることに反対で、速くせよと申されるが、どのようにして宮殿に入り込み、彼らを攻撃するのか、とくお話あれ。おそらく貴殿も承知しておられるだろうが、警護の者たちが至るところに配置されていることは、見たことがなくとも耳にはしておられることと存ずる。この警備をどのようにしてすり抜けるのでござるか」

「オタネスよ」、とダリウスが返す。
「この世には言葉ではあらわせぬが、行ないによってあらわせることが多くありますぞ。また言葉で示せるものの、そこからは何も生まれてこないものも多くあり申す。配されている警護の者たちをかわすのは容易いことだ。

われらが入り込むのを阻止する者は誰もいないはず。それは我らを崇め、怖れるているからだ。その上、吾輩のことをいえば、わが父から王への伝言を携えてペルシアから到着したばかりであるという絶好の名目があるのだ。

嘘をつかねばならぬ時には嘘をつけばよいのだ。嘘をつこうが真実を言おうが、目指すところは同じだ。嘘で信用を勝ち取り、利益を得ようとする者もいるし、真実を語ることで利益を得、さらに信を得ようとする者もいる。こうしてわれらは異なるやり方で同じ目的を目指しているのだ。

利を得る見込みがなければ、常には真実を語る者も嘘をつくだろうし、嘘つきは本当のことを語るだろう。そこで我らをすんなり通してくれる番人は、あとあと厚遇してやろうではないか。刃向かう者には、お前は敵だといえばよい。こうやって突入し、ことを成し遂げるのだ」

[3.73] そこでゴブリアスがいう。
「諸君、王権を奪還するとしても、それに失敗して死を迎えるとしても、今が絶好の機会でござる。なにしろ、我らペルシア人は、メディアの耳なしマゴス僧ごときに支配されているのだからな。

貴殿らのうち、カンビュセス王の死に際に居合せた方々は、王が死に臨んでペルシア人に発せられた言葉、すなわち王権の奪還を目指そうとせぬペルシア人に向けた呪いの数々を記憶しておられるだろう。そのときには我ら、その言葉を信じることなく、王は空言を発せられたものと解しておったものだが。

それゆえ、みどもはダリウスの言説に賛同し、なにはともあれ、この会合が終わればただちにマゴスの殲滅に向かうことにする」
このようにゴブリアスがいうと、全員がこれに贅同した。

[3.74] このような談合を彼らがしている時を同じくして、偶然にも次のような事態が起きていた。それは、マゴスたちも談合し、プレクサスペスを一味に加えることを決めたのだった。それというのも、プレクサスペスがカンビュセスに息子を矢で射殺されるという無残な仕打ちを受けていたこと、またこの男はキュロスの子スメルディスを自ら殺害し、スメルディスの死を知るただひとりの人間であること、その上ペルシア人の間では、この男の人望がきわめて高いということにあった。

このような理由でマゴスたちはプレクサスペスを呼びつけ、ペルシア人に対して自分たちが欺いていることを誰にも洩らさず、自分ひとりの胸中に秘めておくことを誓わせ、これに莫大な褒賞を約束して味方に引き入れようとした。

マゴスたちがしつこく迫るのでプレクサスペスがこれに同意すると、彼らは第二の案を持ち出し、ペルシア人を全員王宮の城壁の下に集めるから、城楼に登り、ペルシアの王はキュロスの子スメルディスで、他の誰でもないと宣言してくれと要求した。

このように要求したのは、プレクサスペスがペルシア人の間ではもっとも信用されていると判断し、かつキュロスの子スメルデイスが生存しているという説をしばしば主張し、殺害を否定していたからだった。

[3.75] プレクサスペスがこれにも同意の返答をすると、マゴスたちはペルシア人を一同に集めてからプレクサスペスを城楼に上らせ、演説させた。ところがプレクサスペスは、マゴスたちから指示されたことをわざと無視し、キュロスの系譜をアカイメネスから語り出した。そしてキュロスのところへくると、この王がペルシアのために果した善行を残らず語った。

そしてそれを諄々と語り終ると、これまではわが身の安全をはかるために事実を隠していたが、いまは真実を明らかにする必要があるとして、カンビュセスに強要されてキュロスの子スメルディスを自分が殺害したことや、いま権力を握っているのはマゴスたちであること告白した。

そのあとは、ぺルシア人が王権を取り返し、マゴスたちに報復しないとしたときにはと言いつつ、数々のおぞましい呪いをかけ、かれは城楼から真っ逆さまに身を投げた。かくして名望高き人として評されていたプレクサスペスは、その生涯を終えたのである。

[3.76] さて、七人のペルシア人たちは、その時プレクサスペスに起きた出来事を全く知らないまま、決行を先延ばしせずただちにマゴスたちを襲撃すると決め、神々に祈りを捧げたあと、出発した。

ところがその途中、プレクサスペスのことを知るにおよび、道のわきで再び談合した。オタネスー派は、事態が動いている中での攻撃は行なうべきではないとして延期を主張したが、ダリウスー派は、延期せずにこのまま進み、決めた通りに決行するべきだと主張した。

このように彼らが論争していると、七つがいの鷹が二つがいの禿鷹を追いかけて捕え、羽毛をむしり、身を引き裂くのが見えた。これを見た七人はダリウスの考えに同意し、烏の前兆に勇気づけられて王宮に向って行った。

[3.77] そして王宮の門に着くと、ダリウスが予想したとおりになった。門衛たちはペルシアの指導者たちへ敬意を示し、彼らが悶着を起こすなどとは疑いもせず、神に導かれた一党を通し、とがめ立てする者などひとりもいなかった。

そして中庭に入ると取り次ぎ役の宦官たちと出くわし、用件を問われた。宦官たちは彼らを問い質すとともに、彼らを通したことで門衛たちを叱りつけ、奥に向かおうとする七人を制止した。

七人の一党は互いに声をかけあって短剣を抜き、阻止する宦官たちを剌し、執務室へ駆け込んだ。

[3.78] ちょうどこのときマゴスたちは二人とも室内にいて、プレクサスペスの件を話し合っていた。そして宦官たちが取り乱して叫んでいるのを聞きつけて二人ともびっくりし、何が起きているかを悟ると身を防ぐ体制をとった。

ひとりが弓に飛びつき、もうひとりは槍を取りに行った。こうやって戦いが始まったが、弓を手にしたマゴスは、敵が肉薄しているために弓は役に立たなかった。もう一人のマゴスは槍を手にして防戦し、アスパティネスの太股とインタプレネスの片眼を突いた。このためインタプレネスは片目を失ったものの、命は取り留めた。

こうしてひとりのマゴスは二人を負傷させたが、もうひとりは弓が役に立たないのがわかると執務室に続く別室に逃れ、扉を閉めようとした。

そこへ七人のうちダリウスとゴブリアスの二人がともに部屋へ飛び込んだ。ゴブリアスがマゴスと格闘している間、そばにいたダリウスは暗闇の中でなすすべもなく、ゴブリアスを剌しはせぬかと気づかいながら立ち尽くしていた。

ダリウスが突っ立ているのを見たゴブリアスは、なぜ手を下さぬかと叫んだ。ダリウスは、
「お主を刺しはせぬかと途惑っているのだ」
というと、ゴブリアスは、
「その剣で二人もろともに突き剌すのだ!」
といった。ダリウスは云われたとおりに短剣を突き刺し、なんとかマゴスを討ち取った。

[3.79] マゴスたちを仕留め、首を抑ねた一党は、負傷した同志は弱っていることと、また城の警備のためもあってその場に残し、残りの五人(*)はマゴスたちの首級をさげ、大声をあげながら興奮して城外に駈け抜け、ペルシア人たちに呼びかけながら事の委細を語り、マゴスたちの首を掲げ示した。そして同時に行く手を阻むマゴス僧たちをすべて殺戮していったのである。

(*)ゴブリアスはマゴスとともにダリウスの剣に串刺しにされたのではなかったか?それならば「四人」になるはずだ。

こうしてペルシア人たちは七人の決起とマゴスたちの欺きの次第を知った。そして自分たちも七人の例にならうべきと解して自らの剣を抜き、マゴス僧たちを見つけ出しては殺戮していった。夜の帳によって殺戮が止められなかったならば、彼らは一人のマゴスさえ生かしておくことはなかっただろう。

ペルシアの全国民にとってこの日は最大の聖なる日となり、この日には盛大な祭を催すのだが、この祭をペルシア人は、「マゴス殺しの祭」と呼んでいる。そしてこの祭の最中は、マゴス僧たちは誰も外出することなく、家に籠もることになっている。

[3.80] 騒ぎがおさまった五日後、マゴスに反旗をひるがえした者たちが政治全般に関する評議を開いた。その場で発せられたさまざまな意見に対して、ギリシア人の中には信じない者もいるが、ともかくも次のような意見が出てきたことは確かである。

オタネスは、ペルシア人全体をまつりごとに参画させよと主張して次のように説いた。
「吾輩の考えでは、われらの上にはただ一人の覇者をおくべきではないと思っている。それは喜ぶべきことでも良きことでもないゆえにな。貴殿らはカンビュセス王の横暴がいかばかりかであったかご承知のはず、またマゴスの驕慢ぶりも、ともに経験しておられる。

支配者が、責任を果たすことなく自分の欲するままに事を実行できるなら、独裁制は実状に適応できようか?このような力を手にすれば、地上でもっとも優れた人間であっても常ならぬ考えにとり憑かれてしまうものだ。それは、何不自由のない境遇によって驕慢の心が芽生えるからで、それに加えて生まれながらに持っている嫉妬心というものがある。

この二つをもつことで人はあらゆる邪心にとらわれるのだ。人があまたの悪業をなすのは、恵まれた境遇に飽きることからくる驕慢と、嫉妬心からだ。専制君主というものは、あらゆる幸福を手中にしているゆえに嫉妬心とは無縁であるはずだが、国民に対する態度は真逆なのだ。繁栄の限りを尽くす者たちが生きている間は彼らを嫉妬するし、悲惨な状態にある民衆を見ては喜びを感じる。そして何よりも讒言を好む。

この地上において、独裁者ほど言行の無節操な者はいない。それは、適当に持ち上げておくと、十分な配慮が足りぬといって怒り、腫れ物を扱うように接すれば、太鼓持ちだとして不興をこうむるからだ。しかし独裁者のもっとも悪しきことは、いにしえより伝わる慣習を打ち壊し、女を犯し、無分別に人命を奪うことなのだ。

ところが民衆による統治は、まず第一に平等というこの上なく美しい命題が与えられており、第二には独裁者のごとき言動は一切ない、ということがある。官職は抽選で決まり、役人は貴任を持って職務をこなし、国事はすべて公論によって決せられる。それゆえ吾輩は、あらゆる国事は大衆に関わっていることから、独裁制を廃し、民衆の力を重視するべきだと考える」

[3.81] オタネスの考えは以上の通りだったが、メガビゾスは国政を寡頭制に委ねるべきだとして次のように語った。
「独裁制を廃止すべしというオタネスの考えには吾輩も賛成だ。ただし権力を大衆に与えよというのは、最善の判断とはいえない。役立たずの大衆ほど愚かで横暴なものはないからだ。

独裁者の専横から逃れたからといって無知な大衆による専横の生贄になることは断じて許されることではない。僭主がことをなす場合、自分が何をしているか承知の上で行なうが、民衆がことをなす場合、その自覚すらないからだ。何が最善であるかを教えられず、自ら知ろうともしない大衆が、どうしてそのような自覚を持ち得ようか。それは川の流れのごとく、一目散にひたすら突走るだけのことだ。

ペルシアに災いを望む者は民主制を選ぶがよい。しかし我々は優れて優秀なる一群の人物を選び、これに政権を委ねようではないか。いうまでもなく我々自身もその中に入るはずで、もっとも優秀なる者たちからもっとも優れた決議が生まれることは当然予想されることなのだ」

[3.82] このようにメガビゾスは意見を述べ、三番目にダリウスが自説を披露した。
「民主制に関するメガビゾスの説は的を射ていると小生は思う。ところが寡頭制については外れていると考える。ここにおのずからなる三種の事柄が最善の形で提起された場合、すなわち民主制、寡頭制、独裁制があるとしたら、小生は独裁制が他の二者よりもはるかに優れていると考える。

それは、もっとも優秀なる一人の人間による統治に勝る体制は考えつかないからだ。優秀な指導者ならば、完璧な知見を用いて最善の判断を下し、国民を十全に統治するだろう。そして敵を攻略する際にも、充分な秘密保持がなされるだろう。

しかし寡頭制では、国のためによかれと思う政策を掲げる複数の人間同士が、しばしば激しい衝突を引き起こすものだ。各自が第一人者となって自説を通そうとしたがるゆえに、激しく憎み合うことになり、そのあげく派閥争いが生じ、その抗争から人が死に,その殺戮から結局は独裁制に至るのだ。このことから独裁制がはるかに優れていることがわかるだろう。

そして再びいうが、民主制の場合には不正の発生をおさえることは不可能だ。社会に悪が蔓延すると、悪人たちはいがみ合うことなく逆に強く結託する。国に害をなす者たちは共謀して活動するからだ。この状態は、国民のうちの一人が立ち上がって悪人たちを制するまで続く。そしてその人物が国民から崇拝され、結局は崇拝された者が独裁者となるのだ。これによっても、独裁制が最善の政体であることがわかる。

これを一言にしていうなら、我々の自由は一体全体どこから来ているのか、誰が与えてくれたか、ということだ。民衆からなのか、あるいは寡頭制からか、それとも独裁制からなのか。吾輩の考えでは、ただ一人の人物によって自由を与えられている我々としては、この政体を維持するべきであるし、これを別にしても先祖から受け継いでいる、この素晴らしい政体を変えてはならないのだ。政体変更などひとつも良いことはないからだ。

[3.83] このような三つの説が出されたが、七人のうち四人が最後の説に賛成した。ぺルシャ国民に平等な権利を与えるという提案が退けられたオタネスは、一同に向って語った。

「同志諸君、かくなる上は、我々のうちから王を決めるしかあるまい。籤によってか、あるいはペルシア国民に選ばせるか、その他の方法によるかはともかくとしてな。ただ、吾輩は諸君らと王位を争うつもりはない。私は支配することも支配されることも望まぬからだ。吾輩は王位に就くことを放棄するが、ただ、吾輩のみならず、吾輩の子々孫々にわたり、貴殿らのうちの誰の支配も受けぬことをここに宣言しておく」

オタネスの、この発言に対しては、他の六人が同意したので、かれは王位争いの局外に立つことになった。それゆえ今日に至るも、ペルシアではオタネス家は自由身分を保持しており、ペルシアの法律を遵守してはいるが、みずから欲しない限りは王の支配を受けることはない。

[3.84] そこで残りの六人は、王を決めるもっとも公正な方法について論じあった。そしてまず、オタネスを除く六人のうちの誰が王位についたとしても、オタネスやその子孫たちには、メディア製の衣装とペルシアではこの上なく貴重なあらゆる物品を年ごとに与えると決めた。このような取り決めをしたのは、最初に計画を立て、同志を集めたのがオタネスその人であったという理由による。

オタネスについてはこのような特権を認めたのだが、七人すべてに関して定めたことは、この七人は誰でも、王が女と床入りしている時以外は、いかなる時でも案内を請うことなしに王宮に立ち入ることができること、また王は行動を共にした同志の一族以外から妃を迎えてはならぬことの二つであった。

そして王を決める方法は次のように決定した。すなわち日の出の時刻に全員が騎乗して城外に乗り出し、日の出と同時に最初にいなないた馬の主が王位につくというのである。

[3.85] さてダリウスにはオイバレスという機転のきく馬丁がいた。会議が終わると、ダリウスはこの馬丁に向って云った。
「オイバレスよ、王を決めるやり方が定まったぞ。それはな、我々一同が馬を駆って城外にゆき、日の出とともに最初にいなないた馬の主が王位につくというものだ。そこでじゃ、ほかの者に王位を勝ち取られることなく、ワシが王位を手中にする妙案を考えてみてくれぬか」

「殿さま、」とオイバレスが答える。
「そのようなことで殿さまが王になられるか否かが決まるのでございますか。それならば大船に乗ったつもりでお気楽になされませ。殿さまをおいて他の方が王になられぬような手立てがございますゆえ」
「そうか、」とダリウスがいう。
「そのような手管があるならば、一刻も早く手筈を調えるのじゃ。王位を決めるのは明日に迫っておるぞ」

それを聞いたオイバレスは次のようにした。日暮れを待ち、ダリウスの馬が殊のほか気に入っている牝馬を城外へ連れて行ってそこへつなぎ留め、そしてダリウスの馬をそこへ連れて行って牝馬に触れさせながら、繰り返しそのまわりを歩かせ、最後には交尾させたのだった。

[3.86] そして夜明けとともに六人は決めたとおりに馬に乗ってやって来た。一同が城外に乗り出し、前の夜に牝馬を繋いだ場所にさしかかると、ダリウスの馬が先に駈けだしていなないた。

馬がいななくのと時を同じくして、晴れていた空から稲光と雷嶋がとどろき渡った。ダリウスに起きたこの兆候は、定められた運命として受け取られ、かれが王位につくことを決定的なものとした。そしてほかの同志たちは馬から飛びおり、ダリウスの前にひれ伏したのだった。

[3.87] オイバレスの計略がこのようなものだったという人もいるが、ペルシアでは他の説も伝えられている。それによれば、馬丁は件(くだん)の牝馬の陰部を手でさすり、その手を衣服の中に隠していたという。そして夜が明け、六人が馬に乗って出発しようとしたときに、手を懐から出してダリウスの馬の鼻先に近づけたので、馬はその臭いを嗅ぎ、いなないたのだという。

[3.88] こうしてヒスタスペスの子ダリウスが王となり(28)、最初にキュロス、その次にカンビュセスによって平定されたアジアの全住民は、アラピア人を別としてダリウスに臣従することとなった。ただ、アラビア人はかつてペルシアに隷従したことがなく、カンビュセスのエジプト遠征の際に通過を許し、ペルシアの友好関係を築いていた。

(28)B.C.521

ダリウスはペルシアでもっとも高貴な一族から夫人を娶った。すなわちキュロスの二人の娘である。アトッサは先に自分の兄弟であるカンビュセスに嫁し、そのあと、かのマゴスの妻になっていたが、アルテストネは処女だった。

かれはまたキュロスの子スメルディスの子でパルミスという名の娘を娶り、さらにマゴスの正体を暴いたオタネスの娘も娶った。こうしてかれの権力はあらゆる所におよんだ。かれが最初にしたことは石像を造らせたことで、それには騎馬の人物が刻まれていて、次のような碑銘が刻まれている。
「ヒスタスペスの息ダリウス、馬(ここにその名が続く)と馬丁オイバレスの功によりペルシアの王位を得たり」

[3.89] ペルシアで右のようなことをしたあと、ダリウスはその領土を二十の行政区に分割した。これはサトラペイア(29)と呼ばれ、そこに総督を任命した。そして民族ごとに納税額を定めた。またこれらの民族に隣接する地域の住民も合わせて一括し、これより遠隔地の民族については、いずれかの行政区に割り当てた。

(29)リストに従って本巻の序文を参照のこと。

行政区と年ごとの租税額は次のとおりである。銀で納税する場合にはバビロン・タラントンの単位を用い、黄金で納める場合にはエウボイア・タラントンの単位を用いることとした。なお、バビロン・タラントンは七十八エウボイア・ムナに相当する。

キュロスや次のカンビュセスの治世時には決められた納税制度はなく、ただ献上品を納めていたのである。このような課税制度やその他同様の制度を定めたことで、ペルシア人はダリウスを「商人」、カンビュセスを「支配者」、キュロスを「慈父」と呼んでいる。まさにダリウスはあらゆる物から薄利を徴集し、カンビュセスは苛酷で尊大、キュロスは慈悲深く、人民の福祉のために働いてくれたからだというのである。

[3.90] イオニア人、アジアのマグネシア人、アイオリス人、カリア人、リキア人、ミリアイ人、パンピリア人からはこれらを一括して銀四百タラントンを徴税した。これがダリウスの制定した第一徴税区である。ミシア人、リディア人、ラソニア人、カバリオイ人、ヒテンネ人からは五百タラントン徴税し、これが第二徴税区である。

第三徴税区はヘレスポントス海峡に入って右側の地域の住民、プリギア人、アジア在住のトラキア人、パプラアゴニア人、マリアンデニア人、シリア人で、ここからの徴税額は三百六十タラントンである。

第四徴税区はキリキア人。ここからは一日一頭の割で一年に三百六十頭の白馬と銀五百タラントン。このうち百四十タラントンはキリキア地方を警備する騎兵隊の費用にあてられ、残りの三百六十タラントンがダリウスへ支払われる。

[3.91] 第五徴税区は、アンピアラオスの子アンピロコスがキリキアとシリアの境に建設したポシデイオンの街からエジプトに至る地域(税を免除されているアラビア人居住地域は除く)で、ここからの徴税額は三百五十タラントンだった。この地域には全フェニキア人、パレスチナと呼ばれているシリアの一部、キプロス島が含まれる。

第六徴税区はエジプトとこれに接するリビアの一部、さらにエジプト地区に編入されていたキユレネとバルカ。ここからは七百タラントンが納められていたが、このほかにもモイリス湖における漁獲からの税がある。

そのほか穀物による課税もあり、これらを除いて七百タラントンの租税があるということだ。メンフィスの「白城」に駐屯するペルシア人部隊とその支援隊のために、この地区から十二万ブッシェル(*)の穀物が供出された。

(*)bushel=27Kg

サッタゲダイ人、ガンダリ人、ダディカイ人、アパリタイ人らは一つの徴税区とし、百七十タラントンを課税した。これが第七徴税区である。第八徴税区はスサとキッシア地区の残りで、ここには三百タラントン課税した。

[3.92] バビロンとアッシリア地方の残りの地区からは銀一千タラントンと五百人の去勢男児が届けられた。これが第九徴税区である。エクバタナとメディア地方の残り、パリカニオイ人、オルトコリオントバンティオイ人からは四百五十タラントンで、これが第十徴税区。

第十一徴税区はカスピオイ人、パウシカイ人、パンティマトイ人、ダレイタイ人を含み、二百タラントン。

[3.93] 第十二徴税区はバクトリアからアイグロイ人の住む地方に至るまでの地域で、ここからは三百六十タラントンである。第十三徴税区はパクティイカ地方とアルメニア人および黒海に至るまでの地域を含み、ここからは四百タラントンである。

第十四徴税区はサガルティオイ人、サランガイ人、タマナイオイ人、ウティオイ人、ミコイ人、そして王がいわゆる強制移民(30)を住まわせた紅海上の島嶼の住民たち。これらからは併せて六百タラントンを徴税した。

(30)この用語はペルシア帝国東部から西部へ移住させられた人々のことを指す。「ἀνα = ana」は海から高原地帯への移住の意味を含む。

サカイ人、カスピア人が第十五徴税区で、ここからは二百五十タラントン。パルティア人、コラスミオイ人、ソグドイ人、アレイオイ人は三百タラントンで、これが第十六徴税区である。

[3.94] パリカニオイ人、アジア在のエチオピア人は四百タラントンで、これが第十七徴税区となる。マティエネ人、サスペイレス人、アラロディオイ人が第十八徴税区となり、ここには二百タラントンが課税された。

モスコイ人、ティバレノイ人、マクロネス人、モシノイコイ人、マレス人には三百タラントンが課税され、これが第十九徴税区である。インド人が第二十徴税区である。これはわかっている限りでは最大の人口を抱える民族で、ほかのすべての徴税区を併せても凌駕する租税を課せられた。すなわち砂金三百六十タラントンが徴税された。

[3.95] バビロン・タラントンで納入された銀をエウボイア・タラントンに換算すると、九千八百八十タラントンとなる。

金を銀の十三倍として換算すると砂金の額は四千六百八十エウボイア・タラントンとなる。以上すべてを合算すると、年ごとにダリウスのもとに納められる税の総額は、エウボイア・タラントンで一万四千五百六十タラントンになる。なお十タラントン以下の端数は切り捨てた。

[3.96] 以上がアジアとリビアの一部からダリウスに納めらる税額である。しかし後になるとこのほかにも島嶼部やテッサリアまでのヨーロッパに居住する住民からも税が収められるようになった。

これらの租税は次のようにして保管された。納められた金銀を熔解し、これを土瓶に流し込み、瓶が一杯になるとこれを割って取り除く。そして貨幣が必要になると、その都度必要なだけの量を鋳造するのである。

[3.97] 以上が統治体制と課税額である。ペルシアの国は徴税地区に拳げていないが、これはペルシア人はあらゆる税を免除されているからである。

納税の義務がないかわりに献上品を納めたのは以下の民族である。まずエジプトの隣のエチオピア人。これはカンビュセスがエチオピア長命族征服によって従えた民族で、聖地ニユサ(31)の辺りに住み、ディオニソスが祭礼神である。このエチオピア人とその周辺の住民はインドのカランティアイ族と同じ穀物を常食とし、地下に居住している。

(31)上ヌビアにあるゲベル・バルカル山(現スーダン)のことだろう。ヒエログリフ碑文では「聖地」と書かれている。

これらの民族はいずれも一年おきに献上品を納め、今の時代に至るも未精錬の黄金を二コイニクス(32)、黒檀の丸太材を二百本、エチオピア人の少年五人、大型の象牙二十本を献上している。

(32)1コイニクス=およそ1クォート(約1リットル).

コルキス人とコーカサス山脈に至るまでの地域に住んでいる民族(ペルシアが支配しているのはこの山脈までで、コーカサス山脈以北の住民はペルシア人を崇めていない)も献上品を課せられており、今日に至るも四年ごとに少年少女それぞれ百人ずつ納めている。

そしてアラビア人は千タラントンの乳香を毎年献上している。以上の民族から、租税以外にもこれらの献上品が王にもたらされたのである。

[3.98] 先に話したインド人が王に献上する砂金は、彼らが所有する莫大な量の黄金の一部だが、それを採取する方法は次の通りだ。

インド人の国から東は砂漠である。我々の知る限り、また確実に云えることは、インド人が夜明け、日の出にもっとも近い地域に住む民族なのだ。インドから東は砂漠ゆえに全く無人の荒廃地だからである。

インド人の種族は多く、言語も単一ではない。遊牧民もいれば、そうでないものもおり、河の沼沢地に住んで葦船を操って魚を獲り、これを生で食べる種族もある。この葦船は一節の葦(33)から造られている。

(33)竹に似ているが十五米の高さにまで成長する「カナ」である。竹ではない

インド人は藺草(いぐさ)で編んだ衣類を身に着けている。河に生えている藺草を刈り取ってムシロのように編み、これを胸当てのようにして着ている。

[3.99] この種族の東方に住む別のインド人は遊牧して生肉を食べているが、これはパダイオイ人(*)と呼ばれている。彼らの風習は次のようなものだと伝えられている。部族の中で病気になった者がいると、男の場合はもっとも親しい男たちが、病気で弱ってしまうと肉の味が落ちるといって、その男を殺すのである。当人は病気ではないと否定するが、友人たちはそれを無視して殺し、その肉を食べる。

(*)本巻三十八節;カラティアイ人を参照

女が病気になったときにも、これと同じように病人に一等親しい女たちが男たちと同じようにして死に至らしめる。この種族は老齢に至った者は生贄に捧げ、宴を開いてその肉を喰う風習があるのだが、そこに至るまで長生きする者は多くない。そうなるまでに病気になった者は誰もが殺されてしまうからである。

[3.100] しかし別のインド人もいる。彼らは生き物は一切殺さず、農耕もせず、住居も持たない。また野草を常食し、その地に自生する殻つきの粟粒大の穀物を採集し、殻のまま煮て食べる。この種族では、病気になった者は人里離れた荒廃地へ行って寐ている。そしてその者の生き死には、誰ひとり意に介さない。

[3.101] これらインド人たちは家畜と同じように公然と性交し、エチオピア人のように皮膚の色が黒い。

彼らの精液の色は他の人種のような白色ではなく、肌の色と同じく黒色である。これに関してはエチオピア人も同じである。これらのインド人はペルシアの遥か南方の地域に住んでいるので、ダリウス王に支配されたことはない。

[3.102] インド北方で、カスパテユロスの街やパクティエス地方(34)に住むインド人もいる。かれらの生活様式はバクトリア人のそれに似ている。この種族はインド人の中でも一等好戦的で、金を採取しに行くのはこの種族である。この地方は砂漠の荒廃地になっているからだ。

(34)アフガニスタンのカスパティロス(Caspatyrus or Caspapyrus);おそらくカブール。

この砂漠の荒廃地には、犬ほど大きくないが狐よりは大きい蟻(35)が棲息している。この地で捕獲された個体を幾匹か、ペルシア王が保有している。この蟻はギリシアの蟻と同じく砂を掻き上げて地下に巣を作るが、その形状もよく似ている。そしてこの蟻の掘り上げた砂に金が大量に合まれているのだ。

(35)モルモットと思われる。そうだとしても荒唐無稽だ。

インド人はこの砂を求めて砂漠地帯に向かうのである。各自が三頭のラクダに牽き具をつけ、メスのラクダを真中に、その両脇にオスのラクダを綱で結ぶ。そして人間はメスのラクダに乗るのだが、そのときこのラクダは出産して間もない若いメスを仔から引き離して用いるようにしている。彼らのラクダは馬と同じくらいに速く走り、しかも馬よりもはるかに重い荷を運べるのだ。

[3.103] ギリシア人はラクダのことをよく知っているので、その姿については省略するが、知られていないことを述べておく。それは何かというと、ラクダの後脚にはそれぞれ四つの大腿骨と膝があるのと、陰部が後脚の間で後向きについていることである。

[3.104] このような牽き具で隊列を整えてインド人は金の採取に乗り出すのだが、彼らはもっとも炎熱の強い時刻を見計らって砂金を採るようにしている。その時間帯は蟻が地中にもぐり込んで姿を消すからである。

この地方では朝のうちがもっとも日差しが強い。他の地域のように昼間ではなく、日の出から市場の閉まる頃までが一等暑い。この時間帯はギリシアの昼間よりもはるかに暑く、そのためかインド人はこの時刻にに水を浴びると云われている。

真昼になると太陽の熱はほかのインドの他地域と同じような暑さになる。インドの太陽熱は午後になるにつれて他の国の午前中の気温と同じになる。そして日暮れに近づくと涼しくなり、太陽が沈む頃にはとても寒くなる。

[3.105] このインド人は袋を用意して然るべき場所に行き、砂を袋一杯に詰め込むと、ただちに引き返す。それというのも、ペルシア人の言うところでは、蟻がすぐさま臭いをかぎつけ、追いかけてくるからである。その走る速さはどんな動物もかなわないほどで、蟻が集合している間に真っ先に逃げ出していないと、誰も助からないだろうといわれている。

ラクダのオスはメスよりも走るのが遅いので、遅れだしたときには引き綱を切るが、二頭同時に切り離すことはしない。メスのラクダはというと、あとに残してきた仔のことを思い、決して疲れ果てることはないという。ペルシアでは、インド人の金は大方がこのようにして採取するといわれている。またそれほどの量ではないが、この地域で採掘される金もある。

[3.106] 思うに、世界の最果ての国であっても素晴らしい産物に恵まれているようだが、これはあたかもギリシアがもっとも住みやすい気侯に恵まれていることに通じるようである。

ついさっき云ったように、インドは世界の極東の地にあるが、ここの四足獣も鳥も、生き物は他の国のものよりはるかに大きい。ただし馬は、ニサイア馬というメディア産の馬より小さい。またこの地の金は、採掘するにしろ、河で採取するにしろ、先に話したように(蟻から)奪うにしろ、きわめて豊富に産する。

また野生の木から採れるウールは、羊から採れるウールよりもより美しく優れている。インド人はこの木から採れるウールを衣類に利用している。

[3.107] 次に人の住む国のうちでもっとも南にあるのがアラビアである。乳香、没薬、カシア、シナモン、マスティック・ガムを産するのはこの国だけである。没薬を除き、アラビア人はこれらを多大な手間をかけて入手している。

例えば乳香を採取するには、フェニキア人がギリシアヘもたらしている蘇合香(ストラクス香)(36)を焚く。このようにするのは、乳香を含む木には色とりどりの小さな翼をもつ蛇が多数群がってこの木を守っているからである。この蛇はエジプトを襲う蛇(*)と同じものである。そしてこの蛇を木から迫い払うにはストラクスの煙以外には手立てがないのだ。

(36) 樹脂の一種で、燃やすと刺激性の煙が出ることから、消毒剤として利用される。
(*)第二巻七五節

[3.108] またアラビア人はこうも言っている。かりにマムシに起きるような現象が、この蛇にも起こらないとしたら、国中がこの蛇だらけになるだろうという。

理にかなっている神の摂理というものがあり、それによって、臆病で他の生き物の餌食となる生物は、喰い尽くされて絶滅するのを防ぐために、これらはすべて多産となり、一方で獰猛で有害な生物は、少産とされたようである。

兎は野獣や、鳥、人間などあらゆる生物に捕らえられるので多産なのである。妊娠中でも重ねて受胎するのはすべての動物のうちで兎だけで、その胎児は毛の生えているものもあれば、生えていないものもあり、子宮内でその形が出来上がりつつというなかで、また受胎するのである。

このようなことがある一方で、極めて強く獰猛なライオンのメスが仔を産むのは一生に一度、一頭だけである。それというのもライオンは仔を産むと同時に子宮も排出するからである。それはなぜかというと、ライオンの胎児は胎動を始める頃になると、他のどの動物よりもはるかに鋭い爪で子宮を引っ掻き、成長するにともない、より一層掻きむしるようになるからだ。出産間近になると、子宮の中で無傷な部分はほとんどなくなっているのだ。

[3.109] であるから、マムシやアラビアの有翼蛇が自然のままに生まれ出るなら、人間は生きてゆけないだろう。ところがこの蛇は交尾の際にオスが子種を射出するやいなや、メスはオスの首に噛みつき、噛み切ってしまうまで離さないのである。

このようにしてオス蛇は死んでゆくのだが、メスもオスに向けてしでかしたことの罰を受ける。それは、まだ母の胎内にいる子蛇が父の報復とばかりに母体を囓るのである。そして母体の腹を喰い破って外に這い出るのだ。

他方で、人間に無害な他の蛇は卵を産み、非常に多くの子を孵化する。アラビアの有翼蛇は無数に棲息しているように見えるが、マムシはどこの地域にも棲息しているのに対して、これらはアラビアにしかおらず、他の地域にはいないためにそのように見えるのだ。

[3.110] このようにしてアラビア人は乳香を採取しているが、カシアは次のようにして採集している。彼らは牛革その他の獣皮で頭から全身を覆い、両眼だけを残しておいて出かけるのである。カシアは浅い湖の中に生育しているのだが、湖の周辺や湖中にはコウモリによく似た翼のある動物が居着いており、これがギャーギャーと鳴き声をながら激しく攻撃してくるのである。それゆえこれらを眼から追い払いながらカシアを摘みとらねばならないのだ。

[3.111] 彼らが.シナモンを採集する場合、以上の方法よりさらに奇妙な方法を用いている。彼らはこの香料の産地や生育場所を知らないのである。ただ、ディオニソスが養育された場所(*)に生えているという、もっともらしい説がある。

(*)エチオピアと思われる。第二巻百四十六節を参照。

それによると、フェニキア人がシナモンと呼んでいる乾いた木の枝は、巨大な鳥が運んでくるといわれており、この鳥は人の近づけない断崖絶壁に土の巣を造るために、この枝を運ぶのだという。

そこでアラビア人が考え出した方法というのは、死んだ牛やロバ、荷運び用の獣の四肢をなるべく大きく切り離し、これを崖にある巣の近くにおいてからその場所から遠くへ離れる。すると鳥が舞いおりてきて獣の肢を巣へ運んでゆくのだが、その結果、巣は重みに耐えかねて崖下に崩れ落ちる。それをアラビア人が行って集める、というのである。そしてこのようにして採取されたシナモンが他の国々へ送り出されるのである

[3.112] アラビア語でラダノンというレダノンの採取法は、これよりもさらに変わっている。それは、飛びきりの芳香を放つものが最悪の悪臭の中にあるからである。これは木に生じる樹脂が、オス山羊のヒゲの中に付着しているのだ。このレダノンは多くの香料の製造に用いられ、アラビア人はこれを何よりも第一に焚き香として用いている。

[3.113] 香料についてはこれくらいしておこう。それにしてもアラビアの大地からは、得もいわれぬ香しい香りが漂ってくる。またアラビアには、ほかのどこにもいない素晴らしい羊が二種いる。そのうちの一種は尻尾の長さが三キュービット(百五十糎)以上あり、そのままにしておくと尻尾が地面に擦れて傷がつくことになる。

しかし羊飼たちは皆が巧みな工作技術を用いて小さな車を作り、これを羊の尻尾の下に一頭ずつ一台あて結びつけている。もう一種の羊は、尻尾の幅が三キュービットもある。

[3.114] 南が西に傾くところ、すなわち太陽が沈む方向に向って最果ての地がエチオピアだ。この国は大量の金、巨大な象、あらゆる種類の野生の木と黒檀を産し、またここの住民はこの上なく背が高く、秀いでた容姿と、長命を誇っている。

[3.115] これがアジアとリビアにおける最果ての国々である。ヨーロッパにおける日没方向の最も遠い地域については、確かなことは云えない。異国人がエリダノス河と呼んでいる河が北の海に注いでいて、そこが琥珀の産地だといわれていることも、錫を産する錫の国だということも、私にはわからない。

そもそもエリダノスという名前自体が異国の言葉ではなくギリシア語で、どこかの詩人によって創られたことを示している。あらゆる手立てを尽くしてみたものの、ヨーロッパの果てに海があるのを実際に見たという人から話を聞くこともできていない。わかっていることは、我々が手にする錫や琥珀が最果ての地から来ているということである。

[3.116] ヨーロツパの北方ではきわめて大量の金が産する。その金がどのように採取されるのかについても、確かなことは云えないが、伝えられるところでは、アリマスポイ族という一つ眼の人種がグリフィンという鳥から奪ってくるといわれている。(*)

(*)第四巻十三節を参照

ほかの点では普の人間と同じで、眼だけは一つしかないという人間がいるなどということを、私は信じるものではない。しかしながら、他の地域を取り囲んでいる世界の涯の地方には、我々がもっとも精緻で珍奇としている産物があるようだ。

[3.117] アジアには四方を山に囲まれ、五つの峡谷をもつ平野がある(37)。その昔この平野はコラスミオイ人に帰属していたが、これに接していたのがヒルカニア人、パルティア人、サランガイ人、タマナイオイ人である。ペルシア人が権力を掌握してからは、この地域はペルシア王の支配下となっている。

(37)この部分の記述は全くの架空話である。しかし灌漑の管理は東部にある政府の権利で、水の使用には多額の費用がかかる。

さてこの四方を囲んでいる山脈からアケスという名の大河が流れ出ている。この河は五つの流れに分れ、別々の流路をたどって先に話した民族の国土を潤していた。

ところがこれらの諸国がペルシアの支配下に入ると、ペルシア王は山の流路それぞれに水門を築き、これを封鎖したのである。河は流れ込むのに流れ出るところが見つからないために、流出ロをふさがれた水によって山に囲まれた平野は湖となった。

それゆえ、これまでこの水を利用していた人々は、これを利用できなくなって大変な苦難に陥ったのである。ほかの地域と同じく、冬にはこの地方にも神の恵みの雨が降り、夏は粟や胡麻の栽培に水が必要なのである。

この水が利用できなくなったので、往民たちは女も引き連れてペルシアまで出かけ、王宮の門前で泣きわめくのである。そこでペルシア王は、もっとも水を必要としている住民の所へ水門を開くよう命じるのである。

そしてその国が水で充分潤ったところで水門は閉じられ、次に水を必要とする住民の土地へ水門を開くよう、王は命ずるのだ。風聞によれば、ペルシア王は租税のほかに多額の金を徴収して水門を開くのだという。これらのことに関しては以上である。

[3.118] さてマゴスに反旗をひるがえした七人のうちの一人インタプレネスは、決起の直後に自身が引き起こした悪業によって命を落とすこととなった。あるときかれは王と面談しようとして王宮にやって来た。マゴスに対して決起した者は、王が妃と同裳しているとき以外、取次ぎを通すことなく王に面会できるという特権があったのである。

決起した七人のうちの一人であるというので取次ぎの必要がない権利があると言いつのり、インタプレネスは王宮の中へ入ろうとした。ところが門番と取次ぎ人は、王が妃のひとりと同裳中であることを告げて通そうとしなかった。インタプレネスは彼らが嘘をついていると思い、三ヶ月剣(スキミタール)を抜いて彼らの耳と鼻を切り落し、これを自分の馬の手綱に結びつけ、さらにその手綱を二人の首に巻きつけてから放免してやったのだった。

[3.119] 門番たちは王に自分の姿を見せ、そんな扱いを受けた理由を話した。ダリウスは六人が共謀した上での行動かもしれぬと危惧し、六人をひとりずつ呼びつけ、彼らがこのことを諒解していたのかどうか、その真意を確かめた。

そして同志たちがこの件には関与していないことがわかると、ダリウスはインタプレネスのほか、その息子と一族の男子全員を拘束した。そうしないと、インタプレネスが一族の男たちと呼応して謀反を起こすに違いないと考えたからである。そして男たちを死刑囚として獄舎に収監したのだった。

インタプレネスの妻は幾度も王宮の門前にやって来ては泣きわめき続けた。妻が同じことを続けているので、とうとう王は憐れみを覚え、使いをやって女に告げさせた。
「ご夫人よ、ダリウス王は獄中にある一族のうち、お手前が救いたいと望まれる方をひとり助命してやると仰せですぞ」

するとその妻は熟慮したうえで、こう返答した。
「私のために王がひとりだけ命を助けてくださるのでしたら、誰よりも私の兄弟を選びます」

女の返答を聞いたダリウスは意外に思い、使いを送って質した。
「ご夫人よ、王はお訊ねです。あなたがご主人や子どもたちを差しおいて、子どもたちより疎遠で、ご主人ほどには親しくもないご兄弟を選ばれたのは、なぜなのでしょうか?」

すると女が答えていうには、
「王様に申し上げます。神のご意志があるならば私は別の夫をもつこともできましょう。また子供たちを失っても、ほかに子供を授かることもありましょう。しかし私の父も母もすでに他界しておりますれば、別の兄弟をもつことは、如何様にも手立てがございません。かように考えまして、あのように申し上げたのでございます」

ダリウスは女の返答に納得し、女のためを思い、彼女の願った者に加えて長男を釈放し、残りの者たちはすべて死罪に処したのであった。かくのごとくして、七人のうち一人は間をおくことなくこの世を去った次第である。

[3.120] さてカンビュセスが病に伏せているとき、次のようなことがあった。キュロスによつてサルディス総督に任ぜられていたペルシア人のオロイテスという者が、不遜な野望を抱いたのである。すなわちサモスのポリクラテスから危害を加えられたこともなく、暴言を吐かれたこともなく、ましてや会ったこともないというのに、これを捉えて殺害しようと目論んだのである。大方の伝えるところでは、次のことが理由だといわれている。

このオロイテスと、もう一人のペルシア人でミトロバテスという名のダスキユレイオン行政区の長官が、王宮の門前で座り込んで話をしていたところ、やがて言葉の行き違いから口論となった。ふたりは自分の実力を比べ合っているうちに、ミトロバテスがオロイテスに向って罵った。

「お主はひとかどの人間ではあるが、自分の管轄地のすぐ近くにあるサモス島を王の領土に加えることもできていないではないか。あの島は土着の人間がわずか十五人の重装兵で反乱を起こして制圧し、支配しているというほど、たやすく攻め落とせる島であるのにな」(38)

(38)本巻三十九節

そして一部の者たちが言うには、オロイテスはこの罵倒に怒りを覚えたが、罵った相手に仕返しすることよりは、罵りの元となったのはポリクラテスだということから、なんとしてもポリクラテスを斃そうという気になった、というのである。

[3.121] わずかながら、次のような説を唱える人もいる。オロイテスはある頼み事(その内容はわからない)があって、サモスに使いを送ったという。その時ポリクラテスは男部星で寝そべっていて、そのそばにはテオスのアナクレオンがいた。

ところがオロイテスを軽んじるつもりだったのか、単なる偶然だったのか、使者が部屋に入って王に言葉をかけたにもかかわらず、壁に向かっていたポリクラテスは振り返りもせず返事もしなかった、というのだ。

122ポリクラテスの死の原因については、この二つの説が伝えられているが、そのどちらでも気に入る方の説を信じるがよい。さてオロイテスのことに戻るが、この男はマイアンドロス河の上流にあるマグネシアに居を構えていたが、ポリクラテスの意中を知るや、ギユゲスの子ミルソスというリディア人に書状を持たせてサモスヘ送り出した。

それは、我々の知る限り、海上覇権を握ろうとした最初のギリシア人がポリクラテスだったからである。ただしクノッソスのミノスや、これ以前に海を支配した者がいたことは別として、人類と呼ばれる者の中ではポリクラテスが最初の人物であり、かれはイオニアや数々の島嶼を支配するという野望を抱いていたのである。

ポリクラテスがこのような野望を抱いていたことを知ったオロイテスは、次のような書面を送ったのである。
「オロイテスよりポリクラテス殿へ一筆啓上致す。責殿におかれては、一大事業を志しておられるものの、それを賄う資金に不足をきたてしておられることを聞き及んでおり申す。そこで貴殿が小生の手引きに従われるならば、貴殿の大志は成し遂げられることでありましょうし、それはまた小生をも救うことになるでありましょう。それというのも、確かな筋からの情報でござるが、カンビュセス王は小生を亡き者にせんと企図しているからにござる。

そこで、小生の身柄と財宝を貴国に移し、わが財宝の一部は貴殿の所有に入れ、残りは小生の所有とするようにしていただくならば、貴殿が全ギリシアを制覇なさるに充分な資金となるでありましょう。なお、小生の申し出を疑われるのであれば、貴殿がもっとも信をおかれる人物を使わして下されば、小生がその方にお見せいたしましょう」

[3.123] これを聞いてポリクラテスは喜んでオロイテスの提案を受け入れることにした。喉から手が出るほど軍資金が欲しかったポリクラテスは、まずは確認のために市民のひとりで自分の秘書のマイアンドリオスの子マイアンドリオスを派遣した。ちなみにこのマイアンドリオスは、その後間もなく、ポリクラテスの男部屋にあった豪華な調度品を一切合切ヘラの神殿に奉納した人物である。

視察人がやって来るのを知ったオロイテスは、次のような細工を施した。すなわち八つの櫃(ひつ)に、ごく僅かな隙間を上に残して石を詰め込み、その上に金を敷き詰めてから櫃に封をして待ち受けた。そしてマイアンドリオスが到着し、それを検分したのち、戻ってポリクラテスに報告した。

[3.124] 占い師や友人たちが強く制止するにもかかわらず、ポリクラテスはオロイテスのもとへ赴く準備をした。またかれの娘は、夢の中で父親が空中に吊され、ゼウスに身体を洗われ、太陽神によって油を塗られるのを見た。

この夢を見た娘は、あらゆる手立てを尽くして父の旅立ちを思い止めさせようとした。さらには父が五十櫂船に乗り込もうとする時にあっても、不吉な言葉を投げかけ続けた。そこで父は、もし自分が無事に帰国したあかつきには、後々までも嫁にやらぬぞと娘を脅したが、娘は父の脅しが実現すればよい、父を失うより独り身でいる方がよいと、祈るように答えた。

[3.125] かくてポリクラテスはあらゆる忠告を尻目にオロイテスのもとへ船出していった。このときの大勢の随伴者の中には、クロトンの人でカリフォンの子デモケデスもいた。この者はその当時右に出る者のないほど医療技術に長けた医者だった。

しかしポリクラテスは、マグネシアヘ到着して間もなく悲惨な死を迎えることとなった。その死はかれの人物にもその志にもふさわしくない無残なものであった。それはシラクサの僭主たちを別として、ギリシアの僭主の中では、その偉大さにおいてはポリクラテスに並ぶ者はいなかったゆえに。

口にするのも憚られる無残な仕打ちでポリクラテスを殺害したオロイテスは、その遺体を磔(はりつけ)にし、随行者のうちでサモス人については、放免されることを有り難く思えと言って、これらを放免した。サモス人以外の者と奴隷については奴隷と見なして留めおいた。

こうしてポリクラテスは吹きさらしの外気中に吊され、一部始終が娘が見た夢の通りになってしまった。すなわち雨が降ればゼウスに身体を洗われたことになるし、太陽に照らされると身体から出る汗によって油を塗られたようになったのである。

[3.126] ポリクラテスによる一連の成功も、エジプト王アメシスが予言したように、こうして終わりをとげたのであった(*)。しかしこのオロイテスも、その後ほどなくポリクラテスによる恨みの報いを受けることとなった。というのもカンビュセスが冥界に旅立ち、マゴスたちの施政が始まったのちも、オロイテスはサルディスに留まったままで、メディアによって覇権を奪われたペルシア人を手助けしようとしなかったからである。

(*)本巻四十節

それどころかこのオロイテスは、混乱に乗じてかつてポリクラテスのことで暴言をあびせたダスキユレイオンの総督ミトロバテスと息子のクラナスペスという高名なペルシア人を二人殺害している。この男はほかにも多くの悪業を働いているが、中でも特筆すべきはダリウスからの伝令が自分のもとへ来たとき、その伝言に腹を立てた挙げ句、伝令の帰り道に待ち伏せを配して殺し、その死骸と馬を誰にも知られないように処分したのである。

[3.127] さて王位についたダリウスは、オロイテスのあらゆる悪業、とりわけミトロバテスと息子の殺害の咎で、この男を処罰しようとした。しかし国内は混乱状態のままで、自分は王位についたばかりのことゆえ、オロイテスの行政区に公然と軍を進めるのは最善の策ではないと考えた。その上オロイテスはペルシア人親衛隊一千人を擁し、プリギア、リディア、イオニアの地域を支配して強大な勢力をもっていることを聞いていたのである。

そこでダリウスは次のような方策をとった。まずはペルシアの要人たちを召集して次のように呼びかけた。
「ペルシアの者どもよ、お主らのうちでこれから予が話すことを、武力も用いず騒ぎも起さず、智略によって成しとげてくれる者はおらぬか。知謀を要するところに力は無用じゃからな。

そこでじゃ。お主らのうちでオロイテスを生け捕りにして予のもとへ連れてくるか、あるいは仕留めてくれる者はおらぬか?あやつはペルシアのためになる働きをしたことはなく、それどころかあまたの悪行を働いておる。またこの男はミトロバテスとその息子の二人を殺害し、呼び出しのために予が使わした伝令を殺害するなど、堪えがたき傲慢な振る舞いにおよんでおる。あやつがペルシア人に対してさらに大それた悪事を働く前に、これを誅殺せねばならぬのじゃ」

[3.128] このダリウスの問いかけに対して三十人が名乗りをあげ、それぞれがみずから成し遂げるという決意を示した。そこでダリウスは言い争いをせぬよう押しとどめ、クジ引きで決めることを指示した。その結果、アルトンテスの子バガイオスが選ばれた。

クジを引き当てたバガイオスは、次のように実行した。かれは種々の用件を記した書面を数多く用意し、これにダリウスの印璽を押し、それらの書面をたずさえてサルディへ向かったのである。

サルディスに到着してオロイテスに会見したバガイオスは、書面を一通ずつ封緘からとりだし、王の側用人に渡して読み上げさせた(総督にはそれぞれ王の側用人が派遣されていたのだ)。バガイオスが書面を渡したのは、親衛隊の者たちがオロイテスから離反するつもりがあるかどうかを試すためだった。

親衛隊員たちが書面に向かって大いに感激し、なおかつ書面の文言に対しても一層敬うさまを見たバガイオスは、次の文書を渡した。そしてそれには次の文言が記されていたのである。
「ペルシア人たちよ!ダリウス王は汝らにオロイテスの護衛役となるをを禁ずる」
これを聞いた新隊員たちはバガイオスに向けていた槍を下げた。

彼らが書面の文言にきわめて従順に従うのを見て取ったバガイオスは、これに自信を得て最後の書面を用人に渡した。そしてこれには、
「ダリウス王は、サルディスにいるペルシア人に対してオロイテスを殺害すべきことを命ず」
と記されていた。これを聞いた親衛隊員たちは腰の三ヶ月剣(スキミタール)を抜き放ち、ただちにオロイテスを撃ち倒してしまった。かくしてサモス人ポリクラテスの恨みの報いがペルシア人オロイテスに返ったのである。

[3.129] オロイテスのもとにあった奴隷や財産はスサに移された。それから間もない頃、ダリウスが狩に出た時のこと、馬から降りたときに足を挫くという事故があった。

それは足首の骨が脱臼するほどの重症だった。ダリウスは、医術に長けたエジプト人たちを以前から身近においていたので、その者たちを呼びよせた。ところが彼らは足を無理矢理ひねったので、病状をさらに悪化させてしまったのである。

七日七晩にわたって、ダリウスはこの怪我のために一睡もできなかつた。八日目になり、以前サルディでクロトン人デモケデスの医術の噂を聞いていた者が、苦しんでいるダリウスのもとへそのことを報せにきたのである。そこでダリウスはすぐさまその男を連れてくるように命じた。命じられた者たちは、デモケデスがオロイテスの奴隷の中に混じって放置されているの見つけ出すと、足枷をひきづり、ボロを着たままの状態で王の面前に連れてきた。

[3.130] デモケデスが王の面前に引き出されると、医術の修練を積んだことがあるかとダリウスは下問した。しかしデモケデスは否と答えた。自分の素姓を明らかにすると、ギリシアとの縁が切れてしまうことを怖れたからである。

しかしダリウスは、かれが医術を心得えているのにそれを隠していることをしっかり見抜いていたので(39)、デモケデスを連行してきた者たちに命じて、鞭と棍棒をもってこさせた。ここに至ってデモケデスも白状し、医術の心得はあるが、確かな訓練は受けておらず、医者とつき合いがあったので、うろ覚えの医術は知っている、と云った。

(39)あるいは、デモケデスの医術の腕前を知っていたか?

そしてダリウスから治療を任されると、かれはギリシアの薬を使用し、またエジプト式の荒療治に代えて穏やかな医術を施した。そうすると王は眠れるようになり、再び足を使えるようにはならないものと諦めていたダリウスは、あっという間に回復したのだった。

このあとダリウスはデモケデスに黄金製の足枷を二組、褒美として与えた。するとデモケデスは、
「王を快癒させ給うた報いが、私の苦しみが倍になるということでございますか?」
と言上した。これを聞いたダリウスは気をよくしてかれを自分の後宮へ送り込んだ。宦官たちはかれを後宮に連れてゆき、この人が王の命の恩人であると女たちに紹介したものである。

すると女たちはこぞって黄金で満杯の櫃(ひつ)から椀で莫大な額の金をすくい挙げ、デモケデスに与えた。そしてデモケデスに随っていたスキトンという名の召使が、椀からこぼれ落ちたスタテル金貨をひろい集めただけでも、その額たるや大変なものだったという。

[3.131] このデモケデスがクロトンからやって来てポリクラテスのもとで暮らすようになった経緯(いきさつ)はこうだ。かれはクロトンで気むずかしい父とそりが合わずにいたが、ついに耐えきれなくなって父のもとを離れてアイギナヘ向かった。そしてアイギナに住むようになって一年目には、医術に用いる器具や備品を一切持っていないにも拘わらず、かれの医術は他の医師たちを凌駕した。

また二年目にはアイギナ人が国費一タラントン(40)でかれを登用し、三年目にはアテナイ人が百ムナで、四年目にはポリクラテスが二タラントンでかれを雇ったのだ。かくしてかれはサモスにやって来たのであり、クロトン人の医者が名を馳せるようになったのは、この人に負うところが大きい。

(40)一アイギナ・タラントンはおよそ八十二アッティカ・ムナ
  なお、一アッティカ・タラントンは六十アッティカ・ムナ

その当時、ギリシアの国々の中ではクロトン人の医者が第一に挙げられ、それに次ぐのがキュレネ人と評されていた。また同じ頃、音楽ではアルゴス人が随一と評されていた。

[3.132] ダリウスの怪我を快癒させたことで、デモケデスは宏壮な屋敷を与えられるは、王の陪席を許されるは、ギリシアヘ帰るという許しを得られないことを除けば、何ひとつ不自由を感じない身分となつた。

その一方で、ダリウスの治療に当っていたエジプト人医師たちが、ギリシアの医者より未熟だったという咎で串刺しの刑に処せられようとしたのを、王に歎願して彼らの生命を救い、またポリクラテスに随行していたエリス出身の占師が、奴隷の中にまぎれて捨ておかれているのを救い出したりした。かくしてデモケデスは王の側近として勢威を振るうようになったのである。

[3.133] その後間もなく次のようなことがあった。キュロスの娘でダリウスの妃になっていたアトッサの乳房に腫物ができ、やがてそれが潰れて拡がってしまったのである。腫物が小さいうちは恥ずかしさのあまりアトッサは隠して誰にもいわなかったが、いよいよそれが悪化してきたので、デモケデスを召し出してその腫物を見せた。

デモケデスは治してみせるといったが、その代り、恥知らずな願いではないので、自分の頼みごとをかなえてくれるよう、アトッサに誓わせたのである。

[3.134] そしてデモケデスがアトッサを治療して快癒させたあと、かれに指図されていたアトッサは、寝室でダリウスに向って話しかけた。
「王様、あなた様はこれほど大きな国力をお持ちになりながら、他の民族を征服しようとも、ペルシアの国力を強めようともなさらず、毎日をむなしく過ごしておいでです。

若くて莫大な富を手にしている男子としては、なにかしら雄大な事業をやり遂げて、ペルシア国民に自分たちはひとかどの男に統べられているのだということを知らしめるとともに、国民が戦に手を取られ、あなた様に謀反を企らむ余裕を持たさぬようにすることが肝要かと存じます。

あなた様はまだお若いのですから、大きな事業をなさるのでしたら今のうちでございますよ。肉体が成長するにつれて心も成長するものですが、肉体が老化すると心も老化し、何事をするにつけても気力も失われるものでございますからね」

教えられとおりにアトッサがこういうと、ダリウスが答えた。
「妃よ、お前の云ったことはワシ自身も実行するつもりでいたことじゃ。ワシはこの大陸から向うの大陸に橋を架け、スキタイ人を征服するつもりだ。それも近いうちにな」

するとアトッサがいうには、
「よろしうございますか王様、スキタイ人は放っておかれませ。あの者たちならば、あなた様のお望みのときに、何時なりと手に入れられますでしょうから。お聞き下さい王様、どうかギリシアを攻略なされませ。私はスパルタの女やアルゴスの女、アテナイの女、コリントの女たちのことを聞き知って、この者たちを侍女にしたいと願っているのでございます。幸いにも、あなた様には、ギリシアについてはどんなことも教えてくれ、また導いてくれる、誰よりも適任の者がついておりますもの。あなた様のおみ足を治してくれた、あの医者でございますよ」

これにダリウスが答えて言うには、
「妃よ、お前はまずギリシアを攻めよというが、それならばまずペルシア人の間者を、お前の名指した者とともにギリシアヘ送り込むのが最善の策だと思うぞ。彼らは見聞したことを細大漏らさず我々に報告するであろうから、情勢を完全に把握してから奴らの征討に向うとしよう」

[3.135] こう言ってダリウスはただちにこれを実行に移した。すなわち、その夜が明けるとすぐ、ダリウスはペルシアの要人十五人を呼びつけ、デモケデスとともにギリシアの沿岸一帯を回航してくることと、デモケデスを逃がさず、何としてもペルシアヘ連れ帰ることを命じた。

このように命じたダリウスは、次にデモケデスを呼び、同行のペルシア人たちを案内してギリシア全土を見て回り、帰ってくるよう頼んだ。そしてかれの家財は、その一切を父親や兄弟たちへの土産として持ってゆくがよい、その代りに幾倍のものを与えようと告げた。さらには、さまざまな財宝を満載した貨物船をデモケデスに与えようとも云った。

私が思うに、このような提案をダリウスが持ち出しのは、二心あってのことではないのだろうが、デモケデスの方では、ダリウスが自分を試しているのではないかと怖れるあまり、ダリウスの言い出したもの全てをいそいそと受け取るようなことはしなかった。かれは、自分の家財は帰ってから使うためにそのままにしておくが、兄弟への土産を載せた貨物船はお受けしようと返答した。かくして、デモケデスにも同じ指令を与えたダリウスは、一同をギリシア沿岸に向けて送り出したのである。

136さてフェニキアのシドンまで下ってきた一行は、ただちに二隻の三段櫂船とあらゆる財宝を満載したガレー船を用意した。準備が全て調うと、一行はギリシアに向けて出航したが、訪れたギリシア沿岸地帯を視察して報告書に書き留めつつ、有名な地域を視察してまわり、最後にはイタリアのタラス(タレントム)へ至った。

するとタラス王のアリストピリデスがデモケデスに同情し、メディア人の船から舵を取りはずさせ、ペルシア人たちは間者であるとして監視下においた。こうしてペルシア人が動きを取れなくなっている間に、デモケデスはクロトンに帰り着いたのである。アリストピリデスは、デモケデスが祖国に帰り着いた頃になってからペルシア人を釈放し、船から取りはずした舵も返してやった。

[3.137] ペルシア人たちはタラスから出港してデモケデスを追ってクロトンにゆき、広場にいたデモケデスを見つけてかれを捕らえようとした。

一部のクロトン人はペルシアの力を怖れてかれを引き渡そうとしたが、他の者たちはペルシア人を妨害し、彼らを棒で打ちすえた。

ペルシア人たちは、
「クロトン人たちよ、お前たちは自分のしていることがわかっているのか?このような暴挙をダリウス王が見過ごされると思っているのか?この男を我々から奪うことになれば、お前たちの身にどんなことが降りかかるか考えてみよ。我々が真っ先に攻撃するのはこの街をおいてどこにある?また真っ先に奴隷にしようとする街はどこだ?」

しかしクロトン人たちは彼らの言うことを意に介さず、デモケデスとともに引き連れてきた貨物船も失ったペルシア人たちは、アジアに帰って行った。案内人を奪われたからには、それ以上ギリシア各地を訪れて調査をしようとはしなかったのだ。

しかしデモケデスは、ペルシア人たちが出航する際に、次の伝言を託したのである。すなわちデモケデスはミロンの娘を娶る、とダリウスに伝えてくれと云ったのである。それというのも、格闘士ミロンの名声はダリウスの耳にも届いていたからで、私の考えでは、デモケデスがペルシアだけでなく、祖国においても名士であることをダリウスに示そうとして、大枚をはたいてこの縁組をまとめようとしたのであろう。

[3.138] クロトンを後にしたペルシア人たちは、イアピギアの沿岸で難破、漂着し、この地で奴隷にされていたが、タラスから亡命してきていたギロスという者が彼らを救い、ダリウスのもとへ帰してやった。ダリウスは、その褒賞として望みのものを与えようといったが、ギロスは自分の不幸な身の上を語ってからタラスヘの帰国を望んだ。

しかしダリウスは、ギロスのためにイタリアへ大船隊を差し向けると、ギリシアを騒がすことになるのを怖れ、彼らを帰国させるにはクニドス人だけを随行させれば充分だろうと云った。クニドス人はタラス人と親しいので、そうすればタラス人も問題なくギロスの帰国を受け入れるだろうと考えたのである。

ダリウスはその言葉通りにクニドスに使者を送り、ギロスを伴ってタラスヘ帰国させよと命じた。そこでクニドス人はダリウスの命令に従ったものの、タラス人を説得できず、かといって武力で解決することもできなかったのである。

以上が事の次第であるが、このペルシア人たちが、アジアからギリシアに渡来した最初の人間であって、彼らがギリシアを視察にやって来たのは、このような理由があったのだ。

[3.139] このあとダリウスはサモスを征服したが、これはギリシアあるいはそれ以外の国の中で、ダリウスが征服した最初の街であった。その進攻の理由は次のようなものだった。キュロスの子カンビュセスがエジプトに進攻したとき、多数のギリシア人も軍についてエジプトヘ行ったのだが、自然の成り行きとしてその一部は商売のためであったり、エジプト見たさについて行った者もいた。そしてその者たちの中に混じって、アイアケスの子でポリクラテスの兄弟に当たるシュロソンという人物がおり、この者はサモスから亡命していたのである。

このシュロソンが次のような幸運を引き当てることになった。この男が緋色の外套をまとってメンフィスの広場にいたところ、当時カンビユセスの親衛隊にいて、まだ頭角を現していなかったダリウスがかれを見て、その外套がどうしても欲しくなり、かれの所へ行って外套を買い取ろうとしたのである。

ダリウスが外套を熱烈に欲しがっているのを見たシュロソンは、神の霊感が働いたようで、次のようにいった。
「私はどんなに金を積まれても、これを売るつもりはないが、それほど望んでおられるなら、無償で差し上げることにしよう」
ダリウスはこの言葉に感激し、外套を譲り受けることとなった。

[3.140] シュロソンは、自分の馬鹿げた気前の良さによって外套を失ってしまったと悔いていた。ところが時が移りカンビュセスがこの世を去り、またマゴスに対する七人の決起があり、そして七人の中からダリウスが王位に昇ることになった。するとシュロソンは、王位を継いだ人物が、かつてエジプトで外套を与えた人物であることを知ったのである。そこでかれはスサに上って王宮の門前に行き、自分は王に恩義を売った者であると告げた。

それを聞いた守衛が王に進言すると、ダリウスはいぶかって守衛に問うた。
「どこのギリシア人がワシに恩を売ったのだと?王になって日も浅いのに、そのようなことであの国から人が来ることなど一人もおらぬわ。ワシがギリシア人から恩義を受けたなどということは、まずないといってよい。とはいえ、その男を中へ連れて参れ。どういうつもりか確かめてやろう」

やがて守衛がシュロソンを連れてくると、一座の前に立ったシュロソンに、通訳たちが、お前は何者で、何を根拠に王の恩人だというのか、と訊ねた。そこでシユロンンは外套にまつわるいきさつを話し、外套を譲ったのは、この自分であると主張した。

これに対してダリウスが答えていうには、
「おお、この上なく気前の良い男よ。ワシがまだ何の力も持っていなかったときに、贈物をくれたのは汝であったか。あの時お主が譲ってくれた外套は取るに足らぬ物だったが、その時の嬉しさは、いま莫大な贈物をうける時の嬉しさに決して劣るものではないぞ。汝がヒスタスペスの子ダリウスに示した好意を悔いることがないように、礼として巨額の金銀を与えよう」

するとシュロソンはこれに返して、
「殿、私は黄金も銀も要りませぬ。ただし、私の兄ポリクラテスがオロイテスによって惨殺され、我々の奴隷だった者が支配しておるわが祖国サモスを、私めに取り戻して頂きたい。それも人も殺さず、市民を奴隷にすることもなく」

[3.141] これを聞いたダリウスは、七人のうちのひとりであるオタネスを指揮官として遠征軍を送ることにし、オタネスにはシュロソンの要望を何なりとかなえてやれと命じた。そこでオタネスは沿岸地帯に下り、遠征軍の準備を調えた。

[3.142] その時のサモスは、ポリクラテスから統治を任されていたマイアンドリオスの子マイアンドリオスが支配していた。この人物は、誰よりも公正たるべく志しながら、それを果せなった人物である。

それはポリクラテスの死を知らされたときのこと、真っ先にかれがしたことは、解放者ゼウスの祭壇を設立したことで、その周囲を聖域としたが、これは今でも街の城外に残っている。そのあとには全市民を集めて次のように語った。

「諸君も知っているように、ポリクラテスの王権と全権は私に任されており、今の私には諸君を支配下におくことができるのだ。しかし私は、隣人の行ないに怒りを覚えるようなことは、私自身はしないつもりだ。すなわち、ポリクラテスないしは誰であれ、自分と同じような人間の上に君臨することは私が嫌っていることなのだ。そしてポリクラテスがその運命を全うした今、私はかれの権力を諸君すべてに委ね、市民平等をここに宣言する。

しかしながら私の特権として、ポリクラテスの資産のうちから六タラントンのみは私の所有に帰すること、さらには解放者ゼウスの司祭職を、私と私の子孫のために任ずることを要求する。この神の神殿を建立したのは私であり、いま私が諸君に自由を与えるからだ」

このようにマイアンドリオスが誓ったのだが、そのとき市民の中の一人が立ち上って云った。
「生まれも卑しく虫けらのようなお前に、我々を治める資格などがあるものか!それよりもお前が握っていた資産の会計報告をするがいい!」

[3.143] こう叫んだのは市民の中でも名高いテレサルコスという者だった。マイアンドリオスは、自分が政権を放棄したとしても自分に代わって他の誰かが覇権を握るだろうということがわかったので、政権を放棄しないことを心に決めた。そして城中に引っ込むと、財政の説明をすると言いつくろって市民を一人ずつ呼びよせた上で、その者たちを捕らえて拘束したのである。

ところが市民を投獄したあと、マイアンドリオスは病をえて病臥してしまった。するとかれの弟リカレトスは、兄の命は長くないものと合点し、自分がサモスの覇権を掌握しやすいようにと、投獄中の者たちをことごとく殺してしまった。こうなったのは、彼らが自由の身を望まなかったためであろうかと思われる。

[3.144] かくてペルシア軍がシユロソンを連れてサモスに到着すると、抵抗する者は一人もおらず、マイアンドリオス自身やその一党は、休戦協定を結べば島を引き払うと申し出た。オタネスはこの提案を容れて協定を結んだ結果、ペルシア軍の首脳陣は、アクロポリスに面したところで椅子を並べて座っていた。

[3.145] ところで僭主マイアンドリオスにはカリラオスという乱心気味の弟がいたが、この者は何らかの悪事をはたらいて地下牢に入れられていた。かれは外の変事を耳にして地下牢の窓から外を覗き見たところ、ペルシア人たちがのんびり坐っているのが見えた。

するとこの男はマイアンドリオスに話があると大声で叫んだ。これを聞いた兄は、カリラオスの縛めをといて自分のもとへ連れて来させた。引き出されるやいなや、カリラオスは兄を罵って咎め、ペルシア軍を攻撃するよう促した。そのとき発した言葉は、
「何という臆病者よ。自分の弟だというのに、しかも牢に入れるほどの悪事は犯していないのにワシを縛りつけて地下牢に押しこめておきながら、ペルシア人がお主を国から追い払おうとしていても、抵抗する勇気もないのか。相手は手もなく打ち負かせるかもしれないというのに。

ペルシア人が怖いと兄者がいうなら、ワシに傭兵部隊を任せてくれ。そうすれば、ここへやって来たことの報いを奴らに知らしめてやろう。案ずることはない、兄者は無事に島から抜け出せるよう計らってやるからな」

[3.146] カリラオスがこういうと、マイアンドリオスは弟の言い分を受け入れた。マイアンドリオスがこのような決断を下したのは、私の考えでは、自分の兵力が大王の兵力に充分上回ると考えるほど、かれが無分別だったというのではなく、サモスの街を何事もなく無傷でシュロソンに渡したくなかったためであろうと思われる。

そこでかれは、ペルシア人を怒らせてサモスの国力をできるだけ弱め、その上でこの街を引き渡そうとしたのだ。というのも、ペルシア人はサモス人から危害を加えられると激怒するだろうことをかれはよく判っており、またアクロポリスから海に通ずる秘密の抜け道を知っていたので、望むときには何時でも安全に島を脱出できると考えていたからである。

かくしてマイアンドリオスは船でサモスを脱出したが、カリラオスの方では傭兵部隊に武器を取らせた上で城門を開き、ペルシア人への攻撃を開始した。ペルシア人は休戦協定が完全に成立したものと考え、すっかり警戒を解いていた。そこへ傭兵部隊がペルシア人に襲いかかり、椅子に座ったままて移動する最高位の要人たちを殺戮したのである。

しかしそのとき、ペルシア軍の残存部隊が増援に駆けつけてサモスの傭兵部隊を押し戻したので、かれらはアクロポリスの中へ撤退したのだった。

[3.147] ペルシア軍が大打撃を受けたのを見た将軍オタネスは、出発の際にダリウスから受けた指示、すなわちサモス市民を殺さず、奴隷にもせず、島を無傷のままでシユロソンに返してやれという指示をわざと忘れたことにして、捕らえた者は男であれ子供であれすべて殺せと配下の部隊に命じた。

そこで軍の一部はアクロポリスを攻囲し、別働隊は聖城の内も外も、誰彼なく皆殺しにしたのである。

[3.148] 一方、サモスを脱出したマイアンドリオスはスパルタに船を進め、そこに到着すると、脱出したときにに持ち出した財宝を運び出させ、次のようなことをした。すなわち金銀の盃を並べ置き、下僕たちにこれらを磨かせ、他方で自分はアナクサンドリデスの子でスパルタ王のクレオメネスに面会し、王を自分の邸に招いたのである。クレオメネスが盃を見るたびに大いに驚嘆するのを見て、マイアンドリオスは好きなだけ持っていってくれと云ったものである。

このようなマイアンドリオスによる申し出は二度三度におよんだ。しかしクレオメネスは比類なき清廉さをもって、それを受け取ろうとしなかった(*)。またクレオメネスは、やがてはマイアンドリオスから盃を受け取り、かれを援助するスパルタ市民が現われるに違いないと考え、執政官のところへゆき、サモスからの到来者が自分や他のスパルタ人を籠絡して堕落させるようなことのないように、この男をペロポネソスから追放することがスパルタにとって最善策であると説き伏せた。すると監督官たちはかれの助言を聞き容れ、布告を発してマイアンドリオスを追放したのであった。

(*)第五巻四十九節以下を参照

[3.149] サモス島については、ペルシア軍はこの島を網で掬うように一掃し(*)、無人状態にしてからシュロソンに引き渡した。しかし後になってから、この時のペルシア人将軍オタネスは、ある夢を見たことと陰部に生じた病がきっかけとなって、サモス島の植民に協力している。

(*)第六巻三十一節

[3.150] サモスに向って艦隊が出航した頃のこと、バビロン人が反乱を起した(41)。これはきわめて周到に準備した上でのことだった。マゴスの施政から七人の決起に至るまでの期間と、これに伴う混乱の期間を通じて、彼らには籠城に備える時間の余裕があったのだ。また、どうしてかは判らないが、その動きは感づかれなかったのである。

(41)ヘロドトスの話の流れでは、この反乱はダリウスの即位(B.C.531)からかなり後のように思える。ところがベヒストン碑文ではダリウスが即位する以前の事件とされている。

そして公然と反乱を起こすに当たり、彼らがしたことというのはー。まず母親を除き、おのおの自分の家族の中から好みの女を一人だけを飯炊き女として残し、その他の女は、食糧の消費を減らすために、すべて集めて絞殺したのである。

[3.151] このことを知らされたダリウスは、配下の全軍を招集してバビロン人の制圧に向けて出陣した。そしてバビロンの街に着くやこれを攻囲したが、バビロン人は城を包囲されても少しも意に介さなかった。彼らは城壁の堡塁にのぼり、ダリウスとその軍勢を口汚く罵り、身振りによっても嘲った。そしてそのうちの一人がこんな言葉を吐いた。

「おーいペルシア人どもよ、どうしてそんなところにぶらついているんだ?さっさと退散したらどうだ?お前たちがワシらを征服するには、ラバが仔を産むようなことにならんと無理だろうよ」
あとになってからラバが仔を産むとは知らず、バビロン人の一人はこのように嘲ったのであった。

[3.152] そして一年七ヶ月が経過したが、依然バビロンを攻略できずにいたことから、ダリウスおよびその麾下の全軍は焦りをみせていた。とはいえ、その間ダリウスはバビロン攻撃のためにありとあらゆる計略、および攻撃のための装置を駆使していた。ダリウスは、かつてキュロスがバビロン攻略に用いた戦略を試みたり、その他あらゆる戦略や攻城装置を試してみたが、いずれも成功に至らなかった。バビロン人は警戒怠りなく、どのようにしても陥れることができなかったのである。

[3.153] 城攻めが二十ヶ月目になった頃、マゴスを倒した七人の一人であるメガビゾスの子ゾピロスに、不思議なことが起きた。それは、ゾピロスが食糧運搬に用いていたラバの一頭が仔を産んだことだった。ゾピロスはその報せを信じなかったが、みずからラバの仔を確かめた上で、かれは、それを見た者たちに、このことを誰にも話すなと口止めをしておいた。

そのあと考えに耽ったゾピロスは、バビロン攻撃の当初にバビロン人の放った言葉を思い出した。
「ラバが仔を産めばバビロンは陥落する」
この言葉を思い出したゾピロスはバビロン陥落の時がきたと閃いた。あの男の言葉や自分のラバが仔を産んだのは神の啓示に違いないと、ゾピロスは合点したのだ。

[3.154] 今やバビロンの命運が尽き、陥落の時がきたと考えたゾピロスは、ただちにダリウスのもとへゆき、バビロンを攻略することを偉大な功績とみなされるかどうかと訊ねた。その通りだという王の返答を聞いたゾピロスは、次には自分ひとりでバビロンを陥落する計画を練った。それというのも、ペルシアでは勲功を挙げることがその人物の偉大さの大きな証しとされ、高位高官への道すじと見なされているからである。

そこでゾピロスは、わが身を損壊して脱走者を装い、バビロンにもぐり込む方法以外には、これを落とす手立てはないと考えるに至り、わが身が毀損することをものともせず、身体を元通りにできないほど傷つけた。すなわち自分の鼻と耳を切り落し、髪も短く刈りあげてみすぼらしくし、自分の身体に鞭を打ってダリウスの面前に出向いたのである。

155高貴な身分の男がかたわとなっているのを一目見たダリウスは、大いに驚くとともに椅子から飛び上がって叫び、お主をこのような目に遭わせたのは誰か、また何をしてそのような姿になったのかと、ゾピロスに訊ねた。

「誰でもありませぬ」
とゾピロスが返答する。
「私をこのような目に遭わせる力のある人物は、殿以外にはおられませぬ。そしてこのようなことをしでかしたのはそれがし自身で、ほかの誰でもありませぬ。アッシリア人どもがペルシア人を愚弄するのに我慢ならなかったゆえにござる、殿!」

これにダリウスは答えて、
「なんと無鉄砲な男よ。籠城しておる者どもに怒って自分の身体を元の姿に戻せぬようにしたなどと申すのは、見苦しい行ないに美名をかぶせているだけではないか。

この愚か者めが!お主が自分で身を傷つけたからといって、どうして敵の降伏が早まるというのじゃ?お主が自分の身体を毀損したなどということは、全く狂気の沙汰じゃ」

そこでゾピロスがいう。
「もし私がこの企てを殿に申し上げましたならば、殿はお許しにならなかったありましよう。それゆえ私は自分の一存で実行したのでございます。そこで、もし殿のお力添えをいただけるならば、バビロンは我々のものになりますぞ。と申しますのも、まず私はこの姿で脱走者として敵の城内に逃げ込み、殿によってこのような姿にされた、と彼らに申します。このようにして彼らを信用させれば、やがては部隊の指揮を任されるようになるものと考えます。

そこで殿におかれては、私が城内に入ったあと十日目に、失っても惜しくない軍勢のうちから一千を、セミラミス門の前に配置していただきたいのです。そのつぎに、その十日目から数えて七日目に、二千の兵をニネヴェ門に配置ねがいます。またこの七日目から二十日ののちに、四千の兵をカルディア門の前に配していただきたいのです。なお、先の部隊も後の部隊も、短剣以外の武器は持たさないように命じていただきたい。

そして二十日を過ぎましたならば、ただちに残りの全軍に、四方から城壁の総攻撃をかけて下されませ。ただしベロス門とキシアの門にもペルシア兵を配置ねがいます。私が予想しますに、私がたいそうな手柄を立てますれば、バビロン人どもはいろいろなことを私に任せるようになりましょうが、そのうちには城門の鍵も任せるようになると存じます。そのあとのことは私とペルシア軍とにお任せ願います」

[3.156] このようなことを王に進言したあと、ゾピロスは、いかにも本物の脱走者のごとく、うしろを振り返りながら敵の城門に向かって行った。望楼の上にいた見張りたちがこれを見ると、駆け下りてきて城門の片方の扉を少しだけ開け、お前は何者で、何用あって来たのかと訊ねた。ゾピロスは名を名乗り、ペルシアから彼らのもとへ脱走してきたのだと告げた

これを聞いた守衛たちは、かれをバビロンの司令所へ連れていった。ゾピロスは役人たちの前でいかにもみじめな風体を装い、実際には自分でしたことなのにダリウスにされたのだと偽って語った。そしてこうなったのは、バビロンを攻略する方策が見つからないので軍を引き上げるべきだと王に進言したからだと話した。そして言葉を継いで言うには、

「バビロンの方々よ、吾輩がここに来たことは、諸君にとっては何よりの恵み、ダリウスとその軍、またペルシア人にとっては大いなる不運となり申そう。吾輩をこのようなかたわにしたダリウスをば、決してそのままにはしておかぬつもりであるからに。それに吾輩はダリウスの軍略についてはことごとく知り抜いておるのでな」
このようにゾピロスは語った。

[3.157] ペルシアで最高位の要人が鼻も耳も削がれ、鞭の跡も生々しく血で腫れ上がった姿を目にしたバビロン人たちは、ゾピロスの言葉に嘘はなく、自分たちの味方をするために来たのだとすっかり信じ込み、彼の要求をすべてかなえてやる気になったのである。そこでかれは手兵を求めた。

部隊を手に入れると、かれはダリウスとの打ち合せ通りに行動した。すなわち十日目にはバビロン人部隊を率いて出撃し、第一陣として配置するようダリウスに進言しておいた一千の兵を包囲し、これを殲滅した。

ゾピロスがその言葉どおりの手柄を立てるのを目の当たりにしたバビロン人は大喜びし、何事によらず彼の命に従うようになった。そして打ち合わせたとおりの日数が経過すると、再びゾピロスはバビロン人の精鋭を選りすぐって出撃し、二千のダリウス軍を殲滅した。

再びこの勲功を見たバビロン人は、口々にゾピロスを褒め称えるようになった。そして再び約束の日数が過ぎると、かれはかねて指示していた場所へ部隊を進め、四千の兵を包囲殲滅した。この武勲を樹てるにおよび、今やゾピロスはバビロン人にとって第一人者となり、軍と城壁防衛の司令官に任ぜられたのである。

[3.158] そうこうしてダリウスが打ち合せどおりにバビロンの城壁に四方から攻撃をかけると、ゾピロスは化けの皮を脱いだのだった。バビロン市民が城壁の上から突撃してくるダリウス軍を防いでいる間に、ゾピロスはキシア門とベロス門を開き、ペルシア軍を城内に引き入れたのである。

ゾピロスの行動を目撃したバビロン人は、ベロスとバビロン人が呼んでいるゼウス神殿に逃げ込んだが、それを見ていなかった者たちは、裏切られたことに気づくまでは、皆それぞれの配置についたままであった。

[3.159] こうしてバビロンは再び占領された。バビロンを制圧したダリウスは、まずその城壁を取り壊し、かつてキュロスが最初にバビロンを征服したときには破壊しなかった城門もすべて撤去した。その上、街の要人たち三千人あまりを串剌の刑に処し、残りのバビロン人には街を返して居住することを許した。

そしてさきに話したように、バビロン人たちは食糧のことを案じて自分たちの女を絞殺していたので、ダリウスはバビロン人の子孫が絶えぬように彼らに女を確保してやった。すなわち近隣の諸民族に命じ、それぞれ一定数の女をバビロンに送らせたが、集められた女の総数は五万人に上った。現在の住民は、この女たちから生れたのである。

[3.160] ダリウスの見るところ、キュロスを除き、後にも先にもゾピロスの勲功を凌ぐことのできるペルシア人は一人もいないと思われた。事実ペルシア人のうちでは、ゾピロスに肩を並べうる者は一人としていなかったのである。ダリウスが繰り返し打ち明けていたことは、今のバピロンに加えてさらに二十のバビロンを手にするよりも、ゾピロスが五体満足でいてくれる方がよい、ということであった。

ダリウスはゾピロスを厚く礼遇し、毎年ペルシア人がもっとも珍重する品々をかれに贈り、また税を免じた上でバビロンの終身総督に任命したほか、さまざまの褒賞を与えた。このゾピロスからは、のちにエジプトでペルシア軍の将軍としてアテナイとその同盟軍を相手に戦ったメガビソス(*)が生まれている。またペルシアから逃亡してアテナイに亡命したゾピロスというのは、このメガビゾスの子であった。

(*)本巻十五節


第四巻

[4.1] バビロンを攻略したあと、ダリウスはみずからスキタイ遠征に乗り出した。これは、アジアの人口が激増したことで税収入が莫大な額に上ったことから、スキタイへの報復を思い立ったからである。というのもスキタイはかつてメディアへ侵略し、抵抗するメディア人たちを殲滅していたからだった。

以前話したように、スキタイ人は上アジア(1)を二十八年にわたって支配していた。彼らはキンメリア人を追ってアジアに侵入し、それまでアジアを支配していたメディアを滅ぼしたのである。

(1)ペルシア帝国東方の高原地帯

ところがスキタイ人が二十八年間祖国を離れ、久しぶりに帰国してみると、メディアと戦ったとき(*)と同じくらいに多くの問題が彼らを待ち受けていた。というのも、スキタイの女たちは夫が長きにわたって留守をしている間に奴隷と情を通じ、それが大きな勢力となって彼らに立ちはだかったからである。

(*)第一巻百六節参照

[4.2] スキタイ人は奴隷の目をつぶして盲目にし(2)、乳を搾らせている。そして次のようなやり方で乳を搾っている。笛によく似た筒状の骨をメス馬の陰部に差し込み、それに息を吹き込むのである。そして別の者が乳を搾る。彼らのいうには、こうするとメス馬の血管が膨張して乳房が押し下げられるというのだ。

(2)ヘロドトスの説では、奴隷の目をつぶすのは、彼らが馬乳の上質な部分を盗むのを防ぐためだという。しかし盲目奴隷の話は、スキタイ人の名前をギリシア人が誤訳したためと思われる。

搾った乳は深い木桶に入れ、その廻りに奴隷たちを立たせて桶を揺すらせる。そして表面に浮かんでくるものを最も珍重し、底に沈んでいる部分は質が劣るものとみなした。スキタイ人が、捕らえた者たちをすべて盲目にしたのはこのためである。これはスキタイ人が農耕民ではなく遊牧民であることからきている。

[4.3] さて奴隷とスキタイ人の女たちの間に生れた若者たちが成長し、やがて自分たちの素姓を知るにおよび、メディアから帰ってきたスキタイ人たちに刃向う姿勢をみせたのだ。

まず彼らは、タウリケ山脈からマイオティス湖(3)の最も拡がっている地点まで幅広い堀を造り、スキタイの国に入る道を遮断した。そして入国しようとしたスキタイ人に向って陣を構え、戦に臨んだ。

(3)アゾフ海のこと。アゾフ海の位置ははっきりしない。これはアラバト地峡とクリミア半島の間の水道である腐海(Putrid Sea)のことを言っているのだと考える人もいる。少なくともアゾフ海のもっとも幅広い地点には一致する。

戦いは幾度も繰り返されたが、スキタイ人は優位に立つことができなかった。このような中で、ある男がいうには、
「諸君、ワシらは何をしているのだ?われらの奴隷と戦っているということは、ワシらが殺されると味方の数が減り、相手を殺せば奴隷の数が減るのだぞ。

吾輩の考えでは、これ以後槍や弓は捨て去り、おのおの馬の鞭を手にして奴らに相対するべきじゃ。なぜかというに、我々が武器を持っている限り、奴らも我々と対等だと思い込んでしまうのだ。しかし我々が武器の代わりに鞭をもっているのを見れば、相手は我々の奴隷であることを思い出すだろう。そうすれば刃向かうこともないはずだ」

[4.4] これを聞いたスキタイ人たちは、そのとおりに実行した。すると相手方はその光景にびっくりし、戦うことも忘れて逃走していった。かくしてスキタイ人はアジアを支配した後、再びメディア人に追放され、先ほど話したような次第で帰国したのである。このような理由で、スキタイに報復するために、ダリウスは遠征軍を招集したのだ。

[4.5] スキタイ人は世界中で最も歴史の新しい民族だと彼らは称し、その成り立ちは次のようだといっている。その当時荒れ果てた地であったこの国にタルギタオスという名の男が誕生した。このタルギタオスはゼウスとボリステネス河(4)の娘との間に生まれた子だと彼らは伝えている(私にはこの話は信じられないが、ともかくもそう云われている)。

(4)ドニエプル河

こうしてタルギタオスが生まれたというのだが、タルギタオスからはリポクサイス、アルポクサイスそして末子のコラクサイスの三人の息子が生れた。

この三人が支配していた時代に、天からある種の道具、すなわち全て黄金製の鋤、くびき、剣、椀がスキタイの地に落ちてきたのである。それを見つけた長兄が、それを取ろうとして近づいたところ、その黄金が燃え出したのでかれは取るのをやめた。

つぎに二番目の息子が近づくと、黄金は同じことを繰返した。こうして黄金は燃え、二人の息子は退けられたのだが、末の息子が近寄ると火は消えたので、この息子はそれを家に持ち帰った。それを見た二人の兄は、末弟にすべての王権を譲ることに同意したという。

[4.6] リポクサイスからはアウカタイと呼ばれるスキタイの一族が発し、次兄のアルポクサイスからはカテイアロイ、トラスピエスというの二つの一族が、末弟の王からはパララタイと呼ばれる一族が生まれている。

これらの民族は、ひとまとめにして王の名からスコロトイと呼ばれているが、ギリシア人はこれをスキタイ人と呼んだのである。

[4.7] スキタイ人が伝えるところでは、初代王タルギタオスからダリウスによるこの国への遠征にいたるまでの期間は、ほぼ一千年だとしている。そして歴代の王は、かの黄金製の神聖な器物を丁重に保管するとともに、年ごとに荘厳な生贄を捧げて敬っている。

この祭礼の際、野外で黄金の聖器を奉げもっている者が眠ってしまうと、この者は一年以内に死ぬという言い伝えがスキタイにある。その伝承によれば、そのために(5)、この役を受ける者には、その者が馬で一日乗り回すことのできる範囲の土地が与えられるという。なにしろ国土が宏大なため、コラクサイスはこの国土に三つの王国を造り、自分の息子たちに分け与えたが、その内の最も広い国に金器を保管させた。

(5)「このため」という言葉はわかりにくい。土地を与えるのは短命の代償であろう。

スキタイ人のいうところでは、この国の上手や近隣の地域は、降り注ぐ羽毛(6)のために先を見ることも進むこともできないという。地上も空も羽毛に満ち、これが視界を妨げるためだと言っている。

(6)本巻三十一節におけるヘロドトスの説明を参照;羽毛=雪

[4.8] スキタイ人が自国とその北方地帯について語るところはかくのとおりである。一方でポントス(黒海沿岸)に居住するギリシア人は次のように伝えている。ヘラクレスがゲリオネスの牛を追って、その当時は人が住んでいなかった地方で、いまはスキタイ人が住んでいるところへやって来たという。

ゲリオネスが往んでいたのはポントス(黒海)の西方(7)で、ヘラクレスの柱から外洋に出てガデイラ沿岸に近い、ギリシア人のいうところのエリテイア島だった。この外洋は陽の昇る地から発して全世界を流れ巡っているとギリシア人は考えているが、このことは確かめられているわけではない。

(7) 最西端部で、ガデイラはカディスのこと

ヘラクレスは、その地から現在スキタイと呼ばれている地にきたのだが、折から凍てつくような真冬の天候に遭遇したため、ライオンの皮を被って眠ってしまった。そうしている間に、戦車に繋がれ、草を喰んでいたメス馬が神かくしにでもあったのか、忽然として姿を消してしまったのである。

[4.9] 目を覚ましたヘラクレスは、馬を探してその国中をくまなく探しまわり、ヒライアという地にやって来た。そしてヘラクレスは、この地の洞窟の中 で、上半身は女、下半身は蛇の形をした怪物に遭遇した。

その怪物を見てヘラクレスは驚いたが、迷い馬を見なかったかと、その女に訊ねた。すると女は、馬は自分が預かっているが、自分と情交してくれぬ限りは返さないというので、ヘラクレスは馬を取り戻すために女と枕を交わした。

ヘラクレスは馬を取り戻すとさっさと立ち去りたいと考えていたが、女の方は、できるだけ長くヘラクレスを自分のもとへ留まらせようとして馬を返すのを遅らせていた。しかしついに女は馬を返し、こういった。

「これらのメス馬がここへやって来たので、私が貴方のために安全に預かっていました。そしてそのお礼は貴方からいただき、いま私は三人の子をみごもっています。この子たちが成長した暁には、どのようにすればよろしいでしょうか?私はこの国の女王ですので、ここにおいておきましょうか、それとも貴方のもとへ送りましようか?」

このように女が訊ねると、ヘラクレスはこう答えたという。
「子供たちが成長したなら、これからワシがいうようにすればよかろう。子供たちの中で、この強い弓をこのようにたわめて曲げ、このベルトをこのように締める者があったなら、その子をこの国に住まわせること。しかしワシの要求したとおりにできない者は、この国から追放すること。このようにすれば、お前自身も救われ、ワシの願いも果たされるというものだ」

[4.10] ヘラクレスは二張りの弓をもっていたが、そのうちの一張りを引いてみせ、またベルトも締めてみせ、弓と、ベルトの締め具の端に金盃のついた帯を女に与えてから去って行った。さて息子たちが生まれると、女は長子にはアガテルソス、次子にゲロノス、末子にはスキテスという名をつけた。そして息子たちが成長すると、ヘラクレスに云われたことを忘れず、その指示通りに実行した。

アガテルソスとゲロノスの二人は、母が言いつけたことが果たせなかったので国を去ったが、末子のスキテスはこれをやりとげたので国に留まることとなった。

スキタイにおける代々の王は、このヘラクレスの子スキテスの後裔である。スキタイ人が今に至るもベルトに盃をつけているのは、この故事によるものである。母親がスキテスのためにしてやったことはこれだけだった。以上が黒海地方に住むギリシア人の伝承である。

[4.11] ところが別の言い伝えもあり、私としてはこちらの方を信じたい。これによれば、そもそもはアジアの遊牧民だったスキタイ人が、マッサゲタイ人に攻め込まれたことで、アラクセス河(8)を越えてキンメリア地方に移住したという。すなわち現在スキタイ人が居住している地域は、以前はキンメリア人の領地だったのだ。

(8)第一巻二百二節参照。この河の流域に関するヘロドトスの叙述は曖昧である。ヘロドトスは、この河はカスピ海西方から発してその東部に注いでいると述べている。

スキタイ人が大挙して押し寄せてくというのでキンメリア人は評議を繰り返した。その意見は二つに分れ、双方ともに強硬だったが、王族の見解の方が潔かった。というのは民衆側の意見は、退散すべし、大軍に抗して命の危険を冒す必要はないというものだったが、王族側の意見は、攻め寄せる敵に対抗して国を守り抜こうというものだった。

双方は互いに相手を説き伏せることができず、一方は戦わずして国土を敵に委ねて撤退することを望み、王族側は、これまでどれほど幸福な境遇だったかを思い、また祖国を後にしたときに遭遇するかもしれない苦難を思って、民衆とともに逃亡するのではなく、祖国で討ち死にすると決意した。

このような決意をもとに、彼らは同じ人数を出して二組にわかれて対決した。そして王族組が相手の手にかかって全員が斃れると、キンメリアの民衆はテラス河のほとりに彼らを埋葬したが、その墓はいまも残っている。そして埋葬を終えると国を後にした。やって来たスキタイ人は無人の国を手に入れることになったという。

[4.12] いまもスキタイ地方には、キンメリア城壁とかキンメリアの渡しなどが残っており、キンメリア地方(9)やキンメリア海峡などもある。

(9)これは「クリミア」という名で残っている。「キンメリアの渡し」はおそらくアゾフ海への入り口にあたる狭い水道のことだろう。

さらに、キンメリア人がスキタイ人から逃れてアジアに入り、現在ギリシア人の街シノペのある半島に植民したことははっきりしている。またキンメリア人の後を追っていったスキタイ人が、道を誤ってメディアの国に侵入したこともはっきりしている。

キンメリア人は絶えず海岸沿いに逃げたのに対し、スキタイ人はコーカサス山を右に見ながら追いかけたが、途中で進路を内睦に変えたため、メディアの地に侵入したのだった。これが、ギリシア人や異国人が同じくして伝えている、もう一つの伝承である。

[4.13] またプロコネソス人でカウストロビオスの子アリステアスは、その詩作中で、これに関連する話を残している。それによると、ポイボス(アポロ)の神がかりによってアリアテスはイセドネスの国を訪れた。イセドネスを越えたところにはひとつ眼のアリマスポイ人(*1)が住み、その向うには黄金を守る怪鳥グリフィンがおり、さらにその向うにはヒペルボレオイ人(極北人)(*2)がおり、その領土は海(*3)にまで達していると、かれは書いている。

(*1)第三巻百十六節参照
(*2)本巻三十二節以下参照
(*3)黒海

ヒペルボレオイ人を除き、アリマスポイ人を筆頭にこれらすべての民族は絶えず近隣の民族に戦を仕掛けた。イセドネス人はアリマスポイ人によって国を追われ、スキタイ人はイセドネス入に追われ、さらに南方の海辺に住んでいたキンメリア人は、スキタイ人に追われて国をあとにしたという。かくてこの国に関しては、アリステアスの叙述も、スキタイ人による伝承とは一致しない。

[4.14] このような詩を書いたアリステアスの出自についてはもう話したので、次にこの人物についてプロコネソスやキジコスで聞いたことを話そう。それによると、アリステアスはその街では誰にも劣らぬ高貴な家柄の出だったが、プロコネソスで織物屋の店へ人った時に急死したという。

店主は店を閉めて死んだ人の縁者に知らせに行ったが、アリステアスが死んだという噂が街中にひろまった頃、その噂を打ち消そうとする、アルタケの街(10)からきたキジコスの男が現われた。この男は、キジコスに行こうとしているアリステアスに出会い、話をしたというのだ。こうしてキジコスの男は強く反駁したが、故人の縁者たちは埋葬に必要な用意をすべて調えて織物屋の店に出かけていった。

(10)キジコスの港にあるミレトス人の植民地

ところが店に入ってみると、生きているのか死んでいるのか、アリステアスの姿はどこにもなかった。このことがあってから七年後に、アリステアスはプロポネソスに現われ、今日ギリシアでアリマスペアと称されている詩を作ったのだが、この後ふたたび姿を消したという。

[4.15] 以上が、これら二つの街で伝えられていることである。しかし私はイタリアのメタポンティオンで、アリステアスの二度目の失踪から二百四十年後--この数字は私がプロコンネソスの件とメタポンティオン人が示したことから得た計算の結果である--次のような出来事があったのを知っている。

メタポンティオン人は次のように伝えている。あるとき、アリステアスがこの国に現われていうには、アポロンの祭壇を設け、そのそばにプロコンネソスのアリステアスの名をつけた像を据えよと。その理由をアリステアスは、かつてアポロが訪れた国としては、イタリアではこの国だけで、今の自分はアリステアスという人間であるが、そのときはカラスの姿でアポロにつき従っていたからだと語った。

このように告げてからアリステアスは姿を消したのだが、メタポンティオン人が伝えているところでは、彼らはデルフォイヘ使者を送り、この幻の男は何を示しているのかを神に伺わせた。するとデルフォイの巫女は、幻のいうとおりにせよ、そうすれば幸運がめぐってくるだろうと答えたので、彼らはこの託宣に従ったという。

だから今でもアポロンの神像の横にはアリステアスの名がつけられた像が立っていて、そのまわりは月桂樹の木で囲われている。そしてこの神像は街の広場に安置されている。アリステアスについてはこれですべて話したので終えることにする。

[4.16] 私がこの見聞記でこれから述べようとしている地域の北方については、正確に知っている者は一人もいない。それは、自分の眼で見たという人を見つけ出すことができなかったからである。ついさっき話したアリステアスでさえ、その詩の中で自分はイセドネスの国より先へ行ったとは語ってはおらず、それより北のことはイセドネス人から聞いた風聞だと言っているからである。

しかしはるか遠く離れた地方については、我々が確かに知り得たことをすべて話すことにしよう。

[4.17] スキタイの沿岸中央部に位置するボリステネス河の港(11)から北は、まずカリピダイというギリシア系スキタイ人が住んでおり、その向うにはアラゾネスという民族が住む。アラゾネス人もカリピダイ人も、ほかの点ではスキタイ人と似たような風俗習慣をもっているが、ただ彼らは穀物のほかタマネギ、ニラ、レンズ豆、アワなどを栽培して食用にしている。

(11)ミレトス人の植民地で、ギリシア語ではオルビア(幸運)、またはミレトポリス。黒海北方におけるギリシア人の最重要拠点。ボリステネス河は現在のドニエプル河。

アラゾネス人の上手には農耕スキタイ人が住んでいるが、彼らが穀物を栽培するのは、食用のためではなく、販売するためである。これらの民族の北にはネウロイ人が住んでおり、ネウロイの北は、我々の知る限りは無人の地である。以上がボリステネス河の西を流れるヒパニス河(12)流域の諸民族である。

(12)特定できず

[4.18] しかしボリステネス河の反対側(東側)では、黒海に一等近いところは森林地帯で、この北方には農耕スキタイ人が住んでいる。ヒパニス河畔に住むギリシア人は彼らをボリステネス人と呼んでいるが、彼ら自身はオルビア市民と称している。

この農耕スキタイ人は、東方へは三日の旅程にあるパンティカペス(13)という河に至る地域に居住している。また北はボリステネス河を遡航すること十一日を要する地域にわたって住んでいる。その北はずっと続く荒廃地である。

(13) 特定できず

この無人地帯を過ぎたところにはアンドロパゴイ人(食人種)(*)が往んでいるが、これはスキタイ人とは全く異なる。これより先は正に無人の荒廃地で、私たちの知る限り、いかなる人種も棲息していない。

(*)本巻百六節参照

[4.19] 農耕スキタイ人の居住地から東へゆき、パンティカペス河を越えると、そこは遊牧スキタイ人の地で、彼らは種も蒔かず、土を耕すこともしない。そして森林地帯を除き、樹木は一本もない。この遊牧スキタイ人は、東方に向って十四日の旅程にあるゲロス河(14)に至る地域に住んでいる。

(14)特定できず

[4.20] ゲロス河を越えた地は、いわゆる王領と呼ばれる地帯で、ここのスキタイ人は最も勇猛で人数も多く、他のスキタイ人を自分の奴隷と見なしている。彼らの領土はといえば、南はタウロイ人の国に達し、東はかの盲目の奴隷の子らが掘削した壕と、アゾフ海に臨むクレムノイ(15)にまでおよんでいる。また一部はタナイス河(ドン河)まで達している。

(15)アゾフ海の西岸にある。本巻百十節参照

王族スキタイ人の北には黒衣族とも呼ばれているメランクライナイ人が住んでいて、この民族はスキタイ系ではなく、別の民族である。この民族の向こうの地は見渡す限りの沼沢地で、我々の知る限りでは人は住んでいない。

[4.21] タナイス河(ドン河)の向こうはもはやスキタイの地ではない。その最初の地域はサウロマタイ人の領地で、この国はマイオティス湖(アゾフ海)の奥まった隅から始まって北へ十五日の旅程にわたる地域である。そしてその国土は野生であれ栽培されたものであれ、全く樹木がなく、まる裸である。第二の地域はサウロマタイ人の向こうに住むブディノイ人で、その国はあらゆる種類の樹木が厚く繁っている。

[4.22] ブディノイ人の国の北は、七日の旅程にわたって無人の地が続き、この荒廃地の果てたところでやや東に向きを変えると、独特で人口も多いテッサゲタイ人が住んでいる。彼らは狩猟によって生活している。

テッサゲタイ人と同じ地域で、これに接してイルカイという民族が住んでいて、これも狩猟によって生活しているが、彼らは次のようにして狩りをしている。この地方全体は深い森になっているので、狩人は木に登って身を隠す。そして腹ばいになって身を低くするよう訓練された馬と犬を各自が用意する。木の上から獲物を見つけたら、狩人は矢を射ってから馬にとび乗って獲物を追い、犬もすぐ後につき従ってくる。

これらの国を越えていくらか東方に進めば、別のスキタイ人が住んでいる。彼らは王族スキタイ人に背いてこの地にやって来たのである。

[4.23] これらスキタイ人の国は、どこも平坦で地味も豊かであるのに対して、これ以後の地域は石くれの多い荒れ地である。

長い旅程をかけてこの荒れ地を過ぎると、高い山脈(*)の麓に、男女ともに生れながらの禿頭で、かつ獅子鼻で顎が張っている人種が住んでいると云われている。彼らはスキタイ風の服装をしているが、独自の言語を話し、食べているのは木の実である。

(*)ウラル山脈と思われる

彼らが生活の糧としているのはポンティコンという木で、いちじくの樹とほぼ同じ大きさで、その実も豆ほどの大きさで、これには核がある。そして熟した実を布で漉して搾ると、黒くて濃い液が出てくる。この液を彼らはアスキユ(16)と呼び、そのまま舐めたり、乳と混ぜて飲んだりする。また搾りかすを用いて菓子を作り、これを食べている。

(16)プルヌス・パドゥス(Prunus Padus:蝦夷の上溝桜)の果実はコサックが飲用する「アスキ」のこと

このような食性は、この地の牧草地が痩せているので、家畜がほとんどいないためである。彼らは木陰に住み、冬は木に白いフェルトをかけ、夏はそれを使わない。

また彼らは神聖な民族だとされているので、誰からも危害を加えられることはない。従って戦のための武器は誰も持っていない。また近隣の国同士の争いを調停し、そのうえ、追放され保護を求めて避難してきた者は、誰からも危害を加えられることはない。彼らの名はアルギピアンという。

[4.24] この禿頭族に至るまでの地域やその近隣の民族に関する事情はすっかりわかっている。スキタイ人の中にはこれらの民族を訪れる者がいるので、彼らからたやすく情報を得られるからである。またボリステネスの港や黒海沿岸にあるほかの港から訪れるギリシア人からも事情を聞けるのだ。スキタイ人がこれらの地に来るときには、七人の通訳を伴って七ヶ国語を用いて商談するのである。

[4.25] そしてこれらの民族にいたるまでは、事情がよくわかっているが、禿頭族から先のことは、誰も正確なことは知らない。というのも踏破できない高い山脈が障壁となっていて、これを越えてゆく者は一人としていないからである。禿頭族のいうところでは(私は信じていないが)、その山脈にはヤギの脚をもつ人間が住んでいて、山脈を越えたところには、一年十二ヶ月のうち六ヶ月間を眠ってすごす民族が住んでいるという。しかしこれは私には全く受け入れることができない。

禿頭族の東方には確かにイセドネス人が住んでいるが、禿頭族またはイセドネス人の北方の地に関しては、これらの民族の言っていること以外は全く事情がわかっていない。

[4.26] イセドネス人の風習は次のようなものだと云われている。一家の父親が亡くなると、親類縁者が家畜の群れを伴って集まり、これを屠殺してその肉を切り刻む。また亡くなった一家の主である父親の肉も刻んで混ぜ合せ、これを宴会に供するのである。

死人の頭は皮を剥ぎ、きれいに洗ってから金箔を貼り、これを神聖な記念物のように保存しておき、年ごとに厳かな生贄を捧げる。こうして息子は父のために尽すのである。これはちようどギリシア人が死者を讃える祭礼を行なうのと同じである。そのほかのことでは、彼らは条理を弁えた民族だといわれ、女子も男子と同じ権利をもっていると云われている。

[4.27] このように、イセドネス人についても事情はわかっているが、この民族から北のひとつ眼族と黄金を守る怪鳥グリフィンに関しては、イセドネス人が伝えていることである。この話はスキタイ人が彼らから聞いたことで、それを我々はスキタイ人から聞き、その話が世に広まっているのである。この種族をスキタイ語でアリマスポイと呼んでいるのもそのためで、スキタイ語でアリマは「一」、スプーは「眼」のことである。

[4.28] 以上の国はすべてひどい寒冷地で、一年のうち八ヶ月間は堪えがたい寒さである。この期間は地面に水を注いでも土は泥にはならず、火を焚いてやっと泥になるほどである。海も凍結し、キンメリア・ボスポラス海峡(クリミア半島東)もすべて凍るので、塹壕の内側に住むスキタイ人は氷上に車を走らせてシンドイ人の国まで軍を進めるのだ

このように冬の八ヶ月間は続くが、残りの四ヶ月も寒さは去らない。この地の冬は他の地域の冬とは性質が異なっていて、夏になると絶え間なく雨が降るのに対し、雨期でもほとんど雨が降ることはない。

他の地域で雷の発生する時期には、この地では発生しないで、夏に頻繁に発生する。冬に雷が鳴ると、この地の住民は何かの前兆ではないかと不審に思う。また夏と冬とにかかわらず、地震も何かの前兆と思われている。

またこの国では馬がスキタイの冬に耐えるのに対し、ラバもロバも全く寒さに弱い。しかし他の地域では、ラバやロバは寒さによく耐えるが、馬は寒中に立っていると凍傷にかかる。

[4.29] 私の考えでは、スキタイの牛に角が生えないのは、この寒さによるものだろう。次に挙げるホメロスのオデッセイア中の詩句が私の考えを裏打ちしている。

 「仔羊の生まれるや、たちまちに角生やすリビア」
  ホメロス;オデッセイア、第四歌八十五節

まさしくこの詩で正鵠を射ているように、暑い国では角の生えるのが早いのだが、一方で酷寒の国では、獣に角の生えることはほとんどないか、あるいは全くといってない。

[4.30] このような現象がスキタイの国で起るのは寒さのせいである。しかし私が不思議に思うのは(もともと本書は横道にそれることを常としているので)、エリス地方(*1)は寒冷地でもないのに、しかもそれ以外に明らかな原因がないにもかかわらず、その全土でラバが生れない、ということである。エリス人自身がいうには、彼らの国でラバが生まれないのは呪い(*2)のせいだということだ。

(*1)ペロポネソス半島(現ギリシア)西北部
(*2)エリス王オイノマオスが馬を愛でるあまりにラバが生まれることをひどく呪ったという伝説がある。プルターク、倫理論集(Plutarch, Moralia. The Greek Questions., II, 303)を参照

そこでエリスでは、メス馬の発情期がやってくると、それを近隣の地方に連れてゆき、それからロバを連れて行ってメス馬が孕むまで交配させ、そのあと再び馬を国へ連れ帰るのである。

[4.31] スキタイ人がいうところの、大気が羽毛で満ちあふれ、そのために先を見通すことも陸地を横断することもできない、ということについては、私は次のように考えている。

この地域より北の地では、夏は冬ほどではないにしろ、絶えず雪が降っている。身近で雪がおびただしく降るさまを見たことのある人ならば、私のいわんとするところがわかってもらえるだろう。つまり雪は羽毛のごときもので、私が話したような冬の厳しい気候のせいで、この大陸の北部には人が住んでいないのである。それゆえ、スキタイ人やその近隣住民は、雪のことを比喩として羽毛と言っているのだと私は考えている。以上、もっとも遠い地域について語られていることを述べた。

[4.32] ヒペルボレオイ人(極北人)という人種については、スキタイ人もこの地域に住むその他の住民も、イセドネス人は別として、なにも語っていない。私の考えでは、イセドネス人も全く語っていないのだ。仮に彼らが語っているならスキタイ人も、ひとつ眼族について語っているように、これについても伝えているはずだからである。しかしヘシオドスは極北人について言及していて(*)、またホメロスも叙事詩エピゴノイ(17)の中で(この詩が本当にホメロスの作であるとするなら)このことに触れている。

(*)ヘシオドスの著作中には、これに関する記述は見当たらない、とされている
(17)叙事詩還中の一編(The Heroes' Sons);七人の英雄によるテーベ攻撃譚の続編。しかし現存しない。

[4.33] ところがデロス人(18)は他の誰よりも極北人について多くのことを語っている。彼らの語るところでは、麦ワラに包まれた供物が極北人の国からスキタイに届くと、そこから隣国の住民に順次受け渡されて、はるか西の果てのアドリア海にまでゆくのである。

(18)極北人に関するデロス人の物語は、初期の時代から北ヨーロッパと南東ボスポラスを結びつけていた交易路があったという事実の傍証となるものである。とりわけ琥珀はバルト海からエーゲ海へ運ばれていた。

供物はここから南方に運ばれるのだが、これを最初に受け取るギリシア人はドドネ人である。さらにこのドドネ人から南に下ってマリス湾に送られ、海を渡ってエウボイア島に行き、街から街へ次々に送り出されてカリストスに着く。ここからはアンドロス島を省略してテノス島に運び、最後にテノス人がデロス島へ届けるのである。

このようにして供物はデロスに到着するという。極北人は初期には二人の娘に供物を持たせて送り出したのだが、娘の名はヒペロケとラオディケだったとデロス人は伝えている。そして護衛として五人の男を娘に同行させて道中の無事をはかったが、この五人は今でもペルプレエス(19)の名で呼ばれ、デロスでは大いに敬われている。

(19)おそらく荷役夫

さて極北人は送り出した者たちが帰ってこないので、それ以後も派遣した者たちが帰ってこないようなことが続くと大問題になると考え、それからは供物を麦ワラで包んで国境まで運び、それを隣国人に託して次の民族に送ってくれと頼むことにしたのである。

このようにして供物は伝送されてデロスに到着したと云われている。私自身も、この供物の件と同じような慣習があるのを知っている。すなわちトラキアやパイオニアの女たちも、女王アルテミス神に生贄を捧げるときに、麦ワラを用いているのである。

[4.34] さてデロスに骨を埋めた極北人の娘たちの霊を慰めるために、この国の少年少女はその髪を切って供えている。嫁入り前の少女たちは一房の髪を切りとり、これを糸巻棒に巻きつけて墓に供えるのだ。

墓はアルテミス廟に入って左側、オリーブの樹の根元にある。デロスの少年たちは青草の茎に髪を巻きつけて同じように墓に供える。

[4.35] このようにデロスの住民は娘たちを崇めているのだが、同じデロス人の伝えるところでは、このヒペロケとラオディケの前にもアルゲとオピスという極北人の娘が、先に説明したのと同じ国々を経てデロスヘ来ているという。

ヒペロケとラオディケはエイレイテイア女神(*)に捧げる安産祈願の貢ぎ物を持参してきたのだが、アルゲとオピスは神々(20)に随行してきたといわれているので、デロス人は彼ら独自の崇め方をしている。

(*)レトがデロスでアポロとアルテミスを産むとき難産だったのを、エイレイテイアが手助けしたという伝説がある
(20)アポロとアルテミス

すなわちデロスの女たちは、リキア人のオレンがこの二人のために創った讃歌でその名を唱えつつ寄進を募るのだが、島嶼の住民やイオニア人もオピスとアルゲの讃歌を歌って寄進を募るのは、デロス人のこの風習によるものだという。なおデロスで歌われる他の古い讃歌を創ったのも、このリキア人オレンである。

そして祭壇の上で生贄獣のモモ肉を焼いて捧げ、その灰は残らずオピスとアルゲの墓に撒くと云われている。この二人の墓はアルテミス廟の奥で東に面していて、ケオス人の宴会場のごく近くにある。

[4.36] 極北人については充分語ったのでここまでとしよう。極北人で、食を絶ったまま例の矢を持って世界中を廻ったと伝えられているアバリスに関する物語は、ここで述べるつもりはない。仮に極北人(ヒペルボレオイ人)がいるとすれば、一方で極南人(ヒペルノテイオイ人)もいるはずなのだが。

そしてこれまで、いかにも多くの人が世界地図を描いてはいるが、ひとつとしてまともなものがないを見るにつけ、私は嗤ってしまうのだ。彼らは陸地をコンパスで描いたごとく円形に描き、その周りにオケアノス河が流れているように配置し、アジアとヨーロツパを同じ大きさにしている。私としては、この二つの地域の大きさと、その形状を少し説明してみるつもりだ。

[4.37] ペルシア人が住む陸地は、紅海(*1)と呼ばれている南の海(*2)にまで続いている。その北方にはメディア人、メディア人の先にはサスペイレス人、サスペイレス人の先にはコルキス人が住み、これはパシス河が流れ込む北の海(21)にまで至っている。すなわちこれら四つの民族は海から海の間に住んでいるのである。

(*1)現在の紅海ではなく、ペルシア湾とその近隣の海域;第一巻一節参照
(*2)インド洋
(21)黒海。本巻四十二節における「北の海」は地中海を指す

[4.38] この地域の西には二つの突出部が海に延びているが、これからこれについて述べよう。

最初の突出部の北側はパシス河から発して海に向い、黒海とヘレスポントスに沿ってトロイア地方のシゲイオン岬にまで延びている。この突出部の南側は、フェニキアにあるミリアンドロス湾からトリオピン岬に至るまで海に延びている。そしてこの突出部には三十の民族が住んでいる。

[4.39] これがひとつ目の突出部で、次の突出部はペルシアに発して紅海に延び、ペルシアの地とこれに続くアッシリア、そこからアラビアへと至る。この突出部は、ダリウスがナイルから運河を開いたアラビア湾に終っている。事実としては終わってはいないが、通念としてそう言っている。

ペルシアからフェニキアの間はきわめて広大な陸地になっているが、フェニキアから我らの海寄りには、シリア・パレスチナとエジプトがある。そして突出部はここで終わっている。この突出部に住んでいるのは三つの民族だけである。

[4.40] 以上がペルシアから西のアジアである。ペルシア、メディア、サスペイレス、コルキスより先の東には、一方で紅海が、北にはカスピ海と東にに向って流れるアラクセス河がある。

インドに至るまでのアジアには人が住んでいるが、インドから東は荒廃地で、その地の状況を語ることのできる者は一人もいない。

[4.41] 以上がアジアで、広さはこの通りだが、リビアは第二の突出部にある。それは、リビアがエジプトに続く地であるから。そしてこの突出部はエジプトの地で狭くなっている。事実、我らの海から紅海までの距離は、十万ファゾム(二百粁)、すなわち千スタディア(百八十粁)しかない。しかしこの狭い地域を過ぎれば、突出部はいわゆるリビアとなり、その地の幅はきわめて広くなる。

[4.42] そこで、リビア、アジア、ヨーロッパを区切った人たちのことが、私には不思議に思われてならない。というのも、この三者の違いは小さくないからである。ヨーロツパは他の二者と並ぶ長さがあり、幅については、どこを比べても広いように、私には思われる。

アジアに接している地域を除けば、リビアが海に面していることは明らかである。そしてこの地を最初に発見し、知らしめたのはエジプト王ネコスだった。この王はナイル河からアラビア湾に通ずる運河の開墾を中止したあと、フェニキア人を船で送り出し、帰国の際にはヘラクレスの柱を通って北の海(*)に出てからエジプトに戻るよう命じておいたのである。

(*)地中海

こうしてフェニキア人たちは紅海を出航して南の海(*)を進んでいった。そして秋になるたびに、その時航海していたリビアの地に接岸して穀物の種を蒔き、収穫の時を待ったのである。

(*)インド洋

そして穀物を採り入れてから出航することを繰り返して二年が経過し、三年目にヘラクレスの柱をまわってエジプトに帰ってきた。そして彼らは、リビアを周航中、太陽はいつも右手にあった(22)というのだが、これは一部の者は信じるかもしれないが、私は信じない。

(22)ヘロドトスは信じていないというが、これは偶然にも話を確かにしている。それは、船が東から西に航行して喜望峰をまわると、南半球では太陽は右に見えるからだ。現在ではほとんどの識者がこの周航譚を認めている。

[4.43] こうしてリビアの事情が始めてわかったのだが、これにはカルタゴ人の言い伝えもある。アカイメネス族のひとりでテアスピスの子サタスペスが、先の目的で派遣されたにもかかわらず、リビア周航を果さなかったということである。この男は航海が長期にわたることと孤独に嫌気がさして、母に言いつけられた役を果すことなく戻ってきたのである。

そもそもは、このサタスペスが、メガビゾスの子ゾピロスの未婚の娘を犯したことにある。そこでクセルクセス王が串刺しの刑で処罰しようとしたところ、ダリウスの妹であるサタスペスの母が、王よりも重い罰を息子に課すからといって取りなしたのである。

すなわちサタスペスにリビアへの周航を命じ、ここを廻ってアラビア湾に帰還させるというのであった。クセルクセスがこれに同意したのでサタスペスはエジプトヘゆき、ここで船と船員を手に入れ、ヘラクレスの柱を目指して出航した。

そしてここを通ってソロエイス(23)というリビアの岬を廻って南へ向って進んでいった。ところが何ヶ月も海原を越えたものの、まだまだ航海を続けなければならないことに嫌気がさして、この男はエジプトヘ戻って行ったのである。

(23)おそらくマデイラ諸島のカンティン岬、あるいはモロッコのスパルテル岬

サタスペスはエジプトからクセルクセス王のもとへ伺候し、航海の報告をした。すなわち最も遠くの地は小人の国で、この小人はヤシの葉を身につけていること。自分たちが船で岸に近づくと、必ず部落を後にして山中へ逃げてしまったこと、自分たちが陸に上がっても、家畜を除き住民からは何も奪うことはしなかったことなどを報告した。

そしてリビアを完全に廻って来られなかった理由として、船がそれ以上先に進むことができなかったことを申し述べた。しかしクセルクセスはサタスペスの話を真実とは認めず、課せられた任務を果さなかったものとして、先に処罰を定めたとおり、この男を串刺しの刑に処した。

このサタスペスは宦官をひとり抱えていたが、これが主人の死を聞くと、ただちに莫大な財宝とともにサモスに逃亡した。しかしこの財宝は、あるサモス人が差し押えてしまった。私はこのサモス人の名を知ってはいるが、あえてその名を伏せることにする。

[4.44] アジアについては、そのほとんどがダリウスによって発見されている。たとえば世界の河川としては二番目にワニの棲息するインダス河があるが、ダリウスはこの河が海に注ぐ場所を知りたいと思い、自分が信をおいているカリアンダ人のキラックスその他の者たちを船で送り出した。

一行はパクティエス国のカスパテユロスの街(*)から船出し、河を東に下って海に達した。そこから海上を西に進み、三十ヶ月目に、先に述べたところのエジプト王がリビア周航のためフェニキア人を出航させた地点に到着した。

(*)第三巻百二節参照;カスパテユロスは現在のカブール

この一行が周航を終えたあと、ダリウスはインド人を征服するとともに、この海域を利用した。このようにしてアジアは東方を別として、他の方面はリビアと同じように事情がわかったのである。

[4.45] しかしヨーロッパの東と北については、はたして河に面しているのかどうかを明言できる者は一人もいない。ただ、ヨーロッパがアジアとリビアを合わせた距離まで充分延びていることはわかっている。

しかしもともとは一つの大陸なのに何ゆえに三つの女の名がつけられ、何ゆえにエジプトのナイル河、ルキスのパシス河(マイオティス湖に注ぐタナイス河とキンメリアの渡し(24)を境界に挙げる人もある)が、その境界とされているのか、私には理解できない。そしてそのような区分けをした人たちの名前も、それらの名称の由来も私は突きとめることができていない。

(24)本巻十二節

たとえばリビアについては、この地の女の名前がその名の由来で、アジアはプロメテウスの妻(25)の名に由来すると多くのギリシア人がいっている。しかしリディア人は、アジアという名称はプロメテウスの妻であるアシアに由来するものではなく、マネスの息子であるコテスの子アシアスによっていると主張し、サルディスのアシアッド族の名称も、この人物の名前によるものだとしている。

(25)プロメテウスは、アイスキュロスとシェリーが讃歌を捧げた、人類に炎を与えた人物。アシアは、アイスキュロスの悲劇「縛られたプロメテウス」における主要人物

ヨーロッパについては、海で囲まれているのかどうかを知っている者はひとりもおらず、その名称がどこからきているのか、命名したのが誰なのか、誰も知らない。唯一我々がいえることは、テュロスの女エウロペがこの地の名称の起源であるということである。それまではヨーロッパも他の大睦と同じく無名であったと思われる。

しかしこの女はアジアの生まれであることが明らかで、しかも今日ギリシア人がヨーロッパと呼んでいる地へ来たことはなく、フェニキアからクレタへ、クレタからリキアまでしか来ていないのだ。さて、これらの話題については充分述べたので、これまでとしよう。これらの名称は慣習に従って用いることにする。

[4.46] さてダリウスが遠征しようとしていた黒海地方は、スキタイ人を除いて世界中で最も無知蒙昧な民族が住んでいる。黒海周辺に住む民族の中で、スキタイ人とアナカルシス人以外で才知に長けている民族はひとつもなく、この地の生まれで著名な人物というのを、我々はひとりも知らない。

ところがスキタイ族は、他のすべての点では褒めるべきことはないのだが、我々の知る限り、人間に関する諸々のことの中でこの上なく重要な点について最も賢明な発明をしている。それは、彼らを攻撃する者は一人として逃れ生還することができず、また彼らが敵に発見されたくないと思えば、誰も彼らを捕らえることができないような方法を考え出したことである。

つまりこの民族は街も城塞も築かず、すべてが遊牧によって騎馬で弓を用い、農耕によらず家畜を養い、家は荷車に乗せて運ぶのである。このような民族を、いかにして征服したり接触することができようか?

[4.47] このような発明は、彼らの住む地域や河川がその目的に適していたからにほかならない。すなわちスキタイの国土は牧草や水に富む平原で、エジプトの運河の数に劣らぬほど多くの河が流れている。

それらの河の多くが海から遡ることができ、よく知られているそれらの河の名を挙げてみる。まず五つの河口をもつイストロス河(ドナウ河)、つぎにテラス河、ヒパニス河、ボリステネス河、パンティカペス河、ヒパキリス河、ゲロス河、タナイス河などで、その流れを次に述べてみよう。

[4.48] イストロス河は、我々の知っている中では最大の河で、夏でも冬でも同じ水量で流れている。これはスキタイの河川の中では最も西を流れる河で、他の多くの河がこれに注いでいるために最大の河になっている。

スキタイの地を流れてこの河を大きくしている河は五つあって、まずスキタイ人がポラタ、ギリシア人がピレトス(26)と呼ぶ河があり、そのほかにはティアラントス、アラロス、ナパリス、オルディソスがある。

(26)おそらくプルト河。その他四つの河川は不明

最初に挙げた河がもっとも大きく、東を流れてイストロス河に合流している。二番目に挙げたティアラントスはこれよりも西側を流れるより小さな河で、アラロス、ナパリス、オルディソスは先に挙げた二つの河の間を流れてイストロスに注いでいる。これらの河がスキタイから発してイストロスの水量を増やしているのだが、一方でアガティルソイの国(*1)からマリス河(*2)が流れ来てイストロス河に合流している。

(*1)現在のトランシルバニア地方
(*2)現マロシュ河

[4.49] 八イモス山脈(27)の高地からは、アトラス、アウラス、ティビシスの大河が北に流れてイストロスに注いでいる。またトラキアのクロビゾイ人の国から発しているアトリス、ノエス、アルタネがイストロスに合流している。パイオニアとロドぺ山からはキオス河がハイモス山脈の中央を縦断してイストロスに注いでいる。

(27)現バルカン山脈。この節で挙げられている河川はどれも特定不可。

イリリア地方から発したアングロス河は北に向って流れ、トリバロイ平野に入ってブロンゴス河に注ぎ、このブロンゴス河がイストロスに合流している。このようにしてイストロスはふたつの大河を迎えているのである。オンブリコイ地方(*)の北からはカルピス河とアルピス河が北に向って流れ、イストロスに合流している。

(*)北イタリア

すなわちイストロス河は、キネテス人の次にもっとも西に住むケルト人の国から発し、ヨーロッパ全土を横断してスキタイの国境に流れ込んでいるのだ。

[4.50] これまでに挙げた河川や、他にも多くの河がイストロスに流れ込んでいるために、この河がもっとも大きな流れとなっている。ところがナイルと比べると、ナイルの方が水量は多い。ナイルには合流して水量を増すような河も水源(*)もないのだが。

(*)ヘロドトスは、ビクトリア湖やタナ湖がナイルの水源であることを知らない。第二巻二十九節参照

イストロスが夏も冬もいつも同じ水嵩である理由としては、私は次のように考えている。すなわちこの河の水嵩が冬に通常通りであるか、わずかに高くなるのは、冬になるとこの地には雨がほとんど降らず、いたる所に雪が降るためである。

夏には冬の間に降った大量の雪が解け、四方からイストロスに流れ込む。さらに夏は雨期になるので、すさまじい豪雨が流れ込んで水量が増す。

こうして夏場はイストロスに流れ込む水量は冬よりも増えるが、夏は冬に比べて太陽が多くの水分を引きよせる。このような対立する作用によって均衡が生じ、そのためにイストロスの水嵩はいつも同じなのである。

[4.51] イストロスはスキタイを流れる河川の一つなのだが、これに次ぐものとしてはティラス河(28)がある。この河は北から流れ、スキタイとネウリス国との境にある巨大な湖から発している。この河の河ロには、ティラス人と呼ばれるギリシア人の植民地がある。

(28)現ドニエステル河

[4.52] 三番目の河はヒパニスで、この河はスキタイから発し、周辺に野生の白馬が棲息する大きな湖から流れ出ている。この湖が母なるヒパニスと呼ばれるのも当然である。

さてこの湖から発しているヒパニスであるが、五日にわたる航程の間は、水は浅く甘いのだが、そのあと海までの航程四日の間はとてつもなく水が辛い。

これは辛い水が水源から流れ込んでいるためだが、その水量は少ないものの、世界中のうち数件しかない大河の一つであるヒパニスの水を変えてしまうほどに辛いのである。この水源は農耕スキタイ人(29)とアラゾネス人の国境にあり、この水源とその水源のある場所の名はスキタイ語でエクサンパイオスといい、ギリシア語では聖なる道という。

(29)本巻十七節参照

ティラスとヒパニスはアラゾネス人の領内では近くを流れているが、そのあとは次第に離れながら流れる。

[4.53] 四番目がボリステネス河(*)である。この河はイストロスに次ぐ第二の大河で、大方の見るところでは、エジプトのナイルを別として、スキタイの河川のみならず世界中の河川のうちで、資源に富むことにおいて右に並ぶものはない。

(*)ドニエプル河

この河の流域には家畜を養うのに最上の栄養を備えた牧草地があり、他の追随を許さぬほどに質量ともに抜きんでた魚類が棲息している。そして水はこの上なく甘美で、ほかの河川が濁っているのに対し、この河の流れは澄みきっている。この河岸の土壌はよく肥えて穀物の実りは豊かで、耕作されていない場所でも草が見事に生い茂っている。

また河ロでは天然の塩が大量に結晶化していて、背骨のない大きなチョウザメ(*)が獲れることから、これを塩漬けにしている。そのほかにもさまざま見事な物産がある。

(*)ドニエプルのキャビアは現代でも有名

この河は、海から船で四十日遡行したところにあるゲロスの街までは、北から流れて来ていることがわかっている。しかしそれより先はどこの国を流れているのか、誰も知らない。ただ、この河が人の住まない荒廃地を流れて農耕スキタイ人の国に流れ込んでいることは明らかである。というのは、この民族は十日の航程に相当する距離にわたって、この河の流域に住んでいるからである。

私が水源の場所を特定できない河は、ナイルとこの河だけである。またそれを知るギリシア人は一人もいないと私は思っている。ボリステネスが海に近づくあたりでは、ヒパニスがこの河に合流し、同じ沼地に流れ込んでいる。

これら二つの河に挾まれた地帯は、船の舳先のように突き出ていることからヒッポレオス岬と呼ばれ、そこにはデメテルの社がある。この社の向こうのヒパニスの河岸にはボリステネス人の集落がある。

[4.54] 以上がこれらの河の実状だが、次に五番目の河としてはパンティカペスがある。この河も湖を起点として北から流れ来ていて、この河とボリステネス河との間には農耕スキタイ人が住んでいる。そしてヒライア地方を通過したのちにボリステネスに合流している。

[4.55] 六番目はヒパキュリス河(30)で、これは湖から発して遊牧スキタイ人の国の中央を貫き、右手にヒライアとアキレスの競走場と呼ばれる地域に接しているカルキニティスの街の近くで海に流れ込んでいる。

(30)おそらくウクライナのモロクナ地方にある。ここはドニエプル河のはるか東になる。カルキニティスの街はスキタイ沿岸の東の端にあり、クリミアのタウリック・ケルソネスの近くにある。アキレスの競争場はクリミアとドニエプル河の河口の間にある八十マイルほどの細長い砂地であるが、現在は島嶼に分断されている。

[4.56] 七番目の河はゲロスで、この河はボリステネスの流路のわかっている最も上流部の地点で、ボリステネスから別れている。そして分岐点の場所も同じゲロスの名で呼ばれている。そして海に向って流れつつ遊牧スキタイ人と王族スキタイ人の国を分かち、ヒパキュリス河に合流している。

[4.57] 八番目はタナイス河で(31)、その上流は巨大な湖から始まり、王族スキタイ人とサウロマタイ人の国を分けている、より大きなマイオティス湖(アゾフ海)に注いでいる。そしてヒルギス(32)という別の河がタナイスに合流している。

(31)ドン河
(32)おそらく本巻百二十三節にあるシルギス河。現ドネツ河

[4.58] 以上が、スキタイ人に寄与している有名な河川である。スキタイの地に生える牧草は、知られている限りでは、ほかのどの土地の牧草よりも家畜の胆汁がよく出る。このことは家畜を解体してみればわかる。

[4.59] 一等大切なことは、スキタイ人がこのような恩恵に浴していることである。そこで次にスキタイの風習に関して述べてみる。スキタイ人が崇めている神には次のものがあるだけである。まず第一に挙げるべきはヘステイア(火の神)で、ついではゼウス(天の神)とゲー(地の神)で、彼らはゲーをゼウスの妻と考えている。さらにアポロ、ウラニア・アフロディテ(天上のアフロディテ)、ヘラクレス、アレスがある。これらの神々をスキタイの全民族が祀っているが、いわゆる王族スキタイ人はポセイドンにも生贄を供える。

スキタイ語では、ヘステイアはタビティ、ゼウスは、私の考えではきわめて適切な名であるパパイオス(33)、ゲーはアピ、アポロンはゴイトシュロス、ウラニア・アフロディテはアルギンパサ、ポセイドンはタギマサダスという。そしてアレスの神像や祭壇は設営するが、それ以外の神にはこれを造らない慣わしになっている。

(33)パパ=父

[4.60] 生贄の儀式は、どれも次のような様式で行なわれる。まず生贄獣の前肢を縛りあわせて立たせる。そして生贄役が獣の背後から綱の端を引いて獣を転がす。

獣が倒れると、生贄を捧げる神の名を唱えた後、獣の首に縄を巻きつけ、それに棒をはさんでねじり廻し、獣を絞め殺す。それを行なっている間には、灯火も灯さず、生贄の毛髪を焼くお祓いもせず、御神酒を注ぐこともしない。獣を絞め殺して皮を剥いでから、煮るのである。

[4.61] スキタイの地はきわめて木材が乏しいので、彼らは肉を煮るのに次のような工夫をしている。獣の皮を剥ぎ終えると、肉と骨を分け、この地で用いている鍋があるなら、この鍋に肉を入れる。この鍋はレスボスの混酒器によく似ているが、それよりもはるかに大きい。肉を鍋に入れたら、獣の骨を火に投げ入れて煮る。鍋のないときには、獣の胃袋の中に肉をすべて入れて水を加え、骨を燃やした火にかける。

骨はよく燃えるし、骨から離した肉は胃袋に楽々と入る。こうして牛はその肉を自分で調理することになる。その他の生贄獣も同じように処理される。肉を煮おえると、生贄の執行人は肉とはらわたの一部を初物の供えとして取り分け、前方へ投げる。どんな獣でも生贄にされるが、主に馬が供される。

[4.62] 神々に捧げる生贄の式次第と獣に関しては以上のとおりである。ただしアレスに対する生贄の儀式は次のように行なわれる。スキタイの行政区には、それぞれにアレスの聖所が設けられている。そこには薪の束が縦横三スタディア(五百四十米)にわたり、高さはそれより低く積み上げられている。その頂上には四角の平らな台が設けてあり、三方は垂直だが一方からだけ登れるようになっている。

彼らは年ごとに荷車百五十台分の薪をこれに積み上げてゆく。冬の嵐によって薪の束が沈下するからである。この台の上には、その地区の住民のために古い鉄製の三ヶ月短剣(スキミタール)が祀られている。これがすなわちアレスの神体なのである。スキタイ人はこの短剣に毎年ヒツジ、ヤギ、馬などを捧げている。そして他の神々にも供えるほかに、アレスには次のような生贄も捧げている。

戦争で生け捕りにした敵の捕虜のうちから、百人に一人の割で生贄にするのだが、そのやり方は家畜の場合と異なっている、まず生贄にされる人間の頭に酒を注ぎ、それから咽喉を切り裂いて血を器で受ける。そしてその器を薪の山の頂上にもって上がり、血を短剣に注ぐのである。

血をもって上がる一方で、聖所の下では、喉を切られた男たちの右腕を肩から切り離して空中にほうり投げる。そして残りの生贄の行事をすませてから立ち去ってゆく。腕は投げられて落ちたところに、胴体は離れたところに横たわっているという次第である。

[4.63] 以上がスキタイの慣習となっている生贄の儀式である。スキタイ人は豚を生贄に供えることはしないし、この国では豚を飼育することは全くない。

[4.64] 戦に関しては次のような慣習がある。スキタイ人は最初に斃した敵の血を飲む。また斃した敵兵の首級はすべて王のもとへ持参する。首級を持参すれば戦利品の分け前を手にすることができるからであるが、そうしないともらえないのである。

その頭皮を剥ぐ方法は、耳のまわりに切れ目を入れ、頭皮をつかんで揺すり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて肉をそぎ落し、両手で揉んで柔らかくする。そうするとハンケチのようになるので、それを自分の乗っている馬の馬勒に吊して見せびらかすのである。一等多くのハンケチを持っている者が、最上の勇者と見なされるからである。

また多くのスキタイ人が、剥いだ皮を縫い合せて革の外套のようにして身にまとっている。さらにまた多くが、敵の屍の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の覆いにしている。実のところ人間の皮は厚くて艶がよく、どの動物の皮よりも白く光沢があるという人もいる。また多くの者が全身の皮を剥いで板に張り、馬の背に乗せて持ち回っている。

[4.65] ドクロを扱うのは敵の大将の首だけで、すべてのドクロではない。それをどうするかというと、眉から下の部分は鋸で切り落し、残りの部分を洗ってきれいにする。ここで貧窮者は牛の生皮を貼ってそれを使用する。富裕な者はドクロに生皮を貼りつた上で内側に黄金を貼り、それを盃に用いる。

身内の間で争いごとがあり、王の面前で相手を打ち負かした場合においても、たとえ血族であっても相手の頭蓋骨を盃にすることがある。そして賓客を迎えたときには、それらのドクロを見せ、その死者は自分に戦いを仕掛けてきたが打ち負かしたのだといって、勇猛であることの証しとしている。

[4.66] 年に一度、各地区の太守はその所管区において酒杯を提供する。この酒は敵を撃ち倒したスキタイ人だけが飲むのであって、このような武勲を挙げていない者は飲むことは許されず、離れた場所に座って恥辱に耐えねばならない。彼らにとってはこれが最大のはずかしめなのである。一人のみならず大勢の敵を斃した者は、二杯の盃を受け、これをひと口で飲みほす習いになっている。

[4.67] スキタイには大勢の占い師がいる。彼らは柳の細い枝を多く用いて次のように占う。この者たちは枝を大きく束ねて地面に横たえると、その束を解き、呪文を唱えながら一本ずつ並べてゆく。そして呪文を唱え続け、再び枝を束ね、それからもう一度、一本ずつ並べてゆく。

この占い様式は古来からスキタイに伝わるものだが、雌雄同体のエナレエス族は(*)、アフロディテから授かったと称する方法で占っている。これは菩提樹の樹皮を用いる方法で、菩提樹の樹皮を三つに切りわけ、これを指に巻きつけたりほどいたりしながら予言する。

(*)第一巻百五節参照

[4.68] スキタイの王が病にかかると、最も評判のよい占い師を三人呼びよせ、いま説明したやり方で占う。そしてたいていの場合、彼らは誰それが、と市民の名前をあげ、王室のかまどにかけて偽りの誓詞を告げたためだというのである。

というのも、スキタイでは最も重大な誓いを立てるとき、王室のかまどにかけて誓うのが習わしになっているからである。占い師によって偽りの宣誓をしたと言い立てられた男はただちに捕らえられて連行される。そして占い師が男に向い、占いによって王室のかまどに対して偽りの誓いをかけたことが判明し、そのために王が病にたおれたのだと責め立てる。しかし男は偽りの誓いをたてた覚えはないと猛烈に否定する。

男が否定すると、次に王は以前の二倍の人数の占い師を呼びよせる。そしてこの者たちが占った結果も、その男の偽誓ということであれば、ただちにその男は首をはねられ、その財産は最初の占い師たちに分配される。

もしあとの占い師たちが無実と認めれば、別の占い師が次から次へと呼ばれてくる。そして大多数の占い師が無実と認めた場合には、最初の占い師たち自身が極刑に処せられるのである。

[4.69] その刑の執行方法は次のとおりである。薪を満載した荷車に牛を繋ぎ、占い師たちの両足を縛り、両手を後ろ手に縛り、猿ぐつわをかませて薪の中に押しこんでから薪に火をつけ、牛を驚かせて走らせるのである。

多くの牛が占い師たちとともに焼死するが、くびきの軸が焼け落ちると、火傷を負いながらも逃げおおせる牛もいる。またほかの理由によって同じように占い師を偽占い師と呼び立てて火刑にすることもある。

極刑に処する者があると、王はその子供も生かしてはおかない。ただし男子はすべて殺すが、女子には害を加えない。

[4.70] スキタイ人が誓約をかわすときには次のようにする。誓約を交わす者たちの身体の一部を錐で刺すかナイフで切るかして血を採り、それを酒を満たした土器の大盃に注ぐ。そこへ短剣(スキミタール)、矢、戦斧、槍を盃の中へひたす。そうしておいてから誓約の文言を厳粛に唱え、そのあとは誓約を交す者たちとともに、随行者のうちでもっとも高位の者たちも盃の中の血を飲むのである。

[4.71] 王の墳墓は、ボリステネス河の遡航可能な終点の地にあるゲロイ人の領土にある。スキタイの王が死ぬと、この地に方形の大きな穴を掘り、それが出来上がると遺骸を持ち上げるのだが、その遺体は腹をさいて中をきれいにしてから刻んだカヤツリグサや乳香、パセリやアニスのタネで一杯にしてから再び縫い合せ、全身に蝋を塗りつけてある。この遺骸を車に乗せて別の民族の国へ運んでゆくのである。

運ばれてきた遺体を受け取った者たちは、王族スキタイ人と同じことを行なう。すなわち耳の一部を切りとり、頭髪を剃りあげ、両腕の周りに切傷をつけ、額と鼻を裂き、左手は矢で突き通す。

そこからまた王の遺骸を車にのせ、支配下の別の民族の国へ運んでゆく。これには先に立寄った国の者たちも隨行してゆく。そして遺体を運んで属国を次々に一巡し終えると、最後に墳墓のある場所、すなわち属領のうちで最も遠い所にあるゲロイ人の国に着く。

そうして遺骸を墓の中のわら床に安置すると、遺骸の両側に槍を突き立てて上に木の板をわたし、その上にむしろをかぶせる。墓の中の空いている場所には王の側妾の一人、さらに酌小姓、料理番、馬丁、用人、奏者、これらの者たちを絞殺して埋葬し、さらに馬やあらゆる初物と黄金の盃もともに埋める。スキタイ人は銀製や青銅製の盃は用いないのである。

これを終えてから、全員で土をかぶせて巨大な塚を盛り上げるのであるが、できるかぎり大きくしようとして互いに競い合って懸命に築くことになる。

[4.72] そしてー年経つと次のような儀式を行なう。亡き王に仕えた残りの従臣のうちで最も信頼されていた者たち(この者たちは生粋のスキタイ人で、王自身によって命じられて従臣となったもので、金で買われた従者はスキタイにはいない)五十人と、最も秀でた五十頭の馬を絞殺し、はらわたを抜いてきれいにしたあと、もみ殻を詰めて再び縫い合せる。

一方、車輪を半分に切り、凹みを上向きにして二本の杭で固定し、残りの半分を別の二本の杭で固定する。このようなものを数多く地面に設置する。それから太い棒を馬の胴体に首まで縦に通し、これを車輪に載せる。

前の車輪は馬の前半分を支え、後部の車輪は馬の腹のあたりで後ろ半分を支える。前後の脚は宙に浮いている。それから轡(くつわ)と手綱をを馬につけ、それを前方に引いて杭につなぐ。

こうしておいてから、絞殺した五十人の青年の死骸をこの馬に乗せる。それには、それぞれの遺体の背骨に沿って真直ぐな棒を首まで通し、この棒の下端を、馬に通してある別の棒の穴にはめ込む。このような騎士を墓のまわりに設置してから一同は引き上げるのである。

[4.73] 以上が王の葬儀の次第である。そのほかのスキタイ人が死亡したときには、最も近い縁者が遺体を車にのせて友人、知人の間を巡ってまわる。知人たちはこれを迎えて遺体の随行者たちをもてなすのだが、遺体にも他の者たちに出すのと同じものを供える。王以外の庶民はこのようにして四十日間にわたって引きまわされた後に埋葬される。

葬儀のあと、スキタイ人は次のようにして身を清める。頭は油を塗りつけてから洗い流す。身体はといえば、三本の棒を互いによりかからせるように組み、この上から毛氈をかけ、できるだけ締めつけておく。そして棒と毛氈の中央部に穴を掘り、そこへ赤く熱した石を投げ入れるのである。

[4.74] この国には大麻が生育する。これは亜麻によく似ているが、こちらの方がはるかに太くて高い。これは自生もするし栽培もされる。そしてトラキア人はこれで亜麻布によく似た衣服を作る。大麻をよく知っている者でなければ、大麻製か亜麻製かの区別がつかない。大麻を見たことのない者は、この衣服を亜麻製と思うだろう。

[4.75] スキタイ人はこの大麻のタネを手にして敷物の下にもぐり込み、そのタネを赤く熱した石の上にばらまく。そうするとタネがくすぶりだし、ギリシアの蒸し風呂では考えられないほどの湯気が発生する。

スキタイ人はこの蒸し風呂で気分が高揚し、大声でわめき散らす(*)。これが入浴の代りとなり、彼らは決して水で身体を洗うことはしない。

(*)これはマリファナの効果だろう

一方で、女たちは糸杉、ヒマラヤ杉、香木などを肌理(きめ)の粗い石に水をかけながらこすりつけてつぶし、出来上がったねっとりしたものを顔や全身に塗りつける。そうすると芳香が肌から発するだけでなく、翌日になってその練りものを落すと、肌が清潔かつ艶やかになるのだ。

[4.76] どの民族もそうだが、スキタイ人もほかの国の風習を取り入れることを極度に嫌う。とくにギリシアの風習を嫌うことは、アナカルシスとスキレスの例でよくわかる。

アナカルシス(*)は、世界中の国々を歴訪し、訪れた先々でその才能を発揮したのち、スキタイに帰る途中、ヘレスポントスを船で通過してキジコスへ着いた。

(*)ソロンと親交があったとされ、七賢人の一人に数えられている

そこでキジコス人たちが神々の母(*)のために華やかな祝祭を催しているのを見たアナカルシスは、自分が元気で無事に帰国した暁には、キジコス人の祭と同じような祭を催し、夜祭も行なうことを母なる神に誓ったのだった。

(*)プリギアの女神キュベレ

そしてスキタイに帰りつくと、いわゆるヒライアの地(*)ーここはアキレスの競走場の近くで、さまざまな種類の樹木が生い繁っているところであるーに潜み、小太鼓を手にし、身には神像を吊り下げ、女神のための祭礼を寸分違わず行なおうとした。

(*)本巻八節、五十四節参照

ところがアナカルシスが祭礼を行なっているのを、あるスキタイ人が目撃し、これを王のサウリオスに告げたのである。そこで王はみずからその場所に行き、アナカルシスの行なっている儀式を見るや、矢を放ってかれを射殺してしまった。今日スキタイ人にアナカルシスのことを訊ねても、その男のことは知らないという。これは、かれが国を出てギリシアヘゆき、異国の風習に染まってしまったためである。

しかし私がアリアペイテスの執事だったテムネスから聞いたところでは、アナカルシスはスキタイ王イダンテルソスの叔父で、スパルガペイテスの子リコスの子グヌロスの子だったという。従ってもしアナカルシスかこの一族の出であったなら、彼は実の兄弟によって殺されたことになる。イダンテルソスはサウリオスの子で、アナカルシスを殺したのはサウリオスなのであるから。

[4.77] しかし私は、ペロポネソス人の伝承による別の話も聞いている。それによれば、アナカルシスはスキタイ王に派遣されてギリシア人の門弟となった。それが帰国して王に報告し、ギリシア人はスパルタ人を除いてみなあらゆる学問に熱心だが、分別をもって話のやりとりできるのはひとりスパルタ人のみである、といったという。

しかしこの話はギリシア人による埒もない作り話にすぎず、実際のところ、アナカルシスは右に述べたように、異国の風習になじみ、ギリシア人との交友があだとなって悲運に斃れたのである。

[4.78] それから長い年月ののち、アリアペイテスの子スキレスも同じような悲運をこうむっている。スキレスはスキタイ王アリアペイテスの子供のひとりとして生まれた。その生母はイストリア(34)の人で、スキタイ生まれではなかった。この母がスキレスにギリシア語の読み書きを教えたのである。

(34)イストロス(ドナウ)河口近くの街。ミレトス人の植民地で現在のドブルジャ

その後アリアペイテスがアガテルソイの王スパルガペイテスのだまし討ちにあって殺されたことにより、スキレスは王位とともに、スキタイ女でオポイアという父の妃をも受け継いだ。ただ、この妃にはアリアペイテスとの間にもうけたオリコスという子があった。

こうしてスキレスはスキタイの王となったものの、スキタイ風の生活になじめず、受けてきた教育の影響でギリシアの風習を好むあまり、次のようなことをした。かれはスキタイ軍を率いてボリステネスの街へゆくたびに(ボリステネス人自身はミレトス人であると自称している)、軍隊は街の城外に残しておき、自分は街に入って城門を閉ざし、スキタイの衣服を脱いでギリシア服に着換えるのである。

そして親衛隊やその他の従者は城門の警備につかせてスキタイ人にその格好を見られないようにしておき、かれは街の広場を散策するのであった。その他のあらゆることもギリシア風の生活様式に従い、神を祀るのもギリシアの慣習に従った。

こうして一月ないしそれ以上の期間滞在すると、かれはまたスキタイの衣装をまとって街を後にするのであった。このような行ないをたび重ね、かれはボリステネスにも邸宅を築き、土着の女を娶ってこの邸に住まわせたりした。

[4.79] しかしかれの身に凶事が降りかかる時がきて、それは次のことがきっかけとなって起きた。それはスキレスがバッコス・ディオニソスの信仰に入信したいと望んだときのことだった。かれが入信の秘儀を受けようとしているとき、非常に不吉なきざしが現われたのである。

ついさっき話したように、かれはボリステネス人の街に宏壮な邸を構えていて、邸のまわりには白亜の大理石製のスフィンクスやグリフィスの像がずらりと並べて安置されていた。その邸に雷が落ちたのである。邸は全焼したが、スキレスはこれを意に介さず入信の儀式をやり通したのである。

ところでスキタイ人はギリシア人がバッコスの祭礼でドンチャン騒ぎすることを馬鹿にしている。人を狂気にいざなう神を崇めるというのは道理にはずれている、というのである。

そういう事情があって、スキレスがバッコスの秘儀に入信を終えたとき、あるボリステネス人がスキタイ人をからかって云った。
「スキタイ人どもよ、お前たちはワシらがバッコスの祭礼を催し、神が我々に乗り移るのをあざ笑っておる。ところがこの神は、お前たちの王にも乗り移ったぞ。今あの王もバッコスの祭を祝い、神に乗り移られて狂っている。ワシのいうことが信じられないなら、ついてこい。王の狂った姿を見せてやろう」

そこでスキタイの要人たちがついてゆくと、そのボリステネス人は彼らをひそかに城楼に連れて行った。そしてスキレスが参拝者たちとともにバッコスの祭に加わって練り歩いているのを目にするとスキタイ人たちは大いに落胆した。そして彼らは街を出て、見たことをすべての軍勢に語って聞かせた。

[4.80] このあとスキレスが故国へ戻ろうとしたとき、スキタイ人たちは、テレスの娘の子でスキレスの弟に当たるオクタマサデスを盟主に立ててスキレスに反旗を翻した。

スキレスは反乱が起こされたことと、その原因となったことを知ると、トラキアヘ逃亡した。これを知ったオクタマサデスはトラキアに兵を進めた。そしてイストロス河畔に達した時、トラキア軍が行く手をはばみ、いざ合戦かと思われたとき、シタルケスがオクタマサデスのもとへ使者を送りだした。

「なにゆえ我々は互いに力を競い合わねばならぬのか。お主は私の姉妹の子であり、また私の兄弟もお主に保護されている。お主が弟を私に返してくれるなら、私もお主にスキレスを引き渡そう。お互いに軍勢を危険にさらすことはやめようではないか」

このような提案をシタルケスはオクタマサデスに行なった。というのも、当時シタルケスの弟が兄のもとから出奔してオクタマサデスのもとへ逃れていたからだった。そこでオクタマサデスはこの提案を受け入れ、自分の叔父をシタルケスに引き渡し、兄のスキレスを受け取ったのである。

シタルケスは弟の身柄を引き取ると軍を引き上げたが、オクタマサデスはその場でスキレスの首をはねた。これが、スキタイ人が如何に自国の慣習を重んずるかという例である。そして異国の風習を取り入れようとする者には、右のような罰を下すのである。

[4.81] スキタイの人口については、その正確な数を調べることができていない。その人数は膨大だという人もあるし、本来のスキタイ人は少ないという人もいる。しかし彼らが私に見せてくれたことを話してみよう。

ボリステネスとヒパニス河の間に、エクサンパイオスという名の地がある。これは先に、塩分の強い水源があり、この水のためにヒパニス河の水が飲めないと説明した地である(*)。

(*)本巻五十二節参照

さてこの地には青銅製の大瓶があって、その大きさは、クレオンブロトスの子パウサニアス(35)が奉納し、黒海の入ロに安置している大杯の六倍である。

(35)レオニダスの甥でプラタイアの戦い(B.C.479)における功労者。B.C.477年にビザンチン(*)を攻略した記念に、この大杯を献じた。
(*)現イスタンブール

この大瓶を見たことのない人のためにざっと説明しておくと、このスキタイの青銅製の瓶は優に六百アンポレウス(二万四千リットル)もの容量があり、厚さは六ダクティロス(十二糎)もある。そして土地の者たちがいうには、この瓶は鏃(やじり)から造られているという。

この国のアリアンタスという名の王が、スキタイの人ロを知りたいと思ってスキタイの全国民に命じ、各々鏃を一個ずつ持参させたのだった。それに従わぬ者は死罪に処すと脅したのである。

かくして厖大な数の鏃が持ち込まれたが、王はこれらの鏃で記念になるものを造ろうと決めた。そこで鏃で青銅の大瓶を造らせ、これを先のエクサンパイオスの地に奉納したという次第である。これが、スキタイの人口について私の聞き知ったことである。

[4.82] この地には、世界中で最も大きな河と数多くの河がある以外、目を見張るような事物はない。河と広大な平原のほかに語るにたる珍しいものとしては、次のものがある。ティラス河畔に、岩にしるされたヘラクレスの足跡というのがある。これは人間の足跡に似ているが、その長さは二ペキュス(九十糎)もある。ともかくこれはこのとおりだが、ここで私は始めに述べようとしていた話に戻ることにしよう(36)。

(36)本巻第一節

[4.83] さてダリウスはスキタイ遠征の準備をととのえ(37)、あちこちに使者を送って歩兵部隊や艦船の供出、さらにはトラキアのボスポラスに船橋構築を命じたりしていた。一方ダリウスの弟でヒスタスペスの子アルタバノス(*)は、ダリウスにスキタイ人の扱いが如何に困難であるかを説き、スキタイ遠征を中止するよう懇願した。

(37)ダリウスが遠征した年月は不明。グローテはB.C.514以前と推定している、
(*)アルバタノスはクセルクセスに対してもギリシア遠征を諫止している(第七巻十節)

しかしかれの有益な忠告も、ことごとくダリウスを思い留ませるまでには至らず、アルタバノスも断念してしまった。そしてダリウスは準備をすべて完了すると、軍を率いてスサを出発した。

[4.84] このときオイオバゾスというペルシア人が、息子が三人とも従軍することになっているので、一人だけ国に残してほしいとダリウスに願い出た。すると王は、
「お主はわが友じゃ」
といい、
「その願いも、もっともなことよ。では息子たちを全部残してやろう」 と返答した。

オイオバゾスは、息子たちがみな兵役を免れるものと思って大いに喜んだのだったが、ダリウスは処刑役人に命じて、オイオバゾスの息子たちをすべて殺させてしまった。喉をかき切られた息子たちはその場に「残された」のであった。

[4.85] ダリウスはスサから軍を進め、カルケドン領内のボスポラス船橋に達すると、ここから船に乗り、いわゆるキアネアイ岩(38)に向った。ギリシア人の伝承では、この岩はかつては移動したといわれていたが、ダリウスは岩の突端に坐って黒海の素晴らしい眺めにひたっていた。

(38)ギリシア神話における「さまよえる岩」または「撃ち合う岩」。ボスポラス海峡の北端にある二つの岩

この海は世界中で最もすばらしい海で、その長さは一万一千百スタディア(二千粁)、最も広い地点の幅は三千三百スタディア(六百粁)である(39)。

(39)これは誤り。黒海の長さは一千百五十粁(六千二百八十スタディア)。ヘロドトスの計測地点ではおよそ四百五十粁。その最大幅は六百粁である。プロポンティスやヘレスポンティスに関するヘロドトスの推定値も過大であるが、大きくずれるものでもない。ボスポラスの数値はヘロドトスの挙げたものより少し長いが、幅は正確である

この海の入ロの幅は四スタディア(七百二十米)あり、縦に延びていわゆるボスポラス海峡を形成し、船橋構築もここに行なわれたのだが、その長さは百二十スタディア(二十二粁)ある。そしてボスポラスはプロポンティスに連なっている。

プロポンティスは幅五百スタディア(九十粁)、長さは千四百スタディア(二百五十粁)でヘレスポントスに連なり、これは長さが四百スタディア(七十二粁)で、幅は七スタディア(一千三百米)しかない。そしてヘレスポントスは、我々がエーゲ海と呼んでいる広大な海に続いているのである。

[4.86] 右の距離は次のようにして計測されたものである。たいていの船は日の長い時の昼間に七万オルギア(40)(百二十六粁)、夜間は六万オルギア(百八粁)進む。

(40)両手をひろげたときの長さ;およそ百八十糎。百オルギア=一スタディア(百八十米)

これを計測基準とすれば、黒海の入口からパシス(*)(この間の距離が黒海の最長距離となる)に達するには九日八夜の航海を要する。従ってその距離は百十一万オルギア、スタディアなら一万一千百スタディア(二千粁)となる。

(*)現リオス河

シンディからテルモドン河口のテミスキュラの間は黒海の幅が最も広く、三日二夜の航海である。この距離は三十三万オルギアすなわち三千三百スタディア(六百粁)になる。

このようにして黒海、ボスポラス、ヘレスポントスの距離を測った。その結果は右に挙げたとおりである。さらにまた、黒海に比べてそれほど小さくもない湖がこれに注いでいる。これはマイオティス湖(アゾフ海)と呼ばれ、黒海の母とも呼ばれる。

[4.87] ダリウスは黒海を眺めたあと、船橋のある場所まで船で引き返したが、この橋を建造した技師はマンドロクレスというサモス人だった。ダリウスはボスポラスも視察すると、その岸辺に白い大理石製の石碑を二本建て、一方にはアッシリア文字で、もう一方にはギリシア文字で、従軍している民族の名をすべて刻ませた。ダリウスは支配下にある民族を残らず軍勢に加えていたのだ。その数は、水軍を除き、騎兵隊を含めると七十万で、集められた船の数は六百隻になった。

その後、これらの石碑はビザンチン人が彼らの街へ移し、片方はオルトシア・アルテミス(41)の祭壇を造るのに利用されたが、アッシリア文字の刻まれた石碑は、ビザンチン(*)にあるディオニソス神殿のかたわらに放置されていた。私の計算が正しければ、ダリウス王が橋をかけたボスポラスの地点は、ビザンチンと黒海の入ロにある聖堂の中間にあったと思われる。

(41)スパルタをはじめとするドーリス系民族が崇拝していた女神。オルトシア=大地の繁栄
(*)現イスタンブール

[4.88] そのあと、船橋に満足したダリウスは、建造技師であるサモス人マンドロクレスにあらゆる物品を十個ずつ(42)という莫大な褒賞を与えた。マンドロクレスはそれらの褒賞を初物として供えるとともに、ボスポラスの船橋の全体像、玉座に坐しているダリウス王の姿、王の軍勢が橋を渡る有様を描かせた絵、これらを次の銘文とともにヘラ神殿(*)に奉納した。

(42)莫大なことを表現する常套句。第九巻八十一節にも同様の語句がある (*)サモスのヘライオン(第三巻六十節)

  魚多きボスポラスに橋かけ渡せしマンドロクレス、
  船橋記念を女神ヘラへ捧げまつる
  みずから栄冠を勝ち取りしダリウス王たるや
  サモス人に栄誉を与え給ひぬ
  よってここにダリウス王の意をかなえたり

89これが架橋建設者の記念物だった。一方、ダリウスはマンドロクレスに恩賞を与えた後、ヨーロッパに渡った。ただしイオニア人には船で黒海に入ってイストロス河まで行き、この河に船橋を設営して王の到着を待つよう、命じておいた。水軍を構成していたのはイオニア人、アイオリス人、ヘレスポントス人だったからである。

そこで水軍はキアネアイ岩の間を通ってイストロス河に向けて直行した。そして海辺から二日間イストロス河をさかのぼり、その河口がさまざまに分岐している地点にある狭い水路で架橋作業を開始した。

一方ダリウスは浮き船橋を渡ってボスポラスを越えてトラキア地方を進み、テアロス河の水源地に到着すると、ここで三日間宿営した。

[4.90] 土地の住民の話では、このテアロス河は他のどの河よりも治験あらたかで、とくに人や馬の疥癬に効果が高いという。その水源は三十八あり、いずれも同じ岩から発しているが、冷たい水もあり温かい水もある。

この水源に至る道は二つあり、ペリントスに近いヘライオンの街から行く道と、黒海沿岸のアポロニアから行く道があるが、どちらも二日の行程である。このテアロス河はコンタデスドス河に注ぎ、コンタデスドスはアグリアネス河に、アグリアネスはヘブロス河に合流し、ヘブロスはアイノスの街付近で海に流れ込んでいる。

[4.91] ダリウスはこの河まで来たところで宿営したが、この河の眺めが気に入ったので次の碑銘を刻ませて石碑を建てた。

「その源から流れいづるテアロス河は、この上なく優れかつ最良の水を産す。スキタイ討伐の軍を率い、この源に来たるは、右に並ぶ者なく優れかつ高貴なるヒスタスペスの息ダリウス、ペルシア王にして全大陸の王なり」
これが碑銘である。

[4.92] この地を発ったダリウスは、オドリサイ人の国を流れるアルテスコスという別の河に達した。このときダリウスはある場所を指定し、全軍の兵士がそこを通過する際に、各自が石を一個おくように命じた。軍勢がこれをやり遂げたとき、そこには大きな石の山がいくつも出来上がったが、ダリウスはこれらの石の山をあとにして軍を進めた。

[4.93] イストロス河に達する前に、ダリウスが最初に攻略したのは、霊魂の不滅を信じているゲタイ人だった。サルミデソスに住むフェニキア人や、アポロニア、メサンブリアの北に住む、いわゆるキルミアナイ人、ニプサイオイ人らは、戦わずしてダリウスに降伏したからである。ゲタイ人は頑迷に抵抗したが寸暇をおかず屈服させられた。彼らはトラキア人の中では最も勇敢かつ公正な部族だった。

[4.94] ゲタイ人が霊魂の不滅を信ずるのは次のとおりである。彼らは死というものを信じておらず、この世を去った者はサルモキシスまたはゲベレイジスという神のもとへゆくと信じている。

そして五年目ごとに住民の間でクジ引きをし、当った者に彼らの願い事を言づけてサルモキシスのもとへ送るのである。その送り方は、指定された者たちに三本の槍を構えさせておき、別の者たちがクジに当たった男の両手両足を持って振り、槍の穂先にめがけて放りあげるのである。

男が槍に貫かれて死ねば、彼らは神に気に入られたと考える。男が死なない場合は、その使者は悪人であるとみなして責め立てる。そしてまた別の人間を送るのだが、伝言はその人間が生きている間に言づける。

雷鳴や稲妻があると、このトラキア人たちは天に向って矢を放ち、神を脅かす。彼らは自分たちの神以外に神の存在を認めないのだ。

[4.95] ヘレスポントスや黒海の沿岸に住んでいるギリシア人から聞いた話では、このサルモキシスというのはかつてはサモスにいた奴隷だった人間で、ムネサルコスの子ピタゴラス(*)に仕えていたという。

(*)ピタゴラスはB.C.582年~B.C.496。時代が合わない

それが解放されてから莫大な富を手にし、祖国へ帰っていった。有り体に言えばフェニキア人は貧しく知能も低いのだが、このサルモキシスはイオニアの生活様式になじんでいたので、トラキア人よりは格段に進んだ生活様式に通じていたのだった。それはギリシア人とつきあいもし、さらにギリシアの偉大な教育者であるピタゴラスともまじわっていたからでもある。

そこでサルモキシスは大食堂を造り、ここに街の要人たちを招いてもてなし、自分や客たちは勿論のこと、子孫たちも決して死ぬことはなく、永遠に生き続ける場所そして秀逸な事物の恩恵にあずかる場所へ行くのだと、教え諭したという。

このようなことをして教えを説きつつ、一方でかれは地下室を造らせた。そしてその部屋が完成すると、かれはトラキア人の間から姿を消し、地下室に降りてこもり、ここで三年のあいだ生き続けた。

トラキア人たちは彼がいなくなったことを死んだと思って嘆き悲しんでいたところが、四年目になってトラキア人たちの前に姿を現わした。このようないきさつからトラキア人はサルモキシスの教えを信ずるようになったのである。以上がサルモキシスに関するギリシア人の伝承である。

[4.96] サルモキシスとその地下室に関する話について、私は信じるとも信じないとも言えない。サルモキシスはピタゴラスの時代より何年も前の人物であると思っているからである。

またサルモキシスという人物がいたにせよ、ゲタイ固有の神であるにせよ、そのような議論はこれで終えることにしよう。以上がゲタイ人の風習で、彼らはペルシア軍に制圧されたのち、遠征軍に従軍している。

[4.97] ダリウスとその麾下の陸上部隊がイストロス河に達し、全軍が渡河を完了すると、イオニア人に命じて船橋を解体させ、水軍兵とともに陸路を従軍させようとした。

ダリウスの命に従ってイオニア人が船橋を解体しようとしたとき、ミテレネ人部隊の司令官でエルクサンドロスの子コエス(*)が、まえもってダリウスが具申される意見を聞く耳を持っているかどうかを確かめた上で、次のように具申した。

(*)コエスはこれを契機にミテレネの支配権をダリウスから与えられたが、イオニアの反乱時に死んだ(第五巻二十七節)

「殿に申し上げまする。殿がこれから進軍なさる地は、耕作地もなければ人の住んでいる街も見当たらぬところでありますゆえ、この船橋はそのままにしておかれ、建造に携わった者たちを橋の警備に残してゆかれるのがよろしいかと存じまする。

もしわれらがスキタイ人を発見し、思いどおりに事を成し遂げた場合には、帰り路があるわけですし、またたとえ彼らを発見できないとしても、少なくとも帰り路は確保されていることになります。私はわれらがスキタイ人に敗れるなどという危惧はいささかも持ってはおりませぬ。むしろスキタイ人を見つけ出すことができないまま、彷徨っているうちに何らかの 災悪に見舞われることを恐れる者でござりまする。

このように申し上げると、みどもがあとに残ろうとして我が身の保全を目論んでいるのだという者があるかも知れませぬが、そうではありませぬ。みどもは殿にとって最善の策であると考えたことを申し上げているのみで、みども自身は殿に随行し、あとに残るつもりはござりませぬ」

ダリウスはこの献策を大いに喜び、次のように答えた。
「親愛なるレスボスの人よ、予が無事にわが邸に帰ることができた暁には、必ずやそなたの姿を見せてくれ。お主の有益な建言に対する礼を尽くそうぞ」

[4.98] こういうとダリウスは一本の革紐に六十個の結び目を作り、イオニアの僭主たちを召し出して告げた。

「イオニア人諸君、先に予が船橋について指示したことは取り消すことにする。そこでこの革紐を手許において、次のようにしてもらいたい。予がスキタイ人征伐に出発する日から、一日ごとに結び目を一つずつほどいてくれ。結び目がすべてほどけても予が帰ってこなければ、貴殿らは船でそれぞれの国に帰ってよい。しかし方針を変更したのであるから、船橋の保全と警備に全力を尽くしてこれを守ってくれ。そうしてくれれば、予は何よりもうれしく思うぞ」
こういってダリウスは先への進軍を急いだ。

[4.99] トラキアの地はスキタイよりも遠くまで海に突き出ている。そしてこのトラキアが湾を形成している地点でスキタイが連なり、イストロス河はその河口を東南に向けてスキタイの地に注いでいる。

さていまから、イストロス河からスキタイ本来の海岸線を示し、それを測量してみよう。古代スキタイはイストロス河に始まり、南面しつつカルキニティスの街に至っている。

この地を越えて同じ海に面している地は山が多く、黒海に突き出ている。ここにはタウロイ人が住んでいて、いわゆる峻険なケルソネソスに続いている。そしてこれは東方の海(43)に終わっている。

(43)アゾフ海

スキタイはアッティカと同じく南と東の二辺を海に囲まれている。そしてタウロイ人がスキタイの一部に住んでいて、これはアッティカ半島のトリコス地区からアナプリストス地区に至る線からさらに海に突き出ているスニオン岬に、アテナイ人とは別の民族が住んでいるようなことに似ている。

これはもちろん大小の差を別にして比べているのだが、タウロイの国情はこのようなことである。アッティカ地方を航行したことのない人のために別の例をあげるなら、それはあたかもイアピギア(*)の地にイアピギア人以外の民族が、ブレンデシオンの港からタラスに至る線を区切りとして、それより先の突出部を占拠しているようなものである。私はここに二つの国の例を拳げたのみであるが、タウロイ人のような例は他にも多くある(44)。

(*)南イタリアのカラブリア半島
(44)ここでタウロイ人はケルソネソス半島に居住していることを言っているに過ぎない。これはアッティカにある南東突出部(スニオン岬)や、「イタリアの踵」すなわち現代のブリンディシとタラントを結ぶラインに似ている。ヘロドトスが言うところの唯一の違いは、タウロイ人はスキタイの一部に住んでいるが、そこにスキタイ人は住んでおらず、一方でアッティカやイタリアの半島では近隣ともに同じ民族が住んでいることである

[4.100] タウリケを越えるとすぐにスキタイが続き、タウリケの北と東の海に沿う地域、すなわちボスポラスのキンメリアおよびマイオティス湖の西方一帯で、マイオティス湖の突き当たりに注ぐタナイス河に至る一帯にスキタイ人が住んでいる。

イストロス河から北および内陸に至る方面でスキタイの国に接しているのは、まずアガテュルソイ、次にネウロイ、アンドロパゴイ、最後にメランクライノイの民族である。

[4.101] さてスキタイの国土は四辺形で、その二辺は海に面しているが、内陸に延びる国境も海に沿う国境も等しく、完全な方形である。

イストロス河からボリステネス河までは十日の旅程であり、ボリステネス河からマイオティス湖までも同じく十日である。また海から内陸に向い、スキタイ人の北方に住むメランクライノイ人の国までは二十日の旅程である。

一日の行程を二百スタディア(三十六粁)として計算すると、スキタイの国の横の辺は四千スタディア(七百二十粁)となり、内陸に向かう縦の辺も同じ距離となる。これがこの国の広さである。

[4.102] さてスキタイ人は、単独で正面から戦ってはダリウス軍を撃退できないと考え、近隣の諸国に使者を送ったが、その王たちは、大軍が攻め寄せてくるという予想のもと、すでに鳩首協議を行っていたのだった。

集まった王たちの民族は、タウロイ、アガテルソイ、ネウロイ、アンドロパゴイ、メランクライノイ、ゲロノイ、ブデイノイ、サウロマタイだった。

[4.103] これらの民族のうち、タウロイ人の風習は次のとおりである。彼らは船が難破して漂着した者や船を襲って捕らえたギリシア人を、処女神(45)の生賛にする。そのやり方というのは、はじめに生贄のみそぎを行ない、それから生贄の頭を棍棒で打つ。

(45)土着の女神で、ギリシア人はアルテミスとしている

一説によれば、首は棒に刺しておき、胴体は神殿のある断崖から投げ捨てるという。別の説では首については同じで、胴体は崖から投げるのではなく、地中に埋めるという。タウロイ人自身のいうところでは、生贄を供える女神はアガメムノンの娘イピゲネイア(*)であるという。

(*)エウリピデス作の悲劇「タウロイ人のイピゲネイア」を参照。アルテミスに仕える巫女。占い師カルカスによって人身御供にされるところを鹿を身代わりにし、アルテミスによってタウリカに逃された。

敵の捕虜については、その首を刎ねて家へ持ち帰り、長い棒に剌して家の上に高く~たいていは煙突の上に~掲げておく。彼らのいうことには、この首が屋敷全体の守護者となるように高く掲げておくのだという。彼らは略奪と戦によって生計を立てているのである。

[4.104] アガテルソイ人は一等洗練された民族で、ことのほか黄金を身につけたがる。彼らは女と乱交しているが、これは互いに血縁を結ぶことで部族すべてが縁戚となり、互いに嫉妬や憎悪の念を抱かぬようにするためである。その他の風習はトラキア人のそれに似ている。

[4.105] ネウロイ人はスキタイの慣習に従っているが、ダリウスが遠征する一世代前に蛇に襲われ、国から逃亡したことがある。この国におびただしい蛇が発生し、さらに多数の蛇が北方の荒野から襲ってきたためで、困り果てた挙げ句に祖国を捨ててブデイノイ人の国に住むようになった。

ただし彼らは魔法使いであるかのようで、スキタイ人やスキタイ在住のギリシア人がいうには、ネウロイ人はみなが年に一度、数日だけ狼に変身し、それからまた元の姿に戻るという。私はこの話に納得していないが、それでもなお彼らはこのように話し、しかも話に嘘はないと誓っていうのである。

[4.106] アンドロパゴイ人(*)の生活様式はこの世でもっとも残忍である。かれらは正義というものを知らず、従うべき戒律ももたない。これはスキタイ人によく似た衣服をまとって遊牧をこととし、言語は彼ら独自のものである。ここに述べる民族の中で、彼らだけが人肉を喰う習性をもっている。

(*)本巻十八節参照

[4.107] メランクライノイ人はみな黒い衣を身につけていて、その名はここから来ている。その風習はスキタイ式である。

[4.108] ブデイノイ人は多くの人ロを擁する大民族である。眼の色は青く、赤毛である。この国には木で建設されたゲロノスという街がある。その城壁は各辺が三十スタディア(五百四十米)だが、全て木製で高く造られている。また住民の家屋敷、神殿すべてが木造である。

神殿というのは、この地にはギリシアの神々の神殿があるからで、神像、祭壇、社すべて木製だがギリシア式である。そして一年おきディオニソスの祭を開いて乱痴気騒ぎをしている。それはゲロノス人がギリシア人から発しているからで、交易港を追われてブデイノイ人の国に移住したのである。その言語はスキタイ語とギリシア語が半々である。

[4.109] しかしブデノイ人はゲロノス人の言葉を解さず、生活様式も異なる。それというのもブデイノイ人は土着の遊牧民で、この地域一帯では唯一樅の実を常食する民族である。ゲロノス人は農耕民で穀物を食し畑も耕し、容姿も肌の色も全く異なっている。ギリシア人はブデイノイ人もゲロノス人と呼んでいるが、これは誤りである・

彼らの国全体は、あらゆる種類の樹木が生い茂っている。その深い森の奥には巨大な湖があり、まわりは葦の繁る沼地になっている。そこではカワウソやビーバー、方形顔の別の生き物が捕獲される。これらの毛皮は、革の外套の縁に縫いつけて使用し、また畢丸は子宮病の治療に用いられる。

[4.110] サウロマタイ人については次の言い伝えがある。ギリシア人がアマゾン族と戦ったとき(スキタイ語ではアマゾンのことをオイオルパタといい、ギリシア語では「男殺し」となる。スキタイ語のオイオルは男、パタは殺すという意昧である)、テルモドン河畔の合戦でギリシア人が勝利し、生け捕りにしたアマゾンたちを三隻の船に乗せて引き上げる途中、アマゾンたちは海上で乗組員を襲撃し、彼らを船から放り投げてしまったという。

ところがアマゾンたちは船のことを知らず、舵や帆や櫂の操り方を知らなかったため、男たちを殺してからというもの、波と風に流されるままとなった。そしてついにマイオティス湖(アゾフ海)のクレムノイに漂着した。このクレムノイは自由スキタイ人(*)の領土内にある。アマゾンたちはここで陸に上がり、人の住んでいる地帯に向って進んでいった。そして馬の群に出会うとこれを捕らえ、そのあとは騎馬でスキタイ人の領土を略奪してまわった。

(*)王族スキタイ人のこと。本巻二十節参照

[4.111] スキタイ人には事態が飲み込めなかった。彼らの言葉も服装も民族もわからず、一体どこから来たのかと訝しんでいた。彼らはアマゾンをその見た目から同じ年頃の青年と思い、戦をしかけた。戦が終ってスキタイ人が死骸をあらためると、敵は女であることがわかったのである。

そこで彼らは評議の結果、今後は決してアマゾンを殺さないことと決め、アマゾンの人数と思われる人数にあわせて、もっとも年少の青年たちを彼女らに向かわせることに決めた。彼らは青年たちに指示して、アマゾンの近くに宿営し、彼女らのすることをすべて真似させた。ただし女たちが追ってくれば戦わずに逃げ、追うのをやめればまた戻って近くに宿営させた。スキタイ人は、女たちが子どもを生むことを望んでこのようなことを計画したのである。そして送り出された青年たちは指示通りのことを行なった。

[4.112] アマゾンたちは、青年たちが危害を加えるつもりがないことに気づくと、彼らを好きにさせておいた。すると日ごとに双方の宿営地が近くなっていった。青年たちもアマゾンと同じく武器と馬としかもたず、狩猟と略奪によって生活しており、これもアマゾンと同じだった。

[4.113] 正午近くなるとアマゾンたちは、散り散りになって、一人または二人で気晴らしのために互いに離れた場所で散策する。これに気づいたスキタイ人は同じことをした。そしてアマゾンがひとりで散策しているとき、ある青年がその女に近づいて行った。そして女は拒むことなく男に身を委ねた。

互いに言葉が通じないので会話はできなかったが、女は手振りで次の日も同じ場所に仲間をつれて来るように伝えた。すなわち二人だと手で示し、自分ももう一人つれてくると合図した。

その青年は宿営へ帰ると、このことを他の者たちに話した。そして翌日もう一人をつれて同じ場所へゆくと、アマゾンも二人で待っていたのである。このことをほかの青年たちが知ると、自分たちも他のアマゾンたちと懇ろになったのであった。

[4.114] やがて彼らは宿営を一緒にして共に住むようになり、青年たちはそれぞれが最初に情を交わした女を妻にした。男たちは女の言葉を習い覚えることができなかったが、女は男たちの言葉を操れるようになった。

そして意志が疏通するようになると、男たちはアマゾンに向って云った。
「我々には親もあり財産もある。だからこのような生活はこれまでとし、われらの国人のもとへ帰って住もうではないか。我々はずっとお前たちを妻にし、ほかの誰も妻にはしないつもりだ」

これに女たちが答えていう。
「私たちはあなた方の国の女たちと一緒に住むことはできませぬ。私たちとお国の女たちとは習慣が違うからです。私たちは弓を引き、槍を投げ、馬に乗りますが、女のする仕事は習っていません。そしてお国の女たちは今いったようなことは何もしない代りに、幌車の中にとどまって女の仕事をこなし、狩にもゆかず、どこにも出かけることはないのです。

ですから私たちはあの人たちと仲良く暮らすことはとてもできません。もしあなた方が私たちを妻にしておきたいと思われ、しかも公明正大な男の名に恥じないことをお望みなら、ご両親のもとへゆき、財産を分けてもらっていらっしゃい。それから私たちだけで暮らすことにしましょう」
青年たちはこれに納得し、その通りにした。

[4.115] そして青年たちが財産を分けてもらい、アマゾンのもとへ帰ってくると、女たちが彼らに告げた。

「私たちはあなた方を父親から奪った上、お国をひどく荒らしまわった者であるのに、この地に住むことを思うと、心配でもあり恐ろしくも思っています。あなた方は私たちを妻にすると決心なさったのですから、どうか私たちと一緒にこの地を去り、タナイス河の向うへ移り住むことにしましょう」

[4.116] 青年たちはこの提案にも同意した。そしてタナイス河を渡り、そこから東に三日の旅程を進み、さらにマイオティス湖から北へ三日進んだ。そして今日彼らの住んでいる地に到着すると、ここに住みついたのである。

それ以来、サウロマタイ人の女は祖先の生活様式を守っている。すなわち馬に乗り、男とともに、あるいは自分たちだけで狩猟にでかけるし、男と同じ服を着て合戦にも加わるのである。

[4.117] サウロマタイ人の言語はスキタイ語だが、アマゾンたちが正しいスキタイ語を習得しなかったために、当初からその言葉は訛っている。結婚に関しては、敵を一人斃すまでは娘は結婚しないという風習がある。この掟を満たすことができなくて、未婚のまま老い果てて死ぬ女もいる。

[4.118] さて先に話した諸民族の王たちが集合しているところヘスキタイからの使者たちが到来し、次のことをつぶさに語り聞かせた。すなわちペルシア人がかの大陸をどのようにして征服したか、そしてボスポラス海峡に船橋をかけてこの大陸に渡ってきたこと、その後はトラキア人を制圧し、ほかの大陸同様、この大陸も残らず従えようとして、今はイストロス河に船橋を建設中であることなどを語った。

「貴公ら、蚊帳の外でわれらが滅ぼされるのを眺めるようなことがあってはならぬぞ。されば我々としては一致団結してて侵略者に立ち向かおうではないか。貴公らがこれに賛同せぬなら、われらは国から追い出されるか、あるいは留まって和議を結ぶしか道はないのだ。

貴公らの助けがなくば、われらには何が待ち受けているだろうか?しかしそうなったとしても、貴公らが楽になるわけはないぞ。ペルシア人はわれらだけでなく貴公らの国も襲撃するためにやって来るのだから。われらを征服したあと、貴公らだけをそのままにしておくつもりはないはずだ。

そこで、われらの言葉を納得してもらうための証拠を示すことにしよう。仮にペルシア人が、かつてわれらに隷従した(*)遺恨をはらすために、わが国のみを目指して来寇したのであれば、他の国はそのままにしておき、わが国に向って直進してくるはずだ。そして目的はスキタイ人で、他の国ではないことを万人に示すはずだ。

(*)キュアクサレスの時代にスキタイがアジアに侵攻したこと;本巻一節、第一巻百三節以下参照

ところがこの大陸に渡るや否や、あの王はその進路に当るものは全て征服しているのだ。そしていまやトラキア人のみならず我々の隣国であるゲタイ人も従えているのだ」

[4.119] このようなスキタイ人の言葉を聞き、諸民族の王たちは評議したが、その意見は割れた。ゲロノス人、ブデイノイ人、サウロマタイ人の王たちは同じ考えで、スキタイ人に支援を約束したが、アガテルソイ、ネウロイ、アンドロパゴイ、メランクライノイ、タウロイの王たちはスキタイ人使者に次のように返答した。

「もし貴公らの側が先にペルシア人に悪業を働き、戦を始めたのでなければ、貴公らの今の願いはもっともなことゆえ、願いをいれて行動を共にしよう。

ところが事実は、貴公らはわれらとは無関係に彼らの国に侵入し、神の許し給うた期間にわたってペルシアを支配した。そして今度はペルシア人が同じ神に後押しされ、貴公らに同じようなことを行なって報復しようとしているのだ。

われらは、かつて彼らに悪事を働いたことはないし、今も自分から先に手出しをするつもりはない。しかしペルシア人がわれらの国に来寇し、悪業を働くようなことあれば、われらも黙ってはいない。そしてそれを見極めるまでは、われらは国に留まることにする。われらの考えでは、ペルシア人が目指しているのはわれらではなく、悪業を働いた者たちなのだ」

[4.120] このような返答を知らされたスキタイ人は、正面から敵に対抗することは避けることにした。それは支援を求めた民族を同盟軍に加えることができなかったからで、人や家畜を徐々に退却させ、通りがかった井戸や泉を埋め、草も抜き取ってゆくことに決した。そして彼らは二隊に分かれてそれを行なった。

スコパシスが治めている地区の部隊にはサウロマタイ人が加えられた。この者たちは、ペルシア人がこの方面に向ってきたときには、マイオティス湖に沿って退きながらタナイス河を目指して真直ぐ退却するが、ペルシア人が退けば追いかけて攻めることになっていた。彼らは王族スキタイの一地区の住民で、このような行動をとることを命ぜられていたのだった。

王領の他の二地区、二番目の宏大な領地を治めているのはイダンテルソスで、三番目はタクサキスが治めているだが、これは合流し、さらにゲロノス人とブデイノイ人も加え、一日分の行程だけペルシア軍に先んじて退きつつ、敵と接触しないようにして決められた行動をとることにした。

すなわち彼らは最初に、同盟を拒否した国々に向って退却し、この国々も戦いに引きずり込むことを企てたのだ。これらの諸国はペルシア戦に支援をするつもりはなくとも、こうなれば不本意ながら戦うしかないだろうと考えたのである。そのような事態になってから自国にとって返し、好機と評議一決すれば攻撃に転じるという戦法をとることにしたのだ。

[4.121] このような作戦を決定したスキタイ人は、騎兵の精鋭を前哨隊としてダリウス軍に向けて出撃させた。そして妻子が住処としている幌車は、その全てがどこまでも北へ進むよう指示して一足先に送り出した。家畜も自分たちの食糧にする分は除き、残り全てを車とともに行かせた。

[4.122] この住民隊を先発させたあと、スキタイの前哨部隊はイストロス河からおよそ三日の行程だけ離れた地点でペルシア軍を発見した。そして彼らはペルシア軍から一日の行程だけ先んじては野営し、地上に生育しているものをことごとく根絶やしにしていった。

ペルシア軍はスキタイの騎兵隊を認めると、それを追って追撃したが、騎兵隊は絶えず退却していった。そして先に述べた一つのスキタイ地区に向かっていったので、ペルシア軍もそれを追って東のタナイス河に向うこととなった。

騎馬隊がタナイス河を渡ると、ペルシア軍もそれに続いて河を渡って追いかけ、遂にサウロマタイ人の国を通り抜けてブデイノイ人の国に達した。

[4.123] ペルシア軍がスキタイとサウロマタイの領地を横断しているあいだ、ここは荒廃地であるため、荒らすものは皆無だった。しかしブデイノイ人の国に入ると、木で囲われた街(*)に出くわしたが、ブデイノイ人はすでに立ち去っていて、街には何も残されていなかった。ペルシア軍は街を焼き尽くした。

(*)本巻百八節参照

そののちペルシア軍はさらにスキタイ人の跡を追って先へ進み、この国も通過して人の住んでいない荒蕪地に入り込んだ。ここはブデイノイの国の北方で、七日の行程を要する広さである。

さらにこの荒蕪地の北方にはテッサゲタイ人が住んでいる。この地からは四つの大河が流れ出し、マイオティス人の国を通っていわゆるマイオティス湖(アゾフ海)に注いでいる。河の名はリコス、オアロス、タナイス、シルギスである。

[4.124] ダリウスは荒蕪地帯に入ると追跡を中止し、オアロス河畔に宿営した。そしてその場所に八つの大きな砦を築かせたが、その遺跡は私の時代になっても残っていた。砦はおよそ六十スタディア(十一粁)の等しい間隔で造られている。

ダリウスが砦の築造に気を取られている間に、追跡されていたスキタイ人は北を迂回してスキタイの国へ帰って行った。スキタイ人が全く消え去り、もはやペルシア軍の視界からも見えなくなったので、ダリウスは砦を完成半ばのままに残し、かれも方向を転じて西に向って行軍した。ダリウスは、この部隊が全スキタイ人部隊だと思い、それが西に逃走したと考えたのである。

[4.125] ダリウスが急いで行軍し、スキタイの国にたどり着くと、スキタイの二区連合部隊を見つけたので、一日の行程をおいて先に逃げる彼らの後を追った。

ダリウスがどこまでも追ってくるので、スキタイ人は計画したとおりに、同盟を拒んだ諸国に逃げ込むことにしたが、最初に逃げ込んだのはメランクライノイ人の国だった。

スキタイとペルシアの軍はこの国で暴れまわって国をかき乱した。そこからスキタイ軍はペルシア軍をアンドロパゴイ人の国に誘導し、これも撹乱したあと、今度はネウロイ人の国に逃げ込み、この国も同じく撹乱して次にアガテルソイ人の国に向って逃げた。

しかしアガテルソイ人は、隣国の者たちがスキタイ人の侵入によって国を荒らされ逃げ出すのを見て、彼らが国に侵入する前に使者を送り、国境に足を踏み入れることを禁じ、もし侵入しようとするなら、彼らは最初にアガテルソイ人と戦うことになるだろうと通告した。

このように通告し、アガテルソイ人は侵攻軍を阻止するために国境の防備を固めた。しかしメランクライノイ、アンドロパゴイ、ネウロイの諸族は、ペルシア軍とスキタイ軍が国内に侵入しても立ち向かうことはせず、先の脅しの言葉も忘れ、ひたすら北の荒蕪地を目指して散り散りに逃げ出した。

スキタイ人はアガテルソイ人に警告を受けたため、この国へは二度と入ろうとせず、ペルシア軍をネウロイ人の国からスキタイ領へと誘導していった。

[4.126] このようなことが長く続き、やむことがなかったたので、ダリウスはひとりの騎兵をスキタイ王イダンテルソスのもとへ送り、次のように伝えさせた。
「汝、奇妙な者よ。何ゆえにいつまでも逃げとおすや。他にも次のような策があるにもかかわらず。汝がわが軍勢に対抗しうるという自信があるのならば、逃げるのはやめ、踏みとどまって戦え。またもし力弱きことを認めるのならば、そのときもまた逃亡をやめ、土と水の献上品(*)を持参し、汝の主君たる予と面談しに参れ」

(*)降伏の印

[4.127] これに答えてスキタイ王イダンテルソスはいう。
「ペルシア人よ、吾輩のやり方を教えてやろう。吾輩は未だかつて誰に対しても恐れに駆られて逃げだしたことはない。このたびもお主から逃げているのではない。吾輩が今していることは、平時にいつもしていることと全く変わっておらぬわ。

吾輩がただちにお主と戦わぬのは何ゆえか、その理由も教えてやろう。我々スキタイ人には占領されたり荒されたりするのを恐れるような街や畑はないゆえに、ただちにお主と争うこともないのだ。

お主がすぐにでも合戦したいのであれば、我々には祖先の墓があるから、いざ、この墓を見つけ出し、これの破壊を試みよ。その時こそ、墓のためにわれらがお主と戦うか否かがわかるであろう。

合戦についてはこれで充分だろう。主については、吾輩が崇めているのはわが先祖ゼウスと、スキタイの女王ヘステイア(火の神)だけじゃ(*1)。お主には土と水の代わりに、お主にふさわしい品(*2)を送ってやろう。そしてお主が吾輩の主君であると大口叩いたお返しには、スキタイの流儀で返答してやろう、クソ喰らへ!(*3)」

(*1)本巻五十九節参照
(*2)本巻百三十一節参照
(*3)最後の語句、原文は「κλαίειν λέγω = klaíein légo」、英訳文では「Weep!(泣け)」、「Go weep」、「you should weep」(以上がほぼ直訳)、「woe betide you汝に災いあれ」「take my malison for itわが呪いを受けよ」などと訳されている。当該訳者は当初「泣きやがれ!」という捨て台詞をこれに当てようと思ったが、考え直して思いきり下品な罵り言葉を用いた

[4.128] 使者はこの言葉をダリウスに持ち帰ったが、スキタイの諸王は「奴隷」という言葉を聞いて激怒した。

そしてサウロマタイ人を編入したスコパシス麾下の部隊に、架橋したイストロス河を警備しているイオニア軍と交渉するように指示して送りだした。残りのスキタイ人はペルシア軍をおびき寄せるのをやめ、彼らが食糧を探しに出るたびに攻撃することに決めた。彼らはダリウス軍の兵士が食糧を求めて出動する時を見張っておき、計画どおりに行動した。

スキタイの騎兵隊は出撃のたびに毎回ペルシア騎兵隊を敗走させ、ペルシア騎兵は歩兵が救援に駆けつけたところへ逃げ込んだ。スキタイ人は騎兵隊を追い立てはするが、歩兵が怖いので退却する。スキタイ軍は昼も夜もこのような攻撃を行なった。

[4.129] ここでとても奇妙なことがあった。それはペルシア軍には有利に、ダリウス軍を攻撃するスキタイ軍には不利に働いたことだが、それはロバの啼き声とラバの出現である。

以前話したように、スキタイはロバもラバも産しない(*)。また寒いのでスキタイ全土にはロバもラバも全くいない。そのためにロバが大声で啼き喚くと、スキタイの馬は震えあがるのである。

(*)本巻二十八節参照

スキタイ軍がペルシア軍を攻撃している最中に、ロバの噺きが聞こえると、馬が怖れてびくついたり、耳をそば立ててじっと立ち止まってしまうことがしばしばだった。いままでそのような啼き声を聞いたこともなく、見たこともない動物だったからである。これはわずかながらペルシア軍を有利に導いた。

[4.130] しかしスキタイ人はペルシア軍が混乱に陥るのを見て取ると、彼らをなるべく長期間スキタイに留めおき、必要物資の欠乏によって苦しむようにと、次のような策を取った。すなわち自分たちの家畜の一部を牧童と共に残しておき、自分たちは別の場所へ立ち去るのである。やって来たペルシア軍はこの家畜を略奪し、その戦果に得意になるというわけである。

[4.131] このようなことが何度も起きたので、ダリウスはとうとう困り果ててしまった。そしてこのことを探知したスキタイの諸王は、ダリウスに使者を送り、小鳥、ネズミ、蛙、それと五本の矢を届けさせた。

ペルシア人は、これらの贈答品を持ってきた者に、これはどういう意味かと訊ねたが、使者はこれを届けたらすぐ帰ってこいとだけ命ぜられたと返答した。そして、ペルシア人が智にあふれているなら、贈物の意味するところをみずから解釈するべし、といつた。

[4.132] それを聞いたペルシア人はこれについて話し合った。ダリウスの解釈するところでは、スキタイ人は白旗を揚げて降伏し、土と水を自分に献上するつもりだということだった。彼の考えでは、鼠は地中に棲息して人と同じ穀物を喰い、蛙は水中に棲み、鳥はことのほか馬に似ている。矢は彼らの武力を放棄するという意味だというのだった。

以上がダリウスの意見だった。ところがマゴス僧を斃した七人のうちの一人であるゴブリアスの解釈は、ダリウス説とは真逆だった。ゴブリアスは贈答品の意昧を次のように解釈した。

「ペルシア人どもよ、お前たちは鳥となって空に飛び立つか、鼠となって地中に潜るか、あるいは蛙となって湖中に跳び込むかせぬ限り、この矢に射貫かれ、決して国に帰ることはあるまいぞ」

[4.133] ペルシア人が贈物の意味を考えあぐねている一方、スキタイ人の最初の部隊が船橋にやって来た。この部隊はマイオティス湖岸を警備することと、イオニア人と交渉するためイストロス河に向かうよう命じられていたのだが、次のように述べた。

「イオニア人諸君、われらは諸君に自由を持ってきたことになるぞ。ただし諸君が当方のいうことを聞き入れればの話だが。ダリウスは諸君に六十日間だけ船橋を警備し、この期間内にかれが戻って来なければ帰国してよい、と命じたことをわれらは承知している。そこで、われらのいうとおりにすれば、諸君はわれらからもダリウスからも罪科を問われることはないであろう。すなわち指定された日数だけここへ留まり、そのあとは立ち去られよ」

イオニア人がそのとおりにすることを確約したので、このスキタイ人部隊は急いで引き返していった。

[4.134] 一方、ダリウスに贈物を届けたスキタイの残留部隊は、ペルシア軍と干戈を交えるつもりで歩兵と騎兵の陣をしいた。ところがスキタイ軍の陣形が整ったとき、一匹の兎が両軍の間に飛び出し、兎を見つけたスキタイ人たちは、みながこれを追いはじめ、隊列を乱して大きな叫び声を上げた。それを耳にしたダリウスは、敵の騒ぎは何事かと訊ねた。そして彼らが兎を追いかけていることを聞かされると、話相手にしている身近な者たちにいった。

「われらはよくよく侮られたものよ。今にして予はスキタイ人の贈答品についてゴブリアスが申したことが正しいと思うようになったわ。ワシ自身がゴブリアスの考えに同意するからには、いかにして無事帰還するか、その策を周到に考えねばならぬぞ」
これに対してゴブリアスがいうには、
「殿、私には、スキタイ人の扱いは難しいことが、話に聞いただけでもわかっておりましたが、この地に来て彼らがわれらを愚弄するさまを見て、そのことがますますわかり申した。

そこで私の考えますには、日が暮れましたならば、いつものように篝火を焚き、苦難に耐える力のもっとも弱い兵たちを欺き、またロバは余さずつなぎ止めおき、スキタイ人が船橋を破壊するためにイストロス河に直行する前に、またイオニア人どもがわれらを破滅に導くような行動を取る前に、退却するのが良策かと存じます」 このようにゴブリアスは建言した。

[4.135] ダリウスはその意見を容れ、日が暮れると、疲れきっている者、失っても問題ない者たちを陣営におき止めた。またロバも残らず繋ぎ止めておいた。

疲弊した兵とともにロバを残したのは、ロバが噺くからで、残された兵は役に立たなかったからである。ダリウスが精鋭部隊を率いてスキタイ人の攻撃に出ている間、陣地を守るのだという口実を、彼らには言い聞かせておいた。

残留部隊にはこのように命じておき、篝火を焚かせておいて、ダリウスは大急ぎでイストロス河に向かった。ロバは大勢の人の気配がなくなったことに気づくと、より一層激しく嘶いたため、スキタイ人はその声を聞いて、ペルシア軍がそこに留まっているものと思っていた。

[4.136] ところが夜が明けると、残された部隊はダリウスに欺されたことに気づき、両手をさしのべてスキタイ軍に投降し、事情を打ち明けた。それを聞いたスキタイ人は、二つの地区の連合部隊とサウロマタイを編入した一隊、それにブデイノイ人、ゲロノス人の隊を急いで集め、ペルシア軍を追ってイストロス河に急行した。

ペルシア軍は歩兵が大勢を占めているうえ、道しるべがないので道に迷っていた。一方のスキタイ軍は騎兵で近道も知っていたので、両軍は遠く離れて行軍することになった。その結果スキタイ軍はペルシア軍よりもはるかに早く船橋に到着したのだった。ペルシア軍がまだ到着していないことを知ると、彼らは船に乗り組んでいるイオニア人に向かって云った。

「イオニア人諸君、定められた日数は過ぎているぞ。諸君がまだここに留まつているのは当を得ていない。諸君が留まっているのは恐怖心からであろうが、今は急ぎ船橋を破壊し、神々とスキタイ人に感謝して自由になったことを喜び、立ち去るがよい。諸君の支配者であった男は、二度と再び誰に対しても軍を進めることのないように、我々が抑えつけてやろう」

[4.137] そこでイオニア人たちは合議した。ヘレスポントスのケルソネソスの僭主で、そこの部隊を率いていたアテナイ人ミルティアデス(*)は、スキタイ人のいうとおりにしてイオニアを自由にすべしという意見だった。

(*)第六巻三十九節以下参照

しかしミレトス人ヒスティアイオスは逆の意見を言った。
「我々が僭主でいられるのはダリウスのおかげである。ダリウスの力が失墜すれば、われわはもはや支配権、すなわちミレトスにおける吾輩しかり、他の諸国におけるすべての僭主しかり、これを維持できなくなるであろう。どの街も独裁制よりも民主制を選ぶはずであるゆえにな」

ヒスティアイオスがこのように説くと、それまではミルティアデスの肩を持っていたすべての者たちが、たちまちヒスティアイオスの意見に傾いてしまった。

[4.138] ダリウスに重用されていた者でこれに票を入れたのは、アビドスのダフニス、ランプサコスのヒポクロス、パリオンのヘロパントス、プロコンネソスのメトロドロス、キジコスのアリスタゴラス、ビザンチンのアリストンだった。

以上がヘレスポントスの僭主たちであった。イオニアから来た者としてはキオスのストラティス、サモスのアイアケス、ポカイアのラオダマス、それにミルティアデス説に反対の意見を述べたミレトスのヒスティアイオスなどがいた。同席していたアイオリス人で、唯一高名な者としてはキュメのアリスタゴラスがいた。

[4.139] この者たちはヒスティアイオスの意見に賛同し、それに加えて次の行動をとることを決めた。すなわちまず、船橋のスキタイ側で弓の射程内にある部分だけを破壊すること、それは何もしていないのに何かしているように見せかけるためと、スキタイ人が強引に船橋を渡ってイストロス河を越えようとする防ぐためだった。またスキタイ側の船橋部分を解体する際、自分たちはスキタイ人の望むことは何でもするつもりだと彼らに通知することも決めた。これが追加の策であった。そしてヒスティアイオスが一同を代表してスキタイ人に返答した。

「スキタイ人諸君、貴殿らは良い知らせを持ってきてくれた。またちょうど良いときに急かせに来てくれた。貴殿らの有益な指針のお返しに、われらもそちらに充分な貢献をするつもりだ。見ての通り、我々はいま船橋を取り壊している最中で、これに精励するつもりだが、それもこれも自由になりたい一心なのだ。

そこで我々が船橋を壊しているこの機に、貴殿らは彼らを探し、見つけたならばわれらのためにも貴殿ら自身のためにも、彼らの受くべき報復を加えるがよい」

[4.140] こうしてスキタイ人は再びイオニア人の言葉を信じ、ペルシア軍の捜索に引き返していった。しかし彼らは敵の帰還路を見失ってしまったのだった。この失敗の原因はスキタイ人自身にあって、馬のまぐさになるはずの、この地の草を根絶やしにし、水源を埋めてしまったことにある。

このようなことをしていなかったなら、彼らがその気になれば、たやすくペルシア軍を発見できただろう。しかし実状の通り、彼らが最善の策だと考えたことが、まさに迷走の原因となったのである。

そこでスキタイ人は、馬の飼料と水のある地帯を通って敵を捜索した。敵もまたこの地域を通って退却すると考えたのである。しかしペルシア軍は以前に自分たちのつけた足跡をたどって行軍し、どうにかこうにか渡河地点を見出したのだった。

ところがペルシア軍が到着したのは夜で、しかも橋が破壊されているのを見て、イオニア人が自分たちを見捨てたのではないかと、ペルシア人は極度の不安に陥った。

[4.141] ここにダリウスに随行しているエジプト人で、世にも大きな声を出せる者がいた。ダリウスはこの男をイストロスの河辺に立たせ、ミレトス人ヒスティアイオスを呼ばせた。エジプト人が命じられた通りにすると、ヒスティアイオスは最初の一声を聞いただけで反応し、軍を渡河させるために全ての船を送りだして船橋を修復した。

[4.142] こうしてペルシア軍は逃れた。そしてスキタイ人はペルシア軍を探しまわりながら、またもこれを見逃してしまったのである。スキタイ人がイオニア人を評するところでは、彼らは自由民としては世にも下劣で卑怯な民族だが、奴隷として見ると、これほど主人のことを気にかけ、逃げる気の少ない奴隷もないという。スキタイ人はイオニア人をあざけって、このようにいうのだった。

[4.143] ダリウスはトラキアを通ってケルソネソスのセストスに着き、ここから自身は船でアジアに渡った。ヨーロッパにはペルシア人メガバゾスを司令官として残しておいた。このメガバゾスは、かつてダリウスがペルシア人のいるところで、次のように語って褒めそやしたことがあった。

それはダリウスがザクロの実を食べようとして最初の実を割いたとき、弟のアルタバノスが訊ねて云ったときのことだった。ザクロの実の中にあるタネの数ほどあればよいと兄上が思うものは何かと。するとダリウスは、ギリシア全土を征服することより、そのタネの数ほどメガバゾスがいてくれた方がよい、と答えたのだ。

ダリウスは大勢のペルシア人を前にしてこのようにいい、メガバゾスを讃えたのだが、この時は自分の軍勢のうち八万の司令官としてかれをヨーロッパに残したのである。

[4.144] このメガバゾスは、次のような言葉でヘレスポントス人たちに永遠の記憶を残した人物である。

それはかれがビザンチン(*)ヘ行ったときのことだった。この国はビザンチン人がやって来る十七年前にカルケドン人が住んでいたと聞いていうには、当時のカルケドン人は眼が見えていなかったに違いない。盲目でなかったなら、劣悪な地を選んで街を造るはずがない、もっと良い場所を選んだはずだ、といったのである。

(*)現イスタンブール

そしてこのメガバゾスが総指揮官としてこの地に残され、まだペルシアに下っていないヘスポントス人を討伐したのだった。

[4.145] かれがこのように活動している頃、時を同じくして、もう一つの大遠征がリビアに向けて行なわれた。その理由は、これから話すことの後に述べることにしよう。

ところでアルゴー船に乗り組んだ勇士たち(*1)の子孫は、ブラウロン(*2)からアテナイの女たちを誘拐したペラスゴイ人によってレムノス島を追われ、海路スパルタに向った。そしてタウゲスト山中(*3)に宿営して火を焚いていた。

(*1)ギリシア神話で、イアソンがコルキスの黄金の羊の毛皮を求める冒険のために建造された船。これには五十人の勇士が乗り組んだ。ヘラクレスもその一人。詳しくはリンク先を参照
(*2)第六巻百三十八節参照
(*3)スパルタ西方で南北に走る山脈

これを見たスパルタ人は使者を送り、彼らは何者でどこから来たのかを訊ねた。すると彼らは使者に答えて、自分たちはミニアイ人で(*)、アルゴー船に乗り組んだ英雄たちの子孫だといい、またこの英雄たちはレムノス島に上陸し、わが民族の祖先となったのだ、と返答した。

(*)テッサリアからボイオティアにかけて居住していた種族。ギリシア民族の中で最も古い種族に数えられる

ミニアイ人の血筋の話を聞いたスパルタ人は二度目の使者を送り、ラコニアの地にやって来た理由と、火を焚いている理由を訊ねた。それに答える彼らの言葉は、ペラスゴイ人から追放されたために父祖の国に行くのが一等正しいと思い、やって来たのだといい、スパルタ人の国から権利や土地を分けてもらい、父祖の人々と共に住みたいのだといった。

スパルタ人は彼らの望むとおりの条件で、喜んでミニアイ人(46)を受け入れることとした。スパルタ人がこれを受け入れた主な理由は、ティンダレオスの子ら(47)がアルゴー船に乗り組んでいたことにあった。彼らはミニアイ人を受け入れて土地を分配してやり、また彼らを部族に分け入れた。ミニアイ人たちは間をおかずして結婚し、自分たちがレムノスから連れてきた女たちは他の者たちのもとへ嫁がせた。

(46)アルゴー船隊員の子孫で、テッサリアのパガサエアン湾(Pagasaean)付近に住んでいたミニアイ人
(47)カストル(ティンダレオスの子)とポリデウケス(ゼウスの子)

[4.146] それから間もなくミニアイ人は傲慢になり、王を決めるにも同等の権利を要求したり、ほかにも不遜な行動を取るようになった。

そこでスパルタ人は彼らを亡き者にすることにし、捕らえて投獄した。スパルタでは死刑の執行は夜に行ない、決して昼間には行なわないのだった。

さて投獄した者たちを処刑しようとしているとき、ミニアイ人の妻たち、これらはスパルタ生まれで、名士の娘たちだったが、この者たちが獄舎に入り、夫と話をさせてもらいたいと頼んできた。それが女たちのはかりごとだとは露知らず、スパルタ人はそれを許した。

そして妻たちは、獄舎に入るや自分の上着を夫に与え、みずからは夫の衣服をまとったのである。かくてミニアイ人たちは女の衣服を身につけて女の振りをして獄舎から抜け出した。こうして逃れた彼らは再びタウゲスト山中に立て籠もった。

[4.147] 同じ頃、テラスという者が、これはポリネイケスからテルサンドロス、ティサメノス、アウテシオンの系譜に連なる者だったが、この者が植民地を開拓する者たちを率いてスパルタを出立しようとしていた。

このテラスはカドモス家の一員で、アリストデモスの二人の息子、エウリステネスとプロクレスの母方の叔父だった。このふたりが幼少の間は、テラスが後見人としてスパルタの王権を握っていたのである。

しかし甥たちが成長して王位に就くと、最高権力の味を知ったテラスは、他人の支配下に甘んずることは耐えがたいとして、自分はもはやスパルタに留まるつもりはなく、同族のもとへ船でゆくと云った。

現在テラ(*)と呼ばれている島は、以前はカリステと呼ばれていたのだが、当時はポイキレスの子メンブリアロスの子孫であるフェニキア人が住んでいた。すなわちアゲノルの子カドモスは、妹のエウロペを探し求めて、今はテラと呼ばれている島に上陸したが、上陸してこの地が気に入ったものか、あるいはほかに理由があったのか、フェニキア人をこの島に残して行った。これには自分と同じ一族のメンブリアロスも含まれていたのだ。

(*)現シーラ島またはサントリーニ島。キクラデス諸島中、最も南に位置する

この者たちが当時はカリステと呼ばれていたこの島に八代にわたって住んでいたが、テラスがスパルタからやって来たのはその頃だった。

[4.148] テラスは各部族から選んだ人々を従えて出発しようとしていた。彼の目的はカリステの住民と共に住むことであり、彼らを追い出すのではなく、親しい同族としてつきあうつもりだった。

一方獄舎から逃亡したミニアイ人がタウゲスト山中に立て籠もり、スパルタ人が彼らを討伐しようとしているとき、テラスは彼らを殺さぬよう命乞いをし、自分が彼らを国外に連れ出すことを約束した。

スパルタ人がこれを受け入れたので、彼は三隻の三十櫂船を連ねてメンブリアロスの一族に合流すべく船出した。ただし連れて行ったのはミニアイ人すべてではなく、ごく少人数だった。

というのは、大多数のミニアイ人はパロレアタイ人、カウコネス人の住む地に向かって行き、その地の住人を国から追い出したあと、六つの集団に分かれ、その地にレプレオン、マキストス、プリクサイ、ピルゴス、エピオン、ヌディオンの都市を建設した(48)。しかしこれらの街の大部分は、私の時代になってエリス人が攻略して破壊してしまった。そしてカリステ島は植民したテラスの名にちなみ、テラと名づけられた。

(48)これら六都市はペロポネソス半島西方のトリフィリア地区で、エリスからメッサニアの間にあった。

[4.149] ところがテラスの息子は父とともに船出することを拒んだので、父は、息子を後に残すのは狼の群の中に羊を一頭残しておくようなものだといった。このあと、この青年にはオイオリコス(49)という渾名がつけられたのだが、どういう訳か、この名がかれの通り名となってしまった。そしてオイオリコスからアイゲウスが生れ、スパルタの有力な一門であるアイゲイダイは、このアイゲウスから発している。

(49)文字通り、羊-狼

ただ、この一族の男たちのもとでは子供が幼くして死んでしまうので、ある託宣の指示に従ってライオスとオイデプスの怨霊を鎮めるための社を建立した(50)。そしてその後は子供が早死をしなくなった。ところがテラにおいても、アイゲイダイの子孫の間で同じようなことが起きている。

(50)テーベ王ライオスとその妻イオカスタの子オイデプスは幼くして遠国に連れて行かれ、棄てられた。成年になって帰国すると父とは知らずこれを殺害し、母と結婚した。その後に事情を知ったが、手遅れだった。この物語を最初に書いたのはホメロスだったが、三大悲劇詩人のひとりであるソフォクレスの「オイデプス王」(B.C.427)がつとに有名。またこれをもと に十九世紀末、ジークムント・フロイト(1856~1939)がエディプス・コンプレックスという精神分析学上の概念を提示していること、言わずもがな。

[4.150] ここまではスパルタ人もテラ人も伝えていることは同じであるが、これ以後のことはテラ人のみの伝承によっている。

テラスの末裔で、テラ島の王アイサニオスの子グリンノスは、自分の街から牛百頭の生贄を持参してデルフォイヘ参じたことがあった。これには市民も随行しており、その中にはミニアイ族エウペモスの子孫でポリムネストスの子バットスも混っていた。

テラの王グリンノスが他のことについて神託を伺うと、巫女はリビアに街を建設せよと託宣を下した。グリンノスが答えていうに、
「神よ、私はすでに年老いて、動き回るのも辛いのでございます。どうかここの若者たちに、それをお命じ下されませ」
こういいながら、かれはバットスを指さした。

その時はそれ以上の託宣は下されなかったので、テラ人たちは帰国し、神託のことを無視していた。というのも彼らはリビアがどこにあるのかも知らず、またどことも知れぬ地へ植民を送ることを怖れもしたからである。

[4.151] ところがそれから七年間というものテラには雨が降らなかったので、この島の樹木は一本を除いてすべて枯れてしまった。テラ人が神託を伺うと、巫女はまたもリビアへの植民を返答した。

テラ人は、この災難を克服する手立てをもっていなかったので、クレタ島に使いを送り、クレタ人あるいはクレタにいる旅人で、かつてリビアヘいった人間がないか探させた。使いの者たちは島中を巡り、イタノスの街までやって来た。そしてこの街で、ムラサキ貝を採っているコロビオスという名の漁師に出会った。この男は、風に流されてリビアヘ行ったことがあり、そこはプラテアという島(51)だったと語った。

(51)キュレネ東方のボムバ湾にあるボムバ島

テラ人はこの男を雇ってテラヘ連れて帰り、手始めに数人が下見としてテラを出航していった。コロビオスはテラ人たちを件のプラテア島へ案内したが、テラ人は数ヵ月分の食糧とともにコロビオスをこの島に残し、自分たちは島のことを報告するために、大急ぎでテラへ帰っていった。

[4.152] ところがテラ人は約束の日時を過ぎても戻ってこなかったので、コロビオスの食糧は尽きてしまった。そのようなときに、コライオスという男が船長を勤めるサモスの船が、エジプトへ向けて航行の途中、漂流してこのプラテア島にやって来たのである。サモス人たちはコロビオスからすっかり事情を聞くと、一年分の食糧を残してやった。

そのサモス人はこの島から出航し、東風に流されて航路をはずれながら、ともかくエジプト目指して航行を続けた。しかし凰は衰えることを知らず、ついに彼らはヘラタクスの柱を通過し、幸運にもタルテッソス(*)にたどり着いた。

(*)現スペイン・イベリア半島のグアダルキビール河(Guadalquivir)下流域の谷にあるカディス。ヘロドトスはガデイラと呼んでいる。第一巻百六十三節参照

その当時、ここはまだ通商地としては未開拓だったので(52)、彼らが帰国したとき、その積荷から得た収益は、我々が確実に知っている限りにおいて、いかなるギリシア人ももたらしたことのないほど莫大な額に上った。ただしこれはアイギナ人ラオダマスの子ソストラトスのそれには及ぶものではなかったが。ソストラトスと肩を並べうる者など一人としていないのである。

(52)これはギリシア人がまだ到来していなかったからである。

サモス人は利益の一割に当る黄金六タラントン(百五十六~二百二十二瓩)を費やして、アルゴリスの混酒杯に似せた青銅の瓶を造らせた。アルゴリスの混酒杯というのは、縁のまわりに怪鳥グリフィスの首が並んで突き出ている杯である。彼らはこれをヘラ神殿に奉納した。そしてそれを三体の巨大な膝をついた青銅像で支えたが、この像はそれぞれが七ペキュス(三米)の高さがあった。

サモス人オライオスのこの行ないがきっかけとなって、キュレネ人とテラ人はサモス人との親密な関係を結ぶことになったのである。

[4.153] 一方、テラ人はコロビオスを島に残してテラヘ帰り、リビア沿岸の島に植民地を建設したことを報告した。そこでテラ人は七つの地区すべてから、兄弟二人のうちクジに当った方の一人を選んで移民として送り出すこととし、さらにバットスを彼らの王として指揮をとらせることにした。こうして彼らは二隻の五十櫂船に乗り込ませ、プラテア島に送ったのである。

[4.154] 右の話はテラ人の伝承だが、これまでの話はテラ人とキュレネ人の言い伝えは一致している。ただし、キュレネ人が伝えているバットスの話は、テラ人の言い伝えと全く一致しない。キュレネ人の伝えるところはこうである。

クレタ島にオアクソスという街があり、この街にエテアルコスという王がいた。彼は妻が亡くなっていて、プロニメという娘がいたが、後妻を迎えた。後添いにきた女は、型どおりの継母(ままはは)としての態度をプロニメに取った。すなわちこの女はあらゆる悪だくみを尽くして娘を虐待し、とうとう娘は浮気性だとまで言いふらし、夫にもそれを信じ込ませてしまった。そのようなことで、エテアルコスは妻にそそのかされて娘に極悪非道な仕打ちを企らんだのだった。

それはこういうことだ。オアクソスにテラからやって来た商人でテミソンという男がいた。エテアルコスはこの男を客人、盟友として扱い、自分の願いごとは何でもかなえるという誓いを立てさせた。そのあと、エテアルコスは自分の娘を連れてきて彼に引き渡し、娘を連れ去って海へ投げ捨ててくれと云ったのだ。

テミソンはペテンにかけられて誓いを立てたことを大いに怒り、エテアルコスと結んだ盟友の縁を切った。それから娘を連れて出航して大海の中へ出、エテアルコスに立てた誓いを破らないように、娘を縛って海に沈めたが、ふたたび引き上げ、それからテラヘ帰っていった。

[4.155] その後、テラの名士ポリムネストスが娘を引き取り、妾にした。やがてこの男にどもりの男子が生れ、バットス(53)という名をつけた。このようにテラ人もキュレネ人も伝えているのだが、それは別の名前だったのではないかと私は考えている。

(53)これは「どもり」という意味

かれはリビアヘ行ってからバットスと名を変えたのであって、デルフォイで自分に下された神託と、自分が得た名誉ある地位にもとづいて新しい名を名乗ったのである。というのも、リビアでは王のことを「バットス」というからで、私の考えでは、デルフォイの巫女は、かれがリビアの王になるとわかっていたので、託宣を下すとき、彼の名をリピア語で呼んだのだろう。

それはバットスが成人してから、自分の発音について神託を求めてデルフォイヘ行ったことがあった。そのとき巫女は次のような託宣を下したのである。
  バットスよ、汝は己れの声音を問いに来たれども、
  主たるポイボス・アポロンは、羊育むリビアの地に
  街を築かせるべく、汝を遣わされよう
これはあたかも巫女がギリシア語の「王」を「バシレウス」と云い、
「汝は己れの声音を問うために来たれども」と云ったのと同じことである。

これに答えてバットスがいうには、
「主よ、私は自分の発音について伺うためにここへ参ったのでありますが、リビアへ植民せよと、できそうにもない他のことを御身はおっしゃいます。しかしどんな財力や兵力をもってそれを行なえと仰せでありましょうや?」
バットスはこのように訴えたが、主は別の託宣を下すことはなく、巫女は前と同じ託宣を繰り返した。するとバットスは巫女がまだ託宜を語っている最中に立ち去り、テラヘ帰ってしまったのである。

[4.156] しかしその後、バットスその人にも他のテラ人にも災難が襲いかかった。彼らはその原因がわからないのでデルフォイヘ使者を送り、直面している災難について神託を求めた。

巫女の宣告は、バットスがリビアのキュレネに植民するのを手助けすれば、事態は好転するであろうということだった。そこでテラ人は二隻の五十櫂船とともにバットスを送り出した。しかしこれらの者はリビアに向かったものの行くあてが見つからず、暫くしてテラヘ戻って行った。

一行が本国に帰り着くと、テラ人は石つぶてを投げて彼らの上陸を邪魔立てし、リビアヘ引き返せと言いつのった。そこで一行は仕方なく船を返し、前に述べたようにプラテアというリビア沿岸の島に植民したのである。この島は現在のキュレネの街と同じ大きさだといわれている。

[4.157] 彼らはこの島に二年間住んだが、よい運がめぐってくることもなかったので、一人だけそこに残し、あとの者は余さずデルフォイに向って出航した。そして神託所にゆき、リビアに植民したが一向に事態は好転しないといって神託を求めた。

そこで巫女は次のような託宣を返した。
  汝ら、羊育むリビアに行きもせで
  訪れしことあるわれよりも
  リビアをよく知ると言うならば
  汝らの知恵とは如何なるものであるか
これを聞いてバットスたちはふたたび船を返して行った。リビアに植民しない限り、神は彼らに何もさせないことがわかったからである。

そして島に着くと、残していた男を船に乗せ、島の対岸にあるリビア本土のアジリスという地に植民した。この地は美しい森で両側を囲まれ、片側には河が流れている。

[4.158] 彼らはこの地に六年間住んだが、七年目になって、もっとよい土地に案内するから立ち退いてくれとリビア人に説き伏せられてしまった。

リビア人は、アジリスから彼らを連れだし、西に向った。そして昼間の時間を計っておき、その国で一等美しいイラサという場所を通るときは夜になるようにした。それはギリシア人にその場所を見せないためだった。

結局リビア人が連れて行ったのは、いわゆるアポロンの泉と称される地で、
「さあ、ギリシアの方々よ、貴殿らが住むにはここがよいだろう。この地には天に穴があいているからな(54)」
と云った。

(54)雨が大量に降るという意味

[4.159] さて開拓者バットスが四十年間統治し、その子アルケシラオスが十六年間統治していた間、キュレネの人ロは植民に出発した当時のままだった。

しかし幸運児と呼ばれた三代目のバットスが統治しているとき、デルフォイの巫女が全ギリシア人に託宣を下し、海を渡ってキュレネ人とともにリビアに住むべしと、宣下したのである。それは、キュレネ人が土地を分け与えることを約してギリシア人を招いたからだった。
これがその神託だった。
  土の配分終わりしのちに
  いとしきリビアの地に遅れゆく者
  必ずや悔ゆるならん

そして大勢の人間がキュレネに集まり、リビアに隣り合う地域から多くの土地を削り取った。そこで、領土を奪われ、キュレネ人に非道な仕打ちを受けたリビア人とその王アディクランは、エジプトに使者を送り、自分たちの身柄をエジプト王アプリエスに委ねたのである。

アプリエスはエジプト兵の大軍を集めてキュレネに送った。しかしキュレネ人はイラサとテステの泉まで出撃し、ここでエジプト軍と交戦し、これを破った。

エジプト人はギリシア人と戦った経験がなく、敵を見下していたので、壊滅的な敗北をこうむり、エジプトに帰還したのはごくわずかだった。この敗北と、その責任はアプリエスにあるとしたエジプト人がアプリエスに謀反を起こしたのである。(55)

(55)B.C.570年。第二巻百六十一節

[4.160] このバットスにはアルケシラオスという息子がいた。この息子はその治世のはじめ頃に弟たちと仲違いし、弟たちは兄のもとからリビアの別の地に去り、ここに自分たちの街を建設した。これが当時も今もバルケと呼ばれている街である。そして街を建設すると同時にリビア人をキュレネから離反させるように仕向けた。

アルケシラオスは、弟たちを受け入れたリビア人(このリビア人たちも離反したのだが)を討伐すべく出陣した。そして彼を怖れたリビア人は、東部リビアに逃走した。

アルケシラオスは彼らを追ってリビアのレウコンに達したが、このときリビア人は、かれを攻撃する好機ととらえた。リビア人は交戦して圧倒的な勝利でキュレネ軍を破り、これによって七千のキュレネ兵が戦死した。

この敗戦ののちアルケシラオスは病をえたが、毒薬を飲まされて弱ってきたところを弟のレアルコスに絞殺された(*)。その後レアルコスはアルケシラオスの妻エリクソによって謀殺されている。

(*)この部分、原文では簡潔すぎてわかりにくいので、「薬」を「毒薬」とした。詳しくはプルターク;「婦徳について de mulierum virtutibus」二十五話参照

[4.161] アルケシラオスの王位は、その子バットスが引き継いだが、かれは脚が不自由で歩行が困難だった。キュレネ人は自分たちに降りかかった不運に悩み、デルフォイに使者を送り、どのような政治体制をとれば最もよい生活ができるようになるかを訊ねた。

巫女は、アルカディアのマンティネアから調停者を連れてくるがよいと返答した。そこでキュレネ人が願い出ると、マンティネア人は街でもっとも高い名声をえているデモナクスという人物をキュレネに差し出した。

この男はキュレネにやって来ると実情を巨細に調べ、キュレネ人を三つの部族に分けた(56)。すなわちテラ人とリビアの従属民を第一区とし、ペロポネソス人とクレタ人とで第二区を、島嶼の全住民を第三区としたのである。さらにデモナクスはバットス王のために特定の領地と祭司職のみを残し、いままで王が保有していた他のすべてを国民の共有とした。

(56)ドーリス系都市国家の慣習的な行政原則に従った

[4.162] バットスの存命中はこの体制が保たれたが、その子アルケシラオスの代になると、王の権利をめぐって激しい争いが起きた。

脚の不自由なバットスとペレティメの息子アルケシラオスが、デモナクスの決めた制度に従うことを良しとせず、父祖の保有していた特権を返すように要求したのである。そうしてかれは反乱を起こしたのだが、失敗してサモスヘ逃れ、かれの母はキプロス島のサラミスヘ逃げた。

その当時サラミスを支配していたのはエウェルトンで、デルフォイにあるコリントス人の宝蔵に収蔵されている、目もあやな香炉を奉納したのが、この人である。ペレティメはかれの所へやって来ると、自分と息子がキュレネに戻るための軍勢を与えてほしいと頼んだ。

エウェルトンは、軍勢以外のものなら何でも与えた。ところがペレティメは、贈り物を受け取るたびに、これも立派な物ですが、頼んでいる軍勢を頂く方が一層よろしいのにというのだった。

何を受け取ってもペレティメはこういうので、エウェトンはついに黄金の紡ぎ車と糸巻棒それに加えて羊毛を彼女に届けた。そしてペレティメが以前と同じ言葉を発したので、エウェルトンは、女に贈る物は軍勢ではなく、こういうものだと云った。

[4.163] そうこうしている間、アルケシラオスはサモスで新しい土地を分配することを条件にして兵を集めていた。やがて大軍が集まると、自分の帰国について神託を伺うためにデルフォイヘ使者を送った。

これに対して巫女は次のような託宣を下した。
「四人のバットスと四人のアルケシラオス、あわせて八代の間、ロクシアス(アポロン)は汝らにキュレネの王たることを許されるぞ。これを越えて王たることを試みることなかれと神は仰せじゃ。そして汝、帰国ののちは平穏に暮らすべし。窯に壺の満ちたるを見たならば、壷は焼かず、風に乗せて送り出すべし。もし窯を焼くことあらば、潮の満ち引きする場所に立ち入るべからず。さもなくば、かの麗しき牡牛とともに汝の命なかるべし」
これが、巫女によってアルケシラオスに下された託宣だった

[4.164] サモスから軍を率いてキュレネへ戻り、街を掌握したアルケシラオスは、託宣のことを忘れ、自分を追放した敵方を処罰しようとした。

敵対勢力の一部はともに国外に逃れたが、そのほかはアルケシラオスに捕らえられ、死刑を宣告されてキプロスヘ送られた。しかしこの者たちは、途中で風に流されてクニドスに漂着し、クニドス人に助けられてテラヘ送り届けられた。他のキュレネ人は、アグロマコスという男が所有している大きな塔に逃げ込んだが、アルケシラオスはその周りに薪を積み上げさせ、火をつけて焼いてしまった。

しかしこれは、先にデルフォイの神託で窯の中に瓶を見いだしたなら、それを焼いてはならぬということだと後から気づいたアルケシラオスは、予言された死を怖れるあまり、また潮の満ち引きするところというのはキュレネだと解釈し、あえてキュレネの街へは立ち入らぬようにした。

さてアルケシラオスの妻は血縁の女で、バルケ王アラゼイルの娘だった。かれはこのアラゼイルのもとへ走ったのだが、バルケ人とキュレネからの亡命者たちが市場を歩いているかれを見つけるや、これを殺害し、さらにその義父アラゼイルも殺してしまった。こうしてアルケシラオスは、意識するにせよ無意識にせよ、神託の言うところを誤解して、わが身の運命を全うしたのであった。

[4.165] アルケシラオスがバルケに走って自滅したあと、母のペレティメはキュレネにおいて息子の特権を握り続け、息子の政務全般をこなし、評議会にも出席していた。

しかし息子がバルケで死んだことを知ると、ペレティメはエジプトヘ逃れた。かつてアルケシラオスがキユロスの子カンビユセスのために労を尽くしたことを、ペレティメは頼みとしていたのだ。というのも、キュレネをカンビュセスに譲り、貢税を納めることを承諾したのがアルケシラオスだったからである(*)。

(*)第三巻十三節参照

エジプトに着いたペレティメは、嘆願者の礼を尽くしてアリアンデスの前にひざまづき、息子はペルシアと手を結んだために殺されたのだという口実をあげて、報復のための援助を懇願した。

[4.166] このアリアンデスは、その当時カンビュセスによってエジプト総督に任じられていたが、後にダリウスに並び立とうとして死に至った人物である。かれは、ダリウスがいまだかつてどの王もなし得なかったようなことを自分の記念として残したいと考えていることを知り、また目にもしたことで、自分も同じことをしようとして、ついにその報いを受けたのである。

ダリウスは黄金を極度に精錬した純粋な金で貨幣を鋳造させたのだが(57)、アリアンデスはエジプト統治中にこれと同じ様な銀貨を鋳造させた。今でもアリアンデス銀貨に匹敵するほど純粋な銀貨はない。ところがダリウスは、アリアンデスがこのようなことをしているの知ると、このこととは別に、叛逆者の汚名を着せてかれを殺害したのであった。

(57)これがいわゆるダリウス金貨で、不純物は3%といわれている

[4.167] その時のアリアンデスはペレティメを憐れみ、エジプトの陸軍と海軍のすべてを彼女に与えた。陸軍の司令官にはマラピオイ人(*)のアマシスを、海軍の司令官にはパサルガダイ人(*)のバドレスを任命した。

(*)第一巻百二十五節

しかし軍勢を派遣する前に、アリアンデスはバルケに使者を送り、アルケシラオスを殺害したのは誰かと訊ねさせた。するとバルケ人たちは、街の全員がそれに加担したのだと返答した。アルケシラオスがバルケ市民に数々の悪行を働いたためだというのだった。これを聞いたアリアンデスは、ペレティメとともに軍勢を送り出した。

ただ、これは名目上のことで、私の考えでは、派兵はリビアを征服することにあったのだ。というのはリビア人の種族は数が多く、しかもさまざまだったが、ペルシア王の支配に服しているのは少数で、大部分はダリウスなど一顧だにしていなかったからである。

[4.168] さてリビア人の住んでいる地域について話すことにしよう。エジプトにもっとも近いところに住んでいるのはアディルマキダイ人で、その風習はほとんどがエシプト風だが、衣服は他のリビア人と同じである。ここの女たちは両脚に青銅製の足輪をはめていて、髪は長い。そして身体についたシラミを捕えると、誰しも咬みつぶしてから投げ捨てる。

リビア人のなかでこの種族だけに限られた風習としては、嫁にゆこうとしている生娘を王に見せるということがある。そして王が気に人った娘は処女を失うのである。このアディルマキダイの領地はエジプト国境からプリノスという港までである。

[4.169] この次がギリガマイ人で、その領地は西方のアフロディシアス島までである。この沿岸にはキュレネ人が植民したプラテア島があり、陸地にはメネラオス港とキュレネ人の住むアジリスがある。

シルピオン草(*)の産地はこの地域からはじまり、プラテア島からシルティス湾の口に至る地域に生育している。この種族の風習は他の種族と同じである。

(*)薬用、調味料にされた野生の植物。キュレネの特産品として珍重され、同量の銀と交換されたという。乱獲によって絶滅したため、キュレネも衰退した

170ギリガマイ人の西隣にいるのはアスビスタイ人で、これはキュレネの奥地に住んでいて、その領土は海には達していない。海辺はキュレネ人の領地になっているからだ。四頭立戦車を操る技量については、この種族の右に出るリビア人はいない。彼らはキュレネ人の大方の風習を熱心に真似ている。

[4.171] アスビスタイの西に続くのはアウスキサイ人である。彼らはバルケの奥地からエウエスペリデスあたりの海辺にかけて住んでいる。アウスキサイの領地の中ほどにはバカレスという少人数の種族が住んでいて、その領地はバルケ領内のタウケイラという街に近い海までである。その風習はキュレネ人の奥地に住むリビア人と同じである。

[4.172] アウスキサイ人の西側には大きな人口を抱えるナサモネス人が続く。この住人は夏になると家畜を海岸に残し、ナツメヤシの実を採取するため、多数の巨大なナツメヤシが生育しているアウギラという地へ上ってゆく。またイナゴを捕まえては日に干し、それを粉にして乳にふりかけて飲んでいる。

この部族は何人も妻を持つ風習がある。そしてマッサゲタイ人(*)と同じく男はみさかいなく女と交わる。住まいの前に旗を立てておいて交わるのである。ナサモネスの男が結婚するときには、その初夜に花嫁がすべての客と順に交わるという風習がある。客は花嫁と交わったあと、自分の家からもってきた贈り物を花嫁に与えるのだ。

(*)第一巻二百十六節参照

誓いや占いについては次のようなやり方をしている。誓いを立てるときには、この国で人望、人格ともに優れていたと評される人物の墓に手をおき、それにかけて誓うのである。占うときは先祖の墓へゆき、祈りを捧げてから墓の上で眠る。そして寝ている間に見た夢をもって託宣としている。

盟約を結ぶときには、互いに相手の手から飲むことをする。液体がないときには地面の砂埃を手にとってそれを舐める。

[4.173] ナサモネスに国境を接しているのはプシロイ人だが、この部族は次のようにして絶滅してしまった。南風が吹きやまず、それによって貯水池が干上がり、シルティス一帯の水がなくなってしまった。そこで彼らは合議して南風の討伐にでかけた(ここはリビア人の伝承のままを話している)。そして砂漠地帯に入ると、強い南風が吹いて彼らを埋めてしまったのである。こうして彼らは絶滅してしまったのだが、そのあとナサモネス族がこの地を保有している。

[4.174] ここからさらに南の奥地で、野獣の棲息する地にはガラマンテス人が住んでいる。この部族は人との接触を避け、誰とも交際せず、また武器は一切持たず、身を守る術(すべ)も知らない。

[4.175] この部族が、ナサモネス族より奥の住人である。沿岸地域でその西に接しているのはマカイ人で、この部族は頭頂を残してまわりをすっかり剃り落とし、頭頂部の髪は伸びるにまかせている。戦場へはダチョウの革で造った盾を持って行く。

この地には、いわゆるカリテスの丘から流れ出ているキニプス河が通過して海に注いでいる。これまで話に出てきたリビアの地には全く樹木がないが、カリテスの丘には樹木が鬱蒼と生い茂っている。海からこの丘までは二百スタディア(三十六粁)離れている。

[4.176] マカイ人の隣にはギンダネス人が住んでいる。この部族の女は誰しも多数の革の足輪をはめていて、その理由は、云われているところでは、男と枕を交わすたびに足輪を一つはめるというのである。一等多くの足輪をはめている女が、それだけ多くの男に愛されたというので、最高の女として評されるというのだ。

[4.177] ギンダネスの国から海に突き出た岬があり、ここにはロトパゴイ人が住んでいる。この部族はロートスの実(58)のみを食糧としている。ロートスの実は乳香樹の実ほどの大きさで、ナツメヤシと同じくらいに甘い。ロトパゴイ人はこの実を食用にするだけでなく酒も造る。

(58)クロウメモドキの実(Rhamnus Lotus)で、アフリカの一部に生育する。食用にできると云われているがホメロスの言う「蜂蜜ほどの甘さ」ではない

[4.178] ロトパゴイの海岸に沿って続くのはマクリエス人で、彼らもロートスを食用にしているが、ロトパゴイ人ほど多くは食べない。彼らの領土はトリトン(59)という大河に達していて、この河はトリトニスという大きな湖に注いでいる。この湖にはプラという島があり、スパルタ人がこの島に植民せよという神託を受けたと言われている。

(59)トリトン伝説は、アルゴナウタイ(アルゴー船で航海をした英雄たち)がボイオティアのトリトン河を発見したことから生まれたと思われる。それと同時にアテナをさす土着の女神(本巻百八十節)ともされていて、その通称は「Τριτογένεια;Tritogéneia;トリトゲニア」とされている

[4.179] また次のようなイアソンの伝説もある。ペリオン山のふもとでアルゴー船ができあがると、この男は神に捧げる百頭の牡牛とともに青銅の鼎(かなえ)を船に積み込み、デルフォイをめざしてペロポネソスをまわって進んで行った。

ところが船がマレア岬にさしかかったとき、北風に捕らえられてリビアまで流された。そして陸地を見ないうちにトリトニス湖の浅瀬に乗りあげてしまった。そこから抜け出す手立てを見いだせないでいるところへ、伝説ではこうなっているのだが、トリトンが現われ、鼎をくれたら水路を教え無事に送りだしてやるといったのだ。

イアソンがその通りにしたので、トリトンは浅瀬から抜け出す水路を教え、鼎を自分の社に据えつけた。そして最初にその鼎によって託宜を下し、イアソンの一行にこれから起ることを残らず告げた。すなわちアルゴー船に乗り込んだ者の子孫のうち誰かが、この鼎を持ち去るようなことがあれば、トリトニス湖の岸辺に百のギリシア人街が建設されるであろう、という託宣だった。これを知った地元のリビア人は、その鼎を隠したと伝えられている。

[4.180] マクリエス人の次に接しているのはアウセエス人である。この部族とマクリエス人はトリトン河を間にしてトリトニス湖の周りに別々に住んでいる。マクリエス人は後ろ髪を伸ばしているが、アウセエス人は前髪を伸ばしている。

この部族はアテナの年祭を催しているが、そのとき娘たちは二組に分れて石と棒をもって戦う。彼らが言うところでは、われらがアテナと呼んでいるこの地の女神を敬う父祖伝来の儀式であるという。そして傷を負って死ぬ娘は偽りの処女だといわれる。

娘たちが戦いを始める前に、年ごとに一番美しい娘を選び出し、コリント式の兜とギリシア式の具足を身につけさせ、戦車に乗せて湖のまわりを牽いてゆく。

ギリシア人が彼らの近くにやって来て定住する前に、娘たちにどのような武装をさせたか、私は云えないが、察するにエジプト式の鎧兜を用いたものと思われる。盾も兜もエジプトからギリシアヘ渡ってきたと、私は確信しているからである。

アテナについては、彼らの伝承ではこれはポセイドンとトリトニス湖の娘だったが、なにごとか父にふくむところがってゼウスのもとに走り、ゼウスが自分の娘にしたとされている。これが彼らの伝えているところである。

男女の交わりは無差別に行なわれ、男女が同居することはなく、家畜と同じように情交している。女の生んだ子供が成長すると、三ヵ月以内に男たちが集まり、子供が一番よく似ていると判定された男が父親とみなされる。

[4.181] 以上が沿岸地帯に住む遊牧リビア人である。彼らの住む地域から先の奥地は野獣が棲息する地帯で、さらにこの野獣地帯を越えると砂漠の台地がつづき、これはエジプトのテーベからヘラクレスの柱まで続いている(60)。

(60)ヘロドトスの記述は、エジプトからアフリカ北西部へのキャラバン・ルートを説明していることに関しては正しい。しかし出発地点はテーベではなくメンフィスであるはずだ。そして確定地点間の距離に関しては常に間違っている。記述全体は評するに足りないものである。詳しい論評はRawlinson、Macan、How、Wellsの注釈を参照されたい

この台地にはおよそ十日の旅程の間隔をおいて、塩の巨大な塊が丘となって堆積している。そしてそれぞれの丘の頂上には、塩の中央から冷たく甘美な水がわき出ている。このまわりには、野獣棲息地より奥の荒蕪地の人間が住んでいる。テーベから十日の旅程の最初の地に住む部族はアンモン人で、彼らはテーベのゼウスを崇拝している。というのも、以前話したようにテーベにおけるゼウス像は牡羊の顔をしているからである。

ここにはもう一つ泉があって、ここの水は明け方には温かく、市場の開く時間には冷たくなる。そして真昼にはもっと冷たくなる。この時刻を見計らって住民は菜園に水をまく。陽が傾く頃になると冷たさが減じ、日没の頃には温かくなってくる。真夜中にかけて温かくなってゆき、ついには沸騰して泡が立つ。そして真夜中から夜明けにかけて温度が下がってゆく。この泉は太陽の泉と呼ばれている。

[4.182] アンモン人の地から砂漠の台地をさらに十日の旅程進んだところに、アンモン人の地にあるのと同じような丘と泉があり、人が住んでいる。この地をアウギラという。ナサモネス族がナツメヤシの実を採りに来るのは、ここである。

[4.183] アウギラからさらに十日の旅程進んだところにまた塩の丘と泉があり、実のなるナツメヤシが数多くあるのは、他の場所と同じである。ここの住民はガラマンテスといい、飛び抜けて多くの人口を有している。塩の上に土を重ねてタネを蒔いている。

ここからロトパゴイ人の国への最短距離は、三十日の旅程である。ここには後ずさりしながら草を食む牛がいる。ここの牛は角が前に彎曲しているからである。角が地面に刺さり、前向きでは草を噛めないので後ろに向きに歩きながら草を食むのだ。このことと厚くて丈夫な皮革になることを除けば、ほかの牛と同じである。

このガラマンテス族は、四頭立て戦車に乗って洞窟住まいのエチオピア人を追い回している。この洞窟エチオピア人は、我々が話にきく限りの人間の中で、この上なく足の早い種族だからである。彼らは蛇、トカゲのような爬虫類を常食している。その言語は世界中で他のどの言語にも似ていず、コウモリの啼き声のようである。

[4.184] ガラマンテス族の地からさらに十日の旅程を進むと、また塩の丘と泉があり、そこにはアタランテスという部族が住んでいる。我々の知る限り、姓名をもたないのはこの種族だけである。アタランテスというのはこの部族民の総称で、各個人は名前をもっていない。

この部族は太陽が高く上がると、住民や国土を焼いて苦しめるといって、太陽を呪い、口汚く罵るのである。

次にまた十日の旅程の地に別の塩の丘と泉があり、人が住んでいる。この塩の丘の近くにアトラスという山がある。この山は細い円錐形をしていて、その頂上が見えないほど高いといわれている。それは夏も冬も山頂が雲に隠れているからである。この地の住民はこの山のことを天の柱と呼んでいる。

ここの住民の名アトランテスは、この山の名に由来している。この部族は生きている動物は決して食べず、また夢も見ないという。

[4.185] この台地に住む部族については、アトランテス人まではそのすべての名を挙げることができるが、この部族より先のことはわからない。ただ、この台地はヘラクレスの柱ないしはその先にまで達していることがわかっている。

この地帯には十日の旅程ごとに塩の山があり、そこに人が住んでいる。彼らの家屋はすべて塩の塊で造られていて、それは、リビアのこの地帯は雨が降らないからである。雨が降れば塩の壁は保たないはずだから。ここの塩は白いものも赤いものもある。

この台地を越えてリビアの南の奥地に入ると、そこは水もなく、野獣も棲まず、雨も降らず、森もない荒野で、水気のあるものは全くない。

[4.186] エジプトからトリトニス湖にかけて住んでいるリビア人は遊牧民で、彼らは肉食で乳を飲んでいる。またエジプト人と同じ理由で牝牛の肉は喰わず(*)、豚も飼わない。

(*)第二巻四十一節参照

キュレネの女たちもエジプトのイシス神のゆえに牝牛の肉を食べることを禁じていて、それだけでなくこの女神を崇拝して断食や祝祭も行なう。またバルケの女たちも、牝牛はもちろんのこと豚もロにしない。この地域のことは以上である。

[4.187] トリトニス湖から西に住むリビア人は遊牧民ではなく、風習も異なり、子供の扱いも遊牧リビア人と違っている。

リビアの遊牧民は全てがそうしているのかどうか、私には確かなことは云えないが、多くは次のようなことをしている。子供が四歳になると、羊毛の脂を用いて頭部やこめかみの血管を焼くのである。これは粘液が頭から降りてきて害となるのを防ぐためである(*)。

(*)ヒポクラテス「人間の本性」参照。また支那由来の百会という経絡点(ツボ)が頭頂部にある

このお陰で自分たちはこんなにも健康であると彼らは言うのである。事実我々の知る限りにおいてリビア人は最も健康な民族である。それがこの習慣のゆえであるかどうかは私にも確かなことはいえないが、確かに彼らは健康である。子供の血管を焼いたとき、ひきつけを起したとしても、そのときの対処法もリビア人は知っている。オス山羊の尿をかけて鎮めるのである。以上、リビア人自身のいうままを述べた。

[4.188] これら遊牧民の生贄儀式は次のようになっている。生贄にする獣の耳の一部を初物として切りとり、それを家の上に投げ上げ、そのあとで獣の首を捻って息の根を止めるのである。彼らか生贄を捧げるのは神々ではなく太陽と月だけで、リビアの住民はあまさずこの二つに生贄を捧げている。ただしトリトニス湖周辺の住民が主に生贄を捧げるのはアテナに対してで、その次がトリトンとポセイドンである。

[4.189] こうしてみると、アテナ像に着せる衣裳やアイギス(*)は、リビア女の衣装をギリシア人が真似したもののようである。なぜというに、リビアの女の衣服が革製であることと、アイギスの縁取りが蛇ではなく革紐であることを別とすれば、そのほかの点ではアテナの衣装はリビアの女のそれと全く変わらないからである。

(*)怪物ゴルゴンの首と蛇で縁取りされたヤギ革の短衣=守りの象徴

事実、パラス(アテナ)像の衣裳そのものが、リビア発祥であることを証明している。なぜなら、リビアの女は衣服の上に、毛を抜きアカネ草で染めたヤギ革に房をつけた「アイギア」をまとっているからで、ギリシア人はこのアイギアという名を「アイギス」という名に変えたのである(61)。

(61)アイギスはアテナの伝統的な盾である。女神の戦士が持つヤギ革の丸盾を表現する伝統的宗教芸術で、鎧の最も早い時期の形態だろう。米国海軍のイージス艦もこの用語

また私の考えでは、祭礼における詠唱(オロリギー;62)もリビアが発祥である。リビアの女は実に美しい旋律でこれを詠唱する。四頭立ての戦車もリビア人からギリシア人が学んだものである。

(62)「ὀλολυγή = ololygí」はアテナを崇拝する詠唱である。これはおそらく東方起源で、セム族のハレルという叫びにつながる勝利または歓喜の叫び(ハレルヤ)である

[4.190] 遊牧民の死者を埋葬するやり方はギリシア人の様式と同じだが、ナサモネス人だけは別である。彼らは霊魂が身体から出てゆく間際にそれを坐らせ、仰臥した姿勢で死ぬことのないようにして、坐ったままの姿で埋葬している。その住居はアスポデロスの茎(63)を葦で編んで造られていて、あちこちへ持ち運びができる。以上がリビア遊牧民の慣習である。

(63)不凋花。茎の長い植物;名の由来は絵画的な連想による。ホメロスの「アスフォデルの草原」は不吉な死の国にあり、草の生い茂る場所を暗示している

[4.191] トリトン河の西方でアウセエス族の次には、土を耕して住居をもっているリビア人が住み始める。これはマクシエスという部族で、頭の右側では髪を伸ばし、左側は剃り、身体には朱を塗つている。彼らはトロイアの落人の後裔であると称している。

この地方を含むリビアの西部は、遊牧民の住む地域に比べると、はるかに野獣も多く木も多い。遊牧民の住むリビア東部は、トリトン河に至るまで低い砂漠地帯だが、この河から西の農耕民の住む地域はきわめて山が多く、森もふかく、野獣も多く棲息している。

この地域には巨大な蛇やライオンがおり、また象、熊、エジプトコブラ、角のあるロバ、犬の頭をもつ人間、リビア人のいう胸に眼のある頭のない人間、野獣のごとき男や女、そのほか想像上の生き物とも云えない多くの動物が棲息している。

[4.192] ー方遊牧民の住む地域には、このような動物はおらず、別の動物が棲息している。尻の白いカモシカ、通常のカモシカ、ガゼル、シカレイヨウ(ハーテビースト)、ロバ(角のある種類ではなく、「水を飲まないロバ」で、このロバは実際水を飲まない)、角がフェニキア琴の腕木に用いられるオリックス(牡牛ほどに大きい)。

それから狐、ハイエナ、ヤマアラシ、野生の羊、ディクティス(64)、ジャッカル、ヒョウ、ボリス(64)、三ペキュス(百五十糎)もあるトカゲに似た陸ワニ、ダチョウ、小型の一本角の蛇、などである。このほか他の地方のどこにでもいる動物もいる。ただし鹿と野生イノシシは例外で、この二つはリビアのどこにもいない。

(64)ディクティスとボリスは特定できない。ただしディク・ディクという小型のアフリカ・シカがいる

この地域には三種のネズミがいる。一つは二足ネズミ(65)と呼ばれるもの、次はゲゼリエスというネズミ(これはリビア語で、ギリシア語では「丘」という意味)、もう一つはハリネズミである。またシルピオン草(*)の生えている地域にはイタチもいるが、これはタルテッソスのイタチによく似ている。我々ができる限り調べ、知り得た限りでは、リビアの遊牧民の住む地域に棲息する野生動物はこのようなものである。

(65)トビネズミ
(*)本巻百六十九節参照

[4.193] リビアのマクシエスにつづいてはザウエケス人が住むが、この部族は女が戦車に乗って戦に向かう。

[4.194] この部族につづくのがギザンテス人で、ここでは蜜蜂が大量の蜜を造るが、それ以上に多量の蜜が職人によって製造されていると云われている(66)。この部族の人間はみな身体に朱を塗り、サルの肉を食べる。この国の山中にはサルが群れをなして棲息しているのだ。

(66)第七巻三十一節参照。小麦と御柳から蜜を造っている

[4.195] カルタゴ人の話では、この部族の国の沿岸の向こうにキラウイスという島がある。横は二百スタディア(三十六粁)だが幅は狭く、本土から歩いて渡れる。ここにはオリーブとブドウの樹が一面に茂っている。

この島には池があり、土地の娘たちは天然のアスファルトを塗つた鳥の羽根を用いて、泥の中から砂金をすくい上げると云われている。これが事実かどうか、私には分からないが、伝えられるままに書いておく。しかし私自身はザキントス(*)で池から天然アスファルトを引き上げるのを見たことがあるので、この話はすべて本当かもしれない。

(*)ペロポネソス半島の西にあるザンテ島

池はザキントスにも多くある。その最大のものは縦横ともに七十フィート、深さは二オルギイア(三百六十米)もある。住民は尖端に銀梅花の枝をくくりつけた竿を池におろし、この枝に附着した瀝青(ピッチ)を引き上げるのである。この瀝青はアスファルトのような臭気があるが、それ以外はピエリア地方の瀝青より良質である。引き上げた瀝青は池の近くに穿ってある穴に流し込む。そして充分に溜まったところで瓶に移す。

池にこぼれ落ちた物は地下をめぐってゆき、池から四スタディア(八百米)離れた海に再び現われる。このようなことから察するに、リビア沿岸にあるという島の話もまた本当かもしれない。

[4.196] カルタゴ人はまた別の話も伝えている。ヘラクレスの柱の向こうにもリビア人が住んでいるが、カルタゴ人はここへ来ると積荷をおろし、これを浜辺に並べてから船に戻って狼煙を上げる。すると土地の住民はその煙を見ると海岸へきて、積荷の代金として黄金をおき、積荷から遠くへ離れる。

するとカルタゴ人は陸に上がってきて黄金の量を確認し、その額が積荷の価値に釣り合うと合点すれば、黄金をもって去って行く。釣り合わないと見たときには再び乗船して待っている。すると住民が戻ってきて黄金を追加し、船員たちが納得するまでこれを繰り返すのである。

このような商取引によって、たがいに相手を欺すことはないと云われている。カルタゴ人は黄金の額が賞品の価値に等しくなるまでは、決して黄金に手を触れないし、住民の側もカルタゴ人が黄金を手に取るまでは、商品に手を触れないのである。

[4.197] 我々が名を挙げることのできるリビアの住民は、以上で全てである。そしてそのほとんどの王が、今も当時もペルシア王のことなど意に介していないのである。

この国に関してはまださらにつけ加えることがある。それは我々の知る限りにおいて、この地の民族の数は四つで、それ以上あると言うことはない。そのうちの二つは先住民で、他の二つは違う。すなわちリビア人は北に住み、エチオピア人は南に住んでいる。フェニキア人とギリシア人が後からの移住民である。

[4.198] 私の意見では、リビアの地はどこもアジアやヨーロッパと肩を並べるほど優れてはいない。ただキュニプス河と同じ名前で呼ばれる地帯(*)だけは別である。

(*)本巻百七十五節、第五巻四十二節参照、現ウァデル・カーン河と思われる

この地方は世界中でもっとも肥沃な農産地帯に匹敵し、ほかのリビアの地域とは全く異なる。というのも、この地の土壌は黒く、泉の水で潤っているので干ばつの怖れもなく、過度な雨で土質が損われることもないからである。実際リビアのこの地方は雨が降るのだ。その穀物の収穫量はバビロンのそれと同じである。

エウエスペリデス人(*)の住む土地も肥沃である。この地では、もっとも実りの多い時には、(播種量の)百倍の収穫がある。しかしキュニプス地方は三百倍である。

(*)本巻百七十一節参照

[4.199] なおキュレネの地は、リビアの遊牧民の住む地域としては最も高いところだが、驚くべきことに三回の収穫期がある。最初に海岸地域で穀物が実って刈り取られ、その収穫が終わると、彼らが丘と呼んでいる海岸から上がった中間地帯で穀物が実って収穫される。

そして中間地帯の収穫が終るとまもなく、最上部の地域の穀物が実りを迎え、収穫される。こうして最初の収穫が食物や飲み物として消費された頃に、最後の実りが収穫されるのである。このようにして、キュレネ人の収穫期は八ヵ月に及ぶのである。これらのことついては、これで充分としよう。

[4.200] さてペレティメの報復を支援するペルシア軍は、アリアンデスに送り出されてエジプトを発ち、バルケに到達すると街を包囲し(67)、アルケシラオスを殺害した下手人を引き渡せと通告した。しかしバルケ人は全市民が共犯となっていたので、これを承諾しなかった。

(67)百六十七節で中断されていた話がここから再び始まる

そこでペルシア軍は九ヵ月にわたってバルケを包囲し、猛烈な攻撃を行ないながら城壁に通ずる地下道を掘り進んだ。しかしこの地下道は、ある鍛冶職人が青銅の盾を利用することで見つけられてしまった。その方法というのは、職人が盾を手にして城壁内をめぐり、地面に盾を当ててそれを叩くのであった。

他の場所では鈍い音が返ってくるばかりだったが、地下道のある場所では盾の青銅がはっきりと響いたのである。そこでバルケ人は逆の坑道を掘り、地下を掘っているペルシア兵を撃ち倒したのだった。こうして坑道は発見され、攻撃もバルケ市民によって撃退された。

[4.201] かくして両軍は長期にわたって戦い、双方ともに多くの死者がでた(ペルシア軍の死者は敵軍に劣らなかった)。そこで陸上部隊の司令官アマシスは、力をもってしてはバルケは攻略できないことを悟り、謀略ならできるだろうと考え、次のような策略をめぐらした。

夜のあいだに幅広い掘を穿ち、そこへ薄い板をかぶせ、まわりの地面と同じ高さになるように土を盛ってならしておいた。そして夜が明けると、バルケ人を談合に招いた。バルケ人は喜んでそれに応じ、最後には和議を結ぶことに合意した。その和議というのがこうであった。隠された堀の上で誓約式を行なうこと。そしていま両者が立っている地が変わることなくある限りは、その誓約もそのまま保持されること。バルケ人はペルシア王に貢税を納めること、ペルシア人はバルケ人に危害を加えない、という内容だった。

誓約式が終ると、市民たちは誓約を信頼して、城門をすべて開き、街の外へ出てきた。そして城内に入ること希望した敵兵たちを中へ入れた。ところがペルシア兵は見えない橋を破壊し、街の中に走り込んだ。自分たちが造った橋を壊したのは、バルケ人との誓いを守るという大義からで、すなわち地面がずっと保持される限りは、この誓約もまた成立し続けるが、橋を破壊すれば、もはや誓約も成立しないことになるからだった。

[4.202] こうしてペルシア軍からバルケ人の首謀者たちを受け取ったペレティメは、彼らを城壁のまわりに並べてはりつけの刑に処した。また彼らの妻女の乳房を切り取ると、これも同じように城壁に張りつけさせた。

残りのバルケ人は、ペルシア軍の戦利品とするよう告げた。ただ、バットス家の者たちと、殺害に加担しなかった者たちを除外し、この者たちにバルケの街を委ねた。

[4.203] ペルシア軍は残りのバルケ人を奴隷にして国に帰っていった。そして彼らがキュレネの街に近づくと、キュレネ人はある神託の予言を果たすためにペルシア軍が街を通過するのを許した。

軍が街を通過する際、水軍の司令官バドレスは街を占領することを主張したが、陸軍の司今官アマシスは、自分が派遣されたのはバルケの攻略で、そのほかのギリシアの街ではないといって、これに賛同しなかった。しかし街を通過して「リカイオス・ゼウス」の丘に宿営したときになって、街を占領しなかったとを悔んだ。そこで再びキュレネにとって返し、街に入ろうとしたが、キュレネはこれを拒否した。

誰もペルシア軍を攻撃しなかったのに、ペルシア軍は恐慌を来し、六十スタディア(十粁)ほど逃走してそこに宿営した。そこへアリアンデスから伝令がやって来て帰国命令が伝えられた。ペルシア軍はキュレネ人に行軍のための食糧調達を頼み、それを受け取るとエジプトへ向かって帰って行った。

しかし彼らがエジプトヘたどり着くまでのあいだ、リビア人がペルシア人の衣服や装備を狙ってこれを襲い、遅れた者や落伍兵を惨殺した。

[4.204] このペルシア軍が到達したリビアの最も遠い地は、エウエスペリデスだった。ペルシア軍が奴隷にしたバルケ人は、エジプトからペルシア王のもとへ移された。そしてダリウスは彼らをバクトリアのある街に送った。彼らはこの街にバルケという名をつけたが、このバクトリアの街は私の時代にもまだ残っていて人が住んでいた。

[4.205] ペレティメその人も、その最期は全うできなかった。バルケ人に報復を果してエジプトヘ帰るや否や、悲惨な死を迎えたのだ。生きながら全身にウジがわいたのである。人があまりにもひどい復讐を試みると、神々の報いを招くことになるという例である。バットスの娘ペレティメがバルケ人に加えた報復はかくのごとくで、またかくのごとく残忍なものであった。


第五巻

[5.1] ダリウスがヨーロッパに残したメガバゾス指揮下のペルシア軍は、ペリントス人がダリウスの支配下に入るつもりのないことを知り、他のヘレスポントス人を制圧する前に、ここを征服した。しかしペリントス人はこれまでにもパエオニア人から迫害を受けていたのである。

ストリモンを発してペリントスに進軍したパエオニア人に対しては、ペリントス人が対峙して陣を張っていたが、パエオニア軍としては、ペリントス人がその名を呼んで叫ぶなら彼らを攻撃し、彼らが名を呼ばなければ、パエオニア軍は攻撃を控えるべし、という神託に従った。ペリントス人がその街の前方に陣をしくと、パエオニア軍は三度の一騎打ちを挑み、人と人、馬と馬、犬と犬を戦わせた。

ペリントス人が二度の勝利をおさめると彼らは「パエアン」という歓喜の雄叫びを上げた。パエオニア人は、これこそ神の予言通りだと解し、
「確かに神の予言通りだ。次は我らが行動を起こす番だ」
と言い合った。かくしてパエオニア人は、生きながらえた敵はほとんどいないほどの大勝利をおさめたのである。

[5.2] 以上、かつてペリントスがパエオニアに苦しめられた経緯である。そして彼らは自由のために勇敢に戦ったが、メガバゾス麾下のペルシア軍は数で勝っていた。

ペリントスを制圧した後、メガバゾスは軍をトラキアに進め、王の意向に従い、この地域のあらゆる都市と住民を征服した。トラキア征服はダリウスからメガバゾスに下された指令だったのだ。

[5.3] トラキア人はインド人の次に世界で最も多い民族である。彼らが一人の指導者に従うなら、あるいは団結するなら、私の見解では、地上で最も征服困難で最強の民族となるだろう。しかしながら、これを実現する方法、手立てがないので、彼らはひ弱なのである。

トラキア人の名称は多彩で、それぞれの部族はその地域の名前で呼ばれる。しかしその風習は、ゲタイ人、トラウソイ人、クレストン人の北方に居住する民族を除き、よく似ている。

[5.4] 不死身を信じているゲタイ人については、すでにその風習を説明している(1)。トラウソイ人はほとんどがトラキア人の風習と同じであるが、その誕生と死に際して次のような習いがある。

(1)第四巻九十四節

子供が生まれると、親族の男たちがそのまわりに座り、人間のあらゆる悲哀を次々に挙げつつ、誕生以後に遭遇するであろうあれこれの災難を哀れ悲しむ。そして死に際しては、その人が多くの災いから解放され、完璧な幸福状態にあることを口にしつつ、祝福と歓喜とともに埋葬するのである。

[5.5] クレストン人の北部に居住する部族には別の風習がある。男たちはそれぞれが多くの妻を持ち、夫が亡くなると、妻たちの間には大きな争いが起こり、どの妻が夫に最も愛されていたかを主張する仲間同士の争いが起きる。そしてその栄誉を与えられた妻は、男たちからも女たちからも同様に賞賛を浴び、彼女の最も近い近親者によって墓の上で命を絶たれる。そして夫とともに埋葬される。残りの妻たちは自分が選ばれなかったことを大いに悲しみ、極度の恥辱にさいなまれるのである。

[5.6] 他のトラキア人に関しては次のような風習がある。すなわち子供を国外に売り、未婚の娘には好みの男との情交を許して気にかけない。しかし自分の妻はその両親から買い取り、厳しく監視するのである。

刺青は高貴な生まれの証しであり、そのような証しがなければ卑賤の身分とみなされる。働かずにぶらついている者が最も尊敬され、土を耕す農夫が最も下に見られる。戦と略奪によって生きている者が最高に尊敬されるのである。以上が彼らの風習のうちで最も注目すべきものである。

[5.7] 彼らは神を崇拝せず、アレス、ディオニソス、アルテミス(2)を崇拝している。しかし王たちは国の男たちと違って全ての神々の上位にあるヘルメスを崇拝し、誓いを立てるのはこの神に対してだけで、その他の神々はヘルメスの末裔だと見なしている。

(2)ヘロドトスは異国の神々をギリシアの神になぞらえている。

[5.8] トラキア人の富裕者が死んだ時の葬儀は次のようである。遺体を三日間安置しておき、さまざまな獣を生贄に屠り、哀悼の涙を流したあとで宴会を開く。つづいて遺体を火葬または土葬にしてから塚を築き、あらゆる種類の競技を催す。その競技では、最も苛酷な一騎打ちに対して最大の褒賞が与えられる。以上がトラキア人の葬儀のやり方である。

[5.9] トラキアの北の地方には、どんな人間が住んでいるのか、確かなことを云える者は一人もいない。イストロス河(ドナウ河)の向こうは、荒れ果てた地が果てしなく続く宏大な大地である。イストロスの向こう側に住んでいる人間は全く知ることができないが、唯一シギンナイ(3)という民族がわかっている。彼らはペルシア風の衣服を着ている。

(3)スロラボン(古代ローマ時代のギリシア人地理学者。ゲオグラフィカ=地理誌を著す)もシギンナイについてほとんど同じことを言っている。それによると、これはコーカサス人である。

この地の馬は全身毛むくじゃらで、毛の長さは五ダクティロス(十糎)ほどある。体躯は小さく鼻は扁平で、人を乗せることはできないが、車に繋ぐと大変速い。このため、この地では車を使うことが習いとなっている。この民族の境界はアドリア海沿岸のエネトイ族にまで達しているという。

彼らはメディアからの植民であると自分で言っているが、どうしてそんなこと言っているのか、私には理解できない。ただ、長い年月の間には、何が起きるか判らないのだが。なお、マッサリア(マルセイユ)の奥地に住むリギエス族のいう「シギンナイ」という言葉は行商人のことで、キプロス語では槍という意味になる。

[5.10] トラキア人によれば、イストロス河以遠の地は、至る所に蜂が飛びまわっているため、通行できないという。この話は私が思うに、信用できない。なぜというに、蜂というものはもともと寒さに弱いからである。北の大地に人が住まないのは、むしろ寒さのためだと私は思っている。以上が、この地にまつわる話である。さてメガバゾスは、このような地域の沿岸部をペルシアに服従させたのである。

[5.11] ダリウスは、ヘレスポントスを渡ってサルディス(4)に着くと、かつてミレトスのヒスティアイオスが骨折ってくれたことや、ミティレネのコエスが有益な助言をしてくれたことを思い出した。そこでただちに二人をサルディスヘ呼びよせ、望みどおりの物を何でも与えようといった。

(4)第四巻百四十三節

ヒスティアイオスはミレトスの僭主だったので、さらなる支配権は望まず、エドノイ族の地であるミルキノス(5)に街を造りたいと申し出た。ヒスティアイオスはこのように望んだが、コエスはまだ僭主ではなく単なる一市民だったので、ミティレネの僭主になることを願った。

(5)本巻二十三節参照。豊かな樹木に恵まれ、貴重な金属を産する地区。

[5.12] それぞれの望みがかなえられたので、ふたりは希望した地へ向かって行ったが、ダリウスはたまたま、ある光景を目にしたことから、メガバゾスに命じてパエオニア族をヨーロッパの居住地からアジアヘ移住させようという気を起した。その光景というのはこうである。ここに二人のパエオニア人、ピグレス、マスティエスという兄弟がいたが、この者たちはその地の僭主になることを願い、ダリウスがアジアに帰ってくるとサルディスヘやってきた。そのとき、背が高く美貌の妹をひとり伴っていた。

彼らは、ダリウスがサルディス城外にやって来て(裁きを下すために)玉座に座るのを待ち、次のようなことをした。できるかぎり妹を美しく着飾らせ、水を汲みにやらせたのである。女は頭に瓶をのせ、片手で馬の手綱をもち、それと同時に麻糸を紡いでいた。

そして女がダリウスの前を通り過ぎるとき、王がそれに気づいた。ペルシアやリディア、はてはアジアのどこにおいても、このようなことをする女は見たことがないからだった。これに目をとめた王は、数人の親衛隊員に、女が馬をどうするのか、見届けるように命じた。

彼らが女の後についてゆくと、女は河に行って馬に水を飲ませ、そのあとは瓶に水を満たし、頭には瓶をのせ、片手で馬をひき、紡ぎ棒をまわしながら、来たときと同じ道をたどって戻っていった。

[5.13] 監視の者たちの報告を聞き、自身でも目にしているので、ダリウスは大いに感心し、女を自分のもとへ連れてこさせた。そのとき、近くで見ていた女の兄弟もともについて来た。ダリウスが、女にどこの国のものかと訊ねると、兄弟は自分たちはパエオニア人で、女は妹であると答えた。

これに対して王は、
「パエオニア人というのは何者で、どこに住んでいるのか、またお前たちはどういうつもりでサルディスにやって来たのか?」
と訊いた。二人はそれに答えて、自分たちは王の臣下になるつもりでここに来たこと、パエオニアは、ヘレスポントスに近いストリモン河畔にあること、そしてパエオニア族は、トロイのテウクロイ族の移民であることを語った。

このように二人は一部始終を話した。すると王は、お前たちの国では、女は皆このように勤勉なのかと訊ねた。これに対しては、このためにこそ彼らはやって来たのであるから、待ってましたとばかりに、そのとおりでございます、と返答した。

[5.14] このことがあってからダリウスは、トラキアに残してきた将軍メガバゾスに宛てて書簡を送り、パエオニア族をその国から、男女、子供の別なく自分のもとへ連れてくるよう命じた。

そこでただちに騎兵がその伝言をもってヘレスポントスに急行し、そこを越えて書簡をメガバゾスに届けた。それを読んだメガバゾスは、トラキアで道案内人を集め、パエオニアに向けて出陣した。

[5.15] パエオニア人は、ペルシア軍が攻め寄せてくるのを知ると、敵は海から攻めてくることを予想し、軍を集めると海に向かって進んだ。

こうしてパエオニア人はメガバゾスの軍を迎え討つ準備をしていたが、ペルシア軍はパエオニア人が沿岸からの侵入に備えて軍を集結しているのを知ると、案内人に先導させて山道を進んで行った。そして彼らはパエオニア人に気づかれることなく、男たちが出払っている街々に攻め込み、守り手のいないところを易々と占領したのである。

パエオニア軍は街が占領されたことを知ると、たちまち四散し、それぞれ自分の街に引き上げてペルシア軍に降伏した。こうしてパエオニア人のうち、シリオパイオネス族、パイオプライ族、それにプラシアス湖に至るまでの地域に住む者たちが、祖国から引き離されてアジアヘ連れ去られたのだった。

[5.16] しかし、パンガイオン山(6)付近のドブ゙レス族、アグリアネス族、オドマント族、プラシアス湖周辺の部族については、メガバゾスも歯が立たなかった。実際、メガバゾスは湖上生活者(7)を制圧しようと試みはしたのだが。この部族は次のように生活していたのである。

(6)ストリモン河の東
(7)同じような生活様式をしているのは北イタリア、アイルランドその他西ヨーロッパの各地に見られる。

湖の真ん中に長い柱を何本か立て、その上に床板を固定し、そこへ一本の橋を陸に渡して狭い通り道とするのである。昔は部族総出で床を支えている柱を立てていたが、後になると別の方法を考え出している。すなわち男たちは、嫁を一人もらうたびにオルベロスという山から三本の柱を切り出して打ち込むことになっている。そしてこの地では男は何人も妻を娶るのである。

(8)ストリモン河とネストス河の間にある。

男たちはそれぞれ床の上に小屋を造り、中の床に落とし戸をつけて下の湖面に通ずるようにしている。幼ない子には足に綱をくくりつけ、水に落ちないようにしている。

馬や荷役用の獣には魚を与えて飼料にしている。魚は豊富に獲れ、落し戸を開け、綱につけた空の籠を湖におろし、すぐにでもそれを引き上げると、籠は魚で一杯になるほどである。魚はパプラクスとティロンと呼ばれるものがニ種類いる。

[5.17] かくて征服されたパエオニア族はアジアに連れ行かれた。そしてパエオニアを制圧したあと、メガバゾスは自分の部隊の中で最も優秀な七人のペルシア人を、使節としてマケドニア(9)に送った。彼らは、ダリウス王へ土と水を(服従のしるしとして)差し出すよう通告するために送られたのだ。

(9)アレクサンダー一世によって拡張されたアクシオス河からストリモン河に至る地域

プラシアス湖からマケドニアまではごく近い距離である。湖の近くには鉱山があり、後になってアレクサンダー(*1)がここから日に一タラントン(*2)の銀を産出して財源としている。この鉱山を過ぎ、ただディソロン(10)という山を越えればマケドニアである。

(*1)アミンタスの子で、有名なアレクサンダー大王ではない。次節以下参照
(*2)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)
(10)ストリモン下流からは遠くないことは明らか。

[5.18] こうしてペルシアの使者たちはアミンタスのもとへゆき、大王ダリウスに土と水を差し出すように要求した。アミンタスはその要求をすぐさま受け容れ、使節たちを客として迎え、盛大な宴をひらいて手厚くもてなした。

ところが晩餐が終わると、酒を酌み交わしながらペルシア人たちは次のようなことを言い出した。
「我々が招待主たるマケドニアの方よ、ペルシアでは盛大な宴の後には、妻や妾も呼びよせ、客に侍らせる習慣があり申す。そこでじゃ、貴殿は我々を快く迎え入れ、その上ねんごろに歓待もして下され、なによりダリウス大王に土と水を献じようとなさっておられることでもあるゆえ、我々の風習に従ってもらえぬだろうか」

これに対してアミンタスが返答するに、
「ペルシアの方々よ、我々にはそのような風習はありませぬぞ。この地では男と女は離れて坐るしきたりとなっており申す。しかしながら、貴公らは今や我々の支配者であり、それを望まれるのであれば、ご要望のままにいたそう」
このように返答して、アミンタスは女たちを呼びにやらせた。呼ばれてやってきた女たちはペルシア人たちに相対して並んで座った。

するとペルシア人たちは前に坐った美しい女たちを見るや、アミンタスに向って、貴公のやり方は無粋だ、横に侍らぬのなら女たちは来ない方がよかった、向き合っているだけなら眼の毒だ、と云った。

このように強要されたアミンタスは、女たちに客の横に坐れと命じた。女たちがそのとおりにすると、すでに酒を飲み過ぎて顔を真っ赤にしていたペルシア人たちは、やにわに女たちの胸に手をやったり、なかには接吻しようとする者もいた。

[5.19] これを見ていたアミンタスは怒りを覚えたものの、ペルシア人をひどく怖れてもいたので、平静をよそおっていた。しかし、横でこれを見ていたアミンタスの子のアレクサンダーは、年も若く世の辛酸を舐めていたわけでもなかったので、もはや我慢できず、怒りをあらわにしてアミンタスに云った。
「父上、お年には逆らいめさるな。我々をそのままにしておかれ、酒もそれくらいにしてお休み下され。私がここに残って客人へのもてなしは万事取りはからいましょう」

このときアミンタスは、アレクサンダーが何か手荒いことを企らんでいることを見抜いて云った。
「伜よ、お前は腹を立てておるようだが、ワシの推量に間違いなければ、お前はわしを去らせておいて、何か乱暴なことをするつもりであろう。しかし、頼むから我々が破滅することのないよう、あの者たちには狼藉を働いてくれるな。ことの成り行きには目をつむっておけ。とはいうものの、ワシを追い出したいなら出て行ってやるが」

[5.20] アミンタスがこのような注文をつけて引き下がると、アレクサンダーはペルシア人たちに話しかけた。
「皆様、この女どもはお好きになさって頂いて結構でござる。ひとくくりにして全員でも、またお気に召したどの女でも、床に連れてゆかれませ。そのことはどうかご自身でお決め下さいますように。しかし今はお休みの時も迫っておりますし、お見受けするところ皆さま随分聞こし召しておいでのようですので、お許しいただけるなら、女たちを湯浴みさせていただきとうござる。湯浴みが済んで再びやって来るまで、どうかお待ち願いまする」

これにはペルシア人たちも同意したので、アレクサンダーは女たちを自分の部屋へ引き下がらせた。そしてまだヒゲの生えそろっていない青年を女たちと同じ頭数だけ揃えて女装させ、彼らに短剣を持たせた。彼らを宴席に連れていったアレクサンダーは、ペルシア人たちに云った。

「ペルシアの方々よ、貴公らは心ゆくまでもてなしを受けられたことと存ずる。提供できる限りの品々は、あまさず皆様に差し出しております。その上、我々の最も素晴らしくかつ大切な財産というべき、我々の母や姉妹をも貴公らに差し出しており申す。こうすることで、我々は貴公らにふさわしい全ての栄誉を提供していることを判っていただきとう存ずる。そして貴公らを遣わされた王に向けて、マケドニアのギリシア人太守は、宴や共寝の女まで用意してねんごろにもてなしてくれたと、報告していただきとう存じまする」

こう言うと、アレクサンダーはペルシア人の横に女の形(なり)をしたマケドニア人青年たちを侍らせた。そしてペルシア人が彼らに手を触れようとしたとき、使者一同は青年たちによって刺殺されたのだった。

[5.21] このようにしてペルシア人使者たちは随行者もろとも消されてしまった。彼らは乗物や従者のほか、多岐にわたる大量の荷物を伴っていたのだが、これら全てをマケドニア人は使者たちとともに消し去ってしまったのである。

まもなく、ペルシア人はこの者たちを探し出すための大がかりな捜索を行なったが、アレクサンダーは多額の金とギュガイアという自分の妹を捜索隊長のブバレスに提供することで、巧妙に捜索を阻んだのである。 かくしてペルシア人使節の死は隠蔽されたのだった。

[5.22] ペルディカスの子孫であるマケドニア歴代の王がギリシア人だというのは、彼ら自身がいっていることだが、私自身もたまたまそれを知っており、そのことはこの「歴史」において後に証明するつもりである(*)。さらに、ヘラノデイカイ(11)というオリンピア競技を運営する役員たちも、その事実を認めている。

(*)第八巻百三十七節
(11)エリス市民で、通常は十名でオリンピア競技会を主催している。

というのは、アレクサンダーが競技に参加したいと思ってこれに参加したときのこと、競争相手のギリシア人たちが、かれを競技から閉め出すことを要望したのである。この競技はギリシア人のためのもので、異国人のためではないと主張したのである。しかしアレクサンダーはアルゴス人の血筋であることを自分で証明したので、ギリシア人であることが認められた。そうしてかれは競走に参加し、第一位の者と同着となった。ともかく、このようなことがあったのである。

[5.23] さてメガバゾスはパエオニア族を引き連れてヘレスポントスヘやって来ると、そこから海を渡ってサルディスに到着した。一方でミレトス人ヒスティアイオスは、船橋の守備(*)による恩賞としてダリウスに願って手に入れた地であるストリモン河畔のミルキノスの防備を固めつつあった。そのヒスティアイオスの動きを探知したメガバゾスは、パエオニア族を率いてサルディスにつくとダリウスに言上した。

(*)第四巻百三十六節以下参照

「殿、なんということをなされまするや。才気走り、狡猾なギリシア人にトラキアの地に街を建設することをお許しになるとは。この地は船材や櫂に用いる樹木をかかえる森がおびただしく繁茂しており、また銀山もあります。そしてまわりにはギリシア人のみならず異国人も大勢往んでおりますゆえ、この者たちが指導者を得たれば、昼夜の別なく命じられたとおりに行動するでありましょう。

それゆえ、足下でのもめ事が起きぬよう、今あの男のなしおることを止めさせて下され。ただし波風立たぬやり方をなされますように。そしてかの男を手元に呼びよせられたなら、再びギリシアヘ帰してはなりませぬぞ」

[5.24] ダリウスはメガバゾスの進言について、先のことをよく見通しているとして、すぐにこれを受け容れた。そしてただちにミルキノスヘ使者を送り、次のような伝言を託した。
「ヒスティアイオスへ。これ以下はダリウス大王のお言葉である。つらつら鑑みるに、予および予の事について、お主ほど一身を捧げてくれる者は他におらぬ。これはお主の言葉ではなく、その行ないによって判ることだ。さてそこで、予は今ある一大事業を計画しておるのだが、それをお主と相談したく思っておるゆえ、何をおいても予のもとへ参れ」

ヒスティアイオスはこの言葉を信じ、それ以上に王の相談役となることを大いに誇りとして、サルディスヘやってきた。そしてヒスティアイオスがやって来るとダリウスは云った。
「ヒスティアイオスよ、お主を呼びよせたわけを話そう。予がスキタイから帰り、お主が予の前から姿を消すや否や、お主に会って話すこと以上に、切に願ったことは他になかった。たとえ幾万もの財宝と比べようとも、聡明で忠実な友に勝るものではないことが、身に染みてわかったからだ。お主がその二つを兼ね備えておることは、予に関わることに照らし合わせて明らかにできるというものじゃ。

さてはよくぞ来てくれたゆえ、お主に提案したいことがある。ミレトスと、トラキアに新しく建設した街を離れ、予に随ってスサヘ行こうではないか。そしてともに食卓を囲み、予の相談役になるのだ。そうすれば予の所有するもの全てはお主の物となるぞ」

[5.25] このように云ったあと、ダリウスは腹違いの弟アルタプレネスをサルディス総督に任命し、ヒスティアイオスを連れてスサヘ向けて出発した。ところがそのとき、ダリウスはオタネスも沿岸地城の総督に任命したのであった。このオタネスの父シサムネスは王室法官(12)を務めていたのだが、賄賂を受け取って不正な裁決を下した廉で、カンビュセスによって死刑に処された上、全身の皮膚を剥ぎ取られていた。その剥ぎ取られた皮膚は帯状に切り分けられ、シサムネスが判決を下すときに坐っていた椅子に張られた。

(12)第三巻三十一節

こうしておいてカンビュセスは、シサムネスの後継者としてその息子を法官に任命した。そして息子には、裁きをする時に坐っている椅子の由来を肝に銘じておけと言い渡したのである。

[5.26] そして当時はその椅子に坐っていたオタネスだったが、今や司令官としてのメガバゾスのあとを継ぐことになったのである。こうしてかれはビザンチンとカルケドンを征服し、さらにトロイ地方のアンタンドロスとランポニオンを攻略し、さらにレスボスから船を手に入れてレムノス、インブロスの二島を占領した。この二つの島にはまだペラスゴイ人が住んでいた。

[5.27] レムノス人はよく戦い、よく守ったが、最後には攻略され、ペルシアは生き残った者たちの統括者としてリカレトスを任命した。この人物はサモス王マイアンドリオスの兄弟だった。このリカレトスはレムノス統治中に人生の幕を下ろしている(*)。

(*)このあと若干の脱落があるようだ。話が飛んでいる。

オタネスは住民を残らず制圧して奴隷にしようとし、ある者にはスキタイ遠征のための兵役逃れの罪を被せ、またある者にはダリウス軍がスキタイからの帰国する途上でこれに危害を加えたとして罪に問うたのである。

[5.28] オタネスが総督となって成し遂げたことは以上ですべてだった。その後しばらくは何事も起きなかったが、再びイオニア人に争乱が始まった。このたびはナクソスとミレトスだった。その当時、ナクソスの繁栄は他の島々をはるかに凌駕しており、また同じ頃のミレトスも最盛期を迎えていて、イオニアの誉れと云われていた。しかしミレトスはその二世代前には、内紛によって極度の混乱状態に陥っていて、これはミレトス人自身がギリシア全土からパロス人を調停者に選び、そしてかれらが立て直すまで続いたのであった。

[5.29] そのパロス人は、次のようにしてミレトスの内紛をおさめた。パロスの指導者たちがミレトスにやって来て、この地の経済がおそろしく破綻しているのを知ると、ミレトスの国土を見て回りたいと云った。そしてミレトスの領土をくまなく見て回り、荒れ果てた国土の中にもよく耕された農地ががあることに気がついた。そこでその農地の所有者の名を書き留めていったのである。

彼らは国をすべて見てまわり、このような農地の所有者を数名見つけ出した。そのあと彼らは街へ帰り、すぐさま住民を集め、充分に耕されていた農地の所有者たちに国政を任せることにした。この者たちならば、自分のことと同じように国のことにも充分に力を尽くすだろうとパロス人は考えたからだった。そしてそれ以外の、これまで反目し合っていたミレトス人たちには、この者たちに従うように言明したのだった。

[5.30] このようにしてパロス人はミレトスを立て直したのだが、このたびはナクソスとミレトスがイオニアに災禍をもたらし始めたのである。ことの起こりは次のとおりである。

ナクソスの資産家が数人、庶民に追われてミレトスに亡命してきた。そのときのミレトスは、モルパゴラスの子アリスタゴラスがたまたま代理で統治していた。このアリスタゴラスというのは、ダリウス王がスサに留めていたリサゴラスの子ヒスティアイオスの従兄弟で、しかもその娘婿だった。ヒスティアイオスはミレトスの僭主だったが、このナクソス人たちとは盟友で、このナクソス人たちがミレトスヘ来たときには、ヒスティアイオスはちょうどスサにいたのだ。

ミレトスにやって来たナクソス人たちは、祖国に帰るための充分な軍勢を与えてもらえぬものかとアリスタゴラスに頼み込んだ。アリスタゴラスの方では、自分の助けによってこの者たちが帰国できるなら、その上彼らとヒスティアイオスとの友好関係を口実にすれば、ナクソスの支配者になれるだろうと考え、次のような提案を持ち出した。

「吾輩としては、いま街を掌握しているナクソス人の意に反して、諸君を帰国をさせるに足る軍隊を提供する権限は持っていない。ナクソスは八千の重装兵と多くの軍船をもっていることがわかっているからだ。とはいうものの、諸君の要望を実現させるために、あらゆる手を尽くすつもりだ。

吾輩の策はこうだ。アルタプレネスは吾輩の友だ。そしてかれはヒスタスペスの子で、ということはダリウス大王の弟で、なおかつアジアの沿岸地帯すべてを統括しているのだ。そして大軍勢と多くの船を握っている。この人物なら我々の望むことを全てかなえてくれるだろうと、吾輩は思っておる」

これを聞いたナクソス人たちは、できる限りのことを取りはからってもらいたいとアリスタゴラスに託し、アルタプレネスヘの贈答品と軍隊に要する経費は、自分たちが支払うと約束してくれるよう頼んだ。彼らは、自分たちがナクソスに姿を現わせば、ナクソス人は自分たちの命ずることにはすべて従うだろうと、大きな期待をよせていた。そしてキクラデス諸島はどこもダリウスの支配下に入っていなかったので、他の島々も同じようになると思っていたのだ。

[5.31] そこでアリスタゴラスはサルディスヘゆき、アルタプレネスに向けていうには、ナクソスは大きな島ではないが、それは別として美しく地味も豊かで、かつイオニアにも近く、富や奴隷を保有していると説いた。そして重ねて言うには、

「さればぜひともこの国に兵を進め、ここから追放されている者たちを帰してやりなされ。貴殿がそのようになさるのであれば、みどもは巨額の資金を提供する用意があり申す。その上軍隊に必要な経費は、我々発案者が負担するべきものであります。さらに貴殿は大王のために新しい領土、すなわちナクソスをはじめとしてこれに従っているパロスやアンドロスなど、キクラデスの他の島々をも加えることになるのでござる。

またこれらの島を起点となされば、エウボイアの攻撃もたやすくでき申そう。このエウボイアは大きく裕福な島で、その大きさはキプロスにも劣らず、征服するのはきわめて容易であります。船の百艘もあれば、これらすべてを征服するのに十分でござろう」

これに答えてアルタプレネスは言う。
「貴殿の計画はペルシア王家のためになることではある。また貴公の勧告は、船の数を除けばまことに結構なことだ。そして春になれば百艘といわず二百艘の船を貴公に用意できるだろう。しかしこの計画には大王の許可が必要である」

[5.32] この言葉を聞いたアリスタゴラスは喜び勇んでミレトスヘ帰っていった。一方のアルタプレネスはスサヘ使者を送ってアリスタゴラスの提言を報告すると、ダリウスもまたその計画に賛同したので、二百隻の三層櫂船と、ペルシアと同盟国による大軍勢を準備した。その総司令官には、アカイメネス家のメガバテスを任命した。この者はアルタプレネスにとってもダリウスにとっても従兄弟に当る。これは後の話になるが、それが真実であるとすれば、スパルタ人でクレオンブロトスの子パウサニアスがギリシアの覇権を握ろうとして婚約したのが、このメガバテスの娘なのである。

こうしてアルタプレネスはメガバテスを総司令官に任命し、軍をアリスタゴラスのもとへ送りだした。

[5.33] メガバテス(13)は、アリスタゴラスやイオニア軍、ナクソスの亡命者たちを自軍に加えると、ヘレスポントスに向かうかのごとく見せかけてミレトスを出帆したが、キオス島に着くと、船団をカウカサの港(14)に停泊させ、北風に乗ってナクソスに向かうつもりでいた。

(13)メガバテスの遠征はB.C.499
(14)キオス島の南西沿岸にある。

しかしこのとき次のような事件が起きたため、ナクソス人は滅びる運命から免れたようである。それはメガバテスが艦隊の警備情況を視察していたときのことだった。たまたまミンドス船に警備兵がいなかったのである。このことに激怒したメガバテスは、親衛隊の者に命じて、この舶の艦長スキラクスを探し出させると、これを縛って船の櫂穴に押し込み、身体は船の中に残したままで頭は船外へ突き出させた。

そのときこれを見ていたスキラクスの盟友が、アリスタゴラスのところへゆき、自分の友人をメガバテスが縛ってひどい仕打ちを加えていると告げたのである。アリスタゴラスは足を運んでゆき、ペルシア人にスキラクスの放免を頼んだが、相手はまったく聞く耳を持たなかったので、みずから行ってその男を解放してやった。これを知ったメガバテスは理不尽なことをされたと思い、アリスタゴラスに対して怒りを覚えた。

しかしアリスタゴラスが言うには、
「これはお主となんの関係があるというのか?アルタプレネスがお主を派遣したのは、吾輩の命令に従い、また吾輩の命に従ってどこへなりと船を動かすためではなかったのか?なにゆえ余計なことをする?」

このアリスタゴラスの返答にマガバテスは腹を立て、夜になるのを待ってナクソスへ向けて人を小舟で送り、ナクソス人に一大事が迫りきていることを知らせたのである。

[5.34] 一方のナクソス人は、この遠征が自分たちを目標にしていることは全く予想していなかった。しかしそれを知ると、ただちに城外にある物資を城の中に移し、籠城に備えて食糧や飲み物を蓄え、城壁を強化した。

こうしてナクソスは合戦に向けてのあらゆる準備を調えた。そして敵の船隊がキオスからナクソスに向かってきたときには、防備を固めた街を攻撃することになったので、包囲は四ヵ月にわたって続いた。

しかしペルシア軍がもってきた軍資金は底をつき、その上アリスタゴラス自身も多額の資金を費消し、包囲を続けるには、さらに戦費を必要とするので、彼らはナクソスの亡命者のために砦を築いてやり、意気消沈して大陸へ引き上げていった。

[5.35] このようなことでアリスタゴラスはアルタプレネスとの約東を果せなかったのだが、それに加えて軍費の返済を督促されてもいた。そして遠征の失敗やメガバテスとの不仲がもたらす事態に怖れを抱いていた。このようなことから、この男はミレトスの支配権を剥奪されるのではないかと考えるようになったのである。

これらのことをあれこれ思いわずらううち、かれは謀反を企て始めたのである。というのも、たまたま時を同じくしてスサのヒスティアイオスから伝令がやって来たのだ。その伝令は、アリスタゴラスに向けて、大王に謀反をおこすように指示する刺青を頭に施していた。

ヒスティアイオスは、アリスタゴラスに謀反を起こせという言葉を伝えたいと思っていたが、街道は監視されているため、安全に伝える手段がなかったのである。そこで最も信頼できる奴隷の髪を剃り、その頭に入墨を施し、ふたたび頭髪の伸びるのを待った。頭髪が伸びるとすぐに男をミレトスに派遣したが、この男には伝言は託さず、ミレトスヘ着いたらアリスタゴラスに自分の髪を剃って頭を調べてくれるように頼めと、それだけを言いつけたのだった。入墨の内容は、先に言ったとおり謀反を指示するものだった。

ヒスティアイオスがこのようなことをするに至ったのは、スサに引き留められていることが、どうにも嫌になったことと、反乱が起れば自分が沿岸地帯へ派遣されるだろうと大いに期待していたからだった。しかしミレトスが平穏である限りは、そこへは決して帰れないだろうと考えたのである。

[5.36] このような思惑をもってヒスティアイオスは伝令を送ったのだが、アリスタゴラスにとっては、これらのことがすべて同時に起きたのだった。そこでかれは仲間の者たちと談合し、その場で自分の考えを明らかにするとともに、ヒスティアイオスから届いた伝言も話した。

仲間うちのすべてが同じ意見で、謀反に賛成したが、歴史家のヘカタイオスだけは、ダリウスの支配下にある民族を数え上げて王の力を示し、ペルシア王に対して戦いを仕掛けるべきではないと主張した。しかし仲間を説得するのに失敗すると、次善の策として海上を支配することを助言した。

かれが言うには、自分はミレトスの資金力が大きくないことがわかっているゆえ、この計画を実現するには一つしか策がない。すなわちブランキダイの神殿から、リディア王クロイソスが奉納した財宝(15)を奪取することである。これを利用すれば制海権を手に入れる望みが充分ある。そして自分たちが財宝を利用できるだけでなく、敵もこれを略奪できなくなると言うのだった。

(15)第一巻四十六節

この財宝が莫大なものであったことは、本書の始めにすでに述べたとおりである。結局この意見は通らなかったものの、離反することが決まった。そして一味の一人が船でミオスヘゆき、ナクソスから帰ってきてその地に停泊している船団を訪れ、乗り組んでいる指揮官たちを捕らえてみようということになった。

[5.37] まさにこれを果たすためにイアトラゴラスが派遣され、巧妙な策を用いてミラサ人でイバノリスの子オリアトス、テルメラ人でティムネスの子ヒスティアイオス、エルクサンドロスの子コエス、これはダリウスがミティレネを与えた人物、キュメ人でヘラクレイデスの子アリスタゴラス、その他にも大勢を捕えた。こうしてアリスタゴラスは、ダリウスに対抗するためのあらゆる策を準備して、公然と叛旗をひるがえしたのだった。

最初にアリスタゴラスは、ミレトスにおける自分の覇権を放棄すると見せかけてミレトス人に平等の権利を与え、彼らが自分の謀反に進んで加担してくるように仕向けた。次にはほかのイオニア地区にも同じことを行なった。すなわち僭主の幾人かは追放し、またナクソス遠征に参加した船団から捕えてきた僭主たちを、それぞれの街へ引き渡し、それら諸都市を味方につけた。

[5.38] ミティレネ人は、コエスを引き取るとすぐに石打ちの刑にしたが、キュメでは他の大多数の街と同じように、僭主を追放した。

こうしてイオニアの諸都市では僭主制が廃止された。そのあとミレトスのアリスタゴラスは、それらの街で将軍を選ばせておき、自分は使節として三層櫂船に乗り込み、スパルタに向かった(16)。かれにはどこかに強大な同盟国を見つける必要があったためである。

(16)アリスタゴラスがスパルタに向かったのはB.C.499

[5.39] スパルタでは、レオンの子アナクサンドリデスが王だったが、これはすでに死んでおり、その子のクレオメネスが王位についていた。かれが王になれたのは、その人物が優れていたからではなく出自によるものだった。アナクサンドリデスは自分の姉妹の娘を妻としており、その妻を可愛がっていたが、子供が生れなかった。

子供がいないことについて、エフェロス(監督官)(*)たちは王を呼び出して告げた。
「貴殿が自分のことを気にしておられないとしても、我々としては、エウリステネス家の血筋が絶えることを見過ごすわけには参らぬのでござる。それゆえ今の奥方は貴公にお子を授けられぬようであるので離別し、別の奥方を娶りなされ。そうなされば、スパルタ人も喜びましょう」
ところがアナクサンドリデスはそれに答えて、自分はそのどちらも行なうつもりはないと云い、またなんの咎もない妻を離別し、別人を娶れなどというのは、愚にもつかぬ勧告だと云った。

(*)ephors;スパルタにおける王の権力を監視する官職。五人の有力市民が一年交代で勤める。

[5.40] そこで監督官と長老たちは協議し、アナクサンドリデスに次のようなことを提案した。

「我々の見るところ、貴殿は奥方に執着なさっておられるようなので、これから我々の申し上げる指示を拒むことなく実行していただきたい。さもなくばスパルタ国民が貴殿に対して、なにか他の手立てを決定するやも知れませぬぞ。そこで貴殿の今の奥方については、離別を要求いたしませぬ。今の奥方はこれまで与えられたように全てそのままになされてよろしいが、ただしお子を産める別の婦人を娶りなされ」

監督官はこのように告げ、アナクサンドリデスもそれに同意した。まもなくかれは二人の妻と二軒の世帯をもつことになったのだが、これはスパルタの風習に全く反することだった。

[5.41] その後ときをおかずして第二婦人がクレオメネスを産んだ。ところがこの妃がスパルタに王位継承者をもたらした時を同じくして、なんの因果によるものか、これまで子の生まれなかった第一婦人が妊娠したのである。

第一婦人の妊娠は真実だったが、第二婦人の近親者たちがこれを知ると騒動を起こし始めたのである。この者たちは、あの妃は嘘つきで、別の子供を自分が産んだことにするつもりなのだと言いふらした。そしてこの者たちがあまりに大騒ぎするので、監督官たちも疑念を抱くようになり、出産の時が近づくと、妃のまわりに坐って分娩を見届けたものであった。

第一婦人は最初にドリエオスを産んだあと、直後にレオニダス(*)を産み、またそのすぐあとにクレオンブロトスを産んだ。しかしクレオンブロトスとレオニダスは双生児だという人もいる。クレオメネスの母はデマルメネスの子プリネタデスの娘だったが、それ以上の子は産まなかった。

(*)テルピュレーの戦いで玉砕する。第七巻二百四節以下参照。

[5.42] 話によれば、このクレオメネスは正気を失っていて全くの狂人だったという。一方のドリエオスは同じ年頃の者の間で歴然と頭角をあらわいsていて、その人徳によって自分が王位を継ぐはずだと、かたく信じていた。

ドリエオスはそういう考えでいたので、アナクサンドリデスが亡くなり、スパルタの慣習に従って長子のクレオメネスが王位につくと、ドリエオスは大いに怒り、クレオメネスの下で忍従することを潔しとせず、植民地開拓団を率いて出国することをスパルタ国民に願い出た。しかしこのときかれは、どこの地に植民地を建設するべきかをデルフォイの神託に訊ねることもせず、そのほか慣習として行なわれていることを一切無視し、怒りにまかせてテラ人を案内人にしてリビアに向かって出航して行った。

そしてリビアに到着し、リビアで最もうるわしい地であるキニプス河畔に街を建設した。しかし三年目になって、リビア人のマカイ族とカルタゴ人に追われ、ぺロポネソスに帰ってきた。

[5.43] この時エレオン人(17)のアンティカレスという者が、ライオスの託宣(*1)を持ち出し、シシリーにヘラクレアという街を建設することを助言した。アンティカスが言うには、エリクスの地(*2)はすべてヘラクレス(18)がみずから勝ち取ったのであるから、その後裔に帰属すべきものだというのであった。これを聞いたドリエオスは、自分が行くつもりの地を征服できるかどうかの神託を求めてデルフォイヘ向かった。巫女は占領できるという託宣を下したので、かれはリビアヘ引率したとときの植民団を引き連れてイタリアへ出発した。

(17)ボイオティアにあるタナグラの近く。ボイオティアは予言者を多く輩出している。パキスが有名。第八巻二十節
(*1)その内容は不明。ライオスが何者かも不明。ただしかのオイディプス王の父が同名。
(*2)シシリー西部。同名の山がある。
(18)フェニキアのメルカルトというカルトだという論考がある。

[5.44] さてその当時(19)、シバリス(*)人の語るところでは、テリス王のもとにいたシバリス人は、クロトンの街を攻撃しようとしていたが、それを怖れたクロトン人はドリエオスに救援を求めた。その要望をドリエオスは受け入れ、クロトン人を手助けしてシバリスを攻撃し、占領したという。

(19)B.C.510頃
(*)シバリス、クロトンは南イタリアのギリシア人植民地。

これが、ドリエオス以下の面々の動向であるとシバリス人は伝えているが、クロトン人のいうところでは、エリスの予言者でイアミダイ家のカリアスを除いては、シバリスとの戦いに助太刀した異国人はいないという。このカリアスがクロトンに加勢した次第というのはこうだ。かれはシバリスの僭主テリスのもとからクロトンに逃れたのだが、それはクロトン戦の勝利を占って生贄の儀式を執り行ったところ、その結果が凶と出たためだった。

[5.45] 以上が彼らの伝えるところで、双方とも自分たちの説が正当であることの証拠をあげている。シバリス人が証拠としてあげているのは、クラティス河の干上がった河床のほとりにある神殿とその聖域で、この神殿はドリエオスがクロトン軍に助太刀してシバリスの街を占領したのち、アテナ・クラティアを讃えて建立したという。さらにドリエオス自身の死が最大の証拠だという。つまりドリエオスは神託に背いた行勣をしたために身を滅ぼしたのであり、もしかれが自分の最初の試みに外れた行動を取らなかったなら、自身も、その軍も破滅することなく、エリクスの地を占領して掌握できたであろう、というのである。

一方のクロトン側があげているのは、エリス人カリアスに与えられた特別の所領地がクロトンの領土内に多数あることで、これらの領地は私の時代でもカリアスの子孫が住んでいた。しかしドリエオスやその子孫には与えられた所領は全くなかったのである。

しかしドリエオスがシバリスとの戦いに加わっていたなら、カリアスに与えられた領地の何倍ものそれを、かれは褒賞として手に入れていたはずだというのだった。以上がそれぞれが挙げている証拠である。これについては、各自が自分なりに信用できると思う側につけばよいことである。

[5.46] ドリエオスに随って植民地の建設に参加した他のスパルタ人は、すなわちテッサロス、パライバテス、ケレエス、エウリレオンがいた。彼らは植民団一同とともにシシリーに到着したとき、フェニキア人とエゲスタ人(*)との戦いに敗れて戦死している。

(*)シシリー島西北部

この敗戦の中、植民者の中でエウリレオンのみが生き残ったのだが、かれは植民団の生き残りを集め、セリヌス人の植民地であるミノアという街を占領し、さらにセリヌス人を助けて彼らを独裁者のペイタゴラスから解放した。しかしエウリレオンはこの独裁者を倒したのち、こんどは自分がセリヌスの僭主になろうとしてそれを果たし、しばらくは僭主となっていたものの、セリヌス市民が蜂起したとき、アゴラのゼウス祭壇に避難したところを市民たちのに殺害された。

[5.47] ドリエオスについてゆき、ともに命を落として者としては、クロトン人ブタキデスの子でフィリッポスがいた。この男はシバリスの僭主テリスの娘と婚約していたためにクロトンの街から亡命していたのだが、その婚約が破談になったので船でキュレネヘ去つた。そしてここから自前の三層櫂船を用意し、配下の兵も自腹で集めてドリエオスに加わったのである。このフィリッポスはオリンピア競技の優勝者で、またその当時、ギリシアで右に出る者がいないほどの美しい容姿だった。 その美貌のゆえに、かれはエゲスタ人から誰も得たことのない栄誉を受けている。エゲスタ人はかれの墓の横に英雄廟を建て、生贄を捧げて霊を慰めているのである。

[5.48] ドリエオスの最期はこのようなものだった。しかしかれがクレオメネスの支配に耐え、スパルタに留まっていたなら、スパルタの王になっていたはずだった。というのもクレオメネスの統治は長く続かず、また後継ぎの男子もなく、ゴルゴという娘をただ一人残して亡くなったからである・

[5.49] さてミレトスの僭主アリスタゴラスがスパルタに到着したとき、そこはクレオメネスの治世下だった。そしてかれは王と会談に臨んだが、スパルタ人の話では、このときかれは全世界の地形と海と河をすべてを彫り込んだ青銅板を携えていたという。クレオメネスとの会談を認められたアリスタゴラスは、こう云った。

「クレオメネス殿、吾輩がはるばるこちらへ参ったこと、いぶかしく思われめさるな。いま我々のおかれている状況を申せば、イオニアの同胞が自由を奪われ、奴隷の身になり果てております。これは我々自身にとっては恥辱であり、悲しむべきことでもありますが、それのみならず全ギリシア人、とくにギリシアの覇者である貴殿らスパルタ人にとっても同じことと申せましょう。

そこで我々としては、ギリシアの神々にかけて、同胞であるイオニア人を奴隷の身から救っていただきたいと願う次第でござる。なおこのことは、貴殿らスパルタ人にとってはいとたやすい仕事であろうかと存ずる。と申すのも、異国の兵はひ弱でありますが、貴殿らはこと戦の勇猛さにかけては至高の位置を占めておられるゆえでござる。彼らの戦い方といえば、弓と短かい槍をたずさえ、ズボンを穿き、頭にはターバンを巻いております。

こんなことゆえ、彼らを打ち倒すのはたやすいことにござる。さらに、かの大陸の住人たちは、ほかの地域の住民を残らず合せても及ばぬほどの財貨をもっております。すなわち黄金をはじめとして、銀、銅、色とりどりの織物、荷物用の獣、そして奴隷でござる。これら全てが、お望みのままに貴殿らのものとなり申す。

この地には、さまざまな種族が互いに境を接して住んでおりますゆえ、それをいまからお話しいたします。イオニア人の隣りにはリディア人が住んでおります。このリディア人の住む地は豊かで、莫大な量の銀を産しております」
アリスタゴラスは銅板に彫り込まれた世界地図を指し示しながら、このように語った。そして続けて言うに、

「リディア人の東隣にはプリギア人がおります。彼らは、私の知っているどこの人間よりも、家畜と穀物にかけてはこの上なく豊かであります。プリギア人の隣りには、我々がシリア人と呼んでいるカッパドキア人が住んでおり、これの隣がキリキア人で、彼らの領土は、ここに見えますキプロス島の浮ぶ海にまで達しております。彼らが大王に納める年貢は五百タラントンに上ります。そしてキリキア人の隣がアルメニア人で、この国も家畜に富んでおります。アルメニアの隣がマティエネ人で、このあたりに住んでおります。

その隣りがこのキッシアの国で、この国のコアスペス河の畔に大王の住むスサの街がござる。ここにはまた宝物殿もあり申す。この街を占領なされれば、ゼウスの富も恐るるに足らず、と申せましょう。

されば貴殿らは、それほど肥沃でもないわずかな領土を争い、またそのためには勇んで戦い、死に至るような金銀を産することもない土地をめぐり、互角の力をもつメッセニアやアルカディアやアルゴスなどと戦うつもりでおられるか?アジア全土をやすやすと支配できるというのに、貴殿らは他の道を進もうとなさるのか?」

このようにアリスタゴラスが語ると、クレオメネスがこう答えた。
「ミレトスの客人よ、返事は三日お待ちくだされ」

[5.50] この時の彼らの話はこれまでだった。そして指定された返事の日になり、二人が示し合わせた場所にやって来ると、クレオメネスはアリスタゴラスに、イオニアの沿岸から大王のところまでゆくのに何日の旅程かと訊いた。

それまでは、かのスパルタ人を狡猾にまた巧みにあざむいていたアリスタゴラスであったが、ここで下手を打ってしまった。つまりスパルタをアジアに向かわせようと思うなら、本当のことを言うべきではなかったのに、つい口を滑らして真実を告げ、沿岸から都までの旅程は三ヵ月を要すると答えたのである。

これを聞いたクレオメネスは、アリスタゴラスが旅の道程について話そうとするのを遮るや、ミレトスの客人にむけて、陽の沈まぬうちにスパルタから出てゆくようにと告げた。そしてなお続けて、アリスタゴラスがスパルタ人を海から三ヵ月もかかるところへ連れて行くつもりなら、そのような計画をスパルタ人としては金輪際聞くつもりはない、と云ったのである。

[5.51] こういうとクレオメネスは屋敷に帰って行ったが、アリスタゴラスは、嘆願者の体裁をつくろい、すなわちオリーブの枝をもってクレオメネスの屋敷を訪れた。そして中へ入ると、嘆願者としての権利をもって、自分の話を聞いてもらいたいとクレオメネスに頼んだ。かれはまず、クレオメネスのそばにいた娘のゴルゴをよそへやってほしいと云った。この女児はクレオメネスのひとり子で、年は八、九才だった。しかしクレオメネスは、子供のことなど構わず、何でも云いたいことを云えと命じた。

そこでアリスタゴラスは、自分の望みをかなえてくれるなら謝礼として十タラントン差し上げようと約束した。クレオメネスがそれを断ると、アリスタゴラスは次第に額を上げてゆき、最後には五十タラントン出そうと云った、その刹那、子供が叫んで云った。
「お父様、この異国人を放っておいてここを離れましょう。でないと父上は痛い目に遭いますよ」

クレオメネスは子供の忠告を嬉しく思い、別室に引き上げて行った。このようなことでアリスタゴラスはスパルタを去ることにした。大王の王宮に至る内陸への旅程(王の道)を語る機会は失われたと見極めたからである。

[5.52] ところでこの王の道(20)について、いまから話してみよう。この道には至るところに王室の宿場と大変快適な宿所があり、その通り道に沿って人家が並び、安全である。

(20)「王の道はペルシア帝国のはるか以前からある」とHowとWellが言っている。その証拠として挙げられるのが、カッパドキアにあったヒッタイトの首都とサルディスを結び、また一方はこことアッシリアを結ぶ道である。リンク先を参照。

リディアとプリギアの間には二十の宿場があり、その距離は九十四半パラサングス(五百粁)である。プリギアを後にするとハリス河があり、ここには狭い道なりの所に関所がおかれていて、河を越えるにはここを通過しなければならないようになっている。またそれを守るための大きな砦もある。そこからカッパドキアに入り、キリキア国境に至るまでに二十八の宿場があり、距離は百四パラサングス(五百五十粁)である。国境では二つの関所と二つの砦を通らねばならない。

ここを通ってキリキアを過ぎるまでに三つの宿場があり、十五半パラサングス(八十三粁)である。キリキアとアルメニアの国境にはユーフラテス河があり、ここは船で渡る。アルメニア領内には十五の宿場があって、距離は五十六半パラサングス(三百粁)で、ここにも砦がある。アルメニアの先はマティエネの国になるが、ここには三十四の宿場があり、距離は百三十七パラサングス(七百三十粁)である。

この地には船で渡らねばならない四つの河がある。最初の河はチグリスで、第二第三の河は同じ名前(*)で呼ばれているにもかかわらず、その流れも水源も異なる。二番目の河はアルメニアに発し、三番目の河はマティエネから流れ来ている。

(*)ザバトス河

四番目の河はギュンデスで、これはかつてキュロスが、その流れを三百六十の水路に分割した河である(21)。

(21)第一巻百八十九節

ここを通過して街道を進むとキッシアの地へ入る。ここには十一の宿場があり、四十二半パラサングス(二百三十粁)進んだところに、もうひとつ船で渡るコアスペス河が流れている。この河のほとりにスサの都はある。

[5.53] かくて宿場の数は全部あわせると百十一にのぼる。サルディスからスサに上ってゆく旅の途中にはこれだけ多くの宿場があるということだ。この王の道をパラサングスで正しく測ったとし、一パラサングスが三十スタデイアに当ることは確かであるので、サルディスからメムノン宮殿(22)までの距離は四百五十パラサングス、すなわち一万三千五百スタディア(二千四百三十粁)となる。それゆえ、一日に百五十スタディア(二十七粁)進むとすれば、ちょうど九十日かかることになる。

(22)メムノンは「東方のエチオピア人」またはアッシリア人の伝説上の王。ホメロスによってリビアにおけるエチオピア人の伝説が書かれたとき、エチオピア人の王メムノンがエジプトのテーベと関連づけられた。

[5.54] ミレトスのアリスタゴラスがスパルタのクレオメネスに向かって、海からペルシア王のもとまで行くのに三ヵ月を要すると云ったのは正しかったのである。しかしさらに正確に知りたいという人には、それにもお答えしよう。それは、エフェソスからサルディスまでの旅程を追加せねばならないからだ。

ということで、ギリシアの海(エーゲ海)から、いわゆるメムノンの都であるスサまでの距離は、エフェソスからサルディスまでの距離五百四十スタディアを加算して一万四千四十スタディア(二千五百三十粁)となる。従って三ヵ月の旅程が三日だけ延びることになる。

[5.55] さてスパルタを追われたアリスタゴラスはアテナイに行ったが、その時のアテナイは、次に述べるような次第で、すでに僭主制から解放されていた。まずペイシストラトスの子で、僭主ヒッピアスの兄弟だったヒッパルコスが、ゲフィライオイ人の血筋を引くアリストゲイトンとハルモディオスによって殺害されたのが発端である。実のところ、これは惨事を告げる予知夢をかれが見たのちのことだった。このあとアテナイ人たちは四年間にわたり、これまでに劣らず、あるいはそれ以上に僭主の支配に甘んじなければならなかったのである。

[5.56] そのヒッパルコスが見た夢というのは次のような内容だった。それはパンアテナイア祭(*)の前夜のこと、ヒッパルコスが見た夢に丈高く容姿に秀でた男が現われ、次のような謎めいた言葉を発したのである。

  獅子よ、その心もて堪へがたきを堪へよ
  およそ地上の人間たる者
  罪を犯さば必ずや咎めあるべし

(*)四年に一度開かれるアテナイ最大の祭典。アテナイの第一月ヘカトンバイオン月(現在の七、八月)のアテナイ女神生誕の日とされている第二十八日を中心に前後4日以上続いた。

そして夜が明けるとすぐ、ヒッパルコスは夢判断者にこの夢を打明けたのだが、やがてかれは夢のことを忘れ、祭の行列を先導している最中に殺害されたのである(23)。

(23)B.C.513

[5.57] ヒッパルコス殺害の張本人を出したゲフィライオイ族というのは、もともとはエレトリアに発した部族であると主張しているが、私が調べたところでは、いま現在はボイオティアと呼んでいる地に、カドモス人とともに移住してきたフェニキア人(24)である。彼らはこの地の夕ナグラ地区をあてがわれて定住していたのだ。

(24)ゲフィラ(橋またはダムを意味する)はタナグラの別名。ゲフィラがシリアにあるという事実を基に、ヘロドトスは東方の起源を論じていると思われる。

最初にカドモス人がアルゴス人によってこの地から追われ(25)、その次にゲフィライオイ族がボイオティア人に追われてアテナイヘ(*)やって来たのだ。アテナイ人はある条件をつけて彼らを市民として受け入れたが、その条件というのは、ここで言うほどのこともない多くの行事から除外されることだった。

(25)ツキジデスによれば、トロイが陥落してから六十年後のこと。
(*)ここでいう「アテナイ」はアッティカ全土をさしていると思われる。

[5.58] ゲフィライオイ人を含むカドモス人とともにやって来たフェニキア人は、この地に定住したが、それによってギリシアにさまざまな知識をもたらした。とくにアルファベット(文字)は、私の考えでは、それまでギリシア人は知らなかったのである。初めの頃、彼らはフェニキア人が通常使っている文字を使用していたが、時が下るに従って文字の形とともに読み方も変えたのである。

その当時このフェニキア人の周囲に住んでいたギリシア人はほとんどがイオニア人だったが、彼らがフェニキア人から文字を習い、そのあと形を少し変えて用いたのである。そしてこの文字をフェニキア文字と呼んでいたが、フェニキア人が文字をギリシアヘ伝えたのだから、この呼び方は全く正しい(26)。

(26)ヘロドトスの文字の起源に関する理論の正否は別として、初期のギリシア文字とフェニキア文字には、その形状と順序において、確実に類似性がある。

それからイオニア人は、昔からパピルスのことを皮と呼んでいるが、これは昔はパピルスがなかったので、ヤギや羊の皮を用いていたことによる。今の時代でも、多くの異民族がこのような皮を利用して書いている。

[5.59] 私自身は、ボイオティアのテーベにあるイスメニア・アポロン神殿において、ある鼎にカドモス文字が刻み込んであるのを見たことがある。その文字はほとんどがイオニア文字に似ていた。そしてそれらの鼎の一うつにこのような銘が彫られている。

  アンフィトリオン、われをテレボアイ人より奪い(27)、ここに奉納す。

これは、カドモスのひ孫、ポリドロスの孫、ラブダコスの子ライオスの時代にあたるだろう。

(27)MeinekeはMSSに従って「ἐών=eon」としているが、「ἑλών=elon」と読む。

[5.60] 二番目の鼎には六脚韻文で、

  拳闘家スカイオス、競技に勝ちて
  弓の神アポロンに
  美しき供え物とて、われを奉りぬ

と刻んである。スカイオスというのはヒッポコーンの子スカイオスのことだろう。もし実際に奉納したのがこのスカイオスで、同じ名の別人ではないとすれば、それはライオスの子オイディプス(*)の時代ということになる。

(*)第四巻百四十九節参照

[5.61] 三つ目の鼎には、これも六脚韻文で、

  ラオダマス、王位にありて、
  この鼎をば、うるわしき供え物とて
  弓の名手アポロンに奉りぬ

とある。

エテオクレスの子ラオダマスが王位にあったとき、カドモス人がアルゴス人に追われてエンケレイス族のもとへ逃げてきた。このときゲフィライオイ人は留まったのだが、その後ボイオティア人に追われ、アテナイヘ移ったのである。ゲフィライオイ人はアテナイにいくつかの聖所を造営したが、ここには他のアテナイ人は参加せず、ほかにも他の氏族と異なる聖所があったのだが、とくにアカイア・デメテルの神殿とその秘儀が有名である。

[5.62] 以上、ヒッパルコスの見た夢と、その殺害者を出したゲフィライオイ族の発祥に関して述べた。それはさておき、最初に話そうとしていた、アテナイ人がいかにして僭主の圧政から解放されたか、話題をこれに戻そう。

僭主ヒッピアスが、ヒッパルコスの死を契機としてアテナイ人に圧政をしい ていた時のこと、アテナイ人の血統であるアルクメオン一族はペイシストラトスー族によって国を追われ、亡命していた。その一族が他の亡命アテナイ人たちとともに武力をもって帰国し、アテナイを解放しようとしたのだが、却って大きな敗北を喫したのだった。そこで彼らはパエオニアの北にあるレイプシドリオンに砦を構え、ペイシストラトス一族にはあらゆる策略をとることを決意し、隣保同盟(*)からデルフォイの神殿を建立する仕事を請け負ったのである。これが現在の神殿であるが、当時はまだなかった。

(*)ギリシア諸都市が、特定の神殿や聖域を共同で維持管理するための同盟。二年に一度評議会を開いていた。

彼らは昔からの名家で富裕でもあったので、渡された設計よりも美しい神殿を造り上げた。特に言挙げすべきことは、石灰岩で神殿を建てる契約だったのを、前面はパロスの大理石を用いたことである。

[5.63] アテナイ人の言い伝えでは、彼らはデルフォイに居を定めているときに巫女を買収し、スパルタ人が神託を伺いにきたなら、私用、公用を問わずアテナイを解放せよという託宣を下すようにさせたという。

スパルタ人たちは、いつも同じ託宣が下されるので、ペイシストラトス家はスパルタと親密な盟友だったにもかかわらず、アステルの子アンキモリオスという高名な人物を軍隊とともに派遣し、このー族を追放しようとした。スパルタ人たちは、神意は人間の意思より重いと考えていたからである。

こうしてスパルタは軍を船で送り出した。アンキモリオスはファレロン港に入ると軍を上陸させたが、ペイシストラトス一族はすでにそれを察知していて、同盟を結んでいるテッサリアに救援を求めていた。テッサリア人はこの要請に対し、彼らの王であるコニオン人のキネアスを一千の騎兵とともに派遣した。そしてこれら同盟軍を得たペイシストラトスー族は、次のような策を採った。

まずファレロン平原の樹木を伐採し、この地域一帯で騎兵が活動できるようにしておいてから、騎兵隊を敵軍に対峙させたのである。騎兵隊は敵に襲いかかってアンキモリオスを筆頭に多くのスパルタ人を殺戮したが、生き残りも船に追い込んだ。こうしてスパルタの最初の遠征は終わった。アンキモリオスの墓はアッティカのアロペカイにあり、ここはキノサルゲス(28)にあるヘラクレス廟の近くである。

(28)アロペカイ、キノサルゲスの場所は不明。近年の調査ではイリソスの南でファレロン方向にあったとされているが、確定はされていない。How とWellsの論考を参照

[5.64] このあとスパルタは、アナクサンドリデスの子クレオメネス王を司令官に任命して、より大きな軍勢をアテナイに送った。このたびは海によらず、陸上を行軍した。

彼らがアッティカに侵攻すると、最初にテッサリアの騎兵隊が迎え撃ったが、彼らは瞬く間に蹴散らされ、四十名以上が戦死した。生存兵たちは可能な限りの近道をとおってテッサリアを目指して遁走していった。クレオメネスは、自由を望むアテナイ人とともにアテナイ市内に入るや、僭主の一族をペラルギコン(29)の城壁内に追いつめ、そこを包囲した。

(29)アクロポリス北西部にある古代の強化城壁

[5.65] しかしスパルタは、ペイシストラトスー族の砦を落とすことはかなわなかったはずなのだ。そもそも彼らは砦を封鎖するつもりはなかったことと、二番目にはペイシストラトスー族は食糧も飲料も十分に備えていたことがある。ゆえにスパルタ軍は砦を数日包囲しただけで国に帰えらねばならなかったはずだった。ところがここに運命を変える出来事が生じ、これが一方には災いとなり、他方には幸いとなった。というのは、ペイシストラトスー族が子どもたちを密かに国外へ逃がそうとしているところ、これが捕らえられてしまったのである。

この事態によって、ペイシストラトスー族の計画は頓挫し、子どもたちを返してもらうという条件で、五日以内にアッティカから立ち去ることに同意することとなった。

そのあとペイシストラトスー族は、スカマンドロス河の畔のシゲイオンに移った。こうして彼らがアテナイを支配したのは三十六年間におよんだ(30)。彼らの血筋はそもそもピュロスの一門でネレウスの後裔であり、コドロス一門やメラントス一門とも同じ祖先から発している。これらの人物は国外からやって来てアテナイ王となったのである。ヒポクラテスが、ネストルの子ペイシストラトスの名にちなんで、自分の息子にペイシストラトスという名をつけたのは、この事歴を踏まえていたのた。

(30)B.C.545 からB.C.509まで

このようにして、アテナイは僭主制から解放された。そして彼らが自由を掴んでから、イオニアがダリウス王に叛旗を翻すまで、さらにはミレトス人アリスタゴラスがアテナイに来て支援を要請するまでの間に、アテナイ人のとった行動や、彼らに起きた事件のうち、注目すべきことを、まずは残らず述べてみよう。

[5.66] アテナイは以前から大国だったが、僭主を追放してからは、より一屑大国になった。そしてここアテナイで権勢を張っている二人の人物がおり、一人は、デルフォイの巫女を買収したと噂されていたアルクメオン家の血を引くクレイステネスである(*)。もう一人はティサンドロスの子イサゴラスで、これは名家の出だが、その家系は私にはわからない。ただし、かれの一族がカリアのゼウスに生贄を捧げて祀ってはいる。

(*)本巻六十三節参照

この二人がそれぞれの党派を従えて権力を争ったのだが、クレイステネスは劣勢に追い込まれたので、一般市民を自分の味方に引き入れようとした(31)。そのあとかれは、それまで四部族だったアテナイ国民を十部族に分けた。そしてイオンの子、すなわちゲレオン、アイギコレス、アルガデス、ホプレスの名をつけられていた部族の名を廃し、アテナイ土着の英雄の名を部族の名前に用いた。ただしアイアスだけは例外で、これは異国人だが、隣国人でもありかつ同盟国の人ということで、これに加えたのである。

(31)改革に関するヘロドトスの簡略な記述を理解するには、George Grote 「A History of Greece 1846」の三十一章を参照されたい。

[5.67] 私の考えでは、クレイステネスのこの手法は、その母の父でシキオンの僭主だったクレイステネスを真似したものであった(32)。このクレイステネスは、アルゴスとの戦いに出陣したとき、まずシキオンにおける吟遊詩人の競演を停止した。というのは、ホメロスの詩はアルゴス人とアルゴスの街が、主な主題となっていたからだった。またタラオスの子アドラストスの神殿がシキオンの市場(アゴラ)に造られていて、これは今でも残っているのだが、これがアルゴスの英雄であるという理由で、これも追放しようとした。

(32)クレイステネスがシキオンを支配していたのはB.C.600~B.C.570

そこで彼はデルフォイヘゆき、アドラストス(の神像)を廃棄してもよいかどうか、その神託を求めた。ところがデルフォイの巫女は次の託宣を下した。

「アドラストスはシキオンの王、それに石を投げつけたのは汝ではないか」

このようなことで神の許しが得られなかったので、クレイステネスは国へ帰り、アドラストスがみずから出てゆくように仕向ける策を、あれこれ思案した。そしてその方策をひとつ見出したと見極めると、ボイオティアのテーベに使いを送り、アスタコスの子メラニッポス(の霊)を、自分の国に迎えたいと伝えさせた。そしてテーベ人はそれを承認した。

クレイステネスはメラニッポスを勧請すると、市会堂の中でもっとも安全な場所に聖域を定め、そこへ安置した。言っておかねばならないことであるが、クレイステネスがメラニッポスを迎えた理由は、この英雄がアドラトスにとっては不倶戴天の敵だったからである。というのも、かれはアドラストスの兄弟であるメキステウスとその娘婿テディウスを殺害した張本人だったからである。

メラニッポスの聖域を定めたクレイステネスは、これまでアドラストスに捧げていた生贄の儀式や祭礼をアドラストスからとりあげ、メラニッポスに与えた。ところが、シキオン人がアドラストスを崇め奉ることは並々ではなかったのである。この国はもともとポリボスの支配下にあったのだが、アドラストスはこのポリボスの娘の子だった。ポリボスには跡継ぎがなかったので、死の間際にアドラストスに王位を譲ったのであった。

シキオン人がアドラストスを敬う行事が数ある中で、特に挙げるべきことは、かれの悲運を記念して悲劇の歌唱を演じたことで、つまりディオニソスの代わりにアドラストスを祀ったのである。しかしクレイステネスはこの歌唱演舞をディオニソスの祭りに戻し、残りの祭礼はメラニッポスに与えたのである。以上、クレイステネスがアドラストスに対して行なった所業である。

[5.68] またかれはドーリス族の部族名を変え、シキオンとアルゴスで同じ名前になるのを避けた。しかしこれはシキオン人を侮辱したものだった。かれは部族の名前にロバやブタを意味する言葉の語尾を変えて名前つけたのである。ただし自分の部族だけは、このような改変は行なわず自分の統治にちなみ、アルケラオイ、すなわち支配者という名をつけた。残りの部族にはヒアタイ(ブタ)、オネアタイ(駿馬)、コイレアタイ(仔ブタ)という名をつけた。

シキオンではこれらの部族名を六十年にわたり、クレイステネスの統治した期間を含め、その死後も用いていた。その後市民たちが協議して、三つの部族名をヒレイス、パンピイリ、ディマナタイに変え、さらに四番目の部族の名をアドラストスの子アイギアレウスの名にちなんでアイギアレイスと変えた。

[5.69] シキオン人クレイステネスの所業はこのようなことであった。そしてこのシキオン人の娘の子で、祖父ゆずりの名をもつアテナイ人クレイステネスも、察するに、イオニア人を侮蔑して、祖父のひそみに習ってアテナイとイオニアで部族の名前が重ならないようにすると決めたのである。

クレイステネスは、それまで見下していたアテナイ市民を自分の党派に取りこむや、部族の名前を変え、さらにその数を増やした。すなわち、それまでは四人だった部族長を十人とし、十の地区をそれぞれの部族に割り当てた。こうして市民を味方につけたクレイステネスは、敵対する派閥よりはるかに優勢となった。

[5.70] さて劣勢となったイサゴラスは、次のような対抗策をとった。かれは、ペイシストラトスー族を包囲したときから盟友となっていたスパルタのクレオメネスに救援を求めたのである。なお、このクレオメネスは、イサゴラスの妻とねんごろであるとして、世の顰蹙(ひんしゅく)を買ってもいた。

クレオメネスは手始めにアテナイに使者を送り、クレイステネスと、これに従う多数のアテナイ人を、神の冒涜者(ぼうとくしゃ)だといって追放する要望を突きつけた。この要求はイサゴラスの指図によるもので、アルクメオン一族とその郎党は、例の殺害事件の罪をきせられていたが、イサゴラスおよびその一党は、これには無関係だったからである。

[5.71] ところで、アテナイで神の冒涜者と呼ばれた人たちが、その名前をつけられたいきさつを説明しよう。ここにアテナイ人キロンという者がいて、これはオリンピア競技で優勝したことがあった。この男は傲慢にも僭主の地位を狙い、同年輩の者たちを集め、アクロポリスを占拠しようとしたが、これに失敗し、哀願者となってアテナ女神像の前に坐り込んだ。

その当時アテナイを治めていた各行政区(33)の長官たちは、命の保証を与え、哀願者としての資格を剥奪し、避難所から退去させた。しかし結局のところ彼らは殺害され、アルクメオン一族がその罪を問われていたのだった。これはペイシストラトスの時代より以前に起きた事件である(34)。

(33)「行政区というのは、徴税と、陸海軍へ兵と船を派遣する任務を帯びていた」とHow and Wellsは書いている。しかし「アテナイを治めていた」という記述は不正確と思われる。
(34)おそらくB.C.620またはB.C.600

[5.72] さてクレオメネスが使いを送ってクレイステネスと神の冒涜者たちの追放を要求すると、クレイステネスだけが秘かにアテナイを出て行った。しかしその後、クレオメネスはわずかな兵を率いてアテナイヘやって来ると、イサゴラスから名指しされていたアテナイの七百家族を、神の冒涜者として追放したのだった。この処置を終えたあと、かれは評議会(35)を解体することをもくろみ、イサゴラス派の三百家族に政権を委ねようとした。

(35)各部族からの代表者五十人から構成される新しい五百人評議会のことをいっているのだろう。

しかし評議会はこれに抵抗したので、クレオメネスとイサゴラスおよびその一派はアクロポリスを占領した。その他のアテナイ人たちは一団となって彼らを二日にわたって包囲攻撃した。そして三日目に休戦が成立し、一党のうちでスパルタ人だけが国外に撤退することになった。

ここで、クレオメネスが聞いた予言が的中したのだった。というのは、かれがアクロポリスを占領するつもりでアクロポリスに上ったとき、アテナ女神に呼びかけようとして神殿に歩み寄って行ったところ、神殿の扉を抜けるより早く、巫女が椅子から立ち上って口を開いたのである。

「去ね、スパルタの異邦人。ここはドーリス人が入ることを許されておらぬ聖域じゃ。」

クレオメネスはこれに答えて云った。
「巫女殿、吾輩はドーリス人にあらず、アカイア人にござる(*)」

(*)クレオメネスの祖先ヘラクレスが、テッサリアのアカイア出身であることを言っている。

かれはこの予言を気にも留めず、自分の思い通りに事を運ぼうとしたが、先に私が言ったように、再びスパルタ軍とともに国外に追い出されたのだった。アテナイ人は、残りの者たちを投獄して死刑に処した。そしてその中には、デルフォイの人ティメシテオスがいた。この者の発揮した膂力や勇気の数々については、私なら話ができると思っている。

[5.73] この者たちはこうして投獄され、命を絶たれた。そのあとアテナイ人は、クレオメネスによつて追放されていたクレイステネスと七百家族を呼び戻し、ペルシアと同盟を結ぶことを願い、サルディスヘ使節を送った。これは、アテナイ人が、スパルタとクレオメネスにとって完全な敵となったことを認めたからだった。

使者の一行がサルディスに着き、命じられたことを伝えると、サルディス総督であるヒスタスペスの子アルタプレネスは彼らに訊ねた。
「ペルシア人に同盟を求めるとは、お前たちは一体何者で、どこに住まっておるのか?」
その返答を使者たちから聞いたアルタプレネスは、手短かに返事を返し、アテナイがダリウス王に土と水を献上するなら(*)、アテナイと同盟を結んでやるが、さもなくば立ち去れと命じた。

(*)降伏の証

使者たちは同盟を成立させたい一心から、自分たちの一存でペルシア側の条件に同意した。しかし彼らは帰国後、そのことに関して激しい非難を浴びたのであった。

[5.74] クレオメネスは、アテナイ人が言葉だけでなく行ないによっても、自分のことをひどく侮辱しているものと思いこみ、ペロポネソス全土から軍を呼び集めた。ただしそのとき、本当の理由を明かすことはなかった。かれの本心は、アテナイ人に復讐し、アクロポリスから引き上げるときに自分と行をともにしていたイサゴラスを僭主に据えることにあったのだ。

かくてクレオメネスは大軍を率いてエレウシスまで侵攻したが、協定を結んでいたボイオティア人も、アッティカ国境にあるオイノエとヒシアイの地区を占領した。そのほか、カルキス人もアッティカの別方面から侵攻し各地を襲った。こうしてアテナイ人は四面楚歌の状態となったが、ボイオティア人とカルキス人への対応は後にまわし、エレウシスにあるスパルタ人に向かうことに決した。

[5.75] そして両軍が戦い始めようとしたとき、コリント人が、自分たちの行動は間違っていることに気づき、考えを改めて戦列を離れてしまった。このあとアリストンの子デマラトスが、これも一方のスパルタ王だったが、同じように軍を引き上げていった。かれはクレオメネスとともにスパルタから軍を率いてきており、それ以前はクレオメネスとの間に何の確執はなかったのだが。

この内輪もめのあと、スパルタでは軍隊が出陣する際、王が二人とも出征することを禁じる法律が制定されたのである。それまでは二人の王がともに従軍していたのだが、王の一人が従軍を免ぜられるとともに、二人いるティンダオレスの息子(カストルとポリデウケス)の神像もまた一体が国に留まることになった。それまでは、この二神像ともに神助を下すべく従軍していたのだ。

このようなことでエレウシスでは、スパルタの王たちの意見が割れたことや、コリント人の戦線離脱を目にして、残りの同盟軍もまた引き上げてしまった。

[5.76] さてドーリス人がアカイアに侵攻したのは、これが四度目だった。四回のうち二回は侵略戦のためで、あとの二回はアテナイ市民を支援するためだった。最初の侵攻は、ドーリス人がメガラの街(36)を建設した時のことで(この遠征は、その当時アテナイの王だったコドロスの時代だったとされているのはおそらく間違いないだろう)、第二、第三の侵攻は、ペイシストラトスー族を追放するためにスパルタから進撃してきたときで、四回目がいま現在の、クレオメネスがペロポネソス人を率いてエレウシスに侵攻したときである。従って、今回のドーリス人によるアテナイ侵攻が四度目となる。

(36)ドーリア人がペロポネソスに侵入して間もなくのことだという確かな伝説がある。

[5.77] このようなことで、この連合軍は不名誉にも散り散りとなったが、アテナイ人側では報復をもくろみ、まずカルキス人を目指して出陣した。ところかボイオティア人がカルキス人を支援するため、エウリポス海峡へやって来ると、この援軍を見たアテナイ人は、カルキス人より先にボイオティア人を攻撃することに決した。

アテナイ軍はボイオティア軍と戦って大勝を博し、大勢の兵を斃し、七百人を捕虜とした。その同じ日に、アテナイ人は海峡を渡ってエウボイアに侵入し、カルキス人とも戦い、これも同じく制圧した。そして彼らは馬飼い人たちの所有地を四千人の開拓民(37)のために残した。この馬飼い人というのは、カルキス人の富裕層に与えられた呼び名である。

(37)没収地に定住した移住民で、同じ広さの土地を分配された。

この戦いで生け捕りにした者は、ボイオティア人の捕虜とともに足枷をつけて投獄した。その後、これらは一人あたりニムナ(*)の身代金を課して釈放したが、捕虜につけていた足枷はアクロポリスに吊した。この足枷は私の時代まで残っていて、西に面した神殿の対面で、ペルシア軍の放った火で焼け焦げた城壁に吊されていた。

(*)黄金四百三十六~六百二十四グラム

そして彼らは身代金の一割を献じて青銅製の四頭立戦車を作り、これをアクロポリスの外玄関を入ってすぐの左手に安置した(38)。そしてこれに次のような碑銘を刻んだ。

  アテナイの子孫ら、
  ボイオティア、カルキスと相まみえるや、これを討ち
  鎖にて獄に繋ぎ、その驕慢を打ち砕けり
  ここに償金の十が一をパラスに奉り
  これなる戦車を献げるものなり

(38)おそらく古代の神域の前面の空き地だろう。B.C.432に完成した新しい聖域内には、この記念物のための余地はなかったはずだ。

[5.78] かくてアテナイ人は強大な力を獲得し、平等ということが、単にひとつのことだけでなく、あらゆる面において優れているということを証明して見せたのだった。その証拠に、アテナイ人が僭主に支配されているときは、近隣のどの国に対しても戦いで優勢を得ることはなかったが、僭主から解放されると、断然他に抜きんでるようになったのである。彼らが圧政下にあったときには、独裁者のために働くという意識からことさらに怠惰に振舞っていたのだが、自由の身になると、各人が自分自身のために積極的に努力することを、この事実は示している。

[5.79] 以上がアテナイ人の動向だったが、今度はテーベ人がアテナイ人に報復しようとして、デルフォイに使いを送って神託を伺わせた。ところが巫女が言うには、テーベ人は自身のみではアテナイに報復することはできぬゆえ、事案を衆議にかけ、もっとも近き者に援助を求めよ、ということだった。

そこで神託使たちが帰国し、評議会が招集されて神託が報告された。使者から「もっとも近き者」の援肋を求めねばならぬという託宣を聞いたテーベ人たちが言うには、
「そういうことなら、我々に最も近い住人は、タナグラ人、コロネイア人、テスピアイ人だ。しかしこれらの者は常に同士となって戦い、最後まで意欲的に戦い抜いてくれる者たちばかりだ。今更この者たちに援肋を求める必要があろうか?託宣の意味するところは、こんなことではあるまい」

[5.80] このように議論していると、ある者がその意味を悟つて云った。
「ワシには託宣が我々に云おうとしている意味がわかったと思う。テーベとアイギナはアソポスの娘で姉妹になるといわれておるぞ。ワシが思うに、神のお告げはアイギナに援軍を頼むべきだということではないか」

これ以上良い意見も出てこないようだったので、彼らは早速アイギナに使者を送り、これは託宣の命じたことで、貴公らは我々にもっとも近き隣人だといって、支援を嘆願した。するとアイギナ人は彼らの要請に答えて、英雄アイアコスー族の神像を送ると返答したのだった。

[5.81] こうしてテーベ人はアイアコスー族の神像を後ろ盾として戦いに臨んだが、アテナイ軍によって手ひどく打ち負かされてしまった。そこで彼らは再び使者をアイギナに送り、アイアコスー族の神像を返し、その代わりに今度は人間を送ってくれるように要請した。

その当時、アイギナは大いなる繁栄を謳歌しており、また昔からのアテナイに対する反目を忘れていなかったこともあって、テーベの要請に従い、通告することなしにアテナイ人に戦いをしかけたのである。

アテナイ人がボイオティア人との戦いに手を取られている間に、アイギナは戦艦でアッティカに侵入し、ファレロン港その他の沿岸地区を略奪した。こうして彼らはアテナイ人に痛烈な打撃を与えたのである。

[5.82] アイギナ人がかねてよりアテナイに対して恨みを抱いていた理由は次の通りである。エピダウロス人の地が収穫不足に苦しんでいたとき、彼らはこの天災の理由についてデルフォイの神託を請うた。巫女はダミアとアウクセシア(39)の女神像を安置せよと告げ、そうすれば運も上向くだろうと云った。そこでエピダウロス人が神像は青銅かそれとも石材を用いるべきかと重ねて訊ねたところ、巫女は、どちらも否定し、栽培されたオリーブの木材を用いよと告げたのだった。

(39)ダミアは「大地」を表し、アウクセシアは「繁殖」を表す。これらは繁殖と豊穣の女神である。

そこでエピダウロス人は、アテナイのオリーブがもっとも神聖であると考え、オリーブの木を数本伐採させてほしいとアテナイ人に願い出た。実のところ、当時はアテナイ以外にはどこにもオリーブの木はなかったと云われていたのだが。

アテナイ人は、エピダウロス人がアテナイ・ポリアスとエレクテウス(*)に年ごとに生贄を供えるなら、木を譲ってもよいと答えた。エピダウロス人はこの条件を呑んで要望を満たした。そしてオリーブの木で造った神像を安置すると、エピダウロスの地には豊かな実りが実現したので、彼らはアテナイとの協定を遺漏なく実行したのである。

(*)アテナイ・ポリアスはアテナイ市の鎮守の神で、エレクテウスはアテナイの守護神。

[5.83] さてアイギナ人は、それ以前からも、その当時もエピダウロス人に従属していたので、アイギナ人同士の訴訟も、エピダウロスヘ渡っていって裁決を仰いでいた。しかしこの頃から彼らは船の建造を始めるとともに尊大となり、エピダウロス人から離反したのだった。

この闘争では、アイギナ人は海軍力を発揮してエピダウロス人に大きな損害を与え、ダミアとアウクセシアの神像も奪い取った。彼らはこの神像をもち帰り、自分の国の中央部で街から二十スタディア(三千六百米)ほど離れたところにあるオイエという場所に安置した。

神像をこの地に安置すると、彼らは生贄を捧げて祀り、皮肉と悪態をつく女だけの歌舞も催した。これを開催するために、それぞれの女神のために十人ずつの合唱隊の元締め人を任命した。合唱隊の悪口の矛先は男ではなく、その地の女たちだった。エピダウロス人にもこれと同じ儀式があるが、またほかの密儀も行なわれていた。

[5.84] こうして神像が盗まれたことで、エピダウロス人はアテナイ人との協定を果たさなくなった。アテナイ人はエピダウロス人に不満の意を伝えたが、エピダウロス人の方では、自分たちの行動に非はないと主張した。
「神像が我々の地にある間は、我々は約束を守っていたのだ。しかし神像が奪われた以上、生贄を献上せねばならないというのは不当である。その義務は神像を保有しているアイギナ人に要求するがよい」

そこでアテナイ人はアイギナ人に使者を送って神像の返還をせまったが、アイギナ人はアテナイ人とはなんの関係もないと返答した。

[5.85] アテナイ人のいうところでは、この要求を突きつけたあと、彼らは一艘の三層櫂船にアテナイを代表する市民団を乗せてアイギナに派遣した。そしてアイギナに着いた一行は、神像がアテナイの木材で造られたものであるからといって、これをもち帰るべく、像を台座からはずそうとした。

しかしそのやり方では取りはずせないと見るや、神像に綱をかけて引っ張ろうとしたところ、雷鳴と同時に地震に襲われたのである。綱を牽いていた三層櫂船の乗組員たちは、取り乱して混乱した挙げ句、互いに敵同士であるかのごとくに殺し合いをはじめ、とうとう生き残ったのは一人だけとなり、これはファレロンに帰還したという。

[5.86] 以上がアテナイ人による事件の説明であるが、アイギナ人の側では、アテナイ人の乗ってきた船は一艘だけではない、一隻または数隻だけなら、自分たちに海軍がなくとも難なく防げただろう、と言うのだった。本当は、アテナイ人は多数の船で海岸に押し寄せたので、海戦することなく彼らに降伏したのだ、と言っている。

もっとも、彼らがアテナイ軍に屈した理由というのが、海戦では太刀打ちできないことをわかっていたからなのか、あるいは実際に遂行した、ある計画のためであったのか、彼らにもはっきりとはわかっていない。

アテナイ人たちは、誰も刃向かってこないとみて、船を下りて神像の安置してある場所へ向かっていった。そして神像を台座からはぎ取ることができなかったので、綱をかけて牽いたところ、二体の神像が同じようにひざまずいたというのである。この話は私には信じられないが、信じる人がいるかもしれない。そして神像は、その時からずっとその姿勢のままでいるというのだった。

以上が、アテナイ人の取った行動であるが、アイギナ人の語るところでは、彼らはアテナイ人が戦を仕掛けようとしているのを知って、アルゴスに救援を求めていたのである。そしてアテナイ軍がアイギナの地に上陸すると、アルゴス人も密かにエピダウロスから海を渡ってアイギナの島に救援に来た。こうしてアルゴス人はアテナイ人の不意を突いて彼らを船から遮断しておき、攻撃をしかけたのである。雷鳴と地震が起きたのは、まさにこの時だったという。

[5.87] アルゴス人とアイギナ人の伝えるところは右の通りであるが、ただ一人だけ無事にアッティカに帰還したということは、アテナイ人も認めている。

しかしアルゴス人が言うには、自分たちがアテナイ軍を殲滅した中で、この一人だけが生き残ったのだというのに対し、アテナイ人は、この事件はすべて神の力による結果だと主張している。そしてこの生き残りは、次のようにして命を絶たれ、生きながらえることはなかったという。この男はアテナイに帰って惨状を報告したところ、アイギナに出征した男たちの妻がそれを聞き、この男がひとりだけ助かったことに激高したのである。そしてその男を取り囲み、私の夫はどこにいるのか、と口々に叫びながら、上衣の留め針で男を刺し貫いたという。

こうしてその男は最期を迎えたが、アテナイ人には、自身の不運のことよりも、この女たちの所業の方がよほど怖ろしいことのように思われた。そして言うには、この女たちを罰する手立ても見つからなかったので、それ以後、女たちの衣裳をイオニア風に変えたのだった。それまでアテナイの女は、コリント風によく似たドーリス風の衣裳を用いていたが、留針を使わずにすむように、麻の上衣(チュニック)に変えたのである。

[5.88] しかし本当のところは、この衣服はイオニア発祥のものではなく、カリアのものなのだ。というのは、古代ギリシアの女たちは、そのすべてが、今日ドーリス風と呼んでいる衣装を身につけていたのであるから。

一方のアルゴスとアイギナは、このことをきっかけにして次のような風習にしたという。すなわち、両国ともにそれまでの大きさの一倍半の留針を用いることとし、女たちはまず第一に留針をかの二女神の神殿に奉納することとした。さらにアッティカのものは瓶といえども神殿に持ち込まないこと、これ以後は、飲用の容器は自国製のもののみを使用することとしたのだった。それ以来今日に至るまでずっと、アルゴスとアイギナの女は、アテナイに対する確執から、それまでよりも長い留針を用いているのである。

[5.89] アテナイがアイギナに憎しみを抱くようになった発端は、右に話したとおりである。さてテーベ人から救援の依頼をうけたアイギナ人は、神像にまつわるもめ事を思い起こし、勇んでボイオティア人に加勢した。

アイギナ人はアッティカの海岸地方を荒しまわったが、一方のアテナイ人がアイギナに兵を進めようとしたところ、デルフォイの神託が下り、アテナイ人はアイギナ人の悪業を三十年間耐え忍ぶことと、三十一年目に英雄アイアコスの聖所を定めてからアイギナとの戦端を開けば、目的は達せられるだろう、と告げた。ただしただちに敵に向かうなら、最終的には敵を制圧するであろうが、それまでにさまざまな苦難と災厄に見舞われるだろう、とも告げられた。

この託宣を聞いたアテナイ人は、アイアコスの聖所を定めはしたが--この社は今もアゴラにある--アイギナからひどい仕打ちを受けるにおよび、三十年間は堪え忍ぶべしという指示を我慢できなかったのである。

[5.90] アテナイが報復の準備をととのえていたところ、スパルタ人が事件を起こし、これが彼らを足止めすることになったのである。というのも、スパルタ人は、アルクメオンー族がデルフォイの巫女を買収したことや(40)、その結果として巫女がスパルタとペイシストラトス一族を欺いたことを知り、これら二つのことに対して激しい怒りをつのらせたのである。そしてスパルタ人は、自国在住のアテナイ人盟友たちを国から追放したが、そのことに対して、アテナイ人は何の感謝もしなかったのであった。

(40)本巻六十三節

このことに加えて、スパルタ人の行動に拍車をかけたのは、彼らがアテナイ人から数々の危害を加えられるだろうという、いくつかの託宣だった(41)。それまで、スパルタ人はこれらの託宣のことを知らなかったのだが、クレオメネスがその頃スパルタに託宣を持ち帰ったことで、託宣のことを知ったのである。クレオメネスは、これらの託宣をアテナイのアクロポリスで手に入れたのだが、これはペイシストラトスー族が早くから保持していたもので、彼らが追放された際、神殿に残していったのをクレオメネスが取り戻したのである。

(41)ペイシストラトス一族は、その託宣に関して特別な情報を持っていたようだ、本巻九十三節、第七巻六節

[5.91] これらの託宜を取り戻したスパルタ人は、アテナイ人がその力を増してゆき、もはやスパルタに従おうとしなくなっているのを見てとると、アテナイ人を自由の身にしておけば、その国力はスパルタ人に匹敵するようになるだろうが、独裁体制で抑えつけられているなら、その力は弱く、たやすく服従するだろうと考えるに至った。このように読み取ったスパルタ人は、ペイシストラトス一族が亡命していたヘレスポントスのシゲイオンに使いを送り、ペイシストラトスの子ヒッピアスを呼び出した。

ヒッピアスが到着すると、スパルタ人は他の同盟諸国の使者たちも呼び集めて次のように語った。
「同盟国諸君、我々の行ないが誤りだったことは、これを認めるにやぶさかではない。いつわりの託宣に惑わされた我々は、親しい友であり、アテナイを我々に服従させることを約束してくれた人々を、その祖国から追放し、アテナイの国を恩知らずの民に委ねてしまった。そして我々が与えた自由によって頭をもたげた彼らは、時をおかずして傲慢にも我々と我々の王を放逐したのだ。これがために彼らはその驕慢を募らせ、力も増しつつある。このことは、アテナイの隣国であるボイオティアやカルキスも身にしみてわかっているはずだが、やがてほかの国も己のあやまちを思い知ることになり申そう。

このようなあやまちを犯した我々としては、今後は諸君の力を借りて彼らへの報復を果たしたいと思うものである。まさにそのために、これなるヒッピアス殿をはじめとして、諸国からご一同をお招きした次第にござる。我々としては意思を統一し、力を合わせてヒッピアス殿をアテナイに戻し、我々が奪い去ったものをかれに返す所存にござる」

[5.92] スパルタ人はこのように口上を述べたが、同盟国は、その大方がこの言葉に賛成しなかった。一同が沈黙しているなかで、コリントのソクレスが発言した。

92A.「まことに、天は地下に潜り、地は天上に昇り、また人は海中に住み、魚が人の住まいに住むことになるやもしれませぬぞ、スパルタの方々よ。もし貴公らが人みな平等という原則を打ち壊し、ギリシアの国々を独裁制に戻そうとするならばであるが。この地上において、独裁制ほど不当で残忍なものはござらぬ。

国政は僭主による支配が真実よいと貴殿らが思っておられるなら、まずは貴殿らが僭主をたて、しかるのちに他国へもそれを実践するように努められよ。しかしながら、貴殿らは独裁制を試みたこともなく、なおかつスパルタに僭主が立たぬよう、最大限の警戒を敷いておられるというのに、同盟国には不当な扱いをなそうとしておられるのだ。貴殿らが、我々と同じく独裁制の経験があるならば、このことに関して今よりも一層分別のある建言をなされることだろう」

92B.そこでわがコリントの国制について申し述べよう。わがポリスは寡頭政で、バッキアダイという一族が統治し、婚姻は一門の間でのみ行なわれておった。さてこの一門の者でアンピオンという男に、ラブダ(42)という脚の不自由な娘がいた。バッキアダイ一族は、誰もこの娘を娶ろうとしなかったので、娘はエケクラテスの子エエティオンのもとへ嫁いだ。この男はペトラ地区の出身で、血筋からいえばラピタイ族で、カイネウスの後裔であった。

(42)大語義辞典(Etymologicum Magnum)によれば、両足の外方への脱臼がラムダ(Λ)という文字に似ていることによる命名。

ところがこの男には、この妻からもほかの女からも息子が生れなかったので、子を授かるかどうかを訊ねるためにデルフォイに出向いた。そして神殿に入るが早いか、巫女が次の言葉を放ったのである。

  エエティオン、汝いと誉れ高きなるも、
  何人たりといえども汝を崇むることなし。
  ラブダは身ごもりて、子は挽き臼のごとき岩となろう。
  そは王らの頭上に落ち、コリントに鉄槌を下すであろう。

そしてエエティオンに下されたこの託宣が、ある伝手をたどってバッキアダイー族の知るところとなった。これより先、この一族はコリントに下された神託の意味がわからなかったのだが、それはエエティオンに下されたものと同じことを指していたのだった。すなわち、

  岩の間に鷲は身ごもり、強く猛き獅子をば産まん
  そはあまたの者の膝をば解き放つべし
  このこと、よくよく考えよ、コリント人
  汝、美わしきペイレネの泉のほとり
  かつは山高きコリントに住みおる者どもよ

92C.この古い神託の意味をバッキアダイ一族は理解できなかったが、エエティオンに下された神託を知るや否や、以前の神託とエエティオンの神託とがよく似ていることを見出したのだ。二つの神託の意味を読み解くと、バッキアダイ一族は平静を装いつつも、エエティオンの子を葬り去ることに決めた。そしてかれの妻が出産すると、その子の命を絶つべく、ただちに一門から十人を選び、エエティオンの住む地区に送りこんだ。

この者たちはペトラにやって来るとエエティオンの住まいに行き、赤子に逢わせてくれとラブダに頼んだ。彼らの目的を知らぬラブダは、赤子の父親と親しいことから、子供を見たがっているものと思い、赤子を連れてくると彼らの一人に手渡した。ところが彼らは途中で打ち合わせをし、最初に赤子を受け取った者がこれを地面にたたきつけることに決めていたのだ。

しかしラブダが赤子を連れてきて手渡したとき、神の御心が働いたものか、受け取った男に向かって赤子が微笑んだのだった。これを見た男は、哀れみの念にかられて殺す気が失せてしまい、不憫がつのって次の男に赤子を手渡してしまった。それからは、その男がまた次の男へというふうに手渡されてゆき、結局は誰も殺せなかったので、赤子は十人の男全員の手にまわされていった。

こうして男たちは赤子を母親に返して出て行ったが、扉の前で互いに非難合戦をはじめた。中でも、計画通りに実行しなかったというので、最初に赤子を受け取った男に非難が集中した。そして最後は、もう一度中に入り、全員の手で赤子を殺そうということになった。

92D.しかしエエティオンの子がコリントの災厄の原因となる運命は、神のしからしめるところとなった。というのも、ラブダが扉の近くに立って、この話をすっかり聞いていたのである。彼らの気が変わり、赤子を捕まえて殺すことを恐れたラブダは、一行が子供を探しに引き返してくれば、家中を隈なく探し回ることがわかっていたので、その子を、一等見つかりにくいだろうと思って衣装箱の中に隠した。

男たちはやって来て赤子を探したが、見つからないので引き上げることに意を決し、この仕事を命じた人物には、使命は果たしたと報告することにした。そして帰り着くと、そのとおりに報告したのだった。

92E.その後エエティオンの息子は成長し、衣装箱によって難を逃れたということからキプセロス(*)という名をつけられた。このキプセロスが成人になってから、デルフォイで神託を請うたところ、二通りの意味をもつ託宣が下された。そしてこの託宣をよりどころにしてコリント攻略を企てたキプセロスは、これを手に入れたのだった。そして、その託宣というのは、次のような内容だった。

(*)キプセロスは「櫃」、「箱」という意味。

  わが館に足踏み入れたる者、エエティオンが子キプセロス
  果報者よ、名も高きコリントの王
  この者、その子ら王たれど、その子の子らは王ならず

これがその内容だった。かくして僭主となったキプセロスは、コリント人を大勢追放したり、財産を没収したりしたが、それ以上の人数を殺戮したのであった。

92F.コリントを三十年にわたって統治したあと(43)、かれは隆盛を極めて一生を終え、その後を子のペリアンドロスが継いだ。ペリアンドロスは、はじめの頃は父よりも穏やかだったが、ミレトスの僭主トラシブロス(*)と使者を通して交際するようになってから、キプセロスをはるかに上まわる残忍な人間になってしまった。

(43)B.C.655~B.C.625
(*)第一巻二十節以下参照

というのも、ペリアンドロスがトラシブロスに使者を送り、もっとも安全に、またもっともよくポリスを治める方法を訊ねさせたことがあった。この時トラシブロスは、ペリアンドロスのもとから来た使者を街の外に連れてゆき、作物を植えている畑に人っていった。そして畑の中を歩き回りながら、コリントからきた使者たちに、やって来た目的を繰り返し訊ね続けては、ほかの穂よりも高く伸びている穂を見つけるたびに切り取ってゆき、畑の中でもっとも実りのよい部分をすっかりなくしてしまったのであった。そして畑を通り抜けると、ひと言も忠告を発せずに使者を送り返した。

使者がコリントに帰ると、どんな助言を持ち帰ったのか、ペリアンドロスは聞きたがった。使者は、トラシブロスからはなんの助言もなかったと返答した。これにつけ加えて、目にしたトラシブロスの振る舞いを語りながら、ペリアンドロスがなぜあんな奇妙な男、自分の財産を破損するような気違いのところへ自分を送ったのか、いぶかしく思うと語った。

92G.しかしペリアンドロスは、その振る舞いの意味を悟り、街の有力者や有能な者を抹殺するべしと、トラシブロスが助言したと理解した。そして以後は、市民に対して悪逆な態度を取り始めたのである。キプセロスがやり残した殺戮や追放を、ペリアンドロスがやり遂げたということである。

また自分の(亡)妻メリッサ(44)のために、コリントの女たちすべての衣裳を、わずか一日で剥ぎ取ってしまったことがあった。それというのは、ペリアンドロスが友人から預かっていた物について、アケロン河畔のテスプロティアに使いをやり、死霊の託宣を求めたことがあった。するとメリッサの霊が現われ、自分は裸で寒くて仕方がないから、預かった物のありかを明かしたくないと告げた。そしてこの亡霊は、ペリアンドロスが自分の遺骸と一緒に埋めた上衣は焼いてないので、役に立たないといった。そしてこの女はさらに、自分が真実を語っている証拠として、ペリアンドロスが冷めたい竈(かまど)にパンの塊を突っ込んだことを語った。

(44)夫によって誤って殺害された。第三巻五十節

この報告を聞いたペリアンドロスは、メリッサの裸の遺体と交った覚えがあり、その亡霊のいうことが真実であることがわかっていたゆえ、ただちにコリントの女は残らずヘラ神殿に行くべしという布告を出した。女たちが祭にゆく時のように、とっておきの衣装を着てやって来ると、ペリアンドロスは自分の護衛兵をそこに配置しておき、自由人であれ召使であれ、すべての女たちの衣裳を剥ぎ取り、それを集めて穴に投げ入れ、メリッサの霊に祈りながら焼いてしまったのだ。このようなことをしたあと、ペリアンドロスが二度目の使者を送ったところ、メリッサの亡霊は友人からの預かり物のありかを告げたのであった。

これが僭主制の本質なのでござる、スパルタの方々よ。僭主の行ないというものはこんなものだ。われらコリント人は、貴公らがヒッピアスを呼び迎えたことを知り、驚いたものだったが、いま貴公らの言葉を聞いて、なおさら驚きをかくせぬ。貴公ら、ギリシアの国々に独裁制を敷こうなどとなさるな、このことはギリシアの神々の名にかけ、心より願うものである。それでもこの策謀を強行し、不当にもヒッピアスを復帰させようとなさるなら、少なくともコリント人は貴公らと行動を共にせぬことを承知しておかれよ」

[5.93] 以上が、コリントの使者ソクレスの言であった。そこでヒッピアスは、ソクレスの唱えたと同じ神々の名を唱えてから反論し、コリント人がアテナイ人によって苦しみをなめさせられる運命の日が到来したあかつきには、コリントこそ真っ先にペイシストラトスー族の復帰を望むに違いない、といった。

ヒッピアスがこのような反論をしたのは、託宣に関しては誰よりも正確な知識を持っていたからだった。しかしそれまで沈黙を守っていた他の同盟国の使者たちは、ソクレスの歯に衣着せぬ演説を聞くや、一人残らずこのコリント人の説を支持し、スパルタに対し、ギリシアのどの街にも暴虐を加えないようにと懇願した。

[5.94] こうしてヒッピアスの計画は沙汰止みとなり、かれはスパルタから出てゆくことになった。そしてこのとき、マケドニア王アミンタスがアンテムスという街をかれに与えようとし、またテッサリア人はイオルコスの街を提供しようと云った。しかしヒッピアスはそのどちらも断わり、シゲイオンに帰って行った。ところでこの街は、ペイシストラトスが武力によってミティレネから奪い取ったもので、占領後はアルゴス人の女に生ませた、ヘゲシストラトスという庶子を僭主にしていたのであった。ところがヘゲシストラトスは、父から与えられたこの街を平穏に統治することができなかったのである。

というのは、アテナイ人のアキレイオンとミティレネ人のシゲイオンが長年にわたって干戈を交えていたからである(45)。ミティレネ人はこの地の返還を要求したが、アテナイ人側は、イリオン(トロイ)の地に関しては、メネラオスを助けてヘレネ誘拐の報復をしたアテナイや他のギリシア諸国以上には、その権利がないと反論し、相手の要求をはねつけたのであった。

(45)紀元前六世紀頃におけるヘロドトスの年次認識にはしばしば誤りがある。この戦争をペイシストラトスの年代に当てるのは正しくないように思われる。この戦争はB.C.600以後ではありえない。

[5.95] この争いの間にはさまざまな事件があったが、中でも言挙げに値するものとしては、次のようなことがあった。アテナイ軍が勝利をおさめた合戦のとき、詩人アルカイオス(*)自身は逃れたのだが、その武器をアテナイ人は回収し、これをシゲイオンにあるアテナ神殿に吊したのである。アルカイオスはこのことを詩にしてわが身の不運を詠み、ミティレネにいる友人メラニッポスに送っている。

(*)紀元前六百年頃に活躍した叙情詩人。レスボス島ミティレネ出身。同時代の詩人にサッフォーがいる。

その後、ミティレネとアテナイは、キプセロスの子ペリアンドロスが間に立って和解した。これは双方がペリアンドロスに依頼したことによるもので、調停の条件は、互いにいまの占有地を保全するというものだった。このようにしてシゲイオンはアテナイの支配下に入ったのである。

[5.96] スパルタからアジアヘ帰ったヒッピアスは、あらゆる手段を尽くして、アルタプレネスにアテナイ人のことを誹謗中傷し、できる限りの策謀をめぐらして、アテナイを自分とダリウス王の支配下におこうとした。

ヒッピアスはこのような策動に走りまわっていたが、それを知ったアテナイ人は、ペルシア人がアテナイからの亡命者たちにそそのかされることのないようにと、サルディスに使者を送った。ところがアルタプレネスは、アテナイ人が安全を望むならば、ヒッピアスの復帰を受けいれよと命じたのである。アルタプレネスのこの言葉がアテナイ人に持ち帰られると、彼らはこれを認めず、そしてこれをはねつけたということは、すなわちアテナイが公然とペルシアと戦端を開くということになるのであった。

[5.97] アテナイ人がペルシアに対してこのような決意を固め、すでに敵意を抱いたところへ、ちょうどその時、クレオメネスによってスパルタから追われたミレトスのアリスタゴラスがアテナイにやって来たのである。それはアテナイがスパルタを除く他の国々の中ではもっとも力のある国だったからである。民衆の前にやって来たアリスタゴラスは、スパルタのときと同じく、アジアの豊富な資源のことや、ペルシア人は戦いに盾や槍を用いないから、たやすく制圧できることを説いた。

これに加えてかれは、ミレトス人はアテナイからの移民であり、従って強大な力をもつアテナイ人としては、ミレトス人を救済するのは当然であるとも説いた。こうしてどんなことでも約束すると熱心に要請した結果、とうとうかれは首尾よくアテナイ人を説得したのであった。アリスタゴラスがスパルタ人クレオメネスただ一人を欺くことができなかったというのに、三万(46)のアテナイ人をあざむいたことを思えば、一人を欺くよりも多数を欺くことの方が容易であると思われる。

(46)しかしアテナイの最盛期でさえ、市民権を有する人数は二万人を超えることはなかった。

こうしてアテナイ人はアリスタゴラスに説き伏せられた結果、二十隻の船をイオニア人の援軍に送り出すことを決議し、その司令官には、高潔で名高いアテナイ市民のメランティオスを任命した。この船団が、ギリシア人と夷狄人双方ともに災禍の発端となったのである。

[5.98] アリスタゴラスは皆より先に船出してミレトスに帰り、ある計画を立てた。ただこの計略は、ダリウス王を困らせる目的のもので、イオニアのためになるものではなかった。かれは一人の男をプリギアのパエオニア人のもとへ派遣した。このパエオニア人というのは、メガバゾスによって捕らえられてストリモン河畔から移住させられたもので、いまはプリギアの地に部落を造って住んでいたのだ。使者は、パエオニア人のもとへ着くと次のように語った。

「パエオニアのご一同、吾輩はミレトスの僭主アリスタゴラスのもとから参った者にござる。貴殿らが我々のいうとおりにされるならば、貴公らの救出の手筈をお話しするために参上してござる。いまイオニア全土はペルシア王に叛旗をひるがえしており、それゆえ貴殿らは危険を冒すことなく祖国へ帰ることもでき申そう。海岸までは貴殿らみずからの力で来られよ、その後のことは我々が面倒を見よう」

これを聞いたパエオニア人は大いに喜び、危険を怖れて残った一部の者を除き、それ以外は女子供を連れて海岸に向けて走った。そして海岸に到着したパエオニア人は、そこからキオス島に渡った。

彼らがすでにキオスに到着したその直後、ペルシア騎兵の大部隊が彼らを追ってパエオニアにやって来た。そして彼らを取り逃がしたので、キオスに使いを送り、パエオニア人に引き返せと命令した。しかしパエオニア人はその命令を拒んだので、彼らはキオス人によってそこからレスボス島に移され、それからレスボス人によってドリスコスに送られた。そしてそこから彼らは陸路を進んでパエオニアヘ帰ったのだった。

[5.99] 一方アテナイ人は二十隻の艦隊とともに、エレトリアの派遣した三層櫂船五隻を伴ってやってきた。エレトリアがこの戦いに参加したのは、アテナイのためではなく、かつてミレトスから受けた恩義に報いるためだった。というのは、昔エレトリアがカルキスと戦ったとき、ミレトスがエレトリアと同盟を結んで支援したことがあったのだ。このときカルキス人を支援したのはサモス人だった。さてこれらの軍勢に加えて他の同盟軍も到着すると、アリスタゴラスはサルディスに向けて進撃した。

ただしアリスタゴラス自身は軍と行を共にせずミレトスに残り、ミレトス人の司令官には自分の兄弟であるカロピノスと、ヘルモパントスという市民を任命した。

[5.100] イオニア人は以上の陣容でエフェソスに着くと、その地のコレソス(47)に船を残して上陸し、エフェソス人を道案内にして大挙して内陸に向けて進んだ。軍はカウストロス河に沿って進み、トモロス山を越えてサルディスに着くと、市内の砦を除き、何の抵抗もなしにここを占領した。この砦はアルタプレネス自身が多数の兵を率いて防備していたのである。

(47)エフェソスの街の一部に築かれた丘。カイステル河の南にある

[5.101] ところで、サルディスの家屋はほとんどが葦で造られていて、レンガで造られていても屋根は葦で葺かれていた。そして一人の兵士が一軒の家に火をつけたところ、炎はたちまち家から家へ移り、街全体に拡がってしまった。このような事情から彼らは街を略奪することができなかったのだった。

街が燃えている最中、砦に籠もっていたリディア人やペルシア人は、砦の周りが火に囲まれ、街を焼き尽くしていて街の外へ逃れる道を見つけられず、アゴラとパクトロス河畔に群れをなして集まってきた。この河はトモロス山から砂金を含んで流れ来てアゴラを貫流し、その後はヘルモス河に合流して海に注いでいる。このパクトロス河の畔にあるアゴラに集まったリディア人とペルシア人は、やむなくみずから防戦することになったのだった。

しかしイオニア人は、敵の一部が防戦におよび、また他の大部隊が進撃してくるのを見ると、恐れをなしてトモロス山に向けて退却し、夜の闇にまぎれて船に引き上げて行った。

[5.102] サルディスの街が焼けたとき(48)、市内にあったキウベべ(49)の神殿も焼け落ちてしまった。その後、ペルシア人がギリシアの神殿を焼き払ったとき、言い訳に持ち出したのが、この事件だった。

(48)B.C.498
(49)キベレとも言う。プリギア人およびリディア人の大母神。

この時、ハリス河以西(50)に住んでいたペルシア人は、この襲撃のことを知ると、一団となってリディア人の救援にやって来た。しかしサルディスではイオニア人を見なかったので、後を追ってゆき、エフェソスで追いついた。イオニア人はこれを迎え撃ったが、壊滅的な敗北を喫した。

(50)ギリシア側から見れば「中」すなわちハリス河の西になる。

多くの兵がペルシア軍によって斃されたが、高名な戦死者の中には、エレトリア人の司令官でエウアルキデスがいた。この人は数々の競技で優勝の栄冠を手にし、キオスの詩人シモニデスに高く賞賛された人物だった。そしてこの戦闘で生き残った者は、散り散りになって自分の国に帰って行った。

[5.103] この戦の模様はこのようなことだった。ところがその後、アテナイはイオニア人ときっぱり手を切り、アリスタゴラスが使者を送って執拗に支援を求めても、彼らを支援することは拒んだ。こうしてイオニア人はアテナイ人との同盟関係を失ってしまったのだが、すでにダリウスに対して右のような敵対行動を取ってしまった以上、ダリウス王との合戦準備を怠ることはなかった。

彼らはヘレスポントスに船で行き、ビザンチンをはじめとして、この地の街を余さず支配下におさめた。それからヘレスポントスを出航してカリアへ行き、この地の大部分と同盟を結んだ。サルディスを焼き討ちしたあと、これまでは同盟を結ぼうとしなかったカウノスでさえも、ミレトスとの同盟に加わったのであった。

[5.104] またキプロス人も、アマトウス人を除いてはすべてがみずから進んでミレトスに加わった。それというのも、キプロス人も、次に述べるようないきさつでメディアから離反したからだった。

サラミス(51)王ゴルゴスの弟でオネシロスという者がいた。父はケルシス、祖父はシロモス、曾祖父はエウエルトンといった。この男は以前からペルシア王に叛逆せよとゴルゴスに勧めていたが、イオニアも反乱を起こしたことを聞くと、執拗に決行を迫った。しかしゴルゴスを説き伏せることができなかったので、オネシロスとその一派はゴルゴスがサラミスの街の外へ出かけるのを待ち、城門を閉ざしてかれを閉め出してしまったのである。

(51)キプロス島のサラミス

こうして街を失ったゴルゴスはメディアに亡命し、サラミス王となったオネシロスは、全キプロス人を自分とともにペルシアに叛逆することに同意させた。ただアマトウス人だけは同意しなかったので、かれはこの街の前面に陣を敷き、これを包囲して攻めた。

[5.105] オネシロスがアマトウスを包囲攻撃していた一方、サルディスがアテナイ人とイオニア人によって占領され焼き討ちされたことや、その計画の首謀者がミレトス人アリスタゴラスであることなどがダリウスに報告された。そのとき、伝えられるところでは、王はまずイオニア人については、やがて反乱の処罰を免れないことを確信していたので、気にも留めなかったが、アテナイ人とは何者か、と訊ねたらしい。その答えを受けると、王は弓を持ってこさせ、それを手にとると矢をつがえ、天に向かって放った。そして天高く矢を放ちながら祈りを捧げたという。

「ゼウスよ、アテナイ人に報復すること、われに許し給へ」
それから召使いの一人に命じて、食事の支度ができると、そのたびに王に向かって
「殿様、アテナイ人を忘れ給うな」
と三回いわせたという。

[5.106] このように命じておいてから、ダリウスは長年留めおいていたミレトス人ヒスティアイオスを呼びつけて云った。
「ヒスティアイオスよ、お主がミレトスの統治を託していた代理人が、わしに向かって謀反を起したことを聞いたぞ。この男は海の彼方の大陸から兵を率い、イオニア人を説いて従わせ、ワシからサルディスを奪いよったのだ。このイオニア人の所業は必ずや罰してやるつもりじゃがな。

ところでお主に訊ねるが、お主はこのような事態を良いことだと思うか?そもそもこのようなことが、お主のそそのかしがなくて、どのようにして起こったかじゃ。その責めがお主の身に降りかからぬよう、以後気をつけることだな」

これに応えてヒスティアイオスが言う。
「殿、何たることを仰せられまするか!この私めが、大なり小なり殿に災いをもたらすようなことを企てたと仰せであるか。何が不足で、あるいは何を欲して、みどもがそのようなことをいたしましょう?殿のものはみどものものとさせていただいておりますし、また殿の相談事には全て与らせていただいております。

もし私の代理人が殿のおっしゃるようなことをしでかしたのであれば、かの者が一存でなしたことに相違ありませぬ。みどもとしましては、ミレトス人と私の代理人が、殿に対する悪逆を企てたという報せは、とうてい信じることができませぬ。しかしながら、彼らがそのような企てに関与したことが本当で、殿のお耳に入ったことが根拠のある事実であるとすれば、殿、そもそもみどもを沿岸地帯から離してしまわれたことが、如何に思慮に欠けるものであったか、ご承知おき願いまする。

私が姿を消すや否や、イオニア人は、長い間胸にしまっていた野望を決行したものと思われます。もしみどもがイオニアにおりましたならば、どの街も浮き足立つことなどなかったことでありましょう。そこで、一刻も早くみどもをイオニアの地へお送り下されませ。そうすれば、みどもはかの地の平穏を回復し、このような騒ぎを企らんだミレトスの代理人を殿の手にお渡しいたしましょう。

さらに、この件を殿の御意にかなうよう成し遂げましたあかつきには、王家の神々(52)に誓って申しますが、世界最大の島サルド(53)を殿の属国とするまでは、イオニアに下向する際、身につける肌着は、これを取り替えぬ所存にございます」

(52)第三巻六十五節。ダリウスは、ペルセポリスにある碑にアフラマズダと「民族の神」に祈願文を彫っている。
(53)サルディニア島

[5.107] ヒスティアイオスはこのように語って王をあざむくことに成功した。そしてダリウスはかれの言に同意し、約束したことを成し遂げた暁には、スサにいる自分のところへ姿を見せよと命じてかれを出立させた。

[5.108] サルディスに関する報せが王のもとに届き、先に話したようにダリウスが弓をひいたあと、王がヒスティアイオスと会談し、そしてヒスティアイオスの沿海地帯へ地方に行くことを許可している間に、次のような事件が起こっていた。

サラミスのオネシロスがアマトウスを包囲しているところへ、ペルシア人アルテビオスが大軍を率いてキプロスにやってくるらしいという報せがかれのもとへ届いた。これを聞いたオネシロスはイオニアの全都市に使者を送り、支援を要請したところ、イオニア人はしばらく協議したのち、大挙して来援した。イオニア人がキプロスに到着すると、ペルシア人もキリキアから海を渡って到来し、サラミスに向けて陸上を進んできた。そこヘまた、フェニキア人が船でキプロスの鍵(54)と呼ばれている岬を廻ってきた。

(54)カルパス半島の長い舌状の先端を形成している岬角(聖アンドレアス修道院);How and Wells

[5.109] 事態がこのようになったので、キプロスの僭主たちは、イオニア軍の指揮官たちを集めて云った。

「イオニア人諸君、我々キプロス人としては、諸君がペルシア人またはフェニキア人のどちらを相手になさるか、諸君の選択にお任せする。軍を陸にあげてペルシア人とその力を試そうとなさるのであれば、今このときこそ諸君は下船して陸に陣を構えるべきで、そのときには我々が諸君の船に乗り込んでフェニキア人と戦うことにいたそう。逆にフェニキア人を相手になさりたいなら、そうなさるがよろしかろう。どちらを相手に選ばれるにせよ、イオニアとキプロスに自由をもたらすように努めてもらいたい」

イオニア人はこれに返答し、
「我々はイオニア全土の協議会から海上守備のために派遣されたもので、船をキプロス人に明け渡し、陸上でペルシア軍と戦うために来たのではない。我々は命じられた任務を力の限り果すつもりである。メディア人によって隷従させられたときの苦難を思い起こしつつ、勇者たることを証明してみせるべきは、まさに貴公らのほうである」
と云った。

[5.110] やがてペルシア軍がサラミス平野に到着すると、キプロスの王たちは戦列を調えて待ち受けた。そしてサラミス人とソロイ人の最精鋭を選んでペルシア人に向かわせ、残りのキプロス人はその他の敵軍に対峙させた。オネシロス自身はペルシア人司令官アルテビオスに立ち向かった。

[5.111] さてアルテビオスが騎乗している馬は、歩兵に向かうときには後ろ脚で立って棒立ちになるように訓練されていた。これを聞いたオネシロスは、すこぶるつきの戦上手で、かつ勇猛で知られたカリア人従卒に向かって云った。

「仄聞するところ、アルテビオスの馬は、棒立ちになって向かってくる敵を蹴ったり咬んだりして斃すそうだ。このことをどう思うか、よく考えて忌憚なく言ってくれ。お前ならアルテビオスか、馬かどちらに注目して斃そうとする?」

これに答えて従卒が言う。
「殿、私には、その一方だけでも両方でも殿の望まれる通りに手を下す覚悟はできております。しかしながら、殿にとってもっとも為になると思われることを申し上げます。

私の考えでは、王たり将たる者、合戦の相手は王や大将でなければなりませぬ。もし殿が敵の大将を打ち倒されたなら、それは大きな手柄となりましょう。またそのようなことにならぬことを祈るばかりですが、もし相手が殿を斃すようなことがあったとしても、高名な敵に打ち負かされたということで、その悲運は半減いたしましょう。従卒の身たる我々は、敵の従卒や馬を相手に戦うばかりでございます。相手の策は恐るるに足りませぬぞ。かの大将には、いかなる相手にも二度と再び戦えぬように、きっとしてやりますゆえ」

[5.112] 従者はこのように返答したが、その直後から海と陸とで戦いが始まった。船に乗り込んだイオニア人の、その日の働きはすさまじく、フェニキア人を撃破した。中でもサモス人がもっとも勇敢に戦った。陸においても両軍が激突し、白兵戦を展開して戦った。

二人の大将の戦い振りはというと、アルテビオスは馬でオネシロスに襲いかかり、オネシロスは、従卒との打ち合わせ通り、向かってきたアルテビオスを攻撃した。そして馬の蹄がオネシロスの盾に打ちかかろうとする刹那、カリア人の従卒が半月刀で馬の脚を切り落したのである。かくしてペルシア将軍アルテビオスは馬もろともその場に倒れ込んでしまった。

[5.113] 他の兵士たちも依然戦っていた中で、アルゴスからの植民地といわれているクリオンの僭主ステセノルが、配下の大部隊とともに敵方に寝返ったのである。これに続いて寸暇をおかずサラミスの戦車隊がそれに従ったので、ペルシア人はキプロス人の優勢となったのであった。

キプロス軍は総崩れとなって多数が戦死した。その中には、キプロス離反の首謀者だったケルシスの子オネシロスや、ソロイ王でピロキプロスの子アリストキプロスもいた。このピロキプロスは、アテナイのソロンがキプロスを訪れた際、その詩において、どの僭主よりも高く賞賛した人物である。

[5.114] アマトウス人たちは、自分たち街を包囲攻撃したというので、オネシロスの首級を落としてアマトウスにもち帰り、これを城門に吊した。やがてこの首が空洞になると、蜜蜂のその中に入って蜂の巣で一杯になってしまった、

こんなことになったので、アマトウス人がこのことについて神託を請うたところ、首をおろして埋葬し、オネシロスを英雄に祀って年ごとに生贄をを捧げれば、彼らにとって物事は全て好転してゆくだろう、という託宣が下されたのだった。

[5.115] そしてアマトウス人は、この託宣を今日まで実行し続けている。しかしイオニア人は、キプロスの海戦の後、オネシロスの計画が頓挫し、サラミス以外のキプロスの街が残らず包囲され、そのサラミスさえも先王ゴルゴスに支配権が移ったことを知ると、さっさとイオニアヘ向けて船を帰して行った。

もっとも長期にわたって包囲に耐えたのは、キプロスのソロイ人だったが、ペルシア人は城壁を掘りくずして五ヵ月目にこれを落とした。

[5.116] こうしてキプロス人は一年間だけ自由を勝ち取ったのちに、再び隷従の身となったのである(55)。一方ダリウスの娘婿のダウリセスやヒマイエス、オタネスらペルシアの諸将は、サルディス遠征に参加したイオニア人を追跡し、ついにその船に追いつめてこれを撃破したのち、手分けして街々を略奪してまわった。

(55)B.C.497

[5.117] ダウリセスはヘレスポントスの街々に向い、ダルダノスやアビドス、ペルコテ、ランプサコス、パイソスを、それぞれ一日で陥れた。パイソスからパリオンへ軍を進めている途中で、カリア人がイオニア人と共謀してペルシア人に叛逆したという報せが届いた。そのため、ダウリセスはヘレスポントスを後にして軍をカリアに進めた。

[5.118] ところがたまたま、ダウリセスがカリアヘやって来る前に、このことがカリア人のもとへもたらされた。そしてこれを聞いたカリア人は、マルシアス河畔にある白い柱という地に集合した。なおこのマルシアス河(56)というのはイドリアス地方に源を発して、マイアンドロス河に注いでいる河である。

(56)現ツィナ河。有名なプリギアのマルシアス河と混同しないように。どちらもマイアンドロス河の支流である。

この集会では、さまざまな意見が出たが、その中でも、私の考えるところでは、キンディアのピクソダロスという男の案が最も優れていた。この男マウソロスの息子で、キリキア王シエンネシスの娘婿だった。かれの案というのは、カリア人はマイアンドロス河を渡り、河を背にして戦うべしというもので、そうすればカリア軍は退却できなくなるので、そこに踏みとどまる以外に路はなく、普段の力以上に勇気を振るうだろう、というのであった。

しかしこの意見は大方の同意を得るにはいたらず、カリア人ではなく、むしろペルシア人がマイアンドロス河を背にするような体勢にもってゆくべきだと決まった。その意味は、ペルシア軍が敗れて退却するとしたら、逃げ道がないので河に落ちてしまうだろうということだった。

[5.119] やがてペルシア軍が到着し、マイアンドロス河を渡ると、カリア人はマルシアス河畔でペルシア人と会戦した。カリア人は長時間にわたって粘り強く戦ったが、軍勢の数には勝てなかった。ペルシア人の戦死者は約二千、カリア人は一万だった。

逃げおおせた者たちは、ラブラウンダ(57)にあるプラタナスの巨大な森である「戦のゼウス」の聖域に追い込まれた。なお我々の知る限りでは、「戦のゼウス」に生贄を捧げているのはカリア人だけである。さてこの聖域に追い込まれた者たちは、我が身の安全をはかる方策を協議し、ペルシア人に降伏するべきか、アジアから離れるべきかを話し合った。

(57)カリア地方のミラサにある部落。軍神の神殿で名高い。その紋章は、「λάβρυς=lavrysラブリュス」という対称形の両刃斧または闘斧である。

[5.120] このような評議を開いているところへ、ミレトス人とその同盟国の部隊が救援にやって来た。そこでカリア人は、それまでの計画をやめ、再び戦いの準備を調えた。そしてペルシア人の攻撃にさらされ、先の会戦よりも手ひどい損害を被った。両軍全体で多数の戦死者を出したが、わけてもミレトス人の死者がもっとも多かった。

[5.121] しかしその後カリア人は、この惨事から立ち直り、ふたたび戦いに向かった。そしてペルシア人がカリアの街々に向かって行軍していると知り、彼らはペダソスの街道に待ち伏せの兵を忍ばせた。夜になって、ペルシア人はこの待ち伏せによって殲滅され、ダウリセスやアモルゲス、シシマケスたちも戦死した。この中にはギユゲスの子ミルソスもいた。この伏兵の指揮官はミラサ人で、イバノリスの子ヘラクレイデスであつた。

[5.122] このようにしてペルシア人は殲滅してしまったのだが、一方で同じくイオニア人を追ってサルディス遠征に参加していた中のひとり、ヒマイエスは、プロポンティスに向かって転進し、ミシアの街キオスをおとしいれた。

ここを占領したあと、ダウリセスがヘレスポントスをあとにしてカリアに向けて出撃したことを知ると、ヒマイエスもプロポンティスを発してヘレスポントスに兵を進め、イリオン地方に住むすべてのアイオリス人を制圧し、さらに古代トロイ人の生き残りであるゲルギタイ人も征服した。これらの部族を征服してゆくなかで、ヒマイエス自身は、トロイで病死している。

[5.123] このようにしてヒマイエスは最期をとげたが、サルディス総督のアルタプレネスと三番目の指揮官オタネスは、イオニアとこれに接しているアイオリスに向かうことを命ぜられ、イオニアのクラゾメナイとアイオリスのキュメを制圧した。

[5.124] このようにしてあちこちの街が占領されてゆくなかで、ミレトス人アリスタゴラスは、覇気に乏しい人間であることをはっきり示すことになった。というのは、この男はイオニアに騒乱を起こし、混乱に陥れたというのに、以上のような情勢を見てとると、逃げ出すことを画策し始めたのである。その上、この男には、ダリウスを打ち負かすことはもはや不可能と思われたのである。

アリスタゴラスは一味者たちを呼び集めて談合し、もし自分たちがミレトスを追われるとするならば、避難先を確保しておくべきだと云った。そしてまた、自分は一党を率いてサルディニアに移住するか、あるいはヒスティアイオスがダリウスから与えられ、城壁を築いた街、すなわちエドノイ人の国にあるミルキノスヘゆくべきか、を一同に訊ねた。

[5.125] このときヘゲサンドロスの子で歴史家のヘカタイオスの意見は、これらの地どちらにも移住するべきではなく、万一アリスタゴラスがミレトスを追われたときには、レロス島に要塞を築き、ここでしばらくの間おとなしくしておき、その後ここを基地とすれば、ミレトスに帰還できるだろう、というものだった。

[5.126] これがヘカタイオスの助言だったが、アリスタゴラス自身は、ミルキノスへ移住することが最善策だと考えていた。そこでかれはミレトスを市民に信望の厚いピタゴラスにまかせ、かれに従う気のある者たちを連れてトラキア目指して船を出した。そして目的の地を手中におさめた。

このあと、ここを基地にして出撃中、アリスタゴラスはトラキア人の刃の餌食となってしまったのである。かれとその麾下の軍がトラキアのある街を包囲しているとき、休戦協定を結んだトラキア人が、街から退去する準備をしている最中のできごとだった。


第六巻

[6.1] ミレトスの僭主ヒスティアイオスはダリウスに放免された後、サルディスに至った。かれがスサからその地に来ると、サルディスの総督アルタフェルネスは、イオニア人が反乱を起こした理由は何か、とかれに問うた。ヒスティアイオスは今の騒動を全く知らぬげに、判らぬ、起きた事に驚いている、と返答した。

しかしアルタフェルネスは、かれが反乱の詳しい筋書きを承知の上で知らぬ振りをしていると見て取り、
「ヒスティアイオス、お前に言ってやろう、この騒動の真実を。靴を縫い上げたのはお主で、それを履いたのはアリスタゴラスだ」と語った。

[6.2] アルタフェルネスは反乱についてこう解いた。ヒスティアイオスはアルタフェルネスが事情を把握していることに怖れをなし、その日の夜にはさっさと海へ逃げ出した。というのもかれは、島々の中でも最大のサルディニア島を征服するとダリウスに約定して欺く一方で、ダリウスに敵対するイオニア人の将となることを目論んでいたからである。

かれはキオス島に渡ったが、そこでは、騒動を起こすためにダリウスに送り込まれたとキオス人に思われて捕らえられ、拘束された。しかしダリウス王に対する反抗の全貌を知るや、彼らはヒスティアイオスを解放した。

[6.3] そこでヒスティアイオスはイオニア人に問われた。何ゆえアリスタゴラスに対して王に背くことを強く命令したのか、そして何ゆえイオニア人にあのようなひどい悪業を働いたのかと。ヒスティアイオスは真の理由を全て明かすことはせず、ダリウス王がフェニキア人をイオニアへ移住させ、イオニア人をフェニキアへ移住させることを目論んだので、反抗令を発したのだと語った。ダリウス王はそのような計画を持っていなかったが、ヒスティアイオスはイオニア人たちを恐怖に陥れたかったのである。

[6.4] ヒスティアイオスはアタルネウス生まれのヘルミプスを使者に立て、サルディスのペルシア人たちに親書を託した。というのも彼らは以前に反乱について彼と謀議していたからである。ところがへルミプスは届け先の人たちにではなく、アルタフェルネスに親書を届けたのである。

アルタフェルネスは謀議が進行中であることを知り、へルミプスに対してはヒスティアイオスの親書を渡すべき者たちに届けるよう、そしてまたヒスティアイオスへのペルシア人たちの返書を自分に見せるよう指示した。こうして反乱者たちが白日の下に明らかとなり、アルタフェルネスは多数のペルシア人を死に追いやったのである。

[6.5] 当然サルディスには混乱が生じた。ヒスティアイオスの計画が失敗したことで、キオス人たちはかれをその要望に従ってミレトスに退かせた。しかしミレトス人たちはアリスタゴラスから解放されるだけで充分喜び、自由を謳歌しているので、別の僭主を受け入れるつもりはなかった。

さてヒスティアイオスは夜陰に乗じて強引にミレトスに入ろうとしたが、一人のミレトス人によって太腿に傷を負ってしまった。このようにして故国から追放されたゆえ、かれはキオスに戻った。しかしキオス人から船を調達できなかったため、かれはミティレネ(*)に渡り、そこで船を調達した。

(*)レスボス島の街

その船というのは八隻の三層櫂ガレー船で、ヒスティアイオスとともにビザンチンまで航行した。彼らはそこで陣を構え、黒海から出帆してくる船をことごとく捕らえたのであるが、ヒスティアイオスに従うことを受け入れた者たちは捕らえることをしなかった。

[6.6] さてミレトスには陸と海から大軍が押し寄せていた。ペルシアの諸将が配下の軍を統合して一軍となし、他の要塞都市に睨みをきかせつつ、ミレトスに向かっていたのである。船団の中ではフェニキア人たちが戦いに向けて気をはやらせていたが、新しく征服したキプロス人、シシリア人、エジプト人も彼らに従っていた。

[6.7] 以上の軍団がミレトスと他のイオニアを攻撃しようとしていた。これを知ったイオニア人はパニオニオン(1)に評議のための使者を送った。その会議では、ペルシア軍に対する陸上軍は派遣せず、ミレトス人だけで防御壁を守らせること、しかし最後の一隻に至るまで一刻も早く船を集め、船団に兵員を乗り込ませてラデに集結し、ミレトスの海戦に向かうことを決めた。ラデはミレトスの近くに浮かぶ小島である。

(1)ミカーレ岬にあるイオニア同盟の聖地

[6.8] そして兵を乗せた船でイオニア人たちはミレトスへやって来た。これにはレスボス島に住むアイオリス人たちも同行していた。彼らの戦闘隊形は次のとおりである。すなわちミレトス軍が東翼に八十隻、その横にプリエネ軍が十二隻とミエウス軍が三隻、ミエウスの横にはテオス軍が十七隻。そしてこの横にキオス軍が百隻。これらの船の近くに並んでエリュトゥラー軍が八隻。フォカイア軍が三隻、この横にレスボス軍が七十隻。最後に西翼を担うのは六十隻を擁するサモス軍であった。これら全てを合わせると三百五十三隻となる。

以上がイオニア人たちの船団である。これに加えて諸国から参戦した船が六百隻に上った。これら船団がミレトス海岸に到着し、陸上軍もそこに会した。

[6.9] イオニア船団の数を知ったペルシアの将軍たちは、これではギリシア軍に敗北するのではないかと怖れた。制海権を失えばミレトス攻略は不可能となり、加えてダリウス大王による酷い仕打ちが待っている。

このことを念頭におき、彼らは、ミレトスのアリスタゴラスによって政権から追放されてペルシアへ逃亡し、今はミレトス攻撃軍に加わっているイオニアの僭主たちを呼び寄せて宣告した。

「イオニアの僭主たちよ、このたびは諸卿それぞれが王家への忠誠を見せてもらいたい。まず諸卿の同胞を連合軍から引き離すよう努めてもらいたい。その際、次の約定を彼らに示してよい。すなわち、反乱の罪は問われない。神殿も家財も焼き払われない。ましてやこれまで以上に乱暴な仕打ちは決して受けない」

「しかし、これに従わず戦いを挑むというなら、次の口上を述べて彼らを脅し、抑えつけよ。すなわち負け戦となれば、奴隷にされ、息子たちは去勢され、娘たちは捕らえられてバクトラ(*)に連れ去られ、領地は他国のものとなるであろう」

(*)ペルシア東端の街

[6.10] そこでイオニア僭主たちは夜の内にそれぞれの国に伝令を送った。ところが、これを受け取ったイオニア人たちは、この伝言が自分たちだけに送られたものと解し、頑として裏切りを拒んだ。これはペルシア軍がミレトスに到着した直後のことである。

[6.11] 一方、ラデに集結したイオニア人僭主たちは評議を開き、諸氏演説した中で、フォカイアの将軍ディオニシウスが説いた。

「イオニアの戦士たちよ、我らの立場は、自由市民になるか、奴隷になるか、逃亡奴隷になるか、まさにカミソリの刃の上にある。諸君に苦難に耐える覚悟があり、眼前の戦いに臨むなら、必ずや敵を打ち負かし、自由を手にするであろう」

「しかるに諸君が怠惰で無統制であるなら、反乱の報いとなる王からの処罰は免れぬだろう」

「我を信じよ、そして諸君の身を我に委ねよ。神が我らを公平に扱う限り、諸君に誓って言う、敵は我らとの交戦を避けるか、交戦しても完敗するであろう」

[6.12] これを聞き、イオニア人たちはディオニシウスに全てを委ねた。そこでかれは、日ごと縦列船隊を組んで海に出、漕ぎ手には船同士の戦列を突破させるように訓練し(2)、甲板上の人員には武装させた。それが終わったあとも船の錨を降ろして海に留め、終日イオニア人兵士たちを働かせた。

(2)この動きは、敵船の横列を突破し、敵船の舷側や船尾を攻撃する方法である

七日間はディオニシウスの命令に従った兵士たちも、八日目には過酷な訓練と照りつける太陽に疲れ切り、訓練を放棄した。そして口々に言い合った。

「わしらにどんな罪があって、こんな試練をこなさねばならぬのか?たった三隻しか連れてきていないフォカイアの法螺吹き野郎に万事を委ね、塗炭の苦しみに苛まれるなど、わしらは気が狂って馬鹿げたことをやらかしてしまったもんだ。大勢がすでに病気に罹ってしまい、病気になりかけの者も大勢いるぞ。今の苦痛に比べれば、他のどんな苦しみでもそっちの方がマシというものぢゃ。この先何があろうとも今の重圧よりは、奴隷になる方が耐えられるぞ。最早あやつに従うのは止めよう!」

こう言って、以後は誰もディオニシウスに従おうとしなかった。そして陸上軍の如く島に天幕を張って日陰で過ごし、乗船することも訓練も拒んだ。

[6.13] イオニア人たちの行状を知ったサモス人の将軍たちは、シュロソンの子アエアケスが以前ペルシアの指令によってもたらした要請、すなわちイオニア同盟を破棄せよという要請を思い出した。イオニア人たちの大混乱を見て、彼らはこの提案を呑むことにした。ダリウス王の兵力に勝てそうもなし、たとえ今の軍勢に勝ったとしても、次にはその五倍の軍勢を派遣してくることが判りきっていたからである。

そこで、イオニア人たちが役目を放棄するのを知るや、そのことを口実にして、自分たちの神殿や財産を守る方が有利であると判断したのである。伝言をもたらしたアエアケスは父の名をシュロソン、祖父の名をアエアケスと言ったが、他のイオニア僭主たちと同じく、ミレトスのアリスタゴラスによってサモスの支配権を剥奪されていたのである。

[6.14] さてフェニキアの船隊が向かって来ると、イオニア軍は一列縦隊を組んで海上で彼らを迎え撃った。彼らは相手を引き寄せて互いに戦ったが、誰が勇敢で誰が臆病であったか、正確に述べることはできない。彼らは互いに責任をなすりつけ合ったからである。

サモス人が言うには、彼らはアエアケスとの取り決めに従って持ち場を離れ、十一隻を除いて残りは全てサモスに向けて帆を上げたということである。

残った船の船長たちは将軍たちの命に逆らって自分の配置につき、戦った。この行ないに対してサモスの人々は父祖の名と共に彼らの名を柱に刻み、その勇猛を讃えた。この顕彰碑は今もサモスのアゴラ(市場)にある。レスボス人は、横にいるサモス軍船が逃亡するのを見て同じ行動を取った。そしてイオニア軍船の殆どが同様に逃げ出した。

[6.15] 海戦の持ち場を離れずに戦った船団中、最も厳しい戦いを見せたのはキオス軍だった。それは彼らが臆病な振る舞いを潔しとせず、華々しい戦果を挙げたからである。

先の通り、彼らは百隻を擁し、それぞれの船には選抜された四十人の武装兵を乗せていた。そして多数の船が彼らを見捨てて連合軍から逃亡するのを見ても、臆病な振る舞いに同調しようともせず、僅かな連合軍とともに踏みとどまって戦い続け、敵の戦列突破を絶やさなかった。その結果、多数の敵船を撃破したが、自軍の船も多数失った。

[6.16] キオス軍は残された船で自国に敗走した。損壊して動けなくなったキオス船の兵たちはミカレ岬に向けて逃げた。彼らは船を浜辺に乗り上げてそれを捨て、本土を横断して進んだ。

やがてキオス兵の行進はエフェソスの街に入ったが、それはちょうど街の女たちがテスモフォリアの祝祭を行なっている夜だった。エフェソス人たちはキオス人の戦闘の件を全く聞いておらず、侵略軍も見ていなかったので、彼らが女たちの後を追ってきた群盗であるとすっかり思い込んでしまった。そして国の兵を全員集め、キオス兵を殺戮してしまった。彼らの最期はこのようなことだった。

[6.17] 一方、フォカイアのディオニシウスは、イオニア軍の敗北を見て、分捕った敵の船三隻と共に逃走した。向かう先はフォカイアではなくーここも他のイオニアとともに攻略されることが判りきっていたー脇目も振らずフェニキアへ直行した。そこで数隻の商船を沈めて多額の金銭を奪い、シシリー島へと帆走した。そしてこの地を本拠地にして海賊となり、カルタゴ、ティレニアの船を襲ったが、ギリシアの船は避けた。

[6.18] イオニア軍との海戦に勝利した後、ペルシア軍はミレトスを海陸両方から包囲し、あらゆる道具を利用して城壁の下を掘り進んだ。そしてミレトスが完全に陥落するまで、アリスタゴラスが反乱を起こしてから都合六年の歳月を要した(3)。その結果ミレトス人は奴隷にされたが、この受難はミレトスに下された神託のとおりであった。

(3)BC.494

[6.19] それは、アルゴス人たちがデルフォイで彼らの都市の安全について神託を請うた時のこと、アルゴス人への神託に加え、ミレトス人への神託も含まれていたのである。

アルゴス人への神託は本書中で然るべき箇所において述べるつもりであるが、次に挙げるのはミレトス人不在のもとで下された神託である。

  ミレトス、悪魔の所行の計略者よ
  汝、多くのものの生贄となり、輝く贈与物となるであろう
  汝らの妻女は長髪族の足を濯がされ、
  ディディマ(4)なる我が聖廟は他国の聖職者に委ねられよう

(4)ミレトスの近くにあるアポロ聖廟(Διδυμέυς=Didyméys)のこと。ブランキダエとも呼ばれる。第一巻四十六節参照。

この神託の通り、ミレトスの男たちは殆どが長髪のペルシア人に殺され、女子供は奴隷にされ、ディディマの神殿と神託所は略奪、放火された。この神殿にあった財宝については本書のあちこちですでに述べている。

[6.20] その後、捕虜となったミレトス人たちはスサに連行された。ダリウス王は彼らに更なる危害を加えず、赤い海に面したアンペという街に住まわせた。この街のすぐ傍にはチグリス河が流れ、この海に流れ込んでいる。ミレトスに関しては、市街地と平原をペルシア人が手中にし、山地をペダサから来たカリア人に与えた。

[6.21] ミレトス人がペルシア人からかくの如き仕打ちを受けるにつけ、国を追われてラウスとスキドロスに移住していたシバリス人たちは、彼らが以前ミレトスから受けた施しに報いることをしなかった。シバリス人がクロトン人に征服されたとき、ミレトスの人々は老いも若きも全員が頭を丸め、国を挙げて哀悼の意を表したのである。この二国ほど親密な関係を持った例を我々は知らない。

しかしアテナイ人の取った行動は、これとは大いに違った。アテナイの人々はミレトス陥落に対してさまざまな場面で深い哀悼の意を表した。特段の例を挙げるなら、プリュニコスが「ミレトス陥落」という劇を書いて上演したとき、劇場全体がむせび泣いたことがある。これに対して彼ら自身の災悪を想起させるという罪科をあげて千ドラクマもの罰金をプリュニコスに科し、以後の上演を禁じたのである。

[6.22] そしてミレトスから人々はいなくなった。一方でサモスの富裕層たちは船団の将軍たちがペルシア軍に対して取った行動に不満を呈し、海戦の終わるや否や評議を開き、国に残ってペルシアとアエアケスの奴隷になるよりは、僭主のアエアケスが自分たちの国にやって来る前に植民地に向けて出帆することを決めた。

ちょうどこの頃、シシリーにあるザンクレ(5)の人々がイオニア人に使者をよこし、イオニア人が街作りを計画していた「麗しの海岸」に移住するよう提案していたのである。この「麗しの海岸」というのはシシリー島にあり、ティレニア海に面している。この招きに従って移住したのはイオニア人の中でもサモス人だけで、他にはミレトスの避難民が加わっていた。

(5)後のメッセネ、現在のメッシーナ。

[6.23] ところで彼らがシシリーに向かう航海の途中、エピゼフィリオイ・ロクリア(6)に到着した頃、丁度ザンクレ兵とその王スキュテスがシシリー島のある街を攻略しようとして包囲しているところだった。

(6)イタリア半島南端付近の都市。ギリシア本土ロクリスからの植民都市。

これを知ったレギウムの僭主アナクシラウスは、ザンクレと反目し合っていたことから、サモス人を説得して「麗しの海岸」へ行くことを中止し、男どもがいなくなっているザンクレを共に占領しようと説いた。

そしてサモス人はこれに賛同し、ザンクレを獲得した。自分たちの街が占領されたことを知ったザンクレ兵はゲラの僭主ヒポクラテスに助力を要請するとともに、自分たちの街の救援に向かった。

しかし兵を引き連れて助けにやって来たヒポクラテスは、街を失ったという理由でスキュテスとその弟ピトゲネスを捕らえ、イニュクスの街へ送った。そしてヒポクラテスは残されたザンクレ人を裏切り、サモス人と合意し、誓約を取り交わした。

サモス人が合意した内容は、市中にある動産と奴隷のそれぞれ半分と市外にあるもの全てをヒポクラテスに帰するというものであった。

そしてかれは殆どのザンクレ人を奴隷として捕縛し、そのうちの主立った300人をサモス人に引き渡して死罪にさせようとしたが、彼らはそうしなかった(*)。

(*)この節の最後で文意に矛盾あり。

[6.24] 一方ザンクレの僭主スキュテスはイニュクスから脱走してヒメラに逃げた。そしてそこからアジアに渡り、山野を越えてダリウス大王の元へたどり着いた。ダリウスは、これまでギリシアから来た者の中でかれが最も誠実であると見なした。

というのもかれはダリウスの許しを得てシシリーに帰ったが、そこから再びダリウスの元へ戻ったからである。そして年老いて死を迎えるまで、ペルシアで裕福に暮らした。このようにしてサモス人はペルシアから逃亡した後、ザンクレという美しい街に何の労苦もなく入植したのである。

[6.25] ミレトスの海戦の後、フェニキア軍はペルシア軍の命によってシュロソンの息子アエアケスをサモスに戻した。これはペルシア軍に対する彼の貢献と業績が高く評価されたためである。反乱軍の中でサモスの船団のみが海戦から離脱したことにより、サモスの街や聖廟は焼き払われなかった。

ミレトス攻略後、ペルシア軍はすぐさまカリア地方(*)を攻略した。自発的に屈服した街もあったが、その他は武力で征服した。

(*)小アジアまたはアナトリア半島南西部(トルコ)

[6.26] この状況の下、ミレトス人のヒスティアイオスは、ミレトスの事件を知ったときにはビザンチンにいて、黒海から出航してくるイオニアの商船を捕獲していた。かれはアフォロファーネスの息子でアビドス人のビサルテスにヘレスポントスのことを任せ、レスボス兵と共にキオスに向けて出航したが、キオスの警備船軍に阻まれたので、「キオスの谷」と呼ばれている低地で戦端を開いた。

そして多数の兵を斃した。残りの兵たちは海戦によって負傷していたこともあって、キオスのポリクネを陣地とするヒスティアイオス配下のレスボス兵によって制圧された。

[6.27] 都市や国家に甚大な脅威が迫っている時には、ある種の徴候があるものだが、キオスにおいても、この事変の生起する前に明らかな前兆があった。

その一つは、百人の若者からなる合唱舞踏隊がデルフォイに派遣されたのであるが、帰還したのは僅か二人だけで、残りの九十八人は疫病に罹って死んでしまったことがある。さらにこれとほぼ同じ頃で海戦の少し前のこと、学堂にいる百二十人の少年たちの上に屋根が落ちてきたのである。逃げおおせたのは一人だけだった。

神はかくのごとき前兆を示されたのだが、海戦が始まって街は消沈してしまった。海戦の直後にはレスボス兵を従えたヒスティアイオスが攻めてきたのだが、キオスの国は今述べたように悲惨な情況だったゆえ、あえなく陥落してしまった。

[6.28] その後ヒスティアイオスはイオニア兵とアイオリス兵を大勢従えてタソス島を攻めた。ところがタソスを包囲中、フェニキア兵がイオニアの残った国々を攻略するために出航したという知らせがもたらされた。これを知ったヒスティアイオスはタソスの包囲を解き、全軍挙げてレスボス島に急行した。

ところがその軍隊は糧食不足に苦しんでいたので、アタルネウス(*)の穀物やミュシア地方のカイコスの穀物を手に入れるためにレスボス島から本土に渡った。しかしそこには偶然にもペルシアの将軍ハルパゴスが大軍を従えていた。ヒスティアイオスが上陸するやハルパゴスは戦いを仕掛けてかれを生け捕りにし、その軍の大半を壊滅したのである。

(*)小アジアの街

[6.29] ヒスティアイオスが捕らえられた経緯は次のとおりである。ギリシア軍はアタルネウス地方のメレネでペルシア軍と長時間にわたって戦ったが、ついにはペルシアの騎兵が突撃し、ギリシア軍に襲いかかった。騎兵が勝敗を決したのである。ギリシア軍とともに敗走する中、ダリウス大王は今回の反乱を起こした自分を殺さないだろうとヒスティアイオスは考えると命が惜しくなり、かれは次のような振る舞いに及んだ。

逃げている途中、ペルシア兵に追いつかれ、槍で突き刺されようとした時、ペルシア語で自分はミレトスのヒスティアイオスだ、と叫んだのである。

[6.30] 私の考えでは、かれがダリウス大王の元へ送られていたなら、大王は何も咎めず、彼の罪を許しもしたであろう。しかしヒスティアイオスがサルディスに送られるや、サルディス総督アルタフェルネスとかれを捕らえたハルパゴスは、ヒスティアイオスの行状を鑑み、またかれが逃走して再び王宮で勢力を取り戻すのではないかという疑心から、直ちにかれを刺殺し、首を塩漬けにしてスサに居るダリウスの元へ送った。

これを知ったダリウスは、ヒスティアイオスを殺し、生かして連れてこなかったことで、それを実行した者たちを咎め、さらには首を清めた上で、ダリウス自身とペルシアに多大な貢献をなした者として手厚い儀式を執り行なって埋葬するように命じた。ヒスティアイオスに関しては以上である。

[6.31] さてペルシア艦隊はミレトスで冬を越し、翌年には出航して本土から少し離れた位置に浮かぶキオス島、レスボス島、テネドス島を難なく征服した。ペルシア軍が島を征服したときには常に住民を網ですくうように一掃していたが、彼らは次の如くにそれを行なった。

兵士たちが手を繋ぎ、北の海岸から南岸まで一線に並んで島全体を進み、住民を狩り出したのである。同様に彼らは本土のイオニア地方の諸都市を征服したが、住民を網ですくうやり方は実行不可能なため、この方法は採らなかった。

[6.32] そしてペルシアの諸将は、対峙して陣を張るイオニア兵たちに脅しつけたことを忘れず実行した。すなわち彼らが諸都市を征服するや、とびきりの美少年を選んでその者たちを去勢し、美少女たちはダリウス大王の元へ連れ去ったのである。その上、都市は神殿とともに焼き払った。かくしてイオニアは隷属させられること三度に及んだ。最初はリディア人によって、残り二回はペルシア人によって。

[6.33] その後、ペルシア艦隊はイオニアを出航し、ヘレスポントスの西側を全て攻略した。その東岸はすでにペルシア軍が陸上から占領していたからである。以下はヘレスポントスのヨーロッパ側である。多くの都市があるケルソネソス、ペリントス、トラキアの要塞群、セリンブリア、ビザンティオン。

ビザンティオン人とその対岸のカルケドン人はフェニキア軍を迎え撃つこともせず、自身の街を捨て、船で黒海に逃げ、メサンブリアという街に落ち延びた。フェニキア軍は先の都市群を焼き払った後、向きを変えてプロコネソスとアルタキに向かった。そして同じくこれらの街を焼き払った後、反転してケルソネソスに戻り、以前上陸した時に破壊できなかった残りの諸都市を攻略し尽くした。

しかしフェニキア軍はキュジコスへは決して船を向けなかった。この都市はフェニキア軍が遠征する以前から、ダスキュレイオンの総督で、メガバゾスの子オイバレスの合意の元、すでにダリウス大王の支配下に入っていたからである。こうしてフェニキア軍はカルディアの街を除き、ケルソネソスの全都市を征服したことになる。

[6.34] これらの都市は、ステサゴラスを祖父に、キモンを父に持つミルティアデスが僭主として君臨していたが、それ以前はキュプセロスの子であるミルティアデスが次の如くに統治権を手にしていた。

元来ケルソネソスにはトラキアのドロンキ族が住んでいたが、アプシントス人が攻めてきたので、王たちは戦いに関する神託を乞うためにデルフォイに向かった。

デルフォイの巫女が答えるに、この聖域からの帰途、最初に手厚く遇してくれる最初の人物を国の創設者として連れ帰るがよい、と告げたのである。そこでドロンキ人たちは「聖なる道」(7)を進んで帰途についたが、ポキス、ボイオティアを過ぎても彼らを歓待してくれる者が現われなかったので、道を変えてアテナイに向かった。

(7)ダウリス、パノペウス、カイロネアを経てコロネア、ハリアルトス、テーベに続き、その後キタエロン山を越えてエレウシスからアテナイに至る。

[6.35] その当時、アテナイではペイシストラトスが全権を掌握していたが、キュプセロスを父に持つミルティアデスも多大な力を持っていた。かれは、四頭立て戦車を維持できるほどに裕福な家の出で、その出自はアイアコスとアイギナにまで遡る。その家系がアテナイ人となったのは最近で、アイアスの子ピライオスがアテナイ人となった嚆矢である。

ミルティアデスが自宅の玄関前に座っていたとき、異国の身なりで槍を持ったドロンキ人が通りかかったのを見て、かれはその者たちを呼び寄せ、宿の提供と饗応を申し出た。彼らはその誘いを受け入れ、ミルティアデスのもてなしを受けた後、神託の内容を全て打ち明け、神託に従ってくれるよう、頼んだ。

ドロンキ人たちの話を聞くやいなやかれは承諾した。というのもかれはペイシストラトスの政治体制にうんざりし、そこから離れたがっていたからである。そして早速デルフォイに出かけ、ドロンキ人の依頼を受けるべきかどうかの神託を請うた。

[6.36] 巫女もまた同じことを告げた。かつて四頭立て戦車競技でオリンピック勝者となったことがあるキュプセロスの子ミルティアデスは、遠征に加わる希望者を募り、ドロンキ人とともに出航した。そしてかれを招いた者たちから僭主にと請われ、その国を支配したのである。

かれが最初に実施したことは、カルディアからパクティエ(8)に至るまでのケルソネソス地峡部に防護壁を築くことだった。これによってアプシンティオイ族(*1)の侵略を防いだのである。この地峡部は幅が三十六スタディア(六千五百米)で、その距離は四百二十スタディア(七十六粁)だった。

(8) ブライエの近くにあるガリポリの半島地峡部の幅は、およそ[6.4] 5マイル([6.7] 2Km)。
(*)トラキアの一部族

[6.37] ケルソネソスの地峡部に防護壁を築いてアプシンティオイ族の攻撃を防いだ後、ミルティアデスはランプサコス族との初戦に臨んだが、ランプサコス族は伏兵を用いてかれを捕らえてしまった。ところがミルティアデスは、リディアのクロイソス王と親密な仲だったので、クロイソス王が事情を知るや、かれはランプサコスに使者を派遣してミルティアデスを解放するよう通告した。さもなくば松の木を切り倒すように国を破壊すると脅迫したのである。

ランプサコス族は、松の木の如く破壊すると言って脅迫したクロイソスの言葉の意味を解するのに評議で紛糾した。そしてついに一人の長老がその意味を解いて言った。松は一旦切り倒されたなら二度と発芽しない唯一の木だ。それは徹底的に破壊するという意味だ、と。クロイソスの言葉に恐懼したランプサコス族は、ミルティアデスを解放して逃がしたのである。

[6.38] クロイソス王の介入のお陰でかれは解放されたが、その後、子供をなさずに亡くなり、異母兄弟のキモンの子ステサゴラスに国の支配と財産を託した。彼の死後、ケルソネソスの人々は慣習に従って国祖としてかれに生贄を捧げ、馬車競走や体育競技を創設した。ただし、ランプサコス族の参加は許されなかった。

ランプサコス族との戦いにおいて、ステサゴラスもまた跡継ぎを残さずに死亡した。かれが市民集会所にいる時、脱走兵のふりをした凶暴な敵兵によって手斧で頭部を撃たれたのである。ステサゴラスの最期はかくのごとしであった。

[6.39] ペイシストラトス一族は、亡くなったステサゴラスの兄弟で、キモンの子であるミルティアデスを三層櫂ガレー船に乗せてケルソネセスに派遣し、国を支配させた。彼らはこれまでもミルティアデスの父キモンの死に荷担していなかった振りをして、アテナイにおいてかれを上手に処遇していた。なお、キモンの死については別の所で述べる

ケルソネセスに到着後、ミルティアデスは自宅に籠もり、兄弟であるステサゴラスの喪に服する振りをしていた。ケルソネセスの人々がこれを知り、各地の部族の統治者たちが一同会して弔問に訪れた。しかしかれはその者たちを拘束してしまった。こうしてミルティアデスは自らケルソネソスの支配者となり、常に五百人の護衛部隊を従え、トラキア王オロロスの娘であるヘゲシピレを娶った。

[6.40] さてキモンの子ミルティアデスがケルソネセスに来てから(9)程なくして、これまでよりも大きな問題が降りかかってきた。その2年前、かれはスキタイ人から逃れるために国を離れていた。スキタイ遊牧民はダリウスに攻め込まれたことに怒り、一団となって騎馬ではるばるケルソネセスに攻め入ってきたのである。

(9)BC.493「τρίτῳμὲνγάρ,κ.τ.λ=trito men gar, k.t.l.」は、ミルティアデスがこれまでケルソネソスからいなくなっていたことを言っている。

ミルティアデスは彼らを迎撃せず、スキタイ人がそこから離れ、ドロンキ族がかれを再び連れ戻すまでケルソネソスから逃亡していた。これが、ミルティアデスが今のことに関わる2年前に起きたことである。

[6.41] そして今、フェニキア兵がテネドス島に来ていることを知ったミルティアデスは、身近にある財産を五隻の三層櫂ガレー船に積み込んでアテナイに向けて出航した。一行がカルディアからメラス湾を横断し、ケルソネソスの沿岸に沿って航行している時、フェニキアの軍船が襲いかかってきた。

ミルティアデス自身は四隻の船と共にインブロスに逃れたが、残りの一隻はフェニキア軍に追跡されて捕らえられてしまった。この船の船長はメティオコスといい、トラキア王オロロスの娘ではなく、別の夫人との間に生まれたミルティアデスの長男だった。

フェニキア軍はかれをその船と共に捕虜とした。そして船長がミルティアデスの息子であることを知り、これは大いに王の歓心を買えると考え、かれをダリウス大王の元へ連行した。というのも、スキタイ族がイオニア人に向けて突きつけた要求、すなわち船を繋いで作り上げた橋を破壊して各自の国へ船で帰れ、という要求に従うべきという意見を述べたのがミルティアデスであったためである。

しかしながら、フェニキア人がメティオコスをダリウスの元に連行しても、王は何の危害も加えず、逆に遇すること厚く、邸宅と富、ペルシア人の妻とを与えた。そして生まれた子供はペルシア人と認めた。一方、ミルティアデスはインブロスからアテナイに向かっていた。

[6.42] この年(10)、ペルシアとイオニアとの間には更なる衝突はなかった。また同じ時期にイオニア人にとって大いに有益な出来事があった。それは、サルディス総督アルタフェルネスがイオニア各都市から代表者を招集し、イオニア人同士での盗みや略奪を禁止し、法の裁きに従うという協定をお互いに結ぶことを強要したのである。

(10)BC.493

その協定を結ばせた後、かれはイオニア各都市の規模を測量させた。単位はパラサングというペルシアの単位で、これは三十スタディア(五千四百米)に相当する。そしてこの時までずっと変わらずに決まっていた年貢を、測量結果に従って各都市が献納することを命じたのである。

なお、指定された年貢の額は以前のそれとほぼ同額だった。ゆえにイオニアには平穏が保たれた。

[6.43] 翌年の早春(11)、ダリウスは諸将を解任したが、ゴブリアスの子マルドニオスを海陸の夥しい大軍の将としてイオニア沿岸に派遣した。このマルドニオスというのはまだ年若く、ダリウスの娘アルタゾストラを娶ったばかりだった。

(11)BC.492

マルドニオスは軍の基地キリキアに到着すると、みずから船に乗り込み、船団を従えて出航し、他の諸将には陸上軍を任せてヘレスポントスに向かわせた。

やがてマルドニオスがアジア側の沿岸を航行してイオニアに到着した時のことである。ギリシア人なら信じられない驚異的な出来事があったので、ここに書き留めておく。それは七人の長老の中でオタネスという人物が、民主制がペルシアに最良の政治形態であると明言したのである(12)。その説に従って、マルドニオスはイオニア人僭主たちを全て解任し、それらの都市に民主制を敷いたのである

(12)第三巻八十節

これを済ませた後、かれはヘレスポントスに急行した。海と陸の大軍を集結させた後、ペルシア軍は船でヘレスポントス(海峡)を渡り、エレトリアとアテナイを目指して陸路をヨーロッパに進軍した。

[6.44] しかしこれは遠征のための口実で、ペルシア軍は可能な限り多くのギリシア諸都市を征服するつもりだった。海軍は抵抗の少ないタソスを攻略し、陸上軍はマケドニアを攻略し、それよりペルシアに近い地域ですでに従属している諸都市の一部にこれらを加えた。

さて船団はタソスから沿岸沿いに進み、アカントスに向かった。そしてアカントスを出航してアトス岬(*)を迂回しようとした時、とてつもなく強い北風を伴う大嵐に見舞われて多数の船がアトスの海岸に打ち上げられてしまったのである。

(*)リンク先を参照。アトス岬の先端に屹立するアトス山は標高2033m。地中海では夏に強い北東の季節風が吹く。この北風が高い山に当たるといわゆる颪(おろし)という強烈な風になる。

(*)現在、この地域はアトス自治修道士共和国というギリシア正教最大の聖地となっていて、一般人の立ち入りは厳しく制限されている(女人禁制)。1988年に世界遺産認定

およそ三百隻の船と二万人以上の兵が失われたということである。アトスの沿岸には多くの野獣が棲息していて、それに襲われて絶命した者もいるし、岩に激しく打ちつけられた者もいる。泳げない者は溺死した。そして寒さで死んだ者もいる。以上、海軍はこのような事態となった

[6.45] 陸上軍を率いるマルドニオスはマケドニアで陣を張っていたが、トラキアのブリギ軍に夜襲をかけられて多数の兵士が斃され、マルドニオス自身も負傷した。しかし彼らがペルシアに屈服することは免れなかった。というのもマルドニオスは彼らを征服するまでこの地を離れなかったからである。

ブリギ族を征服した後、マルドニオスは麾下の軍を帰国の途につかせた。ブリギ族による軍の損失が大きかったのと、アトスにおける海軍の損失も多大だったからである。かくて不名誉な結末のままに遠征軍はアジアへ帰還したのであった。

[6.46] この翌年(13)、タソスで謀反の計画ありという近隣諸国からの知らせを得て、ダリウスは、かの国の防護壁をみずから破壊し、その保有する船をアブデラに移せという命令をタソスに伝えた。

(13)BC.491

タソスはかつてミレトスのヒスティアイオスに包囲され攻められたことがあり、また裕福でもあったので、その富を用いて軍船を建造し、強固な防護壁を都市の周りに築いた。

彼らの財源は本土の領土と鉱山から得ていた。スカプテ・ヒーレ(14)の金鉱からは平均しておよそ八十タラントン(*)の収入があり、タソスの地元鉱山からはそれより少ないとは言え相当額の収入があった。従って作物に対する課税はなく、本土の領地と鉱山からは毎年平均して二百タラントンの収入があり、多い年には最大で三百タラントンもの収入があったのである。

(14)トラキア沿岸で、タソス島の対岸にある
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

[6.47] 私はこれらの鉱山に行ったことがある。そのうち最も素晴らしいのはタソスという名のフェニキア人が同胞と共にこの島に入植し、発見した鉱山である。それ以後、この島はフェニキア人のタソスからその名をつけられたのである。

これらフェニキア人の鉱山はタソス島のアエニラとコエニラという場所の中間にあり、そこはサモトラケ島の対岸にあって、鉱脈を探すために掘り返された高い山の中にある。これに関しては以上である。結局のところ、タソス人はダリウス王の命に従って城壁を破壊し、所有する船をアブデラに回送した。

[6.48] この後ダリウスは、ギリシア人がペルシアに刃向かおうとしているのか、恭順しようとしているのかを確かめるために、ギリシア全土に使者を送り、それぞれに土地と水を差し出すよう要求した。

そしてこれと同時に、すでに属国となっているギリシア沿岸の諸都市にも使者を送り、軍船と馬の運搬船の建造を命じた。

[6.49] 各地の都市は準備に取りかかった。その一方で、使者たちがギリシアに到着すると、ギリシア本土の多くの都市、はたまた全ての島嶼はペルシアが要求した物を差し出した。そしてその中にはアイギナも含まれていた。

アイギナがペルシアの要求を受け入れたことを知ると、アテナイは、アイギナがアテナイを攻略するために、その行動を取ったのだと推量し、やがてはペルシアと組んでアテナイに遠征して来ると考え、アイギナに向けて急ぎ進軍した。アテナイにとっては、これがアイギナに攻め入る絶好の口実となったのだ。またアテナイはスパルタに使者を送り、アイギナの行ないはギリシアを裏切るものであると告発したのである。

[6.50] 時のスパルタ王は、アナクサンドリデスの子クレオメネスだったが、かれはこの訴えをもとにアイギナへ騎馬で駆けつけ、首謀者たちを捕らえようとした。しかしその時、それに抵抗したアイギナ人の中でポリクリトスの子クリオスという者が、アイギナ人を一人でも連行しようものなら無事には帰さぬぞ、と宣告した。この者が言うには、クレオメネスはスパルタの国としての権限を持たず、アテナイ人に金を貰ってやって来ているのだ、そうでなければもう一人の王と共に来ているはずだ、と。デマラトスの差し金で、かれはこう言ったのである。

そしてクレオメネスがアイギナから撤退する際、クリオス(15)にその名を問い、クリオスが正直に返答するとかれはこう言った。「牡羊よ、お前の角に青銅を張っておけ。近々大きな騒動に巻き込まれるだろうゆえ」

(15)Κριός = ram=牡羊

[6.51] この頃、スパルタに残っていたアリストンの子デマラトスはクレオメネスの悪評を広めるのに奔走していた。この人物もスパルタの王だったが、クレオメネスよりは低い家系の出自だった。しかし実際にはいかなる点からも低いとは言えない。というのも彼らは共通の祖先を有しているのであるから。ただ、エウリステネス家(16)の方が直系であるため、より敬意を払われている。

(16)エウリステネスは伝説的なスパルタ王

[6.52] どの詩人の伝えることとも一致しないが、ラケダイモン人(*1)が言うには、今のスパルタ領に彼らを引き連れてきたのは、ヒュロスを祖祖父、クレオダイオスを祖父、アリストマコスを父とするアリストデモス自身であって、彼の子孫ではない、ということである(*2)。

(*1)スパルタ人は自身をこう呼んでいるが、紛らわしいので以下はスパルタ人と表記する。
(*2)一般的な伝承では、アリストデモスはスパルタ入植前に死んだとされている。

スパルタ入植後、暫くしてアリストデモスの妻アルゲイアが子を産んだ。彼女は、ポリネイケス、テルサンダー、ティサメノス、アウテシオンの系譜に繋がる娘で、生んだのは双子だった。アリストデモスはその子たちを見た後、病死した。

当時のスパルタ人は慣習に従って長子を王につかせようとしたが、その双子はどこから見てもそっくりだったので、どちらが長子か判断できなかった。あるいはその前かもしれないが、彼らはその母親に、どちらが兄であるかを問うた。

その母は、どちらが兄か自分も判らないと言ったが、実際にはよく判っていたはずである。というのも彼女は何とかして二人とも王にしたかったのだ。スパルタ人は途方に暮れ、デルフォイに使者を送り、これについてどのように対処すべきか、神託を求めた。

巫女の返答は、二人を王にせよ、ただし兄の方に高い栄誉を与えよ、というものだった。この神託を聞いても、スパルタ人は以前と変わらず、どちらが兄であるかを見分ける方法が判らず困惑していた。この時、メッセニア人のパニテスという者がある助言を与えた。

彼の助言は、母親がどちらの子を先に沐浴させ、授乳するかを見極めよ。彼女が常に順を違えなければ、それで判別できるだろう。しかし、彼女がでたらめな順で事を行なうなら、母親も判っていないことが明らかとなるだろう。その時には他の方法を探すべきだ、というものだった。

スパルタ人はメッセニア人の助言に従った。見られている理由を母親に知らせぬままで、子供たちの母を観察すると、彼女は常に授乳と沐浴の際に同じ子を先にしていることが判った。そこでスパルタ人は先の子を第一子と見なして国費で養育し、その子をエウリステネスと命名し、もう一人をプロクレスと名づけた。

この兄弟は成人後も生涯にわたって確執が絶えず、彼らの子孫もまたずっと不仲だったということである。

[6.53] この話を伝えているのはギリシア人の中でもスパルタ人だけである。次に述べることはギリシア人全般の伝えるところに基づいている。またダナエの子ペルセウスにまで遡るドーリア人の諸王については---その以前の神(17)の時代は伝えられていない---ギリシア人の言い伝えが正確であり、これらの諸王がギリシア人だったことも史実であると証明されている。そしてその前から、彼らはすでにギリシア人であると見なされていたのである。

(17)ゼウスのこと。ペルセウスはゼウスとダナエの子とされる伝説上の神。

先にペルセウスにまで遡ると書き、私がそれ以上の過去は取り上げないのは、ペルセウスの父の名が判らないからである。例えば、ヘラクレスの父の名はアンフィトリオンであると判っているように。従ってペルセウスにまで遡るギリシアの記録は正しいと私が言うのは、正当な理由によるものである。アクリシウスの娘ダナエから各時代の王たちの祖先を遡れば、ドーリア人の指導者たちは生粋のエジプト人であることが証明されるだろう。

[6.54] 以上、ギリシア人の伝えるところに従ってその血統をたどった。ところがペルシア人の伝えでは、ペルセウスはギリシアに渡来したアッシリア人で、ギリシア人を祖先とする者ではないとされている。ペルシアではアクリシウス(18)の祖先はペルセウスと血縁がなく、ギリシア人の伝えによれば、エジプト人とされている。これに関しては以上である。

(18)第七巻百五十節ではペルセウスはダナエを母とし、アクリシウスを祖父とする、と書かれている。ペルセウス伝説は明らかに矛盾と混乱が見られる。

[6.55] エジプト人である彼らが、なにゆえ、またいかなる功績があってドーリア人の王となり得たかについては、他で語られているので、それについては省略する。ここでは、他で触れられていない事柄を取り上げることにする。

[6.56] スパルタの王には次の権限が与えられている。すなわちゼウス・ラケダイモンとゼウス・ウラニオス(19)という二つの聖職。そして彼らは自分が意図するなら、どの国へでも軍を派遣できるという権限である。スパルタ人は誰もこれを妨げることはできない。もしそのようなことをする者があれば、その者は神を冒涜する者としてのそしりを受けることになる。進軍に際しては王が先頭に立ち、帰還時には最後尾につくのが習わしである。戦闘中は選ばれた百人の護衛兵を従え、出陣に際しては山羊・羊などの家畜を好きなだけ生贄として神に捧げ、その皮と背肉は王の物となる。これが戦時下での権限である。

(19)スパルタのゼウスと天上のゼウス

[6.57] 以下は平時における権限。公費で開催される生贄の儀式では、二人の王は最初に宴席に座り、最初に給仕を受ける。その量も宴席に連なる他の参加者の二倍。貢酒も最初。生贄にされる獣の皮も王の物となる。

新月ごとに、また毎月七日に、アポロ神殿に捧げるための成熟した生贄一頭と一メディムス(*)の大麦粉、ラコニア升(20)の1/4量の葡萄酒がそれぞれの王に公費で供される。競技を観覧する時には別に特別席が用意される。

(20)この容量は不明
(*)52~58リットル

また、国外からの訪問者に対しては、その饗応役(21)の市民を誰であれ指名できる。そしてそれぞれの王は二人のピティアンを選任できる。ピティアンというのはデルフォイに神託を求めて派遣される使者で、公費で王とともに饗応を受けられる特権がある。王が公式の晩餐に出席しないときには2コエニクス(*1)の大麦粉、半パイント(*2)の葡萄酒がその屋敷に届けられる。出席するときには、その二倍の量が供される。個人によって私的な晩餐に招待される場合でも上と同じ待遇を受ける。

(21)πρόξενος = proxenos:通常は自国民を守るために任命される特別職。スパルタでは外国からの訪問者の便宜を図る公職。アテナイにおけるミルティアデスは、スパルタの饗応役である。しかし彼は明らかにすべての外国人居住者の財産を監視するために国から任命されていた。
(*1)約2リットル
(*2)約250ml

二人の王は下された神託を管理・保管するが、ピティアンもそれを知っていなければならない。王が単独で裁定できるのは次のことだけである。すなわち未婚の女子相続人の婚約者を生前の父が決めていない場合、その配偶者を決めること。そして、公共の道路に関することである。

市民が養子を決めるときには、両王の立ち会いの下になされる。評議会には二十八人の長老とともに出席する。王が欠席すると、王に最も近い血縁の長老が王の権限を行使し、代理票として二票、自身の票として一票を投じる(22)。

(22)この部分の叙述に混乱あり。二人の王がそれぞれ二票を有するという意味ではなく、欠席している二人の王に二票が与えられ、その代理人たる近親者が一票を持つ。

[6.58] 両王は生涯にわたりスパルタ国家から以上の権限を与えられていて、その死に際してはつぎの特権を有する。騎馬による伝令がラコニア全土に急行して訃報を告知する。街の女たちは大鍋を打ち鳴らしながら歩き回る。その音が聞こえたら、各戸ごとに男女二人の自由市民が喪に服さねばならない。これを怠ると重い罰則が科せられる。

スパルタ王の死に際して行なわれる風習は、他のアジア人のそれと同じである。すなわちスパルタ王が死亡すると、スパルタ人に加えて、ラコニア地方全土からペリオイコイ(*)の一定数の人員が強制的に葬儀に参列させられる。

(*)スパルタ周辺部に居住し、農業や商工業に従事した自由人。市民権なし。

ペリオイコイ、ヘロット(スパルタの奴隷)、スパルタ市民が女たちも含めて一堂に会し、数千人が集まったところで、彼らは、直前に亡くなった王が、歴代の王の中で最も偉大だったと叫びつつ、激しく額を叩きながら果てしなく大声で慟哭(どうこく)し続けるのである。王が戦死した時には、その像を造ってそれを美しく装飾された棺に横たえ、墓所に運ぶ。葬儀ののち十日間は評議会も行政官の選挙も行なわず、国を挙げて喪に服す。

[6.59] スパルタ人がペルシア人と似ているところは他にもある。王が死んで次の者が王位に就くと、前任の王または国に対するスパルタ人の負債は帳消しにされる。ペルシアでは王が統治を始めるに当たり、統治下の全ての都市に対して未納の貢物は免除される。

[6.60] スパルタ人は次の点ではエジプト人に似ている。伝奏者、音曲者、料理人は、その父からの技能を受け継ぎ、それぞれの仕事を世襲することになっている。例えば、声が大きく明瞭であるからと言っても、その者が伝奏者の地位を侵害することは許されないのである。彼らは生まれた直後から技能をたたき込まれるのだ。

[6.61] 話をクレオメネスに戻す。アイギナに留まっていたクレオメネスはギリシアの国益のために力を尽くしていたが、デマラトスはアイギナのためではなく、嫉妬と羨望からかれを誹謗していたのである。クレオメネスはアイギナから帰国すると、以下のことを口実にしてデマラトスを王位から追放しようと画策した。

かつてスパルタにはアリストンという王がいて、二度結婚したものの、二度とも子に恵まれなかった。かれは自分に原因があるとは思わなかったので、三度目の結婚をした。そしてこれは以下のような経緯がある。かれには特に親しいスパルタ人の友人がいた。この友人の妻はスパルタ随一の美人だったが、幼い頃は大変醜かったのである。

彼女の乳母はおさな子の醜い顔立ちや、裕福な両親を持ちながら不美人であること、そして両親が娘の容姿を大きな不運であると感じていることなどを見て、あることを実行したのである。乳母はその子をヘレネの聖廟へ毎日連れて行った。そこはテラプネ(23)といって、ポイボス(アポロン)の聖廟を越えたところにある。そこへ子供を連れて行くたびに乳母は子供を神像の前に立たせ、この子の不器量を取りのぞき給えと女神に祈ったのである。

(23)スパルタの南東にある。メネラウスとヘレネの伝説上の墓所。その神殿の基礎構造は今に残っている。

そしてある時、聖廟からの帰り道でひとりの女が現れ、乳母が腕に抱いているのは何かと問いかけた。乳母が子供を抱いているのだと答えると、女は子を見せてくれと頼んだ。乳母は両親から誰にも子供を見せるなと言われていたので、見せることを断った。しかし女はなおも見せてくれと強く懇願した。

乳母は女がよほど執心していることを見て取り、遂に子供を見せた。女は子供の頭を撫でながら、この子はスパルタでとびきりの美人になるであろう、と呟いた。その日から子供の容貌が変わってゆき、年頃になって、アルケイデスの息子アゲトスと結婚したというのである。この者がアリストンの親しい友人なのだった。

[6.62] アリストンはこの女性に横恋慕し身を苛まれた結果、あることを企てた。かれはアゲトスに向かって自分の持ち物の中で何でも好きな物を与えようと提案した。そして自分にも同じ約束を実行するよう無理強いしたのである。アリストンには妻がいるので、アゲトスは自分の妻のことは全く心配せずにアゲトスの提案を受け入れ、二人はこの言葉に誓いを立てたのである。

アリストンは自分の財宝の中からアゲトスの選んだ物を与え、自分にも同じ返礼を求め、その妻をよこせと迫ったのである。アゲトスは何でも与えると約束はしたが、それだけは別であると拒んだものの、誓約したことは曲げられず、この卑劣な策略にはまって妻を取られてしまった。

[6.63] かくしてアリストンは二人目の妻と絶縁し、三人目の妻を娶った。しかし新妻は十月を経る前に、あまりにも早くデマラトスを出産したのである。

アリストンがエフォロス(*)たちと評議しているところへ彼の家僕が男児の誕生を知らせたとき、当人は結婚の時期を思い浮かべて指折り数え、神に誓って言った。「その子は我が子にあらず」と。エフォロスたちはこの言葉を聞いたが、その時はさしたることとも思わず聞き流していた。しかしその子が成長してから、デマラトスが自身の子であることを固く信じるようになっていたこともあって、アリストンは以前放った言葉を悔やんだ。

(*)スパルタの監督官で五名選出される。

その子にデマラトスと名づけたのは、子供が生まれる前のことだが、アリストンがこれまでのスパルタ王の中でも最高の名声を得ていたこともあって、その王に息子が生まれるようにと、スパルタの全市民から祈りを捧げられていたからである。デマラトスというのは「人々の祈りへの返答」という意味である。

[6.64] やがて時を経てアリストンが死に、デマラトスが王位を継いだ。しかしこの事実が知れ渡るようになり、これがためにデマラトスは王位を失うことになる。それまでにかれはクレオメネスと仲違いしており、それはエレウシスから軍を引き上げた時と、このたびのペルシアに荷担しているアイギナ人を捕らえに出向いた時に起きている。

[6.65] クレオメネスはデマラトスへの報復を決意し、デマラトスと同じ一族で、アギスを祖父に持ち、メナレスを父とするレオティキデスと密約を交わした。その密約とは、デマラトスに代えてレオティキデスを王位につける代わりに、クレオメネスとともにアイギナ征討に同行する、というものであった。

レオティキデスは以前からデマラトスに激しい敵意を抱いていたのだが、それは次の理由による。かれはデマルメノスを祖父に、キロンを父に持つペルカロスと婚約していたが、デマラトスがペルカロスをこっそり奪って先に結婚してしまったので、レオティキデスの結婚は水泡に帰してしまったのである。

このことがあってからレオティキデスはデマラトスに敵意を抱くようになっていたので、クレオメネスの誘いに対して承諾の誓いを立て、デマラトスはアリストンの息子ではないので、本来ならスパルタの王ではないと口上した。この誓いを立てた後、かれはデマラトスを告訴した。その理由としては、家僕が息子の誕生をアリストンに知らせたとき、かれが月数を数え、その子は自分の子ではないとかれが神に誓って口走ったことを再び取り上げたのである。

これを根拠にして、レオティキデスはデマラトスがアリストンの息子ではなく、従ってスパルタの正当な王ではないことを証明しようとした。そしてアリストンが上の言葉を発したとき、彼の横に座してそれを聞いていたエフェロス(監督官)(*)たちを証人として召喚したのである。

(*)ephors;スパルタにおける王の権力を監視する官職。五人の有力市民が一年交代で勤める。

[6.66] これに関しては大論争が巻き起こったが、最終的にスパルタでは、デマラトスがアリストンの息子であるかどうか、デルフォイに神託を請うという結論に達した。

実は神託を請願することはクレオメネスの差し金によるものだった。かれはデルフォイ人の中で大きな勢力を誇るアリストファントスの子コボンを味方に引き入れており、コボンはペリアロスという巫女を通してクレオメネスの望む通りのことを言わせたのである。

果たしてデマラトスがアリストンの息子であるか否かの神託を、使者たちが求めると、巫女はそれを否定する答えを返したのである。その後、この間の事情が明らかになったことで、コボンはデルフォイから追放され、ペリアロスは巫女の地位を剥奪されたということである。以上、デマラトスが王位を剥奪されたいきさつである。その後、かれは以下に述べるような侮辱を受けたことによってペルシアへ亡命することになる。

[6.67] デマラトスが王位を失った後、かれは選出されて行政官に就いた。ある時、ジムノパエディア(24)の開催中、今は王位に就いているレオティキデスが観衆の中にデマラトスを見つけるや、従者を使いに立て、「王をやめた後に行政官についた気分はどうだ?」と、からかいと侮蔑を込めて問いかけさせた。

(24)真夏のスパルタで開かれる、裸体の若者による祭礼。

この問いかけに怒り心頭に発したデマラトスは、「俺さまはレオティキデスに先んじて二つの役職をこなしたんだ。それから、こんな質問はスパルタにとっては、計り知れない災悪の始まりになるか、計り知れない幸運の始まりになるか、どちらかになるぞ」と言い返した。このあとかれは頭を隠して劇場を後にし、自邸に戻るとすぐさま牡牛を一頭用意してゼウスへ捧げた。その後、母親を呼び寄せた。

[6.68] 母親がやって来ると、かれは生贄の臓物の一部をその両手に持たせ、懇願して言った。「母上よ、家神ゼウス、その他全ての神々にかけてお訊ねします。わが父はどなたか、本当のことをお答えくだされ」

「あの騒ぎの時、レオティキデスが言うには、母上が父上の元へ来られたときには、前夫との間ですでに身ごもっておられたということです。なおも愚かなことには母上が家僕やロバ飼いと通じて私が生まれたのだという噂もあります」

「神にかけてどうか真実をお話しくだされ。うわさ通りのことであっても、そのようなことをしているのは母上だけではありませぬ。多くの女たちも同様なことをしているのですから。なおも喧しいことには、アリストンには子種がなかったに違いない。さもなくば前の妻たちに子が生まれていたはずだと、スパルタでは言われております」

[6.69] そこで母親が返答するに、
「息子よ、それほどまでに真実を知りたいというなら、本当のことを全て話しましょう。あれは父上の屋敷に連れて来られてから三日目の夜のこと、父上によく似た幻が私の目の前に現われたのじゃ。その幻が私と床入りした後、頭の花冠を私に被せると、立ち去られた」

「そのあと父上がやって来られ、花冠をかぶっている私を見て、誰から花冠を貰ったのかを問われた。貴方から貰ったと答えると、父上はそれを否定なされた。そこで私は神に誓って言ったのです。貴方がやって来られる直前にその人が現れて私とともに床に入り、花冠を下さったと。それを否定なさるとは貴方の名誉に関わりましょう、とも言いました」

「私が誓いを立てて語ったのを聞き、これは何かの神事であると父上は解された。そのあとで、花冠は屋敷の外門のそばに祀られているアストラバコス廟という英雄廟にあったものであることが判りました。そして予言者たちが言うには、私の元にやって来たのはこの英雄であるということです。息子よ、お前の知りたいことはこれで全てじゃ」

「そなたがアストラバコスの子であろうと、アリストンの子であろうと、そなたを宿したのはその夜です。そなたの誕生を知らされたときに、父上自身が、十月に達していないという理由から大勢の前でそれを否定なさったことをあげつらって、対立勢力がそなたを攻撃しているようだが、父上は事情がよく判らぬままに、あのような戯れ言を放たれたのじゃ」

「女というものは九ヶ月で子を産む者もあれば、七ヶ月で産む者もおります。誰でも十月で産むとは限りませぬ。私はそなたを七ヶ月で産んだのです。そのすぐ後に、あのようなことを口走ったのは、おのれの愚かさゆえであったと、父上は気づかれたのです。そなたの生まれにまつわるいきさつについて、他人の言うことを信じてはなりませぬ。さあ、これで全てを話しました。レオティキデスや他の男の女房たちをはじめ、口さがない者どもこそ、ロバ飼いの子を産みやれ」デマラトスの母はこう語った。

[6.70] 知りたいことを聞いたデマラトスは旅の準備を調え、デルフォイに神託を請願しに行くと見せかけてエリスに向かった。しかしスパルタは国外逃亡の嫌疑でかれに追手を放った。

デマラトスは追手が来る前にエリスからザキントス島へ何とか逃れたが、スパルタの追手はそれに追いつき、彼の従者たちを捕らえた。しかしその後、ザキントス人はかれをスパルタに引き渡すことを拒んだので、かれはそこからアジアに渡り、ダリウス大王の元へ逃れた。ダリウスは敬意を持ってかれを受け入れ、領土と都市をデマラトスに与えた。

上述の如き好機を得てデマラトスはアジアに逃れたのだが、かれは多くの業績と知力によってスパルタ人に高い名声を博しており、またオリンピアにおいて四頭立て戦車競技で優勝して国威を発揚したのは、スパルタの王の中で彼のみだった。

[6.71] デマラトスが王位を降されたあと、メナレスの子レオティキデスが後を継いで王位に就いた。その後、かれにはゼウクシデモスという息子が生まれたが、一部のスパルタ人からはシニスカスと呼ばれていた。このゼウクシデモスは、アルキデモスという息子を残してレオティキデスより先に死亡したので、王位に就くことはなかった。

ゼウクシデモスが亡くなったあと、レオティキデスはメニウスの姉妹でディアクトリデスの娘であるエウリダメと二度目の結婚をした。この妻からは息子は生まれず、ランピトという娘が生まれたが、この娘はレオティキデスの意向によって、ゼウクシデモスの子アルキデモスと結婚した。

[6.72] ところが、レオティキデスもまた晩年までスパルタで過ごしたわけではなかった。つぎに述べるように、かれはデマラトスに対する行ないの報いを受けることになる。

あるときかれはテッサリア地方へ進軍したことがある(25)。そして全ての都市国家を征服できたかもしれないのに、多額の賄賂を手にしたのである。ところが陣中で、コインで膨れあがった袋に腰かけているところを目撃されて訴えられた結果、かれはスパルタから追放され、その屋敷は取り壊されるという仕儀となった。かれはテゲアに亡命し、その地で果てた。このことは随分あとになってからのことである。

(25)おそらくBC.475、あるいはBC.470

[6.73] さて、デマラトスをうまく放逐したので、クレオメネスは直ちにレオティキデスを伴ってアイギナの攻略に向かった。アイギナの侮蔑的な応答に対して、かれは激しい憎悪を抱いていたからである。

アイギナでは、二人の王がやって来たのを見て、これ以上抵抗しないのが最善策であると考え、富と血統の最も優れている十名を選び出し、中でもアイギナ中、最も勢力を誇るポリクリトスの子クリオスとアリストクラテスの子カサンボスの二人を含めてスパルタ側に引き渡した。征討軍は彼らをアッティカ領内に連行し、アイギナの最大の敵であるアテナイに預けた。

[6.74] その後、デマラトスに対するクレオメネスの策略が明らかとなるにおよび、かれはスパルタ人を怖れ、密かにテッサリア領へ逃亡した。そしてそこからアルカディアに行き、スパルタに対抗するべくアルカディア人を扇動し、糾合した。彼の人心掌握術は、自分の行くところならどこへでもついて行くと誓わせることの他、特にアルカディアの族長たちをノナクリスに連れて行き、スティクスの水(26)にかけて誓わせるというものであった。

ノナクリスの近くにはスティクスの水というアルカディアの水があると言われていて、それは岩の割れ目から水たまりにしたたり落ちている小さな水流である。その水たまりの周囲は小さな石で囲われている。この泉のあるノナクリスは、アルカディア領内のフェネオスの近くにある。

(26)ケルモス山北面の人気のない谷間を流れる水流。

[6.75] さて、クレオメネスの動きを知ったスパルタ人は怖れをなし、かれをスパルタに連れ戻し、以前と同じ王位に就けた。ところが、かれは逃亡から帰還した時には狂気に取りつかれていた。かれはそれ以前から正常な心を失っており、たまたま出会ったスパルタ人の顔を、誰であろうと杖で叩くのである。

このようなことが続き、彼の狂気が明らかとなったので、その近親者たちはかれに足枷をつけて拘束した。しかしある時、番人が一人だけであることを見て取ったクレオメネスは、短剣をよこせと言った。番人は最初は拒んだが、自分が自由の身になった暁にはどんな目に遭うか考えよ、と言って番人を脅した。その番人はヘロットという奴隷の身分だったので、その脅迫に怖れをなして短剣を与えてしまった。

クレオメネスは短剣を手にすると、わが身の脛から上方に深く切りつけ、そこから大腿部まで肉を長く切り、つぎには大腿から臀部、脇腹、腹部へ至るまで切り裂いたのである。かくしてかれは絶命した。

大方のギリシア人の伝えるところでは、デマラトスついて自分に都合の良いように巫女に話させたのが、ことの原因であるとされている。アテナイ人だけは、かつてかれがエレウシスに侵略し、神域を荒らしたためであるという。またアルゴス人のいうには、かつて戦いのあと、アルゴス人がかの国の聖廟(27)に逃げ込んだとき、そこから彼らを連れ出して斬り殺し、さらに聖廟の森まで焼き払った祟りであるという。

(27)本巻八十節

[6.76] かつてクレオメネスがデルフォイで神託を求めたとき、返ってきた神託は、かれはアルゴスを攻略するだろう、ということだった。そこで、スパルタ軍を率いてエラシノス河に着いたとき、かれはこの河に生贄を捧げた。このエラシノス河はスティンファリアン湖(28)から流れてきており、スティンファリアン湖は一度は暗渠に流れ込み、アルゴスで再び姿を現すので、その地点からの流れをエラシノス河とアルゴス人は呼んでいる。

(28)アルカディア地方のキレネ山麓にある湖。

予言は彼の遠征について凶と出た。そこでかれは言った。「エラシノス河が同胞を裏切らないことには敬意を払うが、たとえそうであってもアルゴス人は無傷では済ませない」と。そしてかれは海に近いティレアまで軍を退き、生贄として牡牛を海に捧げてから船でティリュンス領を抜け、ナウプリアの街に向かった。

[6.77] このことを知ったアルゴス軍はクレオメネスと一戦を交えるべく海岸へと進出した。そしてティレンスの近くでヘシペイアという場所でスパルタの陣と対峙して陣を構えた時、双方の陣営には僅かな余地しか残されていなかった。アルゴス人は、正々堂々の戦いに怖れを抱くものではなかったが、敵の策略を怖れた。

それというのも、アルゴス人とミレトス人に共通して下された巫女による神託の中に、それらしきことがあるからである。その神託は以下に。

  女が男を打ち負かし(29)
  アルゴスにて勝利の栄光を挙げる時
  アルゴスの女たちは頬を悲嘆の涙で濡らすであろう
  やがていつの日にか一人の男が現れ、語ることもあろう
  三重(みえ)にとぐろを巻いたおぞましき大蛇が
  槍に突かれて死せり、と

(29)女(Σπάρτη = Spárti)が男(Ἀργος = Argos)に勝ったとも読める。

これらの事情から、アルゴス軍の間に恐怖が広まった。そこで彼らは防御策として敵の先触れを利用することにした。すなわち、スパルタが兵たちに伝える合図を利用して、アルゴス兵もそっくりそのまま同じことをしたのである。

[6.78] アルゴス軍がスパルタ軍の合図を使って同じことをしていると知ったクレオメネスは、一計を案じ、伝令が朝食の合図を叫んだ時には武器を取ってアルゴスを攻撃するように命令を発したのである。

スパルタ兵はこの通りに命令を実行し、アルゴス兵が合図に従って朝食を摂っている時に彼らに襲いかかり、多数のアルゴス兵を斃した。しかし、それに勝る数の兵たちがアルゴスの森に逃げ込んだので、スパルタ軍はそれを包囲して監視した。

[6.79] つぎにクレオメネスの立てた作戦はこれである。アルゴスの逃亡兵から、聖域に立て籠もっているアルゴス兵の名前を聞き出し、その上で使者を送って一人ずつその名を呼び、身代金を受け取ったという虚偽の言葉で誘い出したのである。ペロポネソス諸国では、捕虜の身代金は一人につき2ミナエと決められている。かくしてクレオメネスは、およそ五十名のアルゴス兵を誘い出し、殺戮した。

聖域に籠もっている残りの兵士たちは、どういうわけかこのことに気がつかなかった。というのも、聖域の森が深いため、その中にいる者には外にいる者が何をしているのか知り得なかったからである。しかしようやく、ある兵士が木に登って何が起きているかを目撃してからは、使者が呼びかけても誰も応じなかったということである

[6.80] そこでクレオメネスはヘロット(奴隷)たちに命じて森の周りに木を積み上げさせ、準備が整ったところで森に火をつけさせた。森が燃えているのを見ながら、そこに祀られている神は何かと、かれは一人の逃亡兵に問いただした。アルゴスの神、というのが返答だった。これを聞いたクレオメネスは大きなうなり声でつぶやいた。
「アポロよ、神託の神よ、汝、われがアルゴスを制覇するであろうと、ゆゆしくも欺かれた。これが神託の成就なのであろうか」

[6.81] その後、クレオメネスは麾下の軍を殆どスパルタに帰し、自身は千名の精兵とともにヘラの聖廟(30)へ行き、生贄を奉納した。しかしクレオメネスが祭壇に生贄を捧げようとしたとき、神官は、他国の者が生贄を捧げることは許されぬ、と言ってそれを制止した。そこでかれはヘロット(奴隷)たちに命じて神官を祭壇から遠ざけて鞭打たせ、生贄の儀式を遂行した。これを終えてから、クレオメネスはスパルタに帰還した。

(30)アルゴスの北東約[6.6] 5Km

[6.82] クレオメネスの帰国後、その敵対勢力は、アルゴスを難なく攻略できたかもしれないのに、賄賂をとってそれを回避した、という廉でかれをエフォロス(監督官)に告訴した。その真偽は定かではないが、クレオメネスは次のように主張した。すなわち、「アルゴスの聖域を制したことで、自分は神託が成就したものと考えた。それゆえ、生贄を捧げ、都市の攻略に関する神の諾否を確かめるまでは、何もしないのが最善策であると考えた」

「ヘラの聖廟で予言を受けたとき、神像の胸から閃光が煌めいたので、アルゴス攻略は不可であると知った。頭から閃光が出ていたなら、それこそ頭から足まで徹底的にアルゴスを攻略したであろう。しかし胸から閃光が出たということは、神意を充分し尽くしたという徴(しるし)である」

この主張はスパルタ人にとって信頼でき、また理にかなっているように思えた。その結果、かれは告発人たちの追求を易々と退けたのである。

[6.83] ところで、アルゴスからは全ての市民男子がいなくなったので、戦死した兵士たちの息子が成長するまで、奴隷たちが全ての国事を取り仕切った。やがて息子たちが成長して国権を取り戻すと奴隷たちは放逐され、その奴隷たちは武力によってティリンスを征服した。

暫くの間は両国に平和が続いた。しかしあるとき、アルカディアのピガレイアの生れでクレアンダーという予言者がやって来ると、奴隷たちを煽勤して反乱を起した。そしてこれ以後、アルゴス市民と奴隷たちの間で長い戦いが続いたが、それを辛うじて制したのは結局アルゴス市民であった(31)。

(31)BC.468頃

[6.84] アルゴス人が言うには、これらの事柄が原因となってクレオメネスが発狂し、不吉な死を迎えたということである。しかしスパルタでは、彼の狂気は神がかりによるものではなく、スキタイ人と交わることによって生のままで葡萄酒を飲むようになり、そのために発狂したと言われている。

かつてダリウス大王が遊牧の民スキタイ人の領土を侵略したとき、彼らは報復に執心し、スパルタに使者を送って同盟を結んだ。その内容は、スキタイ軍がファシス河を渡ってペルシアに侵入し、スパルタ軍がエフェソスから出発して内陸に進出し、スキタイ軍と合流するというものであった。

スキタイ人が同盟のためにスパルタに来たとき、クレオメネスは彼らと随分親しく交わり、親密になりすぎた挙げ句、葡萄酒を水で割らずに生のままで嗜むことを覚えたのである。これがためにかれは狂気にとらわれたとスパルタ人は見ている。それゆえ、以後のスパルタでは、強い酒を飲みたい時には「スキタイ式に注いでくれ」と言うようになった。

以上がクレオメネスについてスパルタで語り継がれていることであるが、クレオメネスの死にざまは、デマラトスを陥穽(かんせい)にはめたことに対する天罰であると、私は考える。

[6.85] ところでクレオメネスの死を知ったアイギナでは、アテナイに幽閉されている人質を取り戻すべく、スパルタに使者を送り、レオティキデスを訴えた。スパルタ側は法廷を開き、レオティキデスがアイギナ人に行なった行為は横暴かつ不法であるという裁定を下した。そしてアテナイに捕らわれている者たちの代わりとして、レオティキデスをアイギナからの使者に引き渡すという裁定を下した。

アイギナの使者たちがレオティキデスを連れて行こうとしたとき、レオプレペスの子テアシデスという人望のある男が彼らに語りかけた。
「アイギナの方々よ、貴殿らはどうなさるおつもりか?市民から見放されたスパルタの王を連れて行くとでも?今は怒りに駆られてあのような裁決を下しはしたが、貴殿らがその通りの行動を取ったなら、やがては貴国が破滅に至る災厄を、スパルタがもたらすやもしれませぬぞ」

これを聞いたアイギナの使者たちはレオティキデスを連れ帰ることを諦め、代わりにレオティキデスが彼らとともにアテナイに行き、捕虜たちをアイギナに返す、という協定を結んだのである。

[6.86] レオティキデスがアテナイに着いて捕虜を返すように要求すると、アテナイはそれに難色を示し、つぎのような言い訳をした。二人の王が捕虜を預けに来たのに、一人が欠け、一人の王だけに返すのは理屈が通らぬ、と。

アテナイの拒否に対してレオティキデスは反論する。
「アテナイ人たちよ、好きになさるが良かろう。ただし捕虜を返すは道理、返さぬは非道理でござる。そして道理が損なわれた時にスパルタが何をしてきたかを、貴殿らにお聞かせいたそう」

「われらスパルタには、三代前にエピシデスの子グラウコスという者がいたと伝えられている。この者は備わった美徳の中でも高潔であることにかけては、当時のスパルタでは誰も適うことはなかったという」

「時至り、つぎのことがこの男に降りかかってきたということじゃ。それは、ミレトスから一人の男がスパルタにやって来て、グラウコスに会い、つぎのことを申し出た」

『わが輩はミレトスの者じゃが、貴殿の高潔に頼りたきことがあって来たのじゃ、グラウコスよ。貴殿の高潔さについてはギリシア中はもとより、イオニアでさえも、さんざん語られておるでな。さてペロポネソスはごく安全じゃが、イオニアは常に危険にさらされておってな。それゆえイオニアでは財産を保全できる者は誰もおらぬのじゃ。』

『これについて熟慮し、思案もした末に、わが輩の財産のうち半分を金に換えて貴殿に預けることにしましたのじゃ。貴殿に預かってもらうのが安全じゃと確信しておりますからの。どうか金を預かって下され。それから、この割符もな。そして同じ割符を持参して返却を求める者があれば、その者に金を戻して下されや。』

ミレトスからの訪問者はこう語り、グラウコスは相手のいう条件で金を預かった。そして長い年月が過ぎ、金を預けた男の息子たちがスパルタにやって来てグラウコスに割符を見せ、金を返してもらいたいと告げた」

「ところがグラウコスは次のように答えて彼らを追い返したのである。 『そんなことは憶えていない。お前たちの言うことを聞いても何も思い出すことはない。思い出したなら、然るべく対処もしよう。私が金を預かっているなら、当然のことながらお返ししよう。私が全く金を預かっていないなら、ギリシアの法廷にお前たちを訴えることにする。ただしそれを決めるのは今日から四ヶ月後にしよう。』

「ミレトス人たちは、金を欺し取られたとして悲嘆にくれて帰って行ったが、グラウコスはデルフォイに旅して神託を求めた。誓いを立てて金をわが物とすべきかどうかの神託を請うと、巫女は次の言葉でかれを強く咎めた。

  エピシデスの子グラウコスよ
  誓いを捧げて金をものにするとは
  今はさぞや利すること大であろう
  立てるべし、誓いを
  真実を誓う者にさえ死は待ち受けておるゆえに
  しかれども誓いの神には名もなく手足もなき子ありて
  この子が家族の全て、一族全てを素早く追い詰め
  捕らえるや、破滅させるであろう
  真実を誓う者の末裔にこそ、後の世に栄えあれ

これを聞いてグラウコスは、かくの如き神託を求めたことを神に詫びた。巫女が答えるに、神を試すことと悪行を実践することは等しきことなり、と」

「そしてグラウコスはミレトスの訪問者たちを呼び寄せて金を返した。しかしアテナイ人たちよ、聞き給え。なにゆえこの物語をお手前たちに話し始めたのかを。今ではグラウコスの子孫は絶えておる。その家屋敷も見当たらぬ。かの者はスパルタから根絶されたのじゃ。であるからして、預かり物を返せという求めがあれば、何はさておき、その通りにするのが得策というものじゃ」

レオティキデスがこう言ってもアテナイ人は聞く耳を持たず、仕方なくかれはアテナイを去った。

[6.87] さてアイギナでは、テーベに取り入るつもりでアテナイに加えた暴虐の報いを受けないうちに、以下の行動に出ていた。彼らはアテナイ人から暴虐を受けていたことで憎悪をつのらせており、それに報復する準備をしていたのである。ちょうどアテナイは五年ごとにスニオンで開く祭りの最中だったので、待ち伏せしてアテナイの著名人が大勢乗っている神船を捕獲し、彼らを投獄したのだった。

[6.88] アイギナから被害を被ったアテナイは、アイギナに対するあらゆる敵対行為を即刻実行に移した。アイギナにはクノエトスの子ニコドロモスという著明人がおり、以前アイギナの島から追放されたことでアイギナに怨みを抱いていた。アテナイがアイギナを攻撃することを知ったニコドロモスは、アイギナを裏切るとアテナイに約定し、アテナイ兵がかれに合流して行動を起こす日を決めた。

[6.89] その後、ニコドロモスは約定日に旧市街を占拠したが、その日にアテナイ人は現れることはなかった。というのも、アテナイには戦闘用の船が不足していたので、コリントに船を貸してくれるよう依頼している間に、計画は頓挫したのである。

その当時、コリントとアテナイは親密な関係にあったので、コリントはアテナイの依頼に応じる決定を下し、一隻につき五ドラクマという価格で二十隻の船を譲渡した。コリント法では、無償での譲渡は不可とされていたのである。これらの船とアテナイの船を合わせて七十隻が兵を乗せてアイギナに向けて出航したが、到着したのは約定日の一日後だった。

[6.90] アテナイ軍が約束の日に現われないことを知ったニコドロモスは、アイギナから船で逃走した。これには他のアイギナ人も同行したが、アテナイは彼らの定住地としてスニオンを与えた。そして彼らはこの地から出撃してアイギナ島を略奪することを頻繁に繰り返した。しかしこれはずっと後の話である(32)。

(32)BC.490~BC.480

[6.91] アイギナの富裕者たちは、ニコドロモスとともに蜂起した者たちを制圧、投獄し、最後には殺戮した。ところが、これがためにアイギナには祟りが降りかかってきた。この祟りは生贄を捧げる儀式を行なうなど、いかなる努力にも拘わらず払いきれなかった。そして女神による慈悲を待つまでもなく、彼らは島から追放されてしまったのである。

彼らは七百人を生捕りにしたが、その者たちを死刑にするべく外に連れ出しているときに、そのうちの一人が縛めを解いて立法者デメテルの聖廟門まで逃走した。そしてその男は門の把手を掴み、しがみついたため、力づくで強引に引き離そうとしても無駄だった。そこで追手は男の両手を切断して連れ去ったが、残された両手は把手にしがみついたままだったということである。以上、アイギナ人同士が演じた騒動である。

[6.92] さてアテナイ軍が来襲すると彼らは七十隻の船で海戦を繰り広げたが、アイギナはこれに敗北し、以前と同じくアルゴスに救援を求めた。しかし今回アルゴスは助けを出そうとしなかった。それは前にクレオメネスがアイギナの船を力づくで奪い、アルゴスの海岸に着けた上、スパルタ軍とともに乗組員が上陸したことがあったからである。

なおこの時、シキオンから来ていた軍もこれに与していたが、アルゴスはこれに対してアイギナとシキオンそれぞれに五百タラントン(*)ずつ、計千タラントンの賠償金を要求した。シキオンはその非を認め、百タラントンの支払いで合意したが、アイギナは非を認めず、傲慢な姿勢を崩さなかった。このことがあったため、アルゴスは救援要請に対して誰一人送らなかった。ただし五種競技(33)に熟達しているエウリバテスが司令官となり、この者がおよそ千人の志願兵を率いて救援に向かった。

(33)跳躍、円盤投げ、槍投げ、走力競争、レスリングの五種
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

しかし、この兵士たちの殆どが帰還しなかった。彼らはアイギナに侵攻してきたアテナイ軍の手にかかって殺されてしまったのである。司令官のエウリバテス自身は一騎打ちによって三人の兵を斃したが、四人目の相手であるデケレイア出身のソファレスという兵によって斃された。

[6.93] さてアイギナの船隊はアテナイ船隊の隊列が乱れているのを見て取り、攻撃を仕掛けた結果、四隻の船と乗員を捕獲した。以上がアテナイとアイギナの激戦の模様である。

[6.94] 一方ペルシアではダリウス大王が独自の計画に取りかかっていた。これは、従臣が常にアテナイのことを王に思い起こさせるよう仕向けていることと(34)、王の近くに仕えるペイシストラトス一族(*)がアテナイを非難し続けていることによる。さらに、ダリウスはこれを口実にして土地と水を差し出さないギリシア全土を征服したいと思っていたからである。

(34)第五巻百五節;
(*)ペイシストラトスの息子ヒッピアス一族のことか?

王は遠征に失敗したマルドニオスを解任し、アテナイとエレトリアの攻略司令官として他の将軍たちを任命した。それはペルシア生まれのダティスと王自身の甥であるアルタフェルネス(父はアルタフェルネス)だった。出発に当たり彼らに下された指令はアテナイ、エレトリアの征服と、奴隷を王の面前へ連れ帰ることだった。

[6.95] 二人の司令官は王のもとを出発し、キリキアのアレイン平野に到着した。率いていたのは完全武装の大陸上軍である。軍はここに陣を張っていたが、そこへ諸国に命じていた海軍が全て合流した。加えて以前からダリウスが従属国に供出を命じていた馬の運搬船も到着した。

馬を運搬船に乗せ、陸上軍を六百隻の三層櫂ガレー船に収容してペルシア軍はイオニアに向けて出航した。アレインからはサモス島、イカロス島を経て島嶼をたどる航路を選び、本土沿岸に沿って直接ヘレスポントスとトラキアに向かう航路を取らなかった。私の考えでは、この経路を選択したのは、以前アトス岬を迂回する航路を取ったときに大災害に遭遇したことがあり、それを怖れたためである。さらにはナクソスが未征服のままで、ここがペルシアに反抗していたことによる。

[6.96] 船団がイカロス海からナクソスに到着し、船の錨を降ろすと(ペルシア軍は最初にナクソスを攻略するつもりだった)、以前の事件(35)を忘れていないナクソス人たちは迎撃しようとせず、山に逃げ込んだ。ペルシア軍は捕らえた住人を全て奴隷にし、ナクソスの聖廟と市街を焼き払ったあと、他の島嶼に向けて出航した。

(35)おそらく反乱に対するペルシアによる制圧事件のこと。本巻三十一、三十二節参照。

[6.97] ペルシア軍がいよいよ進軍して来たので、デロス人もまた自分たちの島を後にしてテノス島に逃げた。船隊がデロスに近づくと、ダティスは船隊の先頭に進み、船隊をデロスに投錨させず、その先のレナイア島に碇泊させた。そしてデロス人が避難している場所を知ると、ダティスは次の布告を使者に託した。

「聖なる者たちよ、なぜ逃げ出したのか?わが輩の意図が判らぬか? 二神(36)の生誕地はもとより、領土も住民もを荒らさぬことは、わが輩の願いであり、またわが王の命でもある。家へ戻り、そなたらの島で暮らすがよい」

(36)アポロとアルテミス

ダティスはデロス人に右の布告をし、重量にして三百タラントン(*)の乳香を祭壇に積み上げて焚いた。

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

[6.98] この後、ダティスはまずエレトリアに船隊を進めたが、これにはイオニア人とアエオリア人も加わっていた。そして船隊が出帆した後、デロス島に地震が発生したが、これは後にも先にもなかったことであると、デロス人が伝えている。思うに、この予兆は天から下されたものであり、このあとに起きる凶事の前兆だった。

ヒスタスペスの子ダリウス、その子のクセルクセス、その子のアルタクセルクセスの(37)三代にわたってギリシアに起きた凶事は、ダリウスの二十世代前まで遡って起きたことよりも酷いものだった。その凶事はペルシアが原因のものもあり、都市国家間の指導者たちの覇権争いが原因のものもある。

(37)BC.522-BC.424

というわけで、それまでに起きたことのなかったデロスの地震は、不思議でも何でもない。その上、デロスに関する以下の神託も残されている。

  いにしえより揺れずのデロス
  われはこれを震撼させるであろう

また前記三代の王の名は、ギリシア語では次の意味になる。ダリウスは実行者、クセルクセスは戦士、アルタクセルクセスは大戦士。ギリシア人はこれらの王たちを自国語で呼んでも差し支えないだろう。

[6.99] さてペルシア船隊はデロスを出航したあと島嶼に寄港し、島人の息子たちを人質に取りつつ兵士を徴用した。島嶼を巡る航海中、カリストスに寄港したとき、島人たちは近くの都市であるエレトリアとアテナイに敵対することになるペルシア軍へ参加することも、人質を差し出すことも拒んだ。そこでペルシア軍は島を包囲し、島を荒らし回ったので、最後にはカリストスもペルシアに降伏した。

[6.100] ペルシアの遠征船団が攻撃に向かってきていることを知ったエレトリアでは、アテナイに援軍を求めた。アテナイは助力を拒まなかったが、送ってきたのはカルキスに入植している馬飼いの小作人、四千人だった(38)。しかしエレトリアの作戦は的外れであるかと思われた。アテナイに助けを求めながらも、国論は二分していたのである。

(38)第五巻七十七節

ある者は街を放棄してエウボエアの高地に陣取ることを主張し、ある者はペルシアからの利得を期待して、降伏することを画策していたのである。

時のエレトリア指導者の一人だったノトンの子アイスキネスは、二つの計画を知ってから、援軍のアテナイ人に状況を説明し、当地の者とともに死なずに済むよう、母国に戻ることを勧告した。援軍のアテナイ人たちはその勧告に従ってオロポスに渡り、危難から逃れたのであった。

[6.101] 一方ペルシア船団はエレトリア領内のテメノス、コイレアイ、アイギレアに船を入れるや、直ちに馬を下船させ、戦闘準備を調えた。

対するエレトリアは出撃して戦うつもりはなかった。街を放棄しないという主張が優勢だったゆえ、できるだけ城壁を守ることに心を砕いていた。城壁は激しい攻撃にさらされ、六日にわたって双方ともに多数の死者を出した。七日目に至り、アルキマコスの子エウフォルボスとキネアスの子フィラグロスというエレトリアの有名人ふたりがペルシアに寝返った。

ペルシア軍は街に進入し、かつてサルディスの聖廟を焼かれた報復として、その聖廟を略奪し、焼き払った。加えて、ダリウスの命令のままに住民を奴隷に取った。

[6.102] エレトリア征服後、数日おいてペルシア軍はアッティカ地方に向けて出航した。その意気込みたるや、アテナイをエレトリアと同じ目に遭わせようと血気に逸っていた。

さてアッティカ地方のマラトン平原(39)が騎馬に最適な場所であることと、エレトリアにも近いという理由で、ペイシストラトスの子ヒッピアス(*)はここにペルシア軍を誘導していた。

(39)マラトンの戦場に関しては種々の疑問、議論がある。
(*)ペルシアに亡命していた。

[6.103] これを知ったアテナイもマラトンに向けて軍を進めた。率いたのは十人の司令官(ストラテゴス)で、十番目にはミルティアデスがいた。彼の父キモンはステサゴラスの息子だが、かつてヒポクラテスの子ペイシストラトスによってアテナイから国外追放されていたことがある。

キモンが追放されている期間に、かれは四頭立て戦車競技においてオリンピックで優勝したことがある。これによってキモンは腹違いの兄弟ミルティアデスと同じ勝利を獲得したことになる。そして翌年のオリンピック競技では同じ馬を駆って勝利したが、公式にはペイシストラトスを勝者とすることを容認した。そして勝利を譲ることでペイシストラトスと和解し、母国に復帰することを許されたのである。

しかしその後に開催されたオリンピック競技においても、かれは同じ馬を用いて優勝したのだが、すでに死亡していたペイシストラトスの息子たちに殺されてしまった。彼らは街の公会堂の近くで夜陰に乗じて刺客を待ち伏せさせ、キモンを殺害したのである。その亡骸(なきがら)は、街の前の「谷道」と呼ばれている道を越えた場所に埋葬されているが、三度のオリンピックで共に優勝した馬もその対面に埋められた。

ラコニア人のエバゴラスの馬たちも同じ偉業を成し遂げているが、同じ馬で三度優勝した例は、これ以外には例がない。

さてキモンの長男ステサゴラスはケルソネソスに住んでいたミルティアデスという叔父に養育されていたが、次男はアテナイでキモンの下にいた。この息子はケルソネソスの開拓者であるミルティアデスの名前をもらっている。

[6.104] アテナイの司令官は、ケルソネソスから帰還していた、このミルティアデスだったが、かれは二度までも死を免れていたのである。一度目は、かれを捕らえてダリウスの下へ連れて行くことが大きな功績になると考えたフェニキア人が、はるばるインブロス島までかれを追跡してきたたこと。

二度目は、これを振り切って母国に帰り、一難去ったと思った矢先に敵対勢力に遭遇したこと。この時は法廷に引き出され、ケルソネソスにおける専制の廉で訴追されたが、何とか有罪を免れたあとで市民から選ばれ、アテナイの司令官に任命されたのである。

[6.105] 司令官たちがまだアテナイの街にいる間に、まずフィリピデスを使者としてスパルタに送った。この男はアテナイ生まれで、長距離を走り抜くことに長けていて、それを仕事にしていた。

その彼自身が語ったことであるが、テガエの上にあるパルテノンの山中で牧羊神パンに出会ったときのアテナイに向けた伝言がある。

牧羊神パンはフィリピデスの名を大声で呼び、自分はアテナイのことを気に入っていて、これまで随分アテナイに尽力していて、これからもそうするつもりであるのに、アテナイ人はなぜ自分に気を遣わないのか訊いてくれ、と頼んだ

これを聞いたアテナイ人は、フィリピデスの言葉を信じ、平時になってからアクロポリスの麓にパンの聖廟を建立した。そしてそれ以来、毎年生贄を捧げ、たいまつ競争を開催して牧羊神パンを宥めている。

[6.106] フィリピデスがパンに出会ったことを語り、司令官たちから指令を受けてアテナイを出発した日の翌日には(40)、かれはスパルタにいた。かれは執政官たちの前に行って口上を伝えた。

(40)アテナイ・スパルタ間はおよそ二百四十粁。

「スパルタの方々よ、アテナイはお手前方に救いを求めております。どうかギリシアで最古の都市が異国人によって隷属させられるのを傍観なされませぬよう。エレトリアも今は隷属状態となってしまい、この有力都市を失ったことでギリシアはさらに弱体化しておりますぞ」

この口上を聞いたスパルタ人たちは、アテナイに救援を出すことを決めたが、すぐには出発できなかった。というのも彼らはスパルタの慣例を破ることに躊躇したからである。その日は月の出から九日目だったが、満月になるまでは出陣できないと彼らは言ったのである(41)。そしてスパルタは満月まで待った。

(41)スパルタのカルネイオス月(アッティカのメタゲイニオン月:現代の八月後半から九月前半)では、月の七日目から十五日目までは、アポロンを祭神とするカルネイアの祭礼が開かれる。

[6.107] 一方、ペルシア軍はペイシストラトスの子ヒッピアスに導かれてマラトンにやって来た。その前夜、かれは母親の腕に抱かれて寝ている夢を見た。

この夢によって、かれは追放を赦免され、アテナイに帰れるのではないかと思った。その地位を回復し、母国で老いて死を迎えるまで。この夢をかれはこう解釈した。さてかれは道案内としてエレトリアの奴隷たちをスティリア人の支配下にあるアエギリア島に上陸させたあと、マラトンの海岸まで船隊を進め、そこに投錨した。そして異国の兵士たちを上陸させて配置につけた。

これに取りかかっている最中に、かれはいつになくひどいくしゃみと咳に襲われた。かれは老齢だったため、殆どの歯が弛んでいたのだが、咳のために一本の歯が抜け落ちてしまったのである。それが砂の中に埋もれてしまったので懸命に探しはしたものの、結局見つからなかった。

かれは深く溜息をつき、近くに立っている者たちに言った。
「この国は我らの物ではない。我らはここを征服できぬだろう。ただし、かつてわれの取り分だった物は、わが歯が代わりに掴んでおるわ」
ヒッピアスが解釈した夢は、かくの如く現実となったのである。

[6.108] さてアテナイ軍がヘラクレスの神殿で隊列を整えている時、プラタイア人が全軍挙げて援軍に駆けつけた。かねてよりプラタイアはアテナイの傘下に入っており(42)、またアテナイはプラタイアのために多大な労苦を厭わなかったためである。その事情は次のとおりである。

(42)ツキジデスによればBC.519、グローテはそれより後の年代を提示している

かつてプラタイアがテーベから攻撃されていたとき、最初に、たまたまプラタイアに来ていたアナクサンドリデスの子クレオメネス率いるスパルタ軍に助けを求めたが、スパルタは承諾しなかった。その時の口上はこうだ。

「スパルタはプラタイアからあまりに遠いゆえ、我らの助けは間に合わぬであろう。貴国は我らが聞き知る前に何度も奴隷になるやもしれぬでな。それよりもアテナイに助けを求められるがよろしかろう。アテナイは貴国の隣国であるゆえ、悪いようにはせぬであろう」

スパルタ人はこう助言したが、これはプラタイアに対する温情からではなく、アテナイとボイオティアとの紛争を期待してのことであった。

プラタイアはこの助言に従ったが、アテナイが十二神(43)に生贄を捧げる儀式を行なったとき、彼らは祈願者として祭壇に座ることでアテナイの傘下に入ったのである。このことをテーベが知るとすぐにプラタイアに進軍して来たが、アテナイは助けにやって来た。

(43)ゼウス、ヘラ、ポセイドン、デメテル、アポロ、アルテミス、ヘファエストス、アテナ、アレス、アフロディテ、ヘルメス、ヘスティアの十二神。「βωμὸς =vomos 祭壇」はアゴラの中央にあり、そこからの距離が計測された

両者が戦端を開こうとしたとき、ちょうど居合わせたコリント人たちがそれを止め、和解を提案した。両者はコリント人の仲裁を受け入れ、その結果、ボイオティアに帰属したくない者については、テーベはこれを咎めないという条件の下で、国の境界を確定した。この決定を提案してからコリント人たちは出発した。そしてアテナイ人が帰国の途についたとき、ボイオティアはこれを攻撃したものの、戦いには負けてしまった。

アテナイ軍は、コリント人がプラタイアのために裁定した国境を越えて進軍し、テーベとプラタイアおよびヒシアとの国境はアソポス河であると決めたのである。このような事情からプラタイアは先のごとくアテナイの傘下に入り、いまマラトンに援軍を送ってきたのである。

[6.109] ところで、アテナイ軍内では司令官(ストラテゴス)同士の意見がちょうど二つに分かれていた。ペルシアの軍勢に対し、アテナイ側はあまりに少数であるゆえの不戦派と、ミルティアデスを含む主戦派である。

かくして意見は対立し、しかも拙劣な意見の方が優勢だった。そこでアテナイでは慣例に従い、軍の意見が二分した時に、最後の一票を投じる十一人目の軍長官(Polemarch)(44)を抽選によって選出することになった。この時の軍長官はアフィドナイの人カリマコスだったが、ミルティアデスはかれに言った。

(44)九人のアルコンから抽選によって選ばれる。

「カリマコスよ、アテナイが隷属するか、自由の身となるかは貴殿の決断にかかっている。ゆえに後世のためにも、ハルモディウスやアリストゲイトンでさえ、なしえなかった名声を残すべきだ。アテナイは未だかつてない危機に見舞われており、万一降伏すれば、ヒッピアスの圧政に苦しめられること必定である。逆にアテナイが勝てば、ギリシア都市国家の中で筆頭の地位を獲得するだろう」

「そのために何をなすべきか、また貴殿に課せられている問題を如何に決断すべきか、貴殿に申し上げたい。いま十名の司令官は主戦派と非戦派に別れている」

「いま戦いを避けたなら。アテナイに大きな紛争が起き、その士気にも動揺が拡がり、そしてやがてはペルシアに屈することになるだろう。逆に、不埒な考えがアテナイ市民に蔓延する前に戦いを仕掛けたなら、神が公正である限り、勝てるだろう」

「これら全てが貴殿にかかっているのだ。わが輩に票を投じたなら、貴殿の国は自由となり、またギリシアで第一の国となるだろう。万一非戦に票を投じたなら、わが輩が数え上げた栄光の結末と逆のことが到来するだろう」

[6.110] この言説によってミルティアデスはカリマコスを説き伏せ、軍長官の票を獲得したことで、開戦が決定された。その後、開戦に賛成した司令官たちは総司令官の順番が巡ってくると(45)(*)、ミルティアデスにその席を譲った。かれはそれを引き受けたが、本来の自分の順番が巡ってくるまで攻撃を開始しなかった。

(45)総司令官は各司令官が一日交替で順番に担当した。
(*)塩野七生氏(ギリシア人の物語Ⅰ)によれば、四日ごととされている。
(*)それにしても戦闘時にも総司令官を輪番制にするとは、 どこぞの国の「お手々つないで皆でゴール」を想起して嗤ってしまうが、 さすがに国家存亡時にはまづいと思うくらいの常識は、 持ち合わせていたものとみえる。

[6.111] 総司令官の番が回って来ると、ミルティアデスは戦闘隊形を調えた。まず軍長官のカリマコスを右翼司令官に指定した。アテナイの慣習では、軍長官は右翼を担当することになっているのである。これに続いて各地区(トリブス*)からの部隊が順に配置され(46)、プラタイアからの部隊は最後に配置につき、左翼を担った。

(46)行政区の順は決まっていたが、プルタークの戦記では別の順で配置されたとしている。おそらく籤で配置を決めたのだろう
(*)原意は「部族」だが、この頃のアテナイは「行政区」となっていた。

この戦いのあと、アテナイで四年目ごとに開かれる祝祭(47)における生贄儀式では、アテナイの使者はアテナイとプラタイアのための吉事を祈願することになったのである。

(47)大パナテナイア祭とポセイドン祭

マラトンでのアテナイ軍は、その陣の幅をペルシアの陣形幅と同じに取った。ただし、中央部では兵士は数列の奥行きしかなく、最も手薄だったが、代わりに両翼は兵士の数を増やし、厚く布陣した。
*ギリシアとペルシアの布陣

[6.112] 戦闘配置が完了し、生贄儀式も吉と出たので、アテナイ軍は駆け足で敵陣に突撃した。この時の両陣営の距離は少なくとも八スタディア(*)はあった。

(*)180m×8≒[6.1] 4Km

ペルシア軍は敵が駆け足で向かってくるのを見て、それに備えたが、アテナイ軍は完全に狂っていると見た。というのも兵士の人数が少ない上に走るのが速く、騎馬隊や弓手隊さえ伴っていなかったからである。

ペルシア軍はこのように見て取ったが、いざアテナイ軍が一斉にペルシア軍に襲いかかったとき、後世に伝えるべき画期的な戦法を採ったのである。我らが知る限り、駆け足戦法を用いたのは、このギリシア兵が初めてである。またペルシアの衣服や、それを着用している兵士を見ても怯むことがなかったのも、この時のアテナイ兵が初めてだった。それまでは、ペルシア人の名前を耳にするだけでもギリシア人は震えあがっていたのである。

[6.113] マラトン平原での戦闘は長時間になった。戦線の中央ではペルシア人とサカイ人(*)を配した部隊が優勢だった。このペルシア部隊は相手を押し込み、内陸に向けて進んだ。しかし両翼のアテナイ軍とプラタイア軍は敵を圧倒していた。

(*)イラン高原北部の部族

勝っている両翼では、総崩れとなった敵兵が敗走するのは追わず、押し込まれていた中央部で合流し、敵を攻撃した。そして勝ったアテナイ軍は、敗走するペルシア兵を追跡して斃した。海岸まで追いかけたアテナイ軍は灯りを探し求めてペルシア船団を捕獲した。

[6.114] この戦闘では、軍長官のカリマコスが勇敢に戦って戦死し、司令官の一人でティサシラウスの子ステシラウスも戦死した。エウフォリオンの子キナエゲイロス(48)は敵船の船尾飾りを掴んだところ、その腕を斧で切断されて死んだ。その他多くの著名なアテナイ人が、この戦闘で戦死した。

(48)悲劇作家アイスキュロスの兄弟。アイスキュロスも参戦した。

[6.115] 結局、アテナイ軍は七隻の船を捕獲した。他のペルシア船は岸から離れ、以前島に預けていたエレトリアの奴隷を引き取ったあと、アテナイ軍よりも先にアテナイの街に到達するつもりで、スニオン岬を回る航路を取った。ただ、この後のアテナイでは、アルクメオン家の陰謀によって、ペルシア軍がこの行動を取ったのだという告発騒ぎが起きた。当該家の者がペルシア軍が乗っている船に向けて、盾を掲げて合図をしたというのである。

[6.116] ペルシア船団がスニオン岬を回っているとき、アテナイ軍は街を守るべく、できる限り速く行軍したので、敵軍よりも早く街にたどり着いた(*1)。そしてギリシア軍はマラトンにあるヘラクレス聖廟に陣を設営していたので、今回もキノサルゲスにあるヘラクレス聖廟に陣取った。一方ペルシア軍は、その当時アテナイの軍港だったファレロン沖に到着して投錨したが、暫く碇泊した後に出航し、アジアに帰っていった(*2)。

(*1)ペルシア軍にはまだ手つかずの兵が一万残っていた。この軍勢とマラトンの生き残りとが合流して、女と子供だけで兵士がいないアテナイを急襲する恐れがあったので、アテナイ軍は帰国を急がねばならなかった。

(*2)なぜペルシア軍はアテナイを攻撃せずに撤退したのか理由は不明。塩野七生氏の説では、ペルシアの二将軍の官僚的な気質がそうさせた、ということである。つまり、さらなる失敗を怖れ、取りあえずはエレトリア征服と奴隷という成果をダリウスへ持ち帰ることで、自らの安泰を図ったということらしい。それにしてもヘロドトスの調査力(ヒストリアイ)がこの場には及ばなかったということか。他の場面では、ペルシアの内部事情についてやたら詳しいのだが。ここは「どうした、ヘロドトス」と野次が飛ぶところである。尤も、ダティスとアルタフェルネスが、身の回りの雑用をこなす奴隷身分の従者たちを完全に排除し、文字通り二人きりの密談を行なったとしたら、その内容は決して外部には漏れないだろう。

[6.117] マラトンの戦闘ではペルシア軍の戦死者は六千四百名で、アテナイ軍は百九十二名だった。これが双方の戦死者数である(*)。

(*)マラトンでのペルシア側の軍勢は一万五千、アテナイ側の軍勢は一万---塩野七生著「ギリシア人の物語Ⅰ」参照。

(*)近代オリンピックのマラソン競技は、この地の名前に由来することはあまりに有名。マラトンでの勝利の報をできるだけ早く祖国に知らせるべく、一人の兵士がマラトンの平原(およそ三十六Km)を突切って走りきり、アテナイに勝利を知らせた直後に絶命したという逸話が伝えられているが、本書には記載されていない。どうやら後からつけ足された架空の話らしい。本巻105節に登場する韋駄天フィリピデスの話と混同している人もあるようだ。

(*)その後の調査結果;プルターク(PlutarchまたはPlutarchus;46年~48年頃ー127年頃、言わずもがな、対比列伝、または英雄伝の著者)の倫理論集(Moralia;世界最古の随想録)中、(De gloria Atheniensiumアテナイびとの名声は戦によるか、知によるか?)の巻に当の記述を見つけた。それによると、

(*)「マラトン勝利の報せを最初にもたらしたのはエラエオダイ(Eroeadae)の テラシッポス(Thersippus)であると、ポントス(Pontus)のヘラクレイドス(Heracleides)は伝えているが、大方の史家の伝えるところでは、完全武装の上、 戦闘で気が激したまま走り続けたのはエウクレス(Eucles)という兵士で、 この男はアテナイについて最初に目についた家の扉を開けて倒れ込むと、 次の言葉だけを口走って息絶えた、ということである。"神は我らを救へり。我らが勝った。"」 このあとは歴史家の置かれている状況に話が移り、この逸話の真偽について言及していない。

ところで、マラトンでは次のような不思議な出来事があった。クファゴラスの子エピゼロスは勇敢に戦っていたが、身体のどこも殴られたり叩かれたりしていないのに眼が見えなくなり、その後の生涯はずっと盲目のままだったということである。

かれがこの不運な話をしているのを聞くところによると、背の高い戦士が自分に向かってくるのに気づき、そしてその戦士の巨大な顎髭が自分の盾に覆い被さったと思った刹那、その幻が自分をやり過ごし、傍にいる戦士を斃した、ということである。これがエピゼロスの語ったことである。

[6.118] さて、ダティスは麾下の軍をアジアに進めた。ミコノス島に到着し、寝ているときにある夢を見た。その夢がどんな内容であるかは不明だが、夜が明けるとすぐに船団を捜索させた。そしてフェニキア船内に金張りのアポロ像を発見し、それをどこで略奪したのかを質した。その略奪した聖廟を聞いたのち、自分の船でデロスに向かった。

デロス人はその時には自分の島に戻っていたが、ダティスは先の神像を聖廟に設置し、カルキスの対岸にあるテーベ領のデリオンにこれを戻すよう命令した.

ダティスはこう命じてから船で去ったが、デロス人はその神像を戻さなかった。それからはるか二十年後に、ようやく神託に従ってテーベ人がデリオンにその神像を戻したのである。

[6.119] ダティスとアルタフェルネスは船でアジアに到着すると、エレトリアの奴隷たちを内陸のスサに連行した。

エレトリア人が捕囚される以前、ペルシアが挑発していないのに彼らがダリウスに災悪を及ぼしたとして、大王は激怒していた。しかし王の面前に引き出され、服従している彼らを見ても、王は彼らに危害を加えることなく、キッシア地方のアンデリッカという街に住まわせた。この場所はスサから二百十スタディア(180m×210≒38Km)離れており、三種の物質を産する井戸からは40スタディア(180m×40≒[6.7] 2Km)離れている。

その井戸からは、アスファルトと塩、油が以下の要領で産出される。引き上げには釣瓶を用いる。籠の代わりに半分に切った革袋を釣瓶に縛りつけ、それを井戸に下ろして液体を汲み上げ、溜め池に注ぐ。その後は三種の工程を経て別の容器に移すのである。アスファルトと塩はすぐに凝固する。ペルシア人がラディナケと呼んでいる油(49)は黒色で悪臭を放っている(*)。

(49)石油のこと
(*)この節の記述は極めて不明瞭。上流階級に属するヘロドトスにとっては、現場の汚れ仕事の作業内容はチンプンカンプンだったことであろう。また大昔のことゆえ、物理化学的な知識も乏しかったにちがいない。

ダリウスはそこにエレトリア人を住まわせ、彼らは当時の古い言語のままで、今現在までそこに定住している。エレトリア人については以上である。

[6.120] さて、満月を迎えてからスパルタ軍がアテナイに向けて出発した。急ぎに急ぎ、アッティカに到着したのはスパルタを発してから三日後だった。戦闘には間に合わなかったが、ペルシア人を見たかったので、彼らはマラトンに行き、その姿を見た。そしてアテナイ人と、その勲功を賞賛し、帰国した。

[6.121] ところで私には次のことが不思議で、とても信じられないのだ。アルクメオン家が、アテナイをペルシアとヒッピアスに屈服させようとして、ペルシア船団に向けて盾を掲げて合図を送ったと報じられていることである。この一家はカリアス(ファエニポスの子で、ヒポニコスの父)と同じく、あるいはそれ以上に明らかな反僭主派であるゆえに。

ペイシストラトスがアテナイから追放されたあと、その財産を国が売り出したとき、敢えてそれを買い取ったのが、アテナイでただ一人、カリアスだった。またかれはペイシストラトスに対してさまざまな敵対行為を行なっている。

[6.122] (50)このカリアスという男は、種々の理由であらゆる人が記憶に止めておくべき人物である。第一に、母国の開放に大いに貢献したことはすでに述べたとおりである。二番目に、オリンピアでの功績がある。ここでかれは競馬で優勝し、四頭立て戦車競技で二位を獲得し、それ以前にピュティア競技でも優勝している。その他、気前のよい派手な金遣いにかけてはギリシア中で注目の的だった。

(50)本節は後に挿入されたと見なされている。ヘロドトスの文体、文脈とは異なる。

そして三番目は、三人の娘に対して大きな寛容を見せたこと。娘たちが婚期に達すると、多大な持参金をそれぞれに与え、その上、アテナイ中で娘がこれと選んだ相手に嫁がせたのである。

[6.123] アルクメオン家がカリアスに負けず劣らず僭主嫌いだったので、盾を掲げて合図をしたという告発が、私には不可解であるし、信じられない。この一族は僭主制が続いている期間はずっと亡命していたし、ペイシストラトスの息子たちを僭主の地位から追い落とす策略を練ったのも彼らなのであるから。

私の評するところでは、アテナイの解放に貢献したのは、ハルモディウスやアリストゲイトンよりアルクメオン家の方がはるかに大である。というのは、この両人はヒッパルコスを暗殺することでペイシストラトスの残党を憤激させただけであり、僭主制の廃止には何の貢献もしなかった。ところが以前述べたごとく、アテナイを解放せよという神託を、スパルタ人に向けて下すよう巫女を説き伏せたのが真に彼らであるなら、アルクメオン家は明らかに母国の開放に貢献しているのだ。

[6.124] おそらくアテナイの人々に対する怨恨から彼らは母国を裏切ったのであろう、と言われるかもしれない。しかしアテナイでは、この一族ほど尊敬され、誉れ高い家柄はないのだ。

従って、彼らがそのようなことで盾を掲げて合図したかもしれないということを信じる理由は何もない。しかし、盾を掲げて合図したという事実は否定できない。誰の仕業かということに関しては、これ以上何も言えない。

[6.125] アテナイでは、アルクメオン家は昔から高名な家柄だったが、アルクオン(51)とメガクレスの時代に、その名声が高まったのである。

(51)アルクメオンの最盛期はBC.590、クロイソスの在世はBC560-546。このアルクメオンはアルクメオンの子メガクレスのことで、クロイソスと同時代のアルクメオンではない。

クロイソス(*)によって命じられ、サルディスからリディア人一行がデルフォイの神託を求めてやって来たとき、メガクレスの子アルクメオンが熱心に彼らに尽くして働いたことがある。そのことを一行から聞いたクロイソスは、かれをサルディスに招待した。そして一時に一人で運べるだけの金を贈呈しようと言った。

(*)リディア王国の最後の王(BC595-547頃?)。莫大な富を保有していることで有名を馳せたが最後はペルシアに敗北

贈呈品の特徴を熟慮したあとで、アルクメオンは次の手を使った。大きな衣服(チュニック)をまとい、それに深い折り目を作った。そして身の回りにある中で最も大きなブーツを履き、導かれて宝物庫に入った。

かれは砂金の山に倒れ込み、最初にブーツの隙間に入れられる限りの砂金を詰め込んだ。それからチュニックの折り目に砂金を満たし、頭髪も砂金まみれにし、口の中にも砂金を含んだ。宝物庫から出てきた時には、重いブーツを引きずりながら歩くのがやっとの体で、口を一杯に膨らませ、全身が膨れあがっているので、人間というより何か別の生き物のように見えた。

それを見たクロイソスは爆笑し、アルクメオンが身につけている金をそのまま与えた上、さらにそれ以上を贈り物として与えた。かくしてこの一家は大変な資産家となり、アルクメオンは四頭立て馬車を保有するに至り、オリンピアで優勝したのである。

[6.126] 次の世代となるシキオンの僭主クレイステネス(52)が、さらに家名を高め、その一族は以前にも増してギリシアで有名になった。アリストニモスを父に、ミュロンを祖父に、アンドレアスを曾祖父に持つクレイステネスにはアガリステという娘がいたが、かれはこの娘をギリシア中で最高の男に嫁がせたいと思っていた。

(52)かれはアルクメオンの同時代人。

ちょうどオリンピア競技の開催中だった。かれは四頭立て戦車競技で優勝したときに、次の布告を掲げた。
「ギリシア人の中で、我こそはクレイステネスの婿にふさわしいと思う者は、本日より六十日以内にシキオンに来たれ、さればその六十日後から一年以内にクレイステネスは我が娘との婚儀を執り行なうであろう」

その後、我こそはと思う者や、その出自に誇りを持つギリシア人が求婚者として陸続とやって来た。そこで、彼らの力量を試すために、クレイステネスは陸上競技場と闘技場まで用意した。

[6.127] イタリアからは、ヒポクラテスの子スミンディリデスがシバリスの街からやって来た。かれは当時シバリスでは最も富裕な一族に属していて、またシバリスというのは最も繁栄している街だった。またシリスからは賢者と尊称されていたアミリスの子ダマソスがやって来た。以上がイタリアからの参加者。

イオニア沿岸からは、エミストロファスの子アミフィネストスがエピダムノスの街からやって来た。アエトリアからは、ギリシア中で最も剛力と謳われながら、世間との接触を断つためにアエトリアの最も遠い僻地に隠棲していたティトルムスの兄弟で、マレスという者が来た。

ペロポネソスからは、アルゴスの僭主フェイドンの子レオケデスが来た。このフェイドンというのは、ペロポネソス諸国の度量衡(53)を制定した人物であるが、ギリシア人の中では最も傲慢不遜なことしでかしている。こ奴はエリス人の競技審判を追放し、みずからオリンピア競技を開催したのである。こんな男の息子も来ている。アルカディアからはリクルゴスの子アミアントスがトラペゾスの街から来た。アゼニア地方のパイオスの町からは、エウフォリオンの子ラファネスが来た。アルカディア地方の伝説では、エウフォリオンというのはディオスクロイ(*)を客として屋敷に迎えたことがあり、それ以来どんな人にも自分の屋敷を開放したと伝えられている。エリスからはアガイオスの子オノマストスが来た。これがペロポネソスからの参加者である。

(53)「アイギナの度量衡」のこと。かれに関する記述には年代に無理がある。
(*)ゼウスとレダに生まれた双子の息子カストルとポラックス。

アテナイからは、クロイソスに行ったアルクメオンの子メガクレスと、ティサンドロスの子で、アテナイでは並ぶ者なき富と美貌の持ち主ヒポクレイデス。その当時は繁栄していたエレトリアからはリサニアス。かれはエウボエアからは唯一の参加者。テッサリアからはクランノンのスコパダイ家のディアクトリデス。モロッシア地方からはアルコン。以上が求婚者の面々であった。

[6.128] 指定された日に彼らがやってくると、クレイステネスはまずそれぞれの生国と家系を質した。その後は彼らを傍におき、一年かけてその凛々しさ、気性、躾、生活態度を観察したのである。かれは個別に接したり、集団で交わったりし、また若年の参加者は競技場に連れて行ったりもしたが、特に注意してみたのが会食時の品行だった。そして彼らが傍にいる間はずっと、あらゆることを試し、また盛大にもてなしたのである。

最も気に入った求婚者はアテナイ出身でティサンドロスの子ヒポクレイデスだった。その凛々しさと、祖先がコリントのキプセロス家に繋がっているというのが理由である。

[6.129] 婚儀の期日が迫り、クレイステネスが選んだ人物を発表する日が迫ってくると、かれは百頭の牡牛を生贄に捧げ、求婚者たちとシキオンの全市民を招いて宴を開いた。

宴の後は求婚者たちが競い合って音楽に興じたり、面白い話を披露した。酒が進んだところで、ヒポクレイデスはすでに他の者たちよりも目立っていたが、笛吹きに舞踊曲を吹くよう命じた。そしてかれは曲に合わせて踊り始めた。おそらく本人は自分の踊りに満足していたのであろうが、クレイステネスは興ざめの体でこれを眺めていた。

それからヒポクレイデスは踊りをしばらく中断し、テーブルを持ってくるよう命じた。そしてテーブルが来ると、最初にその上でラコニア風に踊り、次にアッティカ風に踊った。最後にテーブルに頭をつけて逆立ちし、両脚を宙に振り回して踊った。

クレイステネスは最初と二番目の踊りを見て、この若者は娘婿にふさわしくないと思った。ヒポクレイデスの踊りと、はしたなさに失望したのである。しかしクレイステネスはヒポクレイデスに怒りを爆発させることなく我慢していた。そして両脚の踊りを見るにおよび、ついに黙っていられなくなって叫んだ。
「ティサンドロスの息子よ、君は婚儀も蹴り飛ばしたぞ」
相手は返して言う。
「ヒポクレイデスの知ったことか!」
それ以後、このセリフは流行語になった。

[6.130] クレイステネスは静粛を命じ、全員に話しかけた。

「求婚者諸君、君たち全員に感謝する。できることなら諸君全員の願いをかなえてやりたいものだ。諸君の中から一人を選ぶことも、それ以外の者を失望させることもせずに」

「とはいえ、私の娘は一人しかいないゆえ、諸君全員を満足させることはできぬ相談だ。そこで選から漏れた者には、それぞれに銀一タラントン(*)を進呈しよう。わが家系から伴侶をえようと望み、母国から離れて逗留してくれた代償としてな。それからアルクメオンの子メガクレスを、アテナイの法に従ってわが娘アガリステの婚約者とする」そしてメガクレスは婚約を承諾し、クレイステネスは婚儀を荘重に執り行なった。

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

[6.131] 以上が求婚者選別のいきさつである。そしてこれによりアルクメオン家の名声はギリシア中に鳴り響くこととなった。またこの結婚によってクレイステネスが生まれたが、その名はキシオン人である母方の祖父の名を継いでいる。このクレイステネスは、アテナイにトリブスという行政区と民主制を確立した人物である。

メガクレスにはクレイステネスのほかにヒポクラテスという息子がいた。このヒポクラテスには別のメガクレスと別のアガリステという子がいたが、娘の方はクレイステネスの娘の名を継いでいる。この娘はアリフロンの子クサンチッポスに嫁ぎ、妊娠した時にライオンを産む夢を見た。その数日後にクサンチッポスの息子ペリクレスが生まれたのである。

[6.132] マラトンでペルシア戦に圧勝したあと、アテナイでのミルティアデスの名声は以前にも増して高まるばかりだった。そしてかれは七十隻の船と軍隊、それと軍資金を要求した。ただしどこの国を攻めるかは明かさず、自分に従ってくれるならアテナイに富を持たらすと言って。かれは大量の金を運びやすい国に進軍するつもりだったが、ミルティアデスの言説でその気になったアテナイ市民は、彼の要求を受けたのである。

[6.133] ミルティアデスは軍を受け取るとパロスに向かった。その訳は、この国がマラトンに向かうペルシア軍に三層櫂ガレー船で加わり、最初にアテナイを攻撃したから、というものだった。しかしかれはパロス人に怨恨を抱いており、それはパロス出身でティシアスの子リサゴラスがペルシアのヒダルネス将軍に彼のことを讒訴(ざんそ)していたからである。

さて目的地に着くと、ミルティアデス麾下の軍はパロス人を城壁内に追いやり、城壁を包囲した。かれは使者を送って百タラントン(*)を要求し、この支払いに応じなければ、街を破壊し尽くすまで軍を帰国させるつもりはない、と伝えさせた。

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

パロス側はミルティアデスに一銭も払うつもりはなかったので、街の防御策を練った。そして攻撃を受けやすい城壁の箇所は、夜のうちに以前の二倍の高さにしたり、その他さまざまな方策を用いた。

[6.134] ここまでは全てのギリシア人が同工異曲のことを伝えているが、これ以降はパロス人自身による伝である。さてミルティアデスが攻撃の方途に暮れている時、捕らわれていた一人の女がかれに面会を求めた。この女はティモといい、パロス生まれで黄泉の国の女神に仕える準巫女だった。彼女は、パロス攻略がそれほど重要であるなら、自分の助言に従うがよい、と進言したのである。その助言に従い、かれは街の前の丘を通り抜け、立法者デメテルの聖廟へ行き、扉が閉まっていたので、柵を跳び越えて中に入った。そして聖堂に行き、何かをしようとした。動かしてはならぬ神器を盗ろうとしたのか、何か他のことをするつもりだったのか。扉に手をかけた刹那、かれは恐怖に襲われ、急ぎ同じ経路をたどって引き返した。そして壁から飛び降りたときに、太ももを捻ったとも、膝を強打したとも言われている。

[6.135] かくしてミルティアデスはアテナイに金を持ち帰ることもせず、パロスを征服もせず、尾羽打ち枯らして帰還した。ただ二十六日間にわたり街を包囲し、パロスの島を荒らし回っただけであった。

一方、女神に仕える準巫女のティモが、ミルティアデスの道案内をしたことを知ったパロス人は、これを咎めて彼女を罰しようとした。街の包囲が解かれてから、デルフォイに使者を送り、母国を敵の手に落とす手助けをし、男が知るべきでない神儀をミルティアデスに明かした罪で準巫女を死刑に処すべきかどうかの伺いを立てた。

ところが巫女は彼らを制止して告げた。ティモに責任はない。ミルティアデスは破滅する運命なのじゃ。ティモはかれを破滅に導くために使わされたのだ、と。これがパロス人に向けた巫女の神託だった。

[6.136] パロスから帰還したミルティアデスについては、アテナイでさまざま話題になったが、特にアリフトンの子クサンティッポスは、ミルティアデスがアテナイ人を欺いたという罪で市民集会にかれを告訴し、死罪を求めた。

ミルティアデスは出頭はしたが、太股の傷が化膿し始めていたために弁明できず、法廷に持ち込まれた寝台に横たわったままだった。代わりに彼の友人たちが弁明に立ち、入れ替わり立ち替わりマラトン戦やレムノス征服のことを持ち出し、かれがいかにしてペラスゴイ人を斃し、レムノスを攻略してアテナイに従属させたかを取り上げて弁護した。

その結果、市民集会はかれに死刑の判決を下さないことには賛成したが、その罪に対しては五十タラントン(*)の罰金を科した。ミルティアデスは間もなく太股の壊疽と腐敗によって死んだので、五十タラントンは息子のキモンが支払った。

(*)1タラントン=金にして約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

[6.137] 右に出てきたミルティアデスによるレムノス攻略の話は、次のとおりである。ペラスゴイ人(54)がアテナイによってアッティカ地方から追放されたとき、それの正邪については、伝えられていること以外、話せることはないが、ヘゲサンドロスの子ヘカタイオスによる歴史書では、これは不当なものだったと記している。

(54)トロイ戦争の六十年後に、ペラスゴイ人はボイオティア人によってアッティカ地方に追いやられたという伝説がある。

それによれば、その昔アテナイ人はアクロポリスを囲む城壁を築造した報償として、ヒメトスの麓の地をペラスゴイ人に居住地として与えたことがあった。その後アテナイ人は、その地が以前は地味が悪く、役立たずだったのが、肥沃な土地に耕作されているのを見て、それを妬み、その地を横取りしようとした。そして何の理由もなく、この地からペラスゴイ人を放逐したのである。

しかしアテナイ人自身は、ペラスゴイ人の追放は正当な理由によるものであると語っている。ペラスゴイ人はヒメトスの麓での定住に着手したが、アテナイ人に次のような暴虐を働いたというのである。その当時、アテナイにも他のギリシア諸国にも奴隷はいなかったので、子女たちが九つの井戸と呼ばれているエネアクロノスの泉(55)に水汲みに行くのが習わしだった。ところが彼らはアテナイ人に対する蔑視とうぬぼれから、水汲みに来た娘たちを暴行していたのだ。そして彼らはそれに満足することなく、ついにはアテナイを攻撃することを目論んだのである。

(55)アテナイの南東方でイリソスの近く。

アテナイ人はペラスゴイ人よりはずっと崇高だったので、策謀に加わった者たちを殺すこともできたのに、それをせず、国外追放に処しただけなのである。そしてペラスゴイ人は、かの地を離れてレムノス、その他の地に移り住んだのである。以上がアテナイ人の伝えるところで、先の話がヘカタイオスの伝である。

[6.138] レムノスに定住したペラスゴイ人は、アテナイに報復することを願っていた。彼らはアテナイの祝祭の時期を熟知していたので、五十本の櫂を備えた船を数隻入手し、ブラウロンのアルテミス女神の祝祭に出かけるアテナイの女たちを捕らえるべく待ち伏せした。そして大勢の女たちを捕らえた後、船でレムノスに連れ帰り、妾とした。

その後、この女たちが産んだ子は徐々に増えていったが、彼女たちは息子たちにはアッティカ語とアテナイの風習を教えた。そしてこの少年たちはペラスゴイ人の女から生まれた息子たちとは交わろうとしなかった。それに加えて、仲間の一人が相手側の誰かにぶたれた時には、全員が助太刀に行き、お互いを助け合った。そしてこの少年たちは相手側の少年たちを支配するのを当然と考えており、大いに幅をきかせていたのである。

この事態を見ていたペラスゴイ人は鳩首協議におよび、そのうちに次のことを考えついて恐怖に襲われた。というのは、この少年らが正妻の子に対して互いに助け合う気持ちを固めていて、早くも子供らに君臨しようとしているなら、大人になった時に何をしでかすだろうか、と。

そこでペラスゴイ人はアッティカ女の子供らを亡き者にすると決め、その通りに実行したあと、その母親たちをも殺害してしまった。この事件と、それ以前に起きたトアース神をはじめ、夫を殺した女たちの事件とを指して「レムノス事件」と呼ぶようになり、以後この言葉が、ギリシアでは悲惨な事件を称する時の慣用句となった。

[6.139] ところがペラスゴイ人が自身の息子や女たちを殺害してからは、彼らの領土は荒廃して実りがなくなり、妻や、羊、牛も以前のようには子供ができなくなった。飢餓と不妊に苦しんだ末、今の苦境から抜け出す方法を伺うために、彼らはデルフォイに使者を立てた。

デルフォイの巫女は、アテナイ人の要求するとおりに報いを果たせ、と彼らに告げた。そこでペラスゴイ人らはアテナイを訪れ、自身の暴虐に対する償いをしたいと申し出た。

アテナイ人たちは公会堂に寝椅子(カウチ)を持ち込み、それを可能な限りきらびやかに飾り付け、その横にテーブルをおいて山海の珍味で山盛りにした。そしてペラスゴイ人に命じた。お前たちの領地をこれと同じ状態にして我らに譲り渡せ、と。

ペラスゴイ人が答えて曰く、「貴殿の国から北風に乗って我らの国まで船で一日で到達できるなら、わが地を譲り渡すことにしよう」アッティカから南のレムノスまでははるか彼方であるので、そんなことは不可能であると彼らは知っていて、こんなことを言ったのだ。この時は、それで話は終わった。

[6.140] それからはるか後年、ヘレスポントスのケルソネソスがアテナイに征服されたとき、キモンの子ミルティアデスが北から吹く夏の季節風(56)に乗って、ケルソネソスのエラエウスからレムノスへ船でやって来た。そして、ペラスゴイ人が絶対に実現できないと思っていた神託を持ち出して、彼らにレムロスから退去せよと宣告した。

(56)七月から九月にかけて吹く北東の季節風。

ヘファエスティア人はそれに従ったが、ミリナイ人は、ケルソネソスはアッティカの領土であると認めなかったので、それに従わなかった。しかし包囲され、攻撃された結果、最後にはこれも服従した。かくしてミルティアデスとアテナイはレムノスを占領したのである。


第七巻

[7.1] マラトンの戦いの知らせがヒスタスペスの子ダリウスのもとへ届くと、それ以前にもアテナイがサルディスを攻撃したことで大いに怒りを募らせていた大王は、それに輪をかけて怒り、ギリシアに向けて遠征軍を派遣しようと気を逸らせた。

王は直ちに全ての属国に使者を送り、以前よりも多くの船、馬、食糧、輸送船を供出するよう命じた。その後の三年は(1)、アジア諸国はこの指令に振り回され、ギリシア征討の準備を調えたり、優秀な人民を徴兵したり、大わらわとなった。

(1)BC.489-487

そしてまたカンビュセス王に征服されていたエジプト人が、四年目にペルシアに叛旗を翻したので、ダリウスはさらに気負い立ち、両方に遠征軍を派遣することとなった。

[7.2] ところがダリウスがエジプトとアテナイに遠征準備をしている最中、王子たちの間で大きな国内の勢力争いが起きた。王子たちは、ペルシアの法に則り、王が進軍を開始する前に後継者を指名するよう、主張した。

ダリウスには、王位につく前、ゴブリアスの娘との間に三人の息子が生まれている。そして王位についたあと、キュロスの娘アトッサとの間に四人の子供が生まれている。最初の夫人との間に生まれた長子はアルトバザネスで、後の夫人との間に生まれた長子がクセルクセスであった。そして腹違いの息子たちは敵対していたのである。

アルトバザネスは、ダリウスの子供全員の中で、自分が最年長であるゆえ、その者が王位を継承するのが、世の慣習であると主張した。対するクセルクセスは、自分はキュロスの娘アトッサの息子であり、ペルシア人の自由を勝ち取ったのは誰あろうキュロスであると主張した。

[7.3] ダリウスが後継を決めかねているところへ、ちょうどアリストンの子デマラトスが、スパルタの王位を剥奪されたあと亡命してスサにやって来た。

ダリウスの王子たちのもめ事を知ったデマラトスは、伝えられているところでは、クセルクセスのもとへ行き、自分の言うことを付け加えて主張するべしと助言したそうである。すなわち、自分はダリウスが王となり、ペルシアの支配者となってから生まれたのであって、アルトバザネスはダリウスがまだ臣下の時に生まれたのだ。従って自分の前には誰一人として王位継承の優先権を有する者はいない、と

デマラトスはこうも示唆した。スパルタにおいても、父が王につく前に生まれた息子たちと、父が王についた後に生まれた息子たちがいる場合には、王位継承権は後に生まれた方にある、と。

クセルクセスはデマラトスの助言に従って主張した結果、ダリウスはその言を入れ、かれを次の王に指名した。しかし私の考えでは、デマラトスの助言がなくともクセルクセスは王位についたであろう。実母のアトッサが絶大な力を誇っていたので。

[7.4] クセルクセスを次の王に指名してから、ダリウスは遠征軍の出発に専心した。しかしこのあとエジプトの反乱が始まった翌年、出発準備の最中にダリウスに死が訪れた。在位三十六年(2)、反乱したエジプト、アテナイを討伐することは叶わなかった。

(2)BC.521-BC.485

[7.5] ダリウスの死後、王位は息子のクセルクセスが継いだ。当初、かれはギリシア遠征には乗り気ではなく、エジプトに進軍するつもりで軍を招集していた。ところがゴブリアスの子でダリウスの姉妹の子、すなわちクセルクセスの従兄弟に当たるマルドニオスが王のそばに仕えており、この者がペルシア人の中で最も強い影響を王に与えていた。そして王に進言すること次のごとし。

「お上、アテナイ人の所行、とりわけペルシア人に対する悪行に罰を下されぬのは不当でござりまするぞ。いまは取りかかっておられることをなさるがよろしかろう。しかしエジプトの謀反を平定なされたあとは、アテナイに進軍なさるべきかと。そうすればお上の名声も高まり、以後、他国の者どもは、お上の領土を侵略するのを控えるようになりましょう」

この進言はかれの復讐心から発せられたものであるが(3)、それに加えて、ヨーロッパが極めて美しい国であること、あらゆる種類の果実が実ること、ごく肥沃な土地であること、その土地を支配するにふさわしい者は、王以外にいないこと、などを進言し続けた。マルドニオスは冒険心に富んでいて、それにギリシアの総督になりたいこともあって、このように進言したのだった。

(3)「この進言が参考になった」という意味に解する人もいるが、この一文はかなり曖昧である。

[7.6] 最終的にかれはクセルクセスを説き伏せ、アテナイ遠征を納得させたが、他の事情もクセルクセス説得に預かって力があった。

それはテッサリアの王子アレウアスから伝令が来て、王をギリシアに招きたいと丁重に伝えて来たのである。そのほか、スサに来ていたペイシストラトス家の者たちも、アレウアダイ家と同じ願いを言上し、それ以上のことをクセルクセスに申し出たのである。

彼らはアテナイの占い師(4)オノマクリトスを随伴していて、これはムサイオスの託宣集を編纂した者であった。また彼らは以前の敵対関係を解消していた。オノマクリトスはムサイオスの託宣集を改竄し、レムノス付近の島々は海中に沈むであろうという神託を書き加えたことを、ヘルミオネのラソス(5)によって発見され、ペイシストラトスの息子ヒッパルコスによってアテナイから追放されていたのである。

(4)この語は「占い師」を指すが、ここではおそらく託宣集の「編纂者」あるいは朗唱者のことだろう。
(5)詩人にして音楽家。抒情詩人ピンダロスの師。

このような事情でヒッパルコスはかれを追放したのであるが、それ以前は、この二人は親密な友人だった。さてかれはペイシストラトス一門と共にスサにやって来たが、王の面前では、両家一門が常に高貴な言葉でかれを賞賛し、彼は彼で託宣を朗唱した。ただしペルシアの災悪を予兆するものは省き、縁起の良いものを選んで朗唱した。そしていかにしてペルシア人がヘレスポントスに橋を架けるべきかを語り、進軍の様子を詳しく語った。

こうしてオノマクリトスはクセルクセスを焚きつけ、一方でペイシストラトスー門とアレウアス一門の者たちは、進軍の意見を具申してクセルクセスの決意を促したのである。

[7.7] ギリシアへの遠征を説得されたクセルクセスは、ダリウスの死の翌年にまず叛者たちに向けて軍を進めた。それを制圧したのち、エジプトを攻略し、ダリウスの時以上に過酷な苦役を課した。そしてその統治をダリウスの息子すなわち自分の弟であるアカエメネスに任せた。エジプトを統治していたアカエメネスは、その後プサメティコスの子イナロスというリビア人に殺害されている(6)。

(6)BC.460、第三巻15節参照

[7.8] エジプトを征服したあと、アテナイに向けて遠征するつもりのクセルクセスは、特別にペルシア人の重臣会議を開いて彼らの意見を聞き、また一同の前でみずからの考えを披瀝した。

「ペルシアのお歴々よ、予は新たなしきたりを具申するつもりも、制定するつもりもない。ただ継承したものに従うだけじゃ。長老たちから聞くところでは、サイラスがアスティアゲスを退け、我らがメディアから覇権を獲得してからというもの、平穏な時期はなかったということである。とはいえ、神の御心によって、我らが幾多の事業はうまく運んでおる。サイラス、カンビュセス、そしてわが父ダリウスが征服し、わが領土に加えた国々のことは、事情を十分承知の臣らには言うまでもないことじゃ」

「予が王位についてからというもの、予は如何にすれば先王たちに後れを取ることなく、この栄誉ある地位を保てるか、またペルシアの勢力を殺がずに済むかを考え抜いてきた。その結果、名声を高めるばかりではなく、現今の領土に劣る広さ、荒廃地ではなく、それ以上の肥沃な領土をも勝ち取るべきであると考えるに至った。またこれが報復と復讐にもなるのだ。この考えから、いま臣らを一堂に呼び集め、予のなさんと欲することを宣言する」

「予の意向は、ヘレスポントスに橋を架け、軍をヨーロッパからギリシアに進めることにある。そしてアテナイがペルシアと我が父になしたことを鑑み、これを討伐するつもりである」

「知っての通り、我が父ダリウスは、この国に向けて遠征軍を派遣しようとしていた。しかしその死によって、その討伐は叶わぬこととなった。父とすべてのペルシア人のためにも、予は決して安逸をむさぼることなく、アテナイを征服し、焼き尽くすつもりである。ギリシアが我が父と予になした、言われなき悪行のゆえに」

「第一にアテナイ人どもは我らが捕虜ミレトスのアリスタゴラスと共にサルディスに侵略し、森や神殿を焼き払った。次に、ダティスとアルタフェルネスの二将軍が、かの地の海岸に上陸したときの、ギリシアの所行が如何なるものであったか、一同衆知のことであろう」

「以上のことから、予はかの国に軍を進めると決めた。そしてこれにはつぎに挙げる利得も期待できるであろう。アテナイと、その隣りでフリギア人ペロプスの治める領土(*)を征服すれば、ペルシアの領土はゼウスの支配する天空の国と境界を接することになろう」

(*)古代アナトリア-現トルコ領

「予が全ヨーロッパを席捲し一国にまとめるなら、日の光の当たるところ、我らが国に接する国はなくなるであろう。先に挙げた国々を麾下に従えるなら、人の住む街、人の国で我らと干戈を交えることのできる国は残されておらぬことは知っておる。我らに仇なす国もふれ伏す国も、すべて隷従のくびきに繋がれるであろう」

「そこで、予が集合の時を宣したなら、各人は何をおいても参上せよ。そして最も完璧な装備の軍には、わが国で最も誉れ高き褒賞を授けることにしよう。以上、滞りなく事を運んで貰いたい。しかしながら、予が一人勝手に事を運んでいると思われたくないゆえ、結論を一同に任せることにする。考えのある者は述べるがよい」こう言ってクセルクセスは黙した。

[7.9] 次にマルドニオスが口を開いた。
「お上、殿は過去および未来の全ペルシアびとを超越なさる存在にあられる。その上、ただいまのお言葉、万事が見事でまことをついておられ、かつまたヨーロッパのイオニア人(7)が身の程知らずにも我らを嘲るのを誅される方針であられる」

(7)アジア人にとってはギリシア人は「イオニア人」と同義だった。Persian Yauna(ペルシア・ヤバナ)とも。アリストパネスの「アカイア人」104節にはヤーバン(Javan)とある。ペルシアの大使はギリシア人のことを「χαυνόπρωκτ Ιαοναῦ=chavnoprokt Iaonaf=幅広の布をまとったイオニア人?」と呼んでいる。

「サカイ(*)、インド、エチオピア、アッシリアその他、多くの広大な諸国については、ペルシアに災悪をなしておらぬにもかかわらず、単にわが勢力を拡大するために、これらを平定しておりますが、言われなき悪逆をなしたギリシアには報復しないというのは、じつに不可解にございます」

(*)イラン高原北部

「何を怖れることがありましょうか? 彼らの寄せ集め兵力は多大でありましょうや、富は豊富でありましょうや? 彼奴等(きゃつら)の戦い振りは承知、その国力がいかに弱いかも承知しております。そして我らはその子孫を征服し、彼らはイオニア人、アエオリア人、ドーリア人と呼ばれてわが国に定住しております」

「私自身もかつて父君に命じられてかの地に進軍し、はるばるマケドニアやアテナイのごく近くまで軍を進めましたが、一兵たりとも叛撃して来る者はおりませんでした」

「ギリシア人は戦慣れしておるのは知っております、とはいえ彼らは頑迷、愚劣ゆえにその戦法は極めて無分別であります。彼らが互いに宣戦布告をしたなれば、できるだけ見晴らしがきき、戦いやすい平原を選び、そこを戦場とします。従って勝者といえども軍を退く時には、大きな損害を被っておるのです。敗者に至っては言うまでもなく、完璧に抹殺されます」

「しかしながら、彼らは同じ言葉を用いますゆえ、使者または伝令、あるいは戦闘以外の方法を用いて戦闘を避けようとします。そしていよいよ戦わねばならぬとなった時には、それぞれが最も優位に立てる配置を探し、そこを戦場にしようとするのです。このようにギリシアの慣習は愚劣なのであります。私がはるばるマケドニアまで進軍した時には、彼らは戦う気すら起こさなかったのです」

「しかしお上、お上がアジアから大軍と全船隊を率られるならば、誰がお上に向けて戦を仕掛けましょうや? ギリシアはそのような無謀な挙を起こさぬと愚考いたしますが、この考えが間違いで、彼らが無謀にも戦を仕掛けてくることになりましたならば、我らが世界中で最強の戦士であることを、ギリシアは知ることになりましょう。手をこまねき遊ばすな、何事もみずからは起きませぬゆえ。世の成果というものは、思い切って飛ばざれば授かりませぬぞ」

[7.10] このようにマルドニオスはクセルクセスの決意をなぞらえて語り終えた。居並ぶ重臣たちは沈黙を守り、あえて提案に反対する意見を言おうとしなかった。そこで、イスタスペスの子でアルタバノスという王の叔父が、自分の地位を後ろ盾にして語った。

「お上、反対の考えが出されずば、よりよき案を選ぶことは不可能となり、出された案を呑むしかありませぬ。種々の考えが提案されてこそ、よりよい案を選べるというもの。金の純度はそれのみでは判断できず、金同士をこすり合わせることで(8)、どちらがより良いか判るのでござる」

(8)試金石に擦り合わせること。

「そこでみどもは、お上の父君ダリウス、すなわち我が兄に進言して申し上げたことがある。スキタイに進軍してはなりませぬ。彼らは街を持たず、どこにでも暮らしますゆえ、と。しかし父君は遊牧のスキタイ人を征服することを望まれ、わが意に従おうとなされませんでした。そして遠征なされ、軍勢から多数の勇者を失って帰還なされました」

「そなた、いやお上は、そのスキタイ人よりは遥かに優れた民族、海でも陸でも優秀な戦士と見なされている民族に軍を向けようと企てておられる。されば、その企てに潜む危険をお上にお示し申すのが正しい方策と心得まする」

「お上はヘレスポントスに橋を架け、ヨーロッパに入ってギリシアに進軍なさると仰る。では、海軍または陸軍あるいは両方とも敗れた時のことを想起なされよ。ギリシア兵は勇猛と言われておりますし、ダティスとアリストファネスがアッティカに率いた大軍を、アテナイ単独で打ち負かしたことからも、そのことは充分察せられます」

「万一ギリシアが陸・海ともに敗れたとしても、海戦で優勢を極め、船団をヘレスポントスに進めて橋を破壊することになれば、憂慮すべき事態となりますぞ」

「このような推量をするのは私自身の知恵からではなく、かつて見舞われた惨事を経験しておるゆえにございます。それは父君が以前トラキアへ渡るボスポラスに橋を架け、またドナウ河にも橋を架けてスキタイに侵攻なされた時のことであります。スキタイ人はドナウ河の橋を守っていたイオニア人に、それを破壊するよう、あらゆる手を尽くして頼んでおりました(9)」

(9)第四巻百三十六節

「ミレトスの僭主ヒスティアイオスが他の僭主たちの意見に同調し、それに異を唱えずんば、ペルシア軍は壊滅していたことでありましょう。言うもおぞましきことながら、王の運命はかの男一人の手に委ねられていたのであります」

「どうしても必要でなければ、そのような危険な企てに手を染めてはなりませぬ。私の意見をお聞き入れ下され、まずはこの会議を解散なされよ。お上みずから、この件をとくお考え遊ばされ、充分得心なされてから、最善と思われる策を布告なされるがよい」

「と申しますのも、充分に練られた策が最大の利をもたらすものと愚考いたすためであります。たとえ上策が挫折したとしても、それは運が悪かっただけのことで、下策であるとはいえませぬ。そして幸運に恵まれ下策が成就したとしても、それは偶然の賜で、上策というわけではありませぬ(*)」

(*)この部分、何度読んでも「勝負は時の運」としか解しようがない。これでは諫言になっていない。訳者の誤読なのか?

「お上もご存じの通り、神は大なる被造物に雷電を打ち下ろされ、傲慢な者を許されず、卑小な者には怒りを覚えられませぬ。すなわち雷光を打ち下ろされるのは常に高い建築物や木々であること、ご承知のはず。抜きん出て大なるものは全て小さくなさるのが、神のお好みであるゆえ。多勢が無勢に破れるのはこの伝でございます。そして嫉妬深き神が多勢に向けて恐慌をもたらされたり、雷電を落とされて、彼らは無残にも壊滅してしまうのであります。神はご自身以外の者には傲慢は許されませぬゆえ」

「急いてはことをし損じますぞ。急ぐと多大な損失も生じましょう。待てば海路の日和ありとも申します。いまは不確かでも、待つことで明らかになることもございます」

「お上、これがみどもの助言にございます。ところでゴブリアスの子マルドニオスよ、ギリシア人に向けての戯れ言はやめるがよい。彼らは誹謗してよい愚劣な民族ではない。お主は、ギリシア人を中傷することで王に遠征をそそのかしておる。それをなさんがためにえらく執心しておるようじゃが、そうはさせぬぞ」

「誹謗・中傷はおぞましきことじゃ。ここには悪事を働く者が二人、被害をこうむる者が一人存在する。中傷者は陰で人を非難するという悪行を行なっておる。もう一人は、真実を知る前に信じ込むという間違いを犯すのだ。不在のまま中傷された者は、自分が何を言われているか判らぬゆえ、その人間に悪口を言われ、もう一人から非難されることになる」

「さて、なんとしても軍をギリシアに進めなさるのであれば、みどもの説をお聞きあれ。お上はペルシア本土に残られるがよい。そしてお上とみどもの二人が、息子たちの命をそれに賭けましょう。お上はお望みの兵士を選び、望まれるだけの軍勢を進められるがよろしかろう」

「お上の仰るとおり、お上が幸運に恵まれましたなら、みどもの息子たちに死を賜り、みどももそれに倣いましょう。しかしみどもの申し上げた通りの結果になりますれば、お上の王子たちに同じ処置をなされ、お上も同様になさるのですぞ。それもこれも無事に帰還できればの話ですがな」

「この提案に不承知で、かつ何としても軍をギリシアに進めるつもりであられるなら、この地に残っている者たちは、マルドニオスがペルシアに酷い害悪をもたらしたという知らせを聞くことになるでありましょう。そして彼はアテナイあるいはスパルタの地において、犬や鳥に身を裂かれることになりましょう。もっとも、その地に至る以前に、そのような目に遭わねばよいのじゃが。その時になってマルドニオスはようやく、王をそそのかして攻撃させた相手が、どのような民族であるかを知ることになろう」
アルタバノスは、かくの如く説いた。

[7.11] クセルクセスは怒りを露わにして言った。
「アルタバノス、我が父の弟よ、それに免じてそちの愚言に対する罰は下さずにおこう。しかしお主には、ギリシアに向かうわれと我が軍に同行させず、臆病ゆえに女どもと共に、この地に残るという恥辱を与えることにする。予はみずから先に述べたことを完遂するつもりじゃ。お主の手は借りぬ」

「予がアテナイに報復をせぬなら、アケメネス、タイスペス、カンビュセス、キロス、タイスペス、アリアラムネス、アルサメス、ヒスタスペス、ダリウス、(10)の系譜に、予は繋がることにならぬ。我らが戦を仕掛けずとも、ギリシアはおとなしくしていないことは、明々白々である。ギリシアの方が先にサルディスを焼き払い、アジアに侵略したという、これまでの所行から察するに、彼らは間違いなく我らの領土に侵略して来るであろう」

(10)後ろから七人の名前はアケメネスの子タイスペス以下の二系列を示している。ヘロドトスは明らかにこれを混同している。キュロスの娘アトッサを母として、クセルクセスは双方の系統を主張したかもしれないが、おそらく混同している。

「従って双方ともに後には引けぬ。事ここに至っては、やるかやられるか、じゃ。我らの領土がギリシアのものになるか、ギリシアの領土が我らのものになるか、両者の確執に中間はあり得ぬ」

「そして今こそ、先に被害を被った我らが報復に出るのが順当である。かの民族を攻撃すると痛い目に遭うというおぞましきことが何であるかも判るであろう。その民族というのは、我らが祖先の奴隷だったフリギア人のペロプスが征服し、今に至るまで民族も領地も、征服者の名前で呼ばれておるのだ」

[7.12] 会議はその後も延々と続いたが、夜が来てクセルクセスはアルタバノスの助言が気にかかった。一晩考えた上で、クセルクセスはギリシアに向けての進軍は得策ではないことに思い至った。そしてそう決心を固めると眠りに落ちた。ペルシア人の伝えるところでは、その夜かれは次のような夢を見た。長身で眉目秀麗な男が枕元に立ってこう告げたという。

「ペルシア人よ、軍を招集すると公言しておきながら、翻意してギリシア遠征を止めるのか? 考えを変えるのは、お主にとって良くない。ここにいるわが輩とて、それを許さぬぞ。昨日決心した通りに事を進めるのじゃ」

[7.13] 幻はこう告げ、クセルクセスの前から消えた。夜が明けた頃、クセルクセスはこの夢を無視し、昨日招集したペルシアの重臣たちを一堂に集め、次のように宣言した。

「ペルシアの者どもよ、予の早急な心変わりを許せ。予は未だ考えが足りておらなんだ。予が告げたことを強く勧める者どもが、決して予を自由にしてくれなんだでな。アルタバノスの意見を聞いた時、予は若気の至りで即座に興奮し、見苦しくも怒りを爆発させ、目上の者に向かって不埒な返答をしてしまった。しかし今、予はみずからの過ちを認め、かれの判断に従うつもりである。ギリシアへの進軍は中止といたすゆえ、心安んじてよいぞ」

[7.14] ペルシアの重臣たちはこれを聞き、喜びの声を上げ、深く頭(こうべ)を垂れた。ところが夜が来てクセルクセスが眠りにつくと、同じ幻が再び枕元に立って言った。
「ダリウスの子よ、お前は進軍を中止するとペルシアの者どもに明言したな。あたかも誰からも意見を聞かなかった如く、ワシの言葉を無視しおってからに。覚えておくがよい、直ちに軍を進めぬと、こうなるぞ。お前はあっという間に頂点を極めたが、再び転げ落ちるのも早かろう」

[7.15] その幻に恐れおののいたクセルクセスはベッドから飛び起き、使いをやってアルタバノスを呼び寄せた。当人が来るとクセルクセスは言った。
「アルタバノスよ、予の精神は暫くの間、常軌を逸していたようじゃ。そのためお主の誠実な諫言に愚言を呈してしまった。しかしながら後悔した後は直ちに、そちの忠告に従うのが正しいと判った」

「ところがじゃ、そうしたいのは山々なれど、それができぬのだ。考えを翻し、後悔してからというもの、幻が予の前にしばしば現れ、そちの忠告に従ってはならぬと言うのだ。たった今も、予を恐怖に陥れて去って行きおった」

「神がその幻を使わされたのであれば、そして今回の遠征が神のご意志に沿うものであるなら、同じ夢がそなたにもつきまとい、予に下されたものと同じ指令がそなたにも下されるであろう。そなたが予の衣装をそっくり纏って玉座に座り、また予のベッドで眠るのが、そなたが幻を見るのに一等良い方策と思う」

[7.16] クセルクセスはこう言ったが、アルタバノスは最初の命令には従おうとしなかった。というのも玉座に座るというのはあまりにも恐れ多いことであるから。しかしついに無理強いされて命令通りに行ない、まず口を開いた。

「お上、英邁であることと上策の忠告に従うことは同じことと考えまする。お上はそれを二つながらお持ちにございます。ところが邪悪な一党が、お上を躓(つまづ)かせるのでござる。あたかも海は全てのものの中で最も役立つものでありながら、吹きつける強風が、その有用性の妨げとなるように」

「しかしながら、お上から辛辣な言葉を賜りましたとき、心が痛んだのはその言葉ではなく、むしろ次のことであります。それは、ペルシアには二つの道があり、一つは傲慢を助長するものであり、もう一つはそれを諫め、今もてる物以上の物を要求し続けよと心に植えつけることが、如何に邪悪なことであるかを示す道であります。そしてこの二つのうち、お上はご自身にもペルシア人にも大なる危険を孕む道を選ばれたことにございます」

「今、お上は上策に舵を切られ、ギリシアへの遠征を中止すると宣下なされたが、どこかの神から使わされた夢に脅され、遠征中止を禁じられたとの由」

「しかしこれは天のなせる業ではありませぬぞ、若君。さまよい現れる夢というものがどのようなものか、若君よりはずっと年経るみどもゆえにお教えいたしましょう。さまよい現われる夢というものは、日中の考えが大部分を占めるものでござる。実際、この数日は遠征騒ぎで極めて忙しくしておりましたゆえに」

「万一、これがみどもの申すようなものでなく、若君の仰る通り、ある種神のお告げであるなら、若君に現れた夢がみどもにも現われるよう、またその命を告げさせてみようではありませぬか。それが真に現われたがっておりますなら、若君とみどもの衣装を取り替えたり、ベッドを代えたりせずとも、みどもにも現われるはず」

「若君の眠りの中に現れたものが何であれ、みどもが若君の衣装を着ているのを幻が見て、それと見間違えるほど愚かとは思えませぬ。そしてみどもが若君の衣装を着ようが、自分の衣装を着ようが、みどもを無視して現われず、若君には現われるかどうかを確かめねばなりませぬ。そして出現が続くのであれば、それは何らかの神のお告げと申せましょう」

「若君の決心が固く、今のやり方を変えることはならぬ、ご自分のベッドで寝よと仰るなら、その通りにいたしましょう。そして幻がみどもにも現われるようにさせましょう。ただし、その時まではみどもは今の考えを変えるつもりはありませぬ」

[7.17] このようにアルタバノスは語り、クセルクセスの言説が無意味であると明らかになることを願いつつ、命じられた通りにした。かれはクセルクセスのローブを纏い、玉座に座した。その後、王のベッドで眠りについたが、クセルクセスを恐懼させた同じ幻が現われた。幻はかれの枕元に立ち、こう言った。

「クセルクセスを案じているかの如く装い、ギリシアへの進軍を諫止したのはお前だな? 今といわず未来といわず、なさねばならぬことをねじ曲げようとした罪から、お前は逃れることはできぬぞ。クセルクセスには、命に従わぬ時に何が降りかかるか、すでに宣告しておる」

[7.18] このようにアルタバノスは脅かされ、幻は熱した鉄でかれの両目を焼こうとした。かれは大声で叫びながら飛び起き、クセルクセスのもとへ行って自分が見た夢をすっかり話したあと、こう告げた。

「お上、みどもは、これまで、あまたの強国が弱小国に敗北してきたのを見ております。それゆえ、お上が若気の至りでことをお進めになるのをお諫めして参りました。大欲は災いの元であることを知っておりますゆえ。また、キュロス王のマッサゲタイ遠征や、カンビュセス王のエチオピア討伐、さらにはダリウス王に随ってスキタイに進軍した、みども自身の結末を覚えておりますゆえに」

「右の経験から、お上が軍を動かさぬことこそ、全ての者がお上の幸運を寿ぐものと考えておりました。ところが、ある種の神の啓示があり、それはギリシアを壊滅させよという神意のようであります。ここにおいてみどもは考えを変え、修正することにいたします。まず神のご意向をペルシア人に布告なされよ。そして先の進軍準備令を再開する布令をお出しなされ、また、神の使命を成就なさるのに遺漏なきようになされよ」

幻影に脅かされて二人はこのように語り合った。そして夜が明けてから、クセルクセスは全てを重臣たちに打ち明けた。アルタバノスは、以前は一人公然と進軍に反対していたのが、いまや公然とそれを奨励するようになった。

[7.19] これでクセルクセスは遠征に向けて意を強くしたが、眠りに落ちてから三度目の幻が現われた。それを知ったマギ(東方の賢者)たちは、その夢が全ての大地に関することで、しかも全人類がクセルクセスに隷属する証しと見なした。その夢の内容は以下に。

クセルクセスはオリーブの枝の冠をかぶっていたが、その枝先が延びて大地全体に拡がり、その後、自分の頭からその冠が消え去るように見えた。

マギ(東方の賢者)たちはこの夢を右のように解釈したので、集まっていたペルシアの重臣たちは、それぞれの領地に馳せ戻り、褒賞目当てに王の命令を果さんものと躍起になった。かくしてクセルクセスは全領土を調べ上げ、軍を招集したのである。

[7.20] エジプト攻略に丸四年(11)を費やした後、クセルクセスはギリシア遠征に要する軍その他必要な全てを調えた。丸五年を迎えようとする頃、いよいよ王は夥しい軍を進発させた。

(11)B.C.484~B.C.481

この時の軍勢は、我らが知る限り最も大なるものだった。ダリウスがスキタイに進軍した時のそれは言うに及ばず、スキタイがキンメリア人(*1)を追ってメディアに侵略し(12)、北アジアの殆どを制圧した時の軍勢も同列だった(その後、ダリウスは彼らの討伐を試みた)。伝えられるところでは、アトレウスの子によるトロイ遠征も、ましてや、トロイ戦争の前に始まった、ボスポラス海峡を越えてヨーロッパに侵入し(13)、トラキア全土を征服した後、はるばるペネオス河(*3)まで南下し、イオニア海に至ったミュシア人(*2)やトロイ人の遠征も、これに及ばないと言われている。

(12)第一巻103節、第四巻1節
(13)大陸間の移動には数種あることは明白。ヘロドトスはアジアからヨーロッパに移動したと書いているが、史実からは他の経路だったようだ。
(*1)紀元前千三百年頃から北コーカサスやアゾフ海近辺に定住していた民族。
(*2)古代小アジア(トルコのアナトリア半島)北西部の定住民族。
(*3)ギリシアのテッサリア地方を流れる河。

[7.21] 右に挙げた全ての遠征および過去に行われたものを全て合算しても、今回の遠征軍の兵力には遠く及ばなかっただろう。アジアからギリシアへ向かうのに、クセルクセスが連れて行かなかった民族があるだろうか? 大河は別として、軍が飲み干して涸れずに済んだ河があるだろうか?

船を供出する国もあれば、歩兵を差し出す国、騎手の提供を約束する国、従軍して馬の輸送船を供出する国、橋に用いる大船を供出する国、食糧や船を供出する国があった。

[7.22] まず手始めに、以前に船団がアトス岬を回ったときに難破した経験から、ここは約三年かけて準備を行なった。三層櫂ガレー船団をケルソネソスのエライウスに碇泊させ、そこを司令部とした。そして軍の全兵士を交代させながら運河の掘削に従事させた。またアトスの近くに居住する住民もこの工事に従事させた。

メガバゾスの子ブバレスとアルタイオスの子アルタカイエスのペルシア人が、工事を監督した。アトス(*)は高く聳える有名な山で、海に突き出るようにして岬の先端にあり、人も住んでいる。山から内陸に向けては半島を形成し、およそ十二スタディア(二粁)幅の地峡部になっている。アカントス付近の海から反対側のトロネにかけては、この地域は平地や低い丘が混在している。

(*)標高2033m。第六巻四十四節参照。

アトス岬つけ根の地峡部にはギリシア植民地のサメという街があるが、この街から海の方向に向かってアトス山との間にもいくつかの街がある。いまペルシア人は、ここを本土から切り離して島にしようとしているのである。その街というのは、ディオン、オロヒクソス、アクロトウン、ティソス、クレオナイである。

[7.23] ペルシア人は次のやり方で運河を掘った(14)。まず地表を民族別に別けた。そしてサメの近くで地峡部を横断する方向に彼らを直線に並べ、ある程度の深さの溝を掘る。そしてその底にいる人夫が掘り出した土を、高い足場にいる他の人夫に渡す。そして彼らはまた次の高さの足場にいる人夫に渡す。これを最上位に届くまで続ける。このようにして土を外に運び出し、投棄するのである。

(14)太古のことゆえ信じがたいが、実際に掘削されて用いられたのは間違いない。その痕跡が残っているようだ。

フェニキア人を除く全ての民族が、水路の急な崖が崩壊するため、二倍の作業量を強いられた。彼らは水路の上辺と下辺を同じ幅にしたため、このようなことが起きたのである。

しかしフェニキア人だけは、何事につけてもそうであるように、この時も手際の良さを発揮した。受け持ち区域の工事に取りかかるに当たり、彼らは地表では運河の幅を二倍にして掘り進め、下に行くに従って徐々に幅を狭くしてゆき、最下辺では他国のそれと同じになるように掘削したのである。

また、そのあたりには牧草地が拡がっていたので、そこに売り買いできる市場を作った。そしてアジアからの穀物が大量に、しかも頻繁に送られてきた。

[7.24] 察するに、クセルクセスは自分の力を誇示し、後世に記念を残したいという自尊心から、運河の掘削を命じたと思われる。というのも、船を曳いて地峡部を横断するのは手間をかけずにできたはずであるのに、三層櫂ガレー船が二隻横に並んで航行できる幅を有する運河の掘削を命じたのであるから。そして、運河の掘削に従事した人夫たちは、ストリモン河に架ける橋の工事にも従事させられた。運河の開墾に関しては以上である。

[7.25] 一方で、フェニキア人とエジプト人には、パピルスと白亜麻(15)を用いて、橋を架けるための綱を作らせた。また彼らには食糧貯蔵の任務に当たらせ、ギリシアへの行軍中に兵士も荷役獣も飢えないようにした。

(15)ギリシア語の「λευκολινον=lefkolinon」は明らかに亜麻ではないが、アフリカハネガヤはフェニキア人によってスペインから輸入されていた。

クセルクセスはさまざまな場所を調査させ、アジア全土から輸送船や渡し船で運ばれてきた食糧を最適な場所に貯蔵させた。彼らはその殆どをトラキアのレウケ・アクテ、いわゆる白岬という場所に運び込んが、一部はペリントス領のティロディザへ、一部はドリスコスへ、一部はストリモン河畔のエイオンへ、あるいはマケドニアヘ送り込んだ。

[7.26] これらの民族が指示された任務を果たしている一方で、集結し終えた全陸軍が、クセルクセスと共にサルディスへ向けて行軍していた。かれはカッパドキアのクリタラを全軍の集結地に指定し、ここから陸上を出発した。

最も秀でた武装の兵士たちを集めたとして、どこの属州長官が王から褒賞を賜ったのか、私は知らない。そもそもそのような判定が下されたかどうかさえ判らないのだ。

軍はハリス河を越えてフリギアに入り、そこを通ってケライナイ(16)(*)に達した。ここはメナンドロス河の源流地で、この河に劣らぬ水量のカタラクテ河の源流地でもある。この河はちょうどケライナイの市場から発し、メナンドロス河に合流している。この街にはシレノスというマルシアスの皮が吊されている。フリギア人の伝説によれば、マルシアスはアポロによって皮をはがれ、吊されたとされている。

(16)ここは「皇帝の道」から南に別れる分岐点である。クセルクセスはヘルメスの谷を通る困難を避けて道を南に取る。第五巻五十二節参照。
(*)現トルコ中部の街
(17)笛吹きマルシアスとリュート弾きアポロの競争伝説は国歌の変遷を暗示しているようだ。その重大さは我らよりはギリシア人の方が理解しやすい。

[7.27] この街では、リディア人でアテュスの子ピティウスが待ち受けていて、クセルクセスはもとより、その配下の全軍を最高のもてなしで歓待した。そして喜んで軍資金を献上すると申し出た。

ピティウスが戦費献上を申し出ると、クセルクセスは配下のペルシア人に、このピティウスは何者か、そして軍資金を提供するなら、かれはどれほどの富を有しているのかを下問した。配下の者が答えるに、
「この者は、かつて父君ダリウス様に黄金製のプラタナスの木とブドウの木を献上した者にございます。我らが知る限り、この者は今やお上に次ぐ富裕者にございます」

[7.28] クセルクセスは最後の言葉に驚き、ピティウスに向けて直々に下問した。どれほどの富を所有しているのかと。ピティウスが答える。
「お上、みどもはわが資産をお上に隠すつもりも、知らぬふりするつもりも、毛頭ありませぬゆえ、承知しておりますことを正直に申し上げます」

「お上がギリシアの海に下って来られると知りまして、みどもは直ちに軍資金を献上したく思い、わが資産を調べました。そこでわが勘定方が示すところでは、銀で二千タラントン(*)、ダリック金貨(18)にして四百万に七千少ない金を所有しております」

(18)ダリック金貨は現在のおよそ1ポンド2シリングに相当する。
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

「これら全てを喜んでお上に献上いたします。みども自身のことは、わが奴隷と領地から充分な活計(たつき)が得られますゆえ」

[7.29] このようにピティウスが言うと、クセルクセスはその言葉に喜び、こう返した。
「わがリディアの友よ、ペルシアを出発してからというもの、わが軍を喜んで歓待してくれた者に、ついぞ会ったことがない。ましてや呼ばれもせぬのに予の前に参上し、しかも軍資金を差し出すなどと言上する者などおらなんだわ。お主のほかには」

「そちはわが軍を手厚くもてなしてくれた上に、巨額の資金を提供してくれた。その返礼として次の特権をそちに与えよう。以後そちを予の客分として遇することにする。そして予の資産から金貨七千枚を与えよう。そうすればそちの持つ金貨は四百万に七千枚が欠けることなく、予の注ぎ足しによって、きっちりした額になるではないか」

「今そちが有している資産はそのまま持っておくがよい。そして今の気持ちを決して忘れるでないぞ。今のそちの行ないは、今も、これからも、そちに悔いることはさせぬであろう」

[7.30] クセルクセスはこう言ってその約束を果たした後、さらに軍を進めた。フリギアのアナウアという街を通り、塩の採れる湖を過ぎ、軍はフリギアのコロッサイという大きな街に到着した。ここではリコス河が大地の裂け目に落ち込んで姿を消し(19)、およそ五スタディア(九百米)離れた地点で、再び地上に姿を現し、その後はメナンドロス河に合流する。

(19)ここではリコス河は狭隘な峡谷を流れているが、数ヤードを除き、地下を流れる証拠はない。

軍はコロッサイからフリギアとリディアとの国境に沿って進み、シドララの街に着いた。ここにはクロイソス(*)によって立てられた碑があり、碑文が刻まれて国境の目印となっている。

(*)リディア王国の最後の王(BC595-547頃?)。莫大な富を保有していることで有名を馳せたが最後はペルシアに敗北。

[7.31] その後、軍はフリギアからリディアに入り、道の分岐点に到着した。左の道をたどればカリアに至り、右の道はサルディスに至る。後者の道はメナンドロス河を渡り、カラテボスを通らねばならない。この街には小麦と御柳から密を搾りだす職人が住んでいる。クセルクセスは、この道をたどったが、一本のプラタナスの木を見つけると、その枝振りが見事だったので、それを黄金で飾らせた。そして「不死身部隊」の一人に守番を命じた。そして翌日にはリディアの首都(サルディス)に到着した。

[7.32] サルディスに到着後、クセルクセスは最初に使者をギリシアに送って土地と水を要求し、王をもてなす準備も命令した。かれは、全てのギリシア諸国に土地を要求したが、アテナイとスパルタは除いた。再び土地と水を要求した理由は次のとおりである。ダリウスが以前要求した時には誰も応じなかったが、今回は恐怖に駆られて応じるだろうと、クセルクセスは確信していたからである。このことを確かめるために、かれは要求を突きつけたのである。

[7.33] このあと王はアビドスに向かう準備をさせた。一方、配下の者たちはアジアからヨーロッパに渡るヘレスポントスの架橋工事をしていた。ヘレスポントスのケルソネソスには、セストスとマディトスの間で、アビドスの対岸にあたる場所で、海に突き出ている広大な岬(20)がある。この後、しばらく年を経てからアリフトンの子クサンチッポスを将軍とするアテナイ軍が、ペルシア人のセストス長官アルタユクテスを捕らえ、生きたまま張付の刑に処したのが、まさにこの場所だった。こやつはエライオスにあるプロテシラオスの聖廟にしばしば女を連れ込み、不埒な行ないに及んでいたのである。

(20)現在のゼメニク(セストス)とキリア間の湾にあり、およそ四マイルの幅がある。

[7.34] 架橋工事に携わっていた者たちはアビドスからこの岬に向けて橋を架けていた。フェニキア人は亜麻製の綱を用いて、エジプト人はパピルス製の綱で、それぞれの橋を作っていた。アビドスから対岸までの距離は七スタディア(一千三百米)(21)である。ところが海峡に架けられたこの橋は、完成するやいなや激しい嵐によって破壊され、全て粉々になってしまった。

(21)現在では、最も狭い箇所は、ほぼ[7.1] 5倍の幅がある。おそらく、セストスからアビドスに跳ね返る潮流によって海岸が浸食されたためであろう。

[7.35] これを知ったクセルクセスは激怒し、ヘレスポントスに三百の鞭打ちを下すよう命じ、足枷一対を海に投じさせた。さらにかれは焼印工を派遣して、ヘレスポントスに焼印を押させたとも、私は聞いている。

クセルクセスは鞭打ちの際に、次のような野卑な罵倒の言葉を投げつけさせた。
「憎々しげな海よ、われらが王は貴様をこうやって罰するのじゃ。わが王はお主に何も害をなしておらぬのに、お前はわが王に災悪をなしたゆえに。貴様が望もうが拒もうが、クセルクセス王はお前を渡って行かれるのじゃ。当然のこと、お前に生贄など誰も供えるものか。塩辛く濁れる流れのお前などに」

クセルクセスはヘレスポントスの海に対して、この処罰を下すように命じ、また架橋工事の監督者の首をはねるよう命じた。

[7.36] このおぞましい任務は、それに指名された者によって執行され、また新規の監督官が架橋工事を開始した。架橋工事の模様は次のとおりである。綱の緊張を緩めるために、五十本櫂船と三層櫂ガレー船を互いに横づけして配置した。黒海側に三百六十隻、その対岸に三百十四隻を並べて橋を支えた。全ての船はポントスの街に対して斜めに、ヘレスポントスの潮流に平行に並べた(22)。

(22)シュタインの考察する如く、北東または上位の橋の船団は「επικαρσιαι;epikarsiai」とも読めるし、南西または下位の橋の船団は「κατα ροον;kata roon」とも読める。

このように船を配置してから、船の両端から巨大な錨を降ろした。ポントス側では、海からの風に抗して船を安定させるため、対岸で西のエーゲ海側の船団は南西の風に抗して船を安定をさせるためである。

また五十本櫂船と三層櫂ガレー船の列には少しの隙間を空けておき、小舟ならポントスへの出入りが自由にできるようにした。

この後、綱を陸から延ばし、木製の巻き上げ機で張りつめた。また前回のように二種の綱を別々にせず、それぞれの橋に亜麻製の綱を二本、パピルス製の綱を四本用いた。

これら二種の綱は同じ太さで、見栄えも同じくよかったが、亜麻製の綱はパピルス製に比して重かった。亜麻製は一キュービット(*)あたり一タラントン(23)の重量があった。

(23)およそ36Kg(26Kg~37Kg)
(*)45~56Cm。56Cmとして、この長さの綱が26Kgというのは重すぎるように思われる。36Kgなら、なおさらである。

かくして海峡には綱が張り渡された。次にこれを支えている船(24)の全長と同じ長さの丸木を切り出し、それを張りつめた綱の上に並べ、固定した。その後、粗朶(そだ)を橋の上全体に敷き詰め、その上に土をかぶせて踏み固めた。最後に橋の両側に柵を取りつけ、荷役獣や馬が足下の海を見て怖がらないようにした。

(24)綱を支えている船の列

[7.37] 架橋工事が完了し、アトスでは上げ潮による波の侵入を防ぐための運河両端の土堤も完成し、運河それ自体も完成したという知らせを受けたところで、軍はサルディスで冬を過ごした。

翌年の早春(25)、準備を終えた軍はサルディスを発してアビドスに向けて出発した。まさに出発しようとする時、太陽の位置は変わらぬままに、その姿が見えなくなった。空には雲もなく、晴れ渡っているにもかかわらず、昼が夜のようになった(*)。クセルクセスはこれに強い関心を示し、マギ(東方の賢者)たちに、これは何の前兆かと下問した。

(25)おそらくBC.480四月中旬
(*)天文学者による考察では、サルディス付近で皆既日食(金環食)が観測されたのは紀元前478年2月だったという。本文の記述に2年のずれがある。

賢者たち曰く、ギリシア人たちは自国を放棄すると神が示されたのだと。太陽はギリシア人にとっては予言者であり、月は我らの予言者であるゆえ。これを聞いてクセルクセスは欣喜し、行軍を続けた。

[7.38] ところで、この行軍中、リディア人のピティウスが空の異変に恐れおののき、また下賜された褒賞に気をよくしたのか、クセルクセスのもとへ行き、言上した。
「お上、お願いしたき儀がございます。お上にとっては容易きことなれど、みどもには大切なことにございます」

クセルクセスは、ピティウスの要望が思いがけないことであるとはつゆ知らず、それを叶えてやろるから申して見よと返答した。これを聞いたピティウスは勇を鼓して言った。
「お上、みどもには息子が五名おりまして、それが全てギリシアに向けてお上に随行するよう命じられております」

「そこでどうかお願いでございます、お上。みどもの老齢を哀れみ給わり、わが長子を従軍の任務から免じていただき、わが身の世話と資産管理をさせていただきますよう、お願い申し上げます。そして他の四名の息子をお連れいただき、お上の企てが全て完遂されてご帰還なさることをお祈り申し上げます」

[7.39] クセルクセスは激怒して云った。
「この無礼者、予がみずからギリシアに向けて進軍し、またわが息子たち、同胞、親類縁者を随行させておるのを、お主は知っておろう。お前、わが従僕よ。一族郎党および汝の妻女も引き連れて予に従うべき者が、汝の息子のことを口にするか? よいか、これから申すことをよく聞け。耳の中には人の心が宿っておる。そこで耳に心地よきことを聞くと総身は喜びで満たされるが、その逆を聞いた時には、身は怒りで膨れあがるのだ」

「お主が予に見せた好意あふれる配慮や約定を申し出た時、おぬしは決して善行に関しては予を凌いだなどと誇りはしないであろう。しかし今、お主が破廉恥漢となりはてたからには、受けるべき懲罰より軽い罰をお主に与えることにする。お主の手厚いもてなしに免じて、お主と四人の息子たちの命は保全しよう。しかしお主が一等守りたいと願っておった命をもって、お主は罰を受けねばならぬのだ」

クセルクセスはこのように返答し、すぐさま配下の者に命じ、ピティウスの長男を探し出させ、かれの身体を二つに切断させ、道の両側に各半身を置かせた。そして軍がその半身の間を通過するようにした(*)。

(*)これには何らかの因習上の意味がありそうだ。

[7.40] こうして軍はその半身の間を通って進んだ。先頭は輜重隊と荷役獣、そのうしろにさまざまな民族からばらばらに編成された混成部隊が続いた。軍の半分以上過ぎたあたりで隙間が空けてあり、この部隊が王と離れるようにしてあった。

この部隊の後ろには全ペルシア人から選抜された一千の騎馬隊が続き、その後ろに同じく選抜された千人の槍隊が穂先を下に向けて持って続いた。次にはネサイアンと呼ばれる十頭の種馬が、目を見張るほど美々しく飾られて続く。

ネサイアンと呼ばれるのは、同じ名前の大平原がペルシアにあり、ここで体躯の秀れた馬が産しているからである。

これら十頭の馬に続き、八頭の白馬に牽かれたゼウスの聖戦車(26)が徒歩の馭者に手綱を引かれて続いた。これは神の車には人間は何人も乗ってはいけないためである。この後ろにネサイアン馬に牽かれた戦車にクセルクセス自身が鎮座して続いた。王の横にはパティランフェスという名の馭者が乗っていたが、これはペルシア人オタネスの子であった。

(26)ゾロアスター教のアフラマズダ。

[7.41] このような陣容でクセルクセスはサルディスを出発したが、この王は気が向けば戦車から馬車に乗り換えた。王の後ろにはペルシア人の貴族で高貴な血筋の槍隊が千名、これは通常通り穂先を上に向けて持って続いた。この後ろには選抜された千人の騎馬隊、続いて残ったペルシア人から選抜された一万の歩兵が従った。

歩兵のうち一千は槍の石突きの代わりに黄金のザクロをつけ、部隊を囲むように配置された。内側の九千の兵は銀のザクロをつけた槍を持っていた。槍の穂先を下向けている部隊も黄金のザクロを装着し、クセルクセスに最も近くに従っている部隊は黄金のリンゴをつけた槍を持っていた。一万の歩兵の後には一万のペルシア人騎兵が整列して続いた。この後ろには2スタディア(三百六十米)の隙間を空けて残りの兵が混成されて続いた。

[7.42] 軍はリディアからミシア地方のカイコス河に向かう経路を進んだ。カイコスを後にした彼らはアタルネウスを経て、カネ山(27)を左に見ながらカレネの街に着いた。ここからテーベの平原を抜け、アドラミテウムとペラスゴイ人の街アンタンドロスを通過した。

(27)現代のカズ山

その後、軍はイダ山を左に折れてトロイの領土に入った。そしてイダ山の麓で野営したとき、稲光を伴う嵐が襲い、多数の兵が死亡した。

[7.43] 軍はスカマンドロス河に到着したが、この河はサルディスを発って以来、兵士や牛馬の飲用を満たせなかった最初の河だった。この時、クセルクセスはかつてのプリアモス王(*)の砦を見たくなったので、そこに登った。

(*)トロイの最後の王

砦を見学し、これにまつわることをさまざまな訊ねたあと、クセルクセスはトロイのアテナ神に牛千頭を献げた。マギたちはその英雄たちの霊に神酒を献げた。このあと、夜になって陣営は恐慌に襲われたが、夜が明けてからここを発ち、ロイテイオン、オフィリネイオン、アビドスの隣のダルダノスの街(28)を左に見つつ、トロイのゲルギテスを右に見つつ進んだ。

(28)アビドスからおよそ9マイル離れている。

[7.44] アビドスに到着してから、クセルクセスは軍の閲兵を要望した。このために丘の上(29)に白石製の玉座が設置されたが、これは王の命によってアビドス人たちが作成したものである。

(29)おそらくナガラ岬にあるマルテペといわれている場所。

王がそこに座って海岸を見下ろし、陸軍と海軍を眺めているうちに船の競争を見たくなった。そうやって競争させるとシドンのフェニキア人たちが勝利をおさめ、クセルクセスはそれに満足し、軍勢の偉容にも満足した。

[7.45] ヘレスポントスの海が船で埋め尽くされているのを見、またアビドスの海岸や平地が兵士で満杯になっているのを見て、クセルクセスは初めて自分自身を祝福する声を上げ、すすり泣きを始めた。

[7.46] これに気づいた王の叔父アルタバノスは、最初は自分の考えを忌憚なく話し、ギリシアへの進軍を諫止していたのであるが、クセルクセスのすすり泣きの様子に注意しつつ、王に語りかけた。
「お上、今のなさりようと、この少し以前と、何という隔たりでありましょうや! ご自身を祝福なされた直後に落涙なさるとは」

クセルクセス曰く、
「人間の命の短さに思いを馳せると、その哀れさに心が動揺したのだ。この夥しい軍勢が、これから百年後には誰一人として生きてはおらぬゆえに」

アルタバノスが答える。
「人の人生にはそれ以上に深い悲哀があるものでございます。人生は短きものゆえ、一度のみならず幾度となく、生きることより死を望むことのないような幸運な者など、どこにもおりませぬ。不幸や病が我らに降りかかると、それが短い人生を長いようにも思わせるのでござる」

「人生は哀れ深きものゆえ、人間にとって死が最も好ましき逃げ道となるのでございます。神はこれをねたましく思われ、我らに生きることの甘美のみを下されたのでございます」

[7.47] クセルクセスがまた返答した。
「アルタバノスよ、人生というものはお主の申す通りじゃ。これについて議論するのも、いまの我らの栄耀栄華にひそむ不吉な影を思い起こすことも止めにしよう。ただこれだけは言っておく。もしお主が夢で幻を見なかったとしたら、以前からのギリシア侵攻に反対する考えをずっと持ちつづけていたであろうか、あるいはその考えが変わったであろうか? 真実を教えてくれぬか」

アルタバノスが答える。
「お上、夢に現れた幻が、我ら二人が望んだ結末をもたらしますように! ただ、みどもは今もなおひどく怖れております。というのは、さまざま顧みまするに、とりわけこの世で最も大なる二つのことが王に敵対しておりますことを怖れております」

[7.48] クセルクセス曰く。
「奇妙なことよ。そちの言う予の最大の二つの敵とは何のことじゃ? 陸の軍勢に不足ありと申すか? ギリシアの軍勢が我らのそれより何倍も上回るように思えると? あるいは船団の数がギリシアより少ないというのか? それともこの二つとも劣ると? お主の見るところ我らの勢力に何か欠けているというなら、直ちに別の軍勢を招集するのが最善の策であろう」

[7.49] アルタバノスが答える。「お上、正しき判断を下す者が見れば、この軍勢や船団の数に不足があるはずはござりませぬ。それに、これ以上軍を集められますと、みどもの申します二つの敵がさらにお上に向かってきますぞ。その二つの敵というのは大地と海のことでござる」

「察するに、嵐の際に、この大船団を受け入れて、船を守ってくれるそんな大きな港はないでありましょう。しかもそんな港が一つといわず、航行する陸沿いに多く必要となりましょう」

「この船団を受け入れることのできる港はありませぬゆえ、不測の事態においては人間はなすがままとなり、もはやそれを克服できるものではないことを知っておかれますように。これが一つ目の敵、もう一つはこれから申し上げる」

「大地も同様にお上の敵となり申す。たとえお上の進まれる道に、邪魔したり妨げとなる物が何もなくても、うまく事が運べば、さらに先に進もうとするのは人の常にございますゆえ、先に何が待ち受けているか、ずっと気づくことなく、進むに従って、ますます大地はお上に刃向かって参ることでしょう」

「お上に敵対する者がいなくても、長く時間が経つほどに遠くの地に行くことによって飢餓を招くことになり申す。ですから、ことを企てる際には、あらゆる障碍を想定しつつ臆病であり、いざことを行なうに当たっては大胆に実行に移すのが、最上の人間でございます」

[7.50] クセルクセスが答える。
「アルタバノス、もっともな言い分じゃ。しかし何事も恐るるに足らず、ましてや何もかも同様に忖度することもあるまい。全てをあらゆる場合に当てはめて等しく勘案しておると、何もできはせぬ。何事も思い切りよく実行し、怖れていたことの半分の不利益を被る方が、怯えて何もなさず、何も苦難を受けないことよりも上策というものだ」

「言挙げされる全てのことに異を唱えるなかで、何が正しいかを示せないのであれば、お主に異を唱える者と同じく、お主の主張も誤りであることになるぞ。これでは、どちらも同じことだ。人の身で、何が正しいかなど、どうして知り得よう? そのようなことは、できぬことと予は考える。行動を起こす意思を最も強く有する者が、褒賞を勝ち取るのだ。ためらって全ての場合を忖度する者に勝利はない」

「ペルシアがどれほどの勢力を築きあげてきたか、お主は知っておろう。先代の王たちがお主の如き考えだったなら、あるいはそのような考えを持たずとも、お主の如き軍師を持っておったなら、今の栄耀栄華を、お主は見ることは叶わなかったであろう。先王たちが危険を顧みず事を進められたればこそ、この高みにまで国威を発揚なされたのじゃ」

「大なる成功に大なる危険はつきもの。そして我らも先王たちと同じ道をたどるのだ。我らはいま一年中で最も良い季候の中で行軍しておるからには、全ヨーロッパを征服した暁には、食糧不足そのほか何の障碍もなく母国に帰還することになろう。まず我らは豊富な食糧を備えておるし、次に征服した国々で食糧をまかなうことになる。我らが向かうのは、遊牧民ではなく農耕民であるゆえ」

[7.51] アルタバノス曰く。
「お上、いかなる危険も恐るるに足らずとの由、承りましてございます。ただ、これだけはお聞きくだされますように。我らの企ては大なるゆえに語るべきことも多くを要しますゆえ」

「カンビュセス王の子キロス王がアテナイを除き全てのイオニア諸国を征服し、ペルシアに貢献なされましたが、これらイオニア諸国の兵を、決してその父祖の地に進軍させてはなりませぬ。彼らの助けがなくとも、敵に打ち勝つことができますゆえに。またイオニア兵がわが軍に加わりますれば、彼らの母国を征服するという極めて理不尽な行ないを取るか、母国を開放するというごく当然の行動を取るか、どちらかをせざるをえませぬゆえ」

「彼らがごく理不尽な行ないに走ったとしても、我らにはそれほど大きな利はもたらしませぬ。しかし彼らがごく当然の行動を取れば、お上の軍に多大な害悪をもたらしますぞ。結末は、始まりからは判らぬ、という古人の言葉に含まれる真理を、心に留めおかれませ」

[7.52] クセルクセスが答える。
「アルタバノスよ、お主の述べた種々の意見の中で、イオニア人の忠誠を疑うお主の怯えた意見が、最大の誤りだ。彼らの忠誠を確かなものとする確証はあるのだ。ダリウス王と共にスキタイに侵攻したお主や他の者どもなら、それを証言できるであろう。彼らが全ペルシア軍の明暗を左右する立場に立ったとき、何ら悪意を持たずに正義と忠誠を示したのはイオニア人ではなかったか」

「その上、彼らはその妻や子、資産を我が国に残しておるゆえ、彼らが無謀な変心を起こすかもしれぬということさえ、顧慮する必要はない。されば、そのような怖れは無用じゃ。心を強く持ち、わが家産と領土を守ってもらいたい。お主一人に、わが王権の象徴たる王笏を預けるのであるから」

[7.53] こう言ってクセルクセスはアルタバノスをスサに送り返した。次にペルシア人の中で最も高貴な者たちを呼び出し、彼らが揃ったところで切り出した。
「ペルシアの者ども、予は次の命を与える。諸君みずから勇敢に振る舞い、ペルシアがこれまでに築き上げた偉大で栄光に満ちた偉業を決して汚してはならぬ。各人また全員が熱意を持ってことにあたろうではないか。我らが追究する偉業は、我ら全てのものであるゆえ」

「以上のことから、奮闘して戦に取りかかってもらいたい。我らが勇敢な民族に向かっていることは承知しておる。彼らに勝利すれば、我らに対抗する軍勢は、この世になくなることは確かである。王国を支配するペルシアの神々に祈りを献げたあとは、いざ、海を渡ろうぞ」

[7.54] その日は一日中、渡海の準備に費やされた。そして翌日は、橋の上であらゆる種類の香木を焚き続け、神木の枝を路上に敷きつめ、日の出を待った。

日の出と共にクセルクセスは黄金の酒杯から神酒を海に注ぎ、道中の無事を太陽に祈り、またヨーロッパの最果てに到達する前に、この征服を阻むような事態の起きないことを祈った。祈り終えたあと、王は酒杯と共に黄金の水盤、アキナケス(30)と呼ばれるペルシアの剣をヘレスポントスの海に投じた、

(30)「三日月刀(scimitar)」ともいう彎曲ナイフ。一方で「 ἀκινάκης;akinákis」は真直ぐな短剣のことと思われる。

ただ、王がそれらを海に投じたのは、太陽に献げるためか、ヘレスポントスの海を鞭打ったことを後悔して贖罪のために献げたのか、正しく判断できない。

[7.55] 以上のことを終えてから、軍は海を渡り始めた。歩兵と騎馬の全軍は黒海側の橋をゆき、荷役獣と従者たちはエーゲ海側の橋を使った。

先導したのは、花飾りを頭に戴いた一万のペルシア兵で、つぎにさまざまな民族から編成された混成部隊が続いた。その日はこれらの部隊がずっと渡海した。翌日は、騎馬隊と穂先を下に向けた部隊が渡ったが、彼らも花冠を被っていた

そのあとには、聖馬と聖戦車が続き、クセルクセス自身と槍隊、千頭の騎馬隊、その後ろに残りの軍勢が続いた。その間、船団も出航して対岸に向かった。ただし、王が最後尾で渡ったとも聞いている。

[7.56] クセルクセスがヨーロッパに渡ると、麾下の軍勢が鞭でせかされて渡るのを視察した。また軍勢が一時も休むことなく渡海するのに、七昼夜を要した。

クセルクセスが渡り終えたとき、一人のヘレスポントス人が叫んだ。
「ゼウスさま、なにゆえにあなた様はペルシア人のような風貌をなさり、御名もクセルクセスと変えられ、世界中の人間を従えてギリシアを滅ぼそうとなさるのでしょうや? このようなことをなさらずとも、あなた様ならおできになるでしょうに」

[7.57] 全軍が渡海し、陸路出発の準備が整ったとき、ひどく不吉な前兆が現れた。クセルクセスはそれを意に介さなかったが、示していることは容易に判るものだった。それは雌馬が兎を産んだことである。その意味はごく明らかで、クセルクセスは威風堂々と進軍するが、命からがら同じ場所に帰ってくる、と解される。

ところで、王がサルディスにいたときにも別の前兆が現れていた。ラバが両性具有のラバを産み、しかも雄の性器が雌の性器の上についていたのだが、クセルクセスはどちらの前兆も無視し、陸軍を従えて進軍したのである。

[7.58] さて、海軍は陸沿いに航行してヘレスポントスの出口に向かったが、これは陸軍とは逆の方向であった。

船団は西のサルペドン岬に向けて進路を取った。というのも、クセルクセスがこの地でかれを待つように命じていたからである。一方、本土を進む軍は東に向かい(31)、日の出の方向に向かってケルソネソスを通過したが、その途次はアタマスの娘ヘレの墳墓を右に見、カルディアの街を左に見て、アゴラの街の中を行軍した。

(31)正確には北東方向。陸軍はガリポリ岬を通過した。

そこから陸軍はメラス湾(いわゆる黒い湾)沿いに進み、メラス河を渡った。この河は、その名を湾の名前に由来しているが、その時の軍の需要を満たすほどの流れではなかった。そのあと軍は進路を西に取り、アイオリア人の街アイノス、ステントル湖を過ぎてドリスコスに到着した。

[7.59] ドリスコスはトラキアにある海に近く広い平原で、そこにへブロスという大河が流れている。ここに王立の要塞都市として建設されたのがドリスコスなのである。かつてダリウスがスキタイに遠征して以来、ここにはペルシアの守備隊が配置されていた。

クセルクセスは、ここを麾下の軍を閲兵、点呼する適地と見なし、それを執行した。いまや船団も全てドリスコスに到着し、クセルクセスの命で船長たちはドリスコス付近の海岸に船を集結させた。ここにはサモトラケ人の建設したサネとゾネという街があり、その先端は有名なセレイオン岬がある。この地はかつてキコネス人が支配していたのである。

海軍はこの海岸に船を着け、陸に揚げて休息をとった。一方でクセルクセスはドリスコスで軍の点呼を行なった。

[7.60] 各民族の正確な員数をここには書けない。誰もそれを語っていないからであるが、陸軍の総数は百七十万とされている(*)。

(*)ペルシア軍の兵力に関してはさまざま議論されているが、実際の兵力はざっと10分の1程度だったろう、というのが大方の見方である。本巻184~187節を参照。なお、塩野七生氏は、この時のペルシア陸軍の勢力をおよそ20万人と推定している(ギリシア人の物語I)。リンク先も参照されたし。 テルモピュレーの戦い、 プラタイアの戦い

計数作業は次のようにして行なわれた。一箇所に一万人を集め(*)、彼らをできるだけ隙間なく整列させ、その周りを囲むように線を引く。その後、兵士を移動させてから、線に沿って石壁を臍の高さまで積み上げる。

この作業が終わってから、他の兵士を壁の中に整列させる。これを最後まで繰り返して数えるのであった。計数が済んだところで、民族ごとに整列させた。

(*)1万人をぎっしり詰め込んで一直線に並べると、どれほどの距離になるだろうか? 仮に1メートルの間に兵士を4人詰め込んだとすると、2千5百メートルの計算になるのだが。千人の間違いではなかろうかと首を傾げたくなる。

[7.61] 軍に召集された兵士の様子は次のとおりである。まずペルシア人の武装。頭にはティアラというフェルト製の丸帽子をかぶり、身には、さまざまな色の袖をつけ、魚に似せた鱗のような鉄片を多数取りつけたチュニック。脚にはズボン。木の枝で編んだ盾と、これに提げた矢筒。短い槍と長い弓、アシ製の矢。右の太股のベルトには短剣。

この部隊の司令官はアメストリスの子オタネスといい、クセルクセス妃の父だった。彼らは以前、ギリシア人からケフェネスと呼ばれていたが、自身また近隣諸国はアルタイオイと呼んでいた。

ダナエとゼウスの子ペルセウスがベロスの子ケフェウスの許へゆき、その娘アンドロメダを娶った後、男児が生まれペルセスと名づけたが、かれはこの息子をその地に残していった。ケフェウスには跡継ぎの男子がいなかったからであるが、ペルシア人の呼称は、このペルセスに由来する(32)。

(32)ヘロドトスはギリシア伝説に民俗学上の由来を求める傾向にある。名称の類似性においても同様。ゆえに次節ではメディアがメディア人の由来になっている。しかしペルセウスがヘラクレスと共通する祖祖父となっているのは、おかしい。かれはベロスの孫娘を娶っていた。第一巻七節ではベロスはヘラクレスの孫となっている。

[7.62] メディア人の軍装はペルシア人のそれと同じ。実はもともと軍装はメディア人のもので、ペルシア人のものではなかった。その司令官はアケメネス家のティグラネスである。メディア人は、以前は誰からもアリオイ人(33)と呼ばれていたが、コルキスの女メデアがアテナイからアリオイ人の許へきてから、この民族もその名を変えたのである。これはメディア人が自身について伝えていることである。

(33)現代の文献学上は「アリヤン」となっていて、非常に広い意味に取れる。これはストラボンの時代にまで遡る

キシア人の軍装はペルシア人と同様だったが、帽子の代わりにターバンを巻いていた。司令官はオタネスの子アナフェス。ヒルカニア人(34)部隊もペルシア人と同様。司令官はメガパノス、これは後にバビロン総督となった。

(34)第三巻のダリウスの征服国リストにはない。カスピ海東南部沿岸の民族。

[7.63] アッシリア人は頭に青銅で編んだ兜をかぶっているが、これは風変わりで説明しがたい。盾と槍、エジプト様式の短剣を持つ。また鉄鋲をつけた木の棍棒を持ち、亜麻の胸当てを着ている。ギリシア人は彼らをシリア人と呼んでいるが、異国人はアッシリア人と呼んだ。彼らにはカルディア人も従っていた。司令官はアルタカイエスの子オタスペス。

[7.64] バクトリア人はメディア人の帽子によく似たものをかぶっていた。携行しているのは自国の葦で作った弓と短槍。

スキタイから来たサカイ人は先の尖った固くて長い帽子をかぶり、ズボンを履き、自国製の弓と短剣、サガリスと呼んでいる斧を持っていた。彼らはスキタイのアミルギオン族だったが、ペルシア人はスキタイ人の総称としてサカイと呼んでいた。バクトリア人とサカイ人の司令官は、ダリウスとキュロスの娘アトッサとの息子であるヒスタスペス。

[7.65] インド人は木製ウール(35)の服を着、葦の弓と鉄の鏃をつけた矢を持っていた。司令官はアルタバテスの子ファルナザトレス。

(35)木綿

[7.66] アリオイ人はメディアの弓を装備していたが、そのほかはバクトリア人と同じ。司令官はヒルダネスの子シサムネス。パルティア人、コラスミオイ人、ソグディア人、ガンダリ人、ダディカイ人は、バクトリア人と同じ装備だった。

パルティア人とコラスミオイ人の司令官はファルナケスの子アルタバゾス。ソグディア人の司令官はアルタウオスの子アザネス、ガンダリ人とダディカイ人の司令官はアルタバノスの子アルティフィウスだった。

[7.67] カスピア人は外套をまとい、自国製の葦弓と短剣を携行していた。その司令官はアルティフィウスの兄弟アリオマルドス。サランガイ人は色染めされた派手な外套を着、膝までの長靴を履き、メディア風の弓と槍を携行していた。司令官はメガバゾスの子フェレンダテス。

パクティエス人は革の外套を着、自国製の弓と短剣を持っていた。司令官はイタミトレスの子アルタインテス。

[7.68] ウティオイ人、ミシア人、パリカニオイ人はパクティエス人と同様の装備をつけていた。ウティオイ人とミシア人の司令官はダリウスの子アルサメネスで、パリカニオイ人の司令官はオイオバゾスの子シロミトレスだった。

[7.69] アラビア人はゼイラという帯つきの外套を着込み、右手には後ろに反っている長弓(36)を携えていた。エチオピア人はヒョウとライオンの毛皮をまとい、椰子の木片から作った弓を持っていた。この弓は四キューピット(*)足らずの長さで、鏃には鉄の代わりに印判を彫るのに用いる尖った石を取りつけていた。さらには槍の穂先には尖らせたカモシカの角をつけ、鋲を打ちつけた棍棒を持っていた。

(36)弦を張っていない時には弓の端が通常の彎曲方向と逆に反っていて、これによって矢の威力が増す。
(*)45~56Cm×4≒180~224Cm

彼らが出陣する時には身体の半分を石膏で白く塗り、残りの半分を朱に染めていた。エジプトの上手に居住するアラビア人とエチオピア人の司令官はダリウスとキュロスの娘アリストンとの間に生まれたアルサメスだった。ダリウスは后の中でもこのアリストンを最も愛しんでいたので、金の延べ板に彼女の像を刻ませていた。

[7.70] エチオピア人は二箇所から来ており、東方からきたエチオピア人は(37)インド人部隊に配属されていたが、外見は他国人と変わらず、ただ、言葉と頭髪だけが違っていた。東方のエチオピア人は直毛だったが、リビアからきたエチオピア人は全軍の中でも最も強い縮れ毛だった。

(37)第三巻九十四節。東のエチオピア人は明らかにバルキスタン(パキスタン)またはその付近の民族。

アジアから来たこのエチオピア人の装備は、ほとんどがインド人のそれと同じだったが、耳とたてがみを剥いだ馬の頭部の革を頭にかぶっていた。たてがみを鶏冠のように立て、馬の耳は固めてピンと立てた。盾には鶴の革を使っていた。

[7.71] リビア人は革の上着をはおり、焼き固めた木の投げ槍を持っていた。司令官はオアリゾスの子マッサゲス。

[7.72] パファラゴニア人は織物の兜をかぶり、小ぶりな盾と短弓、投げ槍と短剣を携行していた。履物は膝の半ばまでの自国風だった。リギエス人とマティエネ人、マリエンディニ人、シリア人はパファラゴニア人の同様の装備だった。このシリア人はペルシア人からはカッパドキア人と呼ばれていた。

メガシドロスの子ドトスがパファラゴニア人とマティエネ人の司令官で、ダリウスとアリストンとの子ゴブリアスが、マリエンディニ人、リギエス人、シリア人の司令官だった。

[7.73] フリギア人の装備はパファラゴニア人のそれと非常によく似ていて、その違いはごく僅かだった。マケドニア人が言うように、彼らはマケドニアの隣でヨーロッパに居住している間はブリゲス人と呼ばれていた。ところが彼らがアジアに移住したときに、その名もフリギア人と変えたのである(38)。アルメニア人はフリギアからの移住民であるゆえ、その装備もフリギア人と同様だった。この二つの民族はダリウス
の娘を娶ったアルトクメスを司令官としていた。

(38)これは第七巻二十節に記されているヘロドトスの民族移動に関する記述の逆。その項のノートを参照。

[7.74] リディア人の武器はギリシア人のそれに似ている。リディア人は、以前メイオネス人と呼ばれていたが、アテュスの子リドスの名を踏襲して名を変えられたのである。ミシア人は自国風の兜をかぶり、小さな盾と焼き固めた木の投げ槍を携行していた。

彼らはリディアから移住したのであるが、オリンポスの名を取ってオリンピエノイ人と呼ばれた。リディア人とミシア人の司令官はアルタフレネスの子アルタフレネスで、ダティスと共にマラトンに進攻した将軍である。

[7.75] トラキア人は狐革の帽子を頭にかぶり、チュニックを着た上にさまざまな色で染めた外套をまとっていた。足と脛には子鹿革の靴を履き、投げ槍、小さな盾、短剣を携行していた。

彼らはアジアに渡ったあと、ビティニア人と呼ばれたが、彼ら自身の伝えるところでは、それ以前はストリモン河畔に住んでいたことから、ストリモニア人と呼ばれていた。彼らが言うには、テウクリア人とミシア人によって国を追われたということである。アジアのトラキア人の司令官はアルタバノスの子バサッケス。

[7.76] <ピシディア人>は牛の生皮を張った小盾を持ち、それぞれがリキア製の狩猟槍二本を持ち、青銅の兜をかぶっていた。この兜には青銅で作った雄牛の耳と角がつけられ、鶏冠もついていた。脚には紫の脚絆を巻いていた。彼らの国には軍神アレスの託宣所がある。

[7.77] カバレエス人(39)はマイオネス人のことで、ラソニオイ人とも呼ばれているが、キリキア人と同じ装備を持っていた。キリキア人に関しては然るべき所で、その様子を説明するつもりである。ミリアイ人は短槍を持ち、ピンで留めた上着を着ていた。彼らの中にはリキア弓を持ち、頭に革の兜をかぶっている者がいた。これら全ての司令官はヒスタネスの子バドレス。

(39)カリア、フリギア、ピシディア、リキアに接する地域から来ている。

[7.78] モスコイ人は木の兜をかぶり、盾と長い穂先の小槍を持っていた。ティバレノイ、マクロネス、モシノイコイの諸族はモスコイ人と同じ装備。モスコイ人とティバレノイ人の司令官は、ダリウスと、キュロスの息子でスメルディスの娘であるパルミスとの間に生まれたアリオマルドス。マクロネス人とモシノイコイ人の司令官はケラスミスの子アルタユクテス。かれはヘレスポントスのセストス総督だった。

[7.79] マレス人は編み上げ兜をかぶり、投げ槍と小さな革の盾を持っていた。コルキス人は木の兜をかぶり、生の牛革を張った盾を持ち、短槍と短剣を持っていた。これらの部族の司令官はテアスピスの子ファランダテス。アラロディオイ人とサスピレス人はコルキス人と同じ装備で、その司令官はシロミトレスの子マシスティオス。

[7.80] 紅い海から参加した島嶼の部族と、追放者として王が住まわせた島嶼から参加した部族の衣服と武器は、メディア人とごく同様だった。これら島嶼の部族の司令官はバガイオスの子マルドンテスだったが、この人物は翌年(40)にはミカーレの戦いに将軍として臨み、戦死した。

(40)BC.479

[7.81] 以上が陸上を行軍し、歩兵に編入された諸民族である。この軍の司令官たちはすでに述べた通りで、彼らが配下の部隊を編成点呼し、千人隊、一万人隊の隊長を任命した。そして一万人隊の隊長が百人隊、千人隊の隊長を任命した。ほかに部族や民族の統率者がいた(41)。

(41)出身国の統率者で、軍の公式指揮官ではない。

[7.82] 以上が各民族の司令官たちであるが、その全陸軍と司令官たちを統べる将軍がゴブリアスの子マルドニオス、ギリシア遠征に反対の立場を取ったアルタバノスの子トリタンタイクメス、オタネスの子スメルドメネス(後者二人はダリウスの兄弟の子であるからクセルクセスの従兄弟になる)、ダリウスとアトッサの間に生まれたマシステス、アリアゾスの子ゲルギス、ゾピロスの子メガピゾスだった。

[7.83] 全歩兵の将軍たちは以上である。ただし一万人隊を除く。その選抜されたペルシア人一万人隊の将軍がヒルダネスの子ヒルダネスだった。彼らは次の理由から「不死身隊」と呼ばれた。すなわち、彼らのうち誰かが病や死によって余儀なく脱落した時には、別の兵士が抜擢されるので、一万人からは決して増えもせず、減りもしないのである。

ペルシア人が全民族の中で最も豪華な装束をまとっており、また軍の中で最強だった。彼らの装備はこれまでに述べた通りであるが、それに加えて多量の黄金を身につけていたので、際立っていた。その上、馬車にはきらびやかな衣装をまとった妻妾や奴婢をのせて連れてきていた。また他の部隊とは別にペルシア人のための食糧を駱駝や荷役獣に運ばせていた。

[7.84] 以上の民族には騎兵もいたが、全てが騎兵を提供したわけではなく、提供したのは次の民族だけである。ペルシア人は歩兵と同じ装備をしていたが、中には青銅や鉄で鍛造した兜をかぶっている兵士がいた。

[7.85] サガルティオイ人という遊牧民族も参加していたが、彼らはペルシア語を話し、装備はペルシアとパクティエの中間風のものだった。この民族は八千人の騎兵を提供したが、短剣以外は鉄や青銅の武器を持つ習慣がなく、革紐を撚り合わせた綱を持っていた(42)。

(42)投げ縄

これらの武器を頼りにして彼らは戦場に向かったが、その戦い方は次のとおりである。敵に接近すると引き結びにした綱を投げ、馬でも人でも捕らえたものを手前に引き寄せ、綱に巻きつけて絡ませ、斃すのである。以上が彼らの戦い方で、ペルシア人部隊に編入された。

[7.86] メディア人騎兵の装備はその歩兵と同じで、キシア人も同じだった。インド人騎兵の装備もその歩兵と同じだったが、駿馬に乗り、馬や野生のロバに曳かせた戦車を操った。バクトリア人騎兵はその歩兵と同じ装備で、カスピア人騎兵も同様だった。

リビア人騎兵も同じく歩兵と同じ装備で、彼らは全員が戦車も操った。カスピア人もパリカニオイ人も、装備はその歩兵と同じ。アラビア人も歩兵と同じ装備で、全員が馬に引けを取らない俊足の駱駝に乗っていた。

[7.87] 以上の民族だけが騎兵を提供し、その人数は八万騎を数えたが、駱駝や戦車は入っていない。騎兵はその部族別の部隊に配属されたが、アラビア人騎兵だけは最後尾に配置された。馬が駱駝に怯えるので、後ろに配置することで馬が怯えずに済むからである。

[7.88] 騎兵の司令官はダティスの子ハルマミトレスとティタイオス。三人目にファルヌケスがいたが、かれは病のためにサルディスに残った。というのも、サルディスを出発する時、かれは不幸な事故に遭遇したのである。一匹の犬がかれが乗っている馬の脚下を駆け抜け、それに驚きおののいた馬が後ろ脚立ちになってかれを振り落としてしまったのである。落馬後にかれは吐血したが、その後、労咳になったのである。

その馬はすぐにファルヌケスの命に従い、従僕によってかれを振り落とした場所に連れてゆかれ、膝を切断された。かくしてファルヌケスは任務を免ぜられたのである。

[7.89] 三層櫂ガレー船の数は千二百七隻だったが、提供したのは以下の諸国だった。パレスチナのシリア人と共にフェニキア人は三百隻。その装備は頭には、ほとんどギリシア風の兜。亜麻製の胸甲、縁なし盾、投げ槍。

このフェニキア人は、彼ら自身が伝えるところでは、以前は紅い海のそばに住んでいたが、そこから移動して今はシリア沿岸に住むようになったという。シリアのこの地域から遥かエジプト一帯はパレスチナと呼ばれている。

エジプト人は二百隻を提供した。彼らは編み上げ兜をかぶり、広縁で凹みのある盾と海戦用の槍、大きな戦闘斧を持っていた。彼らの多くは胸甲を着込み、大型の短剣を帯びていた。

[7.90] キプロス人は百五十隻を提供。領主たちは頭にターバンを巻き、一般人はチュニックを着ているが、そのほかはギリシア人と同様の身なりだった。キプロス人の部族は次のとおりである(43)。サラミスとアテナイ出身、アルカディア出身、キュトノス出身、フェニキア出身、エチオピア出身がいるとは、キプロス人自身の伝えるところ。

(43)これら各地域に分散して居住していた。各地域に別れていたわけではない。

[7.91] キリキア人は百隻を提供。頭にはキリキア風の兜。生の牛革を張った盾。羊毛のチュニックを着用し、各自二本の投げ槍とエジプトの短剣によく似た剣を持っていた。以前この民族はヒパカイオイと呼ばれていたが、フェニキア人でアゲノールの子キリクスからその名を取ったのである(44)。パンフィリア人は三十隻(*)の船を出し、ギリシア風の装備だった。彼らは、トロイ戦争後の離散に際して、アンピロコスとカルコスに随行した者たちの末裔である。

(44)アゲノールはフェニキアの神を示しているようだ。
(*)Godleyは百隻と書いているが、他の三者は三十隻としているので、多数決に従った。

[7.92] リキア人は五十隻を提供。胸甲と脛当をつけ、ヤマボウシの木で作った弓と羽なしの矢、投げ槍を持っていた。肩には山羊皮をかけ、頭には羽つきの帽子。短剣と三日月刀を携行。リキア人はクレタ島から出た民族で、かつてはテルミライ人と呼ばれていたが、アテナイ人パンディオンの子リコスからその名をつけられた。

[7.93] アジアから来たドーリア人は三十隻を提供。その武器はギリシア式。もとはペロポネソスにいた。カリア人は七十隻。武器は三日月刀と短剣。その他はギリシア式。彼らの以前の呼び名は本書の冒頭に記している(45)。

(45)レレゲス人と呼ばれていた。第一巻百七十一節参照。

[7.94] イオニア人は百隻を提供。装備はギリシア様式。彼らがペロポネソスのアカイアと今は呼んでいる地域に住み、ダナオスとクストスがペロポネソスにやって来るまでは、アエギアリア・ペラスゴイ人または「海辺のペラスゴイ人」(46)と呼ばれていたと、ギリシア人は伝えている。彼らの名はクストスの子イオンからきている。

(46)ヘロドトスは、全般にギリシア最古の住民に対して「ペラスゴイ人」という名称を用いている。第一巻百四十六節、第二巻百七十一節を参照。

[7.95] 島嶼からは十七隻が参加し、武器はギリシア様式。彼らもペラスゴイ人の系統だったが、アテナイから移住した十二都市(47)のイオニア人と同じ理由で、その名をつけられたのである。アエオリア人は六十隻を提供し、装備はギリシア式。ギリシア人の伝承では、彼らも以前ペラスゴイ人と呼ばれていたという。

(47)ミレトス、ミウス、プリエネ、エペソス、コロポン、レベドス、テオス、クラゾメナイ、ポカイア、サモス、キオス、エリトライの都市。第一巻百四十二節参照。

ヘレスポントスの住民、すなわちアビドス人は国に残って橋を守るよう王に命ぜられた。ほかのポントスから従軍した住民は百隻を提供し、武装はギリシア式だった。彼らはイオニア地方とドーリア地方からの移住民だった。

[7.96] さて全ての船にはペルシア人、メディア入、サカイ人の兵士が乗り組んでいた。最高の性能を有する船を提供したのはフェニキア入だったが、中でもシドン人の船が最も秀でていた。歩兵隊に編入された兵士の場合と同じく、すべての部隊に同国人の隊長がいたが、私の探究目的には必要ないので、その者たちの名は記さずにおく。

各民族の隊長たち全員が名を記すに値するというわけでもなく、各民族の各都市には、それぞれの隊長もいたからである。彼らはもともと司令官としてではなく奴隷として従軍しているのであって、これは他の遠征軍でも同じだった。最高権力者たる将軍の名前と、各民族を統べるペルシア人司令官は、すでに述べたとおりである。

[7.97] 海軍の司令官は次のとおりである。ダリウスの子アリアビグネス、アスパシネスの子プレクサスペス、メガバテスの子メガバゾス、ダレイオスの子アカイメネス。ダリウスとゴブリアスの間に生まれたアリアビグネスはイオニア人とカリア人の船隊を指揮し、エジプト人船隊はクセルクセスと両親を同じくする兄弟のアカイメネスが指揮をとり、残りの船隊は他の二人が指揮をとった。三十櫂船と五十櫂船、小型ガレー船、馬の輸送船を合わせると、総計で三千隻に達した。

[7.98] 船隊に同乗した高名な将軍は次のとおりである。シドン人ではアニソスの子テトラムネストス、テュロス人ではシロモスの子マッテン、アラドス人ではアゲバロスの子メルバロス、キリキア人ではオロメドンの子シュエンネシス、リキア人ではシカスの子キベルニスコス、キプロス人ではケルシスの子ゴルゴスとティマゴラスの子ティモナクス、カリア人ではテュムネスの子ヒスティアイオスとヒセルドモスの子ピグレスおよびカンダウレスの子ダマシティモスであった。

[7.99] そのほかの将軍については、アルテミシアを除き、名を記す必要が見当たらない。ギリシア遠征軍に女が加わることは大いなる驚異であると私は見る。彼女は夫の死後、成人に達した息子がいたにも拘わらず、その支配権を握り、余儀ない事情があるわけでもないのに、生来の若々しい気迫と剛胆な気性から遠征に加わったのである。

その名はアルテミシア、リグダミスの娘だった。その父の系譜をたどると、彼女はハリカリナッソスの出自となるが、母の系譜からではクレタの出自となる。そして彼女はハリカルナッソス島、コス島、ニシロス島およびカリドナ島を支配していて、五隻の船を提供した。

彼女の船団はシドン人のそれに次ぎ、全船団中で最も高い評判を勝ち取った。また彼女は王の全連合軍について最も優れた助言を提案した。先に記した彼女の支配する諸都市については、ハリカルナッソス人はトロイゼン系で、その他はエピダウロス系であるゆえ、全てドーリア系である。船団に関しては以上である。

[7.100] 軍の点呼と編成を終えると、クセルクセスは車上から軍を巡り、閲兵したくなった。戦車に乗って各民族の兵士たちを閲兵しつつ、かれが兵士に問いかけたことは祐筆が全て書き留めた。そうやって騎馬隊と歩兵の全軍を端から端まで閲兵した。

閲兵を終えたあとは、船団が引き出されて海に浮かべられた。クセルクセスは戦車を降りてシドン人の船に乗り込み、黄金の天蓋つき玉座に座した。そして船団の船首を経巡り、陸軍を視察したときと同様に兵士に下問し、問答を記録させた。

船長たちは海岸から四百フィート離れた位置で船首を陸に向けて一列に整列させ、兵士は戦闘用の武装をしていた。クセルクセスはそれらの船首と陸の間を船で通り抜けて視察したのである。

[7.101] 全船隊を視察し終え、下船すると、クセルクセスはアリストンの子デラマトス(48)を呼び寄せた。かれはギリシア遠征に随行していたのである。王はかれを侍らせて下問した。
「さてデマラトス、お主から知りたいことを聞けることは、予の喜びとするところだ。お主はギリシア人、しかもお主からも他のギリシア人からも聞いておる通り、ギリシアにおいてお主の国は、それほど小さくもなく、弱くもないという」

(48)亡命していたスパルタの王。第六巻七十節、第七巻三節を参照。

「しからば申せ、ギリシアは予に刃向い、戦を仕掛けてこようか? 予の考えでは、全てのギリシア諸国はたまた全西洋諸国の人民が群がり集ったところで、彼らが団結せぬ限りは、予の攻撃に対抗できるほど充分な力にはならぬはずだ。これについて、お主の見るところを是非とも聞きたいものだ」

デマラトスは返答した。
「申し上げまする。みどもは真実を申しあぐべきか、それともお上のお気に召すようなことを申しあぐべきか、どちらでありましょうや?」クセルクセスは真実を語るように命じ、またかれの言うことを聞いても以前ほどには不興を振りまくこともなかろうと言った。

[7.102] これを聞いてデマラトスは言上した。
「お上、真実を申せとのお言葉、また虚言を労したとて何人も後々咎めを受けぬことを申せとのお達しゆえ、申し上げます。ギリシアでは貧窮に甘んじることが一般的な風土でござるが、英知と法の力によって勇猛を我が物としたのでござる。そしてこの勇猛さによって、ギリシアは貧窮をものともせず、専制からも免れたのでございます」

「みどもはドーリア地方に住む全てのギリシア人を賞賛するものでありますが、今から申し上げますことは彼らのことではなく、スパルタのことのみにございます。まず彼らは、お上がギリシアを隷属することを決して潔しとしないでありましょう。次に、他のギリシア諸国がすべてペルシアについたとしても、彼らは戦いを挑んでくるでありましょう」

「兵士の数はどれほどかなど、問われますな。たまたま兵員が千人であっても、彼らは戦いに臨むでありましょうし、それ以下でもそれ以上でも同じことでござる」

[7.103] これを聞いてクセルクセスは笑って言った。
「何とおかしなことを言うものよ、デマラトス。わずか千人でも敵の大群に向かうと申すか!かの者たちの王であったとお主は言うが、ではそちは今から十人の相手と戦うつもりはあるか? かの国が全くお主の言う通りであるなら、彼らの王として、その国法上からは(49)、お主は二倍の敵に向かわねばならぬ」

(49)饗宴時にはスパルタ王に二倍の量が供されることを示唆している。第六巻五十七節を参照。

「彼らのそれぞれが我が軍の十人に匹敵するというなら、お主は二十人を相手にせねばならぬのだ。それを実行すれば、お主のいうことが真実であると証明することになる。しかしお主たちギリシア人が皆そのような大口を叩き、それがお主や予のもとに面会に来るギリシア人と背丈も全く同じであるなら、お主の言ったことが単なる戯れ言であると一蹴することもできぬな」

「では、理によってそれを調べてみようではないか。ギリシア人が千人あるいは一万人さらには五万人として、一人の指揮官に支配されず全て勝手気ままで、どうして予の軍の如き大軍に立ち向かえることができようか? かりにギリシア人が五千とすれば、我が軍は依然その千倍以上ということになるぞ」

「我らの慣習通り、彼らが一人の指揮官に従うのであれば、かれを怖れる恐怖心から普段以上の力を発揮するかもしれず、少兵であっても鞭で急かされ大群に立ち向かうこともあろう。しかし勝手に動くことを許されているなら、このどちらもできぬ相談じゃ。予自身の見るところでは、かりにギリシア人が同数であっても、ペルシア人だけに対しても対抗するのは難しかろう」

「お主が言うことは我らの側にこそ例がある。とはいえ、よくある例ではなく、まれではあるが。というのも、ペルシア人には一度に三人のギリシア人を進んで相手にする槍兵もいるのだ。こんなことも知らずに、お主は蕩々と馬鹿げたことをまくし立ておったわ」

[7.104] これに対してデマラトスが返答する。
「お上、真実を言上することは気に召さぬことと、初手から判っておりました。できる限り真実を話せと強いてお命じになりましたゆえ、スパルタ人に関してありのままを申したまででござる」

「みどもが如何にギリシア人に愛着を持っているか、お上が一等良くご存じのはず。彼らはみどもから地位と先祖から受け継いだ特権を奪い、寄る辺なき国外追放者としたのでござる。そしてお上の父君がみどもを引き受けて下さり、屋敷と活計(たつき)の道を授けてくだされた。好意を前にして、それを拒むのは思慮ある人間の所行ではござりませぬ。むしろ大いに感謝して、それを受けるのが思慮深き人間でありましょう」

「みども自身は十人を相手に戦うとも、二人を相手に戦うとも公言しませぬ。ましてや一人を相手に進んで戦うことさえも、したくはありませぬ。しかしながら、必要とあらば、あるいは何らかの抗争によって余儀なき仕儀となりますれば、三人のギリシア人を相手にするという兵士と、欣然、戦いに臨む心意気は持っておりますぞ」

「スパルタ人も同じことで、単独では誰にも負けぬ勇猛さで戦い、集団となると地上で最強の戦士となりましょう。彼らは自由ではありますが、完全に自由というわけではありませぬ。法が彼らの支配者であります。お上の臣民がお上を怖れるよりずっと強く、彼らは法を怖れるのでござる」

「法の命じることなら、彼らは何であれ実行いたす。そして法が命じることは常に同じ。すなわち、敵がどんなに多くとも、決して逃げ出してはならぬのです。そしてその位置で敵を打ち負かすか、斃されるまで、留まらねばならぬのです。これが戯れ言と思われるならば、以後は口を閉ざすことをお許しくだされ。ただいま申し上げたことは、お上のたってのご下命によるものでござるゆえ。ただこれが、どうかお上の御意に適っておりますように」

[7.105] このようにデマラトスは返答した。クセルクセスは怒りを見せずに笑い飛ばし、優しくかれを引き下がらせた。さて、デマラトスとの会談後は、ダリウスによって任命されていたドリスコスの総督を罷免し、メガドステスの子マスカメスをそれに任命した。そして軍をトラキアからギリシアに向けて進めた。

[7.106] クセルクセスが後に残したこのマスカメスは、クセルクセスが常に褒賞を与えた唯一の人物で、ダリウスやクセルクセスが任命した総督たちの中でこの上なく剛毅だった。しかもクセルクセスは毎年褒賞を下賜していたのである。またクセルクセスの子アルタクセルクセスもマスカメスの子孫に同じことをした。

というのも、この遠征が始まる前に、トラキアとヘレスポントスの全都市に総督が任命されていたのだが、遠征のあと、ドリスコス総督を除き、これら全ての総督たちがギリシア人に捕らわれてしまった。一人マスカメスだけが、誰が試みても、何としても排撃できなかったのである。このことがあって、後継のペルシア王から褒賞が与えられていたのだ。

[7.107] ギリシア人から排撃された総督のうちで、クセルクセスが唯一剛毅の者と認めたのが、エイオンの総督だったボゲスである。王はこの者を絶えず褒め称え、ペルシアに残っていたかれの息子たちに格別の栄誉を与えた。実際のところ、ボゲスは大きな賞賛に匹敵することをみずから示していた。かれは、ミリティアデスの子キモンに攻囲されていた時、和平を結んでエイオンからアジアに帰還できたのに、それを拒み、臆病風に吹かされて命を惜しんだと王に思われたくないために、最後まで抗戦したのである。

城内の食糧が底をついた時、かれは自分の子や妻妾、家僕たちを殺害した後、大量の薪を積み上げて火をつけ、その中に投げ入れた。その後、町中からすべての黄金と銀をかき集め、城壁からそれらをストリモン河の中にまき散らした。そして火中に身を投じたのである。このことがあって、かれは今日までペルシア人から賞賛を浴びているのだ。

[7.108] さてクセルクセスはギリシアに向けてドリスコスを出発し、通過する途中の諸都市は軍によって隷属させつつ進んだ。当初記したとおり、遠くテッサリア地方の諸国は、マガバゾスと次のマルドニスによってすでに征圧され属国となっていた

ドリスコスを出発後、最初に通過したのはサモトラケ人の諸要塞(50)だったが、それらのうち最西端にあるものはメサンブリアと呼ばれていた。その次にあるのがタソス人のストライムで、この二つの要塞の間をリソス河が流れていた。この河はクセルクセス軍の需要を充分に満たすほどの水量はなく、涸れてしまった。

(50)本土にある資産を守るためにサモトラケ人が築いたものに違いない。

この地域全体はかつてガライケと呼ばれていたが、今はブリアンティケと呼ばれている。しかし厳密にはキコニス人の領土に属している。

[7.109] 軍は干上がったリソス河を越えた後、マロニア、ディケイア、アブデラのギリシアの街を通過し、その近くの有名な湖に沿って進んだ。すなわちイスマリド湖はマロニアとストライムの間にあり、ディケイアの近くにはビストニア湖。この湖にはトラボス河とコンプサントス河が注いでいる。そしてクセルクセスはアブデラの近くでは名のある湖を通過しなかったが、海に注いでいるネストス河を渡った。

この地域から彼は本土の諸都市の近くを通過した。そのうちのある街の近くには周囲およそ30スタディア(五千六百米)の湖があり、魚が豊富で塩気がごく強かったが、荷役獣に給水しただけで干上がってしまった。この街の名はピストロスといった。

[7.110] クセルクセスは、これらギリシアの沿岸諸都市を左に見つつ通過した。軍が通過したトラキアの諸部族は、パイトイ、キコネス、ビストネス、サパイオイ、デルサイオイ、エドノイ、サトライなどであった(51)。これらの部族のうち、海辺に住む者たちは海軍に従軍し、右に挙げた内陸諸都市に住む者たちは陸軍に従軍することを強制された。ただしサトライ人だけは例外だった。

(51)これら全ての部族はネストス渓谷とストリモン渓谷あるいはその間にある丘陵地帯の国である。

[7.111] 我らが知る限りでは、サトライ人はかつて誰にも征服されたことはなかった。トラキア人の中で彼らだけが現在まで自由を謳歌して住み続けていたのである。彼らはあらゆる種類の木と雪に覆われた高い山々に住み、しかも勇猛な戦士であったためである。

ディオニソスの託宣所を専有しているのが、この民族だった。この託宣所は山頂にあり、サトライ族のベッシ家は神託の代弁者で、デルフォイと同様に神託を口添えする巫女もいたが、デルフォイ以上に複雑なところはない(52)。

(52)ヘロドトスは、ここでの神託手法はデルフォイと同じで「通常」のものと見なしているようだ。ベッシ家は仰々しく神秘的な儀式を行なっていると思われる。

[7.112] 右の地域を通過して、クセルクセスは次にピエリア人の砦を過ぎた。その一つはパグレス、一つはペルガモスと呼ばれていた。この砦の直下を通過する時、高くて巨大なパンガイオン山脈を右に見て進んだが、この山はピエリア人、オドマントイ人、中でもサトライ人が金銀の鉱山を所有していた。

[7.113] その後、軍はパンガイオン山脈を越えてその北側に住むパエオニア、ドベレス、パイオプライの諸族の街を通過し(53)、西に向かった。そしてストリモン河まで来てエイオンに到着した。ここの総督は少し前に述べたボゲスで、その時にはまだ存命だった。

(53)本巻百十二節ではクセルクセスは沿岸沿いに行進しているが、ここでははるか内陸を進んでいる。明らかに軍は三系統で並進している。本巻百二十一節を参照。

パンガイオン山脈の周囲全体はフィリスと呼ばれ、西はストリモン河に合流するアンギテス河に至り、南はストリモン河それ自体に至る。マギ僧たちは良き予兆を求めて数頭の白馬を生贄とし、ストリモン河に投じた。

[7.114] 右の儀式やほかに多くのまじないを河に執り行なった後、軍はエドニア地方の九本道で(54)、すでにストリモン河に架かっていた数本の橋を通って渡河した。九本道が地名であることを知り、軍はその土地の少年少女を同じ数だけ生き埋めにした。

(54)ストリモン河畔のエイオンからおよそ3マイル。

人を生き埋めにするのはペルシアの風習で、このことは私が聞きただしたことであるが、クセルクセス妃のアメストリスが老齢に達してから。自分の身代わりとして高貴なペルシア人の息子たちを十四人生き埋めにしたことがあり、それは地下にいるという伝説の神へ感謝を捧げるためであった。

[7.115] ストリモンを発ってから軍は、西に海岸の拡がっているところにあるギリシア人の街アルギロスを通過した。この街の領土と内陸の地域はビサルティアと呼ばれている。

ここから軍はポセイデイオン湾を左に見つつ、シレウスと呼んでいる平原を横断し、ギリシア人の街スタギロスを過ぎてアカントスに着いた。これまで述べたのと同様、軍は通過した地域の部族やパンガイオン山脈周辺の住民を全て徴兵し、沿岸地域の者は海軍に、内陸の者は陸軍に加えた。

クセルクセス王が進行した道は、その全てをトラキア人は耕起せず種もまくことなく、強い敬意を払って今日まで保存している。

[7.116] クセルクセスがアカントスに到着すると、アカントス人が遠征に進んで協力し、運河の掘削も熱心に行なったのを見聞きして、王は以後アカントス人を客分として遇する旨を宣言し。褒賞としてメディア風の衣装を彼らに与えた。

[7.117] クセルクセスがアカントスに滞在中、運河開墾を指揮監督していたアルタカイエスが病死してしまった。かれはクセルクセスが特に目をかけているお気に入りで、アケメネス家の血筋を引いていて、身長が五王キューピッド(55)に四本指の幅だけ欠ける高さで、ペルシア中でこの上なく長身だった。しかも世界に比類なき大音声だった。クセルクセスはかれの死を深く悼み、全軍あげて壮麗な墳墓を作らせ、丁重に葬儀を行なった。

(55)およそ8フィートの身長

神託に基づき、アカントス人はアルタカイエスを神人として崇め、その名と共に生贄を捧げている。かくしてクセルクセスはアルタカイエスの死を嘆き悲しんだ。

[7.118] ところでクセルクセスの軍と王自身を受け入れ、もてなしたギリシア人は悲惨を極め、家屋敷を手放さねばならないほどだった。その例としてタソス人の場合を挙げると、本土にある諸都市のためにクセルクセスの軍を受け入れて饗応したオルゲウスの子アンティパトロスは、かの国では比類なき高貴な家柄で、この接待のために選ばれたのだが、銀で四百タラントン(*)も饗応に支出したという。

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

[7.119] 同様の金額が、ほかの諸都市においても担当者たちから報告されている。饗応に関しては、その準備をかなり早くから指示されるので、大騒動となるのだが、以下のように進められた。

使者から伝令を受け取ると、すぐに彼らは街が所有する穀類を全員に分配し、何ヶ月もかけて小麦粉と大麦粉に挽くのである。次には高価で良質の家畜を買って飼育し、家禽や水鳥を籠や池で飼い、軍のもてなしに供した。最後に金銀の酒杯や水盤を用意し、食卓に要するあらゆる什器を揃えた。

これらは王自身とその側近たちだけに用意されたものである。残りの軍には食糧だけが供された。軍がやってくると、クセルクセスが休息するために常に天幕が準備されたが、兵士たちは露営した。

食餌の時間が来ると接待役は大忙しとなるが、兵士たちは存分に食べたあと一夜を過ごし、夜が明けると天幕をたたみ、運べる物は全て持ち去り、あとには何も残さず発って行くのである。

[7.120] さてアブドラのメガクレオンが頻りに口にしていたことであるが、かれは同国の者たちに次のように助言していた。男女共々自分たちの神殿に集い、これから起きる災難の半分でも除き給えと懇願するがよい、と。続けて、クセルクセスが日に二度の食餌を摂る習慣がなかったことから、これまでの神の恩恵には心から感謝すべきとも助言した。というのも、晩餐と同じような朝食も用意せよと命じられていたなら、アブドラの住民は、クセルクセスがやって来る前に逃げ出すか、かりに待ち受けていれば、惨めに破滅するしかなかっただろう、というのだった。このように、街の住民たちは虐げられながらも命じられたことをやり遂げたのであった。

[7.121] クセルクセスはアカントスを発つにあたり、海軍を別の航路に進ませ、将軍たちに命じてテルマで王を待つようにさせた。テルマはテルマ湾に臨む街で、この湾の名前は街の名に由来している。クセルクセスはテルマに進むことが最短の道であることを知っていたのである。

ドリスコスからアカントスに至るまでの行軍編成は次のとおりである。まず陸軍を三つの部隊にわけ、第一隊は海軍に従って沿岸の道を取らせた。マルドニオスとマシステスが、この隊の司令官だった。

第二隊はずっと内陸を進み、トリタンタイクメスとゲルギスが指揮を執った。第三隊はクセルクセス自身と共に行軍した隊だったが、先の二隊の間を進み、司令官はスメルドメネスとメガビゾスだった。

[7.122] さて、クセルクセスの命令下、出航した海軍はアトス運河を通過し、アッサ、ピロロス、シンゴス、サルテの街がある湾に出た。船隊は通過してきた諸都市から徴発した兵員を乗せ、テルマ湾に向かった。その後はトロネのアンペロス岬を迂回し、ギリシアの街であるトロネ、ガレプソス、セルミーレ、メシベルナ、オリントスを通過した。そしてこれら全ての都市は船と兵員を提供した。なお、この地域はシトニアと呼ぶ。

[7.123] 海軍はアンペロス岬からパレネ半島の最先端にあるカナストロン岬へ真っ直ぐ進み、今はパレネと呼んでいるが以前はフレグラという名だった地域の諸都市、すなわちポティダイア、アフィティス、ネオポリス、アイゲ、テランボス、スキオネ、メンデ、サネから船と兵員を徴発した。

これら諸都市の沿岸を進みつつ、海軍はパレネ近くの都市やテルマ湾岸沿いの都市から軍勢を徴発しつつ、指定された地点を目指した。その都市とは、リパクソス、コンブレア、アイサ、ギゴノス、カンプサ、スミラ、アイニアだったが、これらの地域は今に至るまでクロサイアと呼ばれている。

最後に挙げたアイニアの街から先はテルマ湾とミグドニア地方になり、その先は指定されたテルマやシンドス、アキオス河畔のカレストラに至る。この街はミグドニア地方とボティアイア地方の境にあり、その狭い沿岸にはイクナイとペラの街がある。

[7.124] 船隊はアキオス河とテルマ、およびその間の諸都市に碇泊し、王の到来を待った。一方、クセルクセスと麾下の軍はアカントスから内陸の経路を近道してテルマを目指した。その経路にはパエオニア地方とクレストニア地方を経てケイドロス河があった。この河はクレストニアから発祥してミグドニア地方を貫流し、アキシオス河の湿地帯のそばを流れている。

[7.125] クセルクセスが右の経路を進んでいるとき、ライオンが食糧を運搬している駱駝を襲ったことがある。夜になるとライオンはねぐらを抜け出してくるのだが、人間や荷役獣は襲わず、駱駝だけを狙ったものである。ライオンはその時まで駱駝など見たこともなく、触れたこともなかったのに、なぜほかには目もくれず駱駝だけを狙ったのか、ふしぎなことではある。

[7.126] この地域にはライオンや野牛が多く棲息しており、野牛の角の長いものはギリシアにも流通していた。ライオンの棲息域の境界はアブドラを貫流しているネストス河とアカルナニアを貫流しているアケロオス河である。ネストス河以東でヨーロッパ寄りの地域やアケロオス河以西の大陸ではライオンは棲息せず、この河に挟まれる地域にだけ姿を現す。

[7.127] クセルクセスがテルマに到着すると、かれは軍を一旦駐留させた。その陣営はテルマとメグドニア地方からリディアス河、ハリアクモン河に至る一帯をすべて占拠した。なお、この二つの河は合流してボティアイア地方とマケドニア地方(56)の境界になっている。

(56)マケドニア全体ではなく、テメノス朝によって支配されていた地域で、ハリアクモン河、アクシオス河の二つの河とベルミウス山麓に挟まれる地域。エデッサが中心都市。

この地域一帯に遠征軍が野営することになった。今述べた河のうち、クレストニアから発しているケイドロス河のみが軍の飲用をまかなうことができず、すっかり干上がってしまった。

[7.128] テルマからテッサリアのオリンポスやオッサの高い山々を眺め、またその間の狭い渓谷をペネオス河が流れていて、テッサリアに通じる道があることを知ったクセルクセスは、ペネオス河の河口を海から視察することを望んだ。というのも、かれはマケドニアの高原地帯を経てペルハイビやゴンノス地方(57)に向かうつもりだったが、こちらの道の方が安全であると聞かされたからである。

(57)クセルクセスの軍はオリンポス山と海の間を進んでテッサリアに入り、その後ペネオス渓谷(テンペの道)を遡上してゴンノスに至ったはずである。山脈を越える道を避けたのだ。それはおそらくオリンポスの南麓斜面を横断してゴンノスに至るルートと、さらに内陸よりでオリンポスとベルミオスの間を走るペトラの道である。ただヘロドトスは「ἄνω ὁδός = áno odós(街道?)」だけがゴンノスに至るという間違いを犯している。テンペの道もゴンノスに通じていたはずだ。

そこでクセルクセスは、何かあるときには常に用命するシドン人の船に乗り込み、陸軍はそのまま残し、ほかの艦船も海に繰り出す合図の旗を揚げさせた。ペネオス河の河口についてそれを眺めたとき、かれは強い感嘆の思いにとらわれたが、案内人たちを呼び、この河の流れを変えて、別の道筋から海に流すことはできるかと下問した。

[7.129] テッサリア地方にはその昔、高い山々に囲まれた湖があった。その東側はペリオンとオッサの山麓に面しており、北はオリンポス山、西はピンドス山、南はオトリス山に囲まれていた。その中央部で山々の輪の中にあるのがテッサリアの盆地である。

この盆地には多くの河が流れ込んでいるが、一等注目すべきがペネオス河、アピダノス河、オノコノス河、エニピオス河である。これら五本の河は、それぞれの山から流れ出して合流地点に至るまではテッサリア地方を囲みつつ、それぞれの名で流れ、最後にはすべて一つに合流し、狭い渓谷から海に注いでいる。

合流した直後から、その名はペネオスとなり、ほかの名は消える。伝えられるところでは、古代には、この渓谷と河口はまだ存在せず、これらの河と、当時は無名だったボイビア湖(58)が今と同じ水量があったので、テッサリア地方はすべて海になっていた、という。

(58)ペリオン山の西すなわちテッサリア東部にある。元来、この地方一帯は海面だったので、湖が単独で存在することはあり得ない。

さて、テッサリア人の伝承によれば、ポセイドンがペネオスの流れを作ったというが、これは肯ける話である。ポセイドンというのは大地を揺るがし、地震を起こして大地に割れ目を作り、これがこの神の仕業であると信じている者は、この渓谷はポセイドンが作ったものだというだろう。山を割ったのは地震に違いないと、私は確信している(59)。

(59)割れ目の両側(片側は突起部で、対側は凹み)では、かつて一体だったものが激烈に分割された痕跡がある。

[7.130] さてクセルクセスが、案内人たちにペネオス河をほかの河口から海に注ぐ道筋はないかと質したことについて、彼らは地元の事情に明るいことから次のように返答した。
「殿に申し上げます。この河には今の道以外、海に注ぐ別の道はございませぬ。テッサリア全体が山々に取り囲まれておりますゆえ」
これを聞いてクセルクセスは、「テッサリア人は賢明よ」とつぶやいた。

「彼らが神妙に服従したのは、これを随分前から警戒していたことが主な理由であろう(60)。この土地を征服するのはたやすく、しかも手早いことを彼ら自身が見越しておったからじゃ。山に囲まれたテッサリア全体を水浸しにするには、流れを堰きとめていまの流れを変え、テッサリアに流すだけでよいのだから」

(60)実際のところ、テッサリア人が国の方針を決定したのは、その直前だった。しかしクセルクセスは彼らが服従を決心したのは最初からだったと考えていた。

クセルクセスがこう語ったのは、最初に王に下ったギリシア人でテッサリア人アレオイス一族のことを念頭においていたからである。彼らが友好を申し出た時、その国全体の考えを代表していったものと、かれは察したのである。さて、この言葉を発したのち、視察も終えたので、クセルクセスは船でテルマに戻った。

[7.131] クセルクセスはかなりの日数をピエリア地方に留まっていたが、その間、第三軍はマケドニアの山越えの道を整備し、全軍がペライビア地方に進軍できるようにした。さてギリシアに土地を提供するように向かった使者たちであるが、空しく帰還する者あり、土地と水を確保して帰還した者もあった。

[7.132] 要求に応じた民族は以下のとおりである。テッサリア人(61)、ドロペス人、エニアネス人、フェライビア人、ロクリス人、マグネシア人、マリス人、プティオティスのアカイア人、テーベ人、テスピアイ、プラタイアの街を除くボイオティア人だった。

(61)テッサリアの全住民ではない。ペネオス渓谷とその周辺の住民だけ。

異邦人に対して抗戦を宣言したギリシア人たちは、これらの民族に対して次の誓いを立てた。すなわち、戦いに勝利した暁には、みずからペルシアに下ったすべてのギリシア人の全財産(*)をデルフォイの神に献納させるというのである。これがギリシア人の宣誓だった。

(*)Goley以外の訳者は「全財産」ではなく、「10分の1税」としているが、全財産を没収することに変わりないようだ。

[7.133] アテナイとスパルタに対しては、クセルクセスは土地を要求する使者を立てなかった。それは次の理由による。かつてダリウスが同じ目的で使者たちを送ったとき、アテナイは牢獄用の坑(62)に使者を送り込み、スパルタは井戸の中に使者を投げ込み、そこから土地と水を持ち帰れと命じた。これがあったために、クセルクセスは使者をこれらの街に送らなかったのである。

(62)死刑を宣告された犯罪人が投獄される場所。

使者をこのように扱い、アテナイにどんな苦難が降りかかったかなど、彼らの領土や街が荒廃したこと以外は書けないが、私はこの事件が原因であるとは考えない。ほかに何か別の原因(63)があると考える。

(63)おそらくサルディスの神殿焼き討ちを指す。第五巻百二節を参照。

[7.134] 一方、スパルタ人は、アガメムノンの使者タルティビオスの怒りを被ることになった。スパルタにはタルティビオスの神殿があり、その末裔であるタルティビアダイ一族が、スパルタの使者を務める特権を握っていたのである。

右の事件のあと、スパルタは長い間、生贄儀式による吉兆を手にすることができずにいた。そのためスパルタ人たちは悲嘆に暮れて意気消沈したのだが、何度も市民集会を開き、スパルタのために命を捧げる者を募る公布を掲げた。すると高名な家系で、しかも富裕な二人のスパルタ人が、ダリウスの使者を殺害した罪をクセルクセスへ償うことを、みずからの意思で名乗り出、引き受けたのである。その二人とは、アネリストスの子スペルティアスとニコラウスの子ブリスだった。

そこでスパルタはこの二人をメディアに送り出した。死を承知の上で。

[7.135] 賞賛すべきはこの二人の大胆不敵な行ないと、彼らの言葉である。スサへ向かう途次、彼らはアジア沿岸一帯の総督であるペルシア人のヒルダネスのもとへ行った。ヒルダネスは彼らを客分としてもてなし、饗応したが、その席でヒルダネスは訊ねた。

「スパルタの客人たちよ、そなたらがわが王と友好を築こうとせぬのは、なにゆえであるか? われとわが立場を見ればお判りであろう、有能な者にはどれほどの栄誉を、わが王が供されるかを。そなたらがみずから王の懐に飛び込めば、王はすでにそなたらの有能をご存じであるゆえ、二人ともに王の命によってギリシアの支配者となれるやもしれぬぞ」

これに対してスパルタ人は答える。
「ヒルダネス様、御身のご助言は片面だけのものにござる。いかにも片面はご存じであるが、残りの片面を無視しておられまする。奴隷の身がどれほどのものか、御身はよくご存じであるが、自由の身を味わってはおられませぬ。それが如何に甘美であるか否かも。その自由を体験しておられたなら、そのためには槍といわず斧といわず、自由のためには手にして戦えとおっしゃるはず」

[7.136] スパルタ人は右のごとく返答してその地を発ち、王のいるスサにやって来た。最初に王のもとへ進み出たとき、護衛の者たちは、彼らに王の前ではひざまづき、平伏せよと強く命じたが、彼らはそれを断固拒否した。たとえ頭を強く抑えつけられても、そんなことをするつもりはないと彼らは言った。貴人の前で平伏する慣習はギリシアにはないし、そんなことするために我らはやって来たのではないとも言った。そして平伏をせぬまま、話を続けた。

「メディアの国王に申し上げる。スパルタは、王の使者を殺害した償いをさせるために我らを使わした次第にござる」
これに対してクセルクセスは極めて寛大に、ギリシア人と同じことはせぬつもりであると返答した。
「汝らは人の世の秩序をかき乱してしまったのだぞ、使者を殺害することで。しかし予は汝らを咎め立てするつもりはなく、まして汝らを死に追いやってスパルタの罪を帳消しにするつもりもない」

[7.137] この行ないによって、スパルタは暫くの間、タルティビオスの怒りを静めるのに成功した。スペルティアスとブリスがスパルタに生きて帰還したにも拘わらずである。しかし、このあと長い年月のあと、スパルタ人が言うには、ペロポネソス諸国とアテナイとの間の戦の最中に、再びこの怒りが爆発したという。このことは、この上なく明らかな神の啓示であると、私には思われる。

タルティビオスの怒りが使者たちに降りかかり、それが満たされるまで静まらなかったというのは至極当然である。しかし怒りの矛先がペルシア王を宥めに向かった使者の息子たち、すなわちブリスの子ニコラスとスペルティアスの子アネリストスに向けられたのは、明らかにタルティビオスの怒りの神事であると私は理解している。なお、アネストリスは、ティリンス人が築いたハリアの街を、一隻の商船に兵士を乗せ、これを攻略した人物である(64)。

(64)ハリアはアルゴリスの港。これはおそらくアテナイとアルゴスがスパルタに対抗して同盟を結んでいたBC.461からBC.450の間の出来事である。

この二人はスパルタから使者としてアジアに派遣されたのだが、テレオスの子シタルケスというトラキア王と、アブデラ人でピテイオスの子ニンフォドロスに裏切られ、ヘレスポントのビサンテにおいて捕らえられ、アッティカに送られてアテナイ人によって殺害されたのである。またこの時、アデイマントスの子アリステアスというコリント人も彼らと共に殺害された(65)。

(65)BC.430。ツキジデス;戦史第二巻六十七節

以上はペルシア王の遠征後はるか後年に起きた出来事である。とまれ話を本題に戻すことにしよう。

[7.138] ペルシア王遠征の名目上の目的はアテナイに対する攻撃だったが、実際には全ギリシア征服が目的だった。このことはギリシア人なら遥か以前より知っていたが、すべてが一様に受け取っていたわけではなかった。

彼らのうちで土地と水をペルシアに提供した者たちは、異邦人は自分たちに危害を加えることはないだろうと高をくくっていたし、それを拒否した者は、侵略者と戦うだけの船数がギリシアには足りないことを心配した。その上、彼らのほとんどは戦いを仕掛けるだけの気概のある者はおらず、急ぎペルシア側につこうとしていたのである。

[7.139] ここにおいて私は、大方の不興を買うであろう意見を強いて述べることにする。私にとって真実と思えることを述べずにいることはできないからである(*)。

(*)ヘロドトスは、アテナイの海軍がギリシアの命運を決すると力説したいようだ。スパルタは重装歩兵は最強だが、海軍は持っていない。

かりにアテナイ人たちが差し迫った危機に恐慌をきたし、母国を後にするか、逃げ出さずとも留まってクセルクセスに隷従するかしたなら、だれも海上でペルシア王に対抗しようとしなかったであろう。その場合には、陸で起きることは次のようなことになるだろう。

ペロポネソス人たちはイスマス(地峡部)に何重もの防護壁を築いていたが(66)、異国の船隊が諸都市を次々に攻略するのを見るにつけ、ペロポネソス諸国は否応なく同盟を破棄せざるをえず、最後にはスパルタは孤立するだろう。それでも彼らは敢然と立ち向かい、気高い死を迎えるだろう。それがスパルタの運命かもしれないのだが。

(66)第一巻百八十一節

しかしおそらく、他のギリシア諸国が敵側につくのを見ると、彼らはクセルクセスと和議を結ぶだろう。どちらにせよギリシアはペルシアに征服されることになる。ペルシア王が海を支配してしまえば、地峡部の防護壁がどれほどの効果があったかなど知るべくもない。

右の通りであれば、アテナイ人がギリシアの救世主であるというのは真実をついていることになる。均衡の鍵を握っているのはアテナイ人だった。彼らが味方についた側が優勢となる。そしてアテナイ人はギリシアの自由を守る方を選択し、いまだペルシアに服従していないギリシア諸国を奮起させて戦いに向かわせ、神々に従ってペルシア王を排斥する結果をもたらしたのである。

また、次節に述べるデルフォイから寄せられた怖ろしい神託を聞いても、彼らはギリシアを見捨てず、全く怖じ気づくことはなかった。自国に留まり、毅然として侵略者に立ち向かったのである。

[7.140] これより以前、アテナイ人はデルフォイに伝令使を送り、神託を依頼した。伝令使が神殿で然るべき儀式を行なった後、内殿に座すと、アリストニケという巫女が次のごとき神託を語った。

  なにゆえここに座しておるか、哀れな者たちよ
  汝らの屋敷を出で、街を囲む円環城壁の高みより、地の果てに飛びゆけ!
  頭と言わず身体と言わず無事では済まぬ
  ましてやその下にある両足、両手
  その間の身体各部は、すべて破壊されよう
  火と、シリアの戦車を走らせる荒々しき戦の神が破滅をもたらすのじゃ

  ひとり汝らにあらず、あまたの巨大な砦もまた壊滅されよう
  数ある神殿は怖れおののき、恐怖の汗をしたたらせる
  黒き血は天井より流れ落つ
  こは避けうべからざる陰惨たる災いの兆し
  汝、神殿より出で、魂を悲嘆に浸すべし(67)

(67)または「汝の災いに勇気を奮い立たせよ」となる。多くの訳者は「汝の魂を悲嘆に浸せ」と解している。

[7.141] アテナイの伝令使はこれを聞くと愕然とし、神託の告げる災いを思って茫然自失した。これを見たデルフォイ人で、その名も高きアンドロボロスの子ティモンが助言するに、哀願者の身なりをし、懇願の徴(しるし)オリーブの枝を持ち、再び神託を求めよ、と彼らに言った。

アテナイ人たちは、その通りにして言った。
「神よ、我らの献げ祀る懇願の枝を慈悲深く受け給え。そして我らの国に、より良き啓示を与え給え。さもなくば我ら御身の神殿から離れませぬぞ。命絶えるまで留まる所存にござる」
巫女が下した二度目の神託が次にある。

  パラス(女神アテナ)は、オリンポス神ゼウスを
  懐柔する力は持たぬぞ
  多言を労し、抜け目なき謀議を持って懇願したとしてもじゃ
  しからば、再びの言葉は不動のものと心得よ
  ケクロプスの境と、聖なるキタイロンの谷に至る全てを
  攻略された暁には、彼方よりお見通しのゼウスは
  トリトゲネス(アテナ神)に木塁を下されよう
  そは不抜にして、今より子々孫々を救う砦となろう

  アジアからの騎馬、歩兵の大軍の到来を待ってはならぬ
  沈黙し、引き返すべし、敵前より
  やがて直面し対決する日が来るであろう
  聖なるサラミスにて、汝、女たちの息子に死をもたらす
  大地神デメテルが種を蒔き給う頃、あるいは刈り入れの頃に

[7.142] 今回の託宣は最初のものより慈愛に溢れていたので、伝令使たちはそれを書き留め、アテナイに向けて発った。彼らがデルフォイを後にし、神託を市民に差し出すと、その意味するところを質す意見が殺到したが、多くの意見の中で、二つの対立する考えが特に注目された。ある老人が言うには、神の返答はアクロポリスは救われるはずだ。昔アクロポリスはイバラの生垣で囲われていたので。これを言い換えれば木塁のことになる、というのである。

しかし他の者たちが読み解くに、神は自分たちの船のことを指しておられるゆえ、船を準備するしかない、という。ただ、船が木塁のことであると解した者たちは神託の最後の二行を解しかねた。

「聖なるサラミス、汝、女たちの息子に死をもたらす。大地神デメテルが種を蒔き給う頃、あるいは刈り入れの頃に」
これらの詩句は船が木塁のことであると言った者たちを困惑させた。神託の宣者たちは、その詩句をサラミス近海で戦いを挑み、そこで敗北を喫すると解したからである。

[7.143] ここで、ネオクレスの子テミストクレスという一人のアテナイ人が登場する。かれはのちにアテナイの指導者の一人となったのだが、かれは、神託の宣者たちはその全体を誤って解釈していると主張し、その理由として、かりに件の詩句が真にアテナイのことを指し、その住民が息絶えるという意味なら、かくの如き穏やかな表現でなく、「無慈悲なサラミス」とでも言ったはずで、「神聖なサラミス」とは言わぬはず、と解いた。

正しく理解すれば、神の神託はアテナイ人に向けたものではなく、敵方に向けられたものである。そこでかれは木塁は船のことを指しているので、海戦の準備をすべきだと建言した。

テミストクレスがこのように解釈すると、アテナイ人たちは、神託の宣者が海戦の準備を言わず、端的に言えば、全く抵抗せず、アッティカを離れて他国に移住するべしとした解釈よりも、かれの方が正しいと判断した。

[7.144] テミストクレスの建言は以前にも取り上げられたことがあった。それは、ラウリウム鉱山(68)からの収益はアテナイの国庫に莫大な富をもたらしていたので、市民一人につき十ドラクマを分配しようとしたのだが、テミストクレスはその分配を中止し、収益を二百隻の戦艦建造費用(*)に充当することを説き伏せたのである。それはアイギナとの戦いに備えてのことであった。

(68)銀、鉛、おそらく銅の鉱脈もアッティカにあり、ここから国は歳入を得ていた。平均収益を超えた分は公共の福祉に充当されていた。アテナイの人口が三万人としても(第五巻九十七節参照)、一人頭十ドラクマなら五十タラントンにしかならない。二百隻の建造費用にはとても及ばない額である。これでは、ラウリウムの収益が戦艦建造費用をまかなったとは言えない。
(*)三層櫂ガレー船の建造費は一隻あたり一タラントン(六千ドラクマ)。アテナイの労働者階級(手工業者)の兵士への支給月額は十五ドラクマ(徴兵時のみ、年収換算で百八十ドラクマ)。ちなみにアテナイの年間国庫収入は約三千タラントン。これは塩野七生著「ギリシア人の物語 II」による。
(*)1タラントン=金にして約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

事実、この戦いによってアテナイ人は海の戦士とならざるを得ず、それによってギリシアは救われたのである。もっとも、船は本来の目的で使用されなかったが、後にはギリシアの役に立った。これらの船はアテナイ人の生活維持のために建造されていて、すでに完成していたのだが、今や追加建造せねばならなくなった。

そして神託が降りた後の協議の結果、彼らは神の命ずる通り、進んでアテナイに協力するギリシア人と一致団結し、その全海軍力をもって、異国の侵略者を迎え撃つと決めたのである。アテナイ人への神託は以上のとおりだった。

[7.145] さて、ギリシア全体の安寧を心配している全てのギリシア人たちは一堂に会して評議を開き、誓約を交わした。すなわち、如何なる理由であれ、お互い反目し合うことと、戦を中断することを決議した。その当時進行中で最も大きな紛争は、アテナイとアイギナとの間に起きているものであった。

その後、クセルクセスが軍と共にサルディスにいることを知ったギリシア側は、ペルシア王の動向を探る間諜をアジアに送り出すことを決め、またアルゴスへはペルシアに対抗する同盟を結ぶ使者を派遣すること、ギリシアへの援軍を求めてシシリーにいるディオメネスの子ゲロンとコルシラ、クレタへも使者を派遣すると決めた。それはギリシア全体に脅威が迫っており、ギリシア民族が連合して運命を共にする必要があったからである。また、ゲロンの勢力は、ほかのギリシア諸国のどこよりも大きいと言われていたからである。

[7.146] ギリシアは右の通りに決議し、お互いの諍いも鎮め、まず三人の間諜をアジアに送った。この三名はサルディスについてからペルシア軍の情勢を探っていたが、間もなく身元がばれて陸軍の将軍の査問を受けた後、死刑執行に送られようとしていた。

彼らは死刑を宣告されたのだが、クセルクセスがこれを知り、配下の将軍たちを咎めた上で、自分の親衛隊のうちから幾人かを派遣し、間諜が生きているのが判れば、王のもとへ連れてくるよう命じた。

そしてまだ生きていたので、彼らは王のもとへ引き出されたが、クセルクセスは彼らがやって来た目的を質した上で親衛隊に命じ、ペルシア軍全体を彼らに見学させた。間諜たちが存分に見て回ったあとは、どこでも望む国へゆけと無傷で追放された。

[7.147] クセルクセスは右の通りに命じ、つけ加えて言った。間諜を殺してしまうと、自分の軍勢の言葉にできないほどの巨大さを、ギリシアは早期に知ることができず、また三人の間諜を殺したところでギリシアに多大な損害を与えるわけではない。またこうも言った。彼らが帰国すれば、ギリシア人はペルシア軍の勢力の巨大さを知り、遠征を開始する前に彼ら特有の自由を放棄し、結果としてギリシアに向けて進軍する必要がなくなるかもしれない、と。

これに似たようなことは、クセルクセスがアビドスにいるとき、穀物輸送船団がアイギナとペロポネソスに向かうためにポントス(黒海)を出てヘレスポントスを通過しているのを見たときにも語っていた。参謀たちは、それが敵の船団であることを知ると、捕獲しようとして王の命令が下るのを注視していた。

ところがクセルクセスは今航行しているのはどこの船かと参謀たちに訊ね、
「あれは穀物を輸送している敵の船団にございます」
という返答を聞くと、それに返答して言った。
「では、我らと同じ場所を目指しているわけじゃな、穀物その他あらゆる物資を搭載して。食糧を輸送しているのに、彼らがどんな悪行を我らになしているというのか?」

[7.148] こうして間諜たちは全てを見て回ったあと送り返され、ヨーロッパに帰って行った。ペルシアに対して同盟を誓ったギリシア人たちは、次にアルゴスに使者を送った。

以下に述べることはアルゴス人自身が語っているアルゴスの情勢である。異国人がギリシアに向けて戦を仕掛けようとしていることは、彼らは早くから知らされていた。ペルシアに対抗する助けをギリシアが求めてくることを知り、彼らはデルフォイに伝令使を送り、どのような方針が最善か、神に伺いを立てた。というのも、この直前、アナクサンドリデスの子クレオメネス率いるスパルタ軍によって六千人が戦死していたからである(69)。彼らが言うには、このために伝令使を送ったという。デルフォイの巫女は、次の神託を下した。

  汝、隣人に嫌われ、神に愛でらるるか
  槍もて屈み、動かざるべし、鎧まといし強者(つわもの)の如く
  一撃から頭(こうべ)(70)を守れば、頭は身体を守るであろう

(69)BC.494。ティリンスにおける戦い。第六巻七十七節を参照。
(70)指導者たち

この託宣は、ギリシアからの使者たちがアルゴスに到着し、議事堂に入ってその使命を宣言しようとしたときには、すでに巫女から下されていた。

そこでアルゴス人は、まずスパルタとの間に三十年の和平を築けるか、次に同盟の半ばの権利を掌握できるかと使者に訊ねた。彼らにしてみれば全面的な主導権を握るのが当然の権利であるが、半分で良いというのである。

[7.149] 彼らの言うには、以上が評議会の返答だった。神託がギリシア人との同盟を禁じたにも拘わらずのことだった。神託の恐怖にも拘わらず、三十年間の和平協約を切望したのは、その間に自分たちの子供が成人することを期待してのことであった。このような協約が成立せずば、と彼らは推論するが、すでに被っていた災いのあと、さらにペルシアから攻撃を受けると、スパルタの情けにすがる立場になることを嫌ったのである。

使者たちのうち、スパルタからの使者は評議会の要求に応えて曰く、休戦協定に関しては自国の評議会に持ち帰って評議にかけると返答した。しかし主導権に関しては自分たちに委任されていると答えた。そしてスパルタには二人の王がいるが、アルゴスでは王は一人。スパルタ王の一人の指導権を剥奪することは不可能だが、アルゴス王がスパルタの二人の王と同じ票決権を持つことには何の問題もない、と答えたのである。

これに対してアルゴス人が言うには、スパルタ人の頑固な利己主義に我慢できず、スパルタの風下に立つよりは異国人に支配される方を良しとした。そして彼らはスパルタの使者たちに向けて、アルゴスの領内から日没までに立ち去らねば敵と見なすと宣告したのである。

[7.150] 以上はアルゴス人が伝えるところだが、ギリシアでは別の話が伝わっている。すなわち、クセルクセスがギリシアに進軍を開始する以前、アルゴスに使者を送り、その者がアルゴスに到着して語ったことが伝えられている.

「アルゴスの方々よ、クセルクセス王からの伝言でござる。我らの始祖ペルセウスは、われらが伝承によれば、ダナエを父とし、ケフェウスの娘アンドロメダを母となさる。これが事実であるなら、我らもそなたらの民族の末裔ということになる。しからば、あらゆる道理や理由から、我らはその父祖の地に進軍すべきにあらず。またお手前方も自重なされ、他国を助けて我らの敵に回るべきではござらぬ。事態が予の思い通りに進む事になれば、お手前方をどこよりも厚く優遇いたしましょうぞ」

これを聞いてアルゴス人たちは強く心を動かされたこともあり、ギリシアがアルゴスに救援を求めに来た時、すぐさま盟約を結んだり、見返りを要求したりせず、戦争に加担しなくて済むように、右の言い訳を述べ立てたのである。スパルタが自分たちの要求を受け入れるはずがないことを承知の上で。

[7.151] 一部のギリシア人が言うには、以上のことは、何年も後に起きた事件によって明らかになったという。それは、アテナイの使者、ヒポニコスの子カリアス以下の者たちが、別の用件でメムノンの街スサ(71)に出向いていた時のことであった(72)。偶然にも同じ時にアルゴスもスサに使者を送り、クセルクセスの子アルタクセルクセスに対して、クセルクセスと結んだ友好の盟約が、アルゴスの希望通り、依然続いているかどうか、あるいはアルゴスを敵と見なしているかどうかを確認したのだった。そこでアルタクセルクセスは、友好関係は続いており、アルゴスをさしおき、それ以上の友好国はないと返答したということである。

(71)第五巻五十三節
(72)BC.448

[7.152] さて、クセルクセスがそのような伝言をアルゴスに送ったかどうか、またアルゴスの使者がスサに出向いてアルタクセルクセスに友好関係を確認したかどうか、正確なところは判らないし、アルゴス人自身が伝えていることの他、いかなる意見も今は述べることができない。。

しかし、これは十分承知の上でいうのだが、人々が自分の苦悩を隣人の苦悩と交換しようとして持ち寄り、他人の苦悩をよくよく吟味してみると、誰もが喜んで自分の苦悩を再び持ち帰りたいと思うことだろう(73)。

(73)一般常識。表現はかなり曖昧。

そういうわけで、アルゴス人の行為が全く破廉恥であるとは言い切れない。私自身に関しては、自分が聞き知ったことを書き留めるのが自分の仕事ではあるが、それを全て信じる義務が私にあるわけではない。このことは、本書全体に当てはまることを読者にお願いするものである。というのも、右の伝承をもとに、スパルタとの戦況が不利となり、その窮地から脱するためなら、彼らは何でもそちらを優先するだろう、という理由から、ペルシアをギリシアに招いたのはアルゴス人であるという別の話が流布しているからである。以上がアルゴス人に関することである。

[7.153] さてシシリーには、ゲロンと協議するために同盟諸国から使者が派遣されていたが、その中にはスパルタのシアグロスも入っていた。ゲロンの祖先はゲラに定住したが、トリオピウム岬の沖合に浮かぶテロス島(*)から移住していた。アンティフェモス率いるロードス島のリディア人がゲラを築いた時、彼はそれについてきたのである。

(*)ロードス島の北東部に浮かぶ島。

かれの子孫はやがて地下の女神(74)の司祭となって今に続いており、やがて述べるだろうが、その地位は、彼らの父祖の一人であるテリネスが掴んだものである。それには以下の事情がある。かつてゲロン一族の一部が内紛に負けてゲラより内陸にあるマクトリウムの街に逃げ込んだことがある。その者たちを、テリネスは全く武力に頼らず、地下の女神の神器によって街に連れ戻したのである。そのような神器をかれがどこで手に入れたのか、またそれがかれ自身の考案によるのか否か、私には判らない。しかしかれが逃亡者たちを復帰させたのは、かれの子孫が女神たちの司祭を務めるという条件で、その神器を頼みとして実行したのであろう。

(74)デメテルとペルセフォン

テリネスがそのような功績を挙げたことは、私には驚異である。というのは、そのような驚異的業績は強靱な精神力と肉体を有する人間にしか成就できないと常に思っているからである。しかしテリネスは、シシリー住民の言うには、穏やかで繊細な気性の持ち主であったという。

[7.154] さてパンタレスの子クレアンドロスはゲラの僭主の座に七年間ついたのち、同じ街のサビロスという男に殺害されたが(75)、統治権はクレアンドロスの弟ヒポクラテスが継いだ。ヒポクラテスが僭主でいる間は、司祭テリネスの子孫であるゲロンも、パタイコスの子アイネシデモスやその他の者たちに混じってヒポクラテスも護衛兵の一人だった。

(75)BC.498

間もなくかれはその有能さを認められ、騎兵隊長に任ぜられた。というのもカリポリス、ナクソス、ザンクレ、レオンティニ、シラクサ、その他多くの異国人の街を攻略した時、めざましい活躍を見せたからであった。シラクサを除く右の全都市は、ヒポクラテスによって隷属の憂き目を見たが、ひとりシラクサだけはエロロス河畔の戦いによって敗北を喫したものの、コリント人とコルシカ人によって救われた。この二国は、以前ゲラのものだったカマリナの街を、シラクサがヒポクラテスに明け渡すという条件で、和議を成立させたのである。

[7.155] ヒポクラテスもまた兄のクレアンドロスと同じ年数だけ統治した後、シシリー人との戦闘中、ヒブラの近くでその最期を迎えた。後を継いだヒポクラテスの二人の息子エウクリデスとクレアンドロスの統治に、市民はもはや我慢できなくなってしまったこともあり、ゲロンはこの二人を支援する振りをしつつもゲラの住民を制圧し、ヒポクラテスの息子たちを退け、みずからが支配者となったのである。

この幸運な事件の後、ゲロンは、一般市民とキュリリアンと呼ばれる奴隷によって追放されていたシラクサの、いわゆる紳士階級に属す市民をカスメナの街からシラクサに連れ戻した。そしてシラクサの住民はゲロンが到来すると、みずから街を明け渡したので、かれはこの町も手中に収めたのである。

[7.156] シラクサを手にしたゲロンはゲラの統治に興味を失ったこともあって、弟のヒエロンにそれを任せた。そしてシラクサの統治に全精力を傾けた。

間もなくこの街は発展し、繁栄した。というのも、ゲロンがカマリナの街を徹底的に破壊した上で、カマリナの市民をシラクサに戻し、彼らに市民権を与えただけでなく、ゲラの市民の半数以上に対しても同じ待遇を与え、その上、シシリーのメガラ(76)を攻囲して制圧した時、死刑を下すべき指導者たちにも、市民権を与えたりしたからである。メガラの一般住民に関しては、戦に加担していなくて罪を問われないと思っていた者も同じくシラクサに連れ帰り、奴隷として売り、シシリーから追放した。

(76)シラクサの北方でシシリー島の東岸にある。現在のアウグスタ。

シシリー在住のエウボエア人(77)にも、同様の区別をして同じ処置を執った。これら二つの都市の住民に右の処置を執った理由は、一般住民というものは国にとって不都合な存在であると、かれが思っていたからである。かくしてゲロンは偉大な僭主となった。

(77)エウボエア島カルキス(現ハルキス)からの植民都市であるレオンティーニ(メガラの北東部)の住民。

[7.157] さて、ギリシアからの使者がシラクサに到来し、ゲロンに謁見して告げた。
「我らがスパルタとその同盟国からここへ派遣されたのは、異国人に対抗するためにお手前の支援を求めるためでござる。お手前はペルシア人がギリシアに侵略しようとしていることをすでにご存じのはず。ペルシア王がヘレスポントスに橋を架け、我らに向けて東方の大軍をアジアから進めております。表向きはアテナイ攻略に向かうと宣言しておりますが、その実、全ギリシアの征服を目論んでいるのが真意でござる」

「今お手前は絶大なる力をお持ちで、シシリー王としてギリシアの中でも小さからぬ領地を支配しておられる。そこでお願いでござる、ギリシアの自由のために戦おうとする者たちに支援をお送り下され。ギリシアの全部族が力を結集して大軍勢を結成すれば、侵略軍に拮抗する力となり申す。しかし我らのうち一部が裏切ったり、また支援に来なかったりして、まともな者がギリシアで僅少となる事態となれば、ギリシア全土が破壊される怖れがござる」

「ペルシアが我らを戦で打倒して征服したとして、お手前方を手つかずのまま放置するなど、一時たりともお考えになりませぬように。むしろそのような日が来ぬようご用心を。我らに救いの手を。さすればお手前も救われましょう。熟慮の策が善き結果をもたらすものにござる」

[7.158] これを聞いたゲロンは激烈な調子で返答した。
「ギリシアの方々、これはまた身勝手な願いであることよ。厚かましくもここへ出向き、異国に対抗するために、そなたらの盟約に加われと申すか。そなたら自身のことを棚に上げて」

「かつてわが輩がカルタゴ(78)と諍いを起こし、異国の軍勢に向けて加勢を頼んだ時も、エゲスタ人たちの手によるアナクサマンドロスの子ドリオイス(79)殺害の報復をしてもらいたいと要望した時も、そなたらも多大な利を得ている数々の交易港を開放しようと言った時も、いずれもわが輩のために助太刀をよこさなかったばかりか、ドリエウス殺害の報復にも力になろうとしなかった。これらのことを慮れば、かの諸港は全て異国人が支配していることになるのだ」

(78)カルタゴはシシリーの西部を支配し、ゲロンは東部を支配していた。ギリシア人とセム人は常に商圏拡大を張り合っていた。
(79)第五巻四十二~四十六節

「その後、事態が好転し、我らの国は発展したが、今度はそなたらに戦雲が巡って来、ゲロンを思い出したというわけだな」

「そなたらは、わが輩を軽んじたが、わが輩はそなたらの真似をするつもりはない。わが輩には、二百隻の三層櫂ガレー船と二万の重装歩兵、二千の騎兵、二千の弓兵、二千の投石兵、騎兵について走る二千の軽装歩兵(80)を派遣する用意がある。これに加え、この戦いが終わるまで、全ギリシア人に供する食糧を用意することを確約しよう」

(80)おそらく騎兵隊に追従できる軽装歩兵隊。

「しかし、それには一つ条件がある。それはわが輩がギリシア軍の総司令官を努めるということだ。これ以外の条件では、わが輩も含め、誰一人送るつもりはない」

[7.159] これを聞いたシアグロスは黙っていられずに話し出した。
「スパルタ人がゲロンとその配下のシラクサ人に軍の指揮権を奪われたなどと聞けば、ペプロスの末裔アガメムノンは、大音声で嘆き悲しまれることであろう。我らは指揮権をそちらに譲渡するつもりはないと、心得られよ。ギリシアを助けるおつもりなら、スパルタ人に従ってもらわねばなりませぬ。しかし身どもが思うに、お手前は風下に立つには気位が高すぎるようでござるゆえ、助太刀はご無用になされよ」

[7.160] ゲロンはシアグロスの言葉に敵意さえ感じたので、すかさず最終提案を打ち出した。
「わがスパルタの同士よ、耳に厳しい言葉を聞けば怒りが湧いてくるものだが、お手前の横柄で無礼な口説を聞いても、不穏当な返答をする気には、まだならぬぞ」

「そなたらがそれほど指揮権にこだわるのであれば、そなたらの軍の何倍もの軍と、はるかに多くの船を率いるわが輩にとっても、それは依然重大事であることは当然の理というもの。しかしわが輩の言葉に対するお主の不遜な返答を聞くにつけ、幾ばくかの譲歩をしようではないか。いかにもそなたらは陸軍を指揮し、わが輩が海軍を指揮するのだ。あるいはそなたらが海軍を指揮したいなら、わが輩が陸軍を指揮してもよいぞ。いざ、この条件をのむか、さもなくば、これほどの同盟軍を放棄してここから立ち去るか、いずれかであるな」

[7.161] 以上がゲロンの提案だった。これに対してスパルタの使者が応じる前にアテナイの使者がすかさず答えた。
「シラクサの王に申し上げる。ギリシアは軍勢を求めて我らを派遣したのであって、司令官を求めているのではござらぬ。しかしながら、ギリシアの司令官となる条件でなければ、お手前は軍を派遣しないと仰せられ、ただひたすら司令官を望んでおられる」

「お手前が全軍の掌握を望んでおられる限りは、スパルタ人使者がスパルタのみならず我が国のためにも弁じてくれると判っておりましたゆえ、我らアテナイとしては沈黙を守るつもりでござった。しかるに全軍を掌握できぬとなると、次には進んで海軍を指揮するとの仰せゆえ、我らとしては、お手前に事情をご理解いただかねばなりませぬ。スパルタが海軍の指揮権をお手前に委ねることを認めたとしても、我らは断固承伏いたしかねまする。海軍の指揮権は我らのもので、そもそもスパルタは欲しがっておりませぬ。もしスパルタが海軍権を欲しがるなら、我らはそれに異を唱えるつもりはありませぬが、それ以外の何人たりとも海軍権を委ねるつもりはござらぬ」

「我らアテナイがその指揮権をシラクサに譲る事態になれば、ギリシア中で他の追随を許さぬ水軍を擁していることが水泡に帰してしまいまする。最古の血統を誇り、また唯一居住地を変えずにきた(81)我らは、叙事詩人ホーマーの言う、かつてイリオンに集結した人物中、最も傑出して軍を進め指揮した人物(82)の血筋を引いておりまする。されば我らが今の言説には、何のやましきことはありませぬ」

(81)ほとんどのギリシア人は他の地方から現在地へ移住している。アテナイ人のみが移住せずにきたので、アテナイ人史家はこの事実をしばしば誇らしげに書き留めている。
(82)メネステウスのこと。ホメロス作「イーリアス」第二巻五百五十二行目

[7.162] ゲロンが答える。
「アテナイの同士よ、どうやら船頭多くして水兵おらず、となりそうであるな。何一つ譲歩せず、全てを手中にしようとするなら、そなたら、家路を急ぎ、ギリシアの面々に言うがよい、ギリシアの春は失われたと」

この言葉の意味は、一年中で春が最良の季節であるように、ゲロンの軍はギリシア軍中で最も重要な位置を占めていることを指している。ゲロンがギリシア同盟から欠けたことを、一年から春が失せたことになぞらえたのだ(83)。

(83)アリストテレス作「弁論術(修辞学)」第一巻七節、第三巻十節によれば、ペリクレスも、ある青年の死に際し、国の損失に言及したとき、同じ比喩を告別の辞に用いている。

[7.163] このような交渉のあと、ギリシアの使節は海上を去って行った。しかしゲロンは、ギリシア人は蛮族に勝てないのではないかと心配しつつも、シシリーの僭主としての自分がペロポネソスへ行き、スパルタの指揮下に入るなどはおぞましく、とても耐えられないことであった。このため、かれはこの方針を取りやめ、別の計画を練った。

ペルシア軍がヘレスポントスを渡海したという知らせを聞くや否や、ゲロンはコス島出のスキテスの子カドモスという人物(84)を三隻の五十櫂船でデルフォイに派遣し、多額の金と友好の伝言を託した。

(84)おそらくザンクレから追放された僭主。次節および第六巻二十三節を参照。

カドモスは戦闘の結末を確かめるために派遣され、蛮族が勝利したときにはゲロンの領地の代理として、異国の王に金と土地と水を献上することになっていた。そしてギリシアが勝利したときには、全てを持ち帰るよう命じられていた。

[7.164] このカドモスという人物は、コス島の僭主を父から引き継ぎ、その政体は揺るぎないものであった。しかし、政権の危機に瀕したわけでもなく、自身の正義感から、かれは政権をコス島市民に譲り渡したあとシシリーに渡り、サモス人からザンクレという街を奪取して植民都市を築き、後に名をメッセネ(メッシーナ)に変えていた。

右の事情でかれはシシリーに来たのだが、その正義感の強さを見込んでゲロンはかれを使者に立てたのであった。これから述べることは、カドモスの人生における数々の高潔な行ないのなかでも、忘れてならないものである。かれはゲロンから多大な資金を預かっていたが、それを自分の懐に入れることもできた。しかしかれはそんなことせず、ギリシアが海戦で勝ち、クセルクセスが祖国に向かうと、全ての資金を持ってシシリーに帰ったのだ。

[7.165] しかしシシリー人による別の話が伝わっている。ヒメラの僭主でクリニポスの子テリロスが絡んで来なければ、たとえスパルタ人の支配を受けたとしても、ゲロンは依然ギリシアを助けたであろう、ということである。このテリロスという人物は、アクラガスの統治者であるアイネシデモスの子テロンによってヒメラ(*)から追放されていたのだが、ちょうどその頃、カルタゴ王アノンの子アミルカスによって派遣された、フェニキア、リビア、イベリア、リグリア、エリスキ、サルディニア、コルシカ(85)の連合軍三十万がゲロン討伐に向かっていたのである。この企ては、一部はカルタゴ王と親しい仲だったテリロスの教唆によるものであったが、主にレギオンの僭主クレティネスの子アナクシラオスの意向によるものだった。かれは自分の子供たちを人質としてアミルカスに預け、かれと共に自分の義父を補佐するためにシシリーに乗り込んだ。というのも、アナクシラオスはキディッペというテリロスの娘を娶っていたからである。当然ながらゲロンはギリシア人の救援に向かえないので、デルフォイに資金を送ったということである。

(85)カルタゴ人はアフリカから軍を率いてシシリーと地中海西部一帯を侵略していた。エリスキはピレネーからローヌ間の沿岸に住むイベリア人。歴史家エフォロスによれば、この時のカルタゴによる遠征は連合活動によるもので、ギリシア世界をカルタゴが西から攻撃し、東からペルシアが同時に攻撃するというものだった。
(*)シシリー島北部沿岸の都市。

[7.166] なお、以下のこともシシリー人は伝えている。ゲロンとテロンがシシリーでアミルカスを破った日は、ちょうどサラミスでギリシアがペルシアを倒した日と同じだった。アミルカスの父方はカルタゴ出身で、母方はシラクサの出であったが、かれはその人徳によってカルタゴの王となっていた。そして両軍が交戦して敗れると、かれはその姿を消したと、私は聞いている。ゲロンはかれをあちこち探させたが、地上のどこにも見つけることができず、生死も判らなかったという。

[7.167] カルタゴ人の言い伝えも一部真実をついているようだ。シシリーでの蛮族とギリシア人との戦闘は夜明けから夜更けまで続き(戦闘は長時間にわたり、延々と続いたと伝えられている)、その間アミルカスは自軍の陣営に留まり、燃え上がる大量の薪に生贄を捧げ、それを丸焼きにして吉兆を得ようと懸命になっていた。そして自軍が総崩れになったと知るや、生贄に神酒を注いでいたかれは、火中にわが身を投じたのである。これによってかれの身体は焼き尽くされたので、どこにも見当たらなかったのだ。

アミルカスが姿を消した事情が、フェニキア人の伝える通りであろうと、カルタゴ人やシシリー人の伝える通りであろうと、カルタゴ人は現在もかれに生贄を捧げており、その全植民都市に顕彰碑が建造されている。最大のものはやはりカルタゴにある。シシリーに関する盟約活動は以上ですべて。

[7.168] コルシカにおける、使者に対する返答と行動は以下に。シシリーを後にした使者は、その後コルシカに行き、ゲロンに向けた言辞と同じことを言って助けを求めた。コルシカはすぐに援軍を送ることを約束し、ギリシアを壊滅させるわけにはゆかぬと言明した。ギリシアが陥落すると、まさに翌日には確実に自分たちも征服されるからであった。そして可能な限りの援軍を送ることにした。

このような体のよい返事をしたものの、いざ援軍を送る段になって、彼らは気が変わってしまった。彼らは六十隻の船に兵員を乗せて出航し、ペロポネソスの沿岸に到着したが、スパルタ領内のピロスとタイナロンに錨を降ろし、他国と同様に戦闘の帰趨を静観する態度に出た。彼らはギリシアの勝利を望んでいるわけではなく、ペルシアが大勝利を収め、ギリシアの盟主になるだろうと予想していたのだ。

従って彼らの行動は予定通りのことで、ペルシアに次のような言辞を労するためだった。
「王に申し上げる。我らの軍勢はどこよりも多く、しかもアテナイを別として、どの国よりも多くの船を有しております。このたびの戦においてギリシアが我らに援軍を求めてきた時も、我らはペルシアに対抗するつもりもなく、王の不興を買うようなことは何一ついたさぬつもりでおりました」
この弁解が他の諸国より幾ばくかの有利をもたらすことを、彼らは期待していたのだ。そして実際そうなったと私は見ている。

しかしながら彼らはギリシアに対しても言い訳を用意していた。結果としてそれを用いたのだが。援軍を送らなかったとギリシアに非難された時、彼らは、兵員を乗せた六十隻の三層櫂ガレー船団を送ったものの、エーゲ海の季節風(*)に阻まれてマレア岬(*2)を回り込めなかったために、サラミスにたどり着けなかっただけで、海戦に遅れたのは臆病風に吹かれたためではないと言い張った。このような弁解をして、彼らはギリシアを言い負かしたのである。

(*1)夏に吹く乾燥した強い北風。第六巻四十四節、本巻二十二節を参照。
(*2)ペロポネソス半島の南に浮かぶキティラ島の岬。

[7.169] クレタでは、ギリシアからの使者が来て支援を要請すると、次のような行動を取った。すなわちデルフォイに託宣使を送り、ギリシアを支援することに利があるかどうかを訊ねたのだ。

巫女はつぎのように返答した。
「愚か者め、嘆き悲しむのがまだ足りぬと申すか。かつてメネラウスに救いの手を差しのべた時、ミノスの怒りを買ったことを忘れたか?スパルタから蛮族に連れ去られた婦人の復讐のために、汝ら手を貸したというのに、カミコスでかれが死んだ仇討ちを企てた時、ギリシア人は誰一人(86)助けようとしなかったのだ」
クレタ人たちはこの神託を聞き、ギリシアへの支援を取りやめることにした。

(86)ギリシア人はミノスの死の報復に手を貸さなかったのだが、後にクレタ人はヘレネ誘拐の報復を助けたことを指している。

[7.170] さてミノスはダイダロスを探して、現在シシリーと呼んでいるシカニアへゆき、そこで非業の死を遂げた。やがてポリクネとプライソスをのぞくクレタの全住民は神のお告げに従い、大挙してシカニアに移ったのである。そして今はアクラガス人が住んでいるカミコスの街を五年にわたって攻囲した。

ところが食糧不足に苛まれたことで、彼らはそこを攻略できず、また留まることもできず、退去したのである。そしてイパギアの沖合で大嵐に見舞われ、彼らは岸に打ち上げられてしまった。船が難破したため、クレタに帰る方策がなくなり、やむなくヒリアの街を建設してそこに定住したのだ。その結果、自分たちの名をクレタ人からイパギアのメサピア人と変え、島嶼人から本土の住人と変えたという。

ヒリアを建設し、これを足がかりとして彼らはほかの諸都市も建設したが、それはずっと後になって、タラス人が征服しようとしたものの、大敗を喫している。その時のギリシア人の死者数は、過去最大のものとなった。タラス人のほかにも、コイロスの子ミキトスによって無理矢理タラス人救援に連れてこられた三千人のレギア人も殺戮されている。タラス人の死者数は残されていない。

ミキトスはアナクシラウスの従僕だったが、レギア人の統治を任されていた。その後、かれはレギアから追放されてアルカディア地方のテゲアに移住し、オリンピアに多数の彫像を奉納している。

[7.171] レギア人とタラス人に関する話は、本来の探求の流れからは枝葉である。 さてプライソス人の伝えるところでは、クレタが荒廃した後に多くの民族が移ってきたが中でもギリシア人が多く移住したという。その後ミノスの三代目にトロイ戦争が起き、この時メネラウスを支援した民族の中でも、クレタ人は卑しからぬ働きを見せたという。ところが彼らがトロイから国に帰ってからというもの、人も家畜も飢饉と疫病に苛まれ、ついにクレタ島は二度目の無人島となりはてたが、三代目のクレタ人と、その時の生き残りの住民が、共にこの地に住んでいるという。

デルフォイの巫女はクレタ人にこのことを思い出させ、彼らがギリシアを支援したがっていたにも拘わらず、それを制止したのだ。

[7.172] ところでテッサリア人は当初、背に腹は代えられず、しぶしぶペルシア側についた。この動きが露わになったのは、アレウアダイ人の策略が気に入らなかったためである。ペルシア軍がヨーロッパに渡ってくることを知った時、彼らは直ちに使者をコリントのイスマス(地峡部)に派遣した。ここにはギリシアの行く末を案じる諸都市の代表者たちが集結していた。

テッサリア人の使者は彼らに向かって語った。
「ギリシア人ご一同に申し上げる。テッサリアとギリシア全土が戦火から免れるためには、オリンポスの隘路を防禦せねばなりませぬ。我らは共にこれを守る準備ができておりますが、諸君もまた大群を派遣せねばなりません。諸君がそれを怠ったときには、我らはペルシアと手を組むものと承知なされよ。諸君のために我らだけが防禦に当たり、破滅するというのは理不尽でござるゆえ。援軍を派遣しないのであれば、諸君は何事も我らに無理強いはできませぬ。できぬことを無理強いするという道理は通らぬものでござる。我らは我らで、みずからの生き延びる方策を探るつもりでござる」
以上がテッサリア人の弁明だった。

[7.173] そこでギリシア側は進入路を防禦するための陸軍を海上から送ることに決めた。軍が結集すると、エウリポス海峡を抜けてアカイア地方のアロスに向かい、ここで下船して船をおいたまま陸上をテッサリアに向けて進んだ。そしてテンペの隘路に到着した。なお、この隘路はオリンポス山とオッサ山の間を流れるペネオス河に沿ってマケドニア南部(87)からテッサリアに通じる道である。

(87)さらに内陸部にある山地の反対側。

およそ一万のギリシア軍重装歩兵がここに集結して陣を張り、そこに騎兵隊も加わった。スパルタの司令官はカレノスの子エウアイネトスで、この人物は王家の血筋ではないが、軍事委員の中から選ばれていた。それとネオクレスの子テミストクレスが、アテナイの司令官だった。

彼らは僅か数日しかそこに駐留しなかった。というのもマケドニア人でアミントスの子アレキサンドロスからの伝令を受け取ったからである。それには、敵軍の規模とおびただしい船団の数が指摘されており、ここに留まって巨大な敵軍に蹂躙されないよう、撤退せよという助言があったのだ。伝令の伝える助言は適切で、このマケドニア人はギリシアに友好的であると見なしたので、ギリシア人はこの助言に従うことにした。

私の見るところ、ギリシア軍を動かしたのは恐怖心だったろう。彼らはマケドニアの山地からペライビア地方を抜け、ゴンノス付近に達してテッサリアに通じる別の道を知っていたからである。この道は実のところ、クセルクセスの軍がテッサリアに向かった道なのである。それゆえ、ギリシア軍は自軍の船に戻り、イスマス(地峡部)へと帰還した。

[7.174] このギリシア軍がテッサリアに遠征していた時、ペルシア王はアビドスに居て、アジアからヨーロッパに渡る準備をしていた頃であった。さてテッサリア人はギリシア同盟からはずされたことで、迷うことなく積極的にペルシア側に着いた。その後、自身の行動によって彼らは、ペルシア王にとってこの上なく有用であることを示したのである。

[7.175] ギリシアの遠征軍がイスマス(地峡部)に着いてから、アレキサンドロスの言説を参考にしつつ、ギリシア人は戦闘の場所と方法を協議した。そしてテッサリアよりも狭くかつ唯一で、母国にも近いという理由で、テルモピュレーの隘路を防禦すべきという結論に達した。

しかし、その後ギリシア人が敵の手に落ちる原因となる抜け道があることは、彼らがテルモピュレーに行き、トラキア人から知らされるまでは、全くその存在を知らなかったのである。彼らは、この隘路を守って蛮族のギリシア侵入を防ぎ、他方で海軍をヒスティアイア領のアルテミシオンに派遣すると決めた。この二つの場所はお互いに近いため、海陸両軍の状況をすぐに知ることができる。この二箇所の地形は次に述べる。

[7.176] アルテミシオンは、広いトラキア海が、スキアトス島と本土のマグネシア地方の間で狭くなっているところにある。この海峡はエウボイア島のアルテミシオン海岸に至り、ここにはアルテミス神殿がある。

トラキスを経てギリシアに入る道(88)は、最狭部の幅が五十フィートである。しかし、最も狭い道はここではなく他にある。すなわちテルモピュレーの前後(89)にある道がそれである。後方のアルペニでは幅員は僅かに荷車一台分の幅であるし、前方のアンテレの街に近いフォイニクス河においても同様である。

(88)ギリシアに関してのことで、テッサリアは含まない。

テルモピュレーの西には登攀困難な断崖絶壁の高山が屹立し、これはオイテ山の尾根に連なっている。この道の東側には何もなく、ただ低湿地と海になっている。またこの隘路には沐浴に適した温泉が湧いており、地元の住民はこれを「土鍋」と呼んでいる。その近くにはヘラクレスの祭壇もある。この進入路には、これを横切って防御壁が築造されていて、以前は関門があった。

(89)テルモピュレーに関する記述全体において、ヘロドトスの方向表記は間違っている。道が通じている方向はかれのいう南北方向ではなく、東西方向である。以下「西」は「南」で、「東」は「北」、「前面」と「後面」はそれぞれ「西」と「東」である

これを築造したのはテッサリア人を怖れたフェニキア人(90)で、テッサリア人がテスプロティア地方からアイオリス人の土地に移住し、そこをわが物とした時のことであった。テッサリア人は彼らを征服しようとしていたので、フェニキア人は防禦のためにこれを築き、さらにテッサリア人の侵略を防ぐためのあらゆる方策を探った結果、あの温泉の水をこの隘路に流し、水路となるようにしたのである。

(90)BC.480の時点では、テルモピュレーの隘路はもはやフェニキア人の領土ではなくなっていた。

古代の防御壁は築造されてから長い年月を経ているので、そのほとんどが崩壊している。ギリシア人はこれを再建し、異国人がギリシアに進入するのを防ぐ手立てにするつもりだった。また、この道のすぐ近くにアルペニという街があり、ギリシア人はこの街から食糧を調達するつもりだった。

[7.177] 以上のことから、ギリシア人にとって、この地域は目的にかなった場所であることが判った。あらゆる事態を想定した結果、この地域なら蛮族は大軍の有利さを活用できないし、ましてや騎馬隊においてもしかり、である。。彼らはギリシアへの侵略軍をここで迎え撃つと決めた。ちょうどその頃、ペルシア軍がピエリアにいることを知ったギリシアはイスマス(地峡部)での集結を解き、一部は陸路をテルモピュレーに向かい、一部は海路をアルテミシオンに向けて出発した。

[7.178] ギリシア軍が敵に対峙すべく二手に別れて急遽進軍している頃、デルフォイ人たちは自身のこともギリシアのことも心配し、神に伺いを立てた。風がギリシアの隠れた味方となるであろうゆえ、風に祈りを捧げよという託宣を彼らは得た。

デルフォイ人は、まず最初にこの神託をギリシアの自由を望んでいる諸国に送った。蛮族を怖れている彼らは、この神託を知って後々まで感謝していた。続いて彼らは、ケフィソスの娘ティヒアの聖域があり、またその名にちなむティヒアという場所に風を祀る祭壇を作り、生贄を捧げた。これに因み、今に至るまで、デルフォイ人は風を宥める生贄の儀式を続けている。

[7.179] さてクセルクセスの海軍はテルマの街を出航したが、最も船足の速い十隻の船がスキアトス島に向けて先行した。またこの地では、トロイゼン、アイギナ、アッティカから来たギリシアの三隻の偵察船が停泊していたが、異国の船団を発見すると、逃走を図った。

[7.180] ところが、プレキシノスの指揮するトロイゼンの船が追跡されて、たちまち捕らえられてしまった。蛮族は兵士の中で最も眉目秀麗な者を船首に連れて行き、その喉をかききったのだが、これは最初に捕らえたギリシア人捕虜が美しいことが吉兆であると考え、生贄(91)に選んだのだ。犠牲になった男の名はレオン(*)といい、かれの悲運は、おそらくその名にも一因があるだろう。

(91)「διαδεξιον = diadexion」は「吉兆」とも訳される。Steinは「διαδεξεσθαι = diadexesthai」から「生贄の一部を生贄執行者たちに手渡しで回す儀式」と解している。
(*)ライオン

[7.181] アソニデスが指揮するアイギナの三層櫂ガレー船には手こずらされた。それは当日乗船していたイスケノオスの子ピテアスの華々しい働きによるものであった。船が捕らえられても、かれはズタズタに切り裂かれるまで戦闘を止めなかったのだ。

遂に倒れた時もまだかれに息はあったので、船に乗り込んでいたペルシア人兵士たちは、かれの武勇に感じ入り、傷口に軟膏を塗り、亜麻布の包帯(92)を巻いたりして、何とか助けようと八方手を尽くした。

(92)通常はエジプトでミイラをくるむのに用いられる。第二巻八十六節

基地に戻ったペルシア軍は、全軍にかれを見せて回り、丁重かつ、いたわりを持ってかれを遇した。ただ、船に同乗していた他の者たちは奴隷として扱われた。

[7.182] こうして二隻は捕らえられてしまった。アテナイ人フォルモスの指揮する三隻目の三層櫂ガレー船は、ペネオス河口の浅瀬に船を乗り上げた。蛮族は船体を捕獲したものの、乗員の捕獲には失敗した。アテナイ人たちは、船が浅瀬に乗り上げるやいなや船から飛び降りて逃走し、、テッサリアを抜けてアテナイに逃げ帰ったからである。

[7.183] アルテミシオンに駐留していたギリシア人たちは、以上の変事をスキアトス島からの合図の狼煙(のろし)によって知った。これに震え上がった彼らは、エウボイア島の高台に見張りを残し、同島南部のエウリポス海峡を守るべく、アルテミシオンからカルキスへと移動した。

やがて十隻の蛮族の高速船のうち三隻は、スキアトス島とマグネシアの間にある通称「蟻岩」の浅瀬に船を乗り上げ、用意していた石柱の標識を、その浅瀬に打ち立てた。これにて航路の障碍は取り除いたとして、海軍の本隊はテルマを発したが、それはちょうどペルシア王がテルマを出発してから十一日後のことであった。

なお、ペルシア艦隊の航路上に岩礁があることを彼らに教えたのは、スキロス人のパンモンという者だった。そして異国の船団は、丸一日かかってマグネシアのセピアス岬(*)とカスタナイアの街の間にある海岸に到着した。

(*)スキアトス島の対岸にあるマグネシアの岬。

[7.184] この地からテルモピュレーに至るまでは進軍に支障がなかったので、軍勢の数は以前と変わらず、以下のとおりだった。アジアからの船は一千二百七隻。おびただしい国からの兵員総数は、一隻につき二百人の乗員(93)として計算すると、二十四万一千四百となる。これらの船には各国からの兵員に加え、ペルシア、メディア、サカイの武装兵が三十。これらの人数を合計すると三万六千二百十となる(*)

(93)二百というのはギリシアの三層櫂ガレー船における通常の定員数。百七十人の漕ぎ手と三十人の武装兵。
(*)ペルシアの兵力に関する記述は本巻六十節を参照。再び関係先をリンクしておくが、実際の兵力はざっと10分の1程度であったろう、というのが大方の見方である。リンク先も参照されたし。 テルモピュレーの戦い、 プラタイアの戦い

この数と、最初に挙げた数に、五十櫂船の乗組員を一隻につき八十人前後の人数として加算せねばならない。すでに述べている通り(94)、この型の船は三千隻が集結しているので、これらの船に乗っている人員は二十四万になるだろう。

(94)本巻九十七節において、五十櫂船は三千隻のうちの一部であるとヘロドトスは書いている。

以上がアジアからの海軍勢である。総数は五十一万七千六百十。陸軍の歩兵は百七十万。騎兵が八万。そしてアラビア人の駱駝隊とリビア人の戦車隊がいるので、これを見積もって二万を加算する。

海陸両軍の総数は二百三十一万七千六百十。アジアから来た軍勢は以上であるが、これには、随行している従僕および食糧輸送の車輌や船の乗員は含まれていない。

[7.185] またこれにヨーロッパからの兵員を加えねばならない。以下はあくまで推定である。トラキアとその沖合の島々に住むギリシア人からは百二十隻。この乗員として二万四千。

全民族からの陸軍、すなわちトラキア、パエオニア、エオルドイ、ボティアイア、カルキディア、ブリゴイ、ピエリア、マケドニア、ペライビ、エニエネス、ドロペス、マグネシア、アカイア、トラキア沿岸に居住する住民、これら全てを推定すると三十万になる。

この兵力とアジアからの兵力を合算すると、兵士の総数は二百六十四万千六百十となる。

[7.186] 以上は兵員数である。海軍に随行した従僕たちと、食糧運搬船その他の船の乗組員の総数は、兵員のそれを下回るのではなく、むしろ上回るのではないかと、私は考える。

かりにそれが兵員数と同数だとすれば、数百万という数になる。すなわち、ダリウスの子クセルクセスが、はるばるセピアス岬とテルモピュレーに引き連れてきた人数は、五百二十八万三千二百二十名となる。

[7.187] 以上がクセルクセスの全勢力である。ただ、女調理師、妾、去勢男子などの正確な人数は誰にも判らない。軍に従っている荷役獣やインド犬の頭数なども、多すぎて誰にも判らない。ゆえに、干上がった河もあると聞いても、私は驚かないが、何百万もの人間にまかなう充分な食糧をどうやって調達したのか、ふしぎである。

というのも、計算によれば、各人が一日に1コエニクス(一リットル)を超えない量の小麦を支給されたとすると、毎日十一万三百四十メディムスの小麦が必要になる(95)。この計算には、女や去勢男子、荷役獣、犬などの食糧は含まれていない。そしてこの大軍勢の中で、その容姿と威厳においてクセルクセスを凌ぎ、勢力を掌握するに足る人物は、当の本人をおいて他にいない。

(95)計算が間違っている。ヘロドトスは48コエニクスが1メディムスに相当すると仮定し、5,283,220を48で割っている。正しい答えは110,[7.067] 083である。すなわち5,280,000 ÷48=110,000となる。3220÷48は、最初の計算の端数としてよい。ヘロドトスが割り算の答えに340をつけ加えたのは不可解である。なお、メディムスという単位は主にアッティカで使用された単位で、1メディムスは12ガロン(52~58リットル)に相当する。

[7.188] ペルシア海軍はマグネシア地方のカスタナイアとセピアス岬との間にある海岸に到着していた。先に到着した船の数々は陸に係留されたが、遅れて到着した船は錨を降ろして係留された。ただし、海岸が狭かったので八隻ずつ並べて海に留められた。

その日はこうして夜を過ごしたが、夜明けになって、晴れて無風だった空が一転して海が沸き立ち、地元の住民がヘレスポントス風と呼んでいる強い東風が吹き、大嵐が彼らを襲った。

強風が吹き始めたのに気づいた者や、都合よく陸に繋がれていた船は、嵐の来る前に船を岸に引き上げたので、船も人も共に難を逃れた。海上に碇泊していた船は強風によって、いわゆるペリオン山の竈(かまど)という海岸までながされたり、その海岸に打ち上げられたりした。中にはセピアス岬に打ち上げられたり、メリボイアの街やカスタナイアの街の岸に打ち上げられた船もあった。かほどに嵐は耐えがたいものであった。

[7.189] さて、アテナイ人が北風の神ボレアスに神託を祈願し、救いを求めたという話が伝わっている。というのも、義兄弟に助太刀を頼め、という別の神託が降りているからである(*)。ギリシアの伝説では、ボレアスの妻はエレクテウスの娘オリテイアというアッティカ人だった。そしてエレクテウスはアテナイの王だった人物である。

(*)本巻四十~四十一節の神託を参照。

伝説の伝えるように、この系譜によってアテナイ人はボレアスを義兄弟と見なしていたのだ。それゆえ、彼らがエウボエア島のカルキスにいて嵐の到来に気づいた時、あるいはその前だったかもしれないが、ボレアスとオリテイアに生贄を捧げ、アトスの場合(*)と同じように蛮族の海軍を壊滅してアテナイを助けるよう祈願したという。

(*)第六巻四十四節

この嵐が、蛮族が碇泊しているときにボレアスが起こしたものかどうかは、私にはわからないが、ボレアスは以前も今回も助けにやって来たのだと、アテナイ人は言う。そして帰国してから、彼らはイリソス河畔にボレアスを祀る神殿を建立している。

[7.190] この嵐によって、少なくとも四百隻が破壊され、無数の人間と夥しい資産も失われたという。ところで、難破船に価値があることに気づいたのは、マグネシア人でセピアス周辺を領土として支配していたクレティネスの子アメイノクレスである。後になって、かれは岸に打ち上げられた金銀の杯を回収したり、他にもペルシアの財宝を見つけ出し、莫大な富を獲得している。この拾い物のお陰でかれは大変な金持ちになったが、万事幸運というわけではなかった。我が子の死という大きな悲運が待っていたからである。

[7.191] 食糧輸送船その他の船がどれほど破壊されたかは判らない。海軍の将軍たちは、窮状に陥っている自分たちをテッサリア人が攻撃してくるかもしれないと懸念し、難破船の残骸を用いて周りに高い防護策を築いた。

嵐は三日間続き、ついにマギ僧たちは、海の精テティスとネレイデス(*)に生贄を捧げると共に、風に向かって呪文を唱えた。このようにしたお陰か、四日目には風がやんだ。あるいは自然にやんだのかもしれないが。彼らがテティスに生贄を捧げたのは、英雄ペレウスがテティスを連れて逃げたのが、まさにこの地であることと、セピア岬全体がテティスほかのネレイデスに従属していることを、イオニア人から教えられたからである。

(*)海神ネレウスの娘で、五十人の海の精。テティスもそのうちの一人。

[7.192] さて、エウボイアの高台に留まっていた見張りたちは、嵐の起きた二日目にはギリシア軍のもとへ駆け降り、敵船の遭難をつぶさに報告した。

これを聞いたギリシア人は、彼らの救国主としてポセイドンに祈りを捧げ、神酒を注いだ。これを済ませた後、彼らは、向かってくる敵船はいないと見て、急ぎアルテミシオンにとって返した。彼らがアルテミシオンに来て駐留するのは二度目となったが、その時以来、今に至るまで、彼らはポセイドンのことを救国主と呼んでいる。

[7.193] 風がやみ波が静まると、蛮族は陸に揚げていた船を海に出し、沿岸沿いに航行してマグネシアの岬を廻り、湾に入るとパガサイに向けて真っ直ぐ進んだ。

マグネシア地方にあるこの湾には、かつてヘラクレスが水を求めて派遣されたが、アルゴー船に乗ったイアソンとその一行が黄金の羊皮を入手するためにコルキス地方のアエアに向けて出航した時(*)、この地に置き去りにされた場所があると伝えられている。ペルシア海軍は給水するためにここへ来て、その後に出航するつもりだったのだが、その地がアフェタイ(出航)(96)と呼ばれてきたのは、これが理由である。そしてクセルクセス麾下の海軍はここに投錨した。

(96)おそらく、欺瞞の女神アパテー伝説に由来している。
(*)イアソンはテッサリアの王子。王位を叔父から奪還するために、黄金の羊皮を求めて仲間と共に巨大なアルゴー船に乗り、コルキスのアエアに向かったという伝説がある。

[7.194] さて、ペルシア海軍の中で十五隻が大きく遅れていて、それが偶然にもアルテミシオンにいたギリシア船団を見つけると、味方の海軍と勘違いし、ギリシア海軍の中に紛れ込んでしまった。その司令官はアイオリア地方のキュメ提督でタマシオスの子サンドケスであった。

かつてかれはペルシア王の裁判官の一人だったが、賄賂を受けたとしてダリウスの誤った判断により、極刑に処せられるところだった。しかしサンドケスが磔柱に吊されたとき、ダリウスは気づいた、王家に対するかれの貢献は、その罪に勝ることに。理性をないがしろにし、性急に事を進めようとしていたことに気づいた王は、サンドケスを放免した。

かくしてかれはダリウスによる死を免れたのだが、今やギリシア軍のまっただ中に入り込んでしまったので、再び逃れる術もなかった。ギリシア軍はペルシア船が向かってきているのに気づくと、彼らが思い違いをしていると見て取り、船を進めて苦もなく捕らえてしまった。

[7.195] 捕らえられた船の中にはカリナ地方のアラバンダの僭主アリドリスがいて、別の船にはパポスの司令官でデモノオスの子ペンテュロスがいた。かれは他の十二隻を率いてパポスから来ていたが、セピアス岬沖で嵐に遭い、十一隻を失い、残った一隻に乗ってアルテミシオンを航行中に捕らえられたのだ。この者たちからクセルクセスの軍勢を聞き取ったギリシア人は、彼らを捕縛したままコリントのイスマス(地峡部)へ連行した。

[7.196] こうしてペルシア海軍は、サンドケス以下の十五隻を除いてアフェタイ(出航)にやって来た。クセルクセス以下の陸軍はテッサリア地方、アカイア地方を通過してマリス地方に入ってから三日が経過していた。テッサリアにいる時、クセルクセスは麾下の騎馬隊に競争を行なわせたが、これはギリシアで一番と聞いているテッサリアの騎馬兵を試すためでもあった。この競争では、ギリシアの馬はとてつもなく遅いことが判った。またテッサリアを流れる河の中では、唯一オノコノス河だけがクセルクセスの軍の飲料水をまかなえなかった。しかしアカイア地方では最大のアピダノス河(97)でさえ、辛うじて間に合う程度であった。

(97)アピダノス河とエニペウス河は合流してペネオス河の支流となっているが、アピダノスと呼ばれたり、エニペウスと呼ばれたりしている。

[7.197] クセルクセスがアカイア地方のアロスに到着すると、配下の案内人たちは、この地方にまつわるゼウス・ラフィスティオス神殿の伝説について語った。すなわちアレオロスの子アタマスが、イノと共にフリクソスの殺害を企んだこと、その後、アカイア人が神託の命によってフリクソスの子孫に、ある種の罰を課したことなど、である。

アカイア人はかれの一族の長子に、街のレイトン(Leiton)(98)(アカイア人は公会堂をこう呼んでいた)への立ち入りを禁じ、それを監視していた。万一立ち入った時には、生贄にされる場合以外には外へは出られないとされた。さらには、生贄にされることを怖れた多くの者が他国に亡命したことや、後になって帰国して公会堂に入るところを捕らえられた話しも語った。また案内人たちは生贄が全身を花輪で覆われて行列して行くしきたりも語った。

(98)「λεώς=leos」 または「ληός=lios」に由来する。

例えば、フリクソスの子キティソロスの子孫は、次のような目に遭っている。神託に従ってアカイア人がキティソロスの子アタマスを彼らの国の身代わりとして差し出し、生贄に供しようとした時、このキティソロスはコルキスのアイアからやって来て息子を救ったことが原因で、神の怒りがその子孫に降りかかるようになったという(99)。

(99)この伝説は民族の神「ゼウス・ラフィスティオス」崇拝に発している。これは旧約聖書中のエホバやフェニキア人の守護神モレク、メルカートと同様で、とりわけ司祭一族において、その長子に適用されている。やがて生贄は人間の代わりに雄羊が供されるようになったが、それでも最初に生まれた子供は国を去らねばならなかった

これを聞いたクセルクセスは、神殿の森に来ると、自身はそこに入ることを遠慮し、全軍にも同様に立ち入りを禁じた。そしてアタマスの子孫の屋敷や聖域にも敬意を払った。

[7.198] 以上がテッサリア、アカイアにおけるクセルクセスの動向である。さてクセルクセスは、ここから湾岸沿いにマリスに到着したが、ここは毎日の潮の干満が激しい場所であった(100)。この湾のあたりには広い平地も狭い平地もあり、周囲にはよじ登るのが困難な高い山がマリス全体を囲んでいて、これは「トラキスの岩」と呼ばれている。

(100)潮の干満は地中海では珍しいが、マリスの湾からそれほど遠くないエウリポスでは激しい潮流が認められる。

アカイアから湾岸沿いに進んだ最初の街がアンティキラで、この近くをスペルケイオス河がエニアネス地方から流れ来て、海に注いでいる。この河からおよそ四キロメートル離れたところをディラス河が流れているが、この河は、火に焼かれたヘラクレスを助けるために地面から流れ出したと伝えられている河である。そしてこの河からまた四キロメートル離れたところを、「黒河」と呼ばれる河が流れている。

[7.199] トラキスの街は、この「黒河」から一キロメートル離れている。この辺り一帯で、ここがトラキスの丘と海が最も離れている場所である。この平地は二万二千プレスロン(101)(*)の広さがある。トラキス地方を囲む山々は、トラキスの南で割れて峡谷となり、アソポス河が山麓を流れている

(101)これは長さではなく面積に違いない。五千エーカーあまり(四粁×五粁)。仮に長さとすると四百二十マイルとなる。
(*)plethron;都市によってまちまちであるが、一プレスロンはおよそ百フィート。

[7.200] アソポス河の南にはフォイニクス河という別の河があり、これはトラキスの山から流れ出てアソポス河に合流している細流である。この流れの近くに荷車一台通るのがやっとの細道があり、それがテルモピュレーで、フォイニクス河からは三キロメートル離れている。

ただ、フォイニクス河とテルモピュレーの間にはアンテレという村があり、アソポス河はこの村を通って海に注いでいる。そしてその周囲は広い平地となっていて、アンピクティオンのデメテル神殿と隣保同盟諸国(アンピクティオン)の評議場(102)が設けられており、アンピクティオン自身の神殿もある。

(102)近隣民族は同盟を結成し、二年に一度開かれる評議会に代表を派遣していた

[7.201] さてクセルクセスはマリス地域のトラキスに陣を張り、ギリシア軍は隘路に陣を構えた(103)(*)。この場所はほとんどのギリシア人がテルモピュレーと呼んでいるが、地元民や付近の住民はピュライ(104)と呼んでいる。クセルクセスはトラキスから北の全地方(105)を支配下に治め、対するギリシア人は本土(106)の南を掌握していた。

(103)「ἔσοδοι=esodoi」と呼ばれる東西の隘路。
(104)「門」という意味。北からギリシアへに入るときの入り口になっているから。テルモピュレーは、温泉が湧いていることから「熱き門」という意味。
(105)正確には「西」。その下の「南」は「東」が正しい
(106)すなわちギリシア全土。
(*)隘路は直線距離にして約五粁、実際には約十粁;「ギリシア人の物語Ⅰ」;塩野七生著

[7.202] この場所でペルシア軍を待ち受けていたギリシア人の構成は次のとおりである。スパルタの重装歩兵が三百、テゲアとマンティネイアからは同数で合計一千、アルカディアのオルコメノスから百二十、その他のアルカディアから一千。このアルカディア勢にはコリントの四百、プレイウスの二百、ミケーネの八十が含まれる。以上がペロポネソスからの兵数。ついでボイオテア地方からはテスピアイの七百、テーベの四百。

[7.203] これに加えて、オポスのロクリス人は要請に応じて全兵力の一千を派遣し、ポキスも一千を派遣した。これは、ギリシアが使者を送り、次のように要請したからである。すなわち、

我らは先遣隊で、残りの同盟軍は明日にもやって来るはずだ。海の監視はアテナイ、アイギナをはじめとする海上警備隊が担当しているゆえ、何ら心配には及ばない。ギリシアに向かってくる侵略者は神ならぬ人間である。生まれついてから災いを受けずに済み、また死を免れる者などいないことは、過去も将来も変わらぬであろう。また高名な者ほど受ける災禍も大きいもの。いま進攻してくる者も不死身にあらざれば、必ずやその絶頂から転げ落ちるはず。

これを聞いたロクリス、ポキスの者たちはトラキスに援軍を進めたのであった。

[7.204] ギリシア諸国にはそれぞれ司令官がいたのだが、中でもこの上なく賞賛に値し、全軍を指揮していたのがスパルタのレオニダスだった。その系譜は、父のアナクサンドリデスから遡ってレオン、エウリクラティデス、アナクサンドロス、エウリクラテス、ポリドロス、アル力メネス、テレクロス、アルケラオス、ヘゲシラオス、ドリッソス、レオボテス、エケストラトス、アギス、エウリステネス、アリストデモス、アリストマコス、クレオダイオス、ヒュロス、ヘラクレスに至る。そしてレオニダスは、思いがけなくもスパルタの王位を手中に収めたのだった。

[7.205] というのも、かれにはクレオメネスとドリエオスという二人の兄がいたので、王位継承に関しては埒外にあった。しかしクレオメネスは男子を作らずに死んでしまい、ドリエオスもシシリーで死亡し、もはやこの世の人ではなかった。レオニダスは、アレクサンドリデスの末子クレオンブロトスよりも年長であるし、クレオメネスの娘を娶っていることもあって、王位継承権がかれに巡ってきたという次第である(*)。

(*)第五巻三十九節~四十八節

さてレオニダスは法に従い、全員が息子のいる兵士三百人を(107)選び、テルモピュレーにやって来た。これと共に、先に記したテーベの兵士四百名も引き連れていた。その将はエウリマコスの子レオンティアデスという。

(107)三百は王の親衛隊の正規人数で、いわゆる「騎士」。文意はここに挙げたもの以外は考えられない。かりに「跡継ぎのいる者全て」と解して三百に加えると、従来から言われているテルモピュレーで三百人だけということと矛盾する。Dr.Marcanの説以外、これに関する説明は見当たらないようだ。当然ながら、「ἐπιλεξάμενος=epilexamenos」を「~から選抜した」と解すと問題は解決するが、小生は首肯しかねる。

レオニダスはギリシアの中でも特にテーベを連れてくることに意を尽くした。というのも、彼らはペルシア寄りの態度を非難されていたからである。かれがテーベ兵を招集したのは、果たして彼らが兵を送るのか、それとも公然とギリシア同盟に叛旗を翻すのかを確かめるためだった。そこでテーベとしては、二心を抱きながらも兵を送って来たのである。

[7.206] スパルタがレオニダス以下の兵を真っ先に派遣したのは、この事実を他の同盟諸国に示すことで彼らに派兵を促すためで、スパルタの派兵が遅れると、それを知った他の国々が、ペルシア側につくのを阻止する狙いがあった。というのも、ちょうどこの時期、スパルタではカルネイア祭(108)の最中だったので、それが終わってから守備隊をスパルタに残し、全軍挙げて全速力で駆けつけるつもりだったからである。

(108)アポロ神を祀る国の祭り。九月に九日間開かれる。

そして他の同盟諸国も同じような軍行動を取ることになった。それはオリンピア祭がこの事態に重なったためである。その結果、同盟諸国はテルモピュレーの戦闘がかくも早く始まるとは思いもよらず、先遣隊だけを派遣したのである。

[7.207] ギリシア同盟軍は右のごとき思惑を抱いていたが、テルモピュレーにいるギリシア軍は、ペルシア軍がその隘路に押し寄せて来たのを知ると、恐慌をきたし、そこを撤退すべきかどうかを協議した。他のペロポネソス軍は自国に帰還し、イスマス(地峡部)を防衛すると主張したが、ポキスとロクリスの軍は、この案に激怒した。それを見たレオニダスは、その地に残る方に賛成し、同盟諸国に援軍を求める伝令を送ることにした。ペルシア軍を迎え撃つにはあまりに軍勢が少なすぎたのだ。

[7.208] ギリシア側がこのように議論している一方で、クセルクセスは偵察騎兵を出してギリシア軍勢の多寡と、動向を探らせた。クセルクセスがまだテッサリアにいる時、そこに集結しているギリシア軍は少数であること、またその司令官たちはスパルタ人で、その中にはヘラクレスの子孫であるレオニダスが含まれていることを聞き知っていた。

偵察騎兵はギリシアの陣に近づくと陣営をつぶさに盗み見たが、防禦のために再建された城壁の内側に陣が配置されていたので、その全体を眺めることは叶わなかった。騎兵が見たのは、城壁の前に布陣し、たまたま城壁外に配置されていたスパルタ兵だった。

そこには、裸で運動したり、髪を櫛で梳いている者がいた。偵察兵はそれ見てびっくりし、その人数を数えた。そして入念に偵察を終えた後、その騎兵は辺りに気を配ることもせず、気兼ねなく帰って行った。なにしろ自分を追跡しているや注意を払う者など誰もいなかったのだ。帰還後は、自分の見たこと全てをクセルクセスに報告した。

[7.209] これを聞いたクセルクセスは、スパルタ人が生死を分ける戦いに備えて懸命の努力をしているとは、どうしても理解できなかった。むしろ馬鹿げたことと思われたので、自陣にいるアリストンの子デマラトスを呼び出した。

デマラトスが参上すると、かれは報告された個々の事柄を取り上げて下問し、スパルタ人の行動の意味するところを知りたがった。デマラトスは答える。
「彼らのことに関しては、すでにお話申し上げてござる。それはギリシアに進軍する時のこと。みどもが事の成り行きの思惑を申し上げた時、お上は嘲笑なされました。しかれどもお上の面前にては、真実を申し上げることが、みどもの随一の役目にござるゆえ、今一度お聞き下されませ」

「彼らは隘路を守るためにやって来て、その準備をしておるのです。彼らが命をかける時には、髪を梳かすのが習いでござるゆえ」

「この者たちを制圧し、スパルタに残っている者たちを征服すれば、この地上でお上に刃向かう者は皆無となりましょう。今まさに、お上はギリシア中で最高位の王と最強の兵士たちと干戈を交えようとなさっておられるのでござる」

これを聞いて、クセルクセスはとても信じられず、そんなに寡兵であるというのに、どうして彼らは刃向かうのか、と質した。
「わが王に申し上げまする。見どもの申し上げた通りに事が運ばなかった暁には、みどもを嘘つきと罵りなされ」
デマラトスはこうに言ったが、クセルクセスを説得するには至らなかった。

[7.210]
(*)
そしてクセルクセスは、ギリシア軍の本陣に使者を送り、次の勧告を宣した。
「武器を差し出せば、各自の国への自由な帰国を許す」
レオニダスの返答は、たったひと言。
「(欲しけりゃ)取りに来い!(Molon Labe)」
(*)
(*)~(*)この部分は、塩野七生氏の「ギリシア人の物語 I」からの抜粋である。本文には記されていないが、エピソードとしては缺かせないと思い、あえて挿入した。

それでもクセルクセスは、ギリシア兵が今にも撤退するだろうと思って四日間待った。しかしギリシア軍は撤退のそぶりすら見せず居座り続け、それはあたかも不遜とも愚かとも取れるように、王は思った。そして五日目には怒りを爆発させ、メディア人部隊とキシア人部隊を攻撃に向かわせ、敵を捕らえて自分の前に引き連れてくるよう、命じた。そこでメディア人部隊はギリシア軍に襲いかかったが多数の兵士が斃されたので、それに代わって他の兵士が攻撃に加わった。しかし誰の目にも、とりわけ王自身には、多くの兵士の中で真の勇者は少ないことが明らかとなった。そして戦いは終日続いた。

[7.211] メディア人部隊が惨敗し撤退したのに代わり、ヒルダネスの率いる「不死身隊」が攻撃を開始した。彼らなら容易く使命を果たすだろうと思われた。

ところが、ギリシア軍との戦闘に加わったものの、彼らの働きはメディア軍のそれと五十歩百歩だった。彼らの槍はギリシア軍のものより短い上に、狭い空間では大軍の利を生かせなかったからである。

一方で、スパルタ兵の戦いぶりは記憶に残るものであった。特に、戦い方を熟知している者と、未熟な者との違いを見せつけた。彼らは敗走すると見せかけ、敵に背を見せた。それを見た蛮族が大声で叫び、武器を打ち鳴らしながら追跡する。追いつかれたところでスパルタ兵は反転して攻撃に転じ、おびただしいペルシア兵を斃したのだ。一方で、この時のスパルタ兵の死者は僅かだった。ペルシア軍は次々と部隊を投入し、さまざまな手段を講じてみたが、進入路を奪取できず、やむなく撤退した。

[7.212] この時の激戦を見ていた王は、自軍を心配するあまり、玉座から三度も飛び上がったという。戦いはこのような経過をたどったが、翌日の戦闘も蛮族は進展を得られなかった。ギリシア軍は少数であるから、いまは負傷して戦闘不能に陥り、もはや抵抗できないだろうと考え、ペルシア軍は戦力投入を繰り返したのだ。

しかしギリシア軍は民族ごとに隊列を整え、次々に交代して戦った。ただしポキス人だけは間道防衛のために山中に配置されていた(109)。そして前日以上の進展が見られないことが判ると、ペルシア軍はまた退いていった。

(109)本巻二百十五、二百十六節

[7.213] ペルシア王は戦線の膠着状態をいかに打破すべきか考えあぐねていた。そこへマリス人でエウリデモスの子エピアルテスという者が王のもとに現われ、多大な褒賞を目当てに、テルモピュレーに通じる山越えの間道があることを進言した。これにより、かの地に陣取っているギリシア人は壊滅することになったのだ。

この後、かれはスパルタ人を怖れてテッサリアに逃走するが、隣保同盟(110)の評議員たちがピュライ(門)に集合した時、その評議会によってかれの首に賞金がかけられている。程なくしてかれはアンティキュラに戻ってきたが、トラキス人のアテナデスという者によって殺害されている。

(110)本巻二百節

アテナデスがエピアルテスを亡き者にしたのは別の理由からであったが、そのことは後に譲るとして(111)、ともかくスパルタ人はかれのことを大きく賞賛している。かくしてエピアルテスは後に不慮の死を遂げたのである。

(111)ヘロドトスはBC.479以降も記述を続けるつもりであることを示唆しているが、実際には第九巻はこの年で終わっている。

[7.214] これには別の話が伝わっている。すなわち、カリスタス人でファナゴラスの子オネテスとアンティキュラ人のコリダロスがペルシア王に間道のことを進言し、ペルシア軍のために山道を先導したというのである。しかしこれは全く信じられない。

隣保同盟はオネテスとコリダロスに賞金を懸けたのではなく、トラキス人のエピアルテスに懸けていること。そして評議員たちは事実を正確に掴んでいるに違いないと思われること。さらにエピアルテスがこのために逃亡したことを我らが知っていること。以上のことから事の正否は明らかである。

オネテスがマリス人でなくとも、この国に何度も来ていたなら、間道のことを知っていたかもしれない。しかし山越えの間道を実際に先導したのはエピアルテスなので、私はこの者を裏切り者として書き残すことにする。

[7.215] クセルクセスはエピアルテスの建言を気に入って大喜びし、直ちにヒルダネスとその麾下の軍を日暮れに出発させた。この間道(112)は地元のマリス人が見つけていて、テッサリア人のポキス征伐を案内する時に使った道である。その当時、ポキス人はその道を塁壁で塞ぎ、戦を避けたのだ。それ以来長年にわたり、マリス人はこの道を全く無用のものと見ていた(113)。

(112)皇帝カトーの治世下で、プルタークは、カトー麾下の軍隊が、命令に追従しようとする際に遭遇した困難を述べている。
(113)この文はSteinの解釈。他の解釈では「致命的な」となる。「οὐδὲν χρηστὴ = ouden christi」を「ἀτραπός = atrapos」とすると「致命的な」という意味になる。

[7.216] 間道の経路は次のとおりである。まず峡谷を流れるアソポス河に沿って始まる。そしてその道は山と同じでアノパイアと呼ばれている。このアノパイアは峡谷がつきたところで山の尾根に沿って延び、マリスに最も近いロクリス地区のアルペノスの街に至る。ここは「黒尻岩」または一等狭いところにあるケルコペスの台座(114)の近くになる。以上が間道の様子である。

(114)ケルコペスは二人の小人の盗賊でパサロスとアクモン。「μελάμπυγος = melampygos;黒尻」に気をつけよと母から教えられていた。ヘラクレスが彼らを捕らえ、肩に担いだ棒に逆さにぶら下げて歩いていたら、かれの黒い(毛深い)尻を見てからかったところ、ヘラクレスもおもしろがって彼らを放免したという。

[7.217] さてペルシア軍はアソポス河を渡り、右にオイテの山々を見、左にトラキスの山々を見ながら、夜通し行軍した。そして夜明けに間道の頂点に達した。

先に記したごとく、この山頂には一千のポキス武装兵が間道の警戒に当たっていた。谷間の隘路は前記の通り確保されていたので、ポキス人はレオニダスに提言し、みずから進んで山越えの間道守備に当たっていたのである。

[7.218] ペルシア軍が山を登ってくる時、その山は全山が深い樫の森に覆われていたので、ポキス兵に気づかれずに済んだのだが、風がなかったために、落葉を踏む足音が壮大な音を立てた。これを聞いたポキス兵は飛び上がって武器を構えようとしたが、その時には蛮族が目の前に来ていた。

一方のペルシア兵は目の前に武装兵が現れたのを見てびっくりした。敵がいるとは思いもしなかった所で武装兵に出会ったからである。ヒルダネスはポキス兵がスパルタ兵ではないかと疑い、エピアルテスに、あれはどこの国の兵かと質した。その返事を確かめた後、ヒルダネスは自軍の兵士に戦闘態勢を取らせた。

激しい弓矢の攻撃に晒されたポキス兵は山頂に向けて逃走したが、ペルシア軍が最初から自分たちを目がけて向かってきたものと思い、全滅を覚悟した。しかしヒルダネス麾下のペルシア軍とエピルアルテスは、ポキス兵には目もくれず一目散に山を下りていった。

[7.219] ギリシアの予言者メギスティアスは生贄を占い、まずテルモピュレーのギリシア兵には夜明けに死が訪れると告げた。そのつぎにペルシアの投降兵たちによって、敵が迂回路を進んでいることも判った。彼らは夜のうちにそれを知らせたのだが、夜明けになって高台から駆け下りてきた監視兵によって、三度目の情報がもたらされた。

ギリシア軍は評議を開いたが、意見が割れた。撤退すべきにあらずと主張する者がいる一方で、それに反対する者もいた。そして結局、同盟軍は解散することになり、それぞれが帰国の途についたが、その他の者は、レオニダスと共に残留する準備を始めた。

[7.220] レオニダスは、敗北を心配して同盟軍を帰したが、自身とスパルタ兵については、最初から防衛するためにやって来た場所から撤退するのは相応しくないと考えていた、と伝えられている。

私の見るところでは、同盟軍は戦意をなくしていて、レオニダスと共に危険を冒したくないと思っていることを見抜いていたがゆえに、レオニダスは彼らを国に帰したのだ。

しかしかれ自身が撤退することは沽券にかかわることであり、逆にここで踏みとどまれば、偉大な名声が後世に残り、スパルタの隆盛も汚されずに済むだろうと考えたのだ。

この戦争が始まった時、スパルタ人がこの戦いについて神託を求めたところ、デルフォイの巫女の予言では、蛮族によってスパルタが破滅するか、その王が死ぬか、どちらかだと出た。巫女は六歩格の韻文を用いて次の託宣を下した。

  広き国スパルタの住人よ、汝ら栄光の国は
  ペルセウスの末裔によって壊滅の憂き目に遭うか
  しからずんば、スパルタの国土は
  ヘラクレスの血を引く王の死を悼むことになろう
  獅子、牡牛の力を持ってしても
  立ち向かうこの男には勝てまい
  ゼウスの力を有する男ゆえに
  我は告ぐ、かの男は斃されまいぞ
  そのいずれかを完膚なきまでに切り裂くまでは

レオニダスはこの神託を考えに入れ、ひとりスパルタの名声を勝ち取るために、同盟軍を帰還させることにしたのだ。彼らを残留させ、意見のまとまりを欠いて混乱を招くよりは。

[7.221] このことに対する小さからぬ証拠を私は握っている。それはレオニダスが遠征に随行していた予言者を公然と帰国させたことである。これはかれが共に死ぬことを心配しての心配りであった。この予言者はアカルナニア出身のメギスティアスといい、メランプスを祖とすると伝えられ、生贄占いによってギリシア軍の将来を予言したと言われていた。かれは帰れと言われても残り、ただし共に従軍していた一人息子を帰国させたのだった。

[7.222] 同盟諸国軍はレオニダスの命じるままに帰国したが、テスピアイ兵とテーベ兵だけはスパルタ軍と共に残った。テーベ兵はレオニダスが人質として留め置いていたので、そのつもりもなく残ったのである。テスピアイ兵はレオニダスとその部隊を見捨てて立ち去るつもりはなく、彼らと共に踏みとどまって死に向かうと言い、喜び勇んで残ったのである。その司令官はディアドロメスの子デモフィロスだった。

[7.223] さてクセルクセスは日の出に神酒を献げ、市場が賑わう時刻(*)になるのを待って総攻撃を命じた。これはエピアルテスの進言に従ったからで、上り坂の回り道よりも、山下りは真っ直ぐで、ずっと近道になるからだ、

(*)午前10時頃

蛮族は攻撃を開始したが、死地に赴くつもりのレオニダスと麾下のギリシア兵は、以前と違って隘路の拡がっている場所まではるか前方に進んでいた。これまでの何日かは防御壁を守るために狭い道まで退いて反撃していたのだ。

今回は狭い場所の外で戦ったのだが、それでも蛮族は大勢の兵士が死亡した。部隊長たちが後方から兵士を鞭打ち、前方に追い立てたので、その多くは後ろから押されて海に落ち、溺死した。それ以上に多くの兵士は、生きたまま踏みつぶされてしまい、死んだ者のことなど誰も見向きもしなかった。

ギリシア人は、山道を廻ってきた敵軍のために死ぬものと覚悟していたので、死に物ぐるいで遮二無二蛮族に立ち向かい、力の限りの働きを見せた。

[7.224] 実は、この時すでに、ギリシア兵のほとんどは槍が折れ、剣で戦っていた。レオニダスはすこぶる勇敢な戦いぶりを見せたが、ついにこの戦闘で討ち死にした。かれと共に戦死した名のあるスパルタ人については、勇猛だったとして、その名を聞いているが、三百名全員の名もまた知らされている(115)。

(115)レオニダスの遺体はその後スパルタに移送され、埋葬された。これは40年後のBC.440のこと。かれの墓には300人の兵士の名が刻まれた碑が建てられたので、ヘロドトスはおそらくこれを見たのだろう。

ここでは多くの有名なペルシア人も戦死している。中でも注目すべきはダリウスの二人の息子アブロコメスとヒペランテス。この二人はダリウスとアルタネスの娘ファラタゴネの間に生まれている。アルタネスはダリウス王の弟で、ヒスタスペスを父に、アルサメスを祖父に持つ。アルタネスが自分の娘をダリウスに嫁がせる時、子供はその娘しかいなかったので、自分の全財産を持参金にもたせたという。

[7.225] さてレオニダスの遺体をめぐっては、ペルシアとスパルタの間で激闘が交わされ、ギリシア軍は獅子奮迅の働きを見せて敵を潰走させること四度におよび、ついに遺体を回収した。そして戦闘はエピアルテスが先導する敵軍が到着するまで続いた。

敵の新手が来ると、形勢が変わったとみたギリシア軍は隘路の狭い場所まで退き、防禦壁を抜けて丘の上に移動し、密集陣形を取った。ただしこの時テーベ兵は全員が従わなかった。この丘は隘路の入り口にあるが、今はレオニダスの栄誉を讃える獅子の石像がすえられている。

この場所で、まだ剣を持っている者はそれを振るい、剣のない者は手や口を使って自分の身を守った。蛮族は雨あられと矢を射かけ、彼らを覆い尽くすようにして攻めた。別の部隊は正面から攻撃して防禦壁を破壊し、また別働隊は迂回して取り囲み、あらゆる方向から攻め立てた。

[7.226] スパルタ、テスピアイの兵士たちは右のごとき勇猛さであったが、とりわけスパルタ兵のディエネケスは最も勇敢に戦ったと伝えられている。メディア人との戦闘が始まる前に、かれは次のように話したという。あるトラキス人から、蛮族軍はおびたたしい数の矢を射かけてくること、それはあたかも太陽を遮るほどだと、かれは聞いた。

これを聞いてもかれは少しもひるまず、またメディア軍の多さを意に介さず、トラキス人は良いことを教えてくれた、メディア人が太陽を遮ってくれたら、陽向でなく日陰で戦えるではないか、と言ったという。この言葉や、これに似た言葉がスパルタ人ディエネケスが後世に残した記念であると伝えられている。

[7.227] かれに続いて二人のスパルタ人兄弟、オリシファントスの子アルフェオスとマロンの勇敢なことは、右に出る者がなかったという。テスピアイ兵の中で最も高名を挙げたのは、ハルマティデスの子ディティランボスだった。

(*)テルモピュレーにおける戦死者はペルシア側がおよそ2万人、ギリシア側が千人以上と推定されている。

[7.228] 戦死した場所で埋葬された者たち、またレオニダスによって任を解かれた国が、撤退する前に戦死した者たちのために残した碑文がある。

「ペロポネソスの四千の兵士、かつて三百万の敵と、この地にて戦へり」
この碑文はギリシア軍全体に向けたものであるが、スパルタ兵そのものに向けた碑文は次に。
「異国の人よ、行きてスパルタの人々に告げよ、我ら掟に従ひて退かず(*)、ここに斃れり、と」
以上はスパルタ兵の碑文だが、次は予言者のための碑文である。
「こは名高きメジスティアスに捧げる記念の碑なり。そはスペルケイオス河を渡り来しメディア人に斃されし者。迫りし破滅のさだめを当てし予言者。されどスパルタの将を見捨てるを潔しとせざる者なり」

(*)スパルタ兵は「前進か、死か」をモットーにしており、退却ないし敵に背を見せることは絶対禁忌だった。

予言者の碑を別とし、碑や石柱を建立して彼らの栄誉を讃えたのは、隣保同盟諸国であった。予言者メジスティアスの墓碑銘を起草したのは、かれと親密な交友があったレオプレペスの子シモニデスだった(116)。

(116)実際には三本の石碑を建立したのはシモニデスだった。ただ、メジスティアスの墓碑銘だけは彼の責任で起草した。

[7.229] 実は三百人のうちでエウリトスとアリストデモスの二人は、重い眼病を患っていたため、レオニダスから放免され、陣を離れてアルペニで病床についていた。そこで互いに合意すればスパルタに無事帰還できたかもしれないか、あるいは帰国したくなければ、共に戦死していたかもしれない、と伝えられている。彼らはどちらでも選べたのだが、互いの考えが異なり、意見が合致しなかったのだ。エウリトスはペルシア軍が迂回路を進行していることを知ると、武具を身につけるよう求め、戦場に連れて行くようヘロット(奴隷)に命じた。ヘロットはかれを誘導したあと退散したが、かれ自身は乱闘の中に突入して戦死した。

一方のアリストデモスは気力が失せていたので、後方に残った。かりにかれ一人だけが病気だったとして、かれがスパルタに帰国した場合、あるいは二人ともが帰国した場合には、スパルタ人は彼らを咎めたりしなかっただろう。しかし、同じ事情で戦場から放免されていたのに、二人のうち一人が死に、他方が死ぬのを拒んだので、スパルタ人がアリストデモスに大きな怒りをぶつけたのも当然である。

[7.230] ある者は、この放免があったればこそアリストデモスは無事スパルタに帰国した、という。またある者がいうには、かれは陣営からの伝令として放たれ、やがて戦場に引き返すこともできたのだが、それを嫌がって途中で留まって生き残り、仲間の伝令は戦場に戻って戦死した、と伝えている。

[7.231] アリストデモスがスパルタに帰ると、尊敬もされず、さげすまれ、次のような恥辱を味わうことになった。スパルタ人は誰も火を分け与えず、話もせず、かれを腰抜けアリストデモスと呼んでののしった。ところがプラタイアの戦闘では、かれは自分に向けられていた恥辱をすべて雪(すす)ぐ働きを見せている。

[7.232] この三百人のうち別の伝令もテッサリアに送られ、生き延びたと伝えられている。その伝令の名はパンティテスといい、スパルタに帰ると侮蔑を受けたため、みずから首を括って自殺したという。

[7.233] さてレオティアデスを将とするテーベ兵は、ギリシア軍と共にいてその強制下にあるときだけは王の軍と戦っていた。しかしペルシア側が優勢となり、レオニダスが軍を率いて丘に急行しているのを見て取ると、彼らはそこから離脱し、諸手を挙げて蛮族に近づいて行った。過去にないほどの真に迫った言葉で、自分たちはメディア側の者で、どこよりも先にペルシア王に土地と水を献上していたのであって、テルモピュレーには無理矢理連れて来られ、王が被った損害については彼らは何ら咎を受ける者ではない、と声を上げた。

テッサリア人が彼らの言葉の証人として立ったお陰で、彼らは命を救われたのだが、万事が幸運だったとは言えない。彼らが近づいてきて蛮族がそれを捕らえた時、幾人かは近づいてくる者を殺害している。そして彼らのほとんどが、司令官レオンティアデスを初めとして、クセルクセスの命によって王の印の入った烙印を押された。ずっと後になって(117)、かれの息子エウリマコスがテーベ兵四百の将としてプラタイアの街を占領した時、プラタイア人によって殺害されたのが、この息子だった。

(117)BC.431; ツキジデスの「戦史」第二巻二節を参照。

[7.234] テルモピュレーにおけるギリシア人の戦いぶりはかくの如しであった。クセルクセスはデマラトスを呼びつけ、真っ先に声を上げて下問した。
「デマラトス、お主の言葉が真実であると判ったゆえ、お主は誠実な男であると分かった。お主の予告と寸分違わず戦況が進んだことがその証拠じゃ。そこでじゃ、ギリシア人はどれほど残っておるか? この戦場にいたような兵士はどれほどおるか? あるいは彼ら全てが、これほどの者であるか?」

デマラトスが答えて曰く。
「ギリシア人は大勢おります。またその都市も多数にのぼりまする。そこで、お上のお知りになりたいことを申し上げましょう。ギリシアの中にスパルタという街があり、八千の男子を抱え、彼らは全てここでの兵士と同等の能力を有しております。他のギリシア人は、ここでの兵士には及びませぬが、勇猛さにおいては変わりませぬ」

クセルクセスが続ける。
「では、どのような策を用いれば、最小の損害で彼らに勝てようか? お主は彼らの王だったことでもあるし、評議の策や議事を承知しておることゆえ、さあ、教えてくれ」

[7.235] デマラトスが返答する。
「わが王に申し上げる。お上が心からみどもの助言をご下問であるなら、最善の策を申し上げるほかはございますまい。すなわち、王の海軍のうち、三百隻をラコニア地方(*)に進めるべきかと、」

(*)ペロポネソス半島の先端部で、スパルタのある地域。

「その沖合にはキティラ島が浮かんでおり、我らのうちで大変な知恵者であるキロンの言うところによれば、キティラが海の底にある方が、浮かんでいるよりもスパルタにとっては有利であるということにござる。この男は、これからみどもが申し上げるような事態が、この島を足がかりにして起きることを常に予期しておりました。かれは王が攻め入ることを予め知っていたわけでなく、全ての敵を等しく怖れていたのでござる」

「そこで、この島を基地として軍を進めなさり、ギリシア人を恐怖に陥れておかれませ。彼らの国のすぐ傍で戦端が開かれることになりますれば、残りのギリシア諸国が陸軍によって征服された時、スパルタが救援に向かう怖れはなくなりましょう。その上、残余のギリシアを攻略することで、ラコニアは孤立し、衰微するに違いありませぬ」

「しかしながら、お上がこの策を取られぬ場合には、次のことを予想せねばなりませぬ。イスマスという、ペロポネソスに通じる狭い地峡部がござるが、全てのペロポネソス人は同盟を結んでおりますゆえ、彼らは一丸となり、ここで王を迎え撃つでありましょう。そうなれば、これまで以上に手こずる戦になること必定。そこで、先に申し上げた策をお進めになられますれば、お上は戦わずして、かのイスマスも全ての国々も手中に収められることでしょう」

[7.7.236] 次にクセルクセスの弟で海軍総督のアカイメネスが口を開いた。かれはたまたま二人の会話に同席していて、王がデマラトスの助言に説き伏せられるのではないかと危惧したのだ。

「王に申し上げる。みどもの見るところ、お上は、王の幸運を妬み、あるいは王の企てに叛逆さえ考えているやもしれぬ者の言説に耳を傾けておられる。かくの如きやり方は、ギリシア人の常套手段にござる。かれらは他人の成功を妬み、権力を嫌う性向があるによって」

「王の配下の船団から四百隻が難破するという、ごく最近の惨事があったところへ、さらに三百隻をペロポネソスに回すとなると、王の敵は互角に戦うことになりましょう。一方で船隊を一体化しておけば、これは無敵となり、敵は太刀打ちできませぬ。その上、陸軍と海軍が共に進軍すれば、互いに助け合うこともできまする。ところが、船隊を分割すると、陸軍から海軍への支援も、その逆の支援も不可能となり申す」

「みどもの進言は王ご自身の企てを思ってのこと。敵がどこの戦場を選ぶか、どのように戦うか、軍勢はどれほどかなど、敵国の事情にはお構い遊ばすな。あちらはあちら、こちらはこちらで考えればよいこと。スパルタ人に関しては、ペルシア軍と戦うことになろうとも、つい最前の戦力喪失を補うことはできますまい」

[7.7.237] クセルクセスが答える。
「アカイメネスよ、そなたの言うこと、申し分なし。予はそなたの助言に従がおうぞ。デマラトスよりはそなたの方が上策ではあるが、かれは予のために最善と思う策を具申したのじゃ」

「そなたは、この男が予の企てに悪意を持っておると言うが、予は毫(ごう)もそう思わぬ。それは、これまでのかれの言説と次の理屈から判ることじゃ。すなわち、ある街の人間が成功すると同じ街の別の人間はそれを妬み、沈黙することで憎しみを表すのだ。高潔な人間は限られるゆえ、それは別として、同じ街の者から助言を求められた時には、最善の助言をする者など皆無であるということじゃ」

「ところが親密な交友のある他国人同士の場合、一方の成功者から求められると、他方は最善の助言を与えようとするもの。そこでじゃ、デマラトスを貶(おとし)める言説は以後すべて控えることを、そなたに命じておく。この男は異国人で、かつ予の客人であるゆえな」

[7.238] このようにクセルクセスは言い、ある遺体の横たわる場所に通りがかった。それがスパルタ王のレオニダスであり、ギリシア軍の司令官であることを知らされるや、その首をはねてさらし首にせよと命じた。

あまたの根拠の中でも、私にはこの事実によって次のことがはっきり判る。すなわちクセルクセスは生前のレオニダスに対して他の誰よりも大きな怒りを抱いていたのだ。さもなければ、かれの遺体に暴虐の限りをつくすようなことはしなかったはずである。私の知る限り、全人類の中でもペルシア人は、戦場での勇者には最高の栄誉を持って遇する習いがあるのに。そして命ぜられた者は、その通りに実行したのであった。

[7.239] さてここで、わが探究譚の前の方で書き残していた話題に戻ろう(118)。ペルシア王が、ギリシア攻略に着手することを最初に知ったのは、スパルタ人だった。これを知って彼らはデルフォイに神託を求めたのだが、その託宣については本巻の少し前で述べている。ただ、その託宣を受けたときの様子がふしぎだった。

(118)本巻二百二十節において、スパルタはクセルクセスのギリシア進攻のことをいち早く知っていたとヘロドトスは書いている。本節はその話の完結部。

それにはこのような経緯(いきさつ)がある。私の見るところ、またこの考えを示唆する事実から察するに、ペルシアへの亡命者アリストンの子デマラトスは、ギリシア人に悪意を抱いていたはずなのだが。次のようなかれの行動は、はたして善意によるものか、はたまた悪意のある勝ち誇りであろうか、と思いを巡らせてしまうのだ。それは、クセルクセスがギリシアへの進攻を決断したとき、当時スサにいたデマラトスはこれを知り、スパルタにこのことを知らせる伝言を送ろうとしたことである。

しかしかれはことの発覚を怖れ、唯一次のような巧妙な手段をとった。まず折りたたみの書字板を用意し、表面の蝋を削りとり、木の面に王の企てを書きつけた。つぎに溶かした蝋をその上に塗りつけ、無地の書字板に見えるようした。こうして街道の監督官に怪しまれないようにしたのだ。

書字板がスパルタに届くと、スパルタ人はその意味を解しかねた。そして私が聞いたところでは、ついにレオニダス夫人でクレオメネスの娘ゴルゴが、みずからその仕掛けに気がつき、蝋を削りとるよう指図して、木の面に書かれた伝言を見つけた。この伝言を読んだスパルタ人は、すぐさま全てのギリシア諸国にその伝言を送ったという。以上、かくのごとき話が伝えられている。


第八巻

[8.1] さて、ギリシア海軍に配置された陣容は次のとおりだ。アテナイは百二十七隻。これには、プラタイヤ兵が海戦には不慣れにもかかわらず、戦闘に対する剛勇と熱意からアテナイ船団に同乗してきた。

コリントからは四十隻。メガラから二十隻。カルキスからは兵士を同乗させて二十隻。この船はアテナイが提供したもの(M1*)。アイギナは十八隻。シキオンは十二隻。スパルタは十隻。エピダウロスは八隻、エレトリアは七隻、トロイゼンは五隻。スティラは二隻。ケオスは二隻(M*2)と五十本櫂ガレー船を二隻。オプスのロクリスからも七隻の五十本櫂ガレー船が支援としてやって来た

(M*1)第五巻七十七節
(M*2)ここでいう「船」とは三層櫂ガレー船のこと。

[8.2] 私は、それぞれが提供した船数に基づいて話したのだが、五十櫂船を別として、アルテミシオンに集結した船の数は、二百七十一隻だった。

ただし、最高指揮権を握ったのは、スパルタのエウリクレイデスの子エウリビアデスだった。これは、同盟諸国はアテナイの主導には従うつもりがなく、スパルタ主導でなければ遠征軍を解散すると表明していたからであった。

[8.3] これは最初から、すなわちシシリーに同盟を求めに使者を派遣する前から言われていたことだが、海軍はアテナイ人の指揮下に入るべきだという意見があった。しかし同盟諸国がこれに反対したので、アテナイはギリシアの生き残りを最優先することを心底から考え、また主導権争いを起こすと、ギリシアは滅亡することが判っていたこともあり、アテナは譲歩したのだ。そしてこの時の彼らの判断は正しかったといえる。内紛を抱えて戦うことは挙国一致で戦うことよりも劣ること、平時よりも戦時がよくないことと同じだからである。

このことが判っていたので、彼らは反論せず道を譲ったのだが、それはどうしても同盟が必要だったからで、譲歩したのはその限りにおいてであった。というのは、ペルシア軍を撃退すると、早くも領土を争いが起きたのだが、アテナイはパウサニアスの傲慢を持ち出し、それを口実としてスパルタから主導権を剥奪したことから、それが知れる。ただし、これは後になってからのこと(G*)である。

(G*)B.C.476にビザンチンを攻略した後のこと。

[8.4] さてギリシア海軍もアルテミシオン(M*)に到着し、おびただしい数の敵船団がアフェタイ(*)に集結し、またその街が軍で満杯になっているのを知り、蛮族の軍勢が予想と違っていたので、ギリシア軍は恐慌をきたした。そしてその地からさらにギリシアに近い場所に撤退することを協議した。

(M*)「ギリシア海軍も」という表現は、陸軍がテルモピュレーに集結したことに対応させている。他の訳者は「結局ギリシア海軍はアルテミシオンにやって来た」と解している」すなわち懐疑と遅延を表現している。第七巻二百七節を参照。
(*)アルテミシオンの対岸にある半島先端の街。

この協議を知ったエウボイア人たちは、子供や家族が領外に避難し終えるまで、もう暫くここに留まってくれるよう、エウリビアデスに頼んだ。ところがかれを説得できなかったので、今度はアテナイ人の司令官テミストクレスのもとへ行き、エウボイア沖合に留まり、そこで海戦に臨むなら三十タラントン(*)を贈るという条件で、かれを説得した。

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

[8.5] そこでテミストクレスは次のようにしてギリシア人を引き留めた。すなわち、この金のうち五タラントンを、自分自身の持ち金であるかのごとく装ってエウリビアデスに分け与え、考えを変えさせた。ところがオキトスの子アデイマントスというコリント人司令官だけが、他の者たちとともに残留するのをよしとせず、アルテミシオンから撤退することを強く主張した。そこでテミストクレスは誓いを立てて、かれに語った。

「いずれにしろ貴殿は我らと共に残ることになるだろう。なぜなら、同盟を破棄してメディアの王から受ける贈与よりも、わが輩からの贈与の方が多いからだ」
こう語るが早いか、かれはアデイマントスの船に三タラントンの銀を運ばせた。かくして彼ら全員が贈与(M*)によって考えを変え、同時にエウボイア人の望みも叶えられ、テミストクレス自身も懐が豊かになったという次第である。残りの金をかれが手にしていることは誰も知らず、分け前をもらった者たちは、その金が説得のためにアテナイの国から出ているものと、すっかり思い込まされていたのだ。

(M*)多くの訳者は「賄賂」と解している。

[8.6] かくして彼らはエウボイアに残り、そこで戦端を開くことにした。海戦は次のような経過をたどった。午後早い時間に蛮族海軍がアフェタイに到着してみると、その前に少数のギリシア船団がアルテミシオン付近にやって来て停泊していることを知らされ、実際に彼ら自身がそれを確認すると、それを攻撃して捕捉しようと気をはやらせた。しかし次の理由から、直接彼らに船を進めるのは上策ではないと考えた。敵船が自分たちに向かってくるのをギリシア人が目にすると、 逃走するに違いなく、それに夕闇が加わる怖れがあるためだった。ペルシアの考えでは、実際に彼らは逃げおおせるに違いないにしても、聖火兵(M*)すら逃がしてはならないと考えていたのだ。

(M*)聖火兵というのはスパルタのゼウス祭壇から聖火を取り、軍の生贄儀式のためにそれを絶やさぬように保存する任務を負う。この兵士は神聖視されている。「聖火兵も斃れた」というのは全滅を意味する。

[8.7] 右の状況から、ペルシア軍は以下の作戦を立てた。全艦船のうちから二百隻を割き、スキアトス島を大きく迂回し、エウボイア島のカフェライオス岬からゲリアストスを回り、エウリポス海峡に向かわせた(*)。こうすることで敵にエウボイア島を迂回する船影を見られないようにした。そしてこの航路を取って海峡を北上することで、敵の退路を断ち、正面から向かう船団と合わせて敵船を包囲する作戦だった。

(*)エウボイア島の東岸を南下し、その後は海峡を北上する航路。

この作戦に従ってペルシア軍は、このための船団を決めて送り出したが、本隊そのものは、その日も含め、所定の位置に到着したという合図が迂回部隊からあるまで、攻撃を控えることにした。そして船団を送り出したあとは、アフェタイに残っている船団の点呼を始めた。

[8.8] その点呼を行なっている最中に次のようなことがあった。陣の中に、当時潜水にかけては右に出る者なしといわれていたスキオネ人のスキリアスという者がいた。この男はペルシアのためにペリオンで難破した船からあまたの財宝を引き上げ、そのうちの多くをわが物としていたが、ずいぶん以前からギリシアに脱走しようと考えていた。ただその時まで機会に恵まれなかったのだ。

今回、どのようにしてかれがギリシアにやって来たのか、正確なことは分からないが、伝えられた話が本当なら驚異的なことである。かれはアフェタイの海に潜り、アルテミシオンにたどり着くまで一度も水面に出なかったという。その間の距離はおよそ十六キロメートルになる。

またこの男については嘘っぽいいくつかの話が伝わっているが、中には本当のものもある。しかしこの件に関して私の考えをいえば、かれは小舟に乗ってアルテミシオンに向かったはずだ。到着すると、かれはすぐに、司令官たちにペルシア船団の難破のいきさつを報告し、エウボイア島を迂回している船団の件も知らせた。

[8.9] これを聞いたギリシア軍は協議し、多くの意見が出た中で、次の意見が優勢を占めた。すなわちその日は海岸に留まるが、深夜になってから出航し、迂回してくる敵船団を迎撃するという策である。ところが、いざ出航してみると、午後遅くまで待ってみたものの、向かってくる敵船が見えなかったので、蛮族本隊に向かって船を走らせた。これはみずからの戦法を試し、敵の戦列突破(G*)を試したかったからである。

(G*)第六巻十二節

[8.10] ギリシア海軍が少数でペルシア船団に向かってくるのを見て、クセルクセスの残留兵たちやその司令官たちは、狂気の沙汰とあきれた。そして捕らえるのはたやすいだろうと思いつつ、彼らも船を海に出した。そう考えるのも道理で、ギリシア海軍は寡兵で、ペルシア海軍はその何倍もの勢力を誇り、性能も優れていたのだから。

このように考えつつ、ペルシア軍団は敵船を取り囲んだ。この時、ギリシア人に好意を抱きつつも、意に反して遠征に加わっていたイオニア人たちは、彼らが包囲されるのを見て、誰も祖国に帰れないだろうと思って悲嘆に打ちひしがれた。そう感じるほどにギリシアの勢力はわずかだと、彼らには見えたのである。

一方、これを絶好の機会ととらえた者たちは、アテナイの船を最初に捕獲し、王からの褒賞をもらおうとして、お互いが先を争った。彼らの陣営では他のどこよりもアテナイの噂が多かったからである。

[8.11] 一方ギリシア軍は、合図とともに船首を蛮族の船に向け、船尾を自陣の中央に向けて配置した。そして二度目の合図で、狭い海域に押し込められながらも、船首同士を突きあわせて奮戦した。

その結果、ギリシア軍は蛮族の船を三十隻捕獲し、また敵軍中で高名なサラミス王の弟でケルシスの子フィラロンも捕虜にした。ギリシア軍の中で最初に敵船を捕らえたのはアテナイ人のアイスクライオスの子リコメデスだったが、これによってかれは勲功の褒賞を手にした。

この海戦では、勝敗の決せぬまま夕闇が迫ってきたこともあり、両軍は互いに戦場を離れ、ギリシア軍はアルテミシオンへ、蛮族軍はアフェタイへ戻った。この時の戦闘は、蛮族にとっては大きく当てがはずれた結果となった。そして王に随行していたギリシア人の中でギリシア側に脱走してきたのは、レムノス人のアンティドロスだけだったので、アテナイ人はそれを讃えてサラミスの領土の一部をかれに与えた。

[8.12] さて夜になると、真夏というのに豪雨が降り始め、それが一晩中続き、ペリオン山からは炸裂する雷鳴も轟いた。死骸や難破船の破片がアフェタイに流れ着き、船の船首にまとわりついたり、櫂の羽にぶつかったりした。

そこにいた兵士たちは、この時の音を聞き、何度もこんな災難に見舞われるということは、自分たちは破滅するに違いないと恐れおののいた。というのも、ペリオン山での嵐と船の難破のあと、息つく暇もなく激しい海戦に臨み、その後も暴風雨と海に流れ込む水流と、すさまじい雷鳴に襲われたからである。。

[8.13] その夜は、ペルシア本隊は私が言ったようにな状況だったが、エウボイア島を迂回する任務を帯びていた船隊は、まさに同じ夜の天候に遭遇していた。ただ、外洋上で航行中のことだったので、嵐は本隊よりもはるかにすさまじく彼らに襲いかり、悲惨な結果となった。それは、彼らがエウボイア島の「窪み」といわれている場所を航行中のこと、嵐と雨が襲いかかり、どこへ運ばれているかも分からず風にもてあそばれ、岩礁に激突したのだ。これらの事態は、ペルシアの勢力をギリシアのそれにずっと近づけ、大きくしすぎないようにするための神の采配である。

[8.14] こうして、この部隊はエウボイア島の「窪み」で全滅した。一方、アフェタイの蛮族本隊は夜明けを迎えて安心し、船を停止させたままにしていた。ひどい災害の後ゆえ、今はじっとしているだけで満足していたのだ。

ところがギリシア側にはアッティカから五十三隻の援軍が到着していた。これによってギリシア軍は勢いづき、またエウボイア島を回り込んでいた蛮族船隊が嵐によって全滅したことを知らされ、これによってもまた勢いづいた。そこでギリシア軍は前日と同じ頃合いまで待ってから出港し、キリキア船団を攻撃し、これを殲滅すると、日没が迫り来るのを機に戦場を離れてアルテミシオンに帰還した。

[8.15] 三日目になり、いかにも少ない敵海軍によって自軍が損害を受けたことで、蛮族の司令官たちは強く憤慨し、またクセルクセスによる叱責を怖れ、このたびはギリシア軍団の戦闘開始を待たず、陽が中天にかかる時刻になって出撃命令を出し、出港した。

この海戦の行なわれたのは、テルモピュレーでの陸上戦と同じ日だった。海軍の戦術はエウリポス海峡を戦場とすることだった。これは、レオニダスとその麾下の軍が隘路(あいろ)を防衛するのと、ちょうど同じだった。従ってギリシア兵たちは蛮族をギリシアに侵入させてはならじと、互いに励ましあい、一方のペルシア兵たちはギリシア海軍を殲滅し、海峡を支配せんものと士気を高めあった。

[8.16] クセルクセスの海軍がギリシア海軍に向かって航行している一方で、ギリシア海軍はアルテミシオンで動かずにいた。蛮族海軍は敵軍を包囲するつもりで三日月型の陣形を取っていた。やがてギリシア軍も出撃し、両軍は交戦状態に入った。

この時の戦闘では、両軍の力はほぼ互角だった。というのもクセルクセスの船団は船数が多すぎることが災いし、船団が混乱状態に陥り、船同士が衝突する事態を引き起こしたからである。とはいえ蛮族は、あまりに少ない敵船団を相手に逃走するのは沽券にかかわるとして、退却せず粘り強く戦った。

結果は、ギリシア側では多くの軍船が破壊され、多数の兵士が死亡した。蛮族側は、それ以上の船と兵士が失われた。その後、両軍は戦場を離れ、それぞれ自軍の基地に戻っていった。

[8.17] この海戦では、クセルクセス軍のエジプト兵が最高の武勇を見せた。多くの武功の中でも彼らは五隻のギリシア船とその乗員を捕獲した。一方、この日のギリシア軍で最高武勲を立てたのは、アテナイ兵だったが、その中でもアルキビアデスの子クレイニアスは自分の所有する船に二百人の兵を従え、自費で参戦していた。

[8.18] 戦場を離れると、両軍は一息つくようにして自軍の基地へと急いだ。ギリシア軍は戦場から離れるとき、死骸と破壊された船を回収したが、損害も大きかった。特にアテナイ軍の損害が大きく、半数の船が航行不能となったので、ギリシア本土(G*)への撤退を決めた。

(G*)ギリシア本土付近の海域のことだろう。

[8.19] テミストクレスは、蛮族からイオニアとカリアの諸国を引き離してしまえば、残りの軍勢に勝てるだろうと考えた。そこでかれは、エウボイアの住民が家畜の群れを海辺に降ろしている場所に司令官たちを集め、敵軍の最強部隊を離反させる策があるといった。

この件に関して、かれはそれ以上のことを明かさなかった。そして今の状況に関しては、次の方針を告げた。すなわち、エウボイア人の家畜を各自が欲するだけ殺すこと。これは、敵軍に同じことをされるよりは、我々が実行した方が得策であるため。次に各自の兵士たちに松明を持たせることを指示した。撤退時期については本土へ無事に帰還できる機会を見計らう、と告げた。そして彼らはそれに賛同し、松明に火をつけると、すぐさま家畜の屠殺に取りかかった。

[8.20] 実際エウボイア人はバキスの神託を無視し、全く無意味だと見なしていたため、戦に備えて自分の領土から何も運び出さず、食糧を備蓄もしなかったので、これは自業自得である。バキスによる神託は次のとおりだった。

  心せよ。夷狄がパピルスの横木を海に渡すとき
  鳴き叫ぶ山羊の群れをエウボイアから離すべし

その時の災いにしても、迫り来る災厄にしても、この神託を彼らは無視していたので、彼らが最悪の不幸に見舞われたとしても、それは身から出た錆であった。

[8.21] ギリシア軍がこのような状況にある中で、トラキスから偵察兵がやって来た。つまり、海軍が負けた時には、アンティキラ生まれのポリアスという者が、そのことをテルモピュレーの軍に知らせるという任務を帯びていて、そのための船を準備していた。それと同時にレオニダスの側にはアテナイ兵でリシクレスの子アブロニコスという者が、陸軍に惨事が起きた時にはアルテミシオン軍に知らせるつもりで、三十本櫂船を用意していた。

このアブロニコスが到着し、隘路(あいろ)でのレオニダスとその麾下の軍の状況を知らせたところ、アルテミシオンの海軍はもはや撤退を延期することなく、各国の隊列のままにコリント軍を先頭に、アテナイ軍をしんがりにして撤退を始めた。

[8.22] ところでテミストクレスはアテナイ船団の中から船足の速いもの数隻を選んで飲み水の湧きでている泉にゆき、そこの石に伝文を刻ませた。それは、後日イオニア人がアルテミシオンにやって来たとき、彼らに読ませるためのものだった。その伝文は次のとおりである。

「イオニアの者たちへ。汝らの父祖の地へ侵略し、あえてギリシアを隷属しようとするは、よろしからざることなり。何より好ましきは汝らが我ら与することなり。それが叶わざれば、我らに対峙するも脇に立ちてよけるべし。そしてカリア人たちへも汝らとともに同じく行動すべく依頼すべし。この二つともながら不可となりせば、すなわち、あまりに強き拘束にて謀反できぬとあらば、干戈を交えしとき、あえて怠惰に働けよかし。汝らわが地よりいでしこと忘るべからず。また忘るべからず、我らと蛮族とのいさかいは、まず汝らがことより生起せしことを」

このようにテミストクレスは刻ませたが、察するに、かれには二つの思惑があったにちがいない。すなわち、この碑文がペルシア王に知れることを免れれば、ペルシアからイオニア人たちの離反をもたらすだろうし、クセルクセスに報告され告発された場合には、イオニア人は王から疑いの眼で見られ、彼らは海戦から遠ざけられるだろうと。

[8.23] こうしてテミストクレスはこの碑文を建てたが、この直後に、ヒスティアイア(*)から一人の男が船で蛮族軍のところへ来て、アルテミシオンからギリシア軍が撤退したことを注進した。しかしペルシア軍はにわかに信じがたく、その男を監視のもとに留め置き、数隻の高速船を偵察に走らせた。やがて偵察船がその事実を報告すると、陽が照り輝く頃になって、全船隊一団となってアルテミシオンに向けて出航した。そこで真昼まで留まってからヒスティアイアに向かい、その街を占領した。そしてヒスティアイアの一部であるエウボイア島北部一帯の海岸沿いにある村々を占領した。

(*)アルテミシオンに近いエウボイア島の海岸沿いの街。

[8.24] 海軍がこのような状況にある一方で、クセルクセスは遺骸の処置を済ませたあと、艦隊に伝令を送ったが、遺体の処置は次のようなものだった。テルモピュレーでの戦死者は二万人の多きにのぼったが、そのうちの一千体だけ残し、残りは堀を穿ってそこに埋め、その上から落葉をかぶせ、土を盛り上げて海軍の兵士たちの目につかないようにした。

さて、伝令がヒスティアイアに到着すると、全軍を集めて次のように語った。
「同志諸君、クセルクセス王の勢威を打ち負かそうとした馬鹿者どもと、王が如何にして戦われたかを見たいと思う者には、誰であれその部署を離れ来たることを、王は喜んで許可なさるであろう」

[8.25] 伝令が右のように宣言すると、あまりに多くの兵士が希望したので、何よりもまず、そのための船が必要になった。戦場にやって来た兵士たちは遺体の間を通り抜け、それを見て回ったが、誰もが、そこに横たわっているのはスパルタ兵かテスピアイ兵だと思っていた。ところが、その中にはヘロット(スパルタの奴隷)も混じっていたのだ。

見学した兵士たちは誰もが、クセルクセスが自軍の戦死者に施した、私が前に言った通りの細工に気づいていた。実のところ、それは笑いを誘うほどのことだった。ペルシア軍の一千の遺体は目につくように横たわっているのに対し、敵の四千の遺体(M*)は一箇所に集められていたからである。

(M*)第七巻二百二十八節の碑文を誤解して「四千」という数字が改変されたとみる人がいる。死者が四千人というのは、少なくともその半分がヘロット(スパルタの奴隷)でない限り、とうていあり得ない。

兵士たちは、その日はずっと見学に費やし、翌日にはヒスティアイアに船で戻って行き、クセルクセスは進軍を開始した。

[8.26] さてアルカディアからは、生計に事欠き、仕事を求めて数人の逃亡者がペルシア軍のもとへやって来た。この者たちはペルシア王のもとへ連れて行かれ、同行したペルシア兵の一人から、ギリシア軍の動向について問いただされた。

逃亡者たちは、ギリシアではいまオリンピア(G*)の祭礼の最中で、運動競技と乗馬競技を見物している、と返答した。彼らの目指している賞品は何か、と再び問われ、オリーブの枝で作った冠であると、彼らは答えた。これを聞いたアルタバノスの子トリタンタイクメス(ティグラネス)が、いかにも堂々とした考えを述べところが、これで彼は王から臆病者というそしりを受けることになった。

(G*)これは夏至を過ぎた最初の満月の日に行なわれたと思われる。テルモピュレーの戦いは八月末であることから、Steinは、この問答の時期として、クセルクセスがエレトリアのテルマに滞在している時と見ている。ただし、Macanはオリンピック競技の行なわれた時期に関する上記の説は破綻していると主張している。

というのも、賞品が金銭でなくオリーブの枝であることを聞いたトリタンタイクメスは、黙っていられなくなり、一同を前にして次の言葉を口にしたからである。
「マルドニオスよ、何という者たちと戦うために、お主は我らを連れてきたのか。金銭でなく、名誉を競うような者たちに!」
こんなことを、この男は言ったのだ。

[8.27] 一方で、テルモピュレーにおける惨事の直後、テッサリア人はポキスに使者を送った。彼らは以前からポキス人に遺恨を抱いていたのだが、とりわけ、つい最近被った事件もその原因になっていた。

それは、このたびのペルシア王による遠征の数年前、テッサリア人とその同族人がポキス地方に侵略したとき、ポキス人に敗北し、手ひどい目にあったのだ。

その時、ポキス人はエリス人のテリアスという予言者を伴ってパルナッソス山に立て籠もったのだが、彼は次の計略を立てた。かれは武勇に優れた六百名のポキス兵を選び、その全身および武具をすべて白墨で白く塗らせた。そして白くない者を斃せ、と前もって言い含めた上で、テッサリア人に夜襲をかけた。

彼らを最初に見たテッサリアの歩哨たちだけでなく、あとから見た本隊の歩哨たちも、何か不吉な前兆ではないかと思って恐懼した。そうしてポキス軍は四千の兵士を斃し、その盾を手に入れた。彼らは盾の半分をアバイに献納し、残りの半分をデルフォイに献納した。

この戦いで得た戦利品の十分の一税によって、デルフォイの神殿前面の鼎(かなえ)の周りに巨大な像がいくつも建てられたが、アバイにも同様の像が奉納された。

[8.28] 右は、攻囲してきたテッサリア兵に対してポキス軍が取った行動だが、彼らの領土に侵略してきたテッサリアの騎兵隊にも、手ひどい損害を与えた。彼らはヒアンポリスの街近くの街道に大きな堀を穿ち、そこへ空の酒壺を並べ、その上に土を被せ、他の地面と変わらないように見せかけ、テッサリア騎兵が侵略してくるのを待ち受けた。テッサリア騎兵は手早くけりがつくと思ってまっしぐらに馬を進めてきたところ、壺を踏んで馬の脚が折れてしまったのだ。

[8.29] 右の二つのことで怨みを抱いていたテッサリア人は使者を送って次の言葉を伝えた。
「ポキアの人々よ、いまは気持ちを入れ替え、汝ら我らに対等に敵せずと知るべし」

「以前ギリシアに肩入れしていたとき、我らは常に汝らの上に立っていた。しかしいまや我らは蛮族を味方をつけ、大いなる力を得、汝らの領土を奪い、かつ奴隷に売り払う力を有している。我らその力を保持しつつも、決して悪意を抱かず、その返礼として銀五十タラントン(*)を我らに支払うことを勧告する。しからば我らは貴国を侵略する脅威を回避させるであろう」

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

[8.30] テッサリア人はこのように持ちかけた。というのは、この地方の住民でメディア側についていないのはポキス人のみで、それは察するに、ほかでもない、ただテッサリア人に対する敵意によるものであった。かりにテッサリア人がギリシアを支援していたなら、ポキス人はメディア側についていただろうと、私は考えている。

さてテッサリア人が上のことを持ちかけても、ポキス人は金を払うつもりはないといい、それなりの理由があれば彼らにもテッサリア人と同じくメディアに味方する道もあるが、あえてギリシアを裏切るつもりはないと返答した。

[8.31] この言葉を聞き、テッサリア人はポキス人に怒り、蛮族の道案内をすることになった。そしてペルシア軍はトラキス地方からドーリス地方に進んだ。ドーリス地域はマリスとポキスの間にあり、およそ六キロメートル幅の狭隘な地域で、昔はドリオピスと呼ばれていた。この地域はペロポネソスのドーリス人発祥の地であるが、この地域の住民はペルシアの味方だったし、テッサリア人の要望もあって、蛮族軍はこの地を蹂躙しなかった。

[8.32] さてペルシア軍がドーリスからポキスに進軍してもポキス人を捕らえられなかった。というのも、彼らの一部はパルナッソス山の高地に逃げ出していたためだった。パルナッソスの山頂は大勢が逃げ込むには絶好の場所で、そこはティトリアと呼ばれ、近くにはネオンの街があった。一部のポキス人はそこへ家財を運び込んで逃げた。

ただほとんどのポキス人は、オゾロイ・ロクリス地方の、クリサ平野の北にあるアンピッサの街に家財を運び、難を逃れた。そしてテッサリア人がペルシア軍を先導したこともあって、蛮族はポキス全土を蹂躙した。彼らは進軍途中の街の市街や神殿に火をつけて焼き払い、破壊した。

[8.33] ペルシア軍はケピソス河に沿って進軍しつつ、全てを破壊した。ドリモス以下、次の諸都市が焼き払われた。カラドラ、エロコス、テトロニオン、アンフィカイア、ネオン、ペディエイス、トリテイス、エラテイア、ヒイアンポリス、パラポタミオイ、アバイ。

そしてアバイにはアポロ神殿があり、ここにはおびただしい財宝や奉納品が収められていた。そこでは当時も今も神託を受ける座所が設けられているが、ペルシア軍はこの神殿も略奪し焼き払った。また一部のポキス人は山中まで追跡されて捕らえられ、何度も乱暴されて死に至った婦女子もいた。

[8.34] 蛮族はパラポタミオイを通過してパノペオスに至り、ここから二つに分かれて別々の道を進んだ。主力軍はクセルクセスとともにアテナイに向かうべくボイオティア地方に入り、オルコメノスの領土に進軍した。ボイオティア地方の全住民はペルシア側についていたのだが、アレクサンドロスによって派遣されたマケドニア兵が彼らの諸都市を掌握していた。すなわち、ボイオティア人がペルシアに着いていることをクセルクセスに分からせるために、彼らはその諸都市を保全したのだ。

[8.35] さて別の部隊は先導者に従ってパルナッソス山を右に見つつデルフォイの神殿にやって来た。その間、進路にあったポキスの諸都市は全て略奪の限りを尽くした。すなわち、パノペオス、ダウリス、アイオリスの街は焼き払われた。

彼らが本隊から別れてこの道を進んだ理由は、デルフォイの神殿を略奪し、その財宝をクセルクセスに献上するためだった。私の聞き調べたところでは、クセルクセスは神殿に収められている財宝、とりわけアルヤテスの子クロイソスの奉納品については、常に多くの情報を得ていたためもあり、母国の王宮にある自分の財宝のことよりも、よく知っていたという。

[8.36] さてデルフォイ人は右のことを知ると大いに恐れおののき、数々の聖宝を地中に埋めるべきか、別の場所に持って逃げるべきか、神託を請うた。神の答えは、神はみずからの始末は自分でつけると言われ、それらを動かすことを禁じられた。

これを聞いて彼らは自分たちのことを案じ始めた。そして女子供を海を越えたアカイア地方に行かせ、財産をコリキオンの洞窟(G*)に運び込み、ほとんどの男たちはパルナッソスの嶺々に登り、他の者たちはロクリス地方のアンピッサに避難するために出発した。結局、デルフォイ人は六十名の男たちと託宣者を街に残し、全員が街を出たのである。

(G*)パルナッソス山の隣で、デルフォイから徒歩3時間あまりの高地にある。奥行きおよそ200フィート、最大幅90フィート、高さ20~40フィート。

[8.37] いよいよ蛮族が近づいてきて神殿から見えるようになったとき、アケラトスという名の託宣者は、誰も触れてはならない聖なる武器が、聖室から移動して神殿の前に鎮座しているのに気がついた。

そこでかれは、そこに残っているデルフォイ人にその神変を知らせに行こうとしたのだが、蛮族がアテナイ・プロナイアの神殿近くに急行して来たとき、その神変よりもさらに大きな超常現象が現われた。武器が勝手に動いて神殿の外にあること自体、まことに信じがたいことだが、続いて起きた神変はこれまでになく不思議なできごとであった。

それは、蛮族がアテナイ・プロナイア神殿に近づいたとき、空からの雷鳴に直撃されたのだ。また、パルナッソスにある二つの嶺が崩れ、大音響と共に彼らの上に落下し、多くの蛮族を押しつぶした。これに加え、プロナイアの神殿内からは雄叫びと鬨の声が聞こえてきた。

[8.38] これら全てが同時に蛮族に降りかかり、彼らを恐怖のどん底に陥れた。彼らが逃げ出のを見たデルフォイ人たちは、山から降りてきて多くの兵士たちを打ち斃した。生き延びた者たちはまっすぐボイオティアに逃げていった。

聞くところによれば、生還した蛮族兵たちは、これ以外にもいくつかの超常現象に遭遇したという。彼らが言う中のひとつに、並みの人間を越える巨大な二人の武装兵が追いかけてきて、彼らを打ち斃したという。

[8.39] デルフォイ人によれば、この二人の兵士はフィラコスとアオウトノオスという地元の勇士で、その聖殿はデルフォイ神殿の近くにあり、フィラコスの聖殿はプロナイア神殿の上手の道のそばにあり、アオウトノオスのそれはヒアンペイアと呼ばれている嶺の麓にあるカスタリアの泉の近くにある。

パルナッソスから落ちてきた岩石群は、蛮族の隊列を蹴散らしたあと、アテナイ・プロナイアの聖域に転がり込み、今の時代でもそのまま残っている。蛮族部隊が神殿から退散した経緯は以上である。

[8.40] さて、アルテミシオンから撤退したギリシア海軍は、アテナイの要請に従ってサラミスに入港した。その訳は、婦女子をアッティカから避難させるためと、今後の行動を協議するためだった。遠征に失敗したため、新しく作戦を練り直さねばならなかったのだ。

アテナイ人は、ペロポネソス連合軍の全勢力を持ってボイオティアで蛮族を迎え撃つつもりだったが、それが全く当て外れとなり、逆にイスマス(地峡部)の防護壁を築造し強化すると知らされた。それは、何よりもまずペロポネソス人の安全を重要視し、ここを防衛するためだった。つまりペロポネソス人は右のこと以外は考慮するつもりはなかった。それゆえ、アテナイ人はサラミスに入港することを要望したのだ。

[8.41] ほかのギリシア海軍がサラミスに向かっているとき、アテナイ船団は自国に向かった。そして到着すると、全てのアテナイ人は努めて子供や家族を避難させるべし、と布告した。そこで大多数の者はトロイゼンに避難させたが、中にはアイギナやサラミスに避難させた者もいた。

彼らは早急に家族を危険から遠ざけたがっていたが、それには次の二つの理由があった。それは神託(*)に従うべきだと思っていたことと、特に次の理由があった。アテナイ人が言うには、神殿(M*)に大蛇が棲みついていて、これがアクロポリスを守護しているという。彼らはこのように言うばかりか、その蛇が実在しているかのごとく、毎月貢ぎ物を供えていた。その貢ぎ物とは蜂蜜菓子であった。

(*)第七巻百四十、百四十一節を参照。
(M*)アテナイのアクロポリスにあるエレクテイオン神殿のこと。

その蜂蜜菓子は、以前は常になくなっていたのだが、今回は手つかずのまま残っていた。このことを巫女が読み解くに、察するに女神たちもアクロポリスを後にしているので、アテナイ人はこれまで以上に多くの人数が、さらに急いでアテナイを離れるべきだという。そして住民の一族郎党がすべて避難したあと、アテナイ船団は海軍の本拠地に回航していった。

[8.42] アルテミシオンから退却してきた海軍がサラミスに入港すると、このことを知った他のギリシア海軍が、次々とトロイゼンからやって来て加わった。彼らはトロイゼンの港ポゴンに集合するよう、前もって命令されていた。そしてアルテミシオンでの海戦時よりも多くの都市から来たこともあり、その時以上に多数の船が集合した。海軍全体の総督はアルテミシオンの時と同じで、スパルタ人エウリクレイデスの子エウリビアデスだったが、かれは王家の血筋ではなかった。とはいえ、他の都市よりはるかに多数の船を提供したのは、最も高性能の船を所有していたアテナイだった。

[8.43] 集結したのは次の面々だった。ペロポネソスからはスパルタが十六隻、コリントがアルテミシオンの時と同じ船数、シキオンは十五隻、エピダウロスは十隻、トロイゼンは五隻、ヘルミオネは三隻を提供した。

これらの都市の住民は、ヘルミオネを除き、すべてドーリス系とマケドニア系(M*1)で、エリネオス、ピンドスおよびドリオピス地方(M*2)から最後に移住してきた者である。ヘルミオネ人は、もとはドリオピス人で、ヘラクレスとマリス人によって、今はドーリスと呼ばれている地域から追い出されてきたという。

(M*1)第一巻五十六節
(M*2)第三巻三十一節

[8.44] 以上が海軍に参集したペロポネソス人で、ペロポネソス外の本土から参加した都市は次のとおりである。まずアテナイは他のどこよりも多く、百八十隻。しかも単独参加。これはプラタイアがサラミス海戦に臨むアテナイに参加しなかったため。なぜなら、ギリシア連合艦隊がアルテミシオンを去り、カルキス付近を通過した際、プラタイア人はボイオティア島の対岸で下船し、自分たちの一族郎党を避難させに行ったからである。こうやって家族の安全確保に奔走したため、彼らはとり残されてしまったのだ。

アテナイに関しては、今はヘラス(ギリシア)と呼ばれている地域を占領していた時代には、クラナオイ人(G*)と呼ばれていたのがペラスゴイ人で、ケクロプス王が支配してた時代にはケクロプス人と呼ばれるようになり、この王の勢力を引き継いだエレクテウスの時代にアテナイ人と名を変えている。クストスの子イオンがアテナイ人の司令官となってからは、かれの名を取ってイオニア人となった。

(G*)おそらく「高原地帯の住民」のこと。ヘロドトスは、ドーリア人以前のヘラス住民のことを「ペラスゴイ人」としている。

[8.45] さて、メガラはアルテミシオンの時と同じ船数を提供し、アンプラキアは七隻、レウカディアは三隻で支援にきた。彼らはコリント発祥のドーリス人である。

[8.46] 島嶼からはアイギナが三十隻。ただ、彼らはほかにも兵員を乗せた船を持っていたが、これを自国の防衛に残し、最も高性能の船三十隻を持ってサラミスの海戦に加わっている。アイギナ人はエピダウロスから移住してきたドーリス族であり、その島は以前、オイノネという名だった。

アイギナに続き、カルキスからはアルテミシオンの時と同じく二十隻。そしてエレトリアは七隻。これらはいずれもイオニア人である。アテナイから移住したイオニア族のケオスは、アルテミシオンと同じ船数で参加している。

ネクソスは四隻。実は彼らは、他の島嶼と同様、自国からペルシア軍に派遣されたのだが、諸子中で声望高く、その時の三層櫂ガレー船の司令官でもあったデモクリトスに説得されて、その命令を無視し、ギリシア側にやって来たのだ。さてネクソス人は、もとはアテナイからやって来たイオニア人である。

スティラはアルテミシオンと同じ船数。キスモスは一隻と五十本櫂船が一隻。この両者はドリオペス人である。またセリポス、シプノス、メロスの住民も軍に加わった。島嶼中、彼らだけが夷荻の王に土地と水を献上しなかったためである。

[8.47] 以上は、すべてテスプロトイ人の国と、アケロン河の内側に住む者たちである。そして連合軍の中で最遠隔地から来ているアンブラキアとレウカスに国境を接しているのが、テスプロトイ地方なのだ。ここよりさらに遠隔地といえば、唯一クロトン人がギリシアの危機に呼応し、船一隻をもって応援に来た。その司令官は、ピティア競技で三度の優勝経験をもつパイロスだった。なお、クロトン人はアカイアからの移住民である。

[8.48] 彼らが提供したのは三層櫂ガレー船だったが、メロス、シプノス、セリプスだけは五十本櫂船を提供した。メロス人はスパルタからの移民で、彼らは二隻。シプナスとセリプスはアテナイから移住したイオニア人で、それぞれ一隻ずつ。以上、五十本櫂船を除き、ガレー船の総数は三百七十八隻(M*)となった。

(M*)ここに記載された数を合計すると366隻となる。多くの訳者は、アイギナの自国防衛(四十六節)に回された船が加算されたのだろうと推定している。これは、アテナイを除き、アイギナが最も多くの船を提供したというパウサニアスの言説を根拠にしている。Steinは四十六節で十二隻を追加すべきと示唆している。

[8.49] これら諸都市からサラミスにやって来た司令官たちは評議を始め、その席でエウリビアデスは、ギリシアの支配下にある場所で、どこが海戦に最適であるか、考えのある者は申し述べよ、と宣した。アッティカ地方はすでに放棄されていたので、それ以外の地域を問いかけたのだ。

意見を表明した者たちのほとんどが、コリントのイスマス(地峡部)で海戦を開き、ペロポネソスを防衛することに同意した。その理由は、万一サラミスで海戦に負けたときには、全く救援を期待できない島に残されて包囲されることになるが、イスマスなら味方の陸地に上陸できる、というのである。

[8.50] ペロポネソスから来た司令官たちがこのような議論をしているとキ、ひとりのアテナイ人が情報をもたらした。それによると、夷荻軍はアッティカまで来ており、かの地一帯は全て焼き払われ、蹂躙されたという。クセルクセスの従えている軍はボイオティアを通過し、テスピアイ人の街を焼き払い(住民は街から避難し、ペロポネソスに逃げていた)、プラタイアの街も同じ目に遭わせたあと、いまやアテナイに来ていて、その付近一帯をすべて蹂躙している。ペルシア王がテスピアイとプラタイアの街を焼き払ったのは、彼らがペルシア側につかなかったことを知っていたからである。

[8.51] 蛮族はヘレスポントスを一月かけてヨーロッパに渡り、そこから進撃を開始して三月のうちにアッティカに到達したことになる。そしてその年のアテナイのアルコン(執政官)はカリアデスだった。ペルシア軍はアッティカ低地の諸都市を攻略、破壊したが、同時にアテナイの神殿に少数のアテナイ人がまだ残留していることに気がついた。それは神殿の管理人たちや貧窮者たちだった。彼らはアクロポリスの入り口に木の柵を作って扉を閉ざし、敵の攻撃から身を守ろうとしていた。その男たちがサラミスに避難しなかった理由は、困窮していたこともによるが、デルフォイの巫女たちの神託の真意を理解したのは自分たちだということも理由のひとつだった。その神託(G*)というのは、「木製の防護壁は決して破られない」、という内容で、それは船という意味ではなく、木の柵が神託のいう安全地帯だと解したからである。

(G*)第七巻百四十二節

[8.52] ペルシア軍はアクロポリスに対峙する丘の上、すなわちアテナイ人がアレスの丘(M*)と呼ぶ場所に陣を構えた。そして次のようにしてアクロポリスを包囲した。彼らは矢の先に麻のぼろ切れを巻きつけ、それに火をともし、防護柵に向けて射かけた。しかし、包囲されていたアテナイ人たちは、木の柵が破壊され、極度の窮地に立たされていたにも拘わらず、またペイシストラトス一族の者たちが、彼らに投降を勧告したにも拘わらず、依然として抵抗を続けた。そしていくつかの仕掛けを用いて防戦した。中でも夷荻の兵士たちが門に近づいたとき、巨大な岩石を転がし落としたことも奏功し、クセルクセスは彼らを捕らえることができず、長期にわたって苦しめられた

(M*)アレオパゴスのこと。

[8.53] 神託によれば、本土のアッティカ全土はペルシアに下る運命にあるということでもあったが、攻めあぐねる状態が続いたあと、蛮族に打開の兆しが見えてきた。アクロポリスの正門のうしろに、入り口に通じる道がある。この道は誰も登ってくるはずがないと思われていたため、守備する者が一人もいなかったのだ。そこは切り立った崖(G*)であるにもかかわらず、ケクロプスの娘であるアグラウロス神殿の近くから兵士たちが登ってきたのだ。

(G*)ヘロドトスの記述は正確、明瞭。登攀したのはアクロポリスの北壁をなす急勾配の崖である。この地割れの西の侵入口が、アクロポリスの正面参道である。

敵兵がアクロポリスに這い上がってくるのを見たアテナイ人は、防護壁の上から身を投げて死んだ者もいたが、ほかの者たちは神殿の聖域に逃げ込んだ。丘に登ってきた兵士たちは最初に門に駆けつけてこれを開放し、次に聖域の中にいる者たちを斃しにかかった。全員を斃したあとは神殿を略奪し、アクロポリス全体に火をつけた。

[8.54] アテナイを完全に掌握したクセルクセスは、騎馬による伝令をスサに送り、上出来の首尾をアルタバノスに知らせた。その伝令を送り出した翌日には、随行していたアテナイからの亡命者たちを呼びつけ、アクロポリスで彼らなりの仕方で生贄儀式を執り行わせた。これは何らかの夢によるものか、ひょっとすると神殿を焼き払ったことに対して良心の呵責にさいなまれたのかもしれない。

[8.55] 私がこのことを取り上げた理由を話しておく。アクロポリスには、大地から生まれたと伝えられているエレクテウス神殿が建立されているが、アテナイ人の伝説によれば、ポセイドンとアテナイがこの地を取り合ったとき、その証拠としてオリーブの木と海の水が、この神殿内におかれている(G*)。そして蛮族によって神殿と共にこの木も燃されてしまった。焼き討ちの翌日、王の命令によってアテナイ人が生贄儀式を行なうべく神殿に登ったとき、切り株から一キュービット(約四十五糎)ほどの長さの芽が出ているのを目にした。このように彼らは伝えている。

(G*)アテナイはオリーブの木を、ポセイドンは海水をおいた。ケクロプスは、アテナイにその地を与えると裁定した。

[8.56] さてサラミスにいるギリシア軍は、アテナイのアクロポリスの状況を知って大いに動揺し、幾人かの司令官は提案された作戦を決める暇もなく、さっさと船に乗り込み、逃げ出す始末だった。最終的には、残った者たちはイスマス(地峡部)を防衛することを決め、夜なったので、評議を終えて自分の船に戻っていった。

[8.57] テミストクレスが自分の船に戻ると、アテナイ人のネシフィロスが評議の結果をたずね、イスマスに船団を進め、そこでペロポネソスを防衛する海戦を開くという決定を聞き、かれは言った。

「では、サラミスから船が出てゆくと、貴殿は祖国を守る海戦をしないということですな。彼らは自分の国に帰ってしまうだろう。エウリビアデスをふくめ、だれも彼らを引き留められないだろうし、艦隊が散り散りになることを止められないだろう。そうなると、ろくでもない評議の結果でギリシアは壊滅することになる。ここは何としても決定をくつがえすよう試みるべきで、うまくゆけば、エウリビアデスの作戦を変更し、ここに残るようかれを説き伏せられるかもしれない」

[8.58] この助言を聞いてテミストクレスは大いに気を強くし、返事もせずにエウリビアデスのいる船に向かった。到着するとかれは、懸案事項に関して話がしたいとエウリビアデスに言った。エウリビアデスはテミストクレスを船に招き入れ、どんな用件かと訊いた。そこでテミストクレスはかれの横に腰掛け、ネシフィロスから聞かされたことを、あたかも自分が考えたかのように全て話し、それ以外にも多くのことをつけ加えて話した。そしてかれの熱心な要請が功を奏した結果、ついにエウリビアデスの説得に成功し、船をおりて司令官たちを評議に招集することにこぎつけた。

[8.59] 司令官たちが一堂に会すると、エウリビアデスが議題を提案するのも待ちきれず、テミストクレスは差し迫った用件を解決するべく、熱弁をふるい始めた。するとその最中、オキトスの子アデイマントスというコリントの司令官が言った。
「テミストクレスよ、競技会では抜け駆けする者は棒で打たれると決まっているぞ」
しかしかれも負けじと言い返した。
「そうだ。しかし出遅れた者が栄冠を勝ち取るとは決まっていないぞ」

[8.60] その時、かれは穏やかにコリント人に返答したが、エウリビアデスに対しては、以前に語ったこと、すなわちギリシア諸国の船がサラミスから出てゆけば、船団は散り散りになるだろうということは、いまは少しも口に出さなかった。というのも、同盟軍のいる前で彼らをそしるようなことを口にするのは、いかにも相応しくないと考えたからだ。ただ、かれは別の理屈を述べ立てた。

「いまやギリシアを救うのは貴殿の力にかかっている。それもこれも貴殿がイスマス(地峡部)に移動するという考えに従うことなく、ここに留まって海戦を開くという、私の考えに従ってくれるなら、の話しではあるが。まず両方の作戦を聞き、それらを比べて見てほしい。仮にイスマスで戦端を開いたとすれば、開けた公海上での戦いとなり、これは重い船でしかも敵より少ない数の我らには圧倒的に不利だ。そして万事が好首尾に終わったとしても、サラミス、メガラ、アイギナの街は放棄せざるをえない。なぜなら、敵の海軍と共に陸軍が進攻してきているからだ。その結果、貴殿はみずからが敵をペロポネソスに導くことになり、ギリシア全土の安全を脅かすことになるだろう」

「しかしわが輩の作戦に従ったときには、次の利点があると分かるだろう。まず第一に狭い海域において、少ない船で多数の船に当たれば、戦いが通常の経過をたどる限り、わが方が断然有利だ。狭い海域での戦いは我らに有利だが、広い海域での戦いは敵方に有利となる。第二に我らの女子供を避難させているサラミスが確保されるのだ。加えて、この作戦には貴殿の最も気にかけていることも含まれている。すなわち、ここで戦うことはイスマスで戦うことと同じくペロポネソスを防衛することになるのだ。しかもこれによって敵をペロポネソスに導くことにもならないと、賢明な貴殿なら分かるだろう」

「わが輩の期待通りに事が運び、我らの海軍が勝利をおさめた暁には、蛮族は混乱して退却するはずゆえ、彼らはイスマスへもさらにはアッティカにもやって来ないだろう。その場所で我らは敵に勝利する、という神託の文言にもあるごとく(M*)、我らはサラミスやメガラ、アイギナを守り抜いた勝者となるはずだ。理によって考えれば、正しい結果が得られるもの。理に従わざれば、神はその判断に同調なさるまい」

(M*)第七巻百四十一~百四十三節

[8.61] テミストクレスがこのように語ると、コリントの司令官アデイマントスが再び激しく抗弁した。そしてテミストクレスには、祖国を失っている者は黙るべきだと言い立て、エウリビアデスには、街を失った者の言うことに耳を貸すべきでないと力説した。さらにテミストクレスには、自分の国がどこにあるか示せるなら意見を言ってもよいが、そうでなければ黙っていろと言った。アデイマントスがこの異議を唱えた訳は、すでにアテナイが陥落し、敵の手に渡っているからであった。

しかしテミストクレスはその時、アデイマントスとコリントに対してあれこれの罵詈雑言を浴びせかけた上で、自分たちは二百隻の船と乗組員を持っている限りは、現実にコリントより広い領土の国を持っているのと同じで、アテナイに勝てる国はギリシアにはどこにもないではないか、と言い放った。

[8.62] 次にテミストクレスはエウリビアデスに向かい、前よりずっと熱心に話しかけた。
「貴殿はここに残って男を上げるがよい。残らなければギリシアは崩壊するぞ。我らの戦の総力は、一にこれ海軍にかかっているからだ。であるから、ここはわが輩の策に従ってもらいたい」

「万一貴殿が、わが輩の策を放棄するというなら、我らはただちに一族を引き連れてイタリアのシシリーに移住することとする。ここは古来より我らの地であるし、神託においても、我らの植民地になる定めにあるといわれてもいるのだ。そしてかくのごとき同盟軍をなくして一人取り残された時に、わが輩の言葉を思い出すがよい」

[8.63] 右のテミストクレスの言葉に説き伏せられて、エウリビアデスは考えを変えた。これは察するに、イスマスに船団を移せば、アテナイは同盟から離脱することを怖れたのが、主な理由であろう。アテナイが欠ければ、残った軍勢ではもはや敵軍に対抗するのは不可能だ。そこでかれは、この地に留まり、海戦によって戦いを決する策を取ったのだ。

[8.64] かくてサラミスで議論を戦わせた面々は、エウリビアデスの決定に従い、この地での海戦に向けて準備を始めた。ところが、翌日の夜明けに陸と海で地震が発生した。

そこで彼らは神々に祈りを捧げることとし、アイアコス一族(*1)の支援を求めるため、彼らを召喚することにした。そして八百万の神々に祈りを捧げるとともに、海軍の碇泊しているサラミスからアイアスとテラモン(*2)に支援の祈りを捧げ、アイアコスとその一族を招く船をアイギナに向けて送った (G*)。

(*1)アイアコスはゼウスとアイギナの子。冥界の審判官のひとり。
(*2)ギリシア神話サラミスの王テラモンとその子アイアスの霊。
(G*)アイアコスとその子孫に関しては第五巻八十節を参照。

[8.65] ここで、当時アテナイからの亡命者でペルシアで名声を博していたテオキデスの子ディカイオスによる次のような話がある。アテナイが放棄していたアッティカ地方をクセルクセスの陸軍が略奪しているとき、かれはアッティカ西部のトリアシオ平野(G*)において、スパルタ人デマラトスと偶然にも一緒になったことがあるという。その時彼らはエレウシスから土埃がわき上がり、あたかも三万人の群衆が巻き上げたかのようだったので、一体誰がこのようなことを起こしているのかと怪しんだ。そして直後に口々に叫ぶ声が聞こえたが、その物音がイアッコスの秘儀(*)の叫び声であるとディカイオスには分かった。

(G*)アテナイの北西。エレウシスはアテナイから約15マイル離れている。プルタークは、この怪異現象が観察されたのは、サラミスの開戦当日、すなわち9月22日(ボエドロミオン月の20日目)のことだと述べている。これが観察された日は、エレウシス祝祭の始まる日に一致している
(*)イアッコスは古代ギリシアの神。ゼウスがデメーテルまたはペルセフォネに生ませた子とされている。信者がアテナイからエレウシスまでかけ声をあげつつ行列するというエレウシスの秘儀が知られている。

しかしデマラトスはエレウシウスの秘儀のことを知らなかったので、これは何の叫び声かとかれに訊ね、ディカイオスはそれに答えた。
「デマラトスよ、王の軍には何か大きな惨事が起きるようだ。アッティカが放棄されていて人がいないことを考えると、これは神々の叫び声であることは明らかで、エレウシウスからアテナイとその同盟国の救済に向かっているに違いない」

「これがペロポネソスまで到達するなら、本土にいる王自身と麾下の軍に危険が迫っているだろうし、行進がサラミスにいる船団に向かうなら、王はその海軍を失うことが危ぶまれるな」

「この祭礼は、アテナイ人が年ごとにデメテル神とペルセフォン神の母娘のために行なっているもので、アテナイ人や他のギリシア人で望む者があれば誰でも、この秘儀に参加できるのだ。貴殿がここで耳にしている口々の声は、この祭礼で発せられるイアッコスの叫び声なのだ」

これを聞いたデマラトスは語った。
「口をつぐみ、このことを誰にも言ってはならぬぞ。お主の言ったことが王に聞こえたら、その首が飛ぶこと必定。わが輩も含め、この地上のだれもお主を救うことはできぬぞ。神の思し召しになっている遠征のことに関しては黙っていることじゃ」

かれはこう言ったが、土煙と叫び声は霞となったあと、空高く舞い上がり、ギリシア軍の陣営のあるサラミスに向かって行った。これを見て、かれが言うには、クセルクセスの海軍は壊滅の運命にあるものと分かったという。以上のことが、テオキデスの子ディカイオスによって、デマラトスや他の者たちを証人にあげて語られている

[8.66] さてクセルクセスの海軍将兵たちはテルモピュレーにおけるスパルタ兵全滅の実態を驚嘆して見学したのち、トラキスからヒスティアイアに行き、そこで三日留まってからエウリポス海峡に向かった。そしてさらに三日留まってからファレロン(*)に到着した。これは察するに、ペルシア軍は、セピアスやテルモピュレーにおける陸海軍を上回る軍勢でアテナイを攻撃したはずだ。

(*)アテナイの南西部、約5Kmの地にある街。

それは、嵐で亡くなった兵士、テルモピュレーやアルテミシオンの海戦で戦死した兵士を補充するものとして、当時はまだペルシア軍に参加していなかった国々を挙げれば、次のようになるからだ。マリス、ドリス、ロクリス、テスピアイとプラタイアを除くすべてのボイオティア、さらにカリストス、アンドロス、テノス、それから以前話した(G*)五都市を除く全島嶼からの兵士である。ペルシア軍がギリシアの中心に近づくにつれ、従軍する国も増えていることが分かる。

(G*)本巻四十六節では六都市が挙げられている。

[8.67] そして戦いの帰趨を見極めるために後方のキトノス島に残っているパロス兵を除き、全軍がファレロンに到着したとき、クセルクセス王は艦隊の将兵の意見を聞きたくなり、みずからが船団を訪れた。

そして到着して然るべき場所に座を占めると、自国民を従えた僭主たちや各民族の司令官たちが船を下りて王の前に集合し、それぞれが王の指定した配置に従って座った。最初にシドンの王、次にテュロスの王、というように他の者たちがそれに続いて座った。序列に従って全員が席に着いたところで、クセルクセスはマルドニオスを送り、海戦に臨むべきかどうか個別に問いかけさせた。

[8.68] マルドニオスがシドン王から始めて他の者たちを巡り訊ねてみると、全員が海戦を開くべしという考えを出したが、ひとりアルテミシアのみが次のように語った。

(a)「どうか王にお伝え下され、マルドニオス。われはエウボイアの海戦において少なからず働き、他の者に劣らぬ武勇を示した者にござりまする。お上に次の言葉をお伝え下されませ。お上よ、わが真実の考えを申し上げることこそ正しきことと考えまするゆえ、お上の企てにとって最善と思われる策を申し上げまする。どうかお上の船団を温存なされ、海戦は避けられますように。海戦においては敵兵はお上の兵よりもはるかに雄剛でございます。例えれば男と女ほどの違いがございます」

「その上、海戦の危険を冒さねばならぬ理由がどこにありましょうや?このたびの遠征の目的でありましたアテナイは未だ手にしておられませぬか?またその他のギリシアも手にしておられぬと申されるか?今やお上の行く手を阻む者などどこにもおりませぬ。刃向かった者どもは、それなりの痛手を被り逃げ散っておりますぞ」

(b)次に敵の状況がどのようになってゆくか、手前の考えを申し上げまする。海戦を急ぐことなく、この地にて海軍を温存なされるか、あるいはペロポネソスに進軍なされるなら、お上はその目的をたやすく達せられるはずにございます。ギリシアはそれほど長きにわたって持ちこたえられませぬゆえに。そしてやがてはお上は敵を蹴散らされ、彼らは自分たちの国に逃げ帰るでしょう。私が聞くところでは、彼らはこの島で食糧を用意しておらず、またお上がペロポネソスに陸軍を進攻なされれば、その地の敵はそこに留まることも叶わず、アテナイ防衛の海戦を行なうなど眼中から消え失せるでありましょう」

(c)しかしながら、お上が海戦を急がれるなら、私が怖れておりますのは、海軍が被った痛手が陸軍にも及ぶことにございます。その上、お上よ、次のこともお考え下され。すなわち、優れる者の従者は怠惰に流れ、愚者の従者は秀でるものにございます。さすれば、お上は全軍中、最も優れたお方ゆえ、愚かな従者をお持ちである。すなわち同盟諸国として名を連ねている面々、エジプト人、キプロス人、キリキア人、パンピリア人などは何の役にも立ちませぬ」

[8.69] 彼女はマルドニオスにこう語ったが、アルテミシアに友好的だった者たちは、その言葉を聞いて嘆いた。というのも、彼女が海戦を否定するのに熱心なあまり、王から何らかの咎めを受けるのではないかと思ったからである。一方で、彼女が同盟諸国中、この上なく名声を博していることで彼女を妬み、嫉妬している者たちは、その意見を聞くと、彼女はもはや破滅するだろうと思い、内心で拍手喝采した。

ところが、その献策がクセルクセスに届けられると、王はアルテミシアの考えに大満足した。これ以前から、王は彼女が有能であると認めていたのだが、今回はそれにもまして彼女を賞賛した。にもかかわらず、王は多数意見に従う命令を下したのである。それは、エウボイアでの海戦では、王自身が海軍に同行していなかったことから、自軍の者たちの士気が低下したものと考え、今回は自軍の海での戦いぶりを観戦する準備をさせていたのだ。

[8.70] さて出航命令を受け、彼らは麾下の船団とともにサラミスに向けて出航し、何事もなく戦列を調えた。その時は宵闇が迫っていて戦いを仕掛けるには暗かったこともあり、その翌日に向けて戦いの準備を行なった。

一方のギリシア軍は恐れ戦いていた。特にペロポネソスの諸国がそうであった。彼らはサラミスに留まってアテナイの領土のために戦うことに対して士気が上がらず、加えて万一敗戦した時には島に閉じ込められて包囲され、自分の国が無防備のままになることを怖れていたのだ。実際に蛮族陸軍は、その夜にはペロポネソスに向けて進軍を開始していた。

[8.71] とはいえ、蛮族陸軍がペロポネソスに侵入するのを防ぐさまざまな方策が用いられていた。レオニダスの部隊がテルモピュレーで全滅したことを知ったペロポネソス諸国は、ただちに自国を発してイスマスに集合して陣をはり、アナクサンドリデスの子で、レオニダスの弟クレオンブロトスを総司令官とした。

彼らはイスマスに陣をおき、スキロン街道(G*)を破壊したあと、協議の結果イスマスを防禦する塁壁を築造することにした。人員は何万人もいたし、しかも全員が携わったので、この工事は素速く進んだ。石材、レンガ、木材、籠に満載の砂などが休みなく運び込まれた。支援に来た者たちは、昼夜の別なく、片時も休まず作業を続けた。

(G*)後に正規の街道に整備された道で、イスマスに沿ってゲラネイアに通じている。およそ6マイルにわたる狭く危険な道で、ごく簡単に通行不能にできる。

[8.72] 全軍挙げてイスマス防衛にやって来たのは次の国々である。スパルタ、アルカディアの全都市、エリス、コリント、シキオン、エピダウロス、ペイライエス、トロイゼン、ヘルミオネ。これらの国はギリシアの危難を憂慮して救援にやって来たのだが、その以外のペロポネソス諸国は、この時にはすでにオリンピア祭もカルネイア祭も終わっていたにもかかわらず、全く関心(G*)を示さなかった。

(G*)不参加の弁明はまったくなかった。第七巻二百五節を参照。

[8.73] さて、ペロポネソスには七民族が居住している。そのうち二つの民族は土着の部族で、古来より同じ所に定住してるアルカディア人とキヌリア人がそれである。アカイア人はペロポネソスから離れなかったものの、その昔に元来の地を離れて別の場所に定住している。

残りの四民族は移民である。すなわちドーリア人、アイトリア人、ドリオペス人、レムノス人がそれだ。ドーリア人には有名な国が多くあるが、アイトリア人の国はエリス一国だけである。ドリオペス人の国はヘルミオンと、ラコニア地方のカルダミレに近いアシネである。そしてパロレアイタイ人は全てレムノス系民族である。

キヌリア人は土着民だが、唯一イオニア系と思われる。彼らはアルゴス人に征服されたあと、時の経過とともに完全にドーリア人と化した者で、もともとはオルネアイ(M*)またはその周辺の定住民だった。

(M*)オルネアイ人はスパルタにおける奴隷(ペリオイコイ)と同様に、アルゴスの奴隷の立場だった。

これら七民族のうち、いま私が挙げたもの以外の国は中立の立場を取ったのだが、これを忌憚なくいえば、彼らは中立の立場を取ることでペルシアに与したのだ。

[8.74] イスマスの防衛軍は、海軍の勝利を期待していなかったゆえに、いまや自分たちの存続を賭けた戦いに臨むものと考え、先に話した防護壁の築造作業に奮闘していた。

一方サラミスにいる軍は、この作戦を知って強い不安に襲われたが、それは彼ら自身のことではなく、ペロポネソスを気遣ってのことだった。兵士たちは、しばしば作戦について私語を交わし、エウリビアデスの馬鹿さ加減にあきれていたのだが、それがついには大っぴらなものとなってしまった。結局、また会議が開かれることになり、以前と同じ問題について多くの意見が出され、ある者は、海軍はペロポネソスに移動し、ここを防衛することに賭けるべきで、敵の手に落ちた国のために、ここに留まって戦うべきではない、と説いた。ところがアテナイ、アイギナ、メガラの者たちは、ここに留まって防衛するべきだと力説した。

[8.75] さてテミストクレスは自分の意見がペロポネソス人に打破されそうになったのを見て、密かに会議を抜け出し、ある男に伝言を託し、ペルシア軍の陣営に向けて船で送り出した。その男の名はシキノスといい、テミストクレスの従僕で、かれの子供の家庭教師だった。そしてこの騒動のあと、テスピアイが新しく市民を受け入れたとき、テミストクレスはかれをテスピアイの市民に編入させたので、かれは富裕者となった。

さてこの時、かれは船を走らせて蛮族司令官に次の言葉を伝えた。
「アテナイ人の司令官が他のギリシア人に知られることなく密かに私を派遣なされた。というのも、かれはペルシア王の味方で、ギリシアではなくペルシアの勝利を望んでおります。そしてギリシア人は恐慌をきたして逃走を図っておりますゆえ、彼らの逃走を阻止なさるなら、いまが立派な働きをなさる時でございます」

「ギリシアの考えは一つにまとまっておりませぬゆえ、いざ海戦となると貴軍に立ち向かうどころではなく、ペルシアに味方する側とそうでない側との間でお互いに戦うのを貴殿はご覧になるはず」このように伝えたあと、かれは帰って行った。

[8.76] ペルシア軍はその伝言を信用するに足るものと考え、まずは本土とサラミスの間に浮かぶプシタレイアの小島に多数の兵士を上陸させたあと、深夜を待って艦隊の右翼部隊を出航させてサラミスの周囲を回らせ、かつはケオス、キノスラ周辺に碇泊していた艦隊も出航させてムニキアに至るまでの海峡を封鎖した。

彼らが艦隊を出動させた理由は、ギリシア艦隊の逃走を阻止してサラミスで捕らえ、アルテミシオンでの屈辱を晴らすためだった。プシタレイアの小島に兵士を上陸させたのは、この小島が戦場となる海域途中にあるので、戦いが始まると、とりわけ破船の残骸や乗員が岸辺に打ち上げられると予想されたからで、味方の側を助け、対立している側を攻撃するためだった。ペルシア軍は敵に察知されないよう物音を立てず、夜を徹してこの準備を行なった。

[8.77] さて神託に関して、私にはそれが真実をついていないとは反論できない。というのも次に挙げることを目の当たりにして、それが明言していることを覆したいとは思わないからである。

  そは猛り狂う欲望もて輝かしきアテナイを略奪せしのち
  黄金の剣を帯び給う女神アルテミスの聖なる岬と
  海に浮かぶキノスラを船にて橋渡すとき
  すさまじき煩悩もて、ものみな全てを飲みほさんとする
  「傲慢」の子たる「強欲」を、神の正義は鎮め給うであろう

  青銅は青銅に対峙し、軍神アレスの血しぶきによりて
  海は紅く染まるであろう
  その時こそ、眼を見開きしクロノスの御子と
  聖なる勝利の女神ニケが、
  自由となる日をギリシアにもたらし給ふであろう

かくのごとく予言者バキスが明確に述べているのを見て、私は敢えて神託に異を唱えようとは思わないし、人々がそうすることも容認しない。

[8.78] さて、サラミスにいる司令官たちの間では激しい論争が起きていたが、彼らは蛮族海軍が自分たちを包囲しようとしていることをまだ知らず、敵海軍は昼の間に見た位置に留まっているものと思っていた。

[8.79] 司令官たちが論争しているところへ、リシマコスの子アリステイデスがアイギナからやって来た。かれは市民から陶片追放されていたアテナイ人で、かれの人となりを聞くところでは、アテナイ人の中では飛び抜けて有能かつ高邁な人物だという。

その人物が会議にやって来てテミストクレスを呼び出した。かれはアリテイデスと親密な仲ではなく、強い敵対関係にあったが、今の厳しい国難においては、その確執を一時忘れることにし、かれと意思の疎通をはかろうとしていたのだ。かれは、ペロポネソス諸国が海軍をイスマスに移したいと強く要望していることを、その前から聞いていた。

テミストクレスがやって来ると、アリステイデスは次のように語った。
「いかなる時も、とりわけこのような状況の下では、我らの間の敵対関係は、どちらが祖国をよりよくするか、で争わねばならない」

「そこでじゃ、ペロポネソス諸国がこの地から海軍を出航させることについての議論の多寡は、この際無意味だと言いたい。というのも、わが輩はこの眼で見た上で言うのだが、いまや我らは敵に包囲されているのだ。ゆえに、たとえコリント人やエウリビアデス自身が出航したいと思っても、それは不可能じゃ。会議に戻り、このことを彼らに伝えるがよい」

[8.80] これに対してテミストクレスは次のように返答した。
「これは貴重な情報かつ良き知らせでござる。貴殿が目撃したことは、まさにわが輩が望んでいたこと。ペルシア軍の行動は、わが輩の差し金であると、ここで告白しておこう。ギリシア人は戦うことに乗り気でないゆえ、無理にでも戦いに向かわせる必要があったのだ。せっかくの良い知らせであるから、貴殿がみずから会議の面々に伝えてやってくれぬか」

「わが輩がそれを伝えると、彼らは蛮族がこのような行動を取るとは思っていないので、わが輩がでっち上げたことだと受け取り、彼らを説得できないだろう。貴殿みずから会議に入り、現状を彼らに知らせてやってくれ。貴殿が話して彼らが信用してくれるなら、申し分ないことだ。しかし彼らが現状を信じないのであれば、貴殿の言う通り、回りをことごとく包囲されている状態では、彼らが逃げ出すのは不可能だろうから、どのような策も我らにとっては同じことではあるが」

[8.81] そこでアリステイデスは会議に入り、自分はアイギナから監視の目をかいくぐり、やっとの思いでやって来たのだと話した。そして、ギリシアの陣営は全てクセルクセスの海軍に包囲されていると知らせ、防戦の準備をするべきだと勧告した。このように語ってから、かれは退席したが、多くの司令官たちが知らされたことを信じなかったので、会議は再び紛糾した。

[8.82] 彼らが疑惑に駆られているとき、ちょうどテノス人の乗った一隻の三層櫂ガレー船が敵方から脱走してきた。その指揮官ソシメネスの子パナティオスが、事の真相を報告したのである。この行ないにより、テノス人は、蛮族を制圧した者たちとともに、デルフォイの三脚祭壇に名を刻まれることになったのである。

その船がサラミスに逃亡して来たのと、それより先にアルテミシオンから逃れてきたレムノス人の船を合わせると、ギリシア海軍の船はちょうど三百八十隻となった。それ以前はこれより二隻少なかったのだ。

[8.83] テノス人の言ったことを、彼らは信用するに足るものと見なしたので、ギリシア軍は海戦の準備にとりかかった。そして夜明けとともに兵士たちを集合させたが、その場でテミストクレスの行なった演説が抜群に見事だった。かれの演説は、全編これ人間の本質と態様に関して、その長所と短所を比較検討するものであった。

そしてそれらのうちから長所を選択するよう助言して演説を締めくくったのち、乗船するように命令を下した。そして兵士たちが乗船を終えた頃には、アイアコス一族(*)を迎えに行っていた三層櫂ガレー船がアイギナから帰還した。

(*)アイアコスはゼウスとアイギナの子。冥界の審判官のひとり。本巻六十四節を参照。

[8.84] ここにおいてギリシアは全艦出陣することにしたが、船を海に繰り出そうとしていると、すぐさま蛮族海軍が攻撃をしかけてきたため、他のギリシア人たちは自分たちの船を戻し、岸に上げようとした。ただ、パレネのアメイニアスというアテナイ人指揮官だけは船を押し出し、敵に突進していった。かれの船が敵船と絡み合い、乗員が離脱できないのを見て、他の船もアメイニアスを助けようとして戦いに加わった。

アテナイ人は、このようにして戦いが始まったと伝えているが、アイギナ人の伝えるところでは、アイアコス一族を迎えに行った船が戦いを始めたという。ところが、ここに女人の化身が現われたという話も伝わっている。その化身はギリシアの全艦隊に聞こえるほどの大音声で叫び、
「気が狂ったか、者どもよ。どこまで船を戻そうとするか!」
と言って叱咤激励したという。

[8.85] アテナイ人部隊には、エレウシス側の西翼にいたフェニキア人部隊が対峙した。スパルタ人に対峙したのはペイライエス側で東翼をになっていたイオニア人部隊だった。ここで、幾つかの部隊はテミストクレスの指示を受けて故意に戦闘を怠るような戦いぶりだったが、その他大多数は、そのようなことはなかった。

ここでギリシア軍船を撃破した多くの指揮官を公表してもよいのだが、二人のサモス人、アンドロダマスの子テオメストルとヒスティアイオスの子フィラコス以外は、その名を挙げないでおく。

この二人だけをここに挙げるのは次の理由による。テオメストルはこの功績によってサモスの僭主に任じられ、フィラコスは王の恩人としてその名を記録され、広大な領土を与えられたからだ。ここで言う王の恩人とは、ペルシア語では「オロサンガイ(G*)」という。

(G*)古代ペルシア語。「賞賛し記録に値する」という意味。

[8.86] 彼らはこのような戦果を挙げたが、大多数の船はサラミスでアテナイ人部隊とアイギナ人部隊によって破壊され、航行不能となった。 ギリシア艦隊は戦列を調えて戦ったが、蛮族の船隊は隊列も組まず、全く作戦もなしに戦ったからで、これは当然の結果である。しかしその日のペルシア軍の奮闘振りは、クセルクセスが観戦していることで王を怖れ、また王が特に自分に目をかけていると思っていたため、全員が一心に励んだ結果、エウボイアでの戦い振りを凌ぐものだった。

[8.87] これ以外の蛮族やギリシア人の個々の戦いぶりを詳細に語ることは、私にはできない。ただ、アルテミシアが起こした次のことは、依然として王の高い賞賛を得ている

王の側が全軍混乱に陥っている中で、折しもアルテミシアの船がアテナイ船に追い詰められた。味方の船が彼女の船の前方にいて、彼女の船が敵に一等近い位置にあったため、逃げ出せなかったのだ。そこで彼女は次のような挙に出、それが功を奏したのである。すなわちアテナイ船に追跡されている中で、彼女は自分の船をカリンダ人の僭主ダマシティモスが率いる味方の船に激突させたのだ。

彼らがヘレスポントスに滞在中、両者の間に何らかの諍いがあって故意にそうしたのかどうか、私には分からない。また、カリンダ人の船がたまたま彼女の行く手を阻んでいたのかどうかも分からない。

しかし彼女が船を激突させて相手の船を沈めたことで、彼女は二つの利点をつかんだ。アテナイ船の艦長は、アルテミシアの船が蛮族の船を沈めたのを見て、その船がギリシア軍か、あるいは蛮族からの脱走船だと思ったのである。そこでかれは船の向きを変え、他の船に向かっていった。

[8.88] まず第一に、彼女はうまく逃れて船の破壊を免れ、二番目に、自分の不祥事が逆にクセルクセスから格別の賞賛を浴びることになったのだ。

クセルクセスは戦闘の模様を観戦していたが、彼女の船が他の船に激突するのを見て、観戦者のひとりが云った。
「お上、アルテミシアの見事な戦いぶり、それに敵船を沈めるさまをご覧になりましたでしょうか?」王は、それをなしたのが真にアルテミシアかどうかを下問すると周りの者たちは、彼女の船に明らかな特徴があるのを知っていたし、また破壊されたのが敵船だと思ったので、そのとおりだと返答した。

すでに話しているとおり、多くのことが彼女に幸運をもたらした。しかもカリンダ人の船からは生還者が一人もいなかったので、彼女を告発する者が誰もいなかったことも幸いした。クセルクセスに語りかけた者に、王は次のように語ったと伝えられている。
「予の男たちは女であるか、また予の女たちは男であることよ」

[8.89] この海戦ではダリウスの子でクセルクセスの兄弟のアリアビグネスが戦死した。ほかにもペルシアやメディアを含む同盟軍の有名人が多数戦死している。一方のギリシア側の戦死者は僅かだった。それは彼らが泳法を心得ていたからで、破船し、白兵戦で生き残った者はサラミスに泳ぎついた。

ところが蛮族軍兵士は泳げなかったために、その多数が海で死亡した。それは、最前列の船が逃走を図ると、後方で戦列を組んでいた船団も王に手柄を見せようとして前面に押し出し、逃走する船と味方同士で衝突したからである。

[8.90] この混戦中に、船を破壊されたフェニキア人の一部が起こした次のような騒動があった。彼らは王の下へゆき、イオニア人のせいで自分たちの船が失われたため、彼らは裏切り者だと訴えたのである。ところがイオニア人司令官たちは命を長らえ、訴えたフェニキア人司令官たちが罰を受けることになった。それを今から話すことにしよう。

彼らがまだ話している最中にサモトラケ人の船がアテナイ人の船に突っ込み、その船が沈没すると、こんどはアイギナ人の船がサモトラケ人の船に突入してそれを沈めたのである。しかしサモトラケ人は槍投げに長じていたことから、自分たちの船を沈めた船の兵士を槍で斃したあと、その船に乗り移って奪ったのである。まさにこの出来事がイオニア人たちを救うことになった。

極度にいらついていたクセルクセスは、周囲の者全てに当たり散らしていたのだが、イオニア人の素晴らしい武功を見るや、フェニキア人に向かい、臆病な振る舞いにおよんでおきながら、高潔な人士を誹謗することは許されぬとして、彼らの首を刎ねよと命じた。

クセルクセスは、サラミス対岸のアイガレオス山の麓に座して自軍の兵士が武勲を立てるのを見るたびに、その名を質し、書記官は指揮官の名とその父の名、出身国を記録していた。その時、アリアラムネスというイオニア人の客分だったペルシア人が居合わせたこともフェニキア人の惨事に預かっていた。フェニキア人の処遇については以上。

[8.91] そうこうしているうちに、蛮族船がファレロンに向かって逃走し始めると、アイギナの船隊が海峡で彼らを待ち構えていて目覚ましい活躍を見せた。それは、混戦の中でアテナイ船隊は向かってくる船や逃げ出す船を撃破していたが、アイギナ船隊は逃走を図る敵船を待ち構えて攻撃したからだ。すなわち、アテナイ軍の攻撃から逃げ出した船はアイギナ船隊のただ中に突入する羽目になったのである。

[8.92] その中で、敵船を追跡していたテミストクレスの船とアイギナ人でクリオスの子ポリクリトスの船が接近したことがある。ポリクリトスの船はシドン人の船に突撃していたのだが、この船はまさにスキアトス島で監視に当たっていたアイギナ船を捕獲した船で、イスケノオスの子ピテアスを乗せていた(M*)。このピテアスは満身創痍になりながらも武勇を働いたことに感嘆したペルシア軍によって、船に留め置かれていたのだ。ペルシア兵とともにピテアスを乗せていたシドン船が捕獲されたことにより、ピテアスは無事にアイギナに帰り着いたのだった。

(M*)第七巻百七十九、百八十一節

さてポリクリトスはアテナイの船を見て、それが旗艦であることに気づくと、かつてアイギナ人はメディアの味方だ言われたことに対して、罵りと罵倒の叫び声を上げた(G*)。かれはシドン船を攻撃したあと、侮蔑の言葉をテミストクレスに浴びせかけたのだが、一方で破壊されずに済んだ蛮族の諸船はファレロンに逃走し、陸上軍の庇護下に入ることになった。

(G*)ポリクリトスはテミストクレスに向かって叫んだ。「我らがどれほどペルシアに友好的か見てみろ!」かつてアイギナがペルシアに与していたとして糾弾されたとき、ポリクリトスと父のクリオスはアテナイに監禁されていた。第六巻四十九-五十、七十三節、八十五節を参照。

[8.93] この海戦で最も大きな戦果をあげたギリシア部隊はアイギナで、アテナイがそれに次いだ。個人ではアイギナのポリクリトスとアテナイはアナギロス出身のエウネメス、同じくアテナイはパレネ出身のアメイニアスだった。このアメイニアスこそ、かのアルテミシアを追い詰めた人物である。アルテミシアがその船に乗っていることを知っていたなら、彼女を捕らえるか、自分自身が捕らえられるまで、彼は追跡を止めなかっただろう。

それは、彼女を捕らえよという命令がアテナイ隊の艦長たちに下されていたし、加えて、彼女を生け捕りにした者には一万ドラクマもの賞金が与えられるはずだったのである。アテナイ人にとっては、女の分際でアテナイに戦を仕掛けることが、とうてい許しがたいことだったからである。ところが前に話したとおり、彼女はうまく逃げおおせ、また船の破壊を免れた他の部隊もファレロンに逃げ込んだのだ。

[8.94] コリントの司令官アデイマントスについては、アテナイ人の言うところでは、海戦が始まるやいなや、かれは恐怖のあまりパニックに陥り、帆を上げてさっさと逃げ出したという。そして司令官の船が逃げ出したのを見たコリント船も同じく逃げ出した。

その後、彼らがサラミス島のアテナ・スキラスの聖廟(G*)付近にさしかかったとき、神佑となった一艘の小舟に遭遇したという。それを送り出したのが誰かは分からず、またその時にはコリント人はギリシア海軍の状況を全く知らなかった。そして小舟が近づき、乗っている者たちの話から、これが神のなせる業だと彼らは解したのだ。

(G*)サラミス南端に建立されている。海戦の開始時に、ペルシア軍がサラミスと本土の間の水路全体を掌握していたなら、どのようにしてコリント人が当該地点に至ったのか、わからない。

「アデイマントスよ、汝はギリシアを裏切り、船を転じて逃走しておるが、ギリシアは、願った通りに敵に勝っておるぞ」
アデイマントスは、その時にはこの言葉を信じなかったので、再び彼らは語りかけ、自分たちを人質にして連れて行き、万一ギリシアが勝利していないなら、その時には殺されてもよい、と言ったのだ。

そこでかれは他のコリント船とともに船を反転させ、海軍に戻ったが、その時には全てが終わっていたという。アテナイ人はこの噂話を広めているが、コリント人は全くこれを認めず、自分たちは先頭に立って戦ったのだと自負している。また他のギリシア人もそれを証言している。

[8.95] アテナイ人でリシマコスの子アリステイデスのことは、極めて有能な人物だと、以前に少しだけ語ったことがあるが、かれはサラミスにおける戦乱のさなかにも次のような活躍をしている。かれはサラミスの島の海岸に配置されていたアテナイの重装歩兵を大勢引き連れてプシタレイアの小島に上陸し、この島に残っていたペルシア兵をことごとく打ち斃したのである。

[8.96] 海戦が終了したあとは、ギリシア軍は近くに漂っている多数の難破船を手当たり次第曳航してサラミスに入港したが、クセルクセスは無傷で残っている軍船を使ってくるだろうと予想し、次の海戦に備えていた。

しかし破壊された船の多くは西風に運ばれ、アッティカのコリアス(G*)という浜に打ち上げられた。この事態は、この海戦に関するバキスとムサイオスの下した全ての神託通りに実現したばかりか、とりわけこの場所に打ち上げられた破船に関しては、何年も前にアテナイ人の予言者リシストラトスによって下され、ギリシア人が誰も顧みることのなかった神託があり、その通りになった。

  コリアスの女たちは櫂を燃やして料理する

ただし、この事態は王が退却したあとに起きたことである。

(G*)ファレロンから2.5マイル先の狭い岬にある。破船は西風に運ばれて、ここに到達する。
(*)サラミスの海戦の要約は、次のサイトを参照されたい。
サラミスの海戦;Wikipedia

[8.97] さて自軍に起きた惨事を目の当たりにしたクセルクセスは、ギリシア人みずからが気づくか、一部のイオニア人が助言して、彼らがヘレスポントスに航行し、そこの橋を破壊するのではないかと危惧した。そうなるとヨーロッパに閉じ込められ、破滅の危機に瀕するゆえ、かれは逃げ出すことに意を決した。このことをギリシア人にも自軍の者にも気づかれたくなかった王は、あたかも次の海戦に備えるかのように装い、フェニキア人の船を繋ぎあわせて橋と壁を作り、それによってサラミスに向けて土堤を築造(G*)させた。

(G*)戦闘のあとではなく、戦闘の始まる前にクテシアスとストラボがこの作業に任命されている。敗戦後のペルシア人には無用だったろうし、実際に使用不能だったことは明らか。

王のこの行動を見ていた者たちは、誰もが王はそこに留まって戦うものと信じて疑わなかった。しかし王の意向を最も良く知るマルドニオスだけは、このような王の行動に惑わされなかった。以上のことをさせる一方で、クセルクセスは自軍に起きた惨状を知らせるための伝令をペルシアに送った。

[8.98] ペルシア人の巧妙な仕組みにより、この伝令たちより速く伝える者は、この世にはいない。全行程に要するだけの伝令と馬が、一日の行程の間隔をあけて街道沿いに配置されている。伝令は、雪や雨、暑さ、夜に拘わらず、定められた行程を全速力で走り抜けるのだ。

そして最初の伝令が二番目の伝令に伝書を託し、二番目は三番目へと、ちょうどギリシアのヘパエストス祭における松明競争(G1*)のように、手から手へと受け渡してゆく。騎馬によるこの伝達方式を、ペルシアではアンガレイオン(G2*)と呼んでいる。

(G1*)松明競争はアテナイの祝祭で行われ、さまざまな形式がある。そのひとつが、リレーまたはチームによる競争である。走者のための数本の走路があり、各走路の第一走者は祭壇で松明を灯し、それを持って全速力で第2走者まで走って渡す。第2走者は第3走者まで走って手渡し、このようにして最終走者に手渡してゴールに向かう。松明が灯ったままで最初にゴールしたチームが勝者となる。
(G2*)これは明らかにバビロニア語。

[8.99] クセルクセスがアテナイを手中にしたという最初の伝言がスサに届いたときには、母国に残っていたペルシア人たちは大きな喜びに湧いた。国民は道という道に銀梅花という香木の枝を敷きつめ、ひっきりなしに香を焚き、捧げ物を供え、宴に耽っていた。

しかしこのあと第二報が届くと人々はひどく落胆し、マルドニオスの罪を責め立てながら、自分の着衣を引き裂き、いつ果てるともなく悲嘆の叫びをあげ続けた。ペルシア人たちがこのような振る舞いにおよんだのは、水軍の惨状を嘆いたからではなく、クセルクセスその人を気遣ったからなのである。かくの如きペルシア人の状態は、クセルクセス自身が帰国し、それを止めるまでずっと続いた。

[8.100] さてマルドニオスは、クセルクセスが海戦の結果にひどく落胆しているのを見て、かれはアテナイから逃走するだろうと予想しつつ、自分はギリシア遠征を王に促したことで処罰されるだろうと思っていた。それゆえ、ここは危険を冒してでもギリシア征服を敢行するか、大義に殉じて名誉の死を遂げる道しかないと考えたものの、どちらかといえばギリシア征服の方に、気持ちが傾いていた。こんなことを考えながら、かれは次の提案を差し出した。

「お上、こたびの事態を悲嘆も落胆もなされるにはおよびませぬぞ。我らの命運を左右するものは木っ端(*)ではなく、人間と馬にござる。かててくわえて勝利をおさめたと思っている者どもは、誰一人として船を降りてお上に立ち向かって来ないではありませぬか。本土においても然り。我らに刃向かった者たちは然るべき報いを受けておりますぞ」

(*)水軍の船のことか。

「お上がお望みとあらば、早速にでもペロポネソスに進攻いたしましょう。待つ方が良いと仰せなら、それも、また結構。どうかお気を落とされますな。ギリシア人どもは以前また最前の行ないの罪を償った上で、お上の奴隷となるを逃れる道は残されておりませぬ。それゆえ、みどもが申し上げた策をお取り遊ばすのが最善の策にござる。ただ、お上が軍をお退きになるおつもりであるなら、またそれなりの策がございます」

「お上、どうかペルシア人をギリシア人どもの笑い草とはなされますな。殿が惨事を被られたとて、それはペルシア人の落ち度ではござりませぬ。ましてお上におかれましては、いずこの地においても我らが臆病な振る舞いにおよんだとは仰せになるまい。フェニキア人やエジプト人、キプロス人、キリキア人どもが臆病だったかもしれませぬが、ペルシア人はこたびの惨事には責任がありませぬ」

「ペルシア人は断じてお上に咎をなした訳ではありませぬゆえ、どうか、みどもの策に従われませ。お上がここから離れるとお決めであれば、軍の主力とともに本国に引きあげなされ。しかしながら、みどもとしましては、お上の軍勢から三十万を選び、ギリシア人を奴隷にしたうえで、お上に届けたいと望んでおります」

[8.101] これを聞いたクセルクセスは、苦難に陥ったあとゆえ、満足し喜んだ。そして二つの策のうちどちらを取るかは、熟慮の上で返答するとマルドニオスに言った。そしてペルシアの重臣たちを招集して評議を開いたが、そのとき王はアルテミシアも呼び出すことにした。彼女は以前の評議の席上でも、ひとり最善策を献じたことを王は憶えていたからである。

アルテミシアが到着すると、クセルクセスはペルシア人の顧問官や近衛兵も含め、他の重臣たちをすべて下がらせてから彼女に語った。
「これはマルドニオスの考えなのだが、ここに留まってペロポネソスを攻撃せよというのだ。かれが言うには、ペルシア人や陸軍はこたびの惨事に責任はないゆえ、それを証明するにやぶさかでない、といっておる」

「それゆえ、予がそれを実行するか、あるいはかれが軍勢から三十万(*)を選び、ギリシア人どもを奴隷にして予の下へ連れて来るとし、予自身は残りの軍勢とともに本国に帰ることを提案しておるのだ」

(*)塩野七生「ギリシア人の物語 Ⅰ」では20万。

「そこで汝に訊ねるが、つい先の海戦で汝が的を射た進言をなしたように、この二つの策のうちどちらが予にとって最善か、助言してくれぬか」

[8.102] 助言を求められたアルテミシアは次のように返答した。
「お上、相談された相手にどちらが最善かを助言することは、容易ならざることにございます。ただ、現状を慮りますれば、お上はご帰還なされ、マルドニオスのことは、かれが申していることをやりたがっていて、またそれを約束しているのであれば、かれの望む通りの者共とともに、この地に残されるのが最善の策かと考えます」

「かれが征服するとあげた全てを成し遂げ、またその企てを成功させた暁には、その成果はお上のものにございます。なんと言ってもそれを成し遂げたのは、お上の家来でござりますゆえ。一方、マルドニオスの意に反する結果になったとしても、お上およびご一族が安堵なされている限り、それほど大きな悲運とは申せませぬ」

「お上とそのご一族が安泰であられる限りは、ギリシア人どもは命をかけた戦を何度も強いられることになりましょう。マルドニオスについては、いかなる惨禍がかれに降りかかろうとも、それは大きな問題ではござりませぬ。またギリシアが勝利したとしても、お上の家来を斃したというだけで、真の勝利とは申せませぬ。お上ご自身に関して申せば、アテナイを焼き払った後にご帰還なさるわけですから、お上の遠征目的は完全に達成されたことになりまする」

(*)他に人がいない状態で、どうしてヘロドトスは密談の内容を知ることができたのか不思議だ。このような場面は他にも多数あるが、ここで疑問を呈しておく。もっとも、高貴な身分の人物には必ず身の回りの世話をする奴隷の召使いが空気のごとくいたはずなので、その者たちから漏れ聞いた可能性は大である。

[8.103] アルテミシアのこの助言はクセルクセスの意にかなったものだった。彼女の助言はクセルクセス自身の考えと同じだったからだ。実のところ私は、たとえ誰が残れと助言しても、かれは残らなかっただろうと考えている。それほどまでも、かれは恐怖に打ちひしがれていたのだ。王はアルテミシアに感謝した上で、自分の息子たちを彼女に託し、エフェソスに連れて行かせた。王は妾腹の息子たちを同行させていたのだ

[8.104] その息子たちにはヘルモティモスという護衛がつけられた。この男はペダサ生まれで、クセルクセスのもとにいる宦官の中では一等重んじられていた。(G*)ペダサ人はハリカルナッソスの北方に定住していたが、彼らの街の周辺に住んでいる人々に、何かやっかいな問題が起きるときには、アテナイの巫女に長い髭が生えるという。このようなことはすでに二度起きていた。

(G*)この一節はあとから挿入されたと思われる。第一巻百七十五節に同じ記述がある。

[8.105] さてペダサ出身のヘルモティモスは、自分に降りかかった災悪に対して、我らの知る限り、誰にも負けない報復を成し遂げたことがある。それは、かれが敵に捕らわれ奴隷に売られたときのこと。かれを買ったのはキオス人のパニオニオスという人物で、この男はひどくいかがわしい仕事で生計を立てていた。かれは美形の少年を手に入れてはこれを去勢し、サルディスやエフェソスに連れて行っては高値で売り飛ばしていたのだ。蛮族にとって、去勢男子は成人男子に比べ、あらゆることに関して信用されるためだった。

パニオニオスは多くの者を去勢したが、ヘルモティモスもそのうちの一人だった。ただ、かれは全く不運だったというわけでもなかった。というのも、かれは他の献上品とともにクセルクセスのもとへ送られたが、時を経て他のどんな宦官よりもクセルクセスに重用されたからである。

[8.106] それは王がまだサルディスにいて、アテナイ攻略のため、出陣の準備をしているときのこと、ヘルモティモスは用事があってキオス人の住むミシア地方のアタルネウスという場所に下ったのだが、そこでパニオニオスを見つけたのだ。

その男をしかと確認した上で、ヘルモティモスは親しげに長話をし、今の自分の隆盛はパニオニオスのお陰であるとし、もし一族とともにここに移り住むなら、その恩返しとしてかれを成功させると約束した。そこでパニオニオスは喜んでこの申し出を受け、妻子を連れてきた。

ヘルモティモスはその男を一族もろもと自分の支配下に取り込んだのち、かれに告げた。
「お主、およそこの地上で、この上なく悪辣な仕事で稼ぐ男よ。普通の男だった俺さまを全くの役立たずにしやがって、俺さまやわが先祖が、お主やその一族に一体どんな悪さをしたというのか、言って見ろ。お主はあのときの所行が神々に気づかれなかったと思っているだろうが、どっこい、お主の悪業は神々の掟によって裁かれた末、お主は俺さまの手中に落ちたというわけだ。ゆえに、これから俺さまがお主に振りおろす正義の鉄槌には、一切文句を言わせぬぞ」

このような罵倒の言葉を吐き、かれはパニオニオスの息子たちを連れてきて、無理やりパニオニオスに息子たち四人をすべて去勢させた。パニオニオスがそれを終えた後、今度はその息子たちに父親を去勢させたのだ。これがヘルモティモスによるパニオニオスへの復讐譚である。

[8.107] アルテミシアに息子たちを託してエフェソスに連れて行かせたクセルクセスは、マルドニオスを呼び、軍勢の中から望み通りの兵を選ばせ、その言葉通りの企てを成し遂げてみよ、と言った。そしてその日はこれで終わったが、夜になってから、王は司令官たちに命令を下し、彼らは王の通過路たる橋を守備するために、ファレロンから出航し、全速力でヘレスポントスに戻った。

その艦隊が航行を続けてゾステル岬(G*)に近づいたとき、それが本土から突き出ているのを見て、彼らはてっきり敵の艦隊と思い込み、遠くに逃げ出したことがある。やがてそれが艦隊ではなく岬だと分かると、再び集結して航行を続けたという。

(G*)アテナイ西岸の岬。ピライオスとスニウム間に位置する。

[8.108] さて夜が明けて、ギリシア軍は敵の陸軍がずっと留まったままであるのを見て、海軍も同じくファレロンに碇泊したままだろうと推測した。そして海戦はあるものと予想し、防衛戦の準備に取りかかった。ところが、敵艦隊が撤退しているのが分かると、ただちに追撃することにした。彼らはアンドロス島(*)まで追跡したが、敵艦隊を発見できなかったので、その地で評議を開いた。

(*)エウボイア島の南に連なる島。

テミストクレスは、島嶼を抜けて追跡を続行し、ヘレスポントスへ直航して架橋を破壊すべきだという意見を述べた。一方でエウリビアデスは、橋を破壊すると、彼らはギリシアにこの上ない害悪をもたらすかもしれないという反対意見を提示した。

かれは言う。
「というのは、ペルシア王の退路を断ち、ヨーロッパに取り残される事態になれば、かれはじっとしているはずはないだろう。もしおとなしくしていたら、自分の目的を達成することもできず、本国に帰る道も全く閉ざされ、かれの軍は飢餓で破滅することになるだろうから。反対にかれが積極的に事を起こせば、ヨーロッパ諸国は、征服されたり、盟約を結んだりしてかれに従うことが充分考えられる。食糧に関しては、毎年収穫されるギリシアの作物が利用できる」

「しかし海戦で敗北したからには、ペルシア王はヨーロッパに留まることはないだろうと、わが輩は考える。そこでかれを自分の国に帰らせることにしようではないか。そして以後の戦いは、我らの領土ではなく、ペルシアの領土を賭けて行なうことにしよう」この意見に、ほかのペロポネソスの司令官たちも賛同した。

[8.109] テミストクレスは評議の参加者の大多数にヘレスポントス行きを説得できないと見て取り、アテナイ人司令官たちに向かって語りかけた。アテナイ人はペルシア軍の逃亡をことのほか憤慨しており、他の諸国が行かずとも、自分たちだけでもヘレスポントスに海路行こうとしていたのだ。

「一敗地にまみれ窮地に陥った者は、前回の失敗を挽回することがあるということは、しばしば見聞きすることだ。そこでわが輩は諸君に言いたい。我らが雲霞のごとき敵を追い散らし、我らとギリシアが安堵できたのは、たまたま幸運だったことによる。であるからして、逃げる者どもを追いかけるのは止めることにしよう」

「この勝利をもたらしたのは実は我らではなく、アジアとヨーロッパにまたがる広大な王国を、邪悪で神をも怖れぬほど傲慢な人間が支配するのを良しとなされぬ、神々と神人たちなのだ。しかもその者たるや神聖なるものと不浄なるものを同列に扱い、神像を焼き払って破壊し、あろうことか海を鞭打ち、足枷を投げ込むような不埒者なのだ」

「しかし当分の間、我らはギリシアに留まり、わが身や一族のことを案ずることにしよう。そして異国の者どもを完全に駆逐した今、家屋を再建し、耕作に精励しよう。ヘレスポントスとイオニアに出航するのは、次の春が来てからだ」

かれがこう言ったのは、のちのちアテナイ人から自分に害が及ぶ事態になったとき、ペルシア王に何らかの貸しを作っておくことで、逃げ場を担保しておく意図があったのだ。そして実際のところ、それは現実のものとなった。

[8.110] このような詭弁を弄して、テミストクレスはアテナイ人たちの説得に成功した。かれは常に賢明だと思われていたし、今はみずから賢明で思慮深いところを示してもいたので、アテナイ人たちは何事であれ、進んでかれの言いなりになろうとしていた。

アテナイ人を説得したあと、ただちにテミストクレスは、いかなる拷問にも秘密を漏らさないと信頼できる配下の者を数人小舟に乗せ、ペルシア王のもとへ行かせ、伝言を伝えさせた。そのうちの一人はシキンノスという自分の従僕だった。彼らがアッティカに到着すると、シキンノスは他の者たちを小舟に残し、自分はクセルクセスのもとへ参上した。

かれはこう伝えた。
「ネオクレスの子テミストクレスはアテナイの将軍にしてギリシア同盟国中、比類なく剛勇と叡智に秀でた者にございます。その者が私めを伝令に使わし、こう伝えよとのことにございます。『アテナイ人のテミストクレスはあなた様のお役に立ちたいと願い、ギリシア人があなた様麾下の艦隊を追跡し、ヘレスポントスの橋を破壊しようと意気込んでいるのを、押しとどめたのでございます。いまやあなた様を妨げる者はおりませぬゆえ、どうか安んじて帰国の途につかれますよう。』」この伝言を伝えたのち、彼らは小舟で戻って行った。

[8.111] 一方のギリシア人たちは、もはやそれ以上蛮族の船団を追跡しようとも、ヘレスポントスまで航行して彼らの帰り道を破壊しようとも考えていなかった。その代わり、アンドロス島を征服して手に入れようとした。

なぜなら、テミストクレスが島嶼の住民に上納金を要求したとき、どこよりも先にそれを拒否したのが、この島の者たちだったからである。アテナイ人が「説得」と「強制」の二大神を後ろ盾として来ているのだから、アンドロス人は金を払うべきだとテミストクレスが宣告したとき、彼らはこう言い返した。
「たしかにアテナイは助けてくれる神々もいて、繁栄している大国だ」

「それに比べて我らアンドロス人は極度に土地が痩せている上、『貧困』と『無能』という役立たずの二神が我らの島からどうしても出てゆこうとせず、未来永劫、居座り続けるつもりでいるのだ。これらの神々をかかえているからには、我らは金を差し出すことはできない。アテナイの威力が強大とはいえ、われらの無力を上回れるわけがない」
このように返答して金の支払いを拒否したため、彼らは攻囲されることになったのだ。(M*)

(M*)第七巻百七十二節

[8.112] ところがテミストクレスの金銭欲には果てしがなく、ペルシア王に送り出した時の使者と同じ者たちを他の島嶼に差し向け、上納金を要求し、その要求に応じなければギリシア艦隊を差し向け、その島を攻囲し征服するという脅迫的伝言を託した。

こうしてかれはカリストス人とパロス人から巨額の資金を調達したが、彼らは、アンドロス人がペルシア側についたことで攻囲されたことを知らされていたことと、テミストクレスが最も秀でた将軍だと思われていたからだ。この伝言を聞いた彼らは恐懼し、上納金を差し出したのである。この両国だけでなく、他の島民も上納金を差し出したと思われるが、確かなことは分からない。

ただ、資金を差し出したにも拘わらず、カリストス人の場合は災難を猶予されることはなかったが、パロス人は金でテミストクレスを宥め、攻撃されるのを免れた。その後テミストクレスは他の司令官たちには知られないようにしてアンドロス島を離れ、島嶼の人々から資金を徴収した。

[8.113] クセルクセス従っていた陸軍は、海戦後数日を経て、来たときと同じ道をたどってボイオティアに向かった。マルドニオスは王を見送ってゆき、時節が戦いに不向きであるからテッサリアで冬を越し、ペロポネソスを攻撃するのは来春が良いとも考えていた。

陸軍がテッサリアに到着すると、マルドニオスは最初に全員がペルシア兵の不死身隊(M*)を選び出した。ただしその司令官のヒルダネスは王のもとを離れたくないというわけで除外された。次にペルシア人の胸甲騎兵と一千の騎兵(G*)、さらにメディア人、サカイ人、バクトリア人、インド人から歩兵と騎兵を選出した。

(M*)第七巻八十三節、二百十一節、二百十五節を参照。
(G*)第七巻四十節、四十一節、五十五節を参照。

これらの民族はそっくりそのまま選出されたが、その他の同盟国から選出したのは、容姿の優れた兵と、何らかの役に立つことが分かっている兵たちで、僅かだった。かれが選び出したペルシア兵は首飾りと腕輪を身につけていたが、彼らは他の民族から選出された兵たちよりもずっと多数だった。それに次ぐのがメディア人だったが、実際のところ彼らはペルシア人とほぼ同数ではあるものの、それほど勇猛は戦士とは言えなかった。その結果、軍勢は騎兵も含めると、全体で三十万となった。

[8.114] マルドニオスが自分の軍を選び出し、クセルクセスがまだテッサリアにいるときのこと、デルフォイからスパルタ人のもとへ、レオニダス殺害の謝罪と賠償をクセルクセスに求めよという神託が届いた。そこでスパルタは使者を全速力で派遣したが、使者はテッサリアにいた軍に追いつくと、クセルクセスの面前に進み出て次のように語った。

「スパルタ人とヘラクレス一族はメディアの王である貴殿に、ギリシアを守り貴殿に殺された彼らの王の死に対して、賠償を求めております」
それを聞いたクセルクセスは笑い飛ばし、長い間をおいたのちに、たまたまそばにいたマルドニオスを指して言った。
「そういうことなら、このマルドニオスがそれに相応しい賠償を払うはずだ」

[8.115] その返事を聞いて使者は帰って行った。そしてクセルクセスはマルドニオスをテッサリアに残し、自身はほんの僅かな手勢を引き連れただけで四十五日間という速さでヘレスポントスの渡海路にたどり着いたのだった。

その行軍中、いずこの地においても、またどこの住民からも、彼らはその作物を掠め取り、むさぼり食った。何もないときには、野原に自生する草や樹皮をはぎ、木々の葉をむしり取って食べた。畑であろうと野生であろうと後には一物も残さなかった。それほどまでに彼らは窮乏していたのだ。

その上、疫病や赤痢が行軍中に蔓延し、死者が出るありさまだった。病に倒れた者は、看護と養生を託してテッサリア、パエオニアのシリス、マケドニアなど途中の街に残された。

シリスには、ギリシアに進軍するときに用いたゼウスの聖戦車を残していたが、帰国に際して、王は再びそれを取り戻せなかった。というのもパエオニア人はそれをトラキス人に与えていたのだが、クセルクセスが返還を求めたところ、彼らは、ストリモン河上流の高地に住んでいるトラキス人が牧場から馬とともに奪っていったと言い訳をしたのだ。

[8.116] ビサルティアとクレストニアの王であるトラキア人がぞっとするほど残忍な行ないに及んだのは、この頃だった。かれはクセルクセスに隷従することを拒み、ロドペという山に逃げ込み、自分の息子たちにはペルシアの遠征軍に加わることを禁じていた。

しかし息子たちはそれを無視し、戦をみたいと思っていたこともあり、ペルシア軍に従軍した。その後六人の息子たちは無事に帰ってきたのだが、その父は禁を破った廉で、息子たちの眼をえぐり抜いたという。

[8.117] さてペルシア人一行はトラキアを抜けて渡海地点に到着したが、橋が嵐で破壊され、もはや姿を消しているのを見て、大急ぎで船に乗り、アビドスへと渡った。彼らはこの地で行軍を休止し、これまでの行軍中よりも豊富な食糧を得た。

ところが過度の摂食と飲み水が変わったことにより、生き残りの兵士のうち多数が死亡した。そして残った兵士たちはクセルクセスとともに、ようやくサルディスにたどり着いたのだった。

[8.118] これには、また別の話が伝えられている。それはこういうことだ。クセルクセスがストリモン河に沿ってアテナイからエイオンに着いたとき、かれはそれ以上陸を行かず、軍をヒルダネスに任せてヘレスポントスに向かわせ、自身はフェニキア人の船に乗ってアジアへと海路を進んだ。

その航海中にストリモン風という、大波を起こす激しい風に見舞われたのだ。乗船していたペルシア人一行が大勢だったため、船の重量が増し、そのために激しく嵐に翻弄された。王は恐ろしさのあまり船の船長に助かる方法はないのかと叫んで訊いた。船長はこれに答えて曰く。

「お上、ありませぬぞ、甲板にいる多くの者たちを除かぬ限りは」
これを聞いたクセルクセスはペルシア人たちに言ったと伝えられている。
「いまこそお前たちの王のために、その心意気を証明するときだ。予が助かるかどうかはお前たちにかかっているのだからな」

ここにおよび、ペルシア人たちは平伏したあと、海に身を投げた。そのため船はずっと軽くなり、無事アジアへ帰ったという。クセルクセスは陸に上がるや、すぐさま、王の命を救った功により黄金の冠をその船長に与え、そして大勢のペルシア人を死に追いやった廉で、その首を刎ねたという。

[8.119] 以上、クセルクセスの帰国に関する別の話である。私としてはペルシア人の運命譚やその他のことを信じる気持ちはない。実際のところ、船長がクセルクセスにあのように言ったとしても、王は甲板にいるペルシア人たちをーーしかもそこにいるのは高貴な血筋のペルシア人たちだーー船倉に降ろし、それと同じ人数のフェニキア人の漕ぎ手を海に投げ出した、という説に異を唱える者は万人に一人もいないだろうと、私は思っている。それより何より、クセルクセスは私が先に述べた通りに行動し、麾下の軍とともに陸上を進んでアジアに帰ったはずだ。

[8.120] これにはさらに証拠がある。クセルクセスが帰路アブデラに到着したとき、この街の住民と親密になり、彼らに黄金の剣と金の刺繍を施した頭飾りを与えている。アブデラ人たちが言うように(ただし私はそれを全く信じていないが)、アテナイからの退却途中で、王はこの地に来て安心し、初めて帯(G*)を解いたと言われている。そのアブデラは、王が船に乗ったと言われているストリモンやエイオンよりヘレスポントスに近いのだ

(G*)第五巻百六節では、ヒスティアイオスはイオニアに到着するまでは、その着衣を脱がないとダリウスに誓っている。あるいは旅を早めるために帯を締めるという意味がある。

[8.121] さてギリシア軍はアンドロス島を攻略できなかったので、次にカリストスへ向かった。そしてその地を荒らし回ったのち、サラミスに戻った。そして彼らは神々への初穂として奉納品をさまざま選び出したが、その中でも三隻のフェニキアの三層櫂ガレー船を取り分け、一隻をイスマスに奉納した。これは私の時代にもまだ残っていた。そのほかスニオンと、彼らが留まっているサラミスのアイアス神に一隻ずつ奉納した。

その後、彼らは戦利品を分配し、その初穂をデルフォイにも送り届けた。その初穂からは、船首像を手にする高さ十二キュービッドの男子像が造られ、これはマケドニアのアレクサンドロス大王の黄金像と同じ場所に設置された。

[8.122] 初穂をデルフォイに送ったギリシア軍は、同盟国の名のもとに、届けた初穂は充分足りているか、神の意に適っているか、伺いを立てた。これに答えて、神は、他のギリシア諸国から送られた物には満足しているが、アイギナからは受け取っていない、と返答し、サラミス海戦の勝利の褒賞をアイギナ人に要求したという。このことを知ったアイギナ人は、黄金製の星を三つ献納したが、それは青銅の帆柱に装着され、玄関ホールにあるクロイソスの鉢の近くの角におかれている。

[8.123] 戦利品を分配したあと、ギリシア軍はイスマスに船で行き、この海戦で最も秀でた働きを示した者に褒賞を与えることにした。

司令官たちが集結し、ポセイドンの祭壇で一位と二位に当てはまる者の投票を行なったが、投票した者ぞれぞれが、自分が一等秀でた働きをしたと考え、一位に自分自身を投票した。ところが、彼らの多くが一致して第二位にテミストクレスに票を入れたので、各自は一票を獲得したが、第二位にはテミストクレスがはるかに多くの票を得た。

[8.124] ギリシア人たちは嫉妬深さのあまりに褒賞を決めないまま、それぞれの国に帰って行った。しかしテミストクレスは、ギリシア諸国全土から、ギリシア人の中で最も叡智に秀でた人物だとして賞賛されることになった。

そのテミストクレスは、サラミスで戦った者たちから戦功の栄誉を与えられなかったので、スパルタで栄誉を受けようとして、かの地に赴いた。スパルタ人たちはかれを歓迎し、高く讃えた。彼らはエウリビアデスに殊勲の褒賞としてオリーブの枝で作った冠を与えたが、テミストクレスにも、その叡智と知略に対して同じ冠を授与した。それに加えてスパルタで最高の戦車をかれに与えた。

スパルタ人は、多くの賞賛の言葉とともに、「騎士」(M*)と呼ばれる選り抜きのスパルタ人三百人をつけてかれを母国に送り出した。このスパルタ人たちはテゲアとの国境までかれを警護していった。我らが知る限り、このような警護をつけられたのはテミストクレスだけだった。

(M*)第一巻六十七節

[8.125] テミストクレスがスパルタからアテナイに帰国すると、アフィドナイ のティモデモスという、テミストクレスの反対派で無名の人物が、テミストクレスのスパルタ訪問を嫉妬して狂乱した挙げ句、かれがスパルタから受けた栄誉はアテナイのお陰であって、彼自身の功績ではないと、激しく言いつのった。

かれはテミストクレスが返答するまで、ずっとしゃべり続けた。
「そうだ、そのとおり。私がベルビナ人(G*)だったなら、スパルタからこのような栄誉を受けられなかっただろう。そしてよいか、貴君はアテナイ人だが、栄誉は手にできないだろうよ」
以上、この件はこれにて終えることとする。

(G*)スニウムの南にある小さな島。どうでもよい代表的な島。

[8.126] さてファルナセスの子アルタバゾスは、すでに高貴なペルシア人だったが、プラタイアの事件によってさらに名声を高めた人物だった。そしてかれはマルドニオスの選んだ六万の兵とともに王を橋の路まで警護して行った。

クセルクセスをアジアに送り届けたのち、アルタバゾスが引き返してパレネの近くに来たとき、マルドニオスはテッサリアとマケドニアで越冬しており、残りの軍勢のもとへの帰着を急ぐそぶりもなかったので、ポティダイアが反攻しているのを知ったアルタバゾスは、これを制圧するのが良かろうと考えた。

というのも、ポティダイアは王が街を通過して行ったあと、またペルシア艦隊がサラミスから撤退したあと、公然とペルシアに反旗を翻し、パレネ地方の残りの住民も同じことをしていたからである。

[8.127] このようなわけでアルタバゾスはポティダイアを攻囲したのだが、オリントスも王に背くのではないかと疑い、この街も攻囲した。この街には、マケドニア人によってテルメ湾から追放されたボティアイア人が住んでいたのだ。オリントスを包囲して陥落させたあと、そこの者たちを湖に連行して喉をかききって殺戮し、街はトロネのクリトブロスとカルキディケ人に委ねた。カルキディケ人がオリントスを手に入れたのは、このような経緯による。

[8.128] さてオリントスを手に入れたあと、アルタバゾスはすぐにポティダイア攻略に意を注いだ。それを手助けしたのは、スキオネ人部隊を率いるティモクセノスで、かれはアルタバゾスに国を売ったのだ。最初の連絡をどのようにしたのか、それに関する事情が入手できないので分からない。しかし結局は次のようなことだった。ティモクセノスが伝文をアルタバゾスに送るとき、またはその逆のときも、弓矢の羽がついている軸の切れ目(G*)に伝文を巻きつけてそれを包み、互いに決めておいた場所に向けて、その矢を放つのだ。

(G*)矢を弦につがえるとき、指で矢を掴みやすくするための、両側の切れ込み。羊皮紙を矢の後端に巻きつけ、その上から羽を覆って隠した。

しかしポティダイアに対するティモクセノスの裏切りは、次の事情から露見してしまった。アルタバゾスが約束の場所に向けて矢を放ったとき、誤ってあるポティダイア人の肩に当ててしまったのだ。戦闘中には、このようなことは常にあることだが、射られた男の周りにいる大勢の者たちがすぐさま集まり、矢を引き抜いたところ伝文を見つけ、司令官の所へ持って行った。そこにはパレネの他の同盟国も居合わせた。

その伝文を読んだ司令官たちは誰が裏切ったかを見抜いたが、スキオネ人が今後裏切り者とそしられないようにとの配慮から、ティモクセノスの裏切りを追求しないことにした。

[8.129] このような次第でティモクセノスの裏切りは露見した。一方でアルタバゾスがポティダイアを攻囲すること三月に及んだころ、長期にわたる大きな引き潮現象が起きた。蛮族たちは海が干潟になったのを見て、パレネに歩いて渡る準備にかかった。

そして夷荻軍が渡海行程の四割ほど進み、パレネまで残り六割の地点に来たとき、土地の者たちが言うには、これまでにないほどの高い潮流が押し寄せてきたという。兵士たちの中で泳げない者は溺れて死に、泳げる者は小舟で押し出したポティダイア人によって殺された。

ポティダイア人の伝えるところでは、高潮と潮流、ペルシア人の災難が起きたのは、海で死んだペルシア人たちが町外れにあるポセイドンの神殿と像を冒涜したからだという。私の考えでは、彼らの言っていることは正しいと思う。そして生き残った者たちは、アルタバゾスに率いられてテッサリアにいるマルドニオスのもとへと去って行った。王を護衛していた者たちの話はこのようなことだった。

[8.130] 残ったクセルクセスの海軍は全軍挙げてサラミスから退却してアジアに到着し、王とその麾下の軍をケルソネソスからアビドスへと渡らせたあと、キュメで越冬することになった。そして翌年の早春、艦隊の一部が越冬していたサモスに集結した。その兵士の大部分はペルシア人とメディア人だった。

そこへバガイオスの子マルドンテスとアルタカイエスの子アルタユンテスが、司令官としてやって来た。さらにアルタユンテスが自分の甥イタミトレスを司令官に加えた。艦隊はひどい打撃を被っていたので、それ以上西には行かなかった。もっとも、誰も西行きを主張しなかったのだが。そしてサモスに留まったままで、イオニアが反乱を起こさないかを監視し続けていた。その艦隊の船数は、イオニアその他を含めて三百隻だった。

実のところ、彼らはギリシア軍がイオニアまでやって来るつもりはなく、自国の防衛に専心するつもりだろうと考えていた。それはペルシア艦隊がサラミスから退却したとき、ギリシア軍が追跡して来ず、ペルシアを食い止めたことに満足していることから、このように考えたのだ。海戦ではペルシア人たちは打ちのめされてしまったが、陸ではマルドニオスの軍がいとも簡単に勝利するだろうと思っていた。

そこで海軍はサモスにいたままで、敵に何か打撃を加えられないものかと鳩首協議しつつも、マルドニオスの軍がどうなったか、その知らせを暫くの間、固唾を呑んで待っていた。

[8.131] ギリシア軍の方は、春が来てマルドニオスがテッサリアに留まっているのを知り、活動を開始した。ギリシア陸軍は集結していなかったが、海軍は百十隻がアイギナにやって来た。

海軍の提督はメナレスの子レオティキデスで、その系譜を子から父へと遡れば、ヘゲシラオス、ヒポタラティデス、レオティキデス、アナクシラオス、アルキダモス、アナクサンドリデス、テオポンポス、ニカンドロス、カリラオス、エウノモス、ポリデクテス、プリタニス、エウリフォン、プロクレス、アリストデモス、アリストマコス、クレオダイオス、ヒュロス、ヘラクレスとなり、レオティキデスは一方の王家の血筋である(M*)。

(M*)第七巻二百四節

レオティキデス以下に列挙した最初の七人を除き、残りの人物たちはすべてスパルタの王に就いている。アテナイ軍の指揮官は、アリフロンの子クサンティッポスだった。

[8.132] アイギナに全船が到着した頃、イオニアからの伝令使たちがギリシア軍の陣営にやって来た。彼らはその前にスパルタにも赴き、イオニア解放をスパルタ人に嘆願していた。

その伝令使のなかにはバシレイデスの子ヘロドトスもいた。彼らは最初七人で共謀し、キオスの僭主ストラティスを殺害しようと企てた。しかし仲間の一人がその陰謀を暴露し、ことが露見したため、残りの六人は密かにキオスを離れ、スパルタへ行き、そして今アイギナに来て、ギリシア海軍のイオニア行きを嘆願したというわけである。

ギリシア海軍はなんとかデロス島まで彼らを連れて行ったが、それより先へは行こうとしなかった。その地域に不案内であることと、武装兵がその地域全体に充満しているだろうと予想していたことから、遠征することを怖れたためである。またサモス島は「ヘラクレスの柱(G*)」と同じくらい遠くにあるとも思っていた。一方の蛮族は意気阻喪するあまり、サモスから西へ船を出そうとせず、同じくギリシア海軍は、キオス人に要請されても、デロス島より東に行こうとしなかった。かくて、両陣営における恐怖心が、中立地帯を形成することとなった。

(G*)ジブラルタル海峡ほど遠いという形容。

[8.133] ギリシア軍はデロス島まで航行し、マルドニオスはテッサリアで越冬していた。マルドニオスはこの地に陣をおき、エウロポス生まれのミュスという男を派遣して各地の神託所を巡らせ、どのようなことをやって良いものか、あらゆる神託伺いを立ててくるよう、命じた。かれは神託からどんな啓示を得ようとしていたのか、誰も語っていないので、私にはわからない。ただ察するに、目前の自分の任務のことだけに神託伺いを立てたものと思われる。

[8.134] このミュスという男はレバディアに行き、その街の男を金で雇ってトロフォニオスの洞窟に行かせたことと、ポキスにあるアバイの神託所に行ったことが判っている。かれは最初にテーべに行き、オリンピアでの生贄儀式と同じことをしてイスメニア・アポロの神託伺いを立て、さらにテーベ生まれでない異国の男を雇ってアンフィラオス神殿に夜参りさせたりもした。

というのも、次のような事情から、テーベ人は神託伺いを立てることが禁じられていたためである。すなわち、かつてアンフィラオス神は自分を預言者とするか、有事の際の助太刀とするか、どちらかを選び、他方は放棄せよと命じたことがある。テーベ人は戦時の助太刀を選んだので、聖廟での夜参りはできないことになっていたのだ。

[8.135] テーベ人の言い伝えによる、この時に起きたことは、私にはとても不思議なことだった。エウロポスのミュスが各地の神託所を巡り、プトオス・アポロの聖地を訪れたときのことである。この神殿はプトオン神殿(G*)と呼ばれており、テーベに属していた。それは丘のそばでコパイス湖の上手にあり、アクライフィアの街のごく近くにあった。

(G*)アポロドロスの説によると、アタマスの子プトオスに因んで呼ばれている。アタマスとイノによる、子供達の生命をかけた攻防については、ボイオティアとアカイアだけの物語である。第七巻百九十七節を参照。

神宣を書き留めるため、街で選ばれた三人の男たちとともにミュスが神殿に入ったときのこと、神官はさっそく異国の言葉で語り出した。

彼につき添っていたテーベ人たちは、ギリシア語ではない奇妙な言葉を耳にしてびっくりし、どうすればよいのか分からず、途方に暮れていた。しかしミュスは、神託の言葉はカリア語だといいながら、テーベ人が持っていた、預言を書き留めるための書き板をひったくった。神託を余すことなく書き留めた後、かれはテッサリアに戻って行ったという。

[8.136] マルドニオスは神託に全て目を通したのち、まもなくしてアテナイに使いの者を送り出した。それはアミンタスの子アレクサンドロスというマケドニア人だった。彼を使者に選んだ理由の一つが、アレクサンドロスがペルシア人と血縁があるからだった。ブバレス(M*)というペルシア人が、アミンタスの娘ギガイア、すなわちかれの姉妹を娶っていたのだ。そしてこのギガイアはアジアにおけるアミンタスという子を産み、その名は母方の祖父の名からつけられた。そして王はフリギア地方のアラバンダという広大な街をこのアミンタスに与えて住まわせた。また別の理由としては、アレクサンドロスがアテナイ人を庇護し、支援していることを知っていたからである。

(M*)第五巻二十一節

マルドニオスは、これによってアテナイ人を味方につけられると考えていた。そしてアテナイ人は軍勢も多く、誇り高い人々で、海戦においてペルシアに敗北をもたらした主戦力だったことも知っていた。

アテナイとの友好関係を築けば、制海権が簡単に手に入るだろうとかれは考えたが、事実そうなっただろう。陸上では自分が強大だと思っていたので、ギリシアより優位に立っているとかれは計算していた。おそらく諸方の神託がアテナイを味方につけよという予言を下していたのだろう。その神託に従ってかれは使者を派遣したのだ。

[8.137] このアレクサンドロスから七代遡った祖先がペルディカスで、この人物は次のような経緯からマケドニアの僭主となった。その昔、テネモス一族の三兄弟、ガウアネス、アエロポス、ペルディカスがアルゴスからイリリアへ逃れ来て、マケドニアの高地を越え、最後にレバイアの街にやって来た。

その地で彼らは王家の従僕として雇われ、一人は馬の世話をし、もう一人は牛を、最年少のペルディカスは小さい家畜の世話をしていた。そこでは王の夫人みずからが家人の食餌を調理していた。昔は王家といえども一般人と変わりなく貧しかったので、これが常であった。

ところが、夫人がパンを焼くたびに従僕ペルディカスのパンが二倍の大きさに膨れあがるのだった。毎回同じことが起きるので、そのことを夫に告げたところ、王は、それは尋常ならざることの前触れではなかろうかと思った。そこでかれはその従僕たちに自分の領国から出てゆくように命じたのだ。

その三人は立ち去る前に賃金を支払ってもらうのが当然だと主張した。賃金のことを持ち出されると王は逆上し、煙を逃がす穴から差し込んでいる日光を指さして言った。
「それがお前たちに相応しい賃金だ。それを持って行け」

年長のガウアネスとアエロポスはそれを聞くと、肝をつぶして立ち尽くしてしまったが、末っ子の少年は
「ではそれを戴きます、王様」
と言って持っていた小刀を取りだし、家の床に差していた日光(G*)を縁取りした。この動作のあと、自分の衣服の折り目に日光を集める動作を三度繰り返して行ない、かれは他の兄弟とともに去って行った。

(G*)この行為は、王家とその領土を請求することを象徴している。加えて、その請求の証人として太陽を呼び寄せたことを意味する。古代ドイツでも同じ風習があった。

[8.138] かくて彼らは去って行ったが、王の傍にいた者たちの一人が、少年の行ないの意味を解き、最年少の少年が王の与えた物を受け取ったのは何か目的があってのことだと解いた。これを聞くや王は憤慨し、騎士団を差し向けて彼らを殺害しようとした。ところがその領土には、これらアルゴスからの亡命者の子孫が恩人と崇め、生贄を捧げている河が流れていた。

テネモスの息子たちがこの河を越えたあと、その河は急に勢いを増し、騎士団は河を渡れなくなったのである。そして兄弟はマケドニアの別の地方に行き、「ゴルディアスの子ミダスの園(G*)」と呼ばれている場所の近くに住みつくことになった。この場所には、それぞれに六十の花弁をつけ、他を圧倒する強い芳香を放つバラが自生しているという。

(G*)アイガイとエデッサ(現在のボデナ)の間にある肥沃で美しい渓谷。古代マケドニアの王宮があった。

マケドニア人の伝承では、このバラ園はシレノスが捕らえられた場所である(G*)。そしてその地の上手には冬を思わせる寒気のために誰も登れないベルミオン山が聳えている。この地を征服したあと、ここを本拠として彼らは他のマケドニアも征服したのである。

(G*)フリギア人の伝説がマケドニア人に伝えられたもの。シノレスは自然の精で、肥沃な山野に住むという。ギリシア神話では、ミダスに欺かれて捕らえられたが、かれに賢明な助言をしたとされる。オデッセイア中のメネラウスに捕らえられたプロテウスの話と比較される。第七巻二十六節参照

[8.139] アレクサンドロスはこのペルディカスの末裔で、血筋をたどれば、アレクサンドロス、アミンタス、アルケテス、アエロポス、フィリッポス、アルガイオスとなり、アルガイオスの父が王位を勝ち取っペルディカスとなる。以上がアレクサンドロスの系譜である。

140A.さてアレクサンドロスはマルドニオスに派遣されてアテナイに到着すると、次のように演説した。「アテナイの人々よ、マルドニオスは諸君にこう語っている。王からわが輩に届けられた伝言がある。---予はアテナイ人が予になした全ての罪を許すことにする」

「そしてマルドニオス、汝には次のことを命ずる。彼らに領土を返還し、その上で彼らの好きな場所に住まわせ、国の統治も彼らに任せよ。そして彼らが予と和議を結ぶつもりあがるなら、予が焼き払った全ての神殿を再建せよ。---これが伝言である。わが輩としては、諸君がこれを妨げない限りは、これに従わねばならない(と、マルドニオスは言う)」

「そしてわが輩は、次のことも言っておきたい。諸君は王を打ち負かすことは不可能であり、この先ずっと王に抵抗し続けることもできないのに、なにゆえわが王に対して、むきになって戦を仕掛けるのであろうか?クセルクセスの軍勢の巨大さは見てのとおり、いまのわが軍の兵力も聞いていることだろう。たとえ諸君がわが輩の軍を打ち破ったとしても・・・諸君が正気なら、これは全く望みがないはずだが・・・この軍勢の何倍もの大軍がやって来るだろう」

「であるゆえ、王に反攻しようなどと考えめさるでない。そんなことをすれば領土を失い、常に危険に身をさらすことになりますぞ。それよりも王と和議を結ばれるがよい。王自身がこれを持ち出したからには、諸君が和議を結ぶには、この上なく誉れ高い機会だ。詐術も策略も弄さず我らと盟約を結び、自由を保全なされよ」

140B.「以上が、マルドニオスが私に託した伝言だ。私としては、諸君に対する好意の気持ちをここで口にするつもりはない。そんなことは今に始まったことではないからだ。それよりもマルドニオスの考えに従うことを諸君に勧める」

「よいか、私の見るところでは、諸君はクセルクセスにずっと対抗し続ける力はない。そもそも諸君にその力があると私が判断していたなら、このような伝言を持ってここへは来なかっただろう。それほどまでに王の力は超人的であり、またその腕は長いのだ」

「諸君にとっては極めて有利な条件での和議というのに、これにすぐ同意しないというのであれば、私は諸君にこれから降りかかることを怖れる者である。というのも、諸君の同盟諸国のなかでも貴国はちょうど戦の通り道にあって戦場に位置しているゆえ、貴国だけはどうしても破壊から免れるわけにゆかないからだ」

「いや、むしろ彼の意見に従われよ。偉大なる王がギリシア諸国の中で貴国のみに対してその罪を不問に付し、交誼を結ぼうとされていることは、決して軽々しく考えてはならぬことである」アレクサンドロスはこのように語った。

[8.141] ところでこれより以前、スパルタ人は、アレクサンドロスがアテナイに到来し、夷荻と和議を結ばせようとしているとの情報を得ていた。そしてスパルタ人はメディア人とアテナイ人によって、他のドーリア人とともにペロポネソスから放逐される運命にあるという神託を想起しつつ、アテナイ人がペルシアと和議を結ぶのではないかと危ぶんでいた。そしてただちに使者を送ることを決めた。

さらに、スパルタの使者との会談とアレクサンドロスとの会談は同時に行われることになった。それは、和議を結ぶためにペルシアから使者が来ることが分かれば、スパルタ人は必ず大急ぎでやって来ることがアテナイ人には分かっていたので、彼らはアレクサンドロスとの会談を遅らせ、使者が来るのを待っていたのだ。彼らは自分たちの考えをスパルタ人に示すため、故意にそのような態度に出たのだ。

[8.142] さてアレクサンドロスが語り終えると、スパルタからの使者が後を継いだ。
「我らは、アテナイがギリシアに何らの損害をもたらさないよう、従って蛮族の申し出を受けないよう要請するために、スパルタから送られてきている」

「和議を結ぶなど、ギリシア人ならば誰にとっても道理にはずれ、不名誉なことである。特にほとんどのアテナイ人にとっては多くの理由から、このことが言えるだろう。つまり、この戦を引き起こしたのは諸君であって、我らは全く望んでいなかったのだ。もとはと言えば、貴国の領土での戦がギリシア全土に拡がったのだ」

「それを脇におくとしても、古来あまたの人間に自由を与え続けてきたことで名を馳せたアテナイ人が、ギリシアに隷従の起因をもたらすことは、なんとしても耐えがたいことだ。とはいえ、アテナイは二度までも収穫を失い、衰亡すること長期ゆえ、諸君の苦難には同情を禁じえない」

「それに対する見返りとして、スパルタとその同盟国は、戦に従事しない貴国の婦女子と一族郎党を、この戦が続く限り、あますことなく扶養することを、ここに宣言する。そしてマルドニオスの甘言にのせられて、マケドニア人アレクサンドロスの説得を受け入れてはならぬぞ。それに従うのが、かれの勤めなのだから」

「かれは僭主であるから、僭主同士の仲間として動いているだけなのだ。諸君が分別をわきまえているなら、夷荻には信頼も誠実もないことを念頭におき、そのようなことに関わるべきではない」これが使者の言葉だった。

[8.143] そこでアレクサンドロスに向かって、アテナイ人は次のように返答した。
「メディアの勢力が我らの何倍もあることは承知しているゆえ、それをあげつらって我らを愚弄する必要はない。とはいえ我らは自由を渇望するゆえ、力の限り防戦するつもりだ。夷狄との和議に関しては、彼らに隷従するような誘導はやめて貰いたい。もちろん、我らは承諾するつもりもない」

「そしてアテナイ人からの返答として、次の言葉をマルドニオスに持ち帰るがよい。太陽が今の運行を変わらずに続ける限り、我らはクセルクセスと和議を結ぶつもりはない。かれが一顧だにせず焼き払った神殿や聖像におわした神々、神人の支援を信じつつ、我らは止むことなく戦うだろう」

「そして、そのような申し立てを持ってくるなら、もう二度とアテナイ人の前に現れないでもらいたい。ましてや我らに奉仕すると見せかけ、不当な行ないを勧告するのも無用だ。我らの盟友であり庇護者である貴殿には、アテナイ人からの不快な思いを抱かせることを、我らは望んではいないからだ」

[8.144] アレクサンドロスにこのように返答したあと、アテナイ人はスパルタの使者たちに向けてこう語った。「我らが夷狄人と和議を結ぶのではないかとスパルタ人が危惧するのは、人として無理からぬことではある。しかし、我らがすすんで和議を受け入れ、メディア側についてギリシアを隷属させるに匹敵するほどの、おびただしい黄金はこの世界のどこにもなく、優れて美しく肥沃な国土もどこにもない、と考えるアテナイ人の気質を熟知している貴殿らが、そのような危惧を抱くのは、全くもって馬鹿げたことだ」

「たとえ我らがそれを望んだとしても、そのようなことをするはずがない大きな理由が多くある。それは第一に神々の像や神殿を焼き払われたことである。そのようなことをしでかした張本人には何としてもできる限りの報復を加えねばならず、盟約を結ぶなどもってのほかである。第二に、血統も言語も同じくし、神々の聖廟も生贄儀式も同じ、慣習も同じくするギリシア人の血縁関係がある。これら全てに背くことはアテナイ人にふさわしくないことだからだ」

「貴殿らが知らなかったというなら、今ここで承知しておいてもらいたい。すなわちアテナイ人が存続する限り、決してクセルクセスとは盟約など結ぶはずがないということを。とはいえ、我らの荒廃した国を心配し、我らの一族を扶養しようという配慮には感謝する」

「貴国からは十分な配慮を頂きはしたが、我らとしては、貴国に負担をかけることなく、できる限り堪え忍ぶつもりである。そこで、このような状況であるゆえ、貴国の軍をできるだけ早く派遣してもらいたい」

「というのも、マルドニオスの要望を我らが拒否したという報せがかれに届くや、夷狄軍はただちにわが国を侵略しにやって来ることが予想されるからだ。従ってマルドニオスがアッティカに到着する前に、我らが先にボイオティアに進軍するのは、今が絶好の時なのだ」

この返答を聞き、スパルタの使者たちは国に帰って行った。


第九巻


[9.1] アレクサンドロスがテッサリアに戻り、アテナイ人から聞かされたことをマルドニオスに報告すると、かれはそこを発ち、アテナイに向けて進軍した(1)。そしてその途中に通過した諸国の住民をことごとく徴集した。テッサリアの支配者たちは以前の行ないを悔いることなく、これまで以上にマルドニオスの行軍を歓迎するありさまだった。とりわけラリッサのトラクスのごときは、クセルクセスの退却行の道案内をしたばかりか、このたびも誰にはばかることなくマルドニオスのギリシア進攻の道を開けたのである。

(1)BC.479の夏。マルドニオスはこの年の7月にアテナイを征服していた。

[9.2] ところが進軍の途中、ボイオティアまで来たとき、この地ほど宿営に適した場所はないといって、テーベ人がマルドニオスを引き留めた。そしてこれ以上進むことなく、この地に留まったまま、戦わずして全ギリシアを征服するべきだと、彼らは勧告した。

そして、以前から一致団結していたギリシア人が、そのまま団結している限りは、全世界の武力をもってしても彼らを制圧するのは困難だと説いた。
「しかし、我らの助言に従われるなら」とテーベ人らは言う。
「労せずして彼らの作戦をことごとく探り出せましょう」

「それにはまず、かの国々の有力者たちに金銀を与えることです。そうすればギリシアは自ずから分裂するでありましょう。その後は貴殿の味方となって支援する者たちとともに力を合わせれば、敵対する者たちを制圧するのはたやすいこと」

[9.3] 彼らはこのように勧言したが、マルドニオスはそれに従わなかった。かれの望みは再度アテナイを征服することであって、それはかれの頑迷によるところもあったが、アテナイを征服したという知らせを島伝いの狼煙によってサルディスにいる王に送りたいと熱望していることも、その理由だった。

ところがマルドニオスがアッティカに着いてみると、街は以前と変わらずもぬけの殻で、市民の大多数はサラミスの船上にいることが分かり、結局かれは無人の街を掌握したことになる。王がこの街を占領したのち、マルドニオスが占領するまで十ヶ月の月日が経過していた。

[9.4] アテナイに入ったあと、マルドニオスはヘレスポントス出身のモリキデスという男をサラミスに派遣し、以前マケドニア人のアレクサンドロスに託したアテナイ人への提案と同じものを託した。

かれが再び同じ提案を送った理由は、アテナイ人の敵対感情を知ってはいたものの、今はアッティカが征服され、自分の支配下にあることで、彼らがその頑迷な考えを軟化させるのではないかと期待したからだった。

[9.5] かくてモリキデスはサラミスに行き、アテナイ人の評議会に出頭してマルドニオスの伝言を伝えたところ、リキダスという一人の評議員が、その提案を受け入れ、市民に提示するのがよくはないかと言った。

かれがこのような意見を述べたのは、マルドニオスに買収されたか、彼自身がその提案に乗り気だったかのどちらかだろう。しかしアテナイの評議員たちや場外の者たちも、これを聞いて激怒し、リキダスを輪になって取り囲み、石を投げつけて殺害してしまった。ただしモリキデスは無傷のまま帰国させた。

リキダスのことはサラミスで大変な噂となり、それを知ったアテナイの女たちは、みずから連れだってリキダスの屋敷に行き、かれの妻と子供たちを石で撲殺したという。

[9.6] アテナイ人がサラミスに渡ってきた経緯は次のとおりである。そもそもペロポネソスの軍が救援に来ると期待している間は、アテナイ人はアッティカに留まっていた。しかしペロポネソス軍の腰を上げるのがあまりに遅く、また侵略軍がすでにボイオティアに来ていることが分かると、彼らは全ての家財を安全な場所に移し、自分たちはサラミスに渡ってきたのだ。また彼らはスパルタに使者を送り、ボイオティアでアテナイが蛮族軍に応戦するのを支援せず、蛮族軍のアッティカ侵略を許してしまったスパルタを非難するとともに、アテナイがペルシアに寝返ったときのアテナイへの見返りのことを持ち出し、スパルタが支援を送らなかった場合には、アテナイは自力で何らかの活路を見いだすつもりだと警告した。

[9.7] この時期、スパルタではヒアキントス祭(2)の最中で、彼らはそれにかかり切りになっていた。その上、イスマス(地峡部)に築造中の防護壁は、胸壁の取りつけにかかっている状態だった。アテナイの使者たちは、メガラとプラタイアからの使者を伴ってスパルタに到着すると、エフェロス(監督官)(*)たちに面会して次のように告げた。

(2)ドーリア人の起源に関する祭り。アポロによって殺されたヒアキントスを記念して行なわれる。
(*)ephors;スパルタにおける王の権力を監視する官職。五人の有力市民が一年交代で勤める。

7A.「アテナイの者たちは我らに次の伝言を託している。すなわち、ペルシアの王は、我らに国を返還するつもりであること、両国が対等の立場で、しかも敬意と誠実に基づいて同盟を結ぶこと、また我ら自身の領土以外にも、我らの好きな場所を与えることを提案している」

「しかし、我らはギリシアの神ゼウスに背くことは考えておらず、またギリシアを裏切ることも恥ずべきことと考えるものであるゆえ、かような提案に同意するつもりはない。それなのにギリシア人は我らのことを裏切って不当に扱っている。ペルシアに敵対するより友好を結ぶ方が我らにはずっと有利なことは分かっているが、我らはみずからの意思でそれを拒否し、ギリシアに忠誠を誓ったのだ」

7B.「それにも拘わらず、貴国はわが国がペルシアと和議を結ぶのではないかと深く疑ったのではなかったか?ところが、いま貴殿らは我らの信条をはっきり理解し、我らは決してギリシアを裏切らないと確信したはずだ。その上、貴国がイスマスに築造中の防護壁もほぼ完成していることから、貴国はアテナイをないがしろにし、ボイオティアでペルシアに防戦するという我らとの約束を破り、夷狄軍のアッティカ侵略をみすみす許してしまった」

「現状では、アテナイ人は貴殿らの不当な行ないに怒りを抱いているが、ここにおいては、アッティカで夷狄軍を迎撃するために、貴国が早々に軍を派遣することを我らは要請するものである。すでにボイオティアを失っているゆえ、我らの領土内で戦いに最適な場所はトリア平原である」

[9.8] これを聞いたエフォロスたちは、回答を翌日に延ばしたが、その翌日には再び回答を一日延ばした。こうやって一日延ばしにして、十日が経過した。そうこうするうちにペロポネソス諸国は総力を挙げてイスマスの補強工事を進め、ほとんど完成させてしまった。

マケドニアのアレクサンドロスがアテナイに来たとき(3)、スパルタは、アテナイがペルシアの味方につくのを強く反対したにも拘わらず、なにゆえ、いまはそれを一顧だにしなくなったのか、その確かな理由は分からない。おそらくイスマスの補強工事が完成したので、アテナイは必要なしと彼らは考えたのだろう。アレクサンドロスがアッティカに到来したときには、イスマスの防護壁はまだできあがっておらず、ペロポネソス諸国はペルシアを大いに怖れつつ、その工事に取りかかっている最中なのだった。

(3)第八巻百三十五節

[9.9] 結局スパルタは回答を提示し、次のごとくに出陣することになった。それはアテナイ人使節団との最終聴聞日の前日のことだった。スパルタにおける異国人の中で、最も力を持っていたテゲア人のキレオスという者が、エフォロスたちからアテナイ人の言い分をすっかり聞き取り、彼らに向かって次のように説いた。

「よろしいか、アテナイが蛮族と同盟を組み、我らに敵対するようになると、イスマスにいくら強固な壁を作ったとしても、ペルシア軍がペロポネソスに進入する道は大きく開かれたも同然である。そこでアテナイがギリシアに害をもたらすような結論を出す前に、彼らの言を聞き入れるべきでござる」

[9.10] かれがエフォロス一同にこう勧告すると、彼らはそれを真摯に受け止め、そして諸国からの使節団に告げることなく、五千のスパルタ兵とそれぞれに七人のヘロット(奴隷)をつけて、夜が明けぬうちに進発させた。そして指揮官にはクレオンブロトスの子パウサニアスを任命した。

その部隊の正当な指揮権はレオニダスの子プレイスタルコスにあったが、かれはまだ少年だったため、その後見人で従兄弟のパウサニアスが指揮を執ることになったのだ。パウサニアスの父であり、アナクサンドリデスの子であるクレオンブロトスは、もはやこの世の人ではなかった。

クレオンブロトスはイスマス(地峡部)の防護壁を築造した軍を率いて帰還したのち、まもなくして死亡している。かれがイスマスから兵を引いた理由は、ペルシア人との戦勝を祈願して生贄儀式をおこなっている最中に中天の太陽が暗くなったことにある。

[9.11] さてパウサニアスは自分の補佐官として、一族のドリエウスの子エウリアナクス(4)を指名し、軍はスパルタを後にして進発していた。夜が明けるとすぐに使者たちはエフェロス(*)に面会したが、軍が出陣したことは知らされておらず、自分の国に帰国するつもりでいた。そこで彼らは次のように語った。
「貴殿らスパルタ人は国を離れることなくヒアキントス祭を祝い、同盟諸国が苦境に陥っても知らぬ振りをしておられた。アテナイ人は貴国から非道に扱われ、また味方もいないことから、最善の方策としてペルシアと講和することになるだろう」

(4)パウサニアスの従兄弟。かれの父ドリエウスとパウサニアスの父クレオンブロトスは兄弟。
(*)ephors;スパルタにおける王の権力を監視する官職。五人の有力市民が一年交代で勤める。

「そして、ペルシア王の盟友となった限りは、我らは王の軍の行くところなら、どこへでも進軍することになるだろう。その時になって貴殿らは、いかなる結果がその身に降りかかってくるか、知ることになろう」この言葉に対してエフォロス一同は宣誓した上で、彼らの言う蛮族すなわち「夷荻」に向けて軍が進発していて、今現在はオレステウム(5)あたりにいるはずだ、と言った。

(5)スパルタの北西方向に位置する。従ってイスマスへ直行する道からほとんどはずれている。

使者らはこの事実を知らされていなかったので、その意味をさらに問いただし、事態の全貌を知った。そして驚きながらも大慌てで軍の後を追った。その一行にはスパルタの武装した五千のペリオイコイ(6)が随行していた。

(6)ラコニア地方郊外の住民で、彼らはスパルタの完全な市民権を持たない。第六巻五十八節を参照。

[9.12] 一方アルゴスは、スパルタが出撃するのを阻止するつもりだと、以前からマルドニオスに約束していたゆえに、パウサニアスの部隊がスパルタを出発したという報せを受けると、ただちに最も速く長距離を走れる伝令(*)をアッティカに送った。

(*)第六巻百五節

その伝令がアテナイに到着すると、マルドニオスに次のような口上を伝えた。
「マルドニオス様、みどもはアルゴスから遣わされてきた者で、スパルタから壮年部隊が出陣したことを知らせに参りました。またアルゴスだけでは、それを阻止できませぬゆえ、しかるべき策をお立て願います」

[9.13] 伝令は右のように告げたあと、帰って行った。これを聞いたマルドニオスは、もはやアッティカに留まろうとはしなかった。というのも、この言葉を聞くまでは、かれはアテナイ人の動向を探ろうとして待機しており、アッティカに進攻するつもりも、その国土を荒廃させるつもりもなかった。その時点ではアテナイは和議を結ぶものと期待していたからである。

しかし状況を知ってアテナイを説得できないことが分かると、かれはパウサニアスの部隊がイスマス(地峡部)に達する前に、撤退することにした。その際に、まずアテナイの市街を焼き払い、壁や家屋、神殿など建てられているもの全てを徹底的に打ち壊し、破壊した。

かれが撤退を決めた理由は、アッティカ地方が騎馬戦に不向きであることと、万一戦に負けた場合には、少人数で妨害できるほど狭い隘路のほか、退却路がないことにあった(7)。

(7)パウサニアスはキタイロンを経てボイオティアに退却した。

かれは友好国のテーベまで退却し、ここは騎馬戦に適した場所であることから、この地で戦を仕掛けることにした。

[9.14] かくしてマルドニオスは軍を戻そうとして進発したが、その途上で一千のスパルタ軍の先陣がメガラに到着したという報せを受けた。これを聞き、かれはまず最初に、この部隊を捕獲する策を練った。そこで^かれは軍をメガラに向けて進め、騎馬隊を先発させてこの街の向こう側まで行かせた。そこはペルシア軍が到達したヨーロッパの最西端となった。

[9.15] その後マルドニオスは、ギリシア軍がイスマスに集結しているという報せを受けた。そのため、かれは再びデケレイアを経て退却しようとした。そこでボイオティアの支配者たちは進路に当たるアソポス地方の支配者たちに命じてスフェンダライからタナグラへと道案内をさせた。

この地でかれは一夜を明かし、翌日にはテーベ領のスコロスへと逆進した。テーベはペルシアに与していたが、かれはこの街の樹木を全て切り倒してしまった。これはテーベに対する悪意からではなく、街を要塞化する必要があったのと、今後の戦いが望み通りの結果にならなかった場合に備えて、街を避難場所にするためだった。

マルドニオスの軍はアソポス河に沿って駐留したが、それはエリトライからヒシアイまで、そして北はプラタイアまで埋め尽くした。ただし陣営の防護壁は軍全体を囲むものではなく、各辺およそ二キロメートル(*)の範囲に限られていた。

(*)原文では「10 furlongs」。1 furlong≒220ヤード≒200メートル。

[9.16] 蛮族軍が防壁築造作業に従事しているときのこと、フィリノンの子アタギノスというテーベ人が豪華な宴席を用意し、マルドニオス以下ペルシア軍の要人五十人を招待した。命じられるまま、彼らはテーベでの宴席に出席した。以下に述べることは、この地ではこの上なく高名なオリコメノス人のテルサンドロスから聞いたことである。かれが言うには、自分もこの宴席に招待され、ほかにも五十人のテーベ人が招待されたという。アタギノスは、一つのカウチに一人ずつではなく、ペルシア人とテーベ人を一人ずつ一緒に座らせた。

さて晩餐が終わり、酒を酌み交わしていると、テルサンドロスに同席していたペルシア人が、ギリシア語でどこの出身かとかれに訊ねた。テルサンドロスがオルコメノスの出身であると返事すると、そのペルシア人はこう語ったという。
「こうやって共に食事をし、酒を酌み交わしたのも何かのご縁。貴下が将来を見越し、また貴下の処世に益となるように、私の考えを思い出として披露しようと思う」

「宴席にいるペルシア人たちや、アソポス河畔の陣営にいる夥しい軍勢を、貴下は見られたか?まもなく、これらのうち生き残るのは僅かであることを貴下は知るはずだ」
こう言ってそのペルシア人はさめざめと泣いたという。

テルサンドロスはその言葉に驚き、返答した。
「ならばそのことをマルドニオスや周辺の要人に告げるべきでは?」
次いでペルシア人は言う。
「友よ、神の思し召し給うたことは何人も変えられぬものだ。それがしばしば真実であると分かっても、信じる者はいないのだ」

「わが輩の言ったことは多くのペルシア人が知っていることだが、逃れられぬ束縛から、それに従うほかないのだ。知恵多くして力なき者にとって、それは最も忌むべきことよ」
私はこの話をオルコメノスのテルサンドロスから聞いたのだが、かれはまたプラタイアの戦いの前に、いち早く他の者たちに語ったという。

[9.17] マルドニオスがボイオティアに陣営を築いている頃、その地方でペルシアに味方している全てのギリシア諸国は兵を提供したが、彼らはアテナイを攻撃したときにも、それに参加していたものである。ただしポキス人だけは、その攻撃に参加していなかった。それというのも彼らはペルシアのために大いに貢献したのだが、それは必要に迫られてのことで、決して本意によるものではなかったからである。

ペルシア軍がテーベに到着して数日後には、ポキスの重装歩兵一千が、ハルモキデスという、その国では一番の武人に率いられてやって来た。その時、マルドニオスはポキス人部隊に騎兵を送り、平原に彼ら自身の陣営を築くよう、命じた。

彼らが命じられた通りにすると、そこへペルシア人の全騎兵部隊が現われた。そして、マルドニオスは槍で彼らを射殺すのではないかという噂が、マルドニオスに従っているギリシア軍全体に拡がり、同じくポキス人部隊にも広まった。

その時、ハルモキデスは次のような檄を飛ばした。「ポキス人諸君、あやつらは我らを殲滅するつもりなのは明らかだ。これはテッサリア人の讒言によるものだろうと、わが輩は考える。しからば、今こそ諸君は一廉の人間であることを示すべき時だ。すなわち、不名誉な死を遂げて完敗するよりも、武勇を奮い、防戦して生を終えるに若くはない。やつらには、自身が所詮蛮人であることを思い知らせ、かつやつらが殺戮しようとしている相手がギリシア人であることを思い知らせてやろうではないか」ハルモキデスは、このように激励した。

[9.18] そして騎兵隊はポキス人を取り囲み、彼らを殺害しようとしてまさに槍を投げようと構えた。実のところ、槍を投げた兵士もいたようだ。それに対してポキス兵たちは、互いに一団となってかたまり、盾を思い切り閉じて対峙した。ところがこの時、騎兵たちは突如きびすを返して去って行ったという。

これに関して、騎兵隊がやって来たのは、はたしてポキア人を斃せというテッサリア人の要求によるものかどうか、はっきりしたことは言えない。また、ポキス兵の防戦態勢を見て、騎兵隊の側は自軍も幾分は痛手を被るかも知れないと思い、(マルドニオスがそう命じたこともあり)引き返したのか、あるいはマルドニオスがポキス兵の気概を試そうとしていただけなのか、正確なことは分からない。

騎兵隊が去ってから、マルドニオスは使者を立てて次の伝言を伝えた。
「安心めされよ、ポキス人一同。わが輩の知るところと異なり、諸君は勇猛な兵士たることを、みずから示された。されば、この戦いに熱意を持って取り組んでもらいたい。諸君は役務においては、わが輩も王をも凌ぐことであろうゆえ(8)」
これがポキス兵に関する事の次第である。

(8)ペルシアに仕えれば、ペルシアもポキスに仕えるだろう、という意味。

[9.19] 一方、スパルタ軍はイスマスに到着するとそこに陣を構えた。意気に燃える他のペロポネソス諸国は、これを伝え聞き、またスパルタが戦いに乗り出したのを見ると、スパルタに後れを取ってはならじと意気込んだ。

生贄儀式の予言が吉と出たこともあり、ギリシアは全軍挙げてイスマスを出発し、エレウシスに到着した。ここでも生贄儀式を捧げ、その予兆も吉と出たので、進軍を続けた。サラミスに渡っていたアテナイ人もエレウシスから進軍に加わった。

そしてギリシア軍がボイオティアのエリトライに到着したとき、蛮族軍はアソポス河畔に宿営していることを知った。このことを考慮し、彼らはキタイロン山の麓に陣を構えたという。

[9.20] ギリシア軍が平原に降りてこないことを見て、マルドニオスは、高名なペルシア人マシスティオス(ギリシア語ではマキスティオス)を司令官に指名し、全騎兵隊を送って攻撃させた。かれは、黄金の馬銜(はみ)や入念に装飾を施したネサイオン馬に騎乗していた。騎兵はギリシア軍に向かって駆け出し、部隊ごとに突撃していった。そして攻撃のたびに敵に大きな損害を与えたが、その戦闘の間、ペルシア兵はずっとギリシア兵を女郎と罵っていた。

[9.21] さてその時、メガラ人部隊はたまたま最も攻撃を受けやすい開けた部署に配置されていたので、そこが騎兵隊には突撃しやすいことが分かった。そして激しい攻撃に晒された結果、メガラ人はギリシア軍の総司令官に使者を送り、次のように申し入れた。

「メガラ人から同盟諸国へ。ペルシア騎兵隊の激しい攻撃にも拘わらず、いまのところ我らは忍耐と勇気を振り絞り、陣を保持しているが、もはや我ら単独にては、始めに配属された場所を持ち堪えられない。同盟軍が援軍を送らないのであれば、我らはこの場所を放棄することを、承知されたい」

このように使者が告げると、パウサニアスはギリシア軍の中からその場所に行って陣を確保し、メガラ兵を助ける者はいないかと問いかけた。誰も名乗り出ようとしなかったが、ただアテナイだけが手を挙げた。それはランポンの子オリンピオドロスを将とする三百人の精鋭アテナイ兵だった。

[9.22] これらの志願兵は弓兵隊も引き連れ、全ギリシア軍の前面となるエリトライに陣を構えた。そして戦いは長時間続いたが、その幕引きは次のようであった。

騎馬隊は部隊ごとに攻撃を展開したが、先頭にいたマシスティオスの馬が脇腹に矢を受け、痛みのあまり後脚立ちとなってマシスティオスを振り落としてしまった。その馬は捕獲され、かれはたちまちアテナイ兵に襲われ、防戦しつつも殺害されてしまった。

しかしアテナイ兵たちは初めは斃そうとしてもできなかった。それはマシスティオスが黄金の鱗をつけた鎧の上から紫色の上衣を纏っていたため、槍が鎧を貫通しなかったことによる。そしてついに一人の兵士がそれに気づくと、マシスティオスの眼を突き、かれを打ち斃した。

どういうわけか残った騎兵たちはこれに気づかなかったようだ。彼らは隊長が落馬したことや討死にしたことに気づかないまま、突撃と退却と繰り返していた。ところが馬を止めてみると、命令する者がいないことから何が起きたかを察知し、互いに声を掛け合いながら、遺骸を取り戻そうとして突撃を開始した。

[9.23] アテナイ側では、敵の騎兵が、これまでのように部隊ごとではなく、全軍一体となって向かってくるのを見て、他の部隊に助けを求める叫び声を上げた。そして救援の歩兵が到着するまでの間、遺骸をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられた。

アテナイの三百人の兵士だけで戦っている間は持ちこたえられそうになく、遺骸を放棄するのもやむなしとしていた。ところが本隊が救援に駆けつけると、騎兵隊はその位置を保持することも、遺骸を奪回することもできず、それのみか騎兵隊の一部をも失ってしまった。そこで騎兵隊は四百メートルほど後退して停止し、どうするべきかを協議した。その結果、命令を下す者がいないとして、マルドニオスの下へ戻ることに決めた。

[9.24] 騎兵隊が陣営に戻ると、マルドニオス以下の全軍は、みずからの頭髪や馬、荷役獣の毛を刈り、大声で慟哭の声を上げ、深く悲嘆に暮れた。戦死したのはマルドニオスに次ぐ将軍で、全てのペルシア人と王からこの上なく評価されていた人物だったゆえ、その慟哭の声はボイオティア全土に響き渡ったという。

[9.25] 蛮族がその慣習に従ってマシスティウスの葬儀を執り行なっている一方で、ギリシア軍は騎兵隊を迎え撃ち、撃退したことで大いに意気盛んとなった。そしてまずはマシスティウスの遺体を車に乗せて隊列の周りを巡らせた。それほどにその姿は長身で威厳に満ちていて、一見の価値あるものだった。兵士たちは隊列を離れてまで、マシスティウスを見に来ようとした。

その時点で、ギリシア軍はプラタイアまで下ることに決した。それは、エリトライに比べてこちらの方が総体に宿営に適していたのと、主には水利に恵まれていたからである。この地にはガルガフィアという泉があり、そこで部隊をととのえて宿営することに決した。

そして武器を手にしてキタイロンの低地の斜面を行進し、ヒシアイを経てプラタイアに行き、ガルガフィアの泉や神人アンドロクラテスの聖域の近くで、平地に低い丘の混在する地域で、民族ごとに隊列を整えて宿営した。

[9.26] さて、戦闘態勢を整えている最中に、テゲアとアテナイの間で激しい論争が起きた。それは、新旧の伝説と事績に基づいて、両国が互いに一方の陣翼配置(9)を主張したからである。

(9)すなわち、スパルタ軍が張る陣の対翼。スパルタは右翼を担当するのが、伝統として決まっていた。

最初にテゲア人が説を展開した。
「同盟諸国中、我らはあらゆる戦闘において、一方の翼を担っていた。それはペロポネソス連合軍において古来も現在も然り。エウリステウスの死後、ヘラクレス一族がペロポネソスに帰還しようとした時から、ずっとそうなっているのだ」

「我らは次のような業績によってその配置を獲得した。すなわち、味方の救援のために、ペロポネソスに定住していたアカイア人やイオニア人とともにイスマスへ出撃し、亡命していたヘラクレス一族が帰還するのを阻止するために宿営したときのことである。伝承によれば、そのときヒロス(10)は、危険を冒してまで軍が戦闘を起こす必要はないと説き、ペロポネソス人中で最も勇猛な戦士が、互いに合意した条件下で、自分と一騎打ちをしようと提案した」

(10)ヘラクレスの息子

「ペロポネソス人たちもそうすることに同意し、次のような協定に誓いを立てた。すなわち、ヒロスが勝てばヘラクレス一族はその父祖の地に帰還することとし、ペロポネソスの戦士が勝てば、ヘラクレス一族は軍を引き上げてこの地を去り、今後百年間は帰還を企てないとした」

「そこで我らの将軍で王でもある、フェゲオスの子アエロボスの子エケモスが志願し、同盟諸国から選ばれた。そしてヒロスと一騎打ちの末、かれを斃した。その功績により、ペロポネソス諸国の中で、決して失うことのない幾多の偉大な特権のほか、連合して出陣するときには常に軍の一方の翼を担う特権を得ている」

「そこでスパルタ人諸君、我らは諸君に対抗するつもりはなく、諸君がどこの翼を占めるかは、自由に選ばれるがよい。ただし、他の翼に関しては、これまでと同様、我らに指揮権があることを主張する。先ほどの業績を別としても、その翼を担当するにはアテナイよりも我らがふさわしいのだ」

「なんとなれば、スパルタ人諸君、我らは諸君とあまたの干戈を交え、華々しく戦ったこともあるが、ほかの者たちに対しても同じく雄々しく戦っている。それゆえ、アテナイよりも我らが他の翼を担うべきである。彼らは今も昔も、我らのような業績を成し遂げていないのだから」

[9.27] この言葉に対して、アテナイ人が反論した。
「我らは蛮族と戦うために集まっているのであって、演説のために会合しているのではないと理解している。とはいうものの、テゲア人が、互いに新旧の勇猛な事績を取り上げることを言い出したからには、我らとしても勇猛なる事績によって、アルカディア人よりも我らの方が、栄誉ある部署を担う歴史的権利があることを示さねばなるまい」

「まず、テゲア人が首領を斃したというヘラクレス一族のことだが、彼らはミケーネに隷従することを嫌って逃げ出したものの、全ギリシアから受け入れてもらえなかったという過去がある(11)。そのヘラクレス一族を我らアテナは受け入れ、その当時ペロポネソスに住んでいた者たちを彼らとともに征服し、エリストスの高慢をへし折ったのだ」

(11)エリストスに追われていたヒロスはアテナイによってかくまわれ、その助けを受けてエリステスとその一族を根絶やしにした。

「その上、アルゴスがポリニケス(12)とともにテーベに向けて出撃し、そこで討死にして埋葬もされずに捨て置かれているのを知ったとき、我らはカドモスー族(テーベ)に向けて軍を進め、遺体を収容し、エレウシスに埋葬したこともある」

(12)ポリニケスが兄弟のエテオクレスからテーベを奪回しようとした時のこと。アイスキュロス著「テーバイ攻めの七将」を参照。

「そのほか、アマゾン族がテルモドン河を越えてアッティカに侵攻してきたときにも、我らは偉大な勝利をおさめた記録がある。またトロイ戦役においても、我らはどの国にも負けぬ働きを示している。しかしこのようなことを持ち出すのは無益なことーー過去において勇士であっても現在は臆病兵であるかもしれず、その逆もあり得るからだーー過去の業績に関しては、これで充分だろう」

「アテナイは、他のどんなギリシア諸国にも劣らぬあまたの華々しい業績を上げてはいるが、かりに我らに何の業績がないとしても、マラトンで我らが果たした役割、すなわちギリシア人の中でひとりアテナイだけがペルシアとの一騎打ちに臨み、その作戦をしくじることなく、四十六もの民族(*)に打ち勝ったことからも、この栄誉ある特権およびその他の特権を受ける資格があると考える」

(*)ペルシア人陸軍に従軍した民族の数。第七巻六十一節を参照。

「この業績だけでも、我らがその翼を占めるに相応しいのではなかろうか。とはいえ、いまは配置争いをしている場合ではないゆえ、ここはスパルタ人諸君の考えに従うことにやぶさかではない。我らがどこに配置を取り、どの敵に対峙するのが最適か、諸君の考えに従おうではないか。どこに配置されようとも、我らは勇者たることに努めるつもりだ。命じられよ、さらば我らはそれに従おう」

アテナイ人はこのように反論したところ、スパルタ人は全員が喚声を上げ、アルカディ人よりもアテナイ人の方が翼を占めるにふさわしいと応答した。こうしてアテナイはテゲアをおさえて翼の持ち場を獲得した。

[9.28] そして全ギリシア軍は初めに来た者や遅れてきた者を含め、次のような配置を取った。右翼には一万のスパルタ兵。そのうちの五千は生粋のスパルタ人で、これに三万五千の軽装歩兵のヘロットが随行し、一人の重装兵に七人の軽装兵がついた。

その隣の位置には、スパルタは栄誉と勇猛さからテゲア人を指名した。そして一千五百のテゲア人重装兵が、その位置についた。それに続き五千のコリント兵と、彼らの要請によりパウサニアスは、パレネから来ている三百のポティダイア兵が、その横につくことを許可した。

これに続き順次、オルコメノスから来た六百のアルカディア兵、三千のシキオン兵、八百のエピダウロス兵、一千のトロイゼン兵、二百のレプレオ兵、ミケーネ兵とティリンス兵を合わせて四百、一千のフィリオス兵、三百のヘルミオネ兵が配置についた。

この後、ヘルミオネ兵に続き、エレトリア兵とスティラ兵を合わせて六百、次いで四百のカルキス兵、五百のアンプラキア兵、レウカディア兵とアナクトリア兵を合わせて八百、その次にはケファレニアのパレ兵が二百。

その次に五百のアイギナ兵、三千のメガラ兵、六百のプラタイア兵、そして最後かつ第一線としてアテナイ兵が左翼を占めた。その数は八千で、指揮官はリシマコスの子アリステイデスだった。

[9.29] 個々のスパルタ兵に随行している七人の軽装歩兵を除き、これら全軍は重装兵で、その総数は三万八千七百となり、これが集結して蛮族に対峙することになった。軽装歩兵の数に関しては、スパルタ人部隊において各重装兵ごとに七人の軽装兵がついているので、三万五千となる。

その他のスパルタおよびギリシア諸国の軽装兵の数は、重装兵一人につき軽装兵一人として三万四千五百となった。

[9.30] 結局、兵士としての軽装兵の総数は六万九千五百となり、プラタイアに集結したギリシア全軍は、重装兵と軽装兵を合わせて十一万に一千八百欠ける兵力となった

そしてそこにいたテスピアイ兵を加えると、ちょうど十一万となった。テスピアイの生き残り兵(13)が連合軍に随行していたからで、その数は一千八百だった。ただし彼らも重装備はしていなかった。以上の軍勢がアソポス河畔に隊列を組んで布陣した。

(13)テルモピュレーの戦いにおける生き残り;第七巻二百二節を参照。

[9.31] さてマルドニオス麾下の夷狄軍はマシスティオスの服喪を終え、ギリシア軍がプラタイアに布陣していることを探知すると、その地を流れるアソポス河に向かった。そこでマルドニオスは次のような布陣をとった。

まずスパルタ軍にはペルシア人部隊を配した。これは、ペルシア人部隊の兵力がスパルタのそれを圧倒的に上回っているので、深い隊列を組むことになり、前線もテゲア兵にまで拡がるからである。兵士の配列に当たり、マルドニオスはペルシア兵の最強の部隊をスパルタ部隊に当て、比較的弱い部隊をテゲア兵に当てた。かれはテーベ人からの情報によって、そのように配置したのだ。

ペルシア人部隊に続いてメディア兵を配したが、これはコリント、ポティダイア、オルコメノス、シキオンに対峙することになった。メディア人部隊に続きバクトリア兵を配し、これはエピダウロス、トロイゼン、レプレオ、ティリンス、ミケーネ、フィリオスの兵に面した。

夷狄人の後は、インド兵を配し、これはヘルミオネ、エレトリア,スティラに面した。インド兵の次にはサカイ兵をおき、アンプラキア、アナクロシア、レウカディア、パレ、アイギナの各部隊に対峙させた。

サカイ兵の次には、アテナイ、プラタイア、メガラに対峙させてボイオティア人、ロクリア人、マリス人、テッサリア人、一千のポキス人を配した。ポキス人は全てがペルシアに与していたわけではなく、一部はギリシアを支援していた。彼らはパルナッソス山に籠城し、そこから出撃してマルドニオスの軍やそれに与しているギリシア諸国の軍を何度も略奪していたのだ。これに加えて、マルドニオスはマケドニア人やテッサリアに居住している住民もアテナイ軍に対峙させた。

[9.32] いま私が名前を列挙したのは、マルドニオスによって配置を決められた民族の中でも最大の軍勢だったが、少数勢力も混じっていた。すなわちフリギア人、トラキア人、ミシア人、パエオニア人などで、さらには、エジプトでは唯一の兵士であるヘルモティビエス、カラシリエス(14)と呼ばれるエチオピア人やエジプト人の剣士たちも混じっていた。

(14)エジプト軍の階級については第二巻百六十四節に記述あり。

この兵士たちはマルドニオスがまだフェレロンにいたときに乗船させていたのを下船させたものである。そもそもこのエジプト人たちはクセルクセスがアテナイに侵攻したときの陸軍要員ではなかった。そして蛮族軍の勢力は、以前に示したように三十万(*)だった。マルドニオスに与したギリシア諸国の軍勢は計数されていないので分からないが、私の推定では五万になると思われる。以上が布陣された歩兵だった。騎馬隊はこれとは別に配置された。

(*)塩野七生「ギリシア人の物語 Ⅰ」によれば20万。

[9.33] 各民族、部隊ごとに布陣を終えると、両軍ともに生贄儀式を行なった。ギリシア側で儀式を執り行なったのは、占者として従軍していたアンティコスの子ティサメノスで、この者はエリス生まれで、イアミダイ一族(15)の一員だったが、スパルタ人から市民として認められていた。

(15)イアミダイ家は聖職者の家系で、その一族はギリシア全土に分散している。クリティアダイ家もエリスの聖職者だったが、イアミダイ家とは全くの別派である。従ってSteinが「Κλυτιάδην = Klytiádin」を省いたのはたぶん妥当だろう。

そうなった経緯は、ティサメノスが子孫のことでデルフォイの神託を求めたとき、巫女は、かれが見事な勝利を五回手にすると予言したことがある。かれは神託の真意を誤解し、競技で勝利するものと考えて肉体の鍛錬を始めたものである。ティサメノスは五種競技(16)の訓練を行ない、オリンピアの競技会でアンドロス出身のヒエロニモスと対戦し、もう一試合で優勝するところまでいった。

(16)五種競技の種目は陸上走、跳躍、レスリング、槍と円盤の投擲。

しかしスパルタ人は、ティサメノスに下された神託が運動競技のことではなく、戦のことだと見抜き、かれに報酬を与え、ヘラクレス家の王とともに軍を指揮させようと説得を試みた。

ティサメノスは、スパルタ人が自分を大いに重用しようとしているのが分かると、対価条件をつり上げ、スパルタの完全な市民権とその全ての権利との引き替えでなければ、彼らの要求には応じないと主張した。

これを聞いたスパルタ人は、最初は怒り、自分たちの希望を完全にあきらめた。しかしペルシアの大軍勢の脅威が彼らに迫り来るにおよび、結局は譲歩してティサメノスの要求をのむことにした。そしてティサメノスはスパルタ人の気が変わったのを見て、先に挙げた条件だけでは満足できず、自分の兄弟であるヒギアスも、自分と同様の条件でスパルタ市民とすることを要求した.

[9.34] かれがこのような条件を突きつけたのは、メランポスの例にならったのであり、要求したのが王位でなく市民権であることだった。このメランポスというのは、かつてアルゴスの女たちが狂気に襲われたとき、その狂気を鎮めさせようとして、アルゴス人がピロスから呼び寄せた人物だった(17)。そのとき、かれは王権の一半を要求したとされている。

(17)伝説上では、ディオニソスの密儀に加わるのを拒否したため、アルゴスの女たちが発狂させられたのを、メランポスが治したとされている。多くのギリシア人史家が、さまざまにこのことを書き残している。

アルゴス人は、この要求を拒んで立ち去ったが、狂気が街の女たちに拡がったことから、メランポスの要求を容れることにし、かれの下を訪れた。メランポスは彼らの気が変わったのを見て取ると、王位の三分の一を自分の兄弟であるビアスに与えるのでなければ、彼らの意には沿わないと主張した。アルゴスは窮地に立たされたあげく、やむなくこれも受け入れたという。

[9.35] そしてスパルタ人もまた切実にティサメノスを必要としていたので、彼の要求を全て受け入れることにした。スパルタが新たな要求にも同意した結果、いまやスパルタ人となったエリスのティサメノスは、彼らのために占術に従事し、五回の大勝利を挙げる手助けをした。ティサメノスとその兄弟を別として、このようにスパルタの市民となった者は、この地上には一人としていないのであった。

スパルタの五度の勝利というのは、次のとおりである。第一にプラタイアの戦い、次がテゲア人とアルゴス人と戦ったテゲアの戦い、その次がマンティネイアを除く全アルカディアとのディパイアの戦い、つぎがイトメでのメッセニアとの戦い、そして五度の勝利の最後となったのが、アテナイとアルゴスと戦ったタナグラの戦いである。(18)

(18)イトメでのメッセニアとの合戦は明らかに三番目の戦いである。テゲアの合戦は B.C.457(ツキジデス「戦史」第一巻百七節)である。テゲアとデパイアにおける合戦については何もわかっていない。

[9.36] このティサメノスがスパルタ軍に随行していたので、プラタイアでギリシア軍の占者を務めることになった。生贄儀式では、防禦にまわるならギリシア軍に吉兆で、アソポス河を渡って先に攻撃を仕掛けるなら凶と出た。

[9.37] マルドニオスの生贄儀式もまた、先制攻撃をかけるなら凶で、守勢に立つなら吉という予言が出ていた。かれもまたギリシア式の生贄儀式を行なっていて、占者はエリス出身のヘゲシストラトスが勤めたが、かれはテリアス一族の中でもこの上なき高名な人物だった。そしてかれは、かつてスパルタに多大な損害を与えたという理由から死刑囚として投獄されたことがあった。

このような苦境に陥り、命の危機に晒されているうえは、死ぬ前にどんな耐えがたいことでもやってみるべきだと、かれは考え、想像を絶することをやり遂げたのである。かれは鉄張りの木枠に片脚を繋がれていたのだが、何らかの手段で鉄のナイフを入手し、我らが決して思いつかない勇気ある策を、ただちに思いついたのである。すなわち、どれほど切り落とせば足が抜けるか目星をつけ、自分の足の甲を自分で切り落としたのだ。

このあと、かれは監視の目をかいくぐり、壁に穴をあけて脱出し、夜は通して歩き、昼間は森に隠れて眠るようにしてテゲアに向けて脱出した。そしてスパルタ人が必死で捜索したにも拘わらず、三日目にはテゲアにたどりついた。スパルタ人は、彼の姿が見当たらず、切り落とされた足先だけが残っているのを見て驚嘆したという。

このようにして、ヘゲシストラトスはスパルタから逃れ、その当時スパルタと敵対していたテゲアに避難した。傷が癒えたあと、かれは自分で木製の義足を作り、自分はスパルタの敵であることを公言している。しかしザキントスで占事を行なっているとき、スパルタ人はかれを捕らえて殺害してしまったので、かれがスパルタに対してたぎらせた憎しみは、結局は無残な結末を自身にもたらしたことになる

[9.38] 尤も、ヘゲシストラトスが死んだのは、プラタイアの戦いのあとで、このときは少なからぬ報酬でマルドニオスに雇われてアソポス河畔にいたわけで、かれはスパルタ人への憎悪の念と欲とで大いに気負い立って生贄儀式を行なっていた。

しかし生贄による吉兆の予言が出ず、これはペルシア自身によっても、それに与して随行しているギリシア人によっても同じだった(ギリシア人にはレウカスのヒポマコスという専属の占者がいた)。一方、ギリシア軍が続々と増え続けて大軍になっているのを見て、ヘルピスの子ティマゲニデスというテーベ人が、ギリシア人が毎日やってくるので、キタイロン山の間道を封鎖すれば、多数の流入を阻止できるだろうと、マルドニオスに助言した。

[9.39] ティマゲニデスが右の進言を申し出たときには、両軍が対峙すること八日におよんでいた。マルドニオスはその進言が適切であると判断し、騎兵隊をプラタイアに通じるキタイロン山の間道に送った。この間道は、ボイオティア人は「三つ頭」と呼び、アテナイ人は「樫頭」と呼んでいたが、騎兵隊を派遣したことは全くの無駄ではなかった。

というのも、彼らは、ペロポネソスからギリシア軍に食糧を供給するために平地に向かっていた五百頭の荷役獣と、荷車について来ていた男たちを捕獲したからである。この獲物を制圧すると、ペルシア人は人も荷役獣も情け容赦なく屠った。そして殺戮に倦むと、生き残った者たちを取り囲み、マルドニオスのいる宿営に連行した。

[9.40] その後、両陣営はどちらも戦端を開きたがらず、さらに二日間待機していた。夷狄軍はアソポス河まで行き、ギリシア軍の出方をうかがったが、どちらの軍も河を越えようとしなかったためである。しかしマルドニオスの騎兵部隊はギリシア軍への攻撃を絶やさず、これを悩ましていた。というのも、テーベ人がペルシアに与すること熱心で、戦いに気をはやらせていたことから、常に騎兵隊を会戦させるように仕向けており、それを受けてペルシア人やメディア人が武勇を誇示しようとしたからである。

[9.41] そして十日が経過するまで、これ以上のことは起きなかった。十一日目になるとギリシアの軍勢は大きく数を増し、マルドニオスは戦が延び延びになっていることにひどく苛立っていた。そしてゴブリアスの子マルドニオスと、クセルクセスから厚く信頼されている数少ない要人の一人であるファルナセスの子アルタバゾスが協議することになった。

その会談における彼らの考えは次のようなことだった。アルタバゾスは、できるかぎり速やかに陣をたたみ、全軍をテーベの城壁内に進めるのが最善の策だとした。そこには大量の食糧と荷役獣のための飼い葉が保存されているゆえ、そこで腰を落ち着け、以下の策によって任務を完遂するべきだと言った。

ペルシア軍は貨幣やそれ以外の形の黄金を大量に保有しており、そのほか銀や銀の酒杯も大量に持っているので、それらをギリシア全土にまんべんなく、特にギリシア諸国の要人に惜しまず送って与える。そこでかれが言うには、そうすればギリシア人は、たちまちその自由を放棄するだろうから、ペルシア人は戦いの危険を冒すべきではないと言うのであった。かれのこの意見はテーベ人のそれと同じで、かれもまた先を予見していたといえる。

ところがマルドニオスの考えは、極めて過激かつ頑迷で、全く譲歩する余地のないものだった。かれが言うには、自軍はギリシア軍よりずっと強大であるから、すでに集結しているギリシア軍が、これ以上膨れあがらないうちに早急に戦闘を開始するべきだと主張した。ヘゲシストラトスの生贄占いに関しては、かまうことなく横へおいておき、占いによって吉兆を求めることもせず(19)、ペルシアの慣習に従って戦端を開くべきだと言った。

(19)曲解すること。神に無理強いすること。「強要された神託」。

[9.42] 王から軍の指揮権を授けられているのはアルタバソスではなく、マルドニオスその人であったゆえ、その考えに異を唱える者は誰一人なく、結局はその意見が通ることになった。そこでかれは味方のギリシア人部隊長や将軍たちを呼びつけ、ペルシア人がギリシアで潰滅させられるという予言を知っているかどうかを訊ねた。

呼びつけられた者たちは、予言を知っている者も知らない者も、誰も口をつぐんだままだった。知っていた者たちは、それを口にするとわが身に危険がおよぶと見ていたからで、そこでマルドニオスが語った。
「貴殿らは何も知らぬか、あるいはそれを公言するのを怖れているかのどちらかであろうゆえ、良く知っているわが輩が話してやろう」

「ペルシア人は、ギリシアに来てからデルフォイの神殿を略奪したあと、全滅する定めにあるという神託が下されているのだ。我らはその神託のことを知っていたので、それらには近寄りもせず、略奪しようともしなかった。ゆえに我らは滅びるはずがないのだ。であるから、貴殿らのうちペルシアに好意を寄せている者は安心するがよい、我らがギリシアを打ち負かすであろうゆえ」

マルドニオスはこのように語り、翌日の早朝に戦端を開くための準備をととのえ、諸事万端遺漏なきようにせよと、一同に下知した。

[9.43] さてマルドニオスがペルシア人たちに語り聞かせた神託は、ペルシア人にではなく、イリリア人やエンケレイス人に下されたものであることを、私は知っている(20)。ただし、この合戦に関するバキスの予言が残されている。

  テルモドンの流れとアソポス河の草深き河畔に
  ギリシア軍は集結し、夷荻語の雄叫びあがれり
  運命の日来たりなば、あまたのメディア人弓兵は
  機を待たずして戦に果てようぞ

(20)北西部に居住するこの部族の、ギリシア、特にデルフォイに向かったときの、伝説上の遠征に関する神託。

私は、この予言やこれとよく似たムサイオスの予言が、ペルシア人に関するものであることを知っている。なお、テルモドンというのはタナグラとグリサスの間を流れる河である(21)。

(21)テーベの少し北西

[9.44] マルドニオスによる神託についての聞き取りと督励が終わったあと、夜になったので軍は歩哨を立てた。そして夜も更け、ものみな静まりかえり、兵士たちも深く眠りについたころ、マケドニアの王にして、その部隊の司令官アミンタスの子アレクサンドロスが、アテナイの前哨部隊に馬で乗りつけ、司令官たちと話したいと告げた。

歩哨兵の多くはそこに残ったが、それ以外の兵士たちは司令官のもとへ駆け戻り、ペルシアの陣営からひとりの騎兵が馬で到来し、司令官たちの名前を挙げ、それらの者たちと会談したいと言うのみで、他のことは何も話さない、と注進におよんだ。

[9.45] それを聞いた司令官たちは、すぐさまその歩哨とともに前哨隊のところへ向かった。そこでアレクサンドロスは彼らにこう語った。
「アテナイの方々よ、いまから話すことは、貴殿らがパウサニアス以外の誰にも漏らさぬものと信じた上での内密のことである。であるから、みどもが破滅するかどうかは、貴殿ら如何にかかっているのだ。実のところ、みどもがギリシア全土のことを案じていないのであれば、このようなことは言わなかったであろう」

「みども自身は古来の家系よりギリシア人の血を引く者であるゆえ、ギリシアが自由を失って隷従するのを見るに忍びないのだ。そこで言うのだが、マルドニオスと麾下の軍は、生贄儀式の吉兆を得ることができていない。さにあらずんば、貴殿らはとっくに合戦を始めていただろう。しかし、ここに至ってかれは予言を無視し、明日の払暁を待って攻撃を開始するつもりだ。これは察するところ、お手前方の軍勢が依然増え続けているためであろう。されば、貴殿ら、応戦準備を急がれるがよい。ただし、マルドニオスが合戦を延ばした場合には、動くことなく、じっと待っておられるべきと存ずる。かの軍には数日分の食糧しか残されておらぬゆえに。

そこで、こたびの戦が貴殿らの望み通りの結果に終わるなら、貴殿らが予期せぬうちに突然夷狄軍の攻撃を受けぬよう、マルドニオスの胸の内を報せ、ギリシアのために、このような必死の行動を取ったみどもも、隷従のくびきから解き放っていただくよう、是非とも考慮していただきたい。これをお知らせしたのはマケドニアのアレクサンドロスである」
このように告げて、彼は騎馬で宿営内の自分の部隊に戻っていった。

[9.46] そこでアテナイの司令官たちは右翼に行き、アレクサンドロスから聞いたことをパウサニアスに伝えた。それを聞いたパウサニアスはペルシア人に怯えて、次のように語った。

「夜明けに合戦が始まるのであれば、貴殿らアテナイ人がペルシア人に対峙するのが最善の策であるゆえ、我らは貴殿らの正面にいるボイオティアとギリシア人に向かうことにする。何と言ってもマラトンでメディア人と戦ったのは貴殿らで、彼らを知り、その戦い方を知っているのはアテナイ人で、我らは彼らのことを知らず、接したこともないのであるから。我らスパルタ人はボイオティアやテッサリアと戦った経験があるが、メディア人と戦ったことはないのだから。そこで、我らは武器を持って配置を換えていただき、貴殿らがこの翼に移り、我らが左翼に移ることにしてもらいたい」

これに対してアテナイ人はこう返答した。
「我らもまたペルシア人が貴殿らの正面に対峙したのを見た最初から、同じことを進言しようと思ってはいた。だが、貴殿らの不興を買うことを怖れ、それを言い出さなかったのだ。されば、貴殿らみずからがそれを望んでおられるゆえ、我らもまた貴殿らの話を喜んで受け入れ、言われる通りにしようではないか」

[9.47] この件に関しては双方が納得したので、夜明けに部隊配置を交代した。ところが、これに気づいたボイオティア人はマルドニオスに注進したところ、かれもまたすぐに部隊配置を換え、ペルシア人部隊をスパルタの正面に移した。すると、これを知ったパウサニアスは、敵に気づかれずに動くことは不可能と悟り、スパルタ人部隊をまた右翼に移した。そしてマルドニオスもまた同じく、ペルシア人部隊を左翼に戻した。

[9.48] 全てが再び元の配置に戻ったところで、マルドニオスは使者をスパルタに送り、伝言を伝えさせた。
「スパルタの方々よ、諸君はこの近辺の人々の間では、たいそう勇敢だという評判だ。貴殿らは戦場から逃げ出すことなく、敵を斃すか、みずからが斃されるまで、持ち場を放棄せず踏みとどまるということで、尊敬されている。しかしながら、こたびの動きを見る限り、それは真実ではないようだ」

「なんとなれば、合戦を始め、互いに干戈を交える前に、貴殿らは持ち場を離れて逃げ出し、まずアテナイ人に我らと腕試しをさせ、貴殿ら自身は我らの奴隷部隊に当たるように動いたからだ」

「これは武勇で聞こえた人間のすることではない。否、我らは貴殿らをひどく誤解しておったのだ。貴殿らの評判を聞く限り、貴殿らはペルシア人以外誰とも戦わないという使者を送ってくるものと、我らは期待していたゆえ、そのつもりでいたのだ。しかし、貴殿らはそのような申し出をする様子もなく、むしろ我らを前にして怯え出す始末。されば、貴殿らからの挑戦の申し出がないうえは、逆に我らが挑戦をたたきつけることにする」

「貴殿ら、ギリシアでは最強と評判を取っているからには、ギリシアを代表し、また我らは蛮族を代表しておるゆえ、なにゆえ双方数を同じくして戦わないのであるか?他の部隊も戦うのが良いと我らが判断すれば、あとから戦わせることにしよう。逆にそれは不穏当で、我らだけが戦えば充分と判断すれば、最後まで我らで戦おうではないか。そしてどちらが勝利をおさめようとも、それをもって全軍の勝利と、しようではないか」

[9.49] 使者はこう布告し、暫く待っていたが、誰も返答しなかった。やむなくかれは帰還し、事の次第を報告した。それを聞いたマルドニオスは大いに喜び、かりそめの勝利に鼻を高くし、さっそく騎兵部隊を送ってギリシアを攻撃させた。

騎兵隊はギリシア軍に到来すると、弓矢と槍を放って大いに敵の全軍を痛めつけた。なにしろ彼らは弓を武器としていたので、反撃が困難だったためである。そして騎兵隊はギリシア全軍が水を汲んでいるガルガフィアの泉を蹂躙し、破壊してしまった。

その泉の近くに布陣していたのはスパルタ人だけで、ほかのギリシア人部隊はそこから離れた場所で、アソポス河の近くに布陣していた。とはいうものの、敵の騎兵隊や弓兵に妨害されるため、河から水を汲むことはできなかったのである。

[9.50] このように、水源を遮断され、騎兵隊に攪乱されたことから、ギリシア人司令官たちは右翼のパウサニアスのもとに集まり、現状に関して、またその他の事項に関して協議した。私が話したこと以外にも数々の問題があったからである。というのも、彼らには食糧が残されておらず、食糧を運ぶべくペロポネソスに送り出した従者たちが騎兵隊にさえぎられ、陣地に達することができないでいたのだ。

[9.51] そして協議の結果、ペルシア軍がその日の戦いを保留するなら、「島」(22)に移動することにした。ここは彼らが布陣していたアソポス河とガルガフィアからおよそ二キロメートル(*)離れており、プラタイアの街の前面にあった。

(22)キタイロン山から北または北西に数本の河が流れていて、それらが合流してオイロイ河という細流になっている。このうち、二つの流れの間に細長い中州があった。ヘロドトスが述べた頃と異なり、現在は中州はない。
(*)原文では10 furlongs。1 furlong≒220ヤード≒200メートル。

陸地に「島」があるというのは、こういうことだ。この河はキタイロン山から平原へ流れ下り、二つの流れに別れている。そして再び合流するまで六百メートル(*)ほどの隔たりがある。合流したあと、これはオイロイ河と名を変える。この地方の住民が言うには、この河はアソポスの娘だという。

(*)原文では3 furlongs。

この場所なら水は大量にあるし、いまは面と向かい合っている騎兵隊にも妨害されないというので、ギリシア軍はここへ移ることにした。そこで、ペルシア軍に悟られぬよう、また騎兵隊に追われて攪乱されぬよう、移動するのは第二警備時刻(午後九時~午後十一時)に実行すると決めた。

さらに、アソポスの娘オイロイ河の分流によって囲まれた場所に到着したあとは、食糧を受け取りに行った従者たちがキタイロン山に足留めされているので、彼らを救出すべく、軍の一半を割き、キタイロン山に派遣することも決定した。

[9.52] このようにギリシア軍では決定したものの、その日は終日にわたり騎兵隊の耐えざる攻撃に苦しめられた。日が暮れて騎兵隊の攻撃もやみ、夜になって離脱すると決めた時間になると、軍の大部分は撤退を開始し、その地を離れた。ただし、彼らは打ち合わせた場所に行くつもりはなく、移動し始めるや、嬉々として騎兵隊を振り切り、プラタイアの街に向けて逃げて行った。そしてガルガフィアの泉からおよそ四キロメートル(*)離れたところにある街外れのヘラ神殿まで行き、その神殿の前に武器をおいた。

(*)原文では20furlongs。

[9.53] そうして彼らはヘラ神殿の周辺に宿営した。しかしパウサニアスは、陣営から彼らが出発するのを見て、彼らが打ち合わせた場所に向かっているものと思い、スパルタ人にも武器を持たせ、先に行く者たちに続いて行くよう、命令した。

かくて他の隊長たちはパウサニアスの命に従おうとしたが、ピタネ部隊(23)の隊長であるポリアデスの子アモンファレトスだけは、蛮族に後ろを見せることを拒み、みずから進んでスパルタ人の顔に泥を塗るようなことはしたくないと主張した。そしてかれはその直前に開かれた協議の場にいなかったので、このような軍の動静を見て奇怪に思っていたのだ。

(23)第三巻五十五節。ツキジデス「歴史第一巻二十節」では、スパルタの公式隊形としての「Πιτανάτης λόχος = Pitanátis lóchos;ピタネ隊形」の存在を否定している。ヘロドトスの言うピタネの意味ははっきりしない。

パウサニアスとエウリアナクスは、アモンファレトスが命令に服しないことに困惑したが、それ以上に、かれが拒むことでピタネ部隊をおき去りにすることについても困っていた。他のギリシア部隊との協定を実行し、アモンファレトスを残しておくと、かれとその部隊は全滅することを危惧したのだ。

このような考えから、二人はスパルタ軍をその場所に留め、アモンファレトスの誤りを正そうとした。

[9.54] かくてこの二人は、スパルタ人とテゲア人の中で、ただひとり残っていたアモンファレトスを説得していた。その頃、アテナイ人は何をしていたかといえば、彼らは、スパルタ人の言うこととすることが、ちぐはぐになる性向を充分弁えていたので、じっとして持ち場を離れずにいた。

しかし軍が陣営を後にして動き出すと、スパルタ人が果たして出陣しようとしているのか、撤退しようとしているのかを見極めるためと、アテナイ軍はどうするべきかをパウサニアスに質すため、アテナイは自軍の騎兵を一人送り出した。

[9.55] その伝令がスパルタ人の所に到着すると、スパルタ軍は今までいた場所に留まっていて、司令官たちが激論している最中だった。エウリアナクスとパウサニアスが、かれの部隊だけをそこに残して危険に晒すべきではないと、アモンファレトスを説得してはいたが、何としてもかれを納得させることはできなかった。そしてついに口論となったところへ、アテナイからの伝令が到来したのであった。

アモンファレトスは、口論の最中、両手で大石を掴み、これが異国人すなわち夷狄人から逃げ出すことに反対するための投票石だ、と叫び、パウサニアスの足下にそれを投げつけた。パウサニアスは、この痴れ者め、と言い返しつつ、一方で、アテナイからの伝令が問い質した件については、現状をありのままに伝えるようにと答え、ついてはアテナイ軍はスパルタ軍に合流してもらいたい、また撤退するときもスパルタ軍に倣ってもらいたいと頼んだ。このような次第で、伝令はアテナイ人のもとへ帰って行った。

[9.56] さて夜が明けても論争は続いていて、パウサニアスは麾下の軍をそのままに留めていたが、ついに下知を下し、残り全ての軍を丘陵地に移動させたが、テゲア兵もこれに続いた。こうすれば、アモンファレトスもじっと残っていないだろうという思惑があったからだが、事実は全くその通りになった。

そしてアテナイ軍も進発したが、スパルタ軍とは逆の方向に進んだ。すなわち、スパルタ軍は敵の騎兵隊を怖れて、高台とキタイロン山の山裾を離れることなく進んだのに対し、アテナイ軍は下って平原に進路を取った。

[9.57] さてアモンファレトスは当初、パウサニアスは決して自分とその軍を置き去りにしないだろうと高をくくっていたので、その場所から離れないことに固執していた。ところがパウサニアスの軍が遠ざかると、スパルタ軍は本当に自分たちを置き去りにするつもりだと解し、自分の部隊兵たちに武器を取らせ、ほかの部隊の後に続くべく、歩調を揃えて行軍させた。

その本隊は、およそ二キロメートル先を進んでいたが、モロイスという河の畔でアモンファレトスを待ち受けていた。そこはアルギオピオムという場所で、ここにはエレウシス人のデメテル神殿もあった。本隊がここで待っていたのは、アモンファレトスとその部隊が元の配置を離れず、そこに留まったままでいる場合には、その場所からなら、かれの救援に駆けつけることができるからであった。

そしてアモンファレトスの部隊が本隊に追いつくと、間を置かずして夷狄の騎兵隊が攻撃を仕掛けてきた。というのも、騎兵隊はいつも通りの行動に出ていたのが、前日までギリシア軍がいた場所に誰もいないのを見て、さらに前方に馬を進め、ギリシア軍に追いつくやいなや、襲いかかったというわけである。

[9.58] マルドニオスは、ギリシア軍が夜の闇に紛れて陣を離れたことを知り、その陣営から人がいなくなっているのを見ると、ラリッサのトラクスとその兄弟エウリピロス、トラシデイオスを呼びつけて言った。

「アレオラスの息子たちよ、この地が空になっているのを見て、何か言うべきことがあるか?彼らの隣人たるお主らは、スパルタ人は決して戦場から逃げ出すことなく、戦闘にかけては無類の勇者であると言い続けておったな。ところが、その同じ者どもが、お主らも見たとおり、戦闘部署を変わろうとし、今度は夜の間に逃げ出しおったわ。それが、この地上で真実勇猛無比とされる者たちと勝敗を決するにあたり、自分らは取るに足りない者であることをみずから証明し、同じく取るに足りないほかのギリシア人の中で、単に名声を博していただけであることをさらけ出したということじゃ」

「お主らとしては、ペルシア人にはまったく接したことがないし、お主らがある程度は知っている、あの者どもを賞賛することについては、わが輩は大目に見ておったのだ。それよりも、アルタバゾスが恐怖にかられ、陣をたたんでテーベに立て籠もるべきだという怖じ気づいた策を言い出したことに、わが輩は大いに驚かされたものだ。この意見についてはわが輩から王にきっと報告するつもりであるが、それについて論じるのは、ほかの機会に譲ることにしよう」

「しかし今は、やつらのあのような動きを許すべきではなく、やつらを追跡して捕らえ、過去に彼らがペルシア人に働いた悪業のことごとくに関して、その報いを受けさせねばならないのだ」

[9.59] このようにマルドニオスは言ったあと、ギリシア軍は逃走しているものと想定し、ペルシア人部隊を率いてアソポス河を全速で渡り、ギリシア軍を追跡した。かれが目標にしていたのはスパルタ兵とテゲア兵だけで、別の道を進んでいたアテナイ軍は、丘の影に隠れてマルドニオスには見えていなかったのだ。

ギリシア軍を追ってペルシア人部隊が出発するのを見て、他の蛮族部隊も合戦の合図を挙げて全速力で追跡を開始したが、そのありさまは、隊列も部署も乱れに乱れたままだった。かくて、蛮族軍兵士たちはギリシア軍を一挙に潰滅するかのごとく、隊列を乱したまま一団となって喚声を挙げつつ駆けていった。

[9.60] 一方のパウサニアスは騎兵隊の攻撃を受けると、アテナイ軍に一人の騎兵を送り、次の伝言を託した。
「アテナイの諸賢へ。ギリシアが隷従の憂き目に遭うか自由を確保するかの瀬戸際となる、この大戦にあたり、我らスパルタ人および汝らアテナイ人は同盟軍の裏切りにあい、昨夜のうち彼らに逃げられてしまった」

「かくなる上は、いま我らがなすべきことは決まったも同然だ。すなわち我らは可能な限りの力を振りしぼって防戦し、互いに助け合わねばならない。かりに敵の騎兵隊が先にアテナイを攻撃したなら、ギリシアに忠誠を示している我らとテゲア兵が、諸賢を救援する義務を負う者である。しかし敵の攻撃の矛先が我らに向かっている現状では、最も激しく攻撃されている部署に諸賢が救援に来るのが当然の理というもの」

「しかし、アテナイの側に、我らを救援に来られない何か不都合な事態が生じた場合には、せめて弓兵なりと送ってもらいたい。こたびの戦においては、諸賢の戦闘意欲が他のギリシア諸国をはるかに上回って高いことを承知しているゆえ、この言上に賛同してくれるものと、我らは確信している」

[9.61] これを聞いたアテナイ軍は、できる限りの防衛支援をスパルタに送るべく進軍しようとしたところ、ペルシア王に与し、アテナイに対して布陣しているギリシア人の攻撃に晒されてしまった。接近してきた敵兵の攻撃を受けているため、当面はアテナイから救援を送ることは不可能となった。

そしてスパルタとテゲアの部隊は孤立してしまった。重装兵と軽装兵を合わせ、スパルタ兵は五万、スパルタから決して離れることのないテゲア兵が三千だった。そこでマルドニオスの軍と干戈を交えるべく、彼らは生贄による占いを行なった。

占いの予兆は凶と出たが、その間にも多くの兵士が斃され、それをはるかに上回る兵士が負傷した。ペルシア兵は盾を防禦壁にし、雨あられのごとくに矢を放って攻撃していたのである。スパルタ軍が激しい攻撃に晒され、占いも当てにできないことから、パウサニアスはプラタイアのヘラ神殿を仰ぎ見て女神の名を叫び、我らの望みを絶ち給うなと祈願した。

[9.62] かれがまだ祈りを捧げている間に、テゲア兵が他の部隊を差しおいて真っ先に飛び出し、蛮族軍に向かって行った。そしてパウサニアスが祈り終わるやいなや、スパルタ軍の生贄占いが吉と出たので、彼らもペルシア軍に向けて隊陣を進めた。それに対するペルシア軍はといえば、弓を投げ捨て、迎え撃つ態勢を取った。

最初に、彼らは盾を防禦壁として戦ったが、それが破られると、デメテル神殿の辺りでの長時間の激戦となった。そして蛮族軍兵士たちは敵の槍を掴み、これをへし折ったため、ついには肉薄しての白兵戦となった。

ペルシア人は勇気も力も劣ってはいなかったが、身を守る鎧をまとっていなかったこともあり、その上戦闘に慣れていなかったため、相手の戦い巧者ぶりに適うものではなかった。彼らは単独で、あるいは十人前後の集団となってスパルタ軍の中に突入しては斃されていた。

[9.63] その戦いの場で、マルドニオスは白馬を駆ってペルシア人選り抜きの一千の精鋭兵を従え、敵軍に向けて猛烈に攻撃を加えていた。そしてマルドニオスが生きている間は、ペルシア人兵士は持ち場に踏みとどまって防戦し、多数のスパルタ兵を斃していた。

ところが、マルドニオスが討たれ、ペルシア軍中最強とうたわれた親衛隊も崩れ去るにおよび、残りの部隊も反転退却し、スパルタ軍の前に屈する仕儀となった。ペルシア軍が敗退した大きな原因は、着衣の上に防具を着けていなかったことで、言わば軽装兵の装備で重装兵と戦ったことにある。

[9.64] かくて、以前スパルタに下された神託の予言通り、レオニダスを斃された報復は、マルドニオスに向けて完全になされたことになる(*1)。そして我らの知る限り、比類なき栄誉ある勝利を手中に収めたのは、クレオンブロトスを父に、アナクサンドリデスを祖父に持つパウサニアスだった。これに遡るパウサニアスの系譜は、レオニダスの系譜(*2)のところで、その名を挙げている。というのも、この二人は同じ祖先に繋がっているからだ。

(*1)第八巻百十四節
(*2)第七巻二百四節

マルドニオスを斃したのはスパルタの名士アリムネストスで、この人物は、ペルシア戦役のずっと後のこと、ステニクレロスの戦で三百人の兵士を率いて全メッセニア人と戦い、その三百人とともに討死にしている。

[9.65] 一方、プラタイアでスパルタ軍に完敗したペルシア軍は、隊伍を乱してテーベの自陣を目指して敗走し、以前に木材で築造していた防護壁の中に逃げ込んだ。

ここで私が驚きを隠せないのは、この戦いがデメテルの森の周囲で展開したにも拘わらず、一人のペルシア兵もその聖域の中に立ち入ったり、そこで殺されたりした形跡がないことである。彼らの大多数は神殿付近の神域外の場所で戦死していた。神事に関わることをあえて斟酌するなら、私の考えでは、エレウシスにある神殿を焼き払った者どもが神域に立ち入ることを、女神自身が拒まれたものと思われる

[9.66] この戦の結末は以上のとおりだったが、ファルナセスの子アルタバゾスは、当初より王がマルドニオスを残しておくことに反対だった。それゆえ、ことあるごとに戦に反対し続け、何の行動も起こさなかった。そしてマルドニオスのやり方が気に入らなかったアルタバゾスは、次のような行動に出た。

かれは四万という大軍を擁していたが、この合戦の結末がどうなるかは、充分見通していたので、合戦が始まると、麾下の軍に自分の歩調に合わせて進み、かれの行く方向について来るよう命じた.

このように下知し、かれはさも軍を率いて合戦に向かうかのように見せかけた。そうして軍を進めて行くと、すでにペルシア兵たちが敗走しているのが見えてきた。そこでもはやこれまでと、かれはそれまでの隊伍を解き、全速力で反転逃走し始めた。向かった先は木材防御壁でも、テーベの城壁でもなく、大至急ヘレスポントスに帰り着こうとしてポキスへ向かったのである。

[9.67] かくてアルタバゾスと麾下の軍は帰途についていたが、王に与していたギリシア人たちは、そのことごとくが故意に腰の引けた戦い振りだったなかで、ボオイティア人だけは、アテナイ人を相手に長時間の戦いを続けた。ペルシアについていた、これらのテーベ人たちは臆病なふるまいを良しとせず、勇猛果敢に戦った。その結果、この戦闘では、彼らの内で最も高名で武勇にたけた三百人の戦士がアテナイ人によって斃された。そして最後にはボイオティア人たちも総崩れとなり、テーベに向けて敗走したが、ペルシア人が敗走したのとは別の道をたどった。またほかの大多数の同盟軍も最後まで戦わず敗走し、何らの武勲を立てることもなかった。

[9.68] ペルシア人の敗走を目の当たりにして、夷荻軍が敵と一戦も交えずして逃げ出したことは、蛮族軍全体の命運がペルシア人にかかっていることの証しであると、私には思われる。こうして騎兵隊とボイオティア人の騎兵隊を除く全軍が敗走するに至ったのだが、これらの騎兵隊は常に敵軍に肉薄するしんがりを務め、友軍の敗走兵をギリシア軍から引き離して助けていた。そして優位にまわったギリシア軍はクセルクセスの軍勢を追跡し、追いついては屠った。

[9.69] この壊滅的敗走が生じている最中(さなか)、ヘラ神殿付近に留まって戦闘に加わっていなかった残りのギリシア軍のところへ、合戦が始まってパウサニアスの軍が勝利したという報せが届いた。これを聞いたギリシア軍は隊伍をととのえるのももどかしく出発した。コリント人とそれに随行している者たちは山の尾根と丘陵地帯を離れず、真っ直ぐデメテル神殿に向かう山道を進んだ。メガラ人、ペイライエス人とその一行は平原の最も平坦な道を進んだ。

メガラ人、ペイライエス人の部隊が敵に近づいて行くと、ティマンドロスの子アソポドロスに率いられたテーベの騎兵隊が、算を乱して急行してくる、この一団に気づき、これに向かって馬を走らせた。この戦闘で彼らは六百人をなぎ倒し、残りの兵たちを追いかけ、キタイロン山中へ追い込んだ。かくしてこの者たちは、誰にも気づかれることなく討死にしたのだった。

[9.70] ところで、ペルシア人とその他の軍勢は、木製の防禦塁壁の中に逃げ込むと、スパルタ人がやってくる前に櫓に登り、可能な限り壁を強化して守りを固めた。やがてスパルタ軍が到着すると、壁を巡って双方の間で壮絶な戦いが繰り広げられた。

アテナイ軍が到着するまでは、壁を攻略することに不慣れなスパルタ人に対して、蛮族軍が優位に戦いを進め、よく防戦していた。ところがアテナイ軍が到着すると壁の攻防戦は激烈を極め、長時間にわたった。最後に、勇猛にして攻撃の手を休めなかったアテナイ兵が壁をよじ登ってこれを破壊するに至り、その突破口からギリシア兵がなだれ込んだ。

一番乗りをしたのはテゲア兵で、マルドニオスの幕舎を略奪したのもこの部隊だった。その略奪品の中には、マルドニオスの所持している馬のための、全て青銅からなる飼い葉桶や、ほれぼれ見とれる数々の調度品があった。この飼い葉桶はアレア・アテナイ神殿に奉納されたが、その他全ての品々はギリシア軍全体の共有捕獲庫に運び込まれた。

一旦壁が破られると、夷荻兵たちはもはや再び隊列を整えることもなく、誰もが防戦する意欲を失い、狭いところに幾万もの人間が押し込められた状態で、茫然自失となっていた。

かくてギリシア軍による大量殺戮の結果、三十万の軍勢のうちからアルタバノスが率いて逃げた四万を除き、生き残ったのは三千に満たなかった。一方のスパルタ兵で戦死したのは総勢九十一名、テゲア兵が十六名、アテナイ兵が五十二名だった(24)。

(24)これらの人数は、「 ὁπλῖται= oplítai;重装歩兵」だけのものである。ラコニア兵や軽装歩兵が抜けている。プルタークは、プラタイアでのギリシア兵の戦死者数を六万三百としている。

[9.71] 蛮族軍の中で最も果敢に戦ったのはペルシア人歩兵とサカイ人騎兵隊で、将ではマルドニオスと言われている。ギリシア側では、テゲア兵とアテナイ兵が善戦したが、最も武勇に優れていたのは、なんといってもスパルタ兵だった。

私がかく言う唯一の証拠は、(この者たちは全て、対峙している敵を撃破したのであるから)敵の最強部隊と戦い、それを打ち破ったことにある。私が見るところ、最も勇猛に戦ったのはアリストデモスだが、かれはテルモピュレーで戦った三百人の中でただ一人の生き残りだったことから罵られ、さげすまれていた人物である(25)。これに続いて勇猛だったのは、ポセイドニオス、フィロキオン、アモンファレトスらのスパルタ人だった

(25)第七巻二百三十一節

とはいっても、最も勇敢だったのは誰かという話し合いの中で、一座中のスパルタ人たちは、アリストデモスを評して、かれは汚名を返上するため、討死にを覚悟の上で、隊列に先んじて遮二無二突進して戦功を上げたのだとした。一方のポセイドニオスは、生き抜かんとして、みずからを武勇に長けた戦士であることを示したのであって、このことから、ポセイドニオスのほうが優れていると評した。

このような評価は、単に彼らの嫉妬心からのものではあろうが、いま名を挙げた、かの戦闘で斃れた者たちは、すべてが、その栄誉を顕彰された。ただしアリストデモスだけは、以前話した汚名のために死を望んだとして、何らの栄誉も与えられなかった。

[9.72] 右の面々がプラタイアでの戦で名を馳せた戦士たちである。ところが、カリクラテスという、スパルタのみならずギリシア全土で右に出る者がいないほどの美形と謳われていた人物は、プラタイアの戦に従軍したものの、戦場から離れた場所で亡くなっている。カリクラテスは、パウサニアスが生贄占いを行なっている最中、隊列の中で座っていたところ、脇腹に矢を受けて負傷してしまったのだ。

仲間たちが戦っている中、かれは戦場からはこびだされたが、なかなか死にきれず、アリムネストスというプラタイア人に語った。自分は、ギリシアのために命を捧げることに否やはないが、残念なのは、武功を立てたいと熱望していたのに、攻撃に加われず、見るべきほどの手柄を立てられなかったことだ、と。

[9.73] アテナイ人では、デケレイア地区出身でエウティキデスの子ソファネスが勇名を馳せたと言われている。アテナイ人みずからが言うには、この地区の面々はかつて、いつの世までも語り継がれる功績を成し遂げたという。

それは、かつてティンダロス一族がヘレネを連れ戻そうとしたときのことだった(26)。彼らは大軍を率いてアッティカを蹂躙したのち、ヘレネの居場所を探して町中を荒らし回っていた。そしてデケレイアの住民、といわれているが、デケロス自身というものもいる--それはかれがテセオスの暴虐に反感を抱いていたことと、アッティカ全土のためを思っていたためだろうが、とにかくティンダロス一族に全てを打ち明け、彼らをアフィドナイまで案内したところ、その土地生え抜きのティカコスという者が、その街をティンダロス人に譲り渡したという。

(26)伝説では、テセオスとピリトウスが、アッティカのアフィドナイに匿っていたヘレネを連れ戻しに来たのは、ディオスコリである。

この功績によって、デケレイア人はスパルタではあらゆる税を免除され、祝祭時には貴賓席を与えられて現在に至っている。また、この戦役から何年ものちに起きたアテナイとペロポネソス諸国との戦役において、スパルタがアッティカを攻撃したときにも、デケレイアには全く手をつけていない(27)。

(27)ただし、ペロポネソス戦争の後期には、スパルタはデケレイアを占領し、アテナイに対する威嚇に利用している(B.C.413)。

[9.74] この戦闘で最も勇猛な働きを見せた、アテナイのこの地区出身のソファネスについては、二つの話が伝わっている。そのひとつは、自分の胸甲帯に青銅の鎖で鉄の錨を繋いでおき、敵に近づくと、この錨を放り投げ、敵が隊列から突進してきても、その身を動かせないようにしていたという。そして敵が敗走に転じたときには、その錨を引き抜き、追撃したそうである。

二つ目は、最初の話とは逆で、かれは鉄の錨など胸甲につけておらず、手にしていた盾を静止させることなく常に回転し続けており、その盾に錨の紋章をつけていたということである。

[9.75] しかしこれとは別に、ソファネスは輝かしい武勲を立てている。それというのも、アテナイがアルゴスを攻囲したときのこと、かれは五種競技に優勝したことのあるアルゴス人エウリバテスに一騎打ちを挑み、これを打ち負かしたのだ。そしてこれからずっと後のことになるが、ソファネスはグラウコンの子レアグロスとともにアテナイの将軍に就いていたのだが、金鉱山のことでエドネス人と争ったとき、ダトス(28)において戦死している。

(28)アンフィポリスにアテナイ人植民都市を建設しようしたのはB.C.465(ツキジデス;歴史第一巻百節、第五巻百二節)。ダトスはトラキア沿岸で、タソスの対岸にあった。

[9.76] さてプラタイアでギリシア軍が蛮族軍に圧勝した直後のこと、ペルシア人テアスピスの子でファランダテスという人物の、ひとりの権妻が敵方から抜け出してギリシア軍のもとへやって来た。この女はペルシア軍が潰滅し、ギリシア軍が勝利したことを知ると、みずからも、そして侍女たちも、あまたの黄金の装身具や所持する中で最も雅な衣服を纏って美々しく着飾り、スパルタ軍がまだ殺戮の真っ最中であるにも関わらず、幌馬車から降りたち、そこへ向かったのである。そしてパウサニアスがあれこれ命令しているのを眼にし、またかれの名前や国のことを何度も聞いていたこともあって、それがまさにパウサニアスであると認めると、その膝にすがって懇願した。

「あなたにおすがりしているこの私めを、拐かされ囚われの身から、どうかお助け下さいまし、スパルタの王様。あなた様が、神々の神聖も神々しさも崇めることを知らぬ者どもを滅ぼされたことは、私には救われた思いでございます。私はコス島の生まれで、アンタゴラスの子ヘゲトリデスの娘にて、かのペルシア人によって力ずくでコス島から連れ出され、虜(とりこ)にされていたのでございます」

そこでパウサニアスが言うには、
「案じるにはおよばぬぞ、ご婦人。そなたは我にすがってきたことでもあるし、またそなたがまことにコス島のヘゲトリデスの娘であるなら、そなたは、かの島の住民の中で私に最も近しい友の娘と言うことになる」
といって、とりあえず近くにいるエフォロス(監督官)たちに彼女を預けた。そしてその後、彼女の望んでいたアイギナに送り届けさせた。

[9.77] この女がやって来た直後、全てが終わったあとになってから、マンティネアの部隊が到来した。そしてはるかに遅れて合戦にやって来たことが分かると、かれらはひどく取り乱し、これをもってして自分たちは万死に値する、といった

そしてアルタバゾスに率いられたメディア人部隊が敗走していることを知ると、テッサリアまでは追跡しようとしたが、スパルタはそれを許さなかった。

かくてその部隊が祖国に戻ると、マンティネア人たちは部隊の指揮官たちを国から追放してしまった。マンティネア部隊がやって来たあとにはエリス人部隊が到来したが、かれらもまたひどく取り乱して帰って行った。かれらもまた軍の指揮官たちを国外追放に処した。以上が、マンティネア人とエリス人の動向である。

[9.78] さてここに、アイギナの指導者の一人で、ピティアスの子ランポンという人物が、プラタイアにおけるアイギナ人部隊にいた。この男はパウサニアスのもとへ急いで来るや、実に非常識な意見を進言した。

「クレオンブロトスのご子息よ、貴殿は偉大かつ栄光に満ちた並々ならぬ武勲を立てられた。ギリシアを救済した貴殿に、神は、我らが知るギリシア人の誰よりも高い名声を授けられた。そこで、以後は残された懸案事項を片付けなされ、それによって貴殿の名声を一層高め、蛮族が二度とギリシアに無謀な侵略をせぬようになさるべきだ」

「テルモピュレーでレオニダスが討たれたとき、マルドニオスとクセルクセスは彼の首を刎ね、柱に括りつけてさらし首にしているゆえ、同じことをやり返されるがよい。そうすれば貴殿は全てのスパルタ人はもとより、ほかのギリシア人からも賞賛を浴びるだろう。マルドニオスを磔(はりつけ)にすることで、貴殿には父の兄となるレオニダスの復讐を果たすことなるでありましょう」

[9.79] ランポンは、パウサニアスの意を体したつもりで、このように進言したのだが、当のパウサニアスは次のように返答した。
「アイギナの方よ、貴殿の好意と配慮については有り難く思うが、貴殿は真っ当な判断ができていないようだ。まずそなたはわれとわが祖国、私の所業を賞賛してくれたが、次には、遺体をはずかしめる行ないを提言し、それを実行すれば一層賞賛を勝ち取るだろうなどと、埒もないことを言って、わが輩をおとしめてくれたわ。そのような所業は蛮族にはふさわしかろうが、ギリシア人には似つかわしくないことであり、しかも蛮族であっても、それは非難さるべき所業だと、我らは考えているのだ」

「わが輩としては、そのようなことまでしてアイギナ人たちや、それをうれしがる者どもの気に入られようとは全く考えておらぬ。神意にそむかぬ正当な行ないと言説によってスパルタ人を喜ばすことができるなら、私はそれで充分なのだ。貴殿が復讐を勧めたレオニダスについては、充分報復を加えたものと、わが輩は理解している。そして、かれをはじめテルモピュレーで最期を迎えたほかの者たちは、ここに斃れている無数の者たちの命によって、顕彰され報われているのだ。そこで貴殿に宣告しておくが、二度と再びこのような提言や意見を持って来るでない。むしろ、制裁されずに済むことを有り難く思うがよい」
これを聞くと、ランポンはその場を立ち去った。

[9.80] その後、パウサニアスは戦利品には誰も手を触れてはならぬ旨の布告を出し、ヘロット(奴隷)たちに命じてその戦利品をすべてひと所に集めさせた。ヘロットたちは陣営の至る所に散らばり、金銀で飾られた幕舎や、金箔、銀箔張りの寝椅子、黄金の大椀や酒杯、その他の酒器を見つけ出した。

また荷馬車の中には、金や銀の鍋をおさめている袋が見つかった。付近に横たわっている遺体からは、腕飾り、首飾り、黄金の短剣などを剥ぎ取ったが、刺繍入りの衣類には見向きもしなかった。

ヘロットたちはそれらの多くを掠め取り、アイギナ人に売りさばいたが、隠しきれずに引き渡した品々も大量にあった。アイギナ人の巨万の富は、まずこのことに由来しており、それというのも、彼らは金を青銅と偽ってヘロットたちから買い取ったからである。

[9.81] 戦利品を集め終わると、ヘロットたちはデルフォイの神への十分の一税とするものを取り分け、それを元手に黄金の鼎を作り、祭壇に一番近いところにある三つ首蛇の青銅像(29)に取りつけて献納した。そして別に、同じ元手からオリンピアの神にも十キュービット(*)の高さになるゼウス神の像を造って献納した。またイスマス(地峡部)の神にも、七キュービットの高さになる青銅のポセイドン像を献納した。これらに必要な戦利品を取り分けた後、彼らは残った分を、それぞれの武功に応じて分配した。分配されたのは、ペルシア人の妾や金銀、その他の調度品、荷役獣などだった。

(29)大釜を支えている青銅の三つ首蛇は、ペルシアに対する全ギリシア同盟の戦勝を記念するものである。その蛇の台座は、コンスタンティノープルのアトメイダヌ広場(古代競馬場の跡地)に現存している。これはローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位306年~337年)の命によりここへ移設され、1856年以後は一般に展示され、碑文は解読されている。ギリシアの31の国名が、螺旋の3番目から13番目にかけて、11の螺旋に刻銘されている。
(*)1キュービット=45~56Cm

プラタイアの戦いで最も戦功のあった者にどれほどの褒賞が与えられたかは、誰も語っていない。ただ私が思うには、その者たちも褒賞を受け取ったに違いなく、さらにパウサニアスには、女、馬、タラントン(黄金)、駱駝、その他すべての品目について十倍の数だけ与えられているはずだ。

[9.82] このほかにも伝えられていることがある。それはクセルクセスがギリシアから逃げ帰る際、自身の調度品をマルドニオスに残していた件である。金銀で飾られた調度品や、きらびやかな色合いのつづれ織りの帳(とばり)をパウサニアスが見ると、かれはパン焼き職人や料理人に命じてマルドニオスに供していたいつも通りの料理を用意させた。

料理人たちが命じられた通りにし、金銀で豪華に飾られた寝椅子や食卓、また晩餐用の豪華な調度、さらには目の前に並べられた涎をそそる数々の料理にパウサニアスは目を見張り、挙げ句は冗談交じりに自分の従僕にラコニア風の夕食を用意させた。それができあがると、両者の食事があまりに違いすぎるので、パウサニアスは呵々大笑し、ギリシア軍の司令官たちを呼び寄せた。

司令官たちが集合すると、パウサニアスはそれぞれの料理を指さしながら語った。
「ギリシアの諸君、ここに来てもらったのは、ほかでもない、メディアの大将が見ての通りの食餌を楽しんでいるというのに、このような惨めな食餌しかしておらぬ我らのところへやって来て、それを略奪しようとしたバカバカしさを見せたかったからなのだ」
このようにパウサニアスは司令官たちに語ったという。

[9.83] この戦役から長い日月を経てからも、多くのプラタイア人が金銀その他で満杯になっている葛籠(つづら)を見つけ出している。

さらには、プラタイア人は戦死者の遺体を一箇所に集めていたのだが、その遺体から肉がすっかり剥がれ落ちると、頭蓋縫合がなく、全て一体となっている頭蓋骨が見つかった。また前歯も奥歯も一体となって一つの骨となっている上顎の骨も現われた。そしてまた背丈が五キュービット(*)もある人骨も見つかった。

(*)[9.2] 3~[9.2] 8メートル

[9.84] マルドニオスの遺体については、戦闘のあった翌日には行方が分からなくなっていたが、誰が運び去ったのか、私には確かなことは言えない。しかし聞くところによれば、多くの国でさまざまな者たちがマルドニオスを埋葬したという。そしてそれらのうちの多くが、マルドニオスの息子アルトンテスから多額の褒賞を得たということを、私は聞いている。

誰が本当にマルドニオスの遺体を盗み、埋葬したのか、確たる情報は得ていないが、一部では、埋葬したのはエフェソスのディオニソファネスだと言われている。以上がマルドニオスの埋葬に関するいきさつである。

(*)塩野七生「ギリシア人の物語 Ⅰ」によると、マルドニオスの遺体が行方不明になったという記述はなく、パウサニアスはその遺体を丁重に葬ったと記されている。

[9.85] ところで、プラタイアでの戦利品を分配し終えると、ギリシア人は自軍の戦死者を各国別に別々の場所に埋葬した。スパルタは三つの墳墓を作り、そのひとつにイレンス(30)と呼ばれる者たちを埋葬した。これにはポセイドニオス、アモンファレトス、フィロキオン、カリクラテスなどが含まれていた。

(30)20才から30才までの若年者。

そしてひとつ目の墳墓には青年戦士を埋葬し、二番目の墳墓にはそのほかのスパルタ兵を、三番目の墳墓にはヘロット(奴隷)を埋葬した。このようにしてスパルタ人は死者を埋葬したが、テゲア人は別の場所に死者をひとまとめにして埋葬した。アテナイ人も同様にして死者を埋葬した。メガラ人とプリウス人も同様にして騎兵隊に斃された者たちを埋葬した。

これらの人々の墳墓は遺体で埋め尽くされたが、その他の国の墳墓についてはプラタイアにあるものの、それは空の塚であって、それらの国が戦闘に加わっていないことを恥じて、子孫のためを思って築造したと、私は聞いている。実際、アイギナ人の墓と呼ばれている塚があるが、私が聞いてまわったところでは、これは十年も経た後に、アイギナの国賓だったプラタイア人アウトディコスの子クレアデスが、アイギナ人の要望で築造したものである。

[9.86] プラタイアで戦死者の埋葬を終えると、ギリシア軍はただちに評議を開き、テーベに向けて進軍することを決定し、さらに彼らのうちペルシアに与するとした者たち、とりわけ、ティマゲニダス、アタギノスの首謀者の引き渡しを要求することを決定した。そして彼らが首謀者の引き渡しに応じなければ、街を攻略するまで引き下がらないつもりだった。

ギリシア軍はプラタイアでの攻防戦ののち、十一日目にはテーベに到着し、街を包囲して首謀者たちの引き渡しを要求した。テーベ人がその要求を拒否すると、ギリシア軍はテーベの領土を荒らし回り、城壁に猛攻をかけた。

[9.87] 攻囲開始から二十日目になって、ギリシア軍の攻撃が止むことなしと見て取ったティマゲニダスは、テーベ市民に向けて次のように語った。
「テーベ人諸君、ギリシア軍はテーベを陥落するか、わが輩をふくむ首謀者を引き渡すかするまで、攻囲をやめるつもりはないだろうゆえ、我らのためにボイオティアの地をこれ以上荒廃させるべきではない」

「敵の要求が実は金銀にあり、我らを引き渡すことが口実であるなら、国庫からそれを支払えばよい。ペルシアに与すると決めたのは我らだけの意思ではなく、全市民の意思なのだから。しかし、彼らの攻囲の目的が真に我らの引き渡しにあるなら、我らはみずから出頭し、彼らの審判に身を委ねることにする」
この言葉は潔く、また時宜をわきまえているように思えたので、テーベは首謀者たちを引き渡す旨の使者をパウサニアスに送った.

[9.88] この条件で双方が協定を結んだものの、アタギノスは街から逃亡してしまった。そしてかれの息子たちが捕らえられたが、パウサニアスは、子供たちはギリシアに反逆した共犯ではないとして罪を問わなかった。一方、テーベ人が引き渡した残りの者たちは、審問にかけられても、裏金によって告訴を取り下げられると確信していた。しかしパウサニアスは、このことのあるのを強く懸念していたので、彼らを受け取ると、全同盟軍を解散して退去させ、首謀者たちをコリントへ連れて行かせ、そこで彼らを謀殺してしまった。以上が、プラタイアとテーベに関する出来事である。

[9.89] ところで、ファルナケスの子アルタバゾスは、いまやプラタイアからはるか離れた敗走の途上にあった。かれがテッサリアに到来すると、その地の者たちはかれを歓待の宴に招待し、プラタイアで起きたことを知らぬままに、残りの軍勢のことを訊ねた。

アルタバゾスは、その戦いのことを全て正直に話すと、自分の命はもとより、率いている全員の命が危ないとわかっていた。事実を知ると、彼らは誰もが自分に攻撃を仕掛けてくるだろうと思っていたからである。それゆえにこそ、かれはポキス人には何も打ち明けなかったし、テッサリア人には次のように語った。

「テッサリアの諸君、わが輩は本隊から離れ、見てのとおりの軍勢を引き連れ、ある用件で大至急トラキアに向かっているところなのだ。マルドニオスの軍勢もわが輩にきびすを接してすぐ後に続き、こちらに進軍してくるものと思われる。諸君はかれを厚くもてなし、恭順を示されるがよかろう。そのようにしておけば、後々ほぞを噛むようなことにはならないだろう」

このように言うと、かれは大急ぎで麾下の軍を、テッサリア、マケドニアを経てトラキアに向けて真っ直ぐ進めた。その行軍は躊躇することなく、内陸の最短路を進んだ。やがてかれはビザンチンにたどり着いたが、麾下の軍勢のうち、トラキア人に討たれたり、飢餓、疲労に倒れた多くの者はあとに残してきた。そしてビザンチンからは船で海を渡った。このようにしてかれはアジアに帰り着いたのだった。

[9.90] プラタイアにおいてペルシアが敗北を喫したまさにその日、イオニアのミカーレにおいても、同様の惨劇をこうむる事態がペルシアに起きていた。スパルタのレオティキデスに率いられていたギリシア海軍がデロスに碇泊していたときのこと、サモスからトラシクレスの子ランポン、アルケストラティデスの子アテナゴラス、アリスタゴラスの子ヘゲシストラトスの三人が使者としてやって来た。この三人は、ペルシア人と、ペルシアによってサモスの僭主に任じられているアンドロダマスの子テオメストールには知られないようにして、サモス人が派遣したのだった。

彼らがギリシア諸将の前に進み出ると、ヘゲシストラトスはさまざまな事柄をあげつらいつつ、長広舌をふるった。そしてイオニア人はお手前方を見ただけでペルシアから離反し、ペルシアもまたそれに抗し切れないだろう。たとえ抵抗したところで、お手前方にとっては二度とない格好の餌食となるだろう、と言い、ギリシアに共通の神々の名を挙げ、サモスを隷属の身から解放し、蛮族を追放してくれるよう懇願した。

そして、ペルシアの船は船足が遅くてギリシア海軍にはかなうはずがなく、自分の要望はギリシア海軍にとってはたやすいことだとも語った。そして万一、これが謀略ではないかと疑っているなら、我らは人質としてギリシアの船に乗り込むことに、やぶさかでないとも言った。

[9.91] サモスからの到来者が必死に嘆願したところ、レオティキデスは、何かの予感が働いたのか、はたまた神の仕業なのか、その訪問者の名を訊ねた。
「サモスの異邦人よ、汝の名は?」
とレオティキデスが問うと、
「わが名はヘゲシストラトス(31)」
とかれは答えた。

(31)ヘゲシストラトスとは将軍という意味。

ヘゲシストラトスが続けて何か言おうとするのを、レオティキデスはさえぎり、
「サモスの人よ、汝は幸先のよい名じゃ。ではここから引き上げる前に、汝ら一同はサモスが我らの熱き同盟に間違いなく加盟することを誓約してもらいたい」

[9.92] このように言うと、かれは早速それを実行させた。すなわち、サモス人一同はギリシア人との同盟に信義の誓いを立てたのである。

こののち、残りの二人は船で去って行った。ただ、ヘゲシストラトスには、その名が縁起がよいことから、レオティキデスはギリシア海軍とともに行動することを命じた。ギリシア軍はその日は待機し、翌日になってから生贄を捧げると、吉兆を得た。占いを執行したのはイオニア湾にあるアポロニアの人で、エウニオスの子デイフォノスだった。

[9.93] かれの父エウニオスについては次のようなことがあった。それというのも、アポロニアには太陽神に捧げられた家畜(羊)の群れが飼育されており、昼間はコン河の河畔に放牧されていた。これはラクモン山に発してアポロニア地方を流れ、オリコス港付近で海に注いでいる河である。そして夜になれば、市民の中で最も高貴な血筋で富裕な者たちが一年交替で番人をつとめていた。というのも、アポロニアの人々は、ある神託によってこの家畜をことのほか大切にしていたからである。その家畜は夜には街から離れた洞窟の中に囲われていた。

ちょうどその頃、エウニオスが選ばれて家畜の番をしていたが、ある夜のこと、かれが眠り込んでしまったとき、狼が監視の目をくぐって洞窟の中に入り込み、六十頭ほどの家畜をかみ殺してしまった。このことに気づいたエウニオスは、誰にも話さず内緒にしたまま、いなくなった分の家畜を買って補充するつもりだった。

ところが、このことはアポロニアの人々に隠し通せなくなり、人々の間に知れ渡ると、彼らはエウニオスを法廷に引き出し、夜番中に眠った廉で、両目の視力を奪うという判決を下した。そしてエウニオスの視力は失われたが、その刑を執行した直後から、家畜が子供を産まなくなり、のみならず作物の収穫も以前のように得られなくなってしまった。

そこで彼らは、現在の凶事の原因を託宣者たちに訊ねたところ、ドドナにおいてもデルフォイにおいても、次の神託が降りた。託宣者たちの言うには、
「凶事の原因はアポロニアの住民が神聖な家畜の番をしていたエウニオスを不当にも失明させたことにある。なぜなら、狼を差し向けたのは我ら神々であるゆえ、かの者自身が選び納得する償いを果たすまでは、かれのために報復をやめることはない。そして償いが充分に果たされたのちには、我らも、エウニオスは幸せ者だと多くの者から思われるような恩恵を、かの者に与えようぞ」

[9.94] これがアポロニアの人々に下された神託だった。ただし、人々はこの神託を公表せず、数人の市民に事後の処理を任せたが、それは次のようになされた。エウニオスが広場で座っているところへ件の市民たちがやって来て、その傍らに座って世間話を始め、そのうちにかれの不運を同情するそぶりを見せた。このようにして話を誘導し、ついにアポロニアの人々が償いをするとしたら、どんな補償を望むか、と訊ねた。

そこでエウニオスは、神託のことを知らぬままに、アポロニアで最も豊かな農地を二箇所持っているとかれが思っている住人の名を挙げ、その地所と、街で最も立派だと思っている屋敷が自分のものになるなら、これから先の怒りはおさまるだろうし、そのように補償してもらえるなら充分だ、と答えた。

このようにエウニオスが語ると、かたわらに座していた者たちがすかさず返答した。
「エウニオスよ、アポロニアの人々は下された神託に従い、失明の代償として、貴殿がいまあげた望みをかなえることにしよう」
ことの成り行きを全て知り、欺かれたことを知ったエウニオスは、そのときは強く憤慨したが、住民たちは所有者から件の農地を買い取り、かれに与えた。そしてその日からかれには天与の予知力が備わり、それによって名声を獲得したのである。

[9.95] このエウニオスの子デイフォノスはコリント人に連れられて軍の占師を務めていた。しかしこれ以前に私は、デイフォノスがエウニオスの子ではなく、エウニオスの名を悪用し、ギリシア全土で占師の職についていた、ということを聞いている。

[9.96] さて生贄占いによって吉兆が得られたので、ギリシア軍はデロスを出航してサモスに向かった。そしてサモス島のカラモサに近づくと、そこにあるヘラ神殿の近くに錨を降ろし、海戦の準備に取りかかった。一方のペルシア軍は、敵方が向かってきたことを知ると、先に出航して去っていたフェニキア船を除き、全艦船を本土に向けて進めた。それは、ペルシア軍は海戦をしないと評議で決定したからである。

というのも、ペルシア側は海戦ではギリシア軍にかなわないと見たからで、本土に向かった理由は、クセルクセスの命によってイオニアを守るために、そこに残ってミカーレに駐屯していた軍勢の庇護下に入ろうとしたのだ。その軍勢の数は六万で、大将はペルシア人の中では容姿も背丈も秀でているティグラネスだった。

ペルシア海軍の提督たちは、その軍勢のもとへ逃げ込み、船を陸に揚げ、そのまわりに防壁を築き、これによって船を守るとともに自軍の待避所とする計画だった。

[9.97] この作戦に従ってペルシア海軍は出航し、やがてミカーレの女神(32)の神殿を過ぎて、ガエソンとスコロピオス(33)に達した。そこはその昔、パシクレスの子フィリストスが、コドラスの子ニレオスを従えてミレトスを建設したときに建立したエレウシスのデメテル神殿がある場所だった。ペルシア軍はここへ船を揚げ、その周りを岩や果樹を伐採して得た木材を用いて塁壁を築造し、さらに塁壁の周りに杭を打ち込んだ。このようにして攻城戦に備え、あわよくば勝利するかもしれない準備をした。すなわち、これらどちらの場合にも対応できるように準備をととのえたのだ。

(32)デメテルとペルセフォンの女神。
(33)ガエソンはたぶんミカーレと呼ばれている丘の南を流れる河のこと。スコロピオスは、その河の東岸に当たる場所と思われる。

[9.98] 夷狄の海軍が本土に向かっていることを探知すると、ギリシア軍は敵が逃げ出したことを残念がり、引き返すべきか、ヘレスポントスに向かうべきか思案に暮れたが、結局はそのどちらでもなく、本土に向かうと決めた。

かくてギリシア海軍は、踏板その他、海戦に必要なあらゆる装備をととのえ、ミカーレに向かって航行した。ところが、敵陣に接近しても誰一人として向かってくる者が見当たらなかった。しかも敵船が陸に揚げられて塁壁中に収容され、沿岸一体に敵の大軍が整列して布陣しているのを見て、レオティキデスは、できるだけ海岸の近くに沿って自分の船を走らせ、伝令の声を通してイオニア人たちに布告した。

「イオニア人諸君。ペルシア人はわが輩の話すことを全く理解できないはずだから、この声が聞こえている者は、わが輩の話すことを心に留めておくように。まず、合戦の際には、諸君それぞれが自由であることを忘れないことだ。その次には鬨(とき)の声、すなわち合い言葉として『ヘーベ』を忘れるな。そしてこれを聞いていない者にも、このことを知らせてもらいたい」

このような布告をした理由は、アルテミシオンにおいてテミストクレスがした理由と同じである(34)。すなわち、夷狄人がこの伝言を知らないままならイオニア人を説得できるし、伝言が夷狄人に報告された場合には、夷狄人がギリシア人部隊に不信感を抱くことになるのだ。

(34)第八巻二十二節

[9.99] レオティキデスがこの勧告を行なったのち、ギリシア軍は船を岸につけて上陸し、そこで戦闘隊形をととのえた。一方のペルシア軍は、ギリシア軍が戦闘準備を行ない、彼らがイオニア人に呼びかけているのを見て、サモス人がギリシアに味方するのではないかと疑い、まずその武器を取り上げた。

実際、かつてアッティカに残っていたアテナイ人たちをクセルクセス軍が捕らえ、その捕虜たちを夷狄軍の船が乗せて来たとき、サモス人は彼らを身請けし、路銀まで持たせてアテナイに送り出したことがある。このためクセルクセス軍の敵五百名を逃がしたとして、特にサモス人が疑われたのだ。

ついでペルシア軍は、ミレトス人が土地の地理に精通していることを口実にして、彼らをミカーレ山地の間道警備に当たらせたが、まことの理由は、ミレトス人をほかの軍勢から引き離すことにあった。このようにして、イオニア人たちが機会あらば寝返るかもしれないという猜疑心から、ペルシア人は自己防衛をはかるとともに、自分たちは枝で編んだ盾を隙間なく並べて防護壁を作り上げた。

[9.100] 戦闘準備をすべてととのえたギリシア軍は、夷荻軍に向かって軍の前線を押し出した。その最中に、ある噂が軍中に広まり、しかも使者の官杖が波打ち際に転がっているのが見つかった。その噂というのは、ギリシア軍がボイオティアの戦いでマルドニオスをやぶった、というものだった。現世の出来事には神の力が及んでいるという、あまたの兆しがあるものだが、ちょうどその時も、ギリシア軍がプラタイアで勝利した日は、ミカーレで同じことが起きようとしていた日でもあった。そしてここにいるギリシア軍に噂が流れたことで、かの軍の士気はいよいよ高まり、危険何するものぞ、という気概もいや増したのだった。

(*)プラタイアの戦い_Wikipedia

[9.101] その上、さらなる偶然の一致もあった。それは、双方の戦場にエレウシスのデメテル神殿があったことである。先に話したようにプラタイアにおいては、戦場はデメテル神殿の近くだったし、ミカーレにおいても同じだった。

そしてプラタイアでギリシア軍が勝利したという噂は本当だったが、それが勝利したのは、その日の早い時間だったのに対し、ミカーレでの勝利は、その日の午後のことだった。これら二つの出来事が同じ月の同じ日だったという事実は、その後間もなく調べた結果、わかったことである。

この噂が広まる前、ギリシア人は、自分自身のことよりもパウサニアスと麾下の軍のことを心配しており、ギリシア軍がマルドニオスに敗れるのではないかと怖れていた。ところが、この噂が広まるや、その攻撃は勢いを増し、より速くなった。かくてギリシア軍も夷荻軍も共に、島嶼およびヘレスポントスの領有が、この戦いにかかっていると見て、戦いに向けて、より一層意気込んだ。

[9.102] さてアテナイ軍およびその近くに布陣していた部隊は、前線のおよそ半分を占めていたが、彼らは海岸と平地を進んで行った。スパルタ軍とそれに続く部隊は谷や丘のある地帯を進んだ。それゆえ、スパルタ軍が迂回路を進んでいる間に、一方の翼ではすでに戦闘が始まっていた。

ペルシア軍の枝編み盾がしっかり立っている間は、ペルシア兵はよく守り、耐えて戦っていたが、アテナイ軍とそれに続く部隊が、勝利の栄光はスパルタ人には渡さず、我らがつかまん、と互いに声をかけ合い、一層意気込んで突撃するや、間もなく戦いの様相が一変した。

盾の壁を倒したアテナイ軍は、ペルシア軍のまっただ中に突入し、ペルシア方は長時間にわたり陣を保持し、反撃していたが、ついに塁壁中に逃げ込むのやむなきに至った。

アテナイ人、コリント人、シキオン人、トロイゼン人、この順に並んでいた部隊は、敵を追い、きびすを接するようにして共に塁壁内に突入した。そして塁壁が破壊されると、ペルシア人を除く蛮族は、もはや防戦をあきらめ、遁走し始めた。

そのペルシア人兵士は、数人ずつかたまって、塁壁内に突入してきたギリシア兵と戦っていた。結局ペルシア人司令官は二人が脱出し、二人が討死にした。すなわち海軍の将アルタンテスとイタミトレスの二人が脱出し、陸軍の将マルドンテスとティグラネスの二人が戦闘によって落命した。

[9.103] ペルシア兵がまだ戦っているさなか、スパルタその他の部隊が到着し、ともに力を合わせて戦いの決着をつけた。そしてギリシア軍もまたこの戦闘で多数が戦死した。特にシキオン兵の損失が目立ち、その将ペリラオスも戦死した。

メディア方に従っていたサモス人は武装を解かれていたが、当初から戦闘の帰趨が決まらないのをみて、ギリシア方を支援するつもりで、できる限りの力を尽くした(35)。ほかのイオニア人たちも、サモス人を見習い、ペルシア人を見限って蛮族を攻撃し始めた。

(35)ここの「ἑτεραλκὴς = eteralkís」は、おそらく「疑わしい」という意味。どちらかが勝利することだろう。第七巻十一節参照。ホメロスは、一方が勝利を決める「決戦」という意味にとっている。

[9.104] ペルシア軍は、みずからの安全策としてミレトス人部隊を間道の警備につかせていたが、それは、万一このような事態になったときに、無事にミカーレの山頂に道案内させるためだった。このためにミレトス兵はその任務を与えられていたのだが、同時に、本隊内にあって反乱を起こさせないようにするためでもあった。しかし彼らは命ぜられたことと全く逆の行動に出た。すなわち、遁走してきたペルシア兵たちを、わざと敵軍に向かう道に誘導し、最後にはペルシアにとっては最悪の敵となって彼らを屠った。このようにして、イオニア人はペルシアに対して二度目となる反旗を翻した。

[9.105] この合戦で最もめざましい働きを見せたギリシア人はアテナイ人たちで、その中で最も華々しい戦果をあげたのは、パンクラティオン(36)の練達者エウトエノスの子ヘルモリコスだった。この人物は、その後、アテナイとカリストスとの間で諍いが起きたとき、カリストス領のキルノスで戦死し、その遺体はゲラエストスに埋葬されている。そしてアテナイ人に次いで善戦したのはコリント人、トロイゼン人、シキオン人だった。

(36)ボクシングとレスリングを組み合わせたような格闘競技。

[9.106] さてギリシア兵は、刃向かう者も敗走する者もかまわず、多数の蛮人を屠ったあと、戦利品を浜辺に運び出したが、その中には金銀の入った幾ばくかの葛籠(つづら)も見つかった。そして敵船と塁壁をすべて焼き尽くしたのち、船で帰っていった。

船がサモスに到着すると、イオニアからギリシア人を移住させる件について、彼らは評議を開いた。すなわち、イオニアの地は放棄して蛮族支配のままとし、イオニアの住民を、ギリシアの支配下にある領土のどこに移住させるのが最善かを協議した。それは、ギリシア軍がイオニア人を永久に守り続けるのは不可能だと思われるし、他方で軍が目を光らせていないと、ペルシア人がイオニア人を無傷のままに済ませることも望み薄だったからである。

これに関して、ペロポネソス人の首長たちは、ペルシア側についていた商港のギリシア人住民をよそに移住させ、そこにイオニア人を住まわせるのがよかろうと言った。ところがアテナイ人は、イオニアからギリシア人を移住させる案には真っ向から反対し、ペロポネソス人がアテナイの植民地を云々すること自体、好まなかった。こうしてアテナイ人の強硬な反対にあい、ペロポネソス人は譲歩した。

その結果、ギリシア軍に加わっていたサモス、キオス、レスボスその他の島嶼人たちにはギリシアに忠誠を誓わせ、離脱しないことを宣誓させて束縛した上で同盟に加えた。島嶼人に誓約を誓わせたのち、ギリシア軍は、ヘレスポントスには橋がまだ架かっていると思っていたことから、その橋を破壊するつもりで、ヘレスポントスに向けて船を進めて行った。

[9.107] 一方で、戦場から逃れ、ミカーレの山中に逃げ込んだ少数の蛮人たちは、その地からサルディスに向かう道をたどった。その行進の途次、ペルシア軍が敗戦するという惨事のさなか、たまたま立ち会っていたダリウスの子マシステスが、総大将のアルタンテスをひどく罵倒した。かれは、あのような指揮ぶりは、みずから婦女子に劣ることを示すものだと罵り、王家に与えた損害は、いかなる罰をもってしても償えるものではない、と痛罵した。ペルシアでは、女に劣ると言われることは、最大の侮蔑なのだった。

このようにして散々に侮辱の言葉をあびせられたアルタンテスは、怒り狂い、剣を引き抜いてマシステスを斃そうとした。その刹那、アルタンテスのうしろに立っていた、ハリカルナッソス人でプラキシラオスの子クセナゴラスが、アルタンテスがマシステスに飛びかかろうとするのを見て、アルタンテスの腰に飛びつき、かかえ挙げて床にたたきつけた。そうこうするうち、護衛の衛兵たちもやって来て、マシステスの前に立ちはだかった。

この行ないにより、クセナゴラスはマシステス自身はもとより、クセルクセスにも、その兄弟を救ったということで恩義を施したことになった。そしてこのあと、かれは王からキリキア全土の領主に任ぜられている。またその後、この一行には特に何事もなく、ペルシア人たちはサルディスに帰り着いた。

[9.108] そのサルディスには、ペルシア王が海戦に敗れ、アテナイから逃げ帰ってから、そのまま滞在していた。そのサルディスにいるとき、王は、同地にいたマシステスの妻に心を奪われてしまった。しかし王が伝言を何度送りつけても、その夫人はことごとく無視した。かといって、兄弟マシステスへの遠慮から、王は力づくで事を運ぶつもりはなく、このことは、その夫人も同じ思いだったので、王が暴力に訴えることはないとわかっていた。そこでクセルクセスは、ことを成就する方法が他に見つからないままに、自分の息子ダリウスと、マシステスとその夫人の間に生まれている娘とを娶せるのが、その夫人を我が物にしやすい手管だと考えたのである。

かくて、然るべき礼式に則って両名の婚約の儀をすませたあと、クセルクセスはスサに戻って行った。ところが、宮廷に戻り、そこへダリウスの花嫁を迎え入れると、王の心はマシステスの夫人から離れてしまい、ダリウスの花嫁、すなわちマシステスの娘であるアルタユンテに思いを寄せるようになり、この娘に言い寄った結果、娘を手中におさめてしまった。

[9.109] しかし、時が経つうちに、この事実は次のようにして明るみに出ることになった。クセルクセスの妃アメストリスが、見事な刺繍を施した見るからに豪華なマントを織らせ、それを王に贈ったことがある。王はそれをいたく気に入り、そのマントを纏ってアルタユンテのもとを訪れた。

その女からも大いに歓待された王は、お返しに彼女の欲しいものを何なりと与えようといい、欲しいものは何かと問いかけた。するとアルタユンテは、自身とその一族が不吉な運命を背負っていたものであろうか、次のように言った。
「私が望むものは何でも下さいますのでしょうか?」
王は、何を言挙げするにせよ、それ以外のものを要求するだろうと考え、約束し、誓約したのだが、彼女は厚かましくも王のマントをねだったのである。

クセルクセスは、その要求を何とかかわそうとした。というのもアメストリスが王の不行跡を以前から疑っていて、そのマントが明らかな証拠になることを危惧したからである。そこで、彼女には代わりとして数々の市邑や莫大な黄金、彼女だけが命令を下せる軍隊を与えようとした。軍隊というのは、いかにもペルシア風な贈り物だが、何としても彼女を説得できず、結局は彼女にマントを与えることになった。そして彼女はその贈り物に狂喜し、たびたび身に纏っては、きらびやかなマントを自慢していた。

[9.110] 一方、アメストリスは、この娘がマントを持っていることを聞き、事実を知っても、その娘に怒りを向けなかった。妃は、娘の母が黒幕で、事の次第は彼女の差し金だと邪推し、その母を破滅させることを企てたのである。

妃は、夫クセルクセスが王室主催の饗宴を開くのを待った。この饗宴は、一年に一度、王の誕生日に開かれ、ペルシア語ではテュクタと呼ばれ、ギリシア語ではテレイオン(完全)と呼ばれている。その当日のみ、王は頭を油でかため、ペルシア人に贈答品を下賜するのだった。その日を待ち、アメストリスは、マシステスの夫人を自分に下げ渡すよう、クセルクセスに願い出た。

しかしクセルクセスは、妃がかかる要求をしている理由を悟っており、件の騒動については、彼女は無関係であるうえ、自分の兄弟の妻を下げ渡すということが、異様で前代未聞の不埒事だと考えた。

[9.111] とはいえ、アメストリスが執拗で、しかもペルシアおいては、この王室主催の晩餐では、あらゆる願い事は適えられねばならない掟があるゆえ、王は不本意ながら承諾し、その夫人をアメストリスに下げ渡した。そして妃には好きなようにせよと申しつけ、弟を呼び出して次のように語った。

「マシステス、汝ダリウスの子で予の弟、しかも偉丈夫でもある。予が今から言うことを聞くがよい。今の妻と共に暮らすのは以後やめることだ。その代わり、予の娘を汝の妻に与えることにするゆえ、その娘を汝の妻として暮らすがよい。今の妻は離縁せよ。彼女を妻にしておくのは、予にはよろしからざるように思われるからだ」

これを聞いたマシステスは大いに驚き、返答した。
「お上、何と奇っ怪なことを命ぜられることよ。妻とは若い息子たちや娘たちをもうけ、娘のひとりはお上の王子に娶られ、しかもみどもは妻をこよなく愛でておりますのに、その妻を離縁し、しかもお上の娘を妻にせよと言われるか!」

「殿、みどもが殿の王女にふさわしいと見なされることは大いなる誉れではありますが、私はそのどちらも実行するつもりはありませぬぞ。どうかそのようなことをみどもに無理強いなされますな。殿の王女にはみどもに劣らぬ別の相手が見つかりましょうゆえ、みどもの妻をそのままにしておくことをお許し願いまする」

マシステスがこのように返答すると、クセルクセスは激昂して言った。
「マシステス、お主にはこうしてやる。予の娘をお主の妻に与えることもせず、今のお主の妻と暮らすことも許さぬ。そうすれば、与えられたことを受け入れねばならぬことを思い知るだろう」
これを聞いたマシステスは、
「殿、まだみどもの命は召し上げられなかったのですな」
こう言ってかれは退出した。

[9.112] まさにクセルクセスが弟と会談中のこと、アメストリスは、クセルクセスの護衛兵をマシステスの夫人のもとへ送り出し、極めてむごい仕打ちを、その夫人に加えさせた。すなわち、夫人の乳房を切り取って犬に与え、鼻、耳、唇、舌も切り取って同様にしたのだ。そして、このようなおぞましい暴虐を受けた夫人を、その屋敷に送り届けさせた。

[9.113] マシステスは右のことをまだ知らなかったが、不吉な予感がして、その屋敷に駆け戻った。そして無残な姿に変わり果てた妻を見て、すぐさま子供たちと相談し、自身の息子たちその他一族の者たちと共に、バクトラに向けて出発した。バクトラ州で反乱を起こし、王に多大な損害を加えるつもりだったのだ。

私の考えでは、かれがうまくバクトリアやサカイに逃げおおせたなら、かれはその地の太守を勤めていたことでもあるし、住民はかれを慕っていたゆえ、右の計画は成功したことだろう。しかしクセルクセスはマシステスの意中を察知すると、追っ手の軍を差し向け、途上でマシステスとその息子たち、配下の軍を全て討ち果たした。以上が、クセルクセスの情欲とマシステスが死に至ったいきさつである。

(*)ペルシア宮廷内におけるクセルクセスの邪恋をもとにして、はるか後年、ドイツ人作曲家(イギリスに帰化)ヘンデルによって「セルセ」というオペラが書かれている(1738年初演)。その恋の騒動は史実とは異なり、一般受けするように変更されている(横恋慕の的が、息子の妃から弟の恋人に変更)。現在では上演されることはないようだが、主人公セルセが開幕冒頭で歌うアリア(独唱)が、ことのほか有名で、小生が高校時代の音楽教科書にも掲載されていた。それが「ラールゴ(Largo)」または「なつかしい木陰(Ombra Mai Fu)」という美しい曲である。1986年にニッカウヰスキーが、Kathleen Battleによるこの曲をTV-CMに用いたところ、「スーパーニッカ」の売り上げが2割伸びたという。歌ったKathleen BattleのLPも25万枚を売り上げたと記録されている。ただし、オペラではカストラート(声変わりしていない男性)が歌う設定になっている。

[9.114] さて、ミカーレを出航したギリシア軍は、向かい風に阻まれたため、まずレクトム(37)に錨を降ろし、そこからアビドスに到着した。そしてその地で、まだ残っていると思っていた橋が取り壊されていることがわかった。そもそもギリシア軍がヘレスポントスにやって来た目的は、その橋を破壊することにあったのだが。

(37)アドラミティオム(Adramyttium)湾の西端の地。

そこで、レオティキデス麾下のペロポネソス軍はギリシアに戻ることに決めたが、クサンティッポス麾下のアテナイ軍はそこに残ってケルソネソスを攻撃することにした。かくて残りの軍は海路帰還していったが、アテナイ軍はアビドスからケルソネソスに渡海し、セストスの包囲攻撃に向かった。

[9.115] ギリシア軍がヘレスポントスに現われたことを知ったペルシア人たちは、セストスに頑丈な城壁があるので、近隣諸国から集まってきた。その中には、カルディア出身でオイオバゾスという名のペルシア人も混じっていた。この男は、船橋に用いていた綱を城壁内に運び込んでいた。セストス(38)には地元のアイオリス人が住んでいたが、ペルシア人その他同盟諸国民もおびただしい数が住んでいた。

(38)アドラミティオム(Adramyttium)湾の西端の地。

[9.116] この地方を支配していたのは、クセルクセスから太守に任ぜられているペルシア人アルタユクテスで、この男は狡猾、悪辣な性格だった。それというのも、アテナイに進軍中の王を欺き、イフィクロスの子プロテシラオス(39)の神殿におさめられている財宝を、エライオスの地から掠め取ったことがあるのだ。

(39) トロイ戦争において、最初に討ち死にした戦士(ホメロス作イリアス、第二巻七百一行)「νηὸς ἀποθρώσκων = niós apothróskon」

それは次のような次第だった。ケルソネソスのエライオスにはプロテシラオスの墳墓と、その周りに聖域があるのだが、そこには莫大な財宝がおさめられている。金銀の杯、青銅の什器、衣類その他の奉納品である。これら全てを、王からの下賜として運び去ったのだ。

かれは次のように言ってクセルクセスを欺いたのだった。
「殿、ここには殿の領土に侵略し、その報いにより死に至ったギリシア人の屋敷があります。どうかこの男の屋敷を、私めに下げ渡し願います。そうなされば、お上の領土は何人(なんぴと)たりとも侵してはならぬことを、天下に知らしめることになりましょう」
このように言えば、アルタユクテスの腹中を疑いもしなかったクセルクセスを欺き、その神殿を屋敷と偽って手に入れることはたやすいことだった。

プロテシラオスが王の領土を侵したと言ったわけは、アジア全土を支配しているのはペルシア人自身であり、歴代の王たちであると考えていたからである。かくて財宝が下げ渡されるや、かれはその財宝をエライオスからセストスに運び去り、聖域には作物を植え、自分のものとした。その上、エライオスを訪れるたびに、神殿の中で女と同衾していたのだ。アテナイ軍に包囲攻撃されたときも、ギリシア軍が到来することさえ予想していなかったため、その準備は全くしておらず、いわばアテナイは全く無防備のアルタユクテスに襲いかかったことになる。

[9.117] しかし包囲が長引き、秋も深くなると、アテナイ兵たちは祖国をあとにしていることと、城塞を陥落させることができないことに倦み始めた。兵たちは司令官たちに連れ帰ってくれるよう願ったが、司令官たちは、ここを落とすか、アテナイの国から帰還命令が下りるまでは、撤退はならぬと拒否した。かくて兵たちはその苦境を耐え忍んだのであった。

[9.118] 一方で、籠城している者たちは、いまや寝床の革帯を煮て食用にするほどに悲惨をきわめていた。それすらなくなってしまうと、アルタユクテスとオイオバゾスを含むペルシア人たちは、城塞の背後は敵の警備が最も手薄であることから、夜の間にそこから這いおり、逃走したのだった。

夜が明けると、このことに気づいたケルソネソス人たちは塔の上からアテナイ人にそれを知らせ、城門を開けた。そしてアテナイ軍の大多数が追撃を開始したが、残りの兵たちは、その街の制圧を担った。

[9.119] オイオバゾスはトラキアに逃れようとしたが、土着のアプシントス人によって捕らえられ、その地の神プレイストロスへの生贄として、土地のしきたりに従って捧げられた。そのほかの同行者たちは別の方法で抹殺された。

アルタユクテスとその一行は、遅れて逃げ出したのだが、アイオゴスポタモイ河(40)の上手を少し進んだところで追いつかれ、そこでかなりの時間防戦し、ある者は討死にし、その他の者は生け捕りにされた。ギリシア人は、その捕虜たちを数珠つなぎにしてセストスに連れ帰ったが、その中にはアルタユクテスとその息子も混じっていた。

(40)ランプサコス対岸の停泊地。この河はふたつの細流となって海に注いでいたと思われる。

[9.120] さて、ケルソネソスの人々には、アルタユクテスを監視していた一人の者に起きた怪異な出来事が伝えられている。その男が魚の干物を火にかけていたところ、それが今採ったばかりのように跳びはね、身をよじらせたのである。

他の監視兵たちも、それを見て群がり驚いていると、それを見ていたアルタユクテスが、魚を焼いていた監視兵を呼んで言うには、
「アテナイの人よ、この奇怪な事は、怖れるにおよばぬぞ。これはお主に向けて起きていることではないのだ。これは、すでにあの世にあって干物(*)となっているエライオスのプロテシラオスが、かれに悪行を働いたわが輩に報復する力を神から賦与されたことを見せつけているのだ」

(*)ミイラにされていたのかもしれない

「そこでじゃ、かの神殿からわが輩が奪った財宝の償いとして神に百タラントン(*)を差しだそうではないか。そして、わしとわが息子の命を助けてくれるなら、二百タラントンをアテナイ人に支払おう」

(*)1タラントン=黄金約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギナ単位)

しかし司令官のクサンティッポスは、この提案には動かなかった。それというのもエライオスの人々がプロテシラオスの報復としてアルタユクテスに死をもって償わせることを望んでいたからで、司令官自身もその考えに傾いていたからである。かくてアテナイ人は、クセルクセスが海峡に橋を架けていた岬へ、または別の言い伝えでは、マディトスという街の、丘の上にアルタユクテスを連れて行き、板に釘づけにして、磔の刑に処した(*)。その息子は、その父親の目の前で、石打ちの刑に処せられたという。

(*)第七巻三十三節

[9.121] 以上のことがあったのち、アテナイ人はギリシアに帰航したが、その際、種々の戦利品と共に架橋に用いていた綱を持ち帰り、それらをアテナイの神殿に奉納した。その後、この年(*)には、これ以外のことは何も起きなかった

(*)B.C.478

[9.122] さて、磔にされたアルタユクテスは、アルテンバレス(41)の孫で、このアルテンバレスこそ、ペルシア人がキュロス(*)に具申した企てを、当のペルシア人に教え、唆した人物なのである。その企てというのは次のようなものだった。

(41)同名の人物が第一巻百十四節に記されているが、かれはメディア人であるゆえ、ここに出てくる人物と同一人物とはとうてい思えない。
(*)キュロス大王(キュロス二世;B.C.600頃~B.C.529);アケメネス朝ペルシアの初代国王。宗主国メディアの王アステュアゲス(キュロスの祖父)を斃し(B.C.552)、エジプト以外の古代オリエントを統一した。

「ゼウスがペルシア人、とりわけお上、キュロス様に覇権を賦与し給うからには、アステュアゲス(*)を討伐後には、狭くて起伏の多い、我らのこの地を離れ、なお一層豊穣な地に移りましょうぞ。そのような地は、わが国の近隣にも、さらなる遠隔の地にもございます。そのうち一つでも獲得なされば、我らの名声はいや増すことになりましょう。支配者たる民族がこのような所業に走ることは、ごく当然のことにございます。我ら、幾多の人民またアジア全土の支配者にとって、今以上の好機がありましょうや?」

(*)メディア王国最後の王。メディアの属国ペルシア王キュロス二世(アステュアゲスの孫)によって滅ぼされる。

これを聞いたキュロスは、ペルシア人の献策にも動じることなく返答した。
「では、その通りに事を進めるがよい。ただし、そうなれば、支配者ではなく、隷従者となることを覚悟しておくことだ。穏やかな地からは穏やかな人間しか育たぬものじゃからな。実り豊かな作物といい、勇猛なる戦士といい、ふたつながら同じ土壌から育つことなどあるものかは!」

かくしてペルシア人たちは、自分たちよりキュロスの方に理があると悟って退き下がり、平原を耕作して他国に隷従するよりも、痩せた地に住んで他を支配する道を選んだのであった。

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